瀬戸の島から

カテゴリ: 丸亀市の歴史


かつて「弥生期=ため池出現説」が出されたことがありました。讃岐において、これを積極的に展開したのが香川清美氏の「讃岐における連合水系の展開」(四国農業試験場報告8)でした。香川氏は弥生式遺跡とため池の立地、さらに降雨時の洪水路線がどのように結びついているかの調査から、丸亀平野における初期稲作農耕がため池水利へと発展した過程を仮説として次のように提唱しました。まず第一段階として、昭和27年7月の3回の洪水を調査し、丸亀平野の洪水路線を明らかにします。この洪水路線と弥生式遺跡の立地、ため池の配置を示します。

丸亀平野の水系

 ここから次のようなことを指摘します
①弥生遺跡は、洪水路線に隣接する微高地に立地
②ため池も洪水路線に沿って連なっている
③ため池は「うら成りひょうたん」のように鈴成りになっており、洪水の氾濫が収束されて最後に残る水溜りの位置にある。
④これらのため池は、築造技術からみると最も原始的な型のもので、稲作農耕初期に取水のための「しがらみ堰」として構築されたもので、それが堤防へと成長し、ため池になったものと推測できる。
⑤水みちにあたる土地の窪みを巧みに利用した、初期ため池が弥生時代末期には現れていた。
この上で次のように述べます。
 日本での池溝かんがい農業の発生が、いつどのような形で存在したかは、まだ充分な研究がなされておらず不明の点が多い.いまここで断定的な表現をすることは危険であろうが、稲作がほぼ全域に伝播した①弥生の末期には、さきに述べたような初期池溝かんがい農業が存在し、その生産力を基盤にして古墳時代を迎え、その後の②条里制開拓による急激な耕地の拡張に対応して、③本格的な池溝かんがいの時代に入ったと考えられる.このことは、④中期古墳の築造技術とため池堤防の築造技術の類似性からも推察されることである。あの壮大な古墳築造に要した労働力の集中や、石室に施された精巧な治水技術からみて、中期古墳時代以降では、かなりの規模のため池が築造されていたと考えられる。

要点しておくと
①弥生末期には初期灌漑農業が存在したこと
②条里制開拓期に急激な耕地面積の拡大があったこと
③律令時代の耕地面積の拡大に対応するために本格的な灌漑の時代に入ったこと
④中期古墳の築造技術はため池堤防に転用できることから、古墳時代後期にはかなりの規模のため池が築造されていたこと。
讃岐のため池(四国新聞社編集局 等著) / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋

以上を受けて『讃岐のため池』第一編は、丸亀平野の山麓ため池と古代遺跡の関係を次のように記します。

  丸亀平野の西端に連なる磨臼山・大麻山・我拝師山・天霧山の山麓丘陵地帯は、平形鋼剣・銅鐸の出土をはじめ、多くの弥生遺跡が確認されている。その分布と密度からこの一帯は、讃岐でも有数の弥生文化の隆盛地と考えられる。(中略)同時に磨臼山の遠藤塚を中心に、讃岐でも有数の古墳の集積地である。この一帯の山麓台地で耕地開発とため池水利の発生があった

 1970年代に『讃岐のため池』で説かれた「弥生期=ため池出現説」は、現在の考古学からは否定されているようです。
どんな材料をもとに、どんな立論で否定するのでしょうか。今回はそれを見ていくことにします。
 最初に丸亀平野の稲作は、どのような地形で、どのような方法ではじまったかを見ておきましょう。
丸亀平野の条里制.2
丸亀平野の条里制地割 四角部分が対象エリア

 丸亀平野でも高速道路やバイパスなどの遺跡発掘が大規模に進む中で、いろいろなことが分かってくるようになりました。例えば初期稲作は、平地で自然の水がえやすいところではじめられています。それは土器川や金倉川・大束川・弘田川など作りだした扇状地地形の末端部です。そこには地下水が必ずといっていいほど湧き出す出水があります。この出水は、稲作には便利だったようで、初期の弥生集落が出現するのは、このような出水の近くです。灌漑用水は見当たりません。
旧練兵場遺跡群周辺の遺跡
善通寺旧練兵場遺跡

 また、善通寺の旧練兵場遺跡などは、微高地と微高地の上に集落が建ち並び、その背後の後背湿地が水田とされています。後背湿地は、人の力で水を引き込まなくても、水田化することができます。静岡の登呂遺跡も、このような後背湿地の水に恵まれたところに作られた水田跡だったようです。そのため田下駄などがないと底なし沼のように、泥の中に飲み込まれてしまいそうになったのでしょう。
登呂遺跡は当初は灌漑施設があったとされていましたが、それが今では見直されているようです。
登呂遺跡の場合、水田のまわりに木製の矢板がうちこまれ、水田と水田とのあいだは、あたかも水路のように見えます。そのため発掘当初は、人工的に水をひき、灌漑したものとされました。しかし、この矢板は、湿地帯につくられた水田に泥を帯りあげ、そのくずれるのを防ぐためのものだったというのが今では一般的です。矢板と水路状の遺物は、人工的な瀧漑が行なわれていたことを立証できるものではないというのです。そうすると、弥生期の稲作は、灌漑をともなわない湿地での水稲栽培という性格にとどまることになります。

『讃岐のため池』の次の主張を、現在の考古学者たちがどう考えているかを簡単に押さえておきます。
①弥生末期には初期灌漑農業が存在したこと
②条里制開拓期に急激な耕地面積の拡大があったこと
③律令時代の耕地面積の拡大に対応するために本格的な灌漑の時代に入ったこと
④中期古墳の築造技術はため池堤防に転用できることから、古墳時代後期にはかなりの規模のため池が築造されていたこと。

②については、かつては条里制は短期間に一気に工事が推し進められたと考えられていました。
そのために、急激な耕地面積の拡大や用水路の整備が行われたとされました。しかし、発掘調査から分かったことは、丸亀平野全体で一斉に条里制工事が行われたわけではないことです。丸亀平野の古代条里制の進捗率は40%程度で、土器川や金倉川の氾濫原に至っては近代になって開墾された所もあることは以前にお話ししました。つまり「条里制工事による急速な耕地面積の拡大」は、発掘調査から裏付けられません。 
 ③の「灌漑水路の整備・発展」についても見ておきましょう。
丸亀平野の高速・バイパス上のどの遺跡でも、条里制施行期に灌漑技術が飛躍的に発展したことを示すものはありません。小川や出水などの小さな水源を利用した弥生期以来の潅漑技術を応用したものばかりです。「灌漑施設の大規模で革新的な技術が必要な方格地割の広範な形成は、古代末頃にならないとできない」という説を改めて確認するものです。 「大規模な溝(用水路)」が丸亀平野に登場するのは平安末期なのです。
   ここからは古代の満濃池についても、もう一度見直す必要がありそうです。
大きな池が造られても灌漑用水路網を整備・管理する能力は古代にはなかったことを考古学的資料は突き付けています。「奈良時代に作られ、空海が修復したという満濃池が丸亀平野全体を潤した」とされますが「大きな溝」が出現しない限りは、満濃池の水を下流に送ることはできなかったはずです。存在したとしても古代の満濃池は近世のものと比べると遙かに小形で、現在の高速道路付近までは水を供給することはできなかったということになります。
   
④中期古墳の築造技術は、ため池堤防に転用できることから古墳時代後期にはかなりの規模のため池が築造されていたこと。
 これについてもあくまで推測で、古代に遡るため池は丸亀平野では発見されていません。また丸亀平野の皿池や谷頭池などもほどんどが近世になって築造されたものであることが分かっています。「古墳時代後期にかなり規模のため池が築造」というのは、非現実的なようです。
高速道路・バイパス上の遺跡からは、江戸時代になって新たに掘られて水路はほとんど見つかっていません。
その理由は条里制施工時に作られた灌漑用水路が、姿を変えながら現在の幹線水路となり維持管理されているからと研究者は考えています。近世になって造られた満濃池を頂点とする丸亀平野の灌漑網も基本的には、それまでの地割を引き継ぐ水路設定がされています。そのため古代以来未開発であった条里制の空白地帯や地割の乱れも、従来の条里制の方向性に従った地割になっています。つまり従来の地割に、付け加えられるような形で整備されたことになります。これが現在も条里制遺構がよく残る丸亀平野の秘密のようです。しかし、繰り返しますが、この景観は長い時間を経てつくられたもので、7世紀末の条里制施工時に全てが出来上がったものではないのです。
丸亀平野の灌漑・ため逝け

 以上をまとめておきます。
①丸亀平野の初期稲作集落は、扇状地上の出水周辺に成立しており、潅漑施設は見られない。
②善通寺王国の首都とされる旧練兵場遺跡には、上流の2つの出水からの水路跡が見られ、灌漑施設が見られる。しかし、ため池や大規模な用水路は見られない。
③古墳時代も用水路は弥生時代に引き続いて貧弱なもので、大量の用水を流せるものではなく、上流の出水からの用水程度のものである。
④律令国家の条里制も一度に行われたものではなく「飛躍的な耕地面積の拡大」は見られない。
⑤用水路も弥生時代と比べて、大規模化したした兆候は見えない。用水路の飛躍的な発展は平安末期になってからである。
⑤ため池からの導水が新たに行われたことをしめす溝跡は見当たらない。
⑥新たに大規模な用水路が現れるのは近世以後で、満濃池などのため池群の整備との関連が考えられる。
⑦この際に新たに掘られた用水路も、既にある用水路の大型化で対応し、条里制遺構を大きく変えるものではなかった。
以上からは「弥生期=ため池出現説」は、考古学的には考えられない仮説である。
   最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
    香川清美「讃岐における連合水系の展開」(四国農業試験場報告8)。
  『讃岐のため池』
  「森下英治 丸亀平野条里型地割の考古学的検討  埋蔵文化財調査センター研究紀要V 1997年」

       幕末の農民4
幕末・明治の農民(横浜で売られていた外国人向け絵はがき)
江戸時代の讃岐の農民が、どんなものを着ていたのかを描いた絵図や文書は、あまり見たことがありません。
祭りや葬式など冠婚葬祭の時の服装は、記録として残されたりしていますが、日常に着ていたものは記録には残りにくいようです。そんな中で、大庄屋十河家文書の中には、農民が持っていた衣類が分かる記述があります。それは農民から出された「盗品被害一覧」です。ここには農民が盗まれたものが書き出されています。それを見ていくことにします。テキストは「飯山町史330P 農民の生活」に出てくる法勲寺十河家の文書です。(意訳)
一筆啓上仕り候
鵜足郡西坂元村 百姓嘉左衛門
先日十八日の朝、起きてみると居宅の裏口戸が壱尺(30㎝)四方焼け抜けていました。不審に思って、家の内を調べて見ると、次のものがなくなっていました。
一、脇指      壱腰 但し軸朱塗り、格など相覚え申さず候
一、木綿女袷(あわせ) 壱ツ 但し紺と浅黄との竪縞、裏浅黄
一、男単物 (ひとえ) 壱ツ 但し紺と紅色との竪縞
一、女単物    壱ツ 但し紺と浅黄との竪縞
一、男単物    壱ツ 但し紺と浅黄との竪縞
一、女帯      壱筋 但し黒と白との昼夜(黒と白が裏表になった丸帯の半分の幅の帯)
一、小倉男帯  壱筋 但し黒
一、縞木綿    弐端 但し浅黄と白との碁盤縞
一、木綿      壱端 但し浅黄と白との障子越
一、切木綿    八尺ばかり 但し右同断
一、木綿四布風呂敷 但し地紺、粂の紋付
合計十一品
以上の物品は、盗み取られたと思われますが、いろいろと調べても、何の手掛りもありません。つきましては、嘉左衛門から申し出がありましたので、この件について御注進(ご報告)する次第です。以上。
弘化四年(1847) 4月23日           
           西坂元村(庄屋) 真鍋喜三太
西坂本村の百姓嘉左衛門の盗難届けを受けて、同村庄屋の真鍋喜三太がしたためた文書です。盗難に遭う家ですから「盗まれるものがある中農以上の家」と推測できます。最初の盗品名が「脇指」とあるが、それを裏付けます。ただ盗難品を見ると、脇差以外は、衣類ばかりです。そして、ほとんどが木綿で、絹製品はありません。また「単衣」とは、胴裏(どううら)や八掛(はっかけ)といった裏地が付かない着物のことで、質素なものです。また、「切木綿」のように端材もあります。自分たちで、着物を仕立てていたようです。

幕末の農民
幕末の農民
 こうして見ると、素材は木綿ばかりで絹などの高価な着物はありません。このあたりに、農民の慎ましい生活がうかがえます。しかし、盗品のお上への届けですから、その中に農民が着てはならないとされていた絹が入っていたら、「お叱り」を受けることになります。あっても、ここには書かなかったということも考えられます。それほど幕末の讃岐の百姓達の経済力は高まっていたようです。

幕末の農民5
幕末・明治の農民

 江戸時代には新品の着物を「既製服」として売っているところはありませんでした。
「呉服屋」や木綿・麻の織物を扱う「太物(ふともの)屋」で新品の反物を買って、仕立屋で仕立てるということになります。着物は高価な物で、武士でも新しく仕立卸の着物を着ることは、生涯の中でも何度もなかったようです。つまり、新品の着物は庶民が買えるものではなかったのです。
江戸時代の古着屋
古着屋
 町屋の裕福な人達が飽きた着物を古着屋に売ります。
その古着を「古着屋」や「古着行商」から庶民は買っていたのです。ましてや、農民達は、新しい着物を買うことなど出来るはずがありません。古着しか手が出なかったのです。そのため江戸時代には古着の大きなマーケットが形成されていました。例えば、北前船の主な積荷の一つが「古着」でした。古着は大坂で積み込まれ、日本海の各地に大量に運ばれていました。

江戸時代の古着屋2
幕末の古着屋

江戸や大坂には「古着屋・仲買・古着仕立て屋」など2000軒を越える古着屋があったようで、古着屋の中でも、クラスがいくつにもわかれていました。だから盗品の古着にも流通ルートがあり、「商品」として流通できるので着物泥棒が現れるのです。

古着屋2
古着屋 
古着は何十年にもわたって、いろいろな用途に使い廻されます。
  古着を買ったら、大事に大事に使います。何度も洗い張りして、仕立て直し。さらには子ども用の着物にリメイクして、ボロボロになっても捨てずに、赤ちゃんのおしめにします。その後は、雑巾や下駄の鼻緒にして、「布」を最後まで使い切りました。農村では貧しさのために古着も手に入らない家がありました。農作業の合間に自分で麻や木綿の着物を仕立てたり、着れる者を集めて古いものを仕立て直したりしたようです。

細川家住宅
  『細川家住宅』(さぬき市多和)18世紀中頃の富農の主屋

農民の家については、建て替えの時に申請が必要だったので、記録が残っています。
願い上げ奉る口上
一、家壱軒   石据え 但し弐間梁に桁行四間半、藁葺き
右は私ども先祖より持ち来たりおり申し候所、柱など朽ち損じ、取り繕いでき難く候間、有り来たりの通り建てかえ申したく存じ奉り候。もっとも御時節柄にていささかも華美なる普請仕らず候間、何卒願いの通り相済み候様によろしく仰せ上られくださるべく候。この段願い上げ奉り候。以上。
弘化四来年二月         鵜足郡西川津村百姓   長   吉
庄屋高木伴助殿
  意訳変換しておくと
一、家壱軒   石据え(礎石) 2間梁に桁行4間半、藁葺き
この家は、私どもの先祖より受け継いできたものですが、柱などが朽ち果てて、修繕ができなくなりました。そこで「有り来たり(従来通の寸法・工法)」で建て替えを申請します。もっとも倹約奨励の時節柄ですので、華美な普請は行いません。何卒、願い出の通り承認いただける取り計らっていただけるよう、この段願い上げ奉り候。以上。
弘化四来年二月        鵜足郡西川津村百姓   長吉
庄屋 高木伴助殿

西川津町の百姓長吉が庄屋へ提出した家の改築願いです。
「有り来たり(従来通の寸法・工法)」とあるので、建て替えの際には、従前と同じ大きさ・方法で建てなければならなかったことが分かります。柱は、掘っ立て柱でなく、石の上に据えるやり方ですが、家の大きさは2間×4間半=9坪の小さなものです。その内の半分は土間で、農作業に使われたと研究者は指摘します。現在の丸亀平野の農家の「田型」の家とは違っていたことが分かります。 「田型」の農家の主屋が現れるのは、明治以後になってからです。藩の規制がなくなって、自由に好きなように家が建てられるようになると、富農たちは争って地主の家を真似た屋敷造りを行うようになります。その第一歩が「田型」の主屋で、その次が、それに並ぶ納屋だったようです。

幕末になると裕福な農家は、主屋以外に納屋を建て始めます。 
弘化4(1847)年2月に 栗熊東村庄屋の清左衛門から納屋の改築願いが次のように出されています。
願い上げ奉る口上
一、納屋壱軒   石据え 但し弐間梁に桁行三間、瓦葺き
右は近年作方相増し候所、手狭にて物置きさしつかえ迷惑仕り候間、居宅囲いの内へ右の通り取り建て申したく存じ奉り候。(中略)この段願い上げ奉り候。以上。
弘化四年 未二月         鵜足郡西川津村百姓 弁蔵
庄屋高木伴助殿
  意訳変換しておくと
願い上げ奉る口上
一、納屋壱軒   石据え 構造は弐間梁 × 桁行三間で瓦葺き
近年に作物生産が増えて、手狭になって物置きなどに差し障りが出てくるようになりました。つきましては、居宅敷地内に、上記のような納屋を新たに建てることを申請します。(中略) この段願い上げ奉り候。以上。
弘化四年 未二月         鵜足郡西川津村百姓 弁蔵
庄屋
「近年作方相増し」た西川津村の弁蔵が、庄屋の高木伴助に納屋新築を申請したものです。弁蔵は、砂糖黍や綿花などの商品作物の栽培を手がけ成功したのかも知れません。そして、商品作物栽培の進む中で没落し、土地を手放すようになった農民の土地を集積したとしておきましょう。その経済力を背景に、納屋建設を願いでたのでしょう。それを見ると、庄屋級の納屋で二間×五間の大きさです。一般農民の中にも次第に耕作規模を拡大し、新たに納屋を建てる「成り上がり」ものが出てきていることを押さえておきます。逆に言うと、それまでの農家は9坪ほどの小さな主屋だけで、納屋もなかったということになります。
 今では、讃岐の農家は主屋の周りに、納屋や離れなどのいくつもの棟が集まっています。しかし、江戸時代の農家は、主屋だけだったようです。納屋が姿を見せるようになるのは幕末になってからで、しかも新築には申請・許可が必要だったこと押さえておきます。
最後に、当時の富農の家を見ておきましょう。

細川家住宅32
重要文化財『細川家住宅』(さぬき市多和)
18世紀中頃(江戸時代)の農家の主屋です。屋根は茅葺で、下までふきおろしたツクダレ形式。 母屋、納屋、便所などが並んでいます。
母屋は梁行3間半(6,1m)×桁行6間(12,8m)の大きな主屋です。先ほど見た「鵜足郡西川津村百姓 長吉の家が「2間梁×桁行4間半、藁葺き」でしたから1.5倍程度の大きさになります。

細川家4
細川家内部
周囲の壁は柱を塗りこんだ大壁造りで、戸は片壁引戸、内部の柱はすべて栗の曲材を巧みに使ったチョウナ仕上げです。間取りは横三間取りで土間(ニワ)土座、座敷。ニワはタタキニワでカマド、大釜、カラウス等が置かれています。土座は中央にいろりがあり、座敷は竹座で北中央に仏壇があります。四国では最古の民家のひとつになるようです。

DSC00179まんのう町生間の藁葺き
戦後の藁葺き屋根の葺替え(まんのう町生間) 

 江戸時代の庄屋の家などは、いくつか残っていますが普通の農家の家が残っているのは、非常に珍しいことです。この家のもう少し小形モデルが、江戸時代の讃岐の農民の家で、納屋などもなかったことを押さえておきます。最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

    近世の村支配 庄屋
 
近世の藩と村の支配ヒエラルヒーは、高松藩では次のようになります。
 大老―奉行―郡奉行―代官―(村)大庄屋・庄屋ー組頭―百姓
 
讃岐では、名主が「庄屋や政所」と呼ばれました。また、各郡の庄屋を束ねるが大庄屋(大政所)とされました。
ここで、注意しておきたいのは、兵農分離の進んだ近世の村には、原則的には代官以下の武士達は村にいなかったことです。そのため村の支配は、庄屋を中心とする村役人で行われました。そのため村で起こったことは、大庄屋に報告し、代官の指示を仰ぐ必要がありました。これらの連絡・指示・報告等は、すべて文書で行われています。今回は、どの程度のことまでを庄屋は、報告していたのか、その具体的な事例を見ていくことにします。テキストは「飯山町史330P 農民の生活」に出てくる法勲寺十河家の文書です。

御用日記 渡辺家文書
        大庄屋渡辺家(坂出市)の御用日記

農業は藩の基本でしたから、村の農作業に関する規制や届け出は、細かいことまで報告しています。

田植え図 綾川町畑田八幡の農耕絵図
綾川町畑田八幡神社の農耕絵馬

例えば、田値えが終了したら庄屋は次のように大庄屋に報告しています。
一筆啓上仕り候。当村田代昨十九日までに無事植え済みに相なり申し候間、左様御聞き置きくださるべく候。以上。
(弘化四年)五月二十日        西二村 香川与右衛門
  意訳変換しておくと
一筆啓上仕り候。当村西二村(現丸亀市西二村)は、昨日5月19日までに、田植えが無事終了しました。このことについて、報告します。以上。
弘化四(1847)年五月十日        西二村 香川与右衛門
川津・二村郷地図
二村郷
西二村は、飯野山南麓の土器川の西側にあった村です。現在は川西町の春日神社を中心とするあたりになります。西二村のこの年の田植終了日時は、旧暦5月20日だったようです。現在の新暦では、約1ヶ月遅れになるので6月20日前後のことでしょうか。西二村の庄屋香川与右衛門が法勲寺の大庄屋に、田植え完了を報告しています。大庄屋は、鵜足郡南部の各村々からの報告をまとめて、藩の役所へ報告する仕組みだったようです。

葛飾北斎る「冨嶽三十六景」「駿州大野新田」現在の静岡県富士市。、

柴を背負って家路を急ぐ牛たち(葛飾北斎「冨嶽三十六景」の「駿州大野新田(静岡県富士市)」
牛の盗難事件についての報告を見ておきましょう。

一、女牛壱疋
但し歳弐才、角向い高いくらい、勢三尺ばかり
右の牛阿野郡南新居村百姓加平治所持の牛にて、牛屋につなぎこれ有り候所、去月二十五日の夜盗まれ候につき、方々相尋ね候えども今に手掛りの筋これ無く候間、その郡々村々これを伝え、念を入れられ、詮儀を遂げ、見及び聞き及び候儀は勿論、手掛りの筋もこれ有り候や。右の者来たる十日までにそれぞれ役所へ申し出ずべきものなり。
(安永二年)巳七月             御 代 官
右大政所中
  意訳変換しておくと
一、雌牛一頭
 牛の歳は2才で、角は向いあって、高いくらい、勢(せい:身長)90㎝ばかり
この牛は阿野郡南新居村の百姓加平治の牛で、牛小屋につないであった所、先月25日の夜に盗まれた。方々を尋ね探したが、手掛がないので、近隣の郡々村々に聞き合わせを行うものである。ついては、見聞したことや、手掛になることがあれば、10日までに役所へ申し出ること。
安永二(1773)年巳七月             御代官
右大政所中
阿野郡南新居村で雌牛が盗まれたようです。そのことについて郡を越えて代官所から大庄屋(十河家)への情報提供依頼が廻ってきています。書状を受けた十河家の主人は、写しを何通かしたため、それと大庄屋の指示書を添えて、鵜足郡の拠点庄屋に向けて使者を遣わします。受け取った庄屋は、リレー方式で通達書を回覧していきます。その際に、庄屋たちは回覧文書を書写したり、自分の意見などをしたためて対応を協議していくことになります。当時の庄屋たちは文書を通じて頻繁にやりとりしています。ここでは百姓が飼っていた牛が盗まれても、代官に報告が上がり、情報的提供指示が出ていることを押さえておきます。
葛飾北斎「冨嶽三十六景」の「駿州大野新田」の牛の拡大図
葛飾北斎「冨嶽三十六景」の柴を背負う牛の拡大図
今度は、土器川に現れた二頭の離れ牛についてです。
一筆啓上仕り候
一、女牛 壱疋
但し毛黒、勢三尺九寸、角ぜんまい、歳八才
一、男牛 壱疋
但し毛黒、勢三尺六寸、角横平、歳八才
右は去る二十四日朝当村高津免川堤に追い払い御座候て、村内百姓喜之助・平七両人見付け、私方へ申し出候間、村内近村ども吟味仕り候えども、牛主方相知れ申さず。もっとも老牛にて用立ち申さず、追い払い候義と相見え申しり候間、何卒御回文をもって御吟味仰せ付けられくださるべく候。右御注進申し上げたく、かくのごとくに御座候。以上。
 (弘化四(1847)年 二月二十八日          
土器村庄屋            近藤喜兵衛
  意訳変換しておくと
一筆啓上仕り候
一、雌牛一頭 毛黒、身長三尺九寸、角はぜんまい、歳は八才
一、雄牛一頭 毛黒、身長三尺六寸、角は横平、歳は八才
この二頭の牛が2月24日の朝、土器村の高津免川堤にいるのを、村内の百姓・喜之助・平七の両人が見付けて、届け出た。村内や近隣の村々に問い合わせしたが、牛の飼主は現れない。もっとも二頭共に老牛で使い物にはならないので、「追い払」ったも思える。とりあえず、御回文を送付しますので、吟味いただいて指示をいただきたい。右御注進申し上げたく、かくのごとくに御座候。以上。
 (弘化四年(1847)年  .二月二十八日          
土器村庄屋            近藤喜兵衛

土器川の河原に牛が二頭、放れているとの土器村庄屋からの報告です。村人達は異常があればなんでも庄屋に報告せよといわれていたのでしょう。「放れ牛の発見 → 村民の報告 → 庄屋の近隣村への問い合わせ → 大庄屋 」という「報告ルート」が機能しています。

DSC01302
牛耕による田起こし(戦後・詫間)
このことについて大庄屋の十河家当主は、約2ケ月後の「御用留(日記)」に、次のように記します。
御領分中村々右牛主これ無きやと回文をもって吟味致し候えども、牛主これ無き段申し出に相なり候間、この段御聞き置きなられくださるべく候。右申し出たくかくのごとくに御座候。以上。  
    (弘化四年)四月二十三日          こなた両人
意訳変換しておくと
高松藩の御領分中の村々に、牛の飼い主について問い合わせを回文(文書)で行った。が、牛の飼主であるとの申出はなかった。このことについて、知り置くように。右申し出たくかくのごとくに御座候。以上。  
    (弘化四年)四月二十三日          こなた両人
 年老いた牛が、土器川に放たれていたことについて、大庄屋は回文(文書)を出して、飼い主の「探索」を行っています。牛は農家の宝であり、年老いた牛については殺さずに河原へ追い放したこともあったようです。
最後に、年中行事の中から農民生活に関係の深いものを見ておきましょう。
立春後の第五の戊(つちのえ)の日を春の社日といい、この日には地神祭が行われていました。
徳島県(「阿波藩」)の「地神さん」の祭礼を見ておきましょう。
地神祭 - 日日是好日
徳島の地神祭(日々是好日 地神祭HP)よりの引用
徳島県内のどの神社(村)に行っても、頂上の石が五角形の「地神さん」が見られる。神社の境内に祀られている事が多い。
寛政2年 藩主:蜂須賀治昭は、神職早雲伯耆の建白を受け、県下全域に「地神さん」を設置させた。「地神塔」を建てると共に、社日には祭礼を行わせた。社日は、春・秋の彼岸に一番近い「戌」の日。その日は、農耕を休み「地神さん」の周りで祭礼を行う。その日に農作業をすると地神さんの頭に鍬を打ち込むことになるといわれ、忙しい時期ではあるが、総ての農家が農作業を休んだ。
「地神さん」の周りには注連縄を張り、沢山の供物が供えられた。時間が来ると、その供え物は子供達に分け与えられる。その日、子供は「地神さん」の周りに集まりお下がりを頂くのが楽しみであった。子供達はこの日のことを「おじじんさん」と呼び、楽しい年中行事の一つとしていた。
日々是好日 地神祭 よりの引用
https://blog.goo.ne.jp/ktyh_taichan/e/3b464e70359f789bb712c67319bd894b
まんのう町新目神社の地神塔
地神塔(まんのう町新目神社)
讃岐鵜足郡の神社で行われた地神祭を見ておきましょう。
口 上
来たる八日社日に相当り候につき、例歳の通り御村内惣鎮守五穀成就地神奈義ならびに悪病除け御祈祷二夜三日修行仕り候間、この段御聞き置きなられくださるべく候。なおなお村々へも御沙汰よろしく,願い上げ奉り候。以上。
(弘化四年)二月              土屋日向輔
  意訳変換しておくと
来たる2月日は社日に当たるので、例年通りに村内惣鎮守で五穀成就の地神奈義と悪病除の祈祷を二夜三日に渡って(山伏たちが)おこなうことについて、聞き置きくださるようお願いします。なお村々へも沙汰(連絡)よろしく願い上げ奉り候。以上。
弘化四(1847年2月              土屋日向輔

2月の地神祭りに2夜3日に渡って、村内の鎮守で山伏による祈祷祈願が行われたようです。それには神職ではなく、山伏たちが深く関わっていたことが分かります。当時の戸籍などには、村々に山伏の名前が記されています。また、神事をめぐって、社僧や神職・山伏などの間で、いろいろないざこざが起きていたことは以前にお話ししました。ここでは村の神事は、神仏分離以前は山伏たちによって行われていたことを押さえておきます。

春の市は、今では植木市が中心になっています。しかし、江戸時代は農具市だったようです。観音寺の茂木町の鍛冶屋たちが周辺の寺社に出向いて、農具などを販売していたしていたことは以前にお話ししました。鍛冶市の回覧状を見ておきましょう。(意訳)
一筆申し上げ候。来たる3月18日・19日は、栗熊東村住吉大明神の境内で例年通り農具市が開かれる。ついては、このことについて聞き置き、回覧いただきたい。以上。
  弘化四年三月十六日 くり(栗)熊東村庄屋 清左衛門
 栗熊東村の住吉大明神(神社)で、開催される農具市の案内回状の依頼です。各村々の地神祭や農具市などのイヴェントについては、その村だけでなく周囲の村々にも「庄屋ネットワーク」で情報や案内が流され、村人達に伝えられていたことが分かります。このような情報を得て、周辺の多くの人達が市や祭りに参加していたのでしょう。
田植えが終わると虫がつかないように、虫送りが行われていました。
一筆啓上仕り候。しからば当村立毛(たちげ)虫付きに相なり申し候間、王子権現において御祈祷相頼み、来たる四日虫送り仕りたき段、一統百姓どもより申し出候。もっとも入目(いりめ)の義は持ち寄りに仕り侯段とも申し出候。この段お聞き置きくださるべく候。右申し上げたくかくのごとくに御座侯。以上。
(弘化四年)七月一日           庄屋 弥右衛門
意訳変換しておくと
一筆啓上仕り候。しからば当村では稲に害虫がついてしまいました。つきましては、王子権現で(山伏)に祈祷を依頼し、4日に虫送りを実施したいと、百姓どもから申し出がありました。その入目(いりめ:費用)については、各自の持ち寄りとすると申し出ています。この件について、お聞き届けくださるよう申し上げたくかくのごとくに御座侯。以上。
(弘化四年)七月一日           庄屋 弥右衛門
これも十河家に送られてきた虫送り実施の許可願です。どこの村かは書かれていません。当事者同士には、これで分かったのでしょう。こうして見ると、祭りやイヴェントの案内状まで庄屋は作成し、大庄屋に願い出て、地域に回覧していたことが分かります。
  このような業務を遂行する上で、欠かせないのが文書能力でした。
   藩からの通達や指示は、文書によって庄屋に伝達されます。また庄屋は、今見てきたようにさまざまな種類の文書の作成・提出を求められていした。文書が読めない、書けないでは村役人は務まらなかったのです。年貢納税には、高い計算能力が求められます。

地方凡例録
地方凡例録
 地方行政の手引きである『地方凡例録』には、庄屋の資格要件を、次のように記します。
「持高身代も相応にして算筆も相成もの」
石高や資産も相応で、文章や形成能力も高い者)

経済的な裏付けと、かなりの読み書き・そろばん(計算力)能力が必要だというのです。
辻本雅史氏は、次のように記します。

「17世紀日本は『文字社会』と大量出版時代を実現した。それは『17世紀のメデイア革命』と呼ぶこともできるだろう」

そして、18世紀後半から「教育爆発」の時代が始まったと指摘します。こうして階層を越えて、村にも文字学習への要求は高まります。これに拍車を掛けたのが、折からの出版文化の隆盛です。書籍文化の発達や俳諧などの教養を身に付けた地方文化人が数多く現れるようになります。彼らは、中央や近隣文化人とネットワークを結んで、地方文化圏を形成するまでになります。
このような「17世紀メデイア革命」を準備したのが、村役人になんでも報告を求めた、藩の「文書主義」だったのかもしれません。これに庄屋や村役人が慣れて適応したときに「メデイア革命」が起きたことを押さえておきます。これは現在進行中のメデイア革命に通じるものがあるのかもしれません。
   最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「飯山町史330P 農民の生活」
「坂出市史 近世上14P 村役人の仕事」
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高松藩分限帳
髙松藩分限帳
髙松藩分限帳の中には、当時の庄屋や大庄屋の名前が数多く記されています。
法勲寺大庄屋十河家
分限帳に見える上法勲寺村の十河武兵衛(左から4番目)

  その中に鵜足郡南部の大庄屋を務めた法勲寺の十河家の当主の名前が見えます。十河家文書には、いろいろな文書が残されています。その中から農民生活が見えてくる文書を前回に引き続いて見ていくことにします。テキストは「飯山町史330P 農民の生活」です。
江戸時代の農民は自分の居住する村から移転することは許されていませんでした。
今で云う「移動・職業選択・営業・住居選択」の自由はなかったのです。藩にとっての収入源は、農民の納める年貢がほとんどでした。そのため労働力の移動を禁止して、農民が勝手に村外へ出てしまうことを許しませんでした。中世農奴の「経済外強制」とおなじで、領主の封建支配維持のためには、欠かせないことでした。
 しかし、江戸時代後半になり、貨幣経済が進むと農民層にも両極分解が進み、貧農の中には借金がかさみ、払えきれなくなって夜逃け同然に村を出て行く者が出てきます。江戸時代には、夜逃げは「出奔(しゅっぽん)」といって、それ自体犯罪行為でした。

一筆申し上げ候
鵜足郡上法軍寺村間人(もうと)義兵衛倅(せがれ)次郎蔵
右の者去る二月二十二日夜ふと宿元まかり出で、居り申さず候につき、 一郡共ならびに村方よりも所々相尋ね候えども行方相知れ申さず、もっとも平日内借など負い重なり、右払い方に行き当り、全く出奔仕り候義と存じ奉り候。そのほか村方何の引きもつれも御座無く候。この段御注進申し上げたく、かくの如くに御座候。以上。
           同郡同村庄屋         弥右衛門
弘化四(1847)年三月八日
    意訳変換しておくと
鵜足郡上法軍寺村の間人(もうと)義兵衛の倅(せがれ)次郎蔵について。この者は先月の2月22日夜に、家を出奔にして行方不明となりましたので、村方などが各所を訪ね探しましたが行方が分かりません。日頃から、借金を重ね支払いに追われていましたので、出奔に至った模様です。この者以外には、関係者はいません。この件について、御注進を申し上げます。

間人(もうと)というのは水呑百姓のことで、宿元というのは戸籍地のことです。上法軍寺村の間人義兵衛の子次郎蔵が出奔し、行方不明になったという上法勲寺村の庄屋からの報告です。
  次郎蔵の出奔事件は犯罪ですから、これだけでは終わりになりません。その続きがあります。
願い上げ奉る口上
一、私件次郎蔵義、去る二月出奔仕り候につき、その段お申し出で仕り候。右様不所存者につき以後何国に於て如何様の義しだし候程も計り難く存じ奉り候間、私共連判の一類共一同義絶仕りたく願い奉り候。右願いの通り相済み候様よろしく仰せ上られくだされ候。この段願い上げ奉り候。以上。
    弘化四年未三月
出奔人親 鵜足郡上法軍寺村間人   義兵衛 判
出奔人兄 同郡同村間人     倉 蔵 判
意訳変換しておくと
願い上げ奉る口上
一、私共の倅である次郎蔵について、先月二月に出奔したことについて、申し出いたしました。このことについては、行き先や所在地については、まったく分かりません。つきましては、連判で、次郎蔵との家族関係を義絶したいと願い出ます。このことについて役所へのおとり継ぎいただけるよう願い上げ奉り候。以上。
    弘化四年未三月
出奔人親 鵜足郡上法軍寺村間人   義兵衛 判
出奔人兄 同郡同村間人      倉蔵 判
庄屋      弥右衛門殿
父と兄からの親子兄弟の縁を切ることの願出が庄屋に出されています。それが、大庄屋の十河家に送付されて、それを書き写した後に高松藩の役所に意見書と共に送ったことが考えられます。
出奔した次郎蔵は親から義絶され、戸籍も剥奪されます。宿元が無くなった人間を無宿人と云いました。無宿人となった出奔人は農民としての年貢その他の負担からは逃れられますが、公的存在としては認められないことになります。そのため、どこへ行っても日陰の生き方をしなければならなくなります。
 次郎蔵の出身である間人という身分は、「農」の中の下層身分で、経済的には非常に厳しい状況に置かれた人達です。
中世ヨーロッパの都市は「都市の空気は、農奴を自由にさせる」と云われたように、農奴達は自由を求めて周辺の「自由都市」に流れ込んでいきます。幕末の讃岐では、その一つが金毘羅大権現の寺領や天領でした。天領は幕府や高松藩の目が行き届かず、ある意味では「無法地帯」「自由都市」のような様相を見せるようになります。当時の金毘羅大権現は、3万両をかけた金堂(現旭社)が完成に近づき、周辺の石段や石畳も整備が行われ、リニューアルが進行中でした。そこには、多くの労働力が必要で周辺部農村からの「出奔」者が流れ込んだことが史料からもうかがえます。金毘羅という「都市」の中に入ってしまえば、生活できる仕事はあったようです。こうして出奔者の数は、次第に増えることになります。
      
出奔は非合法でしたが、出稼ぎは合法的なものでした。
しかし、これにも厳しい規制があったようです。
願い奉る口上
一、私儀病身につき作方働き罷りなり申さず候。大坂ざこば材木屋藤兵衛と申し材木の商売仕り候者私従弟にて御座候につき、当巳の年(安永二年)より西(安永六年)暮まで五年の間逗留仕り、相応のかせぎ奉公仕りたく存じ奉り候間、願いの通り相済み候様、よろしく仰せ上られ下さるべく候。願い上げ奉り候。以上。
安永二年巳四月      鵜足郡岡田下村間人   庄 太 郎
政所 専兵衛殿
   意訳変換しておくと
一、私は病身のために農作業が出来なくなりました。大坂ざこば材木屋の藤兵衛で材木商売を営んでいる者が私の従弟にあたります。つきましては、当年(安永二年)より五年間、大坂に逗留し、かせぎ奉公(出稼ぎ)に出たいと思います。願いの通り認めて下さるように、よろしく仰せ上られ下さるべく候。願い上げ奉り候。以上。
安永二(1773)年巳四月     鵜足郡岡田下村間人   庄 太 郎
政所 専兵衛殿

岡田下村の貧農から庄屋への出稼ぎ申請です。病身で農業ができないので、出稼ぎにでたいと申し出ています。健常者には、出稼ぎは許されなかったようです。

江戸時代には「移動の自由」はないので、旅に出るには「大義名分」が必要でした。
「大義名分」のひとつが、「伊勢参り」や「四国巡礼」などの参拝でした。また「湯治」という手もあったようです。それを見ておきましょう。
願い奉る口上
一、私儀近年病身御座候につき、同郡上法軍寺村医者秀伊へ相頼み養生仕り候所、しかと御座無く候。この節有馬入湯しかるべき由に指図仕り候につき、三回りばかり湯治仕りたく存じ奉り候。もっとも留守のうち御用向きの義は蔵組頭与右衛門へ申し付け、間違いなく相勤めさせ申すべく候間、右願いの通り相済み候様よろしく仰せ上られくださるべく候。願い奉り候。以上。
安永二年巳 四月      .鵜足郡東小川村 政所     利八郎
    意訳変換しておくと
近年、私は病身気味で、上法軍寺村の医者秀伊について養生してきましたが、一向に回復しません。そこでこの度、有馬温泉に入湯するようにとの医師の勧めを受けました。つきましては、「三回り(30日)」ほど湯治にまいりたいと思います。留守中の御用向きについては、蔵組頭の与右衛門に申し付けましたので、間違いなく処理するはずです。なにとぞ以上の願出について口添えいただけるようにお願いいたします。以上。
安永二(1773)年巳 4月      .鵜足郡東小川村政所     利八郎

東小川村政所(庄屋)の利八郎が、病気静養の湯治のために有馬温泉へ行くことの承認申請願いです。期間は三回り(30日)となっています。利八郎の願出には、次のような医者の診断書もつけられています。
一札の事
一、鵜足郡東小川村政所利八郎様病身につき、私療治仕り候処、この節有馬入湯相応仕るべき趣指図仕り候。以上。
安永二年巳四月        鵜足郡上法軍寺村医者     秀釧
ここからは、村役人である庄屋は、大政所(大庄屋)の十河家に申請し、高松藩の許可を得る必要があったことが分かります。もちろん、湯治や伊勢詣でにいけるのは、裕福な農民達に限られています。誰でもが行けたわけではなく、当時はみんなの憧れであったようです。それが明治になり「移動や旅行の自由」が認められると、一般の人々にも普及していきます。庄屋さん達がやっていた旅や巡礼を、豊かな農民たちが真似るようになります。
 有馬温泉以外にも、湯治に出かけた温泉としては城崎・道後・熊野など、次のような記録に残っています。(意訳)
  城崎温泉への湯治申請(意訳)
願い上げ奉り口上
一、私の倅(せがれ)の喜三太は近年、癌気(腹痛。腰痛)で苦しんでいます。西分村の医師養玄の下で治療していますが、(中略)この度、但州城崎(城崎温泉)で三回り(30日)ばかり入湯(湯治)させることになりました。……以上。
弘化四年 未二月         鵜足郡土器村咤景    近藤喜兵衛
    道後温泉への湯治申請

道後温泉からの帰着報告書 十河文書
 川原村組頭の磯八の道後温泉からの湯治帰還報告書(左側)
願い上げ奉る口上
一、私は近年になって病気に苦しんでいます。そこで、三回り(30日)ほど予州道後温泉での入湯(湯治)治療の許可をお願い申し上げました。これについて、二月二十八日に出発し、昨日の(3月)28日に帰国しまた。お聞き置きくだされたことと併せて報告しますので、仰せ上られくださるべく候。……以上。
弘化四未年二月          川原村組頭 磯八      
ここからは川原村の組頭が道後温泉に2月28日~3月28日まで湯治にいった帰国報告であることが分かります。行く前に、許可願を出して、帰国後にも帰着報告書と出しています。上の文書の一番左に日付と「磯八」の署名が見えます。また湯治期間は「三回り(1ヶ月)という基準があったことがうかがえます。

また、大政所の十河家当主は、各庄屋から送られてくる申請書や報告書を、写しとって保管していたことが分かります。庄屋の家に文書が残っているのは、このような「文書写し」が一般化していたことが背景にあるようです。

今度は熊野温泉への湯治申請です。
願い上げ奉る口上    (意訳)
私は近年病身となりましたので、紀州熊野本宮の温泉に三回り(30日)ほど、入湯(湯治)に行きたいと思います。行程については、5月25日に丸亀川口から便船がありますので、それに乗船して出船したいと思います。(後略)……以上。
弘化四(1848)年  五月     鵜足郡炭所東村百姓    助蔵 判
庄屋平田四郎右衛門殿
熊野本宮の温泉へ、丸亀から出船して行くという炭所東村百姓の願いです。乗船湊とされる「丸亀川口」というは、福島湛甫などが出来る以前の土器川河口の湊でした。
丸亀市東河口 元禄版
土器川河口の東河口(元禄10年城下絵図より)

新湛甫が出来るまでは、金毘羅への参拝船も「丸亀川口」に着船していたことは、以前にお話ししました。それが19世紀半ばになっても機能していたことがうかがえます。
 しかし、どうして熊野まで湯治に行くのでしょうか。熊野までは10日以上かかります。敢えて熊野温泉をめざすのは、「鵜足郡炭所東村百姓  助蔵」が熊野信者で、湯治を兼ねて「熊野詣」がしたかったのかもしれません。つまり、熊野詣と湯治を併せた旅行ということになります。
病気治療や湯治以外で、農民に許された旅行としては伊勢参りや四国遍路がありました。
願い上げ奉ろ口上
一、人数四人        鵜足郡炭所東村百姓 与五郎
       専丘衛
       舟丘衛
       安   蔵
右の者ども心願がありますので伊勢参宮に参拝することを願い出ます。行程は3月17日に丸亀川口からの便船で出港し、伊勢を目指し、来月13日頃には帰国予定です。この件についての許可をいただけるよう、よろしく仰せ上られるよう願い上げ奉り候。以上。
弘化四(1847)末年三月    同郡同村庄屋    平田四郎兵衛
炭所東村の百姓4人が伊勢参りをする申請書が庄屋の平田四郎兵衛から大庄屋に出されています。この承認を受けて、彼らも「丸亀川口」からの便船で出発しています。この時期には、福島湛甫や新堀港などの「新港」も姿を見せている時期です。そちらには、大型の金毘羅船が就航していたはずです。どうして新港を使用しないのでしょうか?
考えられるのは、地元の人間は大阪との行き来には、従来通りの「丸亀川口」港を利用していたのかもしれません。「金毘羅参拝客は、新港、地元民は丸亀川口」という棲み分け現象があったという説が考えられます。もう一点、気がつくのは、湯治や伊勢参りなども、旧暦2・3月が多いことです。これは農閑期で、冬の瀬戸内航路が実質的に閉鎖されていたことと関係があるようです。

大庄屋の十河家に残された文書からは、江戸時代末期の農民のさまざまな姿が見えてきます。今回はここまで。最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

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参考文献 「飯山町史330P 農民の生活」
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  江戸時代後期になると、賢い庄屋たちは記録を残すことの意味や重要性に気づいて、手元に届いた文書を書写して写しを残すようになります。その結果、庄屋だった家には、膨大な文書が近世史料として残ることになります。丸亀市飯山町法勲寺には、江戸時代に大政所(大庄屋)を務めた十河家があります。ここにも「十河家文書」が残され、飯山町史に紹介されています。今回は、その中から江戸時代の農民の生活が実感できる史料を見ていくことにします。テキストは「飯山町史330P 農民の生活」です。

もともとの鵜足郡(うたぐん)は、次のような構成でした。
 ①津野郷 – 宇多津・東分・土器・土居
 ②二村郷 – 東二(ひがしふた)・西二(にしふた)・西分
 ③川津郷 – 川津
④坂本郷 – 東坂元・西坂元・眞時・川原
⑤小川郷 – 東小川・西小川
⑥井上郷 – 上法軍寺・下法軍寺・岡田
⑦栗隈郷 – 栗熊東・栗熊西・富熊
⑧長尾郷 – 長尾・炭所東・炭所西・造田・中通・勝浦

これを見て分かるのは、江戸時代の⑧の長尾郷は鵜足郡に属していたことです。近代になって仲多度郡に属するようになり、現在ではまんのう町に属するようになっています。しかし、江戸時代には鵜足郡に属していました。そのため長尾郷の村々の庄屋は、鵜足郡の大庄屋の管轄下にあったことを押さえていきます。十河家文書の中に、長尾郷の村々が登場するのは、そんな背景があります。

讃岐古代郡郷地図 西讃
西讃の郷名
近世の村を考える場合に、庄屋を今の町村長に当てはめて考えがちです。しかし、庄屋と町長は大分ちがいます。今の町長は、町民のかわりに税金を払ってはくれませんが、江戸時代の庄屋は村民が年貢を納められない時はかわって納める義務がありました。また庄屋は、今の警察署長の役目も負っていました。例えば、村には所蔵(ところぐら:郷蔵)という蔵があったことは以前にお話ししました。
高松藩領では、村々の年貢は村の所蔵に納め、それから宇多津の藩の御蔵へ運ばれました。所蔵には、年貢の保管庫以外にも使用用途がありますた。それは警察署長としての庄屋が犯罪者や問題を起こした人間を入れておく留置場でもあったのです。どんなことをしたら、所蔵
に入れられたのでしょうか。十河文書の一つを見てみましょう。
一筆啓上仕り候。然らば去る十九日夜栗熊東村にて口論掛合いの由にて、当村百姓金蔵・八百蔵両人今朝所蔵へ入れ置き候様御役所より申し越しにつき、早速入れ置き申し候間、番人など付け置き御座候。
弘化四年 二月十二日      栗熊村庄屋 三井弥一郎
     意訳変換しておくと
一筆啓上仕り候。先日の2月19日夜、栗熊東村で口論の末に喧嘩を起こした当村の百姓・金蔵と八百蔵の両人について、今朝、所蔵(郷倉)へ入れるようにとの指示を役所より受けました。つきましては、指示通りに、両名を早速に収容し、番人を配置しました。
弘化四(1947)年2月22日      栗熊村庄屋 三井弥一郎
東栗熊村の庄屋からの報告書です。19日夜に百姓が喧嘩騒動を起こしたので、それを法勲寺の大庄屋十河家に報告したのでしょう。その指示が通りに所蔵へ入れたという報告書です。時系列で見ると
①19日夜 喧嘩騒動
②20日、 栗熊村庄屋から法勲寺の大庄屋への報告
③22日朝、大庄屋からの「所蔵へ入れ置き」指示
④22日、 栗熊村庄屋の実施報告
と、短期間に何度もの文書往来を経ながら「入れ置き(入牢)」が行われていることが分かります。村の庄屋は、大庄屋に報告して判断を仰がなければならない存在だったことが分かります。

次は村で起きた「密通・不義」事件への対応です。
 一筆申し上げ候
当村百姓 藤 吉
同     庄次郎後家
右の者共内縁ひきもつれの義につき、右庄次郎後家より申し出の次第もこれあり、双方共不届きの始末に相聞え候につき、まず所蔵へ禁足申しつけ、番人付け置き御座候。なお委細の義は組頭指し出し申し候間、お聞き取りくださるべく候。右申し上げたくかくの如くに御座候。
(弘化四年)七月三日      栗熊東村庄屋 清左衛門
意訳変換しておくと
当村百姓 藤 吉
同     庄次郎後家
上記の両者は、「内縁ひきもつ(不義密通)と、庄次郎後家より訴えがあり、調査の結果、不届きな行いがあったことが分かりました。そこで、両者に所蔵禁足に申しつけ、番人を配置しました。なお子細については、組頭に口頭で報告させますので、お聞き取りくだい。以上。
弘化四(1847)年7月3日      栗熊東村庄屋 清左衛門

今度は、栗熊東村からの「不義密通」事件の報告です。事実のようなので、両者を所蔵(郷倉)に入れて禁足状態にしているとあります。大庄屋の措置は分かりません。ここからは、所蔵が村の留置場として使われていたことが分かります。
それでは所蔵は、どんな建物だったのでしょうか?
所蔵の改築願いの記録も、十河家文書の中には次のように残されています。
一 所蔵一軒   石据え
  但し弐間梁に桁行三間、瓦葺き、前壱間下(げ)付き、
一、算用所壱軒    石据え
  但し壱丈四方、一真葺き
右は近年虫入に相成、朽木取繕い出来難く、もっとも所蔵はこれまで藁葺き。桁行三間半にて御座候ところ、半間取縮め、右の通りに建てかえ申したく存じ奉り候。御時節柄につき随分手軽に普請仕りたく存じ奉り候。別紙積り帳相添え、さし出し申し候間、この段相済み候様仰せ上られくださるべく候。願い上げ奉り候。以上。
弘化四末年二月      鵜足郡岡田東村 百姓惣代 惣   吉判
(庄屋)土岐久馬三郎殿
  意訳変換しておくと
所蔵と算用所の建て替えの件について
この建物は近年、白蟻が入って朽木となって修繕ができない状態となっています。所蔵は、これまで藁葺きで、桁行三間半でしたが、半間ほど小さくして、右の規模で建て替え建てを計画しています。倹約の時節柄ですおで、できるだけ費用をかけずに普請したいと考えています。別紙の通り見積もり書を添えて、提出いたしますので、御覧いただき検討をお願いいたします。
   弘化四末年二月      鵜足郡岡田東村 百姓惣代 惣   吉判
(庄屋)土岐久馬三郎殿

岡田東村からの所蔵の改築申請書です。ここからは。いままでは藁ぶきの「二間×三間半」だったのが、弘化四(1847)年の建替時に、瓦葺きで二間×三間に減築されたことが分かります。「石据え」というのは、柱が石の上に立てられていたこと、「前壱間下付き」というのは、所蔵の建物の表に、 一間の下(ひさしのように出して柱で受け、時には壁までつけた附属構造)が出ていたことです。この下の一間四方分は「番小屋」については、次のように別記されています。

前壱間下(げ)付きにて、右下の内壱間四方の間番小屋に仕り候積り。

ここからは下(げ)の下は、一間四方の間番小屋として使っていたことが分かります。 

 所蔵(郷倉)は、一村に一か所ずつありました。
所蔵が年貢米の一時収納所でもあり、留置場でもあったことは今見てきたとおりです。そのため地蔵(じくら)とか郷牢(ごうろう)とも呼ばれていたようです。
吉野上村(現まんのう町)の郷倉については、吉野小学校沿革史に次のように記されています。(意訳)
吉野上村郷倉平面図
吉野上村の郷倉
 明治7年(吉野)本村字大坂1278番地の建物は、江戸時代の郷倉である。その敷地は八畝四歩、建物は北から西に規矩の形に並んでいる。西の一軒は東向きで、瓦葺で、桁行四間半、梁間二間半、前に半間の下(げ)付である。その北に壁を接して瓦葺の一室がある。桁行三間、梁間二間で、東北に縁がついている。その次は雪隠(便所)となっている。
北の一棟は草屋で、市に向って、桁行四間、梁間二間半、前に半間の下付である。西の二棟を修繕し、学校として使い、北の一棟を本村の政務を行う戸長役場としていた。
 世は明治を迎え文明開化の世となり、教育の進歩は早くなり、生徒数は増加するばかりで、従来の校舎では教室が狭くなった。そこで明治八年四月、西棟を三間継ぎ足して一時的な間に合わせの校舎とした。その際に併せて、庭内の東南隅に東向の二階一棟も新築した。これが本村交番所である。桁行四間、梁間二間半にして半間の下付の建物である。
   明治になって、所蔵(郷倉)の周囲に、学校や交番、そして役場が作られていったことがうかがえます。そういう意味では、江戸時代の所蔵が、明治の行政・文教センターとして引き継がれたとも云えそうです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 飯山町史330P 農民の生活
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飯山国持居館2地図
    飯山町の飯山北土居遺跡 旧河道に囲まれた居館跡
以前に丸亀市の飯野山南麓の中世武士の居館跡を紹介しました。その時に、この辺りに戦時中に飛行場が建設されたことを知りました。しかし、その実態については分からないままでした。最近、飯山町史(485P)をながめていると、その飛行場のことが出ていましたので、読書ノート代わりに載せておきます。

 1945年春のアメリカ軍が沖縄への上陸作戦を開始する前後の4月末のことです。
坂本村役場の職員が坂出で開かれ た事務打合会に出席した際に、会が終わっても居残るようにと伝えられます。そして、軍関係者より次のような内司を受けます。

「近々貴村に軍の機密施設を造るから、取り急ぎ牛馬車用荷車を80台準備するように」

 追いかけるようにして五月中旬になると、航空総軍司令部から陸軍飯野山飛行場建設命令が下ります。こうして施設部隊帥500部隊長の命により、坂本村隣保館(元坂本村公民館)に帥500部隊丸亀工事隊本部が設置され、5月18日には工事に着工します。その際に、西坂元字国持・山の越・西沖・大字川原字上居の4地区に対して、次のような命令が下されます。

「この地域内にある水田は、麦(未熟)を刈り取り、指示された家屋は全部こわして立ち退くこと」

飛行場予定地の水田の麦を青田刈りして、家屋を壊して立ち退けというのです。以後、昼夜を問わない突貫工事が始まります。
飯野山飛行場は、どこに建設されたのでしょうか
 飯山町史には、次のように記されています。

現在の県道18号線(善通寺‐府中)沿いに、東は川原土居から、西は山根東までの全長約1,5㎞、幅は約100m規模。西の山根東地区では、北側ににごり池があるので、これを避けてその南側にあった。その面積は、約21町6反歩余りにもなる。

この記述に基づいて研究者は次のような位置を考えているようです。

飯山飛行場2
飯野山飛行場の位置
(東は川原土居から、西は山根東までの全長約1,5㎞)
作業手順について、飯山町史は次のように記します。
①まず地域内の全水田の麦の刈り取り(穂は未熟)を行い、立ち退き家屋の解体作業ならびにその用材および瓦の取り片付け、移転先ヘの運搬
②地域内の小川や水路には、飯野山と土器川河岸から切り取った松の丸太を持ち帰り、これを小川や溝に渡してその上に上を敷きつめ、飛行場の原型づくり。
③平坦化した地面に飯野山の山土や、周辺の水田から掘り取った土を積み重ねて敷きつめる。当時の上運搬は「もっこ」をかつぎ、「じょうれん」で運ぶ。人力だけが頼りのたいへんな作業であった。
④土器川から砂や小石を運び、これを拡散して固め、地面を水平固定化。
⑤ 完成した所から敵機の来襲に備え、擬装工作作業として松・かし・くぬぎ等の雑木の小枝を等間隔に挿し木。
以上からは、飛行場建設のために水路が埋められ、田んぼに土器川から運ばれた石が敷き詰められたことが分かります。それは「もっこ」による人力作戦で行われています。ちなみに戦後に行われた水田復元の際には、これらの石が農民達によって取り除かなければなりませんでした。
飯野山飛行場建設のために動員されたのは、どんな人達だったのでしょうか。
①5月19日、陸軍施設部隊一個大隊約500人が到着。
②5月20日、学生勤労奉仕隊到着。
高松中学校291人
三豊中学校153人
坂出工業学校203人
尽誠中学校202人
丸亀中学169人
飯山農業学校300人 
合計1318人を動員。
ここからは、未だ動員されていなかった高松・中讃・三豊の旧制中学の学生達が動員されたことが分かります。高松や三豊の遠方の学生達は付近の学校・公民館・民家等に宿泊し作業に当たったようです。

③5月21日から稜歌・仲多度郡内の一般勤労奉仕隊員約100人を動員。
①②③の合計は「500人 + 1318人 + 100人=約2000人足らず」になります。

6月1日付けで坂本村長協正と役場吏員近藤政義に、次のような辞令が交付されます。

飯山飛行場
飯野山飛行場の工事隊事務嘱託状(飯山町史)
坂 本 村     近藤政義
航空総軍丸亀工事隊事務を嘱託す
昭和二十年六月一日
航空総軍丸亀工事隊本部隊長
陸軍嘱託 横山幹太
⑤6月中旬、三豊郡・仲多度部・綾歌郡内の牛馬車用奉仕隊約80台を動員して土砂運搬および飛行場の権地作業にあたる。
⑥7月中旬、航空隊幹部が現地視察に来て、工事遅延を見て、軍刀を抜かんばかりに激怒して帰る。
以上からは、7、8月の真夏の炎天下に、中学生達の学徒を動員して突貫工事で行われたことが分かります。しかし、完成前に終戦を迎えます。
 飯野山飛行場の施設内訳を見ておきましょう。
1、滑走路総面積 21町六反歩
2、附属施設
格納庫一棟 東坂元三の池、滝房吉所有田
格納庫一棟   西坂元高柳、松永博俊所有田
兵舎一棟    東坂元秋常、高木真一所有田
調理室浴場 東坂元秋常、新池所有山林内
3、家屋の立ち退きを命ぜられた者
(土居)鶴岡森次、平日常三郎、平田利八、平田金八、山口善平、平田平太郎、泉久大、抜井嘉平大、平田イトヱ、沢井一、本条直次、宮井宗義、平田トワ、抜井勝義
 (山の越)東原昌彦
(国持) 金丸弘、村山ワキ、       以上17戸
以上の17戸が家屋を解体され、立ち退かされたことが分かります。
その後、戦後の食糧生産増産運動の中で、滑走路や関連施設などの合計25町歩余は、農家が田畑に復旧します。また、取り壊された家屋は、家族や地区人達の手伝で再建され、1948(昭和23)年末ごろまでには復旧したようです。

飛行場建設部隊の宿舎となった法勲寺国民学校には、この時の記録が残されていますので、長くなりますが紹介しておきます。
陸軍飯野山飛行場の設置について、昭和20年5月航空総軍丸亀工事隊長から、当時の平尾安徳村長に次のように言い渡された。

「近く空第五百七十一部隊五百名を飛行場施設のため貴村へ派遣するので、国民学校等を宿舎として借りたいから五月末までに準備するように」

村長は、学校長・職員と打合せて、児童疎開計画をたて、疎開先の交渉にあたり六月一日、以下のように決定した。
一年生二組 島田寺
二年生二組 原川十三堂
高等科二組 長郷庵
三年生二組 校内での教室移動
六月一日 飛行場予定地で起工式を行い、村長が出席。
六月三日 夜緊急常会長会を開催し、「国民学校を宿舎にするので、蚊帳・釜等借りたいから協力をお願いする」と連絡。
六月四日 空第五百七十一部隊先発隊が来村し、学校内を見てまわり、下のように決定。
講堂と八教室を宿舎と医務室。
理科室を炊事場
倉庫を物資収納庫
授産場を本部と隊長室
駐在所を主計室と下士官集会場(当時巡査は単身赴任で役場二階へ移る)
裁縫室を将校集会場。
役場の倉庫の一部に仮営倉。
八坂神社の神事場を物干場。
六月五日 役場職員と兵隊が手分けして、釜・炊事用具・蚊帳の借入のため村内巡回。
郡町村長会で依頼した蚊帳が、周辺の八か村から次のように届いた。
美合村 4  造田村 12  長炭村 4  宇多津町 4  坂本村  4  羽床上村  4  川津村 4 法勲寺村 蚊帳 18  釜10 炊事用生屯 1 庖丁5 杓子1 その他の用具は学校のものを使用する。

風呂は村内の大工を雇って、ドラムカン五ケを大足川の土手(牛のつめきり場)にすえ、蓋や流しなどを作った。兵士達はこれを「列車風呂」と呼んでいた。上法岡の池へ水浴に行くことを交渉して決める。風呂が出来るまで、西の山・中の坪の家庭の風呂を利用した。ドラムカンの風呂沸しは、学校の上学年の児童が奉仕する日もあった。
水は逆川の水を利用した。飲料水は学校の井戸水では足らないので、西の山の新居久市(現恵)宅から、管を引いて補給した。
将校用宿舎は村内で、吉馴秀雄(現秀則)宅外四戸間借する。
午后になって、軍隊用物資がトラックで、運ばれて来た。
六月六日 松木場隊五百人が来村し、各々宿舎についた。
松木場隊長が学校内で挨拶の時、当時青年学校の教練教師をしていた川井の吉本晴一と逢い、吉本が初年兵の時の教官であった隊長と十年振りの出会となり、それが縁で村長と協議の上、隊の物資(炊事用)購入の交渉係として雇うこととなり、兵二人とその任にあたった。
下士官以下は、特別幹部候補生と志願兵が多く、九州出身者が大半であった。
翌日の六月七日から兵は飛行場へ作業に行く。朝食後に運動場に集り、軍歌を歌いながら持ち場に行進していった。戦時下とはいえ静かな農村が急に軍人の村と化していった。朝は起床ラッパに起こされ、軍靴の音高く軍歌の声を朝夕に聞き、村人達は遥か戦場の父を、夫を我が子を偲び、涙あらたなものがあったと思われる。
暑さの中一日の重労働に空腹を我慢して(飯盒八分目位入ったのが二人分の昼食)の毎日で、日を重ねるにつれて元気がなく足も重かったようであった。
六月十六日 隊と役場合同で、餅揚きをして二個づつ渡す。
  十七日 将校達幹部を招き、村会議員と役場職員で歓迎会を開き、日頃の労をねぎらった。
二十三日 一宮村青年団が慰間に見え、講堂で演劇・歌を発表し隊から飛入りもあって、賑かな夕であった。
七月十八日 松木場隊長司令部付となり、松山市へ転属、
 二十三日 宇佐見隊長着任したが、二十九日兵ともに屋島へ転属した。
  三十日 松原隊となり、高知部隊から召集兵と思われる年輩の者ばかりが来村した。
隊はかわっても、連日の作業は変りなく続き終戦の日を迎えた。飛行場の完成も見ず、行くべき道も見当らず、ただ果然としながら、校舎の整備を終えて故郷へ帰って行った。転属した兵達も、今一度学校へと立寄り、「一言も兵を責め給はぬに生きて帰る不甲斐なさよ」と語って、父母のいる九州へ帰っていった。

当時、坂本国民学校(現飯山北小学校)の3年生だった鶴岡俊彦氏(後の食糧庁長官)は、後に次のように回想しています。

学校の運動場はいも畑に変わり、狭くなった。岡の宮でも松の幹に傷をつけ、傷口の下に空き缶を縛り付け松根湯を採るような時代であった。
県内勤労奉仕の生徒に学校を明け渡すため、私たちは村内の神社やお寺に分散して授業を受ける事とされた。三年生の私は久米氏の八幡様が教室で、机や椅子を運んだ。山の谷から高柳に通じる道路の北側から飯野山の麓まで滑走路となり、私の家を含め、近所の家十三軒が壊される事となった。レールが敷かれ、トロッコで砂利が運び込まれ、整地が進んだ。資材にするために飯野山の松が切り取られたが、今もその跡が鉢巻き状に残っている。
夏になり、順番に家の取り壊しが行われた。私の家の取り壊しは最後で、八月十四日、十五日、正に終戦の日であった。近所の人や父が勤めていた栗熊学校(現栗熊小学校)の高等科の生徒が、大八車を引いて手伝いに来てくれた。終戦の玉音放送は、作業中で誰も聞くことができなかった。壊した木材を岡の宮の東側の引っ越し予定地へ運んだ帰り道、生徒たちから聞いて戦争が終わり負けたらしいことが判った。
 当時の私の目に大人びて見えた生徒達が口々に「放送はおかしい、負けるはずがない」「俺たちが居る。降参はしない」と声高に話すのが頼もしく見えた。午後二時頃、負けたことがはっきりした。取り壊し途中の我が家は一階部分の骨組みを残していたが、台風の心配もあり全部壊した。滑走路造りはその日で終わった。

ここからは飛行場内の最後の家屋取り壊しが終戦の8月15日であったことが分かります。そうしてみると空港は、まだ更地化が終了していない部分もあって、完成までにはほど遠かったことがうかがえます。

  軍は、この時期に各県毎いくつもの飛行場建設を命じています。
香川県で有名なのは林田飛行場(旧高松空港)や詫間海軍航空隊ですが、ほかにも端岡飛行場や屋島飛行場、観音寺柞田(くにた)飛行場が同時に建設されていました。

柞田飛行場
柞田飛行場(観音寺市)の絵本
「本土防衛・制空権奪還」というかけ声は勇ましいものがあります。しかし、飛行機も燃料も、飛行機を造る資材もないのに、軍部はどうして飛行場建設を命じたのでしょうか。軍部には「打ちてし止まぬ・一億総層玉砕」しかありません。そのためにも、空爆で都市が焼け野原になろうとも戦い抜く国民の戦意維持が必要でした。
 「小人閑居して不善を為す」という言葉があります。軍部からすると一方的に空爆を受けたままで放置していたのでは、国民の戦意は消失する。米軍は、都市爆撃によって国民の戦意を失わせ、日本国内での戦争反対運動が起きるのを期待している。それを防ぐためには、戦意維持のために、なんらかの行動を起こさなければならない。今できることは何か? と考えた場合に、できるこては限られています。原材料が届かない戦略的工場はすでに操業停止状態です。また「戦略工場」には女子学徒たちが動員されていました。そんななかで考え出されたのが、未だ動員していない地方の中学生達を動員しての「本土防衛に備えての飛行場建設」だったようです。戦略的に考え出されたものではないのです。「戦意を失わせないために、モニュメント建設(飛行場)に動員しての戦意維持」という「いきあたりばったり戦略」が飛行場建設であり、そこへの旧制中学たちの動員だったと研究者は指摘します。以上をまとめておきます
①終戦直後に、飯野山南麓に軍部の命令で突如、飛行場建設が始まったこと
②そのために地元の人達の家が壊され、農地が接収されたこと
③そこに軍人達がやってきて小学校に寝泊まりし、多くの中学生が動員されたこと、
④それを地元の人達が支えたこと、
⑤しかし、飛行場建設は未完のままで、一機の飛行機も飛び立つことはなかったこと
⑥当時の日本には、飛行場が出来ても飛ばせる飛行機も、燃料も、パイロットもいなかったこと
⑦空港建設は戦意を維持するための、モニュメント建設でもあり、戦術的な意味はなかったこと
⑧戦後の食料増産運動の中で、飛行場は農地に戻され、撤去された農地も早期に復元したこと
⑨飛行場が現れたのは、昭和20年のわずかばかりの期間の「幻の飛行場」であったこと。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

法勲寺跡 讃岐国名勝図会
飯野山と讃留霊王神社・法勲寺跡(讃岐国名勝図会) 
神櫛王(讃留霊王)伝説の中には、讃岐の古代綾氏の大束川流域への勢力拡大の痕跡が隠されているのではないかという視点で何度か取り上げてきました。その文脈の中で、飯山町の法勲寺は「綾氏の氏寺」としてきました。果たして、そう言えるのかどうか、法勲寺について見ておくことにします。なお法勲寺の発掘調査は行われていません。今のところ「法勲寺村史(昭和31年)」よりも詳しい資料はないようです。テキストは「飯山町史 155P」です。

飯山町誌 (香川県)(飯山町誌編さん委員会編 ) / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋

ここには、法勲寺周辺の条里制について次のように記されています。
① 寺跡の規模は一町四方が想定するも、未発掘のため根拠は不明
② 寺域の主軸線は真北方向、その根拠は寺域内や周辺の田畑の方角が真北を向くものが多いため
③ 寺域東側には真北から西に30度振れた条里地割りがあるので、寺院建立後に、条里制が施行された
法勲寺条里制
法勲寺(丸亀市飯山町)周辺の条里制復元
②③については、30度傾いた条里制遺構の中に法勲寺跡周辺は、入っていないことが分かります。これは、7世紀末の丸亀平野の条里制開始よりも早い時期に、法勲寺建立が始まっていたとも考えられます。しかし、次のような異論もあります。

「西の讃留霊王神社が鎮座する低丘陵は真北方向に延びていて、条里制施行期には農地にはならなかった。そのため条里地割区に入らず、その後の後世に開墾された。そのため自然地形そのままの真北方向の地割りができた。

近年になって丸亀平野の条里制は、古代に一気に進められたものではなく、中世までの長い時間をかけて整備されていったものであると研究者は考えています。どちらにしても、城山の古代山城・南海道・条里制施行・郡衙・法勲寺は7世紀末の同時期に出現した物といえるようです。

法勲寺の伽藍配置は、どうなっていたのでしょうか? 

法勲寺跡の復元想像図(昭和32年発行「法勲寺村史」)
最初に押さえておきたいのは、これは「想像図」であることです。
法勲寺は発掘調査が行われていないので、詳しいことは分からないというのが研究者の立場です。
法勲寺の伽藍推定図を見ておきましょう。
法勲寺跡
古代法勲寺跡 伽藍推定図(飯山町史754P)
まず五重塔跡について見ていくことにします。
 寛政の順道帳に「塔本」と記されている所が明治20年(1887)に開墾されました。その時に、雑草に覆われた土の下に炭に埋もれて、礎石が方四間(一辺約750㎝)の正方形に築かれていたのが出てきました。この時に、礎石は割られて、多くは原川常楽寺西の川岸の築造に石材として使われたと伝えられます。また、この時に中心部から一坪(約3,3㎡)の桃を逆さにした巨大な石がでてきました。これが、五重塔の「心礎」とされています。
DSC00396法勲寺心礎
法勲寺五重塔心礎(復元)
上部中央には、直径三尺二寸(約96㎝)、深さ三寸(約9㎝)の皿形が掘られています。この「心礎」も、石材として使うために割られたようです。その四分の一の一部が法勲寺の庭に保存されていました。それを復元したのがこの「心礎」になるようです。
 金堂の跡
 五重塔跡の真東に、経堂・鐘堂とかの跡と呼ばれる2つの塚が大正十年(1921)ごろまではあったようです。これが金堂の跡とされています。しかし、ここには礎石は残っていません。しかし、この東側の逆川に大きな礎石が川床や岸から発見されています。どうやら近世に、逆川の護岸や修理に使われたようです。
講堂跡は、現在の法勲寺薬師堂がある所とされます。
薬師堂周辺には礎石がごろごろとしています。特に薬師堂裏には大きな楠が映えています。この木は、瓦などをうず高くつまれた中から生え出たものですが、その根に囲まれた礎石が一つあります。これは、「創建当時の位置に残された唯一の礎石」と飯山町史は記します。

現存する礎石について、飯山町史は次のように整理しています。
現法勲寺境内に保存されているもの
DSC00406法勲寺礎石
①・薬師堂裏の楠木の根に包まれた礎石1個

DSC00407法勲寺
②・法勲寺薬師堂の礎石4個 + 石之塔碑の台石 +
   ・供養塔の台石
DSC00408法勲寺礎石
③現法勲寺本堂南の沓脱石
  
④前庭 二個
⑤手水鉢に活用
⑥南庭 一個
⑦裏庭 一個
他に移動し活用されているもの
飯山南小学校「ふるさとの庭」 二個
讃留霊王神社 御旅所
讃留霊王神社 地神社の台石・前石
原川十王堂 手水鉢
原川墓地の輿置場
名地神社 手水鉢の台
DSC00397法勲寺心礎
法勲寺五重塔心礎と礎石群(讃留霊王神社 御旅所)
五重塔心礎の背後には、川から出てきた礎石が並べられています。
グーグル地図には、ここが「古代法勲寺跡」とされていますが、誤りです。ここにあるものは、運ばれてここに並べられているものです。
 
法勲寺瓦一覧
              
 飯山町史は、法勲寺の古瓦を次のように紹介しています。
①瓦は白鳳時代から室町時代のものまで各種ある。
②軒丸瓦は八種類、軒平瓦は五種類、珍しい棟端瓦もある。
③最古のものは、素縁八葉素弁蓮華文軒丸瓦と鋸歯文縁六葉単弁蓮華文軒丸瓦で、白鳳時代のもので、県下では法勲寺以外からは出てこない特有のもの。
④ 白鳳期の瓦が出ているので、法勲寺の創建期は白鳳期
⑤特異な瓦としては、平安時代の素縁唐草文帯八葉複弁蓮華文軒丸瓦。この棟端瓦は、格子の各方形の中に圈円を配し、その中央に細い隆線で車軸風に八葉蓮華文を描いた珍しいもの。


①からは、室町時代まで瓦改修がおこなわれていたことが分かります。室町時代までは、法勲寺は保護者の支援を受けて存続していたようです。その保護者が綾氏の後継「讃岐藤原氏」であったとしておきます。 
 法勲寺蓮花文棟端飾瓦
法勲寺 蓮花文棟端飾瓦

私が古代法勲寺の瓦の中で気になるのは、「蓮花文棟端飾瓦」です。この現存部は縦8㎝、横15㎝の小さな破片でしかありません。しかし、これについて研究者は次のように指摘します。
その平坦な表面には、 一辺6㎝の正方形が設けられ、中に径五㎝の円を描き、細く先の尖った、 一見車軸のような八葉蓮花文が飾られている。もとはこのような均一文様が全体に表されていたもので全国的に珍しいものである。厚さは3㎝、右下方に丸瓦を填め込むための浅い割り込みが見える。胎土は細かく、一異面には、小さな砂粒がところどころに認められる。焼成は、やや軟質のようで、中心部に芯が残り、均質には焼けていない。色調は灰白色である.

この瓦について井上潔は、次のように紹介しています。
朝鮮の複数蓮華紋棟端飾瓦の諸例で気づくことだが統一新羅の盛期から末期へと時代が下がるにつれて、紋様面の蓮華紋は漸次小形化して簡略化される傾向をとっている。わが国の複数蓮華紋棟端瓦のうちでも香川県綾歌部、法勲寺出土例は正にこのような退化傾向を示す特殊なものである。
‥…このような特殊な棟端飾瓦が存した背景に、当地方における新羅系渡来者や、その後裔の活躍によってもたらされた統一新羅文化の彩響が考えられるのである。この小さな破片から復元をこころみたのが上の図である。総高25㎝、横幅32㎝を測り、八葉細弁蓮花文を17個配列し、上辺はゆるいカープを描いた横長形の棟端飾瓦になる。
古代法勲寺の瓦には、統一新羅の文化の影響が見られると研究者は指摘します。新羅系の瓦技術者たちがやってきていたことを押さえておきます。法勲寺建立については、古代文献に何も書かれていないんで、これ以上のことは分からないようです。
 
讃留霊王(神櫛王)の悪魚伝説の中には、退治後に悪魚の怨念がしきりに里人を苦しめたので、天平年間に行基が福江に魚の御堂を建て、後に法勲寺としたとあります。

悪魚退治伝説 坂出
坂出福江の魚の御堂(現坂出高校校内)
 その後、延暦13年(793)に、坂出の福江から空海が讃留霊王の墓地のある現在地に移し、法勲寺の再興に力を尽くしたとされます。ここには古代法勲寺のはじまりは、坂出福江に建立された魚の御堂が、空海によって現在地に移されたと伝えられています。しかし、先ほど見たように法勲寺跡からは白鳳時代(645頃~710頃)の古瓦が出てきています。ここからは法勲寺建立は、行基や空海よりも古く、白鳳時代には姿を見せていたことになります。また讃留霊王の悪魚退治伝説は、日本書紀などの古代書物には登場しません。

悪魚退治伝説 綾氏系図
綾氏系図(明治の模造品)
 讃留霊王伝説が登場するのは、中世の綾氏系図の巻頭に書かれた「綾氏顕彰」のための物語であることは以前にお話ししました。
悪魚退治伝説背景

つまり、綾氏が中世武士団の統領として一族の誇りと団結心を高まるために書かれたのが讃留霊王伝説だと研究者は考えています。そして、それを書いたのが法勲寺を継承する島田寺の僧侶なのです。南北朝時代の「綾氏系図」には法勲寺の名が見えることから、綾氏の氏寺と研究者は考えています。
 しかし、古代に鵜足郡に綾氏が居住した史料はありません。また綾氏系図も中世になって書かれたものなので、法勲寺が綾氏が建立したとは言い切れないようです。そんな中で、綾川流域の阿野郡を基盤とする綾氏が、坂出福江を拠点に大束川流域に勢力を伸ばしてきたという仮説を、研究者の中には考えている人達がいます。それらの仮説は以前にも紹介した通りです。

最後に白鳳時代の法勲寺周辺を見ておきましょう。
  飯山高校の西側のバイパス工事の際に発掘された丸亀市飯山町「岸の上遺跡」からは、次のようなものが出てきました。
①南海道の側溝跡が出てきた。岸の上遺跡を東西に走る市道が南海道だった。
②柵で囲まれたエリアに、古代の正倉(倉庫)が5つ並んで出てきた。鵜足郡郡衙跡と考えられる。

 8世紀初頭の法勲寺周辺(復元想像図)
つまり、南海道に隣接して柵のあるエリアに、倉庫が並んでいたのです。「正倉が並んでいたら郡衙と思え」というのが研究者の合い言葉のようです。鵜足郡の郡衙の可能性が高まります。

白鳳時代の法勲寺周辺を描いた想像復元図を見ておきましょう。
岸の上遺跡 イラスト

①額坂から伸びてきた南海道が飯野山の南から、那珂郡の郡家を経て、多度郡善通寺に向けて一直線に引かれている
②南海道を基準線にして条里制が整備
③南海道周辺に地元郡司(綾氏?)は、郡衙と居宅設営
④郡司(綾氏)は、氏寺である古代寺院である法勲寺建立
⑤当時の土器川は、現在の本流以外に大束川方面に流れ込む支流もあり、河川流域の条里制整備は中世まで持ち越される。
岸の上遺跡 四国学院遺跡と南海道2
南海道と多度郡郡衙・善通寺の位置関係
以上からは、8世紀初頭の丸亀平野には東西に一直線に南海道が整備され、鵜足・那珂・多度の各郡司が郡衙や居宅・氏寺を整備していたと研究者は考えています。このような光景は、律令制の整備とともに出現したものです。しかし、律令制は百年もしないうちに行き詰まってしまいます。郡司の役割は機能低下して、地方豪族にとって実入の少ない、魅力のないポストになります。郡司達は、多度郡の佐伯氏のように郡司の地位を捨て、改姓して平安京に出て行き中央貴族となる道を選ぶ一族も出てきます。そのため郡衙は衰退していきます。郡衙が活発に地方政治の拠点として機能していたのは、百年余りであったことは以前にお話ししました。

 一方、在庁官人として勢力を高め、それを背景に武士団に成長して行く一族も現れます。それが綾氏から中世武士団へ成長・脱皮していく讃岐藤原氏です。讃岐藤原氏の初期の統領は、大束川から綾川を遡った羽床を勢力とした羽床氏で、初期には大束川流域に一族が拡がっていました。その中世の讃岐藤原氏の一族の氏寺が古代法勲寺から成長した島田寺のようです。

讃岐藤原氏分布図

 こうして讃岐藤原氏の氏寺である島田寺は、讃留霊王(神櫛王)伝説の流布拠点となっていきます。
   最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献       飯山町史 155P






丸亀平野の条里制.2
丸亀平野の条里制地割
丸亀平野は古代の鵜足郡、那珂郡、多度郡にあたり、整然とした一辺約110mの方格地割がみられます。しかし、よく見ると土器川や金倉川沿いなどには乱れがあります。それでも、全体としてみると統一性のある方格地割になっているようです。この地割は、古代の条里制との関わりで説明されています。律令体制の「班田収受制」を行うための整備という位置づけです。しかし、条里制の格地割形成については、次のような説や見解が出されています。
①班田制と方形地割形成を別個に考えて、両者が備わった段階を「条里プランの成立」とする金田章裕氏の説
②発掘調査からみて灌漑施設の大規模で革新的な技術が必要な方格地割の広範な形成は、古代末頃にならないとできないという説
③当初の方格地割と現在の地割にはずれがあり、段階的に成立したとする説

丸亀平野の広がる「条里型地割」の施工がどこまで遡り、 またどのような変遷をたどるのかを考古学的に見ておきましょう。テキストは「森下英治 丸亀平野条里型地割の考古学的検討  埋蔵文化財調査センター研究紀要V 1997年」です。
丸亀平野 旧練兵場遺跡
       善通寺王国の旧練兵場遺跡の復元図

丸亀平野では、1983(昭和58)から高速道路の発掘調査が大規模に行われました。広範囲な発掘調査が行われたことで、土地条件・地質環境に情報も格段に増え次のような事が分かってきました。
①丸亀平野の形成時期は、3万年以前の更新世に遡ること
②完新世以後は高燥化が進んで、河川岸に段丘崖を形成し、平野面は剥削環境にあったこと
③そのため旧河道などの低地帯を除くと、用水路以外の地割痕跡は考古学上の遺構としては把握することはできない
これは、地割を考古学的に追究する上でのデメリットですが、あえて発掘調査で出てきた「溝」に研究者はこだわります。土器川西岸に接する川西北鍛冶屋遺跡を一番東側として、西は旧多度郡の乾遺跡まで、高速道路建設での発掘調査の行われたで延長約6kmの東西に長い15遺跡のデータを並べたのが第2表です。
丸亀平野の条里制3
高速道路建設ルート上の丸亀平野の各遺跡

すべての遺跡の調査範囲の中には合計57箇所の坪界線が机上では想定されます。それが、発掘では溝として、どのように出現しているのかを見ていきます。
第2図からは、Ⅰ期(7世紀以前)にかなり広範囲に溝の分布があったことが分かります。各遺跡毎に見ると、次のようになります。
①Ⅰ期の溝が少ないのが、川西地区、龍川地区、永井・中村地区
②Ⅰ期の溝が多いのが、郡家地区、金蔵寺地区、稲木地区
ここからは、①が条里制施行が遅れたエリア、②が先行したエリアであったことがうかがえます。②は郡衙や準郡衙的な遺構があった所で、前時代からの首長の拠点と目されるエリアです。条里制地割溝には、早く施工された地域と遅れて施工された地域に偏りがあるようです。押さえておきたいことは、丸亀平野全体が一斉に、条里制工事が行われたわけではないことです。中世になって開かれた所もありますし、土器川や金倉川に至っては近代になって開墾された所もあるの以前にお話ししました。それでは、地図の東側から順番に各エリアを見ていくことにします。各遺跡図はクリックで拡大します。

丸亀 川西遺跡
a.川西北鍛冶屋遺跡(13).川西北七条Ⅱ遺跡(14)(第3図)

土器川西岸にある上図2つの遺跡群では、はっきりとした地割が見えます。弥生時代前期以降の小規模な南北方向の溝が多くあり、6世紀後半から7世紀末まで使用された出水状遺構(SX-01)があります。出水状遺構は、伏流水を灌漑用に利用するために微高地上に掘られた土坑(井戸?)で、いくつもの用水路で水田に導かれています、
 調査区内には5本の縦方向坪界と、1本の横方向坪界が見えます。
縦方向は東SR01・SD11・ SD13と2町間隔で、比較的大型の灌漑水路が想定坪界線に沿って見えます。これらは10~11世紀頃に掘られたものです。その前段階の8~9世紀と考えられる溝が、SD-12やSD-10などの斜め方向に伸びる溝です。そして、各所で南北に派生する溝が付属しています。
 これらの溝は条里型地割の方向性に一致していて、田地区画は地割に沿った方向であったことがうかがえます。したがって、平安期に坪界溝が掘削される以前にすでに、出水状遺構(SX01)を水源とする地割施工があったと研究者は考えています。
出水状遺構(SX-01)から伸びる各溝が、あるときに南北方向から地割にそった方向へ変化していることに研究者は注目します。
 出水状遺構(SX-01)が埋没するのは7世紀末~8世紀初頭頃です。ちょうど南海道が伸びてきて、丸亀平野に条里制が施行される時期になります。SD70が現状地割を基準として、半町の位置にある点、また斜めに走行するSD40・41が南北半町の位置で坪界線に合致する点からみて条里型地割のようです。ここからは、7世紀末~8世紀初頭までには地割が行われた後も、引き続き出水状遺構(SX01)を水源とする灌漑水路を維持されたことがうかがえます。それが平安期になって、大型の灌漑水路が坪界に整備されることで、その使命を終えて埋められたと研究者は考えています。

b.郡家原遺跡(19)(第4図)

丸亀平野 宝幢寺池水系
郡家周辺の旧河川跡(清水川)

郡家原遺跡は、大規模な旧河道域(清水川)の周辺に広がる遺跡です。
旧河道を遡ると宮池・大池を経て旧河道を利用して築堤された宝幢寺池があります。この池の中には白鳳期の宝瞳寺跡があることは、以前にお話ししました。南海道も、この池のすぐ南を通過しているので、郡家という地名から、この旧河川の岸のどこかに、那珂郡の郡衙があったと研究者は考えています。
丸亀 郡家原遺跡
郡家原遺跡

 郡家原遺跡は、5坪分(A~E坪)にまたがって調査区が設定されています。弥生時代後期後半に集落が営まれ、地形に従って溝が緩やかにカーブしながら伸び、古墳時代の溝も微髙地を反映した方向をもっていたようです。
坪界にあたる溝は、縦軸がSD-140・148、SD-191・189で、横軸がSD-231になります。
溝出土の遺物は7世紀末~8世紀初頭以降のもので、これが掘削時期を示しています。このうちSD-140・148は、中世以後も使用された堆積状況を示します。その他の溝は10世紀前半頃までに一旦は埋没し、その後13世紀頃に再掘削されたり、隣接地へ水路変更されています。中世になって、新たな用水路が整備されたようです。
 8世紀の奈良時代の集落がA・C・D坪にあります。
 同じ規模の建物・倉庫など等質的な3グループだったようです。出水状遺構はA坪とC坪にあります。出水状遺構が集落にあるので、井戸として使われていた可能性がありますが、この場合は坪界の水路より出水状遺構の溝の方が深く掘られているので、坪界にある基幹的水路をリレー的に結ぶ灌漑用の水源として使われていたと研究者は考えているようです。
 研究者が注目するのは、出水状遺構から伸びる用水路です。
一坪を縦に5分割した場合の東から2本目のラインと一致します。特にSD77は、南北半町の位置まで斜めに走行し、そこから屈曲してラインに合わせています。C坪では出水状遺構は見られませんが、SD175がSD77と同じ位置で北流しています。このようにみてくると、各グループの建物の配置も、東西3区画と南北半町の範囲に限定されて計画的な村落景観が地割整備と共に現れたことが分かります。

郡家原遺跡の出水状遺構は、北方に広がる水田用のものとされます。
土地条件に応じて小規模水源を組み合わせ、微高地の水田に導水していたようです。用水路は遠くまで延ばす際には、深い水路と浅い水路を立体交差させる必要が生じてきます。そのためには、高松市太田下須川遺跡、同市浴・松ノ木遺跡で出土した長さ3mほどの木管が水路を立体交差させる場合に必要となります。 
 条里制施工後の状況については、A坪の出水状遺構は平安期まで続い利用されています。ただしSD77は、9世紀代遺構には埋没して、SD73に付け替えられています。SD77等に見られたきちんとして坪内区画は、9世紀以降には見えなくなります。また、この時期になると建物配置にも、方向性やその内容に規格性がなくなります。それでも、坪界の地割溝は残ります。坪内の区画は乱れても、坪界を中心とする条里型地割には影響を与えていないようです。ここに全体として、丸亀平野の条里制的な景観が残った秘密がありそうです。
丸亀平野遺跡分布図4
丸亀平野遺跡分布図 西部版

金倉寺下所遺跡(第5図) 
金倉川西岸は、条里型地割が広範に乱れた地域になっています。
善通寺 金倉下所
金倉川下所遺跡周辺の旧河道

金蔵寺下所遺跡は、遺跡の西側に蛇行する小さな旧河道と金倉川の間の狭い微高地上に立地します。
西側の旧河道は最大幅6、5mの自然河川です。遺構の北側には、微高地上を穿って流れていて、南側の自然河川から水を引くための用水路であった可能性が高いと研究者は考えています。同じ位置に古墳時代の溝もありますが、弥生時代のものより溝底が高いことから、自然河川の堆積による水位の上昇に対応して掘り直されたようです。小規模河川の蛇行部から取水し、微高地上に用水路を掘開して下流の水田に導水するというやり方です。どちらにしても、この遺跡が弥生から古墳・律令期と長い期間にわたって存続していたことが分かります。
善通寺 金倉下所
           金倉川下所遺跡

 この微髙地には、次の3つの建物群があります。
①7世紀末~8世紀初頭の溝(SD04)を挟んで東西両側に正方位をもつグループ。建物は合計9棟で、その内総柱倉庫が溝の東に2棟ある。
②同時期の遺物が出土する溝(SD-06)の両側に、現状地割と同一の方向性をもつグループ。合計8棟で、総柱倉庫は、やや大きさが小さくなり、溝の東に1棟。
建物方位によって区分できる①②群は、建物の規模や構成点で共通性があり、前後関係は柱穴の切り合いからみて、①から②へ変化したと考えられます。建て直された時期は、7世紀末~8世紀初頭で、従来の建物構成を維持したまま条里型地割の方向性に沿って建て直されたと報告書は記しています。これも、時期的に見て条里制施行に伴う集落の再編成事業の一環のようです。

  SD06の東には、建物を区画するような5~7条の溝が並行して掘削されています。
 ここからは9世紀までの遺物が出土しているので、建物群も9世紀頃までは存続したことが推測できます。建物群の東端には最大幅10mの溝がありますが、ここには鎌倉時代前半期頃までの遺物が包まれています。そのため次の時期の小規模柱穴で作られた建物群と研究者は考えています。これが三つ目の建物群になります。
 
以上から、7世紀末~8世紀初頭の集落の再編成時において、建物や溝は条里制地割の方向性に沿って建て直された。しかし、中世になると、人々の意識の中には、地割の意識はなくなり建物はバラバラの方向に建つようになった。それでも溝は、地割ラインが残ったと云えそうです。


d 稲木遺跡(第6・7図)    
善通寺 稻木遺跡
稲木遺跡
稻木遺跡は、遺跡の中央を斜めに旧河道が横切っていました。
これが6世紀末までに埋没して水田域となります。また東肩部の微髙地では竪穴住居群が廃絶した後に一帯が水田化しています。西岸は比較的高燥な微高地で弥生時代には、方形周溝墓や竪穴住居が営まれています。微髙地の南では、7世紀後半から8世紀前半の掘立柱建物群が出ています。 
善通寺 稻木遺跡3
稲木遺跡(東側)

 この遺跡でも7世紀末頃に、それまでの建物構成を維持ながら村落の再編が行われたようです。これも条里制施行に伴う再編事業の一環のようです。建物の一部には、区画溝があるのも金蔵寺下所遺跡と似ています。また、建物区画溝が坪界に一致しない点も共通します。灌漑水路をみると、周辺縦軸の水路については10m内外の誤差が認められますが、おおむね坪界と一致します。横軸については、溝はないようです。
善通寺 永井遺跡
永井遺跡                   
 永井遺跡は、縄文時代後晩期の自然河川が埋没して作られた微高地上に立地します。
弥生時代以降、遺跡中央の浅い凹地をカーブを描きながら走行する多数の溝があります。凹地にあった水田の導排水のための灌漑水路と考えられます。これらは7世紀前半頃に埋没しています。その後の水路は、遺跡東端の水路に移っていきます。遺跡の東側とされる段丘肩部を等高線に沿って2~3条の溝が走行します。埋土の中には8世紀後半から平安期の遺物が含まれています。この溝は段丘下にあった自然河川から取水し、微高地上に新たに拓かれた水田に導水する用水路と研究者は考えています。先の浅谷部も埋没して平坦化され、遺跡の東側一帯が耕地化したようです。
 ここで研究者は注目するのは、遺跡東端の溝群が坪界の交点で屈曲して、坪界線に沿って北流することです。同じような川西北鍛冶屋遺跡でもありましたが、地形・水利上の制約を受けながらも、可能な所は坪界に合致させています。溝の掘削段階には、すでに地割の企画があって、それに基づいて田地形状や溝の位置が決められたことがうかがえます。
遺跡中央部のSD42は、8世紀中頃以前に掘削された坪界の溝(SD45)が埋没した後に、逆に等高線に沿ってカーブをを描きながら伸びていきます。これは地形・水利上の問題が当初設計よりも深刻であったので、新しく削し直したと研究者は考えています。

遺跡西側には鎌倉~室町時代の区画溝をもつ宅地が広がっています
横軸は坪界線|こ、坪界線と一致する溝が2町以上にわたって続いています。しかし、縦軸は宅地区画溝とは、合致しません。平安期の溝が埋没した後に、周辺の田地形状がどのように編成されたかを示す材料乏しいのですが、縦方向にも多少ずれた地割があった可能性は残ります。

こうして研究者は、現在の条里型地割に一致する溝を拾い出して、宅地や潅漑水路の変遷を見ることによって、現在の地割の位置づけを行いました。その上で、改めて条里型地割の変遷を見ていきます。
 条里制地割が行われ時期が分かるものとして、研究者が挙げるのは次の資料です。
①川西北鍛冶屋遺跡の出水状遺構
②郡家原遺跡の地割に沿った溝と、それに先行する建物
③金蔵寺下所遺跡や稲木遺跡の宅地の再編成時期
  これら遺構は、7世紀末~8世紀初頭に施工された条里制遺構である可能性が最も高いと指摘します。
宅地から見ていきましょう。
 稲木遺跡、金蔵寺下所遺跡では、集落がそれまでと同じ構成・規模のままで、新しい条里制地割にあわせて再編成されています。郡家原遺跡では縦横軸ともきちんと坪界に一致して、3つの坪にきわめて整然とした宅地が配置されていました。坪内も半折型を基調とした区画を示す材料が揃っているので、計画的村落と云えそうです。それまでの建物群が「小規模散在的」なので、集落単位の再編成というよりも、「新計画集落」の建設と捉えた方がよさそうです。7世紀末~8世紀初頭頃に、条里制とともに集落の再編成も併せて行われたようです。この際に、1つの集落単位の再編成にとどまる遺跡は、地割との整合性にやや欠ける部分があります。それに対して、複数の集落を越える規模で再編成されたと考えられる郡家原遺跡には、厳密な計画性と整合性が見られます。

灌漑水路の整合を見ておきましょう。
どの遺跡でも、この時期に灌漑技術が飛躍的に発展したことを示すものはありません。小河川や出水状遺構などの小規模水源を利用した弥生期以来の潅漑技術を応用したものです。「灌漑施設の大規模で革新的な技術が必要な方格地割の広範な形成は、古代末頃にならないとできない」という説を改めて確認するものです。ここからは、古代の満濃池について、もう一度見直す必要がありそうです。大きな池が造られても灌漑用水路網を整備・管理する能力は古代にはなかったことを考古学的な資料は突き付けています。「奈良時代に作られ、空海が修復したという満濃池が丸亀平野全体を潤した」というのは「古代の溝」を見る限りは、現実とかけ離れた話になるようです。

 出水遺構については、川西北鍛冶屋遺跡で1基、郡家原遺跡で2基ありました。
どちらもそこから水路が伸びているので、灌漑に使用されたことは疑いありません。川西では6世紀後半以前に掘削された水路で、弥生期の溝と同一の方向から、8世紀初頭に地割に方向を合わせた水路へと掘り直され、その後は埋没しています。郡家原遺跡では、宅地割りの一角にあり、南北半町の地点まで斜めに導水した後、現在の地割方向に曲げられています。これらは坪界に合致するものではありませんが、すぐ横に坪界に位置するやや浅い水路が伸びています。坪界水路が田地へ用水を供給するポイントでは、再び屈曲させて坪界に一致して走行した可能性が高いと研究者は考えています。

地割の整合について郡家原遺跡と稲木・金蔵寺下所遺跡で違いがありました。
この差がどこから来るのかを研究者は次のように考えます。
郡家地区は、宝帷寺周辺にあったとされる那珂郡衙と同一の小河川(清水川)水系に位置します。善通寺地区においても、仲村廃寺や善通寺跡などの古代寺院が集中するエリアにある生野本町遺跡では、7世紀末~8世紀初頭の条里型地割の中に、規格的な建物群が建っていたことは以前にお話ししました。このように、郡衛周辺エリアでは、規格性の高い地割施行が行われたようです。

条里制地割施行後の変遷には、次の2点がポイントになると指摘します。
①平安末頃に大規模な灌漑水路が掘開される段階
②近世になって「皿池」が出現する段階

まず①について、平安末頃以降になると各所で大規模な溝が掘開されるようになります。
川西地区、郡家地区、龍川地区では地割に沿った位置に、大きな溝が見られます。大規模な溝が掘られるようになった背景には、それまでの小規模水源からの灌漑技術の革新がうかがえます。この時期の水路は坪界に位置しないものも多く、郡家原遺跡など前代の坪界の水路から横方向にずれて設置されたものもあります。この理由を研究者は次のように考えています。
 たとえば小河川の付替工事の場合を考えると、より広い潅漑エリアに配水するためには、それまでは、小規模な溝を小刻みに繋いでいく方法が取られていました。それが大規模用水路を作る場合には、横方向の微妙な位置調整が必要となります。田地割がすでに完成している地域では、それまでの地割との大きなずれは避け、地割に沿って横方向に導水する水路が必要が出てきます。これが平安期以後に横軸の溝が多く作られるようになった理由と研究者は考えています。

 地形的条件だけでなく、地割に関する規制が薄れたことも考えられます。
金倉寺下所、永井の各遺跡では、平安期以降になると宅地配置に地割と整合しないものが出てきます。軸のズレだけでなく、方向の異なる掘立柱建物も各所で現れます。これは、郡家原遺跡の出水を源とする水路が、平安前半段階になると、区画を無視して掘り直しされている時点からすでに現れています。この時点では、律令国家の土地政策の変容が始まっていたことがうかがえます。それが受領国司の登場であり、郡衙廃止という動きであることも以前にお話ししました。
受領国司

江戸時代になって新たに採掘された水路はほとんどありません。
その理由は、条里制施工時に作られた灌漑用水路が、姿を変えながら現在の幹線水路となり維持管理されているからと研究者は考えています。ということは、現在の灌漑用水路網は、条里制施工時にほぼ形成されていたことになります。
 近世になって造られた満濃池を頂点とする丸亀平野の灌漑網も基本的には、それまでの地割を引き継ぐ水路設定がされています。そのため古代以来未開発であった条里制の空白地帯や地割の乱れも、従来の条里制の方向性に従った地割になったようです。つまり従来の地割に付け加えられるような形で整備されたことになります。これが、現在も条里制遺構がよく残る丸亀平野の秘密のようです。しかし、繰り返しますが、この景観は長い時間を経てつくられたもので、7世紀末の条里制施工時に全てが出来上がったものではないのです。

 7世紀末~8世紀初頭段階で横軸の設定が厳密でなかった稻木遺跡や金蔵寺下所遺跡周辺では、今でも地割の乱れが見られます。
これが現在でも「乱れ」として分かるということは、条里制施行当時に統一的な地割規格があったことを示すと同時に、「乱れ」の形成要因が古代の施工時まで遡るものであったことを示すと研究者は指摘します。
以上をまとめておきます。
①丸亀平野の条里制地割の施工開始時期は、7世紀末~8世紀初頭
②この工事は、それまでの潅漑技術を応用する形で地形条件を克服し、宅地地割と水田地割を同時に行うものであった。
③そこには灌漑技術の革新があった痕跡はない。
④そのため施工されなずに放置された「空白地帯」も多くあった。
⑤条里制施行エリアは、現在の条里型地割とほとんど一致する。
⑥郡の範囲を超えて、一元的企画が地割施工開始以前にあった
⑦その意味では、条里制規格プランが7世紀後半まで遡る可能性がある。
⑧地割の基準や工法については、坪界縦軸の整合が高い

②については、一つの集落を単位とした宅地・水田の再編成と、ある一定の地域を広範に、規格化・再編成する2つのねらいがあったようです。この背景には、施行を行った政治勢力の本質的な差が現れていると研究者は指摘します。それは中央政府と首長層から転進した郡長ということになるのでしょうか。地域の「律令化」を考える上で、重要な視点になりそうです。
 ⑧の坪界縦軸について、歴史地理学は南海道のルートが先ず決められ、直線的に額坂と大日越を結び、それに直角に郡境が引かれ、それが縦軸になったとします。これが考古学的に発掘された各遺跡の溝の方向からも実証された結果となります。

 最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
  参考文献 
  「森下英治 丸亀平野条里型地割の考古学的検討  埋蔵文化財調査センター研究紀要V 1997年」
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丸亀街道地図 柞原から郡家2

骨付き鶏一角の丸戸交差点で南に転じて、丸亀市の産土神である山北八幡宮を東に眺めながら南に進むと杵原町西村の理容店の北で、道は二つに別れます。
丸亀街道 20丁 柞原町理容店前1
金毘羅丸亀街道20丁石 右が旧街道 

左側(東側)の広い道は、昭和48年頃に整備された県道で、旧街道は、右側(西側)です。こんぴら街道二十丁とあるので中府から2㎞あまりきたことになります。奧の理容店の横に、台石には「右 こんひら道」と刻まれた常夜燈がポツンと建っています。

丸亀街道 20丁 柞原町理容店前2

かつては現在地より少し北の街道沿いにあったようですが、県道整備に際にここに移されたそうです。この常夜灯に以下のような文字が刻まれています。

丸亀街道 柞原の理容院の常夜灯
丸亀街道 柞原の理容院の常夜灯の寄進者

ここからは、この燈籠が文久三年(1863)4月吉日に、丸亀商人の金比羅講によって建立されたことが分かります。丸亀商人たちがいくつもの金比羅講を組織していたようです。石工は、大手の泉屋が担当しています。

   ここから旧街道沿いの道がしばらく続きます。国道11号を横切って田村池の堤防のすぐ東側を抜けて行きます。

丸亀街道 田村、田村ノ池、山北八幡宮20111108_112757093
三軒家南の三ツ角 奧に田村池と金毘羅街道が抜ける田村が見える

前回見た三軒家からの絵図に描かれていた田村村と比べて見ましょう。田村がこの金毘羅街道沿いに家並みが続いていたことが分かります。この付近から⑬燈籠のある神野神社あたりまでは、古い街道の様子が少し残っているような感じのするコースです。
 次の⑩燈籠は、高速道路をくぐってすぐの変速四叉路にあります。
伊予街道との交差点 一里屋の常夜灯兼道標
ここが高松城下を起点とする伊予街道との交差点のようです。ここは丸亀城下から一里(約4㎞)で、一里塚があったので一里屋と呼ばれています。かつては駐在所があった所に、道標を兼ねた⑩燈籠があり。竿に「北丸亀 西いよ こんそうじ ぜんつうじ 東高松 南金毘羅」と刻まれています。他にも次のようにあります。
丸亀街道 郡家一里屋の⑩燈籠
         一里屋の常夜灯兼道標の寄進者
刻まれた文字から明治七年(1874)に、丸亀の商人たちの発願で、郡家村の石工札造によって作られたものであることが分かります。明治になっても、金毘羅参拝客は増え続けます。そのため金毘羅街道の重要性は高まったようです。時代が落ち着いてきて、四国新道などの幹線道路や鉄道の登場で、次第にその役割を終えていくことになります。
丸亀より金毘羅・善通寺道案内図 原田屋8 郡家・与北・善通寺
「丸亀ヨリ金毘羅善通寺弥谷道案内記 原田屋版」 右下に「ぐんげ」

 この旧伊予街道を越えて金毘羅街道を南に進むと、神野神社の鎮守の森が見えてきます。この森が金毘羅参詣名所図会に描かれていますので見てみましょう。

丸亀街道 神野神社、郡家八幡宮2 金毘羅参詣名所図会

右下(西)に神野神社とあり、鳥居や本殿・拝殿が見え、廻りを松の社叢が囲んでいます。参道には松並木が金毘羅街道へと伸びていますが、雲に隠されてよく分かりません。右奥(南)に伸びていくのが金毘羅街道で、分岐点には大きな道標が見えます。街道沿いには人家が建ち並び「郡家村」と記されます。街道の反対側にも鳥居と社が見えます。「八幡宮」と「社家」の註が書かれています。この絵図を見て、私がとまどうのは「郡家八幡」のことを知らないからです。本文を読んでみましょう。
丸亀街道 神野神社、郡家八幡宮 金毘羅参詣名所図会
郡家八幡宮・神野神社(金毘羅参詣名所図会)

郡家八幡宮
郡家村にあり、村中の生土神にて、往還の右の方の社頭あり。祭日は9月13日。
神野神社
国守が象頭山御参詣の時に、当神主の館で休息しが結構で最もよく同村八幡真向にありて、往還の左にあるので地元では、皇子の社と云う。延喜式の那珂郡の二座のひとつである。
  この説明によると次のようになります。
往還の右が郡家八幡で神主の館(社館)がある方
往還の左が神野神社で、俗称が皇子神社
絵図を拡大しもう一度見ても、街道を行く人は左から右に歩いています。絵図と説明文が合いません。
丸亀街道 神野神社 八幡宮34

  グーグル地図を見ると、旧金比羅街道を挟んで宮池手前に、皇子神社はあります。これがかつての郡家八幡なのでしょうか。しかし、皇子神社は近世に宝幢寺池が作られるときに、池に沈むのをここに遷したものとされます。郡家八幡については、今の私にはよく分かりません。宿題にしておきます。

 神野神社の参道付近には「郡家の茶堂」がありました。
このあたりは、丸亀城下を出て一里余りの地点です。ここで郡家の村人から茶の接待を受け、しばし憩いの時を持ったのかもしれません。ここには、台石には「すくこんひら道」と刻まれた道標⑬を兼ねた金比羅燈籠が立っていいます。

丸亀街道 神野神社 燈籠
丸亀街道 神野神社の燈籠寄進者名
ここからは、文政13年(1830)に丸亀の商人仲間により建てられたものであることが分かります。この時の石工は泉屋です。まだ地元の石工の出番はなかったようです。
茶堂跡から200mも進むと、街道は再び県道4号線丸亀・三好線と合流します。この辺りからは象頭山が右手に大きく見え始めますが街道の姿を追うことは難しくなります。

丸亀街道 郡家・与北

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
金毘羅参拝道Ⅰ 丸亀街道 調査報告書 香川県教育委員会 1992年より
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讃岐郷名 丸亀平野
丸亀平野周辺の郷

以前に「讃岐の荘園1 丸亀市川西町にあった二村郷 いつ、どうしてふたつに分かれたの?」を書きました。これについて、次のような点について、もう少し分かりやすく丁寧に説明せよという「リクエスト(?)」をいただきました。
「二村荘ができたときの経過は、どうなのか?」
「どうして二村郷と二村荘に分かれたのか?」
これに応えて、今回は二村荘に立荘過程に焦点をあてて見ていきたいと思います。前回分と重なる部分がありますが悪しからず。また、期待に応えられ自信もありません、重ねて悪しからず。  テキストは「田中健二 讃岐国の郷名荘園について  香川大学教育学部研究報告89号 1994年」です。
川津・二村郷地図
丸亀平野の古代郷名 二村郷周辺
 
律令時代には鵜足郡には8つの郷がありました。
そのひとつが二村郷で「布多無良(ふたむら)」と正倉院へ納入された調の面袋に記されています。二村郷は、江戸時代には土器川をはさんで東二村(飯山側)が西二村に分かれていました。現在の地名で言えば丸亀市飯野町から川西北一帯にあたります。古代の二村郷は、いつ、どんな理由で東西に分かれることになったのでしょうか?
二村荘が初めて史料に登場するのは暦応四年(1341)11月日の興福寺衆徒等申状案です。その中の仁治2年(1241)2月25日の僧戒如書状に、二村荘の立荘について、次のように記されています。
讃岐国二村郷文書相伝並解脱(貞慶)上人所存事、
副進
上人消息案文、
右、去元久之比、先師上人、為興福寺 光明皇后御塔領、為令庄号立券、相尋其地主之処、当郷七八両条内荒野者藤原貞光為地主之由、令申之間、依有便宜、寄付藤原氏女(故小野法印定勝女也。)時当国在庁雖申子細、上人並親康令教訓之間、去進了、爰当国在庁宇治部光憲、荒野者都藤原氏領也。(今は尊遍領地也)見作者親康領也、雖然里坪交通、向後可有煩之間、両人和与、而不論見作荒野、七条者可為親康領、於八条者加入本田、偏可為藤原氏領之由、被仰下了、但春日新宮之後方九町之地者、雖為七条内、加入八条、可為西庄領也云々者、七条以東惣当郷内併親康領也、子細具見 宣旨・長者官丁請状案文等、彼七八両条内見作分事、当時為国領、被付泉涌寺欺、所詮、云往昔支度、云当時御定、随御計、可存知之状如件、
仁治二年三月弐拾五日            僧戒如
道上 両人御中
意訳変換しておくと
元久年間(1204~6)に、貞慶上人は興福寺の光明皇后が建立された五重塔の寺領とするために、二村郷に荘園を立荘されようとした。当時の二村郷の地主(開発領主)は藤原貞光であったので、協議の上で、七・八両条内の荒野部分を興福寺関係者である藤原氏女(故小野法印定勝の娘)に寄付させる形をとった。当時の讃岐国守にも子細を説明し、了承を得た上で、貞慶上人と親康は七・八条の立荘を行った。こうして、七・八条エリア内では、「荒野は藤原氏領(今は尊遍領)、見作は親康領」ということになった。しかし、これは里坪が混在して、非常に土地管理が困難であった。そこで両人が和与(協議)して、見作荒野に限らず、七条は親康領、八条は藤原氏女領(本田)とすることになった。ただし、「春日新宮」の後方の九町の地は七条内ではあるが八条に加え入れて「西庄」領とした。従って、七条以東の郷内はすべて親康領である
  宣旨・官丁請状案文等にも、二村郷のうち七・八両条内の見作分は、国領(公領)として京都泉湧寺へ寄付されていると記されている。以上が二村荘の当時の御定で、このような経緯を伝えるために書き残したものである。
仁治二年三月弐拾五日            僧戒如
道上 両人御中
この文書に出てくる貞慶(じょうけい)は、法相宗中興の祖と云われています。
解脱上人、貞慶特別展: 鹿鳴人のつぶやき
 
彼が13世紀初頭の二村荘の立荘を行ったことが、ここには記されています。貞慶(久寿2(1155)~ 建暦3(1233)年)の祖父は藤原南家の藤原通憲(信西)、父は藤原貞憲です。何もなければ彼も貴族としての一生を送ったのでしょう。祖父信西は、保元元年(1156年)の保元の乱の功で一時権勢を得ます。ところが平治元年(1160年)の平治の乱で自害させられ、父藤原貞憲も 土佐に配流されてしまいます。生家が没落したために、幼い貞慶は藤原家の氏寺である興福寺に入るしか道がなくなったようです。こうして11歳で出家し、叔父覚憲に師事して法相・律を学ぶことになります。彼は戒律の復興に努め、勧進僧と力を合わせて寺社復興にも大きく貢献しています。
 一方、法然らの提唱した専修念仏の弾圧側の当事者としても知られています。文治2年(1186年)に、大原勝林院で法然や重源によって行われた大原問答に出席していますし、元久2年(1205年)には『興福寺奏状』を起草し、法然の専修念仏を批判し、その停止を求めてもいます。
 貞慶は、興福寺を中心に活動を展開していました。そのような中で元久年間(1204~6)に、二村郷を聖武天皇皇后の藤原光明子が建立した興福寺五重塔の寺領として立荘しようとします。そこで先ず行ったのが二村郷の七・八条の荒野部分(礫河原)を、開発領主の藤原貞光から興福寺関係者の小野法印定勝女子へ寄付させることでした。領主の藤原貞光は、地元讃岐の古代豪族綾氏の武士化した綾藤原氏の一族です。彼については、後に触れます。

丸亀平野 条里制地図二村
鵜足郡と那珂郡の郡境と土器川

 その上で、二村郷の七・八条の荒野部分が立荘されて興福寺五重塔領となります。この文書の中で、戒如は次のように述べています。

「二村郷のうち七・八両条内の見作分は、現在は公領として京都泉湧寺へ寄付されている」

ここからは、七・八条はまだ国領があったことが分かります。整理しておくと、二村荘には二種類の土地があり、それぞれ所有者が異なっていたと云うことになります
①土器川の氾濫原で、荒地に分類されていた土地 興福寺五重塔寺領
②見作地(耕地)に分類された土地       国領地
 一方、『泉涌寺不可棄法師伝』には、二村荘の国領部分について、次のように記されています。

嘉禄3年(1227)春、泉涌寺の僧俊高が重体に陥った際に、彼に帰依していた入道前関白藤原道家が病床を見舞い、「讃岐国二村郷内外水田五十六町」を泉涌寺へ寄付し、寺用に充てた

 この「水田五十六町」が②の二村郷の見作部分(耕作地)で、国領管理下にあった領地のようです。当時、藤原道家は讃岐国の知行国主でしたから、国守権限にもとずく寄進だったようです。
 その後の文和3年(1354)12月9日の後光厳天皇綸旨には、「讃岐国七条村並二村付けたり四か名」が、泉涌寺へ安堵されています。ここから②は、泉涌寺の寺領となっていたことが裏付けられます。

丸亀平野 条里制地図二村2
土器川左岸の鵜足郡七・八条の荒地に成立した二村荘
空白部が荒地で条里制が未施行エリア

ここでは、二村郷の七・八両条は鎌倉初期にふたつに分けられたこと。その耕地部分は公領のまま泉涌寺領に、荒野部分は立荘されて興福寺領二村荘になったことを押さえておきます。この両者は、同一エリアを荒地と耕地の地種で分割したものですから、当然に所有地が混在することになります。その状況を戒如は次のように述べています。
「荒野は藤原氏領なり、今は尊遍領なり、見作は親康領なり、しかりと雖も里坪交通す」
「里坪」とは、条里の坪のことで、藤原氏女領に属する荒野と親康領に属する耕地がモザイク状に入り乱れていたようです。これでは管理上、都合が悪いので、両者の間で話し合いが行われ次のような分割案が成立します。
①耕作地と荒野の種別を問わず、七条は親康領とし、八条は藤原氏女領とする。
②但し、「春日新宮」の後方九町の地は七条内であるが八条に加え入れて「西庄」領とする。
③従って、七条以東の郷内はすべて親康領となる。
この和解案の結果、藤原氏女と親康とは、どちらも所領内の荒野部分について興福寺へ年貢を納めることになります。こうして、土器川の東側は二村郷、西側の八条は二村荘と呼ばれることになったと研究者は考えています。
香川県丸亀市|春日神社は1000年の歴史がある神社!月替わり御朱印も郵送OK
二村郷産土神と書かれた春日神社 しかし郷社ではない 

鵜足郡8条に成立した二村荘の中心地には、春日大社が勧進され、「春日新宮」と呼ばれるようになります。
藤原氏の氏神さまは春日大社で、菩提寺は興福寺です。藤原氏の荘園が成立すると奈良の春日大社から勧進された神が荘園の中心地に鎮座するのが恒例のことでした。二村荘の場合も、興福寺領の荘園ですから氏神として春日社を祀ったのでしょう。それが現在の丸亀市川西町宮西の地に鎮座する春日神社(旧村社)だとされます。
 江戸時代の西二村は、西庄、鍛冶屋、庄、宮西、七条、王子、竜王、原等の免からなっていました。これをみると春日神社の氏子の分布は土器川の左岸に限られていたことが分かります。これに対し、土器川右岸に位置する東二村(丸亀市飯野町)は、飯野山の西の麓に鎮座する飯神社の氏子でした。古代は同じ二村郷であった東西の二村が、土器川をはさんで信仰する神社が違っているのは、荘園の立荘と関係があったようです。

  さて、二村荘の立荘については次のような疑問が残ります。

①立荘当時の二村郷の状況は、どうだったのか。七・八条だけが荒野部分が多かったのか
②耕地でない荒野部分を荘園化して何のメリットがあるのか
①については、いつものように地図ソフトの「今昔マップ」を検索して、土器川周辺の国土地理院の土地条件図を見てみましょう。丸亀平野は扇状地で、古代にはその上を線状河川がいくつもあり大雨が降ったときには幾筋もの流れとなって流れ下っていたことが分かっています。
丸亀平野 二村(川西町)周辺
丸亀平野土器川周辺の旧河川跡
上図を見ても、現在の土器川周辺にいくつもの河道跡が見え、河道流域が今よりもはるかに広かったことがうかがえます。川西町の道池や八丈(条)池は、皿池でなくて、その河道跡に作られたため池であることが分かります。道池の北側には七条の地名が残ります。

丸亀道池
道池からの飯野山

また、春日神社は八条に鎮座します。確かに、この周辺の七条・八条は、氾濫原で礫河原で開発が遅れたことが予想できます。七・八条エリアは、古代条里制施行も行われていない空白部分が多いようです。それにくらべて土器川右岸は河道跡は見えますが台地上にあり、条里制施行が行われた形跡があります。また、想像力を膨らませると、かつては七・八条に土器川の本流があって、どこかの時点で現在のルートに変更されたことも考えられます。もう一度、条里制施行状況を見てみましょう。
丸亀平野 条里制地図二村2

 空白地帯は条里制が施行されていないところです。
土器川の氾濫原だった七・八条には空白部分が相当あるのが分かります。この部分が最初に立荘され、二村荘となった部分のようです。そして、13世紀初頭には、今まで放置されてきた荒れ地に関しても開発の手が入って行きます。興福寺の貞慶が、二村郷の荒地を荘園化したのも、すでに灌漑などの開発が進められ耕地化のめあすが立っていたのかも知れません。
丸亀市川西町にあった二村庄の開発領主は「悪党」?
いままでは、興福寺という中央の視点から二村荘を見てきました。
こんどは地元の視点から立荘過程を見ていきたいと思います。先ほどの史料をもう一度見てみると、当時の所有者について、次のように記されています。
当郷七八両条内荒野者藤原貞光為地主之由、

 13世紀初頭に鵜足郡二村郷のうち、荒野部分の「地主」は藤原貞光だったことが分かります。藤原を名乗るので、讃岐藤原の一族で綾氏につながる人部かもしれません。当時は荒野を開発した者に、その土地の所有権が認められました。そこで彼は土器川の氾濫原を開発し、その権利の保証を、藤原氏の氏寺で大和の大寺院でもある興福寺に求めます。いわゆる「開発領主系寄進荘園」だったようです。
 未開墾地は二村郷のあちこっちに散らばっていたので、管理がしにくかったようです。そこで寄進を受けた興福寺は、これを条里の坪付けによりまとめて管理しやすいように、国府留守所と協議して庄園の領域を整理しようとします。これは興福寺の論理です。
 しかし、寄進側の藤原貞光にしてみれば、自分の開発した土地が興福寺領と公領のふたつに分割支配され、自分の持ち分がなくなることになります。貞光にとっては、思わぬ展開になってしまいます。ある意味、興福寺という巨大組織の横暴です。
このピンチを、貞光は鎌倉の御家人となることで切り抜けようとします
しかし、当時の鎌倉幕府と公家・寺社方の力関係から興福寺を押しとどめることはできなかったようです。興福寺は着々と領域整理を進めます。万事に窮した貞光は、軍事行動に出ます。1230年(寛喜2)頃、一族・郎党と思われる手勢数十人を率いて庄家(庄園の管理事務所)に押し寄せ、乱暴狼藉を働きます。これに対して興福寺は、西国の裁判権をもつ鎌倉幕府の機関・六波羅探題に訴え出て、貞光の狼藉を止めさせます。貞光は「悪党」とされたようです。

この事件からは次のような事が分かります。
①鎌倉時代に入って、土器川氾濫原の開発に手を付ける開発領主が現れていたこと
②開発領主は、貴族や大寺社のお墨付き(その結果が庄園化)を得る必要があったこと
③その慣例に、鎌倉幕府も介入するのが難しかったこと
④貞光は手勢十数人を動員できる「武士団の棟梁」でもあったこと
⑤興福寺側も、藤原貞光の暴力的な反発を抑えることができず、幕府を頼っていること
⑥二村荘には庄家(庄園の管理事務所)が置かれていたこと。これが現在の春日神社周辺と推測されること
この騒動の中で興福寺も、配下の者を預所として現地に派遣して打開策を考えたのでしょう。どちらにしても、荘園開発者の協力なくしては、安定した経営は難しかったことが分かります。
 
   藤原貞光にとっては、踏んだり蹴ったりの始末です。
 せっかく開発した荘園を興福寺と国府の在庁役人に「押領」されたのも同じです。頼りにした興福寺に裏切られ、さらに頼った鎌倉幕府から見放されたことになります。「泣く子と地頭に勝てぬ」という諺が後にはうまれます。しかし、貞光にとっては、それよりも理不尽なのが興福寺だと云うかもしれません。それくらい旧勢力の力は、まだまだこの時期には温存されていたことがうかがえます。
貞光の得た教訓を最後に挙げておきます
①未開墾地の開発に当たっては慣例的な開発理由を守り
②よりメリットある信頼の置ける寄進先を選び
③派遣された預所と意志疎通を深め、共存共栄を図ること
これらのバランス感覚が働いて初めて、幕府御家人(地頭)としての立場や権利が主張できたのかもしれません。
13世紀から14世紀前半にかけては、讃岐国内でこのような実力行使を伴った庄園内の争いが多発しています。それを記録は「狼藉」「悪党」と治者の立場から記しています。しかし、そこからは開発領主としての武士たちの土地経営の困難さが垣間見えてきます。その困難を乗り越えて、登場してくるのが名主たちなのでしょう。
以上をまとめておくと
①律令時代の二村郷は土器川を、またいで存在していた
②そのうちの鵜足郡七・八条は土器川左岸にあり土器川の氾濫原で条里制が施行されない部分が荒野として放置されていた。
③鎌倉時代初頭に鵜足郡七・八条の荒野開発をおこなった開発領主が藤原貞光であった。
④彼は開発領地を興福寺に寄進し、寄進系荘園として権益確保を図った。
⑤ところが興福寺は、荘園管理のために混在していた荒地を一括して、八条エリアを荘園領地とすることを国領側と協議しまとめた。
⑥この結果、開発領主の藤原貞光の権益は大きく侵害されることになった。
⑦そこで藤原貞光は、実力行使に出たが、興福寺から六波羅探題に提訴され敗れた。
こうして、丸亀川西町の中世のパイオニアであった藤原貞光は、「悪党」として記録に残ることになったようです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献


昔、高松街道でこんぴらさんにお参りする人が、土器川の清流で、身や心を清めていた付近を祓川(はらいがわ)と呼んでいたようです。その名残が旧R32号「祓川橋」として残ります。余り知られていませんが、この下流には「霞堤」がいくつもあったようです。土器川に残る霞堤を見に行くことにします。テキストは 「出石一雄  土器川と霞堤  ことひら66 H23」です

霞堤の構造

霞堤を言葉で説明すると次のようになるようです。
「連続堤に対する不連続堤のことで、上流から下流を見たとき、「ハ」の字を順番に重ねたような形状」

上流域に大雨などがあって、平野部を流れる河川の水位が上がると、堤が途切れている霞堤の開口部から水が逆流して、そこに留まり、やがで水位が下がると、逆流していた水は本流へと戻って川下へと流れていきます。開口部周辺は、遊水池としての機能を果たすことになります。

霞堤防 信玄堤
甲府盆地の信玄堤
 この「霞堤」は、武田信玄が、甲斐の国で富士川上流の釜無川で築堤したのが最初だと云われ「信玄堤」とも呼ばれます。

伝統的手法で洪水対策 24年度完成目指す  那須烏山・下境地区の那珂川|県内主要,社会,地域の話題,政治行政|下野新聞「SOON」ニュース|台風19号|下野新聞 SOON(スーン)
 香川県の川は、いつもは水無川ですが、大雨が降ると急流で濁流化して手が付けられなかったようです。そのため古代の条里制なども金倉川や土器川の氾濫原は、施行外であったようで条里制の空白地帯となっていたことは以前にお話ししました。
丸亀平野 地質図拡大版

土器川は洪水時には暴れ狂う龍のように、幾筋もの流れとなって龍がのたうつように流れ下っていました。そして、あるときには善通寺の弘田川へ流れ込み、あるときには金倉川(旧四条川)と交わり、あるときには大束川に流れ込んでいたことを発掘調査報告書は教えてくれます。

土器川 旧河道(大束川)

 このような暴れ龍=土器川をコントロールして広大な氾濫原を耕地化していく試みが始まったのは中世になってからです。そこには西遷御家人としてやってきた東国武士達のもたらした治水技術があったようです。それを学んだ名主たちも氾濫原開発に着手していきます。
 それが爆発的に広がるのが生駒藩時代だと私は考えています。生駒藩では、新規開発を行った者がその土地を所有できる土地政策をとります。そのため周辺国々から有力者達がやってきて開発・治水を始めます。その一例が、安芸の因島村上水軍の木谷氏の多度津への亡命・入植です。これ以外にも、丸亀市史には、この時代に多くの有力者が土器川沿いに入植し、富農となっていたことが記されています。これは土器川の治水と氾濫原開発と関わりがあると私は考えています。

土器川旧流路
郡家周辺の土地利用図 旧流路の痕跡が残り土器川が暴れ川だったことが分かる

 その中でも西嶋八兵衛による満濃池再築は、エポックメイキングな事件でした。これは大きな池を築くという以外にも、その水を丸亀平野全体に供給するという使命がふくまれていました。そのための用水路を整備するためには、土器川を制御する必要があります。それができて満濃池から直線的な用水路が丸亀平野に引けるのです。つまり「満濃池再築 + 土器川制御 + 用水路整備」は、丸亀平野総合開発の一環として西嶋八兵衛の頭の中にはあったと思うのです。これは高松平野の郷東川の流路変更などをみても分かるとおりです。
信玄堤(霞提)

 信玄堤は各地で築かれるようになってきます。

江戸前期の治水技術の特色は、流路に向かって亀甲出しをつくって水勢を弱め、ある程度以上の水量は、あふれ越えさせることでした。これを信玄堤と呼んだようです。
 の『地方の聞書』(1668(寛文八)年)には、溜池の水門・堰普請などの用水関係のほか、堤防の検分修復・水はね出し堤の築造などのことが特筆されている。
  『百姓伝記』には、治水について次のように記されています。
 河川の大量の水をその流路内に閉じ込めず、川幅を広くして、堤外の耕地を流戯作(ながれさくば)として残し、これを護るために本堤の他に小堤をつくり二重堤とする。屈曲点などの水当りの強いところでは、猿尾(出堤)・石枠・袖枠などを設け、堤の上には柳竹芝などを植えるがよい。
また『地方竹馬集』には、『百姓伝記』にいう二重堤に対して、洗堤のことを次のように強調しています。
 通常の増水は本堤で抑えるが、特別の増水時には洗堤を越えさせて水勢を弱め、ゆるやかに田畑へあふれさせて湛水させ、耕地の流失を防ぐ。洗堤は川裏を傾斜地にして保護する。

 以上のように、江戸時代になると二重堤防や洗堤等の治水技術の進歩につれて、河川敷の固定、耕地の開発や干拓が藩の土木政策として推し進められるようになります。
扇状地状三角州の河川制御には、信玄堤が有効であることが分かるようになってきます。この方式は、洪水と全面的に対峙し、洪水を抑え込んでしまう「人間と自然の対決」という自然観ではありません。自然には勝てないが、その被害を少なくすることはできるという「減災」の考え方です。ある程度の氾濫を受入れ、被害をできるだけ少なくする、いわば洪水との共存を図る治水方式だと研究者は考えているようです。
 これは直線的な連続した堤を上流から下流まで築いて、大洪水を一挙に河口に押し流そうと考える治水方法とは違います。

それでは、土器川のどこに霞堤が残っているのでしょうか。

 土器川には、かつては多くの霞堤があったようです。しかし、年とともに連続堤に改められ、その数は少なくなっています。今は、痕跡をとどめるものを含めても、約20箇所程度になっているようです。その中で。垂水橋から「生き物公園」にかけてが一番観察しやすいエリになるようです。

こんな時に便利なのが「今昔マップ」です。このソフトは、現在の地形図と明治の地形図を並べて提示してくれます。それだけでなく連動して動いてくれるので、その地点の現在と過去を比較する際には非常に便利で、私は愛用しています。今昔マップで垂水橋周辺を見てみましょう。
土器川 霞堤防垂水橋

左が明治39(1906)年、右が現在の垂水橋周辺です。このふたつの地図から読み取れることを挙げておきます
①M39年には現在地点には垂水橋はなかった。
②その代わりに左岸の垂水村仲村と岡田村の東原を結ぶ旧垂水橋があった。川の部分に架かるだけの小さい橋だったが、これが宇多津ー金毘羅街道であった
③現在の生き物公園には、中村方面からの支流の合流点だった。
④垂水橋の右岸の向王子は大束川の支流の源流になる。かつて土器川が大束川に流れ込んでいたときの痕跡が残る。

 明治39年の地図を拡大し、 右岸南から見ていきましょう。
土器川霞堤 垂水1 

垂水橋右岸たもとのの堤防を下流方向(北)に辿っていくと約300mで一旦途切れます。これが霞堤のの開口部①です。確認しておきたいのは、上流からの堤端が途切れるのに対して、下流からの堤防はその外側を重複してを上流方向に伸びていることです。
 もちろん今は開口部は埋め立てられて、下流からの堤防と同じ高さで接続しています。さらに約300m北へ進むと開口部②があります。ここでも、上流からの堤端は途切れて、下流からの堤端は南へ延びています。開口部②は今でも開いたままです。
②の東側の田んぼの中に鎮座するのが椋神社です。
ここは宇多津の港を出発し、土器川の右岸沿いに歩いてきたた金毘羅参詣の人々が、土器川を渡る場所でした。その渡河地点には「金毘羅大権現」と刻まれた常夜燈が建っていました。その常夜燈は、今は椋神社に移されています。金毘羅参詣の人々が川原へ降り、対岸の垂水の地蔵堂を目指して、左斜め前の方向に土器川を渡っていたのを、この常夜灯は見守っていたのです。開口部②は、土器川の霞堤の特色を最もよく残しているところで、お勧めの場所です。
②から③の堤防は、雑木林(水害防備林?)が繁っていて、土器川の現存する堤防の中では最も古い感じがします。
土器川の堤防は見晴らしが良くきく所が多いのですが、この区間は雑木林に覆われています。対岸は現在は、生き物公園になっています。ここを訪れると気がつくのは堤防がいくつもあることと、支流が流れ込んでいることです。それがこの公園の地形を複雑にしています。地図からはかつての郡境が走っていたことが分かります。
土器川 霞堤防中方橋

③から100mほどで④の開口部です。今は、ここもは締め切られていて、開口部から堤防に沿っては雑木林が繁っていますが、その痕跡は残っています。 中方橋右岸の東小川には土器川沿いに新名出水という地名が残ります。地図で見ると霞堤の外側に3つの出水が見えます。
飯山法勲寺古地名新名出水jpg
 東小川の古図
 新名という地名は、もとからあった名田に対して、新しく開発された所をさします。地図に見える東小川の新名出水は、土器川からわき出す出水で、いまもあります。これを利用して氾濫原の開発に乗り出した名主たちが中世には現れます。その新名開発の水源となったので「新名出水」なのでしょう。地図で、開発領主の痕跡をしめす地名を挙げると、「あくらやしき」「蔵の西」「馬場」「国光」「森国」「馬よけば」が見えます。新名出水から用水路で誘水し、いままで水が来なかった地域を水田化したことが推察できます。新田の開発技術、特に治水・潅漑にかかわる土木技術をもった勢力の「入植・開発」がうかがえます。これらの開発地を守るためにも、開発領主達は霞堤の築造にとりくんだことが考えられます。

生き物公園周辺の霞堤は、どんな機能を果たしていたのでしょうか
大雨が降って洪水になった時に、本流の河床と開口部の関係がどうなっていたかを研究者は次のような断面図を示して説明します。下の図は地形図から2,5m間隔の等高線だけを抽出して「微地形と霞堤」で示したものです。
土器川 生き物公園霞

さらに土器川を、AーB、CーDの「模式的横断面図」です。
土器川 生き物公園霞断面図

AーBの横断面図について見てみましょう
川の中央を走る42,5m等高線が、左岸(垂水)側の霞堤開口部から堤内地を上流(南)方向に向かって、幅約60メートル、長さ約200m入り込んでいます。つまり左岸堤内地には、南北方向に延びる微凹地があることになります。それは本流と同じ高さの微凹地帯でもあります。このことは、川の中央で水位が1m上昇すると、左岸堤内の凹地帯でも同じ高さまで水位が上がってくることになります。本流中央の水位が上がったとき、開口部からは水が堤内に逆流して入ってくることを意味します。水位が下がってくると堤内地に留まっていた水は、しだいに開口部から本川へ排水されていきます。上流側のCーDの横断面のエリアでも、同じ現象が起きるはずです。もう少し詳しく見ると、上流のC=Dラインの方が貯水量は多いようです。奥まで流れ込めば流れ込むほど、より多くの水を貯水できるような構造になっています。
以上から霞堤の開口部の役割は、次の3点になります。
①洪水時には、土器川の水を開口部から堤内に逆流させ
②土器川の水位が下がってくると、それを戻す
③堤内の排水
以上のように、霞堤の開口部は、堤内の排水を行うだけでなく、洪水時には遊水池としての機能も果たしていたことが分かります。さらに、それでも捌ききれなければ、旧河道にオバーフローさせることによって、本流の堤防を守り被害を最小限に抑えようとしてきたのでしょう。
土器川 生き物公園治水図

  今昔マップで、明治39年の地形図と「治水分類地形図」を並べて見てみましょう。
先ほど見た右岸には、平行して旧河道の痕跡があります。これは大束川の源流になることは先ほどみました。一方、左岸の垂水側を見ると、生き物公園から北の中所の池にも河川跡があります。
 ここからは、ここに霞堤を築くことによって洪水時のフローをこれらの河川跡に流すことが意図されていたのではないでしょうか。
 もう一度、霞堤の目的を確認しましょう。
「ある程度の氾濫を受入れ、被害をできるだけ少なくする、いわば洪水との共存を図る治水方式」

そのためには、多少の犠牲は仕方ないと割り切っているようです。その犠牲になる部分が、生き物公園周辺だったとも考えられます。その課題と機能は次のように考えられます。
①支流の合流点で、屈折点でもあった生き物公園付近は洪水の際の決壊点となった。
②そこで、川幅を広くし、両岸に霞堤を配した。
③生き物公園周辺は、洪水時には遊水池として機能すると同時に、霞堤から溢れた水は、旧河道によって下流に流された。
④これによって下流の堤防決壊を防ぎ、被害をできるだけ少なくする「減災」をめざした。
  生き物公園を歩いて感じる、普通の堤防や河川敷とは異なる奥深さは、遊水池としての機能に源があるようです。その地が公園として、保存されていることに何かしら嬉しさと誇らしさを感じてきます。
参考文献 出石一雄  土器川と霞堤  ことひら66 H23



三浦 地図1
1928年国土地理院地図

今から約百年前の国土地理院の宇多津周辺の上の地図を眺めていると、青野山のまわりは水田が拡がり、北側には塩田が広がります。古代においては、海が入り込み丸亀城の亀山も青野山も角山・聖通寺山も海に浮かぶ島だったとされます。今回見ていくのは、聖通寺山周辺にあった平山と御供所です。このエリアの人たちは、近世初頭に丸亀の土器町に移住して、三浦を開きます。その過程を追ってみたいと思います。
  坂出市と宇多津町にまたがる聖通寺山は、もとは瀬戸内海に突きだした岬で、旧石器時代から人が生活していた痕跡があります。頂上には積石塚古墳があり、室町時代には聖通寺城が築かれていました。「南海通記」によれば、管領細川氏の馬廻りをしていた奈良氏が貞治元年(1362)高屋合戦の武功で鵜足・那珂の二郡を賜り、応仁の頃(1467~68)には聖通寺山に城を築いたとあります。その後天正十年(1582)、讃岐攻略を目指す長宗我部元親の軍勢の前に、奈良氏は、城を捨て勝瑞城の十河存保を頼り敗走します。南海通記の記述が正しいとすると、奈良氏が城を築いていた頃に、その聖通寺山の海際で瀬戸内海交易活動を展開していたのが平山の住人達だったことになります。
 中世の平山について
 平山は聖通寺山の北西にあり、湾入する入江の北に平山、南に宇多津が位置します。湾を挟んで北と南という関係で、その間に大束川が流れ込みます。平山も中世には活発な瀬戸内海交易活動を行う港であったことが史料から分かります。兵庫北関を平山船籍の船が19艘も通過し、通行税を納めていることが記録されています。これは讃岐の17港のうちランキング6位になります。船の大きさや積荷は宇多津と似ています。例えば塩の表記を見ると、詫間や児島といった近隣海域から集めたものを運んでいて、宇多津船とは機能差・性格差があり「棲み分け」をおこなっていたことがうかがえます。
 「与四郎」、「与平四郎」、「新左衛門」という船頭名は宇多津にはみられません。平山の集落を本拠地として活動した人物と研究者は考えているようです。また宇多津との関係では、平山から出た船の大多数が宇多津から出た船とほぼ同じ日に兵庫津を通過しています。ここからは、平山と宇多津の船頭の間には密接な関係がうかがえます。宇多津と平山はそれぞれ自立した港ですが、機能面で連動し、相互補完的な関係で交易船を運航していたようです。
 ここで押さえておきたいのは、平山がただの漁村ではなかったということです。宇多津と共に、瀬戸内海交易をになう湊であったことを確認します。
丸亀三浦 平山
  平山と宇多津は湾を挟んで向かい合う形にあった実線が復元海岸線
中世の平山の位置は?
 上図で中世の平山の集落がどこにあったかを見ておきましょう。
聖通寺山から伸びる砂堆2が海に突き出し、天然の防波堤の役割をはたします。その背後に広がる「集落5」と、聖通寺山北西麓の「集落6」が中世の平山集落に想定できると研究者は考えているようです。「集落5」が現在の平山、「集落6」が北浦になります。これらの集落に本拠地を置く船主たちが、小規模ながらも港町が形成していたようです。集落5の山裾からは、多くの中世石造物が確認されているのがうらずけとなります。
 平山の交易活動は、宇多津よりも沖合いに近い立地等を活かして近距離交易を中心としたものでした。つまり、平山の船が周囲から集めてきた近隣商品を、宇多津船が畿内に運ぶという分担ができていたとします。平山の交易湊としての性格は、宇多津と他の港を繋ぐ結節点としての役割を担い、それをベースに宇多津と強く結びつけられていたと研究者は考えているようです。
 以上から聖通寺山の周辺には、中世以来の瀬戸内海交易活動を行っていた集団がいたことを押さえておきます。

秀吉が四国を平定し、長宗我部元親が去った後に讃岐領主としてやってくるのが生駒親正です。生駒藩では、平山や御供所の船乗り達を水夫として使役します。
その経緯を「三浦漁夫旧記」で見ておきましょう。
「文禄年中、太閤高麗御陣の節、塩飽廻船加子六百五十人、三浦加子二百八十人、西国船頭御案内のため、三浦加子共召し遣わされて」朝鮮まで出て行った。その功として、塩飽は、御朱印を賜ったにもかかわらず、三浦の方には何もなかった。そこで生駒様に申し出て、三浦加子共の大坂夏の陣での活躍にもとづき「鵜足郡土器村に於いて畑高百七十五石、御城下近辺二て百二十二石、諸役御免許の御墨付」を賜った。また、「追って御用相勤むべき旨、かつ御用先二於いては船下中共帯刀御免成さるべき旨」

ここには次のように記されています。
①朝鮮出兵の際に、秀吉の命にで三浦の加子が朝鮮にまで出掛けて行ったこと
②それに対して秀吉からは何の報償もなかった
③そこで領主の生駒氏に交渉し、畑高175石と(丸亀)域下近辺に132石の土地と諸役(税)免除の墨付が三浦に与えられた。
④その代わりに三浦衆は、加子役を引き受け帯刀が許された
 これを『西讃府志』は慶長六(1601)年のこととして記しています。
三浦側では、現在の土地は恩賞として生駒家から与えられたものとしています。どちらにしても、生駒親正が讃岐に入ってきたときに早急にやらねばならないことの一つは、水軍整備だったことは以前にお話ししました。四国兵隊後の秀吉の次の目標は、九州平定と朝鮮出兵でした。そのための水軍整備を秀吉は「四国勢」に申しつけていました。秀吉の直属として、その準備を進めたのは小西行長で、塩飽はその配下に入ります。つまり、塩飽は秀吉直属の輸送船団となります。
 一方、平山は生駒氏の水軍に編成されます。国立か県立かの違いのようなものでしょうか、「任命権者が違うので、秀吉から恩賞がでるはずはありません。三浦衆の主張では、朝鮮出兵の際の恩賞が、どこからももらえなかったというのです。
丸亀三浦 1928年

1928年の国土地理院地図  土器川から弓なりになった街道が東に伸びる。これは当時の海岸線沿いに御供所や平山の町がつくられたため。
 関ヶ原の戦いの後も、これで天下の行方に決着が着いたと考える人の方が少なかったようです。
今後、もう一戦ある。それにどう備えるかが大名たちの課題になります。ある意味、軍事的な緊張中は高まったのです。瀬戸内海沿いの徳川方の大名達は、大阪に攻め上る豊臣方の大名達を押しとどめ、大阪への進軍を防ぐのことが幕府より求められます。そのため瀬戸内海沿いの各藩では水城の築城と水軍の組織化が進められたと私は考えています。生駒氏が、丸亀・高松・引田という同時築城を行ったのもこのようなことが背景にあるのではないでしょうか。
 丸亀城築城中の生駒一正は、城下町形成のため、鵜足郡聖通寺山の北麓にある三浦から漁夫280人を呼び寄せ、丸亀城の北方海辺に「移住」させます。その狙いは、どこにあったのかを考えて見ましょう。
①非常時にいつでも出動できる水軍の水夫、
②瀬戸内海交易集団の拠点
③商業資本集団の集中化
これらは生駒氏にとっては、丸亀城に備えておくべき要素であったはずです。そのために、鵜足津から移住させたと研究者は考えているようです。
 こうして、新しく築造が始まった丸亀城の海際には、聖通寺山から平山・御供所の加古(船員)集団が移住してきます。彼らに割り当てられたエリアはどこだったのでしょうか。
1644年に丸亀藩山崎家が幕府に提出した正保国絵図です。
丸亀城周辺 正保国絵図
③や④は砂州になります。①の土器川河口の③の砂州の先端に舟番所が置かれています。ここが福島湛甫や新堀が出来る以前の丸亀湊でした。その湊に隣接する砂州の上が、移住地になります。
同時期に作られた正保城絵図と比べて見ましょう
讃岐国丸亀絵図 拡大

 砂州1・2の間を西汐入川が海に流れ出しています。そして、砂州①②の先端には、それぞれ舟番所が描かれています。砂州①の上には、宇多津から移住してきた三浦(御供所・西平山・北平山)の家並みが海沿いに続きます。砂州の方向に沿って弓なりに高松街道が通されます。その道沿い平山や御供所からの移住者の家は建ち並んでいきました。
 丸亀城下には三浦以外にも、藩が進める移住計画に沿って、南条町や塩飽町を中心に家並みや寺院が立ち並んでいくようになり城下町整備が進みます。ところが大阪冬の陣が終わると、一国一城令が出され、丸亀城は廃城とされます。私は、この時に城下町も消えたと思っていましたが、そうではないようです。城下に集められた集団は、なんらかの特権を認められていたので城が廃城になっても動くことなく、そのまま丸亀で生活していたようです。例えば生駒時代の三浦は、舟御用の水夫役を果たす代償として、阿波から伊予までの漁業権が保障されていました。その特権で讃岐の領海一円での漁業活動が認められていたのです。これは、城がなくなっても動けません。城下町として人為的に作られた街並みが、城がなくなっても活動を続けていたのです。
丸亀城 正保国絵図古町と新町

 そのため生駒氏に代わって西讃に入ってきた山崎氏は、この地に城を復活することにしたのではないかと私は考えています。山崎時代に書かれた城下町絵図には、生駒時代の街並みが「古町」と記されます。三浦の街並みも「古町」と書かれています。
丸亀市東河口

 三浦衆は入国した山崎氏に、次のような嘆願書を提出しています。
生駒様御没落後、御入国二相成り、寛永十九年、山崎様御入国の砌、前件加子地、委細申し上げ奉り候処、御聞こし召し届かされ、御身上相応と御座候て、畑地八町六反四畝、一三浦庄内並二加子弐百八十、新た二御免許成し下され候義二御座候
意訳変換しておくと
生駒様が没落後の寛永十九(1642)年に、山崎様が入国の際に、今までの加子地のことについて経緯を説明した結果、お聞き届けいただいて、三浦庄内に畑地8町6反4畝頂き、加子280人を、新たに任命していただきました。

  ここからは山崎氏がやってきた時点で三浦は正式な加古浦として認められたことがうかがえます。
当時の各藩の加古浦をめぐる状況を見ておくことにします
 生駒藩時代に「先代慶長年中 生駒一正時代、魚棚野方へ引き、その時より水夫役勤め候」といった記事が「英公外記」(延宝五年(一六七七)にあります。高松城下の魚棚町の住人の一部を野方町へ移動させて水主役を務めさせたという内容です。この政策は岡山藩の水主浦役の設定と共通するものがあるようです。各藩では廻米輸送のために藩有船を動かすよりも水主浦を指定し、税金としての水夫役を納めさて船を動かせた方が得策と考えるようになっていたことがうかがえます。江戸時代の蔵米輸送船の国(藩)有化から民営化へという政策転換かもしれません。それを山崎藩も採用したとしておきましょう。

 この時に認められた加子地(畑地8町)は、13年後の明暦元年(1655)の検地でようやく承認されます。この間に、三浦衆は塩飽を訴えて漁場争論を起こしています。承応三年(1654)に大坂町奉行の判決は、三浦の一方的な敗訴でした。しかし、天下の塩飽衆と争うというのは、三浦衆が山崎氏に対して行っていた加子役要求のデモンストレーションの一環とも思えます。その後、京極氏に替わても三浦の地位は変わりませんでした。

三浦の水夫役数は「280所」で、内訳は御供所85、北平山76、西平山119です。この加子役は一年に5040と決められていました。以後、三浦は次のような役割を果たすようになります。
 「一軒二付き一ヶ月一人半、外夫召し遣われ候節は壱人一日町升にて一升、賃銀五分宛下され候、右五千四拾人の内召し遣われ候分、大船頭宛通の表にて差し引き、水夫未進分として壱人二付き五分宛御船手へ納める」

この役割を果たしながら、丸亀藩の加古浦として、次第に交易活動を復活させていきます。
 加子浦としての三浦が果たした役割は、なんだったのでしょうか
その役割を挙げておくと、次のようになります
①藩主の参勤交代の際などの人員輸送
②江戸藩邸への日用品輸送
③廻米輸送・城米輸送

次に三浦にあった東河口湊を見ておきましょう。
丸亀市東河口 元禄版

1645年の山崎藩の時に幕府に提出された正保城絵図には、御供所の真光寺東で東汐入川と土器川が合流して、真光寺の東北に番所が描かれています。この絵図から約50年後の京極時代の元禄十年(1697)の「城下絵図」には、真光寺の東南と東北の二か所に番所があります。一か所は土器川を渡る人々を、 一か所は港に出入りする船の番所と研究者は考えているようです。

土器川河口 明治
明治末の土器川河口周辺(現在よりも西側を流れていた)

 近世前半の丸亀港は、東川口湊だったようです。
二代藩主京極高豊が初めて丸亀へ帰った延宝四年(1676)7月朔日には「備中様御入部、御船御供所へ御着、御行列にて御入城遊ばされ候」とあります。ここからは京極公は、初めてのお国入りの時には、船は土器川河口の東河口に着いたことが分かります。
丸亀三浦3

 土器川河口の湊(東河口湊)のことについて、もう少し見ておきましょう。17世紀中頃の「丸亀繁昌記」の書き出し部分には、この河口の港の賑わいぶりを次のように記します
 玉藻する亀府の湊の賑いは、昔も今も更らねど、なお神徳の著明き、象の頭の山へ、歩を運ぶ遠近の道俗群参す、数多(あまた)の船宿に市をなす、諸国引合目印の幟は軒にひるがえり、中にも丸ひ印の棟造りは、のぞきみえし二軒茶屋のかかり、川口(河口の船着場)の繁雑、出船入り船かかり船、ぶね引か おはやいとの正月言葉に、船子は安堵の帆をおろす網の三浦の貸座敷は、昼夜旅客の絶間なく、中村・淡路が屋台を初め、二階座敷に長歌あり」

意訳変換しておくと
 玉藻なる丸亀湊の賑いは、昔も今も変わわないが、神徳の高い象頭山(金毘羅大権現)へ参拝客が数多く集まってくる。数多(あまた)の船宿が建ち並び、市もたつ。諸国引合目印の幟は、旅籠の軒にひるがえり、中でも丸ひ印の棟造りは、二軒茶屋のあたりであろうか。川口(土器川河口の船着場)の繁雑、出船や入船、舫われた船、曳舟か 「おはやい」との正月言葉に、船子は安堵の帆をおろす。三浦の貸座敷は、昼夜旅客が絶えることはなく賑やかで、中村・淡路の屋台を初め、二階座敷からは長歌が聞こえてくる。

ここからは東河口湊に上陸した金毘羅詣客が、東の二軒茶屋を眺め、御供所・北平山・西平山へと進み、その通りにある貸座敷や料亭で遊ぶ様子が記されています。三浦は漁師町と思っていると大間違いで、彼らは金毘羅船の船頭として大坂航路を行き来する船の船主でもあり、船長でもあり、交易活動を行う者もいたようです。三浦は丸亀の海の玄関口で、繁華街でもあったようです。  
東河口湊は東汐入川と外堀で城下の米蔵(旧市民会館)にながっていました。

丸亀三浦2 東河口湊


山崎時代の「讃岐国丸亀絵図」では、御供所の真光寺東で東汐入川と土器川が合流し、真光寺の東北に番所が描かれています。これが港に出入りする船を見張る船番所とされています。荷物を積んだ小舟は、東川口の番所を通り、東汐入川をさかのばり、木材や藁などは風袋町の東南にある藩の材木置場や藁蔵へ運ばれました。昭和の初期ころまでは、東汐入川の両岸にある材木商に丸太などの木材が運ばれていたようです。米などは、外堀の水位を考慮しつつ、外堀の北側中央(現県道三二号。市民会館北交差点の東方)付近にある米揚場の雁木から荷揚げし、その南にある米蔵(現市民会館付近)に納入していたと云います。
丸亀市米蔵

文化三年(1806)には、福島湛甫、天保初年には新堀湛甫ができると、東川口は旅客の港としては次第に寂れていきます。三浦に代わって福島が丸亀の玄関口となっていきます。
丸亀城絵図42
 
まとめておくと
①中世奈良氏が聖通寺山に城を構えていた頃に、そのふもとの平山には瀬戸内海交易を行う集団がいた
②平山に拠点を置く海民たちは、秀吉の朝鮮出兵の際に加古集団として生駒氏に組織された
③丸亀城築城の際には、加古や交易管理集団として丸亀の海際に移住させらた
④山崎藩では、正式に加古浦に指定され、特権を得るようになった
⑤京極藩では、東河口湊の管理・運営を任され、金毘羅船の運行や旅籠経営、海上交易などに進出する者も現れ、三浦は繁華街としても栄えた。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 丸亀市史352P   近世漁業の成立と塩飽・三浦

田村廃寺周辺図

丸亀市の百十四銀行城西支店の南側からは上図のように、古瓦が数多く採取されていて、寺院を連想させる「塔の本・塔の前・ゴンゴン堂(鐘楼)」などの地名も残るので古代寺院があったことは確実だとされていますが、伽藍の発掘調査は行われていません。そのような中で、20年ほど前に旧国道11号の拡張工事と、城西支店新築工事に伴う発掘調査が行われました。今回見ていくのは、黒いベルト地帯で城西支店の道路拡張部分に当たります。
田村廃寺 上空写真3

発掘現場は道路に沿った細長いエリアだったようです。それを北側と南側のふたつに区切って調査が行われました。発掘図面で、田村遺跡の変遷を見ておきましょう。記号区分は次の通りです。
SB:掘立柱住居・SA:柵列跡・SP:柱穴・SE:井戸・SK:土坑跡・SD:溝跡・SX:性格不明

田村廃寺 道路発掘エリア


このエリアから出て来たもので驚かされたのがSK03は梵鐘鋳造遺構です
 この土坑からは十二葉細弁蓮華文軒丸瓦が一緒に出てきていますので、平安時代終わりごろにここで梵鐘が鋳造されたようです。SK03から読み取れることを挙げてみましょう。
①SK03は、田村廃寺の伽藍範囲内にあったこと
②鋳物技術者がやってきて「出吹」によって田村廃寺の梵鐘を鋳造したこと
③なんども梵鐘が作られた跡はなく、1回限りの操業であったこと
④土坑の大きさから、高さ60cm程度の小形の鐘であったこと
 田村廃寺から依頼を受けて、やってきてここで鐘を作った技術者集団とはどんな集団だったのでしょうか。この鐘が作られた古代末期は鋳物師集団の再編成が行われる「鋳造史における一大空白期」のようです。SK03はこの空白期の終わりごろにあたるようです。

田村廃寺 梵鐘鋳造図
  もう少し詳しく田村遺跡梵鐘鋳造遺構(SKO3)を見てみましょう。
①SK03は一辺約2mの方形で、深さ約70cmの土坑である。
②鋳造の終わった直後に埋められたこと
③埋土中から平安時代後期ごろの十二葉細弁蓮華文軒丸瓦が出土しているので、この時期に梵鐘鋳造が行われ、廃棄された
④瓦類とともに梵鐘の鋳型が出土していて、ほとんどが外型の破片であること
以上から、ここで作られた梵鐘は高さ約60cmほどの小形のものと報告書は指摘します。
田村廃寺 梵鐘鋳造例3

構造についても見ておきましょう。
①鋳型を設置するための定盤と呼ばれる円形の粘土の基礎が良好に残っている
②定盤は高温の青銅に触れているため、黒色に変色している。
③定盤の中央には直径5cmの穴が開けられていて、鳥目と呼ばれる鋳型を固定するためのものであると、同時に鋳造の際に湯回りをよくするためのガス抜きの穴の役割もしていた
④定盤の東側の部分が崩壊しているのは、できあがった梵鐘を、鋳型を壊したあとに、一旦東側に傾け、そこから引っ張り上げたため
田村廃寺 梵鐘鋳造例5

各地の梵鐘鋳造遺構に目を向けてみましょう
①梵鐘鋳造遺構の最初の発見は、1963年に神戸市須磨区明神町で、梵鐘の撞座とみられる鋳型が採集されたのが最初
②1971年に福井県福井市の篠尾廃寺跡で竜頭の鋳型が出土していたが、最初は仏像の鋳型とされていた。それが梵鐘の鋳型と分かるのは1977年になってから。
③1980年代後半から各地で見つかるようになっているが、古代には畿内を中心とする地域に集中するのに対し、中世以降になると全国的に分布していく傾向がある
先ほども述べたように、古代から中世にかけての約2世紀間は、鋳造された梵鐘が極端に少なく、鋳造史における空白期間であるとされているようです。この期間に、河内鋳物師を代表とする鋳物師集団の編成と地方の職能民の活動が開始されたとされます。
田村廃寺 梵鐘4

梵鐘の鋳造のためには、鋳型を設置する土坑と、材料である銅を溶かす溶解炉が必要です。田村遺跡からは、鋳型を設置する鋳造土坑(SK03)は出てきましたが、溶解炉は出てきていません。しかし、南側の(SXOl・02)から大量の被熱した粘土塊および瓦類が出土しているので、これが溶解炉だったと研究者は考えているようです。
鋳造土坑の平面プランについては、古代においては一辺が約2mの方形OR隅丸方形で、中世以降になると不整形なものに変化していくとされているようです。この基準からすると田村遺跡のものは、鋳造土坑は古代の鐘に分類されることになります。
鋳造土坑の大きさや深さは、梵鐘の大きさに比例するので、いろいろです。一番大きいものは、奈良の東大寺境内から出てきた一辺が7m、深さ4m以上という巨大なものもあるようです。


梵鐘の鋳造には、10世紀後葉(977年鋳造の井上恒一氏蔵鐘)から12世紀中葉(1160年鋳造の世尊廃寺鐘)の約180年間が「空白の期間」とされます。それが終わりを迎えて新たな活動が始まる背景を挙げておくと
①現存する平安時代末~鎌倉時代にかけての梵鐘の大部分が河内系鋳物師の作品であること
②河内鋳物師を中核とした中世鋳物師組織の編成が12世紀後半に行われる
③このころから畿内および地方において、独自の鋳物師集団が新たに成立すること
これを「消費者」の面から見ると、次のような点が考えられます
①念仏や写経、経塚造営などに始まる勧進上人(いわゆる聖)の活躍
②末法思想の普及
③多くの階層の支持を得て、寺院や仏像の修造
④勧進聖によす橋梁・道路・港湾の改修や土地の開発
梵鐘の鋳造もこのような事業の一つとして組み込まれていたとされます。その時期が11世紀後半から12世紀ごろで、勧進上人の関与する事例が多いようです。
有限会社 渡辺梵鐘(渡辺梵鐘)・梵鐘製作・修理

以上を背景に、田村遺跡の梵鐘鋳造遺構を振り返ってみましょう。
田村廃寺で鐘が作られたのは平安時代後期です。まさにこの空白期間の終わりに近い時期にあたります。この時期には、まだ讃岐では独自に梵鐘を鋳造できるだけの技術・設備はなかったようです。そのため「出吹」が行われたのでしょう。この時期は河内系鋳物師が全国へ展開していった時期と重なります。こんなストーリーが考えられます。
①三野の宗吉瓦窯から藤原京へ宮殿用の瓦が船で運ばれていくの見える頃のこと(7世紀末)
②那珂郡の海岸線に近い微髙地に有力者の氏寺の建立が始まった。
③先行する佐伯の善通寺に学びながら三重塔をもつ田村廃寺が姿を現した。
④この地は那珂郡の湊である中津にも近く、港のシンボルタワーとしても機能するようになった
⑤田村廃寺の完成後まもなくして、古代のハイウエーである南海道が東から伸びてきた。
⑦南海道は鵜足郡の郡衙法勲寺(岸の上遺跡)と那珂郡の宝幢寺(郡家)と善通寺の郡衙(善通寺南遺跡)を一直線に結ぶ幅8mの「高速道路」であった。
⑧南海道に直交して郡境が引かれ、それに平行して条里制ラインが引かれた。
⑨各郡の郡司や有力者達は、これらの工事を割り当てられた。
⑩ところが田村廃寺や宝幢寺は、南海道が姿を現す前に出来上がっていた。
⑪そのため伽藍や参道方向が条里制の方向とはずれてしまうことになった。
⑫そこで財力のある善通寺の佐伯氏は、最初に建った仲村廃寺(伝道寺)に代わって、新たに条里制に沿った形で新しい寺院を建立した。これを善通寺と名付けた。
⑬財力のない宝幢寺や田村廃寺の檀那は、そのままの伽藍方位で放置した。
⑭田村廃寺を建立した一族は、中津を基盤として瀬戸内海交易でも利益を上げ、その後も何度も改修・瓦替え工事を行ってこの寺を維持した。そのため道隆寺や金倉寺とならぶ寺勢をたもつことができた。
⑮しかし、古代末になると次第に一族は力を失い、改修もあまりされなくなった。
⑯代わって寺を守ったのは勧進聖たちであった。塩飽を目の前にする田村廃寺は、瀬戸内海交易の拠点としても機能し、そこには多くの勧進(高野)聖達が寄宿するようになった。
⑰そして、かれらはこのてらのための勧進活動を行うようになる。
⑱その一環として、高野山からやってきたある高野聖の提案で新しく鐘楼を勧進で寄進することになった。
⑲高野聖のネットワークで呼ばれたのが河内の鋳物師達だった。
⑳当時、河内の鋳物師達は呼ばれれば積極的に地方に出て行って、現地で鐘を作ることを始めていた。そして、市場と需要と保護者さえいれば、そこにそのまま留まり、定住化することもあった。

以上、田村廃寺にも河内系鋳物師が出吹にやってきたという物語でした
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 
   田村遺跡1 2004年3月 県道高松丸亀線改良工事に伴う埋蔵文化財発掘調査報告 


讃岐の古代寺院 法隆寺は、讃岐にどんな影響を与えたのか : 瀬戸の島から

壬申の乱前後の7世紀後葉~末葉になると、讃岐でも仏教寺院が姿を見せ始める頃になります。この時期の寺院の建立者たちは、首長層や郡司に任命されるような有力者です。丸亀平野周辺でその氏族を挙げると
①坂出の下川津遺跡を拠点とする勢力
②善通寺の佐伯氏の氏寺である伝導寺(仲村廃寺)・善通寺
③宗吉瓦工場を創業した丸部氏の妙音寺
④南海道に沿った那珂郡郡家の宝幢寺
 この時期に創建される地方寺院の多くは法隆寺式伽藍配置と法起寺式伽藍配置で、前者は山田寺式軒丸瓦、後者は川原寺式軒丸瓦の系統の瓦類が多いようです。丸亀平野の古代寺院は、川原寺式系統の軒丸瓦が出てきます。田村廃寺も、前回お話ししたように創建時の白鳳瓦は川原寺式系統の軒丸瓦です。ここからは伽藍配置として、法起寺式伽藍配置が第一候補として挙げられますが、発掘調査されていないので今は、判断のしようがありません。

古代寺院の寺域のほとんどは、条里型地割の一町(約109m)を単位とします。そして、伽藍方向も丸亀平野条里型地割(N30°W前後)に沿った形で建立されています。しかし、条里型地割が行われる前に建立された寺院は、この基準に合わないものも出てきています。例えば、善通寺に先立つ佐伯氏の氏寺とされる伝導寺(仲村廃寺)では、ほぼ真北を指す伽藍配置で、丸亀平野の条里制とは一致しません。その後、伝道寺は奈良時代に消失し、あらためて南西500mの所に現在の善通寺を佐伯氏は建立します。この善通寺の寺域は条里型地割に沿っている上に、面積は216m×216mで4倍の広さになります。
 丸亀市の宝幢寺池にあった宝幢寺も、那珂郡郡家に近く南海道のすぐ北に建立されています。これも伽藍方向は伝道寺と同じように条里制地割ラインと一致しません。そして、田村廃寺の周辺の遺構である区画溝や掘立柱建物跡も真北を向いて作られています。つまり、条里制ラインとは合わないということです。
ここからは、田村廃寺の創建は、条里型地割工事が行われるよりも早かったということが想定されます。
丸亀平野で条里型地割の工事が開始されるのは、 7世紀末葉~8世紀初頭の時期とされます。地割は、まず南海道がひかれて、南海道を基準に郡界がひかれ、条里制もひかれたことが明らかにされています。鵜足郡と那珂郡、多度郡などの郡界線も南海道を基準にして直交方向にひかれています。そして、以前にお話ししたように四国学院大学構内遺跡・池の上(丸亀市飯山町)からは南海道の側溝とされる溝跡がでてきています。
 この南海道を基準とした土地区画である条里制は、国家側からしてみれば、班田収授法に象徴される各種税徴収の前提としての土地管理政策です。実際、少なくとも8世紀後半以降は、条里プランにもとづいて土地管理がなされていることも明らかにされています。
 その一方で、条里型地割の施行は耕作地のみならず、宅地や建築物の再編成をも促していることが分かってきました。新たに家を建てたり、寺を建てたりする際には条里制の方向に沿って建築せよという「行政指導」が行われていたようです。それが国家意思でした。
 伝道寺建立からわずかの期間で、条里制に沿う形で新たに善通寺を建立した佐伯氏は、地方豪族として国家意思に忠実であることを示そうとしたのかも知れません。これを時系列に並べて見ると次のようになります。
   ①妙音寺 → ②伝道寺(仲村廃寺)→③田村廃寺→④南海道・条里制工事 → ⑤善通寺

①②③は南海道や条里制の前に、すでに建立されていたことになります。
 稲木北遺跡からは、条里型地割工事の直後に作られた計画的に配置された大型建物跡群が出てきました。
これは郡衙的なレベルの建物群です。それまで宅地としては利用されていなかった所に、条里型地割工事が行われ、そして建てられています。これも「国家意思」に沿った「建築群再編成」の一端かもしれません。そして、田村遺跡からも、条里型地割の工事が行われてすぐに建てられた集落が出てきました。ところが、田村廃寺周辺に条里制施行後に建てられた建物は、条里制ラインには沿っていないのです。どうしてなのでしょうか? 国家意思への反逆を現しているのでしょうか? まさか・・・

田村廃寺周辺の条里制を見ておきましょう

田村廃寺周辺条里制

現在の⑥丸亀城がある亀山が鵜足郡と那珂郡の境界となります。那珂郡はそこから西に1条から6条まで条が続きます。多度郡と那珂郡の境界は真っ白で、条里制が実施されていません。これが旧金倉川の氾濫原とされます。
田村廃寺は那珂郡二条二十三里七ノ坪に位置することになります。
田村遺跡の西側の先代池から丸亀城西学校にかけては、条里型地割が乱れ、空白地帯となっています。これは、平池方面から流れ込んでくる旧河道(旧金倉川)が条里制施行の障害となったことがうかがえます。さらに東側をよく見ると、蓮池にかけても空白地帯があります。しかし、ここは旧河道ではなく微髙地で、田村廃寺が立地していた所になります。どうして、田村廃寺のまわりは条里制の空白地帯なのでしょうか。

条里制が作られた後も、それに沿って建物が建てられなかったのでしょうか?
田村遺跡の土地利用の転換点は7世紀末葉だと報告書は指摘します。
その背景には、古代寺院である田村廃寺の登場があるようです。この前と後では大きく異なってきます。寺域内にある建物跡Ⅱ・Ⅲ群は、田村廃寺の創建と共に建てられた関連施設とします。そのため、田村廃寺に主軸方位をそろえます。
田村廃寺周辺条里制と不整合

第25図は、丸亀平野条里型地割(N30°W前後)・建物跡Ⅱ群(N20°W前後)。建物跡Ⅲ群(ほぼ真北)と方位を同じくする地割を描き出したものである。ここからはつぎのようなことが分かります。
① 田村廃寺推定地には、真北を向く地割(点線部)がある。これが田村廃寺の寺域である。
② 建物跡Ⅱ群と同じN-20°W前後の地割は、田村廃寺の寺域の北側にもある。この発掘で出てきた建物跡Ⅱ群は、ここにある
③ 丸亀平野条里型地割は、田村廃寺の寺域の北側にはない。(条里制空白部)

ここからは田村廃寺推定地の北側では、丸亀平野条里型地割とはちがう地割があって、この地割に基づいて建物跡Ⅱ群は建てられていたことが分かります。そうすると田村廃寺の北側のN-20°W前後の地割は、建物跡Ⅱ群が出現する7世紀末葉頃には成立していたことになります。
 この地割りエリアを「田村北型地割」と報告書は名付けます。
田村北型地割 ・・・田村廃寺伽藍の北側で認められる、N20°W前後の地割

それでは田村北型地割は、いつ頃、どのような経緯で成立したのでしょうか
まず押さえなければならないことは、7世紀末葉というのは丸亀平野に南海道がひかれ、それを基準に条里型地割の施行開始時期でもあることです。つまり、田村廃寺が早いか、南海道の出現が早いかを、もう一度確認しておく必要があります。
①田村北型地割の成立が7世紀後葉以前に遡ることが確認されれば、この地割は条里型地割に先行する地割という位置づけになる。
②丸亀平野条里型地割の施行開始と同時期かそれ以降であるならば、下川津遺跡と同様(大久保1990)、何らかの制約を受けたために、周囲の条里型地割とは異なった、いわば、変則条里型地割が作られたことになる。
これを明らかにするために、「まな板」の上に載せるのが次のような7世紀後葉以前の状況です。
①田村遺跡でから出てきた建物跡は、ばらつきが多く、田村北型地割との関連は想定できないこと
②極めて散在的に分布し、地割の規制を受けて配置されているような斉一性はないこと
ここからは、この時期に地割はなかったことがうかがえます。報告書は「現状では、田村北型地割の成立は丸亀平野条里型地割の施行開始と同時期かそれ以降に求めるほかはない。」と記します。つまり、田村北型地割は条里制よりも早いとは云えないというのです。

一方、この調査からは、調査エリア内で7世紀末葉頃に建物跡配置上の再編成が行われていることが分かっています。そして、主軸方位等に向かって斉一性の高い建物跡群(建物跡Ⅱ群)が建てられています。これは、稲木遺跡・金蔵寺下所遺跡などで見られる「条里制工事を行った後の建築物の再編成」という現象と同じです。つまり、「7世紀末葉頃の土地利用上の画期」とは「地割施行に基づく集落の再編成」という点で、丸亀平野の各地で見られる現象なのです。それが条里制に沿ったものではなく、変則条里型地割(田村北型地割)に沿ったものだったのです。
  これを報告書は、次のように記します。
「田村北型地割とは、丸亀平野条里型地割が何らかの制約を受けることで生じた、変則条里型地割であると認識する。」

 以上から分かったことを整理しておきます
①丸亀平野条里型地割は、7世紀末葉頃には田村遺跡近辺で行われていた
②田村廃寺周辺では、「何らかの制約」を受けて丸亀平野条里型地割と異なる地割が作られたこと
「何らかの制約」とは一体何なのでしょうか。
それが田村廃寺の存在だと報告書は指摘します。
①主軸方位が真北である田村廃寺の伽藍配置
②N-30°W前後である丸亀平野条里型地割
これが同一平面上に置かれれば、どこかで不整合が生じます。不整合を解消するためには、地割の方位を変更させる必要がでてきます。もちろん、田村廃寺との不整合を無視し、新たな基準となる丸亀平野条里型地割を優先させることは出来たでしょう。しかし、条里制施行が行われたのは、田村廃寺が出来たばかりの時期でもありました。田村廃寺を建立した氏族にとって、田村廃寺へ続く参拝道は大きな意味を持っていたはずです。参道を重視するために条里制施行外エリアとして、田村廃止の伽藍に沿った地割を残した。その施行責任者は、この寺を建立した氏族にあったと私は思います。これが変則条里型地割(田村北型地割)の出現背景だと報告書は記します。

 7世紀に讃岐で行われた大規模公共事業を挙げて見ると次のようなものが浮かんできます。
①城山・屋島の朝鮮式山城
②南海道建設
③それに伴う条里制施工
④各氏族の氏寺建立
これらの工事に積極的に参加して、いくことがヤマト政権に認められる道でした。郡司たちは、ある意味で政権への忠誠心を試されていたのです。綾氏は、渡来人達をまとめながら城山城を築くことによって実力を示し、郡司としての職にあることで勢力を拡大していきます。三野郡の丸部氏は、当時最先端の宗吉瓦窯を操業させ、藤原京に大量の瓦を提供することで、地盤を強化します。善通寺の佐伯氏は、空海指導下で満濃池再興を行う事で存在力を示します。まさに、この時代の地方の土木工事は郡司や地方有力者が担ったのです。
 田村廃寺を建立したばかりの氏族に選べる選択肢は、次のどちらかでした
①佐伯氏のように新たな寺院を「国家意思」の条里制ラインに沿って建立する
②田村廃寺周辺は、条里制ラインとはちがう「変則条里型地割」にして、参道を維持する
そして、取られた選択は②だったと報告書は考えているようです。

     
丸亀平野の古代の建物跡群は、条里制ラインがひかれる7世紀後葉以前と7世紀末葉以後とでは建築者の意識が大きく異なることがうかがえます。条里制がひかれる前の建物跡は、その軸をそろえる意識があまりありません。しかし、南海道が走り、条里制が敷かれる 7世紀末葉頃からは、向きを揃えるようになります。これは、ある意味では「国家意思」が目に見える形で住民にまで及んできたと云えます。これもひとつの律令国家の出現の形なのかも知れません。
まとめておくと
①南海道・条里制の出現以前は丸亀平野では建築物の向きはバラバラであった
②それが南海道通り、条里制が施行されると、それに沿ったように建築物は建てられるようになる③そこには条里制工事が終わると、その更地に条里制に沿った公共建築物群が建てられるという「建築物の再編成」さえ行われている。
④このため郡司なども氏寺や居館は、この条里制ラインに沿って建てるようになる。
⑤しかし、南海道が現れる前にすでに建立されていた寺院は周囲の条里制と不整合ラインができていまった。

古代那珂郡には次の3つの古代寺院があったとされます。
①田村廃寺(丸亀市田村町)
②宝幢寺跡(丸亀市郡家町)
③弘安寺(まんのう町四条)
②③は塔の心礎や礎石が動かされずにそのまま残り、だいたいの伽藍範囲も想像することができます。しかし①の田村廃寺は、私にはなかなか見えてこない古代寺院です。
田村廃寺鴟尾

田村廃寺跡とされるエリアからは、白鳳時代の瓦、塔楚、鴟尾などがでてきていますので、古代寺院があったことはまちがいないようです。しかし、正式な発掘は行われてないようです。そのためきちんと書かれたものはみたことがありませんでした。
 図書館で発掘調査書の棚を眺めていると「田村遺跡」と題されたものが3冊ほど見つかりました。その中から今回は、丸亀市の百十四銀行の城西支店の改築の際の発掘調査報告書を見ていきたいと思います。タイトルはなぜか「田村廃寺」ではなく「田村遺跡」です。廃寺跡が直接に発掘されたようではないようです。どんなものが出てきて、何が分かったのかを見てみましょう。

いつものように復元地形から見ていきます
田村廃寺周辺地質津

 田村廃寺のある辺りは、土器川と金倉川が暴れる龍のように流れを幾度も変えながら形成された沖積地です。土器川と金倉川は流路が定まらず、たびたび変化していたことが、グーグルや地図からもうかがえます。田村遺跡のすぐ東側にも旧河道の痕跡があり、蓮池はこの旧河道上に作られています。

田村廃寺周辺条里制

 また、田村遺跡の西側の先代池から丸亀城西学校にかけては、条里型地割が乱れています。これも、旧河道(旧金倉川)が条里制施行の障害となったことがうかがえます。この東西のふたつの旧河道に挟まれた田村遺跡は、中州状の微高地上に立地したことが推測できます。これを裏付けるかのように、田村遺跡周辺では、集落跡が緩やかな「く」の字状を描き、南北に細長く分布しています。これは蓮池の基であつた旧河道によって形成された自然堤防の上に、住居が築かれてきたことを示しているようです。

田村廃寺全景
右手空き地が城西支店 正面に丸亀城
田村廃寺の想定伽藍範囲を地図で見ておきましょう。
  報告書は廃寺に関係ある地名を挙げて、地図上に落として次のように示してくれます。

田村廃寺伽藍周辺地名
 田村町字道東一七四七番地に「塔の本」             
 田村町字道東一七五〇番地に「瓦塚」
 田村町字道東一七五五番地に「ゴンゴン堂」(鐘楼?)
 田村町字道東一六五三番地に「塔の前」
 田村町字道東一六五六番地に「舞台」
 田村町字道東一七一八番地に「塚タンボ」
  この地図からは田村廃寺は、城西支店の南側に、塔があり、伽藍が広がっていたことがうかがえます。
田村廃寺瓦1

この付近からは、白鳳時代から平安時代にかけての、八葉複弁蓮花文軒丸瓦や、十二葉・十五葉細弁蓮花文軒丸瓦、布目平瓦などが採集されています。発掘されていないので伽藍配置は分かりませんが、周辺の古代寺院と同じ規模の方一町(109m)の寺域をもっていたとされます。丸亀平野の条里復元図をみると、田村廃寺は那珂郡二条二〇里七ノ坪に位置することになります。

田村廃寺跡と道路を挟んであるのが 田村番神社です。
甲府からやって来た西遷御家人の秋山氏が法華信仰に基づいて、田村廃寺跡に日蓮宗の寺院を建立し、その番社(守護神)として三十番社をお寺の西北に勧進したと伝えられる神社です。この神社については以前にお話ししましたので、深入りしませんが、この境内には大きな手水石があります。これは、明治35(1902)年ころ、この南方の耕地から掘り出されたと伝えられます。塔の心礎のようです。

田村廃寺礎石

 この礎石は、楕円形の花降岩の自然石で、高さ約82㎝、上部は縦約135㎝、横約120m、下部は縦約220m、横約188mの大きさで、上面ほぼ中央に、直径45㎝、深さ約6㎝の柱座が彫られています。柱座の大きさから、塔は三重塔だったのではないかと説明案には書かれています。この塔心礎は、発見されたときには番神祠から南の当時の四国新道東側に移されて、石灯寵の台石に使用されていました。今は、田村番神祠境内に移されて、手水鉢として使用されています。

田村廃寺塔心礎説明版

 この礎石があったのが先ほどの地図で見た「塔の本」あたりになるようです。この心礎の上に三重塔が建っていたとしておきましょう。
田村廃寺 出土瓦一覧

城西支店の発掘調査からは、6つのタイプの軒丸瓦が出てきています
城西支店の敷地は、伽藍の北端にあたるようです。築地塀が出てきたことが寺の北限を示します。ここからは修築に伴って、それまで使用されてきた瓦の廃棄場所になっていたようで、多くの瓦が出てきています。出土した瓦を6つに分類した観察表です。
田村廃寺 軒丸瓦出土瓦一覧

報告書は、以下の表のように時代区分します

田村廃寺軒丸瓦古代
TM102 八葉複弁蓮華文軒丸瓦は中房が大く、彫りの深い複弁を巡らせ、周縁は三角縁で素文である。中房は1+8+4の蓮子をもつ。白鳳期

田村廃寺 軒丸瓦2
TM103八葉複弁蓮華文軒丸瓦は周縁が三角縁となり線鋸歯文をもっている。奈良時代初期
TM107十六葉細素弁蓮華文軒丸瓦 胎土はやや粗く1~7mm程度の砂粒を含む。善通寺・仲村廃寺出土のものと同箔品である。白鳳期末から奈良時代初期
田村廃寺 軒丸瓦3
TM105一五葉細素弁蓮華文軒丸瓦。TM107を反転した文様であり、この退化型の文様で奈良時代と考える。
TM108六葉複弁蓮華文軒丸瓦は周縁素文で蓮弁は平坦化し花弁の仕切り線を持たない退化傾向
TM106十二葉細素弁蓮華文軒丸瓦。田村廃寺の最終期の文様瓦と考えられ、遺物から10世紀頃までと推定される。
これらの軒丸瓦と軒平瓦、平瓦がどのようなセット関係で使われていたのかを次のように報告書は記します。
Ⅰ期は白鳳期で、 
I期aは重圏文軒丸瓦TM101
I期bは八葉複弁蓮華文軒丸瓦TM102と二重弧文軒平瓦1201、平瓦は斜格子(方形)の叩きTM401A、丸瓦は行基葺き瓦がセット関係
  Ⅱ期は白鳳期末から奈良初期で、 
Ⅱ期aは、八葉複弁蓮華文軒丸瓦TM103と平瓦はTM402A・BとTM403Al、丸瓦は玉縁のある丸瓦がセット関係にあたる。
Ⅱ期bは十六葉細素弁蓮華文軒丸瓦TM107と扁行唐草文軒二瓦TM202、平瓦はTM401BとTM401Cがセット関係。
私が気になるのは十六葉細素弁蓮華文軒丸瓦TM107と扁行唐草文妻平瓦TM20です。

善通寺同笵瓦 傷の進行
善通寺Z101と同笵木型で作られた瓦に現れた傷の進行状況

 十六葉細素弁蓮華文軒丸瓦TM107は、善通寺出土(Z101)と同笵で白鳳期末とされます。よく見ると、善通寺の瓦と比べると傷が大きくなっています。木版の痛みが使用に耐えかねて傷みが進行しているのです。それにもかかわらず使い続けています。
使用順は、善通寺の瓦より後に、田村廃寺の瓦は作られたことになります。そして、田村廃寺で使われたのは奈良時代初期と研究者は考えているようです。ちなみに、この木型はこのあと土佐の秦泉寺に運ばれて、そこでの瓦造りに使用されています。
三野 宗吉遺2
宗吉瓦窯(三野町)
 瓦技術者集団が善通寺創建が終わった後に、田村廃寺にやって来たのでしょうか。それとも善通寺周辺の窯で焼かれたものが運ばれてきたのでしょうか。善通寺には三野の宗吉瓦「工場」から運ばれたものも使われていたようですが、ここでは三野から運ばれた瓦は出てこないようです。
宗吉瓦窯 宗吉瓦デザイン
宗吉瓦
 以前にお話したように、讃岐の古代寺院建設のパイオニアは三野郡丸部氏による妙音寺です。この瓦は三野町の宗吉瓦窯で焼かれています。同時に、宗吉瓦窯は鳥坂を越えた善通寺にも瓦を提供しています。そうしながら藤原京の宮殿の瓦を焼く最新鋭の瓦大工場へと成長して行きます。瓦を提供した丸部氏と提供された善通寺の佐伯氏は「友好関係」にあったことがうかがえます。それでは、田村廃寺を建立した氏族とは、どんな有力者だったのでしょうか? 一応、因首氏を第1候補としてしておきましょう。

1 讃岐古代瓦

 道草をしてしまいました。話を元に戻します。
Ⅲ期は奈良時代で、十五葉細素弁蓮華文軒丸瓦TM105と平瓦TM403A2とTM403Bl・B2がセット関係にある。特に平瓦TM403BlとB2の出土量は多い。

Ⅳ期は奈良時代から平安時代で、六葉複弁蓮華文軒丸瓦TM108と平瓦TM403A3・A4が対応する。寺院の捕修瓦と思われる。

V期は平安時代で、十二葉細素弁蓮華文軒丸瓦TM106とTM403B3・B4・B5が対応する。セット関係にある軒丸瓦・丸瓦・平瓦はいずれも小型化する。平瓦の出土量が多い。10世紀代の瓦とみている。

以上を整理しておきましょう
①田村廃寺は、白鳳期に重圏文軒丸瓦TM101や川原寺式の八葉複弁蓮華文軒丸瓦TM102、二重弧文軒平瓦TM201によって中心伽藍が整備された。
②白鳳期末から奈良時代初期にかけて、補修瓦として八葉複弁蓮華文軒丸瓦TM103や善通寺から十六葉細素弁蓮華文軒丸瓦TM107や扁行唐草文軒平瓦TM202が搬入された。
③この瓦の文様に影響を受けた十五葉細素弁蓮華文軒丸瓦TM104が田村廃寺独自の文様瓦として展開し寺域内が整備された。
④この間の補修瓦として六葉蓮華文軒丸瓦TM108等がある。
⑤衰退期を経て十二葉細素弁蓮華文軒丸瓦TM106を使って田村廃寺が再興される。
13世紀頃には廃絶した
宗吉瓦窯 川原寺創建時の軒瓦
川原寺式軒丸瓦
 この時期に創建される地方寺院の多くは法隆寺式か法起寺式の伽藍配置で、前者は山田寺式軒丸瓦、後者は川原寺式軒丸瓦が多いようです。丸亀平野の古代寺院は、川原寺式系統の軒丸瓦がよく出てきます。田村廃寺も創建時の白鳳瓦は川原寺式系統の軒丸瓦です。ここからは、法起寺式伽藍配置が第一候補として挙げられますが、発掘調査されていないので今は、判断のしようがありません。

白鳳時代の7世紀末に姿を見せた田村廃寺は何度もの修復を受けながらも10世紀には一時衰退しますが、その後に再興され13世紀に廃絶したようです。古代の寺院は氏寺として建立されます。パトロンである建立氏族が衰退すると、氏寺は廃絶する運命にありました。13世紀と云えば古代から中世への時代の転換期です。平家方の拠点であった讃岐には、源平合戦の後は「占領軍」として数多くの西遷御家人たちがやってきます。その中に、三野郡の日蓮宗本門寺を拠点とする秋山氏がいました。秋山氏は、三野に拠点を構える前は、那珂郡に一時拠点を置いたとされます。
『仲多度郡史』『讃岐国名勝図会』などには、
「田村廃寺の跡に、弘安年中に来讃した秋山泰忠が、久遠院法華寺を建立したが、正中二年(1325)、故ありて三野郡高瀬郷に移し、高永山久遠院と号し、法華寺また大坊と称して今も盛大なり」

とあります。古代寺院の遺構跡に日蓮宗のお寺を秋山氏が建立したというのですが、この伽藍跡からは鎌倉時代の古瓦は出てきません。

以上をまとめておくと
①田村廃寺は、東を蓮池を流れていた旧土器川と、西側を平池を流れていた旧金倉川に挟まれた微髙地の上に建立された。ここには弥生時代からの集落の痕跡が残されている。
②出土した瓦からは白鳳時代(7世紀末)に建立され、13世紀に廃絶したことが分かる。
③その間に何度も瓦の葺き替え作業が行われており、修復が繰り返されている
④瓦の一部は、善通寺との同版瓦があり佐伯氏との関係がうかがえる。
⑤伽藍配置は分からないが、百十四銀行城西支店の建物から北側の築地塀が出てきたので、ここを北限とする108m四方が伽藍と想定される。
⑥「塔の元」「塔の前」という地名が残るので、この辺りに塔が建っていたことが想定できる
⑦塔の礎石もこのあたりから明治に掘り出され、今は番社の手水石となっている。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
   田村遺跡 丸亀市の百十四銀行の城西支店の改築にともなう発掘調査報告書
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丸亀城  山﨑時代の城郭絵図2
①が現在の裁判所付近
前回は大手町が明治以後は丸亀12連隊の兵舎や倉庫、病院になっていたことを見ました。今回は発掘地点の丸亀裁判所には、江戸時代には誰の屋敷があって、住人がどのように移り変わっていったのかを見ていくことにします。
丸亀連隊 西端
内堀の向こうに見えるのが丸亀十二連隊 

そのために、まずやらなければならないことは発掘地点が絵図のどの辺りにあたるかを確定しなければなりません。普通は道路などで簡単に現在位置との関係が分かるのですが、ここではそうは行かないようです。明治の連隊建設の際に、敷地が奇麗さっぱりと更地にされているからです。調査地周辺は、目印になるものがほとんど残っていません。街路も近世には鉤状に屈曲する部分がありましたが、近代の連隊建設の際に、街路は直線的な道路へと作り替えられました。そのため街路も基準になりません。そうなると、基準点は現在の道路にも引き継がれる外堀くらいになります。
   外堀を基準に、基準線を引くプロセスは以下の通りです。
①西隣の郵便局の西側から出土している①外堀遺構を基準点にする
②発掘エリアから出てきた2本の屋敷割の溝②までの距離の確認
③のマンション建設の発掘調査区から石組みの護岸を持つ溝の西側の肩の確認
以上のような基準点を地図上に落としたものが次の下図①②③になるようです。

丸亀城大手町屋敷割り

報告書は、これを嘉永8年の絵図と比較し、基準線を次のように決めていきます。
①西側の外堀(旧R11号)から外堀沿いの屋敷地・屋敷地東の街路を超え、今回調査地が位置する屋敷地の大区画の西端に至るには、街路②の距離を仮に数間程度と見積もると、10間以上(約18m)の距離が想定される。
②最も西端の岩間長屋の区画の東西幅は27間(48.6m)なので、全体では70m弱になります。
③外堀のラインから今回調査地までの距離を計測し、その条件に最も近いものは2区の区画施設である(約75m)。
以上から検出された溝②を、屋敷間の区画施設(ライン)と考えます。
次のような理由を挙げてこの溝②が区画であることを補足します。
①この溝の近辺から多く廃棄土坑がでてくること
②溝のすぐ東に丼戸があること
③溝を境として出土する陶磁器破片の組成が違うこと
こうして区画②が屋敷間の区画であるとします。
 以上からこの発掘地点は、嘉永7年絵図の「岩間長屋」「高宮」にあたると結論づけます。こうして、江戸時代の絵図から裁判所周辺の屋敷変遷を見ることが出来るようになります。
丸亀城 大手町居住者19jpg

上の絵図は享和2年(1802年)作成のもので、裁判所付近の屋敷を切り取ったものです。
①は「林求馬」と読めます。彼は以前にお話ししたように、多度津陣屋や湛甫の建設に尽力し、藩政改革を進めた多度津藩の家老です。そして、その屋敷と背向かいにあるのが②「御用所」です。これは多度津藩の政庁になります。多度津藩は、分家しても陣屋を構えずに丸亀城下内のここに政庁を置いていたのです。つまり本家への「間借り状態」にありました。それが、幕末がちかづくにつれて自立心が高まり、本家丸亀藩からの自立・独立路線を指向するようになります。その動きが新たな陣屋建設でした。この後多度津藩は、家老林求馬によって完成した陣屋に移って行くことになります。この周辺は家臣の氏名から、多度津藩に関係のある家臣の屋敷が多いと研究者は指摘します。
江戸時代の8つの絵図資料に記された屋敷図を模式化して示すと次のようになります。
丸亀城 大手町居住者変遷表

絵図を簡略化し、居住者が書かれています。例えば山崎藩時代の正保の「讃岐国丸亀城絵図」には、屋敷の主の名前はなく「侍屋敷」としか書かれていませんのでこうなります。
次の「元禄年間丸亀城下図」には、林求馬の屋敷の所が「壱岐守」となっています。これは、分家して成立したばかりの多度津藩藩主のことです。多度津藩藩主は、本家京極藩の家老の屋敷よりもはるかに小さい屋敷です。別の所に本宅はあったのかもしれません。そして、多度津藩の「御用所」は「御配所」とあります。これは当時丸亀藩に預けられていた、日蓮宗の僧日尭、日了の配流地だったことを示しています。

1832(天保3)年の絵図に記された住人達を視てみましょう。
多度津藩御用所のあった部分が空白になっています。それ以外の区画についても住人変更があったようです。これは、さきほと述べたように陣屋完成に伴って、多度津藩の藩士達が多度津に住居を移したためと考えられます。一方、一番西の「岩万長屋」の住人は、多度津藩士でなかったのでしょう。

次のような居住者の変更があったことが分かります。
①1692年(?⇒原田、実態不明)
②1692年~1802年(原田⇒伴)
③1802~1830年代(伴⇒高宮)
④1865年前後(高官⇒連隊建物)
この4つのタイミングで居住者の変更が起こっています。
大手町の丸亀地裁エリアの遺構がどんな変遷を経ているのか、またそれにはどんな事件が背景に考えられるのかを報告書は教えてくれます。その変更背景を、報告書は次のような図に整理して提示しています。表の左側が遺物や遺構の整理から導かれる年代、右側が、丸亀城下町や大手前の出来事です。
丸亀城大手町 裁判所付近時代区分表

第一の画期は、京極家による「城下の再整備」が考えられます。丸亀城Ⅰ期です。
 山崎藩時代には城の南側にあった大手門を付け替え、北側に移したことです。これに伴い城下の再整備計画が行われ、屋敷地や拝領地にも変更がうまれ、スクラップ&ビルドが行われたことが考えられます。この時期に、廃棄された瓦が大量に出てくることがそれを裏付けます。新しい主の京極氏によって、建物の建て替えなどが行われたとしておきましょう。
第2の画期は、18世紀後半代から始まり、19世紀の初めごろまで続きます。
この時期に、瓦などの廃棄物を埋めた土坑が屋敷の中にいくつも掘られています。これはこの時期に屋根の葺替えと、それに伴う瓦の廃棄があったことが考えられます。安永7年(1777年)に、二の守の修理が行われたことが、銘が刻まれた瓦から分かっています。その「大工事」に伴って瓦の大きな需要や生産体制の変化があったこと推測できます。それに伴い城下での瓦の消費拡大が起き、廃棄瓦の増加という形になったことが考えられます。
 それ以外には、先ほど述べたように多度津藩が自前の陣屋を築いて丸亀城下町から出ていったことです。ここでも住民異動によるリフォームなどで古い瓦の大量廃棄が起きたことが考えられます。これが第2の画期と報告書は指摘します。それは、この発掘エリアの一番西側の岩間長屋では、この時期の遺構は少なく、この変動が及ばなかったことが裏付けとなります。
第3の画期は、明治になっての陸軍歩兵12聯隊の建設です。
これは前回にお話ししたように、大手町全体の屋敷地引き払いを伴う大規模な接収でした。具体的には城の北側の内堀と外堀に挟まれた広大なエリアが国に摂取されます。そして、そこに建っていた家臣団の屋敷は解体破棄されたのです。そのエリアをもう一度地図で確認しておきましょう。
丸亀連隊 エリア地図
ピンクの部分が連隊用地として買い上げれたエリア
 
 建物の解体ももちろんですが、道の形状もそれまでの城下町特有の折れ曲がったりしたところが直線化されています。そのため街路に面していた区画も取り壊された所があるようです。
 例えば発掘エリアの岩間長屋からは、土塀瓦のほかに、京極家の家紋が施された軒九瓦、軒平瓦が出てきます。この付近には京極家と関係のある屋敷はありません。これはかつての多度津御用所や、周辺の塀などの解体が同時に進み、それが併せてここに掘られた廃棄穴に投棄されたものと報告書は推測しています。

以上をまとめておくと
①山崎氏から京極氏に藩主が変わり、城の大門が南から北に移設されたに伴い城下町の再編成が行われ、建築群もスクラップ&ビルドが行われた。
②裁判所周辺には多度津藩の政庁が置かれ、周辺には多度津藩士の屋敷が集まっていた。それが多度津陣屋の建設で退去し、大幅な寿運変更が行われた。その際にも廃棄瓦の量が増えている。
③明治になって十二連隊が設置されることに成り、大手町全体が国により買収された。藩士は屋敷を売り、全員がここから退去した。
④その後に、丸亀十二連隊の施設が作られ敗戦まで設置されていた。⑤丸亀城下町は、そういう意味では「軍都」であった。
⑥戦後、その後に市庁舎などの公共的な建築物が立ち並ぶエリアとなった。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
高松家裁・地裁丸亀支部庁舎新営工事に伴う埋蔵文化財発掘調査報告 丸亀城(大手町地区)2018年

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丸亀連隊 裁判所

  丸亀城の北側の大手前地区は市役所や裁判所などの公的施設が多いエリアです。そこでは近年の建て替え工事に伴う発掘調査が行われ、その報告書も何冊か出ています。今回は丸亀裁判所の発掘調査報告書(2018年)を見てみたいと思います。
 このエリアは内堀と外堀に挟まれて大手町の西の端です。郵便局の西側を通る旧R11号がかつての外堀にあたります。郵便局の発掘の際に、その遺構も確認できているようです。大手前エリアでは中心部から離れているので、二百石前後の中級家臣団の屋敷が並んでいたようです。
このエリアを発掘して、まず顔を覗かせてくる遺構は何でしょうか? 
わたしはぼんやりと、京極時代の屋敷跡が出てくると思っていました。しかし、それは大間違い。年表を確認しておきましょう。
1597年(慶長2年)に、生駒親正が西讃岐支配の拠点として丸亀城築城開始
1615年(慶長20年)一国一城令により、丸亀城はいったん廃城
1643年(正保元年)山崎家治が幕府からの許可を得、丸亀城の再築開始。
1658年(万治元年)山崎家断絶により京極氏が入封。城の整備と城下町の開発を継続
1670年(寛文10年)大手門を南側から北側に移し、「再開発」事業展開。
1688年(元禄元年) 丸亀藩から多度津藩分封。
1827年 多度津藩の陣屋完成 多度津藩家臣団の丸亀城下寄りの退去
1875年 丸亀歩兵第12連隊設置 
16世紀末に、生駒氏によって丸亀城は開かれ、その後一国一城令で廃城。その後、西讃の領主として入ってきた山崎氏によって、再築。しかし、築城途中で山崎藩は廃絶。替わって、京極氏の下で大門の移動など「再編整備」が進んだことが分かります。また、このエリアは、多度津藩主の邸宅や御用所、家臣の屋敷があったようです。

丸亀連隊

年表の一番最後に注目。
明治になって大手町地区は、陸軍歩兵第12聯隊の兵舎が造営されているのです。これは大手町全体の接収と屋敷地の引払いを伴う大規模な工事でした。具体的には城の北側の内堀と外堀に挟まれた広大なエリアが国に接収されます。その経緯は次の通りです。
明治6(1873)年4月、旧武家屋敷地一番丁から四番丁(旧丸龜縣庁、旧藩刑法局、元家老・佐脇邸、他元藩士87家)に丸龜營所の設置を決定、名東縣(現、香川県)に通達します。
名東縣高松支所は区長・戸長に命じて、該当用地59,463坪を45,243円(土地16,908円、移転費用27,375円、輸送費960円)で買収(費用は大蔵省が負担)
12月20日、御用地は陸軍省に受領され、営所・練兵場の建設開始
明治7(1874)年夏、五番丁から十番丁を新たに御用地に指定。五番丁を作業場用地として買収。
明治7(1874)年9月、丸龜營所が竣工、
12月4日、第十六、第二十四大隊が高松營所から移駐、
明治8(1875)年5月10日、両大隊により歩兵第十二聯隊編成

大手前の家臣団屋敷は、解体破棄されたのです。そのエリアを明治38年の地図で確認しておきましょう
丸亀連隊 明治38年

 この地図からは次のようなことが分かります。
①大手町地区は、東側が病院、西側が連隊駐屯地となったこと
②お城の東側に練兵場があったこと
③城下町特有の折れ曲がったりしたところが直線化されていること。そのため街路に面していた区画も取り壊された所があること。
  京極さんの家臣団が住んでいた大手町は駐屯地になったのです。お城の上から見てみましょう。ちなみに戦前は「軍事機密」のために一般人は、本丸などには登れなかったようです。
丸亀連隊 合体版
ここには12連隊兵舎の西半分が写されています。その右側は兵舎が並びます。
丸亀連隊8

 左側(西)は、真ん中の空地を囲むように兵舎が立ち並びます。こちらは倉庫群だったようです。さらに西側を拡大して見ましょう。
丸亀連隊 西端

とまどうのは手前の内堀の内側にも建物が数多くあることです。現在の芝生公園も建物で埋まっています。内堀の外側に沿っては兵舎倉庫が並びます。その西の突き当たりは外堀でが、すでに半分は埋め立てられ道路になっています。そのコーナーが現在の郵便局付近になります。裁判所は、その東側の兵舎の始まりあたりになりそうです。これだけの予備知識を持って、発掘現場を見てみましょう。

丸亀連隊 裁判所発掘地点
丸亀裁判所発掘エリア(白い空白部)
上図が今回の裁判所の発掘地点になるようです。
 ここからは、聯隊兵舎3棟が出てきました。建物1は第一大隊の倉庫で、その西端の一部のようです。建物1については、多度津町資料館に聯隊建設の際の設計図が残されていて、建物の構造が分かります。それを参考にして建物1の下部構造を模式的に復元したのが下図です。
丸亀連隊 倉庫下部構造

報告書はこれについて次のように述べています。
溝を掘り基盤を補強したのちに、レンガ積みにて外壁基礎を構築している。上部は、漆喰の壁を用いていたようである。床支えの柱が存在しており、それらが桁行2間存在し、その内側に外壁と同様の構造をもつ基礎と、屋根支えの柱列を2列立て、柱と柱の間を廊下としている。

この模式図を建物1に当てはめてみると、出土したのは外壁の基礎と床支えの柱穴だったことが分かります。図面に残される寸法では、外壁と柱の間隔が1、5mであり、遺構の間の距離と合致します。
建物1は、明治8年に建設され敗戦まで使われた第一大隊の倉庫としておきましょう。
丸亀連隊 正面
 丸亀十二連隊正面玄関 
 建物1に先行する建物2、3については、明治26年以降火災で消失したものを、再建したという記録があるようです。そのため建物2、3は焼失した明治8年段階の建物である可能性が高いと指摘します。建物2と3は軸を一にして並んでいたことから、同時に建っていた可能性が高いようです。発掘からは、明治8年にこれらの兵舎群が一斉に立ち並び始めたことがうかがえます。
面白いのは埋甕が出てきています。これを便所遺構と報告書は考えています。
丸亀連隊 発掘図
十二連隊の倉庫跡

それでは、取り壊された屋敷群の残土などはどのように処理されたのでしょうか。
それをうかがわせる廃棄穴が、発掘されています。発掘エリアの岩間長屋から出てきた廃棄穴からは、土塀瓦のほかに、京極家の家紋が施された軒九瓦、軒平瓦が出てきます。この付近には京極家と関係のある屋敷はありません。これはかつての多度津御用所や、周辺の塀などの解体が連隊建設のために同時に進み、それらが併せてここに掘られた廃棄穴に投棄されたものと報告書は推測しています。こうして、ここからは大量の瓦が出てくることになります。これは発掘者にとっては「宝の山」です。高松城に比べて遅れていた丸亀城の瓦の編年編成資料の貴重なデーターとなるようです。

丸亀連隊 瓦変遷
 
こうして明治に建てられた十二連隊の兵舎跡層をはぐることによって、江戸時代の層が出てきたことになります。そして、それは明治の兵舎建設のために更地にされた破棄現場だったのです。
 その下に眠る江戸時代の屋敷跡については、また次回に

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
高松家裁・地裁丸亀支部庁舎新営工事に伴う埋蔵文化財発掘調査報告 丸亀城(大手町地区)2018年



 丸亀港と云えば福島港を連想します。しかし、福島港が丸亀城下町の看板港になるのは19世紀になってからのようです。福島港がどのように発展してきたのかを絵図で追いかけて見ようと思います。
まずは、時代をぐーんと遡って、丸亀平野の地質から始めましょう。

丸亀平野の扇状地

丸亀平野は、①土器川と②金倉川の扇状地をベースにできています。この二つの川が、暴れ狂う龍のように流れを変えながら扇状地を形成します。それが黄色で現されています。④の丸亀競技状付近がその先端になることが発掘調査からも分かっています。そこから北は、その後の縄文海進や堆積作用で氾濫平野が形成されていきます。つまり、丸亀城のある亀山は、湿原の中にぽっかりと浮かぶ小島のような形であった可能性があります。山北八幡神社の由緒書きには、満潮時には亀山までの波が打ちよせていたと記されているのは前回見たとおりです。裏付け史料として丸亀平野の条里制遺構を見ておきましょう
丸亀平野北部 条里制

 ⑥が丸亀城です。この周囲は真っ白で、条里制遺構はありません。湿地帯で耕地には適さなかったようです。ついてに、亀山が鵜足郡と那珂郡の境界上にあること、③の金倉川流域にも条里制遺構がないことを押さえておきます。 

それでは、亀山の北はどうなっていたのでしょうか。拡大して見ましょう。
丸亀平野 地質図拡大版

  亀山(丸亀城)から北には、氾濫平野が広がりますが、古代には満潮時には海面下になりますので人が住むことは出来ません。人が住めるのは、亀山から西に伸びる微髙地です。現在の南条町あたりになります。
 ここで注目したいのは、海際には砂州①と砂州②が東西に伸びていることです。これは、流路を変えながら金倉川と土器川が運んできた砂が海岸線に沿って堆積したものです。古代には、土器川と金倉川の河口は、砂州で結ばれていたようです。よく見ると砂州①と②は、丸亀駅付近で途切れています。ここが西汐入川の海への出口となります。そうすると砂州①が現在の御供所、平山町になります。そして砂州②の東先端付近が福島町になるようです。
古代丸亀周辺の砂州と流路を見てみましょう。
丸亀の砂嘴・砂堆

砂州①②以外にも、砂州③④⑤があります。この砂州と川の流路の関係を考えて見ます。現在この流域を流れているのは、上金倉を源流とする西汐入川です。この川は、北に向かって流れず東に向かって流れて、丸亀駅の西北で海に流れ出しています。どうして真っ直ぐに北に流れないのか不思議に思っていました。この地質図を見て納得することができます。東西に伸びる砂州が幾重にも待ち構え、西汐入川は北上できないのです。そこで東に流れ砂州①と②の間まで行って、やっと海へ出れることになります。

 この砂州①②は、近世初頭の絵図には、どのように描かれているのでしょうか?

丸亀城周辺 正保国絵図
1644年に丸亀藩山崎家が幕府に提出した正保国絵図です。
通目したいのは、丸亀城の北にある③と④の半島のような地形です。その先端には「舟番所」とあります。実は、③と④が先ほどの地質で見た砂州①②にあたると研究者は指摘します。
これを、同時期に作られた正保城絵図と比べて見ましょう
讃岐国丸亀絵図 拡大

 地質図で見たように砂州①②の間を⑤西汐入川が海に流れ出しています。そして、砂州1・2の先端には、それぞれ舟番所が描かれています。この絵図からは、砂州1の上には、宇多津から移住してきた三浦(御供所・西平山・北平山)の家並みが海沿いに続きます。
 一方、砂州2には番所があるだけで民家の姿は見えません。この砂州2は、西汐入川によって隔てられ「中須賀」と呼ばれていました。この無人の砂州が福島町に発展していくようです。そのプロセスを追ってみましょう。
延宝元年(1673)になって、大工七左衛門ら16人が、藩に中須賀に家を建てたいと願い出ます。

丸亀城下町比較地図41

具体的には、南側の波打ち線際から八間下がったところに幅三間の道を東西に伸ばし、その道に沿い表口10間奥行25間を一屋敷とし、屋敷は船作事場と菜園にしたいという願い出でした。「船作事場」を行うのですから申し出た大工は、船大工だったことが分かります。当時は、塩飽が幕府の海上輸送を独占し、船の需要がうなぎ登りの時代です。その波及効果が海を越えて丸亀城下町にも及んでいたようです。船大工にとって海に近い方が何かと便利だったのでしょう。

 六年後の延宝七年になって、 一戸につき表口五間、裏へ二〇間の屋敷と、西の方では五間に二〇間の菜園場が認められることになりました。その代わりとして、 一屋敷12匁の納入を求められます。これを16戸が負担し、計192匁を町役銀として納入することになります。その際に、戸数が増えても、この金額は変わらないという約束を取り付けます。
丸亀城下町比較地図51

こうして貞享元年(1684)から砂州の上に家の建築が始まります。
3年後には、最初に申し出た16屋敷とほかに8屋敷増えて、計24屋敷がそれまで無人だった砂州に軒を並べることになります。同時に、新しい街の氏神様として天満官を勧進し、共同井戸も掘り、4年後の元禄元年(1688)には弁財天も祀るようになります。
  しかし、浜町から海を隔てた洲浜の地で生活することは何かと不便です。その上、いざというときの藩船の御用にも間に合わないこともあります。
そこで、元禄三(1690)年、濱町と結ぶ橋の架橋願いを出します。
丸亀城 福島町

藩はこれを認めて、銀一貫五〇〇匁を支給します。こうして、藩の普請奉行のもと人足600人が架橋工事に当たります。資金が不足したので、大坂の安古町さかいや惣兵衛から丁銀で一貫目を借りています。さらに町から上納する192匁をこの橋のため用立てることが許されたます。こうして元禄四(1691年2月に橋は完成します。当時の藩主高豊がこの橋を「福島橋」と命名します。この橋名にちなんで、中須賀の町は以後は福島町と呼ばれるようになります。橋の長さは15間5尺で、場所は現在のJR丸亀駅の東の重元果物店の西北の所にありました。
坂本龍馬が渡った福島橋の欄干と常夜燈(丸亀市) | 自然、戦跡、ときどき龍馬
福島橋の欄干と常夜灯
福島橋と町の変遷を、「古法便覧」は、次のように記します。
宝永四年(1707)、福島橋床石垣普請、人足千人ご用立をし、福島側より普請。
享保四年(1719)、福島橋新たに仕替えるため銀五貫目拝借し、無利子十年返済の達しあり
享保六年(1721)福島橋の石垣が崩れ落ちた。橋が長くなったためで、修理のために町と三浦から費用の半分負担を申せ付けられた。
享保十年(1725) 福島にて相撲を行う。
元文二年(1737)正玄寺・善龍寺にて芝居興行が許可、これまで芝居は停止されていたが、福島町は橋修復資金のために興行許可が下りた。
元文三年(1738)橋架け替えのため藩の舟子の道具を拝借したいと、藩の船頭に申し出た。
元文四年(1739)福島橋の銀については大年寄も承知しておくこと。
宝暦三年(1753)、橋修復のため芝居興行を願いでたが不許可。その代わり銀二貫目、無利子拝借し七年返済とした。
同年六月、福島橋開通記念の時に、大年寄・御用聴役らが行列の押えに出るよう求められ、祝儀に 樽一荷、生鯛一折をいただいた
天明元年(1781、橋架掛替と山北八幡官の御祭礼があり、お上より御祝儀として白銀10枚下
された。

これを見るとたびたび架け替え修復が必要だったことが分かります。改修費は福島町の住民負担でした。公共事業だから藩が面倒見ると云うわけではないようです。そのため間役銀・棒役は免除されています。また橋の維持費をひねり出すために芝居興行をひんぱんに催しています。

福島橋の掛け替えについては、次の文書もあります。
一福島橋の儀、先年は春秋両度芝居の徳用銀等を以て、掛替修覆等仕り来り候の処、去る天保午歳掛替の節は入用銀調達相成り難く、拠んどころ無く十八貫目拝借御願ひ中上候の処、 貧町の事故、 その後上納も三、四度にて柳の上納、その余の処は今以て上納に相成中さず候の処、その後弘化三午歳板替の節も過分の入箇に御座候えども、最早拝借の儀も中上げ難く、町内にて色々心配仕り漸く出来に相成り……(中略)
……最早近年の内には、板・欄干等取替中さずては相成り難く、貧町にて右様過分の入箇まで引受け罷りあり候儀も御座候につき何様にても、以来の通り定間割に仰せつけなされ下され度く候事
安政三丙辰十一月                     福島町
意訳変換しておくと
福島橋の件について、前回は春秋の度芝居の徳用銀収入で、掛替修覆費を賄いました。また天保の掛替の時にはは入用銀調達が困難で、仕方なく十八貫目を拝借しての掛け替えとなりました。貧しい町のことですので、 その後の上納も未だ完済できていません。その後、弘化三の橋の板替の時も過分の援助をいただいており。これ以上拝借することもできません。町内では、色々と心配しております。(中略)
……最早近年の内には、板・欄干などの取替を行わなければなりません。貧町の福島町には過分の出費を負担することもできませんので、これまで通りの定間割を仰せつけていただけるようにお願い申し上げます。
安政三(1856)年十一月                      福島町

 ここからは、福島橋の修復が町民のおおきな負担であると同時に、橋修理費を捻出するために芝居や相撲の勧進を町を挙げて行っていたことが分かります。それが町民の団結力となっていたのかもしれません。

 西讃府志には、戸数198、人口989(男490、女499),馬3。寺は白蓮社・大師堂・庵、神祠は天満宮2・弁財天、白蓮社が玄要寺院内より移されています。庵は西山寺へ、天満宮と弁財天は寛保元年に合祀(現市杵島神社)して、福島弁天として信仰を集めるようになります。町の東側に船着き場があったので、金毘羅参拝客の増加と共に繁栄するようになります。
福島町が表玄関になるのは、文化3年に福島湛甫が作られてからです。

丸亀城 福島町3

福島湛甫は東西61間・南北50間・入口18間・満潮時水深1丈余で、役夫延5万人余・此扶持米485石余・石工賃銀18貫の経費で完成します。丸亀繁昌記には、材木問屋が軒を並べて賑わう湛甫近辺の様子が記されています。福島湛甫の完成で、丸亀港の航行が容易となり安全性も高まります。さらに、金毘羅船で上陸した旅客は福島町内を通り浜町方面へと向かうため、町内の旅籠、土産物屋などが急増し福島町は、その目抜き通りとしてにぎわうことになります。それまでは、御供所の東汐入川の川口に入港していた客船は、この福島湛甫を目指すようになり、西汐入川川口に繋留されるようになります。金毘羅船の船着き場も移動したようです。

丸亀城 福島湛甫

 以後、金毘羅船の発着で幕末に向けて飛躍的な発展を遂げることになります。その利益をもとに、持舟をもち、海上商品輸送などに乗り出していく商人も増え、丸亀の商業的中心になっていきます。
丸亀城 今昔比較図

この橋がなくなるのは、浜町と福島町の間の西汐入川が埋め立てられてからのことになります。それは、明治43(1910)年の西汐入川付け替え工事が始まるまで待たなければなりませんでした。これについては以前にお話ししましたので、絵図だけ紹介しておきます。
丸亀市実測図明治 注記入り

明治34年 鉄道が通過し丸亀駅が完成。その裏を西汐入川が流れています。

11929年(昭和4年)

丸亀駅の裏を流れていた西汐入川のルートが変更されました。そして旧川跡は埋め立てられ新町となります。
以上をまとめておくと
①古代の丸亀城のある亀山は、湿地の中に浮かぶ島で、海岸線には東西に砂州が伸びていた。
②そのため古代は耕作地としては適さず、条里制遺構も残っていない。
③近世には砂州①の背後は畑地として耕作されるようになり、砂州①上には宇多津からの移住者の家並みが海沿いにならぶようになった。
④西側の砂州②は中須賀とよばれる無人の砂地であった
⑤そこに船大工たちが家と作業所を建てて暮らし始めると、人々が移り住むようになった
⑦不便なために藩に申し出て橋を建設し、その橋を藩主は福島橋と命名した。そのため町の名前も福島町と呼ばれるようになった。
⑧福島湛甫ができると金比羅船の発着として発展するようになり繁華街となった。
⑨資本蓄積を重ねた商人の中には、持ち舟を持ち商業資本として活躍する者も現れた。
⑩明治になって鉄道が通過するようになり駅裏開発のために西汐入川が埋めたてられ「新町」となった。
⑪こうして福島橋は、お役御免と成り撤去された。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 丸亀市史4近世 

  国立公文書館には正保城絵図と呼ばれ、三代将軍徳川家光の命によって、全国の大名に提出を命じた城の絵図があります。その中に「讃岐国丸亀絵図山崎甲斐守」と題された一枚があります。これが山崎藩が丸亀へやってきた四年後の正保二年(1645)には提出させたものとされています。この絵図は国立公文書館のデジタルアーカイブスで自由に見ることができ、拡大・縮小も思いのままです。以前には、丸亀城の城郭を見ました。今回はこの絵図で、山崎藩によって再興された当時の城下の様子を見てみましょう。
テキストは 丸亀市史です。 
丸亀城 正保国絵図注記版

①城の東側では内堀が東汐入川に続き、北へ浜まで伸びて、土器川河口と合流して海へ注いでいます。
②西側では外堀から分かれた堀が西へ延び(現玄要寺墓地南端)、 現在の北向地蔵堂から北へ曲がり、船頭町(現本町西端)のところで海に続いています。海との境はなぜかぼやかされています。
③内堀内にある城の北麓には、東西九〇間、南北五〇間の山下屋敷があります。ここが藩主の居館だったようで、現在の大手門の南側の観光案内所付近になるようです。生駒時代の山下屋敷は東西八〇間、 南北三〇間で、 山麓以外の三方は高さ八間の石垣で囲まれた高台となっていて、侍の出入りはできなかったようです。山崎氏時代には、この図のように高台ではなかったことは前回に見たとおりです。山崎藩は、東と西では山麓まで内堀を貫入させ、藩主の館である山下屋敷の東・北・西の三方はすべて堀になっています。山崎家治が城を築く際、生駒時代にあった山下屋敷の高台の土を、山頂に運び、また内堀を貫入させたときに出た土も築城に利用したようです。
④外堀内は士族屋敷で、侍屋敷・歩者屋敷・足軽量敷と記されています。一区画が一戸建てであったかどうかは分かりませんが、足軽は一区画に数戸で住んだと研究者は考えているようです。
丸亀城 正保国絵図古町と新町

⑥「古町」と書かれているところは、上南条町・下南条町・塩飽町、横町(現本町)、船頭町(現西本町)と、三浦(西平山・北平山・御供所)になります。つまり山崎藩がやって来る前に、生駒藩時代に作られた街並みを指します。古町で最初に街並みができたのは南条町だと云われます。南条町は地勢的には、亀山から西に伸びる微髙地の上にあり、中世以来の集落があった可能性があります。南条町が中心となり、その周辺に移住してきた人たちが順次、街並みを形成していったようです。
丸亀市 西汐入川と外堀

南条町の発展の起点になったのが、上の地図の②金毘羅灯籠です。
グーグルマップで「丸亀市南条町石灯籠」と献策すると出てきます。
丸亀市南条町塩飽町

③にある灯籠です。現在は道路になっていて、④北向神社と①の外堀を結んでいますが、これはかつては西堀でした。

丸亀市南条町の金毘羅燈籠3
    旧西堀に立って北向地蔵方向を望む
かつての西堀の上に立って西方面と北方面を見てみるとこんな風に見えます。
丸亀市南条町石灯籠説明版

説明版によると、この常夜灯は明和元年(1764) 12月に、南条町と農人町 (現在の中府町五丁目)の人々によって建てられています。この燈籠南側の東西に延びる現在の道は、古地図の通り丸亀城の外堀につながる堀で、ここには橋がかけられていました。また、ここから西には、玄要寺 の広大な敷地が広がっていました。それも絵図で見ておきましょう。
丸亀市 玄要寺3
玄要寺 
この絵図を見ると琴平街道から⑥西堀(現城乾小学校前の道路)までが、玄要寺の山内だったことが分かります。それもそのはずで、この寺は京極さまの菩提寺として建立されたのです。城下では、もっとも広い敷地と規模を備えるようなるのは当然のことです。玄要寺の山門は、西堀に面して建っています。つまり、現在の北向地蔵の辺りが玄要寺の西南コーナーであったことになります。現在は、玄要寺の北側には多度津街道が敷地を抜けて通されています。また、敷地の中に幼稚園やコミュニティーセンターなどが割り込んできています。
丸亀市南条町塩飽町

グーグルで「丸亀市南条町」を献策すると、赤く囲まれた南条町のエリアが出てきます。
  この灯籠③が建つ所は、南条町の一番南で、西堀にかかる橋を渡る手前に建てられていたことが分かります。金比羅に向かう人たちにとっては、丸亀城下町からのスタート地点だったのかも知れません。
この地図からは、次のようなことも分かります。
①南条町の東側は住民居住区
②西側は寺が南北に4つ並ぶ寺町エリア
③寺の西側を西掘(運河)が通り、その向こうは「田地(水田)が広がっていた
金毘羅街道を境にして南条町の東と西では、性格が異なる街だったようです。 
丸亀城 正保国絵図古町と新町

⑦それに対して新町は、現在の富屋町から霞町辺りにあたります。このエリアはお城の真北になります。その東は「畑」と記され東汐入川まで続いています。畑は霞町東部・風袋町・瓦町・北平山・御供所の南部になります。これらの新町は、山崎家治によって新たに計画されたので「新町」なのでしょう。東汐入川の東は田地が土器川まで広がっています。この辺りは水田地帯だったようです。こうしてみると丸亀城下町は南よりも海に面した北側、そして西汐入川から海に面した西側から東に向けて発展していったことが分かります。 

丸亀市東河口

海岸線から見ていきましょう
海との境はぼかされていて、そこに「遠浅」といくつも書き込まれています。このあたりが砂州であったことを物語ります。砂上の上に丸亀城下町は築かれているのです。
 海岸線に沿って古町と書かれた家並みが続きます。これが生駒氏時代に宇多津からやってきた三浦の人たちの家々です。その南の畑の中に寺の字が三つ並んで書かれています。これが三浦の水夫の檀那寺で鵜足津(宇多津)から一緒に移ってきた寺です。
 御供所の砂州の東の先端は、真光寺東で東汐入川と土器川が合流した河口になります。ここには番所が描かれています。さらに、東汐入川を少し遡った所に「舟入」の文字がみえます。ここに船着きが場あったようです。
この絵図から約50年後の京極時代の元禄十年(1697)の「城下絵図」の略図です。

丸亀市東河口 元禄版
 ここには真光寺の東南と東北の二か所に番所が増えています。どうして、二つの番所があるのでしょうか?  研究者は次のように考えているようです。
①東汐入川河口番所 土器川を渡る人たちからの通行税徴収
②土器河口番所  港に出入りする船からの通行税徴収
 近世初期の丸亀港は、現在の福島町ではなく、土器川河口の東川口だったようです。二代藩主京極高豊が初めて丸亀へ帰った延宝四年(1676)7月朔日には、次のように記されています。
備中様御入部、御船御供所へ御着、御行列にて御入城遊ばされ候

とあります。三浦の海上交易者が利用する湊がここにあり、公的な湊も御供所に置かれていたようです。
また「丸亀繁昌記」の書き出しは、次のように始まります。
 玉藻する亀府の湊の賑いは、昔も今も更らねど、なお神徳の著明き、象の頭の山へ、歩を運ぶ遠近の道俗群参亀す、数多(あまた)の船宿に市をなす、諸国引合目印の幡は軒にひるがえり、中にも丸ひ印の宗造りは、のぞきみえし。二軒茶屋のかゝり、川口(河口の船着場)の繁雑、出船入り船かゝり船、ふね引がおはやいとの正月言葉に、船子は安堵の帆をおろす網の三浦の貸座敷は、昼夜旅客の絶間なく、中村・淡路が屋台を初め、二階座敷に長歌あれば
意訳変換しておくと
 玉藻なる丸亀湊の賑いは、昔も今も変わらない。神霊ありがた象頭山金毘羅へ向かう道は丸亀に集まる。数多(あまた)の船宿が集まり、諸国の引合目印の幟が軒にひるがえり、○金印がのぞきみえる。二軒茶屋のあたりや、土器川河口の船着場の繁雑し、出船入り船や舫いを結ぶ船に、「お早いおつきで・・」と正月言葉が」かけられると、船子(水夫)は安堵の帆をおろす。三浦の貸座敷は、昼夜旅客の絶間なく、中村・淡路が屋台を初め、二階座敷に長歌あれば・・・

 ここからは、御供所の川口に上陸した金毘羅参拝客は東の二軒茶屋を眺め、御供所・北平山・西平山へと進み、その通りにある貸座敷や料亭で遊ぶ様子が描かれています。三浦は水夫街で漁師町と思っていると大間違いで、彼らは金毘羅船の船頭として大坂航路を行き来する船の船主でもあり、船長でもあり、大きな交易を行う者もいたようです。以前にお話ししたように、弥次喜多が乗った金毘羅船は、御供所の川口に着きます。そして、船頭が経営する旅籠で一泊を過ごします。道中記では、讃岐弁とのやりとりが面白おかしく展開していきます。三浦の水夫たちは、瀬戸内海を舞台に活躍する船主であったことを押さえておきます。
 話を元に戻します。土器川河口の東川口が公的な丸亀の港であったことです。物資を積んだ船は、東川口の番所を通り、東汐入川をさかのぼり、木材や藁などは風袋町の東南にある藩の材木置場や藁蔵へ運ばれました。
丸亀市米蔵

 昭和の初期ころまでは、東汐入川の両岸にある材木商に丸太などの木材が東河口から運ばれていたようです。米なども、満潮干潮を見ながら外堀の水位を考慮しつつ、外堀の北側中央の市民会館北交差点の東方付近にあった米揚場の雁木から荷揚げし、その南にある米蔵(旧市民会館付近)に納入していたと丸亀市史には書かれています。

 それが変化するのは、案外新しく文化三年(1806)に、福島湛甫ができて以後になるようです。天保初年には新堀湛甫も構築され、東川口は旅客の港としては寂れていきます。金毘羅船は福島方面に着くようになり、賑わいは移っていきます。
丸亀城 今昔比較図

  以上をまとめておくと
①丸亀城下町は南条町が起点となって発展した。
②「微髙地 + 西堀」という好条件に、「強制移住者」が南条町に居を構えた
③南条町は、金毘羅街道の東側が住民、西側は寺院が配置され寺町でもあった。
④金毘羅街道はお城を北から西に迂回し、南条町を通って中府町に南下していた
⑤お城の北側の舟入は、丸亀城の公的湊ではなく小規模なものであった。
⑥公的な湊は土器川河口の東川口にあった。
⑦ここからは東汐入川を通じて外堀にまで川船が入って行け、米などもこの運河で米蔵に運び込まれた。
⑧19世紀初頭に福島湛甫や新堀湛甫ができて、丸亀の玄関港は福島に移っていく。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

  
 「寺社の由緒記・縁起等は一般には信じ難い」といいながら丸亀市史は、山北八幡神社の由緒記を参考にして、お城が出来る前の丸亀周辺のことを探ろうとします。史料がないので、使えるものは批判的に使わなければ書けません。
山北八幡官の由緒記には、古代の丸亀浦について、次のように記されています。
①神功皇后が三韓へ出兵した帰途、この地の波越山(亀山=丸亀城)に風波を避けた折、土地の人が清水を献じ、船も修理した。
②波越山(亀山)の山麓は近くまで潮の満干があり、船造りや修理などをし、舟山神も祀っていた。
③波越山の形は円く、朝日によって西の方に長く影ができ、亀の這うのに似ており、土地の人は円亀山・神山と書き、「かみやま、かめやま」と呼んだ。
④国司讃岐守藤原楓磨が宝亀二年(771)宇佐八幡官に準じて祠をつくり祀った。この祠を土地の人は石清水八幡と尊崇し氏神とした。
ここからは、古くは亀山まで潮の干満が押し寄せていたこと、そこに浪越神が祀られていたこと、さらに八幡神が勧進され八幡神社が鎮座していたことが記されます。この八幡神社が山北八幡神社のようです。つまり「神山=亀山」として霊山でもあったことがうかがえます。
『万葉集』には、柿本人麻呂が丸亀の西にある「中之水門」から舟出して佐美島へ渡りつくった歌「玉藻よし 讃岐の国は国柄か……」があります。「中之水門=那珂郡の湊=中津」と考える人も多いようです。
「道隆寺温故記」には、延久五年(1073)国司讃岐守藤原隆任が、円亀の山北八幡を旧領に造営したと記されています。堀江港の交易管理管理センターとして機能した道隆寺の傘下に置かれていたようです。山北八幡神社を氏子して信仰する集団が、周辺にはいたこともうかがえます。
 古代の条里制遺構を見てみましょう
丸亀平野北部 条里制

⑥の丸亀城は、鵜足郡と那珂郡の境に立地することが分かります。条里で呼ぶと那珂郡1条24里あたりになるようです。しかし、丸亀城のある亀山周辺には条里制遺構は残っていません。23里より北に条里制が残っているのは微高性の尾根上地域が北に続く2条や4条だけです。
 現在の標高5mラインを仮想海岸線だったすると亀山の麓は海浜で、確かに満潮時には波が打ち寄せていたことが想像できます。そこに浪越神が祀られ、後には八幡宮が勧進されたというストーリーが考えられます。
平池南遺跡調査報告書 周辺地形図

以前に見たように地質図からも丸亀城周辺は、砂州であったことが分かります。

南海通記には 『南海通記』、 次のように記します。
①享徳元年(1452)、 細川勝元が室町幕府の管領職となった
②その後に、細川家四天王と称せられた香川・香西・安富・奈良の四氏に讃岐の地を与えた。
③鵜足・那珂の旗頭になった奈良元安は、畿内を本領としていたが、子弟を讃岐に派遣し鵜足津の聖通寺山に居城させた。
④その下に、長尾・新目・本目・法勲寺・金倉寺・三谷寺・円亀の城があった
 ここには、15世紀半の奈良氏統治下の那珂郡には、円亀山に支城があったと記されています。しかし、考古学的には確かめられていません。
その後、阿波三好勢力の侵入の中で、鵜足津エリアは篠原氏が支配することになますが、これもわずかのことで、長宗我部元親の制圧を経て、豊臣秀吉の四国統一の時代に入っていきます。

短期間の仙石・尾藤氏の讃岐支配に代わって、 生駒親正が讃岐の領主としてやってきます。彼の下で讃岐は中世から近世への時代の転換をとげていくことになります。
生駒親正がやってきた頃の丸亀の様子は、どうだったのでしょうか?
『西讃府志』の「市井」には次のように記されています。
此地 今ノ米屋町ヲ限り東側ハ鵜足郡津野郷二属キ、西側ヨリ那珂郡杵原郷二属開城以前ハ海浜ノ村ニテ、杵原郷ハ丸亀浦卜唱ヘテ高四百六石八斗九升三合ノ田畝アリ 津野郷ハ土居村トイヒケルフ、慶長六年(1601)其北辺二宇多津ナル平山ノ里人フ移シ 始テ三浦卜呼テ高百七十二石八斗八升ノ田畝アリヽ(以下略)
 意訳変換しておくと
この地は、今の米屋町から東は鵜足郡津野郷に属し、西側は那珂郡杵原郷に属する。丸亀城が開城される前は、海浜の村で杵原郷ハ丸亀浦と呼ばれていた。石高は468石8斗9升3合の田畝があった。一方津野郷は土居村と呼ばれ、慶長六(1601)年に、この北辺に宇多津の平山の里人を移住させて三浦と呼ぶようになった。その石高は172石8斗8升である。(以下略)

 ここからは、先ほど見たように丸亀は鵜足郡と那珂郡の境に位置して、米屋町より西は、那珂郡杵原郷に属する丸亀浦で、東は鵜足郡津郷の上居村だったことが分かります。生駒時代までに、海→海浜→農漁村へと「成長」していったようです。
 周辺の地形復元でも、那珂郡の海岸線には、いくつかの砂堆が南北に走っていたことが分かっています。扇状地としての丸亀平野が終わるとそこには、東西に砂堆が広がっていたことは、以前にもお話ししました。
丸亀城周辺 正保国絵図

元禄十年(1697)の「城下絵図」には、現在の通町の中ほどまでが入海となっています。③の砂州上に、三浦からやって来た人たちが人々が住み着きます。④の中洲は「中須賀」と呼ばれ、後に福島町に発展していきます。
 関ヶ原の戦いの後に、西国雄藩を押さえるために生駒親正・一正父子は高松城と丸亀城・引田城の同時築城を始めます。
それは瀬戸内海を北上してくる毛利軍や豊臣恩顧の大名達を仮想敵としての対応でした。このような緊張関係の中で、丸亀城や高松城は築かれたことは以前にお話ししました。生駒親正は西讃岐の鎮として亀山に築城し、この地を円亀と称すようになります。これが丸亀城の誕生になります。
 築城に先だって土器川と金倉川のルート変更を行ったことが指摘されています。
 亀山の東にある鵜足・那珂両郡の境界を流れていた土器川を約800mほど東へ移した。その川跡が外堀であるという説もあるようです。この外堀は、東汐入川によって海に連なります。
一方西側では、金倉川が北にある砂州によって流れを東へ東へと変えて、現在の西汐入川のルートでを流れていたようです。
金倉川流路変更 

これも上金倉で流路変更を行い、現在のルートにしたことが指摘されています。そして、外堀よりL字形の掘割をつくり海に連絡するようにします。こうして、土器川と金倉川の流路変更を行うことで、外堀の東西から海に続く東汐入川と西の掘割の間が城下となります。

丸亀城 生駒時代

尊経閣文庫の所蔵する生駒時代の丸亀城の絵図「讃州丸亀」を見てみましょう。
亀山の山頂には矢倉が設けられ、山下の北麓には山下屋敷があり、それらを囲んで内堀があります。内堀とその外にある外堀との間を侍屋敷とし、外堀の北方を城下町としています。築城以前は、こここは、海浜の砂堆で畑もあったかもしれません。
山下屋敷は、藩主一族かそれに次ぐ高級武土の居館だと研究者は考えているようです。この山下屋敷は、東・北・西の三方は高さ八間の石垣に囲まれた高台で、南は山腹に連なっています。広さは東西八〇間、南北三〇間の長方形の台地で、そこに屋敷があったようです。現在の紀念碑・観光案内所・うるし林の南の部分にあたるエリアです。この高台の北端は内堀より約20間南に当たります。
 丸亀城築城に伴い城下町形成も行われます。
そのために移住政策がとられます。記録に残る移住者達を視ておきましょう
①那珂郡の郡家に大池をつくり、南条郡国分村の関池を拡張し、香西郡笠井村の苔掛池などを掘ったと伝えられます。このとき、関池付近の住人が城下へ移されところが南条町であると云われます。南条町は地形的には亀山の西に続く高地にあたり、丸亀浦ではもっとも高く、もっとも早く人々が住み着き人家のできたところのようです。
丸亀市南条町塩飽町

また、南条町は西汐入川と外堀を結ぶ運河が城乾小学校の東側から北向地蔵堂を経て外堀にもつながっていました。いわゆる運輸交通網に面していたエリアです。ここに最初の人々が居を構えるのは納得できます。
② 豊臣秀吉の朝鮮侵略の際に、生駒氏が朝鮮に出兵した時には、塩飽の水夫や鵜足津の三浦の水夫が従軍したと云われます。水軍整備の一環として、塩飽島民の一部が城下へ移されたと伝えられます。これらの人々は、南条町の東側に定住地が指定されたようです。これが塩飽町と呼ばれるようになります。

宇多津平山からの三浦漁夫の移住 
慶長六年(1601)、関ヶ原の戦いの後も、これで天下の行方に決着が着いたと考える人の方が少なかったようです。もう一戦ある。それにどう備えるかが大名たちの課題になります。ある意味、軍事的な緊張中は高まったのです。瀬戸内海沿いの徳川方の大名達は、大阪に攻め上る豊臣方の大名達を押しとどめ、大阪への進軍を防ぐことが自らの存在意義になると考えます。徳川秀忠をとうせんぼした真田家の瀬戸内版と云えばいいのでしょうか。そのための水城築城と水軍の組織強化が進められたと私は考えています。生駒氏が、丸亀・高松・引田という同時築城を、関ヶ原以後に行ったのは、このようなことが背景にあるようです。

丸亀市平山

 丸亀城築城中の生駒一正は、城下町形成のため、鵜足郡聖通寺山の北麓にある三浦から漁夫280人を呼び寄せ、丸亀城の北方海辺に移住さています。この三浦とは現在の御供所・北平山・西平山の三町になります。彼らをただの漁民とか水夫と見ると、本質は見えなくなります。塩飽の人名とアナロジーでとらえた方がよさそうです。この3つの浦は、中世には活発に交易活動を営んでおり、多くの廻船があり、交易業者がいた地区です。彼らはこれより前の文禄元年(1592)、 豊臣秀吉の命により朝鮮へ出兵した生駒親正に、 塩飽水夫650人、三浦の水夫280人が従軍しています。塩飽水軍と共に、水夫としてだけでなく、後方物資の輸送などにも関わっていたようです。彼らを城下町の海沿いエリアに「移住」させるということは何を狙っていたのか考えて見ましょう。
①非常時にいつでも出動できる水軍の水夫
②瀬戸内海交易集団の拠点
③商業資本集団
これらは生駒氏にとっては、丸亀城に備えておくべき要素であったはずです。そのために、鵜足津から移住させたと研究者は考えているようです。
妙法寺(香川県丸亀市富屋町/仏閣(寺、観音、不動、薬師)(増強用)) - Yahoo!ロコ
妙法寺
 生駒氏以前には、丸亀にはお寺はほとんどなかったようです。
古いお寺としては文正元年(1466)に、鵜足津から中府へ移り東福寺と称し、さらに天正年間高松へ移り見性寺と改称された寺があるくらいです。多くの寺社は、生駒氏の城下町形成に伴って移って(移されて?)きたようです。その例として丸亀市史が挙げるのが、次の寺院です。
①豊田郡坂本村から日蓮宗不受不施派であった妙法寺
②鵜足津から丸亀へ、さらに高松へと移った日妙寺
③聖通寺山麓から280人の水夫の移住に伴い、真光寺・定福寺・大善院・吉祥院・威徳院・円光寺などが丸亀の三浦に移ってきます
これらの寺のうち定福寺・大善院・吉祥院・威徳院は、丸亀城の鎮護として鬼門に当たる北東に並んで建立され、俗に寺町四か寺と称されるようになります。
山北八幡宮と御野屋敷跡(丸亀市) | どこいっきょん?
山北八幡神社
亀山の南にあるのに、山北八幡と云うのはどうして?
 先ほど見たように山北八幡宮は、もともとは亀山の北麓に鎮座していました。そのため「山北」と呼ばれていました。ところが築城のために移転させられ、現在の杵原村の皇子官の社地に移りました。この結果、亀山の南に鎮座ずることになりました。しかし、社名は「山北八幡」のままです。
富屋町の稲荷大明神も田村から慶長四年(1599)に移ってきたと伝えられます。
移転してきた時は、社殿のすぐ北まで海水が満ちていたと云います。築城とともに人が集まり、上下の南条町を中心に、塩飽町、 さらにその東に兵庫町(現富屋町)、 北に横町(現本町)、浜町へと人家が広がり、その家々に飲み込まれていったようです。
「生駒記」には慶長七年、一正が丸亀城から高松城に移り、城代を置いたとあります。このときには、町人の中から高松へ殿様に付いていった人たちもいたと云われます。現在高松にある商店街丸亀町は、このときに丸亀からの移住者によって作られた町とされます。私には「希望移住」と云うよりも「指名移住」であったようにも思えます。
お城ウンチク(松江城・萩城)│inazou blog

 元和元(1615)年に大坂夏の陣で豊臣氏が滅亡すると一国一城令が出され、丸亀城は廃城になります。
私は、これに伴い城下町も消滅したのかと思っていました。しかし、どうもそうではないようです。生駒時代の末期に当たる寛永十七年(1640)に記された「生駒高俊公御領分讃州郡村丼惣高覚帳」の丸亀城下に関係のある所を見てみましょう。
那珂郡の内
一高四〇六石八斗九升一合    円(丸)亀浦
内 一八石 古作              見性寺領
四七石三斗五升七合          新田悪所
鵜足郡の内
一高一七二石八斗八升            三浦
翌十八年の「讃岐国内五万石領之小物成」に、
仲郡之内
一 銀子二一五匁 但横町此銀二而諸役免許      円亀村
一 米三石 但南条町上ノ町此米二而諸役免許    同 村
一 米五石 但三町四反田畑共二請米          同 村
一 塩八五一俵二斗九升六合 但一か月二      同 村
宇足郡之内
一 千鯛一〇〇〇枚                三浦運上
一 鱗之子一五〇腸               同 所
このとき、田村の総高が803石余です。円亀浦は406石ですので、農地は、田村の約半分ぐらいはあり、相当広い農地がお城の北側に広がっていたことが想像できます。同じように、三浦は172石です。これは円亀浦の約四割強に当たります。ここにも、ある程度の広さの農地があったことがうかがえます。農地が広がるなかに街並みが続いていたようです。
ここで丸亀市史が指摘するのは、小物成(雑税)として円亀村では銀子や米を上納していることです。丸亀村からは「銀子二一五匁」が収められ、その内の「横町此銀二而諸役免許」と「諸役免許」の特権が与えられています。ここからは商人や海運者などが廃城後も住み着いていたことがうかがえます。
 また塩851俵とあります。これは塩屋村からの上納品と考えられますが、すでにこれだけの塩の生産力があったことを示します。また、三浦からは運上(雑税)として「干鯛・鱗之子」が納めています。これは東讃大内郡の「煎海鼠・海鼠腸」とともに讃岐の特産物で、江戸・京では珍重されていたようです。三浦に移住してきた水夫達は、漁民として活動し、特産品の加工なども行っていたことが分かります。
   私は、政治的に強制力を持って集められた集団なので、一国一城令による丸亀城の取り壊しと共に、人々は去り、町は消えたように思っていました。しかし、ここからうかがえるのは、生駒藩が形成した旧城下町には、集められた住民はそのまま丸亀に残って、経済活動を続けていた者の方が多かったことが分かります。それは、横町のようにここに住む限りは、様々な特権や免除が約束されていたからでしょう。城は消えたも、街は残ったとしておきましょう。
丸亀城 正保国絵図注記版

正保の城絵図です。これは山崎藩時代に幕府に提出されたものです。
地図では古町を黒く塗りつぶしています。
⑥「古町」と書かれているところは、上南条町・下南条町・塩飽町、横町(現本町)、船頭町(現西本町)と、三浦(西平山・北平山・御供所)になります。つまり山崎藩がやって来る前からあった街並みを指します。古町は微髙地の南条町を中心に、生駒時代に移住してきた人たちが順次、街並みを形成していった所といえるようです。
 お城がなくなっても、水夫や海運業者や商人たちは残って経済活動を続けていたことが裏付けられます。

丸亀城 正保国絵図古町と新町
⑦新町は、現在の富屋町から霞町辺りにあたります。
このエリアはお城の真北になります。その東は「畑」と記された広い場所が東汐入川まで続いています。畑は霞町東部・風袋町・瓦町・北平山・御供所の南部になります。これらの新町は、山崎家治によって、計画された町なのでしょう。東汐入川の東は田地が土器川まで広がっています。この辺りは水田地帯だったようです。こうしてみると丸亀城下町は南よりも海に面した北側、そして西汐入川から海に面した西側から東に向けて発展していったことが分かります。
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  以上をまとめておくと
①丸亀城築城以前は、亀山まで海が迫り、遠浅の砂浜が土器川から金倉川まで続いていた。
②このエリアが、古代の条里制施行の範囲外となっていることも「低湿地」説を裏付ける
③そのため生駒氏は、土器川・金倉川のルート変更を行い、水害からの防止策を講じた
④その上で、亀山を中心とする縄張りと城下町造りが始まった
⑤最初に街並みが形成されたのは亀山から西の城乾小学校に続く微髙地で、ここに南条町が出来た。
⑥その後、この南条町を中心とする微髙地に、塩飽町などの街並みが形成される。これが「古町」であった。
⑦一国一城令で殿様が高松に去った後も、古町の住人達はこの地を去らずに、丸亀での生活を続けた。
⑧讃岐東西分割後に、西讃に入ってきた山崎藩は、旧城下町の経済活動が活発に行われていた丸亀にお城を「復興」することにした。
⑨そして、古町の東側に新町を計画した。しかし、その東は畑や水田が続いていた。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 



 満濃池水掛村ノ図(1870年)番号入り

明治維新になって決壊していた満濃池を改修した後の水掛かり図と用水路を描いた絵図です。これは、丸亀平野のそれぞれの藩図や天領が色分けされていて、その領域がよく分かります。
草色 → 丸亀領
桃色 → 高松領
白色 → 多度津領
黄色 → 池御領(天領)
赤色 → 金毘羅大権現 金光院寺領(朱印地)
 これを見ていて、改めて思うのは丸亀城のすぐ南は、高松藩の領土だということです。高松藩と丸亀藩の「自然国境」は、土器川でなくて金倉川だということです。そして丸亀城は領土の一番東の隅にあります。どうして、領域の中央でなく東端が選ばれたのでしょうか。それを今回は見ていくことにします。テキストは「直井武久 丸亀城について  県立文書館紀要創刊号」です。

まずは、生駒騒動後に讃岐は東西に分けられることになります
生駒家は生駒騒動で寛永17年(1640)秋田の矢島へ転封になります。幕府は讃岐の接収と次の領主への引渡準備のために、摂津国尼崎城主の青山幸成を讃岐国御使として派遣します。
 この時に幕府は青山に「讃岐を東二、西一の割合に分割」せよと指示しています。讃岐へやってきた青山幸成は各地を検分した後に、幕府の指示に従って、分割ラインを引きます。「東二、西一」の割合だと、だいたい鵜足郡と那珂郡の郡境が境になります。具体的には土器川を越えて那珂郡の半分は、東讃高松藩の領地になります。これだと土器村は鵜足郡なので、生駒氏が城を築いていた亀山の東三分の一くらいは東領になってしまいます。

讃岐国郡名 那珂郡

 次に西讃領主としてやってくる山崎氏には「城地は見立てて決定」と指示しています。お城をどこに置くかは入国後に調査して決定させるという方向だったようです。そのため青山は、亀山にお城を築く場合の事も考えて、土器村は鵜足郡に属していましたが西讃に入れます。さらに、土器川の西側とお城の北側までも、西讃に入れて線引きを行います。
 こうして、土居村(現土居町)や風袋町、霞町などは鵜足郡ですが西讃に入りました。その分の代償として、松亀城の南側では土器川を越えて金倉川まで高松藩領になります。丸亀の南部では、国境線が金倉川となったのです。こうして、東讃は12万石、西讃は5、3万石という石高で讃岐の分割ラインが決められました。西讃の領地は豊田郡、三野郡、多度郡、那珂郡のうち中府・塩屋・津森・今津・田村・山北・金倉・櫛梨・佐文・西七箇村、鵜足郡の土居村で計53000石になります。
青山幸成は、那珂郡で線引仕置を終えた後に、こんな感想を漏らしたと伝えられます。
「西讃の城地は、観音寺の琴弾山がよい。在所は穀物も豊かだし、もっともよいところだと思う。けれども箱のみさき(庄内藩半島)が突き出て、そのうえ隧灘を受けている。ここに決めるのは、後の領主の意見によるべきである。このほかでは、丸亀の亀山がよいと思うが、五万三〇〇〇石では維持するのがむずかしいであろう。しかし大志のある領主は、これを望むかもしれないから、東讃領に近接していて不適当ではあるが、亀山を西讃に入れておく。城地としては多分、三野郡下高瀬か、多度郡下吉田辺りが選ばれるだろう」
 
 丸亀城を維持するには、五万石ぐらいの大名では無理だという見方をしていたことが分かります。。

西讃の城主としてやって来ることになった山崎家を見ておきましょう
成羽愛宕大花火の起源

 山崎堅家は、もともとは彦根の出身です。彦根の西に荒神山という山と山崎山という山があります、この山崎山に本拠を構えていたようです。天正10(1582)年4月21日の本能寺の変直前に織田信長が、堅家の館へ来て茶を飲んだということが『信長公記』に記されています。堅家の子が家盛、家盛の長男に家勝、次男に家治と続きます。この次男・家治が、丸亀にやってくることになります。
 長男の家勝は、関ヶ原の戦いに大坂方の西軍につきました。そして今の三重県の津市にある安濃城を攻め落としますが、西軍は関ヶ原で負けてしまいます。それで、家勝は伊吹山へ逃れそこで隠れ住みます。
 一方、弟の家治の方は東軍の徳川方について、その後とんとん拍子に次のように出世していきます。
①彦根の山崎山
②兵庫県の三田
③三田から鳥取県の若桜
④岡山県の成羽へ、
⑤成羽から肥後天草郡富岡城4万石の城主として、島原の乱後の戦後処理・整理(富岡城の修築など)
 島原の乱で焼け落ちた富岡城を修復して、わずか3年で寛永十八年(1641)に西讃の城主に指名されます。丸亀にやって来たのは翌年寛永19年9月のことです。家治が丸亀へ来たときは、生駒さんの時の城は、一国一城令でこわされています。寛永四年(1627)の隠密の報告書にも、丸亀に城があったという記録はありません。幕府からは「城地は見立てて決定」と指示されているので、どこに城を構えても良かったのです。家治の築城術を評価していたようにも思えます。
成羽愛宕大花火の起源

それでは、どこに作るのか?
 
周囲のお城の立地条件を参考にしてみると、高松城、今治城・岡山城・福山城・三原城は、水城がほとんどです。近世に入って瀬戸内沿いに築かれたお城は、海に開かれた性格を持ちます。海上交通を監視・防衛すると同時に、交易拠点としての機能ももった水城が主流になっていたのです。さらに、山崎家治は、彦根出身で琵琶湖の水上交通の重要性は肌身で感じていたはずです。内陸にお城(城下町)を築こうという考えは、なかったでしょう。近世の城は、海に開けて、背後に経済的後背地を持つという条件で選ぶというのが流行になっています。
 家治は、初め三野郡勝間(高瀬町)の仮の館に住み、 城地を決めるため琴弾山(観音寺市)・下高瀬(三野町)・下吉田(善通寺市)を中心に領内を見てまわります。候補地としてあがったのは次の4ヶ所だったようです。
①観音寺の琴弾山
②高瀬の下高瀬
③多度津
④丸亀の亀山
4つの候補地のプラス面とマイナス面を検討しておきましょう。
①の観音寺については、琴弾八幡の門前町として活発な海上交易行う港があります。生駒時代には観音寺に枝城もありました。しかし、地理的に西に偏ります。また、瀬戸内海の海上交易路という海のハイウエーからは、庄内半島などがあり奥まった位置になります。
②の高瀬は、地理的には領土の真ん中です。しかし、当時は三野平野は大きな入り江でした。後背地が小さく将来性的には不安が残ります
③は、中世は香川氏が拠点としていた所で、居館(山城は天霧城)があった現在の桃陵公園が候補地となります。
④は領地の中で、最も東の端ですぐ東は高松藩です。地理的な偏りはありますがヒンターランドは広大な丸亀平野が金毘羅に向かって広がります。また、目の前の塩飽は海のハイウエーのサービスエリアとして、繁栄しています。家治の中では、③と④が最終候補として残り、最後に「亀山に城を築く」という決定がされたのではないかと私は考えています。 老臣たちは青山幸成の意見を参考にするよう進言しますが、家治は自説を守り亀山を選んだと伝えられます。

 家治は新城建設地を丸亀として幕府に報告します。
そして、幕府から下の「丸亀城取立に付いて老中連署状」ををもらっています。ここには次のように書かれています。
丸亀城取立に付いて老中連署状

丸亀城取立候について、銀三〇〇貫目これを下され候、すなわち大坂御金奉行衆え、添状相調え越候間受け取らるべく候、然れば差し当たり普請の外は、連々以て申しつくべきの旨仰せいだされ候、因って故当年参勤の儀は御赦し置きなされ候間、其意を得られ可く候、恐々謹言
二月六日                 阿部対馬守重次(花押)
阿部豊後守忠秋(花押)
松平伊豆守信綱(花押)
山崎甲斐守殿

「丸亀に城を築くについて銀三百貫をお前にやる。大坂の御金奉行からもらえ、そこへ添状は出してあるから」といった意味です。最後に当時の老中3人の花押があります。新城建設の補助金300貫が幕府から出されていることは驚きです。各藩のことは各自で取り仕切れという建前から、お城は全て自己負担で建てられるものと思っていたのですが、そうではないようです。
幕府からの「銀三百貫」というのは、どのくらいの価値なのでしょうか?
家治が富岡にいた頃の記録に「米一石=銀35匁」というのがあります。一石=一両で計算すると300貫÷35匁=8571石で約8570両ということになります。山崎藩の年間税収の1/3程度のようです。3人の老中の名前と花押が並び、最後にあて先の山崎甲斐守殿と記されています。これが家治のことのようです。

 家治が作った丸亀城がどんなものだったのか見ていきましょう
幕府は正保元年(1644)、二回目の国絵図・郷帳の提出を諸大名に命じて、同時に城絵図も出させています。
これが絵図が、正保の国絵図と城絵図です。山崎家治が丸亀城の再築城を開始するのは寛永19(1642)年9月のことでした。
1 讃岐国丸亀絵図
丸亀城(正保の城絵図) 
再建が進む丸亀城の様子が幕府に提出した城絵図には描かれているはずです。この絵図は、国立公文書館のデジタルアーカイブスでも見ることができて拡大・縮小が自由にできます。
1丸亀城 縄張図G
城郭部分を拡大すると上図のようになります

これで、丸亀城の当時の縄張りを見てみると次のようになります。
①亀山の周囲に、東西に28間、南北は東は216間・西190間、幅20間の堀をめぐらし
②山に石垣を積み立てて三ノ丸、その上にまた石垣を積み本丸とニノ丸がつくられ
③本丸・ニノ丸の隅には二層の櫓を建て、櫓の間は渡り廊下をもつ多聞塀で連絡されていた。
④本丸は山頂西寄りにあり、南北29間、東西は南方で23間、北方では南より約10間の長い鍵形で、
⑤北側中央には三層の櫓(矢倉、現在の天守閣)が設けられ、
⑥ニノ丸の南側中央には二層の櫓、東側には櫓門がつくられていた。
⑦当時の大手門は南東にあり、三ノ丸の南に続いていた。
⑧山の北側には藩主の居館と思われる山下屋敷の記載がある。
1 丸亀城 生駒時代

生駒時代の丸亀城


これを生駒時代と比べてみる比べて見て、研究者は次のように指摘します。
①天守台などのある位置が違っている。
②二の丸が生駒時代よりも狭くなっている。
③山崎城は、本丸と二の丸の周りに新しく三の丸が作られている
④「五の郭」が山下屋敷となっている
⑤生駒時代の城は「一の郭、二の郭、三の郭、四の郭、五の郭」とあったのが、山崎時代の城では、本丸、二の丸、そして三の丸が回りを取り囲んでいるようになっている。
ちなみに現在の丸亀城では、山下屋敷はありません。
 次に、丸亀城の断面図を見てみましょう。
1 丸亀城断面図

黒い部分が生駒時代のもので、白い部分が山崎時代のもので、東側から見ている図です。
①生駒時代の黒い部分は、天守台が一番上にあって、その下に一の郭があります。
②山崎さんの城は、この一の郭より5,6mぐらい上げて本丸を造っていることが分かります。
③二の丸は本丸の東側と北側にあって南側にはありません。
④三の丸は二の丸と本丸の周囲に造られています。
発掘調査で、現在の石垣側の端から3mぐらい入ったところを掘ってみると、生駒時代の城の石垣の跡が出てきました。ここからは山崎時代の本丸が5,6mかさ上げしたことがうかがえます。

出来上がった石垣の上に建ち上がった天守閣はどんな姿だったのでしょうか?
1 丸亀城天守閣 山崎時代

資料⑧「天守復元立面図」は、左の図が西側から見た天守閣で、右が南側から見たものです。左の図の一階の部分に白いところがありますが、これは多聞櫓のあったところで、幅二間半の廊下のような多聞櫓がこの天守閣に続いていたところです。
もう一度、山崎藩時代の城郭図を見てみましょう 
讃岐国丸亀絵図2

よく見ると斜面であった城の北側(海側)部分に、石垣が見えます。
 張り出して石垣を築いたので、そのために必要な土や石は、方々から集めています。たとえば内堀を東と西で山麓まで広げた際に掘り出した土や、山下屋敷の土をとって上へ運んだようです。こうして山麓直下まで堀を造れば、山下屋敷へ山伝いに入ってくることを防げます。張り出した石垣は上手な石工が見事な勾配を造りました。扇の勾配といって全国でも有名な石垣になっています。
   これは瀬戸内海をゆく船からは、良い目印となったでしょうし、モニュメントの役割も果たしたかもしれません。古墳時代に明石に築かれた五色塚古墳の石葺が、沖ゆく船への権威モニュメントとなったのと同じような効果があったのかもしれないと勝手に考えています。
丸亀城 正保国絵図拡大

丸亀城は、石垣の美が特色の一つとして挙げられます。    
先ほど見たように家治は、徳川家が復興した大阪城の天守閣石垣の入口周辺を担当しています。石垣作りには定評があったようです。丸亀城に石垣にも、それは活かされたのでしょう。この石垣を築くのに、家治が用いたのが羽坂重三郎だと伝えられています。
丸亀散歩~丸亀城を訪ねて(2015 11 21) - なかちゃんの断腸亭日常
伝重三郎の墓
彼の墓は、城の石垣の余材を用いたと云われる「伝重三郎の墓」が南条町の寿覚院にはあります。墓は全面に字が刻まれていたようですが、今は読み取れる字は少なく、「南無阿弥陀仏・為・第二回忌・正保三年八月三日」がかろうじて読みとれるようです。
  ここからは「南無阿弥陀仏」とあるので、真宗信者であったこと、正保3年が2回忌になることなどがうかがえます。お城の再建中に亡くなっていることになります。彼の生・没年、経歴等素性は、史料がないのではっきりとしないようです。石工ではなく、山崎時代の普請方で、城の縄張りをした人ではなかろうかという説もあることを丸亀市史は紹介しています。
   この石垣は、技術的に難しい急勾配の工事だったようです。そのためか石垣が何度も崩れます。家治に続いて俊家の時代には、石垣の修理工事や、堀を浚い、櫓を建てるなどの普請真性が幕府に出されています。幕府に修理を申し出て許されたのが資料⑩の史料です。
折りたたんだ文書なので、下側は逆向きになります。これが「修築についての老中の連署状」です。
1丸亀城 修築についての老中の連署状

丸亀の城の三の丸坤の角の石垣破損について、同所の櫓の壊れた石垣の築き直し、櫓立てること、並びに親甲斐守家治が上意を伺ってあった所々の普請の内、石垣・櫓門・多門・山下の屋敷構えの石垣等、同じく東南の堀浚えの事、絵図のとおり其意を得侯、もっとも前の奉書の趣を守られ、普請連々以て申し付けられ可く候、恐々謹言
慶安二丑正月二十三日                 阿部豊後守忠秋(花押)
  阿部対馬守重次(花押)
山崎志摩守殿                             松平伊豆守信綱(花押)
意訳変換しておくと
丸亀城の三の丸坤の角の石垣破損について、この箇所の櫓の壊れた石垣の築き直しと、櫓を建てること、について以前に家治から伺いがあった。これに対して石垣・櫓門・多門・山下の屋敷構えの石垣や東南の堀浚えの件についても、絵図のとおり普請を行う事を申しつける。

先ほど見た再建許可所である「丸亀城取立に付いて老中連署状」と差出人の3人の老中名は同じです。しかし、あて先は山崎志摩守となっています。初代の家治が亡くなって二代目俊家に代替えしています。この文書が出された前年の慶安1(1648)3月17日に、初代丸亀藩主山崎家治は55歳で亡くなっています。つまり家治によって築かれた石垣は、すぐに崩れたことになります。 お城の改修には幕府の許可が必要です。この文書は、丸亀藩からの許可申請に対する幕府からの許可状です。この達しに従って普請が行われ、堀浚えには八月初めから取り掛かり九月に終わり、橋も九月末には完成したようです。
山崎家三代の城主の統治年数を見ると、僅かな期間で交替したことが分かります。
丸亀藩山崎家領主一覧

山崎家治は慶安元年(1648)に55歳で没し、子の俊家が跡を継ぎますが、俊家も三年後の慶安4年に35歳で没します。このとき嗣子虎之助治頼は三歳です。そして、治頼も明暦三年(1557)3月6日に没し、山崎家は所領没収されます。これに先だって、俊家の弟の豊治が、6000石を分けられて仁保(仁尾)に居住してました。彼は備中成羽で五〇〇〇石を賜り、 以来その子孫は成羽領主として明治維新を迎えることになったようです。
  さて、山崎藩によって再建・改修された丸亀城はどうなっていくのでしょうか。それはまた、別の機会に・・・
丸亀城絵図3.33jpg

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献
   「直井武久 丸亀城について  県立文書館紀要創刊号」

 
1 讃岐国丸亀絵図
山崎藩が提出した丸亀城絵図

正保城絵図は、正保元年(1644年)に幕府が諸藩に命じて作成させた城下町の地図です。城郭内の建造物、石垣の高さ、堀の幅や水深などの軍事情報などが精密に描かれています。他にも城下の町割・川筋などが載されています。各藩は幕府の命を受けてから数年で絵図を提出し、幕府はこれを紅葉山文庫に保管・収蔵していたようです。幕末には131図が所蔵されていたようですが、現在は63の正保城絵図があります。この絵図は、山崎藩が提出した丸亀城絵図です。これを山崎藩が提出したのは、幕府の指示があった翌年、つまり1645年とされます。しかし、これについては、私は疑問を持っています。その疑問の背景を年表から見てみましょう
丸亀城を、年表で見ておきましょう。(香川県史の年表より作成)
1600年 生駒一正,徳川軍の先鋒として関ヶ原の合戦に参戦
1601年  生駒一正,徳川家康より讃岐17万1800石余を安堵       生駒親正・一正父子,鵜足郡聖通寺山北麓の浦人280 人を丸亀城下へ移住させる
1602年  生駒一正,丸亀城から高松城に移る.丸亀には城代をおく
1610年  生駒一正没する.56歳 生駒正俊,家督を継ぎ高松城に居住.この時に丸亀の町人を高松城下に移し丸亀町と称す
1615年  徳川家康,大坂再征令を発し,大坂夏の陣おこる.
     一国一城令公布.これにより丸亀城廃城となる.
1621年  生駒正俊,没する.36歳.生駒高俊,家督を継ぐ.外祖父藤堂高虎,生駒藩政の乱れを恐れて後見する
1626年  間旱魃となり,飢える者多数出る
1628年  西島八兵衛,満濃池の築造工事に着手する
     西島八兵衛,山田郡三谷池を修築する
1640年  幕府は生駒藩騒動の処分として生駒高俊を,出羽国矢島1万石に移す.
1641年  肥後天草の領主山崎家治,西讃5万石を与えられる。城地は見立てて決定するよう命じられる
1642年  松平頼重,常陸下館から讃岐高松12万石へ移封を命じられる。山崎家治,丸亀の古城を修築し居城にすることを許される
1644年 幕府は諸藩に城下町地図の作成提出を命じる
1648年  初代丸亀藩主山崎家治,没する.55歳 山崎俊家,丸亀藩第2代藩主となる。幕府,丸亀藩主山崎俊家に丸亀城修復・普請などの指示を出す
  生駒騒動後に、肥後天草からやって来たのが山崎藩で、1641年のことです。居城をどこにおくかについては、後ほど幕府に報告せよとの指示でした。引渡手続きに当たっていた要人達は、観音寺・多度津・丸亀を候補地としていましたが、丸亀に居城を置く可能性は低いと推察していたようです。
満濃池水掛村々の図

 その理由は、上の絵図を見ると分かります。これは明治初頭の「満濃池水掛かり村々図」で、丸亀平野の領地区分が次のように色分けされています。丸亀平野は、国割りの境界線が金倉川沿いに引かれ、領地区分けは次のようになりました。
①ピンク 高松藩
②草色  丸亀藩
③白色  多度津藩(京極家分家)
④黄色が天領 池御領
⑤赤色  金毘羅大権現金光院寺領
これを見ると分かるように、丸亀は高松藩の領地の中に取り込まれたような形になります。丸亀城から南に見える水田は、ほとんどが高松藩のものになります。丸亀は、西讃の東端になるだけでなく、戦略的にも問題があります。そのために、ここにお城を構えることはないだろうというのが、大方の見方でした。しかし、山崎家治は生駒時代の丸亀古城跡を改修し、新たな居城とすることを選択します。

年表でその後の流れを再確認すると、次のようになります
1642年 山崎家治,丸亀の古城を修築し居城にすることを許される
1644年 幕府が諸藩に城下町地図の作成提出を命じる
1648年 初代丸亀藩主山崎家治が没する.山崎俊家,丸亀藩第2代藩主となる。幕府,丸亀藩主山崎俊家に丸亀城修復・普請などの指示を出す
                   
最初に見た丸亀城の正保城絵図は、1645年に幕府に提出されたとされます。しかし、それに対する私の疑問点は以下の通りです。
①42年に「古城を修築」開始し、3年で完成していたのか。工期が短すぎる。
②48年に「丸亀城修復・普請などの指示を出す」とある。これが幕府からの正式の改修許可ではないのか。
③山崎氏の丸亀城は、48年以後に正式に大規模改修工事が始まり、それが完成したのは数年後のことではないのか
④丸亀城の正保城絵図は、1650年代半ばに完成した丸亀城を描いたものではないのか。
 当時は幕府の了承や指示なしで、お城に手を加えることは御法度です。それを破った安芸の福島正則がお取りつぶしになったことを、大名達は目の前で視ています。山崎家も廃城となっていた丸亀城を、居城とすることを幕府に伝えて、最低限の改修工事を行い、正式の許可が下りるのをじっと待っていたのではないでしょうか。その許可が下りたのが1648年ではないのかという仮説です。その指示を受けて、新城に向けた大規模工事工事が始まったのでしょう。そうだとすれば、工事終了はさらに後のことになります。
  「各藩は幕府の命を受けてから数年で絵図を提出」とありますので、各藩もすぐに提出したのではないようです。山崎藩の場合は、改修が完成した「晴れ姿」の丸亀城を描いて提出したかったはずです。そうだとすれば、提出が一番遅かった藩かも知れないと私は考えています。
そういう目でもう一度、生駒藩時代の丸亀城と、正保城絵図の丸亀城の拡大図を比べて見ましょう
       1 丸亀城 生駒時代
生駒藩時代の丸亀城
讃岐国丸亀絵図2
       山崎藩が提出した丸亀城絵図

この2枚の絵図から基本的な構図に変化はないようですが、建築物については、二の丸などの構造物も増えて大規模な改修が行われ、一新された姿になっていることが分かります。これは、肥後からやってきて2,3年で行えるものではないような気がします。仮説として、この絵図が作成されたのは1645年ではないこと、48年に幕府からの工事許可が出て、数年を経て完成した姿を描いたものである可能性があることを指摘しておきます。どちらにしても、復興した山崎藩の丸亀藩の姿を伝える貴重な絵図です。

この丸亀城の海側を見ながら読み取れる情報を挙げていきましょう。
讃岐国丸亀絵図 拡大

「讃岐国丸亀絵図」から海辺に近い部分を拡大したものです。
①東側(左)に土器川
②土器川から東側の外堀につながる東汐入川 河口の砂州の上に船番所
③北側の海岸線には、③砂州①が伸びて遠浅の浜辺を形成、
④西側にも砂州2があり、砂州1との間から⑤西汐入川が海に流れ出している
⑤の西汐入川は⑥舟入に船が入ることが出来る
⑥の外堀は⑧の寺町の水路を経て⑤西汐入川につながる
⑦古町と表記されたエリアが⑤西汐入川沿いにある
この絵図の④の砂嘴2が現在の福島町に発展していきます。福島町は、無人の砂嘴の上に作られた町場です。そして、③と④の砂嘴の尖端には、船番所が置かれています。

研究者が注目するのは、⑨の「古町」です。
丸亀城下町の海浜部
「古町」エリアを黒く塗りつぶしたのが上図になります。古町に当たる町名を、挙げると次のようになります。
上南条町  
下南条町  
塩飽町  
横町(現在の本町) 
船頭町 (現在の西本町)
西平山町 北平山町御供所町
これらの町は、山崎家入部以前の生駒時代にできた町です。だから「古町」なのでしょう。この絵図からは、丸亀城が廃城になっても、西汐入川の河口周辺には、漁師(水夫)や廻船関係者などが残り、浦や町場があったことが分かります。山崎氏が、ここを居城とした理由の一つかも知れません。
古町のルーツを見ておくと
①西平山・北平山・御供所の三町は、宇多津の聖通寺山麓の三浦から漁夫を、
②塩飽町は、沖合の塩飽諸島からの人たち
を生駒藩が丸亀城の築城の際に、この地に移住させて成立させたものです。
何のために、漁師達を城下に呼び寄せたのでしょうか? 
新鮮で美味しい魚が食べたかったという理由もあるかも知れません。しかし、当時の生駒藩を初めとする瀬戸内海の諸藩の課題は、九州平定や朝鮮出兵に向けた水軍の整備でした。そのため城下と一体になった湊の整備が求められていたようです。そのためには、水軍の主体となる水夫を城下に配置する必要があったと私は考えています。それは、高松城の場合にも見られる事です。
 「高松国絵図」に見えていた「町」は、このエリアのことでしょう。丸亀城廃城後も町場や浦(湊)が存続していたことが分かります。それは、東西の汐入川は、港(舟入)として用いられ、船番所も置かれています。また、この二つの川は、外堀につながっています。ここからは、城下町の整備と同時に建設された水路(運河)でもあったと研究者は考えているようです。これらが行われたのも山崎藩の時代になってからのようです。とくに西汐入川は、明治43年に河口に近い部分が付け替えが行われて、現在の流路となるまで、その役割を果たしていたことは以前にお話ししました。

丸亀城下町比較地図51

以後の丸亀城下町は、海に向かって発展していきます。先ほど見たように④の砂堆②に福間町が現れ、さらにその北に福島港が作られます。
1 文政11年(1828年)出典:丸亀市歴史資料館収蔵資料

そして、大坂からの金比羅船の受入港として発展していくことになります。
丸亀新堀1

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
   テキストは田中健二 「正保国絵図」に見る近世初期の引田・高松・丸亀」香川大学教育学研究報告147号(2017年)です。
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丸亀平野を流れる金倉川について、丸亀市史は「人工河川」説を唱えています。満濃池築造時に金倉川は流路変更され、その跡に用水路が整備されたと以前にお話ししました。そんな中で
「金倉川の下流部も、生駒藩時代に流路変更されている。旧金倉現在の現在の西汐入川である。」

という説が出てきました。それは、香川大学の田中教授です。この説を今回は、見ていきます。  テキストは田中健二 「正保国絵図」に見る近世初期の引田・高松・丸亀」香川大学教育学研究報告147号(2017年)です。
.西汐入川jpg
青が西汐入川の流路
 
廃城となった丸亀城  
慶長15年 (1610)に生駒藩では初代一正が亡くなると、嫡子正俊が家督を継ぎます。正俊は高松城を領国支配の拠点と定め、祖父親正の時代に築城された丸亀城を廃城とします。その後に作成された「高松国絵図」には城地に「圓亀古城」と注記され、「丸亀国絵図」 には、樹木の茂る小山として描かれいます。ここからは丸亀城は生駒時代に、城割は行われていたことがうかがえます。
廃城後の丸亀城址について
寛永17年(1640)2月15日「生駒高俊公御領分讃州郡村村並惣高帳」には、那珂郡の中で丸亀城跡の地名が次のように記されています。
一、高四百六石八斗九升壱合  圓亀(丸亀浦)
   内拾八石古作      見性寺領
    四拾七石三斗五升七合 新田悪所
また、翌18年10月20日の山崎家治宛ての讃岐国内五万石領之小物成帳には、次のように記されています。
一、銀子弐百拾五匁  円亀村
  但横町此銀ニ而諸役免許
一、米三石      円亀村
  但南条町・上ノ町此米ニ而諸役免許
この二つの史料からは、次のようなことが分かります。
① 廃城後の旧丸亀城下町は「」 や「村」になっていたこと
②しかし、築城後に作られた横町や南条町、上ノ町などの町場も残っていたこと。
生駒家の改易後、寛永18年(1641)9月、西讃岐五万石の領主としてやってきたのが山崎家治です。山崎家は翌年7月、丸亀の古城を修復し居城にすることを江戸幕府に認められ、丸亀城の再築と城下町作りに着手します。山崎家は三代で絶えますが、初代家治のとき、正保二年 (1645) に幕府の命を受けて、丸亀城の領分の絵図を提出しています。この時の絵図は、「讃岐国丸亀絵図」で検索すると、国立公文書館のデジタルアーカイブで閲覧できます。
 研究者は、同時期に作られた「正保国絵図」の 「讃岐国丸亀絵図」と比較することで、丸亀城下町とその周辺地域での開発の様相を明らかにしていきます。それを見ていきたいと思います。

金倉川流路変更 

まず研究者が示すのは上図です。高松市歴史資料館の「讃岐国絵図」 には「圓亀古城」とあり、海側に「町」と記されています。これが、先ほど史料で見た廃城後も存続した城下町の一部のようです。海沿いのほんの一部にしか過ぎなかったようです。この地図で、注目したいのは西側(右側)から回り込むようにして「町」の北に流れ込んでいる川です。最初は西汐入川かと思っていました。しかし、地図に書き込まれた地名を見ると、上流の流域が細い部分には、「上金倉」や「今津」が見えます。どうやら金倉川のようです。金倉川が今津の北で流域を広げて、大きく東に向きを変えて、丸亀城の北側で瀬戸内海に流れ出していたようです。

丸亀城周辺 正保国絵図
 一方、上図の国立公文書館版の讃岐国絵図を見ると、丸亀城の西側を流れる川は、そのまま北に直流して、下金倉村で海に流れ出しています。ほぼ同時代に、作られた絵図なのに金倉川の流路が違うのです。これをどう考えればいいのでしょうか。
研究者は「この両図が作成される間に金倉川の河道は、付け替えられた」と指摘します。
 ここで、研究者が注目するのは砂州や砂堆です。丸亀城の北側 (海側) に二本の砂堆 (砂嘴) が描かれています。先ほどの絵図では、金倉川の河口は、二本の砂堆の間にあります。この砂堆は、現在のどの辺りになるのでしょうか。次に研究者が利用するのは、国土地理院の土地利用図です。
丸亀の砂嘴・砂堆
 「図13」 は、丸亀城周辺地域の砂堆と河道を示したものです。
黒い部分が砂堆や砂州です。これを見ると丸亀城の北側の海岸線には、東西方向に延びる①と②の二本の砂堆が発達していたことが分かります。さらに、西北部には③と④二本の砂堆があります。これらの砂堆が並んでいるために、旧金倉川は北流することが出来なくて、砂堆と平行に東流して丸亀城の北側で海に流れ出していたようです。
丸亀平野の扇状地
多度津から丸亀の旧海岸線には砂堆や砂州が形成されていた

旧金倉川の流れをもう少し詳しく見てみましょう。
①河口に三角州帯が形成されたため⑤の砂堆に沿って東へ流れる
② ④の砂堆との切れ目を抜けて海岸近くへ流れる
③しかし、③や②の砂堆に妨げられてまたも東へ方向を変える
④最終的には②と①の砂堆の間から海へ流れ込む。
このように旧金倉川は、いくつもの砂堆によって北に流れることを邪魔されて、東へ東へと導かれていたようです。この流路地と【図12の「高松国絵図」に見える金倉川の流路は、一致します。以上から、次のように研究者は結論づけます。
旧金倉川は中津と今津との間を流れ東流し、九亀城北方の二本の砂堆の間で海へ注いでいた。
ところが「正保国絵図」では、金倉川は砂堆の間を通らず今津・下金倉間から真直ぐ北に流れ海へ注いでいる。一方、北方の二本の砂堆間の入江は金倉川とはつながっていない。ここには西汐入川が流れ込んでいた。つまり、西汐入川は、かつての金倉川の流路を流れていたのである。この川は【図13】から知られるように、中津から今津、津森にかけての後背低地や旧河道からの排水路の役割を果たしている。

それでは、金倉川の付け替えが行われたのは,いつでしょうか。
金倉川の流路変更2

その、決め手史料として研究者が提出するのが【図15】です。
この絵図の中央下よりの海岸線近くには、小判型の中に「円亀」と記されています。その上には小山に木が茂っている様子が描かれています。これが丸亀城跡のようです。「丸亀」の左脇に「三浦」が同じ小判型の中に記されています。寛永一七・八年ごろ、「丸亀浦」や「九亀町」と呼ばれていた城下町跡です。この地域が「古町」になるようです。
 河川については、土器川と金倉川が次のように描かれています。
①津郷の上井・高津両村と、同じく津郷の土器村との間を流れる土器川、
②下金倉村と杵原今津村との間を流れる金倉川
土器川の流路は、【図12】の「正保国絵図」と変わりありません。研究者が注目するのは、金倉川の流路です。こちらも「正保国絵図」と流路は同じです。ということは、【図12】の「高松国絵図」が作られたのち、「正保国絵図」が描かれるまでの間、さらに時期を絞れば、【図15】が作られる寛永10年(1633)までの間に、金倉川の流路は付け替えられたことになります。この間は、九亀城は廃城になっていた時期に当たります。九亀城は、無くなっているのに金倉川の付け替えという工事が行われなければならなかったのか。何らかの理由があったはずです。
  それを、研究者は次のように説明します。
旧丸亀城下町には、港が置かれていた。九亀は「」であって、そこは「町」となっていた。言い換えれば、港町として機能していたのである。その機能は丸亀城の廃止後も、保たれていたから、安全に船が出入りできるよう港湾の保全を図る必要があった。金倉川を遠方へ付け替えることで、洪水時の水量を減らし、港が設けられている河ロヘ流入する土砂の減少をはかったのである。

 お城はなくても、港と古町は残った。それを守るために金倉川の付け替え工事は、行われたと研究者は考えているようです。
 満濃池水掛村ノ図(1870年)拡大2
整備された満濃池用水

最後に、私の仮説を出しておきます。
 丸亀城廃城後の寛永10年(1633)までの間に、生駒藩が金倉川の付け替えと、西汐入川の新設を行ったことについて、もう少し広い視点から見ておきたいと思います。注目したいのは、この時期の西嶋八兵衛の動きです。襲い来る旱魃に対して、生駒藩奉行に就任した西嶋八兵衛は治水・灌漑を各地で進め、危機に立ち向かう姿勢を藩全体で作り出す事によって難局を乗り越えようとします。その目玉が1628年に着工し、3年後に完成させた満濃池でした。しかし、満濃池の水を丸亀平野全体に供給するためには、整備された用水網が必要です。

まんのう町 満濃池のない中世地図
満濃池が描かれていない絵図。かつての池の中に池之内村があった。

 ここからは以前にもお話ししたので要点だけ記します。
 満濃池の工事に先駆けてか、平行して、丸亀平野の用水路整備が行われたと私は考えています。これは治水工事とセットで行う必要がありました。その治水工事の大きな柱が、暴れ川の金倉川の流路変更です。何カ所かで金倉川は付け替えられた痕跡があることは、丸亀市史が指摘するとおりです。その時期は、満濃池完成までに間に合わせる必要があります。池ができても、用水路がなければ水は来ません。用水路を整備するためには、何匹もの龍が暴れるような川筋を持つ金倉川や四条川を「退治」する必要があったはずです。高松平野の郷東川や新川・春日川で行われたことが丸亀平野の金倉川に対しても行われたということにしておきます。
金倉川旧流路 与北町付近
善通寺与北町付近の金倉川旧流路跡 
 そして、金倉川下流での流路変更は、丸亀の湊と町を守るためであった。さらに、流路変更後の河川跡地が新田開発されていったのではないでしょうか。研究者は次のように指摘します
西汐入川は「中津から今津、津森にかけての後背低地や旧河道からの排水路の役割を果たしている。」
西嶋八兵衛の動き
1627年寛永4年8・- この頃までに,西島八兵衛,生駒藩奉行に就任
1628年寛永5 10・19 西島八兵衛,満濃池の築造工事に着手する
           この年 西島八兵衛,山田郡三谷池を修築する
 1631年 寛永8 2・-満濃池の全工事,完成する.
1635年 寛永12 4・3 奉行西島八兵衛,生駒高俊の命により矢原又右衛門に50石を与え満濃 池の管理を命じる
    9・8 西島八兵衛,山田郡神内池を築造する
1637年 寛永14 春 西島八兵衛,松島から新川の間の堤防築造。
1639年 寛永16 12・- 生駒帯刀と石崎若狭らの対立が拡大し、家中立退きの状況となる。生駒騒動勃発
1640年 寛永17 7・26 幕府,生駒藩騒動の処分として生駒高俊の封地を収公し,出羽国矢島1万石に移す.

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 
田中健二 「正保国絵図」に見る近世初期の引田・高松・丸亀」香川大学教育学研究報告147号(2017年)

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図書館で「新田橋本遺跡2 エデイオン店舗建設に伴う発掘調査報告書 2015年」という報告書を見つけました。この報告書を見たときに、「新田橋」っていったいどこ?という印象でした。
家電量販店のエデイオンの建設工事にともなう発掘調査だったようです。
丸亀の海岸線 旧流域図3
新田橋本遺跡周辺旧流域想定図
報告書のページをめくると出てきたのが上の図です。「新田橋本遺跡周辺旧流域想定図(S=1/20,000)」と題されています。私が探していた丸亀平野北部の流域復元図がありました。高速道路や11号バイパスの発掘で明らかになった流路をつなぎ合わせていくと、こんな流路復元図が描けるようです。かつて丸亀平野を流れていた河川の流路が黒く示されています。地図の西側を金倉川が流れています。その姿は現在の姿とは、かなり違います。堤防が整備される以前の金倉川は暴れ川で、一条の流れではなく幾筋もの流れとなって、網の目のような姿で瀬戸内海に下っていたことは以前にお話ししました。
丸亀平野 旧練兵場遺跡
善通寺王国の旧練兵場遺跡の復元図
その痕跡がこの復元図からはうかがえます。この図からは見えませんが金倉付近から平池・先代池へと分流する流れもあったと言われます。その流路跡に、平池や先代池は近世になって作られたようです。
 以前に丸亀平野を流れていた四条川のお話をしました。
『全讃史』には、四条川と金倉川が次のように記されています。
四条川、那珂郡に在り、源を小沼峰に発し、帆山・岸上・四条を経て、元吉山及び与北山を巡り、西北流して、上金倉に至り東折し、横に金倉川を絶ちて土器川と会す
金倉川、源を満濃池に発し、西北流して五条に至り、横に四条川を絶ち、金毘羅山下を過ぎ北流して、西山・櫛無・金蔵寺を経て、四条川を貫ぎ下金倉に至り海に入る」
ここからは四条川と金倉川は蛇が絡み合うかのように丸亀平野を流れ下っていたことがうかがえます。四条川は櫛梨山と摺臼山の間を、金倉川とともに下り、そして上金倉で流れを東に変えて、土器川と合流していたというのです。最初、これを読んだときにはそのルートを頭の中に思い浮かべることが出来ませんでした。しかし、発掘調査報告書に載せられたいくつもの復元流路図を見ていく中でなんとかイメージを描けるようになりました。
平池南遺跡 5m等高線地図

しかし、丸亀平野北部の河口部がどうなっていたのかは分かりませんでした。今回、この復元図が初めてです。
丸亀平野の扇状地

 もう一度、復元図を見て分かることをまとめておきましょう。
丸亀の海岸線 旧流域図3

①近代以前の金倉川は一条の流れとはなっていないことです。堤防もない時代は、台風などの洪水の時には丸亀平野を網の目のようになって海に流れ下っていました。その中の微髙地に人々は集落を構えていたとされます。これは、近世になるまでかわらないようです。
②新田橋本遺跡の西側には、かつての金倉川支流の西汐入川・竜川の旧流路や低地帯が広がり、瀬戸内海に注ぎ込む直前のエリアになるようです。
③遺跡の西側には天満池の低地が、また、東にも地形が緩やかに下っていきます。つまりこの遺跡は東西の低地に挟まれた微高地上にあったことがわかります。
④この遺跡から北には、集落遺跡は見つかっていません。そういう意味では、この「遺跡は丸亀平野の北限の集落遺構」となるようです。
⑤津森天神社あたりが河口で、那珂郡の湊があったとする人もいますが、確かに津森は河口にあたるようです。

  
調査書が記す丸亀平野の「遺跡概観説明」を見ておきましょう。
報告書の概況説明というのは、研究者には当たり前のことがさりげなく書かれていますが、素人の私にとっては始めて知ることも多くて、見逃せない部分です。私にとって気になるところを拾い読みしていきます。
まず弥生時代の集落遺跡ついては、次のように記されています。
弥生時代前期では、新田橋本遺跡の西に隣接する道下遺跡とその南部に続く中の池遺跡、平池西遺跡、平池南遺跡、平池東遺跡でまとまった前期後半の集落跡が確認されている。特に中の池遺跡は、屈指の規模を誇ることに併せて多重環濠を有することで注目されている
弥生時代中期には、飯野山中腹や南部の山間部など高地性集落へと移行しており、平野部全域で遺跡密度が極端に薄くなる。唯一旧練兵場遺跡で集落が造営される。

弥生時代後期になると、前期集落の分布区域に対応するように、集落が再生されているが、若千生活区域の変動が見られ、金倉川に程近い中の池遺跡では直近地における集落の再生は見られない。生活区域の変動によつて、平野北部では新田橋本遺跡、平野中央部で郡家原遺跡、三条番ノ原遺跡などで新たに集落が営まれるようになる。

ここからわかることは丸亀平野には、環濠をもつ集落がいくつも現れるのですが、それが続かないことです。前期の遺跡は中期になると姿を消していきます。その中で善通寺王国の王都である旧練兵場遺跡だけが継続して発展していきます。これをどう考えていいのか、気候的な変動があったでしょうか? 今の私には分かりません。
 それが弥生後期になると「復興」したり、「新興」の集落が登場してきます。そして、古墳時代には弥生後期の集落を継承する形で存続します。それが古墳時代後期になると、より内陸部に移動した集落が増えていると研究者は考えているようです。
 金蔵寺条里地図

 古代に入ると白村江の戦い(663年)後には、唐や新羅による侵攻に備えて、古代山城である城山が作られます。ここには、渡来人の技術力があったことがうかがえます。また、宝幢寺や田村廃寺などの古代寺院も地元の豪族達によって建設され始めます。彼らは同時に中央政府の進める条里制工事を積極的に担います。こうしての丸亀平野の大部分に条里制の地割が引かれます。大規模土地改良が行われた所は、大きく姿を変えていきます。この条里制による地割りは、現在においても一町(109.09m)四方に区画された方形の地割が残っていて、グーグル地図で見ると碁盤の目状の条里地割がよく分かります。しかし、これは一気に行われたのではなく、その多くのエリアは放置されたままだったことが発掘調査からは分かってきています。照葉樹林帯の森の中にぽつんと開かれた農耕エリアがあったとイメージした方がよさそうです。丸亀平野の開墾・開拓は近代まで続きます。その成果が、現在の姿です。
平池南遺跡調査報告書 周辺地形図

新田橋本遺跡の時代ごとの様子を見てみましょう
【弥生時代】            
弥生時代後期頃から、この地域では灌漑用水路の整備が始まります。東西両側が低地に挟まれた微高地にあたるために、集落が形成されるには適していますが、農業を行うためには農業用水に不足するエリアです。そのため上流域から大型の水路を整備しています。弥生時代に開削されたと考えられる大型の溝は3条見つかっています。これらの溝は、古代まで継続的に利用されていたようです。3本の用水路の中でもSD02は、他の溝と比べても合流等が多く、水量も多かったようで、特に重要なものだったと研究者は考えているようです。
 この時代の土器等は出てきたので集落機能はもっていたようですが、建物遺構は出てこなかったようで、詳しいことは分からないようです。
【古墳時代】
弥生時代に整備された大型の灌漑用水路が、古墳時代になっても使われています。しかし、中には埋没し、機能を終えた用水路もあったようです。溝は少し小規模化したようですが、その背景は分かりません。しかし、弥生以来の溝のほとんどは、条里制施行でほとんどが廃止され使用されなくなります。弥生時代と同じように、少量の土器の出土しましたが、建物遺構は出てきません。
【古代】
丸亀平野では、8世紀初頭から条里制施行の大規模土地区画事業が始まります。この遺跡の東にある津森位遺跡では、7世紀の終わり頃には条里地割に沿った溝跡等が確認されています。この遺跡の古代の遺構としての特徴は、条里地割に沿った溝が縦横に多く整備されていることです。更に、建物群が集中して建てられていたことです。出てきた建物跡は、全て掘立柱建物で、それ以前にも建物はあったようですが、条里制施行による土地改良で消失してしまったと研究者は考えているようです。
 発掘エリアの南部では、条里地割の坪界があり、ここには大型の東西溝があります。その南側には、少しランクの落ちる溝が併走しています。この間が道路と研究者は考えているようです。
特徴的なのは、海との関連が強く感じられるものが出てきたことです。
①製塩土器の出土があったこと、
②飯蛸壺が8か所から14点出土したこと。
津森位遺跡からは、やはり飯蛤壺保管用と考えられる土坑も見つかっているので、海岸線近くに立地した集落であったことがうかがえます。
【中世】
古代の景観が基本的には継承されているようです。15棟の建物遺構の内のいくつかは、柱穴の切り合い状況や形状から見ても中世に属するものと研究者は考えているようです。出土遺物も土師質土器片が多く出てきています。大型円形土坑が多く出てきましたが、これは中世につくられたもののようです。各圃地の隅部や縁辺部に配置されているので農業関連遺構のようですが、詳しくは分からないようです。
【近世】
古代以降の条里制地割が継承されています。柱穴列が確認されているので、近世までは継続して集落があったことがうかがえます。その後は、基本地割や景観を保ったまま今に至っていると研究者は考えているようです。

さて、注目したいのは「条里地割の坪界」とされる大型の東西溝がみつかっていることです。
丸亀平野北部 条里制

上図は丸亀平野の条里制復元図です。那珂郡は丸亀城を通る南北ラインを基軸手として、東から一条・二条と五条まで条があったことが分かります。里は南から打たれているので北側は24里まであったようです。
 空白部は条里制が未実施な所とされます。先ほど見た金倉川流域は空白地帯です。そして海岸線を見ると道隆寺より北側も空白地帯です。これは、当時はここが海岸線だったことを示します。
 ⑤の平池から北に流れているのが西汐入川です。その右岸(東側)は空白地帯です。つまり新田橋本遺跡付近は、条里制は施行されていなかったと研究者は考えいました。実際はどうだったのでしょうか。報告書を読み進めていきます。
土器川 扇状地


この遺跡は小字名に『新田』とあるように、周辺は近世の新田開発により形成された地域です。
史料には「町新田・丸亀新田・新興・丸亀新興」という名前で登場してきますが、正式な地名はなかったようです。明治になって丸亀新田となり、明治11年に新田村として那珂郡作原郷に属していましたた。

丸亀平野北部 条里制復元図

 この遺跡の場所は、新田町の北西端で、北は今津町、西は金倉町に接しています。そして、西の天満池水系と東の皿池水系に挟まれる微高地の上にあり、周囲には水田地帯が広がります。しかし、皿池水系エリアでは、条里地割とは軸がずれて水田が整備されています。ここからは、このエリアが古代の条里制施行の時に開発されたものではなく、近世の開発によることがうかがえます。そして、地元の研究者も、「新田」という地名から江戸期になって初めて開発された所と考えていたようです。
 しかし、今回の発掘では古墳時代の用水路が条里制施行によって埋められている跡が出てきました。つまり、この遺跡周辺も条里制実施エリアであったということになります。その復元図が上図になります。この復元図からは、新田橋本遺跡が那珂郡三条二十一里一ノ坪」に位置していたことが分かります。条里制施行による区画整理が行われた後は、大きな地割の変更は行われずに現代に至ったようです。現在の地割が、古代の状況を比較的留めていると研究者は考えているようです。
平池南遺跡 5m等高線地図

調査報告書には、発掘成果を次のようにまとめています
①弥生時代の灌漑用水路が、予想通りにでてきたこと
②古代の条里制施行により土地改良が行われ、現在の地割になったこと、そして、その後に新しい地割に沿った集落遺構が作られたことを裏付ける遺構が発見された
③新田橋本遺跡において初めての建物を検出したこと
④この地割に沿った集落造営は近世まで継続していたこと
①からは、微髙地に水を引いてくるために、上流の湧水などから用水路が整備されていたことが分かります。これは丸亀平野の弥生遺跡の一般的な姿のようです。
②③からは、この微髙地も条里制工事の対象で、8世紀の早い時期に工事が行われ、その後には集落が形成されるようになったことが分かります。
また、海岸線に近く丸亀平野で一番海に近い集落として、漁労活動も行っていたようです。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
新田橋本遺跡2 エデイオン店舗建設に伴う発掘調査報告書 丸亀市埋蔵文化財発掘調査報告書20号 2015年
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前回に続いて丸亀扇状地が、どのようにして丸亀平野になったのかを見ておきたいと思います。最初に下図に丸亀扇状地を重ねながら大きなターニングポイントを確認しておきましょう。

丸亀平野 形成史1
(0)更新世(洪積世)末期までに、土器川は丸亀扇状地を形成。平池から聖池あたりが扇状地末端
(1)更新世末期 土器川は丸亀扇状地の北に三角州を形成
(2)完新世初期 温暖化による海面上昇で三角州は海面下へ
(3)完新世中期 高温多雨化で、土器川の浸食作用激化 + 段丘面形成 =流路の安定化と堆積作用による砂州や潟の形成
(4)近世  下流域の沖積平野の形成と河口の潟湖の干拓

上の順番で丸亀扇状地が丸亀平野になっていく過程を追って見ることにします。
まずは①の扇状地がいつ形成されたかについてです。
 丸亀平野 姶良カルデラ
29000~26000年前 鹿児島湾の姶良(あいら)カルデラ火山が噴火し,火山灰(AT)を大量に日本列島に振らせました。この時期は、地球は最終氷河期で海水面が現在より約100m下がったようです。
丸亀平野 旧石器時代の日本図

そのためこの時期は、間宮海峡,宗谷海峡が陸つづきとなり、朝鮮海峡,津軽海峡は冬期に結氷し,アイスブリッジが架かった状態となります。
丸亀平野 旧石器時代の瀬戸内

瀬戸内は草原が広がり,湖沼が発達し、そこにナウマン象などの大型ほ乳類が大陸からやってきます。私たちのご先祖さん達は、現在の瀬戸内海の島々の頂上からやってくる獲物達を見張っていたようです。瀬戸大橋の橋脚となった島々の頂上からは、国分台や坂出市の金山のサヌカイトの石器破片が数多く出てきます。これらは中国地方にも搬出されています。
 以前にお話ししましたように、発掘調査では、丸亀扇状地の礫状の上から姶良カルデラの火山灰は見つかっています。この時代の土器川は、現在の平池や聖池のラインまで礫を運んできて、すでに丸亀扇状地の形成を終えていたことになります。その後に、火山灰は降り積もりました。氷河期は雨が少ないので、土器川の浸食・堆積作用は弱まります。この時期の丸亀扇状地は、現在の土器川の瓦のように礫岩が重なり積もる姿を見せていたのでしょう。土器川は北流し、岡山の高梁川などと合流し西に流れ、現在の佐田岬を迂回して足摺岬の西方で太平洋に流れ込んでいたようです。
これが一変するのが13000年前です。温暖化進み最終氷期が終わり,完新世が始まります。
 亜寒帯針葉樹林は年々少なくなり,広葉樹林,照葉樹林が広がり、草原もなくなっていきます。こうして寒冷気侯に適応し,草原を食料源にしたナウマン象,オオツノジカ等は絶滅します。代わって森林の堅果類,芽等をえさにするた中小哺乳類のニホンシカ,イノシシ,ツキノワグマ,キツネ,タヌキ,ノウサギ,ニホンザルなど、私たちに馴染みのある動物たちが登場します。地球が暖かくなるに従って、海水面は上昇し、鳴門海峡から海水が瀬戸内草原に注ぎ込み内海としていきます。
 このころには,日本列島は黒潮の流れ込みを受けて、夏季多雨,冬期多雪の気侯が形成されていきます。この時期のご先祖さまの住居は、洞穴,岩陰を利用したものが多いようです。瀬戸内平原でのナウマン象狩りから山間部の林の中での鹿や野ウサギ狩りへと生活スタイルを変えなければならなくなったようです。

 しかし、ご先祖さまはこの環境変化に適応すべく、次のような新たな「技術」を生み出します。
これが縄文時代の幕開けとなっていきます。
   土器の発明(堅果類,肉の煮沸)
   弓矢の発明(狩猟)釣針の発明(漁撈)
   尖頭器の改良―有舌尖頭器の出現(狩猟)
   石皿,磨石の増加(堅果類の調理)
   磨製石斧の増加(木器の製作)
   磨製石斧の出現.
 この過程で,どのような地形変化があったのでしょうか。
丸亀平野 気温変化
 
更新世はかつて「洪積世(こうせきせい)」とも呼ばれていました。  更新世末期の最後の寒冷期(ヤンガー・ドリアス寒冷期)が終わると、長期的で大規模な温暖化が始まりました。これを完新世の始まりとします。完新世には急激な温暖化により、氷床や氷河が解け、世界的に5m前後の海水面上昇が起こりました。特に今から約7000年前には、現在よりも温暖化していたため、海水面の高さは今よりも約3メートル高かったと推定されています。
 その後、海水面がやや低下して現在の位置になりました。海水面が上昇したことによって、それまで陸上の低地にあった河川に海水が流れ込んできて、河川の堆積物の上に海の堆積物が重なるという事態も起こりました。 これが丸亀扇状地の末端部やその下の三角州で起こったことです。

次に弥生集落と地形の変遷を淀川流域の例で見ておきましょう。
丸亀平野 地形変化

  上の説明を図示化すると下のようになります。
丸亀平野 平野形成

これを参考にしながら以前お話しした善通寺市の旧練兵場遺跡の集落の変遷について簡単に「復習」しておきます。

丸亀平野 旧練兵場遺跡
善通寺市旧練兵場遺跡 弥生時代の復元図
①丸亀扇状地(平野)は,土器川の流路が東西に変遷を繰り返して氾濫し、網の目のように流れ自然堤防を形成したため,微髙地に富んでいた。
②西からやってきた弥生人たちは、この微髙地を利用して定着し稲作を始めた。
③自然堤防上に集落、その後背湿地に小さくて不規則な水田が開かれた
④定期的に低地部分には洪水が襲ってきた。その結果,地形の逆転がしばしば起こった。
⑤大規模な洪水の際には起伏が増し,反対に小規模な場合には起伏差がなくなっていった。
⑥弥生時代中期末~後期,古墳時代後期には後背湿地部分の埋積が徐々に進んだ。
⑦7世紀末には、それまでの微髙地を含む起伏が少なくなり、今のような平坦な状態になった。
その平坦になった時期に、条里型土地割の水田が拓かれていきます。
背景には、この時期に土器川の堆積作用が激減したことがあるようです。
丸亀扇状地帯の一部で段丘化が生じたと研究者は考えているようです。分かりやすく云うと、段丘崖が出来ることによって、土器川の流れが限定化され安定化します。それに応じて、人々は土地利用や土地開発の方法を変えていくようになります。平面化した扇状地は、洪水が発生しなくなり堆積が停止ます。
これは何をもたらしたのでしょうか?その影響や結果を列挙していきましょう。
  ①地下水位が低下し土地が高燥化した。
このため,土地条件が安定し水害を受け難くなった。一方で地表面の更新が行われなくなり,同じ地表面を長い期間にわたり利用し続けなければならなくなった。
  ②地下水位の低下は湿田を、乾田化させ生産力を向上させた。
湿田と比較した場合,乾田は水管理がうまくできれば、裏作に麦をつくる二毛作が可能になったり,畜力を利用した耕作や、長鋤の利用も可能になります。これは、土地生産性を飛躍的に高めることにつながります。実際に、大阪府の池島・福万寺遺跡の中世旧耕土からは、鋤の痕跡やヒトや牛と考えられる馬蹄類の足跡が見つかっています。

  ③河川灌漑の場合には,従来の灌漑システムが段丘化により破壊されてしまうこともあった。
そのために段丘崖上まで水を引くためには、もっと上流側に取水口を設けることが必要となります。これにチャレンジしたのが中世に東国から西遷御家人としてやって来た東国武士集団だったことは以前にお話しした通りです。土器川右岸の飯山町には、そのような痕跡がいくつも残されています。

④段丘上では土地は高燥化し,より多くの灌漑用水が必要になります。濯慨がうまく行かない場合には,赤米のような耐乾品種の導入,あるいは水の管理しやすい小さな区画への変更が図られたかもしれません。また,水田から畠へ土地利用を転換せざるを得なかったかもしれません。最悪の場合,土地が放棄され荒廃した可能性もあります。
このような「耕地廃棄」と農民の移動は、中世では日常的であったとうです。 
⑤さらに,同じ土地で二毛作が行われると,程度の差こそあれ土地を疲弊させます。
このため施肥が不可欠となります。新灌漑システムは,荒廃しかけた土地の再開発には不可欠の条件になったでしょう。上流側への井堰の移動や溜池の築造などの方法がとられるようになります。
 これは善通寺の一円保絵図の中に描かれた有岡大池の築造過程で以前にお話ししましたので、省略します。
⑥一方、段丘下の現氾濫原面では、洪水が頻繁に起きます。
このため,堆積が急増し大規模自然堤防が形成されたり,砂州が急速大きくなったりします。例えば多度郡の港が、白方から堀江に移ったのも中世のこの時期です。弘田川の堆積作用で白方港は利用不能になり、代わって金倉川の堆積作用で形成された砂州の内側に堀江津が登場します。
洪水が集中する河原は「無主の地」として市が立つなどイベント広場として利用されるようになります。
例えば『一遍上人絵伝』に描かれた福岡の市は,吉井川(岡山県)の現氾濫原にできた定期市です。また,広島県福山市の草戸千軒遺跡は,芦田川の現氾濫原面に立地した河港でした。さらに,河川が上流から運んでくる土砂は海を遠浅にし,塩堤による干拓を可能にします。
 12世紀後半頃から干拓が成功し始めるのは,人々の土地開発に対する欲求,技術の進展だけでなく干拓が可能な場所ができたことと深い関わりがあると研究者は考えているようです。鹿田川(現在の旭川)の河口付近に開かれた備前国上道郡荒野荘絵図(1300年)は,まさにこのような様子を示したもののようです。

  丸亀平野は、平野と呼べるものではなく扇状地であったことが改めて分かります。
丸亀平野は、もともと扇状地の礫状の石が積み重なっていて、非常に水はけのよい土壌なのです。それが、完新世以後の洪水などで土砂が堆積して平面化しましたが、水はけがいいことには変わりありません。これは、稲作栽培には適さない土壌です。そのため善通寺一円保の寺領の水田率は、3割程度でした。そのような環境が讃岐の中世農民を、赤米の耕作や麦を重視する二毛作へと向かわせたのです。
 丸亀平野の水田化が進むのは、近世以後にため池と用水網が整備されて以後のことです。

 古代の用水網は貧弱でした。丸亀平野で最も進んだ勢力と技術力を持っていたと考えられる善通寺勢力(後の佐伯氏?)も、その水源は二つの湧水からの導水のみです。有岡大池が作られるのも中世になってからです。このような状況を見ると「満濃池」が古代に作られていたのかも疑問に思えてきます。中世の善通寺一円保は、金倉川からの導水も行えていない状態なのです。
古代に満濃池からどのようにして善通寺にまで水を運んできたのか。
池ができても用水路がなければ水は来ません。金倉川を通じて善通寺方面まで水は供給されたと簡単に考えていました。しかし、古代の土器川や金倉川の姿が見えてくれば来るほど、その困難さに気付くようになりました。地形復元なしで、土地制度や水利制度を語ることの「無謀」さも感じるようになりました。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献

  丸亀平野が土器川の扇状地として形成されたことを以前に紹介しました。
それでは、丸亀扇状地の末端はどこなのでしょう。また、いつごろにできたのでしょうか。
その疑問に応えてくれる報告書を見つけましたので紹介します。テキストは「平池南遺跡」香川県教育委員会 2018年」です。

平池南遺跡 上空写真1
 遺跡名は「平池南」です。上の写真の造成中の場所で、現在は丸亀競技場ができています。北側にある四角い池が平池です。その向こうには備讃瀬戸が広がります。つまり、この報告書は丸亀競技場の発掘調査書なのです。丸亀競技場は1998年のインターハイに合わせて作られたものです。その報告書が20年後に出されたのかは、私にとっては最初の「謎」です。それは、さておいて先に進みます。
平池南遺跡 上空写真2

まず、丸亀平野の5m等高線地図を見てみましょう。
平池南遺跡 5m等高線地図

これを研究者が見るとすぐに、扇状地だと気づくようです。私は、何十年見ていても気付きませんでした。この地図を見ていると、小さな谷が見えてきます。これがかつての土器川の痕跡と考えられます。谷には川が流れていたはずです。その流れを青色で書き入れて見ました。
調査報告書は、平池南遺跡について丸亀扇状地の先端に位置するとします。

平池南遺跡調査報告書 10㎝等高線図

遺跡は地表下90㎝に礫層があり、八つ手の葉状に3方向に突き出す平面形になっているようです。扇状地の微地形は、旧中州・中州間低地・旧河道の集合体なので数mの起伏をもった礫層を基盤層とするようです。そのため地表下90㎝という数字をめあすにしながら研究者は扇状地の範囲を推定していきます。
 その際の指標になるのが、鹿児島湾の姶良カルデラが2万9千~2万6千年前の噴火で降らした火山灰のようです。
この時の火山灰層の厚さは
20cm以上:九州北部、四国、中国地方、近畿地方
10cm以上:中部地方、関東地方
だったことが1970年代に分かってきました。つまり、この火山灰より下が更新世で、上が沖積世となります。また、この地層を境にして植物の種類が大きく変化しており、寒冷化の原因になったと研究者は考えているようです。

 昭和の終わり頃に進められた四国横断自動車道(高松~善通寺)建設に伴う発掘調査でも、東から郡家一里屋遺跡、龍川四条遺跡、龍川五条遺跡が発掘されました。その際にも、この火山灰層が見つかっています。このうち一里屋遺跡では、地表下40cmで火山灰層が見つかっています。ここから丸亀扇状地の形成は完新世ではなく更新世に遡るものであることが分かってきました。扇状地が形成された後に、姶良カルデラの噴火があったことになります。


丸亀扇状地の先端部とその北の三角州の境界関係は、下図のようになっています。更新世に形成された扇状地の堆積層の上に沖積層の三角州が堆積して被さっている形です。
平池南遺跡 洪積世

この境界に、段丘崖などの連続面が見つかれば素人にも分かります。しかし、それは丸亀平野では、簡単なことではないようです。そこで、研究者が行うのが旧河道の開折状況です。

1962年の空中写真を判読して作成したのが下図になるようです。
平池南遺跡調査報告書 周辺地形図

これを読み取って行きましょう
A 丸亀城の東1kmに⑪土器川が北流しています。
旧土器川の両河岸には、河川の蛇行によって形成された段丘崖が発達します。土器川は、西は善通寺の弘田川、東は飯山の大束川までを流路を変遷し、丸亀扇状地(平野)を形作ってきました。九亀平野の地形帯は、扇状地帯、三角州帯の配列で、中間地帯がないと研究者は考えていることは先述しました。まさに「丸亀平野=扇状地」なのです。
B その流路の最も東にあたる飯野東二瓦礫遺跡(飯山町)では、段丘崖下の旧河道から中世土器がでてきています。
土器川 流路等高線

ここからこの段丘崖が古代末に、旧土器川によって削られてできた完新世丘崖であることが分かっています。完新世段丘崖は右岸でははっきりと分かりますが、西側は分かりにくいようです。右岸側が攻撃斜面だったのでしょう。
C ⑪土器川の西側を見てみましょう。
平池南遺跡 地質図拡大

高速道路から北には、氾濫原面が広がっていたことが分かります。
 特に丸亀城の東南側(現土器町)では氾濫原面に向かって多数の旧河道が流れ込んでいたようです。旧河道は氾濫原面では分かりにくいのですが、上位の地形面でははっきりと地表面を刻んでいます。これは氾濫原面の形成で、浸食基準面が低下したために、その上位にあたる地形面が開折されたためと研究者は考えているようです。
 これらの旧河道を判読していると、明瞭なものと不明瞭なものに分けられ、上位の地形面が2面に分けられることがうかがえると研究者は云います。
 次に研究者は、丸亀城周辺の空中写真から次のような点を読み取っています。
①丸亀城の東南側の聖池西側に1m程度の小崖が1,5km近く連続していること
②九亀城西高校のグラウンド南側にも1m以上の高低差のある段差があること
③丸亀城に向かって背稜状に等高線の盛り上がりが見られること
④この盛り上がりを段丘面1と仮称する。
①については、先に見た5m等高線地図でも聖池から北の丸亀城の堀に向かって、流路があったことがうかがえます。丸亀城の堀は、その地下水の湧水があるようです。
また⑩庄の池 → ⑨馬池 → ⑦聖池 → ⑪土器川とつながる流路があり、現在のため池群は、その旧流路の上に近世になって築造されたようです。
さらに、⑩庄の池 → 田村池 → 先代池 → 天満池(西汐入川)の流路沿いにもため池が並びます。旧流路が扇状地に掘り込んだ凹地を利用しているのがよく分かります。

  次に丸亀平野の条里制遺構図を見てみましょう
讃岐の条里制については、南海道が最初に引かれて、それを基準に順次条里制ラインが引かれたと考えられるようになっています。そして、その時期は6世紀末から7世紀初頭の藤原京時代だとされます。
平池南遺跡 周辺条里制

上の遺構図を見て条里制が残る部分と、空白部があることが分かります。空白部は条里制が施行されなかったエリアになります。空白部なのは、次のエリアです。
①海岸部
②土器川・金倉川・弘田川の河川氾濫原
③土器川・金倉川の旧河道と考えられる流域
条里制のライン引きと、実際の施行(工事)との間には時間差があるようで、中世になってから工事が行われた所もあることが発掘調査から分かってきています。しかし、空白部は7世紀前後には、条里制を施行する状態にはなかったのでしょう。つまり、海の中か湿地か、氾濫原で耕作不応地帯だったと考えられます。そういう目で那珂郡の条里制の北部を見てみると次のような点が推測できます。
①那珂郡の一条から三条は、聖池から先代池の北部までは、湿地地帯であった。
②那珂郡の四条・五条は微髙地が続き耕作可能エリアであった。
③那珂郡と多度郡の境には空白地帯があり、これが旧金倉川の流路と考えられる。
④金倉川は、与北付近で近代に流路変更が行われたことが推測できる。
これら以外にも、先ほど5m等高線図や地形分類図で見た
⑩庄の池 → ⑨馬池 → ⑦聖池 → ⑪土器川とつながる流路
⑩庄の池 → 田村池 → 先代池 → 天満池(西汐入川)の流路
の周辺も条里制空白部になっています。

研究者は、これらの地形面と氾濫原面との間に、もう1面の地形面があることを指摘します。
それが聖池西側の小崖と土器川に沿う小崖の間に広がる地形面です。確かにこの地形面上には、周りから切り離されぽつんと条里型地割が残っているようです。氾濫原面だったら条里制跡は残りません。条里線のラインが引かれた時代には、完新世段丘Ⅰ面であった可能性があるようです。

ここまでで分かることをまとめておきましょう。
①土器川は、東は大束川、西は弘田川までのあいだで流路を変遷させて扇状地を形成した。
②丸亀市内における扇状地末端部にあたるのが平池南遺跡(現丸亀競技場)である。
③平池南遺跡の北側からは三角州が始まる。丸亀平野にその中間地帯はない。
④扇状地末端ラインは、先代池~聖池のでそこから北は湿地で、三角州や砂州が形成されつつあった。

  最後に出土品を一つだけ紹介しておきます。この写真は何だと思いますか?
IMG_0003

スタジアム部分から出てきた井戸です。3、5mの深さがあるようです。

平池南遺跡調査報告書 井戸jpg

太さ20cmほどの丸大で直方体の枠をつくり、その内側に板を並べ、一部では杭を打ち込んでいます。その内側にも九太を直方体に組み上げて、二重の九太によって矢板や杭を挟み込んで固定して、周囲の土圧に耐える構造にしています。一番上の九太の上には、花崗岩の切石を2段積み上げています。この石は現地で、加工したようで、石と石との間隙がほとんどないほど精巧に積み上げています。周囲への水による浸食や浸透を防ぐとともに、下部の構造物を押さえる役割を持たせていたのでしょう。職人の仕事です。
 天端から3.6m下が底で、砂礫層を掘り込んでいることが確認されています。扇状地の下の層まで掘り抜いているようです。丸亀平野では、地下水を得るための施設として、野井戸・堀・出水(ですい)がありました。
野井戸は、地下水を湧出させ、水路によって自然に流下させて灌漑に供する施設
堀は、方形で二間位の大きさ
井戸は、円形で径90㎝程度のもの
と定義されているようです。その定義からすると、これは井戸ではなく出水となるようです。いつ作られたのかは分からないようですが、昭和30年頃までは使われていたようです。地下水の出が悪くなったために埋め戻されたようです。  縄文時代以来、丸亀扇状地の末端微髙地に人々の生活の痕跡が残されています。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

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宝憧寺の伽藍は、近世に池となってその底に埋もれていきました。しかし、冬には水が抜かれて池干しされると、いろいろなものが採集されているようです。瓦破片以外に、池から出てきたものを今回は見ていくことにします。
南海道 宝幢寺塔心礎発掘

まずは、銅製水煙片です。
水煙は五重塔の尖端に付けられた相輪の一部分で火焔状をした装飾です。1977年に塔心礎より約30m東から出てきているようです。
宝憧寺 水煙破片

 心礎に加えて水煙の一部が出てきたことで、ここに塔が建つていたことを補強するものになります。


梵鐘鋳型と同撞座の鋳型も出てきています
 1976年に宝憧寺池の東側にある堤防の内側から発見されました。梵鐘の鋳型片など40数点の破片で、それを復原すると梵鐘の鋳型であることが分かりました。鐘の内径は約53㎝で、この鋳型で鋳た梵鐘の外径は約50㎝余りだったと推定されます。鋳型があるということは、出来上がった鐘が運ばれてきたのではなく、鋳物師が現地になってきて宝憧寺の近くで、梵鐘を造ったということなのでしょうか。
 鐘の鋳型と同時に撞座の鋳型も見つかっています。撞座は八葉複弁蓮華文で、直径9㎝で弁間に間弁がなく、雄蕊帯には莉が略されているようです。研究者によると「十五世紀前半のもの」されています。古代寺院のものではありませんが、15世紀前半まで宝幢寺が活動を行っていたことが分かります。また、讃岐の鋳物師が造った可能性も指摘されています。

 十一面観音木像    今は国分寺町の鷲峰寺に
 金倉寺にある記録「当寺末寺之事」の項目の中に宝撞寺のことを次のように記されています。
 一、此寺は清和天皇貞観年中(859)智証大師開基にて 自作の聖観音を以て安置の精舎也。即大師開基十七檀輪中の其一にて堂塔僧院数多こ校あり候所、永正、天文の争乱に伽藍残らず破壊仕り、其寺跡用水池と相成宝瞳寺池と云う。今池中大塔の礎一つ相二戮古瓦等多御座候バ  

ー、十一面観音木像 右は宝鐘寺池中より掘出し候て、郡家村社内に相納これあり候所、其後御城下 西新通町秋田屋三右衛門彩光を加えヘ 鵜足郡川原村神宮寺へ移し、これを安置す。
前半部については、前回にも紹介しましたの省略します。後半部のみ意訳すると
十一面観音木像は、宝鐘寺の池の中より掘出し、郡家村社内に保管していた。その後、丸亀城下 西新通町秋田屋三右衛門が彩光を加えヘ、鵜足郡川原村神宮寺へ移し、安置した。

ここからは、江戸時代に土手の土中から観音さまが現れたことが記されています。丸亀城下の職人が採色し、丸亀市飯山町坂本の旧川原村の神宮寺へ安置したとあります。しかし、現在はここにはありません。
神宮寺は明治の神仏分離で廃寺となり、本寺である国分寺町の鷲峰寺に移されました。
鷲峰寺 じゅうぶじ 高松市国分寺町 – 静地巡礼
鷲峰寺
 
鷲峰寺は鎌倉時代に、西大寺流律宗の拠点して再興されたお寺のようです。鎌倉時代作とされる四天王像が収蔵庫にいらっしゃいます。興福寺北円堂に安置されている四天王像をモデルにして作られているとされ、像の大きさは1mくらいであまり大きいものではありません。少し穏やかめの四天王という印象です。四天王像とともに安置されているのが十一面観音像です。これが宝憧寺から掘り出された「泥吹観音」のようです。
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  収蔵庫の扉口から拝ませていただくと、左胸前に水瓶を持つ立像姿です。室町時代中期か後期の作とされる等身大の美しい観音さまです。信者の方は「ごみ吹観音」「泥吹観音」と親しみを込めて呼んでいるそうです。それは、池中から掘り出され神宮寺に安置されたときからのニックネームだったようです。

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 なぜ土の中に埋められていたのでしょうか。
滋賀県の渡岸寺の国宝十一面観音も、織田・浅井の兵火の際、信者が地中に埋めて難を逃れたと伝えられます。戦乱の中で仏様をお守りする一つの方法が土中に埋めるという方法だったのかもしれません。
 阿波の三好氏か土佐の長宗我部の侵攻の際に、一時的に埋められたのでしょう。しかし、お寺は廃寺となり、観音さまはそのまま土中に放置されたのが、江戸時代になって掘り出されてということなのでしょうか。この観音さまが室町時代の作ととするなら、それまでは宝幢寺は存続していたことになります。
  薬師如来像
 宝憧寺池築造の時に出土したようで、現在は重元の照光寺に安置されているようです。高さ50㎝の木像の薬師如来で、その後に補修され今では、金箔の美しい像となっていると云います。薬師さまと一緒に現れた子持薬帥の石仏と手洗鉢も昭光寺にあるようです。

  石造観音像と石仏
 明治40年ころに宝憧寺池の北堤にある水門の東方約70mの池中から出てきたと伝えられています。長福寺(現在廃寺)へ安置されたようです。掘り出した石像は、二体の観音座像で、いずれも高さ38㎝です。同時に掘り出した光背のある石仏は、重元にあ墓地の六地蔵の傍らに安置されているようです。

宝幢寺池周辺から出てきた仏達や遺物を見ると、戦国時代に至るまで宝幢寺が宗教活動を行っていたことが分かります。
戦乱で荒廃した宝憧寺が復興されることはありませんでした。そして、江戸時代になり土器川の氾濫原の新田開発が進むにつれて、水不足が深刻化し用水確保が急務となります。そして、荒廃したまま放置されていた寺域がため池化されることになったようです。
  
 神野神社前から真っ直ぐに伸びる参道を東に行くと皇子宮に至ります。
宝憧寺 小笠原家顕彰碑

ここには「小笠原家顕彰碑」(1968年建立)が建っています。江戸時代に宝憧寺池を築いた時、そこにあった皇子宮をこの地に移すため、土地と移築費および維持費として八反余の田を寄進した小笠原家に感謝の意を表したものです。見てみましょう。
宝憧寺 小笠原家顕彰碑2
       小笠原家顕彰碑
 小笠原家は、元備前小串乙岡山巾南辺での城主であったが、応永年中(1394)当郡家郷三千石を領し名主として領家に住し、爾来地方文化政治経済の開発に貢献した。殊に宝憧寺廃寺跡に溜池を築造するに当り、宝瞳寺鎮守神皇子神社も亦池中に埋没するにつき、寛文十二年(1672)小笠原与右衛門景吉自費で八代荒神の側に新に社地を卜し、移築費と維持費として下記の土地を永代寄進されたが、大東亜戦争後の農地解放によりすべて解放された。
 惟うに斯くの如く小笠原家の恩恵は永く当代に及び稗益する所実に大である。依って郷土の人々挙って往事の遺徳を追慕し、共に相謀りて碑を建て 茲にその功績を顕彰する。
  昭和四十三年四月 (世話人、建設者略)
 小笠原家は、戦国末期の仙石秀久のころは在野にあったようです。松平初代頼重の時代には、召されて郷侍となり十石を支給されます。その後、周辺荒地の開墾などの功により加増され26石となります。その後、高松領、丸亀領、金刀比羅社領地の境改めの役を申し付けられたり、那珂郡の大政所(大庄屋)を勤めるなど、江戸時代は郡家の名家だったようです。
 明治維新には郡家小里正であったため、明治4年9月の旧藩知事松平頼聡の在国嘆願のため東讃より起こった騒動で家を焼かれます。さらに2年後には三豊郡から起こった血税一揆によって、新築したばかりの家をまた焼かれてしまいます。維新後の目まぐるしく変わる世の中にあって、小笠原家は戸長として村のため力を尽くしたようです。戦後になって顕彰碑が建てられています。

 ここからは、今の皇子神社は宝幢寺池の敷地内にあったのが、池の建設に伴い現在地に移動してきたことが分かります。宝憧寺池建設の中心的な役割を担ったのも小田原家であったようです。

以上をまとめたおくと
①宝幢寺池周辺からは、旧宝幢寺の仏像や遺物が数多く出ていている。
②青銅製の水煙破片は、塔の相輪の一部と考えられ五重塔があったことを補強する
③鐘鋳型は14世紀前後のものであり、宝憧寺の鐘が周辺で作られたことをうかがわせる。
④現在、鷲峰寺に安置される室町時代の十一面観音は宝憧寺にあったもので、この時期の宗教的活動を証明ずける
⑤神野神社の御旅所である皇子神社は、宝憧寺池築造の際に現在地に移転してきたものである。
⑥宝幢寺池築造には、後に大庄屋を勤める小笠原氏の関与がうかがえる

以上 最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
 参考文献
丸亀市史
直井武久 丸亀の歴史散歩 1982年

 南海道 八条池と宝幢寺池

宝幢寺池は丸亀市の郡家にあります。3つの池がパズルのように組み合わさって四角い形をしています。その南を南海道が通過しています。宝憧寺池の下池は、冬になり池干しのために水が抜かれると、塔心礎の大きな石が現れます。
宝憧寺 心礎遠景

ここには、古代寺院があったようです。それがいつの時代かに廃寺になり水田化されていたのを17世紀になって、池が築造されることによって池底に沈んだようです。昔から宝幢寺と呼ばれていたので、出来上がった池も宝幢寺池と呼ばれるようになります。この池から出土したもの、池を築造する際に移転したものなど探りながら、宝憧寺について見ていくことにします。
  DSC00285

 金倉寺の古記録(香川県文化財保護調査会『 史跡名勝天然記念物調査報告第11所収』 には、宝憧寺のことが次のように記されています。
「此寺者清和天皇貞観年中 智證大師開基ニテ 自作之聖観音所安置之精舎也、即大師開基十七檀輪中ノ其十一二而堂塔僧院数多有之侯所 天文争乱二伽藍不残破壊仕り 基跡用水池卜相成宝瞳寺池卜云今池中二大塔礎石―ツ相残 り、古瓦箸多御座候」
意訳しておくと
この寺は清和天皇貞観年中(859年~877)に智證大師が開基し、自作の聖観音菩薩を安置した。つまり智証大師が開いた十七の寺院の中の十一番目の堂塔で僧院も数多くあった。しかし、天文年間の争乱で伽藍は残ず破壊された。その後、寺院跡は用水池となって宝瞳寺池と呼ばれるようになった。今この池の中には大塔礎石がひとつ残っている。また古瓦も数多くある。
 
ここからは次のようなことが分かります。
①宝憧寺は貞観年中(9世紀後半)に智證大師作の観音菩薩を本尊として建立され、
②天文年間 (1552~ 1554)に「伽藍は残らず破壊」され戦国乱世 に荒廃した。
③天明5(1785)に里正小笠原輿衛門によって宝瞳寺跡に溜池が築かれ、礎石が残る
しかし、出土した瓦は、四重孤文軒平瓦、複弁蓮華文軒丸瓦などで、奈良時代前期や白鳳時代のものです。古代の郡司レベルの豪族達の氏寺として建立されたと考えるのが妥当のようです。智証大師以前に作られた古代寺院のようです。
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文献資料では、宝憧寺があった中世の郡家郷は、
①15世紀半ばの鎌倉時代に後嵯峨上皇預となり
②嘉元4(1506)年『御領目録』には、前右衛門督親氏卿の所領
と中央の権門勢家の荘園となっていたことが分かります。そのような情勢を伝える地名として、郡家小学校周辺には『 地頭 』『 領家 』などの地名が残ります。
これらの資料を受けて宝幢寺について、丸亀市史は次のように記します
白鳳時代に創建された寺で、創建されてから800有余年にわたって繁栄したが、永禄元年(1558)、阿波の三好実休が讃岐を支配下に置こうとして、多度・三野・豊田の三郡を領有していた香川之景を攻めて那珂郡に侵入した永禄合戦の際に兵火にかかり、再興に至らずついに廃寺となった。
 慶長年間に宝憧寺池、続いて寛永9年(1672)に上池(辻池)が築造された」
とあります。
これだけの予備知識を持って、現場に行ってみましょう
宝憧寺 心礎近景

冬になって水が抜かれて池干しされると、宝憧寺上池には大きな石が水の中から姿を現します。 かつて放置されていた礎石類も今は、心礎周辺に配置されています。礎石は動かせても、この塔心礎は大きすぎて動かすことが出来ずに、そのまま池に沈めたようです。
南海道 宝幢寺塔心礎

 この石は花嵩岩の自然石で、最大南北185㎝、東西約230㎝、高さ約67㎝の大きなもので、池の築造の際に動かせなかったというのも分かります。しかし、古代の建立時には、ここまで運んできています。考えられることは
①近世の灌漑水掛かりのエリアから集められる労働力では動かすことは出来なかったが、古代の郡司クラスの有力者の動員できる労働力では移動可能であった
②古代には、渡来人系の専業技術者集団がいて、少人数でも移動させることの出来る技術や工具を持っていた。
③近世の人たちには、移動させたり利用する意図がなかった。人柱のように、水に沈めた方が自然であった。
まあ、頭の体操はこのくらいにしておきましょう。

断面図を見れば分かるように、平坦にされた上面に柱座が彫られ、その中央にU字型に舎利孔がうがたれています。段の部分を舎利を入れた心孔の蓋と考えると、二重式心礎ではなく、三重式心礎になるようです。心礎上面には、排水溝も掘られています。
 心礎の設置工法は、飛鳥時代は地下式心礎、白鳳時代は地表に露出する工法が一般的と云われているようです。宝幢寺の心礎は、心礎上面が池の外側の水田面より約50㎜、現地表面より70㎜ほど高いので地表に出ていたことがうかがえます。心礎の設置状況や形状からは、白鳳時代の特徴をよく示す心礎で、建立当時から動かされた形跡はないと研究者は考えているようです。

調査報告書には、トレンチを入れた調査の結果を次のように記します
宝憧寺 トレンチ
  
①心礎を中心として土壇が広がり、その上面にはおびただしい河原石が散らばっている
②土壇は、上池からの通水のために、二箇所で掘削されている
③その上面も、築堤以来の土手改修などによって、何度も大規模に削平されている。
④土壇上が良質の粘質土のため壁土やカマド用に、地元民が土取りを行ってきた痕跡がある。
以上によって、旧地表面は完全に失われていたようです。
伽藍の形式は分かったのでしょうか?
①土壇は、東西方向の長さが90m。南北方向は、北辺のみ確認できた。
②仁池や上池の池中からも瓦片が多数でてくることから、寺域は2つの池にも及んでいた
③伽藍形状は方形か、南北に長い矩形
④伽藍配置については、部分的な発掘のために分からない。
⑤上壇の南北方向の軸は、N20°Wで、丸亀平野の条里遺構N50°Wと大きくズレがある。
⑥土壇は、5層からなっていて土壇として造成された第1層と第2層は、粘質土に河原石を混ぜて固めたもので、県下には類例のないものである
⑦塔心礎以外に礎石はない。
現在心礎の周りに並べられている礎石群は、その後の堤防工事などで出てきた者を無作為に並べてあるようです。

昭和15年発行の『史蹟名勝天然紀念物調査報告第 11』 には、次のような記載があります
金堂は基壇と思しき土壇あって東西約25米 、南北約20米である。塔婆は基壇と思しき土壇 あって東西約15米、南北も同 じく約15米である。心礎を中心として瓦礫が散在 している。金堂と塔婆の間隔は10米、金堂より東方20米 、塔婆より西方20米 にて寺域が終わっている。

80年前の戦前に書かれたこの報告書には、塔心礎の東に金堂が並ぶ法隆寺式の伽藍配置ではなかろうかと以下のような配置を推定しています。その根拠は、古瓦の分布密度から心礎から南へ中門・南大門が建っているとの推察です。

南海道 宝幢寺推定伽藍図

 もし法隆寺式の伽藍配置とすれば、塔跡の東に金堂の土壇があるはずです。しかし、1980年の発掘調査では、土壇の跡を発見することはできなかったようです。そのために丸亀市史は、伽藍配置は「不明」としています。

 戦前は、古代寺院を中央の大寺の分寺として捉えようとする傾向が郷土史家には強かったようです。そのため
「宝幢寺は、那珂郡の郡司庁の所在地であったし、法隆寺の荘園でもあったので、その分寺が建てられたものと思われる。」

と考えられていたようです。今は、東大寺が讃岐に置いたのは拠点で、寺院と呼べるものではなかったことが分かっています。代わって白鳳時代の寺院建築には、壬申の乱以後の政治情勢が色濃く反映していると研究者は考えるようになっています。つまり地方の有力豪族の論功行賞の一環として古代寺院の建設が認められるようになり、争って地方の有力豪族が建立を始めたというストーリーです。そうだとすると考えなければならないのは、次のような点です
①郡家に宝幢寺を氏寺として建立した地域有力者とは何者か?
②彼らの祖先の古墳時代の首長墓はどこにあるのか?
③どのようにして古代寺院の建築技術集団を招いたのか。
④周辺の有力者とは、どんな関係が結ばれていたのか(善通寺の佐伯氏 金蔵寺の因岐首氏)
⑤多度郡や鵜足郡では、古代寺院と郡衙と南海道はセットで配置されているが那珂郡ではどうなのか
  これらを課題としながら出てきた見てみましょう
宝憧寺池、仁池などから出てきた瓦には次のようなものがあるようです。
 ●八葉複弁蓮華文軒丸瓦(奈良時代)
 ●四重弧文軒平瓦(白鳳時代)
 ●均正唐草文軒平瓦
  ・そのほか多数の布目平瓦
宝憧寺 出土瓦1


これらの瓦は、どこで焼かれ宝憧寺まで運ばれてきたのでしょうか
その一部は、鳥坂峠を越えた三豊市三野町の宗吉瓦窯跡で焼かれたことが分かってきました。
三野 宗吉遺2
宗吉瓦窯跡

宗吉瓦窯は、初めての瓦葺き宮殿である藤原京に瓦を供給するために作られた最新鋭のハイテク工場だったことは以前にもお話ししました。その窯跡からは,いろいろな種類の瓦が出土 しています。その中の軒丸瓦は、単弁8葉蓮華文の山田寺式の系譜を引くもので,これは三豊市の豊中町の妙音寺のものと同笵でした。
また8号瓦窯からは、重弧文軒平瓦,凸面布目平瓦などが出土し,その中の軒瓦が宝幢寺跡から見つかっていた瓦と同笵であることが分かっています。つまり、三野町の宗吉瓦窯で焼かれた瓦が、妙音寺や宝幢寺に運ばれて使われていたということになります。
宝憧寺 軒丸瓦

これまでの調査からは、次のような事が言えるようです。
①宗吉瓦窯は、在地有力氏族によって造営された妙音寺や宝幢寺跡の屋瓦を生産する瓦窯として作られた
②その後,藤原宮所用瓦を生産することになり、多くの瓦窯が増設された。
③そこでは藤原京用に,軒丸瓦6278B,軒平瓦6647Dの同笵瓦が生産された
また、宗吉瓦窯から南500mには古墳時代後期に操業を開始した瓦谷古窯や7世紀前半から8世紀初頭にかけて操業した三野古窯跡群などの須恵器窯が先行して操業していたことが前提条件 になっていたと研究者は考えているようです。
 つまり、三豊湾沿岸東部は7世紀前半から8世紀初頭にかけて,讃岐で最大の須恵器生産地であったのです。そのような中で、須恵器生産エリアを支配下に置く有力者が、自分の本拠地に氏寺を造営することになります。その際に、瓦技術者を誘致すると共に。それまでの須恵器工人を組込むことによって、自分の氏寺用の瓦生産を行ったようです。その結果、完成するのが豊中町の妙音寺です。これが7世紀半ばから末にかけてだったことが出土瓦から分かるようです。そして、この寺院建立を行ったのは、壬申の乱で一族に功績者が出た丸部氏だと研究者は考えているようです。
当時の氏寺建立は郡司クラスの地方豪族のステイタスシンボルでした。
空海の佐伯家や智証大師の因岐首氏を見ても分かるとおり、地方豪族の夢は中央政府の官人となることでした。そのステップが寺院建立であったのです。ある意味、古墳時代の首長たちがそのシンボルである前方後円墳を競って築いたのと似ているかもしれません。
 丸部氏の氏寺建立を見て、多度郡や那珂郡の郡司達も氏寺建立に動き始めます。その際に協力を求めたのが、すでに寺院を完成させている丸部氏です。彼を通じていろいろな技術者集団との連絡を行ったのかもしれません。そして、実績のある宗吉瓦工場へ瓦を発注したことが考えられます。
 瓦は三野町からどのようにして運ばれてきたのでしょうか。
  大日峠越えの南海道が整備されるのは8世紀初頭で、まだできていません。鳥坂峠越えの道を、人が担いで運んだのでしょうか。
三野 宗吉遺跡1

考えられるのは、舟を使った運搬です。以前にもお話しした通り、当時の宗吉瓦窯跡は、三豊湾がすぐ近くにまで湾入してきていました。そこで舟で多度津の堀江港か、土器川河口まで運んだことは考えられます。その輸送実績が、藤原京用の瓦受注につながったのかもしれません。どちらにして、古代の宝幢寺や善通寺の瓦は三豊から運ばれてきたことを押さえておきたいと思います。
ここからは隣接する郡司(有力豪族)間の協力関係がうかがえます
 当時は白村江の敗北や壬申の乱など、軍事的な緊張が続く中でその対応策として、城山や屋島に朝鮮式山城が築かれ、軍道的な性格として南海道の工事も始まろうとしていました。これらの工事をになったのは各郡の郡司だちです。かれらは、府中の国府に定期的に出仕もしていたようです。
そのため軍事的緊張下での大土木工事は、地方有力者の求心力を高めるベクトルとして働いたのでないでしょうか。
各郡の郡司と氏寺を次のように想定しておきましょう。
多度郡の佐伯氏  氏寺は 仲村廃寺・善通寺
三野郡の丸部氏      妙音寺
那珂郡の因岐首氏     宝憧寺
鵜足郡の綾氏       法勲寺
彼らは、緊密な関係にありそれが氏寺造営にも活かされたとしておきましょう。今回は、宝憧寺の瓦までです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献
小 笠 原 好 彦 藤原宮の造営と屋瓦生産地  日本考古学第16号
丸亀市教育委員会  宝憧寺跡発掘調査報告書1980年

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岸の上遺跡 グーグル

前回お話ししたように、岸の上遺跡を通る大道が南海道であることが分かると、実際に南海道を歩いて調べてみようという動きも出てきているようです。その成果が「ミステリーハンターによる南海道調査報告書」として出されています。これはPDF fileでネットでも見ることができます。これをテキストに、丸亀平野の南海道を歩いてみることにしましょう。
  スタートは岸の上遺跡です。この遺跡からは、真っ直ぐに西に向かって伸びる南海道の側溝跡が出てきました。それが下写真の道路の左側の溝です。
岸の上遺跡 南海道の側溝跡

そして、遙か西に見える善通寺・五岳山の我拝師山に向かって道が伸びています。この市道が、かつての南海道になるようです。

岸の上遺跡 イラスト

 そして、この道の北側には総倉造りの倉庫(正倉)が5つ並んで出てきました。倉庫が見つかれば郡衙と云われますので、ここが鵜足郡の郡衙跡であることはほぼ確実となりました。南海道と郡衙が同時に出てきたことになります。
 この遺跡の南には古代寺院の法勲寺跡もあります。郡司として南海道や条里制工事を主導した鵜足郡の郡司としては、法勲寺を氏寺としたという綾氏が第1候補にあがってくるようです。

岸の上遺跡の150m西にあるのが下坂神社です。
DSC08088

  郡衙に最も近い宗教施設になります。南側から見ると神が讃岐に降り立ったと云われる甘南備山・飯野山を背負っているように見えます。そして、鳥居の前を南海道通っていたのです。飯野山の里神社として古来より機能していたのではないかとも思えてきます。
DSC08094

  境内に入っていくと大門から拝殿が見えます。そして、その向こうに飯野山があります。飯野山を御神体として祀っていたことがうかがえます。
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    本殿の裏には、御手洗池と名付けられた湧水があります。郡衙との関連を付けをしたくなる雰囲気に充ち満ちている神社です。
岸の上遺跡周辺 土器川までグーグル

下坂神社前の市道(旧南海道)は、西蓮寺のある東小川集落を抜けて土器川右岸に出ます。
岸の上遺跡 南海道大川神社

 ここには大川神社の大きな碑と燈籠が立っています。これは、雨乞の大川講の名残のようです。大川神社は雨乞いの神や安産の神として、広く信仰を集めてきました。里の集落では、大川神社を勧請して祠を建てこれを祀りました。また大川講を組織して一つの信仰集団を結成していたようです。
 大川講は吉野大峯山の山上講とよく似ていました。山伏を中心に、講の内容は、雨乞い講と安産講の二つに分かれていました。雨乞い講は主として土器川沿いに広がり、雨乞いのための代参が行われました。明治に入ると代参は廃れます。代わって大川神社を地元に勧請して、祠、または大きな石を立て大川神社を祀るようになります。
ここの大川神社については、琴南町誌によると次のように書かれています。
「明治二十五(一八九二)年六月の大旱銃の時、松明をたいて雨乞いをした。この時大雨が降ったので、飯野山から大きな石を引いて来て大川神社を祀った。ここは昔から五輪さんがあって雨乞所といわれ、旱魅の時臨時に大川神社の神を祀り雨乞いをした。すると必ず雨が降ったという。いつごろからか分からないが、大川講のようなものがあって、大川神社に代参して大川の神を迎えてここに祀り雨乞いをした。また大川のお水を三角からもらってきて祀った。ここには地主神など祀ってあり、春と秋(現在は夏)にはお祭りをし、市なども行われる。春のお祭り(五月三日)にはよく雨が降った。ここは昔は、東小川、西小川、二村、西坂元の四か村がお祭りをしていたが、現在は地元だけでお祭りをしている。」

地神とともに大川講の跡が残っています。
 古代の土器川の流路は、よくは分かりませんが南海道ができたころはこの上流で東流し、大束川に流れ込んでいたようですので、ここが土器川の渡河地点とは言えないようです。
DSC08058

 大山神社の下の河川敷は公園に整備されていました。こからも飯野山の美しい山容が望めます。

土器川を渡って西に進むと八条池の南側に出ます。
  この手作りの条里制地図は、善通寺の郷土資料館に展示されている物です。
岸の上遺跡 那珂郡条里制

これを見ると、土器川は①鵜足郡と②那珂郡の郡境ラインの役割を果たしていないことがよく分かります。①鵜足郡の8条は、現在の土器川の左岸(西)に入り込んできています。ちなみに⑤にある池が「八条池」です。これは鵜足郡の条里制の8条にあったからだということが分かります。
そして南海道は
那珂郡の13里と14里ライン
多度郡の6里と7里ライン
で赤いラインになります。このラインが基準ラインとして、南海道が建設され、これに直角・平行に条里ラインが引かれて条里制工事がおこなわれたと研究者は考えているようです。

DSC08033
八条池からの飯野山   

八条池には冬になると、何種類もの鴨たちがやってきて羽を休めています。その湖面のむこうにも飯野山が見えます。白鳥は丸亀城で繁殖したものが移されているようです。
 ちなみに、丸亀平野のため池が作られるのは、近世になってからです。周囲の土器川の氾濫原の水田化とともにため池が作られた経緯があるようです。その際に、条里制区割りがされていた所に作られたため池は、四角い皿のような形になっています。条里線地割に沿って、土地を買収し掘り下げたためにこのような形になったとされます。これを皿池と呼んでいます。この池の隣の宝幢寺池は、その典型のような形です。しかし、この八条池は四角ぽくありません。凹地に堤防を作ってせき止めたことがうかがえます。そこからも、この地は条里制が施行されていなかった氾濫原や河道跡であったことがうかがえます。この北側の金丸池も旧河道跡に作られたものと私は考えています。

南海道 八条池と宝幢寺池
黒太実線が旧南海道

八条池からさらに西に進みたいのですが、旧南海道跡はこの辺りでは姿を消して、進めなくなります。この辺りでは大道としての機能をなくし、周囲の水田に次第にとりこまれていき姿を消したとしておきましょう。 
 南海道は宝幢寺池のすぐ南を通過していました。
この池は3つの池から出来ていて、上空から見れば分かるように池の中を堤防が渡っています。
DSC08018

この内の宝幢寺上池では、冬になって水が抜かれ「池干し」されると、大きな石が池底から姿を現します。

 宝幢寺(ほうどうじ)跡(丸亀市) - どこいっきょん?

 この巨石は古代寺院の塔心礎です。
南海道 宝幢寺塔心礎

また、周辺からは古代瓦が今でも出てきます。その他の礎石類は出てこないので、17世紀後半に池が作られるときに、移動してどこかの堤に使われたのかもしれません。しかし、この塔心礎は大きすぎて動かすことが出来ずに、そのまま池に沈めたようです。
南海道 宝幢寺推定伽藍図
 
 丸亀市史には、宝幢寺廃寺について次のように記されています。
「寺域は方形、または南北に長い矩形である。伽藍配置はわからない。昭和十五年三月発行の『史蹟名勝天然記念物調査報告書』によると塔心礎の東に金堂がある法隆寺式の伽藍配置ではなかろうかと推定している。たしかに、古瓦の出土状況から考えると、心礎から南へ中門・南大門が建っていたよう にも思えるが断定はできない。」
 
 ここからは、塔を持った白鳳期の古代寺院が南海道に面して造営されていたことが分かります。
南海道が作られるのと、宝幢寺が建立されたのは、どちらが早かったのでしょうか?
それを解く鍵は、宝憧寺の中心軸と条里制地割軸の関係にあります。これが一致すれば条里制地割実施後に、お寺は作られたことになります。宝憧寺の場合は一致しないようです。南海道が伸びてくる以前に宝憧寺はあったと研究者は考えているようです。しかし、ここでも南海道は有力者の氏寺である宝憧寺のすぐ南を通過しています。南海道が軸となり、その周辺に郡衙や古代寺院、郡司の館などが集中して作られるようになったことがうかがえます。
南海道 宝幢寺塔心礎発掘
発掘の際の宝幢寺心礎

 宝幢寺周辺の地名は「郡家」です。

地名からも、南海道に接するような近さの所に那珂郡の郡衙があったと研究者は考えているようです。また、この北の郡家小学校周辺には「地頭」や「領家」という地名も残っています。古代から中世にかけて那珂郡の中心は、この辺りであったようです。
南海道 那珂郡条里

  宝幢寺池を越えて、条里制地割が残る那珂郡の13里と14里の境界ラインを行きます。
DSC07999

右の道が旧南海道で、その向こうには我拝師山が待っていてくれます。南側(左)ののっぺりとした山は大麻山で、南の象頭山へとつながります。この山も聖なる山で霊山として信仰の山でした。
  金倉川周辺でも氾濫原が幅広く、条里制施行が行われないまま放置されていた土地があったことがうかがえます。古老の聞語りでは、11師団がやってくる日露戦争前までは、金倉川の与北付近から市役所付近までは、氾濫原で放置された土地で、森や荒れ地となっていたことを以前にもお話ししました。
南海道 金倉川から四国学院


金倉川を渡ると尽誠学園の北側を西に進んでいきます。
土讃線から西側は、明治の第11師団設置で、各部隊の敷地になりそれまでの地形は、残っていません。
DSC01325十一師団

郵便局から東中学校までの広大なブロックは輜重部隊の敷地でした。

四国学院側 条里6条と7条ライン

そして、次のブロックが騎兵連隊の敷地で、現在の四国学院のキャンパスになります。
DSC03123
      右側が図書館 この下を南海道は通っていた

その中に今回のゴールとなる図書館があります。
岸の上遺跡 四国学院側溝跡
図書館敷地の発掘調査図 下の溝が南海道側溝

この建設に伴う発掘で、ここからも南海道の側溝跡が出てきたのです。こうして、四国学院と飯山の岸の上遺跡の側溝跡は一直線で結ばれていたことが分かりました。つまり、これが南海道だということです。キャンパスからは今まで目標物として、導いてくれた我拝師山がひときわ大きく見えました。
 今回のコースは、
鵜足郡衙 → 那珂郡衙 → 多度郡郡
を南海道が一直線に結んでいました。その郷里は7,3㎞です。ゆっくり歩いても1時間半、駅伝制の馬を使えば30分足らずで結べる距離が国家の力によって整備され、郡長達はその整備された南海道沿いに郡衙や氏寺、館などを構えていたことが分かります。
 空海伝説の一つに、真魚と呼ばれた幼年期に善通寺から額坂を越えて国分寺まで勉学のために空海は馬で通っていたという話が伝わっています。それが、本当のように思えてくる交通路の整備ぶりです。
同時に、各郡長が横並び意識をもちながら地方政治を担当していたこともうかがえます。
  

DSC03120
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 
   ミステリーハンターによる南海道調査 南海道を歩く

関連記事

岸の上遺跡 写真とトレス

岸の上遺跡からは南海道跡が出てきたと云われます。それがどうして南海道と分かるのでしょうか?まず南海道跡される遺跡を見てみましょう。
飯山岸の上遺跡グーグル
岸の上遺跡周辺 手書きの青い斜線部が旧土器川河道跡

飯野山南側には、坂出からの国道バイパスが南に伸びています。飯山高校の西側のバイパス交差点あたりは土器川旧河道の段丘崖で周囲より1mほど微髙地になっています。このエリアの発掘調査で出てきたのが「岸野の上」遺跡です。この遺跡からは大きな発見が2つありました。
A 南海道の道路側溝と考えられる溝群(溝6・溝7・溝8・溝9・溝10・小ピット群)が出てきた。
岸の上遺跡 南海道拡大図

①の推定南海道の両側に溝が掘られていました。これが市道の南側(溝9・溝8)と北側(溝6・7)に当たります。北側と南側の溝の幅は約10m近くあります。そして、溝には次のような特徴があるようです。
①溝底(溝9・溝10)に凹凸があり、水が流れた形跡がないの灌漑用水ではない。
②地表面の起伏を無視し、直線的に並んでいる
③小ピット群は、道本体の土留めのための杭列か?
溝底に凹凸があり、水も流れていないので灌漑水路ではないようです。道路側溝としての性格が高いようです。古代の官道は、幅が約9~10mほどで直線的にまっすぐと作られていることが分かっています。
   下の「古代道路の工法」を見ると路面の両側に溝を掘って側溝としていました。ここから出てきた溝が、側溝にあたるようです。

岸の上遺跡 南海道側溝

  幅10mの大道跡の出現だけで、南海道と決められるのでしょうか?
  古代官道をとりまく発見の歴史を少し振り返ってみます
古代の官道については、江戸時代の五街道でも2間程度の道幅だったのだから、古代駅路の道幅はせいぜ い2mもあれば, 駅馬が通るに事足りていたというのが半世紀ほど前の考えでした。畿内から下ツ道の23m75や難波大道の19m76などが現れても、それは畿内の大道だからで、地方の官道はそんなに大規模な物ではないとされていました。そのような中で、丸亀平野を通っていた南海道も、額坂から鳥坂峠を越えていく近世の伊予街道が考えられていました。
 しかし、1970年代になると道幅10mで直線的に続く古代官道跡の発見が各地から報告されるようになります。それは、航空地図や大縮尺の国土地理院の地形図を読み込むことから発見されることもありました。さらに、条里制痕跡からも古代の官道の存在が浮かび上がってくるようになります。
東藝術倶楽部瓦版 20190508:官道から参詣道へ-「大和の古道」 - 東藝術倶楽部ブログ
 
 まず平城京から伸びる下ツ道と横大路に沿って,1町(約109m)方 格の条里地割の中に一部分だけ幅が異なる部分があることが指摘されました。つまり幅約45m(15丈)分大きいのです。なぜ、そこだけ幅が広いのか、つまり余剰分があるのかという疑問に対して、ここに道路が通っていたからだという仮説がだされます。つまり、道路敷面が45m分あったが、その後の歴史の中で道路部分は水田などに取り込まれて、45mの大道は姿を消し、幅の広い条里として残ったと研究者は考えたのです。
図6の条里余剰帯の模式図で、確認してみましょう。
岸の上遺跡 条里余剰帯

これは、約109mの条里地割が分布しているエリアの例です。
その中に縦の長さだけが124mになる地割列(上から2段目の列)があります。この場合、余剰帯の幅15mと、現在の道幅6mを合わせた、21mの帯状の土地が、かつての官道敷地だったということになります。

これが現在、古代道路検出法の一つとして「条里余剰帯」と呼ばれている手法の誕生だったようです。そして、研究が進められるにつれて条里制工事の手順は、次のように進められたことが分かってきました。
①目標物に向かって真っ直ぐな道の計画線が引かれる。これが基準線となり官道工事が始まる。
②官道は基準線でもあり、これに直角に条里制ラインが引かれた。
③官道は、国境や郡境・郷境ラインとしても用いられた。
④南海道の道幅は約9~10mで、両端に側溝が掘られた
つまり、中央政府からやってきた高級官僚達が官道ラインを引き、その設計図に基づいて郡司に任命された地元有力豪族が工事に取りかかります。讃岐の場合だと、基準線となる南海道が完成すると、直角に条里制工事が進められていきます。つまり、南海道は条里制工事のスタートを示す基準線でもあったし、実際の工事もこの道沿いから始められたようです。
中央の官道についても、次のような役割も分かってきました
①藤原京や平城京のエリアも、計画道路が先に測量され、それを基準に設定されたこと,
②摂津・河内・和泉の国境ラインの一部は、直線的に通る官道によって形成されていたこと
つまり、畿内においては直線道路が古代的地域 計画の基準線となっていたのです。
丸亀平野の条里制 地形図

  条里余剰帯を、丸亀平野で見てみるとどうなるのでしょうか。
丸亀平野の条里地割の中にも南北が10m程度広い「余剰部分」が帯状に見られるところがあるようです。金田章裕氏は、その条里余剰帯を歴史地理学的に検討して、推定南海道を次のように想定していました。
①鵜足郡六里・七里境、
②那珂郡十三里・十四里境、
③多度郡六里・七里境
 讃岐富士の南側から郡家の8条池・宝幢寺池の南を通過して直進的に西進し、善通寺市香色山の南麓にいたると云うのです。香色山南麓に達した南海道は、大日峠を越えて三野郡・刈田郡へと続いていくことになります。
 これはあくまで、想定でした。しかし、推定南海道とされる③多度郡六里・七里境上に、7世紀後半から8世紀に掘られた溝が発掘されたのです。これは四国学院大学の図書館建設に伴う発掘調査からでした。
岸の上遺跡 四国学院側溝跡
四国学院遺跡の東西に伸びる溝
条里型地割の中の平行・直交する2本の溝は坪界溝とほぼ合致することが分かりました。すなわち、東西方向の溝1が里境の溝だったのです。また溝1が、単なる坪界溝ではなく多度郡六里と七里の里境であること、さらにこれに沿って設定された古代南海道の可能性が高くなったのです。そこで、この溝を条里制地図の中に落とし込んでみると次のようになりました。
四国学院側 条里6条と7条ライン

ここで注意しておきたいのは、多度郡郡衙跡とされる生野本町遺跡がすぐ南にあることです。南海道が出来るとその周辺部に、郡衙がつくられたことがうかがえます。さらに、推察するとその郡長が佐伯氏であったすれば、この周辺に佐伯氏の館もあったと研究者は考えているようです。 

この四国学院の中を通る推定南海道ラインを、東に辿っていくとどうなるのでしょうか。
岸の上遺跡 四国学院遺跡と南海道2
四国学院のキャンパスの中を抜けて、善通寺一高のグランドを抜けて東に進んでいきます。さらにグーグル地図で見てみましょう。

岸の上遺跡と四国学院遺跡を結ぶ南海道
 
 四国学院から金倉川を越えて条里制ライン沿いに東に進むと、宝幢寺池と八条池の南を通過して、土器川に出ます。そして、右岸から東を進むとその道は飯山高校北側の市道に通じます。
岸の上遺跡 南海道の側溝跡
上の写真の道は、岸の上遺跡を通過していた南海道の現在の姿です。
市道の南側(左)に、発掘で出てきた側溝が見えます。その向こうに見えるのが下坂神社の鎮守の森、そしてはるかに善通寺の五岳の山脈が見える。そこを目指して南海道がまっすぐに続いていたことが分かります。四国学院の古道の側溝跡と岸の上遺跡の側溝、は一直線につながるということになります。これは、いままで「想定南海道」と呼ばれていたものから「想定」の2文字がとれることを意味すると私は考えています。ちなみに四国学院遺跡と岸の上遺跡の直線距離は7,4㎞です。
丸亀平野の南海道と郡衙・古代寺院・有力者の関係を見てみると次のようになります。
     郡衙候補     古代寺院    郡司候補
①鵜足郡 岸の上遺跡   法勲寺廃寺    綾氏?
②那珂郡 郡家(?)   宝幢寺池廃寺   
③多度郡 生野本町遺跡  仲村廃寺・善通寺 佐伯氏

南海道沿いに郡衙と想定できる遺跡や廃寺跡があり、郡司と考えられる有力者がいたことがうかがえます。そして、南海道の建設や、その後の条里制工事はこれらの郡司などの有力者の手によって進められていったようです。
①③からして、②の那珂郡の郡衙跡も南海道の直ぐ近くにあったことが考えられます。全国の例を見ても、最初は官道から遠くても建て直される場合には官道近くに移動して建てられている例があるようです。宝幢寺廃寺と同じように、今は池の下になっているのかもしれませんが・・・・
丸亀平野と溜池

  以上をまとめておきます。
①岸の上遺跡からは、幅10m近い大道跡と道路側溝が出てきた。
②これは歴史地理学者が指摘していた条里制の鵜足郡六里・七里境にあたる。
③この大道跡を西にまっすぐに伸ばすと善通寺の四国学院のキャンパス内から出てきた側溝跡と一直線につながる
④以上から「鵜足郡六里・七里境、那珂郡十三里・十四里境、多度郡六里・七里境」上を南海道が通過していたという仮説が考古学的に実証されたことになる。
⑤四国学院と岸の上遺跡の側溝溝は、7世紀後半から8世紀初頭にできたものとされるので、基準線測量が行われ、南海道の工事が行われたのは藤原・奈良時代にあたる。
⑥この南海道に直角や平行にラインが引かれ、条里制工事は進められていくことになる。
⑦その工事を主導したのは郡司たちで、地域の有力者であった。
⑧彼らは郡司として南海道沿いに郡衙や氏寺である古代寺院を建設することによって、かつての前方後円墳に替わるモニュメントとした。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
岸の上遺跡調査報告書
四国学院遺跡調査報告書

金倉川 土器川流路変遷図

土器川はまんのう町の長炭付近で平野に出ると扇状地を形成して、流路を西から東へと変えながら次のような河道変遷を経て、現在の流れになったようです。
①一番西側の①紫ルートで現在の金倉川や大束川の流域にも流れ込んでいた
②善通寺生野町・吉田町が堆積物で埋まってくると、与北町付近で、右岸に流路を変えて②橙コースになった
③さらにまんのう町祓川橋付近から東に流路を変えて、法勲寺から大束川に流れ込んで④の緑ルートになった。
④さらに長炭橋から東へ入り込み、長尾・打越を経て岡田方面から大束川に流れ込む④の緑点線ルートの時代もあった
岸の上遺跡 土器川流路⑤

確かに衛星写真を見るとまんのう町の吉野付近から打越池を経て、大窪池にかけては、U字状の谷が見えます。これが流路④の緑点線河道になるという根拠のようです。そうだとすれば大窪池は、まさにその窪みの谷に作られたため池になります。
 地形図に丸亀平野の扇状地を落としてみても、旧河道が何本か浮かび上がってくるようです。

岸の上遺跡 土器川扇状地
④が岸の上遺跡 ①が善通寺 ②が郡家の宝幢寺池

丸亀平野の大部分は扇状地で、それは土器川が西から東へと河道を変えていく中で生まれてきたようです。最初に聞いたときには、信じられずに半信半疑で聞いていました。しかし、考古学的な発掘が進み実際に調査が行われ、その「土地の履歴書」が示されるようになると信じないわけにはいかなくなります。今まで疑いの目で見ていたものが、別のものに見えてくるようになりました。
  例えば生駒時代の中西讃の絵図を見てみましょう。
生駒時代絵図 土器川流路

①古城とあるのが廃城となった丸亀城
②その西側に善通寺の奥から流れ出してきているのが金倉川のようです。
③問題は古城と白峰寺の間の入江に流れ出している川です。
西側の支流は長尾から流域が描かれています。
これは、土器川なのでしょうか、それとも大束川なのでしょうか。
一方東側の支流は、滝宮神社(牛頭神社)付近から流路が描かれています。これは綾川のようです。土器川と綾川が合流して林田港へ流れ込んでいることになります。
 この絵図をみても、近世以前の河川の流れは、私たちの想像を超えていることがうかがえます。これを見たときも、讃岐のことを知らない生駒藩の侍たちの地理的な情報・知識不足と、鼻で笑っていました。しかし、先ほどの土器川の流路変遷図を見ると、笑ってはいられなくなります。実際に、土器川は大束川に流れ込み、さらに綾川と合流していた可能性もあるようです。
 岸の上遺跡 イラスト
  それでは本題の丸亀市飯山町の岸の上遺跡を見てみましょう。
ここからは大きな発見がいくつもありました。その中でも大きな意味を持つのは次の2つです。
①南海道の側溝跡が出てきた。岸の上遺跡を東西に走る市道が南海道だった。
②柵で囲まれたエリアに、古代の正倉(倉庫)が5つ並んで出てきた。
岸の上遺跡 正倉群
つまり、南海道に隣接して柵のあるエリアに、倉庫が並んでいたのです。これは郡衙以外の何者でもありません。鵜足郡の郡衙発見ということだと私は理解しているのですが、研究者達はあくまで慎重で、「鵜足郡の郡衙と南海道発見!」などというコピーは、報告会では出なかったようです。
 もうひとつ、この遺跡の報告書で驚いたのが、下の地形復元図です
飯山岸の上遺跡地形復元

①が岸の上遺跡です。バイパス工事のための調査ですから道路上に細長い区画になります。
②位置は、飯山高校に西側の交差点周辺です。
③北側には目の前に甘南備山の飯野山が鎮座します。
④西側には下坂神社があり、鎮守の森の中には今も湧水が湧きだしています。
そして、地図上の水色の部分が土器川の支流だというのです。一本の流れとはならずに、何本もの網の目状になってながれていたことが分かります。
飯山岸の上遺跡グーグル

確かにグーグル地図をよく見てみると、飯山高校周辺を旧河道が網の目のように流れていたことが分かります。この河道によって堆積した中州状の微高地上に、丸亀平野の古代のムラは成立していきます。

飯山居館跡

以前に、この北の飯野山の麓で河道跡に囲まれた中世武士の居館跡を紹介したことがあります。その河道も土器川の氾濫河道になるようです。
飯山国持居館3グーグル地図

  旧土器川が現在の河川になったのは、いつからなのでしょうか?
最初に見た生駒藩の絵図には、土器川は大束川と一緒に描かれていました。近世はじめまでは、飯野山の南側の流路は、このような編み目状だったようです。それではいつ変えられたのでしょうか。そこにはやはり西嶋八兵衛の影があるようです。
西嶋八兵衛60x1053

 元和5年(1619)、家康は、藤堂高虎に京都二条城の修築を命じます。高虎は、この時に側近の西嶋八兵衛に、その縄張り作成・設計の実務にあたらせます。八兵衛23歳の時のことです。翌年の元和6年(1620)には、夏の陣・冬の陣で焼け落ちた大坂城の修築にも当っています。当時の最高の規模・技術で競われた「天下普請」を経験を通じて、築城・土木技術者としての能力を高めていったようです。
 天下泰平の時代がやって来ると、戦乱からの復興が政策者には求められるようになります。それまで放置されてきた農業への資本投下がやっと行われるようになります。新田開発と用水の確保はセットで求められますから大規模な治水灌漑工事がどの藩でも行われるようになります。その際に「転用」されるのが築城技術です。石垣などは、堤などにもすぐに転用できます。
 大名の家臣でも民衆の生活と深く関わる『民政臣僚』と呼ばれる家臣団が現れます。その走りが藤堂藩で、八兵衛や山中為綱といった民政臣僚が活躍します。そのような系列に西嶋八兵衛も立つことになります。そんな八兵衛が、元和7年(1621)から寛永17年(1640)までの間、都合4回、通算で19年、讃岐に派遣されることになります。八兵衛が25歳から44歳の働き盛りの頃です。
藤堂高虎に仕える八兵衛が、どうして生駒藩に派遣(レンタル)されたのでしょうか。
それは、藤堂藩と生駒藩の密接な関係にあったようです。このことについては以前にもお話ししましたので省略します。
 自然災害に苦しむ生駒藩のために、八兵衛は多くのため池を作る一方、讃岐特有の天井川の改修にも尽くしています。洪水を防ぐために香東川の堤防を付け替えたり、高松の春日新田の開発など、あらゆる方法で開田を進めます。香東川の付け替え、堤防づくりでは堤防に「大萬謨」の石碑を建てた伝えられます。満濃池の再築に伴い、四条川を消し、金倉川を作りだしたことも以前にお話しした通りです。そして、土器川の流路変更も西嶋八兵衛によって行われたというのですが、その根拠になる資料を私は見たことはありません。
大束川旧流路
飯山町付近の土地利用図 旧土器川の流路跡が幾筋も見える

 西嶋八兵衛によるものかどうかは別にして、飯山高校の北側には、平安時代以降に激しく流れていた東西方向の旧河道が残っています。そして「北岸」「南岸」「岸の上」という字名もあります。この旧河道は度々氾濫を起こしていて、発掘エリアからも、氾濫で堆積したと砂層がでてきているようです。その遺物から7世紀の中頃と12 世紀頃に大きな洪水が起き、遺跡が土砂に埋まったことが分かるようです。この河岸丘に建物が建ち始めるのは7世紀中頃からで、南海道が伸びてくるのは8世紀初頭頃からになるようです。 次回は、この前の道がなぜ南海道と言えるのかを探ってみようと思います
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

その後、1995年の川津二代取遺跡の調査報告書の中に、大束川流域の地形復元を行った資料を見つけました。ここには丸亀平野の土器川扇状地の詳細等高線が示されています。ここからは土器川が金倉川や大束川へ流れ込んでいた痕跡がうかがえます。

土器川 流路等高線

さらに、次のような旧河道跡も1995年の時点で指摘されていたようです。
土器川 旧河道(大束川)

ここからは現土器川から東に向かって流れ込む流路や、飯野山にぶつかってから流路を東に取る流路がはっきりと示されています。また、②の大窪池から流れ込んだ時期もあったことが分かります。 
 つまり現場の考古学の研究者は20年前から土器川が流路を替えていたこと、それが弥生や古墳時代以後のことであったことを理解していたようです。知らぬは素人ばかりということのようです。
それでは、いつまで土器川は大束川方面に流れ込んでいたのでしょうか。言い方を変えると現在の流れになったのはいつのことなのでしょうか。それは又の機会に
参考文献

  
丸亀平野の条里制 地形図
 丸亀市飯山町の法軍寺には、中世以来の地名が残っています。
そんな地名を追いかけて見ると何が見えてくるのでしょうか。
地図を片手に、法勲寺を歴史散歩してみます。まずは法勲寺の位置を確認しておきます. 
飯山法勲寺開発1地図

 法勲寺荘は土器川の東岸、飯野山の南側で鵜足郡に属し、古代の法勲寺を中心に早くから開けた地域です。エリアの東側を大束川が北流し、飯野山の東を通って川津方面に流れていきます。今は小さな川ですが、古代においてはこの川沿いに開発が進められたと研究者は考えているようです。古代地名を復元した飯山町史の地図がテキストです。
飯山法勲寺古地名全体
この地図を見て分かることは
①大束川流域の上法勲寺は条里制地割が全域に残り、古代から開発が進んだ地域であること
②西部の東小川は、土器川の氾濫原で条里制地割が一部にしか見えない
③また大窪池の谷筋や丘陵地帯も条里制地割は見えないこと
土器川の右岸は、氾濫原で条里制地割は見えません。古代の開発が行われなかった「未開発地域」だったようです。そこへ中世になると開発の手が伸びていくようになります。地図を見ると、太郎丸・黒正・末広・安家・真定や、東小川の森国・国三郎など、中世の人名だった地名が見られます。これらは、名田を開発したり、経営した名主の名前が付けられたものと思われます。

大束川旧流路
国土地理院の土地利用図です。中世には土器川は大束川に流れ込んでいたことが分かります。
東小川の各エリアを拡大して見ていきます。  まず中方橋のあたりです。
飯山法勲寺古地名新名出水jpg


新名という地名は、もとからあった名田に対して、新しく開発された所をさします。地図に見える東小川の新名出水は、土器川からわき出す出水があったのでしょう。これを利用して中世になって、それまで水田化されていなかった氾濫原の開発に乗り出した名主たちがいたようです。その新名開発の水源となったので「新名出水」なのでしょう。地図で、開発領主の痕跡をしめす地名を挙げると
「あくらやしき」「蔵の西」「馬場」「国光」「森国」「馬よけば」

が見えます。新名出水から用水路で誘水し、いままで水が来なかった地域を水田化したことが推察できます。新田の開発技術、特に治水・潅漑にかかわる土木技術をもった勢力の「入植・開発」がうかがえます。
飯山法勲寺古地名2jpg

 さきほどの中方橋のさら北側のエリアになります。ここには
「明光寺又・円明院出水・首なし出水・弘憲寺又・障子又」
などの古地名が見えます。
「出水」は分かりますが「又」とは何でしょうか?
「又」は用水の分岐点です。出水や用水分岐点は、水をめぐる水争いの場所にもなる所で、重要戦略ポイントでした。そんな所は、竜神信仰の聖地としたり、堂や庵などを建立して水番をするなど、農業経営維持のためのしくみが作られていきます。ここにも「堂の元(下)」という地名がみえますからお堂が用水管理のための施設として建立され、時には寝ずの番がここで行われたのかもしれません。こんなお堂がお寺に成長していくことも多かったようです。

 東小川の「障子又」は、「荘司」に由来するようです。
この付近に荘園の管理者、つまり実質的な荘園支配者であった荘司の屋敷か、彼の直接経営する名田があったのでしょう。居館のそばにお堂があったのかもしれません。それが、阿波安楽寺からの伝道者の「道場」となり、農民たちに一向信者が増えると真宗寺院に成長していくというのが丸亀平野でよく見られるパターンのようです。

 土器川東岸の東小川が開発されたのは、いつ、誰によってなのでしょうか?
 飯山町史は鎌倉後期のこと考えているようです。そして、開発の先頭を切ったのは、地頭などとして関東から移住してきた東国の御家人やその関係者であったとします。確かに、彼らは関東を中心とした広大な湿地帯や丘陵地帯で開発を進めてきた経験と新技術を持っていました。それを生かして、自分たちの領域の周辺部の未開拓地であった氾濫原の開発を進めたというのは納得がいく説明です。
飯山法勲寺古地名大窪池pg

この地図は、東小川の土器川沿いに「川原屋敷」や「巫子屋敷」などがあり、「ぞう堂」という地名も見えます。その背後の丘陵地帯に大窪池があ。法勲寺跡の南側に伸びていく緩やかな傾斜の谷の先です。しかし、この池が姿を見せるのは、近世になってからです。相争い分立する中世の領主達に、こんな大きな池を作り出す力はありません。彼らには古代律令国家の国司のように「労働力の組織化」ができないのです。満濃池も崩壊したまま放置され、その池跡が開発されて「池内村」ができていた時代です。大窪池のある台地は、「岡田」と呼ばれますが。ここが水田化されるのは近世になってからのようです。話を元に戻します。
 今見ておきたいのは、この大窪池の下側の谷筋です。
ここは谷筋の川が流れ込み低湿地で耕作不能地でした。これを開拓するしたのが関東の武士たちです。彼らは湿地開発はお得意でした。氾濫原と共に、谷の湿地も田地(谷戸田)化して行ったようです。サコ田と呼ばれる低湿地の水田や氾濫原の開発と経営は、鎌倉時代の後半に、関東からやって来た武士たちによって始められるとしておきましょう。それが、東小川や法勲寺の地名として残っているようです。
  讃岐にやって来た関東の武士たちとは、どんな人たちだったのでしょうか。
飯山地頭一覧
  飯山町史に載せられている讃岐にやってきた武士たちのリストです。全てが実際に讃岐にやって来たわけはなくて、代理人を派遣したような人もいます。例えば那珂郡の櫛無保の地頭となった島津氏は、薩摩の守護職も得ています。後に、島津藩の殿様になっていく祖先です。島津氏は、荘官を派遣して管理したようです。その居館跡が「公文」という名前で、現在も櫛無には残っています。
 法勲寺を見ると壱岐時重という名前が出てきます。
彼が法勲寺庄の地頭となったようです。彼の下で、法勲寺や東小川の開発計画が進められたのでしょうか? いったいどんな人物なのでしょうか?それはまた、次の機会に・・・
以上をまとめておきます。
①飯山町法勲寺周辺は、条里制地割が全域に残り古代から開発が進んだ地域である。
②それに対して東小川は、土器川の氾濫原のため開発が遅れた
③この地域の開発は、鎌倉中期以後にやってきた関東武士たちによって行われた。
④彼らは出水から用水路を開き新田を拓いた。
⑤それが「出水・又・屋敷・堂・障子」などの古地名として現在に伝わっている
おつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 飯山町史

中津八幡神社

丸亀市中津町の中津八幡神社付近のグーグル写真です。
ここに「オーヤシキ」(鬼屋敷・大屋敷)といわれる居館跡があるようです。今では住宅に囲まれた辺りがそうらしいのですが、周りと比べてそれらしい地割は見当たりません。堀跡らしい痕跡もありません。周りの条里型地割の中に溶込んでいます。しかし、航空写真で南北約81m。東西約88mの周囲を回る細長い地割の水田が、周囲よりほんの少しだけ低く凹地となっていることが読み取れると云います。

DSC05936中津八幡神社
中津八幡神社
 航空写真は、隣り合う空中写真の画面に約60%の重複があり、これを実体視することで、その高低差が分かるようです。周囲の地割に溶け込んでいるような場合でも、注意深く判読すると、堀状にめぐる地割が見えてきて、さらにそれを手がかりに周囲より低くなっている低地が分かると研究者は云います。

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 オーヤシキの南には、土居の南、堀のたんぼ、蓮堀などと呼ばれる地名が残ります。
昔の居館跡を推定できる名前です。また、オーヤシキから東約100mの水田からは、百年ほど前の昭和5年に大きな石と一緒に、中国の唐宋時代の古銭が数千枚出土しているようです。居館の主が、いざというときに備えて隠しておいた「埋蔵金」なのかもしれません。いまは、住宅地の中になっています。

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このオーヤシキの主は、どんな武士だったのでしょうか
『西讃府志」の「中津為忠墟」には、次のように記されています。

  下金倉村東ニアリ、鬼屋敷トイエリ 延宝年間 廃して田畝トナセリ 相伝フ六孫王経基ノ五男 下野守満快二十一世ノ孫、三郎左衛円為景、此地二居テ、金倉杵原等ヲ領セリ、其子為忠将監卜稀ス、武力人二絶タリ。自其勇ヲ頼ミ、騎奢限リナシ、人呼ンデ鬼中津トイヘリ、香川信景卜善カラズ、天正三年信景、香西伊賀守、福家七郎、瀧宮豊後守、 羽床伊豆守卜相謀り、 討テ是ヲ滅セリ。

意訳変換しておくと
 下金倉村の東に鬼屋敷という所がある。ここは延宝年間に、屋敷は廃されて今は田畝となっている。この鬼屋敷の主は六孫王経基の五男である下野守満快の21世の孫で、三郎左衛門為景という。ここを拠点に、金倉や杵原を領有していた。その子の為忠は
武力に優れ、それを自慢に奢ることが多かったので、「鬼中津」と呼ばれた。
 
為忠は天霧城の香川信景と対立関係にあった。そこで、香川信景は天正3(1575)年に、香西伊賀守、福家七郎、瀧宮豊後守、 羽床伊豆守と相談し、 為忠を滅ぼした。

天正3年に香川信景(之景)に滅ぼされたとする点は『南海通記』にも記されています。『西讃府志』の記述は、『南海通記』に拠ったものと研究者は考えています。『西讃府志』の編者は、金倉顕忠の居趾が明らかでないとし、おそらく顕忠は為忠のことではないかと推測しています。いずれにしても金倉氏(あるいは中津氏)が金倉を中心として、その周辺に勢力をもっていたことがうかがえます。そして、それは西讃守護の香川氏との敵対関係を招き、滅ぼされたと云うのです。
 ここからは「オーヤシキ」は、鬼屋敷こと中津将監為忠の屋敷跡だったことがうかがえます。これを裏付けるものとしては、金倉寺や賀茂神社には「中津乗太郎為衡・中津三郎左衛門為景」の名で、金倉郷・杵原郷の内で370貫を領有し、天文十三年(1544)には、金倉寺や加茂の寺、神社へも田地を寄進している記録があるようです。

 為景の子が為忠です。彼は中津将監とも云い、武勇にすぐれ並ぶ者がなかったと伝えられます。
そのため為忠は、次第に驕りたかぶるよになったので鬼中津とも呼ばれたようです。西讃の守護代であった天霧城主香川信景は、中津為忠を戒めて従わせようとしますが、かえって為忠にたびたび多度津方面に侵入されるようになります。そこで香川信景は香西伊賀守、福家七郎、滝宮豊後守、羽床氏ら綾氏一族の力を借り、天正三年(1575)中津為忠を討ちとります。武勇にすぐれた為忠は馬にまたがり奮戦しますが、多勢に無勢で討死します。

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 この経緯からは次のようなことが分かります
①戦国大名化した多度津の香川氏が勢力を広げ、金倉川沿いの中津にまで及ぶようになった
②香川氏の領域支配に、従わず抵抗したのが中津為忠である
③香川氏は香西・福家・滝宮・羽床などの旧綾氏一族と連携し
④天正3年(1575)年に香川・旧綾氏連合は、孤立化させた中津氏を滅ぼした。
この時に討たれた中津為忠の居館が中津の「オーヤシキ」というのです。もしそうなら、先ほどの石の下から出てきた中世銅銭は、中津氏の「隠金」だったのかもしれません。
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年表で当時の讃岐の情勢を見ておきましょう
1568 永禄11 11・香西氏,阿波衆が備前の児島元太の城を攻める.
     9・26 織田信長,足利義昭を奉じて入京する(言継卿記)
1570 元亀6 9・- 石山本願寺光佐(顕如),信長に対し蜂起(石山戦争開始)
1571 元亀2 9・17 毛利軍の讃岐渡海と、櫛梨城をめぐる元吉合戦開始
1574 天正2 10・三好長治が香西氏の勝賀城を攻めさせるが失敗。
1575 天正3 5・13 宇多津西光寺.信長と戦う石山本願寺へ.援助物資搬入。
  香川信景が、那珂郡の金倉顕忠を,福家・滝宮氏などに討たせる
1576 天正4 香川之景と香西佳清が、信長に従う。之景は信景に改名
   7・13 毛利輝元が信長側の水軍を破り,石山本願寺に兵粮搬入
1578 天正6 長宗我部元親,藤目城・財田城を攻め落とす(南海通記)
       11・16 織田信長の水軍,毛利水軍を破る

年表からは、中央では信長と本願寺の石山戦争が開始され、瀬戸内海の諸勢力がどちらにつくかの判断を求められている時期にあたることが分かります。対立構図をまとめると
石山本願寺方 将軍足利義昭・毛利輝元・小早川・
村上水軍・塩飽水軍 宇多津の西光寺
信長方    阿波三好氏・西讃守護代香川氏
このような情勢の中で、孤立無援状態で中津為忠は香川氏と戦う羽目になったのでしょうか?

織田方につくでもなし、毛利や三好に保護を求めるわけでなく、外交的な思惑もなく力に任せて、他領を侵していたとすれば「驕り」と書かれても仕方がないのかもしれません。ちなみに中津氏を討ち取った香川氏の「外交戦略」は、次のように変化します。
①元吉合戦の時には毛利氏に
②中津氏を滅ぼした翌年には、信長に鞍替えし
③2年後に土佐の長宗我部が侵入してくると、その先兵となって讃岐制圧に協力
「機を見るのに便」なのか「風見鶏」なのかよく分かりませんが、生き残っていくための彼なりにの身の振り方だったのでしょう。中津氏も、この対立構図からすれば、阿波三好方についていたのかもしれません。しかし、それを確かめる資料はありません。
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 ちなみにこの話には、次のような後日談があります。
 中津為忠には幼児がいて、家臣の西山吉左衛門、前川久左衛門らは、阿波の櫛田の深山に隠れ住みます。やがて四半世紀を過ぎ、関ヶ原の戦いも終わり、讃岐にも生駒氏の手によって天下泰平の世がもたらされます。阿波の櫛田で成長した為忠の一子は、姓を遠山と改めて遠山甚太夫忠英と名乗ります。そして家臣の西山や前川らの家臣ととも金倉へ帰って、金倉川氾濫原の開発にあたったようです。
 当時の生駒藩では新規開発地は、開発者のものになるという有利な条件でしたから周辺の国々から讃岐に多くの入植者が入ってきたようです。中津の川向こうの葛原を開発したのが以前に紹介した木谷氏です。木谷氏も芸予諸島の村上水軍に属していたようですが秀吉の海賊禁止令後に讃岐にやって来て、生駒氏の下で急速に耕作地を広げ、大庄屋へと成長していきます。

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 中津氏(遠山氏)も中津で耕地を拡大していきます。
以後、遠山家は代々下金倉(中津)に住し、その家は分かれてこの地域の有力者として江戸時代を生き抜いていきます。

参考文献 直井 武久 丸亀の歴史散歩

垂水城 航空写真
写真は、丸亀市の南端にある垂水城の比定地付近の航空写真です。
写真右(東)側に白く写っているのは土器川の河床です。矢印で示しているのが「古城山浄楽寺」という浄土真宗の寺で、垂水城の故地とされています。
讃岐名所図会には、浄楽寺について次のように記します。

一向宗阿州安楽寺末寺 藤田大隈守城跡也 塁跡今尚存在せり」

阿波の美馬にある安楽寺の末寺で、1502年に藤田氏の城跡に子孫が出家し、創建したと伝えられています。
買田の恵光寺の記録には、次のように記します。

塩入の奥に那珂寺あり、長宗我部の兵火で灰燼後に浄楽寺として垂水に再建

 現在も塩入の奥に「浄楽寺跡」が残り、また浄楽寺の檀家もいます。このことから垂水の藤田大隅守の城跡へ、旧仲南の塩入から浄楽寺が移転再建されたと考えられます。
 どちらにせよ当時は、阿波美馬の真宗興正寺派安楽寺が、讃岐山脈を越えて布教活動を活発化させていた時代です。山から里へ伸びてきた教宣ラインの最前線に建立された寺院のようです。しかし、江戸時代になると安楽寺を離れて、西本願寺に帰属します。
『讃岐国名勝図絵』には、垂水城は藤田大隅守城跡とされ、次のように記されています。

「南北84㍍、東西69㍍の寺の敷地が城跡。その西北部に幅4m高さ2mほどの土塁の一部が残り南西辺および西辺の外縁にそれぞれ幅3㍍・9,3㍍の堀跡を示す水田地がある」

 しかし、写真からは、西辺の細長い水田以外に、それらしい地割を見つけることはできません。周囲には丸亀平野の条里制が良く残っています。しかし、これを古代からのものとみることはできないようです。
土器川 生き物公園治水図
土器川生物公園付近(丸亀市垂水町)は、もとは遊水池
この辺りは土器川がすぐそばを流れていて、広い河床はかつての霞堰堤だったところです。そこが今は「土器川生物公園」として整備されています。つまり、垂水は江戸時代に堰堤整備が行われる前は氾濫原だったようです。古代の条里制整備の対象外だった所です。条里制は古代に線引計画は行われますが、それが全て着工され整備された訳ではないようです。中世になってから耕地化されたところもあるのです。垂水は「後発地域」だったことになります。その開発を行ったのが東国からやってきた武士団だったというのがひとつの仮説です。

 話が横道に過ぎてしましました。私ならこれで「探求停止」になるのですが、研究者は、ただでは起きません。別の地点に居館跡を見つけたのです。
垂水城 地図

それは浄楽寺の東北に広がる点線で囲んだエリアです。
ここはよく見ると周囲の条里制地割と方向が少しちがいます。堀や土塁の痕跡は見えませんが、周囲は1町(110㍍)四方になります。
付近の小字名を調べると、
①垂水神社の参道を境に西が馬場、東が行時と呼ばれている
②馬場の西北部が「ホリノクチ」と呼ばれている。
③東北角×部の「鬼門」のところから、五輪石の一部の石造物が多量に出土
④浄楽寺は「裏鬼門」の方向に当たる
「ホリノクチ」は「堀の口」で、居館の入口があったところと考えられます。

垂水城 グーグル

それでは、先行研究はどう記しているのでしょうか。
福家惣衛は昭和30年に調査した結果を次のように報告しています。
 城郭の規模は、東西六九丁、南北八四丁、面積五八で(約五反八畝)、土居(築地)は西北に残り、長さ96㍍、幅9㍍、高さ2㍍である。堀は南と西にその跡があり、南側では東西73㍍、西側では南北78㍍、幅は南西の所で6㍍、北西の所で9㍍あり、東側と北側に堀は無い。南側の西の方では堀のあった跡は農道となり、東側には満濃池の用水路が造られていたが、現在ではわずかに溝を残してブロック塀が築かれ浄楽寺の境内となった。西南にある鐘楼の所は隅櫓があった所であろう。
 さらに西隣の田地20町(約二反)と六町余(約200坪)の田地は旧城に付随していたものと思われる。また近くに馬場や弓場という地名があり、調馬場や弓の練習場であったのであろう。
この調査報告以後は「浄願寺=垂水城」説が定説となっているようです。航空写真による「浄願寺東北部=垂水城」は、それに対する仮設となるようです。どちらにしてもここにあるのは武士の居館で、私たちがイメージする近世以後の城郭とは、ちがうことだけは確かです。
垂水城ではなく垂水居館と呼んだ方が、いいような気もします。

飯山国持居館1
武士の居館
ここを拠点とした武士集団の性格を私なりに考えて見ました。
 垂水居館の主は、土器川の氾濫原の開発に積極的に取組み、上流に井堰を築き導水し、居館の周りを水堀としていたのかもしれません。そして周辺の開拓を推し進めたのではないでしょうか。
近くには垂水神社がありますがこの神社が氏神とすれば、面白い物語が浮かびます。
垂水神社の由来は、次のような悪魚退治伝説を伝えます。
 昔、日本武尊は南海に悪魚がいることを聞きこれを退治した。その時に負傷した兵士に水を飲ませたところ快癒したという所が坂出にあり、かヤ參の水として知られている。
その後、尊の子孫が那珂郡三宅の里を治めていたが、日照りが続き人々は苦しんだ。その時、この地の松林の中によく茂った松の大木が三本あり、その枝葉の先から水が滴り落ちていたので地下には水の神が鎮まっていると考え、社を建て神々を祭り垂水の社と名付けたところ、以後は豊かな水に恵まれて豊作が続き、天平勝宝八年(756)には社殿も再建され村を垂水というようになった
というものです。
悪魚退治伝説は、中世に綾氏系譜に最初に登場します。古代のものではなく中世に作られた伝説です。綾氏の祖先が悪魚退治を行った神櫛王で、その功績として讃岐を賜り最初の讃岐国造となり讃留霊王と呼ばれた。その子孫が綾氏であるというものです。神櫛王を祖先とする綾氏一族(擬似的な血縁集団)は、この出自を誇りとして一族の団結を深めました。その際の聖地が綾氏の氏寺である飯山の法勲寺(後の島田寺)だと私は考えています。一族は法勲寺に集まって先祖をともらう「法要」を営むと同時に、一族の団結を誓ったのでしょう。
 これを逆に見ると悪魚伝説を伝える神社は、(意識的には)綾氏一族に属する武士集団の氏寺であったことになります。土器川周辺に広がる神櫛王の悪魚退治伝説は、綾氏一族やその配下の勢力範囲と一致するというのが私の仮説です。ここに居館を構えた武士たちも自分たちが神櫛王の子孫と信じる綾氏につらなる武士たちだったのかもしれません。
 さらに想像を飛躍させれば、次のような物語も紡ぎ出すことが出来ます。
綾氏一族(=香西氏・羽床氏・滝宮氏)の本拠は阿野(綾)郡です。
羽床氏や滝宮氏は、大束川沿いに阿野郡から鵜足郡へ勢力を伸ばします。坂出福江湊を拠点に大束川を遡ってきた綾氏の勢力と飯山地域で合流します。そして、土器川を越えて垂水に居館を作ります。そして那珂郡や多度郡の勢力と対峙することになります。つまり悪魚退治伝説のある垂水神社や櫛梨神社は、東から伸びてきた綾氏勢力の最前線だったと私は考えています。戦国末期には、丸亀平野は多度津・天霧山の香川氏か、西長尾城の長尾氏が南北に分かれて勢力範囲を分け合う情勢になります。綾氏一族のエリアは、羽床・坂本・岡田・垂水・櫛梨ラインになるのでしょうが、この時点では「神櫛王伝説」も効力を失い、綾氏の結束は乱れます。
 そのよう中で垂水の居館にいた「棟梁」は、どのような道を歩んだのでしょうか?ついでに、それも想像で描いてみましょう。
①神櫛王伝説を信じる一族が土器川を渡り、その西にある垂水の地に居館を構える
②土器川の氾濫原開発を進め急速に力を蓄え、垂水神社を氏寺として造営する
③綾氏一族の祖先を祀る法勲寺で行われる「法要」には必ず参加し、結束を深める
④阿波美馬の安楽寺からの浄土真宗の布教ラインが土器川上流より次第に北上してくる
⑤多度津の香川氏と西長尾の長尾氏の小競り合いが周辺で多発するようになる
⑥頼りにする綾一族は、香西氏や滝宮氏・羽床氏が抗争を激化させ後盾とはならなくなる
⑦動乱への予感と不安の中で、垂水居館の主は浄土真宗へ改宗し、館の南西に「道場」を開く。
⑦そして戦国末の動乱の中で垂水居館の主は敗れ去り、姿を消した
⑧後に子孫が浄土真宗の僧侶となり、かつての居館の道場があった所に浄楽寺を開く
⑨垂水神社に伝えられていた悪魚退治伝説は、金毘羅神として生まれ変わり、金毘羅大権現繁栄の道を開く
以上、おつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献
    木下晴一   中世平地城館跡の分布調査 
           ―香川県丸亀平野の事例 大堀館
                     香川県埋蔵文化財調査センター  研究紀要3 1995

讃岐の古代豪族9ー1 讃留霊王の悪魚退治説話が、どのように生まれてきたのか


中学生の使っている歴史の資料集を見せてもらうと、中世の武士の居館を次のように説明しています。
飯山国持居館1
武士の居館
武士は、土地を支配するために、領内の重要な場所に、土塁・堀などに囲まれた館を造り住みました。武士が住んでいた屋敷のことを「居館」と呼んでいます。居館は堀ノ内・館・土居などとも呼ばれます。館の周囲に、田畑の灌漑用の用水を引いた方形の水堀を設け、この堀を掘った土で盛り上げた土塁で囲んだ中に、館を構えました。

 ここからは中世の武士たちが用水が引きやすい川の近くに堀を掘って、土塁を築いた居館を構えていたことを子ども達に伝えています。しかし、居館はその後、土に埋もれて忘れられたものが多いようです。そんな中で「丸亀平野の中世武士の居館捜し」を行っている論文を見つけました。その探索方法は、航空写真です。
飯野山の麓の今は忘れられた居館を見に行きましょう。
もちろん航空写真で・・  
飯野山の麓の飯山北土居遺跡
飯山国持居館2航空写真
クリックで拡大します
この写真は1962年に撮影された丸亀市飯山町西坂元付近の写真です。北側は飯野山の山裾で、麓の水田地帯には条里型地割が残っています。写真中央に南から北へ北流する旧河道が見えます。その流れが飯野山に当たって、東に向きを変える屈曲部がよく分かります。この南東側に、周りの条里制遺構とは形が違う小さい長方形地割がブロックのように集まって、大きな長方形を造っているのがよく見ると見えてきます。その長さは長辺約170~175m、短辺約110mになります。

飯山国持居館2地図

 この長方形の北辺と東辺の北部には、縁取りのような地割が見えます。また、地割ではありませんが長方形の西南部には周囲よりも暗い色調の帯(ソイルマーク)が白く写る道路の南側と東側にあります。これは、城館の堀だと研究者は考えているようです。この堀で囲まれた長方形部分が居館になります。
 北辺はこの撮影後に道路造成で壊されたようですが、その後の水路改修工事の際には、この部分から滞水によって形成されたと考えられる茶灰色粘土質によって埋った溝状遺構がでてきたようです。水路工事は、この下部まで行かなかったので発掘調査は行われなかったようですが、中世の土器片が採集されています。ここからも細長い地割は、中世のものでかつての堀跡と考えられます。周囲に堀を巡らした中世の長方形の区画は、居館跡のようです。この遺跡は飯野山北土井遺跡と呼ばれることになったようです。
 この地域は敗戦直前に、陸軍飯山飛行場が造成されました。
昭和20年5月に国持・西沖を中心とした地に陸軍の飛行場建設が始まり、田畑借上げとともに家屋の立退きが命令されます。借上田畑の面積21町余・立退家屋16で、建設は動員により突貫工事で進められます。8月に敗戦となり、立ち退きを命じられた農家は、滑走路を元の姿に返す作業に取り組まなければなりませんでした。昭和21年に国営開拓事業飯野山地区として指定され、復旧工事は進められ昭和30年頃までには、ほぼもとの水田にかえったようです。かつて滑走路になった所は航空写真からは、その痕跡をみつけることはできません。人々の記憶からも忘れ去られていきます。土地所有者の変動などで旧地名や字名も忘れ去られてしまったようです。ちなみに、この飯山北上居遺跡の所在する小字は「土井」です。
飯山国持居館3グーグル地図

グーグルで飯野山北土井遺跡が、現在どうなっているのかを見てみましょう。
①居館跡の西側はダイキとセブンイレブンの敷地。
②居館跡の北側には町道が通っている
③居館跡の南東角をバイパスが通っている
④旧河道はいまでもはっきりと見える。
ダイキが出来る前には、発掘調査が行われたはずですから報告書がでているはずです。読んでみたくなりました。  私が興味があるのは、この旧河道です。中世城館跡は川の近くに立地し、川筋を軍事用の防衛ラインとして利用していた例が多いようです。この飯野山北土井の城館遺跡も西側と北側は、旧河道が居館を回り込むように流れていきます。川が外堀の役割を果たしているように見えます。
 もうひとつは、この川の源流がどこなのかという点です。
飯山国持居館3グーグル地図2

河道跡ははっきりしていて、グーグルで上流へと遡っていくことができます。行き着く先は、旧法勲寺跡です。ここは大束川の支流が不思議な流れをしている所です。なにか人為的な匂いを感じますが、今は資料はありません。今後の課題エリアです。
5法勲寺images (2)

ここに居館を構えていた武士団とは、何者なのでしょう?
 居館のある飯野山の南麓は、現在は西坂本と呼ばれています。ここは「和名抄」に載せられた阿野郡の8つの郷のうちのひとつ坂本郷のあったところです。

飯山国持居館5鵜足郡郷名
角川地名辞典 香川」は、西坂本について次のように記します。
土器川の右岸,飯野山(讃岐富士)の南に位置する。地名の由来は,坂本郷の西部に位置することによる。すでに「和名抄」に坂本郷とあり、昔,坂本臣がこの地を領していたのに始まるといわれている。地内の国持については、天正19年1日付の生駒近規知行宛行状に・当国宇足郡真時国持村と見えている(岩田勝兵衛所蔵文書 黄薇古簡集」
ここからは次のような事が分かります。
①坂本郷は、古代の「坂本臣」に由来するという伝来がある
②坂本郷が東西に分かれ、近世初頭の生駒藩時代には「国持村」があった。
確かに地図には「西阪本」や「国持」という地名が見えます。
さらに地名辞典には近世の項に次のようなことを記します
③江戸時代は西阪本は、「坂本西分」と呼ばれ、高柳村と国持村に分かれていた。
④神社は坂元神社ほか2社。庄屋は天保9年真鍋喜三太の名が見えるが、多くは川原村か東坂元村の兼帯であった
と記されます。地図に出てくる「国持」は名主名で、戦乱の中で武装化し「武士」になって行くものが多いようです。居館がある所と「国持」は、ぴったりと一致します。我田引水的で申し訳ありませんが、手元にある情報は、今はこれだけなので
飯山北土居遺跡に居館を置く武士団が周辺を開き、その周辺を当時の棟梁名「国持」でよばれるようになった
としておきましょう。