瀬戸の島から

タグ:庚申塔

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三好市三野町田野々の庚申塔
阿波のソラの集落のお堂めぐりをしていると、必ず出会うのが庚申塔です。
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田野々の集落を見下ろす岡の上に建つ庚申塔
庚申塔には、いろいろな姿の青面金剛像や三猿が彫られていて、見ていて楽しくなります。だんだんと庚申塔に出会うのも楽しみになってきました。
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青面金剛が彫られた庚申塔(田野々)
ソラの集落では、お堂の近くに庚申塔が残ります。これは江戸時代後半頃から明治頃に流行した庚申信仰の痕跡のようです。

地域の相互扶助に根付いた庚申信仰 0982アーカイブ(2016・2月) | 0982株式会社・0982charmer
「庚申祭者名簿」(庚申講のメンバー)

集落の信者たちが「庚申講」を組織して、60日に一度の庚申待ちをお堂で行っていたことを示します。そして彼らが庚申塔を建てたのです。それが流行神としてもっとも盛んになるのが幕末期のようです。そこで、今回は改めて庚申信仰と庚申塔、そして青面金剛について、見ていきたいと思います。テキストは「五来重 石の文化」です。

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 なぜ「庚申待」をするかについては、道教の立場から「三尸虫説」が説かれてきました。                 
  
庚申信仰 三戸虫
三尸虫

人間の体には三尸虫というものが潜んでいて、それが庚申の夜には人間が寝ている間に、身体をぬけ出し天に上り、その宿り主の60日間の行動を天帝に報告する。そうするとたいていの人間は天帝の罰をうける。
庚申待2
庚申待のいわれ
そこで寝ずに起きいれば、三尸虫は抜け出せない。そのためには講を作って、一晩中、話をしたり歌をうたったりしているのがよいということになります。この種の庚申待は、祀るべき神も仏もないので「庚申を守る」・「守庚申」と云われました。話だけでも退屈するので詩や歌をつくり、管弦の遊びもします。俗に「長話は庚中の晩」とも云われるようになります。

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江戸時代の町方のでの庚申待の様子。真剣に祈っているのは2人だけ
 町方の富裕層の間では中国からの流行神の影響を受けて、60日に一度徹夜で夜を明かすことが広がったこと、そして後には、宗教行事でも何でもなく、ご馳走食べての夜更かし、長話の口実になったようです。確かに町方では、そうだったかもしれません。
 しかし、この説明ではソラの村での庚申信仰の広がりや熱心な信仰の姿を説明しきれません。

『女庭訓宝文庫』より「庚申待ちの事」

これに対して庶民信仰の「荒魂の祭」で「祖神祭りの変形」という視点から五来重氏は次のように捉えます。
 もともと古代から日待(ひまち)や月待(月待ち)の徹夜の祭が、庶民の間にはありました。
①日の出を待って夜明かしする行事を「日待」、
②決まった月齢の夜に集まり、月の出を拝む行事を「月待」
それを修験者たちは庚申待に「再編成」していきます。「日待・月待」が「庚申待」に姿を変えていく過程には、先祖の荒魂をまつる「荒神」祭が前提としてあったこと。それが「荒神 → 庚申」へと転化されること。
太田記念美術館 Ota Memorial Museum of Art on Twitter:  "新型コロナウイルスの拡大防止を祈念して、葛飾北斎が20代後半に描いた珍しい仏画をご紹介。青面金剛という庚申信仰のご本尊。病魔や病鬼を除く力があるとされています。下には、見ざる言わざる聞かざるの三猿が  ...
青面金剛(太田記念美術館)
そして、最後に庚申待の神を仏教化して、忿怒形の青面金剛として登場させます。


「日待」「月待」は、もともとはなんだったのでしょうか?
日待は農耕の守護神として正月・5月・9月に太陽を祀っていました。これが後になると伊勢大神宮の天照皇大神をまつるようになります。夜中に祭をするというのは、太陽の祭ではなくて祖霊の荒魂の祭であったことを示します。月待ちで7月23日に夜の月をまつるのもお盆の魂祭の一部で、荒魂の祭で、夜待(夜祀り)です。

 庚申待が先祖祭の痕跡を残すのは、一つには庚申待には墓に塔婆を立てたり、念仏をしたりすることからうかがえます。これが庚申念仏といわれるもので、信州などでは庚申講と念仏講は一つになり、葬式組の機能もはたしているようです。

庚申講の祭壇(長野県)
庚申講は、どんな風に行われていたのでしょうか。
 庚申講の流れを、見ておきましょう。
①庚申の晩に宿になった家は、庚申の掛軸(青面金剛)を本尊として南向きに祭壇をかざり、数珠やお経を出し、御馳走をこしらえて講員を待ちます。
②全員が集まると御馳走を頂戴してから、水や椋の葉で体をきよめます。
③それから講宿主人の「先達」で般若心経を読んでから「庚申真言」
(オンーコウシンーコウシンメイーマイタリーマイタリヤーソワカ)
を108回唱えます。
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唱えるときには、立ち上かってからしやがんで、額を畳につける礼拝をくりかえします。これは、六十日間の罪穢れを懺悔する意味があるとされます。これは大変なので後には、一人の羽織を天井から紐で吊り下げておいて、これを引いて上下させ、礼拝に代えるようになります。しかし、どこの庚申帚でも、この「拝み」があったようです。これは庚申本尊(青面金剛)に懺悔することによって、災いから護ってもらえると信じたからでしょう。

青面金剛1
祭壇正面に掲げられる青面金剛
 庚申塔の説明
庚申塔の青面金剛と構成要素
これは先祖祭の精進潔斎にも共通するものです。もともと祖先の荒魂に懺悔してその加護を祈っていました。それが「荒魂→荒神」として祀るようになります。さにこれを山伏が「荒神(こうじん)→ 庚申(こうしん)」として、修験道的な青面金剛童子に代えたと研究者は考えているようです。
流山三町物語散策➂ : 漫歩人の戯言

 流山三町物語散策➂ : 漫歩人の戯言

最後に「申上げ」として、南無阿弥陀仏の念仏を21回ずつ3度となえます。念仏を唱えることに研究者は注目します。
これは念仏行者や聖などの修験者による「念仏布教の成果」ともとれます。中世後半には霊山と呼ばれる寺社には、多くの高野聖や修験者(山伏)など野念仏聖が庵を構えて住み着き、そこを拠点にお札配布などの布教活動を展開していたことは以前にお話ししました。阿波の高越山や、讃岐の弥谷寺などはその代表でしょう。伊予新宮の熊野神社や仙龍寺や三角寺などを拠点とする修験者たちもそうだったかもしれません。修験者たちが庚申信仰をソラの集落に持込み、庚申講を組織し、その信仰拠点としてお堂を整備していく原動力になったのではないかと、私は考えています。それを阿波では蜂須賀藩が支援した節があります。つまり、ソラの集落に今に残るお堂と、庚申塔は修験者たちの活動痕跡であり、テリトリーを示すのではないかという思いです。
論集 古今和歌集(和歌文学会 編) / 古書かんたんむ / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋
庚申講と念仏の関係を報告した書
また、庚申講で念仏が唱えられる意味は、念仏講が庚申講が結合したことを示しています。
これによって庚申講は遠い先祖と近い祖霊の両方を祀ることになります。1年に庚申の日はだいたい6回まわってきますが、十数年に一度、7回庚申の日がまわってくる年があります。この年を「七庚申」と呼ぶようです。七庚申年を迎えると念仏によって供養された祖霊が、神になったことをしめすために、「弔い切り塔婆」である庚申塔婆が建てられるようになります。「弔い切り(上げ)」というのは、年忌年忌の仏教の供養によって浄化された霊は、三十三年忌で神になり、それ以後は仏教の「弔い」を受けないという庶民信仰です。
 これと庚申塔出現の過程を簡単にまとめておきます。
①神になった祖霊神は、神道式のヒモロギ(常磐木の梢と皮のついたままの枝)で祀られる。
②これを仏教や修験道は塔婆と呼び、庚申塔婆へと変化する
③やがて塔婆は「板碑」(いたび)になり、これに青面金剛が浮彫された庚申石塔が登場する。
簡略化すると次のようになるのでしょうか。
「ヒモロギ → 塔婆 → 庚申塔婆 → 板碑 → 青面金剛の庚申塔」

庚申信仰が庶民に広く、深く浸透していった背景を見ていきました。
そこには念仏聖や高野聖などの修験者の存在が浮かび上がってきます。
それを五来重氏は「石の文化」の中で、次のようにも記します。

 庚申待は、庶民信仰の同族祖霊祭が夜中におこなわわていたところに、道教の三尸虫説による守庚申が結合して、徹夜をする祭になった。そして、この祭りにはもとは庚中神(実は祖霊)の依代(よりしろ)として、ヒモロギの常磐本の枝を立てたのが庚申塔婆としてのこったのです。これがもし三尺虫の守庚申なら、庚申塔婆を収てる理由がない。しかしこの庚申塔婆も塔婆というのは仏教が結合したからで、庶民信仰のヒモロギが石造化した場合は自然石文字碑になり、仏教化した塔婆が石造化した場合は、青面金剛を書いた板碑形庚申塔になったものと、私は理解している。
そして、庚申信仰を次のように捉えます。
①庚申信仰は、仏教でも神道でも道教でもない素朴な庶民信仰を基盤に持つ。
②庚申信仰は修験道を媒介として、仏教、神道、陰陽道に結合する
③修験道は、庚申信仰の神をまつるのに、仏教も神道も道教も混合して、すこしも嫌わない
④庚申信仰の青面金剛や庚申真言も山伏がをつくりあげた。

以上からすると、ソラの集落に残る庚申塔は、修験者(山伏)たちによって広げられたということになります。『修験宗神道神社印信』にも、次のように記します。
庚申待大事 無所不至印
ヲツコシンレイコシンレイ マイタリ マイタリ ソワカ
諸行無常 是生滅法 生滅滅已 寂滅為楽
摩利支天印 宝瓶印
ヲンマリシエイ ソワカ                 
各地の庚申講では、この印信を受けている所が多いようです。これは、山伏がもたらしたものであることが分かります。ここからも庚申信仰を村々に担ってきたのが山伏たちであることが裏付けられます。

踊り念仏の風流化と勧進聖 | 大森 惠子 |本 | 通販 | Amazon

庶民の願いである「現世利益と来世安楽・祖先供養」などを、受け止めたのが、聖だったのかもしれません。彼らは、祈祷や念仏や踊りや和讃とともに、お札をくばるスタイルを作り出します。弘法大師師のお札を本尊に大師講を開いてきた村落は四国には数多くあります。また、高野聖は念仏札や引導袈裟を、持って歩いていました。ここからは、庶民信仰としての弘法大師信仰をひろめたのが高野聖であったことが分かります。庚申信仰も、彼らが組織していったことがうかがえます。
二所山神力院史 | 研究成果一覧 | 長岡造形大学 卒業・修了研究展

高野聖と里山伏は非常に近い存在でした。
修験者のなかで、村里に住み着いた修験者のことを里山伏または末派山伏(里修験)と言います。村々の鎮守社や勧請社などの司祭者となり、拝み屋となって妻子を養い、田畑を耕し、あるいは細工師となり、鉱山の開発に携わる者もいました。そのため、江戸時代に建立された石塔には導師として、その土地の修験院の名が刻まれたものがソラの集落には残ります。
 また、高野聖が修験道を学び修験者となり、村々の神社の別当職を兼ねる社僧になっている例は、数多く報告されています。近世の庶民信仰の担当者は、寺院の僧侶よりも高野聖や山伏だったとする研究者も数多くいます。ソラの集落の信仰には、里山伏(修験者)たちが大きな役割を果たし、庚申講も彼らによって組織されたとしておきます。
 しかし、解けない謎はまだあります。阿波のソラの集落にはお堂があり、そこで庚申待ちが行われ、庚申塔が数多く見られます。ところが讃岐の里の集落にはお堂も、庚申塔もあまりありません。庚申信仰の痕跡が余り見られないのです。これはどうしてなのでしょうか?
庚申信仰が庶民に流行するのは、江戸時代後期になってからです。それをもたらしたのは修験者(山伏)でした。そこで、私は次の2つの背景を考えています。
①阿波では高越山・箸蔵山など修験者勢力が強かった。
②讃岐が浄土真宗王国となり、修験者たちの活動が制限された。
讃岐では真宗興正寺派のお寺が多く、活発な活動を展開します。真宗は「鬼神信ずるべからず」という方針を打ち出すので、庚申さまの信者となることは排斥されたことが考えられます。つまり熱心な真宗信者は、庚申信仰を受けいれなかったという説です。
そんなことを考えながらのソラの集落への原付ツーリングは続きます。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献      五来重 石の文化
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伊予新宮上村のハゼ
 熊野行者の痕跡と庚申塔を求めて、阿波山城から伊予新宮へのソラの集落めぐりを続けています。その中で出会った新宮の木造校舎を2つ紹介したいと思います。ひとつは、四国中央市新宮町上山の安楽寺を目指せして原付スクーターを走らせていた時に出会った校舎です。
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           伊予新宮上村の寺内
あじさいの里から天日川沿いに森を抜けて行くと、棚田が現れ、収穫の終わった稲藁が「ハゼ」にして干されています。コンバインで刈り取ってしまう中では、もう見られなくなった風景がありました。すこしワクワクしながら坂を登ると、突然現れたのがこの建物です。
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旧寺内小学校
門碑には「寺内小学校」とあります。安楽寺の「寺内」という名称なのでしょう。バイクを下りて、運動場から拝見させていただきます。

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旧寺内小学校
石垣の上に赤い屋根の校舎が長く伸びます。教室が6つあるようなので、1年生から6年生の教室が一列に並んでいるようです。里山の緑と赤い屋根がよく似合います。
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旧寺内小学校
正面に廻ってみます。校舎のすぐ裏側を町道が抜けています。
はい忘れ物やで、と母親が道路側の窓から忘れ物を渡すようなシーンが思いかびます。
グーグルで見ると「新宮少年の家 寺内分館」と記されています。今は、少年の家の施設として使われているようです。手入れも行き届いています。
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こんな素敵な雰囲気の中に身を置いていると、ここで子ども達が元気に活動していた頃のことを、想像せずにはいられません。しばし、いつものようにボケーとしていました。
ここを訪ねたのは、この上にある安楽寺にお参りするためです。
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安楽寺
山門の向こうに本堂が見えます。
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安楽寺本堂
近づいて気づいたのは、軒下に一面の彫刻があることです。何が彫られているのでしょうか?お参りを済ませた後に、拝見させていただきます。
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軒下に彫られた雲龍

龍と雲です。四方の軒下を龍がうねっているのです。
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東側軒下
ゆっくりと四方をめぐって、龍の動きを見ます。
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正面
宮大工の真剣さと遊び心が随所に感じられます。この時の宮大工は、楽しみながら彫っているのもよくわかります。腕が進みすぎて怖かったのではないでしょうか。
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説明版を見てみると、幕末の作品のようです。住職からの依頼に応えたのか、自ら申し出て住職が快よく許したのか、持てる力を存分に発揮しています。決して精緻で技術的に高いとは云えないかも知れませんが、その表現意欲は伝わってきます。見ていて気持ちのいい作品です。こんな思いもかけない「宝物」に出会えるので、ソラの集落の寺社めぐりは止められません。縁台に腰掛けて、のんびりと雲龍を眺めてポットに入れたお茶を飲みます。私にとっての「豊かな時」です。

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さて、本来の業務に戻ります。庚申塔捜しです。本堂の前には、いくつものお地蔵さんなどの石仏が並んでいます。しかし、ここにはありません。
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本堂前の庚申塔(一番右側)

ありました。境内の一番外れになります。
庚申塔の説明
庚申塔
庚申塔は、青面金剛が三猿の上に立つ姿が刻まれています。
 青面金剛が邪鬼を踏みつけ、六臂で法輪・弓・矢・剣・錫杖・ショケラ(人間)を持つ忿怒相で、頭髪の間で蛇がとぐろを巻いていたり、手や足に巻き付いています。また、どくろを首や胸に掛けたりもします。彩色される時は、青い肌に塗られます。青は、釈迦の前世に関係しているとされます。そして青面金剛の下には「見ざる、言わざる、聞かざる」の三猿像がいます。

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安楽寺の庚申塔

 庚申塔があるということは、ここで庚申の夜に、寝ないで夜を明かす庚申待が行われていたことになります。60日に一度訪れる庚申の日に、集落の人達が庚申待をおこなっていた証です。今は、地蔵さんに主役を奪われていますが、2ヶ月に一度やって来る庚申待は、集落にとっては大きな意味のある行事でした。ここで光明真言が何千回も唱えられ、その後にいろいろなことが語られ、噂話や昔話なども伝わっていったのです。

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隣の泉田集落の庚申塔

 この庚申信仰をソラの集落に広げたのが修験者たちだったと、私は考えています。
修験者たちは、庚申講を組織し、庚申の日にはお堂に集い光明真言を唱える集会をリードすることを通じて、集落そのものを自分の「かすみ(テリトリー)」としていきます。こうして修験者たちの密度が高かった西阿波や伊予宇摩地方は、今でもお堂が残り、その傍らに庚申塔も立っていることが多いのです。安楽寺にも庚申塔はありました。
 では、讃岐ではお堂や庚申塔をあまり見かけないのはどうしてでしょうか?
それは浄土真宗の広がりと関係あると私は思っています。浄土真宗は、他力本願のもと六寺名号を唱えることを主眼としますので、庚申待などは「邪教」として排除されます。江戸時代になって、寺院制度が固まってくると、浄土真宗の教えが民衆レベルにまで広まるにつれて、讃岐では庚申信仰は衰退したと私は考えています。
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安楽寺の隣の茎室神社
安楽寺の隣には、大きな銀杏と拝殿が見えます。道一つ挟んで神社が鎮座しています。
立派な拝殿です。後にまわりこんで社殿にお参りします。

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近代以後のものでしょうが、手の込んだ細工が施されています。社殿の周囲にはいくつかの小さな摂社が並びます。

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この神社と安楽寺の今に至る経過を、私は次のように推測します。
①吉野川沿いに張り込んだ熊野行者が、この周辺の行場で修行を行い、定着してお堂を構えた。
②谷川の水量が豊かな土地が開かれ、そこに神社が勧進され、周辺の郷社へ成長した。
③有力な修験者が村から招かれ、安楽寺が建立され、神社の管理も行う神仏混淆体制が形成された。
④安楽寺の歴代住職は密教系修験者で、「熊野信仰+修験道+弘法大師信仰」の持ち主でもあった。
⑤彼らは代々、三角寺や雲辺寺、萩原寺などの密教系寺院とのつながりを保ち、大般若経写経などにも関わっていた。

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こんなことを考えながら「寺内」の里を離れました。岡の上から振り返ると、お寺と神社と学校が合わさった場所であることが分かります。小学校をどこに建てるのかは、地元の関心が高く政治問題化します。その中で宗教的・文化的な地域のセンターであった寺内が選ばれたのでしょう。郷社的な地域の中核寺院のそばに小学校が建てられているというパターンは、ソラの集落ではよく見かける光景です。
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寺内地区の上は、茶畑と白壁の家
 これで寺内ともお別れだと思っていると、もうひとつ驚きが用意されていました。
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泉田の高灯籠
目の前に現れたのがこの建物です。まるで燈台のようです。今まで見てきたソラの灯籠の中では、最大のものです。どうして、ここにこんな大きな灯籠が作られ、灯りを灯したのでしょうか。それは、ソラの集落の燈台の役割を果たしたのではないでしょうか。寺内はお寺があり、神社のあるところですが谷状になっていて、外からはよく見えません。
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泉田からの眺望
しかし、ここは尾根の先端部で周囲からはよく見えます。「心の支えとなるお寺と寺院があるのは、あの方向だ、灯りが今日も灯った、神と仏に感謝して合掌」という信仰が自然と湧いてきたのかもしれません。

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泉田の棚田

 ちなみにこの上には、和泉集落のお堂があり、庚申塔もありました。泉田集落の人々の心を照す燈台だったのかも知れません。
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ここにも刈り入れを終えたばかりの藁束が吊されていました。
こんなことを繰り返しながらソラ集落めぐりを原付バイクで行っている今日この頃です。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
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西阿波の庚申塔には、何が彫られているの?

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天空(ソラ)の集落を訪ねていると、お堂は集落の聖地であり、念仏踊りなどもここで行なわれるなど文化センターでもあったことが分かる。

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端山巡礼第80番観音堂
端山巡礼第80番観音堂にやって来た。
半田から落合峠を経て祖谷に入っていく街道沿いにあるお堂だ。
お堂の前にはカゴノキの巨樹が木陰を作っている。
旅人達の休息所だったことが想像できる。

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        端山巡礼第80番観音堂の庚申塔
その巨樹の前には庚申塔が建っている。

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建立は天保3年9月吉日。シーボルト事件が発覚し、伊勢のお陰参りが大流行した頃だ。200年近く前のものだが、朱で彩られた文字がくっきりと残る。
「光明真言三百万遍」
と読める。
「光明真言」とは、お四国巡りの際などに、般若心経の最後に唱える
「おん あぼきゃ べいろしゃのう まかぼだら まに はんどま じんばら はらはりたや うん」

という呪文のような真言のことである。これを、三百万回も唱え終えたことを記念として建立された記念碑ということになる。
旅行く人たちは驚きの気持ちで、これを見上げたのではないか。
そして、建てた地元の人たちは誇らしげに感じたのではないか。

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穴吹の口山の猪滝堂
こちらは穴吹の口山の猪滝堂。
ここにも真言百万遍の庚申塔が建っている。

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こちらは江戸末期の嘉永年間 なんと三百万回だ。

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そして西阿波で最高回数は・・・これ
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なんと七百万回と刻まれている。
最大の大きさのものは、加茂町にある。
誰が? どこで? いつ? 光明真言を唱えたのか。
 日本に伝えられた道教の教えで、
「人の体の中には3匹の虫がいる。
1つは頭の中に居て彭■(ほうきょ)と言い、首から上の病気をおこす。
2つめは彭質(ほうしつ)と言い、腹の中にいて五臓を病気にする。
3つめは足にいて彭矯(ほうきょう)と言い、人を淫乱にする。
これを三尸(さんし)の虫と言い、庚申の夜に人が眠ると人体から抜け出て天にのぼり、その人の犯した罪過を天帝に報告して、その人の生命を縮める。
そのため
「庚申の夜に身を慎み徹夜すると虫が人体から抜け出すことができない。」
と言われ、庚申の夜には眠らずに「守庚申」(まもりこうしん)が行われるようになった。

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 阿波の人々が盛んに、講を組織し庚申待を行うようになるのは江戸時代後期になってからだ。

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 こんな姿を刻んだ庚申塔も現れるようになる。青面金剛だ。
「一身四手で、左の上手には三股、下手には棒を、
右の上手の掌には宝輪、下手には羂索をもつ。
身体は青色で口を大きく開き、目は血のように赤く三眼である。
髪はほのおのように聳立しどくろをいただいている。
両足の下には二鬼をふんでいる。本尊の左右には香炉をもった青衣の童子が一人づつ待立し、また右側にはほこ、刀、索をもつ赤黄の二薬叉(やしや)が立っている」
庚申塔の説明

青面金剛はもと「病を流行らせる悪鬼」だが、改心して「病を駆逐する善神」に変化した。
やがて、

「三尸虫を封じ込める」→「力づくで病魔を駆逐してくれる神様」
 として、庚申の本尊に採用された。
  西阿波では、青面金剛が彫られた庚申塔が多い。
庚申塔(こうしんとう)って何:目黒区公式ホームページ

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 申(さる)は干支で、猿に例えられるから「見ざる、言わざる、聞かざる」の三猿を彫り、村の名前や庚申講員の氏名を記したものも多い。

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 当時の人々にとって庚申の夜は、地域のニュースを交換したり生活知識を入手する唯一の場であった。一晩徹夜をするのがつらいので、飲み食いをしたり、踊ったりして信仰はそっちのけで遊びの会になってしまった講もあったようだ。

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 一方、領主側からすると細かな取締り方針の伝達の場であり、時には民情を探るための諜報(穏密情報)集収の場にも利用されたようだ。そこで人々は保身のために、庚申待で語られた御政道批判や不用意な噂ばなしなどは
「一切不見(みず)、不聞(きかず)、不言(いわず)」
を守ることが大切なことだと経験から学び、庚申塔に彫り込んだのかもしれない。

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 戦後、生活様式の変遷等と合理思想の波に洗われて、お堂も姿を消し、庚申の行事も途絶え、庚申塔はあってもその名称さえも知らない人達が多くなった。
そうしたなかで西阿波には、全国でも珍らしく庚申信仰の習俗が残存している地域があるという。 いつか見てみたい、参加してみたいという願いを持ちながらソラのお堂巡りは続く。

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