瀬戸の島から

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     金毘羅参詣名所図会  1848年
     金毘羅参詣名所図会

弘化4(1847)年に『金毘羅参詣名所図会』が発行されます。
この図会は、大坂の戯作者である暁鐘成が出版したもので、画家の浦川公佐を連れて、実際に讃岐への取材旅行をおこなっています。53歳の真夏の事なので、暑さのために大変な旅でもあったようです。 金毘羅参詣名所図会は、今では香川県立図書館のデジタルライブラリーで見ることが出来ます。これを使って、丸亀港に上陸した暁鐘成や浦川公佐が見た19世紀半ばの丸亀街道を追体験していこうと思います。図会は全6冊で、第一巻冒頭に次のように記されています。

「丸亀港に渡る参詣人の多くは、浪華から船で向かう者が多いため、まずは船中からの眺望の名所を載せた」
「摂津・播磨の海辺については以前出版されたものに詳しいため、今回は備前の海辺から著すこととした」

 ここからは、上方から金毘羅船で丸亀を目指したことがことが分かります。そして「浪華川口」のあとは、一気に「虫明の迫門(せと)」に飛んで、備中の喩伽山や瀬戸の島々などがが取り上げられ、1巻目は備前で終わります。
丸亀からの金毘羅詣でが描かれるのは2巻目です。
追い風に帆を上げた金毘羅船が丸亀港に向かうシーンから始まります。
金比羅船IMG_8033

  金比羅船の構造や大きさを見ると、19世紀前半に弥次喜多コンビが金比羅詣でに乗船した船は、上廻りに屋形がなく、苫がけ船だったことは以前にお話ししました。しかし、ここに描かれた金毘羅船は垣立が高く、大型の総屋形船になっています。これは樽廻船を金毘羅船用に改造したものと研究者は考えています。文化から弘化・嘉永期の40年の間に、船も大きく典型的な渡海船になったことが分かります。定員も数人だったのが何倍にも増えたことでしょう。金比羅船にも「大量輸送」時代がやってきていたようです。 この動きをリードしたのが大坂の平野屋左吉です。彼は、もともとは安治川の川口の樽廻船問屋でした。樽廻船を金毘羅船に改造して、堺筋長堀橋南詰に発着場を設けて、金毘羅船を経営するようになり急成長していきます。

次のページを開くと、入港地の丸亀港が向かえてくれます。
  丸亀港3 福島湛甫・新堀湛甫
丸亀港 金毘羅参詣名所図会

 瀬戸内海上空から南の丸亀城を眺めた構図になっています。当時の絵図の流行は俯瞰図です。立体感のある俯瞰図は居ながらにして、風景が絵図で楽しめます。ドローン映像で、旅番組の構図が大きく変わったのと同じような意味を持っていたのではないかと私は考えています。
 ここでも正面に右(西)側に福島湛甫(文化3年1806竣工)、左(東)に新堀湛甫(天保4年1833竣工)とふたつの港が描かれています。そして汐入川の河口を遡った奧には丸亀城がどーんと控えます。絵になる光景です。新堀には、2つの大きな燈籠も並んでいます。どちらかが現在の太助灯籠になるようです。

金毘羅参詣名所図会の本文を、見ておきましょう。
丸亀港 金毘羅参詣名所図会
金毘羅参詣名所図会 圓(丸)亀湊

那河郡円(丸)亀湊 
讃岐国北の海浜なり。大阪より海陸ともに行程凡そ五十余里、下津丼より凡そ五里。
当津は幾内条より南海道往返の喉口なるゆへ象頭山の参詣、大師霊場の遍路、其のほか南海に到るの旅客、摂州浪花津より乗船の徒は言ふも更なり。陸路を下向の輩も或は田の口下村より渡り、又は下津丼より越る等何れも此方に着岸せずと言ふ事なし。されば東雲の頃より追々浪花よりの入船、向ひ路よりの着船引もきらず。又黄昏時よりは向ひ路への渡海、登船の出帆有りて船宿の賑ひ昼夜を分ず、浜辺の蔵々には俵物の水揚産物、積送の浜出し仲仕の掛声、船子の呼声藁しく湊口には縦横に石の波戸ありて紫銅の大灯籠夜陰を照し、監船所の厳重、浜々の石灯籠、魚市の群集、御城は正面の山岳に魏々として驚悟しく、内町には市邸軒をならべ交易にいとまなく、就中、籠の細工物、渋団、円座なんど名物也とて讐家多く、旅客かならず需めて家土産とするなど街の繁栄、実に当国第一の湊と言ふべし。城下の封境、寺院、神社の類ひは後編に委しく著はせばこゝに洩す。
  意訳変換しておくと
丸亀港は讃岐国の北の海浜に位置する。大阪より海陸ともに行程およそ五十余里で、対岸の備中下津丼からは5五里程である。この港は、上方からすると南海道往来の喉口になる。そのために金毘羅象頭山の参詣、四国霊場の遍路、その他の南海への旅客など、摂州浪花津より乗船する人々が数多くいることは知られたところである。陸路山陽道を下る輩も、児島の田の口下村や、下津井から船で渡ってこの港に着岸することは言うまでもない。そのため東雲の朝から浪花からの入船や、対岸備中路よりの着船が引もきらず行き交う。また、黄昏時からは備中からの渡海や、上方への上船の出帆も多く、船宿の賑わいは昼夜を分つことがない。
 浜辺の蔵々には俵物の水揚産物が収められ、積送の浜出し仲仕の掛声や船子の呼声が賑やか飛び交う。湊口には、縦横に石の波戸(堤防)が築かれ、その上に建立された紫銅の大灯籠が夜陰を照す。監船所(船番所)が置かれ、浜々の石灯籠、魚市の群集が浮かび上がる。丸亀城は背後の山々を従えて港の正面に建つ。内町には市邸が軒をならべ交易にいとまがない。そこでは、籠の細工物、渋団、円座などの讃岐の名物などを売る店が多く、旅客は必ず土産に買い求めていく。丸亀城下町の街の繁栄は、実に当国第一の湊というにふさわしい。城下の封境、寺院、神社などは、後編に委ねることにして、ここでは省略する。
〔閑田耕筆に守興和尚が話に云ふ〕
備前の下津居より船にて丸亀へ渡る。海上丸亀近くなりてはるかむかひに五尺斗りなる黒き澪標みゆさも深かるべき所に、いかに長き木をうちこみて斯くみゆるばかりにやと怪しくて船頭にとわれしかば、船頭見てあれは大亀の首を出したるなり。空曇なく海長閑なる日はかく首を出し、あるひは全身をも現す。昔より大小二亀すみて大なるは廿畳じきほどもあらん。小なるもさのみ劣らず、此のものゝ住めるがゆへにこゝを丸亀とは名付たりと語りしと云々。

意訳変換しておくと
備前の下津居から船で丸亀に渡っていたときの話です。丸亀が近づいてきた頃に、海の上に五尺ばかりの黒い澪標が打ち込まれたように突き出ていました。それはまるで、長い木をうち込んだようにみえたので、不思議に思って船頭に聞いてみました。すると船頭は次のように応えました。
「あれは大亀が首を出しているんですわ。空に曇や風がなく、海が穏やかな日には、あんなふうに首を出します。時には、全身を現す時もあります。このあたりには、昔から大小のふたつの亀が住み着いていています。大亀は二十畳敷ほどにもなります。小亀も、それと変わらないでしょう。この亀たちが住みついているので、ここはを丸亀と名付たようです。

福島湛甫ができる前の船着きは土器川河口の「川口」と呼ばれる自然の港で、干潮時には沖で潮待ちをしなければ上陸できませんでした。

丸亀市東河口 元禄版
土器川河口の川口湊

 そのため福島湛甫が作られます。もとの船着き場でであった土器川河口周辺は、宇多津・坂出から移住させられた三浦(御供所・西平山・北平山)の人々が船宿や茶屋を営業して繁盛していました。彼らはただの漁民でなく、中世以来の海上運送業も数多くいて、商業活動を行っているものもいたのです。福島に港が移動するときには、彼らも移ってきたようです。さらに金毘羅船が大型化すると、港が浅い福島湛甫では入港できなくなり、新たに新堀湛甫が作られたとようです。福島湛甫=小型船、新堀=大型船という棲み分けがあったのかも知れませんが、絵図上からは読み取ることはできません。
丸亀城 福島町3
新堀湛甫が完成する前の丸亀港と福島

福島・新堀のふたつの港から上陸した客は、まず船宿に入り、船旅の疲れをいやし、陸路の準備をします。
 弥次喜多コンビの金比羅詣での際にもお話ししたように、船宿は金毘羅船の梶取りや船主が経営したり、タイアップしていました。そのため客は、船頭に連れられてそれぞれの宿に入ります。当時の引き札を見ると、大坂と丸亀・金毘羅の船宿が数軒ずつ並んで載せられています。ここからは大坂出発時点で、丸亀や金毘羅の宿か決まっていたことが分かります。つまり「金毘羅船の乗船券+丸亀・金毘羅の宿」がセット販売されていたことになります。

丸亀より金毘羅・善通寺道案内図 原田屋2県デジタルアーカイブ
丸亀より金毘羅・善通寺・弥谷寺道案内図 版元原田屋

 旅人は、三里(約12㎞)の道を歩いて金毘羅へ向かう身支度や携行品の準備を宿で行います。
多くの参拝客は、金毘羅だけでなく善通寺・弥谷寺の七ヶ所巡りをして、丸亀に帰ってくるルートを宿に勧められるとおりに選んだので、不用な荷物は宿に預けたようです。宿は旅人のために、飲食物の供給、休憩・娯楽場所の提供、旅行用具・土産物の販売や接待に努めます。その以前に紹介した「金毘羅案内図」を無料で手渡しながら次のように勧めたのでしょう。
「金毘羅さんだけなく、この際に弘法大師のお生まれになった善通寺もぜひご参拝を」
「弥谷寺などの七ヶ所廻りも地元では、お参りするする人が多いですよ」
「お土産は途中で買うと、手荷物になって不便ですから、船に乗る前に当店でどうぞ、お安くしますよ」

  丸亀港の船宿を出た後に描かれるのが次の絵図です。

丸亀街道 田村、田村ノ池、山北八幡宮20111108_112757093
 丸亀街道 三ッ角(みつかど)の分岐点 金毘羅参詣名所図会

  金毘羅街道を馬に乗った参拝客が馬子に引かれて集団で進んでいます。進行方向は右から左のようです。その行く先の左上に山北八幡が見えます。また、右上には田村の集落を貫いて金毘羅街道が伸びています。そして右端中央には、田村池の東側の堤防が見えているようです。ここには枝振りのいい松があり、その下には大きな道標や常夜灯が並んでます。ここは、いったいどこなのでしょうか? 最初、私には分かりませんでした。金毘羅街道は、南に伸びているものという先入観があったからです。本文を読んでみましょう。

丸亀街道 中府口・三軒家
金毘羅参詣名所図会2巻 三軒家
中府口   
城下南の出口にして則ち金毘羅参詣の道条、是より行程百五十町と云ふ。
中府村  
城下の門外にて市中続きの在領也。左右人家建ち列り農工商ともに住す。
三軒家  
中府村の中なり。昔は僅か三軒のみなりしが繁栄に付き、今は人家軒を並べり。故に其の旧名をよべり。此所より道すじ左右に分れり。右は伊予街道にして善通寺に至る者は是に赴く。左は金毘羅参詣の往還にして道標の石、奉納の石灯籠等道の傍辺にあり。象頭山参詣の道条中府口より百五十丁の間は、都て官道にひとして路径広く高低なく、老幼婦女等も悩まざるの平地なり。其の上傍らの在郷より農夫あまた馬を引いで参詣の旅客を進めて乗らしむる事、三方荒神の櫓にして馬士唄うたひ連て勇める形勢、恰も伊勢参宮の街道に髣髴たり。
意訳変換しておくと
  三軒家
中府村の中で、昔は三軒だけした家がなかった。それが今では繁栄して、人家が軒を並べるようになった。ここから道筋に行くと、街道が左右に分かれた三叉路になる。右が伊予街道を経て善通寺へつながる道である。左が金毘羅参詣の往還で、道標や燈籠などが並んでいる。

象頭山参詣の道中で、中府口より百五十丁の間は、全て官道のようなもので路径は広く高低ないので、老幼婦女等にも容易な平地である。
 その上、在郷の農夫が馬を引いて参詣旅客に乗ることを勧める。三方荒神の櫓をつけて馬子唄を謡って、連れだっていく姿は、あたかも伊勢参宮の街道を彷彿とさせる。
 ここからは、この絵図が三間茶屋のすぐ南の三叉路であることが分かります。中府の大鳥居から400m程南へ進むとあるドラッグストア前の変形十字路(三つ角)です。明治初期までは南へ直進する道はなく、ここは行き止まりでT字の三叉路でした。そのため、この辺りは三ッ角(みつかど)とも呼ばれていたようです。ここが、伊予街道との分岐点だったようです。右(南西)へ進むと伊予街道です。ここに大きな道標や常夜灯があり、金毘羅街道と伊予街道への分岐点でもあったようです。

丸亀街道地図 丸亀城周辺

 そして、金毘羅街道は、三ツ角から山北八幡方向にむけて東へ進みはじめるのです。そして、県道33号線(旧国道11号線)を横切った後、骨付き鶏「一骨」のある丸戸の交差点まで東進し、そこで方向を再び南に変えます。つまり、ここまでのルートは丸亀城の西側を迂回してことになります。丸戸の交差点からは丸亀平野の古代条里制に沿って、ほぼ真っ直ぐに南下していきます。その南下する方向に田村池と田村集落が描かれいることになるようです。

丸亀より金毘羅・善通寺道案内図 原田屋6 三軒家標識

   上図が三軒家の三ツ角 「丸亀ヨリ金毘羅善通寺弥谷道案内記」

 原田屋版の案内図に描かれている三軒家の三ッ角(みつかど)を見てみましょう。背後には田村池が描かれています。そして丸亀城の中府口からの道と三叉路でまじわった所に大きな道標や常夜灯が描かれています。西に伸びる道は金倉川を越えて「永井清水」で善通寺への金比羅多度津街道と交わります。ここが永井の交差点のようです。伊予街道はさらに鳥坂方面に続きます。
丸亀より金毘羅・善通寺道案内図 原田屋7 三軒家標識
⑨の三軒家の三ツ角 「丸亀ヨリ金毘羅善通寺弥谷道案内記」の拡大図
丸亀方面(北)からやってくると、左側の標識には
右 イヨ
左 こんぴら江
右側の標識には、
右 弘法大師 善通寺
と記されています。
最後に、参詣者を載せている馬と馬子を見ておきましょう。
丸亀街道 田村 馬子
枠付馬(三宝荒神の櫓)に乗った参拝客
丸亀港に金比羅船が着くと、争って客引きをしたのが馬方と駕龍屋のようです。駕龍は二人で担ぐ二枚肩の打ち上げ駕龍が普通でした。馬は枠付馬で(三宝荒神の櫓という)三人まで乗れました。駄賃は三人で三分、酒代一朱でしたが、馬子たちは客の懐を見て値を付けていたようです。馬や駕寵の終点は、金毘羅二本木の銅鳥居の下で、現在の高灯籠のところです。三方荒神の櫓に揺られながら馬子唄を謡って、連れだっていく姿がここには描かれています。馬子唄がどんな歌詞で、どんなメロデイであったのかを今は知ることはできません。
  今回は三軒屋の三ッ角(みつかど)までとなりました。以下は、またの機会に

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 丸亀市史 819P
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丸亀:金毘羅参拝図 高灯籠以後 
金毘羅案内図
金毘羅船で丸亀にやってきた参拝客は、案内絵図を手渡されます。その案内図に従って「金毘羅+四国霊場善通寺 + 七ヶ寺」巡礼を行って、再び丸亀に帰ってきて、帰路の船に乗ることが多かったことを、前回までにお話ししました。案内図には、目印となるモニュメントが描かれるのがお約束でした。新たに描かれるようになったモニュメントで、その案内図がいつごろ出版されたかもわかります。今回は絵図に描かれたモニュメントを見ながら絵図の発行年代を推測していきたいと思います。

最初に、参拝道モニュメントの完成年を押さえておきます。
天明2年 1782 粟島庄屋、高藪の鳥居寄進。
天明8年 1788 二本木銅鳥居建立。
文化元年1804  善通寺の五重塔完成
文化3年 1806 丸亀福島湛甫竣工
文政元年 1818 二本木銅鳥居修覆。
文政5年 1822 十返舎一九、「讃岐象頭山金毘羅詣」
天保2年 1831 金堂初重棟上げ。
天保4年 1833 丸亀新掘湛甫竣工
天保5年 1834 神事場馬場完成、多度津港新湛甫起工。
天保6年 1835 芝居定小屋(金丸座)上棟。
天保11年1840 多度津須賀に石鳥居建立。 善通寺五重塔落雷を受けて焼失。
弘化2年 1845 金堂、全て成就。
嘉永元年 1848 阿波街道口に鳥居建立。
嘉永2年 1849 高藪町入口、地蔵堂建立。
嘉永4年 1851 二本木に江戸火消組奉納の並び灯龍完成
安政元年 1854 安政地震で新町の鳥居崩壊、高藪口の鳥居破損。
  道作工人智典、丸亀口から銅鳥居までの道筋修理終了。
安政2年 1855 新町に石鳥居再建。(位置が東に移動)
安政4年 1857 多度津永井に石鳥居建立。
安政6年 1859 一の坂口の鉄鳥居建立。
万延元年 1860 高燈籠竣成
文久元年 1861 内町本陣上棟。
元治元年 1864 榎井村六条西口に鳥居建立。
慶應3年 1867 賢木門前に真鍮鳥居建立。旗岡に石鳥居建立。
上の年表を、年代判定の「ものさし」にして。案内絵図の発行年代を推測してみます。
丸亀より金毘羅・善通寺道案内図 原田屋
      E27「丸亀ヨリ金毘羅善通寺弥谷道案内記」
 この絵図で、大きな指標となるのが丸亀港のふたつの湛甫①②と、二本木周辺⑤のモニュメント群です
②に天保4年(1833)に完成した新堀が描かれ、江戸町人の寄進灯龍2基が並ぶこと
⑤に万延元年(1860)に建設された高燈籠が描かれていること。
さらに金毘羅の山上を見ると、金堂が旭社と改名されていること
ここからは、神仏分離の進んだ明治以後に発行されたものであることが分かります。年表を見ると慶應3(1867)年に、賢木門前に真鍮の鳥居建立されたという情報があります。確かに、賢木門前には鳥居があります。しかし、これが、真鍮かどうかは分かりません。また、金毘羅大権現から金刀比羅宮へと切り替えが進み、神仏分離が実質的に進められるのは、翌年の明治2年以後です。下限年代を絞り込む情報を、私は見つけることができません。絵図の発行年代は明治2年(1867)~明治5年くらいまでとしておきます。

善通寺・弥谷寺
善通寺 ないはずの五重塔が描かれる

私がこの案内図を見ていて不思議に思うのは、善通寺の五重塔です。
この塔は、戦国末期に焼け落ちてなかったものが文化元年(1804)に再建されます。ところがそれもつかのまで、天保11(1840)年には落雷で焼失します。それが再建されるのは明治の後半になってからのことです。つまり、幕末から明治前半には、善通寺の五重塔は姿を消していたはずです。ところがどの金毘羅案内図を見ても、善通寺の五重塔は描かれているのです。これをどう考えればいいのでしょうか?

233善通寺 五岳
善通寺の東院と誕生院 五重塔

  善通寺にとって五重塔は必要不可欠のアイテムなので、実際になくても描くというのが「お約束」だったのかもしれません。どちらにしても五重塔は、絵図がいつ描かれたかを知るための基準にはならないことを押さえておきます。

丸亀街道 E22 ことひら5pg
E㉒「丸亀ヨリ金毘羅善通寺弥谷道案内記」

これも原田屋の版で、先ほど見た明治ものと描かれているモニュメントはほとんど同じです。ところが、山上の宗教施設の註が全て異なっています。金堂や観音堂など神仏混淆時代の呼名が記されています。ということは、神仏分離前に発行されたものであることが分かります。山下のモニュメントを見てみると、次の2つが描かれています
・二本木の高灯龍(万延元年(1860)完成)
・仁王門下の一ノ坂口の鉄鳥居(安政六年(1859)建立)
以上から、E㉒は高灯籠建立後から明治維新までの間に出されたものと分かります。

丸亀街道 E27 ことひら5pg
      E㉗「丸亀ヨリ金毘羅善通寺弥谷道案内記」

E㉗を先ほどのE㉒と比べて、何がなくなっているかを「引き算」してみます。
・二本木の高灯龍(万延元年(1860)完成)がありません。
・しかし、1851年に完成した並び燈籠はあります
・仁王門下の一ノ坂口の鉄鳥居(安政六年(1859)建立)もありません。
・新町の燈籠もありません。



年表を見ると分かるように、新町の燈籠は、安政元年(1854)の大地震で倒れてしまいます。そして、その翌年・安政2(1855)年に、位置を東側に移して石鳥居として建立されます。これが現在のもののようです。以上からこの案内図は、新町鳥居の建立より前で、並び灯籠完成後の間に出版されたことになります。
丸亀街道 E⑳ ことひら5pg
      E⑳「丸亀ヨリ金毘羅善通寺弥谷道案内記」
最後にE⑳です
①天保4年(1833)に完成した新堀湛甫が描かれ、江戸町人の寄進灯龍も3基並ぶこと
②弘化2年(1845)に完成した金堂が描かれていること。
③万延元年(1860)に、二本木に建設される高燈籠が描かれていないこと。
④安政元年(1854)に倒壊した新町の鳥居が再建前の位置に描かれていること。
⑤二本木に嘉永4年(1851)に江戸火消組奉納の並び灯龍がなく、玉垣だけであること
以上からE⑳は、1845年~51年の間に出版されたと推測できます。しかし、金堂に関しては、完成の5年前には、銅葺き屋根は姿を見せていたので、さらに遡る可能性はあります。
高灯籠8
幕末の二本木 高灯籠建立後で二本差しの武士が見えるので幕末期

こうしてみると金堂が整備される時期にあわせて、石段や玉垣なども整備され景観が一変していきます。それが人々にアピールして、さらなる参拝客の増加を招くという結果を招きます。案内絵図を見ていても燈籠や道標などのモニュメントが急速に増えていくのも、この時期です。高灯籠の出現は、この時期に出現したモニュメントのシンボルであったと私は考えています。
丸亀街道 弥谷寺めぐり


 丸亀から善通寺や七ヶ所霊場を周遊する霊場巡りは、明治になっても変わりません。これが大きく変化していくのは、明治20年代に登場する多度津と琴平を結ぶ汽車です。汽車の登場によって、歩いての金毘羅参拝は下火になり、善通寺やそのまわりの七ヶ寺を巡礼する参拝者は激減していくようになります。金毘羅参拝と四国巡礼が次第に分離していくことになります。それ以前は、神仏混淆下で金毘羅も善通寺もおなじ金比羅詣でだったようです。
高灯籠23
明治の二本木周辺 並燈籠+鳥居+一里塚の巨木+高灯籠

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
    「町史ことひら5 絵図写真篇112P 丸亀からの案内図」
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丸亀港2 福島湛甫・新堀湛甫
丸亀港 福島湛甫と新堀湛甫が並んで見える
 
19世紀になると金比羅船で上方からやって来る参拝客が激増して、受入港の丸亀は大賑わいとなります。そのため新たに、丸亀藩では福島湛甫や新堀湛甫を建設して、参拝客の受入対応が整備されていきます。その結果、船宿や旅籠や茶屋やお土産店などが数多く立ち並ぶようになり、観光産業が港周辺には形成されていきます。
 彼らの中には、参拝客獲得の客引きのために金毘羅案内図を無料で配布する者も現れます。これは、大坂の船宿が金毘羅船の航路図を配布していたのと同じやり方です。案内図を渡しながら次のような声かけを行ったと私は想像しています。
「金毘羅大権現だけでなく、弘法大師さんお生まれの善通寺もどうぞ、さらにはお四国めぐりの七ケ所めぐりもいかがですか」
「丸亀から帰りの船も出ますので、荷物はお預かりします、お土産は途中でお買いなると荷物になりますので、船に乗る前に当店で、是非どうぞ」
丸亀港3 福島湛甫・新堀湛甫
福島湛甫と新堀湛甫

 こうして多くの金毘羅参拝者たちは、「金毘羅大権現 + 七ケ寺巡礼」(金毘羅大権現→善通寺→甲山寺→曼荼羅寺→出釈迦寺→弥谷寺→海岸寺→道隆寺→金倉寺)を周遊巡礼して、丸亀に帰ってきました。そこで、帰路の船に乗船する前に荷物を預けたお土産店で、土産を買い込みます。
こうした動きを先取りしたのが、前回紹介した丸亀の横闘平八郎です。
丸亀街道 E⑬ 町史ことひら5 
金毘羅土産所の図 当時の金毘羅土産がわかる
 彼は板木を買い取り、自分で案内図などの出版を手がけるようになります。彼の金毘羅詣でなどの案内記には、丸亀・金毘羅の名物紹介したページが載せられるようになります。ここでは横開平八郎は「讃岐書堂」と名乗っています。観光業から出版業への進出と云えそうです。
「金毘羅御土産所」で扱っていた当時の金毘羅名物を見てみましょう
①玉藻のつと
②五しゆ漬
③小不二みそ
④あけぼの
⑤無事郎
⑥しだやうじ
⑦にとせし
⑧ちん其扇
⑨国油煙墨       油を燃やして煤を採煙し、膠、水、香料などと混ぜ合わせて造られた墨。
⑩寿上松葉酒     松葉は「ここに天の神薬を頂き、この身は天の無限の力
⑪はら薬舎
⑫五用心
⑬直に任せて
⑭あかひむ
⑮わすれ貝
 上に挙げられているお土産が一体何であるのか残念ながら私にはよく分かりません。③がみそ、⑨が墨、⑩が滋養酒のようです。それ以外にも飴、湯婆・みそ・松茸・索麺・生姜が含まれているようですが見当も付きません。ご存じの方があったら教えて下さい。
案内図の板元と土産店を経営する丸亀の横開平八郎が出版したふたつの絵図を見てみましょう。
丸亀街道 E⑪ 町史ことひら5
E⑪「金毘羅參詣案内大略圖」 (町史ことひら5)より

E⑪「金毘羅參詣案内大略圖」には、丸亀港に新堀湛甫や太助灯籠が描かれています。新堀湛甫の完成は天保4年(1833)のことになるので、それ以後に出されたものであることが分かります。これは、前回見たように、買い求めた版木に自分の名前と一部を入れ替えただけのものです。今まで丸亀から各地への里程が記されいた左下隅の枠内には、金毘羅案内の書物9部の広告が載せられています。広告の最後には、次のように記されています。
地本弘所書林/丸亀加屋町碧松房/金物屋平八郎(横関平八郎)

  ここからは横開平八郎は、房号を碧松房といったことが分かります。また先ほどの「金毘羅土産所の図」と併せると「地本弘所書林」は「名物土産舗」も兼業していたことが分かります。丸亀の金物屋平八郎(碧松房・横関平八郎)は、金物屋から土産店、そして出版版元へと多角経営に乗り出していたことが見えてきます。

丸亀街道 E⑬ 町史ことひら5
E⑬ 象頭山喩伽山両社参詣道名所旧跡絵図

E⑬も横開平八郎の刊です。
今まで絵図に比べると上下が広い印象を受けます。そして見たことのない構図です。それもそのはずです。E⑪の下に、瀬戸内海と対岸の備中が付け加えられているのです。追加された下の部分で目立つのは、丸亀対岸の児島半島の喩迦山蓮台寺です。蓮台寺では、五流修験者たちが金比羅詣で客を喩伽山に引き込むためにいろいろな営業活動が行われるようになります。そのひとつが、金毘羅参詣だけでは「片参り」になり、楡迦山へも参詣しないと本当の御利益は得られないという巧みな宣伝です。このため19世紀半ばになると参拝客も増えます。そのために出されたのが「両参り」用のこの案内書E⑬のようです。喩伽山とタイアップして、観光開発をすすめる平八郎の経営姿勢がうかがえます。
 丸亀街道 E⑭ 町史ことひら5
E⑭「金毘羅參詣案内大略圖」
E⑭「金毘羅參詣案内大略圖」標題下の板元名の欄が空白です。また、左下欄も半分が真っ白です。それ以外は、横関平八郎が版木を買って発行したE⑪と全く同じもののようです。板木が摩滅して見にくくなっています。ここからは、横関平八郎の手元にあった版木が、嶺松庵に売り渡されて出されたものがこのE⑭になるようです。版木は、売買の対象でした。横関平八郎は、「金毘羅バブル」に乗って、は派手な仕事をしていたようで、経営は長続きせずに板木を手放したようです。
丸亀街道 E⑮ 町史ことひら5
E⑮「丸亀ヨリ金毘羅善通寺弥谷寺道案内図」

 E⑮はタイトルが「丸亀ヨリ金毘羅善通寺弥谷寺道案内図」にもどりました。板元は丸亀富屋町原田屋です。左下の枠の中に、丸亀より、こんひら・ぜんつうじ・いやたに・たかまつへの里程を示し、金毘羅の3度の会式、善通寺の御影供と誕生仝の期日を示したあとに、「別二御土産物品々御座候」とあります。ここからは、原田屋も金物屋平八郎と同じように、土産物経営と絵図出版をセットで行っていたことが分かります。
E⑮では、福島湛甫は見えますが、東側に新堀湛甫がまだ姿を見せていません。新掘湛甫竣工は天保4年(1833)年なので、それ以前のものになります。この図で面白いのは、左上の伊予街道の牛屋口の上に高い山と道が書かれていることです。私は最初は伊予の石鎚山かと思いました。よく見ると阿波の箸蔵寺なのです。箸蔵寺周辺は、阿波修験者の拠点で、寺院建立後に活発な布教活動を展開します。そして喩伽山と同じように、金毘羅山の参拝客を呼び込むための広報活動も展開されます。その動きを受けて、丸亀の原田屋は、ここに箸蔵寺を書き加えたことが考えられます。金物屋平八郎は備前喩伽山、原田屋は箸蔵寺の修験者たちの影響下にあったことがうかがえます。

以上を整理しておくと
①金毘羅船就航以後、金比羅参拝者は激増し、丸亀港は上方からの人々で溢れるようになった。
②それを出迎える丸亀では、金毘羅船の船頭が船宿を営み、旅籠やお土産店などが数多く現れ観光産業を形成するようになる。
③その中のお土産店の中には、金比羅詣案内パンフレットを自分の手で発行する者も現れる。
④そこには、兼業するお土産店やタイアップする旅籠などの広告が載せられ客引き用に用いられた。⑤案内図が示す参拝ルートは、丸亀から金毘羅を往復ピストンするものではなく、善通寺 + 四国霊場七ケ寺」の巡礼を奨める者であった。
⑥当時の金毘羅参拝客の多くが「金毘羅 → 善通寺 → 甲山寺 → 曼荼羅寺 → 出釈迦寺 → 弥谷寺 → 白方の海岸寺 → 道隆寺 → 金倉寺 → 丸亀」の周遊ルートを巡っていた。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献


    金毘羅船 4
金比羅船
延享元年三月(1744)に、「金毘羅船」の運行申請が大坂の船問屋たちから金毘羅大権現の金光院に提出されます。その結果、「日本最初の旅客船航路」とされる金毘羅船が大坂と四国・丸亀を結ぶようになります。以後、金毘羅信仰の高揚と共に、金毘羅船は年を追う毎に繁昌します。こうして、金毘羅船をめぐって、船舶・船宿・観光出版・お土産店など新たな観光産業が形成されていくようになります。 
金毘羅船 苫船
「大阪道頓堀丸亀出船の図」(金毘羅参詣続膝栗毛の挿入絵)

19世紀初め出版された弥次喜多コンビの金比羅詣では、大坂の船宿で金比羅船の往復チケットを購入しています。その際には、どこで買っても同一料金で、原則は往復チケットになっていました。行きも帰りも同じ船に乗ることが原則だったようです。また、大坂の船宿で、金比羅チケットを購入したときに、丸亀や金毘羅の提携宿も決まるシステムだったのは以前にお話ししました。
 こうして増える参拝客をめぐる攻防戦が船宿や指定宿・お土産店屋で繰り広げられるようになります。その際の広告媒介が航路案内図であり、丸亀から金毘羅への参拝案内図であったようです。

丸亀に上陸した参拝客は、ふたたび丸亀から帰路の船に乗ります。そのために手荷物を預かったり、案内図を無料で配布することで、購買客をふやす戦略を採るようになります。この結果。お土産店などが案内図作成を行うようになります。今回は丸亀で配布された金毘羅参拝案内図を見ていくことにします。テキストは「町史ことひら5 絵図写真篇112P 丸亀からの案内図」です。

丸亀街道 E① 町史ことひら5
E① 「丸亀ヨリ金毘羅善通寺弥谷道案内記」クリックで拡大します
E①はタイトルが「丸亀ヨリ金毘羅善通寺弥谷道案内記」とあり、このシリーズの初版になるようです。
全体をみて気づくのは丸亀ー琴平の丸亀参拝道だけが描かれているのではないことです。弥谷寺や善通寺が金比羅参拝の「巡礼地」として描かれています。先ほども述べたように、この絵図は丸亀に上陸したときに宿やお土産店などで、参拝客に配布されたようです。参拝者に対しては、丸亀・琴平間の往復ではなく、「金毘羅大権現 + 四国巡礼の七ヶ所廻り」が奨められていたことがうかがえます。丸亀から琴平を目指し、善通寺を経て弥谷寺にお参りし、白方の海岸寺から多度津を経て丸亀に戻ってくると云う周遊ルートが売り出されていたようです。それは、金比羅舟の営業戦略でもあったようです。丸亀で下船したお客を、帰路も乗船させるために、金比羅船は往復チケットを販売します。そのため善通寺・弥谷寺をめぐる周遊ルートが売り出されてのではないかと私は考えています。
E①を、もうすこし具体的に見ておきましょう。
①板元名はない
②丸亀城下の見附屋の蘇鉄が注記されていて、港などは描かれていない。
③丸亀ー金毘羅間の丸亀街道沿いの飯野山などの情報は、何も記されていない。
④金毘羅の門前町から本社までの比率が長く詳細である
⑤桜の馬場が長く広く描かれている。その柵は、木製で石の玉垣ではない
⑥善通寺は五重塔と本堂だけで、周辺の門前町は描かれていない。
⑦弥谷寺は「いやだに」と山名だけ
⑧多度津の情報はなにもない
⑥の善通寺の五重塔が完成するのは、文化元年(1804)十月のことです。関東からやってきた廻国行者が善通寺境内に庵を造り、そこを根拠にして10年の勧進活動の後に完成します。建設計画から約80年余の月日を要しています。ここからは、この絵図が書かれたのは、それ以後であることが分かります。ちなみに丸亀福島湛甫が完成するのがその2年後になります。残念ながら絵図には、福島湛甫はエリア外になっています。丸亀街道 E② 町史ことひら5
E② 丸亀ヨリ金毘羅善通寺弥谷道案内記
E②は、左下欄外に「文化十四(1817)丁丑年 十二月中旬調之 大野」と墨書があるので、それ以前のものであることが分かります。丸亀街道沿いについては、飯野山が描かれ郡家や公文あたりの情報量も増えてきました。それでも左半分は、金毘羅さんのエリアです。
これだと、鞘橋を渡ってすぐに仁王門があることになります。桜の馬場が長すぎます。
 丸亀街道 E③ 町史ことひら5
E③ 丸亀ヨリ金毘羅善通寺弥谷道案内記
E③は、今までのもととは、俯瞰視点が大きく変わりました。そして家並みなどもしっかりと描き込まれて、情報量も格段に増えました。例えば、左下に「丸亀ヨリこんひらご二り(里) 一ノ坂ヨリ山上下一二十六丁 内町ヨリ善通寺へ七十五丁(以下略)」と各地への里程が書かれています。
 そして、E③には「板本谷一」と板元名が記されます。坂本谷一は、天保初年刊行の「丸亀繁盛記」にも「象頭山・四國巡路の書閲は板本谷一にとどまり」とあるので、当時は有名な絵図屋であったようです。
 描かれた時期は、丸亀に文化三年(1806)に完成した福島湛甫が見えます。また、金毘羅門前町の二本木に小さな鳥居が見えます。ここに江戸の鴻池儀兵衛などによって鳥居が立てられるのは天明七(1787)年のことです。
  また、丸亀のライバル港である多度津港が描かれています。しかし、多度津港新湛甫が完成するのは、天保9年(1838)のことです。まだ桜川河口に船は係留されているようです。
丸亀街道 E⑥ 町史ことひら5
     E⑥ 丸亀ヨリ金毘羅善通寺弥谷道案内記
 E⑥は、街道が木道のように描かれ、分かりやすくなったことと、丸亀・金比羅・善通寺などの町屋の道筋が描き込まれるようになったのが特徴です。版元は右下に御免板元・吉田屋某と見えます。金毘羅山をみると、金堂が大きくなって描かれています。金堂が完成するのが弘化2年(1845)年ですので、それ以後のもののように思えます。しかし、金堂は瓦葺きのようにも思えます。瓦葺きで葺かれた後に、設計上の問題から銅板葺に改修されています。そうだとすると、1840年よりも前のことになります。以下気づくことをあげておくと次のようなことが分かります。
①多度津街道の終点である高藪に鳥居が描かれていること
②鞘橋を渡った後の内町。金山寺町などが表記されていること
③善通寺は赤門筋が門前町化し、南には街並みはみられないこと
丸亀街道 E⑨ 町史ことひら5大原東野
E⑨

 E⑨はそれまでと「金毘羅並びに七所霊場 名勝奮跡細見圖」とタイトルが変わりました。それまでの絵図と比べると、描写が写実的で細密でレベルがぐーっと上がった印象を受けます。絵師の大原東野は、奈良の小刀屋善助という興福寺南圓堂(西国三十一二所第九番札所)前の大きい旅龍の出身です。京都・大坂で画業活動を行った後に、文化元年(1804)に金毘羅へ移り住み、いろいろな作品を残しています。この人のすごいところは、それだけでなく金毘羅参詣道修理のために「象頭山行程修造之記」を配布して募金活動による街道整備も行っていることです。上方で活躍していた画家が「地方移住」して、残した絵図になるようです。金毘羅周辺の建物構成がきちんと描かれ、後の模範となる作品と評価されます。

この絵図の注目点は他にもあります。タイトルがそれまでの「丸亀ヨリ金毘羅善通寺弥谷道案内記」から「金毘羅並びに七所霊場 名勝奮跡細見圖」に変更されています。それに伴い弥谷寺が消えました。善通寺の比重も低くなっているように見えます。うっすらぼやけてこの絵図では本堂も五重塔も見えないようです。実は、文化元年(1804)に再建された五重塔は、天保11年(1840)落雷を受けて焼失してしまいます。5年後の弘化2年(1845)に再建に着手しますが、完成するのは約60年後の明治35年(1902)のことになります。
 一方丸亀港に目を転じると、文化三年(1806)に完成した福島湛甫は見えますが、天保4年(1833)に竣工の丸亀新掘湛甫は、まだ姿を見せていないようです。
丸亀城 福島町3
福島湛甫 (新堀湛甫が姿は見せるのは1833年)

   この絵図には私たちの感覚からすると、金比羅詣案内図に弥谷寺がどうして描き込まれるのという疑問がありました。それが消えたのがこの絵図です。その代わりに登場させたのが「金毘羅並びに七所霊場」です。地元でお参りされた「四国霊場七ケ所詣 + 金毘羅大権現」ということになります。
丸亀街道 E⑩ 町史ことひら5
 E⑩「金毘羅參詣案内大略画」

E⑩「金毘羅參詣案内大略画」は、E⑨と板元が同じ大津屋です。
大津屋は、四国遍路の書物「四國遍路御詠歌道案内」「四國蜜験尋問記」の出版にも関係し、宝暦13年(1762)には「四國遍礼絵図」の板木を買い求めて、文化四年(1807)に、草子屋佐々井二郎右衛門の名で新しく刊行しています。
 丸亀の横開平八郎は、金毘羅参詣や四国遍路のことに強い関心を持っていたようで、大阪の二軒の草子屋と相合版でE⑨・E⑩図を出したことになります。彫工は、どちらも丸亀の成慶堂になっています。なお、この絵図のタイトルは、「金毘羅参詣案内大略圖」です。E⑨を更に進めて、「七ヶ所参り + 金毘羅大権現」から四国辺路巡礼にあたるルートがなくなりました。丸亀街道が、大阪・金毘羅の参詣道最後の道として、大切なものであるとの意識が強くなってきたものと研究者は指摘します。地図の中に描かれた情報は、E⑨と変わりないように見えます。
丸亀街道 E⑪ 町史ことひら5
E⑪「金毘羅參詣案内大略圖」

E⑪「金毘羅參詣案内大略圖」は標題も板元もE⑩と同じです。
ただ違うのは、丸亀港に新堀湛甫や太助灯籠が描かれています。新堀湛甫の完成は天保4年(1833)のことになるので、E⑩の改訂版と云えそうです。もうひとつ今までと違うところは、左下の枠内の記事のようです。これまでは、ここには丸亀から各地への里程が記されていました。それが金毘羅関係の書物九部の広告が出されています。これは初めての試みです。広告の書物の中には「金毘羅參詣海陸記」も入っています。広告の後には、次のように記されています。

地本弘所書林/丸亀加屋町碧松房/金物屋平八郎(横開平八郎)

  ここからは横開平八郎は房号を碧松房といったことが分かります。金毘羅案内書の名著「金毘羅山名勝図絵」は、大阪の石津亮澄の著作で、大原東野と横開碧松が校者を担当しています。東野は画家なので挿絵担当で、碧松は地理の案内をしたようです。この二人によって、金毘羅参拝絵図にも新風がもたらされたようです。ちなみに別の絵図には、次のように記されています。
「讃岐名産絵図小売おろし所、名物土産舗 丸かめ(丸亀)かや町 金物崖平八郎」

ここからは「地本弘所書林」は「名物土産舗」も兼業していたことが分かります。金物崖平八郎(碧松房)は、観光業の多角経営者であったようです。
丸亀街道 E⑬ 町史ことひら5 
E⑫「金毘羅土産所之圖」       120P
E⑫は仁尾・覚城院の南月堂三の「象頭山金毘羅大権現迢験記」の奥付にある図のようです。もともと、この書は明和六年(1769)、京都の梅村市兵衛・菊屋安兵衛・梅村宗五郎の相合版で出版されました。それを文政二年(1819)12月、丸亀の横闘平八郎が板木を買い取り、自分の名で出版します。その時に、この図を入れ、また丸亀・金毘羅の名物を四ページにもわたって広告します。
当時の金毘羅名物が、飴・湯婆・松茸・索麺・生姜などであったことが分かります。ここでは横開平八郎は「讃岐書堂」と名乗っています。
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右側が福島湛甫 左手前が新堀湛甫


以上をまとめておきます。

①18世紀半ばに金比羅船が就航すると、クルージング気分で参拝できる金比羅詣での人気は急速に高まった。
②18世紀後半から19世紀かけて金比羅船関連の船宿・土産物・旅籠・観光出版業なども急成長し、同時に参拝客をめぐる競争も激化した。
③丸亀でも金比羅船にやって来る参拝客に、お土産店などが参拝案内図を無料配布するようになった。
④そのため案内図は、お土産店などが板元になって作成されたものが多くなる。
⑤その案内図の初期のものは、丸亀と金比羅のピストン往復詣ででなく善通寺周辺の四国霊場七ケ所巡りを奨める内容であった。そのため善通寺や弥谷寺が大きく扱われている。
⑥一方、丸亀港のライバルである多度津港の扱いは非常に小さいものとなっている。
⑦19世紀に半ば近くになってくると、弥谷寺や善通寺の比重は次第に低くなり、かわって対岸の備中児島の喩伽山を取り上げる絵図や、阿波の箸蔵寺を取り上げる案内図も出てくる。これも営業戦略のひとつであったようだ。
金毘羅 町史ことひら

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。 
金毘羅周辺の建造物出現年表
天明2年1782 高藪の鳥居建立。
天明8年1788 二本木銅鳥居建立。
寛政元年1789 絵馬堂上棟。
寛政6年1794 桜の馬場に鳥居建立。多度津鶴橋に鳥居建立。
寛政10年1798 備中梶谷、横瀬に燈籠寄進。
寛政11年1799 丸亀中府に石燈籠建立。
文化元年 1804  善通寺の五重塔完成
文化3年 1806 薬師堂を廃して金堂建築計画。福島湛甫竣工。
文化5年 1808 中府に「百四十丁」石燈籠建立。
文化10年1813 金堂起工式。
文政元年 1818 二本木銅鳥居修覆。
文政5年 1822 十返舎一九撰、「讃岐象頭山金毘羅詣」
文政10年1827 大原東野筆、「金毘羅山名勝図会」。
天保2年 1831 金堂初重棟上げ
天保4年 1833 丸亀新掘湛甫竣工
天保5年 1834 神事場馬場完成、多度津港新湛甫起工。
天保6年 1835 芝居定小屋(金丸座)上棟。
天保7年 1836 仁王門再建発願。
天保8年 1837 金堂二重目上棟。
天保9年 1838 多度津港新湛甫完成。多度津鶴橋鳥居元に石燈籠建立。
天保11年1840 金堂銅屋根葺き終了。多度津須賀に石鳥居建立。
                        善通寺五重塔落雷を受けて焼失。
天保14年1843 仁王門修覆上棟。金堂厨子上棟。
弘化2年 1845 金堂、全て成就。観音堂開帳。
           善通寺五重塔に再建に着手。
弘化4年 1847 暁鐘成、「金毘羅参詣名所図会」。
嘉永元年 1848 阿波街道口に鳥居建立。
嘉永2年 1849 高藪町入口、地蔵堂建立。
嘉永5年 1852 愛宕町天満宮再建上棟。
安政元年 1854 満濃池、堤切れ。
    道作工人智典、丸亀口から銅鳥居までの道筋修理終了。
  高燈籠建立願い。大地震、新町の鳥居崩壊、高藪口の鳥居破損。
安政2年 1855 新町に石鳥居建立。
安政4年 1857 多度津永井に石鳥居建立。
安政5年 1858 高燈籠台石工事上棟。
安政6年 1859 一の坂口鉄鳥居建立。
万延元年 1860 高燈籠竣成。大水、大風あり札之前裏山崩れる。
文久元年 1861 内町本陣上棟。
文久2年 1862 阿州講中、大門から鳥居まで敷石寄付。
慶應3年 1867 賢木門前に真鍮鳥居建立。
武州佐藤佐吉、本地堂前へ唐銅鳥居奉納。
  旗岡に石鳥居建立。
参考文献
    「町史ことひら5 絵図写真篇112P 丸亀からの案内図」
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 丸亀港と云えば福島港を連想します。しかし、福島港が丸亀城下町の看板港になるのは19世紀になってからのようです。福島港がどのように発展してきたのかを絵図で追いかけて見ようと思います。
まずは、時代をぐーんと遡って、丸亀平野の地質から始めましょう。

丸亀平野の扇状地

丸亀平野は、①土器川と②金倉川の扇状地をベースにできています。この二つの川が、暴れ狂う龍のように流れを変えながら扇状地を形成します。それが黄色で現されています。④の丸亀競技状付近がその先端になることが発掘調査からも分かっています。そこから北は、その後の縄文海進や堆積作用で氾濫平野が形成されていきます。つまり、丸亀城のある亀山は、湿原の中にぽっかりと浮かぶ小島のような形であった可能性があります。山北八幡神社の由緒書きには、満潮時には亀山までの波が打ちよせていたと記されているのは前回見たとおりです。裏付け史料として丸亀平野の条里制遺構を見ておきましょう
丸亀平野北部 条里制

 ⑥が丸亀城です。この周囲は真っ白で、条里制遺構はありません。湿地帯で耕地には適さなかったようです。ついてに、亀山が鵜足郡と那珂郡の境界上にあること、③の金倉川流域にも条里制遺構がないことを押さえておきます。 

それでは、亀山の北はどうなっていたのでしょうか。拡大して見ましょう。
丸亀平野 地質図拡大版

  亀山(丸亀城)から北には、氾濫平野が広がりますが、古代には満潮時には海面下になりますので人が住むことは出来ません。人が住めるのは、亀山から西に伸びる微髙地です。現在の南条町あたりになります。
 ここで注目したいのは、海際には砂州①と砂州②が東西に伸びていることです。これは、流路を変えながら金倉川と土器川が運んできた砂が海岸線に沿って堆積したものです。古代には、土器川と金倉川の河口は、砂州で結ばれていたようです。よく見ると砂州①と②は、丸亀駅付近で途切れています。ここが西汐入川の海への出口となります。そうすると砂州①が現在の御供所、平山町になります。そして砂州②の東先端付近が福島町になるようです。
古代丸亀周辺の砂州と流路を見てみましょう。
丸亀の砂嘴・砂堆

砂州①②以外にも、砂州③④⑤があります。この砂州と川の流路の関係を考えて見ます。現在この流域を流れているのは、上金倉を源流とする西汐入川です。この川は、北に向かって流れず東に向かって流れて、丸亀駅の西北で海に流れ出しています。どうして真っ直ぐに北に流れないのか不思議に思っていました。この地質図を見て納得することができます。東西に伸びる砂州が幾重にも待ち構え、西汐入川は北上できないのです。そこで東に流れ砂州①と②の間まで行って、やっと海へ出れることになります。

 この砂州①②は、近世初頭の絵図には、どのように描かれているのでしょうか?

丸亀城周辺 正保国絵図
1644年に丸亀藩山崎家が幕府に提出した正保国絵図です。
通目したいのは、丸亀城の北にある③と④の半島のような地形です。その先端には「舟番所」とあります。実は、③と④が先ほどの地質で見た砂州①②にあたると研究者は指摘します。
これを、同時期に作られた正保城絵図と比べて見ましょう
讃岐国丸亀絵図 拡大

 地質図で見たように砂州①②の間を⑤西汐入川が海に流れ出しています。そして、砂州1・2の先端には、それぞれ舟番所が描かれています。この絵図からは、砂州1の上には、宇多津から移住してきた三浦(御供所・西平山・北平山)の家並みが海沿いに続きます。
 一方、砂州2には番所があるだけで民家の姿は見えません。この砂州2は、西汐入川によって隔てられ「中須賀」と呼ばれていました。この無人の砂州が福島町に発展していくようです。そのプロセスを追ってみましょう。
延宝元年(1673)になって、大工七左衛門ら16人が、藩に中須賀に家を建てたいと願い出ます。

丸亀城下町比較地図41

具体的には、南側の波打ち線際から八間下がったところに幅三間の道を東西に伸ばし、その道に沿い表口10間奥行25間を一屋敷とし、屋敷は船作事場と菜園にしたいという願い出でした。「船作事場」を行うのですから申し出た大工は、船大工だったことが分かります。当時は、塩飽が幕府の海上輸送を独占し、船の需要がうなぎ登りの時代です。その波及効果が海を越えて丸亀城下町にも及んでいたようです。船大工にとって海に近い方が何かと便利だったのでしょう。

 六年後の延宝七年になって、 一戸につき表口五間、裏へ二〇間の屋敷と、西の方では五間に二〇間の菜園場が認められることになりました。その代わりとして、 一屋敷12匁の納入を求められます。これを16戸が負担し、計192匁を町役銀として納入することになります。その際に、戸数が増えても、この金額は変わらないという約束を取り付けます。
丸亀城下町比較地図51

こうして貞享元年(1684)から砂州の上に家の建築が始まります。
3年後には、最初に申し出た16屋敷とほかに8屋敷増えて、計24屋敷がそれまで無人だった砂州に軒を並べることになります。同時に、新しい街の氏神様として天満官を勧進し、共同井戸も掘り、4年後の元禄元年(1688)には弁財天も祀るようになります。
  しかし、浜町から海を隔てた洲浜の地で生活することは何かと不便です。その上、いざというときの藩船の御用にも間に合わないこともあります。
そこで、元禄三(1690)年、濱町と結ぶ橋の架橋願いを出します。
丸亀城 福島町

藩はこれを認めて、銀一貫五〇〇匁を支給します。こうして、藩の普請奉行のもと人足600人が架橋工事に当たります。資金が不足したので、大坂の安古町さかいや惣兵衛から丁銀で一貫目を借りています。さらに町から上納する192匁をこの橋のため用立てることが許されたます。こうして元禄四(1691年2月に橋は完成します。当時の藩主高豊がこの橋を「福島橋」と命名します。この橋名にちなんで、中須賀の町は以後は福島町と呼ばれるようになります。橋の長さは15間5尺で、場所は現在のJR丸亀駅の東の重元果物店の西北の所にありました。
坂本龍馬が渡った福島橋の欄干と常夜燈(丸亀市) | 自然、戦跡、ときどき龍馬
福島橋の欄干と常夜灯
福島橋と町の変遷を、「古法便覧」は、次のように記します。
宝永四年(1707)、福島橋床石垣普請、人足千人ご用立をし、福島側より普請。
享保四年(1719)、福島橋新たに仕替えるため銀五貫目拝借し、無利子十年返済の達しあり
享保六年(1721)福島橋の石垣が崩れ落ちた。橋が長くなったためで、修理のために町と三浦から費用の半分負担を申せ付けられた。
享保十年(1725) 福島にて相撲を行う。
元文二年(1737)正玄寺・善龍寺にて芝居興行が許可、これまで芝居は停止されていたが、福島町は橋修復資金のために興行許可が下りた。
元文三年(1738)橋架け替えのため藩の舟子の道具を拝借したいと、藩の船頭に申し出た。
元文四年(1739)福島橋の銀については大年寄も承知しておくこと。
宝暦三年(1753)、橋修復のため芝居興行を願いでたが不許可。その代わり銀二貫目、無利子拝借し七年返済とした。
同年六月、福島橋開通記念の時に、大年寄・御用聴役らが行列の押えに出るよう求められ、祝儀に 樽一荷、生鯛一折をいただいた
天明元年(1781、橋架掛替と山北八幡官の御祭礼があり、お上より御祝儀として白銀10枚下
された。

これを見るとたびたび架け替え修復が必要だったことが分かります。改修費は福島町の住民負担でした。公共事業だから藩が面倒見ると云うわけではないようです。そのため間役銀・棒役は免除されています。また橋の維持費をひねり出すために芝居興行をひんぱんに催しています。

福島橋の掛け替えについては、次の文書もあります。
一福島橋の儀、先年は春秋両度芝居の徳用銀等を以て、掛替修覆等仕り来り候の処、去る天保午歳掛替の節は入用銀調達相成り難く、拠んどころ無く十八貫目拝借御願ひ中上候の処、 貧町の事故、 その後上納も三、四度にて柳の上納、その余の処は今以て上納に相成中さず候の処、その後弘化三午歳板替の節も過分の入箇に御座候えども、最早拝借の儀も中上げ難く、町内にて色々心配仕り漸く出来に相成り……(中略)
……最早近年の内には、板・欄干等取替中さずては相成り難く、貧町にて右様過分の入箇まで引受け罷りあり候儀も御座候につき何様にても、以来の通り定間割に仰せつけなされ下され度く候事
安政三丙辰十一月                     福島町
意訳変換しておくと
福島橋の件について、前回は春秋の度芝居の徳用銀収入で、掛替修覆費を賄いました。また天保の掛替の時にはは入用銀調達が困難で、仕方なく十八貫目を拝借しての掛け替えとなりました。貧しい町のことですので、 その後の上納も未だ完済できていません。その後、弘化三の橋の板替の時も過分の援助をいただいており。これ以上拝借することもできません。町内では、色々と心配しております。(中略)
……最早近年の内には、板・欄干などの取替を行わなければなりません。貧町の福島町には過分の出費を負担することもできませんので、これまで通りの定間割を仰せつけていただけるようにお願い申し上げます。
安政三(1856)年十一月                      福島町

 ここからは、福島橋の修復が町民のおおきな負担であると同時に、橋修理費を捻出するために芝居や相撲の勧進を町を挙げて行っていたことが分かります。それが町民の団結力となっていたのかもしれません。

 西讃府志には、戸数198、人口989(男490、女499),馬3。寺は白蓮社・大師堂・庵、神祠は天満宮2・弁財天、白蓮社が玄要寺院内より移されています。庵は西山寺へ、天満宮と弁財天は寛保元年に合祀(現市杵島神社)して、福島弁天として信仰を集めるようになります。町の東側に船着き場があったので、金毘羅参拝客の増加と共に繁栄するようになります。
福島町が表玄関になるのは、文化3年に福島湛甫が作られてからです。

丸亀城 福島町3

福島湛甫は東西61間・南北50間・入口18間・満潮時水深1丈余で、役夫延5万人余・此扶持米485石余・石工賃銀18貫の経費で完成します。丸亀繁昌記には、材木問屋が軒を並べて賑わう湛甫近辺の様子が記されています。福島湛甫の完成で、丸亀港の航行が容易となり安全性も高まります。さらに、金毘羅船で上陸した旅客は福島町内を通り浜町方面へと向かうため、町内の旅籠、土産物屋などが急増し福島町は、その目抜き通りとしてにぎわうことになります。それまでは、御供所の東汐入川の川口に入港していた客船は、この福島湛甫を目指すようになり、西汐入川川口に繋留されるようになります。金毘羅船の船着き場も移動したようです。

丸亀城 福島湛甫

 以後、金毘羅船の発着で幕末に向けて飛躍的な発展を遂げることになります。その利益をもとに、持舟をもち、海上商品輸送などに乗り出していく商人も増え、丸亀の商業的中心になっていきます。
丸亀城 今昔比較図

この橋がなくなるのは、浜町と福島町の間の西汐入川が埋め立てられてからのことになります。それは、明治43(1910)年の西汐入川付け替え工事が始まるまで待たなければなりませんでした。これについては以前にお話ししましたので、絵図だけ紹介しておきます。
丸亀市実測図明治 注記入り

明治34年 鉄道が通過し丸亀駅が完成。その裏を西汐入川が流れています。

11929年(昭和4年)

丸亀駅の裏を流れていた西汐入川のルートが変更されました。そして旧川跡は埋め立てられ新町となります。
以上をまとめておくと
①古代の丸亀城のある亀山は、湿地の中に浮かぶ島で、海岸線には東西に砂州が伸びていた。
②そのため古代は耕作地としては適さず、条里制遺構も残っていない。
③近世には砂州①の背後は畑地として耕作されるようになり、砂州①上には宇多津からの移住者の家並みが海沿いにならぶようになった。
④西側の砂州②は中須賀とよばれる無人の砂地であった
⑤そこに船大工たちが家と作業所を建てて暮らし始めると、人々が移り住むようになった
⑦不便なために藩に申し出て橋を建設し、その橋を藩主は福島橋と命名した。そのため町の名前も福島町と呼ばれるようになった。
⑧福島湛甫ができると金比羅船の発着として発展するようになり繁華街となった。
⑨資本蓄積を重ねた商人の中には、持ち舟を持ち商業資本として活躍する者も現れた。
⑩明治になって鉄道が通過するようになり駅裏開発のために西汐入川が埋めたてられ「新町」となった。
⑪こうして福島橋は、お役御免と成り撤去された。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 丸亀市史4近世 

  国立公文書館には正保城絵図と呼ばれ、三代将軍徳川家光の命によって、全国の大名に提出を命じた城の絵図があります。その中に「讃岐国丸亀絵図山崎甲斐守」と題された一枚があります。これが山崎藩が丸亀へやってきた四年後の正保二年(1645)には提出させたものとされています。この絵図は国立公文書館のデジタルアーカイブスで自由に見ることができ、拡大・縮小も思いのままです。以前には、丸亀城の城郭を見ました。今回はこの絵図で、山崎藩によって再興された当時の城下の様子を見てみましょう。
テキストは 丸亀市史です。 
丸亀城 正保国絵図注記版

①城の東側では内堀が東汐入川に続き、北へ浜まで伸びて、土器川河口と合流して海へ注いでいます。
②西側では外堀から分かれた堀が西へ延び(現玄要寺墓地南端)、 現在の北向地蔵堂から北へ曲がり、船頭町(現本町西端)のところで海に続いています。海との境はなぜかぼやかされています。
③内堀内にある城の北麓には、東西九〇間、南北五〇間の山下屋敷があります。ここが藩主の居館だったようで、現在の大手門の南側の観光案内所付近になるようです。生駒時代の山下屋敷は東西八〇間、 南北三〇間で、 山麓以外の三方は高さ八間の石垣で囲まれた高台となっていて、侍の出入りはできなかったようです。山崎氏時代には、この図のように高台ではなかったことは前回に見たとおりです。山崎藩は、東と西では山麓まで内堀を貫入させ、藩主の館である山下屋敷の東・北・西の三方はすべて堀になっています。山崎家治が城を築く際、生駒時代にあった山下屋敷の高台の土を、山頂に運び、また内堀を貫入させたときに出た土も築城に利用したようです。
④外堀内は士族屋敷で、侍屋敷・歩者屋敷・足軽量敷と記されています。一区画が一戸建てであったかどうかは分かりませんが、足軽は一区画に数戸で住んだと研究者は考えているようです。
丸亀城 正保国絵図古町と新町

⑥「古町」と書かれているところは、上南条町・下南条町・塩飽町、横町(現本町)、船頭町(現西本町)と、三浦(西平山・北平山・御供所)になります。つまり山崎藩がやって来る前に、生駒藩時代に作られた街並みを指します。古町で最初に街並みができたのは南条町だと云われます。南条町は地勢的には、亀山から西に伸びる微髙地の上にあり、中世以来の集落があった可能性があります。南条町が中心となり、その周辺に移住してきた人たちが順次、街並みを形成していったようです。
丸亀市 西汐入川と外堀

南条町の発展の起点になったのが、上の地図の②金毘羅灯籠です。
グーグルマップで「丸亀市南条町石灯籠」と献策すると出てきます。
丸亀市南条町塩飽町

③にある灯籠です。現在は道路になっていて、④北向神社と①の外堀を結んでいますが、これはかつては西堀でした。

丸亀市南条町の金毘羅燈籠3
    旧西堀に立って北向地蔵方向を望む
かつての西堀の上に立って西方面と北方面を見てみるとこんな風に見えます。
丸亀市南条町石灯籠説明版

説明版によると、この常夜灯は明和元年(1764) 12月に、南条町と農人町 (現在の中府町五丁目)の人々によって建てられています。この燈籠南側の東西に延びる現在の道は、古地図の通り丸亀城の外堀につながる堀で、ここには橋がかけられていました。また、ここから西には、玄要寺 の広大な敷地が広がっていました。それも絵図で見ておきましょう。
丸亀市 玄要寺3
玄要寺 
この絵図を見ると琴平街道から⑥西堀(現城乾小学校前の道路)までが、玄要寺の山内だったことが分かります。それもそのはずで、この寺は京極さまの菩提寺として建立されたのです。城下では、もっとも広い敷地と規模を備えるようなるのは当然のことです。玄要寺の山門は、西堀に面して建っています。つまり、現在の北向地蔵の辺りが玄要寺の西南コーナーであったことになります。現在は、玄要寺の北側には多度津街道が敷地を抜けて通されています。また、敷地の中に幼稚園やコミュニティーセンターなどが割り込んできています。
丸亀市南条町塩飽町

グーグルで「丸亀市南条町」を献策すると、赤く囲まれた南条町のエリアが出てきます。
  この灯籠③が建つ所は、南条町の一番南で、西堀にかかる橋を渡る手前に建てられていたことが分かります。金比羅に向かう人たちにとっては、丸亀城下町からのスタート地点だったのかも知れません。
この地図からは、次のようなことも分かります。
①南条町の東側は住民居住区
②西側は寺が南北に4つ並ぶ寺町エリア
③寺の西側を西掘(運河)が通り、その向こうは「田地(水田)が広がっていた
金毘羅街道を境にして南条町の東と西では、性格が異なる街だったようです。 
丸亀城 正保国絵図古町と新町

⑦それに対して新町は、現在の富屋町から霞町辺りにあたります。このエリアはお城の真北になります。その東は「畑」と記され東汐入川まで続いています。畑は霞町東部・風袋町・瓦町・北平山・御供所の南部になります。これらの新町は、山崎家治によって新たに計画されたので「新町」なのでしょう。東汐入川の東は田地が土器川まで広がっています。この辺りは水田地帯だったようです。こうしてみると丸亀城下町は南よりも海に面した北側、そして西汐入川から海に面した西側から東に向けて発展していったことが分かります。 

丸亀市東河口

海岸線から見ていきましょう
海との境はぼかされていて、そこに「遠浅」といくつも書き込まれています。このあたりが砂州であったことを物語ります。砂上の上に丸亀城下町は築かれているのです。
 海岸線に沿って古町と書かれた家並みが続きます。これが生駒氏時代に宇多津からやってきた三浦の人たちの家々です。その南の畑の中に寺の字が三つ並んで書かれています。これが三浦の水夫の檀那寺で鵜足津(宇多津)から一緒に移ってきた寺です。
 御供所の砂州の東の先端は、真光寺東で東汐入川と土器川が合流した河口になります。ここには番所が描かれています。さらに、東汐入川を少し遡った所に「舟入」の文字がみえます。ここに船着きが場あったようです。
この絵図から約50年後の京極時代の元禄十年(1697)の「城下絵図」の略図です。

丸亀市東河口 元禄版
 ここには真光寺の東南と東北の二か所に番所が増えています。どうして、二つの番所があるのでしょうか?  研究者は次のように考えているようです。
①東汐入川河口番所 土器川を渡る人たちからの通行税徴収
②土器河口番所  港に出入りする船からの通行税徴収
 近世初期の丸亀港は、現在の福島町ではなく、土器川河口の東川口だったようです。二代藩主京極高豊が初めて丸亀へ帰った延宝四年(1676)7月朔日には、次のように記されています。
備中様御入部、御船御供所へ御着、御行列にて御入城遊ばされ候

とあります。三浦の海上交易者が利用する湊がここにあり、公的な湊も御供所に置かれていたようです。
また「丸亀繁昌記」の書き出しは、次のように始まります。
 玉藻する亀府の湊の賑いは、昔も今も更らねど、なお神徳の著明き、象の頭の山へ、歩を運ぶ遠近の道俗群参亀す、数多(あまた)の船宿に市をなす、諸国引合目印の幡は軒にひるがえり、中にも丸ひ印の宗造りは、のぞきみえし。二軒茶屋のかゝり、川口(河口の船着場)の繁雑、出船入り船かゝり船、ふね引がおはやいとの正月言葉に、船子は安堵の帆をおろす網の三浦の貸座敷は、昼夜旅客の絶間なく、中村・淡路が屋台を初め、二階座敷に長歌あれば
意訳変換しておくと
 玉藻なる丸亀湊の賑いは、昔も今も変わらない。神霊ありがた象頭山金毘羅へ向かう道は丸亀に集まる。数多(あまた)の船宿が集まり、諸国の引合目印の幟が軒にひるがえり、○金印がのぞきみえる。二軒茶屋のあたりや、土器川河口の船着場の繁雑し、出船入り船や舫いを結ぶ船に、「お早いおつきで・・」と正月言葉が」かけられると、船子(水夫)は安堵の帆をおろす。三浦の貸座敷は、昼夜旅客の絶間なく、中村・淡路が屋台を初め、二階座敷に長歌あれば・・・

 ここからは、御供所の川口に上陸した金毘羅参拝客は東の二軒茶屋を眺め、御供所・北平山・西平山へと進み、その通りにある貸座敷や料亭で遊ぶ様子が描かれています。三浦は水夫街で漁師町と思っていると大間違いで、彼らは金毘羅船の船頭として大坂航路を行き来する船の船主でもあり、船長でもあり、大きな交易を行う者もいたようです。以前にお話ししたように、弥次喜多が乗った金毘羅船は、御供所の川口に着きます。そして、船頭が経営する旅籠で一泊を過ごします。道中記では、讃岐弁とのやりとりが面白おかしく展開していきます。三浦の水夫たちは、瀬戸内海を舞台に活躍する船主であったことを押さえておきます。
 話を元に戻します。土器川河口の東川口が公的な丸亀の港であったことです。物資を積んだ船は、東川口の番所を通り、東汐入川をさかのぼり、木材や藁などは風袋町の東南にある藩の材木置場や藁蔵へ運ばれました。
丸亀市米蔵

 昭和の初期ころまでは、東汐入川の両岸にある材木商に丸太などの木材が東河口から運ばれていたようです。米なども、満潮干潮を見ながら外堀の水位を考慮しつつ、外堀の北側中央の市民会館北交差点の東方付近にあった米揚場の雁木から荷揚げし、その南にある米蔵(旧市民会館付近)に納入していたと丸亀市史には書かれています。

 それが変化するのは、案外新しく文化三年(1806)に、福島湛甫ができて以後になるようです。天保初年には新堀湛甫も構築され、東川口は旅客の港としては寂れていきます。金毘羅船は福島方面に着くようになり、賑わいは移っていきます。
丸亀城 今昔比較図

  以上をまとめておくと
①丸亀城下町は南条町が起点となって発展した。
②「微髙地 + 西堀」という好条件に、「強制移住者」が南条町に居を構えた
③南条町は、金毘羅街道の東側が住民、西側は寺院が配置され寺町でもあった。
④金毘羅街道はお城を北から西に迂回し、南条町を通って中府町に南下していた
⑤お城の北側の舟入は、丸亀城の公的湊ではなく小規模なものであった。
⑥公的な湊は土器川河口の東川口にあった。
⑦ここからは東汐入川を通じて外堀にまで川船が入って行け、米などもこの運河で米蔵に運び込まれた。
⑧19世紀初頭に福島湛甫や新堀湛甫ができて、丸亀の玄関港は福島に移っていく。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

  前回までに、金毘羅信仰が18世紀末から江戸で高揚したことをお話ししました。今回は、それを背景に、江戸で作られた金比羅講が丸亀に大きな銅灯籠を寄進するまでの経過を見ていくことにしましょう。

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正面が丸亀城 右が福島港 左が新堀港 
五代藩主京極高中の時代の文化三年(1806)に完成した福島湛甫が、金毘羅参詣客の上陸湊として賑わっていました。福島湛甫は、東西六一間、南北五〇間の船泊で規模としては相当大きいものではあったわけなんですが、30年経つと「手狭なという状況」になってきたようです。それだけ、瀬戸内海各地からの金毘羅船が増えたということでしょう。 加えて、新京橋の架橋で通町船泊の繋留が出来なくなるということも重なり、丸亀港は再びオーバーユース状態になりました。
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1806年完成の福島湛甫
 
福島湛甫が手狭化した背景は?
 それは参拝客の急増にあります。参拝客増加の理由は、18世紀後半の「日本一社の綸旨」にひとつのきっかけが求められるようです。文化から文政年間に印刷された讃岐の名所案内図の数の増加ぶりに「綸旨」の効果がうかがえます。また、江戸における金毘羅信仰の高まりといった動きも無視できません。
大名の江戸藩邸では、勧請していた自国の霊験あらたかな神社を庶民に公開していました。丸亀藩邸でも、金毘羅社の開帳日である各月の十日には早朝から夕方まで参詣人が群集したようです。藩邸の金毘羅山御守納所への初穂金が金毘羅に届けられていますが、最初に届けられた宝暦七年(1757)は一両でした。それが20年後の天明元年(1778)には百両、同五年には二百両、が届けられるようになり、これ以後は幕末まで毎年百五十両とどけられています。
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この信仰の高まりを、港築造や灯寵建立の利用して「民間資金での公共工事」を実現させようとする智慧者が現れます。
 天保二年(1831)、丸亀の「通町 柏屋団治」や宿屋業者・土産物業者らの五人が発起引請人として、「西川口波戸東手」へ新堀湛甫の築港を藩へ願い出ます。彼らは町の年寄で、この人たちの願出を受けて、灯寵建立、湊の修築の費用を調達するのに大きな役割を果たしたのが、京極藩江戸留守居役の瀬山登という人です。彼が残した記録は「湛甫新堀漫筆」として、丸亀図書館に残っています。
   町年寄からの築造願いは、次のような内容でした
 金毘羅山への諸国参詣人が日増しに多くなり、浜方も益々繁盛し商売も順調であるのも偏に国恩のお陰と有り難く思っております。この繁盛について、旅舟の入津が多いのですが、湊が手狭で、舟も乗り大老幼も難儀しているようです。
そこで、西川口御番所のあたり波戸束手へ湛甫を造れば湊も広くなり、城下の見渡しもよく、諸国への評判、浜方繁栄の基にもと存じます。それで私どもが発起人として考えたことを申し上げたく存じます。
 
ということで、彼らの工事に向けたプランを示します。
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     左が新堀港 江戸からの大きな青銅製灯籠が3つ並ぶ

そこには、具体的な資金集めの方法も記されています。
灯明料は舟持共からの寄付でまかなう。こうすれば闇夜でもまして不案内の旅舟などの出入りに大いに役立つ。そして、舟持からの寄付の取り方は、舟の大小を千石船に換算して船数五万艘と見積もって一石一銭ずつ一度限りの寄付を募る。もっともも対象は廻船だけのつもりである。
 寄付の取立方法は、江戸では金毘羅への信仰の厚い本所ニッ目塩原太助に頼み、銀子は江戸屋敷にて預かっていただく。大坂・兵庫は講元世話人共から頼んだ問屋で取り立ててもらい銀子は大坂屋敷にて預かっていただく。当地では役所にて預かっていただくようにお願いしたい。
という内容のものであります。
 外様で弱小藩の丸亀藩は、財政危機状態で資金はありません。それを知った上で発起人の「町年寄」たちは、藩の財政に頼らない資金集めの方法まで提案しています。それは今風に言うと「民間資金の導入による公共土木工事の推進」の手法と言えるのかも知れません。
 まずは、廻船業者からの寄附を募ります。     
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 大まかなプランとして、当時の全国の大小の船を千石船に換算するとおよそ五万艘になると計算します。そして、船一石につき一銭を一度限り寄附してもらう。千石船一艘について十匁になります。全国の廻船業者にこの趣旨を説明し寄附を依頼するというもので「海の神様 金毘羅さん」という信仰心を、うまく利用したやり方です。
藩は自分の腹が痛まないプランですから、さっそくこれを取り上げ幕府の勘定奉行村垣淡路守へ伺い出ます。
これに対して幕府は認可の意向を示したので、丸亀藩は藩主名で次のような正式の伺書(計画書)を提出します。
城下の湛甫の儀は、いつ頃出来と申す年暦も相知れ申さず。
前々より領分廻米諸産物廻し方、専ら相弁来侯処、近来金毘羅参詣の旅船多く入り込み、別て三月十日会式の節は、繋船充満仕り用弁差し支え、諸国廻船一同混雑仕り、風波の節は凌方難渋仕り候二付き、城下町人共湛甫新たに箇所増願出申候 右の通り領分廻米等差支候儀は、湛甫全場狭故の儀に御座侯間、有来侯振り合ヲ以て、一ケ所取建侯、用弁差し支えもこれ無く、諸廻米風波凌二も罷り成り都合宜く御座侯間、相成るべく儀二御座侯バ、別紙絵図面の通り申し付け度く存じ奉り侯、尤も城下の儀二付き差し障りは勿論、他領迄も差し支え相成り侯筋、御座無く侯、此の段御内慮伺い奉り侯、以上
 十月廿六日             京極長門守高朗
この結果、翌11月に幕府の承諾が得られます。記録には、お世話になった
「老中勝手かかり水野出羽守・勘定奉行村垣淡路守ら一六人に贈り物を携えお礼のあいさつをした」
と記されています。
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 丸亀藩は、翌年(1832)三月から築造工事に取りかかる準備を進めます。
工事の具体的計画を立て、大庄屋・庄屋を呼び寄せ意見等を聞き、各郡に下記の通り人足を割り当てます。
那珂組  7486人  善通寺組 9480人 
上高瀬組16659人  比地組  7802人 
中洲組  9633人  和田組 10129人 
大野原組 1427人  福田原組 116人
 庄内組  1015人  人足計 63743人
 人足扶持については、初め福島湛甫の時と同額で予算を組んでいました。が、交渉の結果、物価上昇なども加味して人足賃金が引き上げられ、一人一日米一升、別に菜代一匁となります。また、新港の石垣普請を請け負った城下の平野屋利助からの次のような願出が出ています。
「新堀普請用の石は塩飽島から取り寄せ、一〇〇石積み一般分五、六匁で予算は組まれているが、、このころは塩飽産の石は値上がりしている。安く手に入る丸亀領分の石を買い取るようにしてほしい」
 着工した天保4年(1833)には、天保の大飢饉が起こり、翌年には各地で米騒動が発生しています。また、翌年には多度津藩の新湛甫も起工します。不況時の公共事業で、雇用チャンスや景気の刺激にもなったようです。港建設費用は2000両で済みました。当時、建立されていた金毘羅大権現の金堂3万両に比べれば、小規模な「公共事業」のように思えます。
 こうして新堀港の工事本体は、スムーズに行われ翌年の天保四年には完成します。
湛甫は東西八〇間、南北四〇間、西側に一五間の出入口、満潮時の水深一丈六尺でした。周囲には埋め立て地をつくり、その外法は東西一町五三間、南北一町三五間で、これを新堀湛甫と呼んだと「旧丸亀藩事蹟」に記されています。

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 太助灯籠

ところが苦労したのは銅灯寵でした。 
 天保3年三月、丸亀の町年寄の発起人らは江戸に行きます。
 話は前後しますがこれより数年前、江戸本所相生町(墨田区両国二丁目)の塩原太助が金比羅参詣に来て通町の柏屋団治方(四国銀行の所)で泊まった時のことです。団治がこの話を太助に持ち出したところ大いに賛成してくれてました。そこで、柏屋団治たちは早速に塩原太助を尋ねます。ところが丸亀で灯籠寄進の話をした二代目塩原太助は既に亡く、三代目太助の世となっていたのです。三代目太助は
「講の世話はできないが八十両を五ヵ年間に出そう
と約束してくれました。
灯籠寄進の話を太助の知人などを頼って話したところ、拒む者、意外にも賛成してくれる人などさまざまだったようです。藩の江戸屋敷でも力を入れ、瀬山登らが中心となり、丸亀藩に出入りする江戸の町人、伊勢屋兵衛、河内屋伝兵衛、三島屋半七、林屋半六、三河屋善助の五人を世話役として協議します。
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そして、銅灯籠寄進のために千人講の設立案を作ります。
①一人一ヵ月百文ずつ五ヵ年掛ける。(米の値段からみて、当時の一両は約六千六百文に当たるので五ヵ年では〇・九両になる)  
②一人で何口加入してもよい。
③三十人以上世話してくれた人には、五ヵ年のうちに1回金比羅参詣をしてもらう。その費用として三両差し上げる。
このの規約を世話人を定め「讃州丸亀平山海上永代常夜燈講」として加入者を募ります。ちょうどこの頃に、大久保今助という男が浅草観音へ献納する金灯龍一基をあつらえ大門通り伊勢屋万之助方で完成させていました。ところが、あまりに大きすぎるために寄進先から差し留めらされ困っていることが伝わります。これを交渉によって二四〇両で購入することにしたのです。これが現在の「太助灯籠」になります。
千人講の募金集めはどうだったのでしょうか
 講開きから一か月後の五月十日までの集金高は、三〇両三朱と一八九文でした。その後は、毎月四〇両前後で、年末までの合計319両です。翌年の天保四年には、加入者も増え、毎月五〇両前後で推移します。

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 講主の伊勢屋喜兵衛の見積もりは次のとおりでした。
講加入者数 2400人 五か年の講金2150両 
必要経費 灯寵      1135両 
     新堀湛甫ヘ   1015両 
ほかに御供え初穂料など    50両
 新堀湛甫の工事経費は2000両とされていましたので、これでは約900両余の不足となります。そこで講の勧誘に、力を入れることにします。
 天保五年には、金毘羅参詣の廻船の便を利用して、240両で購入した灯籠を積込み、金毘羅へ送り出します。収入伝票には「船頭らに祝儀五両」の記録があります。そして、盆前には伊勢屋喜兵衛ら三人が丸亀へ赴き、実地見聞を行い、十月朔日棟上、会式(金毘羅大祭)を見学後に十二月帰府しています。
 青銅の台座に1400人に近い人名が刻まれ、鎖のある竿の部分に「天保九年十月吉日江戸講中」とあります。台石に二ヵ所と燈龍の竿の所に江戸講中とあるので、「江戸講中燈龍」あるいは「金毘羅青銅燈寵」と名付けられました。そして、近年は最高八十両を寄進した塩原太助の名をとり「太助燈寵」とも呼ばれようになっています。
しかし、気になるのは竿の部分の年号が「天保九年十月吉日江戸講中」とあることです。天保五年に建立したのち、講中の人名その他を補足し同九年に再建したのでしょうか?

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 天保四年八月に新堀湛甫は完成し、翌年には1基だけですが巨大な銅灯籠が建ちました。
計画当初は「灯龍12基建立」を予定していましたが、千人講の募金活動で集められる資金では、無理なことがわかります。そこで、天保七年に家老本庄七郎右衛門らの意見を受けて、三基建立に大幅に減らすことになります。残り二基の建立については、人名の刻み、建立などにさらに年月を要するとして、天保八年から同十三年までの五か年間の延長願と収支見積調書を藩役人へ提出しています。
天保八年には五年間の講の期限が来ます。
そこで集まった金額で、燈寵を2基を注文します。
燈寵は丸亀藩江戸屋敷出入りの大工大和屋和助を棟梁とし、鋳工は江戸の森田屋仁右衛門と鋳鉄の盛んな武州川口(埼玉県川口市)の名門永瀬文右衛門藤原富次、その子喜一郎に発注します。
嘉永三年(一八五〇)末に三基目の灯寵ができあがります。
しかし、不足品が多く、延包一三個に分け丸亀へ積み出したのは嘉永六年五月になります。さらに、残務整理や関係者への慰労などがが終わるのは文久二年(1862)になりました。天保3年から始まったこの大事業は、結局32年の歳月を要したことになります。
これに対して、発注から何年も経つのに残りの灯籠が丸亀に送られてこないことへの不審に思う空気が広がり、江戸表の担当者たちへの不信感となっていったようです。

   江戸詰藩士の瀬山登も建立に尽力します
しかし、なかなか到着しない灯籠について、いろいろな噂が飛び交うようになります。「湛甫新堀漫筆」の最後の部分では、彼は不本意な思いを吐露しつつ事業をふりかえっています。そこには長引く事業に対して地元丸亀では「寄付金を横領したとの悪評」が立っていたことをうかがうことができます。その無念さを慰労するかのように太助灯籠の前には彼の銅像が据えられています。
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 幕末に3基据えられた、灯龍は今では一基が残っているだけです。
あとの2基は、太平洋戦争の時に「戦争遂行のための金属供出」で溶かされたようです。残っている一基には、その中央に最大の金額八〇両を最初に寄付した塩源太助の名前が大きく鋳込まれており「太助灯龍」と呼ばれるにふさわしい体裁を見せています。
   丸亀の新堀港や太助灯龍は「江戸千人講」の江戸町人の資力を中心として、丸亀まち年寄柏屋団治ら五人を発起人として、丸亀藩の事業として建立されたということになるようです。
 どちらにせよ丸亀湊は、この新港の完成によって、岡山から上方さらにそれ以東の金毘羅参詣客や北前船などが一層利用することとなり、これまで以上の繁栄を見せるようになります。また、同時期に、完成した多度津湊は、瀬戸内海の備後以西の国々からの金毘羅参詣客を集めるようになり、多度津街道は急速に整備されていくことになります。

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  ◇ 最後に太助灯籠をじっくりと眺めてみましょう
 この灯籠は青銅製です。三段の台座の上に基盤・竿・中台・火袋・笠・宝珠からなり、全長五・二八㍍台石を合わせると地上約六・六㍍にもなる大型の灯籠です。港に出入りする船の目じるしとして、燈台の役割も果たしたことでしょう。
 仰ぎ見ると、五葉の請花に支えられて伏鉢に空高く大きな火焔を三方に宝珠は載っています。笠は円くふくらみをもつ八面で、末端の龍首は海上をにらみ、二本の牙が大きくそり反りっています。下には風鐸が風に揺れます。
 火袋は八面格子で、内部がよく見えます。戦後直後までは、電球が収められ、近所の人が暗くなると点灯していたようです。火袋を受ける中台は八角形で、丸亀らしく各側面に天狗の団扇を浮き出させています。
竿の北面には「天保九年戊戌十月吉日」、下に「江戸講中」とあります。しかし、括れているためか下からは見えにくいのです。
基盤の下には青銅製の三段の台座が、花圈岩の三段の台石の上に載っています。この台座には1380人の寄附者・世話人らの名と住所などが刻まれています。今は姿を消した他の二基は一1444人と約1000人であったそうです。まさに千人講により寄進された銅灯籠と呼ばれる所以です。
参考文献 新堀と銅灯籠 丸亀市史276P
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              丸亀新堀湛甫と太助銅灯寵の年表 
宝暦10年1760 日本一社の綸旨を賜う。
明和元年 1764 伊藤若冲、書院の襖絵を画く。
天明7年 1787 円山応挙、書院の間の壁画を画く。
寛政元年 1789 絵馬堂上棟。 寛政の改革~4年間。
寛政3年 1791 高松の御用達中より真鍮の釣燈籠奉納。
寛政5年 1793 江戸高松上屋敷に金毘羅大権現を勧請。
寛政6年 1794 円山応挙、壁画を画く。小林一茶参詣。
         多度津鶴橋に鳥居建立。
文化2年 1805 備中早島港、因島椋浦港に燈籠建立。
文化3年 1806 金堂建築の計画。丸亀福島湛甫竣工。
文化5年 1808 中府に「百四十丁」石燈籠建立。
文化7年 1810 宝塔下の坂道普請。太鼓堂修繕普請。
文化10年1813 金堂起工式。
文化11年1814 瀬戸田港に常夜燈建立。
文政7年 1824 茶屋、旅籠の区分決定。
文政11年1828 琉球人、生野村に石燈籠寄進献立。
文政12年1829 摂津芥川に燈籠建立。鞘橋普請。
天保2年 1831 丸亀の年寄が湛甫構築と灯寵建立を藩へ願出た。
天保4年 1833 丸亀新掘湛甫竣工。天保の改革~6年間。
天保5年 1834 米騒動、多度津港新湛甫起工。
天保6年 1835 箸蔵寺で贋開帳。芝居定小屋(金丸座)上棟。
天保7年 1836 仁王門再建発願。
天保8年 1837 金堂二重目上棟。
天保9年 1838 丸亀に江戸千人講燈籠完成。多度津新湛甫完成
  多度津鶴橋鳥居元に石燈籠建立。

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