瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:岩屋寺

仙人窟は、『一遍聖絵』にも描かれていて、修験者たちが岩籠もりや祈りの場としていた行場のひとつと考えられてきました。しかし、実際にここが調査対象になったことはありませんでした。ユネスコ登録に向けた霊場調査で、この窟も発掘調査の手が入ったようです。その報告書を見ていくことにします。テキストは、「四国88ヶ所霊場詳細調査報告書 第45番札所 岩屋寺発掘調査の成果(仙人窟:58P)2022年3月 愛媛県教育委員会」です
まず澄禅の四国遍礼霊場記に「仙人窟」がどのように書かれているか見ておきましょう。

岩屋寺 仙人窟と仙人堂
 
①不動堂(現本堂)の上の岩窟は、自然と厨子のようになっており、中には高さ四尺余りの銅製仏像が置かれている。②鉦鼓を持っている阿弥陀如来だということだ。各仏格は峻別できるものではなく融通無碍ではあるが、如来・菩薩・明王・天といった四種の身相は経や儀規に定められており、形式を私にすることはできない。③阿弥陀如来であることを疑う者もいる。もっともなことだ。いつのころかに飛んで来た仏であるから、④飛来の仏と呼ばれている。近くに⑤仙人窟がある。法華仙人が人間としての肉体を失い精霊となった場所だ。

ここからは、次のようなことが分かります。
①不動堂(本堂)の岩窟には銅製仏像が安置されていること
②この仏像は鉦鼓を持っているのに阿弥陀如来とされていること
③これに対して、澄禅は懐疑的であること
④誰が安置したか分からず、飛来の仏とされていること
⑤阿弥陀窟の左側に仙人窟があり、「法華仙人が人間としての肉体を失い精霊となった場所」とされていたこと。
ここで確認しておきたいのは、現在の仙人堂と仙人窟は別の窟であることです。
岩屋寺 仙人窟と仙人堂2
岩屋寺 仙人堂と仙人窟

仙人窟の位置を最初に確認します。

①金剛界峰から南面して、阿弥陀堂に並んで開口
②本堂からの比高は約4m、奥行は最大で約2,9m、幅約4、3m、高さは約2、1m。
③岩壁沿いに細い行道が10mほど続いていて、通路のようになっている
岩屋寺 仙人窟への行道跡
岩屋寺仙人窟への行道

金剛界峰の裾部からは、かつての山林修行者の行道が一部残っているようです。この山全体が「小辺路」で行場だったことは以前にお話ししました。そのような行道の中のひとつの窟が仙人窟のようです。

発掘調査の結果、仙人窟からは次のような遺物が出てきています。

岩屋寺 仙人窟の遺物2
1 8世紀の須恵器の壺蓋
2・3 中世後期(15~16世紀代)の土師器質の皿
4 鹿角製の竿(完形品) 
5 大量のこけら経・笹塔婆
岩屋寺 仙人窟の遺物
岩屋寺仙人窟からの出土品

これらの遺物から何が分かるのか、順番に見ていくことにします。
遺物1は、須恵器の壺蓋です。
上図の黒い部分で全体の4分の1ほどが出ています。つまみ部分がありません。これについて研究者は次のように記します。

外面の3分の1より上は回転ヘラ削りにより器面が整えられ、天井部付近はケズリ後ナデが施されている。外部外而3分の1よリ下と内面は回転ナデによって調整される。口縁部径は復元で14。3㎝、高さは残存部で4。5㎝を測る。天井部から体部にかけての屈曲は鈍角で緩やかで、口縁端部はやや尖り気味におさまり、接地面はわずかに平坦面を有する。内外面ともに浅黄橙色を呈し、胎土は混和剤が少なく、精良である。時期は8世紀代に属するものと考えられる。 

2・3は土師質土器の皿です。
造りは精良で、全体に歪みがない。復元口縁部径は13。2㎝、底径は5。8㎝、器高は3。2㎝で小型。内外ともに横ナデによって器面が整えられ、底部は回転糸切り痕が明瞭に残る。時期は、松山平野の土器との比較から中世後期(15~16世紀代)のもの

4は鹿角製竿(さお)の完形品です。
全長16。3㎝、最大幅1。95㎝、最大厚0。6㎝で、上端と下端が薄く、中ほどが厚くなっています。全体が良く磨かれて丁寧に仕上げられています。時期の特定は難しく、同時に出土した土器年代から古代~中世と幅を持たせています。

遺物1はⅣ層1面、 2はⅢ層、3は表面採集、4はⅣ層からの出土になるようです。このほか、Ⅲ層からは大量のこけら経と笹塔婆が出土しています。これを次に見ておきましょう。

岩屋寺 こけら経出土状態
岩屋寺のこけら経出土状態
仙人窟からはこけら経・笹塔婆2421点が出ています。その内訳は、次の通りです
①経典を書写したこけら経が505点
②六字名号などを書いた笹塔婆415点
③内容不明等の墨書などの断簡1501点
④残存状況は、完全系60点、頭部407点、下部57点、断片1897点
岩屋寺こけら経1
岩屋寺出土のこけら経

こけら経・笹塔婆については元興寺極楽坊から発見されたものが有名です。
「水野正好先生の古稀をお祝いする会2003年8月2日発行】15頁の「経木・経石発掘」には、次のように記します。
 (-前略-)『大乗院寺社雑事記』には、こうした柿経書写の様子をこと細かく「春菊丸の追善のために柿経5670本つくり供養。うち5550本は文明9年5月14日の誕生日から当年(明応元年)7月25日死去の日まで、春菊丸がこの世にあった日数の柿経、120本は当年3月25日より死去の日まで、病に臥せた120日間分。柿経に書写した経は法華経は8巻・・・地蔵本願経3巻、阿弥陀経・・・。柿経は曽木200枚余、6切に5本ずつとる」と書きのこしてくれている。
死者の追善供養としての柿経の写経であり、在世の日数に病
臥の日数を加えて法華経以下の経を写しているのである。
敦賀市のこけら経: 一乗学アカデミー
こけら板墨書  妙法蓮華經  富森冬永奉納  一束(箍外れの3枚を含む)
・時代 室町時代1498年(明応七年十一月十一日)銘
・直径 約21.5㎝(こけら板1枚の長さ約26.3㎝ 幅 約1.6㎝ 厚さ 約0.03㎝)
・説明 薄く剥(は)いだヒノキの板約2,000枚に墨で1行17字の妙法蓮華經を書写したもの。重ねて、巻末を中心にして円筒形に巻き込み、上・下を竹の箍(たが)で締めつけているが、下の箍は現在は銅線で補修されている。
法華経は8巻4,091行あり、このこけら経は、2束1セットの1束と見られる。

元興寺極楽堂の天井裏に、はかつて柿経を納めたカマスがあったようです。

岩屋寺の仙人窟から出てきた笹塔婆を見ておきましょう
世良田諏訪下遺跡出土の笹塔婆等 附 出土土器一括 - 太田市ホームページ(文化財課)
笹塔婆は仏の名前や短い仏教の文言を書いて供養やまじないに用いた木簡です。岩屋寺出土の笹塔婆には
①「南無阿弥陀仏」の六字名号
②「大日如来」「勝蔵仏」などの阿弥陀仏以外の名号
③「キリーク・ナン・ボク」「キリーク・サ・サク」
などの梵字が書写されています。圧倒的に多いのは「南無阿弥陀」です。また「キリーク・ナン・ボク」は、阿弥陀如来の梵字種子に「南無仏」を梵字化した「ナン・ボク」を付加したものと研究者は考えています。そうすると「キリーク・サ・サク」の阿弥陀三尊梵三種子と合わせて、この洞窟のとなりに祀られている「洞中弥陀」との関係があったことがうかがえます。どちらにしても、阿弥陀信仰の色合いが強いことを押さえておきます。
岩屋寺のこけら経・笹塔婆は、
いつころ奉納されたものなのでしょうか?

岩屋寺 こけら経分類
岩屋寺 こけら経編年表

上の分類・編年表に岩屋寺こけら経・笹塔婆の分類を照会すると、「松浦・原旧分類」のIa類とⅦa類に対応するので、15世紀後半~16紀頃のものと研究者は判断します。また、それを補強するものとして、岩屋寺のこけら経や笹塔婆の多くが片面写経であること、字体が近世まで下らないことがあります。
以上からは中世後期のこの岩窟では、士師質土器皿を持ち込んで、宗教的行為や柿経・笹塔婆の奉納などに活発に岩窟を利用していたことがうかがえます。
それでは、8世紀代の須恵器が仙人窟に持ち込まれていることを、どう考えればいいのでしょうか?
岩屋寺は、長く第41番札所大賓寺の奥之院とされてきました。そのため岩屋寺の縁起は、ほとんどが江戸時代以降のものです。最も古いものは鎌倉時代に描かれた『一遍聖絵』の詞書になります。そこには、空海以前には、地主神として仙人が生活していたとと、次のように記します。

「仙人は又土佐国の女人なり、観音の効験をあふきてこの巌窟にこもり…(中略)・…又四十九院の岩屋あり、父母のために極楽を現じ給へる跡あり、三十二所の霊嘱あり。斗藪の行者霊験をいのる砌なり」

 ここからは岩屋寺が創建される以前より、土佐国出身の女性の仙人が修行を行う霊地であったと伝わっていたようです。こういう伝えが残されていることは、岩屋寺周辺の岩窟では、行者らの修行が岩屋寺創建より前から行われていたことがうかがえます。
 また、この岩窟は生活するには不便な場所です。床面は水平ではなく、斜めに傾いています。その上、開口部以外は天井は低く、狭いので日常的な生活の場には適さない空間です。しかも水場からは遠く離れています。以上から、今回出土した須恵器は、日常的生活用ではなく、岩窟内での宗教的行為のために持ち込まれたものと研究者は考えています。
ここから出土した8世紀の須恵器の器種は壺の蓋です。
形から見て頸の短い短頸壺とセットとなる蓋で、その用途は日常生活の貯蔵容器として用いられる他に、この時期には蔵骨器として用いられていたと研究者は指摘します。その用例は愛媛県でも何例かあるようです。
岩屋寺 松山市の骨蔵器

上図は松山市かいなご3号墳周辺から出土した蔵骨器で、完全な形で、8世紀~9世紀中葉のものとされています。仙人窟の須恵器土器も蔵骨器として使用されていたと研究者は推測します。それを補強するのが『一遍聖絵』の詞書「仙人利生のために遺骨をとゝめ給ふ」という記述です。ここからは、古代~中世の岩屋寺では何らかの形で遺骨が祀られていたことがうかがえます。8世紀に蔵骨器として使用されたものとすれば、霊窟での祖先供養と結びついて考えることができます。
最後に、鹿角製竿について見ておきましょう。
先ほど見たように、中世後期の仙人窟では、こけら経の奉納や土師質土器を用いての宗教的供養が行われていたことが想定できます。しかし、その際に鹿角製竿がどのように使われていたのかというのは、よく分かりません。他でもこけら経と竿、土師質土器と竿を用いた祭祀行為の例はないようです。廻らなくなった頭を叩いて無理矢理に出してみると「行者などの人々の出入りが比較的多かったので、修行などの際に鹿角製竿を落とした」くらいしかおもいつきません。しかし、仙人修行の地である神聖な霊窟に落とし物をしてそのままにする修験者がいるでしょうか。しかも、これは完形品で、廃棄されたとも考えられません。
 一方、8世紀代には須恵器の壺蓋が蔵骨器として用いられていた可能性があることは見てきた通りです。
ここからは、鹿角製竿も人骨とともに蔵骨器内に納められた副葬品であると研究者は推測します。熊本県益城町阿高の「阿高貝塚」の古墳から出土した蔵骨器には、骨製の竿が副葬されているようです。ここでは「鹿角製竿は蔵骨器の中に入れられた副葬品」説をとっておきます

以上から、仙人窟で行われてきた宗教儀式を年代順に追ってみるると次のようになります。
①奈良時代8世紀に、死霊の赴く山として骨蔵器に骨が納められ埋葬された
②空海以前には、土佐出身の仙人が住み、観音信仰の霊地や行場とされていた。
③そこに熊野行者が入り込み、大那智社・一の王子・二の王子などを勧進した
④その後、高野聖がやってきて阿弥陀信仰をもたらし、祖先供養の霊地にした。
⑤高野聖は、高野山の守護神である丹生社や高野社を勧進するとともに、弘法大師信仰を拡げた。
⑥同時に祖先供養のために、こけら経の奉納や土師質土器を用いての宗教的供養が行われた
⑦戦国時代16世紀の岩屋寺は、山林修行者の行場であると同時に、高野聖(念仏聖)たちによって里人の祖先供養の霊場の性格を強め、人々の信仰を集めた
⑧高野聖の活躍による弘法大師信仰の高まりを背景に、建立されたのが大師堂である。

  最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
   「発掘調査の成果(仙人窟) 四国88ヶ所霊場詳細調査報告書 第45番札所 岩屋寺(58P) 2022年3月 愛媛県教育委員会」
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 前回は、寂本『四国偏礼霊場記』に描かれた岩屋寺の絵図を見ました。それから約110年後の寛政12年(1800)に、阿波国阿南の豪商河内屋武兵衛が遍路記をあらわしました。

岩屋寺
岩屋寺(四国遍礼名所図会:1801年)
それを、翌年に書写したのが『四国遍祀名所図会』です。ここには各札所の景観が写実的に描いた俯瞰図が挿入されています。今回は 『四国遍祀名所図会』で、18世紀末の岩屋寺を見ていくことにします。そして、元禄時代の四国遍礼霊場記と比べて、岩屋寺がどう変化しているのか、また変わらなかったのかを探っていきます。テキストは、「近世出版物等に見る岩屋寺 四国88ヶ所霊場詳細調査報告書 第45番札所岩屋寺7P 2022年3月 愛媛県教育委員会」です。
『四国遍礼名所図会』の右側から見ていくことにします。 
  岩屋寺 四国遍礼名所図会右
岩屋寺(四国遍礼名所図会 右側)
麓の川から見ていきます。これが直瀬川のようで、両岸に民家がいくつか描かれ、その周りには水田や畑地が拡がります。直瀬川に架かる橋を渡ると、参道の右側に①「龍池社」が鎮座、直進すると鳥居があり、その先に「水天宮」が鎮座します。その横には方形の池(ミタラシ)があり、本文中では「御手洗池」とされています。さらに参道を進んでいくと、右手に小さな平坦部があり、中央に虚空蔵堂が建ちます。その奥の岩窟内には「アカ(阿伽)井」、堂のそばには「菩提樹」が描かれています。

岩屋寺 『四国遍祀名所図会1800年右上
岩屋寺本堂周辺(四国遍礼名所図会)

 さらに参道を進むと断崖直下の石段に至り、それを上ると、横に長い平坦部が広がる。平坦部左側 には石垣の上にL字状の建物があり、絵図にはありませんが、本文中には「茶堂」とあります。右側には岩壁に埋まるような形でL宇状の建物があります。位置や規模から本坊と研究者は推測します。この建物の手前部分の1階は、門のように通り抜けることが可能な構造となっています。ここを潜り抜け、岩壁沿いに右に進むと「鈴掛松」という松の大木、「求聞持堂」、そして石造物(形状から宝筐印塔?)が描かれています。
 本坊のすぐ奥には、本堂からせり出した舞台の柱が並んでいて、この柱のさらに奥に「オクノイン」と称される岩窟があります。岩窟内部の描写は何もありません。しかし本文には「石ノ大師」「石堂不動明王」が安置され、「阿伽井」もあったと記します。
 一番上の段には本堂(旧不動明王堂)が並びます。大師堂の舞台から16段の梯子が岩峰に向かって架けられていて、登り切った先に岩窟には④仙人堂が建っています。

岩屋寺 仙人堂と不動堂
『一遍聖絵』に描かれた不動堂(本堂)と仙人堂

中世の『一遍聖絵』に描かれた仙人堂は、懸け造りでしたが、この時期には舞台の上に堂を建てるような構造に変化しています。仙人堂の上部には2つの岩窟が並びます。左が「洞ミダ(阿弥陀)」、右が「洞ソトバ(卒塔婆)」で、仙人堂の右手には岩窟の内部に舎利塔があります。
四国遍礼名所図会の本文には、次のように記されています。
本堂石仏不動明王 大師御作、
大師堂 本堂よりろうかにて行、十六梯本常の橡より上ル、仙人堂 洞二建し也。法花仙人安置、長ケ五尺斗リの如し、舎利塔 仙人堂の傍二有リ、洞の阿弥陀 仙人堂の上にあり、洞の中にあみだ尊有り、洞塔婆合利堂の上ニあり、奥院 本堂の下より入窟也 寺より案内出ル、石ノ大師、阿伽井、石堂不動明王 右の奥ノ院内二あり、竜燈楼本堂ノ前二有、方丈、茶堂爰にて支度、虚空蔵堂 茶堂より下りり左へ少し入、普提樹 堂の傍に有り、阿伽井 堂の裏二窟の内に有り、少し下る。水天宮 右手に有り、御手洗川 水天宮の傍にあり、不二門、竜池社 道の左へ少し入有り。
仙袖橋、竹谷村、毘離耶窟 流霞橋の手前少し行有り、流霞橋 是より十丁斗り行古岩屋、堂ノ跡古木石居有り、洗月果、石仏大師。是より十丁余行石ノ地蔵尊先ノ別れ道也、山道行。先の畑の川村、爰に―宿。
意訳変換しておくと
本堂(不動堂)の石仏は不動明王で、弘法大師作
大師堂 本堂から回廊でつながっていている。本堂から梯子で上ると仙人堂で、洞窟の中に建っている。ここに法花(法華)仙人が安置され、五尺ほどの舎利塔が仙人堂のかたわりにある。洞の阿弥陀は、仙人堂の上にある。洞の中に阿弥陀像が安置されていている。洞塔婆は舎利堂の上にあり、奥院 本堂の下より、寺より案内で入窟する。石ノ大師、阿伽井、石堂不動明王は、奥ノ院内にある。竜燈楼は本堂前、方丈、茶堂もある。
 虚空蔵堂は、堂より下り左へ少し入るとあり、普提樹が傍にある。阿伽井は、堂の裏の窟内にあり、少し下る。水天宮は参道の右手にあり、御手洗川は水天宮の傍にある。不二門、竜池社は道の左から少し入ったところにある。
 仙袖橋、竹谷村、毘離耶窟 流霞橋の少し手前にあり、流霞橋は十丁斗り行った古岩屋にある。堂ノ跡古木石居有り、洗月果、石仏大師。是より十丁余行石ノ地蔵尊先ノ別れ道也、山道行。先の畑の川村、爰に―宿。
岩屋寺右側を終わって、左側に移ります。

岩屋寺 『四国遍祀名所図会左
         岩屋寺左側(四国遍礼名所図会)
大師堂の左には「四所明神社」が鎮座します。
これはひとつの社に祀られる4柱の神の総称で、熊野四所明神や丹生四所明神のことを指すようです。ここにはかつて、高野山の守護神であった丹生社と高野社が鎮座していた所です。それが四所明神社になったのは納得のいく話です。

岩屋寺 『四国遍祀名所図会左下
        岩屋寺周辺(四国遍礼名所図会)
 2つの門を通り抜けた先に生木塔婆があり、曲がり角の左手の独立した岩塊の上に「二ノ王子」があります。すぐ先の道右手側には「カツ手(勝手)」「子守」といった2つの社祠が並んであります。ここから少し進んだ先で、道は2股に道が分かれ、右に進むと「仙人洞」(本文中は「仙人茶毘洞」)と呼ばれる岩窟に至ります。その内部には像のようなものが描かれていますが、何なのかはよく分かりません。

岩屋寺 『四国遍祀名所図会1800年左上

左に進むと「逼割(せりわり)岩」の入口で、両側には1棟ずつ建物が描かれています。
岩屋寺 白山権現行場入口
 看板「白山妙理大菩薩芹(白山権現)せり割行場」入口(岩屋寺)

本文中には「傍二大師堂。休所有り」とあるので右が大師堂、左が休所のようです。岩壁入口には鳥居が建ち、「逼割(せりわり)岩」を抜けて登った先には、21段の梯子があります。その頂上に鎮座するのが「白山社」です。そして、中央に「高祖社」、その先に「別山社」が鎮座します。「四国遍礼霊場記」では「白山権現 → 別山権現 → 高祖社」の並び順でしたから、鎮座位置が変更されています。また、いままでは、3つの飛び抜けた岩峰に描かれてた祠は、白山社のみが切り立っていて、他の2社はそれほどでもありません。どうしたのでしょうか?
岩屋寺 3
四国遍礼霊場記の岩屋寺 3社の鎮座場所が異なる

 ここから先の道は、曲がり口に鳥居があり、その先の岩壁の上に「大ナチ(那智)社」が建っています。次の曲がり角に鳥居があり、その先に「一ノ王子」が鎮座しています。「一ノ王子」の先は直線的な道が続き、道の真ん中に「龍灯松」という松の大木があり、その右手に「龍池」が描かれています。本文に「是より岩屋寺入口なり」とあるので、このあたりから寺域と遍路道の境界とされていたようです。
岩屋寺 二の王子跡推定地
 二の王子社と大那智社跡推定地
『四国偏礼霊場記(霊場記)』と『四國遍礼名所図会(図会)』には111年後の時間差があります。建物配置や規模に違いがあります。どちらにしても、江戸時代前期の霊場記と、百年後の図会の岩屋寺を比べると、境内の堂宇の数・規模は増加していたことが見えて来ます。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「近世出版物等に見る岩屋寺 四国88ヶ所霊場詳細調査報告書 第45番札所岩屋寺7P 2022年3月 愛媛県教育委員会」

岩屋寺 上空写真 
岩屋寺
  以前に、岩屋寺で一遍の修行が、どのように描かれているかを見ました。それを最初に振り返っておきます。
『一遍聖絵』には中世岩屋寺の2つの景色が描かれています
A 不動堂と仙人堂
B 「せりわり禅定」の風景

岩屋寺 仙人堂と不動堂
A 岩屋寺不動堂と仙人堂(一遍聖絵)

Aから見ておくと、不動堂は岩峰下の平地に建ていて、その背後には梯子が架けられています。梯子を登った先に、埋め込まれるような形で懸け造りの仙人堂が見えます。
岩屋寺 白山権現拡大番号入り1
岩屋寺の奥の院 
Bの奥の院の逼割(せりわり)風景は、3つに分かれた岩峰の頂部のそれぞれに社祠が建ち、このうち最も高い白山権現には梯子が架けられています。建物の大きさに違いはありませんが、白山権現だけが屋根が入母屋状、残りの2基は切妻です。『一遍聖絵』は修行の風景や不動堂を強調して描いていて、実際の位置関係や景観をどの程度反映していたかはよく分からないと最近の研究者は考えるようになっているようです。ここに描かれたA・Bの2つが中世岩屋寺境内の中心的な要素だったことがうかがえます。絵図には描かれていませんが、詞書には次のように記されています。
「…又、四十九院の岩屋あり、父母のために極楽を現し給へる跡あり、三十三所の霊幅あり、斗藪の行者霊験をいのる嗣なり…(中略)…其所に又一の堂舎あり、高野大師御作の不動尊を安置してたてまつる、すなはち、大師練行の古跡、喩伽薫修の幅壇ならひに御作の影像、すかたをかへすして此の地になをのこれり」

意訳変換しておくと
「…この他にも、四十九院の岩屋があり、父母の極楽往生を供養する跡があり、三十三所の霊場があり、斗藪の行者(山林修行者)が霊験を祈る祠となっている。…(中略)
 又、高野大師御作の不動尊を安置する堂舎がある。以上のように、
この地は弘法大師練行の古跡であり、大師修行の痕跡である護摩炉壇・御作の影像などが、昔から姿を変えずに残っている霊場である。
 
ここには鎌倉時代の岩屋寺には、弘法大師製作とされる不動明王等の像や、大師修行の痕跡である護摩炉壇・大師自作の御影があったと記されています。また、父母が極楽浄土へ至ることを仙人が祈る49の岩屋、修験者の行場として三十三の霊窟があったようです。以上から中世の岩屋寺が一遍の他にも各種の山林修験者がこの地で修行に励んでいたこと、霊験を祈る場、祖先供養の聖地として人々の信仰を集め霊山として機能していたことを押さえておきます。

岩屋寺測量図拡大
現在の岩屋寺伽藍配置
次に17世紀末の寂本『四国偏礼霊場記』に描かれた岩屋寺を見ていくことにします。
テキストは「四国88ヶ所霊場詳細調査報告書 第45番札所 岩屋寺 2022年3月 愛媛県教育委員会」です。

岩屋寺 四国霊場記宝暦2年
岩屋寺(四国遍礼霊場記)

まず高野山の僧寂本の『四国偏礼霊場記』(元禄2年(1689)に記された岩屋寺を見ていきます。
猶是より山中霊気の立を御覧じて分入、岩日を踏奥院をひらき玉ふ。岩屋寺といふ。
海岸山岩屋寺 浮大部
此寺、名にあへる岩のすがた竜幡り虎路るごとしとし。奇怪いふにやは及ぶり壁立の岩稜の出たるやうなる下に堂宇を作り、堂より室皆谷にかかり岩を軒とす。竃などは岩宇覆へるゆへに別にやねをせず。本堂不動明王石像大師の御作、太子堂へ廊をかけて通ぜり。堂の上特起せる岩あり、高さ三丈許、堂の縁より十六のはしごをかけてのぼる。此はしご大師のかけ玉ふむかしのまゝといへり。岩上に仙人堂を立、像は大師の御作、法華経を侍するがゆへに法華仙人といふ、大師の時代まで此山に住せしと聞へたり。其上に屏風のやうなる岩ほの押入たる所に卒都婆あり、むかしよリー基にて大師二親の為に立玉ふといふ。一本はいつとなくかたむきありしが、延宝三年四月十二日すぐに立なをり、紙かと見ゆる札付たり。鳥ならではかよはざる所なればいかなる人もあやしみあへり。同七年大風吹て其一基は見へずなんぬ。今は一本あり其下に塔あり仙人の舎利塔といふ。
不動堂の上の岩窟をのづから厨子のやうにみゆる所に仏像あり、長四尺あまり、銅像なり、手に征鼓を持、是を阿弥陀といふ。凡そ仏は円応無方なりといへども、諸仏の顕現、四種の身相経軌に出て伝持わたくしならず。故に今の仏をあやしむ人あり、むべなりとおぼゆ。いつの比か飛来るがゆへに飛来の仏といふ。其近きほどに仙人窟といふあり、彼仙層解の所といへり。
岩屋寺 金剛界岩壁2
岩屋寺本堂背後の断崖

意訳変換しておくと
   浮穴郡にある。名の示すように巨大な岩山に建てられている。まるで龍が蟠り、虎が蹲っているような岩の姿だ。奇怪と言うほかはない。切り立った断崖の、岩が軒のように出ている場所に堂が建っている。堂というよりは室であり、いずれも張り出した岩を屋根としている。竈を置く室は張り出した岩だけで十分なので、別に屋根を作ったりしていない。

岩屋寺 2

本堂(不動堂)の不動明王石像は空海の作。本堂から②大師堂へは廊下を渡して通じている。堂の三丈ばかり上、特に突き出た岩があり、堂の縁から十六段の梯子で登る。梯子は空海が懸けたときとのままだという。

岩屋寺 仙人堂への階段
仙人堂への梯子

 ③岩の上には仙人堂が建っている。像は空海作。法華経を信仰していたため法華仙人と呼ばれている。大師が訪れるまで、この山に住んでいた。更に上方、屏風のような形に岩が落ち込んだ場所に、④卒塔婆が建てられている。昔から二本あり、空海が両親のために建てたものだと言われていた。いつのころからか、一本が傾いてしまっていた。延宝三年四月十三日、真っ直ぐに直されており、紙らしい札が付いていた。鳥でなければ行けない場所なので、見る人は驚き合った。同十年、大風が吹いて、一基は見えなくなった。卒塔婆が一本ある。その下に塔が建っている。⑤仙人の舎利塔と呼ぶ。
 不動堂の上の岩窟は、自然と厨子のようになっており、中には高さ四尺余りの銅製仏像が置かれている。鉦鼓を持っている。⑥阿弥陀如来だということだ。各仏格は峻別できるものではなく融通無碍ではあるが、如来・菩薩・明王・天といった四種の身相は経や儀規に定められており、形式を私にすることはできない。阿弥陀如来であることを疑う者もいる。もっともなことだ。いつのころかに飛んで来た仏であるから、飛来の仏と呼ばれている。近くに⑦仙人窟がある。法華仙人が人間としての肉体を失い精霊となった場所だ。      

岩屋寺 四国遍礼霊場記
岩屋寺(四国遍礼霊場記)の右側拡大

「岩屋寺図」の右側から確認すると
A 龍女池を通って参道をいく
B 二段の平場があり、下の段には二軒を廊下でつないだ堂舎(寺)
C 上の段には廊下でつながれた①不動堂(現本堂)と②大師堂、丹生社、高野社、その後ろに岩壁
D 不動堂の上の③仙人堂には、大師作の法華仙人像
E 仙人堂の上の岩窟には⑥「アミタ」と表記され阿弥陀立像。手に征鼓を持つ長四尺余の銅製の阿弥陀像で飛来仏
F 阿弥陀の左の岩の奥に④卒塔婆が二基。その下にある塔が仙人の舎利塔。
G 岩窟の「仙人窟」には、こけら経が描かれている

岩屋寺 不動堂
本堂背後の仙人窟とアミダ窟

この金剛界断崖には、この他にも「四十九院の岩屋」「三十三所の霊嘱」と呼ばれる多くの窟があるようです。窟だらけの断崖をよく見ると、窟をつなぐ道があった形跡がうかがえます。この行道について、
享保4年(1719)に菅生海岸両山寺務の法印雲秀が記した「岩屋寺略縁起」(『久万町誌資料集』1969)は、寺側の記録として次のように記します。

一、胎蔵界嵩は南二王門の上
一、四十九院は本堂より七人町北に当て四十九峯あり。
一、人葉峰魏の事
一、鈴高明王峰      一、不拾山阿弥陀峰
一、白山権現峰      一、別山権現峰
一、高祖権現峰      一、古岩屋権現峰
これらの峰を命がけで登っていって、三十三所にまつられている観音様と四十九院にまつられている兜率天を拝みながら山をめぐったのでしょう。これも「辺路修行」で行道巡礼の痕跡と研究者は考えています。
ここでいままでに出てきた信仰物の出現背景を考えておきます。
Aの龍池からは、弘法大師の善女龍王伝説に基づく雨乞い信仰がすでにこの時点で、根付いていたことが分かります。ここからは旱魃の時には、修験者に率いられた里の農民達がやってきて雨乞い祈願を行ったことがうかがえます。雨乞いは、里人の信仰を組織する契機となったでしょう。
岩屋寺 大師堂
岩屋寺大師堂
①の大師堂は、弘法大師信仰の象徴です。
一遍も「弘法大師の修行した行場で修行したい」という願いがあったことは、以前にお話ししました。一遍の時代から、この行場には弘法大師信仰がもたらされていたことが分かります。  岩屋寺が弘法大師開祖とされる由縁かも知れません。

岩屋寺 中国四国名所旧跡 本堂
     岩屋寺の本堂と仙人堂「中国四国名所旧跡」(幕末)
②は『四国偏礼霊場記』には、「本堂」ではなく「不動」と書かれています。不動は、修験者の守護神とされ、修験者たちが最も身近において信仰した仏です。それが本堂とされていることは、ここが修験者の行場であったことを物語ります。

岩屋寺 丹生・高野社
岩屋寺の丹生・高野社

大師堂の左には、丹生・高野社が並んでいます。

丹羽社は高野山の守護神・丹生都比売神社のことでしょう。これは高野山の守護神です。このふたつの神社を勧進したのは、高野山系の修験者(高野聖)だったはずです。彼らが弘法大師信仰と共に、このふたつの高野山守護神をもたらしたのでしょう。これらは、中世にはなかったものです。大師堂と供に、高野聖の「活動成果」といえるのかもしれません。

さらに簡素な門を抜けて少し進んだ左手に「イキ木ソトバ」があります。
塔婆変遷 五来重
塔婆の変遷(五来重)

この生木卒塔婆が現代でいうところの「梢付塔婆」(杉塔婆)と研究者は考えています。
IMG_0397.JPG
「梢付塔婆」(杉塔婆)

「イキ木ソトバと書かれた枠の外に小枝状の線が描写される」と研究者は指摘しますが、私にはよくわかりません。どちらにしても卒塔婆は、祖先供養に関わるものです。岩屋寺が中世には「死霊供養の山」として機能していたことがうかがえます。讃岐の弥谷寺と同じような環境が見えて来ます。
 さらに道を進むと右側に「一ノ王子」、「ニノ王子」と熊野王子信仰に関わる社祠が建ち並んでいます。大那智社とともに、これらは熊野信仰をもつ山林修験者によって勧進されたことがうかがえます。

③の仙人堂は、空海がやって来る前までの地主神だった仙人を祀っています。
熊野信者達が阿波の行場にやって来たときに、先住の地主神達との抗争・和解を経て、霊場を行場化した話が四国霊場札所には、良く伝わっています。ここからは先住の地主神から、山岳修行者(空海含む)に行場の譲渡が行われたことがうかがえます。その山岳修行集団は、熊野行者だったと私は考えています。
④の飛来仏と伝わる阿弥陀は、念仏聖(高野聖)の痕跡でしょう。
以前にお話したように、 一遍の踊り念仏の民衆教化はすざましい威力を発揮し、民衆への阿弥陀信仰流布に大きな力となりました。その結果、祖霊供養を本務とする高野聖たちが時宗化していまします。高野山自体が阿弥陀信仰の拠点となった時期があるのです。その結果、高野聖が拠点とした行場にも阿弥陀仏が登場します。これは讃岐の弥谷寺の阿弥陀仏の登場と同じです。

岩屋寺 阿弥陀仏銅像
岩屋寺のアミダ岩窟内にある銅製阿弥陀如来立像
 ④は現在も岩窟内にある銅製阿弥陀如来立像のようで、17世紀には知られていたようです。
ここからは岩屋寺は霊場として次のような信仰の積み重ねがあったことが分かります。
①地主神として仙人信仰 
②熊野行者達のもたらした熊野信仰
③高野聖がもたらした弘法大師と阿弥陀信仰 → 祖先供養
次に挿絵の左部分を見ていくことにします。

岩屋寺 3
岩屋寺(四国遍礼霊場記)の左部分
此より奥に至りてせりわりといふ岩途あり、白山権現作り玉ふといふ。高さ二十間ばかり、それより上に又奇挺せる瞼岩あり、高さ三十尺ばかりなり。二十―のはしごをかけてのばる、其上に白山権現の社鉄にて作れ。其石に峙つ岩頭に別山社、次の岩頭に高祖権現社。是より相去勝手・子守・金峰・大那智等の諸神祠、所に随ひ相立。凡そ世の事めに見るはきくにおとれるためしなれども、此山はきゝしよりもはるかに奇絶ときこゆ。唆極嘉祥の状、人神社麗の美、冥奥幽迫にして、腫魅の途を経、世人の境に入。事に世を遺れ、粒を絶、芝茎を茄人にあらずば軽くあがってなんぞこゝにをらんや。其遠く寄、はるかに捜り、信に篤く神に通ぜる人にあらずはなんぞよくこゝに至らん。我大師の神妙又しりぬべし。山号を海岸といふ、大師の御歌に
山高き谷の朝霧海に似て松ふく風を浪にたとへんて伝持わたくしならず。故に今の仏をあやしむ人あり、むべなりとおぼゆ。いつの比か飛来るがゆへに飛来の仏といふ。其近きほどに仙人窟といふあり、彼仙層解の所といへり。此より奥に至りてせりわりといふ岩途あり、白山権現作り玉ふといふ。高さ二十間ばかり、それより上に又奇挺せる瞼岩あり、高さ三十尺ばかりなり。二十―のはしごをかけてのばる、其上に白山権現の社鉄にて作れ。其石に峙つ岩頭に別山社、次の岩頭に高祖権現社。是より相去勝手・子守・金峰・大那智等の諸神祠、所に随ひ相立。凡そ世の事めに見るはきくにおとれるためしなれども、此山はきゝしよりもはるかに奇絶ときこゆ。唆極嘉祥の状、人神社麗の美、冥奥幽迫にして、腫魅の途を経、世人の境に入。事に世を遺れ、粒を絶、芝茎を茄人にあらずば軽くあがってなんぞこゝにをらんや。其遠く寄、はるかに捜り、信に篤く神に通ぜる人にあらずはなんぞよくこゝに至らん。我大師の神妙又しりぬべし。山号を海岸といふ、大師の御歌に
山高き谷の朝霧海に似て松ふく風を浪にたとへん
      意訳変換しておくと

岩屋寺 白山権現行場入口
「白山妙理大菩薩芹(白山権現)せり割行場」の入口(岩屋寺)
奥に進むと、⑦せりわりと呼ばれる、道のようになった岩の割れ目がある。白山権現が作ったという。高さは二十間ほどで、奇妙に突き出た険しい岩がある。高さは30尺ぐらいだ。21段の梯子を懸けて登る。上には、⑧鉄で作った白山権現社が鎮座している。
岩屋寺 白山権現鎖場1
白山権現への辺路

その右に屹立する岩の頂きに⑨別山社、続く岩の頭に⑩高祖権現社が並ぶ。ここを離れて勝手・子守・金峯・大那智などの神社が、随所に建っている。
岩屋寺 白山権現拡大番号入り1
①白山権現社、⑤別山社、高祖権現社(一遍上人絵伝)
 だいたい、人の話は大袈裟なので、聞くより見るは劣るというが、岩屋寺に限れば、聞きしに勝る奇観絶景である。険しく極まる岩山は、何かよいことが起こりそうな形だ。聖人や神々が壮麗を尽くしたかのような美しさ。幽玄で微妙な地形であり、山の精霊が通る道を経れば、自然の尽きせぬ偉大さを思い知らされる。俗世の雑事を忘れ、石粒を払って霊柴の茎を食む仙人でもなければ、簡単に登ってくることはできないだろう。遠くのことを近くに感じ、遙かな哲理を探り出し、信仰心篤く神通力を持つ人でなければ、ここでの修行もうまくいかないだろう。空海の神懸かりな偉大さを推測することができよう。山号の海岸は、空海の歌による。
「山高き谷の朝霧海に似て松吹く風を浪に喩えん」。
岩屋寺 白山権現社1
白山権現社(岩屋寺)

岩屋寺 3
岩屋寺(四国遍礼霊場記)の左P

もう一度、奥の院の白山権現が描かれた左Pを見ておきます。
下からみていくと、まず描かれているのは「勝手」と記されたに社祠です。これは吉野大社明神の一つ、「勝手神社(明神)」のことのようです。吉野系の修験者の勧進でしょう。ここから少し進むと、道が二股に分かれて、右に進むと「セリワリ」、左に進むと山道を登っていくこととなります。右は道に「セリワリ」と記され、左右には岩壁が描かれます。ここを進むと小規模な岩峰があって、その頂上が3つにわかれています。頂部にはそれぞれ社祠が建ち、右から「白山権現」、中央に「別山権現」、左に「高祖権現」と記されています。白山権現へは21段の梯子によって登れるようになっており、岩屋寺の奥之院の中心的存在であったことがうかがえます。
岩屋寺 白山権現
岩屋寺 せりわり禅定と白山権現(数字は標高)

 少し戻って二股に分かれた道を左に進んでいくと、左手に「子守」と記された社祠があります。
「子守」には熊野本宮大社第八殿・子守官の系統と吉野水分神社を総本社とする水分神の系統がありますが、先に出てきた吉野系の「勝手神社」との関係をふまえれば、後者の吉野系統に属するものと研究者は考えています。
 さらに遍路道を進んでいくと、右手に社祠があり、「大那智」と記されています。名称から、熊野三山の一つである熊野那智大社の系統神社と推測できます。その先には道の左手に鳥居が建ち、鳥居を潜り抜けたところに再び「一ノ王子」の社祠が鎮座しています。ここからは、熊野行者達の活動がうかがえます。
 このあたりで大部分の描写は終わっていますが、「アミダ峯」が絵図の上端に描かれています。これがどの山を指すのかは分かりません。なお、絵図には描かれないものの、本文中では白山権現を中心とする奥之院周辺には、勝手・子守・金峰・大那智等の諸神祠が建ち並んでいたとの記述があります。絵図に描かれる以上に建物があったことがうかがえます。
以上のように、江戸時代前期と、中世の『一遍聖絵』に描かれた岩屋寺を比較すると、さまざまな山岳修行者の行場という性格に変化はないようです。その中で異なる点として次の二点を研究者は指摘します。
①近世になって大師堂が建立されていること。
②高野山の守護神である高野社や丹生社も、中世段階ではなかったこと
③この間に高野系修験者や聖たちの影響力が大きくなったこと。
 建物等の施設が増加する一方で、日が当たらなくなっているのが岩屋や霊窟です。
一遍が訪れたころの岩屋寺には数十を数える岩屋や霊窟が機能していました。それが江戸中期の元禄期には、阿弥陀や卒塔婆の安置された窟や仙人窟が描かれているだけで、本文中にはでてきません。中世の頃と比べると、岩屋・霊窟での祈りや修行が希薄になっていると研究者は考えています。
 四国遍礼霊場記が書かれた17世紀末には、白山系、弘法大師系のほか、熊野や大峰系の山岳信仰に関わる堂舎や祠が立ち並んでいたことが分かります。修験者にとって「行」とは実践で、彼らにとっては経典や宗派にあまりこだわりがなかったようです。近代以前の岩屋寺は、神仏混淆下で、いろいろな宗派の修験者の行場として「共存共栄」していたとしておきます。

岩屋寺 金剛巌の岩壁
岩屋寺の金剛巌の断崖
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
四国88ヶ所霊場詳細調査報告書 第45番札所 岩屋寺 2022年3月 愛媛県教育委員会
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七宝山 岩屋寺
七宝山 岩屋寺周辺

以前に、三豊の七宝山は霊山で、行場の「中辺路」ルートがあったことを紹介しました。それを裏付ける地元の伝承に出会いましたので紹介します。
志保山~七宝山~稲積山

弘法大師が比地の岩屋寺で修行したときのお話です。
比地の成行から少し山の方へのぼった中腹に岩屋という、見晴らしのいいところがあります。昔、弘法大師が四国八十八か所のお寺を開こうとして、あちらこちらを歩いてまわったとき、ここに来て、この谷間から目の前に広がる家や田んぼや池などの美しい景色がたいそう気に入って、しばらく修行したことがありました。
そのときの話です。
岩屋の近くのかくれ谷に一ぴきの大蛇が住んでいて、村の人びとはたいへんこわがっていました。
「ニワトリが取られたり、ウシやウマがおそわれたりしたら、たいへんじゃ」
「食うものがなくなったら、人間がやられるかもしれんぞ」
などと話し合っていました。ほんとうに自分たちの子どもがおそわれそうに思えたのです。でも、大蛇は大きくて強いので、おそろしがって、退治しようと立ち上がる人が一人もおりません。

この話を聞いた弘法大師は、たいへん心をいためました。
なんとかして大蛇を退治して村の人びとが安心して暮らせるようにしたいと思いました。そして、退治する方法を考えました。
弘法大師は、すぐに、大蛇を退治する方法を思いつきました。
ある日のことです。弘法大師は、大蛇が谷から出てくるのを待ちうけていて、大蛇に話しかけました。
「おまえが村へおりて、いろいろなものを取って食べるので、村の人びとがたいへん困っている。
村の人のものを取って食べるのはやめなさい」
ところが、大蛇は
「おれだって、生きるためには食わなきゃならんョ」
などと、答えて、相手になりません。そこで、弘法大師は、言いました。
「では、 一つ、かけをしようか。わたしの持っている線香の火がもえてしまうまでの間に、おまえは田んぼの向こうに見える腕池まで穴を掘れるかどうか。
おまえが勝ったら、腕池の主にして好きなことをさせてやろう。もし、わたしが勝ったら、おまえには死んでもらいたい」
高瀬町岩屋寺 蛇塚1

  腕池は今の満水池です。
岩屋から千五百メートルほどはなれています。しかし、大蛇はすばやく穴を掘ることには自信がありました。それに、こんな山の中にかくれて住んでいるよりは、村に近い池の主になるほうが大蛇にとってどんなにうれしいことか。大蛇はすぐに賛成しました。
「よし、やろう。おれのほうが勝つに決まってらァ」
そう言って、さっそく準備を始めました。
「では、始めよう。それっ、 一、二、三ッ」
合図とともに、弘法大師は、線香に火をつけました。大蛇も、ものすごいはやさで穴を掘りはじめました。線香が半分ももえないうちに、大蛇はもう山の下まで進んでいきました。

大蛇の様子を見て、弘法大師はあわてました。
「このはやさでは、線香がもえてしまわないうちに、大蛇が腕池まで行くにちがいない。なんとかしなければ……」
そう思った弘法大師は、大蛇に気づかれないようにそっと線香の下のところを折って短くしました。それで、大蛇が腕池まで行かないうちにもえてしまいました。
そんなこととは知らない大蛇は、自分が負けたと思いました。
弘法大師は言いました。

「約束だから、おまえに死んでもらうよ」
弘法大師は大蛇を殺してしまいました。大蛇がいなくなったので、
安心して暮らせるようになったということです。

高瀬町 岩屋寺蛇塚
満水池近くの蛇塚
  この大蛇をまつった蛇塚が満水池の近くに今も建っています。
その後、弘法大師が、岩屋の谷をよく調べたところ、修行するには谷の数が少ないことがわかりました。そこで、ここを札所にすることをやめました。そして、弥谷寺を札所にしたということです。
岩屋寺は、比地の成行から少し山の方へのぼった中腹に、今もあります。   「高瀬のむかし話 高瀬町教育委員会」より

高瀬町岩屋寺蛇塚2
蛇塚のいわれ
このむかし話からは、つぎのような情報が読み取れます。
①弘法大師が四国八十八か所のお寺を開こうとして、岩屋寺周辺でしばらく修行したこと
②岩屋寺のある谷には、大蛇(地主神)がすみついていたこと。
③大蛇退治の時に満水池(腕池)があったこと。
④七宝山の行場ルートが、弥谷寺にとって替わられたこと
ここからは、次のような事が推測できます。
②からは、もともとこの谷にいた地主神(大蛇)を、修験者がやってきて退治して、そこを行場として開いたこと。
①からは、大蛇退治に大師信仰が「接ぎ木」されて、弘法大師伝説となったこと。
③からは、満水池築造は近世のことなので、この昔話もそれ以後の成立であること
讃岐の中世 増吽が描いた弘法大師御影と吉備での布教活動の関係は? : 瀬戸の島から


このむかし話からは、七宝山周辺には行場が点在し、そこで行者たちが修行をおこなっていたことがうかがえます。
讃州七宝山縁起 観音寺
讃州七宝山縁起

観音寺や琴弾八幡の由緒を記した『讃州七宝山縁起』の後半部には、七宝山の行道(修行場)のことが次のように記されています。

几当伽藍者、大師為七宝山修行之初宿、建立精舎、起立石塔四十九号云々。然者仏塔何雖為御作、就中四天王像、大師建立当寺之古、為誓護国家、為異国降伏、手自彫刻為本尊。是則大菩薩発異国降伏之誓願故也。

意訳しておきましょう
 観音寺の伽藍は弘法大師が七宝山修行の初宿とした聖地である。そのために精舎を建立し、石塔49基を起立した。しからば、その仏塔は何のために作られてのか。四天王は誓護国家、異国降伏のために弘法大師自身が、作った。すなわちこれが異国降伏の請願のために作られたものである。
 
 ここには観音寺が「七宝山修行之初宿」と記され、それに続いて、七宝山にあった行場が次のように記されています。拡大して見ると
七宝山縁起 行道ルート

意訳変換しておくと
仏法をこの地に納めたので、七宝山と号する。
或いは、寺院を建立した際に、八葉の蓮華に模したので観音寺ともいう。その峰を三十三日間で行峰(修行)する。
第二宿は稲積二天八王子(本地千手=稲積神社)
第三宿は経ノ滝(不動の滝)
第四宿は興隆寺(号は中蓮で、本山寺の奥の院) 
第五宿は岩屋寺
第六宿は神宮寺
結宿は善通寺我拝師山
七宝山縁起 行道ルート3
       七宝山にあった中辺路ルートの巡礼寺院
こには次のように記されています。
①観音寺から善通寺の我拝師山までの「行峰=行道=中辺路」ルートがあった
②このルートを33日間で「行道=修験」した
③ルート上には、7つの行場と寺があった
ここからは、観音寺から七宝山を経て我拝師山にいたる中辺路(修行ルート)があったと記されています。観音寺から岩屋寺を経て我拝師山まで、七宝山沿いに行場が続き、その行場に付帯した形で小さな庵やお寺があったというのです。その周辺には、一日で廻れる「小辺路」ルートもありました。

七宝山岩屋寺
 岩屋寺
このむかし話に登場する岩屋寺は、七宝山系の志保山中にある古いお寺で、今は荒れ果てています。
しかし、本尊の聖観音菩薩立像で、平安時代前期、十世紀初期のものとされます。本尊からみて、この寺の創建は平安時代も早い時期と考えられます。岩窟や滝もあり、修行の地にふさわしい場所です。那珂郡の大川山の山中にあった中寺廃寺とおなじように、古代の山岳寺院として修験者たちの活動拠点となっていたことが考えられます。
七宝山のような何日もかかる行場コースは「中辺路」と呼ばれました。
「小辺路」を繋いでいくと「中辺路」になります。七宝山から善通寺の我拝師に続く、中辺路ルートを終了すれば、次は弥谷寺から白方寺・道隆寺を経ての七ヶ所巡りが待っています。これも中辺路のひとつだったのでしょう。こうして中世の修験者は、これらの中辺路ルートを取捨選択しながら「四国辺路」を巡ったと研究者は考えています。
 ところが、近世になると「素人」が、このルートに入り込んで「札所巡り」を行うようになります。「素人」は、苦行を行う事が目的ではないので、危険な行場や奥の院には行きません。そのために、山の上にあった行場近くにあったお寺は、便利な麓や里に下りてきます。里の寺が札所になって、現在の四国霊場巡礼が出来上がっていきます。そうすると、中世の「辺路修行」から、行場には行かず、修行も行わないで、お札を納め朱印をいただくだけという「四国巡礼」に変わって行きます。こうして、七宝山山中の行場や奥の院は、忘れ去られていくことになります。
   三豊の古いお寺は、山号を七宝山と称する寺院が多いようです。
本山寺も観音寺も、威徳院も延命院もそうです。これらのお寺は、かつては何らかの形で、七宝山の行場コースに関わっていたと私は考えています。

  最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
  引用文献    「高瀬のむかし話 高瀬町教育委員会」
  参考文献

 岩屋寺 白山権現1
 
   どこの札所か分かるな?
と、若い頃にこの絵を見せられたときには、私には分かりませんでした。当時は四国遍路は一度は済ませていましたが、こんな霊場は見たことありませんでした。最初の霊場巡りは、朱印状を集めることが目的化していたこともあるのでしょうか、思い出せないのです。それもそのはずです。この光景は、普通に札所や遍路道を歩いていては見えてこない風景なのです。それは、行場(奥の院)の光景なのです
岩屋寺 上空写真

  ドローンから撮影した菅生岩屋(岩屋寺)の全貌になります。山中から突き出す三本の岩柱が確かに見えます。ロッククライマーの登攀意欲を刺激しそうな光景です。そう言えばロッククライマーと修験者は、指向が似ているのかもしれません。高く切り立つ峰を見ると登りたくて仕方なくなるようです。
  修験道にとって山は、天上や地下に想定された聖地に到るための入口=関門と考えられていたようです
天上や地下にある聖界と、自分たちが生活する俗界である里の間にあるのが「霊山」というイメージでしょうか。そして、神や仏は霊山の山上の空中や地下にいるということになります。そこに行くためには「入口=関門」を通過しなければなりません。異界への入口と考えられていたのは次のような所でした。
①大空に接し、時には雲によっておおわれる峰
②山頂近くの高い木、岩
③滝などは天界への道(水が流れない断崖絶壁も瀧)
④奈落の底まで通じるかと思われる火口、断崖、
⑤深く遠くつづく鍾乳洞などは地下の入口
山中のこのような場所は、聖域でも俗域でもない、どっちつかずの境界として、おそれられました。このような場所が行場であり、聖域への関門であり、異界への入口だったのです。そのために、そこに祠や像が作られます。そして、半ば人間界に属し、半ば動物の世界に属する境界的性格を持つ鬼、天狗などの怪物、妖怪などが、こうした場所にいるとされました。霊山は、こうしたどっちつかすの怪物が活躍しているおそろしい土地と考えら、人々が立ち入ることのない「不入山(いらず)」だったようです。
 そういう目で、この光景を見るとまさに霊山にふさわしいとこです。①や②がそろっています。そこによじ登り、天界への入口に近づくことが修行になります。ここにやって来た修験者たちは、これらの峰の頂上に置かれた祠を「捨身」し、命がけでめざしたのでしょう。

岩屋寺 白山権現拡大番号入り1

晩秋の空にそびえる三つの岩峰。デフォルメもありますが、こんな風に見えたのでしょう。
一番右が①白山権現を祀る岩峰です。その背後には横跛のように、②白雲がたなびきます。この雲は高野山(第二第四段)や熊野新宮・那智(第三第一段)などでてくるようです。研究者は
「一種の「瑞雲」で、この地が霊地・聖地であること示す指標の一つ」

と指摘します。
そそり立つとなりの岩峰の頂上にも、⑤小さな祠があります。朱塗りの柱と山裾の紅葉とマッチして彩りを添えます。その前に平伏する修験者がいます。
 樹木を見ると、強い風のためでしょうか、一方に変形しているようです。実際に見ないと書けない図柄です。詞書にあるように
「斗薮(煩悩をはらって修行に励むこと)の行者霊験を祈る」

にふさわしい聖地です。
 そこに頂上に向けて③はしごが掛けられています。急な梯子を上る修行は、命がけです。こうした荒行によって、山岳修行者は、飛ぶ鳥を祈り落とすほどの験力を得ると信じられていました。「やいば(すさまじい)の験者」の誕生です。今のアクションゲームで云うと、ダンジョンでボスキャラと戦うことによって、自分のエネルギーを増やして行くようなものかもしれません。
 はしごの下の④白装束の人たちは、伏し拝んでいるようにも見えます。荒行を行う人たちをスーパーマンとして崇めているようにも見えます
聖戒は、 一遍の菅生の岩屋参籠の目的が、「遁世の素意」を祈るところにあったと記します。
「遁世の素意」とは何でしょうか。それは、「衆生を利益せん」という「おもひ」(第一第四段)としておきましょう。そのためには自ら全国各地に足を運ばねばなりません。当然、強靱な体力と胆力が求められます。今で云う足腰と心のトレーニングが必要です。
 こうした修行を繰り返すことで、強靭な体力と「ひじり」としての霊性を得て、「やいばの験者」に己を高めようとしたとしておきましょう。前回にお話しした土佐の女人仙人や空海はその良き先例だったのかもしれません。一遍はこの二人に「結縁」することで「ひじり」としての神秘な霊性に磨きをかけ、遊行に耐え得る強靱な体力と生命力を得た研究者は考えているようです。
岩屋寺 白山権現はしご1

そうだとすれば、梯子を登っているのは 一遍と聖戒ということになります。
聖戒が登場するのは、修験者の修行には「付き人」が必要であったと前回お話しした通りです。詞書にも
「この時、聖戒ばかり随逐したてまつりて、閑伽(水)をくみて閑谷の月をになひ給へば、つま木をたづねて暮山(ぼざん)の雲をひろひなどして行化(ぎょうげ)をたすけたてまつる」

とあります。
もう一度、梯子を上る一遍と聖戒を見てみましょう。

岩屋寺と上黒岩岩陰遺跡 --- 巨石巡礼 |||

その姿や顔付きからすると、前が聖戒、後が一遍のようです。
国宝 一遍聖絵と時宗の名宝」展に行ってきました。 - 仏像ファン的古寺巡礼

しかし、両者のキャリアの相違からすれば、熟練者の一遍が先になって先導するのが普通なのではと思えてきます。聖戒は一遍の息子とも弟とも甥とも云われています。そして一遍の太宰府再訪につき従い、その後の信州善光寺参籠にも従っています。その時の絵柄は、一遍の後にしたがう姿でした。しかし、ここではなぜか聖戒が先です。穿った見方をするなら、聖戒は師の一遍を語りながら、実はさりげなく自分の立場を視覚的に印象づけようとしていたのかもしれないと思えたりもします。
 研究者の中には、聖戒を「ことさら消極的、控え目」な人柄とする人もいるようですが、そうとばかりには私には思えない所もあります。この絵図の立ち位置は、自身を一遍の念仏思想の伝法、後継者として位置づけているようにも私には見えます。
岩屋寺 白山権現2

   一遍絵図に、異界への入口とされそうな行場が至る所にみえます。行場と行場を結ぶ「行道」があり、修験者たちが「辺路修行」をしていたことがうかがえます。室戸岬のような所では、海岸に烏帽子岩のような岩や洞窟があると、洞窟に寵って岩をぐるぐる回る行をします。その痕跡が海辺の霊場の奥の院には見られます。そのような回遊・周回的な行道がここにもあったようです。
 例えば、真ん中の峰の頂上の社の前には白装束の行者が、平伏して一心に祈っているような姿が見えます。その隣の頂きにも社があります。これにはそれぞれの神が祀られ、そこに毎日祈りを捧げる「千日行」的な行が行われていたと研究者は考えているようです。つまり、「一回お参りしたら、それでお終い」ではないのです。何日も参籠を繰り返す「行道」を行っていたのです。

岩屋寺 白山権現への鍵
白山権現行場への鍵

現在でも納経所に申し出てれば、せりわり禅定への扉の鍵を渡され、白山権現を祀る峰にはお参りすることができるようです。
岩屋寺 白山権現行場入口
 
門の右には「白山妙理大菩薩芹せり割行場」という看板がかかっています。この向こうが芹割です。
岩屋寺 白山権現芹割行場

   押しつぶされそうな狭い抜けて割りを抜けて行きます。まさに異界への入口の光景です。
「岩屋寺開山法華仙人が弘法大師に法力を見せんとして大岩石を割って通った跡」
とも伝えられているようです。

岩屋寺 白山権現鎖場1

   その先にはいくつかの鎖場が続き、最後に梯子がかけれています。
岩屋寺 白山権現行場はしご21

最後の階段は天空の異界に通じるはしごに見えました。
岩屋寺 白山権現社1

階段を登り切ると、白山大権現をお祀りする祠が見えてきます。
岩屋寺 白山権現上空から

一遍聖絵の社は、柱は朱塗りでしたが、今の社は白く輝いています。この白山権現の祠の前に 一遍も平伏し、称名念仏を唱え続けたのでしょう。ここが天界に一番近い入口ということになるのでしょうか。

 一遍のように、自己のために行を行う人たち以外に、他人のために行を行う修験者たちもいたようです。
神仏混淆の時代には、病気を治してほしいと願う者には、神様が薬師に権化して現れます。一つの決まつたかたちでは、民衆のあれこれの要求に応じきれませんので、庶民信仰の仏や神はどんどん変身権化します。豊作にしてほしいと願うと、神様は稲荷として現れ、お金が欲しいといえば恵比寿として現れます。そういう融通無碍なところが、民衆に好まれるようです。ある意味、仏も神も専業化が求められます。
 そういう中から「辺路修行」が生まれて、海のかなたに向かって礼拝すると、要求をなんでもかなえてくれるということになりました。ただし、神が代償に要求する方法は命がけの行なのです。
漁師が恵比寿様をまつるときは、海に入ってたいへんな潔斎をします。海に笹を二本立ててしめ縄を回して、海に入って何べんでも潮を浴びます。それを一週間なり21日間続けて、はじめて神様が願いごとを聞きとどけて、豊漁が実現するのです。
しかし、それは誰もができるわけではありません。そこで登場してくるのが「代理祈願」です。本人に代わって、霊山に行って行を行い願掛けを行うのです。つまり、自分のための修行と同時に、プロの宗教者(修験者)が、霊験のある霊場にはやってきて何十日にもわたる「代理祈願」を行うようになります。
 四国の霊場寺院の由来には、そういう行を専門に行う辺路修行者が行場に、お堂を開き、それがお寺に発展し、さらに里に下った由来をもつ札所がいくつもあります。岩屋寺と大宝寺の関係も奥の院と里寺(本寺)の関係のようです。辺路修行者が命がけで海岸の岩をめぐったり、断崖の峰を歩き、ときには自分の身を犠牲にしたりしたのは、そういう背景があったようです。
「遍路」のもとの言葉が、「辺路」だと研究者は考えるようになっています。
 四国でも紀伊・熊野同じように辺路修行が行われていました。そこに青年時代の空海がやってきて修行を行いました。そういう意味からすると、四国遍路は、弘法大師が歩いたところを歩くのだ、と単純には言えないのかもしれません。むしろ辺路という四国をめぐる古代宗教があって、その辺路を青年空海も歩いたと考えた方がよさそうな気がしてきます。
  一遍から段々離れて行ってしまいました。それだけ、この岩屋が魅力的な所なのだとしておきましょう。菅生岩屋は観音菩薩と仙人の霊山で、空海も修行に訪れたといわれる人気の霊山でした。そこに、 一遍も身を投じたのです。
    最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

  参考文献 
長島尚道 一遍 読み解き事典 柏書房

信州の善光寺から帰った後のことを一遍聖絵は、次のように伝えます。
同年秋のころ、予州窪寺といふところに青苔緑羅の幽地をうちはらひ、松門柴戸の閑室をかまへ、東壁にこの二河の本尊をかけ、交衆をとゞめてひとり経行し、万事をなげすてゝ、もはら称名す。四儀(行住坐臥)の勤行さはりなく、三とせの春秋をおくりむかへ給ふ。彼の時、己心領解(独自のさとり)の法門とて、七言の頌(漢詩)をつくりて、本尊のかたはらのかきにかけたまへり。

ここからは、次のようなことが分かります。
①信州善光寺から帰った一遍は、文永八年(1271)の秋、窪寺(松山市窪野町北谷)に庵を構えた。
②「閑室」の東壁に、信州善光寺で書き写した「二河白道図」を本尊としてかけた。
③人々と交わることなく、 一人でもつぱら念仏を称える修行を行った。 
④四儀(行住坐臥)の勤行を、3年間行った。
⑤「十一不二頌」を作り、これを本尊である「二河白道図」の横にかけた。
一遍 窪寺1

窪寺は現在の四国霊場浄瑠璃寺の直ぐ近くにあったようです。その寺は今はなく、そこには石碑だけが残っています。ここはいまは彼岸花が有名で秋のシーズンには多くの人が訪れています。岩屋寺からの歩き遍路が、彼岸花に埋まった遍路道の坂を落ちていく姿は絵になります。
 一遍の父通広は、浮穴郡拝志郷別府(現重信町)の別府荘に所領があり「別所殿」とも呼ばれていたと云います。その別府荘の重信川を挟んだ対岸に窪寺はあります。
③には「交衆をとゞめてひとり経行し、万事をなげすてゝ、もはら称名す」とありますが、世俗とのなにかしらのつながりを私は感じてしまいます。
⑤の「十一不二頌」とは何でしょうか?
 一遍独自の安心の境地を表す文字だったようです。同時に「二河白道図」を頌(褒め歌)でもあった次のような語句だったようです。
「十劫正覚衆生界」
十劫という遥か昔に、法蔵菩薩が正しいさとりを得て阿弥陀仏になったのは、すべての人々を救い、極楽浄上に往生させるという本願を成就したからである。
「一念往生弥陀国」
人々は一度「南無阿弥陀仏」と称えれば、阿弥陀仏の極楽浄土に往生することができる。
「十一不二証無生」
十劫の昔に、法蔵菩薩がさとりを得て阿弥陀仏となったことと、今、人々が一度「南無阿弥陀仏」と称えて極楽浄土に往生することとは、時間を超越して同時であり、このことは生死を超えたさとりの世界を表している。
「国界平等坐大会」
一度の念仏によって、阿弥陀仏の極楽浄土とこの世は同じ(平等)になり、この世にあっても、人々は阿弥陀仏が教えを説く大会に坐ることができる。

こうして一遍は文永十年(1273)25歳のとき、「十一不二頌」に示される「己心領解(独自のさとり)の法門」に達します。そして、窪寺の閑室を後に、さらに石槌山系の奥深く分け入り、そこから岩屋寺(菅生の岩屋:愛媛県久万高原町)に向います。

一遍 窪寺2

一遍が称名念仏に専念した窪寺念仏堂跡には、次のような碑が建っています。
 身をすつる すつる心を すてつれば
 おもいなき世に すみそめの袖
                一遍
この句は、1280年(弘安3年)奥州の江刺の郡(岩手県北上市)に、一遍の祖父河野道信のお墓参りをしたときに詠んだといわれるものです。河野通信は、承久の乱(1221年)で破れ、奥州平泉に流されて亡くなっていました。その時の供来讃歌です。

なぜ 一遍は修行の場として「菅生の岩屋」を選んだのでしょうか?
  それは、一遍が空海を崇敬していたからでしょう。そのために「弘法人師練行の古跡」である岩屋寺を選んだと私は考えています。「遁世の素意」を祈り、大師の導きにより法界に入るためだったとしておきましょう。ここに入ったのは七月、聖戒の助けを得て、翌年早々まで約半年間ここで修行し、本尊不動のもとで正覚を得ることができたいいます。
 『一遍聖絵』の「菅生の岩屋」の記述のうち、後半の「仙人練行の古跡」は岩屋寺の縁起になっています。
そこには菅生の岩屋と桜にまつわる縁起も記されています。
  この御堂に廂をさしそへたりけるほどに、炎上の事ありけるに、本堂はやけずして、後の廂ばかり焼けにけり。其の後、又、回禄あり。同舎ことごとく灰燼となるに、本尊ならびに三種宝物はともにとびいで給ひて、まへなる桜の木にのぼり給へり。又、次に炎上ありけるに、本尊は又とびいで給ひて、同木にまします。御堂は焼けにけり。三種宝物は灰燼の中にのこりて、やけたる物とも見えず。鐘・錫杖のひびき、昔にかはる事なかりけり。此の桜木は、本尊出現し給ひし時
の朽木の、ふたたび生え出て枝さし花さける木なり。されば、仏法最初の伽藍、霊験希有の本尊なり。
意訳しておくと 
 この洞窟の御堂に廂(ひさし)を指して木造建物にしたところ何度も火災にあった。しかし、本堂は燃えず、廂は焼失してしまった。その後、修復したが、今度はことごとく灰燼となった。それでも、本尊や三種宝物は洞窟から飛び出して、前の桜の木に登って難を避けた。
 又、次に炎が上があった時も、本尊は桜の木にとびのいて難を避けたが御堂は焼けた。三種宝物は灰燼から出てきたが、焼けたようには見えなかった。鐘・錫杖の響きは、昔に変わることがなかった。この桜木は、本尊が現れたときに古木が枯れたものが、ふたたび生え出て枝を伸ばし花を咲かせるようになったものである。まさに、霊験あらたかな本尊といえよう。
 
ここからは、岩屋寺の神木は桜だということがうかがえます。
前回に時衆と桜の関係について触れ、浄土教の広まりと同じように、桜も広く親しみのあるものになっていくことを次のようにお話ししました。
①桜が『古今和歌集』の季語や枕詞に使われるようになり、西行は、臨終の際、桜の歌を詠んでいること。
②役行者を始祖にした修験道は、桜を神木とするようになること
③源信の『往生要集』に基づいた浄土教が絵画化され、生死の象徴としての桜が描かれるようになること
④社寺参詣曼荼羅を布教に用いて、高野聖が全国各地を遊行し、浄土教を庶民に伝えた。
 こうして、桜はあの世とこの世をつなぐ神仏の象徴になっていきます。この由来は、桜のシンボライズ化が岩屋寺にも浸透していたことをうかがわせます。
ここにやってきていた修行者達は、どんな人たちだったのでしょうか。
まず挙げられるのは、熊野や吉野のプロの修験者たちです。また、一遍のように空海を慕う高野山の念仏聖たちも多かったはずです。例えば西行も高野の念仏聖でいわゆる「高野聖(こうやのひじり)」です。彼は崇徳上皇の慰霊のために讃岐を訪れたと云われますが、その後は善通寺の五岳の我拝師山に庵を構えて、3年間の修行を行っています。そして、空海が「捨身」した行場に通っています。ここからは、当時の念仏聖たちも修験行を行っていたことが分かります。言い方を変えると念仏聖達は、阿弥陀信仰や浄土信仰を持つと同時に真言密教の実践者であり修験者だったのです。現在の私たちからすると、南無阿弥陀仏と修験者たちは、別物と分けて考えてしまいますが、それは非歴史的な見方のようです。それが当時の高野山の「流行」だったのです。高野山自体が浄土信仰の拠点となっていたようです。
 もう一つ確認しておきたいのは、ここにやって来ているのはプロの修験者たちであるということです。
  いまのお遍路さんのように、勤行して、お札をおさめて、朱印をもらって、去っていくというスタイルではありません。行場で何日間も修行を行うのです。あるときには行場から行場へと渡りながら周囲の行場を「辺路」したりもしています。この修行はひとりではできません。それを支える付き人が必要なのです。空海も付き人を従えての修行だった研究者は考えているようです。一遍も聖戒の支援を受けながら行場に入って行きます。

 菅生の岩屋の右から見ていきましょう
岩屋寺 仙人堂

右側には洞窟の②仙人堂と①不動堂(本堂)が断崖を背景に描かれています。修験者は小さな不動明王を守護神として、肌身離さず持ち歩いていました。行場では不動さまを目に見えるところに安置して、荒行を行ったとも云われます。そのため行場から発展した霊場の本尊は不動明王というのが相場のようです。この行場も修験者たちによって開かれたのでしょう。不動堂の上に、投入堂のように岩にはめ込まれたように建っているのが仙人堂です。ここは仙人窟という大きな洞窟の外側にお堂が作られています。中国敦煌の莫高窟の岩窟寺院のような構造です。不動堂と仙人堂は、はしごで結ばれているようです。

 この仙人堂の由来を 一遍絵図は、次のように記します。
 「仙人は又土佐国の女人なり。観音の効験をあふぎて、この巌窟にこもり、五障の女身を厭離して一乗妙典を読誦しけるが、法華三昧成就して飛行自在の依身をえたり。或時は普賢・文殊来現し、或時は地蔵・弥勒影護し給しによりて、彼影現尊にしたがひて、をのをの其所の名をあらはせり。
又、四十九院の岩屋あり、父母のために極楽を現じ給へる跡あり、三十三所の霊崛あり、斗藪の行者霊験をいのる砌なり。」
意訳しておくと
 仙人は土佐国の女人である。観音の効験あると聞いてこの巌窟に寵り、五障のある女身を捨てて、経典を読誦し修行に励み、法華三昧を成就して、自由に飛行することができるようになった。その仙人を普賢・文殊・地蔵・弥勒が守っている。又、ここにはその他にも四十九院の岩屋あり、父母が極楽を現した跡が残っている。33ケ霊窟は修験者がの行場である。
ここからは次のようなことが分かります。
①法華経を読誦して、法華経の行が完成させ、飛行術を身につけた女人の仙人がいた。
②仙人をす普賢・文殊・地蔵・弥勒が守っているのが仙人堂であった
③四十九院は父母が極楽浄土へ渡ることを祈る阿弥陀信仰の霊場であった
④三十三霊場は修験者の行場であった
このように、この岩壁全体が霊地としてひとつの世界を形成していたようです。
岩屋寺 金剛界岩壁
 
「一遍聖絵」の詞書には三十三ケ所の霊岨」について、「仙人利生の為に遺骨を止め給ふ」とあります。ここからは、仙人が自分の遺骨を人々が礼拝して功徳が得られるようにと願ったことがわかります。そこから少し上がったところに仙人入定窟という洞窟があります。
 これらの窟がある岩峰は金剛界とされていたようです。ここは岩壁で仙人窟以外にも阿弥陀窟や「四十九院の岩屋」「三十三所の霊嘱」と呼ばれる多くの窟が掘られ、当時は窟だらけの岩壁だったようで、よく見ていくと窟と窟をつなぐ道(はしご)があったと研究者は考えているようです。これを命がけで登っていって、三十三所にまつられている観音様と四十九院にまつられている兜率天を拝みながら山をめぐる修行(行道)が行われていたようです。

さて、それではこの絵図の景観は現在のどこに当たるのでしょうか?
 まず全体図を上空から見ておきましょう。

岩屋寺 菅生の岩屋上空図
岩屋寺の金剛界と不動堂
絵図の②不動堂は①金剛界と呼ばれる岩壁の一番下に建っています。現在の岩屋寺の伽藍もその周辺にあります。そして、この岩壁に多くの窟が開かれていたことになります。その左側の岩稜が胎蔵界とされていたようです。
岩屋寺 不動堂
岩屋寺の不動堂
  下から見上げるとこんな景観になります。長年の風雨で窟そのものが崩れたりしていて、明瞭なものは少なくなっていますが、多くの窟がならんでいたことは写真からもうかがえます。
不動堂は、いまでも岩壁の下に建っています。
一遍絵図と同じ場所です。上の方には、目玉のように開けられて窟が2つ見えます。私は、あれが仙人窟かとおもったのですが、そうではないようです。それではどこにあるのでしょう?
 不動堂の奥にはしごが見えます。これを登ってたところが仙人窟のようです。 一遍絵図は、デフォルメがあるようです。

岩屋寺 不動堂3

 現在の不動堂から仙人窟へ続くはしごです。このはしごは自由に登れますので仙人窟へ上がることは出来ます。
一遍絵図を拡大して、もういちど見てみましょう。

岩屋寺 不動堂2

不動堂の中には二人の僧侶がいます。その顔付きから、手前が一遍、その向こうが聖戒のようです。机上に経典らしきものが置かれています。詞書には 一遍が聖戒に「経教を亀鏡(ききょう)として真宗の口決(くけつ)をさづけた」とありますので、その場面のようです。絵師は、聖戒の書いた詞書の内容を踏まえた上で作画していることが分かります。不動堂と、仙人となった土佐の女人像を安置する仙人堂との間には、道はありません。仙人は空を飛べるから必要がないのでしょうか。そんなことはありません。長い梯子がかけられています。そこを上っている人がいます。前の人が振り返って後の人を気遣っているようです。これが聖戒で、後が一遍のようです。一つの画面の中に同じ人物が何度も登場します。「巻物忍法!異時同図の術」です。ちがう時間の出来事が同一場面に収められています。

  菅生岩屋は観音菩薩と仙人の霊山で、空海も修行に訪れたといわれる人気の霊山でした。そして、空海伝説が高野山から広がり出すと、修験者や念仏聖達もこの地を聖なる修行地として目指すようになったようです。そこに、 一遍も身を投じたのです。

    最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

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