瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:滝宮神社

滝宮念仏踊 讃岐国名勝図会
滝宮念仏踊り 滝宮神社への踊り込み(讃岐国名勝図会)
近世はじめの生駒藩の時代には、滝宮神社の夏祭り(旧暦7月25日)には、5つの踊組が念仏踊を奉納していました。その内の多度郡の鴨念仏踊りは、讃岐が東西に分割され、丸亀藩に属するようになると、高松藩は奉納を許さなくなったようです。そのため高松藩下では、次の四つの踊組の奉納が明治になるまで続きました。 
                                                                  奉納順
①阿野郡北条組(坂出市) 「丑・辰・未・戊」の年
②阿野郡南条組(綾川町)   「子・卯・午・酉」の年
③鵜足郡坂本組(丸亀市飯山町)  「申・巳・中・亥」の年
④那珂郡七箇村組(まんのう町 + 琴平町)   「丑・辰・未・戊」
4組の内の①北条組と④七箇村組は同年奉納で、各組は三年一巡の奉納になります。これを「順年」と呼んでいました。②③④については、以前に何度か紹介しましたが、①の北条組については、何も触れられませんでした。新しい坂出市史を眺めていると、北条組のことが紹介されていました。読書メモ代わりにアップしておきます。テキストは、「坂出市史近世(下)156P 北条念仏踊り」です。

坂出市史1
坂出市史
北条組が、どんな村々から構成されていたのかを見ていくことにします。  
滝宮念仏踊諸役人定入目割符指引帳
那珂郡七箇村組の組織表

 坂本組や七箇村組・鴨組などは、中世のいくつかの郷からなる宮座で構成されていました。そのため近世では10ヶ村近くの村々から構成されていたことは以前にお話ししました。それでは、北条組はどうなのでしょうか。

阿野郡北条の郷
中世阿野北条の郷名

 寛政2(1791)年12月、北条組内の高屋・神谷村と青海村の間で各村社へ念仏踊り奉納順等をめぐって争論が起きます。その御裁許が寛政6(1794)年8月に関係各村に通達されています。これが「念仏一件留」(白峯寺所蔵)で『坂出市史』資料に収録されています。
この争論の調停書「滝宮念仏踊次第書出覚」には、次のように記されています。
踊順左之通                 
一 滝宮二社     七月二十五日
一 前日廿四日  神谷村笠揃仕、夫ヨり清立寺、高屋村氏神二社、白峯青海氏四社、高屋浜塩竃大明神并遍照院
一 廿五日 滝宮二社、鴨村一社、氏部村一社、西庄三社
一 二十六日 坂出一社、福江村弐社、江尻村壱社、林田村四社
右之通古来より御神事相勤来申候、尤、御法度絹布も御座候得共、持来并借用来申候、以上、
寛政三亥年十二月  
      高屋村       久次郎
           神谷村政所          恒蔵
                青海村政所兼務      渡辺五郎右衛門
右の通り御尋ニ付 御役所江指出申候
  意訳変換しておくと
①滝宮奉納前日の24日は、神谷村で笠揃を行う。
②その後に、清立寺 → 高屋村の二社 →白峯青海村四社 → 高屋浜の塩竃大明神と遍照院
②25日は、滝宮二社の踊り込みの後に、鴨村一社 → 氏部村一社 → 西庄三社
③26日は、坂出一社 → 福江村2社 → 江尻村一社 → 林田村四社
以上の通り、古来より御神事として奉納してきた。なお御法度の絹布も着用するので、持参・借用については黙認願いたい。以上、
ここからは、北条組は24日に神谷神社から村社などへの巡回奉納が始まり、中日の25日早朝に滝宮に踊り込み、その帰りに鴨・氏部・西庄の神社に奉納しています。そして、最終日26日に、坂出・福江・江尻・林田の各神社に奉納しています。

坂出 阿野郡北絵図
阿野郡北絵図(江戸時代前期)

ここからは次のようなことが分かります。
①北条念仏踊を構成する村々は、阿野郡の10カ村(青海・高屋・神谷・鴨・氏部・西庄・林田・江尻・福江・坂出)であったこと。
②滝宮への奉納に前後して、10ヶ村の寺社への奉納が3日間で行われていたこと
③傘揃え(出発式)が神谷神社で行われていたこと。
④阿野郡の北の内、乃生・本沢は、入っていないこと
 以前に坂本念仏踊が、もともとは鵜足都内の、川津郷・坂本郷・小川郷・二相郷の計10ケ村からなる踊り組だったことはお話ししました。これは、那珂郡七箇村組や多度郡鴨組も同じです。

神谷神社 讃岐国名勝図会2
神谷神社(讃岐国名勝図会)
北条念仏踊りも、神谷神社の周辺の郷村が宮座を組織して、奉納していた風流踊りだったことが裏付けられます。そのプロデュースに、滝宮の龍燈寺の社僧(聖や修験者)が大きな役割を果たしたと私は考えています。
 滝宮念仏踊りは、もともとは、各郷社に奉納される風流念仏踊りでした。それが滝宮神社に踊り込むようになります。その際に、もめるのが村社の巡回順番です。順番や役割をめぐってどの組でも、争論が起きています。争論の末に、順番が明記されてルールになっていきます。
 それでは北条組は、各村々のどんな寺社を巡回して念仏踊りを奉納していたのでしょうか?

坂出 大藪・林田
阿野郡北図拡大(青海・高屋・林田周辺)
調停書の「念仏踊行列の定并に村々列左の通」は、次のように記します。   
右の通の行列ニテ、郡内宮々踊村々割之列
神谷村先備之分
神谷村  五社大明神     同 村  立寺
氏部村  鉾宮大明神     林田村  祇園宮
江尻村  広瀬大明神     鴨 村 加茂大明神
西庄村  別宮大明神
〆 八ケ所
高屋村先備之分
高屋村  春日大明神      同 村 崇徳天皇
同 村  塩釜大大明神  同 村 遍照院
林田村 惣社大明神 同 村 弁才天
坂出村 八幡宮 西庄村 国津大明神
〆 八ケ所
青海村先備之分
青海村  白峯寺        同 村  崇徳天皇
同 村  春日大明神      同 村  荒神
同 村  厳島大明神      林田村  牛頭天皇
福江村  魚御堂
〆 七ケ所
ここからは、3ヶ村の担当が次のように決めらたことが分かります。
①滝宮神社は、神谷・高屋村
②滝宮天満宮は、青海村
③各村々の寺社については、神谷・高屋・青海が上記のように分担して指揮をとる
④具体的な奉納寺社の名前が挙がっているが、多いのは3ケ村で、他の村は1ヶ所のみ。
坂出 鴨
阿野北絵図(神谷・鴨・氏部・西庄)

以上からは、10ヶ村がフラットな関係でなく、3ケ村(神谷・高屋・青海)の指導権で運営管理されていたことがうかがえます。ここでも争論を経て、ひとつのルールが定着していく過程が見えて来ます。
坂出 上鴨神社
鴨村の上賀茂神社(坂出市)
 こうして見ると北条念仏踊の一団は、坂出市内の合計23の寺社 + 滝宮の2社 =25社を、旧暦の7月25日前後の3日間で巡回し、踊り奉納していたことになります。真夏の炎天下の中を徒歩での移動は、なかなか大変だったことでしょう。それを多くの村人が鎮守の森で待ち受け、楽しみにしていました。地域の一大イベント行事でもあったのです。

滝宮念仏踊 那珂郡南組
那珂郡七箇村組の諏訪神社への奉納図 
以前にお話ししたように、七箇村組の諏訪神社(まんのう町真野)への奉納図には、周囲に有力者の桟敷小屋が建ち並んでいます。桟敷小屋は、宮座の名主などだけに許された権利で、財産として売買もされていたことは以前にお話ししました。ここからも念仏踊りが、もともとは中世の風流踊りに由来することがうかがえます。多くの村人が待つ各村々の鎮守の森に、踊りが奉納されていたことを押さえておきます。
 次に北条念仏踊りの準備品目・出演人数・衣装などを見ておきましょう。寛政6(1794)年の調停書「滝宮念仏踊次第書出覚」には、次のように記されています。
① 幟木綿拵 拾弐本 氏部  林田  西庄  江尻  坂出  福江
② 笠鉾      壱本    加茂村 但、上花色水引金揮、
一 ほら貝吹  拾弐人  此人数増減御座候、神封左に在り
一 日の丸  壱本  神谷村
念仏音替印立申候、并に本太鼓順年二両村替合申候、太鼓打出不申村ヨり指出申候、
一 半月    壱本    青海村
一 長刀振    弐人    神谷村 高屋村 但、其足并木綿立付着用仕候、
③大打物役  二十四人  神谷村 高屋村 青海村 但、刀之柄二弐尺計之柄を付、持団扇壱本、
一 入場太鼓打 壱人    神谷村  但、年齢拾弐、三歳素麻帷子紅たすき、嶋絹立付着用、
一 太鼓持   壱人     同村 但、木綿薫物着用、
一 同鼓打       神谷村 高屋村
 但、帷子麻上下着用、三ケ村ヨり勝手次第出来り増減御座候、
一 笛吹 弐人  但、右同断、
一 下知 壱人    高屋村
 但、帷子緞子、無袖羽織・袴着用、脇折・大団・念仏音替下知仕候、
一 本太鼓打 壱人  高屋村 神谷村
 但、年齢拾四、五歳帷了縮緬単物、太鼓掛縮緬、足元嶋絹立付着用、
一 同 供  壱人  後追役 但、持道具団、木綿単物仕着せ、
一 上ヶ場貝吹 壱人 神谷村 但、帷子絹、羽織小倉立付着用、
④ 小踊    廿人  高屋村 神谷村 青海村
 但、年齢七、八才花笠、帷子ちりめん単物、羽織緞子、儒子金揮無袖羽織着用、
⑤ 警固    三拾人  高屋村 神谷村 青海村  
 但、帷子絹、羽織・袴着用、杖
⑥ 鉦打    五拾八人  高屋村 神谷村 青海村
 但、単物帷子、羽織立付着用、
⑦ 輪踊    百二十人  高屋村 神谷村 青海村
 但、帷子、木綿単物、笠二色紙切かけ、団壱木ツヽ持、
⑧ 固役         大政所 小政所
 但、帷子麻上下刀帯仕来申滝宮相済、郡中ハ絹羽織踏込着用、
①の「一 幟木綿拵  拾弐本 氏部  林田  西庄  江尻  坂出  福江」というのは、「南無阿弥陀仏」と書かれた木綿の幟を準備するのが「氏部村以下の6ヶ村 × 2本=12本」ということです。
滝宮念仏踊り 正徳の昔(一七一一年)から踊り場にたて続けられている北村組の幟

北村組の幟(正徳元年1711年以来使用されてきた幟)

②は「上が花色で水引・金揮の笠鉾1本」を準備するのが、加茂村担当ということになります。
滝宮の念仏踊り | レディスかわにし
坂本組の赤い笠鉾
以下、「備品関係」物品があげられ、準備する村名が記されます。
③「一 大打物役  二十四人  神谷村 高屋村 青海村 但、刀之柄二弐尺計之柄を付、持団扇壱本、」の「大打物(おおたちもの)」は「太刀、槍、薙刀(なぎなた)などの長大な武器の総称」です。
「神谷村・高屋村・青海村の三村 × 8人 =24人」で「但し、刀の柄に二尺(約60㎝)をつけ、団扇を1本持つ」とあります。このように全体数と、それを担当する村名、そして但書きが続きます。
④の「小踊 廿人 高屋村 神谷村 青海村 但、年齢七、八才花笠、帷子ちりめん単物、羽織緞子、儒子金揮無袖羽織着用」は、子踊りに三ヶ村から20人 年齢は7・8歳で、以下着用衣装が記されています。
人数が多いのが⑤ 警固30人 ⑥鉦打 58人 ⑦ 輪踊120人で、この3役だけで208人になります。総数は三百人を越える大部隊です。この中心は、高屋村 神谷村 青海村の「三ヶ村」です。ここからは、北条組はこの三ヶ村を中心に、風流念仏踊が踊られるようになったことがうかがえます。
⑥の固役には、阿野郡の大政所と小政所が並びます。そして衣装は、滝宮で踊る場合は、帷子(かたびら)麻の上下で帯刀します。郡内の村社巡回奉納の時は、絹の羽織踏込の着用です。以上が、役割と担当村名でした。
滝宮神社・龍燈院
滝宮の龍燈院(滝宮神社と天満宮の別当寺:讃岐国名勝図会)
 滝宮神社は、明治以前は天皇社(滝宮牛頭天王社)と呼ばれていました。
今でも地元の人達は滝宮神社とは呼ばずに「てんのうさん」と親しみを込めて呼ぶそうです。この神社を管理運営していたのが別当の龍燈院でした。滝宮神社と天満宮は、龍燈寺管理下にひとつの宗教施設として運営されていました。それが、明治の神仏分離で、龍燈院が廃寺となり姿を消し、ふたつの神社が残ったことになります。

龍燈院・滝宮神社
両者に挟まれるようにあった龍燈寺

  滝宮牛頭天王(権現)とよばれた滝宮神社は、その名の通り牛頭天王信仰の宗教施設で、牛や馬などの畜産などに関わり、馬借などの運輸関係者や農民達の強い信仰を集めました。同時に、滝宮牛頭天王はスサノオの権化ともされ「蘇民将来伝説」とも結びつけられて流布されます。
本山寺」の馬頭観音 – 三題噺:馬・カメラ・Python
四国霊場本山寺の本尊 馬頭観音
 中讃の牛頭天王信仰の拠点が滝宮神社で、三豊の拠点が四国霊場の本山寺でした。
本山寺の本尊は馬頭観音で、多くの修験者や聖達がこの札を周辺地域に配布していたようです。滝宮神社の別当寺は龍燈寺も、聖達の集まる寺でした。その名の「龍燈」とは熊野信仰で海からやってくる龍神の目印として掲げられた灯りのことです。この寺が、もともとは熊野信仰と深く結びついた寺院であることがうかがえます。熊野行者の拠点だった龍燈寺は、中世には修験者や聖達のあつまるお寺になっていきます。彼らは「牛頭天王=スサノオ」混淆説から「蘇民将来の子孫」のお札や「苗代や水口」札を配りながら農民達の信仰を集めるようになります。
蘇民将来子孫家門の木札マグネット
牛頭天王信仰の聖達が配布した「蘇民将来の子孫」のお札

滝宮の龍燈院の牛頭天皇信仰の拡大戦略は、次のようなものだった私は考えています。
①龍燈寺の社僧は(修験者や聖)たちは、丸亀平野の各村々をめぐり檀那にお札を配布し、奉納品を集め信者を増やした。
②その際に、彼らはいろいろな情報だけでなく、風流踊りや念仏踊りを各村々に伝える芸能プロデューサーの役割も果たした。
④聖達の指導で、風流踊りは盆踊りとして踊られるようになった
⑤盆踊りとして踊られるようになった風流念仏踊りは、滝宮(牛頭天皇)社の夏祭り(旧暦7月25日)に奉納されるようになった。
これを逆の視点から見ると、滝宮に念仏踊りを奉納していた鵜足郡坂本郷・那珂郡真野郷・多度郡賀茂郷などは、滝宮牛頭権現の信者が一円的にいたエリアだったことになります。牛頭天王の信者達が、自分たちの踊りを滝宮神社に奉納していたと私は考えています。

滝宮神社と龍燈院(明治になって)
滝宮神社と龍燈院(明治になっての在りし日の龍燈院絵図)
       最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
坂出市史近世(下)156P 北条念仏踊り
関連記事

  前回は南鴨念仏踊りについて、次の点を史料で押さえました。
①南鴨念仏踊りは賀茂神社に多度郡全体の宮座で構成された人々で奉納された風流念仏踊りであったこと。
②生駒藩は念仏踊りを保護し、滝宮(牛頭天王)への踊り奉納を奨励していたこと。
それが高松藩になると、南鴨組の念仏踊りは滝宮への奉納がされなくなります。その背景を今回は史料で見ていくことにします。   

多度津町誌 購入: ひさちゃんのブログ

テキストは「多度津町誌史料編140P 南鴨山寺家文書(念仏踊り文書)」です。  ここには、前回に紹介した入谷外記とともに、生駒藩の尾池玄番が登場します。 彼は2000石を拝領する重臣で、優れた能力と「血筋」が認められて、後には熊本藩主に招かれ、百人扶持で大坂屋敷に居住しています。二人の子供は、熊本藩に下り、それぞれ千石拝領されています。生駒騒動以前に、生駒藩に見切りをつけていたようです。
年記がわからないのですが、7月1日に尾池玄番は次のような指示を多度郡の踊組にだしています。
以上
先度も申遣候 乃今月二十五日之瀧宮御神事に其郡より念佛入候由候  如先年御蔵入之儀は不及申御請所共不残枝入情可伎相凋候  少も油断如在有間敷候
恐々謹言

七月朔日(1日)       玄番 (花押)
松井左太夫殿
福井平兵衛殴
河原林し郎兵衛殿
重水勝太夫殿
惣政所中
惣百姓中
  意訳変換しておくと
前回に通達したように、今月7月25日の瀧宮神事に、多度郡よりの念佛踊奉納について、地元の村社への御蔵入(踊り込み)のように、御請所とともに、精を入れて相調えること。少しの油断もないように準備するように。

  多度郡の村々
多度郡の村々(讃岐国絵図)
⑨尾池玄番の通達を受けて、辻五兵衛が庄屋仲間の二郎兵衛にあてた文書です 。
尚々申上候 右迄外記玄番様へ被仰上御公事次第 被成可然存候事御神前之儀候間前かた御吟味御尤に候。殊に御音信として御たる添存候。后程懸御目御礼可申上候
以上
貴札添拝見仕候 然者滝宮神前之念仏に付御状井源兵衛殿此方へ御越添存候
一 七ケ村と先さきの御からかい被成
候時山田市兵衛門三四郎滝宮之甚右衛門我等外記様御下代衆為御使罷出申極は多度郡南条外記様御代官所儀に候へは其時重而之儀被成何も公儀次第被成候へと外記殿下代衆も被仰候付而其通皆々様へも申渡候。於有之違申間敷候。 外記様玄番様へも被仰上前かと御吟味被成候事御尤に存事に候。猶委は此源兵衛殿へ申渡候 恐惶謹言
七月九日  辻五兵衛   (花押)
多度郡               
 二郎兵衛様江御報
  意訳変換しておくと
外記様や玄番様に申し上げた神事の順番について、以前のことを吟味した上でしかるべき措置を指示をいただいた。添状まで文書でいただいているので、後日御覧に入れたい。
 以上
書状を拝見し、滝宮神前での念仏踊り奉納について、御状と源兵衛殿方へ添状について
一 七ケ村との今後の対応について
山田市兵衛門三四郎、滝宮の甚右衛門と我等と外記様の御下代衆が一致して対応している。多度郡南条の外記様の御代官所が公儀として下代衆も仰せ付け、その通りを皆々様へも申渡しました。 これについて私たちが異議を申すことはありません。 猶子細は使者の源兵衛殿へ申渡しております。
恐惶謹言
七月九日  辻五兵衛   (花押)
多度郡 二郎兵衛様江御報
  ここからは次のようなことが分かります。
①前回に、多度郡の鴨組と那珂郡の七箇村組との間に、踊りの順番を巡って争いがあったこと
②それについて、鴨組から「外記様や玄番様」を通じて前回の調停案遵守を七箇村に確認するように求めたこと
③その結果、納得のいく回答文書が「外記様や玄番様」からいただけたこと
讃岐国絵図 多度津
多度郡の村々(讃岐国絵図)

鴨組からの要求を受けて、7月20日に尾池玄番が多度郡の大庄屋たちに出したのが次の文書です。
 尚々喧嘩不仕候様に事々々々々可申付候長ゑなと入候はヽまへかとより可申越候   以上
態申遣候 かも(加茂)より滝宮へ二十五日に念仏入候間各奉行候ておとらせ可申候 郡中さたまり申候ことく村々へ申付けいこ可出申由候 恐々謹言
七月二十日        玄番  (花押)
垂水勝太夫殿
福井平兵衛殿
河原林七郎兵衛殿
松井左太夫殿
  意訳変換しておくと
くれぐれも(滝宮への踊り込みについては)喧嘩などせぬように、前々から申しつけている通りである。  以上
態申遣候  加茂から滝宮へ7月25日に念仏奉納について各奉行に沙汰し、郡中で決められたとおり村々での準備・稽古を進めるように申しつける。恐々謹言
七月二十日        玄番  (花押)
垂水勝太夫殿
福井平兵衛殿
河原林七郎兵衛殴
松井左太夫殿
大意をとると次のようになるようです。
「踊りの順番については、七箇村組に前回の調停書案所を遵守させるの心配するな。喧嘩などせずに、しっかりと稽古して、踊れ」
 
尾池玄番は、奉納日が近づいた7月20日にも、次のような文書を出しています
尚々於神前先番後番は くじ取可然と存候もよりに真福寺へ入可申候 委此者可申候 以上
書状披見候
一 当年滝宮へ南鴨より念仏入候由先度も申越候 然者先年七ケ村と先番後番之出入有之処に羽床の五兵方被罷出其年は七ケ村へおとらせ候へ、重而はかも(加茂)へ可申付との曖に而相済由承候処則五兵方へ申理状を取七ケ村政所衆へつけ可申候。同日(滝宮牛頭)天王様之於御前圏取可然存候。
一  たヽき鐘かり申度由候 町に而きもをいり候へと仁左衛間申付候
一 刀脇指今程はかして無之候。 但股介に申付かり候へと申付候。 委は此者可申候 恐々謹言
七月二十五日         (花押)
(封)
勝太夫殿        玄番
政所二郎兵衛畦

  意訳変換しておくと
くれぐれも神前での踊り奉納の先番後番の順番は、「くじ」によるものとする。これについては、真福寺に伝えているので、子細は真福寺の指示に従うこと。
書状披見候
一 今年の南鴨の念仏踊奉納については、先般も伝えたとおりである。先年、七ケ村と順番を巡って喧嘩出入があった折りに、羽床の五兵衛の調停でこの年は七ケ村が先に踊ることで決着した。重ね重ねこの件については、五兵衛に申送状を七ケ村の政所衆へ届けさせる。同日(滝宮牛頭)天王様の於御前で確認されたい。
一  叩き鐘の借用について申し出があったが、準備を仁左衛門に申付けてある。
一 刀脇指については、今は貸し与えてはいない。ただし、股介は貸し与えることを申付けている。子細は、使者に伝えているので口頭で聞くように 恐々謹言
七月二十日         (花押)
(封)
勝太夫殿        玄番
政所二郎兵衛畦
奉納が25日ですから、間近に迫った段階で、奉納の順番や鉦の貸与など具体的な指示を与えています。また、前回に那珂郡七箇村組と踊りの順番を巡っての「出入り」があったことが分かります。そこで、今回はそのような喧嘩沙汰を起こさぬように事前に戒めています。

 尾池玄蕃の発信文書を整理すると次のようになります。
①7月 朔日(1日)  尾池玄番による滝宮神社への踊り込みについての指示
②7月 9日  南鴨組の辻五兵衛による尾池玄蕃への踊り順確認文書の入手
③7月20日  尾池玄蕃による南鴨踊組への指示書
④7月25日 踊り込み当日の順番についての具体的な確認

以上からも、生駒藩の玄蕃などの現地重役の意向を受けて、滝宮念仏踊りは開催されていたことが分かります。そして、役人と龍燈院という個人的な関係だけでなく、生駒藩として政策的に龍燈院を保護していたことが裏付けられます。同時に尾池玄蕃が彼の管理エリアである丸亀平野について、七箇村(まんのう町)や南鴨組のことについて熟知している様子がうかがえます。彼が「能吏」であったことが分かります。

龍燈院・滝宮神社
    手前が滝宮(牛頭天王)社、その向こうが別当寺の龍燈院

ところが、次の高松藩が成立した年の文書からは、南鴨組の踊りの奉納が停止されたことがうかがえます。滝宮(牛頭天王)社の別当寺龍燈院の住職が、南鴨の責任者に宛てた文書を見ておきましょう。
尚々貴殿様御肝煎之所無残所候へとも御一力にては調不申候由候尤存候。 来年は是非共被入御情に尤存候。今回はいそかしく御座候間先は如此候郡中御祈念申候間左様に御心得可被成候。来年は国守御付可被成候間念仏も相調可申と存事に御座候 以上
     
御状添拝見申候 就其念仏相延申候左右被成候、祝言銭銀壱匁七分角樽壱つぬいくくみ造に請取申し候。則御神前にて念比祈念仕候来年は念仏御興行可被成候。 何も御吏へ口上に申渡候間不能多筆候 恐悼謹高
龍燈院(花押)
七月二十四日
南鴨 清左衛門様
    貴報
意訳変換しておくと
貴殿様は人の世話をしたり、両者を取り持ったりする肝煎の役割を果たされている重要な人物であることを存じています。そんな貴殿様でも、今回のことについては、力が及ばないことは当然のことです。来年は(鴨組の)踊り奉納が復活できると信じています。今回は、明日の奉納を控えての忙しい時期ではありますが、多度郡のことを祈念いたします。来年は御領主さまも鴨組の参加を認めることでしょう。 以上
     
なお書状・添状を拝見しました。念仏踊り奉納は延期(中止)になりましたが、お祝いの銭銀壱匁七分角樽壱つぬいくくみ造を請取りました。御神前に奉納し、来年は念仏御興行が成就できるように祈念いたします。文字で残すと差し障りがあるので、御吏へ口頭で伝えています。 恐悼謹高
龍燈院(花押)
七月二十四日
南鴨 清左衛門様
    貴報
ここからは次のようなことが分かります。
①寛永19(1642年)7月24日に、龍燈院住職が南鴨組の責任者に出した書簡であること
②前半は鴨組の踊り奉納が、何らかの理由でできなくなったことへの詫状的な内容であること。
③後半は、奉納日前日の7月24日に、これまで通りに南鴨組が奉納品を納めたことに対する龍燈院住職から礼状であること。
ここからは、それまで奉納していた南鴨組の踊りが、高松藩主の意向で踊り込みが許されなくなったことがうかがえます。その背景には何があったのでしょうか?
  龍燈院の住職が代々書き記した『瀧宮念仏踊記録』の表紙裏には、次のように記されています。
「先代は当国十三郡より踊り来たり候処、近代は四郡而已に成り申し候」
「就中 慶安三年寅七月二十三日御重キ御高札も御立て遊ばされ候様承知奉り候」
意訳変換しておくと
かつては、念仏踊りは讃岐国内の13郡すべての郡が踊りを滝宮に奉納に来ていた。
高松藩の松平頼重が初代藩主として水戸からやってきて「中断」していた念仏踊りを「西四郡」のみで再興させ、その通知高札を7月23日に掲げた
松平頼重が踊り込みを認めた「西4郡」の踊組とは、以下の通りです。
①綾郡北条組(坂出周辺)
②綾郡南條組(綾川町滝宮周辺)
③鵜足郡坂本組(丸亀市飯山町)
④那珂郡七箇村(まんのう町 + 琴平町)
ここには、多度郡の南鴨組の名前はありません。
南鴨組の名前が消えるまでの経緯を、私は次のように想像しています

 寛永19(1642年)5月28日、高松藩初代藩主として松平頼重が海路で高松城に入り、藩内巡見などを行って統治構想を練っていく。このような中で、滝宮(牛頭天王)社の念仏踊り奉納のことが耳に入る。頼重が、気になったのが他藩の踊組があることだった。那珂郡七箇村組(構成は高松藩・天領・丸亀藩)は、大半が高松藩に属すから許すとしても、南鴨組は丸亀藩の踊組だ。これを高松藩内の滝宮神社への奉納を許すかどうかだ。丸亀藩の立場からすれば、自藩の多度郡の村々が他藩の神社に奉納するのを好ましくは思わないだろう。隣藩とのもめ事の芽は、事前に摘んでおきたい。南鴨組からの踊り込みについては、丁重に断れと別当・龍燈院住職に指示することにしよう。

こうして、中世以来続いてきた南鴨組の滝宮牛頭天王への念仏踊りの奉納は、以後は取りやめとなった。以上が私の考えるストーリーです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献  多度津町誌史料編140P 南鴨山寺家文書(念仏踊り文書)
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南鴨念仏踊
南鴨念仏踊組は、かつては滝宮への踊り込みをおこなっていたと伝えられています。しかし、近世の高松藩の関係文書を見ると、南鴨組の念仏踊りが奉納された記録はありません。また南鴨組は、どのくらいの村々によって構成されていたのでしょうか。その辺りを、史料で見ていくことにします。テキストは、「多度津町誌史料編140P 南鴨山寺家文書(念仏踊り文書)」
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まず、元和2年の多度郡大庄屋の伊次郎兵衛の各庄屋への触書を見ていくことにします。
以上
一筆申入候 乃当年たきノ宮ねんふつ(滝宮念仏)あたりとしの由申候。唯今迄は草木能様に見申し候。ねんふつの儀弥入候て可然かと存候。いかヽ各々被存候哉。御かつてん候はヽ名付所にてんをかけ可給候返事次第吉日以寄相御座候様左右可申候 為其申触候 恐々謹言
           伊次郎兵衛
六月十一日               正盛(花押)
元和弐とし(異筆:1612年)
  意訳変換しておくと
 一筆申入れる。今年は鴨組が滝宮念仏(踊り)奉納の当番年となっている。念仏の踊り込みについて、どう考えているのか、各々の意見をお聞きし、その上で返事したいと思う。ついては、吉日に集まって協議したいと思うので、その触書きを回覧する。 恐々謹言
            伊次郎兵衛
六月十一日                正盛(花押)
元和弐とし(異筆:1612年)
触状の回覧先は次の通りです。
元和2年の次郎兵衛の各庄屋への触書

回覧状が廻された村々の庄屋の一覧になります。これが滝宮念仏踊の鴨組の構成村であったが分かります。その村々を見てみると、北鴨と南鴨だけではありません。白方を除く多度津のほぼ全域と、善通寺から多度郡の最南端の大さ(大麻)までを含んでいます。

多度郡の村々
多度郡の村々(讃岐国絵図)

ここからは次のようなことが分かります。
①元和2(1612)年の生駒藩の時代には、鴨組も滝宮牛頭天王(現滝宮神社)への念仏踊りの奉納を行っていたこと。
②踊り込みには当番組があって、何年かに一度順番が回ってくること
③念仏踊り鴨組は、現在の「多度津町 + 善通寺市」の広範な村々で構成されていたこと。
私はこの史料を見るまでは、鴨組の念仏踊りが滝宮に奉納されていたことについては、確証が持てませんでした。しかし、この史料からは生駒藩時代には、鴨組は踊り込みを行っていたことが分かります。同時に、中世の多度郡の中心的な郷社は賀茂神社であったこと。その賀茂神社に、多度郡の有力者が宮座を編成し、念仏踊りを奉納していたことがうかがえます。これは以前にお話した鵜足郡の坂本念仏踊り、那珂郡南部の七箇村念仏踊りと同じです。つまり、中世に起源を持つ風流踊りということになります。

讃岐の郷名
讃岐の古代の郡と郷

 滝宮念仏踊りには、以前にお話ししました。
①滝宮牛頭天王の夏祭りの旧暦7月25日に奉納された踊り念仏であること
②それを差配していたのは、別当寺の龍燈院の社僧であったこと。
③龍燈院は、牛頭天王のお札(蘇民将来子孫・苗代・田んぼの水口)を、社僧達が配布し財政基盤としていたこと
④滝宮牛頭天王へ踊りを奉納する各組は、その信者であったこと
もう一度、回覧状の内容を見てみます。
これを見ると従来通りの奉納するというのでなく、どうするかを協議するために事前に集まろうという内容です。ここからは、従来通りの踊り奉納について、異論がでていることがうかがえます。それの原因については、ここからは分かりません。
 次に10年後の元和8(1622)年の入谷外記文書を見ていくことにします。
以上
来二十五日滝之宮へ両鴨村より念仏入候に付郡中としてけいこ(稽古)彼是肝煎肝要に候。為其に申遣候也
(入谷)外記 
七月五日         盛正(花押)
多度郡政所中江
意訳変換しておくと
以上
来月の7月25日は滝宮へ両鴨村が念仏踊りを奉納することになっている。(多度)郡中として稽古をすることが肝煎肝要である。そのことを申伝える。

書状の主は「外記」とあります。外記は、生駒藩要職にあって那珂(仲)郡と多度郡の管理権を握っていた入谷外記のことのようです。興泉寺(琴平町)は、当時の那珂郡榎井村の政所を勤めていたとされ、寛永年間(1624~44)の政所文書を伝えます。その中に、寛永6(1629)年滝宮念仏踊で、七箇村組と坂本組との間に起こった先番・後番の争いを扱って和解させた「入谷外記書状」があるようです。どちらにしても入谷外記は、生駒藩の中枢部にいた人物です。その彼が多度津の政所の中江氏に対して「滝宮念仏踊りについて、しっかり準備・練習して奉納せよと」と書状を送っています。ここからは、生駒藩が念仏踊りの奉納に対して、強く肩入れしていたことがうかがえます。別の見方をすると、入谷外記と龍燈院の住職が懇意であったのかもしれません。
 もうひとつ穿った見方をすると、先ほど見たように元和2(1612)年には、滝宮への踊奉納について、不協和音が組内で出ていた気配がありました。それを見越して、入谷外記が龍燈院の住職の依頼を受けて「しっかり準備・練習して奉納せよと」という文書を差し出したのかも知れません。
 入谷外記の達しを受け手の庄屋たちの動きが分かるのが「小山喜介文書(元和8年)です。
尚々御請所御蔵入共に早々十二日に南鴨へ御より候て御談合可有候。くわしくは後々以面可申入候
以上
南鴨念仏之儀に付而けき殿より御状廻申候 左様候へは来十二日に南鴨へ御より候て万事御談合可被成候、外記殿もはじめての儀候間一入念を入候へと被仰侯間其心得尤に候
此廻状名ノ下に皆々判被成候へく侯。 すなはちけき殿御めにかけ可申候  以上
       元八        小山 喜介 (花押)

意訳変換しておくと
今回の念仏踊り奉納について、7月12日に南鴨へ集まって協議したい。詳しくは、後日顔合わせしたときにお伝えする。 以上
南鴨組の念仏踊りについて、外記殿から御状廻が届いた。このことについて12日に南鴨へ集まったときに談合(協議)したい。外記殿も、はじめてのことなので入念に準備・稽古するようにと書き送ってきた。その心遣いはもっともなことだ。なお、この廻状名の下に皆々の判を(花押)を入れて欲しい。これも外記殿に御覧いただくつもりだ。
大庄屋の小山 喜介が触書を廻した一覧表は次の通りです。

小山 喜介が触書を廻した一覧表
「小山喜介文書(元和8年)の庄屋触状の回覧先一覧
多度郡 明治22年
多度郡の村々

   元和2(1612)年の構成メンバーと比べると、白方3村が加わっています。文中の「はじめてのことなので入念に準備・稽古せよ」という指示は、新加入の白方三村への指導を云っているのでしょうか。外記からの指示文書には「(多度)郡中として稽古をすることが肝煎肝要」ともありました。ここからは、それまでは白方三村なは、参加していなかったのが、この時点から参加するようになったこと。初めてのことなので「(多度)郡中として稽古せよ」ということになるのかもしれません。
7月12日の会合で決定した各村の「滝宮念仏道具割」を一覧化したものが下図です。
南鴨組滝宮念仏道具割
南鴨念仏踊り「滝宮念仏道具割」(元和8年)
ここからは次のようなことが分かります。
①鴨組と呼ばれていたが、ほぼ多度郡全域の村々で構成されていたこと。
②各村々に踊り役やその人数が割り当てられていたこと。
③宮座による運営だったこと
④費用は村高に応じて、米高割当が決められていたこと

  「南鴨組」という名称から多度津の南鴨の人達だけによって、編成されていたように思いがちですが、そうではないようです。以前にお話しした坂本組・七箇村組と同じく、かつての郷社に各村の名主達などの有力者が宮座を編成し、奉納されていたことが分かります。
滝宮念仏踊諸役人定入目割符指引帳
那珂郡七箇村組の踊り編成表

多度津町史には南鴨念仏踊りのもともとの奉納先は賀茂神社の摂社牛頭天王だったと記されています。滝宮神社も神仏分離以前は牛頭天王社でした。
牛頭天王と滝宮念仏踊りの関係をもう一度整理しておきます。
①滝宮(牛頭天王)社を管理していたのは、別当寺の龍燈院。
②龍燈院の社僧(山伏)たちは、お札(蘇民将来子孫・苗代・田んぼの水口)を周囲の村々で配布していた
③彼らは宗教者であると同時に、芸能保持者で祭りなどのプロデュースを手がけたこと。
④当時讃岐でも大流行していた時衆念仏踊りを祖先供養の盆踊りや祭りの風流踊りにアレンジして、取り入れたのも彼らであること
⑤念仏踊りを滝宮に奉納していた踊組エリアは、滝宮牛頭天王の信仰エリアであったこと
このような関係を多度津周辺に当てはめてみると次のようになります
①中世に復興された道隆寺は、海に開けた交易センターの機能を果たした。
②多くの廻国修行者の拠点となり「学問寺」の役割も果たした。
③高野聖などの真言系の聖が、時衆系阿弥陀信仰をもたらし周辺で民衆の供養を営むようになった
④観音院は、堀江集落の墓地に建立された観音堂に住み着いた聖の活動からスタートした。
⑤播磨の広峯神社は、牛頭天王信仰の中心地であったが、そこから讃岐に廻国修験者(御師)がやってきて、牛頭天王信仰を拡げる。
⑥賀茂神社の中にも牛頭天王の摂社が勧進され、そこに奉納するために念仏踊りがプロデュースされる。
⑦鴨念仏踊りは、丸亀平野の牛頭信仰の拠点である滝宮に奉納されるようになる
     今回はここまでとします。続きは次回に
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「多度津町誌史料編140P 南鴨山寺家文書(念仏踊り文書)」


滝宮神社・龍燈院
滝宮神社と龍燈院と滝宮天満宮(讃岐国名勝図会)

幕末の讃岐国名勝図会に描かれた滝宮神社と天満宮です。右上の表題には「滝宮 八坂神社(天皇社) 菅神社(天満宮) 龍燈院」とあります。絵図からは次のようなことが読み取れます。
①綾川沿に、天皇社があり、これが滝宮牛頭天皇(ごずてんのう)社(権現)であったこと。
②天皇社の前には、牛頭天皇の本地仏である薬師如来を安置する薬師堂や観音堂があったこと。
③隣接して別当寺の龍燈院があり、もっとも大きい建物であること。
④その向こうに滝宮天満宮がある。
⑤社人宅もあるが小規模である。
龍燈院・滝宮神社
龍燈院拡大図
以上から、滝宮神社は神仏分離以前には、天皇社(滝宮牛頭天王社)と呼ばれ、天満宮と供に別当の龍燈院の管理下に置かれていたこと、この3つはひとつの宗教施設として運営されていたことが分かります。しかし、明治の神仏分離で、龍燈院が廃寺となり姿を消しました。

滝宮龍燈院跡
龍燈跡跡
その跡地は、現在は分譲されて住宅地となって、ポツンと記念碑が立っているだけです。龍燈院の繁栄を伝える物は、観音堂に安置されていた十一面観音立像だけです。

滝宮龍燈院の十一面観音
龍燈院観音堂の十一面観音立像(像高180㎝)
この優美で美しい観音さまは、綾川町の管理下に移され生涯学習センター(図書館)で参観することができます。部屋の中央に、ガラスケースに安置されているので、どの方向からも観察できます。天衣、裳、 条帛 や天衣の折り返しなどをじっくりみることができます。
(註 現在は県立ミュージアムで補完されているようです。)
専門家の評を見ておくことにします。
一木造で内ぐりはなく、垂下する右手は手首まで、前に差し出して花瓶を持つ左手はひじまでを共木で彫り出す大変古様な像である。条帛や下肢には渦巻きの文が見られる。
しかし顔つきは優しく、またことさらに量感を強調したりしていないことから、平安時代も中期になっての像と思われる。
ほぼ直立し、顔は小さめ。手は長くあらわす。
目はあまり切れ長とせず、若干つり目がちとする。口も小さめ。顎はしっかりとつくる。
胸のラインやへそは陰刻で強調、また下肢の左右の衣のつれも強調するが、全体的には誇張を避け、上品で落ち着いた姿となっている。

以上を次のように整理しておきます。

①滝宮神社は神仏分離以前は、滝宮牛頭天王(権現)とよばれ、牛頭天王信仰の宗教施設であった。
②別当寺は龍燈寺で、その名の通り熊野信仰に由来をもつ寺院で、中世は修験者や聖達のあつまるお寺であった。
ここで疑問になるのが、龍燈院が、これだけの宗教施設が維持できたのはどうしてなのということです。その経済基盤は、どこにあったのでしょうか? それを伝えてくれる史料はありません。
そこで同じ牛頭天王を祀る播磨広峯(ひろみね)神社の経済基盤を、今回は見ていくことにします。

姫路日和 その1 | オマコレ OmaColle | 素晴らしき御守りの世界

 広峯神社は、姫路市の広峰山山頂にある神社です。今は、素戔嗚尊(スサノヲノミコト)を主祭神としますが、明治の神仏分離以前には素戔嗚尊と同体とされる牛頭天王を祀って、広峯牛頭天王と呼ばれていました。
 京都の祇園社(現在の八坂神社)との関係も深く、鎌倉時代には広峯社を祇園社の本社とする説も流布したことがあるようです。南北朝期には祇園社が広峯社の領家となったため、両社の間で確執が生じますが、朝廷・幕府の働きかけにより室町期以降は祇園社の支配下に置かれていきます。
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 神仏分離以前の本殿内には、牛頭天王の本地仏をされる薬師如来が祀られていたようです。その管理運営を行っていたのは、別当寺の増福寺(広嶺山増福寺)です。この山の宗教施設は別当寺の社僧の管理下に置かれていました。ちなみに、この寺は、江戸時代は徳川将軍家の菩提寺である寛永寺の末寺として、大きな権勢を持っていたようです。
  社家(御師=修験者)の社務は、播磨、但馬、淡路、摂津、丹波、丹後、若狭、備前、備中、備後、美作、因幡 、伯耆)などにある村単位の信徒(檀那)へのお札配りでした。

祇園信仰 - Wikiwand
牛頭天皇=スサノウ

御師は自分の檀那村をまわって次の三種類の神札を配布しす。
居宅内の神棚に祀るもの
苗代に立てるもの
田の水口に立てるもの
その対価として御初穂料を得て収入としていました。

蘇民将来子孫家門の木札マグネット
蘇民将来のお札(牛頭天王=素戔嗚尊)
サイケなど農耕儀礼(県内各地)-21世紀へ残したい香川 | 四国新聞社
苗代に立てるお札
亀山市史民俗 民間信仰
水口に立てるお札
江戸時代には、社領はわずか72石でだった広峯神社が繁栄できたのは、お札を配布できる信徒集団を抱えていたからです。
    「御師」というのは寺社に属して、参詣者をその社寺に誘導し、祈祷・宿泊などの世話をする者のことです。
伊勢御師1
    檀那宅をお札や土産を持って訪れる伊勢御師(江戸時代)

御師がいた神社としては、熊野社、伊勢神宮、石清水八幡宮、賀茂社、日吉社が知られています。御師は各地の信者を「檀那(だんな)」として組織し、お札を配布したり社参を代行(代参)を行うほかに、檀那が参詣にやってきた時には、宿坊を提供したりしました。ひとりで各地の檀那を廻ることはできないので、伊勢御師と同じように廻国性のある修験者を手代として「雇用」していたようです。こうして広峯牛頭天王社の周りには、数多くの修験者や聖が集まってくるようになります。
広峯牛頭天王社の御師を見ておきましょう。
 鎌倉~南北朝期の広峯社には、広峯氏を筆頭に肥塚(こいづか)・林・芝・粟野など約30家の社家(御師)がいました。彼らは各地を回り、信者を集めて檀那を組織していきます。広峯社の檀那は、播磨・但馬・丹後・備前・備中・備後・美作・因幡・摂津・丹波といった中国地方東部から近畿地方にかけてが広峯社の信仰圏であったことを押さえておきます。
 広峯御師の1つである肥塚家には、因幡の檀那所在地についての史料が数点残されています。
廣峰神社の檀那の
廣峰社の因幡の檀那所在地
 この表は「肥塚文書」の檀那所在地を一覧表にしたものです。これをみると、肥塚家の場合は高草・邑美・八上・八東・智頭の各郡内に檀那がいたことが分かります。ひとりの御師の活動が広いエリアに及んでいたことがわかります。

広峯御師の檀那地図
        廣峰社の檀那所在地分布図
檀那所在地を地図に落としたものが上図です。ここからは次の所に檀那が多く一円化していたことが分かります。
①播磨と因幡中心部を結ぶルート上に位置する若桜
②美作との国境付近に位置する智頭
③高草郡の有富(ありどめ)川流域(鳥取市)
この表に出てくる「わかさいちは(=若狭の市場)」で、若狭には市場があったことがうかがえます。御師と地域経済と関わりが垣間見えます。
研究者が注目するのは鳥取市の有富川流域についてです。このエリアには特定の檀那名ではなく、多くが「一円」と記されています。このエリアでは村単位で多数の信者を集めていたことがうかがえます。
 これと同じように、滝宮牛頭天皇社の御師達も中讃の各郷に檀那を持ち、一円化したのではないかと私は考えています。

 ちなみに江戸時代中期編纂の『因幡志』には、有富川流域の神社の多くが牛頭天王を祀っていることが分かるようです。ここからは中世以来の広峯信仰が続いていたことが裏付けられます。
 広峯から御師がやってくると、檀那の村では宿泊施設や伝馬を提供しています。
では、どのような人々が御師に宿を提供していたのでしょうか。「肥塚文書」によれば、宿の提供者として「河田殿」「八郎衛門殿」「中助左衛門殿」「岡村殿」「岡殿」など「殿」のつく人たちが多くみられます。『智頭町史』は、彼らについて「地侍クラスの人物」と述べています。また、若桜については、次のように記されています。
「おふね(小船)村なぬしやと」
「おちおり(落折)村一ゑん やとはなぬし十郎ゑもん」
ここからは「なぬし(名主)」が宿を提供していたことがわかります。名主は、祭礼の際の宮座の構成メンバーです。彼らの相談を受けながら、村の祭礼に御師が関わり、風流踊りや念仏踊りを伝えたことも考えられます。
 ここでは、御師の宿はその地域のいわば指導者クラスの人たちが提供し、彼らと御師は親密な関係を維持していたとしておきます。

 御師の肥塚氏は、それらの国々の檀那村付帳を残しています。
そこには各荘郷やその中の村々の名称だけでなく、住人の名前、居住地、さらに詳しい場合には彼らが殿原衆であるか中間衆であるかといった情報まで記されています。
 例えば天文14年(1545)の美作・備中の檀那村付帳の美作西部の古呂々尾郷・井原郷の部分を見ると、現在の小字集落に当たる村が丹念に調べられて記録に残されています。ここからは広峯の御師たちは、村や村内の身分秩序をしっかりと掴んで記録していたことが分かります。広峯社の御師たちは各地に檀那を組織し、広範に活動を展開していたようです。
 御師たちは村々を回り布教活動に努めました。彼らは神札や文物とともに瀬戸内や畿内方面のさまざまな情報を各地にもたらしたものと思われます。地方の人々にとっては貴重な情報源であったに違いありません。これが、村々の寺社を結びつけて行くエネルギーになっていくと研究者は考えています。 以上を要約しておきます。
①中世の広峯神社は、牛頭天王とその本地仏薬師如来が祀られる神仏混淆下の宗教施設であった。
②牛頭天王社の社殿を管理する別当寺の増福寺(広嶺山増福寺)で、その社僧の管理下に置かれていた。
③社僧達は御師として、自分の檀那村をまわって神札を配布し、御初穂料を得て収入としていた。
④村の檀那は、宿泊施設や伝馬を提供し、お札と供に地域の情報を手に入れた
⑤村々を歩く御師は、情報伝達者として村々を結び、宗教的なネットワークや交流を作りだしていった。
⑥その中には風流踊り等の芸能なども、伝えたことが考えられる。
東京・埼玉へ: Neko_Jarashiのブログ
少々乱暴ですが、これを、讃岐の滝宮牛頭天皇と龍燈院に落とし込んでみます。
①龍燈寺傘下の修験者や聖も手代として、中讃の各村々をめぐり檀那にお札を配布し、奉納品を集めた。
②同時に彼らは、いろいろな情報や芸能を各村々に伝える媒介者となった。
③各村々に風流踊りや念仏踊りを伝えたのも修験者や聖である。
④この踊りが各村々では、盆踊りとして踊られるようになった
⑤それが滝宮牛頭天皇の夏祭りに奉納されるようになった。
これを逆の視点から見ると、鵜足郡坂本郷・那珂郡真野郷・多度郡賀茂郷などは、かつての滝宮牛頭権現の信者が一円的にいたエリアだと私は考えています。
牛頭天王座像
牛頭天王坐像
別当寺龍燈院の住職が代々書き記した念仏踊りの記録『瀧宮念仏踊記録』の表紙裏には、次のように記されています。

「先代は当国十三郡より踊り来たり候処、近代は四郡而已に成り申し候」

意訳変換しておくと
中世(先代)には、踊りは讃岐の国内のすべての13郡から当社への踊りの奉納が行われていた。しかし、今は4郡だけになっている

ここからは、松平頼重が初代髙松藩主としてやってきて「中断」していた念仏踊りを慶安三(1650)年に西四郡のみで再興させたことが分かります。高松藩領西部の阿野郡の南と北、那珂郡、多度郡の4郡ということになります。それが具体的には、次の4組です。
①阿野郡北條
②阿野郡南条
③鵜足郡の坂本組(坂本郷周辺:丸亀市)
④那珂郡の七箇組(真野郷・吉野郷・小松郷:まんのう町+琴平町)
  この4つの踊組エリアが、滝宮牛頭権現の信仰圏だと私は考えています。
ちなみに、松平頼重は踊りの復興の際に、幕府の監視を考慮して「雨乞い祈願のための踊り」と正当化するフレーズを付け加えます。こうして、もともとは盆踊りで踊られる風流踊りが、雨乞いに結びつけられ、「菅原道真の雨乞い成就に感謝」する踊りと称されプロデュースされるようになります。注意しておきたいのは、ここでも、まだこの踊りが雨乞い踊りのために踊られるおどりではなかったことです。
この時点では、「雨乞い成就感謝のため」でした。中世には「雨乞いは空海など修行で験を超人のみがおこなえることで、普通の人が行っても神はお聞きにはならない」というのが庶民の考えでした。それが変化するようになるのは、近世後半になってからのことです。

滝宮念仏踊りの変遷

 「讃岐の国内のすべての13郡から当社への踊りの奉納が行われていた」ということについて考えて見ます。
 大きな勢力を寺社が競合するところでは、神札の配布はできません。そればかりでなく周辺の寺社は取り込まれ、つぶされていくこともあります。讃岐において中世に強勢を誇った修験者を数多く擁した山伏寺を思いつくままに挙げて見ると次の通りです。
①東讃の水主神社・与田寺
②志度の志度寺
③五色台の白峰寺
④多度郡の善通寺
⑤三野郡の弥谷寺
⑥三野郡の本山寺(牛頭権現信仰の宗教施設)
 これらの寺社が競合するエリアで、滝宮牛頭権現社がお札を配り、新たに信者を獲得するのは至難の業であったはずです。このため滝宮牛頭権現が讃岐全体に信仰エリアを拡げていたとは、私には思えません。その信仰圏は、先ほど見た踊り奉納されていた周辺の郷に限られていたと私は考えています。

阿野郡の郷
坂本念仏踊りの檀那分布想定エリア

 ここでは、滝宮牛頭権現社は高松から西の4郡の一部の郷に信者を確保し、そこから踊りが奉納されていたとしておきます。

補足(2024年4月19日)
 今日手元に届いた「まんのう町文化財協会報第18号 令和5年度版」に、香川県教育委員会文化行政課の佐々木涼成氏が「香川県の念仏踊とまんのう町」を寄稿しています。そこには、滝宮神社(牛頭天王社)と別当寺の龍燈院の布教戦略が次のように記されています。
滝宮神社へは島を除く讃岐国十一郡からの奉納があったと伝えられているが、なぜこれほど広範囲の信仰圏を持っていたのだろうか。
寛政年間成立の『讃岐廻遊記』では、念仏踊の成立過程を以下のように書いている。
空海が、千疋の子を産む牛を清水で清めて落命させた。天皇にその話をすると、その場所に滝宮三社(滝宮神社)の違二を命じら  より数多念仏踊」となる。さらに牛の絵が描かれた御守が国中家々に配布された、というものである。伝説の入り混じるこの記述を全て信用することは出来ないが、ここからは、滝宮天王社建立→参詣者の増加と「名主」による組織化→念仏踊の発生 → 御守配布による信仰の更なる普及という過程の中で信仰圏を拡大してきたことが読み取れる。確かに東かがわ市歴史民俗資料館には、庄屋の家から見つかった大量の滝宮牛頭天王社の絵札が収蔵されており(図三)、牛頭天王社からの絵札を社僧や山伏等の宗教者が庄屋へ渡し、各家へ配布していた経路を想定できよう。

滝宮神社(旧牛頭天王社)の絵札

滝宮牛頭天王社の絵札
滝宮神社(旧牛頭天王社)の布教戦略

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献     因幡における広峯御師の活動 鳥取県史たより 第56回
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 まんのう町岸の上 寺山
岸上村(まんのう町 金倉川流域)
19世紀中頃の江戸時代後半に那珂郡岸上村(まんのう町)の庄屋だった奈良亮助は、几帳面な性格でいくつもの文書を残しています。 奈良亮助は、伯父の奈良松荘のもとで和漢の学を学んでします。伯父奈良松荘(1786ー1862)は、国学者で詩文を備後の菅茶山に学び、頼山陽と並び称せられと云います。郷里に帰り、金刀比羅の日柳燕石や三井雪航などに感化を与え、晩年は岸上村の奈良家に寄寓していました。その時に、奈良亮助はその教えを受けたようです。残された文書の中に「滝宮念仏踊行事取遺留」と題されたものがあります。
一番上には、「念仏踊の事」という記録が綴り込まれていて、次のような内容が記されています。
①滝宮念仏踊が法然上人によって、念仏布教の方法として採り上げられて発達したこと
②享保年中の滝宮での御神酒樽受取の前後争いに端を発して、念仏踊が中止になったこと
③元文四年六月晦日に雹が降って農作物が大被害を受けたこと
④この被害は滝宮への念仏踊りを行っていないことへの天罰との噂が拡がったこと
⑤そこで、寛保二壬戌年から七か村念仏踊が復活したこと
以上が、簡潔な筆致で記されています。
 この記録に続いて、文政九(1826)年から安政6(1859)年までの約30年間に、13回実施された七箇村組念仏踊のことが岸上村の庄屋記録に綴りこまれています。今回は、奈良亮助の残した文書を見ていくことにします。テキストは「大林英雄 滝宮念仏踊り七箇村組について ことひら1988年」です。
 
龍燈院・滝宮神社
滝宮牛頭権現(滝宮神社)と別当寺の龍燈院

前回にお話ししたように、初代高松藩主松平頼重が復活させた滝宮念仏踊りに、参加したのは4郡の4つの踊組でした。踊組の間には異常なほどの対抗心があって、いろいろな事件や騒動を起こしています。
 例えば、正保二(1645)年の時には、演じる場所・順番をめぐって、七箇村組の岸上村の久保の宮・神職が長刀で、北条組の小踊二人を切り殺すという事件があったことは前回お話ししました。このため北条組は、その後は48人の抜刀隊を編成して警固するようにしたとも伝えられます。また、七箇村組とは踊る年を変えて鉢合わせしないようにもしています。踊りはこのようなぴりぴりとした緊張感の中で奉納されていたようです。
滝宮念仏踊り
滝宮念仏踊り
 念仏踊りが復活した当初は、七箇村組は二組編成だったようです
1790年(寛政二)年の編成表を見ると、
①主役を勤める下知 真野村と佐文村からそれぞれ各一人、
②6人1組で子供が踊役を勤める小踊 西七箇村から一人、吉野上下村から三人、小松庄四ヶ村から二人の計六人、それと、佐文村単独で六人
③笛吹が岸上村と佐文村から一人宛、
④太鼓打が西七箇村と佐文村から一人宛、
⑤鼓打が小松庄四ヶ村と佐文村から二人宛、
⑥長刀振が真野村と佐文村から一人宛、
⑦棒振も吉野上下村と佐文村から一人宛、
⑧棒突は西七箇村四人、岸上村三人、小松庄四ヶ村三人の計10人に対して、佐文村は単独で10人
ここからは次のようなことが分かります。
A七箇村組には、次の東組と西組の二組があったこと。
東組 真野・吉野郷(高松藩領) 郷社 真野の諏訪大明神(諏訪神社)
西組 小松郷と西七箇村(池御領と丸亀藩)    郷社 五条村 大井八幡社
B 東組は高松藩の村々、西組は池御領(天領)と丸亀藩の村々から編成され、藩を超えた編成になっていたこと
C その中で、西組は佐文中心に編成されていたこと。ちなみに佐文は、ユネスコ登録になった綾子踊りの里でもあります。
七箇村組の編成からは、もともとはこの踊りが中世の郷社に奉納されていた風流踊りだったことがうかがえます。

まんのう町の郷
滝宮念仏踊り 那珂郡七箇村組(真野・吉野・小松郷)
那珂郡七箇村組をめぐる事件や問題を年表化しておきます。
享保年間(1716~36)龍灯院から七箇村組に贈られる御神酒樽の受取順番をめぐって、東西費が領組が騒動
1736(元文元)年 念仏踊は中止され、七箇村組は解体状態へ。
1739(元文四)年 6月の雹(ひょう)という異常気象で農作物被害甚大。念仏踊り中止のせいだとの声が拡がる
1742(寛保二)年 龍灯院の住職快巌の斡旋で、滝宮念仏踊への参加復活
1790(寛政二)年 東西二組の編成で、奉納が続く。
1808(文化五)年 「下知一人」となり東西2組編成から一組編成へ縮小
次に年表内容を、詳しく見ていくことにします。
享保年間(1716~36)の争いの原因は、滝宮牛頭天皇社(現滝宮神社)への踊奉納の時に、別当寺の龍灯院から七箇村組に贈られる御神酒樽の受取順番です。踊りが終わった後に、どちらが先に御神酒樽を受け取るかをめぐる争いです。当時は樽はひとつしか準備されていなかったようです。おやつをもらう順番をめぐる子供の喧嘩のようにも思えます。しかし、背後には、高松藩・丸亀藩・池御料(天領)の三者の対立感情があります。天領の踊り手や役員達はプライドが高く、何かと周辺の住人達を見下すことがあったようです。東組には、高松藩(親藩)の住人ということで、外様の丸亀藩の西組の踊り手たちを見下します。こういう意識構造が、このようなハレの舞台で吹き出します。この結果、元文元年(1736)年以後は、七箇村組の踊りは中止に追い込まれてしまいます。
 3年後の1739(元文四)年の6月晦日に、季節外れの雹(ひょう)が降って東西七箇村・真野村・岸上村は稲・棉などの農作物が大被害を蒙ります。
「これは滝宮念仏踊を中止したための神罰である」という声が起こって念仏踊復活の気運が高まります。そして、滝宮牛頭権現(滝宮神社)の別当寺龍灯院の住職快巌の斡旋で、1742(寛保二)年から滝宮念仏踊への参加が復活します。龍灯院は対応策として、踊奉納を終えた七箇村東西組に対して、御神酒樽を二個用意してそれぞれの組に贈り、紛争の再発を避けていています。事件事故に学んで、新たな対応策が出されています。しかし、二組の編成は対立感情による紛争の起こる危険を常に含んでいました。復活後は、東西二組編成で1790(寛政二)年まで続いたことが史料から確認できます。

まんのう・琴平町エリア 讃岐国絵図
念仏踊七箇村組の村々

 ところが1808(文化五)年には、1組で出演していることが史資料から分かります。この年の7月24日書かれた真野村・庄屋安藤伊左衛門の「滝宮念仏踊行事取扱留」滝宮大明神(神社)の別当寺龍燈院宛の報告には、この年の七箇村組の行列は、次のように記されています。
「下知一人、笛吹一人、太鼓打一人、小踊六人、長刀振一人、棒振一人」

「下知一人、笛吹一人」ということは、一編成になったことを示すものです。「取遣留」の1808年7月25日の記事にも、龍灯院からの御神酒樽については、龍灯院の使者が、「御神酒樽壱つを踊り場東西の役人(村役人)の真中へ東向きに出し……」、口上を述べ終わると、御神酒樽は踊り場である神社から龍灯院が預かって直ちに持ち帰っています。そして、牛頭天皇社での踊りが終わってから、踊組一同を龍燈院の書院に招待して御神酒を振る舞っています。ここでも酒樽は1つしか準備されていません。1808年の時点で、七箇村組は一編成の踊組として、龍灯院から待遇されるようになっています。
   ここからは1790(寛政二)年から1808(文化五)年までの間に、七箇村組のなかで大きな問題が起こったことがうかがえます。また、一番踊り手構成メンバーが削減されているのが佐文村です。佐文は西組の中心だったことは、先ほど見たとおりです。それが棒付10名に減らされているのです。七箇村組が二編成から一編成に縮小された背景には、佐文をめぐる問題があったことがうかがえます。19世紀初頭には、それまで東西2組で運営されていた七箇村組は一組となってしまったようです。
以上を整理しておきます。
①中世に小松・真野・吉野郷では、風流踊りが郷社に奉納されていた
②それは地域の村々の有力者による宮座で組織されていたが、戦国時代に中断していた
③それを初代高松藩主松平頼重が地域興しイヴェントとして復活した
④その時に参加したのは、4つの郡の郷社に奉納されいた風流踊りであった
⑤4つの踊組は対抗心が強く、いろいろな事件や騒動を引き起こした
⑥那珂郡七箇村組も、当初は東西2組編成であったが、18世紀初頭には、1組に「縮小」している。これも内部での騒動か事件があったことが考えられる。
こうして、19世紀になると軌道に乗り、3年毎に安定して踊り奉納は行われるようになった。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
        「大林英雄 滝宮念仏踊り七箇村組について  ことひら1988年」
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滝宮念仏踊り1

滝宮念仏踊り(滝宮神社)
讃岐の飯山町の旧東坂本村の喜田家には滝宮念仏踊りに関する資料が残っています。一冊の長帳に「口上書壱通」とあり
此の度 瀧宮念仏踊の由来委細申し出で候様 御尋ね仰せ出され候二付き 申し上げ奉る口上
意訳変換しておくと
この度 瀧宮念仏踊の由来について詳しく報告することという指示を受けましたので別紙の通り報告いたします。

語尾の「申し上げ奉る」という表現から、この文書の書かれた背景が分かります。つまり高松藩が念仏踊りの由来についての東坂本村に問い合わせした、そのことへの回答という形になっています。つまり、これは高松藩への回答書の写しで、公式文書だったようです。そして次のような由来が述べられています。
光孝天皇の代の仁和二年(886)正月十六日菅原道真が讃岐守になって讃岐に赴任した。翌三年讃岐の国中が大干害となった。田畑の耕作は勿論草木も枯れ、人民牛馬がたくさん死んだ。この時、道真公は城山に七日七夜断食して祈願したところ七月二十五日から二十七日まで三日雨が降った。国中の百姓はこれを喜んで滝宮の牛頭天王神前(滝宮神社)で悦び踊った。是を瀧宮踊りと言っている。
この史料からは次のようなことが分かります。
①菅原道真が祈雨祈祷を城山で行って成就した。
②降雨成就のお礼に国中の百姓が集まってきて滝宮の牛頭天皇社で踊った。
③これが滝宮踊りの始まりである。
ここで注意しておきたいのは、雨乞いのために踊られているのではないことです。菅原道真の降雨成就を祝って踊られています。もうひとつは、各郡からの踊組が地元で踊っていた風流踊りを奉納していることです。ここでは滝宮念仏踊りが雨乞いのために踊られているのではないことを押さえておきます。道真が雨を降らせたことに対する感謝のために踊ったという趣旨になります。ここでは、この時点では「瀧宮踊り」は「雨乞成就の感謝踊り」で、あって雨乞い踊りではなかったことを押さえておきます。

滝宮神社・龍燈院
滝宮牛頭天皇社(滝宮神社 讃岐国名勝図会)

今は滝宮というと、天満宮の方を思い浮かべてしまいます。

しかし、天満宮が現在のように整備されるのは、近世になってからです。滝宮の中心は明治以前には、滝宮牛頭天皇社(滝宮神社)でした。 祭神は須佐之男命で医薬の神とされ、また牛馬の守護神として農民や馬借などの信仰を集めていました。その別当寺が龍燈院です。上の讃岐国名勝図会には、天満宮と滝宮神社の間に大きな境内を持った寺院として描かれています。龍燈院の社僧達が、両者を管理運営していました。神仏混淆下では、当たり前のことで金毘羅大権現と金光院の関係のようなものです。同時に、周辺には別院や子院が点在して、そこには念仏聖や山伏たちが住み着いて、滝宮牛頭天皇社(滝宮神社)のお札を周辺の村々に配布していました。中世のこの滝宮牛頭天皇社の信仰範囲の郷から、各郷の郷社で踊られていた盆踊りや風流踊りが、滝宮牛頭天皇社(滝宮神社)の7月の夏祭りに奉納されていたと私は考えています。そのような形を作ったのは、中世の聖や修験者たちだったと研究者は考えています。

滝宮龍燈院の十一面観音
龍燈院の十一面観音像(綾川町蔵)
 これだけの規模の寺院を、龍燈院はどのようにして維持していたのでしょうか? それを解く鍵は、蘇民将来のお札にあるようです。

蘇民将来
蘇民将来のお札
蘇民将来伝説に基づいて、わが家にはこのお札が今も神社から配布されてきます。神仏分離以前に中讃地区で、このお札を配布していたのが滝宮牛頭神社だったようです。そして、実際に配布を行っていたのが龍燈院の修験者(聖)たちでした。龍燈院も中世には、周辺に多くの修験者や廻国行者達を抱え込んでいたようです。その修験者や聖たちが、お札の配布で周辺の村々に出向きます。同時に、その時に各郷社に奉納されていた風流念仏踊りの滝宮への奉納を勧めたと私は考えています。次のような勧誘を修験者から受けたのではないでしょうか?

この郷でも盛大に風流踊りがおどられよるんやなあ。それを郷社だけに奉納するのはもったいないことや。滝宮牛頭権現さまにも奉納したらどうな。牛頭さまも歓んでくださるし、霊験もあらたかで疫病退散まちがいなしや。そのうえいろいろな郷から踊り込みが合って、大勢の人が見てくれるけんに、この郷の評判にもなるで。7月末の夏祭りが、踊込みの日になっとるけん、是非参加しまえ

こうして中世には、周辺の各郷から風流踊念仏踊りが滝宮に奉納されるようになります。奉納された踊りは、時衆の影響を受けた念仏踊りもあり、盆踊りや祭礼で踊られていた風流踊りです。

滝宮(牛頭)神社
現在の滝宮神社
龍燈院の住職が代々書き記した『瀧宮念仏踊記録』が天満宮に残っています。この表紙裏に、次のように記されています。
「先代は当国十三郡より踊り来たり候処、近代は四郡而已に成り申し候」
意訳変換しておくと 
中世には風流念仏踊りは讃岐のすべての13郡から踊り込みがあった。それが江戸時代には、参加するのは4郡までに減っている
 
讃岐の13郡のすべての郡から参加していたというのは、すぐには信じられません。しかし、中世には丸亀平野のいくつの郷社から踊り込みがあったことは事実のようです。それも戦国時代の戦乱で途絶えていたようです。

P1250408
滝宮念仏踊の各組の惣踊りの入庭

中断していた踊りを復活させたのが初代高松藩主の松平頼重です。
1650(慶安三)年7月20日の記録には、次のように記されています。
就中 慶安三年寅七月二十三日御重キ御高札も御立て遊ばされ候様承知奉り候
「押さえのための高札をお立てなされるように承知いたしました」とあります。分かりにくい所がありますので補足します。戦国期には、中断していた踊りを「中興」したとあります。これは松平頼重が水戸から高松へ入り、松平藩による藩政が整備される中で、中断していた滝宮念仏踊りを復活させたということのようです。その際に、当時の寺社は「天下泰平」「安寧秩序」などの祈願を求められていました。そこで「風流踊り」に「雨乞い祈願」という名目を+アルファして、地域興しのイヴェント行事を姿を変えた形で復活させたと私は考えています。
 当時の風流念仏踊りは、庶民が楽しみにする一大イヴェントで、夏の祭礼に併せて踊りは奉納されます。
4344101-61滝宮念仏踊り
          滝宮念仏踊り(北條組)

そのため滝宮には、大勢の人が集まって来ることが予想されます。大きな祭りやイヴェントを開く際には、予防措置を講じることを江戸幕府は各藩に命じいました。行事に掲げる高札の内容の見本まで示しています。そこで高松藩も、それを参考にして喧嘩などを禁ずる高札を掲げるように、龍燈院に命じたようです。その命に応じて建てられた高札のようです。

滝宮念仏踊り
滝宮念仏踊り(北條組拡大)

こうして、丸亀平野の4つの郡によって滝宮への踊り込みが復活します。
四郡は 阿野郡の南と北、那珂郡、多度郡の郷ということになります。最初は、いろいろな混乱があったようです。例えば、復活直後の正保二(1645)年には、踊りの順番を巡って次のような殺傷事件が起きています。
滝宮1916年香川県写真師組合
明治の滝宮付近の綾川
 前夜からの豪雨で、綾川は水嵩が増します。当時は綾川には橋がかかっていませんでした。そのため那珂郡南部の真野・吉野・子松郷で構成される七箇村組は、綾川を渡れずに、滝宮牛頭神社のすぐ手前の対岸で水が引くのを待っていました。ところが、定刻が来て七箇村組の後庭で踊ることになっていた阿野郡の北条念仏踊組が、境内に入場しようとします。この動きを川向こうから見ていた七箇村組の人たちはいきり立ちます。世話人の真野久保神社の神職浅倉権之守は、長刀を杖にして急流を渡り、入場していた北条組の小踊二人を切り殺してしまいます。小踊は、踊組の代表と考えられていたようです。踊る順番や場所について、命懸けで守ろうとしていた気迫が伝わってきます。

諏訪大明神滝宮念仏踊 那珂郡南組
滝宮念仏踊り(那珂郡七箇村組 場所はまんのう町諏訪神社)

  ちなみにこの事件はふたつの踊組に、深い対立感情を残すことになります。以後、北条組は48人の抜刀隊を編成して踊り手達を警固するようになります。踊り手達警固のために、棒持ちなどが配備されるようになった背景には、こんな事件があったようです。また、七箇村組と北條組は踊る年を変えて鉢合わせしないように踊奉納をする措置も取られています。踊る順番が固定するのは、『瀧宮念仏踊記録』に記されている享保三年(1718)からと研究者は考えています。

龍燈院・滝宮神社
     滝宮の滝宮牛頭権現社と別当寺龍燈院と天満宮
ちなみに龍王院は、明治維新の神仏分離政策を受けて住職がいなくなり、廃棄されました。実質的な受入側である龍燈寺がなくなったことで、4組による奉納は一時的に停止されたようです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
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本山寺 境内 仁王門より
本山寺境内 仁王門より
本山寺は、財田川と宮川の合流点付近の平地の中にあります。遍路道を観音寺からを歩いて行くと、明治に建てられた五重塔がシンボルタワーとして導いてくれます。この寺の歴史を見ておきたいとおもいます。テキストは「上野進 本山寺の歴史 本山寺調査報告書2016年 香川県教育委員会」です。

本山寺地図
本山寺周辺遺跡
まず本山寺の立地条件から見ていきましょう。
本山寺の南を流れる財田川は、まんのう町塩入の東山峠付近の阿讃山脈に源をもちます。山間部では蛇行を繰り返しながら、三豊市山本町で三豊平野に出て扇状地を形成します。三豊平野を流れる財田川周囲の地形にはグーグル地図を見てもかなりの乱れが見えるので、氾濫を繰り返す川であったことがうかがえます。本山寺は財田川右岸にあり、ちょうど高瀬町羽方宮奥に源を持つ財田川支流の宮川が合流する所になります。
本山寺 航空写真1974年
本山寺周辺 財田川と宮川の合流地点に立地
航空写真を見ると財田川北側に残る条里型地割が、財田川と宮川の氾濫によってかなり乱れています。その縁辺部に沿って江戸時代以降の旧伊予街道が抜けていていて、その街道に接するように本山寺があることが分かります。本山寺は氾濫原に接していますが、本山寺の史料に洪水の記事は出てこないので、この地が安定していた場所であったことがうかがえます。
  宮川の源流は、式内神社の大水上神社(讃岐二宮)です。
この流域からは銅鐸や銅剣が出ているので、早くから開けたエリアだったことが分かります。宮川流域の延命院の境内には、横穴石室を持った中型の古墳があります。しかし、その規模や数は母神山や大野原の古墳群に比べると見劣りします。ところがこのエリアの有力者は7世紀後半に突如として讃岐で最も早い古代寺院の建立を始めます。それが⑤妙音寺になります。これは、壬申乱後に成立した天武朝政権に取り入り、最新鋭の宗吉瓦窯群を誘致し、藤原京へ宮殿用瓦を瓦を提供した丸部氏の氏寺であると研究者は考えているようです。
 地方の古代寺院は、旧国造クラスの有力者の氏寺として作られたものがほとんどです。そのためパトロンである有力者が衰えると維持できなくなります。妙音寺も中世になると衰退したようです。そのような中で、妙音寺に代わって登場するのが本山寺になります。
 本山寺は、三豊市豊中町にある高野山真言宗の寺院で、七宝山持宝院と号します。もとは長福寺と称したようです。
江戸時代中期に書かれた『七宝山本山寺縁起』には、その由来を空海による「一夜建立之霊刹」で、草創の時期は大同2年(807)と記します。しかし、成立期の本山寺については同時代の史料がないのでよく分からないようです。ただ、地理的に次のような点は確認できます。
①古代から本山寺が財田川と宮川の合流点に位置していたこと
②古代の官道である南海道がすぐそばを通っていたこと
ここからは交通の要衝に、本山寺の前身寺院の長福寺があったことは考えられます。

本山寺 本堂用材
本山寺本堂に保存されている用材

 明治33年(1900)の「古建物調査書」によれば、本山寺本堂の用材は阿波国美馬郡の「西祖父谷」の深淵谷で、弘法大師が自ら伐り出したものであると記します。そういえば、善通寺建立の用材は、まんのう町春日の尾野瀬山から切り出されたと伝えられます。
 空海が自ら切り出したかどうかは別にしても、このようなことが伝えられる背景には、本山寺が財田川の上流域から阿波国へと後背地を広域に伸ばして、交流していたことをうかがわせるものです。このように本山寺は古くから交通・流通の拠点に位置し、財田川上流や阿波を後背地としていたことが、その後の発展に大きく寄与した研究者は考えています。

元寇後の地方寺社の建築ラッシュ
元寇後の地方有力寺社の建築一覧表
 
上の地方寺院の造営時期一覧表を見て分かることは、元寇後の13世紀末に諸国に寺社の修造ブームが巻き起っていることです。讃岐近隣の寺院を抜き出して見ると、次のようになります。
1289年 土佐の金剛福寺
1292年 安芸宮島の厳島神社
1293年 土佐の最御崎寺
1298年 善通寺 備後浄土寺
1300年 本山寺
1312年 伊予大三島の大山積神社

この背景には幕府が寺社保護を強化するという政策がありました。これが地方寺社の改築ラッシュにつながったようです。このときの寺院建造ムーヴメントについて、研究者は次の二点を指摘します。
①寺社建造が一宮などの国内の頂点的な寺社にとどまるのではなく、荘郷の鎮守にまで及ぶものだったこと
②建造運動が勧進聖や修験者たちの勧進活動によって進められたこと

②については、正応四年(1291)の紀伊国神野・真国・猿川庄公文職請文に次のように記されています。
「寄事於勧進、不可責取百姓用途事」

ここからは、修験者の勧進(募金活動)が公的に認められ、奨励されていたことがうかがえます。このような全国的な寺社修造と勧進盛行は、聖や修験者たちの動きを刺激し、村々を渡り歩く動きを活発化させます。そして、地域の寺社ネットワークが作られていったのではないかと研究者は推測します。その原動力が蒙古襲来後の寺社造営の運動にあったというのです。こういう動きの中で、善通寺や本山寺の本堂改築を見ていく必要があるようです。

それでは、鎌倉時代の本山寺の動向を見ておきましょう。
①暦仁2年(1239) 沙弥真仏が本堂修理。
②建長7年(1255)「沙門心導」「比丘尼宝阿」と「沙弥道安」が本堂修理
③正応4年(1291) 「金剛仏子心導」と「佐々木某」が本堂修理
ここからは、鎌倉時代以前に本堂にあたるものがすでにあり、13世紀に定期的に修理が行われていることが分かります。本山寺は平安時代末期には、存在していたようです。
研究者が注目するのは、登場人物の「沙弥」という肩書きです。
沙弥とは「正式の僧侶になる以前の人」ととされます。暦仁2年(1239)の「沙弥真仏」、建長7年(1255)の「沙弥道安」がどのような人物であるかは分かりません。しかし、彼らが僧侶と在家の中間にあって本山寺本堂の修理に関与していたことは分かります。また、暦仁2年の修理以外は、どれも正式な僧侶と沙弥(あるいは俗人)とがセットになって修理・再建の責任者となっています。ここからは、本山寺本堂は僧侶たちだけでなく、沙弥・俗人の支援を受けて修理・再建が行われていたことが分かります。これは早い時期から本山寺が、地域社会と連携し、その支援を受けれる体制が整えられていたことを示すものと研究者は考えています。

本山寺 本堂
本山寺本堂
そして、13世紀末の諸国寺社の修造ブームが本山寺にもやってきます。
本山寺の本堂は、従来は正応年間に丸亀藩の京極近江守氏信が寄進したものと伝えられてきました。ところが昭和28(1953)年2月の解体修理の際に、礎石から次のような墨書銘がみつかります。

「為二世恙地成就同観房 正安二年三月七日」

ここから、本堂が鎌倉時代後期の正安2年(1300年)の建築物であることが分かりました。そして修理が完了した昭和30年に国宝に指定されます。讃岐の寺社では「長宗我部元親焼き討ち全焼説」が由来として」伝わっていることが多いのですが、本山寺の本堂はそれ以前のもので焼き討ちを受けていないことを押さえておきます。
 また、「大工藤原国重や平友末」と大工名も記されています。
その後の研究で彼らは奈良南都の工匠で、奈良の霊山寺本堂や、西の京の薬師寺東院堂を手がけていることも分かってきました。奈良の名のある大工が讃岐にやってきて手がけた本堂になるようです。同じ時期に、奈良の大工たちが尾道の浄土寺などにもやってきて腕を振るっていた時代です。本山寺の本堂は尾道の浄土寺に40年近く先行することになります。
本山寺 本堂2
本山寺本堂廊下よりの伽藍 右が十王堂
なお、正安2年に本堂棟上を行ったのは「沙弥覚道」です。
「覚道」については、善通寺中興の祖として著名な宥範の師のようです。宥範の伝記『贈僧正宥範発心求法縁起』(応永9年(1402)撰集)に、その師として「談議所無量寿院僧正覚道上人道憲」が記されています。「覚道上人道憲」とあるので本山寺本堂に関わった「覚道」と同一人物である可能性を研究者は指摘します。
 またこの史料によれば、徳治元年(1306)に宥範が東国修行から帰国した際、讃岐国野原(現在の高松)の無量寿院隋願寺で、師「覚道上人道憲」と面会しています。ここからも「覚道上人道憲」は正安2年の「覚道」と同一人物であることが裏付けられます。
 この「覚道上人道憲」は顕日房道憲とも呼ばれたようです。
道憲は東大寺戒壇院中興の祖とされる実相房円照の弟子です。文永9年(1272)に授戒し、円照の授戒弟子として南都奈良で活動した後、出身地に帰って寺院建立や教化活動を行っていたことが知られています。とすれば、寺院建立に実績のある「覚道上人道憲」が、本山寺本堂の建立にあたっても助力したと考えることができます。本山寺の本堂や仁王門の建立を、南都奈良の大工たちが担当していました。それを実現させたのは奈良でも寺院建立活動を行っていた「覚道上人道憲」がいたから実現できたことと研究者は推測します。

本山寺 仁王門3

本堂に続いて正和二年(1313)からは仁王門が建立されます。
本山寺 二王
本山寺の二天像
そこに二天像が収められます。二天王像の中の墨書銘には、次のような職人たちの名前が記されています。
①「仏師、当国内大見下総法橋」
②「絵師、善通寺正覚法橋」
①の仏師・下総法橋は、「当国内大見」住人と記されています。大見は、弥谷寺の麓で三野湾に面する所で、三野郡下高瀬郷に属します。西遷御家人で日蓮宗本門寺を建立した秋山氏の拠点です。
②の絵師は、善通寺お抱えの絵師のようです。
ここからは、本堂や仁王門などの建築物については、奈良からやってきた宮大工たちが、そこに安置された二天像は地元讃岐の仏師や絵師たちによって造られたことが分かります。
P1120243本山寺 毘沙門天
本山寺の二天立像(毘沙門天)
本山寺の造立運動を進めたのは、どんな宗教者だったのでしょうか?
先ほど見たように、この時期の地方寺社造立ラッシュは「②地方末端にまで及ぶ寺社修造が勧進聖や修験者たちの勧進活動によって実現していた」と研究者は指摘していました。それを今度は見ていこうと思います。
中世の本山寺は、持宝院あるいは長福寺とよばれていたようです。 本山寺という現寺名は、地名によるもので古代の郷名「本山郷」に由来します。本山荘は鎌倉時代前期には九条家領でしたが、のちに石清水八幡宮領となります。研究者が指摘するのは岩清水八幡宮領の成立に際して、その分霊が勧請されていることです。

岡本鳩八幡社
鳩八幡神社
その一つが岡本にある鳩八幡神社になるようです。
   本山荘・本山新荘のエリアは、現在の豊中町本山・岡本、観音寺市本大町あたりが荘園領域とされます。岡本(鳩)八幡神社は、社記によると嘉禎年間(1235)に本山荘が山城国石清水八幡宮へ寄進せられ、その社領となります。そのため領家である石清水八幡宮の御分霊を勧請し荘内の総社として祀られたとされています。 荘園が立荘された場合には、荘園領主と同じ神社を勧進するのが一般的でした。
 15世紀の観音寺船籍の船には、山崎胡麻60石の積載記録が残されています。これは石清水八幡宮の荘園である本山荘・山本荘から財田川を通じて観音寺港に集積されたものと考えられます。石清水八幡宮の神人たちは、淀川の交通路を握り、そこから瀬戸内海に進出しました。讃岐には海浜部を中心に草木荘・牟礼荘・鴨部荘など石清水八幡宮の荘園をはじめ末社が多いのもそのためです。

長浜神社 ネットワーク

近江坂田郷の寺社関係 八幡神社を中心にネットワークが形成されていた例

 つまり、本山寺は本山荘の寺社ネットワークの核であったことになります。そして中世は、石清水八幡宮のネットワークの一端に組み込まれていたことがうかがえます。それを裏付けるように、近世においては、本山寺は岡本八幡の社僧を務めています。また、熊岡八幡神社の別当寺でもあったことは、先述したとおりです。本山寺は、こうした旧本山荘内にある神社の別当を務めることによって勢力を維持したと研究者は考えています。
熊岡八幡神社 | kagawa1000seeのブログ
熊岡八幡神社
浅香年木氏は「中世北陸の在地寺院と村堂」の中で、次のような事を指摘します。
①14世紀前後に、一宮・荘郷鎮守などの有力寺社が周辺の小規模な村堂を末寺化していく
②郷村の寺院同士が造営や大般若経写経などを「合力しあう連帯」して取り組むようになる
③その連帯関係は、祖先崇拝や地蔵信仰など、地域の上層農民の信仰を基盤に成立していた
 つまり、有力寺院による地域寺院の組織化(末寺化)と、新たな信仰対象物の形成が同時進行で行われていたというのです。讃岐でも室町期には、荘郷を超えて寺社の相互扶助的関係が形成されていきます。研究者が重視するのは、この寺社間のネットワークが上から権力的に編成されたものではなく、修験者たちによって下から結びつけられていったものだという点です。
以前に、多度津の道隆寺や大内の与田寺(水主神社)などを例に紹介しました。
道隆寺は、塩飽諸島から詫間・庄内半島までの寺社を末寺化していました。また与田寺の増吽は、「熊野信仰 + 弘法大師信仰 + 勧進活動 + 大般若経写経活動」などを通じて、瀬戸内海や阿波の数多くの寺とネットワークを結び、その中心にいました。本山寺の場合も、本山荘内外の寺社を結びつけ、ネットワーク化(末寺化)していたようです。それを進めたのが修験者や聖たちだったのです。

興隆寺五輪塔
興隆寺の五輪塔群
 そういう視点で本山荘を見ると、見過ごせないのが興隆寺跡です。
西讃府誌には、興隆寺は 本山寺の奥の院で本尊薬師如来が本尊であったと記されます。伽藍跡は、今は鬱蒼たる樹木や雑草の中に花崗岩製の手水鉢、宝篋印塔、庚申塔、弘法大師像や凝灰岩製の宝塔、五輪塔など石造物が点在しています。興隆寺跡にある石塔群は108基で、製作年代は鎌倉時代後期から室町時代末期の約200年の長期間にわたって継続的に造立されたものです。
  本山寺のご詠歌は
本山に誰か植ゑける花なれや 春こそ手折れ手向にぞなる

五来重氏は、このご詠歌はもともとは、奥の院興隆寺のものと考えています。「手向にぞなる」とは、亡くなった人の供養を示します。建ち並ぶ五輪塔も先祖供養のためと考えれば弥谷寺と同じような性格の寺であることになります。鎌倉から室町時代にかけて、大勢の人が死者供養のためにここに登って、五輪塔を造立したことがうかがえます。
興隆寺五輪塔
興隆寺五輪塔群
  一方、残された興隆寺の縁起や記録などから、石塔群は出家修行者の行供養で祈祷する石塔と考える研究者もいます。
一番下の壇に不動明王(座像)を中央にして、左右に五輪塔約30基が並んでいることもその説を裏付けます。どちらにしても、ここには修験者や聖などの行場であり、先祖供養の寺でもあったようです。
本山寺の奥の院であったという妙音寺・興隆寺の前後関係を確認しましょう
妙音寺  本堂本尊  12世紀の木造阿弥陀如来坐像
興隆寺  伝本尊  薬師如来 中世期に石塔群造立
本山寺  本 尊  馬頭観音 
     脇士   阿弥陀如来 + 薬師如来
   本山寺は四国の八十八か所では、唯一馬頭観音が本尊です。
本山寺」の馬頭観音 – 三題噺:馬・カメラ・Python
本山寺の本尊馬頭観音

馬頭観音の梵名のハヤグリーヴァは「馬の首」という意味のようです。
これはヒンズー教の最高神ヴィシュヌの異名でもあるので、敵対するヒンズー教の神を「天部の仏」として迎え入れたことがうかがえます。その役割は、衆生の無智・煩悩を排除し、諸悪を毀壊する菩薩です。そのため他の観音が女性的で穏やかな表情なのに、馬頭観音は目尻を吊り上げ、怒髪天を衝き、牙を剥き出した憤怒相です。私は、最初に馬頭観音を見たときに、「これが観音さま?」というのが正直な感想でした。密教では「馬頭明王」と呼ばれて、すべての観音の憤怒身ともされています。そのため憤怒相の守護尊として明王部に分類されることもあるようです。
仏像の種類:馬頭観音とは、ご利益・梵字、真言など】菩薩なのになぜ激怒?!道の石仏は昔の人々の馬への感謝の表れ|仏像リンク

 「馬頭」という名称から、民間信仰では馬の守護仏としても祀られる。そして、馬だけでなく牛や蚕などあらゆる畜生類を救う観音ともされるようになり近世には農民たちの広い信仰を受けるようになります。そして、道ばたにも馬頭観音の石仏が立てられるようになります。その造立目的は、次のようなものでした。
  ①牛馬の安全守護
  ②牛馬供養
 
造立の際に、勧進によって多数同信者の願いを結集すれば、その石仏の功徳はより大なものになると信じられます。そのために万人講を組織して、喜捨をあつめることが多かったようです。これを進めたのが修験者や聖たちでした。そのため馬頭観音やその権化・権頭天王を祀る寺社は、彼らの拠点となり周辺に多くの修験者が生活していたようです。ここでは、中世の本山寺(長法寺)が馬頭観音を本尊とする修験者たちの拠点寺院化していたことを押さえておきます。



本尊の馬頭観音に対して、脇侍は阿弥陀如来と薬師如来です。
阿弥陀如来は妙音寺、薬師如来は興隆寺の本尊です。つまり、ふたつの奥の院の本尊であった仏を、本山寺の馬頭観音が率いているということになります。ここには、現在の本堂が建立された13世紀末の本山寺を取り巻く事情が反映されているのでしょう。それは、妙音寺と興隆寺を統合して、外から新規に馬頭観音を向かえて本尊としたということが考えられます。それを進めたのが修験者や聖たちであったというのです。
特別展『みほとけのかたち ─仏像に会う─』@奈良博-05
 京都・浄瑠璃寺「馬頭観音菩薩立像」

牛馬の安全を折る信者集団が本山寺の「変身」の主体となったのでしょうか。馬頭観音は、もともとは釈迦の生誕地に因む祇園精舎の守護神とされます。そして、次のような本地垂迹が語られ、姿を換えていきます。
祇園信仰 - Wikipedia
牛頭天皇(祇園大明神)
権化が牛頭天王
蘇民将来説話の武塔天神
薬師如来の垂迹
スサノオの本地

牛頭天王は、京都東山祇園や播磨国広峰山に鎮座して祇園信仰の神(祇園神)ともされ、現在の八坂神社にあたる感神院祇園社から勧請されて全国の祇園社、天王社で祀られるようになります。これを進めたのが修験者や廻国の念仏聖のようです。

滝宮(牛頭)神社
滝宮神社

「牛頭天王」を祭った讃岐の寺社としては、滝宮神社があります。
滝宮神社は、神仏分離以前には牛頭天王神(ごずてんのう)と呼ばれていました。菅原道真の降雨成就のお礼に国中の百姓がこの神社で悦び踊った。これが滝宮念仏踊りとされています。

滝宮龍燈院跡
滝宮牛頭神社の別当寺 龍燈院跡

牛頭天王神(滝宮神社)の神宮寺で、明治の廃仏毀釈運動で廃寺となったのが龍燈院です。
龍燈院も馬頭観音を本尊として、馬頭観音の権化である牛頭天王を神社に祭っていたようです。同じような動きが三豊の本山寺周辺でも起こっていたのではないかと私は考えています。つまり、牛頭天王神(ごずてんのう)をまつる聖集団によって、本山寺は中世に姿を見せたという説です。
滝宮龍燈院の十一面観音
滝宮龍燈院の十一面観音(綾川町生涯学習センター蔵)
讃岐でも、大般若経の書経活動でも聖たちの連携・連帯が行われます。
大般若経が国家安泰の経典とされ、異国降伏のために読誦されたことは、いろいろな研究で明らかにされています。そして、次のような事が明らかにされています。
①鎌倉末期ごろには多くの有力寺社に大般若経が備えられていたこと
②大般若経を備えることは荘郷鎮守の資格とさえ考えられるようになっていたこと
③大般若経を備えるために勧進が行われていたこと

 本山寺でも、戦後まで大般若経六百巻が村回りをしていたようです。
 本山寺ではお経を担いで村を回ります。これも回って読む一つのやり方ですから、転読といえるでしょう。住職が理趣分という四百九十河巻のうち一冊だけもって七五三読みで読みます。大般若の箱を担いで歩くのは村の青年たちです。村を一軒一軒回って転読します。それを「般若の風」といって、風に当たれば病気にならないという信仰がありました。これが、檀家だけでなく、地域をめぐっていたようです。これも中世以来の村々の境を超え、宗派や檀家を越えた「郷村の寺社」としての本山寺の性格を伝える物かも知れません。

新潟県阿賀町馬取(まとり)地区の村中大般若
大般若経経典 の入った木箱を背負った一行が無病息災を祈る

最初に紹介したように徳島県三好郡池田町の吉野川と祖谷川の合流点に鎮座する三所神社には、応永9年(1402)の大般若経600経が保管されています。

大般若経 山所神社 池田町
三所神社の大般若経

その中の奥書に、次のように記されたものがあります。

「讃州三野郡熊岡庄八幡宮持宝院、同宿二良恵

ここからは、山所神社の大般若経の一部が「三野郡熊岡庄八幡宮」の別当寺「持宝院(本山寺)」に「同宿(寄寓)」する「良恵」によって書写されたことが分かります。良恵は住持でなく聖のようです。 与田寺の増吽が阿波の修験者たちとネットワークを形成し、大般若経書写をやっていたのと同じ動きです。讃岐三豊の持宝院(本山寺)と、阿波池田の山所神社も修験道・聖ネットワークにで結ばれていたのでしょう。同時にこのような結びつきは、「モノ」の交易を伴うものであったことが分かってきました。

以前に、仁尾の商人や大工が四国山脈を越えた現在の大豊町や本山町で活動を行っていたことを次のように紹介しました。
①高知県大豊町の豊楽寺の本堂新築(天正2(1574)年11月)の御堂奉加帳に「仁尾」の「塩田又市郎」の名前があること。
②土佐郡森村(土佐郡土佐町)の森村の阿弥陀堂造立棟札に「大工讃州仁尾浦善五郎」とあり、善五郎という仁尾浦の大工が請け負っていること。
長岡郡豊永郷や土佐郡森村は、近世土佐藩が利用した北山越えのルート沿いに当たります。このルートは土佐からの熊野参拝ルートでもあり、讃岐西部-阿波西部-土佐中部を移動する人・モノが利用したルートでした。仁尾商人の塩田又市郎や大工の善五郎らは、この山越えのルートで土佐へ入り、広く営業活動を展開していたと研究者は考えています。
 仁尾商人の塩田又市郎と豊永郷とのつながりは、どのようにして生まれたものだったのでしょうか。
 近世になると、仁尾と豊永郷などの土佐中央山間部との日常的な交流が行われていたことが史料から見えてきます。具体的には「讃岐の塩と土佐の茶」です。詫間・吉津や仁尾は重要な製塩地帯で、15世紀半ばの兵庫北関入船納帳からは、詫間の塩が多度津船で畿内へ大量に輸送されていたことが分かります。近世になると詫間や仁尾で生産された塩は、畿内だけでなく讃岐山脈を越えて、阿波西部の山間部や土佐中央の山間部にまで広く移出されていたことは以前にお話ししました。
  塩は人間が生活するには欠かせない物ですから、必ずどこかから運び込まれていきます。古代に山深く内陸部に入って行った人たちは、塩を手に入れるために海岸まで下りて来ていたようです。それが後には、海岸から内陸への塩の行商が行われるようになります。
 丸亀や坂出の塩がまんのう町塩入から三好郡に入り、剣山東麓の落合や名頃まで運ばれていたことは以前にお話ししました。仁尾商人たちは、中世には三野湾で作られた塩を行商で土佐の山間部まで入り込み、その引き替えに質の高い土佐の碁石茶(餅茶)を仕入れて「仁尾茶」として販売し、大きな利益を上げていたようです。その利益から仁尾には数多くの寺院が姿を見えるようになります。
 そういう視点から本山寺の出現過程を次のように推察しておきます。
①熊野行者などの山林修行者によって七宝山に行場が開かれ、庵や堂が姿を見せる。
②観音寺は七宝山の行場を結んで「中辺路」ルートとして売り出す。
③その行場のひとつが七宝山麓の興隆寺で、先祖供養の地として地元の有力者が五輪塔を納めるようになる。
④そこに新しく登場してきたのが牛頭信仰を持った修験者たちである。彼らは、「馬頭観音=その権化である牛頭天王=蘇民将来説話の武塔天神=薬師如来の垂迹=スサノオの本地」としていた。
⑤彼らは、京都東山祇園や姫路の広峰山から牛頭神を勧請し、全国に祇園社、天王社を祀るようになる。
⑥そのような中で、本山荘内の興隆寺や妙音寺で活動していた牛頭天王信仰の修験者たちが、新たな寺院を現在地に建立する。それが本山寺の前身である。
⑦こには牛や馬に関わる百姓や馬借たちの支持もあった。そして、郷村を越えた広域信仰圏を形成した。

南海道(伊予街道)に隣接した本山寺は、交通の要衝に当たります。
仁尾の商人や修験者たちは土佐に三野湾で採れた塩を運び込み、その還りに茶を持ち帰って利益を挙げていたのは先に見たとおりです。本山寺を拠点とした修験者たちは、財田川を遡り、財田やまんのう町の峠を越えて、阿波との交流を持ち、その信者たちには、塩を運ばせたことが考えられます。阿波池田や、山所神社のあった祖谷口、あるいはその奥までが本山寺の信仰ネットワークの及ぶ地域で、本山寺の信者となっていた馬借たちの活動範囲だったことが推測できます。このように本山寺は古くから交通・流通の拠点に位置し、財田川上流や阿波を後背地としていたことが、その後の発展に大きく寄与した研究者は考えています。

 天文16年(1547)に鎮守堂が建立されるなど、天文年間(1532~55)は本山寺の堂宇整備時期であったようです。
130年後に書かれた『玉藻集』延宝5年(1677)には、16世紀の状況が次のように記されています。
本山寺持宝院
此ノ寺本山の庄にある故に本山寺とよふ、亦は長福寺ときこゆ、本尊馬頭観音。弥陀・薬師を両脇に立たり、三尊共弘法大師作、堂の右に石の塔あり、門内に古松枝條扶疎として、幾世をか経ぬる、むかしを問ましき計也、堂の後に古五輪五六基あり、寺惜を隔て構へたり、境内一町半、廻り松桜杉椿等茂し、二王門の右に五所権現の祠あり、前に長川なかれたり、
意訳変換しておくと
本山寺持宝院は、本山庄にあるので本山寺とよぶ。また長福寺も云う。本尊は馬頭観音で、脇仏が弥陀・薬師で、この三尊は弘法大師の作である。堂の右に石塔がある。門内に幾世の時を重ねてきた古松がある。堂の後には、古五輪五六基があり、境内と隔て置かれている。境内は一町半四方で、その廻りは松・桜・杉・椿等が茂る。二王門の右に五所権現の祠があり、その前を長川(財田川か宮川?)が流れている。

ここには空海建立説はありませんが「三尊共弘法大師作」と記されるので、近世前期になると本山寺に空海伝説が根付いていたことが分かります。
本山寺中興の祖といわれる尚範が元亀2年(1571)に高野山にのぼり、金剛三味院で研鑽を積んだ後に本山寺の復興に尽力します。以後、本山寺僧と高野山との関わりが、本山寺における弘法大師信仰の普及につながると研究者は推測します。同じような動きが弥谷寺にも見られることは以前にお話ししました。この背景には、高野聖たちの活動があったことがうかがえます。彼らによって弘法大師伝説が本山寺にももたらされたようです。そういう意味では、弘法大師伝説は牛頭天王信仰に、室町時代以後に接ぎ木されたものといえそうです。

本山寺(もとやまじ)五輪塔 (五基)
本山寺の五輪塔

『玉藻集』に「堂の後に古五輪五六基あり」とあるのは、現在は大師堂裏にある大型五輪塔群のことでしょう。
この大型五輪塔群は室町時代のもののようです。一説には奥の院の興隆寺から移されたとも伝わるようです。本山寺が有力者の菩提寺的な性格を持っていたことが分かります。しかし、それが誰なのか、どんな一族であったのかは分かりません。
 同時期に、西讃守護代で天霧城の香川氏は、弥谷寺西の院を墓域化して多くの五輪塔を残しています。それが、本堂下の生駒親正の大きな五輪塔につながって行きます。この五輪塔と、本山寺の大きな五輪とは合い響き合うモノがあるように私には思えます。16世紀には観音寺室本の麹職人たちに香川氏は、特許上を出しています。香川氏の勢力が観音寺の当たりまで及んでいたことを示します。本山寺も香川氏の勢力下にあったと考えられます。

   以上をまとめておきます。
①元寇後に異国降伏祈祷が地方でも行われ、それに伴い讃岐でも有力寺院の改築ラッシュが続いたこと
②寺社修造は、勧進聖や修験者たちの勧進活動によって実現したこと。
③その結果、勧進聖や修験者の活動は活発化し、国や郡郷を超えた寺社のネットワーク形成が進んだこと
④その流れの中に、本山寺の本堂や仁王堂のあらたな建立があったこと
⑤同時に、伽藍整備と平行して、郷村の有力寺社は周辺寺社の系列化・末寺化を進めたこと
⑤そのひとつのやり方が寺社修造勧進への協力や大般若経写経の支援活動であったこと
⑥こうして観音寺や本山寺は勧進聖や修験者によって、「中辺路」ルートの拠点寺としてネットワーク化されそのメンバーとなっていく。
⑦これが後の「四国大辺路」から四国遍路へとつながっていく。
今回は中世までとしておきます。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
  テキスト
上野進 本山寺の歴史 本山寺調査報告書2016年 香川県教育委員会
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      まんのう町諏訪神社の念仏踊り
                      念仏踊り(まんのう町諏訪神社)

  滝宮神社の神宮寺で、明治の廃仏毀釈運動で廃寺となった龍燈院の住職が代々書き記した『瀧宮念仏踊記録』の表紙裏には、次のように記されています。
「先代は当国十三郡より踊り来たり候処、近代は四郡而已に成り申し候」
「就中 慶安三年寅七月二十三日御重キ御高札も御立て遊ばされ候様承知奉り候」
意訳変換しておくと
かつては、念仏踊りは讃岐国内の13郡すべての郡が踊りを滝宮に奉納に来ていた。最近は4郡だけになってしまった。
高松藩の松平頼重が初代藩主として水戸からやってきて「中断」していた念仏踊りを西四郡のみで再興させた

滝宮念仏踊りは風流踊りで、もともとは雨乞い踊りではなかったようです。喜田家文書の坂本村念仏踊  (飯山町東坂元)には、次のように記されています。
 光孝天皇の代の仁和二年(886)正月十六日菅原道真が讃岐守となって讃岐に赴任し、翌三年讃岐の国中が大干害となった。田畑の耕作は勿論草木も枯れ、人民牛馬がたくさん死んだ。この時、道真公は城山に七日七夜断食して祈願したところ七月二十五日から二十七日まで三日雨が降った。国中の百姓はこれを喜んで滝宮の牛頭天王神前で悦び踊った。是を瀧宮踊りと言っている。

ここには雨乞い祈願をしたのは菅原道真で、その成就に感謝して百姓たちがお礼のために踊ったと記されています。奈良のなむて踊りも、もともとは盆に踊られた風流踊りで、それが雨乞い成就の際に感謝の気持ちを込めて踊られるようになったことは以前にお話ししました。滝宮念仏踊りも、中世の時宗の念仏踊りが風流化したもので、それが丸亀平野の各郷村で盆踊りとして踊られていたものと私は考えています。

那珂郡 讃岐国図 高松市歴史資料館
正保讃岐国絵図(高松市歴史資料館) 17世紀前半の那珂郡

 近世になって滝宮に奉納することを許されたのは、4つの組です。それは近世の村切りによって村が出現する前の荘郷エリアで編成されています。例えば、那珂郡の七箇村組は、満濃御料(天領)、丸亀藩領、高松藩領の三つの領の13ヶ村にまたがる踊組です。その村名を挙げると、真野・東七箇・西七箇・岸の上・塩入・吉野上下・小松庄四ケ村・佐文の13の村です。これは中世の小松・真野・吉野郷エリアにあたります。                         
まんのう町の郷
古代中世の荘郷

 七箇村踊組は、ただ滝宮で1回踊るだけではなかったようです。その前に、7月7日から盛夏の一ヶ月間に、構成員の各村の神社などを周り、60回近い踊興行を行い、最後に真野の諏訪神社でに奉納した後に滝宮牛頭神社での踊りとなるわけです。先ほどの諏訪神社の絵図も、その途上の「巡業」の時の様子が描かれたもののようです。 
  以上をまとめておくと次のようになります。
①中世の時宗念仏踊りが風流化し、丸亀平野の郷荘の盆踊りとして踊られるようになった。
②それが旱魃の際の雨乞いのお礼として、各郷で組織された集団が滝宮の牛頭天王神社(滝宮神社)に奉納された。
③近世になって一時的に中断していた踊りを、髙松藩初代藩主が復活させた。
④以後、事件などで中断期をはさみながら江戸時代末期まで奉納された。
⑤この念仏踊りは、中世の郷村時代に編成されたために、近世の村を越えたメンバーで編成されている。
⑥踊手や桟敷席などには宮座の存在が色濃く残っている。

私に分からないのは、どうして中世に「村」を越えて荘郷規模で組が編成されたのかという点です。
これについてヒントを提供してくれる本に出会いましたので、見ていくことにします。テキストは「榎原雅治 荘郷内における鎮守の機能  日本中世社会の構造 2000年」
日本中世地域社会の構造 (歴史科学叢書) | 榎原 雅治 |本 | 通販 | Amazon

中世の鎮守の機能について、研究者は次のように押さえています。
第一には、荘郷鎮守は百姓が五穀豊穣、現世安穏・後生善処を祈願する祈りの場でした。しかし、それだけではありません。荘郷内の平和を祈願する場所だからこそ、公的な場所でもありました。聖なる場所であり、公的空間でもある鎮守を掌握したものが支配者として正当性をもちえたともいえます。中世の武士団が地元の有力な寺社を保護したのも、支配を円滑にするには寺社を押さえ保護者であることをしめすことがポイントになることを、経験的に学んだ結果なのかも知れません。
第2に鎮守では、荘郷政所による検断(けんだん)が行われました。
 検断とは「検察」+「断獄」=「検断」で、不法行為)を検察してその不法をの罪を裁くことです。中世の検断は、鉄火取り、湯起請といった鎮守の場での神裁の形をとります。郷社の鎮守は神聖な裁きの場でもあったのです。
第3に、荘郷鎮守は荘郷内のメンバーの身分秩序会の確認の場でもありました。
鎮守の宮座が名主層によって独占されていて、百姓層はそこから排除されていたことや、新興の勢力が宮座に加入する場合には、右座・左座というように旧来からの座株所有者とは区別されていたことをみれば分かります。また寺社の棟札や梵鐘の銘文には、地頭・荘官以下、名主や百姓の名前がそれぞれの奉加額とともに記され、荘内の身分秩序が一目で分かるように示されています。家の格まで視覚的に表現されていました。毎年、繰り返される祭礼行事では、荘官以下の百姓たちの身分序列の確認の場でもあったのです。

次に、荘郷の寺社がネットワークを形成していく具体例を、近江国坂田郡(現長浜市)の長浜八幡神社で見ていきます。
神社ご朱印巡り7 「長濱八幡宮」(滋賀県長浜市) | sadahachi.com

長浜八幡宮は八幡庄の鎮守で、室町中期の永享年間に堂塔建立が行われています。永享7年(1435)の勧進猿楽の際の桟敷注文井奉加帳(史料B)と、永享11年(1429)の塔供養の際の奉加帳(史料C)が残されています。史料Bを見る前に、当時の猿楽の席次について「予習」しておくことにします。
長浜神社 糾瓦猿楽桟敷図
京都札河原勧進猿楽桟敷注文
寛正5年(1464)の京都札河原勧進猿楽桟敷注文およびその付図(図2)があります。そこには、猿楽は円形の舞台で演じられ、その周囲に見物桟敷が設けられています。桟敷の中心(真下)は「神之座敷」です。「御前」が「神之座敷」の前という意味です。これを中心に、向正面に向かって注文の記載順に座っていきます。御前の両隣に公方夫妻(足利義政・日野富子)が座り、次いで対面に向かって関白、門跡、管領、有力守護、奉公衆と、およその身分の序列に従って席が決められていたことが分かります。
長浜八幡宮の猿楽桟敷の舞台設営もこれと同じような席順であったのでしょう。上演の際の席次は、どうなっていたのでしょうか
長浜神社 猿楽桟敷

座敷注文の記載順を見ておきましょう。
文中に「御前ヨリ東」「御前ヨリ西」とあるので、桟敷の席次を意識した順のようです。そしてその順序は「次第不同」とされていますが、そうはいいながら注文の端から奥に向かって、荘官・殿原層から村へという、序列があることがうかがえます。
下に続く
長浜神社 猿楽桟敷2
この席順を模式図化すると下図のようになります。

長浜神社 猿楽桟敷概念図2

長浜八幡神社の猿楽桟敷の配置については、以下のようになります。
桟敷の中央に荘官・殿原層・荘郷鎮守の僧や神官
末席には名主層
桟敷と舞台の間の「地居」に桟敷に昇れない層
猿楽鑑賞の座が、地域の身分秩序を目に見える形で示す場になります。参加者にとっては、自分の席がどこにあり、前後はどうなっているのかは大きな意味を持ったことでしょう。それは、そのまま「家の格付け」を示す者でもあったことになります。
研究者は史料に出てくる次の字句に注目します。
史料Bの奉加帳部分に「八坂 八人中」
史料Cに「イコマ(生駒)ノ宮村人」
Bの八坂社は祗園保の鎮守で、生駒宮は平方庄の鎮守です。八坂社や生駒の宮の「村人」が長浜の八幡宮に寄進しています。「村人」ということばは、近江においては村民一般ではなく、宮座の構成員である「オトナ層」を指す用語のようです。奉加帳に「八坂八人中」「イコマノ宮村人」などの名前が見えるということは、 この地域の荘郷鎮守の関係が、単なる寺社と寺社の関係ではなく、オトナ層同士の宮座と宮座の連帯関係でもあったと研究者は考えています。
こうした荘郷鎮守の関係は、どのような役割を果たしていたのでしょうか。
 それは地域の身分秩序を確認する場として機能していたと研究者は指摘します。表2は史料Bの桟敷注文に見えるおもな人物を荘郷別、身分別にまとめたものです。
長浜神社 猿楽桟敷注文票

ここに出てくるメンバーを見ると、八幡庄を中心とした荘郷から荘官層、殿原層、名主百姓層がそれぞれに桟敷料を払って、このイベントに参加していたことが分かります。つまり、実際に猿楽が上演されるときには、次の二つの階層が桟敷の上で目に見える形で確認できることになります。
単独で見物席を確保できる荘官層、殿原層、
村単位でなければ確保できない名主百姓層
また、新興の者はこの場に座る座を確保することによって、自らの位置を可視的に地域社会に承認させることができるという仕掛けになっています。
これらの史料に出てくる寺社を地図に落としたのが図1です。
長浜神社 ネットワーク

ここからは長浜八幡宮や観音寺をはじめ福永庄の神照寺、山階庄の本国社など、この地域の荘郷鎮守を中心とした寺社の造営などに、周囲の荘郷から寄進が出されています。地域的な連帯関係があったことが見えてきます。中世の寺社は、単独で存在していたのではないということです。これらを結びつけていたのが修験者たちになるようですが、それについてはまた後ほどみることにします。
長浜 大原観音寺
大原観音寺

長浜の東方にある大原観音寺は、大原庄の鎮守的な寺院です。ここにも応永26年(1419)の本堂造作日記(史料D)が伝わていて、奉加者の名前が記されています。

長浜神社 史料D

史料Dには、大原庄内外の村々の「村人」が奉加者として名前があります。「村人」というのは、先ほども見たように荘郷内の支配層のことです。各荘郷の「村人」が寺社のネットを通じて、荘郷を超えた広い地域社会の中に現れて、認められていることになります。寺社のネットは、村内の身分序列を、荘郷を超えた地域社会で承認していく役割を果たしていたことになります。
 さらに重要なことは身分だけでなく、「村」の存在自体、寺社のネツトを通して地域社会の中で承認されるものだったというのです。
荘郷内に「村」が政治的・経済的な主体として登場してくるのは鎌倉末期のことです。これを承認する体制は、荘園公領制の中にはありません。新たに登場した室町期の守護も荘郷の枠組みを超えて「村」を領国支配体制の中に位置づけることはありませんでした。そのような中世社会の中にあって唯一「村」を承認するシステムが、寺社の地域的ネットだったと研究者は指摘します。荘郷鎮守の地域的ネットに認めてもらうことで、「村」は「村人」という内部の身分秩序とともに、地域的な承認を獲得していったと研究者は考えています。つまり、このような寺社ネットに登録されないと、他の荘郷から村としても、指導者としても認めてもらえることがなかったことになります。
少々荒っぽいですが、これを丸亀平野の那珂郡南部で起きていたことに当てはめると、次のようになります。
①那珂郡南部の真野郡は、真野の諏訪神社を荘郷神社としていた。
②小松・真野郷は各村からの宮座構成員の「村人」メンバーで、念仏踊りが組織され諏訪神社に奉納された。
③その際には、踊り手は宮座メンバーに限られていたので、踊りに参加する人たちは小松荘や真野郷の「村人(有力者)」を相互認知する機会となった。
④神社の境内に設置された桟敷席も、エリア指定の世襲制で宮座メンバー以外は建てることができなかった。桟敷席に座ると云うこと自体が、地域での階層位置を示すもので、「村」での権勢表示の場でもあった。
ここからは丸亀平野の荘郷のなかでも、「村 ― 荘郷 ― 地域」のネットワーク化が進んでいたこと、そして、村内の身分秩序や村自体の存在が荘郷を超えた広い地域の中で公認されていく様子が見えてきます。その場が荘郷の鎮守であり、そこで踊られる念仏踊りであったことになります。そして、荘郷鎮守の地域的な関係とは、寺社の相互扶助によって成り立っていたようです。
  真野郡の諏訪神社は、滝宮の牛頭天王社と、近江八幡社の近隣寺社と同じように修験道関係者を通じた相互扶助関係があったことがうかがえます。それだけの勢力を牛頭天王社別当寺の龍燈寺に集まる修験者たちは持っていたことになります。

 中世の名主層の世界観は、次のようなものだったと研究者は考えています。
地域的な秩序を維持するためには、荘郷鎮守の維持が必要である。荘郷鎮守を維持するためには村内の身分秩序を維持することが必要だ。逆にいえば、荘郷鎮守を維持することは、その荘郷のみにとって意味をもつものではなく、地域全体の秩序を保つための義務なのである。この地域に対する義務を果たすことによって、荘郷内の宮座運営の体制、すなわち荘郷内の身分秩序は、地域社会の中で認められているのだ

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
     「榎原雅治 荘郷内における鎮守の機能  日本中世社会の構造 2000年」
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前回には、次のようなことを見てきました
①中世讃岐では高野の念仏聖たちのプロデュースで、念仏踊りが広く踊られるようになっていたこと。
②これは、庶民の芸能活動のひとつであり、当初は雨乞いとの関連姓はなかったこと。
③それが雨乞いの「満願成就のお礼」として、菅原道真の雨乞祈願伝説の中心地となった滝宮神社に奉納されるようになったこと。
  今回は、念仏踊りがどのようにして、各郷村で組織されていたのかを見ていくことにします。
 滝宮神社の神宮寺で、明治の廃仏毀釈運動で廃寺となった龍燈院の住職が代々書き記した『瀧宮念仏踊記録』の表紙裏には、次のように記されています。
「先代は当国十三郡より踊り来たり候処、近代は西四郡而已に成り申し候」
「就中 慶安三年寅七月二十三日御重キ御高札も御立て遊ばされ候様承知奉り候」
意訳変換しておくと
かつては、讃岐国内の13郡すべての郡が念仏踊りを滝宮に奉納に来ていた、ところが近年は西4郡だけになってしまった。そこで寅7月23日に、押さえのための高札をお立てなされるように承知いたした

 ここには大幅な省略があるので補足しておくと、もともと讃岐国13郡全てのから奉納されていたが、近年は中断されていた。それを松平頼重が初代髙松藩主としてやってきて、慶安三(1650)年に西四郡のみで再興させたというのです。西とついているのは、高松藩領の西部という意味でしょう。ですから、四郡は 阿野郡の南と北、那珂郡、多度郡ということになるようです。
  しかし、私は讃岐全郡からはやってきていなかったと思っています。もともと滝宮周辺の四郡だけで、これが滝宮牛頭天王社(別当龍燈院滝宮寺)の信仰圏だったと考えています。
松岡調編の「新撰讃岐風土記」には、近世初頭の滝宮踊について次のように記します。
此踊りは村人の踊るには非ずして、往古は本国の人民こぞりて七月二十五日に菅原神社境内に集ひ来て踊れるが、今は僅かに阿野部の村々又那珂郡七箇の村、鵜足郡坂本村等の者の務むることなれり。共式厳重にして踊曲の前後を争へる事最も甚だし。其村々より踊の前後を争はむと数十人行列をなして旗幟を翻し、鉦鼓を鳴し、甲冑を具したる者数多太刀抜きかざし長刀振りまわしつつ押し寄せ来て既に踊むとするに到て互いに撃合ひ殴合ひて人を害し己をも害せらるる状いかにも野蛮めきて見るにしのびぎるなり。是は元亀天正の野武士の悪癖の遺風たらむと思はれていといと片腹いたくなむ故に国主より官吏を派遣させ制札をも立て警固する事になりしに遂には隔年に二組づ務めめさせることしていと穏便になれるが、今も猶然かり。

意訳変換しておくと
この踊りは村人だけが踊るのではなく、昔(中世)は讃岐の人民がこぞって、7月25日に滝宮神社境内にやってきて踊っていた。それが今は僅かに阿野部(北条組)の村々や那珂郡七箇村、鵜足郡坂本村の者達だけが務めている。かつては組通しで踊りの順番をめぐって争いが絶えなかった。そのため各組は数十人行列を作って、旗幟を翻し、鉦鼓を鳴し、甲冑を着けた者が多数、太刀を抜きかざし、長刀振りまわしながら押し寄せ来て、踊ろうとしている組に襲いかかり、撃合い殴合いが起こり、多くの人達が傷つく野蛮で見るにしのびない惨状でもあった。まさに元亀天正の戦国時代の野武士の悪癖の遺風のような有様であった。そこで国主(高松藩藩主松平頼重)は、官吏を派遣し、制札を立てて警固を厳重にして、隔年に二組ずつ務めめさせることした。それ以後は、次第に穏便になった。

 ここからは、滝宮への踊り込みは大イヴェント行事で、ただの踊りでなく、各組の示威行動の場でもあったこと、そのため暴れるためやってきている連中が数多くいて、争いが絶えなかったこと。そのため甲冑を着け、刀を振り回すような連中に対抗するためにも警固衆が必要だったことが分かります。

滝宮念仏踊り1

その時に、国守(高松藩の松平頼重)によって立てられた高札には次のように記されていたようです。
      滝宮念仏踊の節 御制札左の通
一 於当社 会式之場意趣切喧晩無願仕者在之者 不純理非双方可為曲事・縦雖為敵討無断者可為  越度事附闘落之者見出候共其主人届出会式過重而以い断可相済事
一 於当社・桟敷取候義堅停止事 次鳥居之外而辻踊同寿満別之事
一 宮林竹木不可伐採一併作毛之場江 牛馬放入間敷事
      慶安元子年七月廿三日
意訳変換しておくと
      滝宮念仏踊の節  御制札左の通
一 滝宮神社における念仏踊り会場においては、喧嘩やもめ事などの騒動は厳禁する。たとえ敵討ちであろうとも許可なく無断で行ったものについては、その主人も含めて処罰する。
一 当社においての見物用の桟敷場設置は堅く禁止する 鳥居の外での辻踊や寿舞は別にすること
一 宮林の竹木は伐採禁止、また境内へ牛馬放入はしないこと
   慶安元子(1650)年7月廿三日
 この制札は、幕府よりの下知で、滝宮の念仏踊の日だけ立てられたものです。内容の書き換えについては、その都度、幕府・寺社奉行の許可が必要でした。正保元申年・慶安元子年・寛文三卯年に書き換えられたことが、取遺留に特記されています。

こうして、回が重ねられ、順年毎の出演する組や、演ずる順番が固定し、安定した状態で念仏踊りが行われるようになったのは、享保三年(1717)頃からになるようです。

滝宮に躍り込んでくる念仏踊りは、どんな単位で構成されていたのでしょうか?

滝宮念仏踊り3 坂本組

『瀧宮念仏踊記録』は坂本念仏踊りについて、次のように記します。

坂本郷踊りも七十年計り以前までは上法軍寺・下法軍寺の二村が加わっており、合計十二ヶ村で踊りを勤めていた。ところが、黒合印幟が出来て、それを立てる役に当たっていた上法軍寺二下法軍寺の二村の者が滝宮神社境内で間違えた場所に立てたため坂本郷の者共と口論になり、結局上法軍寺・下法軍寺の二村が脱退して十ケ村で勤めることとなった。このことで踊り・人数で支障が出るのではと尋ねてみたが、坂本郷の方では十ケ村で相違ないように勤めるからと答えたこともあって、今日(寛政三年)まで坂本郷十ヶ村で勤めてきている

 坂本郷十ヶ村というのは、どういう村々でしょうか?
  東坂元・西坂元・川原・真時・東小川・西小川・東二村・西二村・東川津・西川津

 この村々について、『瀧宮念仏踊記録』は、次のように記します
「坂本郷は以前は一郷であったが、その後東坂本・西坂本・川原・真時と分けられ、他の六ヶ村は、前々から付村 (枝村)であった」

これは誤った認識です。和名抄で鵜足郡を見てみると、小川郷・二村郷・川津郷は当初からあった郷名であることが分かります。
和名抄 讃岐西部

坂本念仏踊りは「鵜足郡念仏踊り」と呼んだ方がよさそうです。どちらにしても、もともとは近世の「村」単位ではなく、郷単位で構成されていたこと分かります。具体的には、坂本郷・小川郷・二村郷・川津郷の中世の郷村連合によって構成されたものと云えそうです。
讃岐郷名 丸亀平野
坂本念仏踊りを構成する郷エリア
 滝宮へ踊り入る年(4年に一度)は、毎年7月朔日に東坂本・西坂本・川原・真時の四ヶ村が順番を決めて、十ヶ村の大寄合を行って、踊り役人などを決めていたようです。その数は300人を越える大編成です。編成表については以前に紹介したので省略します。
川津・二村郷地図
滝宮神社に躍り込んだのではありません。次のようなスケジュールで各村の鎮守にも奉納しています。
一日目 坂元亀山神社 → 川津春日神社 → 川原日吉神社 →真時下坂神社
二日目 滝宮神社 → 滝宮天満宮 → 西坂元坂元神社 → 東二村飯神社
三日目 八幡神社 → 西小川居付神社 → 中宮神社 → 川西春日神社
那珂郡郷名
那珂郡の郷名
もうひとつ記録の残る七箇村念仏踊りを見ておきましょう。
 滝宮に奉納することを許された4つの組の内、七箇村組も、満濃御料(天領)、丸亀藩領、高松藩領の、三つの領にまたがる大編成の踊組でした。その村名を挙げると、次の13の村です。

真野・東七箇・西七箇・岸の上・塩入・吉野上下・小松庄四ケ村・佐文

これも郷単位で見ると、吉野・真野・小松の3郷連合組になります。

次の表は、文政十二(1829)年に、岸上村(まんのう町)の庄屋・奈良亮助が念仏踊七箇村組の総触頭を勤めた時に書き残した「諸道具諸役人割」を表にしたものです。
滝宮念仏踊諸役人定入目割符指引帳

 総勢が2百人を越える大スッタフで構成されたいたことが分かります。そして、スタッフを出す村々は次の通りです。
高松藩 真野村・東七ヶ村・岸上村・吉野上下村
丸亀藩 西七ヶ村・塩入村・佐文村
天 領  小松庄4ケ村(榎井・五条・苗田・西山)
どうして、藩を超えた編成ができたのでしょうか。
それは讃岐が、丸亀藩と髙松藩に分けられる以前から、この踊りが3つの郷で踊られていたからでしょう。滝宮に躍り込んでいた念仏踊りは、中世の郷村に基盤があったことがここからもうかがえます。

踊りが奉納されていた各村の神社と、そこでの踊りの回数も、次のように記されています。
七月十六日 満濃池の宮五庭
七月十八日 七箇春日宮五庭、新目村之官五庭
七月廿一日 五条大井宮五庭、古野上村営七庭
七月廿二日 十郷買田宮七庭
七月二十三日 岸上久保宮七庭、真野宮九庭、
       吉野下村官三庭、榎井興泉寺三庭
              右寛保二戌年七月廿一日記
満濃池遊鶴(1845年)
満濃池の堰堤の右の丘の上に鎮座するのが池の宮
7月16日の 満濃池の宮とは、後の神野神社のことで、この頃は現在の堰堤南付近にありました。今は池に沈んでしまったので、現在地に移っています。

DSC03770満濃池ウテメ
池の宮の拡大図

「7月18日の七箇春日宮五庭、新目村之官五庭」とあるのは、西七箇村(旧仲南町)の春日と新目の神社です。全部の村社に奉納することは出来ないので。その年によって、奉納する神社を換えていたようです。それでも2百人を越える大部隊が、暑い夏に歩いて移動して奉納するのは大変だったでしょう。
文久二(1862)年の時には、榎井の興泉寺と、金毘羅山を終えて、岸上村の久保宮で踊り、最後に真野村の諏訪神社で九庭踊って、その年の踊奉納を終了することになっていたようです。ここからは真野村の諏訪神社がこの組の中核神社であったことがうかがえます。
 それぞれの宮での、踊る回数が違うのに注目して下さい。「真野宮九庭」とあります。数が多いほど重要度が高い神社だったことがうかがえます。また、「下知」を出しているのも真野村です。後にも述べますが、このメンバーは宮座構成員で世襲制です。村の有力者だけが、この踊りのメンバーになれたのです。

 七箇村踊組は7月7日から盛夏の一ヶ月間に、各村の神社などを周り、踊興行を行い、最後が滝宮牛頭神社での踊りとなるわけです。
その時の真野村の諏訪神社の「巡業」の時の様子を描いたものが次の絵図です。
滝宮念仏踊 那珂郡南組

 この絵図については以前にお話ししたので、ここでは踊りの廻りに設置されている見物桟敷小屋だけを見ておきましょう。これについては、以前に次のように記しました。
①風流化した念仏踊り奉納の際に、境内に桟敷席が設けられて、所有者の名前が記されていること。
②彼らは、村の有力者で、宮座の権利として世襲さしていたこと
③桟敷小屋には、間口の広さに違いがあり、家の家格とリンクしていたこと。
④後には、これが売買の対象にもなっていたこと。
 この特権が何に由来するかと言えば、中世の宮座のつながるものなのでしょう。このようにレイアウトされた桟敷席に囲まれた空間で踊られたのが風流化した念仏踊りなのです。ここからも、この念仏踊りが雨乞い踊りではなく風流踊りであったことがうかがえます。

IMG_1387
佐文綾子踊り 
これも風流踊りが雨乞い踊りとして踊られるようになったもの

念仏踊りが風流化して、郷社で踊られるようになるまでの過程を見ておきましょう
    中世も時代が進むと、国衛や荘園領主の支配権は弱体化します。それに反比例するように台頭するのが、「自治」を標榜する惣郷(そうごう)組織です。惣郷(そうごう)は、寄合で構成員の総意によって事を決します。惣郷が権門社寺の支配を排除するということは、同時に惣郷自らが、田畑の耕作についての一切の責任を負うということです。つまり灌漑・水利はもとより、祈雨・止雨の祈願に至るまでの全ての行為を含みます。荘園制の時代には、検注帳に仏神田として書き上げられ、免田とされていた祭礼に関する費用も、惣郷民自身が捻出しなければならなくなります。雨乞いも国家頼みや他人頼みではやっていられなくなります。自分たちが組織しなくてはならない立場になったのです。この際の核となる機能を果たしたのが宮座です。
IMG_1379

 中世期の郷村には「宮座」と呼ぶ祭祀組織が姿を現します。
各村々に、村の鎮守が現れるようになるのは近世になってからです。 
各郷の鎮守社で、春秋に祭礼が行われていました。そこでは共通の神である先祖神を勧請し、祈願と感謝と饗応が、地域の正式構成員(基本的には土地持ち百姓)によって行なわれました。また同時に、神社境内に設けられた長床では、宮座構成員の内オトナ衆による共同体運営の会議が開催されます。宮座構成員は、各地域の有力者で構成されます。彼らが念仏踊りの担い手(出演者)でもあったのです。   
宮座 日根野荘
            日根野荘の宮座

近世初頭の「村切り」によって、小松郷や真野郷は分割され、多くの村ができました。

それでも「村切り」の後も、かつて同じ郷村を形成していた村々の結びつきは、簡単にはなくなりません。しかし、一方で「村切り」によって、年貢は村ごとに徴収されるようになります。次第に、村それぞれがひとつの共同体として機能するようになります。また、直接に村が領主と対峙するようになると、次第に村としての共同意識が生まれ育っていきます。そして各々の村は、新たに神社を勧請したり、村域内にある神社を村の結集の軸として崇めるようになります。「村切り」後の村は、結集の核として新たな村の神社を作り出すことになります。つまり、「村氏神(村社)」の登場です。
 こうして、村人たちは2つの神社の氏子になります、
①中世以来の荘郷氏神(真野の諏訪神社や、小松荘の大井神社?)
②「村切り」以降に生まれた「村氏神」
 例えば、綾子踊りの里の佐文村は、中世以来の郷社である小松郷の大井神社の氏子であり、あらたに村切り後に生まれた佐文村の鴨神社の氏子でもあることになります。氏子の心の中では、二つの神社の綱引きが行われることになります。
 新しく登場した村の神社は、宮座はありません。
村の百姓たちに開かれた開放制です。そこで新たに採用される祭礼も、原則全員です。祭礼行事には、後には「獅子舞」が採用されます。これは、各組で獅子を準備さえすれば後発組でも参加できます。宮座制のような排他性はありません。
 宮座祭祀の郷社では、従来の有力者が、宮座のメンバーを独占し、祭祀を独占していたことは先ほど見てきました。ところが新たに作られた村社では、開放性メンバーの下で獅子舞が採用されたと私は考えています。
   人々は郷社のまつりと、村社の祭りのどちらを支持したのでしょうか。
これは地元の村氏神ではないでしょうか。これを加速するような出来事が起きます。それが讃岐の東西分割と金毘羅領や天領の出現です。
生駒騒動で生駒藩が取りつぶしになった後に、讃岐は高松藩と丸亀藩の東西に分割されます。この境界が旧仲南町の佐文や買田との間に引かれます。その上に、小松庄は、金毘羅大権現を祀る松尾寺金光院の寺領と、満濃池御料として天領に組み込まれます。つまり、念仏踊りの構成員エリアが丸亀藩と高松藩と金毘羅寺領と天領の4つに分割されることになったのです。これは地域の一体感を奪うことになりました。こうして時代を経るに従って、それまでの荘郷氏神との関係は薄れていくことになります。かつての郷社での念仏踊りよりも、地元の村社での獅子舞重視です。
DSC01495
「讃岐国名勝図会』に描かれた水主神社の獅子頭

 それでも念仏踊りは松平頼重のお声掛かりで滝宮神社への定期的な奉納が決められていたこと、また、宮座で役割が世襲制で、これに参加できることは名誉なこととされてもいたこと、などから中止されることはなかったようです。しかし、異なる藩や天領・寺領などからなる構成員をまとめていくことはなかなか大変で、不協和音を奏でながらの運営であったことは以前にお話ししました。
以上を前回のものと一緒にしてまとめておきます。
①中世の讃岐では、高野の念仏聖たちのプロデュースで、念仏踊りが広く踊られるようになっていたこと。
②念仏踊りは、宮座によって、郷社の祭礼や盂蘭盆会に奉納されるようになったこと
③これは、庶民の芸能活動のひとつであり、当初は雨乞いとの関連姓はなかったこと。
④それが菅原道真の雨乞祈願伝説の中心地となった滝宮神社に奉納されるようになったこと。
⑤江戸時代に復活され際には、盆踊りでは大義名分に欠けるので雨乞への「満願成就のお礼」とされ、それがいつの間にか「雨乞踊り」とされるようになったこと。
⑥各踊り組は、かつての中世郷村が、近世に「村切り」で生まれた村の連合体であった。
⑦そのため各村にも「村氏神」が生まれたので、ここに奉納した後に滝宮へ躍り込むというスタイルがとられた。
⑧踊組のメンバーは中世以来の宮座制で、あったために役割は世襲化され、一般農民が参加することは出来なかった。
⑨そのため時代が下るにつれて「村氏神」の重要度が高まるにつれて、念仏踊組は機能しなくなる。
 それは「村氏神」に獅子舞が登場する時期と重なり合う。宮座制のない獅子舞が、祭礼行事の中核を占めるようになっていき、風流踊りの念仏踊りも地域では踊られることがなくなっていった。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
    「山路興造 中世芸能の底流  中世後期の郷村と雨乞 風流踊りの土壌」

念仏踊り 八坂神社と下坂神社 : おじょもの山のぼり ohara98jp@gmail.com

  滝宮念仏踊りのひとつに坂本村念仏踊り(丸亀市飯山町)があります。
旧東坂本村の喜田家には、高松藩からの由来の問い合わせに応じて答えた坂本念仏踊りに関する資料が残っています。そこには起源を次のように記します。
喜田家文書の坂本村念仏踊  (飯山町東坂元)
 光孝天皇の代の仁和二年(886)正月十六日菅原道真が讃岐守となって讃岐に赴任し、翌三年讃岐の国中が大干害となった。田畑の耕作は勿論草木も枯れ、人民牛馬がたくさん死んだ。この時、道真公は城山に7日7夜断食して祈願したところ7月25日から27日まで三日雨が降った。国中の百姓はこれを喜んで滝宮の牛頭天王神前で悦び踊った。是を瀧宮踊りと言っている。
滝宮神社・龍燈院
滝宮神社(牛頭天皇社)と別当寺龍燈院(金毘羅参詣名所図会)

ここには菅原道真が雨乞いを祈願して、雨が降ったので百姓たちは、悦び踊ったとあります。注意して欲しいのは、雨乞いのために踊ったとは書かれていないことです。また、法然も出てきません。江戸時代の前半には、踊り手たちの意識の中には、自分たちが躍っているのは、雨乞い踊りだという自覚がなかったことがうかがえます。それでは何のために踊ったのかというと、「菅原道真の祈願で三日雨が降った。これを喜んで滝宮の牛頭天王神前(滝宮神社:滝宮天満宮ではない)で悦び踊った」というのです。もうひとつ文書を見ておきましょう。
滝宮念仏踊り3 坂本組

嘉永六(1852)年の七箇村念仏踊り(現まんのう町・琴平町)に関する史料です
 この年の七箇村念仏踊は、真野村庄屋の三原谷蔵が総触頭として、先例通りに7月7日に真野不動堂で寄合を行い、17日に満濃池の池の宮で笠揃踊を行い、その後に各村の神社で踊興行を行って、25日に滝宮に躍り込む予定で進められていました。ところが17日に池の宮で笠揃踊を行った時、西領(丸亀藩)側の村々から次のような申し入れがでます。
  先達而から照続候二付、村々用水差支甚ダ困り入申候二付、25日滝宮相踊リ、其内降雨も有之候バ同所二而御相談申度候間、先25日迄外宮々延引致候事」。

意訳変換しておくと
 春先から日照りが続き、村々の用水に差し障りがでて、水の確保に追われ困っている。ついては、25日の滝宮相踊までには、雨も降るかも知れないが雨がないときには、各村の神社での踊興行を延期したい

 簡単に言うと、旱魃で大変なので念仏踊りは雨が降るまで延期したいという申し入れです。最初に、これを呼んだときには私の頭の中は「?」で一杯になりました。「滝宮念仏踊りは、雨乞いのために踊られるもの」と思い込んでいたからです。ところが、この史料を見る限り、当時の農民たちは、そうは思っていなかったことが分かります。「雨が降るまで、念仏踊りは延期」というのですから。
 この西領側からの申し入れは、17日の池の宮の笠揃踊で関係者一同に了承されています。日照り続きで雨乞いが最も必要な時に、宮々の踊興行を延期したのです。ここからは関係者の間には、雨乞いのための念仏踊であるという意識はなかったことが分かります。
  それでは念仏踊りは何のために踊られていたのでしょうか?
  念仏踊りに用いられる団扇を見てみましょう。団扇が風流化した踊念仏で主役として使用されます。滝宮神社の「念仏踊」にも下知が役大団扇を振って踊念仏の拍子をとります。その団扇の表裏に「願成就」と「南無阿弥陀仏」の文字が書かれています。ここでは「願成就」となっています。「雨乞成就」ということなのでしょうか?
近畿の雨乞い踊りを見てみましょう。

石上神社

以前にお話した奈良の布留郷の郷民たちの雨乞いを、見ておきましょう。
 日照りが続くと布留郷の郷民代表と布留神社の爾宜が、竜王山の山中に鎮座する竜王社まで登り、素麺50把と酒一斗二升を供え、雨を祈願します。これが適えられれば、郷中総出でオドリを奉納することを神に約束します。ここではオドリは「満願成就のお礼」として踊られていたことが分かります。このオドリを「南無手踊り」と呼んでいました。名前からして念仏踊りの系譜を引くものあることがうかがえます。
ヲドリの具体的様子は、文政頃に成立した『高取藩風俗間状答』に、次のように記されています。
南無手(なむて)踊は旱魃の時に、雨乞立願の御礼に踊るので願満踊とも云う。高取城下で行われる時には、行列や会場に天狗の面や鬼の面をかぶり棒をついた警固人が先頭に立って出て、群集を払い整理する。その次に早馬と呼ばれる踊り子が小太鼓を持ち唐子衣装花笠で続く。その次は中踊と呼ばれる集団で、色々の染帷子・花笠を着け、音頭取は華笠・染帷子やしてを持ち、所々に分かれて拍子をとる。頭太鼓は唐子装束、花笠踊の内側に赤熊を被ることもあり、太鼓に合せて踊る。それに法螺貝・横笛・叩鐘が調子を合す。押には腹に大鼓を抱え、背中には御幣を負う。踊は壱番より五番までで、手をかへながら踊り、村毎に少しづつ変化させている。一村毎に分て踊る

とあり、村ごとで少しずつ踊り方を換えていたことがうかがえます。雨乞成就のためのものですから、このヲドリは江戸時代を通じて何回も踊られています。
布留3HPTIMAGE
なむて踊りの絵馬

文政十年(1827)8月の様子を「布留社中踊二付両村引分ヶ之覚」(東井戸帝村文書)は、次のように記します。

この時は布留郷全体の村々が、24組に分けられていた。東井戸堂村・西井戸堂村合同による一組の諸役は、大鼓打四人、早馬五人、はやし二人、かんこ五人、団踊一〇人、捧ふり二人、けいご一〇人、鉦かき二人、大鼓持三人の、計四二人になる。

1組で42人のセットが24組集まったとすると、郷全体では千人以上の規模の催しであったことが分かります。踊りのスタイルを見ると、腹に大鼓を付け、背に美しく飾った神籠を負つた太鼓打も出てきます。しかし踊りの中心は、大太鼓(頭大鼓)を中心に据えて、その周囲を唐子姿の者が廻り打ちをするという芸態で、歌の数もそれほど多くはないようです。

日根荘の移りかわり | 和泉の国(泉州)日根野荘園 | 中世・日根野荘園-泉州の郷土史再発見!

もうひとつ和泉国日根野荘の郷民による雨乞を見ておきましょう。
公家の九条政基は、戦乱を避けて自分の所領である和泉国日根野荘(現大坂府泉佐野市)に「亡命」します。ここには修験の寺である犬鳴山七宝滝寺がありました。そこで見た雨乞いの様子が、彼の日記『政基公旅引付」の文亀元年(1501)七月二十日条に、次のように記されています。
①滝宮(現火走神社)で、七宝滝寺の僧が読経を行う
②効果のない場合は、山中の七宝滝寺に赴いて読経を行なう
③次には近くの不動明王堂で祈祷する
④次の方法が池への不浄物の投人で、鹿の骨が投げ込まれた
⑤それでも験のない場合は、四ヵ村の地下衆が沙汰する
ここでも雨乞いに、民衆が踊る念仏踊りは出てきません。
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日根野庄の滝宮(現火走神社)
出てくるのは、雨が降った後のお礼です。
 降雨に対し入山田村では、祈願成就に対する御礼を行なっています。それが地区単位で行われた「風流」なのです。ここでも「踊り」は祈雨のためにではなく、祈願成就の御礼のために行なうものであったようです。
 本来的には祈願が成就したあとに時間を充分にかけて準備し、神に奉納するのが雨乞踊りの基本だったと云うのです。 ここでもうひとつ注目しておきたいことは、この踊りが村人たちの手で踊られていることです。それまで芸能といえば、郷村の祭礼における猿楽者の翁舞のように、その専門家を呼んで演じられていました。ところがこの時期を境に、一般の民衆自らが演じるようになります。
宮座 日根野荘
日根野荘の宮座

その背景を、研究者は次のように指摘します。
①が郷村における共同体の自治的結束と、それによる彼らの経済力の向上。
②新仏教の仏教的法悦の境地を得るために、高野の念仏聖たちが民衆の間に流布させた「躍り念仏」の流行
③人の目を驚かせる趣向を競う「風流」という美意識が台頭
そしてなにより「惣郷の自治」のために、当事者意識を持って祭礼に参加するようになっていることが大きいようです。このヲドリは、もともと雨乞のために創り出されたものではありません。念仏聖たちが村人たちに伝えたものです。それが先祖神を祀る孟蘭綸会の芸能として、また郷民の祀る社の祭礼芸能として、日頃から祭礼で踊られるようになっていました。それを郷民が、雨乞の御礼踊りに転用したと研究者は考えているようです。
 注意しなければならないのは「雨乞い」のための踊りではなかったことです。
考えて見れば、国家的な雨乞いは、空海のような真言の高僧が善女龍王に祈祷して雨を降らせるものです。民間の民雨いも、それなりの呪術力をもった山伏が行っていたのです。そこへただの村人が盆踊りで踊られている風流踊りや念仏踊りを、雨乞いのために踊っても民衆たちは効能があるとは思わなかったでしょう。念仏踊りは、雨乞い成就のお礼のために踊られたのです。

   ここには、滝宮念仏踊りとの共通点をいくつか拾い出せます。
①「村切り」前の郷エリアの郷社に奉納されている。
②布留郷全体の村々から踊りのチームが出されている
③雨乞い踊りではなく雨乞いの「満願成就のお礼」として踊るものだった。
滝宮念仏踊り2
 滝宮念仏踊り

このような視点でもう一度、滝宮念仏踊り見てみましょう
滝宮念仏踊りは雨乞い踊りである先入観を捨てると、何が見えてくるのでしょうか。考えられるのは次のような仮説です。
①中世の讃岐では高野の念仏聖や時宗聖たちによって、念仏信仰が広められ念仏踊りが広く踊られるようになっていた。これは、庶民の芸能活動のひとつであり、当初は雨乞いとの関連姓はなかった。
②高野念仏聖などのプロデュースで郷村の祭礼や盆踊りで、念仏踊りが踊られるようになる。
③それが日照りの際の「満願成就のお礼」として、郷社に奉納されるようになる。
④菅原道真の雨乞祈願伝説の中心地となった滝宮神社にも、各郷の念仏踊りが奉納されるようになる。
⑤戦国時代の混乱の中で、滝宮神社への躍り込みは中断する。
⑥これを復興したのが髙松藩初代藩主の松平頼重で、彼は近畿で踊られていた「南無手」踊りを知っていた上で、雨乞いのためという「大義名分」を前面に押し出し復興させた。
⑦こうして、中世の各郷村単位で編成された組が江戸時代を通じて、3年毎に滝宮神社に念仏踊りを奉納するようになる。
⑧滝宮の躍り込みの前には、各郷村の下部の村単位の神社にも奉納興行が行われ、そこには多くの見物人が押しかけた。
⑨踊り手などの構成員は、世襲制で宮座制に基づく運営が行われていた。
⑩奉納される神社にも、特権的な桟敷席が設けられ売買の対象となっていた。
一遍】ダンシング宗教レボリューション!一遍研究者の「踊り念仏」白熱教室:~国宝「一遍聖絵」をじっくり絵解き!時宗の名宝展がグッと面白くなる~#ky19b160  | 京都の住民がガイドする京都のミニツアー「まいまい京都」
一遍の踊り念仏

 つまり、滝宮念仏踊りのルーツは中世の踊り念仏にあるという説になります。
中世には高野の聖たちのほとんどが念仏聖化します。弥谷寺や多度津、大麻山などには念仏聖が定着し、周辺への布教活動を行っていたことは以前に見たとおりです。しかし、彼らの活動は忘れられ、その実績の上に法然伝説が接木されていきます。いちしか「念仏=法然」となり、讃岐の念仏踊りは、法然をルーツとする由来のものが多くなっています。
 これについて『新編香川叢書 民俗鎬』は次のように記します。
「承元元年(1207)二月、法然上人が那珂郡小松庄生福寺で、これを念仏踊として振り付けられたものという。しかし今の踊りは、むしろ一遍上人の踊躍念仏の面影を留めているのではないかと思われる」

念仏踊りのルーツは高野の念仏聖や時宗の躍動念仏だと研究者は考えているようです。
  また、⑧⑨⑩からは、念仏踊りがもともとは中世のムラの民俗芸能として、祭礼と結びついていたことを教えてくれます。讃岐の念仏踊りが、雨乞いと結びつけられるようになるのは、近世になってからだと私は考えています。
EDM-6 Buddhist bounceと踊り念仏 - みんなアホだね

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「山路興造 中世芸能の底流  中世後期の郷村と雨乞 風流踊りの土壌」

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     綾川のしらが渕 ここで綾川は大きく流れを変える。向こうの山は堤山

山あいの水を集めて流れる綾川は、堤山を過ぎると急に流れを変えて、滝宮の方へ流れます。むかし綾川は、そのまま西へ流れていたそうです。宇多津町の大束川へ流れこんでいたのですが、滝宮の牛頭天王さんが土を盛りあげ、水を滝宮の方へ落してしまいました。

祇園信仰 - Wikipedia
牛頭天王

 さて、奈良時代のことです。島田寺のお坊さまが、滝宮の牛頭天王社におこもりをしました。
祭神のご正体を、見きわめるためだったといいます。
おこもりして満願の日に、みたらが淵に白髪の老人が現れました。
すると、龍女も現れ、淵の岩の上へともしびを捧げられました。
白髪のおじいさんというのが、牛頭天王さんであったようです。
龍女が灯を捧げた石を、「龍灯石(りゅうとうせき)」と呼ぶようになりました。
しらが淵のあたりは、こんもりと木が茂り昼でもうす暗く気味の悪いところだったと言います。
大雨が降り洪水になると、必ず白髪頭のおじいさんが淵へ現れました。このあたりの人たちは、洪水のことを、シラガ水と呼んでいます。まるで牙をむくように水が流れる淵には、大きな岩も突き出ています。岩には、誰かの足跡がついたように凹んでいます。

どんがん岩というのもあります。
どんがんは、大きな亀ということで泥亀が、この淵のヌシだとも伝わっています。洪水のとき、ごうごうと流れる水音にまじって、こんな声も聞こえてきます。
「お―ん、お―ん」
泣き声のようです。
お―ん、お―ん、と、悲しそうな泣き声なのです。 
一体、誰が泣いているのでしょう。

綾川シラガ淵

 北西に向かって流れてきた①綾川は、④シラガ淵で流れを東に変えて滝宮を経て、府中に流れ出しています。しかし「河川争奪」が行われて流路が変更されたのではないかと、研究者は考えているようです。
綾川シラガ渕
綾川としらが淵
  かつては綾川は堤山の北側を経て栗熊・富隈を経て、大束川に流れ込み、川津で海に流れ出していたというのです。そうだとすれば現在は小さな川となっている大束川も「大河」であったことになります。その痕跡がうかがえるのが堤山と国道32号の間に残された「渡池」跡だと研究者は考えています。渡池は、綾川から取水して、大束川水系に水を供給していました。その水利権を持っていたことになります。それが昔話では、次のように伝わっています。

滝宮の牛頭天王さんが土を盛りあげ、水を滝宮の方へ落してしまいました。」

滝宮の牛頭天王とは、何者なのでしょうか?

滝宮神社・龍燈院
滝宮神社(牛頭天皇社)と別当寺龍燈院(金毘羅参詣名所図会)

 河川変更の土木工事を行った「犯人捜し」をしてみましょう。
その際に、真っ先に気になるのはかつての流路を見下ろすかのように造られている「快天山古墳」です。
古墳商店 a Twitter: "【香川・快天山古墳】丸亀市にある古墳 時代前期の前方後円墳。全長98.8m。埋葬施設は後円部に3か所あり、すべて刳抜式割竹形石棺を有する。国内最古の割竹形石棺がある古墳。讃岐型と畿内型双方の前方後円墳築造様式の特徴がみられる。  https://t ...
快天塚古墳
ここに眠る王は、大束川水系と綾川水系を統一した王のようです。
そこに使われている石棺からは鷲の山産ですので、その辺りまでを支配エリアにしていたと首長と研究者は考えているようです。その王の統一モニュメントが、この前方後円墳でなかったのかというのがひとつの仮説です。

綾川の大束川流れ込み
しらが淵周辺の古墳群

シラガ渕で流路が変更されることによって起こった変化を挙げると
①大束川水系の拠点は川津遺跡で郡衛性格も古代にはあったが、大束川の河口で洪水の危機に悩まされていた。
②そこで綾川流れを羽床のシラガ渕で変更することで、川津を守ろうとした。
③同時に周辺や飯山の島田、栗熊などの氾濫原や湿地の開拓を進めることを狙いとした。
④一方、綾川では水量が増え河口から滝宮までの河川交通が開けた。
⑤それを契機に羽床より上流地域の開発が進んだ。
⑥それを進めたのは、ヤマト政権の朝鮮政策に従い半島で活躍した軍人化した豪族達である。また、戦乱を逃れた渡来人達も数多く讃岐に入ってきた。
⑦流路変更工事を主導したのはシラガ渕(新羅系渡来人)たちではなかったのか。
⑧それは周辺古墳から出てくる遺物からも推測ができる。
こんな「仮説(妄想)」を考えている今頃です。
以上 最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献 
 
北条令子 さぬきの伝説 

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