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綾子踊り11
綾子踊り(まんのう町佐文) 賀茂神社への行進

2年に一度公開されている綾子踊りも、前回はコロナ禍で中止されました。今年は3年ぶりの開催が予定され、佐文では準備が始まっています。そこで、この際に綾子踊りについて、日頃から疑問に思っていたことを洗い出して、調べて行こうと思います。
 テキストは最近発行された「祈る・歌う・踊る 綾子踊り 雨を乞う人々の歴史」まんのう町教育委員会 平成30年」です。この冊子は、全国の風流踊りを一括してユネスコの文化遺産に登録するために、教育委員会が編集・発行したもので、専門家による綾子踊りの分析が行われています。

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綾子踊り 賀茂神社
まずは、綾子踊の起源と由来を押さえておきます。
綾子踊りの国の文化財指定で大きな決め手になったのが、踊りの歌詞や由来などについて記した記録でした。これは、戦前に佐文の華道家の尾﨑傳次(号清甫)氏が、古文書を書き写したものです。
尾﨑傳次について、最初に紹介しておきます。
彼は明治3年3月29日に佐文に生まれています。傳次が生まれた翌年明治4年に、宮田の法然堂の住職を務めたいた如松斉は法然堂を出て、生間の庵に隠居して華道に専念するようになります。その庵に多くの者が通い如松斉から未生流の流れをくむ華道を学んだ。如松斉から手ほどきを受けた高弟の中に、佐文の法照寺5代住職三好霊順がいました。霊順は、如松斉から学んだ立華を、 地元の佐文の地で住民達に広げていきます。尾﨑傳治も若いときから法照寺に通い霊順から手ほどきを受け、入門免許を明治24年12月に21歳で得ています。その際の入門免許状には「秋峰」とあります。後の七箇村長で国会議員を務めた増田穣三のことです。
 この前年には、如松斉の七回忌に宮田の法然堂境内に慰霊碑が建てられます。この免状からは、穣三が未生流から独立し「如松流」の第2代家元として活動していたことが分かります。尾﨑傳次は、その後も熱心に如松流の華道の習得に努め、増田穣三が代議士を引退後には直接に様々な教えを学んだようです。
 尾﨑家には、傳次が残した手書きの「立華覚書き」が残されています。孫に当たる尾﨑クミさんの話によると、祖父傳次が座敷に閉じこもり半紙を広げ何枚も立華の写生を行っていた姿が記憶にあると話してくれました。
 傳次はその後も精進を続け、大正九(1920)年には、華道香川司所の地方幹事兼評議員に就任しています。大正15年3月に師範免許(59歳)を、続いて昭和6年7月に准目代(64歳)、最後に昭和12年6月には会頭指南役の免状を、「家元如松斉秋峰」(穣三)から授かっています。傳次は、そういう意味では田舎にありながら「華人」であり「文化人」でもあったようです。失われていく綾子踊りの記憶を、きちんと残しておこうという使命感と能力があったのでしょう。傳次は戦中の昭和18年8月9日に73歳で亡くなります。
 亡くなる前年2月に、長男である沢太(号湖山)に未生流師範を授けています。沢太は小さい頃から父傳次より如松流の手ほどきを受けていたというから、代替わりという意味合いもあったのかもしれない。
 その後、沢太は戦後の昭和24年9月には荘厳華教匠、昭和25年10月には嵯峨流師範と未生流以外の免状を得て、昭和27年には香川司所評議員、33年には地方幹事に就任し、未生流のみならず香川の華道界のために尽力した。一方、沢太は父傳次の残した文書を参考に、戦後の綾子踊り復活に際して、芸司としても中心的な役割を果たすことになります。これも、華道を通じて尾﨑家に養われてきた文化的な素養の力があったからだと私は考えています。
尾﨑傳次が書き写したという綾子踊りの起源についてについて、見ておきましょう。(現代訳版)

佐文村に佐文七名という七軒の豪族、四十九名がいた。昔、千ばつがひどく、田畑はもちろん山野の草や木に至るまで枯死寸前の状況で、皆がとても苦しんでいた。その頃、村には綾という女性がいた。ある日、四国を遍歴する僧がやって来た。僧は、暑いので少し休ませてもらいたいと、綾の家に入った。綾は快く僧を迎え、涼しい所へ案内をしてお茶などをすすめた。僧は喜んでお茶を飲みながら、色々と話をした。その中で、旱魃がひどく、各地で苦しんでいるが、綾の家ではどううかと尋ねられた。そこで綾は、「自分の家ももちろん、村としても一杓の水も無い状況で、作物を見殺しにするしかない。本当に苦しい」と答えた。
すると僧は、「今雨が降ったら、作物は大丈夫になるか」と尋ねたので、「今雨が降ったら、作物はもちろん人々は喜ぶでしょう」と綾は答えた。その答えに僧が「それでは私が今、雨を乞いましょう」と言う。綾は怪しみ、「いくら大きな徳がある僧でも、この炎天下に雨を降らせるのは無理と思います」と答えた。すると僧は、「今、私の言うようにすれほ、雨が降ること間違いなしです」と言う。そこで綾は「できる限りやってみます」と答えた。僧は「龍王に雨乞いの願をかけ、踊りをすれば、間違いない。この踊りをするには多くの人が必要なので、村中の人たちを集めなさい」という。
 そこで綾はあちこちと村中とたずね歩いたものの日照りから作物を守ろうとするのに忙しく、だれも家にはいない。帰ってきた綾が、誰もいないことを僧に話すと、「では、この家には何人子どもがいるか」と尋ねる。「六人」と答えると、「ではその子六人と綾夫婦と私の九人で踊りましょう。その他親族を集めなさい」と言う。綾は、走って兄弟姉妹合わせて四・五人呼ぶと、僧が「まず私が踊るので、皆も一緒に踊りなさい」と踊り始めた。

 二夜三日踊って、結願の日となっても雨は降りません。なのに僧侶は「今度は蓑笠を着て、団扇を携えて踊りなさい」と言う。綾は「この炎天下に雨が降るわけでもないのに、蓑笠は何のためですか」と怪しんで訊ねます。
「疑わず、まず踊りなさい。そして踊っている最中に雨が降っても、踊りを止めないこと。踊りをやめると、雨は少なくなるので、蓑笠を着て踊り、雨が降っても踊りが終わるまで止めずに、大いに踊りなさい」と僧は云います。綾は「例えどんな大雨が降っても、決してやめません」と答えた。まず子ども六人を僧の列に並べ、僧自らが芸司となって左右に綾夫婦を配置しました。親類の者には大鼓、鉦を持たせてその後ろに配し、地唄を歌つて大いに踊った。すると、不思議なことに、踊りの半ばには一天にわかに掻き曇り、雨が降り出したのす。 みんなは歓喜の声を上げながら踊りに踊った。雨は次第に激しくなり、雨音が鉦の響きと調和して、滝のように響きます。ついには山谷も流れるのではないかと思う程の土砂降りとなり、踊るのも大変で、太鼓の音も次第に乱れていきました。終わりの一踊りは、急いでしまい前後を忘れ、早め早めの掛け声の中で大いに踊った。 降雨に四方の人々が馳せ参じ、誰もかれもが四方で囲うように踊った。こういった経緯から、昔も今も綾子踊りに側踊りの人数に制限はありません。善女龍王の御利生は何物にも代えがたい、ありがたく恐れ多いこととなった。
踊りが終わってから、歌や踊りの意味などを詳しく教えてもらいたいと僧に乞うと、詳しく教えてくれ、帰ろうとした。
綾や子どもたちが、名残を惜しむようすを見て、僧は心動かされ、「今後どのような千ばつがあっても、 一心に誠を込めてこの踊りを行えば、必ず雨は降る。末世まで疑うことなく、千ばつの時には一心に願いを込め、この雨乞いをしなさい。末代まで伝えなさい」と言って、立ち去った。見送っていると、まるで霞のような姿だったので、この僧は、弘法大師だと言い伝えられるようになり、深く尊び崇まれるようになった。佐文の綾子踊りと言うのは、この時から始まり、皆の知るところとなった。千ばつの時には必ずこの踊りを行うこととなり、綾子踊りと言うのも、ここから名付けられた。

ここには次のようなことが分かります。
①雨乞い踊りを伝えたのは、四国巡礼の旅の僧侶で弘法大師であったとする弘法大師伝説の1パターンであること。
②「龍王に雨乞いの願をかけ」とあり「善女龍王」信仰による雨乞いであること。
③雨乞い踊りを2夜3日踊ったのは、綾子の一族だけであったこと
④雨乞い踊りの内容や謡われた歌については何も書かれていないこと。
⑤雨を降らせるための雨乞い踊りが綾に伝授されたこと

 綾子踊りは、中世の風流踊りの流れを汲む雨乞い踊りです。
それは16世紀初頭に成立した「閑吟集」に載せられた歌がいくつも、歌詞の中に登場することからも分かります。つまり、綾子踊りは中世の風流踊りが地方伝播に伝播し、それが雨乞い踊りに「転用」されたものと研究者は考えています。そうだとすると、弘法大師の時代にまで綾子踊りの起源を遡らせることはできません。中世以来伝わってきた風流踊りが、弘法大師伝説の拡がりとととに空海に結びつけられたとしておきます。

空海が雨乞いの際に祈願した「善女龍王」が讃岐にもたらされたのも、17世紀後半のことです。
「浄厳大和尚行状記」には、次のように記します。

浄厳が善通寺で経典講義を行った延宝六年(1678)の夏は、炎天が続き月を越えても雨が降らなかった。浄厳は善如(女)龍王を勧請し、菩提場荘厳陀羅尼を誦すること一千遍、そしてこの陀羅尼を血書して龍王に捧げたところが、甘雨宵然と降り民庶は大いに悦んだ。今、金堂の傍の池中の小社は和尚の建立したもうたものである。

ここには、高野山の高僧が善通寺に将来された際に、干ばつに遭遇し「善女龍王」を新たに勧進し、雨乞の修法を行い見事に成就させこと、そして「金堂の傍らの小社」を浄厳が建立したことが記されています。それが善女龍王です。善女龍王が讃岐に勧進されるのは17世紀になってからのようです。以後、善女龍王は三豊の威徳院(高瀬町)や、本山寺(豊中町)にも安置され、信仰を集めるようになります。逆に言うと、真言寺院では雨乞い祈祷は善女龍王を祀る寺院で、修行を積んだ験の高い選ばれたプロの宗教者が行うもので、素人が雨乞いなどを行っても効き目はないと考えられていたのです。
 それでは、綾子踊りと空海を結びつける「弘法大師伝説」を作り出したのは誰なのでしょうか?
  それがこの由来に登場する「四国を遍歴する僧」なのでしょう。遍歴僧とは、具体的には高野聖や六十六部廻国僧・修験者・山伏などが考えられます。例えば高野聖たちは、善通寺や弥谷寺や白峰寺などを拠点に、周辺の郷村への布教活動を展開し、浄土阿弥陀信仰や弘法大師伝説を広げていました。あるものは、郷村に建立されたお堂や神社に住み着く者もありました。歌人として知られる西行も「本業」は、高野聖で勧進聖でした。そのため善通寺周辺に逗留し、我拝師山での修行もおこなっています。
 彼らは布教の手段として、「芸事」を身につけていました。
それが見世物芸であったり、風流踊りや歌のでもあり、西行の場合は短歌であったともいえます。連歌師のなかには、漂泊の高野聖たちも数多くいたようです。ここで押さえておきたいのは、高野聖や修験者たちはプロの宗教者であると同時に、人々への布教や人寄せのために「サイドビジネス」として芸事を身につけたいたということです。  それが寺の勧進や、定期的な開帳などには演じられ、人寄せに大きな力を発揮していたのです。
 江戸時代になると廻国の修験者や高野聖たちが移動を禁じられ、定住を強制されるようになります。
あるものは、帰農して庄屋に成っていくものもいますし、あるものは薬草の知識を活かして、漢方薬の製造や販売を手がけるようになるものも現れます。しかし、多くのものは、郷村の神社やお堂に住み着き、お寺の住職や神社の神主たちと棲み分け、分業しながら野地域住民たちの宗教世界をリードしていく道しか残されていませんでした。例えば、現在は神社から配布されている蘇民将来のお札などは、神仏分離以前は山伏たちの収入源でもありました。
山伏たちがどんな風に、村々に入り込み、どんな活動をしていたのかを見ておきましょう。
 高松市の南部で仏生山法然寺がある香川郡百相(もあい)村に残る庄屋文書を見ておきましょう。今から200年ほど前の文政6(1823年)、この年は田植えが終わった後、雨が降らなかったようです。大政所の残した「御用日帳」には、5月17日に次のように記されています。
  「干(照)続きに付き星越え龍王(社)において千力院え相頼み雨請修行を致す」

日照りが続いたために、農作物へ悪い影響が出始めたようです。そこで「千力院」に依頼して、星越龍王社で「雨乞修行」を行っています。「千力院」は、修験道者(山伏?)のようです。最初に雨乞い依頼をいているのが山伏であることを押さえておきます。
 「千力院」の雨乞い祈祷は、効き目がなかったようです。そこで4日後の21日には、今度は大護寺の住職にも雨請を依頼しています。大護寺というのは、香川郡東の中野村にあった寺院で、高松藩三代藩主恵公が崇信し、百石を賜り繁栄した寺です。
  それでも雨は降りません。そこで6月からは鮎滝(香川町鮎滝)の童洞淵での雨乞いの修法を命じています。童洞淵での雨乞いは、どんなことが行われていたのでしょうか?
別所家文書の中に「童洞淵雨乞祈祷牒」というものがあり、そこに雨を降らせる方法が書かれています。その方法とは川岸に建っている小祠に、汚物をかけたり、塗ったりすることで雨を降らせるというものです。深い縁で大騒ぎするとか、石を淵に投げ込むとか神聖な場所を汚すことによって、龍王の怒りを招き、雷雲を招き雨を降らせるという雨乞いが各地で行われています。

  ここからは次のようなことが分かります。
①まず最初に、山伏による祈祷
②次に寺院による祈祷
③最後に、鮎滝(香川町鮎滝)の童洞淵での雨乞いの修法
③については、ひとつの村だけでなく、各村々から当番が参詣し、雨が降るまで雨乞いを行うもので中世の郷村的な雨乞い行事でもあり、大規模かつ継続的なものであった。
ここからは村の雨乞祈願については、段階があり、だんだん規模が大きくなっていたようです。これらの雨乞祈願の中に山伏が入り込んでいることをここでは押さえておきます。

今度は、1939(昭和14)年の佐文での雨乞い祈願の記録です。
この時に綾子踊に参加した白川義則氏(17歳)が、その様子を日記に次のように残しています。(現代語要約)
 この年は、春から雨が降らず、五月は晴天続きで雨はわずか一日、半日の降雨が二回のみで、あとはすべて晴れであった。六月に入ってもまとまった雨は降らず、曇で少雨の日が五回であった。
七月になっても梅雨の雨はなく、しかたなしに池の水を使って、田植えを始めた。田植えは終わったが雨降らず、溜池の水が十日には乏しくなってしまう。
七月の記録では四日に少雨、十八日に夕立少しあり、新池の水も干上がる。二十四日に佐文の上地域のみで夕立の少雨、連日晴天続きであった。雷雲近づくも音だけで降雨なし。
28日に龍王山上の祠の前に雨乞い用の拝殿を建てる。
  この日より、京都から招いた行者が降雨祈願のお籠りに入る。
30日には、水田が乾燥によってひび割れを生じ、稲の葉が巻く。
21日は、青年団員が金刀比羅官に赴き、雨乞い用の聖火を貰い受けてくる。この日、地域住民が龍王山上にわら東を持って登り、大火を焚き総参りをする。
8月も晴天続きで、多少の雨も降ったが焼け石に水。1日に、ため池からの水を一分割にする相談があり、二日には雨乞いの食事の当番が我が家にもあたり、龍王祠まで弁当を持っていく。三日には住民が総参りをして、善女龍王に降雨を願ったところ、朝のうちに少雨があったので、金刀比羅官へ聖火を戻しに行く。
 6日は自分も早朝七時から夕方七時まで、龍王山上の拝殿でお籠りをして、行者の祈祷にあわせ雨を念じる。
9日は、地区全体で綾子踊をする相談をした。
出演者の役割が決まり、自分は地唄よみをすることになる。10日は、米が取れそうにないので、救荒作物のイモづるを挿すが乾燥がひどく、収穫は期待できない。11日から16日まで綾子踊の練習。
地唄よみの衣装である袴を我が家で準備する。16日は、踊り手が全員神社に集まり、明日にそなえて練習の仕上げをする。
17日は、午前8時に王尾村長宅に集合し、行列してここから出発。まず神社で一回踊る。行列を整えて、龍王山上に登り、祠の前で一回踊り、それから神社に引き返して、お旅所と神前でそれぞれ1回踊った。神社には大勢の見物人がやってきて、大変賑やかだった。
18日、笛の木池の水をすべて放出して、池が空っばになった‥
23日、地区で一番大きい空池(そらいけ)と井倉池が干上がった。
底水に集まった小魚を皆で獲って持ち帰った。
24日、琴平町から東方面では雷雨があったが、佐文地区にはまったく雨の気配すらない。
25日、救荒作物のコキビの種を蒔いた。
30、立ち枯れた田んぼの稲は、真白く変色した。

  ここでも綾子踊りの前に、次のような雨乞い修法が行われていたことが分かります。
龍王山上の祠の前に雨乞い用の拝殿を建て、京都から招いた行者が降雨祈願のお籠りに入っています。そして、21日は、青年団員が金刀比羅官に赴き、雨乞い用の聖火を貰い受けています。その日のうちに、地域住民が龍王山上にわら束を持って登り、大火を焚いて総参りします。それでも雨は降らないので、最後の手段として、綾子踊りの準備にかかります。ここでも最初から綾子踊りを踊っているのではないことを押さえておきます。最初は、山伏による祈祷なのです。
  その山伏が戦前には佐文にはいなくて、京都から呼び寄せたというのも初耳でした。現在でも綾子踊りの編成の中には、ホラ貝を吹く山伏の姿が見えます。
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 秋祭りに舞われている獅子舞は、江戸時代後半になって各村々に登場してきたものであることは、以前にお話ししました。
各村々で、登場する獅子に特徴がありますが、踊りにも流派があるようです。その流れを遡るとまんのう町(旧仲南町)や、高瀬町の獅子舞は、五毛(まんのう町)に発すると云われます。これもどうやら獅子舞を持芸とする山伏が五毛にいたようです。そのため各地の獅子舞が指導者(山伏)を招き、それぞれの流派を伝授されたようです。ここにも村祭りなどのプロデュースを山伏が行っていたことがうかがえます。
 そういう目で見ると、佐文の綾子踊りも山伏によるプロデュースではないかと私は考えています。それが由来では、弘法大師伝説で空海により伝えられたとされたと思うのです。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 
    「祈る・歌う・踊る 綾子踊り 雨を乞う人々の歴史」まんのう町教育委員会 平成30年」
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まんのう町佐文に伝わる如松流華道
 増田穣三が宮田の西光寺(法然堂)の住職園田氏実(法号波法橋、流号如松斉)から華道を学び、若くしてその継承者になったことは前述した。代議士を引退した後の穣三は「家元」として「活花指導に専念した」と伝えられている。どんな活動が行われていたのだろうか、そしてその後の流派は、どうなっているのだろうか。今も譲三が家元であった「如松流」を掲げる華道の流れが佐文にあると聞いて訪ねてみた。
琴平方面から観音寺方面に国道377号を2㎞ほど行くと国重要民俗文化財「綾子踊りの里」として知られる佐文盆地が広がる。
 旧土佐伊予街道が金比羅さんに向けて、その中央を通っている。その旧街道沿いにある尾﨑家の玄関には、3代にわたる華道師範の「看板」が掲げられている。これを見て、最初に私が気づいたのは「未生流」ではなく嵯峨流とともに「如松流」という流派を名乗っていることだ。如松とはもちろん法然堂の住職であった如松斉のことである。つまり、未生流から独立し新たに如松斉がおこした「新流派」を継承しているのだ。
一番左が尾﨑傳次(号清甫)のものである。
彼は明治3年3月29日生まれで、増田穣三よりも13歳年下になる。傳次が生まれた翌年明治4年に如松斉は法然堂を出て、生間の庵に隠居して華道に専念する。その庵に多くの者が通い如松斉から未生流の流れをくむ華道を学んだ。
 幕藩体制の身分制度社会の下では、いろいろな事が禁令として定められていた。例えば丸亀藩では、百姓が家に花や木を植え育てることも
「百姓が米作りに専念することに差し障りがある」
と禁止していた。明治を迎え、花を育てることも活花を楽しむこともできる世の中がやってきた。時代の新しい流れ「新流行」が、ここでは活花であったのかもしれない。
如松斉から手ほどきを受けた高弟の中に、佐文の法照寺5代住職三好霊順がいる。
如松斉の顕彰碑裏面の発起人一覧の中に増田穣三、田岡泰に続いて3番目に彼の名前は刻まれている。霊順は、如松斉から学んだ立華を、自分の寺のある佐文の地で住民達に広げていった。 
 その際に今の私たちの感覚と違うのは、華道を学びに来たのが男達であったことだ。農作業等が終えた男達が寺に集まり、自分たちが集めてきた花や木を花材に花を生けた。「華道」のために男達が集まり、そこから新たな文化が芽生えていく様子が垣間見える。丹波からやって来た如松斉の華道は、こうしてこの地の人たちに受けいれられていった。
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 尾﨑傳治も若いときから法照寺に通い霊順から手ほどきを受けた。
そして、入門免許を明治24年12月に21歳で得ている。その際の入門免許状には「秋峰」つまり増田穣三の名と印が押されている。
 この前年には、如松斉の七回忌に宮田の法然堂境内に慰霊碑が建てられている。この免状からは、穣三が未生流から独立し「如松流」の第2代家元として活動していたことが分かる。

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尾﨑傳次は、その後も熱心に如松流の華道の習得に努めた。

そして、増田穣三が代議士を引退後には直接に様々な教えを学んだ。
 尾﨑家には、傳次が残した手書きの「立華覚書き」が残されている。その中には、師である増田穣三の活けた作品を写生したものも含まれているかもしれない。
 孫に当たる尾﨑クミさんの話によると、祖父傳次が座敷に閉じこもり半紙を広げ何枚も立華の写生を行っていた姿が記憶にあるという。
 また、如松流の創始者である如松斉が住職を務めた「法然堂の市」の際には、門下生がその成果を発表する華道展が毎年開かれていた。そこには増田穣三の門下生達の作品が多く展示された。
 その準備等を取り仕切ったのが尾﨑傳次ではなかったのか。そして次第に、譲三の信頼を得て門下生の中でも「高弟」に当たる地位と役割を果たしていくようになる。
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尾﨑傳次(清甫)
 傳次はその後も精進を続け、大正九(1920)年には、華道香川司所の地方幹事兼評議員に就任する。
一方、大正15年3月に師範免許(59歳)を、続いて昭和6年7月に准目代(64歳)、最後に昭和12年6月には会頭指南役の免状を、「家元如松斉秋峰」(穣三)から授かっている。
昭和12年というと増田穣三の最晩年にあたり、翌年には銅像が建立される時期である。
「如松斉流」の第3代家元を、譲三は誰に譲ろうとしていたのかも気に掛かるところである。
 傳次は戦中の昭和18年8月9日に73歳で亡くなる。
その前年2月に、長男である沢太(号湖山)に未生流師範を授けられている。沢太は小さい頃から父傳次より如松流の手ほどきを受けていたというから、代替わりという意味合いもあったのかもしれない。
 その後、沢太は戦後の昭和24年9月には荘厳華教匠、昭和25年10月には嵯峨流師範と未生流以外の免状を得て、昭和27年には香川司所評議員、33年には地方幹事に就任し、未生流のみならず香川の華道界のために尽力した。
 戦後、農村では食糧増産のために熱気ある時代が訪れ、青年団や婦人会活動などの「新農村文化活動」が芽生えてくる。そんな中で、再び男達が花を活けることを楽しみ出す。自分の花器をしつらえ山から切り出してきた木や庭から摘んできた花を活ける。その輪の中の中心で指導を行ったのが尾﨑沢太であった。沢太は青年団に招かれ若い青年達に活花の手ほどきを行ったという。

 考えてみれば、幕末に丹波からやって来た法然堂の住職がもたらした未生流華道の流れが、増田穣三を経て、尾﨑家に伝わり、佐文の地に広がり、今も受け継がれている。「如松流」の看板が掲げられていると言うことは、様々な意味があることに改めて考えさせれた。

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