瀬戸の島から

タグ:金刀比羅宮


四国遍路のユネスコ登録に向けての準備作業の一環として、霊場の調査が行われ、その報告書が次々と発行されています。2022年1月に愛媛県教育委員会から発行された三角寺の調査報告書を見ていて目に留まったものがあります。それがこの写真です。
三角寺 大般若経箱横側
三角寺の大般若経経箱
黒い漆の箱の横に金書で書かれた内容からは、 この箱が正徳6年(1716)に京極高登が金比羅大権現に寄進したものであることが分かります。京極高澄を、グーグルで検索すると次のように出てきます。

「京極高澄(高通)は多度津藩の初代藩主。丸亀藩2代藩主高豊の子として高或が生まれる前年の元禄4年(1691)に生まれたが、正室との間の子であった高或が世継となった。しかし高豊が元禄7年に没するとその遺言により高澄には1万石が分知されて多度津藩が成立した。」
 香川県の多度津町観光協会
多度津藩の殿様

京極高登とは、多度津藩初代藩主京極高通(1691-1743)のことののようです。箱の正面を見てみましょう。

三角寺 大般若経正面

  箱の正面には「六百」と金書された引き出しが4つ。左側面には「大般若経 六百巷」と見えます。そして、上面には京極家の家紋である四つ目結があるようです。
この箱には大般若経が入れられていたようです。
『大投若経』は、正式には『大般若波羅蜜多経』で、唐代玄実の訳出で、全600巻にもなるものです。三角寺の蔵本は、全600巻の内557巻が現存します。5巻をひとまとめにして、ひとつの引き出しに25巻ずつ収められています。引き出しは4段あるので、1箱に百巻を収めることになります。全600巻ですので、箱は6つあります。「六百」と書かれているので、最後の500巻代の経が納められています。
祈り込め、大般若経の転読 山形・立石寺で法要|モバイルやましん
大般若経転読のようす

どこで作られたものなのでしょうか?
一番最後の巻第六百には、次のように記されています。

三角寺大般若経 巻末
寛文十(庚戊)仲冬吉日
中野氏是心板行
板木細工人
藤井六左衛門
彫り職人と摺り職人の名前が記され、この大般若経が寛文10年(1670)の仲冬(12月)に摺られたことが記されています。それでは表装を行ったのは誰なのでしょうか?

三角寺大般若経 巻末印

 巻末には黒印が押されています。拡大して見ると次のように読めます。
「御用所大経師 降屋内匠謹刊」

大経師(だいきょうじ)を辞書で調べると、次のように書かれています。
 「  もと朝廷御用の職人で、経巻および巻物などを表装する表具師の長。奈良の歴道である幸徳井・賀茂両氏より新暦を受けて大経師暦を発行する権利を与えられたもの」

 朝廷御用の職人で江戸初期は浜岡家が大経師でしたが、貞享元年(1684)頃に断絶し、その後に大経師となったのが降屋内匠のようです。その名前がここにあります。

三角寺 大般若経大経師
大経師
以上から、三角寺の『大般若経』は、寛文10年(1670)に摺られていた摺刷を、大経師である降屋内匠が表装したものであることが分かります。
 同じ版木で摺られた「大般若経」が滋賀県野洲市の浄満寺にもあるようです。
滋賀県野洲市 浄満寺大般若経
    浄満寺の大般若経(野洲市『広報やす 2011年』8月1号参照)
一番最後の巻末には、次のように記されています。
寛文十庚戌仲冬吉日
中野氏是心板行
版木細工人藤井六左衛門」
先ほど見た三角寺と同じ版木で刷られたことが分かります。
しかし、大経師の降屋内匠の印はありません。

三角寺大般若経巻頭
三角寺大般若経1巻 表紙見返しの貼紙
今度は大般若経の一番最初の巻を見てみましょう。
巻の表紙見返の貼紙には、次のように墨書されています。

楠公筆 京極壱岐守 高澄 
大般経(二十箱二而 六箱)六百巻 
奉寄附 本ムシナシ極上々物也 類ナシ 
正徳六丙中歳 正月十日 
金昆羅大権現宝前

 ここからは改めて三角寺の大般若経は、正徳6年(1716)に京極高登が金比羅大権現に寄進したものであることが確認できます。
今までの所を年代別に並べておきます。
1670(寛文10)年 大般若経版木の摺刷
1691(元禄 4)年 京極高通(登)誕生(丸亀藩2代藩主高豊の子)
1694(元禄 7)年 4歳で多度津藩主に
1711(正徳 元)年 京極高通が藩主として政務開始
1716(正徳 6)年 京極高通(登)が金比羅大権現に寄進
1735(享保20)年 長男・高慶に藩主の座を譲り隠居
1743(寛保 3)年 江戸藩邸で病没した。享年53。
この年表を見ると京極高通が実質的な政務を執り始めたのが1711年(20歳)の時になります。そして、その5年後に大般若経は金毘羅大権現(現金刀比羅宮)に奉納されたことになります。新しい藩の門出と、その創立者としての決意を、大般若経奉納という形で示す。そのためには、格式ある専門家やに大経師に作成を依頼する。そのような流れ中で作られたのが、この大般若経のようです。

金毘羅に寄進されたものが、どうして三角寺にあるのでしょうか?
 これについては搬入経過を示す史料がないので、よく分からないようです。
三角寺大般若経内側

ただ、巻156-160、巻476480、巻481-485、巻486-490、巻491-495の各峡の内側に「三角寺現侶 賢海完英代」と上のように墨書されています。大般若経がもたらされたときの三角寺の住持は賢海だったことが分かります。

巻1表紙見返を見てみましょう。
三角寺大般若経巻頭2

墨抹された部分には、次のように記されているようです。
発起願主
嘉永元(1848)戊中六月□□□
宇摩郡津根村八日市
近藤豊治隆重三男
完英貳十有六」

そしてその横に
「本院(三角寺)現住法印権大僧都賢海

と記します。ここに出てくる完英と賢海は同人物であることが分かっています。ここからは、当時の住職は賢海で、嘉永元年(1848)年には賢海と呼ばれ26歳であったことが分かります。棟札などからは嘉永年間には、弘宝が住持で、賢海はまだ住持ではなかったことが分かります。
  どちらにしても『大般若経』転入には、当時の住持である弘宝か、次の住持となる賢海が関係していたことがうかがえます。さらに研究者は「賢海が三角寺の住持になった後、「大投若経」巻第一の署名を再び書き直した」と推察します。以上から、「この頃(嘉永年間)に大般若経が三角寺へ持ち込まれたのではないか」とします。

  しかし、これについては私は次のような疑問を覚えます。
幕藩期において、多度津藩主が金毘羅大権現(金光院)に奉納した大般若経を、断りなく他所へ譲り渡すと言うことが許されるのでしょうか。これがもし発覚すれば大問題となるはずです。私は、大般若経が三角寺にもたらされたのは、明治の神仏分離の廃仏毀釈運動の中でのことではないかと推測します。

明治の金刀比羅宮を巡る状況を見ておきましょう。
神仏分離令を受けて、金毘羅大権現が金刀比羅宮へと権現から神社へと「変身」します。そして、権現関係の仏像や仏画は撤去され、「裏谷の倉」の一階と二階に保管されます。それが明治5(1872)年になると、神道教館設置のための資金調達のためにオークションにかけられることになります。これを差配したのが禰宜の松岡調であることは以前にお話ししました。
讃岐の神仏分離7 「神社取調」の立役者・松岡調は、どんなひと? : 瀬戸の島から
松岡調

彼の日記である『年々日記』明治五年七月十日条には、次のように記されています。(意訳)

7月10日 明日11日から始まる競売準備のために、書院のなげしに仏画などをかけて、おおよその価格を推定し係の者に記入させた。百以上の仏画があり、古新大小さまざまである。中には、智証大師作の「草の血不動」、中将卿の「草の三尊の弥陀」、弘法大師の「草の千体大黒」、明兆の「草の揚柳観音」などもあり、すぐれたものも多い。数が多過ぎて、目を休める閑もないほどであった。 

7月18日 裏谷の蔵にあった仏像の中で、商人が買いそうなものを抜き出して、問題のないものを選んで売りに出した。数多くの商人が、競い合って買う様子がおもしろい。

7月19日 昨日と同じように、次々と入札が進められ、残っていた仏像はほとんど売れた。誕生院(善通寺)の僧侶がやってきて、両界曼荼羅図を金20両で買っていった(以下略)

7月21日 御守処のセリの日である、今日も商人が集い来て、罵しり合うように大声で「入札」を行う。刀、槍、鎧の類が金30両で売れた。昨日、県庁へ書出し残しておくtことにしたもの以外を売りに出した。百幅を越える絵画を180両で売り、大般若経(大箱六百巻)を35両で売った。今日で、神庫にあったものは、おおかた売り払った。

ここからは入札が順調に進み「出品」されていたものに次々と、買い手が付いて行ったことが分かります。数多くの仏像や仏画・聖教などが競売にかけられて、周辺の寺院に引き取られていったのです。
 その中に気になる記述があります。7月21日の「大般若経(大箱六百巻)を35両で売った。」です。
これが三角寺の大般若経だと私は考えています。競売が行われたのは明治5(1872)年7月です。経路は分かりませんが、それ以後に三角寺にもたらされたようです。
以上をまとめておきます
①三角寺には、多度津藩初代藩主が金毘羅大権現に奉納した大般若経がある。
②この大般若経は、京の大経師・降屋内匠に表装を依頼し、漆塗りの6つの箱に収められたもので、殿様の奉納物らしい仕立てになっている。
③入手経路についてはよく分からないが、神仏分離後に金刀比羅宮が行った仏像・仏画などの競売の際に流出したものが、何らかの経路を経て三角寺にもたらされたことが考えられる。
④金毘羅大権現から競売を通じて流出した仏像・仏画は、膨大なものがあり、善通寺など周辺の有力寺院はそれを買い求めたことが松岡調の日記からは分かる。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
 「四国八十八箇所霊場詳細調査報告書 第六十五番札所三角寺 三角寺奥の院 2022年 愛媛県教育委員会」の「(139P)聖教 大般若経」
関連記事

肥後熊本藩の中老松洞が江戸屋敷赴任のために瀬戸内海を藩船で航行した紀行文を見ています。

瀬戸内海航路 伊予沖
周防・安芸・伊予沖の航路図(江戸時代)

旧暦3月8日に大分鶴崎を出港して、次の港を潮待ち寄港を繰り返しながら4日間で航行してきます。
周防の上関 → 大津浦(周防大島) → 加室 → ぬわ(松山市怒和島)→御手洗(呉市大崎下島) → 鞆(福山市)

 鞆からは備中・備前側の備讃瀬戸北航路をたどるルートと、塩飽に立ち寄ってからさらに東を目指す航路がありました。しかし、ここではそのどちらも取らずに、讃岐多度津に渡ります。
金毘羅船 航海図宮島
「金毘羅・宮島海陸案内図」
   上の案内図は「金毘羅・宮島海陸案内図」となっています。
しかし、この絵図の主役は手前の宮島にあったことが一目で分かります。宮島は鳥居から本社に至る細部まで描き込まれています。それに対して、金毘羅は象頭山が描かれているだけです。これは、18世紀当時の両者の知名度の差でもありました。近世始めに流行神として登場した金毘羅信仰が、庶民に広がって行くには時間が必要でした。上方から参拝客が本格化するのは18世紀半ばに、金比羅船が就航して以後です。さらに東国からの伊勢参りの客が、金毘羅まで廻ってくるのが本格化するのは19世紀になってからです。それまでの金毘羅は、この絵図に見られるように宮島詣でのついでに参拝する程度の宗教施設でした。
 この絵図は大きくデフォルメされているので、現在の地理感覚からすると、ついて行けない部分が多々あります。特に、四国側と中国側の港町の位置関係が大きくずれています。しかし。鞆の対面に讃岐の多度津や丸亀があるという感覚を、見る人に与える役割は果たしています。宮島から帰りに、金比羅に寄って帰ろうか、そのためには鞆から多度津へ渡る・・・。という地理感覚が形成されます。九州から上方や江戸に登っていく人達の感覚も同じであったようです。そのために鞆から真鍋諸島沿いに三崎(荘内)半島の紫雲出山を目指して、三野・仁尾や多度津に渡ってくる廻船も多かったことは以前にお話ししました。それをもう一度、押さえておきます。

庄内半島と鞆
鞆と荘内半島
  吉田東伍「大日本地名辞書」の讃岐国には、次のように記します。(意訳)
箱御埼(三崎:荘内半島)は、讃州の西端にあって、荘内村大字箱浦に属す。備中国所属の武嶋(六島)と向き合うこと、二海里余(約4㎞)の距離である。塩飽諸島は北東方に碁石を打ったように散らばり、栗島が一番近い島である。三崎(荘内)半島の先端には海埼(みさき)明神の祠がある。
 この岬は、西北に伸びて、十三海里で備後津に至る。その間に、武嶋(六島)、宇治島、走島がある。(中略)
水路志には、次のように記されている。
 三崎半島は、讃岐の西北部にあって、塩飽瀬戸と備後灘とを分ける。東方より航走してきた船は、ここで北に向かうと三原海峡、南に行くと来島海峡に行くことになる。
ここからは次のようなことが分かります。
①荘内半島は備讃瀬戸から鞆・尾道・三原に向かう航路と、来島海峡に向かう航路の分岐点であったこと。
②海埼(みさき)明神の祠があったこと、

江戸時代初期作成の『西国筋海上道法絵図』と
    米田松洞一行を乗せた千代丸は、鞆を出て多度津に向かいます。
晴天  多度津着 
十二日今朝六半時分出帆 微風静濤讃岐タドツ之湊二着船夕ハツ半時分也。風筋向イ雨ヲ催シ 明日迄ハ此処二滞在之由 御船頭申候。左様ナラバ明日昆(金)比羅二参詣すべしと談し候得者 三里有之よし 隋分宜ク阿るべし卜申候 明日船二残る面々ハ今晩参詣いたし度よし申候二付任其意候野田一ハ姫嶋伝 内門岡左蔵林弥八郎此面々今晩参詣 夜二入九ツ時分帰る
 意訳変換しておくと 

十二日の早朝六半(午前7時)頃に出帆 微風で波も静かで、讃岐多度津港に夕刻ハツ半(4時頃)に着船した。明日の天気は、向風で雨なので多度津に停船だと船頭が云う。そうならば明日は、金毘羅参詣をしようと云うことになる。金毘羅までは三里(12㎞)だとのこと。船の留守番も必要なので全員揃っての参拝はできない。そこで船の留守番のメンバーは今晩の内に参詣するようにと申しつけた。それを受けて野田・姫嶋伝内・門岡左蔵・林弥八郎の面々は今晩参詣し、夜中の夜二入九ツ(12時)時分に帰ってきた。

微風の中を午前7時に出港した船は、夕方に多度津に着いています。その間のことは何も記しません。地理的な知識がないと浮かぶ島々や、近づいてくる半島なども記しようがないのかもしれません。

金毘羅参詣名所図会 下津井より南方面合成画像000022

下津井からの丸亀方面遠望(塩飽の島々と讃岐富士)

十三日今朝小雨如姻 五ツ過比占歩行二て昆比羅へ参詣 一丁斗参候得者 雨やむ道もよし已 原理兵衛御船頭安平十次郎尉右工門 同伴也 供二ハ勘兵衛 澄蔵白平八大夫又右工門仲左工門なり 兼て船中占見覚候 讃岐ノ小富士トテ皆人ノ存シタル山アリ 此山之腰ヲ逡り行扨道筋ハ上道中ノ如ク甚よし 道すがら茶屋女多ク 上道中同前二人ヲ留ム銭乞も多し 参詣甚多し 

意訳変換しておくと
十三日の朝 小雨に烟る中を 五ツ過(7時)頃に歩行で金毘羅参詣へ向かう。少し行くと雨も止んだ。同伴は原理兵衛・御船頭安平十次郎・尉右工門、供は勘兵衛・澄蔵・白平八大夫・又右工門・仲左工門の8人である。船中からも望めた讃岐小富士や象頭山の全景がよくが見えてきた。この山腰を廻って多度津街道を進む。その道筋ハ東海道中のように整備されている。道すがらには茶屋女が多くいて、銭乞も多い。参詣者の数が多く街道は賑わっている。 

多度津街道参拝図2
多度津ー金毘羅街道

多度津ー金毘羅街道は、善通寺を経由しますが、ここでも善通寺については何も触れられていません。当時の善通寺は金堂は再興されていましたが五重塔などはなく、弘法大師伝説も今ひとつ庶民には普及せずに旅人にとって魅力ある寺社という訳ではなかったようです。それに対して善通寺が五重塔再興などの伽藍整備に乗り出すのは、19世紀になってからのことのようです。この時点では、米田松洞一行は、行きも帰りも善通寺は素通りです。

 金比羅からの道標
金毘羅より各地への距離(金毘羅参詣名勝図会)
四ツ時過二本町二着 是二而足ヲ洗イ衣服ヲ改ム 町筋之富饒驚入候 上道中本宿之大家卜同前二て候 作事甚美麗ナリ 商売物も萬也 遊君も多し 旅人行代候林真二京都の趣也 
則丸亀公之御領分也 夫占坂二かかるル坂殊之外長クして急なり 何レも難儀二て甚夕おくれ候
拙者ハ難儀二少も不覚呼吸も平日之通リニ有之候 十次郎先二立参候がやがて跡二成候 山中甚広シ本社迄ハ暗道ニテ幾曲モまがる甚険ナリ 社内桜花甚見事目ヲさます已 今不怪賞シ被申候 鳥井赤金張ナリ金色朧脂ノ如し 見事なる事也本社ハ不及申末社迄も結構至極扨々驚人事也 絵馬も甚よし 真言寺持也 寺も大キ也 是亦佳麗可申様無之候拝シ終り夫占社内不残巡覧ス 何方とても結構之事驚大候 
意訳変換しておくと

DSC01351坂下と芝居小屋
元禄期の大祭寺の金毘羅 上部が内町から坂町への参拝道。下部が芝居小屋や人形浄瑠璃小屋が描かれている。
 四ツ時(10時)過に金毘羅本町に到着。
ここで足を洗って衣服を改める。町筋の富貴は驚かされる。東海道の道中の本宿と同じような大家が並び、しかも造りが美麗である。商売物も多く、遊女も多い。旅人も多くまるで京都の趣がする。ここは丸亀公の御領分(実際は、朱印地で寺領)である。
 本社までの坂は長く、急である。拙者は、少しも難儀に感じることはなく、呼吸も平常通りであったが、十次郎は先に立っていたが、やがて遅れるようになった。
 境内は山中のようで、非常に広い。本社までは森の中の暗い道で、いくつもの曲がりがある。社内の桜が見事で目を楽しませてくれる。 
 さらに境内の建物類も素晴らしい。鳥居は金張で、金色に光り輝いて、見事なものである。本社は言うに及ばず末社に至るまで手の込んだ物が多く人を驚かせる。絵馬もいい。金毘羅大権現は、真言寺であり、寺の建物も大きく立派で、佳麗でもあった。参拝が終わり 社内を残らず巡覧したが、どこを見ても結構なことに驚かされる。
金毘羅本社絵図
金毘羅本社(金毘羅参詣名勝図会)
当時の旅人の視点は、街並みの立派さや建物の大きさ、豪壮そうに目が行きます。「わび・さび」を指向する感覚はありません。そして、京都や東海道と比較して、ランク付けするという手順になります。生駒氏や松平頼重の保護を受けて整備されてきた社殿群が、遠来からの参拝客の目を楽しませる物になっていたことがうかがえます。逆に言うと、地方でこれだけの整備された社殿群や伽藍を持っていた宗教施設は、当時は稀であったことがうかがえます。それが、賞賛となって現れているのかも知れません。
 そうだとすれば、他の宗教施設は「目指せ! 金毘羅」のスローガンの下に、伽藍や社殿を整備し、参拝客を呼び込もうとする経営戦略を採用する人達も現れたはずです。それが讃岐では、善通寺や弥谷寺・白峰寺・法然寺などで、周辺では阿波の箸蔵寺、備中の喩伽山蓮台寺などかもしれません。
観音堂 讃岐国名勝図会
金毘羅観音堂
 又忠左工門事ヲ申出ス 山ヲ下り本之町屋へ立寄候得者早速昼飯ヲ出ス 是亦殊之外綺麗ナリ 酒取肴等二至マテ上品ナリ 是ハ上道中二十倍勝レリ
酒も美ナリ 宮仕之女も衣服綺麗ナリ 湊占是迄百五拾丁之道程也 食餌等仕舞帰路二向フ雨も今朝之通二てふらず よき間合也 暮前ニタドツニ帰ル 夫占少々ふり出し候 
扨江戸大火之よし 則丸亀之御飛脚江戸占早打二て参慄よし 里人共申慄驚大慄 然共たしかの
儀不相知 一刻も早ク室二到可致承知卜出船ヲ待 風よく明日ハ出帆のよし 御船頭申候 太慶ス
意訳変換しておくと
 山を下て門前に立寄って昼飯をとる。この料理も殊の外に綺麗で、酒や肴に至るまで上品である。これは、東海道の街道筋の店に比べると二十倍勝っている。酒もうまく、宮仕女の衣服も綺麗である。多度津湊までは、150丁の道程である。昼食を終えて、帰路に着く頃には、雨も止んでいた。いい間合だ。暮前には、多度津に帰ってきたが、それからまた雨が少々降り始めた。
 多度津で江戸大火のことを聞く。丸亀藩の江戸からの飛脚早打の知らせが届き、町人たちは驚き騒いでいる。しかし、詳細については知ることが出来ない。一刻も早く室津に向かおうと出船を待つ。そうしていると、明日は風もよく出帆できるとの知らせがあった。太慶ス
4344104-39夜の客引き 金山寺
夜の金毘羅金山寺町 客引き遊女たち
金毘羅大権現の名を高めたのは、宗教施設だけではなかったようです。門前の宿の豪華さや料理・サービスなども垢抜けた物を提供していたことが分かります。さらに芝居小屋や富くじ、遊郭まで揃っています。富貴な連中が上方を始め全国からやってきて、何日も金毘羅の宿に留まって遊んでいます。昼間は遊女を連れ出して、満濃池に散策し、漢詩や短歌を詠んでいます。金毘羅は信仰の街だけでなく、ギャンブルや遊戯・快楽の場でもあったのです。熊本藩の中家老は、金毘羅門前に泊まることはありませんでした。そのため夜の金比羅を見ることはなかったようです。

江戸の大火
明和の大火の焼失エリア(赤)
 多度津に帰ってみると「江戸大火」の知らせが丸亀藩の飛脚によってもたらされていました。
 この時の大火は「明和の大火」とよばれ、江戸の三大大火とされている惨事です。明和9年2月29日(1772年4月1日)に、目黒行人坂(現在の目黒一丁目付近)から出火したため、目黒行人坂大火とも呼ばれ、出火元は目黒の大円寺。出火原因は、武州熊谷無宿の真秀という坊主による放火です。真秀は火付盗賊改長官・長谷川宣雄の配下によって捕縛され、市中引き回しの上で、小塚原で火刑に処されています。
 金毘羅船 航海図C10
晴天十四日
朝五ツ時分占出帆 無類之追風也 夕飯後早々室之湊二着船 御船頭安平を名村左大夫方二早速使二遣シ江戸大火之儀を間合 慄処無程安平帰り 直二返答可申由二て 直二側二参申候ハ目黒行人坂右火出桜田辺焼出虎御門焼失龍口へかかり御大名様方御残不被成候よし上野仁王門焼候よし風聞然共此方様御屋敷之儀如何様共不承よし大坂二問合候得共今以返飼申不参候

  意訳変換しておくと
晴天十四日朝五ツ(8時)頃に多度津港出帆 無類の追風で、夕飯後には早々と室津に着船した。早々に、船頭の安平を室津の役人左大夫の所に遣って、江戸の大火之について問い合わさせた。安平が聞いてきた情報によると、目黒行人坂が火元で、桜田辺から虎御門の龍口あたりの大名屋敷は残らず燃え落ちたとのこと。上野の仁王門も焼けたという。風聞が飛び交い、当藩の屋敷のことについてもよく分からない。大坂屋敷に問い合わせたが、今だに返事を貰えないとのこと。
 明日の出帆について訊ねると「順風です」とのこと。そこで明日、灘に渡ってから対応策を考えることにする。

  多度津までは、街道や海道の桜を眺めてののんびりとした旅模様でした。ところが多度津以降の旅は、江戸の大火を受けて対応策を考えながらの旅になります。そのため桜や周囲の景色についてはほどんど記されることがなくなります。

  以上をまとめておくと
①17世紀後半に、髙松藩初代の松平頼重によって整えられた金毘羅の社殿や伽藍は、その後も整備が続けられ、19世紀には近隣に類のない規模と壮麗さを兼ね備えるようになった。
②それを受けて、九州の大名達の参拝や代参が行われるようになった。
③さらに九州と上方や江戸を行き来する家中や商人たちも、金比羅詣でを行うようになった。
④その際の参拝スタイルは多度津港に船を留めて日帰りで参拝するもので、多度津や金毘羅の宿を利用することはなかった。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
 柳田快明   肥後藩家老金毘羅参拝『松洞様御道中記(東行日録)』について

  11
           充真院
   桜田門で井伊大老が暗殺された後、幕府は治安維持の観点から大名の妻子を本国に移すように政策転換します。井伊直弼大老の実姉で、日向の延岡藩・内藤家に嫁いでいた充真院も64歳で、始めて江戸を離れ、日向への長旅につきます。充真院は当時としては高齢ですが、好奇心や知識欲が強く、「何でも見てやろう」精神が強くて、旅の記録を残しています。彼女は、金毘羅さんに詣でていて、その記述量は帰省中に立ち寄った寺社の中で、他を圧倒しています。それだけ充真院の金毘羅さんへの信仰や関心が高かったようです。前回は、金毘羅門前町の桜屋までの行程を見てきました。今回はいよいよ参拝場面を見ていくことにします。テキストは  神崎直美「日向国延岡藩内藤充真院の金毘羅参り」です。
幕末大名夫人の寺社参詣

内町④にある桜屋で休息をとった後に、本社に向かって出発です
   金毘羅に参詣するためには、今も昔も坂町からの長い階段を登らなければなりません。運動不足の64歳の大名夫人に大丈夫なのでしょうか、不安に覚えてきます。充真院は「初の御坂は五間(900m)もあらん」と記しています。まず待ち構えていたのこの五間(900m)の坂道です。

金毘羅全図 1860年
金毘羅全図(1860年)
充真院はこの坂道のことを次のように記します。

「御山口の坂は、足場悪くてするするとすへり(滑り)、そうり(草履)ぬ(脱)けさるやういろいろ、やうよう人々にたすけられ、用意に薬水杯持しをのみ、やすみやすみて・・」

足元がすべりやすいため草履が脱げないように、御付に助けられながら登り始めます。すべりやすい坂道を苦労して登ることは、高齢で歩くことに不慣れ充真院にとって苦難だったようです。準備していた水を飲んだり、立ち止まったりしながら登ります。
ここで押さえておきたいことは、次の2点です。
①1863年段階の坂町の坂は、石段化されておらず、滑りやすい坂道であったこと。
②参拝用の「石段籠」を使っていないこと。石段籠は、まだ現れていなかった?

坂道を登りきると次は石段が続きます。幾折にも続く石段を見上げて「石段之高き坂いくつも有て」と記します。そのうちに、「行程々につけて気分悪く、とうきしけれと」とあるので、気分が悪くなり、動悸までするようになったようです。「高齢 + 運動不足」は、容赦なく襲ってきます。しかも、この日は6月半ばといっても蒸し暑かったようです。気分が悪くなったのは、無理もないことです。

金毘羅伽藍
金毘羅伽藍図 本坊が金光院

しかし、ここからがながら充真院の本領発揮です。

「ここ迄参詣せしに上らんも残念と思ひ」

と、せっかくここ迄やってきて、参詣できないのは残念である、体調不良を我慢して石段を登り続けるのです。タフなおばあちゃんです。
「かの鰐口有し御堂の前には、青色の鳥居有」
「近比納りし由にて、誠にひかひか(ぴかぴか)して有り」
と、あるので御堂の青色の鳥居の所まで、ようやくたどりつきます。
しかし、ここまでで充真院は疲れ切っていました。

「生(息)もた(絶)へなんと思ひ、死ひやうく(苦)るしく成」

と、息が出来なく成りそうな程であり、死んでしまうのではないかと思うほどの苦しさだったと記します。それでも諦めません。
「さあらは急にも及ぬる故、少し休て上る方よし」  
「とうろう(灯籠)の台石にこしか(腰掛)け休居」
方針転換して、急ぐ必要はないので少し休憩してから登ろうということにして灯籠の台座の石に腰掛けて休みます。休んでいる間も「マン・ウオチング」は続けています。盲目の人が杖にすがりながら降りてくるのが見えてきます。それを見て、体が不自由な人も信心を持って参拝しているのに、このまま疲れたからといって引き返すのは「残念、気分悪い」と充真院は思います。そして、次のように決意するのです。
「御宮前にて死度と思、行かねしはよくよくノ、はち(罰)当りし人といわれんも恥しくて、参らぬ印に気分悪と思へは猶々おそろしく」
「夫(それ)より、ひと度は拝し度と気をは(張)り」
「又々幾段ともなく登り」
「死ぬのなら御宮に参拝してから死にたい、参拝しなければ罰当たりであると人に言われるのは恥ずかしい、参拝せずに気分が悪いというのはなおさら畏れ多い。とにかく一度は参拝しようと固く決意したのだ。頑張ろう」と自分にむち打ちます。そして再び登り始めます。

金毘羅本社絵図
金毘羅本社
 こうして、充真院は御堂(本社)にたどりつきます。
「御堂の脇に上る頃は、め(目)もく(眩)らみ少しいき(息)つきて」
「御堂のわき(脇)なる上り段より 上りて拝しけれと」
本堂に到着する頃には目が眩み息が少し荒くなっていました。それでも、本堂の横の階段から本堂に上がり参拝します。その時に、疲れ切っているのに、御内陣を自分の目で確認しようとしています。
「目悪く御内神(陣)はいとくろう(暗く)してよくも拝しかねしおり、やうよう少し心落付しかは薄く見へ、うれしく」
「御守うけ度、又所々様へも上度候へ共」
「右様成事にて、只々心にて思へる計にて御宮をお(下)りぬ」
意訳変換しておくと

日頃から目が悪く、物が見えにくいことに加えて、本堂内が暗いのでよく見えなかった。が、心が落ちついてからは薄っすらと見えてきた。目が暗さに慣れたからであろう。薄くでも見えたのでうれしかった。お守を授与されたり、他の御堂にも上がって拝みたいと思ったけれど、疲れが甚だしく、さらに目の具合も悪いので、希望は心に留め置いて、本堂を退出して下山することにした。

観音堂 讃岐国名勝図会
本社横の観音堂

下山路の石段の手前には観音堂があります。

案内の人から観音堂に上がって拝むかと聞かれますが、「気分悪く上るもめんとう(面倒)」なので外から拝むに留めます。苦しくても、外から拝んでいるところが、信心の深さかもしれません。
充真院が御付に助けられながら下山していることは、金毘羅側にも伝わります。
「本坊へ立寄休よと僧の来たりて、いひしまゝしたかひて行し所」

社僧がやってきて、本坊にあがって休憩するよう勧めたようです。その好意に甘え本坊に上がりで休息することになります。

金光院 表書院
金毘羅本坊(金光院)の表書院
本坊とは金光院のことです。充真院は金光院側が休憩するために奥の座敷に通されます。その際に、途中で通過した部屋や周囲の様子を、詳しい記述と挿絵で残しています。

表書院5

まず、玄関については
「りっは(立派)成門有て、玄関には紫なる幕を張、一間計の石段を上り」

と記し、挿絵として玄関先の造り石段、幕、その横の邸獨の植え込みと塀を描いています。挿絵には「何れもうろ覚ながら書」と添え書きをしていていますが、的確に描写です。

金毘羅表書院玄関
          表書院玄関
 玄関には社僧らが充真院を出迎えに出てきています。
そこから一間(180㎝)程の高さの箱段を上り、次に右に進み、さらに左に進むと一間半(270㎝)程の箱段を上がると書院らしい広い座敷があるところの入側を進む。この右へ廻ると庭があり少し流れもあり、植木もあり、向こう側では普請をしています。

金刀比羅宮 表書院4
 表書院
 ここで体むのかと思うと、さらに奥に案内されます。そこに釣簾の下がる書院がありました。これが現在の奥書院のようです。ここには次の間と広座敷があり、広座敷には床の間と違棚がついています。さらに入端の奥から縁に出て右に曲がると箱段があります。ここを上り折れて進むと、板張りの廊下があり直ぐ横の二間(360㎝)程の細長い庭のところに小さな流れがありがあり、朱塗りの橋が二つ架っています。この流れは、表座敷に面した庭に注ぎます。その向いに立派な経堂、さらに段を上り奥へと導かれ、十二畳程の座敷も通り過ぎ、ようやく休憩の部屋にたどり着いています。

5年ぶりに金刀比羅宮の奥書院公開!! | 観光情報 | ホテルからのお知らせ | 琴平リバーサイドホテル【公式HP】
奥書院
その部屋は大きな衝立や台子の有る上座敷で、
「立三間、横二間も座敷金はり付、其上之間之中しきりにはみすも掛け」、

とあるので、縦は三間(540㎝)、横が二間(360㎝)の広さで、周囲を金箔で装飾した豪華な部屋で、座敷の中仕切りとして御簾がかけてあったようです。その隣の上座敷にも釣簾が掛り、畳が二枚敷いてあった。その部屋の向こうには入側があり、庭が広がります。その向こうに讃岐富士が借景として見えてきます。
「庭打こし、海之方みゆる、さぬき富士と云はあの山かと市右衛門尋しかは、左也と云」

庭に出て海の方向を眺めると山が見えたので、市右衛門があの山は讃岐富士かと寺の者に尋ねたところ、その通りとの答えが返ってきます。
第57話 神の庭(奥書院)と平安・雅の庭(表書院) | 金刀比羅宮 美の世界 | 四国新聞社
奥書院の「神の庭」

庭にはよく手入れを施した植木や石灯籠が配してあります。丸い形に整えた皐月は折しも花盛りであった。上段を通りその向こうは用所、左側に行くと茶座敷と水屋が設けてあります。それをさらに行くと次の間があり、向いに泉水や築山がある庭という配置です。
 このように充真院が書いた記録には、書院の間取りが詳しく書かれています。
さっきまで苦しくて抱えられて下りてきていた人物とは思えません。「間取りマニア」だった充真院が、好奇心旺盛に周囲を珍しそう見回しながら案内される様子が伝わってきそうです。
 充真院は周囲を見た後に「座に付は、茶・たはこ(煙草)盆(出)し候」と、ようやく部屋に座り、出された茶や煙草で一服します。それから「気分悪く少し休居候」と体を横たえて休息をとっています。
「枕とて、もふせん(毛氈)に奉書紙をまきて出し候まゝ、よくも気か付て趣向出来候とわら(笑)ひぬ」
「ねりやうかん(練羊羹)と千くわし(菓子)出し候、至て宜敷風味之由」
金光院側が枕に使うようにと毛離をおそらく巻くか畳んで、奉書紙をかけて整えたものが用意してあるのを見て、充真院は良く気がついてくれたうえ趣向があると、うれしく愉快に感じ笑っています。さらに、と、練り羊羹と千菓子も用意してくれてあり、たいへん美味しかったと記します。疲れ果てた体に甘いお菓子はおいしく感じたようです。
下図2が休憩した部屋の挿絵です。


裏書院4

上が部屋とその周囲の間取り図で、下が休憩した部屋を吹き抜け屋台の視点で立体的に描いたものです。建物の間取観察は、充真院の「マイブ-ム」であったことは以前にお話ししました。「体調不良」だったというのに、よく観察しています。記憶力もよかったのです。上の間取り図には金光院側が用意した茶椀や菓子皿、煙草盆までが描き込まれています。この辺りは、現在の女子高校生のノリです。
 充真院が休憩している間に「八ツ比(午後2時)頃になっていました。御付の者たちは、充真院が体調不良となり、その対応に追われたので、昼食も摂れていません。そこで充真院は
「皆々かわリかわりに下山してたへん」
「そのうちには私もよからん」
と、御付たちに交代しながら下山して食事を摂るように勧めています。その言葉通りに、しばらくして充真院は気分が良くなったので、桜屋に戻ることとになります。
 金光院は、門前に駕籠を待機させます。それに乗って下山します。そのルートについては、次のように記します。
「少し道かわり候哉、石段もなく、初之たらノヽ上りの坂に出、桜やに行く」

ここからは、上りの道とは違った石段のない坂道を下って、桜屋に向ったことが分かります。
以上から私が気になった点を挙げておきます
①充真院参拝についての金毘羅側の対応が鈍いこと。
大名参拝や代参などについては、事前の通知があり、そのための使者の応対マニュアルに基づいて準備します。しかし、この記録を見ると、金毘羅側は本宮に充真院一行が現れるまで、やって来ることを知らなかったような気配がします。大名夫人の参拝と分かってから本坊の表書院に案内したように見えます。前日に、お付きの女中が先行したのは何のためだったのでしょうか。
②どうして金毘羅門前町で一泊しないのか?
早朝夜明け前に、多度津港に係留した関舟からスタートして、夜8時を過ぎて船に帰ってきます。
どうして金比羅の桜屋に泊まらないのでしょうか。宿場の本陣と違って、大名専用貸し切りなどが出来ず、一般客との同宿を避けるためでしょうか。それとも、幕末の藩財政難のための経費の節減のためでしょうか。多度津でも、町の宿には泊まっていません。当時の大名も御座船宿泊で、港には潮待ち・風待ちのために入港するだけだったのでしょうか。この辺りのことは、今の私にはよく分かりません。今後の課題としておきます。

また、善通寺の知名度が低いのも気になることです。充真院の旅行記には善通寺のことが出てきません。門前を通過しているので、触れても良さそうなのですが・・・。東国では、金毘羅と善通寺では知名度に大きな差があったようです。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献
     神崎直美「日向国延岡藩内藤充真院の金毘羅参り」

延岡藩2
日向延岡藩の内藤家
  幕末に大名夫人が金毘羅詣でをした記録を残しています。
その夫人というのが延岡藩内藤家の政順に嫁いでいた充真院で、桜田門で暗殺される井伊直弼大老の実姉(異母)だというのです。彼女は、金毘羅詣でをしたときの記録を道中記「海陸返り咲ことばの手拍子」の中に残しています。金毘羅参拝の様子が、細やかな説明文と巧みなスケッチで記されています。今回は、大名夫人の金毘羅道中記を見ていくことにします。テキストは神崎直美「日向国延岡藩内藤充真院の金毘羅参り」です。

11
充真院(じゅうしんいん:充姫)
まずは、充真院のことにいて「事前学習」しておきます。
  充真院は、寛政12年(1800)年5月15日、近江国彦根藩・井伊家の江戸屋敷で生まれています。父は第11代彦根藩主の井伊直中(なおなか)です。直中は歴代藩主の中で最も子宝に恵まれた殿様で、記録に残るだけで男子16人、女子6人を儲けています。正室との間にのちに藩主を継ぐ直亮、側室君田富との間には充姫の異母弟にあたる直弼(後の大老)がいます。
 15歳で充姫は、2歳年上の延岡藩主内藤正順に嫁いで男子をもうけますが早世します。病弱だった正順も天保五年(1834)に亡くなったので、出家して「充真院」と称しました。
 
延岡藩 
内藤家と伊達家との関係

 跡継ぎを失った内藤家は、充姫の実家である井伊家と相談の上、充姫の弟で15歳になる直恭を養子として迎えます。この時、候補として20歳になる直弼もあがったようです。しかし早世した子に年齢が近い方がよかろうと直恭が選ばれます。
直恭は、正義と改名し内藤家を継ぐことになります。20歳年下の弟の養母となった充姫は、正義を藩主として教育し、彼が妻を迎えたのを機に一線を退きます。こうして見ると、充真院は実弟を養子として迎え、後継藩主に据えて、その養母となったことになります。このため充真院の立場は強く、単に隠居という立場ではなく、内藤家では特別な存在として過ごしたようです。
充姫は嫁ぐ前から琴や香道などの教養を身に着けていました。それだけに留まらず、婚姻後は古典や地誌といった学問に取り組むようになります。「源氏物語」の古典文学、歌集では「風山公御歌集」(内藤義概著)を初め「太田伊豆守持資入道家之集」「沢庵和尚千首和歌」、「豪徳寺境内勝他」など数多くの古典、歌集を自ら書写しています。
 さらに「日光道の記」「温泉道の記」、「玉川紀行」、「玉川日記」といった紀行文も好んで読んでいます。それが60歳を越えて江戸と延岡を二往復した際の旅を、紀行文として著す素材になっているようです。
彼女のことを研究者は次のように評しています。

生来多芸多能、特に文筆に長じ、和歌.絵をよくし.前項「海陸返り咲くこと葉の手拍子」など百五十冊余の文集あり.文学の外、唄、三味線の遊芸にも通じ、薬草、民間療法、養蚕に至るまであらゆる部門に亘り一見識を持ち、その貪埜な程の知識慾、旺盛な実行力、特に計り知れぬその記憶力は誠に驚く斗りのものがある。

 江戸時代の大名の娘は、江戸屋敷で産まれて、そこで育ち、そして他藩の江戸屋敷に嫁いでいきます。
一生、江戸を出ることはありませんでした。それなのに充真院は、本国の延岡に帰っています。「大名夫人が金毘羅詣り」と聞いて、私は「入り鉄砲に出女」の幕府の定めがある以上は、江戸を離れることは出来ないはずと最初は思いました。ところが幕末になって幕府は、その政策を百八十度政策転換して、藩主夫人達を強制的に帰国させる命令を出しています。そのために充真院も始めて江戸を離れ、日向へ「帰国」することになったようです。弟の井伊直弼暗殺後の4年後のことになります。
幕末大名夫人の寺社参詣―日向国延岡藩 内藤充真院・続 | 神崎 直美 |本 | 通販 | Amazon

充真院は2度金毘羅詣でを行っていますが、最初に金毘羅を訪れたのは、文久三(1863)年5月15日です。
64歳にして、始めて江戸を離れる旅です。辛い長旅でもあったと思うのですが、充真院が残した旅行記「五十三次ねむりの合の手」を見てみると、充真院は辛い長旅をも楽しんでいる雰囲気が伝わってきます。精神的にはタフで、やんちゃな女性だったように私には思えます。

文久3(1863)4月6日に江戸を出発、名古屋で1週間ほど留まって大坂の藩屋敷に入ります。
金毘羅までの工程は次の通りです。
4月 6日 江戸出発
4月24日 大坂屋敷着
5月 6日 大阪で藩船に乗船
5月13日 多度津入港
5月15日 金毘羅参拝、
東海道は全行程を藩の御用籠を使っています。大坂に着くと、堂島新地にあった内藤家の大坂屋敷(現在の福島区福島一丁目)に入っています。ここで、藩の御座船がやってくるまで、10日間ほど過ごします。その間に、充真院は活動的に住吉神社などいくつもの大坂の寺社参詣を行っています。
日向国延岡藩内藤充真院の大坂寺社参詣
大坂の新清水寺(充真院のスケッチ)

 それまで外出する機会がほとんどなかった大名夫人が、寺社参りを口実に自由な外出を楽しんでいるようにも見えます。例えば、立寄った茶屋では接待女や女将らと気さくに交流しています。茶屋は疲れを癒しながらにぎやかなひとときをすごしたり、茶屋の人々から話を聞いて大坂人の気質を知る恰好の場所でもあったようです。そういう意味では、大坂での寺社参詣は長旅の過程で気晴らしになるとともに、充真院の知的関心・好奇心を満たしたようです。
5月6日 大坂淀川口の天保山から御座船で出港します。
そして、兵庫・明石・赤穂・坂出・大多府(?)を経て多度津に入港しています。ここまでで7日間の船旅になります。

IMG_8072
金毘羅航路の出発点 淀川河口の天保山

内藤藩の御座船は、大坂から延岡に下る場合には、次のような航路を取っていました。
①大坂の淀川の天保山河口を出て、牛窓附近から南下し、讃岐富士(飯野山)・象頭山をめざす。
②丸亀・多度津沖を経て、以後は四国の海岸線を進みながら佐田岬の北側を通って豊後水道を渡る。
③豊後国南部を目指し、以後は海岸沿いに南下して日向国の延岡藩領の入る。
④島野浦に立ち寄ってから、延岡の五ヶ瀬川の河口に入り、ここから上陸
この航海ルートから分かるように、内藤家の家中にとって、四国の金毘羅はその航海の途上に鎮座していることになります。大坂から延岡へ進む場合は、これからの航海の安全を祈り、延岡から大坂に向かう場合は、これまでの航海を感謝することとなります。どちらにしても、危険を伴う海路の安全を祈ったりお礼をするのは、古代の遣唐使以来の「海民」たちの伝統でした。そういう意味でも、九州の大名達が頻繁に、金毘羅代参を行ったのは分かるような気もします。

金毘羅船 航海図C13
金毘羅船の航路(幕末)

御座船のとった航行ルートで、私が気になるのは次の二点です。
①一般の金毘羅船は、大坂→室津→牛窓→丸亀というコースを取るが、延岡藩の御座船は明石・坂出などを経由していること。
②丸亀港でなく多度津に上陸して金毘羅詣でを行っていること。
①については、藩の御用船のコースがこれだったのかもしれませんがよく分かりません。
②については、九州方面の廻船は、多度津に寄港することが多かったようです。また、多度津新港の完成後は、利便性の面でも多度津港が丸亀港を上回るようになり、利用する船が急増したとされます。そのためでしょうか、

充真院は金毘羅を「金毘羅大権現」とは、一度も表記していません。
「金毘羅様」「金ひら様」「金毘羅」などと表記しています。当時の人々に親しまれた名称を充真院も使っているようです。

多度津湛甫 33
多度津湛甫(新港)天保9年(1838)完成
 多度津入港後の動きを見ていくことにします。
13日の夕七つ(午後四時頃)に多度津に入港して、その日は船中泊。
14日も多度津に滞在して仕度に備えた後、
15日に金毘羅に向けて出発。
充真院の旅行記には、13日の記録に次のように記します。
「明日は金昆羅様へ参詣と思ひし所、おそふ(遅く)成しまゝ、明日一統支度して、明後早朝よりゆかん(行かん)と申出しぬ」

ここからは当初の予定では14日に金毘羅を参拝する予定だったようですが、前日13日に多度津に到着するのが遅くなったので、予定を変更して、15日早朝からの参拝になったようです。大名夫人ともなると、それなりの格式が求められるので金毘羅本宮との連絡や休息所確保などに準備が必要だったのでしょう。
 充真院の金毘羅参りに同行した具体的な人数は分かりません。
同行したことが確認できるのは、御里附重役の大泉市右衛門明影と老女の砂野、小使、駕籠かきとして動員された船子たちなどです。同行しなかったことが確実な者は、重役副添格の斎藤儀兵衛智高、その他に付女中の花と雪です。斎藤儀兵衛智高は、御座船の留守番を勤め、花と雪は連絡準備のために前日に金毘羅に先行させています。      

 充真院にとって金昆羅参りは、その道中の多度津街道での見聞きも大きな関心事だったようです。 
そのため見たり聞いたりしたことを詳しく記録しています。幸いにも参拝日となった15日は朝から天気に恵まれます。一行は、夜が明けぬうちから準備をして出発します。多度津から金毘羅までは3里(12㎞)程度で、ゆっくり歩いても3時間です。そんなに早く出発する必要があるのかなと思いますが、後の動き見るとこのスケジュールにしたことが納得できます。
 旧暦の5月当初は、現在の六月中旬に相当するので、一年の中でも日の出が早く、午前4時頃には、明るくなります。まだ暗い午前4時頃の出発です。まず、「船に乗て」とあります。ここからは、係留した御座船で宿泊していたことがうかがえます。御座船から小船に乗り換えて上陸したようです。岸に移る小船から充真院は、「日の出之所ゆへ拝し有難て」と日の出を眺めて拝んでいます。海上から海面が赤々と光輝く朝日を見て、有難く感じています。

  多度津港の船タデ場
多度津湛甫拡大図 船番所近くに御座船は係留された?

船から上陸した波止場は石段がひどく荒れていて、足元が悪く危険だったようです。
「人々に手こしをおしもらひしかと」
「ずるオヽすへりふみはつしぬれは、水に入と思て」
「やうノヽととをりて駕籠に入」
と、お付きの手を借りながら、もしも石段がすべり足を踏み外したならば、海に落ちてしまうと危険な思いをしながらも、やっとのことで石段を登って駕籠に乗り込みます。
多度津港から駕籠に揺られて金毘羅までの小旅行が始まります。
充真院は駕籠の中から周囲の景色を眺め、多度津の町の様子を記します。この町は「大方小倉より来りし袴地・真田、売家多みゆる」
袴の生地や真田紐を販売する店が沢山あることに目を止めています。これらの商品の多くが小倉から船で運ばれてきたことを記しています。充真院が興味を持ち、御付に尋ねさせて知ったのかもしれません。それだけの好奇心があるのです。このあたりが現在の本町通りの辺りでしょうか。
多度津絵図 桜川河口港
金毘羅案内絵図 (拡大図)
 さらに進むと農家らしき建物が散在して、城下であると云います。
多度津港に上陸した参詣客達は、金毘羅大権現の潮川神事が行われる須賀金毘羅宮を左手に見ながら金毘羅山への道を進みはじめます。門前町(本通り一丁目)を、まっすぐ南進すると桜川の川端に出ます。
門前町のことを「城下」と呼んでいたとしておきます。
 また、三町(327m)程進むと松並木が続き、左側には池らしいものが見えたと記します。松並木が続くのは、街道として、このあたりが整備されていたことがうかがえます。そこから先は田畑や農家が多くあったというので、街道が町屋から農村沿いとなったようです。

DSC06360
              多度津本町橋
ここが桜川の川端で、本町橋が架かるところです。その左手には絵図には遊水池らしきものがえがかれています。この付近で「金ひら参の人に行合」とあり、同じ様に金昆羅参りに向かう人に出会っています。 
多度津街道ルート上 jpg
 多度津から善通寺までの金毘羅街道(多度津街道調査報告書 香川県教育委員会 1992年)

その後、 一里半(6㎞)程進んでから、小休憩をとります。ちょうど中間点の善通寺門前あたりでしょうか。地名は書かれていないので分かりません。建物の間取りが「マイブーム」である充真院は、さっそく休憩した家の造作を観察して次のように書き留めています。
「此家は間を入と少し庭有て、座敷へ上れは、八畳計の次も同じ」
「脇に窓有て、めの下に田有て、夫(それ)にて馬を田に入て植付の地ならし居もめつらしく(珍しく)」
門や庭があることや、八畳間が二部屋続いている様子を確認しています。ここで充真院は休憩をとります。そして、座敷にある窓から外を見るとすぐ下に田んぼが広がり、馬を田に入れて田植えに備えて地ならしをしていたのが見えました。こんなに近くで農作業を見ることは、充真院にとって初めての体験だったのかもしれません。飽かず眺めます。そして「茶杯のみ、いこひし」とあるので、お茶を飲みながら寛いだようです。
  このあたりが善通寺の門前町だと思うのですが、善通寺については何も記されていません。充真院の眼中には「金毘羅さん」しかなかったようです。
多度津街道を歩く(4)金刀比羅神社表参道まで
    金毘羅案内絵図 天保二(1831)年春日 工屋長治写

 休憩を終えて再び駕篭に乗って街道を進みます。

「百姓やならん門口によし津をはりて、戸板の上にくたもの・徳りに御酒を入、其前に猪口を五ツ・六ツにな(ら)へて有、幾軒も見へ候」

意訳変換しておくと
「百姓屋の門口に葦簀をはって、簡素な休憩所を設けて、戸板の上に果物・徳利に御酒を入れて、その前に猪口を五ツ・六ツに並べてある、そんな家を幾軒も見た」

ここからは、金毘羅街道を行き来する人々のために農家が副業で簡素な茶店を営業していたことが分かります。庶民向けの簡素な休憩所も、充真院の目に珍しく写ったようです。ちなみに充真院は、お酒が好きだったようなので、並んだ徳利やお猪口が魅力的に見えたのかも知れません。このあたりが善通寺門前から生野町にかけてなのでしょうか。
丸亀街道 田村 馬子
    枠付馬(三宝荒神の櫓)に乗った参拝客(金毘羅参詣名勝図会)

充真院は街道を行く人々にも興味を寄せています。
 反対側から二人乗りした馬が充真院一行とすれ違った時のことです。充真院らを見て、急いで避けようとして百姓らが設置した休憩所の葦簾張りの中に入ろうとしました。ところが馬に乗ってい人が葦簾にひっかかり、葦簾が落ちて囲いが壊れます。それに、馬が驚いて跳ねて大騒ぎになります。充真院は、この思いがけないハプニングを見て肝を冷やしたようです。「誠にあふなくと思ふ」と心配しています。
 実は、充真院を載せた籠は、本職の籠かきが担いでいるのではなかったようです。
「舟中より参詣する事故、駕籠之者もなく」
    船中からの参拝なので籠かきを同行していない
「舟子共をけふは駕籠かきにして行」   
      今日は船子を籠かきにして参拝する
其ものヽ鳴しを聞は、かこは一度もかつぎし事はなけれと、先々おとさぬ様に大切にかつき行さへすれはよからんと云しを聞き
  船子等は駕籠を担いだことが一度もないので本人たちも不安げだ。駕籠を落とさないように大切に担いでいけば良いだろうと話し合っていたのを耳にした。
これを聞いて充真院の感想は、「かわゆそうにも思、又おかしともおもへる由」と、本職ではない仕事を命じられた船子たちを可哀相であると同情しながらも、その会話を愉快にも感じています。同時に気の毒に思っています。身分の低い使用人たちに対しても思いやりの心を寄せる優しさが感じられます。
 こうして船子たちは

「かこかきおほへし小使有しゆへ、おしヘノヽ行し」

と、駕籠かきを経験したことがある小使に教えられながら、金毘羅街道を進んで行きます。
 しかし、素人の悲しさかな、中に乗っている人に負担にならぬよう揺れを抑えるように運ぶことまではできません。そのためか乗っていた充真院が、籠酔いしたようです。  なんとか酔い止めの漢方薬を飲んで、周りの風景を眺めて美しさを愛でる余裕も出てきます。

早苗のうへ渡したる田は青々として詠よく、向に御山みへると知らせうれしく、夜分はさそな蛍にても飛てよからんと思ひつゝ

意訳変換しておくと
 一面に田植え後の早苗の初々しい緑が広がる田は、清清しく美しい。向こうに象頭山が見えてきたという知らせも嬉しい。この辺りは夜になると、蛍が飛び交ってもいい所だと思った。」

充真院の心を満たし短歌がふっと湧くように詠めたようです。このあたりが善通寺の南部小学校の南の寺蔵池の堰堤の上辺りからの光景ではないかと私は推測しています。
美しい風景を堪能した後で、寺で小休憩をとります。
この寺の名前は分かりません。位置的には大麻村のどこかの寺でしょうか。この寺は無住で、村の管理下にあったようです。充真院一行が休憩に立ち寄ることが急に決まったので、あらかじめ清掃できず、寺の座敷は荒れ放題で、次のように記します。
「すわる事もならぬくらひこみ(ゴミ)たらけ、皆つま(爪先)たてあるきて」

と、座ることも出来ない程、ごみだらけで、 人々は汚れがつかないように爪先立ちで歩いたと記します。そして「たはこ(煙草)杯のみて、早々立出る」と、煙草を一服しただけで、急いで立ち去っています。ここからは、彼女が喫煙者であったことが分かります。
 大名夫人にとって、荒れ放題でごみだらけの部屋に通されることは、日常生活ではあり得ないことです。非日常の旅だからこそ経験できることです。汚さに辟易して早々に立ち去った寺ですが、充真院は庭に石が少しながら配してあったことや、さつきの花が咲いているが、雑草に覆われて他は何も見えなかった記します。何でも見てやろう的なたくましい精神力を感じます。
 寺を出てから、再び田に囲まれた道を進みます。
この辺りが大麻村から金毘羅への入口あたりでしょうか。しばらくすると町に近づいてきます。子供に角兵衛獅子の軽業を演じさせて物乞いしている様子や、大鼓を叩いている渡世人などを見ながら進むうちに、金毘羅の街までやってきたようです。「段々近く間ゆる故うれしく」と鰐口の響く音が次第に近づいて聞こえてくることに充真院は心をときめかせています。
象頭山と門前町
象頭山と金毘羅門前(金毘羅参詣名勝図会)
金昆羅の参道沿いの町について次のように記します。
「随分家並もよく、いろいろの売物も有て賑わひ」と、家並みが整って、商売が繁盛していることを記します。また「道中筋の宿場よりもよく、何もふしゆうもなさそふにみゆ」と、多度津街道の街道の町場と比較して、金毘羅の門前町の方が豊かであると指摘します。
 充真院一行は、内藤家が定宿としている桜屋に向います。
桜屋は表参道沿いの内町にある大名達御用達の宿屋でした。先行した女中たちが充真院一行が立ち寄ること伝えていたので、桜屋の玄関には「延岡定宿」と札が掛けてあります。一階の座敷で障子を開けて、少し休憩して暑さで疲れた体を休めようとします。ところが参道をいく庶民がのぞき込みます。そこで、二階に上って風の通る広間で息つきます。そして、いよいよ金昆羅宮へ参詣です。
今回はここまでにします。続きはまた次回に 
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
     神崎直美「日向国延岡藩内藤充真院の金毘羅参り」

金毘羅神 箸蔵寺
金毘羅大権現(箸蔵寺)
                               
 現在の金刀比羅宮は、祭神を大物主、崇徳帝としていますが、これは明治の神仏分離以後のことです。それ以前は、金毘羅大権現の祭神は金毘羅神でした。金毘羅神は近世始めに、修験者たちがあらたに作り出した流行神です。それは初代金光院宥盛を神格化したもので、それを弟子たちたちは金毘羅大権現として+崇拝するようになります。そういう意味では、彼らは天狗信者でした。しかし、これでは幕府や髙松藩に説明できないので、公的には次のような公式見解を用意します。
 金毘羅は仏神でインド渡来の鰐魚。蛇形で尾に宝玉を蔵する。薬師十二神将では、宮毘羅大将とも金毘羅童子とも云う。

 こうして天狗の集う象頭山は、金毘羅信仰の霊山として、世間に知られるようになります。これを全国に広げたのは修験者(金比羅行者=子天狗)だったようです。

天狗面を背負う行者
金毘羅行者

 「町誌ことひら」も、基本的にはこの説を採っています。これを裏付けるような調査結果が近年全国から報告されるようになりました。今回は広島県からの報告を見ていきたいと思います。テキストは、 「印南敏秀  広島県の金毘羅信仰  ことひら40 1985年」です。

広島県の金毘羅神の社や祠の分布を集計したのが次の表です。
広島県の金毘羅神社分布表
この表から分かることとに、補足を加えると次のようになります。
①山県郡や高田郡・比婆・庄原・沼隈などの県東部の県北農山村に多く、瀬戸内海沿岸や島嶼部にはあまり分布していない。
②県北では東城川流域や江川流域の川舟の船頭組に信仰者が多く、鎮座場所は河に突き出た尾根の上や船宿周辺に祀られることが多かった。
③各祠堂とも部落神以上の規模のものはなく、小規模なものが多く、信者の数は余り多くはなく、そのためか伝承記録もほとんど伝わっていない
④世羅郡世羅町の寺田には、津姫、湯津彦を同殿に祀って金比羅社と呼んでいる。
⑤宮島厳島には二つあり、一つは弥山にあって讃岐金比羅の遙拝所になっている。
⑥因島では社としては厳島神社関係が多く、海に沿うた灯寵などには、金刀比羅関係が多い。
⑤金比羅詣りは、沿岸の船乗りや漁師達は江戸時代にはあまり行わなかった。維新以後の汽船時代に入って、九州・大阪通いの石炭船の船乗さんが金比羅参りを始めに連れられるように始まった。

 以上からは安芸の沿岸島嶼部では、厳島信仰や石鎚信仰が先行して広がっていて、金毘羅信仰は布教に苦戦したことがうかがえます。金毘羅信仰が沿岸部に広がるようになるのは、近世後期で遅いところでは近代なってからのことのようです。

 廿日市の金刀比羅神社
広島県廿日市市の金刀比羅神社

因島三庄町 金刀比羅宮分祠

因島三庄町 金刀比羅宮分祠 右が金毘羅灯籠

例えば因島の海運業者には、根深い金刀比羅信仰があったとされます。
年に一回は、金刀比羅宮に参拝して、航海安全の祈祷札を受けていたようです。そして地元では金刀比羅講を組織して、港近くには灯籠を祀っています。
因島三庄町 金刀比羅宮分祠灯籠

因島三庄町 金刀比羅宮分祠の金毘羅灯籠


それでは、金毘羅さんにも灯籠などの石造物などを数多く寄進しているのかというと、そうでもないようです。讃岐金比羅本社の参道両側の灯寵に因島の名があるものは、「金毘羅信仰資料集成」を見る限りは見当たりません。広島県全体でも、寄進物は次の通りです。
芸州宮島花木屋千代松其他(寛永元年八月)。
芸州広島津国屋作右衛門(寛保二年壬戌三月)。
芸州広島井上常吉。
広島備後村上司馬。広島福山城主藤原主倫。 
 宮島や石鎚信仰に比べると、「海の神様」としての金毘羅さんの比重は決して高くないようです。これは讃岐の塩飽本島でも同じです。塩飽廻船の船乗りが金毘羅山を信仰していたために、北前船と共に金毘羅信仰は、日本海沿いの港港に拡大したと云われてきました。しかし、これを史料から裏付けることは難しいようです。北陸の山形や新潟などでも、金毘羅信仰は広島県と同じく、内陸部で始まり、それが海岸部に広がるという展開を見せます。塩飽北前船の廻航と関連づけは「俗説」と研究者は考えているようです。
 近世初頭の塩飽の廻船船主が、灯籠などの金毘羅への寄進物の数は限られています。それに比べて、難波住吉神社の境内には、塩飽船主からの灯籠が並んでいます。
産業の盛衰ともす636基 住吉大社の石灯籠(もっと関西): 日本経済新聞
難波の住吉神社の並び灯籠 塩飽船主の寄進も多い

ここからは塩飽の船乗りが信仰していたのは古代以来馴染みの深い難波の住吉神社で、近世になって現れた金毘羅神には、当初はあまり関心を示していなかったことがうかがえます。これは、芸予諸島の漁民たちには、石鎚信仰が強く、排他的であったことともつながります。これらの信仰の後には、修験者の勢力争いも絡んできます。
 因島における金刀比羅講社の拡大も近代になってからのようです。重井村の峰松五兵衛氏の家にも明治十一年のもの「崇敬構社授与」の証があります。また、因島の大浜村村上林之助氏が崇敬構社の世話掛りを命ぜられたものですが、これも明治になってからのものです。

  崇敬講社世話人依頼書
金刀比羅本宮からの崇敬講社世話人の依頼状
 以上から、次のような仮説が考えられます。
①近世初頭には船頭や船主は、塩飽は住吉神社、安芸では宮島厳島神社、芸予諸島の漁師達は石鎚への信仰が厚かった。
②そのため新参者の金毘羅神が海上関係者に信者を増やすことは困難であり、近世全藩まで金毘羅神は瀬戸内海での信仰圏拡大に苦戦した
③金毘羅信仰の拡大は、海ではなく、修験者によって開かれた山間部や河川航路であった。
④当初から金毘羅が「海の神様」とされたわけではなく、19世紀になってその徴候が現れる。
⑤流し樽の風習も近世末期になってからのもので、海軍などの公的艦船が始めた風習である。
⑥その背景には、近代になって金刀比羅宮が設立した海難救助活動と関連がある。
三次市の金刀比羅宮
三次市の金刀比神社

最後に広島県の安芸高田市向原町の金毘羅社が、どのように勧進されたのかを見ておきましょう。広島県安芸高田市

安芸高田市の向原町は広島県のほぼ中央部、高田郡の東南端にあたります。向原町は太田川の源流でその支流の三条川が南に流れ、江の川水系の二戸島川が北に向かって流れ山陰・山陽の分水界に当たります。
ヤフオク! -「高田郡」の落札相場・落札価格
高田郡史・資料編・昭和56年9月10日発行

そこに高田郡史には向原の金毘羅社の縁起について、次のように記されています。
(意訳)
当社金毘羅社の由来について
当社神職の元祖青山大和守から二十八代目の青山多太夫は、男子がなかった。青山氏の血脈が絶えることを歎いた多太夫は、寛文元朧月に夫婦諸共に氏神に籠もって七日七夜祈願し、次のように願った。日本国中の諸神祇当鎮守に祈願してきましたが、男の子が生まれません。当職青山家には二十八代に渡って血脈が相続いてきましたが、私の代になって男子がなく、血脈が絶えようとしています。まことに不肖で至らないことです。不孝なること、これ以上のことはありません。つきましては、神妙の威徳で私に男子を授けられるように夫婦諸共に祈願致します。
 するとその夜に衣冠正敷で尊い姿の老翁が忽然と夢に現れ、次のように告げました。我は金毘羅神である。汝等が丹誠に願望し祈願するの男子を授ける。この十月十日申ノ刻に誕生するであろう。その子が成長し、六才になったら讃岐国金毘羅へ毎年社参させよ。信仰に答えて奇瑞の加護を与えるであろう。
 この御告を聞いて、夢から覚めた。夫婦は歓喜した。それから程なくして妻は懐妊の身となり、神告通り翌年の十月十日申ノ刻に男子を出産した。幼名を宮出来とつけた。成人後は青山和泉守・口重と改名した。
 初月十日の夜夢に以前のように金毘羅神がれて次のように告げた
汝の寿命はすでに尽きて三月二十一日の卯月七日申ノ刻に絶命する。しかし、汝は長年にわたって篤信に務めてきたので特別の奇瑞を与える。死骸を他に移す事のないようにと家族に伝えておくこと。こうして夢から覚めた。不思議な夢だと思いながらも、夢の中で聞いた通りのことを家族に告げておいた。予言通りに卯月七日の申の刻終に突然亡くなった。しかし、遺体を動かすなと家族は聞いていたので、埋葬せずに家中において、家内で祈念を続けるた。すると神のお告げ通りの時刻の戌ノ刻に蘇生した。そして、尊神が次のように云ったという。
 この村の理右衛門という者と、因果の重なりから汝と交換する。そうすれば、長命となろう。そして、讃岐へ参詣すれば、その時に汝に授る物があろう。これを得て益々信心を厚くして、帰国後には汝の家の守神となり、世人の結縁に務めるべしという声を聞くと、夢から覚めたように生き返ったと感涙して物語った。不思議なことに、理右衛門は同日同刻に亡くなっていた。吉重はそれからは、肉食を断ち同年十月十日に讃岐国金毘羅へ参拝し、熱心に拝んで御札守を頂戴した。帰国時には、不思議なことに異なる五色の節がある小石が荷物の上ににあった。これこそが御告の霊験であると、神慮を仰ぎて奉幣祈念して21日に帰郷した。そして、その日の酉の刻に祇園の宮に移奉した。
 この地に米丸教善と云う83歳の老人に、比和という孫娘がいた。3年前から眼病に犯され治療に手を尽していたが効果がなかった。すると「今ここで多くの信者を守護すれば、汝が孫の眼病も速に快癒する。それが積年望んでいた験である」という声が祇園の宮から聞こえてきて、夢から覚めた。教善は歓喜して、翌22日の早朝に祇園の宮に参拝し、和泉守にあって夢の次第を語った。
 そこで吉重も自分が昨夕に讃岐から帰宅し、その際に手に入れた其石御神鉢を祇園の宮へ仮に安置したことを告げた。これを聞いて、教善は信心を肝に銘じて、吉重と語り合い、神前に誓願したところ神托通りに両眼は快明した。この件は、たちまち近郷に知れ渡り、遠里にも伝わり、参詣者が引も切らない状態となった。
 こうして新たに金毘羅の社殿を建立することになった。どこに建立するかを評議していると、夜風もない静まりかえる本社右手の山の中腹に神木が十二本引き抜け宮居の地形が現れた。これこそ神徳の奇瑞なるべしとして、ここの永代長久繁昌の宝殿を建立することになった。倒れた神木で仮殿を造営し、元禄十三年十一月十日未ノ刻遷宮した。その際に、空中から鳶が数百羽舞下り御殿の上に飛来し、儀式がが全て終わると、空中に飛去って行った。
 元禄十三年庚辰年仲冬  敬白

ここには元禄時代に向原町に金毘羅社が勧進されるまでの経緯が述べられています。
ここからは次のようなことが分かります。
①金比羅信仰が「海上安全」ではなく「男子出生」や「病気平癒」の対象として語られている。
②讃岐国金比羅への参拝が強く求められている
このようなストーリーを考え由緒として残したのは、どんな人物なのでしょうか。
天狗面を背負う行者 正面
金比羅行者
それが金比羅行者と呼ばれる修験者だったと研究者は考えています。彼らは、象頭山で修行を積んで全国に金毘羅信仰(天狗信仰)を広げる役割を担っていました。広島では、児島五流や石鎚信仰の修験者とテリトリーが競合するのを避けて、備後方面の河川交通や山間部の交通拠点地への布教を初期には行ったようです。それが、最初に見た金毘羅社の分布表に現れていると研究者は考えているようです。
  以上をまとめておくと
①近世当初に登場した金毘羅神は、象頭山に集う多くの修験者(金比羅行者)たちによって、全国各地に信仰圏を拡大していき流行神となった。
②、瀬戸内海にいては金毘羅信仰に先行するものとして、塩飽衆では難波の住吉神社、芸予諸島では石鎚信仰・大三島神社、安芸の宮島厳島神社などの信仰圏がすでに形成されていた。
③そのため金毘羅神は、近世前半においては瀬戸内海沿岸で信仰圏を確保することが難しかった。
④修験者(金比羅行者)たちは、備後から県北・庄原・三好への内陸地方への布教をすすめた。
⑤そのさいに川船輸送者たちの信仰を得て、河川交通路沿いに小さな分社が分布することからうかがえる。しかし、それは祠や小社にとどまるものであった。
⑥金毘羅信仰が沿岸部で勢力を伸ばすようになるのは、東国からの参拝者が急激に増える時期と重なり、19世紀前半遺構のことである。
⑦流し樽の風習も近世においてはなかったもので、近代の呉の海軍関係者によって一般化したものである。
 今まで語られていた金毘羅信仰は、古代・中世から金毘羅神が崇拝され、中世や近世はじめから塩飽や瀬戸内海の海運業者は、その信者であった。そして、流し樽のような風習も江戸時代から続いてきたとされてきました。しかし、金毘羅神を近世初頭に現れた流行神とすると、その発展過程をとして金毘羅信仰を捕らえる必要が出てきます。そこには従来の説との間に、様々な矛盾点や疑問点が出てきます。
 それが全国での金毘羅社の分布拡大過程を見ていくことで、少しずつ明らかにされてきたようです。
 最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「広島県の金毘羅信仰  ことひら40 1985年」
関連記事

1 金刀比羅宮 講社看板

神仏分離以前の金毘羅大権現の祭神は「金毘羅神」でした。それが現在の金刀比羅宮の祭神は「大物主神」です。象頭山から金毘羅神は、追放されたようです。
ウキには次のように記されています。
  明治初年の廃仏毀釈の際、旧来の本尊に替わって大物主を祭神とした例が多い。一例として、香川県仲多度郡琴平町の金刀比羅宮は、近世まで神仏習合の寺社であり祭神について大物主、素戔嗚、金山彦と諸説あったが、明治の神仏分離に際して金毘羅三輪一体との言葉が残る大物主を正式な祭神とされた。明治の諸改革は王政復古をポリシーに掲げていたので、中世、近世の本尊は古代の神社登録資料にも沿う形で行われたので必ずしも出雲神への変更が的外れでなかった場合が多い。

    「大国主神=大物主」と説明される人もいますが、どうなのでしょうか?
 古事記では大物主について、詳しい説明はされていません。ただ、大国主命とは別の神であるとしています。一方『日本書紀』の異伝には、大国主神の別名としています。さらに異伝を記した「一書」では、国譲りの時に天津神とその子孫に忠誠を尽くすと誓って帰参してきた国津神の頭として、事代主神と並び大物主が明記されています。事代主神の別名が大物主神であったと張する研究者もいるようです。ここでは、大物主の由緒はよくわからないことを押さえておきます。 

 どちらにしても、それまで信仰していた金毘羅大権現を追放して、いままで聞いたことのない「大物主神」が祭神だと言い出しても、庶民たちは心の中では納得しにくかったようです。今でも金刀比羅宮は「海の神様」を売りにしているようですが、これを「大物主神」に関連づけて説明するのは苦しいようです。

さて本題に入ります。金刀比羅宮には、極彩色の「大国主神像」画があります。
この絵図は、幕末に宮崎県児湯郡高鍋村の名和大年が奉納したもので、元雪筆とあります。大国主神は小さな金嚢を左手に握っています。大黒天の「大黒」と大国主神「大国」の音が同じなので、混交して同一視されることがよくあります。また、大黒天も大国主神も大きな袋を背負っているので、姿もよく似ています。これが混交して「大黒天像」が「大国主神像」とされるようです。金刀比羅宮の「大国主神像」も大国主神を描いたものでなく、大黒天を描いた「大黒天像」であると研究者は指摘します。 それがどうしてなのかを今回は見ていくことにします。テキストは「羽床正明  金刀比羅富蔵大黒天像について   ことひら61 平成18年」です。
大園寺の勝軍大黒天
        勝軍大黒天(目黒区大園寺)
前回見た勝軍大黒天の誕生背景を、もう一度整理して起きます。
①延暦寺の食厨の神として、片手に金嚢を持ち、片足を垂らして小さな台の上に座る大黒天
②大将軍八神社にある大将軍神
①②を合体させて生まれたのが、勝軍大黒天であること。
勝軍大黒天の勝軍は、大将軍神の将軍と、音も同じです。「大黒天+大将軍神」=勝軍大黒天ということになること。
大国天 5
『覚禅抄』の大黒天
そして、勝軍大黒天の特徴としては、次のような4点が挙げられます。
①片手に金嚢を持つ、
②片手に宝棒を持つ
③冑か宝冠をかぶって甲(鎧)をまとう、
④臼の上に片足を垂らして座る、
この視点から金刀比羅宮の元雪筆の「大国主神像」を見てみましょう。
金刀比羅宮 元雪「大国主神像」画
元雪筆の「大国主神像?」
右手に金嚢を持ち、左手付け、臼の上に右足を垂らして座っています。『覚禅抄』の中に、左手に小さな金嚢を持ち、右手は拳を握り、台の上に右足を垂らして座る大黒天の図が掲載されています。また、観世音寺。松尾寺・興福寺南円堂脇納経所の大黒天は、左手で大きな袋を背負い、右手は拳を握っています。拳を握るのは、大黒天の特徴です。  ①・③・④を満たしていまが、②の宝棒は持っていません。しかし、その他の特徴からして、これは大黒天(勝軍大黒天)であると研究者は考えています。
金刀比羅宮には、元雪筆「大国主神像」を、岡田為恭が模写したものもあります。
為恭は、幕末 1860年、宥盛上人の250年祭の時に金毘羅大権現から招かれた金毘羅にやってきて、3月10日から19日まで滞在しています。その間にお守りの木札の文字が古くて型がくずれていたのを直したり、小座敷の袋戸棚に極彩色の絵を描いたり、宝物を調査・分類したりしています。こうした縁で為恭の作品が、金刀比羅宮に百余点残っているようです。しかし、その内の半分は明治になって奈良春日大社の伶人、富田光美がもたらしたものです。白書院の天丼の竜は、寸法を計って帰り、帰京後描いて翌年の文久元年(1861)6月18日に京都から献上使が預かってもち帰ったものです。
 金毘羅滞在中に模写したひとつが、元雪の「大国主神像」のようです。
大黒天模写
       為恭の「大国主神像」模写(着色なし)
研究者が注目するのは、為恭が模写した「大国主神像」の向かって右上の黒く塗りつぶした部分です。ここには、最初は「大国主神像」と書いたのが、為恭途中で「大国主神像」とすることに疑問を感じて、墨で黒く塗りつぶしたと研究者は推測します。つまり、為恭は「大国主神像」ではなくて、勝軍大黒天を描いた「大黒天像」であると知っていたことになります。同時に江戸時代末期には、この絵は金毘羅では「大国主神像」と名前が付けられていたことも分かります。

『岡田為恭(冷泉為恭) 武者鎧兜(五月節句)』
『岡田為恭(冷泉為恭) 武者鎧兜(五月節句)』

為恭は金毘羅大権現に滞在中、いくつかの作品を模写しています。
その模写した作品の中に、元雪筆「大国主神像」がありました。元雪は江戸時代の狩野派画家で、ふだんから勝軍大黒天を信仰していたようです。彼は勝軍大黒天に彼独自の工夫を加えています。例えば、それまでの勝軍大黒天.は黒い甲冑を着けていましたが、元雪はきらびやかな甲や宝冠をまとわせています。ある意味、新しい独自の勝軍大黒天像を描きだしたと研究者は評します。

金毘羅大権現の大黒天
金刀比羅宮の大黒天
 元雪の描いた勝軍大黒天像が、どのような経過をたどったかは分かりませんが、宮崎県児湯郡高鍋村の名和大年の所有となり、金毘羅大権現に奉納されたようです。江戸時代後期には、「金毘羅大権現=大国主神(大物主神)」であるという俗説が広められていました。その影響を受けて勝軍大黒天像が大国主神(大物主神)として金毘羅大権現に奉納されようです。
金毘羅参詣名所図会
金毘羅参詣名勝図会
弘化4年(18478)刊行の『金毘羅参詣名勝図会』は、金毘羅大権現の祭神について次のように記しています。
金毘羅大権現、祭神未詳、あるいは云ふ、三輪大明神、また素蓋烏尊、また金山彦神と云ふ.

『金毘羅参詣名勝図会』は、金毘羅大権現の祭神を未詳として、三輪大明神(大物主・大国主命)、素垂鳥尊、金山彦神の名をあげます。しかし、これらの三神は金毘羅大権現ではありません。金毘羅大権現は全毘羅坊(黒眷属金毘羅す)という天狗だったことは以前にお話ししました。
 金毘羅大権現=大物主神(大国主神)というのは俗説ですが、その俗説の影響を受け、勝軍大黒天像が金毘羅大権現に奉納されます。それは、大国主神と大黒天は混交して同一視されたからでしょう。
  以上をまとめておくと
①金刀比羅宮には、元雪筆「大国主神像」がある。
②しかし、それは本当は「大国主神像」でなくて、勝軍大黒天を描いた「大黒天像」である。
③大国主神と大黒天は混交して、同一視された。
④大国主神と混交したのは大きな袋を背負った大黒天であって、小さな袋を持った大黒天ではなかった。
⑤金毘羅大権現では、誤って小さな金嚢を持つ大黒天像を、「大国主神像」とした
⑥これがただされることなく現在に至っている。
 金刀比羅宮所蔵「大黒天像」は、普通の大黒天のように黒い甲冑をまとったものでなく、きらびやかな甲(鎧)を着け、さん然と輝く宝冠を戴いた姿です。これは、他に類のない貴重なものです。正しい名前で呼んで、評価することが価値を高まることにつながると研究者は評します。
  最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献

 近世の金毘羅では、封建的領主でもある松尾寺別当の金光院に5つの子院が奉仕するという体制がとられていました。
その中で多聞院は、金毘羅山内で特別の存在になっていきます。ときにはそれが、金光院に対して批判的な態度となってあらわれることあったことが史料からは見えてきます。また、多聞院に残された史料は、金光院の「公式記録」とは、食い違うことが書かれているものがいくつもあります。そして比べて見ると、金光院の史料の方が形式的であるのに対して、多聞院の史料の方が具体的で、リアルで実際の姿を伝えていると研究者は考えているようです。どちらにしても、別の視点から見た金毘羅山内の様子を伝えてくれる貴重な史料です。

金毘羅神 箸蔵寺
箸蔵寺の金毘羅大権現

 近世初期の金毘羅は、修験者の聖地で天狗道で世に知られるようになっていました。
 公的文書で初代金光院院主とされる宥盛は「死後は天狗となって金毘羅を守らん」と云って亡くなったとも伝えられます。彼は天狗道=修験道」の指導者としても有名で、数多くの有能な修験者を育てています。その一人が初代の多聞院院主となる片岡熊野助です。宥盛を頼って、土佐から金毘羅にやってきた熊野助は、その下で修験者として育てられます。

天狗達
金毘羅大権現と大天狗と烏天狗(拡大)
 修験(天狗道)の面では、宥盛の後継者を自認する多聞院は、後になると「もともとは当山派修験を兼帯していた金光院のその方面を代行している」と主張するようになります。しかし、金光院の史料に、それをしめすものはないようです。

1金毘羅天狗信仰 天狗面G4
天狗信者が金毘羅大権現に納めた天狗面
 
金光院の初期の院主たちは「天狗道のメッカ」の指導者に相応しく、峰入りを行っていて、帯剣もしています。そういう意味でも真言僧侶であり、修験者であったことが分かります。しかし、時代を経るにつれて自ら峰入りする院主はいなくなります。それに対して歴代の多聞院院主は、修験者として入峯を実際に行っています。

松尾寺の金毘羅大権現像
松尾寺の金毘羅大権現

宝暦九(1760)年の「金光院日帳」の「日帳枝折」には、次のように記されています。

「六月廿二日、多聞院、民部召連入峯之事」

天保4(1833)年に隠居した多聞院章範の日記には、大峰入峯を終えた後に、近郷の大庄屋に頼み配札したことが書かれています。
多聞院が嫡男民部を連れて入峯することは、天保四年の「規則書」の記事とも符合します。
 次に多聞院の院主の継承手続きや儀式が当山派の醍醐寺・三宝院の指導によって行われていたことを見ておきましょう。
(前略)多聞院儀者先師宥盛弟子筋二而 同人代より登山為致多聞院代々嫡子之内民部与名附親多聞院召連致入峯 三宝院御門主江罷出利生院与相改兼而役用等茂為見習同院相続人二相定可申段三宝院御門主江申出させ置多聞院継目之節者 拙院手元二而申達同院相続仕候日より則多聞院与相名乗役儀等も申渡侯尤此元二而相続相済院上又々入峯仕三宝院 御門主江罷出相続仕候段相届任官等仕罷帰候節於当山奥書院致目見万々無滞相済満足之段申渡来院(後略)
意訳変換しておくと
(前略)多聞院については、金光院初代の先師宥盛弟子筋であり、その時代から大峰入峯を行ってきた。その際に、多聞院の代々嫡子は民部と名告り、多聞院が召連れて入峯してきた。そして三宝院御門主に拝謁後に利生院と改めて、役用などの見習を行いながら同院相続人に定められた。このことは、三宝院御門主へもご存じの通りである。
 多聞院継目を相続する者は、拙院の手元に置いて指導を行い、多聞院を相続した日から多聞院を名告ることもしきたりも申渡している。相続の手続きや儀式が終了後に、又入峯して三宝院御門主へその旨を報告し、任官手続きなどを当山奥書院で行った後に来院する(後略)

ここには多聞院の相続が、醍醐寺の三宝院門主の承認の下に進めらる格式あるものであることが強調されています。金光院に仕えるその他の子院とは、ランクが違うと胸を張って自慢しているようにも思えてきます。
 このように多聞院に残る「古老伝」には、修験の記事が詳しく具体的に記されています。現実味があって最も信憑性があると研究者は考えているようです。そのため当時の金毘羅の状況を知る際の根本史料ともされるべきだと云います。 
新編香川叢書 史料篇 2(香川県教育委員会 編) / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋

それでは、古老伝旧記 ( 香川叢書史料編226p)を見ておきましょう。

    古老伝旧記 
〔古老伝旧記〕○香川県綾歌郡国分寺町新名片岡清氏蔵
(表紙) 証記 「当院代々外他見無用」
極秘書
古老之物語聞伝、春雨之徒然なる儘、取集子々孫々のためと、延享四(1748)年 七十余歳老翁書記置事、かならす子孫之外他見無用之物也。

「古老伝旧記」は多聞院四代慶範が延享4年(1744)に記述、九代文範が補筆、十代章範が更に補筆、補修を加えたもので、文政5年(1822)の日付があります。古老日記の表紙には、「当院代々外他見無用」で「極秘書」と記されています。そして1748年に当時の多聞院院主が、子孫のために書き残すもので、「部外秘」であると重ねて記しています。ここからは、この書が公開されないことを前提に、子孫のために伝え聞いていたことをありのままに書き残した「私記」であることが分かります。それだけに信憑性が高いと研究者は考えています。
天狗面を背負う行者
天狗行者
例えば金毘羅については、次のように記されています。
一、当国那珂郡小松庄金毘羅山之麓に、西山村と云村有之、今金毘羅社領之内也、松尾寺と云故に今は松尾村と云、西山村之事也、
讃岐国中之絵図生駒氏より当山へ御寄附有之、右絵図に西山村記有之也、
一、金昆羅と申すは、権現之名号也、
一、山号は、象頭山   
一、寺号は、松尾寺
一、院号は、金光院    
一、坊号は、中の坊
社領三百三拾石は、国主代々御領主代々数百年已前、度々に寄附有之由申伝、都合三百三拾石也、
当山往古火災有之焼失、宝物・縁記等無之由、高松大守 松平讃岐守頼重公、縁記御寄附有之、
意訳変換しておくと
一、讃岐国那珂郡小松庄金毘羅山の麓に、西山村という村がある。今は金毘羅の社領となっていて、松尾寺があるために、松尾村とよばれているが、もともとは西山村のことである。
讃岐国中の絵図(正保の国絵図?)が、生駒氏より当山へ寄附されているが、その絵図には西山村と記されている。
一、金昆羅というのは、権現の名号である。
一、山号は、象頭山   
一、寺号は、松尾寺
一、院号は、金光院    
一、坊号は、中の坊
社領330石は、国主や御領主から代々数百年前から度々に寄附されてきたものと言い伝えられていて、それが、都合全部で330石になる。当山は往古の火災で宝物・縁記等を焼失し、いまはないので、高松大守 松平讃岐守頼重公が縁記を寄附していただいたものがある。
①生駒家から寄贈された国絵図がある
②坊号が中の坊
③松平頼重より寄贈された金毘羅大権現の縁起はある。
天狗面2カラー
金毘羅に奉納された天狗面
歴代の金光院院主については、次のように記されています。
金光院主之事   227p
一、宥範上人 観応三千辰年七月朔日、遷化と云、
観応三年より元亀元年迄弐百十九年、此間院主代々不相知、
一、有珂(雅) 年号不知、此院主西長尾城主合戦之時分加勢有之、鵜足津細川へ討負出院之山、其時当山の宝物・縁記等取持、和泉国へ立退被申山、又堺へ被越候様にも申伝、
一、宥遍 一死亀元度午年十月十二日、遷化と云、
元亀元年より慶長五年迄三十一年、此院主権現之御廟を開拝見有之山、死骸箸洗に有之由申伝、
意訳変換しておくと   
一、宥範上人 観応三(1353)年7月朔日、遷化という。その後の観応三年より元亀元年までの219年の間の院主については分からない。

宥範は善通寺中興の名僧とされて、中讃地区では最も名声を得ていた高篠出身の僧侶です。長尾氏出身の宥雅が新たに松尾寺を創建する際に、その箔をつけるために宥範を創始者と「偽作」したと研究者は考えています。こうして金毘羅の創建を14世紀半ばまで遡らせようとします。しかし、その間の院主がいないので「(その後の)219年の間の院主については、分からない」ということになるようです。
  一、有珂(雅)  没年は年号は分からない。
この院主は西長尾城の合戦時のときに長尾氏を加勢し、敗北して鵜足津の細川氏を頼って当山を出た。その時に当山の宝物・縁記は全て持ち去り、その後、和泉国へ立退き、堺で亡命生活を送った。
宥雅が金毘羅神を作り出し、金比羅堂を創建したことは以前にお話ししました。つまり、金毘羅の創始者は宥雅です。しかし、宥雅は「当山の宝物・縁記は全て持ち去り、堺に亡命」したこと、そして、金光院院主と金比羅の相続権をめぐって控訴したことから金光院の歴代院主からは抹消された存在になっています。多聞院の残した古老伝が、宥雅の手がかりを与えてくれます。
  一、宥遍  元亀元年十月十二日、遷化と云、
元亀元(1570)年より慶長五(1600)年まで31年間に渡って院主を務めた。金毘羅大権現の御廟を開けてその姿を拝見しようとし、死骸が箸洗で見つかったと言い伝えられている院主である。
宥遍が云うには、我は住職として金毘維権現の尊体を拝見しておく必要があると云って、、御廟を開けて拝見したところ、御尊体は打あをのいて、斜眼(にらみ)つけてきた。それを見た宥遍は身毛も立ち、恐れおののいて寺に帰ってきた。そのことを弟子たちにも語り、兎角今夜中に、我体は無事ではありえないかもしれない、覚悟をしておくようにと申渡して、護摩壇を設営して修法に勤めた。そのまわりを囲んで塞ぎ、勤番の弟子たちが大勢詰めた。しかし、夜中に何方ともなくいなくなった。翌日になって山中を探していると、南の山箸洗という所に、その体が引き裂かれて松にかけられていた。いつも身につけている剣もその脇に落ちていた。この剣は今は院内宝蔵に収められている。
  ここには金毘羅大権現の尊体を垣間見た宥遍が引き裂かれて松に吊されたという奇話が書かれています。もともと宥遍と云う院主は金毘羅にはいません。宥雅の存在を抹消したために、宥盛以前の金比羅の存在を説くために、何らかの院主を挿入する必要があり、創作されたようです。そこで語られる物語も奇譚的で、いかにも修験者たちが語りそうなものです。

7 金刀比羅宮 愛宕天狗
愛宕天狗

 なお、この中で注目しておきたいのは、次の2点です。
①宥遍には多くの弟子がいて、護摩壇祈祷の際には宥遍を、勤番の弟子たちが大勢詰めたとあること。
②「いつも身につけている剣もその脇に落ちていた。」とあり、常に帯刀していたこと。
ここからも当時の金光院院主をとりまく世界が「修験者=天狗」集団であったことがうかがえます。これは金毘羅大権現の絵図に描かれている世界です。

金毘羅と天狗
金毘羅大権現と天狗たち(修験者)
以上見てきたように多聞院に残された古老伝は、正式文書にはないリアルな話に満ちていて、私にとっては興味深い内容で一杯です。

最後に 金光院宥典が多聞院宥醒(片岡熊野助)を頼りとしていたことがうかがえる史料を見ておきましょう。古老伝旧記の多開院元祖宥醒法印(香川叢書史料編Ⅰ 240P)には次のように記されています。
万治年中病死已後、宥典法印御懇意之余り、法事等之義は、晩之法事は多聞院範清宅にて仕侯得は、朝之御法事は御寺にて有之、出家中其外座頭迄之布施等は、御寺より被造候事、

意訳変換しておくと
万治年中(1658~60)に多開院元祖宥醒の病死後、宥典法印は懇意であったので、宥醒の晩の法事は多聞院範清宅にて行い、朝の御法事は御寺(松尾寺?)にて行うようになった。僧侶やその他の座頭衆などの布施も、金光院が支払っていた。


道隆寺本堂
道隆寺本堂
  四国霊場の道隆寺は、中世の多度郡の港である堀江の管理センター的な機能を持ち、備讃瀬戸に向けて開けた寺院でした。この寺には多くの中世文書が残されていますが、その中に「道隆寺御影堂作事人日算用帳」という帳簿があります。これは、天文21年(1552)に御影堂再建にかかった経費を記録した帳簿です。この中には「番匠・かわら大工・人夫手伝い・番匠おかひき(大鋸引)・鍛冶」などの職人が登場してきます。今回は職人たちに焦点を当てて、御影堂再建を見ていくことにします。

番匠
職人絵図 番匠(大工)

御影堂再建にかかった経費は15貰421文です。そのうちの工賃が次の通りです。
番匠101人に  5貫50文
かわら大工23人 1貫150文 
番匠(大工)と瓦職人一人あたりの手間賃が50文、
これ以外に飯米として、それぞれに1升2合が支払われ、酒が振る舞われています。また人夫手伝いとして767人に一人当たり4合、かわら取り付け人夫に3合、しほたへの人夫に六合の飯米が支払われています。ここからは建築経費の内、職人への手間賃が約4割を占めていたことが分かります。それ以外にも飯米・酒代の支出が必要だったようです。
  まず驚かされるのが職人の数の多さです。「番匠(大工)101人、瓦大工23人」とあります。最初は延人数なのかと思いましたが、そうではないようです。これだけの職人が関わっていたのです。これらの大工職人を、どのようにして集め、組織していったのでしょうか? 今の私には分からないことだらけです。
5.瓦屋根の細部の名称-鬼瓦とか(屋根の雑学知識)
 
瓦大工については、馴染みが薄いので補足しておきます
それまでの瓦屋根は、軒先の瓦に釘を打って瓦が滑り落ちるのを防いでいました。これだと腐食した釘が釘穴の中で膨張して瓦を割ったり、修理のとき瓦を破損したりしてしまいます。そこで中世の瓦職人が考えだしたのが、釘を使わなくても滑り落ちない軒瓦です。軒先の木に丈夫な引っ掛かり部分をつけ、そこに瓦に設けた突起部分を引っ掛ける仕組みになっています。これは瓦の歴史の上で画期的な発明です。瓦大工が瓦を焼いていたかどうかは分かりませんが、瓦を葺く専門の大工であったようです。もちろん当時は、瓦葺きの屋根は寺院などの限られた建物に限られていましたから、瓦の需要はそれほど多くはなかったはずです。相当の広範囲のエリアを活動地域としていたことが考えられます。

帳簿には、次のようにも記されています。
「三貫三百文 大麻かハらの代」    大麻からの瓦代金
「八百八十文 しはくのかハらの代」     塩飽からの瓦代金
ここからは御影堂の瓦は、善通寺の大麻と塩飽で4:1の割合で焼かれた瓦が使われたことが分かります。塩飽からは海を越えて船で運ばれ、大麻からは川船で運ばれたのでしょう。同時に大麻や塩飽には、瓦を製造職人がいたことがうかがえます。大麻は大麻山の麓に開けたエリアで、古墳時代には積石塚古墳の集中地であり、忌部氏の氏寺とされる大麻神社が鎮座します。近くに善通寺があり、古くから善通寺で使用する瓦の製造を行う職人集団が存在していたことは、以前にお話ししました。

塩飽本島絵図
塩飽本島周辺(下が北)

塩飽は、九亀市の塩飽本島のことです。本島にも瓦職人集団がいたことがうかがえます。
 塩飽は近世になると、船大工や宮大工で活躍する職人を多数輩出します。高見島などは、幕末の戸籍調査によると戸数の1/3が大工でした。かつては、船大工として活躍していた人たちが、元禄期以後の「塩飽造船不況」で、宮大工に「転職」したとも云われました。しかし、それ以前から塩飽には「宮大工」の流れを汲む職人たちがいたような気配がします。どちらにしても、中世末の塩飽本島には、「建築総合組合」的な集団があり、備讃瀬戸沿岸からの寺社のさまざまな建築物発注に応える体制が出来あがっていたのではないでしょうか。これが近世における塩飽の宮大工の広域的な活動基盤になっていると私は考えています。
  下表は中世の道隆寺明王院の院主が導師として出席した遷宮・供養寺の一覧表です。

道隆寺 本末関係
道隆寺明王院が導師として出席した遷宮・供養寺の一覧表
導師として出席とすると云うことは、道隆寺がこれらの寺社の本寺にあったということになります。
6塩飽地図

そのエリアは塩飽本島から白方、詫間、荘内半島、粟島・高見島など備讃瀬戸にある寺社と本末関係にあり、末寺の信者集団も傘下に組み入れていたことにあります。大きな寺院が専属の建築者集団を持っていたように、中世の地方有力寺院も本末グループ全体で「建築職人集団」を持っていた可能性もあると私は考えています。
 そうだとすると、道隆寺グループの末寺の改修工事等は、道隆寺と契約関係にある建築集団が行っていたことになります。道隆寺は、讃岐守護代の香川氏の保護を受け発展していました。それに連れて道隆寺に属する職人集団も成長して行くことになります。こうして16世紀には、道隆寺を中心とする職人集団が香川氏のお膝的の多度津や、塩飽衆の拠点である本島には形成されていたという仮説は出せそうです。
200017999_00161道隆寺
道隆寺 江戸時代後半
道隆寺の御影堂建立から約30年後のことです。
土佐の長宗我部元親が讃岐平定の祈願と成就御礼のために、金毘羅(松尾寺)に三十番社と仁王堂を寄進しています。
天正十一年(1583)、讃岐平定祈願のために、松尾寺境内の三十番神社を修造。
天正十二年(1584)6月  元親による讃岐平定成就
天正十二年(1584)10月  元親の松尾寺の仁王堂(二天門)を建立寄進
当時の金毘羅(松尾寺)は、長宗我部元親が土佐から招聘した南光院(宥厳)が、院主を任されていました。「元親管轄下の松尾寺体制」で、元親の手によって、松尾寺の伽藍整備が進められます。そして、讃岐平定が完了した年に、成就御礼の意味が込めて寄進されたのが仁王堂(門)です。二天門棟札が讃岐国名勝図会には、次のように載せられています。

二天門棟札 長宗我部元親
金毘羅大権現二天門棟札(讃岐国名勝図会)
右側が表、左側が裏になります。まず表(右)側を、書き写したものを見ていきましょう。
真ん中に
「上棟奉建立松尾寺仁王堂一宇、天正十二甲申年十月九日、
左右に
大檀那大梵天王長曽我部元親
大願主帝釈天王権大法印宗仁
とあって、その間には元親の息子達の名前が並びます。天霧城の香川氏を継いだ次男の香川「五郎次郎」の名前も見えます。ここで注目したいのは、その下の大工の名です。
「大工 仲原朝臣金家」
「小工 藤原朝臣金国」
仲原と藤原という立派な姓を持つふたりが現場責任者で棟梁になるのでしょう。
左側(裏)には、「別当権大僧都宥厳(南光院)」の下に、6つの寺と坊の名前が並びます。ここに出てくる坊や寺は、「土佐占領下」の土佐修験道のメンバーだと私は考えています。
 その下には、職人たちの名前が次のように記されています。
「鍛治大工  多度津 小松伝左衛門」
「瓦大工  宇多津 三郎左衛門」
「杣番匠□□    圓蔵坊」
多度津や宇多津の鍛治大工や瓦大工が呼ばれていたことが分かります。多度津は、長宗我部元親と同盟関係にある香川氏の拠点です。松尾寺の伽藍整備には、香川氏配下の職人が数多く参加しているようです。これらの職人は、香川氏の保護を受けていた職人たちとも考えられます。この時期の松尾寺の伽藍整備が、実質的には香川氏によって進められたことがうかがえます。
その左には、次のように記されています。
「象頭山には瓦にする土はないのに、本尊が安置されている寺内から(瓦作りに相応しい)粘土があらわれた。この奇特に万人は驚いた。これも宥厳上人の加護である。」
 ここからは新たに発見された粘土を用いて、周辺に作られた瓦窯で瓦が焼かれたことがうかがえます。先ほど見た道隆寺の御影堂の瓦は、大麻や塩飽から運ばれ来ていました。それが松尾寺の場合には、「瓦大工 宇多津三郎左衛門」が請負って、松尾寺山内の土を使って焼かれたとあります。

 中世末には地方の有力寺院の建立には、多くの職人が組織され働いていたことが分かります。その組織がどのようにして組織され、運営されていたかについてを語る史料は、讃岐にはないようです。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献  羽床正明       長宗我部元親天下統一の野望 こと比ら 63号
関連記事

 
「高瀬のむかし話」(高瀬町教育委員会平成14年)を、読んでいると「琴浦のだんじきさん」という話に出会いました。この昔話には、金刀比羅宮の奥社が修験者たちの修行ゲレンデであったことが伝えられています。そのむかし話を見ておきましょう。

高瀬町琴浦

  琴浦のだんじき(断食)さん
上麻の琴浦という地名は、琴平の裏に当たるところから付けられたものです。琴平には「讃岐のこんぴらさん」で昔から全国に知られた金刀比羅宮があります。金刀比羅宮の奥の院のうしろに天狗の面がかかった岩があり、「天狗岩」と呼ばれています。天狗岩の周辺は、昔から、たくさんの人が、修行をしに来る場所として知られていました。
江戸時代の話です。
DSC03293
金刀比羅宮奥社と背後の「天狗岩」

江戸の町から来た定七さんも、天狗岩のそばで修行しているたくさんの人の中の一人でした。修行とは、自分から困難なことに立ち向かい、困難に耐えて、精神や身体をきたえ、祈ったり考えたりするものでした。それで、何日も何も食べないで水だけを飲んで過ごしたり、
足がどんなに痛くても座り続けていたり、高いところから何度も何度も飛び降りたり、冷たい水を頭からざばざばとぶっかけたりして、がんばるのでした。

DSC03290
天狗岩に掛けられた「天狗」と「烏天狗」の面

定七さんは、何日も水を飲むだけで何も食べない「だんじき」という修行を選びました。天狗岩には、定七さんのほかにも「だんじき」する人がたくさんいましたが、お互いに話をする人はいません。自分一人でお経をとなえたり考えたりすることが修行では大切なことだと考えられていたのです。
定七さんは、何日も何日も、何も食べないで修行にはげみました。食べないのでだんだん体がやせてきました。定七さんの横にも「だんじき」して修行している人がいました。その人も、食べないのでだんだん体がやせてきました。

DSC03291
      天狗岩の「天狗」と「烏天狗」の面

定七さんは、苦しくてもがんばりました。横の人もがんばっていました。ある日、横の人は苦しさに負けたのか、根がつきたのか、とうとう動かなくなってしまいました。そして、だれかに引き取られていきました。それでも、定七さんは、 一生けんめいに修行うしてがんばりました。でも、ある日、とうとう力がつきて、定七さんは、動けなくなってしまいました。自分の修行を「まだ足りない、まだ足りないと思って、頑張っているうちに息が絶えてしまったのです。

天狗面を背負う行者 浮世絵2
浮世絵に描かれた金毘羅行者

ちょうどその時、奥の院へお参りに行っていた琴浦の人が、横たわっている定七さんを見つけました。信心深かったこの人は、倒れている行者さんを、そのままにしておくことはできませんでした。琴浦へつれて帰り、自分の家のお墓の近くに、定七さんのお墓を建てて、とむらったのです。
 そういうわけで、琴浦に「だんじきさん」と呼ばれる古いお墓があります。墓石には「江戸芝口町三丁目伊吹屋清兵衛倅 定七 法名 観月院道仙信士」と刻まれています。

天狗面を背負う行者
天狗面を奉納に金毘羅にやってきた金毘羅行者

ここには次のような事が記されています。
①金刀比羅宮の奥の院のうしろに天狗の面がかかった岩は、「天狗岩」とよばれていた
② 天狗岩の周辺は、修験者の修行ゲレンデであった。
③そこでは断食などの修行にはげむ修験者たちが、数多くいた。
④断食で息絶えた行者を琴浦に葬り、「江戸芝口町三丁目伊吹屋清兵衛倅 定七 法名 観月院道仙信士」という墓石が建てられている。

 近世初頭に流行神として登場してきた金毘羅神は、土佐からやって来た修験道リーダーの宥厳によって、天狗道の神とされます。その後を継いだ宥盛も、修験道の指導者で数多くの修験道者を育てると供に、象頭山を讃岐における修験道の中心地にしていきます。その後に続く金光院院主たちも、高野山で学んだ修験者たちでした。つまり、近世はじめの象頭山は、「海の神様」というかけらはどこにもなく、修験道の中心地として存在していたと、ことひら町史は記します。修験者たちは、修行して験力を身につけ天狗になることを目指しました。
Cg-FlT6UkAAFZq0金毘羅大権現
金毘羅大権現と天狗たち

 例えば江戸時代中期(1715年)に、大坂の吉林堂から出された百科辞書の『和漢三才図絵』(巻七九)には、次のように記されています。
 相伝ふ、当山(金毘羅大権現)の天狗を金毘羅坊と名づく。之を祈りて霊験多く崇る所も亦甚だ厳し。

また、江戸中期の国学者、天野信景著の『塩尻』には、次のように記されています。
  讃州象頭山は金毘羅を祀す。其像、座して三尺余、僧形也。いとすさまじき面貌にて、今の修験者の所載の頭巾を蒙り、手に羽団を取る。薬師十二将の像とは、甚だ異なりとかや。

ここからは江戸中期には金毘羅宮の祭神は、僧(山伏)の姿をしていて団扇を持った天狗で、十二神将のクビラ神とはまったくちがう姿であったことが報告されています。『塩尻』に出てくる修験者の姿の木像とは、実は初代金光院主とされる宥盛の姿です。観音堂の裏には威徳殿という建物があって、その中には、次のような名の入った木像がありました。
天狗道沙門金剛坊形像、当山中興権大僧都法印宥盛、千時慶長拾壱年丙午拾月如意月
金毘羅大権現像 松尾寺
初代金光院院主の宥盛は天狗道沙門と名乗り、彼が手彫りで作った金剛坊形像が「松尾寺では金毘羅大権現像」として伝わっていたというのです。
CPWXEunUcAAxDkg金毘羅大権現
金毘羅大権現
 ここからは宥厳や宥盛が、金毘羅信仰の中に天狗信仰をとり入れ定着させた人物であったことが分かります。宥盛は修験道と天狗信仰を深く実践し、死後は天狗になって金毘羅宮を守ると遺言して亡くなり、観音堂のそばにまつられます。宥盛は死後、象頭山金剛坊という天狗になったとされ、金剛坊は金毘羅信仰の中心として信仰を集めるようになります。これは白峰の崇徳上皇と相模坊の関係と似ています。
天狗面2カラー
金刀比羅宮に奉納された天狗面

 戦国末期の金比羅の指導者となった土佐出身の宥厳やその弟弟子にあたる宥盛によって、象頭山は修験・天狗道の拠点となっていきます。宥盛は、初代金光院院主とされ、現在では奥の院に神として祀られています。奥の院は、このむかし話に出てくる天狗岩がある所で、定七が「だんじき修行」をおこなった所です。 
 琴浦に葬られた定七の墓石には「江戸芝口町三丁目伊吹屋清兵衛倅 定七 法名 観月院道仙信士」と掘られているようです。定七も、天狗信仰のメッカである象頭山に「天狗修行」にやってきて、天狗岩での修行中になくなった修験者だったのでしょう。
 彼以外に多くの修験者(山伏)たちが象頭山では、修行を行っていたことがこの昔話には記されています。金毘羅神が「海の神様」として、庶民信仰を集めるようになるのは近世末になってからだと研究者は考えているようです。金毘羅信仰は、金比羅行者が修行を行い、その行者たちが全国に布教活動を行いながら拠点を構えていったようです。金毘羅信仰の拡大には、このような金毘羅行者たちの存在があったと近年の研究者は考えているようです。
  このむかし話は「近世の金毘羅大権現=修験道の行場=天狗信仰の中心」説を、伝承面でも裏付ける史料になるようです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
引用文献  「高瀬のむかし話」( 高瀬町教育委員会平成14年)

関連記事

     金毘羅参詣名所図会  1848年
     金毘羅参詣名所図会

弘化4(1847)年に『金毘羅参詣名所図会』が発行されます。
この図会は、大坂の戯作者である暁鐘成が出版したもので、画家の浦川公佐を連れて、実際に讃岐への取材旅行をおこなっています。53歳の真夏の事なので、暑さのために大変な旅でもあったようです。 金毘羅参詣名所図会は、今では香川県立図書館のデジタルライブラリーで見ることが出来ます。これを使って、丸亀港に上陸した暁鐘成や浦川公佐が見た19世紀半ばの丸亀街道を追体験していこうと思います。図会は全6冊で、第一巻冒頭に次のように記されています。

「丸亀港に渡る参詣人の多くは、浪華から船で向かう者が多いため、まずは船中からの眺望の名所を載せた」
「摂津・播磨の海辺については以前出版されたものに詳しいため、今回は備前の海辺から著すこととした」

 ここからは、上方から金毘羅船で丸亀を目指したことがことが分かります。そして「浪華川口」のあとは、一気に「虫明の迫門(せと)」に飛んで、備中の喩伽山や瀬戸の島々などがが取り上げられ、1巻目は備前で終わります。
丸亀からの金毘羅詣でが描かれるのは2巻目です。
追い風に帆を上げた金毘羅船が丸亀港に向かうシーンから始まります。
金比羅船IMG_8033

  金比羅船の構造や大きさを見ると、19世紀前半に弥次喜多コンビが金比羅詣でに乗船した船は、上廻りに屋形がなく、苫がけ船だったことは以前にお話ししました。しかし、ここに描かれた金毘羅船は垣立が高く、大型の総屋形船になっています。これは樽廻船を金毘羅船用に改造したものと研究者は考えています。文化から弘化・嘉永期の40年の間に、船も大きく典型的な渡海船になったことが分かります。定員も数人だったのが何倍にも増えたことでしょう。金比羅船にも「大量輸送」時代がやってきていたようです。 この動きをリードしたのが大坂の平野屋左吉です。彼は、もともとは安治川の川口の樽廻船問屋でした。樽廻船を金毘羅船に改造して、堺筋長堀橋南詰に発着場を設けて、金毘羅船を経営するようになり急成長していきます。

次のページを開くと、入港地の丸亀港が向かえてくれます。
  丸亀港3 福島湛甫・新堀湛甫
丸亀港 金毘羅参詣名所図会

 瀬戸内海上空から南の丸亀城を眺めた構図になっています。当時の絵図の流行は俯瞰図です。立体感のある俯瞰図は居ながらにして、風景が絵図で楽しめます。ドローン映像で、旅番組の構図が大きく変わったのと同じような意味を持っていたのではないかと私は考えています。
 ここでも正面に右(西)側に福島湛甫(文化3年1806竣工)、左(東)に新堀湛甫(天保4年1833竣工)とふたつの港が描かれています。そして汐入川の河口を遡った奧には丸亀城がどーんと控えます。絵になる光景です。新堀には、2つの大きな燈籠も並んでいます。どちらかが現在の太助灯籠になるようです。

金毘羅参詣名所図会の本文を、見ておきましょう。
丸亀港 金毘羅参詣名所図会
金毘羅参詣名所図会 圓(丸)亀湊

那河郡円(丸)亀湊 
讃岐国北の海浜なり。大阪より海陸ともに行程凡そ五十余里、下津丼より凡そ五里。
当津は幾内条より南海道往返の喉口なるゆへ象頭山の参詣、大師霊場の遍路、其のほか南海に到るの旅客、摂州浪花津より乗船の徒は言ふも更なり。陸路を下向の輩も或は田の口下村より渡り、又は下津丼より越る等何れも此方に着岸せずと言ふ事なし。されば東雲の頃より追々浪花よりの入船、向ひ路よりの着船引もきらず。又黄昏時よりは向ひ路への渡海、登船の出帆有りて船宿の賑ひ昼夜を分ず、浜辺の蔵々には俵物の水揚産物、積送の浜出し仲仕の掛声、船子の呼声藁しく湊口には縦横に石の波戸ありて紫銅の大灯籠夜陰を照し、監船所の厳重、浜々の石灯籠、魚市の群集、御城は正面の山岳に魏々として驚悟しく、内町には市邸軒をならべ交易にいとまなく、就中、籠の細工物、渋団、円座なんど名物也とて讐家多く、旅客かならず需めて家土産とするなど街の繁栄、実に当国第一の湊と言ふべし。城下の封境、寺院、神社の類ひは後編に委しく著はせばこゝに洩す。
  意訳変換しておくと
丸亀港は讃岐国の北の海浜に位置する。大阪より海陸ともに行程およそ五十余里で、対岸の備中下津丼からは5五里程である。この港は、上方からすると南海道往来の喉口になる。そのために金毘羅象頭山の参詣、四国霊場の遍路、その他の南海への旅客など、摂州浪花津より乗船する人々が数多くいることは知られたところである。陸路山陽道を下る輩も、児島の田の口下村や、下津井から船で渡ってこの港に着岸することは言うまでもない。そのため東雲の朝から浪花からの入船や、対岸備中路よりの着船が引もきらず行き交う。また、黄昏時からは備中からの渡海や、上方への上船の出帆も多く、船宿の賑わいは昼夜を分つことがない。
 浜辺の蔵々には俵物の水揚産物が収められ、積送の浜出し仲仕の掛声や船子の呼声が賑やか飛び交う。湊口には、縦横に石の波戸(堤防)が築かれ、その上に建立された紫銅の大灯籠が夜陰を照す。監船所(船番所)が置かれ、浜々の石灯籠、魚市の群集が浮かび上がる。丸亀城は背後の山々を従えて港の正面に建つ。内町には市邸が軒をならべ交易にいとまがない。そこでは、籠の細工物、渋団、円座などの讃岐の名物などを売る店が多く、旅客は必ず土産に買い求めていく。丸亀城下町の街の繁栄は、実に当国第一の湊というにふさわしい。城下の封境、寺院、神社などは、後編に委ねることにして、ここでは省略する。
〔閑田耕筆に守興和尚が話に云ふ〕
備前の下津居より船にて丸亀へ渡る。海上丸亀近くなりてはるかむかひに五尺斗りなる黒き澪標みゆさも深かるべき所に、いかに長き木をうちこみて斯くみゆるばかりにやと怪しくて船頭にとわれしかば、船頭見てあれは大亀の首を出したるなり。空曇なく海長閑なる日はかく首を出し、あるひは全身をも現す。昔より大小二亀すみて大なるは廿畳じきほどもあらん。小なるもさのみ劣らず、此のものゝ住めるがゆへにこゝを丸亀とは名付たりと語りしと云々。

意訳変換しておくと
備前の下津居から船で丸亀に渡っていたときの話です。丸亀が近づいてきた頃に、海の上に五尺ばかりの黒い澪標が打ち込まれたように突き出ていました。それはまるで、長い木をうち込んだようにみえたので、不思議に思って船頭に聞いてみました。すると船頭は次のように応えました。
「あれは大亀が首を出しているんですわ。空に曇や風がなく、海が穏やかな日には、あんなふうに首を出します。時には、全身を現す時もあります。このあたりには、昔から大小のふたつの亀が住み着いていています。大亀は二十畳敷ほどにもなります。小亀も、それと変わらないでしょう。この亀たちが住みついているので、ここはを丸亀と名付たようです。

福島湛甫ができる前の船着きは土器川河口の「川口」と呼ばれる自然の港で、干潮時には沖で潮待ちをしなければ上陸できませんでした。

丸亀市東河口 元禄版
土器川河口の川口湊

 そのため福島湛甫が作られます。もとの船着き場でであった土器川河口周辺は、宇多津・坂出から移住させられた三浦(御供所・西平山・北平山)の人々が船宿や茶屋を営業して繁盛していました。彼らはただの漁民でなく、中世以来の海上運送業も数多くいて、商業活動を行っているものもいたのです。福島に港が移動するときには、彼らも移ってきたようです。さらに金毘羅船が大型化すると、港が浅い福島湛甫では入港できなくなり、新たに新堀湛甫が作られたとようです。福島湛甫=小型船、新堀=大型船という棲み分けがあったのかも知れませんが、絵図上からは読み取ることはできません。
丸亀城 福島町3
新堀湛甫が完成する前の丸亀港と福島

福島・新堀のふたつの港から上陸した客は、まず船宿に入り、船旅の疲れをいやし、陸路の準備をします。
 弥次喜多コンビの金比羅詣での際にもお話ししたように、船宿は金毘羅船の梶取りや船主が経営したり、タイアップしていました。そのため客は、船頭に連れられてそれぞれの宿に入ります。当時の引き札を見ると、大坂と丸亀・金毘羅の船宿が数軒ずつ並んで載せられています。ここからは大坂出発時点で、丸亀や金毘羅の宿か決まっていたことが分かります。つまり「金毘羅船の乗船券+丸亀・金毘羅の宿」がセット販売されていたことになります。

丸亀より金毘羅・善通寺道案内図 原田屋2県デジタルアーカイブ
丸亀より金毘羅・善通寺・弥谷寺道案内図 版元原田屋

 旅人は、三里(約12㎞)の道を歩いて金毘羅へ向かう身支度や携行品の準備を宿で行います。
多くの参拝客は、金毘羅だけでなく善通寺・弥谷寺の七ヶ所巡りをして、丸亀に帰ってくるルートを宿に勧められるとおりに選んだので、不用な荷物は宿に預けたようです。宿は旅人のために、飲食物の供給、休憩・娯楽場所の提供、旅行用具・土産物の販売や接待に努めます。その以前に紹介した「金毘羅案内図」を無料で手渡しながら次のように勧めたのでしょう。
「金毘羅さんだけなく、この際に弘法大師のお生まれになった善通寺もぜひご参拝を」
「弥谷寺などの七ヶ所廻りも地元では、お参りするする人が多いですよ」
「お土産は途中で買うと、手荷物になって不便ですから、船に乗る前に当店でどうぞ、お安くしますよ」

  丸亀港の船宿を出た後に描かれるのが次の絵図です。

丸亀街道 田村、田村ノ池、山北八幡宮20111108_112757093
 丸亀街道 三ッ角(みつかど)の分岐点 金毘羅参詣名所図会

  金毘羅街道を馬に乗った参拝客が馬子に引かれて集団で進んでいます。進行方向は右から左のようです。その行く先の左上に山北八幡が見えます。また、右上には田村の集落を貫いて金毘羅街道が伸びています。そして右端中央には、田村池の東側の堤防が見えているようです。ここには枝振りのいい松があり、その下には大きな道標や常夜灯が並んでます。ここは、いったいどこなのでしょうか? 最初、私には分かりませんでした。金毘羅街道は、南に伸びているものという先入観があったからです。本文を読んでみましょう。

丸亀街道 中府口・三軒家
金毘羅参詣名所図会2巻 三軒家
中府口   
城下南の出口にして則ち金毘羅参詣の道条、是より行程百五十町と云ふ。
中府村  
城下の門外にて市中続きの在領也。左右人家建ち列り農工商ともに住す。
三軒家  
中府村の中なり。昔は僅か三軒のみなりしが繁栄に付き、今は人家軒を並べり。故に其の旧名をよべり。此所より道すじ左右に分れり。右は伊予街道にして善通寺に至る者は是に赴く。左は金毘羅参詣の往還にして道標の石、奉納の石灯籠等道の傍辺にあり。象頭山参詣の道条中府口より百五十丁の間は、都て官道にひとして路径広く高低なく、老幼婦女等も悩まざるの平地なり。其の上傍らの在郷より農夫あまた馬を引いで参詣の旅客を進めて乗らしむる事、三方荒神の櫓にして馬士唄うたひ連て勇める形勢、恰も伊勢参宮の街道に髣髴たり。
意訳変換しておくと
  三軒家
中府村の中で、昔は三軒だけした家がなかった。それが今では繁栄して、人家が軒を並べるようになった。ここから道筋に行くと、街道が左右に分かれた三叉路になる。右が伊予街道を経て善通寺へつながる道である。左が金毘羅参詣の往還で、道標や燈籠などが並んでいる。

象頭山参詣の道中で、中府口より百五十丁の間は、全て官道のようなもので路径は広く高低ないので、老幼婦女等にも容易な平地である。
 その上、在郷の農夫が馬を引いて参詣旅客に乗ることを勧める。三方荒神の櫓をつけて馬子唄を謡って、連れだっていく姿は、あたかも伊勢参宮の街道を彷彿とさせる。
 ここからは、この絵図が三間茶屋のすぐ南の三叉路であることが分かります。中府の大鳥居から400m程南へ進むとあるドラッグストア前の変形十字路(三つ角)です。明治初期までは南へ直進する道はなく、ここは行き止まりでT字の三叉路でした。そのため、この辺りは三ッ角(みつかど)とも呼ばれていたようです。ここが、伊予街道との分岐点だったようです。右(南西)へ進むと伊予街道です。ここに大きな道標や常夜灯があり、金毘羅街道と伊予街道への分岐点でもあったようです。

丸亀街道地図 丸亀城周辺

 そして、金毘羅街道は、三ツ角から山北八幡方向にむけて東へ進みはじめるのです。そして、県道33号線(旧国道11号線)を横切った後、骨付き鶏「一骨」のある丸戸の交差点まで東進し、そこで方向を再び南に変えます。つまり、ここまでのルートは丸亀城の西側を迂回してことになります。丸戸の交差点からは丸亀平野の古代条里制に沿って、ほぼ真っ直ぐに南下していきます。その南下する方向に田村池と田村集落が描かれいることになるようです。

丸亀より金毘羅・善通寺道案内図 原田屋6 三軒家標識

   上図が三軒家の三ツ角 「丸亀ヨリ金毘羅善通寺弥谷道案内記」

 原田屋版の案内図に描かれている三軒家の三ッ角(みつかど)を見てみましょう。背後には田村池が描かれています。そして丸亀城の中府口からの道と三叉路でまじわった所に大きな道標や常夜灯が描かれています。西に伸びる道は金倉川を越えて「永井清水」で善通寺への金比羅多度津街道と交わります。ここが永井の交差点のようです。伊予街道はさらに鳥坂方面に続きます。
丸亀より金毘羅・善通寺道案内図 原田屋7 三軒家標識
⑨の三軒家の三ツ角 「丸亀ヨリ金毘羅善通寺弥谷道案内記」の拡大図
丸亀方面(北)からやってくると、左側の標識には
右 イヨ
左 こんぴら江
右側の標識には、
右 弘法大師 善通寺
と記されています。
最後に、参詣者を載せている馬と馬子を見ておきましょう。
丸亀街道 田村 馬子
枠付馬(三宝荒神の櫓)に乗った参拝客
丸亀港に金比羅船が着くと、争って客引きをしたのが馬方と駕龍屋のようです。駕龍は二人で担ぐ二枚肩の打ち上げ駕龍が普通でした。馬は枠付馬で(三宝荒神の櫓という)三人まで乗れました。駄賃は三人で三分、酒代一朱でしたが、馬子たちは客の懐を見て値を付けていたようです。馬や駕寵の終点は、金毘羅二本木の銅鳥居の下で、現在の高灯籠のところです。三方荒神の櫓に揺られながら馬子唄を謡って、連れだっていく姿がここには描かれています。馬子唄がどんな歌詞で、どんなメロデイであったのかを今は知ることはできません。
  今回は三軒屋の三ッ角(みつかど)までとなりました。以下は、またの機会に

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 丸亀市史 819P
関連記事



丸亀:金毘羅参拝図 高灯籠以後 
金毘羅案内図
金毘羅船で丸亀にやってきた参拝客は、案内絵図を手渡されます。その案内図に従って「金毘羅+四国霊場善通寺 + 七ヶ寺」巡礼を行って、再び丸亀に帰ってきて、帰路の船に乗ることが多かったことを、前回までにお話ししました。案内図には、目印となるモニュメントが描かれるのがお約束でした。新たに描かれるようになったモニュメントで、その案内図がいつごろ出版されたかもわかります。今回は絵図に描かれたモニュメントを見ながら絵図の発行年代を推測していきたいと思います。

最初に、参拝道モニュメントの完成年を押さえておきます。
天明2年 1782 粟島庄屋、高藪の鳥居寄進。
天明8年 1788 二本木銅鳥居建立。
文化元年1804  善通寺の五重塔完成
文化3年 1806 丸亀福島湛甫竣工
文政元年 1818 二本木銅鳥居修覆。
文政5年 1822 十返舎一九、「讃岐象頭山金毘羅詣」
天保2年 1831 金堂初重棟上げ。
天保4年 1833 丸亀新掘湛甫竣工
天保5年 1834 神事場馬場完成、多度津港新湛甫起工。
天保6年 1835 芝居定小屋(金丸座)上棟。
天保11年1840 多度津須賀に石鳥居建立。 善通寺五重塔落雷を受けて焼失。
弘化2年 1845 金堂、全て成就。
嘉永元年 1848 阿波街道口に鳥居建立。
嘉永2年 1849 高藪町入口、地蔵堂建立。
嘉永4年 1851 二本木に江戸火消組奉納の並び灯龍完成
安政元年 1854 安政地震で新町の鳥居崩壊、高藪口の鳥居破損。
  道作工人智典、丸亀口から銅鳥居までの道筋修理終了。
安政2年 1855 新町に石鳥居再建。(位置が東に移動)
安政4年 1857 多度津永井に石鳥居建立。
安政6年 1859 一の坂口の鉄鳥居建立。
万延元年 1860 高燈籠竣成
文久元年 1861 内町本陣上棟。
元治元年 1864 榎井村六条西口に鳥居建立。
慶應3年 1867 賢木門前に真鍮鳥居建立。旗岡に石鳥居建立。
上の年表を、年代判定の「ものさし」にして。案内絵図の発行年代を推測してみます。
丸亀より金毘羅・善通寺道案内図 原田屋
      E27「丸亀ヨリ金毘羅善通寺弥谷道案内記」
 この絵図で、大きな指標となるのが丸亀港のふたつの湛甫①②と、二本木周辺⑤のモニュメント群です
②に天保4年(1833)に完成した新堀が描かれ、江戸町人の寄進灯龍2基が並ぶこと
⑤に万延元年(1860)に建設された高燈籠が描かれていること。
さらに金毘羅の山上を見ると、金堂が旭社と改名されていること
ここからは、神仏分離の進んだ明治以後に発行されたものであることが分かります。年表を見ると慶應3(1867)年に、賢木門前に真鍮の鳥居建立されたという情報があります。確かに、賢木門前には鳥居があります。しかし、これが、真鍮かどうかは分かりません。また、金毘羅大権現から金刀比羅宮へと切り替えが進み、神仏分離が実質的に進められるのは、翌年の明治2年以後です。下限年代を絞り込む情報を、私は見つけることができません。絵図の発行年代は明治2年(1867)~明治5年くらいまでとしておきます。

善通寺・弥谷寺
善通寺 ないはずの五重塔が描かれる

私がこの案内図を見ていて不思議に思うのは、善通寺の五重塔です。
この塔は、戦国末期に焼け落ちてなかったものが文化元年(1804)に再建されます。ところがそれもつかのまで、天保11(1840)年には落雷で焼失します。それが再建されるのは明治の後半になってからのことです。つまり、幕末から明治前半には、善通寺の五重塔は姿を消していたはずです。ところがどの金毘羅案内図を見ても、善通寺の五重塔は描かれているのです。これをどう考えればいいのでしょうか?

233善通寺 五岳
善通寺の東院と誕生院 五重塔

  善通寺にとって五重塔は必要不可欠のアイテムなので、実際になくても描くというのが「お約束」だったのかもしれません。どちらにしても五重塔は、絵図がいつ描かれたかを知るための基準にはならないことを押さえておきます。

丸亀街道 E22 ことひら5pg
E㉒「丸亀ヨリ金毘羅善通寺弥谷道案内記」

これも原田屋の版で、先ほど見た明治ものと描かれているモニュメントはほとんど同じです。ところが、山上の宗教施設の註が全て異なっています。金堂や観音堂など神仏混淆時代の呼名が記されています。ということは、神仏分離前に発行されたものであることが分かります。山下のモニュメントを見てみると、次の2つが描かれています
・二本木の高灯龍(万延元年(1860)完成)
・仁王門下の一ノ坂口の鉄鳥居(安政六年(1859)建立)
以上から、E㉒は高灯籠建立後から明治維新までの間に出されたものと分かります。

丸亀街道 E27 ことひら5pg
      E㉗「丸亀ヨリ金毘羅善通寺弥谷道案内記」

E㉗を先ほどのE㉒と比べて、何がなくなっているかを「引き算」してみます。
・二本木の高灯龍(万延元年(1860)完成)がありません。
・しかし、1851年に完成した並び燈籠はあります
・仁王門下の一ノ坂口の鉄鳥居(安政六年(1859)建立)もありません。
・新町の燈籠もありません。



年表を見ると分かるように、新町の燈籠は、安政元年(1854)の大地震で倒れてしまいます。そして、その翌年・安政2(1855)年に、位置を東側に移して石鳥居として建立されます。これが現在のもののようです。以上からこの案内図は、新町鳥居の建立より前で、並び灯籠完成後の間に出版されたことになります。
丸亀街道 E⑳ ことひら5pg
      E⑳「丸亀ヨリ金毘羅善通寺弥谷道案内記」
最後にE⑳です
①天保4年(1833)に完成した新堀湛甫が描かれ、江戸町人の寄進灯龍も3基並ぶこと
②弘化2年(1845)に完成した金堂が描かれていること。
③万延元年(1860)に、二本木に建設される高燈籠が描かれていないこと。
④安政元年(1854)に倒壊した新町の鳥居が再建前の位置に描かれていること。
⑤二本木に嘉永4年(1851)に江戸火消組奉納の並び灯龍がなく、玉垣だけであること
以上からE⑳は、1845年~51年の間に出版されたと推測できます。しかし、金堂に関しては、完成の5年前には、銅葺き屋根は姿を見せていたので、さらに遡る可能性はあります。
高灯籠8
幕末の二本木 高灯籠建立後で二本差しの武士が見えるので幕末期

こうしてみると金堂が整備される時期にあわせて、石段や玉垣なども整備され景観が一変していきます。それが人々にアピールして、さらなる参拝客の増加を招くという結果を招きます。案内絵図を見ていても燈籠や道標などのモニュメントが急速に増えていくのも、この時期です。高灯籠の出現は、この時期に出現したモニュメントのシンボルであったと私は考えています。
丸亀街道 弥谷寺めぐり


 丸亀から善通寺や七ヶ所霊場を周遊する霊場巡りは、明治になっても変わりません。これが大きく変化していくのは、明治20年代に登場する多度津と琴平を結ぶ汽車です。汽車の登場によって、歩いての金毘羅参拝は下火になり、善通寺やそのまわりの七ヶ寺を巡礼する参拝者は激減していくようになります。金毘羅参拝と四国巡礼が次第に分離していくことになります。それ以前は、神仏混淆下で金毘羅も善通寺もおなじ金比羅詣でだったようです。
高灯籠23
明治の二本木周辺 並燈籠+鳥居+一里塚の巨木+高灯籠

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
    「町史ことひら5 絵図写真篇112P 丸亀からの案内図」
関連記事

    金毘羅船 4
金比羅船
延享元年三月(1744)に、「金毘羅船」の運行申請が大坂の船問屋たちから金毘羅大権現の金光院に提出されます。その結果、「日本最初の旅客船航路」とされる金毘羅船が大坂と四国・丸亀を結ぶようになります。以後、金毘羅信仰の高揚と共に、金毘羅船は年を追う毎に繁昌します。こうして、金毘羅船をめぐって、船舶・船宿・観光出版・お土産店など新たな観光産業が形成されていくようになります。 
金毘羅船 苫船
「大阪道頓堀丸亀出船の図」(金毘羅参詣続膝栗毛の挿入絵)

19世紀初め出版された弥次喜多コンビの金比羅詣では、大坂の船宿で金比羅船の往復チケットを購入しています。その際には、どこで買っても同一料金で、原則は往復チケットになっていました。行きも帰りも同じ船に乗ることが原則だったようです。また、大坂の船宿で、金比羅チケットを購入したときに、丸亀や金毘羅の提携宿も決まるシステムだったのは以前にお話ししました。
 こうして増える参拝客をめぐる攻防戦が船宿や指定宿・お土産店屋で繰り広げられるようになります。その際の広告媒介が航路案内図であり、丸亀から金毘羅への参拝案内図であったようです。

丸亀に上陸した参拝客は、ふたたび丸亀から帰路の船に乗ります。そのために手荷物を預かったり、案内図を無料で配布することで、購買客をふやす戦略を採るようになります。この結果。お土産店などが案内図作成を行うようになります。今回は丸亀で配布された金毘羅参拝案内図を見ていくことにします。テキストは「町史ことひら5 絵図写真篇112P 丸亀からの案内図」です。

丸亀街道 E① 町史ことひら5
E① 「丸亀ヨリ金毘羅善通寺弥谷道案内記」クリックで拡大します
E①はタイトルが「丸亀ヨリ金毘羅善通寺弥谷道案内記」とあり、このシリーズの初版になるようです。
全体をみて気づくのは丸亀ー琴平の丸亀参拝道だけが描かれているのではないことです。弥谷寺や善通寺が金比羅参拝の「巡礼地」として描かれています。先ほども述べたように、この絵図は丸亀に上陸したときに宿やお土産店などで、参拝客に配布されたようです。参拝者に対しては、丸亀・琴平間の往復ではなく、「金毘羅大権現 + 四国巡礼の七ヶ所廻り」が奨められていたことがうかがえます。丸亀から琴平を目指し、善通寺を経て弥谷寺にお参りし、白方の海岸寺から多度津を経て丸亀に戻ってくると云う周遊ルートが売り出されていたようです。それは、金比羅舟の営業戦略でもあったようです。丸亀で下船したお客を、帰路も乗船させるために、金比羅船は往復チケットを販売します。そのため善通寺・弥谷寺をめぐる周遊ルートが売り出されてのではないかと私は考えています。
E①を、もうすこし具体的に見ておきましょう。
①板元名はない
②丸亀城下の見附屋の蘇鉄が注記されていて、港などは描かれていない。
③丸亀ー金毘羅間の丸亀街道沿いの飯野山などの情報は、何も記されていない。
④金毘羅の門前町から本社までの比率が長く詳細である
⑤桜の馬場が長く広く描かれている。その柵は、木製で石の玉垣ではない
⑥善通寺は五重塔と本堂だけで、周辺の門前町は描かれていない。
⑦弥谷寺は「いやだに」と山名だけ
⑧多度津の情報はなにもない
⑥の善通寺の五重塔が完成するのは、文化元年(1804)十月のことです。関東からやってきた廻国行者が善通寺境内に庵を造り、そこを根拠にして10年の勧進活動の後に完成します。建設計画から約80年余の月日を要しています。ここからは、この絵図が書かれたのは、それ以後であることが分かります。ちなみに丸亀福島湛甫が完成するのがその2年後になります。残念ながら絵図には、福島湛甫はエリア外になっています。丸亀街道 E② 町史ことひら5
E② 丸亀ヨリ金毘羅善通寺弥谷道案内記
E②は、左下欄外に「文化十四(1817)丁丑年 十二月中旬調之 大野」と墨書があるので、それ以前のものであることが分かります。丸亀街道沿いについては、飯野山が描かれ郡家や公文あたりの情報量も増えてきました。それでも左半分は、金毘羅さんのエリアです。
これだと、鞘橋を渡ってすぐに仁王門があることになります。桜の馬場が長すぎます。
 丸亀街道 E③ 町史ことひら5
E③ 丸亀ヨリ金毘羅善通寺弥谷道案内記
E③は、今までのもととは、俯瞰視点が大きく変わりました。そして家並みなどもしっかりと描き込まれて、情報量も格段に増えました。例えば、左下に「丸亀ヨリこんひらご二り(里) 一ノ坂ヨリ山上下一二十六丁 内町ヨリ善通寺へ七十五丁(以下略)」と各地への里程が書かれています。
 そして、E③には「板本谷一」と板元名が記されます。坂本谷一は、天保初年刊行の「丸亀繁盛記」にも「象頭山・四國巡路の書閲は板本谷一にとどまり」とあるので、当時は有名な絵図屋であったようです。
 描かれた時期は、丸亀に文化三年(1806)に完成した福島湛甫が見えます。また、金毘羅門前町の二本木に小さな鳥居が見えます。ここに江戸の鴻池儀兵衛などによって鳥居が立てられるのは天明七(1787)年のことです。
  また、丸亀のライバル港である多度津港が描かれています。しかし、多度津港新湛甫が完成するのは、天保9年(1838)のことです。まだ桜川河口に船は係留されているようです。
丸亀街道 E⑥ 町史ことひら5
     E⑥ 丸亀ヨリ金毘羅善通寺弥谷道案内記
 E⑥は、街道が木道のように描かれ、分かりやすくなったことと、丸亀・金比羅・善通寺などの町屋の道筋が描き込まれるようになったのが特徴です。版元は右下に御免板元・吉田屋某と見えます。金毘羅山をみると、金堂が大きくなって描かれています。金堂が完成するのが弘化2年(1845)年ですので、それ以後のもののように思えます。しかし、金堂は瓦葺きのようにも思えます。瓦葺きで葺かれた後に、設計上の問題から銅板葺に改修されています。そうだとすると、1840年よりも前のことになります。以下気づくことをあげておくと次のようなことが分かります。
①多度津街道の終点である高藪に鳥居が描かれていること
②鞘橋を渡った後の内町。金山寺町などが表記されていること
③善通寺は赤門筋が門前町化し、南には街並みはみられないこと
丸亀街道 E⑨ 町史ことひら5大原東野
E⑨

 E⑨はそれまでと「金毘羅並びに七所霊場 名勝奮跡細見圖」とタイトルが変わりました。それまでの絵図と比べると、描写が写実的で細密でレベルがぐーっと上がった印象を受けます。絵師の大原東野は、奈良の小刀屋善助という興福寺南圓堂(西国三十一二所第九番札所)前の大きい旅龍の出身です。京都・大坂で画業活動を行った後に、文化元年(1804)に金毘羅へ移り住み、いろいろな作品を残しています。この人のすごいところは、それだけでなく金毘羅参詣道修理のために「象頭山行程修造之記」を配布して募金活動による街道整備も行っていることです。上方で活躍していた画家が「地方移住」して、残した絵図になるようです。金毘羅周辺の建物構成がきちんと描かれ、後の模範となる作品と評価されます。

この絵図の注目点は他にもあります。タイトルがそれまでの「丸亀ヨリ金毘羅善通寺弥谷道案内記」から「金毘羅並びに七所霊場 名勝奮跡細見圖」に変更されています。それに伴い弥谷寺が消えました。善通寺の比重も低くなっているように見えます。うっすらぼやけてこの絵図では本堂も五重塔も見えないようです。実は、文化元年(1804)に再建された五重塔は、天保11年(1840)落雷を受けて焼失してしまいます。5年後の弘化2年(1845)に再建に着手しますが、完成するのは約60年後の明治35年(1902)のことになります。
 一方丸亀港に目を転じると、文化三年(1806)に完成した福島湛甫は見えますが、天保4年(1833)に竣工の丸亀新掘湛甫は、まだ姿を見せていないようです。
丸亀城 福島町3
福島湛甫 (新堀湛甫が姿は見せるのは1833年)

   この絵図には私たちの感覚からすると、金比羅詣案内図に弥谷寺がどうして描き込まれるのという疑問がありました。それが消えたのがこの絵図です。その代わりに登場させたのが「金毘羅並びに七所霊場」です。地元でお参りされた「四国霊場七ケ所詣 + 金毘羅大権現」ということになります。
丸亀街道 E⑩ 町史ことひら5
 E⑩「金毘羅參詣案内大略画」

E⑩「金毘羅參詣案内大略画」は、E⑨と板元が同じ大津屋です。
大津屋は、四国遍路の書物「四國遍路御詠歌道案内」「四國蜜験尋問記」の出版にも関係し、宝暦13年(1762)には「四國遍礼絵図」の板木を買い求めて、文化四年(1807)に、草子屋佐々井二郎右衛門の名で新しく刊行しています。
 丸亀の横開平八郎は、金毘羅参詣や四国遍路のことに強い関心を持っていたようで、大阪の二軒の草子屋と相合版でE⑨・E⑩図を出したことになります。彫工は、どちらも丸亀の成慶堂になっています。なお、この絵図のタイトルは、「金毘羅参詣案内大略圖」です。E⑨を更に進めて、「七ヶ所参り + 金毘羅大権現」から四国辺路巡礼にあたるルートがなくなりました。丸亀街道が、大阪・金毘羅の参詣道最後の道として、大切なものであるとの意識が強くなってきたものと研究者は指摘します。地図の中に描かれた情報は、E⑨と変わりないように見えます。
丸亀街道 E⑪ 町史ことひら5
E⑪「金毘羅參詣案内大略圖」

E⑪「金毘羅參詣案内大略圖」は標題も板元もE⑩と同じです。
ただ違うのは、丸亀港に新堀湛甫や太助灯籠が描かれています。新堀湛甫の完成は天保4年(1833)のことになるので、E⑩の改訂版と云えそうです。もうひとつ今までと違うところは、左下の枠内の記事のようです。これまでは、ここには丸亀から各地への里程が記されていました。それが金毘羅関係の書物九部の広告が出されています。これは初めての試みです。広告の書物の中には「金毘羅參詣海陸記」も入っています。広告の後には、次のように記されています。

地本弘所書林/丸亀加屋町碧松房/金物屋平八郎(横開平八郎)

  ここからは横開平八郎は房号を碧松房といったことが分かります。金毘羅案内書の名著「金毘羅山名勝図絵」は、大阪の石津亮澄の著作で、大原東野と横開碧松が校者を担当しています。東野は画家なので挿絵担当で、碧松は地理の案内をしたようです。この二人によって、金毘羅参拝絵図にも新風がもたらされたようです。ちなみに別の絵図には、次のように記されています。
「讃岐名産絵図小売おろし所、名物土産舗 丸かめ(丸亀)かや町 金物崖平八郎」

ここからは「地本弘所書林」は「名物土産舗」も兼業していたことが分かります。金物崖平八郎(碧松房)は、観光業の多角経営者であったようです。
丸亀街道 E⑬ 町史ことひら5 
E⑫「金毘羅土産所之圖」       120P
E⑫は仁尾・覚城院の南月堂三の「象頭山金毘羅大権現迢験記」の奥付にある図のようです。もともと、この書は明和六年(1769)、京都の梅村市兵衛・菊屋安兵衛・梅村宗五郎の相合版で出版されました。それを文政二年(1819)12月、丸亀の横闘平八郎が板木を買い取り、自分の名で出版します。その時に、この図を入れ、また丸亀・金毘羅の名物を四ページにもわたって広告します。
当時の金毘羅名物が、飴・湯婆・松茸・索麺・生姜などであったことが分かります。ここでは横開平八郎は「讃岐書堂」と名乗っています。
DSC06659
右側が福島湛甫 左手前が新堀湛甫


以上をまとめておきます。

①18世紀半ばに金比羅船が就航すると、クルージング気分で参拝できる金比羅詣での人気は急速に高まった。
②18世紀後半から19世紀かけて金比羅船関連の船宿・土産物・旅籠・観光出版業なども急成長し、同時に参拝客をめぐる競争も激化した。
③丸亀でも金比羅船にやって来る参拝客に、お土産店などが参拝案内図を無料配布するようになった。
④そのため案内図は、お土産店などが板元になって作成されたものが多くなる。
⑤その案内図の初期のものは、丸亀と金比羅のピストン往復詣ででなく善通寺周辺の四国霊場七ケ所巡りを奨める内容であった。そのため善通寺や弥谷寺が大きく扱われている。
⑥一方、丸亀港のライバルである多度津港の扱いは非常に小さいものとなっている。
⑦19世紀に半ば近くになってくると、弥谷寺や善通寺の比重は次第に低くなり、かわって対岸の備中児島の喩伽山を取り上げる絵図や、阿波の箸蔵寺を取り上げる案内図も出てくる。これも営業戦略のひとつであったようだ。
金毘羅 町史ことひら

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。 
金毘羅周辺の建造物出現年表
天明2年1782 高藪の鳥居建立。
天明8年1788 二本木銅鳥居建立。
寛政元年1789 絵馬堂上棟。
寛政6年1794 桜の馬場に鳥居建立。多度津鶴橋に鳥居建立。
寛政10年1798 備中梶谷、横瀬に燈籠寄進。
寛政11年1799 丸亀中府に石燈籠建立。
文化元年 1804  善通寺の五重塔完成
文化3年 1806 薬師堂を廃して金堂建築計画。福島湛甫竣工。
文化5年 1808 中府に「百四十丁」石燈籠建立。
文化10年1813 金堂起工式。
文政元年 1818 二本木銅鳥居修覆。
文政5年 1822 十返舎一九撰、「讃岐象頭山金毘羅詣」
文政10年1827 大原東野筆、「金毘羅山名勝図会」。
天保2年 1831 金堂初重棟上げ
天保4年 1833 丸亀新掘湛甫竣工
天保5年 1834 神事場馬場完成、多度津港新湛甫起工。
天保6年 1835 芝居定小屋(金丸座)上棟。
天保7年 1836 仁王門再建発願。
天保8年 1837 金堂二重目上棟。
天保9年 1838 多度津港新湛甫完成。多度津鶴橋鳥居元に石燈籠建立。
天保11年1840 金堂銅屋根葺き終了。多度津須賀に石鳥居建立。
                        善通寺五重塔落雷を受けて焼失。
天保14年1843 仁王門修覆上棟。金堂厨子上棟。
弘化2年 1845 金堂、全て成就。観音堂開帳。
           善通寺五重塔に再建に着手。
弘化4年 1847 暁鐘成、「金毘羅参詣名所図会」。
嘉永元年 1848 阿波街道口に鳥居建立。
嘉永2年 1849 高藪町入口、地蔵堂建立。
嘉永5年 1852 愛宕町天満宮再建上棟。
安政元年 1854 満濃池、堤切れ。
    道作工人智典、丸亀口から銅鳥居までの道筋修理終了。
  高燈籠建立願い。大地震、新町の鳥居崩壊、高藪口の鳥居破損。
安政2年 1855 新町に石鳥居建立。
安政4年 1857 多度津永井に石鳥居建立。
安政5年 1858 高燈籠台石工事上棟。
安政6年 1859 一の坂口鉄鳥居建立。
万延元年 1860 高燈籠竣成。大水、大風あり札之前裏山崩れる。
文久元年 1861 内町本陣上棟。
文久2年 1862 阿州講中、大門から鳥居まで敷石寄付。
慶應3年 1867 賢木門前に真鍮鳥居建立。
武州佐藤佐吉、本地堂前へ唐銅鳥居奉納。
  旗岡に石鳥居建立。
参考文献
    「町史ことひら5 絵図写真篇112P 丸亀からの案内図」
関連記事



 藤沢周平の「回天の門」の主人公・清河八郎は、幕末に尊攘派の志士として活躍した人物です。彼は26歳の時(1856年)に、母親を連れて金毘羅参りにやって来ています。その旅日記『西遊草』の中に、丸亀からの道中でみた飯野山について、次のように記しています。
飯野山と坂出 御魚堂
飯野山や周辺の里山にも大きな木はない
 付近の子どもが次のように教えてくれた。
 「いつもはあの山には登れないんだ、7月17日だけに登ることが許されているんだ、その時には群がるように人が集まってくるんだ」と。このあたりには高い山はなく、摺鉢をふせたような山がぽつりぽつりと見える。そして、山には木々が生えていない。その山々が時々、雲に隠れてまた現れ、様々な姿を見せてくれる。
 ここからは次の2つのことが分かります。
①飯野山は、年に一度しか登ることが許されていなかったこと。霊山として「禁足」された聖なる山だったこと。
②周囲の里山には「木が生えていない=裸山」だったこと。
4344102-34飯野山と飯神社

先に進んで金毘羅での記述を見てみましょう。

 金毘羅の町の賑わいは凄まじい。屋根の着いた橋(鞘橋)を渡ると、そこからは両端に旅籠が軒を並べる内町だ。見事な造りの家ばかりである。お腹も空いたので備前屋という店で昼御飯をとり、そこに荷物を預けて参拝する。金毘羅山は、その名の通り象の頭ようで、草木もない。しかし、神社があるところは山形の仙人林と同じように木々が茂り、大きな森となっている。

 ここには、象頭山も草木がない裸山だったと記します。神社がある所だけが森となっているというのです。これは本当なのでしょうか。

思い当たるのが安藤広重の浮世絵「讃岐象頭山遠望」です。

みんなの知識 ちょっと便利帳】歌川広重・六十余州名所図会/大日本六十余州名勝図会《讃岐 象頭山遠望》

清川八郎が金毘羅にやって来た同じ年に描かれたものです。まんのう町羽間の「残念坂(見返坂)」を上り下りする参拝者の向こうに象が眠るように象頭山が描かれています。山は左側と右側では大きく色合いが違います。なぜでしょう?

象頭山遠景 浮世絵 A

 向かって左側は、金毘羅さんの神域です。右側は、古代から大麻山と呼ばれた山域です。現在は、この間には防火帯が設けられ行政的には左が琴平町、右が善通寺市になります。
 ここからは次のようなことが推論できます。
左側は金毘羅さんの神域で「不入森」として、木々が切られることはなかった。右の善通寺側は、伐採が行われ山が裸になっている。 その背景には、里山の青草や木の若芽を刈り取り、田植前の水田に敷きこんで腐食させ根肥とする刈敷(かれしき)が盛んに行われたためです。そのため里山の木々が春前には大量に切られました。そして、山裾は畠になり、だんだん高くまで開墾されていきます。耕地開発が最も進んだ頃には、まんのう町の里山も丸裸のはげ山だったのかもしれません。それが時を超えて、今は自然に帰っていると見ることもできます。 
本堂より讃岐富士 絵はがき

 関連記事      

 

丸金

金刀比羅宮のシンボルとして使われているのが金の字のまわりを、丸で囲った「丸金」紋です。この「九金紋」が、いつ頃から、どういう事情で使われ出したのかを見ていくことにします。テキストは「羽床正明 丸金紋の由来 ―金昆羅大権現の紋について― ことひら 平成11年」です。
丸亀はうどんだけじゃない!日本一のうちわの町でマイうちわ作り│観光・旅行ガイド - ぐるたび

「丸金紋」を全国に広めたのが丸亀団扇だと云われます。
赤い和紙を張った団扇に、黒字で「丸金」とかかれたものです。これが金毘羅参詣の土産として、九亀藩の下級武士の内職で作られ始めたとされます。その経緯は、天明年間(1781~88)の頃、豊前の中津藩と丸亀藩の江戸屋敷が隣合せであったため、江戸の留守居役瀬山四郎兵衛重嘉が、中津藩の家中より団扇づくりを習い、江戸藩士の副業として奨励したのが、九亀国扇の起こりと伝えられます。
 幕末に九亀藩の作成した『西讃府志』によると、その生産は安政年間(1854~59)には、年産80万本に達したと記されています。その頃の金昆羅信仰は、文化・文政(1804~29)の頃には全国的な拡大を終えて、天保(1830~)の頃には「丸金か京六か」という諺を生み出しています。京六とは京都六条にあった東本願寺のことで、金刀比羅宮とともに信仰の地として大いに栄えました。

金刀比羅宮で「丸金」紋が使われるようになったのは、いつ頃からなのでしょうか。

丸金鬼瓦2

松尾寺の金堂(薬師堂=現在の旭社)には、唐破風の上の鬼瓦に、「金」の古字の「丸金紋」が載っています。

丸金 旭社瓦

この鬼瓦とセットで使用されていた軒平瓦も、金刀比羅宮の学芸参考館に陳列されています。「金」の略字と思われる「金」という字の両脇に、唐草文を均整に配した優美なもので、黒い釉薬が鳥羽玉色の光沢をはなっています。説明には、瓦の重量が支えきれずに鋼板葺きに、葺きかえられた時に下ろされたと記されています。旭社(松尾寺金堂=薬師堂)の屋根が、銅板葺きで完成したのは天保十一年(1840)の秋です。
金刀比羅宮大注連縄会 活動状況 - 高松市浅野校区コミュニティの公式ホームページです。

金刀比羅宮に奉納された絵馬に「丸金紋」がみられるようになるのは、19世紀後半からです。
宝物館にある絵馬図の中に「丸金紋」を縁の飾り金具として使った天狗の絵馬があり、万延元年(1860)奉納の「彫市作文身侠客図」絵馬にも「丸金紋」が見えます。安政四年(1857)宥盛の大僧正追贈を祝って奉納された品の中に丸金紋があります。
金毘羅案内図に丸金紋が見られるようになるのも、江戸末期以後です。明治11年(1878)再建の本宮には「丸金紋」が見られます。神輿の紋も、江戸末期は巴紋でしたが、明治以後に丸金紋に変わったようです。
 丸金文は、金毘羅大権現の創建当初から用いられていたと思っていましたが、どうもそうではないようです。残された史料から分かることは、19世紀になって使われはじめ、その起源は金毘羅参詣の土産の団扇にあって、「丸」は九亀の丸であるという説が説得力を持つように思えてきます。
 九亀団扇が「丸金紋」を全国に広めたことは確かなようで、赤い紙に黒く「丸金紋」がかかれた団扇は、江戸時代の図案としては斬新なもので人気があったようです。また当時の旅は徒歩でしたから、軽い団扇は土産としても適していました。
Cg-FlT6UkAAFZq0金毘羅大権現
金毘羅大権現と天狗たち
 近世前半の金刀比羅官は「海の神様」よりも、修験者によって支えられた天狗信仰で栄えていました。
 松尾寺住職の宥盛は修験者で、亡くなった後は天狗になって象頭山金剛坊として祀られていました。その眷属の黒眷属金昆羅坊も全国の修験者の信仰対象でした。また、讃岐に流された崇徳上皇は、怨霊化して天狗になったたと信じられ、京都の安井金刀比羅宮などでは「崇徳上皇=天狗=金昆羅神」とされるようになります。数多く作られた金昆羅案内図の中には、天狗面や天狗の持物の羽団扇が描かれたものがあります。大天狗は翼をもたないかわりに、手にした羽団扇を使って空を飛ぶとされたことは以前にお話ししました。

天狗の団扇
天狗信仰と団扇(うちわ)

金刀比羅官では「丸金紋」以前には、天狗の持物の羽団扇が紋として使われたようです。天狗の紋に羽団扇を使ったのは、富士浅問神社大宮司家の富士氏に始まるようです。富士氏の紋が棕櫚の葉であり、富士には大天狗の富士太郎、別名陀羅尼坊がすむとされ、社紋であった「棕櫚葉」が流用されて、よそでも天狗の紋に棕櫚葉が使われるようになります。そして、次第に棕櫚葉団扇と鷹の羽団扇が混用され、天狗の紋としては棕櫚葉団扇の方が多くなります。しかし、狂言などではいまでも、鷹の羽の羽団扇が使われているようです。

天狗の羽団扇
狂言に用いられる天狗の持つ羽団扇

金刀比羅官で棕櫚葉団扇が、使用された背景を整理しておきます
①「金毘羅神=天狗」である。
②大天狗は羽団扇を使って空を飛ぶ
①②からもともとは、金刀比羅宮でも棕櫚葉団扇の紋が使われていました。それが金昆羅参詣のみやげの丸亀団扇の図案である「丸金紋」が全国的な知名度を持つようになります。そうすると金刀比羅宮でも、これを金比羅独自の紋として使うようになります。
 一方、天狗信仰では、天狗の紋と欄葉団扇が広く普及しています。そこで天狗を祀った金毘羅大権現では、棕櫚葉団扇をそのまま使用します。棕櫚葉団扇の紋は、金昆羅案内図や金刀比羅宮に奉納された絵馬などに使われています。棕櫚葉団扇は金刀比羅官の紋というよりは、 一般的な天狗の紋として使われた観があります。棕櫚葉団扇の紋だけは、金刀比羅官だと特定することはできません。
 これに対して「丸金紋」の方は、金刀比羅官だと特定できます。こちらの方がシンボルマークとしては機能的です。そのために19世紀中頃以後は、「丸金紋」が盛んに使われるようになります。
 丸金紋3様
棕櫚葉団扇と同じく、普遍性のある紋として使われたのが、巴紋であった。
江戸末期の金刀比羅宮の神興の紋は巴紋でした。旭社(松尾寺の金堂)の屋根にも、巴紋が使われています。巴紋は神社仏閣などで普遍的に使われた紋で、金刀比羅宮でもその伝統にのっとって、巴紋を使用したのでしょう。
巴紋の起源は、弓を引く時に使う鞆(とも)であったとされています。

丸金紋と巴紋 鞆とは

昔の朝廷では、古代宮中行事の追難儀礼を行っていました。方相氏という四つ目の大鬼の姿をした者が、鉾と楯を持って現れて、鉾で楯を打ったのを合図にして、一斉に桑の弓、蓬の矢、桃の枝などで塩鬼を追い払う所作をします。桑の弓や蓬の矢は、古代中国で男子出産を祝って使われた呪具で、これで天地四方を射ることにより、その子が将来に雄飛できるよう祈ったのです。
 日本でも弓矢を使った呪術は「源氏物語」夕顔の巻に出てきます。
源氏の君は、家来に怨霊を退散させるために弓の弦を鳴らさせているし、承久本『北野天神縁起』によると出産の際に物怪退散を願って弓の弦を鳴らす呪禁師が描かれています。
ここからは、弓は悪魔を追い払う呪具で、弓を引く時に使う鞆にも悪魔を追い払う力が宿ると考えられていたことが分かります。こうして、神社仏閣の屋根では巴紋の瓦が使われるようになります。

讃岐地方でも鎌倉時代になると、神社仏閣の屋根で巴紋の瓦が葺かれるようになります。
棕櫚葉団扇は天狗の、巳紋は神社仏閣の、それぞれ普遍的な紋でした。そのため別当松尾寺や金刀比羅宮でも、その伝統に従ってこの二つの紋を用いました。
 これに対して、金昆羅参詣みやげの九亀団扇から生まれた「丸金紋」は、金刀比羅宮を特定するオリジナルな紋です。金刀比羅宮で「丸金」が使われ出すのは、19世紀中頃の天保年間あたりからです。それより先行する頃に、九亀団扇の「丸金紋」は生まれていたことになります。

  まとめておくと
①金毘羅大権現は天狗信仰が中核だったために、シンボルマークとして天狗団扇を使っていた
②別当寺の松尾寺は、寺社の伝統として巴紋を使用した
③19世紀になって、金比羅土産として丸亀産の丸金団扇によって丸金紋は全国的な知名度を得る
④以後は、金刀比羅宮独自マークとして、丸金紋がトレードマークとなり、天狗団扇や巴紋はあまり使われなくなった。
丸金紋 虎の門金刀比羅宮

しかし、虎の門の金刀比羅宮の納経帳には、いまでも天狗団扇が丸金紋と一緒に入れられていました。これは金毘羅信仰が天狗信仰であった痕跡かもしれません。
  最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献
  「羽床正明 丸金紋の由来 金昆羅大権現の紋について  ことひら 平成11年」



7 安井金毘羅神社1jpg
安井金毘羅宮

京都市東山区の建仁寺の近くにある安井金毘羅宮は、今は縁切り寺として女性の人気を集めているようです。
7 安井金毘羅神社13jpg

しかし、30年ほど前までは、縁結びと商売繁昌祈願の「藻刈舟(儲かり舟)」の絵馬に人気がありました。流行神(商品)を生み出し続けることが、寺社繁栄の秘訣であるのは、昔も今も変わりないようです。
 安井金毘羅宮はかつては「商売繁昌 + 禁酒 + 縁結び」の神とされていました。祇園という色街にある神社ですから「商売繁昌と禁酒と良縁」を売り物とすることは土地柄に合ったうまい営業スタイルです。それでは現在の「縁切り神社」は、どんな由来なのでしょうか。そこで登場するのが崇徳上皇です。崇徳上皇は、全ての縁を絶って京都帰還を願ったということから、悪縁を絶つ神社と結びつけられているようです。これは断酒の場合と同じです。酒を断つという願いから悪縁を絶へと少しスライドしただけかも知れません。。
 今回は、安井金毘羅と崇徳上皇と讃岐金毘羅大権現の関係を見ていきたいとおもいます。テキストは 「羽床正明  崇徳上皇御廟と安井金毘羅宮  ことひら53 H10年」です。
7 安井金毘羅神社jpg

 安井金毘羅宮の近くには「都をどり」の祇園歌舞練場があります。その片隅に崇徳上皇御廟があります。これは明治元年に坂出の白峰から移されたものとは別物です。それ以前からこの御廟はありました。
安井金毘羅宮と崇徳上皇のつながりを見ておきます。
 崇徳上皇は保元の乱という政争に巻き込まれ、讃岐に流され不遇の内に亡くなりますが、その怨念を晴らすために生きながら天狗になったされるようになります。この天狗信仰と安井金毘羅宮は関係があるようです。
 保元の乱に敗れ、崇徳上皇は讃岐に流されます。上皇は6年間の流人生活の後、長寛二年(1164)8月、46歳で崩御し、その亡骸は白峰寺のほとりで荼毘に付され、そこに陵が営まれて白峰御陵と呼ばれるようになります。これについては以前にお話ししましたので省略します。
『保元物語』には、次のように記されています。
 讃岐に流された崇徳上皇は「望郷の鬼」となって、髪も整えず、爪も切らず、柿色の衣と頭巾に身をつつみ、指から血を流して五部大乗経を書写した。その納経が朝廷から拒否されたことを知ると、経を机の上に積みおいて、舌の先を食い破ってその血で、「吾、この五部の大乗経を三悪道に投籠て、この大善根の力を以て、日本国を滅す大魔縁とならむ。天衆地類必ず合力給へ」という誓状を書いて、海底に投げ入れた
「此君怨念に依りて、生きながら天狗の姿にならせ給ひけるが」
ここには崇徳上皇が死後、天狗になったとする説が記されています。
7崇徳上皇天狗

これを受けて作られたのが謡曲「松山天狗」です。
謡曲「松山天狗」の舞台は,崇徳上皇が亡くなった讃岐の綾の松山(現坂出市),白峯です。崇徳上皇と親しかった西行法師が讃岐松山のご廟所を訪ねて来るところから物語は始まります。

7 崇徳上皇松山天狗
松山は草深い里でした。西行は,山風に誘われながらも御陵への道を踏み分けて行きますが,道はけわしく,生い繁げる荊は旅人の足を拒みます。そこへ一人の老翁(実は崇徳上皇の霊)が現れ「貴僧は何方より来られたか」と訊ねるのです。
西行は「拙僧は都の嵯峨の奥に庵をむすぶ西行と申す者,新院がこの讃岐に流され,程なく亡くなられたと承り,おん跡を弔い申さんと思い,これまで参上した次第。 何とぞ,松山のご廟所をお教え願いたい」と案内を乞います。
 やがて二人は「踏みも見えぬ山道の岩根を伝い,苔の下道」に足をとられながら,ようやくご陵前にたどりつきます。しかし、院崩御後わずか数年にもかかわらず,陵墓はひどく荒廃し、ご陵前には詣でる人もなければ,散華焼香の跡さえ見えません。西行は涙ながらに、院に捧げた次のような鎮魂歌を送ります。

よしや君むかしの玉の床とても叡慮をなぐさめる相模坊かからん後は何にかはせん

 老翁は「院ご存命中は都のことを思い出されてはお恨みのことが多く,伺候する者もなく,ただ白峯の相模坊に従う天狗どもがお仕えするほかは参内する者もいない」と言い,いつしか木影にその姿を消してゆきます。
 ややあって何処からともなく「いかに西行 これまで遙々下る心ざしこそ返す返すも嬉しけれ 又只今の詠歌の言葉 肝に銘じて面白さに いでいで姿を現わさん・・・・・」
との院の声。御廟しきりに鳴動して院が現れます。
院は西行との再会を喜び,「花の顔ばせたおやかに」衣の袂をひるがえし夜遊の舞楽を舞う。
こうして楽しく遊びのひと時を過ごされるが,ふと物憂い昔のことどもを思い出してか,次第に逆鱗の姿へと変わってゆきます。その姿は,あたりを払って恐ろしいまでの容相である。
  やがて吹きつのる山風に誘われるように雷鳴がとどろき,あちこちの雲間・峰間から天狗が羽を並べて翔け降りてきます。
7 崇徳上皇相模坊大権現
模坊大権現(坂出市大屋冨町)の相模坊(さがんぼう)天狗像

「そもそもこの白峯に住んで年を経る相模坊とはわが事なり さても新院は思わずもこの松山に崩御せらる 常々参内申しつつ御心を慰め申さんと 小天狗を引き連れてこの松山に随ひ奉り,逆臣の輩を悉くとりひしぎ蹴殺し仇敵を討ち平げ叡慮(天子のお気持ち)を慰め奉らん」と,ひたすら院をお慰め申しあげるのである。
 院はこの相模坊の忠節の言葉にいたく喜ばれ,ご機嫌もうるわしく次第にそのお姿を消してゆく。
そして,天狗も頭を地につけて院を拝し,やがて小天狗を引き連れて,白峯の峰々へと姿を消してゆく。
以上が謡曲「松山天狗」のあらましです。
実際に西行は白峰を訪れ、崇徳上皇の霊をなぐさめ、その後は高野の聖らしく善通寺の我拝師山に庵を構えて、3年近くも修行をおこなっています。時は、鎌倉初期になります。ここからは崇徳上皇の下に相模坊という天狗を頭に数多くの天狗達がいたことになっています。天狗=修験者(山伏)です。確かに中世の白峰には数多くの坊が立ち並び修験者の聖地であったことが史料からもうかがえます。
謡曲「松山天狗」の果たした役割は大きく、以後は崇徳上皇=天狗説 相模坊=崇徳上皇に仕える天狗という説が中世には広がりました。

安井金毘羅社と崇徳上皇御廟の関係を『讃岐国名勝図会』は、次のように記します。
京都安井崇徳天皇の御社へ参詣群集し、皆々金毘羅神と称へ祭りしによりて、天皇の御社を他の地へ移し、旧社へ更へて金毘羅神を勧請なしけるとなん。

意訳変換しておくと
京都安井崇徳天皇御社へ参詣する人たちが崇徳上皇陵を金毘羅神と呼ぶようになったので、天皇の御社を他の場所へ移して、そのの跡に安井金毘羅神社を勧請建立したという

ここからは安井金毘羅神社の現在地には、かつては崇徳上皇陵があったことが分かります。
秋里籠島の『都名所図絵』には、安井金毘羅社の祭神について次のように記されています。
奥の社は崇徳天皇、北の方金毘羅権現、南の方源三位頼政、世人おしなべて安井の金毘羅と称し、都下の詣人常に絶る事なし、崇徳帝金毘羅同一体にして、和光の塵を同じうし、擁護の明眸をたれ給ひ云云。

奥社に崇徳天皇、北に金毘羅権現、南に源三位頼政が祀られているが、京都の人たちはこれを併せて「安井の金毘羅」と呼ぶ。参拝する人々の絶えることはなく、崇徳帝と金毘羅神は同一体である。

と記され、金毘羅権現が北の方の神として新たにつくられたので、崇徳天皇の社は移転して奥の社と呼ばれるようになったことが二の書からは分かります。どちらにしても「崇徳帝=金毘羅」と人たちは思っていたようです。
「崇徳帝=金毘羅」説を決定的にしたのが、滝沢馬琴の「金毘羅大権現利生略記』です。
世俗相伝へて金毘羅は崇徳院の神霊を祭り奉るといふもそのよしなきにあらず。

と、馬琴は崇徳帝と金毘羅権現を同一とする考えに賛意を表しています。
7 崇徳上皇讃岐院眷属をして為朝を救う図
歌川国芳の浮世絵に「讃岐院眷属をして為朝を救う図」(1850年)があります。最初見たときには「神櫛王の悪魚退治」と思ってしまいました。しかし、これは滝沢馬琴の『椿説弓張月(ちんせつ ゆみはりづき)』(1806~10年刊行)の一場面を3枚続きの錦絵にしたものです。この絵の中には次の3つのシーンが同時に描き込まれています。
①為朝の妻、白縫姫(しらぬいひめ)が入水する場面(右下)
②船上の為朝が切腹するところを讃岐院の霊に遣わされた烏天狗たちが救う場面(左下)、
③為朝の嫡男昇天丸(すてまる)が巨大な鰐鮫(わにざめ)に救われる場面
ここに登場する巨大な|鰐鮫は「悪魚」ではなく主人公の息子を救う救世主として描かれています。以前にお話しした「金毘羅神=神魚」説を裏付ける絵柄です。

神櫛王の悪魚退治伝説

  また、ここでも崇徳上皇は天狗達の親分として登場します。
 『椿説弓張月』が刊行された頃は、「崇徳上皇=金毘羅大権現}であって、崇徳上皇は天狗の親分で、多くの天狗を従えているという俗信が人々に信じられるようになっていたことが、この絵の背景にはあることを押さえておきます。その上で京都では、崇徳帝御社があった所に、安井金昆羅宮がつくられたということになります。

研究者がもうひとつ、この絵の中で指摘するのは、この絵が「海難と救助」というテーマをもっていることです。
金毘羅宮の絵馬の中には、荒れ狂う海に天狗が出現して海難から救う様子を描いたものがいくつもあります。もともとの金毘羅は天狗信仰で海とは関係のなかったことは、近年の研究が明らかにしてきたことです
船絵馬 海難活動中の天狗達
海に落ちた子どもを救う天狗達(金刀比羅宮絵馬)

「海の神様 こんぴら」というイメージが定着していくのは19世紀になってからのことのようです。その中でこの絵は、金比羅と海の関わりを描いています。絵馬として奉納される海難救助図は、このあたりに起源がありそうだと研究者は考えているようです。

  今度は讃岐の金毘羅さんと天狗との関係を見ていきましょう
7 和漢三才図絵

江戸時代中期(1715年)に浪華の吉林堂から出された百科辞書の『和漢三才図絵』(巻七九)には、
相伝ふ、当山(金毘羅大権現)の天狗を金毘羅坊と名づく。之を祈りて霊験多く崇る所も亦甚だ厳し。

と記されます。
また、江戸中期の国学者、天野信景著の『塩尻』には、
  讃州象頭山は金毘羅を祀す。其像、座して三尺余、僧形也。いとすさまじき面貌にて、今の修験者の所載の頭巾を蒙り、手に羽団を取る。薬師十二将の像とは、甚だ異なりとかや。

ここからは江戸中期には金毘羅宮の祭神は、僧(山伏)の姿をしていて団扇を持った天狗で、十二神将のクビラ神とはまったくちがう姿であったことが報告されています。『塩尻』に出てくる修験者の姿の木像とは、実は初代金光院主だった宥盛の姿です。観音堂の裏には威徳殿という建物があって、その中には、次のような名の入った木像がありました。
天狗道沙門金剛坊形像、当山中興権大僧都法印宥盛、千時慶長拾壱年丙午拾月如意月
金毘羅大権現像 松尾寺
松尾寺に伝わる金毘羅大権現 蔵王権現のようにも見える

ここからは宥盛が金毘羅信仰の中に天狗信仰をとり入れ定着させた人物であったことが分かります。宥盛は修験道と天狗信仰に凝り、死後は天狗になって金毘羅宮を守ると遺言して亡くなり、観音堂のそばにまつられます。宥盛は死後、象頭山金剛坊という天狗になったとされ、金剛坊は金毘羅信仰の中心として信仰を集めるようになります。
これは白峰の崇徳上皇と相模坊の関係と似ています。
 戦国末期の金比羅の指導者となった土佐出身の宥厳やその弟弟子にあたる宥盛によって、金比羅は修験・天狗道の拠点となっていきます。宥盛は、初代金光院院主とされ、現在では奥の院に神として祀られています。
江戸前期の『天狗経』には、全国の著名な天狗がリストアップされています。
7 崇徳上皇天狗

これらが天狗信仰の拠点であったようです。その中に金毘羅宮の天狗として、象頭山金剛坊・黒眷属金毘羅坊の名前が挙げています。崇徳上皇に仕えたという相模坊もランクインされています。ここからも象頭山や白峰が天狗=修験者の拠点であったことがうかがえます。宥盛によって基礎作られた天狗拠点は、その後も発展成長していたようです。
Cg-FlT6UkAAFZq0金毘羅大権現
金毘羅大権現のもとに集まる天狗(山伏)達 別当寺金光院発行

知切光歳著『天狗の研究』は、象頭山のふたつの天狗は次のような分業体制にあったと指摘します。
①黒眷属金毘羅坊は全国各地の金毘羅信者の安全と旅人の道中安全を司る天狗
②象頭山金剛坊は、讃岐の本宮を守護する天狗
そのため②は、金比羅本山で、①は、それ以外の地方にある金毘羅社では、黒眷属金毘羅坊を祭神として祀ったとします。姿は、象頭山金剛坊は山伏姿の天狗で、黒眷属金毘羅坊は金剛坊の仲間の鳥天狗として描かれます。また、黒眷属金毘羅坊は金剛坊の家来とも考えられました。他に、象頭山趣海坊という天狗がいたようです。
この天狗は先ほどの「讃岐院眷属をして為朝を救う図」にも出てきた崇徳上皇の家来です。

文化五年(1808)の冬、幕臣の稲田喜蔵が神城騰雲から聞き取った『壺産圃雑記』という随筆集があります。その中には、騰雲は趣海坊という金毘羅の眷属の天狗の導きで天狗界を見てきたとか、金毘羅権現は讃岐に流された崇徳上皇が人間界の王になれぬので天狗界の王になろうと天に祈った結果、ついに天狗となったものだと語ったと記されています。。

金比羅には象頭山から南に伸びる尾根上に愛宕山があります。
C-23-1  象頭山12景
右が象頭山、左が愛宕山
この山がかつては信仰対象であったことは、今では忘れ去られています。しかし、この山は金毘羅さんの記録の中には何度も登場し、何らかの役割を果たしていた山であることがうかがえます。この山の頂上には愛宕山太郎坊という天狗がまつられていて、金毘羅宮の守護神とされてきたようです。愛宕系の天狗とは何者なのでしょうか?

7 崇徳上皇天狗の研究
知切光歳著『天狗の研究』は、愛宕天狗について次のように記されています。
天狗の中で、愛宕、飯綱系の天狗は、ダキニ天を祀り、白狐に跨っており、天狗を祭り通力を得んとする修験、行者の徒が、ダキニの法を修し、これを愛宕の法、または飯綱の法と呼ぶ、(以下略)

7 金刀比羅宮 愛宕天狗
愛宕天狗
とあって、狐に乗りダキニ天を祀る天狗が、愛宕・飲綱糸の天狗だとします。全国各地の金毘羅社の中には天狗を祭神ととしているところが多く、両翼をもち狐に跨る烏天狗を祀っていることが数多く報告されています。金毘羅宮は愛宕山を通じて愛宕・飯綱系の天狗と結ばれていたようです。
7 金刀比羅宮 愛宕天狗dakini
ダキニ天

以上から「崇徳上皇=天狗=金毘羅神」という考えが江戸時代には広く広がっていたことがうかがえます。ところが明治以後は、このような説は姿を消して行きます。その背景には、明治政府の進める天皇制国家建設があったようです。皇国史観に見られるように歴代天皇は神聖化されていきます。その中で天皇が天狗になったなどというのは不敬罪ものです。こうして「崇徳上皇=天狗」は葬られていくことになります。しかし、「崇徳上皇=金毘羅」説は別の形で残ります

以上をまとめると、こんなストーリーが考えられます
①江戸後期になって安井金毘羅宮などで崇徳上皇=天狗=金昆羅権現」説が広まった。
②金毘羅本社でも、この思想が受け入れられるようになる。
③明治の神仏分離で金毘羅大権現を追放して、何を祭神に迎え入れるかを考えたときに、世俗で広がっていた「金毘羅=崇徳上皇」説が採用された。
④こうして祭神の一人に崇徳上皇が迎え入れられ、明治21年には白峰神社が建立された
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献

清少納言 鼓楼と清塚

金毘羅さんの大門の手前に時を告げた鼓楼が建っています。その下に大きな石碑があります。玉垣の向こうにあるのでほとんどの参拝客は、目の前の大門を見上げ、この石碑に気づく人はないようです。  立札には次のように書かれています。
清少納言 鼓楼と清塚立札

ここには清少納言が金毘羅さんで亡くなったこと、その塚が出てきたことを記念して建てられた石碑であることが記されます。清少納言は『枕草子』の作者であり、『源氏物語』を著した紫式部のライバルとして平安朝を代表する才女で、和歌も残しています。どうして阿波と讃岐で清少納言の貴種流離譚が生まれ、彼女の墓が金毘羅に作られたのでしょうか。それを今回は見ていくことにします。テキストは阿波・讃岐の清少納言伝説 羽床正明  ことひら52 H9年です。

 晩年の清少納言は地方をさまよって、亡くなったと云われるようになります。
そのため西日本の各地では彼女のお墓とそれにまつわる「清少納言伝説」が作られるようになります。才女が阿波・讃岐をさすらったというのは、貴種流離譚の一つで、清少納言の他に、小野小町や和泉式部の例があります。実際に彼女たちが地方を流浪したという事実はありません。しかし、物語は作られ広がっていくのです。それは、弘法大師伝説や水戸黄門伝説と同じです。庶民がそれを欲していたのです。
 それでは、才女の貴種流離譚を語ったのはだれでしょうか。
鎌倉時代以来、小野小町や和泉式部など和歌にひい出た女性は、仏の功徳を説くため方便に利用されるようになります。彼女たちを登場させたのは、地方を遊行する説経師や歌比丘尼や高野聖たちでした。その説話の中心拠点が播磨国書写山であり、のちに京都誓願寺だったようです。式部や小町の貴種流離譚に遅れて登場するのが清少納言です。小野小町と和泉式部と清少納言は才女トリオとして貴種流離譚に取り上げられ、物語として地方にさすらうようになります。これは弘法大師伝説や水戸黄門の諸国漫遊とも似ています。その結果として清少納言が各地に現れ、その塚や石碑が建立されるようになります。それは、中世から近世にかけてのことだと研究者は考えているようです。清少納言の墓と伝えられる「あま塚」と「清塚」(きよづか)が各地に残るのは、このような背景があるようです。
四国で最も古いとされている清少納言の墓・あま塚は、阿波鳴門にあります。
清少納言 尼塚鳴門

徳島県鳴門市里浦に現存している「あま(天・尼)塚」は、清少納言の墓として広く知られています。ここではその由来が次のように伝えられます。
清少納言は、晩年に父・清原元輔(きよはらのもとすけ)の領地とされる里浦(鳴門市)に移住した。ところが地元の漁師たちに辱(はずかし)めを受けた清少納言は、それを悲しんで海に身を投げて亡くなってしまった。このあと住民のあいだに目の病気が広まり、清少納言のたたりではないかと恐れられるようになった。住民たちは、清少納言の霊をしずめようと塚を建てた。

「あま塚」の名は、女性を表わす「尼塚」を意味したといわれています。後世になってあま塚のそばに「清少庵」が建てられ、そこに住んだ尼が塚を守り供養したというのです。

 しかし、あま塚は清少納言の墓ではなく、もともとは別人のものという説もあります。
①ひとつは大アワビをとって海で命を落とした海人(あま。漁民)の男挟磯(おさし)をまつったとする「海人塚」説
②二つ目は、鎌倉時代に島流しの刑に処された土御門上皇をまつったとする「天塚」説です。
ところが江戸時代に入ると、あま塚は清少納言の墓として有名になっていきます。そして、明治以後の皇国史観では②の土御門上皇をまつったとする「天塚」説で戦前までは祀られていたようです。いまでは里浦にある観音寺があま塚を「天塚」という名で管理し、清少納言の墓として一般公開しています。
清少納言 天塚堂

この「あま塚」の①「海人塚」説をもう少し詳しく見ていきましょう
『日本書紀』允恭天皇十四年九月癸丑朔甲子条には、海女男狭磯の玉取伝説が次のように記されています。
允恭天皇が淡路島で狩りをしたが島の神の崇りで獲物はとれなかった。神は明石沖の海底の真珠を要求し、要求が満たされれば獲物はとれると告げた。そこで海底でも息の長く続く海人、男狭磯(おさし)が阿波からよばれて真珠をとることになった。男狭磯は深い海底からに真珠の入った大鮑を胞いて海上に浮かび上がったが、無理をしたためか海上に浮かび上がった時には息絶えていた。天皇は男狭磯の死をいたみ立派な墓をつくった。今もその墓は、阿波にある。

これが男狭磯の玉取伝説です。ここからは古代阿波那賀郡には、潜女(もぐりめ)とよばれる海女の集団がいたことがわかります。また、阿波からは天皇即位の年だけに限って行われる大嘗祭に、いろいろな海の幸を神餞として献上していました。『延喜式』はその産物を、鰻・鰻鮨・細螺・棘甲扇・石花だと記しています。これらはいずれも加工されたもので、アワビ、アワビのすし、小さな巻貝のシタダミ、ウエ、節足動物のカメノテであったようです。これらも那賀郡には、潜女(もぐりめ)たちによって、獲られ加工されたものだったのでしょう。

明治32年に飯田武郷があらわした日本書紀の注釈書『日本書紀通釈』には、次のように記されています。
「或人云、阿波国宮崎五十羽云、同国板野郡里浦村錫山麓に古蹟あり。里人尼塚と云り。是海人男狭磯の墓也と、土人云伝へたりとそ云り聞正すへし」

ここからは、里浦の尼塚を里人は男狭磯の基と言い伝えてきたことが分かります。ところが日本書紀を根拠とする尼(海女)塚は、別の伝説に乗っ取られていきます。

清少納言 天塚堂2
徳島県鳴門市 天塚堂と清少納言像

それが清少納言にまつわる次のような伝説です。
清少納言が阿波に向かう途中で嵐にあって、里浦に漂着した。都生まれのひなにはまれな美人ということで、たくさんの漁民が集まってきて情交を迫った。彼女が抵抗したため、 一人の男が彼女を殺して陰部をえぐって、それを海に投げ入れた。それから間もなくその海はイガイが異常にたくさんとれるようになった。彼女が抵抗した際に「見ている者は目がつぶれる」と叫んだことが現実となり、目をやられる漁民が続出した。そこで彼女の怨念を払うため建てた塚が、今もこの地に残っている。
 
この「清少納言復讐伝説」が生まれた背景には、鎌倉初期にできた『古事談』の中の次の説話が、影響を与えているようです。それは、こんな話です。
ある時、若い公達(きんだち)が牛車にのって清少納言の家の前を通りかかった。彼女の屋敷が荒れくずれかかっているのを見て「清少納言もひどいことになったものだ」などと口々に言い合って、鬼のような女法師(清少納言?)が、すだれをかきあげて、「駿馬の骨を買わずにいるのかい」と言ったのを聞いて、公達たちはほうほうの体で逃げていった。
  
ここでは清少納言は「鬼のような女法師」として描かれています。まるで怨霊一歩手前です。清少納言がタタリ神となっていくことが予見されます。また「女法師」から彼女は、晩年は出家して尼になったという物語になっていきます。それが尼(海女)と尼塚が結び付いて、清少納言の尼塚伝説が生まれたと研究者は考えているようです。
どうやら「あま塚」は「海女塚 → 尼塚 → 天塚」と祀る祭神が変化していったことがうかがえます。
尼塚は海のほとりにあったところから、イガイとも結び付くことになります。

清少納言 イガイ
イガイ
二枚貝のイガイ(胎貝)は、吉原貝、似たり貝、姫貝、東海婦人という地方名をもっています。これらの名前からわかるように、イガイの身の形は女性の陰部に似ています。そのため女性の陰部が貝になったのが、イガイという伝説が生まれます。
尼塚の清少納言伝説は、海をはさんだ対岸の兵庫県西宮市にも伝えられています。
そこでは恋のはかなさを嘆いた清少納言は、自らの手で陰部をえぐって海に身を投げたので、陰部がイガイになったいうものです。これは阿波の伝説が伝播したものと研究者は考えているようです。
清少納言の墓所(天塚堂)/徳島鳴門 観音寺(牡丹の寺・清少納言の祈願寺)

鳴門里浦の尼塚伝説は、もともとは日本書紀に記された男狭磯にまつわるものでした。
それが時代が下るにつれて、清少納言に置き換えられ、忘れられていきます。このようなことはよくあることです。寺の境内の池の中島にあった雨乞いの善女龍王が、時代の推移とともに、いつの間にか弁才天として祀られているのをよく目にします。庶民は、常に新しい流行神の登場を望んでいるのです。神様にもスクラップ&ビルドがあったように、伝承にも世代交代があります。それは何もないとこからよりも、今まであったものをリニューアルするという手法がとられます。

 鳴門の尼塚伝説が、清少納言伝説に書き換えられていくプロセスを見ておきます。
鳴門市里浦に伝承された海人男狭磯の玉取伝説は中世になると、となりの讃岐国の志度寺の縁起にとり入れられて志度寺の寺院縁起となります。以前に紹介しましたが、再度そのあらすじを記しておきます。この物語は藤原不比等や、唐王朝の皇帝も登場するスケールの大きいものです。
藤原不比等は父鎌足の冥福を祈って興福寺を建立した。その不比等のもとへ唐の皇帝から華原馨・潤浜石・面向不背の三個の宝玉が送られてくることとなった。宝玉をのせた遣唐舟が志度沖にさしかかると、海は大荒れとなって船は難破した。海神の怒りを鎮めるため、面向不背の玉を海に投げ入れると、海は静かになった。
このことを不比等に報告すると、不比等は宝玉を取り戻す決心をして志度へやってきた。不比等は宝玉を探せないまま、いたずらに三年が過ぎたがこの頃に一人の海女と知り合った。二人の間にはまもなく男の子が生まれた。不比等は宝玉のことを海女に話した。海女は海底から海神に奪われた宝玉を取り返すことに成功したが、胸を切り裂いて傷口に宝玉をかくした時の傷のため、海上に浮かび上がった時には息絶えていた。海女の子の房前は母を弔うため、石塔や経塚を建てたがそれは今も志度寺の境内に残っている
志度寺 玉取伝説浮世絵

                 海女玉取伝説の浮世絵(志度寺縁起)

ここからは日本書紀の阿波の玉取伝説が志度寺縁起にとり入れられていることが分かります。 この縁起の成立は、14世紀前半と研究者は考えているようです。志度寺縁起の玉取伝説は、謡曲にとり入れられて「海士」となり、幸若舞にとり入れられて「大織冠」となり、近世には盛んにもてはやされ流布されていきます。また当時の寺では、高野聖たちは説法のため縁起を絵解に使用し、縁日などでは民衆に語り寄進奉納を呼びかけました。こうして志度寺の玉取伝説が有名になります。
 一方で鳴門里浦の尼塚の存在は次第に忘れ去られていきます。
 本来のいわれである玉取伝説は志度寺にうばわれて、古い尼塚が残るだけで、そのいわれもわからなくなったのです。そこで、室町後期~江戸前期の間に、清少納言の尼塚伝説が作り出されたようです。
いままでの経過を整理しておきます
①日本書紀の海女男狭磯の記述から海女(尼)塚が鳴門里浦に作られる
②しかし、その伝来は忘れられ、古墓の海女塚は尼塚と認識されるようになる
③代わって残された尼塚と、晩年は尼となったとされる清少納言が結びつけられる
④鎌倉時代以来、小野小町や和泉式部など和歌にひい出た女性は、仏の功徳をとくための方便に利用されて、説経師や歌比丘尼が地方を遊行して式部や小町の説話を地方に広めていった。
⑤その説話の中心の地が、播磨国書写山であり、のちに京都誓願寺であった。
⑥式部や小町の貴種流離諄の盛行によって、清少納言までが地方にさすらうこととなった
こうして清少納言は各地に現れ、その塚や石碑が建立されるようになります。

鳴門里浦の清少納言の尼塚伝説は、江戸時代になって金毘羅さんに伝えられます。
 金刀毘羅宮の「清塚」と呼ばれる石碑の謂われを見ておきましょう
 江戸時代の宝永7年(1710)、金刀毘羅宮の大門脇に太鼓楼(たいころう)を造営しようという時のこと、そばにあった塚石をあやまって壊してしまいました。するとその夜、付近に住んでいた大野孝信という人の夢に緋(ひ)の袴(はかま)をつけた宮女が現われ、悲しげな声で訴えました。自分は、かつて宮中に仕えていたが、父の信仰する金刀毘羅宮に参るため、老いてからこの地にやってきた。しかし旅の疲れからとうとうみまかりこの小さな塚の下に埋められ、訪れてくれる人もなく、淋しい日々を過ごしている。ところが今度は、鼓楼造営のため、この塚まで他へ移されようとしている。あまりに悲しいことだ、
というものでした。そして、かすかな声で一首の和歌を詠じました。
「うつつなき 跡のしるしを 誰にかは 問われしなれど ありてしもがな」 
はっとして夢から醒めたさめた大野孝信は、これは清少納言の霊が来て、塚をこわされた恨みごとをいっているのであろうと、一部始終を別当職に申し出たので、金毘羅大権現の金光院はねんごろに塚を修めたというものです。
 塚石が出てきたから130年後の天保15年(1844)になって、金光院は高松藩士友安三冬の撰、松原義質の標篆、庄野信近の書によって、現在の立派な碑を建てます。
清少納言 石碑

清少納言 碑文


と同時に金毘羅さんお得の広報活動が展開されたようで、3年後の江戸時代後期の弘化4年(1847)に、大坂浪花の人気作家である暁鐘成(あかつきのかねなり)が出版した「金毘羅参詣名所図絵」の中に、清少納言塚が挿絵入りで次のように紹介されています。

清少納言 金毘羅参拝名所図会
清少納言の墳(一の坂の上、鼓楼の傍にあり。近年墳の辺に碑を建てり)
伝云ふ、往昔宝永の年間(1704~11)、鼓楼造立につき、この墳を他に移しかへんとせしに、近き辺りの人の夢に清女の霊あらはれて告げける歌に、うつつなき跡のしるしをたれにかはとはれじなれどありてしもがなさては実に清女の墓なるべしとて、本のままにさし置かれけるとぞ。清少納言は、 一条院の皇后に任へし官女なり。舎人親王の曾孫通雄、始めて清原の姓を賜ふ。通雄、五世の孫清原元輔の女、ゆえに清字をもってす。少納言は官名なり。長徳・長保年間に著述せし書籍を『枕草子』と号く。紫氏が『源氏物語』と相並びて世に行はる。老後に零落して尼となり、父元輔が住みし家の跡に住みたりしが、後四国に下向しけるとぞ。(後略)

  ここでは老後は零落して尼となって、四国に下ったと記されてます。そして金毘羅でなくなったことにされます。こうして金毘羅は清少納言を迎え入れることになります。
清塚は、幕末には金毘羅さんのあらたな観光名所になっていったようです。
当時は、各地で流行神や新たな名所が作り出され、有名な寺社は参拝客や巡礼客の争奪戦が繰り広げられるようになります。そんな中で金毘羅さんでは金光院を中心に、常に新たな名所や流行神を創出していく努力が続けられていたことは以前にお話ししました。この時期は、金丸座が姿を見せ、金堂工事も最終段階に入り、桜馬場周辺の玉垣なども整備され、金毘羅さんがリニューアルされていく頃でした。そんな中で阿波に伝わる清少納言伝説を金毘羅にも導入し、新たな名所造りを行おうとした戦略が見えてきます。

 ちなみに清少納言の夢を見た大野孝信は他の地に移りましたが、その家は「告げ茶屋」と呼ばれていたと云います。現在の五人百姓、土産物商中条正氏の家の辺りだったようで、中条氏の祖先がここに住むようになり、傍に井戸があったことから屋号を和泉屋と称したと云います。
清少納言の伝説についてまとめておきましょう。
清少納言にまつわる三つの伝説地、兵庫県西宮・徳島県鳴門・香川県琴平のうち、中心となるのは鳴門です。鳴門や金毘羅の伝説は鳴門から伝わったものと研究者は考えているようです。西宮の清少納言伝説はイガイによって鳴門と結び付き、琴平の清少納言伝説は古塚によって鳴門と結び付きます。
しかし、鳴門で清少納言の尼塚伝説が生まれたのは、もともとは、尼塚は海女男狭磯の玉取の偉業をたたえてつくられたものです。しかし、玉取伝説が志度寺の縁起にとり入れられて、こちらの方が本家より有名になってしまったために、新たな塚のいわれを説く伝説が必要となって生み出されたも云えます。
いわれ不明の古塚が生き残るために、清少納言が結びつけられ、尼塚を清少納言の墓とする伝説が生まれました。しかし、尼塚を海女男狭磯の墓とする伝説が消えてしまったわけもなかったようです。そういう意味では、尼塚は二つの伝説によって支えられてきたとも云えます。
 清少納言は、各地に自分の塚がつくられて祀られるようになったことをどう考えているのでしょうか。
「それもいいんじゃない、私はかまわないわよ」と云いそうな気もします。日本には楊貴妃の墓まであるのですから清少納言の墓がいくつもいいことにしておきましょう。そうやって庶民は「伝説」を楽しみ「消費」していたようです。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
阿波・讃岐の清少納言伝説 羽床正明  ことひら52 H9年
関連記事

金毘羅犬2

金毘羅大権現には、江戸時代には「金毘羅狗」という代参スタイルがあったようです。これは飼い主が自分に代わって、犬に金毘羅参りをさせる「代参」です。今回は金毘羅狗(犬)について見ていこうと思います。テキストは「  豊島和子 犬の金毘羅参りをめぐって  ことひら48 H5年」です。
『金刀比羅宮崇敬史』には「金毘羅狗」のことが次のように記されています。
飼い主は「金毘羅参り」と書いた札に、自分の住所・氏名を書いて、この札と道中費用の入った財布を犬の首に結び付けて、往来に放します。東海道を上る旅人たちがこの犬を見つけると、自分の目的地まで連れて行き、その地で再び犬を放ちます。するとまた別の民衆がその犬を連れて、目的地まで連れ歩きます。

金毘羅犬5

こうして数人から十数人の手を経て、瀬戸内海を渡る金毘羅船にも乗って、犬は目的地の琴平に到着します。その間、旅人達は犬の財布から実費分のみを取り、餌を与えています。また「代参犬」を受け取る金毘羅大権現では、社僧がその財布から「初穂料」を取り、厳重に包装した「御守札」を犬の首に掛けます。帰りは行きと同じように、各地域の人たちに順送りに連れられ、犬は無事飼い主の元に戻ってくるというシステムです。
 この風俗は、特に関東地方で行われていたようで、自分では金毘羅参詣ができない民衆の篤い信仰心と、遠隔地巡礼への願望が結びついた苦肉の策とも云えます。
金毘羅信仰は近世後期には全国的な広がりを見せ、19世紀前半の文化文政の頃になると、「一升に一度の伊勢参りと金毘羅参り」と云われるようになります。関東地方の民衆は、伊勢詣と共に一生に一度の金毘羅詣を念願していたようです。

金毘羅犬6

文化十二年(一八一五)頃の奥羽の『陸奥国信夫郡・伊達郡風俗間状答』には次のように記されています。
「伊勢参宮、江戸・京・大坂・大和、近年は金比良迄、一代に一度参る。三度参る者は稀なり」

とあり、奥羽からも参詣者が少なからず金毘羅大権現を訪れていたことがうかがえます。このような金毘羅信仰の高まりを背景にして、人々は金毘羅参りの犬を見ると、仏教的にいえば功徳を積むために喜んで世話をしたのかもしれません。
 これは金毘羅参りだけでなく四国遍路の「接待」や伊勢参宮の施行などの「おもてなし」も同じかも知れません。遍路を向かえる四国の人々には、死者供養や、他の人々へ施行を行うことが自他の滅罪と説かれていました。

金毘羅犬3

『金刀比羅宮崇敬史』には、明治末期の「讃岐琴平の犬」の図が収められています。
金毘羅犬4

門前町に琴平土産の一つとして、「金毘羅狗」を記念して縫いぐるみの犬が売られていたと云います。しかし、私の記憶にはありません。

犬の代参は、金毘羅参りだけではありませんでした。伊勢参りでも行われていたようです。
お伊勢さん代参犬】江戸時代、旅が出来ない人の代わりに、犬にお金を持たせて「お伊勢参り」を頼み、  参拝をさせてお札(ふだ)をもらうことが流行りました。「おかげ犬」です : まとめ安倍速報 | 犬, 浮世絵, 旅
伊勢参り犬

群馬県北群馬郡吉岡村に残されていた『人馬継立帖』に、嘉永二年(1849)、上州勢多郡富田村の伊勢参り犬が銭350文持たされて小倉村からやって来たことが記されているようです。
文化期の戯作者、十返舎一九も『翁丸物語』(文化丁卯春刊)の発端に「代参犬」をとりあげて、伊勢国一志郡藤潟村において、
「首におびたゞしく鳥目を繋ぎ打かけたる」大神宮への参詣犬が、往来稼ぎの人足らしい四、五人の男たちにその銭を奪い取られようとしている様子を描いています。その結末は、「仁恵」深い志井源太兵衛なる郷代官の助けによって無事窮地を逃れていますが、「されやむかしも今も、犬の参宮すること其例少からず、往来の人是をたすけて、銘々散銭を貫ざしに繋ぎて、かれが首に打かけ興へ行く故に、後には数百の銭を負て通行すること粗証あり」と記しています。ここからも、文化年間以前から伊勢参り犬はいたことが分かります。
お伊勢まいりの代参犬 : あるちゅはいま日記

 津軽地方にも伊勢参り犬の記録が戸川幸夫氏の著書『イヌ・ネコ・ネズミ』に、次のように記されています。
「犬の参宮というのは、慶安三年ごろから明治の初めまで続いたお蔭参りや抜け参りに付随して起こった奇習であると聞いていたが…」あります。
文政13年(1830)の「文政度御蔭群参之図」には、「剣先祓」という伊勢神宮の大麻(お祓い札)を頭にさした伊勢参り犬の姿が描かれています。。同じ文政十三年の「お蔭参り」の情景を描いた浮世絵、「宮川渡しの図」にも伊勢参り犬が見えます。
金毘羅犬と伊勢参り犬

犬の「代参」については、次のような疑問が出てきます。
①なぜ犬が特に「代参」に選ばれたのか。
②なぜ関東以北の地方にのみ犬の「代参」が見られるのか
①②の疑問点について、『金昆羅庶民信仰資料集 年表編」には、次のように記されています。
昭和11年頃の「横浜市大倉精神文化研究所の原政男より金毘羅犬について照会あり、原氏宅には祖父母代に羽黒三山に参詣した犬がおり、この犬がのち金毘羅へも参詣したことを祖母から聞かされている、貴宮に奥州より参詣した犬の絵がある由、植木直一郎より聞かされたが、その犬がもしや生家の犬ではないかと思われる」

  一世代を30年とすればこの金毘羅犬が参拝したのは60年前のことになります。およそ幕末から明治初期の伝承のようです。驚くのはこの「代参犬」が奥州の修験道霊山である羽黒山にも代参していたことです。ここから研究者は「代参犬」は関東地方の民俗信仰と何か関わりがあるのではないだろうかと推論します。
日本の山岳信仰に動物は、重要な位置を占めています。
例えば、狐、鹿、熊、兎、狼などは神の使い(替族)とされたり、あるいは神自身がこれらの動物の姿で現れると考えられてきたことは以前にお話ししました。そのうち狼は「態野の山言葉では山の神」といわれ、また中部地方の南部では山の主とされるなど、広く各地で信仰されてきました。狼は「オオイヌ」または「オオイン」と呼ばれ、犬と同一視されることが多いようです。
三峰神社オオカミ

埼玉県秩父郡に位置する三峰山は18世紀以降、山岳宗教、修験道の道場として展開し、秩父三霊山の一つとされるようになります。

この三峰山頂にある三峰神社は、大山祗神(おおやまづみのかみ)を守護神とし、眷属を大(狼)としています。調査報告書には「神社では、山犬、狼をオイヌサマ、ゴケンゾクと呼び、山の神、神社の使い、神そのものとして扱っている」と記されます。

三峰神社の狛犬でなくオオカミ

三峰神社の鳥居と大神(おおかみ)
 三峰神社の鳥居をくぐると、狛犬のかわりに狼の石像が左右に安置されています。狼を扱った社蔵の文化財も多く、左甚五郎作と言われる「御神犬像」などが伝えられています。秩父地方に狼をお犬さまとして眷属として祀る神社は十社をくだらないようです。その中心は三峰神社です。
三峰山のお犬信仰の由来については「御替俗拝借の心得」(社務所発行)に、次のように記されています。
「当社に奉祀せる大山祗命は、伊非諾、伊非舟二尊の生み給いし山神におはしますによりて、山狼の猛気を神使とし給ふ。されば当山に於ては、往古よりこれを大口真神と崇め、御眷属と称している。火災盗難或いは鳥獣妖魅の禍等を除く為、擁護を祈る輩には神霊を御版符(とくふ)に封じ、御主神三柱の御前に祈願を軍めて、これを一ヶ年間願人に拝借せしめるのであって、日本武尊甲州より当山に越え給いし時、狼其の道案内申上げたと言ふ神話にもある程に古より伝はり、霊験の顕著なることは、普く世に知られた処である」
秩父の三峯神社・御眷属拝借の御神札を祀る神棚シリーズ - 神棚の販売/製作/設置なら福岡の伝統風水オフィス大渓水

 三峰山と狼とのつながりを、神社側では古代神話の時代にまでさかのぼらせています。これに対して研究者は「果たしてそうなのかどうか、大いに疑間である。むしろ三峰山の山の神の化身、あるいは眷属神としての狼の性格を神格化している」と指摘します。

狼-7 お札になったオオカミ

三峰神社の狼の神札の由来については、次のように伝えられています。
享保十二年(1727)9月13日三峰山主日光法師が山上の庵室に静座中、どこからともなく狼の大群が現れたため、深く心に感づるところあり、狼の神札を信者に分けたとあります。ここからはお犬信仰が近世中期頃から始まったことが分かります。
三峯神社 【日本武尊・御眷属様(オオカミ)】 ~ 秩父遊歩

 信者はお犬の神札を三峰山から拝借し、これを竹にはさんで田畑に立て、害虫駆除としたり、家の戸口や土蔵の入口に貼って盗難・火難除けとしたようです。この布教方法を展開したのは修験山伏たちです。彼らの手によってお犬信仰は、関東を中心に中部から東北地方まで拡められ、各地に三峰講が結成され、代参か盛んに行われるようになったようです。
奥秩父で目撃情報 ニホンオオカミは生きている 幻のニホンオオカミを追って…その1  ゴールデンウィークの1日,開通したばかりの国道140号線「雁坂トンネル」を通って,奥秩父にある三峰神社に出かけた。秩父から雲取山へと続く三峰山の山頂に鎮座し  ...

昭和41年調査の秩父宮記念三峰山博物館資料には、県別講社数は埼玉、茨城、千葉などの関東を中心に、東北、北海道から畿内の滋賀まで分布しています。三峰信仰の拡大がうかがえると同時に、そのエリアが江戸よりも北に偏っていることを押さえておきます。関東以北に見られた犬の「代参」は、三峰信仰の勢力圏と重なり合います。両者には、何らかのつながりがあったようです。
 三峰信仰が広がったエリアでは、犬の参詣というスタイル自体に、何ら不思議な感覚はなかったでしょう。むしろ「神の遊幸」と自然に受けいれられたのではないでしょうか。そこに「お蔭参り」や「ええじやないか」などの風潮が高まると、三峰のお犬さまが代参として金毘羅や伊勢などのはるか遠くの巡礼・参詣霊場へ向かうことになったのではないかと研究者は考えているようです。

   以上をまとめておくと
①江戸時代後期には、犬による代参が伊勢参りや金比羅参りで行われるようになった
②金毘羅犬の出身地をみると江戸以北に限定されている
③これはオオカミをお犬として信仰する埼玉県秩父の三峰神社の布教活動と関係がある。
④三峰神社のお犬信仰は修験山伏により関東から東北にまでひろがった。
⑤三峰神社のお犬信仰圏の信者にとって、お犬様が聖地に巡礼するということは自然に受けいれられ、「お蔭参り」や「ええじやないか」などの抜け参りの風潮を追い風にして広まった。
このため近世後期には、金比羅参りにやってくる金比羅犬の姿が浮世絵などにも描かれることになったようです。この「金毘羅狗」も、鉄道が整備される頃には廃れていったようです。犬は汽車には乗れません。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
豊島 和子  犬の金毘羅参りをめぐって   ことひら48 H5年


  江戸時代後期になると、自分の家の出自をより良く見せたり、争いごとを有利に進めるために偽物の系図屋や古文書屋が活動するようになります。その時に作られた偽文書が現代に多く残されています。江戸時代の椿井政隆という人物は、近畿地方全域を営業圏として、古代・中世の偽の家系図や名簿を売り歩いた、偽文書のプロでした。彼の存在が広く知られるようになる前までは、ひとりの手で数多くの偽文書が作られたことすら知られておらず、多くが本物と信じられてきました。
  椿井政隆は、地主でお金には困っていなかったようですが、大量の偽文書を作っています。その手口を見てみると、まずは地元の名士、といっても武士ではない家に頻繁に通い、顔なじみになって滞在し、そこで必要とされているもの、例えば土地争いの証拠資料、家系図などを知ります。滞在中に需要を確認するわけです。それで、数ヶ月後にまたやってきて、こんなものがありますよと示します。注文はされていなくて、この家はこんなもの欲しがっているなと確認したら、一回帰って、作って、数ヶ月後に持っていきます。買うほうもある程度、嘘だと分かっていますが、持っていることによって、何か得しそうだなと思ったら地主層は買ったようです。
 滋賀県の庄屋は、椿井が来て捏造した文書を買ったことを日記に書いています。自分のところの神社をよくするものについては何も文句を言わずに入手しているのです。実際にその神社は、椿井文書通りの位置づけになって今に至っているといいます。
 こうなると「商売」というより、何か自然に『偽の歴史』ができていった感じです。いくつかの資料をまとめて5両という領収書も残っています。五両(現在換算50万円)で、証拠や夢を買うことになります。買ったほうにしたら、裁判に勝てるし、場合によったらうちはいい家柄だとか言える。地主にとっては、高い買い物ではなかったのかもしれません。

 今回は金刀比羅宮に残る5つの偽文書を見ていきたいと思います。
テキストは「羽床雅彦   中臣宮処氏本系帳と金刀比羅宮所蔵偽文書について  こんぴら68 162P」です。

(1)「釈迦堂田地寄進状」
奉寄進
子松庄松尾釈迦堂免田職事、合陸段者、右件相免田職者、天長地久御願円満、殊者為本家領家地頭願所安穏泰平故也、寄進如件、
  康安二(1362)年壬丑四月十五日  預所 平保盛(花押)

ここには、小松荘松尾寺の釈迦堂に平保盛(花押)が康安二(1362)年壬丑四月十五日に免田を寄進したとされます。
しかし、長年にわたって金刀比羅宮の学芸員を務めた松原秀明の労作である「金毘羅庶民信仰資料集 年表篇、金刀比羅宮社務所発行」は、残された史料や棟札から釈迦堂の創建は延宝五年(1677)としています。つまり、康安2年には釈迦堂はありません。

(2)「三断香田地寄進状」
奉寄進
松尾寺三断香免田職事、合弐段者、在坪六条九里四坪末弘名無是田也、右件於免田職、為金輪聖王天長地久、殊者当庄本家領家沙汰人、御息災延命増長福寿現等安穏、及生善所庄内豊饒社人快楽故也、働任承者之旨、所奉寄進如件、
庄安二歳次辛亥年十一月十八日 預所僧頼系(花押)
(3)貞治元年「金昆羅堂田地寄進状」
奉寄進、松尾寺金毘羅堂免田職事、合壱段者、在坪六条八里廿五坪但本庄是末重名内、右件者、金眈羅堂免田者、為金輪聖王天長地久御願円満、殊者領家地頭庄官沙汰人諸人快楽故也、傷任承知状如件、
貞治元年(1362)壬寅三月十八日  新庄御方預所僧頼景(花押)
(5)永治二年「金昆羅堂田地寄進状」
奉寄進、子松庄松尾寺金昆羅堂田地事、
右件者免田職者、天長地久御願円満、殊者為本家領家地頭預所安穏泰平故、被仰下任旨寄進如件、
永治二(1142)年壬成二月二十六日  平量次(花押)
(3)(5)の文書に出てくる金昆羅堂については、以前にお話ししたように元亀四年(1573)の創建棟札が残っています。金比羅堂は長尾一族の宥雅によって元亀四年(1573)に創建されたことは地元の研究者たちが明らかにし、「町史ことひら」にもそう記されています。13世紀まで金毘羅神の登場を遡らせることは出来ません。金毘羅神は16世紀後半に、修験者たちによって新たに作り出された流行神と研究者たちはは考えています。
(4)「鐘楼堂田地寄進状」は、
奉寄進、松尾寺鐘楼免田職事、合参百歩者、御寺方久遠名無是田也在坪六条八里十一坪、右件者免田職者、為金輪聖王天長地久御願円満、殊者当庄本家領家地頭預所安穏泰平故也、働為寄進如件、康暦元(1379)年己未九月十七日  御寺方御代官 頼景 判

(4)の文書の鐘楼堂については、松原秀明撰『金昆羅庶民信仰資料集 年表篇』には、元和六年(1620)に生駒正俊が建立寄進したものとしています。松原氏は金刀比羅宮に残された棟札・記録を調べて年表を作成しています。敷田は棟札・記録などの根本史料に当たらずに偽文書を作成し、破綻をきたしたようです。また、五つの文書には「天長地久」が全て入っています。時代が異なる文書に、全て記されるというのも不自然です。そして、これらの5つの文書が、同一人物によって偽作されたと研究者は指摘します。
 こうして松原秀明氏は、これの文書が後世の偽作と判断し、「金刀比羅宮に近世以前の史料はない」としました。それ以後に書かれた香川県史や町史ことひらも、同じ立場をとっています。

この偽文書は、いつだれによって、何の目的のために作られたのでしょうか?
『中臣宮処氏本系帳』という文書があります。この書は、古代讃岐の山田郡の有力豪族「中臣宮処氏」の存在を示す史料です。本系帳には原書であって、孝徳天皇の大化三年(646)3月に中臣宮処連静が書いたものだと記されています。これを書いたのが国学者の敷田年治です。彼は『中臣宮処氏本系帳考證』下巻には、本系帳は天平六年(734)3月15日に中臣宮処連静麻呂が書いたものとも記されます。
整理すると「中臣宮処氏家牒』は大化三年(646)に中臣宮処連静が書き、「中臣宮処氏本系帳』は天平六年(734)に中臣宮処連静麻呂が書いたいうのです。
「中臣宮処氏本系帳考證』下巻には、次のように記されています。
「この書は讃岐の国の人、本條半兵衛が今(明治26年1893)から32年か33年前に難波に持ってきたものだが、半兵衛は何の書物か知らず、明治11年(1878)9月18日に難波の道頓堀で焼失してしまった。しかし、これ以前に或る人がこの本系帳と家牒を借りて書き写し、家牒の方は半分も書き写さない内に持ち主が返すよう督促したので返した。明治21年(1888)春に半兵衛の息子の小野幸四郎が或る人が書き写した本系帳を持って来て、私(敷田年治)に見せたので考證を加えて出版することにした。家牒の方は十枚程残っていたが、鼠に喰われて四枚程になってしまった」

この史料を本物と判断した『讃岐の歴史』は、中臣宮処連について次のように記します。
このほか、(山田郡の)県主に任ぜられた豪族には、天児屋根命を祖とする中臣宮処連の一族や、武殻王を祖とする綾氏がいた。山田郡では、天児屋根命より出た中臣宮処連静足が和銅二年に、同静麿が養老三年にそれぞれ大領に任じられた。その居址は現在の高松市西前田町にあったという。

三、中臣宮処氏本系帳には、何が書かれ、どこに問題点があるのでしょうか
(疑間1)『中臣宮処氏本系帳考證』下巻の迦麻行大人命の条には、
綾県主(あがたぬし)迦麻抒大人命は巻向の日知宮(ひしりのみや)に天の下治しめし天皇の大御子、夜麻登多郡(やまとたける)天皇命の御子、多郡迦比古(たけかいこ)王命の御子、迩美麻(にみま)大主命の御子、那岐迩麻(おきにま)大主命の御子也。

とあって、綾県主(あがたぬし)迦麻抒大人命が巻向の日知宮に天の下治しめし天皇(景行天皇)―夜麻登多郡天皇(日本武尊)―多郡迦比古(神櫛王)王命―迩美麻大主命―那岐迩麻大主命―迦麻抒大人命と続く系譜にあることを記します。
 しかし、この系譜は以前にお話したように、南北朝時代の頃に法勲寺の僧侶達によってつくられた『綾氏系図』の系譜をそのままパクったものです。南北朝時代作成の『綾氏系図』が天平六年(734)作成の『中臣宮処氏本系帳』に採録されることはありあせん。中世に作られた系図が、古代の文書に載っていることになります。これがまず問題点1です。
疑間2は『中臣宮処氏本系帳考證』下巻の中臣宮処連静比古の条です。
此の静比古多麻岐の郎女(いらつめ)にあひて生める子静老、又栗田臣伊那其(いなご)の女美豆保の郎女に姿ひて生める子奴那美麻呂(ぬなみまろ)此は中臣御田代連、高屋連らの祖也、次に清比古、次に稚富比古此は中臣粟井連らの祖也。

ここでは静比古の子の稚富比古を中臣栗井連の祖としています。そしてその本拠地を苅田郡紀伊郷粟井里とします。しかし、粟井を本拠としていたのは中臣栗井連ではなくて、忌部氏です。紀伊郷栗井里には讃岐の国の延喜式内社24社の栗井神社(観音寺市)があって、その祭神は天太玉命(あめのふとのみこと)で、これは忌部氏の祖神です。
 また、延喜式内社の多度郡の大麻神社(善通寺)の祭神も天太玉命で、三豊郡豊中町竹田には忌部神社があって、この忌部神社の周辺は今でも忌部と呼ばれています。讃岐忌部の本拠地は苅田郡紀伊郷栗井里で、ここから分かれ出た忌部の一派が豊中町竹田及び豊中町忌部に住むようになり、また、別の一派は多度郡生野郷大麻里に住むようになったとされています。
 大同二年(807)に、斎部広成が、平城天皇の指示で選した『古語拾遺』には、
手置帆負命之孫、矛竿を造り、その裔今分かれて讃岐の国に在る。讃岐の国毎年調庸の外に八百竿を貢ぐ、是其の事等の証也。

とあつて、讃岐忌部は毎年800本の矛竿を貢納していたと記されています。また『延喜式』には、
凡枠木千二百四十四竿、讃岐国十一月以前差綱丁進納、

とあって、『延喜式』が完成した937年には毎年1244の矛竿を貢納し、引き続いて讃岐忌部氏の勢力が強かったことおがうかがえます。
 苅田郡紀伊郷栗井里は枠木を貢納した忌部氏が住む村で、紀伊郷も「木」郷を嘉字二字表記にしたため「紀伊」郷になったもので、古代は和歌山を拠点とすする紀伊氏の勢力下だったとされます。ここには中臣氏の祖神の天児屋根命を祀った神社はなく、中巨粟井連という氏族の気配はありません。これが問題点2です。。

『中臣宮処氏本系帳考證』下巻の中臣宮処静見臣の条には、
此の静依臣粟国麻殖直県主の祖忌部首玉代の女奴那佐加比売に妾ひて主める子鶴見臣、亦静見大人と謂う、中臣笠井連等の祖先

とあって、中臣宮処連静依臣を中臣笠居連の祖とします。しかし東寺の果宝が観応三年(1352)に編述した『東宝記』収載の天暦11年(957)2月26日の大政官符には、綾公文包や香川郡笠居郷戸主綾公久法の名があり、綾公が住んでいたとが分かります。久法の子孫は中世には香西という武士になって活躍します。ここからも笠居郷は綾公の勢力エリアで、中臣笠居連が住んでいたということを裏付けられる史料はありません。他の歴史資料と矛盾する内容である中臣栗井連や中臣笠居連が登場する『中臣宮処氏本系帳』は、疑わしい文書とされます。

中臣宮地連については、次のような記録があります
『姓氏録』左京神別に中臣宮地連は大中臣同祖とあり、
『姓氏録』和泉国神別に宮処朝臣は大中臣朝臣同祖とあり、
『推古紀』十六年六月条及び二十年二月二十日条に中臣宮地連鳥麻呂が見え、
『続日本紀』天平元年二月十日条に中臣宮処連東人が見え、
ここからは中臣宮処氏の本拠は和泉国で、その一族が都に出て左京に家を構えたことが分かります。実際に畿内では中臣宮処連が分布していています。讃岐にも宮処という地名があるところから、讃岐の宮処にも中臣宮処連がいたとする『中臣宮処氏本系帳』という偽書がつくられたと研究者は推測します。

以上から『香川県の歴史』は、『中臣宮処氏本系帳考證』について次のような評価を下しています。
『中臣宮処氏本系帳考證』(明治二十六年三月、敷田年治の考證出版)によれば、県主は山田郡宮処(高松市東山崎町)に住みその祖先は天児屋根命で、その子孫は中臣氏であろうといわれるが、歴史家の間ではその真疑が疑われている。これを信用することはできないだろう。『中臣宮処氏本系帳』は明治時代前期に敷田年治が作成した偽書である可能性が高いのである。

つまり『中臣宮処氏本系帳』は、明治時代前期に敷田年治によって作成された偽書と研究者は考えているようです。

讃岐山田郡
 
中臣宮処連が拠点としたという山田郡宮処(高松市東山崎町)を見ておきましょう。
 琴電長尾線高田駅の北に広がる土地がかつての山田郡宮処郷であったようです。宮処郷の喜多に鎮座する宮処八幡宮(高松市前田西町)周辺に中臣宮処連が住んでいたと『中臣宮処氏本系帳』は記します。宮処郷に中臣宮処連が住んでいた痕跡はあるのでしょうか?
『続日本紀』天平十三年(七四一)三月十四日条によると聖武天皇は国分寺・尼寺建立の詔を出します。しかし、国分寺・尼寺の建立は進みません。そこで、三年以内に完成させたら子孫が郡司職を世襲を認めるという法令を、天保勝宝元年(749)2月27日に出しています。讃岐では国分寺・尼寺と同笵の瓦が、寒川郡の長尾寺、三木郡の始覚寺、山田郡の拝師廃寺・山下廃寺、香河郡の百相廃寺・田村神社、那珂郡の宝幢寺から出土しています。ここからは、寒川郡、三木郡、山田郡、香河郡、那珂郡の郡司が国分寺・尼寺の建立に参加したことがうかがえます。
『図録東寺百合文書』二十一号文書は、
山田郡牒 川原□□
合田中校出田一町三百五十歩、牒去天平宝字五年巡察□□出之田混合如件、□□□伯姓今依国今月廿二日符□停止□□、為寺田畢、傷注事牒、牒至准状、□符、

天平宝字七年十月廿九日
大領外正八位上綾公人足 少領従八位凡直 主政従八位下佐伯 復擬主政大初位上秦大成 主帳外小初位下秦
寺印
正牒者以宝亀十年四月十一日讃岐造豊足給下

ここからは天平宝字七年(763)に山田郡の大領は綾公人足、少領は凡直某だったことが分かります。
 綾公(君)は隣の香河郡から、凡直は寒川郡からの移住者(勢力拡大)と研究者は考えているようです。先に入ってきたのは綾公で、古墳時代後期には移住して久本古墳・山下古墳・小山古墳などの巨石墳を築造し、奈良中期になると拝師廃寺・山下廃寺などを建立したようです。綾公人足は八世紀中頃に山田郡の大領となり、国分寺や尼寺が建立された天平宝字七年(762)頃は大領だったことが、この史料号)からは分かります。
 天平19(747)年に国分寺・尼寺建立に参加し、その功績が認められ氏寺の拝師廃寺や山下廃寺を国分寺の同笵瓦で建立しています。こうして山田郡北半は綾公、南半は凡直が支配したようです。中世になると綾公の子孫は高松(船木)という武士になり、凡直の子孫は十河・植田・三谷・池田・由良・神内・中村などの武士になってそれぞれ活躍しますが、凡直の子孫の方が羽振りが良かったようです。
  考古学的な史料からも山田郡に中臣宮処連一族の痕跡をみつけることはできません。
以上から「中臣宮処氏本系帳』は歴史学者の間では偽書とされ、これを考証出版した敷田年治も信用できない人物とします。
敷田年治 - 帆足先生的収蔵
敷田年治
敷田年治と金刀比羅宮の繋がりをしめすものがあります。
『金毘羅庶民信仰資料集 年表篇』の明治20年(1887)9月28日条に、
「宥常、国学者敷田年治を自宅に招き饗応」

とあるのです。金刀比羅宮の琴陵宥常が何のために敷田年治を自宅に招いて饗応したのでしょうか?
最初に示した金刀比羅宮の偽文書を作成したお礼として自宅に招いて饗応した可能性が高いと研究者は指摘します。敷田年治が金刀比羅宮の偽文書をつくったとすると、『中臣宮処本系帳』も敷田年治がつくった偽書である可能性はますます高くなります。最初に偽書作成の裏側を見たように、偽書を作っていた人物はプロで、依頼によってどんな文書も偽作していたのです。ひとつだけ偽文書を作ったというのは考えにくく、ひとりがいくつもの偽文書を作っているのが通常なのです。
中臣宮処氏本系帳考証. 上巻 - 国立国会図書館デジタルコレクション

『中臣宮処氏本系帳考証』は明治26年(1893)3月に出版されています。
金毘羅さんの偽文書も明治20年(1887)9月~明治26年(1893)9月までの間に、つくられたと推測できます。敷田は金昆羅堂・鐘楼堂・釈迦堂の創建について記した棟札・記録を良く調べないで偽文書をつくりました。そのために、これらの棟札の記述と矛盾する内容が見つかり、偽文書であることが露呈してしまいました。そして、彼が考證出版した『中臣宮処氏本系帳』も偽書である可能性が高いとされてしまいました。敷田は、依頼に応えて、これ以外の偽書もつくった可能性もあります。そういう需要が当時の寺社にはあったことが分かります。
中臣宮処氏本系帳考証. 下巻 - 国立国会図書館デジタルコレクション

 なぜ金刀比羅宮の琴綾宥常は、敷田年治に偽書の作成を依頼したのでしょうか
考えられるのは、明治の神仏分離に伴う祭神の転換です。神仏分離前は、金毘羅大権現という神仏混淆神が祀られていました。それが廃仏毀釈で追放され、神道の金刀比羅宮は大国主命と崇徳上皇を祭神として祀るようになります。その際に、崇徳上皇との縁が求められるようになります。そのためには崇徳上皇が流刑になった時には、金毘羅大権現や松尾寺は存在していないと辻褄があわなくなります。琴綾宥常にとって、12世紀には松尾寺があったことが証明できる年代の入った文書が必要になったのでしょう。そこで、国文学者としても名前が知れていた敷田年治に依頼したことが推測できます。その裏交渉を行ったのは、禰宜の松岡調であったと私は考えています。松岡調は、骨董品や文書のコレクターでもあり、それが現在の志度の多和神社の文庫となっています。そのようなコレクションを通じて、松岡調は敷田年治と深いつながりがあったことがうかがえます。松岡調の周辺には、後に護国神社宮司となる矢原氏がいましたが、矢原氏の周辺にも偽文書の存在があるように思えます。
 

武田信玄が年貢の減免等を行ったということが書かれているが、江戸時代の終わりに自分たちも税の減免をしてほしい、と訴える証拠の資料として捏造されたもの。これに類するものが甲州にはいくつもある。

江戸時代の甲府周辺では、武田信玄の偽物の手紙が量産体制で作られ、どんどん売られていたようです。
偽文書屋が商売として成り立っていたのです。信玄の偽文書がたくさんある地域は、特定の地域で、大名がいないエリアに限定されるようです。天領などの方が、わが家はかつての信玄の家来だ、と言いやすかったようです。伊賀・甲賀でも、かつては自分たちは忍者だったといくらでも言い放題の地域があります。チェック体制のなかった江戸時代は、由緒を主張したもの勝ちだったようです。
 江戸後半になると由緒を語ることによって、社会的な地位が実際に上がっていく。急にお金持ちになっても、俺はかつてから有力な家だ、と言うとその地位が村の中で安定します。さらにもう少し後になると、武士身分もお金で買えるようになってきます。いきなり武士身分を買うのではなくて、中世は武士だ、今は農民だけど、改めてお金で買って、今はもとの武士に戻ったんだ、という言い方ができます。
  そういう意味で、家の系図や寺社の由緒はそのランクを上げて行くための必須アイテムとなります。こうして、有力な寺社には偽文書がいくつも作られ、正当性や建立起源の古さを主張する根拠して使われるようになります。
 金毘羅さんも祭神変更に対応して、より古い由緒が求められるようになったとしておきましょう。
以上をまとめておくと
①金刀比羅宮には、今は偽書とされる5つの「古文書」があった。
②それらは、松尾寺の鐘楼や金比羅堂が12世紀にはあったことを証明するものであった。
③これらの偽文書は明治に琴綾宥常が国学者(プロの偽作者)に依頼して作らせたものであった。
④その背景には祭神となった崇徳上皇時代には、松尾寺や金毘羅堂があったことを示す必要があったためである。
⑤しかし、松原秀明の調査研究によって松尾寺は16世紀後半に創建されたものであり、それを遡る棟札も古文書もないことが明らかにされた。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献
   中臣宮処氏本系帳と金刀比羅宮所蔵偽文書について  こんぴら68 162P

金毘羅船 航海図C4

前回に金毘羅船の航路が19世紀前半に、①→②→③のように変更されていることを見ました。
①初期は、室津から小豆島を東に見て高松沖から四国の海岸沿いに丸亀へ
②19世紀半ばからは、室津から牛窓沖を通過し、それから備讃瀬戸を縦断するコール
③室津から下津井半島の日比・田の口・下村を経由して丸亀へ
このコース変更の背景として考えられる事を挙げてみると
①下津井半島の五流修験が広めた「金比羅・喩伽山の両詣り」で喩伽山参りの人々の増加
②19世紀前半からの金毘羅船の大型化
などですが、その他にも原因があることを指摘する文章に出会いました。今回はそれを見ていきます。テキストは「羽床正明 金昆羅大権現に関する三つの疑問  ことひら68 H25年」です
金毘羅船 苫船
金毘羅参詣続膝栗毛 道頓堀で金毘羅船に乗りこむ弥次喜多

十返舎一九の『金毘羅参詣続膝栗毛』(1810年刊)には、弥次喜多コンビが夜半に道頓堀から乗った金毘羅船は、早朝に木津川河口に下ってきて、早朝に順風を得て出港します。室津で一夜を過ごし、その後は順風に恵まれて三日半で丸亀港に着いています。しかし、こんなにスムーズに行くのは珍しい方だったようです。

三谷敏雄「飯田佐兵衛の金毘羅参詣記」(『ことひら』四十一号、昭和61年)には嘉永三年(1850)の正月に武蔵国文蔵村の飯田佐兵衛が仲間11人と金比羅参りをしたときの記録が報告されています。当時は金比羅参りだけでなく、いろいろな聖地を一緒に巡礼するのが常でした。彼らの巡礼地を見てみると、東海道を下って伊勢神宮に参詣し、更に大阪・四国にも足を伸ばし、帰りには京都見物を行って中山道を通って帰村しています。この二ヶ月半を『伊勢参詣日記帳』という道中記にまとめています。この道中記には、金毘羅船について次のように記されています。
 佐兵衛一行は大阪から高砂に行き「つりや伊七郎」方で「同所より二日夜丸亀迄船を頼む、上下(往復料金)壱貫弐百文にて頼む、百八文ふとん一枚」を支払って金毘羅船に乗船しようとします。ところが「三、四日、殊の外逆風」で船が出せません。そこで船賃の払い戻しを要求するのですが、返金されたのは「四百八拾文舟銭。剰返請取。」と支払額の40%程度でした。全額返金に応じないことに憤慨して「金ひら参詣ニハ 決而舟二のるべからず」と、金比羅参拝には、決して船を利用するなと書いています。その後、彼らは岡山県まで歩いて行って、下津井から船に乗って対岸の四国に渡っています。
IMG_8095下村浦
下村湊

    西国巡礼者が金比羅詣コースとして利用した高砂~丸亀の記録には、次のように記されています。
「三月一日船中泊り、翌二日こき行中候得者、昼ハッ時分より風強く波高く船中不残船によひ、いやはや難渋仕申候、漸四ッ時風静二罷成候而漸人心地二罷成よみかへりたる計也」

「此時風浪悪しくして廿一日七ッ時二船二乗、廿四日七ッ時二丸亀の岸二上りて、三夜三日之内船中二おり一同甚夕難渋仕」

意訳変換しておくと
「三月一日に船中に泊り、翌日二日に漕ぎだしたが、昼ハッ時分に、風が強く吹きだし、波も高くなり、乗客はみんな船酔いに苦しめられ、難渋した。ようやく四ッ時に風が静まり、人々は人心地をついた次第である」

「風浪が強くなる中を、21日七ッ時に乗船し、24日七ッ時に丸亀に到着するまで、三夜三日の内船中に閉じ込められ、乗客達は大変難渋した。

 同じ頃に金毘羅大権現に参詣した江戸羽田のろうそく商、井筒屋卯兵衛の手記にも、良く似たことが書かれています。
卯兵衛は「金毘羅出船会所大和や(大和屋)弥三郎、丸亀迄詣用付舟賃九匁ふとん壱枚百六十四文払」と、前回に紹介した道頓堀川岸の大和屋弥三郎方で金昆羅船を頼み、「是より舟一り半程下りて富島町と申す所へ船をつなぐ」が、「六日朝南風にて出帆できず」と船を出すことが出来ず、「是より舟を上り、大和屋船賃を取り返しに行く」と船賃の一部を払い戻して貰い、陸路を岡山県まで歩いています。
 そして、次のようなコースで丸亀に向かいます
二月四日に牛窓村の「ちうちん屋」に泊り、
五日には喩伽大権現に参詣して、下津半島・下村の「油屋藤右衛門」方で百四文を払って乗船し、
六日の四ツ半頃に丸亀港に着き、船宿「あみや為次郎」方で弁当を整え、丸亀街道を歩いて金毘羅大権現に行き参詣した。再び丸亀「あみや」に戻って
六日昼より七日昼までの間逗留し、九ツ時に「あみや」を出立して船に乗り、七ツ頃に対岸の田の口港に着いています。
金毘羅船 航海図C10
上方から丸亀までの船旅は、風任せで順風でないと船は出ません。
中世の瀬戸内海では、北西の季節風が強くなる冬は、交易船はオフシーズンで運行を中止していました。近世の金毘羅船も大坂から丸亀に向かうのには逆風がつよくなり、船が出せないことが多かったようです。

IMG_8110丸亀・象頭山遠望
下津井半島からの讃岐の山々と塩飽の島々

 金毘羅船が欠航すると、旅人は山陽道を歩いて備中までき、児島半島で丸亀行きの渡し船に乗っています。児島半島の田の口、下村、田の浦、下津丼の四港からは、丸亀に渡る渡し船が出ていました。上方からの金毘羅船が欠航したり、船酔いがあったりするなら、それを避けて備中までは山陽道を徒歩で進み、海上最短距離の下津井半島と丸亀間だけを渡船を利用するという人々が次第に増えたのではないかと研究者は指摘します。

IMG_8108象頭山遠望
下津井半島からの象頭山遠望

 下津井からの丸亀間は、西北の風は追い風となります。上方からの船が欠航になっても、下津井からの船は丸亀湊に入港できたようです。
金毘羅船 田の口・下村

 児島半島には喩伽山大権現(蓮台寺)があつて、金毘羅大権現と喩伽山を「両参り」すると効験は倍増すると五流の修験者たちは宣伝します。喩伽大権現に近い田の口港は、両参りする人々で賑わうようになります。
IMG_8098由加山
喩伽山大権現(蓮台寺)

これに対抗して下村の船宿「油屋藤右衛門」方では「毎日出船」と天気に左右されない通常運行を売り物にして客を獲得しようとします。下津井半島には、日々、田の口、下村、下津井と4つの湊が金比羅船をだして、互いにサービス競争を行っていました。上方からの運賃に比べると1/5程度でリーズナブルでした。また、小形の金毘羅船にはトイレがありませんでした。弥次喜多は、苫の外から海に向かって用を足しています。女性参拝客が増えるに随って、最短で海を渡ろうとする人たちも増えたのかも知れません。

IMG_8105下津井より広島方面」
下津井半島からの四国方面遠望
 こうして江戸時代末期には、欠航や船酔いを避けて上方からではなく、海上最短距離になる下津井からの渡船に活躍の舞台が開けてきたようです。大阪と丸亀を結ぶ金毘羅船が「毎日出船」を売り物にすることができるようになつたのは、明治になって蒸気船が出現して天候の影響をうけなくなってのことのようです。
平野屋佐吉・まつや卯兵衛ちらし」平野屋の札は「蒸気金毘羅出船所

   以上をまとめておくと
①上方からの金毘羅船は順風だと3泊4日で、丸亀港に着くことができた
②しかし、北西の季節風が強くなる冬は逆風となり、欠航が多くなった。
③出発前の欠航や途中での欠航でも料金が全額払い戻されることはなくトラブルの原因となった
④江戸時代末期になると参拝客は、金毘羅船の欠点を避けて、陸路で下津井半島まで行き、そこから海上最短距離で丸亀や多度津を目指す者が増えた。
⑤そこには、五流修験者の喩伽山信仰策もあった。
⑥この結果、下津井半島の田の口や下村、下津井は金比羅渡船のでる港町として栄えるようになった。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献

  金毘羅 町史ことひら

大坂の金毘羅船の船宿は、乗船記念として利用者に金比羅参拝の海上航路案内図や引き札を無料で渡したようです。航路案内図は、印刷されたものを購入し空白部に、自分の船宿の名前を入れ込んだものです。そのために、時代と共にいろいろな航路案内図が残されています。参拝者は、それを記念として大事に保管していたようです。それが集められて町史ことひら5絵図・写真編(71P)に載せられています。今回は金毘羅船の海上航路図を見ていくことにします。
金毘羅船 航路図C1

 左下に「安永三(1774)甲午正月吉日、浪花淡路町堺筋林萬助版」と板元と版行の年月があります。延享元年(1744)に、大阪の船宿が連名で金毘羅船を専門に仕立てたいということを願いでてから30年後のことになります。宝暦10(1760)年に、日本一社の綸旨を得て、参詣客も年とともに多くなってくる時期に当たります。
 表題は「讃岐金毘羅・安芸の宮島 参詣海上獨案内」です。
 ここからは、新興観光地の金毘羅の名前はまだまだ知られていなくて、安芸の宮島参拝の参拝客を呼び込むという戦略がうかがえます。
 構図的には左下が大坂で、そこから西(右)に向けてひょうご・あかし(明石)・むろ(室津)・うしまど(牛窓)と港町が並びます。金比羅舟は、この付近から備讃瀬戸を横切って丸亀に向かったようですが、航路は書き込まれていません。表題通り、この案内図のもうひとつ目的地は宮島です。そのため  とも(鞆)から、阿武兎観音を経ておのみち(尾道)・おんどのせと(音戸ノ瀬戸)を経て宮島までの行程と距離が記されています。ちょうど中央辺りに丸亀があり、右上にゴールの宮島が配されます。この絵図だけ見ると、丸亀が四国にあることも分からないし、象頭山金毘羅さんの位置もはっきりしません。また、瀬戸内海に浮かぶ島々は、淡路島も小豆島も描かれていません。描いた作者に地理的な情報がなかったことがうかがえます。
 重視されているのは上の段に書かれた各地の取次店名と土産物です。
大阪の取次店して讃岐出身の多田屋新右ヱ門ほか二名の名があり、丸亀の船宿としては、のだ(野田)や権八・佃や金十郎など四名があり、丸亀土産として、うどんがあるのに興味がひかれます。金毘羅では、飴と苗田村の三八餅が名物として挙げられています。印象としては、絵地図よりも文字の方に重点を置いた初期の「案内図」で、地理的にも不正確さが目立ちます。ここでは、まだ宮島参拝のついでの金毘羅参りという位置づけのようです。

金毘羅船 航海図C3
1枚目 丸亀まで
 二枚続きの図で、画師は丸亀の原田玉枝です。玉枝は天保15五年(1844)に53歳で亡くなっています。この図の彫師は丸亀城下の松屋町成慶堂です。この図も1枚目は下津井・丸亀までで、2枚目が鞆から宮島・岩国までの案内図になっています。

金毘羅船 航海図宮島
2枚目 鞆から宮島まで

 東国・上方からの参詣者が金毘羅から宮島へ足を伸ばす。あるいは、この時期にはまだ宮島参拝のついでに金毘羅さんにお参りするという人たちの方が多かったのかも知れません。淡路でも金毘羅と宮嶋は、一緒に参拝するのが風習だったようです。そんな需要に答えて、丸亀で宮嶋への案内図が出されても不思議ではないように思います。
   ここで注意しておきたいのは、大坂からの案内図は、最初は宮嶋と抱き合わせであったということです。大坂から金毘羅だけを目指した案内図が出るのは、少し時代が経ってからのことになります。

 構図的には、先ほど見たものと比べると文字情報はほとんどなくなって、ヴィジュアルになっています。位置的な配置に問題はありますが、淡路島や小豆島などの島々や、半島や入江も書き込まれています。山陽道の宿場街や、四国側の主要湊も書き込まれ、これが今後に出される案内図の原型になるようです。航路線は描かれていませんが。点々と描かれた船をつなぐと当時の航路は浮かび上がってきます。それはむろ(室津)から小豆島を左に見て備讃瀬戸を斜めに横切って丸亀をめざす航路のように見えます。この絵を原型にして、似たものが繰り返し出され、同時に少しずつ変化していくことになります。
金毘羅船 航海図C4
 C④「大坂ヨリ播磨名所讃州金毘羅迪道中絵圖」        

この絵の特徴は、3つあります
①標題は欄外上にあり、右からの横書きになっていること
②レイアウトがそれまでとは左右が逆になっていて、大坂が右下、岡山は左上、金毘羅が左下にあること。この図柄が、以後は受け継がれていきます。
③宮島への参拝ルートはなくなったこと。金比羅航路だけが単独で描かれています
 前回にお話しした十返舎一九の「金毘羅膝栗毛」の中で弥次喜多コンビは、夜に道頓堀を出発し、夜明け前に淀川河口の天保山に下ってきて風待ちします。そして早朝に追い風を帆に受けてシュラシュラと神戸・須磨沖を過ぎて、潮待ちしながら明石海峡を抜けて室津で女郎の誘いを受けながら一泊。そして、小豆島を通りすぎて、八栗・屋島を目印にしながら備讃瀬戸を横切り、讃岐富士を目指してやってきます。つまり19世紀初頭の弥次喜多の航路は、下津井には寄らずに、室津から小豆島の西側と通って丸亀へ直接にやってくるルートをとっています。
 しかし、この絵には室津と田の口が航路で結ばれ、下村や下津井と丸亀も航路図で結ばれています。五流修験の布教活動で、由加山信仰が高まりを見せたことがうかがえます。
   また、高松など東讃の情報は、きれいに省略されています。関係ルート周辺だけを描いています。絵図を見ていて、違和感があるのは島同士の位置関係が相変わらず不正確なことです。例えば小豆島の北に家島が描かれています。一度描かれると、以前のものを参考しにして刷り直されたようで、訂正を行う事はあまりなかったようです。
金毘羅船 航海図C7
この案内図には標題がありません。特徴点を挙げておくと
①右上に京都のあたご(愛宕山)が大きく描かれて、少し欄外に出て目立ちます。
②大坂は、住吉・さかい(堺)を注しています。
③相変わらず淡路島や小豆島など島の形も位置も変です。
④室津から丸亀への航路が変更されている。
以前は、小豆島の西側を通過して高松沖を西に進むコースが取られていました。しかし、ここでは牛窓沖を西へ更に向かい日比沖から南下して備讃瀬戸を横断する航路になっています。この背景には何があるか分かりません。
金毘羅船 航海図C10

  C⑩には右下に「作壽堂」とあり、「頭人行列圖」を発行している丸亀の板元のようです。この案内図で、研究者が注目するのは「むろ」(室津)からの航路です。牛窓沖を西に進み、そこから丸亀に南下する航路と、一旦田の口に立ち入る航路の2つが書き込まれています。そして、初期に取られた室津から小豆島の西側を南下し、高松沖を西行するコースは、ここでも消えています。考えられるのは、喩迦山の「二箇所参り」CM成果で、由加山参りに田の口や日々に入港する金毘羅船が増えたことです。田の口に上陸して喩迦山に御参りした後に、金毘羅を目指すという新しい参拝ルートが定着したのかもしれません。

金毘羅船 航海図C13
C13
 よく似た図柄が多いのは、船宿が印刷所から案内図を買い求めて、自分の名前を刷り込んだためと研究者は考えているようです。C13には大阪の船宿・大和屋の署名の所にかなり長い口上書が添えられています。欄外右下には「此圖船宿よリモライ」と墨の落書きがあったようです。ここからも乗船客が、船宿からこのような絵図をもらって大切に保管していたことがうかがえます。


以上の金毘羅船の航路案内図の変遷をまとめっておきます
①大阪の船宿は利用客に航路案内図を刷って配布するサービスを行っていた。
②最初は宮島参拝と併せた絵柄であったが、金比羅の知名度の高まりととに宮島への航路は描かれなくなっていく
③18世紀後半の航路は、室津から小豆島を東に見て高松沖を経て丸亀至るにコースがとられた。
④19世紀前半になると、日比や田の口湊を経由して、丸亀港に入港するコースに変更された。

③から④へのコース変更については、由加山信仰の高まりが背景にあるとされますが、それだけなのでしょうか。次回はその点について見ていこうと思います。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました

参考文献 町史ことひら5絵図・写真編(71P)

金毘羅船 4

金毘羅船々 追風に帆かけて シュラ シュ シュシュ 回れば四国は 讃州那珂の郡 象頭山金毘羅大権現 も一度回って 金毘羅船々……

この歌は金毘羅船を謡ったものとして良く知られています。今回は金毘羅船がどのような船で、どこから出港していたのかを、見ていこうと思います。
まず、金比羅船の始まりを史料で見ておきましょう。
金刀比羅宮に「参詣船渡海人割願書人」という延享元年(1744)の文書が残されています。
参詣船渡海入割願書
一 讃州金毘羅信仰之輩参詣之雖御座候 海上通路容易難成不遂願心様子及見候二付比度参詣船取立相応之運賃二而心安致渡海候様仕候事
一 右之通向後致渡海候二付相願候 二而比度御山御用向承候 上者御荷物之儀大小不限封状等至迄無滞夫々汪相違可申候 将又比儀を申立他人妨申間敷事
一 御山より奉加勧進等一切御指出不被成旨御高札之面二候 得紛敷儀無之様可仕事
一 志無之輩江従是勧メ候儀且又押而船を借候儀仕間敷事
一 講を結候儀相楽信心を格別講銭等勧心ケ間敷申間敷並代参受合申間敷事
一 万一難風破船等有之如何様之儀有之有之候へ共元来御山仰二付取立候儀二候得者少茂御六ケ舗儀掛申間敷事
  右之趣堅可相守候若向後御山御障二相成申事候は何時二而茂御山御出入御指留可被成候為後日謐人致判形候上はは猶又少茂相違無御座候働而如件
  延享元甲子年三月
     大坂江戸堀五丁目   明石屋佐次兵衛 印
     同  大川町     多田屋新右衛門 印
     同  江戸堀荷貳丁目 鍔屋  吉兵衛 印
        道修町五丁目  和泉屋太右衛門 印
金光院様御役人衆中様
意訳変換しておくと
金毘羅参詣船の渡海についての願出について
一 讃州金毘羅参詣の海上航路が不便な上に難儀して困っている人が多いので「相応え運賃」(格安運賃)で参詣船を出し、心安く渡海できるように致します。
一 同時に、金毘羅大権現の御用向を伺い、御荷物等についても大小を問わず滞りなく配送いたします。 
一 金毘羅大権現よりの奉加・勧進等の一切の御指出を受けていないことを高札で知らせ、紛らわしい行為がないようにいたします。
一 信心のない輩に金毘羅船への参加を勧めたり、また船を課したりする行為は致しません。
一 金毘羅講を結成し講銭など集めたり、代参を請け負うことも致しません。
一 万一難破などの事故があったときには、どんな場合であろうとも金毘羅大権現に迷惑をおかけするようなことはありません。
以上の趣旨について今後は堅く遵守し、もし御山に迷惑をおかけするようなことがあった場合には何時たりとも、御山への出入差し止めを命じていただければと思います。
ここからは、次のようなことが分かります。
①延享元年三月(1744)に、大坂から讃州丸亀に向けて金毘羅参詣だけを目的とした金毘羅船と呼ばれる客船の運行申請が提出されたこと
②申出人は大坂の船問屋たちが連名で、金毘羅当局へ「参拝船=金毘羅船」の運航許可を求めていること
③寄進や勧進を語り募金集める行為や、金毘羅講などを通じての代参行為を行う行者(業者)がいた。
これは金光院に認められ、金毘羅船が大坂と四国・丸亀を結ぶようになります。これが「日本最初の旅客船航路」とされます。以後、金毘羅船は、金毘羅信仰の高揚と共に、年を追う毎に繁昌します。申出人の2番目に見える「大坂大川町 船宿 多田屋新右ヱ門」は、讃岐出身で大坂で船宿を営なんでいたようです。
多田屋の動きをもう少し詳しくみていきましょう。
 多田屋は、金毘羅本社前に銅の狛犬を献納し、絵馬堂の寄進も行っています。多田屋発行の引札も残っています。金毘羅関係の書物として最も古い「金毘羅参詣海陸記」「金毘羅霊験記」などにも多田屋の名は刷り込まれています。このように金比羅舟の舵取りや水夫には、多田屋のように讃岐出身者が多かったようです。そして、その中心は丸亀の三浦出身者だったようです。19世紀初頭に福島湊が完成するまでの丸亀の湊は土器川河口の河口湊でした。そこに上陸した金毘羅詣客で、三浦は栄えていたことは以前にお話ししました。

多田屋に少し遅れて、金毘羅船の運航に次のような業者が参入してきます
①道頓堀川岸(大阪市南区大和町)の 大和屋弥三郎
②堺筋長堀橋南詰(大阪市南区長堀橋筋一丁目) 平野屋佐吉
日本橋筋北詰(大阪市南区長堀橋筋二丁目) 岸沢屋弥吉
なども、多田屋に続いて金昆羅船を就航させています。強力なライバルが現れたようです。これらの業者は、それぞれの場所から金毘羅船を出港させていました。金毘羅船の出港地は一つだけではなかったことを押さえっておきます。
後発組の追い上げに対して、多田屋はどのような対応を取ったのでしょうか
『金毘羅庶民信仰資料集年表篇』90pには、多田屋新右衛門の対応策が次のように記されています。
宝暦四年 冥加として御用物運送の独占的引き受けを願い出る
同九年  狗犬一対寄進
天明七年 江戸浅草蔵前大口屋平兵衛の絵馬堂寄進建立を取り次ぎ
寛政十二年再度、金毘羅大権現の御用を独占を願い出。
享和三年 防州周防三輪善兵衛外よりの銅製水溜寄進を取り次ぎ
文化十三年大阪の金昆羅屋敷番人の追放に代わり、御用達を申し付け
天保三年 桑名城主松平越中守から高百石但し四ツ物成、大阪相場で代金納め永代寄進
天保五年 その代金六十両を納入
これ例外にも金毘羅山内での事あるごとに悦びや悔みの品を届けています。本人も母親も参詣してお目見えを許された記事もあります。ここからは多田屋新右衛門が、金毘羅大権現と密接な関連を維持しながら、金毘羅大権現への物資の運送を独占しようとしていたことがうかがえます。
『金毘羅山名所図会』には、次のように記されています。
  御山より大阪諸用向きにつきて海上往来便船の事は、大阪よどや橋南詰多田屋新右衛門これをあづかりつとむ。
ここからは多田屋新右衛門の船宿は、大阪淀屋橋南詰(大阪市東区大川町)にあったことがわかります。  
金毘羅船 淀屋橋
多田屋のあった、大阪淀屋橋南詰(大阪市東区大川町)
多田屋新右衛門には、大和屋弥三郎という強力なライバルが出現します。
大和屋弥三郎も金毘羅船を就航させ、金毘羅への輸送業に割り込もうと寄進や奉献を頻繁に行っています。そのため多田屋新右衛門が物資運送を独占することはできなかったようです。
『金毘羅庶民信仰資料集―年表篇』90Pには、大和屋弥三郎のことがが次のように記されています。
寛政九年 新しい接待所を丸亀の木屋清太夫とともに寄進
享和二年 瀬川菊之丞が青銅製角形水溜を奉納するのを取り次ぎ
文政九年 大阪順慶町で繁栄講が結成された時講元となり
文政十一年丸亀街道途中の与北村茶堂に繁栄講からとして、街道沿いでは最大の石燈籠を奉納
このように大坂の船宿は、参詣客の斡旋、寄進物の取り次ぎ、飛脚、為替の業務などを競い合うように果たしています。これが金毘羅の繁栄にもつながります
『金毘羅庶民信仰資料集―年表篇』の17頁の宝暦四年(1754)条には、
大阪の明石屋佐治兵衛。多田屋新右衛門、冥加として当山より大阪ヘの御用物運送仰せ付けられたく願い出る。

とあって、多田屋新右衛門が明石屋佐治兵衛と一緒に、物資運送を独占を願いでています。これに対して金毘羅大権現の金光院はどんな対応をしたのか見てみましょう。
『金毘羅庶民信仰資料集―年表篇』の24Pの寛政十二年(1800)春条には、
大阪多田屋新右衛門よりお山の御用を一手に申し付けられたき旨願い出る。多田屋の願いを丸亀藩へも相談した所、丸亀浜方の稼ぎにも影響するので、年三度のお撫物登りの時のみ多田屋の寄進にさせてはどうかという返事あり

ここには多田屋の願い出を丸亀藩に相談したところ、これを聞き留けると丸亀港での収入が減ることになるので、年三度の撫物だけを多田屋に運送させたら良いとの返事を得ています。この返事を多田屋に知らせ、多田屋はこれを受け入れたようです。ここに出てくる「撫物」と云うのは、身なでて穢れを移し、これを川に流し去ることで災厄を避ける呪物で、白紙を人形に切ったものだそうです。
  つまり金光院は、ひとつの船宿に独占させるのではなく、互いに競争させる方がより多くの利益につながると考え、特定業者に独占権を与えることは最後まで行わなかったようです。そのため多田屋が繁栄を独占することは出来ませんでした。

十返舎一九の『金毘羅参詣続膝栗毛』(1810年刊)で、弥次喜多コンビが乗った金毘羅船は、大和屋の船だったようです。
 道中膝栗毛シリーズは、旅行案内的な要素もあったので当時の最も一般的な旅行ルートが使われたようです。十返舎一九は『金毘羅参詣続膝栗毛』の中で、弥次・北を道頓堀から船出させています。しかし、その冒頭には次のような但書を書き加えています。
「此書には旅宿長町の最寄なるゆへ道頓堀より乗船のことを記すといへども金毘羅船の出所は爰のみに非ず大川筋西横堀長堀両川口等所々に見へたり」
意訳変換しておくと
「ここには旅宿長町から最も近いので道頓堀から乗船したと記すが、金毘羅船の出発地点は大川筋西横堀や長堀両川口などにもある」

ここからは、もともとの船場は多田屋のある大川筋の淀屋橋付近だったのが、弥次・喜多の時代には、金毘羅舟の乗船場は大川筋から道頓堀・長堀の方へ移動していたことがうかがえます。つまり、多田屋に代わって大和屋が繁盛するようになっていたのです。その後の記録を見ても「讃州金毘羅出船所」や「金ひらふね毎日出し申候」等と書かれた金毘羅舟の出船所をアピールする旅館や船宿は、大川筋よりもはるかに道頓堀の方が多くなっています。
 金毘羅船に乗る前や、船から下りた際には「航海無事」の祈願やお礼をするために、道頓堀の法善寺に金比羅堂が建立されていた研究者は推測します。法善寺は讃岐へ向かう旅人達たちにとって航海安全の祈願所の役割を果たしていたことになります。「海の神様」という金毘羅さんのキャッチフレーズもこの辺りから生まれたのではないかと私は考えています。

弥次喜多が乗りこんだ金毘羅船の発着場は、どこだったのでしょうか
金毘羅船 苫船

「大阪道頓堀丸亀出船の図」(金毘羅参詣続膝栗毛の挿入絵)
上図は「大阪道頓堀丸亀出船の図」とされた挿図です。本文には次のように記されます
   讃州船のことかれこれと聞き合わせ、やがて三人打ち連れ、長町を立ち出で、丸亀の船宿、道頓堀の大黒屋といえる、掛行燈(かけあんどん)を見つけて、野州の人、五太平「ハァ、ちくと、ものサ問いますべい。金毘羅様へ行ぐ船はここかなのし。」

意訳変換しておくと
讃州船のことをあれこれと聞き合わせ、やがて三人そろって、丸亀の船宿である道頓堀の大黒屋を訪ねた。掛行燈(かけあんどん)を見つけて、五太平が次のように聞いた「ハァ、ちょとおたずねしますが、金毘羅様へ行く船はここからでていますか」

ここからは道頓堀川の川岸の船宿・大黒屋を訪ねたこと、大黒屋も讃岐出身者であったことが分かります。道頓堀を発着する金毘羅船には、日本橋筋北詰の岸沢屋弥吉のものと、道頓堀川岸の大和屋弥三郎のものの二つがありました。岸沢屋の金毘羅船は道頓堀川に架かる日本橋の袂を発着場としていて引札には日本橋が描かれています。橋が描かれず川岸を発着場とするこの図の金毘羅船は「道頓堀の大黒屋=大和屋」の金毘羅船と研究者は考えているようです。

当時の金比羅舟は、どんな形だったのでしょうか?
上の絵には川岸から板一枚を渡した金毘羅船に弥次北が乗船していく姿が描かれています。手前が船首で、奥に梶取りがいるようです。船は苫(とま)屋根の粗末な渡海船だったことが分かります。苫屋根は菅(すげ)・茅(ちがや)などで編んだこものようなもので舟を覆って雨露をしのぐものでした。
金毘羅船 苫船2

淀川を行き来する三〇石船とよく似ているように思えます。
淀川30石舟 安藤広重


弥次喜多が道頓堀で乗船して、大坂河口から瀬戸内海に出港していくまでを意訳変換してみましょう
讃岐出身の船頭は、弥次喜多に次のように声をかける。
船頭「浜へ下りな。幟(のぼり)のある船じゃ。今(いんま)、出るきんな。サアサア、皆連(つ)れになって、乗ってくだせえ、くだせえ。」
 浜に下りると船では、揖(かじ)を降ろし、艪(ろ)をこしらえて、苫(とま)の屋根を葺いていた。
金毘羅船 屋根の苫
苫の屋根

水子(かこ)たちは布団、敷物などを運び入れ終わると、船宿の店先から勝手口まで並んでいた旅人を案内して、船に乗船させていく。
そこへいろいろな物売りがやってくる。
商人「サアサア、琉球芋(りゅうきゅういも)のほかしたてじゃ、ほっこり、ほっこり」
菓子売り「菓子いらんかいな、みづからまんじゅう、みづからまんじゅう。」
上かん屋「鯡昆布巻(にしんこぶまき)、あんばいよし、あんばいよし。」
船頭「皆さん、船賃は支払いましたかな、コレ、そこの親方衆、もう少しそっちゃの方へ移ってもらえませんか、」
五太平「コリャハァ、許さっしゃりまし。あごみますべい」と、人を跨いで向こう側へ座る。弥次郎・喜多八も同じように座ると、遠州の人が「エレハイ、どなたさんも胡座組んで座りなさい。乗り合い船なので、お互いにに心安くして参りましょう。ところで、船頭さん、船はいつ頃出ますか。」
船頭「いん(今)ますぐに、あただ(急)に出るわいの」
船宿の亭主「サアサアえいかいな、えいなら船を出さんせ。もう初夜(戌刻)過ぎじゃ。長い間お待たせして、ご退屈でござりました。さよなら、ご機嫌よう、行っておい出でなされませ。」
 と、もやい綱を解いて、船へ放り込むと、船頭たちは竿さして船を廻します。そうすると川岸通りには、時の太鼓、「どんどん、どどん」と響きます。
按摩(あんま)「あんまァ、けんびき、針の療治。」
 夜回りの割竹が「がらがら、がらがら」と鳴る中、船はだんだん河口へと下っていきます。
 木津川口に着いた頃には、夜も白み始める子(ね)刻(午前4時)頃になっていた。ここで風待ちしながら順風を待ち、その間は船頭・水子もしばらく休息していて、船中も静かで、それぞれがもたれ合って眠る者もいる、中には、肘枕や荷物包に頭をもたせて熟睡する者もいる。

難波天保山

 やがて、寅の刻(午前4時)過ぎになったと思う頃に、船頭・水子たちがにわかに騒ぎ立ちて、帆柱押し立て、帆綱を引き上げるなど出港準備をはじめ、沖に乗り出す様子が出てきた。船中の皆々も目を覚まして、船端に顔を出して、塩水をすくって手水使って浄めて象頭山の方に向かって、航海の安全を伏し拝む。
弥次郎・喜多八も遙拝して、一句詠む
    腹鼓うつ浪の音ゆたかにて 走るたぬきのこんぴらの船
 船出の安全を、語る内に早くも沖に走り出しす。船頭の「ヨウソロ、ヨウソロ」の声も勇ましく、追風(おいて)に帆かけて、矢を射るように走り抜け、日出の頃には、兵庫沖にまでやってきた。大坂より兵庫までは十里である。

ここからいろいろな情報を得ることが出来ます。
①弥次・喜多の乗った金毘羅船が小形の苫舟で、乗り換えなしで丸亀に直行したこと
②船頭が讃岐出身者だったこと。讃岐弁を使っているらしい。
③夜中(午後8時頃)に道頓堀や淀屋橋の船宿を出て、早朝(午前4時頃)に大坂河口に到着
④風待ち潮待ちしながら順風追い風を受けて出港していく
⑤この間に船の乗り換えはない。
金毘羅船 3

19世紀の中頃には、金毘羅船にとって大きな変化が起きていました。それまでの小形の苫舟に代わって、大型船が就航したことです。
金毘羅船 垣立


この頃には、垣立(上図の赤い部分)が高く、屋形がある大型の金毘羅船が登場します。これは樽廻船を金毘羅船用に仕立てたものと研究者は考えているようです。江戸時代に大阪と江戸の間の物資の運送で競争したのが、菱垣廻船と樽廻船です。

金毘羅船 大坂安治川の川口
大坂安治川の川口
 大坂安治川の川口の南には樽廻船の蔵が建ち並び、北には菱垣廻船の蔵が建ち並んでいる絵図があります。大型の金昆羅船は二日半で丸亀港に着いているので、船足の早い樽廻船と研究者は考えているようです。
ここで大きく成長するのが平野屋左吉です。
彼は、もともとは安治川の川口の樽廻船問屋でした。樽廻船を金毘羅船に改造して、堺筋長堀橋南詰に発着場を設けて、金毘羅船を経営するようになったと研究者は考えているようです。空に向かって大きくせり出した太鼓橋の下なら大きな船も通れます。しかし、長堀橋のように川面と水平に架けられた平橋の下を大きな船は通れません。そこで平野屋左吉が考えたのが、堺筋長堀橋南詰の発着場と安治川港の間を小型の船で結び、安治川港で大型の金毘羅船に乗り換えて丸亀港を目指すプランです。
金毘羅船 平野屋引き札
この平野屋の引き札からは次のようなことが分かります。
①平野屋が大型の金毘羅船を導入していたこと
②船の左には、平野屋本家として「金毘羅内町 虎屋」と書かれていて、虎屋=平野グループを形成していたこと。

  文政十年(1827)に歌人の板倉塞馬は、京・大阪から讃岐から安芸まで旅をして、『洋蛾日記』という紀行文を著しています。
その中の京都から丸亀までの道中についての部分を見てみましょう。
五月十二日、曇‥(中略)昼頃より京を立つ‥(中略)京橋池六より、乗船、浪花に下る。
十三日、晴。八つ(午後二時)頃より曇る。日の出るころ大阪肥後橋へ着く。(中略)
蟻兄(大阪の銭屋十左衛門)を訪れ、銭屋九兵衛という家(宿屋と思われる)にとまる。(以下略)
十五日、晴。(中略)日暮れて銭九を立つ。長堀橋平野屋佐吉より小舟に乗る。四つ橋より安治川口にて本船に移り、夜明け方出船。天徳丸弥兵衛という。
ここからは次のようなことが分かります。
①5月12日の昼頃に伏見京橋池六で川船に乗って淀川をくだり、13日早朝に大阪の肥後橋到着
②永堀橋の長堀橋の船宿平野屋佐吉の小舟で河口に下り
③15日、四つ橋より安治川口で大型の天徳丸(船頭弥兵衛)に乗り換え、夜明け方に出港した。

つまり平野屋左吉は、二種類の船を持っていたようです
①大阪市内と安治川港を結ぶ小型船
②安治川港と丸亀港を結ぶ大型船
淀川船八軒屋船の船場
川船の行き来する八軒家船着場 安治川湊までの小型船

平野屋は、二種類の船を使い分けて、金毘羅船経営を行う大規模経営者であったようです。普通の船宿経営者は、小型の船で大阪市内と丸亀港を直接結ぶ小規模の経営者が多かったようです。平野屋の売りは、金毘羅の宿は最高グレードの虎屋だったことです。富裕層は、大型船で最上級旅館にも泊まれる平野グループの金毘羅詣でプランを選んだのでしょう。このころには金毘羅船運行の主導権は、多田屋や大和屋から平野屋に移っていたようです。
平野屋佐吉・まつや卯兵衛ちらし」平野屋の札は「蒸気金毘羅出船所

  以上をまとめておくと
①18世紀半ばに金毘羅船の営業が認められ、讃岐出身の多田屋が中心となり運行が始まった。
②多田屋は金毘羅の運送業務の独占化を図ったが、これを金光院は認めず競争関係状態が続いた
③後発の船宿も参入し、金毘羅への忠誠心の証として数々の寄進を行った。これが金毘羅繁栄の要因のひとつでもあった。
④19世紀初頭の弥次喜多の金毘羅詣でには、道頓堀の船宿大和屋の船が使われている。
⑤金毘羅船の拠点が淀屋橋周辺から道頓堀に移ってきて、同時に多田屋に代わって大和屋の台頭がうかがえる
⑥道頓堀の法善寺は、金毘羅船に乗る人々にとっての航海安全を祈る場ともなっていた
⑦19世紀中頃には、平野屋によって樽廻船を改造した大型船が金比羅船に投入された。
⑧これによって、輸送人数や安全性などは飛躍的に向上し、金毘羅参拝者の増加をもたらすことになった。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
羽床正明 金昆羅大権現に関する三つの疑問     ことひら68 H25
北川央  近世金比羅信仰の展開
町史こんぴら

金刀比羅宮には、南北朝期の絹本着色弁才天十五童子像があります。
弁才天画像をいれた箱の表には「春日社御祓講本尊」とあり、裏には19世紀中頃の文政の頃に金光院住職の宥天がこれを求めた書かれています。ここからは、もともとは春日社に伝わっていたものであることが分かります。
春日社にあった弁才天十五童子像がどうして、金刀比羅宮にあるのでしょうか。今回は、その伝来について見ていきたいと思います。テキストは「羽床正明 金刀比羅宮蔵 弁オ天画像考 ことひら57」です。

金刀比羅宮の弁財天画を見る前に、弁財天の歴史について簡単に見ておきます
楽天市場】インドの神様 サラスヴァティ—神お守りカード×1枚[004]India God【Sarasvati】Small Card  (Charm)【水を持つ者】【優美】【豊穣】【富】【浄化】【学問】【知恵】【音楽】【芸術】【弁才天】【弁財天】:インド風水アイテムのPRANA
ヒンズー教の現在のサラスヴァティー(弁才天)

弁財天の起源はインドです。古代インド神話でサラスヴァティーと呼ばれた河の神は、後になると言葉の神ヴァーチュと結び付いて、学問、叡知、音楽の女神となり、最高神ブラフマー(梵天)の妃の一人とされるようになります。それが仏教にとり入れられると、仏教名を弁才天、妙音天、 美音天などと呼ばれるようにます。さらに財宝神であることが強調されるようになると、弁財天と書かれるようになります。神も進化・発展します。その上に、『金光明最勝王経』は、弁才天を美神とか戦闘神であると説き、弓、箭、刀、鉾、斧、長杵、輪、霜索を持つ8つの手があるとします。後世にいろいろな効能が追加されていくのが仏像の常です。二本の手では足らなくなって8本になります。
かつての横綱、若乃花・貴乃花の手形石、意外と小さい - Photo de Mimurotoji Temple, Uji - Tripadvisor

日本で盛んに信仰されるようになるのは、宇賀弁才天です。
水神の白蛇や、その白蛇が発展を遂げて生まれた老翁面蛇体の宇賀神を、頭上に戴くのが宇賀弁財天です。宇賀神は稲荷信仰を混淆して生まれました。稲を担った老翁姿の稲荷神と、水神の蛇が結合したのが宇賀神となるようです。整理しておくと
宇賀神  = 稲荷神(老翁姿)+ 水神(蛇=龍)
宇賀弁才天= 宇賀神     + 弁才天
こうしてとぐろを巻いた蛇と老人の頭を持つ宇賀神を頭上に頂く宇賀弁才天が登場してきます。
弁才天と宇賀神

これが鎌倉時代末期のようです。弁才天の化身は蛇や龍とされますが、これはインド・中国の経典にはありません。日本で創作された宇賀弁才天の偽経で説かれるようになったようです。
弁才天3

 初期の宇賀弁才天が8本の手に持つのは『金光明経』に記されるように「鉾、輪、弓、宝珠、剣、棒、鈴(鍵)、箭」と全て武器でした。ところが、次第に「宝珠」と「鍵」(宝蔵の鍵とされる)が加えられ、福徳神・財宝神としての性格がより強くなり、商人達に爆発的に信仰が広がります。

弁才天には「十五童子」が従います。
これも宇賀弁才天の偽経に依るもので、「一日より十五日に至り、日々宇賀神に給使して衆生に福智を与える」と説かれます。

弁才天十五童子像3

絹本著色の弁才天十五童子像として代表的なものをあげると、
金刀比羅宮蔵弁才天十五童子像(鎌倉末期)
京都上善寺蔵弁才天十五童子像(南北朝期)
近江宝厳寺蔵弁才天十五童子像(南北朝期)
大和長谷寺能満院蔵天河曼荼羅(室町時代)
などがあります。これらの絵に共通する点は、主尊の弁才天と眷属神の十五童子(十六童子の場合もある)を中心に、龍神やその他の神々が描き込まれていることです。
弁才天十五童子像

        大阪府江戸前~中期/17~18世紀
      岩座の弁才天と十五童子を表す立体曼陀羅
弁才天十五童子像2

金刀比羅宮の弁才天画像を見てみましょう
残念ながら画像を手に入れることはできませんでした。あしからず。岩の上に立つ一面六臀の弁才天を中心に天女のまわりを眷属神の十五童子がかためます。画像の上方の五つの円相の中には釈迦・薬師。地蔵。観音。文殊という春日明神の本地仏が描かれています。春日社の祭神の本地仏は、武甕槌命(本地は釈迦)・経津主命(薬師)・天児屋根命(地蔵)・比神(観音)とされます。祭神は一神一殿の同じ形の、同じ大きさの社殿に祀られています。ただ、文殊だけは一社だけ離れて若宮社に祀られています。

弁才天立像
武人的な要素の強い弁才天

日本三弁天と称しているのは、次の3社でした。
近江の都久夫須麻神社
鎌倉の江の島神社
安芸の厳島神社
神社が弁才天信仰の中心となったのは、弁才天が神仏習合したからです。弁才天の頭上には白蛇(宇賀神)と華表(鳥居)がのっています。

弁才天2
白蛇はさらに発展し、老翁面蛇体の宇賀神としてソロデビューしていきます。日本三弁天の神社の影響もあって、春日社でも宇賀弁才天を祀るようになったようです。頭上に、水神・食物神とされる宇賀神をいただく宇賀弁才天を祀ることは、多くの荘園を持つ春日社にとっては大切な要素です。雨が降らないと稲は育ちません。荘園経済の上に基盤を置く春日社にとつては死活問題です。そのため水神である宇賀弁才天を祀るようになったのでしょう。

弁才天画像を春日神社から手に入れたのは松尾寺住職の宥天です。彼の在職期間は、1824~32年まででした。
 江戸時代の庶民は移り気で、新たな流行神の出現を求めていました。そのために、寺社は境内や神域にそれまでない新たなメンバーの神仏を勧進し、お堂や行事を増やして行くことが求められました。金毘羅だけでは、参拝客の増加は見込めないし、寺の隆盛はないのです。それは善通寺もおなじでした。
金毘羅本社絵図


 金毘羅大権現の別当寺松尾寺では、明和六年(1766)に「三天講」を行うようになります。
三天とは、毘沙門天・弁才天・大黒天のことで、供物を供え、経を読んで祀つる宗教的なイヴェントで縁日が開かれ、多くの人々が参拝するようになります。毘沙門天は『法華経』、弁才天は「金光明経』、大黒天は『仁王経』の尊とされるので、この三天を祀ることは護国の三部経を信仰することにつながります。
 生駒氏が領主であった慶長六年(1601)に松尾寺の境内には、摩利支天堂と毘沙門天堂(大行事堂)が建立されています。すでに毘沙門天と大黒天の尊像はあったはずです。足らないのは、弁財天です。宥天が弁財天画像を求めたのは、「三天講」のためだったという推理が浮かんできます。こうして三天講の縁日当日には、三天の尊像が並べて祀られます。そこに祀られたのが春日社から購入した宇賀弁才天画で、三天講の本尊の一つだったようです。

文化十年(1813)には、金毘羅大権現の門前町である金山寺町に弁才天社の壇がつくられています。
さらに嘉永元年(1848)には金山寺町に弁才天社の拝殿が建立されています。松尾寺で三天講が行われるようになったことがきっかけとなって弁才天に対する信仰が高まり、門前町の金山寺町に弁才天社がつくられたようです。宥天の求めた弁才天十五童子像も、そうした弁才天信仰の高揚が背景にあったようです。
 松尾寺の境内には金毘羅大権現の本宮以外にも、諸堂・諸祠が建ち並び、多くの神や仏が祀られていました。それらの神や仏の中に、宇賀弁才天も加えられたということでしょう。弁才天の陀羅尼を誦せば所願が成就し、財を求めれば多くの財を得られるとされました。そのため庶民は弁才天が福徳の仏して、熱心に拝むよようになります。
3分でわかる弁財天とは?】ああっ幸福の弁天さまっ!のご利益や真言|仏像リンク

 弁財天はインドではもともとは川の神、水の神で水辺に生活する神とされていました。そのためいつのまにか雨と関連づけられ雨乞いにも登場するようになります。
松尾寺でも江戸時代には雨乞いが行われています。
宇賀弁才天木像及び弁才天十五童子像画像は、雨乞いにも活躍したようです。奥社からさらに工兵道を進むと、葵の滝があらわれます。ここは普段は一筋の瀧ですが、大雨が降った後は壮観な光景になります。かつては、ここは山伏たちの行場であった所です。私も何度かテントを張って野宿したことがあります。夜になるとムササビが飛び交う羽音がして、天狗が飛び回っているように思えたことを思い出します。
善通寺市デジタルミュージアム 葵の瀧 - 善通寺市ホームページ
葵の瀧

 流れ落ちる屏風岩の下に龍王社の祠が置かれます。ここが金毘羅大権現の祈雨の霊場で修験を重ねた社僧達がここで雨乞いを祈願したと私は考えています。宇賀弁才天が祀られるようになると、水の神である宇賀弁才天も雨乞い祈願の一端を担うようになったのでしょう。

四国のお寺には、かつては雨乞い神の善女龍王が祀られていた祠が、いつのまにか弁財天を祀る祠になっている所がいくつもあります。神様や仏様にも流行廃れがあり、寺社はあらたな神仏の「新人発掘」を行いプロモートの努力を続ける努力をしていたのです。それを怠ると繁栄していた神社もいつの間にか衰退の憂き目にあったようです。そういう意味では、江戸末期の金毘羅大権現の別当たちは、「新人発掘」に怠りがなかった。そのひとつの象徴が三天講の企画であり、そのための宇賀弁才天画の購入であったとしておきます。


以上をまとめておくと
①江戸時代になると商売繁盛の神として宇賀弁才天が信仰を集めるようになる。
②金毘羅大権現の別当金光院も、宇賀弁才天を勧進し三天講の開催を始める
③そのため宇賀弁天の本尊が春日神社から求められ、三天講の縁日の時には開帳されるようになる。
④宇賀弁天は、水神でもあったため雨乞い信仰の神としても信仰を集めるようになる
⑤その結果、それまでの善女龍王竜王に宇賀弁天がとって代わる所も現れた。
⑥江戸時代の庶民派移り気で、寺社も新たな流行神を勧進し信者を惹きつける努力を行っていた。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
     羽床正明 金刀比羅宮蔵 弁オ天画像考 ことひら57
関連記事

金毘羅大権現に成長して行く金毘羅堂の創建は、戦国時代のことになります。松岡調の『新撰讃岐風土記』には、次のような金比羅堂の創建棟札が紹介されています。
 (表)「上棟象頭山松尾寺 金毘羅王赤如神御宝殿 当寺別当金光院権少僧都宥雅造営焉 
于時元亀四年発酉十一月廿七日記之」
 (裏)「金毘羅堂建立本尊鎮座法楽庭儀曼荼羅供師高野山金剛三昧院権大僧都法印良昌勤之」
ここからは次のようなことが分かります。
①金毘羅王赤如神が金毘羅神のことで、御宝殿が金比羅堂であること。
②元亀四年(1573)に金光院の宥雅は、松尾寺境内に「金毘羅王赤如神」を祀る金毘羅堂を建立した
③本尊の開眼法要を、高野山金剛三昧院の良昌に依頼し、良昌が開眼法要の導師をつとめた
宥雅は長尾一族の支援を受けながら松尾寺を新たに建立します。
さらにその守護神として「金毘羅王赤如神=金毘羅神」を祀るため金毘羅堂を建立したようです。それでは、後に金毘羅大権現に成長して行く金比羅堂は、どこに建立されたのでしょうか。今回は、創建時の観音堂や金比羅堂の変遷を追ってみることにします。テキストは羽床正明   松尾寺十一面観音の由来について ことひら平成12年」です。

長尾城城主の弟であった宥雅は、善通寺で修行して一人前の僧侶になった時、善通寺の末寺で善通寺の奥の院でもあった称名院を任されるようになります。そして善通寺で修行した長尾高広は師から宥の字を受け継ぎ「宥雅」と名乗るようになります。
「讃岐象頭山別当職歴代之記」には

宥範僧正  観応三辰年七月朔日遷化 住職凡応元元年中比ヨリ  観応比ヨリ元亀年中迄 凡三百年余歴代系嗣不詳」
意訳変換しておくと
宥範僧正は、 観応三年七月朔日に亡くなった。応元元年から  元亀年中まで およそ三百年の間、歴代住職の系譜については分からない。

宥範から後の凡そ300年近くの住職は分からないとした上で、「元亀元年」から突然のように宥雅を登場させます。この年が宥雅が松尾山の麓にあった称名院に入った年を指していると羽床正明は考えているようです。善通寺の末寺である称名院に、宥雅に入ったのは元亀元年(1570)頃としておきましょう。
 ここからは羽床氏の「仮説」を見ていくことにします
1570年 宥雅が称名院院主となる
1571年 現本社の上に三十番社と観音堂建立
1573年 四段坂の下に金比羅堂建立
宥雅は、荒廃していた三十番神社を修復してこれを鎮守の社にします。三十番社は、甲斐からの西遷御家人である秋山氏が法華経の守護神として讃岐にもたらしたとされていて、三野の法華信仰信者と共に当時は名の知れた存在だったようです。三十番社の祠のそばに観音堂を建立し、1573年の終わりに四段坂の下に金毘羅堂を建立したとします。


絵図で創建当時の松尾寺と金毘羅堂の位置を押さえておきましょう。本堂下の四段坂を拡大した「讃岐国名勝図会」のものを見てみましょう。四段坂 讃岐国名勝図会
讃岐国名勝図会の四段坂周辺

金堂の竣工に併せて四段坂も石段や玉垣が整備されました。
それがこの讃岐国名勝図会には描き込まれています。長い階段の上に本宮が雲の中にあるように描かれています。しかし、創建当初は松尾寺の本堂である観音堂がここに建っていました。その守護神として金毘羅堂が最初に姿を見せたのは、階段の下の矢印の所だと研究者は考えています。両者の位置関係からしても、この宗教施設は松尾寺を主役で、金比羅堂は脇役としてスタートしたことがうかがえます。

5 敷石四段坂1
幕末の四段坂 金毘羅堂はT39の創建された
金毘羅堂と観音堂の位置

今度は17世紀中頃正保年間の境内図を見てみましょう。
境内図 正保頃境内図:
正保年間の金毘羅大権現の境内図

  金毘羅神が流行神となり信仰をあつめるようになると金毘羅神を祀る新しい御宝殿(本宮=金毘羅堂))は、観音堂を押しのけて現在地に移っていきます。その本宮はどんな様式だったのでしょうか?
『古老伝旧記』には、この本宮について次のように記します。

元和九年御建立之神殿、七間之内弐間切り三間、梁五間之拝殿に被成、新敷幣殿、内陣今之場所に建立也、

ここからは元和九(1623)年に建てた金毘羅堂の寸法などが分かります。同時に「神殿」とあり、次いで拝殿、幣殿、内陣とあるので神道形式の社殿であったことが分かります。こうして観音堂は、金比羅堂に主役を譲って脇に下がります。
 階段の下にあったそれまでの金毘羅堂は、修験者たちの聖者を祀る役行者堂となります。このあたりにも当時の金毘羅さんが天狗信仰の中心として修験者たちの信仰を集めていたことがうかがえます。それは金光院の参道を挟んで護摩堂があることからも分かります。ここでは、社僧達がいろいろなお札のための祈祷・祈願をおこなっていたようです。神仏混淆化の金毘羅大権現を管理運営していたのは社僧達だったようです。
 創建当初の金毘羅堂には、祭神の金毘羅神は安置されていなかったようです。
代わって本地仏の薬師如来が安置されていました。金比羅堂が本宮として現在地に「昇格」してしまうと、それまで金比羅堂に祀られていた薬師様の居場所がなくなってしまいました。そこで新たに薬師堂が建立されることになります。
境内平面図元禄末頃境内図:左図拡大図konpira_genroku
元禄末期の境内図

薬師堂の建立場所は、鐘楼の南側の現在旭社がある場所が選ばれます
同時に高松藩初代領主の松平頼重の保護を受けた金光院は、境内の大改造を行い、参道を薬師堂の前を通って、本宮に登っていく現在のルートに変更します。
 また、観音堂も現在の三穂津姫社の位置に移します。そして観音堂の奥には、初代金光院院主の宥盛を祀る金剛坊が併設されます。宥盛は「死して天狗となり、金毘羅を守らん」と言い残して亡くなった修験のカリスマ的存在であったことは以前にお話ししました。全国から集まる金比羅行者や修験者の参拝目的はこちらであったのかもしれません。
 金光院のまわりを見ると、書院や客殿が姿を現しています。高松松平家の保護を受けて、全国からの大名たちの代参もふえてきたことへの対応施設なのでしょう。

金毘羅山本山図1
本宮と観音堂は回廊で結ばれている。その下の薬師堂はまだ小型

こうして松尾寺の中心的な3つの建築物が姿を現します。
金毘羅大権現 本宮
松尾寺本堂  観音堂
薬師堂          金毘羅神の本地仏
以後、明治の神仏分離までは、このスタイルは変わりません。

観音堂と絵馬堂の位置関係
幕末に大型化し金堂と呼ばれるようになった薬師堂が見える

19世紀になると、寺院の金堂は大型化していきます。
その背景には大勢の信者を集めたイヴェントが寺社で開催されるようになるためです。そのためには金堂前には大きな空間も必要とされます。同時代の善通寺の誕生院の変遷を見ても同じ動きが見られることは以前にお話ししました。
 金光院も急増する参拝客への対応策として、大型の金堂の必要性が高まります。そこで考えられたのが薬師堂を新築して、金堂にすることです。薬師堂は幕末に三万両というお金をかけて何十年もかけて建立されたものです。この竣工に併せるように、周辺整備や参道の石段化や玉垣整備が進められていくのは以前にお話ししました。
4344104-31多宝塔・旭社・二王門
金堂(薬師堂=現旭社)と整備された周辺施設(讃岐国名勝図会)

 そして明治維新の神仏分離で、仏教施設は排除されます。観音堂は大国主神の妻の神殿となり、金堂(薬師堂)は旭社と名前を変えています。金堂ににあった数多くの仏達は入札にかけられ売り払われたことが、当時の禰宜・松岡調の日記には記されています。ちなみに薬師像は600両で競り落とされています。また、ここにあった両界曼荼羅は善通寺の僧が買っていったとも記されています。

旭社(金堂)設計図
松尾寺金堂(薬師堂)設計図

 金堂は今は旭社と名前を変え、祭神は天御中主神、高皇産霊神、神皇産霊神、伊邪那岐神、伊邪那美神、天照大御神、天津神、国津神、八百万神 などで平田派神学そのものという感じです。今は堂内はからっぽです。

金毘羅本宮 明治以後
神仏分離後の絵図 
観音堂は三穂津姫殿となり旧金堂は雲で隠されている

 以上をまとめておきます
①16世紀後半に長尾一族出身の宥雅は、新たな寺院を松尾山に建立し松尾寺と名付けた。
②その本堂である観音堂は三十番社の下の平地に建立された。
③観音堂の下の四段坂に、守護神金比羅を祀るための金比羅堂を建立した
④金比羅神が流行神として信仰をあつめると、観音堂の位置に金比羅堂は移され金毘羅大権現の本宮となった。
⑤松尾寺の観音堂は、位置を金毘羅神に明け渡し、その横に建立された。
⑥金比羅堂に安置されていた薬師像(金毘羅神の本地仏)のために薬師堂が建立され、参道も整備された。
⑦19世紀には、薬師堂は大型化し松尾寺の金堂として姿を現し、多くの仏達が安置されていた。
⑧明治維新の廃仏毀釈で仏殿・仏像は追放された。
境内変遷図1

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
羽床正明   松尾寺十一面観音の由来について ことひら平成12年」


1金刀比羅宮 琴陵宥常銅像2
琴陵宥常(ことおかひろつね)
 金毘羅大権現の最後の別当職は「宥常(ゆうじょう)」です。
彼は、明治の神仏分離の激流の中で、金刀比羅宮権現を神社化して生き残る道を選びます。そして、自らも還俗して琴陵宥常(ことおかひろつね)と名乗ることになります。彼が神仏分離の嵐とどのように向き合ったかについては、以前お話ししました。今回は、彼の結婚について焦点を絞って見ていきたいと思います。
  テキストは「山下柴  最後の別当職琴陵宥常の婚姻と山下盛好 ことひら39 昭和59年」で
1金刀比羅宮 琴陵宥常銅像

  金毘羅大権現は、金光院の院主が「お山の殿様」でした。
金毘羅大権現は神仏習合の社で、最高責任者は、金光院の院主でした。社僧ですから妻帯できません。したがって跡目は実子ではなく、一族の山下家から優秀な子弟から選ばれていました。宥常の先代の金光院院主は、宥黙で優れた別当で和歌を愛する文化人でもありました。しかし、病弱だったようで、そのために早くから次の院主選びが動き出していたようです。 
皇霊殿遥拝式2

 山下家一族の中に、宇和島藩士の山下平三郎請記がいました。
その二男の繁之助(天保11年(1840)正月晦日生)の神童振りは、一族の中で噂になるほどで白羽の矢が当たります。宥黙は信頼できる側近の者を宇和島藩に派遣して、下調査を重ねた上で琴平・山下家への養子縁組みを整わせます。嘉永2年(1850)11月29日、10歳の繁之助は、次期院主として金毘羅に迎えられたのです。これが先ほど紹介した宥常で、18代別当宥黙(ゆうもく)の後継者に選ばれます。そして安政4(1857)年10月22日に第19代別当に就任しました。宥常18歳の時です。これを進めた琴平の山下家当主の盛好は、次のような歌を詠んでいます。
  「今日よりは象の御山の小松菊
       千代さかえ行く末や久しき」   
 ちなみに宥常は父平三郎、母おつ祢の二男で、兄弟姉妹は兄と妹3人の5人兄弟でした。宥常は、安政五年六月八日、徳川将軍家定公に御目見、同年七月十二日孝明天皇に拝謁しています。そして、明治維新を28歳で迎えることになります。何もなければ彼は、このまま金光院別当として生涯を過ごすはずでした。しかし時代は明治維新を迎え大きく変わります。「御一新」の嵐は、象頭山のにも吹き荒れます。
なぜ宇和島藩の藩士の子が、後継者に選ばれたのでしょうか。
 それは先述したとおり、金毘羅大権現のトップは山下家の一族の中から優秀な子弟から選ばれるよいうルールがあったからです。 山下家一族のうち、中の村(三豊郡)の山下助左衛門盛寿の男、盛昌、山下輿右衛門については
「延宝二年(1675)甲寅年、伊達侯に仕う。知行二百石、中奥頭取」
とあります。財田の出身の山下家の一族の中に、宇和島藩の伊達家に仕官した者がいました。それが山下盛昌で、俳諧が上手な文化人であったようです。山下盛昌は、琴平宮本社の棟札にも名が残っているので、恐らく金光院の関係で京、大坂へも上った際に、徘徊のたしなみを身につけたのでしょう。
 あるときに、金毘羅さん参詣した伊達家重役が彼の俳諧に傾倒し、宇和島まで同道し仕官を奨めたという話が伝えられます。時の藩主は、七万石に減石されていたのを元の十万石に高直したとされる名君伊達宗貳です。山下盛昌という人物に、文化人だけではない何かを見いだしたのでしょう。
 伊達家に仕えた山下盛昌は、中奥頭取にまで出世しています。彼が現実的経世的知識をそなえ、藩主の信頼を得ていたことがうかがえます。盛昌の叔父も宇和島藩の梶谷家(知行二百石)へ養子に入っています。こうして、山下家を通じて金毘羅さんは宇和島藩とのつながりを持っていたようです。
白峰神社例祭 …… 奥社遥拝


  琴平・山下家の盛好による嫁探し
 山下盛好の日記には
「小松を藤原朝臣に改め琴陵を廃し、小松屯に仕度申出候得共叶不申」明治二巳七月二十二日

とあります。宥常は金毘羅大権現を、神社化することで生き残る道を選びました。そして自らも還俗します。その結果、「嫁取り」の話が出て来ることになります。
 その候補者選びの方針は、「結婚相手を京都公卿の姫」に求めることだったようです。関係する高松藩松平家などから迎えるという選択もあったはずですが、公家から迎える道を選びます。御一新の時代、天皇家に近い公家との新たな関係を築くことが今後の金刀比羅宮の発展につながると考えたのでしょう。それでは、具体的に候補者をどのように選んだのでしょうか。
白峰神社例祭2

 具体的な候補者選びを行ったのは、琴平・山下家の盛好だとされています。彼の日記「山下盛好記」には、次のように記されています。
「御簾中 称千万姫・正二位大納言胤保卿御女 安政元申九月二日生レ玉フ」
「己レ今年両度上京六月二日 始テ保子姫御目見」
 盛好は二度上京し、交渉に当たったようで「辛労甚シ」とも書いています。千万姫は三十二才を迎えていましたが「才色兼備のお姫様、美しく漓たけた誠におやさしい」と宥常に報告します。これを聞いて、宥常は喜び「頬を染め厚く厚く礼を述べた」と、盛好は記しています。

潮川神事

結納や諸手続についての覚書が残されているので、見ておきましょう
一、御願立御日限之事但シ御下紙拝見仕度候事
  御内約御治定之上御結納紅白縮緬二巻差上申度候事 
  但シ右代料金五十両 差上度候事
  御家来内二ハ御肴料御贈申候事
一、御主従御手当金二百五十両差上申度候事 
  但シ御拵之儀 当方之御有合二而宜敷御座候事伏見御着 
  迄之警固入費金十五両差上候
  御乗船ヨリ当方マデ 御賄申上候御見送り御家来御開之
  節 同様京都迄御賄申上候事
  居残り御女中御手当金前後十五両御贈申候事
一、御供之儀 伏見御家政之内壱人御老女壱人御女中壱大
  御半下壱人刀差壱人御下部壱大二御省 略被下度 下部
  壱人当方ヨリ相廻シ申恨事 女中老人壱ケ年又ニケ年見
  合二而御嘔巾度似事
一、御由緒書拝見仕度候事
一、御内約御治定ノ上 先不取敢御肴料差上度候事
  但シ御家来内江モ同様御贈申上度候事
一、御土産物総而御断申上候事
一、御姫様御染筆御所望申上度候事
  右之件二御伺申上度営今之御時節柄二付可成丈御省略之御取計奉願候也
                 琴陵家従五位内
 明治四年辛未五月        山 下 真 澄
 
意訳変換しておくと
一、日取りや時間については、下紙(添付書)で確認すること
  御内約が整った上で、御結納は紅白の縮緬に巻いて差上ること。
  但し、代料金は五十両。御家来内には、御肴料をお贈りするこ
  と。
一、主従手当金として二百五十両を差上げること 
  但し、拵之儀(伏見までの警固費十五両)
  御乗船から金刀比羅宮までの費用、家来の京都までの見送り費用
  居残り女中の御手当金など、合わせて十五両
一、御供について、伏見御家、老女、女中、半下、刀差 御下部
  をひとりずつつけること。この費用については当方が負担するこ 
  と。女中老人は、1年か2年お供する予定である。
一、御由緒書を準備し拝見すること
一、御内約が決定した上で、御肴料を差上げること。但し御家来にも
同様の贈り物を準備すること
一、御土産物は、すべてお断りすること
一、姫様の御染筆(揮毫)を、所望すること
  以上についてお伺い申し上げ、御一新の時節柄に付き、省略できるものは省くようにお願いしたい。
            琴陵家従五位内
 明治四年辛未五月        山下真澄

 私が気になるのは婚礼費用です。
ここに出てくる数字だけだと650両前後になるようです。明治元年に新政府から求められて、貢納した額が1万両でした。この翌年に、神仏分離で廃物され蔵の中に収められていた仏像などを入札販売していますが、その時の一番高額で落札されたのは、金堂(現旭社)の丈六の薬師如来でした。その値段が600両と松岡調の日記には記されています。それらから比べると高額な出費とは、私には思えません。
金毘羅大権現 旭社
旭社(旧金堂)

こうして段取りが整った後、明治4年8月29日、山下盛好はお姫様をお迎えするため、粟井玄三、仲間の福太、房吉を連れ三度目の上京をします。そして約1ヶ月後の9月30日に、千万姫と共に丸亀港に還ってきます。その夜九ツに駕で丸亀を出発、丸亀街道を進んだようです。途中、小休止をニケ所でとり、無事に中屋敷へ到着します。
「御姫様御元気にて御休息。老女とよ、女中おゆき、家令の築山恒利大夫と挨拶をかわす。」
と記されます。その後の盛好記には、次のように記されています。

宥常殿報 恐悦至極ノ態 下山セシハ夜モホノボノ明渡り候事

「夜モ ホノボノ明渡り候事」に盛好の、満足感と大任を果たした安堵感がうかがえます。そして、3日後の「十月二日夜、御婚礼千秋万才目出度く」とあります。翌日、廣橋正二位大納言胤保殿へ逐一報告済と記るされています。
 18歳で出家し、金光院別当となった時には、仏に仕える身となりました。もう家庭をもつことは、なくなったと思っていた宥常は、32歳で妻帯することになったのです。そして一男二女を設けます。これを契機にするかのように、金刀比羅宮には追風が吹くようになります。
 金比羅講に代わって、近代的なシステムに整備されたは、多くの信者を組織化し、金刀比羅宮へと送り込むようになります。まさに「金を生むシステム」として機能するようになります。そこから生まれる資金を背景に、宥常は博覧会や新たな神道学校作りなどに取り組めるようになります。事業的にも、家庭的にもまさに「追い風に帆懸けてシュラシュシュシュ」だったのかもしれません。

 最後に宥常が21才の時に、京に上がって天皇に拝謁の時の記念として、御厨子を京で作らせ盛好に贈っています。自分を、院主に付けてくれた感謝の意だったのかもしれません。そこには次のように記されています
   奉献御厨子
    右意趣者為興隆仏法国家安穏
    殊者山下家子孫繁栄家運長久
    而已敬白
   万延元康中歳二月吉辰
      金光院権大僧都 宥常
 また「京師堀川 綾小路正流仏工 田中弘造 刻」ともあります。
この御厨子は、今は山下家の菩提寺の山本町の宋運寺(盛好の遠祖、山下宗運建立)に保管されているようです。この奉献厨子の中には、山下家云々とあります。ここからは、二人の間には山下家としての同族意識があったことがうかがえます。金毘羅大権現の影の実力者として山下家は山内に、大きな影響力を持ち続けていたようです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
1琴綾宥常 肖像画写真

琴綾宥常 高橋由一作

参考文献
「山下柴  最後の別当職琴陵宥常の婚姻と山下盛好 ことひら39 昭和59年」で

 金刀比羅宮 - Wikiwand
琴陵宥常
神仏分離令を受けて、若き院主宥常は金毘羅大権現が仏閣として存続できることを願い出るために明治元(1868)年4月に京都に上り、請願活動を開始します。しかし頼りにしていた、九条家自体が「神仏分離の推進母体」のような有様で、金毘羅大権現のままでの存続は難しいことを悟ります。そこで、宥常は寺院ではなく神社で立ってゆくという方針に転換するのです。
宥常(ゆうじょう)は,還俗し琴陵宥常(ひろつね)と改名します。彼が金毘羅大権現最後の住職となりました。

  神仏分離令をぐる金毘羅大権現の金光院別当宥常の動きを最初に年表で見ておきましょう。
明治元年(1868)
2月 新政府の神仏分離令通達
4月 金毘羅大権現の存続請願のために、宥常が都に上り、請願活動を開始
5月 宥常(ゆうじょう)は,還俗し琴陵宥常(ひろつね)と改名
5月 維新政府は宥常に、御一新基金御用(一万両)の調達命令
7月 金毘羅大権現の観音・本地・摩利支天・毘沙門・千体仏などの諸堂廃止決定
8月 弁事役所宛へ金刀比羅宮の勅裁神社化を申請
9月 東京行幸冥加として千両を献納。
   徳川家の朱印状十通を弁事役所へ返納。
   神祇伯家へ入門し、新道祭礼の修練開始
11月 春日神社富田光美について大和舞を伝習
    多備前守から俳優舞と音曲の相伝を受ける
12月 皇学所へ「大日本史」と「集古十種」を進献。
明治2(1869)年2月,宥常が古川躬行とともに帰讃。
ここからは、京都に上京した宥常が、監督庁に対して今後の関係の円滑化のために、貢納金や色々な品々を贈っていることが分かります。同時に神社として立っていくための祭礼儀式についても、自ら身につけようとしています。ただ、神道に素人の若い社務職と、還俗したばかりの元社僧スタッフでは、日々の神社運営はできません。そのために、迎えたのが白川家の故実家古川躬行です。彼は、宥常の帰讃に連れ立ってと金比羅にやってきたようです。
  月が改まった3月には,御本宮正面へ
 当社之義従天朝金刀比羅宮卜被為御改勅祭之神社被為仰付候事

という建札を立てています。実際に、金毘羅大権現から金刀比羅宮への「変身」が始まったのです。
  今回は、金毘羅さんの仏閣から神社への「変身」に、古川躬行が果たした役割を見ていきたいと思います。
 別の言い方をすると、神社として生きていくためのノウハウを、古川躬行がどのようにして金刀比羅宮に移植したかということです。仏閣から仏像・仏具が撤去するだけでは神仏分離は終わりません。仏教形式で行われていた祭礼や諸行事を神道化することが求められました。これは、書物だけでは習うことは出来ません。手取、足取り、口移しで習う種類のものです。明治政府が西洋文化・技術の移植のために、高い給領を支払って御雇外国人を招聘したように、金刀比羅宮も「お雇い京都人」を招く必要があったようです。
 そのために、京都滞在中の宥常が白羽の矢を立てたのが白川神祇伯家に仕える故実家の古川躬行でした。
古川躬行について、人物辞典では次のように記されています。
  没年:明治16.5.6(1883) 生年:文化7.5.25(1810.6.26)
幕末明治期の国学者,神官。号は汲古堂。江戸生まれ。黒川春村の『考古画譜』(日本画の遺作中心の総目録)を改訂編纂,『増補考古画譜』として完成したのは黒川真頼と躬行であり,その随所に「躬行曰」と記してその見識を示した。横笛,琵琶にも堪能であったという。明治6(1873)年枚岡神社(東大阪市)大宮司,8年内務省出仕。10年大神神社(桜井市)大宮司を経て,15年琴平神社(香川県)に神官教導のために呼ばれ,同地で没した。<著作>『散記』『喪儀略』『鳴弦原由』(白石良夫)
1古川

 古川躬行は、文化7年(1810)の江戸で生まれですので、明治維新を58歳で迎えていたことになります。別の人物辞典には
「幕末・維新期の国学者・神職で、早くから平田鉄胤に入門して国史・古典を修めるともに古美術(古き絵や古き絵詞)・雅楽にも造詣が深く、琵琶や龍笛も得意としていたようです。旧幕府時代には白川神祇伯家の関東執役を勤めており、通称を素平・将作・美濃守と称し、号を汲古堂と称した」

とあります。

1古川躬行

  彼が琴平にやってきたのは、先ほど見たように明治2年(1869)2月末のことです。
「扱記録門』二月二十八日条に、次のように記されています。

二月二十八日 此度大変革二付、御本社祭神替ヲ始、神式修行都而指図ヲ相請候人、於京師御筋合ヨリ御頼二依テ、白川家古実家古川躬行(みつら)ト申人来

意訳すると
二月二十八日 この度の大変革について、本社の祭神変更を始め、神式修行などの指示を受けるためにに招いた人である。京都の筋合からの話で、白川家古実家の古川躬行(みつら)という人がやってきた。

と記されています。宥常が1年近くの京都滞在から引き上げてくるのと、同行してやってきたようです。
さらに翌日の記録には次のように記されています。
            
2月29日夜、御本社金毘羅大権現、神道二御祭替修行、次諸堂、御守所等不残御改革に相成、御寺中(じちゅう)、法中、御伴僧、小僧辿御寺中へ相下ケ、禅門替りハ不取敢手代ノ者出仕、御守所小僧替りハ小間遣ノ者拍勤候也、当日ヨリ御守札、大小木札等都而御改二相成、以前之守ハ都而御廃止二成ル。
             (『金刀比羅宮史料』第九巻)
意訳しておくと
2月29日夜、本社金毘羅大権現の神道への改革のために、諸堂、守所など残らず改革されることになった。寺中(じちゅう)、法中、社僧や小坊主などは、すべて山下に下ろした。僧侶は使わずに手代が代わって出仕した。守所の小僧に代わって小間使いのものが勤めた。この日から御守札、大小木札等の全ては新しいものに改められて、以前のお守りは廃された。

とあります。着任翌日から改革に着手していることが分かります。社僧達が境内から追放されるという「現物教育」は、おおきなショックを山内の者達に与えたでしょう。
『禁他見』(部外秘)とある「琴陵光煕所蔵文書」の中には次のような記述もあります。
  明治二巳年二月二十九日夜
 御本宮神道二御祭替、魚味(ぎょみ)献シ、御祭典御報行被遊候事、附タリ、二月晦日、西京ヨリ宥常殿御帰社之事、右御祭替へ、古川躬行大人、神崎勝海奉仕ス。
  『金刀比羅宮史料』第八十五巻)
意訳すると
 明治2年2月29日夜  本宮の神道への御祭替に際して、魚味(ぎょみ=鯛? つまり生魚)が献じられ、祭典変革について神殿に報告した。二月晦日、京都より宥常殿がお帰りになり、御祭替については古川躬行と神崎勝海が奉仕することになった
                
 
全国崇敬者特別大祈願祭 … 3月10日 朝祭

社僧を山下に「追放」した後の夜、本殿神前には「魚味」が供えられています。それまでの「精進」をモットーとする仏閣からの転換であり、ある意味では神仏分離を象徴する典型的なアクションだったとも言えるようです。着任と同時に、具体的な改革が断行されたことが分かります。まさに、古川躬行の着任が金刀比羅宮の神式祭礼への改革スタート点だったようです。

 「金刀比羅宮神仏分離調書」にみる祭典の変革    
 明治政府は「神仏分離」に伴なう祭典行事や儀式作法の変革について、その変更点を調書として提出させています。
 金刀比羅宮は、どのような点を変革したと自己申告しているのでしょうか。「金刀比羅宮神仏分離調書」の中に記された変更点を見ていくことにします。
  〔本社〕意訳文
本社関係の祭礼行事については、神仏分離のための変遷は極めて少なかった。祭礼行事は、殆んどそのまま引き継がれた。ただし、これを行う方式や作法については、両部神道式を純然たる神道式に改めた。以前には両部神道式に、祝詞を奏し、和歌を頌し、中臣祓を唱へ、再拝拍手をなすなど神道の形式が多かったが、両部のために仏教形式の混入も少なくなかった。これらの神仏混淆の作法は、分離して純然たる神式に改めた。今金毘羅大権現の重要な祭礼行事に就いて、その変遷の概要を述べたい。
 
  祭礼行事に大きな変化はなかったとします。
しかし、10月10日の大祭神事は別で、大きな改変を伴うものになったようです
 大祭の変更については、倉敷県に出された明治三年十月の報告書には、次のように記されています。
 十月の大祀については、当年より次のように改めることになった。十日夕方に上、下頭人登山し、式後に神輿や頭人行列が、神事場の旅所向けて山を下る。到着後に、神事・倭舞を奉奏する。十日夜は御旅所に一泊、11日夕方上下頭人御旅所に相揃って式を済ませ、神輿が帰座する。御供が夜半のことになるが、御前(琴陵宥常)にも汐川行列の御供にも神輿の御供にもついていただき、11日まで御旅所に逗留し、神事の執行を行う。祝、禰宜、掛り役方などのいずれも10日から11日まで、御旅所へ詰める。
 本宮に待機し、9日夜の神事倭舞の助役舞人に加わり、旅所での十日夜倭舞にも参加する。
神人(五人百姓)の協力を得て、11日に神事が終われば、本宮から神璽を守護して丸亀に罷り越し、12日に帰社する。但し、駕龍、口入、両若党、草履取、提灯持四人、合羽龍壱荷の他に、警護人も連れ従わせる。神璽の先ヱ高張ニツ、町方下役人が下座を触れながら、街道を行く
 当社の十月十日、十一日の大祭について、先般の改革のため当年より金刀比羅宮宮神輿、頭人行列の変更点について、以上のように報告する。
以上、
 八月             金刀比羅宮社務
                琴 綾 宥 常 印
倉敷県御役所

 それまでの大祭行列は、観音堂と本宮の周辺で行われていたようで、境内を出ることはありませんでした。それが明治3年(1870)10月の大祭から神事場(御旅所)まで、パレードするようになります。そのために石淵に新たに神事場(じんじば)が整備されます。
塩入から 満濃池 神野神社 神野寺 久保神社 御神事場 金刀比羅宮へ - 楽しく遍路

神事場へのコースは、石段を下りて、内町から一の橋(鞘橋)を渡って、阿波街道を使っていたようです。後に、鞘橋が現在地に移されてからは通町をゆくようになります。山上の狭い空間で行われていた頭人行列が山下へ下りてきて、街道をパレードするようになった効果は大きかったようです。
金刀比羅宮最大の祭礼「例大祭」が齋行されました。 | イベントニュース | こんぴら へおいでまい | 古き良き文化の町ことひら 琴平町観光協会

 例えば内町に軒を並べる老舗の旅館外は、目の前を行列が通過するようになります。これはセールスポイントになります。大祭に合わせて全国から参拝にやってくる金毘羅講の信者には、何よりの楽しみとなります。参拝者を惹きつけるあらたな「観光資源」が生み出されたことになります。
金刀比羅宮最大の祭礼「例大祭」が齋行されました。 | イベントニュース | こんぴら へおいでまい | 古き良き文化の町ことひら 琴平町観光協会

 境内の旧仏閣は、どのように「変革」されたのでしょうか
 「金刀比羅宮神仏分離調書」をもう一度見てみましょう。
[境内仏堂]
 仏堂に於ては素より仏式の作法なりしが、神仏分離に当り、仏堂は全部廃され、其建物は概ね境内神社の社殿に充当せらるヽと共に、仏式作法廃滅せり。
     (『中四国神仏分離史料』第九巻四国・中国編)
意訳すると
 仏堂は、もとから仏式作法であったが、神仏分離に当り、仏堂は全部廃された。その建物は、境内神社の社殿に充当した。共に、仏式作法は廃滅した。

ここからは、両部神道形式の祭典の改正・変更が行われたこと、境内仏堂の廃止とその跡建物を利用した神社の整備・変更などを行なったことがうかがえます。
  さて政府に出された「金刀比羅宮神仏分離調書」を見てきましたが、これを書いたのは誰でしょうか。候補者は次の3人です。
①琴綾宥常(維新時28歳)
②松岡調  (維新時38歳)
③古川躬行(維新時58歳)
山下家当主であった琴綾宥常の業績を大きく評価する立場からすると、彼が神道への改革を取り仕切ったという説が多いようです。しかし、私にはそうは思えないのです。まず、その年齢と経験です。それまで真言宗の社僧として成長してきた宥常にとって、神道平田派の教理も祭礼なども殆ど知らないことばかりなのです。そんな彼に、仏閣から神道への衣替えをやりきる知識と実行力があったかというと疑問になります。
 何回か神仏分離調書(回答書)を読み直してみて感じることは、自信に満ちた文章で、報告書と云うよりも師匠が弟子に教え諭すような雰囲気がします。これが書けるのは古川躬行だけでしょう。彼は先ほど見たように、何冊かの本も出版している中央でも名の知れた神道の学者でもありました。彼が政府に提出した報告書に、頭からクレームが付けられる神学官僚はいなかったのではないでしょうか。②松岡調は、彼の日記などを見るともう少し実務的な仕事を、この時点では行っていたようです。
 金刀比羅宮の神仏分離の変革の立役者は、古川躬行だったと私は思っています。

古川躬行のプランに基づいて旧仏閣建築群が、どのようになったのかを報告書から見ていくことにします
 神仏分離の結果、金光院時代の諸仏堂を再利用して、明治2年(1869)6月に、次のような末社が創り出されています。
 ①旭社・②石立神社・③津嶋神社・④日子神社・⑤大年神社・⑥常磐神社・⑦天満宮・⑧火産霊社・⑨若比売社
 さらに、従来からの末社を次のように改称ています
旧金剛坊→⑩威徳殿、旧行者堂→⑪大峰社、
大行事堂→⑫大行事社

これだけの改革のための全体プラン作り、実行していったのも古川躬行を中心とするスタッフだったようです。
1金毘羅金堂 旭社

具体的に①の旭社の改変をみてみましょう。
 旭社は、松尾寺の金堂に当たります。「金堂上梁式の誌」には、次のように記されています
「文化十酉より天保八酉にいたるまて五々の星霜を重ね弐万余の黄金(2万両)をあつめ今年羅久成して 卯月八日上棟の式美を尽くし善を尽くし其の聞こえ天下に普く男女雲の如し」

文化3年(1806)の発願から40年の歳月をかけて完成したのが金毘羅さんの金堂でした。「西国一の大きな建物」というのが評判になって、金毘羅さんのセールスポイントのひとつにもなっていました。代参に訪れた清水次郎長の子分・森の石松が、本宮と間違えて帰ってしまい、帰路に殺された話の中にも登場する建物です。
 建立当時は中には、本尊の菩薩像を初めとする多くの仏像が並び、周りの柱や壁には金箔が施されたようです。それが明治の廃仏毀釈で内部の装飾や仏像が取り払われ、多くは売却・焼却され今は何もなくがらーんとした空間になっています。金箔も、そぎ落とされました。よく見るとその際の傷跡が見えてきます。柱間・扉などには人物や鳥獣・花弄の華美な彫刻が残ります。
かつての金堂 - 金刀比羅宮 旭社の口コミ - トリップアドバイザー

 この旭社(旧金堂)は、神道の「教導説教場」として使用されたことがあります。
神道の「三条の教憲」を教導するための講演場となったのです。その際に、天井や壁などから金箔がそぎ落され、素木となったようです。記録には「明治6年6月19日素木の講檀が竣成」とあります。説教活動が行なわれますが、神主の話は面白くなく、教導効果を上げることが出来なかったようです。そのため明治15年(1882)には説教講演は取りやめられます。その時に講演に使われていた講檀も撤去されたようです。そして、明治29年(1896)1月に、社檀を取り除いて殿内に霊殿を新築し、現在に至っているようです。
金刀比羅宮(香川県琴平町) : 好奇心いっぱいこころ旅

さて、神仏分離で仏さんを取り除いたあとの旧金堂(旭社)には、何が祭られているのでしょうか。
 神殿への改装当初の祭神は、
①伊勢大神の意をもって天照大御神
②八幡大神の意をもって誉多和気尊
③春日大神の意をもって武雷尊
の三神を祀っていたようです。それが明治6年(1873)7月に誉多和気尊と武雷尊とを境内末社常磐神社に移し、境内末社の産須毘社(旧大行事堂、後の大行事社)を廃社にして、そこに祀られていた祭神の高皇産霊神を合祀したようです。さらに後には、天御中主神・神皇産霊神・天津神・国津神をも合祀されて今日に至っているようです。しかし、閉ざされた建物の中をのぞき見ても何もない空間のように、私には見えるのです。幕末に金堂として建てられた仏閣を、持てあましているようにも見えます。参拝客も旭社の意味を分からずに、その大きさに圧倒されてお参りはしていきますが、何かしら不審顔のように思えるのです。
 話が逸れてしまったようです。古川躬行にもどりましょう
 古川躬行は、その後も亡くなるまで琴平にいたのかと私は思っていました。ところがそうではないようです。金刀比羅宮での指導後は枚岡(ひらおか)神社大宮司、大神神社大宮司などを歴任します。大神神社は三輪大明神とも呼ばれ大和の一宮です。その大宮司と云えば神職の長で、祭祀および行政事務を総括する役職にまで登り詰めています。彼は忙しい日々の中で、著述活動も続けています。そのような中で、琴平を離れた後も神職教導のために再三の招聘に応じています。
『盛好随筆』第六巻の明治15年8月条に、
 古川躬行先生、去ル十四日札ノ前 登茂屋久右衛門方法着、同十五日御山内壱番屋シキヘ引移り、十八日御本宮参拝、暫ク此方へ御雇入二相成候趣ナリ、(『金刀比羅宮史料』第五十二巻)
意訳すると
 古川躬行先生が去る14日に札ノ前の登茂屋久右衛門方に宿泊した。翌日15日に山内壱番屋へ移り、18日に本宮を参拝、しばらく金刀比羅宮で、雇入になるとのことである。

  この時の招聘にどんな背景があったのかは分かりません。
最初明治2年にやって来て、行なった神式改正の指導から15年近くが経っています。神式による祭典や摂末社の整備改廃整備も一段落していたので、この時には社務所分課章程・年間恒例祭典の祭式・祝詞・幣帛(神饌)などを一冊に取り纏めた『官私祭記年史祚』を琴平で著しています。そして、翌16年(1883)5月6日に、琴平の地において死没します。享年75歳でした。
 古川躬行の死去に際して、当時金刀比羅宮の運営する明道学校の教長であった水野秋彦は、次のような誄を起草しています。
うつりすまして、年の一年へしやへりやに、春のあらしに吹らる花口かなく過ぬる大人は、もとはむ古事たれこたふとか、過ませるたとらむみやひ誰しるへすとか、過ませる古川の大人や、かくあらむとかねてしりせは、古事のことのことこととひたヽしておかましものを、たヽしおかすてくやしきかも、ことのはのみやひのかきり、きヽしるしておかましもの、しるしおかすてくちをしきかも、しかはあれとも、くひてかひなき今よりは、かの抗訳のふかき契を、松の緑のときはかきはに忘れすしてのこしたまへる飢ともを、千代のかたみとよみて伝へて、もとより高きうまし名を、遠き世まてにかたらひつかせむ、かれこの事を、後安がる事のときこしめせ、石上古川大人、正七位古川大人。
     (『水野秋彦遺稿』〔『金刀比羅宮史料』第五十八巻)

古川躬行墓所については、次のように記されています。
  昨六日四時、古川躬行先生死去、齢七十五歳、
墓処遺言 但願旧主御代々之墓処ノ内 東南ノ処へ葬候事、(下略)、
 (『山下盛好随筆』第六巻 明治十六年五月七日条〔『金刀比羅宮史料』第五十二巻)
古川躬行の墓所は広谷の金光院歴代別当墓所域内の南東の角に設けられたようです。
金刀比羅宮 | 令和2年 累代別当及歴代宮司墓前祭
金毘羅大権現累代別当及び金刀比羅宮歴代宮司の墓域

このことからも琴陵宥常の古川躬行に対する想いがうかがえます。若い宥常が京都で古川躬行に出会ったことが、金毘羅さんを仏閣から神社へと変えていくための頼りになる指導者を得ることにつながりました。古川躬行の晩年を琴平で過ごしてもらい、出来るだけの加護をしたいという気持ちで、三度目の招聘を行ったのでしょう。ある意味、恩返しのような気持ちもあったと私は考えています。
   墓所については、神仏分離に難局に対して立ち向かった最大の貢献者(功労者)に対する礼のように思えます。「琴陵宥常にとって最大級の畏敬の表現」と研究者は考えているようです。

     参考文献   西牟田 崇生  金刀比羅宮と琴陵宥常  国書刊行会

全国崇敬者特別大祈願祭 … 3月10日 結願祭

 明治7年に国の進める神道国教化政策に沿って、信徒の組織化のために金刀比羅宮が崇敬講社(以下・講社)を設立したことを、前回はお話ししました。金刀比羅宮には、「金刀比羅宮崇敬講社」の講員(会員)名簿(=講帳)が約14000冊ほどが保存されているようです。それらの「講帳」の約半数の調査が行われ、報告書として『金刀比羅宮崇敬講社講帳目録』が出されています。これをテキストにして、講帳から見えてくることを挙げていきましょう。
 報告書のはしがきには、講帳について次のような指摘がされています。
①講帳は、北海道から沖縄までの全国の会員を網羅するものである
②取次定宿名とあるのは、講員がそれぞれ属した講元のことである。「定宿」が地域の名簿作成の責任者となっている。
③「筆乃晦→桜屋源兵衛」とあるのは、講員株が講元筆乃海から講元桜屋源兵衛へ売却されたことを示している。つまり、講員名簿は「定宿」間で売買されていた。
④講元は「定宿」(その地域の旅館)で、講員と日常的に接触し、一方で金刀比羅宮参詣の際には宿泊していた
全国崇敬者特別大祈願祭 … 3月10日 朝祭

 「崇敬講社講帳」の記載内容については
江戸時代に隆盛をきわめた参詣講には「伊勢講・高野山講・出羽三山講・白山講・大山講・立山講等」などがあります。これらの講帳には、戸主だけが記されています。それでは金刀比羅宮の場合は、どうだったのでしょうか
『金刀比羅宮崇敬講社講帳』の記載内容の実際を見てみましょう
「講帳」第壱号の巻頭部分を見ると、
名東県下讃岐国第廿一大区五小区那珂郡琴平村居住
明治七年十一月一日入構
               琴 陵 宥 常 印
                  当戌三拾六歳
  同         妻   千 萬 二拾一歳
  同    死去   長男  千 盾   壱歳 
            長女  瑞 枝 十年十ヶ月
            次女  八千代 九年一ヶ月
            三女  勝 也 六年十ヶ月
            四女  賢 子 二年七ヶ月
とあります。当時は前年から香川県は廃止され「阿波+淡路+香川」で名東県になっていました。一番最初に記されている人物は、金刀比羅宮社務職の琴陵宥常です。金刀比羅宮講帳には各戸の戸主が筆頭にかかれ、そのあとに続けて妻・小供・同居人の順に家族全員の名前が記され、さらに戸主との続柄、年齢までが記入されているのです。
続いて、一人置いて
名東県下讃岐国第廿一大区五小区那珂郡琴平村寄留
         松岡 調 印 当戌四拾五歳
   死亡 母  脇屋里喜      五拾七歳
   死亡 妻  松岡須磨      二拾九歳
   死亡 長男同 徳三郎       十八歳
      長女同 喜 志        八歳
      次女同 安 佐        五歳
      次男同 多 平        一歳
      
と続きます。松岡調は、すでに何回も登場していますが、讃岐の神仏分離政策の中心人物で辣腕を振るい、それが認められて、当時は金刀比羅宮の禰宜職についていた人物です。
 ここからは「講帳」第壱号は、事比羅宮社内の講者名簿であることが分かります。次いで第弐号が坂町、以下札ノ前・愛宕町・高藪町・金山寺町・谷川・奥谷川・片原町・阿波町・内町・西山・新町と琴平村内各町から榎井村の人々へと人講名簿が続きます。
 象頭山のお膝元のエリアでは、明治8年(1875)7月頃までには崇敬講社への加入が終わり、その後四国全域からさらに全国に広がる講社入講が進められていったことがうかがえます。
 金刀比羅宮の崇敬講が、家族ぐるみで講員を把握しようとしていた狙いはなんなのでしょうか。
 この内容であれば、世代が変わっても講員を追いかけることができます。永続的に利用できる台帳の作成を狙っていたようです。ここまで見てくると、これはどこかで見たことのあるシステムに似ています。そうです。中世の熊野信仰の熊野行者の先達と檀那の関係に、よく似ているようです。熊野行者の歴史に学んでいる様子がうかがえます。 

全国崇敬者特別大祈願祭 … 3月10日 結願祭2

 調査対象になった7277冊の「崇敬講社台帳」は、全体の半分に当たります
帳簿の形態は美濃紙ニッ折  版の袋綴で、用紙は有罫の美濃紙に書かれているものを、1冊約50枚毎に綴じ込んでいるようです。7277冊の冊数を地域別にみると、
第1位四国2832冊(38・8%)
第2位中国2457冊(33・7%)
第3位近畿620冊、
第4位中部502冊、
第5位九州391冊、
第6位関東203冊
第7位北陸163冊
第8位北海道・東北113冊
とで、中四国で全体の3/4を占めます。
 旧国別ベスト10を挙げてみると
1 土佐842冊
2 伊予814
3 阿波524
4 備中484
5 出雲466
6 備前297
7 伯耆308
8 丹波276
9 美作266
四国・中国地方の冊数が多いようです。しかし、地元の讃岐が見えません。

全国崇敬者特別大祈願祭 … 3月10日 結願祭3

年代的に、いつごろからこの帳簿が作成されたかをみてみると、
金刀比羅宮が「金刀比羅宮崇敬講社」の設立を教部省に願い出でのが
明治7年2月です。その翌年の明治8年から播磨・備前・備後・讃岐・伊予の名簿作成が始まっているようです。明治9年になって、先ほどのベスト10の伯署・丹波を除く8か国が、作成を始めています。地域的には中国・四国は明治9~12年頃に作成されています。それ以外は、3,4年遅れてスタートしています。金刀比羅宮は、まず地元から講社を再編成し、次第にその範囲を同心円的に全国に押しひろげていったことがうかがえます。

奉納品 崇敬講社看板 
 講元(取次定宿)は、江戸時代の金毘羅講の御師の系譜を引く家柄と研究者は考えているようです。
 彼らが講を組織化し、お札やお守りを全国各地へ定期的に配布します。それだけでなく彼らは、会員名簿を作成し、組織強化の原動力になったようです。同時に、この名簿は熊野行者の「檀那」名簿とおなじで「金のなる木(名簿)」でもありました。金毘羅さん指定の「定宿」の「金看板」と共に、売買の対象となったことは、先ほど見たとおりです。このような経済的な利益が背後にあったことも、「定宿」が熱心に講員獲得に動いた背景なのでしょう。
 江戸時代に象頭山で修行した「金毘羅行者」たちが、全国に散らばり金毘羅信仰を広め、先達として、金毘羅さんに誘引するとスタイルの近代バージョンとも思えてきます。
 
全国崇敬者特別大祈願祭 … 3月9日 朝祭

 「金刀比羅宮崇敬講社規則」には「講員は少なくとも年に一度は、事比羅宮に参拝すること」と定められています。

講員は、これにに従わなければなりません。香川県内の講員は「総参り」と称して講員全員が揃って参拝したようです。遠隔地の講員の場合には、江戸時代と同じように交代で「代参」するスタイルがとられました。
講員の参拝には、一般の参拝者とは異なる取扱いが行われたようです。特別扱いということでしょうか。例えば、一般の参拝者には許されていなかった「内陣入り」という拝殿に上がって参拝祈祷することが許されました。また、「講社守」(「一代守」とも称した)といわれる講員だけが手にできる特別の守札もありました。さらに、講員や講社からの奉納物の取次などについても便宜が計られるなど、「金刀比羅宮崇敬講社」の講員に対しては、一般の参拝者とは異なった特別接遇が行われていたようです。これは、ありがたみが増すと共に、自尊心が擽られます。悪い気にはなりません。「講員になっていてよかった」と、思ったとしておきましょう。
 こうして、講員はうなぎ登りに増え、明治22年(1889)5月頃には講社員300万人を越えるまでになります。
1崇敬講社加入者数 昭和16年

図11からは、太平洋戦争に突入する昭和16年の各県の新規会員数が分かります。
①東京・大坂・愛知・兵庫などの都市圏で新規講員の数が多いこと
②四国の愛媛・高知も新規加入者が多い
③それに対して、香川・徳島の伸びが鈍化しています。飽和状態に近づいてきたのでしょうか。
④領土的拡大や膨張とともに台湾。朝鮮・樺太・関東州・満州などからの加入者も増えている

実際に金毘羅詣は、どのような形で行われていたのでしょうか。
 丸亀市通町の崇敬講社の金毘羅参拝の様子を見てみましょう。
  竹内左門「琴平山博覧会と丸亀通町の金比羅敬神講」〔『こと比ら』37 昭和五十七年新春号〕
これも母から聞いた話である。①通町には年三回、二五銭ずつを積み立てて、金ぴらまいりをする敬神講があった。②毎年五月十日に、大体百人一組で、丸亀から汽車で琴平へおまいりに行った。
③休憩所は登茂屋久兵衛(現在舟々せんべいを売っているあたりだった)、ここは間口も広く奥行き深く、山を形どった庭、それに座敷も広かった。九時頃宿屋へ着くと、まず風呂にはいり、浴衣に着かえるとお茶漬がでる。鰭の煮付けにフキをあしらった皿物、かし椀(香味、カマボコ、麹など)、漬け物といった膳立てである。

 茶漬けが終わると、④一同勢揃いしてお山にのぼり、本社拝殿に詣でて、お祓いを受ける。そして、拝殿で八乙女の神楽舞を拝観する。囃子(ハヤシ)方は、男四人宛両側に並び、せき鉦(ショウ)、笛などの楽器を奏し、紫の袴の巫女(ミコ)が琴を弾ずる。舞が終ると内陣にはいって今度は金の御幣でまたお祓いを受ける。これで約一時間かかる。
   お山を降りて、⑤社務所では千畳敷(書院のこと)を拝観、つぎに大広間でお膳につく。簡単なものであるが、これがなかなか有り難いのである。背の高い、丸型に押し抜いた赤飯が、白紙を敷いた高坏(タカツキ)に盛られ、木皿にはスルメと昆布、盃には宮司が御神酒を注いでくれる。その上に紅白の折り物が出る。
 それからいよいよ最後の行事である⑥神籤(カミクジ)を各人がひくのである。これが当日の第一の楽しみであり、またこれが金比羅敬神講の山場でもある。三等まで賞品がつく。
 籤引きが終われば、⑧一同宿屋に帰って会席膳について寛ぎ、おまいりもここに終了となるのである。
全予算七五円のうち、二五円はお山に奉納、五〇円が宿屋の支払いだったという。
   ここからは次のような事が分かります。
①年三回、25銭ずつを積み立てて、金毘羅詣りを敬神講があった
②毎年5月10日に、百人一組で、丸亀から汽車で琴平へおまいりに行った。
③崇敬講社指定の休憩所(定休み)は登茂屋久兵衛で、九時頃宿屋へ着くと、風呂に茶漬を食べた。
④一同勢揃いして、本社拝殿に詣でて、お祓いを受け、拝殿で八乙女の神楽舞を拝観する。
⑤社務所では千畳敷(書院のこと)を拝観、つぎに大広間でお膳につく。
⑥最後の行事である神籤(カミクジ)をひく。これが当日の第一の楽しみであった。
⑦籤引きが終わると、宿屋で会席膳で寛ぎ終了となる。
⑧全体の予算七五円のうち、25円はお山に奉納、50円が宿屋の支払いだった
街毎に金毘羅講があり、会費を徴収して、5月に100人の団体で金比羅にお参りしていたようです。汽車で琴平駅について、すぐにお参りするのかと思えばそうではありません。まずは、崇敬講社の指定する宿屋(定休)で、お風呂に入り身を清めて、浴衣に着替えて茶漬けを食べてからです。
奉納品 崇敬講社看板 定休
 
 江戸時代の元禄年鑑に書かれた屏風絵には、金倉川に架かる鞘橋の下で、コリトリ(禊ぎ)をする信者の姿が描かれています。お風呂に入って、身を清めてから参拝するというのも「コリトリ」の発展変形バージョンかもしれません。
 講員の参拝ですから次のような「特別扱い」を受けています
④拝殿に上がってお祓いを受け、八乙女の神楽舞を拝観
⑤社務所書院の千畳敷の拝観とお膳
講員をお客様として、神社側も接待していた様子がうかがえます。
 隣近所の人たちと連れだって、新緑の5月の象頭山に登るのは、ある意味レクレーションでもあったし、古代以来の霊山への参拝の系譜につながるものであったかもしれません。

DSC01531戦時下の金刀比羅宮集団参拝
戦時下の戦勝祈願のための金刀比羅宮日参

 このような講員組織を、近代日本の国家は、国家神道の一部に組み込んでいきます。日中戦争が激化すると、地域での金刀比羅宮への参拝を半強制化するようになります。太平洋戦争に突入すると、順番を決めて地域代表の日参化を強制するようになります。それが、可能であったのも明治の時代から金比羅講が組織化され、地元の人たちが金毘羅詣でを日常生活の中に取り入れていたから出来たことかもしれません。最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

  参考文献 
西牟田 崇生  金刀比羅宮と琴陵宥常  国書刊行会
竹内左門「琴平山博覧会と丸亀通町の金比羅敬神講」〔『こと比ら』37 昭和五十七年新春号〕

    各地に金毘羅への参詣講、寄進講ができて人々の金毘羅信仰は幕末にかけて急速な高まりを見せます。しかし、江戸時代には、これらの講を全国的に組織化しようとする動きはありませんでした。各藩の分立主権状態では、それは無理な話だったのかもしれません。
 しかし、明治になって維新政府は神道国教化政策の一環として、信徒集団の組織化を各神社に求めるようになります。そこで明治7年、金刀比羅本宮崇敬講社が結成されます。これは時流に乗り、入講手続きをして会員となる信者が増え、7年後の明治14年には、講員が200万人を超えます。これを契機に神道事務局の直属して、金刀比羅崇敬教会と公称することになります。さらに、明治22年には、講員300万人にまで膨らみます。この積立金基金が大日本帝国水難救済会の創立資金となったことは、以前にお話しした通りです。

 会員の特典のひとつが「安心して、安価で信頼の出来る指定業者」が利用できることでした。
「讃岐金刀比羅教会」の崇敬講社に指定されたのは「定宿」「乗船定問屋」「定休」です。
奉納品 崇敬講社看板 定休

「定休」は参拝の講員が休憩するところ、「定宿」は宿泊するところで、講社が指定した定宿に看板を渡して掲げさせます。
 講員は定宿に泊まれば割引になり、一方宿屋の方は「金比羅指定のお宿」ということで一般の参拝者もこの看板を見て安心して泊まるわけで、客の増加につながり、また、名誉なことでもあったようです。そのため、この看板は「金看板」とも云われたようで、この看板があるのとないのでは、宿のランクも利益も大きく違ってきたようです。この看板さえ掛かっていれば、全国からの金毘羅を目指す参拝客が利用してくれたのです。しかも、団体で・・。
それでは「定問屋」とは、何でしょうか?
奉納品 崇敬講社看板 

私は、金毘羅さん御用達の問屋だと最初は思っていましたが、大面違いでした。「乗船」を読み飛ばしていました。
 四国以外からの参拝者は、必ず瀬戸内海をわたらなければなりません。瀬戸内海の船旅は、十返舎一九が弥次喜多コンビに金毘羅詣でをさせたときに描かれているように、東国の人にとって魅力なクルージングでもありました。丸亀・多度津の港も整備され、江戸時代の18世紀中頃からは大坂から金毘羅船と称する定期船も出るようになっていたことは、以前にお話ししました。[定船定問屋]は、こうした参拝客をはこぶ出船所に掲げられたものでした。看板はケヤキの一枚板です。

1虎屋玄関表
内町の虎屋
交通の不便な時代、遠く離れた霊場へ参拝するのは庶民にとっては、金銭的にも難しいことでした。
そこで、信仰を同じくする人々が参拝講をつくり、少しずつ積みたてた金で代参者を月ごとや、年に一度代参させるシステムが出来上がります。こうして、都市部を中心に金比羅講が組織され、地元で毎月の参拝や会食を行い。その時に会費積み立てていくようになります。そして、積立金で代表者を四国の金毘羅さんに「代参者」として送り出します。
 こうして、講員になっていれば一生に一度は金比羅詣りが出来るようになります。これが江戸や大坂での金比羅ブームの起爆剤のひとつになったようです。このような日常的な宗教活動が、金比羅への灯籠寄進などにもつながっていくようです。

大坂平野町の「まつ屋卵兵衛」の崇敬講社定宿の「ちらし」です。
1崇敬講社 御宿広告

 金毘羅崇敬講社では、それまで交渉のあった各地の旅宿を定宿に指定し、目印になる旗と看板を配布しました。その看板を右側に、旗を左側に入れて、ちらしを作って配布したようです。赤と黄色のコントラストが鮮やかで、今までにないもので評判になったことでしょう。
 冒頭に「讃州金毘羅蒸気出港所」「各国蒸気船取扱問屋」とありますから、いち早く金比羅航路に蒸気船を投入していたことがうかがえます。ちなみに「まつ屋」は、崇敬講社の定宿の中で、「大坂ヨリ中仙道筋」の一等取締に就任しています。

DSC01188

こちらは、短冊形で先ほどの「松屋」に比べると小形です。
船問屋や定宿では、これらをお土産がわりに無料で宿泊客に配布したようです。各船問屋が使用していた自慢の「金比羅船」も描き込まれていて、意気込みのようなものを感じます。
  このような定宿や船問屋のセールス活動が、ますます金毘羅さんへの参拝客の増加につながることになったようです。

 しかし、戦後になって車での参拝が多くなるにしたがって参拝講をわざわざつくらなくても気軽に参拝出来るようになると、このシステムは次第に衰退していくことになります。そして、昭和の終わり頃には、琴平の旅館にこの講社看板を掲げているところはなくなったようです。
 木札は旅館の玄関に掲げられたので、1m後の大きなものです。
古くなった木札は「御霊返し」といって、参拝時に返納され、新しいもの交換されたようです。そのために、金刀比羅宮に200点近い数の木札が保管されていたようです。中には広島県尾道市の富永家と香川県詫間町の森家のように、長い間自分の家に祀っていたものを、一括してお宮に納めたものもあります。定宿や定問屋は、琴平だけでなく金比羅参拝路のネットワークの各港の宿に配布されていたことが分かります。
 木札は形によって、いつ頃のものかが分かるようです。
神仏分離以前はの江戸時代のものは、形が剣先型で、上部が剣のように尖っています。これは先日お話ししたように、金比羅の御守札は、護摩堂で、二夜三日の護摩祈祷した後に、別当の金光院(一部に多聞院)が出していました。
 しかし明治以降には、神仏分離で護摩堂は壊され、本尊の不動明王もも片付けられて、蔵の中にしまい込まれてしまいました。それと共に、剣先型の形式のものはなくなります。ただ大木札中に明治以降金刀比羅宮から独立し、正当性を巡って明治後半に裁判でも争うことになった松尾寺配布のものも一部混じっているようです。松尾寺も独自の講制度を運用していたことがうかがえます。
 この看板を掲げた宿や船問屋は、金比羅客誘致や広報活動を先頭に立って行います。
そして金毘羅街道の整備や、丁石や灯籠などの建立にも取り組むようになります。また、金比羅さんへの寄進活動などにも積極的に参加します。明治になっても、金毘羅詣で熱は冷めることはなかったようです。その集客システムとして機能したのが崇禎講社だったようで

参考文献 印南 敏秀  信仰遺物 金毘羅庶民信仰資料集
                                                                              

1金毘羅天狗信仰 金光院の御札
金毘羅大権現と天狗達 別当金光院が配布していた軸

金毘羅大権現の使いは、天狗であると言われていたようです。
そのためか金毘羅さんには、天狗信仰をあらわすものが多く残されています。文化財指定を受けている天狗面を今回は、見ていくことにします。
1金毘羅天狗信仰 天狗面G3

おおきな天狗面です。
面長60㎝、面幅50㎝・厚さ48㎝で、鼻の高さは25㎝もあります。檜木を彫りだしたもので、面の真中、左右の耳、そして鼻の中途から先が別々につくられ、表から木釘、裏からは鉄製のかすがいで止めてあります。木地に和紙を貼り、胡粉を塗り、その上から彩色をしていたようであるが、今はほとんどはげていて木地が見えている状態で、わずかに朱色が見えているようです。

1天狗面

 目は青銅の薄板を目の形に形どり、表面から釘で打ちつけてとめてあります。彩色していたようですが、これも剥げ落ちて、元の色は分かりません。口からは牙が出ています。面の周囲や、口の周囲、まゆには動物の毛が植え込んであるようです。

この面だけ見ると「なんでこんなにおおきいのかな、被るしにしては大きすぎるのでは?」という疑問が沸いてきます。

被るものではなく、拝む対象としての天狗面
1金毘羅天狗信仰 天狗面G4

 この面は、面長35㎝、面幅27㎝、厚さは30㎝、鼻の高さは14㎝で、別材で造ったものをさし込み式にしています。ひたい・あご・両耳の各部も別材が使われています。面は木地に和紙を張り、上に厚く胡粉をぬり、上から朱うるしを塗られています。口には隅取りがあり、ひたいの部分にも隅取りに似た筋肉の誇張と口と同じように朱うるしが塗られています。
 目と歯は金泥で、もみあげからひげにかけての地肌は墨でかかれています。瞳を除く各部には、人間の頭髪が小さな束にして、うえ込まれています。
 この面の面白い所は、「箱入り面」であることです。この箱から出すことは出来ないのです。それは背面を見ると分かります。面が箱に固定されているのです。両耳にあけられた穴に、ひもを通し背負いひもをつけた箱の内に固定されているのです。箱は高さは、54㎝、幅35㎝、厚さ17㎝で、置いたときにも倒れないようになっています。
 箱の上端にはシメ縄をはり、シデを垂らされます。それが面の前にさがっています。この天狗面は被るものでなく、おがむ対象だったと研究者は考えているようです。
 箱の背面には向って右側面と、あごの部分に次のような墨書銘があります。
  人形町
  天明2年(1782)
  細工人 倉橋清兵衛
 一家ノ安全
1金毘羅天狗信仰 天狗面G5

この面は 面長44,5㎝ 面幅34,3㎝、厚さは裏の一枚板から鼻の先までが44,5㎝、鼻の高さだけで28㎝もあります。鼻の部分は別材をつぎたしています。木地に胡粉を塗って、その上に朱うるしを塗っていますが、胡粉を塗った刷毛跡が見えます。目は金泥に、瞳を黒うるしでかき、頭髪とまゆ毛・ひげは人毛と思われる動物質の黒毛をうめ込んでいるようです。眉は、囲まりに毛がが植え込まれ、その内側は黒うるしが塗られています。口はへの字形に結ばれ、ユーモラスな印象を受けます。この面も裏側には、厚手の白木綿の背負いひもを通し、背負って歩けるようになっています。これも背負い面のようです。
面はどのようにして、金毘羅大権現に奉納されたのでしょうか?
これらの面は、今は宝蔵館に保管されていますが、もとは絵馬堂にかかっていたようです。最初に見た天狗面は、天明七年(1787)に江戸から奉納された額にかかっていたことが分かっています。
 
天狗面を背負う山伏 浮世絵

 金毘羅大権現に奉納された天狗面は、背負って歩けるよう面の裏に板をうちつけたり、箱に入れたりしていました。天狗面を背負って歩く姿は、江戸時代の浮世絵などにも見えます

天狗面を背負う行者

 彼らのことを「金毘羅行人(道者)」と呼んでいました。全身白装束で、白木綿の衣服に、手甲脚半から頭まで白です。右手に鈴を持ち、口に陀羅尼などを唱えながら施米を集めてまわる宗教者がいたようです。

天狗面を背負う行者 正面

 白装束で天狗面を背負って行脚する姿は、当時は見なれた風俗であったようです。金毘羅さんに奉納されている天狗面は、背負って歩くにちょうどいい大きさかもしれません。金毘羅行人(道者)が金剛坊近くの絵馬堂に納めて行ったということにしておきます。

 金毘羅大権現が産み出された頃、天狗信仰のボスが象頭山にはいました。
宥盛?
宥盛(金剛院)

江戸時代の初期に金光院の別当を務めた宥盛です。宥盛は、金毘羅さんの正史では初代別当とされ、現在は神として奥社に祀られています。それだけ、多くの業績があった人物だったことになります。彼は、高野山で真言密教を学んだ修験者でもあり、金剛坊と呼ばれ四国では非常に有名な指導者だったようです。彼については以前にお話ししましたので省略しますが、慶長十一年(1606)に自分の像を彫った時に、その台座の裏に
「入天狗道 沙門金剛坊(宥盛)形像(後略)」

と、自筆で書き入れたと伝えられます。また彼自身が常用していた机の裏にも、 
某月某日 天狗界に入る

 と書き、まさしくその日に没したといわれます。宥盛と天狗信仰には、修験道を通じて深いかかわりがあったようです。

宥盛(金剛坊)が自分の姿を刻んだという木像を追いかけて見ることにします。
宥盛の木像は、万治二年(1659)以後は、松尾寺の本堂である観音堂の裏に金剛坊というお堂が建てられ、そこに祀られていたようです。ここからも死後の宥盛の位置づけが特別であったことが分かります。ある意味、宥盛は金毘羅大権現の創始者的な人物であったようです。
1観音堂と絵馬堂の位置関係

 本堂・観音堂の建っていた位置は、現在の美穂津姫社のところです。すぐ南に絵馬堂があります。つまり、絵馬堂と金剛坊をまつった堂とは、隣接していたことになります。奉納された天狗面が絵馬堂付近に、多くかかげられたのはこのような金剛坊を祀るお堂との位置関係があったと研究者は考えているようです。
 神仏分離の混乱がおちつきはじめた明治30年には、現在の奥社付近に仮殿をたてて、そこに金剛坊は移されます。神道的な立場からすると修験者であった宥盛を、本殿付近から遠ざけたいという思惑もあったようです。明治38年には奥社に社殿が新築されて、宥盛は厳魂彦命として神社(奥社)にまつられるようになります。
DSC03293

つまり、宥盛は神として、今は奥社に祀られているのです。
 奥社の建つ所は、内瀧といい、奥社の南側は岩の露呈した断崖です。
DSC03290

水が流れていないのにも関わらず「瀧」と名がつくのは、修験者の行場であったことを示します。ここ以外にも、葵の瀧など象頭山は、かつての行場が数多くありました。象頭山は、山岳信仰と結びついた天狗が、いかにもあらわれそうな所だと思われていたのです。
 今でも奥社の断崖には、天狗と烏天狗の面がかけられています。これが、宥盛と天狗信仰との深い結びつきを今に伝える痕跡かもしれません。
DSC03291

このように、金毘羅大権現のスタート時期には象頭山は天狗信仰のお山だったのです。そして、天狗信仰を信じる行者や修験者たちが、大坂や江戸での布教活動を行うことで都市市民に、浸透していったようです。その布教指導者を育てたのが宥盛だったと私は考えています。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献        印南敏秀  信仰遺物  金比羅庶民信仰資料集

 
DSC01040明治15年 境内図
                          神仏分離後 明治13年の金刀比羅宮

神仏分離と廃仏毀釈で、仏閣であった金毘羅大権現にあった多くの仏像は「入札競売」にかけられ、残ったものは焼却処分にされたこと、そして、当時の禰宜であった松岡調が残した仏像の内で、現在も金刀比羅宮にあるのは2つだけであることを前々回に、お話ししました。この内の十一面観音については、何回か紹介しています。しかし、不動明王については、触れたことがありませんでした。今回は、この不動さまについて見ていくことにします。
1 金刀比羅宮蔵 不動明王
   護摩堂の不動明王

 現在宝物館に展示されている不動明王は、江戸時代、護摩堂の本尊として祀られていたものです。桧造りの像ですが、背後と台座はありません。政府の分離令で、金堂や各堂の仏像達の撤去命令が出たときに、急いで取り除かれ「裏谷の倉」の中に、数多くの仏像と一緒にしまい込まれていたようです。その際に、台座や付属品は取り除かれたのかもしれません。

2.金毘羅大権現 象頭山山上3

明治5年4月,東京虎ノ門旧京極邸内の事比羅社内に神道教館を建設する資金確保のために、それまで保管していた仏像・仏具・武器・什物の類の売却が進められます。そこで、閉ざされていた蔵が開けられることになります。
 その時のことを松岡調は、日記に次のように記しています。
 佐定と一緒に、裏谷に隠置(かくしおき)たる仏像類を検査しに出向いた。長櫃が2つあった。蓋をとって中を検めると、弘法大師作という聖観音立像、智証大師作という不動立像などが出てきた。その他に、毘沙門像や二軸の画像など事については、ここにも記せない。今夜は矢原正敬宅に宿る。 
(『年々日記』明治五年[七月二十日条])

 彼は、以前に蔵の1階にも2階にも仏像が所狭しと並んでいたのは確認していたようですが、長櫃の中までは見てなかったのです。それを開けると出てきたのが
①弘法大師作という聖観音立像(後の十一面観音)
②智証大師作という不動立像
だったようです。
11金毘羅大権現の観音
金刀比羅宮に残された十一面観音

他の仏像がむき出しのままであったのに対して、この2つの仏像は扱いがちがいます。社僧たちの中に、この一体に対しては「特別なもの」という意識があったようです。
 改めて不動明王を見てみましょう。

1 金刀比羅宮蔵 不動明王

像高162㎝で等身大の堂々とした像です。足の甲から先と、手の指先は別に彫られたもので、今は接続する鉄製のカスガイがむきだしになっています。忿怒相の特徴ある目は、右が大きく見開き、左は半眼で玉眼を入れている。頭はやや浅い巻髪でカールしています。頂蓮はありません。右手には悪を追いはらう威力の象徴である宝剣をもち、左手は少し曲げて体側にたらし、羂索をもっている不動さんの決まりポーズです。
  私には、このお不動さんはウインクをしているように見えるのです。忿怒の表情よりも茶目っ気を感じます。もうひとつ気になるのは、足もとから、胸元にかけて、火にあったようなただれた部分が見られ、塗りがおちて、部分的に木地が露出しているというのです。火災にあったのかなと思ったりもしますが、背面にはそれが見られないと云います。研究者は
「ただれ跡の剥落」を、「かつて護摩を焚いた熱によるもの」
と指摘します。

img000018金毘羅山名所図解
金毘羅山名所図会
 文化年間(1804~18)に書かれた『金毘羅山名所図会』の護摩堂の項には、
(前略)此所にて、天下泰平五穀成就、参詣の諸人請願成就のため、又御守開眼として金光院の院主長日の護摩を修る事、元旦より除夜にいたる迄たゆる事なし(後略)
意訳すると
護摩堂では、天下泰平・五穀成就、参詣者の請願成就のため、又御守開眼として、護摩祈願が行われており、元旦から12月の除夜まで、絶えることがない。(後略)

 とあり、護摩堂では連日護摩が焚かれたことが分かります。そのため、護摩堂のことを長日護摩堂とも呼んだと云います。ここからも金毘羅大権現が真言密教の仏閣で、修験者の僧侶の活動が日常的に護摩祈祷という形で行われていたことが分かります。 もっとも、この像は最初から護摩堂の本尊ではなかったようです。
この不動さんは延暦寺からスカウトされてきたようです。
護摩堂は、慶長9年(1604)に建立されていますが、その時にお堂と一緒につくられた不動さんがいたようです。ところが、次第に護摩祈祷に対する人気・需要が高まります。そこで、より優れたものを探させます。その結果、明暦年間(1656)に、京都の仏師が比叡山にあった不動明王を譲り受け、それを以前からあった本尊にかえて安置したのです。この不動さんは、後から迎え入れたもののようです。ここにも「仏像は移動する」という「法則」が当てはまるようです。
1 護摩祈祷

 護摩は、真言密教の修験者が特異とする祈祷方法です。国家や天皇家の平安を祈って、行われました。それが、やがて権力をもつようになった貴族、さらには武家・庶民へと広かって行きます。護摩といえば不動というぐらい護摩を焚く場所の本尊には、不動明王が安置されるようになります。高く焚え上った火炎と、忿怒相の不動の前で修せられる護摩に霊験あらたかなものを感じたからでしょう。
 大日如来の化身でもあり、修験者の守護神でもあったのが不動明王です。修験者は、護身用に小形の不動明王を身につけていました。行場の瀧や断崖、磐座にも不道明王を石仏として刻んだりもしす。
 金毘羅大権現では、象頭山が修験者の行場で、霊山でした。そこに修験者が入り込み、天狗として修行に励みます。そして、松尾寺周辺に護摩堂を建立し、拠点としていきます。修験者たちの中から、金毘羅神を作り出し、金比羅堂を建立するものが現れます。それが松尾寺よりも人気を集めるようになり、金毘羅大権現に成長していくというのが、私の考える金比羅創世記です。そこからすると、金毘羅大権現の護摩堂とその本尊には興味が涌いてきます。
香川県立図書館デジタルライブラリー | 金毘羅 | 古文書 | 金毘羅参詣名所図会 4

 金毘羅さんでも、朝廷の安穏や天下泰平を願うものから、雨乞いにいたるまで諸々の願いをこめて護摩焚きが行われたようです。
 護摩堂で二夜三日修せられた御守が、大木札や紙守で、木札の先端が山形となっているのは、不動の宝剣を象徴したものと研究者は考えているようです。これらが、霊験あらたかなお守りとして、庶民の人気を集めていたことが分かります。

1 金刀比羅宮 奥社お守り

 金毘羅山内にはもう一つ不動を本尊とする堂があったようです。
万治三年(1660)に建立された本地堂(不動堂)です。ここの本尊は、護摩堂に最初にあった本尊を移してきたものでした。この堂は今の真須賀社の所にありましたが、これも神仏分離で撤去され、堂も不動も残っていません。
 宝物館にもうひとつ残されている仏像は十一面観音です。

1 金毘羅大権現 十一面観音2

この観音様は、聖観音と伝えられてきましたが、頭の穴を見れば分かるとおり、ここには十の観音様の頭が指し込められていました。つまり十一面観音だったことになります。なぜ、十一面観音を聖観音として安置していたのか。それは、以前にお話しましたので省略します。
 どちらにしても、観音堂の本尊で秘仏とされ三十三年毎に開帳されていたという観音様です。開帳の時には、多くの参詣人を集め、後には山内の宝物も拝観させるようになり、ますますにぎわうようになります。この十一面観音は、藤原時代の作で、桧材の一木造りの優品として現在は重要文化財に指定されています。
思いつくまま 第986回・金刀比羅宮宝物館
金刀比羅宮の宝物館

 宝物館に残された二つの仏像は、金毘羅大権現にとって、最も大切な仏であったことがうかがえます。不動明王は、修験者たちの守護神として、観音さまは、松尾寺の本尊だったのでしょう。金毘羅大権現には、観音信仰の系譜痕跡もあるように私には思えます。その二つのルーツを体現するのが、宝物館の2つの仏達である・・・と云うことにしておきます。
以上 最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

1金刀比羅宮 琴陵宥常銅像2
                                                          
 明治維新直後の神仏分離令を受けて、若き院主宥常は金毘羅大権現が仏閣として存続できることを願い出るために明治元(1868)年4月に京都に上り、請願活動を開始します。しかし頼りにしていた、九条家自体が「神仏分離の推進母体」のような有様で、金毘羅大権現のままでの存続は難しいことを悟ります。そこで、宥常は寺院ではなく神社で立ってゆくという方針に転換するのです。宥常(ゆうじょう)は,還俗し琴陵宥常(ひろつね)と改名します。彼が金毘羅大権現最後の住職となりました。

1金刀比羅宮 琴陵宥常銅像

5月に、維新政府が宥常に最初に命じたのは、御一新基金御用(一万両)の調達でした。1845年に完成し、「西国一の建物」と称された金堂(現旭社)の建設費が2万両でした。その半額にあたります。6月下旬までに、半額の5000両調達の旨請書を差出します。それに対して、新政府から出されたのが宥常を「社務職に任じる」というものでした。以下、宥常の京都での活動状況を見てみましょう。
7月 観音・本地・摩利支天・毘沙門・千体仏などの諸堂廃止決定
8月13日,弁事役所宛へ金刀比羅宮の勅裁神社化を申請
9月 東京行幸冥加として千両を献納。徳川家の朱印状十通を弁事役所へ返納。神祇伯家へ入門し、新道祭礼の修練開始
11月 春日神社富田光美について大和舞を伝習。多備前守から俳優舞と音曲の相伝を受け,
12月 皇学所へ「大日本史」と「集古十種」を進献。
そして、翌年の明治2(1869)年2月,宥常は京都を発ち,月末に丸亀へ約1年ぶりに帰ってきます。
ここからは、神社化に供えて監督庁関係との今後の関係の円滑化のために、貢納金や色々な品々が贈られていることが分かります。同時に神社として立っていくための祭礼儀式についても、自ら身につけようとしています。ただ、神道に素人の若い社務職と、還俗したばかりの元社僧スタッフでは、日々の神社運営はできません。そのために、迎えたのが白川家の故実家古川躬行です。彼が社神式修行指導のためにやってきて、神社経営全体への指導助言を行ったようです。
三月には,御本宮正面へ
「当社之義従天朝金刀比羅宮卜被為御改勅祭之神社被為仰付候事」

という建札を立てています。実際に、金毘羅大権現から金刀比羅宮への「変身」が始まったのです。引き続いて、山内の改革を矢継ぎ早に行います
明治2年6月 はじめて客殿で大祓の神式を行い,
10月10日の会式も神式に改めます。それまでは「山上」で行われていたのを、神輿が御旅所(現神事場)まで下って渡御する現スタイルに改められます。
明治4年6月,国幣小社に列し官祭に列せられ
10月15日,神祇官から大嘗祭班幣目録が下賜されます。
明治5年4月月,宥常は権中講義に任じられ,布教計画見通し立てるよう教部省から指示されます。これに対して、5月には早速に,東京虎ノ門旧京極邸内の事比羅社内に神道教館の設置案を提出しています。
これには多くの経費が必要で、上京していた宥常は資金調達のため一旦帰国しています。その後に行われたのが、六月の仏像・仏具・武器・什物の類の「入札売却」であったことは、以前にお話しした通りです。
1金刀比羅宮 琴陵宥常銅像3
宥常

明治6年3月,鹿児島県士族深見速雄が宮司として赴任して来ます。宥常は、京都滞在の折りに何度も宮司への就任願いを提出しています。しかし、新政府が任じたのは社務職であったのです。そして、実質的な責任者として松岡調が禰宜として就任しています。宥常が宮司に任命されたのは,明治19年3月深見速雄が亡くなった翌4月になってのことです。この当時、宥常は金刀比羅宮のトップでは、なかったことになります。このことは、注意して置かなければなりません。金刀比羅宮の記録は、このところを曖昧にしようとする意図が見え隠れするように思えます。
明治8年1月,御本宮再営の事業が開始され、翌年9月の4月に仮遷座,
明治10年4月に上棟祭が行われます。
この費用は,官費を仰がずに、すべて金刀比羅宮で賄ったようです。そのため落成の際に,内務省から宥常に褒美を下賜された記録があります。
  このように、見ると神仏分離から10年間で金比羅さんは、仏閣から神社にスムーズに移行したかのように見えます。しかし,この間に金刀比羅当局者が受けた衝撃や打撃も大きかったようです。 たとえば、明治元年1月には、土佐軍が新政府軍として讃岐に進行して、金比羅(琴平)に駐屯します。ある意味、この時期の琴平は土佐軍の軍事占領下に置かれたことになります。そして、金刀比羅宮に5000両の明納金を求めます。金毘羅さんは、この時期に京都の新政府に1万両、土佐藩に5000両を貢納したことになります。それを支える経済力があったということでしょう。
 土佐藩占領は,徳年の11月まで続き,それ以後は倉敷県の管轄から丸亀県・愛媛県を経て,香川県に所属することになります。
しかし、幕藩体制下で朱印地として認められていた行政権は失われます。さらに,明治4年2月に神祇官から出された「上知令」で、境内地を除く寺社領の返還を命ぜられます。これは、寺院の経済的基盤が失われたことを意味します。にも関わらず、神社となった金刀比羅宮は新たな社殿建設を初めて行くのです。そこには、明治という新時代がやって来ても金毘羅さんにお参りする人たちの数は減らなかったことがうかがえます。これは、行政からの「攻撃」を受けた四国霊場の札所が大きな打撃を受け、遍路の数を大きく減らしたことと対照的な動きです。
DSC01636金毘羅大祭図

宥常は明治政府に対しては、全く忠実でした。反抗や抵抗的な動きを見つけることはできません。
それでも,宮司に仰付られたいという願いは聞き届けられず,明治6年3月,鹿児島県士族深見速雄が宮司として赴任して来ます。その下での社務職を務めることになります。宥常が宮司に任命されたのは,明治19年3月に深見速雄が亡くなった後のことです
また,彼は元々は真言宗の社僧です。礼拝の対象は、仏像や経巻でした。それを売却し,焼き捨てるということに,何らかの感慨を抱いたはずですが、それに対する記録も残されていないようです。
全国崇敬者特別大祈願祭 … 3月10日 結願祭2


金刀比羅宮は、「勅祭の神社」とか「国幣小社」にランク付けはされましたが,それに頼っておればよいというものでありません。金毘羅大権現の名声を維持するためには,何か新しい施策を講ずる必要があると、若い社務職は考えていたようです。
1 金刀比羅宮蔵 講社看板g
 金刀比羅宮崇敬講社 定宿看板

明治7年2月に,そのために教部省宛に「金刀比羅宮崇敬講社」(略・講社)の設立を願い出ています。
信者へ直接的に働きかけ,これまで区々であった参詣講・寄進講を組織的に発展させ,金比羅の繁栄を一層確実にしようとする狙いがあったようです。講社については厖大な量の「講帳」が残っているようですが、「講帳」と関係資料を突き合わせ講社の実体を明らかにする研究は、まだ手が付けられていないようです。
 しかし、この講社の組織は「集金マシーン」として機能するようになり、金刀比羅宮に新たな資金供給源となったようです。ある意味、講社は「金の成る木」でした。宥常の最大の業績とされる「帝国水難救済会」も講社員の積立金によって、創設されています。

DSC01245
 
明治19年3月に宮司の深見速雄が亡くなり、宥常が宮司の座に着きます。名実共に、金刀比羅宮のトップになった訳です。
 その年の10月、イギリスの貨物船「ノルマントン号」が紀州大島沖で座礁沈没します。イギリス人乗組員は全員脱出して助かりましたが、乗り合わせていた日本人23人は船に取り残され全員が水死します。、同船船長に対する責任は、極めて軽微であり、日本国民の感情を大きく傷つけます。この水難事故は幕末に締結した日本と諸外国との間で結ばれていた不平等条約がからみ、大きな国際問題になります。このような水難事件に対して「海の神様」を標榜する金刀比羅宮として、出来ることは何かを宥常は考えたようです。

 「帝国水難救済会五十年史」によると,宥常はかねてから,
「神護は人力の限りを尽して初めて得られるもので,徒に神力にのみ依頼するのは却て神に敬意を失する」

と考えていたと記します。そこで、何とかして現実に海上遭難者を救うべき方法と組織を作り出したいと思っていたようです。
1 黒田清隆 日記 水難防止
黒田清隆伯の「環游日記」のロシアの水難救済協会の紹介部分

たまたま明治20年11月に出版された黒田清隆伯の「環游日記」の中に,ロシアの水難救済会の記事のあるのを見て,これこそ自分が探し求めていたものだと,「晴雲一時に舞れる心地がして勇躍,救済会の創設に取りかかった」とあります。
 明治21年8月,上京した宥常は,救済会設立のことを福家安定に相談します。
翌22年3月,再度上京して,その時は総理大臣に就任していた黒田清隆にも意見を聞き,また海軍に関係が深いことから海軍次官樺山資紀に相談すると,水路部長肝付兼行が協力してくれることになります。他にも逓信省は商船を管轄するので、管船部長塚原周造にも相談します。その他鍋島直大・藤波言忠・清浦奎吾等なども、この会の趣旨に讃同してくれ、何回かの協議を行います。
当時、金刀比羅宮崇敬講社の講員は300万人を越えいました。その積立金を,救済会設立資金に流用できる手はずになっていたようです。
こうして明治22年5月,正式に「帝国水難救済会設立願」を那珂多度郡長を経由して香川県知事に提出します。10月には,鍋島直大を副総裁に,琴陵宥常を会長に、本部を讃岐琴平に置き,支部を東京・大阪・函館に置くことに決まります。東京支社は、東京芝公園海軍水交社の建物を譲り受けています。そして11月3日(旧天長節)に,琴平本部での開会式後に,多度津救済所で遭難船救助の演習を行っっています。12月には各府県知事に本会役員として会員募集を行ってくれるよう依頼することを決めます。
1有栖川宮威仁親王

翌年明治23年4月には,有栖川宮威仁親王が総裁に就任することになります。こうして,宥常の長年の希望であった水難救済会は,着実な第一歩を踏み出していきます。ここへ来るまでに,宥常が救済会のために使った私財は多大なものであったと言われています。
 明治25年2月に宥常が53歳で亡くなります。
1琴綾宥常 肖像画写真
琴綾宥常 高橋由一作

これを契機に水難救済会の本部は東京に移されます。救済会を国家的事業として発展させてゆくための選択だったのでしょう。そして、生まれだばかりの救助会の帆には、時代の追い風が吹きます。
金刀比羅の宮は畏し舟人が流し初穂を捧ぐるもうべ - 八濱漂泊傳

明治28年日清戦争勃発前後になると、海軍軍艦からの流初穂(流し樽)が多く届けられるようになります。
4月 軍艦筑波から,
7月 磐城から,
明治28年4月 水雷母艦日光丸
6月 再度軍艦磐城から,
9月 軍艦龍田
からの流初穂が届けられています。この傾向は、戦後も続き、10年後の日露戦争の時には、さらに増加傾向を見せるようになります。この頃になると、軍艦だけでなく
海軍軍用船喜佐方丸
海軍運送船広島丸
連合艦隊工作船関東丸
横須賀海運造船廠機関工場造船部関東丸
陸軍御用船盛運丸
津軽海峡臨時布設隊新発田丸
などの陸海軍の御用船からの流初穂も含まれるようになります。これが次第に、一般商船,運送船などからの流初穂の奉納につながっていくようです。
モルツマーメイド号 金刀比羅宮 ( 7 ) | 札所参拝日記のブログ

 明治39年から大正初年までを見ても,
加賀国江沼郡槻越大家七平手船翁丸
東洋汽船株式会社満洲丸
大阪商船株式会社大知丸
日本郵船株式会社和歌浦丸
越中国新湊町帆船岩内丸
越中国氷見町八幡丸
日本郵船株式会社横浜丸
北海道小樽正運丸
加賀国江尻郡橋立村七浦丸
などから奉納が見えます。
 ここから見えてくることは「流樽」というのは、
①日清戦争前後に海軍軍艦 → ②軍関係の船舶 → ③日露戦争前後に民間船
へと拡大していたことが見えてきます。起源は、近代に海軍軍艦が始めたもので、江戸時代に遡る者ではないようです。

 これらはみな流初穂が本社まで届いたので,記事としても残っています。しかし、時には届かない場合もあったようです。明治39年12月,軍艦厳島からの初穂の裏書には,
「奉納数回せしも果して到着せしや否や不分明なれば今回御一報を乞う」

と書かれていたようです。
 以上の記事の見える船の所属機関・所有者を見ると,北海道から九州まで日本全域にわたっています。ここからは、金刀比羅宮が海上守護の神として,広く厚い信仰を集めるようになっていたことがうかがえます。これも神社に転進させた宥常が「海の神」という自覚を持ち,水難救済会創設という国家の仕事を代行するような活動を起したことから始まったようです。
参考文献
  松原秀明                神仏分離と近代の金刀比羅宮の変遷
                                                          

C-23-1 (1)

 明治初期に吹き荒れた神仏分離・廃仏毀釈の嵐を、金毘羅大権現は金刀比羅神社に姿を変えることで生き残りました。そこでは、仏閣から、神社への変身が求められました。それに伴って金毘羅大権現の仏像・仏具類も撤去されることになります。仏さん達は、どこへ行ったのでしょうか。全て焼却処分になったという風評もあるようですが、本当なのでしょうか。金毘羅大権現を追い出された仏達の行く方を追って見たいと思います。

  松岡調の見た金毘羅大権現の神仏分離は       
 明治2年(1869)4月、「事比羅宮」(旧金毘羅大権現・以後は金刀比羅宮使用)を多和神社社人の松岡調が参拝しています。彼の日記『年々日記』同年4月12日条に、次のように記されています。

 (前略) 護摩堂、大師堂なとへ行見に、①内にハ檀一つさへなけれハ、ゐてこしヽ老女の涙をおしのこひて、かしこき事よと云たるつらつき、いミしうおかし、かくて本宮へ詣て二拝殿へ上りて拝奉る、御前のやう御撫物のミもとのまヽにて、其外は皆あらたまれり、白木の丸き打敷のやうなる物に、瓶子二なめ置、又平賀のさましたる器に、②鯛二つかへ置て奉れり、さて詣っる人々の中にハ、あハとおほめく者もあれと、己らハ心つかしハそのかミよりは、己こよなくたふとく思へり、
絵馬堂へ行て頚(くび)いたきまて見て、やうように下らんとす、観音堂も金堂も十王堂も皆、③仏像ハとりたる跡へ御簾をかけて、白幣を立置たり
  意訳しておきましょう
4月12日 護摩堂、大師堂なども見てまわったが、①堂内には檀一つも置かれていない。それを見た老女が涙を流しながら「かしこき事よ」と呟いた表情が、印象に残った。
 本宮に詣て、拝殿に上り拝奉した。御前の様子は御撫物は、もとのままであるが、その他は全て神式に改められていた。白木の丸い打敷のような物に、瓶子が置かれ、平賀のさましたる器に、②鯛が2匹が供えられていた。参拝する人々の中には、生ものが供えられていることに驚く者もあるが、私は、その心遣いが上古よりのものであり、こよなく貴いものをと思った。
 絵馬堂を見て、階段を下ろうとすると観音堂も金堂も十王堂も皆、③仏像は取り除かれている様子で、その跡に御簾をかけて、白幣を立置いてあった。
この日記からは、仏教伽藍から神社へのリニューアルが進む金刀比羅宮の様子が見えてきます。仏像仏具に関しては
①護摩堂、大師堂などの、堂内には仏像はもちろん檀一つも置かれていない。
②拝殿も全て神式に改められ生ものの鯛も供えられていた。
③観音堂も金堂(現旭社)も十王堂も、仏像は取り除かれ、その跡に御簾をかけて白幣を立置かれてあった。
 松岡調の日記からは仏像たちがお堂から撤去され、神仏分離が急ピッチで進行していたことが分かります。ちなみに、これから3年後の明治5年〔1872〕1月27日に松岡調は、金刀比羅宮の禰宜に就任します。
1 金毘羅 狛犬1

さて、撤去された仏像はどうなったのでしょうか。
 取り除かれた仏像・経巻・仏具類は、仏堂廃止とともに境内の一箇所に取りまとめて存置されていたようです。それが動き出すのは、松岡調が金刀比羅宮の禰宜に就任した年になります。明治5年4月に香川県宛に旧金光院時代の仏像の処分について、伺いが出されています。これについては『年々日記』明治五年四月二十四日条に、
二十四日 一日ハ(晴)れす、会計所へものせり、さきに県庁へねき聞へし条々につきて、附札にてゆるされたる事ども
事比羅神社社用之廉々伺書
一 当社内二在之候従来之仏像、御一新後悉皆取除、山麓之蔵中江集置候処、右撥遣(廃棄) 二相成候上者、如何所置可仕哉、焼却二及候而も不苦候哉之事、
      焼却可申事 (○中略)
事比羅神社
  県庁御中
意訳しておくと
当社内に保管する仏像について、維新後に全て取除き、山麓の蔵中へ集めて保管してきました。これらについて廃棄することになった場合は、どのように所置すればよろしいか。焼却してもよそしいか。

この伺いに対する香川県の回答が「焼却可申事」であったようです。ここからは仏像類の処分方法について、金刀比羅宮が事前に香川県の承認をうけていたことが分かります。4月に焼却処分の許可を得た上で、8月4日に仏像類の大部分を焼却したようです。
これだけ見ると「全ての仏像・仏具を焼いた」と思われそうです。実際に、そのように書かれた本や言説もあります。しかし、松岡調の日記を見ると、そうではないことが分かります。

1 金毘羅 狛犬222表

 処分に先立って、松岡調自ら仏像・仏具類を納めた倉庫を検分したり、松崎保とともに社中に残し置くべき仏像などについて、立ち合い検査を行なっています。6月から7月になると『年々日記』に、次のような記述が見られるようになります。
 
五日 (中略)今日は五ノ日なれは会計所へものせり、梵鐘をあたひ二百二十七円五十銭にて、榎井村なる行泉寺へ売れり、(『年々日記』明治五年 三十三〔6月五日条〕、読点筆者)

八日 雨ふる、こうきあり、例の時より会計所へものセり、西の宝庫に納たりし雑物を出して塵はらわせり、来る十一日にハ、仏像仏具を始、古きものともをうらんとて置そす、今夜いミしう雨ふる、(以下略)(『年々日記』明治五年〔七月八日条〕)

6月5日には、金毘羅さんのお膝元・榎井村の行泉(興泉)寺が梵鐘を227円50銭で買いつけています。これも、戦中の金属供出で溶かされたのでしょうか、今は興泉寺に、この鐘はないようです
7月8日には、西の倉庫に保管されていた「雑物」を出して奇麗にしたようです。それは仏像仏具を売りに出すための準備であったようです。
 九日 雨はれす、二字(2時)のころやうくはれたり、御守所へ詣てつ、間なく裏谷なる仏像、仏具を納たる倉を見にものセるか、大きなる二層の倉の上にも下にも、かの像ともの古きなる小きなる満々たり、小きこまかなるは焼ハらふも、いとあたらしきワさなれハ、仏ゑと共にうらんとて司庁(社務所)へおくりやる、数多の中に大日仏の像なとは いみしき銅像になん、
(『年々日記』明治五年 〔七月九日条〕)
意訳すると
7月9日 
雨晴れず、2時頃からようやく晴れてきた。御守所へ参拝してから「裏谷」の仏像、仏具を保管している倉を見行く。そこには大きな2層の倉の上にも下にも、古い仏像や小さい仏像などで満ちている。小さい仏像は燃いても、造られたばかりの新しいものは、仏絵と共に売ることにして司庁(社務所)へ運んだ。数多くある中でも大日如来像は、価値のあるもののように見える。       
ここからは、次のような事が分かります。
①「裏谷」にある倉に仏像、仏具を保管してあったこと
②倉の中には、仏像でいっぱいだったこと
③新しい仏像は、仏絵と共に販売するために運び出したこと
④大日如来像はすぐれた作品であると「鑑定」していたこと
明治元年に撤去された仏像たちは、「裏谷の倉」の一階と二階に保管されていたようです。そして、売れるものは売るという方針だったことがうかがえます。
1 金毘羅 備前焼狛犬1

十日 れいの奉納つかうまつりて、会計所へものセり、明日のいそきに、司庁の表の書院のなけしに仏画の類をかけて、大よその価なと使部某らにかゝせつ、百幅にもあまりて古きあり新きあり、大なるあり小なるあり、いミしきもの也、中にも智証大師の草の血不動、中将卿の草の三尊の弥陀、弘法大師の草の千体大黒、明兆の草の揚柳観音なとハ、け高くゆかしきものなり、数多きゆえ目のいとまハゆくなれハ、さて置つ 
   (『年々日記』明治五年 【七月十日条】)
     ○
意訳すると
7月10日 明日11日から始まるオークションの準備のために、書院のなげしに仏画などをかけて、おおよその価格を推定し係の者に記入させた。百以上の仏画があり、古新大小さまざまである。中には、智証大師作の「草の血不動」、中将卿の「草の三尊の弥陀」、弘法大師の「草の千体大黒」、明兆の「草の揚柳観音」などもあり、すぐれたものである。数が多過ぎて、目を休める閑もないほどであった。 

  仏画類については、前日に書院のなげしに掛けて「鑑定」を行って、おおよその価格を事前に決めていたようです。
1 金毘羅1 狛犬11

さて入札当日は、どうだったのでしょうか。
十一日 御守所へものセり、十字のころより人数多つとひ来て見しかと、仏像なとハ目及ハぬとて退り居り、かくて難物古かねの類ハ大かたに買とりたり、或人云、仏像の類ハこの十五日過るまて待玉へ、此近き辺りの寺々へ知セやりて、ハからふ事もあれハと、セちにこへ口口口口口、
 (『年々日記』明治五年 七月十一日条)
意訳すると 
7月11日 10時ころより、多御守所でセり(入札)が始まり。多くの人がやって来て入札品を見てまわった。しかし、仏像などは鑑定眼がないので、近寄る者はいない。難物や古かねの類の価値のないものはおおから買取り手が見つかった。ある人が言うには、仏像の類は15日が過ぎるまで待ったらどうか。近くの寺々に、この入札会のことを知らせれば、買い手も集まってくるだろう。

十二日 東風つよく吹けり、会計処へものセり(払い下げ)、今日も商人数多ものして、くさくさの物かへり、己ハ柳にて作れる背負の鎧櫃やうのもの、価やすけれハかいつ、よさり佐定御願へものセるに、かたらへる事あり。    
意訳
7月12日 束風が強く吹いた日だった。会計所へ払下品を求めて、今日も商人たちが数多くやってきて、買っていく。自分は、柳で編んだ背負の鎧櫃のようなものを、値段が安いので買った。佐定は御願へもとするのに使うために、相談があった。

仏像・仏具の払い下げが、11日から始まったようです。最初に売れたのは、「難物・古金」のように重さで売れるものだったようです。仏像などは、見る目がないので手を出す者は初日にはいなかったようです。そして、ここでもコレクターとしての血が騒ぐのでしょう、松岡調は「柳で編んだ背負の鎧櫃」を買い求めています。

1 金毘羅 真須賀神社狛犬12
18日 今日も同じ、裏谷の蔵なる仏像を商人のかハんよしをぬきだし、ままに彼所へものさハりなきをえり出して売りたり、数多の商人のセりてかへるさまのいとおかし
 (『年々日記』明治五年 [七月十八日条])

十九日 すへて昨日に同し、のこりたる仏像又売れり、けふ誕生院(善通寺)の僧ものして、両界のまんたらと云を金二十両にてかへり、(○以下略)『年々日記』明治五年〔七月十九日条〕)
意訳
7月18日