瀬戸の島から

カテゴリ:善通寺と空海 > 第十一師団物語

11師団の成立過程を追いかけています。今回は、次の2点に絞って「善通寺陸軍病院」を見ていこうと思います
①「おとなとこどもの医療センター」の原型が、どのようにしてつくられたのか
②設立されたばかりの病院が日露戦争に、どのように対応したのか
テキストは「陸軍の病院から国立善通寺病院ヘー善通寺衛戊病院の移り変わリー  善通寺市史NO3 602P」です。

まず11師団の各隊の供用年代を下表で確認しておきます。
十一師団建築物供用年一覧


表の一番最初に「丸亀衛戌(えいじゅ)病院」明治30(1897)年7月5日と供用開始年とあり、明治37(1904)4月1日に善通寺衛戌病院と改称されたことが記されています。衛戍とは、軍隊が駐屯することを表す法律用語で、英語のGarrison(駐屯地)の訳語になるようです。
11師団配置図
⑨が善通寺病院 ⑩が練兵場

善通寺師団の創設決定が1896(明治29)年に決定されると、その7月に病院用地として伏見に27000㎡(8100坪)の土地⑨が買収されます。病院建物については、政府は各営舎が出来た後に着手する予定でした。しかし、「兵士入隊後では不都合」と軍の方から突き上げられて、着工が決まります。そのためか用地もすこし奥まった伏見の地が選ばれます。そして翌年の1897(明治30)年4月着工し、7月には、善通寺丸亀衛戍病院の名称で開院することになります。これは建物の一部だけだったようで、11月に第一病棟、翌年に、さらに土地を買収して35000㎡(10700坪)となり、二病棟、炊事棟が完工。1899年に2階建の本館、被服庫、平屋の三病棟、五病棟、病理試験室等が姿を見せ、病院としての体裁をととのえていきます。
「善通寺陸軍病院(伏見分院)」と名称変更。(昭和初期の絵葉書)
善通寺衛戍病院
当時の陸軍病院の建物設計については、陸軍軍医部によって定められていた「鎮台病院一般の解」という設計基準書があったようです。これに基づいて、日本陸軍工兵第三方面(隊)が、軍医部やフランス軍事顧問団などから助言を受けながら設計していたようです。
現在明治村に一部が移築されている「旧名古屋衛戍病院」(1877年竣工)について、研究者は次のように述べています。

名古屋衛戍病院(明治村)
名古屋衛戍病院(明治村)
  管理棟と病棟に共通する仕様は、切石積の基礎、木造大壁造漆喰塗、寄棟桟瓦葺、上げ下げ窓、病室の四周を囲む回廊付き、である。漆喰壁の下地は名古屋鎮台歩兵第六聯隊兵舎と同様に木摺り斜め打ちで、一部に平瓦が張られて下地となっている。
管理棟正面には、桟瓦葺で緩い起(むくり)破風の玄関が突き出され、玄関の柱はエンタシスのある円柱である。広い玄関ホール中程から板床に上がり、その高さのまま各室、中庭の回廊へ連絡している。管理棟内には、医局、薬剤室、理化学研究室などがあった。背面回廊に面する窓は引き違いである。
名古屋衛戍病院病棟(明治村)
名古屋衛戍病院の病棟
病棟は寄棟屋根に換気用の越屋根を載せる。病棟外部回廊の大半は創建当初吹き放ちの手摺付であったが、後に改造され、ガラス入り引違い戸が建てこまれている。換気装置は病棟内の天井に畳2枚ほどの広さの回転板戸があり、開けると、越屋根までの煙道が通る仕掛けである。病室の外壁下部に床上換気口があって、病室内と外部回廊の通気を行うことが出来る。
中庭を囲む渡廊下、各病棟四周の回廊は、全て独立基礎に木柱を立て、木造高床桟瓦葺で、低い手摺が付いている。調査によれば、創建工事の際、竣工直前まで手摺を付ける計画はなかったが、或る軍医の提案により、全ての回廊と渡廊下に手摺が設置された。渡廊下の屋根は病棟や管理棟に比べ一段と低い。(西尾雅敏)
善通寺衛戍病院についての史料は、あまりないようです。名古屋衛戍病院を見てイメージを膨らませることにします。

十一師団 陸軍病院
衛戍病院の建物群
日露戦争による負傷兵に、どのように対処したのか
出来上がったばかりの衛戍病院は、平時は患者も僅かで静かな所だったようです。ところが設立7年目にして、その様子は一変します。日露戦争が勃発したのです。善通寺からも多くの兵士達が戦場へと出兵していきます。そして、負傷者が数多く出ます。病院では、開戦後4ヶ月後の6月10日に初めて戦地からの戦傷患者を受けいれています。その後も旅順の203高地をめぐる戦闘で、患者はうなぎ登りに激増し、五棟あった病棟はすぐに収容人数をオーバーします。記録によると1904(明治37)年12月13日の収容忠者数は6498名となっています。これだけの負傷者を、どのようにして受けいれたのでしょうか?
善通寺陸軍病院分室一覧
分院や転地療養地の一覧(善通寺市史NO3)

 これは増設(=分院建設)以外にありません。師団の各連隊で利用できる空地が選ばれて、そこに仮病棟が次々と建てられていきます。これを分院と呼びました。増設された各分院を見ておきましょう。
①第1分院    被服庫(四国管轄警察学校)に8病棟
②第2・3分院  練兵場西側(おとなとこどもの医療センター)
③第4・5分院  丸亀市城東町の練兵場(丸亀労災病院)
④伝染病隔離病棟 四国少年院西北の田んぼの中
以上で急造の病棟は114棟になりますが、それでも負傷者は収容しきれません。そこで、「転地療養所」が琴平・津田・塩江などの神社、寺院、民家等を借りて開かれます。琴平を見ると、現在の大門から桜の馬場にかけての金毘羅さんの広大な寺院群が崇敬講社になっていましたが、利用されていいない部分がほとんどでした。そこが宮司の琴綾宥常の申し出でで、「転地療養所」として活用されたようです。
善通寺地図北部(大正時代後期)名前入り
練兵場(=おとなとこどもの医療センター + 農事試験場)

練兵場に建てられた「第2、第3分院」は、どんなものだったのでしょうか。
「分院」建設地として目が付けられたのが練兵場でした。こうして練兵場に「善通寺予備病院第二・三分院」が建てられ、使用が開始されるようになるのが日露戦争中の1904(明治37)年9月2日のことでした。第二分院の概念図を見てみましょう。

善通寺陸軍病院 第2分室
         善通寺予備病院第二分院の概念図(1905年)
敷地の西側(左側)を流れているのが弘田川になります。位置は練兵場の南西隅にあたり、現在のおとなとこどもの病院の南側にあたります。回廊で結ばれた病棟が「10×2=20」建ち並んでいたことが分かります。これが第二分院ですから、もうひとつ同じような規模の第3分院がありました。

善通寺陸軍病院 第2・3分院
 第2分院の西側に第3分院が建てられます。

おとなとこどもの医療センターの新築工事の際に、発掘調査が行われました。その時に、第3分室の18病棟と、炊事場跡がでてきています。炊事場跡のゴミ穴が見つかり、そこからは軍用食器・牛乳瓶などが数多く出ています。
善通寺陸軍病院 第2分室出土品


牛乳瓶(2~4)2は胴部外面に「香川懸牛乳協合」「第六彊」「森岡虎夫」「電話善通寺一二四番」と陽刻され、背面には「高温」「殺菌仝乳」「一、人扮入」、頚部には「1.8D.L.」と陽刻されています。王冠で栓がされたままのものも出てきています。佃煮瓶(1)には、胴部外面下部に「磯志まん」の陽刻があります。負傷兵には牛乳が毎日出されていたこと、それを飲まずに廃棄していたものもいたようです。
分院の建物はどんな構造だったのでしょうか?
善通寺陸軍病院 第3分室 病棟柱穴跡

 発掘調査からは、礎石立ちの掘立柱建物が出てきています。永続的なものではなく、臨時の仮屋としての病棟だったことがここからもうかがえます。これが分院の病棟跡だったようです。
 ここで注意しておきたいのは、この2つの分室は、永続的なものではなかったことです。「臨時の分院」ということで、戦後の1906(明治39)年には閉鎖・撤去されます。下の写真は、昭和初期の練兵場を上空から撮ったものです。
十一師団 練兵場(昭和初期)
昭和初期の練兵場航空写真(善通寺市史NO3)
練兵場は「現在のおとなとこどもの医療センター + 農事試験場 + その他」です。その範囲は東が中谷川、西が弘田川、北西部は甲山寺あたりまでの30㌶を越える広さでした。ここで押さえておきたいことは、昭和初期には練兵場には病院はなかったということです。
それでは練兵場に再び病院が姿を現すのは、いつなのでしょうか?
それは1936(昭和11)に日中戦争勃発以後のことです。上海事変などで激戦が続き、負傷者が増大します。それを伏見の病室だけでは収容しきれなくなります。
十一師団西側
歩兵隊跡=「護国神社+乃木神社+中央小学校+西中・旧西高」

そこで最初は、中央小学校講堂に収容します。しかし、学校施設をいつまでも占有するわけにもいかず、歩兵連隊が徳島に移った後の兵舎を代用病室とします。それでも間に合いません。日露戦争の時と同じような状況がやってきたのです。このような中で事変がはじまって3か月後の9月には、再び練兵場に分院を建築することになります。各地から大勢の大工が集められ昼夜をとおしての突貫工事で分院建築がはじまります。こうして年末には、練兵場に17棟の病棟が再び姿をあらわします。残り半分の17棟や衛生部員の兵舎、倉庫などの付属建物が完成するのは1928(昭和13)年5月1日でした。こうして日露戦争後に撤去された分院が、24年ぶりに練兵場に姿を見せます。今度は「善通寺陸軍病院臨時第一分院」と呼ばれることになります。

善通寺陸軍病院 分院宛手紙
善通寺陸軍病院第1分院宛に宛てられた父親からの手紙
消印は昭和13年で12月18日、第23病棟の第1号室宛てになっている。
善通寺陸軍病院への手紙
第1分院の規模は次の通りでした。
病院敷地    129495㎡(39241坪)
病棟数       34棟
一箇病棟面積  683㎡(207坪)
伏見の本院と併せて、3500名の入院患者を受けいれることになります。これが戦後の善通寺国立病院となり、現在のおとなとこどもの医療センターへと発展していくことになるようです。
以上をまとめておくと
①十一師団設置の際に、師団の付属病院である「衛戍病院」が伏見に建設された。
②日露戦争の際には、約1万人の負傷兵を受けいれるために、各地に分院を建てて対応した。
③練兵場西南部にも、第2・3分室(計38病棟)が建てられたが、日露戦争後には撤去され更地なり、再度練兵場の一部として使用されていた。
④日中戦争勃発後の負傷者激増に対応するために、再び練兵場には大規模な分室が建てられた。
⑤この分室は、戦争の長期化とともに撤去されることなく戦後を迎え、善通寺国立病院へと姿を変えていく。
⑥「こども病院」へと特化した伏見の本院と、統合され現在はおとなとこどもの医療センターへと成長した。
⑦その際の発掘調査から弥生時代から古墳時代にかけての遺物が大量に出てきて、この地が善通寺王国の中心地であったことが分かった。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
善通寺陸軍病院 伏見

参考文献
    陸軍の病院から国立善通寺病院ヘー善通寺衛戊病院の移り変わり
                                                              善通寺市史NO3 602P

  庵治町の文化財協会の人達をご案内して、以下のコースを巡ってきました。
大墓山古墳→宮が尾古墳→偕行社→、騎兵連隊跡の四国学院→乃木館→赤煉瓦倉庫→善通寺→農事試験場に残る出水群→宮川製麺

空海につながる佐伯直一族、旧練兵場遺跡群、近代になって片田舎だった善通寺村が大規模な軍都に瞬時に生まれ変わる様を、今に語る建物群など見てまわったことになります。
 お話をした後で、気になったことがあったのでバスを見送った後に、図書館で善通寺市史NO3を借りだして家で開いて見てみると、十一師団設置に関する3枚の地図や航空写真が挟まれていました。今まで見ていた善通寺市史にはなかったので、私にとっては始めて見るものばかりです。今回は、それを紹介しようと思います。
善通寺航空写真 1922年11月
陸軍統監部飛行隊撮影の善通寺市街地と十一師団
まず、「大正十一(1922)年十一月 統監部飛行隊調整」と書かれた航空写真です。これはこの年に善通寺周辺で行われた陸軍大演習用に、陸軍が作成したもののようです。練兵場が臨時の飛行場となり、演習のために飛行機が善通寺にもやってきていたようです。その時に撮られた写真を貼り合わせたもののようで、一部整合性に欠けます。分かりやすいように朱色で各隊の位置を書き込んでみました。
 師団設置が決まって、すぐに行われたのは用地買収だったことは以前にお話ししました。それは、次のようなプランで進められます。
①駅前から善通寺東院の南大門の前まで一直線に線を引いて、駅前通りを造り、
②その南側を約200m幅で買収。
③善通寺南大門から南へ道を作り、その両側約300mを買収
④そこに各連隊や部隊を配置していく
この配置については、早い段階から決まっていたと思っていました。ところが今回見つけた善通寺市史NO3の地図には、明治29年に書かれた次のような配置図案があります。
十一師団 遊郭用地

これを見ると各連隊の設置場所と、完成時のものを比べると次のうな点がちがいます。
11師団配置図

 現在地                  M29年度案     実際配置
①四国学院                 砲兵隊          騎兵隊
②護国神社・消防署・施設隊    練兵場          歩兵・兵器敞
③自衛隊                          歩兵 隊        山砲隊
この案では、練兵場が②の砲兵隊と歩兵隊の間に予定されています。練兵場を別の所に、取得するつもりはなかったようです。その後、この案では練兵場は狭すぎる、もっと広い場所が必要だという陸軍からの要望・圧力を受けて、現在の農事試験場や善通寺病院に別個に練兵場を設置することになったことがうかがえます。その結果、駅から一番遠くに設置予定であった騎兵隊が①の四国学院の地に変更され、後は玉突き的に動いたことが考えられます。

11師団配置図 遊郭
遊郭用地予定地が書き込まれた地図(明治29年)
 もうひとつ気がついたのは、この地図には香色山北側の麓に赤く塗られたエリアです。
よく見ると「遊郭用地壱万五千坪」と読めます。師団設置が決まるとと同時に、遊郭設置もその計画書には書き込まれているのです。旧日本軍が「娼婦を連れた軍隊」と云われることに納得します。善通寺はここに遊郭が設置されることには反対はしなかったのでしょうか? 反対しても、それが聞き入れられることはなかったかもしれません。

航空写真を拡大して各連隊を見ていきます。
11師団 航空写真 偕行社~騎兵隊
11師団各連隊の拡大写真
駅前から西に真っ直ぐ伸びる駅前通りの北側は、旅館やお店の小さな屋根が密集しているのが見えます。師団設置決定から2,3年で田んぼだった所が市街地になりました。
駅から順番に西に向かって各隊を見ていきましょう。
①駅前には旧河道跡が見えます。
かつて金倉川支流は、尽誠高校あたりからこの流路を通って北流していたことがうかがえます。
偕行社と北側の出水
偕行社南側 出水があったことがわかる (1922年陸軍大演習)

偕行社の裏側(南側)にみえるのは出水だったことが写真からも確かめられます。また、偕行社前には、師団全体の水源となる出水があったようです。この伏流水の豊かさが善通寺へ師団設置の要因の一つであったことは以前にお話ししました。偕行社の東側の女学校は、現在の善通寺一高になります。

偕行社航空写真1922年
②輜重隊は正面付近は、現在の郵便局で記念碑が建てられています。その背後は、自衛隊の自動車教習コースと市営団地になっています。現在は道を挟んで東中学があるあたりになります。ここもかつては河原跡で、掘ったら川原石が一杯出てくるそうです。生野町一帯は、氾濫原で水持ちが悪く水田化は遅れたようです。この時代も尽誠高校当たりまでは、森が続いていたという記録もあることは以前に紹介しました。
11師団 騎兵隊

③現四国学院は、かつての騎兵隊があった所です。
東側に並んでいるのが馬舎群で、ここに軍馬が多数飼われていたようです。馬舎といっても丈夫で立派な建物なので、「庶民よりいい建物に、陸軍さんの馬は飼われている」と云われた代物です。四国学院も設立当初は、教室に改造して使用していたと聞いています。広い乗馬場で、ロシアのコサックと戦うための訓練がされていたのでしょう。①・②と番号を打った建物のうちで②の建物が現在でも残されています。四国学院の短大の施設として利用されていた2号館です。
DSC05070
四国学院2号館(旧騎兵隊兵舎)
この2号館は、国の登録文化財の指定を受けたルネッサンス様式の数少ない軍の建物です。
十一師団西側

善通寺の南側にあった歩兵隊については、1920年代の国際協調・軍備縮小の機運の中で廃止されます。その跡地には、現在は次のようなものが建っています。
東側に護国神社と乃木神社
西側に中央小学校
南側に旧善通寺西高校・善通寺西中学校
11師団配置図 兵器敞

歩兵隊の南側は兵器敞(部)で、航空写真からも大きな倉庫が建ち並んでいるのが見えます。
この内で残っている赤煉瓦倉庫が①②③の3棟です。明治末から大正時代にかけて建てられたもので、幅14m×60mの2階建ての大型倉庫です。

DSC05162
兵器敞跡の赤煉瓦倉庫

分からないのは、工兵隊の隣の工兵作業場です。
ここでどんな訓練が行われていたのか、またその道を挟んで北側の「陸軍監獄」というのが今の私にはよく分からないところです。今後の調査対象としたいと思います。
HPTIMAGE
1920年代の十一師団配置と善通寺市街
航空写真は、そこに建っていた建物までみえてくるので、各隊の雰囲気まで伝わってきます。練兵場については、また別の機会にお話ししたいと思います。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献

    善通寺11師団 地図明治39年説明
 第十一師団配置図
十一師団の建築物めぐりの続きです。前回は①偕行社 → 四国学院内の騎兵連隊の②兵舎・③本部を見てきました。今回は、④乃木館と⑤兵器敞倉庫を見学します。
1896(明治29)年、第11師団の司令部設置が善通寺村に決定します。早速に用地買収が進められ、建造物工事が行われ、下表のように供用が開始されます。

ここでは同時に数多くの建物が着工して、善通寺は建築ラッシュであったことを押さえておきます。乃木館は、十一師団の司令部だった建物で、12月1日に師団司令部が開庁しています。
11師団司令部開庁通知
乃木第十一師団長本月二十八日早朝     
着任来ル十二月一日師団司令部開庁
相成候此段及御通牒候也
    明治三十 年十一月一十五日
門手続きを済ませて、門から貝塚の植えられた長いアプローチを進んで行くと司令部の建物が迎えてくれます。竣工直前の写真と比較しながら見てみましょう。
11師団司令部.(善通寺市史)
 旧十一師団司令部庁舎(現乃木館)

 写真は、完成間際のもののようで、よく見ると車寄ポーチがまだありません。屋根を見ると四つの越屋根がついています。これは雨漏りの原因として、後に撤去されたようです。外観で変わっているのは、ここだけです。石柱はありませんが三角ペディメントは、ここにも登場します。当時の師団建築物はルネッサンス様式で貫かれています。

11師団司令部
戦前の十一師団司令部
 先ほど見てきた四国学院の騎兵連隊本部と比べて見ると、規模が大きく重厚な感じがします。偕行社の軽やかな感じとも違います。司令部として雰囲気を感じます。
  10月号特集企画】乃木館の魅力 - 善通寺市ホームページ
乃木館のケヤキの正面階段
 屋根と内部に少しの模様替はありますが、玄関正面の欅の大階段をはじめ、廊下、天丼、壁、建具はすべて建築当初のものです。屋根裏の合掌材や垂本は腐食しておらず、桧の棟木札もはっきりと読み取れると報告されています。棟札には次のように記されています。

十一師団司令部棟札
乃木館の棟札
中央上部 第十一師団司令部
右側   明治三一年四月一日着手
左側   同年十一月三〇日竣工
下部には、
右から建築請負人・九亀町(市)材木商水長事、
         小野長吉  
   担当人   木下幾治郎 
と記されています。地元の丸亀市の請負人の手で建設されたことが分かります。明治31年4月1日に着工して、その年の11月30日に竣工しています。 当時は、十一師団の建物の建築ラッシュでした。
そのため司令部等の建物は人札しても予算が超過し、再入札随意契約となりました。そのような経過を経て、丸亀の業者が落札したようです。
 建築資材は多度津港に陸揚げされて鉄道で善通寺駅まで運ばれます。そこからは荷馬車などに頼ったようですが、これが馬車や人夫不足でボトルネックになって資材が現場に届かず、工事は遅れます。そこで対応策として、9月になると善通寺駅から各隊建築の現場に軽便鉄道を走らせることになります。司令部の工事が本格化したのは、軽便鉄道によって資材運搬等が容易となってから以後でした。工期に間に合わせるための突貫工事が続いたようです。

陸上自衛隊善通寺駐屯地資料館 - Wikiwand
現在の乃木館 
この建物は、敗戦後は郵政省簡易保険局が使用していましたが、1961(昭和36)に陸上自衛隊に移管されました。旧陸軍の師団司令部の建物が、そのまま自衛隊が使用しているのは、善通寺駐屯地一カ所だけのようです。
乃木館 ~ 陸上自衛隊善通寺駐屯地にて: 答えはひとつじゃない! by あおき工場長
乃木館の師団長室
  記念館の2階にある師団長室は、乃木資料室になっています。ここが1番人気のようですが、それ以外にも旧第十一師団関係の資料が陳列されています。

十一師団配置図3
師団司令部の前が兵器敞

 乃木館を出て西側にあるローソン前の信号機の前まで行きます。
ここは善通寺のビューポイントのひとつです。赤煉瓦の倉庫と善通寺の五重塔が見えます。
DSC05065
赤れんが倉庫の向こうに五重塔
ここから善通寺の南大門に向けては、「ゆうゆうロード」と名付けられた整備された歩道が続きます。そぞろ歩きには最適です。

IMG_8746

 この左手に広がるのが善通寺自衛隊の中核施設第一キャンプです。
この区画は、第十一師団が善通寺に設置された際に、丸亀にあった野戦砲兵聯隊が移転してきた処です。それが1922(大11)年に、山砲兵第十一聯隊と改称されます。砲兵には、野砲・重砲・臼砲・迫撃砲・機関砲・速射砲などの大隊小隊がありました。
 戦後、警察予備隊が創設されると、善通寺町はすぐに誘致運動を始めます。ここには旧十一師団の広い敷地がそのまま残っていたので、四国駐屯地はこの旧山砲兵聯隊跡に決定し、ここが陸上自衛隊善通寺駐屯地となりました。この西側の住宅地から四国少年院にかけては 工兵第11大隊があった所です。

ローソンの前が自衛隊の施設隊です。
ここは兵器敞のあったところで、赤煉瓦の倉庫が三棟残っています。
完成した年代を見ておくと、次のようになります。
①一番手前が1909年(明治42年)
②その北側が1911年(明治44年)
③その横の東西方向のものが1921年(大正10年)
これらはどれも2階建ての赤レンガ造りで、明治期の①②は幅14m×奥63m、大正期の③は幅14m×奥90mの細長い倉庫です。設計者の名前は分かりませんがドイツ人技師とされ、屋上の○型と△型のモニュメントは、銃の「照門」と「照星」を表しているようです。
赤れんがの屋根
       銃の照準モニュメントが載っている屋根
ここで押さえておきたいのは、兵器敞の赤煉瓦倉庫は、11師団設立時にはなかったということです。完成年を再度確認すると、日露戦争が終わって数年経ってからのことです。確かに乃木将軍の陸軍大臣の現状報告書には、次のように記されています。
七、新設兵営官衛及病院等ノ構築未夕概ネ半途ニシテ就中兵器支廠及火葉庫ノ如キハ未夕着手ニモ至ラス。練兵場及小銃射撃場ノ開設ハ各兵ノ教育ヲ快キ土エニ従事セシメ、高知二於テハ僅二之ヲ使用シアルモ丸亀衛成即チ善通寺屯在部隊二於テハ射撃教育ノ為メニハロ々殆ド一里ヲ隔ツルノ地二往復スルノ止ムヲ得サル現況ナリ。同所練兵場ハ附近人民ノ篤志二依り四千九百七十人ノ補助工カヲ以テ今日使用シ得ルニ至レリ
意訳変換しておくと
七、新設の兵営や病院の建物については建設途上である。その中でも兵器支廠や火薬庫に至っては着工にも至っていない。練兵場や小銃射撃場の開設については、各兵の教育訓練のために不可欠であるが、高知では一部が使用出来るようになった。しかし、善通寺屯在部隊では射撃教育のために一里(4㎞)離れた射撃場に往復しなければならないのが現況である。練兵場については周辺住民約5000人を動員して整備し、使用できるようになった。

 ここからは乃木希典の時代には、兵器敞や火薬庫はなかったことが分かります。この3つのレンガ倉庫が善通寺に姿を見せたのは明治末から大正にかけてのことで、約110年前のことになるようです
十一師団 レンガ倉庫
           建設中の兵器庫
建設途中の兵器庫の写真を見ておきましょう。
①手前に、運ばれてきたレンガが積み上げられている
②足場が組まれて壁のレンガが組み上げられ、屋根の瓦葺き作業にかかっている
③後に筆の山(?)が見えているので、建物の向きが東西方向である。
ここからは、この写真は1921(大正10)年に建てられた最後の倉庫であることが分かります。
大正10年に建てられた一番大きな倉庫
この倉庫は、外からは見えにくいので見逃してしまいがちですが、長さが90mもある一番大きな建物です。そのため建物の強度を図る工夫がいろいろなところに施されていて、他の2棟とは細部が異なっているようです。
  道路際の2棟を近くから見て驚くのは、その大きさと堅牢な造りです。
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屋根は切妻造の瓦ぶきで、天井は高く屋根裏もある2階建てす。屋根裏は当時の最新設計の合掌造りで、構造は煉瓦造りです。
DSC05166

長さ60mを超える壁には全部で100ヶ所前後の縦長の窓があり、花崗岩のひさし台と鉄製の両開きの扉がついています。それぞれ微妙に異なるデザインも見所のようです。道路に面した2棟は同規模・同規格で造られています。これは各地に建てられた旧軍の煉瓦倉庫と共通点が多く、当時の標準規格に基づいて設計されたものと研究者は考えています。
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私が気になるのは、この倉庫に使われた赤煉瓦がどこで作られたのかです。
 「観音寺の財田川河口に創立されたレンガ工場で作られたものが、船で多度津に運ばれてきた」と以前に聞いたことがあります。そのレンガ工場とは、1897(明治30)年に創業した讃岐煉瓦です。確かに、丸亀の連隊の他に瀬戸内海沿岸や大坂などに煉瓦を供給しているようです。

丸亀連隊兵器庫基礎
 丸亀連隊兵器庫の基礎

丸亀市役所南館の建設の際に出土した遺構からは、丸亀連隊の兵器庫の基礎が出てきています。ここには観音寺の讃岐煉瓦刻印の煉瓦が使われています。丸亀に引き続いて、善通寺の兵器倉庫にも使用されたことが考えられます。しかし、善通寺の煉瓦倉庫からこの印のある煉瓦が使われているとの報告書は私は読んだことがありません。未だに状況証拠のみです。
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ゆうゆうロード
 赤煉瓦倉庫の周辺には桜、「ゆうゆうロード」には銀杏などの街路樹が植えられ、反対側には中谷川の流れを利用した水辺の歩道が続き、気持ちのよい散歩道です。この道を五重塔めざして歩いていくことにします。次の目標は善通寺東院です。
十一師団工兵隊工事完成M31年

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。


   ある町の文化財保護協会を案内して、善通寺の遺跡や建物を巡ることになりました。そのために今までの史料や写真を再構成して説明パンフレットらしきものを作っておくことにします。それを資料としてアップしておきます。事前に読んでおいてもらえれば、当日の説明がよりスムーズになるという思惑もあるのですが・・・。それは参加者に重荷にならない程度にと思っています。
 さて今回は、十一師団が善通寺に設置されるまでの経緯と、今に残る師団関係の建築物についてです。
 日清戦争後に、次の日露戦争に備えて軍備増強が求められます。その一環として四国にも師団が設置されることになります。それまでの師団は、広島や姫路、熊本など大きな城跡が選ばれています。ところが讃岐では、丸亀城も高松城も飽和状態で大規模な師団設置はできませんでした。そこで白羽の矢が立ったのが善通寺です。当時の善通寺は小さな門前町で、市街地もなかったことが次の地図からはうかがえます。
善通寺村略図2 明治
十一師団設置前の善通寺村略図
なぜ善通寺に師団が置かれることになったのでしょうか。
 担当者の頭の中にあったことを想像すると次のようになります。
①次の戦争は大陸でおきる。迅速な軍隊の移動のために、近代的な港と鉄道が整備されていることが必須条件だ。香川県NO1の港湾施設は多度津港だ。多度津港と鉄道で結ばれているのは善通寺だ 
②善通寺には多くの出水があり、豊富で清潔な飲料水が確保できる
③周囲には演習地として利用できる五岳・大麻山が隣接してある
これは善通寺市かない。
というところでしょうか。
 ちなみに師団建設に使われた煉瓦は、観音寺の財田川河口に新設された工場で焼かれ、船で多度津へ輸送され、そこから列車で善通寺に運ばれています。当時の輸送が、海運と鉄道に依存していたことがよく分かります。

善通寺11師団 地図明治39年説明
1907年の善通寺
1896(明治29)年、第11師団の司令部設置が善通寺村に決定します。
担当者がまず行ったのは、用地買収です。第1次計画として善通寺駅前から善通寺南門までまっすぐに線を引いて、この線から南の幅約200mのゾーンを買収していきます。今回見学する偕行社から四国学院、そして乃木神社・護国神社のゾーンです。この結果、地元で起こったのは地価の高騰でした。香川新報(四国新聞の前身)には、次のように報じています。(現代文意訳)

1次買収の総買収面積は「百八町八反五畝二十五歩」(一町=約0.991㌶)である。(中略)もともと田地は一反70円の相場があったが、(師団設置が決まると)300円まで上がり、最近では700円という有様である

 地主によって売り惜しみが横行し、地価が10倍近くまで高騰したようです。さらに2次計画が進んだ1898(明治31)年には、1800円までにうなぎ登りに上がっていきます。いつの時代もそうですが土地買収で大金を手にした地主達が大勢現れました。彼らの中には、駅前通の北側に店を出して新たな商売をはじめ者が出てきます。また、あらたな「市場」に、琴平などから移ってきたり、支店を構える者も現れます。特に駅前通には、ずらりと旅館がならんだようです。
 各連隊の工事が一斉に始まると、3000人近くの工事関係者が全国からやってきました。師団が出来ると四国中から新兵が入隊してきます。それを見送るための家族や妻も善通寺にやってきて宿泊します。旅館はいくらあっても足りません。

善通寺駅前の旅館

         駅前通りの北側にあった旅館

わたや・広島屋・山下屋・朝日屋・吉野屋・万才屋・高知屋・塩田旅館・大見屋などの第十一師団指定の旅館が並び、各地から面会に来る大勢の家族が利用しました。また召集のかかった時などは、旅館だけでは間に合わず近くの間数の多い家に割当られました。
善通寺駅前通りの店
駅前通りの店
 さらに11師団の兵士総勢は1万人とされました。彼らの食べる食材などを準備する店も必要です。こうして、それまで田んぼが広がっていた駅前通の南側には11師団の軍事施設が並び、その反対側の北側には、師団へのサービスを提供する様々な店が並び、たちまちの内に市街地が形成されていったのです。それまで3000人少々の門前町が、軍人と住民を併せると2万人を越える「大都会」に成長するのは、あっという間でした。善通寺は師団設置の大建築ラッシュで、短期間で大変貌したことを押さえておきます。
こうして1897(明治30)年には、第一期工事として、次の各営舎が完成します。これらの配置関係を地図で確認しておきましょう。

11師団配置図
①偕行社(1903年)     北側は出水で水源 
②輜重兵第十一大隊(1898年)  現郵便局・免許コース
③騎兵第十一連隊(1897年)   四国学院・裁判所
④歩兵第四十三連隊(1897年)  護国・乃木神社・中央小
⑤兵器敞                               現自衛隊
⑥山砲兵・歩兵第二十二旅団司令部  現自衛隊
⑦工兵第十一大隊(1898年)    アパート
⑧第十一師団司令部(1898年)一部警察学校
⑨伏見病院
⑩練兵場           農事試験場+善通寺病院
十一師団建築物供用年一覧
 これらの建物の完成を待って、十一師団は開庁されます。多度郡善通寺村に送られた通牒には、次のように記されています。

11師団司令部開庁通知

乃木第十一師団長本月二十八日早朝     
着任来ル十二月一日師団司令部開庁
相成候此段及御通牒候也
    明治三十 年十一月一十五日
①初代師団長は乃木希典で、28日早朝に着任すること
②明治31年(1898)12月1日師団司令部が開庁すること
そして12月8日に、丸亀の東練兵場で閲兵分列式が行われたようです。
そして、1920年代になると各隊の配置は、つぎのようになります。
HPTIMAGE
1921年最新善通寺市街図(善通寺市史NO3)

善通寺十一師団の現在に残っている建築物を巡っていきます。
旧善通寺偕行社|スポット・体験|香川県観光協会公式サイト - うどん県旅ネット

まず訪ねるのが①の偕行社です。
偕行社とは、陸軍の将校の親睦共済団体です。「偕行」とは「一緒に進む」という意味で「詩経」に出てくる言葉のようです。将校の社交場として建てた建物も偕行社と呼ばれました。師団の置かれたところには、どこにもあったのですが、残っているのは現在では6ヶ所だけです。朝ドラのカムカムエブリボデイの中で、岡山の偕行社が出てきて、話題になっていました。岡山の偕行社は、十七師団の偕行社として1910年に建てられたものです。善通寺の方が7年早いことになります。改修されて重文に指定されていますが、その方向は「地域の社交場」として活用しながら残していこうというコンセプトのようです。ここでも喫茶レストランが新たに増築されています。また、会合などにも貸し出されています。今回は、ここで昼食です。

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偕行社正面 ルネッサンス様式のポーチ
 19世紀のヨーロッパはナポレオン3世に代表されるように、ルネサンス様式が大流行した時代です。それが明治期のこの国にも、このような形でもたらされます。正面中央に車寄せのポーチがあります。これがこの時期の西洋建築物のお約束です。見て欲しいのは、このポーチの柱です。当時、コンクリートはまだなかったので、石柱です。ドーリア(ドリス)式角柱で三角ペディメントを受けています。古代ローマは、ギリシア建築をコピーして、ペディメントのある建築を作りましたが、それが19世紀のルネッサンス様式に当然のように取り入れられます。現在のアメリカのホワイトハウスも、この様式です。しかし、西洋風はこの部分だけ、窓などは洋風ですが、屋根には瓦が載っています。これを「和洋折衷」と云うとしておきましょう。

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偕行社裏側(南側)
南側に廻ってみると、印象は大きく変わります。屋根が日本的な印象を与えてくれます。そしてホールから芝生広場にはテラスを通じて、そのまま下りていけます。運用面でも工夫が見られます。

偕行社平面図
偕行社平面図(建設当初)

    中に入ってみると、明治時代にタイムスリップしたような気分になれます。廊下や窓、照明など、随所に明治時代の趣ある装飾がみられます。最大の見どころは大広間。高い天井に大窓が並ぶ開放的な空間で、舞踏会や社交クラブなどかつてここで開かれたという説明に納得します。
偕行社と市役所
新善通寺市役所と偕行社

善通寺市は、新しい市役所を偕行社の西側に建設しました。
偕行社を目玉にして、善通寺をアピールしていこうとするねらいがあるようにも思えます。新市役所の2Fは図書館で、広いテラスがありくつろぎスペースにもなっています。外部の人も自由に利用できます。
偕行社2
市役所2Fの図書館テラスからの偕行社
ここに置かれた椅子に座って、偕行社の建物を上から眺めて楽しむことも出来るようになりました。
図書館より輜重
善通寺図書館西側の窓際からの眺め
 図書館西側は「五岳の見える窓際」です。ここからは11師団の輜重隊や騎兵隊・歩兵隊跡を眺めることができます。私は郷土史コーナーの「持出禁」の本や史料を、ここで読んだりしています。いろいろなイメージが広がって、私にとっては楽しいお勧めの空間です。

善通寺航空写真(戦後)
戦後直後の善通寺航空写真

     次に訪ねるのが四国学院大学のキャンパスです。
 それを戦後直後の航空写真で見ておきましょう。
善通寺の背後にあるのが霊山の五岳で、その盟主が我拝師山です。その霊山に東面して建てられているのが善通寺であることがよく分かります。この位置は、古代以来変わっていません。善通寺の南門の南側から真っ直ぐに東に伸びているのが駅前通です。この南側に十一師団の各連隊が設置されていたことがよく分かります。今から目指すのは四国学院です。ここには騎兵11連隊が置かれていて、軍馬がたくさん飼われ訓練されていた所です。この写真の護国神社の東側が騎兵連隊です。拡大して見ましょう。
善通寺騎兵隊 拡大
騎兵隊周辺(現 四国学院)
  現在は駐車場となっている東側に馬舎が4棟、その南側と西側に乗馬場が広がっています。護国神社側に西門が見えます。騎兵隊本部は、このあたりにあったようです。そして、さきほど見た2号館も見えます。2棟あって、そのうちの東側の1号館は、後に取り壊されたようです。もう少し後の別の角度からの写真も見ておきましょう。
騎兵連隊跡 四国学院

この写真を見ると、四国学院の東隣にあった輜重隊には自動車学校のコースが作られています。そして4棟あった馬舎は姿を消して陸上コースになっています。
それでは2号棟を見に行きましょう。
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2号館の正面です。
私は、学校の木造校舎に正面ポーチがつけられたというイメージがします。先ほど見た偕行社の入口の顔と比べてみてください。長い2F建ての木造に瓦の屋根が載ります。
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「4本のドーリア(ドリス)式石柱が支える三角ペディメント」というルネッサンス様式は、お約束のようにここでも見られます。

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偕行社は三角柱でしたが、ここでは立派な円柱の石柱です。これは塩飽の広島産と聞いていますが確かな史料は私は知りません。「この柱一本で、普通の家が一個建つ」とも云われたようです。公的な建物としての威風を生み出しているのかもしれません。

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 香川県で84番目の登録文化財になっています。

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正面の入口ポーチを取り去ってしまえば、どこか戦前の木造校舎にも見えて来ます。このような公的な大型建物がモデルとなって、後に中学校や小学校の木造校舎に「転用」されていくのかもしれません。

もうひとつここには、騎兵連隊本部として使われていた建物があります。
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                         騎兵連隊本部だったホワイトハウス
我拝師山をバックに背負って、白く輝いています。今はホワイトハウスと呼ばれています。小さくても「三角ペディメントと車寄席」という様式は踏襲されています。
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2F建てで、少し華奢な感じもします。ここは本部でも事務方の建物だったようです。

ホワイトハウス
旧騎兵連隊本部と図書館の間の道付近が旧南海道(推定)
ちなみに隣にならぶのが図書館です。この間を抜ける道附近に、古代南海道跡が通っていたことが発掘から分かっています。讃岐富士の南側、現在の飯山高校北側から真っ直ぐに我拝師山にむけて伸びているようです。この南海道が最初に測量・建設され、それを基軸に丸亀平野の条里制は整備されていきます。空海(真魚)も、きっとこの道を歩いたはずです。
善通寺条里制四国学院 
多度郡条里制と四国学院の中を通る南海道
 多度郡の条里遺構の中に善通寺と四国学院を置いてみると上図のようになります。四国学院は三条七里にあり、南海道は七里と六里の境界であったと研究者は考えているようです。

四国学院側 条里6条と7条ライン
四国学院を通る南海道と多度郡衙跡(推定)の関係
 四国学院の南の旧善通寺西高校グランドからは、多度郡の郡衙跡と推定される遺跡が見つかっています。さらに、この北西には善通寺が7世紀末には姿を見せます。この辺りが、佐伯氏の拠点で古代多度郡の中心であったことが推測できます。

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讃岐護国神社
四国学院の西門の向こう側には、今は護国神社と乃木神社が並んで鎮座しています。深い神域の中にあるので、古いようにも思えます。ところがここは、もともとは歩兵第四十三連隊(1897年)があったところです。それがなくなったのは、1920年代の協調外交による軍縮でした。ひとつの連隊が軍縮で姿を消したのです。その後に、地元の誘致で護国神社と乃木神社が建立され、現在に至っています。この間の道を琴参の路面電車は走っていました。この停留所の名前は、護国神社前で、ここを電車が通過するときには、常客は帽子を取り最敬礼をしなければならなかったと、私は聞いています。
DSC03916善通寺師団 配置図
十一師団配置図
十一師団の建築物めぐり、今回はここまでです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 善通寺市史 558P 第十一師団の創設
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11師団跡を探して善通寺街歩き その2 

赤門→ 歩兵第43聯隊 → 兵器部 → 師団司令部 → 工兵第11大隊→伏見病院跡 → 山砲兵第11聯隊 → 南大門  
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善通寺の繁華街 赤門筋周辺

駅前通りの河原町が、旅館街や師団相手の出入りの店が続く街並みであったのに対して、赤門筋は善通寺の繁華街でした。その中心は琴平参宮電鉄の善通寺赤門前停留所で、善通寺の参拝客や第十一師団関係の人々で賑わいました。
赤門筋の東の角には、県内でも有数の本屋林館がありました。歩兵操など軍隊関係の書物も多くあり、近隣からも人々がやって来ました。戦後は林館と名前を改め、文学書、学習書などを揃えて繁盛しました。
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兵林館のはすむかいには「千葉屋敷」がありました。

師団長宿舎は後にJR善通寺駅東にできますが、師団設立当初は、中将(師団長)、大佐(聯隊長)など高級将校は宮西・乾地区、大尉など尉官クラスは生野本町、南町などの借家に住んでいました。そんな中、大正末に地元の千葉熊太郎が、ガス、水道付で和洋折衷の玄関、応接間、座敷、奥座敷、坪庭、勝手口、女中部屋等のある文化住宅20数戸を建てます。地元で評判になったこの文化集宅には、高級士官達が住むことになります。千葉は軍隊の払い下げ品を扱う千葉商会の経営者でもあり、師団の情報にも通じていたようです。
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第十一師団の経済効果は各方面におよびます。

企業では、讃岐鉄道の発展、讃岐電気株式会社(1900)、藤岡銀行(1899、藤岡政太郎)、中立貯蓄銀行(1899、亀井長郎)、善通寺貯金銀行(1900、藤岡重吉)、善通寺牛乳株式会社(1898)の創業などが、挙げられます。
 軍隊の繁栄とともに、1898(明31)年富士見座、1921(大10)年には世界館ができます。世界館はドボルザークの「新世界」から命名されたものとされ、1920年代のヨーロッパやアメリカで流行したアールデコの建築様式を模したものでした。所有者は岸田勇三郎でしたが1992年に残念ながらとりこわされました。

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旧電車通りを南に進むと右手に森のような境内が広がります。

こんもりとした鎮守の森には、乃木神社と護国神社が並んで鎮座しています。ここは歩兵43聯隊があった場所です。大正の世界軍縮の一環で廃止されました。その空き地となった場所に、昭和になって作られたのが2つの神社です。
さらに旧善通寺西高、消防署が見えてきますが、西中・自衛隊第ニキャンプをふくむこの場所には大阪砲兵工廠善通寺兵器支廠があり、通称「兵器部」と呼ばれたようです。当時の『香川新報』によると、兵器の備蓄よりも騎兵の鞍等の修理を行っていたようで、給料支払方法をめぐって紛争記事が残っています。
 この兵器部東北隅に、捕虜収容所が敗戦末期に建てられたことは前回紹介したとおりです。 
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旧師団司令部 現乃木記念館

右手に自衛隊の第2キャンプ施設部を見ながら南に進むとT字路の突き当たり、四国管区警察学校の高い塀と鉄条網が見えてきます。これを右に折れて西進すると、師団司令部の入口が見えてきます。
 善通寺11師団は、四国の1県1聯隊で編成された歩兵4聯隊の他、騎兵・砲兵・工兵・輜重(しちゅう)兵あわせて約9千余人が配備されました。 
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1898年12月1日、師団司令部が開庁し、この司令部庁舎は10月に出来上がります。木造二階建、寄棟瓦葺きで北面には4つの越屋根が設けられています。この建物に初代師団長として入ったのが陸軍中将男爵乃木希典でした。そしていまこの建物は乃木記念館として公開されています。

 記念館の2階にある師団長室は、乃木資料室になっています。
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乃木希典はじめ旧第十一師団関係の資料が陳列されています。歴代師団長の顔ぶれには、「南京大虐殺」のときの中支那方面軍司令官松井岩根や、沖縄戦のときの第32軍指令牛島満の顔も見えます。
玄関で手続きを済ませると、建物の方に案内係が待機していて一人からでも入場ができます。車で訪れた場合は、ここで史料を見ながら「予習」後に散策することお勧めします。

この西側の住宅地から四国少年院にかけては 工兵第11大隊があった所です。
記念碑は、乃木神社の中にあります。
さらに奥には、旧善通寺子ども病院がありました。
この病院の前身は、軍隊の病院すなわち丸亀衛戌(えいじゅ)病院として出発しました。その後、善涌寺陸軍病院と改称し、日中戦争の開始と共に、送還患者が急増し、規模の拡大を迫られます。そこで、練兵場西北に分院(現子どもと大人の病院)を建築することになりました。その後の太平洋戦争開始による患者数激増で、増築可能な分院が本院となり、衛茂病院の設置されていたこの地は伏見分院となりました。
関連画像

敗戦後に、伏見分院は結核療養所を経て、小児医療を開始し、1975(昭50)年には、こども専門の国立療養所香川小児病院と「転進」していきました。さらに、香川県立善通寺養護学校が隣接して設けられ、病弱児の療養所や重度心身障害児の福祉施設としての機能を拡充させ、四国全体の小児医療をカバーする存在に成長しました。いまは、国立善通寺病院と統合され「子どもと大人の病院」と長いネーミングがつけられた病院になっています。
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善通寺自衛隊の中核施設第一キャンプ=旧野戦砲兵聯隊

  師団司令部と工兵隊の間の道から北を望むと、赤煉瓦の倉庫と善通寺の五重塔が見えます。ここから善通寺の南大門に向けては、整備された歩道が続きそぞろ歩きには最適な道です。この左手に広がるのが現在の善通寺自衛隊の中核施設第一キャンプです。
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 野戦砲兵聯隊は第十一師団が善通寺に設置された際に、丸亀にあった野戦砲兵聯隊が移転されたものです。1922(大11)年に山砲兵第十一聯隊と改称されましが、砲兵には、野砲・重砲・臼砲・迫撃砲・機関砲・速射砲などの大隊小隊がありました。
 戦後、GHQが警察予備隊の創設を指令すると、善通寺町はすぐ誘致運動を始めます。四国駐屯地はこの旧山砲兵聯隊跡に決定し、ここが陸上自衛隊善通寺駐屯地となりました。駐屯地の門を入り右手の北西隅に1969年に善砲会によって建てられた記念碑があります。

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五重塔に導かれて善通寺の境内へ歩いて行くと大きな門が待ち構えています。
日露戦争の戦勝記念として再建されたとの記録が残っていましたが、近年の改修で1908年3月と記載された屋根瓦が見つかり、それが確かめられました。
高麗門で、間口は、入って行くときに正面金堂を額縁に納めるように高く開いて5.64mもあります。正面本柱の背後には、控柱を立て袖屋根が架かっています。両袖の切石の基礎石の上に建てられた反屋根本瓦葺の太鼓塀は、壁外面に五線の定規筋が入っていることから格式の高さを示しています。間口が他の寺院の山門に比べて高いのは、11師団の凱旋を迎えるためであったと伝わります。
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 多くの凱旋部隊が、駅前からここまでパレードして、最後にこの門をくぐって境内で記念式典が開かれたのでしょう。しかし、15年戦争の激化と共に、凱旋パレードが行われることもなくなっていきます。ひとつの時代が終わろうとしていました。

善通寺11師団の跡をめぐって歩いてみましょう

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まず列車で降り立つのがJR善通寺駅です。

 この駅舎は現在は  登録有形文化財(建造物)に指定されています。
寄棟造を本屋として真壁造につくり,西正面やや北寄りに切妻造でハーフティンバー風意匠の車寄ポーチを張り出しています。舟肘木状の持送りなどに和風デザインもはめ込まれ和洋折衷の建物です。この建物は1922(大正11)年に当時のビッグイベントである陸軍特別大演習が行われた際に、モニュメント建築として建てられました。
当時の皇太子であった昭和天皇が統監のためやって来た際には、ここで乗下車されました。百年近くの歳月を経まていますが、近年改修され輝きを保っています。
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 駅前から真っ直ぐ西に伸びて善通寺境内五重塔南まで続く直線道路約1.2kmが完成するのもこの時です。整備された真っ直ぐで広い駅前通りを人力車や馬車が行き交いました。その道筋を進んで行きましょう。
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駅前通りの南側(左手)に師団の各部隊が配置されていました。

現在の市役所は、軍の水源地でした。そして、その奥に偕行社が建っています。偕行社とは、旧日本陸軍将校の親睦共済団体です。「偕行」とは一緒に進むという意味で「詩経」に由来します。この建物は第十一師団の将校たちの社交場として1903(明36)年5月に新築落成しています。
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先ほど紹介した陸軍特別大演習のときには昭和天皇の仮泊所となりました。敗戦後には、進駐してきた英軍の慰安施設ダンスホールに使われたこともあります。その後は、善通寺市役所等として使われ、現在は改修を受けてお色直しをした上で善通寺市立郷土館として使われています。

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駅前通に戻って、西進すると善通寺郵便局が現れます。

郵便局の玄関脇に輜重(しちょう)部隊の碑があります。

ここが輜重部隊第11大隊の正門でした。輜重兵とは、軍隊に付属する食事・武器・弾薬・衣服などの輸送供給に当たった部隊です。師団の軍人9000人の衣食住に必要なものは、ここに納入されました。出入りの業者が忙しく出入りした所です。現在、郵便局の裏は、自衛隊の自動車教習所となっていますが、東中学校までの広大な区画を占めていました。

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善通寺駅前の片原町は、旅館街でした。

 わたや・広島屋・山下屋・朝日屋・吉野屋・万才屋・高知屋・塩田旅館・大見屋などの第十一師団指定の旅館が並び、各地から面会に来る大勢の家族が利用しました。利用客の多い時は、ー部屋を同じ地方から来た数組の家族が利用したそうです。また召集のかかった時などは、旅館だけでは間に合わず近くの間数の多い家に割当られました。しかし、費用は、一切軍からでなかったようです。まさに、軍に奉仕する無償のボランテイアだったようです。

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この辺りは旅館以外にも軍に関係する商店が多く並んでいました。
駅前には
軍人の古着・古靴を再生し軍に納めていた店、
軍人や一般の人のために真心石けんやメリヤスを売る店、
桜模様をはじめ様々な模様の大ったさかずきを除隊時の土産用として売るさかずき屋、
兵士の記念写真などを写していた水尾写真館
が軒を並べていました。
また、市役所前の瀬川酒店は当時の師団長から店の酒を大変おいしいと言われ「師団一」という名前をつけてもらっています。しかし、「師団一」というお酒も戦後にふさわしくないということで改名したようです。 今では当時の旅館街もなくなり、近年まであった瀬川酒店も姿を消しました。
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市民会館・四国学院は騎兵隊跡です

駅前通りを進んでいくと市民会館です。この玄関前には馬の頭部のレリーフを埋めこんだ碑が道に沿って建てられています。ここには騎兵連隊が置かれ、軍馬が飼育され、広い馬場もありました。

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 第一次世界大戦までは砲兵が大砲を発射し、騎兵が包囲攻撃や中央突破で敵陣を混乱させ、その後歩兵が銃に着剣して肉迫し、白兵戦でとどめをさすという戦法でした。
 香川県でも1904(明37)年「徴発馬匹取扱規則」を定め、馬籍簿を作成して馬の届出を義務づけ、軍への供出に備えさせました。皇子の森に繋留の設備を設け、兵隊の召集に準じて、農耕馬の徴発を行ったのです。
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 この区画は、現在は市民会館、図書館、観光協会、商工会議所、四国学院大学、検察庁、裁判所などの敷地で広大なものです。敗戦後には、イギリス連邦軍が使用しました。一部の建物が四国学院の中に残っていると聞いて行ってみました。
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正門から入り守衛さんに許可をもらって、キャンパスを歩くと・・・
二階建ての騎兵隊兵舎が四国学院大学の教養部棟として今も使われていました。このキャンパスをかつては、軍馬が闊歩していた時代があるのです。それを戦後直後の航空写真で、騎兵隊跡を見ておきましょう。
善通寺航空写真(戦後)
戦後直後の善通寺の航空写真
この写真からは護国神社の東側には、広大な面積を持つ騎兵連隊があったことが分かります。拡大して見ましょう。

善通寺騎兵隊 拡大
善通寺11師団の騎兵連隊
騎兵連隊は、現在は四国学院のキャンパスになっています。現在は駐車場となっている東側に馬舎が4棟、その南側と西側に乗馬場が広がっています。護国神社側に西門が見えます。騎兵隊本部は、このあたりにあったようです。そして、さきほど見た2号館も見えます。2棟あって、そのうちの東側の1号館は、後に取り壊されたようです。
もう少し後の別の角度からの写真も見ておきましょう。騎兵連隊跡 四国学院
四国学院大学創立期の航空写真
この写真を見ると、四国学院の東隣にあった輜重隊には自動車学校のコースが作られています。そして4棟あった馬舎は姿を消して陸上コースになっています。

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騎兵隊本部だった建物(現在はホワイトハウス)

四国学院の西側にある護国神社と乃木神社の神域や中央小学校は、歩兵43聯隊でした。

 第十一師団初代師団長であった乃木希典は、東郷平八郎とともに日露戦争における国民的英雄となります。 そして、1912(大元)年9月明治天皇の葬儀にあわせて、乃木希典、静子夫妻は殉死します、
うつし世を神去りましし大君のみあとしたひて吾はゆくなり
が辞世の歌でした。
遺書には、98(明10)年の西南戦争で西郷軍に軍旗を奪われた責任をとるため死ぬ機会を待っていたことが書かれていました。
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 翌年1913年 中央乃木会が組織され、赤坂新坂町の屋敷の小社に夫婦の霊を祀っります。これが1919年乃木神社として認められ、戦争の拡大とともに「軍神」として厚く祀られるようになります。そのような機運の中、1932年善通寺町議会でも歩兵第43連隊跡地に乃木神社建立を決定し、1937年拝殿落成の式典が行われています。15年戦争が泥沼化していく世相の中、国定教科書には軍神として祀られていきます。
 2002年に本殿・拝殿・手水舎・鳥居・社務所が登録有形文化財に登録されています。
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乃木神社の北東には、憲兵隊司令部が置かれました。

ここから四国各地に分隊が設置されました。善通寺分隊は現在の百十四銀行善通寺支店の所にありました。憲兵は軍規律維持と冶安維持の二つを任務としていました。軍服に黒の襟章、白布に赤で憲兵と染めた腕章をつけ、士官以上が任務につきました。靖国神社(現護国神社)の前を通る際には、最敬礼を行わないと叱咤を受けたといいます。
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旧善通寺西高校跡は捕虜収容所でした  

 護国神社の南側には廃校になった善通寺西高校の校舎があり、運動場側には消防署が新築されました。ここには敗戦直前に捕虜収容所が建てられました。1942年1月16日グァムの俘虜422名が多度津港に上陸して以来、終戦時まで収容されていました。他の収容所にくらべ労役の義務を課すことの出来ない将校の比率が高かったようです。
 20畳ほどの部屋に最大で20~30人が居住し、ベッドの間隔が15cmという時期もありました。戦争の激化と共に食料事情も悪化します。担当者の苦労にも拘らず収容者の体重が1年半で平均24.3kgも減少し、医薬品等も不足します。収容者は大麻山の開墾や荷役作叢日立造船(向島、因島)などでの労役につきました。
 敗戦間際になり傷痍軍人が警備員等に増えると日常的に殴打の私的制裁が行われ、戦後には関係者8名がBC戦犯とされました。

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 この収容所の存在が、軍都善通寺が空襲を受けなかった理由だとされています。前半部はここまでです。



11師団と善通寺 遊郭設置問題について

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偕行社
日清戦争後1897年に、師団設置が決まると師団工事のため多くの労働者が善通寺に流入します。その数は3000人~5000人になります。入営してくる兵士たちも増えることが予想されました。善通寺では風紀の乱れが懸念されるようになります。その結果、
公娼を設けされは思はさるの惨状を極むること無しと言い難し」
として遊郭の善通寺への設置が県によって計画されます。
しかし、遊郭の設置場所について利権の絡んだ対立と紛争を招きました。香川新報では、当時のようすを次のように報じています。
「村費は師團地たる以前は、経常費一千六百円位なりしに一朝師團地となるや大に増加し、三十年度の経常費は二千八百餘にて殆と三千圓に垂らんとするに至る。設置前期の如く(善通寺村の)東北部の多く免租地となりし土地の以前負担せし経費に恩澤を被らざる西南部山間居住者か多く負擔せざる可からさることなり。のみならす彼の賑盛の地に住みし多く師團の恩澤を蒙る人民は公民権を有する者すら少なき有様なる。以て戸數割負擔の如きも西南部の住民に比すれは大に少なし。慈に於てか遊廓地を西南部の地に相せば之に連れて諸種の商業家も出來掛可けれは是非遊廓地は西南部の地に置かんとの希望に全地方住民の頭脳は悉く之れありたり」
意訳変換しておくと
村費に関しては師団設置以前は、経常費1600円程度の規模であった。ところが師團ができると、大幅に増加し、明治30年度の経常費は、2800円にまでなった、師団が出来ると、師団の土地は官営なので免租地となり、税収は大幅に落ち込んだ。一方、土地買収などに恩澤を受けなかった西南部山間部(有岡地区)の住民が多くの負担を被ることになった。
 そればかりか市街地化した地区に住む住人は、師團から多くの恩恵を受けながら、公民権を持つ者が少ない有様となった。このため戸数割負担などの面から見ても、有岡地区の住民の不満は大きくなった。そこで、遊廓地を有岡の地に誘致すれば、さまざまな商業地も生まれ、有岡の発展になると考えた。そのためにも、遊廓地は有岡に設置しようという機運が住民の間には高まった。
11師団設置前後(M30年)遊郭位置
明治30年の11師団配置図 有岡には軍施設はない
善通寺村では、田んぼが国により買い上げられ、そこに師団が設置され官有地となりました。官有地からは税金が入ってきません。そのため税収入不足を補填するために、地租税督促に係る手数料条例の制定など、村費の増収を図ろうとしました。これに対して、軍用地として土地買い上げの恩恵を受けなかった善通寺西南部(有岡)の住民の負担は増すばかりです。

11師団 有岡の遊郭候補地

明治30年の十一師団配置図と3つの遊郭誘致候補地

この対応策として、善通寺大池周辺の有岡の住民は遊廓を誘致を進めようとします。
上の拡大図を見ると、有岡周辺の3つが候補地だったことが分かります。しかし、有岡地区住民の県に対する再三の請願もむなしく「兵舎から近すぎる」との理由から却下されました。そして、県が計画当初に候補地としていた善通寺西部砂古裏地区に工事が着手されます。それは師団司令部開庁の1898(明治31)年のことでした。
11師団配置図(明治29年)遊郭入り
遊郭候補地が赤く書き込まれた地図(明治29年)

明治29年に書かれた上の地図を見ると、香色山の北側麓の地に「遊廓用地1万五千坪」と書き込まれています。

11師団配置図 遊郭
上図拡大図
軍は、遊郭をどこに設置するかまで、この時点で腹案をもっていたことが分かります。これでは、有岡の住民達の誘致運動が成功するはずがありません。
 ちなみにこの地図には、練兵場の位置が各連隊に挟まれるようにあります。砲兵隊や騎兵隊の実際に設置された場所とも異なります。その後に、変更があったことがうかがえます。 
大正11年の「最新善通寺市街図」 には、実際に設置された遊廓の位置が記されています。
善通寺地図北部(大正時代後期)善通寺・遊郭
大正11年の「最新善通寺市街図」
善通寺町西山のあたりで現在は住宅街となっていますが、道幅が広くなっている一画もあります。古い住宅地図によると、この付近は「砂古裏」と呼ばれていたようです。妓楼は、寿楼、花月楼、第二寿楼、房栄楼(ふさえいろう)、朝日楼、豊楼、陽貴楼、大正楼、吾妻楼、勇誠楼、いろは楼の11軒があり、常時50名ほどの娼婦がいたようです。明治の都市計画には、遊郭設置まで含まれていたようです。
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この遊郭設置をめぐる新聞記事からは、師団設置による善通寺への影響には住民ごとに「格差」があったことがわかります。恩恵を受けたのは、土地買収に応じた地主達、そして新たに師団を相手に商売をはじめ出入り業者となった富裕層です。それと対照的に、有岡大池周辺の住民は、土地の官有地化によって切迫した村の地租財政の犠牲者として、急激な近代化プロセスに埋もれていったと言えるのかもしれません。有岡の住民の遊廓地請願は「師団兵舎から近すぎる」という軍部優先の理由から一蹴されたことは、象徴的な事件のように思えます。
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ちなみにこの遊廓問題の後、県は善通寺村の行財政運営の困難を懸念し、1901(明治34)年に隣接する吉田村及び麻野村を合併させ、善通寺町が発足することになります。

参考文献 柴田久 師団設置による都市形成への影響に関する一考察
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善通寺にやってきた師団は、産業に何をもたらしたか?

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設立されたばかりの電力会社には追い風に・・

まず、電力関係では、設立されたばかりの讃岐電灯株式会社の成長の追い風になりました。師団創立の前年に操業を始めたこの電力会社は、需要数の拡大に苦戦していました。しかし、師団開設後の日露戦争期に師団から電灯等の大口契約を受け、1000灯余りが新設されるなど順風が吹きます。
 また金融面では、師団設置に伴う金融的処理の激増を受け、1900(明治33)に百十四銀行が善通寺に支金庫を設置、国庫金の取り扱いを開始します。さらに1913(大正2)年には善通寺支店に格上げされます。

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駅前通には旅館が建ち並ぶ 

 善通寺駅前通りの片原町付近では、師団指定の旅館が建ち並ぶようになります。特に戦局が激しく多くの兵隊が召集された際には、郷土から面会に来る家族の利用で大変賑わったといいます。また利用客数も多く、師団指定の旅館で部屋数が足りない場合には、間数の多い一般の民家が客を泊めたそうです。
 片原町では旅館の他、師団相手の商店が建ち並ぶようになり、兵隊の記念写真を撮影する写真館や軍靴を修理して販売する店、土産用として杯を売る店など様々な顔ぶれがそろいます。この頃、農村部における麦桿真田共同販売組合の設立、これに関連して善通寺町隣接村にも有限責任信用購買組合が設立されるなど、いわゆる経済行為の組織化が進行していきます。
 一方、歳入の約7割を町税で賄っていた善通寺町の財政基盤は、1902(明治35)年~1913(大正2)年の合計予算額はおよそ平均3万7千円程度にまで膨らみます。師団開設以前の1890(明治23)年の約1213円から比べると30倍近くの急激な伸びとなっています。

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昭和恐慌の影響をあまり受けなった善通寺?

 昭和初期の日本経済は1921(大正10)年に起こった関東大震災を引き金に、1927(昭和2)年の金融恐慌によって大打撃を受けました。香川県下においても銀行の取り付け騒ぎが各地で起こるなどの混乱が起きましたが、善通寺町は例外として恐慌の影響が少なかったようです。
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1926(大正15)年、琴平銀行の休業や高松百十四銀行善通寺支店の取付けなど、金融恐慌が襲いかかってきます。しかし、善通寺支店の取付け期間はわずか一日で、終わります。
これにはいくつかの理由が考えられるようですが、一つは善通寺町の製造業を中心とする第2次産業の割合が低かったことが挙げられます。さらに当時は第十一師団の存在と善通寺参詣道に沿った道路に関わる公共事業が展開中で、好景気感が強く住民が深刻な不況を感じる雰囲気になかったようです。
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「昭和二年の善通寺町会会議録」で当時の予算編成について見てみると、招魂祭諸費に1000円を計上していることや、遊興税徴収交付金が144円増加となった理由を
「遊興税徴収額が前年度に比して増収の見込みである」
と記されています。軍都 + 門前町としての観光と軍人の遊興飲食に関するサービス業が繁盛し潤っていたことが分かります。善通寺には1899(明治32)年に完成した劇場「富士見座」や、善通寺南大門南にも「大栄座」という劇場が存在していて、入場客も多かったのです。
むしろ善通寺の場合、金融恐慌ではなく、1925(大正14)年陸軍歩兵第四十三連隊の徳島移動など、連隊縮小や移転などの「軍縮」の方が大きな問題でした。

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15年戦争下の善通寺は?

 日本は1937(昭和12)年、日中戦争から15年戦争に突入していきます。これに応じて第十一師団の出動・帰還も多くなり、善通寺では師団に対して町をあげての歓送迎が行われました。善通寺駅からの出征には町役場でサイレンを鳴らして町民に予告し、出征軍人の家族はもちろん、町長、町会議員、役場を始めとする公務員、その他の団体代表者、小中学校の児童・生徒をあわせ、約7000人が毎回見送りに出ました。
 1939(昭和14)年の善通寺銃後奉公会の設置や、「善通寺町税条例」(生活用品に税をかける)を施行して戦争に協力し、師団が身近にある環境として、軍部への協力姿勢には強いものがありました。
 しかし、戦況が悪くなるにつれ、強い統制経済下における物資不足と物価高騰、出征による人員不足(労賃の値上がり)により、善通寺の主たる事業となっていた土木工事や建設事業に支障がでるようになります。

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どうして軍都 善通寺は空襲を受けなかったの?

敗戦末期の1945(昭和20)年2月に香川県下(観音寺町沖合)で初めて空襲があり、第十一師団地の善通寺も、本土決戦や防空訓練など臨戦態勢をとります。
 しかし、善通寺は軍都にもかかわらず空襲を受けませんでした。
それは1942(昭和17)年1月に国内で初めて開設された善通寺捕虜収容所があったためとされています。敗戦時にはアメリカ将校・准士官以下544名、イギリス404名が収容されていたです。その存在により戦災を免れました。
 敗戦に伴い11師団は高知で解体され、終焉を向かえます。その後、師団の土地、建物は一旦国有財産化されますが、その後町の復興計画として払い下げられます。

片田舎の善通寺に師団がやって来たのはどうして?

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赤煉瓦の旧11師団倉庫と善通寺五重塔

日清戦争で得た賠償金は3億6000万円は、当時の国家予算の3年分にあたるものでした。その約84%は軍事費に使われたと言われます。その使用用途のひとつが次の戦争に備えての師団増設でした。師団空白地帯だった四国については善通寺が選ばれます。それまで城下町に設置されていた師団が、四国では田舎町に設置されることになります。
なぜ善通寺が選ばれたのでしょう。そして、善通寺はどのように変化していったのでしょう?
善通寺村略図2 明治
明治の善通寺村略図(善通寺の周りに市街地はない)

それまでの善通寺は片田舎?

 江戸時代の善通寺村は、真言宗善通寺の小さな門前町として成立し、四国八十八カ所巡礼や金比羅参りにの宿場町として栄えてきたといわれます。それではいったいどのくらいの規模の「町」だったのでしょうか。1890(明治23)年の人口は、
善通寺村 3,099人、戸数637
竜川村  3,737人、戸数799
また、善通寺境内周辺の戸数は約250程度で、主な建造物も善通寺以外に見当たりません。 善通寺村の当時の閑散とした様子がうかがえます。
善通寺村略図拡大
明治の善通寺周辺拡大図

なぜ、お城のある高松や丸亀に置かれなかったかのでしょう?
1896(明治29)年、第11師団の司令部設置が善通寺村に決定します。
それまでの師団司令部は、県庁所在地などに設置されてきました。城下町でもない片田舎の善通寺村への設置決定は異例でした。なぜ、高松や丸亀に置かれなかったのでしょうか
「師団選定二関スル方針」によると、
(1)多度津・詫間等の港湾が近い
(2)湧き水などの地下水源が豊富
(3)大麻山、五岳山の周辺環境が、演習時の軍事訓練に最適
(4)松山・高知・徳島の各連隊への運輸交通手段の便利
確かに丸亀・高松はお城はありますが、師団設置が出来るほどの広さを確保することは難しかったようです。また、多度津港は当時は香川県NO1の港湾施設を有していましたし、そこと鉄道で結ばれていると言うことは何かと便利でした。
 ちなみに師団建設に使われた煉瓦は、観音寺の財田川河口の工場で焼かれ、船で多度津へ輸送され、そこから列車で善通寺に運ばれたそうです。大陸で起きるであろう次の戦争への出征を考えても、処理能力のある港湾施設は必須です。
 それと日清戦争の経験から次の日露戦争にむけて考えなければならないのは、重火器・騎兵の整備・訓練や医療設備の充実などです。そうすると野砲が撃てる射撃場や訓練所が必要になってきます。広い練兵場や周辺には山砲射撃場も必要です。そうすると丸亀で手狭になります。善通寺は背後の大麻山が射撃場として使用できます。そんな思惑もあったようです。

 
11師団司令部開庁通知

11師団司令部開庁通知


師団開設が決定した翌年に、隣の吉田村では次のような文書が作成されています。
「師団新設ノ結果、戸数ノ繁殖多大ナル今日ニシテ、数年ヲ出デズ大都市トモナルベキ有望ノ地二付」
意訳変換しておくと
「師団新設の結果、人口や戸数が大幅に増加し、数年のうちに大都市に成長する有望な地」

ここには、
師団開設によって営舎・施設建設、将校兵の増加などで、急速に都市化して、将来的に有望な地域に発展していく予想と、大きな期待が寄せられています。 
 こうして1898(明治31)年12月1日、第十一師団は善通寺に開庁されます。
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師団設置決定は、善通寺に地価上昇をもたらします。

香川新報(四国新聞の前身)には、第11師団の用地の総買収面積について「百八町八反五畝二十五歩」(一町=約0.991ヘクタール)と報じ、善通寺村の地価について次のように報じています。
「一反歩七十圓位の地は三百圓位に上騰せる様報し置きたる庭、昨今の虚にては一反歩六百圓或は七百圓と云う有様にて殆と手を兼る向も少なからす」
意訳変換しておくと

もともと田地は一反70円の相場があったが、(師団設置が決まると)300円まで上がり、最近では700円という有様であると、

そして、地主による地上げの横暴さを伝えています。さらに地価は1898(明治31)年には約2.5倍の1800円までにうなぎ登りに上がっていきます。いつの時代もそうですが土地買収で大金を手にした地主達が大勢現れました。彼らが新たな商売に進出し、連隊前に店を構えるようになります。
 師団用地の買収については最初は、地主が小作への償金を一反歩につき三十円交付する取り決めでした。ところが手数料と称し七円を差し引き二十三円しか支払わない事件が起きています。これに対して小作者は訴訟しています。

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1897(明治30)年、第一期工事として、次の各営舎が完成します。
騎兵第十一連隊
歩兵第四十三連隊
山砲兵及び歩兵第二十二旅団司令部
1898(明治31)年には、第二期工事として次の各営舎が完成します。
輜重兵第十一大隊
工兵第十一大隊
第十一師団司令部の各営舎
この工事期間中、善通寺には工事関係者が2000~3000人近く流入しました。120年前の善通寺は大建築ラッシュで、それまで田んぼが造成されて、軍関係の大きな建物が次々と建ち並んでいき、駅前通は大変貌していたようです。

十一師団建築物供用年一覧
11師団各建築物の供用開始年一覧

軍都善通寺の道路整備は、どうすすめられたのでしょうか?

大正期の善通寺では、各種インフラ整備が進められます。
例えば市内の道路整備が進められますが、特徴的なのは道路の広さです。大規模な軍事輸送に耐えれる道路整備が求められた結果、市街地を縦横に貫く広く整然とした道が伸びていきます。

善通寺航空写真(戦後)
一直線に伸びる広い善通寺の道路

 1922(大正11)年には、善通寺駅から善通寺境内五重塔南までの直線道路は約1.2kmが完成します。そして整備された道を人力車や馬車が走り出します。
 師団で廃用となった馬を払い下げてもらい乗合馬車が走行します。
当時の乗合馬車は箱型・鉄輪の四輪車で、馬一頭のタイプと二頭のタイプがあり、馬一頭の馬車は定員が10名程度でした。その後は乗合自動車(バス)、タクシーなどが行き交うようになり、師団の入隊や除隊者で利用者も多かったようです。

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 しかし、道路面積が広がると維持費が増えます。
当時の里道・県道は、赤土に砂利を入れて固める整備方法でした。そのため台風や大雨に弱く、補修のための支出が耐えませんでした。激しい軍事輸送のため莫大な復旧費を必要とし。善通寺町の土木財政状況は常に火の車でした。
陸軍特別大演習で整備されたのは何か?
1922(大正11)年に、当時のビッグイベントである陸軍特別大演習が善通寺で行われます。これを前に、建築物や輸送手段が一新されることになります。特に生活環境を大きく変化させたのは琴平参宮電鉄の開通です。
 すでに讃岐鐡道は1889(明治22)年に多度津を起点とし、丸亀一琴平間で営業を始めていました。善通寺に師団が置かれた理由の一つが鉄道で多度津と結ばれていることでした。開業当時の客車は俗に「マッチ箱」と呼ばれる定員20名の小型のもので、善通寺駅も金比羅参りの通過地点として小ぶりなものでした。

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 陸軍特別大演習とは

西軍(第五師団・広島)と東軍(第十一師団)によって三豊郡と仲多度郡において3日間の模擬戦闘が行われたものです。それに、当時の皇太子であった昭和天皇が統監のためやって来ることになります。

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皇太子(後の昭和天皇)の讃岐での演習視察
そのため様々な記念事業が行わます。その一つとして讃岐鉄道の善通寺駅が改修されたのです。それまでの善通寺駅は大変狭く、師団の大移動時などに限界がありましたので、これを機に改修がなされます。

善通寺駅 初代
初代善通寺駅
 当時の「香川新報」では「善通寺新駅の美観大改修を加えて面目一新す」との見出しにより、次のような記事を掲載しています。
本驛舎は切破風を造り平屋建にて建坪八十坪五合にて正面に車寄せ新設し 此表面三間横二間一尺にて待合所は十間に五間南手にある。二等待ち合所は二間半四方。驛長室は二間半四方出札室は三間半四方北手にある小荷物室は二間半歩廊は幅二十一尺延長六百尺下り歩廊は幅六百尺延長十八尺線路の階段をアスファルト塗とし歩廊屋根を新に葺くなど何れも新築同様に面目一新した」
jnrzentsuji善通寺駅
現在の善通寺駅(1960年代頃)

新しく近代的駅舎として生まれ変わった善通寺駅は、新たな善通寺の名所になります。また、それまでの定員80名という客車の輸送能力アップと共に都市的な生活環境への変化を感じさせるものとなったようです。
 さらに大演習の記念事業の一つとして挙げられるのが琴平参宮電鉄(琴参:路面電車)の開業です。琴参の計画案を見ると善通寺駅逓は現JR駅の前にあるのです。私の記憶では、赤門前を通って琴平へ抜けていたはずなのですが・・・
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大麻付近を走る琴参電車 向こう側に土讃線と四国新道

琴平参宮電鉄の路線が変更された理由は?

11師団配置図

この鉄道の善通寺の終点は、計画では現善通寺駅前でした。そして琴平への路線は拡張整備された駅前通りを真っ直ぐに西進して、善通寺南門まで進みます。そこから直角に南に曲がって、師団本部前を通って琴平まで延長する計画でした。まさに、師団の各隊を縫うように路線は考えられていいました。ところが、この路線は実現しませんでした。その理由は、騎兵第十一大隊から次のようなクレームがでたからです。
「電車の騒音が軍馬の訓練教育上支障を来す」
確かに騎兵隊は現在の四国学院にありました。「その前を電車が通ると、騒音で軍馬の育成に支障がでる」というのです。

善通寺地図明治34年
明治34年の善通寺

これに対して琴参側は「善通寺への参拝客や師団の軍人や家族の面会人の利便性のために・・」と計画案を計7回申請しています。しかし、当局に聞き入れられることはありませんでした。2本北側の赤門通り前を左折し、本郷通りを通るルートに変更されたのです。

DSC02304琴参電車 善通寺本郷通り1957年
          本郷通りを走る琴参電車
このため駅前通りに琴参電車が走ることはなくなりました。確かに、土讃線善通寺駅で降りて、そこにある琴参駅で乗り換えられた方が利便性は高かったはずです。今の私からすると、当時の軍隊の尊大さや事大主義を感じますが、当時は軍隊は何より強い存在でした。

善通寺駅/土讃本線―1964-12-27

琴参電車が走る予定だった善通寺駅前通(1964年)
こうして師団勤務の軍人9000人 家族も入れると一万人を越える人々がこの地で生活するようになります。その人々への衣食住の需要をみたす施設や商店が整備された駅前通の北側に並ぶことになります。そして南側には、軍施設が連続して配置されます。駅前の北と南では対照的な風景が軍都善通寺の特色となりました。

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