瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:滝宮念仏踊り

    以前から探していた冊子を手にすることが出来ました。

讃岐の雨乞い踊調査報告書1979年

今から約45年前に刊行された「讃岐の雨乞い踊」調査報告書です。この巻頭の「雨乞踊りの分布とその特色」は武田明氏によるものです。当時の武田氏が、県下の雨乞い踊りについてどのように考えていたのかがうかがえます。今回はその中から念仏踊りについて見ていくことにします。テキストは「武田 明  雨乞踊りの分布とその特色    讃岐雨乞踊調査報告書(1979年)」です。
最初に武田明氏は、雨乞踊を次の二つに分けます。

① 念仏踊 
南無阿弥陀仏の称号を唱えながら踊るもので、それが訛ってナッパイドウ、ナモデ、ナムアミドウヤなどと唱和しながら踊っているもの

②風流小歌踊 
小歌と思われる歌詞を歌いながらそれにあわせて踊る

そして讃岐に残る念仏踊として、以下を挙げます。
北村組  滝宮北、滝宮萱原、羽床上 羽床 西分 山田 千疋 
七箇組  神野、古野、七箇 十郷 象郷
坂本組  坂本 川西  法勲寺  川津  飯野
北条組    松山 加茂  林田  西庄 金山 坂出
南鴨組  南鴨
吉原組  吉原
美合組  美合
これを地図に落としたものが次の分布図になります。

讃岐雨乞い踊り分布図

ここからは次のようなことが分かります。
①綾歌・仲多度の中讃地方に伝承されている踊りが多いこと
②西部の三豊郡や東部の大川郡や高松地方には念仏踊りは伝承されていないこと。
③特に綾歌郡の綾南町滝宮を中心としたエリアが分布密度が高い。
北村組、七箇村組、坂本組、北条組もかつては滝宮神社と滝宮天満宮に奉納され、「滝宮念仏踊」と総称されていました。しかし、この滝宮念仏踊の組は、現在では踊られなくなった組があったり、滝宮への奉納をしなくなった組もあります。現在、滝宮への奉納を行っているのは、次の通りです。
1組 西分 牛川 羽床上(綾歌郡旧綾上町)
2組 山田上 山田下  (綾歌郡旧綾上町)
3組 羽床下 小野 北村(綾歌郡旧綾南町)
4組 千疋  萱原 北村(綾歌郡旧綾南町)(北村組は二回奉納)
滝宮念仏踊り 御神酒
    滝宮天満宮に奉納された12組の御神酒(西分奴組を含む)

もともとはまんのう町の七箇村組や、坂出の北条組などからも奉納されていましたが、幕末から明治頃には途絶えたようです。また、高松藩以前の生駒藩時代には、多度津の南鴨組や吉原組も滝宮に奉納していたことは以前にお話ししました。

滝宮念仏踊り
滝宮念仏踊り(讃岐国名勝図会)
 この分布図を見て武田明氏は「滝宮を中心とした地方に念仏踊の分布が著しいのはどう言う理由からであろうか。」と問いかけます。
その答えとして用意されているのが次の2点です。
①滝宮神社に対する雨乞いの信仰が強力であったこと
②菅原道真の城山の神に祈雨したという伝説にもとづくもの
①については、龍神を祀る山や渕が、一字の祠堂になった例を挙げます。そしてその中にはおかみ〈澪神)を祭礼とするものが多く、非常に古い信仰の姿をとどめていることを指摘します。万葉集巻二の中の出てくる「おかみ」です。
わが里のおかみに言ひて降らしめし
雪のくだけしそこに散りけむ
そして次のように述べます。

このような祈雨の神としての信仰の中心地が讃岐にはいくつかあった。その中でも綾川流域の滝宮の信仰は、もっとも強大であったのである。もともとこの地には北山龍灯院綾川寺という寺があった。そしてこの寺は綾川の深渕に沿うて建っていたのである。この測は古くは蛇渕と言い、龍神が接んでいると信じられていた。また傍に一本の大木があって、龍神がその木に来って龍灯を点ずると言われていた。すなわち非常に強力な龍神信仰を伴なっていたわけである。

滝宮神社・龍燈院
  滝宮の龍燈院(滝宮神社と天満宮の別当寺:讃岐国名勝図会)
そして龍灯院綾川寺に伝わる次のような伝説を紹介します。
綾川寺の僧空澄は道真公の帰依僧であった。
菅公が太宰の権師として筑前に向い流されて行く途中で船は風波の難にあって、現在の下笠居の牛鼻浦に寄港した。それを聞くと、空澄は取るものもとりあえず牛鼻浦に行き、遠くへ流されて行く菅公に逢った。菅公は空澄に衣を脱いで与へまた自画像と書写された心経とを与えた。やがて、菅公は筑紫に下向したが、筑紫で死去するや空澄はこれらの遺品を祀って滝宮天満宮を建立したという。綾川寺の傍には、占くからの滝宮神社があるので、滝宮神社と天満宮の三社は何れも南面して並んでいる。
そして、滝宮念仏踊をまず奉納するのは滝宮神社であり、 ついで天満宮に奉納するのである。すなわち滝宮を中心とした念仏踊群がよく発達しているのは龍神の信仰と菅公祈雨の伝説かひろく並び行われた為であると考えられる。

  以上を「意訳要約」しておきます。
①綾川屈折地の羽床のしらが渕から滝宮にかけては、古代からの霊地で信仰の中心地であった。
②そこに中世になって龍灯院綾川寺が建立され、滝宮神社の別当寺となって神仏混淆が進んだ
③龍灯院綾川寺は菅原道真伝説を接ぎ木して、滝宮天満宮の別当職も務めた。
④こうして龍燈院による滝宮神社と天満宮の管理・運営体制が中世に形作られた
ここで押さえておきたいのは、滝宮神社がかつては「滝宮牛頭天王社」と呼ばれていたことです。
龍燈院・滝宮神社
龍燈院滝宮寺と滝宮(牛頭)神社(讃岐国名勝図会 拡大)

牛頭天王信仰は、京都の八坂神社や姫路の神社がよく知られています。

そこでは修験者たちが各国を廻国して、自分たちの信仰テリトリーで「蘇民将来のお札」や「豊作祈願」「牛馬の安全」などのお札を配布していたことは以前にお話ししました。
蘇民将来子孫家門の木札マグネット
   牛頭天王信仰の聖達が配布した「蘇民将来の子孫」のお札
中世の龍燈寺と滝宮牛頭天王社の修験者や聖達も、同じように周囲の信仰エリアの信者達にお札を配布する一方で、日常的な接触を持つようになったことが考えられます。中世は西方浄土での極楽浄土を願う念仏が大流行した時代です。その中で、最初に最も多くの信者達を獲得したのは時衆の踊り念仏でした。その結果、いろいろな宗派がこれを真似るようになり、一次は高野山でも時衆の念仏聖が一山を乗っ取るほどの勢いを見せたことは以前にお話ししました。讃岐でもこのような動きが広がります。その拠点の一つとなったのが龍燈院滝宮寺であったのではないかと私は考えています。高野山の真言宗のお寺がどうして「南無阿弥陀仏」を唱えるのかと、最初は私も疑問に思いました。しかし、先ほど見たように高野山自体が時衆の念仏聖達に占領されていた時代です。また近世の四国辺路の遍路達も般若心経ではなく「南無阿弥陀仏」を唱えていたことも分かってきています。龍燈寺の修験者や聖達も教線拡大のために踊り念仏を広めたのではないでしょうか。修験者や聖達は、宗教だけでなく「芸能媒介者」でもあったことは以前にお話ししました。こうして滝宮牛頭天王社の信仰圏には、踊り念仏が定着していきます。そして夏の大祭には、信者達が大挙して踊り組を送り込んでくるようになります。それが先ほど見た坂本組や七箇組・北条組などの踊組になるのです。

滝宮念仏踊 讃岐国名勝図会
滝宮念仏踊り(讃岐国名勝図会)
 ここで注意しておきたいのは、もともとはこれらの踊りは「雨乞い踊り」ではなかったことです。
奈良などの風流踊りの由来には「雨乞成就」のための踊りと記されています。坂本組の由緒書きにも「菅原道真公による雨乞祈願成就へのお礼踊り」のためと記されています。さらに七箇踊りでは「大旱魃で忙しいので念仏踊りは今年は中止する」という年もありました。近世には念仏踊りを踊っている人達には、これが雨乞いのために踊っているという意識はなかったことがうかがえます。
 近世の人々は「竜神に雨乞いを祈願できるのは、修行を積んだ験の高い高僧や修験者」と考えていたようです。何の験もない自分たちが踊って、雨を振らせることなどお恐れ多いことと考えていたはずです。自分たちの力で雨を振らせようとするようになるのは近代以後のことです。農民達は念仏踊りを、祖先供養のために踊っていたと私は考えています。
多度郡 明治22年
南鴨組のメンバーの村々

武田明氏は多度津の南鴨念仏踊についてついて次のように記します。
この組もかっては滝宮へ踊りを奉納していたと言い、今では滝宮念仏踊群の中には人っていないがやはり菅公祈雨の伝説を持っている。すなわち仁和四年(888)の大千魃の折に菅公は城山の神に雨を祈るとともに北鴨道隆寺の理源大師を頼み牛頭天王社に祈祷を命じられたという。すると滞然として雨が降り百姓は菅公の前に集って狂喜乱舞した。これが南鴨念仏踊の起りであると言う。やがて道真公は鴨の牛頭天三社を滝宮に勧請したが、理源大師を先達として多数の山伏がこの勧誘の行列には加わったという。そしてその折にも踊りの奉納があったと請うが、このような伝承はやはり念仏踊の中には修験の影響があったことを意味している。現に南鴨念仏踊においてはまず貝吹きが法螺の員を山伏の行装で吹くし、また滝宮念仏踊においても員吹きは重要な役割を背負っていることからも明らかである。なお、南鴨念仏踊は現在は南鴨の加茂神社の境内で行なっているが、加茂神社は別雷神を祭神とし、別雷神は降雨をもたらす神として信仰されていたからである。

以上を要約すると
①菅原道真は城山での雨乞い祈祷の際に、多度津道隆寺の理源大師に牛頭天王社への祈祷を命じた
②雨乞い祈願が成就して、狂喜乱舞し踊ったのが南鴨念仏踊りの起源である。
③菅原道真はそのお礼に、鴨の牛頭天三社を滝宮に勧請した。
④その際には理源大師を先達として多数の山伏が、この勧誘の行列には加わった
⑤以上から念仏踊りには、念仏系修験者や聖達が大きな役割を果たしていたことがうかがえる。
 
 多度津の南鴨念仏踊が滝宮への踊り込みを行っていたことは史料からも確認できます。それが近世初頭には、中止されます。それはどうしてなのでしょうか?
 生駒藩では龍燈院への保護政策として、各地からの踊り込みを奨励するような動きがあったことは以前にお話ししました。
ところが生駒藩転封以後に讃岐は東西に分割されます。高松藩の初代藩主としてやって来た松平頼重は独自の宗教政策を持っていました。彼は、龍燈寺保護と賑わい創出のために、念仏踊りの踊り込みを許可します。しかし、丸亀藩領となった多度津の南鴨からの踊り込みは、他国領土であるという理由で許さなかったようです。それ以外の4つの組からは「雨乞成就のお礼踊り」という
「大義名分」付で許可されたのです。

善通寺の吉原組の念仏踊について、武田明は次のように記します。

ここにもまた管公城山の神に雨を祈った伝説を付加していて、ここではその干魃の折に吉原の村人が火上山の中腹にある龍王の祠に鉦や太鼓を持ち出して踊ったのがその起りであるという。しかし、ここでは古老の伝えるところによると、古原念仏は鴨流だと言い、南鴨念仏踊の系統をうけて何時の頃よりか始まったものだと言っている。永らく廃絶していたが今では復興されて現在に至っている。

南鴨組滝宮念仏道具割
 南鴨念仏踊り「滝宮念仏道具割」(元和8年)
南鴨の念仏組の史料には、構成メンバーの村々の名前と役割分担が記してあります。この中に吉原組もあります。ここからは吉原組も、南鴨組の一員であったことが分かります。先ほど見たように、南鴨や吉原村が丸亀藩に属することになって、滝宮への踊り込みが出来なくなります。そのため南鴨組を構成する村々では、村単独で踊りを残そうとしていたことがうかがえます。そういう意味では「古原念仏は鴨流だと言い、南鴨念仏踊の系統をうけて何時の頃よりか始まった」という認識は誤っていません。

まんのう町美合中通の念仏踊(大川念仏踊り)は、どの念仏踊よりも素朴だと武田明氏は評します。
香川県琴南町(現まんのう町) 大川念仏踊り 東雲写真館

 この踊りは大川山の頂上で踊り祈雨を祈願してから山を下って中通の八幡宮で踊り、最後には土器川上流の龍神渕の傍で踊って踊り納めることになっている。この踊りも一時は滝宮まで行っていたというがそれは詳かでない。
武田明氏が注目するのは、多度津町高見島のナモデ踊りです。

高見島なもで踊り
多度津町高見島のナモデ踊り

踊り自体が今まで紹介した念仏踊とは、異なっているというのです。
踊りの唱和の中に
ナモデ(テンテレツクテン)ナモデ‥‥
などという言葉があるので、一応は念仏踊の中に入れられているようです。もともと、この踊りは旧盆(旧7月13、14日)に行われていたものです。高見島には浦と浜との二つの集落があって、その集落の中間にある海浜まで来て二つの集落の者が踊っていたようです。まず踊りのはじめに
鹿島の神のかなめ石
と歌い、それからは中央の者が太鼓を打って踊り円陣を作った周囲の者がナモデナモデと囃し立てます。ここで武田明氏が注目するのはせんだんの本の枝を持った者が先頭に立って参加することです。せんだんの木は、盆に訪れて来る精霊のための依代なのかもしれないと武田氏は、次のように推測します。

遠い常陸の国の鹿島の信仰に見える鹿島送りの行事、或いはその年の作物の豊凶や一年間のうらないを告げていた鹿島の言ぶれなどが背景にあってこのような歌詞が海を越えて伝わり、やがてはそれが念仏踊と習合したと云うのです。何れにしても、高見島のナモデ踊りは讃岐の各地に見る念仏踊とは異種のものだ。

 最後に武田明氏は次のような文で閉めます。
ナモデ踊り以外の念仏踊はそのほとんどが法然上人との間に何らかのつながりがあったことを伝えている。滝宮念仏踊では建久四年に法然上人が讃岐に配流された時に念仏修行を里人に説きこの踊りを振りつけしたと伝えている。はたしてそういう事があったかどうかは考察しなければならないが、南無阿弥陀仏の名号を唱えながら踊る念仏踊が法然上人の念仏修行に結びついてこうした伝説となったものであろう。

これに対して、讃岐叢書民俗編の筆者は、讃岐の念仏踊りの起源は法然上人ではない。それは時衆の一遍の踊り念仏をルーツとするものだという立場に立っています。私も後者を支持します。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 「武田 明  雨乞踊りの分布とその特色    讃岐雨乞踊調査報告書(1979年)」
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 江戸時代の高松藩では、次の四つの踊組が滝宮神社の夏祭り(旧暦7月25日)に風流念仏踊を奉納していました。           奉納順
①阿野郡北条組(坂出市) 「丑・辰・未・戊」の年
②阿野郡南条組(綾川町)   「子・卯・午・酉」の年
③鵜足郡坂本組(丸亀市飯山町)  「賞・巳・中・亥」の年
④那珂郡七箇村組(まんのう町)   「丑・辰・未・戊」の年
この中の①北条組と④七箇村組は同年奉納で、全体では3グループで三年一巡の奉納になります。これを「順年」と呼んでいました。。

前回は、19世紀初頭に起きた北条踊りを巡る争論の調停書を見ながら、北条念仏踊りについて、次のようにまとめておきました。
①北条念仏踊を構成する村々は、阿野郡の10カ村(青海・高屋・神谷・鴨・氏部・西庄・林田・江尻・福江・坂出)であったこと。
②これらの10ヶ村で担当役割や人数や各寺社への奉納順が決められていたこと。
③7月25日の滝宮への奉納に前後して、10ヶ村の寺社25ヶ所へ奉納が行われていたこと
④役割配分や奉納順をめぐって争論が起きたが、それを調停する中で運営ルールが形成されたこと
⑤北条組の主導権を握っていたのは、青海・高屋・神谷村の三ヶ村であったこと
⑥その傘揃え(出発式)が神谷神社で行われていたこと。
⑦以上からは、北条念仏踊りは神谷神社周辺の中世在郷村が宮座を組織して、奉納していた風流踊りだったこと
⑧そのプロデュースに、滝宮(牛頭天王)社の龍燈寺の社僧(聖や修験者)が大きな役割を果たしていたこと

今回は、その後の史料でどんな点が問題になっているのかを見ていくことにします。

坂出 大藪・林田
阿野郡北条 高屋・青海村

調停書が出されて約10年後の文政元(1818)年7月の書簡史料には、次のように記されています。
一筆啓上仕候、然者、滝宮御神事念仏踊当年順番御座候、前倒之通来廿五日踊人数召連滝宮江人込御神事相勤候様仕度奉存候、御苦労二奉存候得共、各様も彼地者勿論郡内御出掛被成可被下候、右為可得其意如此御座候、以上、
高屋 善太郎
          神谷 熊三郎
青海 良左衛門
七月十二日
渡辺与兵衛 様
渡辺七郎左衛門 様
尚々、村々仲満共出勤の義并に出来之幡・笠鉾等、才領与頭相添、来二十四日朝正六ツ時神谷村神社へ相揃候様御触可被下候、又、道橋損の分亡被仰付可被下候、
  意訳変換しておくと
①一筆啓上仕候、滝宮の神事念仏踊の当年の当番に当たっています。つきましては従来通り、7月25日に踊り込み員数を引き連れて、滝宮神前での奉納を相務めるよう準備しております。ご多用な所ではありますが、みなみな様はもちろん、郡内から多くの人がご覧いただけるよう、御案内いたします。以上、
高屋 善太郎
          神谷 熊三郎
青海 良左衛門
なお、村々から参加者や幡・笠鉾など、道具類などについては組頭などが付き添うことになっています。24日早朝六ツ時に、神谷村神社に習合するように触書を廻しています。
又、滝宮に向かう街道や橋などの損傷があれば修繕するように仰せつけ下さい。

滝宮への踊り込みは7月25日です。その2週間前の7月12日に、高屋・神谷・青海の各村庄屋の連名で大庄屋の渡邉家へ送られた書簡です。準備状況と、当日の出発時刻が大庄屋に報告されています。また、滝宮への街道で道路や橋に破損がある場合には、修理するように依頼しています。まさに、村々を挙げて一大イヴェントで、参加者には晴れ姿であったことがうかがえます。

この報告に対しての大庄屋渡辺家からの指示書が次の書簡です。
②以廻申入候、然者、三ケ庄念仏踊当年者順年二付、踊候段申出候、依之先例の通滝宮始村々江各御出勤可有之候、且定例出来り之幟・傘鉾も才領与頭相添、来二十四日正六ツ時神谷氏宮迄御指出可有候并に念仏踊通行の道橋等損有之候ハバ取繕等の分前々の通御取計可有候、
一 先年ヨリ右踊者、三日ニ踊済来候所、近頃緩急相成、四日宛相掛り、一日相延候テも無益之失脚不少義二付、当年ヨリ滝宮江者之中入込、未明ヨり踊始候様致度候、兼テ三ケ村江者、右之趣申付御座候、各ニも朝七ツ時迄二御出揃可有之候、為其如此申入候
渡辺与兵衛
七月十四日
鴨   氏部   林田 西庄  江尻   福江 坂出  御供所
右村々政所中

  意訳変換しておくと
③各庄屋からの書簡報告で以下のことを確認した。当年の滝宮への踊り込みは三ケ庄(高屋・神谷・青海)が順年で、先例の通り、滝宮や各村々への村社への奉納準備が進められていること。これについては、従来通りの幟・傘鉾を準備し、これに組頭が従うこと、24日六ツ時(明け方4時)に神谷神社に集合すること、念仏踊が通行する道や橋の修繕整備などを行う事。

一 もともと北条組の念仏踊は、各村社への踊りも含めて3日間で終了していた。それが近年になって4日かかるようになってきた。巡回日数が一日延びると費用も増大する。その対応策として今年からは夜中に滝宮入りして、未明から踊り始めることとする。(そして、滝宮から帰った後で、予定神社の巡回を確実にこなすことにする。)このことについては、かねてより三ケ村へは伝えてある。他の八村の政所(庄屋)も朝七ツ時(午前3時頃)には集合いただきたい。

以上のように、この年は滝宮での念仏踊の日程の短縮が図られたこことを押さえておきます。
現代と江戸の時刻の対応表 | - Japaaan
 
3ケ村庄屋からの書簡を確認した上で、従来と異なる日程変更を申しつけています。
それは、従来からの踊り奉納は次のように決められていました。
①滝宮奉納前日の24日は、神谷村で笠揃を行い、その後に、清立寺 → 高屋村の二社 →白峯青海村四社 → 高屋浜の塩竃大明神と遍照院
②25日は、滝宮二社の踊り込みの後に、鴨村一社 → 氏部村一社 → 西庄三社
③26日は、坂出一社 → 福江村2社 → 江尻村一社 → 林田村四社

ところが「近頃緩急相成、四日宛相掛り、一日相延候テも・・・」と、3日でおこなっていた巡回が4日かかるようになったようです。これは、各村で行われる風流念仏踊り奉納が、庶民の楽しみでもあり、なかなか「打ち止め」できずに伸びたことが考えられます。
 以前に見たように高松藩から大政所の心得として下された項目の中に、「村入目(村の運営費)などは、できるだけ緊縮すること」とありました。渡邉家の大政所は、これを忠実に守ろうとしたようです。そのために、未明3時頃に集合して、滝宮に入って早朝から踊って、阿野郡に帰ってから、その日のうちに奉納先寺社を確実に巡回できるようにしようとしたようです。
 そのため未明から踊り始めること、そのため当日の神谷神社への集合が変更したことの確認を再度、責任村の三ヶ村の庄屋に通達しています。
 ここからは風流念仏踊りが庶民の楽しみで、できるだけ長く踊っていた、見ていたいという気持ちが強かったことがうかがえます。もともとは雨乞いのためではなく、各郷村で踊られていた風流踊りだったのです。人々にとって、楽しみな踊りで雨乞いに関係なく踊られていたからこそ起きることです。雨乞いのために踊られると言い始めるのは、史料では近代になってからです。
それでは、雨乞いはどこが行っていたのでしょうか?
 高松藩の公式な雨乞祈祷寺院は、白峯寺でした。最初に高松藩が白峰寺に雨乞いを命じた記事は、宝暦12年(1762)のものです。雨が降らず「郷中難儀」しているので、旧暦5月11日に髙松藩の年寄(家老)会議で白峯寺に雨乞祈祷が命じられ、米5俵が支給されています。この雨乞いの通知は、白峯寺から阿野郡北の代官と大政所へ伝えられています。28日に「能潤申候」と記されているので本格的な降雨があったようです。白峰寺の霊験の強さが実証されたことになります。こうして白峯寺には、雨乞い祈願の霊地として善如龍王社が祭られるようになります。
P1150747
白峯寺の善女龍王社

19世紀になると、阿野郡北条の村々も白峯寺に雨乞い祈祷を依頼するようになります。
文化第四卯二月御領分中大政所より風雨順行五穀成就御祈蒔修行願来往覆左之通、大政処より来状左之通
一筆啓上仕候、春冷二御座候得共、益御安泰二可被成御神務与珍重之御儀奉存候、然者去秋以来降雨少ク池々水溜無甲斐殊更先日以来風立申候而、場所二より麦栄種子生立悪敷日痛有之様相見江、其上先歳寅卯両年早損打続申次第を百姓共承伝一統不案気之様子二相聞申候、依之五穀成就雨乞御祈蒔御修行被下候様二御願申上度候段、奉伺候処、申出尤二候間、早々御願申上候と之儀二御座候、
近頃乍御苦労御修行被下候様二宜奉願上候、右御願中上度如斯御座候、恐慢謹言
二月             
和泉覚左衛門
奥光作左衛門
三木孫之丞
宮井伝左衛門
富家長二郎
渡部与兵衛
片山佐兵衛
水原半十郎
植松武兵衛
久本熊之進
喜田伝六
寺嶋弥《兵衛》平
漆原隆左衛門
植田与人郎
古木佐右衛門
山崎正蔵
蓮井太郎二郎
富岡小左衛門
口下辰蔵
竹内惣助
白峯寺様
   意訳変換しておくと                                                                 
一筆啓上仕候、春冷の侯ですが、ますます御安泰で神務や儀奉にお勤めのことと存じます。さて作秋以来、降雨が少なく、ため池の水もあまり貯まっていません。また。強い北風で場所によっては麦が痛み、生育がよくありません。このような状態は、10年ほど前の寅卯両年の旱魃のときと似ていると、百姓たちは話しています。百姓の不安を払拭するためにも、五穀成就・雨乞の祈祷をお願いしたいという意見が出され、協議した結果、それはもっともな話であるということになり、早々にお願いする次第です。修行中で苦労だとは思いますが、お聞きあげくださるようお願いします。
右御願中上度如斯御座候、恐慢謹言
 庄屋たちの連名での願出を受けて、藩の寺社方の許可を得て、2月16日から23日までの間の修行が行われています。雨が降らないから雨乞いを祈願するのではなく、春先に早めに今年の順調な降雨をお願いしているのです。この祈願中は、阿野郡北の村々をはじめ各郡からも参詣が行われています。
 こうして、白峰寺は雨乞いや五穀豊穣を祈願する寺として、村の有力者たちが足繁く通うようになります。白峯寺でも祈祷を通じて、地域の願いを受け止め、「五穀成就」を願う寺として、人々の信仰を集めるようになっていきます。そして周辺の村々からの奉納物や寄進物が集まるようになります。
 ここで確認しておきたいのは、北条念仏踊ももともとは雨乞い踊りではなかったということです。
雨乞いは、高松藩の決めた白峰寺の験のある僧侶の行う事です。験のない庶民が雨乞いが祈願しても、効き目はないというのが当時の人々の一般常識でした。だから、験のある修験者や聖に頼ったのです。当時の庶民は、雨乞いのために念仏踊りを踊っているとは思っていなかったのです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
      坂出市史近世(下)156P 北条念仏踊
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滝宮念仏踊 讃岐国名勝図会
滝宮念仏踊り 滝宮神社への踊り込み(讃岐国名勝図会)
近世はじめの生駒藩の時代には、滝宮神社の夏祭り(旧暦7月25日)には、5つの踊組が念仏踊を奉納していました。その内の多度郡の鴨念仏踊りは、讃岐が東西に分割され、丸亀藩に属するようになると、高松藩は奉納を許さなくなったようです。そのため高松藩下では、次の四つの踊組の奉納が明治になるまで続きました。 
                                                                  奉納順
①阿野郡北条組(坂出市) 「丑・辰・未・戊」の年
②阿野郡南条組(綾川町)   「子・卯・午・酉」の年
③鵜足郡坂本組(丸亀市飯山町)  「申・巳・中・亥」の年
④那珂郡七箇村組(まんのう町 + 琴平町)   「丑・辰・未・戊」
4組の内の①北条組と④七箇村組は同年奉納で、各組は三年一巡の奉納になります。これを「順年」と呼んでいました。②③④については、以前に何度か紹介しましたが、①の北条組については、何も触れられませんでした。新しい坂出市史を眺めていると、北条組のことが紹介されていました。読書メモ代わりにアップしておきます。テキストは、「坂出市史近世(下)156P 北条念仏踊り」です。

坂出市史1
坂出市史
北条組が、どんな村々から構成されていたのかを見ていくことにします。  
滝宮念仏踊諸役人定入目割符指引帳
那珂郡七箇村組の組織表

 坂本組や七箇村組・鴨組などは、中世のいくつかの郷からなる宮座で構成されていました。そのため近世では10ヶ村近くの村々から構成されていたことは以前にお話ししました。それでは、北条組はどうなのでしょうか。

阿野郡北条の郷
中世阿野北条の郷名

 寛政2(1791)年12月、北条組内の高屋・神谷村と青海村の間で各村社へ念仏踊り奉納順等をめぐって争論が起きます。その御裁許が寛政6(1794)年8月に関係各村に通達されています。これが「念仏一件留」(白峯寺所蔵)で『坂出市史』資料に収録されています。
この争論の調停書「滝宮念仏踊次第書出覚」には、次のように記されています。
踊順左之通                 
一 滝宮二社     七月二十五日
一 前日廿四日  神谷村笠揃仕、夫ヨり清立寺、高屋村氏神二社、白峯青海氏四社、高屋浜塩竃大明神并遍照院
一 廿五日 滝宮二社、鴨村一社、氏部村一社、西庄三社
一 二十六日 坂出一社、福江村弐社、江尻村壱社、林田村四社
右之通古来より御神事相勤来申候、尤、御法度絹布も御座候得共、持来并借用来申候、以上、
寛政三亥年十二月  
      高屋村       久次郎
           神谷村政所          恒蔵
                青海村政所兼務      渡辺五郎右衛門
右の通り御尋ニ付 御役所江指出申候
  意訳変換しておくと
①滝宮奉納前日の24日は、神谷村で笠揃を行う。
②その後に、清立寺 → 高屋村の二社 →白峯青海村四社 → 高屋浜の塩竃大明神と遍照院
②25日は、滝宮二社の踊り込みの後に、鴨村一社 → 氏部村一社 → 西庄三社
③26日は、坂出一社 → 福江村2社 → 江尻村一社 → 林田村四社
以上の通り、古来より御神事として奉納してきた。なお御法度の絹布も着用するので、持参・借用については黙認願いたい。以上、
ここからは、北条組は24日に神谷神社から村社などへの巡回奉納が始まり、中日の25日早朝に滝宮に踊り込み、その帰りに鴨・氏部・西庄の神社に奉納しています。そして、最終日26日に、坂出・福江・江尻・林田の各神社に奉納しています。

坂出 阿野郡北絵図
阿野郡北絵図(江戸時代前期)

ここからは次のようなことが分かります。
①北条念仏踊を構成する村々は、阿野郡の10カ村(青海・高屋・神谷・鴨・氏部・西庄・林田・江尻・福江・坂出)であったこと。
②滝宮への奉納に前後して、10ヶ村の寺社への奉納が3日間で行われていたこと
③傘揃え(出発式)が神谷神社で行われていたこと。
④阿野郡の北の内、乃生・本沢は、入っていないこと
 以前に坂本念仏踊が、もともとは鵜足都内の、川津郷・坂本郷・小川郷・二相郷の計10ケ村からなる踊り組だったことはお話ししました。これは、那珂郡七箇村組や多度郡鴨組も同じです。

神谷神社 讃岐国名勝図会2
神谷神社(讃岐国名勝図会)
北条念仏踊りも、神谷神社の周辺の郷村が宮座を組織して、奉納していた風流踊りだったことが裏付けられます。そのプロデュースに、滝宮の龍燈寺の社僧(聖や修験者)が大きな役割を果たしたと私は考えています。
 滝宮念仏踊りは、もともとは、各郷社に奉納される風流念仏踊りでした。それが滝宮神社に踊り込むようになります。その際に、もめるのが村社の巡回順番です。順番や役割をめぐってどの組でも、争論が起きています。争論の末に、順番が明記されてルールになっていきます。
 それでは北条組は、各村々のどんな寺社を巡回して念仏踊りを奉納していたのでしょうか?

坂出 大藪・林田
阿野郡北図拡大(青海・高屋・林田周辺)
調停書の「念仏踊行列の定并に村々列左の通」は、次のように記します。   
右の通の行列ニテ、郡内宮々踊村々割之列
神谷村先備之分
神谷村  五社大明神     同 村  立寺
氏部村  鉾宮大明神     林田村  祇園宮
江尻村  広瀬大明神     鴨 村 加茂大明神
西庄村  別宮大明神
〆 八ケ所
高屋村先備之分
高屋村  春日大明神      同 村 崇徳天皇
同 村  塩釜大大明神  同 村 遍照院
林田村 惣社大明神 同 村 弁才天
坂出村 八幡宮 西庄村 国津大明神
〆 八ケ所
青海村先備之分
青海村  白峯寺        同 村  崇徳天皇
同 村  春日大明神      同 村  荒神
同 村  厳島大明神      林田村  牛頭天皇
福江村  魚御堂
〆 七ケ所
ここからは、3ヶ村の担当が次のように決めらたことが分かります。
①滝宮神社は、神谷・高屋村
②滝宮天満宮は、青海村
③各村々の寺社については、神谷・高屋・青海が上記のように分担して指揮をとる
④具体的な奉納寺社の名前が挙がっているが、多いのは3ケ村で、他の村は1ヶ所のみ。
坂出 鴨
阿野北絵図(神谷・鴨・氏部・西庄)

以上からは、10ヶ村がフラットな関係でなく、3ケ村(神谷・高屋・青海)の指導権で運営管理されていたことがうかがえます。ここでも争論を経て、ひとつのルールが定着していく過程が見えて来ます。
坂出 上鴨神社
鴨村の上賀茂神社(坂出市)
 こうして見ると北条念仏踊の一団は、坂出市内の合計23の寺社 + 滝宮の2社 =25社を、旧暦の7月25日前後の3日間で巡回し、踊り奉納していたことになります。真夏の炎天下の中を徒歩での移動は、なかなか大変だったことでしょう。それを多くの村人が鎮守の森で待ち受け、楽しみにしていました。地域の一大イベント行事でもあったのです。

滝宮念仏踊 那珂郡南組
那珂郡七箇村組の諏訪神社への奉納図 
以前にお話ししたように、七箇村組の諏訪神社(まんのう町真野)への奉納図には、周囲に有力者の桟敷小屋が建ち並んでいます。桟敷小屋は、宮座の名主などだけに許された権利で、財産として売買もされていたことは以前にお話ししました。ここからも念仏踊りが、もともとは中世の風流踊りに由来することがうかがえます。多くの村人が待つ各村々の鎮守の森に、踊りが奉納されていたことを押さえておきます。
 次に北条念仏踊りの準備品目・出演人数・衣装などを見ておきましょう。寛政6(1794)年の調停書「滝宮念仏踊次第書出覚」には、次のように記されています。
① 幟木綿拵 拾弐本 氏部  林田  西庄  江尻  坂出  福江
② 笠鉾      壱本    加茂村 但、上花色水引金揮、
一 ほら貝吹  拾弐人  此人数増減御座候、神封左に在り
一 日の丸  壱本  神谷村
念仏音替印立申候、并に本太鼓順年二両村替合申候、太鼓打出不申村ヨり指出申候、
一 半月    壱本    青海村
一 長刀振    弐人    神谷村 高屋村 但、其足并木綿立付着用仕候、
③大打物役  二十四人  神谷村 高屋村 青海村 但、刀之柄二弐尺計之柄を付、持団扇壱本、
一 入場太鼓打 壱人    神谷村  但、年齢拾弐、三歳素麻帷子紅たすき、嶋絹立付着用、
一 太鼓持   壱人     同村 但、木綿薫物着用、
一 同鼓打       神谷村 高屋村
 但、帷子麻上下着用、三ケ村ヨり勝手次第出来り増減御座候、
一 笛吹 弐人  但、右同断、
一 下知 壱人    高屋村
 但、帷子緞子、無袖羽織・袴着用、脇折・大団・念仏音替下知仕候、
一 本太鼓打 壱人  高屋村 神谷村
 但、年齢拾四、五歳帷了縮緬単物、太鼓掛縮緬、足元嶋絹立付着用、
一 同 供  壱人  後追役 但、持道具団、木綿単物仕着せ、
一 上ヶ場貝吹 壱人 神谷村 但、帷子絹、羽織小倉立付着用、
④ 小踊    廿人  高屋村 神谷村 青海村
 但、年齢七、八才花笠、帷子ちりめん単物、羽織緞子、儒子金揮無袖羽織着用、
⑤ 警固    三拾人  高屋村 神谷村 青海村  
 但、帷子絹、羽織・袴着用、杖
⑥ 鉦打    五拾八人  高屋村 神谷村 青海村
 但、単物帷子、羽織立付着用、
⑦ 輪踊    百二十人  高屋村 神谷村 青海村
 但、帷子、木綿単物、笠二色紙切かけ、団壱木ツヽ持、
⑧ 固役         大政所 小政所
 但、帷子麻上下刀帯仕来申滝宮相済、郡中ハ絹羽織踏込着用、
①の「一 幟木綿拵  拾弐本 氏部  林田  西庄  江尻  坂出  福江」というのは、「南無阿弥陀仏」と書かれた木綿の幟を準備するのが「氏部村以下の6ヶ村 × 2本=12本」ということです。
滝宮念仏踊り 正徳の昔(一七一一年)から踊り場にたて続けられている北村組の幟

北村組の幟(正徳元年1711年以来使用されてきた幟)

②は「上が花色で水引・金揮の笠鉾1本」を準備するのが、加茂村担当ということになります。
滝宮の念仏踊り | レディスかわにし
坂本組の赤い笠鉾
以下、「備品関係」物品があげられ、準備する村名が記されます。
③「一 大打物役  二十四人  神谷村 高屋村 青海村 但、刀之柄二弐尺計之柄を付、持団扇壱本、」の「大打物(おおたちもの)」は「太刀、槍、薙刀(なぎなた)などの長大な武器の総称」です。
「神谷村・高屋村・青海村の三村 × 8人 =24人」で「但し、刀の柄に二尺(約60㎝)をつけ、団扇を1本持つ」とあります。このように全体数と、それを担当する村名、そして但書きが続きます。
④の「小踊 廿人 高屋村 神谷村 青海村 但、年齢七、八才花笠、帷子ちりめん単物、羽織緞子、儒子金揮無袖羽織着用」は、子踊りに三ヶ村から20人 年齢は7・8歳で、以下着用衣装が記されています。
人数が多いのが⑤ 警固30人 ⑥鉦打 58人 ⑦ 輪踊120人で、この3役だけで208人になります。総数は三百人を越える大部隊です。この中心は、高屋村 神谷村 青海村の「三ヶ村」です。ここからは、北条組はこの三ヶ村を中心に、風流念仏踊が踊られるようになったことがうかがえます。
⑥の固役には、阿野郡の大政所と小政所が並びます。そして衣装は、滝宮で踊る場合は、帷子(かたびら)麻の上下で帯刀します。郡内の村社巡回奉納の時は、絹の羽織踏込の着用です。以上が、役割と担当村名でした。
滝宮神社・龍燈院
滝宮の龍燈院(滝宮神社と天満宮の別当寺:讃岐国名勝図会)
 滝宮神社は、明治以前は天皇社(滝宮牛頭天王社)と呼ばれていました。
今でも地元の人達は滝宮神社とは呼ばずに「てんのうさん」と親しみを込めて呼ぶそうです。この神社を管理運営していたのが別当の龍燈院でした。滝宮神社と天満宮は、龍燈寺管理下にひとつの宗教施設として運営されていました。それが、明治の神仏分離で、龍燈院が廃寺となり姿を消し、ふたつの神社が残ったことになります。

龍燈院・滝宮神社
両者に挟まれるようにあった龍燈寺

  滝宮牛頭天王(権現)とよばれた滝宮神社は、その名の通り牛頭天王信仰の宗教施設で、牛や馬などの畜産などに関わり、馬借などの運輸関係者や農民達の強い信仰を集めました。同時に、滝宮牛頭天王はスサノオの権化ともされ「蘇民将来伝説」とも結びつけられて流布されます。
本山寺」の馬頭観音 – 三題噺:馬・カメラ・Python
四国霊場本山寺の本尊 馬頭観音
 中讃の牛頭天王信仰の拠点が滝宮神社で、三豊の拠点が四国霊場の本山寺でした。
本山寺の本尊は馬頭観音で、多くの修験者や聖達がこの札を周辺地域に配布していたようです。滝宮神社の別当寺は龍燈寺も、聖達の集まる寺でした。その名の「龍燈」とは熊野信仰で海からやってくる龍神の目印として掲げられた灯りのことです。この寺が、もともとは熊野信仰と深く結びついた寺院であることがうかがえます。熊野行者の拠点だった龍燈寺は、中世には修験者や聖達のあつまるお寺になっていきます。彼らは「牛頭天王=スサノオ」混淆説から「蘇民将来の子孫」のお札や「苗代や水口」札を配りながら農民達の信仰を集めるようになります。
蘇民将来子孫家門の木札マグネット
牛頭天王信仰の聖達が配布した「蘇民将来の子孫」のお札

滝宮の龍燈院の牛頭天皇信仰の拡大戦略は、次のようなものだった私は考えています。
①龍燈寺の社僧は(修験者や聖)たちは、丸亀平野の各村々をめぐり檀那にお札を配布し、奉納品を集め信者を増やした。
②その際に、彼らはいろいろな情報だけでなく、風流踊りや念仏踊りを各村々に伝える芸能プロデューサーの役割も果たした。
④聖達の指導で、風流踊りは盆踊りとして踊られるようになった
⑤盆踊りとして踊られるようになった風流念仏踊りは、滝宮(牛頭天皇)社の夏祭り(旧暦7月25日)に奉納されるようになった。
これを逆の視点から見ると、滝宮に念仏踊りを奉納していた鵜足郡坂本郷・那珂郡真野郷・多度郡賀茂郷などは、滝宮牛頭権現の信者が一円的にいたエリアだったことになります。牛頭天王の信者達が、自分たちの踊りを滝宮神社に奉納していたと私は考えています。

滝宮神社と龍燈院(明治になって)
滝宮神社と龍燈院(明治になっての在りし日の龍燈院絵図)
       最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
坂出市史近世(下)156P 北条念仏踊り
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南鴨念仏踊
南鴨念仏踊組は、かつては滝宮への踊り込みをおこなっていたと伝えられています。しかし、近世の高松藩の関係文書を見ると、南鴨組の念仏踊りが奉納された記録はありません。また南鴨組は、どのくらいの村々によって構成されていたのでしょうか。その辺りを、史料で見ていくことにします。テキストは、「多度津町誌史料編140P 南鴨山寺家文書(念仏踊り文書)」
多度津町誌 購入: ひさちゃんのブログ
 
まず、元和2年の多度郡大庄屋の伊次郎兵衛の各庄屋への触書を見ていくことにします。
以上
一筆申入候 乃当年たきノ宮ねんふつ(滝宮念仏)あたりとしの由申候。唯今迄は草木能様に見申し候。ねんふつの儀弥入候て可然かと存候。いかヽ各々被存候哉。御かつてん候はヽ名付所にてんをかけ可給候返事次第吉日以寄相御座候様左右可申候 為其申触候 恐々謹言
           伊次郎兵衛
六月十一日               正盛(花押)
元和弐とし(異筆:1612年)
  意訳変換しておくと
 一筆申入れる。今年は鴨組が滝宮念仏(踊り)奉納の当番年となっている。念仏の踊り込みについて、どう考えているのか、各々の意見をお聞きし、その上で返事したいと思う。ついては、吉日に集まって協議したいと思うので、その触書きを回覧する。 恐々謹言
            伊次郎兵衛
六月十一日                正盛(花押)
元和弐とし(異筆:1612年)
触状の回覧先は次の通りです。
元和2年の次郎兵衛の各庄屋への触書

回覧状が廻された村々の庄屋の一覧になります。これが滝宮念仏踊の鴨組の構成村であったが分かります。その村々を見てみると、北鴨と南鴨だけではありません。白方を除く多度津のほぼ全域と、善通寺から多度郡の最南端の大さ(大麻)までを含んでいます。

多度郡の村々
多度郡の村々(讃岐国絵図)

ここからは次のようなことが分かります。
①元和2(1612)年の生駒藩の時代には、鴨組も滝宮牛頭天王(現滝宮神社)への念仏踊りの奉納を行っていたこと。
②踊り込みには当番組があって、何年かに一度順番が回ってくること
③念仏踊り鴨組は、現在の「多度津町 + 善通寺市」の広範な村々で構成されていたこと。
私はこの史料を見るまでは、鴨組の念仏踊りが滝宮に奉納されていたことについては、確証が持てませんでした。しかし、この史料からは生駒藩時代には、鴨組は踊り込みを行っていたことが分かります。同時に、中世の多度郡の中心的な郷社は賀茂神社であったこと。その賀茂神社に、多度郡の有力者が宮座を編成し、念仏踊りを奉納していたことがうかがえます。これは以前にお話した鵜足郡の坂本念仏踊り、那珂郡南部の七箇村念仏踊りと同じです。つまり、中世に起源を持つ風流踊りということになります。

讃岐の郷名
讃岐の古代の郡と郷

 滝宮念仏踊りには、以前にお話ししました。
①滝宮牛頭天王の夏祭りの旧暦7月25日に奉納された踊り念仏であること
②それを差配していたのは、別当寺の龍燈院の社僧であったこと。
③龍燈院は、牛頭天王のお札(蘇民将来子孫・苗代・田んぼの水口)を、社僧達が配布し財政基盤としていたこと
④滝宮牛頭天王へ踊りを奉納する各組は、その信者であったこと
もう一度、回覧状の内容を見てみます。
これを見ると従来通りの奉納するというのでなく、どうするかを協議するために事前に集まろうという内容です。ここからは、従来通りの踊り奉納について、異論がでていることがうかがえます。それの原因については、ここからは分かりません。
 次に10年後の元和8(1622)年の入谷外記文書を見ていくことにします。
以上
来二十五日滝之宮へ両鴨村より念仏入候に付郡中としてけいこ(稽古)彼是肝煎肝要に候。為其に申遣候也
(入谷)外記 
七月五日         盛正(花押)
多度郡政所中江
意訳変換しておくと
以上
来月の7月25日は滝宮へ両鴨村が念仏踊りを奉納することになっている。(多度)郡中として稽古をすることが肝煎肝要である。そのことを申伝える。

書状の主は「外記」とあります。外記は、生駒藩要職にあって那珂(仲)郡と多度郡の管理権を握っていた入谷外記のことのようです。興泉寺(琴平町)は、当時の那珂郡榎井村の政所を勤めていたとされ、寛永年間(1624~44)の政所文書を伝えます。その中に、寛永6(1629)年滝宮念仏踊で、七箇村組と坂本組との間に起こった先番・後番の争いを扱って和解させた「入谷外記書状」があるようです。どちらにしても入谷外記は、生駒藩の中枢部にいた人物です。その彼が多度津の政所の中江氏に対して「滝宮念仏踊りについて、しっかり準備・練習して奉納せよと」と書状を送っています。ここからは、生駒藩が念仏踊りの奉納に対して、強く肩入れしていたことがうかがえます。別の見方をすると、入谷外記と龍燈院の住職が懇意であったのかもしれません。
 もうひとつ穿った見方をすると、先ほど見たように元和2(1612)年には、滝宮への踊奉納について、不協和音が組内で出ていた気配がありました。それを見越して、入谷外記が龍燈院の住職の依頼を受けて「しっかり準備・練習して奉納せよと」という文書を差し出したのかも知れません。
 入谷外記の達しを受け手の庄屋たちの動きが分かるのが「小山喜介文書(元和8年)です。
尚々御請所御蔵入共に早々十二日に南鴨へ御より候て御談合可有候。くわしくは後々以面可申入候
以上
南鴨念仏之儀に付而けき殿より御状廻申候 左様候へは来十二日に南鴨へ御より候て万事御談合可被成候、外記殿もはじめての儀候間一入念を入候へと被仰侯間其心得尤に候
此廻状名ノ下に皆々判被成候へく侯。 すなはちけき殿御めにかけ可申候  以上
       元八        小山 喜介 (花押)

意訳変換しておくと
今回の念仏踊り奉納について、7月12日に南鴨へ集まって協議したい。詳しくは、後日顔合わせしたときにお伝えする。 以上
南鴨組の念仏踊りについて、外記殿から御状廻が届いた。このことについて12日に南鴨へ集まったときに談合(協議)したい。外記殿も、はじめてのことなので入念に準備・稽古するようにと書き送ってきた。その心遣いはもっともなことだ。なお、この廻状名の下に皆々の判を(花押)を入れて欲しい。これも外記殿に御覧いただくつもりだ。
大庄屋の小山 喜介が触書を廻した一覧表は次の通りです。

小山 喜介が触書を廻した一覧表
「小山喜介文書(元和8年)の庄屋触状の回覧先一覧
多度郡 明治22年
多度郡の村々

   元和2(1612)年の構成メンバーと比べると、白方3村が加わっています。文中の「はじめてのことなので入念に準備・稽古せよ」という指示は、新加入の白方三村への指導を云っているのでしょうか。外記からの指示文書には「(多度)郡中として稽古をすることが肝煎肝要」ともありました。ここからは、それまでは白方三村なは、参加していなかったのが、この時点から参加するようになったこと。初めてのことなので「(多度)郡中として稽古せよ」ということになるのかもしれません。
7月12日の会合で決定した各村の「滝宮念仏道具割」を一覧化したものが下図です。
南鴨組滝宮念仏道具割
南鴨念仏踊り「滝宮念仏道具割」(元和8年)
ここからは次のようなことが分かります。
①鴨組と呼ばれていたが、ほぼ多度郡全域の村々で構成されていたこと。
②各村々に踊り役やその人数が割り当てられていたこと。
③宮座による運営だったこと
④費用は村高に応じて、米高割当が決められていたこと

  「南鴨組」という名称から多度津の南鴨の人達だけによって、編成されていたように思いがちですが、そうではないようです。以前にお話しした坂本組・七箇村組と同じく、かつての郷社に各村の名主達などの有力者が宮座を編成し、奉納されていたことが分かります。
滝宮念仏踊諸役人定入目割符指引帳
那珂郡七箇村組の踊り編成表

多度津町史には南鴨念仏踊りのもともとの奉納先は賀茂神社の摂社牛頭天王だったと記されています。滝宮神社も神仏分離以前は牛頭天王社でした。
牛頭天王と滝宮念仏踊りの関係をもう一度整理しておきます。
①滝宮(牛頭天王)社を管理していたのは、別当寺の龍燈院。
②龍燈院の社僧(山伏)たちは、お札(蘇民将来子孫・苗代・田んぼの水口)を周囲の村々で配布していた
③彼らは宗教者であると同時に、芸能保持者で祭りなどのプロデュースを手がけたこと。
④当時讃岐でも大流行していた時衆念仏踊りを祖先供養の盆踊りや祭りの風流踊りにアレンジして、取り入れたのも彼らであること
⑤念仏踊りを滝宮に奉納していた踊組エリアは、滝宮牛頭天王の信仰エリアであったこと
このような関係を多度津周辺に当てはめてみると次のようになります
①中世に復興された道隆寺は、海に開けた交易センターの機能を果たした。
②多くの廻国修行者の拠点となり「学問寺」の役割も果たした。
③高野聖などの真言系の聖が、時衆系阿弥陀信仰をもたらし周辺で民衆の供養を営むようになった
④観音院は、堀江集落の墓地に建立された観音堂に住み着いた聖の活動からスタートした。
⑤播磨の広峯神社は、牛頭天王信仰の中心地であったが、そこから讃岐に廻国修験者(御師)がやってきて、牛頭天王信仰を拡げる。
⑥賀茂神社の中にも牛頭天王の摂社が勧進され、そこに奉納するために念仏踊りがプロデュースされる。
⑦鴨念仏踊りは、丸亀平野の牛頭信仰の拠点である滝宮に奉納されるようになる
     今回はここまでとします。続きは次回に
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「多度津町誌史料編140P 南鴨山寺家文書(念仏踊り文書)」

                        
佐文綾子踊りについて、いろいろな資料を集めています。分からないことは数多くあるのですが、佐文綾子に先行する那珂郡七箇念仏踊りが、どうして滝宮への踊り込みをしなくなったのかについてを、明らかにしてくれる資料が私の手元にはありません。資料がないままに以前には、次のように推察しました。
①七箇念仏踊りは、高松藩・丸亀藩・満濃池領(天領)の村々の構成体で、運営をめぐる意見対立が深刻化していた。
②天領の村々の庄屋たちは、運営を巡って脱退や会費支払い拒否も見せていた。
③そのような中で、明治維新の神仏分離で滝宮念仏踊りの運営主体である龍燈院(滝宮神社の別当寺)の院主が還俗した。
④そのため龍燈寺は廃寺となり、滝宮念仏踊りの運営主体がなくなり、自然消滅してしまった。
⑤その結果、滝宮念仏踊りは開催されなくなった。

阿野郡の郷
阿野郡の郷
それではその後の滝宮念仏踊りの復興は、どのように進んだのでしょうか。
今回は、明治になって踊られなくなっていた坂本念仏踊りがどのように復活していくのかを見ていくことにします。テキストは 明治に初期における坂本念仏踊りの復興 飯山町誌774Pです。

坂本村史(坂本村村史編纂委員会 編集・発行) / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋

明治初期の坂本念仏踊の復興について、『坂本村史』は次のように記します。(要約)
 明治2年(1869)2月、念仏踊復興のために、滝宮神宮社務・綾川巌の名で香川県参政へ願い出たが、何の連絡もなかった。明治11年(1878)七月になって、阿野郡人民総代泉川広次郎・川田猪一郎、県社天満神社祠掌田岡種重の二人が連署して、愛媛県令岩村高俊あて願書提出したところ、7月29日付で、次のような許可文書がくだされた。
書面頂出ノ趣聞届候条不取締無之様注意可致事 但シ最寄警察分署へ届出ズベシ
愛暖県高松支守
  意訳変換しておくと
提出された復興願いの書面について、聞届けるので、取締対象にならぬように注意して実施すること。但し、最寄警察分署へ実施届出を提出すること
愛媛県高松支守
当時は、香川県はなくなっていたので高松支所からの許可願となっています。
滝宮念仏踊り3 坂本組
坂本念仏踊り

これを受けて、次のような正式の許可願が提出されます。
滝宮県社天満神社及同所滝宮神社神事踏歌ノ儀、該社並組合村中、流例ノ神社之依テ執行御願滝宮踏歌神事ノ儀ハ予テ先般該社神官並鵜足部阿野部給代連署フ以テ願出御指令相成り則本年ハ右神事鵜足部順年二付任吉例来ル二十三日滝宮両社二於テ執行仕り来り候儀二付本年ハ東坂元村亀山神社真時村下坂神社川原村日吉神社西坂元村坂本神社ノ四社二於テ執行仕度就テハ祭器ノ内刀、護刀両器械フモ神事瀾内二於テ相用度此段奉願候 以上
明治十一年八月
組合村第五大区
第 八小区 鵜足部東小川村
第 九小区 同部東坂元村、真時村、川原村
第 十小区 同郡西坂元村、西小川村、西二村、東二村
第十一小区 同郡川津村
人民総代
鵜足郡東坂元村
同 郡川原村
同 郡真時村
同 郡西坂元村
愛媛県令 岩村高俊殿

前記願出之儀許可相成度最モ指掛候儀二付至急御指令相成度奥印仕候也
第五大区九小区長 東 条 友五郎
副小区長 寺 島 文五郎
十小区長 横 田   稔
副小区長 伊 藤 知 機
意訳変換しておくと
滝宮県社天満神社と滝宮神社神事である「踏歌(念仏踊り)」について、該当する神社や組合村々は、神事復活について、各社の神官代表、ならびに鵜足郡・阿野郡の代表者が連署して、許可申請を提出いたしました所、許可をいただきました。つきましては実施に向けた動きを進めていきますが、本年の神事は鵜足郡の担当で、日程は古来通り、23日に滝宮両社で執り行う予定です。その事前奉納を、次の4社で行います。東坂元村の亀山神社、真時村の下坂神社、川原村の日吉神社、西坂元村の坂本神社。なお、その際に祭器の内、刀、護刀についての取扱については、神事のために使用するものであることを申し添えます。 以上
明治11年八月
組合村第五大区
第 八小区 鵜足部東小川村
第 九小区 同部東坂元村、真時村、川原村
第 十小区 同郡西坂元村、西小川村、西二村、東二村
第十一小区 同郡川津村
人民総代
鵜足郡東坂元村
同 郡川原村
同 郡真時村
同 郡西坂元村
愛媛県令 岩村高俊殿

前記の祭礼復活許可をいただいた件について、至急御指令を下されるようにお願いいたします。
第五大区九小区長 東 条 友五郎
副小区長     寺 島 文五郎
十小区長     横 田   稔
副小区長     伊 藤 知 機
ここからは次のようなことが分かります。
①滝宮念仏踊りが「踏歌」と表現されていること。このあたりにも廃仏毀釈の影響からか、当局を刺激しないように、仏教的な「念仏踊り」という表現でなく、「踏歌」としたのかもしれません。
②滝宮両社への奉納以前に、事前に地元神社への奉納許可と、その日程を伝えています。
これに対し、次のような回答が下されています。
書面願出之趣祭典ニアラズシテ神社二於テ賑之儀ハ難聞届候事但八幡神社踏歌神事ハ祭典二際シ古例ナルフ以テ差許候儀二有之且自今如此願ハ受持神官連署スベキ儀卜可相心事
明治十一年八月十三日
愛媛県高松支庁
意訳変換しておくと
 各神社での事前の踊り奉納について、神社における祭典(レクレーション)であれば、許可しがたいが、八幡神社の踏歌神事で、古例なものであることを以て許可する。これより、この種の許可願は受持神官と連署で提出すること
明治十一年八月十三日
愛媛県高松支庁

   神社の祭礼復活についても、いちいちお上(政府)の許可を求めています。許可する新政府の地方役人も尊大な印象を受けますが、これは一昔前の江戸時代の流儀でした。それが抜けきっていないことが伝わってきます。
丸亀市坂本
       現在の丸亀市飯山町西坂本 
東坂本
東坂本
こうして念仏踊復興の動きは、鵜足郡の坂本村を中心に始まり、明治11(1878)年8月23日、亀山神社・下坂神社・日吉神社・坂元神社の四社で維新後最初の念仏踊りが奉納されたことを押さえておきます。

飯山町坂本神社
坂本神社(丸亀市飯山町)

ところが復活から約20年後の明治32年(1899)の念仏踊が踊られる年に台風のため中止となり、その後しばらく中断されます。
この背景については、飯山町誌は何も記しません。
大正2年(1913)に大干魃に見舞われ、中の宮で雨乞念仏踊奉納
これを機に、再び復興機運が盛り上がったようで、以後は、大正3、6、9、12年と3年毎に行われています。ところが、その後は小作争議のため中断します。それが復活するのは、昭和天皇御即位の大典記念事業の時です。そして昭和4年(雨乞いのため)、7年、10年に奉納されています。以後の動きを年表化します。
昭和13(1938)年、日中戦争のため中止
昭和14(1938)年、大早魅のため雨乞念仏踊
昭和16(1941)年、紀元2600百年記念として滝宮両神社で実施し、以後戦中は中断、
昭和27(1952)年 組合立中学校落成記念として実施
戦後は昭和28、31、34年と3年毎に奉納されてきましたが、以後は中止となりました。背景には、町村合併、経費問題、大所帯をとりまとめていくことの難しさ、宮座制の運営をめぐる問題などがあり、昭和34(1959)年の奉納を最後に途絶えます。
 復活の機運が高まってきたのは、1970年代の滝宮念仏踊りや佐文綾子踊りの国無形文化財指定に向けた動きです。
昭和48(1973)年秋、四国新聞社による「讃岐の秋まつり」に坂本念仏踊が有志で略式参加
昭和49(1974)年 飯山中学校落成記念行事に出演。
昭和55(1980)年 飯山町文化祭に特別出場
このような中で、坂本念仏踊りへの誇りと関心が高まり、後世に伝えてゆく必要があるという声が生まれてきます。こうした動きを受けて、昭和56(1981)夏に、保存会設置が決まります。
 坂本念仏踊保存会規約を挙げておきます。
第一条 木会は坂木念仏踊保存会と称し、事務所を飯山町教育委員会内に置く。
第二条 本会はこの地方に往古より伝わる郷土芸能坂本念仏踊を民俗無形文化財として後世に残し伝えてゆくことを目的とし、 一般町民により組織する。
第二条 本会に下記役員を置き任期は三年とする。
会 長 一名  副会長 二名
会計一名 監事二名
世話人 若千名
第四条 本会に顧問若千名を置く。
第五条 本会は毎年役員会を開き、下記要項により協議の上実施する。
一 日 時  八月下旬の日曜1日間
一 町内各神社に奉納
第1年目 亀山神社、下坂神社、東小川八幡神社
第2年目 三谷神社、坂元神社、八坂神社
第3年目 滝宮神社、滝宮天満宮、日吉神社
ここからは、保存会規約によって次の神社に奉納することになっていることが分かります。
東坂元 亀山神社  三谷神社
川  原 日吉神社
西坂元 坂元神社  王子神社
真  時 下坂神社
東小川 八幡神社
下法軍寺 八坂神社
滝  宮     滝宮神社  天満神社
亀山神社の情報| 御朱印集めに 神社・お寺検索No.1/神社がいいね・お寺がいいね|15万件以上の神社仏閣情報掲載
亀山神社(丸亀市飯山町)から仰ぐ飯野山
しかし、実際に3年間やってみて、経費や負担面を考慮して、1984年からは、次のように改められたと飯山町誌には記されています。
①滝宮両神社には、寅、巳、申、亥の年に3年毎に奉納
②滝宮から帰って、町内の二神社を年回りに奉納する
こうして見ると坂本念仏踊りには、次の4度の中断期があったことが分かります。
①幕末~明治11(1878)年まで
②明治32年(1899)~大正2年(1913)まで
③昭和16(1941)年~昭和27(1952)年まで
④昭和34(1959)年~昭和56(1981)年
その都度乗り越えてきていますが、その原動力となったのは、次のふたつが考えられます。
A 雨乞い祈願のため
B 天皇即位・起源2600祭・中学校新築などのイヴェント参加
Aについては、高松藩へ提出した坂本念仏踊りの起源については「菅原道真の雨乞成就への感謝のために踊る」と記されていて、この踊りがもとともは、自らの力で雨を降らせる雨乞祈願の踊りではなかったことは以前にお話ししました。それが近代になると、「雨乞祈願」のための踊りと強く認識されるようになったことがうかがえます。度々、襲ってくる旱魃に対して、近代の人達は雨乞い踊りをおどるようになったのです。

4344102-55郷照寺
宇多津の郷照寺 唯一の時宗札所(讃岐国名勝図会)

最後に念仏踊りの起源について、私が考えていることを記しておきます
 坂本念仏踊りは、中世の郷社に奉納されていた風流踊りです。それが、江戸時代の「村切り」で、近世の村々が作られ、村社が姿を現すと、夏祭りの祭礼に盆踊りや風流踊りとして奉納されるようになります。現在の滝宮念仏踊りの由緒の中には、法然の念仏踊りに起源を説くものがありますが、これは後世の附会です。法然と踊り念仏は、関係がありません。
①踊り念仏は、空也によって開始されたこと
②踊り念仏は、その後一遍の時衆教団によって爆発的な広がりをみせたこと
③そのため高野山を拠点にする聖たちが、ほぼ時宗化(念仏聖化)した時期があること
④その時期に、全国展開する高野聖たちが阿弥陀浄土信仰(念仏信仰)や踊り念仏を拡げたこと
⑤讃岐でその拠点となったのが、白峰寺や弥谷寺などの修験者や聖達の別院や子院であったこと
⑥中世においてもっとも栄えていた宇多津にも、いろいろな修験者や聖達が集まってきた。
⑥彼らを受けいれ、踊り念仏聖の拠点となったのが郷照寺。この寺は今も四国霊場唯一の時宗寺院
⑧この寺が、中讃地区で踊り念仏を拡げた拠点
⑨坂本郷は飯野山の南側で、大束川流域の宇多津のヒンターランドになり、郷照寺の時宗たちの活動エリアでもあった
⑩彼らの中には、滝宮牛頭天王社(滝宮神社)の別当寺・龍燈院に仕える修験者や聖達もいた。
⑪彼らは3つのお札(蘇民将来・苗代・田んぼの水口)の配布のために、村々に入り込み、有力者と親密になる。
⑫そんな中で、郷社の夏祭りのプロデュースを依頼され、そこに当時、瀬戸内海の港町で踊られていた風流踊りを盆踊りとして導入する。
⑬中世の聖や山伏たちは、村祭りのプロデューサーでもあり、「民俗芸能伝播者」でもあった。

高野聖は宗教者としてだけでなく、芸能プロデュースや説話運搬者 の役割を果たしていたと、五来重氏は次のように指摘します。
(高野聖は)門付の願人となったばかりでなく、村々の踊念仏の世話役や教師となって、踊念仏を伝播したのである。これが太鼓踊や花笠踊、あるいは棒振踊などの風流踊念仏のコンダクターで道化役をする新発意(しんほち)、なまってシンボウになる。これが道心坊とも道念坊ともよばれたのは、高野聖が高野道心とよばれたこととも一致する。
聖たちは、村祭りのプロデュースやコーデイネイター役を果たしていたというのです。風流系念仏踊りは、高野聖たちの手によって各地に根付いていったと研究者は考えています。

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一遍時宗の踊り念仏(淡路の踊屋:一遍上人絵伝)

 どちらにしても、滝宮牛頭天王社(滝宮神社)の社僧達が村々に伝えたのは、時宗系の踊り念仏でした。それが、各郷社で祖先慰霊の盆踊りとして、夏祭りに踊られ、7月25日には滝宮に踊り込まれていたようです。
龍燈院・滝宮神社
滝宮神社(牛頭天皇)の別当寺龍燈院

 戦国時代に中断していた滝宮への踊り込みを復活させたのは、高松藩初代藩主の松平頼重です。その際に、松平頼重は幕府への配慮として、遊戯的な盆踊りや、レクレーション化した風流踊りに、「雨乞い踊り」という名目をつけて、再開を認めました。そのため公的には、「雨乞い踊り」とされますが、踊っている当事者たちに「雨乞い」の認識がなかったことは、以前にお話ししました。雨乞いのために踊るという認識がでてくるのは、幕末から近代になってからのことです。
      最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

念仏踊り 八坂神社と下坂神社 : おじょもの山のぼり ohara98jp@gmail.com

参考文献 明治に初期における坂本念仏踊りの復興 飯山町誌774P
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滝宮念仏踊り
滝宮念仏踊り(讃岐国名勝図会)
 陶の親戚に盆礼参りに行くことを伝えると、「ちょうど滝宮念仏踊りのある日じゃわ。一緒に見に行かんな」と誘われました。実は、私は今まで一度も見たことがないので、いい機会だと思って「連れて行ってください。お願いします」と頼みました。
 今年になって佐文綾子踊りの事務的な御世話をすることになって、いろいろなことを考えるようになりました。この際、滝宮念仏踊りを見ながら、佐文念仏踊りについて考えて見たいと思ったのです。
 昼食を済ませて少し早めに会場に向かいます。

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てっきり、滝宮神社で踊られるものと思っていたら、昼の会場は滝宮天満宮でした。滝宮神社では、朝の8;30から奉納が行われていたようです。炎天下に朝昼のダブルヘッター公演です。演じる方は大変だと思います。
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滝宮天満宮に奉納された御神酒
  拝殿にお参りに行くと各踊組からの御神酒が奉納されてありました。一升瓶は12本あり、1本1本に奉納組の名前が書かれています。12組の踊組が出演することがわかります。例年は、3組ずつの公演なのですが、今回はコロナ開けの特別公演で、惣踊りになるようです。下側に張られたグループ分けの紙を見ると、3組ずつがグループとなって、4公演となるようです。

滝宮念仏踊り 御神酒
滝宮天満宮に奉納された12本の御神酒(西分奴組を含む)
第1組 北村 千疋  萱原
第2組 東分 山田上 山田下
第3組 西村 石川  羽床上
第4組 北村 小野  羽床下
これが江戸時代の「南条組」だったようです。南條組が、今は旧綾南・綾上町の11組に分けて、その中から毎年3組ずつが1グループとして奉納します。そして5年に一度、11組全部で踊る総踊りが行われているようです。滝宮天満宮に奉納されていた12本の御神酒は、「西分組 + 11組の踊組」からのもののようです。
 4年で一巡して、5年目が惣踊りということになります。
 ここでは、「旧南條組=現滝宮念仏踊り」で、それが11組に分かれていること。11組で4グループを作って、そのグループごとで毎年奉納していることを押さえておきます。この11組の念仏踊り組の総称が、現在は「滝宮念仏踊り」と呼ばれているようです。
 別視点から見ると、この11組は中世には滝宮神社(滝宮牛頭天皇社)の信仰圏下にあったエリアで、踊り念仏が時宗の念仏聖によって伝えられた地域だと私は考えています。
幕末の西讃府誌には、滝宮念仏踊りのことが次のように記されています。(意訳)。
大日記には次のように記されている。延喜三年二月廿五日、菅原道真五十七歳の時、①雨乞成就に感謝して、毎年7月25日に瀧宮で舞曲祭を行う。俗にいう瀧宮の踊りとは、②七ケ村(まんのう町)南條・北條・坂本などの4ヶ所から年毎、異なる組の者が踊り込みを行う。但し、北條組については、踊り込み年が定まっていない。7月16日から25日までは、③各地域の神社に踊りが奉納される。しかし、瀧宮に奉納するのが主とされるので、④瀧宮踊と呼ばれている。

  整理・要約すると次の通りです。
①雨乞い踊りのために踊るとは書いていない。雨乞成就に感謝してとされていること。
②踊りを奉納するのは、七ケ村(那珂郡:まんのう町)・南條・北條・坂本(鵜足郡・丸亀市)の4ヶ所だったこと
③滝宮への奉納以前に、地元の各村神社に奉納されて、最後の奉納が滝宮牛頭天皇社であったこと。
④「滝宮念仏踊り」とは書かれていない。「瀧宮の踊り」「滝宮踊」であること

③には、17世紀には踊組は、七ケ村(那珂郡:まんのう町)・南條・北條・坂本(鵜足郡・丸亀市)がローテンションで務めていたとあります。七ケ村(那珂郡:まんのう町)と、北條組は今は奉納されていません。
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滝宮天満宮への滝宮念仏踊りの入庭(いりは)

西讃府誌を続いて見ていきます。
 この踊りは、普通の盆踊とは大きな違いがある。⑤下知(芸司)と呼ばれる頭目が、花笠を被って袴を着て、大きな団扇を打ち振って、「なつぱいぎうや(南無阿弥陀仏)」と云いながら曲節に併せて踊る。
小踊は12,3歳ほどの童子が花笠を被って、袴をつけ、襷(たすき)をかけて、下知の団扇にあわせて踊る。又鼓・笛・鉦を鳴らすものもいる。彼らはそれぞれ花笠・襷で、踊子・鉦打ち、鼓打ちなどの人数も決まっている。しかし、踊る各庭によって人数に多少の変化がある。こうして踊りが終ると、下知が「願成就なりや」と高かに云う。これが一場(ヒトニワ)で、一成(ヒトキリ)で、これを「なつばいどう」と呼ぶ者もある。
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 滝宮念仏踊り 滝宮天満宮への入庭(いりは=入場)
⑤の「下知(芸司)の由来について、見ておきましょう。
 以前にお話した兵庫県三田市上本庄の駒宇佐八幡神社の百石踊の「頭目」は「新発意(しんほつい)」と呼ばれます。

百石踊り - marble Roadster2
      百石踊の「新発意(しんほつい)」は僧服

新発意(下司)役は白衣の上に墨染めの法衣を羽織り、白欅を掛け菅編笠を被った旅僧の扮装をし、右手に軍配団扇を、左手に七夕竹を持ちます。この役は文亀3年(1503)に、この地に踊りを伝えた天台宗の遊行僧の姿を表したものとされます。遊行僧や勧進聖・修験者・聖などが、雨乞祈祷・疫病平癒祈願・虫送り祈願・火防祈願・怨霊鎮送祈願などを、村々に伝えた「芸能媒介者」だと研究者は考えています。
 百石踊は僧侶の扮装をした新発意役(新参僧侶)が主導するので、「新発意型」の民俗芸能のグループに分類されるようです。滝宮念仏踊りや綾子踊りも「頭目=下知(芸司)」が指導するので、このグループの風流踊りに分類されます。ちなみに綾子踊りも言い伝えでは、空海が踊りを綾子一族に教えたとされます。空海が「頭目」として踊りを指導したことになります。つまり、このタイプの「頭目=下知(芸司)」とは、もともとは踊りを伝えた「芸能媒介者」は修験者や聖達だったと研究者は考えています。

それは、下司の着ている服装の変化からも裏付けられます。
①古いタイプの百石踊の「下司」は「新発意(しんほつい)=僧侶」で、法衣のうえから白欅をした僧衣
②それが綾子踊りの芸司は「裃」で庄屋の格式衣装
③滝宮念仏踊りの下司(芸司)は、現在は陣羽織
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滝宮念仏踊りの入庭 陣羽織姿の下司たち
つまり、中世は僧衣であったものが、江戸時代に「裃」になり、現代は金ぴかの陣羽織に変化してきたことがうかがえます。

隣にやって来た地元の研究者が、次のように教えてくれました。

「戦前までは、各組の下司は、麻の裃を着て踊っていた。ところが麻やかすりの裃は、もうない。特注扱いで高価で手がでん。そこで、ある組の下知が派手な陣羽織にしたら、全部右へなれいになりました。」

 これを以前の私ならば「昔のままの衣装を引き継ぐのが大原則とちがうんかいなあ」と批判的に見たかもしれません。しかし、いまでは共感的に見ることができます。それは、ユネスコ登録が大きな影響を与えてくれたように思います。
風流踊り ユネスコ登録の考え方
ユネスコ文化遺産と無形文化遺産の違い

ユネスコ無形文化遺産の精神は、
「フリーズドライして、姿を色・形を変えることなく保存に努めよ」ではないようです。
ユネスコ

「無形文化財の変遷過程自体に意味がある。どのように変化しながら受け継がれてきたのかに目を向けるべき」といいます。
ユネスコ無形文化財の理念3

つまり、継承のために変化することに何ら問題はないという立場です。これには私は勇気づけられました。かすりや麻の裃にこだわる必要はないのです。金ぴかの陣羽織の方が「風流」精神にマッチしているのかもしれません。変化を受入れて、継続させていくという方に重心を置いた「保存」を考えていけばいいと思うようになりました。その対応ぶりが綾子踊りの歴史になっていくという考えです。

P1250398
「南無阿弥陀仏」幟(滝宮念仏踊り)

法螺貝が吹かれ、太鼓と鉦が鳴らされ、踊りが始まります。
3人の各組の下司が並んでおどりはじめます。西讃府誌には「なつぱいぎうや」と云いながら曲節に併せて踊る。」と記されていますが私には「なもあ~みどうや(南無阿弥陀仏)と聞こえてきます。これは念仏七遍返しといって、次のような文句を七回で繰り返すようです。
お―な―むあ―みどおお―え
お―な―むあ―みどお…え
お―な―むあ―あみどんどんど
は―なむあ―みどお―え
お―なつぼみど―え
は―な―んまいど―え
な―むで ノヽ /ヽ
単調なリズムの中で、下司が大団扇を振り、廻しながら飛び跳ねます。三味線のない単調さが中世的なリズムだと私は感じています。この踊りの原型が一遍や空也の踊り念仏で、それが風流化するなかで念仏踊りに変化していったと研究者は考えているようです。これも風流踊りの変遷のひとつのパターンです。

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下司達の惣踊り(滝宮念仏踊り)

もうひとつ気になるのは、江戸時代に那珂郡七箇村踊りが奉納していた踊りが念仏踊りだったのかという疑問です。
いまは「滝宮念仏踊り」と言われますが、西讃府誌には「瀧宮の踊り」「滝宮踊」とあります。江戸時代前半の史料にも、「滝宮念仏踊り」と表記されているものの方が少ないような気がします。そこで思うのが、ひょっとして、念仏踊りではなく、中には小歌系風流踊りを奉納していた組もあるのではないかという疑問です。特に七箇村の踊りが気になります。
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        滝宮念仏踊りのきらびかな花笠


以前にお話ししたように、国の無形文化財の佐文綾子踊りと七箇村の踊りは、ともに佐文がメンバーとして関わっていて、踊り手の構成が非常に近い関係にあります。七箇村の踊りは、佐文綾子踊りのように小歌系の風流おどりであった可能性があるのではと、私は考えています。つまり、奉納されていた踊りが、すべて念仏踊りではなかったという説です。これは今後の課題となります。
以上、滝宮念仏踊りを見ながら考えたことの一部でした。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

P1250426
記念にいただいた滝宮念仏踊りの団扇です。

参考文献   綾川町役場経済課 ◎滝宮の念仏踊りの由来


滝宮神社・龍燈院
滝宮神社と龍燈院と滝宮天満宮(讃岐国名勝図会)

幕末の讃岐国名勝図会に描かれた滝宮神社と天満宮です。右上の表題には「滝宮 八坂神社(天皇社) 菅神社(天満宮) 龍燈院」とあります。絵図からは次のようなことが読み取れます。
①綾川沿に、天皇社があり、これが滝宮牛頭天皇(ごずてんのう)社(権現)であったこと。
②天皇社の前には、牛頭天皇の本地仏である薬師如来を安置する薬師堂や観音堂があったこと。
③隣接して別当寺の龍燈院があり、もっとも大きい建物であること。
④その向こうに滝宮天満宮がある。
⑤社人宅もあるが小規模である。
龍燈院・滝宮神社
龍燈院拡大図
以上から、滝宮神社は神仏分離以前には、天皇社(滝宮牛頭天王社)と呼ばれ、天満宮と供に別当の龍燈院の管理下に置かれていたこと、この3つはひとつの宗教施設として運営されていたことが分かります。しかし、明治の神仏分離で、龍燈院が廃寺となり姿を消しました。

滝宮龍燈院跡
龍燈跡跡
その跡地は、現在は分譲されて住宅地となって、ポツンと記念碑が立っているだけです。龍燈院の繁栄を伝える物は、観音堂に安置されていた十一面観音立像だけです。

滝宮龍燈院の十一面観音
龍燈院観音堂の十一面観音立像(像高180㎝)
この優美で美しい観音さまは、綾川町の管理下に移され生涯学習センター(図書館)で参観することができます。部屋の中央に、ガラスケースに安置されているので、どの方向からも観察できます。天衣、裳、 条帛 や天衣の折り返しなどをじっくりみることができます。
(註 現在は県立ミュージアムで補完されているようです。)
専門家の評を見ておくことにします。
一木造で内ぐりはなく、垂下する右手は手首まで、前に差し出して花瓶を持つ左手はひじまでを共木で彫り出す大変古様な像である。条帛や下肢には渦巻きの文が見られる。
しかし顔つきは優しく、またことさらに量感を強調したりしていないことから、平安時代も中期になっての像と思われる。
ほぼ直立し、顔は小さめ。手は長くあらわす。
目はあまり切れ長とせず、若干つり目がちとする。口も小さめ。顎はしっかりとつくる。
胸のラインやへそは陰刻で強調、また下肢の左右の衣のつれも強調するが、全体的には誇張を避け、上品で落ち着いた姿となっている。

以上を次のように整理しておきます。

①滝宮神社は神仏分離以前は、滝宮牛頭天王(権現)とよばれ、牛頭天王信仰の宗教施設であった。
②別当寺は龍燈寺で、その名の通り熊野信仰に由来をもつ寺院で、中世は修験者や聖達のあつまるお寺であった。
ここで疑問になるのが、龍燈院が、これだけの宗教施設が維持できたのはどうしてなのということです。その経済基盤は、どこにあったのでしょうか? それを伝えてくれる史料はありません。
そこで同じ牛頭天王を祀る播磨広峯(ひろみね)神社の経済基盤を、今回は見ていくことにします。

姫路日和 その1 | オマコレ OmaColle | 素晴らしき御守りの世界

 広峯神社は、姫路市の広峰山山頂にある神社です。今は、素戔嗚尊(スサノヲノミコト)を主祭神としますが、明治の神仏分離以前には素戔嗚尊と同体とされる牛頭天王を祀って、広峯牛頭天王と呼ばれていました。
 京都の祇園社(現在の八坂神社)との関係も深く、鎌倉時代には広峯社を祇園社の本社とする説も流布したことがあるようです。南北朝期には祇園社が広峯社の領家となったため、両社の間で確執が生じますが、朝廷・幕府の働きかけにより室町期以降は祇園社の支配下に置かれていきます。
Amazon.co.jp: 増補新版 牛頭天王と蘇民将来伝説: 消された異神たち : 川村湊: Japanese Books
 
 神仏分離以前の本殿内には、牛頭天王の本地仏をされる薬師如来が祀られていたようです。その管理運営を行っていたのは、別当寺の増福寺(広嶺山増福寺)です。この山の宗教施設は別当寺の社僧の管理下に置かれていました。ちなみに、この寺は、江戸時代は徳川将軍家の菩提寺である寛永寺の末寺として、大きな権勢を持っていたようです。
  社家(御師=修験者)の社務は、播磨、但馬、淡路、摂津、丹波、丹後、若狭、備前、備中、備後、美作、因幡 、伯耆)などにある村単位の信徒(檀那)へのお札配りでした。

祇園信仰 - Wikiwand
牛頭天皇=スサノウ

御師は自分の檀那村をまわって次の三種類の神札を配布しす。
居宅内の神棚に祀るもの
苗代に立てるもの
田の水口に立てるもの
その対価として御初穂料を得て収入としていました。

蘇民将来子孫家門の木札マグネット
蘇民将来のお札(牛頭天王=素戔嗚尊)
サイケなど農耕儀礼(県内各地)-21世紀へ残したい香川 | 四国新聞社
苗代に立てるお札
亀山市史民俗 民間信仰
水口に立てるお札
江戸時代には、社領はわずか72石でだった広峯神社が繁栄できたのは、お札を配布できる信徒集団を抱えていたからです。
    「御師」というのは寺社に属して、参詣者をその社寺に誘導し、祈祷・宿泊などの世話をする者のことです。
伊勢御師1
    檀那宅をお札や土産を持って訪れる伊勢御師(江戸時代)

御師がいた神社としては、熊野社、伊勢神宮、石清水八幡宮、賀茂社、日吉社が知られています。御師は各地の信者を「檀那(だんな)」として組織し、お札を配布したり社参を代行(代参)を行うほかに、檀那が参詣にやってきた時には、宿坊を提供したりしました。ひとりで各地の檀那を廻ることはできないので、伊勢御師と同じように廻国性のある修験者を手代として「雇用」していたようです。こうして広峯牛頭天王社の周りには、数多くの修験者や聖が集まってくるようになります。
広峯牛頭天王社の御師を見ておきましょう。
 鎌倉~南北朝期の広峯社には、広峯氏を筆頭に肥塚(こいづか)・林・芝・粟野など約30家の社家(御師)がいました。彼らは各地を回り、信者を集めて檀那を組織していきます。広峯社の檀那は、播磨・但馬・丹後・備前・備中・備後・美作・因幡・摂津・丹波といった中国地方東部から近畿地方にかけてが広峯社の信仰圏であったことを押さえておきます。
 広峯御師の1つである肥塚家には、因幡の檀那所在地についての史料が数点残されています。
廣峰神社の檀那の
廣峰社の因幡の檀那所在地
 この表は「肥塚文書」の檀那所在地を一覧表にしたものです。これをみると、肥塚家の場合は高草・邑美・八上・八東・智頭の各郡内に檀那がいたことが分かります。ひとりの御師の活動が広いエリアに及んでいたことがわかります。

広峯御師の檀那地図
        廣峰社の檀那所在地分布図
檀那所在地を地図に落としたものが上図です。ここからは次の所に檀那が多く一円化していたことが分かります。
①播磨と因幡中心部を結ぶルート上に位置する若桜
②美作との国境付近に位置する智頭
③高草郡の有富(ありどめ)川流域(鳥取市)
この表に出てくる「わかさいちは(=若狭の市場)」で、若狭には市場があったことがうかがえます。御師と地域経済と関わりが垣間見えます。
研究者が注目するのは鳥取市の有富川流域についてです。このエリアには特定の檀那名ではなく、多くが「一円」と記されています。このエリアでは村単位で多数の信者を集めていたことがうかがえます。
 これと同じように、滝宮牛頭天皇社の御師達も中讃の各郷に檀那を持ち、一円化したのではないかと私は考えています。

 ちなみに江戸時代中期編纂の『因幡志』には、有富川流域の神社の多くが牛頭天王を祀っていることが分かるようです。ここからは中世以来の広峯信仰が続いていたことが裏付けられます。
 広峯から御師がやってくると、檀那の村では宿泊施設や伝馬を提供しています。
では、どのような人々が御師に宿を提供していたのでしょうか。「肥塚文書」によれば、宿の提供者として「河田殿」「八郎衛門殿」「中助左衛門殿」「岡村殿」「岡殿」など「殿」のつく人たちが多くみられます。『智頭町史』は、彼らについて「地侍クラスの人物」と述べています。また、若桜については、次のように記されています。
「おふね(小船)村なぬしやと」
「おちおり(落折)村一ゑん やとはなぬし十郎ゑもん」
ここからは「なぬし(名主)」が宿を提供していたことがわかります。名主は、祭礼の際の宮座の構成メンバーです。彼らの相談を受けながら、村の祭礼に御師が関わり、風流踊りや念仏踊りを伝えたことも考えられます。
 ここでは、御師の宿はその地域のいわば指導者クラスの人たちが提供し、彼らと御師は親密な関係を維持していたとしておきます。

 御師の肥塚氏は、それらの国々の檀那村付帳を残しています。
そこには各荘郷やその中の村々の名称だけでなく、住人の名前、居住地、さらに詳しい場合には彼らが殿原衆であるか中間衆であるかといった情報まで記されています。
 例えば天文14年(1545)の美作・備中の檀那村付帳の美作西部の古呂々尾郷・井原郷の部分を見ると、現在の小字集落に当たる村が丹念に調べられて記録に残されています。ここからは広峯の御師たちは、村や村内の身分秩序をしっかりと掴んで記録していたことが分かります。広峯社の御師たちは各地に檀那を組織し、広範に活動を展開していたようです。
 御師たちは村々を回り布教活動に努めました。彼らは神札や文物とともに瀬戸内や畿内方面のさまざまな情報を各地にもたらしたものと思われます。地方の人々にとっては貴重な情報源であったに違いありません。これが、村々の寺社を結びつけて行くエネルギーになっていくと研究者は考えています。 以上を要約しておきます。
①中世の広峯神社は、牛頭天王とその本地仏薬師如来が祀られる神仏混淆下の宗教施設であった。
②牛頭天王社の社殿を管理する別当寺の増福寺(広嶺山増福寺)で、その社僧の管理下に置かれていた。
③社僧達は御師として、自分の檀那村をまわって神札を配布し、御初穂料を得て収入としていた。
④村の檀那は、宿泊施設や伝馬を提供し、お札と供に地域の情報を手に入れた
⑤村々を歩く御師は、情報伝達者として村々を結び、宗教的なネットワークや交流を作りだしていった。
⑥その中には風流踊り等の芸能なども、伝えたことが考えられる。
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少々乱暴ですが、これを、讃岐の滝宮牛頭天皇と龍燈院に落とし込んでみます。
①龍燈寺傘下の修験者や聖も手代として、中讃の各村々をめぐり檀那にお札を配布し、奉納品を集めた。
②同時に彼らは、いろいろな情報や芸能を各村々に伝える媒介者となった。
③各村々に風流踊りや念仏踊りを伝えたのも修験者や聖である。
④この踊りが各村々では、盆踊りとして踊られるようになった
⑤それが滝宮牛頭天皇の夏祭りに奉納されるようになった。
これを逆の視点から見ると、鵜足郡坂本郷・那珂郡真野郷・多度郡賀茂郷などは、かつての滝宮牛頭権現の信者が一円的にいたエリアだと私は考えています。
牛頭天王座像
牛頭天王坐像
別当寺龍燈院の住職が代々書き記した念仏踊りの記録『瀧宮念仏踊記録』の表紙裏には、次のように記されています。

「先代は当国十三郡より踊り来たり候処、近代は四郡而已に成り申し候」

意訳変換しておくと
中世(先代)には、踊りは讃岐の国内のすべての13郡から当社への踊りの奉納が行われていた。しかし、今は4郡だけになっている

ここからは、松平頼重が初代髙松藩主としてやってきて「中断」していた念仏踊りを慶安三(1650)年に西四郡のみで再興させたことが分かります。高松藩領西部の阿野郡の南と北、那珂郡、多度郡の4郡ということになります。それが具体的には、次の4組です。
①阿野郡北條
②阿野郡南条
③鵜足郡の坂本組(坂本郷周辺:丸亀市)
④那珂郡の七箇組(真野郷・吉野郷・小松郷:まんのう町+琴平町)
  この4つの踊組エリアが、滝宮牛頭権現の信仰圏だと私は考えています。
ちなみに、松平頼重は踊りの復興の際に、幕府の監視を考慮して「雨乞い祈願のための踊り」と正当化するフレーズを付け加えます。こうして、もともとは盆踊りで踊られる風流踊りが、雨乞いに結びつけられ、「菅原道真の雨乞い成就に感謝」する踊りと称されプロデュースされるようになります。注意しておきたいのは、ここでも、まだこの踊りが雨乞い踊りのために踊られるおどりではなかったことです。
この時点では、「雨乞い成就感謝のため」でした。中世には「雨乞いは空海など修行で験を超人のみがおこなえることで、普通の人が行っても神はお聞きにはならない」というのが庶民の考えでした。それが変化するようになるのは、近世後半になってからのことです。

滝宮念仏踊りの変遷

 「讃岐の国内のすべての13郡から当社への踊りの奉納が行われていた」ということについて考えて見ます。
 大きな勢力を寺社が競合するところでは、神札の配布はできません。そればかりでなく周辺の寺社は取り込まれ、つぶされていくこともあります。讃岐において中世に強勢を誇った修験者を数多く擁した山伏寺を思いつくままに挙げて見ると次の通りです。
①東讃の水主神社・与田寺
②志度の志度寺
③五色台の白峰寺
④多度郡の善通寺
⑤三野郡の弥谷寺
⑥三野郡の本山寺(牛頭権現信仰の宗教施設)
 これらの寺社が競合するエリアで、滝宮牛頭権現社がお札を配り、新たに信者を獲得するのは至難の業であったはずです。このため滝宮牛頭権現が讃岐全体に信仰エリアを拡げていたとは、私には思えません。その信仰圏は、先ほど見た踊り奉納されていた周辺の郷に限られていたと私は考えています。

阿野郡の郷
坂本念仏踊りの檀那分布想定エリア

 ここでは、滝宮牛頭権現社は高松から西の4郡の一部の郷に信者を確保し、そこから踊りが奉納されていたとしておきます。

補足(2024年4月19日)
 今日手元に届いた「まんのう町文化財協会報第18号 令和5年度版」に、香川県教育委員会文化行政課の佐々木涼成氏が「香川県の念仏踊とまんのう町」を寄稿しています。そこには、滝宮神社(牛頭天王社)と別当寺の龍燈院の布教戦略が次のように記されています。
滝宮神社へは島を除く讃岐国十一郡からの奉納があったと伝えられているが、なぜこれほど広範囲の信仰圏を持っていたのだろうか。
寛政年間成立の『讃岐廻遊記』では、念仏踊の成立過程を以下のように書いている。
空海が、千疋の子を産む牛を清水で清めて落命させた。天皇にその話をすると、その場所に滝宮三社(滝宮神社)の違二を命じら  より数多念仏踊」となる。さらに牛の絵が描かれた御守が国中家々に配布された、というものである。伝説の入り混じるこの記述を全て信用することは出来ないが、ここからは、滝宮天王社建立→参詣者の増加と「名主」による組織化→念仏踊の発生 → 御守配布による信仰の更なる普及という過程の中で信仰圏を拡大してきたことが読み取れる。確かに東かがわ市歴史民俗資料館には、庄屋の家から見つかった大量の滝宮牛頭天王社の絵札が収蔵されており(図三)、牛頭天王社からの絵札を社僧や山伏等の宗教者が庄屋へ渡し、各家へ配布していた経路を想定できよう。

滝宮神社(旧牛頭天王社)の絵札

滝宮牛頭天王社の絵札
滝宮神社(旧牛頭天王社)の布教戦略

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献     因幡における広峯御師の活動 鳥取県史たより 第56回
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西讃府志に滝宮念仏踊と佐文綾子踊がどのように載せられているのかを、今回は見ておきたいと思います。

西讃府志 表紙
西讃府志
最初に滝宮念仏踊りを見ていくことにします。西讃府史には「滝宮踏舞」と題されています。
大日記曰く、延喜三年二月廿五日、菅氏(菅原道真)五十七歳、云々讃岐国民、至今毎歳七月二十五日、於瀧宮為舞曲祭之、俗謂瀧宮躍夫コノ踊ハ、七ケ村・南條・北條・坂本等ノ四処ヨリ年替ソニ是ヲ務ム、但シ北條ハイツノ年卜云定リナシ、七月十六日比ヨリ二十五日ノ比マデ、其アタリアタリノ氏社ニテ踊ル也、サレド瀧宮ヲ主トスンバ瀧宮踊卜云ナリ、
コハ盆踊ナドトハ其状大ニカハレリ、下知トテ頭タルモノ一人アリ、花笠フカブキ袴フ着テ、大キナル団扇ヲヒラメカシ、なつぱいぎうやヽ 卜云吉ヲ曲節トシテズヲドル、サテ小踊トテ十三二歳歳バカリノ童子花笠フカツキ袴フツケ、襷(たすき)ヲカケ彼下知ガ団扇ノマヽ二踊ル、又鼓笛鉦ナト鳴ス者アリ、イツレモ花笠襷ナドツケタリ、踊子鉦ウチ鼓ウチナドノ数モ定リアレド、各庭ニヨリ多少アリ、カクテ踏舞終リヌル時、彼下知ナル者、願成就なりや卜高フカニイフ、是ヲ一場(ヒトニワ)卜テ,一成(ヒトキリ)ナリ、又なつばいどう卜云者アリ、菅笠ノ縁二赤青ノ紙ヲ切リ垂レ、日月フ書ケル団扇ヲモチ、黒キ麻羽織キタルアリ、又なもでトテ、サルサマシテ、鉦モチタルアリ、此等幾十人卜云数ヲシラス、叉螺ナド吹モノモアリ、皆各其業アリト云、叉大浜浦ニモ瀧宮踊卜云ヲスル也、コハ名ノ同シキノミニテ、踊ハ尚常ニスル盆踊二異ナラズ、
  意訳変換しておくと
大日記には次のように記されている。延喜三年二月廿五日、菅原道真五十七歳、讃岐国は毎歳七月二十五日に瀧宮で舞曲祭を行う。俗にいう瀧宮の踊りとは、七ケ村(まんのう町)南條・北條・坂本などの4ヶ所から年毎に異なる組の者が踊り込みを行う。但し、北條組については、踊り込み年が定まっていない。7月16日から25五日までは、各地域の神社に踊りが奉納される。しかし、瀧宮に奉納するのが主とされるので、瀧宮踊と呼ばれている。

P1250394
滝宮念仏踊り(午前は 滝宮神社 午後は滝宮天満宮) 

 この踊りは、盆踊とは大きな相違点がある。下知(芸司)と呼ばれる頭目が一人いて、花笠を被って袴を着て、大きな団扇を打ち振って、「なつぱいぎうや」と云いながら曲節に併せて踊る。

P1250398
滝宮念仏踊の幟「南無阿弥陀仏」 
小踊は12,3歳ほどの童子が花笠を被って、袴をつけ、襷(たすき)をかけて、下知の団扇にあわせて踊る。又鼓・笛・鉦を鳴らすものもいる。彼らはそれぞれ花笠・襷で、踊子・鉦打ち、鼓打ちなどの人数も決まっている。しかし、踊る各庭によって人数に多少の変化がある。

P1250412
滝宮念仏踊り 入庭

 こうして踊りが終ると、下知が「願成就なりや」と高かに云う。これが一場(ヒトニワ)で、一成(ヒトキリ)で、これを「なつばいどう」と呼ぶ者もある。

P1250421
滝宮念仏踊の花笠
菅笠の縁に赤・青の紙を垂らし、日月と書いた団扇を持って、黒い麻羽織を着る。又なもでトテ、サルサマシテ(?)、鉦を持つ者もいる。これらを併せると総勢は数十人を超える。叉法螺貝などを吹くものもいる。それぞれ各役目がある。叉大浜浦にも、瀧宮踊が伝わっている。名前は同じだが、こちらは普通の盆踊と同じである。


P1250423
滝宮念仏踊 惣踊り(滝宮天満宮)
西讃府志に書かれていることを整理しておきます。
①菅原道真の雨乞成就に感謝して捧げられたとは記されていない。「讃岐国は毎年7月25五日に瀧宮で舞曲祭を行う。」とだけ記す。また「滝宮念仏踊り」という表現は、どこにもない。
②瀧宮の踊込みに参加していたのは、七ケ村(まんのう町)・南條・北條・坂本などの4組であった
③4組が毎年順番で担当していたが、北條組については、踊り込み年が定まっていなかった。
④滝宮への踊り込みの前の7月16日から25日までは、各地域の神社に踊りが奉納されていた。
⑤この踊りは盆踊とちがって下知(芸司)が指揮した
⑥小踊は12,3歳ほどの童子が花笠を被って、下知の団扇にあわせて踊る。
⑦踊子・鉦打ち、鼓打ちなどの人数も決まっていが、踊る各庭によって人数に多少の変化がある。

綾子踊り 全景
綾子踊り(佐文加茂神社)
次に西讃府志の「綾子踏舞」を見ておきましょう。

西讃府志 綾子踊り
西讃府志巻3風俗 佐文綾子踊

佐文村二旱ノ時此踏舞ヲスレバ必験アリトテ、龍王卜氏社トニテスルナリ、是レニモ下知一人アリ。上下ヲ着、花笠カヅキ、大キナル団扇もテリ、踊子六人、十歳アマリノ量子ヲ、女千ノ姿二作リ、白キ麻衣ヲキセ赤キ帯ヲ結ビタレ、花笠ヲカヅキ、扇ヲモチタリ、叉踊ノ歌ウタフ者四人、菅笠ヲキテ上下ツケタリ、叉菅笠ノ縁二亦青ノ紙ヲ切テ付タルヲカヅキ、袴フツケ、木綿(ユフ)付タル榊持夕ル二人、又花笠キテ鼓笛鉦ナドナラス者各一人、
サテ踊始ントスル時 ヲカヅキ襷ヲ掛、袴フ高クカカゲ、長刀持夕ルガ一人、シカシテ棒持タルガ一人、其場二進ミ出、互ニイヒケラク、

意訳変換しておくと
佐文村に旱魃の時に踊れば、必験ありとして、龍王社と氏社の加茂神社で踊られる。これも下知(芸司)が一人いて、裃を着て、花笠を被り、大きな団扇を持つ。踊子(小躍)6人は、10歳ほどの童子を、女子の姿に女装し、白い麻衣を着せて、赤い帯を結んで、花笠か被り、扇を持つ。叉踊の歌を歌う者四人(地唄)は、菅笠を被り裃を着る。菅笠の縁には青い紙を垂らす。又、袴を着て、木綿(ユフ)付けた榊持が二人、又花笠キテ鼓笛鉦などを鳴らす者各一人。
 踊り始める前には、襷掛けし、袴着た、薙刀と棒持ちが、その場に進み出て、次のような問答を行う。

西讃府志 綾子踊り2
        西讃府志巻3風俗 佐文綾子踊2

踊り前の薙刀と棒振りとの問答
しはらく′ヽ、先以当年の雨乞所願成就、氏子繁昌耕作一粒萬倍と振出す棒は、東に向てごうざんやしゃ、某が振長刀は南に向てぐんだりやしゃ、今打す棒は西に向て大いとくやしゃ、又某か振長刀は北に向かいてこんごうやしゃ、中央大日、大小不動明王と打はらひ、二十五の作物、根は深く葉は廣く、穂ふれ、虫かれ、日損水損風損なきよう、善女龍王の御前にて、悪魔降伏切はらふ長刀は、柄は八尺、身は三尺、神の前にて振出は礼拝、叉佛の前はをがみ切、主の前は立ひざ切、木の葉の下はうずめ切、茶臼の上はまはし切、小づ主収手はちがへ切、磯うつ波はまくり切、向献はから竹割、逃る敵は腰のつがひを車切、打破うかけ廻り、西から東、北南くもでかくなは、十文字ししふつしん、こらん入(にゅう)、飛鳥の手をくだき、打はらひ、天の八重雲、いづのちわき、利鎌を以て切はらひ、今紳国の政、東西南北と振棒は、陰陽の二柱五尺二十ゑいやつと振出す、某つかふにあらねども、戸田は三、打しげんはしんのき、どうぐん古流、五方の大事、表は十二理に取ても十二本、しばはらひ、腰車、みけん割、つく杖、打杖上段中段下段のかゝうは、鶴の一足、鯉の水ばなれ、夢の浮橋、三之口伝、四之大手、悪魔降伏しづめんが為、大切之一踊、はや延引候へば、いざ長刀ぎの参うやつど」
 
綾子踊り 薙刀
綾子踊 薙刀問答

薙刀と棒振りの問答の後、いよいよ踊奉納が次のように始まります。

西讃府志 綾子踊り3
       西讃府志巻3風俗 佐文綾子踊2
カクテ暫ク打合サマンテ退ク、歌謡ノ者各其座ニツクナリ、サテ下知ノイヘルハ、
「東西 東西先以当年旱魃二付、雨乞仕庭、程なく御利生之御雨、瀧の水の如く、誠に五穀豊焼民安全四海泰平国十安寧、諸願成就之御礼として、善女龍王の御前にて、花の氏子笠をならべ鉦をならし、笛太鼓をしらべて、うしそろへ、目出たう一をどり始め申す、水をどり、ゆるりと、御見物頼み申す、
 サテ歌ウタフ者、歌書タル本を開き、馨ヲソロヘテウタフ、例ノ下知進ミ出、団扇ヲヒラメンテ踊ル、踊子三人ヅツ二行二並ピ、下知ガ団扇ノマヽ二扇ヲ打フリテ踊ル、鼓笛鉦ナド持タル、其カタヘ並立テ曲節ヲナス、其後二榊持タル人立テ共節毎ニヒイヨウナドト声ヲ発して、節ヲナスウタフ節ハ今ノ田歌ニイト似タリ、其初ナルヲ水踊、次ナルヲ四国、次ナルヲ綾子、次ナルヲ小鼓、次ナルヲ花籠、次ナルヲ鳥籠。次ナルヲ邂逅、次ナルヲ六調子、次ナルヲ京絹、次ナルヲ塩飽船、次ナルヲ忍、次ナルヲ婦り踊ナドト十二段ニツワカテリ
  意訳変換しておくと
  しばらく棒振りと薙刀による演舞が行われた後に退く。その後に、歌謡の者がそれぞれの定位置に着く。そこで下知(芸司)が次のように云う。、
「東西 東西先以当年旱魃二付、雨乞仕庭、程なく御利生之御雨、瀧の水の如く、誠に五穀豊焼民安全四海泰平国十安寧、諸願成就之御礼として、善女龍王の御前にて、花の氏子笠をならべ鉦をならし、笛太鼓をしらべて、うしそろへ、目出たう一をどり始め申す、水をどり、ゆるりと、御見物頼み申す、
 地唄は、歌書を開いて、声を揃えて詠う。下知が進み出て、団扇を振りながら踊る。小躍りは三人ずつ二行に並んで、下知の団扇に合わせて、扇を振って踊る。鼓笛鉦を持った者は、その後に並んで演奏する。その後には榊を持った人が立って、その節毎に「ヒイヨウ」などと発声する。調子や節は、今の田歌に似ている。最初に詠うのが水踊で、以下、次ナルヲ四国、次ナルヲ綾子、次ナルヲ小鼓、次ナルヲ花籠、次ナルヲ鳥籠。次ナルヲ邂逅、次ナルヲ六調子、次ナルヲ京絹、次ナルヲ塩飽船、次ナルヲ忍、次ナルヲ婦り踊ナドト十二段ニツワカテリ。その歌詞は次の通りである。

西讃府志に書かれていることを整理しておきます。
①佐文村では旱魃の時に、龍王社と加茂神社で綾子踊りが雨乞いのために踊られている
②その形態は。下知(芸司)・女装した踊子(小躍)6人、地唄4人、榊持2人、鼓笛鉦各一人などである。
③踊り前に、薙刀と棒持の問答・演舞がある(全文掲載)
④演舞の後、下知(芸司)の口上で踊りが開始される
⑤地唄が声を揃えて詠い、下知が団扇を振りながら踊り、小躍り、扇を振って踊る。
⑥鼓笛鉦を持った者は、その後に並んで演奏する。その後には榊を持った人が立って、その節毎に「ヒイヨウ」などと発声する。
⑦調子や節は、今の田歌に似ている。
⑧以下踊られる12曲の歌詞が掲載されている

西讃府志 郡名
西讃府志 那賀郡・多度郡・三野郡・苅田郡の郷名
   丸亀藩が領内全域の本格的地誌である西讃府志を完成させたのは、安政の大獄の嵐が吹き始める安政五(1858)年の秋でした。
これは資料集めが開始されてから18年目の事になります。西讃府志は、最初は地誌を目指していたようで、そのために各村にデーターを提出することを求めます。それが天保11(1840)年のことでした。丸亀藩から各地区の大庄屋あてに、6月14日に出された通知は次のようなものでした。(意訳変換)

加藤俊治 岩村半右衛門から提出されていた西讃・播磨網干・近江の京極藩領分の地誌編集について許可が下りた。そこで古代からの名前、古跡、神社鎮座、寺院興立の由来、領内の事跡などについても委細まで調べて書き写し、その村方周辺の識者や古老などの申し伝えや記録なども、その組の大庄屋、町方にあっては大年寄まで指し出し、整理して10月中までに藩に提出すること。

ここからは次のようなことが分かります。
①「旧一族の名前、古跡、且つ亦神社鎮座、寺院興立の由来」を4ヶ月後の10月上旬までに提出することを大庄屋に命じていること。
②家老・佐脇藤八郎からの指示であり、藩として取り組む重要な事柄として考えられていたこと
藩の事業として地誌編纂事業が開始されたようです。しかし、通達を受けた庄屋たちには、この「課題レポート」にすぐに答えるだけの史料や能力がなくて、何年たっても提出されない有様だったことは以前にお話ししました。各村々の庄屋からの原稿がなかなか提出されず、そのために発行までに18年もの歳月がかかっています。
 私が気になるのは、佐文綾子踊の記述の多さです。
滝宮念仏踊りに比べても分量が遙かに多く、詠われていた地唄の12曲総ての歌詞が載せられています。どうして綾子踊りが、これほど「特別扱い」されているのでしょうか? 滝宮念仏踊りや佐文の綾子踊りが西讃府志に載せられていると云うことは、地元の庄屋が藩への「課題レポート」に買き込んで提出したということでしょう。それをまとめて丸亀藩の学者たちは西讃府志を完成させました。逆に言うと、佐文村の庄屋が綾子踊りについて、詳細に報告したとことが考えられます。それが西讃府志に綾子踊りの歌詞が全曲載せられていることになったとしておきましょう。そして、その歌詞内容が中世に成立していた閑吟集の中にある歌にルーツがあることを中央の学者が気づきます。これが綾子踊りの重要文化財師指定の大きな推進力となったことは以前にお話ししました。
 同時に、幕末には綾子踊りが佐文で踊られていたことの裏付けにもなります。綾子踊りの史料については、地元では昭和になって書かれた史料しか残っていないのです。また、実際に踊らたという記録も明治になってからのものです。近世末に、綾子踊りが踊られていたという西讃府志の記録は、ありがたいものです。

綾子踊り4
佐文綾子踊 芸司と小踊(佐文加茂神社)

 もうひとつ気になるのが佐文は「まんのう町(真野・吉野・七箇村)+琴平町」で構成される七箇村滝宮踊りの中心的な構成員でもあったことです。それが、いろいろな問題から中心的な役割から外されていきます。それが佐文村をして、独自の綾子踊りの立ち上げへと向かわせたのではないかと私は考えています。七箇村の滝宮踊りと、綾子踊りの形態は非常に似ていることは以前にお話ししました。

前回には那珂郡七箇村組念仏踊りについて、次のように整理しました。
①この踊りは、中世に小松・真野・吉野の各郷で風流踊りが郷社に奉納されていたものであること。
②それは地域の村々を越えた有力者によって組織された宮座によって総勢が200人を越える大スタッフで運営されていたこと。
③生駒藩取りつぶしの後、讃岐が東西二藩に分割されると、次のように踊組は分割されることになったこと。
A 高松藩 真野村・東七ヶ村・岸上村・吉野上下村
B 丸亀藩 西七ヶ村(買田・宮田・生間・追上・帆山・新目・山脇)と佐文村 
C 池御領(天領)  小松庄4ケ村(榎井・五条・苗田・西山)
④天領・親藩・外様という「帰属意識」から対立が絶えず、いろいろな事件や騒動を引き起こしたこと
⑤しかし、19世紀になると運営は軌道に乗り、3年毎に安定して踊り奉納は行われるようになったこと。
 実際の運営は、1組編成になっても次の東西2つの組に分けて行われていたようです。
東組(Aの高松藩の村々) 
西組(B・Cの天領と丸亀藩の村々)
1826(文政9)年の連絡指示系統は、以下の通りです。

那珂郡大庄屋・吉野上村の庄屋岩崎平蔵 → 総触頭・真野村庄屋三原専助 → 各庄屋

この年は、踊組内部の対立が顕在化します。
その発端は、阿野郡北條組の分裂でした。内部分裂した一つが七箇村組の後庭で踊らせてもらいたいと、阿野郡北の大庄屋を通じて、那珂郡の大庄屋岩崎平蔵(吉野上村)に申し入れます。これに対して岩崎平蔵は、踊組の意見を聞かずに「正保の刃傷事件から180年も経っているので、もう大丈夫だろう」と考えて、高松藩側の意志を確認しただけで、これを認めます。しかし、意見を求められなかった七箇村組の内には根強い反対意見もありました。岩崎平蔵の強引なやり方に反発する勢力の中心が「C 天領の小松庄4ケ村(榎井・五条・苗田・西山)」の庄屋たちでした。天領の庄屋たちは、Aの高松藩の真野・吉野を中心とする運営について揺さぶりをかけてきます。
 それが、各村々の神社への踊り奉納の時に村役人が着る礼服についてです。
その年の最初の寄合の時に、池御領側から次のように申し出がありました。岸の上村の庄屋奈良亮助は、その申出を次のように記録しています。
 右寄合之節 苗田村年寄十右衛門右申出候ハ、先年ハ廿三日買田金毘羅二而上下着用致、
岸上村久保宮二而袴羽織二相成候所、中頃金毘羅二而上下着用致候二付、直二上下二而入庭(いりは)仕来り候得共、是ハ先年之通り袴羽織二而久保宮ヘハ入庭致候ベシと申出候二付、
真野村庄屋三原専助殿被申候ハ、先年ハ如何二御座候哉、拙者共役申併先政所伊左衛門始?、久保宮へ茂上下二而入庭仕来り被成レ居申候由返答有之候所、小松庄四ケ村之内五条・榎井・苗田三ケ村方申出候ハ、何連念仏一定之旧記等御取調之上、先年右古振之通被い成候而可然旨申出候。依之追而旧記取調十六日ニ池之宮而否返答可致旨専助殿申出候而、寄合相済申候段、
 当村組頭庄屋亮介へ申出候。依之亮助右十日夕方内々二而真野村庄屋専助殿へ掛合仕候所、委細専助殿承知有之、何連十六日二池宮二而、買田村庄屋貞彦方へ掛合返答致候条卜返答有之候。
尚又十五日、当村神職朝倉石見右茂、専助殿へ内々掛合仕候。然ル所旧記等根二入取調仕候所、格別委細之義も無之候得ハ、廿三日?礼服等相改候と有之儀ハ無二御座候。右之趣、明十六日池之宮二而買田村へ返答致候卜、専助殿方申出候由、石見方村方庄屋亮助へ串出候義二御座候。
意訳変換しておくと
 真野不動堂で会合の際に、苗田村年寄の十右衛門右が次のような申出を行った。
 もともと23日の買田・金毘羅(池御料を含む)への奉納の時には上下着用で、岸上村の久保宮の奉納の時には、袴羽織着用であった。ところが近年は金毘羅での奉納が上下着用のために、久保宮でも同じように上下着用となってしまった。ついては、久保の宮には先例通りに袴羽織で入庭するようにして欲しいと申出があった。
 これについて真野村庄屋三原専助殿が応えて云うには、先年とはいつのことなのか? 私が大庄屋を務めるようになってからは、久保の宮へは上下で入庭してきたと答えた。これに対して、小松庄四ケ村の五条・榎井・苗田三ケ村方は、旧記の記述を調べた上で、先例古式通りの作法・やり方を行って欲しいとの要望があった。このため旧記を調べて16日に満濃池池之宮での奉納の際に結果を伝えることにして、会合はお開きとなった。

 当村(岸上村)の組頭・藤堂から村方庄屋の奈良亮介へ申出があった。そこで庄屋亮助が10日夕方、内々に真野村庄屋専助殿へ掛合って、専助殿はこれを承知した、買田村庄屋貞彦方と相談した上で、16日の満濃池池宮での奉納の祭に、返答することになった。
 その前日の15日、岸の上村久保宮の神職朝倉石見右茂も、専助殿と内々に協議を行った。それによると旧記等などを調べてみたが、格別に問題点も見つからなかったということで、「23日に礼服に相改候」とは書かれていないとのこと。これを明日、池之宮と買田村庄屋へ返答する、専助殿へ伝えたとのこと。村方庄屋の亮助へも連絡済みである。
歴史編6 男物の羽織 | 着物あきない
羽織袴(平服)と裃(正装)

 池御領天領(五条・榎井・苗田)の庄屋たちは何が不満なのかを整理しておくと
①羽織袴と裃(上下)では、裃の方が「格上」の礼服であったこと。
②「池御料天領・五条村の大井宮」が格上で、「岸上村の久保宮」は格下と、自分たちの神社が格上だ天領の庄屋たちは考えて見下していたこと。
③とろが近年は、久保宮でも上下着用となってしまったことに不満を持つようになった。ついては、「古式通りに」岸上村の久保宮では袴羽織で参加するようにして欲しい
④しかし、記録にはそのようなことは何もかかれていない。
  要は、天領の大井神社と、岸上の久保の宮の上下関係がはっきりと分かる服装にせよと要求したようです。天領池御料民としての自尊心の現れかもしれません。
 封建制とは身分制で、それが目に見える形で確かめられるような「装置・服装」がともないます。儀式の際の服装などは、身分や役割で事細かく決められていました。祭りの境内での席次なども事細かく決められています。そこに参列する村役人の服装も暗黙の決まりがあったのです。
 大庄屋の岩崎平蔵は、この問題の解決を次の踊りが行われる年まで先送りすることとして、1826(文政九)年の踊り奉納は終了します。しかし、天領の庄屋たちはこれで済ませたわけではありませんでした。3年後の1829(文政12)年の念仏踊に向けて手ぐすね引いて待っていたのです
1829年の総触頭を務めることになったのは、岸上村庄屋の奈良亮助でした。
奈良亮助は、和漢の学も修めていた教養人でもあったことは前回お話しました。彼は立派な花押を使用していますし、文章などからも几帳面で、慎重な人柄がうかがえます。後年には満濃池の普請についての実績を残しています。
 当時は、真野村の庄屋は大庄屋の岩崎平蔵が兼帯していました。
そこで奈良亮助は、念仏踊に関してのみの権限で真野村庄屋役を勤め、念仏踊の総触頭となったようです。師匠の岩崎平蔵の下での、その見習いというところでしょうか。
 奈良亮助は、文化5(1808)年の時に総触頭安藤伊左衛門が書き残した「滝宮念仏踊行事取遣留」によって仕事を進めていきます。そのスタートは、7日1日に先例通りの案内状を、買田村庄屋で西領と小松庄の触頭である永原貞彦に送ることから始めています。同時に回状(回覧板)を、高松藩東組の庄屋たちに送って、7月7日に真野不動堂に集まるように通知します。回覧状は次の庄屋たちを起点に、周辺庄屋に回覧されていきます。
吉野上村庄屋岩崎平蔵
四条村庄屋岩井勝蔵
吉野下村庄屋久保東左衛門
七箇村庄屋金堂東左衛門
塩入庄屋小亀弥五郞
 こうして、最初の会合が7月7日に真野不動堂で開かれます。
 この時は丸亀領が藩全体の忌中のため、領民は他領へ出ることを許されていませんでした。そのため丸亀藩の村々(旧仲南町)が滝宮へ踊りに出向くことは許されません。そこで踊りの期日を忌中開けにすることにします。この結果、例年より約半月遅らせて、各村々の神社での踊興行を行うことが決まります。亮助は、その次第と日程を、翌々日の7月9日付で高松の郷会所の村尾浅五郎と安倍久一郎の両元締に報告しています。
そんな中で7月13日、西組の触頭を務める買田村庄屋の永原貞彦が岸上村の奈良亮助を訪ねてきてきます。
 買田村と岸の上村は、丸亀藩と高松藩にそれぞれ属していて、このふたつの村の間に当時は「国境」がありました。国境の買田峠を越えてゆけば、永原宅から奈良亮助の家までは、30分ほどで着く距離です。丸亀藩が忌中で「藩外出入り禁止」中でも、このくらいの行き来は、大目に見られていたようです。永原家はかつては丸山城の城主であったのが帰農して、買田村の庄屋となったと伝えられます。永原貞彦の居宅は、現在の恵光寺の下辺りにありました。西村ジョイの南側のR32号バイパス工事の際には、買田岡下遺跡が出てきています。ここからは、古代郡衙に準ずるような建物群も出てきていて、このあたりが那珂郡南部の開発拠点で、中心地だったことがうかがえます。
永原貞彦がやってきて奈良亮助に、伝えたのは次のような内容です。
 昨日五条村年寄喜三郎 私宅へ参り、前念仏寄合之節(文政九年7月7日不動堂)苗田村重左衛門右、兼而申出候村役人礼服之儀、村寄合談合候処、岸上久保宮二而、古来之通り袴羽織二而入哉、又ハ五条村大井宮二而一統上下用致候哉、両様御掛合之上相究不申、満濃池宮へ笠揃ニモ得罷出不申、尚踊子用意も不仕、其上入用銀等心得二指出・不申由申参候、依い之貞彦喜三郎へ掛合候、久保宮二而袴羽豚二而入候義(何之何年二而御座候哉、佃者共一向覚無い之、勿論念仏一条真野例先二而惣触頭、西(当村、東(岸上、東西社面元、依之古来占廿三日二当村、金毘羅山、岸上真野之所、出帳之村役人上下着用二而仕来リニ御座候由申答候。然ル所喜三郎心再ビ申候義、我等迪も上下着用之義と奉い存居申候処、苗田村重左衛門、弥左衛門共心申候、往古袴羽織二而御座候処、金毘羅山占帰り掛之義故、岸上村役人占挨拶有い之候二付、上下二而入候杯と申義二御座候由、喜三郎占申出候二付、拙者共岸上村役人占挨拶有い之候杯と申義何覚無い之候由申答候。
右様次第二付如何可い仕候哉。今日御内々御相談二罷越候。何連五条村大井宮へ上下二而入候得バ指支無い之哉卜奉い存候間、篤と岩崎氏へも御挨拶之上御返答承知仕度奉い存候。
  意訳変換しておくと
 昨日7月12日、五条村の年寄喜三郎が買田の私の家(永原貞彦)にやってきて、次のような申し出をして帰った。その内容は次の通り。
 前回3年前の文政9年7月7日に、真野不動堂での念仏寄合の際に苗田村の重左衛門から出された村役人の礼服の件についてである。先日の五条村寄合で話し合った結果、岸上村の久保宮への念仏踊り奉納の際には、村役人の礼服は古来の通り袴羽織で行いたい。また五条村の大井神社では上下着用に統一すること、このふたつのが認められないのであれば、満濃池の池の宮での笠揃に参加しない。また踊子も用意しない。その上に、入用銀なども納めないとの申し出であった。
 この申し出を受けて貞彦喜三郎と相談したところ、久保宮での奉納に村役人が袴羽織を着用したことについては、記録のどこにも書かれていないこと、記憶にもないとの返答であった。喜三郎が云うには、我等も久保の宮へ上下着用で参列するという案はどうでしょうかとの提案があった。そこで、苗田村の重左衛門、弥左衛門に、これを伝えて、昔は袴羽織での参列であったが、金毘羅山からの帰り道になるので、岸上村役人から挨拶があり、上下着用となったようだと伝えた。喜三郎からの申出を、岸上村役人から挨拶があったということは、記憶にないと伝えた。
 このような次第なので、どう取り扱っていいのか迷う所である。今日は内々に相談しにやってきたとのこと。五条村大井神社へ上下で参列が認められないのであれば、五条村は念仏踊りに参加しないとのことである。岩崎氏へも相談し、対応を協議したい。
 3年前に棚上げした礼服問題を、天領五条村の庄屋たちは蒸し返してきたのです。 
「岸上村の久保宮への念仏踊り奉納の際には、村役人の礼服は古来の通り袴羽織で行いたい。また五条村の大井神社では上下着用に統一すること」は、先ほど見たように「大井神社を格上として、久保の宮を格下」とするものです。これは池御料を代表しての五条村からの申し出です。ある意味池御料の面目がかかっているようです。
 「参加拒否、脱会もありうる」という強固な申し入れの背後には、池御料の支配役所である倉敷代官所の同意もとりつけていた気配もします。満濃池池御領の3つの村は、満濃池普請のために設けられた天領です。そのために普請行事は、この天領の大庄屋の指揮の下に行われてきました。周辺の庄屋たちの上に立つ存在でした。明治維新に満濃池を再興した長谷川佐太郎も、天領榎井村の大庄屋でした。それだけに自負心が強く、悪く云うと周囲の村々見下し、強引に押し通そうとする風があったようです。
総触頭の奈良亮助は、西組のまとめ役の買田村庄屋・永原彦助に次のように答えています。

 念仏一条ハ拙者引請、殊二当村久保宮へ古来上下二而入来候義ヲ、当年袴羽織二仕坏卜申義、其意難得奉存候。弥(いよいよ)往古袴羽織二而踊来候得ハ、譬(たとえ)如何様村役人?挨拶有之候共、右様相成候義ハ在之間敷、殊二御料所ハ念仏一条二而小松庄貴様触下之義、触頭之貴様二当村組頭共右挨挨有い之候杯と申義御存無い之、古来占仕来り之義、触下右彼是申出候義全ク目論見候義卜相見へ申候。併右様村役人共着用物之義二付、念仏ヲ差支させ御上様御苦労奉い掛候義 甚夕奉二恐入候。左候得共五条村大井宮計上下二仕候義も難二出来へ指合の上一統上下二而出張致候様仕候而如何二御座候哉。左候得バ論も無い之候間、先唐岩崎氏二内談之上、念仏組合之村々と談合可い致候。

意訳変換しておくと
 この度の念仏踊りについては、私が総責任者を引き受けています。岸の上の久保神社への奉納の際には、村役人は古来より上下着用であったのを、当年からは袴羽織に変更せよという申し入れに対して、同意できかねます。もともと昔は袴羽織であったという証拠資料は、どこの村役人がお持ちなのでしょうか? このような文書は見たことがありません。
 満濃池御料所は念仏踊りについては、小松庄の触下、触頭の立場に在り当村組頭共右挨挨有い之候杯と申義御存無い之、古来占仕来り之義、触下右彼是申出候義全ク目論見候義卜相見へ申候。
併せて村役人着用の服装については、念仏踊りに差し障りが出て、御上にお手数をおかけすることになれば、はなはだ恐入いることになります。
 この解決策として、五条村大井神社で上下で参列するように、他の寺社でも総て統一して裃(上下)で参加するようにしたいと考えています。このことについては、岩崎氏に相談した上、念仏組合の村々とも協議したします。

こうして亮介の奔走によって7月16日に、真野村の岩崎平蔵方で高松藩領側の村々の会合が開かれます。
高松領の六ケ村の庄屋が集まって、岩崎平蔵の意見に従って念仏踊興行を行うすべての宮々で、村役人は上下を着用することになります。奈良亮助は早速に、組頭の乙平を買田村の永原貞彦に遣わして、このことを伝えて、西領側と池御料側の同意を求めます。西領側というのが丸亀藩(旧仲南町の七か村と佐文)になります。
 この会合に集まった庄屋たちは、この後に新築された郷会所の落成祝の御歓びを申し上げるために髙松に連れ立って出発しています。翌日17日から大暴風雨となり、五人の庄屋は髙松の郡宿に逼留して天候の回復を待ちます、19日から高松の関係役人宅を回って、郷会所元〆で当用方の中西次兵衛に、今回の念仏踊りの礼服変更について天領からの異議申出があったことを報告して指示を仰いでいます。藩への「報告・連絡・相談」は、庄屋たちにとっては欠かすことの出来ない最重要業務だったことがうかがえます。

7月22日には、買田村庄屋永原貞彦が再び奈良亮助を尋ねて、次のように申入れます。
 念仏一件頃日御掛合被・下候処、早々御返答可い仕筈之処、大風雨二付延引仕候。昨日御料三ヶ村寄合相談仕候処、至極相談相詰り不い申、当年(金毘羅、滝宮計二而相済セ候義、尚亦池之宮二而笠揃之義も無用二仕、八月七日二榎井村興泉寺へ相揃、金毘羅山済せ、直二滝宮へ入込候様仕度段掛合被い下候様、喜三郎右申出候間、大風雨二付所々破損仕居申候二付、何卒御相談被・成可い被い下候。

意訳変換しておくと
 念仏踊りのことについて、いろいろと協議し、早々に御返答を頂いたところですが、今回の大風雨で延期することになりました。昨日、御料三ヶ村(五条・榎井・苗田)の寄合で相談したところ、いろいろな意見が出ましたが、今回については金毘羅と滝宮だけで済ませて、池之宮の笠揃も中止することにしました。8月7日に、榎井村の興泉寺に集合し、金毘羅山へ奉納し、その後すぐに滝宮へ奉納するという段取りです。喜三郎が云うには、大風雨でいろいろなところに被害が出て非常の際なので、今回は以上のように執り行うので了承頂きたいとのことである。

 これを受けて奈良亮助は、組頭滝蔵を岩崎平蔵方に遣わして、貞彦の申し出の内容を伝えます。
その際に、池の宮の笠揃踊だけは実施すべきであるという自分の意見も伝えます。これに対して岩崎平蔵は、池御料の申出通りに村々と相談してまとめるように指示しています。

 奈良亮介には、池御領の次のような「戦略」が分かっていたのでしょう。
①大暴風雨のための臨時対応を口実として、「興泉寺集合→金毘羅奉納→滝宮牛頭社踊り込み」の先例を作ること
②そして「池の宮の笠揃踊 → 各村々の村社を巡っての奉納 → 真野諏訪大明神 →  滝宮牛頭社踊り込み」という従来の手順を破ること。
③榎井村の興泉寺での笠揃踊が先例として、金毘羅奉納を中心とする念仏踊運営にしていくこと
④同時に運営主体を高松藩の真野・吉野郷から、池御領に切り替えていくこと
⑤これは、七箇村念仏踊りの分裂へとつながること

 このような危惧を持っていた奈良亮助は、次のような書状を書いています。
一筆啓上仕候。秋暑強御座候処、弥御安泰可い被い成二御勤・珍重不い斜奉い賀候。
 誠二頃日罷出緩々預二御馳走不い過い之奉い存候。然其節御噺申上候念仏踊一件、再買田村へ滝蔵ヲ以掛合候得共、何分御料所右申出之儀二付、来月7日興泉寺へ相揃候様、当領之処相談致呉候様申越候。右二付私篤と考合仕候処、満濃池之宮二相揃不申候得、当領之分金毘羅児島屋へ相揃候様仕候得如何二御座候哉。若又当年興泉寺へ相揃、後年池之宮へ笠揃無い之候時、榎井村興泉寺へ笠揃仕、夫右金毘羅相踊候杯と申義、例二相成候而不相済・義二奉い存候。夫右金毘羅町内二而相揃候得指支無之哉と奉い存候。如何二御座候哉。乍い憚御賢慮之上御指図可い被い下候。尚又御役所申出如何二御座候哉。是又別紙御一覧之上御加筆可い被。
 下候様奉二願上候。右之段御相談旁以二愚札一得こ御意一度如い斯二御座候以上。
  7月廿日       奈良亮助
   岩崎平蔵様
  意訳変換しておくと

一筆啓上仕候。残暑強く暑い日が続きますが、ご健勝のことと思います。ご無沙汰しておりますことをお許しください。この度の念仏踊の一件について、買田村へ滝蔵を遣わして掛合いました。しかし、池御領かっら申出のあった来月7日に榎井村興泉寺で笠揃をおこなうことについては、私たち高松藩の村々にとっては「寝耳に水」です。
 これについて私の対応策を述べさせてもらいます。
満濃池の池之宮に揃うのではなく、私たちも高松藩の村々も金毘羅の児島屋で相揃うのはいかがでしょうか。今回のように、興泉寺で笠揃いを行うことが通例となり、池之宮での笠揃がなくなくなった場合に、金毘羅相踊とは云えなくなります。金毘羅町内に集合して指図を仰ぐという案はいかがでしょうか。忌憚なき御指図を頂きたいと思います。また御役所への申出・報告は如何いたしましょうか。案文を作成しましたので、御一覧いただき加筆をお願いします。。
 下候様奉二願上候。右之段御相談旁以二愚札一得こ御意一度如い斯二御座候以上。
  7月廿日       奈良亮助
   岩崎平蔵様

 亮助の手紙も、大庄屋岩崎平蔵の意見を変更することはできなかったようです。
亮助は、岩崎平蔵の加筆・指示を得た次の書状を、高松の郷会所元締に提出しています。

 一筆啓上仕候、然念仏踊来ル廿九日満濃池之宮笠揃仕、夫右一日更り二村々宮々相踊候様相究候段、先日御申出仕候所、御料所占村役人共礼服着用方之義二付彼是申出差支二相成候段、丸亀御領買田村庄屋永原貞彦右掛合御座候得共、前々之仕振二致相違一候義二付而一統難い致二承知、色々取扱候得共相片付不申、然ル処此度之洪水二付、其郡々川長用水方等切損、依い之稲棉両作共砂入水押二相成、百姓共一同致二難儀候義二付、旁三ケ領相談之上、村々宮踊之分致二無田ヅ、来月7日前々之通榎井村興泉寺二相揃、夫占金毘羅相踊、直二滝宮へ入込候様仕度段相究メ申候間、左様御承知可被い下候。右為二御申出‘如い斯二御座候以上。
  7月28日 岸上村庄屋 奈良亮助
   野嶋平蔵様
   中西次兵衛様
  意訳変換しておくと
 一筆啓上仕候、念仏踊の7月29日満濃池之宮での笠揃仕について、7月1日から、各村々の神社での奉納が予定されている。先日、申出のあった池御料所の村役人の礼服着用の件について、丸亀領買田村庄屋の永原貞彦から協議申し出があり、従来の服装にもどそうとしたがまとめきれず、いろいろと取扱に苦慮している。
 そのような折に、洪水被害を受けて、郡内の川や用水も被害を受けて、稲棉などの耕地にも土砂や水が入ってしまった。そのため百姓たちは、その対応に追われている。そこで三ケ領で協議した結果、村々の神社への奉納は、今回は中止し、来月7日に、榎井村興泉寺二に合して、金毘羅山に奉納後に、直ちに滝宮へ踊り込む段取りとなった。そのように御承知いただきたい。右為二御申出如い斯二御座候以上。
  7月28日 岸上村庄屋 奈良亮助
   野嶋平蔵様
   中西次兵衛様
 

奈良亮助は、高松の郷会所へ書状を差し出した日に、高松藩領の塩入・七箇・吉野上下・四条の各村に回状を出して、8月7日に五条村の興泉寺へ参集するよう案内します。結果的には、池御料の村々の申し入れが、「暴風雨被害への非常措置」を理由にして、全面的に受け入れられたことになります。
 以上の動きを見ると、この決定至るキーパーソンは那珂郡の大庄屋と、高松藩の郷普請方小頭役を兼務する岩崎平蔵であったことがうかがえます。彼の意向が、この決定に大きく作用していたと研究者は指摘します。岩崎平蔵は、念仏踊の伝統を守ることよりも、倉敷代官所の意向や高松藩の立場を優越させてて動く「現実派」だったと云えそうです。
 1829(文政12)の念仏踊は、8月8日に滝宮への御神事奉納の踊りで終了します。しかし、村役人の礼服のことは未解決のままで、次の開催年に持ち越されることになりました。
 奈良亮助は、八月八日付で念仏踊が無事終了したことを郷会所に報告して、波瀾の多かったこの年の念仏踊の総触頭としての任務を締め括っています。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
  「大林英雄 滝宮念仏踊り七箇村組について ことひら1988年」
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 まんのう町岸の上 寺山
岸上村(まんのう町 金倉川流域)
19世紀中頃の江戸時代後半に那珂郡岸上村(まんのう町)の庄屋だった奈良亮助は、几帳面な性格でいくつもの文書を残しています。 奈良亮助は、伯父の奈良松荘のもとで和漢の学を学んでします。伯父奈良松荘(1786ー1862)は、国学者で詩文を備後の菅茶山に学び、頼山陽と並び称せられと云います。郷里に帰り、金刀比羅の日柳燕石や三井雪航などに感化を与え、晩年は岸上村の奈良家に寄寓していました。その時に、奈良亮助はその教えを受けたようです。残された文書の中に「滝宮念仏踊行事取遺留」と題されたものがあります。
一番上には、「念仏踊の事」という記録が綴り込まれていて、次のような内容が記されています。
①滝宮念仏踊が法然上人によって、念仏布教の方法として採り上げられて発達したこと
②享保年中の滝宮での御神酒樽受取の前後争いに端を発して、念仏踊が中止になったこと
③元文四年六月晦日に雹が降って農作物が大被害を受けたこと
④この被害は滝宮への念仏踊りを行っていないことへの天罰との噂が拡がったこと
⑤そこで、寛保二壬戌年から七か村念仏踊が復活したこと
以上が、簡潔な筆致で記されています。
 この記録に続いて、文政九(1826)年から安政6(1859)年までの約30年間に、13回実施された七箇村組念仏踊のことが岸上村の庄屋記録に綴りこまれています。今回は、奈良亮助の残した文書を見ていくことにします。テキストは「大林英雄 滝宮念仏踊り七箇村組について ことひら1988年」です。
 
龍燈院・滝宮神社
滝宮牛頭権現(滝宮神社)と別当寺の龍燈院

前回にお話ししたように、初代高松藩主松平頼重が復活させた滝宮念仏踊りに、参加したのは4郡の4つの踊組でした。踊組の間には異常なほどの対抗心があって、いろいろな事件や騒動を起こしています。
 例えば、正保二(1645)年の時には、演じる場所・順番をめぐって、七箇村組の岸上村の久保の宮・神職が長刀で、北条組の小踊二人を切り殺すという事件があったことは前回お話ししました。このため北条組は、その後は48人の抜刀隊を編成して警固するようにしたとも伝えられます。また、七箇村組とは踊る年を変えて鉢合わせしないようにもしています。踊りはこのようなぴりぴりとした緊張感の中で奉納されていたようです。
滝宮念仏踊り
滝宮念仏踊り
 念仏踊りが復活した当初は、七箇村組は二組編成だったようです
1790年(寛政二)年の編成表を見ると、
①主役を勤める下知 真野村と佐文村からそれぞれ各一人、
②6人1組で子供が踊役を勤める小踊 西七箇村から一人、吉野上下村から三人、小松庄四ヶ村から二人の計六人、それと、佐文村単独で六人
③笛吹が岸上村と佐文村から一人宛、
④太鼓打が西七箇村と佐文村から一人宛、
⑤鼓打が小松庄四ヶ村と佐文村から二人宛、
⑥長刀振が真野村と佐文村から一人宛、
⑦棒振も吉野上下村と佐文村から一人宛、
⑧棒突は西七箇村四人、岸上村三人、小松庄四ヶ村三人の計10人に対して、佐文村は単独で10人
ここからは次のようなことが分かります。
A七箇村組には、次の東組と西組の二組があったこと。
東組 真野・吉野郷(高松藩領) 郷社 真野の諏訪大明神(諏訪神社)
西組 小松郷と西七箇村(池御領と丸亀藩)    郷社 五条村 大井八幡社
B 東組は高松藩の村々、西組は池御領(天領)と丸亀藩の村々から編成され、藩を超えた編成になっていたこと
C その中で、西組は佐文中心に編成されていたこと。ちなみに佐文は、ユネスコ登録になった綾子踊りの里でもあります。
七箇村組の編成からは、もともとはこの踊りが中世の郷社に奉納されていた風流踊りだったことがうかがえます。

まんのう町の郷
滝宮念仏踊り 那珂郡七箇村組(真野・吉野・小松郷)
那珂郡七箇村組をめぐる事件や問題を年表化しておきます。
享保年間(1716~36)龍灯院から七箇村組に贈られる御神酒樽の受取順番をめぐって、東西費が領組が騒動
1736(元文元)年 念仏踊は中止され、七箇村組は解体状態へ。
1739(元文四)年 6月の雹(ひょう)という異常気象で農作物被害甚大。念仏踊り中止のせいだとの声が拡がる
1742(寛保二)年 龍灯院の住職快巌の斡旋で、滝宮念仏踊への参加復活
1790(寛政二)年 東西二組の編成で、奉納が続く。
1808(文化五)年 「下知一人」となり東西2組編成から一組編成へ縮小
次に年表内容を、詳しく見ていくことにします。
享保年間(1716~36)の争いの原因は、滝宮牛頭天皇社(現滝宮神社)への踊奉納の時に、別当寺の龍灯院から七箇村組に贈られる御神酒樽の受取順番です。踊りが終わった後に、どちらが先に御神酒樽を受け取るかをめぐる争いです。当時は樽はひとつしか準備されていなかったようです。おやつをもらう順番をめぐる子供の喧嘩のようにも思えます。しかし、背後には、高松藩・丸亀藩・池御料(天領)の三者の対立感情があります。天領の踊り手や役員達はプライドが高く、何かと周辺の住人達を見下すことがあったようです。東組には、高松藩(親藩)の住人ということで、外様の丸亀藩の西組の踊り手たちを見下します。こういう意識構造が、このようなハレの舞台で吹き出します。この結果、元文元年(1736)年以後は、七箇村組の踊りは中止に追い込まれてしまいます。
 3年後の1739(元文四)年の6月晦日に、季節外れの雹(ひょう)が降って東西七箇村・真野村・岸上村は稲・棉などの農作物が大被害を蒙ります。
「これは滝宮念仏踊を中止したための神罰である」という声が起こって念仏踊復活の気運が高まります。そして、滝宮牛頭権現(滝宮神社)の別当寺龍灯院の住職快巌の斡旋で、1742(寛保二)年から滝宮念仏踊への参加が復活します。龍灯院は対応策として、踊奉納を終えた七箇村東西組に対して、御神酒樽を二個用意してそれぞれの組に贈り、紛争の再発を避けていています。事件事故に学んで、新たな対応策が出されています。しかし、二組の編成は対立感情による紛争の起こる危険を常に含んでいました。復活後は、東西二組編成で1790(寛政二)年まで続いたことが史料から確認できます。

まんのう・琴平町エリア 讃岐国絵図
念仏踊七箇村組の村々

 ところが1808(文化五)年には、1組で出演していることが史資料から分かります。この年の7月24日書かれた真野村・庄屋安藤伊左衛門の「滝宮念仏踊行事取扱留」滝宮大明神(神社)の別当寺龍燈院宛の報告には、この年の七箇村組の行列は、次のように記されています。
「下知一人、笛吹一人、太鼓打一人、小踊六人、長刀振一人、棒振一人」

「下知一人、笛吹一人」ということは、一編成になったことを示すものです。「取遣留」の1808年7月25日の記事にも、龍灯院からの御神酒樽については、龍灯院の使者が、「御神酒樽壱つを踊り場東西の役人(村役人)の真中へ東向きに出し……」、口上を述べ終わると、御神酒樽は踊り場である神社から龍灯院が預かって直ちに持ち帰っています。そして、牛頭天皇社での踊りが終わってから、踊組一同を龍燈院の書院に招待して御神酒を振る舞っています。ここでも酒樽は1つしか準備されていません。1808年の時点で、七箇村組は一編成の踊組として、龍灯院から待遇されるようになっています。
   ここからは1790(寛政二)年から1808(文化五)年までの間に、七箇村組のなかで大きな問題が起こったことがうかがえます。また、一番踊り手構成メンバーが削減されているのが佐文村です。佐文は西組の中心だったことは、先ほど見たとおりです。それが棒付10名に減らされているのです。七箇村組が二編成から一編成に縮小された背景には、佐文をめぐる問題があったことがうかがえます。19世紀初頭には、それまで東西2組で運営されていた七箇村組は一組となってしまったようです。
以上を整理しておきます。
①中世に小松・真野・吉野郷では、風流踊りが郷社に奉納されていた
②それは地域の村々の有力者による宮座で組織されていたが、戦国時代に中断していた
③それを初代高松藩主松平頼重が地域興しイヴェントとして復活した
④その時に参加したのは、4つの郡の郷社に奉納されいた風流踊りであった
⑤4つの踊組は対抗心が強く、いろいろな事件や騒動を引き起こした
⑥那珂郡七箇村組も、当初は東西2組編成であったが、18世紀初頭には、1組に「縮小」している。これも内部での騒動か事件があったことが考えられる。
こうして、19世紀になると軌道に乗り、3年毎に安定して踊り奉納は行われるようになった。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
        「大林英雄 滝宮念仏踊り七箇村組について  ことひら1988年」
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滝宮念仏踊り1

滝宮念仏踊り(滝宮神社)
讃岐の飯山町の旧東坂本村の喜田家には滝宮念仏踊りに関する資料が残っています。一冊の長帳に「口上書壱通」とあり
此の度 瀧宮念仏踊の由来委細申し出で候様 御尋ね仰せ出され候二付き 申し上げ奉る口上
意訳変換しておくと
この度 瀧宮念仏踊の由来について詳しく報告することという指示を受けましたので別紙の通り報告いたします。

語尾の「申し上げ奉る」という表現から、この文書の書かれた背景が分かります。つまり高松藩が念仏踊りの由来についての東坂本村に問い合わせした、そのことへの回答という形になっています。つまり、これは高松藩への回答書の写しで、公式文書だったようです。そして次のような由来が述べられています。
光孝天皇の代の仁和二年(886)正月十六日菅原道真が讃岐守になって讃岐に赴任した。翌三年讃岐の国中が大干害となった。田畑の耕作は勿論草木も枯れ、人民牛馬がたくさん死んだ。この時、道真公は城山に七日七夜断食して祈願したところ七月二十五日から二十七日まで三日雨が降った。国中の百姓はこれを喜んで滝宮の牛頭天王神前(滝宮神社)で悦び踊った。是を瀧宮踊りと言っている。
この史料からは次のようなことが分かります。
①菅原道真が祈雨祈祷を城山で行って成就した。
②降雨成就のお礼に国中の百姓が集まってきて滝宮の牛頭天皇社で踊った。
③これが滝宮踊りの始まりである。
ここで注意しておきたいのは、雨乞いのために踊られているのではないことです。菅原道真の降雨成就を祝って踊られています。もうひとつは、各郡からの踊組が地元で踊っていた風流踊りを奉納していることです。ここでは滝宮念仏踊りが雨乞いのために踊られているのではないことを押さえておきます。道真が雨を降らせたことに対する感謝のために踊ったという趣旨になります。ここでは、この時点では「瀧宮踊り」は「雨乞成就の感謝踊り」で、あって雨乞い踊りではなかったことを押さえておきます。

滝宮神社・龍燈院
滝宮牛頭天皇社(滝宮神社 讃岐国名勝図会)

今は滝宮というと、天満宮の方を思い浮かべてしまいます。

しかし、天満宮が現在のように整備されるのは、近世になってからです。滝宮の中心は明治以前には、滝宮牛頭天皇社(滝宮神社)でした。 祭神は須佐之男命で医薬の神とされ、また牛馬の守護神として農民や馬借などの信仰を集めていました。その別当寺が龍燈院です。上の讃岐国名勝図会には、天満宮と滝宮神社の間に大きな境内を持った寺院として描かれています。龍燈院の社僧達が、両者を管理運営していました。神仏混淆下では、当たり前のことで金毘羅大権現と金光院の関係のようなものです。同時に、周辺には別院や子院が点在して、そこには念仏聖や山伏たちが住み着いて、滝宮牛頭天皇社(滝宮神社)のお札を周辺の村々に配布していました。中世のこの滝宮牛頭天皇社の信仰範囲の郷から、各郷の郷社で踊られていた盆踊りや風流踊りが、滝宮牛頭天皇社(滝宮神社)の7月の夏祭りに奉納されていたと私は考えています。そのような形を作ったのは、中世の聖や修験者たちだったと研究者は考えています。

滝宮龍燈院の十一面観音
龍燈院の十一面観音像(綾川町蔵)
 これだけの規模の寺院を、龍燈院はどのようにして維持していたのでしょうか? それを解く鍵は、蘇民将来のお札にあるようです。

蘇民将来
蘇民将来のお札
蘇民将来伝説に基づいて、わが家にはこのお札が今も神社から配布されてきます。神仏分離以前に中讃地区で、このお札を配布していたのが滝宮牛頭神社だったようです。そして、実際に配布を行っていたのが龍燈院の修験者(聖)たちでした。龍燈院も中世には、周辺に多くの修験者や廻国行者達を抱え込んでいたようです。その修験者や聖たちが、お札の配布で周辺の村々に出向きます。同時に、その時に各郷社に奉納されていた風流念仏踊りの滝宮への奉納を勧めたと私は考えています。次のような勧誘を修験者から受けたのではないでしょうか?

この郷でも盛大に風流踊りがおどられよるんやなあ。それを郷社だけに奉納するのはもったいないことや。滝宮牛頭権現さまにも奉納したらどうな。牛頭さまも歓んでくださるし、霊験もあらたかで疫病退散まちがいなしや。そのうえいろいろな郷から踊り込みが合って、大勢の人が見てくれるけんに、この郷の評判にもなるで。7月末の夏祭りが、踊込みの日になっとるけん、是非参加しまえ

こうして中世には、周辺の各郷から風流踊念仏踊りが滝宮に奉納されるようになります。奉納された踊りは、時衆の影響を受けた念仏踊りもあり、盆踊りや祭礼で踊られていた風流踊りです。

滝宮(牛頭)神社
現在の滝宮神社
龍燈院の住職が代々書き記した『瀧宮念仏踊記録』が天満宮に残っています。この表紙裏に、次のように記されています。
「先代は当国十三郡より踊り来たり候処、近代は四郡而已に成り申し候」
意訳変換しておくと 
中世には風流念仏踊りは讃岐のすべての13郡から踊り込みがあった。それが江戸時代には、参加するのは4郡までに減っている
 
讃岐の13郡のすべての郡から参加していたというのは、すぐには信じられません。しかし、中世には丸亀平野のいくつの郷社から踊り込みがあったことは事実のようです。それも戦国時代の戦乱で途絶えていたようです。

P1250408
滝宮念仏踊の各組の惣踊りの入庭

中断していた踊りを復活させたのが初代高松藩主の松平頼重です。
1650(慶安三)年7月20日の記録には、次のように記されています。
就中 慶安三年寅七月二十三日御重キ御高札も御立て遊ばされ候様承知奉り候
「押さえのための高札をお立てなされるように承知いたしました」とあります。分かりにくい所がありますので補足します。戦国期には、中断していた踊りを「中興」したとあります。これは松平頼重が水戸から高松へ入り、松平藩による藩政が整備される中で、中断していた滝宮念仏踊りを復活させたということのようです。その際に、当時の寺社は「天下泰平」「安寧秩序」などの祈願を求められていました。そこで「風流踊り」に「雨乞い祈願」という名目を+アルファして、地域興しのイヴェント行事を姿を変えた形で復活させたと私は考えています。
 当時の風流念仏踊りは、庶民が楽しみにする一大イヴェントで、夏の祭礼に併せて踊りは奉納されます。
4344101-61滝宮念仏踊り
          滝宮念仏踊り(北條組)

そのため滝宮には、大勢の人が集まって来ることが予想されます。大きな祭りやイヴェントを開く際には、予防措置を講じることを江戸幕府は各藩に命じいました。行事に掲げる高札の内容の見本まで示しています。そこで高松藩も、それを参考にして喧嘩などを禁ずる高札を掲げるように、龍燈院に命じたようです。その命に応じて建てられた高札のようです。

滝宮念仏踊り
滝宮念仏踊り(北條組拡大)

こうして、丸亀平野の4つの郡によって滝宮への踊り込みが復活します。
四郡は 阿野郡の南と北、那珂郡、多度郡の郷ということになります。最初は、いろいろな混乱があったようです。例えば、復活直後の正保二(1645)年には、踊りの順番を巡って次のような殺傷事件が起きています。
滝宮1916年香川県写真師組合
明治の滝宮付近の綾川
 前夜からの豪雨で、綾川は水嵩が増します。当時は綾川には橋がかかっていませんでした。そのため那珂郡南部の真野・吉野・子松郷で構成される七箇村組は、綾川を渡れずに、滝宮牛頭神社のすぐ手前の対岸で水が引くのを待っていました。ところが、定刻が来て七箇村組の後庭で踊ることになっていた阿野郡の北条念仏踊組が、境内に入場しようとします。この動きを川向こうから見ていた七箇村組の人たちはいきり立ちます。世話人の真野久保神社の神職浅倉権之守は、長刀を杖にして急流を渡り、入場していた北条組の小踊二人を切り殺してしまいます。小踊は、踊組の代表と考えられていたようです。踊る順番や場所について、命懸けで守ろうとしていた気迫が伝わってきます。

諏訪大明神滝宮念仏踊 那珂郡南組
滝宮念仏踊り(那珂郡七箇村組 場所はまんのう町諏訪神社)

  ちなみにこの事件はふたつの踊組に、深い対立感情を残すことになります。以後、北条組は48人の抜刀隊を編成して踊り手達を警固するようになります。踊り手達警固のために、棒持ちなどが配備されるようになった背景には、こんな事件があったようです。また、七箇村組と北條組は踊る年を変えて鉢合わせしないように踊奉納をする措置も取られています。踊る順番が固定するのは、『瀧宮念仏踊記録』に記されている享保三年(1718)からと研究者は考えています。

龍燈院・滝宮神社
     滝宮の滝宮牛頭権現社と別当寺龍燈院と天満宮
ちなみに龍王院は、明治維新の神仏分離政策を受けて住職がいなくなり、廃棄されました。実質的な受入側である龍燈寺がなくなったことで、4組による奉納は一時的に停止されたようです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
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諏訪大明神滝宮念仏踊 那珂郡南組

真野郷の郷社であった諏訪神社には、幕末に奉納された風流踊りの様子を描いた絵図が「諏訪大明神念仏踊図」が残されています。
そこには、芸司が大きな団扇を持って、その後には六人の女装した子踊りや薙刀振りや棒振りが描かれていることは以前にお話ししました。これは、現在の綾子踊りの形態とよく似ています。綾子踊りが、諏訪神社で踊られていた風流踊りから大きな影響を受けていることがうかがえます。
それを裏付けるのが、諏訪神社での風流踊りには佐文村も参加していたことです。
中世の郷社は、郷村内の村々の信仰の中心でした。この時期には、まだ村ごとの神社は姿を見せていません。村ごとに村社が建立されるようになるのは18世紀になってからです。その後、中世の祭礼に代わって獅子舞や太鼓台などが主役になっていきます。ここに描かれているのは、それ以前の郷社の祭礼様式です。それを、各村々から選ばれた踊り手たちが、郷社である諏訪神社に集まって踊りを奉納しています。そして、この数日後には牛頭明神を祭る滝宮天皇社(滝宮神社)にも奉納されます。これを私はかつては「雨乞い踊り」と思っていました。それは、現在の滝宮念仏踊りが雨乞い踊りとされているからです。しかし、「滝宮念仏踊り」は、次の二点から雨乞い「祈願」の踊りとは云えないと私は考えるようになりました。
①坂本念仏踊りの由来には、「菅原道真の雨乞い成就へのお礼のため踊られた」とあること。つまり、祈願ではなく成就への感謝のために踊られたとされている。
②中世の「雨乞い踊り」とされてきた奈良のなむて踊りなども、同様で「雨乞い成就祈願」であること。中世には雨乞祈願ができるのは験のある僧侶や修験者のみが行うものとされていたこと。
③「那珂郡七か村念仏踊り」の幕末の記録には、旱魃で給水作業が忙しいので、今年は「念仏踊り」を延期しようと各村々の協議で決めていること。つまり、踊り手たちも自分たちが踊っている踊りが雨乞い祈願のために踊られているとは思っていなかったこと。
以上からは「那珂郡七か村念仏踊り」は、もともとは雨乞い祈願の踊りではなく、ただの風流踊であったと考えるようになりました。それが近世になって、高松藩主松平頼重が踊りを再開するときに、ただの風流踊りではまずいので、社会的公共性のあるが「雨乞い踊り」として意味づけされたのではないかと考えています。

DSC01883
見物人の背後に建つ桟敷小屋(見物小屋)

それでは中世の念仏踊りは、何のために踊られていたのでしょうか。

その謎は、この絵の周囲に建てられた桟敷小屋からうかがえます。これは踊りを見物するために臨時に建てられた見物小屋です。そして、小屋には、所有者の名前が記入されています。真野村の大政所(大庄屋)の三原谷蔵の名前もあります。つまり、この見物小屋は中世以来の宮座を構成するメンバーだけに許された特等席で、世襲され、時には売買の対象でもあったことは以前にお話ししました。
 また、芸司などの演じ手の役目も、宮座のメンバーで世襲されています。ここからは、この踊りが中世に遡る風流踊りで、真野・吉野郷と小松庄の宮座メンバーによって諏訪大明神(神社)に奉納されていたことが分かります。ここでどんな踊りが踊られていたのか、またどんな風流歌が歌われていたのかも分かりません。ただ絵の題目には「那珂郡七か村念仏踊り」とあるので、風流系の念仏踊りが踊られたいたようです。
DSC01882
桟敷席には、それぞれ所有者の名前が記されている

それを真野村の有力者が桟敷小屋の高みから見物します。そして、庶民はその下で押し合いへし合いながら眺めています。彼らは、頭だけが並んで描かれています。彼らの多くは、この踊りにも参加できません。これが中世的な風流踊りだったようです。ここでは、「那珂郡七か村念仏踊り」は宮座による運営で、だれもが参加できるものではなかったことを押さえておきます。
 これに対して、各村々に姿を現すようになった鎮守では、新たな舞が奉納されるようになります。

DSC01429

それが獅子舞です。
獅子舞は、宮座制に関係なく百姓たちが参加できました。次第に、祭りの主役は夏祭りの「風流踊り」から秋祭りの獅子舞や太鼓台へと主役が交代していきます。そして、農民たちの全員に参加権与えられた獅子舞は、年々盛んになります。
 一方、各村々の有力者による宮座制で運営されたいた風流踊りは、踊り手の確保が困難になり運営が難しくなります。こうして明治になると、滝宮大明神に奉納されていた風流踊り(念仏踊り)は、姿を消して行きます。「那珂郡七か村念仏踊り」が姿を消した原因を挙げておくと
①中世以来の郷社に奉納された祭りで、各村々からの踊り手たちによって編成されていたため、村々の協議や運営が難しく、まとめきれなくなったこと
②運営体制が宮座制で、限られた有力者だけが踊り手を独占し、開かれた運営体制ではなかったこと
③各村々に村社が整備されて、秋祭りに獅子舞や太鼓台が現れ、祭礼の中心がそちらに移ったこと
 滝宮念仏踊諸役人定入目割符指引帳
「那珂郡七か村念仏踊り」の構成表を見ておきましょう。
ここからは次のようなことが分かります。
①役目が各村々に振り分けられ、どこの村からどんな役をだすのかが決まっていたこと
②真野郷と小松荘の各村々から踊り手や役目が出されて編成されている
③踊りの中心である下知(芸司)は、真野村から出されている
④全体のスタッフが2百人を越える大部隊で編成されたいたこと
⑤鉦打ちが新旧併せて60人と最も多いこと。
⑥子踊り・ホラ貝・薙刀振り・棒振り・幟など、現在の綾子踊りの構成と共通する役目が多いこと
ここでは、佐文村も江戸時代末期まで、「那珂郡七か村念仏踊り」のメンバーであったことを押さえておきます。
 次に寛政2(1790)年の「那珂郡七か村念仏踊り」(福家惣衛著・讃岐の史話民話164P)の佐文のスタッフ配分は、次のようになっていました。
下知1人、小踊6人、螺吹2人・笛吹1人、太鼓打1人と鼓打2人、長刀振1人、棒振1人、棒突10人の計25人。

先ほどの表では約40年後の文政12年(1829)には棒突10人だけになっています。このことは、佐文村に配分されていたスタッフ数が大きく削られたことを示します。
 問題はそれだけではありません。七箇村組の構成そのものが、大きく変化しています。
編成表を比較してみると、寛政2年には踊組は東と西の二組の編成です。そして、下知は真野村と佐文村から各1人ずつ出されています。ここからは1790年までは「那珂郡七か村念仏踊り」には、次の2つの踊組があったことが分かります。
①東組(真野村中心)
②西組(佐文村中心)
②の西組における佐文の役割を見ておきましょう。
6人一組になって踊役を勤める小踊は、踊りの花でもあります。
それが東組では西七箇村から1人、吉野上下村から3人、小松庄四ヶ村から2人の計6人で構成されていました。ところが、西組は佐文村は単独で6人を出しています。
DSC01887
念仏踊りの花形 棒振りと薙刀振り

さらに、佐文から出されていた役目を挙げておくと、子踊りと並んで花形の薙刀振りや棒振りも次の通りです。
長刀振が真野村と佐文村から1人、
棒振も吉野上下村と佐文村から1人
棒突は西七箇村四人。岸上村三人、小松庄四ヶ村3人の計10人に対して、ここでも佐文村は、10人を単独で出しています。
ここからも滝宮念仏踊の那珂郡南組は、佐文村が西組の中心的な存在であったことが裏付けられます。それが何らかの理由で、中心的な位置から10人の棒付きを出すだけの脇役に追いやられた事になります。どんな事件があったのでしょうか?
 想像を膨らませて、次のような仮説を出しておきましょう。

  佐文村が不祥事(事件)を起こし、その責任を取らされて西組は廃止され、さらに佐文は「役目枠縮小」を余儀なくされ、「棒付き10人」のみを送りだせるだけになった。

この仮説を支える材料を探して見ましょう。
 高松藩・丸亀藩・池御料の三者に属する村々には日頃の対立感情がありました。「那珂郡七か村念仏踊り」が中世に真野郷社の諏訪神社や、小松荘の大井神社に奉納するためにスタートした頃は、郷村の団結のための役割を果たしていました。

那珂郡郷名
真野郷と子松庄

ところが近世になって、この地域は次の三つに分断され行政区が異なることになります。所属する藩が次のように違うようになったのです。
①小松荘が天領の榎井・五条・苗田と丸亀藩の佐文に分割
②真野郷の真野・東七箇村+吉野郷などの高松藩領
③真野郷の西七箇村(旧仲南町)などの丸亀藩。
ここで一番いばったのは①の天領となった村々です。ただ小松荘で天領とならなかったのは佐文です。①の天領の村々からは、運営権を握っていた佐文や真野に対して、何かと文句が出たようです。また、②の親藩髙松藩に属した村々も、外様小藩の丸亀京極藩の住人に対して優越感をもち、見下すような言動があったことは以前にお話ししました。その中で西組の中心でありながら、丸亀藩に属し、他村からの批判を受けがちな佐文は、とかく過激な行動を取ることが多かったようです。
滝宮神社・龍燈院
滝宮神社と別当の龍燈院

  享保年間(1716~36)には、滝宮への踊奉納の際に、別当寺の龍灯院から七箇村組に贈られる御神酒樽の受取順位のことで、東西の踊り組の間で、先後争いが起こしています。そのために元文元年(1736)年以後は、念仏踊は一旦中止され、七箇村組は解体状態になります。それから3年後の元文4年の6月晦日に、夏に大降雹(ひょう)があって、東西七箇村・真野村・岸上村は稲・棉などの農作物が大被害を受けます。これは滝宮念仏踊を中止したための神罰であるという声が高まり、関係者の間から念仏踊再興の気運が起こります。龍灯院の住職快巌の斡旋もあって、寛保2(1742)年から滝宮念仏踊は復活します。滝宮龍灯院の斡旋案は、踊奉納をした七箇村組に対して「今後は御神酒樽を二個用意してそれぞれの組に贈り、紛争の再発を避ける」というものでした。しかし、東西二組編成は、再度の紛争が起こる危険をはらんでいました。
 文化五(1808)年7月に書かれた真野村の庄屋安藤伊左衛門の「滝宮念仏踊行事取扱留」の7月24日の龍燈院宛の報告には、次のように記されています。

 七箇村組の行列は、下知一人、笛吹一人、太鼓打一人、小踊六人、長刀振一人、棒振一人の一編成になっている。取遣留の七月廿五日の龍灯院からの御神酒樽の件は、龍灯院の使者が、「御神酒樽壱つを踊り場東西の役人(村役人)の真中へ東向きに出し……」と口上を述べ終わると、御神酒樽は龍灯院へ預かって直ちに持ち帰り、牛頭天皇社での踊りが終わってから、踊組一同を書院に招待して御神酒を振る舞った。

 ここからは、七箇村組は一編成の踊組として、龍灯院は接待準備しているのが分かります。この時点で、東西2組編成だったのが1組になり、佐文のスタッフが大幅に減らされたようです。それは、寛政2(1790)年から文化5(1808)年までの18年間の間に起こったことと推察できます。
 あるいは、佐文村の内部に何かの変化があったのかもしれません。それが新たに佐文独自で「綾子踊り」を行うと云う事だったのかもしれません。どちらにしても南組が二編成から一編成になった時点で、佐文は棒振り10人だけのスタッフとして出す立場になったのです。

  以上をまとめておきます
①初代高松藩主松平頼重が復活させた滝宮念仏踊りに、那珂郡南組(七箇村組)は東西2編成で出場していた。
②その西組は佐文村を中心に編成されていた。
③しかし、藩を超えた南組は対抗心が強く、トラブルメーカーでもあり出場が停止されたこともあった。その責任を佐文村は問われることになる。
④その対策として那珂郡南組は、1編成に規模を縮小し、佐文村のスタッフを大幅に縮小した。
⑤これに対して佐文村では、独自の新たな雨乞い踊りを始めることになった。
⑥それが現在の「綾子踊り」で、念仏踊りに対して風流踊りを中心に据えたものとなった。
⑤⑥は、あくまで私の仮説です。事実ではありません。悪しからず。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
  満濃町誌 第三編  満濃町の宗教と文化 「諏訪神社 念仏踊の絵」1100P
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      まんのう町諏訪神社の念仏踊り
                      念仏踊り(まんのう町諏訪神社)

  滝宮神社の神宮寺で、明治の廃仏毀釈運動で廃寺となった龍燈院の住職が代々書き記した『瀧宮念仏踊記録』の表紙裏には、次のように記されています。
「先代は当国十三郡より踊り来たり候処、近代は四郡而已に成り申し候」
「就中 慶安三年寅七月二十三日御重キ御高札も御立て遊ばされ候様承知奉り候」
意訳変換しておくと
かつては、念仏踊りは讃岐国内の13郡すべての郡が踊りを滝宮に奉納に来ていた。最近は4郡だけになってしまった。
高松藩の松平頼重が初代藩主として水戸からやってきて「中断」していた念仏踊りを西四郡のみで再興させた

滝宮念仏踊りは風流踊りで、もともとは雨乞い踊りではなかったようです。喜田家文書の坂本村念仏踊  (飯山町東坂元)には、次のように記されています。
 光孝天皇の代の仁和二年(886)正月十六日菅原道真が讃岐守となって讃岐に赴任し、翌三年讃岐の国中が大干害となった。田畑の耕作は勿論草木も枯れ、人民牛馬がたくさん死んだ。この時、道真公は城山に七日七夜断食して祈願したところ七月二十五日から二十七日まで三日雨が降った。国中の百姓はこれを喜んで滝宮の牛頭天王神前で悦び踊った。是を瀧宮踊りと言っている。

ここには雨乞い祈願をしたのは菅原道真で、その成就に感謝して百姓たちがお礼のために踊ったと記されています。奈良のなむて踊りも、もともとは盆に踊られた風流踊りで、それが雨乞い成就の際に感謝の気持ちを込めて踊られるようになったことは以前にお話ししました。滝宮念仏踊りも、中世の時宗の念仏踊りが風流化したもので、それが丸亀平野の各郷村で盆踊りとして踊られていたものと私は考えています。

那珂郡 讃岐国図 高松市歴史資料館
正保讃岐国絵図(高松市歴史資料館) 17世紀前半の那珂郡

 近世になって滝宮に奉納することを許されたのは、4つの組です。それは近世の村切りによって村が出現する前の荘郷エリアで編成されています。例えば、那珂郡の七箇村組は、満濃御料(天領)、丸亀藩領、高松藩領の三つの領の13ヶ村にまたがる踊組です。その村名を挙げると、真野・東七箇・西七箇・岸の上・塩入・吉野上下・小松庄四ケ村・佐文の13の村です。これは中世の小松・真野・吉野郷エリアにあたります。                         
まんのう町の郷
古代中世の荘郷

 七箇村踊組は、ただ滝宮で1回踊るだけではなかったようです。その前に、7月7日から盛夏の一ヶ月間に、構成員の各村の神社などを周り、60回近い踊興行を行い、最後に真野の諏訪神社でに奉納した後に滝宮牛頭神社での踊りとなるわけです。先ほどの諏訪神社の絵図も、その途上の「巡業」の時の様子が描かれたもののようです。 
  以上をまとめておくと次のようになります。
①中世の時宗念仏踊りが風流化し、丸亀平野の郷荘の盆踊りとして踊られるようになった。
②それが旱魃の際の雨乞いのお礼として、各郷で組織された集団が滝宮の牛頭天王神社(滝宮神社)に奉納された。
③近世になって一時的に中断していた踊りを、髙松藩初代藩主が復活させた。
④以後、事件などで中断期をはさみながら江戸時代末期まで奉納された。
⑤この念仏踊りは、中世の郷村時代に編成されたために、近世の村を越えたメンバーで編成されている。
⑥踊手や桟敷席などには宮座の存在が色濃く残っている。

私に分からないのは、どうして中世に「村」を越えて荘郷規模で組が編成されたのかという点です。
これについてヒントを提供してくれる本に出会いましたので、見ていくことにします。テキストは「榎原雅治 荘郷内における鎮守の機能  日本中世社会の構造 2000年」
日本中世地域社会の構造 (歴史科学叢書) | 榎原 雅治 |本 | 通販 | Amazon

中世の鎮守の機能について、研究者は次のように押さえています。
第一には、荘郷鎮守は百姓が五穀豊穣、現世安穏・後生善処を祈願する祈りの場でした。しかし、それだけではありません。荘郷内の平和を祈願する場所だからこそ、公的な場所でもありました。聖なる場所であり、公的空間でもある鎮守を掌握したものが支配者として正当性をもちえたともいえます。中世の武士団が地元の有力な寺社を保護したのも、支配を円滑にするには寺社を押さえ保護者であることをしめすことがポイントになることを、経験的に学んだ結果なのかも知れません。
第2に鎮守では、荘郷政所による検断(けんだん)が行われました。
 検断とは「検察」+「断獄」=「検断」で、不法行為)を検察してその不法をの罪を裁くことです。中世の検断は、鉄火取り、湯起請といった鎮守の場での神裁の形をとります。郷社の鎮守は神聖な裁きの場でもあったのです。
第3に、荘郷鎮守は荘郷内のメンバーの身分秩序会の確認の場でもありました。
鎮守の宮座が名主層によって独占されていて、百姓層はそこから排除されていたことや、新興の勢力が宮座に加入する場合には、右座・左座というように旧来からの座株所有者とは区別されていたことをみれば分かります。また寺社の棟札や梵鐘の銘文には、地頭・荘官以下、名主や百姓の名前がそれぞれの奉加額とともに記され、荘内の身分秩序が一目で分かるように示されています。家の格まで視覚的に表現されていました。毎年、繰り返される祭礼行事では、荘官以下の百姓たちの身分序列の確認の場でもあったのです。

次に、荘郷の寺社がネットワークを形成していく具体例を、近江国坂田郡(現長浜市)の長浜八幡神社で見ていきます。
神社ご朱印巡り7 「長濱八幡宮」(滋賀県長浜市) | sadahachi.com

長浜八幡宮は八幡庄の鎮守で、室町中期の永享年間に堂塔建立が行われています。永享7年(1435)の勧進猿楽の際の桟敷注文井奉加帳(史料B)と、永享11年(1429)の塔供養の際の奉加帳(史料C)が残されています。史料Bを見る前に、当時の猿楽の席次について「予習」しておくことにします。
長浜神社 糾瓦猿楽桟敷図
京都札河原勧進猿楽桟敷注文
寛正5年(1464)の京都札河原勧進猿楽桟敷注文およびその付図(図2)があります。そこには、猿楽は円形の舞台で演じられ、その周囲に見物桟敷が設けられています。桟敷の中心(真下)は「神之座敷」です。「御前」が「神之座敷」の前という意味です。これを中心に、向正面に向かって注文の記載順に座っていきます。御前の両隣に公方夫妻(足利義政・日野富子)が座り、次いで対面に向かって関白、門跡、管領、有力守護、奉公衆と、およその身分の序列に従って席が決められていたことが分かります。
長浜八幡宮の猿楽桟敷の舞台設営もこれと同じような席順であったのでしょう。上演の際の席次は、どうなっていたのでしょうか
長浜神社 猿楽桟敷

座敷注文の記載順を見ておきましょう。
文中に「御前ヨリ東」「御前ヨリ西」とあるので、桟敷の席次を意識した順のようです。そしてその順序は「次第不同」とされていますが、そうはいいながら注文の端から奥に向かって、荘官・殿原層から村へという、序列があることがうかがえます。
下に続く
長浜神社 猿楽桟敷2
この席順を模式図化すると下図のようになります。

長浜神社 猿楽桟敷概念図2

長浜八幡神社の猿楽桟敷の配置については、以下のようになります。
桟敷の中央に荘官・殿原層・荘郷鎮守の僧や神官
末席には名主層
桟敷と舞台の間の「地居」に桟敷に昇れない層
猿楽鑑賞の座が、地域の身分秩序を目に見える形で示す場になります。参加者にとっては、自分の席がどこにあり、前後はどうなっているのかは大きな意味を持ったことでしょう。それは、そのまま「家の格付け」を示す者でもあったことになります。
研究者は史料に出てくる次の字句に注目します。
史料Bの奉加帳部分に「八坂 八人中」
史料Cに「イコマ(生駒)ノ宮村人」
Bの八坂社は祗園保の鎮守で、生駒宮は平方庄の鎮守です。八坂社や生駒の宮の「村人」が長浜の八幡宮に寄進しています。「村人」ということばは、近江においては村民一般ではなく、宮座の構成員である「オトナ層」を指す用語のようです。奉加帳に「八坂八人中」「イコマノ宮村人」などの名前が見えるということは、 この地域の荘郷鎮守の関係が、単なる寺社と寺社の関係ではなく、オトナ層同士の宮座と宮座の連帯関係でもあったと研究者は考えています。
こうした荘郷鎮守の関係は、どのような役割を果たしていたのでしょうか。
 それは地域の身分秩序を確認する場として機能していたと研究者は指摘します。表2は史料Bの桟敷注文に見えるおもな人物を荘郷別、身分別にまとめたものです。
長浜神社 猿楽桟敷注文票

ここに出てくるメンバーを見ると、八幡庄を中心とした荘郷から荘官層、殿原層、名主百姓層がそれぞれに桟敷料を払って、このイベントに参加していたことが分かります。つまり、実際に猿楽が上演されるときには、次の二つの階層が桟敷の上で目に見える形で確認できることになります。
単独で見物席を確保できる荘官層、殿原層、
村単位でなければ確保できない名主百姓層
また、新興の者はこの場に座る座を確保することによって、自らの位置を可視的に地域社会に承認させることができるという仕掛けになっています。
これらの史料に出てくる寺社を地図に落としたのが図1です。
長浜神社 ネットワーク

ここからは長浜八幡宮や観音寺をはじめ福永庄の神照寺、山階庄の本国社など、この地域の荘郷鎮守を中心とした寺社の造営などに、周囲の荘郷から寄進が出されています。地域的な連帯関係があったことが見えてきます。中世の寺社は、単独で存在していたのではないということです。これらを結びつけていたのが修験者たちになるようですが、それについてはまた後ほどみることにします。
長浜 大原観音寺
大原観音寺

長浜の東方にある大原観音寺は、大原庄の鎮守的な寺院です。ここにも応永26年(1419)の本堂造作日記(史料D)が伝わていて、奉加者の名前が記されています。

長浜神社 史料D

史料Dには、大原庄内外の村々の「村人」が奉加者として名前があります。「村人」というのは、先ほども見たように荘郷内の支配層のことです。各荘郷の「村人」が寺社のネットを通じて、荘郷を超えた広い地域社会の中に現れて、認められていることになります。寺社のネットは、村内の身分序列を、荘郷を超えた地域社会で承認していく役割を果たしていたことになります。
 さらに重要なことは身分だけでなく、「村」の存在自体、寺社のネツトを通して地域社会の中で承認されるものだったというのです。
荘郷内に「村」が政治的・経済的な主体として登場してくるのは鎌倉末期のことです。これを承認する体制は、荘園公領制の中にはありません。新たに登場した室町期の守護も荘郷の枠組みを超えて「村」を領国支配体制の中に位置づけることはありませんでした。そのような中世社会の中にあって唯一「村」を承認するシステムが、寺社の地域的ネットだったと研究者は指摘します。荘郷鎮守の地域的ネットに認めてもらうことで、「村」は「村人」という内部の身分秩序とともに、地域的な承認を獲得していったと研究者は考えています。つまり、このような寺社ネットに登録されないと、他の荘郷から村としても、指導者としても認めてもらえることがなかったことになります。
少々荒っぽいですが、これを丸亀平野の那珂郡南部で起きていたことに当てはめると、次のようになります。
①那珂郡南部の真野郡は、真野の諏訪神社を荘郷神社としていた。
②小松・真野郷は各村からの宮座構成員の「村人」メンバーで、念仏踊りが組織され諏訪神社に奉納された。
③その際には、踊り手は宮座メンバーに限られていたので、踊りに参加する人たちは小松荘や真野郷の「村人(有力者)」を相互認知する機会となった。
④神社の境内に設置された桟敷席も、エリア指定の世襲制で宮座メンバー以外は建てることができなかった。桟敷席に座ると云うこと自体が、地域での階層位置を示すもので、「村」での権勢表示の場でもあった。
ここからは丸亀平野の荘郷のなかでも、「村 ― 荘郷 ― 地域」のネットワーク化が進んでいたこと、そして、村内の身分秩序や村自体の存在が荘郷を超えた広い地域の中で公認されていく様子が見えてきます。その場が荘郷の鎮守であり、そこで踊られる念仏踊りであったことになります。そして、荘郷鎮守の地域的な関係とは、寺社の相互扶助によって成り立っていたようです。
  真野郡の諏訪神社は、滝宮の牛頭天王社と、近江八幡社の近隣寺社と同じように修験道関係者を通じた相互扶助関係があったことがうかがえます。それだけの勢力を牛頭天王社別当寺の龍燈寺に集まる修験者たちは持っていたことになります。

 中世の名主層の世界観は、次のようなものだったと研究者は考えています。
地域的な秩序を維持するためには、荘郷鎮守の維持が必要である。荘郷鎮守を維持するためには村内の身分秩序を維持することが必要だ。逆にいえば、荘郷鎮守を維持することは、その荘郷のみにとって意味をもつものではなく、地域全体の秩序を保つための義務なのである。この地域に対する義務を果たすことによって、荘郷内の宮座運営の体制、すなわち荘郷内の身分秩序は、地域社会の中で認められているのだ

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
     「榎原雅治 荘郷内における鎮守の機能  日本中世社会の構造 2000年」
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前回には、次のようなことを見てきました
①中世讃岐では高野の念仏聖たちのプロデュースで、念仏踊りが広く踊られるようになっていたこと。
②これは、庶民の芸能活動のひとつであり、当初は雨乞いとの関連姓はなかったこと。
③それが雨乞いの「満願成就のお礼」として、菅原道真の雨乞祈願伝説の中心地となった滝宮神社に奉納されるようになったこと。
  今回は、念仏踊りがどのようにして、各郷村で組織されていたのかを見ていくことにします。
 滝宮神社の神宮寺で、明治の廃仏毀釈運動で廃寺となった龍燈院の住職が代々書き記した『瀧宮念仏踊記録』の表紙裏には、次のように記されています。
「先代は当国十三郡より踊り来たり候処、近代は西四郡而已に成り申し候」
「就中 慶安三年寅七月二十三日御重キ御高札も御立て遊ばされ候様承知奉り候」
意訳変換しておくと
かつては、讃岐国内の13郡すべての郡が念仏踊りを滝宮に奉納に来ていた、ところが近年は西4郡だけになってしまった。そこで寅7月23日に、押さえのための高札をお立てなされるように承知いたした

 ここには大幅な省略があるので補足しておくと、もともと讃岐国13郡全てのから奉納されていたが、近年は中断されていた。それを松平頼重が初代髙松藩主としてやってきて、慶安三(1650)年に西四郡のみで再興させたというのです。西とついているのは、高松藩領の西部という意味でしょう。ですから、四郡は 阿野郡の南と北、那珂郡、多度郡ということになるようです。
  しかし、私は讃岐全郡からはやってきていなかったと思っています。もともと滝宮周辺の四郡だけで、これが滝宮牛頭天王社(別当龍燈院滝宮寺)の信仰圏だったと考えています。
松岡調編の「新撰讃岐風土記」には、近世初頭の滝宮踊について次のように記します。
此踊りは村人の踊るには非ずして、往古は本国の人民こぞりて七月二十五日に菅原神社境内に集ひ来て踊れるが、今は僅かに阿野部の村々又那珂郡七箇の村、鵜足郡坂本村等の者の務むることなれり。共式厳重にして踊曲の前後を争へる事最も甚だし。其村々より踊の前後を争はむと数十人行列をなして旗幟を翻し、鉦鼓を鳴し、甲冑を具したる者数多太刀抜きかざし長刀振りまわしつつ押し寄せ来て既に踊むとするに到て互いに撃合ひ殴合ひて人を害し己をも害せらるる状いかにも野蛮めきて見るにしのびぎるなり。是は元亀天正の野武士の悪癖の遺風たらむと思はれていといと片腹いたくなむ故に国主より官吏を派遣させ制札をも立て警固する事になりしに遂には隔年に二組づ務めめさせることしていと穏便になれるが、今も猶然かり。

意訳変換しておくと
この踊りは村人だけが踊るのではなく、昔(中世)は讃岐の人民がこぞって、7月25日に滝宮神社境内にやってきて踊っていた。それが今は僅かに阿野部(北条組)の村々や那珂郡七箇村、鵜足郡坂本村の者達だけが務めている。かつては組通しで踊りの順番をめぐって争いが絶えなかった。そのため各組は数十人行列を作って、旗幟を翻し、鉦鼓を鳴し、甲冑を着けた者が多数、太刀を抜きかざし、長刀振りまわしながら押し寄せ来て、踊ろうとしている組に襲いかかり、撃合い殴合いが起こり、多くの人達が傷つく野蛮で見るにしのびない惨状でもあった。まさに元亀天正の戦国時代の野武士の悪癖の遺風のような有様であった。そこで国主(高松藩藩主松平頼重)は、官吏を派遣し、制札を立てて警固を厳重にして、隔年に二組ずつ務めめさせることした。それ以後は、次第に穏便になった。

 ここからは、滝宮への踊り込みは大イヴェント行事で、ただの踊りでなく、各組の示威行動の場でもあったこと、そのため暴れるためやってきている連中が数多くいて、争いが絶えなかったこと。そのため甲冑を着け、刀を振り回すような連中に対抗するためにも警固衆が必要だったことが分かります。

滝宮念仏踊り1

その時に、国守(高松藩の松平頼重)によって立てられた高札には次のように記されていたようです。
      滝宮念仏踊の節 御制札左の通
一 於当社 会式之場意趣切喧晩無願仕者在之者 不純理非双方可為曲事・縦雖為敵討無断者可為  越度事附闘落之者見出候共其主人届出会式過重而以い断可相済事
一 於当社・桟敷取候義堅停止事 次鳥居之外而辻踊同寿満別之事
一 宮林竹木不可伐採一併作毛之場江 牛馬放入間敷事
      慶安元子年七月廿三日
意訳変換しておくと
      滝宮念仏踊の節  御制札左の通
一 滝宮神社における念仏踊り会場においては、喧嘩やもめ事などの騒動は厳禁する。たとえ敵討ちであろうとも許可なく無断で行ったものについては、その主人も含めて処罰する。
一 当社においての見物用の桟敷場設置は堅く禁止する 鳥居の外での辻踊や寿舞は別にすること
一 宮林の竹木は伐採禁止、また境内へ牛馬放入はしないこと
   慶安元子(1650)年7月廿三日
 この制札は、幕府よりの下知で、滝宮の念仏踊の日だけ立てられたものです。内容の書き換えについては、その都度、幕府・寺社奉行の許可が必要でした。正保元申年・慶安元子年・寛文三卯年に書き換えられたことが、取遺留に特記されています。

こうして、回が重ねられ、順年毎の出演する組や、演ずる順番が固定し、安定した状態で念仏踊りが行われるようになったのは、享保三年(1717)頃からになるようです。

滝宮に躍り込んでくる念仏踊りは、どんな単位で構成されていたのでしょうか?

滝宮念仏踊り3 坂本組

『瀧宮念仏踊記録』は坂本念仏踊りについて、次のように記します。

坂本郷踊りも七十年計り以前までは上法軍寺・下法軍寺の二村が加わっており、合計十二ヶ村で踊りを勤めていた。ところが、黒合印幟が出来て、それを立てる役に当たっていた上法軍寺二下法軍寺の二村の者が滝宮神社境内で間違えた場所に立てたため坂本郷の者共と口論になり、結局上法軍寺・下法軍寺の二村が脱退して十ケ村で勤めることとなった。このことで踊り・人数で支障が出るのではと尋ねてみたが、坂本郷の方では十ケ村で相違ないように勤めるからと答えたこともあって、今日(寛政三年)まで坂本郷十ヶ村で勤めてきている

 坂本郷十ヶ村というのは、どういう村々でしょうか?
  東坂元・西坂元・川原・真時・東小川・西小川・東二村・西二村・東川津・西川津

 この村々について、『瀧宮念仏踊記録』は、次のように記します
「坂本郷は以前は一郷であったが、その後東坂本・西坂本・川原・真時と分けられ、他の六ヶ村は、前々から付村 (枝村)であった」

これは誤った認識です。和名抄で鵜足郡を見てみると、小川郷・二村郷・川津郷は当初からあった郷名であることが分かります。
和名抄 讃岐西部

坂本念仏踊りは「鵜足郡念仏踊り」と呼んだ方がよさそうです。どちらにしても、もともとは近世の「村」単位ではなく、郷単位で構成されていたこと分かります。具体的には、坂本郷・小川郷・二村郷・川津郷の中世の郷村連合によって構成されたものと云えそうです。
讃岐郷名 丸亀平野
坂本念仏踊りを構成する郷エリア
 滝宮へ踊り入る年(4年に一度)は、毎年7月朔日に東坂本・西坂本・川原・真時の四ヶ村が順番を決めて、十ヶ村の大寄合を行って、踊り役人などを決めていたようです。その数は300人を越える大編成です。編成表については以前に紹介したので省略します。
川津・二村郷地図
滝宮神社に躍り込んだのではありません。次のようなスケジュールで各村の鎮守にも奉納しています。
一日目 坂元亀山神社 → 川津春日神社 → 川原日吉神社 →真時下坂神社
二日目 滝宮神社 → 滝宮天満宮 → 西坂元坂元神社 → 東二村飯神社
三日目 八幡神社 → 西小川居付神社 → 中宮神社 → 川西春日神社
那珂郡郷名
那珂郡の郷名
もうひとつ記録の残る七箇村念仏踊りを見ておきましょう。
 滝宮に奉納することを許された4つの組の内、七箇村組も、満濃御料(天領)、丸亀藩領、高松藩領の、三つの領にまたがる大編成の踊組でした。その村名を挙げると、次の13の村です。

真野・東七箇・西七箇・岸の上・塩入・吉野上下・小松庄四ケ村・佐文

これも郷単位で見ると、吉野・真野・小松の3郷連合組になります。

次の表は、文政十二(1829)年に、岸上村(まんのう町)の庄屋・奈良亮助が念仏踊七箇村組の総触頭を勤めた時に書き残した「諸道具諸役人割」を表にしたものです。
滝宮念仏踊諸役人定入目割符指引帳

 総勢が2百人を越える大スッタフで構成されたいたことが分かります。そして、スタッフを出す村々は次の通りです。
高松藩 真野村・東七ヶ村・岸上村・吉野上下村
丸亀藩 西七ヶ村・塩入村・佐文村
天 領  小松庄4ケ村(榎井・五条・苗田・西山)
どうして、藩を超えた編成ができたのでしょうか。
それは讃岐が、丸亀藩と髙松藩に分けられる以前から、この踊りが3つの郷で踊られていたからでしょう。滝宮に躍り込んでいた念仏踊りは、中世の郷村に基盤があったことがここからもうかがえます。

踊りが奉納されていた各村の神社と、そこでの踊りの回数も、次のように記されています。
七月十六日 満濃池の宮五庭
七月十八日 七箇春日宮五庭、新目村之官五庭
七月廿一日 五条大井宮五庭、古野上村営七庭
七月廿二日 十郷買田宮七庭
七月二十三日 岸上久保宮七庭、真野宮九庭、
       吉野下村官三庭、榎井興泉寺三庭
              右寛保二戌年七月廿一日記
満濃池遊鶴(1845年)
満濃池の堰堤の右の丘の上に鎮座するのが池の宮
7月16日の 満濃池の宮とは、後の神野神社のことで、この頃は現在の堰堤南付近にありました。今は池に沈んでしまったので、現在地に移っています。

DSC03770満濃池ウテメ
池の宮の拡大図

「7月18日の七箇春日宮五庭、新目村之官五庭」とあるのは、西七箇村(旧仲南町)の春日と新目の神社です。全部の村社に奉納することは出来ないので。その年によって、奉納する神社を換えていたようです。それでも2百人を越える大部隊が、暑い夏に歩いて移動して奉納するのは大変だったでしょう。
文久二(1862)年の時には、榎井の興泉寺と、金毘羅山を終えて、岸上村の久保宮で踊り、最後に真野村の諏訪神社で九庭踊って、その年の踊奉納を終了することになっていたようです。ここからは真野村の諏訪神社がこの組の中核神社であったことがうかがえます。
 それぞれの宮での、踊る回数が違うのに注目して下さい。「真野宮九庭」とあります。数が多いほど重要度が高い神社だったことがうかがえます。また、「下知」を出しているのも真野村です。後にも述べますが、このメンバーは宮座構成員で世襲制です。村の有力者だけが、この踊りのメンバーになれたのです。

 七箇村踊組は7月7日から盛夏の一ヶ月間に、各村の神社などを周り、踊興行を行い、最後が滝宮牛頭神社での踊りとなるわけです。
その時の真野村の諏訪神社の「巡業」の時の様子を描いたものが次の絵図です。
滝宮念仏踊 那珂郡南組

 この絵図については以前にお話ししたので、ここでは踊りの廻りに設置されている見物桟敷小屋だけを見ておきましょう。これについては、以前に次のように記しました。
①風流化した念仏踊り奉納の際に、境内に桟敷席が設けられて、所有者の名前が記されていること。
②彼らは、村の有力者で、宮座の権利として世襲さしていたこと
③桟敷小屋には、間口の広さに違いがあり、家の家格とリンクしていたこと。
④後には、これが売買の対象にもなっていたこと。
 この特権が何に由来するかと言えば、中世の宮座のつながるものなのでしょう。このようにレイアウトされた桟敷席に囲まれた空間で踊られたのが風流化した念仏踊りなのです。ここからも、この念仏踊りが雨乞い踊りではなく風流踊りであったことがうかがえます。

IMG_1387
佐文綾子踊り 
これも風流踊りが雨乞い踊りとして踊られるようになったもの

念仏踊りが風流化して、郷社で踊られるようになるまでの過程を見ておきましょう
    中世も時代が進むと、国衛や荘園領主の支配権は弱体化します。それに反比例するように台頭するのが、「自治」を標榜する惣郷(そうごう)組織です。惣郷(そうごう)は、寄合で構成員の総意によって事を決します。惣郷が権門社寺の支配を排除するということは、同時に惣郷自らが、田畑の耕作についての一切の責任を負うということです。つまり灌漑・水利はもとより、祈雨・止雨の祈願に至るまでの全ての行為を含みます。荘園制の時代には、検注帳に仏神田として書き上げられ、免田とされていた祭礼に関する費用も、惣郷民自身が捻出しなければならなくなります。雨乞いも国家頼みや他人頼みではやっていられなくなります。自分たちが組織しなくてはならない立場になったのです。この際の核となる機能を果たしたのが宮座です。
IMG_1379

 中世期の郷村には「宮座」と呼ぶ祭祀組織が姿を現します。
各村々に、村の鎮守が現れるようになるのは近世になってからです。 
各郷の鎮守社で、春秋に祭礼が行われていました。そこでは共通の神である先祖神を勧請し、祈願と感謝と饗応が、地域の正式構成員(基本的には土地持ち百姓)によって行なわれました。また同時に、神社境内に設けられた長床では、宮座構成員の内オトナ衆による共同体運営の会議が開催されます。宮座構成員は、各地域の有力者で構成されます。彼らが念仏踊りの担い手(出演者)でもあったのです。   
宮座 日根野荘
            日根野荘の宮座

近世初頭の「村切り」によって、小松郷や真野郷は分割され、多くの村ができました。

それでも「村切り」の後も、かつて同じ郷村を形成していた村々の結びつきは、簡単にはなくなりません。しかし、一方で「村切り」によって、年貢は村ごとに徴収されるようになります。次第に、村それぞれがひとつの共同体として機能するようになります。また、直接に村が領主と対峙するようになると、次第に村としての共同意識が生まれ育っていきます。そして各々の村は、新たに神社を勧請したり、村域内にある神社を村の結集の軸として崇めるようになります。「村切り」後の村は、結集の核として新たな村の神社を作り出すことになります。つまり、「村氏神(村社)」の登場です。
 こうして、村人たちは2つの神社の氏子になります、
①中世以来の荘郷氏神(真野の諏訪神社や、小松荘の大井神社?)
②「村切り」以降に生まれた「村氏神」
 例えば、綾子踊りの里の佐文村は、中世以来の郷社である小松郷の大井神社の氏子であり、あらたに村切り後に生まれた佐文村の鴨神社の氏子でもあることになります。氏子の心の中では、二つの神社の綱引きが行われることになります。
 新しく登場した村の神社は、宮座はありません。
村の百姓たちに開かれた開放制です。そこで新たに採用される祭礼も、原則全員です。祭礼行事には、後には「獅子舞」が採用されます。これは、各組で獅子を準備さえすれば後発組でも参加できます。宮座制のような排他性はありません。
 宮座祭祀の郷社では、従来の有力者が、宮座のメンバーを独占し、祭祀を独占していたことは先ほど見てきました。ところが新たに作られた村社では、開放性メンバーの下で獅子舞が採用されたと私は考えています。
   人々は郷社のまつりと、村社の祭りのどちらを支持したのでしょうか。
これは地元の村氏神ではないでしょうか。これを加速するような出来事が起きます。それが讃岐の東西分割と金毘羅領や天領の出現です。
生駒騒動で生駒藩が取りつぶしになった後に、讃岐は高松藩と丸亀藩の東西に分割されます。この境界が旧仲南町の佐文や買田との間に引かれます。その上に、小松庄は、金毘羅大権現を祀る松尾寺金光院の寺領と、満濃池御料として天領に組み込まれます。つまり、念仏踊りの構成員エリアが丸亀藩と高松藩と金毘羅寺領と天領の4つに分割されることになったのです。これは地域の一体感を奪うことになりました。こうして時代を経るに従って、それまでの荘郷氏神との関係は薄れていくことになります。かつての郷社での念仏踊りよりも、地元の村社での獅子舞重視です。
DSC01495
「讃岐国名勝図会』に描かれた水主神社の獅子頭

 それでも念仏踊りは松平頼重のお声掛かりで滝宮神社への定期的な奉納が決められていたこと、また、宮座で役割が世襲制で、これに参加できることは名誉なこととされてもいたこと、などから中止されることはなかったようです。しかし、異なる藩や天領・寺領などからなる構成員をまとめていくことはなかなか大変で、不協和音を奏でながらの運営であったことは以前にお話ししました。
以上を前回のものと一緒にしてまとめておきます。
①中世の讃岐では、高野の念仏聖たちのプロデュースで、念仏踊りが広く踊られるようになっていたこと。
②念仏踊りは、宮座によって、郷社の祭礼や盂蘭盆会に奉納されるようになったこと
③これは、庶民の芸能活動のひとつであり、当初は雨乞いとの関連姓はなかったこと。
④それが菅原道真の雨乞祈願伝説の中心地となった滝宮神社に奉納されるようになったこと。
⑤江戸時代に復活され際には、盆踊りでは大義名分に欠けるので雨乞への「満願成就のお礼」とされ、それがいつの間にか「雨乞踊り」とされるようになったこと。
⑥各踊り組は、かつての中世郷村が、近世に「村切り」で生まれた村の連合体であった。
⑦そのため各村にも「村氏神」が生まれたので、ここに奉納した後に滝宮へ躍り込むというスタイルがとられた。
⑧踊組のメンバーは中世以来の宮座制で、あったために役割は世襲化され、一般農民が参加することは出来なかった。
⑨そのため時代が下るにつれて「村氏神」の重要度が高まるにつれて、念仏踊組は機能しなくなる。
 それは「村氏神」に獅子舞が登場する時期と重なり合う。宮座制のない獅子舞が、祭礼行事の中核を占めるようになっていき、風流踊りの念仏踊りも地域では踊られることがなくなっていった。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
    「山路興造 中世芸能の底流  中世後期の郷村と雨乞 風流踊りの土壌」

念仏踊り 八坂神社と下坂神社 : おじょもの山のぼり ohara98jp@gmail.com

  滝宮念仏踊りのひとつに坂本村念仏踊り(丸亀市飯山町)があります。
旧東坂本村の喜田家には、高松藩からの由来の問い合わせに応じて答えた坂本念仏踊りに関する資料が残っています。そこには起源を次のように記します。
喜田家文書の坂本村念仏踊  (飯山町東坂元)
 光孝天皇の代の仁和二年(886)正月十六日菅原道真が讃岐守となって讃岐に赴任し、翌三年讃岐の国中が大干害となった。田畑の耕作は勿論草木も枯れ、人民牛馬がたくさん死んだ。この時、道真公は城山に7日7夜断食して祈願したところ7月25日から27日まで三日雨が降った。国中の百姓はこれを喜んで滝宮の牛頭天王神前で悦び踊った。是を瀧宮踊りと言っている。
滝宮神社・龍燈院
滝宮神社(牛頭天皇社)と別当寺龍燈院(金毘羅参詣名所図会)

ここには菅原道真が雨乞いを祈願して、雨が降ったので百姓たちは、悦び踊ったとあります。注意して欲しいのは、雨乞いのために踊ったとは書かれていないことです。また、法然も出てきません。江戸時代の前半には、踊り手たちの意識の中には、自分たちが躍っているのは、雨乞い踊りだという自覚がなかったことがうかがえます。それでは何のために踊ったのかというと、「菅原道真の祈願で三日雨が降った。これを喜んで滝宮の牛頭天王神前(滝宮神社:滝宮天満宮ではない)で悦び踊った」というのです。もうひとつ文書を見ておきましょう。
滝宮念仏踊り3 坂本組

嘉永六(1852)年の七箇村念仏踊り(現まんのう町・琴平町)に関する史料です
 この年の七箇村念仏踊は、真野村庄屋の三原谷蔵が総触頭として、先例通りに7月7日に真野不動堂で寄合を行い、17日に満濃池の池の宮で笠揃踊を行い、その後に各村の神社で踊興行を行って、25日に滝宮に躍り込む予定で進められていました。ところが17日に池の宮で笠揃踊を行った時、西領(丸亀藩)側の村々から次のような申し入れがでます。
  先達而から照続候二付、村々用水差支甚ダ困り入申候二付、25日滝宮相踊リ、其内降雨も有之候バ同所二而御相談申度候間、先25日迄外宮々延引致候事」。

意訳変換しておくと
 春先から日照りが続き、村々の用水に差し障りがでて、水の確保に追われ困っている。ついては、25日の滝宮相踊までには、雨も降るかも知れないが雨がないときには、各村の神社での踊興行を延期したい

 簡単に言うと、旱魃で大変なので念仏踊りは雨が降るまで延期したいという申し入れです。最初に、これを呼んだときには私の頭の中は「?」で一杯になりました。「滝宮念仏踊りは、雨乞いのために踊られるもの」と思い込んでいたからです。ところが、この史料を見る限り、当時の農民たちは、そうは思っていなかったことが分かります。「雨が降るまで、念仏踊りは延期」というのですから。
 この西領側からの申し入れは、17日の池の宮の笠揃踊で関係者一同に了承されています。日照り続きで雨乞いが最も必要な時に、宮々の踊興行を延期したのです。ここからは関係者の間には、雨乞いのための念仏踊であるという意識はなかったことが分かります。
  それでは念仏踊りは何のために踊られていたのでしょうか?
  念仏踊りに用いられる団扇を見てみましょう。団扇が風流化した踊念仏で主役として使用されます。滝宮神社の「念仏踊」にも下知が役大団扇を振って踊念仏の拍子をとります。その団扇の表裏に「願成就」と「南無阿弥陀仏」の文字が書かれています。ここでは「願成就」となっています。「雨乞成就」ということなのでしょうか?
近畿の雨乞い踊りを見てみましょう。

石上神社

以前にお話した奈良の布留郷の郷民たちの雨乞いを、見ておきましょう。
 日照りが続くと布留郷の郷民代表と布留神社の爾宜が、竜王山の山中に鎮座する竜王社まで登り、素麺50把と酒一斗二升を供え、雨を祈願します。これが適えられれば、郷中総出でオドリを奉納することを神に約束します。ここではオドリは「満願成就のお礼」として踊られていたことが分かります。このオドリを「南無手踊り」と呼んでいました。名前からして念仏踊りの系譜を引くものあることがうかがえます。
ヲドリの具体的様子は、文政頃に成立した『高取藩風俗間状答』に、次のように記されています。
南無手(なむて)踊は旱魃の時に、雨乞立願の御礼に踊るので願満踊とも云う。高取城下で行われる時には、行列や会場に天狗の面や鬼の面をかぶり棒をついた警固人が先頭に立って出て、群集を払い整理する。その次に早馬と呼ばれる踊り子が小太鼓を持ち唐子衣装花笠で続く。その次は中踊と呼ばれる集団で、色々の染帷子・花笠を着け、音頭取は華笠・染帷子やしてを持ち、所々に分かれて拍子をとる。頭太鼓は唐子装束、花笠踊の内側に赤熊を被ることもあり、太鼓に合せて踊る。それに法螺貝・横笛・叩鐘が調子を合す。押には腹に大鼓を抱え、背中には御幣を負う。踊は壱番より五番までで、手をかへながら踊り、村毎に少しづつ変化させている。一村毎に分て踊る

とあり、村ごとで少しずつ踊り方を換えていたことがうかがえます。雨乞成就のためのものですから、このヲドリは江戸時代を通じて何回も踊られています。
布留3HPTIMAGE
なむて踊りの絵馬

文政十年(1827)8月の様子を「布留社中踊二付両村引分ヶ之覚」(東井戸帝村文書)は、次のように記します。

この時は布留郷全体の村々が、24組に分けられていた。東井戸堂村・西井戸堂村合同による一組の諸役は、大鼓打四人、早馬五人、はやし二人、かんこ五人、団踊一〇人、捧ふり二人、けいご一〇人、鉦かき二人、大鼓持三人の、計四二人になる。

1組で42人のセットが24組集まったとすると、郷全体では千人以上の規模の催しであったことが分かります。踊りのスタイルを見ると、腹に大鼓を付け、背に美しく飾った神籠を負つた太鼓打も出てきます。しかし踊りの中心は、大太鼓(頭大鼓)を中心に据えて、その周囲を唐子姿の者が廻り打ちをするという芸態で、歌の数もそれほど多くはないようです。

日根荘の移りかわり | 和泉の国(泉州)日根野荘園 | 中世・日根野荘園-泉州の郷土史再発見!

もうひとつ和泉国日根野荘の郷民による雨乞を見ておきましょう。
公家の九条政基は、戦乱を避けて自分の所領である和泉国日根野荘(現大坂府泉佐野市)に「亡命」します。ここには修験の寺である犬鳴山七宝滝寺がありました。そこで見た雨乞いの様子が、彼の日記『政基公旅引付」の文亀元年(1501)七月二十日条に、次のように記されています。
①滝宮(現火走神社)で、七宝滝寺の僧が読経を行う
②効果のない場合は、山中の七宝滝寺に赴いて読経を行なう
③次には近くの不動明王堂で祈祷する
④次の方法が池への不浄物の投人で、鹿の骨が投げ込まれた
⑤それでも験のない場合は、四ヵ村の地下衆が沙汰する
ここでも雨乞いに、民衆が踊る念仏踊りは出てきません。
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日根野庄の滝宮(現火走神社)
出てくるのは、雨が降った後のお礼です。
 降雨に対し入山田村では、祈願成就に対する御礼を行なっています。それが地区単位で行われた「風流」なのです。ここでも「踊り」は祈雨のためにではなく、祈願成就の御礼のために行なうものであったようです。
 本来的には祈願が成就したあとに時間を充分にかけて準備し、神に奉納するのが雨乞踊りの基本だったと云うのです。 ここでもうひとつ注目しておきたいことは、この踊りが村人たちの手で踊られていることです。それまで芸能といえば、郷村の祭礼における猿楽者の翁舞のように、その専門家を呼んで演じられていました。ところがこの時期を境に、一般の民衆自らが演じるようになります。
宮座 日根野荘
日根野荘の宮座

その背景を、研究者は次のように指摘します。
①が郷村における共同体の自治的結束と、それによる彼らの経済力の向上。
②新仏教の仏教的法悦の境地を得るために、高野の念仏聖たちが民衆の間に流布させた「躍り念仏」の流行
③人の目を驚かせる趣向を競う「風流」という美意識が台頭
そしてなにより「惣郷の自治」のために、当事者意識を持って祭礼に参加するようになっていることが大きいようです。このヲドリは、もともと雨乞のために創り出されたものではありません。念仏聖たちが村人たちに伝えたものです。それが先祖神を祀る孟蘭綸会の芸能として、また郷民の祀る社の祭礼芸能として、日頃から祭礼で踊られるようになっていました。それを郷民が、雨乞の御礼踊りに転用したと研究者は考えているようです。
 注意しなければならないのは「雨乞い」のための踊りではなかったことです。
考えて見れば、国家的な雨乞いは、空海のような真言の高僧が善女龍王に祈祷して雨を降らせるものです。民間の民雨いも、それなりの呪術力をもった山伏が行っていたのです。そこへただの村人が盆踊りで踊られている風流踊りや念仏踊りを、雨乞いのために踊っても民衆たちは効能があるとは思わなかったでしょう。念仏踊りは、雨乞い成就のお礼のために踊られたのです。

   ここには、滝宮念仏踊りとの共通点をいくつか拾い出せます。
①「村切り」前の郷エリアの郷社に奉納されている。
②布留郷全体の村々から踊りのチームが出されている
③雨乞い踊りではなく雨乞いの「満願成就のお礼」として踊るものだった。
滝宮念仏踊り2
 滝宮念仏踊り

このような視点でもう一度、滝宮念仏踊り見てみましょう
滝宮念仏踊りは雨乞い踊りである先入観を捨てると、何が見えてくるのでしょうか。考えられるのは次のような仮説です。
①中世の讃岐では高野の念仏聖や時宗聖たちによって、念仏信仰が広められ念仏踊りが広く踊られるようになっていた。これは、庶民の芸能活動のひとつであり、当初は雨乞いとの関連姓はなかった。
②高野念仏聖などのプロデュースで郷村の祭礼や盆踊りで、念仏踊りが踊られるようになる。
③それが日照りの際の「満願成就のお礼」として、郷社に奉納されるようになる。
④菅原道真の雨乞祈願伝説の中心地となった滝宮神社にも、各郷の念仏踊りが奉納されるようになる。
⑤戦国時代の混乱の中で、滝宮神社への躍り込みは中断する。
⑥これを復興したのが髙松藩初代藩主の松平頼重で、彼は近畿で踊られていた「南無手」踊りを知っていた上で、雨乞いのためという「大義名分」を前面に押し出し復興させた。
⑦こうして、中世の各郷村単位で編成された組が江戸時代を通じて、3年毎に滝宮神社に念仏踊りを奉納するようになる。
⑧滝宮の躍り込みの前には、各郷村の下部の村単位の神社にも奉納興行が行われ、そこには多くの見物人が押しかけた。
⑨踊り手などの構成員は、世襲制で宮座制に基づく運営が行われていた。
⑩奉納される神社にも、特権的な桟敷席が設けられ売買の対象となっていた。
一遍】ダンシング宗教レボリューション!一遍研究者の「踊り念仏」白熱教室:~国宝「一遍聖絵」をじっくり絵解き!時宗の名宝展がグッと面白くなる~#ky19b160  | 京都の住民がガイドする京都のミニツアー「まいまい京都」
一遍の踊り念仏

 つまり、滝宮念仏踊りのルーツは中世の踊り念仏にあるという説になります。
中世には高野の聖たちのほとんどが念仏聖化します。弥谷寺や多度津、大麻山などには念仏聖が定着し、周辺への布教活動を行っていたことは以前に見たとおりです。しかし、彼らの活動は忘れられ、その実績の上に法然伝説が接木されていきます。いちしか「念仏=法然」となり、讃岐の念仏踊りは、法然をルーツとする由来のものが多くなっています。
 これについて『新編香川叢書 民俗鎬』は次のように記します。
「承元元年(1207)二月、法然上人が那珂郡小松庄生福寺で、これを念仏踊として振り付けられたものという。しかし今の踊りは、むしろ一遍上人の踊躍念仏の面影を留めているのではないかと思われる」

念仏踊りのルーツは高野の念仏聖や時宗の躍動念仏だと研究者は考えているようです。
  また、⑧⑨⑩からは、念仏踊りがもともとは中世のムラの民俗芸能として、祭礼と結びついていたことを教えてくれます。讃岐の念仏踊りが、雨乞いと結びつけられるようになるのは、近世になってからだと私は考えています。
EDM-6 Buddhist bounceと踊り念仏 - みんなアホだね

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「山路興造 中世芸能の底流  中世後期の郷村と雨乞 風流踊りの土壌」

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イメージ 2
綾子踊り(まんのう町佐文 賀茂神社)
  風流踊りのユネスコ文化遺産への登録が間近となってきました。全国の風流踊りを一括して登録するようです。登録後の動きに備えて、まんのう町佐文の綾子踊りの周辺も何かしらざわめいてきました
 どうして各地に残る念仏踊り等が一括化されるのでしょうか。
 各地に伝わる風流踊りのルーツをたどると念仏踊りにつながっていくからのようです。そのつながりはどうなっているのか、私にはもうひとつよく分かりません。そこで今回は、念仏踊りから風流踊りへの「成長」プロセスを見ておこうと思います。それが佐文綾子踊りの理解にもつながるようです。テキストは五来重 踊念仏と風流 芸能の起源です。
「念仏踊」は「踊念仏」の進化バージョンです。とりあえず次のように分類しておきましょう。
踊り念仏 中世の一遍に代表される宗教的な踊り
念仏踊り 近世の出雲阿国に代表される娯楽的な踊り
踊念仏は「をどり念仏」とか「踊躍歓喜(ゆやくかんぎ)の念仏」、あるいは「踊躍念仏」とよばれていました。踊りながら太鼓や鉦(かね)を打ち鳴らし、念仏を唱えることを言います。
 起源は平安時代中期の僧空也にあるとされています。
その後、鎌倉時代に一遍(1239~1289)が門弟とともに各地を巡り歩いて、踊り念仏を踊るようになります。彼らは一念の信を起こし、念仏を唱えた者に札を与えました。このことを賦算(ふさん)と呼びます。一度の念仏で極楽往生できると約束された喜びを表現したのが「踊り念仏」であるとされています。

「踊り念仏」の画像検索結果

一遍は、興奮の末に煩悩を捨て心は仏と一つになる、と民衆に踊り念仏を勧めました。
"ともはねよ かくても踊れ こころ駒 
みだのみのりと きくぞうれしき"

という一遍の歌にもあるように、踊ることそのものによって仏の教えを聞き、それを信じることによって心にわく喜びを得るというのが一遍の踊り念仏の考え方です。
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  『国女歌舞伎絵詞』には、次のような台詞があります
今日は二月二十五日、貴賤群衆の社参の折柄なれば、かぶきをどりを始めばやと思ひ候。まづ、念仏をどりを始め申さう
ここからは、歌舞伎おどりの前に、念仏踊りが踊られていたことが
分かります。浅井了意の『東海道名所記』には、次のように記されています。
「出雲神子におくに(出雲阿国)といへる者」が五条の東の河原で「やや子をどり」をしたばかりでなく、北野の社の東に舞台をかまえて、念仏をどりに歌をまじへ、ぬり笠にくれなゐのこしみのをまとひ、売鐘を首にかけて笛、つづみに拍子を合せてをどりけり。

ここからは踊念仏が、近世に入って宗教性を失って、「やや子をどり」や「かぶきをどり」などの娯楽としての念仏踊りに変化していく様子が見えてきます。  
踊り念仏の起源を、追いかけておきましょう。
「弥陀の称名念仏」というのですから、浄土信仰にともなって発生したもであることは分かります。称名念仏は次のふたつから構成されます
①詠唱するに足る曲調
②行道という肉体的動作をともなうもの
このふたつが念仏を拍子にして踊る「踊念仏」に変化していきます。この念仏をはじめたのは比叡山の慈覚大師円仁であり、その基になったのが五台山竹林寺につたわる法照流五会念仏だったことは史料から分かるようです。
入唐求法巡礼行記(円仁(著)、 深谷憲一(訳)) / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋

 念仏は浄土信仰の発展とともに、浄土往生をねがう念仏にかわっていきます。念仏の出発点は、詠唱(=コーラス)でした。この上に後の念仏芸能が花が開くことになるようです。ここで押さえておきたいのは、浄土教団の念仏だけが念仏ではなかったことです。
それでは当時の念仏コーラスとはどんなものだったのでしょうか?

慈覚大師円仁のつたえた五会念仏は、『浄土五会念仏踊経観行儀』に、次のように記されています。

此国土(浄土)水鳥樹林、諸菩薩衆無量音楽、於二虚空中、
一時倶和二念仏之声

そして『五会念仏略法事儀讃』には、
第一会 平声緩念  南無阿弥陀仏
第二会 平上声緩念 南無阿弥陀仏
第三会 非緩非急念 南無阿弥陀仏
第四会 漸急念    南無阿弥陀仏
第五会 四字転急念 阿弥陀仏
とあるように、緩急転の変化のある声楽であったことが分かります。でも「楽譜」はありません。つまり、寺院の中に大切のおさめられた経典の中には、残されていないということです。しかし、民間の中に広がった融通念仏には、そのコーラス性が重視されて発展していったものがあるのではないかと研究者は考えているようです。

1 融通念仏
 融通念仏
大原の良忍によって作曲された融通念仏は、念仏合唱の宗教運動だったされます。
美しい曲譜の念仏を合唱することによって、芸術的エタスタシーのなかで宗教的一体感を体験する運動です。それと同時に、その詠唱にあわせた踊念仏がおこなわれ、これが融通大念仏とよばれるようになります。これには狂言まで付くようになり、壬生狂言にも正行念仏という詠唱念仏と行道があったようです。

「大原の良忍」の画像検索結果

  大念仏も鎌倉時代中期には、「風流」化して娯楽本位となり、批判を浴びるようになっています。
『元亨釈書』の「念仏」には、次のように記されています。
元暦文治之間、源空法師建二専念之宗、遺派末流、或資千曲調、抑揚頓挫、流暢哀婉、感人性喜人心。士女楽聞、雑沓群間、可為愚化之一端央。然流俗益甚、  動衡二伎戯、交二燕宴之末席・(中略)
痛哉、真仏秘号、蕩 為鄭衛之末韻。或又撃二饒馨、打跳躍。不レ別二婦女、喧喋街巷其弊不足言央。
意訳変換しておくと
元暦文治(平安末の12世紀末)には、源空(法然)法師が専修念仏を起こした。その流れを汲む宗派は競って念仏を唱え、二千曲を越える念仏調が生まれた。その曲調は、抑揚があり、調べに哀調が漂い、人々の喜びや悲しみを感じるものであった。そのため男女を問わず、雑沓の群衆は、この旋律に愚化され、俗益は甚しきものがあった。これでは、伎女の踊りや宴会の末席と変わらない・(中略) 痛むべきかな、真仏秘号への冒涜である。或いは、鉦を打ち、飛びはねる者も現れる始末。男女の見境なくし、巷で行われる。

ここからは、美しい曲調で哀調を込めて切々と念仏が謡われ、鉦を打って踊念仏が踊られていた様子が伝わってきます。しかも念仏が、俗謡(鄭衛之末韻)化していたことも分かります。これに対して他宗派の僧侶や知識人からは、批判の声も上がっていたようです。しかし、一般民衆はたのしみ、歓迎していたようです。だから爆発的な拡がりを見せていくのです。こうして踊念仏は、多くの風流をくわえながら、現在各地方に見られるようないろいろな姿の風流踊念仏に成長していくことになります。
踊念仏といえば一遍がです。それでは、一遍の踊念仏はどんなものだったのでしょうか。
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『一遍聖絵』(巻四)には、 一遍の踊念仏は空也の踊念仏を継いだもと次のように記されています。
抑をどり念仏は、空也上人、或は市屋、或は四条の辻にて始行し給けり。(中略)
それよりこのかた、まなぶものをのづからありといへども、利益猶あまねからず。しかるをいま時いたり機熟しけるにや、同国(侵漑鴎)小田切の里、或武士の屋形にて聖をどりはじめ給けるに、道俗おほくあつまりて結縁あまねかりければ、次第に相続して一期の行儀と成れり。
意訳変換しておくと
踊念仏は、空也上人が市屋や四条の辻にて始めたものである。(中略)
空也の踊りを学び継承しようとする者もいたが、人々に受けいれられず広がらなかった。そのような中で一遍は、時至り機熟したりと信濃の小田切の里や、武士の館で聖踊りを踊り始めたところ、僧侶や民衆が数多く集めって来て、宗教的な効果が大なので、次第に継続して踊るようになった。それがひとつの恒例行事のようになった。
ここからは、一遍以前に空也の乱舞的踊念仏がおこなわれていたことが分かります。
1 空也踊り念仏
空也の念仏踊り

これに対して一遍の踊念仏は融通念仏の曲譜に合せて踊る芸能的な踊念仏だったと研究者は考えているようです。
 一遍の生涯は「融通念仏すすむる聖」(『一遍聖絵』巻三)であったし、「三輩九品の念仏」(『一遍聖絵』巻三)という音楽的念仏に堪能だったようです。三輩九品の念仏は九品念仏の中でも、声のいい能声の僧をあつめておこなうものでした。
  一遍の踊念仏は、僧の時衆と尼の時衆が混合して踊るものでした。それは後の盆踊のような趣があったでしょう。これが踊念仏の風流化に道をひらく性格のものだと研究者は考えているようです。

九品念仏は、遊行の乞食のような聖によってうたわれていたようです。            
鎌倉末期の『徒然草』(百十五段)には、次のように記されています。
宿河原といふところにて、ぼろぼろおほく集りて、九品の念仏を申しけるに、(中略)
ぼろばろといふ者、むかしはなかりけるにや。近き世に、ばろんじ、梵字、漢字など云ひける者、そのはじめなりけるとかや。世をすてたるに似て我執ふかく、仏道をねがふに似て闘語をこととす。放逸無意のありさまなれども、死を軽くし、(後略)
意訳変換しておくと
京の宿河原に、乞食のような聖が多数集まって、九品の念仏を唱えている、(中略)
ぼろばろ(暮露)などと云う者は、むかしはいなかったのに、近頃は「ばろ(暮露ん字)、梵字、漢字」など呼ばれる者たちが、その始まりとなるようだ。世捨て人にしては我執がふかく、仏道を説くに喧嘩のような言葉遣いをする。放逸無意のありさまであるが、滅罪で人々の死を軽くし、(後略)
ここには、半僧半俗の聖が九品念仏を謡っている様子が描かれています。
その姿は近世の無宿者の侠客に似た生き方をしていたようです。その名も「しら梵字」とか「いろをしと申すぼろ(暮露)」などとよばれています。暮露は「放下」(放下僧)と同じ放浪の俗聖で、禅宗系の遊行者で、独特の踊念仏を踊ったとされます。
 これに対して「鉢叩」が空也系の念仏聖なのでしょう。暮露と放下と鉢叩は『七十一番職人尽歌合』に図も歌も出ています。少し寄り道して覗いてみましょう。
1 暮露
暮露

暮露は半僧半俗の物乞いで、室町時代には尺八を吹いて物を乞う薦僧(こもそう)となります。のちの虚無僧(こむそう)はこの流れだとされ「梵論字(ぼろんじ)。梵論梵論(ぼろぼろ)」とも表記されます。

1 放下と鉢叩
放下と鉦叩き 
放下も大道芸のひとつです。
「放下」という語は、もともと禅宗から出た言葉で「一切を放り投げて無我の境地に入ること」を意味するもです。そこから「投げおろす」「捨てはなす」という意味が派生して鞠(まり)や刀などを放り投げたり、受けとめたりする芸能を行う人たちのことを指すようになります。もともとは、禅宗の聖のようです。

さいたまの中心でオタク満載を叫ブログ#4|323日連続+405記事投稿達成!! MUSASHI OWL|note

  鉢叩(はちたたき)も大道芸のことですが、もともとは踊念仏を踊る時宗信徒で、空也を始祖と仰いだようです。

1  踊り念仏

   暮露と放下と鉢叩がつたえたとされる踊念仏が奥三河には残っています。
地元では、これを大念仏とか盆念仏、念仏踊、提灯踊、掛け念仏、あるいははげしい跳躍をする踊り方から「はねこみ」などと呼んでいます。道に灯される切子灯籠には、今でも「暮露」と書かれています。
はねこみは、「はねこみ」「念仏」「手おどり」の3つから構成されています。「はねこみ」は、下駄に浴衣姿の若者が初盆宅の供養や先祖供養のために、輪になって片手に太鼓を提げ、もう一方の手には太くて短い撥を持ち、笛の音に合わせて太鼓の皮と縁を交互に打ち鳴らしながら、片足で飛び跳ねながら踊ることから始まります。
 次いで、中老衆と呼ばれる年配の方が「なむあみだぶつ」となどと鉦を叩きながら、念仏を唱えあげます。最後に、円形の輪を組んで手おどりが行われます。」
「はねこみ踊り」の画像検索結果

「はねこみ」の語源は、片手に提げた太鼓を飛び跳ねながら叩き踊るところに由来があるようです。ここからは奥三河に残る踊念仏が、念仏聖や高野聖・時衆聖などによってこの地に伝えられたものであること、それを民衆が時代の中で「風流」化していったものであることがうかがえます。
 奥三河の大念仏では、暮露系の踊念仏と放下系の放下大念仏とが混在しています。
放下大念仏は、風流の大団扇を背負うのも特色でが、暮露の踊念仏の方でも団扇をもつものがすくなくないようです。それにしても、どうしてこんなおおきな団扇を背負うようになったのでしょうか。それは後で考えることにして、先に進みます。
 『七十一番職人尽歌合』では、放下は笹に短冊をつけた負い物を背負い、ササラの代りにコキリコを打っています。放下も「やぶれ僧」ともよばれたことが歌によまれています。ここからも放下と暮露は重なっていたことがうかがえます。
月見つゝ うたふ疇うなの こきりこの
竹の夜声の すみ渡るかな
やぶれ僧 えばしきたれば こめはらの
男とみてや しりにつくらん
この「やぶれ僧」から「ぼろぼろ」の名称が出たと研究者は考えているようです。そして短冊をつけた笹の負い物が、幣の切紙をつけた割竹になって、現在の踊り姿になっていることがうかがえます。
研究者は次のように指摘します。
①踊念仏の「風流」化は、このような負い物や持ち物や服装からおこり、
②詠唱念仏は和讃や法文歌から「小歌」や盆踊歌や「くどき」に変化する
4mもあるヤナギやシナイを背負ったり、大きな太鼓を胸につけたり、華美な花笠をかぶって、女装までして、盆踊歌や恋歌をうたうのを、踊念仏、大念仏と称するのはそのためだと云うのです。

1 踊り念仏の風流化

放下と暮露は、念仏の軌跡の中に大きな足跡を残しているようです。
彼らが京の河原に道場を構えて、念仏を詠唱したことは先ほど見た『徒然草』(百十五段)であきらかです。『平戸記』(仁治三年十月十三日)にも、淀の河原に九か所の念仏道場があったことが次のように記されています。(意訳のみ)
今朝、淀津に向かうために鳥羽から川舟に乗って下る。
淀には西法法師が住んでいる島がある。その他にも、9ヶ所の道場があり、九品念像を信仰している。(中略)
そのため近頃は、男女が群衆となって結縁のために集まってくる。そして見物も開かれている。
(中略) 九品道場を見てみると、美しく筆に記しがたい程である。その後、上品上生道場に向かった。ここにも多くの人々が集まっていた
ここからは、瀬戸内海の物流拠点としての賑わいを背景に、淀津には多くの宗教施設が現れていたことが分かります。西法法師は勧進聖で他は暮露の輩と研究者は考えているようです。
  このように河原に道場をかまえる九品念仏は、その他でも見られたようです。
念仏踊り -2022年- [祭の日]

尾張の知多半島の阿久比川の河原では、九品念仏の行事が行われていたようです。
 これは「虫供養」とよばれ、1950年頃までは、河原に九棟あるいは十棟の仮屋をしつらえ、弥陀三尊や来迎図、十三仏などの本尊をかけて、村の念仏講が四遍念仏や百万遍念仏を行っていたと云います。
「三河の放下大念仏」の画像検索結果

 三河の放下大念仏も、放下念仏のスタイルである「ほろ」(「ホロ背負い」)をそのままのこしています。踊子の負い物である団扇は高さ3,5m幅1.5mの大きなものです。これは「放下僧」のもつ団扇が風流化したものと研究者は考えているようです。

とくい能「放下僧」 - 大阪中心 The Heart of Osaka Japan – 大阪市中央区オフィシャルサイト 地域情報ポータルサイト

 『七十一番職人尽歌合』の放下と、金春禅竹作の謡曲「放下僧」のあいだには、多生の違いがあるようですが、放下僧は勧進の頭目で、配下の輩が放下だったようです。つまり、親の仇討ちをする下野国牧野左衛門某兄弟は、兄は放下僧、弟は放下となって放浪することになっています。
この頃人の翫び候ふは放下にて候ふ程に、某(弟)は放下になり候ふべし。御身(兄)は放下僧に御なり候へ。

とあって、仇にめぐり会って次のような問答します。
「さて放下僧は何れの祖師禅法を御伝へ候ふぞ。面々の宗体が承りたく候」、
「われらが宗体と申すは、教外別伝にして、言ふもいはれず説くもとかれず。言句に出せば教に落ち、文字を立つれば宗体に背く。たゞ一葉の融る。風の行方を御覧ぜよ」
浮世絵 木版画【月岡耕漁「能楽シリーズ 三七 放下僧」】能楽絵 大判 の落札情報詳細| ヤフオク落札価格情報 オークフリー・スマートフォン版
歌謡 放下僧
ここからは、放下僧と放下は禅宗系の念仏聖であることが分かります。暮露も禅宗系です。両者の共通点が見えてきたようです。
 兼好法師が「ぼろぼろ」どもの「死を軽くして、少しもなづまざるいさぎよさ」をほめたたえていますが、これも禅から出ているようです。そして、放下僧が数珠ももたず袈裟もかけずに、団扇と杖をもっていたことが謡曲のなかにかたられています。
その団扇についての禅間答を見てみましょう
「又見申せば控杖に団扇を添へて持たれたり。団扇の一句承りたく候」
「それ団扇と申すは、動く時には清風をなし、静かなる時は明月を見す。明月清風唯動静の中にあれば、諸法を心が所作として、真実修行の便にて、われらが持つは道理なり」
ということで、お伴の放下のほうは弓矢とコキリコをもっています。
楽器事典 こきりこ
こきりこ
『七十一番職人尽歌合』の図には、背に笹竹に短冊をつけて背負っていました。これらの扇子や杖が念仏聖の手を離れて、民衆の手に渡った時から、風流化は始まります。そして放下大念仏という民俗芸能になったと研究者は考えているようです。

横浜きものあそび

遊行者が団扇や杖や笹竹をもってあるくことは、もともとは宗教的意味があったはずです。
団扇は「打ち羽」で、もと木の葉などを振って虫送りなどにもちいられた「仏具」だったのかもしれません。それがのちに目に見えぬ悪霊を攘却する呪具として放浪者(修験者)の持ち物になります。杖や笹もおなじような呪力をもつものでした。ある場合には、決められたところに立てて、神霊を招ぎ降ろす標し(依代)にもなったのでしょう。
ところが民衆のほうは、別の受け止め方をします。
この国の人々は、古代の銅鐸や銅剣の時代から聖なる器物を巨大化させる精神構造をもっています。そして飾り物や華美な作り物にして、人々を驚かしたり、祭の興奮をもりあげる「演出」を行ってきました。これが風流化です。団扇は、だんだん巨大化します。
 団扇を風流化した踊念仏では、三河の放下大念仏のほかに、長門市深川湯本の「南条踊」にも花団扇という大団扇の吹貫が立てられます。
「滝宮念仏踊り」の画像検索結果
滝宮天満宮の念仏踊
讃岐の滝宮天満宮の「念仏踊」(雨乞踊)にも下知役が大団扇を振って踊念仏の拍子をとります。その団扇の表裏に「願成就」と「南無阿弥陀仏」の文字が書かれています。そしてのちには盆踊には団扇を腰にさしたり、手に持って踊るところまで継続されていったと研究者は考えているようです。
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滝宮念仏踊り(滝宮天満宮)

 民俗芸能としてのこった踊念仏は、ほとんどが風流の踊念仏、あるいは風流大念仏だと研究者は考えているようです。
その持ち物や服装や負い物には、それぞれ宗教的意味や呪力のあるでした。それが風流化して、意味を失っていきます。太鼓なども拍子をとるものだったのが、巨大化・装飾化して華麗に彩られます。
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滝宮念仏踊りの花傘 花梅が飾られている

花笠は、もともとは踊手が念仏に送り出される亡霊や悪霊に扮するための覆面でした。
それがいつの間にか「花笠踊」と呼ばれるように華美になっていったのです。民衆の求める方向に、どんどん変化していったのです。それがこの国の「伝統」なのかもしれません。最後に棒振踊りです。

1 棒振り踊り

  踊念仏には、棒振踊や剣を振る踊りが入り込みます。
佐文の綾子踊りにも、最初に登場するのは棒振り踊りです。これは、祭礼場を清め、結界を張るために踊られるるものと私は考えていました。しかし、別の説もあるようです。棒踊りは、悪霊退散の呪具としての棒や剣が踊念仏にとりいれられたものです。

1風流踊り 棒踊り
落合町法福寺の「念仏踊」
その原型にちかい形が、岡山県落合町の法福寺の「念仏踊」のようです。念仏の詠唱と跳躍とともに振られる棒は、六尺棒の両端に白い切紙の房をつけたもので、おそらく旅浪の山伏のボンデン(幣)であったと研究者は考えているようです。
法福寺 | 周辺観光情報 | 道の駅 醍醐の里

これをサイハライ棒として振るのは、悪霊攘却の呪力があると信じられたからです。このサイハライ棒そのものにも風流化は見られるようです。これがいっそう風流化したものを挙げてみましょう。「柏崎市女谷の綾子舞」の画像検索結果
越後柏崎市女谷の綾子舞や、
1  ayakomai

越中五箇山のコキリコ踊、
「川井村コキリコ踊」の画像検索結果

陸中下閉伊郡川井村の少女の踊念仏がもつ「バトンのような棒」も、もともとはコキリコの竹棒のようです。
踊念仏は風流化が進み、装飾や仮装にその時代の趣向が凝らされるようになります。
しかし、おこなわれる時期や目的は変わりませんでした。宗教性を失うことはかったのです。お盆や虫送りや二百十日、あるいは雨乞、豊作祈願や豊作感謝のためにだけ催されました。それが「かぶきおどり」のような舞台芸術となって完全に芸能化する方向とはちがいました。別の見方をすると民衆の手にあるかぎりは、踊念仏の伝統は保たれたということかもしれません。念仏踊りがセットで風流踊りとしてユネスコ登録される理由も何となく分かってきました。歌舞伎と念仏踊は同じルーツを持つとしておきましょう。しかし、それは近世に袂をわかったのです。
 最後に、滝宮念仏踊や綾子踊りなどの原型となる芸能を、運んできてんできて、地域に根付かせたのはだれかを考えます。
 その由緒には、菅原道真や弘法大師とされます。しかし、実際にはこれは念仏聖達が行ったことが今まで見てきた痕跡から分かります。中世末から近世にかけて、地方の有力寺院周辺に住み着いたいろいろな宗派の念仏聖達は、その地で信者を獲得し、自立化していく以外に道を閉ざされます。彼らは念仏信仰の布教とともに、彼らの持つ芸能文化で人々の生活を豊かにする「文化活動」を始めるようになります。それが、ある所では雨乞い踊りであり、あるところでは盆踊りだったようです。さらに、獅子舞なども彼らがもたらしたものであった気配がします。修験者や念仏聖は、近世の芸能文化に大きな影響を与えているようです。

  最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 
五来重 踊念仏と風流 芸能の起源
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   前回は、近世初頭に高野聖たちが四国辺路の札所に定住していく過程を見てみました。今回は、四国辺路にとらわれずに全国の村々に、どのように定着していったのか。また、その結果として何が生まれ、何が残されているのかを見ていくことにします。
テキストは 五来重 高野聖 です。

高野聖の地方定着していく方法のひとつは、荒地の開墾開発です。
越中の中新川郡山加積村(現、上市町)の開谷と護摩堂の二集落は、高野聖による開村を伝える集落です。そして、開谷には踊念仏系の棒踊や太刀踊がのこっています。ここからは踊念仏と高野聖と関係がうかがえます。
越中是安村松林寺の、『文政七年書上帳』には、松林寺の先祖について次のように記されています。

祖先は「高野山雲水知円」という者で、文禄二年(1593)以前に越中砺波郡山田野に小庵をかまえて定住した。このとき神明宮も一緒にまつったが、文禄二年に修験道をまなんで、神明宮の別当になった。宝暦12年(1761)に山号寺号を免許されて、山田山松林寺と称した

ここからは高野聖が修験者に「転進」し、神社の別当社の社僧として定着したことがわかります。
 これとおなじような例は越中高宮村法船寺にもあります。
沙円空潮が、六十余州をめぐって経廻したのち、この寺にはいり住職となったようです。そして、過去帳に「南無大師遍照金剛」と書かれています。注目したいのは、ここでも後に修験道をまなんで氏神の別当を勤めていることです。先の松林寺住職も法船寺住職も明治維新の神仏分離後は、神職に転じています。ここには、次のような流れが見えてきます。

①高野聖→ ②修験道者 →③地域の神社別当職の真言系僧侶 →④明治以後の神職

  また、越中には高野聖のつたえたものとおもわれる踊念仏系の願念坊踊が分布しています。
2016願念坊踊り | 見て来て体験メルヘンおやべ:富山県小矢部市観光協会
越中願念坊踊
 
越中願念坊踊で有名なのは、石動(いするぎ)町(小矢部市)綾子のものです。
ここでは黒衣に小袈裟・白脚絆・白足袋・白鉢巻の僧形の踊り手や、浴衣の下に錦のまわしを締め込んだ踊り手が、万燈梨花傘を立てて踊ります。花笠は二段に傘を立て、音頭取りはその傘の柄をたたいて音頭をとるのは住吉踊とおなじです。楽器は拍子木と三味線です。こうした願念坊踊は婦負郡八尾町付近、上新川郡大沢野町大久保でも行われていたようで、このときには伊勢音頭が謡われたようです。

 伊勢音頭をうたいながら願人坊踊をするところは、長野県下伊那郡天龍村坂部の冬祭です。これの芸能の始まりに、高野聖が関わったと研究者は考えているようです。
願人坊主(がんにんぼうず) : あるちゅはいま日記
「天狗のごり生(しょう)」と呼ばれた願人坊主の大道芸。
「ごり生(御利生)」とは神仏への祈念などに応じて、ご利益を与えること。
願人坊主は手製の鳥居を描いた箱を持ち歩き、鳥居から飛び出した狐の首を伸ばしたり縮めたりして銭を乞うた。

 越中の中新川・婦負・東砺波・西砺波では、祭礼行列に「願念坊」という仮装道化が現れます。
「オドケ」とか「スリコン」、または「スッコン棒」と呼ばれる黒衣に袈裟の坊主頭で、捕粉木やオシャモジやソウケ(宗)をもって道化踊をします。これを「スッコン棒」とも「願人」とも云います。スッタカ坊主やスタスタ坊主は「まかしょ」ともいい、高野聖の異称のようです。また江戸時代には高野聖は「高野願人」ともよばれていました。ここからは、これらの仮装道化も高野聖や願人坊が伝えた念仏踊の道化だったことが分かります。そして、越中砺波地方には、高野聖の碑が各地にのこります。
八郎潟町〉願人踊 ▷エネルギッシュな踊りを繰り広げる | webあきたタウン情報
八郎潟町の願人踊り

願人坊踊は願念坊踊とか道心坊踊ともよばれるもので、もともとは卑猥な踊りをして人をわらわせるものでした。
この「願人」とは鞍馬願人や淡島願人などもいて、有名社寺への代願人(「まかしょ」)たちのことです。願人は、代参人として喜捨をえていたので、高野聖だけをさすわけではありません。しかし近世にはいって、高野山へかえることのできなくなった高野聖の大部分が、願人の群に入っていたようです。その数は相当数にいたことが予想できます。
彼らは、生活の糧を何に求めたのでしょうか。研究者は次のように指摘します。
  門付の願人となったばかりでなく、村々の踊念仏の世話役や教師となって、踊念仏を伝播したのである。これが太鼓踊や花笠踊、あるいは棒振踊などの風流踊念仏のコンダクターで道化役をする新発意(しんほち)、なまってシンボウになる。これが道心坊とも道念坊ともよばれたのは、高野聖が高野道心とよばれたこととも一致する。

地域に定着した高野聖は、村祭りのプロデュースやコーデイネイター役を果たしていたというのです。念仏踊や雨乞踊りなど風流系念仏踊りは、高野聖たちの手によって各地に根付いていったという仮説が示されます。本当なのでしょうか。史料的な裏付けはあるのでしょうか。
住吉踊とは - コトバンク
住吉踊り

『浮世の有様』(『日本庶民生活史料集成』第11巻、三一書房、昭和45年)には、次のように記されています。
躍り(伊勢踊)の手は、願人坊主、手を付て願人躍りの如く、
三味線・太鼓・すりがね等にてはやし、傘をさし、
住吉躍りのごとし

意訳変換しておくと
伊勢踊の手の動きは、願人坊主(高野聖)が(振り付けて)た願人踊りとよく似ている。三味線・太鼓・摺鐘などではやし、傘をさすのは住吉踊りのようでもある。

ここからは、高野聖が関わった願人踊りが、伊勢踊りや住吉踊りの起源になっていることがうかがえます。高野聖たちは「願人」として、風流踊念仏から伊勢踊や住吉踊り、そして住吉踊りの変化した阿波踊までも関係していたことを研究者は指摘します。

住吉踊り奉納2015 : SENBEI-PHOTO
住吉踊り

そのような役割を、どうして高野聖が果たすことができたのでしょうか。
研究者は次のように指摘します。

 高野聖が遊行のあいだに、雨乞や虫送り、あるいは非業の死者や疫病の死者の供養大念仏があれば、その世話役や本願となって法会を主催し、踊念仏を振り付けることからおこったのであろう。

 つまり、雨乞いや虫送りの年中行事や、ソラの集落のお堂で行われた庚申信仰から、死者供養の盆踊りまで地域の人たちの生活に根付いた信仰行事を、新たに作り上げる役割を果たしたのが高野聖であったのです。つまり、僧侶や神主などの宗教者よりも、彼らは庶民信仰に近い位置にいたことがおおきいと研究者は指摘します。

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聖は、仏教が庶民化のために生み出された宗教者のひとつのスタイルでした。

それは仏教の姿をとりながら、仏教よりも庶民に奉仕する宗教活動を優先しました。そのため聖たちは必要とあれば、仏教を捨てても庶民救済をとったのです。これは、求道者とか護法者とかいわれる高僧たちが、庶民を捨てても仏教をとったのとは、まったく正反対だと研究者は指摘します。そのため聖を、仏教のモノサシでとらえようとすると異端的な存在として、賤視さたようです。そしてある意味では、善通寺の我拝師山で修行を行ている西行も勧進聖であったようです。

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聖と庶民をむすぶのは庶民信仰です。
庶民信仰は、教理や哲学などの難しい話なしに、庶民の願望である現世の幸福と来世の安楽をかなえてくれます。庶民信仰を背負って、民衆の間を遊行したのが高野聖だったのかもしれません。彼らは、祈祷や念仏や踊りや和讃とともに、お札をくばるスタイルを作り出します。弘法大師師のお札を本尊に大師講を開いてきた村落は四国には数多くあります。また、高野聖は念仏札や引導袈裟を、持って歩いていました。ここからは、庶民信仰としての弘法大師信仰をひろめたのも、高野聖でした。さらに以前にお話しした庚申信仰も、彼らが庚申講を組織していったようです。

滝宮の念仏踊り | レディスかわにし
滝宮念仏踊り
こういう視点で、讃岐の民俗芸能を改めて見返してみるといろいろと新しい事が見えてきます。
例えば念仏踊りです。現在の由来では、菅原道真や法然との結びつきが説かれています。しかし、これを高野聖によってプロデュースされたものという仮説を立てれば、次のように見えてきます。
①近世において、善如(女)龍王信仰に基づいて真言寺院による雨乞祈祷の展開。それに対して、庶民側からの雨乞行事の実施要求を受けた高野聖(山伏)による雨乞念仏踊りの創始
②宮座中心の祭りに代わって、獅子と太鼓打を登場させ祭りを大衆化させたのも高野聖
③佐文の綾子踊りも風流踊りと弘法大師信仰を結びつけたののも、高野聖

今まで見てきたように、高野聖と里山伏は非常に近い存在でした。

修験者のなかで、村里に住み着いた修験者のことを里山伏または末派山伏(里修験)と言います。村々の鎮守社や勧請社などの司祭者となり、拝み屋となって妻子を養い、田畑を耕し、あるいは細工師となり、鉱山の開発に携わる者もいました。そのため、江戸時代に建立された石塔には導師として、その土地の修験院の名が刻まれたものがソラの集落には残ります。
 高野聖が修験道を学び修験者となり、村々の神社の別当職を兼ねる社僧になっている例は、数多く報告されています。近世の庶民信仰の担当者は、寺院の僧侶よりも高野聖や山伏だったことがうかがえます。


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諏訪大明神念仏踊(まんのう町諏訪神社)

高野聖そのものが、神としてまつられた所もあるようです。
 三河の北設楽郡東栄町中在家の「ひじり地蔵」は、ここへ子供を背負った高野聖がきて窟に住んでいたと云います。やがて重病で親子とも死んだので、これを「ひじり地蔵」としてまつるようになります。子供の夜晴きや咳や腫れ物に願をかけ、旗をあげるものがいまも絶えないといいます。
大林寺
 おなじ三河の南設楽郡鳳来町四谷の大林寺の「お聖さま」も、廻国の高野聖が重病になってここにたどりつき、村人がこれを手厚く世話したと伝えられます。童達と仲良くした聖は亡くなる時に次のような話を残します。
「・・私は死んでも魂はこの村に残って、この村の繁栄と皆さんの病気を治してあげます。病気になったら私の名を3べん呼んで下さい。治ったら私の好きな松笠を・・・・・・・・」
 お聖様が亡くなってからも、お聖様の評判は一層高くなり、近郷の村々にまで伝わって行き、お願いに来る人や、お礼参りに来る人でにぎわい、お墓は松笠で埋まってしまう程でした。やがて心ある村人によって聖神(ひじりがみ)としてお祠が建てられ、さらに大林寺の横に聖堂(ひじりどう)が建てられ、参詣者があとを絶たない。
鳳来の伝説(鳳来町文化協会発行)より引用

聖の名を三度よんで松笠をあげてくれれば、いかなる難病も治してあげようと云い残して亡くなったようです。
聖堂(大林寺)
大林寺住職は、この聖のために聖堂を建ててまつり、また神主・夏□八兵衛は、これを「聖神」として祀ったと伝えられます。
聖神宮
昔から高野聖と笠は、深い関係があるので、笠のかわりに松笠をあげて願をかけたようです。
聖堂には松笠がいまでも供えられています。


神としてまつられた高野聖は、四国の土佐長岡郡本山町にいます。
この聖の子孫は本山町の門脇氏で、 一枚の文書が残っています。(土佐本山町の民俗 大谷大学民俗学研究会刊、昭和49年) ここには「衛門四郎という山伏」が出てきます。この人物は、弘法大師とともに四国霊場をひらいた右衛門三郎との関係を語っていた高野聖だったようです。
門脇家に残る「聖神文書」は、これを次のように記しています。
ヨモン(衛門)四郎トユウ
山ぶし さかたけ(逆竹)ノ ツヱヲツキ
をくをた(奥大田)ゑこし ツヱヲ立置
きのをつにツキ ヘび石に ツカイノ
すがたを のこし
とをのたにゑ きたり
ひじリト祭ハ 右ノ神ナリ
わきに けさころも うめをく
わかれ 下関にあり
きち三トユウナリ
門脇氏わかミヤハチマント祭
ツルイニ ヽンメヲ引キ
八ダイ流尾 清上二すべし
    宛字が多いようですが 意訳変換しておきましょう。
衛門四郎という山伏が逆竹の杖をついて、
奥大田へやって来て、 杖を置いて
木能津に着いて、蛇石に誓い 
鏡(形見)を残して 藤の谷へやって来た。
聖が祀ったのは 右ノ神である。
その脇の袈裟や衣も埋めた
分家は 下関にある。吉三という家である
門脇氏の若宮八幡を祀り
井戸(釣井)注連縄を引き、
八大龍王を清浄に祀ることするること
 この聖は奥大田というところに逆竹(さかだけ)の杖を立てたり、木能津(きのうづ)の蛇石というところに鏡(形見)をのこして「聖神」を祀ります。やがてこの地の「藤の谷」に来て袈裟と衣を埋めて、これを「聖神」とまつったと記されています。
 土佐には聖神が多いとされてきました。その聖神は、比叡山王二十一社の一つである聖真子(ひじりまご)社とされてきました。本山町のものは、高野聖が自分の形見をのこして、聖神として祀ったことが分かります。
日吉大社御朱印②(日吉大社上七社権現) | 出逢いは風の中
聖真子(ひじりまご)社のお札

 この衛門四郎という高野聖は、「藤の谷」を開拓して住んでいたようです。かつては、この辺りには焼畑のあとが斜面いっぱいにのこっていたと云います。今ではすっかり萱藪におおわれています。しかし、耕地の一番上に、袈裟と衣を埋めたという聖神の塚と、門脇氏の先祖をまつる若宮八幡と、十居宅跡の井戸(釣井)は残っているようです。

本山町付近では、始祖を若宮八幡または先祖八幡としてまつることが多いので、聖神と同格になります。
若宮八幡は門脇氏一族だけの守護神であるのに対して、聖神は一般人々の信仰対象にもなっていて、出物・腫れ物や子供の夜晴きなどを祈っていたようです。このような聖神は山伏の入定塚や六十六部塚が信仰対象になるのとおなじで、遊行廻国者が誓願をのこして死んだところにまつられます。
 また自分の持物を形見として、誓願をのこすというスタイルもあったようです。それも遊行者を神や仏を奉じて歩く宗教者、または神や仏の化身という信仰からきているのでしょう。聖神は庶民の願望をかなえる神として、「はやり神」となり、数年たてばわすれられて路傍の叢祠化としてしまう定めでした。この本山町の聖神も、一片の文書がなければ、どうして祀られていたのかも分からずに忘れ去られる運命でした。
 川崎大師平間寺のように、聖の大師堂が一大霊場に成長して行くような霊は、まれです。
全国にある大師堂の多くが、高野聖の遊行のあとだった研究者は考えているようです。ただ彼らは記録を残さなかったので、その由来が忘れ去られてしまったのです。全国の多くの熊野社が熊野山伏や熊野比丘尼の遊行の跡であり、多くの神明社が伊勢御師の廻国の跡と研究者は考えています。そうだとすれば、大師堂が高野聖の活動跡とすることは無理なことではないようです。

以上をまとめておくと
①高野山が全国的霊場になったのは、高野聖の活躍の結果であった。
②高野聖は高野山の経済と文化の裏方として中世をささえてきたが、つねにいやしめられ迫害される存在でもあった。
③高野山は真言宗の総本山としてのみ知られているが、かつては念仏や浄土信仰の山でもあった
④日本総菩提所の霊場となった高野山と庶民をつないだのが高野聖であった。
⑤弘法大師信仰は、高野聖が庶民のなかに広めた
⑥官寺的性格の高野山は、「密教教学の山で真言宗徒の勉学と修行の場」であり、庶民にとっては垣根が高く、無縁の存在だった。
⑧一方、高野聖たちは、弘法大師を「真言宗の開祖」というよりも、「庶民の病気を癒やす、現世の救済者」と捉えた。
⑨その結果、聖たちによって高野山は極楽浄土往生をたしかにするところとして納骨供養の山として流布され、弘法大師信仰が広められたた。
⑩近世の高野聖は、地域への定着を迫られ、村々の文化的宗教的行事のプロデューサーの役割を果たすようになる。
⑪それが念仏踊りの風流化、獅子舞の導入、庚申講の組織化などにつながった。
  最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

   参考文献

    
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諏訪大明神念仏踊之の図(まんのう町)

まずは絵図をご覧ください。神社の境内で団扇を持って、踊りが踊られているようです。手前(下部)では薙刀振りが、薙刀を振り上げて警護をしているようです。そして、それを取り巻く境内いっぱいの人たち。最初にこの絵図を香川県立ミュージアムの「祭礼百態」展で見た時には、「綾子踊り」だと思いました。綾子踊りは、国の無形文化財に指定されている風流踊りで佐文の賀茂神社で、2年に一度奉納されています。その雰囲気とよく似てるのです。

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桟敷席から念仏踊りを見る長百姓たち 
桟敷席にはそれぞれの家の名前が記されている

しかし、よく見ると少し違うことに気付いてきました。見物客の後側に並んで建つ小屋群です。これは各村の支援テントかなと現代風に考えたのですが、よく見ると人の名前が入れられています。小屋の所有者の名前のようです。さらによく見ると2階から踊りを見ている人たちが描かれています。これはどうやら見物小屋(桟敷小屋)のようです。この絵図に付けられた説明文には、次のように記されています。
諏訪大明神念仏踊之の図
本図はまんのう町真野の諏訪神社に奉納される念仏踊りの様子を描く。2基の笠鉾が拝殿前に据え付けられ、日月の大団扇を持ち、花をあしらった笠を被った下知、同じく花笠を被った3~4人の中踊りらしき人が描かれる。
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 また花笠を被り、太鼓を抱えた6人の子どもがいる。下部には頭にシャグマ(毛)をつけた男が棒を振っており、薙刀を持った男も描かれる。念仏踊りを描く絵図はほとんどなく、当時の奉納風景をうかがうことができる数少ない絵図である。
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これは綾子踊りではなく念仏踊りなのです。場所も、加茂神社ではなくまんのう町真野の諏訪神社だというのです。しかし、綾子踊りとの共通点が非常に多いのです。また、見物小屋については何も触れていません。この念仏踊りは諏訪神社以外の周辺の神社でも奉納されています。佐文の賀茂神社でも踊られていたようです。そして、最後に滝宮神社に奉納されていました。
images (6)綾子踊り

佐文の綾子踊り

滝宮念仏踊りについて確認しておきましょう。
讃岐の飯山町の旧東坂本村の喜田家には、高松藩からの由来の問い合わせに応じて答えた滝宮念仏踊りに関する資料が残っています。そこには起源を次のように記します。(意訳)
   喜田家文書の坂本村念仏踊  (飯山町東坂元)
 光孝天皇の代の仁和二年(886)正月十六日①菅原道真が讃岐守となって讃岐に赴任し、翌三年讃岐の国中が大干害となった。田畑の耕作は勿論草木も枯れ、人民牛馬がたくさん死んだ。この時、②道真公は城山に七日七夜断食して祈願したところ七月二十五日から二十七日まで三日雨が降った。③国中の百姓はこれを喜んで滝宮の牛頭天王神前で悦び踊った。是を瀧宮踊りと言っている。

要点を挙げておくと
①菅原道真が讃岐国司として赴任中に、大干ばつが起きた
②菅原道真は、城山で雨乞祈祷を行い雨を降らせた
③国中の百姓が喜びお礼のために「滝宮の牛頭天皇社」に、雨い成就のお礼踊りを奉納した。

  綾川中流の滝宮にある滝宮神社は、もともとは牛頭天皇社として中世から農耕作業で重要な働きをしていた牛の神様として、地域の農民から信仰を集めてきました。そして、中讃での牛頭信仰の拠点センターとして、周辺にいくつものサテライト(牛頭天皇社)を持つようになります。こうして滝宮牛頭天皇社は、毎年牛舎や苗代などに祭る護符を配布する一方、煙草・棉・砂糖などの御初穂を各村々から徴集します。滝宮牛頭神社は、農民の生活の中に根を下ろした神社として多くの信者を得ます。この神社の別当寺が龍燈院でした。龍燈院は現在の滝宮神社と天満宮の間に、広大な伽藍を持つ有力寺院で、この寺の社僧(真言系修験者)が滝宮神社を管理運営していました。
滝宮神社・龍燈院
滝宮神社(牛頭天皇社)とその別当寺龍燈院
 ここで注意しておきたいのは、滝宮念仏踊りは、菅原道真の雨乞いに成就に対して百姓はこれを喜んで滝宮の牛頭天王神前で悦び踊った」のです。感謝の踊りであって、もともとは雨乞い踊りではないのです。

滝宮念仏踊り
滝宮神社の念仏踊り
滝宮神社の神宮寺で、明治の廃仏毀釈運動で廃寺となった龍燈院の住職が代々書き記した『瀧宮念仏踊記録』の表紙裏には、次のように記されています。
「先代は当国十三郡より踊り来たり候処、近代は四郡而已に成り申し候」

かつては、念仏踊りは讃岐国内の13群すべての郡が踊りを滝宮に奉納に来ていたというのです。続けて

「就中 慶安三年寅七月二十三日御重キ御高札も御立て遊ばされ候様承知奉り候」

とあり、高松藩の松平頼重が初代藩主として水戸からやってきて「中断」していた念仏踊りを西四郡のみで再興させたといいます。念仏踊りは風流踊りで、雨乞いだけでなく当時の人にとってはレクレーションでもあったので大勢の人が集まります。そのため喧嘩などを禁ずる高札を掲げることで騒ぎを防止したようです。4つの組の踊りの順番が固定し、安定した状態で念仏踊りが毎年行われるようになったのは、享保三年(1718)からのようです。

滝宮に奉納することを許された4つの組の内、七箇村組は、満濃御料(天領)、丸亀藩領、高松藩領の、三つの領の13ヶ村にまたがる大編成の踊組でした。
その村名を挙げると、真野・東七箇・西七箇・岸の上・塩入・吉野上下・小松庄四ケ村・佐文の13の村です。そのため、踊組の内部でも、天領民の優越感や丸亀・高松両藩の対抗意識が底流となって、内紛の絶えることがなかったようです。そのため中断も何回もありました。これを舵取る当番の各村の庄屋は、大変だったようです。
 さて七箇村踊組は7月7日から盛夏の一ヶ月間に、各村の神社などを周り、60回近い踊興行を行い、最後が滝宮牛頭神社での踊りとなるわけです。先ほどの諏訪神社の絵図も、その途上の「巡業」の時の様子が描かれたもののようです。 
 さて、諏訪神社の見物桟敷小屋の謎にもどりましょう。
その謎を解く鍵は、隣の村の久保神社に残されていました。

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 岸上村の庄屋・奈良亮助が残したもので「天保9年再取極 滝宮念仏踊 久保宮(久保神社)桟敷図 
七箇村組記録 奈良亮介書」と真ん中に大きく記されています。これは久保神社で念仏踊りが行われる時の桟敷の配置図です。よく見ると、境内の周りに桟敷小屋を建てる位置が記入してあります。
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そして、次のように記されています。
 戌八月十日、於久保宮において念仏踊見物床場の之義について、去る七日に長百姓・社人・朝倉石見が出会い相談の上、床場所持の人は残らず相揃い、一同相談の上、昔のことなども確認した結果、以下のような配置に改めることになった。
 御殿占壱間後江引込東手二而
     真南向弐間  神余一統(神職 朝倉氏)
       同弐間  奈良氏(岸の上の庄屋)
 同所東占西江向壱間半 同性分
 右一間半之分へ先年権内権七と申者一統之床場二而御座候所、文政三辰年彼是故障申出候二付、其節朝倉加門・優益・庄次郎・太郎兵衛四人之衆中占、右権七占法外之申出候義ハ、困窮二相成居申候二付彼是申義二付、少々為飯料 指遣候様申出候二付、四人之取扱二而米五斗銀拾五匁指遣、
壱間半之場所買取、都合本殿前三間半ハ奈良家之床場二相究せ候事。(中略)
意訳変換しておくと
御殿(拝殿?)前の一間後へ引込んだ東手の二面については
  真南向の二間  神余一統(神職 朝倉氏)
  同弐間     奈良氏(岸の上の庄屋)
  同所東の西向壱間半 同性分
 この一間半之分は、もともとは権内権七の一族床場(桟敷席権利)であった。しかし、文政三(1813)辰年に、一族から、経済的な困窮で維持が困難となったたので、適当な飯料で売却したいという申し出があった。そこで相談役の四人衆で協議した上で、庄屋の奈良家が米五斗銀拾五匁で、権内権七から壱間半の床場を買取ることになった。こうして、本殿前の奈良家の床場は、従来のものと合わせて三間半の広さとなった。(下略)
この史料からは、桟敷床場の権利をもつ構成員が、経済的な困窮のためにその権利を手放したこと、それを庄屋奈良家が買い取ったことが分かります。つまり、久保神社の床場配置の「再取極」(再確認書)のようです。本殿真南の一番いい場所は、神職朝倉氏と庄屋の奈良氏が2間の広さで占めます。問題は、その隣の一間半の部分です。ここはかつては、権内権七一族のものでしたが、経済的な困窮からこれを庄屋の神職の朝倉家が買い取り、朝倉氏が持つ本殿前の床場(桟敷占有面)は、「本殿前三間半は奈良家之床場二相究せ候」と記します。ここからは久保神社では「床場」が売買されていたことが分かります。
南 面申内川問
御殿方西脇壱間後へ引込
       長弐間  藤左衛門一統分
       同弐間  丹左衛門分
 西方束向二而同壱間半 彦右衛門
       長壱間半 横関氏一同
       同弐間半山下嘉十郎
 右嘉十郎之ハ、明和年中二大坂表向稼ニ罷(まかり)越候ニ付き、床場ヲ舎人朝倉氏に預け置き之あり。同所へ太郎兵衛床場之由申出、口論ニ及び候ニ付き、奈良亮助方双方へ理解申聞せ、右弐間半之内壱間半朝倉氏二、残ル壱間ハ太郎兵衛床場二相究遣シ、万一嘉十郎子孫之者村方へ罷帰り相応相暮候様相成候得バ、両人之分を山下家江表口弐間半分指戻候様申聞せ、相談之上相済候事。
意訳変換しておくと
南 面申内川問
御殿(拝殿)西脇の壱間後へ引込んだ場所
       長弐間  藤左衛門一統分
       同弐間  丹左衛門分
 西方東向二而同壱間半 彦右衛門
       長壱間半 横関氏一同
       同弐間半山下嘉十郎
 この嘉十郎については、明和年中(1761~)に大坂に稼ぎに行って、床場を社人朝倉氏に預け置いていた。ところがここの権利は自分にあると太郎兵衛が申出で、朝倉氏と口論になった。そこで庄屋の奈良亮助が双方の仲裁に立って、次のように納めた。二間半の内の一間半は朝倉氏、残りの一間は太郎兵衛の床場とする。もし嘉十郎の子孫が村へもどってきて、相応の暮らしぶりであれば、両人分二間半を山下家に返却することに同意させた上で、相済とした。

 山下嘉十郎については、一家で大坂に出向く際に、床場の権利を朝倉氏に預けたようです。その分について、朝倉氏と太郎兵衛が分割して使用することになったようです。面白いのは、もし嘉十郎の子孫が村に帰ってきた場合は
「相応の暮らし」をするようになれば、床場を返還するという条件です。貧困状態で還ってきたのでは、床場権利は健脚出来ないというのです。ここからは、床場は長百姓階層や高持百姓などの、富裕な人々だけに与えられた権利であったことが分かります。
 諏訪神社の絵図には見物桟敷の前に、頭だけを目玉のように描かれた見物人がぎっしりと描かれていたことを思い出して下さい。あれが、一般の民衆の姿なのです。そして有力者がその背後の見物桟敷の高みから念仏踊りを風流踊りとして楽しんでいました。絵図には、見物桟敷の持ち主の名前が全て記入されていました。このことから考えると、この絵図の発注者は、諏訪神社の「宮座」を構成する有力者が絵師に書かせて奉納したものとも考えられます。

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以上から分かることは次の通りです
①祭礼の桟敷席が、村の有力者の権利として所有され、売買の対象だったこと
②桟敷席には、間口の広さに違いがあり、その位置とともに家の家格と関係していたこと。
③困窮し手放した場合は、その子孫が無条件で返還されるものではなく「相応の暮らしを維持できる」という条件がつけられていたこと。
「桟敷席」の権利が、村での社会的地位とリンクしていたこと押さえておきます。
この特権は、中世の「宮座」に由来すると研究者は考えています。このように桟敷席に囲まれた空間で踊られたのが風流踊り(=念仏踊り)なのです。そして、それが描かれているのが最初に見た諏訪神社の祭礼図ということになるようです。
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風流踊りが奉納された久保神社(久保の宮)の境内
どんなひとたちが、この踊りを踊っていたのでしょうか?
 岸上村の庄屋・奈良亮助が残した記録の中に「諸道具諸役人割」があります。これによって天保十五年の七箇村組の踊役の構成を知ることができます。
   踊子当村役割
 一、笛吹        朝倉石見(久保の宮神職)
 一、関鉦打        善四郎
 一、平鉦打       長左衛門
 一、同         徳左衛門
 一、同         与左衛門
 一、同          権 助
   同 古来?仁左衛門 助左衛門
  、同 古来?全左衛門 宇兵衛
       宇兵衛右譲受 五左衛門
 一、同 古来右九左衛門 十五郎
   当辰年廻り鐘当村へ相当り候事 是ハ公事人足二而指出候事
 一、地踊         彦三郎
 一、同 宇兵衛株同人譲渡 熊蔵出ル
 一、同 利左衛門    孫七出ル
            清左衛門出ル
 一、同 又左衛門   五左衛門
 一、同 善次郎    伴次郎出ル
 一、旗    弐木 内壱木 社面
            壱本 白籐
 一、長柄鑓  五本
 一、棒突   三本 内壱本新棒と申 分二而御座候。
 右之通相究在い之候事
 右の役割表を見ると一番最初の笛吹きは、久保の宮住職です。
そして「株」「譲渡」の文字が目立ちます。元々は、中世の宮座と同じように各村で踊子の役割はそれぞれの家の特権(株)として伝承されてきたようです。
 「同 古来?仁左衛門 助左衛門」とあるのは、元々は仁左衛門が持っていた株を、助左衛門が持っていて出演する権利を持つということでしょうか。「同 宇兵衛同人譲渡 熊蔵出ル」というのは宇兵衛株が譲渡した株で熊蔵が出演するということでしょう。先ほどの床場の権利と同じように、「出演権」も譲渡や売買の対象になっていたようです。株が固定していない廻り鐘は、公事人足が勤めていたようです。そのため旗持、長柄鑓、棒突は、人名が記されていません。
  ちなみに「公事人足」とは、村の共同の仕事に当たる人足のことです。高松藩では村から年貢米を徴収する時に、百姓の持高の一割を公事米として徴集しました。これを村の道普請などの公事役に出た人々の扶持米(サラリー)としました。念仏踊の食料なども、この公事米から支出されていたようです
 念仏踊の起源は中世末まで遡れれますが、その発生から名主や長百姓の特権的な結びつきで編成されたようです。祭祠的、仏教的な風流であったと同時に、その村の有力者がその地位と勢力を村の人々に誇示する芸能活動として伝承されてきたという面もあります。念仏踊りの踊り手の出演権や見物桟敷(床屋)にも、その痕跡が残されているのです。
ここからは、鎮守は村のメンバーの身分秩序の確認の場であったことが分かります。中世以来、鎮守の宮座は名主層によって独占されていて、百姓層はそこから排除されていました。新興の勢力が宮座に加入する場合には、右座・左座というように旧来からの座株所有者とは区別されていました。また寺社の棟札や梵鐘の銘文には、地頭・荘官以下、名主や百姓の名前がそれぞれの奉加額とともに記され、荘内の身分秩序が一目で分かるように示されています。家の格まで視覚的に表現されていました。荘郷鎮守で毎年、繰り返される祭礼行事では、荘官以下の百姓たちは荘郷内での身分秩序の形成や確認の場でもあったのです。それが、この念仏踊りにも、しっかりと現れています。

さて、それではなぜ幕末から明治にかけて念仏踊りは奉納されなくなるのでしょうか?
この疑問に答えるキーワードを並べて見ます。
①「氏神」から「産土社」への転換
②庄屋などの村の有力者層に対する百姓達の発言権の高まり
獅子舞と太鼓台(ちょうさ)の登場
この3つの要素を、まんのう町川東中熊の山熊神社の「祭礼変革」で見てみましょう。
中熊地区は「落人の里」と呼ばれるように山深い地にあります。その中にある造田家の文書によると、この神社は造田一族の氏神と伝えられています。それを裏付けるかのように社殿の棟札には造田氏一族の名前が大檀那として書き連ねられています。祭礼の時には、造田氏一族のみに桟敷が認められ、祭礼の儀式も造田氏の本家筋の当主が主祭者となっていました。まさに造田氏の氏神だったのです。

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まんのう町中熊の山熊神社
ところが江戸時代の中ごろから、高持百姓が山熊神社の造田氏の特権を縮少させる動きを見せ始め、たびたび軋轢が起きるようになります。これに対して天保二(1832)年に、阿野郡南の大庄屋が調停に乗り出し裁定を下します。
 結論からいえば、この裁定で造田氏の棟札特権は認められなくなります。棟札には「総氏子一同」と書かれるようになります。そして祭礼の時の桟敷も全廃されるのです。造田氏に認められたのは祭礼の儀式の上で一部分が認められるだけになります。「宗教施設や信仰を独占する有力貴族に対する平民の勝利」ということになるのでしょうか。結果的には、この裁定によって山熊神社は「造田氏の氏神」から中熊集落の「産土神」に「変身」を遂げたと言えるのかもしれません。
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どうして久保神社では、宮座的な特権が再確認されたのか?
 同じころ讃岐山脈の阿讃境に近い勝浦の落合神社でも、祭礼の時の桟敷が全廃されています。藩政時代の記録には、山間僻地の代名詞として、中熊集落の名がよく登場します。その中熊集落で、幕末の天保二年に祭礼の桟敷が全廃されているのに、岸上村久保神社では長百姓階層の間で、先例と古格を堅く守って伝えられてきた念仏踊の桟敷が同じ時期に、再協定されて維持されています。どうしてでしょうか?時代の流れに棹さす動きのようにも思えます。
 幕末天保年間になると、岸上村でも長百姓層の盛衰交替によって、踊役の株が譲渡されることが多くなります。引受手のない踊役の株は、公事役によって演じられる状態になっています。小間者層の間から念仏踊の桟敷撤廃の動きがあったことも考えられます。
  そこには岸上村の置かれた特殊事情があったのではないかと研究者は考えているようです。
   岸野上村・吉野村・七箇村は、池御料(天領)や金毘羅領に隣接しています。そのため条件のいい金比羅領や天領に逃散する小百姓が絶えなかったようです。その結果、末耕作地が多くなる傾向が続きました。そこで、高松藩としては他領や他郡村からこの地域へ百姓が移住することを歓迎した様子がうかがえます。建家料銀三百目(二一万円)と食料一人大麦五升を与える条件で、広く百姓を募集しています。現在の「○○町で家を建てれば○○万円の補助がもらえます」という人口流出を食い止める政策と似たものがあって微笑ましくなってきたりもします。
 この結果、岸上村周辺には相当数の百姓が移住したきたようです。
そういう意味では、ここは人口流動が他の地域に比べると大きかったようです。そのような中で、旧来からの有力者層と新しく入ってきた小間者層の間に秩序付けを行うための空間として神社の祭礼空間は最適なハレの場だったでしょう。移住者に権威を示し、長百姓層の優越した立場を目に見える形で住民に知らせるという、一つの宗教・社会政策の一環と考えられていたのかもしれません。それが、久保神社の桟敷床場の再協定だったのではないかと研究者は指摘します。
この祭礼時の桟敷席の変化バージョンが小豆島にあります。
sDSCN4999小豆島 池田の桟敷

初めてこれを見たときには「一体これはなあーに?」と考え込んでしまいました。
瀬戸内海の島に現れた野外劇場? ここで演劇が行われた? 
しかし「当たらずとも遠からず」。
芝居ではなくちょうさ(太鼓台)のかきくらべを見物する桟敷席なのです。
DSC_0486亀山八幡宮祭礼
小豆島池田のちょうさ桟敷
今でもここに薦掛け(現在はビニールシート)して、豪華なお弁当持参で一日中見物するのです。
youkame-semi (6-1)1811年に三木算柳によって描かれた亀山八幡宮祭礼
今から約200年前の小豆島池田の亀山八幡の祭礼 ちょうさが姿を見せています
ちょうさが大阪から瀬戸内海を通じてこの島に姿を現すのは18世紀後半です。そしてすぐに祭礼行列の主役になっていきます。ここには中世の宮座的な特権的な要素があまりありまっせん。氏子がみんなでお金を出し合い、みんなの力でちょうさを担ぐというスタイルは平等志向が強い祭礼行事です。これは当時の社会的な機運にマッチするものでした。新しい祭礼の主役であるちょうさの勇壮な姿を見るために氏子達は、その舞台を作りあげたのです。そして、それは建設資金を出した氏子達に平等に分割されました。その所有権は、後には売買の対象にもなります。
小豆島 池田の桟敷 3

もうひとつ、祭礼の主役として登場してくるのが獅子舞です。
獅子も近世の半ば以降に讃岐の祭礼に姿を現します。そして村の中の家格に関係なく参加することができました。念仏踊りの役割が宮座の系譜に連なる権利で、有力者の家柄でないと参加できなかったのとは対照的です。
  
時代の流れに棹さした組織・システムで運営された中世的な色合いが強かった念仏踊りは人々の支持を失い村々の神社で踊られることは少なくなっていきます。代わって讃岐の祭礼の主役となって現れるのがちょうさと獅子舞です。
現在時点での大まかな私の推論です。

参考文献
大林英雄 滝宮念仏踊り七箇村組について  ことひら 昭和63年



阿野郡の郷
阿野郡坂本郷

喜田家文書には坂本念仏踊り編成についても書かれています

 坂本郷踊りは、かつては合計十二ヶ村で踊っていたようです。ところが、黒合印幟を立てる役に当たっていた上法軍寺と下法軍寺の二村の者が、滝宮神社境内で間違えた場所に立てたため坂本郷の者と口論になり、結局上法軍寺・下法軍寺の二村が脱退して十ケ村で勤めることとなったとあります。十ヶ村とは、次の通りです。

東坂元・西坂元・川原・真時・東小川・西小川・東二村・西二村・東川津・西川津

   
川津・二村郷地図
        坂本郷周辺(讃岐富士の南東側)
これは近世の「村切り」以前の坂本郷のエリアになります。ここからは近世の村々が姿を現すようになる前から念仏踊りが坂本郷で踊られていたことがうかがえます。中世の念仏踊りにつながるもののようです。
 江戸時代に復活してからは3年に一度の滝宮へ踊り入る年は、毎年7月朔日に東坂本・西坂本・川原・真時の四ヶ村が順番を決めて、十ヶ村の大寄合を行って、踊り役人などを相談で決めました。

滝宮の念仏踊り | レディスかわにし

 念仏踊りは、恒例で行われる時と干ばつのために臨時に行う時の二つに分けられます。臨時に行う時は、協議して随時決めていたようです。この時には、大川山頂上に鎮座する大川神社に奉納したこともあったようです。三日間で関係神社を巡回したようですが、次のスケジュールで奉納されました。 
一日目 坂元亀山神社 → 川津春日神社 → 川原日吉神社 →真時下坂神社
二日目 滝宮神社 → 滝宮天満宮 → 西坂元坂元神社 → 東二村飯神社
三日目 八幡神社 → 西小川居付神社 → 中宮神社 → 川西春日神社

次に念仏踊りの構成について見てみましょう。

 1725(享保十)年の「坂元郷滝宮念仏踊役人割帳」という史料に次のように書かれています。
一小踊   一人 下法    蛍亘     丁、 三二
一小踊   二人 卓小川  一小踊    二人 西小川
一小踊   二人 東ニ   ー小踊    二人 西二
一小踊   二人 東川津  一小踊    二人 西川津
一鐘打 二十一人 東坂元  一鐘打   二十人 川原
一鐘打   八人 真時   一鐘打   十六人 西坂元
一鐘打ち  八人 下法   一鐘打    十人 上法
一團  二十一人 東坂元  一團    二十人 川原
一團    八人 真時   一團    十六人 西坂元
一團    八人 下法   一合印       真時
一合印      下法   一小のほり  三本 下法
一小のほり 八本 西川津  一小のはり  十本 卓川津
一小のほり 八本 卓ニ   ー小のほり  八本 西二
一小のほり 六本 西小川  一小のほり  六本 卓小川
一のほり  五本 上法   一笠ばこ       西二
一笠ほこ     康ニ   ー長柄    三本 卓坂元
一長柄   三本 川原   一長柄    一本 真時
一長柄   三本 西坂元  一赤熊鑓   二本 西小川
一赤熊鑓  二本 卓小川  一赤熊鑓   二本 西川津
一赤熊鑓  二本 下法   一赤熊鑓   二本 上法
一赤熊鑓  二本 東ニ   ー赤熊鑓   二本 西二
一大鳥毛  二本 川原   一大鳥毛   二本 西小川
スタッフは326の大集団になります。
佐文の綾子踊りに比べると、規模が遙かに大きいことに改めて驚かされます。これだけのスタッフを集め、経費を賄うことはひとつの集落では出来なかったでしょう。かつての坂元郷全体で雨乞い踊りとして、取り組んできたことが分かります。

滝宮念仏踊り2

いつまで踊られたいたのでしょうか? 

坂本組念仏踊りは『瀧宮念仏踊記録』に明治8年まで踊った記録が残っています。また、地元史料には明治26年の踊役割帳が残っていますので、そこまでは確実に行われていたことが分かります。
その後、昭和になって三年(1928)七年、十年、十三年、十六年と行われ、太平洋戦争後の二十八年、三十一年と日照りの時には踊られ、三十四年を最後に中断しました。復活したのは昭和五十六年に「坂本念仏踊保存会」が設置されてからです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

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