瀬戸の島から

カテゴリ:讃岐の四国霊場 > 国分寺

澄禅の『四国辺路日記』には、87番長尾寺について、次のように記されています。

長尾寺本堂南向、本尊正観音也、寺ハ観音寺卜云。当国二七観音トテ諸人崇敬ス 国分寺、白峯寺、屋島寺、八栗寺、根香寺、志度寺、当寺ヲ加エテ七ケ所ナリ。

意訳変換しておくと
長尾寺の本堂は南向で、本尊は正観音である。もともとは観音寺と呼ばれていた。讃岐には観音菩薩を本尊とする七つの寺があり七観音として諸人の崇敬を集めている。それは、国分寺・白峰寺・屋島寺・八栗寺・根香寺・志度寺に、長尾寺を加えて七ケ寺になる

書かれている要点を整理すると次のようになります。
①長尾寺本堂は南向きで、本尊が聖観音、
②寺の名前は長尾寺ではなく、もともとは観音寺と呼ばれていたこと
③近世初頭には、国分寺・白峰寺・屋島寺・八栗寺・根来寺・志度寺に長尾寺を加えて讃岐七観音として多くの信者を集めていたこと。(仮に「高松の七観音参り」としておきます。)

ここからは次のような事がうかがえます。
①善通寺を中心とする「七ケ所詣り(善通寺・曼荼羅寺・出釈迦寺・弥谷寺・海岸寺・道隆寺・金倉寺)のような辺路ルートがが高松周辺にもあった
②「高松の七観音参り」のメンバー寺院が、近世の四国霊場札所と重なる。
③丸亀平野の「七ヶ所参り」も、高松の七観音参りも、中世に起源を持つ中辺路ルートではなかったのか。
④中世に地域毎に形成されていた中辺路ルートが、近世に四国遍路道になっていったのではないか
 このようなことを考えながら七観音の本尊を見て行くことにします。
まずは、国分寺の観音さまからお参りして行くことにします。
  『さぬき国分寺町誌』(2005年)には、次のように記されています。
P1120249国分寺 千手観音
 讃岐国分寺の本尊千手観音
四国第80番札所国分寺の本尊で、現在の本堂内陣の須弥檀上の厨子内に安置されているが、現在は秘仏となっている。木造彫眼、彩色像である。像高約5mの巨大な像で、いわゆる丈六像(一丈六尺=4.848m)である。平安時代末つまり本堂の建築に先立つ時期の作であると考えられている。
 千手観音はその名のとおり、千の手をもって衆生を済度するとされるが、彫刻で実際に千本の手を表現することはまれで、脇手1手を25手に見立てた四十二臂の像が多い。本像も胸の前で合掌する真手と腹前で宝鉢をもつ2手、錫杖をもつ2手、背面に36手の計40手の脇手を有する、四十二臂の像である。背面の脇手もそれぞれに蓮華・輪宝・数珠などの持物をとる。
 また、十面の頭上面を有する十一面観音でもある。面貌は大きく弧を描く眉や、ややつり上がり気味に開く目、上唇が厚く、引き結んだ口元など力強い威厳をたたえた相を示している。
P1120252国分寺 千手観音

  ―丈六(像高約5m)のいわゆる「丈六」の聖観音立像で、讃岐で一番大きく、平安時代後期の作とされます。鎌倉時代になって、退転していた国分寺は奈良の西大寺律宗の律宗改革宗教運動の中で再興されていきますが、それ以前からあった観音さまになるようです。その大きさといい風格といい、他の寺院の観音さまを圧倒する風格です。この観音さまは、白峰寺や根来寺の観音と「兄弟」だと伝えるのが白峯寺縁起です。次に白峰寺の観音さまの由来を見ておきましょう。

白峯寺 頓證寺殿十一面観音
白峰寺(頓證寺) 十一面観音

『白峯寺縁起」(応永13年:1406)には、次のように記されています。
かの蹄跡千手観音の像殊也。そののち海浜に趣き祈念し給ふ庭、虚空に音ありて、補陀落山より流来れりと示、大師と明神とあひともに山中に引入、十躰の本尊造立し給、四十九院を革創し給、其内に千手像四躰まします。一尊をは根香寺に安置し、一尊をは吉永寺にあむち(安置)し、 一尊をは白牛寺あむち(安置)し、 一尊をは当寺に安置す。今も千手院とて、霊験無双の道場、利生広人の聖容にてましますなり。」

   意訳変換しておくと
「本尊・千手観音像については、次のように言い伝えられている。五色台の海浜で祈念・修行していると、(巨木が流れ着いた)。虚空から「補陀落山から流れ来た」という声が聞こえた。そこで、大師と明神は山中に引入て、その巨木から十躰の本尊を造立した。同時に、49の子院を創始し、その内の4つの寺院に千手観音を分与した。一尊は根香寺に安置し、一尊を吉永寺に(安置)し、 一尊は白牛寺(国分寺)に(安置)し、 一尊は当寺に安置した。こうして、当時は今も千手院とて、霊験無双の道場、利生広人の聖地となっている。

ここからは次のようなことが分かります。
①五色台の海辺に流れ着いた巨木は「補堕落からやってきた」とされること
②その巨木から四つの千手観音が作られたこと。補堕落信仰が根付いていたこと。
③その4観音は、根来寺・吉永寺(よしみずじ:廃寺)・白牛寺(国分寺)・白峰寺に安置されたこと
長谷寺・志度寺と同じような「補陀落流木からの観音造立」伝説を持つ観音信仰の寺であったこと。国分寺と根来寺の本尊と、おなじ巨木から造られたこと。
P1120124 白峰寺 11面観音
          白峰寺 十一面観音

ひとつの巨木から作られた四観音が安置された寺院を見ておきましょう。
①白峯寺は「五色台」の西方、白峯山上に位置する山岳寺院
②吉水寺は近世に無住とりますが、白峯寺と根香寺の間に位置した山岳寺院
③白牛寺は、白牛山と号する国分寺のこと
ここからは、古代の白峯寺・吉水寺・根来寺は、白牛山と号する国分寺背後の五色台の行場に形成された山岳寺院であったと研究者は考えています。
官寺僧侶の山林修行の必要性は早くから国家も認めていました。古代の支配者が密教に求めたものは、「悪霊から身を守ってくれる護摩祈祷」でした。空海の弟真雅は、天皇家や貴族との深いつながりを持つようになりますが、彼の役割は「天皇家の専属祈祷師」として「宮中に24年間待機」することだったことは以前にお話ししました。そこでは「霊験あらたかな法力」が求められたのであり、それは「山林修行」によって得られると考えられました。そのため国家や国府も直営の山林寺院を準備するようになります。それが讃岐では、五色台であり、中寺廃寺(まんのう町)だったようです。
 ちなみに、五色台は国分寺の背後にあり、中世はここが国分寺の官僧の山林修行のホームゲレンデであったと私は考えています。その中辺路修行のルートの中の行場にお堂として開かれたのが、根来寺・吉永寺・白峰寺です。中辺路ルートは、五色山全体をめぐって、さらに北側の海際にも行場はあったようです。白峰寺縁起にも「そののち海浜に趣き祈念し給ふ庭・・」とあるので、海岸で瞑想・祈念し、辺路ルートを「行道」することが繰り返し行われていたことがうかがえます。
白峯寺古図 地名入り
白峰寺古図
そして、五色台全体には49の子院があったというのです。それが白峰寺の絵図などには描かれていることは以前にお話ししました。ここでは、国分寺と根来寺と白峰寺は、同じ巨木から作られた観音さまを本尊としている「兄弟寺」のような関係にあったと中世には説かれていたことを押さえておきます。

白峰寺頓證寺 十一面観音
白峰寺頓證寺殿 十一面観音

次に、中世のこれらの寺院を支えた僧侶達を見ておきましょう。
  13世紀半ばの「白峯寺勤行次第」からは、次のようなことが書かれています。
①浄土教の京都二尊院の湛空上人の名が出てくること
②勤行次第の筆者である薩摩房重親は、吉野(蔵王権現)系の修験者であること
③勤行次第は、修験者の重親が白峯寺の洞林院代(住持)に充てたものであること
 ここからは、次のような事が分かります。
①子院の多くが高野聖などの念仏聖の活動の拠点となっていたこと
②熊野行者の流れをくむ修験者たちが子院の主となっていたこと
③修行に集まってくる廻国修行者を統括する中核寺院が洞林院であったこと
 鎌倉時代後期以降の白峯寺には、真言、天台をはじめ浄土教系や高野系や熊野系、さらには六十六部などの様々の修行者が織り混じって集住していたと坂出市史は記します。その規模は、弥谷寺などと並んで讃岐国内で最大の宗教拠点でもあったようです。

白峯寺 構成メンバーE
 それぞれの子院では、衆徒に対して奉仕的な行を行う行人らが共同生活をしていたと研究者は考えています。白峯寺における行人の実態は、よくわかりません。おそらく山伏や念仏聖として活動し、下僧集団を形成したのでしょう。白峯寺の衆徒の中にも修験に通じ、山岳修行を行っていた人々もいたはずです。彼らにとっては、真言・天台の別はあまり関係なかったかもしれません。つまり、五色台の山中には、比叡山のように山伏たちが籠もる子院がいくつもあり、彼らは僧兵として武装化していたことが考えられます。この武装集団を持っていたからこそ、白峰寺は綾川下流域の綾北平野を寺領として護り抜くと供に、綾川を超えた西庄エリアを新たに寺領化できたのだと私は考えています。それは、同時にこのエリアから、他の宗教勢力を駆逐していく過程でもあったようです。中世半ばから近世初頭に架けて、このエリアでは有力な寺社が姿を消します。それは、金毘羅大権現が現れ、金光院が勢力を伸ばしていく近世初頭の丸亀平野南部の情勢とよく似ています。
根香寺 讃岐国名勝図会
根来寺 讃岐国名勝図会
次に白峰寺の本尊と「兄弟関係」にある根来寺を見ておきます。
『高松の文化財』1992年は、根来寺の本尊・千手観音について次のように記します。

根来寺の千手観音
   本尊は天正年間(西暦1573年~1592年)の兵火にかかり焼失したので、末寺の吉水寺の本尊であった千手観音をお迎えしたという。身の丈163センチの桜材の一木造りで、頭上に十一面をいただく。太く量感豊かで、渋みのあるお顔には古様がみられる。42手をもつ総身漆箔(しっぱく)の像である。裳(も)のひだには、飜波(ほんぱ)式の衣文(えもん)がみられ、渦文(かもん)も処々に刻まれて貞観(じょうかん)彫刻の名残りをとどめている。藤原時代(西暦894年~1185年)初期の特徴をよくあらわしているなかなかの優作である。
 像は干割(ひわ)れを防ぐために、荒彫りした像を前後二材に割って内袴(うちぐ)りをした後、再び矧(は)ぎ合わせる割矧法(わりはぎほう)という造り方である。平安初期の一木造りから藤原時代の寄木造りに発展していく過渡期の造法である。
 「末寺の吉水(よしみず)寺の本尊であった千手観音をお迎えした」とあります。先ほど見た「白峯寺縁起」には、吉水寺の本尊は流れ着いた巨木から作られた観音さま安置された4つの寺院のひとつと記されていた寺院になります。吉水寺は根来寺の末寺であったが、近世には退転していたので、そこから観音さまをお迎えしたと記されています。造立年代をもう一度確認しておきましょう。
根来寺の本尊千手観音「藤原時代(西暦894年~1185年)初期」
国分寺の本尊千手観音 平安時代後期
時代的にも「同一巨木から作られた観音さま」と云えそうです。

根来寺は、もともとは弘法大師開基とされ、白峰寺や国分寺と密接なつながりがあったことは今見てきたとおりです。
しかし、初代高松藩主・松平頼重の保護を受けるようになって、「円珍(智証大師)創建」とする新たな寺伝が作られるようになり、「弘法大師開基」説は放棄されます。そして、白峰寺と同じ漂着木から作られた観音菩薩縁起は、顧みられなくなり、独自の寺伝が作られたことは以前にお話ししました。ここにも、松平頼重の円珍への肩入れの痕跡を見ることができます。
 中世には山林修行者によって、国分寺と白峰寺と根来寺は「中辺路」ルートで結ばれた行場でした。
同時に山林修行者たちは、高野聖の手法に倣って、周辺の人々をこれらの寺への「巡礼」に誘引するようになります。こうして、春の先祖参りの彼岸には、国分寺からスタートして、その背後の白峰寺や根来寺にも、人々が「ミニ巡礼」に訪れるようになります。そんな風に私は考えています。どちらにしても、七観音廻り(巡礼)の成立の背景には、中世以来の高野聖や念仏聖などの山林修行者の存在があったことを押さえておきます。
   四国遍路の成立については、近年の研究者は次のように段階的に形成されてきたと考えるようになっています。
①平安時代に登場する山林修行者の「辺路修行」を原型とし、
②その延長線上に鎌倉・室町時代のプロの修験者たちによる修行としての「四国辺路」が形成され
③江戸時代に八十八カ所の確立されてからアマチュア遍路による「四国遍路」の成立
つまり中世の「辺地修行」から近世の「四国遍路」へという二段階成立説が有力です。②の中世の「四国辺路」は、修行のプロによる修行的要素が強く残る段階です。この時期の「辺路修行を」の五来重は、「大中小行道」の3つに分類します。
①海岸沿いに四国全体を回る「大行道(辺路)」
②近隣の複数の聖地をめぐる「中行道(辺路)」
③堂宇や岩の周りを回る「小行道(辺路)」
その例が前回お話しした室戸岬の金剛頂寺(西寺)と最御崎寺(東寺)との関係です。近世の「遍路」は順路に従って、お札を納めて朱印を頂いて行くだけです。しかし、中世の行者たちは岩に何日も籠もり、西寺と東寺を毎日往復する行を行い、同時に西寺下の行道岩の周りをめぐったり、座禅を行ったりしていました。これが②③になります。それも一日ではなく、満足のいくまで繰り返すのです。それが「験(げん)を積む」ことで「修行」なのです。これをやらないと法力は高まりません。ゲーム的にいうならば、修行ポイントを高めないと「ボスキャラ」は倒せないのです。
どちらにしても中世のプロの行者たちは、ひとつの行場に長い間とどまりました。
そのためには、拠点になる建物も必要になります。こうしてお堂が姿を現し、「空海修行の地」と云われるようになると行者も数多くやって来るようになり、お堂に住み着き定住化する行者(僧)も出てきます。それが寺院へと発展していきます。これらの山林寺院は、行者によって結ばれ、「山林寺院ネットワーク」で結ばれていました。これが「中辺路」へと成長して行くと研究者は考えているようです。
 そこに近世になると庶民が「ミニ巡礼」として、参加するようになります。それが善通寺の「七ケ所巡り」であり、「高松の七観音巡り」であったと私は考えています。今日はここまでです。
高松七観音参りの後半、屋島寺・八栗寺・志度寺・長尾寺については、またの機会にします。
  
  最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献

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