瀬戸の島から

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兵庫北関入船納帳に出てくる船籍地は、全部で106ヶ所で、その内で讃岐の港は17港です。それを入船の多い順に並べたのが次の表です。
3兵庫北関入船納帳2
兵庫北関入船納帳 讃岐船籍一覧表
17の船籍地は、現在のどの港になるのでしょうか。
すぐには分からないのが、入港数ベスト3に入る「嶋」です。この嶋船籍の船が大量の塩を運んでいるので、研究者は「嶋」は小豆島と判断していることは、以前にお話ししました。
 「嶋」のように兵庫北関入船納帳は、島の港はすべて島名で記されています。例えば塩飽(本島)には泊や笠島などいくつかの港があったはずですが、それらが一括して島船と表記されています。瀬戸内海の海民たちは、昔から港名よりも島名で呼ぶ方が多かったようです。「嶋・塩飽・手嶋・さなき」は島であって、港ではありません。「塩飽・手嶋・さなき」の三島は塩飽諸島の島で、塩飽は本島のことで、さなきは佐柳島のことでしょう。
上から6番目に「平山」が出てきます。
研究者の中には、平山を備中真鍋島とする人もいるようです。しかし、宇多津の平山という説が強いようです。今回は、その理由を見ていくことにします。テキストは「橋詰茂  瀬戸内水運と内海産業 瀬戸内海地域社会と織田政権」です。
平山船の入港回数は年間19回です。それでは平山船は何を運んでいたのでしょうか。
兵庫北関入船納帳 船籍別の積載品目一覧
兵庫北関入船納帳 讃岐船の積載品一覧表

表4の平山の欄を見ると(塩)2290石とあります。これは生産地が記された産地特定の塩のことです。「讃岐船の積荷の8割は塩」で、讃岐船は塩専用船化していたと云われます。平山船にもその傾向が見えます。
 一番右側の欄の全体合計数を見ると「塩13413石」「(塩・地域指名)12055石」とあります。両方併せると25468石の塩を讃岐船は畿内に向けて運び出していたことになります。しかし、これは讃岐船の塩輸送量であって、讃岐の塩の生産量ではありません。なぜなら他国の船が讃岐にやって来て大量の船を積み込んでいたからです。前回見たように、小豆島で生産された塩の半分以上は牛窓船が輸送していました。讃岐船の塩輸送総数25468石の内の1/10程度の2290石を平山船が運んでいることを押さえておきます。
ます。
それでは、平山船はどこの塩を運び出していたのでしょうか
 私はすぐに、坂出や宇多津、丸亀の塩田を思い浮かべて、ここからの塩を運んでいたと思ってしまいました。しかし、これらの塩田は近世になって開発された塩田で、中世には姿を見せていませんでした。平山船が運んできた塩には「タクマ塩」と記されています。

兵庫北関入船納帳 地名指示商品と輸送船
兵庫北関入船納帳 讃岐産塩を運んでいた船の船籍地一覧
表8は地名指定商品(塩)が、どこの船で何回、兵庫北関を通過したが示されています。
詫間(塩)を運んできた船は36回で、その積載量の合計が6190石となります。詫間周辺では中世に大量の塩が生産されていたことが分かります。詫間塩を積み込みにやって来た船は、宇多津17、平山12、多度津3、香西2、牛窓1、塩飽1です。詫間の塩は、宇多津・平山・多度津の船で畿内に輸送されていたのです。ここで私が疑問に思うのは、詫間港の船が出てこないことです。製塩地には、それを運ぶ輸送船がいたはずなのですが、それが詫間には現れません。他所の港からの輸送船に頼っています。もうひとつは、仁尾の船もやってきていません。このあたりが今の疑問です。
 先ほど見たように、平山船の塩の総輸送量は2290石でした。平山船の一回当たりの輸送量は200石前後になり、小型船が使われていたようです。平山船は兵庫北関に19回やってきていますが、その内15件が積荷は塩です。そして12件が詫間塩を積んでいます。詫間塩は、平山船にとっては大きな商売相手だったことになります。
 視点を塩の生産地・詫間に変えてみます。詫間や三野湾に塩田があったことは史料から分かります。

三野湾中世復元図
          三野湾中世復元図 黒実線が当時の海岸線 赤が中世地名
「秋山家文書」には、次のような塩浜が相続の際の譲渡対象地として記載されています。
「しんはまのしおはま(新浜の塩浜)」
「しおはま(塩浜)」
「しをや(塩屋)」
ここからは本門寺から西側の東浜や西浜には塩田が並んでいたこと、その塩田の薪の確保のために「汐木山」が指定されていたことなどが分かります。詫間や三野湾では大量の塩が生産されていたのです。
 詫間塩を運んでいるのは、いずれも讃岐船です。ここからは、平山船も讃岐船であると研究者は考えています。
それでは平山とは、どこにあった港なのでしょうか.
兵庫北関入船納帳 平山
宇多津湾の中世復元図 太実線が想定海岸線
地図を見ると備讃瀬戸に突き出た聖通寺山の西北部に平山が見えます。現在は埋め立てられて宇多津と一体化していますが、中世の地形復元図では、海岸線が内陸部まで入り込んでいたことは以前にお話ししました。平山のある聖通寺山と宇多津のある青ノ山の間は海が入り込み隔てられていました。
湾を隔てて向かい合う宇多津と平山は、「連携」関係にあったと研究者は考えています。
 上図で中世の平山の集落がどこにあったかを見ておきましょう。
聖通寺山から伸びる砂堆2が海に突き出し、天然の防波堤の役割をはたします。その背後に広がる「集落5」と、聖通寺山北西麓の「集落6」が中世の平山集落に想定できると研究者は考えているようです。「集落5」が現在の平山、「集落6」が北浦になります。これらの集落に本拠地を置く船主たちが、小規模ながらも港町が形成していたようです。集落5の山裾からは、多くの中世石造物が確認されているのが裏付けられます。
①平山の集落は砂堆2の背後に広がる現平山集落と重なる付近(集落5)
②聖通寺山北西麓の現北浦集落と重なる付近(集落6)
『兵庫北関入船納帳』からは、平山に本拠地を置く船主いて、小さいながらも港町が形成されていたことが分かります。平山の交易活動は、宇多津よりも沖合いに近い立地等を活かして近距離交易を中心としたものでした。つまり、平山の船が周囲から集めてきた近隣商品を、宇多津船が畿内に運ぶという分担ができていたとします。
6宇多津2
中世宇多津復元図

「南海通記」によれば、管領細川氏の馬廻りをしていた奈良氏が貞治元年(1362)高屋合戦の武功で鵜足・那珂の二郡を賜り、応仁の頃(1467~68)には聖通寺山に城を築いたとあります。その後天正十年(1582)、讃岐攻略を目指す長宗我部元親の軍勢の前に、奈良氏は城を捨て、勝瑞城の十河存保のもとへ敗走します。南海通記の記述が正しいとすると、奈良氏が城を築いていた頃に、その聖通寺山の麓の港で交易活動を展開していたのが平山の住人達だったことになります。


 一方、宇多津は、後背地となる大束川流域の丸亀平野に抱かれていました。それは、高松平野と野原の関係と同じです。

宇多津周辺図
宇多津と大束川周辺
大束川の河口の東側には「角山」があります。近くに津ノ郷という地名があることなどから考えると、もともとは「港を望む山」で「津ノ山」という意味だったと推察できます。角山の麓には、下川津という地名があります。これは大束川の川港があったところです。下川津から大足川を遡ったところにある鋳物師屋や鋳物師原の地名は、この川の水運を利用して鋳物の製作や販売に携わった手工業集団がいたことをうかがわせます。さらに「蓮尺」の地名は、連雀商人にちなむものとみることもできます。このように宇多岸は、海に向かって開けた港であるばかりでなく、大足川を通じて背後の鵜足郡と密接に結び付いた港でもあったようです。
 坂出市川津町は、中世の九条家荘河津荘でした。宇多津は、川津荘の倉敷地の役割を果たす港町の機能も持っていたのかもしれません。  
このように宇多津は後背地の広いエリアからの集荷活動を行う一方
、塩飽諸島、児島を経由して備前に通じる備讃海峡ルートと瀬戸内海南岸ルートが交錯する要衝に位置します。その利点を最大限に活かした中継交易を行っていたと研究者は考えているようです。

以上から、宇多津と平山の関係を研究者は次のように指摘します。
①両港は相互補完的関係にあり、「棲み分け」共存ができていた。
②平山は坂出の福江・林田・松山・詫間などを商圏とし、宇多津は西讃から備讃瀬戸全域を商圏としていた。

常大坊旦那分書立写に「一、さぬきのくにうたづ ひら山一円」とあります。
常大坊輩下の先達によって導かれる檀徒集団が、宇多津と平山にいたことが分かります。檀徒集団がいたということは、多くの人々がいて、町並みを形成していたのでしょう。平山は聖通寺城の麓という位置から考えても、軍港的役割を果たす港であったと研究者は推測します。
 宇多津の目と鼻の先に平山湊がありました。しかし、宇多津と平山は商圏エリアが異なっていたこと、平山は、御供所と同じく、阿野郡(坂出市周辺)の福江・林田などの港物資を集積する港であると同時に、三野郡詫間の塩を輸送していたいうのです。そう考えれば、隣接して二つの港があったことも説明がつきます。こうして、平山は備中真鍋島ではなく、讃岐平山とします。

もうひとつ平山を特定する根拠があります。海産物の鯛です
もう一度表4を見ると、鯛(干鯛・塩鯛)は、宇多津・平山・塩飽船だけが運んでいます。それも4・5月に限定されています。今は番の州工業地帯で陸続きとなっている瀬居島付近は鯛の良魚場で、ここで獲れる鯛は「金山魚」と呼ばれて評価が高かったようです。加工された金山魚を、瀬居島に近い宇多津・平山・塩飽船の船が淀魚市場へ輸送して商品魚となったと研究者は推測します。ここにも平山と宇多津の連動性が見えます。平山は真鍋島ではないとする根拠のひとつです。

 近世の平山については、以前にお話ししました。
秀吉から讃岐一国を拝領した生駒氏は、丸亀城の築城を開始します。その際に城下町形成のために、鵜足郡聖通寺山の北麓の平山と御供所から「漁夫」280人を呼び寄せ、丸亀城の北方海辺に「移住」させたと史料には出てきます。これをそのまま「漁夫」と捉えると何も見えなくなります。平山に住んでいたのは、「海の民」で梶取り(船長)や船主などの海運業者や流通商人たちです。そのため城下町に移住させた狙いは、次のような点にあった研究者は考えています。

①非常時にいつでも出動できる水軍の水夫編成
②瀬戸内海交易集団の拠点作り
③商業資本集団の集中化
 丸亀城の北の砂浜には、平山・御供所の加古(船員)集団が移住してきます。彼らに割り当てられたエリアは、下図の通りです。
丸亀三浦3
丸亀城の御供所・平山住人の移転先 土器川西側の海岸線

江戸時代半ばまでの丸亀港は土器川河口にありました。そのため平山住人の移住先は港に続く一等地として、繁栄するようになります。金毘羅船で大坂からやってきた参拝客は土器川河口に上陸して、御供所・平山の宿に泊まっています。彼らが丸亀の「商業資本」に成長して行きます。
以上をまとめておきます
①兵庫北関入船納帳に、寄港した船の船籍地として「平山」が出てくる。
②「平山」は、次のような根拠から宇多津の「平山」であると研究者は考えている。
③「平山」には、中世に交易活動を行う「海民集団」が定住していたこと
④宇多津と商圏の棲み分けを行って、宇多津港の補完的な役割を果たしていたこと
⑤詫間・三野湾では、塩浜があり大量の塩を生産されていたこと
⑥詫間産塩を主に運んでいるのが「宇多津・平山・多度津」船であったこと
⑦平山船のほとんどが詫間産塩の輸送のために、兵庫北関に入港していること
⑧瀬居島の鯛は加工されて、宇多津船と平山船が運んでいること
以上から兵庫北関入船納帳に出てくる平山船は、宇多津の平山の船であったと研究者は考えています。

   最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 


 四国遍路の形成過程については、次の2段階に分けて考えるのが一般的になっているようです。
①近世前の修験者等による行場巡りとしての四国辺路形成
②近世後の庶民による四国霊場88ヶ寺巡礼巡り
  ①の近世以前を、さらに細分化すると次のようになるようです。
③平安時代後期から鎌倉時代には『今昔物語集」や『梁塵秘抄』などに四国の海辺を巡る辺地修行や山岳修行が出てくる
④室町時代前期には熊野信仰に伴う参詣、修行のルートが確認される。
⑤室町時代後期になると、四十九番浄土寺の本尊厨子や八十番國分寺本尊像に「南無大師遍照金剛」や「南無阿弥陀仏」の落書がみられ、弘法大師信仰とともに念仏信仰も盛んであったことが分かります。
⑥江戸時代初期、承応二年(1653)の澄禅『四国辺路日記」には、「札ヲ納メ、読経念仏シテ」とあり、各札所で念仏が唱えられていたらしい。

ここからは戦国期から江戸時代初期の「四国辺路」では、熊野信仰や六十六部、時宗に加えても念仏信仰が盛んに行われていたことが分かります。今から考えると、真言宗のお寺で「南無阿弥陀仏」の念仏が称えられていたことに、何かしら違和感を感じてしまいます。どんな風に阿弥陀信仰の念仏と霊場が混淆していたのでしょうか。

1 郷照寺3

七十八番札所郷照寺(宇多津町)で見てみることにしましょう。
 郷照寺は宇多津の港に臨む高台にあって、仏光山の名のごとく灯台の役を果たしました。あるいは庚申堂の常夜灯であったかもしれません。庚申信仰は念仏信仰です。昔はお葬式を手伝いあうのが庚申請でした。庚申念仏のために人々が集まる道場が道場寺になったようです。このあたりに秘事法門が多いといわれるのは、念仏信仰が真言念仏・秘密念仏化したものと研究者は考えているようです。そのため庚申堂本尊も密教の青面金剛です。もとは庚申請の掛軸を出したり、七色菓子を出したりしたかもしれません。現在は、それらもなくなり大師信仰だけになっています。

1 郷照寺1

 縁起は、後世のものらしく霊亀年間(715ー17)に行基菩薩が開いたと伝えます。そして、弘法大師が再興し、尊心憎都、通苑阿闘茶などが住んだといいます。が、現在は時宗です。
そして、一遍上人の関係を伝えています。
一遍は四国の松山の人で、16年に及ぶ最後の遊行の際には、善通寺に参拝して郷照寺を通りすぎて、淡路島から明石に渡っていますので、ここを通ったことは確かです。また最後の遊行を前にして、自分の郷里に帰ったこともはっきりしています。正応二年(1289)8月末に亡くなっています。

1 郷照寺踊り念仏
一遍絵図の中の踊り念仏

郷照寺は四国霊場では唯一の時宗寺院で、古くは真言宗だったようです。
それが一遍上人に来訪などで、時宗に変わったと伝えらます。郷照寺(別名・道場寺)の詠歌は
「おどりはね、念仏申、道場寺、ひやうし(拍子)をそろえ、かね(鉦)を打也」

です。これはまさに、一遍上人の踊り念仏そのものを詠っています。江戸時代初期には時宗の影響下にあったことがうかがえます。
1 郷照寺踊り念仏2
          一遍絵図の中の踊り念仏

 郷照寺には、六字名号(南無駄弥陀仏)の版木が残っています。
南無阿弥陀仏版木2 郷照寺
六字名号版木 郷照寺

これは、江戸時代初期頃の縦六七・ニ㎝、横一九・七㎝、厚さ三・七㎝のもので、表面に「時衆二祖真教様」の書体で大きく「南無阿弥陀仏」と書かれています。その下に「承和元(834)年三月十五日書之空海」とあります。そのまま受け取ると、弘法大師が高野山奥院に入定する前年に書いたことになります。空海真筆を強調しているようです。
 裏面上部には、椅子に坐わす弘法大師像、その背後に山岳中から影現する釈迦如来が刻まれます。その下に「讃岐国屏風浦誕生院」とあるので善通寺御影堂本尊を表していることになるようです。
 つまり表面の空海筆銘の六字名号と裏面の弘法大師像とを合わせれば、まさに弘法大師信仰と念仏信仰が合体した版本となるようです。その意味では貴重な物かもしれません。
 研究者が注目するのは、郷照寺の版木と、ほぼ同じ頃に造られた「空海筆銘六字名号」の版木が四十番観自在寺、五十一番石手寺、五十二番大山寺、八十一番白峯寺などにもあることです。弘法大師に関わる念仏信仰の拠点がどうも札所寺院であったようなのです。

空海と六字名号の関係について、もう少し見ていくことにしましょう。
鎌倉時代末期の『一遍聖絵』巻二に
日域には弘法大師まさに竜華下生の春をまち給ふ。又六字名号の印板をとどめ、五濁常没の本尊としたまへり。
 
とあり、弘法大師が六字の名号を版木に刻んだとしています。一遍上人は時衆の開祖です。そして『一遍聖絵』は、一遍上人の弟、聖戒などが関わっていますので、時衆の影響が大きいとされます。
 また「四国辺土(遍路)八十八ケ所」の文言が記される説経『苅萱』「高野巻」には、弘法大師が入唐する際、宇佐八幡宮に参詣すると火炎の中から六字の名号が現れ、これを船板名号と称し、御神体として舟に彫りつけ無事に唐に渡ったと記します。「高野巻」は高野聖たちが深く関与したことは、すでに明らかにされているようです(真野俊和一「日本遊行宗教論』)
このふたつのことから弘法大師と念仏信仰(六字名号)の混淆の仕掛け人は
①時衆が深く関わっている
②時衆系高野聖の存在も大きい
ことが分かります。
 空海が開いた高野山は真言密教の聖地です。
しかし、時代と共に様々な流派を取り入れていきます。平安時代後期から覚鑁(かくばん・1095~1143))や明遍(みょうへん・1142~1324)などが現れ真言念仏や念仏を盛んにしています。
  覚鑁については、新義真言宗 総本山根来寺のHPでは「真言の教えの中興者として、次のように評価しています。
銅像 覚鑁
 
 興教大師(覚鑁)の時代は、真言宗は事相の興隆とともに多くの流派が林立し、修法に関して一部で混乱がみられました。こうした実状に悩んだ興教大師は、遍く諸流を学びかつ相承して、真言の法門の「源底」を求め、真言密教の秘奥を究められました。現在でも興教大師は、「大伝法院流」の祖として崇あがめられています。
  興教大師の教えの本質は、弘法大師の教えの継承・発展にあり、あくまでもその目標は「即身成仏」の実現にありました。しかしそれだけではなく興教大師は、当時興隆しつつあった浄土往生思想を真言密教の枠組みの中に見事に活かし、真言密教の立場からの正しい弥陀信仰のあり方を示されました。  興教大師は、高野山の独立を達成され、教学の振興をはかり、文字通り真言宗団を中興されたのです。

  室町時代になると、高野聖の多くが時宗化します。
そして、念仏を唱える時宗系高野聖の勢力が増し、高野山の念仏化が進んだようです。つまり、当時は真言の総本山である高野山で「南無阿弥陀仏」が称えられていたのです。その後、慶長十一年(1606)幕府の命により、高野聖の真言宗加入が行われます。(五来重「高野聖」)
1 郷照寺4

 もう一度、版本に話を戻します。
これが郷照寺で造られたのか、また他から持ち寄られたのかは分かりません。しかし、郷照寺の寺歴からすると、郷照寺で作られ所蔵されていた可能性が高いと研究者は考えているようです。どちらにしても、弘法大師信仰を持った念仏行者が、この版木を使って、摺写した念仏を広めたことに間違いはないようです。時宗系念仏聖の存在がうかがえます。
 この版本が作られた室町時代末期から江戸時代初期の四国辺路(遍路)は、六十六部廻国行者、山伏、念仏行者などいろいろなプロの宗教者が巡っていたことが明らかになっています。この中で近世の四国遍路への展開・発展に大きく関わったのは高野山の行人や時宗経系念仏聖のようです。彼らには弘法大師信仰を持ちながら、念仏行や念仏踊りを踊るという二面性(?)があったようです。
 江戸時代前期、貞享四年(1687)頃に真念によって『四国辺路道指南』が刊行されます。そこには
「男女ともに光明真言、大師宝号(南無大師遍照金剛)にて回向し、其札所の歌三遍よむなり」

と記されています。ここにはもう念仏信仰はみられません。真言宗本来の光明真言を唱えています。南無阿弥陀仏の念仏は「追放」され、弘法大師の一尊化が確立している様子がうかがえます。江戸時代初期から元禄時代にかけての間に、大きな変化があったことが分かります。
 郷照寺の版木からは、弘法大師信仰の多様さとそれを支えた念仏行者の存在が見えてきました。同時に、この版木は中世の四国辺路から近世の四国遍路への橋渡し的な意味を、持つものかもしれないと思えるようになりました。

武田和昭 四国遍路における弘法大師信仰と阿弥陀信仰   空海の足音四国へんろ展 所収


6宇多津1
香川県立ミュージアムの特別展『海に開かれた都市~高松-港湾都市九〇〇年のあゆみ~』で提示された一五世紀~一六世紀前半の宇多津の景観復元図を見ていくことにしましょう
この復元のためには、次のような作業が行われているようです。
①幕末の『讃岐国名勝図会』・『安政三年奉納宇夫階神社に七』・『網浦眺望 青山真景図絵馬』から町割など近世後期の景観を復元する
②そこから延享二年(1745)頃に作られた古浜塩田、浜町・天野新開を消す
③塩田工事と同時に行われた大束川河口部の付替工事を、それ以前の景観にもどす
④伊勢町遺跡発掘調査から近世前期にできた形成を消す
⑤大足川を近世以前の位置にもどす
これらの作業を経てできあがった14世紀の復元図を見てみましょう。
6宇多津2
①青ノ山北麓と聖通寺山北端部を突端部とし、大きく湾入するように海域が入り込む
②その中央付近に大束川が流れ込む。
③河口入江には東と西に突端した砂堆がある(砂堆2・3)
④大束川河口部をふさぐように砂堆が細長く延び(砂堆I)、先端付近では背後に潟がある
⑤砂堆Iの海側には遠浅地形が広がっていた
⑥居住可能なエリアは、青ノ山山裾とそこから海際までの緩斜面地と砂堆、
⑦平山では聖通寺山と平山の山裾の狭陰な平坦地
                
6宇多津213
宇多津の中心軸(道路)は?   両端には宇夫階神社と聖通寺が鎮座します
①宇多津の中心軸は、西光寺がある砂堆Iの真ん中を東西方向伸びる道路である。
②河口部は、深く入り込んだ入江に沿って聖通寺山の麓の平山まで続く。
③内陸部へ伸びる南北道路は、砂堆1の付根で東西道路と交差し東西・南北の基軸線となる。
④東西道と南北道の交差点付近に港があり、海上交通と陸上交通の結節点となり最重要エリアになる
④東西軸は丸亀街道、南北道路は金毘羅街道へと継承されていく主要路である。
宇多津の東西に位置する聖通寺と宇夫階神社を見ておきましょう
宇多津対岸の聖通寺建立時期の古さは何を物語るのか?
 大束川の河口は深く入り込んだ入江となっていて、宇多津と聖通寺山とは湾で隔てられていました。その山裾に修験道の醍醐寺開祖・理源大師と関係が深いとされる聖通寺(真言宗)があります。寺伝では貞観10年(868)の創建、文永年間の再興を経て、貞治年間に細川頼之の帰依を受けて復興したとあります。創建時期が、宇多津の諸寺院よりもはるかに古いことが気になります。
  また、長享二年(1488)に常陸国六反田(茨城県水戸市)六地蔵寺の僧侶が聖通寺で書写したという記録が残っています。聖通寺は、各地の僧侶が集まる様々な書籍や情報を所蔵した「学聞所」であったようで、理源大師も若い頃にこの寺で学んだと伝えられます。道隆寺や金蔵寺なども学問所であったと云われ、諸国からの修験者たちがやってきたお寺です。この寺も奥の院は、聖通寺山の山中に有り、大きな磐座(いわくら)が聖地となっていたようです。同時に、この地域には沙弥島・本島・聖通寺山・城山と理源大師に関係の深い「聖地」が残っていて、修験者が活発な活動を行っていた所でもあるようです。
宇夫階神社も勧請時期は古く、聖通寺の同じ時期に従五位に叙せられています
この神社は、産土神として古くから宇多津の総鎮守的な存在です。復元地図で見ると、大束川を挟んだ宇多津の領域の両端に宇夫階神社と聖通寺が鎮座していることになります。ここからも宇多津における両者の重要性がうかがえます。九世紀後半の宇多津において、この両者が登場してくる「事件」があったのかもしれません。
6宇多津2135
 宇多津の中世集落は、どのあたりにあったのでしょうか
①東西・南北道路が交差する場所(集落I・現西光寺周辺)
②郷照寺の門前周辺で砂堆1と砂堆3が形成する湾入部の一番奥の付近(集落2)、
③砂堆Iの背後の潟周辺で、長興寺(安国寺)の門前周辺(集落3)、
④宇夫階神社の門前で、砂堆3の付根(集落4)
の4つに分かれて集落があったようです。伊勢町遺跡の調査報告書には、各集落が港湾施設(船着場)を伴っていた可能性が高く、『兵庫北関入船納帳』にある「中丁」「西」「奥浜」という三つの集落の存在との対応関係」があることを記しています。

6宇多津251535
そして、さらに次のように推論しています
①「中丁」は集落I、
②「西」は集落2ないし4、
③「奥浜」は集落3ないし2
に当たると研究者は考えているようです。
 集落の性格は、内陸・海上交通の結節点にある集落1が宇多津の中心集落で『兵庫北関入船納帳』に出てくる「弾正」という物は、ここを本拠地に活動したと推察します。さらに、集落1には、鍛冶屋等の職人が居住し、大規模かつ多様な漁労活動を行っていたことや、一部にはいち早く「灯明皿」を使うなど「都市的なスタイル」を取り入れた「先進的生活」を送っていた人たちが生活していたようです。このように港湾施設を伴う4つの集落が複合体として、宇多津という港町を形成していたと研究者は考えているようです。

6宇多津2213
中世の船着き場の変遷 
中世宇多津の港(船着場)は、どんなものであったのでしぃうか?
伊勢町遺跡からは、14世紀初めの石を積み上げた護岸と、16世紀の礫敷きが出てきました。石積み護岸は絵画資料では『遊行上人縁起絵』など、一五世紀の室町期になって描かれるようになります。絵画からは石積み護岸は、一五世紀代に定着したと研究者は考えているようです。ここからは海際の集落が港湾施設を持ち、それが石材を用いて整備されている点です
6宇多津2
  宇多津への寺社勢力の進出の背景は・
 東西道路の背後の青野山の山裾や、南北道路の高台、砂堆Iの背後の潟(河口部)に各宗派の寺院が立ち並んでいるのが分かります。このような景観は『義満公厳島詣記』や文献資料からも分かりますし、今でも同じ光景を見ることが出来ます。宇多津に、これほど多くの宗派の寺院がそろっているのはどうしてなのでしょうか。
 その背景には、港町宇多津の経済力の高さがあったのでしょう。瀬戸内海の港町への布教方法を見ると、そこに住む人びとを対象とした布教活動とともに、流通拠点となる港町に拠点をおいて円滑に瀬戸内海交易を行おうとする各宗派のねらいがあったようです。僧侶は、中世の荘園を管理したように、港町の寺院を「交易センター」として管理していたのです。
6宇多津の寺院1
各宗派の進出状況を時期別にまとめると、次のような表になります
①鎌倉期には真言宗寺院、
②南北朝~室町前期には守護細川氏と関連が深い禅寺、
③室町後期にも細川氏の帰依を受けた法華宗寺院、
④戦国期には浄土真宗寺院
が年代順に建立されていて、各宗派の寺院が段階的に進出したことが分かります。一度に姿を現したのではないのです。このことは13世紀後半~16世紀代を通して、宇多津が成長し続けたことを物語ると同時に、各時代の歴史的なモニュメントとも言えます。
本妙寺(法華宗)の建立については以前も取り上げました。
この寺はの開祖日隆は、細川氏の保護を受けて瀬戸内海沿岸地域で布教活動を展開し、備前牛窓の本蓮寺や備中高松の本條寺、備後尾道の妙宣寺を建立します。いずれも内海屈指の港町で、流通に携わる海運業者の経済力を基盤に布教活動を展開したことがうかがえます。細川氏が本妙寺を保護していたことは、守護代安富氏が寺中諸課役を免除したことからも分かります。(『本妙寺文書』)。
戦国期には青ノ山南東麓にあった寺院が、西光寺と名前を変えて町内に移転してきます。
 西光寺は、それまでの寺院が青ノ山の山裾に建立されていたのに対し、河口の港のそばに寺域を設けます。
その背景には、浄土真宗寺院の海上流通路掌握といった動きがうかがえます。西光寺は石山合戦に際して本願寺顕如の依頼に応えて、物資を援助をするなど、経済力も高いものがあったようです。
これらの14世紀後半期の法華宗寺院、15世紀後半期における浄土真宗寺院の動きは瀬戸内海各地の港町と同時進行の動きで、当時の瀬戸内海港町で共通する動向だったようです。
宇夫階神社の担った役割は?
宇多津では、このように多くの宗派が林立したために、住民がひとつの寺院の下に集まり宗教活動を行い結集の機会を作り出すことはありませんでした。集落や諸宗派・各寺院の檀家といったレベルのちがう単位がモザイク状に並立した状況だったのです。
 こうしたある面でばらばらな集団単位を結びつける役割を担ったのが宇夫階神社だったようです。
この神社は、祭礼をとおして複数の集落や単位を統合させる宇多津の重要な核として機能します。そのことは、宇多津の中心軸である東西道路の西端正面に鎮座する立地が示しています。総鎮守的な単一の神社であるを宇夫階神社は宇多津の大きな求心力として機能していたようです。
領主勢力は、直接的に宇多津を支配していたのか?
 宇多津には守護所が置かれたと云われますが、これについては研究者は慎重な態度のようです。『兵庫北関入船納帳』にみる国料船や本妙寺・長興寺・普済院・聖通寺等守護細川氏との関わりが深い寺院の建立・再興などに、守護勢力の影はうかがえます。しかし、宇多津町内に城郭があった形成はありません。封建勢力が港町宇多津への直接的支配権を持っていたとは云えないようです。
 守護所跡と考えられる円通寺・多聞寺、南隆寺の城郭的施設も領主勢力の居城としては、根拠が弱いのです。集落内にも領主の平地居館は、見当たりません。つまり、守護を中心とした領主勢力の宇多津への直接的な関与はあまり感じられないのです。それよりも寺社勢力や「弾正」や「法徳」などの有力海運業者を通じて間接的に関与していたと研究者は考えているようです。

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隣接する港町 平山の役割は?
 湾内を隔てて、聖通寺山の麓にある平山も港町だったようです。『兵庫北関入船納帳』に、その名前が出てきます。宇多津と平山は、「連携」関係にあったようです。自立した港ですが、機能面では連動した相互補完的関係にあったと研究者は考えているようです。
平山の集落は砂堆2の背後に広がる現平山集落と重なる付近(集落5)、
聖通寺山北西麓の現北浦集落と重なる付近(集落6)
が想定できるようです。
 『兵庫北関入船納帳』の記載からも平山に本拠地を置く船主の姿がいたようで、小さいながらも港町が形成されていたことが分かります。また、宇多津よりも沖合いに近い立地や、広域的な沖乗り航路とを繋ぐ結節点としての役割を果たしていたようです。
川津と宇多津の関係は?
 一方、宇多津は後背地となる大束川流域の丸亀平野に抱かれていました。それは、高松平野と野原の関係と同じです。大束川の河口の東側には「角山」があります。近くに津ノ郷という地名があることなどから考えると、もともとは「港を望む山」で「津ノ山」という意味だったと推察できます。角山の麓には、下川津という地名があります。これは大束川の川港があったところです。下川津から大足川を遡ったところにある鋳物師屋や鋳物師原の地名は、この川の水運を利用して鋳物の製作や販売に携わった手工業者がいたことをうかがわせます。さらに「蓮尺」の地名は、連雀商人にちなむものとみることもできます。このように宇多岸は、海に向かって開けた港であるばかりでなく、大足川を通じて背後の鵜足郡と密接に結び付いた港でもあったようです。
 坂出市川津町は、中世の九条家荘河津荘であったことを考えると宇多津は、荘園の倉敷地の役割を果たす港町の機能も持っていたのかもしれません。  
このように広いエリアからの集荷活動を行い、塩飽諸島、児島を経由して備前に通じる備讃海峡ルートと瀬戸内海南岸ルートが交錯する要衝に位置する利点を最大限に活かした中継交易を行っていたと研究者は考えているようです。

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     江戸時代になっての宇多津は?
 天正期には豊臣配下の仙石氏が平山に聖通寺山城を築きますが、それも一時的でその後にやって来た生駒親正は、讃岐支配の新たな拠点として高松と丸亀に城を築城し、城下町を開きます。その際に、宇多津や平山からは多くの寺院、町が高松と丸亀に移転させました。港町宇多津は重要な属性を失うことになります。その背景には商人の街である港町宇多津が、新たな領主にとっては解体すべき対象であったのでしょう。同時に、宇多津から「引抜」いていかないと、新たな城下町として高松や丸亀の建設は難しかったとも考えられます。
 大足川の埋積作用は河口部や砂堆前面を着実に埋没させて行きました。讃岐を代表する港町宇多津は、政治的経済的な中心性だけでなく、港湾機能も奪われていくことになり、やがて地方的な港町になっていきました。
江戸期になると高松藩米蔵が設置され、新たな展開をむかえます。
高松藩米蔵は、東讃の志度・鶴羽・引田・三本松に置かれるますが、宇多津は他の米蔵を圧倒する量を誇りました。ここでは鵜足郡や那珂郡の年貢米を管理し、集荷地・中継地としての機能します。れにともない現在の地割が整備されていきます。
 しかし、大束川の堆積作用は、港に深刻な状況をもたらします。それを克服するため18世紀前半には、他の港町に先駆けて湛甫形式の港湾施設を完成させ、港湾機能の維持に努めます。しかし、やがては金比羅詣での船が寄港するようになった多度津や丸亀にその役割も譲ることになります。
  参考文献
                中世讃岐と瀬戸内世界 所収  
              中世宇多津・平山の景観 松本和彦

   
15世紀の半ばに讃岐・宇多津に日隆によって本妙寺が開山される過程を前回は追って見ました。
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宇多津の本妙寺山門前の日隆
今回は、15世紀の大阪湾沿岸の港をめぐる情勢を見ていきたいと思います。その際の視点が日隆と三好長慶です。
 尼崎の本興寺を拠点に日隆は、大阪湾や瀬戸内海の港湾都市への伝導を開始します。彼によって開山されたものだけでも兵庫港(神戸)の久遠寺、備中の本隆寺、宇多津の本妙寺が挙げられます。
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        日隆が開山した宇多津の本妙寺
  日隆が築いた本門法華宗のネットワークを見ておきましょう。
 法華宗は、都市商工業者や武家領主がなどの裕福な信者が強い連帯意識を持った門徒集団を作り上げていました。もともとは関東を中心に布教されていましたが,室町時代には京都へも進出します。
 日蓮死後、ちょうど百年後に生まれた日隆は日蓮の生まれ変わりとも称されます。彼は法華教の大改革を行い、宗派拡大のエネルギーを生み出します。その布教先を、東瀬戸内海や南海路へと求めます。
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讃岐の宇多津湊と本妙寺

日隆の布教により寺院が建立された場所と、その後の発展の様子を見ていきましょう。
大阪湾岸では,材木の集積地であった尼崎,奈良の外港としての堺,勘合貿易の出発地である兵庫津などが挙げられます。また四国の細川氏の守護所である宇多津などにも自ら出向いて布教活動を行い本妙寺を開きます。日隆の布教によって法華宗信者となった港町の都市商工業者の特色は,武家領主と結びついている点だとされます。

宇多津 本妙寺
 宇多津の本妙寺
 京都にあった法華宗各門流の本山の本国寺,妙顕寺,本能寺などの周辺には信者が集住していました。例えば、本国寺の場合には遅くとも天文元年(1532)までには要害化が進み,「数千人の宗徒」が住む「寺内」が形成されていたようです。そしてこれを、織田信長は「洛中城郭」として利用しています。
 さらには,日隆は京都の本能寺と尼崎の本興寺を「両本山」とします。15世紀後半につくられた本能寺の「当門流尽未来際法度」では,全国の末寺の住持職に対して本山への参詣を義務づけています。
本能寺が鉄砲伝来に果たした役割は?
京都本能寺
 
 本能寺は、明智光秀のクーデターで信長の最期となった寺として有名です。この時に焼き払われます。その後も、度々火災に見舞われたため、本能寺の「能」の旁がカタカナのヒの字を二つ重ねるのを避けて、火が去るようにと「去」の字に似せた異体字を使用しています。それでも同寺には、幾たびかの火災の難を逃れた多くの貴重な史料が残されています。その『本能寺史料』中世編に次のような細川晴元書状があります。
  「 本能寺         晴元」
種子嶋(鉄砲)鍼放馳走候而、此方へ到来、誠令悦喜候、
彼嶋へも以書状申候、可御届候、猶古津修理進可申候、恐々謹言
  四月十八日        晴元(花押)
   本能寺
 これは細川晴元の本能寺宛ての鉄砲献上に対する礼状です。
 年号は入っていませんが、晴元は天文一八年(1549)、摂津国江口の戦いで部下の三好長慶に敗れ、京都から近江へ逃げるのが6月のことですから、それ以前の発給とされます。鉄砲が種子島に伝来するのは、『鉄畑記』によれば、天文13年8月のことで、翌年に銃筒をネジで塞ぐ技術を習得し、量産化が開始されるのは早くもその翌14年のこととされます。そして、その種子島から足利将軍家に鉄砲が献上されたのが天文15年です。この文書の年代は、足利将軍家と相前後して細川氏にも鉄砲が送られた、あるいはこの鉄砲自体が将軍への献上品だった可能性もあると研究者は見ているようです。どちらにしてもこの文書の年代は天文15年4月のことでしょう。

鉄砲

 ここで確認しておきたいのは、種子島銃(鉄砲)をはるばる種子島から京都へ、そして晴元の下へ持参し、さらに晴元からの礼状を種子島まで届けたのは誰かということです。かつては「鉄砲献上」は、堺の商人によって行われたとされてきました。しかし、この文書から分かることは当時の種子島領主であった種子島時尭より本能寺を経由して晴元の下へ送られていることです。
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 当時の種子島は、領主の種子島氏をはじめ島民らも法華宗に帰依し「皆法華」が実現していました。種子島では15世紀半ばに日隆に学んだ日典によって法華宗義が広まります。本能寺と両本山である尼崎の本興寺から本門法華宗派の僧が伝教のために種子島や屋久島にやって来たのです。それは、同時代のイエズス会の宣教師にも似た姿です。この時代に法華僧侶達は海上ネットワークを通じて種子島と本山である本能寺を活発に行き来していたのです。その人とモノの流れの中に、鉄砲も含まれたようです。
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 本能寺の変で焼け落ちた伽藍再建に、日隆門流はすぐに動き始めます。
その際の勧進記録である「本能寺本堂勧進帳」が残っています。そこからは末寺がある種子島,堺,備前,河内の三井,越前,備後,駿河の沼津といった地域で勧進が行われていることが分かります。ここでも瀬戸内海や南海路の種子島の末寺から,本山である京都の本能寺,尼崎の本興寺に向かって,カネと人とモノが流れ込んでいたのです。そのようなネットワークの拠点のひとつが宇多津の本妙寺であったのです。15世紀半ばに開山された本妙寺が急速に時勢を伸ばしていくのは、このような流れの中にあったことも要因のひとつでしょう。

本能寺

 こうした本門法華宗の末寺から本山に向けた人やモノの流れに目を向けるようになったのが細川氏や三好氏です。
室町幕府の管領であった細川高国は,永正一七年(1520),近江六角氏との戦争に際して兵庫津の大船を徴発し、大永六年(1526)には尼崎城を築城しています。ここには都市支配や軍事動員を目指す動きが見えます。また,細川晴元は阿波の国人である三好元長の支持を受けて,港湾都市である堺を事実上の政権所在地とし、いわゆる「堺幕府」を樹立します。
 この背景には,先ほど鉄砲伝来の際に述べたように日隆門流の京都や堺の本山への人や物の流れの利用価値を認め、法華宗を通じての流通システムを握ろうとする考えがあったと思われます。
 
一方、四国を本拠とする三好長慶は,畿内支配をめざします。
三好長慶
細川氏・三好氏を東瀬戸内海から大阪湾地域を支配した権力として「環大阪湾政権」と考える研究者もいます。その際の最重要戦略のひとつが大阪湾の港湾都市(堺・兵庫津・尼崎)を、どのようにして影響下に置くかでした。これらの港湾都市は,首都京都を背景に瀬戸内海を通じて東アジア経済につながる国際港の役割も担っており、人とモノとカネが行き来する最重要拠点でもあったわけです。
 その際に三好長慶が採った政策が法華宗との連携だったようです。
彼は法華教信者でもあり、堺や尼崎に進出してきた日隆の寺院の保護者となります。そして、有力な門徒商人と結びつき,法華宗寺内町の建設を援助し特権を与えます。彼らはその保護を背景に「都市共同体内」で基盤を確立していきます。長慶は法華宗の寺院や門徒を通じて、港湾都市への影響力を強め、流通機能を握ろうとしたようです。

三好氏は大坂湾の港湾都市への影響力をどのようにして高めたのでしょうか?
法華宗 顕本寺
   堺の顕本寺 宇多津の本妙寺と前後して日隆により開山
まず、堺を見てみましょう。
日隆は、宇多津に本妙寺を開いたのに前後して、宝徳3年(1451年)に堺にもやって来て有力な商人を信者とします。そして木屋と餝屋と称する豪商の自宅を法華堂としてたのが顕本寺の始まりとされます。当初の開口神社に近い甲斐町山ノロにあったこの寺は「南西国末寺頭」と呼ばれ、西国布教の拠点として機能するようになります。ここでも法華教門徒の商人達や海運業者のネットワークを利用しながら西国布教が進められていきます。その成果のひとつが先述した屋久島の「皆法華」化となって現れます。
  三好長慶の父・元長は一向一揆に敗れ,この顕本寺で自害します。
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長慶の父元長は、顕本寺で自害した

天文元年(1532)のことです。後を継いだ三好長慶は「臥薪嘗胆」の末に、父を死に追いやった主君を京都から追放していきます。その過程で、長慶の本門法華宗の寺院に対する戦略が見えてきます。
20_02Web版『堺大観』写真集―顕本寺境内 三好海雲(元長)の
       長慶の父元長の墓も顕本寺にあります
例えば、次の史料は長慶が顕本寺に下した文書です
当寺(顕本寺)の儀, 開運(三好元長)位牌所として寄宿の事,長慶・之虎これを免許せられば,冬康においても別して信心の条,聊かも相違あるべからざるものなり,よって状くだんのごとし,
天文廿四二月二日 冬康(花押)
堺南庄顕本寺
 父元長の自害の場となった由緒によって顕本寺を位牌所として,軍勢の寄宿免許という特権を与えています。さらに弘治二年(1556)には,元長の二十五回忌法要が行われますが、三好氏の本拠地である阿波でなく,この寺で行われます。
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こうして顕本寺は、三好氏の檀那寺として地位を固めるとともに、三好=本門法華宗の連携強化が進められていきます。
 先ほど顕本寺は,宝徳二年(1450)に木屋某と餝屋某が自宅を寄進することによって建立されたと述べました。当時の堺は尼崎と同様に、重要商品の一つが材木で、阿波から畿内への主要な商品でした。材木を取り扱う「木屋」という姓は、阿波との経済的な結びつきをうかがわせます。阿波を本拠とする三好氏も,こうした経済的なつながりを背景に顕本寺との関係を強めた行ったようです。
 『天文日記』によると,天文七年(1538),「堺南北十人のきゃくしゅ(客衆)」「渡唐の儀相催す衆」の一人として木屋宗観があげられます。木屋は会合衆の構成員で、顕本寺は会合衆の結集核である開口神社の西南隣に位置して,会合衆に対しても影響力をもっていたようです。こうして阿波から畿内への材木流通を通じて、顕本寺を仲立ちとして法華宗と阿波の三好氏を結びつけ,また顕本寺を通じて三好氏は堺の会合衆とも関係をとり結んでいったのではないかと研究者は考えているようです。
三好氏が一族の祭祀や宗教的示威行為の場を,本拠地である阿波勝瑞から堺に移したのは、国際港湾都市堺への影響力を強めるためであったかもしれません。しかし、それだけではなく、信長や謙信などの諸大名がやって来る堺での三好氏の勢威を広く示すデモンストレーションという面もあったでしょう。
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  布教活動と交易活動を考えるための手がかりとして、当時のポルトガルやスペインの東アジア貿易におけるイエズス会の果たした役割を考えて見ましょう。
 知らない土地への布教という宗教的な情熱を抱き、パリ大学などで当時の最先端の技術と知識を身につけた若き宣教師達。彼らは国営の船でアジア各地の布教拠点に運ばれ、布教活動を行うと同時に報告書を作成します。その中には、その土地の情勢や交易品・交易ルートなども含まれます。これは商業活動にとっては最重要の情報でした。これらを宣教師は本国にもたらしました。「宣教師がやって来た後に、商人がやって来る」と言われた所以です。つまり、宗教的な伝道者と交易活動者は連携していたのです。そして、本門法華宗の僧侶と商人・海運業者にも同じことが指摘できます。
 同時に、戦国大名がキリシタン大名になっていく理由の一つにポルトガル船を領地内の港に呼び入れて交易活動を行い経済的な利益を上げるという意図があったとされます。同じように日隆が瀬戸内海に開いた法華宗寺院はカトリックの教会と同じく布教拠点であると同時に、交易従事者のネットワーク拠点でもあり情報と安全をもたらしてくれる施設としても機能したはずです。

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 このような拠点があってこそ、瀬戸内海を舞台とする海上交易は可能となったでしょう。そして種子島、そして南シナ海を越えて琉球へと、そのエリアを拡大させて行けたのです。
 このような本門法華宗の海上交易ネットワークの形成は、宇多津にはどんな影響を与えるのでしょうか。
本妙寺というネット拠点が日隆によって新設されたことで宇多津の港湾機能は大きく発展したはずです。まずは、寄港する船の数や交易相手の港などの増加につながったはずです。例えば、それまでなかった種子島との交易船が立ち寄ることが増えたかもしれません。それは、古代に、カトリックの司教座が置かれた都市が発展して行ったのと同じように、周辺の湾岸都市とは違った人とモノの流通をもたらすことにつながったのではないでしょうか。
15世紀半ばに、本妙寺が宇多津に開山されたことは、経済的には本門法華宗の海上交易ネットワークに参加する権利を与えられただとも言えます。その同盟都市の一員として宇多津は、さらなる進化を遂げていくことになるのです。

参考文献 日隆の法華宗と三好長慶   法華宗を媒介に      天 野 忠 幸 都市文化研究 4号 2004年

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本妙寺
坂出から丸亀を結ぶ宇多津の旧街道を宇夫階神社を目指して歩いていると、いろいろな宗派のお寺さんが並びます。お遍路さんで賑わう郷照寺を通り越して、歩いて行くと広い参道が山に向かって伸びています。その向こうには城郭のような石垣が見えます。
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日隆像(宇多津の本妙寺) 

気まぐれに入っていくと二つの大きな銅像が山門入口で迎えてくれました。一方は日蓮、そしてもう一方は日隆と刻まれています。日蓮は、私にも法華教の開祖と分かります。しかし、日隆ってだあーれ?という印象でした。日隆という未知の人物とともに、本妙寺という寺に興味を覚えました。法華教だから鎌倉時代の東遷御家人として、東国からやって来た秋山氏に関係があるのかなくらいに思ったのを覚えています。
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本妙寺の日蓮と日隆像
 その後、何度か史料も中でこの本妙寺に出会う中で、日隆の果たした役割や当時の法華教団の動きなどがおぼろげながら私にも見えてくるようになりました。ということで、日隆という人物と本妙寺について、参考文献をもとにまとめておくことにします。

本妙寺には、日隆自筆の文書が幾つか伝わっています
まず宝徳二年(1450)2月に定めた讃州宇多津弘教院法度の條書には次のように記されます。
  定 讃州宇足津弘教院法度條々事
   一 無退転可有弘通事
   一 守本寺之大旨、可為壇那成敗事
   一 寺家造栄之事、惣壇那而可取成事
   一 公事等出来之時者、惣壇那而可為勤仕事
   一 時之住持於旦那而不可相計事
    右、守此旨、師壇共卜不可有聞如、
    但、寺家之事者、惣旦那中一味同心経談合、可然様可被相計者也、の為後代所定如件
  宝徳二年二月下旬
  摂州尼崎本興寺住持 日隆(花押)
ここには日隆が宇多津弘教院に下した法度状です。
退転なく弘通することと、
本寺たる本興寺に従うこと、
寺家のことは、惣檀那と相談しておこなうこと、
などが定められています。
最後の日隆の肩書きに注目して下さい。尼崎の本興寺の住職となっています。つまり、この法度(信仰誓約書)は、弘教院と呼ばれていた法華堂に集う法華信者たちに、尼崎・本興寺の日隆が下したものです。年号のある宝徳2年(1450)の時点で、宇多津法花堂(弘教院)が尼崎本興寺との間に本末関係を結び、日隆のもとに帰属したことがわかります。

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本妙寺山門
また、第三条に「寺家造栄之事」とあります。ここからは、この頃に弘経院では本堂などの建築工事が予定されていたことがうかがえます。そしてその2年後に、次のような日隆から寺号授与状が下されています。
 右所授与如件
 授与之 寺号事  宝徳年七月下旬
  本門法華宗      日隆(花押)
  可称 本妙寺  讃岐国宇多津
寺号を「本妙寺と称すべし」と寺号が授与されています。この文書は、先の法度状と同筆で、日隆自筆とされています。2年前には宇多津の弘教院という法華堂に集まる法華信徒(檀那)集団という段階から正式の寺号を持つ本妙寺へとグレードアップしています。

宇多津 本妙寺
 本妙寺

さて、日隆とは何者なのでしょうか?最初に年表を掲げておきます
至徳 2(1385)年 越中国浅井島村に桃井右馬頭尚儀公の子として生。
応永 5(1398)年 14歳で京都妙本寺で得度
応永25(1418)年 妙本寺退出後、河内三井村に難を避ける
応永27(1420)年 尼崎に本興寺建立の端緒を得、
応永30(1423)年 摂津守護細川満元の支援により尼崎に本興寺を興す。
応永32(1426)年 越中国に向い、色ケ浜における祈祷により禅宗金泉庵義乗を改宗させ、さらに敦賀では真言宗大正寺円海を帰伏させて本勝寺を得た。
永享 元(1429)年には京に本応寺を再建
永享11(1429)年には、河内に布教して加納の法華寺を得る
永享 5(1433)年 京都本能寺を創建した。
文安 2(1445)年 宇多津船籍の兵庫北関通関数が47隻 宇多津は讃岐随一の港町
宝徳 元(1449)年 西国布教を志し、牛窓本蓮寺を改宗させ、
          備中高松では川上道蓮を教化して本隆寺を建立し、
            讃岐宇多津に本妙寺建立の基を開き、
            帰っては兵庫の久遠寺を末寺とした。
宝徳二年(1450)年2月 日隆が讃州宇多津弘教院へ法度の定書下す
宝徳 2(1451)  堺に顕本寺を建立。
寛政 5(1464)年 尼崎にて八十歳にて没 
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本妙寺

日隆は法華宗の開祖日蓮の時代から百年以上後の人物のようです。彼は、当時の法華宗を「習損い」と批判し、法華宗再興運動を進めます。上の年表をからは各地に布教し、多くの寺院の建立や復興を行っています。その数は、近畿一円から北陸、岡山・讃岐方面にかけて計14カ寺を数えます。その拠点になったのが京都本能寺と尼崎本興寺です。ここを拠点として、敦賀、河内、堺、兵庫、牛窓、宇多津などの交通の要衝の地に寺院を配置し、弟子、信者などを得たことが分かります。晩年は、尼崎の本興寺に入り膨大な著作の執筆活動と弟子の養成に尽力し、81歳の生涯を閉じます。
 本門法華教では、日隆を「蓮師後身 本因下種再興正導 門祖日隆聖人」と呼ぶそうです。
「蓮師後身」とは「日蓮聖人の生まれ変わり」という意味です。日蓮が亡くなったのが弘安5年10月13日で、その約101年後の至徳2年10月14日に日隆が誕生したことによるようです。宇多津の本妙寺の山門の前に、日蓮と日隆の大きな像が立ち並んでいる訳がなんとなく分かってきました。

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本妙寺から聖通寺山方面
ここまで見てきて私が疑問に思ったこと
①なぜ尼崎を拠点としたのか?
②なぜ瀬戸内海の港町である牛窓・備中高松・宇多津・兵庫に布教活動を行ったのか
③日隆の教えを受入れて信徒集団を構成した人たちは、どんなひとたちだったのか
④瀬戸内海布教のための教団組織は

疑問を解くために、日隆の伝記書から瀬戸内海への布教についてみてみましょう。
 本能寺・本興寺開祖日隆大聖人略縁趣(日憲)
大上人(日隆)は本興寺居たまへて 是より弘法を西国ひろめんとほっしたまへて まづ兵庫の津(神戸)に行せたもふて町宿をもとめたもふ 処宿の宅主あしらい鄭重也 翌日わかれをつげて曰く 予深くなんじが厚志をかんずるゆへに此物を預る但 風呂鋪也 他日我かえりきたるまでつつしんで防護せよと 
 
西国弘法(布教)は、拠点である尼崎の本興寺から出発します。まずは西国から海のハイウエーである瀬戸内海東へ登る船が立ち寄らなければならなかったのが兵庫(神戸)港でした。ここには東大寺の「海の関所」が置かれ、大坂に向かう船はここで関銭を納めるシステムが当時はありました。そんなこともあって兵庫港は平清盛以来、瀬戸内海における最大の交易都市でした。
 この宿の主人との間の風呂敷袋を預けるエピソードが挿入されます。これが久遠寺建立へとつながります。

 是より西国趣二せたもふて まづ備中の国新庄村にいたりたもふ 村中の酋長 川上道蓮・江本蓮光といふ 七月にせったい供養をおこのふ 大上人此供養のかりや入らせたもふて右の酋長のものと清談の時をうつしたもふ 酋長大上人をとものふて我家に帰り本門の深秘をとききかせたもふ所 信伏随喜して蓮光道蓮力をあはせ仮に堂をいとなみ 村中の老若をあつめ聞法結縁をせしめさせたまへ一村こぞって受戒して則一院を創々する 是本隆寺と号(略)

 兵庫(神戸)港から向かったのは牛窓かとおもいきや備中の新庄村です。今は総社ICの近くで海岸線から遠く離れているように思えます。しかし、この付近は古代の吉備王国の核心部で「吉備の穴海」と呼ばれる入り江がすぐ近くまで入り込んでいました。その海が新田開発されるのは江戸時代になってからです。中世は児島湾から足守川を逆上れば、本隆寺の背後の庚申山のすぐ東の川港に着くことができました。そういう意味では、ここも水運を利用すると便利な場所だったようです。そこでは、村長の蓮光道蓮力をはじめ村人の心をつかみ「一村こぞって受戒」し、本隆寺が開かれます。

 是より讃州卯辰の浜つかせたもふて 大きに宗風を振はせたもふて 周く撃毒破則一院を創たもふて本妙寺と号

宇多津での布教活動に触れているのはこれだけです。讃岐の法華集団と云えば、東遷御家人の秋山氏が建立した三豊の本門寺が「皆法華」の隆盛を誇っていましたが、そこには立ち寄った気配はありません。備讃瀬戸を超えて宇多津の地にやってきます。ここでも布教活動の成果として「一院を創った」とあります。これが最初に見た宇足津弘教院なのでしょう。

享徳二酉年大上人 尼崎へ帰らせたもふ また御かえりがけ兵庫旅宿したもふて亭主御たいめん遊はされし所 亭主大きによろこび先達御預居しもの取出し大上人へ差出 大上人笑はせたもふて亭主まことに正直の人也 今よりして正直やと致べくよし仰ければ 難有請受申てけて、ここにおいて大きに宗義をとなへ一寺建立ある すなわち久遠寺坊舎十二宇

   そして、吉備・讃岐への布教活動を終えて尼崎に帰っていくのですが、その際に立ち寄るのが兵庫港です。そこで風呂敷を預けた宿の亭主を信者にし、久遠寺を建立させます。
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本妙寺(宇多津)
日隆が布教対象としのは、どんなひとたちだったのでしょうか
日隆が瀬戸内海への布教活動を行った同時代の史料として「兵庫北関入船納帳」があります。これは、文安二年(1455)3月3日から12月29日までに摂津国兵庫津の北関を通過した船舶の船籍地・積載品目・数量・関料・納付月日・船頭・船主(問丸)の各項目を列記した記録簿(通行記録)です。この船の船主(問丸)の中に日隆聖人と関係がある人物名があるのが分かってきました。例えば問丸として記されている「衛門太郎」は、日隆が宝徳三年(1451)12月3日に曼荼羅本尊を与えた「信男衛門太郎 法名道妙」と同一人物のようです。
また船頭と記されている「衛門二郎」も、聖人自筆の「寺領屋敷地所当収納日記」中に永享二年(1430)11月28日付で京の千代寿に土地を売却した「奈良屋衛門二郎」と一致します。。
 「兵庫北関入船納帳」には記されていませんが、「衛門五郎」にも注目点があります。
「衛門五郎」についてみると嘉吉三年(1441)七月下旬に、聖人より曼荼羅本尊を授与された「信男妙浄衛門五郎」(本能寺蔵)です。彼は「収納日記」の中で、日隆に本興寺敷地として五貫文で屋敷地を売却した者として記されています。このことから、衛門五郎は初めは日隆に対してビジネス相手として対応していた関係が、時を経るに従って信者の立場に変ったのではないかと研究者は指摘します。
 もしそうであるなら、日隆の信者獲得や瀬戸内海沿岸布教について、具体的な姿が浮んできます。こんなSTORYが作れないでしょうか。
日隆の信者たちの中に、町衆と呼ばれる富裕な商人たちがいました。その金持ちとは、問丸と呼ばれる船主や、瀬戸内海の各港で貨物の輸送・販売などをおこなう者や、船の船頭などです。彼ら信者達は、日隆に何かの折に付けて、商売を通じて耳にした諸国の情況を話します。そして、新天地への布教を願い、支援したかもしれません。

 岡山牛窓の本蓮寺については、堂塔が整備できたのは石原氏の貢献が大きかったと伝わります。
石原氏の一族の石原遷幸は土豪型船持層で、船を持ち運輸と交易に関係したようです。石原氏の一族が自分の持ち舟に乗り、時折、尼崎の商売相手の所にやってきます。瀬戸内海交易に関わる者達にとって、「最新情報や文化」を手に入れると云うことは最重要課題でした。尼崎にやって来た石原氏の一族が、人を介して日隆に紹介され、法華信徒になっていくというSTORYは考えられることです
 このように日隆が布教活動を行い新たに寺を建立した敦賀・堺・尼崎・兵庫・牛窓・宇多津などは、その地域の海上交易の拠点港です。そこで活躍する問丸(海運・商業資本)と日隆の何らかのつながりのあったことることが見えてきます。
utadu_01宇足津全圖
宇多津湊 「讃岐国名勝図会」巻之10、江戸後期、松岡信正画

それでは、当時の商業交易圈と信仰伝播の方法の関係を探っていきたいのですが、
その前に問丸とは何かを「学習」しておきます。
古代の荘園の年貢輸送は、荘園領主に従属していた「梶取(かじとり)」によっておこなわれていました。彼らは自前の船を持たない雇われ船長でした。しかし、室町時代になると「梶取」は自分の船を所有する運輸業者へ成長していきます。その中でも、階層分化が生れて、何隻もの船を持つ船持と、操船技術者として有力な船持に属する者に分かれていきます。
 また船頭の下で働く「水手」(水夫)も、もともとは荘園主が荘民の中から選んだ者に水手料を支給して、水手として使っていました。それが水手も専業化し、荘園から出て船持の下で働く「船員労働者」になっていきます。このような船頭・水手を使って物資を輸送させたのは、在地領主層の商業活動です。そして、物資を銭貨に換える際には、問丸の手が必要となるのです。
荘園制の下の問丸の役割は、水上交通の労力奉仕・年貢米の輸送・陸揚作業の監督・倉庫管理などです。ところが、問丸も従属していた荘園領主から独立して、専門の貨物仲介業者あるいは輸送業者となっていったのです。
 こうして室町時代になると、問丸は年貢の輸送・管理・運送人夫の宿所の提供までの役をはたす一方で、倉庫業者として輸送物を遠方まで直接運ぶよりも、近くの商業地で売却して現金を送るようになります。つまり、投機的な動きも含めて「金融資本的性格?」を併せ持つようになり、年貢の徴収にまで加わる者も現れます。
 このような問丸が兵庫港や尼ヶ崎にも現れていたのです。先に述べたように、日隆の信徒の中にはこのような裕福な問丸達がいたようです。そして、彼らは牛窓と同じように讃岐の宇多津で海上交易に活躍する人々と人的なネットワークを張り巡らし、情報交換を行っていたのでしょう。
その中に服装や宗教などの文化情報も含まれています。あらたな流派の宗教活動についても強い好奇心と関心を彼らは持っていたはずです。問丸達によって張られたネットワークに乗っかる形で、日隆の瀬戸内海布教活動は行われたというのが私のいまの仮説です。
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本妙寺
最後に、日隆がこのような布教活動を行ったのはなぜでしょうか?
日隆が尊敬する大覚大僧正の跡をたどたのではないかというのが一つの考えです。ルート場には、妙顕寺末からの転派寺院が多くあることから想像されることのようです。
もう一つは、先師の大覚大僧正が布教と共に妙顕寺維持のための銭貨を集めて本寺に送った例があります。これを知っていた日隆は65歳という高齢ながら、本興寺や本能寺護持や勧学院運営のための財源確保というような目的もあったのではないかと考える研究者もいるようです。そうだとすれば布教活動だけでなく「募金活動」も含まれていたということになります。そして、それならお金を持っている人が多く住んでいる瀬戸内海の各港町を訪れたというのもよりリアルに納得できます。

  参考文献 小西轍隆 日隆聖人の瀬戸内海沿岸布教についての一試論
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江戸時代の後半の文政八年(1825)の2月に、高松藩は金毘羅大権現へ宇足津の寄洲を寄付します。高松藩からの通知には、次のようにあります。
「此度、殿様御心願在らせられ候二付き、鵜足郡土器村川裾より阿野郡堺迄之内海辺砂州 金毘羅神領御供用二土地寄進遊ばさるべきべき旨仰せ出され候二付き、其の段金光院え申し渡し畝間、郡奉行所役人指しだし取調の上、際面札立て右土地引渡申すべく候」
殿様(松平頼恕)の心願によって海辺砂州が寄付され、金毘羅大権現の金光院に寄付されたという札が立てられたようです。寄州とは、河口や海岸などに、土砂が風波で吹き寄せられてできた州のことで、宇多津には大束川河口に広い寄州があったようです。
その範囲はどのくらいなのでしょうか?
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「年来実録」には次のように示されています。
南境は都て浪打ち際 東西長六百三拾三間、西境は土器村海手一開水門より弐拾間東にて北江五拾弐間除地見通し長三百八拾間、東境は川口番所裏西石垣より西江拾四間除地見通し長弐百九拾間、北境「東西見通し長五百八拾八間」
これによると南側は全て波打ち際での長さが約1,3㎞の海岸線です。北側は西は土器村の水門から東は川口番所裏の石垣まで約1,2㎞、両横の長さは約0・6㎞×0・76㎞のいびつな長方形で、相当に広い土地です。現在の宇多津駅から役場辺りまでのエリアになりそうです。その年の九月二七日には高松藩役人と金光院役人との間で引き渡しが行われ四方に杭打ちが行われました。
しかし、この土地は「鵜足津浦海辺、南境波打際・・」とあるように海浜です。
鵜足津湊、道場寺 第四巻所収画像000015
宇多津湊 道場寺(郷照寺) 金毘羅名所参拝絵図より
そんな海岸を高松藩は、金毘羅さんにどうして寄進したのでしょうか?
文書には続けて次のようにあります。
「鵜足津御寄付土地、追々開き立て(開発)候て、百姓共住宅井びに土地支配の義共、鵜足津村役人にて取り扱わせ、川口出入り等の義ハ、時々村役人より申し越し候ハ切手等指し出し申さるべく」
「収納方の義は、開発の上追て申し達すべく候」と「開き立て」=「開発・埋立」して、百姓=住民達の住宅にして「川口出入」=「新港」構想があったようです。
 この時期の讃岐をめぐる状況を見て見ましょう。
讃州圓亀鎮城川口船場20111108_091553671
幕末の丸亀湊 福島と新堀の二つの湊が整備されている
お隣の丸亀藩では、延享元年(1744)に金毘羅参詣船が就航して以来、上方からの金比羅参詣客が増えます。それに対応して文化三年(1806)には福島湛甫を完成させ、参拝客の急増に対応し、丸亀が参詣の湊として急速に発展していく時期です。丸亀湊の賑わいを見て、高松藩にも金刀比羅参拝の拠点湊を開き観光振興策の一つにしようとしたのではないでしょうか。そこで白羽の矢が立ったのが宇多津。宇多津は高松藩内では、金毘羅に最も近い湊です。ここを参詣客の玄関口として発展させようとする計画が生まれたと考えても不自然ではありません。
 その際に、取られたのが開発方法は高松藩が直接に工事を進めるものではありませんでした。「海岸線」を金毘羅に寄進し、埋立から開発までを「民間資本」の活用で進めようとしたのです。こうして、この年九月二十七日に高松藩の役人と金毘羅の別当・金光院の双方の重役が立ち会い土地の引渡が行われます。そして「間数四方へくい木打ち廻り」が行われたのです。

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  ところが、この土地は思わぬ方向に動き始めます
稲毛家文書の文政八年二月廿日に、次のような記事が見えます。
「金毘羅神領御寄附二付き、郷中金毘羅信こふの者より材木明俵等寄進致し候由ニテ日々賑々敷」
鵜足郡内で金毘羅信仰の厚い者達が寄進された土地を埋め立てようと材木や土砂の入った空俵などを持ってきて賑わうようになったというのです。
 これに対して藩側は
「全ク寄進致し候 事口ゆへ指留め候儀二「及ばず」とし「若者共はて成る衣類位の品ハ見免しあまり増長致さざる様」
にと、若者らに対しては派手な衣類などにならないようにと指示しただけで、作業を黙認します。その結果、次第に
「若者共そめき上方に流行の砂持ち様の真似ヲ以て花美過ぎ候」
と、寛政元年(1789)に大坂で起こった砂持明神騒ぎの様相に似てきたのです。
DSC03695宇多津

大坂で起きた砂持明神騒ぎとはなんでしょうか
 大坂の港や堀は上流からの土砂堆積で少しずつ埋まっていきます。そのため定期的に土砂などを浚える必用がありました。この作業を「砂持ち」と呼びました。
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 こうした大工事には、古代に古墳の石室の巨石や石棺の運搬や大坂城築城の巨石運搬と同じように修羅を大勢の人間が曳く作業が伴います。
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これは昔から土木作業という範囲を超えた祭礼行事の側面を持っていました。都市で修羅を曳くのは、お祭りなのです。近世の砂持ち作業も単なる土木作業に留まることはありませんでした。都市住民は、この機会に囃子屋台や仮装行列が繰り出し祭礼行事化していきます。
川や堀ざらえで取り除いた土砂はどうしたのでしょうか。
各町組の氏子らが川ざらえで出た多量の土砂は、最初は寺社の整地に使われていたようです。それが新開地の埋立に使われるようになり大規模化します。
下の絵は寛政元年(1789)5月下旬から大坂玉造稲荷で熱狂的な賑わいで行われた「砂持」の様子を描いたものです。
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この絵は、町単位でそろえられた纏と法被(はっぴ)が描かれています。砂持ちに参加した人々は、砂持ち大明神を担ぎ出し、町毎の幟を立て、太鼓や鉦を打ち鳴らして加勢します。ここからは、砂持ち大明神のパレードに町々が競い合った様子がうかがえます。
 川ざらえの土砂運搬である「砂持」は、しだいに祝祭的な要素を加えていきます。
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 「砂持」は、さらえた土砂を新開地や神社へ運ぶという作業を祭礼行事(パレード)に変えて行きました。人々は鳴り物入りで踊りながら熱狂してパレードした様子が伝わって来ます。さらに時代が進むと山車も登場しますし、「仮装」も行われ、祭礼空間が産みだされています。
 広島も太田川の河口にデルタ地帯の上に造られた城下町です。
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ここでも川底に堆積する土砂を除く川ざらえが欠かせません。絵図は幕末の文久2年(1862)に広島城下の町衆が砂持加勢の土ざらえの土砂を運搬する手伝いと称し、新しいお祭りを作り出します。この絵図は、城下の各町による仮装行列を描き出したもので、互いに趣向を競い合った「砂持ち風流」の様子が見て取れます。
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このような砂持ち大明神と埋立がリンクして役人から見れば「不穏な動き」が醸し出される要素があったのです。
 当時の宇多津の動きを「歴世年譜」は次のように記します。
「城下ノ者ハ土俵ヲ車輿牛馬二積ミ 各邑ノ旗幟ヲ建テ種々ノ紛議ヲ演ジ 鉦鼓管弦且ツ奏シ且ツ行キ往来織ルカ如夕日夜絶エズ」
各村々がのぼり旗を立て、仮装行列化し、鉦や太鼓で囃し立てる光景です。大坂で風流として流行していた風俗が宇多津にも現れていたことが分かります。高松藩の為政者には「統制できない不穏な動き」の前兆と写ったことでしょう。「まずい」というのが正直な反応だったと思います。以後、高松藩は厳しい申し渡しなどで規制を強めます。その結果、騒ぎは次第に収まっていったようです。しかし、民間の力による埋立開発=新港建設という計画は頓挫してしまいます。「歴世年譜」には
「後、藩政二窮乏ヨリシテ 埋立ノ議ハ亦止ミテ行ハレス」と記されています。
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嘉永五年(1852)に金光院は次のように再度の開発計画を高松藩に申請します
「先年源態様ヨリ御寄付二相成り候 宇足津村寄洲、此の度御一手ヲ以て御開発の義、先達て御書面ヲ以て御伺の趣」。
 これに対して高松藩の回答は以下のようなものでした。
(前略)右場所先年御寄付相成り候義二付き、今度御開発成され度き段は、御尤もの義二これ在り候処、天保十三寅年異国舟渡来の節、海岸防禦の義二付き、公辺より格段厳重の仰せ出されこれ在り。国々海岸の絵図取り調べ、井びに浅深も相量り、船付きの場所より城下陣屋迄の里数、或は兼ねて人数指し出し置き候台場遠見番所の類迄も、認メ加へ指し出し候様二と御指図これ在り。則ち巨細の絵図面出来、公辺え御届け相成る。
 右二付き此の御領分東西御人数、御備台場等の義迄御届け二相成り、右寄洲の場所は御領分境の義、別して厳重の御備場所二相成り居り候間、当時二おゐてハ、同所御開発の義は、兎角御挨拶及び難き義二御座候。先ず暫く御見合わせ相成り候様致し度く御座候。」
意訳すると「天保13(1842)年の異国船渡来により幕府は、海岸防御のため各地の沿岸の実情調査し絵図作成を命じた。高松藩もこれに応じて詳細な数字を書き込んだ絵図をすでに提出している。また宇足津寄洲は丸亀藩との境にあって重要な場所となっている。このような状況下においては開発を許可することはできない」との回答です。

 こうして高松藩の「民間活力の導入」という宇多津新港の建設は「砂持ち大明神」さわぎと異国船到来という事態中で立ち消えとなったのです。
小藩ながら新湊建設を成し遂げたのが幕末の多度津藩です。
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幕末に完成した多度津湊
この結果、多度津湊には幕末から明治にかけて金毘羅参拝客が急増します。
同時に新港に出入りする船舶も急速に増加し、明治には讃岐第1の港湾施設に成長していきます。そこで資本蓄積を行った地元資本は多度津七福神と呼ばれ、景山家の下に結集し新たな投資先を求めて行くようになります。それが多度津の近代へ脱皮・成長へとつながります。そういう意味では、新港計画が挫折した宇多津と成功させた多度津のターニングポイントはこの辺りにあったのかも知れません。
参考文献 丸尾寛 宇多津への金比羅神領寄進の影響について 







         

浄土真宗の中讃への布教は、阿波の安楽寺が布教センターだったことを前回にお伝えしました。それは阿波ルートの興正寺派の教線でした。しかし、真宗の伝播には、もう一つ本願寺による「海のルート」があります。

四国真宗伝播 寛永3年安楽寺末寺分布

興正寺派の阿波安楽寺の末寺分布図(寛永3年)
讃岐に数多くの末寺があったことが分かる。

 古代から瀬戸内海は東西を結ぶ「海のハイウエー」の役割を果たしてきました。島の湊はそのサービスエリアでもありました。この瀬戸内海を通じて真宗は入ってきます。これが本願寺のルートです。
 讃岐への真宗の伝播は、興正寺からのルートと本願寺からのルートの二つがあったことになります。讃岐の真宗寺院の分布状況を見ると、海岸線に本願寺系が多く、内陸部には興正寺系は多く存在しています。それは、海から伝わったか、阿波から伝わったかの伝播ルートのちがいによるようです。

 真宗と讃岐の結びつきはいつ頃から?

「天文日記」は、本願寺第十世證如が21歳の天文五年(1536)正月から天文23年8月に39歳で亡くなるまで書き続けた19年間の日記です。その中の天文12(1543)5月10日条に、次のように記されています。 
『天文日記』天文十二年五月十日・七月二十二日
十日 就当番之儀、讃岐国福善寺以上洛之次、今一番計動之、非何後儀、樽持参第二七月二十二日 従讃岐香西神五郎、初府致音信也。使渡辺善門跡水仕子也。
ここには、天文十二(1544)に「就当番之儀、讃岐国福善寺」とあります。福善寺は高松市にありますが、本願寺へ樽を持参していたことが記されています。福禅寺が本願寺の末寺となっていたようです。この16世紀半ばの天文年間に、本願寺と関係がある真宗寺院が髙松にはあったことが分かります。
 また、
七月二十二日「従讃岐香西神五郎、初府政音信也」とあります。これは、香西氏が初めて本願寺を訪れた記録になるようです。香西氏の中には、真宗信者になり菩提寺を建立する者がいたようです。讃岐の武士団の中に真宗信者が現れ、本願寺と結びつきを深めていく者もいたのです。

どうして、香西氏は本願寺の間に結びつきができたのでしょうか?

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 当時、讃岐は「阿波三好氏の支配下」にありました。そして、阿波三好氏の実権を握っていたのが重臣の篠原長房でした。そこで香西氏は長房に率いられて上洛し、本願寺へと赴くようになるのです。それは長房の夫人が、堺の真宗のお寺の娘さんという関係があったからのようです。それを縁に本願寺と長房は、深い結びつきを持つようになります。こうして、篠原長房に従った讃岐武士団のなかにも、真宗に改宗し、真宗を保護する者もあらわれます。
讃岐に真宗寺院が、増加するのは享禄から天文年間にかけてです。

四国真宗伝播 讃岐の郡別真宗創建年代一覧
讃岐の真宗寺院の郡別創建年代一覧
応永・明応年間  1368年から1375年 1492年から1501年
②文亀・大永年間  1501年から1504年 1521年から1528年
③天文年間 1532年から1555年
④天正年間 1573年から1593年
上表から分かることをあげておくと
①の15世紀末時期に創建された4寺は、興正寺系末寺である
②になると三木郡の常光寺や阿波郡里の安楽寺の興正寺の教線がラインが伸びてくる。
③天文年間になると、瀬戸内海ルートで本願寺からの教線ラインが伸びてくる。
④大水上神社の信仰圏である大内・寒川・三木や、善通寺・弥谷寺など真言系修験道の信仰圏である多度郡・三野郡・豊田郡などは、この時期に設立された真宗寺院が少ない。

四国真宗伝播 讃岐の郡別真宗転宗一覧
讃岐郡別の真宗への転宗寺院数
上図は、この時期に旧仏教(真言・天台)から真宗に転宗した郡別寺院数を一覧化したものです。上の④で指摘したように、修験道系の旧仏教勢力の強いところでは、転宗寺院は少ないようです。
真言・天台の旧勢力が衰えていた地域に真宗が入り込んで、真宗に宗派替えをするようになっていることがうかがえます。地域的に見ると中讃地域に多いようです。改宗時期を見ると、讃岐で真宗寺院が増える天文年間(1532. ~1555年)のようです。
 ここからは、私の仮説です。
 この時期は、西長尾城主の弟・宥雅が流行神である金毘羅神を産み出し、金毘羅堂を象頭山に建立した時期にもあたります。宥雅の中には、讃岐山脈を越えて丸亀平野に入ってくる郡里安楽寺の布教僧侶たちの姿が目に入っていたはずです。土器川の奧の百姓たちに根付いて、各地で道場を開いていく真宗の僧侶たち。宥雅は善通寺で修行を修めた真言僧侶です。彼らは、丸亀平野の奥から次第に、門徒を増やして行く真宗の布教活動を見て、なんとかしなければならないという危機意識を膨らませます。その答えが、新たな霊力ある神を祭り、信者を獲得することでした。そのために地元に伝わる悪魚退治伝説の悪魚を、善進化しクンピーラとして登場させます。
 つまり、宥雅による流行神である金毘羅神の創出は、那珂郡や鵜足郡で急速に門徒を増やす真宗への対抗措置であったと私は考えています。
土器川沿いに上流から中流へと道場をふやしていく動きとは、別の動きが真宗にはありました、それが本願寺自らが開拓していた教線ルートである瀬戸内海ルートです。

その中の一つに宇多津の西光寺があります。

この寺の「縁起」を見てみましょう。『諦観山西光寺縁起』
天文十八年、向専法師、本尊の奇特を感得し、再興の志を起し、経営の功を尽して、遂に仏閣となす。向専の父を進藤山城守といふ。其手長兵衛尉宣絞、子細ありて、大谷の真門に帰して、発心出家す。本願寺十代証知御門跡の御弟子となり、法名を向専と賜ふ。
天文十八年(1550)に本願寺・証知の弟子になって、向専という名前を与えられています。そして、この寺に当時の支配者であった阿波の篠原長房が出した禁制(保護)が西光寺に残っています。  
  史料⑤篠原長絞禁制〔西光寺文書〕
  禁制  千足津(宇多津)鍋屋下之道場
  一 当手軍勢甲乙矢等乱妨狼籍事
  一 剪株前栽事 附殺生之事
  一 相懸矢銭兵根本事 附放火之事
右粂々堅介停止屹、若此旨於違犯此輩者、遂可校庭躾料者也、掲下知知性
    永禄十年六月   日右京進橘(花押)
「千足津(宇多津)鍋屋下之道場」と記載があります。
 鍋屋というのは地名です。その付近に最初は「道場」ができたようです。それが「元亀貳年正月」には西光寺道場」と寺院名を持つまでに「成長」しています。
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西光寺の門扉の紋章
本願寺派に属する宇多津の西光寺の前は、かつては海でした。

宇多津 西光寺

中世の宇多津
江戸時代になって塩田が作られ、現在ではそれが埋め立てられて海は遙か北に退きましたが、この時代は西光寺の前は海でした。小舟であれば直接に、この寺の船着き場にこぎ寄せることが出来ました。本願寺から「教線拡大」のための僧侶が海からやってきたのです。
 宇多津は中世は管領細川氏の拠点で当時の「県庁所在地」で、讃岐で最も繁栄する「都市」であり「湊」でした。その山手には各宗派の寺院が、建ち並んでいました。このような「宗教激戦地」の中で本願寺は、どんな形で布教活動を進めたのでしょうか? 興正寺派が農村で進めた布教活動とは、どんな点がちがっていたのでしょう。

まず、布教対象です。どのような人々が門徒になったかです。

宇多津 西光寺 中世復元図
中世の復元図の中の西光寺 湾内に突き出た砂州上に立地

 先ほど史料で見たように、西光寺の付近に鋳物師原とか鍋屋といった鋳物に関わる地名が残っています。手工業に従事する人々が、この付近に住んでいたことが分かります。この地域には、今も西光寺の檀家が多くいるそうです。
 また宇多津は港町として繁栄しますが、水運業に関わる人たちのなかにも門徒が増えていくようです。非農業民の真宗門徒をワタリと称しています。宇多津は経済力の大きな町で、それを支えるのがこのような門徒たちであり、また西光寺も支えていたのです。

宇足津全圖(宇多津全圖 西光寺
宇多津 西光寺(江戸時代後半)

 ちなみに、宇多津の沖の本島・広島には多くの寺院がありましたが真宗寺院はありません。小豆島もそうです。讃岐の島々は旧勢力の真言宗が強く、真宗の入っていく余地はなく「布教活動」は成功しなかったようです。
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宇多津の西光寺が成長していく永禄年間というのは戦国時代の真最中です。
 当時の讃岐の状況は、阿波の三好氏が侵入してきてその支配下になっていました。また中央では、大坂の石山本願寺をめぐって織田信長と本願寺の対立が目増しに激しくなっていく時期です。その渦に、讃岐の真宗寺院が巻き込まれていくのです。
 当時は真宗の門徒たちが一致団結して、権力者に立ち向かっていく状況が各地で見られました。一向一揆ですが、その「司令本部」が石山本願寺(現大阪城)でした。石山本願寺と信長が直接対決するようになるのが元亀元年からで、この戦いを「石山戦争」と呼んでいます。この「石山戦争」に建立されたばかりの讃岐の真宗寺院が巻き込まれていきます。
イメージ 2
西光寺

 大阪石山本願寺の顕如が阿波の慈船寺に当てた次の文書が残っています。顕如書状〔慈船寺文書〕
近年信長依権威、爰許へたいし度々難題いまに其煩やます候、此両門下之輩於励寸志者、仏法興隆たるへく候、諸国錯乱の時節、卸此之儀、さためて調かたなく覚候へとも、旨趣を申候、尚様鉢においては上野法眼・別邸郷法橋可申候、あなかしこあなかしこ
     十月七日
      阿波               顕如花押
       坊主衆中へ
       門徒衆中へ
「阿波坊主衆中 門徒衆中」となっています。本願寺から直接阿波の寺院へ出したものです。内容は
「信長の非道を責めつつ、信長と本願寺がついに戦いを始めたから、各地の門徒たちは本願寺を援助しろ」
ということです。しかし、信長と戦うにも本願寺が自前の軍隊をもっているわけではありません。本願寺の要請によって各地の門徒たちがこぞって応援にかけつけることになります。また兵糧・軍資金の要請もします。このような顕如の手紙を「置文」といい、全国に多く残っています。
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西光寺本堂

 そして、讃岐でそれに応じたのが西光寺です。

 下間頼廉書状〔西光寺文書〕
  回文「詳定」
  一 青銅七百貫
  一 法米五十解
  一 大麦小麦格解貳斗
 今度御門跡様織田信長と就御鉾楯不大方、依之其方以勧化之働、右之通獣上述披露候所、懇志之段神妙思召候、早奉仰御利運所也、弥法儀相続無出断仏恩称名可披相嗜事、白河 以肝要愉旨、能々相心得可申候由御意愉、則披顕御印愉悦
             別邸郷法橋
     五月十三         頼廉(花押)
         西光寺 専念
これは本願寺の財務方の「法橋」からの礼状になります。
「青銅七百貨、植木五十解、大麦小麦捨百二斗」を、西光寺が支援物資として本願寺へ送ったことに対する礼状です。青銅七百貨は銭です。西光寺がそれだけの資金を準備できるお寺であり、それを支える門徒衆の存在がうかがえます。これは西光寺だけでなく、阿波の安楽寺や安芸門徒(広島)などの寺院も送っています。全国各地から多額の軍資金や兵糧が本願寺へ送られるのです。
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西光寺 白壁の塀には「銃眼」が開けられています

 信長は本願寺と戦うだけでなく、あちこちで一向一揆と壮絶な戦いを繰り広げています。本願寺にとってみれば、長島・越前など各地のの一向衆の一揆がたたき潰されていくのですから、生き残りをかけた戦いで敗れるわけにはいきません。ここで敗れることは本願寺王国の壊滅というせっぱつまった状況にあったのです。信長にとってみれば、本願寺をたたき潰すことにより、長年の一向一揆との戦いに終止符をうつことになるのです。お互いに負けることができない戦いがこの石山戦争なのです。そして、同時展開で西欧で展開されていた「宗教戦争」とも似ていました。
 そして本願寺は戦いの向こうに展望が開けて行くことになります。

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西光寺 東側はかつては海だった
どちらにしても、真宗の讃岐への伝播は
① 阿波ルートで「真宗興正寺派」が山から平野に
② 瀬戸内海ルートで「真宗本願寺」が海岸の港町を拠点に
讃岐に「教線拡大」していくのです。

参考文献 橋詰 茂 「讃岐における真宗の展開」
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絵図から探る200年前の瀬戸内海の港 宇多津

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「宇多津街道図」で、宇多津町の法華宗寺院本妙寺に伝わる絵図です。宇多津西部の町並みが海側から鳥瞰するように描かれてています。とは言っても、二百年前の作品で見たとおり退色が進み、何が書いてあるか分からない状態です。もとは衝立であったのが、その後に巻いた状態で保管されていたのでしょう。
 画面向かって右下に、「東埜原民馨」の署名があり江戸時代後期の讃岐の絵師、大原東野が描いたものであることがわかります。近世後期の宇多津を描いた貴重な絵画作品として、宇多津町指定有形文化財に指定されています。 
 200年前の宇多津の街並み散歩に出かけましょう
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 先ほどの絵図を香川県歴史博物館が調査のために描き起こした写真です。手前に、宇多津の北に広がる海が描かれます。画面向かって右中央には、鳥居から続く階段とやや高くなった岩山の上に神社が見えます。これが宇夫階神社です。鳥居を抜けて階段を登ると隨神門があり、その奥に本社の屋根が見えます。
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本社の横には、宇多津の海を見渡す位置に高松藩の遠見番所が描かれ、また隨神門の左横には神宮寺と思われる建物が見えます。階段下の鳥居の脇には一対の常夜燈が描かれています。これは現在も宇夫階神社の境内にある文政10年(1827)9月の建立銘文をもつ常夜燈でしょう。この絵が描かれたときには建立されたばかりでした。
 宇夫階神社の大きな鳥居のすぐ左横には、秋葉社の鳥居と階段らしきものが描かれています。その前から西町を通って東にのびる丸亀街道には、荷を担いて行き交う人々の姿が見えます。宇夫階神社の北側には、すぐそばまで海が迫っていることが分かります。神社の崖下を丸亀街道が通っています。
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 宇夫階神社の鳥居に帰ります。
そこから東に向かうと街道の中ほどから、本妙寺へと続く参道が上に伸びています。その角には元禄年間(1799)に建立された石碑が描かれています。現在、この石碑は参道の西側に場所を移しています。本妙寺は、他の建造物に比べると本堂の屋根の形などが比較的詳しく描写されています。 
 本妙寺の東には、郷照寺の塀や建物と、画面左端から続く参道が描かれます。
本妙寺と郷照寺の参道口の中ほどに、鳥居のような建造物と小さな祠のようなものが見えますが、これは現在も浄泉寺前にある祠と石造物を表したものでしょう。
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その西隣りに描かれた四角形の台が描写されています。
しかし、現在はこれに相当する建造物は見当たらないようです。上の絵図は江戸時代後期にまとめられた「讃岐国名勝図会 後編(稿本)」に収められた挿絵「郷照寺 浄泉寺」です。ここには、郷照寺の下の街道沿いにこの四角形の台が描かれ「御旅所」と記されています。その位置から考えて、宇夫階神社の御旅所でしょう。しかし、現在では宇夫階神社の御旅所は田町神事場と聖通寺神事場で、それ以外で町の中に御旅所があったという話は伝わっていません。
再び宇夫階神社前に戻って画面を見てみましょう。
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鳥居の前から画面右下に向かって横町の街道がのび、浜町の街道と交わります。その交差点ある方形の堂宇は、「讃岐国名勝図会 後編(稿本)」の挿絵「宗夫階社 神宮寺 秋葉社 神石社」によると釈迦堂です。そして道向こうにある長い屋根の建造物は十王堂です。
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その海側には方形をした池の中央に祠のある亀石神社が見え、掘割とつながる導入溝も描かれています。現在ではこの周辺は埋め立てられ、中央公園や小学校が建っていますが、当時は亀石神社から海側にのびる地が砂州となっています。この時期は石垣などで整備されていない様子がうかがわれます。
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 東西にのびる浜町の街道には町屋が並び、往来する人々の姿が見えます。また、西町と浜町に挟まれた幸町付近は、家屋などのない低地であったことが知られていますが、この絵でも植物の茂みのような表現が見られるだけで、自然状態の利用されていない土地であったようです。
最後に、浜町から北の海側に広がる区画を見てみましょう。
 海に突き出た堤防に沿って十八世紀中ごろから開発が始まった古浜塩田が見えます。堤防の根元には、海水を煮詰めるための釜屋らしき建物が見え、その横には、木々に囲まれた蛭子神社と鳥居が見えます。塩田の周囲は石を積んで護岸されており、掘割の入口には目印となる燈篭が見えます。周辺には、掘割の中も含めて数艘の船が行き来する様が描かれており、港町として賑わっていた宇多津の様子が描かれています。さて、この絵を描いたのは誰なのでしょうか?
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作者は、大阪から琴平に移り住んだ大原東野です。 
明和八年(1772)奈良に生まれ、後に大阪に住み画家となります。文政2年(1819)6月に、息子の萬年とともに讃岐を訪れ、金毘羅の参詣道を修造するために「象頭山行程修造之記」を著します。これは、丸亀から金毘羅に至る街道の現状を嘆いた東野が、施主の求めに応じて扇面から屏風まで様々な絵画を制作し、その代金を街道修繕の工賃にあてるというもので、木版刷りで広く配ったようです。その後、大阪に帰らずに苗田村(現琴平町)の丸亀街道沿いに家を構え、石津亮澄著「金毘羅山名勝図会」の挿絵を手がけた以外にも、数多くの花鳥、人物図などを描きました。
 画家としての東野は人物図を得意としましたが、「金毘羅山名勝図会」などの景観図を描く技術と経験も充分に備えていました。さらに、讃岐の琴平に移り住み、宇多津のことを充分に知り、その地形の特徴を把握したうえでこの作品に取り組んだと考えられます。11年(1840)に没しました。各種の藤を育てていたという寓居は「藤の棚」と呼ばれ、今も地名にその名が残っています。   

制作目的と制作年代は?

 描かれている範囲が町全体ではなく、宇多津西部の景観に限定されている理由は何でしょう。
 
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この絵には見るものの目線を画面の主題へと自然に導く構図の工夫があるようです。私たちの目線は、まず手前に広がる海から、掘割を通って宇多津の町に向かいます。そして横町、西町と街道をたどって進み、中ほどで掘割と平行するようにのびる参道を登って本妙寺に至ります。意識しなくても、大きな水路や道をたどれば、画面中央に描かれた本妙寺に自然に辿り着くという工夫です。しかし、本妙寺は特に強調して描かれることもなく、あくまでも周囲の景観にとけこむように表されています。ここからこの絵の主題は、本妙寺ではあっても、宇多津の町に一体化した佇まいをみせる寺の姿を描くことにあったのではないでしょうか。海から宇多津を訪れた人や、街道を行く人々には、青ノ山を背に、町並みから一段高く位置する本妙寺が、この絵のように見えたのでしょう。 
 景観年代については、宇夫階神社の鳥居横に描かれる常夜燈を現存のものとみれば、文政10年(1827)建立以降と考えられます。また作者の大原東野は天保11年(1840)に没していますので、それまでの制作されたことになります。いずれにしても、街道が整えられ、船も人も行きかう二百年前の宇多津を描いた貴重な絵画作品といえます。
 以上のように、日常的風景の中に本妙寺を中心として成立する宇多津の景観を描く工夫が織り込まれている点を考えると本妙寺の依頼によって描かれた可能性が高くなります。そして当初は、衝立のような複数の人と鑑賞を共有できる画面に、風景として本妙寺の姿を表現してみせたのがこの絵ではないでしょうか。
「香川県宇多æ´\ 本妙寺」の画像検索結果

 参考史料 松岡明子 近世の宇多津を描いた景観図

            

 郷照寺は八十八か所の中で唯一の時宗のお寺です。

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一遍上人は四国の人ですから、しばしばこういうところを歩いたにちがいありません。また最後の遊行を前にして、自分の郷里伊予に帰ったこともはっきりしています。亡くなる一年前に帰って、郷里のあちらこちらにお参りしています。

 武具が非常に多いので有名な大三島の大山祗神社にお参りしたりして、それから十六年に及ぶ最後の遊行に出発します。善通寺から郷照寺を通りすぎて、淡路島から明石に渡って、神戸まで行って正応二年二二八九)八月末に亡くなっております。
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郷照寺は、もとは道場寺と呼ばれていました。

寺は海に臨んだ高台ですが、昔はすぐ下まで海であったといわれています。
正面に庫裡、客殿、庭園があります。納経所は寺他の石段の上にあります。
本堂は東向きに建っていて、その前に庚申堂があります。
本堂の後ろの高いところに大師堂があり、その裏に淡島堂(粟島明神堂)と稲荷社があります。淡島堂は以空上人が建てたということがはっきりしています。
以空上人は、五剣山ハ栗寺に弁財天をまつった人です。

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 縁起は、霊亀年間(七一五-一七)に行基菩薩が開削して、もとは仏光山道場寺
と名づけたと書いています。
 弘法大師が再興し、尊心憎都、通苑阿闘茶などが住んだといいますが、現在は時宗で一遍上人の止住を伝えています。一遍は四国の松山の人で、善通寺に参詣して阿波から淡路へ越えたことがあるので、ここを遍ったことは確かです。
天正年間(一五七三-九二)の長宗我部氏の兵火で焼けたあと、江戸時代に再興して藩主の保護を受けました。書院にはすばらしい庭園があって、名石や名木があります。
 
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郷照寺は宇多津の港に臨む高台にあって、仏光山の名のごとく灯台の役を果たしました。あるいは庚申堂の常夜灯であったかもしれません。庚申信仰は念仏信仰です。
昔はお葬式を手伝いあうのが庚申請でした。
庚申念仏のために人々が集まる道場が道場寺になったようです。
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このあたりは秘事法門が多いといわれるのは、このような念仏信仰が真言念仏・秘密念仏化したものがベースにあるのかもしれません。
 庚申堂本尊も密教の青面金剛です。もとは庚申請の掛軸を出したり、七色菓子を出したりしたかもしれません。現在は大師信仰だけになりました。

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