瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

カテゴリ:霊山・修験道・廻国行者・高野聖 > 高野聖

 京都大学蔵の来田文書(天文14年1545)には、丸亀平野の熊野行者の残した次のような「道者職売券」があります。

「右の①御道者、②代々知行候と雖も、急用有るに依りて米弐百石、③堺伊勢屋四郎衛門に永代替え渡し申す処、実正明白也」

意訳変換しておくと
「右の御道者(熊野行者)は、②代々にわたって以下の知行(かすみ)を所有してきたが、急用に物入りとなったので米二百石で、堺伊勢屋四郎衛門に永代に渡って売り渡すことになった。実正明白也」

①「右の御道者」とは、熊野三山に所属する山伏で熊野道者(行者)のことです。

熊野牛王(クマノゴオウ)とは? 意味や使い方 - コトバンク
熊野牛王(護王ごおう)
熊野道者は熊野信仰護符の熊野牛王(護王ごおう)を配って全国を廻国していました。熊野行者の行動範囲や信者組織は「なわばり化」して、財産となり売買の対象にもなっていたことは以前にお話ししました。それは「知行」とか「かすみ」と呼ばれるようになります。熊野行者たちも、時代が下ると熊野を離れ有力者を中心に元締めのような組織が形成されるようになります。この史料で登場するのが③「堺の伊勢屋四郎衛門」です。
この売買証文は②「代々知行候と雖も、急用有るに依りて米式百石」とあるので、自分の「かすみ」を「米2百石」で「永代替え渡し(売買)したことが分かります。
それでは、売り買いの対象となった「かすみ」はどこなのでしょうか?この文書のはじめに、次のような地名が出てきます。
一、岡田里一円
一、しもとい(?)の一円
一、吉野里一円から、 池の内(満濃池跡の村)
……大麻、中村、弘田、吉原、曼茶羅寺、三井之上、碑殿と続いて
一 山しなのしよう里(山階、庄)一円。 
一、見井(三井)の里一円。……此の外、里数の附け落ち候へども我等知行の分は永々御知行有るべく候」
出てくる「かすみ(なわばり」を示しておくと、
①鵜足郡の岡田(丸亀市綾歌町)
②那珂郡の吉野・池の内(まんのう町)
③多度郡の大麻、中村、弘田、吉原、曼茶羅寺(善通寺)
④三井の上、碑殿・山階、庄、三井一円(多度津町)
  残念ながら 「しもとい(?)」は私には分かりません。教えて頂けるとありがたいです。(コメント欄で、次のようにおしえていただきました。

しもとい ですが、鵜足郡土居村ではないでしょうか。市井では「しもどい」とも言われていたと西讃府志にあるそうです(コトバンク出展)

ここからは、阿野郡土居町→ 鵜足郡岡田 → まんのう→善通寺→多度津と、この熊野行者が丸亀平野一円の信者の家を一軒一軒門付けしていたことがうかがえます。ここで気になるのが、以前にお話しした牛頭権現のお札を配っていた滝宮牛頭天王(滝宮神社)へ念仏踊りを奉納していたエリア(坂本周辺・綾北條・綾南條・那珂郡七箇と重ならないことです。熊野行者と滝宮牛頭天王の社僧たちは、テリトリーを「棲み分け」ていたのかもしれません。

 このように遊行者は、熊野道者だけではありませんでした。
A 高野山の護摩の灰を持った高野聖(弥谷寺拠点)
B 念仏札を渡す時衆(宇多津の郷照寺拠点)
C 伊勢神官の御師
D 牛頭天王のお札を配る社僧(滝宮神社(滝宮の牛頭天王拠点)拠点
E 金昆羅道者  (近世以降の金毘羅大権現)
などへと、さまざまに姿を変えながら讃岐の里に現れます。
 振り返れば古代の仏教は、鎮護国家仏教で国家や貴族を対象としたもので、庶民は対象外でした。古代の国分寺や有力者の氏寺は、庶民の現世利益や祖先供養には見向きもしませんでした。官寺や大寺の手から見棄てられた庶民達に救いの手を差し伸べたのは、廻国の遊行者だったことは以前にお話ししました。つまり、中世の庶民は、廻国遊行者によって始めて仏教と出会ったことになります。

この証文が出された天文14年(1545)という時代は、戦国時代のまっただ中です。戦乱の中で熊野詣が困難になって、熊野行者達の経済基盤が崩されていたとされます。熊野行者の丸亀平野での活動が停滞していく中で、次なる遊行者が登場してきます。彼らの活動を、多度津で見ていくことにします。テキストは「多度津町史914P 村の寺」です。
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多度津葛原の浄蓮寺の由緒を、多度津町史は次のように記します。

葛原下所に一人の行者がどこからかやってきた。村外れの高園と言う少し高みに小さな家を建て、村の死人の世話をし墓守りをして、いつしか村人となった。鉢破れという地名はこれと関係があるかもしれない。その人は一代で終わった。人々はそのような者を待ち望むようになっていた。後、村の有力者の身寄りの者と称するものが、その家に寄食して、お念仏の教えを広め始めた。そしてみんなの合力を得て庵を建てた。それが葛原の浄蓮寺の起源で、その人は播州の赤松円心の子孫の田中可貞である。

ここからは次のようなことが分かります。
①行者が葛原下所に定着し、死人供養と墓守を行うようになった
②その後、有力者の家に寄宿した行人が念仏信仰を広めた
③村人が合力して建てた庵が浄蓮寺の起源である。
④葛原には念仏阿弥陀信仰の信者がいたこと。これが賀茂神社の念仏踊りにつながること。
  お墓のお堂や社に住み着き、南無阿弥陀仏をとなえ死者供養を行ったのは、諸国を廻る聖達であったようです。これが、庶民が聖を受けいれていく糸口にもなります。そのような聖たちが拠点としたのが道隆寺・弥谷寺や宇多津の郷照寺でした。ここからは、念仏聖たちの痕跡がいろいろな形で見えてきます。多度津の聖達の拠点であった道隆寺を見ておきます。 
多度津 堀江 明治22年
堀江周辺 明治22年

道隆寺のあった堀江の中世の地形復元を見ておきましょう。
「讃陽綱目」は、次のように記します。

地蔵鼻堀江村浜にあり。ここ山もなく岳もなく只平砂磯なるに海中に出張る事夥し。東は乃生(のお)岬、西は箱の岬を見通す。弘法大師作地蔵尊を安置す。芳々以って名高しと。されば砂磯の突出甚だ長かりしならんも自然の風波に浚はれて遂に其の跡を失ふに至り、地蔵尊は避して八幡神社境内南東隅にあり。牡蝋殻(かきがら)地蔵尊として現存し参詣者多し。

意訳変換しておくと
地蔵鼻の堀江村に浜がある。ここには山もなく岳もなく、砂浜が平磯となって海に突きだしている。ここからは、東の乃生(のお)岬、西の箱の岬(庄内半島)が見通せる。そして、弘法大師自作の地蔵尊が安置されていて、信仰を集めている。しかし、風波に洗われて、地蔵尊が埋まってしまうこともあった。そこで、地蔵尊を近くの(弘浜)八幡神社境内の南東隅に移した。これは、牡蝋殻(かきがら)地蔵尊として現在でも参詣者が多い。。

堀江港復元図2
          道隆寺と堀江湊の中世復元図
ここからは次のようなことが分かります。
①堀江は海に突き出した浜(砂州)の上にあった。
②砂州の戦端に、弘法大師自作の地蔵尊が立っていた
③近くには弘浜八幡神社があった。

①の砂洲は桜川河口から東に伸びていたもので、川を流れてきた土砂が、潮流の関係で堆積してできたものと研究者は考えています。どちらにしても地形復元すると、道隆寺のすぐ北側までは海が入り込んできていたことが分かります。ここでは古代の堀江の海岸は、桜川河口から東に伸びる砂丘のような岬と、そこから一文字堤防のように東に伸びる砂州の間に、切れ目があり、背後に潟湖をあったようです。
また、高野山の高僧が讃岐流刑中に著した「南海流浪記」宝治2年(1248)の記に、善通寺の「瞬目大師御影」の模写のために京都から派遣された仏師の到着を次のように記します。

「仏師四月五日出京、九日堀江津に下着す」

仏師は4月5日に京都を出発して、海路で讃岐に向かい9日に、堀江港に到着しています。ここから13世紀半ばの多度郡の港は、堀江だったことがうかがえます。古代の多度郡の湊は、弘田川河口の白方湾でした。それが堆積作用で使用できなくなった中世になると多度郡の湊として機能するようになるのが堀江です。その堀江湊の管理センターが道隆寺です。
以前に中世の道隆寺について次のようにお話ししました。
①中世の堀江湊は、地頭の堀江氏(本西氏)が管理していた。
②13世紀末に衰退していた道隆寺の院主に紀州根来寺からやってきた円信が就任した
③円信は堀江氏を帰依させ、道隆寺復興計画を進めた
④新しい道隆寺は、入江奥の堀江氏の居館のそばに整備された。
⑤居館と伽藍が並び立つようなレイアウトで、堀江氏の氏寺としての性格をよく示したいた。
⑥道隆寺は、根来寺の「瀬戸内海 + 東シナ海」の交易ネットワークの一拠点として繁栄した。
⑦道隆寺は、経典類も数多く集められ、学問所として認められ、多くの学僧が訪れるようになり、地域の有力寺院に成長していく。
⑧西讃岐守護代香川氏も菩提寺に準じる待遇を与えた。
⑨道隆寺には、廻国行者や聖達がの拠点として、塩飽から庄内半島にかけての寺社を末寺化した。
こうして道隆寺を拠点とする高野山の念仏聖達は周辺の村々への「布教活動」を行うようになります。
 堀江の墓地について、多度津町史は次のように記します。

堀江と観音院
堀江の弘浜八幡宮と観音院の間にある墓地(観音堂)
堀江集落の中央に観音堂があり、えんま像が祀られてる。(中略)
在郷風土記 多度津
堀江の観音堂
堀江の古くからの家は、観音堂に祖先の古い墓を持っている。墓地の裏は(かつては)すぐ海である。表側では少し離れて西に弘浜八幡宮があるが、海側から見るとすぐ近くである。墓地に観音さんを祭って堂を建て、それが寺になったのが観音院で、今は少し離れて東に大きな寺となっている。観音院の本尊は観音の本仏である阿弥陀仏である。寺号の伊福寺のイフクという言葉も、土地から霊魂が出入りするという信仰に基づくものと思われる。(弘浜八幡)宮と墓と寺(観音院)と一直線に結んで町通(まつとう)筋という、広い道があり、堀江集落の中心をなしている。両墓制から生まれた寺は心のよりどころとして、仏を祀るところともなる。この種の寺は民衆の寺である。 
ここからは次のようなことが分かります。
①堀江集落の墓地が海際の砂州に作られ、そこに観音堂が建てられたこと
②それが後には、現在の観音院に発展していったこと
③神仏混淆時代には、神社も鎮霊施設として墓地周辺にあったこと
ここでは先祖供養の墓地に、観音堂が建てられ、それがお寺に成長していくプロセスを押さえておきます。

堀江の墓域と観音院の関係と同じような形が見えるのが、多度津の摩尼院や多聞院です。多度津町史は次のように指摘します(要約)。
①桜川の川口近くの両側は須賀(洲家)という昔の洲で、中世の死体の捨て場であった。
②念仏信仰の普及と共に、そこが「埋め墓」や「拝み墓」が続くエリアになった。
③桜川の北側(現JR多度津工場)あたりにには、光巌寺という小庵があり、そこへの参り道に架かるのが「極楽橋」。
④極楽橋の南の袂に観音堂、その観音堂から発展したのが摩尼院や多門院。
明治の多度津地図
多度津陣屋は、墓地の上に築かれた
 ちなみに摩尼院の本尊は、地蔵の石仏のようです。石仏が本尊と云うこと自体が、先祖供養の民間信仰から生まれた「庶民の寺」から発展したお寺だと多度津町史は指摘します。
  ここでは、桜川河口の砂州上に広がる両墓制の墓の鎮魂寺として生まれ、発展してきたのが摩尼院や多門院であることを押さえておきます。
摩尼院
摩尼院(多度津)
 最後に、道隆寺を拠点とした念仏聖達の活動をまとめておきます。
⑩高野山系の念仏聖達は、道隆寺を拠点に周辺の村々に阿弥陀信仰を拡げ信者を獲得するようになった。
⑪念仏聖の中には、村々の埋葬や祖先供養を行いながら庵を開き定着するものも表れた。
⑫その活動拠点が、多度津の観音院・摩尼院・多門院、そして葛原の浄蓮寺である。
⑬念仏聖は、高野山では時宗化しており、讃岐でも踊り念仏を通じて阿弥陀信仰を拡げるという手法を用いた。
⑭そのため多度津周辺では、踊り念仏が盆踊りなどで踊られるようになった。
⑮それが伝わっているのが賀茂神社の念仏踊りである。

多度津で南鴨念仏踊り/子どもたちが恵みの雨祈る | BUSINESS LIVE
加茂念仏踊り

高野聖は宗教者としてだけでなく、芸能プロデュースや説話運搬者
  の役割を果たしていたと、五来重氏は次のように指摘します。

(高野聖は)門付の願人となったばかりでなく、村々の踊念仏の世話役や教師となって、踊念仏を伝播したのである。これが太鼓踊や花笠踊、あるいは棒振踊などの風流踊念仏のコンダクターで道化役をする新発意(しんほち)、なまってシンボウになる。これが道心坊とも道念坊ともよばれたのは、高野聖が高野道心とよばれたこととも一致する。

地域に定着した高野聖は、村祭りのプロデュースやコーデイネイター役を果たしていたというのです。風流系念仏踊りは、高野聖たちの手によって各地に根付いていったと研究者は考えています。

以上、最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「多度津町史914P 村の寺」
関連記事

  今は四国霊場の本堂に落書をすれば犯罪です。しかし、戦国時代に退転していた霊場札所の中には、住職もおらず本堂に四国辺路者が上がり込んで一夜を過ごしていたこともあったようです。そして、彼らは納経札を納めるのと同じ感覚で、本堂や厨子に「落書き」を書き付けています。今回は500年前の四国辺路者が残した落書きを見ていくことにします。
テキストは    「武田和昭  辺路者の落書き   四国へんろの歴史59P」

浄土寺
浄土寺
伊予の49番浄土寺の現在の本堂を建立したのは、伊予の河野氏です。
河野通信が源義経の召しに応じて壇ノ浦の合戦に軍船を出して、熊野水軍とともに源氏を勝利に導きました。この時に熊野水軍が500隻ぐらいの船を出しだのに対して、河野水軍はその半分の250隻ほど出したといわれています。その後、河野氏は伊予の北半分の守護になりました。その保護を受けて再興されたようです。

空也上人像と不動明王像の説明板 - 松山市、浄土寺の写真 - トリップアドバイザー

この寺の本尊の釈迦如来はですが秘仏で、本堂の厨子の中に入っています。
浄土寺厨子
浄土寺の厨子

その厨子には、室町時代の辺路者の次のような落書が残されています。
A 1525年(大水5年)「四国中辺路」「遍路」「越前の国一乗の住人ひさの小四郎」
B 1527年(大水7年)「四国中辺路同行五人・南無大師遍照金剛守護・阿州(阿波)名東住人」
C 1531年(享禄4年)「七月二十三日、筆覚円、連蔵、空重、泉重、覚円」
ここからは次のようなことが分かります。
①16世紀前半に、阿波や越前の「辺路同行五人」が「四国辺路」を行っていたこと
②「南無大師遍照金剛(空海のこと)」とあるので、弘法大師信仰をもつ人達であったこと。
以上から16世紀前半には、四国辺路を、弘法大師信仰をもつ宗教者が「辺路」していることを押さえておきます。

浄土寺厨子落書き
浄土寺の落書き(赤外線照射版)
本尊厨子には、この他にも次の落書があります。
D 金剛峯寺(高野山)谷上惣職善空 大永八年五月四国
E 金剛□□満□□□□□□同行六人 大永八年二月九日
F 左恵 同行二人 大永八(1528)年八月
ここからは次のようなことが分かります。
④翌年2月には、金剛峯寺(高野山)山谷上の善空という僧が6人で四国辺路を行っていたこと
⑥同年8月にも左恵が同行二人で四国辺路をしていること。
「本尊厨子に、書写山や高野山からやって来た宗教者が落書きをするとは、なんぞや」と、いうのが現在の私たちの第1印象かも知れません。まあ倫理観は、少し横に置いておいて次を見ていきます。

土佐神社】アクセス・営業時間・料金情報 - じゃらんnet
土佐神社(神仏分離前は札所だった)

30番土佐一宮拝殿には、次のような落書きが残されています。
四国辺路の身共只一人、城州之住人藤原富光是也、元亀二年(1571)弐月計七日書也
あらあら御はりやなふなふ何共やどなく、此宮にとまり申候、か(書)きを(置)くもかたみ(形見)となれや筆の跡、我はいづく(何処)の土となるとも、
ここからは次のようなことが分かります。
①単身で四国遍路中だった城州(京都南部)の住人が、宿もなく一宮の拝殿に入り込み一夜を過ごした。
②その時に遺言のつもりで次の歌を書き残した。
この拝殿の壁に書き残した筆の跡が形見になるかもしれない。私は、どこの土となって眠るのか。

同じ年の6月には、次のような落書きが書かれています。
元亀二(1571)年六月五日 全松
高連法師(中略) 六郎兵衛 四郎二郎 忠四郎 藤次郎 四郎二郎 妙才 妙勝 泰法法師  為六親眷属也。 南無阿弥陀仏
 元亀2年(1571)には高連法師と泰法法師とともに先達となって六親眷属の俗人を四国辺路に連れてきています。法師というのは修験者のことなので、彼らが四国辺路の先達役を務めていたことがうかがえます。時は、長宗我部元親が四国制圧に乗り出す少し前の戦国時代です。最後に「南無阿弥陀仏」とあるので、念仏阿弥陀信仰をもつ念仏聖だったことがうかがえます。そうだとすれば、先達の高連法師は、高野の念仏聖かも知れません。

国分寺の千手観音
千手観音立像(国分寺) 
80番讃岐国分寺(高松市)の本尊千手観音のお腹や腰のあたりにも、次のような落書きがあるようです。
同行五人 大永八(1528)年五月廿日
①□□谷上院穏□

同行五人 大永八年五月廿日
四州中辺路同行三人
六月廿□日 三位慶□

①の「□□谷上院穏□」は消えかけています。しかし、これは先ほど見た伊予の浄土寺「金剛峯寺谷上惣職善空大永八年五月四国」と同一人物で、金剛峯寺惣職善空のことのようです。どこにでも落書きして、こまった高野山の坊主やと思っていると、善空は辺路したすべての霊場に落書をのこした可能性があると研究者は指摘します。こうなると落書きと云うよりも、納札の意味をもっていた可能性もあると研究者は考えています。
ちなみに伊予浄土寺の落書きが5月4日の日付で、讃岐国分寺が5月20日の日付です。ここからは松山から高松まで16日で辺路していることになります。今とあまり変わらないペースだったことになります。ということは、善空は各札書の奥の院などには足を運んでいないし、行も行っていないことがうかがえます。プロの修験者でない節もあります。 
 讃岐番国分寺には、本尊以外にも落書があります。
落書された本堂の板壁が、後世に屋根の野地板に転用されて残っていました。
①当国井之原庄天福寺客僧教□良識
②四国中辺路同行二人 ③納申候□□らん
④永正十年七月十四日
ここからは次のようなことが分かります。
①からは「当国(讃岐)井之原庄天福寺・客僧教□良識が中辺路の途中で書いたこと。
②良識が四国中辺路を行っていたこと
③「納申候□□らん」からは、板壁などに墨書することで札納めと考えていた節があること
④永正十年(1513)は、札所に残された落書の中では一番古く、これを書いたのが良識であること。

①の「当国井之原庄天福寺客僧良識」についてもう少し詳しく見ていくことにします。
「当国井之原庄」とは讃岐国井原庄(いのはらのしょう)で、高松市香南町・香川町から塩江町一帯のことです。その庄域については、冠尾八幡宮(現冠櫻神社)由緒には、川東・岡・由佐・横井・吉光・池内・西庄からなる由佐郷と、川内原・東谷・西谷からなる安原三カ山を含むとあります。
岡舘跡・由佐城
天福寺は中世の岡舘近くにあった
「天福寺」は、高松市香南町岡の美応山宝勝院天福寺と研究者は考えています。この寺は、神仏分離以前には由佐の冠櫻神社の別当寺でした。

天福寺
天福寺

天福寺由来記には、次のような事が記されています。
①創建時は清性寺といい、行基が草堂を構え、自分で彫った薬師像を祀ったことに始まること、
②のち弘法大師が仏塔・僧房を整えて真言密教の精舎としたこと、
③円珍がさらに止観道場を建てて真言・天台両密教の兼学としたこと
ここでも真言・天台のふたつの流れを含み込む密教教学の場であると同時に、修験者たちの寺であったことがうかがえます。それを裏付けるように、天福寺の境内には、享保8年(1723)と明和7年(1770)の六十六部の廻国供養塔があります。ここからは江戸時代になっても、この寺は廻国行者との関係があったことが分かります。

 次に「天福寺客僧教□良識」の「客僧」とは、どんな存在なのでしょうか。
修行や勧進のため旅をしている僧、あるいは他寺や在俗の家に客として滞在している僧のことのようです。ここからは、31歳の「良識」は修行のための四国中辺路中で、天福寺に客僧として滞在していたと推察できます。
 以前にお話ししましたが、良識はもうひとつ痕跡を讃岐に残しています。
白峰寺の経筒に「四国讃岐住侶良識」とあり、晩年の良識が有力者に依頼され代参六十六部として法華経を納経したことが刻まれています。
経筒 白峰寺 (1)
良識が白峰寺(西院)に奉納した経筒

 中央には、上位に「釈迦如来」を示す種字「バク」、
続けて「奉納一乗真文六十六施内一部」
右側に「十羅刹女 四国讃岐住侶良識
左側に「三十番神」 「檀那下野国 道清」
更に右側外側に「享禄五季」、
更に左側外側に「今月今日」
経筒には「享禄五季」「今月今日」と紀年銘があるので、享禄5年(1532)年に奉納されたことが分かります。ここからは、1513年に四国中辺路を行っていた良識は、その20年後には、代参六十六部として白峰寺に経筒を奉納していたことになります。
 さらに、良識はただの高野聖ではなかったようです。
「高野山文書第五巻金剛三昧院文書」には、「良識」のことが次のように記されています。
高野山金剛三味院の住持で、讃岐国に生まれ、弘治2年(1556)に74歳で没した人物。

金剛三昧院は、尼将軍北条政子が、夫・源頼朝と息子・実朝の菩提を弔うために建立した将軍家の菩提寺のひとつです。そのため政子によって大日堂・観音堂・東西二基の多宝塔・護摩堂二宇・経蔵・僧堂などの堂宇が整備されていきます。建立経緯から鎌倉幕府と高野山を結ぶ寺院として機能し、高野山の中心的寺院の役割を担ったお寺です。空海の縁から讃岐出身の僧侶をトップに迎ることが多かったようで、良識の前後の住持も、次のように讃岐出身者で占められています。
第30長老 良恩(讃州中(那珂)郡垂水郷所生 現丸亀市垂水)
第31長老 良識(讃州之人)
第32長老 良昌(讃州財田所生 現三豊市財田町)
良識は良恩と同じように、讃岐の長命寺・金蔵(倉)寺を兼帯し、天文14年(1545)に権大僧都になっています。「良識」が、金剛三味院文書と同一人物だとすれば、次のような経歴が浮かんできます。
永正10年(1513)31歳で四国辺路を行い、国分寺で落書き
享禄 3年(1530)に、良恩を継いで、金剛三味院第31世長老となり
享禄 5年(1532)50歳で六十六部聖として白峯寺に経筒を奉納し
弘治 2年(1556)74歳で没した
享禄3年(1530)に没した良恩の死後に直ちに長老となったのであれば、長老となった2年後の享禄5年(1532)に日本国内の六十六部に奉納経するために廻国に出たことになります。しかし、金剛三味院の50歳の長老が全国廻国に出るのでしょうか、また「四国讃岐住侶良識」と名乗っていることも違和感があります。どうして「金剛三味院第31世長老」と名乗らないのでしょうか。これらの疑問点については、今後の検討課題のようです。

以上から、良識は若いときに、四国辺路を行って讃岐国分寺に落書きを残し、高野山の長老就任後には、六十六部として白峰寺に経筒を奉納したことを押さえておきます。有力者からの代参を頼まれての四国辺路や六十六部だったのかもしれませんが、彼の中では、「四国辺路・六十六部・高野聖」という活動は、矛盾しない行為であったようです。

以上、戦国時代の四国辺路に残された落書きを見てきました。
ここからは次のようなことがうかがえます。
①16世紀は本尊や厨子などに、落書きが書けるような甘い管理状態下にあったこと。それほど札所が退転していたこと。
②高野山や書写山などに拠点を置く聖や修験者が四国辺路を行っていたこと。
③その中には、先達として俗人を誘引し、集団で四国辺路を行っているものもいたこと。
④辺路者の中には、納札替わりに落書きを残したと考えられる節もあること。
⑤国分寺に落書きを残した天福寺(高松市香南町)客僧の良識は、高野聖として四国辺路を行い、後には六十六部として、白峰寺に経筒を奉納している。高野聖にとって、六十六部と四国辺路の垣根は低かったことがうかがえる。
 
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
             「武田和昭  辺路者の落書き   四国へんろの歴史59P」

  戦国時代において真宗興正派が讃岐で急速に教線を拡大したことを見てきました。その背景として、阿波三好氏の保護・支援を安楽寺(美馬市郡里)や常光寺(三木町)が受けたからだということを仮説として述べてきました。今回は、室町・戦国期の禅宗寺院が地方展開の際に、どのような教宣活動を行っていたのかを見ていくことにします。テキストは  「 戦国期の日本仏教 躍動する中世仏教310P」です。
戦国期の仏教について、戦後の研究で定説化されているのは次の三点です。
①法然、栄西、親鸞、道元、日蓮、 一遍などを開祖とする「鎌倉新仏教」の教団は戦国期に全国的な展開を遂げ、「鎌倉新仏教」の「旧仏教」に対する優位が築かれたこと。
②戦国大名の登場により寺院・僧侶らの行動が大きな統制と組織的支配をうけるようになったこと
③「鎌倉新仏教」の中には、宗教王国の樹立を指向する一向一揆、法華一揆などが現れたが、織田信長・豊臣秀吉の統一政権樹立により圧伏されたこと
②については、近世仏教が内面の信仰よりも外面を重視するものへと「形式化」したという指摘もあります。これが近世仏教「堕落」論へとつながります。この立場は、一向一揆や日蓮宗が織田信長に屈したということを受けて、仏教界が統一政権へ全面的に従属するに至ったという通説の裏付けともなってきました。江戸時代の檀家制度がキリンタン信仰の取り締りという面から始まり、幕府の信仰統制策へ寺院・僧侶が荷担していくという、近世仏教「堕落」論に有力な根拠を与えています。ここでは、現在の通説が「戦国仏教の終局は、統一政権への従属・形骸化」だったとされていることを押さえておきます。

それでは禅宗は、全国展開をどのように進めたのでしょうか?               その際に最初に押さえておきたいのは、鎌倉新仏教が全国展開を行うのは、鎌倉時代ではなく室町時代中葉から近世初期にかけてのことだという点です。鎌倉時代は、新仏教は生まれたばかりの「異端」で、局地的に信徒をもつだけの存在に過ぎません。全国的な広がりを見せるようになるのは、室町時代になってからです。浄土真宗の場合は、16世紀の戦国時代になってからだと云うことを最初に押さえておきます。
南北朝以後に発展した禅宗としては、次の2つが有名です。
①栄西(1141~1215)がもたらした臨済宗
②道元(1200~1253)がもたらした曹洞宗
臨済宗は鎌倉や京都で幕府と結びついて五山・十刹(じゅせつ)制度のもとに発展します。曹洞宗は道元の開いた永平寺を基点とし、榮山紹瑾(1268~1325)やその弟子たちの手で北陸、関東、東海をはじめ、全国に展開します。しかし、臨済宗や曹洞宗は、一局集中型でなく多元的で、臨済宗にも早くから地方に展開していった流派もありました。曹洞宗にも宏智派のように五山の一翼となる流派もありました。むしろ五山・十刹の制度によって展開する「叢林」と、地方展開を遂げる「林下」との2つのベクトルがあったと研究者は考えています。
室町期以降の禅宗の地方展開を、要約すると次のようになります。
①戦国大名や国人領主らも武士階層による帰依・保護が大きな力となっていること
②地域に根ざした神祗信仰、密教的要素の色濃い信仰や、現世利益希求を包み込んで受容されたこと、
③授戒会・血脈の授与などを通じて師檀関係や、葬祭へ積極的な地方の禅寺形成の核になっていること
これらの三要素が地方に禅寺が建立される際のエネルギーになったと研究者は考えています。それでは、この3つの要因を具体的に見ていくことにします。

 大名や国人らが禅僧に帰依した事例は数多くあります。
禅僧自身が武士層出身者であり、大名や国人の家中のブレーンとして活動していた例もあります。ここからは、大名や国人らが帰依して、その家族・家中の武士やその家族、次に領内の住民たちが帰依するという連鎖反応があったことがうかがえます。

第1515回 長年寺(ちょうねんじ)曹洞宗/ 群馬県高崎市下室田町 | お宮、お寺を散歩しよう
上野国室田長年寺(群馬県高崎市)
上野国室田長年寺(群馬県高崎市)の場合を見ておきましょう。
ここでは領主長野業尚(のりひさ)が曇英慧応(えおう:1424~1504)に帰依し、禅宗寺院の長年寺を建立します。文亀元(1501)年の長年寺開堂の仏事の際に、曇英慧応の記した香語「春日山林泉開山曇英禅師語録」が残されています。そこには、長野業尚を筆頭に、嫡子憲業(のりなり)や庶子の金刺明尚、母松畝止貞、家臣下田家吉とその一門や親族、さらには隣人たちの名前が記されています。長年寺の建立に一族が尽力していたことが分かります。

また、禅僧たちは、檀越・保護者となった武士層と日常的な交流をもっていました。
 遠江国佐野郡(静岡県掛川市)で活動した禅僧・松堂高盛(こうせい:1431~1505)を見ておきましょう。彼は、原田荘寺田郷の「藤原氏」の出身と自ら記しています。掛川市寺島に円通院(廃寺)を開いて、この地方への曹洞禅の教線拡大を計ります。
 松堂高盛は、飯田荘戸和田郷の藤原通信(みちのぶ)・通種(みちたね)兄弟の母の十三回忌法要を依頼されています。また通種とは、和歌を通じての交流もあったようです。同じ「藤原氏」という同族関係(擬制的同族関係?)が、松堂の禅僧としての活動を支えていたことがうかがえます。
 拠点とする円通院が兵火に焼失し際には、浜名郡可美村増楽(ぞうら)の増楽寺住持が、松堂を見舞っています。松堂は縁をもとめて河勾荘の東漸寺(当市成子町)に避難しています。翌年の正月に円通院に帰山する際には、七言、五十句の長詩をつくり、諸檀那へ感謝しています。松堂は宿泊した性禅寺をはじめ聖寿寺・増楽寺・大洞院に謝意を表しています。(『円通松堂禅師語録』三)

  また禅僧は地域のいろいろな宗教活動にも関わっています。
松堂高盛は、遠江国山名郡油山(ゆさん)寺(静岡県袋井市)の薬師如来に祈って、自分の病の治癒を祈願しています。そのために法華経一千券の読誦を誓った「性音」という僧侶が行った法会に参加し、「看読法華経一千部窯都婆」を建立しています。ここからは、彼が約信仰や法華信仰の持ち主であったことがうかがえます。

一族や家臣らの帰依は、大名や国人領主家中の結束を強める効果をもたらします。
例えば下総国結城氏の制定した『結城氏法度:九四条』は、結城政朝(まさとも)の忌日に家中で寄合や宴会を行うことを禁止した条項です。この条項では、家中による忌日の精進が、政朝の堕地獄や成仏に関わるから禁止するのではなく、結城家中が亡き主君の忌日にも無関心なほど不統一だと思われてはならからだ、これを定めた理由が説明されています。先祖供養よりも、家臣や領内民心の統一のために先代結城政朝の忌日を設けているのです。
  ここで思い出すのが以前にお話した日蓮宗本門寺(三豊市三野町)に残る秋山氏の置文です。そこには次のような指示がありました。
①子孫代々、本門寺への信仰心を失わないこと。別流派の寺院建立は厳禁
②一族同士の恨み言や対立があっても、10月13日には恩讐を越えて寄り合い供養せよ
③13日の祭事には、白拍子・猿楽・殿原などの芸能集団を招き、役割を決めて懇ろにもてなせ。
④一族間に不和・不信感があっても、祭事中はそれを表に出すことなく一心に働け。
 10月13日は日蓮上人の命日法要です。②では、この日には何があっても一族挙げて祭事に取り組めと命じています。この行事を通じて秋山一族と領民の団結を図ろうとしていたことがうかがえます。③では地方を巡回している白拍子・猿楽・殿原などの芸能集団を招いて、いろいろな演芸イヴェントを催せと指示しています。祭事における芸能の必要性や重要性を認識していたことが分かります。

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16世紀に日本で宣教活動を行っていたイエズス会宣教師の一人フランシスコ・カブラルは、ローマ教国宛ての報告書翰で次のように述べています。(
1571年9月5日付書簡)

「今ある最良の布教者は領主や『殿』たちである。……彼らがある教えを奉じるよう彼ら(領民)にいえば、それに簡単に従い、それまで信奉していた教えを、通常は捨ててしまう。一方彼らが他の教えに帰依するための許可を与えないときには、彼ら(領民)は如何に望んでいてもそれに帰依することはしない」

ここからは領主の信仰自体が、戦国期には家中や領民に大きな影響力をもっていたことが分かります。このような認識があったからこそイエズス会は、トップダウン方式の「上から(支配者へ)の布教活動」を最優先させ、高山右近や小西行長などの大名改宗にとりくんだのでしょう。
新仏教の側も大名や国人領主などに完全に従属し、領主支配に協力するだけの存在ではなかったようです。

先ほど見た上野国室田長年寺は、パトロンの長野憲業から、たとえ重罪の者であろうと門中に入った者には成敗を加えないという不入の制札(境内の安全を保障する掟)を得ています。こうした、アジール(駆け込み寺)としての治外法権を保障された制札は、禅宗寺院には珍しくないようです。
 また多賀谷氏が開基した常陸国下妻(茨城県下妻市)多宝院住持の独峰存雄(どくほうそんゆう)については、次のような史料が残されています。
パトロンの多賀谷重経(しげつね)が斬刑にしようとした罪人の助命を請願して許されなかったた。そのため独峰存雄は、この罪人を得度させて共に出奔した。これに対して重経は、再三の帰還要請を行っていますが、なかなか応じなかった。

こうした僧侶の領主に対する抵抗は、他にも事例があります。中世寺院の「駆け込み寺(アジール)」としての側面で、住持は世俗の権力者に対してある程度の自立性を持っていたと研究者は考えています。
 
禅僧たちの伝道・教化が、どのようにして行われていたのかを見ていくことにします。
禅僧立ちも、神仏習合を説き、土着の信仰を受けいれつつ教線を拡大していたようです。臨済宗でも、曹洞宗宗でも祈祷・回向(えこう)の際には、天部をはじめとして日本国内の各地で信仰される神祗が勧請されています。これは神仏習合の思潮に合わせた動きです。

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榮山和尚清規

 鎌倉末期に作成された「榮山和尚清規」巻之下、「年中行事第三」には、次のような神々が招聘・登場しています。
①正月元日の法事は、梵天・帝釈・四大天王はじめ「日本国中大小神祗」や土地神など
②起請文(神仏への誓約書)を記す際に誓約の対象とされていた神々
③天照大神
④「七曜九曜二十八宿」など陰陽道の神格
⑤「王城鎮守諸大明神」
⑥白山権現
これらの神への祈りが、禅宗寺院でも行われていたのです。神仏習合や、密教的観念が禅宗の中でも取り入れられていたことが分かります。地方への展開の際には、霊山信仰や、現地の有力神祗信仰を取り込んでいたことを押さえておきます。
 こうした禅僧の活動は、榮山紹瑾下の蛾山詔碩の弟子たち、五哲ないし二十五哲と呼ばれる僧侶たちにみられるようです。

示現寺(喜多方市)
示現寺
その中の源翁心昭(げんのうしんしょう:1329~1400)の示現寺の開山活動を見ておきましょう。

白衣の老翁の夢告により霊山に登ったところ、山の神と名乗る夢中で見た白衣の老翁に会い、麓の空海開創と称する「古寺」に人院した。

これを整理要約すると
①夢のお告げに従って霊山に登った → 源翁心昭が山林修行者で廻国修験者あったこと
②「山の神=地主神」から霊山管理権を譲り受け
③空海開創の「古寺」に入った → 弘法大師信仰の持主であったこと
 この陸奥国示現寺(じげんじ:福島県喜多方市)開創の伝承は、地域の信仰との関わりをよく伝えています。源翁の関わった寺院は、例外なく霊山信仰が伝わっています。昔から修験者たちの拠点としての歴史のある寺院です。例えば、
鳥取県の退休寺は伯者大山の大川信仰との
福島県慶徳寺や示現寺は飯豊山信仰との
山形県鶴岡正法寺は羽黒修験との
 こうした地域の霊山信仰に参画できたのは、初期の禅僧たちが厳しい入峰修行などを経て身につけ、修験能力があったからです。ここからは中世末から近世にかけて隆盛を迎える修験と、禅宗との密接な関わりがうかがえます。
越前龍澤寺
如仲天
東海地方の曹洞宗教線拡大に大きな役割を果たした如仲天(じょうちゅうてんぎん:1365~1437)です。
 彼は、信濃国(長野県)上田の海野氏の出身です。9歳で仏門に入り、越前龍澤寺の梅山聞本の許で修行後に、遠江国で、崇信寺、大洞院、可睡斎、近江に洞寿院などを開創します。数多くの弟子を輩出し、騒動宗教線拡大に多くの業績を残しています
 彼も隠棲の場所を探して山野を放浪する廻国修験者でもあったようです。不思議な老人の導きと夢告とにより至った場所に大洞院(静岡県周智郡)を開いたという逸話があります。また大洞院にいた時代、夜更けに「神人」の姿でやってきた竜が受戒を受け、解脱の叶った礼に「峨泉」を施したため、皆が用いる塩水の温泉が湧き出したも伝えられます。ここにも霊山信仰や井戸伝説が語られています。これらの伝承は、禅僧たちが地域の庶民信仰や霊山信仰と関わりながら廻国修験者として教線を拡大していったことを伝えています。
先ほど触れた松堂高盛の場合にも、遠江国原田荘本郷の長福寺(静岡県掛川市)は、パトロンである原頼景らの尽力により再興されました。大日如来の開眼法要に「長福寺大目安座点眼」と題する法語が残っています。そこには「日本大小神祗」、八幡大菩薩、白山権現、遠江国一官の祭神や土地の神などが登場してきます。ここにも、禅僧の色濃い神仏習合や山林修験者の信仰がうかがえます。
 禅宗の神仏習合の思潮は、禅僧たちが残した切紙からも分かるようです。
切紙とは、教義の伝授などで用いられるもので、師匠から弟子に秘密異に伝授するために一枚の小紙片に、伝授する旨を記し、弟子に与えるものです。石川県永光寺(ようこうじ)所蔵の「罰書亀鑑(ばっしょきかん)」には仏教の戒律の一つ、「妄語」戒を守る際の誓約の対象に、仏祖とともに「日本国大小神祗」や白山権現などの諸神祗があげられています。他にも「住吉五箇条切紙」「白山妙理切紙」などがあります。
葬儀・葬式シリーズ 【5】 授戒会 - 新米和尚の仏教とお寺紹介

 禅宗の教線拡大の力となったものの一つに、葬祭活動や、信徒とのの結縁を行う授戒会(じゅかいえ)があります。

最初に見た松堂高盛は、信徒の葬儀法要に際して下矩法語を作成しています。その中にはパトロンである国人領主原氏に対するものがあります。それだけでなく農民層に対するものも含まれています。例えば「道円禅門」のように「農夫」としての56年の生涯が記されているものや、「祐慶禅尼」のように村人としての52年間の人生が記されていて、「農務」に従事していた人達が登場します。
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乾坤院
 愛知県乾坤院(けんこんいん)の「血詠衆」と題する帳簿や「小師帳」は、15世紀後期の授戒会の実情が記されています。その中の受戒者は水野氏のような武士層の一族からその従者、農民、酒屋・紺屋・大工などの商人、職人や女性など階層・身分の人々が登場します。
 また近江の大名浅井氏の菩提寺徳昌寺(滋賀県長浜市)には、16世紀中頃の授戒会のありさまを伝える「当時前住教代戒帳」が伝わります。そこには浅井氏当主の内室をはじめとする一族、井関、北村、今井、岩手、河毛、速水などの家臣、在地武士層の一族、女性たちが参加していたことが分かります。これらの「授戒会帳」は近世以降一般的となる過去帳の原型と研究者は考えています。こうした葬祭・授戒活動を禅僧は、主催していたのです。
埼玉県東松山市正法寺に伝わる元亀四(1573)年7月1日付の「引道(導)相承之大事」が残っています。これは密教で行う口訣(くけつ)とよく似た印信(秘法伝授を証明する文書)です。葬礼の際の祭式である引導の伝授が行われていたことが分かります。禅僧にとって葬祭は、大事な活動となっていたことが分かります。

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戦国時代には、僧侶による葬礼・法要が重要な習俗として浸透していたようです。
 イエズス会宣教師ジョアン・フェルナンデスはキリシタンたちの行った豪華な葬式が「異教徒」にも大きな衝撃を与えたことを、次のように報告しています。
「彼らは死者のために祈り、祭式を行うことに非常に熱心であり、その資力のない者達は、僧侶を呼び盛大な消費を行うために借金をするほどです。それは魂の不滅を確信しているからそうするわけではなくて、古くからの習慣であるためであり、世俗的な評判のためである」
、1561年10月8日書翰、
ルイス・フロイスは1565年1月20日の書翰で、次のように報告しています
「日本人は、大部分が死後には何も残らないと確信しており、子孫による名声において自分が永続することを望んでいるので、何をおいても尊重し、彼らの幸福の大きな部分としているものの一つは、死んだ時に行われる葬儀の壮麗と華美とにある」

ここからは次のようなことが記されています。
①当時の日本人が葬儀の壮麗さと華美を求めてること。
②そのためには金に糸目をつけないこと
③その理由は「子孫が名声を得ることで、自分が永続することを望んでいる」で「世俗的な評判」第1に求めていたこと
僧侶らが取り仕切る葬礼は一般人に至るまで広く習慣として行き渡っていたことがうかがえます。前回に、律宗西大寺教団が中世に死者を供来うようになったことを見ました。それが戦国期には、新仏教の禅宗や浄土真宗などにも拡がっていたことを押さえておきます。
  最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
            「 戦国期の日本仏教 躍動する中世仏教310P」

西行5
西行        

前回は西行が23歳で出家し、高野聖としての勧進活動を行いながら、32歳の時には、高野山の先達に連れられて大峯山で百日にわたる本格的な修験道の修行を経ていることを見ました。今回は、50歳になった西行が讃岐にやってきた時の旅程を、山家集の歌で見ていきたいと思います。テキストは「佐藤恒雄 西行四国行脚の旅程について 香川大学学術情報リポジトリ」です

   讃岐への出発に先立って、西行は京都賀茂社に参拝奉幣しています。 
そのかみまいりつかうまつりけるならひに,世をのがれてのちも,かもにまいりけり,としたかくなりて,四国のかたへ修行しけるに,またかへりまいらぬこともやとて,仁安二(1167)年十月十日の夜まいり,幣まいらせけり, 
うちへもいらぬ事なれば,たなうのやしろにとりつぎて,まいらせ給へとて,心ざしけるに,このまの月ほのぼのに,つねよりも神さび,あはれにおばえてよみける。 
①かしこまるしでになみだのかゝるかな 又いつかはとおもふあはれに(1095) 

意訳変換しておくと
世を捨て出家してからも鴨神社への神参りをおこなっていた。四国への修行に出向くに際して,還って来れないこともあるかもしれないと考えて,1167(仁安二)年十月十日の夜に参り,幣を奉納した。 
 社殿へも入らずに、社務所に取り次いで参らせてもらおうと思っていると、その間に月がほのぼのと登り、いつもより神さび,あはれに思えたので一句詠んだ。 
①かしこまるしでになみだのかゝるかな 又いつかはとおもふあはれに(1095) 

西行の讃岐出発については,1167(仁安2)年説と翌年3年説の両説があるようです。その期間は、次のようないろいろな異説があるようです。
A 短いのは一冬を過しただけでの3ヶ月の旅
B 讃岐を拠点にして生活し、宮島に詣でていると考えると、短くとも2、3年の「旅」
C 九州筑紫まで讃岐から出向いたとすると10年
これについては又別の機会に触れるとして、ここでは先を急ぎます。

西行6
西行東下りの図
①の歌が詠まれた10月10日に賀茂神社を参拝しています。
その際に「四国のかたへ修行しけるに,またかへりまいらぬことも・・」とあります。定説では「崇徳上皇の墓参と慰霊」のためとされますが、「四国で修行」することが出発前から予定されていたことがうかがえます。崇徳上皇の慰霊に讃岐にやって来て、そのまま居着いてしまったとする説もあるようですが、私はそうではないと思います。同僚の高野聖達から讃岐の善通寺や弥谷寺のことについて、情報を仕入れた上で紹介状なども書いて貰っていたかもしれません。もうひとつ踏み込んで推測するなら、善通寺の伽藍事業のための勧進活動のために、西行が呼ばれたということも推測できます。西行は高野聖で、生活費は勧進活動から得ていたことを想起すれば、そんなことも考えられます。「修行と勧進を兼ねた長期滞在」が出発当初から予定されていたと、ここではしておきます。


   
 鴨神社への参拝した旧暦10月10日(新暦では11月中頃)直後に、西行は京を出発したようです。
山家集には、道筋や航路については何も触れられていません。残された歌から詠まれた場所をたどるしかありません。

.鳥羽の川船jpg
  法然を乗せて鳥羽の川湊を離れる船(法然上人絵伝 巻34第2段)

参考になるのは、約40年後に讃岐流刑になる法然のたどった航路が絵図に描かれていることです。法然は、京の鳥羽から川船に乗って、淀川を下り,兵庫湊(神戸)→ 高砂 → 室津 → 塩飽 というルートをとていることは以前にお話ししました。
 西行は、山城国美豆野から明石を経て,播磨路に入り,野中の清水に立ち寄って,飾磨か室津あたりの港に入ったようです。それは、以下の歌から推察できます。

西の国の方へ修行してまかり待けるに,みづの(美豆野)と申所にく小しならひたる同行の侍けるが,したしきものゝ例ならぬ事侍とて,く小せぎりければ 

  意訳変換しておくと
西国へ修行しにいくのに,摂津の美津濃という所で、同行予定の僧待ち合わせをしていた。しかし、近親者の病気で遅れることになり、その時に作った歌が

②やましろのみづのみくさにつながれて こまものう捌こみゆる旅哉(1103) 

②の歌詞書の「くしならひたる同行」というのは同僚の西住のことのようです。みずの(美豆野)で落ち合って、同行する予定になっていました。ところが近親者の病気というアクシデントで、それができなくなったようです。ここからも旅の目的は「西国修行」であったことが裏付けられます。

西行は高野聖でもあった : 瀬戸の島から
高野聖の姿

  西行の廻国は、歌人西行の名声が高まるにつれて美化されていきます。
そのために西行は、旅から旅へ「一杖一笠」の生涯をおくったように思われがちです。私もそう思っていました。しかし実際には、奥羽旅行、北陸旅行、西国安芸・四国へのほかには、大峯・熊野修行などの旅行があるだけです。しかも、それは修行と勧進のための廻国(旅)です。
 その目的に従う限りで「異境人歓待」を受けられたのです。そのためには、高野とか東大寺とか鞍馬寺、長谷寺・四天王寺・善光寺などから出てきたという証明書(勧進帳)と、それぞれの本寺の本尊の写しやお札をいれた笈(おい)を、宗教的シンボルとして持っていなければなりませんでした。
 高野聖には大師像の入った笈が必需品だったのです。笈を負う形に似ているというので、高野聖は「田龜(たがめ)」とも呼ばれたようです。西行も笈を背負っていたはずです。西行に笈を背負わせていない絵は、歌人としての西行をイメージしているようです。宗教歌人と捉えている作者は、笈を背負わせると研究者は指摘します。

津の国にやまもとゝ申所にて,人をまちて日かずへければ 
③なにとなくみやこのかたときくそらは むつましくてぞながめられける(1135) 
意訳変換しておくと
摂津の山本で人を待って日数がたっていくさまを一句

ここの出てくる「津(摂津)の国の山本」が,板木では「あかし(明石)に」とあるようです。地名をがちがうのです。これについては、西住から再度同行する旨の連絡を受けた西行が,迫ってくる西住を明石で待っていた時の詠作であると研究者は考えています。

今日の書写山… | 姫路の種
書写山

明石からは陸路をたどって、姫路の書写山へ二人で参拝しています。
はりまの書写へまいるとて,野中のし水をみける事,ひとむかしになりにけり,としへてのち,修行すとてとをりけるに,おなじさまにてかはらざりければ 

④むかし見しのなかのし水かはらねば わがかげをもや思出らん(1096) 
意訳変換しておくと
播磨の書写山へ参拝した。野中の清水を最初に見てから,年月が経ち遠い昔になった。しかし、年月を経て,修行地に向かうために立ち寄ったのだが,同じ様で風景は替わらないのにことを見て
④むかし見しのなかのし水かはらねば わがかげをもや思出らん(1096) 
都を出発したのは旧暦10月10日で、新暦では11月中頃のことになります。法然の場合は順調に船で進んで室津まで10日ほどかかっています。西行は、待ち人がいてなお多くの日数を費やしています。そうすると12月になっていた可能性があります。12月になると強い北西の偏西風が瀬戸内海を吹き抜けるようになり、中世瀬戸内海航路を行き交う船は「冬期運航停止」状態になります。そのため西行達も明石からは陸路山陽道をたどったようです。
  書写山は、修験者や廻国行者たちの拠点寺院でもありました。
彼らを保護することは、勧進活動の際には大きな力となります。「GIVE &take」の関係にあったのです。「播磨の書写山へ参拝した」とありますが、西行達はここで何日か宿泊したのかもしれません。笈を負った高野聖の西行の宿泊を、書写山は快く迎えたはずです。ここで同行の西住は都へ帰ることになったようです。
四国の方へく、してまかりたりける同行,みやこへかへりけるに 
⑤かへりゆく人のこゝろを思ふにも はなれがたきは都なりけり(1097) 
ひとりみをきて,かへりまかりなんずるこそあほれに,いつかみやこへはかへるべきなど申ければ
⑥柴のいほのしばしみやこへかへらじと おもはんだにもあはれなるべし (1098) 
⑤と⑥の歌については,ここまで同行してきた西住との別れを詠っているようです。西行と西住は,摂津の山本か播磨の明石で落ち合い,播磨路を同行しただけのようです。その後は、飾磨か室津から西行だけが乗船します。初冬の荒れる海の波が収まるのを待って船は出されたのでしょう。西住と別れ,船上の人となった西行は,瀬戸内海の本州岸に沿って西下し,備前牛窓の瀬戸を通り,小島(児島)までやってきます。 
吉備の穴海
吉備児島は島だった

  近世以後、「児島湾干拓」で児島湾は埋め立てられて児島は陸続きになりました。
しかし、古代吉備の時代からここには、「吉備の穴海」と呼ばれる多島海が拡がっていていました。児島は、当時は「小島」と書かれていますが、東西10キロ、南北10キロもある大きな島で、山陽側とはつながっておらず、島でした。波が高かったためか児島湾に入り、児島の北側に上陸しています。
児島のことを山家集は、次のように記します。
西国へ修行してまかりけるをり,こじま(児島)と申所に八幡のいはゝれたまひたりけるに,こもりたりけり,としへて又そのやしろを見けるに,松どものふるきになりたりけるをみて 
⑦むかし見し松はおい木に成にけり 我としへたるはどもしられて(1371) 
意訳変換しておくと
西国修行に行くのに,かつて修行のために籠もった児島の八幡宮に参拝した。その社の松が古く味わいがあったのを見て一句、 
⑦むかし見し松はおい木に成にけり 我としへたるはどもしられて(1371) 
ここからは、西行はかつて児島にやって来て、この八幡神社周辺で籠もり修行を行っていたことが分かります。児島は熊野行者の拠点で「新熊野」と呼ばれた五流修験の拠点でもありました。五流修験の行者は、ここを拠点に熊野水軍の船に乗り込み、その水先案内人を務めて行場のネットワーク化を進めていきます。そして、塩飽や芸予諸島の大三島などを勢力下に置くことは以前にお話ししました。書写山から五流修験と、高野聖である西行らしい足取りです。

五流尊瀧院
児島の五流修験(新熊野)

次にやって来るのが児島の南側の渋川海岸です。

備前国に小嶋と中嶋にわたりたりけるに,あみ申物とる所は,をのをのわれわれしめて,ながきさは(棹)にふくろをつけてたてわたすなり,そのさはのたてはじめをば,一のさはとぞなづけたる,なかにとしたかきあま人のたてそむるなり,たつるとて申なることばきゝ侍しこそ,なみだこばれて,申ばかりなくおぼえてよみける 
⑧たてそむるあみとるうらのはつさほは つみのなかにもすく“れたるこひ (1372) 
  意訳変換しておくと
備前国の小嶋(児島)に渡ってきた。「あみ」というものをとる所は,それぞれの猟場が決まっていて,海中に長い棹に袋をつけて長く立てる。その棹の立て始めを,「一の棹」と呼ぶ。年とった海民が立て始めたという。「たつる」という言葉を聞いて涙がこぼれてきて一句詠んだ
⑧立て初むるあみとる浦の初竿は つみのなかにもすくれたるかな (1372) 

「あみ」は、「海糖、醤蝦」と書く小さなエビのようです。コマセとも呼ばれるようで、それを採って生業としている漁師たちを「海人(あま)」と表現しています。海中に竿を立てて採る漁法を見て、「涙がこぼれた」というのはどうしてなのでしょうか? それが「つみ」という言葉と関係があると研究者は考えています。「つみ」とは何なのでしょうか?
  次の渋川海岸でも「つみ」が登場します。

ひゞ(日比),しぶかほ(渋川)と申す方へまはりて,四国のかたへわたらんとしけるに,風あしくてほどへけり,しぶかはのうらと申所に,おさなきものどものあまたものをひろひけるを,とひければ,つみと申物ひろふなりと申けるをきゝて 
  ⑨をりたちてうらたにひろふあまのこは つみよりつみをならふなりけり(1373) 
意訳変換しておくと
日比,渋川というところまでやってきて,四国へ渡ろうとしたが,強風で船が出ず渡れない。渋川の浦で風待ちしていると,幼い子ども達が何かを海岸で拾っている。それは何かと聞いてみると,「つみ」というものを拾っているという。それを聞いて一句。
  ⑨を(降)りたちてうら(浦)にひろふあま(海民)のこ(子)は つみよりつみ(罪?)をなら(習)ふなりけり 
ここにも「つみ」が登場します。浜辺で拾うと書いているので、貝のようです。当時すでに「罪」という言葉は使われているようですが、ひらがななので「積み」か、「摘み」かもしれません。先ほど句には「つみの中にもすぐれたるかな」とあったので、「採って積まれた海の幸」かとも研究者は推測します。
 「玉野市史」に次のように記します。

「扁平な九い蓋のような貝で、浅い海底の砂泥のなかにいる。最近は姿を見ない。」

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謎の生物 つみ
と絵入りで推定していますが、今も特定できないようです。

地元では、「つみ」とは「ツブ」と伝わっているようです。
「蓮の葉カンパン」とよばれる屈平で、丸い海中生物のことで、蓮根を輪明りにした感じで5つの小さな穴があいているヒトデに近い棘皮動物だと伝わるようです。これを、かつては、子供たちがひろって遊んでいたようです。

西行は、地元の発音を「つみ」と、ひらがなで表記しているので、その正体は分かりません。しかし、「つみからつみを習う」とすれば、「貝から罪を習う」という流れになります。漁師の子供たちは、貝を拾っているうちに、「殺生」という罪を習い覚えることを、西行は憂えたのでしょうか?。あるいは、貝や魚を採ることも「殺生」だと気づかずに生きていることを歌にしたでしょうか。  よく分かりません。
海開き前の渋川海岸 in 岡山・玉野市 - 続・旅するデジカメ 我が人生
渋川海岸からの備讃瀬戸 大槌・子槌とその向こうに五色台

「つみ」という言葉を入れた歌には、もうひとつ次の歌があります。

真鍋と申す島に、京より商人どもの下りて、やうやうの「つみ」のものなどをあきなひて、また塩飽の島に渡りて、商はんする由、申しけるを聞きて、
真鍋より塩飽へ通ふ商人はつみを買ひにて渡るなりけり

意訳変換しておくと
讃岐と安芸の間の真鍋島という島には、京よりやってきた商人たちが船から下りて、様々な「つみ」などを商う。そして、それを仕入れて塩飽島に渡って、商売することを聞いてて、
真鍋から塩飽へ通う商人は「つみ」を、買って渡るという
 ここの出てくる「つみ」とは、なんなのでしょうか
「やうやう」とは「様々」で、「色々な」という意味でしょう。とすれば沢山の種類の貝「摘み」か「積み」か、大量に採れる海産物のようです。塩飽附近で、たくさんとれる「つみ」を買いに船で真鍋島から商人が船で塩飽に通っているということになります。私は、最初はそう思って、「塩飽が周辺の流通センターの機能を果たしていた裏付け資料」と納得していました。しかし、西行は「言葉遊び」をしているのかも知れないと、思うようにもなりました。先ほど見たように「つみ」を「罪」と重ねているようにも思えるのです。どちらにしても、「つみ」については私はよく分かりません。今回は、讃岐を目の前にした児島の渋川海岸で終わりたいと思います。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
 佐藤恒雄  西行四国行脚の旅程について  香川大学学術情報リポジトリ
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白峯寺 六字名号
白峯寺には、空海筆と書かれた南無阿弥陀仏の六字名号版木があります。この版木は縦110.6㎝、横30.5㎝、厚さ3.4㎝で、表に南無阿弥陀仏、裏面に不動明王と弘法大師が陽刻された室町時代末期のものです。研究者が注目するのは、南無阿弥陀仏の弥と陀の脇に「空海」と渦巻文(空海の御手判)が刻まれていることです。これは空海筆の六字名号であることを表していると研究者は指摘します。
 空海と「南無阿弥陀仏」の六字名号の組み合わせは、現代の私たちからすればミスマッチのようにも思えます。しかし、「空海筆 + 南無阿弥陀仏」の組み合わせの名号は、各地で見つかっているようです。今回は空海が書いたとされる六寺名号を見ていくことにします。
テキストは「武田 和昭 四国辺路と白峯寺   調査報告書2013年 141P」です。
六字名号 観自在寺の船板名号
観自在寺蔵の船板名号
まず最初に、観自在寺蔵(愛媛県)の船板名号版木を見ておきましょう。
観自在寺(真言宗)の船板名号で、身光、頭光をバックにして、南無阿弥陀仏が陽刻され、向かって左下に「空海」と御手判があります。伝来はよく分かりませんが、現在でも  病気平癒など霊験あらたかな船板名号として、信仰の対象となっているようです。印刷されたものが、参拝記念として販売されたりもしています。
   「船板名号」という呼び方は耳慣れない言葉です。これについては「空海=海岸寺生誕説」を説く説経『苅萱』「高野巻」に、次のような記事があります。
  空海が入唐に際し、筑紫の国宇佐八幡に参詣した時のこと.
二十七と、申すに、入唐せんとおぼしめし、筑紫の国宇佐八幡にこもり、御神体を拝まんとあれば、十五、六なる美人女人と拝まるる。空海御覧じて、それは愚僧が心を試さんかとて、「ただ御神体」とこそある。重ねて第六天の魔王と拝まるる。「それは魔王の姿なり。ただ御神体」と御意あれば、社壇の内が震動雷電つかまつり、火炎が燃えて、内より六字の名号が拝まるる。空海は「これこそ御神体よ」とて、船の船泄に彫り付けたまふによって、船板の名号と申すなり。
意訳変換しておくと
空海二十七歳の時に、入唐の安全祈願のために、筑紫の宇佐八幡にこもり、御神体を拝もうとしたところ、十五、六の美人女人が現れた。それを見て空海は「それは私の心を試そうとするものか」と思い、「ただ御神体」と、重ねて第六天の魔王を拝んだ。すると『それは魔王の姿なり。ただ御神体」との御意があり、社壇の内が激しく揺れ、天からは雷電が降り、火炎が立って、その内から六字の名号が現れた。空海は「これこそ御神体よ」として、舟の船杜に「南無阿弥陀」の六字名号を彫り付け出港していった。これが船板の名号の由来である。

ここからは空海が留学僧として唐に渡る時に、宇佐八幡に航海安全を祈願し参拝した時に「南無阿弥陀仏」の六字名号が降されます。空海はこれを御神体として船に彫りつけたことから「船板名号」と呼ばれるようになったというのです。船形の名号は「船板名号」と呼ばれ、弘法大師と深く関わるもののようです。

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弥谷寺の船板名号碑
弥谷寺の山門上の参道にも、船板名号碑が立っているのは、以前にお話ししました。空海筆銘六字名号は、弘法大師信仰と念仏信仰が混じり合ったもので真言宗寺院に残されていることが多いようです。別の見方をすると、説経「苅萱』「高野巻」を流布した聖たちの布教勢力下にあったお寺とも云えます。

曳覆五輪塔 
曳覆五輪塔

次に西明寺蔵(京都府)・曳覆曼茶羅版木を見てみます。
「曳覆」とは、死者の身体に曳いたり、覆い被せるもので、人の減罪の功徳を得て、極楽往生を約束する五輪塔や真言・陀羅尼などが書かれています。死者と供に葬られるので、実物が残っているものはないのですが、それを摺った版木は各地に残っています。

六字名号 曳覆曼荼羅 京都の西明寺 
曳覆曼荼羅 西明寺の六字名号版木
西明寺(真言宗)の版木は南無阿弥陀仏とともに「承和三年二月十五日書之空海」とあります。この年号は、この六字名号を空海が承和元年(834)3月15日に書いたことを示すものです。空海が高野山奥院に入定したのは承和2年です。その前年が承和元年です。この年が選ばれているのは、空海の筆によるものであることを強調する意味があると研究者は指摘します。

次に九州福岡の善導寺(浄土宗)の絹本墨書を見ておきましょう。
善導寺は浄土宗の開祖、法然上人の弟子鎮西派の祖・聖光上人による開山で、九州における浄土宗の重要な寺院です。ここには数多くの六字名号の掛軸が残されています。その中に空海筆六字名号があります。この掛軸には、次のような墨書があります。
俵背貼紙墨書
弘法大師真筆名号 慶長□年之一乱紛失然豊後国之住人羽矢安右衛門入道宗忍不見得重寄進於当寺畢
慶長十二丁未暦卯月吉日二十一世住持伝誉(花押)
空海御真筆也 一国陸(六)十六部 普賢坊快誉上人
永禄六癸亥年六月日
(巻留墨書)
  六字宝号弘法大師真蹟
(箱蓋表墨書)
弘法大師真蹟 弥陀宝号 善導寺什

ここには、この六字名号が空海の真筆であること、それが慶長年間に一時行方が分からなくなったが、豊後の国の入道が見つけて寄進したことなどが書かれています。その顛末を永禄6年(1563)に記したのが六十六部普賢坊快誉上人だと記します。快誉上人については、よく分かりません。が「誉」の係字を持つことから浄上系の僧でしょう。なお善導寺には別に船板名号もあります。
六字名号 天福寺
天福寺の船板名号
最後に香川県 天福寺の版木船板名号を見ておきましょう。
天福寺は香南町の真言宗のお寺で、創建は平安時代に遡るとされます。天福寺には、4幅の六字名号の掛軸があります。そのひとつは火炎付きの身光頭光をバックにした六字名号で、向かって左に「空海」と御手判があります。その上部には円形の中にキリーク(阿弥陀如来の種子)、下部にはア(大日如来の種子)があり、『観無量寿経』の偶がみられ、西明寺の版木によく似ています。なお同様のものが高野山不動院にもあるようです。空海御手番のある六字名号が真言宗と浄土宗のお寺に限られてあるのことを押さえておきます。
次に研究者は、六字名号と空海との関係を見ていきます。
空海と六寺名号の関係について『一遍上人聖絵』には、次のように記されています。
日域には弘法大師まさに竜華下生の春をまち給ふ。又六字の名号を印板にとどめ、五濁常没の本尊としたまえり、是によりて、かの三地薩坦の垂述の地をとぶらひ、九品浄土、同生の縁をむすばん為、はるかに分入りたまひけるにこそ、
意訳変換しておくと
弘法大師は竜華下生の春つ間に、六字名号を印板に彫りとどめ、本尊とした。これによって、三地薩坦の垂述の地を供来い、九品浄土との縁を結ぶために、修行地に分入っていった。

ここからは、弘法大師空海が六字名号を板に彫り付け本尊としたと、一遍は考えていたことが分かります。一遍は時衆の開祖で、高野山との関係は極めて濃厚です。文永11年(1274)に、高野山から熊野に上り、証誠殿で百日参籠し、その時に熊野権現の神勅を受けたと云われます。ここからは、空海と六字名号との関係が見えてきます。そしてそれを媒介しているのが、時衆の一遍ということになります。

六字名号 空海筆
六字名号に書かれた空海のサイン

 また先ほど見た、室町時代末期~江戸時代初期の作と考えられる『苅萱』「高野巻」に書かれた「船板名号」も空海と六字名号との関係を説くものです。説経『苅萱』「高野巻」は、高野聖との関係が濃厚であることは以前にお話ししました。従って、この時期に作られた六字名号には高野聖が関わっていたと研究者は推測します。
 空海筆六字名号が時衆の念仏聖によって生み出された背景には、当時の高野聖たちがほとんどが時衆念仏僧化していたことがあります。
それでは、空海筆六字名号が真言宗だけでなく、浄土宗の寺院にも残されているのはどうしてなのでしょうか。

仏生山法然寺
仏生山法然寺(高松市)
 その謎を解く鍵が高松市の法然寺にあるようです。
法然寺は寛文10年(1670)に、初代高松藩主の松平頼重によって再興された浄土宗のお寺です。研究者が注目するのは、再興された年の正月25日に制定された『仏生山法然寺条目』の中の次の條です。
一、道心者十二人結衆相定有之間、於来迎堂、常念仏長時不闘仁可致執行、丼仏前之常燈・常香永代不可致退転事。附。結衆十二人之内、天台宗二人、真言宗二人、仏心宗二人、其外者可為浄土宗。不寄自宗他宗、平等仁為廻向値遇也。道心者共役儀非番之側者、方丈之用等可相違事。
意訳変換しておくと
来迎堂で行われる常念仏に参加する十二人の結衆は、仏前の燈や香永を絶やさないこと。また、結衆十二人のメンバー構成は、天台宗二人、真言宗二人、仏心宗二人、残りの名は浄土宗とすること。自宗他宗によらずに、平等に廻向待遇すること。

ここには、来迎堂での常念仏に参加する結衆には、天台、真言、仏心(禅)の各宗派2人と浄土宗6人の合せて12人が平等に参加することが決められています。このことから、この時代には天台、真言、禅宗に属する者も念仏を唱えていて、浄土宗の寺院に出入りすることができたことが分かります。どの宗派も「南無阿弥陀仏」を唱えていた時代なのです。
 また『讃岐国名勝図会』の法然寺の項目には、弥勒堂の弥勒菩薩は弘法大師作とあります。さらに宝物の中にも「弘法大師鉄印(南蛮鉄を以て造るの印文、竜虎二字図、次に出す)」とあり、次の図が掲載されています。
弘法大師鉄印 法然寺
弘法大師鉄印 (法然寺)

これは先ほど見てきた観自在寺、天福寺、筑後・善導寺などの六字名号の空海の文字の下に書かれている文様とよく似ています。なお天福寺には先ほど見た六字名号掛軸とは別の掛軸があり、その裏書きには次のように記されています。
讃州香川郡山佐郷天福寺什物 弥陀六字尊号者弘法大師真筆以母儀阿刀氏落髪所繍立之也
寛文四年十一月十一日源頼重(花押)
意訳変換しておくと
讃州香川郡山佐郷の天福寺の宝物 南無阿弥陀仏の六字尊号は、弘法大師真筆で母君の阿刀氏が落髪した地にあったものである。
寛文四年十一月十一日 髙松藩初代藩主(松平)頼重(花押)
これについて寺伝では、かつては法然寺の所蔵であったが、松平頼重により天福寺に寄進されたと伝えます。ここにも空海と六字名号、そして浄上宗の法然寺との関係が示されています。以上のように浄土宗寺院の中にも、空海の痕跡が見えてきます。

(3)一遍の念仏「六字名号」は救いの喜びの挨拶_b0221219_18335975.jpg
一遍と六字名号

これを、どのように考えればいいのでしょうか。
『一遍聖絵』や説経『苅萱』「高野の巻」などからは、空海筆六字名号が時衆の中で生まれ、展開してきたことを押さえました。それが時衆系高野聖などによって、各地に広がりを見せたと研究者は考えています。しかし、江戸時代初期の慶長11年(1606)に幕府の命令で、時衆聖の真言宗への帰入が強制的に実施されます。ただ、このような真言宗への帰入は16世紀からすでに始まっていたようです。高野聖が真言宗へ帰入した時に、空海筆六字名号も真言宗寺院へ持ち込まれたことが考えられます。
 一方、浄土宗寺院についてはよく分かりませんが、時衆の衰退とともに、念仏聖として浄土宗寺院に吸収、包含された時に、持ち込まれた可能性がありますが、これもよく分かりません。今後の検討課題になるようです。
弥谷寺 時衆の六字名号の書体
時衆の六字名号の書体一覧
どうして白峯寺に空海筆六字名号版木が残されていたのでしょうか?
版木を制作することは、六字名号が数多く必要とされたからでしょう。その「需要」は、どこからくるものだったのでしょうか。念仏を流布することが目的だったかもしれませんが、一遍が配った念仏札は小さなものです。しかし白峯寺のは縦約1mもあます。掛け幅装にすれば、礼拝の対象ともなります。これに関わったのは念仏信仰を持った僧であったことは間違いないでしょう。
 四国辺路の成立・展開は、弘法大師信仰と念仏阿弥陀信仰との絡み合い中から生まれたと研究者は考えています。白峯寺においても、この版木があるということは、戦国時代から江戸時代初期には、念仏信仰を持った僧が白峯寺に数多くいたことになります。それは、以前に見た弥谷寺と同じです。

六字名号 一遍
 六字名号( 一遍)

 研究者は、念仏僧が、この版木を白峯寺復興のための勧進用として「販売」したのではないかという仮説を出します。
それに関わった人物が「阿閣梨洞林院別名」とします。別名は、慶長9年(1604)に千手院を再興した勧進僧で、修験者でもあった可能性があります。別名が弥谷寺も兼帯していたことが海岸寺の元和6年(1620)の棟札から分かります。これは、白峰寺での勧進活動の成功を受けて、生駒藩が弥谷寺の再興のために命じた人事とも考えられます。江戸時代初期の弥谷寺や海岸寺は念仏信仰が盛んなお寺であったことは以前にお話ししました。
 また、白峯寺版木の不動明王と同じ版木の不動明王が弥谷寺にもあります。このことから江戸時代初期には、白峯寺と弥谷寺が深い関係を持っていたことが裏付けられます。別名によって、二つのお寺は運営管理されていたことが、このような共通性をもたらしたのかもしれません。ただ、この阿閣梨別名については、念仏信仰だけの僧ではなく、多面的な信仰を持ち合わせた真言宗の僧と研究者は考えています。
念仏賦算」と「踊り念仏」に込められた願いのかぎり 「捨てる」という霊性について(10) : 家田足穂のエキサイト・ブログ
一遍の配布札

以上をまとめておくと
①空海自筆とされる南無阿弥陀仏と書かれた六寺名号の版木が四国霊場の観自在寺、石手寺、太山寺に残っている。
②これは「弘法大師伝説 + 阿弥陀念仏信仰」の共存を示すものである。
③これを生み出したのは一遍の時衆念仏僧たちで、それを広げたのは時衆念仏化していた高野聖たちであった。
④戦国時代から近世初期にかけて、高野山では「真言復帰原理主義運動」が高まり、念仏僧が排除されるようになった。
⑤真言宗籍に復帰した念仏僧達は、いままでの阿弥陀信仰の流布スタイルを拠点とする札所寺院でも展開した。
⑥また、大型の版木で六寺名号を摺って、寄進活動などにも活用するようになった。
以上のように、四国辺路の形成に念仏信仰(時衆念仏僧や高野聖)などが関わっていたことが具体的に見えてきます。

   最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献

現在の四国遍路は、次のような三段階を経て形成されたと研究者は考えるようになっています。
①古代 
熊野行者や聖などの行者による山岳修行の行場開発  (空海の参加)
②中世 
行場に行者堂などの小規模な宗教施設が現れ、それをむすぶ「四国辺路」の形成
③近世 
真念などにより札所が定められ、遍路道が整備され、札所をめぐる「四国遍路」への転進

①の古代の「行場」について、空海が24歳の時に著した『三教指帰』には、次のように記されています。
阿国大滝嶽に踏り攀じ、土州室戸崎に勤念す。谷響きを惜しまず、明星来影す
(中略)
或るときは金巌に登って雪に遇うて次凛たり。或るときは石峯(石鎚)に跨がって根を絶って轄軒たり。
ここからは阿波の大瀧岳、土佐の室戸崎、伊予の石鎚山で弘法大師が修行したことが分かります。これらの場所には、現在は21番太龍寺、24番最御崎寺、60番横峰寺(石鎚山遥拝所)があり、弘法大師と直接関わる行場であったこと云えます。

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土佐室戸崎での空海の修行

 四国霊場の札所の縁起は、ほとんどが空海によって開かれたと伝えます。しかし、空海以前に阿波の大瀧岳、土佐の室戸崎、伊予の石鎚山などでは、すでに行者たちが山岳修行を行っていました。若き空海は、彼らに習ってその中に身を投じたに過ぎません。中世になってやってきた高野聖などが弘法大師伝説を「接ぎ木」していったようです。
   平安時代末期頃になると『今昔物語集』や『梁塵秘抄』には、「四国の辺地」修行を題材にした話が出てきます。
そこに描かれた海辺を巡る修行の道は、現在の四国辺路の原形になるようです。ここには、各行場が海沿いに結ばれてネットワーク化していく姿がイメージできます。それでは、山岳寺院のネットワーク化はどのように進められたのでしょうか。今回は、中世の山岳寺院が「四国辺路」としてつながっていく道筋を見ていくことにします。テキストは「武田 和昭 四国辺路と白峯寺   白峯寺調査報告書2013年 141P」です
和歌山・本宮/熊野古道】山伏と歩く熊野古道(大峰奥駈道)・貸切ツアー・小学生よりOK・初心者歓迎 | アクティビティジャパン
熊野街道と行者
鎌倉~室町時代中期には、全国的に熊野信仰が隆盛した時代です。
札所寺院の中には、熊野神社を鎮守とすることが多いようです。
1 熊野信仰 愛媛の熊野神社一覧1
愛媛県の熊野神社 修験者が勧進したと伝える神社多い

そのため四国辺路の成立・展開には熊野行者が深く関わっていたという「四国辺路=熊野信仰起源説」が早くから出されていました。 しかし、熊野行者がどのように四国辺路に関わっていたのか、それを具体的に示す史料が見つかっていませんでした。つまり弘法大師信仰と熊野行者との関係について、両者をどう繋ぐ具体的史料がなかったということです。

増吽

 そのような中で、両者をつなぐ存在として注目されるようになったのが「増吽僧正」です。
増吽は「熊野信仰 + 真言僧 + 弘法大師信仰 + 勧進僧 + 写経センター所長」など、いくつもの顔を持つ修験系真言僧者であったことは、以前にお話ししました。
中世の讃岐 熊野系勧進聖としての増吽 : 瀬戸の島から
増吽とつながる修験者の活動エリア

 増吽は讃岐大内郡の与田寺や水主神社を本拠とする熊野行者でもありました。例えば、熊野参詣に際しては讃岐から阿讃山脈を越え、吉野川を渡り、南下して牟岐や海部などの阿波南部の港から海路で紀州の田辺や白浜に着き、そこから熊野へ向かっています。四国内に本拠を置く熊野先達は、俗人の信者を引き連れ、熊野に向かいます。この参詣ルートが、後の四国辺路の道につながると研究者は考えています。また、これらのエリアの真言系僧侶(修験者)とは、大般若経の書写活動を通じてつながっていました。

弘法大師 善通寺御影
「善通寺式の弘法大師御影」 
我拝師山での捨身修行伝説に基づいて雲に乗った釈迦が背後に描かれている

 増吽の信仰は多様で、大師信仰も強かったようです。
彼は絵もうまく、彼の作とされる「善通寺式御影」形式の弘法大師の御影が各地に残されています。この御影を通じて弥勒信仰や入定信仰などを弘め、「弘法大師は生きて私たちと供にある」という信仰につながったと研究者は考えています。
中世の讃岐 熊野系勧進聖としての増吽 : 瀬戸の島から
増吽(倉敷市蓮台寺旧本殿(現奥の院)

 四国には、増吽のような信仰の姿を持つ真言宗寺院に属した熊野先達が数多くいたことが次第に分かってきました。彼等によって四国に入定信仰・弥勒信仰を基盤とする弘法大師仰が広げられたようです。そして、真言系熊野先達の寺院間は、大般若経の書写や勧進活動を通じてネットワーク化されていきます。この時期の山岳寺院は孤立していたわけでなく、寺院間の繋がりが形成されていたようです。こうした熊野信仰と弘法大師信仰とのつながりは、室町時代中期までには出来上がっていたようです。しかし、そこに四国辺路の痕跡はまだ見ることはできません。それが見えてくるのは16世紀の室町時代後期になってからです。

医王寺本堂内厨子 文化遺産オンライン
浄土寺本堂の本尊厨子
愛媛県の49番浄土寺本堂の本尊厨子に、次のような落書が残されています。
四国辺路美?
四国中辺路同行五人
えち     のうち
せんの  阿州名東住人
くに   大永七年七月六日
一せう
のちう  書写山泉□□□□□
人ひさ  大永七年七月 吉日
の小四郎
南無大師遍照金剛(守護)
意訳変換しておくと
四国辺路の中辺路ルートを、次の同行五人で巡礼中である
えち     のうち せんの  阿州名東住人 くに 
 大永七年(1527)七月六日

(巡礼メンバー)は「のちう  書写山(姫路の修験寺)の泉□□□□□ 人ひさ」である。
大永七年(1527)七月 吉日   の小四郎
南無大師遍照金剛(弘法大師)の守護が得られますように
ここからは、次のようなことが分かります。
①大永7年(1527)前後には、浄土寺の本尊厨子が完成していたこと
②そこに「四国辺路」巡礼者の一団が「参拝記念」に、相次いで落書きを残したこと。
③巡礼者の一団のメンバーには、越前や阿波名東の住人、姫路書写山の僧侶などいたこと。彼らが「四国辺路」の中辺路ルートを巡礼していたこと
南無大師遍照金剛とあるので、弘法大師信仰を持っていたこと

閑古鳥旅行社 - 浄土寺本堂、浄土寺多宝塔
浄土寺本堂
さらに翌年には次のような落書きが書き込まれています。
金剛峯寺谷上惣職善空大永八年五月四日
金剛□□満□□□□□□同行六人 大永八年五月九日
左恵 同行二人大永八年八月八日
意訳変換しておくと
高野山金剛峯寺の谷上惣職の善空 大永八年五月四日
高野山金剛□□満□□□□□□同行六人  大永八年五月九日
左恵  同行二人         大永八年八月八日
ここからは次のようなことが分かります。
①高野山の僧侶が四国辺路を行っていること
②また2番目の僧侶は「同行六人」とあるので、先達として参加している可能性があること。
 また讃岐国分寺の本尊にも同じ様な落書があって、そこには「南無大師遍照金剛」とともに「南無阿弥陀仏」とも書かれています。
以上からは、次のようなことが分かります。
①室町時代後期(16世紀前期)には「四国辺路」が行われていたこと
②四国辺路には、高野山の僧侶(高野聖)が先達として参加していたこと
②四国辺路を行っていた人たちは、弘法大師信仰と阿弥陀念仏信仰の持ち主だったこと
現在の私たちの感覚からすると「四国遍路」「阿弥陀信仰」は違和感を持つかも知れません。が、当時は高野山の聖集団自体が時宗化して阿弥陀信仰一色に染まっていた時代です。弥谷寺も阿弥陀信仰流布の拠点となっていたことは以前にお話ししました。四国の山岳寺院も、多くが阿弥陀信仰を受入ていたようです。

この頃に四国辺路を行っていた人たちとは、どんな人たちだったのでしょうか?ここで研究者が注目するのが、当時活発な宗教活動をしていた六十六部です。
経筒とは - コトバンク
経筒

16世紀頃に、六十六部が奉納した経筒を見ていくことにします。
この時期の経筒は、全国各地で見つかっています。まんのう町の金剛院(種)からも多くの経筒が発掘されているのは、以前にお話ししました。全国を廻国し、国分寺や一宮に逗留し、お経を書写し、それを経筒に入れて経塚に埋めます。それが終わると次の目的地へ去って行きます。書写するお経によっては、何ヶ月も近く逗留することもあったようです。

陶製経筒外容器(まんのう町金剛寺裏山の経塚出土)

それでは、六十六部は、どんなお経を書写したのでしょうか?
 六十六部の奉納したお経は、釈迦信仰に基づいて『法華経』を奉納すると考えられますが、どうもそうとは限らないようです。残された経筒の銘文には、意外にも弘法大師信仰に基づくものや、念仏信仰に基づものがみられるようです。
四国遍路形成史 大興寺周辺の六十六部の活動を追いかけて見ると : 瀬戸の島から
廻国六十六部
島根県大田市大田南八幡宮出土の経筒には、次のように記されています。
四所明神土州之住侶
(バク)奉納理趣経六十六部本願同意
辺照大師
天文二(1533)年今月日  
ここからは、土佐の四所明神の僧侶が六十六部廻りに訪れた島根県太田市で、『法華経』ではなく、真言宗で重要視される『理趣経』を書写奉納しています。さらに「辺照(遍照)大師」とありますが、これは「南無大師遍照金剛」のことで、弘法大師になります。ここからは六十六部巡礼を行っている「土佐の四所明神の住僧」は、真言僧侶で弘法大師信仰を持っていたことが分かります。
島根県:コレクション しまねの宝もの(トップ / 県政・統計 / 政策・財政 / 広聴・広報 / フォトしまね / 170号)
大田南八幡宮(島根県太田市)の銅製経筒

さらに別の経筒には、次のように記されています。
□□□□□幸禅定尼逆修為
十羅刹女 高野山住弘賢
奉納大乗一国六十六部
三十番神 天文十五年正月吉日
ここからは、天文15年(1546)に高野山に住している弘賢が廻国六十六部のために奉納したものです。高野山の僧とは記していないので聖かもしれません。当時の高野聖は、ほとんどが阿弥陀信仰と弘法大師信仰を併せ持っていました。
次に念仏信仰について書かれた経筒を見てみましょう。
一切諸仏 越前国在家入道
(キリーク)奉納浄土三部経六十六部
子□
祈諸会維天文十八年今月吉
越前の在家入道は天文18年(1549)に「無量寿経』、『観無量寿経』、『阿弥陀経』の浄土三部経を奉納しています。これは浄土阿弥陀信仰の根本経です。このように六十六部は『法華経』だけでなく密教や浄土教の経典も奉納していることが分かります。

次に宮城県牡鹿郡牡鹿町長渡浜出土の経筒を、見ておきましょう。
十羅刹女 紀州高野山谷上  敬
(バク)奉納一乗妙典六十六部沙門良源行人
三十番神 大永八年人月吉日 白
施主藤原氏貞義
大野宮房
この納経者は、高野山谷上で行人方に属した良源で、彼が六十六部となって日本廻国していたことが分かります。行人とあるので高野聖だったようです。高野山を本拠とする聖たちも六十六部として、廻国していたことが分かります。
2.コラム:経塚と経筒

経筒の奉納方法
 先に見た愛媛県の浄土寺本尊厨子の落書にも「高野山谷上の善空」とありました。彼も六十六部だった可能性があります。つまり高野山の行人が六十六部となり、四国を巡っていたか、あるいは四国辺路の先達となっていたことになります。ここに「四国辺路」と「六十六部」をつなぐ糸が見えてきます。

2公式山3
善通寺の裏山香色山山頂の経塚

今までのところをまとめておきます。
①16世紀前半の高野山は時衆化した高野聖が席巻し、高野山の多くの寺院が南無阿弥陀仏をとなえ念仏化していた。
②浄土寺や国分寺の落書からみて、高野山の行人や高野山を本拠とする六十六部、さらに高野聖が数多く四国に流人していた
③以上から弘法大師信仰と念仏信仰を持った高野聖や廻国の六十六部などによって、四国辺路の原形は形成された。

   最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
  参考文献      武田 和昭 四国辺路と白峯寺   調査報告書2013年 141P


四国霊場弥谷寺における中世の念仏聖たちの活動を以前に見ましたが、その中で高野聖たちの果たした役割がよく分からないとの指摘を受けました。そこで、五来重「高野聖」の読書メモ的な要約を載せておきたいと思います。テキストは、五来重『増補 高野聖』と「愛媛県史 四国遍路の普及」です。
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弘法大師信仰を地方に広げていくのに活躍したのが高野聖(こうやひじり)たちです。彼らの果たした役割を、明らかにしたのが五来重の「高野聖」です。この本の中で聖の起源を次のように記します。

「原始宗教者の『日知り』から名づけられたもの」で、『ひじり』は原始的な宗教者一般の名称であった

 聖の中は、呪力を身につけるための山林修行と、身の汚れをはらうための苦行を行います。これが聖の山林への隠遁性と苦修練行の苦行性につながります。
 原始宗教では、死後の霊魂は苦難にみちた永遠の旅路を続けると考えられていたようです。これを生前に果たしておこうという考え、彼らは巡礼を行います。そのために、聖の特性として回遊(廻国)性が加わります。
 こうして隠遁と苦行と遊行によってえられた呪験力は、予言・治病・鎮魂などの呪術に用いられるようになります。これは民衆からすれば、聖は呪術性のある特別な存在をおもわれるようになります。
その他に、聖には次のような特性があると指摘します。
①妻帯や生産などの世俗生活を営む世俗性
②集団をなして作善をする集団性
③寺や仏像をつくるための勧進をする勧進性
④勧進の手段として行う説経や祭文などの語り物と、絵解きと踊り念仏や念仏狂言などの唱導を行う唱導性
 こうして、聖たちは、隠遁性・苦行性・遊行性・呪術性・世俗性・集団性・勧進性・唱導性をもつ者として歴史に現れてくるようになります。高野聖もこのなかのひとつの集団になるようです。
 聖は、古代から存在していたことを、谷口廣之氏は次のように述べています
「四国は、霊山信仰や補陀落信仰などの重層する信仰の地であり、遊行する聖たちの頭陀行の地であった。四国遍路成立以前に四国の地は彼らによって踏み固められていったのであった。しかしそれぞれの信仰の要素は多様であって、まだ弘法大師信仰一色に塗りつぶされていたわけではない。」

 「現在では四国霊場は空海弘法大師によって開かれた」というのが当たり前に云われています。しかし、歴史家たちはそうは考えていないようです。空海以前から聖(修験者・行者)たちは霊山で修行を行っていて、その集団の中に若き日の空海も身を投じたという見方をします。また、空海以後も四国の地を遊行した聖たちは、蔵王信仰・熊野信仰・観音信仰・阿弥陀信仰・時衆信仰などそれぞれの信仰に基づいた修行をしていたようで、弘法大師信仰一色に塗りつぶされていたわけでありませんでした。
阿波の板碑
高野

聖たちの中で、高野聖が登場するのは、平安中期以降のことだとされます。

もともと高野山では、信仰心のある隠遁者が集まり、出家せずに聖として半僧半俗の生活をしていた者がいたようです。そのような中で、正暦5年(994年)に高野山は大火に見舞われます。その復興を図るために僧定誉(じょうよ)が、聖を勧進集団に組織したのが高野聖の始まりとされるようです。
 その後は、次のような集団が、高野聖として活発な活動を展開します。
①教懐(きょうかい)・覚鑁(かくばん)などの真言念仏集団による小田原聖・往生院谷聖
②中世になると蓮花谷聖、五室聖(ごむろのひじり)
③禅的信仰を加味した萱堂(かやどう)聖
④時宗聖集団を形成した千手院谷聖の諸集団
 高野聖の主な活動は、勧進でした。
 古代寺院は、律令国家の保護のもとに、広大な寺領と荘園をもち、これが経済基盤となっていました。しかし、平安中期になって律令体制が崩壊すると、荘園からの収入が思うように得られなくなります。寺院経営には、伽藍や法会の維持、僧供料など多くの資金が必要です。それが得れなくなった多くの古代寺院は退転していきました。生き残っていくためには、新たな収入源を確保する必要に迫られます。その一つの方法が、聖の勧進による貴賤の喜捨(お寺や僧侶にあげる金品)と奉加物の確保です。こうして全国に散らばった聖は、布教とともに勧進にかかわりるようになります。
 例えば讃岐の霊場弥谷寺に先ず根付いたのが阿弥陀信仰であり、その後の伽藍配置には時衆念仏信仰の影響が見られることは、以前にお話ししました。これも高野聖の一流派である②の五室聖や④の千手谷聖の活動が背景にあったことがうかがえます。彼らは里の郷村への阿弥陀念仏信仰を流布しながら、先祖供養のために「イヤダニ詣り」を勧めたのです。それが現在の弥谷寺に、磨崖五輪塔や地蔵形墓標として残ります。同時に、信者を高野山の勧進活動へと導いていきます。高野山には、高野聖が全国から勧進して集まった資金が流れ込むことになります。
西行は高野聖でもあった : 瀬戸の島から
関東・平泉に勧進のために下る西行 西行も高野聖であった
 高野聖は、「高野山が日本の先祖供養の中心地」であることを、説話説教によって信者に広げます。
そして高野山への納骨参詣を誘引します。各地を回国しては野辺の白骨や、委託された遺骨を笈(おい)にいれて高野山に運ぶようになります。さらに納骨と供養のために高野詣をする人や、霊場の景観とその霊気をあじわう人のために、宿坊を提供するようになります。このように高野聖は、高野山での役割は、宗教よりも生活を担うことで、信仰をすすめて金品を集める勧化(かんげ)や唱導、宿坊、納骨等にを担当します。こうして、高野聖は、高野山の台所を支える階級となっていきます。別の見方をすると、高野山という仏教教団の上部構造は学問僧たちでした。しかし、それを支えた下部構造は、学問僧に奉仕する働き蜂のような役割を果たした高野聖たちであったと云えそうです。
勧進とは - コトバンク
勧進集団

 高野山奥の院への杉木立の参道に建ち並ぶ戦国武将や大名達の墓は、ある意味では高野聖の活動の証と云えるのかも知れません。高野山の堂塔・院坊の再興と修復、仏像の造立と法会の維持、あるいは山僧の資糧などは、高野聖の勧進によって支えられていたのです。
君は勧進上人を知っているか?|記事|ヒストリスト[Historist]−歴史と教科書の山川出版社の情報メディア−|Historist(ヒストリスト)
勧進や高野山詣りを担当する高野聖の活動は、庶民との密接なかかわりによって成り立つものでした。そのために彼らは、足まめに担当諸国を廻国し、人集めのために唱導や芸能も行いました。次第に庶民に迎合して、世俗化する傾向が生まれるのも自然の成り行きです。高野聖の世俗化した姿は「非事吏(ひじり)」などと書かれて卑しめられたり、宿借聖とか夜道怪(やどうかい)などと呼ばれて、「高野聖に宿かすな、娘とられて恥かくな」とか「人のおかた(妻女)とる高野聖」と後ろ指を指されていたことが分かります。高野聖は、人々から俗悪な下僧と卑しられるようになっていったのです。
高野聖とは - コトバンク
高野聖
 やがて呉服聖といわれるような商行為や隠密まではたらくようになり、本来の姿を大きく逸脱していくようになります。高野聖のこうした世俗性が俗悪化につながり、中世末期には世間の指弾を受けるようになり、堕落した高野聖は消滅していきます。

やまだくんのせかい: 江戸門付
聖たちのその後

高野山内部での「真言原理主義運動」が高野聖を追い出した
真言密教として出発した高野山でしたが、中世には浄土往生と念仏信仰のメッカとなっていました。鎌倉時代の高野山は、念仏聖が群がり集まり、念仏信仰の中心拠点となっていて、それを高野聖たちが担って全国に拡散したのです。ところが室町時代になると、「真言復帰の原理主義」運動が起き、その巻き返しが着々と進んでいきます。室町時代半ばの15世紀末ごろからは、自発的に高野聖の中には「真言帰人」を行う者も現れるようになります。そして江戸時代になると慶長11年(1606年)年に将軍の命として、全ての高野聖は時宗を改めて真言宗に帰人し、四度加行(しどけぎょう)(初歩的な僧侶の修行)と最略灌頂(簡素な真言宗の入信儀式)を受けるよう命じられます。これが高野聖の歴史に終止符をうつことになります。
画像をクリックすると、拡大する。 第一巻 52 【前へ : 目次 : 次へ】 願人 - 【願人坊主  がんにんぼうず】は、江戸時代に存在した大道芸人の一種。穢多・非人に連なる賎民であるが、形式上は寺社奉行の管轄下にあったので、町奉行は扱いにくかった  ...
願人

高野聖の弘法大師信仰流布に果たした役割を研究はどのように捉えているのかを見ておきましょう。
 五来重氏は、高野聖の役割について次のように述べています。

 高野聖は、奈良時代以来、庶民信仰を管理した民間宗教者としての聖を追求するなかで姿をあらわしたものであった。これらの聖は念仏もすれば真言もとなえ、法華経を読み大般若経を転読し、神祗を崇拝し苦行もするという、宗教宗派にこだわらないおおらかな宗教者であった。実に弘法大師信仰に宗派がないということは、このような精神風土の上に成立したものであることがわかる。それは弘法 大師の偉大さとして説かれるけれども、弘法大師を偉大ならしめるのは庶民の精神構造であった。これを知らなければ高野山がなぜ宗派を越えた日本総菩提所になったのか、また弘法大師の霊験が各宗の祖師を越えて高く信仰されるのか、という疑問を解くことはできない。
   
ここには高野聖が「宗教宗派にこだわらないおおらかな宗教者」で、その性格は「庶民の精神構造」に起因するとします。だから「弘法大師の霊験が各宗の祖師を越えて信仰」され、弘法大師一尊化への道が開かれると考えているようです。
日本遊行宗教論(真野俊和 著) / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋

 また真野俊和氏は、次のように述べます。
さまざまな形態の弘法大師信仰を各地にもち伝えたひとつの大きな勢力に、12世紀頃からあらわれて中世末頃まではなばなしい活躍をした高野聖がある。中世の高野聖たちはまた、高野山そのものが現世の浄土であり、人は死後そこに骨を納めることによって仏となるという信仰をもって民衆の心の内に入りこみ、高野山納骨という習俗を全国にひろめた。弘法大師誕生の地である四国はこんな高野聖にとっては最も活躍しやすい場でもあったろう。四国霊場の遍照一尊化という風潮も、以上の歴史的文脈のなかでとらえねばならない。そしてまた中世期高野聖の活動による大師信仰の普及をとおして、四国遍路の宗教思想は形づくられ、また全国に普及していったはずだ。なぜなら弥勒下生思想のもとでの不死・死滅の大師、復活する大師、そして霊能高く偉大な奇跡を行いうる存在としての大師のイメージは、現実の「同行二人」の信仰のもとに彼らとともに巡歴して苦難を分がちあい、かつさまざまな霊験を遍路たちにもたらす大師像と、その輪郭はあまりにもくっきりと重なりあってくるからである。ここに現れる、影のごとくにして遍路の背後にともなう大師像が、また諸国を遍歴する大師の姿が歴史的にいつ頃から形成されてきたかをさし示すことは難しいが、四国霊場に関する限りでは軌を一にして出現した観念であるにちがいない。

ここでは研究者は、次の2点を指摘します。
①高野聖の活動を通して四国霊場の弘法大師一尊化という風潮が形成されたこと、
②中世高野聖によって大師信仰が普及し、それを通して四国遍路の宗教思想が形づくられて全国に普及したこと
伝承の碑―遍路という宗教 (URL選書) | 谷口 広之 |本 | 通販 - Amazon.co.jp

 谷口廣之氏は、次のように述べています。
現在でも八十八ヶ所を巡拝した遍路たちは御礼参りと称して高野山に参詣するが、高野聖の末裔たちが村人の先達となって、四国遍路の後高野山参詣を勧めたのであろう。もちろん四国を遊行した聖は高野聖だけでなく、六十六部といった法華経行者や修験の徒などその種類は多い。しかし遍照一尊化への四国霊場の統一は彼らの活躍を抜きに考えられないだろう。

ここでは、次のことが指摘されています。
①高野聖の末裔たちが村人の先達となって、四国遍路の後高野山参詣を勧めたこと
②弘法大師信仰と遍照一尊化一色へ四国霊場を染め上げていったのは、高野聖の活動なしには考えられないこと
 以上を整理すると、次のようになります。
①高野聖の宗教宗派にこだわらない布教活動が、庶民の中に弘法大師信仰を普及させるうえで大きな役割を果たしたこと
③高野聖の地道な活動を通して、弘法大師信仰は地方の隅々にまで浸透していき、四国霊場の弘法大師一尊化の風潮が強められていったこと

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
    参考文献
       五来重『増補 高野聖』
「愛媛県史 四国遍路の普及」

琴平町の象頭山という呼び名は、近世以後に金毘羅大権現が鎮座して以後の名前です。それまでは延喜式内社の大麻神社が鎮座する山として、全山が大麻山と(現象頭山を含め)呼ばれていたと私は考えています。
ブラタモリ こんぴらさん - めご の ひとりごと

 この山はNHKのブラタモリでも紹介されていましたが、金比羅本殿が建つ地点から上は安山岩でできていて、所々に岩肌を露わにした山様を見せます。金毘羅本殿の奥には、岩窟があるとされます。その外に山中には風穴などもあり、奥社の背後も岩壁となっています。これらの岩窟や瀧(断崖は)は、修験者たちの格好の修行場ゲレンデとなり、彼らの聖地となります。山岳信仰の高まりととともに、善通寺の「奥の院」として修行に励む修験者たちのゲレンデとなり、時代が下ると、そこに山岳寺院が出現したことがうかがえます。これらの寺院は、善通寺→瀧寺→尾背寺→中寺廃寺→萩原寺と山岳寺院ネットワークでつながり、修験者たちの活発な交流が行われていたことが、史料から見えてきます。そこには、多くの修験者たちが入り込み、「中辺路」修行を行っていたことがうかがえます。
 金毘羅大権現以前の、この山の宗教施設を順番に挙げておくと次のようになります。
①式内社大麻神社(忌部氏の氏神?)
②瀧寺(中世の山岳寺院)
③称名寺(中世の阿弥陀・念仏信仰の寺院)
④三十番社
⑤松尾寺金光院を別当とする金毘羅大権現
ここからは、近世に金毘羅大権現が流行神として出現する以前に、大麻山にはそれに先行する宗教施設があったことが史料からは分かります。
もうひとつのこの山の性格は、「死霊のゆく山」でした。
中世以来、小松荘の人たちにとっては、死者を葬る山でした。現在も、琴平山と愛宕山の谷間を流れる清流沿いには、小松荘以来の墓地である広谷の墓地が広がります。そこには、墓を守る墓寺も建てられ、高野聖達の念仏布教活動が行われていたようです。いわゆる「滅罪寺」もあったのでしょう。
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丸亀平野から見る大麻山
 一方、丸亀平野の里人から見れば、この山は祖先が帰っていく甘南備山で、霊山でした。神体でもあるこの山を仰ぎ見て、気象の変化が占われたのかも知れません。そのような処には、中世に成ると、拝殿が姿を現すようになります。それが多度郡の延喜式内雲気神社(善通寺市弘田町)や那珂郡の雲気八幡宮(満濃町西高篠)なのかもしれません。中世以前においては、大麻山は霊山で、信仰の山だったと私は考えています。
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今回は金毘羅大権現登場以前の宗教施設である称名寺を訪ねてみます。 テキストは前回に続いて、山本祐三「琴平町の山城」です。ここには、称名寺付近の詳細な地図が載せられています。この地図を参考に実際に私も訪ねて見ました。その報告記でもあります。

称名寺 「琴平町の山城」より
称名寺周辺地図(「琴平町の山城」)
称名院へは、ホテル琴参閣の裏のあかね幼稚園のそばから山に伸びる道を辿ります。この辺りは「大西山」と呼ばれ、山から流れ出す谷川沿の橋がとりつきになります。
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大門口
地図上には「大門口」あります。称名院(後の称明寺?)の大門跡と伝えられます。確かに、両側が狭まった所に大門が建っていたような雰囲気がします。しかし、研究者は後に道を付けるために切通したものと一蹴します。
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大門口を振り返って見た所
 ここを抜けると、空間が開け目の前に田んぼが現れます。なんでこんな所に・・と思っていまいますが、金毘羅宮の神田のようです。
金刀比羅宮神饌田 御田植祭3

6月には田植え祭が毎年行われ、田舞の歌が奉納される中で、早乙女(巫女)が苗を植える姿が見られます。神前にお供えするお米が古式に則って、栽培されています。
金刀比羅宮神饌田 御田植祭7

 さらに管理道を真っ直ぐに登っていくと、左手に伸びる広場に神馬(しんめ)の墓があります。ここからは琴参閣の向こうに西長尾城の城山が望めます。
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さらに林道を登り、原生林の中に入っていきます。砂防ダムの建設のために付けられた林道は、今は役割を終えて廃道になっていますが人が通るには快適な道です。
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薄暗くなった中を、すぐに右手にカーブすると森の中の大木の根元に、朽ちそうになった小さな祠が迎えてくれました。
DSC05446
ここが、称名寺跡のようです。確かに周辺は広い平坦地です。しかし、林道整備の際に、造成された土地かも知れませんが、この盆地状に開けた所が称名寺跡としておきます。史料には、ここからは、五輪塔に用いた石が多く見られ、瓦も見つかることがあると記されています。

DSC05451

 林道を上っていくと、谷川のせせらぎが響き、下には砂防ダムの湖面が見えます。さらに登ると林道の分岐点が現れ、そこに池があります。森の中に青い水面を見せる池で、趣を感じさせてくれました。
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しばし佇んでいたのですが、五月末の快晴の温かい日なので、ヤブ蚊の襲来を受けました。早々に退散します。里山歩きには、防虫ネット付きの帽子と長袖と防虫スプレーが必需品であることを忘れていました。 
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称名寺を訪れているのが高野山のエリート僧侶の道範です。
道範は、和泉国松尾の人で、高野山正智院で学び文暦元年(1224)には、その院主となり、嘉禎三年(1237)には金剛峯寺執行を兼ねた真言宗の逸材でした。それが内部抗争の責任を取らされて、仁治三年(1242)、讃岐に流されます。
 道範は、赦免される建長元年(1249)までの8年間を讃岐国で滞留します。最初は守護所(宇多津)の近くで窮屈な生活を送っていましたが、善通寺の寺僧らの働きかけで、まもなく善通寺に移り住んでからは、かなり自由な生活を送っています。例えば、宝治二年(1248)には、伊予まで開眼供養導師を勤めに旅行をしているほどです。
 その年十一月に、道範は尾背寺(まんのう町本目)に参詣をしています。この寺は、善通寺創建の時の柚(そま)山で、建築用材を供給した山と伝えられています。この時も、当時進められていた善通寺復興のための木材確保のためであったかもしれません。尾背寺も中世は、山岳寺院と多くの修行僧がやってきて書経なども行っていたことが、大野原の萩原寺に保存されている聖教の書き付けから分かるようになっていたようです。
 一泊した翌日、道範は帰路に称名院を訪ね、次のような記録を残しています。
「同(十一月)十八日還向、路次に依って称名院に参詣す。渺々(びょうびょう)たる松林の中に、九品(くほん)の庵室有り。本堂は五間にして、彼の院主の念々房の持仏堂(なり)。
松の間、池の上の地形は殊勝(なり)。彼の院主は、他行之旨(にて)、之を追って送る、……」  (原漢文『南海流浪記』)
 このあと、道範から二首の歌を念々房におくり、念々房からも二首の返歌があったようです。さらに、同じ称名院の三品房の許へこれらの贈答歌のことを書簡に書き送ったようです。三品房からの返書に五首の腰折(愚作の歌)が添えられ届けられています。
ここからは次のようなことが分かります。
①「九品の庵室」は、九品浄土の略で、この寺は浄土信仰のの寺
②念々房と三品房という僧侶がいた。念々房からは念仏信仰の僧侶であることがうかがえる
③三品房の書状には、称名院は弘法大師の建立であるとも記されている。
ここからは、まばらな松林の景観の中に、こじんまりとした洒脱な浄土教の庵寺があり、そこで念仏僧(高野聖?)が、慎ましい信仰生活を生活を送っていたことが見えてきます。以前に見た弥谷寺の念仏僧侶と同じような生活ぶりがうかがえます。
 私も称名院跡で、いろいろと想像してみようとしたのですが、その試みはヤブ蚊たちによってもろくも打ち砕かれたことは、先ほど述べた通りです。
瀧寺について
 道範は、念々房が不在だったために、その足で瀧寺を訪れ、『南海流浪記』に次のように記しています。
「十一月十八日、滝寺に参詣す。坂十六丁、此の寺東向きの高山にて瀧有り。古寺の礎石等處々に之れ有り。本堂五間、本仏御作千手云々」

 『西讃府志』(1852年)には、次のように記されています。
『南海流浪記』ニ宝治2年(1248)11月18日 参詣瀧寺 坂十六町  此寺東向高山有瀧  古寺礎石等庭々有之 本堂五間 本佛御作千手云々 此寺ハ大麻山ナル葵瀧ノアタリニアリシト云博ヘリ
 今ハ何ノ趾モ見エズ 又同書二称名寺卜云フモ載ス 是ハ此山ノ麓ニテ 今地ノ名二残リテ 其趾アリ 
意訳変換しておくと
「南海流浪記」には、1248年11月18日に、称名寺から坂を16丁(1,7㎞)ほど登った瀧寺に参拝した。この寺は、東向きの高山にあり、近くに瀧がある。古寺の礎石が庭に散在している。本堂は五間で、本佛は弘法大師御作の千手観音と云う。この寺は大麻山の葵瀧のあたりにあったと伝えられている。 今はなにも残っていないが、同書には称名寺も載せている。 この寺はこの山の麓にあった寺院で、 今は地名のみが残っている。 

瀧寺のロケーションとしては、称名院から坂道を16丁ほど上った琴平山の中腹で、近くに瀧があると記します。この瀧は「葵の滝」と考えられてきました。本尊仏は、御作とあるので弘法大師作の千手観音菩薩だったとします。金刀比羅宮所蔵の十一面観音像が、この寺の本尊であったとする研究者もいます。そうすると、道範は、千手観音と記しますので、ここには矛盾が出てくるようです。
 「琴平町の山城」は、瀧寺の位置について次のように記します
象頭山頂近くの「葵滝」の位置は、急斜面でとても寺が立地できる所ではない。(中略)
大麻山の東側中腹に東に向って派出した尾根の根元部鞍部を「木戸口」といい、これはその東向き尾根に戦国時代にあっ大麻山城の入口(虎口)のことである。(中略)
 平成12年4月22日(土)私たち5人は「大麻山城」の調査に行った。尾根に到着してから、松田ら三人は城の縄張図を採りはじめたが、私と淀川氏の二人はそれをせず、手持ち無沙汰だったので、「木戸口」そばに「瀧寺跡」の標識があったので、そのあたりをあちこち歩いてみた。「瀧寺」がどんな寺か当時知らなかったもののいわば時間つぶしの呈で歩いてみたのである。しかし寺跡の礎石や瓦なども見つからず、何も収穫はなかった。その辺りはやや平坦地で面積もかなり広く、寺院を建てるには適当な場所だと思った。
  として、大麻山城の「木戸口」の鞍部に「瀧寺」があったと推定します。
道範以後の称名院は、どうなったのでしょうか。
道範が称名寺を訪れてから約150年後の応永九年(1402)に撰集された『宥範縁起』に登場します。宥範は、以前にお話ししましたが「善通寺中興の祖」として、中讃では当時は最も尊敬された僧侶です。そこのころの宥範は、
「嘉暦二年(1327)……小松の小堂に閑居し給へり。」

と、隠退をしようとしていた時期でもあったようです。しかし、その高名・学識のために、それもかなわず、さまざまの仕事や要職に引っ張り出されます。隠居地としていた「小松の小堂」と称名(明)院は、同じ寺内か同義と研究者は考えているようです。なぜなら、『宥範縁起』の後段に次のような同様の記述が見えるからです。
「安祥寺の一流、底を極め、源を尽く給て、販国之後、小松の小堂に、生涯を送り御座す處に、…」

 と、あって宥範は余生を小松の地、なかでも大麻山近辺にある隠居寺で過ごすという意志が見えます。そして、この記述が、金毘羅と宥範を結びつける材料にもなったようです。
金刀比羅宮神饌田 御田植祭
  
   この後は、称名院の名は見えなくなります。
称名院という寺そのものは荒廃してしまい、その寺跡としての地名だけが残ったようです。金刀比羅宮文書中の、慶長十四年(1609)9月6日付の生駒一正の判物に、
  「一 城山、勝名(称名?)寺如前々令寄進候事」

慶長十八年(1613)正月14日付生駒正俊判物に同文、同年同月16日付生駒家家老連署寄進状に、「……勝名寺林……」
 年未詳正月19九日付生駒一正寄進状に
  「照明(称名)寺山……」
 などと出てきます。現在の金刀比羅宮でも、この地を「正明寺神田御田植祭」のように「正明寺」と表記されています。
これらの「しょうみょうじ」は、称名院の遺称地と研究者は考えているようです。
DSC05439

現在「正明寺」と呼ばれる旧地名の盆地状の場所を称名院跡であると町誌ことひらは比定しています。

 称名院を、道範が訪ねたときは、宝治二年(1248)の冬11月でした。
町誌ことひらは、そのころ、法然房の直弟であった讃岐出身の僧侶を紹介しています。京都九品寺の覚明房長西です。長西は、讃岐国三谷(飯山町)の出身で、19歳の時出家して法然房の門下となり、その後に九品寺流の派祖になった人です。29歳で師の法然がなくなると、諸国の高徳の僧を訪ねて行脚を重ね、讃岐を拠点に念仏布教を行います。讃岐での布教の時の弟子に、覚心、覚阿らがいたようです。これらの人々が讃岐で活動していた時期と、道範の配流の時期が一致することを町誌ことひらは指摘します。

 道範は、覚海に学びその門下四哲の一人として不二思想を身につけていたようです。また、真言念仏にも傾倒して『秘密念仏紗』を著し、念仏義も追及しています。つまり、念仏信仰に強い関心を持っていたことがうかがえます。ここからは、先ほど見た称名院の念仏者と道範は、かねてより親交があったと研究者は考えているようです。
 称名院の九品の庵室といい、念仏者といい、九品の浄土を思う浮かべるには、いいロケーションだったのではないでしょうか。彼らが、念仏布教ために法然の配流地である小松荘を選んだとも考えられます。そういう視点で見ると、浄土宗の文書に出てくる「讃岐国西三谷」は、「鵜足郡三谷(飯山町三谷)」か、もしかして「那珂郡三谷(琴平町)」、つまり、称名院かもしれないと研究者は考えているようです。その根拠としてあげるのが石井神社の由緒に、
  「……源朝臣重信、……那珂郡小松庄三谷に城を構へ」

 とあることです。小松庄に三谷という所があって、城を築くに相応しい土地だったようです。その地が後に、寺地となっていたという推理です。
最後に『古老伝旧記』は、称名院について、次のように記します。
当山の内、正明(称名)寺往古寺有り、大門諸堂これ有り、鎮主の社すなわち、西山村中の氏神の由、本堂阿弥陀如来、今院内の阿弥陀堂尊なり。

 ここには、浄土信仰、念仏信仰の寺、西山の氏神としての称名院の姿が見えます。なお、金毘羅の民が氏神として祭ってきていた称明寺(称明院の後身?)の鎮守社が慶長年間(1596~)に廃絶します。それを継承して、旧小松郷五力村の氏神と大井八幡神社に祀ったと伝えられます。称名寺の鎮守社がこのエリアの産土神であったことがうかがえます。

この称名寺の管理権を握ったのが当時の長尾城主の甥である宥雅のようです。
宥雅は、この称名寺を拠点に新たな宗教施設を、この山に創建しようとします。そのために作り出したのが金毘羅神です。これは「綾氏に伝わる悪魚伝説 + インドの蕃神クンピーラ + 薬師信仰」をミックスした新たな流行神でした。これを、この称名寺の上方の岩穴付近に、松尾寺の守護堂として建立します。こうして、称名寺が「下の堂」、金比羅堂が「上の堂」という配置が出来上がります。しかし、それもつかの間、長宗我部元親の讃岐侵入で宥雅は堺に亡命を余儀なくされます。新設された金比羅堂は、南光院という土佐の修験者のリーダーの管理下に置かれることになります。そして、四国の修験道のメッカとして機能していくようになるのです。これは以前にも述べたとおりです。

 最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 
山本祐三「琴平町の山城」
町誌ことひら第1巻 中世の宗教と文化
参考文献


西行1

西行といえば有名な歌人として私の中にはインプットされていました。彼の作品は、のちの連歌師宗祗や俳講師芭蕉の手本となったように、旅を生命とした吟遊詩人でもあったというのが私の西行観でした。
 ところが「西行の本業は高野聖」であったということが書かれた本に出会いました。「五来重 高野聖 13章 高野聖・西行」です。ここには「隠遁性・廻国性・勧進性・世俗性」などの視点からすると、西行は高野聖だと云うのです。その本を見ています。
崇徳院ゆかりの地(西行法師の道) - 平家物語・義経伝説の史跡を巡る
坂出市青海町

西行は、讃岐にもやって来ています。

白峰寺で崇徳上皇の怨霊を鎮めたり、弘法大師が捨身修行したと伝えられる善通寺の我拝師山で庵を結んで、三年近くの山岳修行も行っています。その合間に、記録や歌を残しています。讃岐での生活も、修行よりも、歌の方に関心が向けられることが多いようです。しかし、讃岐への旅も、芭蕉のような風雅の旅ではなく、慰霊の旅であり、四国辺路の聖地での修行であったのです。その余暇に歌は作られていました。
諸国行脚の歌人 西行が歌い歩いた道を行く | わかやま歴史物語

西行が、いつ、どこで、どのくらい修行したのかを、年表化して確認しておきましょう。
保延六年(1140)23歳 出家
久安五年(1149)32歳 高野山入山
治承四年(1180)63歳 高野山退山 
ここからは32歳から63歳まで約30年間を高野聖として、隠遁と廻国と勧進にすごし、その副産物として多くの歌をのこしたことが分かります。
高野山に入るまでの西行の姿を追ってみましょう
西行は出家して2年後の康治元年(1142)二月十五日、内大臣頼長の邸に一品経の勧進にあらわれたことが次のように記されています。
西行法師来りて云ふ。 一品経を行ふに依り、両院以下の貴所皆下し給ふ也。料紙の美悪を嫌はず、只自筆を用ふ可しと。余軽々しくは承諾せず。又余年を問ふ。答へて曰く、二十五、抑も西行は、右兵衛尉義清(のりきよ)也 重代の勇士を以て法皇に仕へ、俗時より心を仏道に入れ、家富み年若くして心無愁なり。遂に以て遁陛す。人之を歎美する也
意訳変換
西行法師がやってきて次のようなことを言った。「一品経の書写を、両院以下の貴所が全て行うことになった。紙の善し悪しにかかわらず、自筆で行うのがよい」と。私は、軽々しく承諾しなかった。そして、西行の年齢を聞いた。二十五歳と答えた。そもそも西行は、佐藤義清(のりきよ)である。彼は、勇士として法皇に仕へながら、俗事より仏道に心を奪われた者である。家は富み、年は若くしながら心は無愁で、隠遁生活を選んだのだ。これを賛美するものが多い。

ここからは次のようなことが分かります。
①西行が勧進僧として活動していること
②当時の年齢が25歳であったこと
③西行の隠遁が、世の中の人々の話題になり、賛美されていたこと
この勧進活動は、大治元年(1126)11月19日に焼亡した鞍馬寺再興のためのものだったようです。その活動の中に、西行の姿はありました。彼は宮中に顔がきいていたので、鳥羽・崇徳両上皇以下の貴族を勧進しています。
 自筆一品経というのは28人の結縁者に法華経二十八品を写してもらい、その供養料をあつめて如法経埋経供養と、別所聖の生活資縁にあてるものです。西行は、この後も東山や嵯峨を転々とします。双林寺・長楽寺・清凍寺・往生院のまわりに群れ集まる念仏聖や、勧進聖たちのあいだに混じって生活していたことがうかがえます。
 『西行物語絵巻』に描かれた彼の寓居は、聖の庵が建ちならんで商人が往き交い、子どもがが遊ぶなど、雑踏の巷です。このとき詠んだとされる歌が以下の歌です。
嵯峨にすみけるに、たはぶれ歌とて、人々よみけるを
うなゐ子が すさみにならす 麦笛の
こゑにおどろく  夏のひる臥
  絵巻には、この歌のように西行が昼寝している姿が描かれています。これは西行を隠者とするイメージではありません。聖は「仙人」ではないようです。それでは食べていけません。俗塵にまじわらなければ生活できなかったようです。出家後に西行は勧進僧になっていました。
西行4
西行 東下りの図

なぜ西行は高野山にやってきたのか
久安五年(1149)に高野山の大搭・金堂・灌頂院が雷火で焼け墜ちます。そして、勧進活動が開始されることになります。そのために、経験のある有能な勧進聖が招かれて、復興勧進にあたることになったようです。このとき西行を高野山にまねいたのは、この大火を目のあたりに見て日記に記した覚法親王(白河上皇第四皇子、堀河天皇の御弟)と、大塔再興奉行だった平忠盛だったと研究者は考えているようです。西行は、高野山と京都とのあいだを往復して、文学の才をもって貴族のあいだにまじわり、高野山の復興助力をすすめたようです。復興の総元締めである平忠盛の西八条の邸に出人りしていたことが記録されています。
 高野山復興のパトロンである平忠盛が亡くなると、その子の清盛のサロンにも出入りするようになります。こうしたサロン活動を通じて、期待された勧進目標を確実に果たしていたようです。そういう意味では彼は優秀な勧進僧であったと云えそうです。
 そして勧進活動の合間には、大峯修行や熊野那智で滝行など、聖らしい苦行も行っています。同時に、大原や東山・嵯峨の聖との往来も重ねます。とくに大原三寂といわれる寂念(藤原為業)・寂然(壱岐守頼業)・寂超(頼業の弟)および西住とは、しばしば歌論や法談をかわしていることが『山家集』にも記されています。生業の勧進、サロン活動、ロマンス、創作活動、修験など、彼の人生は充実したものだったようです。
西行2
天竜川を渡ろうとした西行が武士に鞭打ちされた話 ここでも笈を背負っています

最初にも述べたように、西行の廻国は美化されています。

そのため、一生を旅から旅へ「 一杖一笠」の生涯をおくったように思われがちです。私もそう思っていました。しかし実際には、奥羽旅行、北陸旅行、西国安芸・四国へのほかには、大峯・熊野修行などの旅行があるだけのようです。しかもそれは修行と勧進のための廻国(旅)です。
 その目的に従う限りで「異境人歓待」を受けられたのです。そのためには、高野とか東大寺とか鞍馬寺、長谷寺・四天王寺・善光寺などから出てきたという証明書(勧進帳)と、それぞれの本寺の本尊の写しやお札をいれた笈(おい)を、宗教的シンボルとして持っていなければなりませんでした。
 たとえば東大寺勧進聖には勧進帳が、高野聖には大師像のはいった笈が必需品だったのです。田亀(たがめ)は、笈を負う形に似ているというので、高野聖は「たがめ」とも呼ばれたようです。讃岐にやって来た西行も笈を背負っていたはずです。西行に笈を背負わせていない絵は、歌人としての西行をイメージしているようです。宗教歌人と捉えている作者は、笈を背負わせます。      
西行3

応永20年(1413)の「高野山五番衆一味契状」には、次のように記されています。
   高野聖とりし、空口(=おい)を負ひ、諸国に頭陀せしむ
  笈が高野聖のシンボルになっていたのは、宗教的権威の象徴だったからのようです。
歴史めぐり源頼朝~西行に出会う~

西行の東大寺再興勧進
勧進聖は、一つの寺の専属ではありませんでした。依頼されれば、他寺の勧進におもむいたようです。西行は関わった最も大きい勧進は、東大寺勧進でした。治承四年(1180)12月に平重衡の南都焼打ちによって東大寺は炎上しました。その再建のために重源が大勧進空人に任命され、多数の勧進聖をあつめます。西行は重源に頼まれて、鎌倉と東北の平泉を勧進のために訪れています。これも西行の名声を利用した大口勧進(募金)であったようです。
知って楽しい鎌倉の歴史!駅からスグの史跡めぐり~頼朝公と西行法師の出逢い~ | 神奈川県 - 観光・地域 - Japaaan - ページ 2
西行と頼朝

『吾妻鏡』(文治二年(1186)八月十五日)は、次のように記されています。
二品(頼朝)鶴岡宮に御参詣、而るに老僧一人烏居の辺に徘徊す。之を怖しみ、景季を以て名字を間はじめ給ふの処、佐藤兵衛肘憲清法師なり。今の西行と号すと云々(中略)
則ち営中に招引して御芳談に及ぶ。此間、歌道並びに弓馬の事に就きて、條々尋ね仰せらるる事有り。(中略)
恩問等閑(おんもんなほざる)の間、弓馬の事に於ては具(つぶさ)に以て之を申す。即ち俊兼をして其の詞を記し置かしめ給ふ。絆終夜を専にせらると云々
意訳変換しておくと
将軍頼朝が鶴岡宮に参詣した時のことである。老僧が一人烏居の辺を徘徊している。これを怖しんだ景季が、その名を問わせると、佐藤憲清法師で、今は西行と名乗っていると云う。(中略)
すぐに営中に招き入れて、歓談に及んだぶ。この間、歌道や弓馬の事について、将軍はいろいろと尋ねられた。(中略)それに対して西行は、弓馬の道はみな忘れました。和歌についてもその奥義については私にも分かりませんと答えた。頼朝は西行が気に入って、夜通し話しをした。

 これが有名な頼朝と西行の出会いシーンです。頼朝は西行に鎌倉に滞在するようしきりにひきとめますが、西行は先を急ぐといって平泉に出かけてしまいます。
重源上人の約諾を請け、東大寺析として沙金を勧進せんが為、奥州に赴く

とありますので、奥州平泉旅行が勧進行であったことが分かります。

これには、頼朝が西行に錢別に銀作りの猫をあたえたが、門前の子供にあたえて去ったというエピソードが加わります。西行の無欲さを協調する人もいますが、旅行の荷物になるからと研究者は考えているようです。しかし『吾妻鏡』によると、この銀猫は、義経滅亡のとき平泉で発見されたと記されます。いずれが真か偽か謎が残ります。
 頼朝は、これより先にすでに(米)一万石、沙金 千両、上絹千疋を重源に贈っていましたので、このときには勧進に応じなかったようです。また、奥州平泉でも秀衡は寿永三年(1184)6月に沙金五千両を東大寺に奉加していました。西行の重ねての勧進に応じたかどうかは分かりません。関東・平泉への旅も勧進目的であったことは押さえておきたいと思います。
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西行の世俗性                           
西行の世俗性とは、具体的に妻子がいたのかどうかです。これには、次のようなふたつの見方があるようです。
①歌聖にふさわしく、まったくの清僧であるから、妻子などもってのほかで、歌のなかにあらわれる女性もたんなる文学上の交友にすぎないという立場で、『山家集』に妻子をよんだ歌が一首もないのも、妻子がいなかったことを示すものだ
②妻帯だけはみとめようとする立場
②の立場としては、次のような見解も出されています
「妻子を振り棄てたからには、一向家の事、家族の事を顧みず、直ちに山林に入って関係を絶つのかというとそうでもない。俗縁の者と居を共にせず、僧堂山林に起居して念修するだけのことで、俗縁の家族はやはり家族に相違ないから、時々会見もすれば消息も明らかにしておく」
 また、次のような説もあります。
「僧として、人前に通るまでは、分相応に多少修行をしなければならない。その期間だけは、毎日家庭から弁当をもつて通ふわけにはゆかぬから、妻子の傍を離れるとということはある。西行にもそいう期間が若干はあったろう。しかし、修行が終われば俗縁への出人は自由である」

 これだと「修行中のみの別居で、その後は妻帯可」ということになります。このような俗聖(ぞくひじり)の妻帯は、行基や空也や親鸞がそうであつたように、特殊な階級として許されていたようです。しかし、俗聖では僧位・僧官は、のぞむことができず、本寺からの衣食住の支給もありません。そのため、聖は勧進によって身をたてるほかはなかったようです。当時は「僧」にもいくつかの階級があり、清僧と俗聖の間には、明快な一線があったとしておきましょう。西行は俗聖だったのです。
和歌山県立博物館さん『大西行展~西行法師生誕900年記念』に行ってきました - 百休庵便り

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献 五来重 高野聖 13章 高野聖・西行

   前回は、近世初頭に高野聖たちが四国辺路の札所に定住していく過程を見てみました。今回は、四国辺路にとらわれずに全国の村々に、どのように定着していったのか。また、その結果として何が生まれ、何が残されているのかを見ていくことにします。
テキストは 五来重 高野聖 です。

高野聖の地方定着していく方法のひとつは、荒地の開墾開発です。
越中の中新川郡山加積村(現、上市町)の開谷と護摩堂の二集落は、高野聖による開村を伝える集落です。そして、開谷には踊念仏系の棒踊や太刀踊がのこっています。ここからは踊念仏と高野聖と関係がうかがえます。
越中是安村松林寺の、『文政七年書上帳』には、松林寺の先祖について次のように記されています。

祖先は「高野山雲水知円」という者で、文禄二年(1593)以前に越中砺波郡山田野に小庵をかまえて定住した。このとき神明宮も一緒にまつったが、文禄二年に修験道をまなんで、神明宮の別当になった。宝暦12年(1761)に山号寺号を免許されて、山田山松林寺と称した

ここからは高野聖が修験者に「転進」し、神社の別当社の社僧として定着したことがわかります。
 これとおなじような例は越中高宮村法船寺にもあります。
沙円空潮が、六十余州をめぐって経廻したのち、この寺にはいり住職となったようです。そして、過去帳に「南無大師遍照金剛」と書かれています。注目したいのは、ここでも後に修験道をまなんで氏神の別当を勤めていることです。先の松林寺住職も法船寺住職も明治維新の神仏分離後は、神職に転じています。ここには、次のような流れが見えてきます。

①高野聖→ ②修験道者 →③地域の神社別当職の真言系僧侶 →④明治以後の神職

  また、越中には高野聖のつたえたものとおもわれる踊念仏系の願念坊踊が分布しています。
2016願念坊踊り | 見て来て体験メルヘンおやべ:富山県小矢部市観光協会
越中願念坊踊
 
越中願念坊踊で有名なのは、石動(いするぎ)町(小矢部市)綾子のものです。
ここでは黒衣に小袈裟・白脚絆・白足袋・白鉢巻の僧形の踊り手や、浴衣の下に錦のまわしを締め込んだ踊り手が、万燈梨花傘を立てて踊ります。花笠は二段に傘を立て、音頭取りはその傘の柄をたたいて音頭をとるのは住吉踊とおなじです。楽器は拍子木と三味線です。こうした願念坊踊は婦負郡八尾町付近、上新川郡大沢野町大久保でも行われていたようで、このときには伊勢音頭が謡われたようです。

 伊勢音頭をうたいながら願人坊踊をするところは、長野県下伊那郡天龍村坂部の冬祭です。これの芸能の始まりに、高野聖が関わったと研究者は考えているようです。
願人坊主(がんにんぼうず) : あるちゅはいま日記
「天狗のごり生(しょう)」と呼ばれた願人坊主の大道芸。
「ごり生(御利生)」とは神仏への祈念などに応じて、ご利益を与えること。
願人坊主は手製の鳥居を描いた箱を持ち歩き、鳥居から飛び出した狐の首を伸ばしたり縮めたりして銭を乞うた。

 越中の中新川・婦負・東砺波・西砺波では、祭礼行列に「願念坊」という仮装道化が現れます。
「オドケ」とか「スリコン」、または「スッコン棒」と呼ばれる黒衣に袈裟の坊主頭で、捕粉木やオシャモジやソウケ(宗)をもって道化踊をします。これを「スッコン棒」とも「願人」とも云います。スッタカ坊主やスタスタ坊主は「まかしょ」ともいい、高野聖の異称のようです。また江戸時代には高野聖は「高野願人」ともよばれていました。ここからは、これらの仮装道化も高野聖や願人坊が伝えた念仏踊の道化だったことが分かります。そして、越中砺波地方には、高野聖の碑が各地にのこります。
八郎潟町〉願人踊 ▷エネルギッシュな踊りを繰り広げる | webあきたタウン情報
八郎潟町の願人踊り

願人坊踊は願念坊踊とか道心坊踊ともよばれるもので、もともとは卑猥な踊りをして人をわらわせるものでした。
この「願人」とは鞍馬願人や淡島願人などもいて、有名社寺への代願人(「まかしょ」)たちのことです。願人は、代参人として喜捨をえていたので、高野聖だけをさすわけではありません。しかし近世にはいって、高野山へかえることのできなくなった高野聖の大部分が、願人の群に入っていたようです。その数は相当数にいたことが予想できます。
彼らは、生活の糧を何に求めたのでしょうか。研究者は次のように指摘します。
  門付の願人となったばかりでなく、村々の踊念仏の世話役や教師となって、踊念仏を伝播したのである。これが太鼓踊や花笠踊、あるいは棒振踊などの風流踊念仏のコンダクターで道化役をする新発意(しんほち)、なまってシンボウになる。これが道心坊とも道念坊ともよばれたのは、高野聖が高野道心とよばれたこととも一致する。

地域に定着した高野聖は、村祭りのプロデュースやコーデイネイター役を果たしていたというのです。念仏踊や雨乞踊りなど風流系念仏踊りは、高野聖たちの手によって各地に根付いていったという仮説が示されます。本当なのでしょうか。史料的な裏付けはあるのでしょうか。
住吉踊とは - コトバンク
住吉踊り

『浮世の有様』(『日本庶民生活史料集成』第11巻、三一書房、昭和45年)には、次のように記されています。
躍り(伊勢踊)の手は、願人坊主、手を付て願人躍りの如く、
三味線・太鼓・すりがね等にてはやし、傘をさし、
住吉躍りのごとし

意訳変換しておくと
伊勢踊の手の動きは、願人坊主(高野聖)が(振り付けて)た願人踊りとよく似ている。三味線・太鼓・摺鐘などではやし、傘をさすのは住吉踊りのようでもある。

ここからは、高野聖が関わった願人踊りが、伊勢踊りや住吉踊りの起源になっていることがうかがえます。高野聖たちは「願人」として、風流踊念仏から伊勢踊や住吉踊り、そして住吉踊りの変化した阿波踊までも関係していたことを研究者は指摘します。

住吉踊り奉納2015 : SENBEI-PHOTO
住吉踊り

そのような役割を、どうして高野聖が果たすことができたのでしょうか。
研究者は次のように指摘します。

 高野聖が遊行のあいだに、雨乞や虫送り、あるいは非業の死者や疫病の死者の供養大念仏があれば、その世話役や本願となって法会を主催し、踊念仏を振り付けることからおこったのであろう。

 つまり、雨乞いや虫送りの年中行事や、ソラの集落のお堂で行われた庚申信仰から、死者供養の盆踊りまで地域の人たちの生活に根付いた信仰行事を、新たに作り上げる役割を果たしたのが高野聖であったのです。つまり、僧侶や神主などの宗教者よりも、彼らは庶民信仰に近い位置にいたことがおおきいと研究者は指摘します。

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聖は、仏教が庶民化のために生み出された宗教者のひとつのスタイルでした。

それは仏教の姿をとりながら、仏教よりも庶民に奉仕する宗教活動を優先しました。そのため聖たちは必要とあれば、仏教を捨てても庶民救済をとったのです。これは、求道者とか護法者とかいわれる高僧たちが、庶民を捨てても仏教をとったのとは、まったく正反対だと研究者は指摘します。そのため聖を、仏教のモノサシでとらえようとすると異端的な存在として、賤視さたようです。そしてある意味では、善通寺の我拝師山で修行を行ている西行も勧進聖であったようです。

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聖と庶民をむすぶのは庶民信仰です。
庶民信仰は、教理や哲学などの難しい話なしに、庶民の願望である現世の幸福と来世の安楽をかなえてくれます。庶民信仰を背負って、民衆の間を遊行したのが高野聖だったのかもしれません。彼らは、祈祷や念仏や踊りや和讃とともに、お札をくばるスタイルを作り出します。弘法大師師のお札を本尊に大師講を開いてきた村落は四国には数多くあります。また、高野聖は念仏札や引導袈裟を、持って歩いていました。ここからは、庶民信仰としての弘法大師信仰をひろめたのも、高野聖でした。さらに以前にお話しした庚申信仰も、彼らが庚申講を組織していったようです。

滝宮の念仏踊り | レディスかわにし
滝宮念仏踊り
こういう視点で、讃岐の民俗芸能を改めて見返してみるといろいろと新しい事が見えてきます。
例えば念仏踊りです。現在の由来では、菅原道真や法然との結びつきが説かれています。しかし、これを高野聖によってプロデュースされたものという仮説を立てれば、次のように見えてきます。
①近世において、善如(女)龍王信仰に基づいて真言寺院による雨乞祈祷の展開。それに対して、庶民側からの雨乞行事の実施要求を受けた高野聖(山伏)による雨乞念仏踊りの創始
②宮座中心の祭りに代わって、獅子と太鼓打を登場させ祭りを大衆化させたのも高野聖
③佐文の綾子踊りも風流踊りと弘法大師信仰を結びつけたののも、高野聖

今まで見てきたように、高野聖と里山伏は非常に近い存在でした。

修験者のなかで、村里に住み着いた修験者のことを里山伏または末派山伏(里修験)と言います。村々の鎮守社や勧請社などの司祭者となり、拝み屋となって妻子を養い、田畑を耕し、あるいは細工師となり、鉱山の開発に携わる者もいました。そのため、江戸時代に建立された石塔には導師として、その土地の修験院の名が刻まれたものがソラの集落には残ります。
 高野聖が修験道を学び修験者となり、村々の神社の別当職を兼ねる社僧になっている例は、数多く報告されています。近世の庶民信仰の担当者は、寺院の僧侶よりも高野聖や山伏だったことがうかがえます。


DSC01886

諏訪大明神念仏踊(まんのう町諏訪神社)

高野聖そのものが、神としてまつられた所もあるようです。
 三河の北設楽郡東栄町中在家の「ひじり地蔵」は、ここへ子供を背負った高野聖がきて窟に住んでいたと云います。やがて重病で親子とも死んだので、これを「ひじり地蔵」としてまつるようになります。子供の夜晴きや咳や腫れ物に願をかけ、旗をあげるものがいまも絶えないといいます。
大林寺
 おなじ三河の南設楽郡鳳来町四谷の大林寺の「お聖さま」も、廻国の高野聖が重病になってここにたどりつき、村人がこれを手厚く世話したと伝えられます。童達と仲良くした聖は亡くなる時に次のような話を残します。
「・・私は死んでも魂はこの村に残って、この村の繁栄と皆さんの病気を治してあげます。病気になったら私の名を3べん呼んで下さい。治ったら私の好きな松笠を・・・・・・・・」
 お聖様が亡くなってからも、お聖様の評判は一層高くなり、近郷の村々にまで伝わって行き、お願いに来る人や、お礼参りに来る人でにぎわい、お墓は松笠で埋まってしまう程でした。やがて心ある村人によって聖神(ひじりがみ)としてお祠が建てられ、さらに大林寺の横に聖堂(ひじりどう)が建てられ、参詣者があとを絶たない。
鳳来の伝説(鳳来町文化協会発行)より引用

聖の名を三度よんで松笠をあげてくれれば、いかなる難病も治してあげようと云い残して亡くなったようです。
聖堂(大林寺)
大林寺住職は、この聖のために聖堂を建ててまつり、また神主・夏□八兵衛は、これを「聖神」として祀ったと伝えられます。
聖神宮
昔から高野聖と笠は、深い関係があるので、笠のかわりに松笠をあげて願をかけたようです。
聖堂には松笠がいまでも供えられています。


神としてまつられた高野聖は、四国の土佐長岡郡本山町にいます。
この聖の子孫は本山町の門脇氏で、 一枚の文書が残っています。(土佐本山町の民俗 大谷大学民俗学研究会刊、昭和49年) ここには「衛門四郎という山伏」が出てきます。この人物は、弘法大師とともに四国霊場をひらいた右衛門三郎との関係を語っていた高野聖だったようです。
門脇家に残る「聖神文書」は、これを次のように記しています。
ヨモン(衛門)四郎トユウ
山ぶし さかたけ(逆竹)ノ ツヱヲツキ
をくをた(奥大田)ゑこし ツヱヲ立置
きのをつにツキ ヘび石に ツカイノ
すがたを のこし
とをのたにゑ きたり
ひじリト祭ハ 右ノ神ナリ
わきに けさころも うめをく
わかれ 下関にあり
きち三トユウナリ
門脇氏わかミヤハチマント祭
ツルイニ ヽンメヲ引キ
八ダイ流尾 清上二すべし
    宛字が多いようですが 意訳変換しておきましょう。
衛門四郎という山伏が逆竹の杖をついて、
奥大田へやって来て、 杖を置いて
木能津に着いて、蛇石に誓い 
鏡(形見)を残して 藤の谷へやって来た。
聖が祀ったのは 右ノ神である。
その脇の袈裟や衣も埋めた
分家は 下関にある。吉三という家である
門脇氏の若宮八幡を祀り
井戸(釣井)注連縄を引き、
八大龍王を清浄に祀ることするること
 この聖は奥大田というところに逆竹(さかだけ)の杖を立てたり、木能津(きのうづ)の蛇石というところに鏡(形見)をのこして「聖神」を祀ります。やがてこの地の「藤の谷」に来て袈裟と衣を埋めて、これを「聖神」とまつったと記されています。
 土佐には聖神が多いとされてきました。その聖神は、比叡山王二十一社の一つである聖真子(ひじりまご)社とされてきました。本山町のものは、高野聖が自分の形見をのこして、聖神として祀ったことが分かります。
日吉大社御朱印②(日吉大社上七社権現) | 出逢いは風の中
聖真子(ひじりまご)社のお札

 この衛門四郎という高野聖は、「藤の谷」を開拓して住んでいたようです。かつては、この辺りには焼畑のあとが斜面いっぱいにのこっていたと云います。今ではすっかり萱藪におおわれています。しかし、耕地の一番上に、袈裟と衣を埋めたという聖神の塚と、門脇氏の先祖をまつる若宮八幡と、十居宅跡の井戸(釣井)は残っているようです。

本山町付近では、始祖を若宮八幡または先祖八幡としてまつることが多いので、聖神と同格になります。
若宮八幡は門脇氏一族だけの守護神であるのに対して、聖神は一般人々の信仰対象にもなっていて、出物・腫れ物や子供の夜晴きなどを祈っていたようです。このような聖神は山伏の入定塚や六十六部塚が信仰対象になるのとおなじで、遊行廻国者が誓願をのこして死んだところにまつられます。
 また自分の持物を形見として、誓願をのこすというスタイルもあったようです。それも遊行者を神や仏を奉じて歩く宗教者、または神や仏の化身という信仰からきているのでしょう。聖神は庶民の願望をかなえる神として、「はやり神」となり、数年たてばわすれられて路傍の叢祠化としてしまう定めでした。この本山町の聖神も、一片の文書がなければ、どうして祀られていたのかも分からずに忘れ去られる運命でした。
 川崎大師平間寺のように、聖の大師堂が一大霊場に成長して行くような霊は、まれです。
全国にある大師堂の多くが、高野聖の遊行のあとだった研究者は考えているようです。ただ彼らは記録を残さなかったので、その由来が忘れ去られてしまったのです。全国の多くの熊野社が熊野山伏や熊野比丘尼の遊行の跡であり、多くの神明社が伊勢御師の廻国の跡と研究者は考えています。そうだとすれば、大師堂が高野聖の活動跡とすることは無理なことではないようです。

以上をまとめておくと
①高野山が全国的霊場になったのは、高野聖の活躍の結果であった。
②高野聖は高野山の経済と文化の裏方として中世をささえてきたが、つねにいやしめられ迫害される存在でもあった。
③高野山は真言宗の総本山としてのみ知られているが、かつては念仏や浄土信仰の山でもあった
④日本総菩提所の霊場となった高野山と庶民をつないだのが高野聖であった。
⑤弘法大師信仰は、高野聖が庶民のなかに広めた
⑥官寺的性格の高野山は、「密教教学の山で真言宗徒の勉学と修行の場」であり、庶民にとっては垣根が高く、無縁の存在だった。
⑧一方、高野聖たちは、弘法大師を「真言宗の開祖」というよりも、「庶民の病気を癒やす、現世の救済者」と捉えた。
⑨その結果、聖たちによって高野山は極楽浄土往生をたしかにするところとして納骨供養の山として流布され、弘法大師信仰が広められたた。
⑩近世の高野聖は、地域への定着を迫られ、村々の文化的宗教的行事のプロデューサーの役割を果たすようになる。
⑪それが念仏踊りの風流化、獅子舞の導入、庚申講の組織化などにつながった。
  最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

   参考文献

弥谷寺 高野聖2
 
高野聖
 
江戸時代になると幕府や各藩は、遊行者、勧化僧の取締りをきびしくしていきます。これも幕藩体制強化政策の一環のようです。また民衆側も信長の高野聖成敗以来、高野聖の宿借りを歓迎しなくなります。宿借聖や夜道怪などといわれ、「人妻取る高野聖」などといわれては、それも当然です。高野聖が全国を遊行できる条件は、狭められていきます。
画像 色木版画2

 また、高野聖の中には、もともと高野山に寺庵をもたず、諸国を徘徊する自称高野聖もすくなくなかったようです。また弟子の立場であれば高野山へかえっても宿坊の客代官や客引きをつとめるくらいで、庵坊の主にはなれません。このような立場の高野聖は、村落の廃寺庵にはいって定着し、遊行をやめるようになります。地域に定着した高野聖は、高野十穀雫ともよばれて、真言宗に所属したものが多かったようです。
 近世初頭の四国霊場の置かれた状態を見ておきましょう。
  17世紀後半に書かれた『四国辺路日記』の中で、札所の困難さを次のように記しています。
「堂舎悉ク退転(荒廃)シテ 昔の礎石ノミ残れり」
「小キ草堂是モ梁棟朽落チテ」
「寺ハ在レドモ住持無シ
ここには、かなりの数の寺が退転・荒廃したことが記されています。阿波の状態は以前にお話ししましたが、23ケ寺中の12ケ寺が悲惨な状況で、そこには山伏や念仏僧が仮住まいをしていたと記されます。天下泰平の元禄以後でこの状態ですから、戦乱の中では、もっとひどかったのでしょう。
 例えば永正十(1513)年から元亀二(1571)年には、
①讃岐国分寺の本尊像
②伊予の49番浄土寺の本尊厨子
③土佐の30番一の宮
には落書が残っています。土塀などなら分かりますが、本尊や厨子に落書ができる状況は今では想像も出来ません。そのくらいの荒廃が進んでいたとしておきましょう。そんな落書きの中に
「為二親南無阿弥陀仏
「為六親眷属也 南無阿弥陀仏
「南無大師遍照金剛」
という文字が確認されています。
さらに52番太山寺には、阿弥陀如来像版木(永正11(1512)年があるので、四国辺路に阿弥陀・念仏信仰が入ってきていることがうかがえます。

四国辺路道指南 (2)
四国辺路指南の挿絵
四国辺路への高野聖の流入・定着
そうした時代背景の中で、天正九年(1581)年に 織田信長が高野聖や高野出の僧1382人を殺害したり、慶長11(1606)年に徳川幕府による高野聖の真言宗帰入が強制されます。これがきっかけとなって、高野山の僧が四国に流人してきたのではなかろうかと研究者は考えているようです。
 例えば、土佐の水石老なる遁世者は、高野山から故あって土佐に移り住んだとされます。時は、まさに高野聖にとって受難の慶長11年頃のことです。また、伊予・一之宮の社僧保寿寺の僧侶は、高野山に学んだ後に、四国にやってきたと云います。このように、四国の退転・荒廃した寺院へ、山伏や念仏信仰を持った高野空などが寓居するようになったのではないかと研究者は考えているようです。
四国辺路道指南の準備物

 そして高野山の寺院から四国に派遣された使僧(高野聖を含む?)も、そのまま四国の荒廃した寺院に住みつくようになったというのです。この時期の高野聖は、時宗系念仏信仰を広めていた頃です。高野山を追い出された聖達もやはり念仏聖であったでしょう。彼らにとって、荒廃・退転していた寺院であっても、参詣者が幾らかでもいる四国辺路に関わる寺院は、恵まれていて生活がしやすかったのかもしれません。
四国遍礼絵図 讃岐
四国辺路指南の挿絵地図 讃岐

高野聖による四国辺路広報活動
 彼らは念仏信仰を基にして、西国三十三所縁起などを参考に、今は異端とされる「弘法大師空海根本縁起」などを創作します。それを念仏信仰を持つ者が各地に広め、やがて四国八十八ケ所辺路ネットワークが形成されていくというのが研究者の仮説のようです。
 同時に高野聖は、高野山に住む身として弘法大師伝説も持っていました。弘法大師と南無阿弥陀仏(念仏信仰)は、彼らの中では矛盾なく同居できたのです。こうして勧進僧として民衆への勧進活動を進めた高野聖は、四国辺路を民衆に勧める勧進僧として霊場札所に定住していったとしておきましょう。

四国辺路道指南 (4)
四国辺路指南 弘法大師

ここからは弘法大師伝説や四国辺路形成が身分の高い高僧や学僧達によって形作られてものではないこと、庶民と一体化した高野聖達の手で進められたことが明らかにされます。その際の有力なアイテムが弘法大師伝説だったのでしょう。同行二人信仰や右衛門三郎伝説も、四国遍路広報活動の一環として高野聖たちによって作り出されたものと研究者は考えているようです。
 しかし、高野山の体制整備が進むと末寺である四国辺路の札所寺院でも、阿弥陀・念仏信仰は排除され、弘法大師伝説一色で覆われていくようになります。そして高野聖の痕跡も消されていくことになります。それが四国辺路から四国霊場への脱皮だったのかもしれません。

   最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
ひとでなしの猫 五来重 『増補 高野聖』 (角川選書)
参考文献
五来重 高野聖
武田和昭 四国辺路の形成過程 第二章 四国辺路と阿弥陀・念仏信仰
参考記事


DSC03173

絵巻は四天王寺の沖の海波を、まるで縮緬のしわを一本一本描くように書いています。浪速江の向こうに見えるのが淡路島なのでしょうか。そして、 一遍絵図巻二の緑に染められた高野山の詞書が始まります。
天王寺より高野山にまいり給えり
この山はみね五智を表し、やま八葉にわかれて・・
と読めます。天王寺から高野山へ向かったようです。
どうして、高野山なのでしょうか。
詞書には、次のようにその理由を記します。

一遍絵図 高野山詞書

意訳しておくと
 弘法大師は唐より帰朝した後、狩人の教えに従い三鈷の霊験を古松の枝に訪ね、五輪の鉢を苔むした洞に留めた。そして願力で、己の身を留めた。これは天竺国の釈迦のごとく、わが国においては弘法大師が龍華としてこの世に下りてくることであった。
 また大師は六字名号(南無阿弥陀仏)の印板を残し、汚れた世間のなかで迷い苦しむ衆生のための本尊とされた。そこで、浄土の縁を結ぶために、遙かなる山を分け入り参詣に訪れた。
ここには、前半に高野山が弘法大師の開いた聖山であることが語られ、後半に、その大師との結縁のために訪れたことが記されています。
「弘法大師との結縁」という言葉は、以前に「菅生の岩屋(岩屋寺)」での修行目的の際にも語られたように思います。旅立つ前に、 一遍が菅生の岩屋で行ったことは、修行を繰り返すことで、強靭な体力と「ひじり」としての霊性を得て、「やいばの験者」に己を高めようとすることでした。それは、土佐の女人仙人や弘法大師がかつて行ったことで、大師はその良き先例として捉えられています。一遍はこの二人に「結縁」することで「ひじり」としての神秘な霊性に磨きをかけ、遊行に耐え得る強靱な体力と生命力を得ました。
 岩屋寺の行場には、全国から修験者たちや聖が集まっていたようです。その中には、高野山の念仏聖などもいたでしょう。また、熊野行者もいたはずです。彼らからの情報を得て、高野山・熊野に詣でるというプランが 一遍には伊予を旅立つときにはあったのではないでしょうか。
高野山を巡る | 高野山真言宗 総本山金剛峯寺

  以前にもお話ししたように中世の高野山は、浄土信仰の中心地でもありました。それを広めたのが高野聖たちです。彼らの果たした役割を挙げると
①高野山を弘法大師が入定する日本の総菩提所であると全国に広めた
②各地で浄土信仰と念仏を勧めた。
③このとき弘法大師の六字名号(南無遍照金剛)を賦算した
①②については、高野山をはじめ、善光寺・四天王寺・熊野は、古代から葬送の霊山だったようです。高野山は融通念仏聖や勧進聖が集まり、全国各地の霊山を廻る拠点でもありました。その僧侶集団の一群の中に、若き日の 一遍もいたということになります。そういう意味では、一遍も念仏聖の一人であったと言えるのかもしれません。

③については、最初の遊行地である信州善光寺は、生身の阿弥陀仏が本尊でした。そして本尊の三仏の分身といわれる宝印三判を捺した御印文を賦算して、極楽往生の保証としていたことは以前にお話ししました。一遍も、これらにならい賦算を行ったと研究者は考えているようです。

  それでは、この詞書をもとに絵師がどのように絵画化したかを見ていくことにします。
『聖絵』巻二第四段の高野山です。
一遍絵図 高野山伽藍図

  山上の金堂付近の主な建物が、忠実に描いていると研究者は考えているようです。
①左側に、七間五面の入母屋造りで朱塗りの建物が金堂で、正面に一間の向拝が付けられています
②金堂の後の五間四面の建物が潅頂堂、
これも檜皮葺の入母屋造で丹塗の柱や勾欄(こうらん)が映えて美しさを増しています。
③その前の方三間の宝形造りの堂が弘法大師をまつる御影堂
 その前に、架台で囲まれた松が詞書に「狩人の教えに従い④「三鈷の霊験を古松の枝に訪ね」と書かれていた三鈷松のようです。
⑤三鈷松の右の二つの建物は、薬師堂と「?」です。両方とも格子のついた檜皮葺の立派な建物です。
⑥その右が鐘楼
⑦堂舎手前では、桜が幹を左にくねらせ木棒が下から支えています。

ここで気になるのがまたしても「桜」です。
伊予松山を出て、ここまでの行程と桜の関係を見ておきましょう。
①2月8日に松山を発ったときには周囲は枯れ野原でした。
②伊予桜井(今治)を出発する時には、桜が満開です。
③大阪浪速の四天王寺の桜も満開でした
④高野山の山桜がまだ見えます。
つまり、②③④と桜が画面を飾ります。
   一遍は高野山に続き六月初旬に熊野を訪れたと詞書には書かれています。そのため、高野山参詣は5月頃とされます。高野山が山の中で桜の開花が遅いとしても、5月まで山桜の花が残ることは考えられません。高野山の桜は、季節を表すために描かれたのではなく、やはり宗教的・思想的な意味をもった象徴的なものと研究者は考えているようです。
  先の金堂に続く部分です。
DSC03176

金堂の後ろには、高野山のシンボルである大塔が建ちます。
この塔を修理した平清盛が夢のお告げで安芸守に出世したと伝えられます。金銅の相輪・露盤・風鐸などが輝く美しい多宝塔です。多宝塔は真言密教のシンボルタワーとして普及し、四国霊場のお寺さんも競うように、この塔を建てるようになります。
塔の手前前方には、鐘楼がもうひとつ見えます。
一遍絵図 高野山伽藍模写

江戸時代に書かれた模写になります。
その左側は、山また山の深山奥山のたたずまいです。
弘法大師の霊地であることを示しているのでしょう。
そして、この奥に奥の院は描かれています。
DSC03177高野山奥の院

奥院まで続く参道は、縦の構図で描かれています。
参道の両脇に立ち並ぶのは石造の長い卒塔婆のようです。画面手前の小川に橋が架けられています。この川があの世とこの世の結界になるようです。今の「中橋」になるようです。 
世界遺産高野山・奥の院(ガイド案内)めぐり – 京都さくら観光

中橋を渡り参道を登ると広場に抜け、入母屋造りの礼堂に着きますす。
一遍絵図 高野山奥の院2

その奥の柵の向こうに、方三間の方形作りの建物があります。これが弘法大師の生き仏を祀る廟所のようです。周りには石垣や玉垣がめぐらされ、右隅には朱塗りの鎮守の祠が建ちます。廟所の周りにいるのは烏たちです。カラスは死霊の地を象徴する鳥です。

 この絵からは高野山の弘法大師伝説の定着ぶりが確認できます。
しかし、 一遍たちの姿はどこにあるのでしょうか。礼堂の右側の二人の人物でしょうか。高野山は女人禁制なので、超一たちは上がってこれなかったはずです。 一遍だけが参籠したのでしょうか。しかし、高野山の場面のどこを探しても、これが 一遍だと確信を持って指させる人物はいないように思えます。
 
 一遍の死後、高野聖たちの時衆化が急速に進みます。
そして高野聖はすべて、時宗の聖になったとまで云われるようになります。その背景に何があったのかを最後に見ておくことにします。

高野聖とは - コトバンク
高野聖

平安時代中期に阿弥陀仏信者たちが、高野山の小田原谷に住んだのが高野聖の祖といわれています。当時は末法思想を背景に、南無阿弥陀仏と唱えることによって西方浄土から阿弥陀が迎えに来て浄土へといざなってくれるされた時代です。そのような中で、鎌倉初期にやって来た明遍が蓮花谷聖を組織し、高野山と極楽浄土との結びつきを説いて廻るようになります。
 次いで五室(ごむろ)聖、萱堂(かやどう)聖という聖集団が現れ、高野山における聖の勢力はますます大きくなっていきます。こうして、念仏が高野山本来の真言密教を圧倒する勢いになっていったようです。
 さらに高野山が北条政子を通して鎌倉幕府と密接な繋がりを持つようになると、武家社会の新しい仏教、禅宗も入ってきます。高野山は、寛容に他宗を受け入れたようで、宗派を超えた霊場となっていきます。
  一遍がやってきたのは、この時期のことになります。
一遍の高野山参籠がどのような影響を与えたのかはよく分かりません。しかし、千手院谷で称名念仏を始め念仏化をさらに進めたとされているようです。一遍後も、その教えを受け継ぐ千手院聖(時宗聖)は、その勢力を拡大し、聖集団の時宗化が進みます。こうして、高野聖の時宗化が完成します。
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 そうなると高野聖は、かつての道心と苦行と隠棲をすてるようになります。そして遊行と勧進を中心に賦算と踊念仏で諸国を廻り、高野山の信者を獲得するという方法に活動方針を転換します。
観照 京都国立博物館 特別展「国宝一遍聖絵と時宗の名宝」 | 遊心六中記 - 楽天ブログ

なぜ高野山の聖集団が時宗化したのでしょうか。
 時宗聖の勧進形態が当時の世の中にマッチしたからと研究者は考えているようです。そのために、他の高野聖が、時宗の勧進方式を採用し、結果として時宗の聖となったというのです。

しかし、これはマイナス面も現れてくるようになります。
念仏踊りが庶民の要求に応えて、娯楽的・芸能的色彩が強くなると俗悪化していきます。高野聖の中にも、信仰を隠れ蓑にして不正な商売をしたり、女性との噂を起こすものも現れ、
「高野聖に宿貸すな 娘とられて恥かくな」

などと世間で言われるようになる始末です。
さらに戦国時代の動乱の中で、今までのようような勧進活動が出来なくなった高野聖の生活は困窮します。そのため商聖化して呉服聖とよばれたり、貼り薬や薬などを売る聖も現れます。

このような中で、高野山では真言密教の「原理主義」運動が起こり、聖の念仏や鉦の音に対して異論を唱えるようになります。その結果、総本山金剛峯寺は高声念仏、踊念仏、鉦叩きなどを禁止します。こうして高野聖は拠点としての高野山から追放される事態になります。

高野聖の廃絶のきっかけとなったのが、信長の高野攻めだとされます。
摂津伊丹城主荒木村重は、織田信長に背き有岡城(伊丹市)に立て篭もり、一族や家来を置き去りにしたまま逃亡しました。信長は裏切り者村重に対する報復に過酷な刑罰で臨みます。女房衆を尼崎にて処刑、召使の女や子供、若衆など500人余を4軒の家に閉じ込めて火をつけ、さらに村重の一族など30余名を洛中引きまわしの後、六条河原で斬首しました。
この時、村重の家臣5名が高野山に逃れ、これを追ってきた信長勢30余人を高野山は皆殺しにしました。これに激怒した信長は畿内近国を勧進していた高野聖千数百人を捕え処刑し、織田信孝を総大将として高野山攻撃を開始します。しかし、その最中に信長は本能寺で明智光秀に討たれ、織田勢は撤退を余儀なくされました。
 江戸期、徳川幕府の命令による真言帰入令で、高野山創建時の空海の教え、真言密教にもどることや聖の定住化が図られ、やがて時宗高野聖は姿を消していきます。
 以上、最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献
五来重 高野聖
 一遍上人絵伝 日本の絵巻20 中央公論社

 昔話が親から子へ、そして孫へと伝えられている間は、大きな変化や改編は行われません。しかし、外部からやって来た半俗半僧の高野聖たちの手にかかると、おおきなリメイクが行われることがよくあります。四国では四国辺路(遍路)のためにやってきた高野聖たちが昔話を縁起化・教説化がして、仏教布教のため寺の縁起として利用していたようです。そんな例として、志度寺の縁起を見てきました。
今回は志度寺縁起の創作や広報伝播に関わった高野の念仏聖たちに焦点を当ててみたいと思います。
 
志度寺の7つの縁起を呼んでいると、寄進・勧進を進め、寺の経済を支えた下級の聖たちがいたことが見えてきます。
例えば、仏教的な「作善(善行)」を民衆に教えることによって、蘇生もし、極楽往生もできると説いています。
「白杖童子蘇生縁起」を見てみましょう。
山城国(京都)の淀の津に住む白杖という童子は、馬を引いて駄賃を貰い貧しい生活をしていた馬借であった。妻も子もない孤独な身の上で世の無常を悟っていた。心ひそかに一生のうち三間四方のお寺を建立したいとの念願を抱いて、着るものも着ず、食べるものも食べず、この大願を果たそうとお金を貯えていた。
 ところが願い半ばにして突然病気でこの世を去った。冥途へ旅立った童子は赤鬼青鬼につれられ閻魔庁の庭先へ据えられた。ご生前の罪状を調べているうち「一堂建立」の願いごとが判明し、王は感嘆して

「大日本国讃岐国志度道場は、是れ我が氏寺観音結果の霊所也。汝本願有り、須く彼の寺を造るべし」

 こうして童子は、蘇生の機会を得てこの世に生還する。その後日譚のあと、童子は志度寺を再興し、極楽に往生したというのがこの縁起あらましです。
この縁起はどんな時に、どんな場所で語られていたのでしょうか?
 まず考えられるのは、志度十六度市などの縁日に参詣客の賑わう中、縁起絵を見せながら絵解きが行われていたのではないかと研究者は考えているようです。
 囚果応報を説くことは、救いの道を説くことと同時に、志度寺に対する寄進・勧進などを促しています。前世に犯したかも知れない悪因をまぬかれる(滅罪)ためには、仏教的作善が求められます。それは
「造寺、造塔、造像、写経、法会、仏供、僧供」

です。ここでは造寺という大業を果たした白杖童子を語ることで、庶民にもそうした心を植えつけ、ささやかであっても寺に寄進するようすすめるのがこの物語のドラマツルギーのように思えます。こんな説教を聞いて、人々は今の禍いや来世の地獄の責苦からのがれるために「作善」を行おうと思うようになったのでしょう。こうした話を、寺院の修造建築のために村々に出向いて説いて勧進して歩きまわった勧進僧(唱導聖)が、志度寺周辺に数多くいたようです。
志度寺縁起の「阿一入道蘇生縁起」を見てみましょう
伏見天皇の文保元年(1317)に阿一は急死します。ところがその日のうちに蘇生して冥土から帰ってきます。その理由は閻魔王宮に到着した阿一が
「偏に念佛申、後世菩提の勤を営みたらましかば、観音の蓬台に乗して、極楽へこそ参べきに、世にましはり妻子脊属をはくくまんとせしほどに一生空く茫々として夢幻のことく馳過にき」

と閻魔様に述懐したためです。
 この姿を見た琥魔大王は
「汝十八日夜、志度道場三ヶ年よりうちに修造仕覧と起請文書たるか」
「讃岐国志度道場は殊勝の霊地我氏寺也。彼堂を三ヶ年よりうちに修造せむと大願を立申さは、汝を娑婆へ帰し遣へし」
 と、今後三年間で志度道場(寺)の本堂修造の起請文書を閻魔様に差し出し、娑婆(現世)に送り帰らされることになります。こうして、阿一は現世に帰り、寺の修復にあたることになります。
 ここから分かることは、閻魔様は、阿一は荒廃した志度寺の修造に当たらせるために蘇生させたのです。その裏には寺を修造するという仏教的作善があります。それが復活の機会を与えることになったようです。
先ほどの縁起の中には「讃岐国志度道場は殊勝の霊地我氏寺也」と書かれていました。志度寺は「閻魔大王の氏寺」だというのです。そのため「死(渡)度寺」とも書かれていたようです。
 志度寺は、死の世界と現世との接点で、海上他界観にもとづく補陀落信仰に支えられた寺であったようです。この寺の境内では6月16日には、讃岐屈指の大市が立ち、様々なものが集まり取引されました。陸路だけでなく瀬戸内海にも開けていたために、対面の小豆島から舟で農具を初め渋団扇、盆の準備のための品々を買い求めにやって来ました。島では、樒(しきみ)の葉を必ず買い求めたと云います。志度寺の信仰圈は小豆島にまで及び、内陸部にあっては東讃岐全域を覆っていたようです。特に山間部は、阿波の国境にまで及んでいました。
 盆の九日に、志度寺に参詣すると千日参りの功徳があると信じられていました。
さらに翌日の十日に参ると「万日参りの功徳」があると云われていたようです。この時には、奥山から志度寺の境内へ樒(しきみ)の木を売りに来るソラ集落の人たちたくさんやってきました。参詣者はこれを買って背中にさして、あるいは手に持って家に戻って来ります。これには先祖の霊が乗りうつっていると信じられていたようです。海から帰ってくる霊を、志度寺まで迎えに来たのです。帰り道に、霊の宿った樒を地面に置くことは御法度でした。樒は盆の間は、家の仏壇に供えて十五日が来ると海へ流します。先祖を再び海に帰すわけです。ここからも志度寺は「海上他界信仰」の寺で、先祖の霊が盆には集まってくると信じられていたことが分かります。まさに「死渡」寺だったのです。

「死者の渡る寺」をプロデュースしたのは、どんな集団だったのでしょうか
  それが高野聖だったようです。高野山といえば真言密教の聖地という先入観があります。もちろん、そうなのですが高野聖の長い歴史から見ると、中世の高野山は「日本随一の念仏の山」でした。納骨と祖霊供養によって「日本総菩提所」に仕上げたのが高野聖だったと研究者は考えているようです。 四国霊場の志度寺や弥谷寺や別格霊場の海岸寺も死者が集まる寺という共通性があるようです。高野聖が死霊の集まる四国霊場の寺やってきたのは、彼らがもっとも得意とした「滅罪生善」のために遺骨を高野へ運ぶためでした。

 高野聖の廻国は有名で、研究者の中には「歩く宗教家」と呼ぶ人もいます
その行装は「高野檜笠に脛高(はぎだか)なる黒衣きて」と『沙石集』にしめされたような姿で遊行し、関所通行御免の特権ももっていました。
 時宗の遊行聖は、旅に生き旅に死するのを本懐とし、一遍の跡を辿るものが多かったようです。六十六部の法華経を全国六十六か国の霊場に納経する六十六廻同聖も、減罪を目的に全国を回遊します。
  崇徳上皇の霊を慰めるために讃岐にやって来たと云われる西行も、「高野聖」です。
彼の讃岐行は、遊行廻国の一環とも考えられます。白峰寺参拝後には、空海の修行地とされる善通寺背後の五岳・我拝師の捨身瀧で3年も暮らしているのは、空海生誕の地で山岳修行を行うと共に、高野聖としての勧進の旅であったと研究者は考えているようです。
 観音寺に、やってきて長逗留した宗祗の旅も連歌師が時宗聖の一種であったことに行き当たると「ナルホドナ」と納得がいきます。
清涼寺の勧進聖人であった嵯峨念仏房の勧進願文には、「念仏者は如来の使なり」と記されます。
 中世は、村人は遊行聖が村にあらわれるまでは、先祖や死者の供養とか、家祈祷(やぎとう)・竃祓(かまどばらい)すらできなかったのです。専門教育を受けた宗教指導者は村にはいませんでした。そんな中に、遊行の聖が現れれば排除されるよりも、歓迎された方が多かったようです。
こうして、死者が集まる霊山・寺院には高野山からやってきた聖達が住み着くようになります。
そして、その寺を拠点に周辺村々への勧進活動を展開していきます。さらに中世末期から近世初頭にかけて、集落にあった小堂や小庵への遊行聖が住み着き定着がはじまります。現在の集落や字ごとに寺院ができる根っこ(ルーツ)のようです。
志度寺や弥谷寺に住み着いた 「聖」は、どんな人たちだったのでしょうか?
  空也以後の聖は念仏一本と、私は思っていたのですが、そうではないようです。確かに法然・親鸞・一遍が主張した専修念仏では法華経信仰と密教信仰は否定されます。そして、念仏だけを往生への道として念仏専修が王道となります。しかし、それ以前の、往生伝や『法華験記』に出てくる聖は、法華経と念仏を併せて修める者が多かったようです。さらに、これに密教呪法をくわえて学ぶ者もいました。法然とその弟子たちの信仰にも、戒律信仰や如法経(法華経)信仰が混じり合っていたと研究者は指摘します。高野聖の中には念仏と密教を併せて学ぶものが多く、修験行道と念仏は、彼らの中では一体化したものだったようです。

高野の聖は、志度寺をどのようにプロデユースしたのか?
高野聖たちがまずやらなければならなかったことは、勧進にのために知識(信仰集団)を組織し、講を結成して金品や労力を出しあって「宗教的・社会的作善」をおこなうことの功徳(メリット)を説くことでした。その反対に勧進に応じなかったり、勧進聖を軽蔑したためにうける悪報も語ります。奈良時代の『日本霊異記』は、そのテキストです。
 唱導の第1歩は、
志度寺の縁起をや諸仏の誓願や功徳を説き、
釈尊の本生(前世)や生涯を語り、
高僧の伝記をありがたく説きあかす。
これによって志度寺のありがたさを知らせ、作善に導いていく導入路を開きます。一般的には『今昔物語集』や『沙石集』が、このような唱導のテキストにあたるようです。
第2のステップは、伽藍造営や再興の志度寺の縁起や霊験を語ることです。
縁起談や霊験談、本地談あるいは発心談、往生談が地域に伝わる昔話を、「出して・並べて・くっつけて・・」とアレンジして、リニューアル・リメイクします。これらの唱導は無味乾燥な教訓でなく、物語のストーリーのおもしろさとともに、美辞麗句をつらねて人々を魅することが求められます。これが7つの志度寺縁起になるようです。
 しかし、元ネタがなければ第1話の本尊薬師如来の由来記のように、長谷寺のものをそのまま模倣するという手法も使われます。高野聖にとって、高野山に帰れば全国のお寺の情報を得ることが出来ました。先進実践例や模範由来記があれば、真似るのは当然のことです。これも文化伝播のひとつの形です。
 志度寺の海女の玉取伝説は、日本書紀に出てくる阿波の記事をリメイクしたものであることは前回お話ししました。これは出来の良い縁起っもの語りになりました。息子の栄達のために命を捧げる物語のというテーマは「愛と死」です。これほどドラマティックな要素はありません。この2つの要素を聖たちは、壮大な伝奇的構想のなかに織りこむことによって、志度寺の縁起物語を創作したのでしょう。出来が良い説経は、能や歌舞伎、浄瑠璃に変化して世俗的唱導と姿を変えていきます。これを語ったのは放浪の盲僧や山伏や、社寺の勧進聖たちでした。その際に唱導は、文字で伝えられたのではありません。語り物として口から耳へという伝えられたのです。そこでは自然と、語り口に節がつけられ、聞くものを恍惚をさせる音楽的効果が伴われるようになります。これが「説経の芸能化」なのでしょう。
縁起物語のもう一つの方向性は、軍記物(合戦談)です。人間の死ほどドラマティックなものはありません。また庶民は勇士や豪傑の悲壮な死や、栄枯盛衰に興味は集中していきます。その結果、生まれるのが『平家物語』とか『源平盛衰記』です。この一連の作業工程に、大きく関わったのが高野聖たちではなかったのかと私は考えています。

最初に思っていた方向とは、だいぶんちがう所へ来ていましたようです。今回はこのあたりで・・
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
谷原博信 讃岐の昔話と寺院縁起
五来重  高野の聖

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