瀬戸の島から

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西讃府志 表紙

  かつては、西讃地域の郷土史を調べようと思ったら、まず当たるのが西讃府志だったようです。そういう意味では、西讃府志は郷土史研究のバイブルとも云えるのかも知れません。しかし、その成り立ちについては、私はよく知りませんでした。高瀬町史を眺めていると、西讃府志の編纂についての項目がありました。読んでいて面白かったので紹介します。
西讃府志 讃岐国
西讃府志の第1巻 最初のページ

丸亀藩が支藩多度津藩を含めた領内全域の本格的地誌を完成させたのは、安政の大獄の嵐が吹き始める安政五(1858)年の秋でした。これは資料集めが開始されてから18年目の事になります。『西讃府志』は、最初は地誌を目指していたようで、そのために各村にデーターを提出することを求めます。それが天保十一(1840)年のことでした。丸亀藩から各地区の大庄屋あてに、6月14日に出された通知は次のようなものでした
     覚
加藤俊治
岩村半右衛門
右、此の度西讃井びに網千。江州御領分の地志撰述の義伺い出でられ、御聞き届け二相成り候、これに依り往古よりの名前、古跡、且つ亦神社鎮座、寺院興立の由来都て、御領中格段の事跡何事に寄らず委細調子書、其の村方近辺の識者古老等の申し伝え筆記等、其の組々大庄屋、町方二ては大年寄迄指し出し、夫々紛らわ敷くこれ無き様取り約メ、来ル十月中迄指し出し申すべし、尤も社人亦は寺院二ても格別二相心得候者へ、俊冶・半左衛門より直ち二、応接に及ばるべき義もこれ有るべく候条、兼ねて相心得置き申すべき旨、 方々御用番佐脇藤八郎殿より仰せ達せられ候条 其の意を得、来ル十月上旬迄二取調子紛らわ敷くこれ無き様、書付二して差し出し申さるべく
候、以上
意訳変換しておくと
加藤俊治 岩村半右衛門から提出されていた西讃・播磨網干・近江の京極藩領分の地誌編集について許可が下りた。そこで古代からの名前、古跡、神社鎮座、寺院興立の由来、領内の事跡などについても委細まで調べて書き写し、その村方周辺の識者や古老などの申し伝えや記録なども、その組の大庄屋、町方にあっては大年寄まで指し出し、整理して10月中までに藩に提出すること。
 特に、社人(神官)や寺院については、特に注意しておきたいので、担当者の俊冶・半左衛門が直接に、聞き取りを行う場合もある。事前に心得ておくことを、 御用番佐脇藤八郎殿より伝えられている。以上の趣旨を理解し、提出期限の10月上旬までにはきちんと整理して、書面で提出すること。以上

ここからは次のようなことが分かります。
①加藤俊冶と岩村の提案を受けて、「旧一族の名前、古跡、且つ亦神社鎮座、寺院興立の由来」を4ヶ月後の10月上旬までに提出することを藩は大庄屋に命じていること。
②家老・佐脇藤八郎からの指示であり、藩として取り組む重要な事柄として考えられていたこと
藩の事業として地誌編纂事業が開始されたようです。

  西讃府志 郡名
西讃府志の讃岐の各郡について

これを受け取った大庄屋は、どうしたのでしょうか。
各村のお寺や神社の歴史を調べよというのです。とまどったにちがいありません。今では神社やお寺には由緒書きや縁起が備わっていますが、この時期には自分の村の神社の歴史などは興味もなく、ほとんどの神社はそんなものはなかったようです。書かれた歴史がないものを、レポートして報告せよと云われても困ってしまいます。とにかく大庄屋は、各組の構成員の庄屋に連絡します。和田浜組(三豊市高瀬町)の大庄屋宮武徳三郎は各村へ、藩からの通達文に添えて次のような文章を回しています。

「御別紙の通り御触れこれ有り候間御承知、寺院社人は格別二念を入れ、御申し達し成らるべく候、尚又名所古跡何事に寄らず、委細の調子書早々御指し出し成らるべく候」

意訳変換しておくと
「別紙の通りのお達しがあったので連絡する。神社や寺院は格別に念を入れて調べるようにとのことである。また、名所や古跡などに限らず、なんでも委細まで記して、期限までに提出せよとのことである」

と伝えています。これを受けて丸亀藩の庄屋たちは、自分の村の歴史調べとフィルドワークにとり組むことになります。今風に云うと、レポート「郷土の歴史調べ」が庄屋たちに課せられたのです。
西讃府志 延喜式内社
西讃府志の讃岐延喜式神社一覧

それから9ヶ月後の天保十二(1841)年3月に、大庄屋宮武徳三郎は和田浜組の村々へ次のような通達を出しています。
急キ申し触れ候、然れは昨子ノ六月、御達しこれ有り候御領分地志撰述御調子二付き、名前、古跡、且つ神社鎮座、寺院興立等の由来書付、早々差し出す様御催促これ有り候間、急二御差し出し成らるべく候、右書付二当たり御伺い申しげ候、左の通り
村 南北幾里 東西幾里 高 何石 家数 神社並小祠祭神々 鎮座 年紀 仏寺 本尊 何々 開基 年紀 縁起
宗末寺 山名 川名 池名 古城 名所 旧記 古墓 森
小名 産物 孝子 順拝 義夫 □婦
右、夫々相調子書付二して、指し出し候様仰せ付けられ候間、芳御承知何分早々御取計らい成らるべく候、以上
意訳変換しておくと
急ぎの連絡である。昨年6月の通知で村内の地志撰述の件について、名前、古跡、神社鎮座、寺院興立等の由来の調査し提出するようにとの指示があった。この詳細な調査項目は次の通りである。 村 南北幾里 東西幾里 高 何石 家数 神社並小祠祭神々 鎮座 年紀 仏寺 本尊 何々 開基 年紀 縁起宗末寺 山名 川名 池名 古城 名所 旧記 古墓  森 小名 産物
孝子 順拝 義夫 □婦
これらの項目を調査し、報告書として提出するように藩から再度指示があった。できるだけ早く提出するように、以上

この文書が出されたのは、翌年の3月です。藩から求められたレポート提出期限はその年の10月だったはずです。〆切期限を過ぎて翌年の春が来ても、和田浜組ではほとんどの村が未提出だったことが分かります。そこで、藩からの督促を受けて、大庄屋が改めて、レポート内容項目の確認と提出の督促を行ったようです。
西讃府志5
西讃府志 復刻版

さらにその年の八月には、藩から大庄屋へ次のような通達が再再度出されています。
急ぎ御意を得候、然れは地志撰述の義認め方目録、先達て相触れられ候処、未だ廻達これ無き村々も多くこれ有る由、全く何レの村々滞り居り候事と存じ候、右は在出の節寄々申し承り度き積もリニ候間、早々廻達村々二於いて通り候ハ、写し取り置き候の様、其の内ケ条の内、細密行い難き調子義もこれ有り候ハヽ、品二寄り皆共迄尋ね出し候ハヽ、指図に及ぶべき儀もこれ有り候、何様早々廻達候様御取り計らいこれ有るべく候、以上

意訳変換しておくと
 地志撰述の件について、先達より通達したようにて早々の報告書の提出を求めているが、未だに指示が伝わっていない村々もあると云う。どこの村で滞っているのか、巡回で出向いたときに確認するつもりである。早々に村々に通達を回して、写し取り指示した項目について、細々としたことは調査ができなくても、調査が出来る項目については尋ね聞いて、指図を受けることも出来る。とにかく早々に廻状をまわし、報告書が届くようにとりはかること 以上

 西讃府志 - 国立国会図書館デジタルコレクション
二年後の天保十四(1843)年六月には、次のように記されます
「地志撰述取調書き上げの義、去ル子年仰せ含め置き候得共、今以て相揃い申さず、又は一向指し出さざる組もこれ有る趣二て、掛り御役手より掛け合いこれ有り候」

意訳変換しておくと
「地志撰述の作成提出の県について、3年前に申しつけたのに、今以て揃っていない。一向に提出していない組もあるようだ。組番より各村々に督促するように」

ここからは3年経っても、各村からの地志撰述の提出が進んでいないことが分かります。レポート課題が指示されて3年が過ぎても、地志撰述の作成の通知がいっていない村があるということはどういうことだ、早く報告書を出すように藩から催促されています。督促された庄屋たちもどうしていいのか頭を抱えている様子がうかがえます。
 それまで何も知らずにお参りしていた神社やお寺のことを調べて提出せよと云われても困り果てます。和尚さんや神主さんに聞いても分からないし、史料はないし、レポート作成はなかなか進まない村が多かったようです。
 今までなかった寺や神社の歴史が、これを契機に書かれ始めたところも多かったようです。由緒書きや縁起がなければ、「創作」する以外にありません。またかつて住んでいた旧族についても、調べられたり、聞き取りが行われます。そこには同時に「創作」も加えられました。
その翌年の弘化元(1844)年2月には、次のような通達が廻ってきます。
社人秋山伊豆 右の者兼ねて仰せ達し置かれ候 地志撰述の儀二付き、御掛り置きこれ有り候、これに依り近日の内村々見聞として、御指し出し成られ候段、右御掛り中り御掛け合いこれ有り御聞き置き成られ候」

意訳変換しておくと
社人(櫛梨村神官)秋山伊豆が、地志撰述編纂に関わることに成り、近日中に村々を訪ねて指図することになった。疑問点があればその際に尋ねよ

ここからは櫛梨村の社人(神主)秋山伊豆が地志撰述作成のために、領内を廻って援助・指導することになったようです。4年目にして地志撰述の作業は軌道に乗り始めたようです。こうして各村での「地志撰述」が行われます。現在確認できるのは次の表の通りです。

西讃府志 地誌成立年代表

村によって「地志御改二付書上帳」、「地志目録」など名前が違います。最も古いものは多度津藩領羽方村の天保十二年十月の「地志撰述草稿」です。そして一番最後にできたのが丸亀藩領奥白方村の嘉永三(1850)年六月の「地志撰」、多度津藩領大見村・松崎村の嘉永三年夏の「地志目録」になるようです。
 提出日を見ると、期限どおりに提出されたものはほとんどありません。一番早い羽方村のものでも翌年の10月で、1年遅れです。そして、遅いものは嘉永三年夏ころになりますから、出そろうまでに十年間かかっています。各村から提出された地志撰述をもとにして、『西讃府志』が編集されていくことになります。

西讃府志 目次
西讃府志の多度津藩の村々の目次


 一番早く提出された羽方村の「地志撰述」を見てみましょう。 
     
藩からの指示では「村の広さ、田畝、租税・林・藪床・戸口・牛馬・陵池(はち)・里名庄内郷積浦小名・唱来候地名・神祠・仏寺・家墓・古跡・風俗・物産・孝義・雑記」などの項目がありました。
大水上神社 羽方エリア図
赤いライン内が羽方村 大水上神社の鎮座する村
『西讃府志』に載せられなかった部分には何が書かれていたのでしょうか。
  貞享二(1685)年の検地畝68町余のうち等級を示す位付の面積が次のように記されています。

上田一町五反余、上下田三町三反余、中田六町九反余、中下田五町九反余、下上田八町八反、下田一一町二反余、下々田一六町二反余、上畑二反余、中畑一町一反余、下畑二町九反余、下々畑八町余

ランク付の低い田畑の「下以下」で五五町余を占めており、生産高の低い土地が多かったことが分かります。
  年貢率も次のように記されています。
川北・白坂・長坂 三割七分
瀬丸・二之宮・石仏・上所 四割三分、
村中・下所 三割四分
庄屋分池之内出高 三割
宮奥 二割五分
田畑68町余のほかに、新田として正徳から寛政までの1町3反余、新畑として正徳から享和までの4町9反余が開かれたことが分かります。
惣田畑74町3反余で、石高は519石6斗余で、租税202石3斗余の内訳は、定米(年貢米)176石2斗余、日米5石2斗余、夫米20石7斗余で、ほかに夏成(年貢麦)が12石余となっています。
戸数は156軒で、内訳は本百姓87軒、間人69軒とあります。間人とは田畑を持たない水呑百姓のことで、村の中の階層構成が分かります。
池は17のため池が全て書かれています。一番大きな瀬丸池の池廻りは32町46間で、水掛かり高は上高野村1000石、寺家村300石、羽方村160石となっていて、瀬丸池のある羽方村の水掛かり高は少いことが分かります。次に大きい白坂池は池廻りは11町45間で、水掛かり畝が本ノ大村12町三反余、羽方村3町9反余、上高野村1町9反余、大ノ村1町2反余となっており、白坂池も本ノ大村の水掛かりが多いようです。そして、どちらも樋守給(池守の給料)は羽方村から出されていることも分かります。

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大水上神社(二宮神社)

神祠のうちでは、大水上大明神(二宮社)について詳しく述べられています。
 祭礼・境内諸社を述べた後に「二宮三社之縁起」の全文が載せられています。二宮三社之縁起については以前に紹介しましたが、この時に成立したのではないかと私は考えています。羽方の庄屋から相談を受けた宮司が書いたという説です。そのほか「神事之次第」。「大水上御神事指図之事」・「ニノ宮記」などが添えて提出されています。「仏寺」では、大水上神社の別当寺龍花寺のことにも触れられています。しかし、龍花寺は以前にお話ししたように、祭礼をめぐる神職との対立の責任を取らされ、藩から追放されています。この時期の大水上神社の運営主体は、神職だったと思います。
 こうしてみると羽方村の庄屋が一番早く調査報告書(地志撰述)を提出できたのは、大水上神社に縁起やその他の史料があったこと、別の見方からするとそれが書ける神職がいて、延喜式内社という歴史もあったからとも云えそうです。こんな条件を持っているのはわずかです。その他の多く村々では、中世に祠として祀っていたものを、近世の村々が成立後に社殿が建立された神社がほとんどです。そこには、祀ってある神がなんだか分からないし、縁起もないのが普通だったようです。そこに、降って湧いてきた「寺社の歴史報告レポート」作成命令です。庄屋たちは、あたふたとしながらも互いに情報交換をして、自分の村々のデーターを作り、歴史を聞き取り報告書として提出したようです。それは、藩が命じた〆切までに、決して間に合うものではなかったのです。
 これを契機に「郷土史」に対する興味関心は高まります。
西讃府志は幕末から明治にかけての西讃の庄屋や知識人の必須書物となります。そして、西讃府志をベースにしていろいろな郷土史が書かれていくことになります。戦前に書かれた市町村史は、西讃府志を根本史料としているものがほとんどです。それだけ史料価値も高いのです。手元に置いて史料や辞書代わりに使いたいのですが、いまだに手に入りません。ちなみに古本屋での値段は55000円とついていました。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
   参考文献 高瀬町史392P 西讃府志の編纂

ウナギで天気予報?讃岐二ノ宮大水上神社 | 香川県まちなび
大水上神社の参道
大水上神社は、古代には延喜式の讃岐の二宮神社でしたが、中世には衰退します。二宮三社縁起には、近藤氏がそれを八幡神と合祀して二宮三社神社として再建したこと、そして、神職も近藤氏の一族が務めるようになったことを記していることを前回は見てきました。中世には、近藤氏の保護を受けて二宮三社(大水上神社)は存続していたようです。今回は、大水上神社の保護者であった二宮近藤氏を見ていきたいと思います。テキストは高瀬町史です。
まずは近藤氏の系譜を最初に確認しておきます。
『源平盛衰記』や『吾妻鑑』に、「近藤国平」が記されています。
1 国平は讃岐守護となり、子孫は地頭として讃岐に定着する。
2 近藤国平の子の国盛は土佐に移住し、土佐大平氏を称し、子孫は後に讃岐に帰ってきた。
3 室町時代の「見聞諸家紋」には、大平氏は近藤国平の子孫を称している
4「見聞諸家紋」には「藤原氏近藤、讃岐二宮」とあって、室町期には二宮、麻の両系統の近藤氏がいた。
5 二宮近藤氏は、大水上神社領を中核とした二宮荘を根拠地とした近藤氏
6 麻近藤氏は、土佐から讃岐に再び移住してきた大平氏の一族で勝間、西大野に所領を持った。
 ここではふたつの近藤氏がいたことを押さえておきます。
① 麻近藤氏 本地は麻城(高瀬町麻)
② 二宮近藤氏 本拠地は、大水上神社領を中心として
二宮荘(羽方、神田、佐俣)で神田城拠点
この内の①麻の近藤氏については、大野庄の年貢を手形送金していたことや、押領して訴えられていたことを以前にお話ししました。今回見ていくのは、②の二宮近藤氏です。
大水上神社 近藤氏系図

二宮近藤氏の祖先は、鎌倉時代初期に守護として讃岐にやってきたようです。
近藤国平は、源頼朝の挙兵に応じて、戦功を挙げて頼朝側近の一人として仕えます。国平は元暦二(1185)年2月、頼朝の命で鎌倉殿御使として上京します。その直後の3月24日、平家は壇ノ浦合戦に敗れ滅亡します。しかし、平家滅亡後も世の中が落ち着いたわけではなく、不穏な空気が瀬戸内海には漂います。そうした中で讃岐に、武士の乱暴狼籍の鎮定のために派遣されてくるのが近藤国平です。建久10(1199)年には、讃岐守護に就任します。混乱を鎮めた経験を買われ、動揺した讃岐国内を鎮める役割を果たしたようです。つまり、近藤氏は、讃岐守護としてやってきた西遷御家人になるようです。しかし、その後の近藤氏はパッとしません。その後の讃岐守護には有力御家人三浦氏や北条一門が就いています。近藤氏の出番はなくなり、その動向は鎌倉末まで分からなくなります。近藤氏は讃岐国内においては、大きく成長することはなかったこと、二宮荘を拠点として、細々と存続していたことがうかがえます
一族の中で、国平の子の国盛は、土佐に移住して大平氏を称します。
『見聞諸家紋』には、大平氏は近藤国平の子孫を称していて、同じ左巴紋で「藤原氏近藤、讃岐二宮同麻」と記されています。室町期には、二宮、麻にふたつの近藤氏がいたことを押さえておきます。、
①二宮近藤氏は大水上神社領を中核とした二宮荘(三野郡)を根拠地
②麻近藤氏は土佐から讃岐に再び移住してきた一族で、麻を本拠地

その後の、史料に現れる近藤氏を見ておきましょう。
元德3年(1331)二宮荘を下地中分
文和4年(1355)藤原(近藤)国頼が祇園社領西大野郷の代官職獲得
文安3年(1446)祇園社から麻殿へ西大野郷の料足10貫文の請取受取
享徳3年(1454)将軍足利義政から近藤越中守に勝間荘領家職(三野郡)と西大野郷領家方代官職が安堵
このように近藤氏は、三野郡の大野郷・勝間郷を基盤として活動し、「麻近藤入道」あるいは「近藤二宮元国」と称されたようです。近藤氏は、西大野郷以外に「麻(勝間郷)」にも勢力を拡げます。その結果、讃岐二宮の大水上社に強い影響力を持つようになったようです。近藤氏は細川京兆家の内衆としては、名前が出てきません。しかし、応安2 年(1368)以後は在京していたことが、史料から確認できるので、守護細川氏の被官として奉公していたことは確かなようです。

大水上神社 羽方エリア図
二宮庄の羽方村エリア 北に佐俣、南に神田がある
二宮近藤氏が基盤とした二宮庄を見ておきましょう
 二宮荘は天文二(1533)年の「法金剛院領目録」に大水上社とあり、大水上神社を中心に、羽方・佐俣・神田のエリアで成立した荘園のようです。ここには、田101町2段70歩、畠151段160歩と記されています。元弘の乱後の元徳三(1331)年に、二宮庄の地頭近藤国弘以下の武士達が、年貢の滞納・押領の罪で領家の臨川寺に訴えられ、下地中分が行われたことが史料に残っています。
 『二宮記録』天正二(1574)年の記事には、領家方、地頭方に分かれて神事を負担したことが記されています。約240年前に下地中分で分割されたエリアが、戦国期になっても残っていたことがうかがえます。その地頭方と領家方にそれぞれ記されている名田をあげると次のようになります。

 地頭方として、
是延、友成、成重、徳光、時真、利真、友貞、是方、貞弘、光永、大村分、正時、吉光、末利、助守の一五名、
 
領家方として、
清真、光末、真久、為重、守光、安宗、光包、時貞、友利、末光、末真、国行、重安、是安、吉真、真近、国真の一八名

 これらの名主や地侍達が、二宮三社の神事を指図した宮座のメンバーたちのようです。羽方エリアには地頭の吉成、領家の光真、黒嶋に領家方の光弘の名が見えます。彼らは、数町規模の名を持っていた有力者だったのでしょう。
二宮三社縁起によると14世紀の半ばに、二宮近藤氏が本殿を建立したことを次のように記しています
大水上神社縁起14
意訳変換しておくと
永享11(1439)年9月10日に、二宮(近藤)国重が造営奉行に任命されて、京都より帰国し、11月10から造営が開始された。そして、西讃守護の香川氏と東讃守護の安富氏から150貫の寄進を受け、近藤氏が造営奉行として、社殿を完成させた。
畏くも二宮社に祀られた神仏は次の通りである。
八幡大菩薩  本地阿弥陀如来
大水上大明神 本地釈迦牟尼如来
三嶋竜神    本地地蔵菩薩 亦宗像大明神とも奉号
永享十二(1440)年四月日 にこれらの神仏は安座した。
ここからは次のようなことが記されています
①二宮(近藤)国重が在京していたときに造営奉行に任じられて帰国し、建立に取りかかったこと
②その際に東西守護代の安富氏と香川氏と150貫の寄進があったこと
③建立された本陣には3つの神々と、その本地仏が祀られたこと
  この縁起は、江戸時代の中期に書かれたもので「造営奉行」などという用語も使われているように同時代史料ではないので、そのままを信じることはできません。しかし、「従京都下着」とあるように、近藤氏が常々は京都にいたことがうかがえます。また、近藤氏によって二宮三社の本殿がこの時期に建立されたことは事実と高瀬町史は考えているようようです。
 それでは二宮近藤氏の居城は、どこにあったのでしょうか
大水上神社 神田
神田エリアは二宮荘の南部に当たる。
全讃史には「神田村にあり、近藤但馬、これに居りき」とあります。ここから二宮近藤氏の居城は神田城(現山本町神田砂古)とされています。位置は、国道377号沿いのファミリーマート神田店の東南の竹藪の中になります。グーグルに「神田城跡」とマーキングされている所は、記念碑が建てられている所で、城郭跡はこの竹藪のうえになります。

大水上神社 神田城2
 
 中世城館調査報告書(香川県)で、神田城の縄張図を見ておきましょう。

大水上神社 神田城
神田城縄張図 中世城館調査報告書(香川県)

 記念碑が建っているのは城郭先端の「シロダイ」から伸びて来た尾根のスソになります。「城の下」や「下屋敷」という地名も残ります。下屋敷からは道路工事に伴う発掘調査で、中世後半の遺物が出ています。その前を神田川が流れています。このあたりに居館があったのかもしれません。城郭跡として確かな遺構は2本の堀切だけです。その他は山全体が畑化された際に破壊され、「曲輪らしいといえるだけ」と、報告書は記します。そして次のように続けます
「縄張り図のIも完全な削平地ではなく、Ⅲは広くはないが平坦地で曲輪と言え、両側に堀切がある。これより南東にも平坦地が続くが畑と考えられ、堀切までが城域と判断する。北の堀切から北東の谷に向かって溝が下り、先端に城の井戸といわれる小池がある。尾根先端部にも平坦地があるがかつて畑化されており、南端に城の井戸と言われる穴があり、昔からあったというが、表面観察では後世のものと思えたが、試掘調査を行った。遺構は存在しなかったが、中世後半の遺物が出土している。
  実際に、素人の私が見るとただの竹藪にしかみえません。しかし、「2本の堀切」と「中世後半の遺物が出土」しているので城郭跡にはまちがいないようです。二宮近藤氏の居城なのでしょう。

この地区には次のような話も伝わっています。
下屋敷の農家の庭先を東へ進むと雑木林の中に宝筐印塔があります。笠の古いものもあり、地元の人々の話では、ここを筍藪にでもしようと思って開墾にかかったところ、人骨が次々と出て、それがフゴに一杯もあった。しかたなくこれを川に流したところ、不吉なことが次々と起こった。そこで再び墓地にもどし、散乱した墓石などを整理した
これも落城悲話のひとつとして、古老が語り伝えてきた話です。この墓地は、二宮近藤氏の兵を弔うものでしょう。墓地からは、谷一つ向うに筍籔となった神田城跡があります。

 前回見た大水上神社に伝わる『二宮記録』には、本殿建立者として近藤国茂の名前がありました。
この城のある神田は、大水上神社の氏子エリアでもあります。近藤但馬の子孫という人たちが住む城跡北東の土井地区には、「ドイ」・「ドイノモン」の地名も残っています。その近くの薬師庵には、近藤但馬の墓と伝えられる五輪もあります。二宮近藤氏は、この城のある神田地区を拠点に、二宮三社(大水上神社)の筆頭氏子として宮座を率いて祭礼を行い、二宮荘への影響力を行使していたとしておきましょう。
 仁尾の近藤家の一族を見ておきましょう。
 応永九(1402)年、草木荘(仁尾町)の近藤二宮元国が仁尾の常徳寺に三段あまりの本浜田を寄進したという記録が残っています。草木荘は石清水八幡宮護国寺領の荘園で、現在の仁尾町草木にありました。「二親之菩提」と「当家繁栄」を祈るために寄進するとあます。ここからは、仁尾にも二宮近藤氏の一族がいて、その菩提寺が常徳寺であったことが分かります。ここからは二宮近藤氏のひろがりがうかがえます。草木には中上館跡と呼ばれる地頭の館跡との伝わる場所があります。また、土井、上屋敷、城の門、大門、上屋敷、前屋敷といった地名が残されています。これらが二宮近藤一族の館と高瀬町誌は推測しています。

 応仁の乱と近藤氏  
 応仁の乱において讃岐の武士たちは、守護の細川勝元にしたがって戦いました。応仁の乱で細川方についた武士の家紋を記した「見聞諸家紋」に、麻と二宮の近藤氏が載っています。ここからは近藤氏が従軍し、京都で戦闘に参加したことがうかがえます。
 応仁の乱後も、讃岐では兵乱が続きます。
文明十一(1479)年には守護細川政元の命で阿波・讃岐の兵は、山名氏に味方した伊予の河野氏を攻撃します。この戦いで麻近藤国清は合戦に参加し、伊予寒川村で病死しています。二宮近藤氏も従軍していた可能性があります。
大水上神社 近藤氏系図
讃岐近藤氏の系図
国清のあとは、国保、国匡と続きます。近藤国匡は土佐の大平国雄から大江流軍法を学んだと云います。大平国雄は文明年間に在京して、和歌、連歌、五山僧と交流を持った人物で、父国豊から学んだ大江流軍法から二、三項を抜き書きし、心あるものに伝えようとしたことが五山僧月舟の「書決勝後」と題する一文に書かれています。ここからは、大平氏から近藤氏に大江流軍法が伝えられたことがうかがえます。これは、実戦に役立つものというよりも、武士としての必要な教養でした。どちらにしても、麻の近藤氏は在京し、中央の高い文化に触れていたことが分かります。
長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)の四国統一

 二宮近藤氏の阿波三好氏への接近がもたらしたものは? 
国匡の次が国敏になります。国敏は、阿波の三好婦楽の娘を妻に迎えます。阿波三好氏の一族と婚姻関係を結び、三好氏との連携を強化しようとしたようです。そして、生まれるのが国雅で、大永二(1522)年のことです。
  国敏によって取られた阿波三好氏への接近策は結果としては、二宮近藤氏を衰退に導くことになります。阿波三好氏の讃岐侵攻が本格化すると、近藤氏は阿波三好氏の先陣として動くようになります。
これに対して、西讃岐の守護代として自立性を強めていた天霧城の香川氏は、織田信長や長宗我部側につこうとします。こうして次のような関係ができます
 織田信長=天霧城の香川氏 VS 阿波三好氏=麻・二宮近藤氏

  永禄三(1560)年、尾張で織田信長が今川義元を打ち破った年から翌年にかけて、麻や二宮周辺で小競り合いがあったことが秋山家文書から分かります。天霧城主の香川氏から秋山氏に戦功を賞する書状や知行宛行状が残されていることは以前にお話ししました。麻口合戦とあるので、高瀬町の麻周辺のことだと思われますが、よくは分かりません。この戦いで国雅が永禄三年に討死しています。これらの戦いは、麻の近藤氏と三野の秋山氏の間で代理戦争のような前哨戦が行われていたようです。

次に近藤氏の一族(?)である大平氏を見ておきましょう
 武家家伝_大平氏大平国祐・国秀・国久 
麻口合戦で討ち死にした国雅の跡を継いだのが国祐です。かれを取り巻く肉親関係は少々複雑ですが見ておきましょう。国祐は大平氏を名乗ります。母親は大西長清の娘と伝えられ、弟が出羽守国久です。国祐の子が国常で、その母親は香川元景の娘だとされます。国祐を土佐の大平氏が滅亡後に讃岐に落ち延びてきたものという伝承もありますが、土佐大平氏の滅亡は天文十五(1546)年前後のことなので、国祐が土佐から落ち延びてきた人物とは考えられないと高瀬町史は記します。

 永禄六(1563)年8月7日に阿波三好勢の圧力を受けて、香川之景は、天霧城を一時的に落ち延びます。この時の感状が秋山氏や三野氏に出されています。しかし、城は落ちても香川氏の抵抗は続いていたようです。例えば、閏12月6日に財田では、讃岐武士が阿波大西衆と戦う財田合戦がありましたが、ここには秋山氏の一族である帰来秋山氏が参戦し、感状を香川氏から受けています。感状が出せるというのは、香川氏が一定の支配権を維持していたことがうかがえます。

大水上神社 長宗我部元親

長宗我部元親の讃岐侵攻
 このようななかで阿波三好勢の讃岐侵攻を根本からひっくり返すような「国際情勢の変化」が起きます。長宗我部元親が土佐から西阿波へ侵入してくるのです。天正5(1577)年に土佐勢は、阿波白地城の大西覚養を攻め落城させ、ここを阿波・讃岐侵攻の拠点とします。大西覚養は讃岐二宮の近藤国久のもとへに落ち延びたと西讃府志は記します。伝承では、近藤国祐や国久の母は阿波白地の大西長清の娘でだったとされます。そのために近藤氏は、母方の里である阿波の大西方として戦うようになったとします。
 白地城
長宗我部元親が白地城を落とした天正五(1577)年は元吉合戦が行われた年でもあります。
 この合戦で、香川氏は毛利方と協力し、讃岐の三好の勢力を一掃します。そして、次のような処置がとられています
①尊経閣文庫所蔵文書の「細川信元書状」では、大西跡職を香川中務大輔に申し付けられ
②出羽方所領の50貫文が帰来秋山親安に与えられてること
ここからは、毛利=香川=秋山氏が勝ち馬側で、大西氏側についた近藤氏は負け馬側となり所領を没収され、それが香川氏配下の秋山氏などに与えられたようです。近藤氏の勢力は、これによって大きく減退したと高瀬町史は指摘します。
近藤氏の滅亡 
第9章:讃岐侵攻 -長宗我部元親軍記-

 毛利氏が讃岐から手を引くのを待っていたかのように、長宗我部元親の讃岐侵攻が始まります。
大水上神社 麻城

元吉合戦の翌年の天正6(1578)年、麻城は、財田本篠城を陥落させ侵攻してきた長宗我部の攻撃を受け落城します。その年代はよく分かりませんが、麻城城主の国久は麻城の谷に落ちて死んだと伝えられ、その地を横死ヶ谷と呼んでいます。
 大平国祐の居城である獅子ヶ鼻城(和田城、大平城とも)も、落城します。国祐は出家して、姫郷和田村(豊浜町和田)にあった真言宗の寺を廃して、日蓮宗の国祐寺を開きます。その後、秀吉の四国平定後、仙石秀久につかえ九州遠征に従軍し、入水自殺し、国祐寺に葬られます。
雲風山・國祐寺 | kagawa1000seeのブログ

 国祐の弟で国久の兄国秀は、財田上の橘城(天王城)の城主でしたが、これもまた落城します。伝承では長宗我部元親によって焼かれたとあります。この城の構造は、讃岐にはあまり見られない竪堀構造で、土佐の山城の特徴を持っています。これは、藤目城や本篠城と同じです。落城後には土佐軍の讃岐侵攻の拠点として、土佐風の改修が行われたようです。この城跡の南東にある鉾八幡は、国秀が付近の神社を合祀したものとされます。また伊舎那院には中将国秀と書かれた竹筒が出土しています。
橘城の図/香川県三豊市|なぽのホームページ

 財田上の橘城(天王城)
二宮の近藤氏の居城である神田城については、どの史料にも落城のことは出てきません。しかし、麻城や獅子ヶ鼻城の落城のようすからみると、二宮近藤氏も最後まで抵抗し、落城した可能性が高いように思えます。こうして、麻の近藤氏 二宮(神田)の近藤氏 財田の近藤氏は領地を没収されることになります。
それでは、没収された近藤氏の領地はどうなったのでしょうか?
 長宗我部氏の事跡を記した『土佐国朧簡集』には、三豊市域の地名がいくつか記されています。三豊平定から3年後の天正九年(1581)八月、37か所で坪付け(土地調査)を行い、三町余の土地が吉松右兵衛に与えられています。吉松右兵衛は、香川氏に婿入りした長宗我部元親の次男親和に従って土佐からやってきた人物です。そこには、次のような地名が記されています。
「麻・佐俣(佐股)・ヤタ(矢田)・マセ原(増原)・大の(大野)・はかた(羽方)・神田・黒嶋・西また(西股)・永せ(長瀬)」

これらは高瀬町や周辺の地で、大水上神社の旧領地であり、同時に近藤氏の領地でもあった所です。翌年三月には、「中ノ村・上ノ村・多ノ原村・財田」で41か所、五月には「財田・麻岩瀬村」で6か所が吉松右兵衛に与えられています。これらの地は財田・山本町域になります。ここからは、長宗我部元親に抵抗した近藤氏やそれに従った土侍衆から土地が没収され、土佐からやって来た新たな支配者に分配されたことがうかがえます。
 江戸中期に書かれた大水上神社に伝わる縁起の最後の巻には次のように記されます。
大水上神社縁起16
意訳変換しておくと
     昔は二宮三社神社(大水上神社)は大社であったが長曽我部元親の狼藉で御社大破し、竹の林の奥の仮屋にお祭りするという次第になってしまった。元親は土州からやってきて、金毘羅権現の近辺に放火し香川中務大輔同備後守の居城天霧に押し寄せた。香川氏が備前児嶋に出兵している隙を狙って、金昆羅に本陣を構まへた。その時に金毘羅大権現も荒廃させられた。

ここからは、土佐軍侵入で大水上神社は「御社大破し、竹の林の奥の仮屋」になるほど衰退し、神宮寺も兵火に会ったこと。そして、近藤一族などの保護者を失い再建不能な状態にあったことが分かります。近藤氏の多くは神田を中心に帰農しますが、一部は大水上神社の神職として神に仕えるものもいたようです。後の時代に彼らの子孫達にとって書かれた縁起が、長宗我部元親に対して厳しいのは当然のような気がします。

高瀬町史は新たな視点から長宗我部元親の三豊支配に光を当てます。
 高瀬町の矢大地区は、土佐からの移住者によって開拓されたとの伝承があるようです。またこの地にある浄土真宗寺院は土佐から移住してきた一族により創建されたと云われます。一方、高瀬町上勝間に鎮座する土佐神社は、長宗我部元親が創建した神社で、もともとは矢ノ岡にあったものを、延宝三年(1675)に日枝神社境内に遷座したと伝わります。明治の北海道移住者が出身地の寺社を勧進し、新たな入植地の精神的なシンボルとしたように、土佐から移ってきた人々の信仰対象として祀られたものかもしれないと高瀬町史は指摘します。それは、先住者を追い出して土佐人が入植したと云うよりも、原野が開発され、新たな村落が形成されたという事実を紹介します。

そして、次のように閉めます。
 戦いの時に寺社は軍勢の駐屯地になり、もし敵に攻められれば火を放つこともあった。それは戦いの常套手段であり、かならずしも長宗我部氏だけがしたことではない。元親は大野原の地蔵院に禁制を出し、禁止事項を厳命している。これは戦時における寺院保護のため出されたものであり、寺院焼き打ちとは反対の施策である。以上のことから何を知ろう。「侵略者は悪者」といったイメージは勝手に作り上げられたものであり、歴史的事実の上で再度見つめ直さなければならないと考える。

 長宗我部元親=侵略者という論を越えた所に高瀬町史は、立っているようです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
高瀬町史 近藤氏の動向 127P

  DSC02784
大水上神社奥社 
二宮三社(大水上神社)は、長宗我部元親による破壊の後、「今に大破の儘にてこれ有り」と縁起にあることを前回は見てきました。ここからは社殿以外にも、2つあった神宮寺も消えたことがうかがえます。丸亀藩に提出された縁起書自体が、社殿の再興を願うものでした。この時期、二宮三社は小祠として存続していたようです。
しかし、元和五(1619)年の記録には、次のように記されています。
「佐股天神二て神楽執行につき二宮太夫差配のことで出入りに及んだ」
佐股天神社の祭礼の神楽をめぐって、勝間の大夫(神職)が近所であるという理由から佐股村で雇って神楽を踊らせます。これに対して佐俣の本社である二宮の太夫が反発して、「俺のテリトリーで勝手なことをするな」と、騒動になったようです。ここからは、二宮には太夫(神職)が存在し、神社組織が復活していたことがうかがえます。
 約40年後の寛文八(1668)年にも、再び佐股天神で行われた湯立神楽をめぐって二宮の大夫との間でもめごとが起こっています。さらに、延宝六(1678)年の「居林検地帳」には「長三百間 横三百拾間 〆九万三千坪」と居林(神社の所有林)のことがが記されています。ここからは、この時期には社林が確保され社殿なども整っていたことがうかがえます。
一方、龍花寺が別当寺として復活して活動を始めているのが史料からは分かります。この寺は、宮川を下った所にある延命院の末寺であったようです。こうして二宮三社は、神仏混淆の下に龍花寺の社僧と太夫らの努力によつて社殿の整備が進んだようです。

 二宮社の史料に、本地仏に関する記事があります。  373P
神仏習合下の二宮三社には、本尊(仏像)が置かれ信仰されていました。1714年9月に、大林徳左衛門の母が、二宮社に本地仏を寄進したことが、次のように記されています。
「二宮先寺龍花寺宥仁師御進メニ寄り 羽方村徳左衛門母より三尊の内弐体御寄進仕り置き候、則ち宥仁より下され候書付別紙に相添え御目に懸け申し候、徳左衛門覚中尊一体は右宥仁古仏(中略)
再興の上ニて三尊二成らるべき由、右中尊宥仁御物語ハ神田羽方左又撫も義進ヲ進メ、其の料物もらい取り立て申し度旨御噂承り候」
「右の仏体御宮内二置き申し度と申す義少しも御座無く侯、元来宥仁御進メ本地堂時節ニより二世安楽の為寄進候様二付き、致し置き候」

意訳変換しておくと
「二宮の龍花寺の宥仁師の勧めで、羽方村徳左衛門の母より三尊の内、2体の仏像寄進があった。そこで宥仁から下された書付別紙に相添えて、ご覧いただいた。徳左衛門の中尊一体は宥仁の古仏(中略)本殿再興の際に、三尊が安置された。中尊は宥仁が神田羽方左又(佐俣)で寄進を進め、それで集まった料物をもらい受けたもので・・」
 
ここからは別当寺である龍華寺の社僧宥仁の働きかけで、三尊仏の内の二体が寄進され、残りの一体を各村々の氏子たちの寄進で揃えたことが記されています。二宮神社の祭神と本地仏をもういちど確認しておきましょう。二宮文書には次のようにありました。
敬白上棟第二宮
八幡大菩薩  本地阿弥陀如来
大水上大明神 本地釈迦牟尼如来
三嶋竜神    本地地蔵菩薩 亦宗像大明神とも奉号
永享十二(1440)年四月評日子時御安座
ここに出てくる三尊とは、これらの祭神の本地物を指しているようです。羽方村徳左衛門母より三尊の内のふたつが寄進され、その後、もう一体も寄進活動で集まった資金でそろえることができたというのです。ここからは、社殿の中に本地仏三尊が安置されていたことが分かります。龍花寺の社僧と太夫が二人三脚で、二宮三社を復興させていたことがうかがえます。

 ところが18世紀になると、龍花寺の社僧と太夫との関係がぎくしゃくするようになります。
全国的にみて、この時期は、神道吉田家が地方の神社との関係を強める時期でもあります。吉田家の説く神道イデオロギーが浸透し、太夫達が別当寺との対立を引き起こす事件が多発するようになります。そのような時代の空気が、二宮三社にも及んでくるようです。
 事件は享保五(1720)年に、延命院が呼びかけ神田村六左衛門の寄付で、釣鐘を鋳造したことから始まります。
この鐘の銘文については、神主名は入れないままに鋳造されることが決まっていました。ところが出来上がってみると、銘文には「別当延命院」と鋳られていたのです。太夫達からすれば、延命院は龍華寺の本寺ではありますが別当寺ではありません。しかも、自分たちの名前は入れていないのです。そこで抗議して「別当」の字を削ったといういきさつがあります。他にも
1 棟礼に神主の名が入っていたために、延命院が龍花寺に命じて焼却させた。
2 龍花寺が二宮林の木を勝手に切り取って持ち帰った。
3 拝殿の鍵は延命院が管理していたが、勝手に取り扱っており、太夫が大晦日に供え物を献じに来ても、社殿の扉が閉まっていたこともあった。
 これは神社側の後の裁定での言い分なので、一方的批判になりますが、拝殿の鍵を延命院が管理していることをどう考えればいいのでしょうか。
①土佐軍の兵火で小さな祠だけになった二宮三社を、延命院が管理するようになっていた。
②新たに再建された神宮寺の龍花寺も延命院の援助の下に再建された。そのため延命院の末寺となった。
③そのような中で、近藤家の末裔達による神社復興も進み、近藤家の一族が太夫を務めるようになった。
その結果、近藤一族を背景とする力が復活するにつれて、拝殿を管理する延命院との対立が激化するようになった。こうして、近藤家の神主 VS 延命院=龍花寺の別当社僧という対立の溝が深くなっていったと高瀬町史は推測します。祭礼中止という事態も、このような対立が背景にあったようです。そして、対立は頂点に達します。

事件は文三(1738)年に起きました。その経過を、見ておきましょう。
 元文三(1738)年8月6日、本寺延命院からその末寺で二宮の社僧を勤めている龍花寺に指示書が届きます。そこには、去年のように物言いが起こらないように早く二宮の祭礼に出かけるようにとの指導内容です。物言いとは、神前の掃除などを行う御前人という役を勤めていた佐股村庄屋の瀬兵衛と延命院から出されていた次の2点の抗議です。
①御前人が宮中へ入ること
②神輿へ入れる幣について村の特定があるということ
①については、解決していましたが、②の幣については神輿への入れ方をめぐって延命院と太夫(神職)との間で対立がありました。三人の太夫は幣を拵え一本ずつ神輿へ入れると主張するのに対し、延命院はそうではないとします。祭礼ができなくなることを危惧した瀬兵衛は、三村の庄屋が一本ずつ入れるという妥協案を出しますが、収拾できずに双方物別れとなり、ついには、旅所に向けた御幸(パレード)が出来なくなってしまいます。以後、宝暦元(1753)年に最終決着を見るまで、十五年間は御幸は行われいままになります。

 これを嘆かわしく思った佐股・下麻・神田・羽方の四カ村の庄屋などが、寄合いを何度も重ね、協議し、新たなルールを作り出していきます。これが次の「覚書」です。
大水上神社祭礼覚え書き1

意訳変換しておくと
二宮三社神社の祭礼について、15年前から神輿へ御幣を入れる、入れないをめぐって、別当寺と神職の間で争論となり、御幸ができない状態となっていた。氏子達はこれを嘆かわしく思い、新たなルールを作成して寺社の和解を図るものとする。
1 幣は、太夫や社僧が行うのではなく、御前人が神輿に入れる、
2 祭りの時は龍花寺(別当)・太夫・御前人・神主が立ち会って、早朝より神輿三体を事前に幣殿に飾っておく、
3 龍花寺は祝詞と金幣をあげる、
4 三人の太夫は、神楽をあげる
5 神楽は名代が行う事は認めない。

 龍花寺の社僧と、太夫(神主)の間で分業がきちんとされる内容になっています。この取り決めを作成するために各村で寄り合いが開かれ、それを持ち寄り村役人による協議が何度も行われていたことが残された史料からは分かります。上から試案がだされて、これでいいかというものではなく、下から積み上げていく丁寧な試案作りです。時間と手間をかけた話し合いが行われています。そして、最後は村の戸主の一人ひとりの印をとっています。当時の村々をまとめて行くには、これだけの手間暇が必要だったのでしょう。同時にそれが村々の底力となったことがうかがえます。
 祭礼分担は、これで解決したようです。これが明治の神仏分離まで続くことになります。

そして御旅所までの御幸行列の順番が次のように示されています
先頭に榊神具、次に鉾をもって神田村の角左衛門が従い、行列の以下は次の通りです。
大水上神社祭礼2

これを見ると神輿の前に、社僧がきます。そして、神輿の後に神主や太夫が位置します。また、祭礼パレードのことだけではなく、瓦葺きなどの遷宮の時の導師は、延命院が務めることや、御神体は、別当寺の龍花寺が保持することなど、問題になりそうなことが事前に協議されています。そして、最後には各村々の代表者が署名しています。現在の祭礼ルールは、このような先人達の取り決めの上にあるようです。
  それでは、以後はこのメンバーによって祭礼が行われたのかと思っていると、そうではないようです。ルールができてこれにて落着かと思うと、丸亀藩は、関係者たちを厳しく裁定します。
 祭礼復活から5年後に、丸亀藩は祭礼中断を招き、藩や村に対する迷惑をかけたことに対する責任追求を開始します。その吟味は宝暦七年から九年にかけて行われています。
「宝暦七年 二宮寺社出入御吟味之次第覚書」は、その取調記録です。これは『高瀬町史史料編』の「大水上神社社人・別当出入一件」(高瀬町史資料編408P)に次のように載せられています。
大水上神社祭礼吟味1

  まずは羽方村の龍花寺と庄屋などの関係者を呼び出し、調書を取ることから始まっています。関係者一人ひとりの取り調べ調書が残されています。二宮三社神社をめぐる騒動は、当時の大事件になっていたことがうかがえます。3年間の取り調べの後に、藩の下した裁定は次の通りでした。
1 羽方村庄屋銀元郎は役目を十分に果たしていなかったことで「重々不届きニ付き閉門」
2 神田村庄屋近藤又左衛門も「閉門」
3 二宮神主の小十郎も「閉門」
4 社僧龍花寺は諸事の対応に「社僧に似合わざる不埓の至り」につき「両御領分御構い成られ追去」を命じられ、丸亀・多度津両藩領内にはいられなくなった。更に延命院からも勘当され、牛屋口から追放された。
5 延命院も「閉門」
6 二宮の太夫三人については篠原兵部と篠原因幡が追放、黒嶋子庫は神職取り上げの処分。
そして、二宮三社神社の新たな太夫には、麻部神社の太夫遠山氏と勝間の太夫藤田氏が任じられることになりました。こうして見ると、別当寺関係も神職関係もすべて追放され新たな体制となったことが分かります。いわゆる喧嘩両成敗の裁定です。
 ただ、社僧龍花寺が追放された後にあらたな別当が入ってきた気配はありません。また、延命院は閉門を契機に、二宮三社への影響力を弱めたことが考えられます。そうだとすれば、新たな太夫達による運営体制が整えられて行ったのかもしれません。拝殿の鍵を誰が持つようになったかは分かりません。

 江戸時代の中頃までは、寺院と神社の間で、領分が分けられ、権益が重ならないように調整され、「棲み分け」が行われていたようです。ところが江戸時代後半になると寺社のそれぞれが「新法」を主張し、それまでの「棲み分け」領分への「侵犯」が始まります。ここからいろいろな争いが起きるようになります。そのひとつの形が大水上神社には史料として残されています。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
    参考文献 高瀬町史

DSC02776
大水上神社の奥社に続く階段
前回は江戸時代中期に書かれた二宮三社(現大水上神社)縁起の前半を見てみました。今回は、その後半を読んでいくことにします。まず、二宮三社神社の修築に関する記事が次のように記されています。まずは棟札から始まります。
 
大水上神社縁起12

意訳変換しておくと
二宮大水上神社大明神の社殿の棟は建長六(1256)寅甲年八月午戊四日に挙げられ
大願主は沙弥寂阿   大工は 額田国弘
大水上神社縁起13
意訳変換しておくと
建立に当たって、後小松帝、弥光帝・後花園帝この三帝の勅書が内陣に保管してあったが、土州之賊徒(長宗我部元親)の悪逆で紛失した

 ここでは13世紀半ばに、朝廷の勅書で社殿が建立されたと記されています。その勅書は長宗我部元親の「悪逆」でなくなったと云うのです。讃岐の寺社の由緒書きのパターンです。土佐軍の兵火で焼かれて、証拠となる文書は燃やされてしまったという「釈明」です。

DSC02789
大水上神社奥社周辺の聖域

 さらに、大風で社殿が破損したときに、禁裏から修覆費の援助を受けたと次のように記します。
応永34(1427)年8月20日夜 にわかに大風が吹いて、周囲が十六間もある桧木が、社殿に倒れかかり大破した。そこで、年8月29日に、仮殿を建て、三神を仮殿に移した。新たな社殿の造営について京都からの援助があり、正長元(1428)年東讃守護代の安富有富が修復責任者として工事に当たった。

大水上神社縁起14
意訳変換しておくと
永享3(1431)年7月、仮殿が雨漏りして、経蔵に宮を移した
永享11(1439)年9月10日になって、二宮(近藤)国重が造営奉行に任命されて、11月に京都より帰国し、造営が開始された。しかし、工事は遅々として進まなかった。そこで、西讃守護の香川氏と東讃守護の安富氏から150貫の寄進を受け、近藤氏が造営奉行として、社殿を完成させた。
畏くも二宮社に祀られた神仏は次の通りである。
八幡大菩薩  本地阿弥陀如来
大水上大明神 本地釈迦牟尼如来
三嶋竜神    本地地蔵菩薩 亦宗像大明神とも奉号
永享十二(1440)年四月日 にこれらの神仏を安座した。
大水上神社縁起15

意訳変換しておくと
今上皇帝は「聖寿万安」   将軍源朝臣は「武運長久 福禄増栄 国家安泰 万民豊楽 庄内繁昌 貴賤各願」の成就を祈願した。先だって性智院殿は讃州一国の人別銭で二宮社の落慶を行おうとしたが思うようには進まなかった。そこで、近藤二宮但州国茂を造立奉行にして三社神社の造営にあたらせた次第である。この一巻は、三社神社が大風で大破したのを近藤氏が再興したことについて記した。筆者 高松太郎頼重末葉正春

15世紀半ばに、二宮三社神社は(近藤)国重によって建立された?
二宮三社神社の修復に国家(朝廷?・幕府?)から東讃守護の安富氏が責任者に任じられたが、何年経っても完成しないので、二宮の近藤氏が造営奉行に任命されて、京都から帰り短期間で完成させたと記されています。その際に、東西の守護代である安富氏と香川氏から150貫の寄付があったというのです。
 前半部については、にわかには信じられない内容です。中世には、地方の小さな寺社を国家が保護することはありません。また守護代が他人の氏寺の修理に寄進することもありません。いろいろな虚実を取り去った後に残る核の部分は「永享11(1439)年9月10日になって、二宮(近藤)国重が社殿を完成させた」という部分です。これは本当なのではないかと研究者は考えているようです。
 前回に見た縁起の初頭部分に、二宮の国人・近藤正光のもとに現れた八幡神を自分の館に祀り、館は藤の花で彩られるようになり、正光は藤樹公と呼ばれるようになったこと。そして、館は神社となり多くの人が参拝するようになったこと。社司は近藤家が勤めてきたことが記されていました。
   それは、今見てきた近藤氏による二宮三社神社(現大水上神社)の建立と重なり合うのではないかと思えてきます。

最後の巻で縁起は長宗我部元親について記します。それを見てみましょう。
大水上神社縁起16

 昔は二宮三社神社は大社であったが長曽我部元親の狼藉で御社大破し、竹の林の奥の仮屋にお祭りするという次第になっていました。元親は土州からやってきて、金毘羅権現の近辺に放火し香川中務大輔同備後守の居城天霧に押し寄せた。香川氏が備前児嶋に出兵している隙を狙って、金昆羅に本陣を構まへた。その時に金毘羅大権現も荒廃させられた。
大水上神社縁起17

これに対して、毎日山伏が千から二千、時には三千が夜になると鬨の声を上げて長宗我部元親を責めた。山伏は長宗我部元親の目には見えても、諸卒の目にはみえない。これは二宮三社や金毘羅大権現の神罰ではないかと疑うようになった。そこで元親は両神へお詫びのために金毘羅へ中門建立の願をたて別当金毘羅寺に、一七日の護摩修行を行わせた。これで狂気が去った元親は、大に悦び、近辺で兵卒が掠めとった宝物を残らず神納した。そして、任御門を建立した。これが今、金毘羅の門で棟札には長曽我部元親寄進とある。

ここからは次のようなことが分かります。
①土佐軍侵入で二宮三社神社は「御社大破し、竹の林の奥の仮屋」になるほど衰退し、神宮寺も兵火に会った
②近世のはじめの二宮三社(大水上神社)は、保護者の近藤氏を失い再建不能な状態にあったこと
③長宗我部元親が「金毘羅権現の近辺に放火」「金昆羅に本陣を構まへた。その時に金毘羅大権現も荒廃」と記されます。しかし、事実は、長尾氏出身の金光院院主宥雅が堺に亡命し、金毘羅は無傷で長宗我部元親の手に入っています。そこに、土佐修験道の指導者宥厳を入れ、讃岐平定の総鎮守としたことは以前にお話ししました。平定成就を感謝して建立されるのが現在の二天門です。
④長宗我部元親は、西讃や丸亀平野の平定の際には、琴平に本陣を置いたと記されます
⑤「香川氏が備前児嶋に出兵している隙を狙って」と、香川氏が不在であったという書き方です。香川氏の毛利への一時亡命と混同しているようです。香川氏は、長宗我部元親とは一戦もせずに同盟関係に入っています。
⑥本陣を置いた金毘羅では「毎日山伏が千から二千、時には三千が夜になると鬨の声を上げて」とあります。ここからは、当時の金毘羅が山伏(修験者)の集まる霊山であり修験の場であったことがうかがえます。
⑦「金毘羅へ中門建立の願をたて別当金毘羅寺に、一七日の護摩修行を行わせた」とありますが、大門が建てられるのは高松藩の松平頼重の時代になってからです。この時には金毘羅寺(松尾寺)には山門はありません。「中門」という表現は、これが書かれたのが大門建立以後のことであることを示します。

以上のように、長宗我部元親についての記述は他の史料との整合性がないものばかりです。「長宗我部元親=悪逆」という編者の先入観にもとづいて、それを示すための例が並べられている印象を受けます。
 長宗我部元親にたいしての「恨み」をはらすためには、これだけでは収まらなかったようです。さらに、次のような事が書き加えられています。
大水上神社 八幡武神
武者姿の八幡大菩薩

大水上神社縁起18
意訳変換しておくと
 その後、元親は阿波に向かい秀吉公と一戦を交えた。その時に、秀吉軍の先手の真先に武者三騎が現れた。大声を上げて元親の首を伐て、軍門に曝さんと名乗掛ける。見ればまん中の騎馬武者は雪よりも白い馬に跨がり、長さ三尺あまりの幡を掲げる。そこには地白に朱で八幡大菩薩とある。その左の騎馬武者は、栗毛の馬に乗り、幡に大水上大明神、その右は青の馬に乗馬し、幟は三嶋竜神とある。太閤秀吉は、これを見てこのような武士が味方にはいない、敵が紛れ込んでいるのではないかと使番に仰せ付けられたが、他人の目には見えない。
大水上神社縁起19

 八幡大神の加勢だ、ありがたい思し召しと南無八幡大菩薩と念誦し、筑紫宇佐の方に柏手を打ち遥拝したという。三騎は一文字に元親に向かって突入した。元親が乗った馬は膝をおりわなき振え、元親も身すくみしゃべることさえ出来ない。土佐軍の兵卒は退却するしかなかった。
この時に討取らた首は375にものぼる。これこそ二宮三社(大水上神社)の仇討ちであったと諸人は知った。
大水上神社縁起20

その後、秀吉公は滝川伊与守を二宮三神へ遣わして代参さた。その時には、元親違乱以後の後に建てられた薮の中に小さな社殿に参拝し帰京し、秀吉公へ報告した。
 この際に二宮三社の社司は秀吉公と元親との対陣の折りに起きた奇怪な出来事の端末を、次のように語った。その時には社殿が三日間震動し、三体の神輿が東南の方へ飛び去るのを肝を潰しながら見守った。どこに行ったのかもしれず、讃岐国中を尋ね探したが見つからず、
大水上神社縁起21

五十日程して神輿はいつものように拝殿に戻っていた。その側には切々になった幡があり、人々は不思議に思って、国中に尋ねたが幡の主は分からなかった。二三年後に、土州老士がこの村にやってきて元親秘蔵の幡が紛失したことを聞て思いあたった。秀吉公はこのことを聞いて、二宮三社の造営を命じ下さった。
 しかし、ほどなくして朝鮮出兵がが始まり、再建工事は始まりませんでした。その後は大坂冬の陣の時には、国主生駒雅楽頭殿に再建を命じましたが進まず、大坂落城後はほどなく権現(家康)様に再建を願いでましたが、これもかなわず、いままも社殿は大破したままである

  ここに書かれていることをまとめておくと
①二宮三社の三祭神が軍神として秀吉軍を加勢し、長宗我部元親軍を大敗させたこと
②その軍功に報いて、秀吉は社殿再興を約束したが朝鮮出兵などで適わなかったこと
③その後、生駒藩時代にも再建計画があったが実現しなかったこと
④そして、いまも社殿は再建されていないこと

 この巻は二宮三社の軍神達の活躍ぶりが印象に残ります。
八幡神は軍神として当然ですが、大水上明神も三島明神も武者姿として戦っています。「二宮三社=軍神」という目で、もう一度この縁起を見てみましょう。
 最初の巻で八幡神の軍神としての性格が語られ、次に源平合戦での神託が語られ、そして土佐軍との戦いぶりが語られていました。これは「二宮三社=軍神」観をアピールするためだったようです。
 アピールの対象は誰でしょうか。
それは最後の一行に現れています。秀吉も、生駒家も、家康も、再建を約束したのに、未だ社殿は大破したままだと記すのです。これは、京極家に対する社殿再建の請願です。別の見方をすると「二宮三社縁起」は、「社殿再建請願書」であったと思えるようになってきました。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 高瀬町史資料編134P 二宮文書 

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  讃岐国二宮である大水上神社に伝来する縁起を読んでみます。
大水上神社は、延喜式内社の一つで「二宮」さんなどと地元では呼ばれています。財田川の支流である宮川の源流にあって、本殿の横には「竜王淵」があり、いまは鰻伝説が伝わり雨乞いの霊地だったようです。羽方遺跡からは銅鐸や平形銅剣も出土していますので、弥生時代から水神として祭祠したようです。
 最初に「天正三(1574)年頃に書かれたものを、徳川中期に書き写した」とあります。しかし、文中に「士農工商」などの表現がでてきたり、用字用語上の解析から江戸時代中期に編纂されたものと研究者は考えているようです。当時は「二宮三社」と自称していたようです。この縁起を書いた人物の歴史観を考えながら読んでみることにします。
 二宮三社之縁起(大水上神社所蔵)    高瀬町史史料編131  P
大水上神社縁起1
  意訳変換しておくと
「讃岐国三野郡神田村二宮三社之縁起
この延喜は天正三(1575)年頃に作成されたものを、徳川中期に写したものである。讃岐国三埜(野)郡神田村 二宮三社之縁記の目次は次の通りである
一 八幡大神が当国に渡来し、近藤正光と対面する場面
  大水上大明神と三嶋神と竜神社を二宮三社として祀り繁昌していること
一 元暦元年の源平両家の奉願書について
一 三社の御詫宣について
一 源氏が上矢を神納し、敵を滅ぼし会稽の雪辱を晴らしたこと
一 応永三十四年 御宮が破損したときに、今上皇帝が造営費を負担したこと
箱書に「二宮三社之縁起」とあります。三社とは大水上大明神・八幡大神・三島竜神の三神をいうと記されます。もともと祀られていた水神に、中世になって客神として八幡神や・三島竜神が祀られるようになったことが分かります。丸亀藩に納めたとあるので、最初に目次が付けられています。最初に記されるのは八幡神です。この三社の中で、当時の中心は八幡神にあったようです。
縁起は、八幡神の成り立ちを次のように記します。

大水上神社縁起2
意訳変換しておくと
一 八幡大神が当国に渡来し、近藤正光と対面する場面
 讃岐国三野郡神田村に鎮座する二宮三社とは、八幡大神と大水上大明神と三嶋竜神のことである。
 八幡大神は、人皇十六代応神天皇のことである。その父仲哀天皇の母は神功皇后になる。皇后が三韓を征伐して凱旋した後に、その冬十二月に筑紫の蚊田でお生まれになった。これからあやしきことが続いた。皇后の治天三年に応神は四歳で皇太子と成り、71歳で帝位についた。在位41年2月15日大和国の軽(かる)の嶋明の宮で110歳で崩御した。 

人皇三十代欽明天皇の時に肥後国菱形の池乃辺の民家の子に憑依して次のようにおっしゃった。「我は人皇十六代誉田の八幡麻呂である。諸州において神明と垂跡(混淆)する。そのために、今ここに現れた」と。朝廷では勅使を下して豊前国菟狭郡に移して鎮坐し、ここから諸方に勧請伝導を行い、人々もそれを受けいれた。八幡とは八正道の幡を立て八方・衆生に利益をもたらす神号で、その霊験の強さは、古今から例証されている。
 当時流布されていた「八幡神=応神」説がそのまま記されています。次が八幡神が二宮に現れ、近藤氏の祖先と出会う場面です

80歳を越えたあるときに、八幡大神武士の姿をした老翁に出会った。翁は「汝何人ぞ」と問うと、武士はこう答えた。 
「我は八幡大神なり。この国の士農工商を守護するために、弓を帯びている」と 
翁は大いに驚いて次のように云った。
「私は、この地の領主である。まず我宅においでください。」と
 正光の館には藤樹があったが、この老武士がやって来てからは、その藤は大いに繁茂していろいろな花を咲かせるようになった。紫藤は棟となり、白藤は壁となり、青藤はハマカキと成り、黄藤は屋根を覆て、まさに不思議な館となった。そのため正光を藤樹公と呼ぶようになったと伝えられる。
  大水上神社 八幡武神
八幡神武人姿
 家は栄え、遠くまで藤の木のことは知られるようになった。藤樹の枝を折って並べると、風雨火水の難に合わないと伝えられ多くの人々が参拝するようになった。藤の花は弥生の頃に花開いて、林鐘(旧暦6月)の頃まで落花せす、霜月の雪中でも落葉しないので「常磐の藤」と云われるようになった。これもみな八幡の神力である。正光の子孫は、長きに渡ってこの地を領し、後には当社の代々の社司となった。その俗名は又十郎 官名は美濃守但馬守である。子孫代々がこの名を相続してきた。
ここに記されていることをまとめておきましょう。
①二宮の領主近藤正光のもとに八幡大神が現れた。
②近藤正光は、八幡大神を館に祀った。
③館は藤の花で彩られ、正光は藤樹公と呼ばれるようになった
④館は神社となり多くの人が参拝するようになった
⑤二宮三社の代々の社司は近藤家が勤めてきた。
書かれた内容から書き手の一番伝えたかったことを推察してみましょう。
それは、この地に現れた八幡神を祀り、維持してきたのは近藤家であるということのようです。丸亀藩に提出するために書かれたものであったすれば、それは当然なことでしょう。

もうひとつ指摘できるのは、延喜式以来の二宮神社が祀ってきたのは水神であったはずです。八幡神は後からやって来た「客神」です。本来の水神よりも、宮司の近藤氏にとっては八幡神の方が重要であったようです。二宮三社の当時の主神は八幡神であったことがうかがえます。
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次に記されるのが水神です。

大水上神社縁起4
二宮三社には岩清水の清き流があり、
その下流には大な池(淵)があって、竜神が住むと伝えられる。旱魃の時にも池の水が枯れることはない。この竜神の身体は、一月十日に白・黄・赤の三色に変わるので三嶋竜王と号する。一説には、竜身が白黄赤の三色なのでこう名付けられたという説もある。
 
 大水上大明神の尊号について考えてみると、水徳成就の水神で、天一水を生して五行思想の本源でもある。そのため五穀豊饒を守護する神号であろう。神代の昔より、この地に鎮坐してきたと伝えらる。延喜式神名帳に、当国二十四座之内三野郡一座大水上神社とある。人皇十二代景行天皇の皇子(神櫛王)が宇多津の沖で悪魚退治を行った恩賞に当国を賜り、香河郡に城郭を築いて住むようになった。当社も神櫛王の信仰を得て、正五九月に参拝され、 三野豊田両郡を大水上神社の社領とし、三神を二宮三社と名付けた伝えられる。
 八幡武士の姿で二月丑之日に正光の家にやって来たからので、昔は毎年この日に百手の興行を行い、八月十二日十三日は三嶋竜王の祭 十四日十五日は八幡の祭 十六日十七日は水上大明神之祭、初終六日が行われていた。遠国近国より多くの人々が、毎年祭礼を行っていた。天下泰平 国土安穏 万民繁昌の御神とされていた。
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ここで龍神伝説がでてきます。三色に変化するので「三嶋竜王」だと云います。
善通寺の影響を受けた威徳院(高瀬)や本山寺(豊中)は、善女龍王信仰が伝わっています。いろいろな形で雨乞いが行われていたようです。注目したいのは、二宮三社神社で、この縁起が書かれた頃には雨乞いは龍神伝説だったことです。それがいつの間にか現在の「鰻淵の大鰻伝説」に変わっています。今は、ここに龍が住むとは伝えられず、鰻が住むとされています。龍から鰻への交替がいつ頃のことだったのか、これも知りたいところです。また三島竜神は、どこへいったのでしょうか?
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最後に登場するのが「大水上大明神」です。
ここで延喜式以来の歴史が記されますが、その分量は
八幡神と近藤家の関係に比べるとわずかです。また、この縁起を書いた近藤家の宮司からすれば、それは遠い昔の話で、直接的には関係のないことだという思いがあったようにも感じます。
 古代の二宮社を語るときに神櫛王の悪魚退治伝説を登場させています。そして、国司となった神櫛王によって、三野・豊田の両郡が社領として寄進されたと大風呂敷を広げます。ここからは、宮司近藤家には、古代から中世の大水上神社の史料や歴史は伝わっていなかったことがうかがえます。

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 ここからは、次のような事が推察できます。
①古代に律令国家の保護の下にあった大水上神社は国家や有力豪族の保護下にあった。
②それらが衰退した後に、国人の近藤家が八幡神を合祀し二宮三社とした
③中世には近藤家の保護下のもとで、2つの神宮寺による神仏混淆体制下で神社経営は行われた。
④近世には、八幡神がもっとも信仰を集める神となっていた。

そして、縁起編纂者は空海を登場させます

大水上神社縁起5
一 弘法大師入唐の際に、当社に立ち寄られ詣法行い、次のような和歌を詠した。
はるばると詣きゑれば三の神
力をそへてまもりたまへや
五月雨ややまゑ思ひに旅の空
いとま恋しくまいる我なり
  八幡大神御返可
我はたゝいまも弓前の神としれ
もろこしまても守護じめくまん
両神御返歌
上之句   大水上大明神
往来は心やすかれそらの海
下之句   三嶋竜神
水上清きわれハ竜神

これが延暦弐十三年五月十八日のことと伝えられる。 これから大師は観音寺へ行って、琴弾社に参拝した。そして八幡大神と対面し、その夜は十二人の児達の琴を聞、翌日出帆していった。

一 額之字
華標之額 二宮八幡大神
拝殿之額 大水上大明神
    八播大菩薩
三嶋竜神
これらの額は大師が帰朝した後に寄進された大師真筆のものである。
大水上神社 空海入唐図
空海の入唐ルート

空海が唐に出発したのは、延暦23(804)年7月6日のことです。遣唐使船が難波宮を出発します。
5月12日唐に留学(遣唐使)のため難波津出港
7月 6日肥前国田浦を出発。
8月10日赤岸鎮に漂着。海賊と間違われる。

 遣唐使に選ばれた空海が讃岐にやって来て、二宮三社神社に立ち寄って、三社の神々と歌のやりとりをしたのちに、観音寺に向かい琴弾社に参拝し、翌日に出帆していったと云うのです。その日付を「延暦弐十三年五月十八日のこと」とします。入唐の前に、遣唐使船を離れた空海は善通寺に里帰りして、父母に挨拶したことは善通寺縁起にも伝えられます。九州から遣唐使船が出港していく前に、讃岐に里帰りしていたという空海伝説のひとつのパターンです。遣唐使の一員である以上、そんなことはできません。事実ではありません。
 ここからは縁起を書いた人物が「八幡信仰 + 弘法大師信仰」の持ち主であったことがうかがえます。この縁起は八幡信仰の上に、弘法大師伝説が接ぎ木されています。このパターンは観音寺縁起と同じです。観音寺縁起では、弘法大師は八幡神の権化で化身と記されているのは、以前に見たとおりです。何かしら観音寺縁起の影響を受けて、この縁起は書かれているような印象を受けます。とすると、真言密教系の僧侶達の中世三豊のネットワークの中に二宮三社の神宮寺の別当社僧達もいたのかもしれません。

 元暦元(1184)年の源平両家の奉願書について
 目次に挙げられた2つめのテーマは、源平合戦の際に、源氏と平氏がそれぞれ願文を奉納したということについて記されています。
大水上神社6源氏願書

 最初に記されるのが源氏願書です。その筆頭は頼朝、次に義経の名前があります。
 日本六十余州を悩ます悪臣登場する。数ケ国を奪い取り、誠に持って前代未聞の悪逆である。天子を称し、公卿大臣之位官を奪い、庶民にあたえる非道ぶりである。 保元に為義為朝源氏之一属を滅し 平治ニ義朝一家を誅す (以下略)

と平家の非道ぶりが指弾され、討伐の正当性が主張されています。そして奉納者のメンバーを見ると源平合戦で活躍する名前が目白押しです。
 それに対して平家願書はどうでしょうか。

大水上神社7 平家願書
敬白御立願状
この度の戦いの利運は、当社の霊力にかかっている。氏神を奉崇し、神力の功あるものは四海魔王の報恩を国家のためになすべし 願文如件

こうして二宮三社は源平の両方から願文を受け取ります。
それにどう対応したのかが次に書かれています。それを意訳して見ましょう
大水上神社8 源平願書
意訳変換しておくと

一 藤樹翁は代々に渡って近藤但州藤原朝臣国茂迄禁裏に仕えてきたが、元暦の戦の時には、源平両家から出兵の依頼があった。そこで神田治部少輔貞家は御湯立を行い、源平両家からの願状を占った。

その時に、三社は十二三歳の乙女に憑依して次のような託宣を下した。
「神は非礼を受けず、祈心の正しくない者の願いを叶えることはできない。躰を引き裂かれようとも霊験は得られない。ましてや正直慈悲の心があれば「不祈」とてしても神は守るであろう。」このように神は云うと、乙女は倒れた。その後、躰を震わせ持っていた鈴を鳴して「人は城 人は石垣 人は堀 情は味方 離は大敵」と言い続けた。神が乙女に憑依して、乙女の口を通じて語らせのだ。賤き乙女が神の尊言を伝えたことについて、人々はおおいに驚嘆した。
 それから神懸かりとなった乙女は、神前の御幣を振って、拝殿を三度廻り内陣へ飛入って、人々を招いて次のように神託した。
「天の時は地の利に如かず。地の利は人の化に如かず。人の恨深き方、軍に負ケ、人の祝多き方必勝利を得べし、力をもって利を得ようとするならば必ず利は得られない。これは古来より軍に勝つ法である。神の答えは以上であると両家へ伝えよ」と言い終わると乙女は内陣に三日の間、閉じこもった。その後に御戸を開いて出てきた乙女は、十七日絶食後に朝粥を少し食べた。その姿は狂人のようであったと云う。誠に三社の御神が乙女に乗り移り霊験を著した不思議なことであった。

  神が乙女に憑依して、神の宣告を伝えることがドラマチックに書かれています。なぜ、源平合戦なのでしょうか。これは当時の二宮三社神社の次のような立ち位置にあったように思います。
①八幡神を主神として祀る武門の神社であったこと
②この縁起(由緒書)が丸亀藩に提出されることを前提に書かれたものであること
そのためには、源平合戦において源平両家の請願を受けたというエピソードが入れられたのでしょう。そして、神の声が乙女に憑依して伝えられたとしていることは、興味深く思えます。中世らしい神社の姿を伝えているように思います。しかし、これも事実であったとは云えません。
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次に出てくるのが建久九(1198)年とされる社領目録です。

大水上神社10寺領

大水上神社11寺領

この度荒乱につき、この巻を誦じ、すわわち神力で氏子の難苦を遁れることは、社僧の度々の広恩によるものである。一家の喜びは小さいことで、神領の永続を願うものである。
建久九午成年二月日 散位秦支守法
摂津守大平忠
別当弁実聖人
別当圭如法印
先ほどの大水上神大明神について触れられた所では、「神櫛王の信仰を得て、三野豊田両郡を大水上神社の社領とし、三神を二宮三社と名付けた」とありましたが、ここでは社領は総合計200町と記されます。その内訳は「修理領+祝言領+燈明領+御供領=177町で、総合計とはあいません。
 また、中世の寺社の寺領は荘園領主や地頭などの有力者から寄進される場合が多いのですが、それは寺院年間行事のイヴェント運営のための寺領が多く、こんな簡単なものでないことは以前にお話しした通りです。これはこの縁起を書いた江戸時代中期の社僧の「常識」が反映されている内容です。中世の寺社の寺領構成を伝えるものではないようです。
 ここで興味深いのは、前回もお話ししましたが「別当清澄寺36町、別当神宮寺36町」と記るされていることです。この社領面積をそのまま信じることはできませんが、2つの別当寺があったことはたしかなようです。それを裏付けるように、境内には古い瓦が出土する2ヶ所あります。
①一つは鐘楼(かねつき堂)跡と伝えられるところで、宮川を挟んで社殿の反対側の尾根上
②もう一つは、社殿の北側で、浦の坊というところ
そのどちらかの社僧によって、この縁起は書かれたと私は考えています。
  どちらにもして中世の二宮三社神社は、近藤家の保護下にあって、神仏混淆下に社僧によって運営されていたことが分かります。
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    今回はここまでにしておきます。以上をまとめておくと
①「二宮三社之縁起」は、江戸時代中頃に丸亀藩に提出するために、当時の二宮三社神社の別当寺の社僧が書いたものと推測できる
②三社とは「八幡大神と大水上大明神と三嶋竜神」のことであるが、当時は八幡神が主神とされていた。
③八幡神を合祀したのが近藤正光で、近藤氏が二宮信者の正統な継承者であることがはじめに書かれている。
④二宮三社神社のもともとの主神は、水神であったが中世に客神の八幡神に取って替わられている。
 これを進めたのが近藤氏と思われる。
⑤中世の寺領目録には、2つの神宮寺のことが書かれているので、神仏混淆下で神宮寺の社僧による神社運営が行われていたことがうかがえる。
⑥八幡信仰に空海伝説が附会されていることから密教系僧侶の存在がうかがえる。
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  最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 高瀬町史資料編134P 二宮文書 

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神社というものがどんなふうにして姿を見せるようになったのか考えるときに、私にとって身近で参考になるのが高瀬の大水上神社です。この神社は、その名の通り財田川の支流である宮川の源流に鎮座しています。祀られているのは水神です。そして、神が舞い降りてきたと思える巨石も、いまも信仰対象になっています。
 この神社について高瀬町史をテキストにして見ていきます。
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大水上神社の奥社
 この川の流域には銅鐸や広形鋼剣が出土した羽方遺跡があり、下流部は早くから水田稲作が進んだ地域です。ここに祀られている神は、弥生時代から集落の首長によって祀っていたと私は思っています。いまに至るまで、神々の名は幾度も変遷したかも知れませんが・・
 大水上神社は、三野郡唯一の式内社で延喜式では讃岐の二宮にランクされています。

羽方遺跡出土 平形銅剣
羽方遺跡出土の平形銅剣 平形銅剣は善通寺王国の象徴

 平安時代の神階授与記事には
貞観七 (八六五)年 従五位上から正五位下へ、
貞観十八(八七七)年 正五位上へ

に叙されたことが記されます。これが大水上神社が文書に残る初見になります。
 律令国家のもとでは、さまざまな神に対し位階が授けられていました。国家が神に授けた位階を神階と云います。律令国家は神階を授与することにより、神々の序列を明らかにしました。つまり、授ける方が偉いので、国家が地方の神々の上に立ったことになります。これは国家イデオロギーとしては、上手なやり方です。こうして、全国の神々はランク付けされ国家の保護を受けて、有力豪族によて管理・維持が行われるようになります。
羽方遺跡出土 銅鐸
羽方遺跡出土の銅鐸
 古代に、この神社を保護管理したのは、丸部氏が考えれます。
宮川を下って行くと延命院古墳や讃岐で最初に作られた古代寺院である妙音寺があるエリアが、丸部氏の拠点があったところでしょう。その氏神的存在として、この神社は出発したのではないかと私は考えています。それが律令国家の下で延喜式神社となり、二宮としてランクづけられたとしておきましょう。
 讃岐では、田村神社・大水上神社・多和神社への神階授与の記事があります。それぞれ讃岐国の一宮・二宮・三宮となる神社であり、社格が定められてきたようです。
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 以前にお話ししたように、平安時代後期になると律令体制の解体と共に、国家による全国的な神社の管理は出来なくなります。
そこで国家が取った方法は、保護する神社の数を限定し、減らすことです。京都を中心とする周辺の大社や、地方では一宮や二宮だけに限定します。また延喜式内社を国府の近くに「総社」を新たに作るなどして「簡便化」します。この結果、国家的な保護を大い衰退しその跡を失った式内社も出てきます。
 国家の保護を失っても、パトロンとしての有力者が衰退しても、地域住民の信仰対象となっていた神社は消えることはありません。大水上神社を見てみると、背後に山を控え、社殿のすぐ横に川が流れ、淵があります。まさに水神の住処としては最適です。この水神は、時代と共に姿形は変えながら人々に、農耕の神と崇められてきたものでしょう。
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夫婦岩(かつての御神体) 

 大水上神社に瓦窯跡があるのはどうして? 
 大水上神社境内には、瓦を焼いた窯跡が残っています。神社の屋根はワラやカヤで葺きます。瓦は使われません。それなのに瓦窯跡があるのは、どうして?
 奈良時代の終わりごろから次のような事が云われ始めます。
「この国の神々は、神であることの苦しさを訴え、その苦境から脱出するために神の身を離れ、仏教に帰依することを求めようとしている。」

 このような声に応えて、民間僧侶たちが神々の仏教帰依の運動を進めます。具体的には、神社の境内を切り開き、お堂を建て仏教の修行の場を作るようになるのです。神々は、元々は仏であったとして、神々が権化した権化仏が祀られるようになります。神と仏の信仰が融合調和することを神仏習合(混淆)といいます。仏教に帰依して仏になろうとする神々の願いを実現する場として、神社に付属して寺が建てられるようになります。これが神宮寺(別当寺)です。こうして、結果としては、神社を神宮寺の僧侶が管理するようになります。ある意味、僧侶による神社の乗っ取りと云えるかも知れません。こうして、神社の周辺には別当寺が姿を現すことになります。神社の祭りの運営もこれらの社僧がおこなうことになります。
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 大水上神社の場合は、 2つの別当寺があったようです
江戸時代中期に書き写されるとされる「二宮三社之延喜」には次のような社領目録がのせられています。
国讃嶋二宮社領目録                  高瀬町史史料編133p
惣合(総合計) 弐百
右之内八九町    修理領
右之内三六町    祝言領
右之内二六町    灯明領
右之内三六町    御供領
右別当神主支配
三六町    別当清澄寺
三六町    別当神宮寺
二六町    神主  義重
二六町    社ノ頭 右近
二六町    惣社人
二六町    惣神子
右社領自今不可有変易者也
総合計は200町とあるのですが、合計すると176石にしかなりません。まあ、それは今は深入りせずに別当寺を見ておきます。

「別当清澄寺36町、別当神宮寺36町」

と記るされています。この社領面積をそのまま信じることはできませんが、清澄寺神宮寺という2つの別当寺があったことは分かります。そして、それを裏付けるように、境内には古い瓦が出土する2ヶ所あるようです。
①一つは鐘楼(かねつき堂)跡と伝えられるところで、宮川を挟んで社殿の反対側の尾根上
②もう一つは、社殿の北側で、浦の坊というところ
ここからは大水上神社には中世に2つの別当寺があったことが分かります。その別当寺の屋根の瓦を葺くために窯が作られていたようです。高瀬町史には、この窯跡について次のように記します 
①寺院に必要な瓦や日用品を焼くために作られたもの
②時代は平安時代後期~鎌倉時代のもの
③窯跡は二基が並び、西側が一号、東側が二号
④1932(昭和七)年国の史跡に指定。

二宮窯跡

一号窯跡の実測図で窯の構造を見てみましょう
①上側の図は、窯の断面形で底は傾斜している。
②下側の図は、平面形で、全長約3,8㍍の規模になる。
③左端が焚口、中央が火が燃え上がる燃焼室で、右側が焼成室と呼ばれ、ここに瓦などを詰めて焼き上げる
④焼成室の底が溝状に細長く窪められていて、ここに炎が入り上に詰められた瓦などが焼きあがっていく仕組み
⑤二号窯は焼成室の平面形が方形で、底が傾斜せず水平な平窯で、瓦のほか杯や硯も焼いている。

大水上神社のニノ宮窯跡と同じ時期に、使われていた瓦窯跡が下麻にあります。
イメージ 9

下麻の歓喜院本堂奥にある四基の窯跡で、1953(昭和28)年に発見されたものです。ここの窯跡の構造はニノ宮二号窯跡に似ていて、西から1号・2号が並んであり、17m東にに3号・4号が並んであります。

歓喜院窯跡
歓喜院瓦窯

二基一対で二組、合計四基が一列に並んでいることになります。4基の窯跡からは軒丸・平瓦が出土しています。
高瀬町の文化財を研修: 新二の宮の里

同じ時期に、大水上神社と歓喜院で焼かれていた瓦を、どのように考えたらいいのでしょうか 
1大水上神社瓦
二宮窯跡と大水上神社から出土した瓦

 大水上神社境内の鐘楼跡(別当寺)と歓喜院窯跡から出土した軒平瓦は、文様が似ています。ここからは、歓喜院の窯で焼かれた瓦が大水上神社まで運ばれ別当寺の屋根に葺かれたことがうかがえます。大水上神社と約三㎞離れた歓喜院法蓮寺は、平安時代後期には何らかのつながりがあったのでしょう。法蓮寺がいつ創建されたかは分かりません。
法蓮寺・歓喜院と瓦窯跡 : 四国観光スポットblog

しかし、ここには10世紀頃の作とされる重文の木造不空羂索観音坐像が残されています。また歓喜院のある下麻は大水上神社の氏子になります。以上をまとめておきます。
①弥生時代に稲作が始まった頃から宮川の源流には水神が祀られた。
②律令時代には大水上神社として、讃岐二の宮にランク付けされた。
③この背後には、三野郡の郡司の丸部氏の信仰と保護が考えられる
④中世になるとふたつの別当寺が境内に形成され、神仏混淆が進み社僧による管理が行われた。
⑤神宮寺(別当寺)建設のために下麻の歓喜院の瓦窯から瓦が提供された。
⑥輸送に不便なために、大水上神社の境内にもふたつの瓦窯が作られ、神宮寺のための瓦を提供した。
以上です。⑥は私の推察です。

三野平野の窯跡分布図2
古代三野郡の郷・寺院・窯跡
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 高瀬町史68P 古代第二節 大水上神社

  修験道と山岳信仰の歴史を読書ノートとして、残しておきます。
テキストは   宮家準 修験道と山岳信仰 修験道と日本宗教所収です。
民俗学者は山岳信仰と宗教を次のように説明します。
生活の場所である「里」に対して、「お山」は「別の空間」で「聖なる空間」と、古代の人たちはとらえてきた。そして、どこに行っても山岳が見られる我が国では、山を聖地として崇拝する山岳信仰が昔からあり、それが、神道、仏教など影響を与えてきた。さらに山岳信仰を中心とする修験道も生み出してきた。
1出釈迦寺奥の院
善通寺市我拝師山
 
「お山」が崇拝の対象となるための条件とは何なのでしょうか?
それは、里から仰ぎ見られる場所にあることがまずは必須の条件だったようです。里の遠くかなたに見られるコニーデ型の美しい山、長く続く山系、畏怖感をひきおこす異様な山、噴煙をあげる火山などが、俗なる里に住む人々から聖地として崇められたのです。
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丸亀市八丈池からの飯野山

そうだとすれば丸亀平野には、飯野山をはじめ善通寺の五岳山、大麻山、城山、讃岐山脈の大川山など甘南備山がいたるところにあります。
 また里近くの小高い丘、こんもり茂った森山も崇拝の対象とされたようです。山の尾根が平野に下りてくる端に位置する小丘を端山(葉山)と呼んで拝んだりもしています。

1高屋神社
観音寺市七宝山稲積山
お山への信仰は、生活のあらゆる面に浸透していました
誕生の際の産神としての山の神、四月の山あそび、そして死後は死霊として山岳に帰り、浄よって祖霊からさらに川神になっていきます。
年間の行事をとって見ても、
正月の初山入り、
山の残雪の形での豊凶うらない、
春さきの田の神迎え、
旱魅の際山上で火を焚いたり、
山上の池から水をもらって帰る雨乞、
盆の時の山登りや山からの祖霊迎え、
秋の田の神送りなど、
主要な年中行事はほとんどお山と関係していたことが分かります。山岳やそこにいるとされた神霊は、里人の一生や農耕生活に大きな影響を与えていたのです。
「お山」は、稲作に必要な水をもたらす水源地として重視されていました。
山から流れる水は、飲料水や濯漑用水として里人にとって大切なものでした。こうして山にいる神は、水を授けてくれる水分神として崇めるようになります。以前にお話しし三豊市・二宮川上流の式内社・大水上神社(二宮)は、水分神の住処がどんなところであるのかを、教えてくれる神社です。
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大水上神社の奥社
 水分神に代表される水の神は竜神とされ、蛇や竜がその使いとして崇められることが讃岐では多かったようです。これは善女龍王信仰として真言密教に取り込まれて寺院でも儀式化され、善通寺では藩主の要請で雨乞いが行われていくようにもなります。
5善通寺
善通寺境内の善女龍王社

 山岳の山の神は農民のみでなく、山中で仕事を行う木こり、木地屋などにも信仰されました。木こりは春秋二回、山の神にオコゼを供えて山仕事の安全などを祈りました。
漁民たちも山岳の神を航海の安全を守ってくれるものとして崇拝します。
これはお山が航海の目標(山立て)になるとこともありました。北前船の船頭達が隠岐の焼火山や、中国や琉球への航路の港としてさかえた薩摩の坊津近くの開聞岳などは航海の目標として崇められた山です。瀬戸内海にも船頭達が目印とした山が数多くありました。讃岐のおむすび型の甘南備山は、航海の目印にはぴったりでした。金毘羅大権現が鎮座した象頭山(大麻山)も、そのひとつとされます。

 里から見えるお山は、死霊・祖霊・諸精霊・神々のすむ他界、天界や他界への道、それ自体が神や宇宙というように、人間が住む俗なる里とは別の聖地であると信じられたようです。
日本の聖山ベスト30 修験道・山岳信仰のメッカと鉱物分布・忍術分布など比較して楽しむ 秦秦澄「飛び鉢」伝説 : 民族学伝承ひろいあげ辞典

  どのようにして修験者は登場したのか?
 古代の山麓には銅鐸・銅剣などの祭祀遺物が埋められていることから神霊の鎮まるお山を里から拝んで、その守護を祈るというスタイルがとられていたようです。お山は神霊や魔物の住む所として怖れられ、里人がそこに入ることはほとんどなかったようです。わずかに狩猟者などが山中に入っていくにすぎなかったのです。
 こうした狩猟者の中から、熊野の干与定、立山の佐伯有頼、伯者大山の依道などのように、山の神の霊異にふれて宗教者となって山を開いた者も出てきます。やがて仏教の頭陀行や道教の入山修行の影響を受けた宗教者や帰化人が山岳に入って修行をするようになります。彼らが修行した山岳は、一般の里人たちからは、死霊、祖霊、を与えるものとして畏れられていた所です。そこに入り、修行する行者たちは畏敬の念をもって見られ、宗教者として崇められるようになったと研究者は考えているようです。
修験道2

仏教と修験者の混淆
 奈良時代の山岳修行者は、山中で法華経や陀羅尼を唱えて修行することによって超自然力を獲得できると信じていました。お山を下りた後は、その力を用いて呪術的活動を行なうようになります。彼らの大部分は半僧半俗の優婆塞・優婆夷で政府から公認されぬ私度僧でした。のちに修験道の開祖とされる役小角も、こうした宗教者の一人にすぎませんでした。平安時代に入ると最澄、空海によって山岳仏教が提唱され、比叡山、高野山などの山岳寺院が修行道場として重視されるようになります。

4大龍寺2
阿波太龍寺の行場に座する空海像

    天台・真言の密教僧たちは、山岳に寵って激しい修行を行うようになります。
修行者だけでなく、信者の間でも、山岳で修行すれば呪験力をえ、すぐれた密教僧になることができると信じられるようになります。山岳修行によって験をおさめた密教僧(験者)は、加持祈祷の効果がいちしるしいと信じられもした。験を修めることが修験と呼ばれ、験を修めた宗教者は修験者と呼ばれるようになります。

四国辺路3 

現在のゲームの世界で云うと、ダンジョンで修行しポイントを貯めて、ボスキャラを倒してアイテムを揃えて「験を修め」、霊力を増していくという筋書きになるのでしょうか。
こうして修行のための山岳寺院が各地に建立されるようになります。以前にお話ししたまんのう町の大川山中腹に建立された中寺廃寺も国庁の公認の下に建立された山岳寺院です。ここでも大川山を霊山とする山岳信仰があったようです。
石鎚山お山開き4
 
全国各地の霊山と呼ばれるお山にある寺社には修験者が集まるようになります。
東北の羽黒山、北陸の立山、白山、関東の富士山、大和の金峰山、紀州の熊野、伯香の大山、四国の石槌山、豊前の彦山などはその代表的なものでしょう。これらのお山はそれぞれ独自の開山を持ち、それぞれの地域の修験者の拠点として栄えるようになります。そのなかで全国区の霊山に成長・展開していくのが、熊野と白山です。この二つは、全国各地に末社が勧請されて、全国展開を行います。
修験道 - ジャパンサーチ
修験者

 こうして平安時代に畿内に近い吉野の金峰山や熊野三山には、皇族や貴族たちも参詣するようになります。
中でも藤原道長の御岳詣、宇多法皇をはじめ歴代の院や皇族、公家などの熊野詣は有名です。この際に山中の道にくわしい先達(案内人)が必要でした。これを勤めたのが当時の「スーパー修験者」たちでした。
寛治四年(1090)、白河上皇の能野御幸の先達を勤めた園城寺の長吏増誉が、熊野三山検校に任ぜられます。その後は、熊野三山検校職が園城寺長吏の兼職となます。こうして能野関係の修験者は天台宗寺門派の園城寺が握るようになります。つまり、熊野信仰のチャンネルを天台系の寺院が独占したということです。
 鎌倉時代来になると、園城寺に替わって聖護院が熊野関係の修験者を統轄するようになり、本山派と呼ばれる集団を作りあげます。 

 これに対して、吉野側の金峰山からは、大和の法隆寺、東大寺松尾寺、伊勢の世義寺などの大和を中心とする近畿地方の諸寺院を拠点とした修験者が大峰山を修行の場としていました。これらの修験者は大峰山中の小笹を拠点にして、当山三十六正大先達衆といわれる修験集団を形成していきます。
こうして室町時代末になるとふたつの修験道集団が組織されます
①聖護院を本寺とする本山派、
②醍醐の三宝院と結びつく当山三十六正大先達衆
二つの修験集団は、峰人を中心とした教義や儀礼を次第にととのえていきます。また羽黒山、白山、彦山など地方の諸山も大きな勢力を持つようになります。まさに、中世は修験者が活躍した時代なのです。
当山派と本山派の装束の違い

室町時代末なると修験道は教義・儀礼・組織を整備し、教団として確立されます。
 修験道の教義は、修行道場である山岳の宗教的意味づけや峰人修行による験力の獲得に論理的根拠を与えるためのものでした。金峰山や熊野をはじめ、羽黒山・白山・彦山などにも縁起が作られ、それぞれの起源、開山の伝承、山中の霊所などの説明が行われるようになります。
現在の黒瀬ダム周辺

 お山を阿弥陀、観音、弥勒などのどの浄土とするかなどが絵解きで説明されるようになります。修験者は、本来仏性を持つ聖なる存在であるから、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・縁覚・菩薩・仏の十界に分けられ、懺悔、業秤(修行者を秤にかけてその業をはかる)、水断、開伽(水汲みの作法)、小木(護摩木の採集)、穀断などの正濯頂の十種の修行をすれば成仏することができるのだという思想も語られ始めます。彼らは「死」の儀礼ののちに峰中に入り、十界修行をすれば仏として再生しうると信じて修行に励んだのです。
第5節 修験道文化の民俗(t047_049.htm)

仏としての「能力・験力」を身につけた修験者は、それを誇示するために出峰後は「験競べ」を行ないます。
「験競べ」には、火の操作能力や剣の階段を昇って天界に達することを示す刃わたりなどのような奇術めいたものが多かったようです。神霊や魑魅魍魎が住むとされたお山で修行をし、全国各地を渡り歩いてきた修験者は不思議な呪験力を持つ宗教者として怖れられるようになります。当時は「祟り神」が畏れられた時代でもありました。多くの災厄が修験者の邪悪な活動のせいにされます。同時に、修験者の呪力に頼れば、除災招福、怨霊退散などの効果をもたらしうると信じられるようにもなります。
 源平の争い、南北朝時代など戦乱が相続き、人々が不安におののいた時、験力を看板にした修験者は宗教界のみでなく、政界にも大きな影響を与えるようになります。
修験道とは?天狗を山神に!?【修験道入門編】 | 宗教.jp

さらに修験者は山中の地理にくわしく、敏捷だったこともあって武力集団としても重視されるようになります。

源義経が熊野水軍を、南朝が吉野の修験を、戦国武将が間諜として修験者を用いたのは、こうした彼らの力に頼ろうとしたからだと研究者は考えているようです。
 江戸時代に入ると、修験道の力を警戒した江戸幕府は修験道法度を定め、全国の修験者を次のように分断していきます。
①聖護院の統轄する当山派と
②醍醐の三宝院が統轄する当山派
に分割し、両者を競合させる修験道の分断政策をとります。また羽黒山は、比叡山に直属し、彦山も天台修験別本山として独立させるなど、各勢力の「小型化」を計ります。
さらに幕府は修験者が各地を遊行することを禁じ、彼らを地域社会に定住させようとします。
 自由に全国を回って各地の霊山で修行を行うという「宗教的自由」は制限されます。移動の自由を奪われた修験者たちは、村や街に住み着く以外に術がなくなります。こうして修験者は、地域の霊山を漁場として修行したり、神社の別当となってその祭を主催するようになります。また加持祈祷や符呪販売など、いろいろな呪術宗教的な活動を行い、それらを生活の糧とするようになります。次第に修行をせずに神官化するような修験者も多くなります。
 江戸時代の讃岐の3藩の戸籍台帳を見ていると、どこの村にも修験者(山伏)がいたことがうかがえます。
江戸時代中期以後になって成立した村祭りのプロデーュスを行ったのは、山伏たちだった私は考えています。例えば、以前にお話しした獅子舞などは、山伏たちのネットワークを通じて讃岐に持ち込まれ、急速に普及したのではないと思えます。

明治五年、政府は権現信仰を中心とし淫祠をあずかる修験道を廃止します。
 修験者を聖護院や三宝院の両本山に所属したままで天台・真言の僧侶としました。その際に還俗したり、神官になった修験者も少なくなかったようです。例えば吉野修験は仏教寺院として存続しますが、熊野・羽黒山などは、神社に組織替えします。
 また全国各地の修験者が運営権を握っていた諸山の社寺・権現でも、明治政府の後ろ盾を得た神社に主導権を奪われていきます。こうして教団としての修験道は姿を消します。しかし、全国的な組織の解体を、逆手にとって新たな地方組織として再出発する霊山もありました。それが四国では、剣山の修験組織です。独自の組織を立ち上げ教勢を維持するのです。

梅原猛はこれを「廃仏毀釈という神殺し」と呼んで、次のように述べています。
 仏教は千数百年の間、日本人の精神を養った宗教であった。
廃仏毀釈はこの日本人の精神的血肉となっていた仏教を否定したばかりか、
実は神道も否定したのである。つまり近代国家を作るために必要な国家崇拝あるいは天皇崇拝の神道のみを残して、縄文時代からずっと伝わってきた神道、つまり土着の宗教を殆ど破壊してしまった。
江戸時代までは、・・・天皇家の宗教は明らかに仏教であり、代々の天皇の(多くは)泉涌寺に葬られた。廃仏毀釈によって、明治以降の天皇家は、誕生・結婚・葬儀など全ての行事を神式で行っている。このように考えると廃仏毀釈は、神々の殺害であったと思う。

「縄文時代からずっと伝わってきた神道、つまり土着の宗教」に、最も深く関わっていたのが修験道であり、山伏たちだったのかもしれないと思うようになったこの頃です。

以上、最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
宮家準 修験道と山岳信仰 修験道と日本宗教所収
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古代の人々は、旱魃がどうして起こると考えていたのでしょうか?

 
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綾子踊りを見ていて、不思議に思うことがあります。

1 なぜ、男が女装して踊るのか
2 雨乞い踊りと言いながら詠われている内容は、祈雨祈願とはほど遠い恋の歌など、当時の「流行歌」の歌詞ではないか
3 弘法大師が伝えたと言うが歌われている歌詞の内容は近世のもの。成立年代も近世以後ではないのか
そんな疑問を持ちながら綾子踊りの周辺の雨乞い踊りをもう一度見てみることにします。

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 「綾子踊りの里」佐文は金毘羅さんの裏側にあり、三豊郡との郡境に位置します。隣接する三豊郡では、やよな八千歳踊(県無形民俗文化財)やさいさい踊(市無形民俗文化財)などの小歌踊系の雨乞踊が伝わっています。彌与苗(やよな)踊は地名をとって、「入樋の盆踊」とも呼ばれており、その名の通り元々は盆踊り歌ではないかとされています。当時の人々は、日照り旱魅などの天災や虫害などを、非業の死を遂げたものの崇りと考えていました。そのため死者供養としての盆踊が各地で踊られていました。この盆踊りが雨乞踊のときにも踊られ、神社に奉納された記録が残っています。
  祈雨祈願の成就判定を鰻の白黒で行った大水上神社
三豊市高瀬町の羽方に鎮座する大水上神社は、延喜式で「讃岐二宮」とされている神社で、境内を宮川の源流が流れ、周辺には磐境が散在します。この神社には、雨乞の聖地というべき渕があります。現在の私から見ると岩に囲まれた小川の淵ですが、昔の人たちは鰻渕と呼び、戦前までは霊験が知られた雨乞の聖地でした。二百年前ほど前の天保12年(1812)年「地志撰述草稿(羽方村控)」には、ここで行われた雨乞祈祷について次のように記されています。
一、鯰淵龍王 雨乞之節 里人共渕ヲ干シ 供物持参法施仕候、中黒キ鯰出候時八不日二御利生御座候、白キ鯰出候時八照続キ申候、黒白共不定、往古より今二至迄如何成旱魅二渕水涸る事無御座候」
意訳変換しておくと
 この神社には鯰淵龍王が住んでいる渕がある。雨乞の時には、この渕を干して、お供え物を供える。黒い鰻(史料には「鯰」とありますが鰻の誤り)が出れば利生(雨が降り)、白い鰻が出れば照り続ける。昔から今に至るまで、どんな干ばつでも鰻淵は水が涸れたことがない。
 大勢の村人が見守る中、境内の淵を干し、祈雨の判定を現れた鰻の白黒で行ったということです。このイベントを取り仕切ったのは、真言修験道系の山伏達だったのでないかと私は想像しています。 

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 雨乞祈祷の後に奉納したエシマ踊りとは?

注目したいのは、この後に何が行われたかです。
別の記録では、寛政二年(1790)の大水神神社の記録として次のような記事があります。 
 羽方村のニノ宮社(大水上神社)の雨乞い祈祷の文書(森家文書「諸願覚」)
 右、旱魅の節、右庄屋え雨請い願い、上ノ村且つ御上より酒二本御鯛五つ雨乞い用い候様二仰せ付けられ下され候、尤も頂戴の役人初め太左衛門罷り出で候、代銀二て羽方村指し上げ口口下され候、雨請いの義は村々思い二仕り候様仰せ付けられ候、
右に付き、七月七日 ニノ宮御神前、千五百御神前、金出水神二高松王子エシマ踊り興行いたし、
踊り子三十人計、ウタイ六人計、肝煎、触れ頭サシ候、村中奇今通り、百姓・役人・寺社・庄屋立ち合い相勤め候、寺社御初尾米一升宛御神酒御神前え上げソナエ候、寺社礼暮々相談の故、米五升計差し出し候筈二申し談じ候、右支度の覚え
1 大角足  飯米四斗計
1 一酒壱本
1 昆布 干し大根 にしめ 壱重
1 同かんぴょう 椎茸 壱重
1 昆布 ゴマメイワシ 壱重
    但し是 金山水神高松王子へ用候
    是御上より御肴代下され候筈、
 右、踊り相済み、バン方庄屋処二て壱踊り致し、ひらき申し候
干ばつの時に、村役人に願い出て雨乞いを行った際に、上ノ村やお上から雨乞用に酒と鯛をいただき御神前に供えたことが記されています。その後、二宮神社、同境内の千五百王皇子祠と金出水神、上土井の高松皇子大権現に「エシマ踊り」を雨乞のために奉納したとあります。
 エシマ踊りの編成については「踊り子三拾人計、ウタイ六人計」とあり、綾子踊りの編成に近いことが分かります。どのような踊りか、歌詞の内容なども伝わっていないので分かりません。
しかし、盆踊としても踊られる風流系小歌踊の可能性が高く、現在は伝承されていないものの上麻地区の綾子姫・綾子踊伝承と関わりがある可能性があります。そのような系譜の上に佐文の綾子踊りがあるのだと私は推測しています。
 「昔は雨が降るまで、踊り続けていた」
という古老の言葉は、何時間も踊っていたことを示しています。その長丁場の中、盆踊歌や風流歌など当時の村々に伝わっていた歌を全て歌って、踊って奉納したと言うことではないでしょうか。
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 雨乞いの特徴は、御利生(雨が降ること)が得られるまで、いくつかの方法を段階的に行ったり、組み合わせて行います。また降雨という願いが叶うまで、踊る対象を次第に大きくしていきます。綾子踊でも、村踊、郡踊、国踊と、雨がなければ、次第に規模を大きくして行ったと伝わっています。
 そして、願いかなって雨が降った場合は、御礼参りや御礼踊をすることが通例でした。
願ほどきだったのでしょうが、近代に盛んに行われた金刀比羅宮への火もらいでも、雨が降ると必ず御礼参りにいっていました。
 
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