瀬戸の島から

カテゴリ:絵図を読む > 粉河寺縁起

    吉野川 山川バンブーパーク
吉野川市バンブーパーク
 竹は根は浅いけれども、広く密に生えるので、洪水対策として土留め効果があるとされて、水害防備林として川筋に育てられてきました。阿波の吉野川の川筋には長く続く竹林が今でも数多く残ります。そのため河と竹林は古くから見られた光景のように私は思っていました。
 一方、竹材はその柔軟性を活かし、編みあげることが可能で、いろいろな工芸品として活用されてきました。そして、各種水防施設にも用いられてきたようです。今回は、水害対策に竹材がどのように利用されてきたのか、洪水対策として竹林がいつ頃から姿を見せるようになってきたのかを見ておきましょう。

治水技術の歴史 : 中世と近世の遺跡と文書(畑大介著) / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋

テキストは、「畑 大介 利水施設と蛇籠の動向 治水技術の歴史101P」です。

蛇籠1
蛇籠の制作
 竹材を編んで細長く筒状にし、その中に川原石を入れた蛇籠が使われてきました。
このルーツは中国にあり、世界遺産に登録されている都江堰(四川省)紀元前3世紀)が築造された時に、はじめて用いられたとされています。
四川省の旅2004/都江堰編
都江堰(四川省)の蛇籠

蛇籠が我国に伝来したのは、いつ頃なのでしょうか? 
 古事記に蛇籠に相当する「荒籠」がみえるので、早くから伝わっていたとされてきました。しかし、古代の遺跡から蛇籠が発見された例はないようです。ここからは、古墳時代頃に伝来して、古代には日本国内で広く用いられるようになったとは云えないと研究者は考えています。
蛇籠3

それでは、蛇籠が確認できる史料はなんなのでしょうか?

富士川 船橋
富士川の舟橋(一遍上人絵伝)
『一遍上人絵伝』の富士川に渡された船橋の綱の右方は、蛇籠に固定されているように見えます。しかし、中世でも発掘調査で蛇籠が確認された事例はないようです。蛇籠が確認されるのは、戦国時代になってからです。永禄5年(1562)の穴山信君判物写に「籠」とあるので、戦国時代に甲斐国では蛇籠が使用されていたことは確かです。近世になると農書、地方書、定法書、川除普請仕様帳などから蛇籠は、広く普及していたことが分かります。蛇籠は寛永4年(1627)の吉田光由『塵劫記』に登場します。ここからは、江戸時代の早い段階ですでに知られていたことが分かります。

蛇籠 霞堤
かすみ堤に使用されていた蛇籠
「かすみ堤」などの山梨県内の堤防発掘調査では、江戸時代の蛇籠が確認されています。以上から蛇籠の一般的な使用は戦国時代になってからであり、中世後半までは一般的ではなかったと研究者は考えています。
蛇籠2
堤に用いられた蛇籠

次に治水対策として竹林が育てられていた事例を見ておきましょう。
長者舘門前 粉河寺縁起
板壁の内側に竹が植えられている(粉河寺縁起 長者屋敷)

  粉河寺縁起の長者(武士統領)の舘の周りには、竹が植えられているのが見えます。堀に面した塀沿いに、敷地を護るためと、弓矢の矢の作成材料として、武士の舘に植えられていたことが、絵巻物は描かれています。
 竹材が実際に護岸施設に用いられていた事例としては、次のような所があります。
①奈良県大和郡山市の本庄・杉町遺跡の河川護岸(図10)
②東京の汐留遺跡の大名屋敷の土留め竹柵
杉町遺跡の河川護岸

しかし、これらの事例は近世になってからです。中世に、河川沿いに竹が植えられた事例はないようです。それは、竹の全国普及への時期と関連します。
沖浦和光氏は、竹の普及について次のように記します。
①古代から中世初頭にかけては、温暖な南九州を除いて竹林は全国的には広がっていなかった
②竹林の造成技術が各地に伝わり、竹がいろいろな分野で用いられるようになったのは南北朝時代以後
③室町時代後半になって、治水灌漑のための竹林の造成が盛んに行われるようになった
つまり竹林の全国的普及は、南北朝以後ということにまるようです。竹は、古代からどこにでもあった身近な植物ではないようです。いまは里山では、竹藪が放置され、周りの山々を浸食して大きな問題となっています。私の家の竹藪も、すべて切り払って櫻を植えて、竹藪から山桜の山へと転換中です。このような讃岐の竹藪も、近世からあったわけではなく、明治以後に作られた景観のようです。我が里の「佐文誌」を読むと、大正時代に他所から持込、移植した竹が竹藪として拡がったことが分かります。現在の竹藪に囲まれた景観も百年前にスタートして、高度経済成長の時代にタケノコ景気の時代に急速に面積を拡げていったようです。竹と讃岐の里が結びついたのは近代になってからでした。それ以前は、以前にお話したように里山は「刈敷山」として、肥料のための草木刈りのための重要資源供給地でした。そのためタケノコなどは植えられなかったようです。竹藪が讃岐の里山に広がり始めたのは百年前からだったことを押さえておきます。
じゃかご・ふとんかご・特殊ふとんかご|金網の株式会社伊勢安金網製作所
現在の蛇籠
以上、竹材活用の歴史をまとめておくと
①古代では『竹取物語』の竹取翁に象徴されるように個人の手工的生産が中心
②鎌倉時代になると生活に身近な井戸の材料として使用されるようになり
③戦国時代頃になると治水工事で蛇籠が用いられ
④近世になると多量の竹材が護岸施設にも使用されるようになる。
蛇籠の普及も、この流れに沿うもので、伝来と普及は時期を分けて考える必要があると研究者は考えています。竹は古代から身近にあったものではないこと、竹は外来植物で九州から次第に生育エリアを拡大したことを押さえておきます。

防災と環境を両立する「蛇籠技術」の普及に向けた機関横断型の取り組み | SCENARIO 社会課題の解決を目指して
蛇籠
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献    畑 大介 利水施設と蛇籠の動向 治水技術の歴史101P

       長者の娘を治療する童行者
長者の娘を治療する童行者

前回は、童行者(千手観音の化身)が、粉河の河内の長者の一人娘の難病を治して去っていった話を見ました。童行者は粉河にいると言い残していたので、春が来ると長者家族は、そのお礼に出かけることになります。旅装は整い、今まさに出立しようとするところです。その旅立ちの姿を見ておきましょう。

長者出立1
   河内国讃良郡(さららのこおり)の長者舘から旅立つところ
少し拡大して見ます。 
長者出立1.粉河寺縁起JPG

 縁の上に、立烏帽子、狩衣姿で立っているのが長者です。
靴は乗馬用の毛履で、右手に赤い扇子、左手に念珠がかけられています。妻のほうに向いて、何か話しているようです。「準備はできたか、輿は出立したぞ、早くしなさい」とでも言っているのでしょうか。
長者の馬は、左側に描かれています。
妻と同じ水干鞍が載せられ、美しく飾られています。馬の回りには4人の供人が付き添っています。これからの騎乗を助けるのでしょう。

長者出立 妻の馬周り

妻の方は、もうすでに騎乗しています。
黒駒に、真紅の総(ふさ)、金銅づくりの鐙が華やかさを演出します。妻は、居残る侍女から、上半身を覆う虫の垂れ衣を付けた市女笠をかぶせてもらっています。これは、カラムシ(苧麻)の繊維から作られた薄い布で、顔を隠すとともに、虫除けや日除けにもなったようで、女性の旅装の必需品でした。
妻の馬周りの従者を見ておきましょう。
①直垂姿の男が鞍の具合を確かめ、締め直している
②小袖姿の男は、馬の汗が下袴に付かないように垢取(赤鳥)の布を尻懸にかけている。
③肩脱ぎの馬の口取り役男は、しっかりと馬の差縄を掴んでいる。
従者は、膝までの四幅袴(よのばかま)に草鞋の軽装です。こちらも、もういつでも出発できます。もういちど全体を見てみると、左側には、輿が上げられ出立していきます。

P1250289

この中には、童行者から救ってもらった娘がいるのでしょう。
この輿について、見ておきましょう。
手輿の屋形は二本の轅(ながえ)で固定され、屋根は切妻で、前後に簾、左右は物見(窓)になっています。

輿の種類
輿の種類

これは板輿というタイプに分類される輿のようです。輿の乗降の際は、轅(ながえ)を簀子(すのこ)の上に置いて、室内に突き入れるようにします。こうすると、地面に降りることなく室内から輿への乗降ができます。
長者出立 板輿

 板輿は、脛(すね)に脛巾(脚絆)を巻いて草鞋を履いた小袖姿の七人が取り付いています。このうち、前後の中央にいるのが二人が輿舁になります。よく見ると後ろの輿舁は、首に襟のように見える布が巻かれています。これは担い布で、両端が轅に巻き付けられています。

板輿2
             板輿と輿舁

輿舁は、担い布の中央を首筋にかけ、両手で左右の轅を持つのです。こうすると、輿は安定したようです。残りの者が輿副たちで、輿舁の両側で轅を持っています。輿の側面で「さあ、出立じゃ」と指示をだしているのがリーダーになるのでしょうか。

板輿

次のシーンは、右から出立した板輿が進んできます。

長者出立 輿と武士団


蔵の前の網代塀の横に跪いているのが警固に従う武士団です。色とりどりの甲冑を着込んでの「盛装」姿です。ちなみに棒先に赤い布が垂れ下がっているのは弓袋だそうです。この中には、予備の弓が入っているようです。長旅には、こうした武装した武士の警固が必要だったようです。ここで私が気になるのは、この長者と武士団の関係です。考えられるのは、次の2つだと思います。
①長者が武士団の棟梁で、武士団を率いていた
②地域の有力者(長者)に武士団が従い、軍事力を提供していた(警護役)
もうひとつの疑問は、武士達がどうして騎馬姿でないのかです。今の私には、よく分かりません。
 輿の前には、侍女が乗った白馬が手綱をひかれて先導します。侍女のいでたちは、妻と同じように虫の垂れ絹に身を包んでいます。白馬に乗る侍女の姿は、街道を行く人達の目を惹いたことでしょう。

これが行者一行の先頭になります
長者出発 先頭

先頭を行くのは、髭面の老武者です。彼は弓を抱え、矢を背負い、腰に野太刀をさしています。これを見ても、当時の武士がもっとも頼りにしていたのは太刀ではなく、弓矢であったことがうかがえます。老武者は、長者の傍ら近く永年仕え、信頼をえていた人物なのでしょう。後を振り返りながら荷駄の者どもを励ましながら、一団を進めています。
 その後の唐櫃には、何が入っているのでしょうか。
上に高杯が結びつけられ、前後には酒の壺が振り分けていますので、食料が入っているようです。もうひとつの長唐櫃の上には、宿居袋(夜具を入れる袋)がくくりつけられているので、長者達の衣類や寝具が入っていると研究者は推測します。どちらにしても、従者の軽快ないでたちとくらべると、長者の荷物は引越かと思えるほどの仰々しさです。これが当時の貴族や地方の長者達の旅装であったことを押さえておきます。
 こうして、長者一行は紀州粉河へと向かって旅立っていきました。その道は、かつて貴族達が熊野詣でを行った熊野街道でもありました。

輿 
京都御所の輿
以上をまとめておくと
①粉河寺縁起には、中世の長者の旅の移動手段や旅装が描かれいること
②そこには騎馬や板輿に従事する人達の姿も描き込まれていて貴重であること。
③さらに供人や警護の武士も描かれていること。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 「倉田実 絵巻で見る 平安時代の暮らし」

今回は『粉河寺縁起』に描かれた河内国の長者の舘を見ていくことにします。
この縁起は、次の2つの物語からなっています。
A 粉河寺(和歌山県紀の川市)の起源譚
B 本尊千手観音の霊験譚
前回は、Aの粉河寺の千手観音の登場を見ました。今回は、Bの千手観音の霊験譚です。物語の要旨は次の通りです。
①河内国讃良郡(寝屋川市)の長者の一人娘が難病に罹っていたのを、童行者が祈祷によって治癒
②お礼に両親から提鞘(小刀)と紅の袴だけを受け取り、粉河で会えることを伝えて去る
③翌春、お礼参りに粉河を訪れた長者一行が、庵の扉を開けると千手観音いて、娘の提鞘と袴を持っていた
④童行者は、千手観音の化身と知り、一行の人々はその場で出家して帰依したと
まずは、河内の長者の館前に、童行者が現れる所からスタートです。

P1250262長者への貢納品

右から左へと、貢納物を背負った里人が長者舘を目指しています。
館前の木の下には完全装備の馬と従者が待機し、いつでも出動できる体制です。
長者舘門前 粉河寺縁起
長者舘の棟門前(粉河寺縁起)
門の前は、深い堀になっているようで、そこに丸太の板橋が架かっています。その橋の上にいるのが、袈裟を付け、数珠を手にした垂髪姿の童行者(千手観音の化身)です。長者の娘の病を聞いて訪れ、門番に取り次ぎを頼んでいます。門番は家の中を指差して応対しています。
 内側には竹藪がめぐり、その外を板塀が囲みます。板橋の前が入口で、そこには櫓門が建っています。上の屋形には、矢の束が見えるので、非常時にはここから矢が撃たれるのでしょう。屋形には帷が垂らされています。このような櫓門は、『一遍上人絵伝』巻四の筑前の武士の館にも描かれています。この時期になると、有力者が武装化し武士団が形成されていたことがうかがえます。ちなみに、『粉河寺縁起』は櫓門が描かれた最も古い史料になるようです。そのためこの部分は、小中の歴史教科書の挿絵として、よく登場します。

P1250265
櫓門警護の下部たち(粉河寺縁起) 
櫓門には、警護の武士が三人が坐っています。奥の片膝立ちの武士は、胸当を下に着込んでいます。手前の矢を背負った武士は、弓を板塀に立て掛け、その手前の武士は刀を膝に置いています。いずれも武装しています。ここからは、長者の家の門前が武力によって護られていたことが分かります。そういう対処が必要とされた時代になっていたことが分かります。長者は、その後の武士団の棟梁へと成長していくのかもしれません。

長者舘門前の駒
門前前の駒と口取(粉河寺縁起)
丸木橋前の木の下に坐る男は、口取(馬の轡を取って引く者)でしょう。馬はいつでも乗れるように馬具一式を装備しています。轡に付けた手綱が木に結わえられ、鞭が差し込んであります。腹帯が締められ、鞍には敷物に置かれて、鐙が下がっています。水干鞍(すいかんぐら)と呼ぶ馬具になるようです。この馬も長者の武力の象徴で、ステイタス=シンボルでもあります。 

  庭先には長唐櫃(ながからびつ)が2つ据えられています。
長者屋敷の貢納物

縁先の1つは山の幸である柿・栗・梨・柘招などが、所狭しと盛り上げられています。もうひとつ後から運ばれてくる方には、伊勢エビ・大魚・昆布・さざえなどが盛られています。腰刀を差した男が、よいしょと担ぎ寄せます。狩衣の老人が、手ぶりよろしく口上を述べます。その後に、折枝に雉子を結わえて差し出す男。ほかにも、なにやら大事げに箱を棒げる痩せ男。貧富さまざまながら、彼らの表情は、心なしか暗いように見えます。
  縁にどっかと腰を下ろして、目録に眼を通しているのが、この家に仕える家司のようです。家司のニコニコした顔と、里人の浮かぬ顔が対照的に描き分けられています。
 これらの貢納品が長者の富になります。里人たちは、武力によって生業を保証される代わりに、様々な貢物が要求され関係にあったことが見えて来ます。これを支配・非支配の構図とよぶのでしょう。貢納品は、倉に納められていきます。
 
 そんな中で長者の心配は、娘の不治の病でした。
長者の娘を治療する童行者
長者の娘を治療する童行者(粉河寺縁起)
  治療を任された童の行者は、娘の枕頭で千手陀羅尼を一心に祈り続けます。詞書は、次のように記します。


その効があったのか、しだいに膿もひき 悪血も流れ出て、痛みは止んだ。七日めの朝になると、不思議にもすっかりもとの身体にもどった。びっくりしたのは、長者夫婦。これは、これは、いかなる霊験でしょうか。仏さまがおいでになって、娘を祈り生かしてくださったのだ、うれしやな、うれしやな。さあ、さあ、なんでもお礼にさしあげますぞ。皆のもの、蔵の中を開いて、七珍万宝、なんでも出してこい。と、お礼の品を運び出そうとした。

娘の回復
お礼に蔵から出されてきた財物

ところが、童の行者はそれを押し止めた。いや、いや、わたしは財物欲しさに祈祷をしたのではない。ひとえに、現世を悲しむあまりに、不治の病いに困っている人を助けようとしたまでのこと、構えて心配ご無用に願います、 と、出て行こうとした。

   せめてもに、と差し出された提鞘と紅の袴とを受けると、童の行者は立ち上がった。どちらへお越しでしょうか。いや、わたしは、 どこと居所を定めているわけではない。しかしながら、わたしを恋しく思うことがあれば「我は、紀伊国那賀のこほりに粉河といふ所にはべるなり」と、言い残して出ていった。とたんに、その姿はかき消すように失せて、もはや、どこにもみることはできなかった。
詞書には「くらヽとうせぬ」と記します。
今回は、ここまで。この続きは次回に・・・

            日本の絵巻 (5) 粉河寺縁起 | 茂美, 小松 |本 | 通販 | Amazon

 私が好きな絵巻縁起の中に、粉河(こかわ)寺縁起があります。アマゾンで450円で売り出されていたので、買い求めて眺めています。素人が見ていても楽しくて、しかも中世史料としても役立ちます。今回は、この巻頭の猟師の家を見ていこうと思います。テキストは「倉田実 絵巻で見る 平安時代の暮らし」です。

 この絵巻の前半は、紀伊国那賀郡の猟師大伴孔子古(くすこ)が観音の奇瑞により発心し、粉河寺の本尊千手観音が出現する由来です。『粉河寺縁起』の詞書には、次のように記されています。
〔第一段〕(詞書欠失)  兵火で巻頭焼失
〔第二段〕
さて、七日といふに、件の所に行きて見れば、少し分も違はず、開けたる所もなし。さて、開けて見れば、等人(↓身)におはします千手観音一体、きらきらとして立たせたまへり。仕置きたる童は見え給はず、身を寄せ、すきな口‐‐□物したためたる跡も、屑もなし。猟師あやしみ、深く悲しむ。
 この由を妻に語りて、うち具しつつ参り、近辺の者共にも、この由を言ひちらして、各々参り、帰依し奉りけり。
  第一段を補足して、意訳変換しておくと
  紀伊国那賀部の猟師(大伴孔子古)が、山の木の間に据木を設けて、その上に登り、夜ごとに猪や鹿をねらっていた。ある夜、光り輝く地を発見、そこに柴の庵を建て、仏像を安置したいと願っていた。すると、一人の童(わらわ)行者が家にやって来て、猟師の願いをかなえる、と約束して七日の間、庵にこもった。
…約束の七日日(正しくは八日目)の朝、猟師が庵に行くと、童行者の姿は見えない。扉を開けると、中に等身の千手観音像が立っていた。猟師は喜び、これを妻や近隣の人々に語ったところ、人々が、つぎつぎに参詣した。
山中での狩猟中に光を放つ地を発見した孔子古は、そこに庵を構え、仏像安置を発願します。すると一人の童子の行者が、家にやって来て宿を乞い、その礼に仏像の建立を申し出ます。行者は庵に入り、七日の内に仏像を作るのでその間は見てはならない、完成したら戸を叩いて報せると告げ、庵に籠ります。しかし、ここまでの内容は、巻頭部が兵火で焼けて焼失してありません。

P1250254千手観音出現
          現れた千手観音を拝む猟師

 8日目に庵に行って扉を開けてみると、庵内には等身の千手観音立像が安置され、行者の姿は見えなかった。

P1250259

猟師は近隣にこのことを語り、人々はみな参拝して観音に帰依した。
ここには、猟師の大伴孔子古が童行者の援助によって粉河寺を創建した話が記されています。
焼け残った断片を、つなぎ合わせた猟師の家を見ていくことにします。
冒頭 猟師の家2
猟師の家(粉河寺縁起冒頭) 
最初は、猟師の家にやってきた童行者との対面場面です。拡大して見ましょう。
P1250248

童行者は垂髪を元結で束ね、袈裟を掛け、数珠を持って片膝を上がり框に載せています。当時の上層階級を描く際のお約束である「引目鉤鼻」で上品に描かれています。それに対して猟師は、口髭を生やして萎烏帽子をかぶり、腰刀を差して武骨な感じです。片膝を立てて坐り、両手を擦り合わせてお礼をしているようです。
  この部分の会話は、詞書が焼失していますが、他の史料から研究者は次のように復元します。
猟師は、柴の庵を建てていましたが、まだ本尊がありませんでした。そこへ童行者がやってきて、自分が仏像を七日で造りましょうと提案しているシーンです。猟師は童行者の申し出をありがたがっているのでしょう。
巻物を開いていくと次のシーンは、猟師一家の食事場面です。

猟師の食事と肉2
猟師の食事風景(粉河寺縁起)
玄関の背後は台所で、猟師が家族と食事中です。緑の筵を敷いた上に坐るのが 猟師の妻です。折敷板に載せた椀を前にして、赤子に乳を含ませています。その向かい側に片肌を脱いで、あぐらをかいて坐っているのが猟師です。大きなまな板上に、あるのは鹿肉です。

  猟師の食事と肉
 台所で大伴孔子古の家族が鹿肉をたべています。まな板の上に肉をおき、それを箸でおさえ、小刀で切ります。まるで刺身か寿司のように見えます。孔子古や妻の碗の中には、切った肉が入っています。夫婦の椀に盛られているのは、御飯ではなさそうです。鹿肉どんぶりでもないようです。よく見ると、食卓には肉以外の野菜などの副食物はありません。当時の猟師達にとっては、肉そのものが主食だったと研究者は考えています。
 また、肉を焼いたり煮たりしてたべることも少なかったようです。生でたべるか、あまったものは②串ざしや③薦の上に乾かして乾肉にしています。それが庭先に描かれています。乾したものを鳥獣に食いちらされないように、おどしのための矢がたてられています。

当時の鹿肉の保存方法について、絵巻には次のような情景が見えます。
①庭のカマドで肉を煮る
②肉を串に刺して竈(カマド)の前で炙る
③筵(ムシロ)の上で乾燥する
④串に刺して軒下に吊るして乾燥する
⑤生肉を椀に入れ食べる(膾なます、現代風に言えば鹿刺し)
 「野菜類も含めて栄養のとれたバランスある食事」というのは、高度経済成長後の日本が豊かになった後の食事法です。かつては、能登地方では米がとれると米の飯ばかりたべ、鱈(たら)がとれると鱈ばかりたべたと云います。対馬などでも古風な村では烏賊のとれるときは烏賊だけ、麦のとれたときは麦だけ、芋のとれたときは芋だけ、そのほかに若干の塩分があれば庶民は事足りたのです。主食と副食物を別にし、さらに副食物の数をふやすようになったのは酒を飲むための献立が求められるようになってからのことです。また、塩蔵や発酵による貯蔵が発達しなけらばなりません。中世の猟師は、肉が主食であったことをここでは押さえておきます。
次の場面は、猟師の家の裏です。

P1250251
芝垣に干された鹿皮
 柴垣には、鹿皮を干すために、紐を編んで付けた木枠に張られて立て掛けられています。なめし革にしているようです。鹿革は、衣類にされるほか、靴や馬の鞍にされたりする重要素材で、猟師の収入源でした。そのそばでは、犬が何かを食べています。鹿皮から削ぎ落した肉片でも貰ったのでしょうか。

 獣皮をやわらかにする技術は朝鮮から伝えられたことが、「日本書紀」仁賢天皇の六年の条に次のように記されています。

日鷹吉士が高麗から工匠須流枳・奴流枳等をともない帰って献じた。朝廷はこれを大和国山辺郡額田邑においた。熟皮高麗(かわおしのこま)がこれである

「令義解」には大蔵省の条に、次のように記します。

典履典革という役目があり、靴履・鞍具をつくる者をつかさどっていた。靴履・鞍具をつくる者は高麗人・百済人・新羅人などであり、雑戸として調役を免ぜられていた。

これらの人びとの技術が、時代を下ると供に、民衆の間へも伝播浸透していったのでしょう。なめし方については、「延喜式」には、「雑染革・洗革」について、次のように記します。

洗革というのは鹿皮を洗って毛を除き、よくかわかして肉をとり去り、水につけてふやかし、皮をあら削りして草木の汁(成分不明)に和して後に乾す。牛皮の場合は、樫の木の皮が用いられている。樫皮を煮つめてそのタンニンをとり、タンニン液にひたして膠をとり去る

「粉河寺縁起」の場合も、このタンニンなめしであったと研究者は推測します。この絵巻からは、鹿皮の加工過程が見えて来ます。

猟師の家に続いて出てくるのが、この場面です。

P1250252
 
私には、森の木立とした見えませんでした。ここには、猟師の狩の工夫が描かれていると研究者は指摘します。股になった木の間に材木を渡したものがそれです。これが獣道(けものみち)の上に設けられた、据木(スワリギ)と呼ばれる足場で、ここから下を通る獣を弓で射りました。
据木
据木
 猟師が木上上から下を通る鹿をねらいうちしています。少人数で狩をしようとする場合には、動物が通る通路で待ち伏せるのが、最も効率がいいようです。特に、鹿は決まったルートを通ります。「高忠聞書」には「か(狩)りといふは鹿狩の事なり」とあります。こうした野獣の通る道をウジ、ウチ、ウトなどと呼んでいました。山城宇治なども野獣の通道の意であり、それが広域の地名となったと研究者は考えているようです。
 そういうところに待ち受けて狩ることを、ウチマチ、ウジマチなどと云いました。日本の狩猟はこうしたねらい射ちを主として発達します。そこで使われるのが長弓です。長弓は獲物に気付かれないように近くからねらい射ちすることが得手な武器です。
 猟師は、木の上で獲物をまつために、木の股を利用して丸太をわたしてその上に潜みます。詞書には据木(スワリギ)と記します。これをマタギと呼ぶ地域もあるようです。東北地方では、狩のことをマタギとよび、狩人もまたマタギと呼びます。これはウチマチをするための装置からきている言葉と研究者は推測します。

  以上から、平安時代にも肉食で生活していた人がいたことが分かります。ただ、肉は供給量が少なくて大衆に日常食品として出回ることはなかったようです。仏教により肉食が避けられたと従来は言われてきましたが、ほとんど根拠のない俗説と研究者は考えています。
確かに肉食禁止について「日本書紀 29巻 天武天皇四年夏四月」に、次のような詔が記されています。

庚寅の日(17日)、諸国に詔(みことのり)したまひしく、「今ゆ後、諸の漁(すなどり)り猟(かり)する者を制(いさ)めて、檻(おり)穽(おとしあな)を造り、また機槍等の類を施(お)くことなかれ。また四月の朝以後九月の三十日以前には比彌沙伎理(ひみさきり)の梁を置くことなかれ。また牛馬犬猿鶏の宍(にく)を食ふことなかれ。以外は禁例にあらず。もし犯す者あらば罪せむ」と宣りたまひき。

意訳変換しておくと
庚寅の日(17日)、諸国に次のように詔した。「今後、漁業や狩猟する者に対して、檻や穽(おとしあな)を造り、また狩猟のための槍などを置くことを禁止する。また四月の朝以後は、九月三十日以前には川に梁を設置することを禁止する。また牛馬犬猿鶏の肉を食ねることのないように。これ以外の動物については禁例としない。もし犯す者れば罪する。

 研究者が注目するのは、最後の部分の「これ以外の動物については禁例としない」です。つまり、肉食禁止令には、猪、鹿は含まれていません。そして、その後も延喜式には諸国から貢進される産物として、信濃、甲斐などからの調物には肉製品が入っています。肉食によって生きていた人達がいて、その文化があったことは押さえておきます。
 確かに、平安貴族は四つ足の獣は汚れとして忌まわれ、仏教の殺生を禁じる教えもあって鳥肉以外の肉食をほとんどしませんでした。しかし、庶民は別です。肉食をしていたのです。生き物を狩り、それを食するのが猟師です。これは、仏教の教えに背く生業です。粉河寺縁起には、猟師である者でも信心を持てば、救われる存在であることを語っています。本尊の千手観音は、千の手それぞれに眼があり、すべての人を救うとされます。このあたりに、粉河寺の人気の源がありそうです。
P1250260
粉河寺の千手観音(粉河寺縁起)

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
 倉田実 絵巻で見る 平安時代の暮らし
西岡常一『粉河寺縁起絵・吉備大臣入唐絵』 日本絵巻物全集6、p.23~(角川書店)1977

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