瀬戸の島から

カテゴリ: 讃岐の雨乞信仰


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佐文賀茂神社での練習風景

綾子踊りの概要は次のような流れです。

 薙刀持と棒持が中央に進み出て、口上を述べて薙刀と棒を使い、次いで地唄が座につき、芸司が口上の後歌い出し、踊りが始まります。

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賀茂神社への奉納

芸司は先頭で「日月」を書いた大団扇をひらかして踊り子踊、大踊、側踊の踊り子が並んで踊ります。踊り場の周囲を棒で垣を作り、四方には佐文村雨乞踊と、昇龍と降龍の幟の旗をおし立てた中で、「水の踊り」 「四国船」 「綾子踊」「小津々み」「花寵」 「鳥寵」「たま坂」「六調子」「京絹」「塩飽船」「忍びの踊」「かえり踊り」の十二段の地唄が歌われます。

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佐文綾子踊 芸司と太鼓

囃子は、太鼓、笛、鉦、鼓、法螺貝であって、シンプルで単調な踊りが続きます。ただ眺めていると変化もなく単調で眠くなってきそうです。

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佐文綾子踊(賀茂神社にて)

しかし、伝わる歴史を紐解くと節ぶしに、村人の雨乞いの悲願がこもり、天地の神がみにひと露の雨を降らせ給えと祈る心がにじみ出てくるようにも思えます。終わりに近づくにつれて、テンポが少しは焼くなり踊りは早くなります。

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佐文綾子踊の芸司と小踊り(佐文賀茂神社にて)
  
 尾﨑清甫の残した「綾子踊由来記」には、その由来について次のように書かれています 。

綾子踊り由来昭和14年版
綾子踊之由来記(尾﨑清甫文書 昭和14年版) 
夫れ佐文雨乞踊と称えるは 古昔より伝来した雨乞踊あり 今其の由来を顧るに 往昔佐文村が七家七名則四十九名の事 其頃干ばつ甚だ敷 田畑は勿論山野の草木に到る迄 大方枯死せんと万民非常に困難せし事ありき 
当時当村に綾と云う人あり 
或日一人の①聖僧あり 吾れ衆生済度の為め 四国山間辺土を遍歴する者なるが何分炎熱甚だ敷く 焼くが如くに身に覚ゆ 暫時憩はせ給えとて彼の家に入り来る 綾は快く之を迎え 涼しき所へ案内して

綾子踊由来記 それ2
綾子踊之由来記(尾﨑清甫文書 昭和14年版)
茶などを進めたるが僧は歓びて之を喫み給いつつ 四方山の噺の内彼の僧は、此旱魃甚だ敷く各地とも困難の折柄当家の水利は如何がと尋ねられし故綾は自分の家には勿論困難なるが 当村としても最早一杓の水さえ無く空しく作物を見殺しにするより外に詮術なし 誠に難儀至極に達し居る旨を答たるに僧は更に今雨が降らば作物は宜布乎(宜しいか)と問わるる故綾は今幸い雨降りたらば作物は申すに及ばず、万民の為喜は何と喩え難き旨を答えたるに 僧は我れ今雨を乞わんと曰ければ 綾は之を怪み 如何程大徳の僧と雖も此の炎天に雨を降らす事は六ヶ敷(むずかし)く想と申しければ 僧の申さるるには如何に炎天なりと雖も 今我言う如く為せば 雨降る事疑いなしとの言なれば綾が貴僧の言は如何なる事なるか 出来得ずんば 何なりとも貴命に従う可しと②僧の曰く龍王に雨乞いの願をかけ踊をすれば雨降る事疑いなし。而して其の踊りをするには多くの人を要する故 村内にて雇い来たれとの言に
綾は命の通り人を雇わんと 所々を尋ね廻りしも干ばつの折とて何れも力の及ぶ限り田畑

綾子踊由来記 夫レ版3

作物の枯死を防ぐに忙しく 各家とも不在なれば帰りて其の由を報じつれば僧は更に 然らば此の家には小児幾人なりしやと問わるる故 綾は六人ありと答えければ 然らば其の児六人と汝等夫婦と我れと九人踊るべし 只此の外に親族の者を雇い来たれとの事に 綾は一束奔に兄弟姉妹合わせて四五人呼びたれば、僧は吾先ず立ちて踊る故に 汝等ともに踊るべしとて踊り始め愈々二夜三日の結願の日となりたるとき 僧の言わるるには蓑笠を着て団扇を携えて踊るべしとの言なる故 綾はあやしみ此の炎天に今直に雨降る事など有間敷く 蓑笠とは何の為ぞと中しつれば 僧の言わるるには否決して疑うべからず先ず踊れ而して踊り最中にして雨降り来りとて決して止めるべからず 若し踊りを中止するときは雨人いに少なし故に蓑笠を着して踊り 雨降り来りと雖も踊り終るまで止めることなく大いに踊れとの言いに 綾は仮令如何程の大雨降り来ればとて決して中止申さずと答えければ 先ず小児六人を僧の列におき ③僧自ら芸司となりて左右には綾夫婦を置き 親類の者に
綾子踊由来記 夫レ版4

太鼓鉦を持たせ其の後に置き 地歌を歌つて大いに踊りたるが 不思議なる哉 踊り央(なかば)にして一天俄に掻き曇り 雨しきりに降り来れば一同は歓喜の声諸共に踊りに踊りたり 雨亦次第に降りしきり篠突く如く大雨の音や、鉦の響きと相和して滝なす如く 勇ましさいわん方なく遂には山谷も流れん計りなりき 茲に踊りも堪え難くなりぬれば太鼓の音は次第に乱れ 終りの一踊りは唯急ぎ急ぎにて前後を忘れ 早め早めの掛声にて人いに踊りに踊りたり 此の雨ありたれば四方の人々馳せ来り 
 我も踊り彼も踊れと四方に立囲い踊りたり 此の因縁に依りて昔も今も側踊りの人数に制限なし 誠に善女龍王の御利生は何に喩えんものもなし
 唯勿体なし恐れ多き事となり 而して綾親子の者は踊り踊りて後に人聖僧に向い 歌または踊りの意味等を詳しく教え給えと乞いつれば 僧は乃詳しく教授し終えて将に立ち帰らんとせられ 綾及び小児等の名残りを惜しむ事尚乳児の慈母に離るるが如しければ 僧いとも哀に思われ 吾れ去りたるとても決して悔ゆる
綾子踊由来記 夫レ版5

事勿れ若し末世に到り如何なる干ばつあるとも 一心に誠を籠めて此の踊りをなせば必ず雨降るべし 然れば末世までも露疑わず 干ばつの時には一心に立願し此の雨乞いを為すべし 此の趣き末代まで伝えよと言い給いて立ち去り 
 後を見送り姿は霞の如く見えけん 因りて彼の聖僧こそは弘法人師なりと言い伝え深く尊び崇めけり 佐文綾子の踊りと言うは此の時より始まりたることにて世人の能く識る所なるが 干ばつの時には必ず此の踊りを行うを例とせり 而して綾子の踊りと称える名も此の因縁によりて名付けられしものなりと云う。
十郷村人字佐文
  尾崎 清甫    写之 印

意訳変換しておくと
佐文村に佐文七名という七軒の蒙族、四十九名がいた。昔、千ばつがひどく、田畑はもちろん山野の草や木に至るまで枯死寸前の状況で、皆がても苦しんでいたこその頃、村には綾という女性がいた。ある日、仏道によって、生きとし生けるものすべてを迷いの中から救済し、悟りを得させようと、四国を遍歴する僧がやって来た。僧は、暑いので少し休ませてもらいたいと、綾の家に入った。綾は快く僧を迎え、涼しい所へ案内をしてお茶などをすすめた。僧は喜んで喫み、色々と話をした。その中で、一千ばつがひどく、各地で苦しんでいる状況だが、綾の家の水利はどううかと尋ねられたので、綾は、「自分の家ももちろん、村としても一杓のよも無いひどい状況で、作物を見殺しにするしかない。本当に苦しい」と答えた。
すると僧は、「今雨が降ったら、作物は大丈夫になるか」と尋ねたので、「今雨が降ったら、作物はもちろん人々は喜ぶでしょう」と綾はと答えた。その答えに僧が「私が今、雨を乞いましょう」と言うので、綾は怪しみ、「いくら大きな徳がある僧でも、この炎天下に雨を降らせるのは無理と思います」と答えた。すると僧は、「今、私の言うようにすれほ、雨がが降ること間違いなしです」と言うので、綾は「できる限りやってみます」と答えた。僧は「龍王に雨乞いの願をかけ、踊りをすれば、間違いない。この踊りをするには多くの人が必要なので、村中の人たちを集めなさい」という。
 そこで綾はあちこちと田津根香寺歩いたものの旱魃から作物を守ろうとするのに忙しく、だれも家にはいない、帰ってきた綾が、誰もいないことを倍に話すと、「では、この家には何人子どもがいるか」と尋ねた。「六人」と答えると、「ではその子六人と綾夫婦と私の九人で踊りましょう。その他親族を集めなさい」と言う。綾は、走って兄弟姉妹合わせて四・五人呼ぶと、僧が「まず私が踊るので、皆も一緒に踊りなさい」と踊り始めた。二夜三日踊って、結願の日となっても雨は降りません。なのに僧侶は「今度は蓑笠を着て、団扇を携えて踊りなさい」と言う。綾は「この炎天下に雨が降るわけでもないのに、蓑笠は何のためですか」と怪しんで訊ねます。
「疑わず、まず踊りなさい。そして踊っている最中に雨が降っても、踊りを止めないこと。踊りをやめると、雨は少なくなるので、蓑笠を着て踊り、雨が降っても踊りが終わるまで止めずに、大いに踊りなさい」と僧は云います。綾は「例えどんな大雨が降っても、決してやめません」と答えた。まず子ども六人を僧の列に並べ、僧自らが芸司となって左右に綾夫婦を配置しました。親類の者には大鼓、鉦を持たせてその後ろに配し、地唄を歌つて大いに踊った。すると、不思議なことに、踊りの半ばには一天にわかに掻き曇り、雨が降り出したのす。 みんなは歓喜の声を上げながら踊りに踊った。雨は次第に激しくなり、雨音が鉦の響きと調和して、滝のように響きます。ついには山谷も流れるのではないかと思う程の土砂降りとなり、踊るのも大変で、太鼓の音も次第に乱れていきました。終わりの一踊りは、急いでしまい前後を忘れ、早め早めの掛け声の中で大いに踊った。・降雨に四方の人々が馳せ参じ、誰もかれもが四方で囲うように踊った。こういった経緯があり、昔も今も側踊りの人数に制限はない。
善女龍王の御利生は何物にも代えがたい、ありがたく恐れ多いこととなった。

踊りが終わってから、歌や踊りの意味などを詳しく教えてもらいたいと僧に乞うと、詳しく教えてくれ、帰ろうとした。綾や子どもたちが、赤ん坊が母親から離れがたいように名残を惜しむようすを見て、僧は心動かされ、「今後どのような千ばつがあっても、 一心に誠を込めてこの踊りを行えば、必ず雨は降る。末世まで疑うことなく、千ばつの時には一心に願いを込め、この雨乞いをしなさい。末代まで伝えなさい」と言って、立ち去った。
 見送っていると、まるで霞のような姿だったので、この僧は、弘法大師だと言い伝えられるようになり、深く尊び崇まれるようになった。佐文の綾子踊りと言うのは、この時から始まり、皆の知るところとなった。千ばつの時には必ずこの踊りを行うこととなり、綾子踊りと言うのも、ここから名付けられた。
  この由来書は、華道師範であった尾崎清甫氏によって戦前に書き写されたものです。

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尾崎清甫の残した文書
また、綾子踊りの地唄や踊り編成などの史料は、すべて彼が書き写したり、記録したもので尾崎家に現在でも保存されています。ちなみに「綾子踊り」は三豊の大水上神社周辺の各地域でも「エシマ踊り」として踊られていた形跡はあるのですが、記録として残っているのは佐文地区だけになっていました。それが国の無形文化財指定の決め手になりました。そういう意味でも尾崎氏の功績は大きいと言えます。

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尾﨑清甫の文書箱の裏書き

この口上書を読んで気になる点を挙げておきます。

①「聖僧あり 吾れ衆生済度の為め 四国山間辺土を遍歴する者遍歴の僧侶」とあります。綾子踊りを伝えたのは遍歴の僧侶(聖・修験者)とされます。
②「僧の曰く龍王に雨乞いの願をかけ踊をすれば雨降る事疑いなし」からは、空海の善女龍王信仰に基づく雨乞い踊りであることが分かります。
③「僧自ら芸司となりて左右には綾夫婦を置き」とあります。ここからは廻国修験者(聖)が、このおどりを綾子夫婦と六人の子ども達に伝授したことが記されています。つまり廻国聖が「芸能伝播者」であったことになります。
「因りて彼の聖僧こそは弘法人師なり」と、弘法大師で伝説に附会されていきます。

百石踊り 駒宇佐八幡神社(ふるさと三田 第16集)( 三田市教育委員会 編) / 文生書院 / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 /  日本の古本屋

風流踊りの芸司について、兵庫県三田市上本庄の駒宇佐八幡神社の百石踊を見ておきましょう。

ここでは芸司は「新発意(新人僧侶)」と呼ばれています。その衣装は、白衣の上に墨染めの法衣を羽織り、白欅を掛け菅編笠を被った旅僧姿です。右手に軍配団扇を、左手に七夕竹を持ちます。この役は文亀3年(1503)に、この地に踊りを伝えた天台宗の遊行僧、元信僧都の姿を表したものであると伝えられます。遊行僧や勧進聖・修験者・聖などが、雨乞祈祷・疫病平癒祈願・虫送り祈願・火防祈願・怨霊鎮送祈願などの祭礼や芸能に関わっていたことは以前にお話ししました。百石踊りや綾子踊りの成立過程に、これらの宗教者がなんらかの役割を果たしたことがうかがえます。
新発意役(芸司)の持ち物を見てみましょう。
百石踊り - marble Roadster2
百石踊の新発意役(芸司)
①右手に金銀紙製の日・月形を貼り付けた軍配団扇
②左手にを、赤・ 青・黄の数多くの短冊と瓢箪を吊した七夕竹
これらを採り物として激しく上下に振りながら、諸役を先導して踊ります。民俗芸能にみられる「新発意役」は、本願となって祈祷を行った遊行聖の姿とされています。新発意役は僧形をし、聖の系統を表す大きな団扇や瓢箪・七夕竹などを採り物として、踊りの指揮をしたり、口上を述べたりします。これは綾子踊りの芸司と同じです。
 しかし、時代の推移とともに新発意役の衣装も風流化し、派手になっていきます。僧形のいでたちで踊る芸能は少なくなり、麻の裃から、今では滝宮念仏踊のように金色の裃へと変わっていきました。これも「風流化」のひとつの道です。しかし、被り物・採り物だけは今でも、遊行聖の痕跡を伝えています。それは綾子踊りの芸司も同じです。
以上から綾子踊りの成立については、次のような要素が盛り込まれていることがうかがえます。
①芸能伝播者としての廻国僧(修験者や聖)
②歌われる歌詞の内容は中世の閑吟集にまで遡る
③雨乞い信仰としての善女龍王
④弘法大師伝説
私は最初は、①②から綾子踊りの成立は風流踊りに起源を持つもので、中世にまで遡れるものと考えていました。しかし、③は近世後半、④の弘法大師が伝えたというのも、歌詞内容が閑吟集などに出てくるので、中世の流行(はやり)歌で、弘法大師が教えたものではありません。同時に、弘法大師伝説が讃岐の民衆に拡がるのは案外遅くて、江戸中期以後になるようです。そうすると、この由来が書かれた時期は、案外新しいのではないかと思うようになりました。

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佐文綾子踊(まんのう町佐文 賀茂神社)
もうひとつ疑問なのは、この踊りを伝えられたのは綾子だったはずです。綾子が芸司を務めるの相応しいと私は感じます。ところが綾子は登場しません。どうしてなのでしょうか?
一つの説は、江戸幕府の芸能政策の「女人禁止令」です。中世の風流踊りには女性が登場していました。出雲の阿国の歌舞伎も女性が中心でした。しかし、江戸幕府は風紀上の問題から女性が舞台に上がることを禁止します。神に奉納される踊りなどからも女性が除かれていきます。こうして、綾子も踊りの場から遠ざけられたということは考えられます。

P1250667小踊り
佐文綾子踊の構成人数(尾﨑清甫写)小踊六人とある

もうひとつ私が気になるのが次の記述です。
先ず
小児六人を僧の列におき、僧自ら芸司となりて
左右には綾夫婦を置き
 
親類の者に太鼓鉦を持たせ其の後に置き」
①小児六人とは、小踊り
②は、芸司のあとに中団扇をもって控える拍子2人
③は親類のものが鉦太鼓
 ここからは、綾子踊りの中心部は、綾子の一族によって占有されていたことになります。つまり、この踊りがもともとは村の人々の合意の上に、始まったものでないことがうかがえます。綾子の家族と、親類の者達で踊られ初め、最初は参加していなかった人々は、雨が降りそうになってから参加したというのです。これは村の風流踊りとして根付いたものではなかった、突然に一部の一族によって踊られ始めたことを伝えている気配があることを押さえておきます。また。小踊六人がなぜ女装するかについては何も触れません。

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綾子踊りの写文書を残した尾﨑清甫
  この由来書をはじめ、綾子踊りの史料は戦前に尾崎清甫によって書き写されたものです。
P1250689奉納年月日
綾子踊り控記録」
その中に「綾子踊り控記録」として、過去に踊られた年月日と記録が次のように記されています。
① 文化十一(1814)年六月十八日踊
② 弘化三(1846)年 午 七月吉日
③ 文久元(1861)年 子 七月二十八日 延期と相成り 八月一日踊る成り。
④ 明治八年 七月六日より大願をかけ、十三日踊願い戻し。又、十五日、十六日、十七日、踊り、二度の願立てをなし、二十二日目の二十七日、又、添願として神官の者より、自願かけ身願後八月三日に踊り、十一分の雨があり御利生あり
⑥ 大正元年 旱魃。それより三ヶ年の旱魃につき、大正三年七月末日に踊り、御利生あり
ここからは次のようなことが分かります。
A 一番古い記録は19世紀初頭であること。
B 江戸時代の記録は日付だけで内容がないこと。
C 明治8年に雨乞いのために、何度も願掛けをして踊られたこと
D 旱魃の度に雨乞い踊りとして踊られた回数は、少ないこと

昭和9年由来書写後記

昭和9年7月16日の実施記録には次のような興味深いことが書かれています。

⑦ 昭和九年七月十六日 旱魅につき加茂神社にて踊る。大字佐文戸数百戸以上なるにつき、踊りの談示和合、難致に依り、北山講中として村雨乞踊りの行列にて、一週間の願を掛け祈念をなし、一週間にて御利生の雨少なし、再願を掛けた後、盆十六日に踊りまた御利生の雨少なし。それより旧七月二十九日大なる雨降り来り、それより俄に諸氏申し立てにより、旧八月朔日にお礼の踊りを執行せり。
仙峰斎  尾崎 清甫 之写置也。
意訳変換しておくと
 昭和9(1934)年7月16日 旱魅になり、加茂神社で踊った。大字佐文は、①戸数百軒以上になって、踊り実施に向けた合意が困難になってきた。②そこで、(佐文全体ではなく)北山講中(組)として村雨乞踊りの行列を一週間行って、願を掛け祈願した。しかし、一週間では御利生の雨は少なかった。そこで、再願を掛け、盆の8月16日に踊ったが、御利生の雨は少なかった。しかし、旧7月29日に恵みの大雨となった。そこで、お礼踊りを奉納しようということになり、旧八月朔日に雨乞い成就のお礼の踊りを(佐文全体で)行った。
  尾崎清甫がこれを書き写し置いた。
この記録は、どこかで聞いた話です。最初に紹介した綾子踊りの「由来口上書」と話の要旨がよく似ています。それは、次のような点です。
綾子踊りの最初は村人は畑仕事に忙しくて踊りには見向きもしなかったこと。そのため、綾子一族のみで踊ったこと。それが大雨を降らしたので、周りの人々もその輪の中に飛び込んで、ひとつになって踊ったこと。

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文書は最後に「仙峰斎 尾崎清甫 之写置也」とあります。
尾崎清甫氏が原本を書き写したことを示します。しかし、その原本は存在しません。原本がいつ頃書かれたものなか、またどこに保存されたいたのかも分かりません。そうなると、この文書類の中には尾崎清甫氏による「創作」もあったのではないかとも思えてきます。
以上 「綾子踊
由来口上書」を読みながら私が考えたことでした。最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 綾子踊の里 佐文誌

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     佐文と象頭山
  佐文集落と 象頭山(左手中央の鎮守の森が賀茂神社)
「こんぴらふねふね」で有名な四国金毘羅さんが鎮座するのが象頭山。その象頭山の南側に、私たちのふるさと佐文はあります。佐文は小さな盆地で、水利の便が悪く水不足に悩まされててきました。その歴史は、日照りとの闘いの歴史でもありました。その地で踊り継がれてきたのが綾子踊りです。
綾子踊り 善女龍王
佐文綾子踊の善女龍王の幟
その謂われが次のように伝えられています。
 むかし、佐文七名といって七軒の豪族があったところ、綾という女がいた。ある旱魃の年に、草木も枯死寸前となり、村人は非常に苦しんでいた。ある日、諸国遍歴の僧に綾が住民の苦しみを話したところ、僧は住民をあわれみ、龍王に願いをこめて雨乞踊りをすれば降雨疑いなしと教えた。そこで村人を集め旅僧自ら芸司となり、綾夫婦の鉦、太鼓にあわせて踊ったところ、俄に一天かき曇り、滝の如く雨が降った。それより干天の年には、この踊りを行うことを例としてきた。以来、この踊りを踊ると、恵みの雨があったので、だれ言うことなく綾子の踊りとして現在に伝わっている。
 十二段の踊りを、笛・鉦・太鼓・鼓・法螺貝などに合わせて踊る節々に、先祖から受け継がれてきた雨乞いへの願いを感じます。綾子踊りを踊ることは、佐文地区に住む私たちにとっては、故郷に生きる証のようなものです。この踊りを途絶えることなく次世代へ伝承していきたいと思っています。

綾子踊り11
佐文賀茂神社への入庭(入場)
地元での2年に1度の公開公演では、隊列を組んで氏神さまの鎮守の森を目指して歩いて行きます。入場順は次の通りです。
露払 榊の枝をもって、道中を浄めながら会場に先導します。
幟  一文字笠に羽織姿で「佐文村」の幟に行列が続きます。
警固  五尺二寸棒を持って、踊り場の場所確保と警備を行います。

綾子踊り 山伏
手前が上り龍、青いのが台笠
幟(雲竜上り)  雨を呼ぶ龍善女龍王の昇り龍の姿です。
 (雲竜下り)  大雨を止ませる下り龍が続きます。

綾子踊り 棒と薙刀
薙刀と棒振りの清めの演舞・後に青い台笠
 棒振りと薙刀は、演舞と問答で踊る場を確保するとともにで会場を浄めます。
台傘  烏帽子をかぶり、ちはえを着た神職姿で、台笠を持ちます。

綾子踊り入庭 法螺・小踊り
法螺貝吹き
頭巾に袈裟の山伏姿です。踊りへの山伏たちの関わりが感じられます。
綾子踊り 役名入り
踊り位置(一番前が小踊り)
 中央に芸司、その両脇に拍子、その前が小踊り、手前が地唄
芸司全体の指揮者です。もともとは踊りを伝えた諸国遍歴の僧です。大きな団扇には日と月が書かれています。

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芸司と拍子(日と月の団扇を持つ)
拍子は、 中団扇と榊をもって踊ります。榊は龍王宮への御供えです。
太鼓 は、袴姿に白たすき掛けで黒足袋です。太鼓を肩からつるします。
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鉦(僧侶姿)
鉦は、僧侶姿で、白衣、茶の麻衣、黒足袋で、袈裟を架けて鉦を持ちます。一遍時衆の風流念仏踊りの影響がうかがえます。
鼓は、裃、袴姿で白足袋に、小脇差しを指します。
笛は、黒紋付きの羽織袴で、黒足袋に諸草草履を履きます。

綾子踊り入庭 小踊り
小踊り
小踊   花笠に小姫女仕立てで、小学生が踊ります。

綾子踊り 隊列 側踊・大踊り
綾子踊りの入庭
地唄 麻の上下に小脇差姿で、一文字笠をかぶって、青竹の杖を持ちます。         

綾子踊り 大踊り
大踊り
 大踊りは、大姫仕立てで帯は女物のはせ帯です。団扇には、面に雨乞い、裏に水と書かれています。今は中学生が演じています。

   綾子踊り 側踊り
            
側踊
 側踊は浴衣姿で紙つきの竹皮の笠を被ります。側踊は人数にきまりがありませんでした。雨乞い成就の時には、多くの人が参加して面白おかしく踊ったようです。

最後に全体の配置を見ておきます。
綾子踊り 奉納図佐文誌3

綾子踊り「御国雨乞踊りの位置」佐文史誌177P
この絵図は、戦前に尾崎清甫氏が写したとされものです。「御雨乞踊り」とあり、郡・村で踊られる時と場所で、編成規模が違うことを伝えています。しかし、この規模については、疑義が残ります。それについては別の機会にお話しします。

綾子踊り 隊列表
現在の綾子踊りの役割位置
綾子踊り 全体後方から
綾子踊り 全体配置

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

綾子踊り碑文


参考文献
佐文誌167P
雨を乞う人々の歴史 綾子踊

 滝宮念仏踊 讃岐国名勝図会
滝宮念仏踊り(滝宮牛頭天王社)

 天保12(1841)年7月に、滝宮念仏踊りをめぐって北条組と那珂郡七カ村との間で争論が起きます。
当時の青海村庄屋渡辺駒之助から大庄屋を通じ高松藩に次のような訴願が提出されています。「天保十二年七月 念仏踊一件留 口上」(『綾・松山史』)です。
⑦ 天保十二丑年七月 念仏踊一件留
口上
当村念仏踊当年順年二付、当月二十五日踊人数之者召連、同日早朝滝宮迄罷越居申テ、七ケ村念仏踊済、当村念仏踊候儀ニ付七ケ村村念仏踊済相待居申候所、同日9ツ時分過済ニ付当郡大庄屋中初私共郡中 同役共、人数引継イ入場仕掛候処に付、双方除合(排除)卜相見へ棒突二先フ払ハセ、二王門前へ帰掛候二付、双方除合入場仕候テ踊済候処、大庄屋中ヨリ被申聞候者、御出役所へ先例之通申出仕候哉卜尋御座候二付、踊人数夫々目録今朝組頭ニ持セ御出役所迄相納候段申出候処、尚又右御出役所へ、罷出候様被仰聞ニ付、私義茂七郎同道仕御出役人宿迄罷出申候所、右目録指出候ヘハ則御届相済候義ニテ、前々ヨリ前段御届ハ不仕段御答仕候義二御座候、前々ハ七ケ村踊人数者、前夜ヨリ人込居申候二付、早朝滝宮踊済来候処、当年ハ如何之次第二御座候哉、九ツ過迄も相踊不申二付、当郡踊り人数之者共私共極早朝ヨリ入込相待居申候得共、前願之次第二付大二迷惑仕候、当郡者同日鴨村迄罷帰り、同村ヨリ氏部西庄迄相踊申日割二御座候処、当年ハ右の次第二付一統加茂村迄罷帰候処及暮、其日滝ノ宮計ニテ相済申候、
一 七ケ村念仏踊滝ノ宮踊人数者不残引取、村役人計り右様跡へ相残り居申義二付、私共踊人数引纏罷出申途中ニテ行合候様相成申候、大庄屋中私共罷出候義ハ多人数他郡越踊二参候義二付、右人数召連警固之為罷出候義と相心得罷在候処、七ケ村連も右同様と存候処、右の通踊人数引払候跡へ相残、市立多人数之中ヲ棒突ヲ以片寄可申由、先ヲ払ハセ打通候義、不得其意存申候、当郡ハ多人数引纏入場二相掛候二付、片寄候義も難出来存候得共、当年ハ存不寄義二付、双方除合無難二相済候得共、以後者右様当郡之邪魔致不申様 被仰付置可被下候様 宜奉願上候、以上
  意訳変換しておくと
⑦ 天保十二丑年七月 念仏踊一件留
口上
今年の滝宮への念仏踊奉納は、当村が順年でしたので、7月25日に踊人数を引き連れて、同日早朝に滝宮に参りました。七ケ村念仏踊が終わった後が当村の念仏踊の順番なので七ケ村念仏踊が終わるのを待っていました。同日9ツ時分過ぎ(13時)にやっと終了し、阿野郡大庄屋をはじめ郡中の役共が、踊衆を引き連れて入場しようとすると、那珂郡の付役人と双方で小競り合いが起きて、棒突に先払をさせて、二王門前へ退場しようとしました。この小競り合いについて踊り奉納終了後に、大庄屋から聞き取り調査があり、先例通り御出役所へ報告することになりました。
 踊り人数などについては、目録で前日に組頭に持参させて出役に届け出るのが決まりです。ところが私(義茂七郎)が役人宿に出向いて問い合わせたところ、目録は提出されていないとのことです。以前は七ケ村も踊人数者を、前夜の内に報告していました。しかし、今年はその報告がありませんでした。そればかりか、(予定時刻を大幅に超えて)九ツ過迄(昼過ぎ)までも踊り続ける始末です。
 当阿野郡の踊り組の者達は、早朝から滝宮にやってきて待機していたのに、大迷惑を蒙りました。
当方の北条踊りは、滝宮への奉納終了後に、その日のうちに鴨村まで帰って、鴨村から氏部・西庄と各村社への奉納を例年予定しています。ところが七ケ村の遅延行為のために、加茂(鴨)村まで帰ることが出来ず、この日は滝宮だけになってしまいました。
一 七ケ村念仏踊は踊り終了後に、踊り手たちが残らず退場した後、七ケ村の村役だけが残ったのを確認した上で、私ども北条組は入場しようとしました。大人数の観客の間を入場するために、警固の人数を引き連れています。これは七ケ村組も同じと心得ています。
 私たち北条組が入場しようとすると(七ケ村役員は、市が立つほど多くの人数がひしめく中を棒突を先頭に、打ち払いながら退場しようとしました。そこで入場しようとする北条組と衝突し、小競り合いとなりました。入場中の当方に、除き合いを仕掛けてくるのは、はなはだ迷惑な行為です。以後は、このような当郡の邪魔をするようなことがないように、お上から仰付いただきたい。
宜奉願上候、以上

この「口上」は青海村庄屋から大庄屋を経て、藩に提出されたものです。いわゆる正式文書になります。北条組の言い分は、次の2点にあるようです。
滝宮念仏踊諸役人定入目割符指引帳
滝宮念仏踊り 那珂郡七ケ村の構成村と役割一覧

第一は、「七ケ村」が定めを守っていない点を指摘しています。
①例年なら前日に踊込人数目録が提出されるはずなのに、今年は届けられていないこと
②「七ケ村」組が、終了時刻を大幅にオーバーしても踊り続けたこと
③そのため北条組の踊りの開始が、午後からになり、当日の滝宮からの帰り掛けに奉納する予定であった鴨・氏部・西庄村の村社への奉納が出来なくなったこと。
つまり、七ケ村のルール違反に、北条組は大迷惑をこうむっていたとします。
第二は、「七ケ村」役人の横暴ぶりを指摘してます。
七ケ村の踊りが終わるのを、いらいらしながら待っていた北条組に対して、七ケ村は謝罪もせずに退場しようとします。しかも「七ケ村」村役人が棒引き(警護人)に先を払わせながら群衆を払い分けて出て行こうとします。それに対して入場しようとする北条組の先頭の棒引きは、応戦しないと責任問題になります。売られた喧嘩は買わなければならないのです。そこで両者のあいだに「除け合い」(小競り合い)が発生します。

この史料からは、次のようなことが分かります。
①七ケ村組と北条組がセットで同年に、滝宮に踊り奉納を行っていたこと
②北条組は七ケ村組の奉納中は別所で待機し、終了後に入場する手はずとなっていたこと
③北条組は、滝宮2社への奉納後に、鴨村から氏部・西庄と各村社への奉納を予定していたこと
④棒引き(警護)は、先払役で実際に群衆を払い分けていたこと。
 この北条組の訴えについて、高松藩がどのような裁定をしたのかは史料が残っていないので分かりません。
 幕末に岸の上村(まんのう町)の庄屋を務めた奈良家には、多くの文書が残っています。
その中に「滝宮念仏踊行事取遺留」には、文政9(1826)年から安政6(1859)年までの、13回にわたる七箇村組念仏踊の記録が綴りこまれています。筆者は、岸上村の庄屋奈良亮助とその子彦助の二人です。この綴りの冒頭には、次のように記されています。

 正保二(1645)年の滝宮念仏踊の時、夜半からの豪雨で、綾川は水嵩の増した。橋のない時代のことで、七箇村組は対岸で水が引くのを待っていた。ところが、定刻が来て七箇村組の後庭で踊ることになっていた北条念仏踊組が、滝宮神社の境内に入場しようとした。これを川の向こう側から見ていた七箇村組の衆はいきり立った。世話人の真野久保神社の神職浅倉権之守は、長刀を杖にして急流を渡り、北条組の小踊二人を切り殺した。この事件後、北条組は48人の抜刀隊に警固されて、七箇村組とは順年を変えて踊奉納をすることになった。そして、両踊組の間には根深い対立感情が横たわるようになった。

 私は、これは事実を伝えるもので、警護役というのは、実際に起きた事件を教訓をもとに、各組でつけられていると思っていました。しかし、だんだんとこの記述については、次のような視点から疑念を持つようになりました。
①神前で神の子とされる子踊りの幼児を斬り殺しているにも関わらず、その後も朝倉家が久保宮の神職を続けていること。普通ならば厳罰に処せられるはずである。
②高松藩初代松平頼重が滝宮念仏踊りを復活させるのは、慶安三年(1650)年七月のことで、事件のあった正保二(1645)年には、中断期に当たること。
つまり、この年には高松藩では各念仏踊の滝宮へ奉納は中断していて、踊り込みはなかった時期になります。どうして200年後の七ケ村組の記録は、あえて北条村との関係を悪く記す必要があったのでしょうか。
  奈良家文書の「滝宮念仏踊行事取遺留」には、次のようにも記します。(意訳)
 文政九(1826)年に、その北条組に内証が起こって、踊組が二つに分裂した。分裂した一つが七箇村組の後庭で踊らせてもらいたいと、阿野郡北の大庄屋を通じて、那珂郡の大庄屋岩崎平蔵(吉野上村)に申し入れがあった。岩崎平蔵は、「正保の刃傷事件から180年も経っているので、もう大丈夫だろう」と考えて、これを認めた。しかし、踊組の内には根強い反対意見もあって、岩崎平蔵の強引なやり方に反発する勢力が生まれた。
 
 しかし、前回見たように北条組は、寛政6(1794)年の調停書「滝宮念仏踊次第書出覚」で、三ケ村(青海村と神谷・高屋村)の争論を調停し、以後は大庄屋渡辺家の下で円滑に運営が行われています。それは文政元(1818)年7月の大庄屋渡辺家と三ケ村の書簡史料からもうかがえます。奈良家文書が記すように「文政九(1826)年に、その北条組に内証が起こって、踊組が二つに分裂」という事実は確認できません。

  天保12(1841)年7月に、北条組が那珂郡七カ村を訴えたことについて、高松藩がどのような裁定をしたのかは分からないとしました。しかし、次の天保15(1844)年の順年にはある変化が起きています。踊りの奉納日が次のようになっています
①北条組  7月24日
②七箇村組   25日
 ふたつの踊組の奉納日が別の日になっています。また、24日が雨天で、踊奉納ができなかった場合には、北条組は25日の七箇村組の後庭で踊ることとされています。これは、前回の北条組の訴えを受けての高松藩の対応策だったことがうかがえます。
 その次の順年である弘化4年(1847)年を見ておきましょう。
 この順年は、七ケ村念仏踊組は7月14日に大洪水があって、土器川が大破したので、各村社への巡回を中止し、滝宮両社と金毘羅山の奉納踊だけにしています。注目しておきたいのは、久保神社の宮司朝倉石見が、高松藩の命令で笛吹株を召し上げられていることです。代わって真野村から元次郎が担当しています。浅倉石見は、正保二(1645)年の滝宮念仏踊の時に殺傷事件を起こしたとされる子孫になります。
   以上見てきたように、どうも奈良家文書の念仏踊りの北条組との関係について記した部分については、北条組に残る文書と整合性がとれないものがあるようです。

以上をまとめておきます
①正保二(1645)年の滝宮念仏踊の時、七箇村組と北条念仏踊組の間に殺傷事件があったと奈良家文書は伝えること。
②しかし、これについては高松藩による滝宮念仏踊り復活以前のことで、中断時期にあたり疑問が残ること
③北条組は、寛政6(1794)年に調停書で、三ケ村(青海村と神谷・高屋村)の争論を調停し、以後は大庄屋渡辺家の下で円滑に運営が行われるようになる。
④北条組については、文政元(1818)年7月の大庄屋渡辺家と三ケ村の書簡史料からも円滑に運営されていたことがうかがえる。
⑤岸の上の奈良家文書は、「文政九(1826)年に、その北条組に内証が起こって、踊組が二つに分裂し、ひとつが七ケ村の後で踊るようになった」と記すが、史料からは確認できない。
⑥天保12(1841)年7月に、那珂郡七カ村のルール違反を北条組が高松藩に訴える。
⑦その結果、次回からは両者の奉納日が24日と25日に分かれることになった。
⑧またその次の順年には、久保宮の神職の宮座株が没収されている。
 奈良文書の七ケ村組と北条組との諍いについては、綴りの表紙として後世に書かれたものです。19世紀になってからの北条組からの藩への控訴を、過去にまで遡らせて偽作した疑いがあると私は考えるようになりました。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

 江戸時代の高松藩では、次の四つの踊組が滝宮神社の夏祭り(旧暦7月25日)に風流念仏踊を奉納していました。           奉納順
①阿野郡北条組(坂出市) 「丑・辰・未・戊」の年
②阿野郡南条組(綾川町)   「子・卯・午・酉」の年
③鵜足郡坂本組(丸亀市飯山町)  「賞・巳・中・亥」の年
④那珂郡七箇村組(まんのう町)   「丑・辰・未・戊」の年
この中の①北条組と④七箇村組は同年奉納で、全体では3グループで三年一巡の奉納になります。これを「順年」と呼んでいました。。

前回は、19世紀初頭に起きた北条踊りを巡る争論の調停書を見ながら、北条念仏踊りについて、次のようにまとめておきました。
①北条念仏踊を構成する村々は、阿野郡の10カ村(青海・高屋・神谷・鴨・氏部・西庄・林田・江尻・福江・坂出)であったこと。
②これらの10ヶ村で担当役割や人数や各寺社への奉納順が決められていたこと。
③7月25日の滝宮への奉納に前後して、10ヶ村の寺社25ヶ所へ奉納が行われていたこと
④役割配分や奉納順をめぐって争論が起きたが、それを調停する中で運営ルールが形成されたこと
⑤北条組の主導権を握っていたのは、青海・高屋・神谷村の三ヶ村であったこと
⑥その傘揃え(出発式)が神谷神社で行われていたこと。
⑦以上からは、北条念仏踊りは神谷神社周辺の中世在郷村が宮座を組織して、奉納していた風流踊りだったこと
⑧そのプロデュースに、滝宮(牛頭天王)社の龍燈寺の社僧(聖や修験者)が大きな役割を果たしていたこと

今回は、その後の史料でどんな点が問題になっているのかを見ていくことにします。

坂出 大藪・林田
阿野郡北条 高屋・青海村

調停書が出されて約10年後の文政元(1818)年7月の書簡史料には、次のように記されています。
一筆啓上仕候、然者、滝宮御神事念仏踊当年順番御座候、前倒之通来廿五日踊人数召連滝宮江人込御神事相勤候様仕度奉存候、御苦労二奉存候得共、各様も彼地者勿論郡内御出掛被成可被下候、右為可得其意如此御座候、以上、
高屋 善太郎
          神谷 熊三郎
青海 良左衛門
七月十二日
渡辺与兵衛 様
渡辺七郎左衛門 様
尚々、村々仲満共出勤の義并に出来之幡・笠鉾等、才領与頭相添、来二十四日朝正六ツ時神谷村神社へ相揃候様御触可被下候、又、道橋損の分亡被仰付可被下候、
  意訳変換しておくと
①一筆啓上仕候、滝宮の神事念仏踊の当年の当番に当たっています。つきましては従来通り、7月25日に踊り込み員数を引き連れて、滝宮神前での奉納を相務めるよう準備しております。ご多用な所ではありますが、みなみな様はもちろん、郡内から多くの人がご覧いただけるよう、御案内いたします。以上、
高屋 善太郎
          神谷 熊三郎
青海 良左衛門
なお、村々から参加者や幡・笠鉾など、道具類などについては組頭などが付き添うことになっています。24日早朝六ツ時に、神谷村神社に習合するように触書を廻しています。
又、滝宮に向かう街道や橋などの損傷があれば修繕するように仰せつけ下さい。

滝宮への踊り込みは7月25日です。その2週間前の7月12日に、高屋・神谷・青海の各村庄屋の連名で大庄屋の渡邉家へ送られた書簡です。準備状況と、当日の出発時刻が大庄屋に報告されています。また、滝宮への街道で道路や橋に破損がある場合には、修理するように依頼しています。まさに、村々を挙げて一大イヴェントで、参加者には晴れ姿であったことがうかがえます。

この報告に対しての大庄屋渡辺家からの指示書が次の書簡です。
②以廻申入候、然者、三ケ庄念仏踊当年者順年二付、踊候段申出候、依之先例の通滝宮始村々江各御出勤可有之候、且定例出来り之幟・傘鉾も才領与頭相添、来二十四日正六ツ時神谷氏宮迄御指出可有候并に念仏踊通行の道橋等損有之候ハバ取繕等の分前々の通御取計可有候、
一 先年ヨリ右踊者、三日ニ踊済来候所、近頃緩急相成、四日宛相掛り、一日相延候テも無益之失脚不少義二付、当年ヨリ滝宮江者之中入込、未明ヨり踊始候様致度候、兼テ三ケ村江者、右之趣申付御座候、各ニも朝七ツ時迄二御出揃可有之候、為其如此申入候
渡辺与兵衛
七月十四日
鴨   氏部   林田 西庄  江尻   福江 坂出  御供所
右村々政所中

  意訳変換しておくと
③各庄屋からの書簡報告で以下のことを確認した。当年の滝宮への踊り込みは三ケ庄(高屋・神谷・青海)が順年で、先例の通り、滝宮や各村々への村社への奉納準備が進められていること。これについては、従来通りの幟・傘鉾を準備し、これに組頭が従うこと、24日六ツ時(明け方4時)に神谷神社に集合すること、念仏踊が通行する道や橋の修繕整備などを行う事。

一 もともと北条組の念仏踊は、各村社への踊りも含めて3日間で終了していた。それが近年になって4日かかるようになってきた。巡回日数が一日延びると費用も増大する。その対応策として今年からは夜中に滝宮入りして、未明から踊り始めることとする。(そして、滝宮から帰った後で、予定神社の巡回を確実にこなすことにする。)このことについては、かねてより三ケ村へは伝えてある。他の八村の政所(庄屋)も朝七ツ時(午前3時頃)には集合いただきたい。

以上のように、この年は滝宮での念仏踊の日程の短縮が図られたこことを押さえておきます。
現代と江戸の時刻の対応表 | - Japaaan
 
3ケ村庄屋からの書簡を確認した上で、従来と異なる日程変更を申しつけています。
それは、従来からの踊り奉納は次のように決められていました。
①滝宮奉納前日の24日は、神谷村で笠揃を行い、その後に、清立寺 → 高屋村の二社 →白峯青海村四社 → 高屋浜の塩竃大明神と遍照院
②25日は、滝宮二社の踊り込みの後に、鴨村一社 → 氏部村一社 → 西庄三社
③26日は、坂出一社 → 福江村2社 → 江尻村一社 → 林田村四社

ところが「近頃緩急相成、四日宛相掛り、一日相延候テも・・・」と、3日でおこなっていた巡回が4日かかるようになったようです。これは、各村で行われる風流念仏踊り奉納が、庶民の楽しみでもあり、なかなか「打ち止め」できずに伸びたことが考えられます。
 以前に見たように高松藩から大政所の心得として下された項目の中に、「村入目(村の運営費)などは、できるだけ緊縮すること」とありました。渡邉家の大政所は、これを忠実に守ろうとしたようです。そのために、未明3時頃に集合して、滝宮に入って早朝から踊って、阿野郡に帰ってから、その日のうちに奉納先寺社を確実に巡回できるようにしようとしたようです。
 そのため未明から踊り始めること、そのため当日の神谷神社への集合が変更したことの確認を再度、責任村の三ヶ村の庄屋に通達しています。
 ここからは風流念仏踊りが庶民の楽しみで、できるだけ長く踊っていた、見ていたいという気持ちが強かったことがうかがえます。もともとは雨乞いのためではなく、各郷村で踊られていた風流踊りだったのです。人々にとって、楽しみな踊りで雨乞いに関係なく踊られていたからこそ起きることです。雨乞いのために踊られると言い始めるのは、史料では近代になってからです。
それでは、雨乞いはどこが行っていたのでしょうか?
 高松藩の公式な雨乞祈祷寺院は、白峯寺でした。最初に高松藩が白峰寺に雨乞いを命じた記事は、宝暦12年(1762)のものです。雨が降らず「郷中難儀」しているので、旧暦5月11日に髙松藩の年寄(家老)会議で白峯寺に雨乞祈祷が命じられ、米5俵が支給されています。この雨乞いの通知は、白峯寺から阿野郡北の代官と大政所へ伝えられています。28日に「能潤申候」と記されているので本格的な降雨があったようです。白峰寺の霊験の強さが実証されたことになります。こうして白峯寺には、雨乞い祈願の霊地として善如龍王社が祭られるようになります。
P1150747
白峯寺の善女龍王社

19世紀になると、阿野郡北条の村々も白峯寺に雨乞い祈祷を依頼するようになります。
文化第四卯二月御領分中大政所より風雨順行五穀成就御祈蒔修行願来往覆左之通、大政処より来状左之通
一筆啓上仕候、春冷二御座候得共、益御安泰二可被成御神務与珍重之御儀奉存候、然者去秋以来降雨少ク池々水溜無甲斐殊更先日以来風立申候而、場所二より麦栄種子生立悪敷日痛有之様相見江、其上先歳寅卯両年早損打続申次第を百姓共承伝一統不案気之様子二相聞申候、依之五穀成就雨乞御祈蒔御修行被下候様二御願申上度候段、奉伺候処、申出尤二候間、早々御願申上候と之儀二御座候、
近頃乍御苦労御修行被下候様二宜奉願上候、右御願中上度如斯御座候、恐慢謹言
二月             
和泉覚左衛門
奥光作左衛門
三木孫之丞
宮井伝左衛門
富家長二郎
渡部与兵衛
片山佐兵衛
水原半十郎
植松武兵衛
久本熊之進
喜田伝六
寺嶋弥《兵衛》平
漆原隆左衛門
植田与人郎
古木佐右衛門
山崎正蔵
蓮井太郎二郎
富岡小左衛門
口下辰蔵
竹内惣助
白峯寺様
   意訳変換しておくと                                                                 
一筆啓上仕候、春冷の侯ですが、ますます御安泰で神務や儀奉にお勤めのことと存じます。さて作秋以来、降雨が少なく、ため池の水もあまり貯まっていません。また。強い北風で場所によっては麦が痛み、生育がよくありません。このような状態は、10年ほど前の寅卯両年の旱魃のときと似ていると、百姓たちは話しています。百姓の不安を払拭するためにも、五穀成就・雨乞の祈祷をお願いしたいという意見が出され、協議した結果、それはもっともな話であるということになり、早々にお願いする次第です。修行中で苦労だとは思いますが、お聞きあげくださるようお願いします。
右御願中上度如斯御座候、恐慢謹言
 庄屋たちの連名での願出を受けて、藩の寺社方の許可を得て、2月16日から23日までの間の修行が行われています。雨が降らないから雨乞いを祈願するのではなく、春先に早めに今年の順調な降雨をお願いしているのです。この祈願中は、阿野郡北の村々をはじめ各郡からも参詣が行われています。
 こうして、白峰寺は雨乞いや五穀豊穣を祈願する寺として、村の有力者たちが足繁く通うようになります。白峯寺でも祈祷を通じて、地域の願いを受け止め、「五穀成就」を願う寺として、人々の信仰を集めるようになっていきます。そして周辺の村々からの奉納物や寄進物が集まるようになります。
 ここで確認しておきたいのは、北条念仏踊ももともとは雨乞い踊りではなかったということです。
雨乞いは、高松藩の決めた白峰寺の験のある僧侶の行う事です。験のない庶民が雨乞いが祈願しても、効き目はないというのが当時の人々の一般常識でした。だから、験のある修験者や聖に頼ったのです。当時の庶民は、雨乞いのために念仏踊りを踊っているとは思っていなかったのです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
      坂出市史近世(下)156P 北条念仏踊
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滝宮念仏踊り 滝宮神社への踊り込み(讃岐国名勝図会)
近世はじめの生駒藩の時代には、滝宮神社の夏祭り(旧暦7月25日)には、5つの踊組が念仏踊を奉納していました。その内の多度郡の鴨念仏踊りは、讃岐が東西に分割され、丸亀藩に属するようになると、高松藩は奉納を許さなくなったようです。そのため高松藩下では、次の四つの踊組の奉納が明治になるまで続きました。 
                                                                  奉納順
①阿野郡北条組(坂出市) 「丑・辰・未・戊」の年
②阿野郡南条組(綾川町)   「子・卯・午・酉」の年
③鵜足郡坂本組(丸亀市飯山町)  「申・巳・中・亥」の年
④那珂郡七箇村組(まんのう町 + 琴平町)   「丑・辰・未・戊」
4組の内の①北条組と④七箇村組は同年奉納で、各組は三年一巡の奉納になります。これを「順年」と呼んでいました。②③④については、以前に何度か紹介しましたが、①の北条組については、何も触れられませんでした。新しい坂出市史を眺めていると、北条組のことが紹介されていました。読書メモ代わりにアップしておきます。テキストは、「坂出市史近世(下)156P 北条念仏踊り」です。

坂出市史1
坂出市史
北条組が、どんな村々から構成されていたのかを見ていくことにします。  
滝宮念仏踊諸役人定入目割符指引帳
那珂郡七箇村組の組織表

 坂本組や七箇村組・鴨組などは、中世のいくつかの郷からなる宮座で構成されていました。そのため近世では10ヶ村近くの村々から構成されていたことは以前にお話ししました。それでは、北条組はどうなのでしょうか。

阿野郡北条の郷
中世阿野北条の郷名

 寛政2(1791)年12月、北条組内の高屋・神谷村と青海村の間で各村社へ念仏踊り奉納順等をめぐって争論が起きます。その御裁許が寛政6(1794)年8月に関係各村に通達されています。これが「念仏一件留」(白峯寺所蔵)で『坂出市史』資料に収録されています。
この争論の調停書「滝宮念仏踊次第書出覚」には、次のように記されています。
踊順左之通                 
一 滝宮二社     七月二十五日
一 前日廿四日  神谷村笠揃仕、夫ヨり清立寺、高屋村氏神二社、白峯青海氏四社、高屋浜塩竃大明神并遍照院
一 廿五日 滝宮二社、鴨村一社、氏部村一社、西庄三社
一 二十六日 坂出一社、福江村弐社、江尻村壱社、林田村四社
右之通古来より御神事相勤来申候、尤、御法度絹布も御座候得共、持来并借用来申候、以上、
寛政三亥年十二月  
      高屋村       久次郎
           神谷村政所          恒蔵
                青海村政所兼務      渡辺五郎右衛門
右の通り御尋ニ付 御役所江指出申候
  意訳変換しておくと
①滝宮奉納前日の24日は、神谷村で笠揃を行う。
②その後に、清立寺 → 高屋村の二社 →白峯青海村四社 → 高屋浜の塩竃大明神と遍照院
②25日は、滝宮二社の踊り込みの後に、鴨村一社 → 氏部村一社 → 西庄三社
③26日は、坂出一社 → 福江村2社 → 江尻村一社 → 林田村四社
以上の通り、古来より御神事として奉納してきた。なお御法度の絹布も着用するので、持参・借用については黙認願いたい。以上、
ここからは、北条組は24日に神谷神社から村社などへの巡回奉納が始まり、中日の25日早朝に滝宮に踊り込み、その帰りに鴨・氏部・西庄の神社に奉納しています。そして、最終日26日に、坂出・福江・江尻・林田の各神社に奉納しています。

坂出 阿野郡北絵図
阿野郡北絵図(江戸時代前期)

ここからは次のようなことが分かります。
①北条念仏踊を構成する村々は、阿野郡の10カ村(青海・高屋・神谷・鴨・氏部・西庄・林田・江尻・福江・坂出)であったこと。
②滝宮への奉納に前後して、10ヶ村の寺社への奉納が3日間で行われていたこと
③傘揃え(出発式)が神谷神社で行われていたこと。
④阿野郡の北の内、乃生・本沢は、入っていないこと
 以前に坂本念仏踊が、もともとは鵜足都内の、川津郷・坂本郷・小川郷・二相郷の計10ケ村からなる踊り組だったことはお話ししました。これは、那珂郡七箇村組や多度郡鴨組も同じです。

神谷神社 讃岐国名勝図会2
神谷神社(讃岐国名勝図会)
北条念仏踊りも、神谷神社の周辺の郷村が宮座を組織して、奉納していた風流踊りだったことが裏付けられます。そのプロデュースに、滝宮の龍燈寺の社僧(聖や修験者)が大きな役割を果たしたと私は考えています。
 滝宮念仏踊りは、もともとは、各郷社に奉納される風流念仏踊りでした。それが滝宮神社に踊り込むようになります。その際に、もめるのが村社の巡回順番です。順番や役割をめぐってどの組でも、争論が起きています。争論の末に、順番が明記されてルールになっていきます。
 それでは北条組は、各村々のどんな寺社を巡回して念仏踊りを奉納していたのでしょうか?

坂出 大藪・林田
阿野郡北図拡大(青海・高屋・林田周辺)
調停書の「念仏踊行列の定并に村々列左の通」は、次のように記します。   
右の通の行列ニテ、郡内宮々踊村々割之列
神谷村先備之分
神谷村  五社大明神     同 村  立寺
氏部村  鉾宮大明神     林田村  祇園宮
江尻村  広瀬大明神     鴨 村 加茂大明神
西庄村  別宮大明神
〆 八ケ所
高屋村先備之分
高屋村  春日大明神      同 村 崇徳天皇
同 村  塩釜大大明神  同 村 遍照院
林田村 惣社大明神 同 村 弁才天
坂出村 八幡宮 西庄村 国津大明神
〆 八ケ所
青海村先備之分
青海村  白峯寺        同 村  崇徳天皇
同 村  春日大明神      同 村  荒神
同 村  厳島大明神      林田村  牛頭天皇
福江村  魚御堂
〆 七ケ所
ここからは、3ヶ村の担当が次のように決めらたことが分かります。
①滝宮神社は、神谷・高屋村
②滝宮天満宮は、青海村
③各村々の寺社については、神谷・高屋・青海が上記のように分担して指揮をとる
④具体的な奉納寺社の名前が挙がっているが、多いのは3ケ村で、他の村は1ヶ所のみ。
坂出 鴨
阿野北絵図(神谷・鴨・氏部・西庄)

以上からは、10ヶ村がフラットな関係でなく、3ケ村(神谷・高屋・青海)の指導権で運営管理されていたことがうかがえます。ここでも争論を経て、ひとつのルールが定着していく過程が見えて来ます。
坂出 上鴨神社
鴨村の上賀茂神社(坂出市)
 こうして見ると北条念仏踊の一団は、坂出市内の合計23の寺社 + 滝宮の2社 =25社を、旧暦の7月25日前後の3日間で巡回し、踊り奉納していたことになります。真夏の炎天下の中を徒歩での移動は、なかなか大変だったことでしょう。それを多くの村人が鎮守の森で待ち受け、楽しみにしていました。地域の一大イベント行事でもあったのです。

滝宮念仏踊 那珂郡南組
那珂郡七箇村組の諏訪神社への奉納図 
以前にお話ししたように、七箇村組の諏訪神社(まんのう町真野)への奉納図には、周囲に有力者の桟敷小屋が建ち並んでいます。桟敷小屋は、宮座の名主などだけに許された権利で、財産として売買もされていたことは以前にお話ししました。ここからも念仏踊りが、もともとは中世の風流踊りに由来することがうかがえます。多くの村人が待つ各村々の鎮守の森に、踊りが奉納されていたことを押さえておきます。
 次に北条念仏踊りの準備品目・出演人数・衣装などを見ておきましょう。寛政6(1794)年の調停書「滝宮念仏踊次第書出覚」には、次のように記されています。
① 幟木綿拵 拾弐本 氏部  林田  西庄  江尻  坂出  福江
② 笠鉾      壱本    加茂村 但、上花色水引金揮、
一 ほら貝吹  拾弐人  此人数増減御座候、神封左に在り
一 日の丸  壱本  神谷村
念仏音替印立申候、并に本太鼓順年二両村替合申候、太鼓打出不申村ヨり指出申候、
一 半月    壱本    青海村
一 長刀振    弐人    神谷村 高屋村 但、其足并木綿立付着用仕候、
③大打物役  二十四人  神谷村 高屋村 青海村 但、刀之柄二弐尺計之柄を付、持団扇壱本、
一 入場太鼓打 壱人    神谷村  但、年齢拾弐、三歳素麻帷子紅たすき、嶋絹立付着用、
一 太鼓持   壱人     同村 但、木綿薫物着用、
一 同鼓打       神谷村 高屋村
 但、帷子麻上下着用、三ケ村ヨり勝手次第出来り増減御座候、
一 笛吹 弐人  但、右同断、
一 下知 壱人    高屋村
 但、帷子緞子、無袖羽織・袴着用、脇折・大団・念仏音替下知仕候、
一 本太鼓打 壱人  高屋村 神谷村
 但、年齢拾四、五歳帷了縮緬単物、太鼓掛縮緬、足元嶋絹立付着用、
一 同 供  壱人  後追役 但、持道具団、木綿単物仕着せ、
一 上ヶ場貝吹 壱人 神谷村 但、帷子絹、羽織小倉立付着用、
④ 小踊    廿人  高屋村 神谷村 青海村
 但、年齢七、八才花笠、帷子ちりめん単物、羽織緞子、儒子金揮無袖羽織着用、
⑤ 警固    三拾人  高屋村 神谷村 青海村  
 但、帷子絹、羽織・袴着用、杖
⑥ 鉦打    五拾八人  高屋村 神谷村 青海村
 但、単物帷子、羽織立付着用、
⑦ 輪踊    百二十人  高屋村 神谷村 青海村
 但、帷子、木綿単物、笠二色紙切かけ、団壱木ツヽ持、
⑧ 固役         大政所 小政所
 但、帷子麻上下刀帯仕来申滝宮相済、郡中ハ絹羽織踏込着用、
①の「一 幟木綿拵  拾弐本 氏部  林田  西庄  江尻  坂出  福江」というのは、「南無阿弥陀仏」と書かれた木綿の幟を準備するのが「氏部村以下の6ヶ村 × 2本=12本」ということです。
滝宮念仏踊り 正徳の昔(一七一一年)から踊り場にたて続けられている北村組の幟

北村組の幟(正徳元年1711年以来使用されてきた幟)

②は「上が花色で水引・金揮の笠鉾1本」を準備するのが、加茂村担当ということになります。
滝宮の念仏踊り | レディスかわにし
坂本組の赤い笠鉾
以下、「備品関係」物品があげられ、準備する村名が記されます。
③「一 大打物役  二十四人  神谷村 高屋村 青海村 但、刀之柄二弐尺計之柄を付、持団扇壱本、」の「大打物(おおたちもの)」は「太刀、槍、薙刀(なぎなた)などの長大な武器の総称」です。
「神谷村・高屋村・青海村の三村 × 8人 =24人」で「但し、刀の柄に二尺(約60㎝)をつけ、団扇を1本持つ」とあります。このように全体数と、それを担当する村名、そして但書きが続きます。
④の「小踊 廿人 高屋村 神谷村 青海村 但、年齢七、八才花笠、帷子ちりめん単物、羽織緞子、儒子金揮無袖羽織着用」は、子踊りに三ヶ村から20人 年齢は7・8歳で、以下着用衣装が記されています。
人数が多いのが⑤ 警固30人 ⑥鉦打 58人 ⑦ 輪踊120人で、この3役だけで208人になります。総数は三百人を越える大部隊です。この中心は、高屋村 神谷村 青海村の「三ヶ村」です。ここからは、北条組はこの三ヶ村を中心に、風流念仏踊が踊られるようになったことがうかがえます。
⑥の固役には、阿野郡の大政所と小政所が並びます。そして衣装は、滝宮で踊る場合は、帷子(かたびら)麻の上下で帯刀します。郡内の村社巡回奉納の時は、絹の羽織踏込の着用です。以上が、役割と担当村名でした。
滝宮神社・龍燈院
滝宮の龍燈院(滝宮神社と天満宮の別当寺:讃岐国名勝図会)
 滝宮神社は、明治以前は天皇社(滝宮牛頭天王社)と呼ばれていました。
今でも地元の人達は滝宮神社とは呼ばずに「てんのうさん」と親しみを込めて呼ぶそうです。この神社を管理運営していたのが別当の龍燈院でした。滝宮神社と天満宮は、龍燈寺管理下にひとつの宗教施設として運営されていました。それが、明治の神仏分離で、龍燈院が廃寺となり姿を消し、ふたつの神社が残ったことになります。

龍燈院・滝宮神社
両者に挟まれるようにあった龍燈寺

  滝宮牛頭天王(権現)とよばれた滝宮神社は、その名の通り牛頭天王信仰の宗教施設で、牛や馬などの畜産などに関わり、馬借などの運輸関係者や農民達の強い信仰を集めました。同時に、滝宮牛頭天王はスサノオの権化ともされ「蘇民将来伝説」とも結びつけられて流布されます。
本山寺」の馬頭観音 – 三題噺:馬・カメラ・Python
四国霊場本山寺の本尊 馬頭観音
 中讃の牛頭天王信仰の拠点が滝宮神社で、三豊の拠点が四国霊場の本山寺でした。
本山寺の本尊は馬頭観音で、多くの修験者や聖達がこの札を周辺地域に配布していたようです。滝宮神社の別当寺は龍燈寺も、聖達の集まる寺でした。その名の「龍燈」とは熊野信仰で海からやってくる龍神の目印として掲げられた灯りのことです。この寺が、もともとは熊野信仰と深く結びついた寺院であることがうかがえます。熊野行者の拠点だった龍燈寺は、中世には修験者や聖達のあつまるお寺になっていきます。彼らは「牛頭天王=スサノオ」混淆説から「蘇民将来の子孫」のお札や「苗代や水口」札を配りながら農民達の信仰を集めるようになります。
蘇民将来子孫家門の木札マグネット
牛頭天王信仰の聖達が配布した「蘇民将来の子孫」のお札

滝宮の龍燈院の牛頭天皇信仰の拡大戦略は、次のようなものだった私は考えています。
①龍燈寺の社僧は(修験者や聖)たちは、丸亀平野の各村々をめぐり檀那にお札を配布し、奉納品を集め信者を増やした。
②その際に、彼らはいろいろな情報だけでなく、風流踊りや念仏踊りを各村々に伝える芸能プロデューサーの役割も果たした。
④聖達の指導で、風流踊りは盆踊りとして踊られるようになった
⑤盆踊りとして踊られるようになった風流念仏踊りは、滝宮(牛頭天皇)社の夏祭り(旧暦7月25日)に奉納されるようになった。
これを逆の視点から見ると、滝宮に念仏踊りを奉納していた鵜足郡坂本郷・那珂郡真野郷・多度郡賀茂郷などは、滝宮牛頭権現の信者が一円的にいたエリアだったことになります。牛頭天王の信者達が、自分たちの踊りを滝宮神社に奉納していたと私は考えています。

滝宮神社と龍燈院(明治になって)
滝宮神社と龍燈院(明治になっての在りし日の龍燈院絵図)
       最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
坂出市史近世(下)156P 北条念仏踊り
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  前回は南鴨念仏踊りについて、次の点を史料で押さえました。
①南鴨念仏踊りは賀茂神社に多度郡全体の宮座で構成された人々で奉納された風流念仏踊りであったこと。
②生駒藩は念仏踊りを保護し、滝宮(牛頭天王)への踊り奉納を奨励していたこと。
それが高松藩になると、南鴨組の念仏踊りは滝宮への奉納がされなくなります。その背景を今回は史料で見ていくことにします。   

多度津町誌 購入: ひさちゃんのブログ

テキストは「多度津町誌史料編140P 南鴨山寺家文書(念仏踊り文書)」です。  ここには、前回に紹介した入谷外記とともに、生駒藩の尾池玄番が登場します。 彼は2000石を拝領する重臣で、優れた能力と「血筋」が認められて、後には熊本藩主に招かれ、百人扶持で大坂屋敷に居住しています。二人の子供は、熊本藩に下り、それぞれ千石拝領されています。生駒騒動以前に、生駒藩に見切りをつけていたようです。

年記がわからないのですが、7月1日に尾池玄番は次のような指示を多度郡の踊組にだしています。
以上
先度も申遣候 乃今月二十五日之瀧宮御神事に其郡より念佛入候由候  如先年御蔵入之儀は不及申御請所共不残枝入情可伎相凋候  少も油断如在有間敷候
恐々謹言

七月朔日(1日)       玄番 (花押)
松井左太夫殿
福井平兵衛殴
河原林し郎兵衛殿
重水勝太夫殿
惣政所中
惣百姓中
  意訳変換しておくと
前回に通達したように、今月7月25日の瀧宮神事に、多度郡よりの念佛踊奉納について、地元の村社への御蔵入(踊り込み)のように、御請所とともに、精を入れて相調えること。少しの油断もないように準備するように。

  多度郡の村々
多度郡の村々(讃岐国絵図)
⑨尾池玄番の通達を受けて、辻五兵衛が庄屋仲間の二郎兵衛にあてた文書です 。
尚々申上候 右迄外記玄番様へ被仰上御公事次第 被成可然存候事御神前之儀候間前かた御吟味御尤に候。殊に御音信として御たる添存候。后程懸御目御礼可申上候
以上
貴札添拝見仕候 然者滝宮神前之念仏に付御状井源兵衛殿此方へ御越添存候
一 七ケ村と先さきの御からかい被成
候時山田市兵衛門三四郎滝宮之甚右衛門我等外記様御下代衆為御使罷出申極は多度郡南条外記様御代官所儀に候へは其時重而之儀被成何も公儀次第被成候へと外記殿下代衆も被仰候付而其通皆々様へも申渡候。於有之違申間敷候。 外記様玄番様へも被仰上前かと御吟味被成候事御尤に存事に候。猶委は此源兵衛殿へ申渡候 恐惶謹言
七月九日  辻五兵衛   (花押)
多度郡               
 二郎兵衛様江御報
  意訳変換しておくと
外記様や玄番様に申し上げた神事の順番について、以前のことを吟味した上でしかるべき措置を指示をいただいた。添状まで文書でいただいているので、後日御覧に入れたい。
 以上
書状を拝見し、滝宮神前での念仏踊り奉納について、御状と源兵衛殿方へ添状について
一 七ケ村との今後の対応について
山田市兵衛門三四郎、滝宮の甚右衛門と我等と外記様の御下代衆が一致して対応している。多度郡南条の外記様の御代官所が公儀として下代衆も仰せ付け、その通りを皆々様へも申渡しました。 これについて私たちが異議を申すことはありません。 猶子細は使者の源兵衛殿へ申渡しております。
恐惶謹言
七月九日  辻五兵衛   (花押)
多度郡 二郎兵衛様江御報
  ここからは次のようなことが分かります。
①前回に、多度郡の鴨組と那珂郡の七箇村組との間に、踊りの順番を巡って争いがあったこと
②それについて、鴨組から「外記様や玄番様」を通じて前回の調停案遵守を七箇村に確認するように求めたこと
③その結果、納得のいく回答文書が「外記様や玄番様」からいただけたこと
讃岐国絵図 多度津
多度郡の村々(讃岐国絵図)

鴨組からの要求を受けて、7月20日に尾池玄番が多度郡の大庄屋たちに出したのが次の文書です。
 尚々喧嘩不仕候様に事々々々々可申付候長ゑなと入候はヽまへかとより可申越候   以上
態申遣候 かも(加茂)より滝宮へ二十五日に念仏入候間各奉行候ておとらせ可申候 郡中さたまり申候ことく村々へ申付けいこ可出申由候 恐々謹言
七月二十日        玄番  (花押)
垂水勝太夫殿
福井平兵衛殿
河原林七郎兵衛殿
松井左太夫殿
  意訳変換しておくと
くれぐれも(滝宮への踊り込みについては)喧嘩などせぬように、前々から申しつけている通りである。  以上
態申遣候  加茂から滝宮へ7月25日に念仏奉納について各奉行に沙汰し、郡中で決められたとおり村々での準備・稽古を進めるように申しつける。恐々謹言
七月二十日        玄番  (花押)
垂水勝太夫殿
福井平兵衛殿
河原林七郎兵衛殴
松井左太夫殿
大意をとると次のようになるようです。
「踊りの順番については、七箇村組に前回の調停書案所を遵守させるの心配するな。喧嘩などせずに、しっかりと稽古して、踊れ」
 
尾池玄番は、奉納日が近づいた7月20日にも、次のような文書を出しています
尚々於神前先番後番は くじ取可然と存候
もよりに真福寺へ入可申候 委此者可申候 以上
書状披見候
一 当年滝宮へ南鴨より念仏入候由先度も申越候 然者先年七ケ村と先番後番之出入有之処に羽床の五兵方被罷出其年は七ケ村へおとらせ候へ、重而はかも(加茂)へ可申付との曖に而相済由承候処則五兵方へ申理状を取七ケ村政所衆へつけ可申候。同日(滝宮牛頭)天王様之於御前圏取可然存候。
一  たヽき鐘かり申度由候 町に而きもをいり候へと仁左衛間申付候
一 刀脇指今程はかして無之候。 但股介に申付かり候へと申付候。 委は此者可申候 恐々謹言
七月二十五日         (花押)
(封)
勝太夫殿        玄番
政所二郎兵衛畦

  意訳変換しておくと
くれぐれも神前での踊り奉納の先番後番の順番は、「くじ」によるものとする。これについては、真福寺に伝えているので、子細は真福寺の指示に従うこと。
書状披見候
一 今年の南鴨の念仏踊奉納については、先般も伝えたとおりである。先年、七ケ村と順番を巡って喧嘩出入があった折りに、羽床の五兵衛の調停でこの年は七ケ村が先に踊ることで決着した。重ね重ねこの件については、五兵衛に申送状を七ケ村の政所衆へ届けさせる。同日(滝宮牛頭)天王様の於御前で確認されたい。
一  叩き鐘の借用について申し出があったが、準備を仁左衛門に申付けてある。
一 刀脇指については、今は貸し与えてはいない。ただし、股介は貸し与えることを申付けている。  子細は、使者に伝えているので口頭で聞くように 恐々謹言
七月二十日         (花押)
(封)
勝太夫殿        玄番
政所二郎兵衛畦
奉納が25日ですから、間近に迫った段階で、奉納の順番や鉦の貸与など具体的な指示を与えています。また、前回に那珂郡七箇村組と踊りの順番を巡っての「出入り」があったことが分かります。そこで、今回はそのような喧嘩沙汰を起こさぬように事前に戒めています。

 尾池玄蕃の発信文書を整理すると次のようになります。
①7月 朔日(1日)  尾池玄番による滝宮神社への踊り込みについての指示
②7月 9日  南鴨組の辻五兵衛による尾池玄蕃への踊り順確認文書の入手
③7月20日  尾池玄蕃による南鴨踊組への指示書
④7月25日 踊り込み当日の順番についての具体的な確認

以上からも、生駒藩の玄蕃などの現地重役の意向を受けて、滝宮念仏踊りは開催されていたことが分かります。そして、役人と龍燈院という個人的な関係だけでなく、生駒藩として政策的に龍燈院を保護していたことが裏付けられます。

龍燈院・滝宮神社
    手前が滝宮(牛頭天王)社、その向こうが別当寺の龍燈院

ところが、次の高松藩が成立した年の文書からは、南鴨組の踊りの奉納が停止されたことがうかがえます。滝宮(牛頭天王)社の別当寺龍燈院の住職が、南鴨の責任者に宛てた文書を見ておきましょう。
尚々貴殿様御肝煎之所無残所候へとも御一力にては調不申候由候尤存候。 来年は是非共被入御情に尤存候。今回はいそかしく御座候間先は如此候郡中御祈念申候間左様に御心得可被成候。来年は国守御付可被成候間念仏も相調可申と存事に御座候 以上
     
御状添拝見申候 就其念仏相延申候左右被成候、祝言銭銀壱匁七分角樽壱つぬいくくみ造に請取申し候。則御神前にて念比祈念仕候来年は念仏御興行可被成候。 何も御吏へ口上に申渡候間不能多筆候 恐悼謹高
龍燈院(花押)
七月二十四日
南鴨 清左衛門様
    貴報
意訳変換しておくと
貴殿様は人の世話をしたり、両者を取り持ったりする肝煎の役割を果たされている重要な人物であることを存じています。そんな貴殿様でも、今回のことについては、力が及ばないことは当然のことです。来年は(鴨組の)踊り奉納が復活できると信じています。今回は、明日の奉納を控えての忙しい時期ではありますが、多度郡のことを祈念いたします。来年は御領主さまも鴨組の参加を認めることでしょう。 以上
     
なお書状・添状を拝見しました。念仏踊り奉納は延期(中止)になりましたが、お祝いの銭銀壱匁七分角樽壱つぬいくくみ造を請取りました。御神前に奉納し、来年は念仏御興行が成就できるように祈念いたします。文字で残すと差し障りがあるので、御吏へ口頭で伝えています。 恐悼謹高
龍燈院(花押)
七月二十四日
南鴨 清左衛門様
    貴報
ここからは次のようなことが分かります。
①寛永19(1642年)7月24日に、龍燈院住職が南鴨組の責任者に出した書簡であること
②前半は鴨組の踊り奉納が、何らかの理由でできなくなったことへの詫状的な内容であること。
③後半は、奉納日前日の7月24日に、これまで通りに南鴨組が奉納品を納めたことに対する龍燈院住職から礼状であること。
ここからは、それまで奉納していた南鴨組の踊りが、高松藩主の意向で踊り込みが許されなくなったことがうかがえます。その背景には何があったのでしょうか?
  龍燈院の住職が代々書き記した『瀧宮念仏踊記録』の表紙裏には、次のように記されています。
「先代は当国十三郡より踊り来たり候処、近代は四郡而已に成り申し候」
「就中 慶安三年寅七月二十三日御重キ御高札も御立て遊ばされ候様承知奉り候」
意訳変換しておくと
かつては、念仏踊りは讃岐国内の13郡すべての郡が踊りを滝宮に奉納に来ていた。
高松藩の松平頼重が初代藩主として水戸からやってきて「中断」していた念仏踊りを「西四郡」のみで再興させ、その通知高札を7月23日に掲げた
松平頼重が踊り込みを認めた「西4郡」の踊組とは、以下の通りです。
①綾郡北条組(坂出周辺)
②綾郡南條組(綾川町滝宮周辺)
③鵜足郡坂本組(丸亀市飯山町)
④那珂郡七箇村(まんのう町 + 琴平町)
ここには、多度郡の南鴨組の名前はありません。
南鴨組の名前が消えるまでの経緯を、私は次のように想像しています

 寛永19(1642年)5月28日、高松藩初代藩主として松平頼重が海路で高松城に入り、藩内巡見などを行って統治構想を練っていく。このような中で、滝宮(牛頭天王)社の念仏踊り奉納のことが耳に入る。頼重が、気になったのが他藩の踊組があることだった。那珂郡七箇村組(構成は高松藩・天領・丸亀藩)は、大半が高松藩に属すから許すとしても、南鴨組は丸亀藩の踊組だ。これを高松藩内の滝宮神社への奉納を許すかどうかだ。丸亀藩の立場からすれば、自藩の多度郡の村々が他藩の神社に奉納するのを好ましくは思わないだろう。隣藩とのもめ事の芽は、事前に摘んでおきたい。南鴨組からの踊り込みについては、丁重に断れと別当・龍燈院住職に指示することにしよう。

こうして、中世以来続いてきた南鴨組の滝宮牛頭天王への念仏踊りの奉納は、以後は取りやめとなった。以上が私の考えるストーリーです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献  多度津町誌史料編140P 南鴨山寺家文書(念仏踊り文書)
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南鴨念仏踊
南鴨念仏踊組は、かつては滝宮への踊り込みをおこなっていたと伝えられています。しかし、近世の高松藩の関係文書を見ると、南鴨組の念仏踊りが奉納された記録はありません。また南鴨組は、どのくらいの村々によって構成されていたのでしょうか。その辺りを、史料で見ていくことにします。テキストは、「多度津町誌史料編140P 南鴨山寺家文書(念仏踊り文書)」
多度津町誌 購入: ひさちゃんのブログ
 
まず、元和2年の多度郡大庄屋の伊次郎兵衛の各庄屋への触書を見ていくことにします。
以上
一筆申入候 乃当年たきノ宮ねんふつ(滝宮念仏)あたりとしの由申候。唯今迄は草木能様に見申し候。ねんふつの儀弥入候て可然かと存候。いかヽ各々被存候哉。御かつてん候はヽ名付所にてんをかけ可給候返事次第吉日以寄相御座候様左右可申候 為其申触候 恐々謹言
           伊次郎兵衛
六月十一日               正盛(花押)
元和弐とし(異筆:1612年)
  意訳変換しておくと
 一筆申入れる。今年は鴨組が滝宮念仏(踊り)奉納の当番年となっている。念仏の踊り込みについて、どう考えているのか、各々の意見をお聞きし、その上で返事したいと思う。ついては、吉日に集まって協議したいと思うので、その触書きを回覧する。 恐々謹言
            伊次郎兵衛
六月十一日                正盛(花押)
元和弐とし(異筆:1612年)
触状の回覧先は次の通りです。
元和2年の次郎兵衛の各庄屋への触書

回覧状が廻された村々の庄屋の一覧になります。これが滝宮念仏踊の鴨組の構成村であったが分かります。その村々を見てみると、北鴨と南鴨だけではありません。白方を除く多度津のほぼ全域と、善通寺から多度郡の最南端の大さ(大麻)までを含んでいます。

多度郡の村々
多度郡の村々(讃岐国絵図)

ここからは次のようなことが分かります。
①元和2(1612)年の生駒藩の時代には、鴨組も滝宮牛頭天王(現滝宮神社)への念仏踊りの奉納を行っていたこと。
②踊り込みには当番組があって、何年かに一度順番が回ってくること
③念仏踊り鴨組は、現在の「多度津町 + 善通寺市」の広範な村々で構成されていたこと。
私はこの史料を見るまでは、鴨組の念仏踊りが滝宮に奉納されていたことについては、確証が持てませんでした。しかし、この史料からは生駒藩時代には、鴨組は踊り込みを行っていたことが分かります。同時に、中世の多度郡の中心的な郷社は賀茂神社であったこと。その賀茂神社に、多度郡の有力者が宮座を編成し、念仏踊りを奉納していたことがうかがえます。これは以前にお話した鵜足郡の坂本念仏踊り、那珂郡南部の七箇村念仏踊りと同じです。つまり、中世に起源を持つ風流踊りということになります。

讃岐の郷名
讃岐の古代の郡と郷

 滝宮念仏踊りには、以前にお話ししました。
①滝宮牛頭天王の夏祭りの旧暦7月25日に奉納された踊り念仏であること
②それを差配していたのは、別当寺の龍燈院の社僧であったこと。
③龍燈院は、牛頭天王のお札(蘇民将来子孫・苗代・田んぼの水口)を、社僧達が配布し財政基盤としていたこと
④滝宮牛頭天王へ踊りを奉納する各組は、その信者であったこと
もう一度、回覧状の内容を見てみます。
これを見ると従来通りの奉納するというのでなく、どうするかを協議するために事前に集まろうという内容です。ここからは、従来通りの踊り奉納について、異論がでていることがうかがえます。それの原因については、ここからは分かりません。
 次に10年後の元和8(1622)年の入谷外記文書を見ていくことにします。
以上
来二十五日滝之宮へ両鴨村より念仏入候に付郡中としてけいこ(稽古)彼是肝煎肝要に候。為其に申遣候也
(入谷)外記 
七月五日         盛正(花押)
多度郡政所中江
意訳変換しておくと
以上
来月の7月25日は滝宮へ両鴨村が念仏踊りを奉納することになっている。(多度)郡中として稽古をすることが肝煎肝要である。そのことを申伝える。

書状の主は「外記」とあります。外記は、生駒藩要職にあって那珂(仲)郡と多度郡の管理権を握っていた入谷外記のことのようです。興泉寺(琴平町)は、当時の那珂郡榎井村の政所を勤めていたとされ、寛永年間(1624~44)の政所文書を伝えます。その中に、寛永6(1629)年滝宮念仏踊で、七箇村組と坂本組との間に起こった先番・後番の争いを扱って和解させた「入谷外記書状」があるようです。どちらにしても入谷外記は、生駒藩の中枢部にいた人物です。その彼が多度津の政所の中江氏に対して「滝宮念仏踊りについて、しっかり準備・練習して奉納せよと」と書状を送っています。ここからは、生駒藩が念仏踊りの奉納に対して、強く肩入れしていたことがうかがえます。別の見方をすると、入谷外記と龍燈院の住職が懇意であったのかもしれません。
 もうひとつ穿った見方をすると、先ほど見たように元和2(1612)年には、滝宮への踊奉納について、不協和音が組内で出ていた気配がありました。それを見越して、入谷外記が龍燈院の住職の依頼を受けて「しっかり準備・練習して奉納せよと」という文書を差し出したのかも知れません。
 入谷外記の達しを受け手の庄屋たちの動きが分かるのが「小山喜介文書(元和8年)です。
尚々御請所御蔵入共に早々十二日に南鴨へ御より候て御談合可有候。くわしくは後々以面可申入候
以上
南鴨念仏之儀に付而けき殿より御状廻申候 左様候へは来十二日に南鴨へ御より候て万事御談合可被成候、外記殿もはじめての儀候間一入念を入候へと被仰侯間其心得尤に候
此廻状名ノ下に皆々判被成候へく侯。 すなはちけき殿御めにかけ可申候  以上
       元八        小山 喜介 (花押)

意訳変換しておくと
今回の念仏踊り奉納について、7月12日に南鴨へ集まって協議したい。詳しくは、後日顔合わせしたときにお伝えする。 以上
南鴨組の念仏踊りについて、外記殿から御状廻が届いた。このことについて12日に南鴨へ集まったときに談合(協議)したい。外記殿も、はじめてのことなので入念に準備・稽古するようにと書き送ってきた。その心遣いはもっともなことだ。なお、この廻状名の下に皆々の判を(花押)を入れて欲しい。これも外記殿に御覧いただくつもりだ。
大庄屋の小山 喜介が触書を廻した一覧表は次の通りです。

小山 喜介が触書を廻した一覧表
「小山喜介文書(元和8年)の庄屋触状の回覧先一覧
多度郡 明治22年
多度郡の村々

   元和2(1612)年の構成メンバーと比べると、白方3村が加わっています。文中の「はじめてのことなので入念に準備・稽古せよ」という指示は、新加入の白方三村への指導を云っているのでしょうか。外記からの指示文書には「(多度)郡中として稽古をすることが肝煎肝要」ともありました。ここからは、それまでは白方三村なは、参加していなかったのが、この時点から参加するようになったこと。初めてのことなので「(多度)郡中として稽古せよ」ということになるのかもしれません。
7月12日の会合で決定した各村の「滝宮念仏道具割」を一覧化したものが下図です。
南鴨組滝宮念仏道具割
南鴨念仏踊り「滝宮念仏道具割」(元和8年)
ここからは次のようなことが分かります。
①鴨組と呼ばれていたが、ほぼ多度郡全域の村々で構成されていたこと。
②各村々に踊り役やその人数が割り当てられていたこと。
③宮座による運営だったこと
④費用は村高に応じて、米高割当が決められていたこと

  「南鴨組」という名称から多度津の南鴨の人達だけによって、編成されていたように思いがちですが、そうではないようです。以前にお話しした坂本組・七箇村組と同じく、かつての郷社に各村の名主達などの有力者が宮座を編成し、奉納されていたことが分かります。
滝宮念仏踊諸役人定入目割符指引帳
那珂郡七箇村組の踊り編成表

多度津町史には南鴨念仏踊りのもともとの奉納先は賀茂神社の摂社牛頭天王だったと記されています。滝宮神社も神仏分離以前は牛頭天王社でした。
牛頭天王と滝宮念仏踊りの関係をもう一度整理しておきます。
①滝宮(牛頭天王)社を管理していたのは、別当寺の龍燈院。
②龍燈院の社僧(山伏)たちは、お札(蘇民将来子孫・苗代・田んぼの水口)を周囲の村々で配布していた
③彼らは宗教者であると同時に、芸能保持者で祭りなどのプロデュースを手がけたこと。
④当時讃岐でも大流行していた時衆念仏踊りを祖先供養の盆踊りや祭りの風流踊りにアレンジして、取り入れたのも彼らであること
⑤念仏踊りを滝宮に奉納していた踊組エリアは、滝宮牛頭天王の信仰エリアであったこと
このような関係を多度津周辺に当てはめてみると次のようになります
①中世に復興された道隆寺は、海に開けた交易センターの機能を果たした。
②多くの廻国修行者の拠点となり「学問寺」の役割も果たした。
③高野聖などの真言系の聖が、時衆系阿弥陀信仰をもたらし周辺で民衆の供養を営むようになった
④観音院は、堀江集落の墓地に建立された観音堂に住み着いた聖の活動からスタートした。
⑤播磨の広峯神社は、牛頭天王信仰の中心地であったが、そこから讃岐に廻国修験者(御師)がやってきて、牛頭天王信仰を拡げる。
⑥賀茂神社の中にも牛頭天王の摂社が勧進され、そこに奉納するために念仏踊りがプロデュースされる。
⑦鴨念仏踊りは、丸亀平野の牛頭信仰の拠点である滝宮に奉納されるようになる
     今回はここまでとします。続きは次回に
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「多度津町誌史料編140P 南鴨山寺家文書(念仏踊り文書)」

                        
佐文綾子踊りについて、いろいろな資料を集めています。分からないことは数多くあるのですが、佐文綾子に先行する那珂郡七箇念仏踊りが、どうして滝宮への踊り込みをしなくなったのかについてを、明らかにしてくれる資料が私の手元にはありません。資料がないままに以前には、次のように推察しました。
①七箇念仏踊りは、高松藩・丸亀藩・満濃池領(天領)の村々の構成体で、運営をめぐる意見対立が深刻化していた。
②天領の村々の庄屋たちは、運営を巡って脱退や会費支払い拒否も見せていた。
③そのような中で、明治維新の神仏分離で滝宮念仏踊りの運営主体である龍燈院(滝宮神社の別当寺)の院主が還俗した。
④そのため龍燈寺は廃寺となり、滝宮念仏踊りの運営主体がなくなり、自然消滅してしまった。
⑤その結果、滝宮念仏踊りは開催されなくなった。

阿野郡の郷
阿野郡の郷
それではその後の滝宮念仏踊りの復興は、どのように進んだのでしょうか。
今回は、明治になって踊られなくなっていた坂本念仏踊りがどのように復活していくのかを見ていくことにします。テキストは 明治に初期における坂本念仏踊りの復興 飯山町誌774Pです。

坂本村史(坂本村村史編纂委員会 編集・発行) / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋

明治初期の坂本念仏踊の復興について、『坂本村史』は次のように記します。(要約)
 明治2年(1869)2月、念仏踊復興のために、滝宮神宮社務・綾川巌の名で香川県参政へ願い出たが、何の連絡もなかった。明治11年(1878)七月になって、阿野郡人民総代泉川広次郎・川田猪一郎、県社天満神社祠掌田岡種重の二人が連署して、愛媛県令岩村高俊あて願書提出したところ、7月29日付で、次のような許可文書がくだされた。
書面頂出ノ趣聞届候条不取締無之様注意可致事 但シ最寄警察分署へ届出ズベシ
愛暖県高松支守
  意訳変換しておくと
提出された復興願いの書面について、聞届けるので、取締対象にならぬように注意して実施すること。但し、最寄警察分署へ実施届出を提出すること
愛媛県高松支守
当時は、香川県はなくなっていたので高松支所からの許可願となっています。
滝宮念仏踊り3 坂本組
坂本念仏踊り

これを受けて、次のような正式の許可願が提出されます。
滝宮県社天満神社及同所滝宮神社神事踏歌ノ儀、該社並組合村中、流例ノ神社之依テ執行御願滝宮踏歌神事ノ儀ハ予テ先般該社神官並鵜足部阿野部給代連署フ以テ願出御指令相成り則本年ハ右神事鵜足部順年二付任吉例来ル二十三日滝宮両社二於テ執行仕り来り候儀二付本年ハ東坂元村亀山神社真時村下坂神社川原村日吉神社西坂元村坂本神社ノ四社二於テ執行仕度就テハ祭器ノ内刀、護刀両器械フモ神事瀾内二於テ相用度此段奉願候 以上
明治十一年八月
組合村第五大区
第 八小区 鵜足部東小川村
第 九小区 同部東坂元村、真時村、川原村
第 十小区 同郡西坂元村、西小川村、西二村、東二村
第十一小区 同郡川津村
人民総代
鵜足郡東坂元村
同 郡川原村
同 郡真時村
同 郡西坂元村
愛媛県令 岩村高俊殿

前記願出之儀許可相成度最モ指掛候儀二付至急御指令相成度奥印仕候也
第五大区九小区長 東 条 友五郎
副小区長 寺 島 文五郎
十小区長 横 田   稔
副小区長 伊 藤 知 機
意訳変換しておくと
滝宮県社天満神社と滝宮神社神事である「踏歌(念仏踊り)」について、該当する神社や組合村々は、神事復活について、各社の神官代表、ならびに鵜足郡・阿野郡の代表者が連署して、許可申請を提出いたしました所、許可をいただきました。つきましては実施に向けた動きを進めていきますが、本年の神事は鵜足郡の担当で、日程は古来通り、23日に滝宮両社で執り行う予定です。その事前奉納を、次の4社で行います。東坂元村の亀山神社、真時村の下坂神社、川原村の日吉神社、西坂元村の坂本神社。なお、その際に祭器の内、刀、護刀についての取扱については、神事のために使用するものであることを申し添えます。 以上
明治11年八月
組合村第五大区
第 八小区 鵜足部東小川村
第 九小区 同部東坂元村、真時村、川原村
第 十小区 同郡西坂元村、西小川村、西二村、東二村
第十一小区 同郡川津村
人民総代
鵜足郡東坂元村
同 郡川原村
同 郡真時村
同 郡西坂元村
愛媛県令 岩村高俊殿

前記の祭礼復活許可をいただいた件について、至急御指令を下されるようにお願いいたします。
第五大区九小区長 東 条 友五郎
副小区長     寺 島 文五郎
十小区長     横 田   稔
副小区長     伊 藤 知 機
ここからは次のようなことが分かります。
①滝宮念仏踊りが「踏歌」と表現されていること。このあたりにも廃仏毀釈の影響からか、当局を刺激しないように、仏教的な「念仏踊り」という表現でなく、「踏歌」としたのかもしれません。
②滝宮両社への奉納以前に、事前に地元神社への奉納許可と、その日程を伝えています。
これに対し、次のような回答が下されています。
書面願出之趣祭典ニアラズシテ神社二於テ賑之儀ハ難聞届候事但八幡神社踏歌神事ハ祭典二際シ古例ナルフ以テ差許候儀二有之且自今如此願ハ受持神官連署スベキ儀卜可相心事
明治十一年八月十三日
愛媛県高松支庁
意訳変換しておくと
 各神社での事前の踊り奉納について、神社における祭典(レクレーション)であれば、許可しがたいが、八幡神社の踏歌神事で、古例なものであることを以て許可する。これより、この種の許可願は受持神官と連署で提出すること
明治十一年八月十三日
愛媛県高松支庁

   神社の祭礼復活についても、いちいちお上(政府)の許可を求めています。許可する新政府の地方役人も尊大な印象を受けますが、これは一昔前の江戸時代の流儀でした。それが抜けきっていないことが伝わってきます。
丸亀市坂本
       現在の丸亀市飯山町西坂本 
東坂本
東坂本
こうして念仏踊復興の動きは、鵜足郡の坂本村を中心に始まり、明治11(1878)年8月23日、亀山神社・下坂神社・日吉神社・坂元神社の四社で維新後最初の念仏踊りが奉納されたことを押さえておきます。

飯山町坂本神社
坂本神社(丸亀市飯山町)

ところが復活から約20年後の明治32年(1899)の念仏踊が踊られる年に台風のため中止となり、その後しばらく中断されます。
この背景については、飯山町誌は何も記しません。
大正2年(1913)に大干魃に見舞われ、中の宮で雨乞念仏踊奉納
これを機に、再び復興機運が盛り上がったようで、以後は、大正3、6、9、12年と3年毎に行われています。ところが、その後は小作争議のため中断します。それが復活するのは、昭和天皇御即位の大典記念事業の時です。そして昭和4年(雨乞いのため)、7年、10年に奉納されています。以後の動きを年表化します。
昭和13(1938)年、日中戦争のため中止
昭和14(1938)年、大早魅のため雨乞念仏踊
昭和16(1941)年、紀元2600百年記念として滝宮両神社で実施し、以後戦中は中断、
昭和27(1952)年 組合立中学校落成記念として実施
戦後は昭和28、31、34年と3年毎に奉納されてきましたが、以後は中止となりました。背景には、町村合併、経費問題、大所帯をとりまとめていくことの難しさ、宮座制の運営をめぐる問題などがあり、昭和34(1959)年の奉納を最後に途絶えます。
 復活の機運が高まってきたのは、1970年代の滝宮念仏踊りや佐文綾子踊りの国無形文化財指定に向けた動きです。
昭和48(1973)年秋、四国新聞社による「讃岐の秋まつり」に坂本念仏踊が有志で略式参加
昭和49(1974)年 飯山中学校落成記念行事に出演。
昭和55(1980)年 飯山町文化祭に特別出場
このような中で、坂本念仏踊りへの誇りと関心が高まり、後世に伝えてゆく必要があるという声が生まれてきます。こうした動きを受けて、昭和56(1981)夏に、保存会設置が決まります。
 坂本念仏踊保存会規約を挙げておきます。
第一条 木会は坂木念仏踊保存会と称し、事務所を飯山町教育委員会内に置く。
第二条 本会はこの地方に往古より伝わる郷土芸能坂本念仏踊を民俗無形文化財として後世に残し伝えてゆくことを目的とし、 一般町民により組織する。
第二条 本会に下記役員を置き任期は三年とする。
会 長 一名  副会長 二名
会計一名 監事二名
世話人 若千名
第四条 本会に顧問若千名を置く。
第五条 本会は毎年役員会を開き、下記要項により協議の上実施する。
一 日 時  八月下旬の日曜1日間
一 町内各神社に奉納
第1年目 亀山神社、下坂神社、東小川八幡神社
第2年目 三谷神社、坂元神社、八坂神社
第3年目 滝宮神社、滝宮天満宮、日吉神社
ここからは、保存会規約によって次の神社に奉納することになっていることが分かります。
東坂元 亀山神社  三谷神社
川  原 日吉神社
西坂元 坂元神社  王子神社
真  時 下坂神社
東小川 八幡神社
下法軍寺 八坂神社
滝  宮     滝宮神社  天満神社
亀山神社の情報| 御朱印集めに 神社・お寺検索No.1/神社がいいね・お寺がいいね|15万件以上の神社仏閣情報掲載
亀山神社(丸亀市飯山町)から仰ぐ飯野山
しかし、実際に3年間やってみて、経費や負担面を考慮して、1984年からは、次のように改められたと飯山町誌には記されています。
①滝宮両神社には、寅、巳、申、亥の年に3年毎に奉納
②滝宮から帰って、町内の二神社を年回りに奉納する
こうして見ると坂本念仏踊りには、次の4度の中断期があったことが分かります。
①幕末~明治11(1878)年まで
②明治32年(1899)~大正2年(1913)まで
③昭和16(1941)年~昭和27(1952)年まで
④昭和34(1959)年~昭和56(1981)年
その都度乗り越えてきていますが、その原動力となったのは、次のふたつが考えられます。
A 雨乞い祈願のため
B 天皇即位・起源2600祭・中学校新築などのイヴェント参加
Aについては、高松藩へ提出した坂本念仏踊りの起源については「菅原道真の雨乞成就への感謝のために踊る」と記されていて、この踊りがもとともは、自らの力で雨を降らせる雨乞祈願の踊りではなかったことは以前にお話ししました。それが近代になると、「雨乞祈願」のための踊りと強く認識されるようになったことがうかがえます。度々、襲ってくる旱魃に対して、近代の人達は雨乞い踊りをおどるようになったのです。

4344102-55郷照寺
宇多津の郷照寺 唯一の時宗札所(讃岐国名勝図会)

最後に念仏踊りの起源について、私が考えていることを記しておきます
 坂本念仏踊りは、中世の郷社に奉納されていた風流踊りです。それが、江戸時代の「村切り」で、近世の村々が作られ、村社が姿を現すと、夏祭りの祭礼に盆踊りや風流踊りとして奉納されるようになります。現在の滝宮念仏踊りの由緒の中には、法然の念仏踊りに起源を説くものがありますが、これは後世の附会です。法然と踊り念仏は、関係がありません。
①踊り念仏は、空也によって開始されたこと
②踊り念仏は、その後一遍の時衆教団によって爆発的な広がりをみせたこと
③そのため高野山を拠点にする聖たちが、ほぼ時宗化(念仏聖化)した時期があること
④その時期に、全国展開する高野聖たちが阿弥陀浄土信仰(念仏信仰)や踊り念仏を拡げたこと
⑤讃岐でその拠点となったのが、白峰寺や弥谷寺などの修験者や聖達の別院や子院であったこと
⑥中世においてもっとも栄えていた宇多津にも、いろいろな修験者や聖達が集まってきた。
⑥彼らを受けいれ、踊り念仏聖の拠点となったのが郷照寺。この寺は今も四国霊場唯一の時宗寺院
⑧この寺が、中讃地区で踊り念仏を拡げた拠点
⑨坂本郷は飯野山の南側で、大束川流域の宇多津のヒンターランドになり、郷照寺の時宗たちの活動エリアでもあった
⑩彼らの中には、滝宮牛頭天王社(滝宮神社)の別当寺・龍燈院に仕える修験者や聖達もいた。
⑪彼らは3つのお札(蘇民将来・苗代・田んぼの水口)の配布のために、村々に入り込み、有力者と親密になる。
⑫そんな中で、郷社の夏祭りのプロデュースを依頼され、そこに当時、瀬戸内海の港町で踊られていた風流踊りを盆踊りとして導入する。
⑬中世の聖や山伏たちは、村祭りのプロデューサーでもあり、「民俗芸能伝播者」でもあった。

高野聖は宗教者としてだけでなく、芸能プロデュースや説話運搬者 の役割を果たしていたと、五来重氏は次のように指摘します。
(高野聖は)門付の願人となったばかりでなく、村々の踊念仏の世話役や教師となって、踊念仏を伝播したのである。これが太鼓踊や花笠踊、あるいは棒振踊などの風流踊念仏のコンダクターで道化役をする新発意(しんほち)、なまってシンボウになる。これが道心坊とも道念坊ともよばれたのは、高野聖が高野道心とよばれたこととも一致する。
聖たちは、村祭りのプロデュースやコーデイネイター役を果たしていたというのです。風流系念仏踊りは、高野聖たちの手によって各地に根付いていったと研究者は考えています。

P1240664
一遍時宗の踊り念仏(淡路の踊屋:一遍上人絵伝)

 どちらにしても、滝宮牛頭天王社(滝宮神社)の社僧達が村々に伝えたのは、時宗系の踊り念仏でした。それが、各郷社で祖先慰霊の盆踊りとして、夏祭りに踊られ、7月25日には滝宮に踊り込まれていたようです。
龍燈院・滝宮神社
滝宮神社(牛頭天皇)の別当寺龍燈院

 戦国時代に中断していた滝宮への踊り込みを復活させたのは、高松藩初代藩主の松平頼重です。その際に、松平頼重は幕府への配慮として、遊戯的な盆踊りや、レクレーション化した風流踊りに、「雨乞い踊り」という名目をつけて、再開を認めました。そのため公的には、「雨乞い踊り」とされますが、踊っている当事者たちに「雨乞い」の認識がなかったことは、以前にお話ししました。雨乞いのために踊るという認識がでてくるのは、幕末から近代になってからのことです。
      最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

念仏踊り 八坂神社と下坂神社 : おじょもの山のぼり ohara98jp@gmail.com

参考文献 明治に初期における坂本念仏踊りの復興 飯山町誌774P
関連記事

滝宮念仏踊り
滝宮念仏踊り(讃岐国名勝図会)
 陶の親戚に盆礼参りに行くことを伝えると、「ちょうど滝宮念仏踊りのある日じゃわ。一緒に見に行かんな」と誘われました。実は、私は今まで一度も見たことがないので、いい機会だと思って「連れて行ってください。お願いします」と頼みました。
 今年になって佐文綾子踊りの事務的な御世話をすることになって、いろいろなことを考えるようになりました。この際、滝宮念仏踊りを見ながら、佐文念仏踊りについて考えて見たいと思ったのです。
 昼食を済ませて少し早めに会場に向かいます。

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てっきり、滝宮神社で踊られるものと思っていたら、昼の会場は滝宮天満宮でした。滝宮神社では、朝の8;30から奉納が行われていたようです。炎天下に朝昼のダブルヘッター公演です。演じる方は大変だと思います。
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滝宮天満宮に奉納された御神酒
  拝殿にお参りに行くと各踊組からの御神酒が奉納されてありました。一升瓶は12本あり、1本1本に奉納組の名前が書かれています。12組の踊組が出演することがわかります。例年は、3組ずつの公演なのですが、今回はコロナ開けの特別公演で、惣踊りになるようです。下側に張られたグループ分けの紙を見ると、3組ずつがグループとなって、4公演となるようです。

滝宮念仏踊り 御神酒
滝宮天満宮に奉納された12本の御神酒(西分奴組を含む)
第1組 北村 千疋  萱原
第2組 東分 山田上 山田下
第3組 西村 石川  羽床上
第4組 北村 小野  羽床下
これが江戸時代の「南条組」だったようです。南條組が、今は旧綾南・綾上町の11組に分けて、その中から毎年3組ずつが1グループとして奉納します。そして5年に一度、11組全部で踊る総踊りが行われているようです。滝宮天満宮に奉納されていた12本の御神酒は、「西分組 + 11組の踊組」からのもののようです。
 4年で一巡して、5年目が惣踊りということになります。
 ここでは、「旧南條組=現滝宮念仏踊り」で、それが11組に分かれていること。11組で4グループを作って、そのグループごとで毎年奉納していることを押さえておきます。この11組の念仏踊り組の総称が、現在は「滝宮念仏踊り」と呼ばれているようです。
 別視点から見ると、この11組は中世には滝宮神社(滝宮牛頭天皇社)の信仰圏下にあったエリアで、踊り念仏が時宗の念仏聖によって伝えられた地域だと私は考えています。
幕末の西讃府誌には、滝宮念仏踊りのことが次のように記されています。(意訳)。
大日記には次のように記されている。延喜三年二月廿五日、菅原道真五十七歳の時、①雨乞成就に感謝して、毎年7月25日に瀧宮で舞曲祭を行う。俗にいう瀧宮の踊りとは、②七ケ村(まんのう町)南條・北條・坂本などの4ヶ所から年毎、異なる組の者が踊り込みを行う。但し、北條組については、踊り込み年が定まっていない。7月16日から25日までは、③各地域の神社に踊りが奉納される。しかし、瀧宮に奉納するのが主とされるので、④瀧宮踊と呼ばれている。

  整理・要約すると次の通りです。
①雨乞い踊りのために踊るとは書いていない。雨乞成就に感謝してとされていること。
②踊りを奉納するのは、七ケ村(那珂郡:まんのう町)・南條・北條・坂本(鵜足郡・丸亀市)の4ヶ所だったこと
③滝宮への奉納以前に、地元の各村神社に奉納されて、最後の奉納が滝宮牛頭天皇社であったこと。
④「滝宮念仏踊り」とは書かれていない。「瀧宮の踊り」「滝宮踊」であること

③には、17世紀には踊組は、七ケ村(那珂郡:まんのう町)・南條・北條・坂本(鵜足郡・丸亀市)がローテンションで務めていたとあります。七ケ村(那珂郡:まんのう町)と、北條組は今は奉納されていません。
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滝宮天満宮への滝宮念仏踊りの入庭(いりは)

西讃府誌を続いて見ていきます。
 この踊りは、普通の盆踊とは大きな違いがある。⑤下知(芸司)と呼ばれる頭目が、花笠を被って袴を着て、大きな団扇を打ち振って、「なつぱいぎうや(南無阿弥陀仏)」と云いながら曲節に併せて踊る。
小踊は12,3歳ほどの童子が花笠を被って、袴をつけ、襷(たすき)をかけて、下知の団扇にあわせて踊る。又鼓・笛・鉦を鳴らすものもいる。彼らはそれぞれ花笠・襷で、踊子・鉦打ち、鼓打ちなどの人数も決まっている。しかし、踊る各庭によって人数に多少の変化がある。こうして踊りが終ると、下知が「願成就なりや」と高かに云う。これが一場(ヒトニワ)で、一成(ヒトキリ)で、これを「なつばいどう」と呼ぶ者もある。
 P1250408
 滝宮念仏踊り 滝宮天満宮への入庭(いりは=入場)
⑤の「下知(芸司)の由来について、見ておきましょう。
 以前にお話した兵庫県三田市上本庄の駒宇佐八幡神社の百石踊の「頭目」は「新発意(しんほつい)」と呼ばれます。

百石踊り - marble Roadster2
      百石踊の「新発意(しんほつい)」は僧服

新発意(下司)役は白衣の上に墨染めの法衣を羽織り、白欅を掛け菅編笠を被った旅僧の扮装をし、右手に軍配団扇を、左手に七夕竹を持ちます。この役は文亀3年(1503)に、この地に踊りを伝えた天台宗の遊行僧の姿を表したものとされます。遊行僧や勧進聖・修験者・聖などが、雨乞祈祷・疫病平癒祈願・虫送り祈願・火防祈願・怨霊鎮送祈願などを、村々に伝えた「芸能媒介者」だと研究者は考えています。
 百石踊は僧侶の扮装をした新発意役(新参僧侶)が主導するので、「新発意型」の民俗芸能のグループに分類されるようです。滝宮念仏踊りや綾子踊りも「頭目=下知(芸司)」が指導するので、このグループの風流踊りに分類されます。ちなみに綾子踊りも言い伝えでは、空海が踊りを綾子一族に教えたとされます。空海が「頭目」として踊りを指導したことになります。つまり、このタイプの「頭目=下知(芸司)」とは、もともとは踊りを伝えた「芸能媒介者」は修験者や聖達だったと研究者は考えています。

それは、下司の着ている服装の変化からも裏付けられます。
①古いタイプの百石踊の「下司」は「新発意(しんほつい)=僧侶」で、法衣のうえから白欅をした僧衣
②それが綾子踊りの芸司は「裃」で庄屋の格式衣装
③滝宮念仏踊りの下司(芸司)は、現在は陣羽織
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滝宮念仏踊りの入庭 陣羽織姿の下司たち
つまり、中世は僧衣であったものが、江戸時代に「裃」になり、現代は金ぴかの陣羽織に変化してきたことがうかがえます。

隣にやって来た地元の研究者が、次のように教えてくれました。

「戦前までは、各組の下司は、麻の裃を着て踊っていた。ところが麻やかすりの裃は、もうない。特注扱いで高価で手がでん。そこで、ある組の下知が派手な陣羽織にしたら、全部右へなれいになりました。」

 これを以前の私ならば「昔のままの衣装を引き継ぐのが大原則とちがうんかいなあ」と批判的に見たかもしれません。しかし、いまでは共感的に見ることができます。それは、ユネスコ登録が大きな影響を与えてくれたように思います。
風流踊り ユネスコ登録の考え方
ユネスコ文化遺産と無形文化遺産の違い

ユネスコ無形文化遺産の精神は、
「フリーズドライして、姿を色・形を変えることなく保存に努めよ」ではないようです。
ユネスコ

「無形文化財の変遷過程自体に意味がある。どのように変化しながら受け継がれてきたのかに目を向けるべき」といいます。
ユネスコ無形文化財の理念3

つまり、継承のために変化することに何ら問題はないという立場です。これには私は勇気づけられました。かすりや麻の裃にこだわる必要はないのです。金ぴかの陣羽織の方が「風流」精神にマッチしているのかもしれません。変化を受入れて、継続させていくという方に重心を置いた「保存」を考えていけばいいと思うようになりました。その対応ぶりが綾子踊りの歴史になっていくという考えです。

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「南無阿弥陀仏」幟(滝宮念仏踊り)

法螺貝が吹かれ、太鼓と鉦が鳴らされ、踊りが始まります。
3人の各組の下司が並んでおどりはじめます。西讃府誌には「なつぱいぎうや」と云いながら曲節に併せて踊る。」と記されていますが私には「なもあ~みどうや(南無阿弥陀仏)と聞こえてきます。これは念仏七遍返しといって、次のような文句を七回で繰り返すようです。
お―な―むあ―みどおお―え
お―な―むあ―みどお…え
お―な―むあ―あみどんどんど
は―なむあ―みどお―え
お―なつぼみど―え
は―な―んまいど―え
な―むで ノヽ /ヽ
単調なリズムの中で、下司が大団扇を振り、廻しながら飛び跳ねます。三味線のない単調さが中世的なリズムだと私は感じています。この踊りの原型が一遍や空也の踊り念仏で、それが風流化するなかで念仏踊りに変化していったと研究者は考えているようです。これも風流踊りの変遷のひとつのパターンです。

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下司達の惣踊り(滝宮念仏踊り)

もうひとつ気になるのは、江戸時代に那珂郡七箇村踊りが奉納していた踊りが念仏踊りだったのかという疑問です。
いまは「滝宮念仏踊り」と言われますが、西讃府誌には「瀧宮の踊り」「滝宮踊」とあります。江戸時代前半の史料にも、「滝宮念仏踊り」と表記されているものの方が少ないような気がします。そこで思うのが、ひょっとして、念仏踊りではなく、中には小歌系風流踊りを奉納していた組もあるのではないかという疑問です。特に七箇村の踊りが気になります。
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        滝宮念仏踊りのきらびかな花笠


以前にお話ししたように、国の無形文化財の佐文綾子踊りと七箇村の踊りは、ともに佐文がメンバーとして関わっていて、踊り手の構成が非常に近い関係にあります。七箇村の踊りは、佐文綾子踊りのように小歌系の風流おどりであった可能性があるのではと、私は考えています。つまり、奉納されていた踊りが、すべて念仏踊りではなかったという説です。これは今後の課題となります。
以上、滝宮念仏踊りを見ながら考えたことの一部でした。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

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記念にいただいた滝宮念仏踊りの団扇です。

参考文献   綾川町役場経済課 ◎滝宮の念仏踊りの由来


滝宮神社・龍燈院
滝宮神社と龍燈院と滝宮天満宮(讃岐国名勝図会)

幕末の讃岐国名勝図会に描かれた滝宮神社と天満宮です。右上の表題には「滝宮 八坂神社(天皇社) 菅神社(天満宮) 龍燈院」とあります。絵図からは次のようなことが読み取れます。
①綾川沿に、天皇社があり、これが滝宮牛頭天皇(ごずてんのう)社(権現)であったこと。
②天皇社の前には、牛頭天皇の本地仏である薬師如来を安置する薬師堂や観音堂があったこと。
③隣接して別当寺の龍燈院があり、もっとも大きい建物であること。
④その向こうに滝宮天満宮がある。
⑤社人宅もあるが小規模である。
龍燈院・滝宮神社
龍燈院拡大図
以上から、滝宮神社は神仏分離以前には、天皇社(滝宮牛頭天王社)と呼ばれ、天満宮と供に別当の龍燈院の管理下に置かれていたこと、この3つはひとつの宗教施設として運営されていたことが分かります。しかし、明治の神仏分離で、龍燈院が廃寺となり姿を消しました。

滝宮龍燈院跡
龍燈跡跡
その跡地は、現在は分譲されて住宅地となって、ポツンと記念碑が立っているだけです。龍燈院の繁栄を伝える物は、観音堂に安置されていた十一面観音立像だけです。

滝宮龍燈院の十一面観音
龍燈院観音堂の十一面観音立像(像高180㎝)
この優美で美しい観音さまは、綾川町の管理下に移され生涯学習センター(図書館)で参観することができます。部屋の中央に、ガラスケースに安置されているので、どの方向からも観察できます。天衣、裳、 条帛 や天衣の折り返しなどをじっくりみることができます。専門家の評を見ておくことにします。
一木造で内ぐりはなく、垂下する右手は手首まで、前に差し出して花瓶を持つ左手はひじまでを共木で彫り出す大変古様な像である。条帛や下肢には渦巻きの文が見られる。
しかし顔つきは優しく、またことさらに量感を強調したりしていないことから、平安時代も中期になっての像と思われる。
ほぼ直立し、顔は小さめ。手は長くあらわす。
目はあまり切れ長とせず、若干つり目がちとする。口も小さめ。顎はしっかりとつくる。
胸のラインやへそは陰刻で強調、また下肢の左右の衣のつれも強調するが、全体的には誇張を避け、上品で落ち着いた姿となっている。

以上を次のように整理しておきます。

①滝宮神社は神仏分離以前は、滝宮牛頭天王(権現)とよばれ、牛頭天王信仰の宗教施設であった。
②別当寺は龍燈寺で、その名の通り熊野信仰に由来をもつ寺院で、中世は修験者や聖達のあつまるお寺であった。
ここで疑問になるのが、龍燈院が、これだけの宗教施設が維持できたのはどうしてなのということです。その経済基盤は、どこにあったのでしょうか? それを伝えてくれる史料はありません。
そこで同じ牛頭天王を祀る播磨広峯(ひろみね)神社の経済基盤を、今回は見ていくことにします。
姫路日和 その1 | オマコレ OmaColle | 素晴らしき御守りの世界

 広峯神社は、姫路市の広峰山山頂にある神社です。今は、素戔嗚尊(スサノヲノミコト)を主祭神としますが、明治の神仏分離以前には素戔嗚尊と同体とされる牛頭天王を祀って、広峯牛頭天王と呼ばれていました。
 京都の祇園社(現在の八坂神社)との関係も深く、鎌倉時代には広峯社を祇園社の本社とする説も流布したことがあるようです。南北朝期には祇園社が広峯社の領家となったため、両社の間で確執が生じますが、朝廷・幕府の働きかけにより室町期以降は祇園社の支配下に置かれていきます。
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 神仏分離以前の本殿内には、牛頭天王の本地仏をされる薬師如来が祀られていたようです。その管理運営を行っていたのは、別当寺の増福寺(広嶺山増福寺)です。この山の宗教施設は別当寺の社僧の管理下に置かれていました。ちなみに、この寺は、江戸時代は徳川将軍家の菩提寺である寛永寺の末寺として、大きな権勢を持っていたようです。
  社家(御師=修験者)の社務は、播磨、但馬、淡路、摂津、丹波、丹後、若狭、備前、備中、備後、美作、因幡 、伯耆)などにある村単位の信徒(檀那)へのお札配りでした。

祇園信仰 - Wikiwand
牛頭天皇=スサノウ

御師は自分の檀那村をまわって次の三種類の神札を配布しす。
居宅内の神棚に祀るもの
苗代に立てるもの
田の水口に立てるもの
その対価として御初穂料を得て収入としていました。

蘇民将来子孫家門の木札マグネット
蘇民将来のお札(牛頭天王=素戔嗚尊)
サイケなど農耕儀礼(県内各地)-21世紀へ残したい香川 | 四国新聞社
苗代に立てるお札
亀山市史民俗 民間信仰
水口に立てるお札
江戸時代には、社領はわずか72石でだった広峯神社が繁栄できたのは、お札を配布できる信徒集団を抱えていたからです。
    「御師」というのは寺社に属して、参詣者をその社寺に誘導し、祈祷・宿泊などの世話をする者のことです。
伊勢御師1
    檀那宅をお札や土産を持って訪れる伊勢御師(江戸時代)

御師がいた神社としては、熊野社、伊勢神宮、石清水八幡宮、賀茂社、日吉社が知られています。御師は各地の信者を「檀那(だんな)」として組織し、お札を配布したり社参を代行(代参)を行うほかに、檀那が参詣にやってきた時には、宿坊を提供したりしました。ひとりで各地の檀那を廻ることはできないので、伊勢御師と同じように廻国性のある修験者を手代として「雇用」していたようです。こうして広峯牛頭天王社の周りには、数多くの修験者や聖が集まってくるようになります。
広峯牛頭天王社の御師を見ておきましょう。
 鎌倉~南北朝期の広峯社には、広峯氏を筆頭に肥塚(こいづか)・林・芝・粟野など約30家の社家(御師)がいました。彼らは各地を回り、信者を集めて檀那を組織していきます。広峯社の檀那は、播磨・但馬・丹後・備前・備中・備後・美作・因幡・摂津・丹波といった中国地方東部から近畿地方にかけてが広峯社の信仰圏であったことを押さえておきます。
 広峯御師の1つである肥塚家には、因幡の檀那所在地についての史料が数点残されています。
廣峰神社の檀那の
廣峰社の因幡の檀那所在地
 この表は「肥塚文書」の檀那所在地を一覧表にしたものです。これをみると、肥塚家の場合は高草・邑美・八上・八東・智頭の各郡内に檀那がいたことが分かります。ひとりの御師の活動が広いエリアに及んでいたことがわかります。

広峯御師の檀那地図
        廣峰社の檀那所在地分布図
檀那所在地を地図に落としたものが上図です。ここからは次の所に檀那が多く一円化していたことが分かります。
①播磨と因幡中心部を結ぶルート上に位置する若桜
②美作との国境付近に位置する智頭
③高草郡の有富(ありどめ)川流域(鳥取市)
この表に出てくる「わかさいちは(=若狭の市場)」で、若狭には市場があったことがうかがえます。御師と地域経済と関わりが垣間見えます。
研究者が注目するのは鳥取市の有富川流域についてです。このエリアには特定の檀那名ではなく、多くが「一円」と記されています。このエリアでは村単位で多数の信者を集めていたことがうかがえます。
 これと同じように、滝宮牛頭天皇社の御師達も中讃の各郷に檀那を持ち、一円化したのではないかと私は考えています。

 ちなみに江戸時代中期編纂の『因幡志』には、有富川流域の神社の多くが牛頭天王を祀っていることが分かるようです。ここからは中世以来の広峯信仰が続いていたことが裏付けられます。
 広峯から御師がやってくると、檀那の村では宿泊施設や伝馬を提供しています。
では、どのような人々が御師に宿を提供していたのでしょうか。「肥塚文書」によれば、宿の提供者として「河田殿」「八郎衛門殿」「中助左衛門殿」「岡村殿」「岡殿」など「殿」のつく人たちが多くみられます。『智頭町史』は、彼らについて「地侍クラスの人物」と述べています。また、若桜については、次のように記されています。
「おふね(小船)村なぬしやと」
「おちおり(落折)村一ゑん やとはなぬし十郎ゑもん」
ここからは「なぬし(名主)」が宿を提供していたことがわかります。名主は、祭礼の際の宮座の構成メンバーです。彼らの相談を受けながら、村の祭礼に御師が関わり、風流踊りや念仏踊りを伝えたことも考えられます。
 ここでは、御師の宿はその地域のいわば指導者クラスの人たちが提供し、彼らと御師は親密な関係を維持していたとしておきます。

 御師の肥塚氏は、それらの国々の檀那村付帳を残しています。
そこには各荘郷やその中の村々の名称だけでなく、住人の名前、居住地、さらに詳しい場合には彼らが殿原衆であるか中間衆であるかといった情報まで記されています。
 例えば天文14年(1545)の美作・備中の檀那村付帳の美作西部の古呂々尾郷・井原郷の部分を見ると、現在の小字集落に当たる村が丹念に調べられて記録に残されています。ここからは広峯の御師たちは、村や村内の身分秩序をしっかりと掴んで記録していたことが分かります。広峯社の御師たちは各地に檀那を組織し、広範に活動を展開していたようです。
 御師たちは村々を回り布教活動に努めました。彼らは神札や文物とともに瀬戸内や畿内方面のさまざまな情報を各地にもたらしたものと思われます。地方の人々にとっては貴重な情報源であったに違いありません。これが、村々の寺社を結びつけて行くエネルギーになっていくと研究者は考えています。
 以上を要約しておきます。
①中世の広峯神社は、牛頭天王とその本地仏薬師如来が祀られる神仏混淆下の宗教施設であった。
②牛頭天王社の社殿を管理する別当寺の増福寺(広嶺山増福寺)で、その社僧の管理下に置かれていた。
③社僧達は御師として、自分の檀那村をまわって神札を配布し、御初穂料を得て収入としていた。
④村の檀那は、宿泊施設や伝馬を提供し、お札と供に地域の情報を手に入れた
⑤村々を歩く御師は、情報伝達者として村々を結び、宗教的なネットワークや交流を作りだしていった。
⑥その中には風流踊り等の芸能なども、伝えたことが考えられる。
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少々乱暴ですが、これを、讃岐の滝宮牛頭天皇と龍燈院に落とし込んでみます。
①龍燈寺傘下の修験者や聖も手代として、中讃の各村々をめぐり檀那にお札を配布し、奉納品を集めた。
②同時に彼らは、いろいろな情報や芸能を各村々に伝える媒介者となった。
③各村々に風流踊りや念仏踊りを伝えたのも修験者や聖である。
④この踊りが各村々では、盆踊りとして踊られるようになった
⑤それが滝宮牛頭天皇の夏祭りに奉納されるようになった。
これを逆の視点から見ると、鵜足郡坂本郷・那珂郡真野郷・多度郡賀茂郷などは、かつての滝宮牛頭権現の信者が一円的にいたエリアだと私は考えています。
牛頭天王座像
牛頭天王坐像
別当寺龍燈院の住職が代々書き記した念仏踊りの記録『瀧宮念仏踊記録』の表紙裏には、次のように記されています。

「先代は当国十三郡より踊り来たり候処、近代は四郡而已に成り申し候」

意訳変換しておくと
中世(先代)には、踊りは讃岐の国内のすべての13郡から当社への踊りの奉納が行われていた。しかし、今は4郡だけになっている

ここからは、松平頼重が初代髙松藩主としてやってきて「中断」していた念仏踊りを慶安三(1650)年に西四郡のみで再興させたことが分かります。高松藩領西部の阿野郡の南と北、那珂郡、多度郡の4郡ということになります。それが具体的には、次の4組です。
①阿野郡北條
②阿野郡南条
③鵜足郡の坂本組(坂本郷周辺:丸亀市)
④那珂郡の七箇組(真野郷・吉野郷・小松郷:まんのう町+琴平町)
  この4つの踊組エリアが、滝宮牛頭権現の信仰圏だと私は考えています。
ちなみに、松平頼重は踊りの復興の際に、幕府の監視を考慮して「雨乞い祈願のための踊り」と正当化するフレーズを付け加えます。こうして、もともとは盆踊りで踊られる風流踊りが、雨乞いに結びつけられ、「菅原道真の雨乞い成就に感謝」する踊りと称されプロデュースされるようになります。注意しておきたいのは、ここでも、まだこの踊りが雨乞い踊りのために踊られるおどりではなかったことです。
この時点では、「雨乞い成就感謝のため」でした。中世には「雨乞いは空海など修行で験を超人のみがおこなえることで、普通の人が行っても神はお聞きにはならない」というのが庶民の考えでした。それが変化するようになるのは、近世後半になってからのことです。

 「讃岐の国内のすべての13郡から当社への踊りの奉納が行われていた」ということについて考えて見ます。
 大きな勢力を寺社が競合するとこでは、神札の配布はできません。そればかりでなく周辺の寺社は取り込まれ、つぶされていくこともあります。讃岐において中世に強勢を誇った修験者を数多く擁した山伏寺を思いつくままに挙げて見ると次の通りです。
①東讃の水主神社・与田寺
②志度の志度寺
③五色台の白峰寺
④多度郡の善通寺
⑤三野郡の弥谷寺
⑥三野郡の本山寺(牛頭権現信仰の宗教施設)
 これらの寺社が競合するエリアで、滝宮牛頭権現社がお札を配り、新たに信者を獲得するのは至難の業であったはずです。このため滝宮牛頭権現が讃岐全体に信仰エリアを拡げていたとは、私には思えません。その信仰圏は、先ほど見た踊り奉納されていた周辺の郷に限られていたと私は考えています。

阿野郡の郷
坂本念仏踊りの檀那分布想定エリア

 ここでは、滝宮牛頭権現社は高松から西の4郡の一部の郷に信者を確保し、そこから踊りが奉納されていたとしておきます。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献     因幡における広峯御師の活動 鳥取県史たより 第56回
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西讃府志に滝宮念仏踊と佐文綾子踊がどのように載せられているのかを、今回は見ておきたいと思います。

西讃府志 表紙
西讃府志
最初に滝宮念仏踊りを見ていくことにします。西讃府史には「滝宮踏舞」と題されています。
大日記曰く、延喜三年二月廿五日、菅氏(菅原道真)五十七歳、云々讃岐国民、至今毎歳七月二十五日、於瀧宮為舞曲祭之、俗謂瀧宮躍夫コノ踊ハ、七ケ村・南條・北條・坂本等ノ四処ヨリ年替ソニ是ヲ務ム、但シ北條ハイツノ年卜云定リナシ、七月十六日比ヨリ二十五日ノ比マデ、其アタリアタリノ氏社ニテ踊ル也、サレド瀧宮ヲ主トスンバ瀧宮踊卜云ナリ、
コハ盆踊ナドトハ其状大ニカハレリ、下知トテ頭タルモノ一人アリ、花笠フカブキ袴フ着テ、大キナル団扇ヲヒラメカシ、なつぱいぎうやヽ 卜云吉ヲ曲節トシテズヲドル、サテ小踊トテ十三二歳歳バカリノ童子花笠フカツキ袴フツケ、襷(たすき)ヲカケ彼下知ガ団扇ノマヽ二踊ル、又鼓笛鉦ナト鳴ス者アリ、イツレモ花笠襷ナドツケタリ、踊子鉦ウチ鼓ウチナドノ数モ定リアレド、各庭ニヨリ多少アリ、カクテ踏舞終リヌル時、彼下知ナル者、願成就なりや卜高フカニイフ、是ヲ一場(ヒトニワ)卜テ,一成(ヒトキリ)ナリ、又なつばいどう卜云者アリ、菅笠ノ縁二赤青ノ紙ヲ切リ垂レ、日月フ書ケル団扇ヲモチ、黒キ麻羽織キタルアリ、又なもでトテ、サルサマシテ、鉦モチタルアリ、此等幾十人卜云数ヲシラス、叉螺ナド吹モノモアリ、皆各其業アリト云、叉大浜浦ニモ瀧宮踊卜云ヲスル也、コハ名ノ同シキノミニテ、踊ハ尚常ニスル盆踊二異ナラズ、
  意訳変換しておくと
大日記には次のように記されている。延喜三年二月廿五日、菅原道真五十七歳、讃岐国は毎歳七月二十五日に瀧宮で舞曲祭を行う。俗にいう瀧宮の踊りとは、七ケ村(まんのう町)南條・北條・坂本などの4ヶ所から年毎に異なる組の者が踊り込みを行う。但し、北條組については、踊り込み年が定まっていない。7月16日から25五日までは、各地域の神社に踊りが奉納される。しかし、瀧宮に奉納するのが主とされるので、瀧宮踊と呼ばれている。

P1250394
滝宮念仏踊り(午前は 滝宮神社 午後は滝宮天満宮) 

 この踊りは、盆踊とは大きな相違点がある。下知(芸司)と呼ばれる頭目が一人いて、花笠を被って袴を着て、大きな団扇を打ち振って、「なつぱいぎうや」と云いながら曲節に併せて踊る。

P1250398
滝宮念仏踊の幟「南無阿弥陀仏」 
小踊は12,3歳ほどの童子が花笠を被って、袴をつけ、襷(たすき)をかけて、下知の団扇にあわせて踊る。又鼓・笛・鉦を鳴らすものもいる。彼らはそれぞれ花笠・襷で、踊子・鉦打ち、鼓打ちなどの人数も決まっている。しかし、踊る各庭によって人数に多少の変化がある。

P1250412
滝宮念仏踊り 入庭

 こうして踊りが終ると、下知が「願成就なりや」と高かに云う。これが一場(ヒトニワ)で、一成(ヒトキリ)で、これを「なつばいどう」と呼ぶ者もある。

P1250421
滝宮念仏踊の花笠
菅笠の縁に赤・青の紙を垂らし、日月と書いた団扇を持って、黒い麻羽織を着る。又なもでトテ、サルサマシテ(?)、鉦を持つ者もいる。これらを併せると総勢は数十人を超える。叉法螺貝などを吹くものもいる。それぞれ各役目がある。叉大浜浦にも、瀧宮踊が伝わっている。名前は同じだが、こちらは普通の盆踊と同じである。


P1250423
滝宮念仏踊 惣踊り(滝宮天満宮)
西讃府志に書かれていることを整理しておきます。
①菅原道真の雨乞成就に感謝して捧げられたとは記されていない。「讃岐国は毎年7月25五日に瀧宮で舞曲祭を行う。」とだけ記す。また「滝宮念仏踊り」という表現は、どこにもない。
②瀧宮の踊込みに参加していたのは、七ケ村(まんのう町)・南條・北條・坂本などの4組であった
③4組が毎年順番で担当していたが、北條組については、踊り込み年が定まっていなかった。
④滝宮への踊り込みの前の7月16日から25日までは、各地域の神社に踊りが奉納されていた。
⑤この踊りは盆踊とちがって下知(芸司)が指揮した
⑥小踊は12,3歳ほどの童子が花笠を被って、下知の団扇にあわせて踊る。
⑦踊子・鉦打ち、鼓打ちなどの人数も決まっていが、踊る各庭によって人数に多少の変化がある。

綾子踊り 全景
綾子踊り(佐文加茂神社)
次に西讃府志の「綾子踏舞」を見ておきましょう。

西讃府志 綾子踊り
西讃府志巻3風俗 佐文綾子踊

佐文村二旱ノ時此踏舞ヲスレバ必験アリトテ、龍王卜氏社トニテスルナリ、是レニモ下知一人アリ。上下ヲ着、花笠カヅキ、大キナル団扇もテリ、踊子六人、十歳アマリノ量子ヲ、女千ノ姿二作リ、白キ麻衣ヲキセ赤キ帯ヲ結ビタレ、花笠ヲカヅキ、扇ヲモチタリ、叉踊ノ歌ウタフ者四人、菅笠ヲキテ上下ツケタリ、叉菅笠ノ縁二亦青ノ紙ヲ切テ付タルヲカヅキ、袴フツケ、木綿(ユフ)付タル榊持夕ル二人、又花笠キテ鼓笛鉦ナドナラス者各一人、
サテ踊始ントスル時 ヲカヅキ襷ヲ掛、袴フ高クカカゲ、長刀持夕ルガ一人、シカシテ棒持タルガ一人、其場二進ミ出、互ニイヒケラク、

意訳変換しておくと
佐文村に旱魃の時に踊れば、必験ありとして、龍王社と氏社の加茂神社で踊られる。これも下知(芸司)が一人いて、裃を着て、花笠を被り、大きな団扇を持つ。踊子(小躍)6人は、10歳ほどの童子を、女子の姿に女装し、白い麻衣を着せて、赤い帯を結んで、花笠か被り、扇を持つ。叉踊の歌を歌う者四人(地唄)は、菅笠を被り裃を着る。菅笠の縁には青い紙を垂らす。又、袴を着て、木綿(ユフ)付けた榊持が二人、又花笠キテ鼓笛鉦などを鳴らす者各一人。
 踊り始める前には、襷掛けし、袴着た、薙刀と棒持ちが、その場に進み出て、次のような問答を行う。

西讃府志 綾子踊り2
        西讃府志巻3風俗 佐文綾子踊2

踊り前の薙刀と棒振りとの問答
しはらく′ヽ、先以当年の雨乞所願成就、氏子繁昌耕作一粒萬倍と振出す棒は、東に向てごうざんやしゃ、某が振長刀は南に向てぐんだりやしゃ、今打す棒は西に向て大いとくやしゃ、又某か振長刀は北に向かいてこんごうやしゃ、中央大日、大小不動明王と打はらひ、二十五の作物、根は深く葉は廣く、穂ふれ、虫かれ、日損水損風損なきよう、善女龍王の御前にて、悪魔降伏切はらふ長刀は、柄は八尺、身は三尺、神の前にて振出は礼拝、叉佛の前はをがみ切、主の前は立ひざ切、木の葉の下はうずめ切、茶臼の上はまはし切、小づ主収手はちがへ切、磯うつ波はまくり切、向献はから竹割、逃る敵は腰のつがひを車切、打破うかけ廻り、西から東、北南くもでかくなは、十文字ししふつしん、こらん入(にゅう)、飛鳥の手をくだき、打はらひ、天の八重雲、いづのちわき、利鎌を以て切はらひ、今紳国の政、東西南北と振棒は、陰陽の二柱五尺二十ゑいやつと振出す、某つかふにあらねども、戸田は三、打しげんはしんのき、どうぐん古流、五方の大事、表は十二理に取ても十二本、しばはらひ、腰車、みけん割、つく杖、打杖上段中段下段のかゝうは、鶴の一足、鯉の水ばなれ、夢の浮橋、三之口伝、四之大手、悪魔降伏しづめんが為、大切之一踊、はや延引候へば、いざ長刀ぎの参うやつど」
 
綾子踊り 薙刀
綾子踊 薙刀問答

薙刀と棒振りの問答の後、いよいよ踊奉納が次のように始まります。

西讃府志 綾子踊り3
       西讃府志巻3風俗 佐文綾子踊2
カクテ暫ク打合サマンテ退ク、歌謡ノ者各其座ニツクナリ、サテ下知ノイヘルハ、
「東西 東西先以当年旱魃二付、雨乞仕庭、程なく御利生之御雨、瀧の水の如く、誠に五穀豊焼民安全四海泰平国十安寧、諸願成就之御礼として、善女龍王の御前にて、花の氏子笠をならべ鉦をならし、笛太鼓をしらべて、うしそろへ、目出たう一をどり始め申す、水をどり、ゆるりと、御見物頼み申す、
 サテ歌ウタフ者、歌書タル本を開き、馨ヲソロヘテウタフ、例ノ下知進ミ出、団扇ヲヒラメンテ踊ル、踊子三人ヅツ二行二並ピ、下知ガ団扇ノマヽ二扇ヲ打フリテ踊ル、鼓笛鉦ナド持タル、其カタヘ並立テ曲節ヲナス、其後二榊持タル人立テ共節毎ニヒイヨウナドト声ヲ発して、節ヲナスウタフ節ハ今ノ田歌ニイト似タリ、其初ナルヲ水踊、次ナルヲ四国、次ナルヲ綾子、次ナルヲ小鼓、次ナルヲ花籠、次ナルヲ鳥籠。次ナルヲ邂逅、次ナルヲ六調子、次ナルヲ京絹、次ナルヲ塩飽船、次ナルヲ忍、次ナルヲ婦り踊ナドト十二段ニツワカテリ
  意訳変換しておくと
  しばらく棒振りと薙刀による演舞が行われた後に退く。その後に、歌謡の者がそれぞれの定位置に着く。そこで下知(芸司)が次のように云う。、
「東西 東西先以当年旱魃二付、雨乞仕庭、程なく御利生之御雨、瀧の水の如く、誠に五穀豊焼民安全四海泰平国十安寧、諸願成就之御礼として、善女龍王の御前にて、花の氏子笠をならべ鉦をならし、笛太鼓をしらべて、うしそろへ、目出たう一をどり始め申す、水をどり、ゆるりと、御見物頼み申す、
 地唄は、歌書を開いて、声を揃えて詠う。下知が進み出て、団扇を振りながら踊る。小躍りは三人ずつ二行に並んで、下知の団扇に合わせて、扇を振って踊る。鼓笛鉦を持った者は、その後に並んで演奏する。その後には榊を持った人が立って、その節毎に「ヒイヨウ」などと発声する。調子や節は、今の田歌に似ている。最初に詠うのが水踊で、以下、次ナルヲ四国、次ナルヲ綾子、次ナルヲ小鼓、次ナルヲ花籠、次ナルヲ鳥籠。次ナルヲ邂逅、次ナルヲ六調子、次ナルヲ京絹、次ナルヲ塩飽船、次ナルヲ忍、次ナルヲ婦り踊ナドト十二段ニツワカテリ。その歌詞は次の通りである。

西讃府志に書かれていることを整理しておきます。
①佐文村では旱魃の時に、龍王社と加茂神社で綾子踊りが雨乞いのために踊られている
②その形態は。下知(芸司)・女装した踊子(小躍)6人、地唄4人、榊持2人、鼓笛鉦各一人などである。
③踊り前に、薙刀と棒持の問答・演舞がある(全文掲載)
④演舞の後、下知(芸司)の口上で踊りが開始される
⑤地唄が声を揃えて詠い、下知が団扇を振りながら踊り、小躍り、扇を振って踊る。
⑥鼓笛鉦を持った者は、その後に並んで演奏する。その後には榊を持った人が立って、その節毎に「ヒイヨウ」などと発声する。
⑦調子や節は、今の田歌に似ている。
⑧以下踊られる12曲の歌詞が掲載されている

西讃府志 郡名
西讃府志 那賀郡・多度郡・三野郡・苅田郡の郷名
   丸亀藩が領内全域の本格的地誌である西讃府志を完成させたのは、安政の大獄の嵐が吹き始める安政五(1858)年の秋でした。
これは資料集めが開始されてから18年目の事になります。西讃府志は、最初は地誌を目指していたようで、そのために各村にデーターを提出することを求めます。それが天保11(1840)年のことでした。丸亀藩から各地区の大庄屋あてに、6月14日に出された通知は次のようなものでした。(意訳変換)

加藤俊治 岩村半右衛門から提出されていた西讃・播磨網干・近江の京極藩領分の地誌編集について許可が下りた。そこで古代からの名前、古跡、神社鎮座、寺院興立の由来、領内の事跡などについても委細まで調べて書き写し、その村方周辺の識者や古老などの申し伝えや記録なども、その組の大庄屋、町方にあっては大年寄まで指し出し、整理して10月中までに藩に提出すること。

ここからは次のようなことが分かります。
①「旧一族の名前、古跡、且つ亦神社鎮座、寺院興立の由来」を4ヶ月後の10月上旬までに提出することを大庄屋に命じていること。
②家老・佐脇藤八郎からの指示であり、藩として取り組む重要な事柄として考えられていたこと
藩の事業として地誌編纂事業が開始されたようです。しかし、通達を受けた庄屋たちには、この「課題レポート」にすぐに答えるだけの史料や能力がなくて、何年たっても提出されない有様だったことは以前にお話ししました。各村々の庄屋からの原稿がなかなか提出されず、そのために発行までに18年もの歳月がかかっています。
 私が気になるのは、佐文綾子踊の記述の多さです。
滝宮念仏踊りに比べても分量が遙かに多く、詠われていた地唄の12曲総ての歌詞が載せられています。どうして綾子踊りが、これほど「特別扱い」されているのでしょうか? 滝宮念仏踊りや佐文の綾子踊りが西讃府志に載せられていると云うことは、地元の庄屋が藩への「課題レポート」に買き込んで提出したということでしょう。それをまとめて丸亀藩の学者たちは西讃府志を完成させました。逆に言うと、佐文村の庄屋が綾子踊りについて、詳細に報告したとことが考えられます。それが西讃府志に綾子踊りの歌詞が全曲載せられていることになったとしておきましょう。そして、その歌詞内容が中世に成立していた閑吟集の中にある歌にルーツがあることを中央の学者が気づきます。これが綾子踊りの重要文化財師指定の大きな推進力となったことは以前にお話ししました。
 同時に、幕末には綾子踊りが佐文で踊られていたことの裏付けにもなります。綾子踊りの史料については、地元では昭和になって書かれた史料しか残っていないのです。また、実際に踊らたという記録も明治になってからのものです。近世末に、綾子踊りが踊られていたという西讃府志の記録は、ありがたいものです。

綾子踊り4
佐文綾子踊 芸司と小踊(佐文加茂神社)

 もうひとつ気になるのが佐文は「まんのう町(真野・吉野・七箇村)+琴平町」で構成される七箇村滝宮踊りの中心的な構成員でもあったことです。それが、いろいろな問題から中心的な役割から外されていきます。それが佐文村をして、独自の綾子踊りの立ち上げへと向かわせたのではないかと私は考えています。七箇村の滝宮踊りと、綾子踊りの形態は非常に似ていることは以前にお話ししました。

滝宮念仏踊諸役人定入目割符指引帳
上の滝宮の念仏踊りに参加していたまんのう町の風流踊組の主演者一覧表を見ると、真野・小松・吉野の郷の村々からの出演者によって分担されていたことが分かります。その総数は二百人を越える大部隊でした。今回は、出演者達がどんな人達だったのかを見ていくことにします。
 表で岸上村の分担人数を見ると「笛吹1・地踊5・鉦打7・棒突2・鑓5・旗2 計22名」となっています。
幕末の岸上村の庄屋・奈良亮助が残した文書には、この時の担当氏名が次のように記されています。

一、笛吹 朝倉石見(久保の宮神職)

一番最初に登場するのは笛吹で、久保の宮宮司が務めています。そして地踊については、次のように記されています。
①一、地踊          彦三郎
②一、同  古来仁左衛門株  助左衛門
③一、同  宇兵衛株同人譲渡 熊蔵出ル
②については本来は、仁左衛門が持っていた株だが、その権利で今回は助左衛門が出演するということのようです。③は宇兵衛が譲渡した株を熊蔵が手に入れ出演するということでしょう。この史料からは、誰でも出演できたわけではなく、それぞれの家の権利(株)として伝えられてきたことが分かります。つまり、世襲制で代々、決められた役を演じてきたようです。
 一方で、旗・鑓・棒突については、次のように記されています。
一、旗   二本 社面と白籐
一、長柄鑓 五本
一、棒突  三本 
ここには、出演予定者の名前がありません。旗・鑓・棒突については、「人夫」に任せていたので出演予定者名がないようです。

諏訪大明神滝宮念仏踊 那珂郡南組
諏訪大明神(三島神社)に奉納された念仏踊

 七箇村念仏踊は、夏祭りに踊られる風流踊りで祭礼・娯楽でした。それが各村々の神社をめぐって奉納されたのです。芸司や子踊り・時踊り・笛吹きは、それを演じる村の有力者が、その地位を誇示するという中世以来の宮座に通じる意味合いももっていました。奉納される神社の境内は、村の身分秩序の確認の場であったことになります。
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境内での風流念仏踊りを見物する人々。立ち見席の後ろには、見物桟敷が建てれている。これも宮座の有力者の所有物で、売買の対象にもなった。ここで風流踊りを見物できることがステイタスシンボルでもあった。

 なぜ七箇村念仏踊りは、踊られなくなったのでしょうか?
 それは有力者達だけで踊られる風流踊りが、時代に合わなくなってきたからでしょう。幕末になって発言権を高めた農民達は、自分たちも祭りに参加することを求めます。そして、誰もが平等に参加できる獅子舞や太鼓台(ちょうさ)を秋祭りに登場させるようになります。その結果、有力者達だけで演じられてきた風流踊は奉納されなくなります。そんな中で、近代になって七箇村風流踊を綾子踊りとしてリメイクしたのが佐文なのではないかと私は考えています。そうだとすれば、綾子踊りは七箇村風流踊を継承したものだということになります。
  参考文献  大林英雄 滝宮念仏踊り七箇村組について  ことひら1988年
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前回には那珂郡七箇村組念仏踊りについて、次のように整理しました。
①この踊りは、中世に小松・真野・吉野の各郷で風流踊りが郷社に奉納されていたものであること。
②それは地域の村々を越えた有力者によって組織された宮座によって総勢が200人を越える大スタッフで運営されていたこと。
③生駒藩取りつぶしの後、讃岐が東西二藩に分割されると、次のように踊組は分割されることになったこと。
A 高松藩 真野村・東七ヶ村・岸上村・吉野上下村
B 丸亀藩 西七ヶ村(買田・宮田・生間・追上・帆山・新目・山脇)と佐文村 
C 池御領(天領)  小松庄4ケ村(榎井・五条・苗田・西山)
④天領・親藩・外様という「帰属意識」から対立が絶えず、いろいろな事件や騒動を引き起こしたこと
⑤しかし、19世紀になると運営は軌道に乗り、3年毎に安定して踊り奉納は行われるようになったこと。
 実際の運営は、1組編成になっても次の東西2つの組に分けて行われていたようです。
東組(Aの高松藩の村々) 
西組(B・Cの天領と丸亀藩の村々)
1826(文政9)年の連絡指示系統は、以下の通りです。

那珂郡大庄屋・吉野上村の庄屋岩崎平蔵 → 総触頭・真野村庄屋三原専助 → 各庄屋

この年は、踊組内部の対立が顕在化します。
その発端は、阿野郡北條組の分裂でした。内部分裂した一つが七箇村組の後庭で踊らせてもらいたいと、阿野郡北の大庄屋を通じて、那珂郡の大庄屋岩崎平蔵(吉野上村)に申し入れます。これに対して岩崎平蔵は、踊組の意見を聞かずに「正保の刃傷事件から180年も経っているので、もう大丈夫だろう」と考えて、高松藩側の意志を確認しただけで、これを認めます。しかし、意見を求められなかった七箇村組の内には根強い反対意見もありました。岩崎平蔵の強引なやり方に反発する勢力の中心が「C 天領の小松庄4ケ村(榎井・五条・苗田・西山)」の庄屋たちでした。天領の庄屋たちは、Aの高松藩の真野・吉野を中心とする運営について揺さぶりをかけてきます。
 それが、各村々の神社への踊り奉納の時に村役人が着る礼服についてです。
その年の最初の寄合の時に、池御領側から次のように申し出がありました。岸の上村の庄屋奈良亮助は、その申出を次のように記録しています。
 右寄合之節 苗田村年寄十右衛門右申出候ハ、先年ハ廿三日買田金毘羅二而上下着用致、
岸上村久保宮二而袴羽織二相成候所、中頃金毘羅二而上下着用致候二付、直二上下二而入庭(いりは)仕来り候得共、是ハ先年之通り袴羽織二而久保宮ヘハ入庭致候ベシと申出候二付、
真野村庄屋三原専助殿被申候ハ、先年ハ如何二御座候哉、拙者共役申併先政所伊左衛門始?、久保宮へ茂上下二而入庭仕来り被成レ居申候由返答有之候所、小松庄四ケ村之内五条・榎井・苗田三ケ村方申出候ハ、何連念仏一定之旧記等御取調之上、先年右古振之通被い成候而可然旨申出候。依之追而旧記取調十六日ニ池之宮而否返答可致旨専助殿申出候而、寄合相済申候段、
 当村組頭庄屋亮介へ申出候。依之亮助右十日夕方内々二而真野村庄屋専助殿へ掛合仕候所、委細専助殿承知有之、何連十六日二池宮二而、買田村庄屋貞彦方へ掛合返答致候条卜返答有之候。
尚又十五日、当村神職朝倉石見右茂、専助殿へ内々掛合仕候。然ル所旧記等根二入取調仕候所、格別委細之義も無之候得ハ、廿三日?礼服等相改候と有之儀ハ無二御座候。右之趣、明十六日池之宮二而買田村へ返答致候卜、専助殿方申出候由、石見方村方庄屋亮助へ串出候義二御座候。
意訳変換しておくと
 真野不動堂で会合の際に、苗田村年寄の十右衛門右が次のような申出を行った。
 もともと23日の買田・金毘羅(池御料を含む)への奉納の時には上下着用で、岸上村の久保宮の奉納の時には、袴羽織着用であった。ところが近年は金毘羅での奉納が上下着用のために、久保宮でも同じように上下着用となってしまった。ついては、久保の宮には先例通りに袴羽織で入庭するようにして欲しいと申出があった。
 これについて真野村庄屋三原専助殿が応えて云うには、先年とはいつのことなのか? 私が大庄屋を務めるようになってからは、久保の宮へは上下で入庭してきたと答えた。これに対して、小松庄四ケ村の五条・榎井・苗田三ケ村方は、旧記の記述を調べた上で、先例古式通りの作法・やり方を行って欲しいとの要望があった。このため旧記を調べて16日に満濃池池之宮での奉納の際に結果を伝えることにして、会合はお開きとなった。

 当村(岸上村)の組頭・藤堂から村方庄屋の奈良亮介へ申出があった。そこで庄屋亮助が10日夕方、内々に真野村庄屋専助殿へ掛合って、専助殿はこれを承知した、買田村庄屋貞彦方と相談した上で、16日の満濃池池宮での奉納の祭に、返答することになった。
 その前日の15日、岸の上村久保宮の神職朝倉石見右茂も、専助殿と内々に協議を行った。それによると旧記等などを調べてみたが、格別に問題点も見つからなかったということで、「23日に礼服に相改候」とは書かれていないとのこと。これを明日、池之宮と買田村庄屋へ返答する、専助殿へ伝えたとのこと。村方庄屋の亮助へも連絡済みである。
歴史編6 男物の羽織 | 着物あきない
羽織袴(平服)と裃(正装)

 池御領天領(五条・榎井・苗田)の庄屋たちは何が不満なのかを整理しておくと
①羽織袴と裃(上下)では、裃の方が「格上」の礼服であったこと。
②「池御料天領・五条村の大井宮」が格上で、「岸上村の久保宮」は格下と、自分たちの神社が格上だ天領の庄屋たちは考えて見下していたこと。
③とろが近年は、久保宮でも上下着用となってしまったことに不満を持つようになった。ついては、「古式通りに」岸上村の久保宮では袴羽織で参加するようにして欲しい
④しかし、記録にはそのようなことは何もかかれていない。
  要は、天領の大井神社と、岸上の久保の宮の上下関係がはっきりと分かる服装にせよと要求したようです。天領池御料民としての自尊心の現れかもしれません。
 封建制とは身分制で、それが目に見える形で確かめられるような「装置・服装」がともないます。儀式の際の服装などは、身分や役割で事細かく決められていました。祭りの境内での席次なども事細かく決められています。そこに参列する村役人の服装も暗黙の決まりがあったのです。
 大庄屋の岩崎平蔵は、この問題の解決を次の踊りが行われる年まで先送りすることとして、1826(文政九)年の踊り奉納は終了します。しかし、天領の庄屋たちはこれで済ませたわけではありませんでした。3年後の1829(文政12)年の念仏踊に向けて手ぐすね引いて待っていたのです
1829年の総触頭を務めることになったのは、岸上村庄屋の奈良亮助でした。
奈良亮助は、和漢の学も修めていた教養人でもあったことは前回お話しました。彼は立派な花押を使用していますし、文章などからも几帳面で、慎重な人柄がうかがえます。後年には満濃池の普請についての実績を残しています。
 当時は、真野村の庄屋は大庄屋の岩崎平蔵が兼帯していました。
そこで奈良亮助は、念仏踊に関してのみの権限で真野村庄屋役を勤め、念仏踊の総触頭となったようです。師匠の岩崎平蔵の下での、その見習いというところでしょうか。
 奈良亮助は、文化5(1808)年の時に総触頭安藤伊左衛門が書き残した「滝宮念仏踊行事取遣留」によって仕事を進めていきます。そのスタートは、7日1日に先例通りの案内状を、買田村庄屋で西領と小松庄の触頭である永原貞彦に送ることから始めています。同時に回状(回覧板)を、高松藩東組の庄屋たちに送って、7月7日に真野不動堂に集まるように通知します。回覧状は次の庄屋たちを起点に、周辺庄屋に回覧されていきます。
吉野上村庄屋岩崎平蔵
四条村庄屋岩井勝蔵
吉野下村庄屋久保東左衛門
七箇村庄屋金堂東左衛門
塩入庄屋小亀弥五郞
 こうして、最初の会合が7月7日に真野不動堂で開かれます。
 この時は丸亀領が藩全体の忌中のため、領民は他領へ出ることを許されていませんでした。そのため丸亀藩の村々(旧仲南町)が滝宮へ踊りに出向くことは許されません。そこで踊りの期日を忌中開けにすることにします。この結果、例年より約半月遅らせて、各村々の神社での踊興行を行うことが決まります。亮助は、その次第と日程を、翌々日の7月9日付で高松の郷会所の村尾浅五郎と安倍久一郎の両元締に報告しています。
そんな中で7月13日、西組の触頭を務める買田村庄屋の永原貞彦が岸上村の奈良亮助を訪ねてきてきます。
 買田村と岸の上村は、丸亀藩と高松藩にそれぞれ属していて、このふたつの村の間に当時は「国境」がありました。国境の買田峠を越えてゆけば、永原宅から奈良亮助の家までは、30分ほどで着く距離です。丸亀藩が忌中で「藩外出入り禁止」中でも、このくらいの行き来は、大目に見られていたようです。永原家はかつては丸山城の城主であったのが帰農して、買田村の庄屋となったと伝えられます。永原貞彦の居宅は、現在の恵光寺の下辺りにありました。西村ジョイの南側のR32号バイパス工事の際には、買田岡下遺跡が出てきています。ここからは、古代郡衙に準ずるような建物群も出てきていて、このあたりが那珂郡南部の開発拠点で、中心地だったことがうかがえます。
永原貞彦がやってきて奈良亮助に、伝えたのは次のような内容です。
 昨日五条村年寄喜三郎 私宅へ参り、前念仏寄合之節(文政九年7月7日不動堂)苗田村重左衛門右、兼而申出候村役人礼服之儀、村寄合談合候処、岸上久保宮二而、古来之通り袴羽織二而入哉、又ハ五条村大井宮二而一統上下用致候哉、両様御掛合之上相究不申、満濃池宮へ笠揃ニモ得罷出不申、尚踊子用意も不仕、其上入用銀等心得二指出・不申由申参候、依い之貞彦喜三郎へ掛合候、久保宮二而袴羽豚二而入候義(何之何年二而御座候哉、佃者共一向覚無い之、勿論念仏一条真野例先二而惣触頭、西(当村、東(岸上、東西社面元、依之古来占廿三日二当村、金毘羅山、岸上真野之所、出帳之村役人上下着用二而仕来リニ御座候由申答候。然ル所喜三郎心再ビ申候義、我等迪も上下着用之義と奉い存居申候処、苗田村重左衛門、弥左衛門共心申候、往古袴羽織二而御座候処、金毘羅山占帰り掛之義故、岸上村役人占挨拶有い之候二付、上下二而入候杯と申義二御座候由、喜三郎占申出候二付、拙者共岸上村役人占挨拶有い之候杯と申義何覚無い之候由申答候。
右様次第二付如何可い仕候哉。今日御内々御相談二罷越候。何連五条村大井宮へ上下二而入候得バ指支無い之哉卜奉い存候間、篤と岩崎氏へも御挨拶之上御返答承知仕度奉い存候。
  意訳変換しておくと
 昨日7月12日、五条村の年寄喜三郎が買田の私の家(永原貞彦)にやってきて、次のような申し出をして帰った。その内容は次の通り。
 前回3年前の文政9年7月7日に、真野不動堂での念仏寄合の際に苗田村の重左衛門から出された村役人の礼服の件についてである。先日の五条村寄合で話し合った結果、岸上村の久保宮への念仏踊り奉納の際には、村役人の礼服は古来の通り袴羽織で行いたい。また五条村の大井神社では上下着用に統一すること、このふたつのが認められないのであれば、満濃池の池の宮での笠揃に参加しない。また踊子も用意しない。その上に、入用銀なども納めないとの申し出であった。
 この申し出を受けて貞彦喜三郎と相談したところ、久保宮での奉納に村役人が袴羽織を着用したことについては、記録のどこにも書かれていないこと、記憶にもないとの返答であった。喜三郎が云うには、我等も久保の宮へ上下着用で参列するという案はどうでしょうかとの提案があった。そこで、苗田村の重左衛門、弥左衛門に、これを伝えて、昔は袴羽織での参列であったが、金毘羅山からの帰り道になるので、岸上村役人から挨拶があり、上下着用となったようだと伝えた。喜三郎からの申出を、岸上村役人から挨拶があったということは、記憶にないと伝えた。
 このような次第なので、どう取り扱っていいのか迷う所である。今日は内々に相談しにやってきたとのこと。五条村大井神社へ上下で参列が認められないのであれば、五条村は念仏踊りに参加しないとのことである。岩崎氏へも相談し、対応を協議したい。
 3年前に棚上げした礼服問題を、天領五条村の庄屋たちは蒸し返してきたのです。 
「岸上村の久保宮への念仏踊り奉納の際には、村役人の礼服は古来の通り袴羽織で行いたい。また五条村の大井神社では上下着用に統一すること」は、先ほど見たように「大井神社を格上として、久保の宮を格下」とするものです。これは池御料を代表しての五条村からの申し出です。ある意味池御料の面目がかかっているようです。
 「参加拒否、脱会もありうる」という強固な申し入れの背後には、池御料の支配役所である倉敷代官所の同意もとりつけていた気配もします。満濃池池御領の3つの村は、満濃池普請のために設けられた天領です。そのために普請行事は、この天領の大庄屋の指揮の下に行われてきました。周辺の庄屋たちの上に立つ存在でした。明治維新に満濃池を再興した長谷川佐太郎も、天領榎井村の大庄屋でした。それだけに自負心が強く、悪く云うと周囲の村々見下し、強引に押し通そうとする風があったようです。
総触頭の奈良亮助は、西組のまとめ役の買田村庄屋・永原彦助に次のように答えています。

 念仏一条ハ拙者引請、殊二当村久保宮へ古来上下二而入来候義ヲ、当年袴羽織二仕坏卜申義、其意難得奉存候。弥(いよいよ)往古袴羽織二而踊来候得ハ、譬(たとえ)如何様村役人?挨拶有之候共、右様相成候義ハ在之間敷、殊二御料所ハ念仏一条二而小松庄貴様触下之義、触頭之貴様二当村組頭共右挨挨有い之候杯と申義御存無い之、古来占仕来り之義、触下右彼是申出候義全ク目論見候義卜相見へ申候。併右様村役人共着用物之義二付、念仏ヲ差支させ御上様御苦労奉い掛候義 甚夕奉二恐入候。左候得共五条村大井宮計上下二仕候義も難二出来へ指合の上一統上下二而出張致候様仕候而如何二御座候哉。左候得バ論も無い之候間、先唐岩崎氏二内談之上、念仏組合之村々と談合可い致候。

意訳変換しておくと
 この度の念仏踊りについては、私が総責任者を引き受けています。岸の上の久保神社への奉納の際には、村役人は古来より上下着用であったのを、当年からは袴羽織に変更せよという申し入れに対して、同意できかねます。もともと昔は袴羽織であったという証拠資料は、どこの村役人がお持ちなのでしょうか? このような文書は見たことがありません。
 満濃池御料所は念仏踊りについては、小松庄の触下、触頭の立場に在り当村組頭共右挨挨有い之候杯と申義御存無い之、古来占仕来り之義、触下右彼是申出候義全ク目論見候義卜相見へ申候。
併せて村役人着用の服装については、念仏踊りに差し障りが出て、御上にお手数をおかけすることになれば、はなはだ恐入いることになります。
 この解決策として、五条村大井神社で上下で参列するように、他の寺社でも総て統一して裃(上下)で参加するようにしたいと考えています。このことについては、岩崎氏に相談した上、念仏組合の村々とも協議したします。

こうして亮介の奔走によって7月16日に、真野村の岩崎平蔵方で高松藩領側の村々の会合が開かれます。
高松領の六ケ村の庄屋が集まって、岩崎平蔵の意見に従って念仏踊興行を行うすべての宮々で、村役人は上下を着用することになります。奈良亮助は早速に、組頭の乙平を買田村の永原貞彦に遣わして、このことを伝えて、西領側と池御料側の同意を求めます。西領側というのが丸亀藩(旧仲南町の七か村と佐文)になります。
 この会合に集まった庄屋たちは、この後に新築された郷会所の落成祝の御歓びを申し上げるために髙松に連れ立って出発しています。翌日17日から大暴風雨となり、五人の庄屋は髙松の郡宿に逼留して天候の回復を待ちます、19日から高松の関係役人宅を回って、郷会所元〆で当用方の中西次兵衛に、今回の念仏踊りの礼服変更について天領からの異議申出があったことを報告して指示を仰いでいます。藩への「報告・連絡・相談」は、庄屋たちにとっては欠かすことの出来ない最重要業務だったことがうかがえます。

7月22日には、買田村庄屋永原貞彦が再び奈良亮助を尋ねて、次のように申入れます。
 念仏一件頃日御掛合被・下候処、早々御返答可い仕筈之処、大風雨二付延引仕候。昨日御料三ヶ村寄合相談仕候処、至極相談相詰り不い申、当年(金毘羅、滝宮計二而相済セ候義、尚亦池之宮二而笠揃之義も無用二仕、八月七日二榎井村興泉寺へ相揃、金毘羅山済せ、直二滝宮へ入込候様仕度段掛合被い下候様、喜三郎右申出候間、大風雨二付所々破損仕居申候二付、何卒御相談被・成可い被い下候。

意訳変換しておくと
 念仏踊りのことについて、いろいろと協議し、早々に御返答を頂いたところですが、今回の大風雨で延期することになりました。昨日、御料三ヶ村(五条・榎井・苗田)の寄合で相談したところ、いろいろな意見が出ましたが、今回については金毘羅と滝宮だけで済ませて、池之宮の笠揃も中止することにしました。8月7日に、榎井村の興泉寺に集合し、金毘羅山へ奉納し、その後すぐに滝宮へ奉納するという段取りです。喜三郎が云うには、大風雨でいろいろなところに被害が出て非常の際なので、今回は以上のように執り行うので了承頂きたいとのことである。

 これを受けて奈良亮助は、組頭滝蔵を岩崎平蔵方に遣わして、貞彦の申し出の内容を伝えます。
その際に、池の宮の笠揃踊だけは実施すべきであるという自分の意見も伝えます。これに対して岩崎平蔵は、池御料の申出通りに村々と相談してまとめるように指示しています。

 奈良亮介には、池御領の次のような「戦略」が分かっていたのでしょう。
①大暴風雨のための臨時対応を口実として、「興泉寺集合→金毘羅奉納→滝宮牛頭社踊り込み」の先例を作ること
②そして「池の宮の笠揃踊 → 各村々の村社を巡っての奉納 → 真野諏訪大明神 →  滝宮牛頭社踊り込み」という従来の手順を破ること。
③榎井村の興泉寺での笠揃踊が先例として、金毘羅奉納を中心とする念仏踊運営にしていくこと
④同時に運営主体を高松藩の真野・吉野郷から、池御領に切り替えていくこと
⑤これは、七箇村念仏踊りの分裂へとつながること

 このような危惧を持っていた奈良亮助は、次のような書状を書いています。
一筆啓上仕候。秋暑強御座候処、弥御安泰可い被い成二御勤・珍重不い斜奉い賀候。
 誠二頃日罷出緩々預二御馳走不い過い之奉い存候。然其節御噺申上候念仏踊一件、再買田村へ滝蔵ヲ以掛合候得共、何分御料所右申出之儀二付、来月7日興泉寺へ相揃候様、当領之処相談致呉候様申越候。右二付私篤と考合仕候処、満濃池之宮二相揃不申候得、当領之分金毘羅児島屋へ相揃候様仕候得如何二御座候哉。若又当年興泉寺へ相揃、後年池之宮へ笠揃無い之候時、榎井村興泉寺へ笠揃仕、夫右金毘羅相踊候杯と申義、例二相成候而不相済・義二奉い存候。夫右金毘羅町内二而相揃候得指支無之哉と奉い存候。如何二御座候哉。乍い憚御賢慮之上御指図可い被い下候。尚又御役所申出如何二御座候哉。是又別紙御一覧之上御加筆可い被。
 下候様奉二願上候。右之段御相談旁以二愚札一得こ御意一度如い斯二御座候以上。
  7月廿日       奈良亮助
   岩崎平蔵様
  意訳変換しておくと

一筆啓上仕候。残暑強く暑い日が続きますが、ご健勝のことと思います。ご無沙汰しておりますことをお許しください。この度の念仏踊の一件について、買田村へ滝蔵を遣わして掛合いました。しかし、池御領かっら申出のあった来月7日に榎井村興泉寺で笠揃をおこなうことについては、私たち高松藩の村々にとっては「寝耳に水」です。
 これについて私の対応策を述べさせてもらいます。
満濃池の池之宮に揃うのではなく、私たちも高松藩の村々も金毘羅の児島屋で相揃うのはいかがでしょうか。今回のように、興泉寺で笠揃いを行うことが通例となり、池之宮での笠揃がなくなくなった場合に、金毘羅相踊とは云えなくなります。金毘羅町内に集合して指図を仰ぐという案はいかがでしょうか。忌憚なき御指図を頂きたいと思います。また御役所への申出・報告は如何いたしましょうか。案文を作成しましたので、御一覧いただき加筆をお願いします。。
 下候様奉二願上候。右之段御相談旁以二愚札一得こ御意一度如い斯二御座候以上。
  7月廿日       奈良亮助
   岩崎平蔵様

 亮助の手紙も、大庄屋岩崎平蔵の意見を変更することはできなかったようです。
亮助は、岩崎平蔵の加筆・指示を得た次の書状を、高松の郷会所元締に提出しています。

 一筆啓上仕候、然念仏踊来ル廿九日満濃池之宮笠揃仕、夫右一日更り二村々宮々相踊候様相究候段、先日御申出仕候所、御料所占村役人共礼服着用方之義二付彼是申出差支二相成候段、丸亀御領買田村庄屋永原貞彦右掛合御座候得共、前々之仕振二致相違一候義二付而一統難い致二承知、色々取扱候得共相片付不申、然ル処此度之洪水二付、其郡々川長用水方等切損、依い之稲棉両作共砂入水押二相成、百姓共一同致二難儀候義二付、旁三ケ領相談之上、村々宮踊之分致二無田ヅ、来月7日前々之通榎井村興泉寺二相揃、夫占金毘羅相踊、直二滝宮へ入込候様仕度段相究メ申候間、左様御承知可被い下候。右為二御申出‘如い斯二御座候以上。
  7月28日 岸上村庄屋 奈良亮助
   野嶋平蔵様
   中西次兵衛様
  意訳変換しておくと
 一筆啓上仕候、念仏踊の7月29日満濃池之宮での笠揃仕について、7月1日から、各村々の神社での奉納が予定されている。先日、申出のあった池御料所の村役人の礼服着用の件について、丸亀領買田村庄屋の永原貞彦から協議申し出があり、従来の服装にもどそうとしたがまとめきれず、いろいろと取扱に苦慮している。
 そのような折に、洪水被害を受けて、郡内の川や用水も被害を受けて、稲棉などの耕地にも土砂や水が入ってしまった。そのため百姓たちは、その対応に追われている。そこで三ケ領で協議した結果、村々の神社への奉納は、今回は中止し、来月7日に、榎井村興泉寺二に合して、金毘羅山に奉納後に、直ちに滝宮へ踊り込む段取りとなった。そのように御承知いただきたい。右為二御申出如い斯二御座候以上。
  7月28日 岸上村庄屋 奈良亮助
   野嶋平蔵様
   中西次兵衛様
 

奈良亮助は、高松の郷会所へ書状を差し出した日に、高松藩領の塩入・七箇・吉野上下・四条の各村に回状を出して、8月7日に五条村の興泉寺へ参集するよう案内します。結果的には、池御料の村々の申し入れが、「暴風雨被害への非常措置」を理由にして、全面的に受け入れられたことになります。
 以上の動きを見ると、この決定至るキーパーソンは那珂郡の大庄屋と、高松藩の郷普請方小頭役を兼務する岩崎平蔵であったことがうかがえます。彼の意向が、この決定に大きく作用していたと研究者は指摘します。岩崎平蔵は、念仏踊の伝統を守ることよりも、倉敷代官所の意向や高松藩の立場を優越させてて動く「現実派」だったと云えそうです。
 1829(文政12)の念仏踊は、8月8日に滝宮への御神事奉納の踊りで終了します。しかし、村役人の礼服のことは未解決のままで、次の開催年に持ち越されることになりました。
 奈良亮助は、八月八日付で念仏踊が無事終了したことを郷会所に報告して、波瀾の多かったこの年の念仏踊の総触頭としての任務を締め括っています。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
  「大林英雄 滝宮念仏踊り七箇村組について ことひら1988年」
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 まんのう町岸の上 寺山
岸上村(まんのう町 金倉川流域)
19世紀中頃の江戸時代後半に那珂郡岸上村(まんのう町)の庄屋だった奈良亮助は、几帳面な性格でいくつもの文書を残しています。 奈良亮助は、伯父の奈良松荘のもとで和漢の学を学んでします。伯父奈良松荘(1786ー1862)は、国学者で詩文を備後の菅茶山に学び、頼山陽と並び称せられと云います。郷里に帰り、金刀比羅の日柳燕石や三井雪航などに感化を与え、晩年は岸上村の奈良家に寄寓していました。その時に、奈良亮助はその教えを受けたようです。残された文書の中に「滝宮念仏踊行事取遺留」と題されたものがあります。
一番上には、「念仏踊の事」という記録が綴り込まれていて、次のような内容が記されています。
①滝宮念仏踊が法然上人によって、念仏布教の方法として採り上げられて発達したこと
②享保年中の滝宮での御神酒樽受取の前後争いに端を発して、念仏踊が中止になったこと
③元文四年六月晦日に雹が降って農作物が大被害を受けたこと
④この被害は滝宮への念仏踊りを行っていないことへの天罰との噂が拡がったこと
⑤そこで、寛保二壬戌年から七か村念仏踊が復活したこと
以上が、簡潔な筆致で記されています。
 この記録に続いて、文政九(1826)年から安政6(1859)年までの約30年間に、13回実施された七箇村組念仏踊のことが岸上村の庄屋記録に綴りこまれています。今回は、奈良亮助の残した文書を見ていくことにします。テキストは「大林英雄 滝宮念仏踊り七箇村組について ことひら1988年」です。
 
龍燈院・滝宮神社
滝宮牛頭権現(滝宮神社)と別当寺の龍燈院

前回にお話ししたように、初代高松藩主松平頼重が復活させた滝宮念仏踊りに、参加したのは4郡の4つの踊組でした。踊組の間には異常なほどの対抗心があって、いろいろな事件や騒動を起こしています。
 例えば、正保二(1645)年の時には、演じる場所・順番をめぐって、七箇村組の岸上村の久保の宮・神職が長刀で、北条組の小踊二人を切り殺すという事件があったことは前回お話ししました。このため北条組は、その後は48人の抜刀隊を編成して警固するようにしたとも伝えられます。また、七箇村組とは踊る年を変えて鉢合わせしないようにもしています。踊りはこのようなぴりぴりとした緊張感の中で奉納されていたようです。
滝宮念仏踊り
滝宮念仏踊り
 念仏踊りが復活した当初は、七箇村組は二組編成だったようです
1790年(寛政二)年の編成表を見ると、
①主役を勤める下知 真野村と佐文村からそれぞれ各一人、
②6人1組で子供が踊役を勤める小踊 西七箇村から一人、吉野上下村から三人、小松庄四ヶ村から二人の計六人、それと、佐文村単独で六人
③笛吹が岸上村と佐文村から一人宛、
④太鼓打が西七箇村と佐文村から一人宛、
⑤鼓打が小松庄四ヶ村と佐文村から二人宛、
⑥長刀振が真野村と佐文村から一人宛、
⑦棒振も吉野上下村と佐文村から一人宛、
⑧棒突は西七箇村四人、岸上村三人、小松庄四ヶ村三人の計10人に対して、佐文村は単独で10人
ここからは次のようなことが分かります。
A七箇村組には、次の東組と西組の二組があったこと。
東組 真野・吉野郷(高松藩領) 郷社 真野の諏訪大明神(諏訪神社)
西組 小松郷と西七箇村(池御領と丸亀藩)    郷社 五条村 大井八幡社
B 東組は高松藩の村々、西組は池御領(天領)と丸亀藩の村々から編成され、藩を超えた編成になっていたこと
C その中で、西組は佐文中心に編成されていたこと。ちなみに佐文は、ユネスコ登録になった綾子踊りの里でもあります。
七箇村組の編成からは、もともとはこの踊りが中世の郷社に奉納されていた風流踊りだったことがうかがえます。

まんのう町の郷
滝宮念仏踊り 那珂郡七箇村組(真野・吉野・小松郷)
那珂郡七箇村組をめぐる事件や問題を年表化しておきます。
享保年間(1716~36)龍灯院から七箇村組に贈られる御神酒樽の受取順番をめぐって、東西費が領組が騒動
1736(元文元)年 念仏踊は中止され、七箇村組は解体状態へ。
1739(元文四)年 6月の雹(ひょう)という異常気象で農作物被害甚大。念仏踊り中止のせいだとの声が拡がる
1742(寛保二)年 龍灯院の住職快巌の斡旋で、滝宮念仏踊への参加復活
1790(寛政二)年 東西二組の編成で、奉納が続く。
1808(文化五)年 「下知一人」となり東西2組編成から一組編成へ縮小
次に年表内容を、詳しく見ていくことにします。
享保年間(1716~36)の争いの原因は、滝宮牛頭天皇社(現滝宮神社)への踊奉納の時に、別当寺の龍灯院から七箇村組に贈られる御神酒樽の受取順番です。踊りが終わった後に、どちらが先に御神酒樽を受け取るかをめぐる争いです。当時は樽はひとつしか準備されていなかったようです。おやつをもらう順番をめぐる子供の喧嘩のようにも思えます。しかし、背後には、高松藩・丸亀藩・池御料(天領)の三者の対立感情があります。天領の踊り手や役員達はプライドが高く、何かと周辺の住人達を見下すことがあったようです。東組には、高松藩(親藩)の住人ということで、外様の丸亀藩の西組の踊り手たちを見下します。こういう意識構造が、このようなハレの舞台で吹き出します。この結果、元文元年(1736)年以後は、七箇村組の踊りは中止に追い込まれてしまいます。
 3年後の1739(元文四)年の6月晦日に、季節外れの雹(ひょう)が降って東西七箇村・真野村・岸上村は稲・棉などの農作物が大被害を蒙ります。
「これは滝宮念仏踊を中止したための神罰である」という声が起こって念仏踊復活の気運が高まります。そして、滝宮牛頭権現(滝宮神社)の別当寺龍灯院の住職快巌の斡旋で、1742(寛保二)年から滝宮念仏踊への参加が復活します。龍灯院は対応策として、踊奉納を終えた七箇村東西組に対して、御神酒樽を二個用意してそれぞれの組に贈り、紛争の再発を避けていています。事件事故に学んで、新たな対応策が出されています。しかし、二組の編成は対立感情による紛争の起こる危険を常に含んでいました。復活後は、東西二組編成で1790(寛政二)年まで続いたことが史料から確認できます。

まんのう・琴平町エリア 讃岐国絵図
念仏踊七箇村組の村々

 ところが1808(文化五)年には、1組で出演していることが史資料から分かります。この年の7月24日書かれた真野村・庄屋安藤伊左衛門の「滝宮念仏踊行事取扱留」滝宮大明神(神社)の別当寺龍燈院宛の報告には、この年の七箇村組の行列は、次のように記されています。
「下知一人、笛吹一人、太鼓打一人、小踊六人、長刀振一人、棒振一人」

「下知一人、笛吹一人」ということは、一編成になったことを示すものです。「取遣留」の1808年7月25日の記事にも、龍灯院からの御神酒樽については、龍灯院の使者が、「御神酒樽壱つを踊り場東西の役人(村役人)の真中へ東向きに出し……」、口上を述べ終わると、御神酒樽は踊り場である神社から龍灯院が預かって直ちに持ち帰っています。そして、牛頭天皇社での踊りが終わってから、踊組一同を龍燈院の書院に招待して御神酒を振る舞っています。ここでも酒樽は1つしか準備されていません。1808年の時点で、七箇村組は一編成の踊組として、龍灯院から待遇されるようになっています。
   ここからは1790(寛政二)年から1808(文化五)年までの間に、七箇村組のなかで大きな問題が起こったことがうかがえます。また、一番踊り手構成メンバーが削減されているのが佐文村です。佐文は西組の中心だったことは、先ほど見たとおりです。それが棒付10名に減らされているのです。七箇村組が二編成から一編成に縮小された背景には、佐文をめぐる問題があったことがうかがえます。19世紀初頭には、それまで東西2組で運営されていた七箇村組は一組となってしまったようです。
以上を整理しておきます。
①中世に小松・真野・吉野郷では、風流踊りが郷社に奉納されていた
②それは地域の村々の有力者による宮座で組織されていたが、戦国時代に中断していた
③それを初代高松藩主松平頼重が地域興しイヴェントとして復活した
④その時に参加したのは、4つの郡の郷社に奉納されいた風流踊りであった
⑤4つの踊組は対抗心が強く、いろいろな事件や騒動を引き起こした
⑥那珂郡七箇村組も、当初は東西2組編成であったが、18世紀初頭には、1組に「縮小」している。これも内部での騒動か事件があったことが考えられる。
こうして、19世紀になると軌道に乗り、3年毎に安定して踊り奉納は行われるようになった。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
        「大林英雄 滝宮念仏踊り七箇村組について  ことひら1988年」
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滝宮念仏踊り1

滝宮念仏踊り(滝宮神社)
讃岐の飯山町の旧東坂本村の喜田家には滝宮念仏踊りに関する資料が残っています。一冊の長帳に「口上書壱通」とあり
此の度 瀧宮念仏踊の由来委細申し出で候様 御尋ね仰せ出され候二付き 申し上げ奉る口上
意訳変換しておくと
この度 瀧宮念仏踊の由来について詳しく報告することという指示を受けましたので別紙の通り報告いたします。

語尾の「申し上げ奉る」という表現から、この文書の書かれた背景が分かります。つまり高松藩が念仏踊りの由来についての東坂本村に問い合わせした、そのことへの回答という形になっています。つまり、これは高松藩への回答書の写しで、公式文書だったようです。そして次のような由来が述べられています。
光孝天皇の代の仁和二年(886)正月十六日菅原道真が讃岐守になって讃岐に赴任した。翌三年讃岐の国中が大干害となった。田畑の耕作は勿論草木も枯れ、人民牛馬がたくさん死んだ。この時、道真公は城山に七日七夜断食して祈願したところ七月二十五日から二十七日まで三日雨が降った。国中の百姓はこれを喜んで滝宮の牛頭天王神前(滝宮神社)で悦び踊った。是を瀧宮踊りと言っている。
この史料からは次のようなことが分かります。
①菅原道真が祈雨祈祷を城山で行って成就した。
②降雨成就のお礼に国中の百姓が集まってきて滝宮の牛頭天皇社で踊った。
③これが滝宮踊りの始まりである。
ここで注意しておきたいのは、雨乞いのために踊られているのではないことです。菅原道真の降雨成就を祝って踊られています。もうひとつは、各郡からの踊組が地元で踊っていた風流踊りを奉納していることです。ここでは滝宮念仏踊りが雨乞いのために踊られているのではないことを押さえておきます。道真が雨を降らせたことに対する感謝のために踊ったという趣旨になります。ここでは、この時点では「瀧宮踊り」は「雨乞成就の感謝踊り」で、あって雨乞い踊りではなかったことを押さえておきます。

滝宮神社・龍燈院
滝宮牛頭天皇社(滝宮神社 讃岐国名勝図会)

今は滝宮というと、天満宮の方を思い浮かべてしまいます。

しかし、天満宮が現在のように整備されるのは、近世になってからです。滝宮の中心は明治以前には、滝宮牛頭天皇社(滝宮神社)でした。 祭神は須佐之男命で医薬の神とされ、また牛馬の守護神として農民や馬借などの信仰を集めていました。その別当寺が龍燈院です。上の讃岐国名勝図会には、天満宮と滝宮神社の間に大きな境内を持った寺院として描かれています。龍燈院の社僧達が、両者を管理運営していました。神仏混淆下では、当たり前のことで金毘羅大権現と金光院の関係のようなものです。同時に、周辺には別院や子院が点在して、そこには念仏聖や山伏たちが住み着いて、滝宮牛頭天皇社(滝宮神社)のお札を周辺の村々に配布していました。中世のこの滝宮牛頭天皇社の信仰範囲の郷から、各郷の郷社で踊られていた盆踊りや風流踊りが、滝宮牛頭天皇社(滝宮神社)の7月の夏祭りに奉納されていたと私は考えています。そのような形を作ったのは、中世の聖や修験者たちだったと研究者は考えています。

滝宮龍燈院の十一面観音
龍燈院の十一面観音像(綾川町蔵)
 これだけの規模の寺院を、龍燈院はどのようにして維持していたのでしょうか? それを解く鍵は、蘇民将来のお札にあるようです。

蘇民将来
蘇民将来のお札
蘇民将来伝説に基づいて、わが家にはこのお札が今も神社から配布されてきます。神仏分離以前に中讃地区で、このお札を配布していたのが滝宮牛頭神社だったようです。そして、実際に配布を行っていたのが龍燈院の修験者(聖)たちでした。龍燈院も中世には、周辺に多くの修験者や廻国行者達を抱え込んでいたようです。その修験者や聖たちが、お札の配布で周辺の村々に出向きます。同時に、その時に各郷社に奉納されていた風流念仏踊りの滝宮への奉納を勧めたと私は考えています。次のような勧誘を修験者から受けたのではないでしょうか?

この郷でも盛大に風流踊りがおどられよるんやなあ。それを郷社だけに奉納するのはもったいないことや。滝宮牛頭権現さまにも奉納したらどうな。牛頭さまも歓んでくださるし、霊験もあらたかで疫病退散まちがいなしや。そのうえいろいろな郷から踊り込みが合って、大勢の人が見てくれるけんに、この郷の評判にもなるで。7月末の夏祭りが、踊込みの日になっとるけん、是非参加しまえ

こうして中世には、周辺の各郷から風流踊念仏踊りが滝宮に奉納されるようになります。奉納された踊りは、時衆の影響を受けた念仏踊りもあり、盆踊りや祭礼で踊られていた風流踊りです。

滝宮(牛頭)神社
現在の滝宮神社
龍燈院の住職が代々書き記した『瀧宮念仏踊記録』が天満宮に残っています。この表紙裏に、次のように記されています。
「先代は当国十三郡より踊り来たり候処、近代は四郡而已に成り申し候」
意訳変換しておくと 
中世には風流念仏踊りは讃岐のすべての13郡から踊り込みがあった。それが江戸時代には、参加するのは4郡までに減っている
 
讃岐の13郡のすべての郡から参加していたというのは、すぐには信じられません。しかし、中世には丸亀平野のいくつの郷社から踊り込みがあったことは事実のようです。それも戦国時代の戦乱で途絶えていたようです。

P1250408
滝宮念仏踊の各組の惣踊りの入庭

中断していた踊りを復活させたのが初代高松藩主の松平頼重です。
1650(慶安三)年7月20日の記録には、次のように記されています。
就中 慶安三年寅七月二十三日御重キ御高札も御立て遊ばされ候様承知奉り候
「押さえのための高札をお立てなされるように承知いたしました」とあります。分かりにくい所がありますので補足します。戦国期には、中断していた踊りを「中興」したとあります。これは松平頼重が水戸から高松へ入り、松平藩による藩政が整備される中で、中断していた滝宮念仏踊りを復活させたということのようです。その際に、当時の寺社は「天下泰平」「安寧秩序」などの祈願を求められていました。そこで「風流踊り」に「雨乞い祈願」という名目を+アルファして、地域興しのイヴェント行事を姿を変えた形で復活させたと私は考えています。
 当時の風流念仏踊りは、庶民が楽しみにする一大イヴェントで、夏の祭礼に併せて踊りは奉納されます。
4344101-61滝宮念仏踊り
          滝宮念仏踊り(北條組)

そのため滝宮には、大勢の人が集まって来ることが予想されます。大きな祭りやイヴェントを開く際には、予防措置を講じることを江戸幕府は各藩に命じいました。行事に掲げる高札の内容の見本まで示しています。そこで高松藩も、それを参考にして喧嘩などを禁ずる高札を掲げるように、龍燈院に命じたようです。その命に応じて建てられた高札のようです。

滝宮念仏踊り
滝宮念仏踊り(北條組拡大)

こうして、丸亀平野の4つの郡によって滝宮への踊り込みが復活します。
四郡は 阿野郡の南と北、那珂郡、多度郡の郷ということになります。最初は、いろいろな混乱があったようです。例えば、復活直後の正保二(1645)年には、踊りの順番を巡って次のような殺傷事件が起きています。
滝宮1916年香川県写真師組合
明治の滝宮付近の綾川
 前夜からの豪雨で、綾川は水嵩が増します。当時は綾川には橋がかかっていませんでした。そのため那珂郡南部の真野・吉野・子松郷で構成される七箇村組は、綾川を渡れずに、滝宮牛頭神社のすぐ手前の対岸で水が引くのを待っていました。ところが、定刻が来て七箇村組の後庭で踊ることになっていた阿野郡の北条念仏踊組が、境内に入場しようとします。この動きを川向こうから見ていた七箇村組の人たちはいきり立ちます。世話人の真野久保神社の神職浅倉権之守は、長刀を杖にして急流を渡り、入場していた北条組の小踊二人を切り殺してしまいます。小踊は、踊組の代表と考えられていたようです。踊る順番や場所について、命懸けで守ろうとしていた気迫が伝わってきます。

諏訪大明神滝宮念仏踊 那珂郡南組
滝宮念仏踊り(那珂郡七箇村組 場所はまんのう町諏訪神社)

  ちなみにこの事件はふたつの踊組に、深い対立感情を残すことになります。以後、北条組は48人の抜刀隊を編成して踊り手達を警固するようになります。踊り手達警固のために、棒持ちなどが配備されるようになった背景には、こんな事件があったようです。また、七箇村組と北條組は踊る年を変えて鉢合わせしないように踊奉納をする措置も取られています。踊る順番が固定するのは、『瀧宮念仏踊記録』に記されている享保三年(1718)からと研究者は考えています。

龍燈院・滝宮神社
     滝宮の滝宮牛頭権現社と別当寺龍燈院と天満宮
ちなみに龍王院は、明治維新の神仏分離政策を受けて住職がいなくなり、廃棄されました。実質的な受入側である龍燈寺がなくなったことで、4組による奉納は一時的に停止されたようです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
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 ユネスコ無形文化遺産に香川県から滝宮念仏踊りと、綾子踊りが登録されました。滝宮念仏踊には、かつてはまんのう町からも踊組が参加していたようです。今回は、滝宮に風流踊りを奉納していた「那珂郡七箇村踊組」についてみていきます。
滝宮念仏踊諸役人定入目割符指引帳
まんのう町七箇村念仏(風流)踊り村別役割分担表

この表は文政12(1829)年に、岸上村の庄屋・奈良亮助が踊組の総触頭を勤めた時に書き残した「諸道具諸役人割」を表にしたものです。ここには各村の役割と人数が指定されています。この役割は「世襲」で、村の有力者だけが踊りのメンバーになれたようです。この表からは、次のような事が見えてきます。
①まず総勢が2百人を越える大スタッフで構成されたいたことが分かります。
スタッフを出す村々を藩別に示すと、次の通りです。
A 高松藩 真野村・東七ヶ村・岸上村・吉野上下村
B 丸亀藩 西七ヶ村(買田・宮田・生間・追上・帆山・新目・山脇)佐文村 
C天領  小松庄4ケ村(榎井・五条・苗田・西山)
まんのう町エリア 讃岐国絵図2
まんのう町周辺の近村々村々
まんのう町の村々(正保国絵図 17世紀前半で満濃池が池内村)

どうして、藩を超えた編成ができたのでしょうか。
それは丸亀藩と高松藩に分けられる以前から、この踊りが那珂郡南部の「真野・吉野・小松」の3つの郷で踊られていたからでしょう。七箇村踊組は、中世から踊り継がれてきた風流踊りだったようです。

那珂郡郷名
那珂郡南部の子松・真野・吉野の郷で、踊られていた
②滝宮に踊り込む前には、各村の神社に踊りが奉納されています。
7月17日の満濃池の池の宮から始まって
  18日七箇春日宮・新目村之宮
  21日五条大井宮・古野上村宮
  22日が最終日で岸上村の久保宮と、真野村の諏訪神社に奉納
  27日に滝宮牛頭大明神(滝宮神社)への躍り込みとなっています。
「諏訪大明神念仏踊図(真野諏訪神社)」に描かれた踊りが綾子踊りにそっくりであることを以前に紹介しました。
諏訪大明神滝宮念仏踊 那珂郡南組
諏訪大明神念仏踊図(真野諏訪神社)

そして役割構成も似ています。ここからは佐文の綾子踊りの原型は、「七箇村踊組」の風流踊りにあることがうかがえます。
③実は七箇村踊組は、もともとは東西2組ありました。
その内の西組は佐文を中心に編成されていたのです。ところが18世紀末に滝宮への奉納を廻って、なんらかのトラブルがあったようで、西組は廃止され1組だけになりました。その際に佐文村は下司など中心的な役割を失い、「棒付10人」だけに大幅に縮小されます。ここからは佐文が不祥事の責任をとらされたことがうかがえます。
 今まで踊りの中心を担っていた佐文にとって、これはある意味で屈辱的なことでした。それに対して、佐文がとった対応が新たな踊りを単独で出発させるということではなかったのではないでしょうか。こうして雨乞い踊りとして、登場してくるが綾子踊りだと推測できます。そうだとすれば、綾子踊りは那珂郡南部の三郷で踊られていた風流踊りを受け継いだものといえそうです。
綾子踊り67
佐文 綾子踊り
  参考文献  大林英雄 滝宮念仏踊り七箇村組について  ことひら1988年

江戸時代の讃岐各藩における雨乞修法を担当したのは、次の真言寺院でした。
①髙松藩  白峯寺
②丸亀藩  善通寺
③多度津藩 弥谷寺
旱魃になるとこれらの寺院では、藩に命じられて雨乞修法が行われるようになります。そのために、善如(女)龍王が勧進され、小さな社が建立されていました。この善如(女)龍王に降雨を祈るという修法は、中世以来のものかと私は思っていました。しかし、そうではないようです。17世紀後半になって、ある人物によって讃岐にもたらされたようです。それが浄厳(じょうがん)という真言僧侶のようです。
浄厳
浄厳
彼は、善通寺の僧侶や髙松藩初代藩主松平頼重にも大きな影響を与えた僧侶のようです。今回は、浄厳が讃岐に何をもたらしたかに焦点を合わせて、見ていくことにします。テキストは、「高橋 平明 白峯寺所蔵の新安祥寺流両部曼荼羅図と覚彦浄厳   白峯寺調査報告書NO2 香川県教育委員会」です。

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まず、彼が何者であるのを浄厳伝(現代訳)で見ておきましょう。
浄厳律師は、寛永16年(1639)11月23日に生まれた。字(通称)は覚彦(かくげん)と言い、俗姓は上田氏であり、河州錦部郡鬼住村(河内長野市神ガ丘)の出身である。父母は信仰に篤く、深く三宝を信じており、律師は生まれながら非凡であった。幼少の御、授乳の時には、いつも右の人差し指で梵字や漢字を、母の胸に書いたと言われ、また一切の文字も習ってもいなかったのによく知っていたと言う。四歳の頃には、法華経の普門品や尊勝陀羅尼を読誦し、またよく阿弥陀や観音、地蔵などの仏の名号を書いたと言う。ある時には、父親に出家したいと願い、密かに般若経を唱えていたとも言われ、女性に会うことを嫌い、生臭いものは食べなかつた。六歳の時には、桂厳禅師の碧巌録の講義を聴き、家に帰りまた自ら講じ、それを聴いた者を驚歎させたと言う。
慶安元年1648)十歳の時に高野山に登り、悉地院の雲雪和尚に付き得度。雲雪和尚遷化後は、釈迦文院の朝遍和尚に師事。
明暦二年(1656) 実相院の長快阿閣梨から中院流の伝法灌頂を受ける。
寛文四年(1664) 南院の良意阿闇梨から安祥寺流の伝法灌頂を受け秘印を授かる。
以後は、倶舎、唯識、華厳や法華の諸経論を兼学して勉学研鑽する。
寛文十年(1670) 大師の『即身成仏義』を講義して、高野山の全山学徒が心服。高野山で修行すること20余年で、学侶の席を捨て山を下る。
寛文十二年(1672)春、故郷河内に帰り、父の俗宅に如晦庵を建て、観心寺で『菩提心論』『理趣経』などを講義
延宝元年(1673) 神鳳寺派の快円律師より梵網菩薩戒を受け、浄厳と名を改め、これ以降は戒律を護持。
翌年には、仁和寺の顕證阿闇梨、孝源阿閣梨の二師に拝謁して、西院の法流や真言の諸儀軌を受得する。また、黄檗の鉄眼禅師に超逓して意気投合し、その後も親交は深められる。
延宝四年(1676)春二月、河内の常楽寺にて曼茶羅を建てて、初めて受明灌頂を行った。この受明灌頂は、真言密教の重要な灌頂であったが伝授が途絶えていた。その灌頂を復興。
この年の5月に、泉州堺の高山寺で、神鳳寺一派の玄忍律師を証明師として招請。通受自誓の受戒を行い、比丘となる。

別行次第秘記は浄厳の真言密教の修行に関する口訣書
 
延宝六年(1678)春、讃岐善通寺に招かれ講経や説法。讃岐高松の藩主松平頼重は、律師の戒徳を仰ぎ慕い、直接律師から教えを受けた。
  1680年には松平頼重の要請に応じて、『法華秘略要砂』十二巻を著述。
貞享元年(1684)11月、教化のために江戸に出る
が、旅住まいをして間もないのに、学人が雲のように多く集まり、講経や説法をしても、人が来ない日は無いほどであった。三帰依の戒を授かった者は、六十万九千人。光明真言呪を授かった者 一万千百余人。書薩戒を授かった者は千百三十人であった。
元禄四年(1691)8月、幕府の命で、湯島に霊雲寺を開創
元禄十年(1697)春2月、結縁灌頂を大衆に授け、入壇し受けた者が九万人
水戸藩の儒者であった森尚謙は、律師の法座があまりに盛んであったのを祝って、次のように詩作している。
「南天の鉄塔覚皇の城、芥子扉を開いて此道明らかなり。憫恨す会昌の沙汰の濁れることを、讃歎す日域の法流の清きことを、戸羅具足して無漏を証し、結縁灌頂して有情を救う。遍照金剛今いづくにか在る。那伽の定裏に形声を見はす」

元禄十五年(1702)6月、体調を崩し病に罹り、27日に、頭北面西し、右脇して臥して、印を結んで、静かに遷化。享年六十四。
浄厳は、戒律を護持して、決して怠らず、三衣一鉢などの持ち物を飾ることもなく、美味しい食物を口にすることはなく、人に接する時は謙譲であり、また人を送迎する際には、非常に丁寧であった。信者から受けた布施は、すべて経典や仏像を購入したり、堂塔を修復することに用い、慈悲の実行を常に旨とし、護法を自らの勤めとなしたのである。まさに、仏教界の逸材と言うべき高僧であった。
浄厳の墓(河内延命寺)
浄厳の墓(河内延命寺)
以上のポイントを要約しておくと
①寛永16(1639)年 河内に生まれ10歳で高野山に入山得度
②寛文10(1670)年  高野山修行20余年で、高野山を下り故郷河内に真言新安祥寺流を開く
③元禄4(1691)年  5代将軍徳川綱吉と柳沢吉保の援助を受けて江戸湯島に霊雲寺を建立
庶民の教化に努め、近世期の真言宗の傑僧と評され人物のようです。
この中で注目したいのが讃岐との関連で、次の記述です。
延宝六年(1678)春、讃岐善通寺に赴き講経や説法。讃岐高松の藩主松平頼重は、浄厳の戒徳を仰ぎ慕い、直接浄厳から教えを受けた。
1680年には松平頼重の要請に応じて、『法華秘略要砂』十二巻を著述。
これを裏付けるのが「浄厳大和尚行状記」です。
浄厳行状記
浄厳大和尚行状記
この書は、浄厳が善通寺誕生院主宥謙の招きで讃岐を訪れ際の様子や、松平頼重との関係が詳しく記されています。浄厳来讃のきっかけについては。次のように記します。

延宝六(1678)年3月26日 讃州多度郡善通寺誕生院主宥謙の請によって彼の地に赴き因果経を講じ、4月21日より法華経を講じ、9月9日に満講した。

ここからは、延宝6(1678)年に、善通寺誕生院主宥謙の請いを受けて因果経ならびに法華経の法筵を開いたことに始まると記されています。
どうして宥謙は、浄厳を善通寺に「講師」として招聘したのでしょうか?
誕生院主宥謙の課題は、7年後の貞享2年(1685)に控えた弘法大師八百五十年遠忌でした。それを前に善通寺を浄厳の説く新安祥寺流に改める「宗教改革」の道を選んだと研究者は考えています。それは、宥謙以後の善通寺歴代住持の動きからもうかがえるようです。
宥謙以後の善通寺誕生院住職は、光胤―円龍―光歓―光天―光國と続きますが、新安祥寺流との関わりが深くなっていきます。
宥謙が元禄四年(1691)に入寂すると、住持職を譲られていた光胤は、元禄9(1696)年に、京都や江戸での寺宝の開帳を行ったことは以前にお話ししました。元禄の出開帳のスケジュールは次の通りです。
①元禄 9(1696)年 江戸で行われ、
②元禄10(1697)年3月1日 ~ 22日まで
           善通寺での居開帳、
③同年11月23日~12月9日まで上方、
④元禄11年(1698)4月21日~ 7月まで 京都
⑤元禄13年(1700)2月上旬 ~ 5月8日まで   
            播州網干(丸亀藩飛地)
以上のように3年間にわたり5ヶ所で開かれています。
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善通寺江戸開帳の「元禄目録」
 江戸での開帳の際に首題に「讃岐国多度郡屏風浦五岳山善通寺誕生院霊仏宝物之目録」と題された「元禄目録」が残されています。

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元禄開帳末尾

その末尾に「此目録之通、於江戸開帳以前桂昌院様御照覧之分 如右」とあります。ここから元禄九年(1696)の江戸出開帳の際に、桂昌院の「御覧(見学)」のために作成された目録であることが分かります。桂昌院は、家光の側室で、5代将軍・綱吉の生母で、大奥の当寺の実権者でした。その桂昌院に見てもらうために料紙を切り継いで、薄墨の界線がひかれ、36件の宝物が記され、それぞれについての注記(作者・由来・形状品質など)が書かれています。
 「大奥の実力者が見学に行った善通寺のご開帳」というのは、ニュースバリューがあり、庶民を惹きつけます。現在でも、皇室記事に人気があり、皇族たちの着ているものや見学先に庶民が強い関心を持っているのと同じです。しかし、どうして四国の善通寺のご開帳に、わざわざ桂昌院が見学にきたのでしょうか。法隆寺や善光寺に比べると、全国的な知名度はかないません。

善通寺薬師如来像内納入文書 (2)
善通寺本尊薬師如来開眼供養願文(善通寺)
ここには桂昌院の「息災延命」が願われている

 この時に大きな力になったのが桂昌院の帰依を得ていた浄厳の存在だと研究者は推測します。
当寺の浄厳は江戸にいて、五代将軍綱吉から湯島の地を賜って霊雲寺を開いて真言律を唱え、多くの信者たちを得ていました。浄厳による大奥への裏工作があったことが考えられます。

1 善通寺本尊2
善通寺本尊薬師如来像
 それを裏付けるのが、現在の善通寺本尊薬師如来像です。
この本尊は、開帳で集まった資金で造られたようで、開帳から4年後の元禄13(1700)年に開眼されています。この制作にあたったのは、京都の仏師法橋運長であることは以前にお話ししました。運長は誕生院光胤あてに、元禄12(1699)12月3日付け文書を4通提出しています。
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大仏師運長が誕生院にあてた「見積書」
その内の「御註文」には、像本体、光背、台座の各仕様について、全18条にわたり、デザインあるいはその素材から組立て、また漆の下地塗りから金箔押しの仕様が示され見積書となっています。このような「見積書」によって、運長は全国の顧客(寺院)と取引を行っていたようです。
 ここで研究者が指摘するのは、運長は浄厳の肖像を制作していることです。浄厳は、以前から運長にさまざまな仏像の制作を依頼してようです。ここからは私の推論です。「弟子」にあたる誕生院院主光胤は浄厳に次のような依頼を行います。

「おかげさまで江戸での開帳が成功裏に終わり、善通寺金堂並びに本尊造立のための資金が集まりました。つきましては、善通寺金堂の本像作成にふさわしい仏師を紹介していただけないでしょうか」

 江戸の浄厳に相談し、仏師紹介を依頼したことが考えられます。そして浄厳が紹介したのが腕利き仏師運長だったと私は考えています。このように考えると、江戸での開帳計画も一か八かのものではなく、浄厳の指導助言に従って光胤が進めたもののように思えてきます。善通寺の運営について浄厳は、さまざまな助言や協力もしていたようです。
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円龍が運長に依頼した愛染明王像(善通寺)
次の善通寺住持の円龍は、宥謙・光胤から受法した正嫡の弟子です。
そして、京都愛宕宝蔵院主から善通寺に転住してきた人物です。
宝蔵院主(円龍?)が光胤に、仏師の法橋運長に不動尊と愛染明王像の制作を依頼し、開眼を浄厳に求めた元禄十四年の手紙が残されています。円龍も浄厳の指導下にあったことが分かります。
次の光歓は円龍の念持仏を開眼した浄厳弟子の蓮体について新安祥寺流を受け、白峯寺等空法印からも同法を授かった人物です。

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善通寺大塔再興雑記には、光圀の名前が見える

光國僧正は阿波出身であり、東大寺戒壇院長老となった慧光(1666~1734)に師事していました。また、五重塔再興に東奔西走した人物です。

慧光は浄厳の高弟のひとりで、湯島・霊雲寺の二世でもあります。善通寺に伝えられる新安祥寺流聖教には光國が所持していたものがあり、さらに白峯寺等空と離言書写のものも伝えられています。これらをあわせると善通寺の大部分の聖教が整うようです。
以上をまとめておくと、浄厳を善通寺に招請した誕生院主宥謙のねらいは、弘法大師650年遠忌を契機として善通寺を新安祥寺流の拠点のひとつとすることにあったと研究者は考えています。
それを裏付けるように、これ以後善通寺周辺の真言有力寺院がである金昆羅金光院・弥谷寺・白峯寺・志度寺などが新安祥寺流を受入れます。 (松原秀明「讚岐における浄厳大和尚の遺蹟と、その法流について」『郷土歴史文化サロン紀要』第1集1974年
こうして、讃岐の真言寺院は新安祥寺流に席巻されていくようになります。
これは、ある意味での「讃岐における宗教改革」とも云えます。それまでの真言の流儀や法脈が一変されていくことになります。同時に「宗教改革」にともなうエネルギーも生み出されます。それは、善通寺を拠点とする新安祥寺流の寺院ヒエラルヒーの形成につながって行きます。そういう視点で見ると戦国末の兵乱で一時的な衰退状態にあった善通寺が新安祥寺流によって近世寺院として蘇っていく契機となったのかもしれません。弥谷寺の善通寺への末寺化などの動きもこのような流れの中で見ておく必要があるようです。

浄厳がもたらしたもののもうひとつが、雨乞祈祷と善如(女)龍王の勧進です。

2善女龍王4
高野山の善如(女)龍王  高野山は男神

「浄厳大和尚行状記」には、次のように記します。

浄厳が善通寺で経典講義を行った延宝六年(1678)の夏は、炎天が続き月を越えても雨が降らなかった。浄厳は善如(女)龍王を勧請し、菩提場荘厳陀羅尼を誦すること一千遍、そしてこの陀羅尼を血書して龍王に捧げたところが、甘雨宵然と降り民庶は大いに悦んだ。今、金堂の傍の池中の小社は和尚の建立したもうたものである。

ここには、高野山の高僧が善通寺に将来された際に、干ばつに遭遇し「善女龍王」を新たに勧進し、雨乞の修法を行い見事に成就させこと、そして「金堂の傍らの小社」を浄厳が建立したことが記されています。それが善女龍王のようです。
5善通寺
善通寺の善女龍王社 
それを裏付けるのが、本堂の西側にある善女龍王の小さな社です。この祠は一間社流見世棚造、本瓦葺、建築面積3.03㎡で、調査報告書には、
「貞享元年(1684)建立、文化5年(1808)再建、文久元年(1861)再建の3枚の棟札」

が出てきたことが報告されています。最初の建立は、浄厳の雨乞祈祷の6年後のことになります。これは浄厳によって善女龍王信仰による雨乞祈祷の方法がもたらされたという記録を裏付けるものです。逆に言うと、それまで讃岐には真言密教系の雨乞修法は行われていなかったことになります。

善通寺には「御城内伽藍雨請御記録」と記された箱に納められた約80件の雨乞文書が残されています。
そこには、丸亀藩からの要請を受けた善通寺の僧侶たちが丸亀城内亀山宮や善通寺境内の善女龍王社で行った雨乞いの記録が集められています。それによると正徳四年(1714)~元治元年(1864)にわたる約150年間に39回の雨請祈祷が行われています。およそ4年に一度は雨乞が行われていたことがわかります。ここで注目しておきたいのは、記録が残るのが正徳四(1714)年以後であることです。これも17世紀末に浄厳によってもたらされた雨乞修法が丸亀藩によって、18世紀初頭になって、藩の公式行事として採用されたことを裏付けます。

浄厳評伝の中には、高松藩主松平頼重関係が次のように記されていました。
延宝六年(1678)春、讃岐善通寺に赴き講経や説法。讃岐高松の藩主松平頼重は、律師の戒徳を仰ぎ慕い、直接律師から教えを受けた。
  1680年には松平頼重の要請に応じて、『法華秘略要砂』十二巻を著述する。

松平頼重と浄厳の関係について見ておきましょう。
 浄厳が善通寺を訪れたことを聞いた頼重(隠居名:源英公)は、彼を高松城下へ招請します。そして、翌年1679年正月に謁見、以後、頼重は源英公は息女であった清凍院讃誉智相大姉とともに連日聴聞したようです。頼重は、2月には浄厳のために石清尾八幡宮内に現証庵を建立し住まわせます。また、4月には、浄厳が老母見舞のために河内に帰省するに際には、高松藩の御用船を誂えて送迎しています。その信奉のようすは『行状記」に詳しく記されています。ここからは、  頼重が浄厳に深く帰依していたことがうかがえます。ちなみに頼重は、年少期には京都の門跡寺院に預けられて「小僧」生活を長く送っています。そのため宗教的な素養も深く、興味関心も強かったようです。
頼重の再招聘に応じて浄厳は、延宝八年(1680)3月に再び高松にやってきます。
そして4月からは現証庵で法華経を講じます。その時の僧衆は三百余人といわれ、頼重の願いによって『法華秘略要抄』十二巻・『念珠略詮』一巻を撰述します。『行状記』によれば、5月8日に四代将軍徳川家綱吉崩御の訃報により講義を中断し、8月朔日から再開して10月晦日に終了しています。その冬に、浄厳の予測通りに西方にハレー彗星が現れます。ちなみに白峯寺の頓證寺復興が行われているのは、この年にことです。
 凶事とされていた彗星の出現を予測していた浄厳は、浄厳は、白河上皇の永保元年(1081)に大江匡房が金門鳥敏法厳修を奏上した際に、ただひとり安祥寺の厳覚律師だけが知っていて五大虚空蔵法を修された故事を頼重に語ります。これを聞いて頼重は、髙松藩内の十郡十ケ寺に命じて浄厳に従って同法を伝授させます。そして、五大虚空蔵尊像十幡を十ヶ寺に寄付し、正月・五月・九月に五大虚空蔵求富貴法を修行させるように命じます。これは以後、毎年の恒例となっていきます。そして、浄厳は河内の延命寺で金門鳥年法を七日間修し、それが彗星到来にともなう凶事を事なきことに済ませたとされます。こうして浄厳の讃岐での名声は、彗星到来を機にますます高まります。翌天和二年(1682)には、頼重62歳の厄除祈祷を行っています。
彗星到来の凶事を防ぐために「髙松藩内の十郡十ケ寺に命じて浄厳に命じて五大虚空蔵法を伝授し、尊像十幡を十ヶ寺に寄進した」とあります。
それでは、十郡十ケ寺とは、どんなお寺だったのでしょうか。見ておきましょう。
秀吉の命で生駒氏が領主として入部した際に、讃岐領内十五の祈祷寺が決められていました。
生駒騒動後には、讃岐は髙松藩と丸亀藩に分けられますが、「東讃十ヶ寺・西讃五ヶ寺」と呼ばれているので、高松藩領内では通称「十ケ寺」として東讃十ケ寺がこれを引き継いだようです。その「十ヶ寺」を挙げておきます。
阿弥陀院・地蔵院・白峯寺・国分寺・聖通寺・金蔵寺・屋島寺・八栗寺・志度寺・虚空蔵院

この筆頭は髙松城下町の石清尾八幡官別当寺であった阿弥陀院で、寺領高200石余、白峯寺がこれに次いで120石です。
 このほか、大般若会や雨乞い祈祷も、これら十ヶ寺の所役であったことは、以前にお話ししました。特に大般若経は阿弥陀院と白峯寺が月替りに参城して転読したようです。

白峯寺 五大虚空蔵菩薩
虚空蔵菩薩像(白峯寺)

 白峯寺に伝えられる絹本著色虚空蔵菩薩像(第104図)は、 松平頼重により始められた新規祈祷の本尊画像だと研究者は指摘します。

白峰寺の善女(如)龍王
白峯寺の善女龍王
 二幅所蔵される善如(女)龍王像(第105図・第106図)も雨乞い祈祷の本尊として、浄厳の先例に拠って調えられたと研究者は考えています。確かに絵は男神の善如龍王で、女神の善女龍王ではありません。真言系雨乞修法の本尊は、男神像像の善如龍王から、女神の善女龍王に「進化」しますが、それが醍醐寺の宗教的戦略にあることは、以前にお話ししました。ここでは、善通寺や白峯寺などの雨乞本尊が男神の善如龍王で、高野山からの「直輸入」版であることを押さえておきます。これも、讃岐に善如龍王をもたらしたのが浄厳であることを裏付ける材料のひとつになります。

その後の浄厳の活躍ぶりを『行状記』は次のように記します。
浄厳の効験により、「天下の護持僧」として元禄四年(1691)に五代将軍綱吉から江戸湯島に霊雲寺を賜り天下の析願所となった
このように、讃岐に新安祥寺流の法脈が広がるのは、浄厳が頼重からその護持僧としての信任を得ていたことが大きく影響していることが分かります。髙松藩の浄厳保護と、善通寺の浄厳の安祥寺流への切り替えは同時進行で進んでいたことを押さえておきます。

以上から浄厳の讃岐にもたらしたものを挙げておきます。
①善通寺誕生院院主の帰依を受けて、善通寺を新安祥寺流の拠点寺院としたこと
②善通寺を拠点に西讃の有力真言寺院が新安祥寺流を受けいれたこと
③善通寺の歴代院主は、浄厳やその弟子たちと法脈をひとつにして、寺院経営などに指導助言を得たこと
④そのひとつが江戸での開帳行事の開催や、本尊作成の仏師選定などが史料から分かる。
⑤浄厳は髙松藩松平頼重の護持僧侶として、宗教政策に強い影響力をもつようになったこと
⑥松平頼重の引退後の宗教政策には、浄厳がさまざまな点に影響を与えていたことが考えられる事

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
         「高橋 平明 白峯寺所蔵の新安祥寺流両部曼荼羅図と覚彦浄厳   白峯寺調査報告書NO2 香川県教育委員会」

              
讃岐は記録を見ると、近世には約5年に1度は千魃が起きています。特に寛永3年(1626)・明和7年(1770)・寛政2年(1790)・文政6年(1823)が大千魃の年であったようです。この干魃に対して、藩専用の雨乞い祈祷寺院として、丸亀藩は善通寺を、多度津藩は弥谷寺を、指定していました。それでは、高松藩の雨乞い寺院は、どこだったのでしょうか。

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白峯寺の善(女)龍王社

 白峯寺に紫陽花を見に行きました。

伽藍の中で一番上にある本堂と大師堂にお参りして、ついでに洞林院跡を見ておこうと思って東に伸びる道を辿ろうとすると堀に囲まれて「善如龍王」の小さな社がありました。
2善女龍王 神泉苑g
神泉で雨乞い祈祷を行う空海とそこに現れた子蛇(善如龍王)

善女龍王については、これまでも紹介しました。空海が平安京で、雨乞い祈祷を行った際に祈った水神とされます。姿は、時と共に次のように「進化」します。
当初は  表記は「善龍王」で、姿は「小さな蛇」
高野山で、表記は「善龍王」で、姿は「唐服姿の男子像にしっぽ」
醍醐寺で 表記は「善龍王」で、姿は「女神化」
この変化の背景には、雨乞い祈祷の主導権をめぐる醍醐寺の戦略があったことは、以前にお話ししました。ここでは醍醐寺によって女神化する以前には、龍王は「善如龍王」と表記され男神像として描かれていたことを思い出します。それでは白峯寺の龍王は、どうなのでしょうか。
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白峯寺の雨乞い水神は「善龍王」と書かれていた

社殿には「善如龍王」と書かれています。帰ってから白峰寺に残されている善如龍王の絵図を見てみると次の通りです。
白峯寺 善女龍王2
白峯寺の善如龍王(後に龍のしっぽが見える)
  唐の官僚衣装を身につけた男子像姿です。ここからは次のようなことが分かります。
①白峯寺では水神「善如龍王」に対して雨乞い祈祷が行われていた。
②水神は醍醐寺の「善女龍王」ではなく高野山スタイルの「善如龍王」であること
③これは白峯寺が高野山と直接的に結びつき、人とモノの交流が頻繁に行われいたために高野山の雨乞い方式が伝えられたことによる
善女龍王
女神化した醍醐寺系の善女龍王

2善女龍王の表記1

それでは白峯寺の雨乞祈祷は、どのように行われていたのでしょうか。
「白峯寺大留」・「白峯寺諸願留」の中に、高松藩が干魃に際して白峯寺に雨乞祈祷を行なわせている記事が多く出てきます。それを今回は見ていくことにします。テキストは「木原 溥幸 近世の白峯寺と地域社会 白峯寺調査報告書NO2 2013年 香川県教育委員会」
5善通寺
善通寺の善龍王社

白峯寺の最初の雨乞いの記事は、宝暦12年(1762)のものです。
崇徳上皇600年回忌の前年で、それに向けて白峰寺の伽藍整備計画が髙松藩藩主松平頼恭によって進められていた頃になります。
雨が降らず「郷中難儀」しているとので、旧暦5月11日に髙松藩の年寄(家老)会議で白峯寺に雨乞祈祷が命じられ、米5俵が支給されています。この雨乞いの通知は、白峯寺から阿野郡北の代官と大政所へ伝えられています。雨乞い中に少しの雨は降りますが、効果はなく雨乞祈祷は27日まで行われます。28日に「能潤申候」と記されているので本格的な降雨があったようです。白峰寺の霊験の強さが実証されたことになります。ちなみに、白峯寺の善如龍王社もこの時期に、境内に姿を見せるようです。

2善女龍王 高野山
高野山の善如龍王 (小さな尻尾が雲の中から見える)

文化3年(1806)には、5月7日に雨乞いが命じられます。
この時には翌日8日から10日朝まで祈祷が行われます。が、効果がありません。そこで髙松城下へ場所を移して、11日に大般若祈祷を勤めて、12日から雨乞祈祷を再開しています。15日になってようやく降りますが、それも「潤沢」ではなかったようです。そこで、白峰寺の法力だけでは不足とされたのでしょうか、22日からは五智院(阿弥陀院?)・地蔵寺・国分寺・聖通寺・金蔵寺・屋島寺・八栗寺・志度寺・虚空蔵院・白峯寺の十か寺が揃って雨乞祈祷を行っています。この十か寺は、各郡に一か寺ずつ置かれていた「五穀成就之御祈祷」に指定されていたお寺でもあるようです。
郡奉行からは、雨が降るまで雨乞い修法を行うように命じられています。エンドレス祈祷の始まりです。ようやく待望の雨が25日に降りますが「潤沢」ではありません。そこで白峯寺は27日に6月朔日までの降雨祈蒔修法を行う事を寺社役所と郷会所へ伝えています。さらに6月朔日には、引き続き修法を行うことにしています。しかし、その後も降雨はありません。6月19日には、再び十か寺へ26日までの雨乞修法を行うことになります。この時の十か寺の合同修法は、五智院へ他の九か寺が集まって実施されています。この時の干魃がいつまで続いたかはわかりません。雨乞いは、エンドレスであったことを押さえておきます。この時には、5月7日から始まって6月26日まで祈祷しても雨が降らずに、その後も続けられたようです。

2年後の文化5年にも6月22日に雨乞執行が命じられ、翌日の23日晩から行われています。この時は、28日晩から大風雨となったため、雨乞執行は期限通りに9日で終わっています。

文化14年の旱魃の時には郡奉行から、雨乞祈祷を行うように命じられています。
22日から白峰寺で祈祷が始まり、開始5日後の27日に降雨があっりました。そのため十か寺の合同雨乞祈祷は行われませんでした。
このように白峯寺は、高松藩の雨乞祈祷担当寺院でもあり、藩からの依頼に応えて雨乞祈祷が行われていたのです。

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白峯寺の善如龍王社

19世紀になると、地域の村々も白峯寺に雨乞い祈祷を依頼するようになります。
文化2(1805)年に、林田村の大政所(庄屋)からの「国家安全、御武運御兵久、五穀豊穣」の祈祷願いがあり、5月から行っています。(「白峯寺大留」7-6)。
文化4(1807)年2月に、祈祷願いが出されたことが「白峯寺大留」に次のように記されています。(報告書312P)
文化第四卯二月御領分中大政所より風雨順行五穀成就御祈蒔修行願来往覆左之通、大政処より来状左之通
一筆啓上仕候、春冷二御座候得共、益御安泰二可被成御神務与珍重之御儀奉存候、然者去秋以来降雨少ク池々水溜無甲斐殊更先日以来風立申候而、場所二より麦栄種子生立悪敷日痛有之様相見江、其上先歳寅卯両年早損打続申次第を百姓共承伝一統不案気之様子二相聞申候、依之五穀成就雨乞御祈蒔御修行被下候様二御願申上度候段、奉伺候処、申出尤二候間、早々御願申上候と之儀二御座候、
近頃乍御苦労御修行被下候様二宜奉願上候、右御願中上度如斯御座候、恐慢謹言
二月             
和泉覚左衛門
奥光作左衛門
三木孫之丞
宮井伝左衛門
富家長二郎
渡部与兵衛
片山佐兵衛
水原半十郎
植松武兵衛
久本熊之進
喜田伝六
寺嶋弥《兵衛》平
漆原隆左衛門
植田与人郎
古木佐右衛門
山崎正蔵
蓮井太郎二郎
富岡小左衛門
口下辰蔵
竹内惣助
白峯寺様
   意訳変換しておくと                                                                 
一筆啓上仕候、春冷の侯ですが、ますます御安泰で神務や儀奉にお勤めのことと存じます。さて作秋以来、降雨が少なく、ため池の水もあまり貯まっていません。また。強い北風で場所によっては麦が痛み、生育がよくありません。このような状態は、10年ほど前の寅卯両年の旱魃のときと似ていると、百姓たちは話しています。百姓の不安を払拭するためにも、五穀成就・雨乞の祈祷をお願いしたいという意見が出され、協議した結果、それはもっともな話であるということになり、早々にお願いする次第です。修行中で苦労だとは思いますが、お聞きあげくださるようお願いします。
右御願中上度如斯御座候、恐慢謹言
 この庄屋たちの連名での願出を受けて、藩の寺社方の許可を得て、2月16日から23日までの間の修行が行われています。雨が降らないから雨乞いを祈願するのではなく、春先に早めに今年の順調な降雨をお願いしているのです。この祈願中は、阿野郡北の村々をはじめ各郡からも参詣が行われています。
 こうして、弥谷寺は雨乞いや五穀豊穣を祈願する寺として、村の有力者たちが足繁く通うようになります。その関係が、近隣の村々の有力者の支持や支援を受けることにつながって行きます。以前にお話しした弥谷寺でも、多度津藩の雨乞祈祷寺院になることで、大庄屋の支持を得て、彼らの墓碑が建てられ、いろいろな奉納物が寄進されるようになりました。白峯寺でも祈祷を通じて、地域の願いを受け止め、「五穀成就」を願う寺として、人々の信仰を集めるようになっていきます。
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白峯寺の善如龍王社

文化7(1810)年には、青海村単独での五穀豊穣・雨乞い祈祷の依頼がありました。

文化七午年十一月十一日、青海政所嘉左衛門殿致登山申様ハ、当秋己来雨天相続、此節麦作所仕付甚指支難渋仕候、依之大小政所評定之上二夜三日之間、五穀成就御祈稿修行頼来候所、折節院主出府仕居申候二付、義観房私用も有之二付致出府、示談仕、当十四日より十六日迄之間、常例之通二五大虚空蔵法修行仕候様、相決し、院主十二日二帰峰仕、十四日より十六日迄五大虚空蔵法修法仕、助呪等諸事例月之通、尤導師意楽二而止風雨之本尊大檀向之右之方江奉掛井修法申印明等相加江行法仕候、且又十五日中国二相当り朝大小政所井組頭共人九人斗致参詣、吸物酒井蕎麦切茶漬等致饗応候、但し役所向届方之義ハ勤方江相尋候処、郡方よりも申出不仕候旨二付、当山よりも役所江ハ届ヶ不仕候、

  意訳変換しておくと
文化七(1810)年11月11日に、青海村の政所嘉左衛門殿が登山してきて次のような依頼をした。この秋は雨天が続き、麦の成長がよくない。そこで、大小政所が集まって評定し、二夜三日間、五穀成就の祈祷修行をお願いすることになったという。
 しかし、院主が出府、義観房も私用で不在であることを告げ、相談した結果、十四日より十六日までの間、通例通りの五大虚空蔵法修行を行う事になった。院主は十二日帰峰し、十四日より十六日迄五大虚空蔵法を修法した。助呪などの諸事例は通例通りで、導師意楽が主催し、本尊大檀に向かって右側に奉掛や修法申印明などが位置して行法した。十五日朝には、大小政所や組頭たち九人が参詣し、吸物酒並びに蕎麦・切茶漬などを饗応した。但し、役所への届出については、藩の勤方に相談したところ、青海村単独の雨乞いなので必要なしとのことであった。そのため当山からは役所へは届けなかった。

ここらは「藩 → 綾郡の大政所 → 青海村の政所」と、依頼者が変化し「民衆化」していること。当初は雨乞い祈願であったものが、二毛作の麦も含めた「五穀豊穣」のための祈願と姿を変えながら「守備範囲」を広げていることがうかがえます。
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神泉苑の善女龍王朱印
文化10(1813)年の暮れにも、秋から降雨が少なく、溜池の水が減って麦・莱種子の生育がよくないとして、阿野郡北の大政所は「五穀成就雨乞」の祈祷を依頼しています。その翌年の文化11年4月に入っても雨が少なかったらしく、阿野郡北大政所の富家長三郎は白峯寺に出向いて、降雨祈蒔を願い出ています。この祈祷に続いて郡奉行からも引き続き祈祷を続けるよう命じられています。
 周辺の庄屋たちの依頼による祈祷活動を年表化しておきます。
文政3(1830)年「稲作虫指」のため「虫除五穀成就」の祈祷
文政7(1834)年 阿野郡北の大政所単独の祈願依頼。(要約)
青海村の政所嘉左衛間が白峯寺へきて、この秋以来雨天が続き、麦の作付けが困難になっているので、大・小政所が相談して、二夜三日の五穀成就の祈祷をお願いしたい。これに応えて、11月14日から16日に「修行」実施。15日には大・小政所と組頭8・9人が白峯寺へ参詣。
文政12(1839)年6月 阿野郡北の依頼で、「虫除五穀成就」の祈祷
PayPayフリマ|絶版 週刊原寸大日本の仏像12 神護寺 薬師如来と五大虚空蔵菩薩 国宝 薬師如来立像・日光菩薩立像・月光菩薩立像・五大虚空蔵菩薩
五大虚空蔵

最後に、どんな祈祷が行われていたのかを見ておくことにします。

先ほど見た1810年の史料には「通例通りの五大虚空蔵法を修行」
とありました。ここからは「虚空蔵求聞持法」を唱えながら護摩が焚かれたことが考えられます。しかし、これだけではよく分かりません。
文化五(1809)年6月の記録には、次のように記されています。
敷地書状政所へも届け申候、於頓証寺例之通り水天供執行荘厳等。前々之通り衆徒皆参 
初夜申刻ョリ             出座面々
    法印
一導師法印水天供          遊天
一衆徒助呪            義観
一一字ノ金ョリ吉慶讃三段ツ    有光
深賢 加行中

一十四日夜五ツ時少バラバラ雨降ル 真正
一廿七日、早てより終日日曇り五ツ時ホコリジメリニ降ル
一廿六日、香西植松武兵衛参詣〈西瓜大一酒二升/持参)
一廿七日西庄大政所参詣酒二升
一同日高屋政所来ル、初穂一メ
一廿八日晩方より日曇り夜九ツ時分より降出、翌十九日
終日大風雨二而、降雨廿八日栗原理兵衛、尾池彦太夫
二人同道二而参詣、右大風雨故、川越出来[  ]へ廿九日
滞留、翌晦日早て二帰ル
意訳変換しておくと
敷地書状を政所へも届け、頓証寺でいつものように水天供執行の荘厳を行う。 前例通りのメンバーが集まってくる 
初夜は申刻から祈祷が始まった。出座面々
    法印
一導師法印水天供          遊天
一衆徒助呪            義観
一一字ノ金ョリ吉慶讃三段ツ    有光
深賢 加行中

24日 夜五ツ頃 ぱらぱらと小雨が降る 真正
27日 晴天から終日曇りに変わり、五ツ頃から埃を湿らす程度に降ル
26日 香西の植松武兵衛参詣(西瓜大一つ 酒二升持参)
27日 西庄の大政所が参詣(酒二升持参)
 同日 高屋の政所も来る、初穂一〆
28日 晩方から曇り、夜九ツ時分から降り出す
29日 終日大風雨
右雨乞修行之届申
ここからは、祈祷が行われた場所や、白峯寺やその子院の住職が役割が分かります。実施場所については、私は善如龍王社の前で行われていたのかと推測していたのですが、そうではないようです。頓證寺を会場として荘厳したと記されています。頓證寺が白峰の公的な祈りの場であったことがうかがえます。
 面白いのは次の記録です。
26日 香西の植松武兵衛参詣(西瓜大一つ 酒二升持参)
27日 西庄の大政所が参詣(酒二升持参)
里の村々の有力者が、雨乞い祈祷を見守るために参詣しています。その際に、酒2升やスイカを持参しています。雨乞い成就の際には、それなりのお礼が行われます。そして、積もり積もって、土地寄進や灯籠などの寄進につながったようです。
翌年の文化6年も雨不足だったようで、雨乞い祈祷が次のように行われています。(要約)
5月14日晩方から雨乞修行を頓証寺に壇を設け荘厳して、修法水天供を始めた
一導師   院主増明法印
一助呪   義観房   自光房 善能房   深賢房
十四日の朝方にぽろぽろ降り始め、夜分にも少し降った。十五日には恒例の五穀祭りに、大小政所も参詣のためにやってきた。大政所の青海政所へ雨乞修行のことについて申聞させた。十五日の晩方から十六日朝まで大雨となった。そのため十六日朝には檀を撤去し、朝より法楽理趣三味となった。(後略)
ここからは、雨乞い祈祷が頓證寺の境内の中に壇を築いて、荘厳して行われたことが分かります。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「木原 溥幸 近世の白峯寺と地域社会 白峯寺調査報告書NO2 2013年 香川県教育委員会」

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      まんのう町諏訪神社の念仏踊り
                      念仏踊り(まんのう町諏訪神社)

  滝宮神社の神宮寺で、明治の廃仏毀釈運動で廃寺となった龍燈院の住職が代々書き記した『瀧宮念仏踊記録』の表紙裏には、次のように記されています。
「先代は当国十三郡より踊り来たり候処、近代は四郡而已に成り申し候」
「就中 慶安三年寅七月二十三日御重キ御高札も御立て遊ばされ候様承知奉り候」
意訳変換しておくと
かつては、念仏踊りは讃岐国内の13郡すべての郡が踊りを滝宮に奉納に来ていた。最近は4郡だけになってしまった。
高松藩の松平頼重が初代藩主として水戸からやってきて「中断」していた念仏踊りを西四郡のみで再興させた

滝宮念仏踊りは風流踊りで、もともとは雨乞い踊りではなかったようです。喜田家文書の坂本村念仏踊  (飯山町東坂元)には、次のように記されています。
 光孝天皇の代の仁和二年(886)正月十六日菅原道真が讃岐守となって讃岐に赴任し、翌三年讃岐の国中が大干害となった。田畑の耕作は勿論草木も枯れ、人民牛馬がたくさん死んだ。この時、道真公は城山に七日七夜断食して祈願したところ七月二十五日から二十七日まで三日雨が降った。国中の百姓はこれを喜んで滝宮の牛頭天王神前で悦び踊った。是を瀧宮踊りと言っている。

ここには雨乞い祈願をしたのは菅原道真で、その成就に感謝して百姓たちがお礼のために踊ったと記されています。奈良のなむて踊りも、もともとは盆に踊られた風流踊りで、それが雨乞い成就の際に感謝の気持ちを込めて踊られるようになったことは以前にお話ししました。滝宮念仏踊りも、中世の時宗の念仏踊りが風流化したもので、それが丸亀平野の各郷村で盆踊りとして踊られていたものと私は考えています。

那珂郡 讃岐国図 高松市歴史資料館
正保讃岐国絵図(高松市歴史資料館) 17世紀前半の那珂郡

 近世になって滝宮に奉納することを許されたのは、4つの組です。それは近世の村切りによって村が出現する前の荘郷エリアで編成されています。例えば、那珂郡の七箇村組は、満濃御料(天領)、丸亀藩領、高松藩領の三つの領の13ヶ村にまたがる踊組です。その村名を挙げると、真野・東七箇・西七箇・岸の上・塩入・吉野上下・小松庄四ケ村・佐文の13の村です。これは中世の小松・真野・吉野郷エリアにあたります。                         
まんのう町の郷
古代中世の荘郷

 七箇村踊組は、ただ滝宮で1回踊るだけではなかったようです。その前に、7月7日から盛夏の一ヶ月間に、構成員の各村の神社などを周り、60回近い踊興行を行い、最後に真野の諏訪神社でに奉納した後に滝宮牛頭神社での踊りとなるわけです。先ほどの諏訪神社の絵図も、その途上の「巡業」の時の様子が描かれたもののようです。 
  以上をまとめておくと次のようになります。
①中世の時宗念仏踊りが風流化し、丸亀平野の郷荘の盆踊りとして踊られるようになった。
②それが旱魃の際の雨乞いのお礼として、各郷で組織された集団が滝宮の牛頭天王神社(滝宮神社)に奉納された。
③近世になって一時的に中断していた踊りを、髙松藩初代藩主が復活させた。
④以後、事件などで中断期をはさみながら江戸時代末期まで奉納された。
⑤この念仏踊りは、中世の郷村時代に編成されたために、近世の村を越えたメンバーで編成されている。
⑥踊手や桟敷席などには宮座の存在が色濃く残っている。

私に分からないのは、どうして中世に「村」を越えて荘郷規模で組が編成されたのかという点です。
これについてヒントを提供してくれる本に出会いましたので、見ていくことにします。テキストは「榎原雅治 荘郷内における鎮守の機能  日本中世社会の構造 2000年」
日本中世地域社会の構造 (歴史科学叢書) | 榎原 雅治 |本 | 通販 | Amazon

中世の鎮守の機能について、研究者は次のように押さえています。
第一には、荘郷鎮守は百姓が五穀豊穣、現世安穏・後生善処を祈願する祈りの場でした。しかし、それだけではありません。荘郷内の平和を祈願する場所だからこそ、公的な場所でもありました。聖なる場所であり、公的空間でもある鎮守を掌握したものが支配者として正当性をもちえたともいえます。中世の武士団が地元の有力な寺社を保護したのも、支配を円滑にするには寺社を押さえ保護者であることをしめすことがポイントになることを、経験的に学んだ結果なのかも知れません。
第2に鎮守では、荘郷政所による検断(けんだん)が行われました。
 検断とは「検察」+「断獄」=「検断」で、不法行為)を検察してその不法をの罪を裁くことです。中世の検断は、鉄火取り、湯起請といった鎮守の場での神裁の形をとります。郷社の鎮守は神聖な裁きの場でもあったのです。
第3に、荘郷鎮守は荘郷内のメンバーの身分秩序会の確認の場でもありました。
鎮守の宮座が名主層によって独占されていて、百姓層はそこから排除されていたことや、新興の勢力が宮座に加入する場合には、右座・左座というように旧来からの座株所有者とは区別されていたことをみれば分かります。また寺社の棟札や梵鐘の銘文には、地頭・荘官以下、名主や百姓の名前がそれぞれの奉加額とともに記され、荘内の身分秩序が一目で分かるように示されています。家の格まで視覚的に表現されていました。毎年、繰り返される祭礼行事では、荘官以下の百姓たちの身分序列の確認の場でもあったのです。

次に、荘郷の寺社がネットワークを形成していく具体例を、近江国坂田郡(現長浜市)の長浜八幡神社で見ていきます。
神社ご朱印巡り7 「長濱八幡宮」(滋賀県長浜市) | sadahachi.com

長浜八幡宮は八幡庄の鎮守で、室町中期の永享年間に堂塔建立が行われています。永享7年(1435)の勧進猿楽の際の桟敷注文井奉加帳(史料B)と、永享11年(1429)の塔供養の際の奉加帳(史料C)が残されています。史料Bを見る前に、当時の猿楽の席次について「予習」しておくことにします。
長浜神社 糾瓦猿楽桟敷図
京都札河原勧進猿楽桟敷注文
寛正5年(1464)の京都札河原勧進猿楽桟敷注文およびその付図(図2)があります。そこには、猿楽は円形の舞台で演じられ、その周囲に見物桟敷が設けられています。桟敷の中心(真下)は「神之座敷」です。「御前」が「神之座敷」の前という意味です。これを中心に、向正面に向かって注文の記載順に座っていきます。御前の両隣に公方夫妻(足利義政・日野富子)が座り、次いで対面に向かって関白、門跡、管領、有力守護、奉公衆と、およその身分の序列に従って席が決められていたことが分かります。
長浜八幡宮の猿楽桟敷の舞台設営もこれと同じような席順であったのでしょう。上演の際の席次は、どうなっていたのでしょうか
長浜神社 猿楽桟敷

座敷注文の記載順を見ておきましょう。
文中に「御前ヨリ東」「御前ヨリ西」とあるので、桟敷の席次を意識した順のようです。そしてその順序は「次第不同」とされていますが、そうはいいながら注文の端から奥に向かって、荘官・殿原層から村へという、序列があることがうかがえます。
下に続く
長浜神社 猿楽桟敷2
この席順を模式図化すると下図のようになります。

長浜神社 猿楽桟敷概念図2

長浜八幡神社の猿楽桟敷の配置については、以下のようになります。
桟敷の中央に荘官・殿原層・荘郷鎮守の僧や神官
末席には名主層
桟敷と舞台の間の「地居」に桟敷に昇れない層
猿楽鑑賞の座が、地域の身分秩序を目に見える形で示す場になります。参加者にとっては、自分の席がどこにあり、前後はどうなっているのかは大きな意味を持ったことでしょう。それは、そのまま「家の格付け」を示す者でもあったことになります。
研究者は史料に出てくる次の字句に注目します。
史料Bの奉加帳部分に「八坂 八人中」
史料Cに「イコマ(生駒)ノ宮村人」
Bの八坂社は祗園保の鎮守で、生駒宮は平方庄の鎮守です。八坂社や生駒の宮の「村人」が長浜の八幡宮に寄進しています。「村人」ということばは、近江においては村民一般ではなく、宮座の構成員である「オトナ層」を指す用語のようです。奉加帳に「八坂八人中」「イコマノ宮村人」などの名前が見えるということは、 この地域の荘郷鎮守の関係が、単なる寺社と寺社の関係ではなく、オトナ層同士の宮座と宮座の連帯関係でもあったと研究者は考えています。
こうした荘郷鎮守の関係は、どのような役割を果たしていたのでしょうか。
 それは地域の身分秩序を確認する場として機能していたと研究者は指摘します。表2は史料Bの桟敷注文に見えるおもな人物を荘郷別、身分別にまとめたものです。
長浜神社 猿楽桟敷注文票

ここに出てくるメンバーを見ると、八幡庄を中心とした荘郷から荘官層、殿原層、名主百姓層がそれぞれに桟敷料を払って、このイベントに参加していたことが分かります。つまり、実際に猿楽が上演されるときには、次の二つの階層が桟敷の上で目に見える形で確認できることになります。
単独で見物席を確保できる荘官層、殿原層、
村単位でなければ確保できない名主百姓層
また、新興の者はこの場に座る座を確保することによって、自らの位置を可視的に地域社会に承認させることができるという仕掛けになっています。
これらの史料に出てくる寺社を地図に落としたのが図1です。
長浜神社 ネットワーク

ここからは長浜八幡宮や観音寺をはじめ福永庄の神照寺、山階庄の本国社など、この地域の荘郷鎮守を中心とした寺社の造営などに、周囲の荘郷から寄進が出されています。地域的な連帯関係があったことが見えてきます。中世の寺社は、単独で存在していたのではないということです。これらを結びつけていたのが修験者たちになるようですが、それについてはまた後ほどみることにします。
長浜 大原観音寺
大原観音寺

長浜の東方にある大原観音寺は、大原庄の鎮守的な寺院です。ここにも応永26年(1419)の本堂造作日記(史料D)が伝わていて、奉加者の名前が記されています。

長浜神社 史料D

史料Dには、大原庄内外の村々の「村人」が奉加者として名前があります。「村人」というのは、先ほども見たように荘郷内の支配層のことです。各荘郷の「村人」が寺社のネットを通じて、荘郷を超えた広い地域社会の中に現れて、認められていることになります。寺社のネットは、村内の身分序列を、荘郷を超えた地域社会で承認していく役割を果たしていたことになります。
 さらに重要なことは身分だけでなく、「村」の存在自体、寺社のネツトを通して地域社会の中で承認されるものだったというのです。
荘郷内に「村」が政治的・経済的な主体として登場してくるのは鎌倉末期のことです。これを承認する体制は、荘園公領制の中にはありません。新たに登場した室町期の守護も荘郷の枠組みを超えて「村」を領国支配体制の中に位置づけることはありませんでした。そのような中世社会の中にあって唯一「村」を承認するシステムが、寺社の地域的ネットだったと研究者は指摘します。荘郷鎮守の地域的ネットに認めてもらうことで、「村」は「村人」という内部の身分秩序とともに、地域的な承認を獲得していったと研究者は考えています。つまり、このような寺社ネットに登録されないと、他の荘郷から村としても、指導者としても認めてもらえることがなかったことになります。
少々荒っぽいですが、これを丸亀平野の那珂郡南部で起きていたことに当てはめると、次のようになります。
①那珂郡南部の真野郡は、真野の諏訪神社を荘郷神社としていた。
②小松・真野郷は各村からの宮座構成員の「村人」メンバーで、念仏踊りが組織され諏訪神社に奉納された。
③その際には、踊り手は宮座メンバーに限られていたので、踊りに参加する人たちは小松荘や真野郷の「村人(有力者)」を相互認知する機会となった。
④神社の境内に設置された桟敷席も、エリア指定の世襲制で宮座メンバー以外は建てることができなかった。桟敷席に座ると云うこと自体が、地域での階層位置を示すもので、「村」での権勢表示の場でもあった。
ここからは丸亀平野の荘郷のなかでも、「村 ― 荘郷 ― 地域」のネットワーク化が進んでいたこと、そして、村内の身分秩序や村自体の存在が荘郷を超えた広い地域の中で公認されていく様子が見えてきます。その場が荘郷の鎮守であり、そこで踊られる念仏踊りであったことになります。そして、荘郷鎮守の地域的な関係とは、寺社の相互扶助によって成り立っていたようです。
  真野郡の諏訪神社は、滝宮の牛頭天王社と、近江八幡社の近隣寺社と同じように修験道関係者を通じた相互扶助関係があったことがうかがえます。それだけの勢力を牛頭天王社別当寺の龍燈寺に集まる修験者たちは持っていたことになります。

 中世の名主層の世界観は、次のようなものだったと研究者は考えています。
地域的な秩序を維持するためには、荘郷鎮守の維持が必要である。荘郷鎮守を維持するためには村内の身分秩序を維持することが必要だ。逆にいえば、荘郷鎮守を維持することは、その荘郷のみにとって意味をもつものではなく、地域全体の秩序を保つための義務なのである。この地域に対する義務を果たすことによって、荘郷内の宮座運営の体制、すなわち荘郷内の身分秩序は、地域社会の中で認められているのだ

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
     「榎原雅治 荘郷内における鎮守の機能  日本中世社会の構造 2000年」
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   佐文5
        高瀬町の上栂 金刀比羅宮のある象頭山の裏側にあたる                
高瀬町の上栂には、次のような雨乞いおどりの話が伝わっています。
江戸時代の話です。東山天皇の御代に、京都に七条実秀という人がおりました。七条実秀(さねひで)の綾子姫は、小さいころから美しくかしこい女性でした。ところが、あるとき、どんなことがあったのかわかりませんが、おしかりを受けて、讃岐の国へ送られることになりました。当時、女の人の一人旅はなにかと不自由がありましたから、姫のお世話をするために沖船という人が付きそってきました。
瀬戸内海を渡る途中、船があらしにあいました。綾子姫は、船の中で
お助けください、金刀比羅様。無事に港へ着きますように。たくさんの人が乗っています。
お助けください、金刀比羅様
と、一心においのりをしました。
金刀比羅様は海の神さまです。船は無事に港へ着くことができました。綾子姫はたいへん感謝して、金刀比羅宮へ行き、ていねいにお礼参りをしました。
その後、綾子姫は、金刀比羅様の近くに住みたいと思い、象頭山の西側の上栂の土地に家を定めました。沖船さんは少し坂を下った所にある東善の集落に住むことになりました。

綾子姫と沖船さんがこの地に住むようになってから何年かたちました。
ある年、たいへんな日照りがありました。何日も何日も雨がふらず、カラカラにかわいて、田んぼに入れる水がなくなり、農家の人たちはたいへん困りました。農家の人たちは、なんとか雨が降らないかと神に祈ったり、山で火を焚いたりしましたが、ききめはありませんでした。この様子に心をいためられた綾子姫は、沖船さんを呼んでこう言いました。
なんとか雨がふるように雨乞いをしたいと思うのです。
あなたは京の都にいたときに雨乞いおどりを見たことがあるでしょう。思い出しておくれ。そして、わたしに教えておくれ」

   わかりました。やってみます」

沖船さんは家に帰るとすぐ、紙とふでを出して、雨乞いの歌とおどりを思い出しながら書きつけました。思い出しては書き、思い出しては書き、何日もかかりました。どうしても思い出せないところは自分で考え出して、とうとう全部できあがりました
綾子姫は、沖船さんが書いてきたものに自分の工夫を加えて、歌とおどりが完成しました。二人は、喜びあって、さっそく歌とおどりの練習をしました。それから、雨乞いの準備に取りかかりました。

準備ができた日、綾子姫と沖船さんは、農家の人たちに伝えました。

あすの朝早く、村の空き地へ集まってください。雨を降らせるおいのりをするのです

次の朝早く、村の空き地で、綾子姫と沖船さんは、みのと笠をつけて、歌いおどりながら、雨を降らせてくださいと天に向かって一心にいのりました。家の人たちも、雨が降ることをいのりながら、いっしょにおどりました
すると、ほんとうに雨が降り始めました。にわか雨です。農家の人たちおどりあがって喜びました。そして、二人に深く感謝しました。
その後、綾子姫も沖船さんも、つつましく過ごして、 一生を終えたたいうことです。

 ふたりのことは年月とともにだんだん忘れられていきました。
このときの雨乞いの歌とおどりも、行われることがなくなりました。
ふたりのことが忘れられかけたあるとき、東善の人びとは沖船さんをしたって沖船神社を建てました。昔は東善にありましたが、今は麻部神社の中へ移されています。綾子姫のことも忘れないようにと、石に刻まれて、上栂の墓所に建てられています。

 この昔話には、高瀬町の上栂で「綾子踊り」が踊られたことが伝えられています。
① 時代は東山天皇の時代(1675年10月21日 - 1710年1月16日)で、17世紀後半の元禄年間にあたります。
② 綾子踊りを伝えたのは、七条実秀(さねひで)の娘・綾子姫ということになっています。七条家は藤原北家水無瀬流の公家で、江戸時代の石高は200石です。
③ 綾子姫が讃岐に流刑になり、船で向かう途中に嵐にあって金毘羅神に救われたとされます。金毘羅信仰が海難救助と結びつくのは19世紀になってからですから、この話の成立もこのあたりのことだったのでしょう。
④ 旱魃が続いたときに「農家の人たちは、なんとか雨が降らないかと神に祈ったり、山で火を焚いたりしましたが、ききめはありませんでした」とあります。
 ④からは、すでにいろいろな雨乞祈願がされていたことがうかがえます。
5善通寺
          善通寺東院境内の善女龍王社 
高瀬地方で「雨乞いのために神に祈ること」は、高瀬町の威徳院や地蔵寺で行われていた「善女龍王信仰」が考えられます。山で火を焚くことは、山伏たちの祈祷でしょう。それでも効き目がなかったので、綾子姫は「京の雨乞い踊り」の上栂への導入を思い立つのです。
その制作過程を、次のように記しています。
 
 「雨乞いの歌とおどりを思い出しながら書きつけました。思い出しては書き、思い出しては書き、何日もかかりました。どうしても思い出せないところは自分で考え出して、とうとう全部できあがりました」
 
ここからは、当時の畿内で踊られていた「雨乞い踊り」が導入されたことがうかがえます。さてそれでは、当時の畿内で踊られていた「雨乞い踊り」とは、どんなものだったのでしょうか。

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        なむて踊りの絵馬(奈良県高取町 小島神社)

これについては奈良で踊られた「なむて踊り」を紹介したときに、お話ししました。ここでは、百姓たちが雨を降らせるために踊ったのではなく、雨を降らせた神様へのお礼のために踊っていました。言うなれば「雨乞い踊り」ではなく「雨乞い成就感謝」のための踊りだったのです。
 雨乞いは山伏や寺院の僧侶など、特別な霊力をつけた人が行うものです。当時の人たちにとって、霊力のない普通の百姓が雨を降らせるなどというのは、恐れ多い考えでした。滝宮念仏踊りの由来にも、「菅原道真が祈願して雨が降ったので、そのお礼に百姓たちが念仏踊りを踊った」と記されています。ここからも雨乞いのために踊られたという「綾子踊り」は、江戸時代の終わりになって登場したものであることがうかがえます。
5善通寺22
佐文の綾子踊り

 綾子姫が踊った踊りも、当時の畿内で踊られていた雨乞い成就のりを踊りをアレンジしたもののようです。それでは、畿内の百姓たちは雨乞い成就の時には、どんな踊りを踊っていたのでしょうか。それが当時の盆踊りなどで踊られていた風流踊りと研究者は考えています。 佐文に伝わる綾子踊りの歌詞を見ても、雨乞いを祈るようなフレーズはどこにもありません。そこにあるのは、当時の百姓たちの間で歌われ、踊られていた風流踊りなのです。

 以上から分かることは、
①綾子踊りの起源は18世紀末から19世紀にかけてのものであること。
②綾子踊り以前に、すでに「善女龍王信仰」などの雨乞祈願の行事が行われていたこと
③先行する雨乞行事があるにもかかわらず、あらたな百姓主導の雨乞い踊りが導入されたこと
④そして、それは時宗念仏系の踊りではなく、近畿で流行っていた風流系のものあったこと。

以前に紹介したように高瀬町史には、大水上神社(二宮神社)に「エシマ踊り」という風流系の雨乞い踊りが伝わっていたことが記されています。これが上栂の綾子踊りの原型ではないかと私は推測します。しかし、上栂には綾子踊りを伝えるのは昔話だけで、史料も痕跡も何もありません。
 佐文の綾子踊りが国指定の無形文化財に指定されるのに刺激されて建てられた碑文があるだけです。この碑文の前に立って、いろいろなことを考えています。

前回には、次のようなことを見てきました
①中世讃岐では高野の念仏聖たちのプロデュースで、念仏踊りが広く踊られるようになっていたこと。
②これは、庶民の芸能活動のひとつであり、当初は雨乞いとの関連姓はなかったこと。
③それが雨乞いの「満願成就のお礼」として、菅原道真の雨乞祈願伝説の中心地となった滝宮神社に奉納されるようになったこと。
  今回は、念仏踊りがどのようにして、各郷村で組織されていたのかを見ていくことにします。
 滝宮神社の神宮寺で、明治の廃仏毀釈運動で廃寺となった龍燈院の住職が代々書き記した『瀧宮念仏踊記録』の表紙裏には、次のように記されています。
「先代は当国十三郡より踊り来たり候処、近代は西四郡而已に成り申し候」
「就中 慶安三年寅七月二十三日御重キ御高札も御立て遊ばされ候様承知奉り候」
意訳変換しておくと
かつては、讃岐国内の13郡すべての郡が念仏踊りを滝宮に奉納に来ていた、ところが近年は西4郡だけになってしまった。そこで寅7月23日に、押さえのための高札をお立てなされるように承知いたした

 ここには大幅な省略があるので補足しておくと、もともと讃岐国13郡全てのから奉納されていたが、近年は中断されていた。それを松平頼重が初代髙松藩主としてやってきて、慶安三(1650)年に西四郡のみで再興させたというのです。西とついているのは、高松藩領の西部という意味でしょう。ですから、四郡は 阿野郡の南と北、那珂郡、多度郡ということになるようです。
 前回にお話ししたように、当時の念仏踊りは雨乞い踊りではなく、風流踊りと人々は考えていたので大イヴェント行事で、大勢の人が集まります。そのため喧嘩などを禁ずる高札を掲げることで騒ぎを防止したようです。

滝宮念仏踊り1

その時に、滝宮神社に立てられた高札には次のように記されていたようです。
      滝宮念仏踊の節 御制札左の通
一 於当社 会式之場意趣切喧晩無願仕者在之者 不純理非双方可為曲事・縦雖為敵討無断者可為  越度事附闘落之者見出候共其主人届出会式過重而以い断可相済事
一 於当社・桟敷取候義堅停止事 次鳥居之外而辻踊同寿満別之事
一 宮林竹木不可伐採一併作毛之場江 牛馬放入間敷事
      慶安元子年七月廿三日
意訳変換しておくと
      滝宮念仏踊の節  御制札左の通
一 滝宮神社における念仏踊り会場においては、喧嘩やもめ事などの騒動は厳禁する。たとえ敵討ちであろうとも許可なく無断で行ったものについては、その主人も含めて処罰する。
一 当社においての見物用の桟敷場設置は堅く禁止する 鳥居の外での辻踊や寿舞は別にすること
一 宮林の竹木は伐採禁止、また境内へ牛馬放入はしないこと
   慶安元子(1650)年7月廿三日
 この制札は、幕府よりの下知で、滝宮の念仏踊の日だけ立てられたものです。内容の書き換えについては、その都度、幕府・寺社奉行の許可が必要でした。正保元申年・慶安元子年・寛文三卯年に書き換えられたことが、取遺留に特記されています。

こうして、回が重ねられ、順年毎の出演する組や、演ずる順番が固定し、安定した状態で念仏踊りが行われるようになったのは、享保三年(1717)頃からになるようです。

滝宮に躍り込んでくる念仏踊りは、どんな単位で構成されていたのでしょうか?

滝宮念仏踊り3 坂本組

『瀧宮念仏踊記録』は坂本念仏踊りについて、次のように記します。
坂本郷踊りも七十年計り以前までは上法軍寺・下法軍寺の二村が加わっており、合計十二ヶ村で踊りを勤めていた。ところが、黒合印幟が出来て、それを立てる役に当たっていた上法軍寺二下法軍寺の二村の者が滝宮神社境内で間違えた場所に立てたため坂本郷の者共と口論になり、結局上法軍寺・下法軍寺の二村が脱退して十ケ村で勤めることとなった。このことで踊り・人数で支障が出るのではと尋ねてみたが、坂本郷の方では十ケ村で相違ないように勤めるからと答えたこともあって、今日(寛政三年)まで坂本郷十ヶ村で勤めてきている

 坂本郷十ヶ村というのは、どういう村々でしょうか?
  東坂元・西坂元・川原・真時・東小川・西小川・東二村・西二村・東川津・西川津

 この村々について、『瀧宮念仏踊記録』は、次のように記します
「坂本郷は以前は一郷であったが、その後東坂本・西坂本・川原・真時と分けられ、他の六ヶ村は、前々から付村 (枝村)であった」

これは誤った認識です。和名抄で鵜足郡を見てみると、小川郷・二村郷・川津郷は当初からあった郷名であることが分かります。
和名抄 讃岐西部

坂本念仏踊りは「鵜足郡念仏踊り」と呼んだ方がよさそうです。どちらにしても、もともとは近世の「村」単位ではなく、郷単位で構成されていたこと分かります。具体的には、坂本郷・小川郷・二村郷・川津郷の中世の郷村連合によって構成されたものと云えそうです。
讃岐郷名 丸亀平野
坂本念仏踊りを構成する郷エリア
 滝宮へ踊り入る年(4年に一度)は、毎年7月朔日に東坂本・西坂本・川原・真時の四ヶ村が順番を決めて、十ヶ村の大寄合を行って、踊り役人などを決めていたようです。その数は300人を越える大編成です。編成表については以前に紹介したので省略します。
川津・二村郷地図
滝宮神社に躍り込んだのではありません。次のようなスケジュールで各村の鎮守にも奉納しています。
一日目 坂元亀山神社 → 川津春日神社 → 川原日吉神社 →真時下坂神社
二日目 滝宮神社 → 滝宮天満宮 → 西坂元坂元神社 → 東二村飯神社
三日目 八幡神社 → 西小川居付神社 → 中宮神社 → 川西春日神社
那珂郡郷名
那珂郡の郷名
もうひとつ記録の残る七箇村念仏踊りを見ておきましょう。
 滝宮に奉納することを許された4つの組の内、七箇村組も、満濃御料(天領)、丸亀藩領、高松藩領の、三つの領にまたがる大編成の踊組でした。その村名を挙げると、次の13の村です。

真野・東七箇・西七箇・岸の上・塩入・吉野上下・小松庄四ケ村・佐文

これも郷単位で見ると、吉野・真野・小松の3郷連合組になります。

次の表は、文政十二(1829)年に、岸上村(まんのう町)の庄屋・奈良亮助が念仏踊七箇村組の総触頭を勤めた時に書き残した「諸道具諸役人割」を表にしたものです。
滝宮念仏踊諸役人定入目割符指引帳

 総勢が2百人を越える大スッタフで構成されたいたことが分かります。そして、スタッフを出す村々は次の通りです。
高松藩 真野村・東七ヶ村・岸上村・吉野上下村
丸亀藩 西七ヶ村・塩入村・佐文村
天 領  小松庄4ケ村(榎井・五条・苗田・西山)
どうして、藩を超えた編成ができたのでしょうか。
それは讃岐が、丸亀藩と髙松藩に分けられる以前から、この踊りが3つの郷で踊られていたからでしょう。滝宮に躍り込んでいた念仏踊りは、中世の郷村に基盤があったことがここからもうかがえます。

踊りが奉納されていた各村の神社と、そこでの踊りの回数も、次のように記されています。
七月十六日 満濃池の宮五庭
七月十八日 七箇春日宮五庭、新目村之官五庭
七月廿一日 五条大井宮五庭、古野上村営七庭
七月廿二日 十郷買田宮七庭
七月二十三日 岸上久保宮七庭、真野宮九庭、
       吉野下村官三庭、榎井興泉寺三庭
              右寛保二戌年七月廿一日記
満濃池遊鶴(1845年)
満濃池の堰堤の右の丘の上に鎮座するのが池の宮
7月16日の 満濃池の宮とは、後の神野神社のことで、この頃は現在の堰堤南付近にありました。今は池に沈んでしまったので、現在地に移っています。

DSC03770満濃池ウテメ
池の宮の拡大図

「7月18日の七箇春日宮五庭、新目村之官五庭」とあるのは、西七箇村(旧仲南町)の春日と新目の神社です。全部の村社に奉納することは出来ないので。その年によって、奉納する神社を換えていたようです。それでも2百人を越える大部隊が、暑い夏に歩いて移動して奉納するのは大変だったでしょう。
文久二(1862)年の時には、榎井の興泉寺と、金毘羅山を終えて、岸上村の久保宮で踊り、最後に真野村の諏訪神社で九庭踊って、その年の踊奉納を終了することになっていたようです。ここからは真野村の諏訪神社がこの組の中核神社であったことがうかがえます。
 それぞれの宮での、踊る回数が違うのに注目して下さい。「真野宮九庭」とあります。数が多いほど重要度が高い神社だったことがうかがえます。また、「下知」を出しているのも真野村です。後にも述べますが、このメンバーは宮座構成員で世襲制です。村の有力者だけが、この踊りのメンバーになれたのです。

 七箇村踊組は7月7日から盛夏の一ヶ月間に、各村の神社などを周り、踊興行を行い、最後が滝宮牛頭神社での踊りとなるわけです。
その時の真野村の諏訪神社の「巡業」の時の様子を描いたものが次の絵図です。
滝宮念仏踊 那珂郡南組

 この絵図については以前にお話ししたので、ここでは踊りの廻りに設置されている見物桟敷小屋だけを見ておきましょう。これについては、以前に次のように記しました。
①風流化した念仏踊り奉納の際に、境内に桟敷席が設けられて、所有者の名前が記されていること。
②彼らは、村の有力者で、宮座の権利として世襲さしていたこと
③桟敷小屋には、間口の広さに違いがあり、家の家格とリンクしていたこと。
④後には、これが売買の対象にもなっていたこと。
 この特権が何に由来するかと言えば、中世の宮座のつながるものなのでしょう。このようにレイアウトされた桟敷席に囲まれた空間で踊られたのが風流化した念仏踊りなのです。ここからも、この念仏踊りが雨乞い踊りではなく風流踊りであったことがうかがえます。

IMG_1387
佐文綾子踊り 
これも風流踊りが雨乞い踊りとして踊られるようになったもの

念仏踊りが風流化して、郷社で踊られるようになるまでの過程を見ておきましょう
    中世も時代が進むと、国衛や荘園領主の支配権は弱体化します。それに反比例するように台頭するのが、「自治」を標榜する惣郷(そうごう)組織です。惣郷(そうごう)は、寄合で構成員の総意によって事を決します。惣郷が権門社寺の支配を排除するということは、同時に惣郷自らが、田畑の耕作についての一切の責任を負うということです。つまり灌漑・水利はもとより、祈雨・止雨の祈願に至るまでの全ての行為を含みます。荘園制の時代には、検注帳に仏神田として書き上げられ、免田とされていた祭礼に関する費用も、惣郷民自身が捻出しなければならなくなります。雨乞いも国家頼みや他人頼みではやっていられなくなります。自分たちが組織しなくてはならない立場になったのです。この際の核となる機能を果たしたのが宮座です。
IMG_1379

 中世期の郷村には「宮座」と呼ぶ祭祀組織が姿を現します。
各村々に、村の鎮守が現れるようになるのは近世になってからです。 
各郷の鎮守社で、春秋に祭礼が行われていました。そこでは共通の神である先祖神を勧請し、祈願と感謝と饗応が、地域の正式構成員(基本的には土地持ち百姓)によって行なわれました。また同時に、神社境内に設けられた長床では、宮座構成員の内オトナ衆による共同体運営の会議が開催されます。宮座構成員は、各地域の有力者で構成されます。彼らが念仏踊りの担い手(出演者)でもあったのです。   
宮座 日根野荘
            日根野荘の宮座

近世初頭の「村切り」によって、小松郷や真野郷は分割され、多くの村ができました。

それでも「村切り」の後も、かつて同じ郷村を形成していた村々の結びつきは、簡単にはなくなりません。しかし、一方で「村切り」によって、年貢は村ごとに徴収されるようになります。次第に、村それぞれがひとつの共同体として機能するようになります。また、直接に村が領主と対峙するようになると、次第に村としての共同意識が生まれ育っていきます。そして各々の村は、新たに神社を勧請したり、村域内にある神社を村の結集の軸として崇めるようになります。「村切り」後の村は、結集の核として新たな村の神社を作り出すことになります。つまり、「村氏神(村社)」の登場です。
 こうして、村人たちは2つの神社の氏子になります、
①中世以来の荘郷氏神(真野の諏訪神社や、小松荘の大井神社?)
②「村切り」以降に生まれた「村氏神」
 例えば、綾子踊りの里の佐文村は、中世以来の郷社である小松郷の大井神社の氏子であり、あらたに村切り後に生まれた佐文村の鴨神社の氏子でもあることになります。氏子の心の中では、二つの神社の綱引きが行われることになります。
 新しく登場した村の神社は、宮座はありません。
村の百姓たちに開かれた開放制です。そこで新たに採用される祭礼も、原則全員です。祭礼行事には、後には「獅子舞」が採用されます。これは、各組で獅子を準備さえすれば後発組でも参加できます。宮座制のような排他性はありません。
 宮座祭祀の郷社では、従来の有力者が、宮座のメンバーを独占し、祭祀を独占していたことは先ほど見てきました。ところが新たに作られた村社では、開放性メンバーの下で獅子舞が採用されたと私は考えています。
   人々は郷社のまつりと、村社の祭りのどちらを支持したのでしょうか。
これは地元の村氏神ではないでしょうか。これを加速するような出来事が起きます。それが讃岐の東西分割と金毘羅領や天領の出現です。
生駒騒動で生駒藩が取りつぶしになった後に、讃岐は高松藩と丸亀藩の東西に分割されます。この境界が旧仲南町の佐文や買田との間に引かれます。その上に、小松庄は、金毘羅大権現を祀る松尾寺金光院の寺領と、満濃池御料として天領に組み込まれます。つまり、念仏踊りの構成員エリアが丸亀藩と高松藩と金毘羅寺領と天領の4つに分割されることになったのです。これは地域の一体感を奪うことになりました。こうして時代を経るに従って、それまでの荘郷氏神との関係は薄れていくことになります。かつての郷社での念仏踊りよりも、地元の村社での獅子舞重視です。
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「讃岐国名勝図会』に描かれた水主神社の獅子頭

 それでも念仏踊りは松平頼重のお声掛かりで滝宮神社への定期的な奉納が決められていたこと、また、宮座で役割が世襲制で、これに参加できることは名誉なこととされてもいたこと、などから中止されることはなかったようです。しかし、異なる藩や天領・寺領などからなる構成員をまとめていくことはなかなか大変で、不協和音を奏でながらの運営であったことは以前にお話ししました。
以上を前回のものと一緒にしてまとめておきます。
①中世の讃岐では、高野の念仏聖たちのプロデュースで、念仏踊りが広く踊られるようになっていたこと。
②念仏踊りは、宮座によって、郷社の祭礼や盂蘭盆会に奉納されるようになったこと
③これは、庶民の芸能活動のひとつであり、当初は雨乞いとの関連姓はなかったこと。
④それが菅原道真の雨乞祈願伝説の中心地となった滝宮神社に奉納されるようになったこと。
⑤江戸時代に復活され際には、盆踊りでは大義名分に欠けるので雨乞への「満願成就のお礼」とされ、それがいつの間にか「雨乞踊り」とされるようになったこと。
⑥各踊り組は、かつての中世郷村が、近世に「村切り」で生まれた村の連合体であった。
⑦そのため各村にも「村氏神」が生まれたので、ここに奉納した後に滝宮へ躍り込むというスタイルがとられた。
⑧踊組のメンバーは中世以来の宮座制で、あったために役割は世襲化され、一般農民が参加することは出来なかった。
⑨そのため時代が下るにつれて「村氏神」の重要度が高まるにつれて、念仏踊組は機能しなくなる。
 それは「村氏神」に獅子舞が登場する時期と重なり合う。宮座制のない獅子舞が、祭礼行事の中核を占めるようになっていき、風流踊りの念仏踊りも地域では踊られることがなくなっていった。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
    「山路興造 中世芸能の底流  中世後期の郷村と雨乞 風流踊りの土壌」

念仏踊り 八坂神社と下坂神社 : おじょもの山のぼり ohara98jp@gmail.com

  滝宮念仏踊りのひとつに坂本村念仏踊り(丸亀市飯山町)があります。
旧東坂本村の喜田家には、高松藩からの由来の問い合わせに応じて答えた坂本念仏踊りに関する資料が残っています。そこには起源を次のように記します。
喜田家文書の坂本村念仏踊  (飯山町東坂元)
 光孝天皇の代の仁和二年(886)正月十六日菅原道真が讃岐守となって讃岐に赴任し、翌三年讃岐の国中が大干害となった。田畑の耕作は勿論草木も枯れ、人民牛馬がたくさん死んだ。この時、道真公は城山に7日7夜断食して祈願したところ7月25日から27日まで三日雨が降った。国中の百姓はこれを喜んで滝宮の牛頭天王神前で悦び踊った。是を瀧宮踊りと言っている。
滝宮神社・龍燈院
滝宮神社(牛頭天皇社)と別当寺龍燈院(金毘羅参詣名所図会)

ここには菅原道真が雨乞いを祈願して、雨が降ったので百姓たちは、悦び踊ったとあります。注意して欲しいのは、雨乞いのために踊ったとは書かれていないことです。また、法然も出てきません。江戸時代の前半には、踊り手たちの意識の中には、自分たちが躍っているのは、雨乞い踊りだという自覚がなかったことがうかがえます。それでは何のために踊ったのかというと、「菅原道真の祈願で三日雨が降った。これを喜んで滝宮の牛頭天王神前(滝宮神社:滝宮天満宮ではない)で悦び踊った」というのです。もうひとつ文書を見ておきましょう。
滝宮念仏踊り3 坂本組

嘉永六(1852)年の七箇村念仏踊り(現まんのう町・琴平町)に関する史料です
 この年の七箇村念仏踊は、真野村庄屋の三原谷蔵が総触頭として、先例通りに7月7日に真野不動堂で寄合を行い、17日に満濃池の池の宮で笠揃踊を行い、その後に各村の神社で踊興行を行って、25日に滝宮に躍り込む予定で進められていました。ところが17日に池の宮で笠揃踊を行った時、西領(丸亀藩)側の村々から次のような申し入れがでます。
  先達而から照続候二付、村々用水差支甚ダ困り入申候二付、25日滝宮相踊リ、其内降雨も有之候バ同所二而御相談申度候間、先25日迄外宮々延引致候事」。

意訳変換しておくと
 春先から日照りが続き、村々の用水に差し障りがでて、水の確保に追われ困っている。ついては、25日の滝宮相踊までには、雨も降るかも知れないが雨がないときには、各村の神社での踊興行を延期したい

 簡単に言うと、旱魃で大変なので念仏踊りは雨が降るまで延期したいという申し入れです。最初に、これを呼んだときには私の頭の中は「?」で一杯になりました。「滝宮念仏踊りは、雨乞いのために踊られるもの」と思い込んでいたからです。ところが、この史料を見る限り、当時の農民たちは、そうは思っていなかったことが分かります。「雨が降るまで、念仏踊りは延期」というのですから。
 この西領側からの申し入れは、17日の池の宮の笠揃踊で関係者一同に了承されています。日照り続きで雨乞いが最も必要な時に、宮々の踊興行を延期したのです。ここからは関係者の間には、雨乞いのための念仏踊であるという意識はなかったことが分かります。
  それでは念仏踊りは何のために踊られていたのでしょうか?
  念仏踊りに用いられる団扇を見てみましょう。団扇が風流化した踊念仏で主役として使用されます。滝宮神社の「念仏踊」にも下知が役大団扇を振って踊念仏の拍子をとります。その団扇の表裏に「願成就」と「南無阿弥陀仏」の文字が書かれています。ここでは「願成就」となっています。「雨乞成就」ということなのでしょうか?
近畿の雨乞い踊りを見てみましょう。

石上神社

以前にお話した奈良の布留郷の郷民たちの雨乞いを、見ておきましょう。
 日照りが続くと布留郷の郷民代表と布留神社の爾宜が、竜王山の山中に鎮座する竜王社まで登り、素麺50把と酒一斗二升を供え、雨を祈願します。これが適えられれば、郷中総出でオドリを奉納することを神に約束します。ここではオドリは「満願成就のお礼」として踊られていたことが分かります。このオドリを「南無手踊り」と呼んでいました。名前からして念仏踊りの系譜を引くものあることがうかがえます。
ヲドリの具体的様子は、文政頃に成立した『高取藩風俗間状答』に、次のように記されています。
南無手(なむて)踊は旱魃の時に、雨乞立願の御礼に踊るので願満踊とも云う。高取城下で行われる時には、行列や会場に天狗の面や鬼の面をかぶり棒をついた警固人が先頭に立って出て、群集を払い整理する。その次に早馬と呼ばれる踊り子が小太鼓を持ち唐子衣装花笠で続く。その次は中踊と呼ばれる集団で、色々の染帷子・花笠を着け、音頭取は華笠・染帷子やしてを持ち、所々に分かれて拍子をとる。頭太鼓は唐子装束、花笠踊の内側に赤熊を被ることもあり、太鼓に合せて踊る。それに法螺貝・横笛・叩鐘が調子を合す。押には腹に大鼓を抱え、背中には御幣を負う。踊は壱番より五番までで、手をかへながら踊り、村毎に少しづつ変化させている。一村毎に分て踊る

とあり、村ごとで少しずつ踊り方を換えていたことがうかがえます。雨乞成就のためのものですから、このヲドリは江戸時代を通じて何回も踊られています。
布留3HPTIMAGE
なむて踊りの絵馬

文政十年(1827)8月の様子を「布留社中踊二付両村引分ヶ之覚」(東井戸帝村文書)は、次のように記します。

この時は布留郷全体の村々が、24組に分けられていた。東井戸堂村・西井戸堂村合同による一組の諸役は、大鼓打四人、早馬五人、はやし二人、かんこ五人、団踊一〇人、捧ふり二人、けいご一〇人、鉦かき二人、大鼓持三人の、計四二人になる。

1組で42人のセットが24組集まったとすると、郷全体では千人以上の規模の催しであったことが分かります。踊りのスタイルを見ると、腹に大鼓を付け、背に美しく飾った神籠を負つた太鼓打も出てきます。しかし踊りの中心は、大太鼓(頭大鼓)を中心に据えて、その周囲を唐子姿の者が廻り打ちをするという芸態で、歌の数もそれほど多くはないようです。

日根荘の移りかわり | 和泉の国(泉州)日根野荘園 | 中世・日根野荘園-泉州の郷土史再発見!

もうひとつ和泉国日根野荘の郷民による雨乞を見ておきましょう。
公家の九条政基は、戦乱を避けて自分の所領である和泉国日根野荘(現大坂府泉佐野市)に「亡命」します。ここには修験の寺である犬鳴山七宝滝寺がありました。そこで見た雨乞いの様子が、彼の日記『政基公旅引付」の文亀元年(1501)七月二十日条に、次のように記されています。
①滝宮(現火走神社)で、七宝滝寺の僧が読経を行う
②効果のない場合は、山中の七宝滝寺に赴いて読経を行なう
③次には近くの不動明王堂で祈祷する
④次の方法が池への不浄物の投人で、鹿の骨が投げ込まれた
⑤それでも験のない場合は、四ヵ村の地下衆が沙汰する
ここでも雨乞いに、民衆が踊る念仏踊りは出てきません。
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日根野庄の滝宮(現火走神社)
出てくるのは、雨が降った後のお礼です。
 降雨に対し入山田村では、祈願成就に対する御礼を行なっています。それが地区単位で行われた「風流」なのです。ここでも「踊り」は祈雨のためにではなく、祈願成就の御礼のために行なうものであったようです。
 本来的には祈願が成就したあとに時間を充分にかけて準備し、神に奉納するのが雨乞踊りの基本だったと云うのです。 ここでもうひとつ注目しておきたいことは、この踊りが村人たちの手で踊られていることです。それまで芸能といえば、郷村の祭礼における猿楽者の翁舞のように、その専門家を呼んで演じられていました。ところがこの時期を境に、一般の民衆自らが演じるようになります。
宮座 日根野荘
日根野荘の宮座

その背景を、研究者は次のように指摘します。
①が郷村における共同体の自治的結束と、それによる彼らの経済力の向上。
②新仏教の仏教的法悦の境地を得るために、高野の念仏聖たちが民衆の間に流布させた「躍り念仏」の流行
③人の目を驚かせる趣向を競う「風流」という美意識が台頭
そしてなにより「惣郷の自治」のために、当事者意識を持って祭礼に参加するようになっていることが大きいようです。このヲドリは、もともと雨乞のために創り出されたものではありません。念仏聖たちが村人たちに伝えたものです。それが先祖神を祀る孟蘭綸会の芸能として、また郷民の祀る社の祭礼芸能として、日頃から祭礼で踊られるようになっていました。それを郷民が、雨乞の御礼踊りに転用したと研究者は考えているようです。
 注意しなければならないのは「雨乞い」のための踊りではなかったことです。
考えて見れば、国家的な雨乞いは、空海のような真言の高僧が善女龍王に祈祷して雨を降らせるものです。民間の民雨いも、それなりの呪術力をもった山伏が行っていたのです。そこへただの村人が盆踊りで踊られている風流踊りや念仏踊りを、雨乞いのために踊っても民衆たちは効能があるとは思わなかったでしょう。念仏踊りは、雨乞い成就のお礼のために踊られたのです。

   ここには、滝宮念仏踊りとの共通点をいくつか拾い出せます。
①「村切り」前の郷エリアの郷社に奉納されている。
②布留郷全体の村々から踊りのチームが出されている
③雨乞い踊りではなく雨乞いの「満願成就のお礼」として踊るものだった。
滝宮念仏踊り2
 滝宮念仏踊り

このような視点でもう一度、滝宮念仏踊り見てみましょう
滝宮念仏踊りは雨乞い踊りである先入観を捨てると、何が見えてくるのでしょうか。考えられるのは次のような仮説です。
①中世の讃岐では高野の念仏聖や時宗聖たちによって、念仏信仰が広められ念仏踊りが広く踊られるようになっていた。これは、庶民の芸能活動のひとつであり、当初は雨乞いとの関連姓はなかった。
②高野念仏聖などのプロデュースで郷村の祭礼や盆踊りで、念仏踊りが踊られるようになる。
③それが日照りの際の「満願成就のお礼」として、郷社に奉納されるようになる。
④菅原道真の雨乞祈願伝説の中心地となった滝宮神社にも、各郷の念仏踊りが奉納されるようになる。
⑤戦国時代の混乱の中で、滝宮神社への躍り込みは中断する。
⑥これを復興したのが髙松藩初代藩主の松平頼重で、彼は近畿で踊られていた「南無手」踊りを知っていた上で、雨乞いのためという「大義名分」を前面に押し出し復興させた。
⑦こうして、中世の各郷村単位で編成された組が江戸時代を通じて、3年毎に滝宮神社に念仏踊りを奉納するようになる。
⑧滝宮の躍り込みの前には、各郷村の下部の村単位の神社にも奉納興行が行われ、そこには多くの見物人が押しかけた。
⑨踊り手などの構成員は、世襲制で宮座制に基づく運営が行われていた。
⑩奉納される神社にも、特権的な桟敷席が設けられ売買の対象となっていた。
一遍】ダンシング宗教レボリューション!一遍研究者の「踊り念仏」白熱教室:~国宝「一遍聖絵」をじっくり絵解き!時宗の名宝展がグッと面白くなる~#ky19b160  | 京都の住民がガイドする京都のミニツアー「まいまい京都」
一遍の踊り念仏

 つまり、滝宮念仏踊りのルーツは中世の踊り念仏にあるという説になります。
中世には高野の聖たちのほとんどが念仏聖化します。弥谷寺や多度津、大麻山などには念仏聖が定着し、周辺への布教活動を行っていたことは以前に見たとおりです。しかし、彼らの活動は忘れられ、その実績の上に法然伝説が接木されていきます。いちしか「念仏=法然」となり、讃岐の念仏踊りは、法然をルーツとする由来のものが多くなっています。
 これについて『新編香川叢書 民俗鎬』は次のように記します。
「承元元年(1207)二月、法然上人が那珂郡小松庄生福寺で、これを念仏踊として振り付けられたものという。しかし今の踊りは、むしろ一遍上人の踊躍念仏の面影を留めているのではないかと思われる」

念仏踊りのルーツは高野の念仏聖や時宗の躍動念仏だと研究者は考えているようです。
  また、⑧⑨⑩からは、念仏踊りがもともとは中世のムラの民俗芸能として、祭礼と結びついていたことを教えてくれます。讃岐の念仏踊りが、雨乞いと結びつけられるようになるのは、近世になってからだと私は考えています。
EDM-6 Buddhist bounceと踊り念仏 - みんなアホだね

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「山路興造 中世芸能の底流  中世後期の郷村と雨乞 風流踊りの土壌」

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  江戸時代の讃岐では、次の4つの系統の雨乞信仰が行われていたようです。
①善通寺など真言系寺院での善女龍王信仰
②村々を越えた念仏踊り系の滝宮念仏踊り
③山伏たちによる龍が住むという山や川渕での龍神信仰
④各村々での風流踊(盆踊り)が雨乞い踊りとして踊られる風流踊り系の雨乞い
今回は①の善女龍王の三野郡における拡大過程について見ていきたいと思います。テキストは、 「高瀬町史324P 高瀬町の雨乞」です。
2善女龍王 高野山
高野山の善女龍王図

善女(如)龍王については、以前に次のようにまとめておきました。
①空海が神泉苑で、善女龍王に祈雨し雨を降らせたという伝承がつくられた
②その結果、国家的な雨乞いは真言密教が独占し、場所は神泉苑、祈りの対象は善如(女)龍王とされるようになった
③善如龍王の姿は、もともとは小さな蛇とされていた
④それが12世紀半ばになると、高野山では唐風官人の男神として描かれるようになった
⑤醍醐寺が祈雨行事に参入するようになって、新たな祈雨神として清滝権現を創造した。
⑥醍醐寺は、清滝権現を善女龍王と二龍同体として売り出した。
⑦さらに、醍醐寺はふたつの龍王に「変成男子」の竜女も加えて同体視し流布させた
⑧その結果、それまでは男性とされたいた善如(女)龍王も清滝権現も女性化し、女性として描かれるようになった。

善女龍王
女性化した善女龍王

 善如龍王が善女龍王になったのは、醍醐寺の布教戦略があったようです。しかし、高野山では、その後も唐風官人の男神の「善女(如)龍王」が描かれています。こうして、国家による祈雨祈願は真言僧侶が善女龍王に対しておこなうという作法が出来上がります。これを受けて江戸時代になると、各藩主は真言寺院に祈雨祈願を命じることが多くなります。祈祷の際には、善女龍王に祈願するのでその姿を描いた絵図が必要になります。絵図を掲げて、その前で護摩が焚かれたのでしょう。そのため善女龍王信仰を行っていた寺には、その絵図や像が残されていることになります。
善女龍王 本山寺
本山寺の善女龍王像
国宝本堂を持つ本山寺には、県有形文化財に指定された善女龍王の木像が伝わっています。
  見て分かるのは女神ではなく男神です。先ほどお話したように、善女龍王の姿は歴史の中で次のように変化します。
①小蛇
②唐服官人の男神          (高野山系)
③清滝神と混淆して女神姿。 (醍醐寺系)
  ②の女神化を進めたのは醍醐寺の布教戦略の一環でした。そして、近世に登場してくる善女龍王は女神が一般的になります。ところが本山寺のものは、男神なのです。もうひとつの特徴は善女龍王の姿は、絵画に描かれるものばかりです。ここにあるのは木像で3Dなのです。木像善女龍王像は、全国でも非常に珍しいもののようです。
5善女龍王4j本山寺pg
本山寺の善女龍王像
 本山寺の善女龍王像を見ておきましょう。
①腰をひねり、唐服の両袖をひるがえして動きがある
②悟空のように飛雲(きんとんうん)に、乗っている。
③向かって左に、龍の尻尾が見える。
  この彫像は、高野山金剛峰寺蔵の定智筆本(久安元年1145)が描いたとされる善女龍王とよく似ているように見えます。
  研究者はこの善女龍王像を次のように評価しています。
 像容は、桧の寄木造であり眼は玉眼がん入である。光背は三方火焔付き輪光で、台座は、須弥座の上に岩座及び雲座を重ねてある。顔は青く長いひげをつけ、爪の長い左手には宝珠を持つ。服装の表面は全面に装飾があり、緑青・金泥で描かれた文様などによく彩色が残っている。
上に乗る本像の形姿は動勢が巧みに表現され、また載金、金泥盛上手法などを交えた入念な彩色などに小像ながら当代の彫像としては佳品として評価できる。像高47.5センチで製作年代については南北朝時代と思われる。
  研究者は14世紀の南北朝時代のものとします。そこまで遡れるのでしょうか。
善女龍王安置 本山寺鎮守堂
本山寺鎮守社
この善女龍王像が安置されていたのが鎮守堂です。
昭和の解体修理で、棟木・肘木から「天文十二年」 「天文十六年」の墨書がでてきました。ここからは、鎮守社が1543(天文十二年)年着手、1547(天文十六年)年の建立であることが明らかになりました。解体前は江戸時代のものとされていたのですが、室町時代末期の当初材を残す中世以来の伝統様式を踏まえた建築物なのです。その後、大修理が1714(正徳四年)年に実施きれたようです。
 香川県内の国・県指定の木造建造物は46棟あるそうですが、この守堂は9番目に古いことになります。善女龍王像は、この建物にずっと安置されてきたようです。
 とすると、善通寺で善女龍王が勧進されて雨乞祈願が行われるのは17世紀後半のことですから、それ以前に本山寺では善女龍王信仰がてあったことになります。私は善女龍王信仰の流れとして、高野山から善通寺に真言僧侶によって持ち込まれ、善通寺を拠点に三豊の本山寺や威徳院に広がったと考えていたのですが、そうではないことになります。善通寺以前に、本山寺には南北朝時代に善女龍王が勧進されていたのです。
善女龍王 威徳院
威徳院(三豊市高瀬町下勝間)にも、紙本著色善女龍王画幅が伝来しています。
これも男神の善女龍王です。威徳院と本山寺は、何人もの住職が兼帯したり転住・隠居して、深いつながりがありました。  室町時代末期には、本山寺では善女龍王に雨を祈る修法が行われていたことは見てきましたが、それが住職の兼帯などを通じて、威徳院へと広がったことが推察できます。
 文化十三(1816)年成立の「讃州三野郡上勝間村山王権現社並所々構社遷宮社職書上帳」には、下勝間村の威徳院の上の三野氏の居城跡とされる城山には、石製の善女龍三社が祀られていて、

「雨乞之節仮屋相営祈雨法執行仕候」

と記されています。祈雨祈願の際には、ここに仮屋が建てられて雨乞いが行われていたことが分かります。勝間地区には威徳院によって善女龍王社が勧請され、その周囲にも信仰が広まっていたようです。
   岩瀬池に善女龍王伝説が付け加えられたりするのも、威徳院周辺に善女龍王信仰の広がりを物語るものなのでしょう。
善女龍王勧進記 地蔵院

威徳院の末寺である地蔵寺の「善女龍王勧請記」 文化7(1810)年には、次のように記されています。
善女龍王勧請記                                       
当国上勝間村地蔵寺主智秀阿遮梨耶一日与村民相議而日、財田郷上之村善女龍王者中之村伊舎那院之所司而当国中之擁護神也、霊験異他而古今祈雨効験掲焉、如響應音焉、幸八山頂有龍神勧請の古跡願於此所建小社勧請、潤道龍王以為此村鎮護恒致渇仰永蒙炎早消除五穀成就之利益実、諸人歓喜一同来告如是、予日善哉此事也遂不日如誓焉、記以胎之後世云維文化七年庚午林鐘十八日
中之村伊舎那院  現住法印宥伝欽記
上勝間村地蔵寺現住 智秀
同庄屋 安藤彦四郎
同組頭 弥兵衛
                        願主         惣氏子中
        別当         地蔵寺
意訳変換しておくと
上勝間村の地蔵寺住職の智秀が村民と相談し、財田郷上之村の善女龍王を勧進した。善女龍王は、財田中之村にある伊舎那院の管理するものであるが、霊験があらたかで、特に祈雨祈願にすぐれた力があることが知られている。すでに龍神が勧進されていた八つ山山頂に小社を建てて勧請した。潤道龍王(善女龍王)は、渇水や熱射からこの村を鎮護し、五穀成就の利益と人々に歓喜をもたらすであろう。

ここからは、地蔵寺にも文化七年(1810)に財田郷上之村の善女龍王(澗道(たにみち)龍王)が勧請されたことが分かります。威徳院に関係する寺院や末寺では、本寺に習って善女龍王の勧進が進められていたようです。
 この「勧請記」には、八ツ山は龍神勧請之古跡だったと記されています。
善女龍王 般若心経 地蔵院
 この勧進に先立つ40年前の地蔵寺「摩訂般若波羅蜜多心経」(明和八(1771)年は、般若心経一字一字に「雨」冠をつけ、善女龍王諸大龍王に雨と五穀豊穣を祈った願文です。この願文からは、澗(渓)道龍王の勧請以前に、八ツ山には龍神が勧請されていたことがうかがえます。

善女龍王 地蔵院
地蔵寺には像高19㎝の小さな木造「善女龍王像」が伝来しています。これも男神の善女龍王像で、飛雲の台座に立つ像です。両手先・右足先・尾が欠損しています。顎髭をたくわえ、やや笑みを浮かべた柔和な面相をしています。像は唐服をまとい、その両腕の肘あたりに広がるフリル様の表現が本山寺のものと似ているような気もします。ところがこの善女龍王像の特徴は、左腰に刀を差しているのです。これは初めて見ましょう。この像が文化年間に財田から勧請された時に造られ、八ツ山の社に安置されていたものかもしれません。

  野郡の本山寺・威徳院・地蔵院という3つのお寺に伝わる善女龍王についてまとめておきます。
1 本山寺の善女龍王は、高野山金剛峰寺蔵の定智筆本(久安元1145)によく似て、高野山の影響を受けた早い時期のものである。
2 本山寺周辺では室町時代末期には、善女龍王信仰が村われていた
3 威徳院には、紙本著色善女龍王画幅がある。
4 威徳院と本山寺は、住職が転住(隠居)または兼帯し、深い関係にあった。そのため本山寺から善女龍王信仰は伝わってきたと考えられる。
5 威徳院周辺には善女龍王を祀った祠もあり、19世紀初頭には高瀬地区で善女龍王信仰が広がっていた
6 威徳院の末寺(隠居寺)である地蔵院は、善女龍王を勧進した記録があり、小さな木像も伝わる。
7 この木像は、佩刀している善女龍王像で全国的にも例がない。高瀬地方での「地方的変容」を遂げた像でる。
以上からは、三野郡の善女龍王信仰は南北朝時代に本山寺で始まり、それが本末関係を通じて威徳院や地蔵院に広がっていたことが考えられる。ここからは善女龍王の招来ルートは、善通寺を通すことなく高野山から本山寺に直接的に伝来したことがうかがえます。その間には、独自のルートがあり、高野聖などの廻国聖の動きが考えられます。
5善通寺22

 善女龍王信仰は土着的な雨乞祈願にも影響を与え、「善女龍王」の幟を立てて、風流踊りを雨乞いとして踊る村も出てきます。それが大水上神社(二宮神社)に奉納されていた雨乞い踊りの「エシマ踊り」です。これが那珂郡の佐文にも麻地区を経由して伝わります。佐文に伝わる国の重要文化財「綾子踊り」に、善女龍王の幟が立てられるのは、このような経緯があると私は考えています。最後は、仮説です。
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綾子踊りに立てられる善女龍王の幟(まんのう町佐文賀茂神社)

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 「高瀬町史324P 高瀬町の雨乞」


滝宮念仏踊 那珂郡南組

この絵図は、まんのう町真野の諏訪神社で踊られた那珂郡南組(七箇村組)の念仏踊の様子が描かれています。 私が最初に、この絵図を見たのは香川県立ミュージアムの「祭礼百態」の展示でした。その時には、次のような短い説明が付けられていました。
2基の笠鉾が拝殿前に据え付けられ、日月の大団扇を持ち、花をあしらった笠を被った下知、同じく花笠を被った3~4人の中踊りらしき人が描かれる。また花笠を被り、太鼓を抱えた6人の子踊りもいる。また、下部には頭にシャグマ(毛)をつけた男が棒を振っており、薙刀を持った男も描かれる。念仏踊りを描く絵図はほとんどなく、当時の奉納風景をうかがうことができる数少ない絵図である。  

  この絵図については以前にも紹介しましたが、満濃町誌をながめていると、この絵図について書かれている文章がありました。それをテキストにしながらもう一度、紹介したいと思います。
テキストは満濃町誌 第三編  満濃町の宗教と文化 「満濃町誌」1100Pです
町誌は、この絵図がいつ書かれたのかを探っていきます。
そのヒントのひとつは、この絵の中に隠されているようです。右側の仮桟敷に「カミマノ(上真野)大政所、三原谷蔵」とあります。三原谷蔵が那珂郡の大政所を勤めたのは、文久二(1862)年のことになるようです。
滝宮念仏踊り 2

 「金刀比羅宮文書御用留文 文久二年七月二十六日」には
「那珂郡の大政所三原谷蔵の使の者有り、来る二十八日に念仏踊が踊り込みたい旨の申込あり云々」

と書かれています。
  1862年の7月26日に、那珂郡の政所(大庄屋)である三原谷蔵の使いが金毘羅大権現にやってきて、7月28日に、念仏踊を金比羅で行いたいという連絡があったと記します。

 この滝宮念仏踊りは、ひとつの村だけで構成されているのでなく、いくつもの村のメンバーが参加します。そのために、滝宮での本番の前に、構成員の村の鎮守を巡って踊ります。そのスケジュールも決まっていました。「吉野村史」には、1742年の念仏踊りの組織や踊り場所日程について、次のように記録しています。
那珂郡南部念仏踊り組
寄合場所 真野村字東免
踊組人員割(合計二〇四人)
真野村 下知一人、長刀一人、鉦打二人、地踊二人、棒突一人 長刀三人
岸上村 笛吹一人、鉦打五人、地踊り一人 旗五人、長刀槍十人
吉野上下村
    棒振上村一人、小踊上村二人、鉦打上村三人、地踊上村五人・下村二人、長柄槍 下村五人、旗上村二人、小踊上一人・下一人、新鉦打下村六人・上村二人
小松庄
   小踊四条一人・五条一人、地踊四条三人・榎井二人・五条二人・苗田二人、
笠飾四村各一人、太鼓打苗口・榎丼各一人、長柄槍一二人、旗九人
東七箇村 鉦打一〇人、法螺貝一人、地踊七人、旗二人、棒突三人、新鉦打一人
西七箇村
  太鼓打一人、鉦打一二人、小踊一人、法螺貝一人、地踊二十三人、旗八人、
長柄槍八人、棒突四人、新鉦打二人
踊場所及庭数
七月十六日 満濃池の宮五庭
七月十八日 七箇春日宮五庭、新目村之官五庭
七月廿一日 五条大井宮五庭、古野上村営七庭
七月廿二日 十郷買田宮七庭
七月二十三日 岸上久保宮七庭、真野宮九庭、吉野下村官三庭、榎井興泉寺三庭
              右寛保二戌年七月廿一日記

文久二(1862)年の時には、榎井の興泉寺と、金毘羅山を終えて、岸上村の久保宮で踊り、最後に真野村の諏訪神社で九庭踊って、その年の踊奉納を終了することになっていたようです。以上の史料から、この絵図は文久二年七月二十八日の夕方に、真野村の諏訪神社で行われた踊奉納を描いたものと研究者は考えているようです。
 もう一度絵図を見てみましょう。
正面が、諏訪神社の拝殿です。手前に屋根だけ描かれているのが神門でしょう。ここからは、境内の拝殿前で踊興行が行われていたことが分かります。陣笠を被って、踊りのまわりを警固しているのが長刀や槍を持った警固衆なのでしょうか。そのまわりに、大勢の人が頭だけ描かれています。
滝宮念仏踊 那珂郡南組

 見慣れないのがその背後の仮小屋です。正面の拝殿前に四棟、左側の内に八棟、その手前外に二棟、右側の内に八棟、総計三二棟の仮小屋が描かれています。その中では、ゆったりと念仏踊りを見守る人たちがいます。下の「一般大衆」とは「格差」があるようです。
これは以前にお話したように、宮座の構成メンバー達だけに認められた権利の桟敷です。
桟敷の使用者名(宮座メンバー)を見てみましょう。
①正面左から右へ「ゲシヨ(下所の永吉」「ヨシイタケヤ富之進」「ヨシイ彦兵衛」「カミマノ(上真野)広右衛門〉と続きます。この正面に桟敷の権利を持っている人たちが宮総代を勤めていた人々と研究者は考えているようです。
②左側には「ミヤ(宮)朝倉」「ヨシイ折平」「ヨシイ庄助」「ミシマ(三島)アイサコ多喜蔵」「ミシマ文蔵」「ニシマノ(西真野)ゴーロ長五郎」「ヨシイ治右衛門」「ハカバ藤作」「ミシマカ蔵」「ヒラバヤシ亦作」と並びます。「ミヤ(宮)朝倉」は、宮司でしょうか。
③右側には「ヨシイ喜二郎」「ヨシイアナダの藤蔵」「光教寺」「カミマノ大政所三原谷蔵」「カミマノ五左衛門」「ミヤウテ喜太郎」「ヒラキタハヤシ二五郎」「宮西伊二郎」と書きこまれています。

滝宮念仏踊 那珂郡南組3

踊りはすでに始まっています。拝殿の正面に、祥姿で床几に座しているが七箇村組の村役人でしょう。日の丸の団扇を持っているのが念仏踊の総触頭の三原谷蔵のようです。豆粒のように、黒く白く描かれているのが踊りの見物人と対照的です。ここからは、この絵を描かせた人物も浮かび上がってきます。
①三原谷蔵が自分の晴れ姿を絵師に描かせた。
②宮司が絵師に依頼し、三原谷蔵に晴れ姿を描かせてプレゼントした
絵に作者名はありませんが、四条派の手法が見られるところから郡家村の大西雪渓か、あるいは雪渓について四条派の技法を修めたと伝えられる、吉野上村五毛出身の東条南渓の作ではないかと研究者は考えているようです。

中央で笠を被って帯刀して、手に日月の団扇を持っているのが、踊りで中心的な役割を勤める下知役です。これも真野村の者が勤めることになっていて、その家筋も決まっていたようです。ここからは、地侍や名主たちを中心とする中世の宮座の形がうかがえます。宮座については、岸上の久保神社の桟敷についての所で、以前にお話ししましたので省略します。
滝宮念仏踊り 2

  中央の下知役が、日月の団扇を打ちふって、「ナンマイ、ドウヤ。ナンマイ、ドウヤ。」と唱えると、警固役がこれに唱和して、鉦、太鼓、笛、鼓、法螺貝が鳴り響き、踊り子が美しく踊り舞う、という姿が描き込まれています。周囲には「南無阿弥陀仏」と、染めぬいた職が十数本立てられています。また、赤い笠鉾が二本立っていて目を引きます。
滝宮念仏踊 那珂郡南組5

 手前に描かれているのは棒突きです。棒を振って踊場を清め、地固めをし、踊場を確保しています。これは、踊りの最初の所作を現したものです。
滝宮念仏踊七箇村組の総触頭は真野村の政所が勤め、念仏踊の寄合は必ず不動堂で行われたようです。そして、順年毎の念仏踊の最後の踊りは必ず諏訪神社で九庭踊って納めとなっていたようです。

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佐文綾子踊り(まんのう町佐文賀茂神社)
この絵図を最初に見て私が感じたのは、佐文の綾子踊りに似ていることです。類似点を挙げると
①  神社の境内で演じられているスタイル
② 日月の大団扇を持ち、花をあしらった笠を被った下知
③ 同じく花笠を被った中踊り
④ 花笠を被った6人の子踊り
⑤ 棒を振って踊場を清め、地固めをし、踊場を確保する棒突。
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幟に書かれている「南無阿弥陀仏」を「善女龍王」に替えて、これが江戸時代に踊られていた綾子踊りですと云われて見せられれば、そうですかと見てしまいそうです。
滝宮念仏踊諸役人定入目割符指引帳
滝宮念仏踊諸役人定入目割符指引帳(那珂郡南組)
 この表は、文政十二(1829)年に、岸上村の庄屋・奈良亮助が念仏踊七箇村組の総触頭を勤めた時に書き残した「諸道具諸役人割」を表にしたものです。 総勢が2百人を越える大スッタフで構成されたいたことが分かります。そして、スタッフを出す村々も藩を超えています。
高松藩 真野村・東七ヶ村・岸上村・吉野上下村
丸亀藩 西七ヶ村・塩入村・佐文村
天 領  小松庄4ケ村(榎井・五条・苗田・西山)
ここからは、滝宮念仏踊りが讃岐一国時代から踊られていたことがうかがえます。
 この表で注目したいのは佐文村です。
佐文には、国無形民俗文化財に指定されている綾子踊りが伝わっています。私は、佐文は綾子踊りがあるので、滝宮の念仏踊り組には参加していないものと思っていました。しかし、ここには、構成村の一つとして佐文村の名前があります。

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 しかも、寛政二(1790)年の念仏踊の構成(福家惣衛著・讃岐の史話民話164P)を見てみると、佐文のスタッフ配分は次のようになっています。
下知一人、小踊六人、螺吹二人と笛吹一人、太鼓打一人と鼓打二人、長刀振一人、棒振一人、棒突一〇人の計25人。

ところが約40年後の文政12年には棒突10人だけになっています。このことは、佐文村に配分されていたスタッフ数が大きく削られたことを示します。
 問題はそれだけではありません。これによって七箇村組の構成そのものが変化しています。編成表を比較してみると、寛政二年には踊組は東と西の二組の編成でした。一人で踊りの主役を勤める下知が真野村と佐文村から各1人ずつ出ていました。また、6人一組になって踊役を勤める小踊は、西七箇村から1人、吉野上下村から3人、小松庄四ヶ村から2人の計6人で構成されていました。ところが、佐文村は単独で6人を分担しています。さらに、
お囃子役や警固役を勤める螺吹が東七箇、西七箇と佐文から各二人、
笛吹が岸上村と佐文村から一人、
太鼓打が西七箇村と佐文村から一人、
鼓打が小松庄四ヶ村と佐文村から二人、
長刀振が真野村と佐文村から一人、
棒振も吉野上下村と佐文村から一人、
棒突は西七箇村四人。岸上村三人、小松庄四ヶ村3人の計10人に対して、ここでも佐文村は、10人を単独で出しています。
ここからは滝宮念仏踊の那珂郡南組は、佐文村が西組の中心的な存在であったことが分かります。それが何らかの理由で佐文は、中心的な位置から10人の棒付きを出すだけの脇役に追いやられた事になります。どんな事件があったのでしょうか?
 想像を膨らませて、次のような仮説を出しておきましょう。
 南組と佐文村の間に、何らかの対立が生じ、その結果佐文は「スタッフの規模縮小」を余儀なくされた。その対応として、佐文は独自に新たな「綾子踊り」をはじめた。その際に、踊りを念仏踊りから風流踊りに取り替えて、リニューアルさせた。
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 七箇村組は東西二組の編成だったために、二組がお互いに技を競い、地域感情も加わって争いが起こることが多かったようです。
享保年間(1716~36)には、滝宮神社への踊奉納の際に、別当寺の龍灯院から七箇村組に贈られる御神酒樽の受取順位のことで、先後争いが起こっています。この争いの背後には、高松藩・丸亀藩・池御料の三者の日頃の対立感情があったようです。
 そのために元文元年(1736)年に念仏踊は一旦中止され、七箇村組は解体状態になります。それから3年後の元文4年の6月晦日に、夏に大降雹(ひょう)があって、東西七箇村・真野村・岸上村は稲・棉などの農作物が大被害を受けます。これは滝宮念仏踊を中止したための神罰であるという声が高まり、関係者の間から念仏踊再興の気運が起こります。龍灯院の住職快巌の斡旋もあって、寛保二(1742)年から滝宮念仏踊は復活したようです。復活後は、那珂郡南組は東西二組の編成が、寛政二年まで続きます。

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 この間、滝宮の龍灯院は踊奉納をした七箇村組に対して、問題の御神酒樽を二個用意してそれぞれの組に贈り、紛争の再発を避けていたといいます。しかし、二組編成は再度の紛争が起こる危険をはらんでいました。
 文化五(1808)年7月に書かれた真野村の庄屋安藤伊左衛門の「滝宮念仏踊行事取扱留」の7月24日の龍燈院宛の報告には、次のように記されています。
 七箇村組の行列は、下知一人、笛吹一人、太鼓打一人、小踊六人、長刀振一人、棒振一人の一編成になっている。取遣留の七月廿五日の龍灯院からの御神酒樽の件は、龍灯院の使者が、「御神酒樽壱つを踊り場東西の役人(村役人)の真中へ東向きに出し……」と口上を述べ終わると、御神酒樽は龍灯院へ預かって直ちに持ち帰り、牛頭天皇社での踊りが終わってから、踊組一同を書院に招待して御神酒を振る舞った。

 ここからは、七箇村組は一編成の踊組として、龍灯院から待遇されるようになっていたことが分かります。この時点で、佐文のスタッフが大幅に減らされたようです。それは、寛政二年から文化五年までの32年間の間に起こったと推察できます。
 あるいは、佐文村の内部に何かの変化があったのかもしれません。それが新たに佐文独自で「綾子踊り」を行うと云う事だったのかもしれません。どちらにしても南組が二編成から一編成になった時点で、佐文は棒振り10人だけのスタッフとして出す立場になったのです。
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 以上から推察すると、新たに始めた「綾子踊り」が諏訪神社で踊られていた念仏踊りと非常に似ているのも納得がいきます。そういう目で見ると、下知や子踊りの姿は、念仏踊りに描かれている姿とよく似ています。
  以上をまとめておきます
①初代高松藩主松平頼重が復活させた滝宮念仏踊りに、那珂郡南組(七箇村組)は東西2編成で出場していた。
②その西組は佐文村を中心に編成されていた。
③しかし、藩を超えた南組は対抗心が強く、トラブルメーカーでもあり出場が停止されたこともあった。その責任を佐文村は問われることになる。
④その対策として那珂郡南組は、1編成に規模を縮小し、佐文村のスタッフを大幅に縮小した。
⑤これに対して佐文村では、独自の新たな雨乞い踊りを始めることになった。
⑥それが現在の「綾子踊り」で、念仏踊りに対して風流踊りを中心に据えたものとなった。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
  満濃町誌 第三編  満濃町の宗教と文化 「諏訪神社 念仏踊の絵」1100P
  大林英雄 滝宮念仏踊り七箇村組について  ことひら 昭和63年
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石上神社と布留川
 
  大和国のほぼ中央部は、国中平野と呼ばれる奈良盆地です。奈良盆地に集まった水は、大和川と名を替え、西側の生駒・金剛山地の間を穿って亀ノ瀬渓谷を西流し、大阪に出ます。しかし奈良盆地に降る雨の量は、必ずしも多かったわけではありません。そのため水田耕作を始めた人々は、周囲の山々には雨を乞う神々を多く祀る一方、大陸から渡来した高度な技術によって、多くの溜池が築造してきました。水の配分に対する意識も、高かったようです。
石上神社と布留川

 たとえば天理市の石上神宮(布留神社)は、朝廷からは武器庫としての役割を担わせられています。しかし、もともとは布留川の水を支配する神を祀る祭祀施設だったようです。水源地である山頂に神(竜王)を奥宮として祀り、川が平野に流れ出す山と田の境に遙拝所があります。里人はこの社を、朝廷の思惑とは別に付近の田を潤す布留川の神を祀る社として、受け止めていたようです。支配者の側も、そのことは充分承知していたようです。律令制の下に、王権が一切を支配しようとした古代においても、またそれに続いて、荘園など中央の支配者が収穫物を収奪した時代においても、この水の支配者たる布留の神を祀るのは、主として支配者の側の仕事でした。
石上神社2

 しかし中世も後期にはいると、事情は大きく変化します。
権門社寺の力が衰え、それに反比例して在地郷惣民の結束による新しい村落組織が誕生します。すると、田畑の収穫を左右する布留川の水の管理と、それに関連した布留神社(石上神社)の祭祀は、惣郷自身が行なわねばならなくなります。そこに誕生するのが、「布留郷」という郷民の組織です。もちろん「郷」は、古代律令制下の地方行政組織の一つとして機能してきました。しかし、中世後期には、それとは別に地域民の利害に基づく結束の下に誕生する中世郷が登場してきます。それが布留郷です。その利害とは、もちろん布留川の水利です。
石上神社

 国中平野は、中世には興福寺の支配下にありました。
これに対して、布留神社を精神的紐帯とする郷民は結束して、興福寺と対立しながら、郷としての意志を貫徹する力を持つまでに成長して行きます。これは、讃岐の中世の村々が進む道でもありました。奈良平野の雨乞行事の形成に重ねて、その過程を今回は追いかけて見ようと思います。テキストは、前回に続き「山路興造 中世芸能の底流  中世後期の郷村と雨乞 風流踊りの土壌」です。
F01
”石上(いそのかみ) 振之高橋(ふるのたかはし) 高々尓(たかだかに) 妹之将待(いもがまつらむ) 夜曽深去家留(よそふけにける)”  
<万葉集・作者不詳>
 「石上の布留川にかかる布留の高橋、その高い橋のように高々と爪立つ思いで、あの女が待っているだろうに、夜はもうすっかり更けてしまった」 男の訪れを待ち焦がれる女の許へ、夜がふけてから通う男が詠んだ歌です。
 布留」(ふる / ぬのどめ)さんの名字の由来、語源、分布。 - 日本姓氏語源辞典・人名力
布留郷の範囲は、西流する布留川の両岸に北郷と南郷で、南北あわせての集落数は約50村です。この村々は布留川の水を利用し、布留神社の氏子達です。布留郷の郷民や、国中平野の住民にとって、水は最大の関心事でした。この平野には、山から流れ出る川が何本もあり、それぞれの川の水源や山口には、布留郷と同様に水を祀る神が祀られています。そして中世後期には水掛かりの地を範囲として郷が成立しました。天理市周辺で、そのエリアを見てみると次のようになります。
①大和神社を紐帯とする大和郷九カ村、
②和爾坐赤坂比占神社を紐帯とする和迩郷五ヵ村、
③桜井市では初瀬川の水を利用し、大神神社を紐帯とする三輪郷三ヵ村
④磯城郡旧原本町付近では、飛鳥川の水掛かりで、多坐輛志理都占神社を紐帯とする多郷三〇ヵ村
 後世の江戸時代の史料には、これらの郷に雨乞のオドリを演じた記録が残っているようです。その具体的様子を、記録がもっとも良く残る布留郷を中心に見ていきましょう。

天理市 竜王山 2019/11/13 3人 ヤマレコにリンク 市営駐車場09:30-トレイルセンター09:51~10:11林道トイレ前11:36~59  北本丸城跡12:41~56 北本丸城跡:13:14 林道探索北本丸城跡14:17石不動14:45 駐車所16:16 距離 13.5㎞ 天理市の ...

雨が降らず旱魃が続くと、布留郷の郷民が雨乞いに動き始めます。
その最初の行動は、郷民の代表と布留神社の爾宜が、竜王山の山中に鎮座する竜王社まで登り、素麺50把と酒一斗二升を供えることでした。そして、これが適えられれば、郷中総出でオドリを奉納することを神に約束します。ここでもオドリは「満願成就のお礼」として踊られていたことが分かります。このオドリを「南無手踊り」と呼んでいたようです。名前からして念仏踊りの系譜を引く風流踊りのような気配がします。この踊り自体は、奈良平野一帯の雨乞の御礼踊りとして、あちこちで踊られていたようです。奈良奉行所の与力の筆になる『庁中漫録』には、次のように記されています。
大和の国のなもてをとリ(南無手踊り)ハ、此布留郷より事をこれり、南無阿弥陀仏踊と書て、なもてをとりとよめり、或ハ雨乞のときか、あるときハ神にいのりのとき、願をたてゝ此をとりを執行なり、布留五十余郷として執行なり、
意訳変換しておくと
大和の南無手踊りは、この布留郷から始まった。南無阿弥陀仏踊と書て「なもてをとり」と読む。雨乞の時や、神に願掛けしたときに成就した際に踊るもので、布留五十余郷で行う
ここからは大和の南無手踊りの起源は、布留郷の踊りにあるという伝承があったことが分かります。ヲドリの具体的様子は、文政頃に成立した『高取藩風俗間状答』に、次のように記されています。
南無手踊  旱の節、雨乞の立願し、降候と御礼に踊る、願満踊といふ、所々に御座候、高取城下の式は、行列又場所にても、警固のために、天狗の面或は鬼の面をかぶりたるもの棒をつき、群集の人を払ふ、其次、早馬と申、おとり子小太鼓を持、唐子衣装花笠、其次、中踊と申、色々の染帷子・花笠、音頭取は華笠・染帷子にて、してを持、所々に分りて拍子をとる、頭太鼓は唐子装束、花笠踊の内に赤熊をかふることもあり、此太鼓に合せて踊る、法螺貝・横笛・叩鐘にて調子を合す、押にははら大鼓とて、後に御幣を負ひ、はらに大鼓を括りつけ、帯を引かけ赤熊をかふる、踊は壱番より五番まて、手をかへ踊候、村毎に少しづつ手も替はり候ゆへ、一村一村分て踊る、
 syouken
意訳変換しておくと
南無手(なむて)踊は旱魃の時に、雨乞立願の御礼に踊るので願満踊とも云う。高取城下で行われる時には、行列や会場に天狗の面や鬼の面をかぶり棒をついた警固人が先頭に立って出て、群集を払い整理する。その次に早馬と呼ばれる踊り子が小太鼓を持ち唐子衣装花笠で続く。その次は中踊と呼ばれる集団で、色々の染帷子・花笠を着け、音頭取は華笠・染帷子やしてを持ち、所々に分かれて拍子をとる。頭太鼓は唐子装束、花笠踊の内側に赤熊を被ることもあり、太鼓に合せて踊る。それに法螺貝・横笛・叩鐘が調子を合す。押には腹に大鼓を抱え、背中には御幣を負う。踊は壱番より五番までで、手をかへながら踊り、村毎に少しづつ変化させている。一村毎に分て踊る。

とあり、村ごとで少しずつ踊り方を換えていたことがうかがえます。布留郷では、このヲドリは、江戸時代を通じて何回も踊られています。文政十年(1827)8月の様子を「布留社中踊二付両村引分ヶ之覚」(東井戸帝村文書)は、次のように記します。
この時は布留郷全体の村々が、24組に分けられていた。東井戸堂村・西井戸堂村合同による一組の諸役は、大鼓打四人、早馬五人、はやし二人、かんこ五人、団踊一〇人、捧ふり二人、けいご一〇人、鉦かき二人、大鼓持三人の、計四二人になる。
1組で42人のセットが24組集まったとすると、郷全体では千人以上の規模の催しであったことが分かります。 
 踊りのスタイルを見ると、腹に大鼓を付け、背に美しく飾った神籠を負つた太鼓打も出てきます。しかし踊りの中心は、大太鼓(頭大鼓)を中心に据えて、その周囲を唐子姿の者が廻り打ちをするという芸態で、歌の数もそれほど多くはないようです。
南無手踊りについては、踊りを踊った村が記念に絵馬に描かせて地元の神社に奉納したものが残っているようです。
布留3HPTIMAGE

①高取町下子島小島神社
布留 南無阿踊り

②平群町平等寺春日神社(文久元年(1861)
③明日香村橘春日神社(文化九年(1804)
④明日香村立部(慶応三年〈1867)
⑤明日香村稲淵字須多伎比売神社(嘉永六年(1853)
⑥川西町結崎糸井神社(天保十三年(1842)
⑦安堵村束安堵飽波神社・年末詳)
これらの各神社に残された絵馬は、保存もよくて、オドリの各役の扮装などがよくわかるようです。
なもで踊りは、雨乞いのお礼(安堵町・飽波神社)/毎日新聞「ディスカバー!奈良」第39回 - tetsudaブログ「どっぷり!奈良漬」
 
 中世後期に近畿地方の郷村に登場した風流のオドリは、郷村組織の拡がりと足取りを同じくして全国に拡大していきます。そして鎮守社の祭礼や、寺院での孟蘭盆会、また旱魃時に行なわれる雨乞の御礼踊りとして踊られるようになります。その例をいくつか見ておきましょう
滋賀県甲賀市 油日神社
油日神社

雨乞では、近江国甲賀郡の霊山・油日岳を御神体とする油日神社(現甲賀市)があります。油日川の水掛かりの村々である油日谷七郷(油日・上野・毛牧・探野・栖山・田賭野・野)に、中世末期に成立した五反田などが加わって、雨を祈ってオドリを奉納しています。
 また近江国坂田部の大原十八郷(中心は東近江市湖東町)では、出雲井の水掛かりである村々(間田・小川・井ノ口・野一色・坂国。鳥脇・村井田・上夫馬・下夫馬・市場・市場中・本庄・本庄中・春照・高番など)が、雨乞いのために総社の岡神社にオドリを掛けています。
滋賀県長浜市 日吉神社
井之口日吉神社 長浜高月町

 伊香郡富永荘(長浜高月町)でも、高時川右岸から取水する大井堰の水掛かりの村々が、上六組(井之日・持寺・保延寺・雨森・柏原・尾山)と下六組(束物部・西物部・横山・店川・磯野・東柳野)に分かれて、鎮守社である井之口日吉神社にオドリを掛けています。
駒宇佐八幡神社の厄除大祭 | イベントを探す | 兵庫おでかけプラス | 神戸新聞NEXT
           駒宇佐八幡宮の百石踊り
 播磨国では、武庫川の上流域で、その水掛かりの村として、三田市の駒宇佐八幡宮を祭祀する上谷と下谷が、雨乞の御礼踊りとして伝承した百石踊りがあります。
加古川の支流である東条川の流域では、九東条町の秋津住古神社を紐帯とする常田・古家・西戸・横谷・貞守・長井・少分谷・長谷・石黒・岡本・森の村々が結束して、雨乞の風流踊りを行なっていました。
 最後に、中世の雨乞い風流踊りについて研究者は、次のように指摘しています
①踊りの成立基盤が、江戸時代に村切りされた近世村ではなく、中世後期の共同体である郷である
②郷のなかの集落(村)が単位となってオドリ組を構成し、複数の組が互いに掛け合う場合が多かったこと。
③複数の組が競演するために、風流の趣向を競い、歌の歌詞に工夫を懲らすなど、互いに競争心が働いて、芸態がより面白く、また複雑になっていったこと。
④同じ芸態のオドリを、少し趣向を変えて、祭礼や盂蘭盆会にも雨乞にも用いたこと。

このような視点で讃岐の雨乞い踊りを見てみるとどうなのでしょうか
私は、まんのう町で踊られていた七箇念仏踊りは、滝宮に出向いて踊られていたというので「雨乞い踊り」という先入観で見ていました。しかし、④のように、日頃は祭礼や盆踊りとして踊られていたものが「転用」されたものが、雨乞成就のお礼のために踊られた視点は、新しい視野を開いてくれるような気がします。

 また風流踊りは、雨乞成就のお礼のために踊られたという視点も刺激的です。もともとの滝宮念仏踊りは、讃岐中からいくもの組が参加していたと伝えられます。それも衣装から道具をなどを揃えると大部隊になります。雨乞いという「異常事態」の中で、どうしてこれだけの舞台装置を揃えるのかが私には不思議でした。しかし、雨乞成就のお礼のために、準備して周辺の郷村が揃ってお礼参りしたとするなら納得できます。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「山路興造 中世芸能の底流  中世後期の郷村と雨乞 風流踊りの土壌」

惣郷」(そうごう)さんの名字の由来、語源、分布。 - 日本姓氏語源辞典・人名力

中世も時代が進むと、国衛や荘園領主の支配権は弱体化します。それに反比例するように台頭するのが、「自治」を標榜する惣郷(そうごう)組織です。惣郷(そうごう)は、寄合で構成員の総意によって事を決します。惣郷が権門社寺の支配を排除するということは、同時に惣郷自らが、田畑の耕作についての一切の責任を負うということです。つまり灌漑・水利はもとより、祈雨・止雨の祈願に至るまでの全ての行為を含みます。荘園制の時代には、検注帳に仏神田として書き上げられ、免田とされていた祭礼に関する費用も、惣郷民自身が捻出しなければならなくなります。雨乞いも国家頼みや他人頼みではやっていられなくなります。自分たちが組織しなくてはならない立場になったのです。この際の核となる機能を果たしたのが宮座です。
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 中世期の郷村には「宮座」と呼ぶ祭祀組織が姿を現します。
宮座は、もともと寺社の祭祀の負担すべきことを、地域共同体や商工業者に担わせるために、支配者の側が率先して作らせたものでした。その宮座組織を拠り所にして、民衆側は逆に自分たちの精神的紐帯として活用するようになります。そして郷村自治の拠点としていきます。鎮守社の祭礼を行う中で共同体意識を培い、結束力を高める場と宮座はなります。鎮守社の祭礼は、惣郷民の結束の確認の機会としても機能するようになるのです。
中世の「宮座」の面影を伝える行事~久井稲生神社の御当~ - 祭り歳時記 - 文化庁広報誌 ぶんかる

 宮座の組織が早くから発達する近畿地方の郷村では、春秋の一期に、定期的祭礼を行なうのが通例でした。そこでは共通の神である先祖神を勧請し、祈願と感謝と饗応が、共同体の正式構成員(基本的には土地持ち百姓)によって行なわれました。また同時に、神社境内に設けられた長床では、宮座構成員の内オトナ衆による共同体運営の会議が開催されます。
宮座 日根野荘
日根野荘の宮座

同時に、あらかじめ契約を結んでいた猿楽者などの芸能者がやって来ます。彼らは翁姿に変じた先祖の神として現れ、翁舞(翁猿楽)を舞うことで、郷民を祝福します。余興として、当時の流行芸能であった狂言や猿楽能も演じられたようです。
ルーツの伝来(源流)|歴史|ユネスコ無形文化遺産 能楽への誘い
田楽と猿楽

また正月の祭りでは、その年の秋の豊穣を正月の神(先相神)に祈る様々な行事が行なわれました。それらの費用は、古くは領主の側の負担でした。そのため領主の居館跡からは、酒を酌み交わしたかわらけの破片が数多く出土するようです。郷民達は、領主居館でただ酒を飲んでいたようです。しかし、時代が下るに従いこの習慣はなくなります。自治とは自腹でもあります。郷民自身が順番に負担する「頭屋」の制度などによって賄うようになります。
 これら恒例の祭りとは別に、旱魃の時に行なわれたのが雨乞祈願です。郷村の祈雨祈願のスタイルは、竜神に祈るという点では、古代と変わりません。寺院僧による読経であり、牛馬を殺して竜神の池に投げ込み、怒らせるという方式です。

日根荘の移りかわり | 和泉の国(泉州)日根野荘園 | 中世・日根野荘園-泉州の郷土史再発見!

 和泉国日根野荘の郷民による雨乞踊りは
公家の九条政基が和泉国日根野荘(現大坂府泉佐野市)で見た雨乞いの様子が彼の日記『政基公旅引付」の文亀元年(1501)七月二十日条には、次のように記されています。
 この付近の村々は、葛城山系の灯明岳から流れ出す大鳴川の水を水源として耕地を拓いていて、その源流には修験の寺である犬鳴山七宝滝寺がありました。
犬鳴山七宝瀧寺 | 構成文化財の魅力 | 日本遺産 日根荘
犬鳴山七宝滝寺
この寺は天長年間(824~)に、淳和天皇がこの地域の源流にある7つの滝に雨を祈って霊験があったという伝承のある霊山で、祈雨の寺院です。中世後期にここで行われていた雨乞は、九条政基の日記を要約すると次のようになります。
①最初に入山田村の郷社である滝宮(現火走神社)で、七宝滝寺の僧が読経を行う
②験のない場合は、山中の七宝滝寺に赴いて読経を行なう
③次には近くの不動明王堂で沙汰する
④次の方法が池への不浄物の投人で、鹿の骨が投げ込まれた
⑤それでも験のない場合は、四ヵ村の地下衆が沙汰する
という手はずになっていたようです。
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「雨乞いして雨が降らなかったためしはない。なぜなら綾子踊りは、雨が降るまで踊る」というのが、私の住む地域に伝わる雨乞い綾子踊りの鉄則です。ここでも雨が降るまで、いろいろな手段が講じられていたようです。しかし、やることは、古代の雨乞いと変化はないようです。ところが、大きく違っているのは、雨が降った後のお礼です。
文亀元年夏の時には、雨乞いをすると直ぐに霊験があり、一日後の22日条には「未刻に及び滝宮の嶺に陰雲強く鮮興り、雷鳴一声霜ち聞き入る」と記されています。この降雨に対し入山田村では、祈願成就に対する御礼を行なっています。それが地区単位で行われた「風流」なのです。雨乞いのために行なうヲドリを、私たちは「雨乞踊り」と呼んでいます。しかし、ここでは「踊り」は祈雨のためにではなく、祈願成就の御礼のために行なうものであったようです。本来的には祈願が成就したあとに時間を充分にかけて準備し、神に奉納するのが雨乞踊りの基本だったと云うのです。このような風流やヲドリを、雨乞に演じるということは、律令制の時代や、中世前期の荘園にはありませんでした。中世後期に始めて登場するイベントです。
  「勝尾寺請雨勤行日録」には、次のように記されています。
請雨、嘉吉三年七月十九日、外院庄ヨリ付之、同日末刻開向在之、丁丑日別院衆モ大般若読了、(中略)同時ヨリ庭ニテ大コヲ打、ツヽミ、ヤツハチ、フエ、サヽラニテ、ヰキヤウ(異形)無尽ノク

ここからは、雨乞いが成就した後に、大鼓・鼓・八撥・笛・摺リササラなどの囃子が使われて、踊りが奉納されています。
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このようなヲドリは、「風流の囃子物」とも呼ばれていたようで、民衆が自ら演じる芸能として、京都・奈良の近郊農村部を中心に、近畿一円に登場していました。それまで芸能といえば、郷村の祭礼における猿楽者の翁舞のように、その専門家を呼んで演じられていました。ところがこの時期を境に、一般の民衆自らが演じるようになります。その背景として考えられる要因を、挙げておきましょう。
①が郷村における共同体の自治的結束と、それによる彼らの経済力の向上。
②新仏教の仏教的法悦の境地を得るために民衆の間に流布させた、「躍り念仏」の流行
③人の目を驚かせる趣向を競う、「風流」という美意識が台頭
そしてなにより「惣郷の自治」のために、当事者意識を持って祭礼に参加するようになっていることが大きいようです。このヲドリは、もともと雨乞のために工夫されたものではありません。先祖神を祀る孟蘭綸会の芸能として、また郷民の祀る社の祭礼芸能として、日頃から祭礼で踊られていたものです。それを郷民が、雨乞の御礼踊りに転用したと研究者は考えているようです。
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「政基公旅引付」には雨乞い以外の風流の様子も、記されています。
雨乞祈願が成功した同じ年の孟蘭盆会、入山田郷の郷民は念仏風流を行なっています。同日記の七月十三日条に、次のように記されています。
「今夜船淵村之衆風流念仏、又堂の庭に来る、念仏以後種々の風流を尽す

この風流を観た政基は、その趣向の風情や使われている言葉が、都のものにも劣らないと感嘆しています。
翌日14日には土丸村の風流があり、
翌々日15日は高蒲村の衆による念仏風流と、大木村の衆による風流が、政基の居る堂の庭にやってきて踊っています。
16日の夜には四ヵ村がともに滝宮社に赴いており、土丸と入木、菖蒲と船淵というそれぞれ二村の立合で芸が披露されています。
風流の本流は囃子物だったようですが、社頭では猿楽能の式三番と能「鵜羽」が郷民の手で演じられています。その能を観た政基は、「誠に柴人之所行希有之能立を作る也」と驚いています。ここからは16世紀初頭には、畿内では郷民による祭礼芸能が、相当に浸透していたことがうかがえます。
この年は神社の秋の祭礼でも風流が演じられています。  
演じられたのは入山田村の神社である滝宮の祭礼ではなく、式内社であった大井関神社(現日根神社)の祭礼です。
日根神社
大井関神社(現日根神社)
この神社は、古代には日根神社として呼ばれていましたが、日根庄が成立すると、その荘園鎮守社となり、日根野荘一帯の田畑を潤す水を、樫井川から取水する大堰に近かったこともあり、大井関神社と名を替えて祀られるようになります。日根野荘が解体しても、住民にとつての信仰は続き、八月十五日の祭礼には、入山田からも参加していたようです。
 政基はこの祭礼の様子を、次のように記しています。
「当国五社宮祭礼也、大井関社第四之社也、抑も高蒲・船淵之衆一昨夜不参之条、今日十六日態卜風流企て推参、事の外人儀之風流也」

風流以外にもその後には船淵の百姓である左近太郎という者が、猿楽能の式三番を演じており、その演技の確かさにも驚いた様子が記されています。郷民の中には、玄人はだしで演じる者がこの時代には現れていたのです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

 参考文献
 山路興造 中世芸能の底流  中世後期の郷村と雨乞 風流踊りの土壌  

大山山から金毘羅地図

まんのう町の大川神社は雨乞いの神として、また安産の神として、広く信仰を集めてきました。特に、大山神社に奉納される念仏踊りは国の文化財にも指定されています。今回は、大川山がどのようにして雨乞いの霊山になっていたのかを見ていくことにします。
日照りが村を襲ったときに、讃岐の村役人はどんな対応をしていたのでしょうか。
 以前にも紹介しましたが、今から200年ほど前の文政6(1823年)の大干ばつの時の対応ぶりが高松市仏生山のちかくの百相(もあい)村の大庄屋(村役人)であった別所家文書の中に、「御用日帳」として残されています。それを見てみましょう。
5月17日に、次のようなことが記録されています。
「干(照)続きに付き星越え龍王(社)において千力院え相頼み雨請修行を致す」
意訳変換すると
「日照りが続いたので星越龍王社で  山伏の千力院へ依頼して雨乞い祈祷を行った

5月といっても旧暦ですから実際は6月と読み直した方がよいでしょう。このころから、日照りが続いたために、田植えの前に水不足になったようです。
それで千力院の修験道者(山伏)に依頼し、星越龍王社で雨乞いを行っています。これが第1段階です
 各村々には、修験者(山伏)たちがいたことが当時の戸籍からは分かります。神官のいるは一部の有力神社でした。小さなムラでは山伏たちが、神事を行っていました。そのために明治の神仏分離では、山伏たちが神官になった行く例が数多く見られます。どちらにしても、大庄屋が最初に行ったのは、山伏への祈祷依頼なのです。

効き目がなかったようで4日後の21日は大護寺にも雨請を依頼します。これが第2段階のようです。
大護寺というのは、香川郡東の中野村にあった寺院で、高松藩三代藩主恵公が崇信し、百石を賜り享保年中より繁栄した寺です。
それでも雨は降らなかったようです。
翌22日には、大庄屋(木村家)は、村々の庄屋に次のような文書を出しています。これが第3弾です
これほどの日照りを村役人や小百姓は、一体どんなに心得ているのか。これほどにひどいわけだから、明日にでも雨乞いを執り行って当然といえる状況ではないか。明日から雨乞いを行うように!

 この文言から、干害がひどいのに、それにも拘わらず何もしない村役人の対応の遅さに腹を立てている様子がうかがえます。そして大庄屋が雨乞いの実施を強く督促しています。その上、各村に庄屋から出す雨乞い祈祷の依頼書案文まで添えて通知する周到ぶりです。
 これを受けて2日後の25日には、石清尾、一宮、天川と拾力寺(大護寺などの十力寺?)が雨乞いの祈祷を始めることになったとの返事が返ってきています。各村々の真言寺院でも善女龍王龍王への雨乞い祈祷が始められたようです。それでも雨は降りません。そこで登場するのが、最後の奥の手です。
 雨乞いの聖地とされる鮎滝(香川町鮎滝)の童洞淵での雨乞いの修法を命じます。これが第4段です。
童洞淵は、百々潭(どどのふち)とか滔々潭(とうとうのふち)とか呼ばれ「雨乞いの玉」、「国分寺の鐘」などの伝説があるところです。
旅 962 童洞淵(どうどうのふち): ハッシー27のブログ
鮎瀧周辺
童洞淵での雨乞いは、どんなことが行われていたのでしょうか? 
別所家文書の中に「童洞淵雨乞祈祷牒」というものがあり、そこに雨を降らせる方法が書かれています。その方法とは川岸に建っている小祠に、汚物をかけたり、塗ったりすることで雨を降らせるというものです。
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鮎瀧の龍神を祀ったという神社

同じような雨乞いがまんのう町塩入の釜ケ淵にも残されています。
 ここは財田川の源流になり、丸亀平野の丸亀藩の農民達の雨乞いの最後の祈祷場所だったようです。どんな雨乞いがおこなわれたか民話を読んでみましょう。
  里人がやって来た後から、山伏もやって来ました。
 山伏が雨降らせたまえと祈願をします。
すると、里人たちは持って来た堆肥を、釜が淵のなかへ振り込みはじめました。十二荷半の堆肥を、残らず淵へ放りこんだからたまりません。
おかしな臭いが、あたりへただよいます。
清らかな淵水は、茶色く濁って流れもよどみがち。
そして、この上から、ゴボウの種を蒔きます。
ゴボウの種は、ぎざぎざでとても気味の悪い形をしています。指でつまむと、ゴボウの種が指を刺すように感じます。
堆肥十三荷半、ゴボウ種を投げ込んで終わったのではありません。今度は、長い棒で淵のなかを、かきまぜます。
何度も、何度も、棒でかきまぜます。もう、無茶苦茶です。
釜が淵の水は、濁ってしまいました。
この、釜が淵の清らかな水のなかには、龍神さまがいらっしゃるというのに、水は濁ってしまいました。きっと龍神さまは、お腹立ちのことでしょう。
そうなのです、それが目的なのです。
龍神さまを、しっかり怒らすのです。
怒ると、雨が降るというのです。
お気に入りの釜が淵の清水が、べとべとに濁ってしまいました。これはたまらないと、龍神さま雨を降らせて不愉快なものを、すべて流します。でも、いいかげんな雨では流れないと、激しい大雨を降らせてさっぱりと洗い流します。
ああ、きれいになったと龍神さまも大よろこび。
里人も、念願の雨が降ったと大満足。
 ここからは、次のような事が分かります。
①川の流域の村々(同一灌漑網)の人々が、地域を流れる川の源に近い深い淵を雨乞場所としていた。
②そこで大騒ぎするとか、石を淵に投げ込むとか神聖な場所を汚すことによって、龍王の怒りを招き、雷雲を招き雨を降らせるという雨乞いが行われてたこと
③これは全国的にみられる話で、修験道者(山伏)のネットワークがひろめたこと
④雨乞行事の音頭をとっているのは山伏であること
 寺院で行われる雨乞いは善女龍王に対する祈祷でした。
これは丸亀藩主が直接に善通寺門主に命じて行わせていた公式なものであることは以前にお話ししました。それに対して、村々で農民達が行っていた雨乞祈願は、山伏たちが主導権を握っていたようです。そう言えば、この淵の上には尾ノ背寺がありました。ここは中世の山岳寺院の拠点で、善通寺の奥の院ともされ修験者の拠点として栄えた寺です。流域の人々を信者として組織し、尾ノ背寺参拝への手段としていたとも考えられます。丸亀平野南部の丸亀藩の櫛梨神社には、尾ノ背山信仰を伝える話が伝えられています。

それでは大川山周辺では、どんな雨乞いが行われていたのでしょうか。 大川山周辺に残る雨乞い伝説を見てみましょう。
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まず登場するのは三角(みかど)淵です。ここは、崖山がそそりたり、三つの角を持った岩石があることから三角(門)と呼ばれるようになったと伝えられます。三角の地名は、かって「御門」とも「御帝」とも呼ばれていました。そして、「三霞洞」となり、現在の道の駅や温泉は「美霞洞(みかど)」と呼ばれ親しまれています。
 道の駅の下流の渓谷を流れる冷たい清らかな流れは、龍神さまもお好きと見え、龍神社がお祀りされています。ここでも、大干魃の年は流域の人々がやって来て龍神様にお祈りをして、雨乞い神事が行われていました。

大川山 美霞洞龍神神社
美霞洞渓谷の龍王神社
「三角(みかど)の淵と大蛇」の民話は、大蛇を退治した後のことを次のように語ります。
  日照り続きの早魃の年には三角の淵の雄淵に筏を浮かべて雨乞いのお祈りをすると、必ず雨を降らせてくれます。また、遠くの人たちは三角の淵へ、水をもらいにやってきます。淵の水を汲んで帰り祈願をこめると、必ず雨が降りだします。三角の淵は、雨乞いの淵としても有名になりました。

 ここからは、雄淵に筏を浮かべて雨乞い祈祷が行われていたことが分かります。この筏の上で祈祷を行ったのは、大川山の山伏たちだったのでしょう。また、この地が下流の丸亀平野の人々にとっても雨乞聖地であり、ここの聖水を持ち帰り、地元で行う祈祷に用いられていたようです。持ち帰った聖水を用いて祈祷を行ったのは、地元の山伏であったはずです。大川山をめぐる山伏ネットワークがうかがえます。
大川山周辺の八峯龍神での事件を、民話は次のように伝えています。
 21日間、昼夜の別なく、神楽火をたき神に祈ったが一粒の雨も降らなかった。当時の神職(山伏)は悪気はなかったが
「これ程みながお願いしているのに、今だに雨の降る様子がない、龍神の正体はあるのか、あるなれば見せてみよ」
と言ったところ、言い終ると一匹の小蛇が池の廻りを泳いでいた。
「それが正体か、それでは神通力はないのか」と言った。
すると急にあたりがさわがしくなり、黒い雲が一面に空を覆い、東の空から「ピカピカゴロゴロ」という音がしたかと思うと、池の中程に白い泡が立ち、その中から大きな口を開き、赤い炎のような舌を出した大蛇が、今にも神職をひと飲みにしようと池の中から出て来た
これを見た神職は顔色は真青になり、一目散に逃げ帰った。
然し大蛇は彼の後を追いかけて来たものの疲れたのか、その場にあった一本の松の木の枝に首をかけてひと休みしたと伝えられる。
 今もその松を首架松といわれている。池からその松の所までは150mもあるが、大蛇の尾が池に残っていたというのだから大きさに驚かされる。

  ここからは次のような事が分かります。
①雨が降るまで雨乞いは続けられるといいますが、この時は21日間昼夜休むことなく祈祷が続けられていたこと
②小蛇が龍になるという「善女龍王」伝説が採用されていること
③祈祷を行ったのは神職とあるが、江戸時代は修験者(山伏)であったこと
④そして、雨乞い祈祷でも雨が降らないことがあったこと
⑤失敗した場合には、主催した山伏の信望は墜ちること
 雨乞いで雨が降ればいいのですが、雨が降らなかったときには主催者は責任を問われることになります。ある意味、山伏たちにとっても命懸けの祈祷であったようです。
 江戸時代には、ことのよう大川山周辺の源流や池は、雨乞いの聖地となっていたことが分かります。
これが明治になると、システムが変化していくようです。
何が起こるかというと、雨乞い場所を自分たちの住む地域の周辺に下ろしてきて、そこに拠点を構えるようになるのです。
 大川神社の勧進分社の動きを、琴南町誌で見ていきましょう。
飯山の大川神社(丸亀市飯山町東小川日の口)
  ここは現在は「水辺の楽校公園」として整備されています。その上の土手に大きな碑や灯籠がいくつか建っています。その中に大川神社もあるようです。その由来を琴南町誌は、明治25(1892)年6月の大早魃の時、松明をたいて雨乞いをした。この時大雨が降ったので、飯野山から大きな石を引いて来て大川神社を祀ったと云います。ここは昔から地神さんが祀られていて、地域の雨乞所だったようです。大旱魃の時には「第2段階」として、大川神社の神を祀り雨乞いを行ったようです。すると必ず雨が降ったと伝えられます。
 いつの時代かに大川講のようなものができて、大川神社に代参して大川の神を迎えてここに祀って、雨乞いも行うようになります。三角(みかど)の聖水をもらってきて祀ったりもしたようです。
 ここからはもともとあった地主神があった所に、雨乞いの神として大川神社が後から勧進されたようです。そこには、やはり里の山伏たちの活動があったようです。

高篠の大川神社(まんのう町東高篠中分)

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 土器川の左岸の見晴らしのいい土手の上に大川神社という大きな石碑が建っています。横に常夜灯もあります。祠などはありません。ここからは、象頭山がよく見えます。この石碑には、戦後の大早魃の際に、大川神社を勧請して、雨乞い祈祷したところ大雨を降らたので、ここに大石をたてて大川神社をお祀りしたと記されています。この地点は、東高篠への土器川からの導水地点でもあるようです。

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 以後、祭りは旧6月14日に神官を呼んでお祓いをして、講中のものがお参りしていたようです。講中は東高篠中分で50軒くらいで、家まわりに当屋のもの何軒かが世話をしていたと云います。。祭りの日は土器川の川原で市がたち、川原市といって大勢の人々が集まったようです。三日間くらい農具市を中心に市が開かれ、芝居、浪花節などの興行もあったと云います。
  高篠の人たちが講を組織して勧進した大川山の分社なのです。ここにも山伏の影が見えます。
長尾の大川神社(まんのう町長尾札辻)
 長尾の辻にも大川神社という大きな自然石が立っています。これも大川山の大川神社を勧請して祀ったようです。いつ頃から祀られるようになったのかは分かりませんが、大正7(1918)年の大水にそれまでの碑が流されたので、再建したものだと伝えられます。この地点は、土器川の水を旧長尾村、岡田村などに引く札辻堰のあるところで重要ポイントです。早魃の時には、ここに大川神社を祀って雨乞いの祈願が行われたようです。
 長尾地区もも江戸時代は、大川山の大川神社に代参して御幣を請けてきたと伝えられます。しかし、勧進分社後には、ここの大川神社で雨乞い祈願が行われるようになったようです。ここにも講組織があり、旧長尾村一円の約200戸余りが講員となっていました。田植え後の旧6月14日には毎年お祭りをし、夜市が催され、余興などがにぎやかに行われていたと云います。
岡田の大川神社(綾歌町岡田字打越)
旧岡田村は、その地名通りに丘陵地帯で水田化が遅れた地域でした。そのために土器川の水を打越池を通じて導水し、各所に分水するという灌漑システムを作り上げました。その導水池である打越池の堤に、大川神社が勧進されています。それは昭和初年の大干ばつの際に、池総代の尽力で、大川神社の分神がお祀りされたものです。ここにも水利組合と大山講が重なるようです。

 飯山の東小川、まんのう町の高篠東・長尾・打越とみてきましたが、次のような共通があることが分かります。
①土器川からの導水地点に、大山神社が勧進された
②勧進したのは導水地点から下流の水掛かりの農民達で講を組織していた。それは水利組合と重なる。
③勧進時期は、近代になってからである
④勧進後は、そこで雨乞神事や祭りも行われていた

以上見てきたことをまとめたおきます
①古代から霊山とされた大川山は、修験者が行場として開山し大川大権現と呼ばれるようになる
②そこには修験者の拠点として、寺院や神社が姿を見せるようになる
③修験者は里の人々と交流を行いながらさまざまな活動を行うようになる
④日照りの際に、大川山から流れ出す土器川上流の美霞洞に雨乞い聖地が設けられるようになる
⑤そこでの雨乞い祈願を主導したのは、修験者たちであった。
⑥彼らは、講を組織し、雨乞い祈祷を主導した
⑦こうして、大川大権現(神社)は雨乞いの聖地になっていく。
⑧近代になって、神仏分離で修験道組織が解体していくと里の村々は、地元に大山神社を勧進するようになる。
⑨それを主導したのは、水利組合のメンバーで大山講を組織し、大山信仰を守っていった。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 
丸尾寛  日照りに対する村の対応
琴南町誌747P 宗教と文化財 大川神社 

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綾川しらが渕 ここで綾川は大きく流れを変える。向こうの山は堤山

山あいの水を集めて流れる綾川は、堤山を過ぎると急に流れを変えて、滝宮の方へ流れます。むかし綾川は、そのまま西へ流れていたそうです。宇多津町の大束川へ流れこんでいたのですが、滝宮の牛頭天王さんが土を盛りあげ、水を滝宮の方へ落してしまいました。

祇園信仰 - Wikipedia
 さて、奈良時代のことです。島田寺のお坊さまが、滝宮の牛頭天三社におこもりをしました。
祭神のご正体を、見きわめるためだったといいます。
おこもりして満願の日に、みたらが淵に白髪の老人が現れました。
すると、龍女も現れ、淵の岩の上へともしびを捧げられました。
白髪のおじいさんというのが、牛頭天王さんであったようです。
龍女が灯を捧げた石を、「龍灯石(りゅうとうせき)」と呼ぶようになりました。

しらが淵のあたりは、こんもりと木が茂り昼でもうす暗く気味の悪いところだったと言います。
大雨が降り洪水になると、必ず白髪頭のおじいさんが淵へ現れました。このあたりの人たちは、洪水のことを、シラガ水と呼んでいます。まるで牙をむくように水が流れる淵には、大きな岩も突き出ています。岩には、誰かの足跡がついたように凹んでいます。

どんがん岩というのもあります。
どんがんは、大きな亀ということで泥亀が、この淵のヌシだとも伝わっています。洪水のとき、ごうごうと流れる水音にまじって、こんな声も聞こえてきます。
「お―ん、お―ん」
泣き声のようです。
お―ん、お―ん、と、悲しそうな泣き声なのです。 
一体、誰が泣いているのでしょう。

綾川シラガ淵

 北西に向かって流れてきた①綾川は、④シラガ淵で流れを東に変えて滝宮を経て、府中に流れ出しています。しかし「河川争奪」が行われて流路が変更されたのではないかと、研究者は考えているようです。

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  かつては堤山の北側を経て栗熊・富隈を経て川津に流れ出していたというのです。そうだとすれば現在は小さな川となっている⑥大束川も「大河」であったことになります。その痕跡は、③堤山と国道32号の間に残された「⑤渡池」跡からもうかがえるといいます。渡池は、綾川から取水して、大束川水系に水を供給していました。その水利権を持っていたことになります。
 昔話では
「 滝宮の牛頭天王さんが土を盛りあげ、水を滝宮の方へ落してしまいました。」
と伝わっているようです。滝宮の牛頭天王とは、実際には誰だったのでしょうか。
滝宮神社・龍燈院
滝宮神社(牛頭天皇社)と別当寺龍燈院(金毘羅参詣名所図会)

 河川変更の土木工事を行った「犯人捜し」をしてみましょう。
その際に、真っ先に気になるのはかつての流路を見下ろすかのように造られている「快天山古墳」です。
古墳商店 a Twitter: "【香川・快天山古墳】丸亀市にある古墳 時代前期の前方後円墳。全長98.8m。埋葬施設は後円部に3か所あり、すべて刳抜式割竹形石棺を有する。国内最古の割竹形石棺がある古墳。讃岐型と畿内型双方の前方後円墳築造様式の特徴がみられる。  https://t ...
ここに眠る王は、大束川水系と綾川水系を統一した王のようです。
そこに使われている石棺からは鷲の山産ですので、その辺りまでを支配エリアにしていたと研究者は考えているようです。その王の統一モニュメントがこの前方後円墳でなかったのかというのが私の仮説です。
 シラガ渕で流路が変更することによって下流域で起こった変化を挙げると
①大束川水系の拠点は川津遺跡。そこは大束川の河口で洪水の危機に悩まされていた。
②そこで綾川流れを羽床のシラガ渕で変更することで、拠点村落川津を守ろうとした。
③同時に周辺や飯山の島田、栗熊などの氾濫原や湿地の開拓を進めることを狙いとした。
④一方、綾川では水量が増え河口から滝宮までの河川交通が開けた。
⑤それを契機に羽床より上流地域の開発が進んだ。それを進めたのは、ヤマト政権の朝鮮政策に従い半島で活躍した軍人化した豪族達である。また、戦乱を逃れた渡来人達も数多く讃岐に入ってきた。
⑥流路変更工事を主導したのはシラガ渕(新羅系渡来人)たちではなかったのか。
⑦それは、周辺の古墳から出てくる遺物からも推測ができる。
こんな「仮説(妄想)」を考えている今頃です。
以上 最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献 
 
北条令子 さぬきの伝説 

香川県|かがわの水 - 香川の水の伝説

釜が淵は、塩入からさらに財田川の源流を遡った清らかな谷水が流れている山あいの深淵です。
雨乞い祈願は、ここで行われます。
里人は、コマゴエを十三荷半と、ゴボウの種を用意します。
コマゴエは、堆肥のことです。
稲藁を、細かく切って積み上げて造ります。
田圃に入れると、とてもいい肥料になりました。
田圃の肥料である堆肥を、なぜ、釜が淵へ持って来るのでしょうか。
おまけに、ゴボウ種まで持って・・・?

里人がやって来た後から、山伏もやって来ました。
 山伏が雨降らせたまえと祈願をします。
すると、里人たちは持って来た堆肥を、釜が淵のなかへ振り込みはじめました。
十二荷半の堆肥を、残らず淵へ放りこんだからたまりません。
おかしな臭いが、あたりへただよいます。
清らかな淵水は、茶色く濁って流れもよどみがち。
そして、この上から、ゴボウの種を蒔きます。
ゴボウの種は、ぎざぎざでとても気味の悪い形をしています。
指でつまむと、ゴボウの種が指を刺すように感じます。
堆肥十三荷半、ゴボウ種を投げ込んで終わったのではありません。
今度は、長い棒で淵のなかを、かきまぜます。
何度も、何度も、棒でかきまぜます。もう、無茶苦茶です。
釜が淵の水は、濁ってしまいました。

この、釜が淵の清らかな水のなかには、龍神さまがいらっしゃるというのに、水は濁ってし
まいました。きっと龍神さまは、お腹立ちのことでしょう。
そうなのです、それが目的なのです。
龍神さまを、しっかり怒らすのです。
怒ると、雨が降るというのです。
お気に入りの釜が淵の清水が、べとべとに濁ってしまいました。
これはたまらないと、龍神さま雨を降らせて不愉快なものを、すべて流します。
でも、いいかげんな雨では流れないと、激しい大雨を降らせてさっぱりと洗い流します。
ああ、きれいになったと龍神さまも大よろこび。里人も、念願の雨が降ったと大満足。
しかし、まあ、讃岐の人たちはすごいですね。
龍神さまを強迫して、雨をいただくのですから。
龍神さまも、これを楽しんでいらっしゃるのかもしれません。
本当は、仲良しなのでしょうか。

 
淵野(ふちの)というところは、むかしから淵や沼の多いところでした。
沼を開墾して、田圃にしていましたが、田が深いので農作業は大変でした。
特に、田植えのときは吸いこまれそうになるので梯子を置いて苗を植えたといいます。
この淵野のお寺で、働く娘さんがいました。
とってもよく働く娘さんは、夜ぐっすりと眠ります。
よく眠っている娘さんのもとへ、若い男が通って来るようになりました。
若い男は、とても色が自く背もひょろりと高いそうです。
若い男はあまり話もせずに、夜が明けると帰って行きます。
毎晩、通ってくるのはいいのですけどあまりにも肌が冷たく気味が悪くなりました。
体中が、水のなかから出てきたようにひんやりしています。
娘さんは、お母さんに相談してみました。
「どこの人ですか。お名前は」
「わかりません。黙って帰りますもの」
「それじゃ困ります。どこのお人かたしかめましょう」
「でも、名前を言ってくれなかったら…」
「それじゃ、こうしましょう」
お母さんと、娘さんはひそひそと話しあいます。
「糸を長く通した針を、男の着物の裾につけるのです。糸は、くるくるとけるようにしておく
のですよ」
「はい」
「男に、知られないように針を刺すのです」
「はい。わかったわ」
「くれぐれも、気をつけて…」
娘さんは、お母さんに教えられたとおり男の着物の裾に針を刺しました。
翌朝、お母さんは娘の寝室から延びている糸をたどって行きました。
糸は、屋敷の外まで続いています。
そして、まだまだ長く延びているではありませんか。
田を越え、沼を越え、淵のなかへ入っています。
深い淵は、土路が淵です。
お母さんは、土路が淵の中をのぞきこみました。
すると、ぼそぽそと話す声が聞こえてきました。
「正体をさとられてしまったな。もう、通ってはいけないぞ」
「でも、娘の腹には子が宿っているワ」
色の白い男と思ったのは、土路が淵の蛇だったのです。
娘さんは、妊娠しているというのです。
それも、蛇の子を宿してしまったというので、お母さんはびっくりしてしまいました。
でも、お母さんは、あわてません。
なおも、聞き耳をたてていました。
「しかしな、人間というものは利口なものだ。菖蒲の酒を飲むと、子はおりてしまう…」
土路が淵の蛇の親子の話し声です。
お母さんはこれはいいことを聞いたと、いそぎ足で帰ってきました。
菖蒲の酒とは、五月五日の節旬の菖蒲を浸したものです。
同じように二月三日の、酒も効果があるといいます。

「お前は、たいへんなことになっています。はやく、菖蒲のお酒を飲みなさい」 
一ぱい、二はい、もう一ぱいと娘さんは菖蒲の酒を飲みました。
ほどよく菖蒲酒が身体にいきわたったころ娘さんは、お腹が痛くなりました。
つきあげてくるような、ものすごい痛さです。
痛さにうずくまっていた娘さんは、驚いなたことに蛇の子を産みました。
盥に、七たらい半、蛇の子を産んだのです。
蛇の子を産んだあと、娘さんはは亡くなりました。
もちろん、蛇の子も死にました。
  沼や淵の多い淵野には、娘さんのお墓がひりと建ててあります。
そして、節句の酒は、飲むものだと言い伝えられています。

                            北条令子 さぬきの伝説 より

短い夏の夜が、明けました。
今日も、朝からカンカン照り。
今年は、雨が少なかったというものの無事田植えもすませ、稲は見事に育っています。
でも溜池の水は、もう底をついてしまいました。
水不足で、田圃がひびわれはじめたところもあるといいます。
日照りの空を見上げて、人々はためいきをつきます。
「雨、降らんものかな。田圃が干上がってしまうワ」
「水がないから、稲の葉先が巻き上がってしまつた」
「井戸の水も、少のうなってしまつた」
「困ったものだ」
「雨雲は、どこにもないワ」
「お―い、お―い。おこもりすることになったぞ―」
「雨乞いのおこもりが、決まつたぞ」
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大水上神社の龍王淵に、おうかがいをたてることになったようです。
雨乞いの神さまの水上神社へ参籠することになりました。
神前で祈願したあと、龍王淵へ参ります。
老杉がおい茂った境内は、暑さをわすれさせてくれます。
でも、龍王淵の水はいつもの年よりこころなしか、水量が少な目です。

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龍王淵の水をすべて汲み出してしまい、淵の底にひそむウナギの色によって、雨うらないをしようというのです。
「ウナギが、黒なら、雨まちがいなし。ウナギが、白なら、まだ雨は降らないという、お告げ
なのだ。ウナギは、神さまのお使い姫さまだ」
「はっ―」
選ばれた男たちが、水を汲み出します。
日焼けした腕も背もあらわな男たちが、水を汲み出します。

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首すじにも、背中へも汗が流れ出ます。
淵の神水を頭から、ざ―ぶリーとかぶりました。
真夏の木もれ日がきらきらと水を輝かせ、淵の水はだんだん少なくなって来ました。
こんな作業が、どのくらい続いたでしょうか。
淵の底が見え始めます。
淵を取り囲んだ人々の目が、淵底の白砂に注がれました。
と、淵の底が、かすかに動いたようです。
声のないざわめきが、まわりから起きます。
あっ、また動きます。砂の中で、何かが動いています。
「あっ、お使い姫さまだ。お使い姫さまが、お姿を見せられた」
「黒だ、黒いウナギだ。お使い姫さまは、雨が降るとおつしゃっている―」

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お告げは、黒いウナギ。雨が降るといいます。
人々は大喜びです。
「雨が降る、稲に穂が出て、花が咲く。豊年じゃ、万作じゃ」
「これで、飲み水の不安もなくなった」
こんなお告げがあってから、ほどなく雨が降り出したのです。

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さて世の中には変わり者もいますし、 へそ曲がりもいます。
この、 へそ曲がりがこんなことを言います。
「なんだと、ウナギが黒なら雨、白だと晴、馬鹿、馬鹿しい。
そんなことがあるものか。
仕掛けがあるに違いない。ひとつ、俺が見破ってやろう」
と、こっそり龍王淵へやってきました。

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そして、水を汲み出しにかかります。
せっせと水を汲み出し、ひそむウナギを見つけました。
へそ曲がりは、大きな手を出してウナギを捕らえようとしますが、すらりと逃げてしまいます。
へそ曲がり、とうとう腹を立て、かっかとウナギの追っかけっこ。
水を、ちょろちょろ動かせては隠れてしまいます。
へそ曲がり男、気分が悪くなってしまいました。
お腹が痛くて痛くてたまりません。

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腹をかかえて家へ帰って来ましたが、とうとう寝込んでしまい起きることができません。
「めったなことはできんぞ、龍王淵のウナギは神さまのお使い姫だ…」
「あの男、ウナギを取りにいって腹が痛くなったそうな…」
「馬鹿だなあ…」
里の人々は、ひそひそとうわさをいたします。
でも、腹痛で寝ている男に同情はしませんでした。
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龍王淵はウナギ淵とも呼ばれ、現在も、山の清水を集めています。
いかにも、水上といった神淵なのです。


三頭峠の谷あいに、権兵衛さんと二人の娘さんが住んでいました。
権兵衛は、谷川の流れをせき止めて、田を造ろうと思うのですがなかなかの難工事です。
何度、造っても流されてしまいます。
「谷をせき止められたら、いいのになあ。
堤を築いてくれたら、わしの娘を嫁にやってもいい…」
権兵衛のひとりごとを、山の猿が聞いていました。
山の大猿が、聞き耳をたてていたのです。
大猿は、さっそく猿どもを呼び集めて堤を築きはじめました。
権兵衛がいくら努力しても築くことのできなかった堤を、大猿はこともなく成し遂げました。
ある夜のこと、権兵衛の家の戸をほとほとた たくものがいます。出てみると、大猿です。
「お約束のものを、いただきにきました」
「なに、約束とな…」
「谷をせき止めました」
「えっ…」
権兵衛は、びっくりしました。でも、谷をせき止め田ができるというのはうれしいことです。
あれほどの難工事を成し遂げてくれたのだから、約束は守らなければなりません。
さっそく、二人の娘に聞いてみました。
「堤を築いてくれたら、娘を嫁にやると約束をした。おまえ、猿の嫁さまになってくれるか」
「いやです。そんなこと絶対にいやです」
一番上の姉娘は、絶対にいやだといいます。
今度は、二番目の娘に聞いてみました。
「猿の嫁さまに行ってくれぬか」
「勝手に約束したのでしょ。私は知りませんわ。
猿の嫁さまなんて死んだって、いやよ」
二番目の娘も、死んでもいやだと、いいます。
二番目、末の娘に聞いてみました。
「猿の嫁さまに…」
権兵衛は、もうあきらめていました。
末の娘も、いやだというにちがいないと思っていました。ところが、
「お父さんが約束したのだから、私が嫁に行きましょう」
「なに、行ってくれるのか…」
「はい。持って行きたいものがありますから用意してください」
権兵衛は、涙を流してよろこびました。そして、末の娘が欲しいというものを整えました。
それは、水がめと綿。
綿を、水がめに詰めます。
それと、かんざし。きれいなびらびらかんざしを、髪にさして猿の嫁さまになるというのです。
婿殿の大猿が、嫁さまを迎えにやってきました。
末娘は、綿を詰めた水がめを婿殿に背負ってもらい、びらびらかんざしをゆらしてついてゆきます。大猿は、ふりかえっては嫁さまをたしかめます。
末娘は、にっこり笑っては花かんざしをゆらします。
山の風が、嫁入り唄を歌ってくれます。
谷の流れがきらきらとかがやき、小鳥たちも嫁さまの美しさに見ほれているようです。
山の道を登り、淵のほとりへ来かかりました。
末娘は、きものを直すふりをして、かんざしを淵へ投げこみました‥
「あ―れ、私の大事なかんざしが滞へ落ちました。早く拾っておくれ、早く、早く…」
嫁さまの悲鳴に、大猿は大あわて。嫁さまの大事なかんざしを、早く拾おうと淵へ飛びこみ
ました。水がめを背負ったまま、淵へ飛びこんだのです。水がめのなかには、綿がぎっしり詰
められているので、水を吸った綿はだんだん重くなってきます。
大猿は淵へ飛び込んだまま、いくら待っても姿を現わしませんでした。淵の流れの音は、いつもと同じように響いているのに、猿の婿殿は帰ってきません。
末娘は、ふたたび権兵衛の家へ戻ってきました。
でも、人々は、末娘のことを「猿後家」と呼びました。
三頭峠のあたりで、猿後家は住んでいましたが、現在はどこへ行ったのかわかりません。

琴南町史より

 三角は、するどい角をもった崖山がそそりたっているところから、名付けられました。三つの角を持った岩石の底を流れる渓流は、とびっきり美しく冷たい流れ、清らかな流れは、龍神さまもお好きと見え、三角の淵には、龍神社がお祀りされてあります。
さて、三角の地名は、かって「御門」とも「御帝」とも呼ばれていました。そして、「三霞洞」となり、現在は「美霞洞」。温泉は「三角の美霞,洞温泉」と呼ばれ親しまれています。
さて、この淵の話は数えきれないほどたくさんあります。
そのひとつ、三角の淵と大蛇のお話をはじめましょう。
むかし、戦国時代も終わりのころ、武田八郎という武士が、三角までやってきました。
そのころ三角の集落では、人々がおそれおののいていました。
淵の大蛇が、通行人や山里の人を襲うというのです。
武田八郎は大蛇の話を聞き、人々を苦しめる大蛇を退治しようと考えました。
山中の小屋にたてこもって、矢を作りはじめました。
ある日のこと、美しい女が訪ねてきました。
「矢を、作っているのですね。矢は、何本作るのでしょうか」
武田八郎は、あやしい女が来たものだと思いながら答えました。
「ああ、矢を作っている。ここは、女の来るところではない。早く帰れ」
「あの―、矢は何本作っているのですか」
女は、何度も聞きます。そこを、動こうともしません。
八郎は、少しめんどうになってきました。
「矢は、九十九本だ」
  八郎が答えると、女はどこへともなく姿を消してしまいました。
矢の用意が整ったので日も暮れてから、八郎は三角の淵へやってきました。
大蛇の現れるのを、待つつもりです。
草木も眠る丑三刻、なんともいえない生臭い風が吹いてきました。
淵の底から、ご―お―と音がしたかと思うと、淵の水が泡だちもりあがってきます。水しぶきがあがり、水が、あふれはじめます。
ものすごい音です。
もりあがった水の中から、なにかが迫ってきます。
武田八郎、弓に矢をつがえてよくよく見ると、
淵の真ん中に立ちあがった大蛇は、頭にすっぽりと鐘をかぶっているではありませんか。 
一の矢を、力いっぱい放ちました。
第二矢、第二矢、いくら矢を射ても、矢はカーン、カーンと、はねかえされてしまいます。
九十九本の矢は、たちまち射うくしてしまいました。
すると大蛇は、かぶっていた釣鐘をはねののけ炎のような舌を出して、武田八郎をひとのみにしようと襲つてきます。
八郎は、かくし持っていた一本の矢を必死で射ました。
矢は、大蛇の喉首を見事射ぬくことができました。
八郎は、矢を百本持っていたのです。
今まで盛り上がっていた淵の水が急に引きはじめ、
大蛇の姿は淵の底へ底へと沈んでいきました。

こんなことがあってから、三角の淵の大蛇は二度と人を襲うことはなくなりました。
人々に害を加えることがなくなったばかりか、逆に日照り続きの早魃の年には三角の淵の雄淵に筏を浮かべて雨乞いのお祈りをすると、必ず雨を降らせてくれます。
また、遠くの人たちは三角の淵へ、水をもらいにやってきます。
淵の水を汲んで帰り祈願をこめると、必ず雨が降りだします。
三角の淵は、雨乞いの淵としても有名になりました。

琴南町史より

2善女龍王4
 雨乞の竜として最も有名なのは、善如竜王です。無形文化財の讃岐の綾子踊り奉納の際にも「善女龍王」の幟を持った参加したことが何度かあります。しかし、その頃は「善女龍王」がいったい何者で、どんな姿をしているのかも知りませんでした。
 善通寺の境内を歩いていて善女龍王を祀る祠と池がある事に気付いてから、これが空海の祈雨祈願と密接に関係する神であることを知りました。そのことに付いては、以前にお話ししました。

2善女龍王 神泉苑2g

善如竜王は、空海が天長元年(824)に京都の神泉苑で祈雨を行った際に現れ、雨を降らせたとされ「空海請雨伝承」として伝わっています。
神泉苑-京都市 中京区にある平安遷都と同時期に造営された禁苑が起源 ...

 この話については、どうも後の「創作」と考える研究者の方が多いようです。その「創作話」が空海伝説とともに発展していきます。
 この話の中に登場する善如竜王が果たした役割としては、次の二点があります。
①善如竜王が棲む神泉苑が祈雨を行うのに最もふさわしい場所である
②空海が勧請した竜であることから、真言宗が神泉苑での祈雨に最も深く関わるべきである
 この話を聞くと、以上のふたつが自然に納得できるのです。そういう意味でも善如竜王は空海請雨伝承において、重要な役割を果たしています。

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 それでは、善女龍王とはどんな姿をしているのでしょうか?
分からなけば辞書をひけという教えに従って、密教学会編『密教大辞典』(法蔵館、1983年)で「善如竜王」を調べてみると、次のようにあります。
[形像]御遺告には、彼現形業宛如金色、長八寸許蛇、此金色蛇居在長九尺許蛇之頂也と説けども、世に善如竜王として流布せるものは女形にして、金色の小蛇を戴き宝珠を持てり。

とあり、『御遺告』には蛇の姿で表されているが、世に流布しているものは女形であると記されています。グーグルで「善女龍王」を画像検索すると、女性の姿で描かれているのが殆どです。ところが男性形のものも少数出てきます。2善女龍王 神泉苑g
 例えば、高野山に残されている平安時代後期作の善如竜王の図は、唐風の礼服姿の男神像です。ここからは善如竜王は次の3つの姿があるようです
①へび
②男性の唐風官人
③女性の龍女
いったい、どうして3つに描き分けられるのでしょうか。権現のように姿を変えるのでしょうか。そこがよく分かっていませんでした。今回は、そこを探ってみます

 空海の伝記類の中で初めて善如竜王が登場するのは『御遺告』のようです。
 (前略)従爾以降。帝経四朝 奉為国家 建壇修法五十一箇度。亦神泉薗池辺。御願修法祈雨霊験其明。上従殿上下至四元 此池有竜王善如 元是無熱達池竜王類。有慈為人不至害心 以何知之。御修法之比託人示之。即敬真言奥旨従池中 現形之時悉地成就。彼現形業宛如金色 長八寸許蛇。此金色蛇居二在長九尺許蛇之頂也。(後略)

 ここには祈雨祈願場所として神泉薗が聖地であることと、そこに住む善女龍王の姿は「八寸ばかりの金色の蛇で九尺ばかりの蛇の頭の上に乗っている」と記されます。ここには、人間の姿ではなく、男神・女神という表現もありません。つまり蛇なのです。
 この『御遺告』の記述が、その後の空海の伝記類にも受け継がれていきます。平安時代から江戸時代にかけて成立した数多くの伝記類のほとんどは、善如竜王の姿を『御遺告』の記述のままに受け継ぎます。『御遺告』が空海の遺言として信じられてきた所以でしょう。ここでは、伝記類には善如竜王は、蛇の姿として描かれていることを押さえておきます。
12世紀半ば頃に、善如龍王を男性として描いた絵図が現れます。


2善女龍王 高野山
高野山の善女龍王図 

これは高野山にある絵図で『弘法大師と密教美術』には、次のように解説されています。
冠をいただき唐服を着けた王族風の男性が、湧き上がる雲に乗る姿を描く。左手には火焔宝珠を載せた皿を持つ。その裾を見るとわずかに龍尾がのぞいており、空海と縁の深い善女竜王であると判明する。善女竜王図は、天長元年(824)空海が神泉苑において雨乞いの修法(ずほう)を行った際に愛宕山に現れたと伝わる。『高野山文書』の古い裏書によれば、本図は久安元年(1145)に三井寺の画僧定智によって描かれたことがわかる。
 
 12世紀の半ば頃には、高野山では善女龍王を男神として描くようになっていたようです。これは、雨を降らせる龍神(蛇)が権化し、人間に似た神として描かれるという変身・進化で真言密教の修験道僧侶の特異とするところです。この絵を掲げながら祈雨が行われたのかもしれません。
 この高野山の善女龍王の模写版が醍醐寺に2つあるようです。

2善女龍王 醍醐寺2
 
これが建仁元年(1201)の模写版です。
2善女龍王 醍醐寺22

上のもうひとつは、さらに模写し着色したものです。
50年前に絵仏師定智が描いた高野山の「善女竜王図」と細かい所まで一致します。ここからは、次のような事が分かります。
①それまで蛇とされていた善女龍王が12世紀中頃には、唐の官僚姿で描かれるようになった。
②醍醐寺は、高野山のものを模写したものを、無色版と着色版の2つ持っていた
どうやら醍醐寺でも祈雨は行われるようになっていたようです。 
2 清滝権現
善如竜王と密接な関係にあるのが、醍醐寺の清滝権現です。
『密教大辞典』の「清滝権現」には、次のようにあります。
 娑掲羅竜王の第三女善如竜王なり。密教に如意輪観音の化身として尊崇す。印度無熱池に住し密教の守護神たり。唐長安城青竜寺に勧請して鎮守とす、故に青竜と号せり。弘法大師帰朝の際これを洛西髙尾山麓に勧請す。海波を凌ぎて来朝せることを顕して水扁を加え清滝と改む。山麓の川を清滝川と名け地名を清滝と称するはこれに由る。(中略)
 其後聖宝尊師高雄より醍醐山に移す。故に小野醍醐の法流を汲む寺院には多く清滝権現を祀る。又醍醐山にては西谷に鎖座せしが、三宝院勝覚寛治二年山上山下に分祀す。(後略)

 最初に「娑掲羅竜王の第三女善如竜王なり」とあり、清滝権現は娑掲羅竜王の第三女であって、善如竜王と同体であるとされます。善如竜王と清滝権現は、「二竜同体」ということになるようです。長安の青竜寺の守護神であった青龍を空海が連れ帰り、高尾山に清滝と改名し勧進します。その後、醍醐山に移されたとあります。
ここで確認したいのは「善如龍王=清滝権現」ということです
 清滝権現の図像には四種類あり、その一つに先ほど見た高野山にある定智本善如竜王像、つまり唐風の礼服姿の男神像が示されます。つまり、善如竜王と清滝権現は図像の上でも同じ姿をとる「二竜同体」のようです。両者の関係は非常に密接であるとされていたことが分かります。
 しかし、このふたつの龍神の成立当初の伝承には、両者の関係は全く説かれていません。
 善如竜王の登場は、『御遺告』からです。その記事の中に清滝権現に関係するようなことは、一切書かれていません。 
下醍醐の清瀧宮 - 京都市、醍醐寺 清滝宮の写真 - トリップアドバイザー
上醍醐 清滝宮
 
清滝権現は、『醍醐雑事記』によると寛治三年(1089)に勝覚によって上醍醐の地に清滝宮が建立されたとあります。11世紀末の登場です。『醍醐雑事記』の清滝権現に関係する記事の中にも、善如竜王との関係は一切記されていません。
 このように、二竜の成立当初の伝承では、両者の関係は全く見られず、無関係の関係だったようです。それぞれ別個の竜として存在していたようです。それが、いつの間にか『密教大辞典』の記事のように、「二竜同体」となったようです。
 
なぜ善女龍王と清滝権現は一体化したのでしょうか
 善如竜王と清滝権現の同体視は、祈雨を通して行われたと研究者は考えているようです。祈雨を接点として両者が次第に接近し一体化したというのです。そこには、醍醐寺の祈雨戦略があったようです。
  醍醐寺が祈雨に関して「新規参入」を果たそうとします。しかし、当時の国家的な祈雨の舞台は空海が祈雨し、善女龍王が住む神泉苑が聖地でした。やすやすと醍醐寺が入り込む余地はありません。そこで醍醐寺は、次のような祈雨戦略活動を展開します。
①神泉苑から醍醐寺の清滝宮への祈雨場所の移動 
②善女龍王に変わる祈雨神の創造
この戦略を、どのように実行していったのかを見てみましょう。
醍醐寺で行われた祈雨を表にしたの下の図です。
2善女龍王 醍醐寺の祈雨g
これによると、醍醐寺での祈雨が初めて行われるのは寛治三年(1089)のことです。それまでは、空海が祈雨を行った聖地・神泉苑で行われていました。ところが院政期以降に、醍醐寺での祈雨の記事が見られるようになります。これは何を意味するのでしょうか?
  研究者は、醍醐寺が祈雨に「参入」しようとしているのではないかと指摘します。
醍醐寺での祈雨は、初め釈迦堂において行われています。それが大治5年(1130年)に、清滝権現を祀る清滝宮で行われるようになります。そして、それが主流となって定着していきます。
 その当時は、神泉苑が祈雨の聖地とされていましたから、そこへ醍醐寺が参入することは難しかったはずです。そういう中で、醍醐寺が独自性を主張していくためには、善女龍王に変わる新たなアイテムが必要でした。そこで新たに作り出された雨乞神が清滝権現だったのではないかというのです。しかし、まったく馴染みのない神では人々は頼りにせず不安がります。そこで、真言密教お得意の「権化」の手法が使われます。つまり、清滝権現は善女龍王の権化で、もともとは一体であるという手法です。こうして清滝権現は醍醐寺の新たな祈雨の神として、成長をしていくことになります。その成長を促すためには「清滝権現=善如竜王」の二龍同体説が醍醐寺にとっては必要だったと研究者は考えているようです。
 この二龍同体説の醍醐寺が創造したという裏付け史料は、例えば『醍醐寺縁起』の中の清滝権現に関わる部分です。『縁起』では、清滝権現を醍醐寺の本尊である准肌如意輪の化身とします。そして、醍醐寺を開いた聖宝の前に現れた最も重要な神として位置づけらます。しかし、この『縁起』の内容をそのまま史実として受け入れることはできないようです。その理由の一つとして、空海の帰朝の際に、青龍が唐の青竜寺からやって来たという伝承があります。しかし、これは空海の多くの伝記類には見られないものです。醍醐寺においてのみ唱えられた伝承のようです。空海が伝記の中でもっとも強く結びついている竜は善如竜王です。清滝権現の名前は、伝記にはありません。
 清滝権現を紹介する際に、よくこの『縁起』の内容が語られますが、これは後世に付け加えられた話と研究者は考えているようです。
2善女龍王男性山

 そして、もうひとつ重要なことは、この時点では清滝権現と善如竜王の両龍神たちは男神だったようです。先ほど見た醍醐にに残る善女龍王絵図を思い出して欲しいのですが、これは高野山のものを模写した男神姿でした。つまり、この時点では醍醐寺では、唐風の官僚姿の善女龍王を祀っていたのです。そして善龍王と表記されていたのです。
2「善」から「善女」へ
書物に登場してくる善女龍王の表記を見てみると下表のようになります。
2善女龍王の表記1
この表を見ると、平安時代末期までは、「善女」ではなく「善如」と表記されていたことが分かります。12世紀半ばの『弘法大師御伝』以後に、「善女」の表記が主流となっています。「善如」から「善女」へ変化したようです。最初は「善如」と呼ばれていたのです。
 どうして、「善如」から「善女」へ変わったのでしょうか
 その理由は、清滝権現がサーガラ竜王の三女とされることからきているようです。彼女は「竜女」とも呼ばれ『法華経』の「提婆達多品十二」に登場する竜女成仏譚で有名な竜女です。それまでの仏教界では、女性は五障の身であるために成仏できないとされてきました。そころが竜女は「変成男子=男子に変身」することによって成仏を遂げます。仏教に心を寄せた女性たちにとっては、この『法華経』の竜女成仏譚は、救いの道を示す大きな意味を持つ存在だったようです。平安時代末期の『梁塵秘抄』には。
  竜女も仏になりにけり、などかわれらもならざらん
と詠まれています。それほど竜女成仏譚が広く一般に広がっていたことが分かります。そのような中で、醍醐寺の密教僧侶たちは、竜女も善如竜王と清滝権現と権化関係の中に入れて同一視する布教戦略をとるようになったと研究者は考えます。
  善女龍王=清滝権現=竜女です。
そして最後に、権化した竜女は女性です。そうなると、三位一体同心説の元では、清滝権現も、善女龍王も女性であるということに自然となっていきます。それを醍醐寺は広めるようになっていきます。
以上をまとめておくと
①空海が神泉苑で善女龍王に祈雨し雨を降らせたという伝承がつくられた
②その結果、国家的な雨乞いは、真言密教が独占し、場所は神泉苑、祈りの対象は善如(女)龍王とされるようになった
③善如龍王は、もともとは小さな蛇とされていた
④それが12世紀半ばになると、唐風官人の男神として描かれるようになった
⑤さらに醍醐寺が祈雨行事に参入するようになって、祈雨場所を醍醐寺でも行うと同時に、新たな祈雨神として、清滝権現を創造した。
⑦醍醐寺は、清滝権現を善女龍王と二龍同体として売り出した。
⑧さらに、醍醐寺はふたつの龍王に「変成男子」の竜女も加えて同体視し、流布させた
⑥その結果、竜女が女性であるので、それまでは男性とされたいた善女龍王も清滝権現も女性化し、女性として描かれるようになった。

   前回は、国家による祈雨が天武朝から行われるようになったことを見てきました。そこでは、律令などの政治制度を取り入れる中で、国の祈雨祈願システムも整備されたことが見えてきました。
 ところで、当時の人たちは旱魃などの自然災害が、なぜ発生すると考えていたのでしょうか。今回は、その疑問を探って見ようと思います。テキストは「藪元晶 国家的祈雨の成立 飛鳥・奈良時代の祈雨 雨乞儀礼の成立と展開」です。

   持統天皇が亡くなった翌年の慶雲(けいうん、きょううん)2年のことです。
「慶雲」とは夕空に現れ瑞兆とされる雲で、大宝4年の持統天皇の葬儀の後に、この雲が藤原京の空に現れます。これを契機に改元されたようです。当時の政治情勢は、実際に施行されはじめた律令と、現実運用とのギャップが至る所から吹き出してきて不協和音を奏で始めていました。そのため現場に即した細則の必要性や令そのものへの改革が迫られるようになります。
 また、大宝3年(703年)から慶雲4年(707年)には連続的に飢饉が発生し、税体系の不備と重なって貧窮・没落する農民が急増しました。その救済策も求められます。
4月9日は何の日? | 神道の心を伝えるのブログ
 
このような中で文武天皇は、次のような詔勅を出します。
『続日本紀』慶雲二年(七〇五)四月三日の記事です。
 詔して曰はく、「朕非薄(ちんひはく)の躬(み)を以て、王公の上に託(つ)けり。徳、上天を感(うごか)し、仁、黎庶(れいしょ)に及ぶこと能はず。遂に陰陽錯謬(あやま)り、水旱(すいかん)時を失ひ、年穀登(みの)らず、民をして菜色多からしむ。此を念ふ毎に、心に闘但(いた)めり。五大寺をしてて金光明経を読み、民の苦しみを救ふことを為さしむべし。天下の緒国、今年の挙税(こぜい)の利そ収むること勿(なか)れ 併せて庸の半を減せ」
意訳すると前半部で
「自分は非薄の身で王位にあるが、その徳は天帝の心をうごかすことも、その仁は民に及ぼすこともできない。ために凶作をまねき、民に飢者が多い。それを思うと悲しみにたえない」

とあります。つまり、水旱の発生を自分の不徳に原因があるとしています。そのための対応策として、五大寺に金光明経を輪読させ、民の苦しみを救うと共に、本年度の租税免除と庸の半減を打ち出しています。
元正天皇 - Wikipedia
元正天皇 美貌の女帝と称される
 
続いて元正天皇は、続日本紀』養老六年(722)七月七日の詔勅で、次のように述べています
  詔して曰はく「陰陽錯謬(あやま)り、災旱(さいかん)頻(しきり)に至りぬ。是に由りて幣(みてぐら)を名山に奉りて、神祇を尊祭す。甘雨降らず、黎元業を失へり。朕が薄徳、此を致せるか。百姓何の罪ありてか、樵萎(ぞうふ)すること甚しき。天下に赦して、国郡司をして審(つばい)らかに冤獄を録し、屍(かばね)を掩ひて荷(死体)を埋み、酒を禁めて屠(ほふ)りを断たしむべし。高年の徒には、勤めて存撫を加へよ。(中略)」とのたまふ。

意訳すると
 旱魃に対して、祈雨の奉幣を各地の名山に奉ったが雨は降らない。これは私の徳が薄いことによるのであろうか、百姓には何の罪もないとして、国司や郡司にたいして、特赦の実施を命じています。さらに、死体処理や高齢者慰撫など具体的な指示も出しています。
 ここでも、天皇の薄徳が旱魃の原因ではないかと考え、その対策として大赦等を行っています。

 このように、天皇の不徳によって水旱の災が生じるという記述が、持統亡き後の天武朝の天皇たちには見られるようになります。これは聖武天皇にも引き継がれ、その打開策として鎮護仏教導入政策をとり
東大寺・国分寺造営に繋がっていきます。

藤原不比等 | 奈良偉人伝 | 奈良県歴史文化資源データベース「いかす ...


「旱魃=天皇の不徳」とする認識は、どこからきたのでしょうか?
どうやらその源は、中国のありそうです。『後漢書』「粛宗孝章帝紀第三」の五年(八〇)甲中条には、旱魃に対する皇帝の対応が次のように記されています。
 詔して曰わく「「春秋」に麦苗無しと書するは、之を重んずればなり。去秋、雨の恵みは適わず、今野亦旱(ひでり)し、炎の如く焼くが如し、凶年は時無く、而して備えを為すこと未だ至らず。朕の不徳、上は三光を累わせ、震慄とうとうとして心を痛め首を病む。前代の聖君、博く思いて、災の咎めを降すと雖も、即ち函を開いて風を返すの応有り。今、予(われ)小子、徒に燦々たるのみ。其れ二千石をして牢獄を理(おさ)め、五岳四徳及び名山の能く雲を興し雨を致す者に祈って崇朝ならずして、遍く天下に雨ふらすの報いを蒙らんこと請願わしめよ。務めて粛敬を加えよ」

とあります。この後漢の孝章帝の詔の中には、旱魃の発生を「朕の不徳」とする言葉があります。そして、その対策として、裁きを公正にし天下の名山や五岳などで祈雨を行うよう命じています。このような記事は、当時の中国の史書には数多く見られます。当時の日本は
「政治的には律令、宗教的には鎮護仏教、文化的には漢字」
を移植させる「中国化政策」が、国策として展開中でした。そのような「中国ブーム」の中で天皇のブレーンも、唐から帰国した人たちが多くなります。自然と中国の史書の表現を手本にして、公文書や詔勅も作られるようになります。中国の皇帝思想も、ストレートにそのまま文章化されたようです。
 この時期、天皇が中国思想に大きく傾倒している様子は、『続日本紀』和銅八年(七一五)六月十二日の条にも見えます。
ここには、中国の故事が紹介され、中国の皇帝が旱魃に対して熱心に関わっていたことが紹介されています。そして、諸社奉幣の後に数日を待たずして雨が降ったことから
「時の人以為へらく、聖徳感通して致せるなりとおもへり」
と記します。天皇の徳が天帝に通じて雨が降った、と人々が理解していると記されています。ここにも儒教の徳治主義思想がもてはやされ、全面的に受け入れられようとしている姿がうかがえます。同時に「先進国中国」への強い憧れのようなものが感じられるのです。

 水旱の原因を天皇の不徳とする見方も、中国伝来のようです。
 しかし、お上は「旱魃=天皇の不徳」を「公式見解」としていたかもしれませんが、当時の庶民感覚と一緒だったとは云えません。それは明治の文明開化を先導する西欧帰りの福沢諭吉と庶民の意識の差に似ているかもしれません。そして、奈良時代の終わりになると「旱魃=天皇の不徳」説を原因とする記事は激減します。まるで、一時的なブームであったかのように・・・。
    
  「旱魃=天皇の不徳」説に代わって登場してくるのが、神の崇(たたり)とする考えです。

「旱魃=神の祟り」説の記事は、紀記にはありません。これの初見は『日本紀略』大同四年(809)七月三日の次の記事です。
遣使於吉野山陵(井上内親王)。掃除陵内、
併読経 以几旱累旬山陵為也。

 井上内親王の吉野山陵に使いを遣わし、陵内の掃除と読経を行わせたとあります。その理由は旱魃が長期間にわたっているのは、山陵が崇をなしているからだろ云うのです。
 これ以後、旱魃を神の崇とする記事が増えます。20年ほど後の天長九年(832)5月19日には、『釈日本紀』に次のようにあります。
  令卜巫充旱於内裏。伊豆国神為崇

旱魃の原因を内裏で占わせたところ、伊豆の国の神が崇をなしていることが判明しているというのです。
『続日本後紀』承和八年五月十二日の条には、
「旬にわたって雨が降らないので、崇ではないかと占わしたところ、山陵に遣わせた例の貢ぎ物がなされていないことによる崇であると結果が出た。また、香椎廟も同じく崇をなしているという卜が出た。驚いて調べさせると、所司が言うには、去年よりこの二年間荷前を安易に陵戸人にさせたので、きっと供えていないこともあったであろうということである。今、恐れかしこまって先々そのようなことがないようにして奉ります。香椎廟にも専使を遣わせて謝罪します。和気真綱を遣わせて謝罪し祈願しますので、お聞きになって直ちに甘雨を降らせていただきますように慎んで申し上げます」
とあります。
   以上のように、平安時代になると、旱魃を崇によるものとする記事が増えます。それまでは国家の公式見解としては、「旱魃=天皇の不徳」説がとられてきました。ところが「崇」へと急速にシフトしていくのです。その背景には何があったのでしょうか?
それをある研究者は次のように説明します
 平安時代になって、急に墳墓(山陵)の崇りを云うようになって来た。(中略)皇太子(平城天皇)による病気の原因が崇道天皇の崇りであるといったのは「卜」であった(793年)。柏原山陵の崇りを指摘したのも「卜」であり(806年)、大極殿失火のことをいったのも「卜」であった。
 そうすると、神祇官の下で出された「卜」による山陵の崇りに苦しめられた天皇の姿がここにあるということになるであろう。このような点から見るとき、荷前制は神祇官を掌握した人の嵯峨天皇・淳和天皇、引いて空海らへの攻撃であったということになるのではなかろうか。
 神祇官によって「卜」という形で、山陵の崇が作り出されるようになったと研究者は考えているようです。さらに視野を広げると、この時期に登場する崇(たたり)事象は、旱魃だけでなく、天皇の不徳を始めとして、地震・災異・火災などいろいろなものに及んでいます。それらの崇事象は、宝亀年間(770~)頃から増えているようです。そこには、卜部の組織化を行った大中臣清麻呂の姿が垣間見えると云います。彼が、権力闘争の道具として神祇官の卜部による亀卜をもとに崇現象を広めたという見方ができるようです。
 ともかく、旱魃も含めてさまざまな災の原因を崇によるものとする考えが、奈良時代末から平安時代にかけて、神祇官によって増幅させられたようです。その流れの中で、旱魃原因も崇によるものとされるようになっていったのです。
そんな中で注目されるのが、『続日本紀』天平宝字七年(763)九月一日条の記事です。
 勅して曰わく「疫死数多く、水旱時ならず、神火屡至(しばしばいた)り、徒(いたずら)に官物を損ふ。此は国郡司等の国神に恭(うやうや)しからぬ咎(とが)なり(中略)」とのたまふ。

 ここで初めて災害の発生を「国郡司等の国神に恭しからぬ咎なり」という新しい見解が出されています。これは「災害を加えているのは、天帝でなく国神」という新見解です。それまでは「咎」といえば、中国風に天帝によるものとされてきたのです。中国の「天人相関思想を、そのまま受けいれる形で「旱魃=天皇の不徳」説として、公式見解としていたことは先に見た通りです。このような流れの中に「国神に恭しからぬ咎」説が登場してきます。これは視点を変えると、土地神に対して国司や郡司が十分に祭らなかったために起こった災害ということになります。もう少し進めるとこれは崇現象に近づいていきます。つまり国神による崇とも云えます。同時に視点を変えると「天皇の不徳による旱魃」説から天皇は解放されることになります。朝廷にとっては、魅力的な説であったかもしれません。   
以上をまとめておくと
①奈良時代は中国の影響を受けて「旱魃=天皇不徳」説が国の公式見解となっていた
②奈良時代の終わり頃から神祇官によって「旱魃=崇」説が広まられようになる
③これは権力闘争の道具としても使われ、神祇官の地位の向上につながった。
④結果的に平安時代を通して祈雨祭祀に関わる人たちが重視されるようになった
⑤その後には、旱魃が崇によるものかどうかを卜う卜占に、陰陽寮も参加するようになる
  このような動きは陰陽道に仕える人たちの社会的な「地位の向上」をもたらしたことは、容易に想像ができます。

  旱魃の際に、丸亀藩が善通寺に対して雨乞祈願を命じています。藩の正式な命を受けて、善通寺は雨乞祈祷を行っています。そのことを最初に知ったときには不思議に感じました。なぜなら雨乞いは旱魃に苦しむ庶民が自発的に、村々で行うものという先入観が私にはあったからです。
 しかし、考えて見ると王権と治水灌漑が密接な関係にあったことは中国の禹伝説に見る通りです。治水灌漑を行い、水をコントロールし、それを水田に提供できる者が「治者」として、支配の正当性を得てきました。そこからは
「水を治めるものが、国を治める」
という概念が生まれます。
 江戸時代の讃岐生駒藩で、大干ばつが頻発し、藩政が危機的な状況に陥ったときに、その保護者であった藤堂高虎が命じたことは大規模なため池を各地に作らせることでした。難局打開のために藩が汗を流している姿勢を見せ、そこに百姓を動員し関わらせることによって藩内の求心力の核を作り出そうとする政治的な思惑もあったかもしれません。ため池築造や河川工事のために藤堂高虎が派遣していた西嶋八兵衛は、その際に「禹」碑を建立しています。ここからは藤堂高虎や西嶋八兵衛にも「水を治めるものが、国を治める」という統治意識が心に刻まれていたことが分かります。
 しかし、ため池ができても、水は確保できるとは限りません。
雨が降らなければ、貯めようがないのです。雨を降らせる力も王たる者には求められたようです。王は「レインメーカー」であり、雨を降らせる能力を持つ者こそが,王権を維持できたと云えるのかもしれません。そして、古代国家の成立と共に、王の呪術的力による雨乞いから、国家による組織的な雨乞いへと変化、成長するようです。今回は、その過程を見ていこうと思います。
 テキストは「藪元晶 国家的祈雨の成立 飛鳥・奈良時代の祈雨 雨乞儀礼の成立と展開」です。

旱魃そのものが『日本書紀』に記載されるは、推古天皇36年(628)のことです。その四月の条に、次のように記されています。
  春より夏に至るまでに、旱(ひでり)す。
 この記事の後は、舒明天皇八年(636)・皇極天皇元年(642)と連続して見られます。舒明天皇八年の条には、
  是歳、大きに旱して、天下飢す。
とあり、皇極天皇元年六月の条には、
  是の月に、大きに旱る。
とあります。そして、この年の7月に初めて祈雨の記事が登場します。大化の改新の直前になって、国家にとっての異常気象や災害の意味を受け止め、記録しようとする意識が形成され始めたようです。
祈雨の初見記事である皇極天皇元年(642)の記事を見てみましょう。7月から8月にかけてのことです。
 秋七月(中略)戊寅に、群臣相語りて曰はく、
「村村の祝部の所教(おしえ)の随(まま)に、或いは牛馬を殺して、諸の社の神を祭(いの)る。或いは頻(しきり)に市を移す。或いは河伯(かわのかみ)を祷る。既に所敷(しるし)無し」といふ。

7月の末から雨が降らず旱魃が続きます。そこで、まず群臣が神祇的な方法でいろいろと祈雨を行います。 祈雨のために民衆がどんなことをやっているかを見てみると
①村々の祝部の教えるところに従って、牛馬を殺して諸社の神を祀ったり、
②何度も市を移したり、
③河の神に祈ったり
しています。その方法は、中国の史書に出てくる祈雨と、殆ど同じのように思えますが、ともかく神に対していろいろな方法で祈雨を行っています。しかし、効果がありません。
   蘇我大臣報(こた)へて曰はく、
「寺寺にして大乗経典を転読みまつるべし。悔過すること、仏の説きたまふ所の如くして、敬びて雨を祈(こ)はむ」といふ。庚辰(27日)に、大寺の南の庭にして、仏菩薩の像と四天王の像とを厳(よそ)ひて、衆の僧を屈(いや)び請(ま)せて、大雲経等を読ましむ。時に、蘇我大臣、手に香炉を執りて、香を焼きて願を発す。辛已(28日)に、微雨ふる。壬午(29日9に、雨を祈(こ)ふこと能はず。故、経を読むことを停む。
続いて、蘇我大臣蝦夷が「寺寺に命じて大乗経典を転読」させるという仏教的な方法で降雨祈願を行います。その結果、わずかに雨は降りますが、水不足解消には至りません。そこで女帝皇極天皇の登場です。

 八月の甲申の朔(一日)に、天皇、南淵の河上に幸して、脆(ひざまづ)きて四方を拝む。天を仰ぎて祈ひたまふ。即ち雷なりて大雨ふる。遂に雨ふること五日。溥(あまね)く天下を潤す。或本に云はく、五日連に雨ふりて、九穀登り熟めりといふ。是に天下の百姓、倶に称万歳びて曰さく、「至徳まします天皇なり」とまうす。
 
そこで、皇極天皇が南淵の河上で祈雨を行うと、たちどころに5日間にわたり雨が降り、水不足は解消します。これに民衆は「至徳まします天皇なり」と、讃えたというのです

 ここには、蘇我蝦夷が行うと小雨で、天皇が行うと大雨という対比の仕方から、天皇の呪力の方が蝦夷の呪力よりも勝っていたことを伝えることに書紀の重点は置かれているようです。
そのことを配慮しながら焦点を当てたいのは、祈雨行為を誰が行っているかです。
 祈雨は、どうも群臣がそれぞれ別個に行っているようです。祈雨について話し合われた場には、群臣が集まり、蘇我蝦夷もいます。ここは朝議の場のようです。そこで「群臣相語りて曰はく」と、政権要人たちがそれぞれに自分の所で行った祈雨についての報告をしているシーンととれます。朝議で、祈雨のことが話されているとしておきましょう。これは旱魃への対応(=祈雨の実施)が国の政治的な検討課題となっていることがうかがえます。
 この記事からは、朝廷が音頭を取って祈雨を行っているようには見えません。
群臣たちがばらばらに、それぞれの神々に対して祈雨祈願(祭)を行っているのです。このようなあり方が、この時期までの国家の祈雨のあり方であったと研究者は考えているようです。
敗者の日本史(蘇我蝦夷) - 慶喜
 それに対して、国家的見地に立って祈雨を行おうとしたのが蘇我蝦夷です。
 彼は、寺々に大乗経典を転読させています。いかにも、仏教を重んじた蘇我氏らしい方法です。ここにある寺々というのは、豪族たちの建てた氏寺を含めてのことでしょう。それらの寺々に対して、具体的な祈雨の方法を命じて行わせている様子が見えてきます。別の視点から見ると、蝦夷は国家レベルでの祈雨を計画し、自分がその主導者として命じているように思えます。古代国家体制の構築を推し進める蘇我氏らしい対応です。蝦夷が実際に、自分自身で香炉を手にして祈雨を行ったかどうかは別にして、蝦夷が国家レベルでの祈雨を命じる立場にあったことはうかがえます。
皇極天皇|乙巳の変、譲位、重祚を経験した歴史上2人目の女帝 | 歴代天皇
 最後に、皇極天皇が登場し祈雨を行います。
 その方法は、天皇自らが南淵の河上で四方拝を行っています。
 実は、この時点で天皇が行える祈雨の選択肢は、あまりなかったようです。仏教的な方法は、蝦夷がすでに行っています。天皇が普通に神を祀るのであれば、それは天皇家が私的に祈雨を行っていることにしかすぎません。後世に見られるような諸社に奉幣するという形での祈雨も、この時代には不可能だったようです。なぜなら、当時の豪族たちは、自分の支配する地域に対して絶対的な宗教的権威を持っていました。そこへ奉幣するということは、一種の宗教的な介入ともなりかねません。この段階でそこまですることは無理と研究者は考えているようです。
 そうすると選択肢は、次のふたつしかなかったようです。
①中国風の方法をとるか、
②あるいは神祇的でも特異な方法をとる
 そこで皇極天皇は「四方拝」というスタイルで、自分自身で祈雨祈願をおこなったようです。
お伊勢さん&出雲さんへ行かれる方へ<新・皇室入門>どうぞ!ご参考 ...
蝦夷と皇極天皇のやり方を比べると、蝦夷が国家が命令を下す形で組織的に祈雨を行おうとしたのに対して、皇極天皇の動きは個人プレー的な傾向が強いように思えます。大王が自ら天に祈るというのでは、卑弥呼の時代と変わりません。
 紀記の中には、扶余の国の話として、旱魃で五穀の実らないのは王の咎であるとして、王を取り替え、あるいは、王を殺そうとしたと記されています。ここからは
①大王にも、レインメーカーとしての性格が備わっていた
②祈雨祈願の霊力を持たない王は「革命」されたり、殺された
ことがうかがえます。
もし、大王が祈願し雨が降らなければ、どうなるのでしょうか?
大王の威信は落ち、面目は丸つぶれです。国家の安泰を図るためには、大王自身が祈雨するのは、避けなければならない時代がやってきていたのです。そのためのシステム作りが課題であったはずです。
 その政治的な課題を蝦夷は認識していたとも考えられます。これは、当時の両者の置かれた政権内部での位置とも関係するのかもしれません。国家的祈雨への動きは、蘇我氏の主導で進められていたようです。
 国家的祈雨の成立
   テキストでは次に、日本書紀に見える異常気象の略表を示します。
一番左欄の○が旱魃が記された年、◎が祈雨が行われたことが記された年です。
2番目欄は祈雨の効能で、△が少々の雨、△(内側に○)が大雨、3番目欄は、その他の天候です。

2  古代祈雨年表

先ほど見た642年に行われた「皇極天皇の祈雨祈願」は、○→◎と示されます。これが書紀の最初の祈雨祈願行事になります。これ以前の推古朝から旱魃や霜・大風など天候異変の記事が数多く記録されていることが分かります。テキストは、この期間を「第1グループ」としています。
 しかし、第1グループの後30年ほど旱魃などの天候不順記事は見られなくなります。この空白期は、何を意味するのでしょうか?
 この期間は、霖雨についての記事が二例ばかりあるだけで、旱魅についての記事がありません。この時期には旱魃が起こらなかったのでしょうか? それはないでしょう。
第ニグループの天武朝・持統朝の約30年間には、20件以上の祈雨を行っているのです。この当時は旱魅に悩まされていたことがうかがえます。謎の空白期にも、旱魃には見舞われていると考えた方が自然です。
 なぜ日本書紀には「異常気象」が書かれなかったのでしょうか?
考えられることは2つです
①『日本書紀』の編纂段階で、この期間だけ故意に旱魃の記事を省いた
②『日本書紀』の編纂に用いた原史料に、この時期の旱魃の記事がなかった
①について、中国では天候不順は、皇帝の支配力のなさを示すもので「革命」の要因とされました。大化の改新クーデターの正当化のために、天候不順記事をその前に並べることで、蘇我氏政権を否定的に示そうとしたのかもしれません。そして、中江大兄の権力掌握後には、天候不順記事を減らしたというのは考えられることです。この期間にには霖雨の記事が2つあるだけです。

 ②については、①と関連して、天智天皇の記録者たちが旱魅の記事を記録していないために、書紀編纂者は、書こうにも書けなかったのかもしれません。第一グループと第ニグループの間の空白期間は、旱魃も含めて異常気象に対する記録化の態度が弱まっていたようです。
歴代天皇 40代天武天皇 │ Susanoo
天武天皇

 天武朝以後の神祇的祈雨は?
 表を見ると第ニグループになると、旱魅と祈雨の記事が急激に増加します。同時に、その他の天候についての記事も増えています。この時期は、異常気象全般に対しての問題意識が高まってきたことがうかがえます。
   その中でも、特に増えているのが旱魅と、その対応です。
表を見ると、この期間23年間の内の半分を超える14年に旱航や祈雨の記事があります。そして、以前とは違って、旱勉の記事があれば必ずそれに対する祈雨の記事があるという風にペアになっています。それとは逆に、旱魅の記事は漏れていても、対応策としての祈雨の記事のみが記されていることも増えます。
 ここから考えられることは、旱魅が起こった場合には、必ず国家としてその対応策として祈雨を行うようになったことがうかがえます。つまり、国の政治的行為としての祈雨が確立したと研究者は考えているようです。このような祈雨を国家行うようになるのは、この図からは天武朝の第2グループの時期からのようです。
祭りのすがた、人のすがた / 戸畑祇園大山笠

それでは、どんな方法で祈雨を行っていたのでしょうか。
第2グループの祈雨の記事初見は、天武天皇五年(676)です。
 是の夏に、大きに旱(ひでり)す。使を四方に遣して、幣帛(みてぐら)を捧げて、諸の神祇に祈らしむ。亦諸の僧尼を請せて、三宝に祈らしむ。然れども雨ふらず。是に由りて、五穀登(みな)らず。百姓飢ゑす。
 ここでは、諸神に奉幣するとともに、僧尼が三宝に祈るという方法をとっています。
ところが、翌年の天武天皇六年の五月になると、
   是の月に、旱す。京及び畿内に(あまごい)す。
 というように、「零」という文字が使われるようになります。「零」とは、中国で雨乞をさす言葉だそうです。残念ながら、それらのいずれも「零」の一文字なので、具体的な祈雨内容は分かりません。『続日本紀』になると、表現に変化が現れます。文武天皇二年(698)五月一日の条に、
  諸国旱(ひでり)す。因て幣帛(みてぐら)を諸社に奉る。

 とあり、諸社に対して奉幣を行うという具体的な行為が記されます。表現はいろいろと変わりますが。行われていた祈雨行為は、奉幣という形で祈雨が行われていたと研究者は考えているようです。
御幣の奉製 - 座間郷総鎮守 鈴鹿明神社ブログ「社務日記」
幣帛(みてぐら)

 この諸社奉幣というスタイルは、以後何百年と続いていくオーソドックスな方法です。これは祈雨だけでなく、さまざまな祈願の場でなされるものです。しかし、記録としては天武天皇五年が初見で、それ以前には見られないようです。このことから、諸社奉幣というスタイルは、天武天皇五年前後に、初めて登場したものと研究者は考えます。
北海道の神社の歴史 - Wikiwand
 さらに問題となるのは、「諸社奉幣」です。
「奉幣」そのものは以前から見られる祭祀方法の一つですから抵抗はなかったでしょう。しかし、「諸社」に奉幣するのは、問題が多かったようです。諸社ということになると、天皇家が祀る神々だけでなく、有力豪族が祀る神々も入ってきます。国家が各豪族の祀る神々に対して、直接的に奉幣使を遣わして神を祀るということは、ある意味で、各豪族の持つ祭祀権をゆさぶりかねない行為です。重大な宗教的介入と反発する豪族もいたはずです。そういう影響力を考えると「諸社奉幣」は、重大な政治的意味と背景をもって成立したと研究者は考えています。
 その背景に国家による強力な政治的・宗教的主導権の発揮がなくてはできないことです。
 天武朝というのは、それが行われるにはふさわしい時期です。天武朝は、壬申の乱によって畿内の有力豪族の勢いが後退し、相対的に天皇の地位が高まった時です。天皇による専制的な政治が実現した時期に当たります。この時期に、国家による祈雨祈願は、「諸社奉幣」という形で成立したとしておきましょう。まさに、律令的な国家体制へと向かおうとする時期の所産とも言えるようです。ここには、大化クーデター前の皇極天皇のように天皇自らが祈雨を行う姿はありません。天皇が祈願の主体者であることには変わりはありませんが、神祇的な制度の上で神々に祈願を行うようになっています。天皇の持つ個人的な霊力に、頼る必要はなくなりました。祈雨がシステム化されたと云えます。レインメーカーとしての、天皇の役割は終わりを告げたのです。同時にそれが古代における国家祈雨の始まりだったようです。
 これが生駒藩が善通寺へ祈雨祈願を行うように命じることへと繋がっていくようです。
参考文献 藪元晶 国家的祈雨の成立 
     飛鳥・奈良時代の祈雨 雨乞儀礼の成立と展開」