瀬戸の島から

カテゴリ:讃岐の雨乞信仰 > 善女龍王

佐文誌195Pには「綾子踊りと御盥(みたらい)池」と題して、次のように記します。
 昭和14(1939)年の大子ばつ年には、渓道(たにみち)の竜王祠より火をもらい、松明の火をたやさないように竹の尾の山道をかけて帰り、竜王宮の火を燃やし、佐文の人々はお寵りして雨乞いを祈願したのである。機を同じくしてこの御盥池の畔りの凹地に人びとは掛け小屋を作り、行者が一週間一心不乱に雨乞いを祈躊したのである。干ばつにもかかわらず絶えることのないこの池水は、竜王宮の加護であり、湧き出る水のように雨を降らし給えと祈る佐文の人々の崇高な気持ちは、綾子踊とともにこの御盟池にも秘められていることを忘れてはならない。

   ここからは財田の渓道(たにみち)神社から佐文に、龍王神が勧進されていたことが分かります。この祠は、別称で三所神社ともよばれ、今は加茂神社境内に下ろされ「上の宮」と呼ばれています。それでは龍王神は財田の渓道龍王社に、どのような経由で伝えられたのでしょうか。そのルートを今回は、探って見たいと思います。

渓道龍王祠の由来については、「古今讃岐名勝図会」(1932年)には、次のように記されています。(意訳)

古今讃岐名勝図絵

この①龍王祠はもともとは財田上の村の福池という所にあった。その龍王祠のあたりに瀧王渕というのがあったが、そこを村人が田にしてしまったので、時に崇りがあった。その頃、同じ財田上の村の北地という所に観音堂があり、そこに②善入という道心型固(悟りを求め、道心が強くてしっかりしている)住僧がいた。ある時、善入の夢に龍王があらわれて、この福池の土地は不浄であるから、ずっと上流の紫竹の繁っているあたりに祠を移して貰いたいといったのて、善人は謹んでその言葉の通りにした。ところが籠王はさらに`善入の夢にあらわれて、この所はなお川上に人家があり清水が汚れている。だからさらに上流九十九の谷を経て、この川の源の紫竹と芭蕉の生えている所に移してほしいといって、その翌朝、③龍女自らその尊い姿(善女龍王)を現わしたので善人は、また潔斉して七日目に仏の御手を拝み、いよいよ霊験に感じて、さらに上流谷道の方へ九十九谷を究め、紫竹と芭蕉の生えているあたり、深渕あり、雌雄の滝の二丈の高さにかかっている幽逮の所に行きつき、ここに石壇を築き、龍王の祠を移した。これからこの地方には早害なく、雨を乞えば必ず霊験があるということになり、旱魃には龍王を祈るという事になったという。石野の者が、雨乞の時には、ここに仮家を立てて④祭斎(さいさい)踊を行うのはこのためだ。又⑤雨乞のために大般若百万遍修行をするときには、この龍王祠の傍に作った観音堂において行う。

  要約しておくと
①もともとの龍王祠は財田上の村・福池の瀧王渕にあった。
②財田上の村・北地の観音堂の住僧善入の夢枕に、善女龍王神が現れて川上の清浄な地への移転を求めた
③そこで善入は現在地の雌雄の滝(現鮎返しの滝)に龍王の祠(渓道神社)を移した。
④旱魃の際に雨乞祈願を行い、石野の人達は、その後に仮屋を建てて、さいさい踊りを踊った。
⑤龍王祠には観音堂も建てられ、そこでは雨乞のための大般若百万遍修行も行われた。
ここで、押さえておきたいのは龍王神というのは善女龍王のことだということと、渓道神社で踊られたのがさいさい踊りということです。

さいさい踊の由来について、「財田町誌」(稿本)には次のように記されています。
昔、大早魃の折に一人の山伏がやって来で龍王に奉納すれば降雨疑いなしと言って教えられたのがこの踊りだと伝わる。その通り踊ったところ降雨があった。その山伏は仁保(仁尾町)の人だと言ったので跡を尋ねたが仁尾にはそんな山伏はいなかった。さてはあの山伏は竜王の化身にに違いないと、その後早魃にはその踊りを竜王に奉納していた。

この「財田町史」の伝えは、今は所在不明になっている稿本「財田村史」に載せられていたようです。
 
 さいさい踊の起りについては、もう一つ伝説があります。

昔、この村の龍光寺に龍王さんを祀っていた。ところが龍光寺は財田川の川下であった。ある日のこと、一人の塩売りがやって来て竜王さんをもっと奥の方へ祀れと言う。そして、そこには紫竹と芭蕉の葉が茂っているのだという。村の人はその場所を探し求めると上流の谷道に紫竹と芭蕉の葉が茂っていた。そこで竜光寺の龍王を、そのところへ移して渓道(谷道)の龍王と呼んだ。それからこの龍王で雨乞踊を奉納することになったと云う。この塩売りは三豊郡の詑間から来て猪鼻峠を越えて阿波へ行ったか、この塩売りはやはり龍王さまご自身だろうと言うことになった。

  3つの伝説に共通するのは、もともとは財田の川下にあった龍王祠が、戸川の鮎返しの滝付近に移され、渓道(谷道)の龍王と呼ばれるようになったことです。その移動を行った人物は、次のように異なります。
A 古今讃岐名勝図会は、「善入という道心型固の住僧」
B 財田町誌(稿本)は、「仁尾からやってきた山伏
C 詫間から来て猪ノ鼻峠を越えて阿波へ行ったやってきた塩売り
これをどう考えればいいのでしょうか。

中世三野湾 下高瀬復元地図
本門寺(三野町)の西方に見える東浜・西浜

①古代の三野湾は湾入しており、そこでは製塩が行われていたこと
②中世の秋山か文書には、「西浜・東浜」などの塩田の遺産相続記事が出てくるので、製塩が引き続いて行われていたこと
③詫間の塩は、財田川沿いに猪ノ鼻峠などから阿波の三好郡に運ばれたこと
④その際の運輸を担当したのが、本山寺周辺の馬借であったこと
⑤本山寺の本尊は馬頭観音で、牛馬の守護神として馬借たちの信仰をあつめたこと。
以上のように「三野湾 → 本山寺 → 財田戸川 → 猪ノ鼻峠 → 箸蔵寺 → 三好郡」という「塩の道」が形成され、人とモノの行き来が活発になったこと。これらの道の管理・運営にあたったのが本山寺や箸蔵寺の修験者たちであったと私は考えています。まんのう町の塩入が、樫の休場を越えての阿波への「塩の道」であったように、財田戸川も三豊の「塩の道」の集積地であったのです。
 本山寺 本堂
               本山寺本堂
阿讃交流史の拠点となった本山寺を見ておきましょう。
四国霊場本山寺(豊中町)の「古建物調査書」(明治33年(1900)には、本堂の用材は阿波国美馬郡の「西祖父谷」の深淵谷で、弘法大師が自ら伐り出したものであると記します。空海が自ら切り出したかどうかは別にしても、このようなことが伝えられる背景には、本山寺が財田川の上流域から阿波国へと後背地を広域に伸ばして、阿讃の交易活動を活発に行っていたことをうかがわせるものです。
 本山寺の本尊は馬頭観音です。
本山寺」の馬頭観音 – 三題噺:馬・カメラ・Python

馬頭観音は、牛馬を扱う運輸関係者(馬借)や農民たちの信仰を集めていました。本山寺も古くから交通・流通の拠点に位置し、財田川上流や阿波を後背地として、活発な交易活動を展開していたことは以前にお話ししました。また、滝宮念仏踊りの拠点となった滝宮神社も、神仏分離以前には「滝宮牛頭明神」と呼ばれて、別当寺である龍燈寺の社僧の管理下に置かれていたのと似ています。

本山寺には、県有形文化財に指定された善女龍王の木像(南北朝)が伝わっています。
善女龍王 本山寺
 本山寺の善如(女)龍王像 男神像
一目見て分かるのは女神ではなく男神です。善女龍王の姿は歴史的に次のように変遷します。
①小蛇                          (古代 空海の時代)
②唐服官人の男神          (高野山系) 善龍王
③清滝神と混淆して女神姿。 (醍醐寺系) 善龍王
  ③の女神化を進めたのは醍醐寺の布教戦略の一環でした。そして、近世に登場してくる善女龍王は女神が一般的になります。ところが本山寺のものは、男神なのです。もうひとつの特徴は善女龍王の姿は、絵画に描かれるものばかりです。ところが本山寺には木像善如龍王像があるのです。これは全国でも非常に珍しいもののようです。
  この像については従来は14世紀に遡るものとされ、善女龍王信仰がこの時期に三豊に根付いていたとする根拠とされてきました。しかし、もともと鎮守堂にあったのかどうかが疑われるようになっているようです。つまり「伝来者」という説も出されているのです。

弥谷寺 大見村と上の村組
神田と財田上の村は多度津藩の飛び地だった
財田上の村への善女龍王信仰の伝播ルートとして、考えられるのが弥谷寺です。
丸亀藩は干ばつの時には、善通寺に雨乞い祈祷を命じていたことは以前にお話ししました。財田上の村は多度津藩に属していました。多度津藩が「雨乞執行(祈祷)」を命じられていたのは弥谷寺でした。「此の節照り続き、潤雨もこれ無く、郷中一統難儀たるべし」として、弥谷寺へ雨乞い祈祷を命じ、祈祷料として銀2枚が与えられています。雨乞い祈祷開催については、各村から役人総代と百姓2人ずつを、弥谷寺へ参詣させるように藩は通知しています。その周知方法は次の通りです。
①多度津藩から財田上ノ村組大庄屋近藤彦左衛門へ、
②さらに大庄屋近藤彦左衛門から大見村庄屋大井又太夫へ伝えられ
③上ノ村組の五か村へ通知
ここからは、弥谷寺での雨乞い祈躊が、上ノ村組という地域全体の行事として捉えられていたことが分かります。つまり、江戸時代後半になって、多度津藩の雨乞祈祷を通じて善女龍王信仰が庶民の中にも拡がっていたのです。それが渓道龍王社の勧進という動きになったことが考えられます。
 ここで押さえておきたいのは、善女龍王への雨乞祈願というスタイルが讃岐にもたらされて、庶民に拡がって行くのは、江戸時代後半以後のことであるとです。案外新しい信仰なのです。

以上、西讃地方における善女龍王信仰の広がりをまとめておくと、次の通りです。
①延宝六年(1678)の夏、畿内より招かれた浄厳が善通寺で経典講義を行った
②その夏は旱魃だったために浄厳は、善如(女)龍王に雨乞祈祷し、雨を降らせた
③その後、善如(女)龍王が勧請され、善通寺東院に祠が建設された
③以後、善通寺は丸亀藩の雨乞祈祷寺院に指定。高松藩は白峰寺、多度津藩は弥谷寺
④各藩のお墨付きを得て、善通寺と関係の深かった三豊の本山寺(豊中)・威徳院(高瀬)、伊舎那院(財田)などでも善女龍王信仰による雨乞祈祷が実施されるようになる
⑤また多度津藩の雨乞祈祷には、各村の庄屋たちが参加し、善女龍王信仰が拡がる。
こうして17世紀後半以後に善女龍王信仰は、次のようなルートで財田川を遡って、渓(谷)道龍王が幕末に、麻や佐文に勧進されたことになります。

善通寺 → 本山寺 → 伊舎那院 OR 弥谷寺 → 渓(谷)道龍王社 → 麻(高瀬)・佐文(まんのう町)谷

17世紀以後に善通寺にもたらされたものが、本山寺や弥谷寺の修験者をつうじて三豊に拡がっていったのです。そして彼らは雨乞踊りも同時にプロデュースするのです。それが渓道神社では、さいさい踊りでした。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

江戸時代の讃岐各藩における雨乞修法を担当したのは、次の真言寺院でした。
①髙松藩  白峯寺
②丸亀藩  善通寺
③多度津藩 弥谷寺
旱魃になるとこれらの寺院では、藩に命じられて雨乞修法が行われるようになります。そのために、善如(女)龍王が勧進され、小さな社が建立されていました。この善如(女)龍王に降雨を祈るという修法は、中世以来のものかと私は思っていました。しかし、そうではないようです。17世紀後半になって、ある人物によって讃岐にもたらされたようです。それが浄厳(じょうがん)という真言僧侶のようです。
浄厳
浄厳
彼は、善通寺の僧侶や髙松藩初代藩主松平頼重にも大きな影響を与えた僧侶のようです。今回は、浄厳が讃岐に何をもたらしたかに焦点を合わせて、見ていくことにします。テキストは、「高橋 平明 白峯寺所蔵の新安祥寺流両部曼荼羅図と覚彦浄厳   白峯寺調査報告書NO2 香川県教育委員会」です。

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まず、彼が何者であるのを浄厳伝(現代訳)で見ておきましょう。
浄厳律師は、寛永16年(1639)11月23日に生まれた。字(通称)は覚彦(かくげん)と言い、俗姓は上田氏であり、河州錦部郡鬼住村(河内長野市神ガ丘)の出身である。父母は信仰に篤く、深く三宝を信じており、律師は生まれながら非凡であった。幼少の御、授乳の時には、いつも右の人差し指で梵字や漢字を、母の胸に書いたと言われ、また一切の文字も習ってもいなかったのによく知っていたと言う。四歳の頃には、法華経の普門品や尊勝陀羅尼を読誦し、またよく阿弥陀や観音、地蔵などの仏の名号を書いたと言う。ある時には、父親に出家したいと願い、密かに般若経を唱えていたとも言われ、女性に会うことを嫌い、生臭いものは食べなかつた。六歳の時には、桂厳禅師の碧巌録の講義を聴き、家に帰りまた自ら講じ、それを聴いた者を驚歎させたと言う。
慶安元年1648)十歳の時に高野山に登り、悉地院の雲雪和尚に付き得度。雲雪和尚遷化後は、釈迦文院の朝遍和尚に師事。
明暦二年(1656) 実相院の長快阿閣梨から中院流の伝法灌頂を受ける。
寛文四年(1664) 南院の良意阿闇梨から安祥寺流の伝法灌頂を受け秘印を授かる。
以後は、倶舎、唯識、華厳や法華の諸経論を兼学して勉学研鑽する。
寛文十年(1670) 大師の『即身成仏義』を講義して、高野山の全山学徒が心服。高野山で修行すること20余年で、学侶の席を捨て山を下る。
寛文十二年(1672)春、故郷河内に帰り、父の俗宅に如晦庵を建て、観心寺で『菩提心論』『理趣経』などを講義
延宝元年(1673) 神鳳寺派の快円律師より梵網菩薩戒を受け、浄厳と名を改め、これ以降は戒律を護持。
翌年には、仁和寺の顕證阿闇梨、孝源阿閣梨の二師に拝謁して、西院の法流や真言の諸儀軌を受得する。また、黄檗の鉄眼禅師に超逓して意気投合し、その後も親交は深められる。
延宝四年(1676)春二月、河内の常楽寺にて曼茶羅を建てて、初めて受明灌頂を行った。この受明灌頂は、真言密教の重要な灌頂であったが伝授が途絶えていた。その灌頂を復興。
この年の5月に、泉州堺の高山寺で、神鳳寺一派の玄忍律師を証明師として招請。通受自誓の受戒を行い、比丘となる。

別行次第秘記は浄厳の真言密教の修行に関する口訣書
 
延宝六年(1678)春、讃岐善通寺に招かれ講経や説法。讃岐高松の藩主松平頼重は、律師の戒徳を仰ぎ慕い、直接律師から教えを受けた。
  1680年には松平頼重の要請に応じて、『法華秘略要砂』十二巻を著述。
貞享元年(1684)11月、教化のために江戸に出る
が、旅住まいをして間もないのに、学人が雲のように多く集まり、講経や説法をしても、人が来ない日は無いほどであった。三帰依の戒を授かった者は、六十万九千人。光明真言呪を授かった者 一万千百余人。書薩戒を授かった者は千百三十人であった。
元禄四年(1691)8月、幕府の命で、湯島に霊雲寺を開創
元禄十年(1697)春2月、結縁灌頂を大衆に授け、入壇し受けた者が九万人
水戸藩の儒者であった森尚謙は、律師の法座があまりに盛んであったのを祝って、次のように詩作している。
「南天の鉄塔覚皇の城、芥子扉を開いて此道明らかなり。憫恨す会昌の沙汰の濁れることを、讃歎す日域の法流の清きことを、戸羅具足して無漏を証し、結縁灌頂して有情を救う。遍照金剛今いづくにか在る。那伽の定裏に形声を見はす」

元禄十五年(1702)6月、体調を崩し病に罹り、27日に、頭北面西し、右脇して臥して、印を結んで、静かに遷化。享年六十四。
浄厳は、戒律を護持して、決して怠らず、三衣一鉢などの持ち物を飾ることもなく、美味しい食物を口にすることはなく、人に接する時は謙譲であり、また人を送迎する際には、非常に丁寧であった。信者から受けた布施は、すべて経典や仏像を購入したり、堂塔を修復することに用い、慈悲の実行を常に旨とし、護法を自らの勤めとなしたのである。まさに、仏教界の逸材と言うべき高僧であった。
浄厳の墓(河内延命寺)
浄厳の墓(河内延命寺)
以上のポイントを要約しておくと
①寛永16(1639)年 河内に生まれ10歳で高野山に入山得度
②寛文10(1670)年  高野山修行20余年で、高野山を下り故郷河内に真言新安祥寺流を開く
③元禄4(1691)年  5代将軍徳川綱吉と柳沢吉保の援助を受けて江戸湯島に霊雲寺を建立
庶民の教化に努め、近世期の真言宗の傑僧と評され人物のようです。
この中で注目したいのが讃岐との関連で、次の記述です。
延宝六年(1678)春、讃岐善通寺に赴き講経や説法。讃岐高松の藩主松平頼重は、浄厳の戒徳を仰ぎ慕い、直接浄厳から教えを受けた。
1680年には松平頼重の要請に応じて、『法華秘略要砂』十二巻を著述。
これを裏付けるのが「浄厳大和尚行状記」です。
浄厳行状記
浄厳大和尚行状記
この書は、浄厳が善通寺誕生院主宥謙の招きで讃岐を訪れ際の様子や、松平頼重との関係が詳しく記されています。浄厳来讃のきっかけについては。次のように記します。

延宝六(1678)年3月26日 讃州多度郡善通寺誕生院主宥謙の請によって彼の地に赴き因果経を講じ、4月21日より法華経を講じ、9月9日に満講した。

ここからは、延宝6(1678)年に、善通寺誕生院主宥謙の請いを受けて因果経ならびに法華経の法筵を開いたことに始まると記されています。
どうして宥謙は、浄厳を善通寺に「講師」として招聘したのでしょうか?
誕生院主宥謙の課題は、7年後の貞享2年(1685)に控えた弘法大師八百五十年遠忌でした。それを前に善通寺を浄厳の説く新安祥寺流に改める「宗教改革」の道を選んだと研究者は考えています。それは、宥謙以後の善通寺歴代住持の動きからもうかがえるようです。
宥謙以後の善通寺誕生院住職は、光胤―円龍―光歓―光天―光國と続きますが、新安祥寺流との関わりが深くなっていきます。
宥謙が元禄四年(1691)に入寂すると、住持職を譲られていた光胤は、元禄9(1696)年に、京都や江戸での寺宝の開帳を行ったことは以前にお話ししました。元禄の出開帳のスケジュールは次の通りです。
①元禄 9(1696)年 江戸で行われ、
②元禄10(1697)年3月1日 ~ 22日まで
           善通寺での居開帳、
③同年11月23日~12月9日まで上方、
④元禄11年(1698)4月21日~ 7月まで 京都
⑤元禄13年(1700)2月上旬 ~ 5月8日まで   
            播州網干(丸亀藩飛地)
以上のように3年間にわたり5ヶ所で開かれています。
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善通寺江戸開帳の「元禄目録」
 江戸での開帳の際に首題に「讃岐国多度郡屏風浦五岳山善通寺誕生院霊仏宝物之目録」と題された「元禄目録」が残されています。

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元禄開帳末尾

その末尾に「此目録之通、於江戸開帳以前桂昌院様御照覧之分 如右」とあります。ここから元禄九年(1696)の江戸出開帳の際に、桂昌院の「御覧(見学)」のために作成された目録であることが分かります。桂昌院は、家光の側室で、5代将軍・綱吉の生母で、大奥の当寺の実権者でした。その桂昌院に見てもらうために料紙を切り継いで、薄墨の界線がひかれ、36件の宝物が記され、それぞれについての注記(作者・由来・形状品質など)が書かれています。
 「大奥の実力者が見学に行った善通寺のご開帳」というのは、ニュースバリューがあり、庶民を惹きつけます。現在でも、皇室記事に人気があり、皇族たちの着ているものや見学先に庶民が強い関心を持っているのと同じです。しかし、どうして四国の善通寺のご開帳に、わざわざ桂昌院が見学にきたのでしょうか。法隆寺や善光寺に比べると、全国的な知名度はかないません。

善通寺薬師如来像内納入文書 (2)
善通寺本尊薬師如来開眼供養願文(善通寺)
ここには桂昌院の「息災延命」が願われている

 この時に大きな力になったのが桂昌院の帰依を得ていた浄厳の存在だと研究者は推測します。
当寺の浄厳は江戸にいて、五代将軍綱吉から湯島の地を賜って霊雲寺を開いて真言律を唱え、多くの信者たちを得ていました。浄厳による大奥への裏工作があったことが考えられます。

1 善通寺本尊2
善通寺本尊薬師如来像
 それを裏付けるのが、現在の善通寺本尊薬師如来像です。
この本尊は、開帳で集まった資金で造られたようで、開帳から4年後の元禄13(1700)年に開眼されています。この制作にあたったのは、京都の仏師法橋運長であることは以前にお話ししました。運長は誕生院光胤あてに、元禄12(1699)12月3日付け文書を4通提出しています。
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大仏師運長が誕生院にあてた「見積書」
その内の「御註文」には、像本体、光背、台座の各仕様について、全18条にわたり、デザインあるいはその素材から組立て、また漆の下地塗りから金箔押しの仕様が示され見積書となっています。このような「見積書」によって、運長は全国の顧客(寺院)と取引を行っていたようです。
 ここで研究者が指摘するのは、運長は浄厳の肖像を制作していることです。浄厳は、以前から運長にさまざまな仏像の制作を依頼してようです。ここからは私の推論です。「弟子」にあたる誕生院院主光胤は浄厳に次のような依頼を行います。

「おかげさまで江戸での開帳が成功裏に終わり、善通寺金堂並びに本尊造立のための資金が集まりました。つきましては、善通寺金堂の本像作成にふさわしい仏師を紹介していただけないでしょうか」

 江戸の浄厳に相談し、仏師紹介を依頼したことが考えられます。そして浄厳が紹介したのが腕利き仏師運長だったと私は考えています。このように考えると、江戸での開帳計画も一か八かのものではなく、浄厳の指導助言に従って光胤が進めたもののように思えてきます。善通寺の運営について浄厳は、さまざまな助言や協力もしていたようです。
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円龍が運長に依頼した愛染明王像(善通寺)
次の善通寺住持の円龍は、宥謙・光胤から受法した正嫡の弟子です。
そして、京都愛宕宝蔵院主から善通寺に転住してきた人物です。
宝蔵院主(円龍?)が光胤に、仏師の法橋運長に不動尊と愛染明王像の制作を依頼し、開眼を浄厳に求めた元禄十四年の手紙が残されています。円龍も浄厳の指導下にあったことが分かります。
次の光歓は円龍の念持仏を開眼した浄厳弟子の蓮体について新安祥寺流を受け、白峯寺等空法印からも同法を授かった人物です。

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善通寺大塔再興雑記には、光圀の名前が見える

光國僧正は阿波出身であり、東大寺戒壇院長老となった慧光(1666~1734)に師事していました。また、五重塔再興に東奔西走した人物です。

慧光は浄厳の高弟のひとりで、湯島・霊雲寺の二世でもあります。善通寺に伝えられる新安祥寺流聖教には光國が所持していたものがあり、さらに白峯寺等空と離言書写のものも伝えられています。これらをあわせると善通寺の大部分の聖教が整うようです。
以上をまとめておくと、浄厳を善通寺に招請した誕生院主宥謙のねらいは、弘法大師650年遠忌を契機として善通寺を新安祥寺流の拠点のひとつとすることにあったと研究者は考えています。
それを裏付けるように、これ以後善通寺周辺の真言有力寺院がである金昆羅金光院・弥谷寺・白峯寺・志度寺などが新安祥寺流を受入れます。 (松原秀明「讚岐における浄厳大和尚の遺蹟と、その法流について」『郷土歴史文化サロン紀要』第1集1974年
こうして、讃岐の真言寺院は新安祥寺流に席巻されていくようになります。
これは、ある意味での「讃岐における宗教改革」とも云えます。それまでの真言の流儀や法脈が一変されていくことになります。同時に「宗教改革」にともなうエネルギーも生み出されます。それは、善通寺を拠点とする新安祥寺流の寺院ヒエラルヒーの形成につながって行きます。そういう視点で見ると戦国末の兵乱で一時的な衰退状態にあった善通寺が新安祥寺流によって近世寺院として蘇っていく契機となったのかもしれません。弥谷寺の善通寺への末寺化などの動きもこのような流れの中で見ておく必要があるようです。

浄厳がもたらしたもののもうひとつが、雨乞祈祷と善如(女)龍王の勧進です。

2善女龍王4
高野山の善如(女)龍王  高野山は男神

「浄厳大和尚行状記」には、次のように記します。

浄厳が善通寺で経典講義を行った延宝六年(1678)の夏は、炎天が続き月を越えても雨が降らなかった。浄厳は善如(女)龍王を勧請し、菩提場荘厳陀羅尼を誦すること一千遍、そしてこの陀羅尼を血書して龍王に捧げたところが、甘雨宵然と降り民庶は大いに悦んだ。今、金堂の傍の池中の小社は和尚の建立したもうたものである。

ここには、高野山の高僧が善通寺に将来された際に、干ばつに遭遇し「善女龍王」を新たに勧進し、雨乞の修法を行い見事に成就させこと、そして「金堂の傍らの小社」を浄厳が建立したことが記されています。それが善女龍王のようです。
5善通寺
善通寺の善女龍王社 
それを裏付けるのが、本堂の西側にある善女龍王の小さな社です。この祠は一間社流見世棚造、本瓦葺、建築面積3.03㎡で、調査報告書には、
「貞享元年(1684)建立、文化5年(1808)再建、文久元年(1861)再建の3枚の棟札」

が出てきたことが報告されています。最初の建立は、浄厳の雨乞祈祷の6年後のことになります。これは浄厳によって善女龍王信仰による雨乞祈祷の方法がもたらされたという記録を裏付けるものです。逆に言うと、それまで讃岐には真言密教系の雨乞修法は行われていなかったことになります。

善通寺には「御城内伽藍雨請御記録」と記された箱に納められた約80件の雨乞文書が残されています。
そこには、丸亀藩からの要請を受けた善通寺の僧侶たちが丸亀城内亀山宮や善通寺境内の善女龍王社で行った雨乞いの記録が集められています。それによると正徳四年(1714)~元治元年(1864)にわたる約150年間に39回の雨請祈祷が行われています。およそ4年に一度は雨乞が行われていたことがわかります。ここで注目しておきたいのは、記録が残るのが正徳四(1714)年以後であることです。これも17世紀末に浄厳によってもたらされた雨乞修法が丸亀藩によって、18世紀初頭になって、藩の公式行事として採用されたことを裏付けます。

浄厳評伝の中には、高松藩主松平頼重関係が次のように記されていました。
延宝六年(1678)春、讃岐善通寺に赴き講経や説法。讃岐高松の藩主松平頼重は、律師の戒徳を仰ぎ慕い、直接律師から教えを受けた。
  1680年には松平頼重の要請に応じて、『法華秘略要砂』十二巻を著述する。

松平頼重と浄厳の関係について見ておきましょう。
 浄厳が善通寺を訪れたことを聞いた頼重(隠居名:源英公)は、彼を高松城下へ招請します。そして、翌年1679年正月に謁見、以後、頼重は源英公は息女であった清凍院讃誉智相大姉とともに連日聴聞したようです。頼重は、2月には浄厳のために石清尾八幡宮内に現証庵を建立し住まわせます。また、4月には、浄厳が老母見舞のために河内に帰省するに際には、高松藩の御用船を誂えて送迎しています。その信奉のようすは『行状記」に詳しく記されています。ここからは、  頼重が浄厳に深く帰依していたことがうかがえます。ちなみに頼重は、年少期には京都の門跡寺院に預けられて「小僧」生活を長く送っています。そのため宗教的な素養も深く、興味関心も強かったようです。
頼重の再招聘に応じて浄厳は、延宝八年(1680)3月に再び高松にやってきます。
そして4月からは現証庵で法華経を講じます。その時の僧衆は三百余人といわれ、頼重の願いによって『法華秘略要抄』十二巻・『念珠略詮』一巻を撰述します。『行状記』によれば、5月8日に四代将軍徳川家綱吉崩御の訃報により講義を中断し、8月朔日から再開して10月晦日に終了しています。その冬に、浄厳の予測通りに西方にハレー彗星が現れます。ちなみに白峯寺の頓證寺復興が行われているのは、この年にことです。
 凶事とされていた彗星の出現を予測していた浄厳は、浄厳は、白河上皇の永保元年(1081)に大江匡房が金門鳥敏法厳修を奏上した際に、ただひとり安祥寺の厳覚律師だけが知っていて五大虚空蔵法を修された故事を頼重に語ります。これを聞いて頼重は、髙松藩内の十郡十ケ寺に命じて浄厳に従って同法を伝授させます。そして、五大虚空蔵尊像十幡を十ヶ寺に寄付し、正月・五月・九月に五大虚空蔵求富貴法を修行させるように命じます。これは以後、毎年の恒例となっていきます。そして、浄厳は河内の延命寺で金門鳥年法を七日間修し、それが彗星到来にともなう凶事を事なきことに済ませたとされます。こうして浄厳の讃岐での名声は、彗星到来を機にますます高まります。翌天和二年(1682)には、頼重62歳の厄除祈祷を行っています。
彗星到来の凶事を防ぐために「髙松藩内の十郡十ケ寺に命じて浄厳に命じて五大虚空蔵法を伝授し、尊像十幡を十ヶ寺に寄進した」とあります。
それでは、十郡十ケ寺とは、どんなお寺だったのでしょうか。見ておきましょう。
秀吉の命で生駒氏が領主として入部した際に、讃岐領内十五の祈祷寺が決められていました。
生駒騒動後には、讃岐は髙松藩と丸亀藩に分けられますが、「東讃十ヶ寺・西讃五ヶ寺」と呼ばれているので、高松藩領内では通称「十ケ寺」として東讃十ケ寺がこれを引き継いだようです。その「十ヶ寺」を挙げておきます。
阿弥陀院・地蔵院・白峯寺・国分寺・聖通寺・金蔵寺・屋島寺・八栗寺・志度寺・虚空蔵院

この筆頭は髙松城下町の石清尾八幡官別当寺であった阿弥陀院で、寺領高200石余、白峯寺がこれに次いで120石です。
 このほか、大般若会や雨乞い祈祷も、これら十ヶ寺の所役であったことは、以前にお話ししました。特に大般若経は阿弥陀院と白峯寺が月替りに参城して転読したようです。

白峯寺 五大虚空蔵菩薩
虚空蔵菩薩像(白峯寺)

 白峯寺に伝えられる絹本著色虚空蔵菩薩像(第104図)は、 松平頼重により始められた新規祈祷の本尊画像だと研究者は指摘します。

白峰寺の善女(如)龍王
白峯寺の善女龍王
 二幅所蔵される善如(女)龍王像(第105図・第106図)も雨乞い祈祷の本尊として、浄厳の先例に拠って調えられたと研究者は考えています。確かに絵は男神の善如龍王で、女神の善女龍王ではありません。真言系雨乞修法の本尊は、男神像像の善如龍王から、女神の善女龍王に「進化」しますが、それが醍醐寺の宗教的戦略にあることは、以前にお話ししました。ここでは、善通寺や白峯寺などの雨乞本尊が男神の善如龍王で、高野山からの「直輸入」版であることを押さえておきます。これも、讃岐に善如龍王をもたらしたのが浄厳であることを裏付ける材料のひとつになります。

その後の浄厳の活躍ぶりを『行状記』は次のように記します。
浄厳の効験により、「天下の護持僧」として元禄四年(1691)に五代将軍綱吉から江戸湯島に霊雲寺を賜り天下の析願所となった
このように、讃岐に新安祥寺流の法脈が広がるのは、浄厳が頼重からその護持僧としての信任を得ていたことが大きく影響していることが分かります。髙松藩の浄厳保護と、善通寺の浄厳の安祥寺流への切り替えは同時進行で進んでいたことを押さえておきます。

以上から浄厳の讃岐にもたらしたものを挙げておきます。
①善通寺誕生院院主の帰依を受けて、善通寺を新安祥寺流の拠点寺院としたこと
②善通寺を拠点に西讃の有力真言寺院が新安祥寺流を受けいれたこと
③善通寺の歴代院主は、浄厳やその弟子たちと法脈をひとつにして、寺院経営などに指導助言を得たこと
④そのひとつが江戸での開帳行事の開催や、本尊作成の仏師選定などが史料から分かる。
⑤浄厳は髙松藩松平頼重の護持僧侶として、宗教政策に強い影響力をもつようになったこと
⑥松平頼重の引退後の宗教政策には、浄厳がさまざまな点に影響を与えていたことが考えられる事

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
         「高橋 平明 白峯寺所蔵の新安祥寺流両部曼荼羅図と覚彦浄厳   白峯寺調査報告書NO2 香川県教育委員会」

              
讃岐は記録を見ると、近世には約5年に1度は千魃が起きています。特に寛永3年(1626)・明和7年(1770)・寛政2年(1790)・文政6年(1823)が大千魃の年であったようです。この干魃に対して、藩専用の雨乞い祈祷寺院として、丸亀藩は善通寺を、多度津藩は弥谷寺を指定していました。それでは、高松藩の雨乞い寺院は、どこだったのでしょうか。

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白峯寺の善(女)龍王社

 白峯寺に紫陽花を見に行きました。

伽藍の中で一番上にある本堂と大師堂にお参りして、ついでに洞林院跡を見ておこうと思って東に伸びる道を辿ろうとすると堀に囲まれて「善如龍王」の小さな社がありました。
2善女龍王 神泉苑g
神泉で雨乞い祈祷を行う空海とそこに現れた子蛇(善如龍王)

善女龍王については、これまでも紹介しました。空海が平安京で、雨乞い祈祷を行った際に祈った水神とされます。姿は、時と共に次のように「進化」します。
当初は  表記は「善龍王」で、姿は「小さな蛇」
高野山で、表記は「善龍王」で、姿は「唐服姿の男子像にしっぽ」
醍醐寺で 表記は「善龍王」で、姿は「女神化」
この変化の背景には、雨乞い祈祷の主導権をめぐる醍醐寺の戦略があったことは、以前にお話ししました。ここでは醍醐寺によって女神化する以前には、龍王は「善如龍王」と表記され男神像として描かれていたことを思い出します。それでは白峯寺の龍王は、どうなのでしょうか。
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白峯寺の雨乞い水神は「善龍王」と書かれていた

社殿には「善如龍王」と書かれています。帰ってから白峰寺に残されている善如龍王の絵図を見てみると次の通りです。
白峯寺 善女龍王2
白峯寺の善如龍王(後に龍のしっぽが見える)
  唐の官僚衣装を身につけた男子像姿です。ここからは次のようなことが分かります。
①白峯寺では水神「善如龍王」に対して雨乞い祈祷が行われていた。
②水神は醍醐寺の「善女龍王」ではなく高野山スタイルの「善如龍王」であること
③これは白峯寺が高野山と直接的に結びつき、人とモノの交流が頻繁に行われいたために高野山の雨乞い方式が伝えられたことによる
善女龍王
女神化した醍醐寺系の善女龍王

2善女龍王の表記1

それでは白峯寺の雨乞祈祷は、どのように行われていたのでしょうか。
「白峯寺大留」・「白峯寺諸願留」の中に、高松藩が干魃に際して白峯寺に雨乞祈祷を行なわせている記事が多く出てきます。それを今回は見ていくことにします。テキストは「木原 溥幸 近世の白峯寺と地域社会 白峯寺調査報告書NO2 2013年 香川県教育委員会」
5善通寺
善通寺の善龍王社

白峯寺の最初の雨乞いの記事は、宝暦12年(1762)のものです。
崇徳上皇600年回忌の前年で、それに向けて白峰寺の伽藍整備計画が髙松藩藩主松平頼恭によって進められていた頃になります。
雨が降らず「郷中難儀」しているとので、旧暦5月11日に髙松藩の年寄(家老)会議で白峯寺に雨乞祈祷が命じられ、米5俵が支給されています。この雨乞いの通知は、白峯寺から阿野郡北の代官と大政所へ伝えられています。雨乞い中に少しの雨は降りますが、効果はなく雨乞祈祷は27日まで行われます。28日に「能潤申候」と記されているので本格的な降雨があったようです。白峰寺の霊験の強さが実証されたことになります。ちなみに、白峯寺の善如龍王社もこの時期に、境内に姿を見せるようです。

2善女龍王 高野山
高野山の善如龍王 (小さな尻尾が雲の中から見える)

文化3年(1806)には、5月7日に雨乞いが命じられます。
この時には翌日8日から10日朝まで祈祷が行われます。が、効果がありません。そこで髙松城下へ場所を移して、11日に大般若祈祷を勤めて、12日から雨乞祈祷を再開しています。15日になってようやく降りますが、それも「潤沢」ではなかったようです。そこで、白峰寺の法力だけでは不足とされたのでしょうか、22日からは五智院(阿弥陀院?)・地蔵寺・国分寺・聖通寺・金蔵寺・屋島寺・八栗寺・志度寺・虚空蔵院・白峯寺の十か寺が揃って雨乞祈祷を行っています。この十か寺は、各郡に一か寺ずつ置かれていた「五穀成就之御祈祷」に指定されていたお寺でもあるようです。
郡奉行からは、雨が降るまで雨乞い修法を行うように命じられています。エンドレス祈祷の始まりです。ようやく待望の雨が25日に降りますが「潤沢」ではありません。そこで白峯寺は27日に6月朔日までの降雨祈蒔修法を行う事を寺社役所と郷会所へ伝えています。さらに6月朔日には、引き続き修法を行うことにしています。しかし、その後も降雨はありません。6月19日には、再び十か寺へ26日までの雨乞修法を行うことになります。この時の十か寺の合同修法は、五智院へ他の九か寺が集まって実施されています。この時の干魃がいつまで続いたかはわかりません。雨乞いは、エンドレスであったことを押さえておきます。この時には、5月7日から始まって6月26日まで祈祷しても雨が降らずに、その後も続けられたようです。

2年後の文化5年にも6月22日に雨乞執行が命じられ、翌日の23日晩から行われています。この時は、28日晩から大風雨となったため、雨乞執行は期限通りに9日で終わっています。

文化14年の旱魃の時には郡奉行から、雨乞祈祷を行うように命じられています。
22日から白峰寺で祈祷が始まり、開始5日後の27日に降雨があっりました。そのため十か寺の合同雨乞祈祷は行われませんでした。
このように白峯寺は、高松藩の雨乞祈祷担当寺院でもあり、藩からの依頼に応えて雨乞祈祷が行われていたのです。

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白峯寺の善如龍王社

19世紀になると、地域の村々も白峯寺に雨乞い祈祷を依頼するようになります。
文化2(1805)年に、林田村の大政所(庄屋)からの「国家安全、御武運御兵久、五穀豊穣」の祈祷願いがあり、5月から行っています。(「白峯寺大留」7-6)。
文化4(1807)年2月に、祈祷願いが出されたことが「白峯寺大留」に次のように記されています。(報告書312P)
文化第四卯二月御領分中大政所より風雨順行五穀成就御祈蒔修行願来往覆左之通、大政処より来状左之通
一筆啓上仕候、春冷二御座候得共、益御安泰二可被成御神務与珍重之御儀奉存候、然者去秋以来降雨少ク池々水溜無甲斐殊更先日以来風立申候而、場所二より麦栄種子生立悪敷日痛有之様相見江、其上先歳寅卯両年早損打続申次第を百姓共承伝一統不案気之様子二相聞申候、依之五穀成就雨乞御祈蒔御修行被下候様二御願申上度候段、奉伺候処、申出尤二候間、早々御願申上候と之儀二御座候、
近頃乍御苦労御修行被下候様二宜奉願上候、右御願中上度如斯御座候、恐慢謹言
二月             
和泉覚左衛門
奥光作左衛門
三木孫之丞
宮井伝左衛門
富家長二郎
渡部与兵衛
片山佐兵衛
水原半十郎
植松武兵衛
久本熊之進
喜田伝六
寺嶋弥《兵衛》平
漆原隆左衛門
植田与人郎
古木佐右衛門
山崎正蔵
蓮井太郎二郎
富岡小左衛門
口下辰蔵
竹内惣助
白峯寺様
   意訳変換しておくと                                                                 
一筆啓上仕候、春冷の侯ですが、ますます御安泰で神務や儀奉にお勤めのことと存じます。さて作秋以来、降雨が少なく、ため池の水もあまり貯まっていません。また。強い北風で場所によっては麦が痛み、生育がよくありません。このような状態は、10年ほど前の寅卯両年の旱魃のときと似ていると、百姓たちは話しています。百姓の不安を払拭するためにも、五穀成就・雨乞の祈祷をお願いしたいという意見が出され、協議した結果、それはもっともな話であるということになり、早々にお願いする次第です。修行中で苦労だとは思いますが、お聞きあげくださるようお願いします。
右御願中上度如斯御座候、恐慢謹言
 この庄屋たちの連名での願出を受けて、藩の寺社方の許可を得て、2月16日から23日までの間の修行が行われています。雨が降らないから雨乞いを祈願するのではなく、春先に早めに今年の順調な降雨をお願いしているのです。この祈願中は、阿野郡北の村々をはじめ各郡からも参詣が行われています。
 こうして、弥谷寺は雨乞いや五穀豊穣を祈願する寺として、村の有力者たちが足繁く通うようになります。その関係が、近隣の村々の有力者の支持や支援を受けることにつながって行きます。以前にお話しした弥谷寺でも、多度津藩の雨乞祈祷寺院になることで、大庄屋の支持を得て、彼らの墓碑が建てられ、いろいろな奉納物が寄進されるようになりました。白峯寺でも祈祷を通じて、地域の願いを受け止め、「五穀成就」を願う寺として、人々の信仰を集めるようになっていきます。
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白峯寺の善如龍王社

文化7(1810)年には、青海村単独での五穀豊穣・雨乞い祈祷の依頼がありました。

文化七午年十一月十一日、青海政所嘉左衛門殿致登山申様ハ、当秋己来雨天相続、此節麦作所仕付甚指支難渋仕候、依之大小政所評定之上二夜三日之間、五穀成就御祈稿修行頼来候所、折節院主出府仕居申候二付、義観房私用も有之二付致出府、示談仕、当十四日より十六日迄之間、常例之通二五大虚空蔵法修行仕候様、相決し、院主十二日二帰峰仕、十四日より十六日迄五大虚空蔵法修法仕、助呪等諸事例月之通、尤導師意楽二而止風雨之本尊大檀向之右之方江奉掛井修法申印明等相加江行法仕候、且又十五日中国二相当り朝大小政所井組頭共人九人斗致参詣、吸物酒井蕎麦切茶漬等致饗応候、但し役所向届方之義ハ勤方江相尋候処、郡方よりも申出不仕候旨二付、当山よりも役所江ハ届ヶ不仕候、

  意訳変換しておくと
文化七(1810)年11月11日に、青海村の政所嘉左衛門殿が登山してきて次のような依頼をした。この秋は雨天が続き、麦の成長がよくない。そこで、大小政所が集まって評定し、二夜三日間、五穀成就の祈祷修行をお願いすることになったという。
 しかし、院主が出府、義観房も私用で不在であることを告げ、相談した結果、十四日より十六日までの間、通例通りの五大虚空蔵法修行を行う事になった。院主は十二日帰峰し、十四日より十六日迄五大虚空蔵法を修法した。助呪などの諸事例は通例通りで、導師意楽が主催し、本尊大檀に向かって右側に奉掛や修法申印明などが位置して行法した。十五日朝には、大小政所や組頭たち九人が参詣し、吸物酒並びに蕎麦・切茶漬などを饗応した。但し、役所への届出については、藩の勤方に相談したところ、青海村単独の雨乞いなので必要なしとのことであった。そのため当山からは役所へは届けなかった。

ここらは「藩 → 綾郡の大政所 → 青海村の政所」と、依頼者が変化し「民衆化」していること。当初は雨乞い祈願であったものが、二毛作の麦も含めた「五穀豊穣」のための祈願と姿を変えながら「守備範囲」を広げていることがうかがえます。
5善女龍王4jpg
神泉苑の善女龍王朱印
文化10(1813)年の暮れにも、秋から降雨が少なく、溜池の水が減って麦・莱種子の生育がよくないとして、阿野郡北の大政所は「五穀成就雨乞」の祈祷を依頼しています。その翌年の文化11年4月に入っても雨が少なかったらしく、阿野郡北大政所の富家長三郎は白峯寺に出向いて、降雨祈蒔を願い出ています。この祈祷に続いて郡奉行からも引き続き祈祷を続けるよう命じられています。
 周辺の庄屋たちの依頼による祈祷活動を年表化しておきます。
文政3(1830)年「稲作虫指」のため「虫除五穀成就」の祈祷
文政7(1834)年 阿野郡北の大政所単独の祈願依頼。(要約)
青海村の政所嘉左衛間が白峯寺へきて、この秋以来雨天が続き、麦の作付けが困難になっているので、大・小政所が相談して、二夜三日の五穀成就の祈祷をお願いしたい。これに応えて、11月14日から16日に「修行」実施。15日には大・小政所と組頭8・9人が白峯寺へ参詣。
文政12(1839)年6月 阿野郡北の依頼で、「虫除五穀成就」の祈祷
PayPayフリマ|絶版 週刊原寸大日本の仏像12 神護寺 薬師如来と五大虚空蔵菩薩 国宝 薬師如来立像・日光菩薩立像・月光菩薩立像・五大虚空蔵菩薩
五大虚空蔵

最後に、どんな祈祷が行われていたのかを見ておくことにします。

先ほど見た1810年の史料には「通例通りの五大虚空蔵法を修行」
とありました。ここからは「虚空蔵求聞持法」を唱えながら護摩が焚かれたことが考えられます。しかし、これだけではよく分かりません。
文化五(1809)年6月の記録には、次のように記されています。
敷地書状政所へも届け申候、於頓証寺例之通り水天供執行荘厳等。前々之通り衆徒皆参 
初夜申刻ョリ             出座面々
    法印
一導師法印水天供          遊天
一衆徒助呪            義観
一一字ノ金ョリ吉慶讃三段ツ    有光
深賢 加行中

一十四日夜五ツ時少バラバラ雨降ル 真正
一廿七日、早てより終日日曇り五ツ時ホコリジメリニ降ル
一廿六日、香西植松武兵衛参詣〈西瓜大一酒二升/持参)
一廿七日西庄大政所参詣酒二升
一同日高屋政所来ル、初穂一メ
一廿八日晩方より日曇り夜九ツ時分より降出、翌十九日
終日大風雨二而、降雨廿八日栗原理兵衛、尾池彦太夫
二人同道二而参詣、右大風雨故、川越出来[  ]へ廿九日
滞留、翌晦日早て二帰ル
意訳変換しておくと
敷地書状を政所へも届け、頓証寺でいつものように水天供執行の荘厳を行う。 前例通りのメンバーが集まってくる 
初夜は申刻から祈祷が始まった。出座面々
    法印
一導師法印水天供          遊天
一衆徒助呪            義観
一一字ノ金ョリ吉慶讃三段ツ    有光
深賢 加行中

24日 夜五ツ頃 ぱらぱらと小雨が降る 真正
27日 晴天から終日曇りに変わり、五ツ頃から埃を湿らす程度に降ル
26日 香西の植松武兵衛参詣(西瓜大一つ 酒二升持参)
27日 西庄の大政所が参詣(酒二升持参)
 同日 高屋の政所も来る、初穂一〆
28日 晩方から曇り、夜九ツ時分から降り出す
29日 終日大風雨
右雨乞修行之届申
ここからは、祈祷が行われた場所や、白峯寺やその子院の住職が役割が分かります。実施場所については、私は善如龍王社の前で行われていたのかと推測していたのですが、そうではないようです。頓證寺を会場として荘厳したと記されています。頓證寺が白峰の公的な祈りの場であったことがうかがえます。
 面白いのは次の記録です。
26日 香西の植松武兵衛参詣(西瓜大一つ 酒二升持参)
27日 西庄の大政所が参詣(酒二升持参)
里の村々の有力者が、雨乞い祈祷を見守るために参詣しています。その際に、酒2升やスイカを持参しています。雨乞い成就の際には、それなりのお礼が行われます。そして、積もり積もって、土地寄進や灯籠などの寄進につながったようです。
翌年の文化6年も雨不足だったようで、雨乞い祈祷が次のように行われています。(要約)
5月14日晩方から雨乞修行を頓証寺に壇を設け荘厳して、修法水天供を始めた
一導師   院主増明法印
一助呪   義観房   自光房 善能房   深賢房
十四日の朝方にぽろぽろ降り始め、夜分にも少し降った。十五日には恒例の五穀祭りに、大小政所も参詣のためにやってきた。大政所の青海政所へ雨乞修行のことについて申聞させた。十五日の晩方から十六日朝まで大雨となった。そのため十六日朝には檀を撤去し、朝より法楽理趣三味となった。(後略)
ここからは、雨乞い祈祷が頓證寺の境内の中に壇を築いて、荘厳して行われたことが分かります。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「木原 溥幸 近世の白峯寺と地域社会 白峯寺調査報告書NO2 2013年 香川県教育委員会」

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2善女龍王4
 雨乞の竜として最も有名なのは、善如竜王です。無形文化財の讃岐の綾子踊り奉納の際にも「善女龍王」の幟を持った参加したことが何度かあります。しかし、その頃は「善女龍王」がいったい何者で、どんな姿をしているのかも知りませんでした。
 善通寺の境内を歩いていて善女龍王を祀る祠と池がある事に気付いてから、これが空海の祈雨祈願と密接に関係する神であることを知りました。そのことに付いては、以前にお話ししました。

2善女龍王 神泉苑2g

善如竜王は、空海が天長元年(824)に京都の神泉苑で祈雨を行った際に現れ、雨を降らせたとされ「空海請雨伝承」として伝わっています。
神泉苑-京都市 中京区にある平安遷都と同時期に造営された禁苑が起源 ...

 この話については、どうも後の「創作」と考える研究者の方が多いようです。その「創作話」が空海伝説とともに発展していきます。
 この話の中に登場する善如竜王が果たした役割としては、次の二点があります。
①善如竜王が棲む神泉苑が祈雨を行うのに最もふさわしい場所である
②空海が勧請した竜であることから、真言宗が神泉苑での祈雨に最も深く関わるべきである
 この話を聞くと、以上のふたつが自然に納得できるのです。そういう意味でも善如竜王は空海請雨伝承において、重要な役割を果たしています。

2善女龍王2

 それでは、善女龍王とはどんな姿をしているのでしょうか?
分からなけば辞書をひけという教えに従って、密教学会編『密教大辞典』(法蔵館、1983年)で「善如竜王」を調べてみると、次のようにあります。
[形像]御遺告には、彼現形業宛如金色、長八寸許蛇、此金色蛇居在長九尺許蛇之頂也と説けども、世に善如竜王として流布せるものは女形にして、金色の小蛇を戴き宝珠を持てり。

とあり、『御遺告』には蛇の姿で表されているが、世に流布しているものは女形であると記されています。グーグルで「善女龍王」を画像検索すると、女性の姿で描かれているのが殆どです。ところが男性形のものも少数出てきます。2善女龍王 神泉苑g
 例えば、高野山に残されている平安時代後期作の善如竜王の図は、唐風の礼服姿の男神像です。ここからは善如竜王は次の3つの姿があるようです
①へび
②男性の唐風官人
③女性の龍女
いったい、どうして3つに描き分けられるのでしょうか。権現のように姿を変えるのでしょうか。そこがよく分かっていませんでした。今回は、そこを探ってみます

 空海の伝記類の中で初めて善如竜王が登場するのは『御遺告』のようです。
 (前略)従爾以降。帝経四朝 奉為国家 建壇修法五十一箇度。亦神泉薗池辺。御願修法祈雨霊験其明。上従殿上下至四元 此池有竜王善如 元是無熱達池竜王類。有慈為人不至害心 以何知之。御修法之比託人示之。即敬真言奥旨従池中 現形之時悉地成就。彼現形業宛如金色 長八寸許蛇。此金色蛇居二在長九尺許蛇之頂也。(後略)

 ここには祈雨祈願場所として神泉薗が聖地であることと、そこに住む善女龍王の姿は「八寸ばかりの金色の蛇で九尺ばかりの蛇の頭の上に乗っている」と記されます。ここには、人間の姿ではなく、男神・女神という表現もありません。つまり蛇なのです。
 この『御遺告』の記述が、その後の空海の伝記類にも受け継がれていきます。平安時代から江戸時代にかけて成立した数多くの伝記類のほとんどは、善如竜王の姿を『御遺告』の記述のままに受け継ぎます。『御遺告』が空海の遺言として信じられてきた所以でしょう。ここでは、伝記類には善如竜王は、蛇の姿として描かれていることを押さえておきます。
12世紀半ば頃に、善如龍王を男性として描いた絵図が現れます。


2善女龍王 高野山
高野山の善女龍王図 

これは高野山にある絵図で『弘法大師と密教美術』には、次のように解説されています。
冠をいただき唐服を着けた王族風の男性が、湧き上がる雲に乗る姿を描く。左手には火焔宝珠を載せた皿を持つ。その裾を見るとわずかに龍尾がのぞいており、空海と縁の深い善女竜王であると判明する。善女竜王図は、天長元年(824)空海が神泉苑において雨乞いの修法(ずほう)を行った際に愛宕山に現れたと伝わる。『高野山文書』の古い裏書によれば、本図は久安元年(1145)に三井寺の画僧定智によって描かれたことがわかる。
 
 12世紀の半ば頃には、高野山では善女龍王を男神として描くようになっていたようです。これは、雨を降らせる龍神(蛇)が権化し、人間に似た神として描かれるという変身・進化で真言密教の修験道僧侶の特異とするところです。この絵を掲げながら祈雨が行われたのかもしれません。
 この高野山の善女龍王の模写版が醍醐寺に2つあるようです。

2善女龍王 醍醐寺2
 
これが建仁元年(1201)の模写版です。
2善女龍王 醍醐寺22

上のもうひとつは、さらに模写し着色したものです。
50年前に絵仏師定智が描いた高野山の「善女竜王図」と細かい所まで一致します。ここからは、次のような事が分かります。
①それまで蛇とされていた善女龍王が12世紀中頃には、唐の官僚姿で描かれるようになった。
②醍醐寺は、高野山のものを模写したものを、無色版と着色版の2つ持っていた
どうやら醍醐寺でも祈雨は行われるようになっていたようです。 
2 清滝権現
善如竜王と密接な関係にあるのが、醍醐寺の清滝権現です。
『密教大辞典』の「清滝権現」には、次のようにあります。
 娑掲羅竜王の第三女善如竜王なり。密教に如意輪観音の化身として尊崇す。印度無熱池に住し密教の守護神たり。唐長安城青竜寺に勧請して鎮守とす、故に青竜と号せり。弘法大師帰朝の際これを洛西髙尾山麓に勧請す。海波を凌ぎて来朝せることを顕して水扁を加え清滝と改む。山麓の川を清滝川と名け地名を清滝と称するはこれに由る。(中略)
 其後聖宝尊師高雄より醍醐山に移す。故に小野醍醐の法流を汲む寺院には多く清滝権現を祀る。又醍醐山にては西谷に鎖座せしが、三宝院勝覚寛治二年山上山下に分祀す。(後略)

 最初に「娑掲羅竜王の第三女善如竜王なり」とあり、清滝権現は娑掲羅竜王の第三女であって、善如竜王と同体であるとされます。善如竜王と清滝権現は、「二竜同体」ということになるようです。長安の青竜寺の守護神であった青龍を空海が連れ帰り、高尾山に清滝と改名し勧進します。その後、醍醐山に移されたとあります。
ここで確認したいのは「善如龍王=清滝権現」ということです
 清滝権現の図像には四種類あり、その一つに先ほど見た高野山にある定智本善如竜王像、つまり唐風の礼服姿の男神像が示されます。つまり、善如竜王と清滝権現は図像の上でも同じ姿をとる「二竜同体」のようです。両者の関係は非常に密接であるとされていたことが分かります。
 しかし、このふたつの龍神の成立当初の伝承には、両者の関係は全く説かれていません。
 善如竜王の登場は、『御遺告』からです。その記事の中に清滝権現に関係するようなことは、一切書かれていません。 
下醍醐の清瀧宮 - 京都市、醍醐寺 清滝宮の写真 - トリップアドバイザー
上醍醐 清滝宮
 
清滝権現は、『醍醐雑事記』によると寛治三年(1089)に勝覚によって上醍醐の地に清滝宮が建立されたとあります。11世紀末の登場です。『醍醐雑事記』の清滝権現に関係する記事の中にも、善如竜王との関係は一切記されていません。
 このように、二竜の成立当初の伝承では、両者の関係は全く見られず、無関係の関係だったようです。それぞれ別個の竜として存在していたようです。それが、いつの間にか『密教大辞典』の記事のように、「二竜同体」となったようです。
 
なぜ善女龍王と清滝権現は一体化したのでしょうか
 善如竜王と清滝権現の同体視は、祈雨を通して行われたと研究者は考えているようです。祈雨を接点として両者が次第に接近し一体化したというのです。そこには、醍醐寺の祈雨戦略があったようです。
  醍醐寺が祈雨に関して「新規参入」を果たそうとします。しかし、当時の国家的な祈雨の舞台は空海が祈雨し、善女龍王が住む神泉苑が聖地でした。やすやすと醍醐寺が入り込む余地はありません。そこで醍醐寺は、次のような祈雨戦略活動を展開します。
①神泉苑から醍醐寺の清滝宮への祈雨場所の移動 
②善女龍王に変わる祈雨神の創造
この戦略を、どのように実行していったのかを見てみましょう。
醍醐寺で行われた祈雨を表にしたの下の図です。
2善女龍王 醍醐寺の祈雨g
これによると、醍醐寺での祈雨が初めて行われるのは寛治三年(1089)のことです。それまでは、空海が祈雨を行った聖地・神泉苑で行われていました。ところが院政期以降に、醍醐寺での祈雨の記事が見られるようになります。これは何を意味するのでしょうか?
  研究者は、醍醐寺が祈雨に「参入」しようとしているのではないかと指摘します。
醍醐寺での祈雨は、初め釈迦堂において行われています。それが大治5年(1130年)に、清滝権現を祀る清滝宮で行われるようになります。そして、それが主流となって定着していきます。
 その当時は、神泉苑が祈雨の聖地とされていましたから、そこへ醍醐寺が参入することは難しかったはずです。そういう中で、醍醐寺が独自性を主張していくためには、善女龍王に変わる新たなアイテムが必要でした。そこで新たに作り出された雨乞神が清滝権現だったのではないかというのです。しかし、まったく馴染みのない神では人々は頼りにせず不安がります。そこで、真言密教お得意の「権化」の手法が使われます。つまり、清滝権現は善女龍王の権化で、もともとは一体であるという手法です。こうして清滝権現は醍醐寺の新たな祈雨の神として、成長をしていくことになります。その成長を促すためには「清滝権現=善如竜王」の二龍同体説が醍醐寺にとっては必要だったと研究者は考えているようです。
 この二龍同体説の醍醐寺が創造したという裏付け史料は、例えば『醍醐寺縁起』の中の清滝権現に関わる部分です。『縁起』では、清滝権現を醍醐寺の本尊である准肌如意輪の化身とします。そして、醍醐寺を開いた聖宝の前に現れた最も重要な神として位置づけらます。しかし、この『縁起』の内容をそのまま史実として受け入れることはできないようです。その理由の一つとして、空海の帰朝の際に、青龍が唐の青竜寺からやって来たという伝承があります。しかし、これは空海の多くの伝記類には見られないものです。醍醐寺においてのみ唱えられた伝承のようです。空海が伝記の中でもっとも強く結びついている竜は善如竜王です。清滝権現の名前は、伝記にはありません。
 清滝権現を紹介する際に、よくこの『縁起』の内容が語られますが、これは後世に付け加えられた話と研究者は考えているようです。
2善女龍王男性山

 そして、もうひとつ重要なことは、この時点では清滝権現と善如竜王の両龍神たちは男神だったようです。先ほど見た醍醐にに残る善女龍王絵図を思い出して欲しいのですが、これは高野山のものを模写した男神姿でした。つまり、この時点では醍醐寺では、唐風の官僚姿の善女龍王を祀っていたのです。そして善龍王と表記されていたのです。
2「善」から「善女」へ
書物に登場してくる善女龍王の表記を見てみると下表のようになります。
2善女龍王の表記1
この表を見ると、平安時代末期までは、「善女」ではなく「善如」と表記されていたことが分かります。12世紀半ばの『弘法大師御伝』以後に、「善女」の表記が主流となっています。「善如」から「善女」へ変化したようです。最初は「善如」と呼ばれていたのです。
 どうして、「善如」から「善女」へ変わったのでしょうか
 その理由は、清滝権現がサーガラ竜王の三女とされることからきているようです。彼女は「竜女」とも呼ばれ『法華経』の「提婆達多品十二」に登場する竜女成仏譚で有名な竜女です。それまでの仏教界では、女性は五障の身であるために成仏できないとされてきました。そころが竜女は「変成男子=男子に変身」することによって成仏を遂げます。仏教に心を寄せた女性たちにとっては、この『法華経』の竜女成仏譚は、救いの道を示す大きな意味を持つ存在だったようです。平安時代末期の『梁塵秘抄』には。
  竜女も仏になりにけり、などかわれらもならざらん
と詠まれています。それほど竜女成仏譚が広く一般に広がっていたことが分かります。そのような中で、醍醐寺の密教僧侶たちは、竜女も善如竜王と清滝権現と権化関係の中に入れて同一視する布教戦略をとるようになったと研究者は考えます。
  善女龍王=清滝権現=竜女です。
そして最後に、権化した竜女は女性です。そうなると、三位一体同心説の元では、清滝権現も、善女龍王も女性であるということに自然となっていきます。それを醍醐寺は広めるようになっていきます。
以上をまとめておくと
①空海が神泉苑で善女龍王に祈雨し雨を降らせたという伝承がつくられた
②その結果、国家的な雨乞いは、真言密教が独占し、場所は神泉苑、祈りの対象は善如(女)龍王とされるようになった
③善如龍王は、もともとは小さな蛇とされていた
④それが12世紀半ばになると、唐風官人の男神として描かれるようになった
⑤さらに醍醐寺が祈雨行事に参入するようになって、祈雨場所を醍醐寺でも行うと同時に、新たな祈雨神として、清滝権現を創造した。
⑦醍醐寺は、清滝権現を善女龍王と二龍同体として売り出した。
⑧さらに、醍醐寺はふたつの龍王に「変成男子」の竜女も加えて同体視し、流布させた
⑥その結果、竜女が女性であるので、それまでは男性とされたいた善女龍王も清滝権現も女性化し、女性として描かれるようになった。

 
5善通寺2
善通寺東院の巨楠
江戸時代の善通寺は、丸亀藩の祈祷所でもありました。そのため正月などには藩主の武運長久や息災延命、領内の五穀豊穣の祈祷などを行なって、祈祷札を年頭の挨拶に届けていた記録が残っています。その中に雨乞祈願の記録があります。
 善通寺の「御城内伽藍雨請御記録」と記された箱の中には丸亀藩からの依頼を受けて善通寺の僧侶たちがが行った雨乞い祈祷の記録が、約80件ほあります。それによると正徳四年(1714)~元治元年(1864)の約150年に約40回の雨請祈祷が行われており、およそ4年に一度の頻度で雨乞が行われていたようです。

5善通寺
善通寺境内の善女龍王社
 雨乞を行なった場所は、善通寺境内の善女龍王社か丸亀城内の鎮守亀山社・天神宮のどちらかです。そこで行われていた祈祷とはどんなものだったのかについては、以前お話ししましたので簡単に「復習」しておきます。

5善女龍王4jpg
祈りを捧げるのは、善女龍王です。
善女龍王は清滝大権現のことで、もとはインドの沙渇羅竜王という竜神の娘で仏教の守護神として長安の青竜寺の守護神として祀られていたとされます。空海は唐から帰朝後に、この神を高尾の神護寺に勧請して真言密教の発展を祈願し、この神が海を渡って日本へ来ます。そこで青竜の二字に「さんずい」をつけて清滝としたといわれます。つまり善女龍王は空海によって「清滝さん」となり、雨乞いの神として信仰をお集めるようになっていきました。

⑤善女龍王5
神泉苑で請雨法
善女龍王は、どんな姿をしているのでしょうか?
 弘法大師が天長元年(八二四)に神泉苑で請雨法を行ったとき愛宕山山上に顕れた善女竜王の姿を弟子に写させたといわれています。その姿は、善女竜王像や善女龍王龍王社という形で高野山に残っています。
5善女竜王社への行き方
高野山の善女龍王社
そして、善通寺の東院境内には今も善女龍王を祀った祠が池の中にあります。ここで雨乞い祈祷が行われていました。

5善女龍王4j本山寺pg
本山寺の善女龍王像 
三豊の真言宗寺院でも善通寺に習って雨請祈祷が行われるようになったようで、本山寺(豊中町本山)にも善女龍王像が祀られています。安置されている鎮守堂の材の墨書には「天文二年」(1547)とありますから、戦国時代の16世紀中頃には行われていたことがうかがえます。
5善女龍王

 威徳院(高瀬町下勝間)や地蔵寺(高瀬町上勝間)には江戸時代の善女龍王の画幅や木像があります。ここから善女龍王への信仰が広く民衆に広がっていたことがうかがえます。
5善女龍王45jpg

 地蔵寺には、文化七年(1810)に財田郷上之村の善女龍王(澗道(たにみち)龍王)を勧請したことを記した「善女龍王勧請記」が伝わっているので、19世紀初頭には財田の澗道龍王の霊験が周辺地域にも知られていたことがわかります。
5善通寺22
綾子踊りの幟
今までのことをまとめて、その先の「仮説」まで記してみると次のようになります。
①空海によって善女龍王が将来され、清滝権現として雨乞祈祷信仰を集めるようになった。
②善通寺にも高野山を通じて招来し、丸亀藩の要請を受けて雨乞い祈祷が行われた。
③三豊地区の真言寺院でも善女龍王をまつる雨乞い祈祷が行われた
④祈祷で効果が無ければ、村挙げての「雨乞い踊り」も行われた
⑤讃岐の二宮である大水上神社では「エシマ踊り」が雨乞い踊りとして奉納された
⑥その流れを汲む風流踊りの一つが国無形文化財に指定されている綾子踊りである。

 今昔物語 弘法大師修請雨経法降雨語
  今は昔。天下は日照りが続き、すべての植物は枯れ尽きてしまいました。
天皇をはじめ、大臣から一般人民に至るまで皆が歎いていました。そのころ弘法大師という人がいました。
天皇は、弘法大師を召して言いました。
「如何にしたら、この旱魃かんばつを止め雨を降らせて、人々を救うことが出来ようか?」
大師は答えました。
「私の行法に雨を降らす法がございます。」
その言葉を聞いて、天皇は命じました。
「速やかにその法を行うべし。」
大師は、神泉苑で請雨経(しょううきょう)の法を行いました。
七日間、請雨経の法を行っていると、祈雨の壇の右上に五尺くらいの蛇が現れました。
見ると、その蛇は頭上に五寸くらいで金色の蛇を乗せています。
その蛇は、こちらへ近寄ってきて、池に入りました。
その場には、20人の伴僧が居並んでいましたが、
その光景が見えたのは4人の高僧だけでした。

1人の高僧が弘法大師に尋ねました。
「この蛇が現れたことは、何かの前兆なのですか?」
大師は答えました。
「これは天竺の阿耨達智池(あのくだつちいけ)に住む 善如竜王(ぜんにょりゅうおう)が、この神泉苑に通ってきて、請雨経の法の効果を示そうとなさっているのです。」
そうしているうちに、俄かに空は陰り、戌亥の方角(北西)より黒雲が出現し、雨が降ってきました。
その雨は、国じゅうに降り、旱魃は止まったのです。
これ以後、天下が旱魃の時には、弘法大師の流れを受け継ぐ者によって、
神泉苑で請雨経の法が行われるようになったのです。
請雨経の法が行われると、必ず雨が降りました。
このことは、今まで絶えず行われていると、語り伝えられているのです。

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どこかで聞いたことがあるような・・・。

そういえば・・・そうです。
善通寺の境内の中にありました。
上の写真が善通寺本堂の西側の池の中にある善女龍王社です。
善女龍王 雨乞祈祷」碑が建立されています。

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善通寺は真言のお寺として雨乞祈願の役割が与えられ、干ばつの時には雨乞祈祷が古くから行われてきました。その雨乞祈祷が行われていた舞台がここなのです。この龍王社は、金堂より北西側の方丈池の中に忘れ去られたかのようにポツンとあります。
 この祠については、真言宗の高僧浄厳が、善通寺誕生院主宥謙の招きで讃岐を訪れ際の様子が記された「浄厳大和尚行状記」に、次のように登場します。 
延宝六(1678)年3月26日 讃州多度郡善通寺誕生院主宥謙の請によって彼の地に赴き因果経を講じ、四月二十一日より法華経を講じ、九月九日に満講した。
その夏は炎旱が続き月を越えても雨が降らなかった。和尚は善女龍王を勧請し、菩提場荘厳陀羅尼を誦したもうこと一千遍、並びにこの陀羅尼を血書して龍王に法施されたところが、甘雨宵然と降り民庶は大いに悦んだ。今、金堂の傍の池中の小社は和尚の建立したもうたものである。
ここには、高野山の高僧が善通寺に逗留していた際に、干ばつに遭遇し「善女龍王」を新たに勧進し、雨乞の修法を行い見事に成就させこと、そして「金堂の傍らの小社」を浄厳が建立したことが記されたいます。それが善女龍王のようです。
この祠は一間社流見世棚造、本瓦葺、建築面積3.03㎡の小さな社です。
調査から貞享元年(1684)建立、文化5年(1808)再建、文久元年(1861)再建の3枚の棟札が出てきました。それぞれ龍王宮、龍王殿、龍王玉殿と記載された棟札で、最初の建立は、浄厳の雨乞祈祷の6年後のことになります。国家に公的に認められていた真言の雨乞祈祷法が善通寺にもたらされた時期が分かります。
ちなみに現在の建物は文久元年(1861)に再建されたもので、低い切石基壇上に土台が建っています。わずか一間の本殿と向拝が付いた一間社の平面形式です。見世棚造の向拝部には木造の階(きざはし)が設けられています。柱は角柱。善女神信仰の雨乞い祈願として興味ある建物です。
ここでどんな雨乞祈願が行われたのでしょうか。
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江戸時代の善通寺は、雨乞祈祷寺だった

善通寺には「御城内伽藍雨請御記録」と記された箱に納められる約八〇件の文書も残されています。そこには、丸亀藩からの要請を受けた善通寺の僧侶たちが丸亀城内亀山宮や善通寺境内善女龍王社で行った雨乞いの記録があります。
それによると正徳四年(1714)~元治元年(1864)にわたる約150年間に39回の雨請祈祷が行われています。およそ4年に一度は雨乞が行われていたことがわかります。それだけ日照りが丸亀平野を襲い、人々を苦しめていたのです。

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空海は、神泉苑で何に雨乞祈祷を行ったのか?

 神泉苑は、京都の二条城南側にあり、かつては二条から三条にまたがるほど広大で、美しい池庭をもつ禁苑でした。桓武天皇が行幸し、翌々年には雅宴を催して以来、天皇や朝廷貴族の宴遊の場になっていました。そして、いつの頃からかこの池にには龍が棲んでいるといわるようになります。
 龍はもともと中国で生まれた空想上の生物で神獣・霊獣の一種です。
中国では皇帝のシンボルでになり、道教の四方神である青龍にも変じました。そして、インドから伝わった八大龍王と習合します。インドの龍は水に棲み、春分に天に昇り秋分に水底に沈み、雨を司るとされました。そこで、雨を降らすためには龍の力を借りることが必要と考えられるようになります。
 さらに平安京を「風水」で観ると、この池は「龍口水」ともいわれ、「龍」が動いている時はそこでかならず水を飲む。水を飲む所がなくなれば「龍」は逃げてしまいます。神泉苑は「龍」を生かすための水飲み場だとされました。
 それを知っていて、空海は雨乞をここで行ったのでしょう。
それ以後、天下が旱魃の時には、弘法大師の流れを受け継ぐ者によって、神泉苑で請雨経の法が行われるようになります。つまり、真言宗による祈雨祈祷が成立し、それが国家規模で各地で展開されていったのです。そういう意味では、今昔物語のこの話は、真言宗の「雨乞祈祷争い勝利宣言」とも読めるのかもしれません。
そして、祈願対象として祀られるようになったのが善如竜王です。

香川県に残る善女龍王は

讃岐の他の寺院でも善如竜王が残る寺院があります
四国霊場本山寺(豊中町本山)は、本堂が国宝になっていますが鎮守堂には左の善女龍王像が安置されています。この堂は墨書銘「天文二年」(1547)が記されていますので、遅くとも16世紀中頃に雨乞祈祷が行われていたようです。
 ちなみに、龍を背負っていない、女性像でないので一見すると善如竜王には見えません。しかし、善女龍王は性別は不明なようです。この像は腰をひねり両袖をひるがえして飛雲上に乗る姿に動きが感じられます。龍に変わる飛雲が雨雲到来と降雨をもたらす象徴とされています。
 また、善女龍王の絵図は多いのですが彫像の作例は非常に珍しい存在で、真言密教関係の像で他に例のないものと評価されています。
像高47.5センチで、製作年代については南北朝時代とされています。

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また、本山寺と関係の深かった威徳院(高瀬町下勝間)や地蔵寺(高瀬町上勝間)にも江戸時代の善女龍王の画幅や木像が残り、雨乞祈祷が行われていたようです。これらにより善女龍王への信仰が民衆にも広く浸透していたことがうかがえます。

 さらに、地蔵寺には、文化七年(1810)に財田郷上之村の善女龍王(澗道(たにみち)龍王)を勧請したことを記した「善女龍王勧請記」が伝わっており、一九世紀初頭には財田の澗道龍王の霊験が周辺地域にも聞こえていたことがわかります。 
 このように空海により行われた雨乞祈祷は、その後は、国家による雨乞行事として、各地の真言寺院で行われて行き、その祈りの対象となった善女龍王は雨乞の神様として信仰を集めていったのです。
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