瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:天狗信仰

石堂山
石堂神社から石堂山まで
つるぎ町半田の奥にそびえる石堂山は、かつては石堂大権現とよばれる信仰の山でした。
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標高1200mと記された看板
 現在の石堂神社は1200mの稜線に東面して鎮座しています。もともとこの地は、半田と木屋平を結ぶ峠道が通じていたようです。そこに石堂山の遙拝地であり、参拝登山の前泊地として整備されたのが現在の石堂神社の「祖型」だと私は推察しています。県道304号からアップダウンの厳しいダートの道を越えてくると、開けた空間が現れホッとしました。東向きに鎮座する本堂にお参りして、腰を下ろして考えます。

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 スチールの鳥居が白く輝く石堂神社

 かつて石堂山は、明治維新の神仏分離までは、石堂大権現と呼ばれていました。金比羅大権現と同じように、修験者が信仰する霊山で、行場や頂上には様々な神々が祀られていました。

石堂山2
石堂神社からの石堂大権現の霊山
そのエリアは、風呂塔 → 火上山 → 白滝山 → 石堂山 → 矢筈山を含む一円だったようです。このエリアを修験者たちは行場として活動していたようです。ここで修行を積んで験を高めた修験者たちは、各地に出向いて信仰・医療・広報活動を行い、信者を増やし、講を組織します。そして、夏の大祭には先達として信者達を連れて、本山の石堂大権現に参拝登攀に訪れるようになります。それは石鎚参拝登山と同じです。石鎚参拝登山でも、前神寺や横峰寺など拠点となった山岳寺院がありました。同じように、石堂大権現の拠点寺となったのが井川町の地福寺であり、半田町の多門寺であることを前回にお話ししました。
 先達山伏は、連れて来た信者達を石堂山山頂近くの「お塔石」まで導かなければなりません。そのためには参拝道の整備ととともに、山頂付近で宿泊のできる施設が必要になります。それはできれば、朝日を浴びる東向きの稜線上にあることがふさわしかったはずです。そういう意味では、この神社の位置はピッタリのロケーションです。

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明るく開けた石堂神社の神域
  現在の石堂神社には、素盞嗚尊・大山祇尊・嵯峨天皇の三柱の祭神が祭られているようです。

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石堂神社拝殿横の祠と祀られている祭神
しかし、拝殿横の小さな祠には、次のような神々が祀られています。
①白竜神 (百米先の山中に祭る)
②役行者神変(えんのぎょうじゃ じんべん)大菩薩
③大山祇命
どうやらこの三神が石堂大権現時代の祭神だったようです。神仏分離によって本殿から追い出され、ここに祀られるようになったのでしょう。
役行者と修験道の世界 : 山岳信仰の秘宝 : 役行者神変大菩薩一三〇〇年遠忌記念(大阪市立美術館 編) / ハナ書房 /  古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋
役行者(えんのぎょうじゃ)

②の役行者は修験道の開祖とされる人物で、「神変」は没後千年以上の後に寛政2年(1799年)に光格天皇から送られた諡号です。
③の大山祇命(オオヤマツミ)の「ツ」は「の」、「ミ」は神霊の意なので、「オオヤマツミ」は「大いなる山の神」という意味で、三島神社(三嶋神社)や山神社(山神神社)の多くでも主祭神として祀られています。石堂大権現に祭る神としては相応しい神です。

問題は①の白竜神です。竜は龍神伝説や善女龍王伝説などから雨乞いとからんで信仰されることがあるようですが、讃岐と違って阿波では雨乞い伝説はあまり聞きません。考えられるのは、「白滝山」から転じたもので、白滝山に祀られていた神ではないのかと私は考えています。「百米先の山中に祭る」とあるので、早速行って見ることにします。

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石堂山への参道登山口(石堂神社の鳥居)
 持っていく物を調えて、参拝道の入口に立つ鳥居をくぐります。もみじの紅葉が迎えてくれます。

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最初の上りを登って振り返ると、石堂神社の赤い屋根が見えます。
そして前方に開けてきたのが「磐座の広場」です。

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白竜神を祀る磐座(いわくら)群

石灰岩の大小の石が高低差をもって並んでいます。古代神道では、このような巨石には神が降り立つ磐座(いわくら)と考え、神聖な場所とされてきました。その流れを汲む中世の山伏たちも磐座信仰を持っていました。
金毘羅神
天狗姿で描かれた金毘羅大権現
 修験者は天狗になるために修行をしていたともいわれます。そのため天狗信仰の強かった金毘羅大権現では、金毘羅神は天狗姿で描かれているものもあります。修験者にとって天狗は、憧れの存在でした。

天狗 烏天狗
霊山に宿る仏達(右)と天狗たち(左)
聖なる山々に棲む天狗が集って集会を開くのが「磐座の広場」でした。決められた岩の上に、決められた天狗たちが座するとされました。修験者には、この磐座群に多くの天狗達が座っていたのが見えたのかもしれません。それを絵にしてイメージ化したものが金毘羅大権現にも残っています。

Cg-FlT6UkAAFZq0金毘羅大権現
 金毘羅大権現と天狗達(金毘羅大権現の別当金光院が出していた)

つまり、石堂神社の裏手の山は上の絵のように、石堂大権現と天狗達の集会所として聖地だったと、私は「妄想」しています。そうだとすれば、石堂大権現が座ったのは、中央の大きな磐座だったはずです。

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白竜神を祀る磐座(いわくら)群(石堂神社裏)

ここも修験者たちにとっては聖なる場所のひとつで、その下に遙拝所としての石堂神社が鎮座しているとも考えられます。
下の地図で①が石堂神社、②が白竜神の磐座です。

石堂神社

ここから③の三角点までは、標高差100mほどの上りが続きます。しかし、南側が大規模に伐採中なので展望が開けます。

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南側の黒笠山から津志獄方面
南側の山陵の黒笠山から津志獄へと落ちていく稜線がくっきりと見えます。
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黒笠山から津志獄方面の稜線

いったん平坦になった展望のきく稜線が終わって、ひとのぼりすると③の三角点(1335、4m)があります。

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三角点(1335、4m)
この三角点の点名は「石小屋」です。この附近に、籠堂的な岩屋があったのかもしれません。
 この附近までは北側は、檜やもみの針葉樹林帯で北側の展望はききません。その中に現れた道標です。

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林道分岐まで2㎞とあります。分岐から石堂神社までが1㎞でしたから、石堂神社から1㎞地点になります。
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          小さな二重山陵がつづく
この附近は南側(左)がミズナラやダケカンバの広葉樹、北側(右)が檜やモミなどの針葉樹が続きます。その間に小さな二重稜線が見られます。これは矢筈山の西側稜線にも続いています。 二重稜線とは、稜線が二重に並走し,中間に凹地が出来ている地形で、時に沼沢地や湿地などを生み出します。そのため変化のある風景や植物環境が楽しめたりします。
 標高1400mあたりまでくると大きなブナが迎えてくれました。

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ブナの木
この山でブナに出会えるとは思っていなかったので、嬉しくなって周辺の大きなブナを探して見ました。石堂山の大ブナ紹介です。

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後は黒笠山

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稜線上のブナ 私が見つけた中では一番根回りが太い

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ブナ林の中から見えた吉野川方面
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拡大して見ると、
直下が半田川沿いの集落、左手が半田、右が貞光方面。その向こうに連なるのが阿讃山脈。この範囲の信者達が大祭の日には、石堂山を目指したはずです。

石堂神社

④のあたりが大きなブナがあるところで標高1400mあたりの稜線になります。④からは急登になって、南側からトラバースするようにして白滝山のすぐ南の稜線に出て行きます。そこにあるのが⑥の道標です。
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白滝山と石堂山の分岐点。(林道まで3㎞:
地面におちた方には「白滝山 100m」とあります
笹の中の歩きやすい稜線を少し歩くと白滝山の頂上です。
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白滝山頂上
白滝山頂上は灌木に囲まれて、展望はいまひとつです。あまり特徴のない山のように思えますが、地図や記録などをみると周辺には断崖や
切り立った岩場があるようです。これらを修験者たちは「瀧」と呼びました。そんな場所は水が流れて居なくても「瀧」で行場だったのです。白滝山周辺も、白い石灰岩の岩場があり「白滝」と呼ばれていたと私は考えています。つまり、石堂山系の中の行場のひとつであったのです。そして、この山から北に続く火上山では、修験者たちが修行の節目に大きな護摩祈祷を行った山であることは以前にお話ししました。
石堂山から風呂塔
北側上空からの石堂山系俯瞰図
 今回はここまでです。最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
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 近世の金毘羅では、封建的領主でもある松尾寺別当の金光院に5つの子院が奉仕するという体制がとられていました。
その中で多聞院は、金毘羅山内で特別の存在になっていきます。ときにはそれが、金光院に対して批判的な態度となってあらわれることあったことが史料からは見えてきます。また、多聞院に残された史料は、金光院の「公式記録」とは、食い違うことが書かれているものがいくつもあります。そして比べて見ると、金光院の史料の方が形式的であるのに対して、多聞院の史料の方が具体的で、リアルで実際の姿を伝えていると研究者は考えているようです。どちらにしても、別の視点から見た金毘羅山内の様子を伝えてくれる貴重な史料です。

金毘羅神 箸蔵寺
箸蔵寺の金毘羅大権現

 近世初期の金毘羅は、修験者の聖地で天狗道で世に知られるようになっていました。
 公的文書で初代金光院院主とされる宥盛は「死後は天狗となって金毘羅を守らん」と云って亡くなったとも伝えられます。彼は天狗道=修験道」の指導者としても有名で、数多くの有能な修験者を育てています。その一人が初代の多聞院院主となる片岡熊野助です。宥盛を頼って、土佐から金毘羅にやってきた熊野助は、その下で修験者として育てられます。

天狗達
金毘羅大権現と大天狗と烏天狗(拡大)
 修験(天狗道)の面では、宥盛の後継者を自認する多聞院は、後になると「もともとは当山派修験を兼帯していた金光院のその方面を代行している」と主張するようになります。しかし、金光院の史料に、それをしめすものはないようです。

1金毘羅天狗信仰 天狗面G4
天狗信者が金毘羅大権現に納めた天狗面
 
金光院の初期の院主たちは「天狗道のメッカ」の指導者に相応しく、峰入りを行っていて、帯剣もしています。そういう意味でも真言僧侶であり、修験者であったことが分かります。しかし、時代を経るにつれて自ら峰入りする院主はいなくなります。それに対して歴代の多聞院院主は、修験者として入峯を実際に行っています。

松尾寺の金毘羅大権現像
松尾寺の金毘羅大権現

宝暦九(1760)年の「金光院日帳」の「日帳枝折」には、次のように記されています。

「六月廿二日、多聞院、民部召連入峯之事」

天保4(1833)年に隠居した多聞院章範の日記には、大峰入峯を終えた後に、近郷の大庄屋に頼み配札したことが書かれています。
多聞院が嫡男民部を連れて入峯することは、天保四年の「規則書」の記事とも符合します。
 次に多聞院の院主の継承手続きや儀式が当山派の醍醐寺・三宝院の指導によって行われていたことを見ておきましょう。
(前略)多聞院儀者先師宥盛弟子筋二而 同人代より登山為致多聞院代々嫡子之内民部与名附親多聞院召連致入峯 三宝院御門主江罷出利生院与相改兼而役用等茂為見習同院相続人二相定可申段三宝院御門主江申出させ置多聞院継目之節者 拙院手元二而申達同院相続仕候日より則多聞院与相名乗役儀等も申渡侯尤此元二而相続相済院上又々入峯仕三宝院 御門主江罷出相続仕候段相届任官等仕罷帰候節於当山奥書院致目見万々無滞相済満足之段申渡来院(後略)
意訳変換しておくと
(前略)多聞院については、金光院初代の先師宥盛弟子筋であり、その時代から大峰入峯を行ってきた。その際に、多聞院の代々嫡子は民部と名告り、多聞院が召連れて入峯してきた。そして三宝院御門主に拝謁後に利生院と改めて、役用などの見習を行いながら同院相続人に定められた。このことは、三宝院御門主へもご存じの通りである。
 多聞院継目を相続する者は、拙院の手元に置いて指導を行い、多聞院を相続した日から多聞院を名告ることもしきたりも申渡している。相続の手続きや儀式が終了後に、又入峯して三宝院御門主へその旨を報告し、任官手続きなどを当山奥書院で行った後に来院する(後略)

ここには多聞院の相続が、醍醐寺の三宝院門主の承認の下に進めらる格式あるものであることが強調されています。金光院に仕えるその他の子院とは、ランクが違うと胸を張って自慢しているようにも思えてきます。
 このように多聞院に残る「古老伝」には、修験の記事が詳しく具体的に記されています。現実味があって最も信憑性があると研究者は考えているようです。そのため当時の金毘羅の状況を知る際の根本史料ともされるべきだと云います。 
新編香川叢書 史料篇 2(香川県教育委員会 編) / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋

それでは、古老伝旧記 ( 香川叢書史料編226p)を見ておきましょう。

    古老伝旧記 
〔古老伝旧記〕○香川県綾歌郡国分寺町新名片岡清氏蔵
(表紙) 証記 「当院代々外他見無用」
極秘書
古老之物語聞伝、春雨之徒然なる儘、取集子々孫々のためと、延享四(1748)年 七十余歳老翁書記置事、かならす子孫之外他見無用之物也。

「古老伝旧記」は多聞院四代慶範が延享4年(1744)に記述、九代文範が補筆、十代章範が更に補筆、補修を加えたもので、文政5年(1822)の日付があります。古老日記の表紙には、「当院代々外他見無用」で「極秘書」と記されています。そして1748年に当時の多聞院院主が、子孫のために書き残すもので、「部外秘」であると重ねて記しています。ここからは、この書が公開されないことを前提に、子孫のために伝え聞いていたことをありのままに書き残した「私記」であることが分かります。それだけに信憑性が高いと研究者は考えています。
天狗面を背負う行者
天狗行者
例えば金毘羅については、次のように記されています。
一、当国那珂郡小松庄金毘羅山之麓に、西山村と云村有之、今金毘羅社領之内也、松尾寺と云故に今は松尾村と云、西山村之事也、
讃岐国中之絵図生駒氏より当山へ御寄附有之、右絵図に西山村記有之也、
一、金昆羅と申すは、権現之名号也、
一、山号は、象頭山   
一、寺号は、松尾寺
一、院号は、金光院    
一、坊号は、中の坊
社領三百三拾石は、国主代々御領主代々数百年已前、度々に寄附有之由申伝、都合三百三拾石也、
当山往古火災有之焼失、宝物・縁記等無之由、高松大守 松平讃岐守頼重公、縁記御寄附有之、
意訳変換しておくと
一、讃岐国那珂郡小松庄金毘羅山の麓に、西山村という村がある。今は金毘羅の社領となっていて、松尾寺があるために、松尾村とよばれているが、もともとは西山村のことである。
讃岐国中の絵図(正保の国絵図?)が、生駒氏より当山へ寄附されているが、その絵図には西山村と記されている。
一、金昆羅というのは、権現の名号である。
一、山号は、象頭山   
一、寺号は、松尾寺
一、院号は、金光院    
一、坊号は、中の坊
社領330石は、国主や御領主から代々数百年前から度々に寄附されてきたものと言い伝えられていて、それが、都合全部で330石になる。当山は往古の火災で宝物・縁記等を焼失し、いまはないので、高松大守 松平讃岐守頼重公が縁記を寄附していただいたものがある。
①生駒家から寄贈された国絵図がある
②坊号が中の坊
③松平頼重より寄贈された金毘羅大権現の縁起はある。
天狗面2カラー
金毘羅に奉納された天狗面
歴代の金光院院主については、次のように記されています。
金光院主之事   227p
一、宥範上人 観応三千辰年七月朔日、遷化と云、
観応三年より元亀元年迄弐百十九年、此間院主代々不相知、
一、有珂(雅) 年号不知、此院主西長尾城主合戦之時分加勢有之、鵜足津細川へ討負出院之山、其時当山の宝物・縁記等取持、和泉国へ立退被申山、又堺へ被越候様にも申伝、
一、宥遍 一死亀元度午年十月十二日、遷化と云、
元亀元年より慶長五年迄三十一年、此院主権現之御廟を開拝見有之山、死骸箸洗に有之由申伝、
意訳変換しておくと   
一、宥範上人 観応三(1353)年7月朔日、遷化という。その後の観応三年より元亀元年までの219年の間の院主については分からない。

宥範は善通寺中興の名僧とされて、中讃地区では最も名声を得ていた高篠出身の僧侶です。長尾氏出身の宥雅が新たに松尾寺を創建する際に、その箔をつけるために宥範を創始者と「偽作」したと研究者は考えています。こうして金毘羅の創建を14世紀半ばまで遡らせようとします。しかし、その間の院主がいないので「(その後の)219年の間の院主については、分からない」ということになるようです。
  一、有珂(雅)  没年は年号は分からない。
この院主は西長尾城の合戦時のときに長尾氏を加勢し、敗北して鵜足津の細川氏を頼って当山を出た。その時に当山の宝物・縁記は全て持ち去り、その後、和泉国へ立退き、堺で亡命生活を送った。
宥雅が金毘羅神を作り出し、金比羅堂を創建したことは以前にお話ししました。つまり、金毘羅の創始者は宥雅です。しかし、宥雅は「当山の宝物・縁記は全て持ち去り、堺に亡命」したこと、そして、金光院院主と金比羅の相続権をめぐって控訴したことから金光院の歴代院主からは抹消された存在になっています。多聞院の残した古老伝が、宥雅の手がかりを与えてくれます。
  一、宥遍  元亀元年十月十二日、遷化と云、
元亀元(1570)年より慶長五(1600)年まで31年間に渡って院主を務めた。金毘羅大権現の御廟を開けてその姿を拝見しようとし、死骸が箸洗で見つかったと言い伝えられている院主である。
宥遍が云うには、我は住職として金毘維権現の尊体を拝見しておく必要があると云って、、御廟を開けて拝見したところ、御尊体は打あをのいて、斜眼(にらみ)つけてきた。それを見た宥遍は身毛も立ち、恐れおののいて寺に帰ってきた。そのことを弟子たちにも語り、兎角今夜中に、我体は無事ではありえないかもしれない、覚悟をしておくようにと申渡して、護摩壇を設営して修法に勤めた。そのまわりを囲んで塞ぎ、勤番の弟子たちが大勢詰めた。しかし、夜中に何方ともなくいなくなった。翌日になって山中を探していると、南の山箸洗という所に、その体が引き裂かれて松にかけられていた。いつも身につけている剣もその脇に落ちていた。この剣は今は院内宝蔵に収められている。
  ここには金毘羅大権現の尊体を垣間見た宥遍が引き裂かれて松に吊されたという奇話が書かれています。もともと宥遍と云う院主は金毘羅にはいません。宥雅の存在を抹消したために、宥盛以前の金比羅の存在を説くために、何らかの院主を挿入する必要があり、創作されたようです。そこで語られる物語も奇譚的で、いかにも修験者たちが語りそうなものです。

7 金刀比羅宮 愛宕天狗
愛宕天狗

 なお、この中で注目しておきたいのは、次の2点です。
①宥遍には多くの弟子がいて、護摩壇祈祷の際には宥遍を、勤番の弟子たちが大勢詰めたとあること。
②「いつも身につけている剣もその脇に落ちていた。」とあり、常に帯刀していたこと。
ここからも当時の金光院院主をとりまく世界が「修験者=天狗」集団であったことがうかがえます。これは金毘羅大権現の絵図に描かれている世界です。

金毘羅と天狗
金毘羅大権現と天狗たち(修験者)
以上見てきたように多聞院に残された古老伝は、正式文書にはないリアルな話に満ちていて、私にとっては興味深い内容で一杯です。

最後に 金光院宥典が多聞院宥醒(片岡熊野助)を頼りとしていたことがうかがえる史料を見ておきましょう。古老伝旧記の多開院元祖宥醒法印(香川叢書史料編Ⅰ 240P)には次のように記されています。
万治年中病死已後、宥典法印御懇意之余り、法事等之義は、晩之法事は多聞院範清宅にて仕侯得は、朝之御法事は御寺にて有之、出家中其外座頭迄之布施等は、御寺より被造候事、

意訳変換しておくと
万治年中(1658~60)に多開院元祖宥醒の病死後、宥典法印は懇意であったので、宥醒の晩の法事は多聞院範清宅にて行い、朝の御法事は御寺(松尾寺?)にて行うようになった。僧侶やその他の座頭衆などの布施も、金光院が支払っていた。


 
「高瀬のむかし話」(高瀬町教育委員会平成14年)を、読んでいると「琴浦のだんじきさん」という話に出会いました。この昔話には、金刀比羅宮の奥社が修験者たちの修行ゲレンデであったことが伝えられています。そのむかし話を見ておきましょう。

高瀬町琴浦

  琴浦のだんじき(断食)さん
上麻の琴浦という地名は、琴平の裏に当たるところから付けられたものです。琴平には「讃岐のこんぴらさん」で昔から全国に知られた金刀比羅宮があります。金刀比羅宮の奥の院のうしろに天狗の面がかかった岩があり、「天狗岩」と呼ばれています。天狗岩の周辺は、昔から、たくさんの人が、修行をしに来る場所として知られていました。
江戸時代の話です。
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金刀比羅宮奥社と背後の「天狗岩」

江戸の町から来た定七さんも、天狗岩のそばで修行しているたくさんの人の中の一人でした。修行とは、自分から困難なことに立ち向かい、困難に耐えて、精神や身体をきたえ、祈ったり考えたりするものでした。それで、何日も何も食べないで水だけを飲んで過ごしたり、
足がどんなに痛くても座り続けていたり、高いところから何度も何度も飛び降りたり、冷たい水を頭からざばざばとぶっかけたりして、がんばるのでした。

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天狗岩に掛けられた「天狗」と「烏天狗」の面

定七さんは、何日も水を飲むだけで何も食べない「だんじき」という修行を選びました。天狗岩には、定七さんのほかにも「だんじき」する人がたくさんいましたが、お互いに話をする人はいません。自分一人でお経をとなえたり考えたりすることが修行では大切なことだと考えられていたのです。
定七さんは、何日も何日も、何も食べないで修行にはげみました。食べないのでだんだん体がやせてきました。定七さんの横にも「だんじき」して修行している人がいました。その人も、食べないのでだんだん体がやせてきました。

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      天狗岩の「天狗」と「烏天狗」の面

定七さんは、苦しくてもがんばりました。横の人もがんばっていました。ある日、横の人は苦しさに負けたのか、根がつきたのか、とうとう動かなくなってしまいました。そして、だれかに引き取られていきました。それでも、定七さんは、 一生けんめいに修行うしてがんばりました。でも、ある日、とうとう力がつきて、定七さんは、動けなくなってしまいました。自分の修行を「まだ足りない、まだ足りないと思って、頑張っているうちに息が絶えてしまったのです。

天狗面を背負う行者 浮世絵2
浮世絵に描かれた金毘羅行者

ちょうどその時、奥の院へお参りに行っていた琴浦の人が、横たわっている定七さんを見つけました。信心深かったこの人は、倒れている行者さんを、そのままにしておくことはできませんでした。琴浦へつれて帰り、自分の家のお墓の近くに、定七さんのお墓を建てて、とむらったのです。
 そういうわけで、琴浦に「だんじきさん」と呼ばれる古いお墓があります。墓石には「江戸芝口町三丁目伊吹屋清兵衛倅 定七 法名 観月院道仙信士」と刻まれています。

天狗面を背負う行者
天狗面を奉納に金毘羅にやってきた金毘羅行者

ここには次のような事が記されています。
①金刀比羅宮の奥の院のうしろに天狗の面がかかった岩は、「天狗岩」とよばれていた
② 天狗岩の周辺は、修験者の修行ゲレンデであった。
③そこでは断食などの修行にはげむ修験者たちが、数多くいた。
④断食で息絶えた行者を琴浦に葬り、「江戸芝口町三丁目伊吹屋清兵衛倅 定七 法名 観月院道仙信士」という墓石が建てられている。

 近世初頭に流行神として登場してきた金毘羅神は、土佐からやって来た修験道リーダーの宥厳によって、天狗道の神とされます。その後を継いだ宥盛も、修験道の指導者で数多くの修験道者を育てると供に、象頭山を讃岐における修験道の中心地にしていきます。その後に続く金光院院主たちも、高野山で学んだ修験者たちでした。つまり、近世はじめの象頭山は、「海の神様」というかけらはどこにもなく、修験道の中心地として存在していたと、ことひら町史は記します。修験者たちは、修行して験力を身につけ天狗になることを目指しました。
Cg-FlT6UkAAFZq0金毘羅大権現
金毘羅大権現と天狗たち

 例えば江戸時代中期(1715年)に、大坂の吉林堂から出された百科辞書の『和漢三才図絵』(巻七九)には、次のように記されています。
 相伝ふ、当山(金毘羅大権現)の天狗を金毘羅坊と名づく。之を祈りて霊験多く崇る所も亦甚だ厳し。

また、江戸中期の国学者、天野信景著の『塩尻』には、次のように記されています。
  讃州象頭山は金毘羅を祀す。其像、座して三尺余、僧形也。いとすさまじき面貌にて、今の修験者の所載の頭巾を蒙り、手に羽団を取る。薬師十二将の像とは、甚だ異なりとかや。

ここからは江戸中期には金毘羅宮の祭神は、僧(山伏)の姿をしていて団扇を持った天狗で、十二神将のクビラ神とはまったくちがう姿であったことが報告されています。『塩尻』に出てくる修験者の姿の木像とは、実は初代金光院主とされる宥盛の姿です。観音堂の裏には威徳殿という建物があって、その中には、次のような名の入った木像がありました。
天狗道沙門金剛坊形像、当山中興権大僧都法印宥盛、千時慶長拾壱年丙午拾月如意月
金毘羅大権現像 松尾寺
初代金光院院主の宥盛は天狗道沙門と名乗り、彼が手彫りで作った金剛坊形像が「松尾寺では金毘羅大権現像」として伝わっていたというのです。
CPWXEunUcAAxDkg金毘羅大権現
金毘羅大権現
 ここからは宥厳や宥盛が、金毘羅信仰の中に天狗信仰をとり入れ定着させた人物であったことが分かります。宥盛は修験道と天狗信仰を深く実践し、死後は天狗になって金毘羅宮を守ると遺言して亡くなり、観音堂のそばにまつられます。宥盛は死後、象頭山金剛坊という天狗になったとされ、金剛坊は金毘羅信仰の中心として信仰を集めるようになります。これは白峰の崇徳上皇と相模坊の関係と似ています。
天狗面2カラー
金刀比羅宮に奉納された天狗面

 戦国末期の金比羅の指導者となった土佐出身の宥厳やその弟弟子にあたる宥盛によって、象頭山は修験・天狗道の拠点となっていきます。宥盛は、初代金光院院主とされ、現在では奥の院に神として祀られています。奥の院は、このむかし話に出てくる天狗岩がある所で、定七が「だんじき修行」をおこなった所です。 
 琴浦に葬られた定七の墓石には「江戸芝口町三丁目伊吹屋清兵衛倅 定七 法名 観月院道仙信士」と掘られているようです。定七も、天狗信仰のメッカである象頭山に「天狗修行」にやってきて、天狗岩での修行中になくなった修験者だったのでしょう。
 彼以外に多くの修験者(山伏)たちが象頭山では、修行を行っていたことがこの昔話には記されています。金毘羅神が「海の神様」として、庶民信仰を集めるようになるのは近世末になってからだと研究者は考えているようです。金毘羅信仰は、金比羅行者が修行を行い、その行者たちが全国に布教活動を行いながら拠点を構えていったようです。金毘羅信仰の拡大には、このような金毘羅行者たちの存在があったと近年の研究者は考えているようです。
  このむかし話は「近世の金毘羅大権現=修験道の行場=天狗信仰の中心」説を、伝承面でも裏付ける史料になるようです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
引用文献  「高瀬のむかし話」( 高瀬町教育委員会平成14年)

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丸金

金刀比羅宮のシンボルとして使われているのが金の字のまわりを、丸で囲った「丸金」紋です。この「九金紋」が、いつ頃から、どういう事情で使われ出したのかを見ていくことにします。テキストは「羽床正明 丸金紋の由来 ―金昆羅大権現の紋について― ことひら 平成11年」です。
丸亀うちわ(まるがめうちわ)の特徴 や歴史- KOGEI JAPAN(コウゲイジャパン)

「丸金紋」を全国に広めたのが丸亀団扇だと云われます。
赤い和紙を張った団扇に、黒字で「丸金」とかかれたものです。これが金毘羅参詣の土産として、九亀藩の下級武士の内職で作られ始めたとされます。その経緯は、天明年間(1781~88)の頃、豊前の中津藩と丸亀藩の江戸屋敷が隣合せであったことが縁になりました。隣同士と云うことで、江戸の留守居役瀬山四郎兵衛重嘉が、中津藩の家中より団扇づくりを習います。それを江戸屋敷の家中の副業として奨励したのが丸亀団扇の起こりと伝えられます。
 幕末に九亀藩の作成した『西讃府志』によると、安政年間(1854~59)には、年産80万本に達したと記されています。その頃の金昆羅信仰は、文化・文政(1804~29)の頃には全国的な拡大を終えて、天保(1830~)の頃には「丸金か京六か」という諺を生み出しています。京六とは京都六条にあった東本願寺のことで、金刀比羅宮とともに信仰の地として大いに栄えました。

金刀比羅宮で「丸金」紋が使われるようになったのは、いつ頃からなのでしょうか。

丸金鬼瓦2

松尾寺の金堂(薬師堂=現在の旭社)には、唐破風の上の鬼瓦に、「金」の古字の「丸金紋」が載っています。

丸金 旭社瓦

この鬼瓦とセットで使用されていた軒平瓦も、金刀比羅宮の学芸参考館に陳列されています。「金」の略字の両脇に、唐草文を均整に配した優美なもので、黒い釉薬が鳥羽玉色の光沢をはなっています。説明には、瓦の重量が支えきれずに鋼板葺きに、葺きかえられた時に下ろされたと記されています。旭社(松尾寺金堂=薬師堂)の屋根が重すぎて、銅板葺きで完成したのは天保十一年(1840)の秋です。

金刀比羅宮大注連縄会 活動状況 - 高松市浅野校区コミュニティの公式ホームページです。

金刀比羅宮に奉納された絵馬に「丸金紋」がみられるようになるのは、19世紀後半からで、次のようなものに見えるようになります。
宝物館の絵馬図の中に「丸金紋」を縁の飾り金具として使った天狗の絵馬
②万延元年(1860)奉納の「彫市作文身侠客図」絵馬
③安政四年(1857)宥盛の大僧正追贈を祝って奉納された品の中
④明治11年(1878)再建の本宮の「丸金紋」
⑤神輿の紋も、江戸末期は巴紋だったのが、明治以後に丸金紋に変更。
 丸金文は、金毘羅大権現の創建当初から用いられていたと思っていましたが、どうもそうではないようです。残された史料から分かることは、19世紀になって使われはじめ、その起源は金毘羅参詣の土産の団扇にあって、「丸」は丸亀の丸であるという説が説得力を持つように思えてきます。

金刀比羅宮 丸金紋の起源
金刀比羅宮の丸金紋の起源
 九亀団扇が「丸金紋」を全国に広めたことは確かなようで、赤い紙に黒く「丸金紋」がかかれた団扇は、江戸時代の図案としては斬新なもので人気があったようです。また当時の旅は徒歩でしたから、軽い団扇は土産としても適していました。

Cg-FlT6UkAAFZq0金毘羅大権現
金毘羅大権現と天狗たち
 近世前半の金刀比羅官は「海の神様」よりも、修験者によって支えられた天狗信仰で栄えていました。
 松尾寺住職の宥盛は修験者で、亡くなった後は天狗になって象頭山金剛坊として祀られていました。その眷属の黒眷属金昆羅坊も全国の修験者の信仰対象でした。また、讃岐に流された崇徳上皇は、怨霊化して天狗になったたと信じられ、京都の安井金刀比羅宮などでは「崇徳上皇=天狗=金昆羅神」とされるようになります。数多く作られた金昆羅案内図の中には、天狗面や天狗の持物の羽団扇が描かれたものがあります。大天狗は翼をもたないかわりに、手にした羽団扇を使って空を飛ぶとされたことは以前にお話ししました。

天狗の団扇
天狗信仰と団扇(うちわ)

金刀比羅官では「丸金紋」以前には、天狗の持物の羽団扇が紋として使われたようです。
天狗の紋に羽団扇を使ったのは、富士浅問神社大宮司家の富士氏に始まるようです。富士氏の紋が棕櫚の葉であり、富士には大天狗の富士太郎、別名陀羅尼坊がすむとされました。そのため社紋であった「棕櫚葉」が流用されて、よそでも天狗の紋に棕櫚葉が使われるようになります。そして、次第に棕櫚葉団扇と鷹の羽団扇が混用され、天狗の紋としては棕櫚葉団扇の方が多くなります。しかし、狂言などではいまでも、鷹の羽の羽団扇が使われているようです。

天狗の羽団扇
狂言に用いられる天狗の持つ羽団扇

金刀比羅官で棕櫚葉団扇が、使用された背景を整理しておきます
①「金毘羅神=天狗」である。
②大天狗は羽団扇を使って空を飛ぶ
①②からもともとは、金刀比羅宮でも棕櫚葉(しゅろのは)団扇の紋が使われていたようです。ところが金昆羅参詣みやげの「丸金紋」の方が全国的に有名になります。そうすると金刀比羅宮でも、これを金比羅の紋として使うようになります。
棕櫚(すろ)とは? 意味や使い方 - コトバンク
棕櫚葉団扇

 一方、天狗信仰では、天狗の紋と棕櫚葉団扇が広く普及しています。そこで天狗信仰のメッカでもあった金毘羅大権現では、棕櫚葉団扇もそのまま使用します。棕櫚葉団扇の紋は、金昆羅案内図や金刀比羅宮に奉納された絵馬などに使われています。棕櫚葉団扇は金刀比羅官の紋というよりは、 一般的な天狗の紋として使われたことを押さえておきます。
棕櫚葉団扇の紋だけは、金刀比羅官だと特定することはできません。
 これに対して「丸金紋」の方は、金刀比羅官だと特定できます。こちらの方がシンボルマークとしては機能的です。そのために19世紀中頃以後は、「丸金紋」が盛んに使われるようになります。
 丸金紋3様
丸金紋・巴紋・棕櫚葉団扇
棕櫚葉団扇と同じく、普遍性のある紋として使われたのが、巴紋であった。
江戸末期の金刀比羅宮の神興の紋は巴紋でした。旭社(松尾寺の金堂)の屋根にも、巴紋が使われています。巴紋は神社仏閣などで普遍的に使われた紋で、金刀比羅宮でもその伝統にのっとって、巴紋を使用したのでしょう。
巴 - Wikipedia
巴(ともえ)紋

巴紋の起源は、弓を引く時に使う鞆(とも)であったとされています。

丸金紋と巴紋 鞆とは
弓を引く時に使う鞆(とも)
昔の朝廷では、古代宮中行事の追難儀礼を行っていました。方相氏という四つ目の大鬼の姿をした者が、鉾と楯を持って現れて、鉾で楯を打ったのを合図にして、一斉に桑の弓、蓬の矢、桃の枝などで塩鬼を追い払う所作をします。桑の弓や蓬の矢は、古代中国で男子出産を祝って使われた呪具で、これで天地四方を射ることにより、その子が将来に雄飛できるよう祈ったのです。
 日本でも弓矢を使った呪術は「源氏物語」夕顔の巻に出てきます。
源氏の君は、家来に怨霊を退散させるために弓の弦を鳴らさせているし、承久本『北野天神縁起』によると出産の際に物怪退散を願って弓の弦を鳴らす呪禁師が描かれています。
ここからは、弓は悪魔を追い払う呪具で、弓を引く時に使う鞆にも悪魔を追い払う力が宿ると考えられていたことが分かります。こうして、神社仏閣の屋根では巴紋の瓦が使われるようになります。

讃岐地方でも鎌倉時代になると、神社仏閣の屋根で巴紋の瓦が葺かれるようになります。

金毘羅の丸金紋
金刀比羅宮の3つの紋の由来
棕櫚葉団扇は天狗の、巳紋は神社仏閣の、それぞれ普遍的な紋でした。そのため別当松尾寺や金刀比羅宮でも、その伝統に従ってこの二つの紋を用いました。
 これに対して、金昆羅参詣みやげの九亀団扇から生まれた「丸金紋」は、金刀比羅宮を特定するオリジナルな紋です。金刀比羅宮で「丸金」が使われ出すのは、19世紀中頃の天保年間あたりからです。それより先行する頃に、九亀団扇の「丸金紋」は生まれていたことになります。

  まとめておくと
①金毘羅大権現は天狗信仰が中核だったために、シンボルマークとして天狗団扇を使っていた
②別当寺の松尾寺は、寺社の伝統として巴紋を使用した
③19世紀になって、金比羅土産として丸亀産の丸金団扇によって丸金紋は全国的な知名度を得る
④以後は、金刀比羅宮独自マークとして、丸金紋がトレードマークとなり、天狗団扇や巴紋はあまり使われなくなった。
丸金紋 虎の門金刀比羅宮
東京虎の門の金刀比羅宮の納経帳
しかし、虎の門の金刀比羅宮の納経帳には、いまでも天狗団扇が丸金紋と一緒に入れられていました。これは金毘羅信仰が天狗信仰であった痕跡かもしれません。
  最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献
  「羽床正明 丸金紋の由来 金昆羅大権現の紋について  ことひら 平成11年」



天狗の羽団扇
狂言で使われる天狗の羽団扇

近世の金比羅は、天狗信仰の中心でもあったようです。金毘羅大権現の別当金光院院主自体が、その教祖でもありました。というわけで、今回は近世の天狗信仰と金毘羅さんの関係を、団扇に着目して見ていきます。テキストは  羽床正明 天狗の羽団扇と宥盛彫像     ことひら56号(平成13年)です

天狗観は時代によって変化しています。
天狗1

平安時代は烏天狗や小天狗と呼ばれたもので、羽があり、嘴を持つ烏のようなイメージで描かれ、何かと悪さをする存在でした。そして、小物のイメージがあります。

天狗 烏天狗
烏天狗達(小天狗)と仏たち

中世には崇徳上皇のように怨霊が天狗になるとされるようになります。近世には、その中から鞍馬山で義経の守護神となったような大天狗が作り出されます。これが、結果的には天狗の社会的地位の上昇につながったようです。山伏(修験者)たちの中からも、大天狗になることを目指して修行に励む者も現れます。こうして中世初頭には天狗信仰が高まり、各地の霊山で天狗達が活動するようになります。
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金刀比羅宮奥社の断崖に懸けられた大天狗と烏天狗

 整理しておくと、天狗には2つの種類があったようです。
ひとつは最初からいた烏天狗で、背中に翼があり、これを使って空を飛びました。近世になって現れるのが大天狗で、こちらは恰幅もよく人間的に描かれるようになります。そして、帯刀し錫杖を持ち、身なりも立派です。大天狗が誕生したのは、戦国時代のことのようです。
狩野永納の「本朝画史』には、鞍馬寺所蔵の鞍馬大僧正坊図について、次のように述べています。
「(大)天狗の形は元信始めてかき出せる故、さる記もあんなるにや。(中略)太平記に、天狗の事を金の鳶などいへる事も見えたれば、古は多く天狗の顔を、鳥の如く嘴を大きく画きしなるべし、今俗人が小天拘といへる形これなり。仮面には胡徳楽のおもて、鼻大なり。また王の鼻とて神社にあるは、猿田彦の面にて、此の面、今の作りざまは天狗の仮面なり」
意訳変換しておくと
「(大)天狗の姿は(狩野)元信が始めて描き出したものである。(中略)
太平記に、天狗のことを「金の鳶」と記したものもあるので、古くは多く天狗の顔を、烏のように嘴を大きく描いていたようである。世間で「小天拘」と呼ばれているのがこれにあたる。大天狗の仮面では胡人の顔立ちのように、鼻が大きい。また「王の鼻」と呼ばれた面が神社にあるは、猿田彦のことである。この今の猿田彦の面は、天狗の仮面と同じ姿になっている」
ここからは次のようなことが分かります。
①大天狗像は狩野元信(1476~1559)が考え出した新タイプの天狗であること
②古くは烏のように嘴が大きく描かれていて、これが「小天狗」だったこと
③大天狗の姿は、猿田彦と混淆していること
狩野元信の描いた僧正坊を見てみましょう

天狗 鞍馬大僧正坊図

左に立つ少年が義経になります。義経の守護神のように描かれています。これが最初に登場した大天狗になるようです。頭巾をつけ、金剛杖を持ち、白髪をたくわえた鼻高の天狗です。何より目立つのは背中の立派な翼です。それでは、団扇はとみると・・・・ありません。確かに羽根があるのなら団扇はなくとも飛べますので、不用と云えばその方が合理的です。羽根のある大天狗に団扇はいらないはずです。ところが「大天狗像」と入れてネット検索すると出てくる写真のほとんどは「羽根 + 団扇」の両方を持っています。これをどう考えればいいのでしょうか?
天狗 大天狗

  これは、後ほど考えることにして、ここでは大天狗の登場の意味を確認しておきます。
 小天狗は、『今昔物語集』では「馬糞鳶」と呼ばれて軽視されていました。中世に能楽とともに発達した狂言の『天狗のよめどり』や『聟入天狗』等では本葉天狗や溝越天狗として登場しますが、こちらも鳶と結び付けられ下等の天狗とされていたようです。飯綱権現の信仰は各地に広まります。その中に登場する烏天狗は、火焔を背負い手には剣と索を持っていますが、狐の上に乗る姿をしていて、「下等の鳶型天狗」の姿から脱け出してはいない感じです。
その中で狩野元信が新たに大天狗を登場させることで、大天狗は鳶や烏の姿を脱して羽団扇で飛行するようになります。これは天狗信仰に「大天狗・小天狗」の併存状態を生み出し、新たな新風を巻き起こすことになります。
狩野元信が登場させたこの大天狗は、滝沢馬琴の『享雑(にまぜ)の記』に日本の天狗のモデルとして紹介されています。
馬琴は、浮世絵師の勝川春亭に指図をして、「天狗七態」を描かせています。そのうちの「国俗天狗」として紹介された姿を見てみましょう。

天狗 滝沢馬琴の『享雑(にまぜ)の記』

 ここでも鼻高で頭巾をつけ、金剛杖持ち、刀をさし、背中には立派な翼を持っています。そして、左手は見ると・・・団扇を持っています。つまり、16世紀の狩野元信から滝沢馬琴(1767~1848)の間の時代に、大天狗は団扇を持つようになったことが推察できます。この間になにがあったのでしょうか。江戸後期になると、天狗の羽団扇をめぐて天狗界では論争がおきていたようです。

天狗 平田篤胤

その頃に平田篤胤(1776~1843)は、『幽境聞書』を書いています。
これは天狗小僧寅吉を自宅に滞在させて、寅吉から直接に聞いた話をまとめたものです。その中で篤胤は、羽団扇のことについても次のようなことをあれこれと聞いています
大天狗は皆羽団扇を持っているか
羽団扇には飛行以外に使い道はあるか
羽団扇はどういう鳥の羽根でできているか
この質問に答えて天狗小僧寅吉は、大天狗は翼を捨てた代りに、手にした羽団扇を振って飛び回るようになったとその飛行術を実しやかに言い立てています。ここからはこの時期に天狗界の大天狗は、翼を捨てて団扇で飛ぶという方法に代わったことが分かります。
そんな天狗をめぐる争論が論争が起きていた頃のことです。
平賀源内(1726~79年)が、天狗の髑髏(どくろ)について鑑定を依頼されます。
天狗 『天狗髑髏鑑定縁起

  源内は、その経験を『天狗髑髏鑑定縁起』としてまとめて、次のように述べています。
夫れ和俗の天狗と称するものは、全く魑魅魍魎を指すなれども、定まれる形あるべきもあらず。然るに今世に天狗を描くに、鼻高きは心の高慢鼻にあらはるるを標して大天狗の形とし、又、嘴の長きは、駄口を利きて差出たがる木の葉天狗、溝飛天狗の形状なり。翅ありて草軽をはくは、飛びもしつ歩行もする自由にかたどる。杉の梢に住居すれども、店賃を出さざるは横着者なり。
羽団扇は物いりをいとふ吝薔(りんしょく)に壁す。これ皆画工の思ひ付きにて、実に此の如き物あるにはあらず。
意訳変換しておくと
 天狗と称するものは、すべての魑魅魍魎を指すもので、決まった姿があるはずもない。ところが、昨今の天狗を描く絵には、鼻が高いのは心の高慢が鼻に出ているのだと称して、大天狗の姿とを描く。また嘴の長いのは、無駄口をきいて出しゃばりたがる木の葉天狗や溝飛天狗の姿だという。羽根があって草軽を履くのは、飛びも出来るし、歩行もすることもできることを示している。杉の梢に住居を構えても、家賃を出さないのは横着者だ。羽団扇は物いりを嫌う吝薔(りんしょく)から来ているなど、あげればきりがない。こんなことは全部画家の思ひ付きで、空言で信じるに値しない。彼らのとっては商売のタネにしかすぎない。

源内らしい天下無法ぶりで、羽団扇も含めて天狗に関するものを茶化して、明快に否定しています。この時に持ち込まれた天狗の髑髏は、源内の門人の大場豊水が芝愛宕山の門前を流れる桜川の河原でひろって持ってきたものでした。その顛末を明かすと共に、天狗の髑髏を否定しています。
  天狗についての考察というよりも、天狗に関する諸説を題材にして、本草学・医学のあり方を寓話化した批評文でしょうか。「天狗髑髏圖」はクジラ類の頭骨・上顎を下から見たもの。「ぼうごる すとろいす」はダチョウ(vogel struis、struisvogel、vogelは鳥)、「うにかうる」はユニコーンのことだそうです。
  合理主義者でありながら「天狗などいない」の一言で、「あっしにはかかわりのないことで」とシニカルに済ませられないところが源内らしいところなのでしょう。しかし、一方では大天狗の羽根団扇をめぐっては、各宗派で争論があり、それぞれ独自の道を歩むところも出てきたようです。
天狗 鞍馬

そのひとつが鞍馬寺です。ここは「鞍馬の天狗」で当時から有名でした。
この寺の「鞍馬山曼茶羅」には、中央に昆沙門天を大きく描かれ、その下に配偶神の吉祥天とその子善弐子(ぜんにし)を配します。毘沙門天の両脇には毘沙門天の使わしめとされる百足(むかで)を描かれます。そして毘沙門天の上方に描かれているのが僧正坊と春族の鳥天狗です。僧正坊は頭に小さな頭巾をいただき、袈裟を着けた僧侶の身なりで、手には小さな棕櫚葉団扇を持っています。しかし、背中に翼はありません。「鞍馬山曼茶羅」は、翼を持たない大天狗が羽団扇を使って飛行するという「新思想」から生まれたニュータイプの天狗姿と云えます。つまり、大天狗に翼は要らないという流派になります。
 しかし、多くの天狗信仰集団は「羽団扇 + 翼」を選択したようです。つまり翼を持った上に団扇ももつという姿です。鞍馬派は少数派だったようです。
以上をまとめておくと、鼻高の大天狗は、戦国時代の頃に狩野元信が考え出したものである。これ以降は大天狗と小天狗が並存するようになった。そして、江戸後半になると大天狗は羽団扇をもつようになる。
それでは、羽根団扇をも大天狗はどこから現れてくるのでしょうか?
 天狗経
天狗経
『天狗経』は密教系の俗書『万徳集』に出てくる偽経です。
その冒頭に「南無大天狗小天狗十二八天狗宇摩那天狗数万騎天狩先づ大天狩」と述べた後で、名が知られていた大天狗48の名を挙げています。この中には「黒眷属 金毘羅坊」「象頭山 金剛坊」の名前も見えます。この「黒眷属 金毘羅坊」「象頭山 金剛坊」で、羽団扇をもつ大天狗が最初に姿を表したのではないかという仮説を羽床氏は出します。
Cg-FlT6UkAAFZq0金毘羅大権現

金毘羅大権現と天狗達(別当金光院)

それは金毘羅大権現の初代院主・金剛坊宥盛の木像に始まったとします。
  江戸時代に金昆羅大権現は天狗信仰で栄えたことは以前にお話ししました。金毘羅大権現として祀られたのは、黒眷族金毘羅坊・象頭山金剛坊の二天狗であったことも天狗経にあった通りです。当時の人々は金毘羅大権現を天狗の山として見ていました。天狗面を背負った行者や信者が面を納めに金毘羅大権現を目指している姿がいくつかの浮世絵には描かれています。
天狗面を背負う行者
金毘羅行者 天狗面の貢納に参拝する姿

近世初頭の小松庄の松尾寺周辺の状況をコンパクトに記して起きます。
 松尾寺は金毘羅大権現の別当寺となつて、金毘羅大権現や三十番神社を祀っていました。三十番神社は暦応年中(1338~)に、甲斐出身の日蓮宗信徒、秋山家が建てたものでした。これについては、秋山家文書の中から寄進の記録が近年報告されています。
 一方、松尾寺は1570年頃に長尾大隅守の一族出身の宥雅が、一族の支援を受けて建立したお寺です。善通寺で修行した宥雅は、師から宥の字をもらつて宥雅と名乗り、善通寺の末寺の大麻山の称名院に入ります。松尾山の山麓に、称明院はありました。松尾山の山頂近くにある屏風岩の下には、滝寺もありましたが、この頃にはすでに廃絶していました。称名院に入った宥雅はここを拠点として、山腹にあつた三十番神社の近くに、廃絶していた滝寺の復興も込めて、新たに松尾寺を創建します。松尾寺の中心は観音堂で、現在の本堂付近に建立されます。

天狗面2カラー
金毘羅大権現に奉納された天狗面

 さらに宥雅は、元亀四年(1573)に、観音堂へ登る石段のかたわらに、金比羅堂を立てます。
この堂に安置されたのは金昆羅王赤如神を祭神とする薬師如来でした。しかし、長宗我部氏の侵攻で、宥雅は寺を捨てて堺に亡命を余儀なくされます。松尾寺には長宗我部元親の信頼の厚かった修験者の南光院が入って、宥厳と名乗り、讃岐平定の鎮守社の役割を担うことになります。宥厳のあとを、高野山から帰ってきた宥盛が継ぎます。宥厳・宥盛によつて、松尾寺は修験道化されていきます。こうして金毘羅信仰の中心である金毘羅堂の祭神の金毘羅王赤如神は、修験道化によって黒眷族金毘羅坊という天狗におきかえられます。
天狗面を背負う山伏 浮世絵

 初代金光院院主とされている宥盛の業績には大きい物があります。
その一つが松尾寺を修験道の拠点としたことです。彼は天狗信仰に凝り、死後は天狗として転生できるよう願って、次のような文字を自らに模した木像に掘り込んでいます。
「入天狗道沙門金剛坊形像、当山中興大僧都法印宥盛、千時慶長拾壱年丙午拾月如意月」
という文言を彫り込みます。ここには慶長十一年(1606)10月と記されています。そして翌々年に亡くなっています。
 天狗になりたいと願ったのは、天狗が不老不死の生死を超越した存在とされていたからだと研究者は考えているようです。

天狗 烏天狗 絵入り印刷掛軸
金毘羅大権現と天狗達

『源平盛衰記』巻八には、次のように記されています。
「諸の智者学匠の、無道心にして騎慢の甚だしきなりこ其の無道心の智者の死すれば、必ず天魔と中す鬼に成り候。其の頭は天狗、身体は人にて左右の堂(生ひたり。前後百歳の事を悟つて通力あり。虚空を飛ぶこと隼の如し、仏法者なるが故に地獄には堕ちず。無道心なる故往生もせず゛必ず死ぬれば天狗道に堕すといへり。末世の僧皆無道心にして胎慢あるが故に、十が八九は必ず天魔にて、八宗の智者は皆天魔となるが故に、これをば天狗と申すなり」
象頭山天狗 飯綱

天狗は地獄にも堕ちず、往生もしない、生死を超越した不老不死の存在であると説かれています。天狗が生死を超えた不老不死の存在であったから宥盛は死後も天狗となって、松尾寺を永代にわたって守護しようと考えたのでしょう。この宥盛木像が、象頭山金剛坊という天狗として祀られることになります。
松尾寺の金毘羅大権現像
金毘羅大権現像(松尾寺)
木像はどんな姿をしていたのでしょうか?
木像を見た江戸中期の国学者、天野信景は『塩尻』に次のように記します。
讃州象頭山は金毘羅を祀す。其像、座して三尺余、僧形也。いとすさまじき面貌にて、今の修験者の所載の頭巾を蒙り、手に羽団を取る。薬師十二将の像とは、甚だ異なりとかや

意訳変換しておくと
讃州象頭山は金毘羅を祀る山である。その像は座しいて三尺余で僧形である。すさまじき面貌で、修験者のような頭巾をかぶり、手には羽団扇を持っている。薬師十二将の金毘羅像とは、まったく異なるものであった

「金毘羅山は海の神様で、クンピーラを祀る」というのが、当時の金毘羅大権現の藩に提出した公式見解でした。しかし、実際に祀られていたのは、初代院主宥盛(修験名金剛院)が天狗となった姿だったようです。当時の金毘羅大権現は天狗信仰が中心だったことがうかがえます。

 この木像はどんな霊験があるとされていたのでしょうか?
江戸時代中期の百科辞書である『和漢三才図会』(1715年に、浪華の吉林堂より刊行)には、次のように記されています。
相伝ふ、当山の天狗を金毘羅坊と名づく。之を祈りて霊験多く崇る所も亦甚だ厳し。

ここからは江戸時代中期には金毘羅大権現は天狗信仰で栄えていたことが分かります。その中心は宥盛木像であって、これを天狗として祀っていたのです。天狗として祀られた宥盛木像の手には、羽団扇がにぎられていました。これは「羽団扇をもつ天狗」としては、一番古いものになるようです。ここから羽床氏は「宥盛のもつ羽団扇が、天狗が羽団扇を使って空を飛ぶという伝説のルーツ」という仮説を提示するのです。
丸亀はうどんだけじゃない!日本一のうちわの町でマイうちわ作り│観光・旅行ガイド - ぐるたび
「丸金」の丸亀団扇

羽団扇をもつ天狗姿が全国にどのように広がっていったのでしょうか?

天明年間(1781~9)の頃、豊前の中津藩と丸亀藩の江戸屋敷がとなり合っていました。そのため江戸の留守居役瀬山重嘉は、中津藩の家中より団扇づくりを習って、藩士の副業として奨励します。以来、丸亀の団扇づくりは盛んとなったと伝えられます。丸亀―大阪間を「金毘羅羅舟」が結び、丸亀はその寄港地として繁栄するようになると、丸亀団扇は金毘羅参詣のみやげとして引っ張りだこになります。
 金毘羅大権現の天狗の手には、羽団扇がにぎられトレードマークになっていました。それが金昆羅参詣のみやげとして「丸金」団扇が全国に知られるようになります。それと、同じ時期に。天狗は羽団扇で飛行するという新しい「思想」が広まったのではないかと云うのです。
金毘羅大権現2
金毘羅大権現の足下に仕える天狗達
 
天狗が羽団扇で飛行するという「新思想」は、宥盛の象頭山金剛坊木像がもとになり、金昆羅参詣みやげの丸亀団扇とともに全国に広められたという説です。それを受けいれた富士宮本宮浅間神社の社紋は棕櫚(しゅろ)葉でした。そのためもともとは天狗の団扇は鷹羽団扇だったのが、棕櫚葉団扇が天狗の持物とされるようになったとも推測します。

  富士山を誉めるな。 - オセンタルカの太陽帝国
富士宮本宮浅間神社の社紋

  以上をまとめておくと
①古代の天狗は小天狗(烏天狗)だけで、羽根があって空を飛ぶ悪さ物というイメージであった。
②近世になると大天狗が登場し、天狗の「社会的地位の向上」がもたらされる
③大天狗が羽団扇を持って登場する姿は、金毘羅大権現の金剛坊(宥盛)の木像に由来するのではないか
④金毘羅土産の丸亀団扇と金剛木像が結びつけられて大天狗姿として全国に広がったのではないかい。
天狗の団扇

少し想像力が羽ばたきすぎているような気もしますが、魅力的な説です。特に、天狗信仰の拠点とされている金毘羅と、当時の金剛坊(宥盛)を関連づけて説明した文章には出会ったことがなかったので興味深く読ませてもらいました。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
 参考文献
羽床正明 天狗の羽団扇と宥盛彫像    ことひら56号(平成13年)

 江戸時代も半ば以後になって、金毘羅の名が世間に広がると、各地で金毘羅の贋開帳が行なわれるようになります。紛らわしい本尊を祀り、札守や縁起の刷物などを売り出す者が次々と現れます。別当金光院は、高松藩を通じてその地の領主にかけ合って、すぐ中止させるように働きかけています。しかし、焼け石に水状態だったようです。そこで宝暦十年(1763)には「日本一社」の綸旨をいただきますが、それでも決定的な防止策にはならず贋開帳は止まなかったようです。

DSC01156日本一社綸旨
金毘羅大権現「日本一社」の綸旨

 贋開帳を行っていたのは、どんな人たちなのでしょうか。
多くは修験系統の寺院や行者だったようです。
「金刀比羅宮史料」から贋開帳を年代順に見てみましょう。
①明暦2年、讃岐丸亀の長寿院という山伏が、長門(現山口県)で象頭山の名を馳ったので、吟味のうえ、以後こういうことはしないという神文を納めさせた。
②享保6年4月、江戸谷中の修験長久院で、金毘羅飯綱不動と云って開帳したので、高松藩江戸屋敷へ願い出、御添使者から寺社奉行へ願い出て停止させた。
③寛保2年11月、伊予温泉郡吉田村の修験大谷山不動院で、金毘羅の贋開帳。
④天保6年10月、阿波州津村箸蔵寺が、金毘羅のすぐ隣りの苗田村長法寺で、平家の赤旗など持ち込み、剣山大権現並びに金毘羅大権現といって開帳。11月には、箸蔵寺で金毘羅蔵谷出現奥の院といって開帳した。翌7年6月、箸蔵に出向いて調べた使者の報告では、神体は岩屋で、別に神像はなかったとのこと。
⑤同15年、箸蔵寺で贋神号事件が再度発生、
弘化2年4月、贋縁起札守版木など、郡代役所から引渡され、一応落着。嘉永4年、箸蔵寺、再度贋開帳。
⑥安政4年、備後尾道の修験仙良院、浮御堂において開帳、札守を出したので、同所役人に掛合い、金毘羅の神号の付いたもの一切を受取り、以前の通り神変大菩薩と改めさせた。
⑦安政5年4月、京都湛町大宮修験妙蔵院、京都丸亀屋敷の金毘羅へ毎月十日、諸人が参詣の節、開帳札のよりなものを指出す由の注進があった。
⑧同年十月。泉州堺の修験清寿院で開帳、同所役に掛合い、神体、札守の版木など、早速に引渡される。
贋開帳事件の中でも、箸蔵寺は執拗で事件が長期にわたったようです。
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箸蔵寺山門
箸蔵寺がはじめて金毘羅へ挨拶に来たのは、宝暦12(1762)年のことです。
「箸蔵寺縁起」は、それから間もない明和6(1769)年に、高野山の霊瑞によって作られています。
「当山は弘法大師金毘羅権現と御契約の地にして」
「吾は此巌窟に跡を垂る宮毘羅大将にして北東象頭の山へ日夜春属と共に往来せり」
 ここでは、空海が金毘羅さんの奥社として箸蔵山を開いたとします。そして、金比羅神は箸蔵寺から象頭山へ毎日通っていると縁起では説くのです。
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箸蔵寺山門
  箸蔵寺については、本尊薬師如来の信仰が古くからあったこと、江戸初期には多少の土地が安堵されていたことより外、ほとんど分かっていないようです。しかし、「状況証拠」としては、周辺には数多くの修験者がいて、近世後半になって台頭する典型的な山伏寺のようです。成長戦略に、隆盛を極めつつあった金毘羅大権現にあやかって寺勢拡大を計ろうとする意図が最初からあったようです。箸蔵寺は、次のような広報戦略を展開します。
「こんぴらさんだけお参りするのでは効能は半減」
「こんぴらさんの奥社の箸蔵」
「金比羅・箸蔵両参り」
 そして、10月10日の金毘羅祭に使われた膳部の箸が、その晩のうちに箸蔵寺へ運ばれて行くという話などを広げていきます。それに伴って人々の間に「箸蔵寺は金毘羅奥の院」という俗信仰は拡大します。

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 箸蔵寺山門の大草鞋
 そして先に見た通り箸蔵寺は、金毘羅大権現の贋開帳を行うようになります。そのため何度も本家のこんぴらさんに訴えられます。その都度、藩からの指導を受けています。記録に残っているだけでも贋開帳事件の責任をとって、院主が二度も追放されています。しかし、それでも贋開帳事件は続発します。嘉永二年には、箸蔵の大秀という修験者が、多度津で銅鳥居の勧進を行っていた所を多度津藩によって、召捕えられています。
 このような「箸蔵=金毘羅さん奥の院」説を広げたのも箸蔵寺の修験者たちだったようです。それだけ多くの山伏たちが箸蔵寺の傘下にはいたことがうかがえます。

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箸蔵寺参道に現れた天狗(山伏)
財田町史には、箸蔵の修験者たちが山伏寺を財田各地に開き布教活動を行っていたことが報告されています。彼らは財田から二軒茶屋を越えての箸蔵街道の整備や丁石設置も行っていたようです。
讃岐の信徒を箸蔵寺に先達として信者を連れてくるばかりでなく、地域に定着して里寺(山伏寺)の住職になっていく山伏もいたようです。このような修験者(山伏)は、金毘羅さん周辺にもたくさんいたのでしょう。彼らは象頭山で修行し、金比羅行者として全国に散らばり金毘羅信仰を広げる役割を果たしたのではないかと私は考えています。 
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箸蔵寺本堂
贋開帳を行う人たちに、なぜ修験者が多かったのでしょうか?
まず考えられることは、金毘羅神が異国から飛来した神と伝えられたことにあるようです。
金比羅神は天竺から飛来した神であり、象頭山の神窟に鎮座し、その形儀は修験者であり、権現の化身であると説かれました。金比羅神が、どのような姿で祀られていたのかを、3つの記録で比べてみましょう
 ①天和二年の岡西惟中「一時軒随筆」
金毘羅は.もと天竺の神 飛来して此山に住給ふ 釈迦説法の守護神也。形像は巾を戴き、左に数珠、右に檜扇を持玉ふ也 巾は五智の宝冠に比し、数珠は縛の縄、扇は利剣也 本地は不動明王也とぞ 二人の脇士有、これ伎楽、伎芸といふ也、これ則金伽羅と勢陀伽権現の自作也
意訳すると
金比羅神は、もとは天竺インドの神である。飛来して、この山に住むようになった。釈迦説法の守護神で、形は頭に頭巾をつけ、左手に数珠、右手に檜扇を持つ。頭巾は五智宝冠と同じで、数珠は羂索、扇は剣を意味し、本地物は不動明王とされる。伎楽、伎芸という二人の脇士を従える。これは金比羅と勢陀伽権現の化身である。
 
「一時軒随筆」の作者である岡西惟中は、談林派の俳人として名高い人物です。彼は、この記事を当時の別当金光院住職宥栄から直接聞いた話であると断っています。それから150年経った時期に、金光院の当局者が残した「金毘羅一山御規則書」にも、まったく同じことが記されていることが分かります。
②延享年間成立の増田休意「翁躯夜話」
 象頭山(中略)此山奉二金毘羅神(中略)
此神自二摩詞陀国一飛来、降二臨此山釈尊出世之時為レ守二護仏法‘同出二現于天竺(中略)
而釈尊入涅槃之後分二取仏舎利 以来ニ此土 現在二此山霊窟矣 頭上戴勝、五智宝冠也(中略)
左手持二念珠縛索也、右手執一笏子利剣也 本地不動明王之応化、金剛手菩薩之工堡 左右廼名一及楽伎芸 金伽羅制哩迦也
②の「翁躯夜話」は、高松藩主松平頼恭によって「讃州府志」の名を与えられたほどですから、信用は高い書物とされます。これらの2つの資料が一致して
「生身は岩窟に鎮座ましまし、御神鉢は頭巾を頂き、珠数と檜扇を持ち、脇士に伎楽・伎芸がいる」
と記します。
  ③「金毘羅一山御規則書」

抑当山金毘羅大権現者、往古月支国より飛来したまひて
(中略)
釈迦如来説法の時は西天に出現して於王舎城仏法を守護し給ふ(中略)其後仏舎利を持して本朝に来臨し給ふ 生身は山の岫石窟の中に御座まし(下略)
「象頭山志調中之翁書」
 優婆塞形也 但今時之山伏のことく 持物者 左之手二念珠 右之手二檜扇を持し給ふ 左手之念珠ハ索 右之手之檜扇ハ剣卜中習し侯権現御本地ハ 不動明王
 権現之左右二両児有伎楽伎芸と云也伎楽 今伽羅童子伎芸制吐迦童子と申伝侯也 権現自木像を彫み給ふと云々今内陣の神鉢是也
 意訳変換しておくと
そもそも当山の金毘羅大権現は、往古に月支国より飛来したもので(中略)釈迦如来説法の時には西天に出現して、王舎城で仏法を守護していた。(中略)
その後に仏舎利を持って、本朝にやってきて生身は山の石窟の中に鎮座した。(下略)
「象頭山志調中之翁書」
 その姿は優婆塞の形である。今の山伏のように、持物は左手に念珠、右手に檜扇を持っている。左手の念珠は索、右手の檜扇は剣と伝えられ、権現の御本地は不動明王である。
 権現の左右には、両児がいて伎楽と伎芸と云う。伎楽は伽羅童子、伎芸は吐迦童子と伝えられる。権現は自から木像を彫み作られた云われ、今は内陣の神鉢として安置されている。

3つの史料からは、金毘羅大権現に祀られていた金毘羅神は、役行者像や蔵王権現とよく似た修験の神の姿をしていたことが分かります。また「飛来した神」ということからも、飛行する天狗が連想されます
 各地の修験者たちにとって、このような金毘羅神の姿は「親近感」のある「習合」しやすい神であったようです。それが、数多くの贋開帳を招く原因となったと研究者は考えています。
 どちらにしても、金比羅神を新たに創り出した象頭山の修験者たちは、孤立した存在ではありませんでした。当時の修験者ネットワークの讃岐の拠点のひとつが象頭山で、そこにインドから飛来してきたという流行神である金比羅神を「創造」し、宥盛の手彫りの像と「習合」したようです。

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箸蔵寺本堂に掲げられた天狗絵馬
 その成功を見た山伏ネットワーク上の同業者たちが、それを金毘羅さんの「奥社」とか「両参り」を広告戦略として、その一端に連なろうとします。当然のように、贋開帳もおきます。また別の形としては讃岐の金比羅神を地元に勧進し、金毘羅大権現の分社を作り出していく動きとなったようです。全国に広がる金比羅神が海に関係のない山の中まで広がっているのは、山伏ネットワークを通じての金比羅行者の布教活動の成果のようです。「海の守り神 こんぴらさん」というイメージが定着するのは19世紀になってからです。それまでの金毘羅山は全国の修験道者からは、山伏の運営する天狗信仰の山という目で見られていたと研究者は考えています。
参考文献 松原秀明 金毘羅信仰と修験道


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伊予土佐街道の一里道標をたどりながらやって来たのは旧山本町役場の前庭。
ここには「こんひら大門まで三里」と刻まれた金毘羅街道の三里道標が建っています。
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その表記の通り、金毘羅さんの階段途中にある大門まで、ここから3里(12㎞)を示します。その下に
「与州松山浮穴郡高井村 新七、弥助、 清次、粂左衛門」
の文字が読めます。伊予松山の南の浮穴郡の人たちが寄進したもののようです。伊予土佐街道の里呈や灯籠は、ほとんどが伊予の人々により建てられています。
 今は、ここにありますが、もとあった場所は、もう少し東へ行ったところで、街道が大きく南へ曲がった角にこの三里道標はあったそうです。おそらく交通の邪魔になり、ここに移転してきたのでしょう。役場に保管し、道行く人に見える場所に置くなど心遣いのあとが見られます。これも私にとっては先人からの「おもてなし」とかんじられます。
 この地域は「辻」と呼ばれる通り、交通の要地で、観音寺へ、伊予へ、こんぴらへ、箸蔵へと刻んだ大きな道標や灯籠が近くにも残されています。

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休憩後に、次の四里道標に向けて旧街道を原付バイクで走りだした。
すぐに祭りの幟が目に入りました。秋の高く澄んだ青い空にはためく幟は、絵になります。
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どこの神社の祭りかなとバイクを止めて仰ぎ見ると・「金毘羅大権現」とあります。
なぜ「金毘羅大権現」なの・・・???
と幟を見上げたまま、ぼけーと考えてしまいました。
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さらによく見ると、その上に描かれているのは天狗さん、そして○金と○箸の文字。ますます、分からなくなりました。頭の中を整理します。
①金毘羅さんから遠く離れた山本町でなぜ「金毘羅大権現」の幟が揚がっているのか?
②神仏分離以後、金刀比羅神社は「金毘羅大権現」を捨てたはずなのにどうして・・?
③幟の一番上の天狗は何を意味するのか?
④○金は金毘羅神社、それなら○箸は、何なのか?
私の明晰な頭は疑問点を以上のようにまとめて、解決に向けての糸口を探ろうとします。視線が向かったのは幟の下の石造物です。
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まず正面の墓石のようなものは何なのか?
○金とありますので、金毘羅信仰に関係するものであるようです。
さらに近づいて見ると、ここにも○金と○箸がなかよく並んでいます。そして、その下には金毘羅さんの御札が入れられているようです。

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ここから私に分かることは、丸亀街道沿の神社の中にあるような「金毘羅さん遙拝施設」ではないということです。そして、金毘羅さんの御札が納められているということは、この石造物自体が「金毘羅大権現」としてお祭りされているのではないかということです。
 怪しげな男がボケーっと立ち尽くしているので、家の中から主人が出てきてきました。
さりげなく挨拶を交わして「ええ幟ですな」と声をかけると、主人は次のようなことを話してくれました。
①この地区の23軒で「山本境東組」という金比羅講をつくってお参りしてきた。
②年に3回、1月10日・6月10日・10月10日には、講メンバーでお祭りをして、ご馳走を食べる。
③その時には、当番が金毘羅さんへ参拝して新しい御札をもらってきて、ここへ納める。
④講メンバーにとって、この石造物が「金毘羅大権現」と思っている。
⑤いつ頃から始まったか分からないが、この石造物には大正の年号が彫り込まれている。
⑥いまはメンバーが減って7軒になって、運営が大変だ
⑦この石碑には3回も自動車が正面からぶつかってきた。それでも壊れなかった
主人の話から分かったことは以上です。
  ここからはこの地区の人たちが金比羅講を組織して、もらってきた御札をここに入れて、信仰対象としてきたようです。推論したとおり、この石造物は「金毘羅大権現」なのです。しかし、「金毘羅大権現」は、明治の神仏分離の際には神と認められずに、金毘羅さんからは追放されました。
なぜ、それなのにここでは「金毘羅大権現」を今でもお祭りしているのでしょうか?
 考えられることは、この信仰形態はそれ以前の江戸時代から行われていたということです。そのため、金毘羅大権現が金刀比羅宮と名前を変えて神道化しても、ここでは以前通りの名前と、祭礼方法が継続されたのではないでしょうか。
 これで疑問点の二つは、推論が見えてきました。あと二つは「天狗と○箸」です。
天狗とはなにか。これは簡単にいうと「修験者」の象徴です。
四国で、天狗達の巣のひとつが象頭山金毘羅大権現でした。江戸時代の初めの金毘羅大権現の創世記に活躍したのは、高野山で学問を積んだ宥盛のような真言宗の修験者達でした。彼は、土佐の修験道のリーダーをリクルートして多門院を開かせるなど、四国の修験者達のリーダーとして活躍し、多くの子弟を育成し四国中に「修験道」ネットワークを形成していきます。
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箸蔵寺の天狗
つまり、金毘羅さんは修験者の集まる山で、行場でもあり、天狗の山であったのです。
近世初頭においては、金毘羅さんは「海の神様」としての知名度はありません。天狗の住む修験者の山の方が有名だったと私は思っています。そして、まだ全国的にも知られていない、地方の小さな権現さんだったのです。それを全国へ広げていくのは、宥盛等が育成した修験者組織なのです。「塩飽の船乗り達が海の神金毘羅大権現をひろめた」というのは、本当だったとしてももっと後のことです。これについては別項の「金毘羅大権現形成史」で、述べましたのでこれ以上は触れません。
 どちらにしても、この地に金毘羅大権現をもたらしたのは天狗で、修験者たちの布教活動の成果だと私は考えます。そして、人々も天狗(修験者=山伏)を受けいれていたのでしょう。

それでは○箸とは、なんでしょうか。
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この先の財田川の長瀬橋のたもとに残る灯籠を兼ねた道しるべです。
ここには「右 はしくら」「左 こんぴら」と刻まれています。箸蔵寺は、讃岐山脈の猪ノ鼻峠を越えた阿波徳島にある山岳寺院です。この寺も近世には、高越山とともに阿波修験道の拠点のひとつとされていました。金毘羅大権現の「奥の院」として「両参り」を提唱して、幕末から明治にかけて寺勢を伸ばしました。讃岐山脈の麓にある各町村の村史や町史を読んでいると、阿波からの山伏が布教定着し、「山伏寺」を村々に立ち上げていた様子が記されています。その拠点が箸蔵寺になります。

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 箸蔵寺本堂

箸蔵寺は明治の神仏分離の際にも神道に転ずることがありませんでした。
そのため今でも「金毘羅大権現」をお祭りしています。本堂の前には大きな子天狗と大天狗のふたつの天狗面が掲げられています。
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また、明治になって大久保諶之丞による四国新道が財田から三好に抜けるようになると、このバイパス沿いに位置することが、有利に働き多くの信者を集めることになります。そのような寺勢を背景に修験者たちは、国内だけでなく植民地とした朝鮮や中国東北部(旧満州)へも布教団を送り込み信者を増やしていったのです。その時期に建立されたのが現在に残る本堂などの伽藍なのです。明治の建物にもかかわらず早くも重要文化財の指定を受けているように、彫り物などは四国の寺院建築物としては目を見張るものがあります。
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また、旧参道の玉垣の寄進者名も朝鮮や中国旧東北部からのものが多く残されています。
このように、幕末から大正時代にかけての箸蔵寺の修験者僧侶の布教活動には目をみはるものがあったのです。これが、讃岐の里へも影響を与えています。金刀比羅街道の標識に「はしくらへ」と刻まれているのは、当時の箸蔵寺の布教活動の勢いを示す物なのです。

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 こうして、○金と○箸がならぶのは、
①この地に「金毘羅大権現」をもたらしたのは、金毘羅さんの修験者たちだった
②しかし、神仏分離で金毘羅さんから天狗(修験者)は追放された
③その空白部へ入ってきたのが、箸蔵寺が組織した修験者集団であった。
④そのために「金毘羅大権現」は、そのままにして○金と○箸が並び立つことになった。
という推論にたどり着きました。
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箸蔵寺の金毘羅大権現 扁額

わたしにはもうひとつ気になる存在が、この地域にはあるのです。
それがこの背後の丘の上に鎮座する宋運寺と天満神社です。両者は、神仏分離以前は一体でした。建立者は山下氏で、金毘羅大権現の別当金光院を世襲していた家の氏寺でした。つまり、金毘羅さんとストレートにつながっていたのです。この地域への金毘羅神信仰の伝播について、この寺の果たした役割については次回、お話しすることにします。
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関連記事 

 前回までに戦国末期から元禄年間までの百年間に金毘羅山で起きた次のような「変化・成長」を見てきました。
①歴代藩主の保護を受けた新興勢力の金光院が権勢を高めた
②朱印状を得た金光院は金毘羅山の「お山の殿様」になった
③神官達が処刑され金光院の権力基礎は盤石のものとなった
④神道色を一掃し、金毘羅大権現のお山として発展
⑤池料との地替えによって金毘羅寺領の基礎整備完了
 流行神の金毘羅神を勧進して建立された金毘羅堂は、創建から百年後には金光院の修験道僧侶達によって、金毘羅大権現に「成長」していきます。その信仰は17世紀の終わりころには、宮島と並ぶほどのにぎわいを見せるようになります。
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今回のテーマは「金毘羅信仰を広めたのは誰か」ということです。
通説では、次のように云われています。
「金毘羅山は海の神様 塩飽の船乗り達の信仰が北前船の船乗り達に伝わり、日本全国に広がった」

そうだとすれば、海に関係のない江戸っ子たちに金毘羅信仰が受けいれられていったのは何故でしょう? 彼らにとって海は無縁で「海の神様」に祈願する必要性はありません。
 まず信仰の拡大を示す「モノ」から見ていきましょう。
金毘羅信仰の他国への広まりを示す物としては
①十八世紀に入ると西国大名が参勤交代の折に代参を送るようになる
②庶民から玉垣や灯箭の寄進、経典・書画などの寄付が増加
③他国からの民間人の寄進が元禄時代から始まる。
 (1696)に伊予国宇摩郡中之庄村坂上半兵衛から、
  翌年には別子銅山和泉屋吉左衛門(=大坂住吉家)から銅灯籠
④正徳五年(1715)塩飽牛島の丸尾家船頭たちの釣灯寵奉納
 これが金毘羅が海の神の性格を示し始めるはしりのようです。
⑤享保三年(1718)仏生山腹神社境内(現高松市仏生山町)の人たちが「月参講」をつくって金毘羅へ参詣し、御札をうけて金毘羅大権現を勧請。この時に建てた「金毘羅大権現」の石碑をめぐって紛争が起きます。高松藩が介入し、石碑撤去ということで落着したようですが、この「事件」からは高松藩内に「月参講」ができて、庶民が金毘羅に毎月御参りしていることが分かります。

金毘羅大権現扁額1
金毘羅大権現の扁額(阿波箸蔵寺)
地元讃岐で「金毘羅さん」への信頼を高めたもののひとつが「罪人のもらい受け」です。
罪人の関係者がら依頼があれば、高松・丸亀藩に減刑や放免のための口利き(挨拶)をしているのが史料から分かります。
①享保十八年一月、三野郡下高瀬村の牢舎人について金毘羅当局が丸亀藩に「挨拶」の結果、出牢となり、村人がお礼に参拝、
②十九年十二月高瀬村庄屋三好新兵衛が永牢を仰せ付けられたことに対し、寺院・百姓共が助命の減刑を金毘羅当局に願い出て、丸亀藩に「挨拶」の結果、新兵衛の死罪は免れた。
③寛延元年(1748)多度津藩家中岡田伊右衛門が死罪になるべきところ、金光院の宥弁が挨拶してもらい受けた。
④香川郡東の大庄屋野口仁右衛門の死罪についても、金光院が頼まれて挨拶し、仁右衛門は罪を許された。
このような丸亀・高松藩への「助命・減刑活動」の成果を目の前にした庶民は、金毘羅さんの威光・神威を強く印象付けられたことでしょう。同時に「ありがたや」と感謝の念を抱き、信仰心へとつながる契機となったのではないでしょうか。
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金毘羅信仰の全国拡大は、江戸における高まりがあるとされます。
 江戸の大名邸に祀られた守護神(その多くは領国内の霊威ある神)を、江戸っ子たちに開放する風習が広がり、久留米藩邸の水天宮のように大きな人気を集める神社も出てきます。虎ノ門外の丸亀京極藩邸の金毘羅も有名になり、縁日の十日には早朝から夕方まで多くの参詣人でにぎわったようです。宝暦七年(1757)以後、丸亀江戸藩邸にある当山御守納所から金毘羅へ初穂金が奉納されていますが、宝暦七年には金一両だったものが、約四半世紀後の、天明元年(1781)には100両、同五年には200両、同八年からは150両が毎年届けられるようになったというのです。江戸における金毘羅信仰の飛躍的な高まりがうかがえます。
 天保二年(一八三一)丸亀藩が新湛甫を築造するに当たって、江戸において「金毘羅宮常夜灯千人講」を結成し、募金を始め、集まった金で新湛甫を完成させ、さらに青銅の常夜灯三基を建立するという成果を収めたのも、このような江戸っ子の金毘羅信仰の高まりが背景にあったようです。
この動きが一層加速するのは、朝廷より「日本一社」の綸旨を下賜された宝暦十年五月二十日てからです。
さらに、安永八年(一七七九)に将軍家へ正・五・九月祈祷の巻数を献上するよう命じられ、幕府祈願所の地位を獲得してます。もちろんこれは、このころ頻発し始めた金毘羅贋開帳を防止するためでもありましたが「将軍さんが祈願する金毘羅大権現を、吾も祈願するなり」という機運につながります。そして、各大名の代参が増加するのも、宝暦のころからです。
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しかし、それだけで遠くの異国神で蕃神である金毘羅大権現への信仰が広がったのでしょうか。
海に関係ない江戸っ子がなぜ、金毘羅大権現を信仰したのか?ということです。別の視点から問い直すと、
江戸庶民は、金毘羅大権現に何を祈願したかということです。
 それは「海上安全」ではありません。金毘羅信仰が全国的に、広まっていくのは十八世紀後半からです。当時の人々の願うことは「強い神威と加護」で、金毘羅神も「流行神」のひとつであったというのが研究者の考えのようです。
この時期の記録には、
高松藩で若殿様の庖療祈祷の依頼を行ったこと
丸亀藩町奉行から悪病流行につき祈祷の依頼があった
という記事などが、病気平癒などの祈祷依頼が多いのです。朝廷や幕府に対しても、主には疫病除けの祈願が中心でした。ちなみに、日本一社の綸旨を下賜されるに至ったきっかけも、京都高松藩留守居より依頼を受けて院の庖療祈祷を行ったことでした。
「加持祈祷」は修験道山伏の得意とするところです。
ここには金毘羅山が「山伏の聖地」だったことが関係しているようです。祈祷を行っていたのは神職ではなく修験道の修行を積んだ僧侶だったはずです。
「安藤広重作「東海道五十三次」の「沼津」」の画像検索結果
天狗面を背負っている修験者は、何を語っているのか?
広重の作品の中には、当時の金毘羅神の象徴である「天狗面」を背にして東海道を行く姿が彫り込まれています。彼らは霊験あらたかかな金毘羅神の使者(天狗)として、江戸に向かっているのかも知れません。或いは「霊力の充電」のために天狗の聖地である金毘羅山に還っているのかも知れません。
  信仰心というのは、信者集団の中の磨かれ高められていくものです。そこには、先達(指導者)が必要なのです。四国金毘羅山で修行を積んだ修験者たちが江戸や瀬戸の港町でも「布教活動」を行っていたのではないかと、この版画を見ながら私は考えています。

天狗面を背負う行者
金毘羅神は天狗信仰をもつ金比羅行者(修験者)によって広められた

 修験僧は、町中で庶民の中に入り込み病気平癒や悪病退散の加持祈祷を行い信頼を集めます
そして、彼らが先達となって「金毘羅講」が作られていったのではないでしょうか。信者の中に、大店の旦那がいれば、その発願が成就した折には、灯籠などの寄進につながることもあったでしょうし、講のメンバー達が出し合った資金でお堂や灯籠が建立されていったと思います。どちらにしても、何らかの信仰活動が日常的に行われる必要があります。その核(先達)となったのが、金毘羅山から送り込まれた修験者であったと考えます。信仰心というのは、信者集団の中の磨かれ高められていくものです。そこには、先達(指導者)が必要なのです。
1金毘羅天狗信仰 天狗面G4
金比羅行者によって寄進された天狗面(金刀比羅宮蔵)

 金毘羅神が、疫病に対して霊験があったことを示した史料を見てみましょう
 願い上げ奉る口上
 一当夏以来所々悪病流行仕り候二付き、百相・出作両村の内下町・桜之馬場の者共金毘羅神へ祈願仕り候所、近在迄入り込み候時、その病一向相煩い申さず、無難二農業出精仕り、誠二御影一入有り難く存じ奉り候、右二付き出作村の内横往還縁江石灯籠壱ツ建立仕り度仕旨申し出候、尤も人々少々宛心指次第寄進を以て仕り、決して村人目等二指し加へ候儀並びに他村他所奉加等仕らず候、右絵図相添え指し出し申し候、此の段相済み候様宜しく仰せ上げられ下さるべく候、願い上げ奉り候、以上
   寛政六寅年   香川郡東百相村の内桜之馬場
     十月          組頭 五郎右衛門
      別所八郎兵衛殿
これは香川郡東百相村(現高松市仏生山町)桜の馬場に住む組頭の五郎右衛門が、庄屋の別所八郎兵衛にあてて金毘羅灯寵の建立を願ったものです。建立の理由は、近くの村に悪病が流行していた時に金毘羅神へ祈願したところ百相村・出作村はその被害にまったく遭わなかった。そのお礼のためというものです。

7 金刀比羅宮 愛宕天狗
京都愛宕神社の愛宕神社の絵馬

 「悪霊退散」の霊力を信じて金毘羅神に祈願していることが分かります。ここには「海の神様」の神威はでてきません。このような「効能ニュース」は、素早く広がっていきます。現在の難病に悩む人々が「名医」を探すのと同じように「流行神」の中から「霊験あらたかな神」探しが行われていたのです。
 そして「効能」があると「お礼参り」を契機に、信仰を形とするために灯籠やお堂の建立が行われています。こうした「信仰活動」を通じて、金毘羅信仰は拡大していったのでしょう。ちなみに、仏生山のこの灯籠は、その位置を県道の側に移動されましたが今でも残されているようです。
 金毘羅信仰は、さらに信仰の枠を讃岐の東の方へ広がり、やがて寒川郡・大内郡へも伸びていきます。そこは当時、砂糖栽培が軌道に乗り始め好景気に沸いていた地域でした。それが東讃の砂糖関係者による幕末の高灯籠寄進につながっていきます。。
天狗面2カラー
金刀比羅宮に寄進された天狗面

 金毘羅信仰の高まりは、庶民を四国の金毘羅へ向かわせることになります
実は大名の代参・寄進は、文化・文政ごろから減っていました。しかし、江戸時代中期以降からは庶民の参詣が爆発的に増えるのです。大名の代参・寄進が先鞭をつけた参拝の道に、どっと庶民が押し寄せるようになります。
 当時の庶民の参詣は、個人旅行という形ではありませんでした。
先ほど述べたとおり、信仰を共にする人々が「講を代表しての参拝」という形をとります。そして、順番で選ばれた代表者には講から旅費や参拝費用が提供されます。こうして、富裕層でなくても講のメンバーであれば一生に一度は金毘羅山に御参りできるチャンスが与えられるようになったのです。これが金比羅詣客の増加につながります。ちなみに、参拝できなかった講メンバーへのお土産は、必要不可欠の条件になります。これは現在でも「修学旅行」「新婚旅行」などの際の「餞別とお礼のお土産」いう形で、残っているのかも知れません。

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丸亀のふたつの金毘羅講を見てみましょう
延享元年(1744)讃岐出身の大坂の船宿多田屋新右衛門の金毘羅参詣船を仕立てたいという願いが認められます。以後、大坂方面からの金毘羅参詣客は、丸亀へ上陸することが多くなります。さらに、天保年間の丸亀の新湛甫が完成してからは参詣客が一層増えます。その恩恵に浴したのは丸亀の船宿や商家などの人々です。彼らはそのお礼に玉垣講・灯明講を結成して玉垣や灯明の寄進を行うようになります。この丸亀玉垣講については、金刀比羅神社に次のような記録が残されています。
    丸亀玉垣講 
右は御本社正面南側玉垣寄付仕り候、
且つ又、御内陣戸帳奉納仕り度き由にて、
戸帳料として当卯年に金子弐拾両 勘定方え相納め候蔓・・・・・
但し右講中参詣は毎年正月・九月両度にて凡そ人数百八拾人程御座候間、
一度に九拾人位宛参り候様相極り候事、
  当所宿余嶋屋吉右衛門・森屋嘉兵衛
  金刀比羅宮文書(「諸国講中人名控」)
とあって、本社正面南側の長い階段の玉垣と内陣の戸帳(20両)を寄進したこと、この講のメンバーは毎年正月と9月の年に2回、およそ180人ほどで参拝に訪れ、その際の賑やかな様を記しています。寄進をお山に取り次いだのは金毘羅門前町の旅館・余嶋屋吉右衛門・森屋嘉兵衛です。
 玉垣講が実際に寄進した玉垣親柱には「世話方船宿中」と彫られています。そして、人名を見ると船宿主が多いことに気がつきます。
一方、灯明講については、燈明料として150両、また神前へ灯籠一対奉納、講のメンバーは毎年9月11日に参詣して内陣に入り祈祷祈願を受けること、そのたびに50両を寄付する。取次宿は高松屋源兵衛である。
この講は、幕末の天保十二年(1841)に結成されて、すぐ六角形青銅灯籠両基を奉納しています。灯明講の寄進した灯籠には、竹屋、油屋、糸屋とか板屋、槌屋、笹屋、指物屋という姓が彫られていて、どんな商売をしているのか想像できて楽しくなります。玉垣講と灯明講は、丸亀城下の金毘羅講ですが、そのメンバーは違っていたようです。
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瀬戸内海の因島浦々講中が寄進した連子塀灯明堂をみてみましょう
この連子塀灯明堂は、一の坂にあり、今も土産物店の並ぶ中に建っています。幕末ころに作られた『稿本 讃岐国名勝図会 金毘羅之部』に
連子塀並び灯龍 奥行き一間 長十二間
下六間安政五年十一月上棟 上六間
安政六年五月上棟
と記されています。
「金毘羅宮 灯明堂」の画像検索結果
一ノ坂の途中の左側にある重要有形民俗文化財「灯明堂」で、瀬戸内海の島港の講による寄進らしく、船の下梁を利用して建てられています。当時としては、巨額の経費を必要とするモニュメントです。この燈明堂を寄進した因島浦々講中とは、何者なのでしょうか?
 この講は因島を中心として向島・生口島・佐木島・生名島・弓削島・伯方島・佐島など芸予諸島の人々で構成された講です。メンバーは廻船業・製塩業が多く、階層としては庄屋・組頭・長百姓などが中心となっています。因島の中では、椋浦が最も大きな湊だったようで、この地には、文化二年(1805)10月建立の石製大灯籠が残っていて、当時の瀬戸内海の交易活動で繁栄する因島の島々の経済力を示すものです。
生口島の玄関湊に当たる瀬戸田にも、大きい石灯籠があります。
三原から生口島の瀬戸田へ : レトロな建物を訪ねて

これには住吉・伊勢・厳島などと並んで金毘羅大権現と彫られています。自らの港に船の安全を祈願して大灯籠を建てると、次には「海の神様」として台頭してきた金毘羅山に連子塀灯明堂を寄進するという運びになったようです。経済力と共に強力なリーダーが音頭を取って連子塀灯明堂が寄進されたことを思わせます こうして、瀬戸内海の海運に生きる「海の民」は、住吉や宮島神社とともに新参の金毘羅神を「海の神」として認めるようになっていったようです。
金毘羅神
天狗姿の金毘羅大権現(松尾寺蔵)
このような金毘羅信仰の拡大の核になったのは、ここでも金毘羅の山伏天狗たちではなかったのかと私は思います。
金毘羅山は近世の初めは修験者のメッカで、金光院は多門院の院主たちは、その先達として多くの弟子を育てました。金毘羅山に残る断崖や葵の滝などは、その行場でした。そこを修行ゲレンデとして育った多くの修験者(山伏)は、天狗となって各地に散らばったのです。あるものは江戸へ、あるものは尾道へ。
 尾道の千光寺の境内に残る巨石群は、古代以来の信仰の対象ですし、行者達の行場でもありました。また、真言宗の仏教寺院で足利義教が寄進したとされる三重塔や、山名一族が再建した金堂など、多数の国重要文化財がある護国寺の塔頭の中で大きな力を持っていたのは金剛院という修験僧を院主としています。尾道を拠点として、金毘羅の天狗面を背負った山伏達が沖の島々の船主達に加持祈祷を通じた「布教活動」を行っていた姿を私は想像しています。
 そして、ここでは「海の守り神」というキャッチコピーが使われるようになったではないでしょうか。江戸時代の後半になるまでは、金毘羅大権現は加持祈祷の流行神であったと資料的には言えるようです。
金毘羅神 箸蔵寺
阿波箸蔵寺の金毘羅大権現

参考文献 金毘羅信仰の高まり 町史ことひら 91P
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 江戸時代には、各大名の下屋敷などには、その本国の神々が祀られ、それが流行神として江戸庶民の間に爆発的に広がり出すことがありました。金毘羅信仰もそのなかの「流行神」のひとつです。今の私たちは「金毘羅さん」といえば「海の神様」というイメージが強いのですが、金比羅神が江戸でデビューした当時は、どのように見られていたのでしょうか。そして、江戸や大坂などでどのように受け入れられていたのでしょうか。

Cg-FlT6UkAAFZq0金毘羅大権現
金毘羅大権現と天狗たち (金毘羅金光院発行)

「金毘羅祈願文書」から見ていくことにしましょう
 江戸時代に信州芝生田村の庄屋が、金毘羅大権現に願を掛けた願文を見ておきましょう。この村は群馬県嬬恋村に隣接する県境の地域で、旧地名が長野県小県郡東部町で、平成16年の市町村合併によって東御市となっているようです。
  金毘羅大権現御利薬を以て天狗早業の明を我身に得給ふ。右早業之明を立と心得は月々十日にては火之者を断 肴ゑ一世不用ヒつる
  右之趣大願成就致給ふ
 乍恐近上
  金毘羅大権現
     大天狗
     小天狗  
千早ふる神のまことをてらすなら我が大願を成就し給う
   九月廿六日       願主 政賢
意訳変換しておくと
金毘羅大権現の御利益で天狗早業の明を我身に得ることを願う。「早業之明」を得るために月々十日に「火断」を一生行い大願成就を祈願する
   金毘羅大権現
     大天狗
     小天狗  
神のまことを照し我が大願を成就することを
   9月26日       願主 政賢


「金毘羅大権現御利薬を以て、天狗早業の明を我が身に得給う」とあり、「天狗」が出てきます。大願の内容は記されていませんが、「毎月十日に火を断つ」という断ち物祈願です。そして祈願しているのは「金毘羅大権現」「大天狗」「小天狗」に対してです。金毘羅大権現とならんで大・小の天狗に祈っているのです。
Cg-FljqU4AAmZ1u金毘羅大権現
前掲拡大図 中央が金毘羅大権現 右が大天狗、左が子天狗
 この祈願文の「大天狗」「小天狗」とは何者なのでしょうか?

 天狗信仰については、金毘羅宮の学芸員を長く務めた松原秀明氏は、次のように記されています。

金毘羅信仰における天狗の存在について、金毘羅大権現を奉祀していた初期院主たちの影響が大きい。別当金光院歴代住職の事歴が明らかになるのは戦国末期の天正前後であり、その当時の住職には「修験的なものが色濃くつきまとって見える」

ここからは次のようなことが分かります。
①金毘羅大権現の初期の中心は「天狗信仰」だったこと
②天狗信仰は戦国末期に金毘羅大権現を開いた金光院の院主によってもたらされたこと
③初期金光院院主は、修験者たちだったこと
金毘羅神
金毘羅大権現とは天狗?(松尾寺蔵)
 なかでも初代金光院院主とされる宥盛は、象頭山内における修験道の存在を確立します。
『古老伝旧記』に、宥盛は「真言僧両袈裟修験号金剛坊」とあり、「金剛坊」という修験の号をもつ修験者であったことが分かります。ちなみに、宥盛は、厳魂と諡名されて現在の奥社に祀られています。

1 金刀比羅宮 奥社お守り
宥盛を祀る金毘羅宮奥社の守護神は、今も天狗

 修験者たちは、修行によって天狗になることを目指しました。
修験道は、日本古来の山岳信仰に端を発し、道教、神道・真言密教の教義などの影響を受けながらを平安時代後期に一つの宗教としての形を取るようになります。山岳修行と、修行で獲得した霊力を用いて行う呪術的な宗教活動の二つの面をもっています。そして、甘南備山としての山容や、神の住まう磐座や滝などをめぐる行場を辺路修行が行われました。
 さらに農耕を守護する水分神が龍る聖地を、崇拝しました。
金毘羅大権現が鎮座する象頭山は、断崖や葵の滝などの滝もあり、「ショーズ山」=水が生ずる水分神の山であり、修験道の行場として中世以来行者たちが拠点とした場所だったようです。この修験道の宗教的指導者は山伏と呼ばれました。

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奥社の岩壁
 天狗信仰を広めた別当宥盛は奥の院(厳魂神社)に祀られている。彼が修行を行った岩壁は「天狗岩(威徳巖)」とも呼ばれています。


山伏とは?

 山伏は鈴掛・結袈裟・脚絆・笈・錫杖・金剛杖など山伏十六道具と呼ばれる独自の衣体や法具をまとって山岳に入って修行します。その姿は、中世の『太平記』では「山伏天狗」と記されるように山の妖怪である天狗と一体視されるようになります。ここに山伏(修験者)と天狗の結びつきが深まります。
中世末に成立したといわれる『天狗経』には、48の天狗が列挙されています。研究者は次のように指摘します。

「天狗侵攻の隆盛は、修験道の隆盛と時期を同じくする」
「江戸時代の金比羅象頭山は、天狗信仰の聖地であった」
 
つまり、戦国末期から江戸時代初期にかけては、象頭山内において天狗信仰が高まった時代なのです。  そして、その仕掛け人が松尾寺の金光院だったようです。
金毘羅大権現は、どんな姿で表されたのでしょうか?

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天狗として描かれた金毘羅神
金毘羅大権現の姿については、次のような言い伝えがあります。

「烏天狗を表している」
「火焔光背をもち岩座に立っている」
「右手に剣(刀)を持つ」
「古くは不動明王のように剣と索を持ち、
飯綱信仰などの影響をうけ狐に乗った姿だった」
江戸時代の岡西惟中『一時軒随筆』(天和二年(1682)には次のようにあります。
万葉のうち、なかの郡にたけき神山有と見えぬ。
これもさぬきの金毘羅の山成べし。
金毘羅の地を那珂の郡といふ也。
金毘羅は、もと天竺の神、釈迦説法の守護神也。
飛来して此山に住給ふ。形像は巾を戴き、左に珠数、右に檜扇を持玉ふ也。
巾は五智の宝冠を比し、珠数は縛の縄、扇は利剣也。
本地は不動明王也とぞ。
二人の脇士有。これ伎楽、伎芸という也。
これ則金伽羅と勢陀伽権現の自作也。
金光院の法院宥栄らただちにかたせ給ふ趣也。
まことにたけき神山ともよめらん所也。
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金毘羅大権現
  金比羅神は、釈迦説法の守護神で天竺から飛んできた神で、本地は不動明王というのです。不動明王は修験者の守護神です。
当時、人々に信じられていた天狗は二種類ありました。
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それが最初に視た願文中の「大天狗」・「小天狗」です。
「大天狗」とは鼻が異様に高く、山伏のような服装をして高下駄を履き、羽団扇を持って自由自在に空中を飛翔するというイメージです。
「小天狗」とは背に翼を備え、鳥の嘴をもつ鳥類型というイメージです。
でそれでは「金毘羅坊」とは、どのような天狗なのでしょう。
 戦国末期に金光院別当であった宥盛(修験号名「金剛坊」)は、自分の姿を木像に自ら彫りました。彼の死後、この像は御霊代(みたましろ)として祀られていました。この木造について、江戸時代中期の尾張国の国学者天野信景は『塩尻』の中に、次のように記している。
讃州象頭山は金毘羅を祀す。其像、座して三尺余、僧形也。
いとすさまじき面貌にて、今の修験者の所載の頭巾を蒙り、
手に羽団(団扇)を取る。薬師十二神将の像とは、甚だ異なるとかや。
その姿は「山伏の姿で岩に腰かける」というものでした。
山伏姿であるところから「大天狗」にあたると考えられます。
安藤広重作「東海道五十三次」の「沼津」に見られる金毘羅行者は、この大天狗を背に負っています。
「安藤広重作「東海道五十三次」の「沼津」」の画像検索結果

 一方「黒春属金毘羅坊」は
「黒は烏につながる」
「春属には親族とか一族の意味がある」ことから
「黒春属金毘羅坊は金剛坊の仲間の烏天狗として信仰された」とします。
つまり、烏天狗ということは、願文中の「小天狗」になります。
 そして大天狗・小天狗は、今でも金毘羅山を護っているのです。
現在の金刀比羅宮奥の院の左側の断崖絶壁に祀られています。

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 以上のことから、最初に見た願文の願主は、金毘羅信仰の天狗についてよく分かっていたようです。信濃の庄屋さんの信仰とは、金毘羅大権現=「大天狗≒小天狗」への信仰、つまり「天狗信仰」にあったと言えるのかも知れません。
天狗面を背負う行者
天狗面を背負った金比羅行者 彼らが金毘羅信仰を広めた
さらに深読みするならば、この時期の信州では天狗信仰を中心とした金毘羅信仰が伝わり、受けいれられたようです。それが信州における金毘羅信仰の始まりだったのです。ここには「金比羅信仰=海の神様」というイメージは見られません。また、「クンピーラ=クビラ信仰」もありません。これらは後世になって附会されたものなのです。
 
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 江戸時代初期の丸亀藩や高松藩の下屋敷に勧請され、当時の「開帳ブーム」ともいうべき風潮によって広く江戸市民に知られ、その後爆発的な流行をみせた金毘羅信仰。
その信仰の中心にあったものは、航海安全・豊漁祈願・海上守護の霊験と言われてきました。しかし、それは近世後半から幕末にかけて現れてくるようです。初期の金毘羅大権現は、修験道を中心とした「天狗信仰」=「流行神の一種」だったようです。その願いの中に、当時の人々が願う「現世利益」があり「大願成就」を願う心があったようです。
1金毘羅天狗信仰 天狗面G3
金比羅行者が奉納した天狗面(金刀比羅宮蔵)
参考文献  前野雅彦 金毘羅祈願文書について こと比ら63号(平成20年)
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