瀬戸の島から

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道隆寺
四国霊場第77番札所の桑田山明王院道隆寺は、中世には海に開けた寺院で、数多くの寺社を影響下に入れていました。道隆寺明王院が遷宮や供養に導師として参加している記録を一覧表にしたものが次の表です。
道隆寺の末寺

  神仏混合のまっただ中の時代ですから神社も一緒になっていますが例えば次のような寺社が見えます
貞治6年(1368) 弘浜八幡宮や春日明神の遷宮、
文保2年(1318) 庄内半島・生里の神宮寺
永徳11年(1382) 白方八幡宮の遷宮
至徳元年(1384) 詫間の波(浪)打八幡宮の遷宮
文明一四年(1482) 粟島八幡宮導師務める。
ここからは西は荘内半島から、北は塩飽諸島までの鎮守社や寺院を道隆寺が掌握していたことがうかがえます。近世になって書かれた『多度津公御領分寺社縁起』には道隆寺明王院について、次のように記されています。
「古来より門末之寺院堂供養並びに門末支配之神社遷宮等之導師は皆当院より執行仕来候」
意訳変換しておくと
「古来より門下の寺院や堂舎の供養、並びに門末支配の神社遷宮などにの導師は、全て道隆寺明王院が執行してきた」

ここからは、中世以来の本末関係にもとづいて堂供養や神社遷宮が近世になっても道隆寺住職の手で行われたことが分かります。道隆寺の影響力は多度津周辺に留まらず、三野郡や瀬戸内海の島嶼部まで及んでいたようです。
道隆寺明王院が導師を勤めた寺院として、弥谷寺の名前も見えます。
正安元年(1299)の6月17日、道隆寺明王院主が
「爾谷寺(弥谷寺)観音堂入佛導師」
応永15年(1408)6月17日にも、再び
「爾谷寺観音堂入佛導師」とあります。
ここからは13世紀末から15世紀初頭に掛けて、弥谷寺は道隆寺と関係が深く、もしかしたら本寺としていたことがうかがえます。
 この時期は以前にお話しした「弥谷寺石造物の6時代区分」で見ると、第1期で阿弥陀三尊像に代表される磨崖仏が姿を現し、境内に磨崖五輪塔が活発に作られ続けた時期にあたります。同時に、寺院組織も整い、学と行が活発化したことを、弥谷寺に伝わる膨大な聖教類から研究者は推測します。ここでは、中世の弥谷寺が多度津の道隆寺と深い関係にあったことを押さえておきます。     
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道隆寺本堂
当時の弥谷寺西方の三豊地域の修験者の動きを見ておきましょう。
四国霊場68・69番札所の七宝山神恵院観音寺に、徳治2年(1307)に第41世蓮祐が書家を雇って書写させた『讃州七宝山縁起』があります。
七宝山縁起 行道ルート
         『讃州七宝山縁起』
意訳変換しておくと
仏法をこの地に納めたので、七宝山と号する。
或いは、寺院を建立した際に、八葉の蓮華に模したので観音寺ともいう。その峰を三十三日間で行峰(修行)する。
第二宿は稲積二天八王子(本地千手)で大師勧進。
第三宿は経ノ滝
第四宿は興隆寺で号は中蓮
第五宿は岩屋寺
第六宿は神宮寺
結宿は善通寺我拝師山である。
七宝山縁起 行道ルート3


ここには、観音寺をスタートとして三十三日をかけて七宝山を行場として修行する「中辺路ルート」があり、「峯中の宿」があったことが分かります。
 興隆寺は、第70番札所七宝山持宝院本山寺の江戸中期の『縁起』には、本山寺の奥之院とされています。興隆寺には、25段の岩窟があり、種字が刻まれた石が敷かれていたと記されますが、近世期には二段しかなくなり、本堂や仁王門も礎石が残るだけになっていたようです。現在でも多くの五輪塔が山中に眠るように並んでいるのは、以前に紹介したとおりです。
経の瀧は、現在は「不動之瀧」と呼ばれ、毎日三回「威怒尊王」が現れると伝えられる瀧です。ここも行場としては相応しいところです。
 第六宿の神宮寺は、『道隆寺温故記』にも登場します。
さきほどの道隆寺の院主が導師を勤めた一覧表の中に、文保2年(1318)8月に「三野郡生里之神宮寺大明神」の「遷宮導師」を務めていることが記されています。これが荘内半島の生里浦で、生里に神宮寺があったと研究者は考えています。
 荘内半島の積浦には、かつて山麓に「船積寺」と称する中世寺院があったようです。
天保11年(1840)に庄屋の陶山氏が藩に提出した書上帳の中に、船積寺の寺院ネットワーク5寺が次のように記されています。
岡本村 不動瀧、
比地村 岩屋寺
下高野村 興隆寺
生里浦 神正院
積浦 船積寺
 中世の神宮寺が近世の神正院の前身であったとすると、観音寺の中世縁起の中に書かれた「峯中宿」とほぼ一致することになります。船積寺には役行者伝承が色濃く残されていて、修験者との関係が深かったようです。
 以上にのように中世には、これらの行場や寺院は「七宝山中辺路」ルートで結ばれていて、修験者や念仏聖などの行人集団の行き来があったと研究者は考えています。彼らが歩んだ道は、また修行の道でもあったのです。
 近藤喜博氏は、四国遍路と西国巡礼との最も大きな違いは、遍路には「修行の道」という意味合いが強く込められている云います。それは、辺地(へち)を巡る行道の旅でした。中世行人集団の行道修行が四国遍路の「道ならし」の役割を果たしたと云えるのかも知れません。
 ところが、「七宝山辺路ルート」の行場や寺院で札所となったのは、観音寺と本山寺の2カ寺だけです。

弥谷寺と道隆寺の関係を、もう一度見ておきましょう。
 道隆寺は、信仰面でも弥谷寺に大きな影響を与えてきたようです。道隆寺は以前にお話したように、中世には多度津の堀江湊の管理センターの役割を担っていたようで、紀伊の根来寺との関係が深かったようです。海に開かれた瀬戸内の寺院として、塩飽諸島や庄内半島をの寺社を配下に組織していたことも先ほど見てきた通りです。
弥谷寺 深沙大将椅像
弥谷寺の蛇王権現

 弥谷寺には従来は蔵王権現とされてきた「蛇王権現」があります。弥谷寺以外に「蛇王権現」があるのは、讃岐では聖宝理源大師の生誕の地といわれる沙弥島の小さな神輿堂だけのようです。このふたつの「蛇王権現」を結ぶ役割を道隆寺が果たした可能性を研究者は指摘します。
道隆寺と弥谷寺をつなく民俗として現在に残っているのが「七ヶ所参り」だと研究者は指摘します。
七ヶ所参りを、近世後期の写し霊場とか、八十八ヵ所の短縮版とみる考えもあります。しかし、今見てきたように、中世の丸亀平野の宗教状況を考えると、曼荼羅・善通寺をはじめ、智証大師円珍の生誕の地である天台寺門宗の金倉寺、道隆寺や弥谷寺が、無関係にばらばらに存在したとは思えません。『道隆寺温故記』には、中世における寺社間の活発な協同や協力が記されています。
 修行面か見ると、『七宝山縁起』の七宿の「七宝山中辺路ルート」のような七カ寺の行道ルートがあっても自然のように思えてきます。
七ヶ所詣り
七ヶ所詣りのお寺
中讃には近世になっても「七ヶ寺参り」の風習が残っていました。
それは戦後まで続いていたようです。丸亀や多度津からのルートは、春の彼岸に、まず道隆寺に参拝します。そして金倉川沿いに金倉寺(76)を経て、善通寺(75)で一服して、甲山寺(74)、出釈迦寺(73)・曼荼羅寺(72)を経て、午後頑張って弥谷寺(71)へ登り、接待を受けるというものだったようです。そして帰りは、天霧山を越えて海岸寺(番外)に下っていきます。このれ今からみると、「逆うち」です。しかし、「七ケ所参り」のメインは善通寺ではなく、あくまで「弥谷さんにお参りする」ことがメインテーマで、弥谷寺が「結願」であったようです。そうだとすれば、この順路がもともとの参拝順だったことになります。
 三豊の七宝山の七宿は、ほとんどが廃絶してしまいました。しかし、中讃の七ヶ所参りは八十八ヵ所遍路と重なることで今まで存続してきたのかもしれません。ある意味、四国遍路以前の「四国辺路」ルートの痕跡が残っているといえます。この民俗の根底には、弥谷寺を阿弥陀浄土信仰の聖地として、ここに信者たちを誘引し続けた中世の念仏聖や高野聖たちの残した活動痕跡かもしれません。
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道隆寺本堂
     以上をまとめておくと
①弥谷寺は中世には、念仏聖などによって阿弥陀浄土信仰の聖地として信者が誘引され、多くの磨崖五輪塔が彫られた。
②中世の弥谷寺は孤立した存在ではなく、多度津の道隆寺の影響下にあった。
③中世の道隆寺は、海岸寺から庄内半島、塩飽の島々の寺社を配下に入れて海に開けた寺院として繁栄していた。
④道隆寺は塩飽を通じて、備中児島の五流修験の影響を受けていていた。
⑤そのため道隆寺の影響下にあった海岸寺や弥谷寺には、五流修験者に誘引された信者たちを海を越えて参拝にくることもあった。
⑥五流修験=道隆寺の影響下にあった海岸寺や弥谷寺は、戦国末には弘法大師=海岸寺生誕説を流布するなど、善通寺や高野山とは別派的な動きを見せたときもあった。
⑦江戸時代になって、弥谷寺は善通寺から院主を向かえるようになって、善通寺と本末関係を結ぶようになり、道隆寺との関係は薄くなっていった。
⑧弥谷寺は中世以来の「イヤダニマイリ」の聖地であり、周辺寺院と「中辺路ルート」で結ばれていた。
⑨近世になって、行を伴う修行者の「四国辺路」から、お参りだけの「四国遍路」に移り替わって行く際に、「七宝山中辺路」ルートは消えたが、中讃の「弥谷寺七ヶ寺」ルートは遍路道として存続した。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
白川琢磨   弥谷寺の信仰と民俗 弥谷寺調査報告書 香川県教育委員会 2015年
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七宝山 岩屋寺
七宝山 岩屋寺周辺

以前に、三豊の七宝山は霊山で、行場の「中辺路」ルートがあったことを紹介しました。それを裏付ける地元の伝承に出会いましたので紹介します。
志保山~七宝山~稲積山

弘法大師が比地の岩屋寺で修行したときのお話です。
比地の成行から少し山の方へのぼった中腹に岩屋という、見晴らしのいいところがあります。昔、弘法大師が四国八十八か所のお寺を開こうとして、あちらこちらを歩いてまわったとき、ここに来て、この谷間から目の前に広がる家や田んぼや池などの美しい景色がたいそう気に入って、しばらく修行したことがありました。
そのときの話です。
岩屋の近くのかくれ谷に一ぴきの大蛇が住んでいて、村の人びとはたいへんこわがっていました。
「ニワトリが取られたり、ウシやウマがおそわれたりしたら、たいへんじゃ」
「食うものがなくなったら、人間がやられるかもしれんぞ」
などと話し合っていました。ほんとうに自分たちの子どもがおそわれそうに思えたのです。でも、大蛇は大きくて強いので、おそろしがって、退治しようと立ち上がる人が一人もおりません。

この話を聞いた弘法大師は、たいへん心をいためました。
なんとかして大蛇を退治して村の人びとが安心して暮らせるようにしたいと思いました。そして、退治する方法を考えました。
弘法大師は、すぐに、大蛇を退治する方法を思いつきました。
ある日のことです。弘法大師は、大蛇が谷から出てくるのを待ちうけていて、大蛇に話しかけました。
「おまえが村へおりて、いろいろなものを取って食べるので、村の人びとがたいへん困っている。
村の人のものを取って食べるのはやめなさい」
ところが、大蛇は
「おれだって、生きるためには食わなきゃならんョ」
などと、答えて、相手になりません。そこで、弘法大師は、言いました。
「では、 一つ、かけをしようか。わたしの持っている線香の火がもえてしまうまでの間に、おまえは田んぼの向こうに見える腕池まで穴を掘れるかどうか。
おまえが勝ったら、腕池の主にして好きなことをさせてやろう。もし、わたしが勝ったら、おまえには死んでもらいたい」
高瀬町岩屋寺 蛇塚1

  腕池は今の満水池です。
岩屋から千五百メートルほどはなれています。しかし、大蛇はすばやく穴を掘ることには自信がありました。それに、こんな山の中にかくれて住んでいるよりは、村に近い池の主になるほうが大蛇にとってどんなにうれしいことか。大蛇はすぐに賛成しました。
「よし、やろう。おれのほうが勝つに決まってらァ」
そう言って、さっそく準備を始めました。
「では、始めよう。それっ、 一、二、三ッ」
合図とともに、弘法大師は、線香に火をつけました。大蛇も、ものすごいはやさで穴を掘りはじめました。線香が半分ももえないうちに、大蛇はもう山の下まで進んでいきました。

大蛇の様子を見て、弘法大師はあわてました。
「このはやさでは、線香がもえてしまわないうちに、大蛇が腕池まで行くにちがいない。なんとかしなければ……」
そう思った弘法大師は、大蛇に気づかれないようにそっと線香の下のところを折って短くしました。それで、大蛇が腕池まで行かないうちにもえてしまいました。
そんなこととは知らない大蛇は、自分が負けたと思いました。
弘法大師は言いました。

「約束だから、おまえに死んでもらうよ」
弘法大師は大蛇を殺してしまいました。大蛇がいなくなったので、
安心して暮らせるようになったということです。

高瀬町 岩屋寺蛇塚
満水池近くの蛇塚
  この大蛇をまつった蛇塚が満水池の近くに今も建っています。
その後、弘法大師が、岩屋の谷をよく調べたところ、修行するには谷の数が少ないことがわかりました。そこで、ここを札所にすることをやめました。そして、弥谷寺を札所にしたということです。
岩屋寺は、比地の成行から少し山の方へのぼった中腹に、今もあります。   「高瀬のむかし話 高瀬町教育委員会」より

高瀬町岩屋寺蛇塚2
蛇塚のいわれ
このむかし話からは、つぎのような情報が読み取れます。
①弘法大師が四国八十八か所のお寺を開こうとして、岩屋寺周辺でしばらく修行したこと
②岩屋寺のある谷には、大蛇(地主神)がすみついていたこと。
③大蛇退治の時に満水池(腕池)があったこと。
④七宝山の行場ルートが、弥谷寺にとって替わられたこと
ここからは、次のような事が推測できます。
②からは、もともとこの谷にいた地主神(大蛇)を、修験者がやってきて退治して、そこを行場として開いたこと。
①からは、大蛇退治に大師信仰が「接ぎ木」されて、弘法大師伝説となったこと。
③からは、満水池築造は近世のことなので、この昔話もそれ以後の成立であること
讃岐の中世 増吽が描いた弘法大師御影と吉備での布教活動の関係は? : 瀬戸の島から


このむかし話からは、七宝山周辺には行場が点在し、そこで行者たちが修行をおこなっていたことがうかがえます。
讃州七宝山縁起 観音寺
讃州七宝山縁起

観音寺や琴弾八幡の由緒を記した『讃州七宝山縁起』の後半部には、七宝山の行道(修行場)のことが次のように記されています。

几当伽藍者、大師為七宝山修行之初宿、建立精舎、起立石塔四十九号云々。然者仏塔何雖為御作、就中四天王像、大師建立当寺之古、為誓護国家、為異国降伏、手自彫刻為本尊。是則大菩薩発異国降伏之誓願故也。

意訳しておきましょう
 観音寺の伽藍は弘法大師が七宝山修行の初宿とした聖地である。そのために精舎を建立し、石塔49基を起立した。しからば、その仏塔は何のために作られてのか。四天王は誓護国家、異国降伏のために弘法大師自身が、作った。すなわちこれが異国降伏の請願のために作られたものである。
 
 ここには観音寺が「七宝山修行之初宿」と記され、それに続いて、七宝山にあった行場が次のように記されています。拡大して見ると
七宝山縁起 行道ルート

意訳変換しておくと
仏法をこの地に納めたので、七宝山と号する。
或いは、寺院を建立した際に、八葉の蓮華に模したので観音寺ともいう。その峰を三十三日間で行峰(修行)する。
第二宿は稲積二天八王子(本地千手=稲積神社)
第三宿は経ノ滝(不動の滝)
第四宿は興隆寺(号は中蓮で、本山寺の奥の院) 
第五宿は岩屋寺
第六宿は神宮寺
結宿は善通寺我拝師山
七宝山縁起 行道ルート3
       七宝山にあった中辺路ルートの巡礼寺院
こには次のように記されています。
①観音寺から善通寺の我拝師山までの「行峰=行道=中辺路」ルートがあった
②このルートを33日間で「行道=修験」した
③ルート上には、7つの行場と寺があった
ここからは、観音寺から七宝山を経て我拝師山にいたる中辺路(修行ルート)があったと記されています。観音寺から岩屋寺を経て我拝師山まで、七宝山沿いに行場が続き、その行場に付帯した形で小さな庵やお寺があったというのです。その周辺には、一日で廻れる「小辺路」ルートもありました。

七宝山岩屋寺
 岩屋寺
このむかし話に登場する岩屋寺は、七宝山系の志保山中にある古いお寺で、今は荒れ果てています。
しかし、本尊の聖観音菩薩立像で、平安時代前期、十世紀初期のものとされます。本尊からみて、この寺の創建は平安時代も早い時期と考えられます。岩窟や滝もあり、修行の地にふさわしい場所です。那珂郡の大川山の山中にあった中寺廃寺とおなじように、古代の山岳寺院として修験者たちの活動拠点となっていたことが考えられます。
七宝山のような何日もかかる行場コースは「中辺路」と呼ばれました。
「小辺路」を繋いでいくと「中辺路」になります。七宝山から善通寺の我拝師に続く、中辺路ルートを終了すれば、次は弥谷寺から白方寺・道隆寺を経ての七ヶ所巡りが待っています。これも中辺路のひとつだったのでしょう。こうして中世の修験者は、これらの中辺路ルートを取捨選択しながら「四国辺路」を巡ったと研究者は考えています。
 ところが、近世になると「素人」が、このルートに入り込んで「札所巡り」を行うようになります。「素人」は、苦行を行う事が目的ではないので、危険な行場や奥の院には行きません。そのために、山の上にあった行場近くにあったお寺は、便利な麓や里に下りてきます。里の寺が札所になって、現在の四国霊場巡礼が出来上がっていきます。そうすると、中世の「辺路修行」から、行場には行かず、修行も行わないで、お札を納め朱印をいただくだけという「四国巡礼」に変わって行きます。こうして、七宝山山中の行場や奥の院は、忘れ去られていくことになります。
   三豊の古いお寺は、山号を七宝山と称する寺院が多いようです。
本山寺も観音寺も、威徳院も延命院もそうです。これらのお寺は、かつては何らかの形で、七宝山の行場コースに関わっていたと私は考えています。

  最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
  引用文献    「高瀬のむかし話 高瀬町教育委員会」
  参考文献

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