瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

カテゴリ: 讃岐阿波交流史

借耕牛 美合落合橋の欄干
落合橋の借耕牛(まんのう町美合)
最初に見た美合の落合橋の欄干です。向こうに見えているのが谷川うどんになります。この橋は、勝浦からの道と三頭峠からの道の合流点に架かっていて、借耕牛の往来した道とされます。その橋に、さきほどの阿讃君レリーフやこの切絵風デザインが施されています。これを計画・実行した設計者に私は尊敬と感謝の念を抱きます。それでは、どうして借耕牛が讃岐にやってくるようになったのでしょうか。次に、このことについて見ておきましょう。

西讃府誌 牛馬普及率
仲多度・三豊郡の牛馬普及率(西讃府史による)

まず仲多度郡では、牛はどのくらい普及していたのかを見ておきましょう。幕末に丸亀藩が編集した西讃府史には、各村の農家戸数・水田面積・牛や馬の数が、各村ごとに記されています。これを数字化したのが上表です。
①一番上の那珂郡を見ると、牛825、馬100、合計925頭。これを農家戸数で割ると牛馬の普及率は45,9%になります。
②多度郡はもっと低くて、38,8%。
③仲多度全体では約4割。残りの6割の農家には、牛や馬がいなかったことになります。
④三豊全体の平均値は約40%。
讃岐には「五反農家」という言葉がありますが、仲多度郡の一戸辺りの耕地面積を見ると4反未満です。ここからは零細農家が多く、牛や馬を飼うことはできなかったことが考えられます。牛のいない家が、代掻きの時に牛が欲しいと思うのは当然でしょう。牛のレンタル需要があったとしておきます。
 次に、送り手の阿波側を見ておきましょう。
阿波池田の東側に井川町があります。井川スキー場のあるところです。そのスキー場の奥にあるのが腕山放牧場です。

借耕牛 腕山放牧場

阿波のソラの集落には、このような放牧地が山の上にありました。夏はここで放牧するので飼料などは不用です。そのため古くから牛馬の普及率が高かったようです。ここでは阿波の美馬郡や三好郡は、放牧地があって牛の飼育に適していたことを押さえておきます。そしてソラの牛馬は、山を下りて里で運送や田起こし、代掻きなど阿波の中で出稼ぎを行っていたようです。

借耕牛 井内谷村の牛馬保有数
井内谷村の牛馬所有数の推移
この表は井内谷村の牛馬・農家数牛馬所有数を年代毎にしめしてたものです。井内谷村(旧井川町・現在の三好市)は、先ほど見た腕山牧場の下にあるソラに近い集落です。左が年代推移です。
①明和7年(1770)年に329頭だったのが40年後の文化年間には712頭に倍増しています。
②その背景は、藍栽培による好景気がありました。藍栽培が本格化するのが明和時期(1770年)で、これ以後に牛馬の数が急増したことがうかがえます。
③藍運搬などの需要増に答えたのが、ソラの農家だったようです。牛馬所有率を見ると、9割の農家が牛を飼っていたことになります。大正や昭和には、減少しますがそれでも7割近い家が牛か馬を飼っていたことが分かります。
④讃岐仲多度の牛の保有率は4割でした。それにくらべると阿波の保有率は高かったことを押さえておきます。

讃岐への借耕牛が本格化するのは、明治後半になってからのようです。その背景を考えたいと思います。

借耕牛 増加の背景

阿波の特産品と云えば藍でした。
①ところが、明治34年からの合成藍が輸入解禁になって衰退します。その結果、藍栽培に従事していた牛の行き場がなくなります。役牛の「大量失業状態」がやってきます。
②代わって隆盛を極めるのが三好地方の葉煙草です。
③葉煙草の高級品を生産したのがソラの集落です。葉煙草には牛堆肥が最良です。そのため、ソラの農家は牛を飼うことを止めません。牛肥確保のために頭数を増やす農家も出てきます。
④しかし、その出稼ぎ先は阿波にはありません。
藍の衰退による「役牛大量失業 + 葉煙草のための牛飼育増」という状況が重なります。阿波の牛は、あらたな働き場を求めていたのです。その受け入れ先となったのが、讃岐でした。以上をまとめておきます。

借耕牛登場の背景

①阿波のソラの集落には広々とした牧場があり、夏はそこで牛を放し飼いにしていました。それに対して、讃岐は近世になると刈敷や燃料薪などの入会権の設定されて、それまでの牧場が消えていくことは以前にお話ししました。そのため牛や馬にたべさせる飼料が手に入りません。
②また讃岐の農家は、零細農家で牛馬を飼うゆとりはありません。
③このような中で、幸いしたのが田植え時期のズレです。上図の通り美馬や三好地方の田植は5月です。一方、丸亀平野の田植えは満濃池のユル抜きの後の6月中旬と決まっていました。つまり春には、阿波の田植えが終わってから讃岐の田植えに,秋には阿波の麦蒔がすんでから讃岐の麦蒔きに出掛けるという時間差があったのです。

まんのう町の峠 阿波国図

これは阿波藩が幕府に提出するために作成した阿波国図です。
まんのう町に関係する峠を拡大しています。位置関係を確認すると ①吉野川  ②大滝山  ③大川山  ④三好郡・美馬郡 ⑤赤い線が街道 大川山から東側は、美馬の郡里から各方面に伸びる峠道。 例えば、勝浦への峠道には大川山の東側の西側は三好郡からの峠道で旧仲南へ 何が書いてあるのか、ひっくり返して見ておきましょう。

真鈴峠

⑥真鈴峠には「滝の奥より、讃岐国勝浦村へ十丁 「牛馬道」とあります。それに対して、二双越は、淵野村まで二里「牛馬不通」、三頭越えも同じく「牛馬不通」と記されています。三頭越が整備されるのは幕末、明治になってからで、それまでは牛や馬は通れない悪路であったことが分かります。どちらにしても、まんのう町には、江戸時代から阿波との間にいくともの峠道があったことが分かります。
 
5借耕牛 峠別移動数jpg

左側が讃岐の受入集落名(峠名)です。
①昭和5~10年には、夏秋合わせて8250頭の牛がレンタルされています。②多い順は、1美合 2岩部 3猪ノ鼻(戸川・道の駅)  4 清水口 5 塩入 となります。
②ここからは美合と塩入を合わせると3000頭を越える牛がまんのう町にやってきていたことになります。借耕牛の1/3は、まんのう町に入ってきていたことを押さえておきます。
③右段を見てください。それが戦後の昭和33年には、約1/3に激減しています。この理由は時間があれば考えることにします。

次に、牛たちが阿波のどこからやってきたかを見ておきましょう。

借耕牛の阿波供給地

この図は1935(昭和10年)の牛の供給源と、讃岐のレンタル先を示したものです。編目エリアは100頭以上、斜線エリアは50~100頭の牛を送り出したり、受けいれたりしている村々です。ここからは次のような事が分かります。
①借耕牛の送り出し側は、美馬・三好のソラの集落であったこと。最盛期4000頭の内の9割は美馬・三好郡からの牛です。中でもソラの集落からやってくる牛が多かったことが分かります。
②阿波東部には借耕牛は見られない。同時にも讃岐の大川郡は空白地帯である
③借耕牛の通過は、岩部(塩江)→髙松平野  美合→坂出・丸亀  塩入・山脇・猪ノ鼻 → 丸亀・三豊 
ここで押さえておきたいのは、借耕牛は阿波全体から送り出されていたのではなく、阿波西部の三好・美馬郡に限られることです。さらにそのなかでもソラの集落からやってくる牛が多かったことを押さえておきます。
 もうひとつ注目しておきたいのは髙松沖の女木島からも借耕牛は送り出されていたようです。 
借耕牛 男木島.2JPG

石垣でかこまれた坂道を牛が歩いています。ここは女木島のとなりの男木島です。この島は、古くから島全体が牧場とされてきました。島ですから放し飼いができます。また坂が多く、放し飼いの牛は坂を登り降りし、足腰が丈夫で強く、しかも人なつっこくて、よく云うことを聞くので農耕牛としては借り手に人気があったようです。

借耕牛 女木島

こちらは女木島の牛です。髙松から借耕牛が帰ってきた所です。
後には女木島の石垣に囲まれた家が見えます。船が着くと「ハイヨッ」の掛け声で、揺れる船から板を渡って慣れた様子で、牛たちは下りて浪打際をパシャパシャ・・と歩いています。このように男木・女木島と髙松周辺の農家では、早くから借耕牛システムがあったのではないか、そこに明治になって阿波の牛が参入してきたのではないかと私は考えています。
ここで借耕牛の起源について、考えて起きます。

借耕牛 起源

ひとつは江戸後期説です。これはサトウキビを石臼で絞るために、大型の阿波の牛がやってきたというものです。ここで注意しておきたいのは、田畑を耕すためにやってきたのではないことです。その数も僅かなものです。もうひとつは、明治以後説です。
「藍栽培不振 + 葉煙草栽培の拡大」にともない牛の飼育数は減りませんが、役牛としての働き場はなくなります。そこに目を付けたのが讃岐の博労(ばくろ)たちです。

「阿波の牛を飼っている農家を一軒一軒訪ねては、6月10日に讃岐の美合まで牛を連れてきてくれんか。そうすれば賃貸料が入るようにするから」

と委任を取り付け、讃岐の借り主との間を取り持ったのではないかと私は考えています。明治は、移動の自由、営業の自由が認められ、県境を牛がレンタルのために越えることも何ら問題はありません。
髙松藩は米が不足し騒動が起こることを怖れて、藩外への米の持ち出しを認めていません。
旧琴南の村々に対しては、特別に持ち出しを認めていますが数量制限があったことが琴南町誌には記されています。そのような中で、俵を積んだ牛が何百頭も街道を阿波に向かって移動する光景は、私には想像できません。また、年貢納入を第1と考える村役人達も、自分の村から米が出て行くことを許すことはなかったと思います。江戸時代の「移動や営業のの自由」を認められていなかった時代には、借耕牛というシステムは成立しなかったと私は考えています。

走人協定 髙松藩

例えば「讃岐男に阿波女」という諺が残っています。確かに、旧仲南の財田川沿いの集落には、阿波から牛の背中に乗って、嫁いできたという女性が昭和の時代には、数多くいました。しかし、江戸時代には高松藩は、藩を超えた男女の結婚は、上の「走人協定」で許していません。琴南町誌には、密に阿波の女性と結婚してたカップルが藩の手によって引き離されて、女性が阿波に追放される話がいくつか残されています。
借耕牛の増加には、次のような背景があった私は考えています。
①明治になって「経済の自由・移動の自由」が保障されるようになって、峠越えの経済活動が正式に認められたこと
②阿波の藍産業の衰退による役牛の大量失業
うして借耕牛は讃岐に来なくなったのか?

借耕牛 45


戦後の高度経済成長前の1960年代(昭和30年代後半)になると、田んぼの主役交代します。

借耕牛と耕耘機

耕耘機の登場です。こうして牛は水田からは姿を消していきます。
トラックに乗る借耕牛

1960年代になっても、山間部の狭い谷田では牛耕が行われ、借耕牛も活躍していたようですが、峠を歩いて越えることはなくなります。トラックに乗せられて借耕牛は運ばれます。

最後に、牛が越えた峠は古代からの阿讃の文化交流の道であったことを見ておきましょう。
峠でつながっていた阿讃の里

①弥生時代には讃岐の塩が阿波西部の美馬・三好郡は、讃岐からの塩が阿讃山脈越えて運ばれていました。その交換品として、何かが阿波からもたらされたはずです。善通寺王国の都(旧練兵場遺跡)には、阿波産の朱(水銀)が出ています。塩の交換品として朱が運び込まれていたと研究者は考えています。
②弘安寺跡(まんのう町四条の薬師堂)と、美馬の郡里廃寺には白鳳時代の同笵瓦が使われています。
 瀬戸内海の港や島々は、海を通じて人とモノと文化が行き来しました。それに対して、美合や塩入は阿讃交流の拠点でさまざまなものが行き交う拠点であったのです。そのような視点が今は忘れ去られています。阿讃の峠越えの文化交流をもう一度、見直す必要えがあると私は考えています。そのひとつのきっかけを与えてくれたのが借耕牛でした。最後に、参考文献を紹介しておきます。

借耕牛探訪記
借耕牛の研究

借耕牛講演会
関連記事

阿讃交流史 阿讃の峠道を越えた借耕牛(かりこうし)
阿讃交流史 まんのう町(旧琴南町)の阿讃の峠
善通寺の古墳NO2 旧練兵場遺跡群と野田院古墳の関係は?
阿讃交流史 まんのう町造田の地鎮祭に、阿波芝生からのデコ人形奉納願いが許されなかった背景は?
幕末の金比羅阿波街道・三頭越のまんのう町のお堂から
阿讃交流史 讃岐山脈の峠を越えた塩・綿
阿讃交流史 江戸時代の絵図に書かれた讃岐山脈の峠道
阿讃交流史 まんのう町勝浦は阿讃の米の道が通っていた

借耕牛講演会ポスター

上記の郷土史講座で借耕牛について、お話しした内容を使った資料と一緒にアップしておきます。

借耕牛 落合橋

     今日お話しするのは、この牛についてです。この牛は美合の谷川うどんさんの上にある落合橋の欄干にいます。阿讃の峠を越えて行き来したことにちなんで私は勝手にこの牛を「阿讃くん」とよんでいます。私の中の設定では「黒毛で5歳の牡」となっています。どうして、そう思っているのかはおいおい話すことにします。阿讃君は美合の橋にレリーフとして、どのようにして登場したのでしょうか。その背景を探ってみることにします

5借耕牛 写真峠jpg

この写真は、徳島と讃岐を結ぶ峠道です。そこを牛が並んで歩いていきます。いったどこに向かっているのでしょうか。
借耕牛7

峠から里に下りてきました。ここでも牛が並んで歩いて行きます。どこへ行くのか、ヒントになる文章を見てみましょう。
 先のとがった管笠をかむって、ワラ沓をはいて、上手な牛追いさんは一人で10頭もの牛を追ってきた。第二陣 第三陣 朝も昼も夕方もあとからあとから阿波から牛はやってきた。
山田竹系「高松今昔こぼれ話」(S43年) 岩部(塩江) 
 今から約100年ほど前、昭和初期の岩部のことが書かれています。岩部は現在の塩江温泉のあたりです。ここに牛追いに追われて、相栗峠を越えて阿波から牛がやってきたことが分かります。やってきた牛の姿を見ておきます。

借耕牛 岩部

塩江の岩部の集落にやってきた旅姿の牛です。上の俳句を私流に意訳しておきます。
 阿讃のいくつもの青い峰を越えてやってきた牛たちよ おまえたちの瞳は深く澄んでいって吸いこまれそうになる。

 この牛が私には最初に見た「阿讃君」に思えてくるのです。

借耕牛9
「借耕牛探訪記」より
首には鈴、背中には牛と人の弁当。足には藁沓を履いています。蹄を傷つけないようにするためです。ぶら下げているのは、草鞋の替えのようです。こうして峠を越えた牛たちは、讃岐の里の集落に集まってきました。

5借耕牛 写真 syuugou jpg
借耕牛の集合地 左が美合、右が塩入
地元の仲介人の庭先に、牛が集められています。この写真の左が美合、右が塩入です。牛がやってきたのは、塩江だけではありません。まんのう町にもやってきたことを押さえておきます。
ところで最近、こんなシーンが映画撮影のために再現されました。 

借耕牛 黒い牛ロケシーン

 借耕牛を描いた映画「黒の牛」のロケシーンです。ロケ地は三豊市山本町河内の大喜多邸です。大喜多邸は、三豊一の大地主でした。その蔵並みをバック幟が立てられて、その下で野菜などが売られていいます。小屋の下には、牛たちが集まっています。こんなシーンが美合や塩入や財田の戸川は、見られたのでしょう。それでは、集まった牛たちは、この後どうなるのでしょうか 

借耕牛のせり
借耕牛のせり
 牛がつながれて、その周りで人が相談しているように見えます。何をしているのでしょうか? 
到着した山麓の里は急に騒がしくなる。朝霧の中、牛たちが啼き交い、男たちのココ一番、勝負の掛け声や怒号がとびかう。大博労(ばくろう)とその一党、仲介人、牛追い、借り主の百姓たちが一頭の牛の良し悪しを巡り興奮に沸き立つ。袂(たもと)の中で値決めし、賃料が決まったら、円陣を組んで手打ちする。 「借耕牛探訪記」

 俳句の中には「歩かせ値決め」というフレーズがひっかかります。現在の肉牛の競りならば、歩かせる必要はありません。講牛として使うためには、実際に歩かしてみて、指示通りに動くかどうかも見定めていたことがうかがえます。

借耕牛 せり2

競りが終わったようです。笑顔で手打ちをしています。真ん中の人が「中追いさんやばくろ」と呼ばれる仲介人です。その前が競り落とした人物のようです。
どんな条件で競り落とされたのでしょうか。契約書を見ておきましょう。
借耕牛借用書2


表題は耕牛連帯借用書とあります。
①は牛の毛色や年齢です。 5歳の雄牛です。
 牛の評価額です。 2百円とあります。
②レンタル料 9斗とあります。10斗=米2俵(120㎏)=20円 地方公務員の初任給75円。1ヶ月のレンタル料は、新採公務員の給料1/4ほどで、現価格に換算すると4~5万円程度になります。牛の価格は200円ですから、初任給の3ヶ月分くらいで60万強になります。
③レンタル期間です 昭和3年は今から約100年前です。満濃池のユル抜きが時期から 代掻きはじまり田植えまでの約1ヶ月になります
④レンタル料の受渡日時と場所です。 夏の場合は、7月の牛の返却時ではなく、収穫の終わった年末に支払われていたことが分かります。秋にもやってきていたので、収穫後の年度末に支払われていたようです。
契約書の左側です。
借耕牛借用書3

意訳変換したものを並べておきます。
⑤借り主は木田郡三谷村犬の馬場の片山小次郎
⑥世話人(仲介人・ばくろ)が塩江安原村の小早川波路
⑦貸し主(牛の所有者)が安原村の藤原良平です。
以上からは、塩江安原村の藤原さんの牛が、木田郡三谷村の片山さんに、約1ヶ月、約米2表でレンタルされたことになります。この牛の場合、讃岐の牛です。
今度は、戦後の契約書を見ておきましょう。

借耕牛 契約書戦後
         昭和30年頃の借耕牛契約書
 耕作牛賃金契約書とあります。前側の一金がレンタル料金です。空白部分に金額を書き込んだのでしょう。後は「盗難補償金見積額」とあります。盗難や死んだときの補償金のようです。この契約書で注目したいのは、「金」とあることです。ここからはレンタル料がお金で支払われるようになっていたことが分かります。
それでは、いつ頃に米からお金に替わったのでしょうか? 
借耕牛 現金へ
借耕牛のレンタル料の米から現金への変化時期
横軸が年代、縦軸が各集落をあらわします。例えば、貞安では、大正初めに現金払いになったことが分かります。現金化が一番遅かったのが、滝久保集落で昭和10年頃です。昭和初年には、半数以上はレンタル料は米から貨幣になっていたようです。ここからは米俵を牛が背負って帰っていたという話は、昭和初年までのことだったことが分かります。
天川神社前1935年 

こうして牛たちは、土器川や金倉川・財田川沿いの街道を通って、各村々にやってきます。牛たちを待っていたのは、こんな現実でした。

借耕牛 荒起こし

荒起こしが終わり、田んぼに水が入ると代掻きです。
牛耕代掻き 詫間町

ある老人は、当時のことを次のように振り返っています。
           もう、時効やけん、云うけどの 一軒が借耕牛貸りたら、三軒が使い廻すのや。一ヶ月契約で一軒分の賃料やのにのお。牛は休む間も寝る間もなく働かされて、水飲む力も、食べる元気もなくなる。牛小屋がないから、畦の杭につながれて、夜露に濡れ、風雨に晒されたまま毎日田んぼへ出される。        「借耕牛探訪記57P」

休みなく三軒でこき使うのも、讃岐の百姓も貧しく、生きていくために必死だったのでしょう。何事も光と影はできます。
 中にはこんな話も伝わっています。
「来た時よりも太らせて帰すため、牛の好きな青草刈りに子どもたちが精出した」
「自分の所の牛と借耕牛を一日おきに使い、十分休ませる」
 こうして牛たちは、レンタル先で田んぼの代掻きなど、6月初旬から1ヶ月ほど働きます。代掻きがおわる7月になると、牛たちは集合場所まで追われていきます。そこで借り主に返されるのです。

DSC00661借り子牛
別れを告げ阿波に帰る借耕牛 (塩江町岩部)

牛の手綱を返された飼い主は、牛を追って、阿讃の峠を目指します。この写真は、借耕牛を見送る写真です。向こうの家並みが岩部の集落のようです。迎えにきた持ち主や追手に連れられて、阿波に帰っていきます。私が気になるのは、右端で見送る人です。蓑笠姿です。ここまで牛を連れてきた借り主のようにも見えます。1ヶ月、働いてくれた牛への感謝を込めて見送っているように見えます。

借耕牛に関わる人たちのつながりを整理しておきます。

借耕牛取引図3

一番上が牛を貸す方の農家です。口元行者というのが、讃岐ではばくろ、阿波ではといやと呼ばれる仲介者です。阿波にバクロが訪ねていって、「わしにまかせてくれ」と委任状をもらいます。そして、美合や塩入などに牛を連れていく期日を決めます。ここでは貸方と借り方の農家が直接に契約を結ぶのではなくて、その間に業者(ばくろ・といや)がいたことを押さえておきます。そこで、競りにかけられ、借り主が決まり契約書が交わされるというシステムです。
 この場合に、牛を連れて行くのを地元行者に任せることもあったようです。そのため何頭もの牛をつれて、峠を越えてくる「おいこ」の姿も見られました。しかし、多くは、牛の飼い主が美合や塩入まで牛を追ってきたのです。彼らは、飲み屋で散財するのでなく持参の麦弁当を食べて、お土産を買って帰路についたのです。牛を貸した後、無事に1ヶ月後には帰ってこいよと祈念しながら 麦弁当を木陰で食べる姿が思い浮かびます。 第一部終了 休憩

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 

借耕牛探訪記

借耕牛の研究

下記の通り、借耕牛についてお話しすることになりました。小学生達も参加するようなので、できるだけ分かりやすく、そして楽しく話したいと思います。借耕牛に、興味のある方で、時間の余裕のあるかたの参加を歓迎します。

借耕牛講演会ポスター
借耕牛 落合橋

借耕牛7

借耕牛 美合落合橋の欄干

借耕牛登場の背景

借耕牛 12

借耕牛のせり

借耕牛借用書2

借耕牛8

借耕牛の阿波供給地

借耕牛3
借耕牛 通過峠

借耕牛取引図3

借耕牛見送り 美合

借耕牛5

借耕牛6

関連記事

 アオバト飛来 大磯町・照ヶ崎海岸:東京新聞 TOKYO Web
塩分補給のために深山から岩礁に飛来するアオバト
 四国山脈の奥に棲むアオバトは、塩水を飲むために海の岩礁に下りてきます。野鳥観察が趣味だったころに、豊浜と川之江の境の余木崎にやってくるアオバトたちを眺めによく行きました。波に打たれながら海水を飲むアオバトを、ハラハラしながら見ていたのを思い出します。アオバトと同じように、人間にとっても塩は欠かせないものです。そのため縄文人たち以来、西阿波に住む人間はアオバトのように塩を手に入れるために海に下りてきたはずです。弥生時代の阿波西部は、讃岐の塩の流通圏内だったようです。その交換物だったのが阿波の朱(水銀)だったことが、近年の旧練兵場遺跡の発掘調査からわかってきたことは以前にお話ししました。
 つまり、善通寺王国と阿波の美馬・三好のクニは「塩=朱(水銀)」との交換交易がおこなわれていたようです。阿讃の峠は、この時代から活発に行き来があったことを押さえておきます。
 7世紀後半に丸亀平野南部に建立された弘安寺跡(まんのう町)と、美馬の郡里廃寺の白鳳時代の瓦は、同笵瓦でおなじ版木から作られていたことが分かっています。ここでも両者の間には、先端技術者集団の瓦職人集団の「共有」が行われていたことがうかがえます。以上をまとめると次のようになります。
①弥生時代の阿波西部の美馬・三好郡は、讃岐からの塩が阿讃山脈越えて運ばれていた
②善通寺王国の都(旧練兵場遺跡)には、阿波産の朱(水銀)が運ばれ、加工・出荷されていた。
③丸亀平野南部の弘安寺跡(まんのう町)と、美馬の郡里廃寺には白鳳時代の同笵瓦が使われている。
 このような背景の上に、中世になると阿波忌部氏の西讃進出伝説などが語られるようになると私は考えています。 
 そのような視点で見ていると気になってきたのが国の史跡となっている三加茂の丹田古墳です。今回はこの古墳を見ていくことにします。

丹田古墳 位置
           三加茂の丹田古墳
 三加茂から桟敷峠を越えて県道44号を南下します。この道は桟敷峠から落合峠を経て、三嶺ふもとの名頃に続く通い慣れた道です。加茂谷川沿の谷間に入って、すぐに右に分岐する町道を登っていきます。
P1260283
丹田古墳手前の加茂山の集落
 加茂山の最後の集落を通り抜けると、伐採された斜面が現れ、展望が拡がります。そこに「丹田古墳」の石碑が現れました。
P1260251
           丹田古墳の石碑 手前が前方部でススキの部分が後方(円)部 
標高220mの古墳からの展望は最高です。眼下に西から東へ吉野川が流れ、その南側に三加茂の台地が拡がります。現在の中学校から役場までが手に取るように分かります。この古墳から見える範囲が、丹田古墳の埋葬者のテリトリーであったのでしょう。

P1260258
丹田古墳からの三加茂方面 向こうが讃岐山脈

 この眺めを見ていて思ったのは、野田院古墳(善通寺市)と雰囲気が似ていることです。
2野田院古墳3
     野田院古墳 眼下は善通寺の街並みと五岳山

「石を積み上げて、高所に作られた初期古墳」というのは、両者に共通します。作られた時期もよく似ています。彼らには、当時の埋葬モニュメントである古墳に対してに共通する意識があったことがうかがえます。善通寺と三加茂には、何らかのつながりがあったようです。

P1260253

帰ってきてから「同志社大学文学部 丹田古墳調査報告書」を読みました。それを読書メモ代わりにアップしておきます。
丹田古墳調査報告 / 森浩一 編 | 歴史・考古学専門書店 六一書房

丹田古墳周辺部のことを、まず見ておきましょう。
①丹田古墳は加茂山から北東にのびる尾根の先端部、海抜約220mにある。
②前方部は尾根の高い方で、尾根から切断することによって墳丘の基礎部を整形している。
③丹田古墳周辺の表土は、丹田の地名が示すように赤土である。
④丹田古墳南東の横根の畑から磨製石斧・打製石鏃・打製石器が散布
⑤加茂谷川右岸・小伝の新田神社の一号岩陰からは、多数の縄文土器片が出上
 丹田古墳とほぼ同じ時期に築かれた岩神古墳が、加茂谷川の右岸高所に位置します。丹田古墳と同じ立地をとる古墳で、丹田古墳の後継関係にあった存在だと考えられます。前期古墳が高い所に作られているのに対して、後期古墳は高地から下りて、流域平野と山地形との接触部に多く築かれるようになります。すでに失われてしまいましたが、石棚のある横穴式石室をもった古墳や貞広古墳群はその代表です。貞広古墳群は、横穴式石室の露出した古墳や円墳の天人神塚など数基が残っています。
 以上から三加茂周辺では、初期の積石塚の前方後円(方)墳である丹田古墳から、横穴式石室をもつ後期古墳まで継続して古墳群が造られ続けていることが分かります。つまり、ひとつの継続した支配集団の存在がうかがえます。これも善通寺の有岡古墳群と同じです。

P1260271
                                丹田古墳の後円部の祠
丹田古墳の東端には、大師の祠があります。この祠作成の際に、墳丘の石が使われたようです。そのため竪穴式石室にぽっかりと穴が空いています。

P1260275
石室に空いた穴を鉄編みで塞いでいる

古墳の構築方法について、調査書は次のように記します。
①西方の高所からのびてきた尾根を前方部西端から11m西で南北に切断されている。
②その際に切断部が、もっとも深いところで2m掘られている。
③前方部の先端は、岩盤を利用
④後円(方)部では、岩盤は墳頂より約2、2m下にあり、石室内底面に岩盤が露出している
⑤墳丘は、岩盤上に積石が積まれていて、土を併用しない完全な積右塚である。
⑥使用石材は結晶片岩で、小さいものは30㎝、大きなものは1mを越える
⑦石材の形は、ほとんどが長方形

P1260280
墳丘に使用されている石材

⑧くびれ部付近では、基底部から石材を横に5・6個積みあげている
⑨その上にいくに従って石は乱雑に置かれ無秩序になっていく。
⑩墳丘表面は、結晶片岩に混じって白い小さな円礫が見えます。これは、下の川から運び上げたもののようです。築造当初は、白礫が墳丘全面を覆っていたと研究者は考えています。

国史跡丹田古墳の世界」-1♪ | すえドン♪の四方山話 - 楽天ブログ
            白く輝く丹田古墳
そうだとすれば、丹田古墳は出来上がった時には里から見ると、白く輝く古墳であったことになります。まさに、新たな時代の三加茂地域の首長に相応しいモニュメント墳墓であったと云えそうです。

⑪古墳の形状は、前方部先端が一番高く、先端部が左右に少しひろがっている箸墓タイプ
⑫墳形については、研究者は前方後方墳か、後円墳か判定に悩んでいます。
次に、埋葬施設について見ておきましょう。
 先ほども見たように、石室部分は大師祠建設の際に台座の石とするために「借用」された部分が小口(30㎝×50㎝)となって開口しています。しかし、石室字体はよく原状を保っていて、石積み状態がよく分かるようです。
丹田古墳石室
丹田古墳の縦穴式石室

①右室底面の四隅は直角に築かれて、四辺はほぼ直線
②規模は全長約4,51m、幅は東端で約1,32m、西端では約1,28m
③石室の底面は、東のほうがやや低くなっていて、両端で約0,26mの傾斜差
④この石宝底面の傾斜は、尾根の岩盤をそのまま、利用しているため
⑤高さは両端とも1.3mで、中央部はやや低く約1,2m
⑥石室底面は墳頂から約2.2m下にあり、石室頂と墳頂との間は約0,85m
⑦石室の壁は墳丘の積石と同じ結品片岩を使い、小口面で壁面を構成する小口積
⑧底部に、大きめの石を並べ垂直に積み上げたのち、徐々に両側の側面を持ち送り、天井部で合わせている。
⑨つまり横断面図のように合掌形になっていて、 一般的な天井石を用いた竪穴式石室とは異なる独特の様式。
⑩については、丹田古墳の特色ですが、「合掌形石室」の類例としては、大和天神山古・小泉大塚古墳・メスリ山古墳・谷口古墳の5つだけのようです。どうして、このタイプの石室を採用したのかは分かりません。
P1260269


ここで少し丹田古墳を離れて、周囲の鉱山跡を見ていくことにします。
①からみ遺跡 海抜1300mの「風呂の塔かじやの久保」にある銅鉱採堀遺跡
②滝倉山(海抜500m)
③三好鉱山(海抜700m)跡
①風呂塔かじやの久保は、奈良朝以前の採掘地と研究者は考えているようです。鋳造跡としては長善寺裏山の金丸山があります。ここの窯跡からは須恵器に鋼のゆあか(からみ)が流れついている遺物が発見されています。
 また三加茂町が「三(御)津郷」といっていたころは東大寺の荘園でした。その東大寺の記録に「御津郷より仏像を鋳て献上」とあります。ここからは加茂谷川の流域には、銅鉱脈があり、それが古代より採掘され、長善寺裏山の鋳造跡で鋳造されていたという推測ができます。残念ながら鋳造窯跡は、戦中の昭和18年(1954)に破壊されて、今は一部が残存するのみだそうです。

三加茂町史 / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋

 三加茂町史145Pには、次のように記されています。

かじやの久保(風呂塔)から金丸、三好、滝倉の一帯は古代銅産地として活躍したと思われる。阿波の上郡(かみごおり)、美馬町の郡里(こうざと)、阿波郡の郡(こおり)は漢民族の渡来した土地といわれている。これが銅の採掘鋳造等により地域文化に画期的変革をもたらし、ついに地域社会の中枢勢力を占め、強力な支配権をもつようになったことが、丹田古墳構築の所以であり、古代郷土文化発展の姿である。

  つまり、丹田古墳の被葬者が三加茂地域の首長として台頭した背景には、周辺の銅山開発や銅の製錬技術があったいうのです。これは私にとっては非常に魅力的な説です。ただ、やってきたのは「漢民族」ではなく、渡来系秦氏一族だと私は考えています。
本城清一氏は「密教山相」で空海と秦氏の関係を次のように述べています。(要約)
①空海の時代は、渡来系の秦氏が各地で大きな影響力を持っていた時代で、その足跡は各地に及んでいる
②泰氏の基盤は土木技術や鉱山開発、冶金技術等にあった。この先進技術を支えるために、秦氏は数多くの専門技術を持った各職種の部民を配下に持っていた。
③その中には鉱業部民もいたが、その秦氏の技術を空海は評価していた。
④空海は民衆の精神的救済とともに、物質的充足感も目指していた。そのためには、高い技術力をもち独自の共同体を構成する秦氏族の利用、活用を考えていた。
⑤空海の建立した東寺、仁和寺、大覚寺等も秦氏勢力範囲内にある。
⑥例えば東寺には、稲荷神社を奉祀している(伏見稲荷神社は泰氏が祀祭する氏神)。これも秦氏を意識したものである。
空海の満濃池改修も、秦氏の土木技術が関与していることが考えられる。
⑧空海の讃岐の仏教人関係は、秦氏と密接な関係がある。例えば秦氏族出身の僧として空海の弟子道昌(京都雌峨法輪寺、別名大堰寺の開祖)、観賢(文徳、清和天皇時、仁和寺より醍醐寺座主)、仁峻(醍醐成党寺を開山)がいる。
⑨平安時代初期、讃岐出身で泰氏とつながる明法家が8名もいる。
⑩讃岐一宮の田村神社は、秦氏の奉祀した寺社である。
⑪金倉寺には泰氏一族が建立した新羅神社があり、この大師堂には天台宗の智証(円珍)と空海が祀られている。円珍と秦氏の関係も深い。

2密教山相ライン
  四国の密教山相ラインと、朱(水銀)や銅などの鉱脈の相関性

以前に、四国の阿波から伊予や土佐には銅鉱脈が通過しており、その鉱山開発のために渡来系秦氏がやってきて、地元有力豪族と婚姻関係を結びながら銅山や水銀などの確保に携わったこと。そして、奈良の大仏のために使用された銅鉱は、伊予や土佐からも秦氏を通じて貢納されていたことをお話ししました。それが、阿波の吉野川沿いにも及んでいたことになります。どちらにしても、阿波の加茂や郡里の勢力は、鉱山開発の技能集団を傘下に抱えていたことは、十分に考えられる事です。

丹生の研究 : 歴史地理学から見た日本の水銀(松田寿男 著) / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋

 松田壽男氏は『丹生の研究』で、次のように記します。

「天平以前の日本人が「丹」字で表示したものは鉛系統の赤ではなくて、古代シナ人の用法どおり必ず水銀系の赤であったとしなければならない。この水銀系のアカ、つまり紅色の土壌を遠い先祖は「に」と呼んだ。そして後代にシナから漢字を学び取ったとき、このコトバに対して丹字を当てたのである。…中略…ベンガラ「そほ」には「赭」の字を当てた。丹生=朱ではないが、丹=朱砂とは言えよう。

丹田古墳の「丹田」は赤土の堆積層をさします。
ここには銅鉱山や、朱(水銀)が含まれていることは、修験者たちはよく知っていました。修験者たちは、鉱山関係者でもありました。修験者の姿をした鉱山散策者たちが四国の深山には、早くから入っていたことになります。そして鉱山が開かれれば、熊野神社や虚空蔵神が勧進され、別当寺として山岳寺院が建立されるという運びになります。山岳寺院の登場には、いろいろな道があったのではないかとおもいます。  
 同時に、阿波で採掘された丹=朱砂は、「塩のルート」を通じて丸亀平野の善通寺王国に運ばれ、そこで加工されていました。善通寺王国跡の練兵場跡遺跡からは、丹=朱砂の加工場がでてきていることは以前にお話ししました。丹=朱砂をもとめて、各地からさまざまな勢力がやってきたことが、出てきた土器から分かっています。そして、多度津の白方港から瀬戸内海の交易ルートに載せられていました。漢書地理志に「分かれて百余国をなす」と書かれた時代の倭のひとつの王国が、善通寺王国と研究者は考えるようになっています。善通寺王国と丹田古墳の首長は、さまざまなルートで結びつきをもっていたようです。
以上をまとめておきます
①阿波の丹田古墳は高地に築造された積石の前方後方(円)墳である。
②すべてが積石で構築され、白い礫石で葺かれ、築造当初は山上に白く輝くモニュメント遺跡でもあった。
③これは、丹田古墳の首長が当時の「阿識積石塚分布(化)圏」に属するメンバーの一人であったことを示すものである。
④特に、三加茂と善通寺のつながりは深く、弥生時代から「塩=鉱物(銅・朱水銀)」などの交易を通じて交易や人物交流が行われていた。
⑤それが中世になると、阿波忌部氏の讃岐入植説話などに反映されてきた。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
徳島県教育委員会 丹田古墳調査報告書
三加茂町史 127P 丹田古墳

阿波・大西城~歌舞伎の中村勘三郎さんご先祖様の城跡 | お城解説「日本全国」1200情報【城旅人】
大西(池田)城跡 

 前回は戦国時代末から3代にわたって、池田城の城番として、池田の地を治めてきた中村氏について見てきました。中村氏三代の墓が菩提寺の桂林寺に残されていました。三代の墓にお参りして、墓地をぶらぶらと歩きました。すると次のような点に気づきました。

P1170466
           大西城城番の初代中村重勝の五輪塔(桂林寺)

①墓数が少ないこと、つまり檀家が少ないのでしょう。これはこの寺が蜂須賀藩の家老職で池田城主であった中村家の菩提樹として建立された寺であるという性格からきているようです。宗派も中村家の信仰したの禅宗の臨済宗です。そのためその後も、門徒は増えなかったようです。

P1170467
馬宮家の墓域(桂林寺)
②もうひとつは、墓域の中に大きな区画を持ち、そこに多くの歴代の墓がならぶスペースがあることです。その墓碑には「馬宮・武川・長浜・谷」の姓が並びます。

P1170469
武川家の墓域(桂林寺) 後は讃岐山脈
彼らは、どんな人達なのでしょうか。この人達と、桂林寺や中村氏と関係はどうなっているのでしょうか? これを今回は見ていくことにします。テキストは「池田士について 阿波郷土研究発表会紀要第26号」です。
中村家失脚後に、池田の統治を委任された池田士
 「池田士」というのは、三名士(さんみょうし)や、海部士、判形人(はんぎょうにん)、岡崎の十衆らとともに蜂須賀藩時代に、その地域の自治権を与えられながら国境警備警にあった藩士のことのようです。もともとは、池田城の城番だった中村氏に仕えていたようですが、阿波藩は中村氏が失脚後に、主人亡き跡をその家臣たちに任せたようです。具体的には、「馬宮・武川・長浜・谷」などの各氏になります。彼らが「池田士」と呼ばれるようになるようです。

池田士の祖先は、どこからやってきたのでしょうか 
史料1 井口家成立書并系図共(初代太郎右衛門)
天正之頃福聚院(蜂須賀)様尾州龍野江被遊御座候砌御奉公仕罷在候(下略)
史料2 馬宮家成立書并系図共(初代四郎兵衛信光)
天正之頃福聚院様尾州被遊御座候節御奉公仕(下略)

史料3 武川家成立書并系図共(初代三右衛門氏倶)
天正之頃福聚院様播州龍野ニ被遊御座候節御奉仕罷在(下略)

史料4 谷家成立書并系図共(初代又兵衛好久)
播州平田之城主谷大膳一族ニ而大膳討死後福聚院様播州龍野ニ御座被遊候砌御随身仕候ト申伝候(下略)

史料5 長浜家成立書并系図共(初代与五郎長則)播州山崎ニ居住仕罷在候処秀吉公播州御出張之砌召出―中略―数度之合戦勲功有之候趣申伝候(下略)

 これらの史料からは、次のようなことが分かります。
①井口、馬宮両家の祖先は、蜂須賀正勝(福聚院様)の尾張在住時代からの家臣
②武川家の祖は、正勝が播州竜野に封ぜられた時から家臣
③谷家の出自は、もともと播州平田城主の一族だったのが、平田落城後に竜野に入った正勝に仕えるようになったこと
④長浜家も播州山崎に居住してが、秀吉の中国平定戦の際、その家臣となって戦功を重ね、竜野の領主となった正勝の家臣となったこと
 三名士は、もともとその土地の土豪でした。しかし、池田士の出自はバラバラですが、すべて阿波国外の人間であったことが分かります。
大西城(徳島県三好市)の詳細情報・周辺観光|ニッポン城めぐり−位置情報アプリで楽しむ無料のお城スタンプラリー
大西(池田)城跡(三好市池田保育園)

阿波来国の時期とその理由を「馬宮家成立書」には、次のように記します。
 為長曽我部元親御征伐瑞雲院様(蜂須賀家政)従播州龍野被遊御出陣候節御身附五拾人之内ニ相篭御供仕罷越、処々御合戦御勝利ニ相成御入国(下略)

意訳変換しておくと
 長曽我部元親を征伐するために瑞雲院様(蜂須賀家政)は、播州龍野から出陣した際に、中村氏の率いる50人ほどの軍勢に入り、諸合戦に勝利して阿波に入国した(下略)

 ここからは、次のようなことが分かります。
①秀吉の四国平定の一環として、蜂須賀家政は播州竜野より出陣したこと
②井口らはこのとき、蜂須賀家政に従って阿波へやってきたこと
ここからは、蜂須賀家政が阿波の領主になるに及んで、その家老職の中村氏に従って阿波に来住したことを押さえておきます。
それでは池田には、いつやってきたのでしょうか
・井口家成立書には、次のように記します。
中村右近(重勝)ニ御指添、海部ニ罷在、其後大西(池田)江御指替被遣候節相添罷越申候(下略)

秀吉の四国平定後の処置は、次の九州平定と朝鮮出兵を見据えての大名配置であったことは以前にお話ししました。そのために秀吉から求められたのは、海軍力や海上輸送力の整備強化と、土佐の長宗我部元親への供えでした。阿波の蜂須賀氏は、讃岐の生駒氏と連携をとりながら、対長宗我部包囲網を形成していきます。

阿波九城a.jpg
阿波九城

 その一環としてとられた防衛措置が、領内の要地9カ所の城の維持管理で、そこに重臣を配置します。これが「阿波9城」で、鞆城(海部)には中村重勝(しげかつ)、大西(池田)には牛田掃部頭を城番とし、それぞれ手勢300人を配備しています。播州から家政に従軍してきた井口らは、中村重勝の配下に配属され、海部城に入ります。間もなくして、重勝が大西城代に配置換えになったので、これに従って池田へ移ります。
池田士とよばれるようになった時期とその理由は?
 阿淡年表記録(嘉永4年に編集された藩の公式記録)の明暦2年(1656)の項に、次のように記されています。

7月 中村美作 淡州在番中  京大坂へ忍行遊興其余不届之義有之閉門被仰付。
10月5日 中村美作 不心得ニ付職禄被召放仁宇山へ山篭被仰付。
意訳変換しておくと
7月に中村美作(可近)が淡路に在番中に、京大坂へ忍行して遊興を重ねていたことが発覚し、閉門を仰付られた。
10月5日 中村美作については、不心得な行いのために職録を召し上げて、仁宇山への山籠もりを命じた。

ここからは中村家三代目の中村美作(可近)が、淡路での在勤中に職務を抜け出して、上方で遊興に耽っていたのが発覚し、職録を召し上げられたのが分かります。

P1170476
中村家三代目の中村美作(可近)の墓(桂林寺)

桂林寺に残る墓標で、一番小さいのがものが中村美作(可近)のものであったのも、こんな背景があるようです。これでお取り潰しかと思ったのですが、そうではないようです。蜂須賀家を支えてきた中村家を取り潰すには、忍びなかったのでしょう。四代目の近照は、洲本の在番に「左遷」し、存続させています。それでは、中村家に仕えていた家臣たちはどうなったのでしょうか?
「中村美作家来」のあつかいについて、次のような史料が残されています。
 10月25日 中村美作家来
  高 250石  井口長左衛門
  同 200石  馬宮清左衛門
  同 100石  谷五左衛門
  後 絶家  橋本五郎左衛門
  高 150石  長浜弥五右衛門
  同 100石  武川角左衛門
  被召出其侭池田住居被仰付

 「池田住居被仰付」とあります。ここからは、中村家の家臣であった井口氏ら5名は、主君中村美作の失脚後、藩の直臣に召し出され、藩命によって池田に居住し、特別な任務が与えられたことが分かります。これが「池田士」の誕生の経緯のようです。

P1160572
阿波池田城跡の遠望
池田士に与えられた任務とは、何だったのでしょうか?
  徳島城内への正月詣でに不参加の理由を、池田士の馬宮氏が提出した文書の控えです
史料18 寛文3(1663)年正月(阿淡年表秘録)
 池田士之面々へ被仰出三好郡大西口ハ土州予州讃州三国之御境目猶以白地渡口之儀は他国よりの通路第一御大切之御場処ニ付池田士両人宛月番可相勤候右当番之面々八五節句又ハ如何様之儀有之候共御山下へ罷越義無用之旨被仰出。
 
意訳変換しておくと
 池田士の面々へは次のように仰せつかっている。三好郡大西(池田)口は、土州予州讃州三国の境目で、特に白地渡口については、他国よりの通路として最も重要な要衝である。よって池田士両人は月番を決めて、この地に当番として詰めるように命じられている。そのため八五節句の会合がある場合でも、当番に当たっている者は、参加する必要はない仰せつかっている。

ここからは次のようなことが分かります。
①三好郡の白地渡口には、検番が設けられていて池田士が当番を決めて詰めていたこと
②白地渡口御番の月番として勤役中の馬宮豊太郎が、年頭のあいさつのため徳島へ登城せず、欠席することを届け出ていること
P1160577
阿波池田市街地
この史料を裏付ける次のような史料が、馬宮家文書の中にはいくつか残っているようです。
史料19 覚(馬宮家文書)
 御隣国万一異変等の砌、遠近何者ニよらず私共下知ニ相従候様兼而被仰付置被下候ハバ徳嶋表へ御人数参候迄御境目御堅出来可仕様在役候 以上
  仲間 5人
意訳変換しておくと
 隣国で万一の異変がおきた場合には、徳島の城までは遠いので、現場の私共の命令に従うように仰せつかっています。そして徳嶋表から応援部隊が到着するまでは、境目を堅守することが任務とされています。 以上
  仲間 5人
ここからは、池田士の任務について次のようなことが分かります。
①国境警備として、土佐・伊予・讃岐などの隣国から、万一進攻されたとき、徳島表からの軍勢が到着するまでの間、池田士がその周辺の手勢を指揮して防戦につとめるという任務
②白地渡し場の管理と通行人の検問
③巡検使の警備
 こうして井口・馬宮・長浜・武川・谷・橋本の六氏(橋本は1代かぎりで絶家)が、池田士とよばれるようになります。
寛文3年(1663)に、藩主光隆が武川角左衛門氏(3代目)に与えた御判物が、武川家所蔵文書の中にあります。
分国阿波之内於所々高都合百石 目録役付 在別紙 事遣之条全可領知依状如件
寛文3正月28日
  光隆花押
  武川角左衛門どのへ
この時に武川角左衛門に与えられた家禄100石についての内訳は次の通りです。
一 高 五十石 三好郡金丸村
  人数之内 1人 本百姓
     1人 奉公人
     1人 間人
     1人 子甥下人
一 高 三十石六斗 那東郡島尻村
  人数4人之内  二人 百姓
     二人 子
一 高 一四石四斗 新開 麻植郡瀬詰村
  1高 5石 新開 名西郡西覚円村
  高都合100石
   人数合12人但60歳から15歳迄役に入分右定役3人也
二百石を給せられた馬宮家は、次のように記されています。
 一 高 200石 三好郡賀茂村   人数 28人
 一 高 40石  同郡金丸村    人数 10人
 一 高 23石7斗7合勝浦郡前原村 人数 8人
 一 高 13石9斗1升7合 新開  板西郡大寺村
 一 高 10石8斗4升4合 同  勝浦郡柴生村
 一 高 4石3斗8升5合 同  麻植郡喜来村
 一 高 4石2斗5升4合 同  美馬郡岩倉村
 一 高 2石8斗9升3合 同  麻植郡三嶋村
  高 都合200石   人数合46人 老若共

ここからは家禄として領有する地域は、三好郡の外、阿南市や小松島市から板野郡、名西郡、麻植郡、美馬郡と、県内各地に散在していたことが分かります。この史料は、当時の藩士の家禄の拝知の状況を知るうえで極めて価値の高いと研究者は評します。

P1160611
阿波池田のうだつの街並み
 それでは池田士の家屋敷は、どれほどの規模だったのでしょうか。
武川家所蔵文書の中に、次のような記録があります。
元文6年(注・1741)酉3月5日 武川弥太郎氏定(5代目)家屋敷相改帳
屋敷
  西東21間、北南27間半、坪数585坪但西東北籔アリ
   2間ニ2間半 座敷
   萱葺板敷天井アリ、但南之方半間ニ2間半瓦庇板椽天井有
   3間半ニ7間 
本家 萱葺板敷
  門 3間ニ4間 天井アリ
  門 2間ニ3間 土座アリ
  但シ南之方 半間ニ2間 瓦庇板椽
   北之方 半間ニ4間 枌庇板椽
  戸数9枚 障子5枚 襖4枚
  2間4方 カマ屋 萱葺土座 戸数1枚
  2間4方 物置 萱葺 竹座
  2間4方 土蔵 板敷 戸数1枚
  2間ニ7間 長屋 萱葺 戸数3枚
  長2間 門 萱葺 戸数2枚
  1間ニ1間半 湯殿 戸数1枚
  樹木品々大小 29本 
これは武川角左衛門氏尚(6代目)が、父弥太郎の死亡によって家督相続した際に、福屋甚太兵衛宛に提出したものです。家禄百国石程度の藩士の居住した家屋敷は約600坪、本家の外、座敷、カマ屋、土蔵、物置、湯殿、長屋などの建物がすべて萱葺であったことが分かります。これは、徳島城下に比べると破格の広さになります。
 彼らは陣屋周辺に、住居を構えていたはずです。それがかつての大西(池田)城周辺だったのでしょうが、今の私にはどこか分かりません。
P1160613

以上を整理しておきます。
①池田士たちは、天正13年(1585)蜂須賀家政の阿波入国の際、家老の中村右近大夫重友の与力として阿波にやって来た。
②中村氏は最初は海部鞆城に入り、その後大西(池田)城へ移動したため、それに池田士たちの祖先もそれに従って池田に居住し、国境警備や白地口検番に当たるようになった。
③明暦2年(1656)10月、中村家3代目の近照が不心得の廉で職禄を召上げられた。
④阿波藩は、阿波西部エリアについて精通していた中村氏の家臣達を、蜂須賀の直臣化して従来通りの職務に当たらせた。
⑤寛政12年(1800) 平士に昇格し、御仕置支配となった。

主君が失脚すると、浪人になるのが普通です。しかし、蜂須賀藩は直臣に取り立てています。それは、阿波西部の国境防備を担っていた彼らの功績を評価してのことでしょう。徳島城内から新たな役人を派遣しても勤まらないと判断したから、従来のスタッフを直接雇用し任務に当たらせたようです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
      「池田士について 阿波郷土研究発表会紀要第26号」

  P1160312
只安展望台(三好市西山)から望む池田市街

  新猪ノ鼻トンネルを抜けての原付ツーリングが続きます。池田の町中の旧国道を徘徊中に見つけたのが桂林寺と書かれた道案内です。立ち寄って見ることにします。原付バイクは、こんな時に見廻りの良さを発揮します。
P1170485
桂林寺の石段と山門

階段を登って境内に入っていくと、鐘楼の向こうに真新しい看板が見えます。
P1170483
お稲荷さんの赤い鳥居の向こうに鐘楼

P1170464
中村家墓所の説明版(桂林寺)
ここには次のような事が書かれています。
「三好市指定文化財 中村家墓所  平成22年4月27日指定」
 中村家墓所は、池田町サラダの桂林寺墓所内にあり、約400年前(安土桃山時代~江戸時代)に大西城の城番を務めた中村家三代の墓がある。
 中村家三代にわたる城番の初代(中村家二代)の中村右近大夫重勝(しげかつ)の墓石を始め、二代目城番(同三代)の中村若狭守可近(よりちか)の五輪塔、三代目(同四代)の中村美作近照(ちかてる)の古い墓石が立つ。
 周囲には、三代の功績を記す碣(いしぶみ)や碑などの石造物が子孫や中村家に仕えた池田士によって数多く建立されており、これら中村家三代関連の石造物14基を中村家墓所としている。
 このうち13基が江戸期に建立されたもので、最も古いものが正保元年(1644)に建立された中村若狭守可近の五輪塔で、江戸特有の尖鋭な空輪、軒の反りの極端な火輪などを持つ。
 半世紀にわたって、大西城と共に形成された池田の城下町がその後の池田町発展の基礎となった歴史を今に伝える貴重な史跡として、平成22年4月に文化財に指定された。
  三好市教育委員会   
以上をまとめておくと
①蜂須賀家の下で大西城番を務めた中村家三代の墓が墓地に並んでいること
②中村家に仕えた「池田士」によって石造物が寄進されていること
③もっとも古いものが正元元(1644)年の初代中村重勝の五輪塔であること
④中村家三代の城番時代に、池田の町の原型が形成されたこと
⑤中村家墓所の墓石や灯篭など石造物14 基が2010年に三好市文化財に指定されたこと。

この寺は安土桃山時代に大西城番として、やってきた中村氏の菩提寺のようです。中村家三代の墓が次のように並んでいます。

P1170465

①が 初代・中村重勝
⑦が二代目・中村可近
⑫が三代目・中村近照
の墓になるようです。その周囲には、それぞれの功績を記した古い石造文化財が数多く建立されています。それらの墓参りをすることにします。
P1170473

①の初代中村重勝の五輪塔です。
威風堂々として、同時代に讃岐の弥谷寺などに生駒氏が奉納した五輪塔を思い出させてくれます。別の見方をするとペンシルロケットのようにいまにも飛び立ちそうな感じもします。阿讃山脈の緑と、青い空がバックに従えています。

P1170474

台座には正保元(1644)年と刻まれているのが分かります。

P1170477
⑦の二代目・中村可近の墓標です

P1170476
⑫の三代目・中村近照の墓標です。
初代や2代目に比べると、小さくなっていますし、墓の前の「顕彰碑」もありません。それについては、追々に・・
5 四国の大名配置表 関ヶ原直前

池田に中村氏がやって来るまでの経緯を巨視的に見ておきましょう。 
 四国平定後の秀吉は、長曽我部元親を土佐一国に封じ込め、他は四国平定に功績のあった武将達を藩主に任命しています。讃岐には生駒、阿波には蜂須賀と故郷尾張以来の功臣が入国してきます。秀吉が彼らに課した課題は、次の九州平定・朝鮮出兵に向けた軍事力(特に水軍・輸送船力)の強化と土佐の長宗我部にに対する防備でした。生駒氏と蜂須賀氏は、旧来から仲がよかったようで、土佐藩防備にたいしては共同して戦線を築こうとしていたことがうかがえます。これが後の朝鮮出兵の際にも両者の協力関係につながっていくようです。
 蜂須賀氏は土佐藩に対する防備の一つとして、大西城(池田城)に家臣の牛田一長(牛田又右エ門)を入れて、阿波九城の一つとして改修しています。その後、慶長3(1598)年に海部城から中村重勝を大西城に移します。
中村家三代をついて見ておきましょう。
 初代の中村重勝の父は、豊臣政権の「三中老」のひとりである中村一氏の末弟とされる中村重友のようです。
中村重勝は蜂須賀家の家臣として5500石を与えられ、父の重友に代わり海部城に配置されます。重勝は朝鮮出兵に従軍し、関ヶ原の戦いの2年前の慶長3(1598)年に牛田氏に代わり大西(池田)城主となっています。さらに大坂冬の陣では200人を率いて出陣し、2月16日(慶長19年)に本町橋の夜襲戦で戦死します。戦国時代を生き抜いた武将だったようです。彼が大西城の初代になります。彼の墓石が、桂林寺の五輪塔になります。
  その後を継いだのが2代目の中村可近で、父の戦死を受けて2000石加増され7500石で大西城主を継いでいます。寛永15(1638年)の一国一城令で、大西城は廃城となりますが、大西陣屋として形を変えて残ります。
 それを1646年に継承したのが三代目の中村近照です。
しかし、近照は、明暦2年(1656)10月に「不心得」の廉で職禄を召上げられたので、中村氏による池田の支配は、三代で終わります。

P1170462
桂林寺山門
もう一度の桂林寺について、見ておきましょう。
桂林寺に残された文書は、この寺の由来について次のように記します。
 ―前略―
仍拙者家来中村右近(重勝)去16日夜於大坂仙波表致討死候。彼者為追善貴山ニ燈炉挑申度候。為其領銀子一貫200目遣之候。時宣可然様ニ頼入計候
 恐惺謹言
  12月19日 蜂須賀阿波守
   至鎮 花押
 高野山光明院
  御同宿中
意訳変換しておくと
拙者の家来である中村右近(重勝)は12月16日夜に、大坂仙波表で討死した。彼の追善のために貴山に灯籠を寄進して供来するとこを申しつける。そのために銀子一貫200目を遣わす。時宣可然様ニ頼入計候
 恐惺謹言
 ここからは、討ち死にした3日後に、蜂須賀家の藩主が高野山の光明院に追悼のための灯籠を寄進していることが分かります。そして、次に池田に菩提寺として桂林寺を建立したようです。桂林寺境内墓地には中村右近(重勝)の墓の前に、その功績を記した碑があります。

桂林寺由緒を史料で見ておきましょう。
一 該寺儀ハ往古ヨリ御巡見役御通行ノ節、御休泊被仰付来候。其節蜂須賀家ヨリ御修覆万端被仰付候。寺領高15石2斗4合5勺。
一 寺中居屋敷3段9畝高3石9斗 四方竹木共 承応3年9月23日蜂須賀家ヨリ僧玄宥首座江賜ル
意訳変換しておくと
桂林寺については往古から藩の巡見役が見廻りの際に、休息・宿泊した場所である。その際には蜂須賀家より、修復などが申しつけられた。寺領高15石2斗4合5勺。
一 寺中の屋敷地は3段9畝高3石9斗で、四方竹木。承応3(1654)年9月23日蜂須賀家より、僧玄宥に賜ったものである。

もうひとつの史料です
 覚
当寺之儀往古御建立被仰付其後御巡検役御宿ヲモ被仰付来候儀ニ御座候処、去天明8(注・1788)申年冬ノ頃御通行御座候節御繕被仰付御宿仕候以来、最早多年ニ相成候事故追々破壊ニ相及ビ―
中略―本〆中又ハ御作事方ニテモ尚又御修覆之儀申出候様致可申哉イマダ表立候御沙汰モ無之儀指越申出候段モ恐入候ヘドモ己ムヲ得ザル事申出置候間重々トモ宜シク御含置可被下候  以上
意訳変換しておくと
史料4 覚
桂林寺ついては、(中村家の菩提寺として)建立され、その後は巡検役の宿としても使用されてきた経緯があります。天明8(1788)年の冬の巡回の際には、宿泊所として使用するために修繕を仰付かり、藩の資金で修復されました。それ以来、長年にわたって修繕がされていないので、いろいろなところが破損している状態です。・・中略―
 修覆についてお願いしてきましたが、未だに何の沙汰もありません。誠に恐れ入ることではあるが、やむなく再度申出しますの宜敷お取りはからい下さるようお願い致します。
  以上
 二つの史料からは、次のようなことが分かります。、
①桂林寺が藩の手で建立され、巡検使の休息所や宿泊所に使われたこと。
②その都度、藩費によって修覆が行われたこと。
③藩の保護によって建立され維持管理された寺院の宿命として、他に檀家がなく、藩よりの出費がなければ、たちまち経営難におちいること
④幕末には伽藍が痛み、藩への修繕依頼を重ねていたこと。

以上を整理しておきます。
①三好郡の政治的・軍事的な拠点は、戦国時代には白地城であった。
②それが長宗我部元親の土佐撤退後に、池田の旧大西城を修復・整備し、土佐への防備とした。
③その城主として関ヶ原の戦いの2年前に蜂須賀藩が任命したのが中村重勝であった。
④重勝が池田・中村家の初代となるが、彼は大坂冬の陣で戦死する。
⑤これを悼んだ蜂須賀家当主は、池田に桂林寺を建立し菩提寺とした。
⑥そのため桂林寺には、中村家三代の墓が並んでいて、それが三好市の文化財に登録されている
⑦大西(池田)城は、一国一城令で廃城となるが、陣屋として規模を縮小しながら存続した。
⑧中村家三代目は「不心得」の廉で職禄を召上げられたので、中村氏による池田の支配は、三代で終わった。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献
  池田士について 阿波郷土研究発表会紀要第26号
関連記事

徳島県美馬市寺町の寺院群 - 定年後の生活ブログ
郡里廃寺(こおざとはいじ)復元図
郡里廃寺跡は,もともとは立光寺跡と呼ばれていたようです。
「立光寺」というのは、七堂伽藍を備えた大寺院が存在していたという地元の伝承(『郡里町史』1957)により名付けられたものです。何度かの発掘調査で全体像が明らかになってきて、今は国の史跡指定も受けています。
郡里廃寺跡 徳島県美馬市美馬町 | みさき道人 "長崎・佐賀・天草etc.風来紀行"

郡里廃寺跡が所在する美馬市美馬町周辺は,古墳時代後期~律令期にかけての遺跡が数多く分布しています。その遺跡の内容は,阿波国府周辺を凌ぐほどです。そのため『郡里町史』(1957)は、阿波国には,元々文献から確認できる粟国と長国のほかに,記録にはないが美馬国とでもいうべき国が存在していたという阿波三国説を提唱しています。
段の塚穴
段の塚穴
 阿波三国説の根拠となった遺跡を、見ておきましょう。
まず古墳時代について郡里廃寺跡の周辺には,横穴式石室の玄室の天井を斜めに持ち送ってドーム状にする特徴的な「段の塚穴型石室」をもつ古墳が数多くみられます。この古墳は石室構造が特徴的なだけでなく,分布状態にも特徴があります。

郡里廃寺 段の塚穴
段の塚穴型古墳の分布図
この石室を持つ古墳は,旧美馬郡の吉野川流域に限られて分布することが分かります。古墳時代後期(6世紀後半)には、この分布地域に一定のまとまりが形成されていたことをしめします。そして、この分布範囲は後の美馬郡の範囲と重なります。ここからは、古墳時代後期に形成された地域的まとまりが、美馬郡となっていったことが推測できます。そして、古墳末期になって作られるのが、石室全長約13mの県内最大の横穴式石室を持つ太鼓塚古墳です。ここに葬られた国造一族の子孫たちが、程なくして造営したのが郡里廃寺だと研究者は考えています。
 
1善通寺有岡古墳群地図
佐伯氏の先祖が葬られたと考えられる前方後円墳群
 比較のために讃岐山脈を越えた讃岐の多度郡の佐伯氏と古墳・氏寺の関係を見ておきましょう。
①古墳時代後期の野田院古墳から末期の王墓山古墳まで、首長墓である前方後円墳を築き続けた。
②7世紀後半には、国造から多度郡の郡司となり、条里制や南海道・城山城造営を果たした。
③四国学院内を通過する南海道の南側(旧善通寺西高校グランド)内の善通寺南遺跡が、多度郡の郡衙跡と推定される
④そのような功績の上で、佐伯氏は氏寺として仲村廃寺や善通寺を建立した。

郡里廃寺周辺の地割りや地名などから当時の状況を推測できる手がかりを集めてみましょう。
郡里廃寺2
郡里廃寺周辺の遺跡
①郡里廃寺跡付近では,撫養街道が逆L字の階段状に折れ曲がる。これは条里地割りの影響によるものと思われる。
②郡里廃寺跡の名称の由来ともなっている「郡里」の地名は,郡の役所である郡衙が置かれた土地にちなむ地名であり,周辺に郡衙の存在が想定される
③「駅」「馬次」の地名も郡里廃寺跡の周辺には残っていて、古代の駅家の存在が推定できる
 このように郡里廃寺跡周辺にも,条里地割り,郡衙,駅家など古代の郡の中心地の要素が残っています。ここから郡里が古代美馬郡の中心地であった可能性が高いと研究者は考えています。そして,郡衙の近くに郡里廃寺跡があるということは、佐伯氏と善通寺のように、郡里廃寺が郡を治めた氏族の氏寺として建立されたことになります。

それは、郡里を拠点として美馬王国を治めていたのは、どんな勢力だったのでしょうか?
 
郡里が阿波忌部氏の拠点であったという研究者もいます。
 郡里廃寺からは、まんのう町弘安寺廃寺から出てきた白鳳期の軒丸瓦と同じ木型(同笵)からつくられたもの見つかっていることは以前にお話ししました。
弘安寺軒丸瓦の同氾
       4つの同笵瓦(阿波立光寺は郡里廃寺のこと)

弘安寺(まんのう町)出土の白鳳瓦(KA102)は、表面採取されたもので、その特長は、立体感と端々の鋭角的な作りが際立っていて、木型の特徴をよく引き出していることと、胎土が細かく、青灰色によく焼き締められていることだと研究者は指摘します。

③ 郡里廃寺(立光寺)出土の同版瓦について、研究者は次のように述べています。
「細部の加工が行き届いており、木型の持つ立体感をよく引き出している、丁寧な造りである。胎土は細かく、焼きは良質な還元焼成、色調は灰白色であった。」

弘安寺同笵瓦 郡里廃寺
      郡里廃寺の瓦 上側中央が弘安寺と同笵

  まんのう町の弘安寺廃寺で使われた瓦の木型が、どうして讃岐山脈を越えて美馬町の郡里廃寺ににもたらされたのでしょうか。そこには、両者に何らかのつながりがあったはずです。どんな関係で結ばれていたのでしょうか。
郡里廃寺の造営一族については、次の2つの説があるようです。
①播磨氏との関連で、播磨国の針間(播磨)別佐伯直氏が移住してきたとする説
②讃岐多度郡の佐伯氏が移住したとする説
  播磨からきたのか、讃岐からきたのは別にしても佐伯氏の氏寺だと云うのです。ある研究者は、古墳時代前期以来の阿讃両国の文化の交流についても触れ、次のような仮説を出しています。

「積石塚前方後円墳・出土土器・道路の存在・文献などの検討よりして、阿波国吉野川中流域(美馬・麻植郡)の諸文化は、吉野川下流域より遡ってきたものではなく、讃岐国より南下してきたものと考えられる」

 これは美馬王国の古代文化が讃岐からの南下集団によってもたらされたという説です。
『播磨国風土記』によれば播磨国と讃岐国との海を越えての交流は、古くから盛んであったことが記されています。出身が讃岐であるにしろ、播磨であるにしろ、3国の間に交流があり、讃岐の佐伯氏が讃岐山脈を越えて移住し、この地に落ちついたという説です。
 これにはびっくりしました。今までは、阿波の忌部氏が讃岐に進出し、観音寺の粟井神社周辺や、善通寺の大麻神社周辺を開発したというのが定説のように語られていました。阿波勢力の讃岐進出という視点で見ていたのが、讃岐勢力の阿波進出という方向性もあったのかと、私は少し戸惑っています。
 まんのう町の弘安寺廃寺が丸亀平野南部の水源管理と辺境開発センターとして佐伯氏によって建立されたという説を以前にお話ししました。その仮説が正しいとすれば、弘安寺と郡里廃寺は造営氏族が佐伯氏という一族意識で結ばれていたことになります。
 郡里廃寺は、段の塚穴型古墳文化圏を継続して建立された寺院です。
美馬郡の一族がなんらかの関係で讃岐の佐伯氏と、関係を持ち人とモノと技術の交流を行っていたことは考えられます。そうだとすれば、それは讃岐山脈の峠道を越えてのことになります。例えば「美馬王国」では、弥生時代から讃岐からの塩が運び込まれていたのかもしれません。そのために、美馬王国は、善通寺王国に「出張所」を構え、讃岐から塩や鉄類などを調達していたことが考えられます。その代価として善通寺王国にもたらされたのは「朱丹生(水銀)」だったというのが、今の私の仮説です。さらに推測が許されるのであれば、美馬王国は、阿波忌部一族の王国だったのかもしれません。
 以上をまとめておくと
①美馬郡郡里には、独特の様式を持つ古墳群などがあり、「美馬王国」とも云える独自の文化圏を形成していた
②この勢力は讃岐山脈を越えた善通寺王国とのつながりを弥生時代から持っていた。
③「美馬王国」の国造は、律令国家体制の中では郡司となり、郡衛・街道・条里制整備を進めた。
④その功績を認められ他の阿波の郡司に先駆けて、古代寺院の建立を認められた。
⑤寺院建立は、友好関係(疑似血縁関係)にあった多度郡の佐伯氏の協力を得ながら進められた。それは、同笵瓦の出土が両者の緊密な関係を示している。

 善通寺の大麻山周辺に残されている大麻神社や忌部神社は、阿波忌部氏の「讃岐進出の痕跡」と云われてきました。しかし、視点を変えると、佐伯氏と美馬王国の主との連携を示す痕跡と見ることも出来そうです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
木本 誠二   郡里廃寺跡の調査成果と史跡保存の経緯
*                                     阿波学会紀要 第55号 2009年
郡里町(1957):『郡里町史』.

前回に続いて、吉野川の船と港について見ていくことにします。テキストは  「小原亨 川船と小野浜の今昔 郷土研究発表会紀要第38号」です。
吉野川に、どのくらいの川港があったのでしょうか

吉野川の川港

上図の吉野川川港の分布図からは、次のようなことが分かります。
A 一番奥の港は、阿波池田を越えた①の阿波川口までで、ここまで川船は入り込んでいたこと
B 吉野川には、30近い川港が分布しており、その地域の物流拠点となっていたこと。
C 下流終着地点は、撫養や城下町徳島で、そこからは廻船で大坂や瀬戸内海の各港とつながっていたこと
この他にも、芝原の浜・中の島の浜・江ノ脇の瀞・轟の浜・足代の東浜なども川港として機能していたようです。
平田船
吉野川の平田船
 吉野川にはどのくらいの数の川船が運航されていたのでしょうか?
現存する阿波国郡村誌・郡史(誌)・町村史(誌)の情報を基にして研究者がまとめたのが下表になります。
平田船港別就航数一覧

ここからは次のようなことが分かります。
①吉野川就航の川船は750~1000隻程度であった。
②川船所属数ベスト5の川港は、半田50・脇40・佐間地(白地)36・池田31・白地29で 下流部よりも上流部の美馬郡・三好郡に多かったこと
②について、上流部の川港に所属する船が多かったということをどう考えればいいのでしょうか? これは、また後に考えるとして、先に進みます。
 当時の船運の状況が、『阿波郡庄記』三好郡の条に次のように記録されています。
「芝生村南北加茂村の内に、江口と云う渡場あり。讃州金比羅へ参詣の節帰りには当村へ出かけ船数艘下りあり。3月・10月・10艘または15艘、人ばかり乗船夥敷く宿多く御座候。(中略)
半田小野浜にも船頭多く乗船客も多く、明治末期~大正初期の半田小野浜~船戸(川田から鉄道)間の船賃は3銭5厘」


徳島日々新聞…明治28年2月23日の記事は、次のように記します。
「吉野川筋貨物を積載上下する船数150隻・1か年の往復回数2万回・物資品目・藍玉・藍草・すくも・玉砂・砂糖・塩・石灰・鯡粕・米麦・煙草大豆・木炭・薪・雑貨・陶器・物資総重量200万貫・船客用の船50隻・利用船客6~7万人・内・県外客10分の1、時期は9月から翌年5月の間が多い。

高瀬舟と平田船

 吉野川の浜(津)を結ぶ川船は、平田船・比良多船・平駄船とも表記されています。

大言海は、次のように記します。
「平板の約と略して、ひらだ・薄く平たくして長き船。倭名抄11船類に、艇薄而長者曰く・比良太・俗用平田船・また石を運送する船・段平船。昔々物語(享保)に(涼みのため平田船に屋根を造りかけ是れを借りて浅草川を乗り廻し。)とある。

阿波志には
「船長2丈5尺許広さ6尺底平板厚舳」

14世紀の頃は田船として利用され、慶長(1596~1615)の頃、大坂で上荷船として大型化され、寛永時代(1624~1644)は樽前船、北前船の荷物の揚げおろしや河川の物資輸送に利用されるようになります。
 吉野川には、この他に「エンカン」・「イクイナ」と呼ぶ船もあったようです。
エンカンは、長さ7間・巾6尺。8反帆、40石積と、少し小型でした。イクイナは、エンカンよりせまく、舳が2岐の角状になっていて、その岐の間に櫂を差し込んで漕ぐことができたために、半田川や貞光川の支流に入ることができました。
 川船の帆は、松右衛門という純綿の厚い織物作りで、そこには、□上(かたがみ)・臼(かねうす)などと親方(船主)の家印を入れていました。
帆で登る遠賀川の平田船 出典:『筑豊石炭鑛業要覧』
 帆で登る遠賀川の平田船 出典:『筑豊石炭鑛業要覧』
平田船は、どんな風に吉野川を行き来していたのでしょうか?
笠井藍水の回想記「帆かけ舟」には、次のように記します。

「春夏は川に沿って東風が吹くので帆かけ船が上って来る。夏・水泳に行くと大きな帆(8反帆)をかけた平駄船が後から後から船首に波をけって上って来るのを面白く眺めた。また、秋冬は・西風となるので帆は利用できず2~3人の船頭が綱で船を曳いて上る。脇町の対岸の河原の水辺を綱を肩にかけ身体を前に屈めて船を曳く景物をよく見た。帆かけ船は全国何処の川にもあっただろう。しかし吉野川の如く巨大な帆を使用した処は他にあまりなかっただろうと思う。吉野川の帆かけ船は日本一であったかも知れぬ。とにかく吉野川の風景に興趣をそえるものであった。……」

北上川の平田船
復元された北上川の平田船
吉野川船運の特徴は、春・夏は東風が吹くことです。
この風を利用して帆を建てて上ることができました。追い風を受けてゆたりと上流に上っていく川船が、夏の風物詩でもあったようです。これは楽ちんです。一方、秋・冬は西風が吹くので、帆は利用できません。そこで友船と2艘をつなぎにして、1人が楫をとり他の船頭は綱を引いて川岸を登ることが行われていました。

遠賀川の船曳
遠賀川の船曳

なかでも難所は、岩津橋下流のソロバン瀬だったようです。
ここでは300mもある長綱で船を引っ張らなければなりません。引綱は、60~100尋(100~200m)もある細長い綱(日向産)です。これを足中草履(あしなかぞうり)をはいて、石を拾うように体を前に傾けて引きあげた。まさに「船曳」の重労働です。
イメージ 14
淀川の船曳図

  このソロバン瀬を見下ろす南岸にあるのが「忌部十八坊」のひとつ福生寺です。「福」という文字がついているので、高越山を拠点とする忌部修験道の関わりが想定できます。瀬戸の拠点港に、各宗派が寺院を競って創建したように、吉野川河運の難所に立っているこの寺は、私にとっては気になる存在です。吉野川流通の管理・安全センターのような機能を果たしていたのではないかと思います。
 船頭たちは、暴風雨や洪水にあったときは、下流の芝原・覚円・川島・岩津・猪尻の浜などに錨を下ろして、水流が和らぐのを待って、上流にある母港を目指したようです。

平田船と千石船

吉野川上流から~徳島間の往復には、どれくらいの日数がかかったのでしょうか?
カヤックで阿波池田の川港を出港すると、水量にもよりますがゆっくりのんびと漕いでも一日で美馬市(穴吹)あたりまでは行きます。平田船も下りは2日間・上りは約1週間で、合計10日程度の運行日数だったようです。そのため1カ月2回の運航回数が標準的でした。
 行先は、徳島・撫養が中心ですが、上流の池田にも数多く上っています。池田周辺が流通センター的な機能を持っていたことがうかがえます。
 増水時は、第十堰を越えて徳島に下りますが、平水時は第十堰から大寺へ廻り、高房から古川を下り、新町川(徳島)に入っています。航路としては、次のような徳島航路・撫養航路の上り下りがあったようです。
 徳島航路
 A 航路…川口池田-辻-小野-脇-穴吹-岩津-覚円-第十名田-新町川-徳島
 B 航路…川口池田-辻-小野-脇-穴吹-岩津-第十-大寺-三つ合-今切川-榎瀬川-吉野川-新町川(徳島)
 撫養航路
 川口池田-辻-小野-脇-穴吹-岩津-第十-大寺-旧吉野川-三つ合-新池川-撫養 
遠賀川の平田船
遠賀川の平田船
どんなものが吉野川を下って運ばれたのでしょうか
まず、木材です。中世の阿波の最大商品は、木材でした。三好氏の堺での活動を見ても、木材取り引きで巨額の利益を上げていたことがうかがえます。県南部地域と並んで、吉野川上流も木材の産出地でした。木材は筏に組んで吉野川を流されました。上流で流された木材の集積地が美濃田の淵であることは、以前にお話ししました。ここで再度、筏を組み直して下流へと運んだようです。近代まで撫養川下流には木材集積場がありました。

藍の葉

 江戸時代に後期には藍葉が主要商品になります。
吉野川中流では、藍・゙煙草、砂糖を生産し、主として大阪、江戸、遠くは北海道まで積み出すようになります。瀬戸内を抜け日本海に出て、浜田港、北陸小浜港、東北酒田港、そして松前江差まで運ばれています。木材を中心に、米穀、薪炭、楮紙、鰹節など、土佐の主要産物も阿波の廻船は運んでいます。廻船の多くは帰路には、鯡粕や鰯粕、その他の物資を積み込んで帰路に就きます。

明治30年代の輸送物品(上荷・下荷)について、『山城谷村史』には次のような表が載せられています。
山城谷村 移入移出品

山城谷村(旧山城町)は、川船の最奥部の阿波川口港がある所です。山間部なので板材や木炭・楮皮(こうぞかわ)・三股皮など山林産の商品が多いようです。そのなかで三股皮の商品価値の大きさが注目されます。
 また、煙草関係の商品比重が多いのが注目されます。山川谷村は、1612年に修験者の筑後坊が長崎から最初に煙草の種を持ち帰って蒔いた所と伝わります。これが徳島産葉タバコ(阿波葉)の起源とされ、近隣町村と共にタバコの一大生産地であったようです。それが、川船によって下流に運ばれていることが分かります。
  次に中流域の貞光町の港の出入り積荷を見ておきましょう。

貞光町移入移出品

ここからは次のようなことが分かります。
①葉煙草や葉藍などが主要な積荷で、徳島までの1隻の輸送賃が8円程度であったこと
②徳島からの上り船には、穀物・塩など生活必需品が主であること。
③上り船には石灰や肥料など、農業資料がふくまれること
②の塩については、讃岐の塩入(まんのう町)などから昼間などに、塩が峠を越えて運ばれていたとされます。貞光より西部には、川船でも塩が運ばれていたようです。しかし、先ほど見た山城の上り舟には、塩はありませんでした。貞光と池田あたりが、讃岐産塩との移入境界線になりそうです。
 『山川町史』には、川船の積荷について次のように記します。
「吉野川は常に帆かけ船の航行で賑わっていた。寛政10年(1789)の頃、タデ藍の製造に使う玉砂だけでも輸送量は1500石・トラック950台分ぐらいあった。これは、わずか1部で、肥料・藍玉・米麦・雑貨・薪・炭・塩等も含めると吉野川流域で動く物資のほとんどが川船に積み込まれていた。…後略…」

 以上から、当時の吉野川輸送の積荷をまとめておきます
移出物品は
煙草・木材・樵木・薪・木炭・三椏・楮・葉藍・藍玉・すくも
移入物品は、
米・裸麦・小麦・大豆・小豆・食塩・種油・柿原の和砂糖・魚類・半紙・洋紙・唐糸・木綿・織物・鯡粕・鰹節・陶器・畳表ござ・肥料・石灰
阿波藍 | 公益社団法人徳島県物産協会 公式ホームページ あるでよ徳島

川船船頭の収入について「吉野川の輸送船」(「阿波郷土会報」11号)には、次のように記します。
「50貫の石を抱えて歩く。35貫のニシン肥1俵をくるりと担ぐ。穀物5斗俵1つなら片手で肩に乗せるのが普通であるが、そのうえ川幅の狭い急流や渦さきを熟知して他の船や障害物に衝突しないように進んで行く「ケンワリ」を心得えている荒シコの給料が半期(6か月)で30円・「ケンワリ」を知らない5斗俵ひとつを片手で担ぐだけの能無しは、15円(食事船主持)船は男世帯、船主のほか船頭2人乗る。」

 大正初期の小野浜(半田)~徳島間(標準が1往復10日間)の労働収入は、3円銭程度であった。ただし、船頭が船主でもあり仲買商を兼ねての物資の上荷・下荷の運送取引を行う場合は別である。川船1艘の船主は、少なくとも水田1町歩の農家に相当する収入があったと言う。(「阿波河川の歴史的変遷過程の研究」小原亨著)
 
 田んぼ1町歩(1㌶)というのは、中農規模の裕福な百姓に属します。かれらが資本を蓄えて、問屋業や半田では素麺製造業に転出していくのは、前回見たとおりです。
池田町」ちょこっと歩き(徳島県三好市) : 好奇心いっぱいこころ旅

 吉野川の船運は、明治の中期(明治30年代)が最盛期だったようです。
明治後半になると、陸上交通路の整備改修が進められ、道幅が広く平になり牛馬車・大八車・トラックヘと輸送能力の高い車種が登場してきます。それは、河川交通から陸路の時代への転換でした。
 川船に大打撃を与えたのが、鉄道です。明治33年に徳島鉄道が徳島~船戸(川田)間に鉄道を敷設し、大正3年3月には池田まで延長されます。これは川船に致命的な打撃を与えます。大正5年には、川船は吉野川から姿を消していきます。

   以上をまとめておくと
①吉野川の川船運航の、最上流の港は阿波川口で、ゴールは撫養(鳴門)や城下町徳島であった。
②この間に約30余りの川港が散在し、それが各エリアの物資の集積地点となっていた。
③川船は、約750隻ほどが運航しており、半田や池田など美馬・三好の川港に所属する船が多かった。
④運航方法は、下りに2日~3日、上りに7日程度で、一往復10日間で、月に2回ほどの運航回数であった。
⑤下流からの帰路は、春・夏は追い風に帆を上げての順風満帆であったが、冬場は逆風で過酷な
船曳作業を伴うものであった。
⑥下りの積荷は、木材製品や木炭、藍・煙草関係のものが主であった。
⑦上りの積荷は、穀類や塩・日常雑貨や農業用肥料など多様なもので、村の生活を豊かにするものも含めて、多くのものが川船に載せられて運び挙げられていた

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。


 半田町に港があったと聞いて、最初は疑いの気持ちを持ちました。しかし、調べて行く内に吉野川沿いの町には、川港があって鉄道が出来る前は、基幹流通路として機能していたことが私にも分かってきました。今回は、半田町の「小野浜」を見ていくことにします。
   テキストは「小原亨 川船と小野浜の今昔 郷土研究発表会紀要第38号」です。
□船と小野浜の今昔
吉野川の川船
 吉野川の川船は、大正時代まで、人やものの輸送に大きな役割を果たしてきました。川船が徳島や撫養港と流域の村々を結ぶ交通の大動脈の主役だったのです。江戸時代後半の阿波藩の急速な産業経済の発達を支えたのは吉野川だったとも云われます。
馬借(室町時代)」
室町時代の馬借
 この頃の陸上輸送のエースは、馬です。
馬1頭の輸送力は米2俵(1俵は4斗=16貫=60kg)程度でした。米50石を運ぶとすれば、馬63頭と同じだけの馬追人夫が必要となります。1日の行程は30km程度です、半田~徳島間を60kmとすると2日間の行程になります。
 この間の宿泊・人間・馬の食事に用する費用も必要です。また、夜は馬背から荷物をおろし、出発には再び馬の背にのせますが、この費用も手間も経費に乗せられます。こうして見ると、馬による陸路遠距離輸送は高額な運賃が必要だったことが分かります。

平田船
吉野川を行き来した平田船
 これに対して、水運を利用する川船(50石積)と比較してみましょう。
米50石を1艘の川船と約2人の船頭で、2日かかれば、徳島・撫養に輸送することができました。川船が輸送のエースとなった理由に合点がいきます。

平田船(江戸周辺)
江戸周辺の平田船

  ここでは、コストパフォーマンスの点で船は、牛馬よりもはるかに優れていたことを押さえておきます。これは、北前船などの海上輸送についても同じです。
  吉野川沿いの村々の玄関となった半田の川港を見ておきましょう。
半田町川港
 半田の小野浜
半田川が吉野川に流れ込む合流地点には小野浜という川港があり、多くの川船が行き来していました。ここには、文政9年(1826)に建立された常夜灯が吉野川に向けて今も建っています。

やってきたのは半田町の小野浜港。<br />半田に港があるんかい?と聞かれると「かつてはあったんですよ」と答えるしかないのですが・・・。<br />半田川が吉野川に合流する手前に港はありました。<br />この常夜灯は、川港の燈台の役割を果たしていたそうです。
小野浜の灯籠(文政9年(1826) ここに川船が着岸した
 この常夜灯は、和泉砂岩で作られた高さ185㎝・日月の掘り抜きの明り窓がある立派なものです。
阿波国郡村誌・郡史(誌)・町村史(誌)の情報から平田船の各川港毎の就航数をまとめたのが下の一覧表です。
平田船港別就航数一覧

ここからは次のようなことが分かります。
①半田町小野浜には50艘の川船がいたこと
②川船ベスト5は、半田50・脇40・佐間地(白地)36・池田31・白地29であること。
③川船は、吉野川下流部よりも上流部の美馬郡・三好郡に多かったこと
先ほど見た常夜灯は、小野浜を港とする50艘の川船の夜の燈台として活躍し、荷積み・船から馬・荷車・馬荷車から船への照明としても使われていたようです。大正3年3月に鉄道が開通するまで、その役割を果たし続けました。その説明版には、次のように記されています。

鉄道が池田ー徳島間に建設される以前は、吉野川の水運が大きな役割を果たしていました。この港から半田の特産物が積み出され、川港として賑わいを見せていたようです。ここに陸揚げされたものは、影などを経て落合峠を越えて祖谷方面にも運ばれていったようです。
常夜灯の説明版 燈台の役割を果たしたとある

 この常夜灯とともに小野浜の船頭や船主たちは、航行の安全祈願のために、四つ橋から小野浜に出る道の東側に、船玉神社(祭神猿田彦命)を創建(天保11年(1840)しています。そして、毎年2回(正月・秋)の祭日を決めて、川船関係者によって祭祀が行われていました。しかし、鉄道が整備され、川船が廃止になると船玉神社も八幡神社の境内に移され、現在に至っているようです。常夜灯・船玉神社は、当時の小野浜の繁盛を偲ぶ歴史的遺構であり、船乗りたちが船運に命をかけていた証しでもあると研究者は指摘します。

明治中期の小野浜
明治中期の半田小野浜

 半田素麺は、天保初期に大和三輪(三輪素麺)より、淡路福良・撫養を経て半田に伝えられたとされます。
その導入のきっかけは、半田小野浜の船頭たちが、家族の副業として始めたという伝えがあります。そうだとすると、半田素麺は、川船船頭たちによって始められたことになります。
Amazon | 【八百秀】半田手延べ素麺 375g(125g×3束)(中太)【阿波の味 半田そうめん】 | 半田そうめん | そうめん・ひやむぎ 通販
 本格的に製麺が始まったのは、天保4年(1833)に小野浜の敷地屋国蔵(びんつけ屋)が、弟長兵衛とともに、本格的な製麺業をおこしたのがスタートのようです。当時の素麺相場が、「兵助日記」〈注3〉に「素麺7貫目につき55匁目・小売60匁」とあります。明治になると素麺需要は大幅に伸びます。明治年間には生産量が15000貫、製麺戸数は50戸に増えています。

半田町小野浜3
現在の半田町小野浜

 半田の小野浜地域で製麺業が発展していったのは、どうしてでしょうか?
①冬季の日乾・庭干しに吉野川を渡る季節風が適していたこと。
②製麺に適した水(鉄分・カルシウムの少ない軟水)が段丘の井戸水にあったこと
③小野浜の港をもっていたため、川船によって低コストでに原料(小麦・撫養塩)の移入と製品移出ができたこと。
④半田が「経済特区」として素麺製造の特権を与えられたこと
⑤小麦粉製粉のための水車利用が進んでいたこと
①②③は、吉野川流域の川港ならどこにも適する条件です。これだけでは、半田素麺の発展には弱いようです。
④は、髙松藩初代藩主の松平頼重が仏生山法然寺を菩提寺として、その門前町の発展のために、素麺業者を門前に集めて保護する政策を採用していることを以前にお話ししました。いわば、門前町育成のための「素麺経済特区」の設置です。そういう視点からすると、半田3か村(半田村・半田口山村・半田奥山村)は、蜂須賀氏の家老稲田氏の所領でした。稲田氏による「経済特区」採用が行われたというのがひとつの仮説ですが、それを裏付ける史料は何もありません。
⑤もうひとつは、幕末にかけて急速に普及する水車による製粉です。しかし、これは誰でもが自由に参入できるものではありませんでした。藩の認可と許可が必要であったようです。これらを稲田氏は柔軟に認可し、「素麺経済特区」を設定した。そこに吉野川水運で商業資本に成長した船主が新たな投資先として進出した。明治になって経済の自由が保障されると、利益率の高い素麺製造に商業資本家が進出していったという物語は描けそうです。
 素麺製造は、酒や醤油などの醸造業に比べると初期投資がはるかに少なくて済みます。これも船頭上がりの船主たちなどが進出を可能にした要因かも知れません。こうして小野浜を中心として半田素麺は、発展していくことになるとしておきましょう。
 
 阿波藩では、旅行者や商品の移動に関しては、藩が設置した御番所や御分一所などの役所で監視・課税が課せられていました。
そして、物品等の移動については、通行手形が必要だったことは、髙松藩との関係で以前にお話ししました。通行手形は、時代や物品の種類によりちがいますが、嘉永以降(1848)は、村役人が発酵する手形で認可されるようになります。当時の村役人発行の通行手形の1例を見ておきましょう。
藍の葉
       覚
   4匁8分7厘   大田市蔵
    1.葉藍 47本半・竹皮3丸
  右者当村作人共当子年出来葉藍同村・船頭市蔵船に積下申に付御分一所
  御通被遊可被下候 以上
 子7月   美馬郡太田村 徳太郎■
  御分一所様
 意訳変換しておくと
       覚
   4匁8分7厘   大田市蔵
 1.葉藍 47本半・竹皮3丸
  以上の産物は、大田村作人による収穫物である。同村の船頭・市蔵の船に積んで下りたい願いでますので、通行について許可いただけるように願いでます。以上
      子7月   美馬郡太田村庄屋 徳太郎
    御分一所様
  ここからは、美馬郡の大田村庄屋(村役人)が、村内で収穫された葉藍を川船で運び出すことの許可を御分一所に願いでていることが分かります。

 小野浜で川船に乗せる荷物は、馬で運ばれてきました。
運送にあたった馬を荷付馬と呼び、三々五々隊をなして半田奥山や近隣の村々との間で上げ荷(日用品・雑貨品、塩等)・下荷(さげに)(木炭・藍・楮・樵木等)を運んでいました。明治の繁盛期には、馬専用の宿屋(馬宿)もあったようです。明治14年には佐々常が開業していますが、現在の敷地部落の佐々旅館の前身のようです。吉野川流域で、馬宿があった浜(川津)は珍しいと研究者は指摘します。
以上をまとめておくと
①半田川と吉野川の合流点には、小野浜という川港があり半田の物流の玄関口となっていた。
②幕末から大正時代には、藍などの積み出しなどで最盛期を迎え50艘近い川船が小野浜を拠点に徳島や池田の間を行き来した。
③運行安全を祈って、小野浜には灯籠や神社も建立されていた。
④船頭の中には、天保初期に伝わった大和三輪の素麺工法を学んで、冬場の副業として家族で取り組む者も現れた。
⑤こうして小野浜周辺には素麺製造に携わる者が増え、現在の半田素麺へと発展する契機となった。
⑥素麺原料は、川船でもたらされ、出荷も船に寄ることが多かった。
⑦輸送コストが安い川船が利用できたことが、半田素麺の発展の原因のひとつでもある
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
      「小原亨 川船と小野浜の今昔 郷土研究発表会紀要第38号」
関連記事

P1160349
新猪ノ鼻トンネル 阿波側出口の池田町西山込野

 国道32号の新しい猪ノ鼻トンネルが開通して、阿波方面へのルートが大幅に短縮されました。このトンネルを使うと、今までヘアピンカーブの連続だった峠道を通ることなく、一直線のトンネルを10分足らずで一気に通り抜けることができます。夏はトンネル内は涼しくて、フルスロットルで走っていると肌寒くなるほどです。いつものように阿波と讃岐を結ぶ峠道の散策のために、トンネルを込野で下り旧32号を箸蔵寺方面に原付を走らせます。

P1160166
旧R32号に立つ坪尻駅への看板
ここには、坪尻駅への看板が立っています。この入口から急な坂道を下っていくと、土讃線の坪尻駅です。

P1160167
JR坪尻駅入口のバス停
土讃線が開通した昭和の初めには、この周辺の集落の人たちもこの道を使って坪尻駅へ向かっていたのでしょう。ここを通り過ぎて、箸蔵寺への道に入ったところに展望台があります。P1160169
秘境駅坪尻駅が見える展望台
「撮鉄」ファンのために地元の人たちが、設置したのでしょうか。
かつて、写真撮影に夢中になった「撮鉄」ファンが滑落死したことがあるようです。そのために地元の人たちによって設置された展望台のようです。
P1160168

こんな看板もあります。そうです。命が一番大切です。写真を撮るのに命懸けになって、命を失ってはいけません。その通りと相づちを打ち、地元の人に感謝しながら展望台に上がります。

P1160170
坪尻駅
いい景色です。込野集落のソラの家との高低差がよく分かります。周辺人たちは、この高低差を上り下りして、列車を利用していました。

P1160172
坪尻駅
ズームアップすると駅舎と線路がよく見えます。向こう側が猪ノ鼻トンネルの出口で讃岐側です。ここから眺めているといってみたくなりました。予定を変更して、坪尻駅に向かいます。この変わり身の早さというか、いい加減さというか、我ながら尻軽と思います。

P1160353
込野からの坪尻駅への入口 看板には1㎞と表示あり
今回は傾斜の緩やかな込野からアプローチします。入口から1㎞15分ほどの下りです。
P1160355
込野から坪尻駅への道
道は整備されていて、ゆるやかな下り道です。込野の人たちが列車利用のために使った道のようです。しっかりとしています。

P1160362
坪尻駅
鮎苦谷川(あゆくるしたに)の沢音が聞こえ、沢に向かってどんどん下りていきます。そして平地になると、森の中から突然のように坪尻駅が姿を見せました。駅の周りは線路があるだけで、他には何もありません。ここにはもともとは、駅はなかたようです。駅の登場は、戦後になってからのことで、それは猪ノ鼻トンネルと大きな関わりがあります。
 1923(大正12)年5月21日に、土讃線は、琴平から讃岐財田駅までが開通します。
 猪ノ鼻トンネル(延長3,845m)は1922年10月に着工します。この工事は、7年後の1929(昭和4)年4月に開通しています。開通当時は中央本線の笹子トンネル(明治36年開通、=4656m)に次いで全国第2位の長さを誇る長大トンネルで、郷土の誇りでもあったようです。工事中に死者10人、負傷者2000人の犠牲者を出す「土讃線最大の難工事」でもありました。

猪ノ鼻隧道琴平方坑口附近(国道23号線と猪ノ鼻トンネル)
 猪ノ鼻トンネル琴平方坑口附近(国道32号線と猪ノ鼻トンネル)

  当時の香川新報は、開通の喜びを次のように伝えてきます。
見出し (現代表記に改めた)
『岩切通し、猪の鼻の巌を貫き、歳月を閲する7年、海抜2千尺の高峯をぬきて阿讃の連絡完成す』
『明治、大正、昭和と元号三転の間に、何と日本の交通機関は急テンポで目まぐるしく回転したことであろうか。わずか60年の音、倶利加羅紋々の雲助共によってエイホーの掛声勇ましく東海道五十三次を早きも十余日、増水の御難に逢へば二十数日を要した。それがわずかに十時間のうたた寝の夢一つ終らぬ間にもう着こうという変り方である。全くスピードの時代と言はなければならない。しかるに我が四国は山多くして、鉄道に恵まれず、四国循環線、縦貫線共にその一部の開通を見たのみである。予讃の両地はかろうじて鉄道連絡が可能であるが、阿土、予上の間は重畳たる四国アルプスの連山に遮られて、今日文字通り岩切り通し山を抜き、断崖をめぐりて延長9哩1分、距離遠からずと雖も、瞼峻猪の鼻峠を貫きて、完全なる阿讃の連絡が完成したのである。まさに四国交通の幹線の一部をなすのであるとともに、中国、山陰、阪神方面二の連絡に力強き一歩を進めたものと言える。空にプロペラのうなりをきく自然征服の時を迎へても、羊腸の如き峻坂を攀づるにあらざれば越すに越されぬ猪の鼻の瞼を、一瞬にして乗り切る事が可能となったのである。特に香川、徳島両県人にとっても感慨深くも万限りなき歓びであると言はなければならない。
興奮気味に、土讃線の阿波池田までの開通を報じています。財田駅から池田までは、約20㎞には6年と6ヶ月の年月を要したことになります。
 讃岐財田駅から佃駅間の建設概要を見ておきましょう。
土讃線 財田・佃駅建設概要

線路ノ状勢
本区間線路ハ香川県三豊郡財田村地内既設讃岐財田停車場ノ南端多度津起点弐拾四粁百九拾七米八二二起り 南進シ右折左転シテ起伏セル数多ノ山脚ヲ開撃三戸川隧道(延長二百弐拾七米九〇)ヲ貫キ土佐街道(国道)卜併進シ登尾ニ至り鋼飯桁径間七米六弐フ架シテ土佐街道(国道)ヲ越へ谷道川二鋼飯桁径間九米壱四フ架設シ進デ阿讃ノ国境猪之鼻ノ崚険二(延長参粁八百四拾五米〇九)四国第一ノ大隧道ヲ穿ッテ徳島県三好郡箸蔵村地内二入り州津川二鋼飯桁径間拾八米三フ架シ左折漸ドシテ坪尻隧道(延長武百九拾五米七弐)フ穿チ右折左転シテ 坪尻二出デ茲に坪尻信号場(多度津起点参拾壱粁八百九拾米)ヲ設置シ疏水隧道フ設ケテ州津川ヲ付換へ左転シテ馬ノ背隧道(延長弐百参拾七
米参八)及落隧道(延長弐百六拾八米五六)フ貫キ右折シテ落橋梁鋼飯桁径間九米壱四、式連フ架シ箸蔵隧道(延長百弐拾四米七弐)ヲ穿チ猶漸下シテ箸蔵橋梁鋼鋲桁径間九米壱四、壱連、六米壱、壱連フ架シ左転シ太円隧道(延長参百拾八米八五)及井関隧道(延長参百拾参米八弐)ヲ貫キ蔵谷二至り疏水隧道フ設ケ蔵谷隧道(延長百四拾弐米八参)フ穿チ左折シテ国道卜並進シ字東州津ノ部落ヲ過ギ土佐街道(国道)二跨線橋フ設ケ三好郡箸蔵村字州津地内ニ至り箸蔵停車場(多度津起点参拾五粁百参拾米)ヲ設置シ山麓二沿ヒテ東進右転シテ昼間町地内二入り尚山麓二沿ヒ汐入川フ渡ルニ鋼鋲桁径間拾八米参、四連、拾式米弐、壱連フ架設シ一大環状ヲ画キテ右転シ昼間町ヲ横断スル処撫養街道二跨線橋ヲ設ケ南道シテ吉野川沿岸ノ平圃二出テ吉野川ニハ鋼飯桁径間拾八米、参拾六連構鋼桁(スルー型)径間六拾壱米、四連(延長五百七拾壱米弐)ノ一大橋梁フ架シ辻町二入り右転シテ徳島街道フ横断シ此処二佃信号場(多度津起点参拾八粁五百参拾八米九八)フ設置シテ徳島線二連絡ス
此間線路延長 八哩七拾弐鎖八拾九節四分(拾四粁参百四拾壱米壱五)
最急勾配   四拾分ノ壱(千分ノ弐拾五)
曲線最小半径 拾五鎖(参百米突)
工事竣功   昭和四年四月
線路実延長  拾四粁参百四拾壱米
最小半径   参百米
猪ノ鼻トンネルと坪尻信号所のところだけを、意訳変換しておくと

阿讃の国境である猪之鼻峠には四国最大のトンネルを通し、三好郡箸蔵村に抜ける。そして、州津川に架橋し、左折して坪尻隧道(延長武195m)を通して、右折左転して、坪尻にでる。ここに坪尻信号場(多度津起点31、890㎞)を設置して、疏水隧道を設けて、州津川(鮎苦谷川)を付け替えて左転して・・

ここからは次のようなことが分かります。
①坪尻駅は猪ノ鼻トンネルの次のトンネルである坪尻隧道の出口にあること
②ここは、もともとは鮎苦谷の川底で、そこにトンネル掘削で出た残土処理場として、埋め立てられ更地となった。
③開通時には停車場(駅)はなく、信号所(通過待合所)が作られた

P1160378
JR土讃線 坪尻トンネル出口方面
トンネル工事中は、飯場などの施設がここには建ち並んでいたようです。工事が終わると、それらも撤去されます。そして、ここは「信号所」として、列車の待合所となります。しかし、駅ではないので常客の乗り降りは出来ません。地元住民にとっては、線路は通って、列車は見えるのにそれを利用できない状態が戦後まで続きます。それが地元の要請で、駅が設置されたのが1950年になります。ここでは、坪尻駅が戦後に新設された新駅であることを押さえておきます。

P1160380
左が本線、右が駅への導入線

 この駅はスイッチバックの駅として有名です

その理由として、急勾配克服のために導入されたと書かれた本もあります。しかし、それは誤りのようです。スイッチバック採用の原因は
次の通りです
①もともとここが川を埋め立てる難工事の末に確保された場所であったこと
②トンネルの出口にあったこと
以上の理由から2本の線路が併行して確保できる広さに限界があった
ためのようです。つまりスイッチバックは、行き違いの待避線路用で
急勾配対策ではなかったことになります。
P1160366
坪尻駅通過列車の時刻表 「停車」ではありません。
今、この駅のホームに入り込んでくるのは、一日に数本だけの普通列車と、四国真ん中千年物語の観光列車だけです。多くの特急列車は谷底の坪尻駅の本線を走り抜けていきます。それは信号所だったころの坪尻駅に先祖返りしているようにも思えてきます。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献



P1160383
木屋床への山道
坪尻駅には
 
P1160367
木屋床方面の入口に残された家屋
P1160368


阿波デコ廻し6

  仲南町史や琴南町史、山本町史などを眺めていると、「人形回し」や「箱デコ」が讃岐山脈を越えてやってきて各地を巡回し、公演活動を行っていたことが次のように記されています

『琴南町誌』(琴南町、1986年)、894
昔は、正月から春にかけて阿波からデコマワシが来ていたが、デコマワシには稲わらを踏んでもらう。そのわらで田植の折に苗束をくくると稲の出来がよいという。

『白鳥町史』(白鳥町、 1985年)、1181P
(大正時代)その他、阿讃山脈を越えてくるものに、箱まわし人形がある。白鳥では「箱デコ」と呼んで親しんだ。箱デコは人形を入れる櫃を間をあけて置き、棒を立てて天秤棒を渡す。金具で三体ぐらい吊しておき、 一人が人形を遣い、他の一人が三味線を弾き浄瑠璃を語るが、口三味線の人もある。人形は五体くらい持って回る。中尾峠を越えて黒川地区へ入ると、泊る家も決まっていて、そこで座敷を借り近所の人が集まって観る。年に二、三回、昭和二十四、五年まで来ていたという。

久米惣七 『阿波の人形師と人形芝居線覧』(創思社1988年)、100P
阿波の「箱廻し」が讃岐へ出稼ぎに行って泊まる宿は「デコ」の宿があるそうで、何十年もお得意の定宿になって、ドコではドコの宿と定つていた。デコの宿は無料であった。デコ廻しの方はそのお礼の意味で、座敷で大いに熱演し、近所からはデコの宿ヘワンサ、ワンサとつめかけて見物し、薄謝の意味で米を少々ずつもらい、これを「宿まわし」と呼んで年二回は阿波から長炭の種子部落を経て岡田方面へ行ったそうです。

ここからは次のようなことが分かります。
①讃岐山脈を越えてデコ廻したちが讃岐にやってきたこと
②デコマワシに稲わらを踏んでもらったわらで、田植の苗束をくくると稲の出来いいと伝えられ、宗教的な信仰や儀礼につながることがうかがえること
③デコ宿という定宿があり「宿まわし」には、人たちがあつまってきたこと
 阿波デコ箱廻し
デコ廻しの箱

しかし、この言い伝えは昭和初期や大正時代のもので、江戸時代のものではありません。
 阿波のデコ廻したちが讃岐にやって来るようになったのは、いつからなのでしょうか。
デコ廻しは、人形浄瑠璃と違って少人数で「戸別訪問」の「門付け」という形を取りました。そのため文字史料として残ることはほとんどありません。ある研究者は、文政三(1820)年に阿波から伊予大洲藩上野村へ三番叟巡業のために来ていたことを明らかにしていていますが、それは興行記録ではなく、病死記録から分かったものです。そんな中で高松藩のデコ廻しに関する史料を紹介した文章に出会ったので紹介します。テキストは「山下隆章   讃岐高松藩における阿波人形廻し関係史料について   香川大学教育学部研究報告   134郷 2010年」です。
阿波デコ廻し14

琴南町誌に紹介されている阿波人形一座の造田村での公演について、見ていきましょう
   阿州芝生村(三好市三野町芝生)は、三好氏の居城があったところで三好長慶の生地でもあります。幕末に芝生村の庄屋を務めていたのが平尾猪平太でした。猪平太の父・平兵衛は、文政~天保頃の芝生村庄屋で、三村用水(芝生村・勢力村・加茂野宮村)の開削を、先代庄屋の平尾集兵衛から受け継ぎ、文政十(1827)年に完成させた人物です。

芝生 三村用水
三村用水トンネル部復元

この用水は当時は徳島藩で最初のトンネル式用水路(311m)部分があり困難を伴ったようです。しかし、そのおかげで通水は安定し、この地区は屈指の稲作地帯となりました。この用水は、今も現役で田畑に水を送り続け、平兵衛の業績は地元で語り継がれ、小学校の社会科教材ともなっているようです。

阿讃国境地図 琴南の峠2

 平兵衛は、天保12(1841)年正月に亡くなっていますが、生前から気にかけていたことがありました。それが阿讃山脈を越えた讃岐側の鵜足郡造田村内田(現まんのう町造田)の吉田寺大師堂の茶場再建です。
吉田寺
吉田寺 まんのう町造田
この大師堂は、阿波街道沿いにあり阿波の人たちにもよく知られていて、霊験あらたかで、阿波にも信者が大勢いたようです。平兵衛自身も「弘法大師信仰」の持ち主だったようですが、その完成を見ることなく亡くなります。その跡を継いだのが平尾猪平太でした。

猪平太は、造田村の庄屋に次のような書簡を送っています
  三 大師堂茶場再建一件

一筆啓上仕候、先以秋冷相催候得共、其御地御家内様御揃御安康に可被成御座候と、奉珍重候、当方無事に相暮居申候間、御安心可被下候、然ば兼て亡父平尾平兵衛より色々御内談申出候、御地大師御茶場再建御伐組、追々御片付に相成、此度地形に御取懸り被成候由、往来の者共より及承候、右に付ては御承知の通、当国人形回しの者数組、備前表へ渡海も仕申候間、右出掛の道筋故、日数三日計地堅めに三番申又踏せ候様被成候ては如何哉、左候得ば、右御茶場の地堅め、且は五穀成就悪病災難除御祈祷に相成可申候間、近頃御世話増の御義とは奉恐入候得共、右の段一入御取計被成可被下候、尤右様人形回しの者共、罷越し御世話相成候ても、花代並支度向迄当方にて引請、乍失礼御地の御厄介には仕不申候間、何卒御寄進御聞届被下候様、御取計の程、 一入宜奉願上候、亡父心仰の大師様に付、下拙より此段根に入御願申上候間、返す返すも御世話の程、宜奉願上候、右得貴意申上度如斯に御座候以上、八月廿四日     阿州芝生村 平尾猪平太
讃州造田村西村市太夫様
意訳変換しておくと                                                       
一筆啓上仕候、秋冷の候となりましたが御家族のみなさまご健康のようで安心しております。当方も無事に暮らしていますので御安心ください。さて、亡父平尾平兵衛がそちら方に色々と相談して着工した大師御茶場再建について、用材の切組も出来上がり、いよいよ地形(地堅め)に取り掛かる段取りになったと、阿波街道を行き来する者から聞きました。
 ご承知の通り、当国人形廻し数組が、備前表へ渡海するために丸亀に至る道筋にあたります。つきましては地堅めに三番叟を踏せてはいかがかと思います。茶場の地堅めや五穀成就・悪病災難除御祈祷になりますが、経費増しをご心配になるかと思います。これについては、人形廻しの御世話はお願いしても、花代(経費)や交通費は当方にて引請させていただきます。失礼ながら、そちらの御厄介にはならないようにしますので、なにとぞお聞き届いただけるようにお取計の程、お願いいたします。亡父の大師様への信心でもありますので、私よりお願いするものです。返す返すも御世話の程、奉り願上げます。右得貴意申上度如斯に御座候以上、
八月廿四日                
               阿州芝生村 平尾猪平太
讃州造田村西村市太夫様
ここからは、次のようなことが分かります。
①猪平太が父の意思を汲んで「御茶場の地堅め、且は五穀成就悪病災難除御祈祷」のため、阿州の 人形廻しに三番雙を奉納させたいと、造田村庄屋西村市太夫に申し出たこと
②阿波では地堅め(地鎮祭)や「五穀成就悪病災難除御祈祷」の祝い事に三番叟が奉納されていた
③「当国人形廻し数組が、備前表へ渡海」とあり、阿波から備前に人形使いたちが讃岐を通って巡業に出掛けていた
④「亡父心仰の大師様」とあり、民衆の大師信仰が広がっていたこと
阿波デコ廻し12

手紙を受け取った造田村庄屋市大夫は、早速元〆の中村長三郎、川村茂助に三番叟興行の許可を求める次のような書状を書き送ります。
一筆啓上候、然ハ当村方先達御願申上候大師茶場此節地築二取掛リ居申候所、右茶場再建出来候得ハ、阿州之者ヨリ相応手伝も致呉候筈二初発ヨリ申越二御座候所、此節右地築相初居申候義及見付申越候義ハ同国人形廻シ之者共此硼ヶ何連も備前表へ渡海仕候二付、右参掛之道筋故日数三日程之間地堅メ二三番叟申又踏セ候得ハ地堅メ者勿論五穀成就悪病災難除御祈祷二も相成可申候間致セ候而ハ如何哉、尤右様三日之間相勤セ候而も右花代井二支度向等迫阿州ヨリ引請相済呉、少シも土地之物入二者致セ不申義与申越二御座候、併難渋所右様之義ハ奢ヶ間敷相見へ奉恐入候次第ニハ御座候得共、前顕之趣申越候二付先此段御注進申上候間地堅メ並五穀成就悪病災難除御祈祷与申二付而ハ何卒申越之通相済候様二御聞置被為下候得共、却而土地之宜二も相成可申与一統難有かり相願有申候間、右申出之通相済候様二宜御取計被成可被下候、右之段申上度如斯二御座候以上
八月廿六日     造田村庄屋 西村市大夫
中村長三郎様
川村茂助様
  尚々本文之通御聞置二被仰付被為下候得共、廿九日頃相初申度奉存候間、此段共御聞置被成可被下候奉願上候、以上
  意訳変換しておくと
一筆啓上候、以前から当村の先達の願いで大師堂の茶場再築を進めて参りました。この茶場再建については、阿波の庄屋から相応の支援を受けていますが、この度次のような申し入れを受け取りました、地鎮行事の際に、阿波人形廻しの組が備前へ渡海するために当地通過するのと時期が重なる。ついては道筋がら三日程、三番叟を奉納し、地堅めや五穀成就悪病災難除御の祈祷としたいとのこと。また、三日間の奉納の花代や支度などの費用は、阿波方で負担し、当方に迷惑をかけることはないと申しています。難渋の所、このような件はおこがましきご相談で恐入る次第ですが、地鎮儀式と五穀成就悪病災難除の祈祷ですので、何卒お聞き届けいただき許可願えるようお願いいたします。
八月廿六日              造田村庄屋 西村市大夫
中村長三郎様
川村茂助様
  お聞き届けいただけるようでしたら、この8月29日頃から奉納行事を行いたいと考えています。このことと併せてお聞き置きいただけるように願い奉ります。
市太夫は、芝生村の猪平太からの申し出を受けて、デコ廻しの奉納をやる気だったことが文面からは分かります。村を預かる庄屋としては、新たな施設のための奉納行事が、阿波からの寄進で無償開催できるのですから乗らない手はないでしょう。そして、三日間の興行を、早ければ8月29日から行いたいと最後に記します。この願出を提出したのが26日のことで、開催開始29日というのは、早急です。デコ廻しの一座が、もうすぐにやって来ることになっていたのでしょうか。工事開始が間近に迫っていたのかもしれません。大庄屋の元〆から回答を得て、猪太夫に返書を出し人形廻しが手配されるまで最短の日数が見積もられているように感じもします。どちらにしても急いでいます。
阿波デコ廻し8
デコ廻しの三番叟
さてこの申し出は認められたのでしょうか。認められなかったと研究者は考えています。
地元負担はないので、飛びつきたい申し出です。しかし、高松藩としては、次のような理由で認めることはできないというのです。
①高松藩にも人形廻しを持ち芸とする「乞喰」がいて、各地の地神祭で三番叟を踏んでいる。市太夫の願い出を認めてしまうと、高松藩の「乞喰」の職分、勧進権を侵すことになる。
②地神祭では、一日切興行が基本と藩は規制している。3日興行の申し入れを受けるわけにはいかない。

阿波デコ廻し7
辻などの野外で行われてデコ廻し

  別の史料で、高松藩の他国人形廻しに関しての布令を見ておきましょう。寛文七(1667)年に出された「法然寺法会興行一件」です。
 法然寺法会興行一件(寛文七(1667)年正月六日)
一、籠守市右衛門、作太夫江申渡候ハ、弥乞喰共二ヲ下さセ可申候、他国他領より乞喰参り候ハゝ早束注進可申候、勿論他国よりでく廻シ其外藝者寄セ申間敷候、相皆寄セ申候ハゝ、急度曲事ニ可申付候、惣而郷町江他国よりうさん成乞喰参候ハゝ、致吟味此方江早々注進可申候、品二より御褒美可被下候間、弥失念仕間敷旨申渡候事、
意訳変換しておくと
籠守(牢番)市右衛門、作太夫へ次のように申し渡した。今より乞喰たちに札を交付する。他国他領からの乞喰がやってきた場合には、早々に注進せよ。もちろん以後は、札を持たない他国からの「でく廻シ(デコ廻し)」やその他の芸能は参加させてはならない。
惣而郷町(郡部)への他国よりの乞喰がやって来た場合には、取り調べの後に早々に報告すれば、褒美を下す旨を通知した。失念することのないように以上を申し渡した。

ここからは寛文七(1667)年に、周辺を廻在(芸能などの門付け)する「乞喰」に対して、木札を交付された者だけに認めることとなったことが分かります。そして、札を持たない他国からの「でく廻シ(デコ廻し)」やその他の芸能者「乞喰」の高松領内での活動は禁止されています。阿波からのデコ廻しは、17世紀後半から認められてなかったのです。

阿波デコ廻し5
神社でのデコ廻し

 別の視点から見ると、高松藩の「乞喰」(芸能者)の活動(地域廻在)が保証され、札が交付する体制になっているということは、「乞食」としての身分が確立し、ひとりひとりを把握できるようになったことを意味します。これは「個別人身支配体制」の完成で、言い方を変えると近世「非人」制度確立と研究者は考えています。

 他国者、特に芸能者の排除は、「濃尾崩れ」以後の各藩の宗教政策だったようです。
これはキリシタン政策の一環でもあり、他所からの流入者をあぶりだす体制につながります。高松藩では初代の松平頼重以来、執拗なキリシタン詮索を続けていました。他領からのよそ者の入り込みには、親藩としてより敏感に対応したようです。それでも「でく廻シ其外藝者」排除の布令がこの時期に出ているということは、逆に、芸能者の流入が絶えなかったことがうかがえます。どうも具体的な排除対象者は、阿波・淡路からの「でく廻シ其外藝者」の入り込みを、第一に意識していたと研究者は指摘します。

阿波デコ廻し4

    ここからは高松藩においては阿波人形遣いの藩内での公演活動を認めていなかったことが分かります。
  山間部の公的な目が届かないところでの門付け(戸別訪問)は別にして、庄屋たち村役人のお膝元で人形浄瑠璃の一座が公演すると云うことはなかったとしておきましょう。それが、明治になって移動・経済活動・公演活動の自由が認められるようになって、阿波人形浄瑠璃は讃岐での公演活動を爆発的に増やしていったようです。それが香川叢書民俗編に載せられた史料からもうかがえます。これについては、また別の機会に紹介したいと思います。
阿波デコ廻し10

以上をまとめておきます。
①高松藩は「法然寺法会興行一件(寛文七(1667)年正月六日」で、他国の人形芝居の公演を禁止し、領内の「芸能者(乞食)」だけに認めた。
②幕末に、造田村(まんのう町)の太子堂の附属茶屋再建の地鎮儀式に、阿波芝生の庄屋から人形一座による三番叟奉納寄進の申し出があった。
③造田村の庄屋は、大庄屋に奉納許可願を提出したが認められることはなかった。
④ここには①の高松藩の他国芸能者の領内での活動禁止政策があったためと思われる。
 以前にお話したように高松藩と阿波藩は、国境に関する協定を結んでいました。両藩の間では、峠越えの日常的な往来や行き来はある程度、自由に行われていたようです。しかし、両藩間の結婚などは許されていませんでした。阿波の人形芝居の活動も江戸時代には、公的には認められていなかったようです。
阿波デコ廻し9

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「山下隆章   讃岐高松藩における阿波人形廻し関係史料について   香川大学教育学部研究報告   134郷 2010年」です。
関連記事


 かつて若い頃に、四国の山を歩いていて地図を読むと「佐古(さこ)」とか「葛籠」という集落をよく目にしたことを思い出します。これらの名前の付いた集落は稜線近くの空に近い集落が多かったように思います。「佐古」は、「水が湧くところ、谷田(さこ田)」で、山の高いところで水が湧き出すような所が、ソラの集落の開発拠点になり、そこに一族の主が最初に居館を構えたと、教えてもらいました。それ以後は、まんのう町美合の大佐古や吹佐古という集落を通る度に、その地形を観察し納得したことを思い出します。
 それでは「葛籠(つづろ)」は、どうなのでしょうか。

葛布 葛

葛(くず)は、秋の七草の一つで、秋に紫色の花をつけますが今では、やっかいものです。野放図にのびて、うち捨てられた畑を我が物顔に覆っていきます。その生命力には驚かされます。その根からはくず粉がとれることは、私も知っていました。しかし、葛から布がつくられたというのは、最近になって知ったことです。それはどんな布だったのでしょうか。今回は、葛から作られた繊維について見ていくことにします。
葛布 葛2

  まんのう町勝浦では葛布が作られていた

勝浦の葛布 洗い 讃岐国名勝図会
勝浦の葛布作り(讃岐国名勝図会)
 江戸末期に編纂された『讃岐国名所図会』には、挿絵入りでまんのう町(旧琴南町)勝浦の葛布が次のように記されています、
勝浦村農家、葛を製する図。天保年中より当村の樵夫、同所山中より葛を切り出し、農夫に商ふ。
農夫これを蒸して水に晒して葛布に織り立て、諸国へ出だし、遂に国産の一とはなれり」
意訳すると
「勝浦村の農家が葛布を制作する図。天保年間のころから当村の樵夫たちは、山中から葛を切り出して、農夫に売るようになった。農夫は、これを蒸して、水に晒して葛布に織り立て、諸国へ販売するようになり、ついには讃岐の名産の一つとなった。」
 
ここからは樵が集めてきた山中の葛を材料に、農家が「葛布」を織っていたことが分かります。 
 考古学者の森浩一は、阿波の山間部では「太布」が野良着とし着用されていたと指摘します。
太布づくり① 楮〜甑蒸し〜樹皮を剥ぐ〜木槌で叩く / 2016年晩秋•阿波太布染織の旅 その6 | 朝香沙都子オフィシャルブログ「着物ブログ  きものカンタービレ♪」Powered by Ameba

 太布は、コウゾ、カジノキ、シナノキ、フジなどの草木の皮からつくられたようです。中でもよく使われたのはコウゾとカジノキで、コウゾを「ニカジ」、カジノキを「クサカジ」とか「マカジ」と呼んで区別していたと云います。コウゾが「煮(ニ)カジ」と呼ばれたのは、その皮をはぐために、大釜で蒸したためでした。

勝浦の葛布釜ゆで 讃岐国名勝図会
葛の釜ゆで(まんのう町勝浦)葛を蒸す工程

葛布 葛3

 勝浦の葛布も「農夫これを蒸して水に晒して葛布に織り立て」と、葛を蒸す工程があります。阿波の「ニカジ」製法と同じです。勝浦で葛布が織られ始めたのは、「天保年間」からだとありますので、この製法は阿波から勝浦に伝わったと研究者は考えているようです。

勝浦の葛布 洗い 讃岐国名勝図会
勝浦の葛布工程 蒸して水に晒す(讃岐国名勝図会)

 太布について江戸時代の国学者、本居宣長はその著『玉勝間』の中で、次のように記しています
 いにしえ木綿といひし物は、穀の木の皮にて、そを布に織りたりし事、古へはあまねく常のことなりしを、中むかしよりこなたには、紙にのみ造りて、布におることは、絶えたりとおぼえたりしに、今の世にも阿波ノ国に、太布といひて、穀の木の皮を糸にして織りたる布あり。(後述)
意訳変換すると
  昔の「木綿」と呼んでいた織物は、木の皮で布を織ったもので、古へは全てそうであった。しかし、中世頃からは、木の皮から作るのは紙だけになって、、布を織ることは絶えたと思っていた。ところが、今も阿波ノ国には、太布と呼ばれる、穀の木の皮を糸にして織った布があるという

勝浦の葛布紡績・織布 讃岐国名勝図会
勝浦の葛布 紡績・織布工程(讃岐国名勝図会)

ここからは、次のようなことが分かります。
①古代の木綿とは、綿花から作られたものではなく、穀(カジ)の木の皮でつくった布のこと
②昔はどこにでもあって、めずらしいものでなかったが、現在(江戸時代)では阿波国にのみ残っていること
③古代には穀の木の布はどこにでもあったが、中世になると穀の木からは紙だけをつくるようになって布をつくることはなくなったこと
 「古事記伝」を著して古代のことを研究していた宣長の云うことですから真実味があるように思えてきます。本当なのでしょうか? 
古代文献を見ていくことにします。

葛布製法過程


 古代の木綿について「日本書紀」神代上、天石窟の段の第三の有名な部分を見ておきましょう。
スサノオノミコトの乱暴を怒ったアマアラスオオミカミが天石窟に隠れてしまったので、悪神がはびこる暗黒の世界となり困った。そこでアマテラスオオミカミを石窟から出すために神々が集まった。その際に、天香山の真榊を根っこから抜いて、その上枝には鏡をかけ、中枝には曲玉をかけ、下枝には「粟(阿波)国の忌部の遠祖天日鷲の作れる木綿を懸けた。」

葛布 自然の恵みに手仕事が命を吹き込みます。オールシーズンご使用可能

『古語拾遺』には、次のように記されます。
力令天富命率日鷲命之孫、求肥饒地、遣阿波国、殖穀麻種。其裔、今在彼国。当大嘗之年貢木綿、荒布及種々物、所以郡名為麻殖之縁也。

意訳すると
天富命が天日鷲命の孫を率いて肥沃な土地があるところを求めて、阿波国に至って穀と麻の種を植えた。其の子孫は今も阿波国にいて、大嘗祭がある年には本鄙と荒布のほか、種々の品物を献上し、その郡名も麻を植えたので「麻植郡」と呼ばれる。

それに続いて、天富命は阿波の忌部の一部を率いて東に行き、麻・穀を植えた。麻を植えたところを脂国(上総・下総)といい、穀を植えたところを結城郡といったと記します。
   先ほど見たように、古代には穀が木綿で、麻が荒布だったと云うのなら、木綿は穀からつくられた布、荒布は麻からつくられた布ということになります。また、荒布は和布に対する言葉で、目の荒い布ということになるようです。
『延喜式』には、
阿波の忌部は大嘗祭の時には、木綿・荒布のほか、鮎十五缶、ノビルの漬物十五缶、乾したギシギシ、サトイモ、橘(夏蜜柑か?)を各々十五篭、献上していた

と記します。

ふつけ鳥とは?

東方】かしこくてかわいいニワトリ様 : 2ch東方スレ観測所
平安末期の歌学書である『袖中抄』の「ゆふつけどり」の項には
「世の中さはがしき時、四境祭とて、おほやけのせさせ給に、鶏に木綿を付て四方の関にいたりて祭也」

とあって、疫病が起こって世の中が騒がしくなると、鶏に木綿を結び付けて、四関で放って祭ったとあります。

  また 『古今和歌集』(第十一の五三六)には
逢坂の ゆふつけ鳥も 我ことく 人や恋しき ねのみ鳴らむ

という歌を始めとして「ゆふつけ鳥」を歌った和歌が数多くあります。ここからは平安時代には、ゆふつけ鳥の風習が盛んだったことがわかります。この木綿は、穀の布を細く裂いたものと研究者は考えているようです。 古代には、穀の布を木綿と呼び、衣料用としてだけでなく四境祭のような祭礼にもゆふつけ鳥として使われていたのです。
葛布 太布

 以上をまとめておきます
 古代に阿波忌部は大嘗祭にあたって木綿・荒布などを献上していました。この木綿は、綿花から織られたものではなくカジノキ、コウソ、シナノキ、フジなどの皮からつくられたものでした。それが中・近世になると木綿は、阿波国以外ではすたれてしまいます。
 しかし、讃岐のまんのう町勝浦は、阿讃山脈のソラの集落で阿波との関係が強いところでした。以前に見たように、国境の行き来を制限する関所のようなものもなく、讃岐米や阿波からの借耕牛に見られるように、人やモノの交流・流通が盛んでした。そのため木綿(葛布)の製法が伝わり、江戸時代末期頃までは特産品として生産されていたようです。当時の葛布は、高級織物というより、農民の野良着として使用されたようです。これも阿讃交流史の一コマかもしれません。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
葛布 自然の恵みに手仕事が命を吹き込みます。オールシーズンご使用可能

参考文献
  羽床明 阿波の太布と讃岐琴南勝浦の葛布   ことひら

 6 阿讃国境地図

まんのう町美合や勝浦あたりでは、阿波へ行くのも、隣村へ行くのも、どうしても峠を越えねばなりませんでした。阿波との阿讃山脈にも多くの峠があったことが、江戸時代の絵図を見ていると分かります。
4 阿波国絵図3     5

東から、龍王山から大川山の間にも寒風越、三頭越、二双峠、滝の奥越、真鈴峠と5つの峠が記されています。このうち二双峠は、峠を越えてからもう一度立石峠を経て阿波へ下っていく道でした。
阿讃国境地図 琴南の峠2

 讃岐の隣村へ越えて行く峠には、塩江町の只の股へ越える浅木原峠、塩江町・綾上町方面へ越える雨島峠、綾上町の牛の子堂に出る焼尾峠、綾上町の角の内に出る首切峠などがあります。このほかにも名もない峠は多くあり、峠を越え人やモノが行き来したのでしょう。
モノの多くは、
行商人のもたらしたもの、
一種の宗教人が漂泊しながら携えてきたもの、
金毘羅参りの人々がもたらしたもの
などがあったようです。琴南町誌の中から各峠について書かれていることを拾い上げてみます。
阿波国大地図 琴南の峠1

美合の奥のソラの人たちは、阿波の貞光にはよく買物に行ったようです。その際に使うのが、寒風越でした。峠の頂上まで来ると、急に寒い風が吹いてくるので寒風峠と呼ばれるようになったといいます。
竜王山(讃岐山脈)・大川山 少し近付いてきました。

 この峠の山続きに蛇の道というところがありました。道が曲がりくねっていて、ところどころがくぼんでいて、それは大蛇が通った跡だろうと話ながら歩いたそうです。
 三頭越は、阿波からの金毘羅参りの人々が通った峠です。
三頭越え ハイキングルート

その登り口に大師堂があります。その川向かいは、昔、茶堂があった跡で、金昆羅参詣者が休憩したところです。大師堂には以前にお話した道作り坊主の了念が建立したという陸中二十四輩の石像があります。これは了念が、生国が陸中であるために建てたものだと伝えられます。道作り坊主の了念については、以前にお話ししましたので省略します。
三頭越え 久保谷の大師堂

 滝の奥越は、土器川の源流で今は「源流碑」が建てられています。ここから阿波の滝寺へ下りて行く道が続きます。滝寺へは、養蚕が盛んであった時代は、美合の農家の人々もこの峠を越えて参詣に行ったようです。
阿讃国境地図 琴南の峠2

 勝浦から真鈴峠へ行く途中に四つ足堂があります。
かつては、このお堂では湯茶の接待があったといいます。そして一軒の茶店があって、うどん、酒、たばこぐらいは売っていたようです。
 真鈴峠を越えると三野町へ入りますが、峠を越えると大屋敷の剣山神社があり、牛追い達は、ここで休んでいたようです。
 真鈴峠の頂上近くに清水がわき出ていて、もとは真清水峠と呼んでいたようです。旅人は、この峠で一杯の清水にのどをうるおしました。大屋敷は水が乏しいので、昔はそばを持って来てこの水と交換していたという話が残っています。

 勝浦や美合高松の城下へ出るには焼尾峠を越えました。
峠を越えてから粉所の新名を経て、山田へ出て岡本で高松街道に出て高松へ向かったいたようです。あるいは焼尾峠から陶へ出て行くルートも使われました。しかし、焼尾峠は恐ろしい峠で、追いはぎも出たし、妖怪の話もあったと云います。
 二双峠は頂上にニソの社があります。
ニソの社というのは、もとも祖先の霊のこもる森のことです。峠を越えて行く旧道は、谷川に沿ってどんづまりまで行き、それから急坂をよじ登ったといいます。

立石越(二双越)

山中の村では、病人が出来るとふごの中に雨戸を載せて、その上に寝せたり座らせたりして連れて行きました。荷物を運送していた者に、ダチンカツギ(駄賃担ぎ)と呼ばれた人たちがいました。これは荷物を背に負うて運んだり、オウコ又はトンガリ棒で運びました。車が行けるところは、トウカイヤが車に載せて運びます。どの集落にも一軒か二軒ぐらいはあって、そこへ頼んでいました。

明神などが店を並べて市街地のようになったのは、近代になってからのようです。
まんのう町明神地区の町並み

それまでは日用品や雑貨。米、醤油などを売る店がぽつぽつとあっただけでした。正月がくると正月買物、盆がくると盆買物に町に下りていきます。そんな時には、ふだんの仕事に使うオウコよりは、ややきゃしやできれいに仕上げたオウコを持って行ったものだと云います。正月には砂糖、下駄、足袋など、盆にはそうめんや浴衣地などを買って来ます。
 衣類などは自分の家で織っていたので、わざわざ買うことはありませんでした。機織りをしなくなってからは、阿波から反物を売りに来るようになりました。
魚は、家に婚礼、厄ばらいなどの宴会がある場合は、わぎわざ琴平の町へ買いに行きました。
常は琴平・坂出などから魚の行商人が来ていたようです。魚屋が出来たのは近年になってからのことです。それでブエンの魚も容易に手に入るようになっりました。魚屋が出来た初めのころは、ブエンの魚はなくて、店には竹の皮で編んだかごの中の塩鰯とか、女竹に通しためざしなどを売っていたと云います。

塩は、専売になる前は坂出・宇多津方面からも、また阿波の貞光からも売りに来ていたと云います。
塩は漬物用にも大量に買いましたが、牛を飼っている農家でもたくさん買っていたようです。農家では、 塩の下に桶を置いていました。それはニガリを取るためです。ニガリは正月前に豆腐をつくるために必要でした。今では豆腐をつくる家もなくなってしまいました。明神などには豆腐屋ができたからでしょうか。
明神から奥のソラの集落に行商人がやってくると、懇意にしている大百姓や地主の家に泊まっていました。
阿波から正月にやって来るデコマワシも馴染みの家に泊まって村落の家々を廻りました。物もらいは、秋の終わりから冬の初めによく来ました。お米が出来て豊かな季節だったので、そんなころを見はからって来ていたののでしょう。物もらいは、行商人と違ってどこの家でも泊めてくれません。そこで無住の庵とか焼き場の中のコツドウ(輿堂)などに泊まつていました。
阿波の山間部は米が少ないので、馬が美合まで来て米を積んで帰えりました。
米を二俵半ぐらい鞍の両側につけます。これを運ぶのは運送用の馬でなくて農耕用の馬だったと云います。伊予からは、秋祭りや正月の前になると障子紙を売りに来ました。大抵の家では障子紙を買って貼り替えをします。年に一度というのがきまりであったようです。
真鈴あたりからは、建築材料である真竹を明神まで売りに来ました。竹は、車が産地まで入らねば運搬が難しかったのです。土器川に沿って水車屋も何軒かありましたが、廃業して米屋となったり、今ではうどん屋となって有名になった店もあります。
讃岐うどん「谷川米穀店」香川県仲多度郡まんのう町 - 讃岐うどんやラーメン食べ歩きと、旅のブログ

美合の皆野には、一軒の油屋がありました。
菜種をしぼって各地の店へ油を卸していた。しばり粕はタマと言い、馬に載せて周辺の農家の畑へ売りに行きます。よい肥料として歓迎されたようです。油は一日に二石しめるのが一人前だといわれました。
人々は油徳利を持って油を買いに行きます。そして灯明や揚げ物の油として使いました。菜種をしばるのが普通でしたが、辛子の種でも油をとっていたと云います。
内田には薬を行商とする家がありました。
この家には五人ぐらいの行商人がいて、阿波のソラの村へ行商に行っていました。イレ(入)クスリとかカエ(替)クスリといって、富山の薬売りと同じような商いを行っていたようです。農閑期の秋から年末に出かけて行って、先方の農家へ薬を置いて、毎年入れ替えてくるのきます。後には、高松の薬屋から千金丹、万金丹、五龍園などをうけて来て、それを入れ替えに行くようになったと云います。

水車屋も、油屋や薬の行商もなくなり阿讃の峠を越える人は、だんだん少なくなりました。そのほかに、今はなくなってしまったものに紺屋があります。これは内田に二軒あって、機織りが盛んであった時代に、女たちはそこへ行って糸を染めて来ました。ソラに近い美合あたりの人は、峠を越えて阿波の郡里・重清などの紺屋に行ったとようです。
 内田の吉田寺のお大師さんの市は、琴南の人々にとっては最もにぎやかで楽しみの多いものだったようです。
江戸期の記録によると、簑売り、ヤリ屋、餅、うどんなどの店が出ています。それらの店の中には、内田の地に定住する者もあって、だんだんと集落は一つの町並みとして発達していったようです。
参考文献
琴南町誌 民俗

  
DSC00870長善寺遠景
勝浦の旧長善寺

勝浦村の御林守幸助は、文政十一(1828)年の春以来、阿州加茂宮村の百姓伝右衛門の娘いせを、阿野郡北加茂村の知り合いの娘であると偽って召し使っていました。いせは器量よしで気立ても良かったので、伝右衛門の長男豊吉とも親しくなります。そして、豊吉の友人で御林守幸八の次男利右衛門と、内縁関係を結ぶようになったようです。
 幸助は、いせが阿州者であることを知らずに、利右衛門が愛情を深めていくことが心配になってきます。ある夏の夜、幸助宅を訪れてきた利右衛門と、豊吉の間で、ちょっとしたことが原因になって、激しい口論が起きます。この機会を捉えて幸助は、息子の豊吉に味方して、利右衛門を叱責して利右衛門の出入りを禁止します。
 しかし、幸助が、いせをどこかへ連れ去って、自分との仲を引き裂くのではないかと心配した利右衛門は、翌日夜に、いせを幸助宅から連れ出し、出奔して身を隠してしまいます。当時、このような「掠奪婚」が「流行」していたようです。友人の助けを借りて女を掠奪し、同居して結婚の事実をつくり、周囲の人々に認めさせる結婚形式です。

DSC00797

 二人は、阿野郡の陶村の知人の家に隠れ住んでいました。

これを見つけた利右衛門の兄・多次郎も、いせが阿波出身であることは知りません。二人の立場に同情して黙認します。
一方、いせがいなくなった幸助方では、利右衛門が友人を語らい、徒党を組んでいせを奪ったと村役人に訴え出ます。関係者が次々と村役人の取り調べを受け、利右衛門といせが陶村から連れ帰られたのは、その年の秋も深まる十月でした。
 利右衛門の兄の多治郎と一類の鹿蔵、五人組の文蔵・丈八・庄八が誤り状を書き、幸助と豊吉も、阿波の女を雇っていたことについて、誤り証文を村役人に差し出します。いせは、阿波の親元に送り返され、利右衛門もこの扱いに不足はなく、いせに未練のない旨を書いた一札を、村役人に差し出して、事件は一応内済になったようです。慶安の協定が、二人の愛情の結を断ち切ったことになります。
 このような経過を記録した文書が勝浦の庄屋だった家には残されています。ここから分かることは、高松藩と徳島藩の間で結ばれていた「走人(逃散)防止協定」が二百年近く経過した幕末にも機能していたことです。江戸時代に、阿讃の両藩間での婚姻関係は認められていなかったことが分かります。
DSC00826勝浦

 ところが事件は、これでは収まりませんでした。
讃岐方の勝浦から親元の阿波へ連れ返されたいせは、弥三郎という男と結婚していました。それを聞いた元カレの利右衛門は、請めきれずに今度は国境を越えての掠奪結婚に出たのです。その事件を知らせる手紙が文政十二(1829)年2月17日の早朝、勝浦村の庄屋佐野佐蔵のもとに届けられます。差出人は、いせの嫁ぎ先である阿波の庄屋小笠七郎次からで、そこには次のように記されてありました。
一筆致二啓上一候。追々暖和に罷成候所、弥御堅勝に可被成御座、珍重目出度奉存候。然ば其御村OO免幸八倅利右衛門と申者、 今晩大勢の人数召連れ、当村〇〇名百姓多美蔵と申者宅へ罷越、倅弥三郎妻、有無の言不二申出横領し召連れ罷帰り申候に付、弥三郎儀留守の事故、親多美蔵義利右衛門に取付、申間せ候は、如何相心得右様横領の仕成仕侯哉と申聞せ候得共、何の言も無之、多美蔵を四ケ所迄打測に相及び、 其儘罷帰り候。其内名内の者共久付候得共、 大勢の者共夜中の事ゆへ行衛相知不申由、野士方へ申出候に付、右様横領成る義故難二捨置、其上多美蔵義四ケ所の大疵に付、命数の程
も難′計侯に付、右利右衛門儀御召集御行着可被下債。御行着の上有無御返事、此者へ御聞せ可被下候。委細の義は指越候者より型司取可
   意訳しておくと
一筆啓上致します。追々に暖かくなっていく季節ですが、堅勝であられましょうか。この度、次のような事件が起きましたのでお知らせします。そちらの勝浦村の幸八の倅・利右衛門と申す者が、 今晩、大勢の人間を引き連れて、当村の百姓・多美蔵宅へ押しかけ、倅の弥三郎妻を横領し召連れ帰りました。これは弥三郎の留守の間のことで、多美蔵は利右衛門に取付いて、このような「横領」をおこなうことの不法を申聞せたが、何の返答もなく、その上に多美蔵を四ケ所も打ち据える始末です。
  大勢の者がいたようですが夜中のことで、行方知れず、野士方へ申し出ることになりました。この横領については、放置することができません。その上、多美蔵の四ケ所の傷害に付いては、命に別状はありませんが放っておくことも出来ません。利右衛門を召喚して、詳細をお聞き取り頂き事の次第を返事でお知らせ頂きたい思います。委細については、使者より口頭でお聞きください。
DSC00870長善寺遠景

 手紙を受け取った佐野佐蔵は、造田村庄屋の西村市太夫に急報します。市大夫の指示を受けて3月18日に郷会所へ注進しています。郷会所の元〆の指示によって、利右衛門が行方不明であるので、取り押さえ次第取り調べて報告する旨の返事を、翌々日には佐野佐蔵から小笠七郎次に送ります。
1勝浦 佐野作蔵の手紙

こうして行方不明の利右衛門といせの二人の探索が始められます。
 高松藩の町奉行所から、同心衆、上下10人が勝浦村にやってきてます。郡奉行所からも二人の手代が入村して取り調べが始まります。利右衛門の父幸八は、御林守の職を停止されて所蔵に入れられます。高松藩領には、利右衛門の人相書と罪状を述べた御触れが出されます。
「稲毛文書」 の中の利右衛門の人相書には、次のように記されています。
月代: 乱志&流三の落語徘徊
O鵜足郡勝浦村御林守小八倅
利右衛門  年二十八
但年齢相応に相見え、中勢中肉丸面にて、冒毛厚き方、
色赤き方、言舌静か成る方、限・歯並常然、
月代(さかやき)厚き方。
その他、衣服や所持品、その犯行についても細かに書かれています。これは当時の大スキャンダルになったでしょう。二月末には、村内から11人の若者が捜索隊員に選ばれ、六班に分かれて、東は白鳥から西は豊浜までの各地を調べ上げます。しかし、利右衛門といせはもちろん、利右衛門に協力した者も発見することができません。一方、傷を受けた多美蔵は、すでに回復していることが探索者の間き込みにで明らかになり、一同は一安心しています。
四月桜の季節になって、利右衛門といせが、阿波の芝生村の知人の家に隠れているのが発見されます。
利右衛門といせは、徳島に送られ取り調べが行われます。その結果、利右衛門に協力したのは阿州の者で、後難を恐れて足抜きしていることが明らかになります。
 ここで、寛永21(1644)年の「走人防止協定」を再確認しておきましょう。この協定は、逃散した百姓を、お互いに本国に送り返すことを約束したもので、第14条では、
「互いの領分より逃散・逃亡してきたものに対して、「宿借」などしたものは死罪か過怠で、その罪の軽重で決定する。

第16条では、
「内通して、領分の者を呼寄せたものは、死罪」
第18条では
「互いの領分同士での、縁組みや養子などは停止を命ずる」

とされてきました。
 事件は思わぬ方向へ急転回することになります。
「走人防止協定」によって、利右衛門を処罰すれば、利右衛門といせを隠していた芝生村の人々も厳しく処罰しなければならなくなったのです。この対応に当たったのが、阿州・太刀野山村の庄屋山本新太夫と、芝生村の庄屋平尾平兵衛です。ふたりは協議し、芝生村の百姓喜八と清兵衛を使者として、平尾平兵衛と親しい関係であった中通村庄屋東三郎方に派遣し、今度の事件を内済とするように運動することを願い出ます。公になれば芝生村の人々にも火の粉が飛んできます。それを「内済」にすることで、村の人々を守ろうとしたのでしょう。

DSC00786長善寺道標

 同時に、山本新太夫は、勝浦村の長善寺の住職に手紙を送って協力を依頼しています。長善寺は美馬・郡里の安楽寺の末寺で、真宗興正寺派の讃岐への布教センターの役割を果たした寺で、この地域では政治力もある寺でした。また阿波にも檀家が多く、法要などを通じて住職とは面識があったようです。

DSC00821
勝浦の旧長善寺

 しかし、高松藩側の態度は硬化して、なかなか内済に応じなかったようです。
利右衛門はこれが2度目の略奪婚です。前回に反省文も出しています。にもかかわらず同じ事を今度は国境を越えてやったのです。いわば「再犯者」です。すぐに内済扱いとは出来ないのも分かります。
ぞのため条件とされたのが、利右衛門の父幸八の所蔵入を免じ、利右衛門の処分が決定し、その決定に阿波側の庄屋小笠七郎次が同意したということが明らかにならなければ、内済に同意しないという態度を示します。

DSC00853福家神社鳥居
勝浦の福家神社
徳島藩では、利右衛門を徳島の獄につなぎ多美蔵と弥三郎を呼んで事情を聞き取り、いせを弥三郎の妻として復縁させています。このことは7月になって、讃岐側にも伝わってきます。
  「不埓の事あり」として、50日間の入牢を申し付けられていた利右衛間が、阿波と讃岐の境である引田の逢坂峠で追い払われたのは、八月末になってでした。このことを、勝浦村庄屋に通知した小笠七郎次は、その手紙の中で、暗に、この度の処置に満足していることを述べています。

DSC00855勝浦福家神社鳥居

 この事件の解決に奔走した造田村庄屋の西村市太夫は、事件の頭末を、美濃紙二枚綴りの一件記帳留にまとめ、その最後の一頁に、
「右の通大変にて有之候得共、色々取計い、利右衛門一人出奔、除帳人に相成、其外少しも御咎め無之結構御訳付に相成り申候」

と結んでいます。ここには庄屋として、勝浦の関係者を守り切ったという満足感と安堵感が現れているようです。

国の作法に反抗して、再び掠奪結婚を試みて失敗した利右衛門のその後はどうなったのでしょうか。彼の集落の墓地には、彼の墓はないようです。 郷里に立ち帰らなかったのかもしれません。
 
 この事件から分かることは、寛永21(1644)年の「走人防止協定」第18条の「互いの領分同士での、縁組みや養子などは停止を命ずる」が、幕末になっても阿讃国境では生きていたことです。峠を越えての恋が成就することは江戸時代には御法度とされ続けていたようです。
DSC00856福家神社道標

慶安の協定によって、阿波と讃岐の愛情が、無残に引き裂かれることは、その後もあったようです。  天保十四(1843)年7月に、造田村の弥作が村役人に提出した一札(「西村文書」)があります。
ここには出身地を偽って彼の家に奉公していた娘と彼が内縁関係になり、娘が阿波の出生であるために許されず、娘が父親に連れられて阿波に帰ることになった時、彼が娘に未練のないことを述べたものです。しかし、その行間に、断ち切ることのできない愛情が猛れているように思われます。
  天保14年6月、造田村で心中事件が起きます。
池に身を投じて自らの命を、ともに断ったのです。男は、阿州三好郡川崎村出身の加蔵で、彼もまた出身地を偽って、造田村で奉公していました。家の主人が多忙な人であり、その妻が病弱で、野良仕事はその家の娘と、加蔵の二人で切り盛りしていたようです。若い二人の間は、急速に近づき内縁関係になります。しかし、加蔵が阿波の出身であるとにらんでいた娘の父親は、二人の仲を裂こうとして、加蔵に暇を出します。二人の水死体が見つかったのは、それから間もなくのことであったようです。
 造田村の庄屋西村市大夫からの手紙を受け取った川崎村の庄屋友吉郎は、加蔵の兄久太に返書を持たせて造田村へ急がせます。造田村に着いた久太は、水死者の一人が弟の加蔵であることを確認し、たどたどしく筆を走らせて、迷惑をかけたことを詫び、弟加蔵の死体を引き取らせてもらいたいと、願い出ています(「西村文書一))

DSC00844勝浦福家神社

「走人防止協定」で、阿讃の国境を越えた恋は成就できない掟となってきましたが、次第に人々の「人権意識」が目覚めていくのがうかがえる記録も残っているようです。
「牛田文書」の中に、草案ではありますが、次のような手紙原稿が残されていました。
指上申一札の事
私儀、此度長谷坂亀三郎倅甚七、阿州三好郡東井の川村辻住居、きぬと申す婦人と、先達てより内縁仕り、右きぬ親立会の上にて、其方女房に相定候得共、甚七一類腹入不仕義に付、 日地書わけ別宅仕り、 其席に立会不申侯得共、只今迄夫婦に相暮居中候処、此度甚七神願に付、 内々神参り(出稼ぎ)可仕に付てハ、女房預り人も無之、無拠引連罷越趣に承り、併右きぬも妊娠に相成、追々臨月にも相及候由、旅立候ては難渋に相見へたる事に御座候。右きぬ女親呼寄掛合中候所、何分宜敷様取扱呉候様、達々願候に付、双方懸合中処納得仕候に付、万事私引請中候間、御内々御聞置可被下候。若し他所者の儀に付、以後如何様の引縫出来仕候共、 御村方御役人中様は不及申上甚七一類に至迄厄介の筋、少しも相懸申間敷、為後日指上申一札如件。
他所婦人引請
               かつら村 甚 八
               一類   八五郎
               組合     富 蔵
慶応三年年七月
御村方御役人衆中
意訳しておくと
一札の事さし上げ申し上げます
 この度長谷坂亀三郎倅・甚七が、阿州三好郡東井の川村辻の住居のきぬという婦人と、先達てから内縁関係になりました。そこできぬの親の立会の上に、女房に迎えることにしました。しかし、甚七の親族はこれに反対し、田地を分け別宅を建て、その席にも立会わないと申します。こうして、ふたりは夫婦として暮らしてきましたが、甚七が神参り(出稼?)に出ることになり、きぬも妊娠していることが分かりました。時が進み臨月になり里に帰ることも難渋に思えます。きぬの女親を讃岐に呼寄ることをお願いして欲しいと何度も依頼されました。そこで双方に懸合い交渉をすすめた所、内々にお聞き置くださることになりました。
 もし阿波出身の他所者であることで、今後どんなことが起きましょうとも、村方役人様には害が及ばぬように致します。甚七親族一類についても、少しも懸念なきように後日のために一札差し上げる次第です。
DSC00800長善寺鐘楼

ここからは次のような事が分かります。
①長谷坂の亀三郎の倅甚七が、阿波生まれのきぬと結婚しようとした時、親の亀三郎などはこれに反対したこと
②それに対して、親類の甚八と八五郎、五人組の冨蔵が甚七に味方して結婚させ、その後甚七が神参り(出稼か)に出ることになった
③その間、妊娠中のきぬを責任を持って預かるという証文を、村役人に差し出している
ここには、家の反対に関わらず親族や近所の中に、夫婦になった二人を「掟」を破っても守ってやろうという意識が周囲に形成されてきたことがうかがえます。
かつては、藩の定めた不合理な協定の前に屈伏していた人々が、この掟に抵抗し、自らの愛情に忠実であろうとする人々を応援し、たとえ近親が協定を恐れていても、これらの人々を守ってやろうという姿勢を示すようになっているのです。
 阿讃山脈の国境の村々には不合理な藩の掟に抵抗して、結婚の自由、住居の自由を獲得しようとする自覚が産まれていたと言えるのかもしれません。それが明治維新になって幕藩体制が崩壊し、「結婚・住居の自由」が保証されると、峠の道を花嫁行列が行き交うようになり、阿讃に跨がる通婚圏が成立していくようです。
 逆に言うと、江戸時代には両者の間には通婚圏(権?)は、存在しなかったことになります。これが、お隣の丸亀藩にも当てはまるのかどうかは、今の私には分かりません。
参考文献 国境の村々 琴南町史307P

4 阿波国絵図3     5

讃岐と阿波の境を東西に走っている阿讃山脈は、まんのう町(旧琴南町)域の県境付近が最も高く、東に竜王山、西に大川山がそびえる県境尾根です。江戸時代には、この山脈(やまなみ)が、人々の交通を阻害していました。しかし、自然の障壁よりも、人の自由な交流を強く規制したのは、高松藩と徳島藩の間で結ばれていた「走人」についての協定だったと云われます。
 徳島藩では、寛永19(1642)年の大飢饉以後、ますます増加した農民の逃散に対をなんとか防ごうとして、いろいろな対策を出しますが、効果がなかったようです。そこで慶安2(1649)年5月14日に、阿波藩と高松藩との間で、百姓の走人(逃散)についての相互協定が結ばれます。「讃岐松平右京様被二仰合一条数之写」(阿波藩資料)によると、 協定は一八条からなります。内容は、寛永21(1644)年より以後に逃散した百姓を、お互いに本国に送り返すことを約束したものです。
第14条では、
「互いの領分より逃散・逃亡してきたものに対して、「宿借」などしたものは死罪か過怠で、その罪の軽重で決定する。
第16条では、「内通して、領分の者を呼寄せたものは、死罪」
第18条では、「互いの領分同士での、縁組みや養子などは停止を命ずる」
特に18条は結婚と養子を禁止した厳しいものです。この走人協定の目的は、百姓を村に縛りつけて労働力を確保しようとする江戸時代の藩政の常套手段です。「移動の自由」を認めていたら封建制は維持できません。
阿波国大地図 琴南の峠1

 讃岐の砂糖産業の発展して、阿波から砂糖車を絞るための大型の牛をつれた「かりこ」たちが阿讃の峠を越えてやって来て、砂糖小屋で働いていたと、いろいろな本には書いてあります。
しかし、阿波からの労働力の受入が禁止されていたとすれば、これをどう考えればいいのでしょうか。
 また阿讃国境の峠の往来は、管理されていたのでしょうか。番所などがあり、自由な往来が禁止されていたのなら、多くの阿波の人たちが商売や金毘羅詣でにやってきたというのも怪しくなってきます。
DSC08485

  勝浦村奥には真鈴の集落があります。
ここから真鈴峠を越えて阿波に入ると瀧口には、徳島藩の番所があったことが絵図からも分かります。また、何か事件があると重清越番所が置かれました。しかし、領民の通行はほとんど規制されなかったようです。商人や馬方は自由に往来し、百姓も日帰りの旅は黙認されていたようである。両国境の往来の自由がうかがえる資料を見てみましょう

DSC08444

文化四(1807)年6月20日、勝浦村の多賀次郎が、阿波の勢力村の内田池で、溺死しかかるという事件が起きています。
この事件について勢力村の取立役与惣次が、次のような手紙を、勝浦村の庄屋佐野直太郎に送っています(「牛田文書」)。
一筆致二啓上一候。大暑の潮に御座候得共、弥御健勝に可被成二御勤一旨、珍重に奉存候。然は其御村熊次郎・鹿蔵・多賀次郎と申す仁、三人連にて用事に付、昨日当国へ罷越候趣、然る処当村内田池の縁を通り懸り、暑さに堪え兼ね水を浴び候迪、多賀次郎と申仁、落込申すに付、池水抜放し筏井桐を張り、大勢相並び相い入り申す内、右鹿蔵と申仁、知らせに被二罷帰一候由、
 其内追々相入り、尋ね当り引揚け、医師等相配り、彼是手当致候得共、何分大切に相見え申す折柄、 親類中数人被罷越・様々介抱被致候得共、 何分大切に付召連帰り養生仕度候間、指返呉候様被二申出候に付、 今少々養生被致候様申述候へ共、誠に怪我の義にて何の子細も無御座事故、片時も早く召連帰度、被指帰呉候様に、達て被申出候に付、無拠、乍大切中指帰し申候。
前段の通り何の子細も無御座親類中召連被帰候義にて、当方役所へも不申出、内分にて右様取計申候。然共大切の容然にて連れ被帰候事に候へば、兎角助命の程無覚東奉存候。依之内分の取計には候へ共、御他領の御事故、当地にての有し姿の運、為御承知内々得御意度、如斯御座候。恐怪謹言。
               阿州勢力村取立 与惣次
六月十一日
  讃州勝浦村政所 佐野直太郎様
意訳して見ると
一筆啓上します。大暑の時期ですが健勝でございましょうか。
早々ですが、そちらの村の熊次郎・鹿蔵・多賀次郎と申す者が三人連で、昨日当国へ参りました。そして当村の内田池を通りかかり、暑さに堪え兼ねて水を浴びをしていましたところ、多賀次郎と申す者が、池に落ちました。そこで、池の水を抜いて筏を浮かべ、大勢で並んで探しました。
それを鹿蔵と申す者が、そちらに知らせに帰ることになりました。捜索を続けていると、人らしき感触があったので引揚け、医師を呼び、手当を致しましたが危篤状態です。親類の数人に来ていただいて、何分大切に連帰り養生した方がよいと医者も申します。
中略
 親類が連れ帰ることについては、当方の役所へも届けずに、内分に取計うつもりです。しかし、容態は良くはないので動かせば、せっかく助かりかけた命も覚束なくなる恐れはあります。内分の取計ですので、他領の御事故ですので御承知していただければ幸いです。恐怪謹言。                      

このあと勢力村の取立(村役人)与惣次が心配したように、多賀次郎は亡くなります。佐野直太郎はこのことを伝えると共に、勢力村の与惣次に深謝する手紙を送っています。それの控えが残っているようです。
 百姓にとって池の水を、最も大切にしなければならない6月末に池の水を抜いて、多賀次郎を助け上げ、十分に養生するように申し出てくれた勢力村の人々の好意を、活かすことができなかったようです。勝浦村の人々の脳裏には、これ以上の迷惑を掛けることを恐れるとともに「御国の御作法」である「走人協定」が重くのしかかっていたのかもしれません。
 ここからは勝浦の百姓3人が自由に阿波に移動できている様子がうかがえます。しかし、正式な裁きになった場合には、厳しい取り調べを受け処罰されることになったようです。そこで、国境を越えた村役人同士は、お上には届け出ずに「内済」で済ませる道を選んだようです。つまり、法的には禁止されているが、国境の往来について取り締まりや規制は行っていない状態だったようです。手形を求められると云うこともなかったのでしょう。
以上を確認すると
  江戸初期の慶安二年(1649)に、阿波の蜂須賀藩と讃岐の高松藩の間で走人協定が結ばれた。それ以後、百姓の移住はもちろん、短期間の雇入れも、婚姻も表向きは認められなかった。しかし、商人の往米は自由であり、金毘羅詣りの往来も認められていた。
ということになるようです。
もうひとつ旧美合村には、阿波との特別の関係が認められていたようです。 
6 阿讃国境地図

阿波の三好郡と美馬郡は、上郡と呼ばれ、地形や地質上から水田ができにくい土地柄で、畑作地帯でした。藩政時代になって、帰農した武士で土着する者が多く、讃岐の国境近くにまで集落が開かれるようになります。しかし、穀類よりも煙草などの商品作物優先で食糧が少なく特に米が不足がちでした。
 徳島藩は、表高25、2万石、実高は45万石あったと云われます。その実高を生み出したのは、吉野川下流域の藍作りでした。徳島藩では商品作物としての藍作りを奨励し、米作りを抑える政策をとります。そのため阿波の上郡一帯の人々は、阿波国内から米を買い付けることが難しい状況になります。ちなみに藍や煙草栽培で、経済力を付けた百姓達上層部の米需要は高くなります。彼らは、国境を越えた讃岐の米に期待し、依存するようになります。
勝浦や中道村は、年貢は金納だった
一方、高松藩の宇多津の米蔵から遠く離れていて、交通も不便であった阿野郡南の川東村では約130石、鵜足郡の勝浦村では約20石、中通村では約10石の米が、金納(平手形納)されるようになります。

例えば鵜足郡の造田村は、水利や地性が悪く良質の米が取れなかったので、毎年200石の年貢米を現米買納の形で金納していました。これらの村々は、米や雑穀を売り払い、藩の定めた米価で金納しなければならなかったのです。しかし、それだけの米の販売先が周辺にはありません。これを買ってくれるのは、阿讃山脈の向こうの三好郡と美馬郡の米問屋たちです。そのために米と雑穀は、峠を越えて、阿波の上郡へ売られていきます。これを高松藩は容認していたようです。
高松藩の食料政策は?                                                 
 高松藩では、年貢米と領民の食糧を確保し、領内での米価の安定を図らなければなりません。それに失敗すれば一揆や打ち壊しが起きます。そのために通用米や雑穀の藩外への流出については、厳重な取り締りを行うとともに、他藩米の流入についても関心を払っていたようです。
文化四(1807)年9月、高松藩は、「御領分中他所米売買停止」の御触れを出し、これに対して、勝浦村庄屋佐野直太郎が、次の誓約書を差し出しています。
他所米取扱候義御停止の趣、
兼て被二仰渡一も有レ之候に付、当村端々に至迄、厳敷申渡御座候。此度又々被レ入二御念一の被二仰渡一候につき、 尚又村中入念吟味仕候得共、右様の者決て無二御座一候。若隠置、外方より相知候へば、私共如何様の御咎にても可レ被二仰付一候。為二後日一例て如レ件。
文化四却年九月                  佐野直太郎
               市 郎
               甚 八
               加兵衛
中手恒左衛門様
岡田金五郎様
秋元加三郎様
意訳すると
他所との米取扱停止の件について
このことについて、当村でも村の端々にまで伝えて、申し渡しました。この度の件について、村中で入念に吟味いたしましたが、このような者が決して出ぬようにします。もし、そのようなことがあれば、私共はどんな御咎もお受けする覚悟でございます。何とぞ、今までのように特例認可をして頂けるようにお願いします
文書内容が抽象的で意味が掴みにくいのですが、当時の状況から補足して解釈すると、
①文化四年の作柄が豊作で、領内の米価下落傾向にあった
②そのため他所からの米の買付業者が横行した
③対応策として、他所との米取扱停止の通達を高松藩が出した。
ということでしょうか。しかし、これでは年貢米を金納している「まんのう町国境の村々」は、やっていけません。そのために、事情を説明し特別許可を認めてもらうのが従来からのパターンだったようです。この時も、申請者には阿波の業者への販売許可が下りたようです。
 特例が認められた村では「刻越問屋」の発行した証明書を添えて、年貢量と同じだけの米の売却が許されました。しかし、これに便乗して通用米を「他所売り」するものが、多数いたようです。実際に認められた以上の石高の米が、美合地区から阿波の上郡に運ばれていたようです。
馬方とは - コトバンク

讃岐で売られた米を阿波へ運ぶ峠道の主役は、阿波の馬方たちでした。
三頭・二双・真鈴の峠を越えて讃岐に入り、買い付けた米を引き取るために阿波の馬方は吉野上村の木ノ崎にあった高松藩の口銭番所の近くまで姿を見せていたようです。流石に、ここには高松藩の番所があったので、ここから北には足が伸ばせなかったようです。

 阿讃の峠道は決して安全なものでなかったので、絶えず道普請が行われていたようです。
文政10(1827)年秋、勝浦村の八峯に新しい掛道が造られます。触頭の加兵衛と、徳兵衛。仁左衛門・銀太が中心になり、阿波の馬方数人が手伝って完成させたようです。新道ができると、阿波からの米買いの馬方が、次々と通るようになります。
 これに対して八峯免の与市右衛門と弥平が、通行の峠馬や馬方に、畑を踏み荒らされると訴え出ています。勝浦には阿波美馬・郡里の真宗興正寺派安楽寺の末寺長善寺がありました。この寺が土器川沿いに興正寺派が教線を伸ばしていく拠点の寺院となったことは以前にお話ししました。大きな茅葺きの本堂があったのですが、最近更地になっていました。
 与市右衛門と弥平が、馬に畑を踏み荒らされるとが訴え出られた長善寺の院住や御林上守の岡坂甚四郎は、なんとか内済にするよう尽力しますが話はまとまりません。そこで、冬も迫った11月23日に大庄屋の西村市太夫がやってきて言い分を聞きます。「畑が踏み荒らされると御年貢が納められない」という主張に屈して、
「新掛道の入口であるあど坂という所へ、幅一間から一間半の水ぬきを掘り、両縁を石台にしてささら橋(小橋)を掛け、牛馬を通さない」

ようにすることで両者を和解させました。
 そして今後のことは、八峯免全員の協議で決めるよう説得します。
市大夫は最後に
「あど坂から少し入った所に百姓自分林がるわな、ここを下し山(木を切り降ろす)時に、木馬が通るには土橋があった方が便利なわな。その時はみんなで協議して土橋にしたらええがな」

と、一本釘を打つことも忘れなかったようです。ささら橋は、間もなく土橋に架け替えられて、馬方の鈴の音が絶えることのない馬方道になったと伝えられます。
馬子唄」と「馬方節」 - 江差追分フリークのブログ

文政12(1829)年から、川東村の馬廻り橋の架替え工事が始められ、天保2(1831)年12月に、普請が終わっています。
この際の橋の工事帳(馬廻橋村々奇進銀入目指引丼他村当村人足留帳:「稲毛文書」)には、
「総人夫 595人 総費用 608匁8分」

とあります。その中には阿波馬方分として 銀62匁が含まれています。総費用の1/10は、阿波の馬方が負担したことが分かります。
 ここからは次のような事が分かります。
①19世紀になると経済的な発展に伴い阿讃交易も活発化し、金毘羅詣の人々の増加と共に峠道を越える人や馬は急増した。
②しかし、峠道は以前のままで狭く悪路で危険な箇所が数多くあった
③それを地元の有力者が少しずつ改修・整備した。
④それには阿波の馬方からの寄進も寄せられていた。
二双越

   立石峠(二双越)には、いまはモトクロス場が出来て休みの日はバイクの爆音が空に響く峠になっています。かつて、馬を曳いて峠越えをしていた馬方が見たら腰を抜かすかもしれません。峠を阿波分に少し下りた、高さ二層を超す立派な庚申仏と、地蔵仏が建ています。

二双越の地蔵

地蔵尊は像高1.32mで、小さい地蔵尊を左の手に抱き、右の手に錫杖を持っています。高さ1,8mの三段の台石の正面から左右にかけて、阿讃両国の関係者の名前が刻まれています。
二双越の地蔵2

小さい地蔵を抱いた石像には嘉永六(1853)年十月吉日の文字が読み取れます。金毘羅大権現に金堂(現旭社)が姿を現し、周辺の石畳や灯籠などの整備が進み参道の景色が一変し、それまでにも増して参拝客が増えていく頃です。ここを通る馬方は、この二尊像に朝夕に祈りを捧げ、峠道を越えていったのかもしれません。

立石越

 この当時までは、三頭峠よりも二双越や勝浦経由の真鈴越えが阿波の馬方達にはよく利用されていたのではないかと、私は考えています。古い絵図を見ると三頭越えが描かれていないものもありますが、立石峠(二双越)は、必ず描かれています。三頭越えが活発に利用されるようになるのは、以前にお話しした幕末から明治維新にかかての智典の三頭越街道の整備以後なのではないかと思うようになってきました。
立石越(二双越)

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

明治元年に、阿波の若者が金毘羅さんに「武者修行」にやってきています。
『慶応四(1868)辰のとし 無神月 箸蔵寺金毘羅参詣道中記並に諸造用ひかえ』と記され記録が、麻植郡美郷村東山の後藤田家に残されています。金毘羅さんの参拝ついでに、讃岐の道場を訪ねた記録です。見てみましょう。

6 阿讃国境地図
 無神月廿三日早朝出立、
川又(美郷村)より川田(山川町)通りにまかりこし 
市久保(山川町西川田)にてわらじととのえ、岩津(阿波町)渡し(吉野川の渡し)越す、このころ時雨にあいおおいに心配いたし九ッ(正午)ごろより天気晴れ安心いたし候。
それより脇町を通り新馬場より塩田荏大夫に出合い川原町まで同道いたし候、川原町追分、南がわの茶屋にて支度いたし候、さいはふくろさよりなり、おかかふとりよるもの、子供三皆女なり。
 それより郡里へ通、沼田原に山頭山御祭、かけ馬、角力おおはずみ、それより昼間光明寺にて紙を買う代壱匁(銀銭単位)なり、それより箸蔵山へ登り候、ふもとにて日暮れにあい及び候、箸蔵寺へ着いたし、上の間十枚敷へ通り、岩倉村人、土州人、くみあわせ弐十人ばかり、なかに岩倉の娘、穴ばち摺ばち取りまぜ六人はなはだぶきりょうものなり
  意訳すると
慶応4年10月23日の早朝に美郷村東山を出発。
川田(山川町)を抜けて、市久保(山川町西川田)で草鞋を整えて、岩津(阿波町)の川渡場で吉野川を越える。このころまで時雨も上がり、九ッ(正午)には天気も晴れてきた。脇町を通り、新馬場で塩田荏大夫に出合い川原町まで一緒に同道した。川原町追分の南がわの茶屋で食事をとった。おかずは「ふくろさより」で、おかみは太っていて、子供3人はみんな女であった。
 ここから郡里へ入ったが、沼田原で山頭山の御祭に出会った。草競馬や、角力で大賑わいであった。さらに昼間の光明寺で紙を買った。代は壱匁(銀銭単位)であった。 昼間から箸蔵寺へは登りになるが、ふもとで日が暮れて、暗くなって箸蔵寺に就いた。案内されたのは上の間の10畳ほどの部屋で、ここに岩倉村や土佐の人たち20人ほどの相部屋となった。岩倉村の娘達は不器量であった。
 この剣士(?)は、城下町に住む武士ではないようです。田舎で剣術を習っている若者のようですが年齢などは分かりません。食べ物と女性への関心は強そうなので、まだまだ人間的にも修行中の若者のようです。
さて、初日の記録からは次のような事が分かります。
①旧暦の9月に慶応は明治に改元されています。出発日は慶応4年10月23日と、記されていて明治の元号を使っていません。ちなみにグレゴリオ暦では1868年10月23日が明治への改元日になります。どちらにしても、明治になったばかり激動の時代の金毘羅さん詣りです。どんな変化が見られるのか楽しみです。

②箸蔵までのルートは次の通りです。
美郷川又 → 山川 → 岩津で渡船 → 脇町 → 郡里 → 昼間 → 箸蔵寺

岩津の渡船で吉野川を渡り、撫養街道を西へ進んで行き、夕暮れに箸蔵寺に着いています。脇町方面からだと郡里から三頭越えで美合に下りた方が近道だとおもうのですが、箸蔵経由のコースを取っています。 
③これは箸蔵寺が参拝者へのサービスとして、宿を無量で提供していたことがあるのかもしれません。この日も20人ばかりの人たちが、箸蔵寺の用意した部屋を利用しています。その中には娘達もいたようです。娘達の旅とは、どんな目的だったのか気になります。
箸蔵街道をたどる道 3 | みかんやさんのブログ

 箸蔵寺は、江戸時代後半になってから
「金毘羅さんの奥社・金比羅詣での両詣り」

をキャッチフレーズに、金比羅詣客を呼び込むための経営戦略を打ち出し、急速に寺勢を伸ばします。その際に活躍したのが、箸蔵寺周辺を拠点としていた修験者(山伏)たちです。彼らは先達として、参拝客を誘引すると共に、箸蔵街道の整備や勧進活動も行います。その結果、
箸蔵寺 → 二軒茶屋 → 石仏越 → 財田・山脇

をたどる箸蔵街道がこのエリアの阿讃峠道の主要ルートになります。それが明治の猪ノ鼻峠を越える四国新道につながっていきます。
4 阿波国図 15

10月24日前半 箸蔵寺から金毘羅さん参拝までへ
翌日廿四日出立いたし、土州もの三人連れ同道にて荒戸様を下り、荒戸越え道の左手に小さき池あり、いちえん、はちす(蓮)なり、その池に十八、九の娘、米を洗い候、彼(彼女の意)に、この蓮根に穴あるやと尋ね候えば甚だ不興の鉢(体)なり。
 それより同処ヒサノヤ利太郎宅にて休足(休息)いたし候、ゆべし(柚餅子)にて茶をくれ候、さいは白髪こぶ、竹わ、ふ、なり、小皿つけなり、おかか随分手取り(やりて)なり。
半道(一里の半分)行き追上村小さき茶屋あり、川より西、小百姓とおぼしき南に弐拾五、六女、同年ほどの男だんだんくどきを言い甚だ困り入り候おもむきにあい見え候。

 彼所より拾丁ばかり参り候えば小さき菓子物みせに三拾ばかり夫婦あり、この所にてわらじ弐足代壱匁三分にて買い求め、それより阿波町へ指しかかり象頭山参詣(金毘羅まいりのこと)方々拝見広大なり。
 それより榎井、土州様御出張成られ候所を打ち過ぎ西山豊之進殿宅参り内室(奥さん)申出には豊之進、土州様出張所へまかり出るにつき夕方にも、まかりかえるのほどあいはかりがたくにつき、御気の毒にはござ候えどもと申すにつき、しからば山神権吉様宅へ参上つかまつるおもむきに申し候へども最早、剣者も壱人ばかりにてはあまり少なく思い、
意訳すると
翌日24日に箸蔵寺を出発する。途中は昨夜同宿した土佐の三人連れと同道して、山脇集落から荒戸に下った。荒戸越えの道筋の左手に小さな池があり、一面に蓮が咲いていた。その池に十八、九の娘が米を洗っていたので「その蓮根に穴はあるのか」と尋ねると、不機嫌そうな仕草をした。
 荒戸のヒサノヤ利太郎宅で昼食休憩し、ゆべし(柚餅子)と茶を飲んだ。おかずは白髪こぶ、竹輪、ふ、なり、小皿つけであった。女将は随分のやり手だった。
 半道(2㎞)ほどいくと追上村に小さな茶屋があった。そこから川より西側で、小百姓らしい身なりの25歳前後の女が、同じ年頃の男に言い寄られて、困っている様子に見えた。
そこから10丁程進むと小さな菓子物店を、30歳ほどの夫婦が経営してた。ここで、わらじ2足代壱匁三分で買い求めた。そこから金毘羅さんの阿波町へ入り、象頭山参詣(金毘羅まいり)を果たした。いろいろなところを拝見したが広大である。
ここでも女性に、ついつい目が行ってしまうのを止められないようです。金毘羅への道は
箸蔵街道を 箸蔵寺 → 二軒茶屋 → 山脇 → 荒戸 → 追上 → 樅の木峠 → 買田 → 阿波町

を経て、阿波街道のゴールである阿波町に入っています。金毘羅参拝の報告については、極めて簡略です。江戸時期の庶民の残した旅行記の大半は、途中までの行程は記しますが、その神社や寺社の内部を詳しく記す物はほとんどありません。それがどうしてなのか、私にはよく分かりません。
 旧高松街道 Instagram posts (photos and videos) - Picuki.com
10月24日後半 高松街道を金毘羅さんから栗熊まで
 それより榎井、土州様御出張成られ候所を打ち過ぎ西山豊之進殿宅参り内室(奥さん)申出には豊之進、土州様出張所へまかり出るにつき夕方にも、まかりかえるのほどあいはかりがたくにつき、御気の毒にはござ候えどもと申すにつき、しからば山神権吉様宅へ参上つかまつるおもむきに申し候へども最早、剣者も壱人ばかりにてはあまり少なく思い、
髙松街道 高篠 祓川から見坂峠2
はらい川(土器川)周辺の髙松街道

それより八栗寺へこころざし参り候ところ、はらい川を越え候ところ五十ばかりの男、道連れになり、いろいろ、はなしいたし、それよりなごり坂(残念坂)へさしかかりこの坂、名残坂とは如何して言う、いわくこの坂、名残坂と申すは諸国の人々、金毘羅内金山寺町等にて段々、がいに狂いいたし帰るさいに、この坂より見返り、この坂、越え候得ば一向あい見え申さず候故なりという

 それより少し行く道のこの手に木村と申す太家あり、それより栗熊村へ指し懸り山路岩太郎と申す剣者の内へまかりいで あいたのみ候えば十七、八の前髪たちいで父、岩太郎居合わさず候故、ことわり申され、それより三丁半東、同村桜屋吉郎内へ参り泊り候処、
加茂村の者老人下駄商用に参り泊り合わせ申し候。
 その夜、村中の若もの四、五人参り、色々、咄(はなし)さいもん、あほだら経、ちょんがり、浄るり、色々あるにあられぬたわむれ。おもしろしく 
さて桜屋ふとんうすく小さし、
 当春、最明寺の某氏うたなり
  桜屋のふとん小さき夜寒むかな
意訳すると
 それより榎井に入り、土佐占領軍の駐屯地を過ぎ、西山豊之進殿宅へうかがった。内室(奥さん)が出てきて云うには道場主の豊之進は、土佐の駐屯地へ詰めていて、夕方に帰ってくるかどうかも分からないとのことで、御気の毒に存じますとのこと。それならばと山神権吉様宅へうかがうことを告げると、剣者が1人いるだけとのことで諦めることにする。
残念坂からの象頭山 浮世絵
狭間の残念坂からの象頭山金毘羅

 狭間の残念坂を越えて、高松の八栗寺へ向かおうと、はらい川(土器川)を越えた所で五十歳ほどの男と道連れになり、いろいろな話をした。それによると、今から登る坂をなごり坂(残念坂)と呼ぶのはどうしてか知っているかと聞かれる。男が云うには「この坂を名残坂(残念坂)というのは、諸国の人々が金毘羅の色街・金山寺町で精進落としと称し、酒に酔い、大いに羽目を外して、帰る際に、この坂より今一度金毘羅さんを見返りる。しかし、この坂を越えれば平素の顔にもどっている。だから残念坂というそうだ。
打越坂 見返坂 残念坂.jpg金毘羅参詣名所図会
     見返坂(残念坂)金毘羅参詣名所図会
 
狭間より少し行くと木村という大きな家がある。さらに行き栗熊村の山路岩太郎という剣者の家を訪ね、手合わせを頼むが出てきたのは十七、八の前髪の若者で「父、岩太郎は不在です」と断られた。仕方なく、三丁半東の、同村桜屋吉郎の宿に泊る。加茂村老人で下駄商用も泊り合わせたので、その夜、村中の若もの四、五人がやってきて色々、咄(はなし)さいもん、あほだら経、ちょんがり、浄瑠璃などで戯れ時を過ごした。桜屋のふとんは薄く小さい。そこで一句
 当春、最明寺の某氏うたなり
  桜屋のふとん小さき夜寒むかな
  当時の琴平は、土佐軍占領下にあり土佐兵が、天領だった榎井に進駐していました。新時代の情勢変化などに興味を持つ者であれば、その辺りのことも記録に残すと思うのですが「土州様御出張成られ候所を打ち過ぎ」と通り過ぎるだけです。この辺りが武士ではないので当事者意識がなく、緊張感もないのかなあと思えてきます。
 当時の金毘羅をめぐる情勢を見ておくと、
この年の初めには、土佐軍が金毘羅を軍事占領し、土佐軍の支配下に置かれます。そして金毘羅金光院に軍用金差出を命じます。そして、戊辰戦争、鳥羽伏見の戦い、江戸城開城・高松藩征伐と続くのです。土佐藩軍政下の金毘羅の様子を知りたかったのですが、そのことには一切触れられません。ノンポリのようです。ちなみに金毘羅が土佐藩鎮撫から倉敷県管轄となるのは、翌年のことです。
 彼は榎井の道場を訪ねていますが、榎井だけでも2軒の道場があったようです。幕末には武士だけでなく、庶民にも武道熱が高まり、城下町の道場以外の郡部にも道場があったことが分かります。この日は3軒の道場を訪ねますが、手合わせは適いませんでした。夜は栗熊の宿で、同宿者や村の若者と若者らしく他愛もないものに興じて時を過ごしています。④以外は、私は初めて見るものです。
① 咄(はなし)さいもん、
②あほだら経
③ちょんがり
④浄瑠璃」を楽しんだといいます。
辞書で調べてみることにします。
①は浪花節のことのようです。「江戸末期、大坂に起こった、三味線を伴奏とする大衆的な語り物。明治以降盛んになった。説経祭文(さいもん)から転化したもので、ちょんがれ節、うかれ節などとも呼ばれていた。語られる内容は多くは軍談・講釈・伝記など」と記されます。当時の流行のはしりだったようです。③も浪花節の変種のようです。
②は江戸時代中期に、乞食坊主が街頭で行なった時事風刺の滑稽な俗謡。「ちょぼくれ」ともいわれ、ほら貝などを伴奏にし,戸ごとに銭を請うたとあります。
  旅の目的が道場巡りから演芸交流になっているようで、他人事ながら心配になってきます。

10月25日はいか(羽床)村。
上総琵之助先生方へ参りあい頼み候ところ、おりよく兄弟両三人居合わせ段々取り持ちくれ御業(わぎ)つけくだされ兄弟稽古いたしくれ、また御茶漬くだされ色々御留めくだされ家内壱統、情深き人々なり、それより滝宮参詣いたし、
それより未(陶)村不慶丈太夫先生へ参り、是は高松領随一短槍名人なり、おりあしく居合わさずそれより五丁ばかり北山手に上田四郎兵衛先生方へ参り候処、居合わせ候得共  ??   」』と、以下紙が敗れ造用ある。
意訳すると
配香村(羽床村)の鞍馬一刀流 上総荏之進先生の道場を訪ね、お手合わせを頼むと折良く、兄弟3人が在宅で、稽古をつけてくれた。また稽古の後はお茶漬けまでいただくなど、情け深い家族であった。その後、滝宮神社の参拝後に、陶村の不慶丈太夫先生の道場を訪ねた。先生は高松領随一の短槍名人だが不在であったので、そこから五丁ばかり北にある上田四郎兵衛先生方を訪ねた・・・・・・』

ここまでで「以下紙が敗れ造用」とあります。記録はここまでのようです。この旅で訪ねた道場を挙げると、次のようになります。
讃州那賀郡金毘羅榎井町   西山豊之進
              山上権六
        栗熊村   山路岩太郎
配香村(羽床村)鞍馬一刀流 上総荏之進
              上総辰之助
              津田久之助
  未(陶)村 直神影流  不慶丈太夫
     同        上田四郎兵衛
幕末の讃岐にも郡部には、これだけの道場があり庶民が武術に腕を磨いていたことが分かります。しかし、明治維新の政治的な変動や緊張感は伝わってくるものがありません。阿波や讃岐の庶民にとって、明治の激動は遠い世界の事だったのかもしれないと思えてもきます。
 後藤田氏は、5年後の明治6年にも金毘羅まいりを行っています。その良きに残した記録には、
「こうしておまいりができるのは、一つには天の助け、二つには先祖恵みの功によりなりあがたき仕合わせに存じ奉り候』
と結んでいます。

参考文献       
猪井達雄       阿波吉野川筋からのこんぴら参り古記録  ことひら39号 昭和59年

5借耕牛 写真峠jpg
        阿讃の峠を越える借耕牛
阿波の美馬,三好地方で「米牛」と呼ばれる借耕牛の習慣は,江戸中期から始まったとされています。
農耕用の牛は一年中、働き場所があるわけではありません。春秋の二李,(田植期と収穫期)のみが出番です。そこで、美馬・三好両郡の山分で水田に乏しいソラの農家が,自分の家の役牛を農耕用として讃岐の農家へ貸します。そのお礼に、おいしい「讃岐米」の俵を背に積んで帰ってきました。今回は借耕牛(米牛)について見ていくことにします。テキストは「借耕牛の研究」四国農事試験場報告6号381P~(1962年)」です。これは、PDFfileでダウンロード可能です。

借耕牛が成立するには次のような背景がありました。

借耕牛登場の背景
これに対して、阿波には山の上に広々とした牧場があり、夏はそこで牛を放し飼いにしていました。

借耕牛 美馬郡の腕山牧場
阿波のソラの集落には広い放牧場があった。 
また、美馬や三好地方の田植は5月ですが、西讃地方の田植えは満濃池のユル抜きの後の6月中旬と決まっていました。つまり春には、阿波の田植えが終わってから讃岐の田植えに,秋には阿波の麦蒔がすんでから讃岐の麦蒔きに出掛けるという時間差があったようです。

 そこで、この間を橋渡しする仲介業者が現れるようになります。

借耕牛取引図3

貸方の阿波農家と,借り方の讃岐農家の間に入って牛の仲介する博労を美馬郡では俗称「といや」、さぬきでは「ばくろ」と呼んでいました。「といや」が中に立って牛を連れて行く場所と日時を決めます。
それが讃岐側の塩江の岩部、まんのう町の美合や塩入、財田の戸川でした。そこに借り手と貸し手と牛が集まってきます。ここで仲介人が借賃についての条件を相方に話し、納得の上で讃岐側の借主が牛をつれて帰りました。

5借耕牛 写真 syuugou jpg
  このような光景が、まんのう町の塩入や美合でも見られたのです。

山田竹系「高松今昔こぼれ話」(S43年発行)には、塩江の岩部の当時の様子が次のように書かれています。 
 先のとがった管笠をかむって ワラ沓をはいて 上手な牛追いさんは一人で10頭もの牛を追ってきた。第二陣 第三陣 朝も昼も夕方もあとからあとから牛はやってきた
朝 登校の途中でこの牛の群れに出会うと わたしたちは小さい溝を飛び超えて 山手の方に身を避けた 牛の群れが立てた往還のものすごい土ぼこりを 山から吹きおろした青嵐が次々と香東川の清流の中へ消していった
借耕牛 12
 讃岐にやってきた阿波の牛

 岩部(塩江温泉周辺)の里は一ぺんに活気づいた 牛追いさん 受け取り人 世話人(口入れ人) 牛馬商が集まってきて 道も橋も牛と人で一ぱいになった うどん屋も 宿屋も 料理屋も押し合いへし合いで 昼のうちから三味線の音が聞こえ 唄声が流れた
 
借耕牛 美合
美合(まんのう町)に集結した牛たち
借耕牛のせり
競りにかけられる牛たち

 田植えが済んで牛が帰るころは もうかんかん照りの真夏であった 借耕牛は米牛とも呼ばれ 米を何俵ももらって帰ったものだ 塩ざかなを角に掛けた いわゆる「角みやげ」をもらった牛もいる 
 かわいそうに使いぬかれて やせ衰えた牛もいる 讃岐でお産をして可愛い子牛と一しょに帰る牛もいた  
 それらが帰ってしまうと 岩部の里は 一ぺんに静かになって 長い冬がやって来るのであった
どうして阿波からの借耕牛がやってくるようになったのか?

借耕牛 美合落合橋の欄干
美合(まんのう町)の落合橋の欄干
ここには次のような発展段階があるようです。
5借耕牛 発展段階
①江戸時代に、阿波の男達が農繁期に「カルコ」として出稼ぎにやってきていた。
②幕末期に讃岐の砂糖製造が軌道に乗ると、砂糖絞りのための牛の需要が増大した。これには小さな讃岐牛は不適で、大型で力のある阿波牛が適していた。
③「カルコ」たちが牛を連れてやってきて、砂糖絞り車で働き始めた。
 借耕牛以前に「人間の労働力移動(出稼ぎ) → 砂糖牛の移動」という段階があったようです。

明治になって借耕牛が増えたのは、どうしてでしょうか?

借耕牛 増加の背景

次のような背景を研究者は考えているようです。
1 阿波側の藍栽培の衰退
阿波の特産品と云えばでした。しかし、明治34年からの合成藍の輸入で急速に衰退します。その結果、藍輸送用の牛の行き場がなくなります。役牛の「大量失業状態」がやってきます。
 2 代わって明治になって隆盛を極めるのが三好地方の葉煙草です。
葉煙草には、牛堆肥が最良の肥料です。牛肥を得るために、煙草農家は和牛飼育を始めます。こうして三好郡の役牛数は増加します。藍の衰退による「役牛大量失業」と葉煙草のための牛飼育増」という状況が重なります。例えばまんのう町の美合には

煙草作りの牛肥確保のために、讃岐の牛を農閑期に預かっていた

という古老の話が残っています。明治15年頃の話ですが、阿波側は田植えを早く済ませると零細農家の男達もは讃岐へ出稼ぎに行っていたのは、先ほど紹介したとおりです。彼らは牛のいない農家です。そのため田植えが終わって帰る時に、讃岐の雇主の牛を預かって帰り、夏草で牛を飼い堆肥を作って、秋に牛を返すときに自分も働いて帰っていたというのです。牛の飼い賃としては、米・綿・砂糖・煮干しをもらったそうです。
 3 讃岐の農業事情 砂糖・綿花が香川から姿を消すのが明治末。
 藍が衰退したように外国からの輸入で、サトウキビや綿花の栽培も経営が行き詰まります。そこで、綿花や砂糖黍が作られていた土地が再び水田化され、米麦集約栽培の単調な農業経営へ変わって行きます。さらに、満濃池の増築など農業水利の整備で、畑の水田化も進み水田面積が急増します。こうして、牛耕需要は高まります。江戸時代から借耕牛を利用していた家の周辺でも「うちも来年からは、お願いしたい」という声が中継人に寄せられるようになります。

    4 阿波の畜力事情   牛馬の所有率が高い阿波の農家 

借耕牛 阿波の牛馬普及率

上表からは、江戸時代の文化年間(1789~)の阿波の和牛普及率は7~9割で高いことが分かります。特に、ソラの集落では各農家が早くから牛馬のいずれかを買っていました。その背景は、藍による資本蓄積が進んだ明和時期(1770年)に普及率が急増したことがうかがえます。藍バブルで儲けたお金を牛の購入という生産性の向上に着実に投資したようです。
     それに比べて西讃地方の牛普及率はどうでしょうか?

西讃府誌 牛馬普及率

西讃地方の牛馬普及率(西讃府誌

    普及率が高い三野郡でも5割に達していません。平均4割程度で、阿波に比べると牛馬の普及率が半分程度であったことが分かります。この「格差」が牛の移動をもたらした要因のひとつのようです。
  それでは、どのくらいの牛が峠を越えて讃岐に出稼ぎにやってきていたのでしょうか
 
5借耕牛 阿波貸し出し頭数

ここには最盛期の昭和10(1935)年と戦後昭和34(1959)年の三好郡と美馬郡の各村ごとの牛の飼育頭数と貸出牛数が記されています。ここからは次のような事が分かります。
①三好郡と美馬郡でそれぞれ1800頭前後で、合計約3500頭が借耕牛として阿讃の峠を越えていた。
②香川県の美合村や安原村からも借耕牛が出ていた
③三好郡で貸出率が高いのは、三縄・井内谷・箸蔵で7割を越えている
④美馬郡で貸出率が高いのは、端山や一宇でソラに近い村の方が高い傾向が見られる。
 「経済の自由・移動の自由」が保障されるようになった明治になると、借耕牛は急激に増えたようです。そして、戦前直前の1940年頃には毎年約4000頭が阿讃の峠を越えて讃岐にやって来たようです。それは美馬三好両郡で飼育されていた牛の頭数の約半数になるようです。

最盛期の借耕牛の移動を図示化したものです

借耕牛の阿波供給地
借耕牛の移動図

  ここからは、阿波のどの地域からどの峠を越えて、讃岐のどの地域へ借耕牛が貸し出されたかが分かります。そして、次のような牛の移動ルートが見えてきます。
①美馬郡 → 相栗峠→岩部口(高松氏塩江町)
     → 三頭峠→美合(まんのう町)
     → 香川郡 高松平野
②三好郡  →東山峠 →塩入(まんのう町)→綾歌郡
                   →男山峠 →山脇(まんのう町) →仲多度郡
      →箸蔵街道 →財田(三豊市財田町)→三豊郡
 阿波西部の2つの郡から阿讃の峠道を越えた牛たちは、里の宿場に集結し、讃岐の借り手の家に引き取られていきます。

借耕牛 通過峠
(数字は、夏秋の合計)

戦前には約4000前後だったのが,高度経済成長期には約500頭まで激減します。それは耕耘機が現れたからです。いわゆる「農業の機械化」で、水田から牛の姿は消えていきます。

借耕牛のレンタル契約は?

借耕牛借用書2
昭和3(1928)年の借耕牛借用書右部分

借耕牛借用書3
借用契約書左部分
春は6月上旬から7月の半夏(はんげ)の頃まで1ケ月間
秋は11月上旬から12月上旬までの1ケ月間で,
給金として米俵二俵(8斗前後)を背に積んで帰りました。
5借耕牛 賃料の現金化移行写真峠jpg

しかし、上8を見ると分かるように大正時代になると、どの地域でも米から現金に変わっていったことが分かります。貨幣経済が本格的に浸透が、このあたりだったことがうかがえます。
春は1ケ月間,丈夫な牛で最高9,000円~最低4.000円
秋は1ケ月は,丈夫な牛で8,000円弱い牛で約4,000円
借耕牛 レンタル料推移

それでも、手ぶらで帰すのは様にならないので、帰りの牛の弁当として「よまし麦」を牛の荷肩に積むようになったようです。

借耕牛見送り 美合
阿波に帰る牛たちを見送る(まんのう町美合)
  こんな借耕牛の姿が見られたのも1960年頃まででした。農業の機械化が進み耕耘機が登場すると牛耕の時代は終わります。牛たちは田んぼから静かに姿を消しました。そして阿讃の峠を越える牛の姿もなくなったのです。
先ほど紹介した小野蒙古風の「句集 借耕牛」に載せられた句を紹介します  
  借耕牛 青峡下る草鞋ばき
  借耕牛 糶(せ)られつ緑陰に尿太し
  糶る牛 歩かせ値ぎめの指を握りあう
  幾青嶺超え来し牛か澄む瞳して
  牛貸して腰の弁当涼しみ喰う
借耕牛 落合橋

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
2024年6月9日改訂版

"'   
塩の道1
      
 食塩は人間が生活するには欠かせない物ですから、必ずどこかから運び込まれていきます。古代に山深く内陸部に入って行った人たちは、塩を手に入れるために海岸まで下りて来ていたようです。それが後には、海岸から内陸への塩の行商が行われるようになります。
 九州地方では、行商者が背負って内陸ヘ塩がもたらされたようです。やや深い内陸へは、牛馬の背を利用しての運ばれていきました。三陸海岸の塩は、牛馬の背によって北上山脈をこえて北上川流域にもたらされていました。日本海岸からは牛の背によって飛騨、信濃の内陸部へ送られました。そして、その量が多いところでは問屋が発達します。また川を利用した塩の輸送も盛んにおこなわれています。北上川、最上川、信濃川、利根川、富士川、筑後川などは、川口からかなり上流にまで川船が通っています。
それでは阿波の三好地方の人たちは、どのようにして塩を手に入れていたのでしょうか?
阿波西部の三好郡は、讃岐から運び込まれる塩への移存度が古代から高かったようです。塩の移入ルートの踏み跡が、阿讃山脈を越える峠道となっていったようです。そして、吉野川を渡り、落合峠を越えて祖谷へ続いていきます。まさに阿讃を結ぶ「塩の道」です。

4 阿波国絵図     5
 一番右側(東)が大刀野から樫の休場経由で塩入に至るルート

阿波に運び込まれる塩の集積地がまんのう町(旧仲南町)の「塩入(しおいり)」でした。
DSC02547
眼下に見えるのが塩入集落 その向こうが満濃池(樫の休場から)

塩入は、その名の通り讃岐の塩が阿波に運び込まれる入口の役割を果たしていました。江戸時代には、丸亀や坂出の塩田で作られた塩が、讃岐の人夫達によって、この地まで運ばれてきます。そして、塩入の中継ぎ業者の倉庫に保管されます。それを阿波からやって来た人夫が背負たり、牛や馬に載せて、昼間や芝生の塩問屋に運びます。ここからさらにらに吉野川を渡ります、そして、池田や辻や三賀茂などの塩屋にさばかれたようです。さらに、落合峠などの峠越えて祖谷に運び込まれたようです。
 里の塩屋からソラの集落までは、塩はどのようにして運ばれたのでしょうか? 

5塩の道 ぼっか姿
昭和50年代に東祖谷山村落合の老人は、幼いときのことを次のように話しています
「祖谷山に住む人々の味噌・醤油・漬物の材料としての塩は,殆んどすべて讃岐から運ばれた。
落合一落合峠一深淵一桟敷峠一鍛治屋敷一昼間一塩入」
のルートを使って、三好郡三加茂や昼間の仲継店(問屋で卸売を兼ねる)が間に入り,祖谷山の産物と交換した。山の生産物を朝暗いうちから背負うて山を下り,一夜泊って翌日,塩俵をかついで山に帰った。厳冬の折りには山道が凍って氷のためツルツル滑って危険だった。しかし、塩は必要品だから毎年、塩俵を担いで落合に帰った。それは、大正9年に祖谷街道が開通するまで続いた。」
 ソラの人々は塩を、里に買い出しに下りていき、背負って帰っていたようです。春の3月から5月にかけて、味噌や醤油を作るときや、秋から冬に漬物を漬け込むときには大量の塩が必要になります。その際には、ソラの人たちは里の塩屋へ買い出しにいきました。手ぶらで行くのではなく、何かを背負って里に下り、それを売って塩を買うか、または塩屋で物と交換することが多かったようです。そのためにこの時期には、自然と市が立つことになったようです。
塩作りは重労働 海水を運ぶ男たち | ナショナルジオグラフィック日本版サイト
揚浜塩田に塩を汲み上げる

全国では、どんなものが塩と交換されていたのか見てみましょう。
岩手県北上地方では、塩は稗・栗・藁細工などと交換することが多く、秋田県や岩手県北上川流域では米との交換が多かったようです。関東以西では麦・大豆・小豆。木の実・雑穀などに変わっていきます。高知県大栃の農家では、煙草・紙・茶・干藷などと交換している例もあるようです。これらのものを、交換した塩屋が売って金にしたのでしょう。塩と薪・材木などと交換した例も千葉・京都・大分・五島などに見られます。ソラの住人が塩を手に入れるためには、いろいろなものと交換していたことが分かります。背景には、貨幣経済が浸透していなかったという事情があるようです。


 阿波の東部海岸にも製塩地がありましたが、三好地方は瀬戸内海の讃岐の塩の方が輸送に便利だったのと、古代からの「塩の道」が踏襲されてきたようです。「塩の道」は、阿讃の峠道を越えて祖谷地方まで続いていました。ちなみに、祖谷の向こう側の土佐の大栃には、太平洋から塩が運ばれてきていました。祖谷と大栃の間が、瀬戸内海の塩と太平洋の塩との分水嶺だったようです。
5塩の道 大栃


綿も、讃岐から西阿波に運び込まれました。
江戸時代になると西讃地方は綿作地帯になります。
服は畑からできている! −綿花栽培プロジェクトを知る− | 北はりま大学

丸亀藩や多度津藩は、綿花を「讃岐三白」のひとつに育て上げていきます。米の裏作として栽培された綿花の販売先が、塩と同じ阿波の三好地方だったようです。ソラの集落の女達が、讃岐産の綿花をつむぎ、機織機で木綿を織る音が冬になると聞こえるようになります。ほとんどが家庭で使われるもので、商品として流通する物ではなかったようです。寒さの厳しいソラの人たちにとって、木綿は従来の麻に比べると、耐久力にも強く,保温の点でもすぐれたものでした。そのため讃岐綿花の需要は高く、西讃地方から峠道を越えて入って行くようになります。
 阿波で紡績が出来ない頃は糸ではなく綿を、3・4人の人夫が肩に担いで峠道を越えて運びました。綿は 「しの巻」で一丸(ひとまる)は二貫目(7,5㎏)で、これを阿波から出向いた人夫が、一人で6丸(45㎏)ぐらいを背負って峠を越えたようです。これも、ソラの人たちが里に下りてきて買い求めたようです。
Amazon | 手芸わた 巻綿 185g | 手芸わた 通販
綿の「しの巻」

琴南町史には、次のような農家の機織りの話が採集されています。
阿波から嫁入って来た女も、美合で生まれて美合へ嫁入った女も秋の取り入れがすむと必ずおはたの用意をした。お正月までには子ども達の晴れ着も織らなければならないし、年寄りの綿入れも用意しなければと気もそぞろ。
糸はガス糸や紡績糸を買ってきた。
内田の紺屋で染めてきた糸は、祖母ゆずりの縞わりのままに糸の計算をする。木綿糸の縞のはしにはスジ糸(絹糸)を入れると、縞がきわ立って美しい。布をのべる日は、風のない静かな日を選び、四間の戸障子をあけひろげ座敷いっぱいに糸を伸ばして経糸の用意。
四尺ごとにスミをつける、四尺が七ひろあると一反分の布となる。
糸はチキリに巻いてカザリに通すが、カザリロは上手にあけなければならない。
チキリに巻いた糸は機にまきあげて巻く。
オサイレは糸をひとすじずつ通してから固定させる。
アゼをつまむのがむつかしいと言うが、丁寧にやればこともない。
緯糸は、竹のクダに巻いておく。マキフダとも呼ばれる
クダは、おなご竹を十巧打くらいに切り揃え、かわらで絞って水分をぬいておく。このクダに、ただ糸を巻けばいいというのではないのだ。ツムノケで糸をまくのだが上手に巻かないとホゼてくるし、巻きすぎると糸がくずれてしまう。
5塩の道 機織り期jpg

明日は小学校1年生の長女に織らせてみるつもり。器用ものの長女は見ようみまねで上手に糸をあつかうので、きっといい織り手になることだろう。
夜、しまい風呂で長女といっしょに髪を洗う。はたを織り始める日は別に決まった日はないが、髪の汚れをとり、ひとすじの乱れもかいように髪を結いあげた。やや小柄の長女は、機にあがったものの踏み板に足がとどかない。冬でも素足で機は踏むものなので、長女の素足に木の枕を結びつける。母さんもこうやっておはたにあがったの、機を踏みきっていると足はほこほこしてきたものだと、長女をさとす。
 布は、織りはじめがすぼまないように藁を1本人れたが嫁入った家では、織りけじめにシンシをはる。竹の両端に針がついているのが伸子なのだが、一寸ばかり織ってばシンシを少しずつずらして打ちかえる。
 トンカラトンカラ、根気のよい長女は上手に布を織りすすめる。
モメンは一日一反、ジギヌは一日四尺しかのびない。オリコンは、ヒトハ夕で二反分の糸を機に巻き上げて二反続けて織っていた。織りしまいには、カザリの開ヘヒが入らなく々るまで織るのだが、ハタセが短かくなって手まりが出来なくなるのが心配で、早く織りじまいにしようとしても、なかなか織りじまいにはしてもらえかかった。
 師走女に手をさすな という諺のとおり、夜の目もねずにに女は機を織り家族の衣管理を一手に引き受けていた。それでも月のもののときは機にあがらず、糸を巻いたり繰ったりわきの仕事をするのがならいだった。
  お正月がすんでからもハルハタを織った。
縁側などの明るいところで機を織っていると、家のすぐ前の街道が気にとってしようがない。阿波から讃岐へ峠を越えてやってくるデコまわし、とりたててにぎにぎしく来るわけでもないのだけど、気もそぞろに機の糸をさってしまう。
細い糸がうまくつなげないと泣き出しそうになる。
そうこうするうちに、デコまわしの一行は通り過ぎてけってしまった。
徳島 1965-1966(昭和40-41年)]藍とデコ - YouTube
阿波のデコ(人形)まわし(つかい)
昼食になり、機をおりると隣の家の苗床でデコまわしが三番叟(さんばそう)を舞うというのだ。もうお機も昼食も放ったらかして隣家まで、走って行った。苗床や、苗代のまわり、田植えの早苗を束ねる藁などもご祈祷してもらうと、虫がつかず豊かな稔りが約束されていたのだ。こんなことより、年端のゆかない織り子さんにとって、デコ使いが珍らしくて仕方がなかった。
                                        北条令子 旧琴南町の峠の集落で採集

ここからは「正月の子ども達の晴れ着」や「年寄りの綿入」も、家で織っていたことが分かります。その糸は里の「内田の紺屋」染めてきた糸です。横糸と縦糸を用意し、丹念に思いを込めて織られていたことが伝わってきます。美しい物語だと思います。
 また、徳島からはデコまわしがやって来て三番叟(さんばそう)を門付けしていたことも分かります。阿讃国境の峠は、明治になると阿波の人形浄瑠璃の一段が讃岐の村々での公演のために、越えていくことが多くなります。始めて見る阿波の人形浄瑠璃に讃岐人は、心を奪われたようです。自分たちで素人歌舞伎団を結成して、村祭りなどで披露するようになったことは以前に、お話ししました。モノと人と文化が峠を越えていきました。そして牛も峠を越えるようになります。次回は借耕牛について・・
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
福井好行 峠道利用の阿讃交渉関係序説
北条令子 琴南町の民話 琴南町史
関連記事

       
DSC02494
                            
   金毘羅からの帰りに、狼に食われた男
 東山では明治の中頃まで、節季になると琴平へ正月の買い物にいき、めざしや塩鮭、昆布、下駄などを天秤棒にぶらさげて帰ってきたものです。ある年の暮、数名の者が讃岐の塩入部落まで帰ってくると日はとっぷりくれたし、寒さは寒いし腹はへる。そこで一軒のうどん屋に立ち寄って、うどんや酒でしばらく休みました。そのうちの一人が「わしは一足お先に」と帰りを急ぎます。残った者はよい気持ちで、いろいろ話に花をさかせながら遅れてその後を追いました。
 阿讃国境の松の並木道を左右にたどりながら、男山部落の峰のお伊勢さんの祠のあたりに来ると、暗闇ながら数間先に幾匹かの狼が音を立てて何かを食っている気配がします。一行は驚きます。
 「あれは五郎でないか」、一人は「ちよっと待ってくれ」といいながら滝久部落のよく見える峠へ走りでて、「五郎が食われているぞ」と声を限りに叫びます。急を聞いて村人が猟銃を下げて駆け上がってきて、火縄銃でねらいますが、狼はそれらの頭をけって飛び交い、だれ一人仕留めるはできません。人々が慌てふためくなか、狼は一匹去り二匹去りどこかへ姿を消してしまいました。
 後には一片の遺骸と五郎の天秤棒の荷物が残っていました。残骸を集めてもち帰り丁寧に葬りましたが、間もなくその墓は掘り返され悉く食われてしまいます。
DSC02506

 五郎は神社の周りに畑をもっていて、祭りの時に踏み荒らされるからと何時も祭りの前日に濃い下肥を撒き散らしていました。里人は神罰だと語り合ったそうです。男山を越える峠には、少し畑があってそのあたりに狼がよく出るといっていたそうです。 
(大西ウメさん談)
DSC02513

●男山集落の「しばおり神様(いおりさん)」
 東山の男山にある新田神社の境内に、いおりさんが祀られています。その世話を古くから大谷家が行ってきました。大谷家は新田義貞の一族で、足利氏との戦いに敗れこの地にやってきたと伝えられます。密かに南朝と連絡をとり再起を計っていたようです。ある日、京都から密書を持っていおりさんという武士が大谷家にやってきます。大谷家では盛大にもてなしますが、この密書には、この書をもってきたいおりさんを必ず切捨てるようにと書き添えてあったのです。いおりさんは字が読めず、密書にそんなことが書いてあるのを知らないで届けたようです。
 命令とはいえはるばる京都から密書を持ってきたいおりさんを哀れみ、柴を折りそこへ丁寧に葬むり、祠を建てしばおり神様として祀ります。さらに、男山の新田神社の境内にもいおりさんとして祀ったと云います。
 しばおり神様は、旅の疲れをいやすため、しばを折りそれを祀ると元気になるといわれ県道丸亀線の脇にある祠には、讃岐に向かう旅人が供えたしばが絶えなかったそうです。 (町史編集委員会資料集)
DSC02495

●新田神社の話

 戦前まで男山の新田神社では、毎年盆の28日には青年団主催による演芸会や踊りなどを楽しんでいました。その頃は音頭が盛んで、音頭だしなどたくさんいて一晩中語り明かしたそうです。
 ある年、音頭中で仇討ちの場面を語った時、本殿がガタガタゆれ稲妻が光り、雷が落ちたような大きい音がしました。人々は真っ青になり、泣き出したり大人にすがりつく子供もいた。これはきっと新田さんのお怒りに違いない、これからはこんな音頭は語らないようにしようと新田さんにあやまります。新田氏は足利氏との戦いに敗れ、この地に逃れ滅んでいきました。そして、勝負事はきらいな神様で、祭りなどでも勝負事はしないようにしたそうです。

参考文献
 東山の歴史

DSC02527
東三好町のソラの集落 男山 
 
東三好町の旧東山村には、讃岐山脈から北に張り出した尾根に多くのソラの集落が散在します。このソラの住人たちの生活圏は、車道が整備されるまでは讃岐に属していたようです。吉野川筋の昼間へ下りていくよりは、讃岐との往来の方が多かったと云います。その理由は
①小川谷に沿って昼間へ出る道が整備されていなかったこと
②金毘羅(琴平)が商業的・文化的にも進んでいだこと
そのため阿波藩の所領ですが、経済的には讃岐、特に「天領で自由都市」である金毘羅さん(琴平)との結びつきの方が強かったようです。東山から金毘羅への道は、次のようなルートがありました。
4 阿波国図     5
①内野から法市・笠栂を経て樫の休場(二本杉)から塩入へ
②葛龍から水谷・樫の休場(二本杉)を経て塩入へ
③貞安・光清から男山峰を越えて、尾野瀬山を経て春日へ。
④差山(指出・登尾山)を越えて石仏越で箸蔵街道と合流して財田へ。
⑤滝久保からは峰伝いに塩入や財田へ
4 阿波国図 15

 どの道も塩入や財田経て、金毘羅さんへ続きます。「四国の道は、金毘羅さんに続く」の通り、金毘羅さんを起点に、次の目的地をめざしたのです。
金毘羅ほどの賑わいのある町は、吉野川沿いにはありませんでした。
品物も豊富で、金毘羅さんの阿波街道の入口には「阿波町」が形成され、阿波出身の商人達がいろいろな店を出していました。贔屓の店が、ここにあったのです。また。山仕事に必要な道具を扱う鍛冶屋、鋸屋など職人の町でもありました。ここには阿波の人たちによって鳥居が奉納され、大勢の阿波の人達が金毘羅参詣を兼ねて訪れました。東山では明治の中頃まで、年末になると金毘羅の阿波町へ正月の買い物にいき、めざしや塩鮭、昆布、下駄などを天秤棒にぶらさげて、日の明るい内に帰ってきたと伝えられます。
DSC02495
男山集落

 阿讃越の峠道は、ソラの集落の尾根を登って峰を越えていく山道でした。
尾根道は、最短距離を行く道で、迷うことも少なく、雪に埋まることも少なかったようです。今でも讃岐山脈の県境尾根の道は広く、しっかりしていて快適な縦走路です。この道を、当時の人たちは、荷物を背負ったり、前後に振り分け玉屑に加けたり、天秤棒にぶら下げて運んだりしたようです。
DSC02447

 天に近いほど、山の頂上に近いほど、金毘羅にも近いことになります。
つまり、奥地ほど讃岐に近いく便利だったのす。その結果、奥へ奥へと開墾・開発は進められます。それは当時のソラの集落の重要所品作物が煙草であったことも関係します。
タバコの葉っぱ<> | 萩市の地ブログ

煙草は気象の関係から、高いところで栽培された物ほど高く売れたようです。これは髙地の畑作開墾熱を高め、そこへの開墾移住熱をも高めました。そのため、葛龍の奥にもなお人家があり、男山の奥にも「二本栗」・「にのご」と集落が開かれていったようです。
 葛尾の集落が街道沿いの集落として、明治までは繁昌していた様子が、残された屋敷跡や立派な石垣からうかがえます。これは、讃岐への交通の要に位置していたからでしょう。
DSC02478

    男山から昼間への道 打越越えの開通は? 
 昼間の奥の男山は、讃岐に経済的には近かったこと。その要因として、徳島側への道が整備されていなかったことを挙げました。徳島側の拠点となる昼間から東山中心部への往来は、谷と険しい峰に阻まれており、谷に沿って、何回も何回も谷を渡り、河原を歩かなければならなかったようです。 この川沿いの悪路を避けて、尾根沿いに新たな新道が開かれたのは、いつのことなのでしょうか。
それは案外遅く、幕末になってからのようです。
 教法寺の過去帳には、弘化三年(1846)10月24日から11月2日にかけて昼間村地神から東山村貞安小見橋間の道普譜が行われた際の次のような動員文書があります。

 昼間村地神より東山村貞安小見橋まで道お造りなされ候、東山村より人夫千人百人程出掛ヤ御郡代より御配り候て道作り候。普請中裁判人、与頭庄屋助役佐々水漉七郎・西昼間庄屋高木政之進・五人与甚左衛門・福田利喜右衛門・嘉十郎・東山中野右衛門・恭左衛門他に三、四人裁判の由にて、霜月の二日に道造直し、御郡代三間勝蔵殿十月二十七日に御見分担戊申事。
意訳すると
 昼間村の地神から東山村貞安小見橋まで、道を作るときに、東山村より人夫1100人程が郡代の命で動員され道作りに参加した普請の裁判人は、与頭庄屋助役佐々水漉七郎・西昼間庄屋高木政之進・五人与甚左衛門・福田利喜右衛門・嘉十郎・東山中野右衛門・恭左衛門の他に三、四人裁判したようで、霜月の2日に道を点検し、郡代三間勝蔵殿が10月27日に御見した。

文中の「裁判」は、人夫を指揮監督することだそうです。この文書からは、郡代による大規模な工事が行われたことが分かります。この工事が新設か改修かは、文書からは分かりませんが、「状況証拠」から新設に近いものであったと研究者は考えているようです。昼間の地神さんを起点として打越を越え、内野までの尾根沿いの安全な道が、幕末になってやっと確保されたのです。

DSC02539
 
こうして樫の休場越は、それまでの阿波の三加茂・芝生・足代方面からのルートに加えて、
昼間 → 打越峠 → 男山 → 葛籠 → 樫の休場

という新ルートが加えられ、ますます利用者が増えます。讃岐側では
「塩入 → 春日(七箇村) → 岸上 → 五条」 

を経て金毘羅阿波町に至るので。七箇村経由金毘羅参拝阿波街道とも呼ばれるようになります。
 明治になると「移動の自由」「経済活動の自由」が保証され、人とモノの動きは活発化します。
讃岐の塩や鮮魚・海産物などと、阿波の薪炭・煙草・黍などとの取引が盛んに行われるようになります。特に煙草・藍などの阿波の特産物が盛んに讃岐に入るようになり、また借耕牛の行き来も盛んになります。
DSC02547
樫の休場から望む満濃池 手前が塩入集落

 こうして、樫の休場では、二軒の茶屋が営業をはじめるようになります。讃岐側の塩入は、塩や物産の中継基地といて賑わいを見せるようになり、うどん屋や旅人宿ができ宿場化していきます。明治年代の地形図からは、街道沿いに街並みが形成されているのが分かります。
DSC02541

東山峠越の新道建設へ
 このような背景を受けて、以前にお話ししたように明治28年(1895)ごろから塩入と阿波の男山を結ぶ新たな里道工事が始まるのです。この工事の際に、里道(車道)としては、男山まで道路改修が進んでいました。そこで、峠はその上部に作られることになります。これが現在の東山峠の切通です。阿讃の物資は大八車で、東山峠で行き交うようになります。その結果、樫の休場越は次第に寂れていきます。
DSC02461
東山峠の切通 ここで阿波の里道と讃岐からの里道は結ばれた
 
   ソラの集落への「猫車道」の開設は
 大正初期に書かれた『東山の歴史』に、ソラの集落への道路開設の様子がどのように進められたかを見ていきましょう。。
   葛籠線 
DSC02500

葛籠は男山から樫の休場への途中にある集落です。
それまでの道は、男山谷に沿って入っていくので大変険悪だったようです。また、谷を9回も渡らなければならないので、洪水の時には男山峰からの迂回路を取るか、危険を冒して「引綱」を頼りに渡るしかなかったと云われます。
 明治33年(1900)に、幅六尺(約180㎝)の新道建設が始まり、東山の各部落から夫役の無償供与を受けて完成しています。猫車を押して通れるようになったのでこれを「猫車道」と呼んだようです。
DSC02504


 男山線 
男山新道は、男山西浦から始まって二本栗でで塩入線に接続します。大正元年(1912)に起工し大正四年に完成しています。これも各部落からの夫役寄付で工事が行われました。当時は、半額が国・県負担で、残りの半額は「地元負担」でした。そのため自分たちの道は、自分たちで作るという気概がリーダー達にないと、造れるものではありませんでした。
 このように明治末から大正初年の新道開設は、ようやく普及し始めた猫車による運搬に対応するためのものだったようです。それが戦後まで利用されます。

DSC02513
 戦後の高度経済成長が始まると「軽四トラック」が里の村には走り始めます。
そのため、ソラの集落も軽四トラックが通れるように道を広げることが悲願となります。この時代になると国や県も山間部の道路整備にも補助金を出すようになっていました。こうして各部落の道路が改良・整備され、農家の庭先に軽トラックの姿が見られるようになります。
 そうなると買い出しは、トラックで昼間のスーパーに行った方が便利になります。しかし、今でも東山の人たちは讃岐との関係を持ち続けて生活している人が多いようです。
以上、最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
 三好町史 民俗編309P   讃岐への道

                                                                                       
前回は一遍が「死出の旅」として、伊予大三島から讃岐を経て阿波へ抜けたことをお話ししました。その際に、使ったと考えられる讃岐山脈を越える峠道を挙げました。これについて、もう少し詳しく知りたいとのリクエストをいただきました。そこで、今回は大川山から猪ノ鼻峠まで間の峠道に焦点を絞って、紹介したいと思います。

DSC02463
東山峠

1.明治になって開かれた東山峠
 このエリアの幹線道路は、丸亀=三好線(県道4号線)です。このルートは、まんのう町塩入から東山峠へ至る道です。明治に香川の七箇村と徳島の昼間村が協議し、双方から新道を建設し東山峠で結ぶことで完成しました。明治39年に全線が開通し、これにより塩入と撫養街道分岐の昼間村が新道で結ばれました。明治42年の国土地理院の地形図には、幅3m以上の車道として記載されています。
 このルートは先行する財田・阿波池田を結ぶ猪ノ鼻峠ルート(四国新道)への対抗策として計画された側面があります。そして、その期待に昭和初期に土讃線が開通するまでは十分に応えていたようです。

「祖谷や井内谷の人は辻の渡しを渡ってこの道を通り、塩入部落を経て琴平へ行きました。借耕牛も通り、讃岐の米や塩が馬やネコ車で運ばれてきていました。」

と内野集落の老人(明治36年生)が話した記録が残っています。
 ここから分かることは、東山峠を通過するルートは近代になって作られたルートなのです。

東山峠を通過する新道が作られる前は、どうだったのでしょうか?
幕藩体制が安政化する18世紀になると、幕府は各藩に領域地図の定期的な提出を求めるようになります。提出された地図に基づいて、幕府は各藩の境界を定めていきます。そのために各藩は、国境附近の情勢や街道についても地図に書き込むようになります。
4 阿波国図     5
     吉野川沿いの阿讃山脈の国境ラインと街道が見える

1700年に阿波藩が作成した阿波国絵図で阿讃国境と峠道を見てみましょう。
4 阿波国絵図     1700年

大川山から現在の国道32号線が通過する猪ノ鼻峠までの間には3本の峠道が描かれています。拡大してみます。
4 阿波国絵図 拡大

①~③の峠と、その説明文を見てみます。
①樫休場  大刀野村ヨリ讃岐国塩入村  牛馬通
②差土越  昼間村ヨリ 讃岐国山脇村  牛馬
③石仏越  東山ヨリ  讃岐国財田上村 牛馬通
記載されているルートを推定してみます。
①は 現在の三好市三野町芝生→大刀野→樫休場→塩入(旧仲南町)
②は 現在の東三好町昼間→ 東山→差土越 → 山脇(旧仲南中)
③は 現在の東三好町東山→(箸蔵街道と合流)→石仏 →三豊市財田町上ノ村
ここには、東山峠越のルートはありません。18世紀初頭においては、東山峠ルートは主要街道ではなかったことが分かります。次に地図に描かれている①~③の峠道を見ていきます。

①の樫の休場への道
4 樫の休場 東山峠俯瞰図

 樫の休場(標高 850m)は、東三好町(旧三好町)、三好市三野町、まんのう町(旧仲南町)の3町にまたがる峠で、「さぬき街道」とよばれた交通の要所でした。讃岐側からは二本杉越と呼ばれています。讃岐側の里から見ると、稜線に大きな2本の杉が立っているように見えるからです。実際には、もっと本数はあるのですが・・。
 この峠は、明治中期に丸亀三好線が東山峠で結ばれるまでは、幹線ルートとして使用されていたようです。この峠に至るには、阿波側からは
①三好市三野町の芝生→ 山口―中屋―笠栂―寒風― 樫の休場 ― 塩入がメインルートで、
②昼間からは男山集落手前で葛籠方面へ分岐し、寒風(樫の休場の南1km にある峠)を経て樫の休み場に至る道もありました。
江戸時代は昼間からの人々も、このルートを利用者する人が多かったようです。三野町や三加茂町の人々が讃岐へ出る道として利用し、ここには茶屋も2軒あったと伝えられます。しかし、昭和4年に土讃線が開通してからは、峠の往来は少くなりました。

4 樫の休場

ここからは、讃岐方面の展望が開け、満濃池の向こうにおむすび型で甘南備山の讃岐富士がぽつんと見えます。ここから讃岐方面へ下ると深い谷に囲まれた塩入集落です。
阿波への塩の集積地だった塩入
 塩入は、讃岐の塩が阿波に運ばれる際の重要な中継基地でした。江戸時代には、ここまでは讃岐の人夫が馬などでここまで運んできて中継商人の倉に入れます。それを、阿波の人夫が受け取り、次の中継拠点に運びました。「塩入」という地名は、阿波への塩の入口であったことからつけられたといわれています。東山新道が出来る以前には、塩入→樫の休場→打越峠→昼間や網代のルートで結ばれていたようです。例えば昼間に運ばれた塩は、その後は吉野川を渡り、対岸の辻に運ばれ、そこから男達の背に担がれて祖谷の奥まで、讃岐の塩が運ばれて行ったようです。塩は昔から生活に欠かすことのできない必需品でした。それは、江戸時代よりも古くからあった讃岐と阿波を結ぶ「塩の道」だったようです。
  樫の休場について地元の古老は、戦後の聞き取り調査の際に次のような話を残しています。
借耕牛の道として利用され、讃岐の米や塩がこの峠を越えて運ばれてきました。また琴平や丸亀へ嫁入りする人を見送ったり、善通寺へ入隊する兵士を見送った峠でもありました。三好町の人は、峠の北東4km にある大川神社へ参拝するときにも通りました。」

 
4 樫の休場 ru-tozu

  この街道をしのぶものとして、笠栂と樫の休場の間には次の2体の石仏が残っているようです。
○不動尊
 笠栂から寒風に向けての稜線上に標高 810m地点に建っています。舟形の浮し彫りで、像高は 108cm。台石に「文化元年足代邑 昼間村講中」とあるので、足代と昼間両村の人々が講を組織して建てたことが分かります。ここからも、ふもとの足代や昼間の集落の人々が、葛籠経由のこのルートを使っていたことがうかがえます。
○水谷の地蔵尊
 男山を経て葛籠からの街道で合流する地点の中蓮寺峯(標高 929.9m)の東斜面の道路沿いに座っています。樫の休場からは500m南西の杉林の中です。ここにも土讃線開通直後の昭和10年頃までは庵があって人が住んでいたといいます。今はブロック囲いの小さなお堂の中に、かなり風化した地蔵尊(像高 30cm)がポツンと祀られています。世話をする人はいるのでしょう、いつも奇麗な服を着せてもらっています。お堂の横の古い手洗い石には「明和四(1768)年寅十月廿四日」と刻まれてあったそうです。



③ 石仏越 
4 石仏越

 ③の石仏越は箸蔵街道とは別のルートになります。
現在のサーキットのある東三好町男山の柳沢、増川から馬除を経て池田町境の尾根を登るルートです。後にこのルートに、新たに箸蔵寺からの街道がドッキングされます。
071117karikousi

 二軒茶屋という地名は、昔ここに大国屋や福島屋という二軒の宿屋があって旅人に宿泊や茶の接待をしていたことからついた名前だと云います。この峠の阿波側には金比羅宮の奥の院と称する箸蔵寺があり、街道はこのお寺の参道として整備されました。この周辺は修験者(山伏)の密集地で、江戸時代中期以後になって、彼らによって箸蔵寺は頭角を現すようになります。その広報戦略は
①金毘羅さんの奥の院
②金毘羅との両詣り
で、金比羅宮に参詣した人を「両詣り」で勧誘する方法です。先達達(山伏)も街道を整備したり、参拝客を箸蔵寺に勧誘しました。また、箸蔵寺にはこの街道を行き交う旅人に対して、無量で宿泊所を提供したので、ここに停まって翌日金比羅詣でを行う人も阿波の人たちの中には多かったようです。そのため阿波の人たちは、この街道を「箸蔵街道」とも呼ぶようになります。箸蔵寺を通過する「箸蔵街道」が整備されるのは、案外遅いようで江戸時代後半になってからです。

4 阿波国絵図     5
 
 先ほど見た1700年に阿波藩が作成した阿波国絵図にも、箸蔵街道はありません。あるのは③の男山から石仏越のルートです。

このルートに、箸蔵寺からの道が二軒茶屋付近で合流する形で、付け加えられます。そして、次第に③のルートよりも箸蔵街道を利用する人たちの方が多くなって③のルートは廃れ、「箸蔵街道」にとって代わられたのではないかと私は考えています。

 箸蔵街道も、明治27年に財田の大久保諶之丞が計画した四国新道が猪ノ鼻峠を通過するまでは、毎日多くの人々が行き交いました。特に阿波池田方面の人々の利用が多かったようですです。
箸蔵街道(香川県、四国の信仰古道を辿る) | 世界日本の景色

二軒茶屋から土讃線財田駅への下口にある石仏までの間には、箸蔵への距離を刻んだ次の3基の丁石が残っています。
1 五十七丁 阿州西井ノ内谷段地名氏子
2 六十一丁 阿州三好郡加茂村 萩原藤右ヱ門
3 六十五丁 東豫中之庄 大西彦三良

 箸蔵街道も明治の四国新道の建設と、昭和の初めの土讃線の開通で大きく姿を変えます。利用者は激減し、二軒あった茶屋も姿を消します。しかし、このルートは信仰の道として信者によってしっかりと整備された道なので、今も十分に利用可能です。財田駅に車を止めて、二軒茶屋を越えて、箸蔵寺に参拝し、ロープウエイで箸蔵駅の直ぐ上にまで下りて、土讃線で帰ってくるとというのが定番でした。ところが・・いまは土讃線の便数が減って、帰ってくる普通列車がなくなってしまいました。急行の南風は通過してしまいます。どうしたらいいものやら・・・

以上紹介した東山峠・樫の休場・二軒茶屋はよく知られたルートです。しかし、旧東山村の『東山の歴史』(大正5年編纂)にはもう一つのルートが示されています。
4 阿波国絵図 拡大

②の差出の地蔵越への道
「東山の歴史」には、「風光絶佳なること、我昼間村第一」として「差出山」(標高887.3m)が紹介されています。しかし、この山は私にとっては始めて耳にする山でした。もちろん手持ちの古い国土地理院の地図にも名前は入っていません。しかし、グーグルで検索してみると標高が同じ山があります。「登尾山(のぼりおやま)887.3m」です。尾野瀬山分岐点より西の県境尾根にあります。

標高が同じなので「差出山」(標高887.3m)=「登尾山(のぼりおやま)887.3m」であることが分かります。グーグルは、運用開始時は山関係では役に立つことはなかったのですが、多くの人が山名や地名を補足して、役立つツールに成長してきたようです。
 「東山の歴史」には、次のように紹介されています。
「維新前までは香川県へ通ずる要路に当りしが、今は近路として通過するに過ぎざれば道路の甚だしく荒廃せんとするは惜しむべきなり。」

大正の時代に、すでに忘れ去られようとしていたルートのようです。
 この峠道は阿讃サーキットの貞安や滝久保、石木集落方面の人々が香川県の財田、琴平方面へ出るときに利用していたようです。琴平まで日帰りで用事や買物に出掛けたと云います。貞安からの尾根を詰めれば、この山の山頂に立てます。確かに「風光絶佳なること、我昼間村第一」かもしれません。特に讃岐方面の展望がいいのです。
 この頂から県境尾根を西に行けば、箸蔵街道と合流して財田方面にでることができます。東に辿れば、中世の山岳寺院があった尾の瀬神社への分岐点があり、尾野瀬神社を経てまんのう町(旧仲南町)春日に至ります。春日で東山峠からの三好=丸亀線と合流します。そこからは金毘羅さんへは一里半ほどになります。
この街道については、貞安の老人は次のような話を残しています。
 「財田との縁組も多く、借耕牛も沢山通りました。財田の香川熊一さんや滝久保の木下常一さんが博労をしていて、牛の貸借の仲介をしていました。戦後耕運機が入るまで、借耕牛の行き来は続きました。」

 財田方面への借耕牛が数多く通った道のようです。
 貞安から差出越までの峠道には、4体の石仏が残っているようです。
○差出越の地蔵尊
 峠には2体の地蔵尊が祀られています。道路から向かって右は像高37cmで「文化十三年十月吉日」、左は像高 43cm で「明治十九年十二月吉日」の銘があります。2体ともに「棟木」の地名が刻まれています。棟木(現 東山字棟木)の人々が、この道を利用していたことが分かります。
○ヤマンソの地蔵尊
 峠の南東 1,5kmの展望の良い尾根上にいらしゃいます。像高 88cm「三界萬霊  安政三辰二月吉日 施主東山村中 世話人貞安大西高助 内野丹蔵」の銘があります。
○ハチベの不動尊
 峠の南東 500m の松の大木の下にあり、像高は 44.5cm。造立の年代は不明で、昔讃岐へ行くときここに刀を隠しておいたという話が残っているそうです。

 一遍時衆がどのルートで、善通寺から阿波へ抜けていったかという点に話を戻します
以上から私は次のように想像しています。
①善通寺から金倉川沿いに歩みを勧めた一行は、塩入に入ります。ここで一泊。
②翌日に、財田川の源流を遡って樫の休場に登っていきます。
③そして、葛籠・男山を経由して昼間に入ります。昼間に時宗の末寺が後世に作られたことは、なんらかの由縁が、この時にあったと無理矢理想像します。
④吉野川を祖谷への塩を渡す渡し船で右岸(南岸)の辻へ渡ります。
⑤吉野川右岸を東に向かって遊行中にメンバーの尼僧が亡くなります。
⑥この間、メンバーの追放や布教活動の乱れなどから、彼らを取り巻く状況は悪くなっていきます。
⑦9日後の6月1日に、鴨島で一遍発病
というストーリーです。
以上、最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献
○東山の歴史(大正5年編)
○三好町誌

3 一遍時衆 銅像

正応元(1288)年、五十歳になった一遍は生まれ故郷の伊予に帰って岩屋寺、繁多寺など巡礼した後に、大三島で年を越しています。
  大三島の大山祇神社は、一遍の出自の豪族河野氏の氏社です。聖絵では、壇ノ浦の戦いで活躍した一遍の祖父河野通信が厚く信仰したことが語られています。また、一遍の信仰は神と仏とを合わせて信じる雑修信仰だった云われます。
  とことはに南無阿弥陀仏ととなふれば なもあみだぶにむまれこそすれ

という神詠によく現れています。熊野神と八幡神に結縁した一遍にとって、氏神でもある大山祇神社の懐は、居心地のいいところだったのかもしれません。聖絵によれば、一遍は大三島で神官と地頭に「殺生禁戒」を誓わせたといいます。一遍の布教スタイルといえば、
(1)遊行、(2)踊り念仏、(3)賦算(念仏札配り)

です。が、法然が唱えた専修念仏からは少し離れ、仏教の戒律も重視していたことがうかがえます。同時に、大三島の支配者層の帰依を受けていたことも分かります。
3 一遍時衆 踊り念仏1
時衆の踊り念仏とそれを見守る庶民達

   冬を大三島で過ごし、翌年正応二年の春が来ると、一遍時衆は動き始めます。
「時宗」という語は江戸時代以後のもので、それまでは、一遍に従う僧尼たちは「時衆」と呼ばれていました。ここでは、彼ら一行を「時衆」と呼ぶことにします。
絵巻『一遍聖絵』は、念仏勧進のための諸国遊行の旅の様子が描かれています。その中には遊行先での賦算(ふさん。お札を配ること)や踊り念仏をする様子と見物人たちが描かれています。
3 一遍時衆 遊行布教jpg
  賦算(ふさん。お札を配ること)の様子

また、周囲の風俗や各地の名所が写実的に詳しく描かれていて、今日では高い評価がされているようです。
『一遍聖絵』巻十一には、死出の旅となった讃岐から阿波への遊行が次のように記されています。
正応二年、讃岐国にこえて善通寺曼陀羅寺巡礼し給ひて、阿波国にうつり給ふ。聖いかゞおもひ給ひけむ、
「機縁すでにうすくなり、人教誠をもちゐず、生涯いくばくならず、死期ちかきにあり」との給ひけるを、人々あやしみおもひけるに、いくほどなくして大鳥の里河辺といふところにて、六月一日より心神例に違し、寝食つねならずおはしましけるに、
おもふことみなつきはてぬうしと見しよをばさながら秋のはつかぜ
この詠につきて時衆ならびに参詣の人々もいよいよ、心ぼそくぞおぼえける。
七月のはじめに阿波の国をたちて淡路の福良にうつり給ふ。
ここからは1289年の春に、大三島を出発し、讃岐に入り善通寺や曼陀羅寺を巡礼しています。香川県史には、この際に宇多津の郷照寺を拠点に布教活動を展開し、この時の踊念仏が、後の雨乞い念仏踊りになったのではないかと記します。しかし、それも1ヶ月足らずの期間であったようです。
6月1日は阿波の国へと移動していたことが分かります。阿波入りして間もなく
「機縁すでにうすくなり、人教誠をもちゐず、生涯いくばくならず、死期ちかきにあり」

と、布教活動かうまく行かず、一行の中から離脱する弟子たちも現れたことがうかがえます。死の近いことを予言します。
 そして、「大鳥の里河辺」という所で6月1日に、ついに心神違例となり、寝食が異常となったようです。その後、阿波を発ち淡路に向けて出発するのが7月初めです。約1ヶ月近く病気療養のために、大鳥の里河辺に留まったようです。

3 一遍時衆 遊行地図
 
それでは一遍が発病し1ヶ月を過ごした「阿波の大鳥の里河辺」はどこなのでしょうか?  
 そのルートについて、ある研究者は次のように推測します。

四国遍路の巡礼道をたどって一遍は、讃岐から阿波入りしたと考えられる。当時は一般旅人の通った道は讃岐大川郡の白鳥引田町から大坂越をして阿波吉野川平野に出る道しかなかったのではあるまいか。そうだとすると大鳥の里河辺は吉野川河口のデルタ地帯の小集落であったのだろう」

この説に従うと、淡路に向かうためには鳴門に至る撫養街道に出なければなりません。そうすると使ったルートして、考えられるのは次の3つです。
① 四国辺路を辿って、善通寺・曼陀羅寺から海岸づたいに、JR高徳線にそって白峰寺、屋島寺、志度寺などを巡礼し、長尾寺から内陸に入り、現在の結願寺の大窪寺経て、10番切幡寺
② ①と志度寺までは同じで、その後は海沿いに白鳥・引田を経て大坂峠を越える旧南海道
③ 一番最短なのは、善通寺から南海道を東に一直線に進み大坂峠越え
88番から1番への道 | 四国八十八ヶ所遍路 | 趣味人倶楽部(しゅみーとくらぶ)

中世の旅人達が最も使用していたのは、③大坂峠越の南海道です。源平合戦の屋島・壇ノ浦の戦いの際にも、義経は、最短のこのルートで屋島を目指しています。いわゆる主要街道です。
 しかし、一遍にとって急ぐ旅ではありません。いろいろな聖地・霊山を経ながらの布教の旅です。③のルートを使う必要はなかったように思えます。聖地巡礼の四国辺路ルートに、こだわるなら①の大窪寺経由の現県道2号線沿いになります。

3 一遍時衆 遊行図6jpg
遊行する一遍時衆たち 尼僧の姿も見えます

次に「阿波の大鳥の里河辺」が、どこなのかについて
「撫養街道周辺 + 吉野川河口」という条件を入れて検索すると、候補に挙がってくるのが「鴨島町敷地の河辺寺跡」のようです。
その説明版には次のように記されています。
徳島県指定史跡河辺寺跡 指定年月日 昭和40年2月5日
所在地 麻植郡鴨島町敷地字宮北四二六、四二七、四二八番地
平安時代の寺跡と推定せられているもので礎石17個が露出している。昭和29年12月に耕作者佐藤一氏により発掘されたもので、多数の出土品は現在県博物館に保存されている。阿波誌によると河辺寺は往時、七堂伽藍の名刹なりしが、天正の頃兵火にかかり、再建に至らずして廃寺となり、
寺跡に小庵を建立し遺跡の石地蔵とまつり今日に至る。
3 一遍時衆 阿波鴨島河辺寺跡g

大正11年10月刊『麻植郡誌』には、かつてここに河辺八幡神社があったが、明治42年敷地村の神社合併により新たに敷島神社を建立し合祀したので廃社になったとあります。
昭和39年2月刊『鴨島町誌』には、次のようにあります。

「古くから敷地にこうべ寺(河辺寺)という寺があったと伝えられるが、それを立証する物的証拠はなかった。昭和29年敷地字宮の北の畑地を発掘調査し17箇の礎石を発見、その配置ならびに出土した瓦の中に平安時代前期の弘仁、貞観のころのものもあることなどによりこうべ寺跡であることが確認された。時代考証の結果、およそ平安中期に創建されたものであろうということになった。」

 河辺寺は土地の人々はコウベジと呼んでいて、「神戸寺」と書いたようです。しかし寺址の南西約50mの所に河辺八幡宮跡と刻した石碑が立ち、寺址のすぐ南下に河辺庵があって河辺寺の後を継ぐというから、河辺寺と書くのが正しいのではないかと研究者は考えているようです。
3 一遍時衆 全てを捨てて踊れ2

 以上から、確かに鴨島町に河辺寺という寺があったことは確認できます。これがはたして『聖絵』巻十一にいう一遍が発病した「大鳥の里河辺といふところ」なのでしょうか。河辺寺という寺がここにあったということは、この辺が河辺と呼ばれていたことは考えられます。ここ以外に阿波では「大鳥の里河辺」という所は見つからないようです。一応、現時点では一遍が正応二年六月一日に心神違例となった場所は、この敷地河辺としておきましょう。

3 一遍時衆 遊行図4jpg

 それなら、なぜ一遍時衆はこの地を訪れたのでしょうか?
敷地の丘を越えた谷筋には、四国十一番札所の藤井寺があります。いまは臨済宗妙心寺派ですが、天正年間の兵乱で焼失する以前は真言宗で、真言密教の道場として栄えたとされます。 一遍は藤井寺に向かおうとする途中の河辺寺で発病したのかもしれません。
3 一遍時衆 往古過去帳g
『往古過去帳』

一遍の阿波遊行については『往古過去帳』尼衆にも、重要なことが記されているようです。
  『往古過去帳』は、代々の遊行上人が持参してきた過去帳で「僧衆」「尼衆」の2帖があります。一遍以来の上人たちが諸国遊行に持って歩き、遊行途上で死亡した僧尼の法名を真筆で書き継いだものです。弘安2年(1279)6月の一遍在世中に、二祖真教の筆で始まり、30代有三が遊行を相続した永禄6年(1563)まで、285年間で12000近くの霊数が記されています。後代には信者の法名も記入されるようになり、これを「お過去帳入り」と称して、浄土往生の証と考えられるようになります。この中に次のような事項があります。

正応二(1289)年五月廿二日 賀茂阿波国 南仏房

これは一遍のひきいる時衆の一群が、正応2(1289)年5月22日に阿波の賀茂に滞在して、そこで南仏房という尼僧が亡くなったのを真教が往来過去帳に記入したものです。ここからは一遍時衆が5月22日に「賀茂阿波国」にいたことが分かります。
3 一遍時衆 全てを捨てて踊れ

それでは「阿波のの賀茂(加茂)」とはどこなのでしょうか。

賀茂のついた地名を挙げると
①徳島市に加茂名町
②名西郡石井町に加茂野
③吉野川上流の三好郡に三加茂町加茂
の3つが挙がるようです。しかし、南仏房という尼僧が往生した賀茂は、三好郡三加茂町の加茂だと研究者は考えているようです。なぜならば一遍は、6月1日には「大鳥の里河辺」(鴨島町の敷地河辺)にいたからです。5月22日に①や②でいたのでは、吉野川を遡って西に向かう旅をしていたことになります。一遍が向かっていたのは淡路ですから吉野川を下って東に向かっていたと考えなければなりません。
 整理すると5月22日に三加茂町で南仏房が往生し、それを見送った後に、吉野川の流れに沿って東に進み、6月1日に鴨島町河辺にやって来て。そこで一遍は心神違例となったと考えるのが自然だと研究者は考えているようです。とすると、最初に考えた一遍が讃岐から阿波入りに使ったコースは、全て誤りだったということになります。
3 一遍時衆 遊行図3jpg

もう一度、一遍時衆が辿った讃岐から阿波へのルートを考え直す必要があるようです。
 三加茂町加茂は吉野川上流右岸の段丘の上に開けた町で、「賀茂の大クス」という巨樟が町の真ん中に立っています。南は剣山に続く尾根がいくつも張り出してきて谷を作ります。ここに5月22日に一遍一行が滞在していたのなら、讃岐善通寺から阿讃山脈を越えてやって来たことになります。そのルートを考えたいと思います。
県内直売所|JA徳島中央会

まず一遍が善通寺を出たのがいつのことなのでしょうか?

『絵詞伝』巻四には「同年(虹鶴)五月の頃、讃岐より阿波にうつり縞ふ」

とあります。その年の正月を大三島で迎えた一遍は、2月9日に桜会をおこなった後に、讃岐に入ってきます。各地で念仏勧進を行いながらの旅ですから、善通寺や曼荼羅寺を参拝後に讃岐山脈を越えて阿波賀茂に入ってきたのは、『絵詞伝』にあるように5月ごろなのでしょう。
DSC03800 阿波国絵図 

この時に越えた峠として考えられるものを西から順番に挙げてみましょう。
猪ノ鼻峠や東山峠は近代以後に開かれた峠で、対象外になります。
①二軒茶屋越    (財田町         ー 三好市箸蔵
②樫の休み場越  (まんのう町塩入 ー 三好町昼間)
③三頭峠越      (まんのう町美合 ー 美馬市美馬
の3つが候補に挙がります。
  近世において阿波街道として、最も利用されていたのは③三頭越になります
DSC03796

このルートは、土器川沿いにまんのう町美合の山間の集落を抜けて、現在の国道438号の三頭トンネルの上にある峠を越えて、美馬町に抜けていきます。一般的には、このルートが考えられるのですが、美馬町は三加茂よりも東に位置し、吉野川の下流にあたります。このルートを取ったとすれば、美馬町から吉野川を西に遡って三加茂にやってきたことになります。道順的には不合理です。
  ①二軒茶屋越は、近代に大久保諶之丞が四国新道を開くまで使われていたルートです。
阿波池田方面の人々が利用したルートです。しかし、三加茂を目指すには少し、遠回りになります。



一番善通寺・琴平方面から三加茂に近いルートは②の樫の休場経由です。
DSC03797

このルートは、金倉川沿いに上流を目指し、塩入から山道に入り地元では二本杉と呼ばれる樫の休場経由で、現在の東三好町昼間に下って行くルートです。ここでは②のルートを使ったことにしておきます。
3 一遍時衆 踊り念仏2

 阿讃山脈を越え阿波に入った一遍は、吉野川の流れに沿って東に歩き、5月22日には三加茂町に尽きます。そしてメンバーの一員である南仏房が往生し、『往古過去帳』に記入されます。暦は陰暦なので五月下旬といえば、梅雨の最中か、梅雨明けの暑さがやってきた頃だったでしょう。
 
享保六年『遊行派末寺帳』【南海道】には、次のような末寺が記されています
紀伊 七郡【2寺】⑥安養寺(若山湊) ⑥浄土寺(藤代 鳥居浦)
淡路 二郡【なし】
阿波 四郡【4寺】 ⑥常福寺(加茂) 善成寺(画(昼?間)
          弘願寺(二階堂)②光摂寺(八万) 
伊予十四郡【6寺】⑥定善寺(松前) ②宝厳寺(道後村奥谷) 
         入仏寺(八蔵)円福寺 願成寺(内ノ子村宮床)
         保寿寺(陽)
土佐 七郡【3寺】乗台寺 (佐河) 善楽寺(一山)  西念寺(一野)
讃岐 十三郡【7寺】⑥興善寺(爾保)②江(郷)照寺(宇多(足)津)
       浄土寺(由佐・尼)興勝寺(勝間) 興徳寺(大田・尼) 
       高称寺(観音堂・尼)荘厳寺(一宮)

阿波には4ヶ寺あったようですが、その筆頭に記されているのが六 常福寺(加茂)です。そこに遊行上人が訪れたことは確かなようです。
 三加茂町賀茂から吉野川を西に約四㎞ほど遡った対岸に、三好町昼間があります。さきほど紹介した②の樫の休場からのルートが撫養街道と合流する地点です。
『往古過去帳』遊行十六代南要条に、覚阿弥陀仏(ヒルマ)

と記入されています。遊行上人16代の南要は『遊行十六代祖四国回心記』に記録されているように阿波を遊行しています。このヒルマもこの昼間だと研究者は考えているようです。
また享保六年末寺帳に、善成寺 昼間

とあるので、昼間に善成寺があったことが分かります。
ここからは阿波加茂と近くの昼間に、時衆寺院が2つあったことが分かります。これは、このエリアが時衆教団にとってゆかりの深い土地であったことを推測させます。そのゆかりとは何かと考えれば、正応二年五月二十二日に阿波加茂で亡くなった南仏房が一遍か真教にゆかりのある尼であったからではないのかとの推測ができます。他の者の往生は、地名が記入されていないのに、南仏房だけ「賀茂阿波国」と往生地が記入されているのも手がかりです。
3 一遍時衆 踊り念仏3

5月22日から9日後の6月1日、 一遍は「大鳥の里河辺」で病みます。
阿波加茂から鴨島町敷地河辺までは、直線距離で約40㎞です。一遍は時衆をひきつれて、日に平均約5㎞という牛の歩みのようなスローテンポで遊行しながら吉野川沿いに東へ歩んでいきます。「讃岐から阿波に入った一遍は
「機縁すでにうすくなり、人教誡をもちゐず」

と言ったと伝えられます。 このエリアでの時衆集団の状況が悪かったことがうかがえます。少し想像力を膨らませて、時衆集団が直面した状況を再現してみましょう。
 信不信を選ばず布教を続ける一遍時衆の算を、地元の人たちから拒否されることが多かったのかもしれません。それとも時衆の中に戒律に背いて追放される者が続出したのかもしれません。あるいは、阿讃山脈越の難路で一遍の疲労が甚だしかったこともあるでしょう。そのような中で阿波加茂で南仏房が亡くなります。旅を続ける一遍も、梅雨明けの酷暑の遊行に疲れきっていたのかもしれません。そのような中で、村里で人々に賦算しながの遊行は、一日にせいぜい五㎞ぐらいしか進まなかったのかもしれません。こうして古野川右岸を上流から下流に藤井寺を目指して歩いて行った一遍は、旅の疲れからか、その手前の河辺寺付近で発病するのです。
 1ヶ月の療養でも、全快には至らず無理を押しての旅立ちとなったのかもしれません。やがて阿波の国府、いまの徳島市国府に至ります。国府から古代の官通はまっすぐ北上し、吉野川を渡って、板野郡板野町大寺に至ります。大寺には四国霊場3番金泉(こんせん)寺があり、大寺の郡頭(こおず)は『延喜式』に「阿波国駅馬、石濃(隈?)、郡頭各五疋」と記され、律令時代の宿駅でした。。郡頭から官道は讃岐山脈の南麓を東に向かい、二番極楽寺、 一番霊山寺の前を通過して鳴門市大麻町石園(いその)に至ります。この石園が『延喜式』に記された石濃のようです。さらに東進すると鳴門市撫養で、ここから船に乗って鳴門海峡を横断し淡路の福良に上陸するというルートになります。淡路という名称はもと阿波路で、律令時代に大和から阿波へ行く路にあたっていたので阿波路といったと云われます。吉野川を下って阿波の国府に着いた一遍は、おそらくこの古代の官道
に沿って淡路へと歩を進めたのでしょう。

3 一遍時衆 一遍終焉の地である兵庫の観音堂
一遍終焉の兵庫の観音堂

そして、淡路から兵庫に渡りその地を臨終の地とすることになります。まさに、死地に向かって歩み続ける最後の遊行の旅が讃岐から阿波への旅路だったようです。
3 一遍時衆 臨終場面

 「一代聖教みなつきて、南無阿弥陀仏になりはてぬ」
(『聖絵』第十一 第四段)

以上をまとめておきます。
①一遍は臨終の1年前に河野氏の氏神で大三島の大山祇神社で一冬を過ごした。
②翌年の春開けに大三島を出て、讃岐の善通寺・曼荼羅寺を巡礼し
③5月にはまんのう町を経由して、讃岐山脈を越えて阿波加茂に至った。
④阿波加茂で、時衆の中の尼僧が5月21日に亡くなっている
⑤その後、吉野川沿いに東に向かい鴨島町の河辺寺辺りで発病し、
⑥約1ヶ月の療養の後に、淡路を経由して兵庫に向かった。
⑦そして、兵庫がで臨終を迎える
善通寺からまんのう町を経ての山越えの道は、死出へ旅立ちの道でもあったことになるようです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 
今井清光 時衆教団の地方展開 東京美術社 昭和58年



 江戸時代も半ば以後になって、金毘羅の名が世間に広がると、各地で金毘羅の贋開帳が行なわれるようになります。紛らわしい本尊を祀り、札守や縁起の刷物などを売り出す者が次々と現れます。別当金光院は、高松藩を通じてその地の領主にかけ合って、すぐ中止させるように働きかけています。しかし、焼け石に水状態だったようです。そこで宝暦十年(1763)には「日本一社」の綸旨をいただきますが、それでも決定的な防止策にはならず贋開帳は止まなかったようです。

DSC01156日本一社綸旨
金毘羅大権現「日本一社」の綸旨

 贋開帳を行っていたのは、どんな人たちなのでしょうか。
多くは修験系統の寺院や行者だったようです。
「金刀比羅宮史料」から贋開帳を年代順に見てみましょう。
①明暦2年、讃岐丸亀の長寿院という山伏が、長門(現山口県)で象頭山の名を馳ったので、吟味のうえ、以後こういうことはしないという神文を納めさせた。
②享保6年4月、江戸谷中の修験長久院で、金毘羅飯綱不動と云って開帳したので、高松藩江戸屋敷へ願い出、御添使者から寺社奉行へ願い出て停止させた。
③寛保2年11月、伊予温泉郡吉田村の修験大谷山不動院で、金毘羅の贋開帳。
④天保6年10月、阿波州津村箸蔵寺が、金毘羅のすぐ隣りの苗田村長法寺で、平家の赤旗など持ち込み、剣山大権現並びに金毘羅大権現といって開帳。11月には、箸蔵寺で金毘羅蔵谷出現奥の院といって開帳した。翌7年6月、箸蔵に出向いて調べた使者の報告では、神体は岩屋で、別に神像はなかったとのこと。
⑤同15年、箸蔵寺で贋神号事件が再度発生、
弘化2年4月、贋縁起札守版木など、郡代役所から引渡され、一応落着。嘉永4年、箸蔵寺、再度贋開帳。
⑥安政4年、備後尾道の修験仙良院、浮御堂において開帳、札守を出したので、同所役人に掛合い、金毘羅の神号の付いたもの一切を受取り、以前の通り神変大菩薩と改めさせた。
⑦安政5年4月、京都湛町大宮修験妙蔵院、京都丸亀屋敷の金毘羅へ毎月十日、諸人が参詣の節、開帳札のよりなものを指出す由の注進があった。
⑧同年十月。泉州堺の修験清寿院で開帳、同所役に掛合い、神体、札守の版木など、早速に引渡される。
贋開帳事件の中でも、箸蔵寺は執拗で事件が長期にわたったようです。
IMG_3653
箸蔵寺山門
箸蔵寺がはじめて金毘羅へ挨拶に来たのは、宝暦12(1762)年のことです。
「箸蔵寺縁起」は、それから間もない明和6(1769)年に、高野山の霊瑞によって作られています。
「当山は弘法大師金毘羅権現と御契約の地にして」
「吾は此巌窟に跡を垂る宮毘羅大将にして北東象頭の山へ日夜春属と共に往来せり」
 ここでは、空海が金毘羅さんの奥社として箸蔵山を開いたとします。そして、金比羅神は箸蔵寺から象頭山へ毎日通っていると縁起では説くのです。
IMG_3656
箸蔵寺山門
  箸蔵寺については、本尊薬師如来の信仰が古くからあったこと、江戸初期には多少の土地が安堵されていたことより外、ほとんど分かっていないようです。しかし、「状況証拠」としては、周辺には数多くの修験者がいて、近世後半になって台頭する典型的な山伏寺のようです。成長戦略に、隆盛を極めつつあった金毘羅大権現にあやかって寺勢拡大を計ろうとする意図が最初からあったようです。箸蔵寺は、次のような広報戦略を展開します。
「こんぴらさんだけお参りするのでは効能は半減」
「こんぴらさんの奥社の箸蔵」
「金比羅・箸蔵両参り」
 そして、10月10日の金毘羅祭に使われた膳部の箸が、その晩のうちに箸蔵寺へ運ばれて行くという話などを広げていきます。それに伴って人々の間に「箸蔵寺は金毘羅奥の院」という俗信仰は拡大します。

IMG_3657
 箸蔵寺山門の大草鞋
 そして先に見た通り箸蔵寺は、金毘羅大権現の贋開帳を行うようになります。そのため何度も本家のこんぴらさんに訴えられます。その都度、藩からの指導を受けています。記録に残っているだけでも贋開帳事件の責任をとって、院主が二度も追放されています。しかし、それでも贋開帳事件は続発します。嘉永二年には、箸蔵の大秀という修験者が、多度津で銅鳥居の勧進を行っていた所を多度津藩によって、召捕えられています。
 このような「箸蔵=金毘羅さん奥の院」説を広げたのも箸蔵寺の修験者たちだったようです。それだけ多くの山伏たちが箸蔵寺の傘下にはいたことがうかがえます。

IMG_3671
箸蔵寺参道に現れた天狗(山伏)
財田町史には、箸蔵の修験者たちが山伏寺を財田各地に開き布教活動を行っていたことが報告されています。彼らは財田から二軒茶屋を越えての箸蔵街道の整備や丁石設置も行っていたようです。
讃岐の信徒を箸蔵寺に先達として信者を連れてくるばかりでなく、地域に定着して里寺(山伏寺)の住職になっていく山伏もいたようです。このような修験者(山伏)は、金毘羅さん周辺にもたくさんいたのでしょう。彼らは象頭山で修行し、金比羅行者として全国に散らばり金毘羅信仰を広げる役割を果たしたのではないかと私は考えています。 
IMG_3710
箸蔵寺本堂
贋開帳を行う人たちに、なぜ修験者が多かったのでしょうか?
まず考えられることは、金毘羅神が異国から飛来した神と伝えられたことにあるようです。
金比羅神は天竺から飛来した神であり、象頭山の神窟に鎮座し、その形儀は修験者であり、権現の化身であると説かれました。金比羅神が、どのような姿で祀られていたのかを、3つの記録で比べてみましょう
 ①天和二年の岡西惟中「一時軒随筆」
金毘羅は.もと天竺の神 飛来して此山に住給ふ 釈迦説法の守護神也。形像は巾を戴き、左に数珠、右に檜扇を持玉ふ也 巾は五智の宝冠に比し、数珠は縛の縄、扇は利剣也 本地は不動明王也とぞ 二人の脇士有、これ伎楽、伎芸といふ也、これ則金伽羅と勢陀伽権現の自作也
意訳すると
金比羅神は、もとは天竺インドの神である。飛来して、この山に住むようになった。釈迦説法の守護神で、形は頭に頭巾をつけ、左手に数珠、右手に檜扇を持つ。頭巾は五智宝冠と同じで、数珠は羂索、扇は剣を意味し、本地物は不動明王とされる。伎楽、伎芸という二人の脇士を従える。これは金比羅と勢陀伽権現の化身である。
 
「一時軒随筆」の作者である岡西惟中は、談林派の俳人として名高い人物です。彼は、この記事を当時の別当金光院住職宥栄から直接聞いた話であると断っています。それから150年経った時期に、金光院の当局者が残した「金毘羅一山御規則書」にも、まったく同じことが記されていることが分かります。
②延享年間成立の増田休意「翁躯夜話」
 象頭山(中略)此山奉二金毘羅神(中略)
此神自二摩詞陀国一飛来、降二臨此山釈尊出世之時為レ守二護仏法‘同出二現于天竺(中略)
而釈尊入涅槃之後分二取仏舎利 以来ニ此土 現在二此山霊窟矣 頭上戴勝、五智宝冠也(中略)
左手持二念珠縛索也、右手執一笏子利剣也 本地不動明王之応化、金剛手菩薩之工堡 左右廼名一及楽伎芸 金伽羅制哩迦也
②の「翁躯夜話」は、高松藩主松平頼恭によって「讃州府志」の名を与えられたほどですから、信用は高い書物とされます。これらの2つの資料が一致して
「生身は岩窟に鎮座ましまし、御神鉢は頭巾を頂き、珠数と檜扇を持ち、脇士に伎楽・伎芸がいる」
と記します。
  ③「金毘羅一山御規則書」

抑当山金毘羅大権現者、往古月支国より飛来したまひて
(中略)
釈迦如来説法の時は西天に出現して於王舎城仏法を守護し給ふ(中略)其後仏舎利を持して本朝に来臨し給ふ 生身は山の岫石窟の中に御座まし(下略)
「象頭山志調中之翁書」
 優婆塞形也 但今時之山伏のことく 持物者 左之手二念珠 右之手二檜扇を持し給ふ 左手之念珠ハ索 右之手之檜扇ハ剣卜中習し侯権現御本地ハ 不動明王
 権現之左右二両児有伎楽伎芸と云也伎楽 今伽羅童子伎芸制吐迦童子と申伝侯也 権現自木像を彫み給ふと云々今内陣の神鉢是也
 意訳変換しておくと
そもそも当山の金毘羅大権現は、往古に月支国より飛来したもので(中略)釈迦如来説法の時には西天に出現して、王舎城で仏法を守護していた。(中略)
その後に仏舎利を持って、本朝にやってきて生身は山の石窟の中に鎮座した。(下略)
「象頭山志調中之翁書」
 その姿は優婆塞の形である。今の山伏のように、持物は左手に念珠、右手に檜扇を持っている。左手の念珠は索、右手の檜扇は剣と伝えられ、権現の御本地は不動明王である。
 権現の左右には、両児がいて伎楽と伎芸と云う。伎楽は伽羅童子、伎芸は吐迦童子と伝えられる。権現は自から木像を彫み作られた云われ、今は内陣の神鉢として安置されている。

3つの史料からは、金毘羅大権現に祀られていた金毘羅神は、役行者像や蔵王権現とよく似た修験の神の姿をしていたことが分かります。また「飛来した神」ということからも、飛行する天狗が連想されます
 各地の修験者たちにとって、このような金毘羅神の姿は「親近感」のある「習合」しやすい神であったようです。それが、数多くの贋開帳を招く原因となったと研究者は考えています。
 どちらにしても、金比羅神を新たに創り出した象頭山の修験者たちは、孤立した存在ではありませんでした。当時の修験者ネットワークの讃岐の拠点のひとつが象頭山で、そこにインドから飛来してきたという流行神である金比羅神を「創造」し、宥盛の手彫りの像と「習合」したようです。

IMG_3714
箸蔵寺本堂に掲げられた天狗絵馬
 その成功を見た山伏ネットワーク上の同業者たちが、それを金毘羅さんの「奥社」とか「両参り」を広告戦略として、その一端に連なろうとします。当然のように、贋開帳もおきます。また別の形としては讃岐の金比羅神を地元に勧進し、金毘羅大権現の分社を作り出していく動きとなったようです。全国に広がる金比羅神が海に関係のない山の中まで広がっているのは、山伏ネットワークを通じての金比羅行者の布教活動の成果のようです。「海の守り神 こんぴらさん」というイメージが定着するのは19世紀になってからです。それまでの金毘羅山は全国の修験道者からは、山伏の運営する天狗信仰の山という目で見られていたと研究者は考えています。
参考文献 松原秀明 金毘羅信仰と修験道


  前回は伊予の松山三津濱と大洲から奉納された玉垣について見てきました。そのなかで、玉垣を奉納した人たちのつながりや職業、経済的な活動が見えてくることが分かりました。
 今回は阿波の人たちの奉納した玉垣と敷石を見ていくことにします
大門を入って五人百姓の傘の間を抜けると桜馬場と呼ばれる真っ直ぐでフラットな参道が広がります。その桜馬場左右の玉垣(T-2・3)は阿波の人たちの奉納玉垣です。

4 玉垣桜馬場211

各親柱には「阿波藍師中」とあります。そして奉納者の名前が続きます。
4桜馬場1

これだけではよく分かりません。最初と最後の親柱に奉納団体や年月日・世話人住所などが刻まれているというのがお約束ですから、一番最後の親柱を見てみましょう。
4 玉垣桜馬場21

  ラストの親柱14には 「阿州穴吹 阿波屋政藏 澤屋伊兵衛」の名前が大きく掘られ、その下に4名の名前があります。これだけでは、この人たちが世話人であるかどうかは分かりません。しかし親柱11から以後は、親柱に地名が「阿川村 船底」「別枝村」「桑村」「穴吹」とあります。 

「阿波藍師中」という団体名からは、藍産業に関係ある人たちであると云うことは推察できますが、それ以上は私には分かりません。少し調べてみると次のような事が分かってきました。
   藍師は、原料となる葉藍から染料の藍玉をつくる製造家のことで、阿波藍師中とは阿波国の藍玉製造家仲間ということになるようです。

 阿波で藍が大規模につくられるようになるのは近世以後で、吉野川の中・下流付近が藍作に適し、藩が特産物として奨励したため急速にひろまっていきます。寛永十二年(1635)には藍方役所が置かれ、宝暦五年(1755)には藩の専売制となります。
 しかし、藍作はひろがりますが実際に利益を上げたのは上方の藍玉問屋だったようです。彼等は藩に運上金を納め、直接藍作人から葉藍を買い集め加工するというシステムで利益を吸い上げていきます。そのため葉藍をつくる阿波の藍作人の生活は向上せず、むしろ専売制により貧しさを助長することになります。
 一八世紀の中頃になると、革新官僚を中心に藩でもこのような現状を憂い、地元に利益が落ちる方策が考えられるようになります。そのために、地元藍師の育成・組織化が進められます。藍玉の取り引きを藍方役所が監督し、徳島市中で行うように改め、大坂商人の藍玉積み出しも禁止します。こうした「地元資本」育成政策は地元藍師の成長をうながし、藩内に利潤が落ちるようになります。阿波の藍師は地元の利をいかし、葉藍から藍玉の製業をするばかりでなく、肥料の前貸しなどにより土地を集め、豪農に成長していきます。そして、彼らのなかには自分の廻船をもち、各地に出かけて商するなど商業資本として活動する者も現れます。
   天保十五年(一八四四)に桜馬場に玉垣を奉納した「阿州藍師中」とは、当時の阿波藍の主導的役割をはたした地元の藍師中のことのようです。この玉垣奉納の4年後の弘化五年(一八四八)藍方役所から命ぜられ、代官所の相談役として苗字帯刀を許された者がでてきます。その中には、この玉垣に名前がある人たちがいるようです。
 名東郡北新居村 久次米兵次郎、
 同郡南新居村  渡辺弥兵衛、
 同郡中村    手塚甚右衛門、
 名西郡高原村  元本平次兵衛、
 同郡桜間村久米 曾左衛門
     (西野嘉右衛門編『阿波藍沿革史』参照)
  この玉垣に名を連ねた人々は、当時の代表的な藍師だったようです。彼らは完成を翌年に控えた金堂完成間近の金毘羅さんに、お参りして玉垣を奉納したのかもしれません。
阿波の人たちの金毘羅さんへの奉納品
 阿渡は讃岐山脈を背中合わせにして金毘羅に近く、金毘羅信仰のさかんな土地でした。そのため奉納品も数多く寄進されています。例えば石燈龍は、安永八年(1779)をはじめとして、十三基奉納されています。その中には、文政三(1820)年、阿波藩主十二代蜂須賀斉昌からのものもあります。石鳥居も、嘉永元年(1848)に吉野川上流の村々から阿波街道に奉納されていることは以前にお話ししました。

4 玉垣桜馬場321

  桜馬場の敷石も阿波の人たちからの奉納で敷かれています
 敷石奉納の奉納石版には、次のように刻まれています(Q-1)
4 敷石桜の馬場1

ここからは最初の奉納が、徳島の敷石講中二百人に及ぶ人々によって奉納さたれことが分かります。これが阿波の敷石奉納のスタートで、文久二年(1862)です。
続いて奉納石版(Q2)です。
4 敷石桜の馬場21

慶応元年(1865)に、井川・白地・辻・池田など徳島県西部の三好郡の敷石講中160人の名前があります。 
これらの村々は三野町芝生、三加茂町加茂、井川町辻・井川、池田町池田・馬路・白地・佐野・脇津・州津・西山・川崎・中西・大利、山城町川口・黒川・国政・大野・小川谷・信正・政友など、吉野川とその支流伊予川に沿った村々です。
 奉納世話役の中心は、池田町の山下国三郎や山城町の米屋儀八・大野辰次・西屋時三郎といった人々で、奉納者に池田町と山城町の人々が多いようです。昨日見た玉垣奉納者よりもさらに西の地域の人々です。
最後は桜馬場詰に近いところでの奉納石版(Q3)です。
4 敷石桜の馬場221

Q2の翌年の慶応二年(1866)に奉納されています。地名を見ると「辻・川崎・祖谷・馬路・山城・山城谷・白地・大利」と、三好郡のさらに奥の方まで伸びているようです。
阿波からの桜馬場への玉垣や敷石の奉納からは、次のような動きが見えてきます
①文政三年(1820)阿波藩主の灯籠寄進
②天保十五年(1844)「阿州藍師中」による玉垣奉納
③嘉永元年(1848)阿波街道起点の石鳥居 吉野川上流の村々から奉納
④安政七年(1860) 石燈龍奉納 麻植郡の山川町・川島町の村人77人の合力
⑤文久二年(1862) 阿波敷石講中による桜馬場敷石奉納スタート   池田・辻中心
ここからは、殿様 → 藍富豪 → 一般商人 → 周辺の村々の富裕層へという流れがうかがえます。殿様が灯籠を奉納したらしいという話が伝わり、実際に金毘羅参拝にきた人たちの話に上り、財政的に裕福になった藍富豪たちが石垣講を作って奉納。すると、われもわれもと吉野川上流の三好郡の池田・辻の町商人たちが敷石講を作って寄進。それは、奉納者のエリアを広げて祖谷や馬路方面まで及んだことが分かります。三好の敷石講は、は五年間をかけて完成させています。
 取次は全て、児島屋卯兵衛・源兵衛が務めています。敷石ごとに世話人も異なり、時期も幕末の騒動期で、お山と奉納者のあいだにたって取次に苦労したことが察せられます。
 こうしてみると桜馬場の敷石や玉垣の殆どは、阿波国の人々たちの奉納だったようです。しかも、その地域は先ほど云った吉野川流域に限られています。桜馬場を現在のように歩きやすく、また美しくしたのは阿州の人々の力が大きかったと云えるようです。そして、ここの玉垣の美しさは、石段や敷石ととよく調和した雰囲気を出しています。



 
大滝山5
          
  なだらかに続く阿讃の山脈(やまなみ)は、どれが頂上か見分けのつきにくい山が続きます。その中で一番高い龍王山と相栗峠をはさんで、並び立つのが大滝山(946m)です。この山の北側周辺は、藩政期から高松藩からの寄進を受け、大滝寺のひろい社領として護られてきたために、上部はいまでもよく自然林が残されています。

大滝山2
 大滝山の最高点は神社裏のピーク(946m)です。しかし、残念ながら山頂付近はヒノキが大きく繁り何も見えないので、訪れる人はあまりありません。多くの人が目指すのは、県境尾根を西に進んだ三角点のある城ケ丸です。なだらかで整備された尾根道はには、大きなブナも見えます。讃岐の尾根道で見られるのはここだけではないでしょうか。他にもケヤキ、アカガシ、ヤマザクラなどが茂り、森林浴には最適です。香川県側は「大滝山自然休養林・県民いこいの森」として整備されていますので、森林浴には最適です。

大滝山4
 ここまで書いてきてハイキング案内のようになっていることに気付きました。
今日は、修験道の拠点寺院であった大滝寺について、見ていきたいと思います
ここには現在、山頂に西照神社とその下に大滝山がありますが、明治以前の神仏分離以前は、このふたつは一体の施設で、僧籍を持つ修験者が管理していたようです。
「大滝寺縁起」によると、
①奈良時代に行基菩薩が香川県塩江より来山、この寺を建立したこと、
②平安期の初め延暦十年(791)空海が来山、修行し、
③空海が西照大権現の尊像を彫刻し、法華経出現品を一石毎に一字記し堂の左右に納めた
と記します。
 「行基ー空海」開山というのは、真言寺院の一般的な創建由来ですが、郷土史家や地元の人達の中には、この「空海伝説」を積極的に肯定する人も多いようです。
 というのは、空海の書である
『三教指帰』の中の「阿州大滝岳に求聞の法を修め……」
とある大滝岳を、この大滝山とみなすからです。
縁起は、また天安三年(859)の聖宝の登山を力説します。現在、寺の西方にある高野槙は、聖宝お手植であることや、聖宝にちなんだ男女の厄除厄流の行事が行なわれていることが記されています。

西照神社1
 どちらにしても「聖」伝説が色濃く漂うお寺なのです。
 阿波の美馬町郡里に願勝寺というお寺があります。
古寺で、いくつもの文化財があり、寺独自の記念館も整備されています。
この寺には中世以来、大滝寺と深い法縁関係があったことを示す史料があります。戦国末期の文禄三年(1594一五九四)に書かれた「願勝寺歴代系譜」です。この系譜は、当時の住職快盤によって記されたものです。その第六代智由上人の項に、大滝寺に関する記述が見えます。
…後空海上人モ阿波二来り 当福明寺(願勝寺の旧名)二留錫シテ 護摩堂ヲ立テ 本尊不動明王ヲ自作、爾来真言密宗二改ムト云、其比、空海上人 阿波卜讃岐中山ナル大滝ノ峯ニ登り 国土安全ノ祈ヲナスノ処 不思議ノ老翁忽然卜現レ、我是汝が遠祖天忍日命ノ神使也卜。
 空海曰く 其神跡イヅレナルヤ。翁曰 即此処也卜 古塚ヲ七つ其形バ古十墓 変シテ古塚二入テ身ヲ隠ス扨コト故アラ卜此処 一草庵ヲ構 其霊ヲ祭ル 其草庵後 一大滝寺卜改 其神ヲ西照権現ト号ス・智由ノ弟子智信坊ヲ以テ此寺ノ法燈ヲ続カシム
中略……国司藤原道雄西照宮二神田ヲ寄附スト云。
 空海が願勝寺で修行後に大滝峯に登って「老翁」に出会い、西照権現を祀るためにそれまであった庵を大滝寺と改めたとします。ここからは、ふたつのお寺が修験道の流れをくむ寺で密接な関係にあったことがうかがえます。
大滝山3
 もうひとつは、天正三年(1575)の阿波法華騒動です。
これは「中世阿波宗教史 最大の騒動」といわれれます。
騒動のきっかけは、戦国大名の三好長治が日蓮宗に熱烈に帰依して、阿波国内の一般庶民にまで、法華に改宗を強制したことに始まります。彼は堺の妙国寺の僧三百余人を阿波に派遣し、他宗寺院に改宗の折伏を働きかけたのです。この時に、最も果敢に抵抗を示したのが真言山伏たちでした。三千人の山伏達が、三好氏の居城勝瑞の城下で大デモンストレーションを行います。

三好2
「願勝寺歴代系譜」には、その時の様子が次のように記されています
第二十五代快弁上人の項に、
 …又五郎勧メニヨリ長治公(義賢の子息)日蓮宗二帰依シ 同三年(天正三年)ニハ 阿波国中生レ子迄一人モ残ラス日蓮宗ニナシ 法花(華)経ヲ戴カセント泉州堺ノ妙国寺、経王寺、酒塩寺ノ三ケ寺ヲ阿波へ招待シテ 本行寺二住セシメ、法華坊主三百人南方北方手分シテ 士農工商ノ隔ナク残ラス法華経ヲ戴キ 法華宗トナルノ時、滝寺ノ上人ハ 上命辞シ難シト直二改宗シテ法華宗ノ弟子トナル。
 願勝寺快弁ハ 法華坊主ヲ相手トシテ問答ヲナスト雖、時ノ権威二当り難シト弟子三人ヲ連テ其夜二立退キ高野山二登り法華退治ノ計議ヲナス。此時阿波国中二真言坊主ハ願勝寺ノ外ナシト上方迄モ風聞ス。
 快弁ハ高野山ニテ法華退治ノ一策ヲ儲ケ。阿波へ帰りテ同意ノ寺院ヲ訪ラヒ密事ヲ談シ、阿波国ノ念行者数多クノ山伏ヲ催シ、持妙院へ訴訟シ、日蓮宗対シ不当状ヲ三尺坊二持タセテ本行寺へ遺ス処、妙国寺普伝上人返答延引、ヨツテ法華坊主ヲ打殺スベシト我々三千余人ノ坊主ハ 此度ノ法華ノ為ニスト無鉢二本行寺へ押入り騒動二及フ。
 其魁トナル人々二ハ 大西ノ畑栗寺、岩倉ノ白水寺、川田ノ下ノ坊、麻植曾川山、牛ノ島ノ願成寺、下浦ノ妙楽寺、柿ノ原別当坊、大粟ノ阿弥陀寺、田宮ノ妙福寺、別宮ノ長床、大代ノ至願寺、大谷ノ下ノ坊、河端大唐国寺、高磯ノ地福寺、板西ノ南勝坊、同蓮華寺、矢野ノ千秋坊、蔵本ノ川谷寺、一ノ宮ノ岡之坊、此外添山薬師院、香美虚空蔵院等ナリ。
 忌部郷忌部十八坊ヲ始 其余ノ神宮寺別当附属ノ修験神坊ノ行者共ハ 此事二与セズト雖、国中ノ騒動大方ナラス、是事ヲ聞テ三好家ノ大老篠原自遁馳来リ、種々曖ヒニヨツテ妙国寺、経王寺、酒塩寺等ヲ初メ此外三百人法華坊主ヲ森志麻守請取テ船ニテ上方へ送リケレハ、篠原自遁真言宗ノ寺々ヲ呼出シ、夫レ元ノ宗旨ヲ守ルベシトノ厳 命ニヨツテー旦(其騒動治リ……(後略)
 
 この中の法華教反対運動の中心として活動した寺院の中に、大滝寺の下寺的存在であるお寺がいくつかあるようです。それらの中に、先ほど見た願勝寺や
脇町方面からの登山口の岩倉の地にあった白水寺(岩倉の坊)があります。これらの反対運動の背後に、大滝寺があったことがうかがえます。同時に、大滝山が中世の修験道山伏の一中心でもあったことも分かります。
三好氏1

 一方で、修験道でも「忌部十八坊」や「滝寺ノ上人」は、反対運動に参加しなかったようです。これは忌部十八坊が修験道の世界において、大滝山の系統と別系統であり、対立関係にあったことを示しているのではないかと研究者は指摘します。忌部十八坊は「忌部氏」を祀る地方的な修験道であり、中央(高野山)と連がる大滝山とは、相入れない一面をもっていたようです。

大滝山集落1
 ちなみに、大滝修験道と忌部修験道(高越山)には、こんな話が残っています。
大滝山と高越山は仲が悪く、再三にわたり「石合戦」をしたというのです。
高越山から投げた石が大滝寺の床下にあるとか、脇町や隣接の阿波町のあちこちに残っているという話が伝わっています。また逆に、大滝山から投げた石は、高越山まで届かず「拝原」と呼ぶ地にあるとかいわれます。この石合戦の背景には、大滝山と高越山をそれぞれ拠点とする山伏が修験道の世界では属する集団を別にして仲が悪かったということなのでしょう。
 岩倉の白水寺は江戸時代には愛行院と称し、この地方の修験道の一方の旗頭でした。
『阿波志』には
「愛行院、岩倉村に在り白水寺と称す、天文約書に見ゆ。泉あり白くして甘し、優婆塞居る、租及び丁役を除す」
と課役が免じられていたようです。白水寺は「願勝寺歴代系譜」のほか、高越山の概で記した天文約書にも見えているので、中世以降には、大滝寺に代わって修験道の世界で活躍したお寺であったようです。

大滝寺2
  江戸時代の大滝寺は? 
 大滝寺は寺伝によると、江戸時代にはこの地方の支配者稲田氏から禄を与えられます。
その他にも、西照神社の峰より東へ八丁、西へ八丁、それから麓に至るまで寺領として認められたといいます。また、寺の裏手(北側)も高松藩より権現林として寄附されていました。さらに同藩から供米として五十石を与えられていたと記します。
 その結果、山頂の伽藍の建築物としては、登山道には鳥居の数が十八基、寺域には西照大権現一宇、竜王堂・観音堂・不動堂・護摩堂・奥院に熊野十二社大権現などのほか、多数の建物があったと記します。今日に残された自然環境は、この時の寺域のようです。当時の盛大さがしのばれます。
大滝寺3
 
しかし、明治の神仏分離によってお寺と神社は分けられ、お寺は下に下ろされました。そして、多数あったという伽藍の建築物も地に帰り、ケヤキ、アカガシ、ヤマザクラやブナなどの巨木が茂る神域として私たちを迎えてくれます。

参考文献 田中善隆 阿波の霊山と修験道
 

 

                                     

  阿波の酒井弥蔵のこんぴらさんと箸蔵寺の両参りについて
   前回に続いて金比羅詣が200回を越えた阿波の酒井弥蔵についてです。研究者は彼の金毘羅詣が3月21日と10月12日に集中してることを指摘し、前者が善通寺の百味講にあたり、先祖供養のためにお参りしていたことを明らかにしました。言うならば、彼にとってこの日は、善通寺にお参りしたついでの、金比羅参拝という気持ちだったのかも知れません。


DSC01394
それでは弥蔵が10月12日に、こんぴらさんを参拝したのはどうしてでしょうか?
すぐに思い浮かぶのは、10月10日~12日は地元では「お十(とう)かさん」と呼ばれるこんぴらさんの大祭であることです。これは、金毘羅神がお山にやって来る近世以前の守護神であった三十番社の祭礼である日蓮の命日10月10日を、記念する祭礼がもともとの行事であったようです。

DSC01398
 どうして祭りの最後の日にお参りに来ているのでしょうか
実は、その翌日に彼が参拝しているのが阿波の箸蔵寺なのです。
弥蔵は、大祭の最後の日にこんぴらさんにお参りして、翌日に箸蔵寺に詣でることを毎年のように繰り返していたのです。ここには、どんな理由があるのでしょうか?
このこんぴらさんの例祭について 『讃岐国名勝図会』には、次のような記されています。
『宇野忠春記』曰く(中略)同日(11日)晩、別当僧並びに社祝頭家へ来り。 (中略)
御神事終りて、観音堂にて、両頭人のすわりたる膳具・箸を堂の縁よりなげ捨つるを限りに、諸人一統下山して、方丈門前神馬堂の前に決界をなし、この夜は一人も留山せずこの両頭人の捨てたる箸を、当山の守護神その夜中に拾ひ集め、箸洗谷にて洗ひ、何所へやらんはこびけると云ひ伝ふ。
  『宇野忠春記』という本には
「ここには、例祭の神事に使用した箸などを観音堂から投げ捨て、全員が下山し、方丈門から上には誰もいない状態にした。そして、その投げ捨てられた箸は、箸洗谷で洗われて何処かへ運ばれる
と書かれていると記されます。
 この箸を洗った「箸洗谷」については、 『金毘羅参詣名所図会』には、
これ十月御神事に供ずる箸をことごとく御山に捨つるを、守護  神拾ひあつめ、この池にて洗ひ、阿州箸蔵寺の山谷にはこびたまふといひつたふ。故に箸あらひの池と号す。
   と記されています。ここから「箸洗谷=箸洗池」だったことが分かります。そして、『讃岐国名勝図会』では洗った箸は
「何所へやらんはこびける」
とあいまいな表現でしたが『金毘羅参詣名所図会』では、
  箸はその夜に阿州箸蔵谷へ守護神の運びたまふと言ひ伝ふ。」
と記されています。はっきりと「箸蔵寺のある箸蔵谷」へと運ばれると記されています。このように、金毘羅の祭礼で使われた祭具は、箸蔵寺に運ばれたと当時の人は信じていたのです。
images (16)箸蔵寺の金毘羅大権現
なぜ箸蔵寺へ運ばれなければならなかったのでしょうか?
箸蔵寺の縁起『宝珠山真光院箸蔵寺開基略縁起』の中には、
敬而其濫觴を尋奉るに、 我高祖弘法大師入定留身の御地造営ありて、父母の旧跡を弔ひ玉ひ善通寺に修禅の処、夜中天を見玉に正しく当山にあたり空に金色の光り立り、瑞雲これを覆ふ。依て光りを尋来り玉ふ。山中で金毘羅大権現とその眷属に会う其時異類ども形を現し稽首再拝して曰、
我々ハ金毘羅権現実類の眷属也。悲愍たれ免し給へと 乞時に山中赫奕して いと奥深き 巌窟より一陣の火焔燃上り 光明の真中に 黒色忿怒の大薬叉将忿然と出現し給へバ、無量のけんぞく七千の夜叉随逐守護し奉り 威々粛然たる形相也。
薬叉将 大師に向ひ微笑しての玉ハく、吾ハ東方浄瑠璃世界医王の教勅に従ひ此土の有情を救度し、十二微妙の願力に乗じ天下国家を鎮護し、病苦貧乏の衆生を助け寿福増長ならしめ、終に無上菩提に至らしめんと芦原の初穂の時より是巌窟に来遊する宮毘羅大将也。影を五濁の悪世にたれ金毘羅権現とハ我名也。然るに猶も海中等の急難を救わん為、東北に象頭の山あり。彼所へ日夜眷属往来して只今帰る所也。依而往昔より金毘羅奥院と記す事可知。 
この縁起は空海と金毘羅大権現を一度に登場させて、箸蔵の由来を説きます。まるで歌舞伎の名乗りの舞台のようです。 
①善通寺で修行中の空海は、山の上空に立つ金色の雲を見て当地にやって来ます。
②そこで金毘羅大権現と出会い自らを名乗り「効能」を説きます。
③その際に自分は「海中等の急難を救わん為に象頭山」いるが、「彼所(象頭山)へ日夜眷属往来して只今帰る所也」と象頭山にはいるが、本来の居場所はここであるというのです。
④金毘羅大権現は空海に、当山に寺院の建立と金毘羅宮で使用した箸などの奉納を求めます。 
⑤それを聞いて、空海はこの地に箸蔵寺を開山します。
⑥こうして、箸蔵寺は古来より金毘羅の奥之院として知られるようになった
以上が骨子です。
 しかし、象頭山における金毘羅大権現の創出自体が近世以後のものです。空海の時代に「金毘羅大権現」という存在自体が生み出されていません。また、この由来が「海中等の急難を救わん為」とすることなどからも、金毘羅信仰の高揚期の近世後半に作られたものであることがうかがえます。
i-img600x450-1564322058ucxevq485
 同時に、この由来には空海と金毘羅大権現の問答を通じて、箸蔵寺が金毘羅大権現の奥社であり非常に関係が深いことが語られています。
この由緒に記されたように箸蔵寺は近世後半になると
「こんぴらさんだけお参りするのでは効能は半減」
「こんぴらさんの奥社の箸蔵」
「金比羅・箸蔵両参り」
を唱えるようになります。また、自らの金毘羅大権現の開帳を行い、何度も本家のこんぴらさんに訴えられた文書が残っています。この文書を見ると、岡山の喩迦山と同じく「こんぴらさんと両参り」は、箸蔵寺の「押しかけ女房」的な感じが私にはします。
 少し横道にそれたようです。話を弥蔵にもどしましょう。
i-img600x450-1564322058jfp7hz485

彼がこんぴらさんにお参りした10月11日〜12日は、金毘羅の例祭が行われる日でした。そして当時は、金毘羅の例祭において箸蔵寺は非常に重要な役割を果たしていると考えられていたこと、、また箸蔵寺は金毘羅の奥之院とされていたこと。こうした信仰的な繋がりを信じていたから、弥蔵はこんぴらさんの大祭が終わる10月12日にこんぴらさんをお参りし、箸がこんぴらさんからやってくる箸蔵寺をその翌日に参詣したのでしょう。
images (13)
 ここには、前回にこんぴらさんと善通寺を併せて同日に参拝した理由とは、違う理由がるようです。吉野川中流の半田に住む弥蔵にとって、信仰の原点は地元の箸蔵寺への信仰心から始まったのかも知れません。それが「こんぴらさんの奥社」という箸蔵寺のスローガンにによって、その本山であるこんぴらさんに信仰心が向かうようになり、そしてさらに、弘法大師生誕の地として善通寺に向かい、弘法大師信仰へと歩みだして行ったのかもしれません。どちらにしても、この時代の庶民の信仰が「神も仏も一緒」の流行神的な要素が強く、ひとつの神社仏閣に一新に祈りを捧げるというものではなかったことは分かってきました。
imabairin2

参考文献   鬼頭尚義 寺社参拝の意識 酒井弥蔵の金毘羅参詣記録から見えてくるもの 

京都精華大学紀要44号

10 


i-img1200x675-1564880660uozvoa521779

「丸亀より金比羅・善通寺・弥谷寺案内図」と題される絵地図です。大坂から金毘羅船でやって来た参拝客に丸亀の旅籠や土産店屋が配ったと云われます。時代とともに数多くの種類が刷られて、それを歴史順に並べて比較すると、建物や鳥居に違いがあって金比羅街道の移り変わりが楽しめます。
少し、見方を説明しておくと、
230
①右下が丸亀湊で、ここには福島湛甫が描かれているので19世紀半ばのものであることが分かります。
②双六で云えば、丸亀湊をスタートにこまを進めていく事になります。ランドマークタワーでもある丸亀城に見送られ、讃岐富士を左手に、一番左奥の象頭山へと丸亀街道を南へ足を進めていきます。
③丸亀街道は、丁石が150あったと云われるので約15㎞。江戸時代の人にとってはゆっくり歩いても3時間足らずの道程だったのではないでしょうか。この手の絵図は、その道程は大きく省略しています。
④そして、大きな鳥居(現高灯龍)をくぐると高松街道と合流して、金比羅の街並みに入って行きます。
230七箇所参り

  さて、最初にこの絵図を見たときの私の疑問は題名が「金比羅参拝絵図」でないことです。
「丸亀より金比羅・善通寺・弥谷寺案内図」
なのです。大阪からやって来る人たちは、こんぴらさんを目指してやって来ているのだと思っていました。ところが、そうとは言い切れなかったようです。それが、この絵図の題名にも現れています。
 弘法大師信仰が広まった江戸期には、その生地とされる善通寺や、学問・修行に励んだとされる弥谷寺も「聖地」とされ人気が高かったようです。弥次郎兵衛と喜多八のコンビも金比羅・善通寺・弥谷寺をめぐっています。
DSC01390善通寺
五岳を背景にした善通寺(拡大図)
 これについても、金比羅詣でのついでに善通寺に詣でているのだと思っていたのですが、そうとばかりは言えないようです。
善通寺参りのついでに、金毘羅山に参っていた信者の話です。
主人公は酒井弥蔵という阿波の商人です
金毘羅信仰が高揚期を迎える19世紀初頭に阿波国半田村で商家を営んでいた父・武助と母・お芳の子として生まれました。半田町は吉野川中流にある町で、素麺が有名な所です。彼の父は、俳人でも有り、その影響から弥蔵も俳諧をたしなむ一方、易・相撲・芝居などにも興味を持って注解書を書くほどであったようです。また神仏への信仰心も篤く、亡くなる明治25年(1892)までの間に、伊勢始め高野山など数多くの参詣旅行をしていたことが、彼が残した参拝記録や日記から分かります。
 しかし、彼の旅は参拝だけでなく、仕事上の旅もありました。彼の商売記録である『大福帳』には、半田の大きな薬屋の代行として、目薬の商品入れ替えのための旅もあったようです。富山の薬売りをイメージしますが、そのため旅慣れていたようです。
  そんな彼が最も多く訪れていたのが、お隣の讃岐でした。
弥蔵の住んでいた半田からは、吉野川を渡り箸蔵寺を通って、二軒小屋を越えると讃岐の山脇集落に降りていけます。健脚な彼は、一日でこんぴらさんや善通寺に詣でる事はできたでしょう。
 そのため、弥蔵も讃岐へは頻繁に旅をしています。

233善通寺 五岳
善通寺から弥谷寺への道
さて、平蔵はこんぴらさんに何回くらいお参りしているとおもいますか?
 研究者が彼の参詣記録をまとめた一覧表によると、生涯を通じて200回以上も参拝しているようです。 弥蔵の金毘羅参詣記録から研究者は次のようなことを指摘します。
「特定の日の参拝回数が極端に多い」というのです。
特定の日とは、3月21日と10月12日です。
なぜ酒井弥蔵は、この日を選んで金毘羅参詣に行ったのでしょうか。まず、3月21日が、どんな日であったかを見てみましょう
 こんぴらさん側のことを調べても分かりません。これは善通寺と関係があるのです。
善通寺は空海の生誕地とされ「弘法大師信仰」の高まりの中で、信者達からは「聖地」とされてるようになりました。弥蔵も弘法大師信者であったようです。彼は、生涯を通じて50回以上、善通寺に参詣をしています。そして、善通寺を同参拝した日には、46回もこんぴらさんにも参拝しているのです。しかし、これだけだとこんぴらさんにお参りしたついでに、善通寺にも参拝したとも言えます。
IMG_8068善通寺五重塔
ところが参拝日が集中している3月21日は、善通寺に特別な行事があった日なのです。
この日は弘法大師が入定した日です。真言系の寺院にとっては特別詣の日に当たります。高野山では弘法大師の古くなった御衣を取り替える「御衣替」が行われます。そして、善通寺でも「百味講」という講が行われていたようです。では、この「百味講」とは、どのようなものなのでしょうか?

IMG_8067善通寺
 『毎年三月正御影供百味御膳講之記』には、「百味講」について次のように記します
讃岐之国善通寺は弘法大師第一の旧跡たる事、皆人の知る処にして、其昔より毎年三月二十一日信心の輩 飲食を奉る事久し。一度其講中に縁を結ぶ者は真言をさづかり又七色の御宝のおもひ出此事にして、現当二世安楽うたがひなきと、言事を物を拝し奉りて有がたさの数々短き筆に印しがたし。誠に此世 人々に進る者也。
 ここからは百味講が、3月21日に信徒が百味(いろいろな飲食物)を奉納し、善通寺に伝わる「七色の御宝物」を拝見する講だったことが分かります。弥蔵の『散る花の雪の旅日記』によると開帳される「七色の御宝物」とは、
一 泥塔    大師七歳之御作
一  五色仏舎利 八祖伝来
一 水瓶    大師の御所持
一 木鉢    同断
一 一字一仏法華経文字 大師尊形御母君
一 二十五条袈裟 祖師伝来
一 閻浮檀金錫杖 同断
の七つの宝物であったと記します。弥蔵の百味講最初の参加は『散る花の雪の旅日記』の中で、 
「斯講中を結びて、大師の霊場に参詣に趣事、去年今年両度なり」
とありますから弘化二年のことのようです。それ以降、毎年のように百味講に参加しています。
IMG_8069善通寺誕生院
 どうして弥蔵は百味講に参加するようになったのでしょうか?
百味講は、単に宝物開帳の場であっただけでなく、先祖供養の場でもあったようです。弥蔵が最初に参加した弘化二年には、祖父・孫助や父・武助を始め合計15名の供養を行っています。また文久三年の百味講では、母や妻など五名が加えられています。ここから弥蔵が百味講に毎年参加するようになったのは、先祖供養を行うためだったことがうかがえます。
 以上から三月二十一日は、先祖供養のために善通寺での百味講参加するために讃岐にやってきて、その途上にあるこんぴらさんにお参りしたようです。彼にとって、この日は善通寺が主であり、こんぴらさんは従だったのかもしれません。
DSC01232

 この参拝絵図は和歌山の沽哉堂から出された『象頭山参詣路紀州加太ヨリ讃岐廻並播磨名勝附』です。左下が大坂で、紀州加太から播磨を経由して金毘羅へ参詣するための経路が描かれています。
DSC01193

この中にも、弘法大師誕生の地である善通寺や、八十八ヶ所霊場の弥谷寺なども描かれています。高野山をお参りする参拝者にとって「弘法大師生誕地・善通寺」という地名は、彼らを惹き付ける魅力的な聖地であったのでしょう。そして、実際に和歌山から舟で阿波に上陸した参拝客には「この機会にこんぴらさんにもお参りしよう」という意識が強くなって行ったのかも知れません。
 こんぴらさんの幕末の賑わいは、善通寺や四国霊場、或いは法然をめぐる巡礼などの聖地巡りの渦の中から生まれてきたのかも知れないと思うようになってきたこの頃です。
289金毘羅参詣案内大略図
    さて、もうひとつの疑問であった酒井弥蔵の金毘羅詣が10月12日に多いのはどうして?これについては、また次回に・・・
関連記事は
参考文献 
  鬼頭尚義 寺社参拝の意識 酒井弥蔵の金毘羅参詣記録から見えてくるもの 京都精華大学紀要44号

10 

                                                         

浄瑠璃の義太夫としての増田穣三

 私が穣三が浄瑠璃が玄人はだしの腕前であることを知ったのは、明治37年に出版された「讃岐人物評論 讃岐紳士の半面」という書物からである。この本は、当時の香川県の政治経済面で活躍中の50人あまりの人物を風刺を効かしながら紹介している。その中に穣三も取り上げられ
得意の浄瑠璃は鞘橋限りなきの愛嬌をして撥(ばち)を敲きて謹聴せしめ得たるもの」
と記されている。
 最初は、金比羅山の門前町として明治になって一層の賑わいを見せる琴平で、師匠について身につけた芸かと思ったがどうも違うようだ。
人形浄瑠璃という形で、阿波から伝わった新しい「文化伝播」を吸収した成果なのだ。どんな風にして若き日の譲三が浄瑠璃大夫の名手に成長していったのかを、人形浄瑠璃を通じての阿波とまんのう町の明治期の文化交流の中から見ていきたい。
 
イメージ 4

 明治期における阿波人形浄瑠璃のまんのう町での流行

  明治期になると文物の経済統制がなくなり、人と物が自由に動き出す。その恩恵を受け経済成長を遂げたもののひとつに阿波の藍産業がある。藍生産者や藍商人は資本を蓄積し、豪壮な館が林立する屋敷を建てるようになる。さらに、その経済力を背景に、数々の文化活動の支援者ともなる。藍の旦那衆が保護し、夢中になったのが人形浄瑠璃である。

 その一座が讃岐山脈を越えて、まんのう町で「公演活動」を行っていた記述が仲南町誌に残されている。「塩入の山戸神社大祭には、三好郡昼間の「上村芳太夫座」や「本家阿波源之蒸座」がやって来て、「鎌倉三代記」とか、「義経千本桜」などを上演した。」とある。
イメージ 5

人形一座は、三好郡昼間からやってきた。

昼間は、現在の東みよし町に属し、箸蔵寺の東側にあたり県道4号線(丸亀ー三好線)の徳島側の起点でもある。後に穣三は、七箇村長として、男山を経て東山峠を切り通して塩入までの車馬道を開通させることになる。それ以前は、この地区の人々の往来は徳島県側の各集落から樫の休場(二本杉越)を経て、塩入集落に到る峠越が阿讃往来の主要ルートであった。人形師の一座も人形や衣装などの道具類を荷物箱に入れ前後に振り分けて担いで塩入に入って来た。
 ひとつの人形の扱いには3人の人形遣いが必要となる。3体が同時に舞台に立つ演目だと、それだけで9人、さらに太夫や三味線が何人か加わると総勢は30人前後にもなったという。
イメージ 6

 塩入はその名の通り、阿波への塩の集積地であると同時に、

徳島からの借子牛の市が立つようになるなど明治になると急速に発展し、宿場町的な機能や形態をを持つようになった。
 明治期の国土地理院の地形図などを見ると宿場町化している様子が読み取れる。隣村の財田の戸川や琴南の美合なども明治期に宿場町化した地域である。阿波からの人と物が行き交い経済的なつながりや婚姻関係なども幾重にも結ばれ、阿波との関係が明治期に強くなった地域であった。これを背景に秋の大祭には、明治のいつの頃から昼間からの人形一座が招かれるようになるなど、峠を越えての阿讃の文化交流が深まっていった。
 三味線の響きと浄瑠璃の語りにあわせて人形が演じる劇を初めて見たときの塩入・七箇村の人々の驚きと喜びは、いかばかりであったろう。幼い増田穣三や一良も、人形浄瑠璃がやって来るのを楽しみにしていただろう。祭りの後は、誰彼となく太夫の浄瑠璃を口ずさむようになる。そして、塩入や春日を中心に浄瑠璃が流行し、自分たちで芝居をやりたいという気運にまで高まる。しかし、人形浄瑠璃をやるには人形頭も衣装も人形遣いの技量もない。そこで、人間が演じる「農村歌舞伎・寄芝居」という形で上演するようになっていく。
 素人が集まって農閑期に稽古をして、衣裳などは借りてきて、祭の晩や秋の取入れの終わった頃に上演する。そして見物人からの「花」(祝儀)をもらって費用にあてる。
  
イメージ 1
塩入の山戸神社拝殿 人形浄瑠璃の舞台として使用

明治中期 七箇村で広がる農村歌舞伎

 仲南町誌には、農村歌舞伎について次のような記述が載せられている。 
明治中頃、春日地区で、増田和吉を中心に、和泉和三郎・山内民次・林浪次・大西真一・森藤茂次・近石直太(愛明と改名)・森藤金平・太保の太窪類市・西森律次たち、夜間増田和吉方に集合して歌舞伎芝居の練習に励んだ。ひとわたり習熟した後は、増田穣三・増田和吉・和泉広次・近石清平・大西又四郎たちの浄瑠璃に合わせて、地区内や近在で寄せ芝居を上演披露し、好評を得ていた。
 明治43年ごろには、淡路島から太楽の師匠を招いて本格的練習にはいり、和泉兼一・西岡藤吉・平井栄一・大西・近石段一・大西修三・楠原伊惣太・山内熊本・太山一・近藤和三郎・宇野清一・森藤太次・和泉重一 ・増田和三郎たちが、劇団「菊月団」を組織。増田一良・大西真一・近石直太(愛明)・本目の山下楳太たちの浄瑠璃と本目の近石周次の三味線に合わせて、歌舞伎芝居を上演した。当地はもちろん、財田黒川・財田の宝光寺・財田中・吉野・長炭・岡田村から、遠く徳島県下へも招かれていた。その出し物は、「太閤記十役目」「傾城阿波の鳴門」「忠臣蔵七役目」「幡州肌屋敷」「仙台萩・政岡忠義の役」「伊賀越道中沼津屋形の役」などを上演して好評を博していた。 (仲南町誌617P)

 この資料からは明治中頃以後、春日を中心に農村歌舞伎の練習が農閑期に行われ、各地で上演され好評であったことが紹介されている。この中に「ひとわたり習熟した後は、増田穣三・たちの浄瑠璃に合わせて」という部分から穣三が太夫を演じていたことが分かる。
イメージ 2

  増田本家のふすまに張られた一良使用の浄瑠璃床本

人形浄瑠璃の太夫とは、どんな役割なのだろうか。

   徳島の阿波人形浄瑠璃十郎兵衛屋敷を訪ねて、学芸員の方にたずねた。それによると、太夫は義太夫節で物語を語り、登場人物の言葉、動作、心情などを表現する。見台(けんだい)に乗せた床本(ゆかほん)という台本を読んでいく。ただ読むのではなく、人形の所作に合わせて太夫自身が声や顔の表情、身振り手振りまで交えて、全身で人形に魂を吹き込んでいく。声の高さや調子を変えて、男役、女役も演じ分ける。太夫の語りは、芝居全体の雰囲気を演出する重要な役目を担うことになる。以前は、太夫が一座の責任者を務めていたという。役者は人形で、人形遣いは表には出ないので、太夫は一座のスターでもあり、キーパーソンでもあったようだ。
さらに、こんなことも教えてくれた。
「浄瑠璃を詠っている藍屋敷の旦那は、祭りの時には人形一座を呼んで、村の神社の境内に小屋掛けさせ上演させることが多かったようです。その時に「太夫は俺にやらせろ」と、一番おいしい所を自分が語ることもあったようです。つまり、お金を払ってでも太夫をやりたいと思う人は多く、まさにみんなの憧れでもあったようです。」
さらに三味線弾きとの関係については、次のように教えてくれた。
「三味線弾きの方が師匠で、師匠が弾きながら弟子が語るという練習が一般的です。いまでも浄瑠璃の発表会では、師匠の三味線弾きの方が何人もの弟子さんの伴奏を行う姿が見られます。また、三味線弾きは遠くからプロの方を呼んで上演することもあったようです。」
 
イメージ 3


穣三も太夫を演じるためは稽古をつけてもらいに、師匠の下に通ったと思われるがそれがどこかは分からない。しかし、人や物の流れから推察すれば、それは峠を越えた向こう側の阿波のどこかではなかったのか。
 峠越えを当時の人たちは苦にしていない。東山峠の向こう側の男山の人たちは、琴平程度なら日帰りで帰っていたと云うし、後に増田一良も土讃線誘致運動の一環として、春日から東山峠を抜けて池田まで行き財田経由で琴平まで1日で帰っている。穣三も未生流の師匠として徳島側に出向き、その折りに浄瑠璃を教わっていたということも考えられる。心理的にも峠の向こうの阿波側は、今よりも遙かに近い存在であった。
イメージ 7

  こうして20代後半の穣三は、「躰幹短小なるも能く四肢五体の釣合いを保ち、秀麗の面貌と軽快の挙措とは能く典雅の風采を形造」するハンサムな風貌の上に、「未生流師範」「浄瑠璃太夫」「呉服商」「酒造業」「増田家分家の若旦那」という地位や素養に風流人としての「粋さ」も身につけ、周囲からも1 目置かれる存在に成長していった。

徳島県 剪宇峠と豊丈集落のお堂と家屋を訪ねて

イメージ 1

穴吹から剣に向かう国道492号を走るときには、この白人神社に祈願と安全の感謝。台風で被害を受けていた本殿も修復され輝いていました。さあ、とりあえずの目標は剪宇峠です。

イメージ 15

古宮で右折して県道259号に入り、北丈集落を目指します。
県道とは名ばかりの狭い急勾配の道を登っていくと・・

イメージ 2

青い屋根のお堂が迎えてくれました。北丈のお堂のようです。
この日はちょうど観音石像の開眼日で、お寺さんや総代の方がやっってきてお堂が開けられていました。お堂に上がり、町指定の藤原期の阿弥陀仏にお参りさせていただきました。 
イメージ 3
世話役さんから話を伺うと、昭和50・51年の台風災害でこの北又集落の多くの人が里に下りたそうです。それから半世紀近くたって、故郷を顧みるゆとりが出来て観音様を迎えることができたとのこと。このお堂が、散りじりになった人たちの交流の場所になることを願っているとのことでした。お堂が人々を、再び結びつけているのです。こんな風に受け継がれていくお堂もあるのだと教えられました。
イメージ 4

開眼されたばかりの観音様の足下には「ありがとう」の言葉が刻まれていました。
いろいろと御接待を受けてお腹もいっぱいに・・・・感謝イメージ 5

車をさらに上に走らせると最後の家屋が現れました。ここから見えるのが剪宇峠です。大きな二本の杉が目印になります。

イメージ 6

稜線下の県道をしばらく行くっと、道は下り初めそして終点へ。
イメージ 7

ここが剪宇峠直下の「駐車場」になります。
杉木立に囲まれた静かな所です。

イメージ 8

峠には大きな杉が迎えてくれました。地元の人は二本杉と呼んでいます。最大の太さは、幹周りが地上高I㍍で南側のは2・85、北側のは5・65㍍で、遠くから見ると周りの樹木よりもひときわ高く目立ちます。
 杉の根元の小広場には嘉永3年(1850)建立の常夜灯一基と石室内に大師石像が二体鎮座していました。

イメージ 9
向かって右側は明和9年(1772)、左側は弘化4年(1847)とあり、西方の津志嶽に向かって鎮座しています。かつては 旧暦の7月26日に一宇と古宮から大勢の人達が集まって、護摩法要が催され、回り踊りの後、真夜中の2時頃に昇る三体の月を見る行事があったといいます。 
イメージ 10

巨樹の根元に石仏が抱き込まれています。いつの日か木と一体化してしまうのかもしれません。
手水鉢がありますが、これは剪宇の上の戦の窪で落武者狩りがあった時、亡くなった人達を祀った石を巾着に入れて運んだものが大きくなったと伝わり、キンチャク石と呼ばれています。
いろいろな伝説が、深い峠には生まれて消えていきます。
イメージ 11

この峠は、美馬郡一宇と穴吹町古宮の860㍍にある峠で、昔は産業や姻戚間の交流の大動脈でした。峠のいわれは、猪狩の際の解体小屋を宇と呼んでいたところから剪宇峠とついたと言います。
お堂で、話をきいた総代さんも子どもの時分に、畑で積んだお茶の葉を背負って一宇の乾燥場に持って行くために、この峠を何度も越えたと話してくれました。しかし、今は大杉の根元に安置された大師参拝に利用するだけで、訪れる人も少なくなっています。高い杉の梢の先を、秋の風が渡っていきます。イメージ 12

登ってきた北丈の集落が下に見えます。
イメージ 13
しかし、住んでいる人はいないようです。


イメージ 14

剣周辺の山々に、秋がそこまでやってきている気配を感じました。

浄瑠璃の義太夫としての増田穣三

 私が穣三が浄瑠璃が玄人はだしの腕前であることを知ったのは、明治37年に出版された「讃岐人物評論 讃岐紳士の半面」という書物からである。この本は、当時の香川県の政治経済面で活躍中の50人あまりの人物を風刺を効かしながら紹介している。その中に穣三も取り上げられ「得意の浄瑠璃は鞘橋限りなきの愛嬌をして撥(ばち)を敲きて謹聴せしめ得たるもの」と記されている。
 最初は、金比羅山の門前町として明治になって一層の賑わいを見せる琴平で、師匠について身につけた芸かと思ったがどうも違うようだ。次第に、阿波からの影響ではないかと考えるようになった。それは人形浄瑠璃という形で、阿波からの新しい「文化伝播」を吸収した成果なのではないかと思うようになったからだ。どんな風にして若き日の譲三が浄瑠璃大夫の名手に成長していったのかを、人形浄瑠璃を通じての阿波とまんのう町の明治期の文化交流の中に見ていきたい。
  

明治期における阿波人形浄瑠璃のまんのう町での流行

 明治期になると文物の経済統制がなくなり、人と物が自由に動き出す。その恩恵を受け経済成長を遂げたもののひとつに阿波の藍産業がある。藍生産者や藍商人は資本を蓄積し、豪壮な館が林立する屋敷を建てるようになる。さらに、その経済力を背景に、数々の文化活動の支援者ともなる。藍の旦那衆が保護し、夢中になったのが人形浄瑠璃である。



 その一座が讃岐山脈を越えて、まんのう町で「公演活動」を行っていた記述が仲南町誌に残されている。「塩入の山戸神社大祭には、三好郡昼間の「上村芳太夫座」や「本家阿波源之蒸座」がやって来て、「鎌倉三代記」とか、「義経千本桜」などを上演した。」とある。
 人形一座は、三好郡昼間からやってきた。昼間は、現在の東みよし町に属し、箸蔵寺の東側にあたり県道4号線(丸亀ー三好線)の徳島側の起点でもある。後に穣三は、七箇村長として、男山を経て東山峠を切り通して塩入までの車馬道を開通させることになる。それ以前は、この地区の人々の往来は徳島県側の各集落から樫の休場(二本杉越)を経て、塩入集落に到る峠越が阿讃往来の主要ルートであった。人形師の一座も人形や衣装などの道具類を荷物箱に入れ前後に振り分けて担いで塩入に入って来た。
 ひとつの人形の扱いには3人の人形遣いが必要となる。3体が同時に舞台に立つ演目だと、それだけで9人、さらに太夫や三味線が何人か加わると総勢は30人前後にもなったという。
 塩入はその名の通り、阿波への塩の集積地であると同時に、徳島からの借子牛の市が立つようになるなど明治になると急速に発展し、宿場町的な機能や形態をを持つようになった。
 明治期の国土地理院の地形図などを見ると宿場町化している様子が読み取れる。隣村の財田の戸川や琴南の美合なども明治期に宿場町化した地域である。阿波からの人と物が行き交い経済的なつながりや婚姻関係なども幾重にも結ばれ、阿波との関係が明治期に強くなった地域であった。
 秋の大祭には、明治のいつの頃から昼間からの人形一座が招かれるようになるなど、峠を越えての阿讃の文化交流が深まっていった。三味線の響きと浄瑠璃の語りにあわせて人形が演じる劇を初めて見たときの塩入・七箇村の人々の驚きと喜びは、いかばかりであったろう。それまでは天領「金比羅さん」の金丸座で演じられる歌舞伎は遙か遠くのものであった。それが自分の村の神社の境内で見ることが出る。この驚きと喜びは、いかばかりであったろう。幼い増田穣三や一良も、人形浄瑠璃がやって来るのを楽しみにしただろう。祭りの終わった後は、誰彼となく太夫の浄瑠璃を口ずさむようになる。塩入や春日を中心に浄瑠璃が流行し、自分たちで芝居をやりたいという気運にまで高まっていく。しかし、人形浄瑠璃をやるにも人形頭も衣装も人形遣いの技量もない。そこで、人形でなく人間が演じる「農村歌舞伎・寄芝居」という形で上演するようになっていく。
 素人が集まって農閑期に稽古をして、台詞はしゃべらずに浄瑠璃の大夫に併せて演じる。衣裳などは借りてきて、祭の晩や秋の取入れの終わった頃に上演する。そして見物人からの「花」(祝儀)をもらって費用にあてる。
  明治中期 阿讃の麓に広がる農村歌舞伎
 仲南町誌には、農村歌舞伎について次のような記述が載せられている。
 明治中頃、春日地区で、増田和吉を中心に、和泉和三郎・山内民次・林浪次・大西真一・森藤茂次・近石直太(愛明と改名)・森藤金平・太保の太窪類市・西森律次たち、夜間に増田和吉方に集合して歌舞伎芝居の練習に励んだ。ひとわたり習熟した後は、増田穣三・増田和吉・和泉広次・近石清平・大西又四郎たちの浄瑠璃に合わせて、地区内や近在で寄せ芝居を上演披露し、好評を得ていた。
 明治43年ごろには、淡路島から太楽の師匠を招いて本格的練習にはいり、和泉兼一・西岡藤吉・平井栄一・大西・近石段一・大西修三・楠原伊惣太・山内熊本・太山一・近藤和三郎・宇野清一・森藤太次・和泉重一 ・増田和三郎たちが、劇団「菊月団」を組織。増田一良・大西真一・近石直太(愛明)・本目の山下楳太たちの浄瑠璃と本目の近石周次の三味線に合わせて、歌舞伎芝居を上演した。当地はもちろん、財田黒川・財田の宝光寺・財田中・吉野・長炭・岡田村から、遠く徳島県下へも招かれていた。その出し物は、「太閤記十役目」「傾城阿波の鳴門」「忠臣蔵七役目」「幡州肌屋敷」「仙台萩・政岡忠義の役」「伊賀越道中沼津屋形の役」などを上演して好評を博していた。 (仲南町誌617P)
 
 この資料からは明治中頃以後、春日を中心に農村歌舞伎の練習が農閑期に行われ、各地で上演され好評であったことが紹介されている。この中に「ひとわたり習熟した後は、増田穣三・たちの浄瑠璃に合わせて」という部分から穣三が太夫を演じていたことが分かる。
  人形浄瑠璃の太夫とは、どんな役割なのだろうか。
   徳島の阿波人形浄瑠璃十郎兵衛屋敷を訪ねて、学芸員の方にたずねた。それによると、太夫は義太夫節で物語を語り、登場人物の言葉、動作、心情などを表現する。見台(けんだい)に乗せた床本(ゆかほん)という台本を読んでいく。ただ読むのではなく、人形の所作に合わせて太夫自身が声や顔の表情、身振り手振りまで交えて、全身で人形に魂を吹き込んでいく。声の高さや調子を変えて、男役、女役も演じ分ける。太夫の語りは、芝居全体の雰囲気を演出する重要な役目を担うことになる。以前は、太夫が一座の責任者を務めていたという。役者は人形で、人形遣いは表には出ないので、太夫は一座のスターでもあり、キーパーソンでもあったようだ。さらに、こんなことも教えてくれた。
「浄瑠璃を詠っている藍屋敷の旦那は、祭りの時には人形一座を呼んで、村の神社の境内に小屋掛けさせ上演させることが多かったようです。その時に「太夫は俺にやらせろ」と、一番おいしい所を自分が語ることもあったようです。つまり、お金を払ってでも太夫をやりたいと思う人は多く、まさにみんなの憧れでもあったようです。」
  さらに三味線弾きとの関係については、次のように教えてくれた。
「三味線弾きの方が師匠で、師匠が弾きながら弟子が語るという練習が一般的です。いまでも浄瑠璃の発表会では、師匠の三味線弾きの方が何人もの弟子さんの伴奏を行う姿が見られます。また、三味線弾きは遠くからプロの方を呼んで上演することもあったようです。」

 穣三も太夫を演じるためは稽古をつけてもらいに、師匠の下に通ったと思われるがそれがどこかは分からない。しかし、人や物の流れから推察すれば、それは峠を越えた向こう側の阿波のどこかではなかったのか。峠越えを当時の人たちは苦にしていない。東山峠の向こう側の男山の人たちは、琴平程度なら日帰りで帰っていたと云うし、後に増田一良も土讃線誘致運動の一環として、春日から東山峠を抜けて池田まで行き財田経由で琴平まで1日で帰っている。穣三も未生流の師匠として徳島側に出向き、その折りに浄瑠璃を教わっていたということも考えられる。心理的にも峠の向こうの阿波側は、今よりも遙かに近い存在であった。 

  こうして20代後半の穣三は、「躰幹短小なるも能く四肢五体の釣合いを保ち、秀麗の面貌と軽快の挙措とは能く典雅の風采を形造」するハンサムな風貌の上に、「未生流師範」「浄瑠璃太夫」「呉服商」「酒造業」「増田家分家の若旦那」という地位や素養に風流人としての「粋さ」も身につけ、周囲からも一目置かれる存在に成長していった。

 「三好町史」を原付バイクに詰め込んで、東山詣でが続く。
 
今日のミッションは「葛籠から樫の休場(二本杉)を経て大川山までの林道ツーリング」だ。まんのう町塩入から入り、県道4号(丸亀ー三好線)を財田川の源流沿いにツーリング。原付はスピードが出ないために、いろいろなものをゆっくりと眺められるし、考えられる。狭いソラの集落の道にも入って行きやすい。最適だ。

東山峠から一気に男山の小川谷に架かる橋まで下る。ここから葛籠集落の入口までは広い農道が整備されている。

葛籠集落の道沿いには、行き交う人々の安全を祈ってかお地蔵さんがいくつか見受けられる。ここは東山峠越の新道が整備される明治40年までは、樫の休場を越える塩入街道の宿場的役割を果たしていたという。
葛籠が繁昌していた「気配」は、今は残された屋敷跡の立派な石垣くらいしか感じることはできない。

傾斜した畑の中に「山祗神社」が鎮座する。 祭神は大山風命
祭礼には獅子舞が奉納される。この集落も大川神社の祭礼に参加するが、香川県から多数の獅子舞がやってくる。そこで「文化的交流」が行われてきたために獅子舞は、讃岐との流れをく んでいると言われる。大川神社の信仰を通じての阿讃の交流の一コマかもしれない。
イメージ 5

 集落の南側は「前山」が立ちふさがり、昼間方面との交通を難しくしてきた。
明治になって昼間から東山まで新道が整備されて、葛籠から樫の休場経由の塩入街道は繁盛する。今では、それも残された屋敷跡の立派な石垣からしか察することができないが・・・

集落を抜けてさらに高みに林道を上ると、眼下にいま抜けてきた葛籠集落 
そして小川谷川の向こうに貞安が見えてくる。 
ここも天空に通じるソラの集落だ。

葛籠林道の終点。
ここから大平までは「林道 樫の休場線」が阿讃山脈の稜線の阿波側を走っている。
右へ行くと馬瓶 → 田野々 → 仲野 → 太刀野山へと吉野川へ下りて行く。。このルートも塩入街道のひとつだった。
ここを左に曲がり、樫の休場へ。
中蓮寺山の枝打ちされた明るい杉林の中を抜けていくと・・・
樫の休場に飛び出した。

北側の讃岐の眺望が開ける。
眼下に塩入集落。
その向こうに満濃池が広がる。

この峠には6本の杉が立っている。これが讃岐方面から見ると2本の大杉が並んでいるように見えるので、讃岐側の地元の人たちは「二本杉」と呼んできた。
つまり地図などの公式文書には「樫の休場」、
讃岐の地元の呼称は「二本杉」ということになろうか。
最期に、三好町史の塩入街道「樫の休場」についての記述を紹介したい。
三好町史 民俗編 309P
  東山では、北へ行くにも南へ行くにも峰を越さなければならず、東へ行くにも西へ行くにも谷を渉らなければならなかった。そこでは、道を整えて人が通ったのではなくて、人が通った足跡が自然に道としての形を整えていったと思う。

 東山からの道は、まず讃岐へ通じ、人も物資も吉野川筋へ山入するよりも讃岐へ往来したと思われる。それは小川谷に沿って昼間へ山たり、峰を越えて昼間へ山ることが地勢から見て困難であったことにもよるが、それよりも、琴平や丸亀が商業的にも、文化的・情報的にも進んでいだことによると思う。江戸時代以峰、行政的には阿波藩に属したが、それでも吉野川筋への往来が讃岐への往来と並ぶという程ではなかった。
 讃岐への道は、
① 内野から法市・笠栂を経て水谷・二本杉(旧称・樫の休場)から塩入へ。
②葛龍から水谷・二本杉を経て塩入へ。
③貞安・光清からは男山峰を越えて塩入へ。
④差山(指出)の峰を越えて財田へ。
⑤滝久保からは峰伝いに塩入や財田へ出ていた。
どの道も塩入や財田を径て琴平・善通寺・丸亀をめざすものであった。足が達者であった昔の人は、一日で琴平へ往復できたようである。
これらはいずれも徒歩の道であって、それぞれの集落の尾根を登って峰を通る道であった。尾根を経て峰を行く道は、最短距離を行く道であって迷うことも少なく、雪に埋まることも少なかった。
 また耕地を損ずることも少なし利点があった。が、それだけに急坂が多かったし、つづら折りに曲がってもいた。足掛りだけの徒歩の道であった。荷物は背負ったり、前後に振り分け玉屑に加けたり、天秤棒にぶら下げて運んだりした。
現在とは異なり、琴平・善通寺・丸亀等の商業圈に属していた。どの集落も奥地ほど讃岐に近いので便利であり、開化の土地であった。昔は、葛龍の奥にもなお人家があり、男山の奥にも「二本栗」・「にのご」と集落が続いていた。

三好町男山の徳泉寺について

徳泉寺 男山2
男山の徳泉寺
まんのう町塩入から県道4号(丸亀ー三好線)を財田川源流に沿って原付バイクを走らせる。15分ほどで東山峠に出る。ここから三好町の昼間方面に下っていく。二本栗キャンプ場の上の分岐を右にたどると東山の男山集落へと入っていく。

徳泉寺 男山1
徳泉寺
集落の中に新築中の銅板葺の赤い本堂が見えてくる。徳泉寺だ。
今日は、このお寺についての報告。 
 この男山の地に、美馬の安楽寺で修行した僧が「奥の院」と呼ばれる坊を構えたのが天正十八年(1580)のこと。安楽寺は興正寺派の阿波・讃岐における布教センターの役割を果たし、多くの僧侶を阿讃の村々に送り出し、各地に「道場」を立ち上げていく。そのひとつが徳泉寺になる。阿讃の里のお寺は、どこもそんな歴史を持つ。 
 しかし、この道場は一度は「挫折」する。それを再興し、お寺にグレードアップさせたのが教順である。
教順の先祖は讃岐の落人と伝えられ、次のような話が残っている。
教順の祖先は、讃岐の宇足郡山田の城主後藤左衛門太郎氏正。氏正が瀧の宮の城主蔵人に敗れ、阿波三好郡太刀野山に隠れ住んだ。讃岐からの落武者氏正の孫の重次の二男が教順であり、文禄二年(1592)田野々に生まれ、6歳から讃岐金倉の念宗寺で学んだという。
 その後、教順の母方の伯母が東山の大西庄屋に嫁いでおり、その家に三年ほど寄寓していた。そして、庄屋甚左衛門(教順の従兄)の理解と協力を得て、男山の「奥の坊」再建に着手することになる。 教順30歳 元和7年(1621年)のことであった。
徳泉寺 男山6
徳泉寺
教順は博学多才で徳高く、自宗他宗にかかわらず人々の世話をしたので帰依する人が増えた。
 お寺といえば本堂や鐘楼があって、きちんと伽藍がととのっているものを想像する。しかし、この時代の真宗寺院は、「道場」と呼ばれていた。ちっぽけな掘建て小屋のようなものを作って、そこに阿弥陀仏の画像や南無阿弥陀仏と記した六字名号と呼ばれる掛け軸を掛けただけの施設だった。
蓮如筆六字名号】 真宗大谷派 長命寺 上杉謙信の位牌を安置する真宗大谷派の名刹 創建弘安・正応年中 山形県米沢市
六字名号

そこへ農民たちが集まってきて念佛を唱える。大半が農民だから文字が書けない、読めない、そのような人たちにわかりやすく教えるには口で語っていくしかない。そのためには広いところではなく、狭いところに集まって一生懸命話して、それを聞く。このように道場といわれるものが各地に作られる。「道場」の責任者の一人が教順であった。この道場が発展してお寺になっていく。

浄土真宗の道場(飛騨の嘉念(かねん)房の復元図)

教順が男山で道場を立ち上げていた時期は、美馬の安楽寺が教線ラインを、吉野川流域や阿讃の山々を越えて中讃地域へ伸ばしていた時期でもあった。安楽寺の支援を受けながら教順は、寺院への脱皮を図ろうとする。そのためには本尊を安置し、寺号を手に入れる必要がある。そこで東山の有力者である男山の喜兵衛、葛韻の四郎兵衛、内野の甚太夫、石本の孫右衛門、増川の弥兵衛の五人に協力を依頼。彼らの支援を取り付けた上で、教順は動き出す。
  ちなみに本号免許や法宝物の下付については、本山への礼金や冥加金の納入が必要でした。西本願寺の場合、「公本定法録 上」(「大谷本願寺通紀」)には、その「相場」が次のように記されている。
木仏御礼      5両2分
木仏寺号御礼
開山(親鸞)絵像下付 24両2分
永代飛檐御礼 両1分
寛永十五年(1638)男山の喜兵衛(後の大谷)と利右衛門(後の市場)の二人が奉加帳を回して、38両を集める。これを資金に寛永18年(1641)に上洛し、本願寺に木仏と寺号の徳泉寺を願い出た。さらに、木仏と寺号が免許されると翌年再び上洛して、本尊仏に本願寺聖人良知上人の裏判をもらい受ける。本尊仏は長さ二尺、総金泥弥陀九重座、仏師左近の作であり、裏判は寛永十八年である。

阿弥陀如来像(絵像本尊)
 正式に寺院として認められた徳泉寺は、東山における文教センターの役割を担っていく。
代々の住職は布教のかたわら寺子屋教育に従事し、維新当時の住職山西家信も子ども達に読み書きを教えていた。
 明治十三年(1880)に小学校として使用されるのを契機に草葺きを瓦葺きに替えた。維新後、教順の子孫である11代山西宗嫌が都合で讃岐観音寺へ移った。後には、伯父甥の関係から長尾良雄が来て12代となった。

徳泉寺 男山4
徳泉寺
 昭和六十三年に本堂屋根の葺き替えと一緒に内陣の改装、仏画・仏壇の彩色、鐘楼の屋根・白亜の改修を行った。そして、現在平成26年には、本堂の建替工事が進んでいる。讃岐の落ち武者の子孫が、ここにあった道場をお寺に成長させて500年の歳月が流れようとしている。
 参考文献 三好町史 民俗編299P
 

 東山峠で結ばれる阿讃 県道4号(丸亀~昼間)線の開通まで

金比羅参拝の道 阿波に塩が入っていく道 阿波から浄土真宗が入ってきた道 借耕牛の通う道

イメージ 1

野口ダムより仰ぎ見る阿讃の山々 この奥に塩入集落がある
東山峠は、阿讃山脈上にある。南の昼間(現三好町)と北の讃岐の七箇村(旧仲南町:現在のまんのう町)をつなぐ。
この峠が出来るまでは、阿波の三加茂・昼間・足代方面から阿讃国境の樫の休場を越えて、塩入集落に至っていた。
そして、福良見から堀切峠を越え岸上村・五条村を通り琴平の阿波町に至る。
金毘羅参りの街道でもあったため三頭越えなどとともに「金毘羅参拝阿波街道」のひとつとされる。
イメージ 2
財田川の源流に沿ってならぶ塩入集落
 
またこの道は讃岐の塩を阿波へ運搬する道でもあった。阿波藩は「鎖国の国」と言われたが生活必需品の塩だけは、この道を通って阿波の奥地にまで入っていった。その拠点となった塩入集落には、うどん屋や旅人宿ができ宿場町を形成していた。
イメージ 3
財田川の源流沿いに東山線は伸びていく。離合可能な走りやすい道である。
 明治時代に入って各藩の「鎖国政策」は取り払われ、「交易自由化」が進められ阿波・讃岐間の交易も活発になる。煙草・藍などの阿波の特産物が盛んに讃岐に入るようになり、人と物の交流が増加する。
 さらに財田の大久保諶之丞の四国新道建設に刺激を受けて、阿讃の両側(七箇村と昼間村)から道路改修が行われ、東山峠で結ばれることになる。これが現在の県道4号丸亀三好線のルーツである。

イメージ 4

東山峠で阿讃が結ばれるまでの経過は次の通り

1 1892年(M25年)に、昼間村長は、「香川県に属する分の改修」を七ケ村長に交渉している。ちなみにこの時の七箇村長は田岡泰。県境を挟んだ両村が東山峠までの新道を責任を持って建設し、東山峠でドッキングすることが計画されたようである。
 そして、工事開始。しかし、当時の里道建設は「全額地元負担」で「全線に係る工費は巨額にして村力の及ぶところにあらず」であえなく中断。
イメージ 5
現在の東山峠 峠手前は切通しになっていて徳島県側にでると明るく開ける。
2 6年後に、郡・県から半額補助を受けて、4ヶ年計画で工事を実施。
  M39年に塩入から伸びてきた道と東山峠でドッキングさせた。
3「新道建設」の際に大きな追い風となったのは、四国新道以後に主要里道の建設  改修に対して、県や郡からの補助金が出るようになったことである。
5 村のリーダーとしては、新道建設の重要性を説くと共に、補助金確保のため県  議会への働きかけが大切になる。
イメージ 6
現在の男山集落 丸亀~三好線がつづら折れに集落を貫いている。

6 認可が下りても今度は、地元負担金を準備しなければならない。これをどうす  るのか。「苦心惨憺一方ならざるものあり」と資料は記している。
  道路を発起した村の負担の大きさとそのリーダーたちの心労は大きいものがあ  った。自分の村を通る道は自分で作るのだという自負と決意がなければ、当時の  里道建設はなかった。


 阿讃国境付近の道路改修は、東山越に新しい新道が建設されたことになる。その結果、それまでの主要道であった、樫の休場越がどうなっていったのかは又の機会に。

吉野川 カヌーで下る水運の歴史 NO4

美濃田の淵の川に浮かぶ「石庭」を過ぎると、吉野川は三加茂台地にぶつかり、流れを大きく北東へ変える。そして見えてくるのが青い橋。さんさん大橋だ。
イメージ 1


私はこの名前を「SUNSUN Bridge」と連想し、なかなか遊び心があってGOODと思っていた。しかし、旧三好町と旧三野町を結ぶので「三三大橋」と名付けられたようだ。この縁から両町は合併することになる?
イメージ 2

この橋を越えた左岸(旧足代村)にも「東の浜」と呼ばれた川港があったと三好町誌には書かれている。
北岸の国道沿いの道の駅を見上げながらカヌーは吉野川の流れに任せて進んでいく。流れが止まったあたりが角浦。ここは南岸の中の庄と北岸の大刀野を結ぶ渡しがあった。明治42年発行の国土地理院の地形図には、「角浦渡」が船のマークとともに記載されている。さらに上流から渡場が 辻 → 下滝 → 不動 → 角浦 → 江口 とあったことが分かる。
イメージ 3

角浦渡には、後に沈下橋が架けられる。そして、その下流に立派な青い橋が架かっている。新大橋が完成後は沈下橋は撤去された。吉野川の沈下橋も少なくなっていく。沈下橋の下をくぐるのは、川下りの楽しみの一つでもあるのだが・・・
イメージ 4

この橋を抜けると、長い瀞場が続く。
東風が強くパドルを漕がないとカヌーは前には進まない。この東風を受けて、かつての川船は上流を目指したのだろう。
イメージ 5

三加茂町史には、吉野川の水運についてこんな記述がある。

 加茂町では、長さ九メートル未満の小型廻船が多く用いられて航行していた。これは積載量は少ないが航行が容易で、船足か速かったので、一般に早船とも呼んでいた。徳島へ下るには約2日を要した。上りは真夏の候は東風を利用しで帆を使ったが、帆の利用ができない季節には徳島から一週間もかかったという。
吉野川をさかのぼる際に、いくつかの難所がある。毛田も難所の一つである。ここでは三隻~五隻の舟がたがいに助けあっで航行したという。
 船主には運送業専門もあったが、仲買い商人を兼ねた人か多かった。下りは買入れた物資を自船に積み、徳島で問屋にその商品を売る。上りは仕入れた物資を積んで帰える。
吉野川沿岸の船着き場を「はま」と呼んた。三好郡では、江口(加茂町)辻(井川町)州津(池田町)川崎(池川町)川口(山城町)は主要な船着場であった。
このほかに小型廻(早船)の積みおろし場があった。本町では、毛田、角、不動、赤池がそれである。
 吉野川か上下する川舟輸送は、明治25五年ごろから、35年までが最盛期であった。本町の川舟輸送業者は、明治5年には13人であったが、明治9年21人となり、同15年には、小廻船が30隻を越え、舟乗労務者も80人を数えるようになった。
 川舟による貨物運賃は舟によっで、まちまちであった。大正元年―月になると、加茂村では、川舟は三艘あっで、その巡行は、一人一里に付七銭、物資は10貫目1里に付3銭であった。
 明治33年8月、徳島ー船戸(川田)間の鉄道開通によっで、麻植郡以東の物資輸送は順次陸上へと移った。平田船(ひらだぶね)が帆に東風をうけて、上流へ消えてゆくかと思うとまた下流から現われて、次々と川上の方へのぼってゆく。こんなのどかな情景を、明治生れの人はみな記憶にとどめていることであろう。

 塩入街道 東山越開通まで七箇村(現まんのう町)を中心に

 前回は丸亀三好線(現県道4号)の建設過程を、徳島の昼間村を中心に見てきました。今回は、香川側の動きを見ていきます。
イメージ 5

 丸亀三好線の建設について、仲南町誌で確認してみます 
この道は七箇村経由金毘羅参詣阿波街道とも呼ばれている。阿波の三加茂・昼間・足代方面から阿讃国境の樫の休場越又は東山越をして塩入村で合流し、一本松を経て七箇村に入り堀切峠を越え岸上村・五条村を通り琴平村の阿波町に至る金毘羅参りの街道であった。
 藩政時代阿波藩は鎖国の国といわれたが生活必需品の塩だけは、この道を通って阿波に入っていた。明治時代に入って、交易の自由化にともないたばこなどの阿波の特産物が盛んに讃岐に入るようになり、また仮耕牛の行き来も盛んになった。そのため明治28年(1895)ごろから漸次道路改修が行われ、現在の県道丸亀三好線の基をなした。
 阿讃国境附近の道路改修は当時としては東山越の方が便利と考えてか、この道を県道として改良したので、樫の休場越はしだいに寂れてしまった。また、堀切峠は明治三三年(一九〇〇)に改修されるまでは現在の県道より五~六mも高い所を通っていた。  (以上 仲南町誌942P)

 丸亀三好線(香川県では塩入街道)の開通までを年表にしてみた。

1890(M23)年 猪ノ鼻越の四国新道の部分開通
         初代七箇村村長に田岡泰(33歳)就任。
9・25 香川県が里道改修補助費取扱規定を定め工費の三分の一を補助決定。町村道改修に県の公費補助が認められ、里道改修促進され、工事申請が増加。
1892 昼間村長田村熊蔵が香川県分の新道改修を七ケ村長田岡泰に依頼。両県から工事を進め東山峠で結びつけることに合意。
1894 四国新道開通式挙行 四県知事が出席して琴平町で行う。
1895 七箇村 東山越里道改修始まる(四国新道への対抗策?)
1899 4月26日 田岡泰が七箇村長退任、
    増田穣三が第二代村長に就任(41歳)増田穣三が「琴平・榎井・神野・七箇一町三村道路改修組合長と為る」
1900 堀切峠の改修終わる
1901 塩入越及び真野里道改修落成式を大井神社境内で挙行
1902 徳島県が4ヶ年継続事業として男山から東山峠への新道     建設への補助金交付決定
1906 東山峠で結合。(後の県道丸亀~三好線)開通
   香川県七箇村と徳島県昼間町を車馬による交通が可能に
   増田穣三 七箇村長退任 第3代 近石伝四郎村長就任

1890年に猪ノ鼻越の「四国新道」が部分開通しています

これが、財田村にもたらした経済効果は大きかったようです。
七箇村の初代村長に就任した田岡泰は、これをどう見たののでしょうか。新道を作り、人とモノが動くようになれば、その沿線にお金が落ちるようになり、経済的な発展をもたらす。ということを目にしたことでしょう。これを見て七箇村も「塩入街道」の新道化(=グレードアップ化)に取り組むことの必要性を痛感したのではないでしょうかか。
新道建設に向けて、2つの追風が吹きます。
①里道改修に県からの補助が受けれるようになったこと。
②徳島県の昼間村長から「新道建設」に向けて「共同戦線」を結ぶことの提案があったこと。
これを受けて田岡泰は1895年に、まずは塩入・琴平間の改修に取りかかります。しかし、予算確保が進まず工事着手に至りません。

イメージ 6

1899年、田岡泰が村長退任し、替わって助役の増田穣三が第2代村長に就任します。

新道建設は、幼なじみの増田穣三にバトンタッチされることになります。穣三は、七箇村だけでは荷が重すぎるのをで、沿線沿いの琴平・榎井・神野七箇の一町三村と道路改修組合を結成します。そして、その組合長に就任し、予算確保に奔走します。
ちなみに、当時は村長は村会議員の互選、そして県会議員も兼務可という「複選制」でした。もし、増田穣三が名刺を持っていたらそこには、香川県議会議員 七箇村長 七箇村議の3つの肩書きが並んでいたはずです。村長がその地域の利益代表として、県会議員として県議会等で道路建設等の補助金確保に奔走する姿が見られるようにななったのがこの時期からのことのようです。
 資金のめどがつき、堀切峠の切通工事が竣工するのが1901年秋のことでした。これを、当時の新聞は次のように伝えています。


イメージ 1

堀切峠から南方の阿讃の山脈を見上げる 
里道塩入線開通までわずか
  明治33年(1900)11月17日『香川新報』
 仲多度郡琴平、榎井両地を起点とし神野七箇両村を経て徳島県三好郡昼間村に至り撫養街道に接続の入里道延長約八里の改修は去る29年2月を以て起工せし。右延長里程中本県に属する里程は四里十六丁にして此の中山間工事と称すへき里程 約二里あり。加ふるに国境に於て四十尺余の切下けあり 神野七箇の村界にても数十尺の開繋ケ所ありて総工費は六万余円の予算にて着手せしものなるか。爾来工事継続し山間部の残工事は来る26日頃を以て終了すへく 又神野村五条より琴平阿波町と東の方榎井村宇旗岡に至り県道に接続すへき間の工事は、目下専ら施工中にて来月中旬頃迄には竣了の予定なり。右両所竣功せは開通に至る事なるか此の里道改修に當りては専ら盡力させしは増田、田岡の諸氏にて沿道村民の寄附又少からさりしなり。
総工費は香川側が6万円余り、徳島側22334円 合計で約8万円。大久保諶之丞発案の四国新道全体の額からすれば1/7程度です。しかし、工事区間から考えれば、決して見劣りがするものではありません。最後に「開通に至る事なるか此の里道改修に當りては専ら盡力させしは増田、田岡の諸氏」と田岡泰前村長と増田穣三町長に賛辞の声を送っています。
 さらに「沿道村民の寄附又少からさりしなり」と結んでいる。
「寄付」という形で地元負担金を負担したのは、どんな人たちだったのでしょうか。『香川新報』に、「木杯と賞状」と見出しのついた次のような記事があります。
イメージ 2

 塩入越里道改修費への寄付一覧 明治33年11月10日
仲多度郡塩入越里道改修費中へ左記名下の金額寄付せし兼により今回木杯1個又は賞状を下付さる。
仲多度郡七箇村 馬場和次郎(75円) 
十郷村 大西貞次郎(40円) 
七箇村 石川広次(40円) 
葛原宇三郎(30円) 
山本喜之次(30円) 
葛原倉蔵(25円)
増田伝次(25円) 
山崎岩次(21円50銭) 
大西三蔵(20円) 
近石歌次(12円) 
山内万藏(12円) 
東淵才次(11円10銭) 
近石藤太(11円)、川原岩次(同) 
近石米次(10円80銭)
増田慶次(12円40銭) 
以下10円 
近石直七 久保弥平、森藤和多次、原田時次、大東又八 横田綾次、垂水村浄楽寺(各10円)其他同郡榎井村 中条亀三(9円)、外69名へは賞状。
 こうして1901年(明治34年)6月9日に 「七箇村塩入越及び真野里道」(丸亀三好線)の落成式が神野村の大井神社境内で行われます。
イメージ 3

 この席に「道路改修組合長」を勤めていた増田穣三は、どんな思いで出席していたのだろうか。11年前に田岡泰村長が昼間村長が約束した「新道を東山峠で結合しよう」という約束を果たしたことになります。
 この香川県側の動きを受けて、徳島県も動き出します。
補助金交付を決定し、1902年から男山~東山峠への区間が「四カ年継続事業」として認定されます。そして4年後の1906年に昼間と東山峠区間が完成します。こうして車馬が通行できる新道が七箇村と昼間村を結ぶことになります。猪ノ鼻峠を越える四国新道の開通から16年後のことでした。沿線の人たちは、新たな時代の始まりと思ったのではないでしょうか。
イメージ 4


四国新道完成後の財田の様子については、次のような記述があります。

四国縦貫の幹線道である四国新道にはしだいに人馬の通行が多くなり、ことに明治29年(1896)善通寺師団が設置されてからは日を追って交通量が増加してきた。土佐・阿波から入隊の兵士やその家族や金毘羅参りの人々は、明治38年に戸川まで乗合馬車が開通してからは馬車を利用するものが多かった。定員わずか8名の馬車でも当時は大量輸送機関であり、利用者も多く繁昌して個人営業者がつぎつぎと現われてきた。そして大正3年(1914)には5つの乗合馬車が営業していた。    (仲南町誌)
  この資料から開通後の四国新道沿線沿いの十郷・財田村の活況さがうかがえる。財田町誌にも

「特に、財田の戸川集落には旅籠や乗合バス亭・水車による脱穀業などが新しく並び立ち、新たな賑わいを見せるようになった。(財田町誌682P)」

と四国新道完成後の沿線の「経済効果」を紹介しています。
 視点を変えると「新道」は、現在の「バイパスあるいは高速道路」です。新道が出来たために物と人の流れが変わり、周辺には寂れていく街道や宿場も出てきます。四国新道の完成は七箇村を通る「塩入街道」にも影響を及ぼしました。
「春日を通過する塩入街道が寂れていく」という危機感をバネに「わが村にも第2の四国新道建設を!」

という思いを持つ指導者が徳島の昼間村に現れます。

 讃岐山脈を越えた徳島県昼間村(現みよし町)の村長田村熊蔵は、樫の休場経由の塩入道を、車馬の通行可能な新しい道路にグレードアップする道を探っていました。その際にルートを、東山峠越で塩入に至るルートに付け替えようと考えます。
徳島県三好側からの東山峠までの「新道」開通に向けた動きを見てみましょう。
香川県仲多度郡七ケ村につながる道は険悪であった。そこで人馬の通行が円滑になるようにと、昼間村長田村熊蔵、有志三原彦三郎等が香川県に属する分の改修を七ケ村長(田岡泰)に交渉した。明治25年(1892)昼間・撫養街道分岐点より延長三百余間の改修を行った。しかし、全線に係る工費は巨額で村力の及ぶところではなかった。その後も、郡費補助をたびたび要求した。
 その結果、明治30年度に金792円74銭の補助が受けられることになり、時の村長丸岡決裁はこれと同額の金額を有志の義捐に求め前の改修に接続して、延長千七百間の改修を行った。が、東山字内野まで伸張し、一時工事中止となった。
 明治32年5月に内野から県境までは測量は終了したが、郡財政上着工にまでは至らなかった。その後明治35年度において再び郡費補助を得たが、今度は村の自己負担分の工費が工面できず県費補助を要求した。
 その結果、明治36年度より39年度に至る四か年の継続事業として郡県の補助を得ることが出来るようになった。それを生かし道路用地は各持主の寄付によることを協定し、更に県の実測を経て里道改修工事を竣工させた。総工費22334円にて、内5262円53銭9厘の県費補助、6729円43銭3厘は郡費補助を受け、残額10142円49銭6厘は村の負担として、有志の義金又は賦役寄付に求めた。(以上 三好町誌)
 明治39年になって三好町昼間から男山を経て東山峠までの新道が完成します。いままでの獣道ではなく車馬交通の便を開けたのです。

 そこに至る経過を整理しておきましょう

1892年(明治25)昼間村長は田岡泰七ケ村長と話し合い「自分の村の改修は自ら行う」ことを確認します。県境を挟んだ両村が東山峠までの新道を互いに責任を持って建設し、東山峠でドッキングする約束をしたのです。そして、工事開始。しかし、当時の里道建設は「全額地元負担」でした。そのため
「全線に係る工費は巨額にして村力の及ぶところにあらず」

であえなく中断。以後は、小刻みに伸ばしていく戦略に切り替えます。
5年後、郡からの半額補助を受けて内野まで延長。さらに6年後に、郡・県から半額補助を受けて、4ヶ年計画で東山峠まで伸張し、1906年(明治39年)に香川県側の七箇村塩入から伸びてきた道とドッキングさせてています。香川側の完成から16年後のことになります。

イメージ 1
  東山峠

 この際に大きな追い風となったのは、主要里道の建設改修に対して、県や郡からの補助金が出るようになったことです。村の村長としては、新道建設の重要性を説くと共に、補助金確保のため県会への働きかけが大切な仕事になります。補助金が付き、認可が下りても今度は、地元負担金を準備しなければならない。これをどうするのか。
 「苦心惨憺一方ならざるものあり」と資料は記します。
当時は、建設費の半分は地元負担が原則です。自分の村を通る道は自分で作るのだという自負と決意がなければ、当時の里道建設はなかったようです。
  七箇村の田岡泰や増田穣三達、若きリーダーも、徳島側と連携をとりながらこの「自負と決意」を固め、実行に移していったのでしょう。それでは、香川県まんのう町側の「塩入街道改修」はどのように進められたのか、またを負担金はどのように集めたのかを次回は見ていくことにします。

讃岐に多い真宗。
その中でも興正寺派の割合が多いのが大きな特徴と言われています。
わが家も興正寺派。集落の常会ではいまだに正信偈のお勤めをする習慣が残ります。そんな讃岐への真宗布教の拠点のとなったのが阿波の安楽寺。かねてより気になっていたお寺を原付ツーリングで訪ねてみました。
美馬市 観光情報|寺町
   安楽寺
吉野川北岸の河岸段丘上に、寺町と呼ばれる大きな寺院が集まる所があります。三頭山をバックに少し高くなった段丘上に立つのが安楽寺。かつては、洪水の時にはこのあたりまで浸水したこともあったようです。吉野川を遡る川船が、寺の前まで寄せられたような雰囲気がします。 新緑の中 赤い門が出迎えてくれました。
イメージ 2
安楽寺の赤門

四国各地から真宗を治めるために集った学僧の修行の寺でもあったようです。
この門から「赤門寺」と呼ばれていたようです。
桜咲く美馬町寺町の安楽寺 - にし阿波暮らし「四国徳島散策記」

境内は手入れが行き届いた整然とした空間で気持ちよくお参りができました。
本堂前の像は誰?
安楽寺本堂 文化遺産オンライン

親鸞です。私のイメージしている親鸞にぴったりときました。こんな姿で、旅支度した僧侶が布教のために阿讃の峠を越えていったのかな。
ベンチに座りながら教線拡大のために、使命を賭けた僧たちの足取りを考えていました。
徳島県美馬市美馬町の観光!? | 速報 嘆きのオウム安楽寺

阿波にある安楽寺の末寺はすべて古野川の流域にあります。阿讃の山向こうはかつての琴南・仲南・財田町の讃岐の山里にあたります。この山越のルートを伝道師たちは越えて行きました。国境を越えるといえば大変なように思えますが、かつては頻繁な行き来があったようです。このためか中西讃の真宗興正寺派の古いお寺は、山に近い所に多いようです。
 お寺といえば本堂や鐘楼があって、きちんと詣藍配置がととのっているものを想像します。しかし、この時代の真宗寺院は、むしろ「道場」と呼ばれていました。ちっぽけな掘建て小屋のようなものを作って、そこに阿弥陀仏の画像や南無阿弥陀仏と記した六字名号と呼ばれる掛け軸を掛けただけです。
Amazon.co.jp: 掛け軸 南無阿弥陀仏 尺三 仏事掛軸 仏書作品 六字名号 ...
そこへ農民たちが集まってきて念佛を唱えるのです。大半が農民ですから文字が書けない、読めない、そのような人たちにわかりやすく教えるには口で語っていくしかない。そのためには広いところではなく、狭いところに集まって一生懸命話して、それを聞いて行くわけです。そのようにして道場といわれるものが作られます。それがだんだん発展していってお寺になっていくのです。それが他の宗派との大きな違いなのです。ですから農村であろうと、漁村であろうと、山の中であろうと、道場はわずかな場所があればすぐ作ることが可能なのです。