瀬戸の島から

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室本 麹


酒造りだけでなく、味噌や醤油など日本の発酵製品で欠かせないのが麹です。麹と云えば、私にとっては甘酒です。高度経済成長が始まる前までは、西讃の田舎のわが家では秋祭り以外にもよく甘酒を作っていました。それを年寄りは楽しみにしていました。
室本 地図
観音寺市室本

その麹は、室本からもたらされたものでした。地域で一括して代表者が室本の麹屋に発注し、届けて貰って分けるというシステムで、当時はお店では販売していなかったように思います。西讃エリアの麹は、古くから室本がまかなっていたようです。今回は、室本の麹について見ていくことにします。テキストは、室本麹と専売権  観音寺市史222P」です 
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幕末に、丸亀藩が各村の庄屋たちに原稿提出を求めて作られた「西讃府志」には、室本の麹について、次のように記されています。
室本村ノ人、古ヨリ是ヲ製ルヲ業トシテ、国内二売レリ、香川氏ノ時ヨリ、三野那ヨリ西ノ諸村二、醴(甘酒)又 味噌ナド造ルニ、此村ヲ除キテ外二製ルコトヲ許サズ、香川之景ノ制書、今尚彼村二伝ヘリ。                 (西讃府志巻之五十)
意訳変換しておくと
室本村の人々は、古くから麹を製ることを生業とし、讃岐国内で販売してきた。(戦国時代の讃岐守護代であった)香川氏の時に、三野郡から西の諸村では、醴(甘酒)や 味噌などを作るときに麹については、室本以外には製造・販売を認めずに独占権を与えた。その香川之景の認可状が、この村には伝えられている。                 (西讃府志巻之五十)

ここからは、室本には三野・豊田郡の麹の独占製造販売権が、戦国時代に西讃守護代の香川氏から認められていて、それが幕末まで続いていたことが分かります。
室本浦里img000007
室本浦里

「香川之景ノ制書、今尚彼村二伝ヘリ」とされるものが、永禄元年(1558)の香川之景の判物で、次のように記されています。

室本 麹特許
讃岐国室本地下人等申麹商売事、先規之重書等並元景御折紙明鏡上者、以其筋目不可有別儀、若又有子細者可註中者也、例状如件、
水禄元 六月二日                                      (香川)之景 花押
王子大明神
別当多宝坊
意訳変換しておくと
讃岐国の室本の地下人の麹商売について、先書や元景の折紙で明示したように、その筋目をもって別儀を行う事を認めない。もし子細に問題がある場合には申し述べること、例状如件、
水禄元 六月二日                                      (香川)之景 花押
王子大明神
別当多宝坊
この史料からは次のようなことが分かります。
①之景の先代である元景の時代から、室本では麹商売の独占的生産と売買権が与えられていたこと
②それを永禄元年(1558)に香川之景が改めて認めたこと
③多度津を拠点とする香川之景の勢力が観音寺室本まで及ぶようになっていたこと
④室本の麹行者は座を組織し、王子(皇子?)大明神を本所としていたこと
⑤王子(皇子?)大明神の管理権は、別当多宝坊が保持していたこと
⑥麹が永禄年代には室本の専売品として中讃・西讃地域に売りさばかれていたこと
室本 皇子神社
皇太子(王子)神社 観音寺市室本
ここで注目しておきたいのは④⑤の「王子大明神」です。
これは、現在の皇太子神社のことののようです。この神社では、今でも年頭弓射神事は、左右両講中の宮座によって行われています。この宮座が麹組合のものであり、室町期まで遡れることがうかがえます。

  室町時代の麹座をめぐる状況を知るために、当時京都で起きた事件について見ておきましょう。
 室町時代には、酒蔵が使う麹は麹屋が卸していました。酒蔵はまだ麹造りを行っておらず、「麹屋」という麹の製造から販売までを担う専門業界が別個に存在していたようです。
例えば京都で、麹の製造販売を独占していたのが北野天満宮でした。北野天満宮の下には、「麹座」と呼ばれる麹屋の同業者組合(北野麹座)が結成され、麹の製造や販売の独占権を取り仕切っていました。幕府が北野天満宮の麹座に麹造りの独占権を認めていたため、酒蔵が勝手に麹を造ることはできなかったのです。次の史料は足利義持下知状(1419年)です。

室本 足利義持下知状
 足利義持下知状
この「下知状」は、北野天満宮ゆかりの西京神に麹製造・販売の独占権を認めるものです。西京神人以外の京の酒屋には麹をつくらないと誓約させ、幕府の前で麹道具を壊して廃業させたことを記録しています。しかし、この独占は長く続きませんでした。
 しかし、15世紀中ごろに幕府の権力が低下すると、資本力のある酒蔵の中には麹造りに取り組む者も現れます。酒蔵の意を受けて麹販売権の規制緩和や撤廃を求めて圧力を掛けたのが延暦寺です。延暦寺と北野天満宮の対立はエスカレートしていきます。幕府は延暦寺からの抗議に折れた形で、北野麹座の独占権の廃止を認めます。これに反対する麹座の面々は北野天満宮に立て籠もり抵抗しますが、幕府側に鎮圧され、この事件(文安の麹騒動)により社が焼失します。
 この事件の結果、麹屋は没落して酒造業へ組み入れられ、奈良の「菩提泉(ぼだいせん)」や近江の「百済寺酒」、河内の「観心寺酒」などの僧坊酒が台頭する一因になるようです。
 ここでは、15世紀初め頃までは北野天満宮の神人たちが形成する座が、麹の独占権を幕府から認められていたこと。それが15世紀半ばになると台頭する酒蔵の意を受けた比叡山によって打破され、麹座の独占は破棄されたことを押さえておきます。
 香川之景の室本麹座免許状が出されているのは、それから約百年以上経った16世紀半ばです。
讃岐では、麹座の特権が守護代の香川氏によって認められていたようです。同時に、室本の麹座の本所が皇子神社に置かれ宮座としても機能したことを改めて押さえておきます。

室本 鑑札
室本の麹商売の許可鑑札

この香川之景の室本麹座免許状を室本の麹座は、その後も大切に保管していたようです。
麹組合の古文書の中には享保16(1731)年の室本浦「麹之儀御尋被為遊候ニ付差上口上書控え」というものがあります。そこに引用されているのが「香川之景の室本麹座免許状」なのです。
室本浦 糀室之儀御尋被為遊候二付差上申口上書控
香川之景 書付之通二候得者 重書並ビ二元景之折紙可有之物紛無之右之子細二而モ可有之卜被遊御意候由 右之景之御書付 則御家老様方迄モ御覧二御入被為遊候旨 向後者下札可被遣トノ御義二而夫ヨリ以来 御下札被為下来り由候
意訳変換しておくと
室本浦の麹室についてのお尋ねについて、以下の通り返答を差し上げた口上書の控である。
香川之景の書については、別添えの通りです。元景の折紙については紛失して子細は分かりませんが、その意は景之の書付とほぼ同一であると思えます。御家老様方にも御覧いただき、今後は鑑札を下札していただけるようになりました。
享保16(1731)年は、西讃地域は飢饉がつづき、住民はわら餅・松皮餅まで食べた伝えられています。そのため麹をつくる材料が手に入らないありさまになったようです。そこで麹組合として、香川之景の許可状を証拠に申し立てています。それに対して丸亀藩は、麹商売の許可札を下付します。使用する玄米については、中籾(籾米)・悪米(青米)を材料にして製造するように指示すると同時に、無税で販売をすることが許されているます。

室本 皇子神社2
 江甫山と皇太子神社(観音寺市室本)
麹組合には、次のようなことが云い伝えられていると観音寺市史は記します。
①昔は、「籠留(かごどめ)」・「棒留(ぼうどめ)」などと云って、 飢饉の際に一時期な米や麦の運搬停止命令が出た時でも、麹は生き物で使用日数に限りがあるので、鑑札を下付されて、それを持参していれば自由に糀の運搬ができる特典が与えられていたこと、
②西讃地域内での専売権があるので、他の者には麹製造や販売が認められていなかったこと
③無断で商売をする者がれば上訴するのは当然のことであり、無視する者には鍬・鋤を持って侵害者の家や庄屋に出向き中止させるよう実力行使をしたことも、たびたびあったこと
室本 鑑札札
室本の麹販売の鑑札

上訴した内容については、書控として次のような7件が残されています。
1705年(宝永2)乙酉年三野郡上之村(現香川県三豊郡財田町上)に糀室を作ろうとした時の対応。
室本 麹控訴経路

室本村の庄屋善右衛門が三野郡奉行に差し止めを願いでて、それが上ノ村の属する多度津藩家老まで伝えられています。そして停止命令が、三野奉行所に下され、上ノ村の大庄屋に伝えられて停止措置がとられたのでしょう。その経過を上ノ村庄屋は、室本村が属する豊田郡坂本村の大庄屋に伝え、そこから室本の庄屋に下りてくるという伝達経路になります。
  1731年(享保16)辛亥年6月19日 のことです。
丸亀城下の山之北・土器両八幡宮の「ふく酒糀」を、それまでは室本村の源七が納品していました。それを停止して、丸亀城下通町の糀屋徳右衛門が、造酒のため以外の糀商売を城下でできるように請願したときの対応表が次の通りです。

室本 麹控訴経路2
以上をまとめておくと
①永禄元年(1558)の香川之景の判物で、観音寺室本の麹座に対して、麹の独占販売権が既得権利として認められていること
②16世紀半ばに、室本の麹座は三野郡以西の麹独演販売権を持っていたこと
③室本の麹座は皇子神社の宮座として集結していたこと
④江戸時代になっても丸亀藩に麹の独裁権を再確認させていたこと
⑤多度津藩や丸亀城下町でも麹の独占権を拡大させていたこと
⑥独占権の擁護のために、違反者に対しては控訴や実力行使を繰り返して行っていたこと

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献    室本麹と専売権  観音寺市史222P

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六十八番神恵院、六十九番観音寺は琴弾山の麓の境内に、ふたつの札所が同居しています。そして山上には、神仏分離以前の琴弾宮が鎮座する神と仏の霊地です。以前に見たように、二つのお寺の仏像からは、平安時代前期にはかなりの規模の寺院があったことがうかがえます。『讃州七宝山縁起』は、観音寺や琴弾宮の縁起で、八幡大菩薩や弘法大師のことなどが記されています。また、行道(修行場)のことも記されています。
まずは、弘法大師伝説と行場に焦点を当てながら『讃州七宝山縁起』を読んでみることにします。
 『讃州七宝山縁起』の奥書には「徳治二年九月二日書写了」とあり、鎌倉時代末期の徳治二年(1306)に書写されたことを伝えます。
七宝山縁起1
意訳して見ましょう
 ①讃州七宝山縁起
            鎮守 八幡大菩薩
            修行 弘法大師
 当山は、十方如来の常住し、三世諸仏が遊戯し、善神が番々に守る霊山である。星宿は夜々この地に加護する。是は釈迦伝法の跡であり、慈尊説法の聖地である。一度、この地を踏めば、三悪道に帰ることはなく、一度この山に詣でれば、必ずや三会の暁に遭うことができる。八幡大菩薩が影向し、弘法大師が修行を行ったことにより、大師と大菩薩は、同体分身の身であり、それは世々の契約なのである。
 
それゆえ大祖権現(八幡大菩薩)は、詫宣文に次のように云う。我は真言興起し、往生極楽薩垂する本地真言の祖師である。権現大神の通り、一切衆生を為し、四無量心を起こし、三毒を興さず。これは一子慈悲にして、成三宝興隆の念を成ずる。邪見の念を生ぜず。かくの如く無量劫は五智金剛杵と独鈷法身の形に付属するは普賢薩錘中の天竺善悪畏者が我なりと云々。
 同じ日本国の御詫宣にも云う。汝は知るか。
 我は唐国の大毘廬遮那の化身である。日本国の大日普賢妙の吉祥でもある。宇佐宮は我の第一弟子の釈迦如来である。第二弟子は、大分宮に入定している多宝如来である。第三弟子は八幡大菩薩戒(普賢)・定(大日)・恵(文殊)に付属する故に筥崎といい。本地は阿弥陀如来観音勢至であると云々。
観音寺が聖地であることを述べた後に続くのは、「八幡大菩薩と弘法大師」です。八幡大菩薩と弘法大師は「同体分身」で一体の身であることが説かれます。八幡神と弘法大師の関係は、京都神護寺の僧形八幡神像が弘法大師と八幡神がお互いの姿を描いたという「互いの御影」として伝わっているようです。それを踏まえた上で、この縁起では八幡神と弘法大師が「同伴分身」と、さらに強い関係になっています。
 先にあった八幡信仰に、後からやって来た弘法大師伝説が接ぎ木されているようです。それは14世紀初頭には、行われていたことが分かります。それでは、弘法大師伝説を附会したのは、どんなひとたちなのでしょうか。それは後に見るとして、先を読んでいきましょう。

七宝山縁起3

②宇佐宮 人皇三十代欽明天皇 治三十二年 
最初は、豊前国宇佐郡菱潟嶺小倉山に、三歳の小児に権化して現れ八幡の宝号を示させた。当初の宝号は、日本人皇第十六代誉田天皇(応神)広幡八幡之大神であった。宇佐神宮禰宜の辛嶋勝波豆米之時詫宣の日記には 吾の名護国霊験威力神通大自在王菩薩と記される。ここから八幡大菩薩と呼ばれるようになった。

ここには八幡神の由来が書かれています。注意したいのは、出自が豊前の宇佐の小倉山(宇佐八幡)に始まりることを、強く主張していることです。その他に勧進された分社との本末争いが背景には、あったようです。
観音寺琴弾神社絵図

③次四十二代文武天皇御宇大宝三年(703) 大菩薩手自出 
次四十二代文武天皇御宇大宝三年 大大菩薩手自出 鎮西宇佐社壇、留光蔚当山八葉之宝嶺。是併感応利生之姿、斎度無双之神也 従九州之空白雲如虹之聳 懸当山。彼白雲之下巨海之上 当宮山麓梅脇之海辺、有一艘之船。
 船之中有琴音。其音高仁志天、 楡通嶺松。彼時当山峯本目有止住上人。諱日証 奇問之。御詫宣云。汝釈迦再誕、我是八幡大菩薩也 為近帝都 従宇佐来。而此国可仏法流布之霊地。於茲守護朝家、可蔚異国云々。
意訳しておくと
 大宝三年(703)に八幡大菩薩は鎮西の宇佐八幡宮を出て、当山(観音寺)の八葉の宝峯に留まった。その時には、九州の空から白雲が虹のようにたなびき、琴弾山にかかった。白雲の下の海を一艘の舟が現れ、宮の峯の麓の梅脇浜に着いた。その船からは琴の音が聞こえ、天にも届くほどで、音色は松林と嶺を通り抜けた。
 この時に当山に住上していた日証上人は、怪しみ問うた。当山に古くから止住する日証上人がその船に向かい問うと「汝は釈迦の再誕 我は八幡大菩薩である。帝都に行こうとしたが、ここは仏法流布の地であるので、ここに留まり、国家を守護し、異国を闘閥したい」と云う。
ここでは八幡神が、観音寺にやってきた理由が詳しく述べられます。
この由来に基づいて、以前に紹介した「琴弾宮絵縁起」は書かれているようです。 面白いのは、この八幡信仰に弘法大師伝説を「接木」するために書かれた次の部分です。

④次四十九代光仁天皇御宇 宝亀四年(773)七月、大師父母夢見。
 宝亀四年に弘法大師の父母が、善通寺の館の西に八幡大菩薩が垂迹する夢を見て、母が懐妊した。そして、同五年6月15日に弘法大師が誕生した。弘法大師は、八幡大菩薩の再誕である。

弘法大師が八幡神の再誕という説は、初めて聞く話です。
その後は、弘法大師が延暦23年(804)、31歳の時に肥前国松浦郡田浦から唐に向けて船出することから始まり、長安で恵果和尚から両部の混頂を受け、金・胎の両界曼荼羅や法具・経典などを持ち帰るいきさつが、ほぼ史実に基づいて記されています。このあたりからは、高野山での教育を受けた真言密教系の僧侶(修験者)によって書かれたことがうかがえます。
弘法大師が唐から帰朝後に讃岐に帰って、何を行ったと記されるのか?
 大同元年(804)に弘法大師は唐から帰朝し、太宰府にしばらく留り、その後上洛し、朝廷に上表した後、讃岐に帰った。その際に琴弾八幡宮に参詣した。八幡大菩薩の御詫宣によって神宮寺を建立し、観音寺と号した。金堂の本尊・薬師如来と四天王像を造立し、本堂には同身の大日・薬師・観音像を安置した。

ここには、弘法大師が唐から帰朝後に、観音寺の再建を行い、諸仏を自らの手で彫り上げたと記されます。弘法大師により再建されたことが強調されます。ちなみに、ここに記されている諸仏の多くは、今も観音寺にいらっしゃいます。
観音寺 薬師如来坐像

今はお参りする人が少なくなった薬師堂の薬師如来は確かに丈六の薬師如来坐像です。膝前は後から補修されたものですが、頭・体部は平安時代の11世紀初頭のものとされます。大日如来坐像は12世紀とされます。
観音寺 四天王

四天王は一木造りで、邪鬼と共木とした古風な造りで、やはり十世紀末期とみられています。この縁起の制作者は、観音寺の事情に詳しい人物であることがうかがえます。漂泊の時宗の連歌師が、頼まれて即興で作った縁起ではありません。

そして、次に出てくるのが七宝山が修行場であることです。

几当伽藍者、大師為七宝山修行之初宿、建立精舎、起立石塔四十九号云々。然者仏塔何雖為御作、就中四天王像、大師建立当寺之古、為誓護国家、為異国降伏、手自彫刻為本尊。是則大菩薩発異国降伏之誓願故也。

意訳しておきましょう
元々、観音寺の伽藍は弘法大師が七宝山修行の初宿でのために精舎を建立し、石塔49基を起立した事に始まるという。しからば、その仏塔は何のために作られたのか。四天王は誓護国家、異国降伏のために弘法大師自身が作った。すなわち異国降伏の請願のために作られたものである。

 この中に出てくる「石塔49基」とは、都卒天の内院にある四十九院のことだと研究者は考えているようです。つまり、ここにも弥勒信仰がみられます。そして、弘法大師手作りという四天王像は、平安時代中期のものとされます。この頃が、観音寺の創建にあたるようです。
以上をまとめたおきます。
①七宝山観音寺と琴弾八幡宮との縁起には、弥勒信仰が濃厚に感じられる。
②先に定着した八幡信仰の上に、後から弘法大師伝説を「接木」しようしている
七宝山にあった行場については、また次回に・・
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

  参考文献
       武田和昭 
香川・観音寺蔵『讃州七宝山縁起』にみる弘法大師信仰と行道所
                              四国辺路の形成過程所収 岩田書院2012年
























近世の三豊郡内では仁保(仁尾)港・三野津港・豊浜港が廻船業者の港として繁盛したようです。中でも仁保港は昔から仁尾酢、仁尾茶の産地で、造酒も丸亀藩の指定産地となっていました。そのため出入りする船も多く「千石船を見たけりや仁尾に行け」といわれたようです。
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湛甫があった観音寺裁判所前 
 仁尾に比べて、観音寺港はどうだったのでしょうか。
江戸時代の観音寺港の様子を見ていきます。
観音寺港は、財田川が燧灘に流れ込む河口沿いにいくつかの港が中世に姿を見せるようになることを前回は見ました。江戸時代の様子は「元禄古地図」を見ると、今の裁判所前に堪保(たんぽ=荷揚場)があり、川口(財田川)に川口御番所があったことが分かります。
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「官許拝借地」の境界碑が残る湛甫周辺
 各浦には、どのくらいの船があったのでしょうか
  上市浦  加子拾弐軒  舟弐艘
  中洲浦  加千  九軒 舟六艘
  仮屋浦  加千 廿七軒 舟六拾五艘
  下市分  加子  六軒 舟拾七艘
       加千  八軒 漁舟十五
  漁船の数も大小ふくめて総数九〇嫂程度で、その中の65隻は伝馬船であったようです。多い順に並べると仮屋の65隻がずば抜けて多いようです。仮屋は、現在の西本町にあたり、財田川の河口に近く当時の砂州の西端にあたる地域です。東側が「本町」で、漁師たちが作業用の仮屋を多く建てていたところが町場になった伝えられるところです。この地域に漁業や櫂取りなど海の仕事に携わる人々が数多くいたようです。
また、17世紀後半の元禄4年に琴弾神社の別当寺であった神恵院から川口番所に出された文章には次のようにあります。
 伊吹島渡海之事  
     覚
 寺家坊中並家来之者 伊吹嶋江渡海仕候節 
 川口昼夜共二御通可被下候 
 御当地之船二而参候ハ別者昼斗出船可仕候
   元禄四辛未三月     神恵院 印
      観音寺川口御番所中
 右表書之通相改昼夜共 川口出入相違有之門敷もの也
   元禄四年     河口久左衛門 判
           野田三郎左衛門 判
   観音寺川口御番所中

神恵院は、伊吹島の和蔵院を通じて伊吹八幡神社を管轄する立場にありました。伊吹島と観音寺の間には頻繁な人と物の交流が行われていました。その際にいつしか、財田川の河口の番所を通過しない船が現れれるようになってきます。室本港などが使われたのかもしれません。深読みすると、番所に分からないように、モノや人が動き出したことをうかがわせます。そのような動きを規制するためにこの「達し」は出されたようです。この「指導」により今後は番所を通過しなければならないことが確認されています。このように観音寺港に「舟入」を管理する番所が置かれていることは、交易船の出入りも頻繁に行われていたことがうかがえます。
それでは当時の伊吹島の「経済状況」は、どうだったのでしょうか
伊吹島の枡屋の先祖は北前船で財を成し、神社に随身門を寄付しています。弘化禄には
「1702年(元禄15)八月伊吹神門建立、本願三好勘右衛門、甚兵衛」
とあり、三好勘右衛門と甚兵衛の両人が伊吹島の八幡神社の門を寄進したと記します。二人は、後の枡屋一統の先祖に当たる人物で、二隻の相生丸を使って北前交易を行い財を成し、随身門を寄進したと子孫には語り継がれているようです。
この三好家には、寛保年間の文書が残っていて、取引先に越後(新潟)出雲崎の地名や、越後屋・越前屋・椛屋等の問屋名が記されています。 
出雲崎で伊吹島枡屋八郎が取引した商品
観音寺 港2
 
積み荷には、薩摩芋・黒砂糖・半紙・傘・茶碗等で、これらを売って、米を買い求めています。この米を大阪市場に運んでより高い利益を上げていたのでしょう。このように、当時の塩飽諸島が北前交易で栄えていたように、伊吹島も交易で大きな富を築く者が現れ「商業資本蓄積」が進んでいたと云えるようです。
 ちなみに枡屋一統というのは、伊吹島の三好家のグループで主屋・北屋・中等の諸家がこれに所属していたようです。この一族によって、昭和43年に島の八幡神社の随身門の修理が行われたと云います。
このような伊吹島の北前交易による繁栄を、対岸の観音寺も見習ったようです。18世紀半ばになると、観音寺船の北前航路進出を物語る史料が出てきます。
 
観音寺 港3
 浜田市外ノ浦の廻船問屋であった清水家に所蔵されている客船帳「諸国御客船帳」です。これには延享元年(1744)から明治35年(1902)の間に入港した廻船890隻が記載されています。国別、地域別に整理され次のような項目毎の記録があります。
出(だ)シ、帆印(ほじるし)及び船型、船名、船主、船頭名、船頭の出身地、入津日、出帆日、積荷、揚荷、登り、下り、出来事(論船、難破船、約束など)。この港に近づいてきた船の帆印を見て、この船帳で確認すれば、どこのだれの船で、前回はどんな荷を積んできたのかなど、商売に必要な情報がすぐに得られるようになっています。商売に関わる大切な道具なので、大事に箱に入れ保管されていました。
  この船帳には「観音寺港所属船」として6隻が記されています。
   (貨客船)   かんおんじ
住徳丸 近藤屋佐兵衛様  文化五辰五月十六日入津
            くり綿卸売・あし・干鰯卸買
     文右衛門様  同 二十一日出帆 被成候
西宝久丸 旦子屋彦右衛門様文政四巳四月廿二日入津   
伊勢丸 根津屋善兵衛様  弘化四未六月十七日登入津 
             大白蜜砂糖卸売
             十九日出船被成候
伊勢丸 瀬野屋伊右衛門様 寛政十一未四月朔日下入津 塩卸売
天神丸 びぜん屋宇三郎様 寛政十一未四月朔日下入津 塩卸売 
     宮崎屋利兵衛様
観音丸 あら磯屋忠治郎様  天保四巳三月廿八日下入津 くり綿売
 
ここからは次のような事が分かります。
①18世紀末の寛成年間から天保年間に岩見の浜田港に観音寺船籍の北前船が6隻寄港している
②同一の船主船が定期的に寄港してたようには見えない
③綿・砂糖・塩を売って何日かの後には出港している
④入港月は3月~6月で、讃岐から積んできた物産を販売している
⑤観音寺に北前交易に最低でも6人の船主が参加していた
   つまり、自前の船を持ち北前交易を行う商人達が観音寺にもいたことが分かります。彼らのもたらす交易の富が惜しげもなく琴弾神社や檀那寺に寄進され、観音寺の町場は整えられて行ったのでしょう。
観音寺 交易1

  19世紀になると、大阪と観音寺を結ぶ定期航路的な船も姿を見せます。京都・大阪への買付船につかわれた観音寺中洲浦の三〇石船
  この船は、漁船として登録されていますが三〇石船です。帆は六反から八反ものが多く、船番所で鑑札を受ける際に、帆の大きさによって税金(帆別運上)を納めることになっていました。税率は「帆一反に付銀三分」とされていたようです。
この船は、広嶋屋村上久兵衛と仮屋浦山家屋横山弥兵衛の共有船でした。1804年(享和4)、に大坂への航海がどんな風に行われたのかが記録として残っています。この時にこの船をチャターしたのは「観音寺惣小間物屋中」で、その際の記録と鑑札が、 観音寺市中新町の村上家に残っていました。
観音寺 舟1
表には
讃州観音寺中洲浦 船主久兵衛
漁船三拾石積加子弐人乗
享和四子年正月改組頭彦左衛門
とあり、船籍と船主・積載石30高・乗組員2名と分かります。
裏には
篠原為洽 印
戸祭嘉吉 印
享和四甲子年正月改
観音寺 舟
記録からは、
①観音寺小間物屋組頭格の下市浦の嘉登屋太七郎が音頭を取って
②下市浦から菊屋庄兵衛・塩飽屋嘉助・辰己屋長右衛門の三名、
③酒屋町から広嶋屋要助・広嶋屋惣兵衛の二名、
④上市浦から森田屋太兵衛・山口屋嘉兵衛・広嶋屋儀兵衛、荒物屋佐助の四名、
⑤茂木町から大坂屋林八二一野屋金助・大坂屋嘉兵衛・山口屋重吉の四名、
⑥計一五名が仕入・買積船としてチャターし、
⑦運賃や仕入買品物の品質責任・仕入支払金は現金で支払うこと
などを事前に契約しています。
つまり、小間物屋組合のリーダーが組合員とこの船を貸し切って、大阪に仕入れに出かけているのです。
同時代に伊吹のちょうさ組は太鼓台を大阪の業者に発注し、それを自分の船で引き取りに行っていたことを思い出しました。「ちょっと買付・買物に大阪へ」という感覚が、問屋商人の間にはすでに形成されていたことがうかがえます。
観音寺 淀川30石舟
淀川の30石舟

 当時は大阪からの金比羅船が一日に何隻もやってきくるようになっていました。弥次喜多コンビが金比羅詣でを行うのもこの時期です。民衆の移動が日常的になっていたことが分かります。
 ちなみに、この船も日頃は金毘羅船だったようです。現大阪市東区大川町淀屋橋あたりの北浜淀屋橋から出航し、丸亀問屋の野田屋権八の引合いで丸亀港に金毘羅詣客を運んでいたのです。丸亀で金毘羅客を降ろした後は、観音寺までは地元客を運んでいたのでしょう。丸亀と 観音寺の船賃は、200文と記されています。
80d5108c (1)
弥次・喜多が乗った金比羅船
   安芸・大島・大三島への地回り定期航路
 瀬戸内海の主要航路からはずれて、地廻り(地元の港への寄港)として伊吹島にやってくる北前船もあったようです。しばらく、地元での休養と家族との生活し、船の整備などを行った後に出港していきます。そのルートは、円上島・江ノ島・魚島の附近を通り、伯方島の木浦村沖を通り、大島と大三島の開から斎灘へ出るコースがとられたようです。

観音寺 舟5
 
地図を見ると仁尾や観音寺が燧灘を通じて、西方に開けた港であったことが分かります。このルートを逆に、弥生時代の稲作や古墳時代の阿蘇山の石棺も運ばれてきたのでしょう。そして、古代においては、伊予東部と同じ勢力圏にあったことも頷けます。
   このことを裏付ける難破船の処理覚書があります。
「難破船処理の覚書」1760年(宝暦10)11月30日です
一、讃州丸亀領伊吹嶋粂右衛門船十反帆 船頭水主六人乗去ル廿三日却 伊吹嶋出船 肥前五嶋江罷下り僕処 憚御領海通船之処同日夜二入俄二西風強被成 御当地六ツ峡江乗掛破船仕候 早速御村方江注進仕候得者 船人被召連破船所江御出被下荷物船具ホ迄 御取揚被下本船大痛茂無御座翌廿五日村方江船御漕廻シ被下私自分舟二而為差 荷物も無御座候故 何分御内証二而相済候様二被仰付 可被下段御願中上候処 御聴届被下候所 奉存候 積荷明小樽 菰少々御座候処 不残御取揚被下船具ホ迄少茂紛失無御候 船痛 所作事仕候而無相違請取申候得者 此度之破船二付 御村方江向 後毛頭申分無御座候以上
  宝暦十辰年十一月枡日
            水子 善三郎
            〃  忠丘衛
              ” 万三郎
              ” 太兵衛
              ” 藤 七
            船頭 粂右衛門
   木浦村庄屋 市右衛門殿
       御組頭中
意訳すると
讃岐丸亀藩伊吹島の粂右衛門所有の十反帆船(二百石船)が船頭水主6人を乗せて11月23日に伊吹島を出港して肥前五島列島に向けて航海中に、今治藩伯方島付近に差しかかったところ、突然に強い西風に遭い、座礁破船した。村方へ知らせ、積荷や船具は下ろしましたが、幸いにも船の被害は少なく、25日には付近の港へ船を廻航しました。自分の船でありますし、積荷も被害がありませんので、何分にも「内証」(内々に)扱っていただけるようお願いいたします。
 と船頭と船員が連名で木浦村の庄屋に願い出ています。
この書面を添付して、木浦村の庄屋は、
①難破船の船籍である伊吹島の庄屋
②今治藩の大庄屋と代官・郡奉行
に次のように報告しています

  右船頭口上書之通相違無御座候 以上
 橡州今治領木浦村与頭  儀丘衛 印
           同 伊丘衛 印
          庄屋 市右ヱ門印
   讃州丸亀御領伊吹嶋庄屋
        与作兵衛殿

右破船所江立合相改候処 聊相違無之
船頭願之通内証二而相済メ作事
出来二付OO同晦日 出船申付候 已上
         沖改 庄屋   権八 印
         嶋方大庄屋  村井 嘉平太印
辰十一月晦日
         嶋方代官手代 吉村 弥平治印
         郡奉行手附  木本五左衛門印
  伊吹嶋庄屋
      与作兵衛殿

このように、伊吹島の200石の中型船が九州の五島列島との交易活動を行っていたことが分かります。同時に海難活動について、国内においての普遍的な一定のルールがあり、それに基づいて救難活動や事後処理・報告がスムーズに行われていることがうかがえます。
 明治時代になっても地域経済が大きく変化することはありませんでした。鉄道が観音寺まで通じるのは、半世紀以上経ってからです。それまでは、輸送はもっぱら船に依存するより他なかったのです。そこで地元資本は海運会社を開設し、汽船を就航させ、大阪への新たな航路を開くのです。観音寺からも仁尾や多度津を経て大阪に向かう汽船が姿を現すようになります。
 鉄道がやってくるまでの間が観音寺港が一番栄えた時かもしれません。
 参考文献 観音寺市誌 近世編

    
観音寺湊 復元図1

中世の観音寺湊の復元図です。この湊が河口に浮かぶ巨大な中洲に展開していたことが分かります。
琴弾八幡宮とその別当寺・観音寺の門前町として発展した港町
 観音寺は讃岐国の西端の苅田郡(中世以降は豊田郡に改称)に属し、琴弾八幡宮とその別当寺であった神恵院観音寺の門前町として、中世には町場が形成されていたようです。
観音寺琴弾神社絵図
鎌倉後期の「琴弾宮絵縁起」には、琴弾八幡宮が海辺に浮かぶ聖地として描かれています。聖地は人の住むところではないようです。この絵図には、集落は描かれていません。今回は、川のこちら側の人の住む側を見ていくことにします。
観音寺地図1
 財田川と手前の一ノ谷川に挟まれた中洲には、いくつかの浦があり、それぞれに町場をともなって港湾機能をもっていたようです。中洲と琴弾神社と、財田川に架かる橋で結ばれます。この橋から一直線に伸びる街路が町場の横の中心軸となります。そして、中洲上を縦断する街路と交差します。中洲上には「上市や下市」と呼ばれる町場ができています。

観音寺 琴弾神社放生会
 享徳元年(一四五二)の「琴弾八幡宮放生会祭式配役記」(資料21)には、上市・下市・今市の住人の名があり、門前市が常設化してそれぞれ集落(町場)となっていたことがうかがえます。放生会の祭には、各町場の住人が中心となって舞楽や神楽、大念仏などの芸能を催していたようです。町場を越えて人々を結びつける役割を、琴弾神社は果たしていたようです。
そして各町場は、財田川沿いにそれぞれの港を持ちます。
 文安二年(1455)の「兵庫北関入船納帳」には、観音寺船が米・赤米・豆・蕎麦・胡麻などを積み、兵庫津を通過したことが記されています。財田川の背後の耕作地から集められた物資がここから積み出されていたことが分かります。そして、いつの頃からかこの中洲全体が、観音寺と呼ばれるようになります。
 かつて財田川沿いには、船が何隻も舫われていたことを思い出します。その中には冬になると広島の福山方面からやって来て、営業を始める牡蠣船もありました。裁判所の前の河岸も、かつては船の荷揚場であったようで、それを示す境界石がいまでも残っています。その側に立つのが西光寺です。立地ロケーションからして、町場の商人達の信仰を一番に集めていたお寺だったことがうかがえます。
 中世の宇多津や仁尾がそうであったように、中核として寺院が建立されます。寺院が、交易・情報センターとして機能していたのです。そういう目で観音寺の財田川沿いの町場を歩いてみると、お寺が多いのに気がつきます。さらに注意してみると、西光寺をはじめ臨済宗派の寺院がいくつもあるのです。気になって調べてみると、興昌寺・乗蓮寺・西光寺などは臨済宗聖一派(しよういち)に属するようです。私にとって、初めて聞く言葉でした。
「聖一派」とは? 
またどうして、同じ宗派のお寺がいくつも建立されたのでしょうか?  国史辞典で開祖を調べてみると
弁円(諡・聖一国師)が京都東福寺を中心に形成した顕密禅三教融合の習合禅
②弁円は駿河国(静岡県)に生まれ,5歳のときに久能山に入り教典,外典の研鑽に努める
③22歳で禅門を志し,上野長楽寺に臨済宗の栄朝を訪ね
④嘉禎1(1235)年4月34歳で入宋。臨済宗大慧派の無準師範に7年間参学,
⑤帰国後,寛元1(1243)年,九条道家の帰依を得て、道家が建立した東福寺の開山第1世となる。
⑥入院後、後嵯峨,亀山両上皇へ授戒を行い、東大寺,天王寺の幹事職を勤める
 当時の朝廷・幕府・旧仏教へ大きな影響力を持った禅僧だったようです。さらに、東山湛照,白雲慧暁,無関玄悟など,のちの五山禅林に関わる人たちに影響を与える弟子を指導しています。この門流を彼の諡から聖一派と呼んでいるようです。
  ここでは教義内容的なことには触れず、弁円の「交易活動」について見ておきましょう。
淳祐二年(1242)、宋から帰国して博多に留まっていた彼のもとに、留学先の径山の大伽藍が火災で焼失した知らせが届きます。彼は直ちに博多商人の謝国明に依頼して良材千枚を径山に贈り届けています。弁円から師範に材木などの財施がなされ、師範からは円爾に墨蹟その他の法施が贈られています。ここには南宋禅僧が仏道達成の証しになるものをあたえると、日本僧が財力をもってその恩義に報いるというパターンがみられます。
 日本僧が財力を持って入宋している例は、栄西や明全・道元らの場合にも見られるようですが、円爾にもうかがえます。彼の第1の保護者は、謝国明ら博多の商人たちで、その支援を受けて中国留学を果たしたのです。そして、資力に任せて最先端の文物を買つけて帰国します。その中には仏典ばかりではく流行の茶道具なども最先端の文物も数多くあったはずです。大商人達たちに布教を行うと同時に、サロンを形成するのです。同時に、彼は博多商人の宋との貿易コンサルタントであったと私は考えています。これは、後の堺の千利休に至るまで変わりません。茶道は、交易業者のたしなみになっていくのです。博多商人の船には、弁円の弟子達が乗り込み宋への留学し、あるときには通訳・医者・航海祈祷師としての役割も果たしたのではないでしょうか。それは、宋王朝に対する対外的活動だけではなく瀬戸内海においても行われます。
 こうして、円爾弁円(聖一国師)を派祖とする聖一派は、京都東福寺や博多を拠点として、各港町に聖一派の寺院ネットワークを形成し、モノと人の交流を行うようになります。観音寺が内海屈指の港町となるなかで、こうした聖一派の禅僧が博多商人の船に乗ってやって来て、信者を獲得し寺院が創建されていったと考えられます。
 これは、日隆が宇多津に本妙寺を開くのと同じ布教方法です。
日隆は、細川氏の庇護を受けて瀬戸内海沿岸地域で布教を展開し、備前牛窓の本蓮寺や備中高松の本條寺、備後尾道の妙宣寺を建立しています。いずれも内海屈指の港町であり、流通に携わる海運業者の経済力を基盤に布教活動が行われています。お寺が日宋貿易や瀬戸内海交易のネットワークの中心になっていたのです。その中で僧侶の果たす意味は、宗教的信仰を超え、ビジネスマン、コンサルタント、情報提供など雑多な役割を果たしていたようです。
伊予への弁円(聖一国師)の門下による聖一派の布教を見てみましょう。弁円の師弟関係が愛媛県史に載っています。

観音寺 弁円

①山叟恵雲は
正嘉二年(1258)入宋、円爾門十禅師の一人で正覚門派祖、東福寺五世で宇摩郡土居町関川東福寺派大福寺は、弘安三年(1280)に彼によって開かれたと伝えられます。
②弁円の高弟癡兀(ちこつ)大恵は、
平清盛の遠孫で、東福寺九世で没後仏通禅師号を賜わっています。彼は保国寺(西条市中野、東福寺末)の中興開山とされ、その坐像は重要文化財に指定されています。伊予に巡回してきた禅師を迎えて開山としたと伝えられます。しかし、禅師の伊予来錫説については否定的見解が有力で、臨済宗としての中興開山は二世とされる嶺翁寂雲であると研究者は考えているようです。
③孫弟子に鉄牛継印は、
観念寺(東福寺末、東予市上市)の開祖とされます。もとは時宗による念仏道場だったようですが、元弘二年(1332)元から帰朝して間もない鉄牛を迎えて中興し禅寺としたと伝えられます。鉄牛は諱を継印、越智郡の菅氏の生まれです。晩年の祖師弁円に学んだ後、元王朝に渡り帰朝しています。
④悟庵智徹(ごあんちてつ)近江の人で、
豊後を中心に九州に布教の後で、宇和島にやってきて正平20年(1365)に、西江寺を開きます。また、西光寺も同じような由来を伝えます。
⑤伊予に最も深い関係をもつのは弟子南山士雲の法系のようです。
彼は北条・足利両氏の帰依を受けた当時のMVPです。伊予の河野通盛が遊行上人安国のすすめで南山士雲の下で剃髪して善恵と号したと云われます。この剃髪によって河野通盛は、足利尊氏の知遇を得て、通信以来の伊予の旧領の安堵されたと『予章記』には、次のように記されています。
 建武三年(1336)、通盛は自己の居館を寺院とし、南山士雲の恩顧を重んじてその⑥弟子正堂士顕を長福寺から迎えて善応寺(現東福寺派、北条市河野)を開創した。ちなみに、正堂士顕は渡元して無見に参じて印可を受け、帰国後当時長福寺(東予市北条)にあった。善応寺第二世はその法弟南宗士綱である。
 河野通盛は、足利尊氏への取りなしの御礼として、建立したのが北条市の善応寺のようです。しかし、正堂士顕が長福寺にいたことを記すのは『予章記』のみのようです。同寺の縁起には、河野通有が、弘安の役に戦死した将兵を弔うため、士顕の弟子雲心善洞を開山として弘安四年(1281)に開創したと伝えますが、年代があいません。
⑥正堂士顕を招請開山として応永二一年(1414)に中興したと伝えるのが宗泉寺(美川村大川)です。しかし、正堂士顕の没年は応安六年(1373)とされますので、これも没後のことになります。
⑦南山士雲の弟子中溪一玄は、暦応二年(1339)開創の仏城寺(今治市四村)の開山に迎えられています。さらに、河野通盛によって中興したとされる西念寺(今治市中寺)は、南山士雲を勧請開山としますが、事実上の開山はその法孫枢浴玄機のようです。
 このように中世の伊予には、弁円(聖一国師)の弟子達が多くの寺院を開いたことが分かります。
1高屋神社
高屋神社から望む観音寺市街
讃岐の西端で燧灘に面する観音寺は、西に向かって開かれた港で、古代以来、九州や伊予など瀬戸内海西部との関係が深かった地域です。伊予での禅宗聖一派ネットワークの形成が進むにつれて、その布教エリア内に入ったのでしょう。それが観音寺町場に、聖一派の禅宗寺院が建立された背景と考えられます。
 しかし、なぜいくつもの寺院が必要だったのでしょうか。
宇多津の日蓮宗寺院は本妙寺だけです。しかし、伊予の場合を見ていると、宇和島や今治・北条市などには、複数の聖一派寺院が建立されています。周辺部への拡大とも考えられますが。観音寺では、各町場毎に競い合うように建立されたのではないかと私は考えています。
観音寺の旧市街の狭い街並みを歩いていると、瀬戸の港町の風情を感じます。
観音寺 アイムス焼き

古くから続く乾物屋さんには、伊吹のいりこをはじめ、酒のつまみになるいろいろな乾物があります。アイムス焼き物や山地のカマボコ、路地の中の柳川うどんなどを味わいながらの町場歩きは楽しいものです。そんな町場の荷揚場に面して禅宗聖一派の西光寺はあります。ここがかつての伊予の同宗派の拠点の一つで、ここに禅僧達がもたらす情報やモノが集まっていた時代があったようです。
 以上、これまでのことをまとめておきます。
①中世の財田川と一ノ谷川に挟まれた中洲に、琴弾神社の門前にいくつかの町場が形成された
②定期市から発展した上市・下市・今市などの町場全体が観音寺と呼ばれるようになった。
③各町場は、それぞれ港を持ち瀬戸内海交易を展開した。
④中世には各宗派のお寺が建立されるようになるが、臨済宗聖一派のお寺がいくつかある
⑤これは開祖弁円(聖一国師)の支援者に博多商人が多かったためである。
⑥博多商人の進める日宋貿易や瀬戸内海交易とリンクして聖一派の布教活動はすすめられた。
⑦伊予は開祖弁円の弟子達が活発に布教活動を進め、各港に寺院が建立された。
⑧そのような動きの中で燧灘に開かれた観音寺もそのネットワークに組み込まれ、商人達の中に信者が増えた
⑨それが観音寺にいくつもの聖一派のお寺が作られる背景である

以上、おつきあいいただき、ありがとうございました。


観音寺・神恵院調査報告書2019.jtdcの画像
中世讃岐のある港町の復元イメージ図だそうです。
ふたつの河が分流し海に注ぎ込んでいます。その中州に走る街道沿いに集落が形成されています。引田でも宇多津でもなく・野原(高松)・松山林田でもなく、観音寺だそうです。
地図上に地名を落としてみると次のようになります。
HPTIMAGE

 家々が集中するのは、財田川の河口に浮かぶ巨大な中洲です。そして、画面手前側は急速に陸地が進み、手前の川は小さな支流(現一ノ谷川)になっていきます。人々の居住区の向こうには、財田川をはさんで琴弾山があります。これは古代からの甘南備山で、頂上には琴弾八幡宮が鎮座します。川の向こう側が聖なる地域であったようです。
 聖域の琴弾八幡には、早くから橋(原三架橋)が架かっていたようです。参道から財田川に架かる三架橋を経て、真っ直ぐに中州に伸びてくる街路が町の中心軸となっています。このセンターラインの街路と交差する道が何本か伸びて、集落化しています。
 「琴弾八幡宮放生会祭式配役記」(享徳元年(1453)には、上市・下市・今市の住人の名があり、門前市が常設化してそれぞれ集落(町場)となっていたことがうかがえます。そして放生会の祭には、住人が中心となって舞楽や神楽、大念仏などの芸能を催していたことが分かります。それだけの経済力を持った港町に成長していたようです。その背景は、瀬戸内海交易への参加です。絵図からは町場がそれぞれの港を持っている様子が分かります。(絵図の湊1~3)この港は漁港としての機能だけでなく交易港としての機能も果たしていました。
 例えば、文安二年(1445)の「兵庫北関入船納帳」には、観音寺船が米・赤米・豆・蕎麦・胡麻などを積み、兵庫津を通過したことが記録されています。財田川河口の港を拠点に、活発な交易活動を展開する各港は、まとめて「観音寺」と呼ばれました。
 各町場には、中核として寺院、なかでも臨済宗派寺院が多く建ち並び、港や流通に深く関わっていたようです。注目したいのは室町期以降に増加する興昌寺・乗蓮寺・西光寺などの臨済宗聖一派の寺院です。円爾(聖一国師)を派祖とする聖一派では、京都東福寺や博多を拠点として各港町の聖一派の寺院でネットワークを築き、相互に人的交流を行っていました。観音寺が三豊屈指の港町となるなかで、こうした聖一派の寺院が創建されていったようです。
  専門家達はこのイメージ絵図のように観音寺は、琴弾八幡宮とその別当寺であった神恵院観音寺の門前町として、中世からすでに町場が形成されていたとみています。

琴弾宮絵縁起

 琴弾神社に八幡さんは、どのようにして招来されたのでしょうか。
それを語るのが「琴弾宮絵縁起(ことびきのみやええんぎ)」(重文)です。
観音寺に所蔵されるこの絵は、琴弾山周辺の景観を描いた掛幅であり、琴弾宮草創縁起の一部が絵画化されたものです。
さて、それではこの絵図を縁起と突き合わせながらみてみましょう。
  この絵図を最初に見て、これが琴弾神社を描がいたものとは思えませんでした。
琴弾山が有明海に向かって立っている姿なのでしょうが、「デフォルメ」されすぎています。研究者は
「そこには本図に社寺の縁起を絵画化する縁起絵としての側面と共に、琴弾宮一帯を浄土とみなす礼拝図としての側面も含まれている」
といいます。なるほど「琴弾宮一帯を浄土」として描いているのです。リアルではく「宗教的な色眼鏡」を通して描かれていると理解すればいいようです。
 一方でこの絵からは琴弾宮周辺の景観を意識したと要素が見て取れるといいます。例えば、井戸や巨石など指標物の位置が現在のものとほぼ一致しているようです。
琴弾宮絵縁起3
下を右から左に流れるのが財田川です。
財田川に赤い橋(三架橋?)が掛かり、参道が一直線に山頂に伸びます
頂上には本殿や数多くの建物が並び立っています
財田川には河床に張り出した赤い建物が見えます。何の用途の建物かは分かりません。
川にせり出した建物と広い広場を向かい合って、山を背に社殿が建ちます。
  簡単に言えば、両縁起文を絵図化して「説法」用に使用したのがこの「琴弾宮絵縁起」のようです。
 『四国損礼霊場記』に従って、どんな事件が起きたのかを見てみましょう
①この宮は文武天皇の御宇、大宝三年、宇佐の宮より八幡大神爰に移りたまふといへり。
其時三ケ日夜、西方の空鳴動し、黒霊をほひ、日月の光見えず。国人いかなる事にやとあやしみあへる処に、②西宮の空より白霊虹のごとくたなびき、当山にかかれり。
③この山の麗、梅腋脹の海浜に一艘の怪船が流れ着いた。中に琴の宮ありて、共宮美妙にして、嶺松に通ひはり。
④この山に上住の上人あり。名を日証といひけり。
⑤日証上入が船に近づきて
「いかなる神人にてましますや。何事にか此にいたらせ玉ふ」ととひければ、
「我はこれ八幡大菩薩なり。帝都に近づき擁護せんがために、宇佐から上り出たが、この地霊なるが故に、此にあそべり」
とのたまへり。
⑥上人又いはく
「疑惑の凡夫は異端を見ざれは信じがたし。ねがはくは愚迷の人のために、霊異をしめし給へ」と。
⑦共夜の内に海水十余町が程、緑竹の茂藪となり、又沙浜十歩余、松樹の林となれり。人皆此奇怪を感嵯せずといふ事なし。
⑧上人郡郷にとなへ、十二三歳の童児等の欲染なきもの数十人を集め、此山竹の谷より御船を峰上に引上げ斎祀して、琴弾別宮と号し奉る。御琴井に御船いまに殿内に崇め奉る。
琴弾宮絵縁起1

簡単に意訳すると・・
 天変地異の如く、黒雲が月日を隠しています。そこへ 「②西の空より白霊虹のごとくたなびき」大分の宇佐神宮から琴の宮に「③一艘の白い怪船」が流れ着きます。
⑤怪しんだ日証上人が「誰何」すると、神は「八幡大菩薩」と名乗り、「帝都に近づき擁護」するたの途上であると答えます。そこで日証上人は「凡夫は奇蹟をみないと信じられません、何か奇蹟を起こして見せてください」と云います。すると、その夜に海水に浸かっていた湿地に竹が生え、砂浜は松林に変わります。奇蹟が起きたのです。これを見て人皆、この神の尊さを知ります。
琴弾宮絵縁起2
 上人は村々を回ってお説経をし、まだ欲を知らない無垢な童見数百人を集めて、
⑧竹の谷から御舟を山上に引き揚げ祀り、これを琴弾別宮と号して祀るようになりました。この時の神舟は、今でも殿内にあり祀られています。
  ここにはもともとの地主神である琴弾神の霊山である琴弾山に、海を越えたやって来た客神の八幡神が「別宮」として祀られるようになった経緯が示されます。つまり、琴弾神と八幡神が「神神習合」して「琴弾 + 八幡」神社となっていく姿です。
 さて、この宗教的イヴェント(改革)を進めた日証上人とは何者なのでしょうか?
  日証上人についての史料はありません。
  観音寺寺の由来には次のように記します。
大宝三年(703)、法相宗の高僧日証(證)上人が琴弾山山頂に草庵を結んで修行をしていた折、宇佐神宮から八幡大菩薩が降臨され、海の彼方には神船が琴の音と共に現れた。上人は、里人と共に神船と琴を引き上げて、
①山頂に琴弾八幡宮を祀り、
②神宮寺を建立して、当山は仏法流布、
③神仏習合の霊地
と定められた。
 時は平安の世に移り、唐より帰朝された弘法大師が、大同二年(807)に当山に参籠。八幡大菩薩の御託宣を感得され、薬師如来・十二神将・聖観世音菩薩・四天王等の尊像を刻み、七堂伽藍を建立。
④山号を七宝山、寺号を観音寺と改められ、八幡宮の別当に神恵院をあてられた。大師はしばしの間、当山に留まられ第七世住職を務められたと寺伝にある。以後、
⑤真言密教の道場として寺門は隆盛を極めた。
  観音寺の設立年代や、空海伝説は脇に置いておくとして、ここからは次のような情報があります。
①②③琴弾八幡宮の別当寺神宮寺(旧観音寺)を建立し神仏習合の霊地となった。
④空海が山号を七宝山観音寺に改めた
真言密教の道場として隆盛した。
 まず山号が琴弾山ではなく七宝山であることに注目したいとおもいます。そして「真言密教の道場」だったというのです。
琴弾神社9 金毘羅参詣
 ちなみに四国霊場の本山寺も山号は七宝山です。そして、その奥の院は七宝山山中の興隆寺跡です。この伽藍跡には花崗岩製の手水鉢、宝篋印塔、庚申塔、弘法大師像や凝灰岩製の宝塔、五輪塔など石造物が点在しています。 寺の縁起や記録などから、この石塔群は修験道の修行者の行供養で祈祷する石塔であったようです。一番下の壇には不動明王(座像)の磨崖仏を中央にして、状態のいい五輪塔約30基が並びます。
琴弾八幡 金毘羅参詣名所図会 3
 つまり、ここから不動の滝、そして高室神社に架けては行場が点在する修験者にとっての聖地だったのです。本山寺が修験者の活動の拠点寺院であったように、観音寺もおなじように真言修験道の拠点であったと私は考えています。観音寺と本山寺は、行場である七宝山を共有し行者達が行き交うような関係にあったのではないでしょうか。それはひとつの「辺路修行」であり、それが四国遍路へとつながって行くのかもしれません。
琴弾八幡 金毘羅参詣名所図会 4

『讃州七宝山縁起』(徳治2年[1307])には、
「凡当伽藍者、大師為七宝山修行之初宿建立精舎
とあます。ここには、弘法大師が創始した「七宝山修行」があったと記されています。そして観音寺・琴弾八幡宮を起点として、七宝山から五岳の山中に設けられた第2~5宿を巡り、我拝師山をもって結宿とする行程が描かれています。大師信仰にもとづく巡礼といっても良いかもしれませんが、これが
観音寺 → 本山寺 → 弥谷寺 → 曼荼羅寺 → 善通寺周辺の行場をめぐる修行ルート
でなかったのかと想像しています。これはもちろん現在の遍路道とは、ちがいます。
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神恵院・観音寺の成立について、今までのべてきたことをまとめておきましょう。
① 神恵院・観音寺は元々、琴弾八幡宮の別当寺として機能した神宮寺であった。
② 琴弾八幡宮の本地仏である阿弥陀如来を本尊とし、神恵院は弥勒帰敬寺と称され、観音寺も、当初は神宮寺宝光院と称されていた。
③ 平安時代初期になって、神恵院とともに七宝山観音寺と改称された。
④ 財田川河口は、中世には港町として知られ「兵庫北関入船納帳」にも「観音寺」からの船舶が塩や干魚などを納めていた。この港を管理していた寺社が琴弾八幡宮であった。別当寺である神恵院・観音寺が港の庶務を管理していた。
⑤ 琴弾八幡宮や観音寺の境内には、中世の石造物である層塔や宝塔、五輪塔などが残っていて、中世・通じて琴弾八幡宮の別当寺として神恵院・観音寺が隆盛を誇っていたことをうかがわせる。
⑥このような状況は、宇多津や志度などにおいても、同じような状況が見える。
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⑦この状況は明治維新によって一変します。
 明治維新後、新政府の神仏分離政策により、神宮寺は神社から分離されます。神恵院も、琴弾八幡宮からの分離を余儀なくされ、明治4年(1871)に本尊の阿弥陀如来画像(琴弾八幡宮本地仏)を観音寺の西金堂に移し、神恵院の本尊とします。そして観音寺の西金堂を神恵院の本堂とし、ここを七宝山神恵院と称するようになります。現在の観音寺の「一境内二札所」は、こうして成立します。
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