瀬戸の島から

タグ:多度津

肥後熊本藩の中老松洞が江戸屋敷赴任のために瀬戸内海を藩船で航行した紀行文を見ています。

瀬戸内海航路 伊予沖
周防・安芸・伊予沖の航路図(江戸時代)

旧暦3月8日に大分鶴崎を出港して、次の港を潮待ち寄港を繰り返しながら4日間で航行してきます。
周防の上関 → 大津浦(周防大島) → 加室 → ぬわ(松山市怒和島)→御手洗(呉市大崎下島) → 鞆(福山市)

 鞆からは備中・備前側の備讃瀬戸北航路をたどるルートと、塩飽に立ち寄ってからさらに東を目指す航路がありました。しかし、ここではそのどちらも取らずに、讃岐多度津に渡ります。
金毘羅船 航海図宮島
「金毘羅・宮島海陸案内図」
   上の案内図は「金毘羅・宮島海陸案内図」となっています。
しかし、この絵図の主役は手前の宮島にあったことが一目で分かります。宮島は鳥居から本社に至る細部まで描き込まれています。それに対して、金毘羅は象頭山が描かれているだけです。これは、18世紀当時の両者の知名度の差でもありました。近世始めに流行神として登場した金毘羅信仰が、庶民に広がって行くには時間が必要でした。上方から参拝客が本格化するのは18世紀半ばに、金比羅船が就航して以後です。さらに東国からの伊勢参りの客が、金毘羅まで廻ってくるのが本格化するのは19世紀になってからです。それまでの金毘羅は、この絵図に見られるように宮島詣でのついでに参拝する程度の宗教施設でした。
 この絵図は大きくデフォルメされているので、現在の地理感覚からすると、ついて行けない部分が多々あります。特に、四国側と中国側の港町の位置関係が大きくずれています。しかし。鞆の対面に讃岐の多度津や丸亀があるという感覚を、見る人に与える役割は果たしています。宮島から帰りに、金比羅に寄って帰ろうか、そのためには鞆から多度津へ渡る・・・。という地理感覚が形成されます。九州から上方や江戸に登っていく人達の感覚も同じであったようです。そのために鞆から真鍋諸島沿いに三崎(荘内)半島の紫雲出山を目指して、三野・仁尾や多度津に渡ってくる廻船も多かったことは以前にお話ししました。それをもう一度、押さえておきます。

庄内半島と鞆
鞆と荘内半島
  吉田東伍「大日本地名辞書」の讃岐国には、次のように記します。(意訳)
箱御埼(三崎:荘内半島)は、讃州の西端にあって、荘内村大字箱浦に属す。備中国所属の武嶋(六島)と向き合うこと、二海里余(約4㎞)の距離である。塩飽諸島は北東方に碁石を打ったように散らばり、栗島が一番近い島である。三崎(荘内)半島の先端には海埼(みさき)明神の祠がある。
 この岬は、西北に伸びて、十三海里で備後津に至る。その間に、武嶋(六島)、宇治島、走島がある。(中略)
水路志には、次のように記されている。
 三崎半島は、讃岐の西北部にあって、塩飽瀬戸と備後灘とを分ける。東方より航走してきた船は、ここで北に向かうと三原海峡、南に行くと来島海峡に行くことになる。
ここからは次のようなことが分かります。
①荘内半島は備讃瀬戸から鞆・尾道・三原に向かう航路と、来島海峡に向かう航路の分岐点であったこと。
②海埼(みさき)明神の祠があったこと、

江戸時代初期作成の『西国筋海上道法絵図』と
    米田松洞一行を乗せた千代丸は、鞆を出て多度津に向かいます。
晴天  多度津着 
十二日今朝六半時分出帆 微風静濤讃岐タドツ之湊二着船夕ハツ半時分也。風筋向イ雨ヲ催シ 明日迄ハ此処二滞在之由 御船頭申候。左様ナラバ明日昆(金)比羅二参詣すべしと談し候得者 三里有之よし 隋分宜ク阿るべし卜申候 明日船二残る面々ハ今晩参詣いたし度よし申候二付任其意候野田一ハ姫嶋伝 内門岡左蔵林弥八郎此面々今晩参詣 夜二入九ツ時分帰る
 意訳変換しておくと 

十二日の早朝六半(午前7時)頃に出帆 微風で波も静かで、讃岐多度津港に夕刻ハツ半(4時頃)に着船した。明日の天気は、向風で雨なので多度津に停船だと船頭が云う。そうならば明日は、金毘羅参詣をしようと云うことになる。金毘羅までは三里(12㎞)だとのこと。船の留守番も必要なので全員揃っての参拝はできない。そこで船の留守番のメンバーは今晩の内に参詣するようにと申しつけた。それを受けて野田・姫嶋伝内・門岡左蔵・林弥八郎の面々は今晩参詣し、夜中の夜二入九ツ(12時)時分に帰ってきた。

微風の中を午前7時に出港した船は、夕方に多度津に着いています。その間のことは何も記しません。地理的な知識がないと浮かぶ島々や、近づいてくる半島なども記しようがないのかもしれません。

金毘羅参詣名所図会 下津井より南方面合成画像000022

下津井からの丸亀方面遠望(塩飽の島々と讃岐富士)

十三日今朝小雨如姻 五ツ過比占歩行二て昆比羅へ参詣 一丁斗参候得者 雨やむ道もよし已 原理兵衛御船頭安平十次郎尉右工門 同伴也 供二ハ勘兵衛 澄蔵白平八大夫又右工門仲左工門なり 兼て船中占見覚候 讃岐ノ小富士トテ皆人ノ存シタル山アリ 此山之腰ヲ逡り行扨道筋ハ上道中ノ如ク甚よし 道すがら茶屋女多ク 上道中同前二人ヲ留ム銭乞も多し 参詣甚多し 

意訳変換しておくと
十三日の朝 小雨に烟る中を 五ツ過(7時)頃に歩行で金毘羅参詣へ向かう。少し行くと雨も止んだ。同伴は原理兵衛・御船頭安平十次郎・尉右工門、供は勘兵衛・澄蔵・白平八大夫・又右工門・仲左工門の8人である。船中からも望めた讃岐小富士や象頭山の全景がよくが見えてきた。この山腰を廻って多度津街道を進む。その道筋ハ東海道中のように整備されている。道すがらには茶屋女が多くいて、銭乞も多い。参詣者の数が多く街道は賑わっている。 

多度津街道参拝図2
多度津ー金毘羅街道

多度津ー金毘羅街道は、善通寺を経由しますが、ここでも善通寺については何も触れられていません。当時の善通寺は金堂は再興されていましたが五重塔などはなく、弘法大師伝説も今ひとつ庶民には普及せずに旅人にとって魅力ある寺社という訳ではなかったようです。それに対して善通寺が五重塔再興などの伽藍整備に乗り出すのは、19世紀になってからのことのようです。この時点では、米田松洞一行は、行きも帰りも善通寺は素通りです。

 金比羅からの道標
金毘羅より各地への距離(金毘羅参詣名勝図会)
四ツ時過二本町二着 是二而足ヲ洗イ衣服ヲ改ム 町筋之富饒驚入候 上道中本宿之大家卜同前二て候 作事甚美麗ナリ 商売物も萬也 遊君も多し 旅人行代候林真二京都の趣也 
則丸亀公之御領分也 夫占坂二かかるル坂殊之外長クして急なり 何レも難儀二て甚夕おくれ候
拙者ハ難儀二少も不覚呼吸も平日之通リニ有之候 十次郎先二立参候がやがて跡二成候 山中甚広シ本社迄ハ暗道ニテ幾曲モまがる甚険ナリ 社内桜花甚見事目ヲさます已 今不怪賞シ被申候 鳥井赤金張ナリ金色朧脂ノ如し 見事なる事也本社ハ不及申末社迄も結構至極扨々驚人事也 絵馬も甚よし 真言寺持也 寺も大キ也 是亦佳麗可申様無之候拝シ終り夫占社内不残巡覧ス 何方とても結構之事驚大候 
意訳変換しておくと

DSC01351坂下と芝居小屋
元禄期の大祭寺の金毘羅 上部が内町から坂町への参拝道。下部が芝居小屋や人形浄瑠璃小屋が描かれている。
 四ツ時(10時)過に金毘羅本町に到着。
ここで足を洗って衣服を改める。町筋の富貴は驚かされる。東海道の道中の本宿と同じような大家が並び、しかも造りが美麗である。商売物も多く、遊女も多い。旅人も多くまるで京都の趣がする。ここは丸亀公の御領分(実際は、朱印地で寺領)である。
 本社までの坂は長く、急である。拙者は、少しも難儀に感じることはなく、呼吸も平常通りであったが、十次郎は先に立っていたが、やがて遅れるようになった。
 境内は山中のようで、非常に広い。本社までは森の中の暗い道で、いくつもの曲がりがある。社内の桜が見事で目を楽しませてくれる。 
 さらに境内の建物類も素晴らしい。鳥居は金張で、金色に光り輝いて、見事なものである。本社は言うに及ばず末社に至るまで手の込んだ物が多く人を驚かせる。絵馬もいい。金毘羅大権現は、真言寺であり、寺の建物も大きく立派で、佳麗でもあった。参拝が終わり 社内を残らず巡覧したが、どこを見ても結構なことに驚かされる。
金毘羅本社絵図
金毘羅本社(金毘羅参詣名勝図会)
当時の旅人の視点は、街並みの立派さや建物の大きさ、豪壮そうに目が行きます。「わび・さび」を指向する感覚はありません。そして、京都や東海道と比較して、ランク付けするという手順になります。生駒氏や松平頼重の保護を受けて整備されてきた社殿群が、遠来からの参拝客の目を楽しませる物になっていたことがうかがえます。逆に言うと、地方でこれだけの整備された社殿群や伽藍を持っていた宗教施設は、当時は稀であったことがうかがえます。それが、賞賛となって現れているのかも知れません。
 そうだとすれば、他の宗教施設は「目指せ! 金毘羅」のスローガンの下に、伽藍や社殿を整備し、参拝客を呼び込もうとする経営戦略を採用する人達も現れたはずです。それが讃岐では、善通寺や弥谷寺・白峰寺・法然寺などで、周辺では阿波の箸蔵寺、備中の喩伽山蓮台寺などかもしれません。
観音堂 讃岐国名勝図会
金毘羅観音堂
 又忠左工門事ヲ申出ス 山ヲ下り本之町屋へ立寄候得者早速昼飯ヲ出ス 是亦殊之外綺麗ナリ 酒取肴等二至マテ上品ナリ 是ハ上道中二十倍勝レリ
酒も美ナリ 宮仕之女も衣服綺麗ナリ 湊占是迄百五拾丁之道程也 食餌等仕舞帰路二向フ雨も今朝之通二てふらず よき間合也 暮前ニタドツニ帰ル 夫占少々ふり出し候 
扨江戸大火之よし 則丸亀之御飛脚江戸占早打二て参慄よし 里人共申慄驚大慄 然共たしかの
儀不相知 一刻も早ク室二到可致承知卜出船ヲ待 風よく明日ハ出帆のよし 御船頭申候 太慶ス
意訳変換しておくと
 山を下て門前に立寄って昼飯をとる。この料理も殊の外に綺麗で、酒や肴に至るまで上品である。これは、東海道の街道筋の店に比べると二十倍勝っている。酒もうまく、宮仕女の衣服も綺麗である。多度津湊までは、150丁の道程である。昼食を終えて、帰路に着く頃には、雨も止んでいた。いい間合だ。暮前には、多度津に帰ってきたが、それからまた雨が少々降り始めた。
 多度津で江戸大火のことを聞く。丸亀藩の江戸からの飛脚早打の知らせが届き、町人たちは驚き騒いでいる。しかし、詳細については知ることが出来ない。一刻も早く室津に向かおうと出船を待つ。そうしていると、明日は風もよく出帆できるとの知らせがあった。太慶ス
4344104-39夜の客引き 金山寺
夜の金毘羅金山寺町 客引き遊女たち
金毘羅大権現の名を高めたのは、宗教施設だけではなかったようです。門前の宿の豪華さや料理・サービスなども垢抜けた物を提供していたことが分かります。さらに芝居小屋や富くじ、遊郭まで揃っています。富貴な連中が上方を始め全国からやってきて、何日も金毘羅の宿に留まって遊んでいます。昼間は遊女を連れ出して、満濃池に散策し、漢詩や短歌を詠んでいます。金毘羅は信仰の街だけでなく、ギャンブルや遊戯・快楽の場でもあったのです。熊本藩の中家老は、金毘羅門前に泊まることはありませんでした。そのため夜の金比羅を見ることはなかったようです。

江戸の大火
明和の大火の焼失エリア(赤)
 多度津に帰ってみると「江戸大火」の知らせが丸亀藩の飛脚によってもたらされていました。
 この時の大火は「明和の大火」とよばれ、江戸の三大大火とされている惨事です。明和9年2月29日(1772年4月1日)に、目黒行人坂(現在の目黒一丁目付近)から出火したため、目黒行人坂大火とも呼ばれ、出火元は目黒の大円寺。出火原因は、武州熊谷無宿の真秀という坊主による放火です。真秀は火付盗賊改長官・長谷川宣雄の配下によって捕縛され、市中引き回しの上で、小塚原で火刑に処されています。
 金毘羅船 航海図C10
晴天十四日
朝五ツ時分占出帆 無類之追風也 夕飯後早々室之湊二着船 御船頭安平を名村左大夫方二早速使二遣シ江戸大火之儀を間合 慄処無程安平帰り 直二返答可申由二て 直二側二参申候ハ目黒行人坂右火出桜田辺焼出虎御門焼失龍口へかかり御大名様方御残不被成候よし上野仁王門焼候よし風聞然共此方様御屋敷之儀如何様共不承よし大坂二問合候得共今以返飼申不参候

  意訳変換しておくと
晴天十四日朝五ツ(8時)頃に多度津港出帆 無類の追風で、夕飯後には早々と室津に着船した。早々に、船頭の安平を室津の役人左大夫の所に遣って、江戸の大火之について問い合わさせた。安平が聞いてきた情報によると、目黒行人坂が火元で、桜田辺から虎御門の龍口あたりの大名屋敷は残らず燃え落ちたとのこと。上野の仁王門も焼けたという。風聞が飛び交い、当藩の屋敷のことについてもよく分からない。大坂屋敷に問い合わせたが、今だに返事を貰えないとのこと。
 明日の出帆について訊ねると「順風です」とのこと。そこで明日、灘に渡ってから対応策を考えることにする。

  多度津までは、街道や海道の桜を眺めてののんびりとした旅模様でした。ところが多度津以降の旅は、江戸の大火を受けて対応策を考えながらの旅になります。そのため桜や周囲の景色についてはほどんど記されることがなくなります。

  以上をまとめておくと
①17世紀後半に、髙松藩初代の松平頼重によって整えられた金毘羅の社殿や伽藍は、その後も整備が続けられ、19世紀には近隣に類のない規模と壮麗さを兼ね備えるようになった。
②それを受けて、九州の大名達の参拝や代参が行われるようになった。
③さらに九州と上方や江戸を行き来する家中や商人たちも、金比羅詣でを行うようになった。
④その際の参拝スタイルは多度津港に船を留めて日帰りで参拝するもので、多度津や金毘羅の宿を利用することはなかった。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
 柳田快明   肥後藩家老金毘羅参拝『松洞様御道中記(東行日録)』について

  
前回は、守護細川氏の支配下の讃岐で、西方守護代を務める香川氏が在京せずに、讃岐に根付いて在地経営を強めていたこと、それに警戒感を抱いた細川勝元は、1445年に宇多津の港湾管理権を、香川氏から取り上げ東方守護代の安富氏に任せたことを見てきました。
今回は香川氏が、多度津港をどのように管理していたのかを見ていくことにします。
テキストは 「橋詰 茂   讃岐の在地権力の港津支配 瀬戸内海地域社会と織豊権力」所収です。前回は、香川氏や安富氏が管理運行する「国料船」や、その母港の管理権を「兵庫北関入船納帳」で見ました。「国料船」とは、京都にいる守護細川氏に対して、讃岐から物資を輸送する船に関しては、無税で海関を通過でる権利が与えられていた船のことです。その運行権を、安富・香川氏は持っていました。これは、いろいろと「役得」があり、利益があったことを前回お話しました。

3兵庫北関入船納帳3.j5pg

 国料船以外に「過書船」が「兵庫北関入船納帳」には出てきます。
「過書」として、これらも無税通行が認められていたようです。過書船については、研究者は次の3つに分類します。
①先管領・管領千石に代表される幕府関係者
②南禅寺などの禅宗寺院の有力寺社
③淀十一艘と美作国北賀茂九郎兵衛なる人物
讃岐に関係のある過書は①で、ここから京へ物資を運ぶ船が過書船とされたようです。
讃岐の過書船として登場する船は以下の15件でです。

讃岐過書船一覧
兵庫北関入船納帳に出てくる讃岐からの過書船一覧表

船籍は、11件を三本松が占め、塩飽・鶴箸(鶴羽)が2件で、この3港で計13件となり、讃岐港の85%以上を占めます。 一方、多度津を船籍地とする「香川殿十艘」が一件あります。過書船に関わっているのは、この4港に絞られるようです。
 先ほど見たように、国料船の母港とするのは「多度津・庵治・方本・宇多津」の4港でした。これに過書船の母港である「三本松・塩飽・鶴箸(鶴羽)」を加えた七港が、管領細川氏と関わる港と云えそうです。こうしてみると、多度津以西には国料船や過書船の母港がなかったことに気づきます。中讃・東讃に集中しています。
少し回り道をして、兵庫北関入船納帳に出てくる讃岐船の船籍地一覧表を見ておきましょう。
3兵庫北関入船納帳2

この表からは次のようなことが分かります。
①宇多津が47、塩飽37、島(小豆島)・平山(宇多津)の4港合計数が128件、で全体の約半分を越える。
②東讃の引田・三本松・野原・方本(屋島の潟元)・庵治の5港合計数が75件
③東讃に比べると、多度津以西の三豊地区の港からの寄港回数は少ない。
各港から兵庫北関に寄港した讃岐船は何を積んでいたのかを、下表で見ておきます。
兵庫北関入船納帳 積荷一覧表

讃岐船の特徴は、塩輸送に特化した専用船が多いことです。
特に庵治や方本(潟元)には、その傾向が強く見られます。それに対して、①の宇多津や塩飽の船は、塩の占める比率は高いのですがそれだけではないようです。米・麦・豆などの穀類も運んでいます。
 瀬戸内海は古代から海のハイウエーで、塩飽はサービスエリア兼ジャンクションの役割を果たしてきました。備讃瀬戸エリアの人とモノが、一旦は塩飽に運ばれ、そこから畿内行きの船に乗り換えることが行われていました。西讃地方の港からの寄港回数が少ないのは、塩飽を中継しての交易活動が行われていたことがうかがえます。

宇多津地形復元図
 宇多津と平山についても同じような関係が見られると研究者は考えているようです。
平山は、宇多津東側の聖通寺山のふもとに位置する中世の港です。この港に所属する船は、小型船が多く、周辺地域の福江や林田・松山・堀江などの地方港を行き来して、物産を集めていた気配があるようです。そうして集積された米や麦を畿内に運んだのが、宇多津船になります。宇多津と平山の船は、以下のように分業化されていたというのです。
①宇多津船 讃岐と畿内を結ぶ長距離行路に就航する大型船
②平山船  西讃各地の港から宇多津に荷物を集積する小型船
このような棲み分けがあったために、宇多津近隣の林田港や三野港などは兵庫北関入船納帳には登場しないと考えられます。

そういう目で②の東讃の各港を見ると、野原・庵治・潟元を母港とする船は大型船で、塩の専用船です。それに対して三本松や志度は、小型船です。ここからは、東讃エリアは小豆島を通じて、中継交易が行われていたかも知れませんが、同時に小型船が直接に畿内との間を行き来していたことがうかがえます。
 
さて、概略はこれくらいにして、多度津船籍の過書船について見ていくことにします。

兵庫北関入船納帳 多度津・仁尾
兵庫北関入船納帳に出てくる多度津船
多度津船は1年間で12回の入港数があります。その内訳は、国料船が7件、過書船が1件、 一般船が4件の計12件です。一般船の入関日時を見てみると、2月9日・3月11日・4月17日・5月23日と年前半に集中して、それ以後にはありません。前回見たように、香川氏の管理する国料船の宇多津から多度津への母港移動は4月9日でした。
 多度津船は5月22日の船までは、積荷が記載されています。ところが4月9日船に「元は宇多津弾正船 香河(川)殿」とあり、5月24日以後の船は「香河殿十艘過書内」「香河殿国料」と記されるようになって、積荷名が記載されなくなります。これについては、以前にお話したように、守護細川氏によって、それまで香川氏が管理していた宇多津港の管理権を安富氏に移管したこと、それに伴い香川氏の国料船の母港が多度津に移されたことが背景にあります。過書船の「香川殿十艘」というのは、十艘という船数に限って、無税通過が認められたことを表すようです。

 これが香川氏に何をもたらしたかを見ておきましょう。
2月9日船や3月11日船の積荷「タクマ330石」とあるのは「詫間産の塩」と云う意味で、産地銘柄品の塩です。それまでは兵庫北関で、一般船として1貫100文の関税を支払って通過していました。ところが5月以後には国料船や過書船と扱われ、無税通行するようになったことが分かります。
 こうして、香川氏は多度津港を拠点に瀬戸内交易に進出し、大きな利益をあげていたことがうかがえます。この香川氏の経済力が、その後の西讃岐地方一帯を支配し、戦国大名化していく際の経済基盤になったと研究者は考えているようです。

 多度津船の船頭や問丸を見ておきましょう。
先ほどの表からは過書船の船頭は紀三郎、問丸は道祐で、国料船時の船頭・問丸と同じです。一般船も4件の内の2件は、船頭・紀三郎、問丸・道祐です。ここからは多度津の問丸は道祐が独占していたことが分かります。
 問丸とは何かを「確認」しておきます。
古代の荘園の年貢輸送は、荘園領主に従属していた「梶取(かじとり)」によっておこなわれていました。彼らは自前の船を持たない雇われ船長でした。しかし、室町時代になると「梶取」は自分の船を持つ運輸業者へ成長していきます。その中でも、階層分化が生れて、何隻もの船を持つ船持と、操船技術者に分かれていきます。
 また船頭の下で働く「水手」(水夫)も、もともとは荘園主が荘民の中から選んだ者に水手料を支給して、水主として使っていました。それが水主も専業化し、荘園から出て船持の下で働く「船員労働者」になっていきます。このような船頭・水手を使って物資を輸送させたのは、在地領主層の商業活動です。そして、物資を銭貨に換える際には、問丸の手が必要となるのです。
荘園制の下の問丸の役割は、水上交通の労力奉仕・年貢米の輸送・陸揚作業の監督・倉庫管理などでした。ところが、問丸が荘園領主から独立して、専門の貨物仲介業者あるいは輸送業者となっていきます。
 こうして室町時代になると、問丸は年貢の輸送・管理・運送人夫の宿所の提供までの役をはたすようになります。さらに一方では、倉庫業者として輸送物を遠方まで直接運ぶよりも、近くの商業地で売却して現金を送るようになります。つまり、投機的な動きも含めて「金融資本的性格?」を併せ持つようになり、年貢の徴収にまで行う者も現れます。
 このような瀬戸内海を股にかけて活動する問丸が多度津港にも拠点を置いていたようです。兵庫港を拠点とする問丸の中には、法華衆の日隆の信徒が数多くいました。彼らは、讃岐の宇多津・多度津で海上交易に活躍する人々と人的なネットワークを張り巡らし、情報交換を行っていたのでしょう。問丸達によって張られたネットワークに乗っかる形で、日隆の瀬戸内海布教活動は行われます。そうして姿をたというのが宇多津の本妙寺であり、観音寺港の西光寺なのでしょう。
兵庫北関入船納帳 船籍地別の問丸
讃岐船の問丸一覧 道祐は超大物の問丸だった
多度津に拠点を置いた道祐は『入船納帳』に出てくる問丸の中では、卓越した存在だったようです。
上表を見ると道裕は、多度津以外にも塩飽など備讃瀬戸の25港湾で積荷を取り扱い、備中と讃岐を結ぶ地域、瀬戸内海西部地域といった広い勢力範囲を持っていたことが史料からわかります。香川氏は道祐と組み、その智恵と情報量に頼って、瀬戸内海の広範囲に渡って物資を集積し、多度津を繁栄させていったと研究者は考えています。
  ちなみに、兵庫北関入船納帳に多々津(多度津)はでてきますが、堀江港は出てきません。潟湖の堆積が進む中で堀江港は港湾機能を失ったのかもしれません。それに替わって、15世紀半ばまでには、香川氏は新たな港を居館下を流れる桜川河口に開き、多度津と呼んだとしておきます。
多度津陣屋10
多度津湛甫が出来る前の桜川河口港(19世紀前半)

香川氏は輸送船団を、どのように確保したのでしょうか。

海上交易活動に進出するには「海の民」の掌握が古代から必要でした。香川氏は、どのようしにて国料船や過書船などに使用する船やその水夫たちを確保したのでしょうか。これは、村上水軍の中で見たように、海賊衆を丸抱えするのが、一番手っ取り早い方法でした。海賊衆を、配下に置くのです。
 香川氏の配下となった海賊衆として考えられるのが、以前にもお話しした山寺(路)氏です。兵庫北関入船納帳が書かれた頃から約10年後の康正三(1456)のことです。村上治部進書状に、伊予国弓削島を荒らす海賊衆のことが次のように報告されています。
(前略)
去年上洛之時、懸御目候之条、誠以本望至候、乃御斉被下候、師馳下句時分拝見仕候、如御意、弓削島之事、於此方近所之子細候間、委存知申候、左候ほとに(あきの国)小早河少泉方・(さぬきの国のしらかたといふ所二あり)山路方・(いよの国)能島両村、以上四人してもち候、小早河少泉・山路ハ 細河殿さま御奉公の面々にて候、能島の事ハ御そんちのまへにて候、かの面々、たというけ申候共、
意訳変換しておくと
昨年の上洛時に、お目にかかることが出来たこと、誠に本望でした。その時に話が出た弓削島については、この近所でもあり子細が分かりますので、お伝えいたします。弓削島は安芸国の小早河少泉方・讃岐白方という所の山路氏・伊予国の能島村上両氏の四人の管理となっています。なお、小早河少泉と山路は管領細川様へ奉公する面々で、能島は弓削島のすぐ近くにあります。

ここからは次のようなことが分かります。
①弓削島が安芸国小早河(小早川)少泉、讃岐白方の山路、伊予の能島両村(両村上氏)の四人がもっていること
②小早河少泉・山路は管領細川氏の奉公の面々であること
東寺領であつた弓削島は、少泉・山路・両村上氏の四人によって押領されていたこと、この4氏の本拠地はちがいますが、海賊衆という点では共通するようです。
 讃岐白方の山路氏については、以前にお話ししました。
白方 古墳分布

 白方は、現在の多度津町白方で、弘田川河口の港があった所で、現在の白方小学校の下辺りまでは、湾が入り込んでいたようです。その地形を活かして、古代においては多度郡の港の役割を果たしていました。そこを根拠とした山路氏は、燧灘を越えて伊予の弓削島まで進出し、その地を押領していたことが分かります。また、山路氏は「細川氏の奉公衆」ともされています。これをどう理解すればいいのでしょうか?

白方 弘田川

手持ちの材料を手立てに、海賊衆山路氏の動きを私は次のように考えています。 
①弘田川河口の白方には、小さな前方後円墳がいくつも並び、後には盛土山古墳などの特徴的な方墳も作られている
②白方は善通寺王国と弘田川を通じて結ばれ、その外港として役割を果たしてきた。
③そのため港湾施設が整い、交易活動が活発に行われてきた。
④空海の生家である佐伯氏の発展も、白方を拠点とする瀬戸内海交易活動に乗り出したことにある。
⑤中世になると、白方は海賊衆山路氏の拠点となった。
⑥山路氏は、室町幕府の成立期に細川氏の下で働いたために「細川氏の奉公衆」となった。
⑦しかし、実態は芸予諸島の村上氏と同じで「海の民」が「海賊衆」となった勢力であった。
⑧彼らは海賊衆として、村上衆と連携し、芸予の塩の島弓削島を押領したりすることも行っていた⑨また熊野海賊衆との交流もあり、瀬戸内海を広域的に活動し、交易活動も展開していた。
⑩その先達(パイロット)となったのは、備中児島の新熊野の五流修験者たちであった。
⑪このため児島五流の修験者たちが白方にはやって来て背後の弥谷寺で修行を行うようになった。
⑫さらに、熊野行者たちは白方の熊手八幡の神宮寺を中心に、いくつもの坊を建立し修験者の拠点化としていった。

ここで押さえておきたいのは、香川氏が「細川氏の奉公衆」の海賊衆である白方氏を、配下に取り込んでいったことです。
香川氏は、在京せずに多度津に居残り、在地支配をこつこつと進めていきます。そして、三野氏や秋山氏を家臣団化していったことが、三野・秋山文書からは分かります。同じようにして、白方の山路氏も家臣団化したと研究者は考えているようです。

DSC03844
弘田川河口より見上げる天霧山
 これは、毛利元就が村上武吉の協力を得て、厳島合戦で勝利したような話と同じようにとらえることができるのかもしれません。どちらにしても、香川氏は海賊山路氏の協力を得て、独自の輸送船団を形成していた可能性はあります。

DSC03889
熊手八幡神社(多度津町白方)

 こうした輸送船が桜川河口の多度津港に姿を現し、国料船・過書船の名の下に畿内との交易活動を行うようになった。また、守護細川氏からの動員令があった時には、山路氏の船団によって畿内へ兵が迅速に輸送される体制ができていたとしておきます。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献

  多度津港 天保2年 湛甫以前
天保2年の多度津 湛甫工事前で桜川河口に港がある

多度津湛甫は天保九年(1838)に完成します。
桜川沿いの須賀の金刀比羅神社の鳥居には、次のように刻まれています。
「天保十一年庚子季冬良日  当藩講連中」

築港完成と藩講成就記念として、この鳥居が建てられたことが分かります。湛甫の完成は、次のようなものを多度津にもたらします。
①金毘羅参拝客の中国・九州方面からの受入港としての機能
②北前船につながる瀬戸内海交易の拠点港としての機能
③湛甫(港)工事を通じて形成された官民一体性 
④その中で台頭してきた商業資本の活発な活動 
これらが小藩に人とモノと金があつまるシステムと、商業資本に活動の舞台をもたらします。それが後の「多度津七福人」と呼ばれる商業資本家グループの形成につながるようです。今回は、多度津港のその後を見ていきたいと思います。テキストは 多度津町史「港湾の変遷と土地造成」501P~ です。

 北前船の出入で賑わう港 天保の港で多度津藩は飛躍 
 多度津湛甫に入港する舟からは帆別銀が徴収されました。
その甫銭(入港料)は次の通りでした。
①一隻につき30文
②波止内入船については、帆一反について18文ずつ
③30石舟で三反、180石積で14反、四・五百石積以上の千石船は21反で計算
21反の帆を持つ千石舟で計算すると
21反×18文=376文 + 入港料一律30文 で、千石舟は400文近くの入港料を納めていたことになります。ちなみに天保十年の正月より六月まで半年間の入船数は1302艘と記されます。
 しかし、入港料よりも多度津に富をもたらしたのは、千石舟がもたらす積荷です。その積荷を扱う問屋は、近隣港や後背地との商売で多額の利益を上げるようになります。こうして、幕末の多度津は新興交易港として急速な発展を見せ、街並みも拡充していったようです。
多度津町教育委員会

江戸末期になると綿などの商品作物栽培のために、農家は千鰯を肥料として多く使用するようになります。北前船の入港によって羽鰊・鱗〆粕など魚肥の需要が増え、これを扱う干鰯問屋が軒を並べて繁盛するのは、瀬戸の港町のどこにも見られる風景になります。
丸亀港をも凌ぐ讃岐一の良港の完成によって、多度津港は中国・九州・上方はもとより、遠く江戸方面からの金毘羅宮・善通寺への参詣船や、あるいは諸国の物産を運ぶ船でにぎわい、瀬戸内海屈指の良港として繁栄していきます。
暁鐘成編(弘化四年刊)「金毘羅参詣名所図会」(写真)には次のように記されています。
金毘羅船々♫

此の津は、円亀に続きての繁昌の地なり。原来波塘の構へよく、入船の便利よきが故に湊に泊る船移しく、浜辺には船宿、 旅籠屋建てつづき、或は岸に上酒、煮売の出店、饂飩、蕎麦の担売、甘酒、餅菓子など商ふ者往来たゆる事なく、其のほか商人、船大工等ありて、平生に賑はし。」
亦、西国筋の往返の諸船の内金毘羅参詣なさんず徒はここに着船して善通寺を拝し象頭山に登る。其の都合よきを以て此に船を待たせ参詣する者多し。
意訳変換しておくと
この港は、丸亀に続いて繁盛している。波留設備が得できていて、入船出船の便利がいいので、数多くの舟が湊に入ってくる。岸には船宿、 旅籠屋が建ち並び、上酒や煮売など出店、饂飩(うどん)や蕎麦の屋台、甘酒・餅菓子などを商う者が行き交う姿が絶えることが内。その他にも商人や船大工等もいて、よく賑わっている。
 また、西国筋の往来船の中で、金毘羅参詣する者はここに着船して善通寺を参拝してから象頭山金毘羅さんに登る。それに都合がいいので、この港に船を待たせ参詣する者が多い。

と、多度津港の繁栄ぶりを記しています。

もう少し幕末の多度津を見ておきましょう。
安政六年(1859)九月、越後長岡の家老河井継之助が、尊敬していた山田方谷を備中国松山にたずねた時の旅日記「塵壺」には、多度津の姿が次のように記されています。

多度津は城下にて、且つ船着故、賑やかなり。昼時分故、船宿にて飯を食い、指図にて直ちに舟に入りし処、夜になりて舟を出す。それまでは諸方の乗合、しきりにば久(博打)をなし、うるさき事なり、さきに云ひし如く、玉島、丸亀、多度津、何れも船着きの備え様、奇麗なり。

意訳変換しておくと
多度津は城下街で、かつ船着港であるため賑やかである。昼時分なので船宿で飯を食べて、指示通りにすぐに舟に入ったが、舟が出たのは夜になってからだった。それまでは、舟の上では乗合客が、博打をうってにぎやかなことこのうえない。先ほども云ったが、玉島、丸亀、多度津は、どこも港町で街も奇麗である。

更に、慶応元年(1865)の秋から冬にかけ、京都の蘭医小石中蔵が京都~平戸間を往復した帰途に、多度津港に上陸して金昆羅参詣をしています。その時の多度津港の様子を、彼は旅日記「東帰日記」には次のように記されています。
多度津は、京極淡路様御城下なり、御城は平城にて海に臨む、松樹深くして兇え難し、御城の東(西の間違いか)に湊あり、波戸にて引廻し、入口三か処あり、わたり二丁廻りあるべし、みな石垣切石にて、誠に見事也、
数十の船此内に泊す、大凡大坂西国の便船、四国路にかゝる、此湊に入る也、其船客、金毘羅参詣の者、みな此処にかゝる、此舟も大坂往来の片路には、かならず参詣するよし、外舟にも此例多し。
意訳変換しておくと
多度津は、京極淡路守様の御城下である。城は平城にで海を臨み、松が繁り伺いがたい。御城の西に湊があり、歯止めがあり、入口が三か処あり、すべて石垣は切石で、誠に見事な造りである。
数十艘の舟が湾内には停泊しており、大体が大坂西国の便船で四国路に関係する舟はこの湊に入る。金毘羅参詣の者はみなここで下りる。この舟も大坂往来の際には、かならず参詣するという。その他の舟も、このような例が多い。
これらの記録からは、多度津の金毘羅参詣船の寄港地としての繁盛ぶりがうかがえます。                
天保九(1838)年に完成した多度津湛甫は、明治半ばになると、港内に桜川からの堆積物が流れ込み、港内が埋まってきます。一方で
 明治中期になると、瀬戸内海の各港を結ぶ定期航路が整備され、客船が盛んに多度津港へも出入りするようになり、客船の大型化が進みます。従来の和船と違って吃水の深い汽船は、出入りに不便が生じるようになります。
 明治になっても金刀比羅宮や善通寺参詣熱は衰えませんでした。参拝客でにぎわっていた多度津港にとって、新しい蒸気船時代にあった港の整備が課題になってきます。

多度津湛甫の見取り図

明治5年には、当時の多度津戸長(町長)が港ざらえについて、次のような通達を出しています。
湛浦浚方の事
当湛浦は一村の盛衰に係候場所に候所 各々存知の通り、次第に浅く相成り既に干汐の節は入船入り難く、小繁昌の基いに付、此度浚方(さらえ)相企て本願候処御聞済下され、毎年帆別銭悉差し下し相成、其上金百両下賜候右様県庁よりも深く御世話下され候段感激奉り候。
各々家職の義は港の深浅に依り、損益少なからず候事に付一層勉励致し、相磨き力を合わせて前文諸説を合わせて資金として、永世不場の仕方相立て度候条、浚方簡場の見込有之候はば無腹臓中出すべく候
此段相達候也
壬申(明治5年)九月                                    戸 長
この願い出は、明治9年10月にはいったん許可になり、 直ちに工事に着手しました。ところが5年後の明治14年5月になって「ご詮議の次第あり」と港ざらえ中止の通達が下されます。
そうした矢先に、明治17年8月には台風水害のため港は一層浅くなってしまいます。
 そこで、多度津村会は次のような願出を愛媛県知事に提出しています。
「先年許可になった一三か年間の帆別銭の取り立てのうち、明治9年11月から14年2月までの56か月分を除いた8年4か月分の帆別銭を徴収させて欲しい。浚渫した土砂は、桜川一帯を埋め立てて宅地とし、これを売った益金を今後の港改修費用にあてたい」
 


この計画案は、明治21年2月18日付で次のように許可されます。
①桜川埋め立ては本年12月までに竣工すること
②港内浚渫は許可日より50日以内に着手、10か月間に竣工。
③竣工後、8年5か月間、規定の入港銭徴収を認める。しかし軍艦、水上警察署官用船からは徴収できない
④先に引き揚げた遺払残金1320円60銭3厘は郡役所を経て下げ渡す。
これを受けて 
旧藩主京極家より 2000円
郡より    820円
船改所の公売代金 1366円
12人の寄付金   804円
合計4900円で浚渫工事に着工します。
この時に浚渫から出た土砂で、桜川の旧港や左岸一帯は埋め立てられたようです。
こうして桜川沿いの仲ノ町5番10号から東浜4・5番のあたりが造成され、港に通じる道路の両側には、旅館・商店等が軒を連ねる繁華街が生まれます。
P1240931
浚渫の土砂で埋め立てられた上に、建設された鉄道施設
明治22年には、桜川河口右岸にあった旧藩士調練場とその周辺(現市民会館サクラート)は、讃岐鉄道に買収されます。ここを起点として多度津駅並びに器械場(修理工場)が建設されます。こうして旧京極藩陣屋は、鉄道ステーションへと一変することになります。

P1240953 初代多度津駅
初代多度津駅
 そして5月23日には多度津~琴平、多度津~丸亀間に鉄道が開通し、多度津駅がその起点となるのです。この時に、金毘羅橋の北手の讃岐信用金庫多度津支店裏通り付近も埋め立てられました。

多度津駅初代
初代多度津駅
一方、明治19年4月、大久保誰之丞の提唱で四国新道工事も伸びて来ます。
そのため琴平~多度津間の道路も拡張されます。この一環として鍛冶屋町(現仲/町付近)や須賀町(現大通り)の民家が立ち退きになります。須賀町にあった金刀比羅神社も、この道路にかかり、現在地へ移されます。この道路の開通により現在の大通りが形成され、人家は急速に立ち並んで行くことになります。
多度津 明治24年桜川埋め立て概況
明治24年 多度津桜川の埋め立て部分

日清戦争時の多度津港改築の出願 東浜の埋め立て 
 日清戦争後の明治29年(1896)10月、港内の浚渫と、東浜内港の埋め立てが終了します。この埋立地は現在の東浜六にあたり、ここに水上警察署用地・荷揚場・階段(大がんぎ)・道路・宅地合わせて、2906㎡を造り、内港に入れない汽船からの旅客の上陸や、貨物の荷揚げの便をはかられました。この荷揚場は、日露戦争に出航する兵士の乗船場として大いに役立ったと云います。

多度津港地図

西浜海岸の埋め立て
 日露戦争が始まると出征する第十一師団の各部隊は、多度津沖に停泊した大型汽船で大陸に出征していきました。旅順攻撃で戦死・戦傷して帰還するため、多度津港は送迎の官民で溢れるようになります。
 そのモニュメントして桃陵公園に立っているのが「一太郎やーい」の銅像です。戦地に赴く息子を見送る母親像については、以前に紹介しましたが、この時に一太郎が乗った船はハシケでした。ここからは、大型汽船は沖合に停泊して、乗降者はハシケに乗って、港と船を移動しなければならなかったことが分かります。善通寺11師団の多度津港の軍用港としての整備拡充が、政府の「富国強兵」からも求められるようになります。
日露戦争時の多度津港

日露戦争時の多度津港

 このような機運を受けて、多度津町長塩田政之は 明治39年4月、内務大臣原敬に次のような改築工事申請書を提出します。

多度津は四国の各地を始めとし、阪神地方及び西海中国の諸港と交通の衝路に当り船舶輻輳して貨客集散の地たり。殊に金刀比羅宮参詣旅客の、当港より登降するもの夥しく、四時絶ゆることなし。而して当港に接近せる地方の物産、海外に輸出するものを挙ぐれば、麦科真田・竹細・団扇・花筵・紡縞・生糸、食塩・米穀・木綿及び、水産物製造品等にして、其の需要国は支那・朝鮮及び英米なり。

 輸入品は米穀・肥料・砂糖・石油・織物・綿・洋鉄の類にして、明治36年の調査に依れば、其の輸出入品価格は実に130万円に達せり。而して人口一万未満の当町商人の取扱する、当港経由輸出入商品の価格は、明治三十六年に於いて218万余円なり。而して一等測候所あり、一等郵便電信局あり、水難救済所あり、共の他船舶司検所あり、港湾の要具悉く備れり。且つ本港は第十一師団司令部を経る、僅一里十町(約5㎞)に過ぎずして、商業最も繁盛の地なり。讃岐鉄道も本港を起点として高松に達し南琴平に至る。しかのみならず四国新道は既に開通して、高知徳島愛暖に達する便あり、且つ現今に於いて当港と尾道間に於いて、山陽鉄道連絡汽船日々航海をなし、運輸上に革新を来すと雖も、現在の多度津港は未だ交通の開けぎる、天保年間当時の築港なれば、規模甚だ小にして、今日の趨勢に適応すること能はず。共の不便実に鮮少ならぎるなり。而して東方高松に於いては、長きに築港の完成なるあり。故に今之れを改築して、高松と東西相呼応し、以て貨客集故の要地となすは、刻下の急務と存ぜられ候。而して時恰も日露戦後に際し、臨時乙部碇泊司今部の設置等ありしも、軍隊輸送上大いに不便を感ずる所あり。故に今回更に測量の結果、ニケ年の継統工事となし、本港を改築する事を、町会に於いて本議を一決し、永遠の利益を企図し、一面軍事上運輸交通を便にし、殖産興業の発達を謀り、又日露戦役の紀念たらしめんとする。
 然るに其の費額総計19万7917円3銭7厘の巨額を要するを以て、共の内金18万9340円67銭6厘は、之を公債に仰がんとす。共の所以は本町民の負担を見るに、国税割等90銭戸別割は一戸につき8円50銭強の負担にして、何れも重荷なるのみないず、直接国税府県町村税等の負担を合すれば、 一戸につき29円60銭3厘なり。斯の如く各種の負担は、共の極に辻し、重課と云はざるを得ず。故に本事業に対する費額全部を、一時に賦課徴収するは、不可能の事に属するを以て、之れを公債に依らんとするや、実に止むを得ざるなり。
この申請書は認められます。その費用は次の通りでした
総工事費は 385568円
県費補助    25910円
郡費補助     1200円
町税及び公債 221543円
公債は港と桟橋の使用料で支払う計画だったようです。当時の道路や港が町村の「自己負担」なしではできなかったことがここからは分かります。町長は、県の支援額をできるだけ多く得てくることと、地元負担をどのようにして集めるかが大きな手腕とされた時代です。予算オーバーすれば、町長が自腹を切ったという話がいろいろな町に残っています。町長は県議を兼任し、県議会で地元の道路や港などの建設資金の獲得に奔走したのは、以前にお話ししました。
1911年多度津港
明治44(1911)年の多度津港 
この起債申請に対し、明治39年7月に国の許可が下ります。
こうして12月1日に、東突堤中心位置に捨石が投入されて工事が始まります。この拡張工事は、天保9(1837)の湛甫の一文字堤防の北側に外港を造って、その中に桟橋を設けて大型汽船の横付けができるようにするものでした。そのために、次のような工事が同時に進められます。
①西側は、嶽ケ下の北側に長さ510mの西突堤
②東側は、約26000㎡の埋め立ての北に、防浪壁のついた330mの東突堤
③同時に浚渫した土砂で埋め立て地を造成

1911年多度津港 新港工事
多度津港の外港工事

こうして、幕末から明治末に掛けての多度津は、すぐれた港湾設備を持つことによって、高松や丸亀を凌駕するほどの港町となっていたのです。そこに蓄積された資本や人脈が鉄道や電力などの近代工業を、この町に根付かせていくことになったようです。まとまりがなくなりましたが最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 多度津町史「港湾の変遷と土地造成」501P~ 


 多度津は早くから小銃を核とする歩兵編成への転換を行ってきましたが、長州征伐における奇兵隊の活躍に学んで農民からの志願制の農兵組織の編成に動きます。これが赤報隊と呼ばれた農民兵たちです。
 赤報隊の募兵状況を見てみましょう。
 大見村の場合村内で応募したのは次の11人です
「小畑惣兵衛・三好初治・横田大蔵・藤田粂蔵・横田茂市・三好勝之丈・藤田文治・佐藤信治・佐藤半之助・則包万助・森綱造」
神田村(現三豊市山本町)の場合には、
地主や富農の子弟からえらばれ、集団行動を中心とする西洋式戦術によって訓練され、戦闘力も大きく、海岸防備や一揆の鎮圧、さらに維新期の朝廷軍に協力してあなどり難いものがあった。神田から岩倉六二(伍長)・長谷川一二(同)・細川保五郎・岩倉角治・山下品治・森利吉・穐山重吉・石川春治・大西雪治の九名が志願」
と山本町史に記されています。隊員は詰襟服と帽子、そして小銃が支給されました。全体では50人規模の編成だったようです。
 次の辞令で赤報隊の性格や隊員の待遇の一端を知ることができます。
  其方儀 此度赤報隊二差加、依之在隊中扶持二人笛字帯刀差許シ 藩籍二差加者也 
 隊員は在隊中に限って二人扶持が支給され、苗字帯刀の特権が許され「新足軽」という身分に格村けされ「藩版」に加えられたようです。隊員が支給された扶持米は、一日玄米一升になりますから、二人扶持は玄米二升で年間に七石三斗の玄米支給となり、藩の全隊員への支給総額は365石にのぼったという計算になります。これも小藩にとってはかなりな財政負担となったはずです。
 赤報隊の隊員を送りだした村サイドから見れば、
①「農家の過剰人口対策」として口減し
②玄米収入の道であり、
③士籍を得るための絶好の機会
という「一挙三得のいい就職先」という認識があったようです。
 他方、藩サイドからすれば、
 新歩兵銃隊の編成を農民で行うことによって小藩の藩士不足=兵力不足を打開することができます。また、先ほど述べたように武士達は単独で戦うことを訓練されており、集団密集訓練や「鉄砲足軽」を嫌がる風潮があり、はっきり言うと不向きでした。農民出身者を鍛えた方がものになるということを長州の高杉晋作は奇兵隊で実証したのです。これに学ばぬ手はありません。従来の軍事力を補完し、農民出身者を小銃隊として編成するメリットはいくつも挙げられます。
 あらたに赤報隊を組織したので、小銃が足りなくなります。多度津藩が慶応期において、大量の小銃買付けに走った理由のひとつはここにありました。赤報隊のための小銃購入だったのです。ちなみに赤報隊のためのミニエー銃60丁は千両の支出で藩予算の支出総額の3割半にあたります。
 赤報隊に初出動が命ぜられたのは、慶応四年(1868)の高松征伐のときです。
高松藩は、同年正月五日に鳥羽伏見で官軍と戦って朝敵とされ、藩主松平頼聡は官位を剥奪され、京都と大坂の藩邸も没収されます。同十七日に土佐藩士片岡健吉率いる土佐郡が丸亀城下に到着し、高松征伐の勅命を伝達します。そこで一九日には丸亀藩200人、多度津藩50人が先鋒として高松城下に向かいます。このときの多度津藩の兵員が多度津藩大目付服部喜之助に率いられた赤報隊でした。
 征討軍を迎えた高松藩では、すでに朝廷に恭順の意を表していて、19日には高松城を開け渡し、浄願寺に謹慎していました。丸亀・多度津両藩の征討軍は、石清尾山に布陣しますが、戦う意志がないことを確認し、土佐藩とともに高松城を受取り、21日には多度津に引揚げています。赤報隊の「戦歴」はこれだけです。彼らのその後は、どのようになったのでしょうか。それを語る史料にまだ出会えていません。
 赤報隊が50人編成で、その規模は小さい部隊です。
しかし、奇兵隊と比較してみると長州藩は37万石で1500人程度の組織だったとされます。これは一万石で40人弱の規模になり、多度津藩と変わらない隊員数になります。その扶持米と小銃調達に伴う支出額も、決して軽いものではありません。多度津藩の兵制改革の積極性を示すものとみることができます。
 しかし、長引く「戦時予算」で軍事支出は増大し巨額の借金が増え続けます。
 慶応四年(1868)5月付の「御軍用御入目請払帳」から多度津藩の軍費会計の収支決算書を作成すると次のようになります。
この決算額約一万三千両というのは、当時の江戸の米相場に換算すると米一石は金で約四両となるようです。多度津藩が慶応四年にミニエー銃をはじめ火器購入のために支出した代金は、石高に換算すると約3250石となります。これは藩石高の33%になります。
 慶応四年人金額一覧表を見ると、藩の元方、吟味方、元方よりの入金の下に、湯浅為八、木谷綱輔、木元茂三郎、岡栄治、佐藤栄助、大塚茂佐衛門、大塚新太郎、和泉屋源助など人名が並びます。これは多度津の商人からの献金によって調達された資金のようです。ここからは藩財政が地元の有力な商業資本からの支援なしでは立ちゆかない状況がうかがえます。ここにも天保期の湛甫(新港)修築という藩運を傾けた大事業が、地元商人たちの利益につながり、それを契機とし多度津藩の兵制改革にも支援協力をおこなっている姿が垣間見えます。

次の表は軍事装備費の支出状況を費目別に整理したものです。
総額12689両余の内訳は、
銃砲購入代金として、大砲・小銃に  1289両
大岡藤左衛門へ             65両
江戸・横浜への小銃支出       5193両
その他の小銃代            387両
以上の合計額が           6934両
それは年間支出総額の53%にあたります。これ以外にも弾丸・雷管・火薬類に1722両が支払われています。鳥羽伏見の戦いによる「戦時予算」であったとは言え、軍備充実政策が藩財政を破綻に追い込んでいることが分かります。多度津藩という一万石の外様小藩が、その財政規模や藩政機構の限界を無視して行った兵制改革の顛末がここに現れているようです。

 時代を先取りし、その実績を持って新政権のなかで一定の地位を占めようとした多度津の狙いは小藩にもかかわらず幕末に独自の軌跡を残しました。しかし、藩の経済力をはるかに越えた軍事支出は、大きな負債となり破滅的状況を迎えます。多度津藩は、明治4年の廃藩置県を待たずに、新政府に対して廃藩の認可を求める上奏をしなければならない状況においこまれます。
 しかし、藩主は去っても地元資産家は残ります。
そして、幕藩体制の桎梏から解き放たれ商業資本家から産業資本家へ変身を遂げ、西讃地方の近代化のトレッガーとなっていきます。それが「多度津七福人」と呼ばれる資産家達です。その若きリーダとして登場するのが景山甚右衛門なのでしょう。

参考文献 三好昭一郎 慶応期外様小藩の兵制改革   讃岐多度津藩の小銃政策をめぐって 

関連記事


多度津藩歴代藩主系図
多度津京極藩系図

多度津藩は元禄七年(1694)に丸亀藩から独立します。

しかし、自前の陣屋を持つことはなく、丸亀城の西屋敷に「間借り」して政務が行われるという状態が百年近く続きます。
丸亀城 大手町居住者19jpg
現在の丸亀裁判所付近に①林求馬の屋敷 ②御用所(政庁)があったことを示す絵図。

間借り状態では、藩運営も丸亀藩のしきたり通り行うのが常道とされていました。
 ところが寛政八年(1796)に21歳の四代高賢が家督を継ぐと藩の空気が変わっていきます。まず林求馬時重が家老に就任します。彼は、30歳前の働き盛りで藩政の改善、自立化を進めようとします。 その第一が藩主の居館と政庁を多度津に移すことでした。
 林は、お城ではなく伊予西条藩のような陣屋を多度津に新たに建設する案を、丸亀藩の重役方藩や同僚の反対を押して決定します。こうして陣屋建設が始まりますが、工事途中の文化五年(1808)家老の林が突然に亡くなってしまいます。建設工事は、林という推進力を失って中断してしまいました。
多度津藩陣屋跡位置図
多度津藩陣屋位置図
しかし、藩主高賢は計画をあきらめてはいませんでした。
約20年後の文政九年(1826)に工事を再開させます。工事中の多度津の陣屋御殿に移り住み、工事を見守り、推進役となります。同時に藩士にも厳しい倹約を求めたようです。陣屋建築のためには、すでに大阪の鴻池別家や京都の萬猷院から三千両の借り入れがありましたが、それでも資金は足りません。そこで藩は富商や村々の庄屋をはじめ広く領民に「陣屋御引越し」の冥加金を課します。形の上では出資者の自発性が尊重され、各人、各村は自らの資力、村の規模や家格、藩との関係や役柄を考慮しながら、最後は談合により、それぞれ出来るだけ横並びに負担額を決めたようです。
多度津陣屋配置図
多度津町内遺跡発掘調査報告書2 多度津藩陣屋施設

 実質的には、これは「献金の強制」です。しかし「多度津へ御引越し献上金」という大義名分に、領民の多くが強制と受け取らず、むしろ積極的に献金に応じたようです。人々は藩の自立を望み、その象徴として多度津の陣屋建設に期待をかけたのかもしれません。領民にとって、これまでは多度津藩に城がないことを
「多度津あん(さん)に後ろ(後頭部のふくれ)なし」
と頭の形にかけて、郡楡されてきた悔しさがその背景にあったとも伝えられます
多度津陣屋10
多度津藩陣屋

 工事が再開された文政九年の三回の献上金目録が藩日記に残されています

第一回 多度津の商家66人で計51貫500匁。
第二回 藩内町方・村方の富裕層23人で計銀100貫
第三回 一部富裕層8人の再度の献金(74貫)と藩内村方の庄屋19人(18貫)ほか これら全三回の総計は銀448貫(=7442両)と記されています。
金一両は現代感覚(賃金の比較)で今の三〇万円になると研究者は考えているようです。この年に多度津藩領民が陣屋建設に献上した総額7442両は、22億3260万円ほどになります。
多度津湛甫(たんぼ)の建設の背景と目論見は?  
18世紀後半の多度津港は、急速に発達した日本海沿岸と大坂を結ぶ瀬戸内海航路の拠点として重要性を増しつつありました。それに加えて、金比羅船が就航し庶民の間で琴平詣での人気が高まるにつれ、大阪はじめ瀬戸内海沿岸や九州各地から参詣客を運ぶ船が丸亀・多度津を目指すようになっていました。受け入れ側の港の拡充・新設が求められていたのです。
丸亀港3 福島湛甫・新堀湛甫
丸亀藩の福島湛甫と新堀

 これに最初に動いたのは、丸亀藩です。丸亀藩は、江戸で金比羅講を使って「民間資金の導入=第三者セクター方式」で、天保二年(1831)新しい船溜まり(新堀湛甫)を短期間で作り上げます。
これを追いかけるように4年後に、多度津藩も新港建設に着手します。
多度津港 陣屋建設以前?
        旧多度津港 桜川河口が港だった
 
それまでの多度津の港は、町の中心を流れる桜川の河口を利用した船溜まりにすぎませんでした。新しい港は、その西側にの崖下の海岸を長い突堤や防波堤で囲んで、深い水深と広い港内海面をもつ本格的な港の計画書が作成されます。これは丸亀藩新堀湛甫に比較すると本格的で工費も大幅にかさむことが予想されましたが、この計画案を発案したのは藩ではなく、回船問屋や肥料や油・煙草などを扱う万問屋など町の有力商人たちでした。
 前年に父に代わったばかりの20歳の新藩主・高琢は、この案に乗り気ですぐに同意したようです。この事業のために隠居していた河口久右衛門が家老に呼び戻され、采配を振うことになります。そして財務に明るい家老に次ぐご用役に小倉治郎左衛門が就き補佐する体制ができます。
「藩士宮川道祐(太右衛門)覚書」(白川武蔵)には、その経緯が次のように記されています。
そもそも、多度津の湛甫築造の発端は、当浜問家総代の高見屋平治郎・福山屋平右衛円右の両人から申請されたもので、家老河口久右衛門殿が取り次いで、藩主の許可を受けて、幕府のお留守居平井氏より公辺(幕府)御用番中へ願い出たところ、ほどよく許可が下りた。建設許可の御奉書は江戸表より急ぎ飛脚で届いた。ところがそれからが大変だった。このことを御本家様(丸亀藩)へ知らせたところ、大変機嫌がよろしくない。あれこれと難癖を言い立てられて容易には認めてはくれない。 
 家老河口氏には、大いに心配してし、何度も御本家丸亀藩の用番中まで出向いて、港築造の必要性を説明した。その結果、やっと丸亀藩の承諾が下りて、工事にとりかかることになり、各方面との打合せが始まった。運上諸役には御用係が任命され、問屋たちや総代の面々にも通達が出されたった。石工は備前の国より百太郎という者が、陣屋建設の頃から堀江村に住んでいたので、棟梁を申し付けた。その他の石工は備前より多く雇入れ、石なども取り寄せて取り掛ったのは天保五年であった。

 これより先に本家の丸亀藩は、福島湛甫を文化三年(1806)に築いています。その後の天保四年完成した新堀湛甫は東西80間、南北40間、人口15間、満潮時の深さは1文6尺です。これに対し多度津の新湛甫は、東側の突堤119間、西側の突堤74間、中央に120間の防波堤(一文字突堤)を設け、港内方106間です。これは、本家の港をしのぐ大工事で、総費用としても銀570貫(約1万両)になります。当時の多度藩の1年分の財政収入にあたる額になります。陣屋建設を行ったばかりの小藩にとっては無謀とも云える大工事です。このため家老河口久右衛門はじめ藩役人、領内庄屋の外問屋商人など総動員体制を作り上げていきます。

多度津陣屋5

 多度津新港の実現には、さまざまな困難があったようです。特に資金集めには苦労したようです。史料には次のように記されています。

それより数年長々かかり、お上に於いても余程の御物入りに相なり、大坂屋(丸亀の豪商)へも御頼み入りに相掛り候えども不承知の由にて、河口姓にも大いに心配いたされ、御同人備前下津丼へ御自分直々罷り出で、荻野屋(久兵衛)方へ御相談に及び候処、承知致され同所にて金百貫目御借入に相成る。
 然る処引き足り申さず、依って役人中御評議の上、何い取り候て、御家中一統頂戴物(俸禄)の中七歩の御引増(天引)仰せ出され、是又三か年おつづけに相成る。然る処、何分長々の事に付き出来兼ね候に付、河口姓にはかれこれ心痛に及ばれ、吉川又右衛門御代官役中に御相談になり、夫れに付き吉川氏より庄村高畠覚兵衛を呼び取り、お話合いに相なり、尚又御領分大庄屋御呼び寄せ、お話し合いの上、御頼みに相成り、これにより金百貫目御備え出来、右金にて漸く出来申し候。
久右衛門においては、湛甫一条の骨折り心配は、容らならざる儀にこれ有り候。仕上がりまで御年数十一年に及び候事。惣〆高、金五七十貫余りに相成り候。くわしくは御用処元方役所帳面に之れ有りここに略す。是れ拙者所々にて聞き取りしままをあらまし申し置き候也

 幕府認可はすぐ得られたようですが、障害は丸亀藩の理解と協力が得られなかったことです。 丸亀藩の重役たちは親藩の了承を得ずに、支藩が始めたこの計画に難色を示します。家老の河口が説得して、やっと渋々の許諾を得たと伝わります。

それに忖度してか、丸亀の豪商大坂屋は多度津藩への資金助力を断っています。そのため家老の河口は、瀬戸内海の対岸である下津井に出かけ、荻野屋久兵衛に相談して金千両(銀62)を借ります。この融資を元金に講銀を設け、多度郡15か村の庄屋たちと協議の上に、借金の返済および港建設の資金調達をめざします。
 一万石という小さな大名のうえに、陣屋新設という大事業を成し遂げたばかりの多度津藩にとって、矢継ぎ早に取り組む大規模な港建設はいささか無謀な思い上がった冒険な工事と思う人たちも多かったようです。
多度津湛甫 33
多度津湛甫

 そのうえ天保年間には全国的な気候不順が天保飢饉を引き起こし、世の中は大塩平八郎の乱のように政情不安が広がった時期です。讃岐でも米価の高騰や買占めに抗議して各地で一揆や打ち壊しが起こっています。多度津でも一揆や、干水害のため被害が広がります  このような緊迫した情勢下で、百姓にまで負担を負わす新港建設資金集めの難しさを関係者はよく分かっていたようです。藩が強制的に取り立てるというよりも、地主や大商人層と協議を重ねながら協力体制を築いて、資金を出してもらうというソフトな対応に心がけてます。 
多度津湛甫 3

どのようにして多度津藩は資金を集めたのか?  
 幕末が近づくにつれて年貢に頼る藩財政は、行き詰まってきます。陣屋や新港建なども藩の独自事業としてはやって行けないことを、町の有力商人や村方の地主層は初めから良く知っていたようです。だから「陣屋御引越し」の時のように、民間金融組織としての講をつくって対応しようとしたのです。逆に見ると幕藩体制の行き詰まりが、はっきり見て取れます。

1965年頃の多度津

 天保六年(1835)に発足した「御講」は、村ごとに一口銀一八〇匁(=金三両)で加入者を募りました。大商人や地主などは一口以上、多数の庶民は一口を細かく分割し共同で引き受けるようにされています。この年十一月末に、各村が引き受けた口数と納入掛金額が届け出順に記されています。   
庄村   十九口半    銀三貫四二十匁   
三井村  十六口三厘   銀二貫百三十二匁
多度津  百二十一口   銀二十一貫八百七十匁
堀江村   五口九歩   銀一貫六十四匁四分   
北鴨村   九口九歩   銀一貫七百八十二匁   
南鴨村  十一口二分四厘 銀二貫二十四匁七分
葛原村  二十九口九歩厘 銀五貫三百九十四匁六歩   
道福寺村 十六口半     二貫九百七十匁   
碑殿村  二十二口     三貫七百二十匁   
山階村  三十九口八厘   七貫三十六匁   
青木村  十五口九歩三厘  二貫八百六十七匁四分   
東白方村 十八口三歩五厘  三貫三百三匁   
西白方村 十三口九歩九厘  二貫五十八匁   
奥白方村 九口三歩     一貫六百七十四匁   
新町村  半口         九十匁    
計    347口7歩9厘6毛 62貫603匁3分

この額は、最初に下津井の荻野屋から借りた元金総額と同額になります。こうして、講銀取立ては天保六年秋より始まり、同七年秋から十四年正月まで春秋二期ごとに、利銀を含めて春季分二〇七貫余、秋季分三五七貫、計五六〇貫(九二九六両)を上納しています。 湛甫建設出費は一万両を超えていたようです。この費用の大部分を負担したのは領民で、各村の負担口数はおおむね村の戸数に応じて配分されたことが分かります。
porttadotsu多度津

湛甫建設工事は天保五年に始まり、4年後に竣工します。

丸亀の新堀湛甫が一年余の工事で、工費も2千両余だったのに比べると、その額は5倍にもなり、いかに大工事だったかが分かります。海中に東突堤(242メートル)、西突堤(三面メートル)、中央に一文字突堤(218メートル)、港内面積(5,6ヘクタール)、水深(7メートル)の港は四国一の港で、この港が明治以後も機能して多度津の近代化のために大きな役割を果たすことになります。建設に先頭に立って尽力した家老河口は、10年余の心労のために工事完成後間もなく病のために64歳で亡くなっています。
大正頃の多度津港
湛甫の完成後に多度津港を利用する船は増え、港も栄えた。  
多度津港に立ち寄る船の主力は、松前(北海道)からの海産物とその見返りに内地産の酒や雑貨・衣料を運ぶ千石船や北前船でした。それに加えて、西国からの琴平詣での金比羅船も殺到するようになります。深い港は、大型船が入港することもできるために、幕末にはイギリスや佐賀藩、幕府の蒸気船が相次いで入港し、多度津港は瀬戸内海随一の良港としての名声を高めていきます。これに伴い町の商売も繁盛し、特に松前からもたらされる鰯や地元産の砂糖・綿・油等を商う問屋は数十軒を超え、港に近い街路は船宿や旅人相手の小店でにぎわいます。
巨費かけて完成させた湛甫建設は、藩の財政にも寄与することになります。
多度津藩は、港での魚介取引を専売制にして、取引量に応じて魚方口銀をとっていました。また入港する船から、船の大きさに応じて「帆別銀」などを徴収していましたが、これら港関係の収入は今後の増収を期待できる数少ない財源でした。ちなみに天保10年(1839)の多度津藩「亥の年御積帳(予算表)」(『香川県史9 近世史料I』)を見ると、
年貢収入6903石 - 家臣への俸禄3908石 =他の支出用 約3000石
これと諸銀納収入を合わせても、俸禄以外の年間諸支出に当てられる予算は641(10256両)しかありませんでした。
多度津港7
 一万石の支藩多度津が親藩丸亀から自立し、その意向に逆らって丸亀の新港をしのぐ大きな港を建設し、自立と繁栄の道を歩み始めます。これに対して丸亀藩の重役達は、「分を過ぎた振る舞い」と厳しい態度を見せるようになります。湛甫完成直後の天保九年(1838)八月、この事業の指導者である小倉治郎左衛門を無理矢理隠居に追い込みます。これは、彼が事前に丸亀にはからず幕府から工事認可を得たことへの親藩重臣の抗議に多度津藩主が屈したためだったと言われます。これをきっかけに本家と分家の間の連絡事項が細かく取り決められます、例えば、丸亀藩主の江戸への出府や帰藩のたびごと、多度津の主だった藩士がわざわざ丸亀まで送迎に出向かねばならなかったほどでした。
多度津港3
しかし、多度津藩は強(したた)かでした 。
 陣屋・多度津新港に続いて、多度津藩は自立のための次の手段として「国防強化のため兵制の近代化」に取り組み始めるのです。 それは、また次回に 

 参考文献 多度津町史     
      木谷勤 讃岐の一富農の300年 
関連記事

このページのトップヘ