瀬戸の島から

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 今は、里山周辺の山々も利用価値がなくなり、人の手が入らずに竹が伸び放題になった所が多くなりました。しかし、江戸時代には田にすき込む柴木を刈るための「資源提供地」で入会権が設定されていたことを前回に見てきました。それは、時には入会林をめぐっての村同士の抗争も引き起きていたようです。
 象頭山の西斜面の「麻山」については、小松庄(琴平)の農民たちは入山料を支払い、鑑札を持参した上で、刈取りが認められていました。その中で佐文に対しては、鑑札なしの入山という有利な条件が設定されていました。ところが約70年後になると、佐文は周辺の村々と入会林争論を引き起こすようになります。その背景には何があったのかを、今回は見ていこうと思います。

佐文周辺地域
佐文と周囲の村々
 正徳5(1715)年6月に神田村と上ノ村(財田)・羽方(高瀬)の3ケ村庄屋が連名で、佐文村を訴えて、次のような訴状を丸亀藩に提出しています。(要約)
佐文 上の村との争論

意訳変換しておくと
「財田の上ノ村の昼丹波山の「不入来場所」とされる禁足地に佐文の百姓達が、無断で近年下草苅に入って来るようになりました。昨年4月には、別所山へ大勢でおしかけ、松の木を切荒す始末です。佐文の庄屋伝兵衛方ヘ申し入れたので、その後はしばらくはやってこなくなりました。すると、今年の2月にまた大勢で押しかけてきたので、詰問し鎌などを取り上げました。(中略)今後は佐文の者どもが三野郡中へ入山した時には「勝手次第」に処置することを、御公儀様へもお断り申上ておきます。」

 これに対して佐文庄屋の伝兵衛からは、次のような反論書が提出されています。
佐文 上の村との争論 佐文反論

意訳変換しておくと

「新法によって財田山への佐文の入山は停止されたと財田衆は主張し、箸蔵街道につながる竹の尾越で佐文村の人馬の往来を封鎖する行動に出ています。春がやって来て作付準備も始まり、柴草の刈り取りなどが必要な時期になってきましたが、それも適わずに迷惑しています。新法になってからは財田方の柴草苅取が有利に取り計らわれるようになって、心外千万です。」

 ここからは上の村は、竹の尾越を封鎖する実力阻止を行っていたことが分かります。
入会林をめぐる対立の背景には、丸亀藩の進める「新法=山検地」があったようです。
山検地は、田畑の検地と同じように一筆ごとに面積と生えている木の種類を、5年ごとに調査する形で行われています。そして、検地を重ねる度に入会林が藩の直轄林(御林)に組み込まれ、縮小されていきます。佐文が既得権利を持っていた「麻山」周辺の入会林も縮小されます。そのために佐文の人たちは、新たな刈敷山をもとめて、昼丹波山・別所山・神田山(二宮林)へ入って、柴草を刈るようになったようです。これが争論の背景と推測できます。
 これに対する丸亀藩の決定は、「取り決めた以外の場所へ入り申す義は、少しも成らるべからざる由」で、「新法遵守」の結論でした。佐文の既得権は認められなかったようです。
 この10年後の享保10(1725)年の「神田村山番人二付、廻勤拍帳」という史料からは、村有林や入会林を監視するために神田村は「山番人」を置くようになっていたことが分かります。それまでは、村と村の境は、曖昧なところがあったようですが、山林も財産とされることで、境界が明確化されていきます。このような隣村との境界や入会権をめぐる争論を経て、近世の村は姿を整えていくことになります。今は、放置されている集落周辺の山々は、江戸時代には重要な「資源提供地」で争いの対象だったようです。
参考文献  「丸尾寛 近世西讃岐の林野制度雑考」高瀬町史史料編 511P
  文責 池内 敏樹

  入会林の覚え書き 1641年
山入会(入会林)付覚書(大麻山周辺の入会林について)

生駒藩お取りつぶし後に、讃岐が二つの藩が出来て、丸亀藩に山崎家が入ってくることになったのが1640年のことでした。その時に、大麻山周辺をめぐる中世以来の入会林の既得権が再確認されて文書化されます。そこには入山料を支払い、入山鑑札を持参した上で、小松庄(琴平)の農民たちに大麻山の西側の「麻山」への入山が認められていました。ところが佐文の農民に対しては、鑑札なしの入山が許されていました。その「特権」が古代以来、佐文が「麻分」で三野郡の麻の一部と認識されていたことからくるものであったことを前回は見てきました。
 入山権に関して特別な計らいを受けて有利な立場にあった佐文が、それから約70年後の正徳五(1715)年になると、周辺の村々と紛争(山論)を引き起こすようになります。その背景には何があったのかを、今回は見ていこうと思います。テキストは、「丸尾寛 近世西讃岐の林野制度雑考」です。
佐文周辺地域
佐文周辺の各村(佐文は那珂郡、他は三野郡)

正徳5(1715)年6月に、神田と上ノ村・羽方の3ケ村連名で、丸亀藩に次のような「奉願口上之覚」が提出されています。

佐文 上の村との争論
山論出入ニ付覚書写(高瀬町史資料編160P)
意訳変換しておくと
一、財田の上ノ村の昼丹波山の「不入来場所」とされる禁足地に佐文の百姓達が、無断で近年下草苅に入って来るようになりました。そこで、見つけ次第に拘束しました。ところが今度は昨年四月になると、西の別所山へ大勢でおしかけ、松の木を切荒し迷惑かえる始末です。佐文の庄屋伝兵衛方ヘ申し入れたので、その後はしばらくはやってこなくなりました。すると、今年の二月にまた大勢で押しかけてきたので、詰問し鎌などを取り上げました。
佐文 上の村との争論2

このままでは百姓どもの了簡が収まりませんので、口上書を差し出す次第です。村境設定以前に、上ノ村山の中に佐文の入会場所はありませんでした。30年以来、南は竹ノ尾山の一ノかけから上、西は別所野田ノ尾から東の分については入会で刈らせていました

一、神田山について
前々から佐文村は、入会の山であると主張しますが、そんなことはございません。先年、神田庄屋の理左衛門の時に、佐文の庄屋平左衛門と心易き関係だったころに、入割にして、かしの木峠から東之分を入会にして刈り取りを許したといいます。これは近年のなってことでので、大違です。由□□迄参、迷惑仕候
 以上のように入山禁止以外にも、今後は佐文の者どもが三野郡中へは入山した時には「勝手次第」に処置することを、御公儀様へもお断り申上ておきます。三ヶ村の百姓は、前々から佐文の入山を停止するように求めてきましたが、一向に改まることがありません。そのためここに至って、三ケ村の連判で訴え出た次第です。御表方様に対シ迷惑至極ではございましょうが、百姓たち一同の総意でありますので口上書を提出いたします。百御断被仰上可被下候、以上        
正徳五(1715)年六月   
     
三野郡神田村庄屋   六左衛門
          同神田村分りはかた(羽方)村庄屋  武右衛門
上ノ村大庄屋字野与三兵衛
庄野治郎右衛門様
  神田村(山本町)・羽方村(高瀬町)と上ノ村(財田町)の庄屋が連名で、丸亀藩に訴えた書状です。佐文の百姓が上ノ村との村境を越えて越境してきて、芝木刈りなどを勝手に行っていること、それが実力で阻止されると、神田村の神田山にも侵入していること、それに対して強硬な措置を取ることを事前に藩に知らせ置くという内容です。
佐文 地図2

 これに対して佐文からは、次のような口上書がだされています。

佐文 上の村との争論 佐文反論
   佐文からの追而申上候口上之覚 (高瀬町史史料編158P)
  意訳変換しておくと
一、この度、財田之衆が新法を企て、朝夕に佐文村からの入山に対して差し止めを行うようになって迷惑を受けていることについては、2月28日付けの書面で報告したとおりです。佐文村からの入山者は勾留すると宣言して、毎日多くの者が隠れて監視を行っています。こちらはお上の指図なしには、手出しができないと思っているので、作付用意も始まり、柴草の刈り取りなどが必要な時期になってきましたが、それも適わない状態で迷惑しています。新法になってからは財田方の柴草苅取が有利に取り計らわれるようになって、心外千万であると与頭は申しています。

一、新法によって財田山へ佐文の入山は停止されたと財田衆は云います。朝夕に佐文から侵入してくる証拠としてあげる場所(竹の尾越)は、箸蔵街道につながる佐文村の人馬が往来する道筋です。そこには、馬荷を積み下ろしする場所も確かにあります。2月14日に、この通行を突然に差し止めることを上ノ村側は通告してきました。が、竹の尾越は佐文の人馬が往来していた道なので、馬の踏跡や馬糞まで今でも残っています。佐文以外の人々も、何万の人たちがこの道筋を往来してきました。吟味・見分するとともにお知りおき下さい。(以下破損)
一、先に提出した文書でも申上げた通り、財田側は幾度も偽りを為して、出入り(紛争)を起こしてきました。財田方の言い分には、根拠もなく、証拠もありません。度々、新法を根拠にしての違法行為に迷惑しております。恐れながらこの度の詮儀については、申分のないように強く仰せつけていただけるよう申し上げます。右之通、宜被仰上可被下候、以上  
正徳五未四月十三日      佐文村庄屋 伝兵衛 印判
同村与頭覚兵衛 
同同村五人頭弥兵衛
同同村惣百性中
山地六郎右衛門殿
佐文の言い分をまとめてみると次のようになります。
①「新法」を根拠に、財田上ノ村が旧来の入会林への佐文側の入山を禁止し、実力行使に出たこと
②その一環として、箸蔵街道のに続く竹の尾峠の通行も規制するようになったこと
③佐文側が「新法」について批判的で、「改訂」を求めていること。

両者の言い分は、大きく違うようです。それは「新法」をどう解釈するかにかかっているようです。新法とは何なのでしょうか?
貞享5年(1688)年に、丸亀藩から出された達には、次のように記されています。
「山林・竹木、無断に伐り取り申す間敷く候、居屋鋪廻り藪林育て申すべく候」

意訳変換しておくと
「林野(田畑以外の山や野原となっている土地)などに生えている木竹などは藩の許可もなく勝手に切ってはならない、屋敷の周囲の藪林も大切に育てよ

というものです。さらに史料の後半部には「焼き畑禁止条項」があります。ここからは、藩が田畑だけでなく山林全体をも含めて支配・管理する旨を宣言したものとも理解できます。この達が出る前後から、藩側からの山林への統制が進められていったようです。
 そのひとつが山検地であると研究者は指摘します。
山検地は、丸亀藩の山林への統制強化策です。山検地は、田畑の検地と同じように一筆ごとに面積と生えている木の種類を調査する形で行われています。京極高和が丸亀へ入部した万治元(1658)年の5月に、山奉行高木左内が仲郡の七ヶ村から山林地帯を豊田郡まで巡回しています。これが山検地の最初と研究者は考えているようです。検地の結果、山林については次の4つに分類されます
①藩の直轄する山林
②百姓の所有する山林
③村や郡単位での共有地となっている山林
④寺社の所有する山林
そして、5年毎に山検地は行われますが、検地を重ねる度に山林が藩の直轄林(御林)に組み込まれていきます。そして、入会地が次第に縮小されていきます。この結果、佐文が既得権利を持っていた「麻山」や「竹の尾越」周辺の入会地も縮小されていったことが推測できます。一方で、佐文でも江戸時代になって世の中が安定化すると、谷田や棚田が開発などで田んぼは増えます。その結果、肥料としての柴木の需要はますます増加します。増える需要に対して、狭まる入会地という「背に腹は刈られぬ状況」の中で、佐文の住民がとったのが「新法=山検地(?)」を無視して、それ以前の入会地への侵入だったようです。
①南は、竹の尾越を越えた財田上の村(財田町)方面
②南西は、立石山を越えた神田村(山本町)方面
③西は、伊予見峠を越えた羽方村(高瀬町)
佐文 地図2

これらの山々でも、入会地縮小が進んでいたようです。それが「新法」だったと私は考えています。特権として認められたいた麻山の旧入会地が狭められた結果、入るようになったのが①~③のエリアで、それも新法で規制を受けるようになったのかもしれません。どちらにしても丸亀藩の林野行政の転換で、入会林は狭められ、そこから閉め出された佐文が新たな刈敷山をもとめて周辺の山々に侵入を繰り返すようになったことがうかがえます。
 佐文村の百姓が藩が取り決めた境を越えて昼丹波山・別所山・神田山(二宮林)へ入って、柴草を刈ったことから起こった紛争の関係書類を見てきました。これに対する丸亀藩の決定は、「取り決めた以外の場所へ入り申す義は、少しも成らるべからざる由」で、「新法遵守」でした。佐文の既得権は認められなかったようです。
 これから享保10(1725)年には「神田村山番人二付、廻勤拍帳」という史料が残っています。これは「山番人」をめぐる神田・羽方両村の争いに関する史料です。ここからは、佐文との山争論の10年後には、村有林や入会林を監視するために「山番人」が置かれるようになったことが分かります。また、「御林」に山番人が監視にあたると、今まで入会地とされてきた場所は次第に「利用制限」されていきます。それまでは、村と村の境は、曖昧なところがあったのですが山林も財産とされることで、境界が明確化されていきます。山の境界をめぐって、藩の山への取り締まりは強化されていきます。
 しかし、百姓たちからする「御林(藩の直轄山林)」は、もともとは自分たちの共有林で入会林であった山です。そこに入山ができなくなった百姓たちの反発が高まります。そうして起こったのが享保17年の乙田山争論のようです。このような隣村との境界や入会権をめぐる争論を経て、近世の村は姿を整えていくことになります。
琴南林野 阿野郡南川東村絵図(図版)
阿野郡南 川東村絵図
(まんのう町川東地区の御林(緑色)と野山(赤色)を色分けした絵図
 中世の各郷による山林管理体制を引き継いだ生駒時代には、野山・山林の支配は村を単位にして、藩主と個人的関係のある代官や地元の有力者を中心に行われていました。とくに大麻山・琴平山と麻山の周辺の山林は、佐文のように古い体制を残しながら支配が複雑に入り組んでいました。それがきちんとした形に整えられていくのは享保年間ごろと研究者は考えています。生駒家時代の林野に対する政策は、京極藩で確立する林野政策の過渡的な形態を示しているようです。
まんのう町の郷
古代中世の各郷
 以上をまとめておくと
①生駒時代には、大麻山は入会林で鑑札を購入しての周辺村々の芝木刈りのための入山が認められていた。
②麻山の鑑札による入会林として利用されていたが、佐文は鑑札なしでの芝木刈りが認められていた
③丸亀京極藩は、田畑以外に山林に対しても山検地を始め、入会林を「御林(藩の直轄林)」へと組み込みこんでいった。
④「御林」の管理のために「山番人」が置かれるようになり、入山規制が強まる。
⑤こうして「麻山」周辺への入山規制が強化されるにつれて、佐文は南部の財田や神田への山林への侵入をするようになった。
⑥これに対して財田上の村、神田村、羽方村の3ケ村連名で「新法」遵守を佐文に求めさせる抗議書が提出された。
⑦丸亀藩の決定は「新法遵守」で、あらたに設定された境界を越えての入山は認められなかった。
⑧このような入会林や村境界の争論を経て、近世の村は確立されていく
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献  「丸尾寛 近世西讃岐の林野制度雑考」

   佐文5
        高瀬町の上栂 金刀比羅宮のある象頭山の裏側にあたる                
高瀬町の上栂には、次のような雨乞いおどりの話が伝わっています。
江戸時代の話です。東山天皇の御代に、京都に七条実秀という人がおりました。七条実秀(さねひで)の綾子姫は、小さいころから美しくかしこい女性でした。ところが、あるとき、どんなことがあったのかわかりませんが、おしかりを受けて、讃岐の国へ送られることになりました。当時、女の人の一人旅はなにかと不自由がありましたから、姫のお世話をするために沖船という人が付きそってきました。
瀬戸内海を渡る途中、船があらしにあいました。綾子姫は、船の中で
お助けください、金刀比羅様。無事に港へ着きますように。たくさんの人が乗っています。
お助けください、金刀比羅様
と、一心においのりをしました。
金刀比羅様は海の神さまです。船は無事に港へ着くことができました。綾子姫はたいへん感謝して、金刀比羅宮へ行き、ていねいにお礼参りをしました。
その後、綾子姫は、金刀比羅様の近くに住みたいと思い、象頭山の西側の上栂の土地に家を定めました。沖船さんは少し坂を下った所にある東善の集落に住むことになりました。

綾子姫と沖船さんがこの地に住むようになってから何年かたちました。
ある年、たいへんな日照りがありました。何日も何日も雨がふらず、カラカラにかわいて、田んぼに入れる水がなくなり、農家の人たちはたいへん困りました。農家の人たちは、なんとか雨が降らないかと神に祈ったり、山で火を焚いたりしましたが、ききめはありませんでした。この様子に心をいためられた綾子姫は、沖船さんを呼んでこう言いました。
なんとか雨がふるように雨乞いをしたいと思うのです。
あなたは京の都にいたときに雨乞いおどりを見たことがあるでしょう。思い出しておくれ。そして、わたしに教えておくれ」

   わかりました。やってみます」

沖船さんは家に帰るとすぐ、紙とふでを出して、雨乞いの歌とおどりを思い出しながら書きつけました。思い出しては書き、思い出しては書き、何日もかかりました。どうしても思い出せないところは自分で考え出して、とうとう全部できあがりました
綾子姫は、沖船さんが書いてきたものに自分の工夫を加えて、歌とおどりが完成しました。二人は、喜びあって、さっそく歌とおどりの練習をしました。それから、雨乞いの準備に取りかかりました。

準備ができた日、綾子姫と沖船さんは、農家の人たちに伝えました。

あすの朝早く、村の空き地へ集まってください。雨を降らせるおいのりをするのです

次の朝早く、村の空き地で、綾子姫と沖船さんは、みのと笠をつけて、歌いおどりながら、雨を降らせてくださいと天に向かって一心にいのりました。家の人たちも、雨が降ることをいのりながら、いっしょにおどりました
すると、ほんとうに雨が降り始めました。にわか雨です。農家の人たちおどりあがって喜びました。そして、二人に深く感謝しました。
その後、綾子姫も沖船さんも、つつましく過ごして、 一生を終えたたいうことです。

 ふたりのことは年月とともにだんだん忘れられていきました。
このときの雨乞いの歌とおどりも、行われることがなくなりました。
ふたりのことが忘れられかけたあるとき、東善の人びとは沖船さんをしたって沖船神社を建てました。昔は東善にありましたが、今は麻部神社の中へ移されています。綾子姫のことも忘れないようにと、石に刻まれて、上栂の墓所に建てられています。

 この昔話には、高瀬町の上栂で「綾子踊り」が踊られたことが伝えられています。
① 時代は東山天皇の時代(1675年10月21日 - 1710年1月16日)で、17世紀後半の元禄年間にあたります。
② 綾子踊りを伝えたのは、七条実秀(さねひで)の娘・綾子姫ということになっています。七条家は藤原北家水無瀬流の公家で、江戸時代の石高は200石です。
③ 綾子姫が讃岐に流刑になり、船で向かう途中に嵐にあって金毘羅神に救われたとされます。金毘羅信仰が海難救助と結びつくのは19世紀になってからですから、この話の成立もこのあたりのことだったのでしょう。
④ 旱魃が続いたときに「農家の人たちは、なんとか雨が降らないかと神に祈ったり、山で火を焚いたりしましたが、ききめはありませんでした」とあります。
 ④からは、すでにいろいろな雨乞祈願がされていたことがうかがえます。
5善通寺
          善通寺東院境内の善女龍王社 
高瀬地方で「雨乞いのために神に祈ること」は、高瀬町の威徳院や地蔵寺で行われていた「善女龍王信仰」が考えられます。山で火を焚くことは、山伏たちの祈祷でしょう。それでも効き目がなかったので、綾子姫は「京の雨乞い踊り」の上栂への導入を思い立つのです。
その制作過程を、次のように記しています。
 
 「雨乞いの歌とおどりを思い出しながら書きつけました。思い出しては書き、思い出しては書き、何日もかかりました。どうしても思い出せないところは自分で考え出して、とうとう全部できあがりました」
 
ここからは、当時の畿内で踊られていた「雨乞い踊り」が導入されたことがうかがえます。さてそれでは、当時の畿内で踊られていた「雨乞い踊り」とは、どんなものだったのでしょうか。

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        なむて踊りの絵馬(奈良県高取町 小島神社)

これについては奈良で踊られた「なむて踊り」を紹介したときに、お話ししました。ここでは、百姓たちが雨を降らせるために踊ったのではなく、雨を降らせた神様へのお礼のために踊っていました。言うなれば「雨乞い踊り」ではなく「雨乞い成就感謝」のための踊りだったのです。
 雨乞いは山伏や寺院の僧侶など、特別な霊力をつけた人が行うものです。当時の人たちにとって、霊力のない普通の百姓が雨を降らせるなどというのは、恐れ多い考えでした。滝宮念仏踊りの由来にも、「菅原道真が祈願して雨が降ったので、そのお礼に百姓たちが念仏踊りを踊った」と記されています。ここからも雨乞いのために踊られたという「綾子踊り」は、江戸時代の終わりになって登場したものであることがうかがえます。
5善通寺22
佐文の綾子踊り

 綾子姫が踊った踊りも、当時の畿内で踊られていた雨乞い成就のりを踊りをアレンジしたもののようです。それでは、畿内の百姓たちは雨乞い成就の時には、どんな踊りを踊っていたのでしょうか。それが当時の盆踊りなどで踊られていた風流踊りと研究者は考えています。 佐文に伝わる綾子踊りの歌詞を見ても、雨乞いを祈るようなフレーズはどこにもありません。そこにあるのは、当時の百姓たちの間で歌われ、踊られていた風流踊りなのです。

 以上から分かることは、
①綾子踊りの起源は18世紀末から19世紀にかけてのものであること。
②綾子踊り以前に、すでに「善女龍王信仰」などの雨乞祈願の行事が行われていたこと
③先行する雨乞行事があるにもかかわらず、あらたな百姓主導の雨乞い踊りが導入されたこと
④そして、それは時宗念仏系の踊りではなく、近畿で流行っていた風流系のものあったこと。

以前に紹介したように高瀬町史には、大水上神社(二宮神社)に「エシマ踊り」という風流系の雨乞い踊りが伝わっていたことが記されています。これが上栂の綾子踊りの原型ではないかと私は推測します。しかし、上栂には綾子踊りを伝えるのは昔話だけで、史料も痕跡も何もありません。
 佐文の綾子踊りが国指定の無形文化財に指定されるのに刺激されて建てられた碑文があるだけです。この碑文の前に立って、いろいろなことを考えています。


古代からの水稲栽培の大きなポイントは、次の2点でした。
①農業用水の確保のための潅漑
②肥料を施すこと
 平安時代になると、山林を焼いた草木灰と、青草や木の若芽を刈り取り、田植前の本田に敷きこんで腐食させ根肥とするようになります。これを刈敷(かれしき)と呼んでいました。
1刈敷1
①青色 里山から小枝を刈り取ってくる
②赤色 馬や人が背負って、集落に下ろしてくる
③緑色 馬に踏まして、水田にすき込んでいく
④紫色 灰にして散布する

古代には刈敷の草木を刈り取るのは、条里制内の耕作放棄地(年荒)や常荒田と、条里制周辺の未墾地でした。これらの土地は、荘園主などの領主の所有地ですので、農民は人山料を支払って刈り取っていたようです。
1刈敷2
背負われてきた小枝が水田に置かれます。田に馬を放ってすき込ませます。

 中世になると、善通寺を中心とする一円保では以前にお話ししたように、農地開墾も盛んに行われ、耕作放棄地や常荒田等も耕作されるようになります。また、潅漑技術が進歩して有岡大池が作られ、水田の乾田化か進み、二毛作が行われるようにもなります。この結果、刈敷を刈るための里山がますます必要になります。領主は山の管理を厳しくして、他領の者が入山したり肥灰を他領へ持ち出すことを禁止して肥料の確保に努めるようになります。
1刈敷3

室町時代になると領主の肥料管理権は、農民の手に移っていきます。
 荘園が次第になくなり、灌漑水利等を共に管理する集落が惣村をつくるようになります。そこでは、名主を中心に刈敷を採取する野山を共同所有地とし、ルールを作って共同で使用するようになります。領主は、領民に刈敷の原料となる草木の刈取りや、更には薪の採取までも認めるようになります。その代わりに集落に対して年貢納入を求めます。こうして、一定エリア内の住民に草木の採取が認めら、それが入会権(のさん)につながっていきます。里山や山林の入会権は、中世松には出来上がっていたようです。
それでは、近世はじめの丸亀平野の場合はどうなのでしょうか?
1640(寛永十七)年に、お家騒動で生駒家が改易され、讃岐は東西二藩に分割されることになります。この時に幕府から派遣された伊丹播磨守と青山大蔵は、讃岐全域を「東2:西1」の割合で分割せよという指示を受けていました。そのために再検地を行っています。新しく「村切」も行って、高松藩と丸亀藩の境界を引きます。その際に両藩の境界となる那珂郡と多度郡では、入会林(のさん)をめぐる紛争がに起る可能性がありました。それを避けるために、寛永十八(1641)年十月に、関係村々の政所の覚書の提出を求めています。各村の庄屋が確認事項を書き出し提出したものです。

1仲之郡∂柴草苅申山之事

仲之郡の柴草苅を行う山について
松尾山   苗田村 木徳村
西山 柴木苅申村 櫛無村 原田村
大麻山 与北村 郡家村 西高篠村

一、七ヶ村西東の山の柴草は、仲郡中の村々が刈ることができる
一、三野郡の麻山の柴草は先年から鑑札札で子松庄が刈ることを認められている
一、仲郡佐文の者は、先年から鑑札札なしで苅る権利を認められている
一、羽左馬(羽間)山の柴草は、垂水村・高篠村が刈ることができる
寛永拾八年巳ノ十月八日

芝草刈りのための入会林を従来の通り認めるという内容です。注意しておきたいのは、新たに設定されたのでなく、いままであった入会林の権利の再確認であることです。ここからは中世末には、入会林の既得権利が認められていたことがうかがえます。

内容を見ておきましょう
大麻山は 三野郡・多度郡・仲郡の三郡の柴を刈る入会山とされています。
また、「麻山」は仲郡の子松庄(現在の琴平町周辺)の住人が入山して「札にて刈り申す」山と記されています。札は入山の許可証(鑑札)で、札一枚には何匁かの支払い義務があったようです。
  ここからは仲郡、多度郡と三野郡との間の大麻山・麻山が入会地であったことが分かります。ちなみに象頭山という山は出てきません。象頭山は近世になって登場する金毘羅大権現(クンピーラ)が住む山として名付けられたものですから、この時代にはなかった呼び名です。

同郡山仲之郡佐文者ハ先年から札無苅申候」とあります。
仲郡の佐文(現在、まんのう町佐文)の住人は、札なしで自由に麻山の柴を刈ることができると書かれています。麻山と佐文とは隣接した地域なので、佐文の既得権があったようです。
 他の文書で「多度郡には山がないので、多度郡の者は那珂郡の山脇・新目・本目・塩入(旧仲南町)で柴草を刈ることとができる。」とされています。
以上からそれぞれの山の入会権をもつ村々を整理しておきましょう
松尾山   苗田村 木徳村
西山 櫛無村 原田村
大麻山 与北村 郡家村 西高篠村 
小松庄(五条・榎井・苗田)・佐文(鑑札なし)
旧仲南町 多度郡の各村
七箇村東西 那珂郡
狹間山 垂水村 高篠村
 各村の代表者(政所)の同意・確認の上で、青山・伊丹の引継責任者は、新しく丸亀城の藩主となる山崎甲斐守に覚書(引継書)を送っています。そこには、各村の政所の意向を受けた上で、執るべき措置が箇条書きにされています。その内容を見てみましょう
 
1仲之郡∂柴草苅申山之事2

意訳変換しておくと
一、那珂郡と鵜足郡の米は、前々から丸亀湊へ運んでいたが、百姓たちが要望するように従前通りにすること。
一、丸亀藩領内の宇足郡の内、三浦と船入(土器川河口の港)については、前々より(移住前の宇多津の平山・御供所の浦)へ出作しているが、今後は三浦の宇多津への出作を認めないこと。
一、仲郡の大麻山での草柴苅について、前々から行っていたと云う。ただ、(三野郡との)山境を築き境界をつくるなどの措置を行うこと。
一、仲郡と多度郡の大麻山での草柴苅払に入る者と、東西七ヶ村山へ入り、草柴苅りをおこなうことについて双方ともに手形(鑑札札)を義務づけることは、前々通りに行うこと
一、満濃池の林野入会について、仲郡と多度郡が前々から入山していたので認めること。また満濃池水たゝきゆり はちのこ採集に入ること、竹木人足については、三郡の百姓の姿が識別できるようにして、満濃池守に措置を任せること。これも従前通りである。
一、多度郡大麻村と仲郡与北・櫛無の水替(配分)について、従来通りの仕来りで行うこと。
右如書付相定者也
寛永拾八年              伊丹播磨守
巳ノ十月廿日            青山大蔵少
山崎甲斐守殿
ここには引継ぎに際しての申し送り事項が書かれています。紛争が起らないように、配慮するポイントを的確に丸亀藩に伝えていることが分かります。入会林に関係のあるのは、3・4番目の項目です。3番目は、那珂郡では大麻山、三野郡では麻山と呼ばれる山は同一の山なので、今後の混乱・騒動を避けるためには、境界ラインを明確にするなどの処置を求めています。
  ここで気がつくのが大麻山の壁のような遺構です。電波塔から東に向かうと稜線沿いに、長く塀のような遺構が続きます。これがこのときに設置された那珂郡と三野郡の境界壁ではないかというのが私の仮説です。
工房うむき on Twitter: "諏訪湖南の山地で聞き取りでも「刈敷の山の口が開く」といわれ採取する解禁日が決まっていたそうです。… "
「刈敷の山の口が開く日」という表現で、解禁日も採取場所も決まっていたようです。これは諏訪南部の刈敷指定場所

 4番目は、大麻山の入会権については多度郡・那珂郡・三野郡の三郡のものが入り込むようになるので、混乱を避けるために鑑札を配布した方がいいという指摘です。鑑札札をもって、番所でチェックを受けて大麻山には周辺の多くの農民達が入って行ったことでしょう。

このような引継ぎが行われていることは、幕府要人も、各村の農民の人会権を認めて、肥料源を確保させることは、勧農政策の重要ポイントだと、認識していたことがうかがえます。
   こうしてみると丸亀平野を囲む里山は、それぞれの村々に入山権が割当てられたことが分かります。当時の人々の目からすれば、狹間山を見れば「垂水村・高篠村の山」と認識されていたのです。それぞれの山に入山権が設定されていたことを押さえておきたいと思います。
第72回 「かっちき」「刈敷」とは何か~草を肥料にする農耕の知恵 | 園藝探偵の本棚 | カルチベ – 農耕と園藝ONLINE

 こうして、里山は春が来て新芽が芽吹く頃になると周辺の村々から農民達が入り込み、木々の枝を刈り取り、それを背負って田んぼに敷き込むことがどこでもおこなわれるようになります。そして、それが多ければ多いほど増収につながるのです。農民達は競って里山に入り、木々の枝を刈り取ったのです。多度郡の農民達の入会地は、はるか南の讃岐山脈の麓でした。朝早くに出発して、小枝を刈り取り、それを背負って暗くなった道を家路に急いだのでしょう。その際に、番所では木札を見せ、決められた銭も支払いしました。
東十二丁目誌」註解覚書:山は誰のものだったか? (2) – 人そして川

 刈敷のための小枝伐採や採集が続くとどうなるのでしょうか。
藤沢周平の「回天の門」の主人公・清河八郎が母を伴って、金毘羅詣でにやってきた時の記録を見てみましょう。道中の丸亀街道に「四国富士」(讃岐富士)が見えてきます。
 「四国富士といふ小山、路よりわづか壱里ばかりへだて、突然として景色あり。「常に人をのぼさず。七月十七日頃に一日群がりのぼる」と路中の子供はなされき。
 すべて此辺高山はまれにて、摺鉢をふせたるごとき山、処々にあり、いづれも草木不足なり。時々雲霧に顕晦いたし、種々の容体をなせり。
意訳変換しておくと
「いつもはあの山には登れないんだ、7月17日だけに登ることが許されているんだ、その時には群がるように人が集まってくるんだ」と、土地の子ども達が教えてくれたと云います。当時は年に一度しか登ることが許されていなかったようです。霊山として「禁足」された聖なる山だったようです。私が気になるのは「草木不足」という事場です。お椀を伏せたような山は、どれも草木が茂っていない=裸山だ

と記します。

   清川八郎が母親と金毘羅さんにやって来た同じ年の安政2年(1855)に、描かれた「讃岐 象頭山遠望」です。
1 象頭山 浮世絵

岡田台地からの「見返り坂」を上り下りする参拝者の向こうに象頭山(大麻山)が描かれています。山は左側と右側では大きく色合いが違います。なぜでしょう?
最初は、「赤富士」のような「絵心」で、彩りを美しく見せるために架空の姿を描いたものなのかと思っていました。しかし、だんだんと、これは当時のそのままの姿を描いているのでないかと思うようになりました。
 向かって左側は、金毘羅大権現の神域です。右側は、古代から大麻山と呼ばれた山域です。現在は、この間には防火帯が設けられ行政的には左が琴平町、右が善通寺市になります。
ここからは私の仮説です。
左側は金毘羅さんの神域で「不入森」として、木々が切られることはなかった。しかし、右の善通寺側は、刈敷で「草木不足」となり、山が荒れている状態を描いているのではないでしょうか?

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歌川広重の「山海見立相撲 讃岐象頭山」を見ると、山が荒れ、谷筋が露わになっているように見えます。背景には、先ほどお話ししたように田畑に草木をすき込み堆肥とするために、周辺の里山の木々が切られたことがあります。この時期に芝木は大量に田畑にすき込まれ肥料にされました。里山の入会権をめぐって、周辺の村々が互いに争うようになり、藩に調停が持ち込まれた時代です。

 そして、瀬戸の島々も「耕して天に至る」の言葉通り、山の上まで畑が作られ森が失われていった頃と重なります。残った緑も薪や肥料に伐採されたのです。ある意味、山が木々に覆われた光景の方が珍しかったのかもしれません。だから、浮世絵師たちは好んで木々の緑の神域と、はげ山のコントラストのある光景を描いたのかもしれません。もし、当時のこの場所に立って、周りを見渡すと見える里山は、金毘羅大権現の鎮座する象頭山以外は丸裸のはげ山だったのかもしれません

以上をまとめておくと
①中世には田んぼに大量の小枝をすき込む刈敷が行われ肥料とされた。
②水田開発と共に大量の小枝が里山から刈られて田んぼにすき込まれて
③そのために周辺の里山は、それぞれの村の刈敷の山とされ、外部の者を排除するようになった。
④刈敷山のない多度郡の農民達は、阿讃山脈の麓まで小枝刈りに通わなければならなかった。
⑤江戸時代になって高松・丸亀藩に分割された際に、刈敷山の入会権を確認するための調書が作成された。そこには、当時の里山の入会権が記されている
⑥刈敷が長期間にわたって続くと里山も疲弊し、禿げ山化したことが旅行記や浮世絵からはうかがえる。
⑦周囲の里山が禿げ山化するなかで神域とされた象頭山は青々とした原生林の山の姿を残した。
⑧その姿が金毘羅大権現のひとつの売り物であったかもしれない

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献   満濃町誌293P         山林資源 

       
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観音寺市の木の郷町は、讃岐忌部氏の村があったところと言われます。
 713年の風土記撰進には中国にならって
「郡郷などの地名には漢字二字から成る好名をつけよと」
の命令が出されています。それに従って「木」郷は「紀伊」郷へと表記を変えます。木の郷町の近くには、忌部氏の祖神の天太玉命をまつる粟井神社があって、忌部氏によってまつられていました。また、大麻山の山麓東側にも忌部氏の祖神、天太玉命をまつる大麻神社があります。これは木の郷町の忌部氏の一族が分かれて、この地で発展したと伝えられています。
images粟井神社

讃岐忌部氏の粟井神社
忌部(いんべ)氏は、斎部氏とも記されます。
もともとは中臣氏と共に祭祀氏族として天皇家に仕えてきた神別氏族でした。忌部氏の本拠地は、大和国高市郡金橋村忌部(現在:奈良県橿原市忌部町)辺りとされていて、現在は天太玉命神社があようです。延喜式神名帳では名神大社でしたが、その後衰退して明治時代には村社でした。 
 忌部氏は祭具の製造・神殿宮殿造営に関わっていました。
その中でも特に玉造が得意であったようです。しかし、古墳時代以後は玉造の重要度が薄れ、忌部氏の出番は少なくなっていきます。また、時代を経るに従って中臣氏が政治的な力を持つようになり、中臣氏に押されて影が薄くなっていきます。そこで、自らの祭儀における正統性を主張し、復権を図った作成されたのが『古語拾遣』です。この資料は忌部氏側の立場で作成されたものですから、注意しながら見ていきましょう。この書には
 天太玉命所率神名、天日鷲命 これは阿波国忌部氏の祖なり 手置帆負命は讃岐国忌部氏の祖 彦狭知命 紀伊忌部氏の祖 天目一箇命 筑紫・伊勢両国忌部氏の祖なり

とあって、天太玉命を祖神とする中央忌部が、阿波・讃岐・紀伊・筑紫・伊勢などの枝属を率いたととあります。手置帆負命を祖神とする讃岐忌部も、その一族であったようです。
 整理すると次のようになります。
忌部一族の祖神は天布刀玉命(あめのふとだまのみこと)
阿波忌部氏は天日鷲命(あめのひわしのみこと)、
讃岐忌部氏は手置帆負命(たおきほおいのみこと)
紀伊忌部氏は彦狭知命(ひこさしりのみこと)、
安房忌部氏は天富命(あめのとみのみこと)、
  『延喜式』の臨時祭、梓木の条によると、
凡柿木千二百四十四竿。讃岐国十一月以前差二綱丁進納。
とあります。ここからは、讃岐国から毎年、矛竿を1244本も貢納することになっていたことがわかります。多くの竿を納めるので竿調国(さおのみつぎ)と呼ばれ、それが「さぬき」という国名になったという説もあるほどです。
また、『日本書紀』第二の一書には、
即以紀伊国忌部遠祖手置帆負神、定為作者.彦狭知神為作者・天目一箇神為作者.天日鷲神為作木綿者.櫛明玉神為作者.(以下略)
率手置帆負、彦狭知、二神之孫、以二斎斧斎紺、始採山材・構立正殿

ここからは笠・盾・金(金属)・綿・玉などの祭礼用具が、各忌部氏によって「業務分担」して作成したことが分かります。また、紀伊と讃岐の忌部は、木材の切り出しや神社の建築等を通じて密接に結び付いていたこと。そして、木工技術者として讃岐忌部が竿をつくり、紀伊忌部が笠・楯をつくっていたようです。

  各国の忌部の職務分担をを整理すると次のようになります。
(中央)(天太玉命 忌蔵の管理大殿祭・御門祭等紀伊
〈地方 阿波(天日鷲命) 木綿・鹿布の製作
        讃岐(手置帆負命)矛竿の製作
        紀伊(彦狭知命) 笠・盾の製作           
    出雲(櫛明玉命) 玉の製作
    筑紫(天目一箇命)金属器の製造
    伊勢(天目一箇命)金属器の製造
 これをみればわかるように、諸国の忌部は天太玉命を遠祖とする中央忌部に率いられ、各種の神具の生産に従事していました。筑紫や伊勢の己部が金属器の製造に関係しているのは、神具としての金属器の製造です。その職務の一つとして、沖ノ島の祭祀遺跡にみられるような、金属製(金・銀・銅)ひながた品の製作などもありました。沖ノ島は、対外関係を中心とした、国家的祭祀が、四世紀以後行なわれた所で、伊勢神宮の創始も6世紀頃とされます。沖ノ島の中心的祭祀者は、宗像氏ですが、沖ノ島の祭祀遺物の中には、忌部氏によってつくられたものもあったはずです。各忌部氏が分担しながら国家の祭礼に使う神具の作成調達に当たったことが考えられます。

 このように、忌部氏は神具製作者としての性格が濃いようです
 紀伊や讃岐の忌部氏ように盾や矛竿の製作者として、軍事面を支える活躍したものもあったでしょう。讃岐の国から貢上された1244本の矛竿が、すべて、神具としての矛竿に使われたとは思えません。中には、軍事的な矛竿として利用されたものもあったでしょう。
 讃岐は、気候が温暖で、樫などの照葉樹林の成育に適した土地ですから、矛竿の貢上がされるようになったのでしょう。弥生時代の唐古遺跡から出土した農耕具の大部分は樫でつくられているといいます。材質の堅い樫は、農具として、最適だったようです。 讃岐忌部氏は、矛竿の材料である樫や竹を求めて、讃岐の地に入り、原料供給地のとなる周辺の山野を支配下に置いていったのでしょう。

 このように讃岐忌部は、中央への貢納品として、樫木の生産にあたる一方で、周辺農民の需要に応じるための、農具の生産も行なっていたとは考えられます。この讃岐忌部の居住地は、粟井神社(観音寺市粟井町)の周辺であり、条里制の基準になったとされる菩提山の山麓部にあたります。ここに、矛竿をはじめとした、木工業従事者の忌部のむらが存在したと研究者は考えています。

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 どちらにしろ讃岐忌部氏は、木材伐採や加工、建築などの他にも金属精製などの技術者集団の性格をもっていたことがうかがえます。その技術を応用すれば、神社もつくれたことでしょう。
Awaizinzya_11粟井神社
粟井神社(観音寺市)
忌部氏の結びつきは「血縁ではなく技術」でつながっていたと考える研究者もいます。
忌部氏は血縁ではなく技術者集団(テクノクラート)だったのではないかというのです。つまり、様々な部族や渡来人が合流していきながら、忌部を形成していったと考えるのです。
例えば「続日本紀」には讃岐国にいた百済からの渡来の鍛冶師集団である韓鍛冶師部が神奈川に集団で移住し、この地に「寒川」を形成したとの記述があります。忌部グループの一員として、讃岐からやってきた鍛冶集団が、茅ヶ崎の海岸の砂浜から砂鉄を取り出して製鉄をしたのではないかというのです。

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 讃岐忌部氏は木・金属の技術者集団?
 讃岐忌部氏が木工技術者の集団であるなら、彼らの氏神である粟井神社(観音寺市)や大麻神社(善通寺市)の社殿は、忌部氏自らの手でつくったことでしょう。

大麻神社随身門 古作両神之像img000024

ちなみに、大麻神社には平安時代後期につくられたとされる、祭神の天太玉命木像と彦火瓊々杵命木像があります。また、讃岐で最も古いと考えられる木造の獅子頭もありました。これらは木工技術者だった忌部氏の手によるものではないのでしょうか。  

大麻神社 img000023

 現在の琴平の町には、一刀彫りの職人が数多く活躍しています。この職人もひょっとすると大麻神社につながる忌部氏の木造技術者集団の流れを引くものではないか、一刀彫りの中に忌部氏の伝統が生きているのではと と考えたりすると、楽しくなってきます。
讃岐忌部氏は、どこからやって来たのでしょうか?
  大麻神社の由来には次のように記されています。
 阿波忌部氏が吉野川沿いに勢力を伸ばし、阿讃山脈を越えて、谷筋に定着しながら粟井神社の周辺に本拠を置いた。そして、粟井を拠点に、その一派が笠田、麻に広がり、麻峠を越えて善通寺側に進出し大麻神社の周辺にも進出した。
 それを裏付けるように、粟井神社が名神大社なのに、大麻神社は小社という格差のある社格になっているというのです。これも三豊の粟井方面から大麻山周辺への一族の「移住・進出」といいます。
 

0cf3f03aawai粟井神社
 粟井神社は、延喜神名式に「讃岐国刈田郡粟井神社」と記されています。
『続日本後紀』承和九年十一月乙卯条に「讃岐国粟井神預二之名神」と見え、『三代実録』貞観六年十月十五日条に「授二讃岐国正六位上粟井神従五位下一」とある古社です。祭神は忌部の祖で、阿波の一宮である大麻神社と同じ天太玉命でした。いまは社域全体にあじさいが植えられて「あじさいの神社」としても有名です。
考古学的には、粟井町射場には射場1~9号墳があります。また、粟井町から木の郷町にかけては母神1~39号墳が並び、木の郷町には十数基から成る百々古墳群もあります。6~7世紀にかかて、この地域には古墳が群集し、人口が急増し、過密な地域だったことを示します。この古墳群の中には忌部氏のものもあるのではないでしょうか。ここから大麻山の山麓へ移住が計画されたのかもしれません。

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大麻神社参道(善通寺市大麻町)

 大麻神社(善通寺市)は、延喜神名式に「讃岐国多度郡大麻神社」とあります。
『三代実録』貞観七年十月九日条に、「讃岐国従五位下大麻神授二従五位上」と見え、『日本紀略』延喜十年八月二十三日条に「授二讃岐国大麻神従四位」と記された古社です。祭神は、こちらも天太玉命でした。

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大麻神社
 考古学的には、大麻神社周辺には大麻神社周辺古墳群があります。また、大麻山の東側山腹には、小型の積石型の前方後円墳も数多くありました。積石型というタイプに阿波との共通点を指摘する研究者もいます。このように大麻神社の周辺にはかなりの数の古墳があり、これらの被葬者が忌部氏の一族だったとすると、大麻神社周辺への忌部氏の進出は古墳時代後期に行われたことになります。

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大麻神社

 「大麻神社」の社伝には、次のような記述があります。
「神武天皇の時代に、当国忌部と阿波忌部が協力して麻を植え、讃岐平野を開いた。」
「大麻山(阿波)山麓部から平手置帆負命が孫、矛竿を造る。其の裔、今分かれて讃岐国に在り。年毎に調庸の外に、八百竿を貢る。」
とあり、忌部氏の阿波からの進出と毎年800本の矛竿献上がここにも記されています。
大麻神社周辺に移住してきた忌部氏は、背後の山を甘南備山としてあがめるとともに、この山の樫などを原料にして木材加工を行ったのでしょう。近世に金毘羅大権現が台頭してくるまでは、この山は忌部氏の支配下にある大麻山だったのです。
 忌部氏の痕跡がうかがえる神社や地名を列挙しておきます。
三豊市高瀬町の麻部神社、
三豊市豊中町の忌部神社
高瀬町麻(あさ)、同町佐股(麻またの意味)、仲多度郡まんのう町佐文(さぶみ、麻分の意味)
香川県神社誌(上巻)には、
「東かがわ市引田町の誉田神社は忌部宿禰正國(いんべのすくねまさくに)の創始で、正國は旧大内郡の戸主であった。」
高瀬町誌に
「讃岐忌部氏は江戸時代の中ごろまで豊中町竹田字忌部にいたが、その後高瀬町上麻に転住し現在に至る」

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大麻神社の狛犬

 最後に、善通寺の佐伯氏との関係を見ておきましょう   
 矛竿の貢納などの管理を行っていたのは誰なのでしょうか。西讃地域では「讃岐国造」として佐伯氏が挙げられます。佐伯氏は軍事的色彩の濃い氏族といわれます。そういう意味では、武器としての矛竿貢納の管理者としては、最適です。こうして、矛竿の生産者・忌部氏と佐伯氏の関係は古くからあったと考えられます。その関係を通じて、佐伯氏がその大麻山東麓への忌部氏の一部移住を先導したとも思えてきます。こうして国造の佐伯氏の支持と承認をえて、忌部氏は粟井から笠田・麻地域へと勢力を拡大していったのではないでしょうか。
 しかし、古墳時代後期になると、三豊平野では大野原を基盤とする刈田氏が突然台頭します。そして、今まで目にすることのなかったかんす塚・角塚・平塚・椀貸塚等の大型巨石墳を次々と造営します。そして、この時期に、忌部氏の本拠地である粟井地区は、刈田氏の勢力圏と浬を接するようになります。そして、律令制の郡郷制度の中では、刈田氏の支配下に入れられてしまうのです。
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参考文献
羽床正明 忌部氏と琴平宮について      ことひら 平成7年 琴平山文化会

    
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諏訪大明神念仏踊之の図(まんのう町)

まずは絵図をご覧ください。神社の境内で団扇を持って、踊りが踊られているようです。手前(下部)では薙刀振りが、薙刀を振り上げて警護をしているようです。そして、それを取り巻く境内いっぱいの人たち。最初にこの絵図を香川県立ミュージアムの「祭礼百態」展で見た時には、「綾子踊り」だと思いました。綾子踊りは、国の無形文化財に指定されている風流踊りで佐文の賀茂神社で、2年に一度奉納されています。その雰囲気とよく似てるのです。

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桟敷席から念仏踊りを見る長百姓たち 
桟敷席にはそれぞれの家の名前が記されている

しかし、よく見ると少し違うことに気付いてきました。見物客の後側に並んで建つ小屋群です。これは各村の支援テントかなと現代風に考えたのですが、よく見ると人の名前が入れられています。小屋の所有者の名前のようです。さらによく見ると2階から踊りを見ている人たちが描かれています。これはどうやら見物小屋(桟敷小屋)のようです。この絵図に付けられた説明文には、次のように記されています。
諏訪大明神念仏踊之の図
本図はまんのう町真野の諏訪神社に奉納される念仏踊りの様子を描く。2基の笠鉾が拝殿前に据え付けられ、日月の大団扇を持ち、花をあしらった笠を被った下知、同じく花笠を被った3~4人の中踊りらしき人が描かれる。
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 また花笠を被り、太鼓を抱えた6人の子どもがいる。下部には頭にシャグマ(毛)をつけた男が棒を振っており、薙刀を持った男も描かれる。念仏踊りを描く絵図はほとんどなく、当時の奉納風景をうかがうことができる数少ない絵図である。
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これは綾子踊りではなく念仏踊りなのです。場所も、加茂神社ではなくまんのう町真野の諏訪神社だというのです。しかし、綾子踊りとの共通点が非常に多いのです。また、見物小屋については何も触れていません。この念仏踊りは諏訪神社以外の周辺の神社でも奉納されています。佐文の賀茂神社でも踊られていたようです。そして、最後に滝宮神社に奉納されていました。
images (6)綾子踊り

佐文の綾子踊り

滝宮念仏踊りについて確認しておきましょう。
讃岐の飯山町の旧東坂本村の喜田家には、高松藩からの由来の問い合わせに応じて答えた滝宮念仏踊りに関する資料が残っています。そこには起源を次のように記します。(意訳)
   喜田家文書の坂本村念仏踊  (飯山町東坂元)
 光孝天皇の代の仁和二年(886)正月十六日①菅原道真が讃岐守となって讃岐に赴任し、翌三年讃岐の国中が大干害となった。田畑の耕作は勿論草木も枯れ、人民牛馬がたくさん死んだ。この時、②道真公は城山に七日七夜断食して祈願したところ七月二十五日から二十七日まで三日雨が降った。③国中の百姓はこれを喜んで滝宮の牛頭天王神前で悦び踊った。是を瀧宮踊りと言っている。

要点を挙げておくと
①菅原道真が讃岐国司として赴任中に、大干ばつが起きた
②菅原道真は、城山で雨乞祈祷を行い雨を降らせた
③国中の百姓が喜びお礼のために「滝宮の牛頭天皇社」に、雨い成就のお礼踊りを奉納した。

  綾川中流の滝宮にある滝宮神社は、もともとは牛頭天皇社として中世から農耕作業で重要な働きをしていた牛の神様として、地域の農民から信仰を集めてきました。そして、中讃での牛頭信仰の拠点センターとして、周辺にいくつものサテライト(牛頭天皇社)を持つようになります。こうして滝宮牛頭天皇社は、毎年牛舎や苗代などに祭る護符を配布する一方、煙草・棉・砂糖などの御初穂を各村々から徴集します。滝宮牛頭神社は、農民の生活の中に根を下ろした神社として多くの信者を得ます。この神社の別当寺が龍燈院でした。龍燈院は現在の滝宮神社と天満宮の間に、広大な伽藍を持つ有力寺院で、この寺の社僧(真言系修験者)が滝宮神社を管理運営していました。
滝宮神社・龍燈院
滝宮神社(牛頭天皇社)とその別当寺龍燈院
 ここで注意しておきたいのは、滝宮念仏踊りは、菅原道真の雨乞いに成就に対して百姓はこれを喜んで滝宮の牛頭天王神前で悦び踊った」のです。感謝の踊りであって、もともとは雨乞い踊りではないのです。

滝宮念仏踊り
滝宮神社の念仏踊り
滝宮神社の神宮寺で、明治の廃仏毀釈運動で廃寺となった龍燈院の住職が代々書き記した『瀧宮念仏踊記録』の表紙裏には、次のように記されています。
「先代は当国十三郡より踊り来たり候処、近代は四郡而已に成り申し候」

かつては、念仏踊りは讃岐国内の13群すべての郡が踊りを滝宮に奉納に来ていたというのです。続けて

「就中 慶安三年寅七月二十三日御重キ御高札も御立て遊ばされ候様承知奉り候」

とあり、高松藩の松平頼重が初代藩主として水戸からやってきて「中断」していた念仏踊りを西四郡のみで再興させたといいます。念仏踊りは風流踊りで、雨乞いだけでなく当時の人にとってはレクレーションでもあったので大勢の人が集まります。そのため喧嘩などを禁ずる高札を掲げることで騒ぎを防止したようです。4つの組の踊りの順番が固定し、安定した状態で念仏踊りが毎年行われるようになったのは、享保三年(1718)からのようです。

滝宮に奉納することを許された4つの組の内、七箇村組は、満濃御料(天領)、丸亀藩領、高松藩領の、三つの領の13ヶ村にまたがる大編成の踊組でした。
その村名を挙げると、真野・東七箇・西七箇・岸の上・塩入・吉野上下・小松庄四ケ村・佐文の13の村です。そのため、踊組の内部でも、天領民の優越感や丸亀・高松両藩の対抗意識が底流となって、内紛の絶えることがなかったようです。そのため中断も何回もありました。これを舵取る当番の各村の庄屋は、大変だったようです。
 さて七箇村踊組は7月7日から盛夏の一ヶ月間に、各村の神社などを周り、60回近い踊興行を行い、最後が滝宮牛頭神社での踊りとなるわけです。先ほどの諏訪神社の絵図も、その途上の「巡業」の時の様子が描かれたもののようです。 
 さて、諏訪神社の見物桟敷小屋の謎にもどりましょう。
その謎を解く鍵は、隣の村の久保神社に残されていました。

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 岸上村の庄屋・奈良亮助が残したもので「天保9年再取極 滝宮念仏踊 久保宮(久保神社)桟敷図 
七箇村組記録 奈良亮介書」と真ん中に大きく記されています。これは久保神社で念仏踊りが行われる時の桟敷の配置図です。よく見ると、境内の周りに桟敷小屋を建てる位置が記入してあります。
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そして、次のように記されています。
 戌八月十日、於久保宮において念仏踊見物床場の之義について、去る七日に長百姓・社人・朝倉石見が出会い相談の上、床場所持の人は残らず相揃い、一同相談の上、昔のことなども確認した結果、以下のような配置に改めることになった。
 御殿占壱間後江引込東手二而
     真南向弐間  神余一統(神職 朝倉氏)
       同弐間  奈良氏(岸の上の庄屋)
 同所東占西江向壱間半 同性分
 右一間半之分へ先年権内権七と申者一統之床場二而御座候所、文政三辰年彼是故障申出候二付、其節朝倉加門・優益・庄次郎・太郎兵衛四人之衆中占、右権七占法外之申出候義ハ、困窮二相成居申候二付彼是申義二付、少々為飯料 指遣候様申出候二付、四人之取扱二而米五斗銀拾五匁指遣、
壱間半之場所買取、都合本殿前三間半ハ奈良家之床場二相究せ候事。(中略)
意訳変換しておくと
御殿(拝殿?)前の一間後へ引込んだ東手の二面については
  真南向の二間  神余一統(神職 朝倉氏)
  同弐間     奈良氏(岸の上の庄屋)
  同所東の西向壱間半 同性分
 この一間半之分は、もともとは権内権七の一族床場(桟敷席権利)であった。しかし、文政三(1813)辰年に、一族から、経済的な困窮で維持が困難となったたので、適当な飯料で売却したいという申し出があった。そこで相談役の四人衆で協議した上で、庄屋の奈良家が米五斗銀拾五匁で、権内権七から壱間半の床場を買取ることになった。こうして、本殿前の奈良家の床場は、従来のものと合わせて三間半の広さとなった。(下略)
この史料からは、桟敷床場の権利をもつ構成員が、経済的な困窮のためにその権利を手放したこと、それを庄屋奈良家が買い取ったことが分かります。つまり、久保神社の床場配置の「再取極」(再確認書)のようです。本殿真南の一番いい場所は、神職朝倉氏と庄屋の奈良氏が2間の広さで占めます。問題は、その隣の一間半の部分です。ここはかつては、権内権七一族のものでしたが、経済的な困窮からこれを庄屋の神職の朝倉家が買い取り、朝倉氏が持つ本殿前の床場(桟敷占有面)は、「本殿前三間半は奈良家之床場二相究せ候」と記します。ここからは久保神社では「床場」が売買されていたことが分かります。
南 面申内川問
御殿方西脇壱間後へ引込
       長弐間  藤左衛門一統分
       同弐間  丹左衛門分
 西方束向二而同壱間半 彦右衛門
       長壱間半 横関氏一同
       同弐間半山下嘉十郎
 右嘉十郎之ハ、明和年中二大坂表向稼ニ罷(まかり)越候ニ付き、床場ヲ舎人朝倉氏に預け置き之あり。同所へ太郎兵衛床場之由申出、口論ニ及び候ニ付き、奈良亮助方双方へ理解申聞せ、右弐間半之内壱間半朝倉氏二、残ル壱間ハ太郎兵衛床場二相究遣シ、万一嘉十郎子孫之者村方へ罷帰り相応相暮候様相成候得バ、両人之分を山下家江表口弐間半分指戻候様申聞せ、相談之上相済候事。
意訳変換しておくと
南 面申内川問
御殿(拝殿)西脇の壱間後へ引込んだ場所
       長弐間  藤左衛門一統分
       同弐間  丹左衛門分
 西方東向二而同壱間半 彦右衛門
       長壱間半 横関氏一同
       同弐間半山下嘉十郎
 この嘉十郎については、明和年中(1761~)に大坂に稼ぎに行って、床場を社人朝倉氏に預け置いていた。ところがここの権利は自分にあると太郎兵衛が申出で、朝倉氏と口論になった。そこで庄屋の奈良亮助が双方の仲裁に立って、次のように納めた。二間半の内の一間半は朝倉氏、残りの一間は太郎兵衛の床場とする。もし嘉十郎の子孫が村へもどってきて、相応の暮らしぶりであれば、両人分二間半を山下家に返却することに同意させた上で、相済とした。

 山下嘉十郎については、一家で大坂に出向く際に、床場の権利を朝倉氏に預けたようです。その分について、朝倉氏と太郎兵衛が分割して使用することになったようです。面白いのは、もし嘉十郎の子孫が村に帰ってきた場合は
「相応の暮らし」をするようになれば、床場を返還するという条件です。貧困状態で還ってきたのでは、床場権利は健脚出来ないというのです。ここからは、床場は長百姓階層や高持百姓などの、富裕な人々だけに与えられた権利であったことが分かります。
 諏訪神社の絵図には見物桟敷の前に、頭だけを目玉のように描かれた見物人がぎっしりと描かれていたことを思い出して下さい。あれが、一般の民衆の姿なのです。そして有力者がその背後の見物桟敷の高みから念仏踊りを風流踊りとして楽しんでいました。絵図には、見物桟敷の持ち主の名前が全て記入されていました。このことから考えると、この絵図の発注者は、諏訪神社の「宮座」を構成する有力者が絵師に書かせて奉納したものとも考えられます。

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以上から分かることは次の通りです
①祭礼の桟敷席が、村の有力者の権利として所有され、売買の対象だったこと
②桟敷席には、間口の広さに違いがあり、その位置とともに家の家格と関係していたこと。
③困窮し手放した場合は、その子孫が無条件で返還されるものではなく「相応の暮らしを維持できる」という条件がつけられていたこと。
「桟敷席」の権利が、村での社会的地位とリンクしていたこと押さえておきます。
この特権は、中世の「宮座」に由来すると研究者は考えています。このように桟敷席に囲まれた空間で踊られたのが風流踊り(=念仏踊り)なのです。そして、それが描かれているのが最初に見た諏訪神社の祭礼図ということになるようです。
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風流踊りが奉納された久保神社(久保の宮)の境内
どんなひとたちが、この踊りを踊っていたのでしょうか?
 岸上村の庄屋・奈良亮助が残した記録の中に「諸道具諸役人割」があります。これによって天保十五年の七箇村組の踊役の構成を知ることができます。
   踊子当村役割
 一、笛吹        朝倉石見(久保の宮神職)
 一、関鉦打        善四郎
 一、平鉦打       長左衛門
 一、同         徳左衛門
 一、同         与左衛門
 一、同          権 助
   同 古来?仁左衛門 助左衛門
  、同 古来?全左衛門 宇兵衛
       宇兵衛右譲受 五左衛門
 一、同 古来右九左衛門 十五郎
   当辰年廻り鐘当村へ相当り候事 是ハ公事人足二而指出候事
 一、地踊         彦三郎
 一、同 宇兵衛株同人譲渡 熊蔵出ル
 一、同 利左衛門    孫七出ル
            清左衛門出ル
 一、同 又左衛門   五左衛門
 一、同 善次郎    伴次郎出ル
 一、旗    弐木 内壱木 社面
            壱本 白籐
 一、長柄鑓  五本
 一、棒突   三本 内壱本新棒と申 分二而御座候。
 右之通相究在い之候事
 右の役割表を見ると一番最初の笛吹きは、久保の宮住職です。
そして「株」「譲渡」の文字が目立ちます。元々は、中世の宮座と同じように各村で踊子の役割はそれぞれの家の特権(株)として伝承されてきたようです。
 「同 古来?仁左衛門 助左衛門」とあるのは、元々は仁左衛門が持っていた株を、助左衛門が持っていて出演する権利を持つということでしょうか。「同 宇兵衛同人譲渡 熊蔵出ル」というのは宇兵衛株が譲渡した株で熊蔵が出演するということでしょう。先ほどの床場の権利と同じように、「出演権」も譲渡や売買の対象になっていたようです。株が固定していない廻り鐘は、公事人足が勤めていたようです。そのため旗持、長柄鑓、棒突は、人名が記されていません。
  ちなみに「公事人足」とは、村の共同の仕事に当たる人足のことです。高松藩では村から年貢米を徴収する時に、百姓の持高の一割を公事米として徴集しました。これを村の道普請などの公事役に出た人々の扶持米(サラリー)としました。念仏踊の食料なども、この公事米から支出されていたようです
 念仏踊の起源は中世末まで遡れれますが、その発生から名主や長百姓の特権的な結びつきで編成されたようです。祭祠的、仏教的な風流であったと同時に、その村の有力者がその地位と勢力を村の人々に誇示する芸能活動として伝承されてきたという面もあります。念仏踊りの踊り手の出演権や見物桟敷(床屋)にも、その痕跡が残されているのです。
ここからは、鎮守は村のメンバーの身分秩序の確認の場であったことが分かります。中世以来、鎮守の宮座は名主層によって独占されていて、百姓層はそこから排除されていました。新興の勢力が宮座に加入する場合には、右座・左座というように旧来からの座株所有者とは区別されていました。また寺社の棟札や梵鐘の銘文には、地頭・荘官以下、名主や百姓の名前がそれぞれの奉加額とともに記され、荘内の身分秩序が一目で分かるように示されています。家の格まで視覚的に表現されていました。荘郷鎮守で毎年、繰り返される祭礼行事では、荘官以下の百姓たちは荘郷内での身分秩序の形成や確認の場でもあったのです。それが、この念仏踊りにも、しっかりと現れています。

さて、それではなぜ幕末から明治にかけて念仏踊りは奉納されなくなるのでしょうか?
この疑問に答えるキーワードを並べて見ます。
①「氏神」から「産土社」への転換
②庄屋などの村の有力者層に対する百姓達の発言権の高まり
獅子舞と太鼓台(ちょうさ)の登場
この3つの要素を、まんのう町川東中熊の山熊神社の「祭礼変革」で見てみましょう。
中熊地区は「落人の里」と呼ばれるように山深い地にあります。その中にある造田家の文書によると、この神社は造田一族の氏神と伝えられています。それを裏付けるかのように社殿の棟札には造田氏一族の名前が大檀那として書き連ねられています。祭礼の時には、造田氏一族のみに桟敷が認められ、祭礼の儀式も造田氏の本家筋の当主が主祭者となっていました。まさに造田氏の氏神だったのです。

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まんのう町中熊の山熊神社
ところが江戸時代の中ごろから、高持百姓が山熊神社の造田氏の特権を縮少させる動きを見せ始め、たびたび軋轢が起きるようになります。これに対して天保二(1832)年に、阿野郡南の大庄屋が調停に乗り出し裁定を下します。
 結論からいえば、この裁定で造田氏の棟札特権は認められなくなります。棟札には「総氏子一同」と書かれるようになります。そして祭礼の時の桟敷も全廃されるのです。造田氏に認められたのは祭礼の儀式の上で一部分が認められるだけになります。「宗教施設や信仰を独占する有力貴族に対する平民の勝利」ということになるのでしょうか。結果的には、この裁定によって山熊神社は「造田氏の氏神」から中熊集落の「産土神」に「変身」を遂げたと言えるのかもしれません。
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どうして久保神社では、宮座的な特権が再確認されたのか?
 同じころ讃岐山脈の阿讃境に近い勝浦の落合神社でも、祭礼の時の桟敷が全廃されています。藩政時代の記録には、山間僻地の代名詞として、中熊集落の名がよく登場します。その中熊集落で、幕末の天保二年に祭礼の桟敷が全廃されているのに、岸上村久保神社では長百姓階層の間で、先例と古格を堅く守って伝えられてきた念仏踊の桟敷が同じ時期に、再協定されて維持されています。どうしてでしょうか?時代の流れに棹さす動きのようにも思えます。
 幕末天保年間になると、岸上村でも長百姓層の盛衰交替によって、踊役の株が譲渡されることが多くなります。引受手のない踊役の株は、公事役によって演じられる状態になっています。小間者層の間から念仏踊の桟敷撤廃の動きがあったことも考えられます。
  そこには岸上村の置かれた特殊事情があったのではないかと研究者は考えているようです。
   岸野上村・吉野村・七箇村は、池御料(天領)や金毘羅領に隣接しています。そのため条件のいい金比羅領や天領に逃散する小百姓が絶えなかったようです。その結果、末耕作地が多くなる傾向が続きました。そこで、高松藩としては他領や他郡村からこの地域へ百姓が移住することを歓迎した様子がうかがえます。建家料銀三百目(二一万円)と食料一人大麦五升を与える条件で、広く百姓を募集しています。現在の「○○町で家を建てれば○○万円の補助がもらえます」という人口流出を食い止める政策と似たものがあって微笑ましくなってきたりもします。
 この結果、岸上村周辺には相当数の百姓が移住したきたようです。
そういう意味では、ここは人口流動が他の地域に比べると大きかったようです。そのような中で、旧来からの有力者層と新しく入ってきた小間者層の間に秩序付けを行うための空間として神社の祭礼空間は最適なハレの場だったでしょう。移住者に権威を示し、長百姓層の優越した立場を目に見える形で住民に知らせるという、一つの宗教・社会政策の一環と考えられていたのかもしれません。それが、久保神社の桟敷床場の再協定だったのではないかと研究者は指摘します。
この祭礼時の桟敷席の変化バージョンが小豆島にあります。
sDSCN4999小豆島 池田の桟敷

初めてこれを見たときには「一体これはなあーに?」と考え込んでしまいました。
瀬戸内海の島に現れた野外劇場? ここで演劇が行われた? 
しかし「当たらずとも遠からず」。
芝居ではなくちょうさ(太鼓台)のかきくらべを見物する桟敷席なのです。
DSC_0486亀山八幡宮祭礼
小豆島池田のちょうさ桟敷
今でもここに薦掛け(現在はビニールシート)して、豪華なお弁当持参で一日中見物するのです。
youkame-semi (6-1)1811年に三木算柳によって描かれた亀山八幡宮祭礼
今から約200年前の小豆島池田の亀山八幡の祭礼 ちょうさが姿を見せています
ちょうさが大阪から瀬戸内海を通じてこの島に姿を現すのは18世紀後半です。そしてすぐに祭礼行列の主役になっていきます。ここには中世の宮座的な特権的な要素があまりありまっせん。氏子がみんなでお金を出し合い、みんなの力でちょうさを担ぐというスタイルは平等志向が強い祭礼行事です。これは当時の社会的な機運にマッチするものでした。新しい祭礼の主役であるちょうさの勇壮な姿を見るために氏子達は、その舞台を作りあげたのです。そして、それは建設資金を出した氏子達に平等に分割されました。その所有権は、後には売買の対象にもなります。
小豆島 池田の桟敷 3

もうひとつ、祭礼の主役として登場してくるのが獅子舞です。
獅子も近世の半ば以降に讃岐の祭礼に姿を現します。そして村の中の家格に関係なく参加することができました。念仏踊りの役割が宮座の系譜に連なる権利で、有力者の家柄でないと参加できなかったのとは対照的です。
  
時代の流れに棹さした組織・システムで運営された中世的な色合いが強かった念仏踊りは人々の支持を失い村々の神社で踊られることは少なくなっていきます。代わって讃岐の祭礼の主役となって現れるのがちょうさと獅子舞です。
現在時点での大まかな私の推論です。

参考文献
大林英雄 滝宮念仏踊り七箇村組について  ことひら 昭和63年



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