瀬戸の島から

タグ:岩屋寺の白山権現

岩屋寺 上空写真 
岩屋寺
  以前に、岩屋寺で一遍の修行が、どのように描かれているかを見ました。それを最初に振り返っておきます。
『一遍聖絵』には中世岩屋寺の2つの景色が描かれています
A 不動堂と仙人堂
B 「せりわり禅定」の風景

岩屋寺 仙人堂と不動堂
A 岩屋寺不動堂と仙人堂(一遍聖絵)

Aから見ておくと、不動堂は岩峰下の平地に建ていて、その背後には梯子が架けられています。梯子を登った先に、埋め込まれるような形で懸け造りの仙人堂が見えます。
岩屋寺 白山権現拡大番号入り1
岩屋寺の奥の院 
Bの奥の院の逼割(せりわり)風景は、3つに分かれた岩峰の頂部のそれぞれに社祠が建ち、このうち最も高い白山権現には梯子が架けられています。建物の大きさに違いはありませんが、白山権現だけが屋根が入母屋状、残りの2基は切妻です。『一遍聖絵』は修行の風景や不動堂を強調して描いていて、実際の位置関係や景観をどの程度反映していたかはよく分からないと最近の研究者は考えるようになっているようです。ここに描かれたA・Bの2つが中世岩屋寺境内の中心的な要素だったことがうかがえます。絵図には描かれていませんが、詞書には次のように記されています。
「…又、四十九院の岩屋あり、父母のために極楽を現し給へる跡あり、三十三所の霊幅あり、斗藪の行者霊験をいのる嗣なり…(中略)…其所に又一の堂舎あり、高野大師御作の不動尊を安置してたてまつる、すなはち、大師練行の古跡、喩伽薫修の幅壇ならひに御作の影像、すかたをかへすして此の地になをのこれり」

意訳変換しておくと
「…この他にも、四十九院の岩屋があり、父母の極楽往生を供養する跡があり、三十三所の霊場があり、斗藪の行者(山林修行者)が霊験を祈る祠となっている。…(中略)
 又、高野大師御作の不動尊を安置する堂舎がある。以上のように、
この地は弘法大師練行の古跡であり、大師修行の痕跡である護摩炉壇・御作の影像などが、昔から姿を変えずに残っている霊場である。
 
ここには鎌倉時代の岩屋寺には、弘法大師製作とされる不動明王等の像や、大師修行の痕跡である護摩炉壇・大師自作の御影があったと記されています。また、父母が極楽浄土へ至ることを仙人が祈る49の岩屋、修験者の行場として三十三の霊窟があったようです。以上から中世の岩屋寺が一遍の他にも各種の山林修験者がこの地で修行に励んでいたこと、霊験を祈る場、祖先供養の聖地として人々の信仰を集め霊山として機能していたことを押さえておきます。

岩屋寺測量図拡大
現在の岩屋寺伽藍配置
次に17世紀末の寂本『四国偏礼霊場記』に描かれた岩屋寺を見ていくことにします。
テキストは「四国88ヶ所霊場詳細調査報告書 第45番札所 岩屋寺 2022年3月 愛媛県教育委員会」です。

岩屋寺 四国霊場記宝暦2年
岩屋寺(四国遍礼霊場記)

まず高野山の僧寂本の『四国偏礼霊場記』(元禄2年(1689)に記された岩屋寺を見ていきます。
猶是より山中霊気の立を御覧じて分入、岩日を踏奥院をひらき玉ふ。岩屋寺といふ。
海岸山岩屋寺 浮大部
此寺、名にあへる岩のすがた竜幡り虎路るごとしとし。奇怪いふにやは及ぶり壁立の岩稜の出たるやうなる下に堂宇を作り、堂より室皆谷にかかり岩を軒とす。竃などは岩宇覆へるゆへに別にやねをせず。本堂不動明王石像大師の御作、太子堂へ廊をかけて通ぜり。堂の上特起せる岩あり、高さ三丈許、堂の縁より十六のはしごをかけてのぼる。此はしご大師のかけ玉ふむかしのまゝといへり。岩上に仙人堂を立、像は大師の御作、法華経を侍するがゆへに法華仙人といふ、大師の時代まで此山に住せしと聞へたり。其上に屏風のやうなる岩ほの押入たる所に卒都婆あり、むかしよリー基にて大師二親の為に立玉ふといふ。一本はいつとなくかたむきありしが、延宝三年四月十二日すぐに立なをり、紙かと見ゆる札付たり。鳥ならではかよはざる所なればいかなる人もあやしみあへり。同七年大風吹て其一基は見へずなんぬ。今は一本あり其下に塔あり仙人の舎利塔といふ。
不動堂の上の岩窟をのづから厨子のやうにみゆる所に仏像あり、長四尺あまり、銅像なり、手に征鼓を持、是を阿弥陀といふ。凡そ仏は円応無方なりといへども、諸仏の顕現、四種の身相経軌に出て伝持わたくしならず。故に今の仏をあやしむ人あり、むべなりとおぼゆ。いつの比か飛来るがゆへに飛来の仏といふ。其近きほどに仙人窟といふあり、彼仙層解の所といへり。
岩屋寺 金剛界岩壁2
岩屋寺本堂背後の断崖

意訳変換しておくと
   浮穴郡にある。名の示すように巨大な岩山に建てられている。まるで龍が蟠り、虎が蹲っているような岩の姿だ。奇怪と言うほかはない。切り立った断崖の、岩が軒のように出ている場所に堂が建っている。堂というよりは室であり、いずれも張り出した岩を屋根としている。竈を置く室は張り出した岩だけで十分なので、別に屋根を作ったりしていない。

岩屋寺 2

本堂(不動堂)の不動明王石像は空海の作。本堂から②大師堂へは廊下を渡して通じている。堂の三丈ばかり上、特に突き出た岩があり、堂の縁から十六段の梯子で登る。梯子は空海が懸けたときとのままだという。

岩屋寺 仙人堂への階段
仙人堂への梯子

 ③岩の上には仙人堂が建っている。像は空海作。法華経を信仰していたため法華仙人と呼ばれている。大師が訪れるまで、この山に住んでいた。更に上方、屏風のような形に岩が落ち込んだ場所に、④卒塔婆が建てられている。昔から二本あり、空海が両親のために建てたものだと言われていた。いつのころからか、一本が傾いてしまっていた。延宝三年四月十三日、真っ直ぐに直されており、紙らしい札が付いていた。鳥でなければ行けない場所なので、見る人は驚き合った。同十年、大風が吹いて、一基は見えなくなった。卒塔婆が一本ある。その下に塔が建っている。⑤仙人の舎利塔と呼ぶ。
 不動堂の上の岩窟は、自然と厨子のようになっており、中には高さ四尺余りの銅製仏像が置かれている。鉦鼓を持っている。⑥阿弥陀如来だということだ。各仏格は峻別できるものではなく融通無碍ではあるが、如来・菩薩・明王・天といった四種の身相は経や儀規に定められており、形式を私にすることはできない。阿弥陀如来であることを疑う者もいる。もっともなことだ。いつのころかに飛んで来た仏であるから、飛来の仏と呼ばれている。近くに⑦仙人窟がある。法華仙人が人間としての肉体を失い精霊となった場所だ。      

岩屋寺 四国遍礼霊場記
岩屋寺(四国遍礼霊場記)の右側拡大

「岩屋寺図」の右側から確認すると
A 龍女池を通って参道をいく
B 二段の平場があり、下の段には二軒を廊下でつないだ堂舎(寺)
C 上の段には廊下でつながれた①不動堂(現本堂)と②大師堂、丹生社、高野社、その後ろに岩壁
D 不動堂の上の③仙人堂には、大師作の法華仙人像
E 仙人堂の上の岩窟には⑥「アミタ」と表記され阿弥陀立像。手に征鼓を持つ長四尺余の銅製の阿弥陀像で飛来仏
F 阿弥陀の左の岩の奥に④卒塔婆が二基。その下にある塔が仙人の舎利塔。
G 岩窟の「仙人窟」には、こけら経が描かれている

岩屋寺 不動堂
本堂背後の仙人窟とアミダ窟

この金剛界断崖には、この他にも「四十九院の岩屋」「三十三所の霊嘱」と呼ばれる多くの窟があるようです。窟だらけの断崖をよく見ると、窟をつなぐ道があった形跡がうかがえます。この行道について、
享保4年(1719)に菅生海岸両山寺務の法印雲秀が記した「岩屋寺略縁起」(『久万町誌資料集』1969)は、寺側の記録として次のように記します。

一、胎蔵界嵩は南二王門の上
一、四十九院は本堂より七人町北に当て四十九峯あり。
一、人葉峰魏の事
一、鈴高明王峰      一、不拾山阿弥陀峰
一、白山権現峰      一、別山権現峰
一、高祖権現峰      一、古岩屋権現峰
これらの峰を命がけで登っていって、三十三所にまつられている観音様と四十九院にまつられている兜率天を拝みながら山をめぐったのでしょう。これも「辺路修行」で行道巡礼の痕跡と研究者は考えています。
ここでいままでに出てきた信仰物の出現背景を考えておきます。
Aの龍池からは、弘法大師の善女龍王伝説に基づく雨乞い信仰がすでにこの時点で、根付いていたことが分かります。ここからは旱魃の時には、修験者に率いられた里の農民達がやってきて雨乞い祈願を行ったことがうかがえます。雨乞いは、里人の信仰を組織する契機となったでしょう。
岩屋寺 大師堂
岩屋寺大師堂
①の大師堂は、弘法大師信仰の象徴です。
一遍も「弘法大師の修行した行場で修行したい」という願いがあったことは、以前にお話ししました。一遍の時代から、この行場には弘法大師信仰がもたらされていたことが分かります。  岩屋寺が弘法大師開祖とされる由縁かも知れません。

岩屋寺 中国四国名所旧跡 本堂
     岩屋寺の本堂と仙人堂「中国四国名所旧跡」(幕末)
②は『四国偏礼霊場記』には、「本堂」ではなく「不動」と書かれています。不動は、修験者の守護神とされ、修験者たちが最も身近において信仰した仏です。それが本堂とされていることは、ここが修験者の行場であったことを物語ります。

岩屋寺 丹生・高野社
岩屋寺の丹生・高野社

大師堂の左には、丹生・高野社が並んでいます。

丹羽社は高野山の守護神・丹生都比売神社のことでしょう。これは高野山の守護神です。このふたつの神社を勧進したのは、高野山系の修験者(高野聖)だったはずです。彼らが弘法大師信仰と共に、このふたつの高野山守護神をもたらしたのでしょう。これらは、中世にはなかったものです。大師堂と供に、高野聖の「活動成果」といえるのかもしれません。

さらに簡素な門を抜けて少し進んだ左手に「イキ木ソトバ」があります。
塔婆変遷 五来重
塔婆の変遷(五来重)

この生木卒塔婆が現代でいうところの「梢付塔婆」(杉塔婆)と研究者は考えています。
IMG_0397.JPG
「梢付塔婆」(杉塔婆)

「イキ木ソトバと書かれた枠の外に小枝状の線が描写される」と研究者は指摘しますが、私にはよくわかりません。どちらにしても卒塔婆は、祖先供養に関わるものです。岩屋寺が中世には「死霊供養の山」として機能していたことがうかがえます。讃岐の弥谷寺と同じような環境が見えて来ます。
 さらに道を進むと右側に「一ノ王子」、「ニノ王子」と熊野王子信仰に関わる社祠が建ち並んでいます。大那智社とともに、これらは熊野信仰をもつ山林修験者によって勧進されたことがうかがえます。

③の仙人堂は、空海がやって来る前までの地主神だった仙人を祀っています。
熊野信者達が阿波の行場にやって来たときに、先住の地主神達との抗争・和解を経て、霊場を行場化した話が四国霊場札所には、良く伝わっています。ここからは先住の地主神から、山岳修行者(空海含む)に行場の譲渡が行われたことがうかがえます。その山岳修行集団は、熊野行者だったと私は考えています。
④の飛来仏と伝わる阿弥陀は、念仏聖(高野聖)の痕跡でしょう。
以前にお話したように、 一遍の踊り念仏の民衆教化はすざましい威力を発揮し、民衆への阿弥陀信仰流布に大きな力となりました。その結果、祖霊供養を本務とする高野聖たちが時宗化していまします。高野山自体が阿弥陀信仰の拠点となった時期があるのです。その結果、高野聖が拠点とした行場にも阿弥陀仏が登場します。これは讃岐の弥谷寺の阿弥陀仏の登場と同じです。

岩屋寺 阿弥陀仏銅像
岩屋寺のアミダ岩窟内にある銅製阿弥陀如来立像
 ④は現在も岩窟内にある銅製阿弥陀如来立像のようで、17世紀には知られていたようです。
ここからは岩屋寺は霊場として次のような信仰の積み重ねがあったことが分かります。
①地主神として仙人信仰 
②熊野行者達のもたらした熊野信仰
③高野聖がもたらした弘法大師と阿弥陀信仰 → 祖先供養
次に挿絵の左部分を見ていくことにします。

岩屋寺 3
岩屋寺(四国遍礼霊場記)の左部分
此より奥に至りてせりわりといふ岩途あり、白山権現作り玉ふといふ。高さ二十間ばかり、それより上に又奇挺せる瞼岩あり、高さ三十尺ばかりなり。二十―のはしごをかけてのばる、其上に白山権現の社鉄にて作れ。其石に峙つ岩頭に別山社、次の岩頭に高祖権現社。是より相去勝手・子守・金峰・大那智等の諸神祠、所に随ひ相立。凡そ世の事めに見るはきくにおとれるためしなれども、此山はきゝしよりもはるかに奇絶ときこゆ。唆極嘉祥の状、人神社麗の美、冥奥幽迫にして、腫魅の途を経、世人の境に入。事に世を遺れ、粒を絶、芝茎を茄人にあらずば軽くあがってなんぞこゝにをらんや。其遠く寄、はるかに捜り、信に篤く神に通ぜる人にあらずはなんぞよくこゝに至らん。我大師の神妙又しりぬべし。山号を海岸といふ、大師の御歌に
山高き谷の朝霧海に似て松ふく風を浪にたとへんて伝持わたくしならず。故に今の仏をあやしむ人あり、むべなりとおぼゆ。いつの比か飛来るがゆへに飛来の仏といふ。其近きほどに仙人窟といふあり、彼仙層解の所といへり。此より奥に至りてせりわりといふ岩途あり、白山権現作り玉ふといふ。高さ二十間ばかり、それより上に又奇挺せる瞼岩あり、高さ三十尺ばかりなり。二十―のはしごをかけてのばる、其上に白山権現の社鉄にて作れ。其石に峙つ岩頭に別山社、次の岩頭に高祖権現社。是より相去勝手・子守・金峰・大那智等の諸神祠、所に随ひ相立。凡そ世の事めに見るはきくにおとれるためしなれども、此山はきゝしよりもはるかに奇絶ときこゆ。唆極嘉祥の状、人神社麗の美、冥奥幽迫にして、腫魅の途を経、世人の境に入。事に世を遺れ、粒を絶、芝茎を茄人にあらずば軽くあがってなんぞこゝにをらんや。其遠く寄、はるかに捜り、信に篤く神に通ぜる人にあらずはなんぞよくこゝに至らん。我大師の神妙又しりぬべし。山号を海岸といふ、大師の御歌に
山高き谷の朝霧海に似て松ふく風を浪にたとへん
      意訳変換しておくと

岩屋寺 白山権現行場入口
「白山妙理大菩薩芹(白山権現)せり割行場」の入口(岩屋寺)
奥に進むと、⑦せりわりと呼ばれる、道のようになった岩の割れ目がある。白山権現が作ったという。高さは二十間ほどで、奇妙に突き出た険しい岩がある。高さは30尺ぐらいだ。21段の梯子を懸けて登る。上には、⑧鉄で作った白山権現社が鎮座している。
岩屋寺 白山権現鎖場1
白山権現への辺路

その右に屹立する岩の頂きに⑨別山社、続く岩の頭に⑩高祖権現社が並ぶ。ここを離れて勝手・子守・金峯・大那智などの神社が、随所に建っている。
岩屋寺 白山権現拡大番号入り1
①白山権現社、⑤別山社、高祖権現社(一遍上人絵伝)
 だいたい、人の話は大袈裟なので、聞くより見るは劣るというが、岩屋寺に限れば、聞きしに勝る奇観絶景である。険しく極まる岩山は、何かよいことが起こりそうな形だ。聖人や神々が壮麗を尽くしたかのような美しさ。幽玄で微妙な地形であり、山の精霊が通る道を経れば、自然の尽きせぬ偉大さを思い知らされる。俗世の雑事を忘れ、石粒を払って霊柴の茎を食む仙人でもなければ、簡単に登ってくることはできないだろう。遠くのことを近くに感じ、遙かな哲理を探り出し、信仰心篤く神通力を持つ人でなければ、ここでの修行もうまくいかないだろう。空海の神懸かりな偉大さを推測することができよう。山号の海岸は、空海の歌による。
「山高き谷の朝霧海に似て松吹く風を浪に喩えん」。
岩屋寺 白山権現社1
白山権現社(岩屋寺)

岩屋寺 3
岩屋寺(四国遍礼霊場記)の左P

もう一度、奥の院の白山権現が描かれた左Pを見ておきます。
下からみていくと、まず描かれているのは「勝手」と記されたに社祠です。これは吉野大社明神の一つ、「勝手神社(明神)」のことのようです。吉野系の修験者の勧進でしょう。ここから少し進むと、道が二股に分かれて、右に進むと「セリワリ」、左に進むと山道を登っていくこととなります。右は道に「セリワリ」と記され、左右には岩壁が描かれます。ここを進むと小規模な岩峰があって、その頂上が3つにわかれています。頂部にはそれぞれ社祠が建ち、右から「白山権現」、中央に「別山権現」、左に「高祖権現」と記されています。白山権現へは21段の梯子によって登れるようになっており、岩屋寺の奥之院の中心的存在であったことがうかがえます。
岩屋寺 白山権現
岩屋寺 せりわり禅定と白山権現(数字は標高)

 少し戻って二股に分かれた道を左に進んでいくと、左手に「子守」と記された社祠があります。
「子守」には熊野本宮大社第八殿・子守官の系統と吉野水分神社を総本社とする水分神の系統がありますが、先に出てきた吉野系の「勝手神社」との関係をふまえれば、後者の吉野系統に属するものと研究者は考えています。
 さらに遍路道を進んでいくと、右手に社祠があり、「大那智」と記されています。名称から、熊野三山の一つである熊野那智大社の系統神社と推測できます。その先には道の左手に鳥居が建ち、鳥居を潜り抜けたところに再び「一ノ王子」の社祠が鎮座しています。ここからは、熊野行者達の活動がうかがえます。
 このあたりで大部分の描写は終わっていますが、「アミダ峯」が絵図の上端に描かれています。これがどの山を指すのかは分かりません。なお、絵図には描かれないものの、本文中では白山権現を中心とする奥之院周辺には、勝手・子守・金峰・大那智等の諸神祠が建ち並んでいたとの記述があります。絵図に描かれる以上に建物があったことがうかがえます。
以上のように、江戸時代前期と、中世の『一遍聖絵』に描かれた岩屋寺を比較すると、さまざまな山岳修行者の行場という性格に変化はないようです。その中で異なる点として次の二点を研究者は指摘します。
①近世になって大師堂が建立されていること。
②高野山の守護神である高野社や丹生社も、中世段階ではなかったこと
③この間に高野系修験者や聖たちの影響力が大きくなったこと。
 建物等の施設が増加する一方で、日が当たらなくなっているのが岩屋や霊窟です。
一遍が訪れたころの岩屋寺には数十を数える岩屋や霊窟が機能していました。それが江戸中期の元禄期には、阿弥陀や卒塔婆の安置された窟や仙人窟が描かれているだけで、本文中にはでてきません。中世の頃と比べると、岩屋・霊窟での祈りや修行が希薄になっていると研究者は考えています。
 四国遍礼霊場記が書かれた17世紀末には、白山系、弘法大師系のほか、熊野や大峰系の山岳信仰に関わる堂舎や祠が立ち並んでいたことが分かります。修験者にとって「行」とは実践で、彼らにとっては経典や宗派にあまりこだわりがなかったようです。近代以前の岩屋寺は、神仏混淆下で、いろいろな宗派の修験者の行場として「共存共栄」していたとしておきます。

岩屋寺 金剛巌の岩壁
岩屋寺の金剛巌の断崖
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
四国88ヶ所霊場詳細調査報告書 第45番札所 岩屋寺 2022年3月 愛媛県教育委員会
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