瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:幕末の多度津藩

まんのう町文化財協会の仲南支部の秋のフィルドワークが多度津の林求馬邸と合田邸になりました。その「事前研修資料」として、林求馬邸をアップしておきます。
香川県の近代和風建築 : ShopMasterのひとりごと

テキストは「香川県の近代和風建築 香川県近代和風建築総合調査報告書113P 林求馬邸 香川県教育委員会」です。 

 林求馬5
林求馬邸は、幕末の嘉永4年(1851)から慶応4年(1868)の間に、多度津藩家老を務めた林求馬(1825~1893)の屋敷として奥白方に建てられたものです。それを聞いて最初に私が疑問に思ったのは次の二点です。
①どうして、海の見えない奥白方に建てたのか
②どうして明治維新間際の時代に、建てられたのか
①の奥白方に建てられたのは、幕末の軍事情勢の中で、海からの艦砲射撃を受ける可能性が出てきたためです。多度津港のそばにあった陣屋では、それを防ぎきれません。多度津藩は、幕末に軍備の近代化を進める一方、土佐藩に接近し、倒幕の動きを強めていました。そのような中で、丸亀藩や高松藩に比べると、強い軍事的な緊張感を持っていたことは以前にお話ししました。そのような中で、藩主や家老の避難場所として奥白方に白羽の矢が立ったようです。ここは、瀬戸内海の展望を楽しむための別荘や保養施設ではなかったこと、非常時のための待避場所(下屋敷)として急遽建設されたことを押さえておきます。
林求馬広間2
林求馬邸座敷
②の建設時期については、座敷の天丼裏に、嵯峨法泉院の祈祷札があります。
そこには「慶応3(1867)年6月」という年号が記されているので、鳥羽伏見の戦いの始まる直前に、この建物が完成していたことが分かります。まさに江戸幕府が倒れる前年に、新築された建物ということになります。
 廃藩置県後に、家老の林求馬は免官となります。
その後は林求馬は、この建てられたばかりのこの家を自邸として使います。その後も子孫が居住して建物が維持されてきましたが、1960代から無住となりました。その後の活用化を年表化しておきます。
1977年、林家より林求馬邸の土地建物が寄付され、財団法人多度津文化財保存会が設立
1983年、周辺整備を終えて、一般公開開始
1986年 求馬の養父林良斎が開いた私塾弘濱書院が敷地内に新築復元
1995年 南土蔵を改造した資料展示館がオープンし、林家に伝わる書画や古記録類なども公開
弘濱書院(復元)
弘濱書院(復元)
「香川県の近代和風建築」には、この建物について、次のように記します。

林求馬平面図
林求馬
邸平面図
林求馬邸の敷地面積は1,646㎡で、敷地南辺に表門を開く。門の北側に、西から主屋(座敷棟)、頼所、管理棟を建て、門の北東に弘濱書院、その南に展示資料館を建てる。
林家には、明治20~30年代初頭の屋敷の様子を描いた銅版画(鳥睡図)が伝わり、ほぼ建築当初の敷地内の様子を知ることができる。また、昭和30年発行の『白方村史』には内部の見取図が記されている。それらの資料と、現状の平面図を比較すると、頼所から西側部分は建築当初に近い状態で現存していると考えられ。東側部分は、家族の居住空間で、生活様式に合わせて改変が加えられたたと思われる。かつて台所や湯段があった場所に、現在は弘濱書院が建設されている。現在資料館となっている南土蔵、管理事務所とつながる東西の土蔵2棟は建設当時から現存するものと考えられ、土蔵をつなぐ部分は昭和になってから増築されたものという。

林求馬正面

 表門は、建設時に、陣屋から移築したものと伝えられ、その両脇に続く土塀は建設当時からあったが、昭和57年の修理時に腰部を海鼠壁とした。敷地南辺以外の土塀は現在失われている。
林求馬玄関

主屋は、入母屋造、妻入で正面に入母屋造の屋根を持つ大玄関が付く。屋根はいずれも本瓦葺、外壁は黒漆喰塗りである。
林求馬大玄関

大玄関の式台の奥に、8畳間があり、その両側に6畳間がある。板敷きの廊下が東西に通り、それをはさんで北側に14畳の広間、その東に6畳の枠の間と8畳の座敷が配置されている。
IMG_0006林求馬

広間は西側に、8畳の座敷は東側にそれぞれ床の間を配置し、北側は背後の山を借景にした庭を望むことができる。大玄関は、藩主のための玄関で、座敷は藩主との対面の場、広間は多くの家臣が集まる場所として作られたものであろう。従者は、大玄関の東側にある小玄関から出人りし、控の間に入る。
林求馬邸 | 香川県の多度津町観光協会
頼所(よりしょ:白壁の建物)

 民衆の用件を聞く場所として使われた頼所は、つし2階建、入母屋造、本瓦葺、妻入で、外壁は白漆喰塗りで、下部は海鼠壁(当初は縦板張り)とする。戸口を入ると土間で、奥に板の間及び廊下が続き現在の事務宇、その奥の土蔵へとつながる。
頼所の出入口の木戸には、内側から相手を確認するための小さなのぞき窓がついており、 2階の窓かららも人の出入りを確認できる。2階は、天丼を張らず、主に収納場所として使われていたと考える。
IMG_0004林求馬
林求馬邸

内部に陳列されている物を簡単に見ておきましょう。

林求馬邸 文化財図録


林求馬 広間
林求馬邸内部
林求馬 ふすま絵図
立屏風
林求馬 備前焼唐獅子
藩主から送られた備前焼の唐獅子
林求馬 龍昇天図
龍昇天図
しかし、林求馬邸のなかで一番大切にされているのは、この書のようです。
大塩平八郎の書 乱の前年
大塩平八郎の書
慮わざれば胡ぞ獲ん
為さざれば胡ぞ成らん
(おもわざればなんぞえん、
なさざればなんぞならん)
意訳変換しておくと
考えているだけでは何も得るものはない
行動を起こすことで何かを得ることができる
「知行一致」「行動主義」と云われる陽明学の教えが直線的に詠われています。平八郎の世の中を変えなくてはならないという強い思いが
伝わってくるような気がします。これが書かれたのは、大塩平八郎が大坂で蜂起する数カ月前で、多度津町にやって来たときのものとされます。どうして、大塩平八郎が多度津に来ていたのでしょうか?
それはまた次回に・・・

林求馬 古文書
林求馬邸に残された古文書
林求馬邸について、まとめておきます。
①この建物は、薩長と幕府の軍事衝突が間近に迫った時期に、藩主や家老の避難先として奥白方に建設された建物である。
②そのため華美な装飾や不用な飾りは見られず、シンプルで機能重視で建てられている。
③しかし、近世の武家屋敷の様式を継承し、大小の玄関や広間・座敷など主要な部分が良好に保存されている。
④東西に一直線に廊下を配置した間取りは改築の痕跡がなく、建築当初からのものと考えれる。
⑤座敷など「表」の部分と、台所など「奥」の部分とを分離し、円滑な行き来を重視した機能的な配置である。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
  香川県の近代和風建築113P 林求馬邸  
「白方村史」(白方村史編集委員会1955年)
「林家所蔵文化財図録」(多度津文化財保存会2003年)

           
多度津藩紋

多度津藩の初代京極高通は、正徳2年(1713)二年四月十九日に、将軍徳川家宜から多度津領知の朱印状を授けられます。このときが多度津藩が名実ともに成立したときになるようです。幕府からの朱印状の石高は次のようになっています。
       公儀より京極高通への御朱印状          
讃岐国多度郡之内拾五箇村三野郡之内五箇村
高壱万石(目録在別紙)事充行之屹依正徳之例領知之状如件
享保二年八月十一日
  京極壱岐守どのへ
2多度津藩石高

   ここからは多度郡の15村と三野郡の5村の20村でスタートしたことが分かります。そして石高はぴったし1万石です。家臣の数は91名の小藩でした。その家臣団をサラリーで階層化したのが下の表です。 
2多度津藩kasinndann
10俵は二石五斗ですから、家老などの重役4人でも、100石に届かないことになります。また、石高層が一番多い10~19俵が46名と、約半分です。宗家の丸亀藩に比べると給料面では見劣りがします。分家の悲哀が感じられます。給米額が10俵以下の下級家臣団をもう少し詳しく見てみましょう。
2多度津藩k下級家臣団asinndann
多度津番・蔵付・下横目・代官手代などの下級家臣は、苗字も持たない軽輩層が担当者になっていること。
大庄屋が家臣団のなかに位置づけられていること。
 例えば多度津番の仁兵衛の場合、給米わずかに10俵という禄高です。これは二石五斗ですから、これで一家の生計を支えることは出来なかったはずです。そのために生計の途(本業?)は、他にあったとおもわれます。「サイドビジネス」を持っていたのでしょう。
 一方、伊兵衛と与三兵衛は大庄屋でありながら三人扶持が与えられています。この役職は多分に、豪農層への名誉職的なものであったと考えられます。もともと小藩の数少ない家臣団を、補完(水増し)するために、豪農や富商が家臣団に登用されたようです。また、多度津藩は陣屋町経営にも豪農・豪商・中間知識層などを登用しています。
 藩による陣屋町経営に参加していた人名を抜き出すと、次のようになります
庄屋の塩田武兵衛、塩田周兵、
大年寄には草薙伝蔵、藪内彦兵衛、岩田理兵衛、
元締には庄屋の控えで補佐役の小国嘉兵衛が、
地方には浜口屋甚兵衛、三井屋次吉がいずれも屋敷調べに当たり、
町役人として小国兵吉、塩田武兵衛、吉田勘兵衛、香川理右衛門、香川理吉、瀧本文左衛門が、
その他に御殿医四人、町医者二人、手習師匠三人、町道場主二人
これらの町人層にも何らかの役割が与えられていたようです。

 行政面や町方経営に裕福な町人層・知識人が家臣として加わる体制は、これは時代を経るに従って藩と豪農・富商層の密接な関係を深めていく結果になります。これをプラス面から見れば、藩と地主や大商人層の垣根が低く官僚集団として一体化していくことになります。幕末の多度津藩の「陣屋+新港+軍隊の近代化」という小藩のチャレンジを可能にする原動力は、ここから生まれたのではないかと私は考えています。
多度津藩の『五人組帳』から見えてくるものは?
 江戸時代の村支配の最少単位は五人組制度でした。多度津藩の『五人組帳』には、藩の勧農・貢納・農民支配・訴訟など13か条におよぶ政策方針が示されています。その主要部分を見てみましょう。
     差上申一札之事
一 御支配人、添役衆惣て御家中迄名主百姓に対し、依恬聶負御座候義、又者少分たりとも非分成義御座候ハ無拠可申上事
一、御年具(年貢)皆済不仕以前二他所へ米出シ申間敷候、
  若シ能米売替悪米を御年貢二納申候ハ 当人者不及申、
  名主五人頭迄も何様之曲事二も可被仰付候 弁御年貢御蔵入いたし候、あら紛無之様二米拉致シ、繩俵拉二て諸事御定之通り入念御蔵入之時分 御支配人より被御渡候庭帳二付、還納主銘々判形致可置申事         
一、男女二不依、欠落もの郷中へ参候ハ押置早速可申上候、
  猶以先々により構有之由届有之者、早速寄合吟味いたし申上得と御下知可申事、
 (中略)
一、惣而家業を専一相勤、親二孝行、主人二忠を尽し、師匠又者老たる人を敬い、物毎于に心を合せ村中区々二無之取締行届候様取計.貧民を憐救い奇特之もの早々可訴出事、
  右之通此度申渡候間、五人組前書一同月々読諭シ、悪事二不移善道二導候様心掛、可若違背致候もの有之者、当人者不及中組合村役人迄急度可被仰付もの也
  天保七申年
 多度津藩でも村落支配構造は、大庄屋→庄屋→組頭→五人頭→五人組という系列であることは変わりありません。五人組を最末端組識とし、さらに五組、二五戸で大組を形成し、この大組から五人頭を出します。大組はまた四組、約100戸の組織体として、その代表者を組頭に選出して、庄屋を助けることになっていました。
 五人組は、年貢を納める際の連帯責任体制として組織されたものですが、同時に農民にとっては、小農経営を維持するための共同体としての役割もあり、彼らにとってこの組織を離れて生きてはいけません。
 『差上申一札之事』のポイントを挙げると
①年貢を全て納める前に、産米の売買を禁じていること
②上納の際に、能米(良質米)を売却し、悪米(廉価米)を買入れて上納し、その差額を得るような行為を禁じていること。これは、良質米を全て年貢として納めさせることで、最大の商品である蔵米を、大坂市場に売却し、逆に大坂において廉価米を買入れることを藩の手で行い利潤を独占する意図があったようです。うまくて良い米は売って、安い米を買って領民には食べさせていたということになります。
③領民の欠落(没落)を防ぐために、欠落者の処置についての規定があり「牛濤により構有之 由届有之者、早速吟味いたし申上得御下知可申事」と処置策が示されています。対策がされているということは、逆に言えば、農民の離散・逃散が頻繁にあったことを物語ります。
④農民の村共同体での結びつきの強化を進めると同時に、農民層の両極分解が進むなかで、貧民救済や相互扶助についても触れられています。そのうえで、村役人の職務分担と村落内において処理できない問題については、より広域の組合村落によって解決をはかることが命じられています。
⑤この触書は、毎年正月に実施される宗門改めのとき村役人が読み聞かせ、その遵守を誓約させたのち、署名押印させていたようです。五人組を最小単位にして、村共同体のネットワークの中に囲い込んでいたことが分かります。
ところで、多度津藩の人口はどのくらいだったのでしょうか。
 幕末期の多度郡十四か村の戸数・人口は次の表のとおりです。
2多度津藩人工

多度郡15ヶ村の戸数は2419戸、人工は一万人足らずです。これに三野郡の5ケ村が加わります。領内で人口が突出して多いのは多度津です。
多度津への人口集中の背景には、
①陣屋建設に伴い藩主が丸亀から引っ越してきたこと、
②湛甫(新港)築造と、その後の経済的な発展
③それにともなう周辺からの人口流入
などが多度津の人口集中現象の要因と考えられます。どちらにしても、幕末の多度津や金比羅は経済的な好景気に沸いていたようです。その景気の過熱はインフレと米価高騰を招きます。天保四年(1833)に多度津陣屋町で発生した米の買占めに反対する打ちこわし米騒動は、天領の琴平門前町にも波及します。
  当時の多度津家中の記録には、次のように記されています。
 姫路一揆に引続、多度津一統に一揆して、米買占の者二軒を打潰し、又金比羅にも五千人計浪人共大勢其中へ打交り、屯をかまへ大に騒動に及びぬるゆへ、江戸表へ両度まて早打にて注進せしと云。されとも格別の大変にも及はすして漸々と取鎮めしと云。家老始め一家中大うろたへなりと云噂なりしか如何なる事にや其実を知らす。
ここからは次のようなことが分かります。
①二軒の米を買占めた商人が打ちこわされたこと。
②琴平など他領にまで波及しているという事実。
③この打ちこわしが、藩に大きな動揺をおこさせたこと。
江戸にいる藩主に二度早打ちを出し、その下知を仰がねばならなかったことからも、大きなショックを与えたことがうかがわれます。
この打ちこわしの主体となったのは、周囲の農村から流入した根無し草の人々だったのかもしれません。このような中で、多度津藩は翌年に湛甫築港を着工させます。どうしてこのような時期に?と疑問が沸くのですが、研究者は「大量流入した労働者に仕事を与え救済するための公共事業を起こす必要」があったと考えているようです。天保期の多度津藩が民衆暴動のたかまりと広がりに、危機感を持って対応していたことがこの史料からは分かります。

多度津藩の郷村石高の変化を見てみましょう
2多度津藩石高変化

宝暦十年(1760)と左から3番目の嘉永元年(1848)の石高を比較して、88年間における石高増減見てみると
①石高が減っているのは三か村のみで、他の11か村は増えています
②この背後には多度津藩の新田開発の成果がうかがわれます。
③別の見方をすると収入増のために、打直し検地が実施されたのかもしれません
それにしても、藩の勧農政策による一定の成果とも考えられます。村は疲弊していません。
例えば明治三年(一八七〇)の諸品目に対する課税率一覧表にが、以下の品目が記されています。
   生綿、繰綿、篠巻、綿実、小麦、大豆、胡麻、荏胡、麻油
   麦、味噌、鍛冶炭、婉豆、蜜.葉藍、蚕豆、黍、大角豆、菜
   種、藁麦、稗、種油、粟、醤油.米売粕、葛篭、白油粕、
   酢、米、白下砂糖、佐伯取粕、菅笠、網代笠、木綿、白砂糖、繩、芋、
 ここには37品目の農産物および農産加工品があります。この他にも32品目の手工業品も挙げられていて、その多様性には驚かされます。小さな藩でも商業作物が想像以上に数多く栽培されています。これが次の時代を切り開いていく潜在能力になります。ここからは当時の多度津藩の農業生産性は、高水準にあったことがうかがわれます。
多度津藩の新田開発は灌漑・水利事業がポイント
 讃岐は雨が少なく旱害を受けやすい所です。そこで讃岐は、江戸時代になると平野部でも溜池濯漑が整備されてきました。多度津藩でも溜池築造と、その運用は藩政上でも大きなウェイトを占めていたようです。
新田開発による石高増加のパターンを、葛原村で見てみましょう
 旧金倉川の伏流水が流れると言われる殿井は水量が豊富な出水です。今でもこの周辺には清酒金陵の多度津工場があり、美味しい水をつかって酒造りが行われている所です。殿井の出水は大木15町歩が水掛りで、多度津藩政初頭には開かれていたと云われます。それまでの葛原村は旱魅の常習地だったようです。
『讃岐のため池」には次のように記されています。
ある時、八幡の森に清水がわき出ているのを見て、これを水源にと堀を掘らせたのが、いまの殿井、かっては八幡湧と呼ばれていたとか(中略)
 やがて旅寵ができ、茶店が出、湯屋まで出現して、宿場としてにぎわいを見せた。森の西側には千代池、中池、佃の四つの池があり、その総面積が八町歩あった。
このため池群の整備をすすめ新田を拓いていったのは、近世初頭に安芸からやって木谷家であったことは以前述べました。木谷家が築造した上池は水掛り約二八町歩、千代池が約五〇町歩、買田池が五四町歩というように、殿井の開かれたことによって、約一三〇町歩の水掛り区域をもつようになり、葛原村の新田開発は、その後に急速な進展を見せます。これが藩が出来てわずか半世紀で26%の新田高増となる原動力となっているようです。
 多度津藩は天領の満濃池修築への人夫派遣要請にも、さまざまな理由をあげて断ることが多かったようです。それは満濃池の水路から一番遠いエリアに当たる多度津藩までは、水が充分に供給されないことの方が多かったからのようです。それが素直に労働力を提供できない理由のひとつでした。そのためにも自前のため池群の整備が急務でした。

最後に多度津藩の農民負担について、見てみましょう
三野郡の『大見村細見目録写』には次のような記録が残っています。
高弐百九十七石八斗八升三合五勺
一、弐拾壱町八反九畝拾四歩
          本村免五ッ三歩
  御物成 百五拾七石八斗七升弐合三勺
高百四拾弐石弐斗六合
一、拾壱町八反五畝廿歩
          竹田免五ッ五歩
  御物成 七拾三石三斗四升五合壱勺 高三拾七石八斗壱升七合
一、三町八反弐拾三歩
          浜免四ツハ歩
  御物成 拾八石壱斗五升弐合五勺 高八拾九石三斗弐升七合五勺
一、七町壱反四畝廿四歩
          上免四ツ九歩
          原村
          下免四ツ九歩
  御物成 五拾弐石四斗八升四合九勺
高/五百六拾九石弐斗三升四合
畝数 四拾四町七反廿壱歩
御物成 三百弐石六升六勺
天保二年(1832)の大見村の本村に課せられた本途物成の年貢率は、五ッ三歩=53%で、竹田村が55%、浜村が48%であったことが分かります。課税は、これだけではありません。他に小物成・高掛物・夫役の賦課額が加わります。それを考えると、当時の多度津藩の農民には極めて高いの貢租賦課率が課せられることが分かります。
 天保年間に行われた湛甫(新港)築造という大事業は、農民に対してこの負担の上に臨時の国役賦課がかけらたことになります。これは農民にとっては、重税の上の増税とも言えます。数字上では、これ以上の増税を実施することは無理な状況です。農村への課税強化をこれ以上行うことができなかったことが、ここからはうかがわれます。
 軍備近代化のための資金捻出を多度津の商人達に頼らなければならなかった背景が見えてきます。
参考資料   三好昭一郎 多度津藩政の展開と幕末期の経済基盤 幕末の多度津藩所収
                                     


 多度津は早くから小銃を核とする歩兵編成への転換を行ってきましたが、長州征伐における奇兵隊の活躍に学んで農民からの志願制の農兵組織の編成に動きます。これが赤報隊と呼ばれた農民兵たちです。
 赤報隊の募兵状況を見てみましょう。
 大見村の場合村内で応募したのは次の11人です
「小畑惣兵衛・三好初治・横田大蔵・藤田粂蔵・横田茂市・三好勝之丈・藤田文治・佐藤信治・佐藤半之助・則包万助・森綱造」
神田村(現三豊市山本町)の場合には、
地主や富農の子弟からえらばれ、集団行動を中心とする西洋式戦術によって訓練され、戦闘力も大きく、海岸防備や一揆の鎮圧、さらに維新期の朝廷軍に協力してあなどり難いものがあった。神田から岩倉六二(伍長)・長谷川一二(同)・細川保五郎・岩倉角治・山下品治・森利吉・穐山重吉・石川春治・大西雪治の九名が志願」
と山本町史に記されています。隊員は詰襟服と帽子、そして小銃が支給されました。全体では50人規模の編成だったようです。
 次の辞令で赤報隊の性格や隊員の待遇の一端を知ることができます。
  其方儀 此度赤報隊二差加、依之在隊中扶持二人笛字帯刀差許シ 藩籍二差加者也 
 隊員は在隊中に限って二人扶持が支給され、苗字帯刀の特権が許され「新足軽」という身分に格村けされ「藩版」に加えられたようです。隊員が支給された扶持米は、一日玄米一升になりますから、二人扶持は玄米二升で年間に七石三斗の玄米支給となり、藩の全隊員への支給総額は365石にのぼったという計算になります。これも小藩にとってはかなりな財政負担となったはずです。
 赤報隊の隊員を送りだした村サイドから見れば、
①「農家の過剰人口対策」として口減し
②玄米収入の道であり、
③士籍を得るための絶好の機会
という「一挙三得のいい就職先」という認識があったようです。
 他方、藩サイドからすれば、
 新歩兵銃隊の編成を農民で行うことによって小藩の藩士不足=兵力不足を打開することができます。また、先ほど述べたように武士達は単独で戦うことを訓練されており、集団密集訓練や「鉄砲足軽」を嫌がる風潮があり、はっきり言うと不向きでした。農民出身者を鍛えた方がものになるということを長州の高杉晋作は奇兵隊で実証したのです。これに学ばぬ手はありません。従来の軍事力を補完し、農民出身者を小銃隊として編成するメリットはいくつも挙げられます。
 あらたに赤報隊を組織したので、小銃が足りなくなります。多度津藩が慶応期において、大量の小銃買付けに走った理由のひとつはここにありました。赤報隊のための小銃購入だったのです。ちなみに赤報隊のためのミニエー銃60丁は千両の支出で藩予算の支出総額の3割半にあたります。
 赤報隊に初出動が命ぜられたのは、慶応四年(1868)の高松征伐のときです。
高松藩は、同年正月五日に鳥羽伏見で官軍と戦って朝敵とされ、藩主松平頼聡は官位を剥奪され、京都と大坂の藩邸も没収されます。同十七日に土佐藩士片岡健吉率いる土佐郡が丸亀城下に到着し、高松征伐の勅命を伝達します。そこで一九日には丸亀藩200人、多度津藩50人が先鋒として高松城下に向かいます。このときの多度津藩の兵員が多度津藩大目付服部喜之助に率いられた赤報隊でした。
 征討軍を迎えた高松藩では、すでに朝廷に恭順の意を表していて、19日には高松城を開け渡し、浄願寺に謹慎していました。丸亀・多度津両藩の征討軍は、石清尾山に布陣しますが、戦う意志がないことを確認し、土佐藩とともに高松城を受取り、21日には多度津に引揚げています。赤報隊の「戦歴」はこれだけです。彼らのその後は、どのようになったのでしょうか。それを語る史料にまだ出会えていません。
 赤報隊が50人編成で、その規模は小さい部隊です。
しかし、奇兵隊と比較してみると長州藩は37万石で1500人程度の組織だったとされます。これは一万石で40人弱の規模になり、多度津藩と変わらない隊員数になります。その扶持米と小銃調達に伴う支出額も、決して軽いものではありません。多度津藩の兵制改革の積極性を示すものとみることができます。
 しかし、長引く「戦時予算」で軍事支出は増大し巨額の借金が増え続けます。
 慶応四年(1868)5月付の「御軍用御入目請払帳」から多度津藩の軍費会計の収支決算書を作成すると次のようになります。
この決算額約一万三千両というのは、当時の江戸の米相場に換算すると米一石は金で約四両となるようです。多度津藩が慶応四年にミニエー銃をはじめ火器購入のために支出した代金は、石高に換算すると約3250石となります。これは藩石高の33%になります。
 慶応四年人金額一覧表を見ると、藩の元方、吟味方、元方よりの入金の下に、湯浅為八、木谷綱輔、木元茂三郎、岡栄治、佐藤栄助、大塚茂佐衛門、大塚新太郎、和泉屋源助など人名が並びます。これは多度津の商人からの献金によって調達された資金のようです。ここからは藩財政が地元の有力な商業資本からの支援なしでは立ちゆかない状況がうかがえます。ここにも天保期の湛甫(新港)修築という藩運を傾けた大事業が、地元商人たちの利益につながり、それを契機とし多度津藩の兵制改革にも支援協力をおこなっている姿が垣間見えます。

次の表は軍事装備費の支出状況を費目別に整理したものです。
総額12689両余の内訳は、
銃砲購入代金として、大砲・小銃に  1289両
大岡藤左衛門へ             65両
江戸・横浜への小銃支出       5193両
その他の小銃代            387両
以上の合計額が           6934両
それは年間支出総額の53%にあたります。これ以外にも弾丸・雷管・火薬類に1722両が支払われています。鳥羽伏見の戦いによる「戦時予算」であったとは言え、軍備充実政策が藩財政を破綻に追い込んでいることが分かります。多度津藩という一万石の外様小藩が、その財政規模や藩政機構の限界を無視して行った兵制改革の顛末がここに現れているようです。

 時代を先取りし、その実績を持って新政権のなかで一定の地位を占めようとした多度津の狙いは小藩にもかかわらず幕末に独自の軌跡を残しました。しかし、藩の経済力をはるかに越えた軍事支出は、大きな負債となり破滅的状況を迎えます。多度津藩は、明治4年の廃藩置県を待たずに、新政府に対して廃藩の認可を求める上奏をしなければならない状況においこまれます。
 しかし、藩主は去っても地元資産家は残ります。
そして、幕藩体制の桎梏から解き放たれ商業資本家から産業資本家へ変身を遂げ、西讃地方の近代化のトレッガーとなっていきます。それが「多度津七福人」と呼ばれる資産家達です。その若きリーダとして登場するのが景山甚右衛門なのでしょう。

参考文献 三好昭一郎 慶応期外様小藩の兵制改革   讃岐多度津藩の小銃政策をめぐって 

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  幕末に、1万石の小藩が年収の何倍もの資金を小銃を買うために支出し、鳥羽伏見の戦いで薩摩軍と共に幕府軍と戦い勝利します。これが多度津藩です。丸亀藩や高松藩が太平の眠りの中で動こうとしなかったのに、小藩の多度津藩は、なぜ狂気のような軍隊の近代化に邁進したのでしょうか。
 多度津藩の軍事改革への積極的な取り組みは、四代藩主高賢に源がありそうです。
彼は若くして藩主となると、丸亀藩からの自立・独立を目指して陣屋建設にとりくみました。同時に、藩の将来に対する布石をいろいろと打っています。
 『古田流大奥秘之書』によると、宝暦八年(1758)に二百目御筒と同稲妻筒を財田上之村で鋳造し、試射しています。文化二年(1805)には、藩士を長崎に派遣して高島秋帆の門下で西洋流砲術を学ばせています。そして、その年の9月1日には、白方村と堀江村で藩主高賢が見守る中で同筒の早打乱打が行わたと記されています。ここには、小藩であるがゆえの軍事力の限界を、砲術の導入によって補強しようとする若き藩主のねらいが読み取れます。 多度津藩は、本家の丸亀京極家からの自立のために陣屋や多度津新港を建設し、経済的な成長をはかりながら「軍事技術の近代化」にも取り組んでいたようです。
多度津の兵制改革が本格化するのは、ペリー来航以後です。
その藩軍制の再編成と砲術訓練を見てみましょう 
 黒船来航より5年前の嘉永元年(1848)には、多度津は越後流兵式の一隊を編成します。これが時代遅れなのに気づくとオランダ式に、さらにイギリス式に編成替えをするなど時代の流れを捉えています。安政五年(1858)9月に、大坂の御用商人米屋佐助は多度津藩に新式のモルチール銃を献上します。この銃の性能の良さを知った多度津藩は、小銃調達に力を入れるようになり、歩兵主体の戦闘組織への編成に着手していきます。
 さらに文久二年(1862)1月25日から白方で大砲鋳造がはじまり、2月7日に試射されています。
指揮にあたった砲術方の富井泰蔵は、『西洋流砲術見聞録』に次のように記しています。
「二月七日、白方土壇に於て六斤此度鋳造御筒試し打ち、ショウエンギ三度目凡そ七丁、強薬三百五拾匁、七発打つ。コロスも入れる。鉄丸製実丸の六斤弾丸一つに付代料凡そ十匁づつ也、加濃砲」
同四年二月一九日見立山に於て新六斤加濃砲二挺(三原出来)試し打ち七丁場、林家連中これを打つ、十一放、矢倉三度強二寸歩これあり、打薬百六拾匁又百八拾匁、右あとにて十三寸弱臼砲(新規装造三原出来)試し打ち、四五度、満薬、百七拾匁、強百九拾匁」
など、 鋳造された大砲の試し打ちが白方で何度も行われ、これを藩主も見守っています。
(1863)7月8日にの記録には次のように記されています。
「御丁場に於て大砲方へ 此度より毎月塩硝二貫目宛御下げ下し置かれ、六月分より受取り、一、二、三番へ三ッ割り一組六六六匁六分六厘也、右を此度一、二番一所に致し都合一貫三三三匁三分二厘也、打薬十発分一貫三〇〇匁掛り筒払薬にいたす」
   ここからは大砲方の本格的な演習が始まり、六か月分の火薬が一度に現場に渡されています。 このような多度津藩の兵制改革(兵制の近代化)は、ひろく藩外から注目されていたようです。多度津藩の大砲方一番組を率いていた富井泰蔵の記録だけでも、他藩の砲術家が何人も来藩して砲術訓練に参加しています。そして、その訓練の様子を、藩主もやってきて見守っていたようです。当時の藩主は京極高典です。彼が先頭に立って、家老を筆頭に砲術研究をさせ、自ら大砲の試射に立ち会うなど、積極的な軍備強化策を進めていたことがうかがえます。
   多秋山秀夫氏は、「多度津の家中屋敷は語る」(文化財報17号)で、丸亀藩と多度津藩の軍事政策に比較し次のように述べています。
「双方の重臣たちの時代感覚がちがいます。
丸亀は保守派が枢要を占め勤王派を圧迫し、武備も旧来の山鹿流を主体とする編成です。多度津藩は高島秋帆の流れを汲む洋式で。最終時にはフランス流からイギリス式という吸収の早さです。鉄砲も本藩を出し抜いて、直接に横浜五十五番館で購入していました。
 殿様が多度津に居館を移してから39年目です。このような事態を心配していたのか、時の丸亀藩主高朗は、その娘豊姫を高琢に嫁にやって百数十年の兄弟の交りを、今度は親子として親しみを復しています。このような心づかいも世の流れ故なのか判らない間に、両家の意志を疎外するような現象がつぎつぎに起きるのは不思議です
 多度津藩が宗藩の不安を無視して、積極的な兵制改革を推進した背景に、丸亀藩からの干渉を抜けだし、己の自立をめざしての富国強兵策であったことが、ここからも窺えます。

多度津藩の大砲を主体とする兵制改革が、小銃を主体とした歩兵編成に切替えられるのは慶応年間に入ってからです。
その要因を2つ挙げておきます。
 多度津藩は、一万石小藩にしては「小粒で精鋭の実力」を持つ藩と高く評価されるようになり、これが本家の丸亀藩を出し抜いて朝廷への軍役の一端を担う道を開きます。元治元年(1864)11月に、朝廷は、京都御所日御門の警衛警備を命じます。多度津藩の小隊は上京し、薩摩など部隊と共に御所警備の任に就き行動を共にすることになります。この時に培われた経験やネットワークは、その後の多度津藩の動きに大きな影響を与えることになります。また、小銃小隊の充実整備が多度津藩にとって急務であることを身を以て経験する場にもなったようです。
 もう一つの要因は多度津港に入港してくる幕府や雄藩の軍艦です。
改修された多度津港は、水深もあり当時の大型艦船の入港には、丸亀港よりも適していました。そのため雄藩が買い入れた西洋式軍艦が、相次いで多度津港に入港するようになります。例えば文久三年(1863)12月5日には、佐賀藩の軍艦二隻が多度津沖合に停泊します。この時には多度津藩士が乗艦見学する機会を得ています。慶応元年(1865)7月15日にはイギリス軍艦が入港しています。
 そして、翌年正月には長州征伐のために将軍御召艦順徳丸が多度津港に入港します。江戸幕府が威信をかけて購入した軍艦の艦上に上がる体験した指導者達は、その近代兵器の威力や指揮系列などに大きな刺戟を受けたはずです。ところが幕府軍は敗れます。長州での勝敗を左右したのは、軍艦でも大砲でもなく、小銃を持った庶民編成の小編成部隊だったのです。戦後の軍事分析はすぐさま多度津にも伝わります。これから整備すべきは歩兵小銃部隊と全国の砲術家たちは考え、藩主や重臣に提言します。そして、各藩は一斉に小銃買付に走ります。
 長州征伐失敗後の幕末威信の失墜についても、リアルな情報が次々と多度津港にはもたらされます。小藩で風通しもよく、藩士たちの意思疎通も行えていたので、藩論は、急速に尊皇討幕の方向へとまとまっていきます。ここで多度津藩も小銃買付に動きます。多度津藩が丸亀藩などと比べて有利だったのは、すでに独自の買付ルートを持っていたこと、そして小銃歩兵の組織編成が出来ており演習なども行ってきていることです。
 かつて、藤沢周平原作で山田洋次監督の時代劇3部作の「鬼の爪」で、維新間近の東北のある藩での小銃歩兵訓練の様子を描いていたのを思い出します。砲術指南が雇われてやってきて武士達を歩兵として使おうとしますが、なかなかうまくいかないのです。隊列縦隊行進をさせようとすると嫌がる、早駆けを命じてもすり足でしか走れない。武士の作法と流儀は、なかなか歩兵には向かないことをさりげなく描いていました。
 多度津藩には、すでに歩兵はいたのです。後は新式銃を買い求め与えるだけです。
多度津藩の慶応二年(1866)の小銃大量買付け
当時の日本における兵器市場を見ておきましょう。長崎のグラバー亭が武器市場の中心であった時代は、すでに終わっています。慶応期に入ると、とくに横浜・兵庫からの小銃購入が中心になります。まず幕末期における横浜貿易と小銃輸入の状況について見ておきましょう。
1ゲベール銃2
 当時は旧式になっていたゲベール銃
横浜貿易の輸入品目の中で、長州征伐前後の元治元年(1864)以降は、幕府や諸藩が争うように兵器を購入するので、小銃の需要は高まるばかりで輸入量はうなぎ登りに増えます。
1864年、11568挺で約12万ドル
1865年 56843挺で約85万ドルへ
と数量で四倍、輸入額で7倍の急激な増加ぶりです。ここには戊辰戦争の接近を感じて各藩の準備が進んでいたことがうかがわれます。
 戊辰戦争突入寸前の小銃の国際マーケットでの評価は、次のようなものでした。
①最も旧式ゲベール銃クラスは、ただ同然でも良いから欧米諸国は売り払いたかった。
②南北戦争終了後、不要なエンフィールド銃を大量に持つ米国は大口の購入先を探していた。
③新型後装式銃は、スナイドル=薩長、シャスポー=幕府、のルートで情報を保有。
④最新式小銃は先覚的諸藩のみ情報を把握して購入を模索していた。佐賀藩入手
 極東の小国日本の動乱は「死の商人=武器輸出業者」にとって旧式銃器、余剰銃器の供給先として注目を集めます。欧米では余った銃器が、ミニエー銃18両、エンフィールド銃が40両、旧式のゲベール銃でさえ5両で売れたのです。
1ミニエー銃FAGUN0002

 ミニエー銃(後込・ライフル)
 新旧取り混ぜての世界中からの銃器の売り込みを前にして、諸藩指導者の見識レベルが大きく作用します。火縄銃とそう変わらない①の1670年のフランスで開発された旧態依然たるゲベール銃を安価で購入して主力装備とした諸藩もあれば、最新鋭の④のスペンサー銃を装備したのが佐賀鍋島藩です。その結果、戊辰戦争は戦国時代以来の火縄銃から旧式のゲベール銃、普及型のミニエー、スプリングフィールド、エンフィールド銃、新型のスナイドル、ドライゼ、シャスポー銃、加えるに最新型のスペンサー銃まで世界中の「新旧小銃の試験場」となったと研究者は指摘します。

1戊辰戦争『会津藩使用 イギリス製 エンフィールド・ミニエ
 鳥羽伏見の戦いの段階では、佐幕派の会津藩はミニエー銃を薩長両藩はミニエー銃の英国バージョンのエンフィールド銃を主として戦っています。双方の小銃共に②の先込式ライフル銃なので銃器の性能的には大差が無かったようです。
1スペンサー銃
最新式のスペンサー銃
多度津藩が買付けたのはフランスのミニエー小銃、ゲエベル小銃、ヤアゲル小銃、カラパン小銃、ピストルなどだったようです。
小銃一挺当り価格は一丁13~15ドルで輸入されたものを、多度津藩では伊勢屋から21ドルで買入れています。仲買の伊勢屋の利益は、一丁につき5ドル前後となります。当時の1ドルは、大まかに計算すると約1両になるようです。 
慶応二年(1866)における小銃買付けの詳細を、富井家文書でみてみましょう
 慶応二年九月 横浜御用元払算用帳
   元
十二月四日 一金百両 大納戸占請取之
同 十四日 一金干両 右同断
   渡
十二月四日 一金弐拾五両 六連砲 いせ彦次郎渡、
       役所二而渡
 同 八日 一金四拾両  右同断 同人渡、
       野毛三浦屋二而
       一金拾両   右同断 同人宅二而
 同 十日 一金弐拾五両 右同断 役所二而渡
  金百両  壱丁二十一ドル ドル相場四拾五匁五厘、
       代金拾六両として七分五厘負ヶ
       金九百六拾両、小銃六拾挺代金壱丁廿壱ドル
       洋銀弐百六拾匁
       内金五拾両 万延四年二而百両之内立用引
    差引 金九百両 野毛広島屋二而彦次郎渡候、
       但シ金拾両渡シ、不足明算用
 同十一日  トル四拾六匁弐分二厘
       一金五拾両 引落 六連砲五挺代之内渡
卯正月十一日 右同断 彦次郎 書付文
 同 十三日 右同断 同人渡 同断
     〆金手八拾両 渡
  小銃代金
五月十八日 一金三拾両       いせ屋彦次郎
       但シ岩四郎引受之証文入渡
       正 月  一金三拾両      前々年代金
       一金弐拾五両     彦次郎渡
       一金七百七拾壱両三歩 同人渡
          〆金八百弐拾六両三歩 渡
     一金百四拾両壱歩壱朱弐匁弐分五厘
惣都合 金九百七拾壱両壱朱弐匁弐歩五厘
 この史料からは、
①慶応二年(1866年)9月に藩の大納戸役から1100両が支出
②横浜で小銃60挺と12挺の六連砲を買付
③「金九百六拾両、小銃六拾挺 」とありますから、小銃は60丁はで960両ですから1挺=1 6両=21ドルで購入しています。
④伊勢屋彦次郎を主とする貿易商に1080両支払
 多度津藩と小銃の取引きをしていた伊勢屋彦次郎は、伊勢の松坂に本店をもつ伊勢屋の江戸店の支店のようです。伊勢屋はこの小銃取引きで、総額で420ドル余の純益をあげた勘定になります。一挺あたりにすると約5ドルです。

1普仏戦争 M1866 歩兵銃
 小銃買付資金を、多度津藩はどのように捻出したのでしょうか?
 この時の60丁の買付でも千両の資金が必要でした。多度津藩の天保年間の『積帳』によると、この千両は藩予算の支出総額の30~35%に当たります。平時に置いては「異常な比重」であり、まさに戦時軍事予算と考えざるを得ません。1万石の小藩の財政状況では、出せるお金ではありません。
 しかし、多度津藩には陣屋や新港建設の際の資金集金のノウハウがありました。領民への小銃買付のための上納金を拠出依頼です。これに応じて多額の上納金を納めているのが次のメンバーです。
米屋七右衛門、大隈屋宇右衛門、浜蔵屋四郎兵衛、高見屋平次郎、島屋孫兵衛、綿屋林蔵、舛屋助右衛門、大黒屋調兵衛、松屋三四郎、浜田屋仁兵衛、福島屋平十郎、野田屋伝左衛門、舛屋彦兵衛、梶屋忠兵衛、戎屋弥平、紀伊国屋発右衛門、大和屋嘉蔵、島屋徳次郎、角屋定蔵、松島屋弥兵衛、土屋嘉兵衛、松本屋常蔵、柳井屋治左衛門
 彼らは城下の回船問屋をはじめ、干鰯問屋などの「商業資本」層で、陣屋や新港建設でも資金調達マシーンの役割を果たし、「多度津新港建設後の経済発展」の恩恵を最も受けていた階層です。この中に後に「多度津の七福人」と呼ばれ、鉄道・電力・銀行などの讃岐の近代化のトレッガーに成長していく人たちの名前も見られるようです。
 新港建設で経済的な成長を果たしていた彼らは、藩の求めに応じたのです。このような多度津の商業資本の成長と経済力があってこそ、小銃の購入資金は調達できたのでしょう。
小藩の藩主高典が、なぜ積極的に軍備の近代化を推し進めたのでしょうか?
多度津藩の積極的な兵制改革は、藩政に対する「宗藩」丸亀藩のきびしい干渉や制約からの自立をめざすための「富国強兵策」として推進されたのではないかと研究者は考えているようです。「外圧」を利用することによって、
①慢性的藩財政の窮乏を克服するための財源を得、
②農村荒廃による石高・身分制原理の引締めをめざそうとする
ここには、「外圧に対する危機感」を背景に藩論を統一し、兵制改革に突破口を見出そうとする藩主高典もくろみがあったのかもしれません。また、多度津藩は①陣屋建設 → ②大規模新港建設というビッグイヴェントを、官民総出でやり遂げてきた実績とノウハウをもっていました。その経験を生かして「軍備の近代化」という目標を掲げて藩論を統一していくというのは、ある意味で実現可能な政策のようにも思えます。どちらにせよ、多度津藩は身丈に合わない軍事力を持ち明治維新を切り開く現場に官軍の一員として立ったのです。これが戦後の明治維新において、高松藩や丸亀藩よりも有利な座を占めることにつながります。



多度津藩歴代藩主系図
多度津京極藩系図

多度津藩は元禄七年(1694)に丸亀藩から独立します。

しかし、自前の陣屋を持つことはなく、丸亀城の西屋敷に「間借り」して政務が行われるという状態が百年近く続きます。
丸亀城 大手町居住者19jpg
現在の丸亀裁判所付近に①林求馬の屋敷 ②御用所(政庁)があったことを示す絵図。

間借り状態では、藩運営も丸亀藩のしきたり通り行うのが常道とされていました。
 ところが寛政八年(1796)に21歳の四代高賢が家督を継ぐと藩の空気が変わっていきます。まず林求馬時重が家老に就任します。彼は、30歳前の働き盛りで藩政の改善、自立化を進めようとします。 その第一が藩主の居館と政庁を多度津に移すことでした。
 林は、お城ではなく伊予西条藩のような陣屋を多度津に新たに建設する案を、丸亀藩の重役方藩や同僚の反対を押して決定します。こうして陣屋建設が始まりますが、工事途中の文化五年(1808)家老の林が突然に亡くなってしまいます。建設工事は、林という推進力を失って中断してしまいました。
多度津藩陣屋跡位置図
多度津藩陣屋位置図
しかし、藩主高賢は計画をあきらめてはいませんでした。
約20年後の文政九年(1826)に工事を再開させます。工事中の多度津の陣屋御殿に移り住み、工事を見守り、推進役となります。同時に藩士にも厳しい倹約を求めたようです。陣屋建築のためには、すでに大阪の鴻池別家や京都の萬猷院から三千両の借り入れがありましたが、それでも資金は足りません。そこで藩は富商や村々の庄屋をはじめ広く領民に「陣屋御引越し」の冥加金を課します。形の上では出資者の自発性が尊重され、各人、各村は自らの資力、村の規模や家格、藩との関係や役柄を考慮しながら、最後は談合により、それぞれ出来るだけ横並びに負担額を決めたようです。
多度津陣屋配置図
多度津町内遺跡発掘調査報告書2 多度津藩陣屋施設

 実質的には、これは「献金の強制」です。しかし「多度津へ御引越し献上金」という大義名分に、領民の多くが強制と受け取らず、むしろ積極的に献金に応じたようです。人々は藩の自立を望み、その象徴として多度津の陣屋建設に期待をかけたのかもしれません。領民にとって、これまでは多度津藩に城がないことを
「多度津あん(さん)に後ろ(後頭部のふくれ)なし」
と頭の形にかけて、郡楡されてきた悔しさがその背景にあったとも伝えられます
多度津陣屋10
多度津藩陣屋

 工事が再開された文政九年の三回の献上金目録が藩日記に残されています

第一回 多度津の商家66人で計51貫500匁。
第二回 藩内町方・村方の富裕層23人で計銀100貫
第三回 一部富裕層8人の再度の献金(74貫)と藩内村方の庄屋19人(18貫)ほか これら全三回の総計は銀448貫(=7442両)と記されています。
金一両は現代感覚(賃金の比較)で今の三〇万円になると研究者は考えているようです。この年に多度津藩領民が陣屋建設に献上した総額7442両は、22億3260万円ほどになります。
多度津湛甫(たんぼ)の建設の背景と目論見は?  
18世紀後半の多度津港は、急速に発達した日本海沿岸と大坂を結ぶ瀬戸内海航路の拠点として重要性を増しつつありました。それに加えて、金比羅船が就航し庶民の間で琴平詣での人気が高まるにつれ、大阪はじめ瀬戸内海沿岸や九州各地から参詣客を運ぶ船が丸亀・多度津を目指すようになっていました。受け入れ側の港の拡充・新設が求められていたのです。
丸亀港3 福島湛甫・新堀湛甫
丸亀藩の福島湛甫と新堀

 これに最初に動いたのは、丸亀藩です。丸亀藩は、江戸で金比羅講を使って「民間資金の導入=第三者セクター方式」で、天保二年(1831)新しい船溜まり(新堀湛甫)を短期間で作り上げます。
これを追いかけるように4年後に、多度津藩も新港建設に着手します。
多度津港 陣屋建設以前?
        旧多度津港 桜川河口が港だった
 
それまでの多度津の港は、町の中心を流れる桜川の河口を利用した船溜まりにすぎませんでした。新しい港は、その西側にの崖下の海岸を長い突堤や防波堤で囲んで、深い水深と広い港内海面をもつ本格的な港の計画書が作成されます。これは丸亀藩新堀湛甫に比較すると本格的で工費も大幅にかさむことが予想されましたが、この計画案を発案したのは藩ではなく、回船問屋や肥料や油・煙草などを扱う万問屋など町の有力商人たちでした。
 前年に父に代わったばかりの20歳の新藩主・高琢は、この案に乗り気ですぐに同意したようです。この事業のために隠居していた河口久右衛門が家老に呼び戻され、采配を振うことになります。そして財務に明るい家老に次ぐご用役に小倉治郎左衛門が就き補佐する体制ができます。
「藩士宮川道祐(太右衛門)覚書」(白川武蔵)には、その経緯が次のように記されています。
そもそも、多度津の湛甫築造の発端は、当浜問家総代の高見屋平治郎・福山屋平右衛円右の両人から申請されたもので、家老河口久右衛門殿が取り次いで、藩主の許可を受けて、幕府のお留守居平井氏より公辺(幕府)御用番中へ願い出たところ、ほどよく許可が下りた。建設許可の御奉書は江戸表より急ぎ飛脚で届いた。ところがそれからが大変だった。このことを御本家様(丸亀藩)へ知らせたところ、大変機嫌がよろしくない。あれこれと難癖を言い立てられて容易には認めてはくれない。 
 家老河口氏には、大いに心配してし、何度も御本家丸亀藩の用番中まで出向いて、港築造の必要性を説明した。その結果、やっと丸亀藩の承諾が下りて、工事にとりかかることになり、各方面との打合せが始まった。運上諸役には御用係が任命され、問屋たちや総代の面々にも通達が出されたった。石工は備前の国より百太郎という者が、陣屋建設の頃から堀江村に住んでいたので、棟梁を申し付けた。その他の石工は備前より多く雇入れ、石なども取り寄せて取り掛ったのは天保五年であった。

 これより先に本家の丸亀藩は、福島湛甫を文化三年(1806)に築いています。その後の天保四年完成した新堀湛甫は東西80間、南北40間、人口15間、満潮時の深さは1文6尺です。これに対し多度津の新湛甫は、東側の突堤119間、西側の突堤74間、中央に120間の防波堤(一文字突堤)を設け、港内方106間です。これは、本家の港をしのぐ大工事で、総費用としても銀570貫(約1万両)になります。当時の多度藩の1年分の財政収入にあたる額になります。陣屋建設を行ったばかりの小藩にとっては無謀とも云える大工事です。このため家老河口久右衛門はじめ藩役人、領内庄屋の外問屋商人など総動員体制を作り上げていきます。

多度津陣屋5

 多度津新港の実現には、さまざまな困難があったようです。特に資金集めには苦労したようです。史料には次のように記されています。

それより数年長々かかり、お上に於いても余程の御物入りに相なり、大坂屋(丸亀の豪商)へも御頼み入りに相掛り候えども不承知の由にて、河口姓にも大いに心配いたされ、御同人備前下津丼へ御自分直々罷り出で、荻野屋(久兵衛)方へ御相談に及び候処、承知致され同所にて金百貫目御借入に相成る。
 然る処引き足り申さず、依って役人中御評議の上、何い取り候て、御家中一統頂戴物(俸禄)の中七歩の御引増(天引)仰せ出され、是又三か年おつづけに相成る。然る処、何分長々の事に付き出来兼ね候に付、河口姓にはかれこれ心痛に及ばれ、吉川又右衛門御代官役中に御相談になり、夫れに付き吉川氏より庄村高畠覚兵衛を呼び取り、お話合いに相なり、尚又御領分大庄屋御呼び寄せ、お話し合いの上、御頼みに相成り、これにより金百貫目御備え出来、右金にて漸く出来申し候。
久右衛門においては、湛甫一条の骨折り心配は、容らならざる儀にこれ有り候。仕上がりまで御年数十一年に及び候事。惣〆高、金五七十貫余りに相成り候。くわしくは御用処元方役所帳面に之れ有りここに略す。是れ拙者所々にて聞き取りしままをあらまし申し置き候也

 幕府認可はすぐ得られたようですが、障害は丸亀藩の理解と協力が得られなかったことです。 丸亀藩の重役たちは親藩の了承を得ずに、支藩が始めたこの計画に難色を示します。家老の河口が説得して、やっと渋々の許諾を得たと伝わります。

それに忖度してか、丸亀の豪商大坂屋は多度津藩への資金助力を断っています。そのため家老の河口は、瀬戸内海の対岸である下津井に出かけ、荻野屋久兵衛に相談して金千両(銀62)を借ります。この融資を元金に講銀を設け、多度郡15か村の庄屋たちと協議の上に、借金の返済および港建設の資金調達をめざします。
 一万石という小さな大名のうえに、陣屋新設という大事業を成し遂げたばかりの多度津藩にとって、矢継ぎ早に取り組む大規模な港建設はいささか無謀な思い上がった冒険な工事と思う人たちも多かったようです。
多度津湛甫 33
多度津湛甫

 そのうえ天保年間には全国的な気候不順が天保飢饉を引き起こし、世の中は大塩平八郎の乱のように政情不安が広がった時期です。讃岐でも米価の高騰や買占めに抗議して各地で一揆や打ち壊しが起こっています。多度津でも一揆や、干水害のため被害が広がります  このような緊迫した情勢下で、百姓にまで負担を負わす新港建設資金集めの難しさを関係者はよく分かっていたようです。藩が強制的に取り立てるというよりも、地主や大商人層と協議を重ねながら協力体制を築いて、資金を出してもらうというソフトな対応に心がけてます。 
多度津湛甫 3

どのようにして多度津藩は資金を集めたのか?  
 幕末が近づくにつれて年貢に頼る藩財政は、行き詰まってきます。陣屋や新港建なども藩の独自事業としてはやって行けないことを、町の有力商人や村方の地主層は初めから良く知っていたようです。だから「陣屋御引越し」の時のように、民間金融組織としての講をつくって対応しようとしたのです。逆に見ると幕藩体制の行き詰まりが、はっきり見て取れます。

1965年頃の多度津

 天保六年(1835)に発足した「御講」は、村ごとに一口銀一八〇匁(=金三両)で加入者を募りました。大商人や地主などは一口以上、多数の庶民は一口を細かく分割し共同で引き受けるようにされています。この年十一月末に、各村が引き受けた口数と納入掛金額が届け出順に記されています。   
庄村   十九口半    銀三貫四二十匁   
三井村  十六口三厘   銀二貫百三十二匁
多度津  百二十一口   銀二十一貫八百七十匁
堀江村   五口九歩   銀一貫六十四匁四分   
北鴨村   九口九歩   銀一貫七百八十二匁   
南鴨村  十一口二分四厘 銀二貫二十四匁七分
葛原村  二十九口九歩厘 銀五貫三百九十四匁六歩   
道福寺村 十六口半     二貫九百七十匁   
碑殿村  二十二口     三貫七百二十匁   
山階村  三十九口八厘   七貫三十六匁   
青木村  十五口九歩三厘  二貫八百六十七匁四分   
東白方村 十八口三歩五厘  三貫三百三匁   
西白方村 十三口九歩九厘  二貫五十八匁   
奥白方村 九口三歩     一貫六百七十四匁   
新町村  半口         九十匁    
計    347口7歩9厘6毛 62貫603匁3分

この額は、最初に下津井の荻野屋から借りた元金総額と同額になります。こうして、講銀取立ては天保六年秋より始まり、同七年秋から十四年正月まで春秋二期ごとに、利銀を含めて春季分二〇七貫余、秋季分三五七貫、計五六〇貫(九二九六両)を上納しています。 湛甫建設出費は一万両を超えていたようです。この費用の大部分を負担したのは領民で、各村の負担口数はおおむね村の戸数に応じて配分されたことが分かります。
porttadotsu多度津

湛甫建設工事は天保五年に始まり、4年後に竣工します。

丸亀の新堀湛甫が一年余の工事で、工費も2千両余だったのに比べると、その額は5倍にもなり、いかに大工事だったかが分かります。海中に東突堤(242メートル)、西突堤(三面メートル)、中央に一文字突堤(218メートル)、港内面積(5,6ヘクタール)、水深(7メートル)の港は四国一の港で、この港が明治以後も機能して多度津の近代化のために大きな役割を果たすことになります。建設に先頭に立って尽力した家老河口は、10年余の心労のために工事完成後間もなく病のために64歳で亡くなっています。
大正頃の多度津港
湛甫の完成後に多度津港を利用する船は増え、港も栄えた。  
多度津港に立ち寄る船の主力は、松前(北海道)からの海産物とその見返りに内地産の酒や雑貨・衣料を運ぶ千石船や北前船でした。それに加えて、西国からの琴平詣での金比羅船も殺到するようになります。深い港は、大型船が入港することもできるために、幕末にはイギリスや佐賀藩、幕府の蒸気船が相次いで入港し、多度津港は瀬戸内海随一の良港としての名声を高めていきます。これに伴い町の商売も繁盛し、特に松前からもたらされる鰯や地元産の砂糖・綿・油等を商う問屋は数十軒を超え、港に近い街路は船宿や旅人相手の小店でにぎわいます。
巨費かけて完成させた湛甫建設は、藩の財政にも寄与することになります。
多度津藩は、港での魚介取引を専売制にして、取引量に応じて魚方口銀をとっていました。また入港する船から、船の大きさに応じて「帆別銀」などを徴収していましたが、これら港関係の収入は今後の増収を期待できる数少ない財源でした。ちなみに天保10年(1839)の多度津藩「亥の年御積帳(予算表)」(『香川県史9 近世史料I』)を見ると、
年貢収入6903石 - 家臣への俸禄3908石 =他の支出用 約3000石
これと諸銀納収入を合わせても、俸禄以外の年間諸支出に当てられる予算は641(10256両)しかありませんでした。
多度津港7
 一万石の支藩多度津が親藩丸亀から自立し、その意向に逆らって丸亀の新港をしのぐ大きな港を建設し、自立と繁栄の道を歩み始めます。これに対して丸亀藩の重役達は、「分を過ぎた振る舞い」と厳しい態度を見せるようになります。湛甫完成直後の天保九年(1838)八月、この事業の指導者である小倉治郎左衛門を無理矢理隠居に追い込みます。これは、彼が事前に丸亀にはからず幕府から工事認可を得たことへの親藩重臣の抗議に多度津藩主が屈したためだったと言われます。これをきっかけに本家と分家の間の連絡事項が細かく取り決められます、例えば、丸亀藩主の江戸への出府や帰藩のたびごと、多度津の主だった藩士がわざわざ丸亀まで送迎に出向かねばならなかったほどでした。
多度津港3
しかし、多度津藩は強(したた)かでした 。
 陣屋・多度津新港に続いて、多度津藩は自立のための次の手段として「国防強化のため兵制の近代化」に取り組み始めるのです。 それは、また次回に 

 参考文献 多度津町史     
      木谷勤 讃岐の一富農の300年 
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