瀬戸の島から

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最初に前回にお話しした幕府の巡見使について、簡単に「復習」しておきます。
江戸幕府は将軍の代替わりごとに巡見使を派遣して民情の監察を行いました。各藩の寺社数、町数、切支丹の改め、飢人の手当、孝行人、荒地、番所、船数、名産、鉱物、古城址、酒造人数、牢屋敷等々を聴取して領主の施政を把握し、帰還後は幕政に反映するべく将軍に報告しています。
 監察は全国を8つの地域に分け、それぞれ3人1組で一斉に行われました。巡見使は千石から数千石取りの幕臣が任命さるのが通常で、1名につき数名の直属の部下と十数名の近習者、および十名を越える足軽や供回りが随行したので、30名ほどの人数になりました。それが、3名の巡見使では百人ほどの一団となり、迎える側の準備も大変でした。

 受け入れ側は事前の情報収集に努め、傷んだ道路や橋梁を修築し、必要な人足と馬匹、水夫と船舶などを揃えました。巡見使の昼休憩と宿泊には、城下や藩の施設(藩主のための御茶屋)が利用されましたが、農山の村々をまわるときは座敷のある上層の農民や商人の家か、寺院があてられました。休泊所となった民家には、藩の費用で門や湯殿、雪隠が増設され、道路の清掃やさまざまな物資の手配などに追われたようです。その中心となって対応したのは、各郡の大庄屋たちだったようです。今回は、大庄屋の対応ぶりを残された史料から見ていくことにします。
テキストは、  「徳川幕府の巡見使と讃岐 新編満濃町誌245P」です。

1789(寛政元)年5月には、巡見使池田政次郎・諏訪七左衛門・細井隼人がやってきます。
この巡見使の受入準備のために髙松藩は、事前に「国上書」を各巡見使用人宛に提出して「内々のお尋ね」をしています。その「御尋口上書」は50ケ条にもなります。どんな質問が行われていたのか、その一部を見ておきましょう。
一、讃成へはいつ頃御廻可被遊候哉
一、政次郎様御夜具御浴夜等用意仕候に及申間敷候哉御問合仕候
一、御供に御越被咸候御用人方御姓名承知仕度候事
一、御朱印人足の外何沿人程用意可申付候哉
一、御伝馬の外に何疋程用意可申付侯哉
一、御長持何棹程御座候哉
一、御三方様御休泊之内為伺御機嫌夜者等差出候儀是迄通可仕候哉本伺候
一、御三方様御名札是迄は御宿前に御名札長竹二鋏芝切建来り候家格も御座候余り仰山にも可営侯に付此度は御名札御休泊御宿門へ召置候様可仕侯哉御問合仕候
一、御二方御料理え義一汁一末に限り可申旨先達而被仰渡
本長候乍只一茉と申候而は奈り御不自由にも可被咸御座
侯に付′―、重箱何そ瑕集類え口"指上可然ヒロ在所役人共より私共存寄斗にて申童候も力何に村御内々御問合仕侯
一、 一茉に限り候へば平日不被召上候御品には御内々無御腹蔵御言付可被下候本頼候
意訳変換しておくと
一、讃岐へは、いつ頃巡回予定なのか
一、池田政次郎様の夜具や御浴夜などの用意のために、注意事項をうかがいたい
一、お供の御用人方の姓名が分かれば教えて欲しい
一、御朱印人足の他に、それくらいの人足を用意すればいいのか
一、御伝馬の他に、何頭ほどに馬を用意すればいいのか
一、長持は何棹程でやってくるのか御座候哉
一、御三方の休泊で夜伽などは差出した方がいいのか
一、御三方の名札は御宿前に名札を長竹に挟んで立てかけるが、家格のこともあって、この度は名札を休泊宿門へ置くようにしたいが如何か
一、御三方の料理について、一汁一菜に限るとされているが、これではあまりに質素すぎると思われるので、重箱などを加えてもよろしいか
一、 一菜に限るというなら内々にお出しするのはかまわないか

これに対し、巡見使の各御用人より一項一項に付いてこまごまと回答が寄せられています。事前の打ち合わせが髙松藩と、巡検使の用人の間で事前に行われていた事を押さえておきます。

江戸の巡見使用人からの情報を得て、高松藩では次のような指示を大庄屋を通じて、各村々の庄屋に回覧しています。
御巡見御越に付 大小庄屋別段心得
一、御宿近辺にて大破に及ぶ家々は自分より軽く取繕ひ申すべく候
一、御道筋の大制札矢来など破損の分は造作仰付られ候
尤も小破の方は郡方より取計仕L小制札場の分は村方より取繕致し申すべく候
一、御通行筋茶場水呑場郡々にて数か所相建候間見積をもって其の処へ取建仰付られ追て代銀可被ド候
一、御道筋の仮橋土橋掛渡の義幅壱間半に造立て右入用の材木等は最寄の御林にて御伐渡持運人足は七里持積り又は湯所見合積りを以て人足立遣し追て扶持被下候
一、御巡見御衆中御領分御滞留の内別けて火の元入念にいたすべく 御道筋家々戸障子常体に仕置御通の筋は土間にて下座仕るべく候 物蔭よりのぞき申す義仕る間敷惣て無礼無之様仕るべく併て無用の者外より御道筋に馳集候義堅く無用に候
一、御巡見御用に罷出候下々に至るまで惣て相慎み喧嘩口論仕候はゞ理非を構はず双方とも詑度曲事中付くべく候
勘忍成り難き趣意これあり候はゞ其段村役人共へ届置追而裁判致し遣はすべく候
一、御巡見御衆中当御領御逗留中猪鹿成鉄砲打ち申す間敷相渡し申すべく候
一、雨天にて御旅宿の前通行の節下駄足駄履き申す間敷候
一、御案内の村役人共御案内先に代り合いの節御性格等申遣りよく呑込み置きて代り合い申すべく候
一、御巡見御用に罷出候人足馬士等生れつき不具なるもの道心坊主惣髪者子供並に病後にて月代のびたる者指出す間敷候
一、相応の単物にても着用し御仕差出申すべく襦袢又は細帯等にて差出申間敷候 笠は平笠かぶらせ申すべく編笠並手拭にてほうかむりなど致候義相成中さず候
一、寛政の度政所と唱うるところ近年庄屋の名目に相改り居り申すに付自然相尋られ候へば文政六来年より庄屋と唱う様相成居候へども如何なる訳合にや存じ奉らず候段相答へ申すべく候
有の通り村々洩れぎる様中渡さるべく候

意訳変換しておくと

一、御宿附近で大破して見苦しい家々は、自分で軽く修繕しておくこと
一、道筋の制札や矢来などで破損しているものは修繕する事。小破の場合は、郡方より修理し、小制札場については村方で修繕する事
一、通行筋の茶場や水呑場については、郡々で数か所設置する事。後日、見積りに基づいて、代銀を藩が支払う。
一、道筋の仮橋や土橋などについては壱間半の幅を確保する事。これに必要な材木等は最寄の御林で伐採し、運人足は七里持積りか場所見合積りで人足費用を計算しすること。追って支払う。
一、巡見衆の領分滞在中については、火の元に注意し、道筋の家々の戸障子で破れたものは張り直すこと。通の筋の家では、土間に下座して見送る事。物蔭からのぞき見るような無礼な事はしてはならない。併て無用の者が御道筋で集まることは禁止する。
一、巡見御用衆が郡外に出るまでは、互いに相慎んで喧嘩口論などは起こさないように申しつける。
  勘忍できないことがあれば、その都度村役人へ届け出て判断を仰ぐ事。
一、巡見衆中が滞在中は、猪鹿などを鉄砲で打ことを禁止する。
一、雨天に御旅宿の前を通行する際の、下駄足駄履は禁止する。
一、案内の村役人は交代時には、巡見使の性格などを申し送り、よく呑込んで交代する事。
一、巡見御用の人足や馬は、生れつき不具なるものや、道心坊主惣髪者子供や病後にて月代のびた者などは選ばない事
一、衣類については、相応しい単物を着用すること。襦袢や細帯の着用は禁止。笠は平笠を被ること。編笠や手拭ほうかむりなどはしないこと
一、寛政年間までは「政所」と呼んでいたのを、近年に「庄屋」と名称変更したことについて、どうしてかと尋ねられたときには、「文政六年より庄屋と呼ぶようになりましたが、その理由は存じません」と答える事。
以上を村々に洩れなく伝える事。

  「髙松藩 → 大庄屋 → 庄屋 → 村民」という伝達ルートを通じて、下々までこららのことが伝えられていたことが分かります。巡検を受ける藩にとっては、一大事だったことがあります。
 満濃池で植樹祭があった時に、時の天皇を迎える時の通達を思い出します。そこにも、「2階から見てはいけない、服装は適切な服装で、沿道の家は植木などの刈り込みも行うこと」など、細かい指導・指示が行政から自治会を通じて下りてきました。ある意味では、江戸時代の巡見使を迎える準備対応ぶりの昭和版の焼き直しかもしれません。この通達がルーツにあるのかも知れないと思えたりもします。

今度は大庄屋や庄屋に出された「御巡見御越に付大小庄屋別段心得」(満濃町誌253P)を見ておく事にします。
一、惣て御案内の仕方は郡境より同境までと相心得申すべく候 郡境へ罷出相待候節諸掛場所家居これなき処は相応の小屋掛にても致し出張村役人の散らぎる様相集め置き申すべく候
一、大庄屋は羽織袴半股立に草履を履き、草履取桃灯持召連れ郡境にて御待請御先御用人ら参候まで草履取桃灯持ども召連居申し右御用人間近に相成候はゞ右家来を先に遣置き尤も俄雨又は夜に入る節は夫々用向等辯じられる様申付置は勿論の事に候
御案内の庄屋は羽織小脇指に高股立 組頭は羽織ばかり無刀にて罷出候義と相心得いづれも草履にて候
尚右大庄屋中より先方駕籠脇へ挨拶済の上夫々役割御案内に相掛り申すべく候 尤も前々は却て御案内駕籠先へ立候義もこれあり候 既に寛政の度は御駕籠脇へ引添御案内致候指図これあり候義もこれあり是等の義は臨機応変の事に候
一、御先御用人御出の節太庄屋中出迎御駕籠脇にて
〈私儀何郡大庄屋何某と申す者にて御座候御三方様御案内の庄屋与頭共引纏め罷出候御用御座候へば仰付下さるべく候〉と申述べ御用人中より指図通り御案内仕るべき事
一、御朱印箱の義は甚だ御大切の御品にて御案内の者は勿論持人までも別けて気を付け有御箱取扱の節上問等へ指置候義は素より御旅宿にても上げ下げ等の節油断なく取扱申すべき事
一、御道中夜に人る節は御印付高張六張並八歩高付御桃灯三拾張差越候義と相心得申すべき事
一、御通筋家続のところは表軒下へ掛行燈にて燈さすべき事
一、御道筋廉末これ無き様手前に洒掃致し置候上は御通りの節俄に帯目入る義は却てごみ立ちよからず候間願くは水を打ち置く様致度き事
一、御道中夜に入る節庄屋与頭等御案内の者自分自分の定紋付桃灯燈し申すべき事
一、御案内合羽の義大小庄屋は青いろ与頭は赤合羽着用の事
一、大小庄屋組頭郡境にて他郡へ相渡候節先に相立居申す御案内の者少し先へ踏込み御巡見御衆中並用人迄も御通行順御性格等を他郡御案内の者へ申伝ふ事
六月十七日
意訳変換しておくと
一、案内の仕方は、郡境より郡境までと心得よ。郡境で出向いて待つ時に、近くに家などがない場合は仮小屋を建てて、出張村役人らがバラバラにならないように一箇所に集まるようにしておくこと。
一、大庄屋の服装は、羽織袴半股立で草履きとする。郡境で待請・先御用人などがやってくるまで草履取桃灯持を同伴して待機する事。御用人が間近に近づいてきたらその家来を先に立てて、その後に従う事。もっとも雨や夜になって暗い場合は、それぞれの対応を講じる事。案内の庄屋の服装は、羽織小脇指に高股立 組頭は羽織だけで無刀で、履き物は草履である。
 なお大庄屋は巡見使の乗る駕籠の脇で挨拶を済ませた上でそれぞれの役割案内に掛ること。以前には 案内駕籠先へ立って先導したこともあったようだが、寛政の巡検以後は駕籠脇へ従い案内するようにとの指示があったのでこれに従う。場所・時間によっては先導する必要もあるので臨機応変に対応する事
一、先達御用人が引継ぎ場所にやってきた時の大庄屋の駕籠脇での出迎え挨拶については次の通り
「私儀何郡大庄屋何某と申す者にて御座候。御三方様御案内の庄屋与頭共引纏め罷出候御用御座候へば仰付下さるべく候」と申し述べてから、用人の指図を受けて案内すること。
一、朱印箱については大切な品なので、案内の者はもちろんのこと、持人も特別な注意を払う事。朱印箱の取扱については、取り運びや旅宿での上げ下げについても油断なく行う事
一、道中で夜になった場合には、印付高張六張と八歩高付御桃灯三拾の提灯を捧げかける事
一、通筋の家には、表軒下へ掛行燈を燈させる事
一、道筋については、清潔さを保つために事前に清掃し、通過直前には帯目を入れ、水を打っておく事
一、道中で夜になった場合は、庄屋や与頭などの案内人は自分自分の定紋付桃灯を燈す事
一、案内合羽については、大小庄屋は青いろ、与頭は赤合羽を着用する事
一、大小庄屋組頭は郡境で他郡へ引き継ぐ時に、次の案内の者に巡見衆や用人などの性格などを次の案内者へ申し送る事
六月十七日
  この史料を読んでいて気づくのは、ここには受入側の髙松藩の武士達は一人も登場しないという事です。
私は、髙松藩の藩士達が全面に出て案内から接待まで仕切ったのかと思っていました。しかし、主役は、郡毎の大庄屋や庄屋などの村役人組織であったことが分かります。藩役人は、服装や対応の方法を書面で指示しますが、それを実際に行うのは、大庄屋や庄屋たちだったのです。これだけのことをやってのける行動力が大庄屋の下には組織されていたことに驚かされます。
 指示内容の中には、お下げ銀を出して見苦しい民家の修繕をしたり、道路に砂利を敷いたり、沿道に茶店を設けるなどして、藩の民政が行き届いて、百姓たちの生活が豊かであるように装ったことがうかがえます。
 出迎えに当たっての服装なども細かく指示されています。大庄屋は羽織袴を着用し、村方三役も規定の正装で郡境まで出迎え、宿泊には宿詰をつけて万事遺漏のないように配慮されています。

最後の巡見になる1838(天保9)年の時には、那珂郡の村役人達にどんな役割が割り当てられたのかが分かる史料が残っています。
各行事をきちんと記録していた岸上村庄屋奈良亮助が書き留めたものが満濃町誌に紹介されています。天保九戌午六月御巡見一件役割とあって、那珂郡の村役人の役割分担表であることが分かります。
巡見使役割分担表1

讃岐那珂郡の天保九戌午六月御巡見一件役割 その1

最初に平岩七之助様とあるので、3人の巡見使のうちの主査の担当係とその村名・役職が列挙されています。その役割の内で「案内」「籠付」は各村の村役人。「荷物下才領(人足)」「合印持」は百姓層に割り当てられています。人足も単独の村が出すのではなく、いくつかの村からのメンバーで編成されています。この後に残り2人の巡見使付の役割分担表が続きますが省略します。

巡見使 讃岐那珂郡ルート
讃岐那珂郡の巡見使ルート

那珂郡の巡検ルートは、丸亀を出発して、往路は金毘羅街道を金毘羅まで下って満濃池まで足を伸ばし、復路は宇多津街道を上って宇多津までであったことは前回お話しました。

巡見使役割分担表2
        天保九戌午六月御巡見一件役割 その2
この役割分担表には「公文村茶場・餅屋」とあるので、金毘羅街道沿いの休息所は公文に設けられたことが分かります。その担当者名が記されています。面白いのは、「茶運子供」とあって、給仕をおこなうのが「百姓達の倅」であったことです。
 また、宇多津への復路には「東高篠村水置場」とありますので、高篠にも休息所が設けられたようです。この他、郡家にも水置場が設置され、それぞれ担当者が割り当てられています。

巡見使想定問答書(島根県)

これは鳥取県智頭町の大庄屋が作成していた「想定問答集」です
巡見使から質問があったとき、案内などをした大庄屋、庄屋などの村方の役人が無難な返答をするためにつくられたようです。大庄屋たちがが考えた想定質問「銀札は円滑に流通しているか、勝手向き(財政のやり繰り)はうまく行っているか」などを藩に問い合わせたものに対して、藩が朱書きで模範答案を書いて送り返しています。まさにお役所仕事の入念さが、この時代から見られることにびっくりもしました。今と変わりないなあという風に思えてきます。
 このような準備が入念に行われるようになったため、江戸時代後期になると、幕府巡検は形式的になり儀礼化したともいわれます。しかし、幕府が全国支配の威光を体感せしめるための重要な役割を担っていたことに変わりはありません。このような支配システムを運用する事で、下々の「お上」意識が江戸時代に形成され、それが明治の地方行政にも形を変えながら活かされていくようです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 「徳川幕府の巡見使と讃岐 新編満濃町誌245P」

 まんのう町には真野の諏訪神社に奉じられた「諏訪大明神念仏踊図」が保存されています。
私が最初に、この絵図を見たのは香川県立ミュージアムでの展示でした。その時には、次のような短い説明が付けられていました。(番号は図中番号と一致)
諏訪大明神滝宮念仏踊 那珂郡南組

①2基の笠鉾が拝殿前に据え付けられ、
②日月の大団扇を持ち、花をあしらった笠を被った下知
③同じく花笠を被った3~4人の中踊りらしき人が描かれる。
④花笠を被り、太鼓を抱えた6人の子踊りもいる。
⑤頭にシャグマ(毛)をつけた男が棒を振っており、薙刀を持った男も描かれる。念仏踊りを描く絵図はほとんどなく、当時の奉納風景をうかがうことができる数少ない絵図である。」  
 この絵を最初に見たときには佐文の綾子踊りを描いたものと思いました。そのくらい似ているのです。その共通点を挙げて見ると
A舞台が神社の境内であること
B中央に大きな団扇を持った下司
C花笠を被った中踊りと6人の子踊り  
D警固の棒突や棒振・長刀衆など
ここからは念仏踊りが佐文の綾子踊りに大きな影響を与えていることがうかがえます。
滝宮念仏踊諸役人定入目割符指引帳
 また、念仏踊りの構成メンバーは、真野だけでなく、佐文・七箇村(東西)・岸上・塩入・吉野・榎井・五条・苗田などで編成され、総勢は二百人を越えていました。滝宮に踊り込む前には、各村の鎮守を何日も掛けて、奉納しています。ここで押さえておきたいのは、佐文も念仏踊りの構成メンバーで、この念仏踊りを踊っていたことです。

DSC01883
踊りの周りの人たちと、その後の見物小屋

 現在の綾子踊りと異なるのは、踊りの周りに見物の桟敷小屋がぐるりと回っていることです。この見物小屋は真野村の有力者の特等席で、財産として売買もされていました。念仏踊組には、誰でも参加できたわけではなかったようです。中世以来の「宮座」のメンバーだけが参加を許されました。家によって演じる役目も「世襲」されていました。ある意味では念仏踊りを踊ることは、その家柄を誇示することでもあり、名誉あることだったようです。
  この絵を描かせたのは誰なのでしょうか?
満濃町誌は描かれた時期と、描かせた人物を次のように推測しています。右側の仮桟敷に「カミマノ(上真野)大政所、三原谷蔵」とあります。三原谷蔵が那珂郡の大政所を勤めたのは、文久二(1862)年のことです。

DSC01885

  拝殿の正面に、袴姿で床几に座しているが各村の役人たちでしょう。⑥の日の丸の団扇を持っているのが総触頭の三原谷蔵のようです。ここからは、この絵を描かせた人物は、三原谷蔵で、自分の晴れ姿を絵師に描かせたという説を満濃町誌は採っています。
 参考文献  満濃町誌「諏訪神社 念仏踊の絵」1100P  
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滝宮念仏踊 那珂郡南組

この絵図は、まんのう町真野の諏訪神社で踊られた那珂郡南組(七箇村組)の念仏踊の様子が描かれています。 私が最初に、この絵図を見たのは香川県立ミュージアムの「祭礼百態」の展示でした。その時には、次のような短い説明が付けられていました。
2基の笠鉾が拝殿前に据え付けられ、日月の大団扇を持ち、花をあしらった笠を被った下知、同じく花笠を被った3~4人の中踊りらしき人が描かれる。また花笠を被り、太鼓を抱えた6人の子踊りもいる。また、下部には頭にシャグマ(毛)をつけた男が棒を振っており、薙刀を持った男も描かれる。念仏踊りを描く絵図はほとんどなく、当時の奉納風景をうかがうことができる数少ない絵図である。  

  この絵図については以前にも紹介しましたが、満濃町誌をながめていると、この絵図について書かれている文章がありました。それをテキストにしながらもう一度、紹介したいと思います。
テキストは満濃町誌 第三編  満濃町の宗教と文化 「満濃町誌」1100Pです
町誌は、この絵図がいつ書かれたのかを探っていきます。
そのヒントのひとつは、この絵の中に隠されているようです。右側の仮桟敷に「カミマノ(上真野)大政所、三原谷蔵」とあります。三原谷蔵が那珂郡の大政所を勤めたのは、文久二(1862)年のことになるようです。
滝宮念仏踊り 2

 「金刀比羅宮文書御用留文 文久二年七月二十六日」には
「那珂郡の大政所三原谷蔵の使の者有り、来る二十八日に念仏踊が踊り込みたい旨の申込あり云々」

と書かれています。
  1862年の7月26日に、那珂郡の政所(大庄屋)である三原谷蔵の使いが金毘羅大権現にやってきて、7月28日に、念仏踊を金比羅で行いたいという連絡があったと記します。

 この滝宮念仏踊りは、ひとつの村だけで構成されているのでなく、いくつもの村のメンバーが参加します。そのために、滝宮での本番の前に、構成員の村の鎮守を巡って踊ります。そのスケジュールも決まっていました。「吉野村史」には、1742年の念仏踊りの組織や踊り場所日程について、次のように記録しています。
那珂郡南部念仏踊り組
寄合場所 真野村字東免
踊組人員割(合計二〇四人)
真野村 下知一人、長刀一人、鉦打二人、地踊二人、棒突一人 長刀三人
岸上村 笛吹一人、鉦打五人、地踊り一人 旗五人、長刀槍十人
吉野上下村
    棒振上村一人、小踊上村二人、鉦打上村三人、地踊上村五人・下村二人、長柄槍 下村五人、旗上村二人、小踊上一人・下一人、新鉦打下村六人・上村二人
小松庄
   小踊四条一人・五条一人、地踊四条三人・榎井二人・五条二人・苗田二人、
笠飾四村各一人、太鼓打苗口・榎丼各一人、長柄槍一二人、旗九人
東七箇村 鉦打一〇人、法螺貝一人、地踊七人、旗二人、棒突三人、新鉦打一人
西七箇村
  太鼓打一人、鉦打一二人、小踊一人、法螺貝一人、地踊二十三人、旗八人、
長柄槍八人、棒突四人、新鉦打二人
踊場所及庭数
七月十六日 満濃池の宮五庭
七月十八日 七箇春日宮五庭、新目村之官五庭
七月廿一日 五条大井宮五庭、古野上村営七庭
七月廿二日 十郷買田宮七庭
七月二十三日 岸上久保宮七庭、真野宮九庭、吉野下村官三庭、榎井興泉寺三庭
              右寛保二戌年七月廿一日記

文久二(1862)年の時には、榎井の興泉寺と、金毘羅山を終えて、岸上村の久保宮で踊り、最後に真野村の諏訪神社で九庭踊って、その年の踊奉納を終了することになっていたようです。以上の史料から、この絵図は文久二年七月二十八日の夕方に、真野村の諏訪神社で行われた踊奉納を描いたものと研究者は考えているようです。
 もう一度絵図を見てみましょう。
正面が、諏訪神社の拝殿です。手前に屋根だけ描かれているのが神門でしょう。ここからは、境内の拝殿前で踊興行が行われていたことが分かります。陣笠を被って、踊りのまわりを警固しているのが長刀や槍を持った警固衆なのでしょうか。そのまわりに、大勢の人が頭だけ描かれています。
滝宮念仏踊 那珂郡南組

 見慣れないのがその背後の仮小屋です。正面の拝殿前に四棟、左側の内に八棟、その手前外に二棟、右側の内に八棟、総計三二棟の仮小屋が描かれています。その中では、ゆったりと念仏踊りを見守る人たちがいます。下の「一般大衆」とは「格差」があるようです。
これは以前にお話したように、宮座の構成メンバー達だけに認められた権利の桟敷です。
桟敷の使用者名(宮座メンバー)を見てみましょう。
①正面左から右へ「ゲシヨ(下所の永吉」「ヨシイタケヤ富之進」「ヨシイ彦兵衛」「カミマノ(上真野)広右衛門〉と続きます。この正面に桟敷の権利を持っている人たちが宮総代を勤めていた人々と研究者は考えているようです。
②左側には「ミヤ(宮)朝倉」「ヨシイ折平」「ヨシイ庄助」「ミシマ(三島)アイサコ多喜蔵」「ミシマ文蔵」「ニシマノ(西真野)ゴーロ長五郎」「ヨシイ治右衛門」「ハカバ藤作」「ミシマカ蔵」「ヒラバヤシ亦作」と並びます。「ミヤ(宮)朝倉」は、宮司でしょうか。
③右側には「ヨシイ喜二郎」「ヨシイアナダの藤蔵」「光教寺」「カミマノ大政所三原谷蔵」「カミマノ五左衛門」「ミヤウテ喜太郎」「ヒラキタハヤシ二五郎」「宮西伊二郎」と書きこまれています。

滝宮念仏踊 那珂郡南組3

踊りはすでに始まっています。拝殿の正面に、祥姿で床几に座しているが七箇村組の村役人でしょう。日の丸の団扇を持っているのが念仏踊の総触頭の三原谷蔵のようです。豆粒のように、黒く白く描かれているのが踊りの見物人と対照的です。ここからは、この絵を描かせた人物も浮かび上がってきます。
①三原谷蔵が自分の晴れ姿を絵師に描かせた。
②宮司が絵師に依頼し、三原谷蔵に晴れ姿を描かせてプレゼントした
絵に作者名はありませんが、四条派の手法が見られるところから郡家村の大西雪渓か、あるいは雪渓について四条派の技法を修めたと伝えられる、吉野上村五毛出身の東条南渓の作ではないかと研究者は考えているようです。

中央で笠を被って帯刀して、手に日月の団扇を持っているのが、踊りで中心的な役割を勤める下知役です。これも真野村の者が勤めることになっていて、その家筋も決まっていたようです。ここからは、地侍や名主たちを中心とする中世の宮座の形がうかがえます。宮座については、岸上の久保神社の桟敷についての所で、以前にお話ししましたので省略します。
滝宮念仏踊り 2

  中央の下知役が、日月の団扇を打ちふって、「ナンマイ、ドウヤ。ナンマイ、ドウヤ。」と唱えると、警固役がこれに唱和して、鉦、太鼓、笛、鼓、法螺貝が鳴り響き、踊り子が美しく踊り舞う、という姿が描き込まれています。周囲には「南無阿弥陀仏」と、染めぬいた職が十数本立てられています。また、赤い笠鉾が二本立っていて目を引きます。
滝宮念仏踊 那珂郡南組5

 手前に描かれているのは棒突きです。棒を振って踊場を清め、地固めをし、踊場を確保しています。これは、踊りの最初の所作を現したものです。
滝宮念仏踊七箇村組の総触頭は真野村の政所が勤め、念仏踊の寄合は必ず不動堂で行われたようです。そして、順年毎の念仏踊の最後の踊りは必ず諏訪神社で九庭踊って納めとなっていたようです。

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佐文綾子踊り(まんのう町佐文賀茂神社)
この絵図を最初に見て私が感じたのは、佐文の綾子踊りに似ていることです。類似点を挙げると
①  神社の境内で演じられているスタイル
② 日月の大団扇を持ち、花をあしらった笠を被った下知
③ 同じく花笠を被った中踊り
④ 花笠を被った6人の子踊り
⑤ 棒を振って踊場を清め、地固めをし、踊場を確保する棒突。
イメージ 11

幟に書かれている「南無阿弥陀仏」を「善女龍王」に替えて、これが江戸時代に踊られていた綾子踊りですと云われて見せられれば、そうですかと見てしまいそうです。
滝宮念仏踊諸役人定入目割符指引帳
滝宮念仏踊諸役人定入目割符指引帳(那珂郡南組)
 この表は、文政十二(1829)年に、岸上村の庄屋・奈良亮助が念仏踊七箇村組の総触頭を勤めた時に書き残した「諸道具諸役人割」を表にしたものです。 総勢が2百人を越える大スッタフで構成されたいたことが分かります。そして、スタッフを出す村々も藩を超えています。
高松藩 真野村・東七ヶ村・岸上村・吉野上下村
丸亀藩 西七ヶ村・塩入村・佐文村
天 領  小松庄4ケ村(榎井・五条・苗田・西山)
ここからは、滝宮念仏踊りが讃岐一国時代から踊られていたことがうかがえます。
 この表で注目したいのは佐文村です。
佐文には、国無形民俗文化財に指定されている綾子踊りが伝わっています。私は、佐文は綾子踊りがあるので、滝宮の念仏踊り組には参加していないものと思っていました。しかし、ここには、構成村の一つとして佐文村の名前があります。

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 しかも、寛政二(1790)年の念仏踊の構成(福家惣衛著・讃岐の史話民話164P)を見てみると、佐文のスタッフ配分は次のようになっています。
下知一人、小踊六人、螺吹二人と笛吹一人、太鼓打一人と鼓打二人、長刀振一人、棒振一人、棒突一〇人の計25人。

ところが約40年後の文政12年には棒突10人だけになっています。このことは、佐文村に配分されていたスタッフ数が大きく削られたことを示します。
 問題はそれだけではありません。これによって七箇村組の構成そのものが変化しています。編成表を比較してみると、寛政二年には踊組は東と西の二組の編成でした。一人で踊りの主役を勤める下知が真野村と佐文村から各1人ずつ出ていました。また、6人一組になって踊役を勤める小踊は、西七箇村から1人、吉野上下村から3人、小松庄四ヶ村から2人の計6人で構成されていました。ところが、佐文村は単独で6人を分担しています。さらに、
お囃子役や警固役を勤める螺吹が東七箇、西七箇と佐文から各二人、
笛吹が岸上村と佐文村から一人、
太鼓打が西七箇村と佐文村から一人、
鼓打が小松庄四ヶ村と佐文村から二人、
長刀振が真野村と佐文村から一人、
棒振も吉野上下村と佐文村から一人、
棒突は西七箇村四人。岸上村三人、小松庄四ヶ村3人の計10人に対して、ここでも佐文村は、10人を単独で出しています。
ここからは滝宮念仏踊の那珂郡南組は、佐文村が西組の中心的な存在であったことが分かります。それが何らかの理由で佐文は、中心的な位置から10人の棒付きを出すだけの脇役に追いやられた事になります。どんな事件があったのでしょうか?
 想像を膨らませて、次のような仮説を出しておきましょう。
 南組と佐文村の間に、何らかの対立が生じ、その結果佐文は「スタッフの規模縮小」を余儀なくされた。その対応として、佐文は独自に新たな「綾子踊り」をはじめた。その際に、踊りを念仏踊りから風流踊りに取り替えて、リニューアルさせた。
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 七箇村組は東西二組の編成だったために、二組がお互いに技を競い、地域感情も加わって争いが起こることが多かったようです。
享保年間(1716~36)には、滝宮神社への踊奉納の際に、別当寺の龍灯院から七箇村組に贈られる御神酒樽の受取順位のことで、先後争いが起こっています。この争いの背後には、高松藩・丸亀藩・池御料の三者の日頃の対立感情があったようです。
 そのために元文元年(1736)年に念仏踊は一旦中止され、七箇村組は解体状態になります。それから3年後の元文4年の6月晦日に、夏に大降雹(ひょう)があって、東西七箇村・真野村・岸上村は稲・棉などの農作物が大被害を受けます。これは滝宮念仏踊を中止したための神罰であるという声が高まり、関係者の間から念仏踊再興の気運が起こります。龍灯院の住職快巌の斡旋もあって、寛保二(1742)年から滝宮念仏踊は復活したようです。復活後は、那珂郡南組は東西二組の編成が、寛政二年まで続きます。

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 この間、滝宮の龍灯院は踊奉納をした七箇村組に対して、問題の御神酒樽を二個用意してそれぞれの組に贈り、紛争の再発を避けていたといいます。しかし、二組編成は再度の紛争が起こる危険をはらんでいました。
 文化五(1808)年7月に書かれた真野村の庄屋安藤伊左衛門の「滝宮念仏踊行事取扱留」の7月24日の龍燈院宛の報告には、次のように記されています。
 七箇村組の行列は、下知一人、笛吹一人、太鼓打一人、小踊六人、長刀振一人、棒振一人の一編成になっている。取遣留の七月廿五日の龍灯院からの御神酒樽の件は、龍灯院の使者が、「御神酒樽壱つを踊り場東西の役人(村役人)の真中へ東向きに出し……」と口上を述べ終わると、御神酒樽は龍灯院へ預かって直ちに持ち帰り、牛頭天皇社での踊りが終わってから、踊組一同を書院に招待して御神酒を振る舞った。

 ここからは、七箇村組は一編成の踊組として、龍灯院から待遇されるようになっていたことが分かります。この時点で、佐文のスタッフが大幅に減らされたようです。それは、寛政二年から文化五年までの32年間の間に起こったと推察できます。
 あるいは、佐文村の内部に何かの変化があったのかもしれません。それが新たに佐文独自で「綾子踊り」を行うと云う事だったのかもしれません。どちらにしても南組が二編成から一編成になった時点で、佐文は棒振り10人だけのスタッフとして出す立場になったのです。
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 以上から推察すると、新たに始めた「綾子踊り」が諏訪神社で踊られていた念仏踊りと非常に似ているのも納得がいきます。そういう目で見ると、下知や子踊りの姿は、念仏踊りに描かれている姿とよく似ています。
  以上をまとめておきます
①初代高松藩主松平頼重が復活させた滝宮念仏踊りに、那珂郡南組(七箇村組)は東西2編成で出場していた。
②その西組は佐文村を中心に編成されていた。
③しかし、藩を超えた南組は対抗心が強く、トラブルメーカーでもあり出場が停止されたこともあった。その責任を佐文村は問われることになる。
④その対策として那珂郡南組は、1編成に規模を縮小し、佐文村のスタッフを大幅に縮小した。
⑤これに対して佐文村では、独自の新たな雨乞い踊りを始めることになった。
⑥それが現在の「綾子踊り」で、念仏踊りに対して風流踊りを中心に据えたものとなった。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
  満濃町誌 第三編  満濃町の宗教と文化 「諏訪神社 念仏踊の絵」1100P
  大林英雄 滝宮念仏踊り七箇村組について  ことひら 昭和63年
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