瀬戸の島から

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        表紙 金毘羅参詣名所図会
金毘羅参詣名所図会
  以前に『金毘羅参詣名所図会』が、弘化4(1847)年に大坂の戯作者暁鐘成(あかつきかねなる)によって出版されたこと、その際に絵師も連れて、2ヶ月間の讃岐取材旅行の上で書かれていることをお話ししました。すると、「金毘羅参詣名所図会を現代語訳で読んでみたい」というリクエストをいただきました。私も現代語(意訳)と絵図をアップしておくことは意味のあることだと思うので、少しずつ載せていくことにします。しかし、巻頭からではなく、私の興味関心のあるところからアトランダムになります。悪しからず。


金毘羅絵図幕末

 初回は、金比羅の金倉川にかかる鞘橋から金光院までにします。

鞘橋 金毘羅参詣名所図会
鞘橋(金毘羅参詣名所図会)
鞘橋 
此の地の惣名を松尾といふ。故に寺を松尾寺といひ、又此所より出る人多く松尾氏あり。又家号を松尾屋となのる者多し。然れども昔より御神号を所の名にいひつたへ、只一円に金毘羅といひならはせり。 

売物の称にいふ
さやは橋の名につけて
真こゝろ見せの賑ひ
絵馬丸
意訳変換しておくと
この地の地名は松尾という。そのため寺は松尾寺で、この地には松尾氏の姓が多い。また家号を松尾屋と名のる者も多い。しかし、昔よりの御神号である金比羅の名をとって、いまではこの一円を金毘羅と呼んでいる。 

鞘橋祭礼屏風図鞘橋沐浴図
元禄時代の金毘羅祭礼屏風図の鞘橋 
橋の下の金倉川で沐浴する参拝者

金毘羅参詣名所図会の数年後に出される讃岐国名勝図会の鞘橋を見ておきましょう。
金毘羅門前町 阿波町 鞘橋 頭人行列
鞘橋(讃岐国名勝図会)
讃岐国名勝図会では、瀬川神事の際の行列が鞘橋を渡る様子が描かれています。
鞘橋 明治中頃
明治中頃の鞘橋

DSC00639琴平鞘橋とバス
現在地の神事場入口に移築された鞘橋
 唐破風造(からはふづくり)・銅葺の屋根を備えるアーチ型の木造橋。刀の鞘を連想させるその形からそう呼れています。橋の下に柱がないのも特徴で、川の上に浮かんでいるようにみえるので「浮橋」ともよばれました。現在のものは明治2年(1869)の改築に際し阿波鞘橋講中より寄進されました。明治38年に現在地に移築された後は神事専用の橋となっており、祭典奉仕の神職や巫女が渡るだけになりました。
金毘羅門前 鞘橋から内町 1880年

鞘橋を越えると内町です。
2-18 鞘橋 

内町 
鞘ばしの西詰より小坂までの間をいふ。左右旅宿屋軒をならべ何れも家建奇麗なり。坂の傍に庚申堂あり。右の向ふを壇の上といひ、此所に地蔵堂あり。此の辺至って繁昌なり。
十二景之内 五百長市 
半千長市座  高下巧成隣  無意弄煙景  潭諸待価人
一之坂
大坂ともいふ。此の坂の間、左右名物の飴売店多し。詣人は家土産に需むること愛宕山の樒(しきみ)、大峰の陀羅尼助に異ならず。
愛宕町
大坂の少し前より左へ入るところをいふ。此の町よりあたご山見ゆるゆへ斯くはなづけり。
意訳変換しておくと
内町 
鞘橋の西詰から小坂までの間を内町という。左右に旅宿屋が軒をならべるが、どれも建物が奇麗である。坂の登り口庚申堂がある。右の方に向かう道筋を壇の上と云い、ここには地蔵堂がある。この辺りは、いたって繁昌している。

(金毘羅)十二景の内の「五百長市」にあたる。  
半千長市座  高下巧成隣  無意弄煙景  潭諸待価人 
一之坂
大坂とも云う。この坂の左右両側には、名物の飴売店が多い。参拝者が家土産に買い求める姿は、愛宕山の樒(しきみ)、大峰の陀羅尼助と同じである。
愛宕町
大坂の少し手前から左へ入った町筋を愛宕町という。この町から愛宕山が見えるので名付けられた。

2-17 愛宕山
金比羅の愛宕山(金毘羅参詣名所図会2巻)
2-13 金毘羅愛宕山
金毘羅参詣名所図会(2巻13)
天神社
愛宕町の正面にあり。中央に天満大自在天神、相殿に愛宕権現、荒神等を祭る。
愛宕(あたご)山
愛宕町より向ふに見ゆる山也。山上に愛宕山大権現の社あり、金毘羅山の守護神すみ給ふ山にて魔所なりといふ。
箸洗池
愛宕の山中に巨巌ありて是に一つの小池あるをいふ。此の水いかなる早魃にも乾くことなし。是十月御神事に供ずる箸をことごとく御山に捨るを、守護神拾ひあつめ此の池にて洗ひ、阿州箸蔵寺の山谷にはこび給ふといひつたふ。ゆへに箸あらひの池と号す。
十二景の内
箸洗清漣(はしあらいのせいれん)             林春常
一飽有余清  波漣源口亨  漱流頻下箸  喚起子十刑情
意訳もあまり必要ないようなので、このあたりは省略します。愛宕山については、現在は忘れ去られた存在になっていますが、もともとは修験者の愛宕山信仰の聖地で、山頂にも「愛宕大権現」が鎮座していたようです。金毘羅市中の警察・行政権を握っていたのは多聞院です。多聞院は全国からやって来る山伏たちを保護していたようで、愛宕山周辺には修験者たちが数多くいた気配がします。幕末には、阿波の箸蔵寺の山伏たちとの交流・連携もあった気配がします。
 愛宕山の向こう側の佐文には「ごま(護摩)谷」という地名も残っていて、護摩木を提供する山もあったようです。愛宕山については、関心があるのですが、切り込んでいく史料がなくて「停滞」しています。今後の課題です。さて、金毘羅参詣名所図会は、鐘楼・仁王門の手前までやってきました。ここで清少納言が登場します。

鼓楼 飴茶屋 清少納言古墳 金毘羅参詣名所図会

清少納言古墳(金毘羅参詣名所図会)
清少納言古墳
一の坂の上、鼓楼の傍にあり、近年墳の辺りに碑を建てり。
〔伝に云ふ〕往昔、宝永の年間、鼓楼造立につき此の墳を他に移しかへんとせしに、近き辺りの人の夢に清女(清少納言
)の霊あらわれて告ける歌にうつゝなき跡のしるしを たれにかはとわれじなれど有りてしもがなさては実に清女の墓なるべしとて本の儘にさし置れけるとぞ。
〔図癸〕清少納言古墳  桧扇とおぼせ手向の渋団   
                         長門国筆舎
象頭山八景 清氏塚秋雨 

まきあけし小簾のみゆきに古つかの
      ふりかはりぬる秋のむらさめ
侍雪中宮彼一時
空智孤塚象山陸
昔日無人買馬骨
千今秋雨為君悲 
        梅隠 
2-14 清少納言現る
清少納言が霊夢にあらわれる(金毘羅参詣名所図会2巻14)
清少納言塚のいわれについては、以前お話ししたので省略して、仁王門をくぐって行きます。

仁王門 金毘羅参詣名所図会
二王門 坊中 桜並樹 竹薗 神馬舎 茶堂(金毘羅参詣名所図会)

門内の左右は石の玉垣が数十間打続き、其の内には奉納の石灯籠所せきまでつらなれり。其の後には桜の並樹ありて花盛りの頃は、吉野初瀬も思ひやらるゝ風色あり。

花曇り人に曇るや象頭山                      讃陽木長


普門院 - コピー
金毘羅参詣名所図会2巻16
普門院 右塚のむかふにあり、則ち坊中なり。
二王門
一の坂の上にあり、金剛神の両尊を安す。象頭山の額は竹内二品親王御筆なり。
桜馬場
二王門を入り左右桜の並木連れり。晩春の頃は花爛慢として美観なり。十二景の内にして左右の桜陣と題す。此の間、石灯籠数多且つ石の鳥居あり。
真光院 万福院 尊勝院 神護院
桜の並木の右にあり、左の後は竹藪なり。
十二景之内 左右桜陣                            林春斉
呉隊二姫笑 椰宮千騎粧 花顔誇国色 列対護春王
同     後前竹囲                            全
移得渭川畝 湘孫胎版多 百千竿翠密 本未葉森羅

別業
坂を上りて左の方にあり、本坊の別荘なり。景の内にして幽軒梅月と題す。
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桜の馬場
仁王門をくぐると坊中で、現在はここで五人百姓が赤い大きな傘を広げて金比羅飴を販売しています。

1 金毘羅 伽藍図2
金刀比羅宮の建物変遷
その右手に、かつては普門院・真光院 万福院・尊勝院・神護院の5つの院房がならんでいました。これらが金光院に奉仕する形で、金毘羅寺領の運営は行われていました。明治以後の神仏分離で、これらの5つの院房は「廃仏」で姿を消します。今は、金比羅教本部や宝物館などが建っています。
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桜の馬場

 仁王門を越えての空間は石畳と玉垣、そして灯籠がならぶ石造物の空間です。
このエリアは両側に桜が植えられて「桜の馬場」ともいわれて、春には桜並木となります。この桜の馬場は、次のように阿波の人達の寄進で整備されたものです。
①文政三年(1820) 阿波藩主の灯籠寄進
②天保十五年(1844)「阿州藍師中」による玉垣奉納
③嘉永元年(1848) 阿波街道起点の石鳥居 吉野川上流の村々から奉納
④安政七年(1860)  石燈龍奉納 麻植郡の山川町・川島町の村人77人の合力
⑤文久二年(1862)  阿波敷石講中による桜馬場敷石奉納スタート   池田・辻中心
ここからは、阿波の殿様 → 藍富豪 → 一般商人 → 周辺の村々の富裕層へという寄進僧の変遷が見えます。殿様が灯籠を奉納したらしいという話が伝わり、実際に金毘羅参拝にきた人たちの話に上り、財政的に裕福になった藍富豪たちが石垣講を作って奉納。すると、われもわれもと吉野川上流の三好郡の池田・辻の町商人たちが敷石講を作って寄進。それは、奉納者のエリアを広げて祖谷や馬路方面まで及んだことが分かります。三好の敷石講は、5年間をかけて桜の馬場に石畳を完成させています。
『金毘羅参詣名所図会』が、公刊されたのが弘化4(1847)年のことですから、その時点では玉垣などはできていましたが、石畳はまだ姿を見せていなかったことになります。以前にお話ししたように、金毘羅さんの石段や石畳、そして石造物がすべてのエリアで調えられるようになるのは、案外新しく幕末になってからのようです。
今回はここまでとしておきます。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

関連記事

大きな屏風絵が金刀比羅宮に残されたいます。
この屏風絵は二双から成り、「清信筆」の署名と「岩佐」(方印)、「清信」(円印)の押印がありますので、作者が狩野休円清信であることがわかります。描かれた時期は、元禄年間(1688~1703)とされています。
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 二双になっているのは、二王門から上のところを描いた山上の図と、二王門から下を描いた山下の図とに分かれているからです。屏風絵のテーマは、十月十日の金刀比羅宮の大祭で、頭人行列を中心に金毘羅の町のにぎわいが描かれています。この絵を見ながら、今から約三百年前の元禄時代の大祭で賑わう金毘羅の門前町の様子を見てみましょう。 
DSC01397大門祭礼図

日蓮の命日であるお会式(えしき)と金毘羅さんの関係は?
汪戸時代のはじめになると全国の大きな寺社のお会式(えしき)、御開帳の祭礼に盛大な市が立つようになります。お会式(おえしき)は、日蓮の命日の10月13日にあわせて行われる法要のことです。日蓮の命日の前夜(10月12日)はお逮夜(おたいや)と呼ばれ、各地から集まった信徒団体の集まり(講中)が、行列し万灯や提灯を掲げ、纏を振り、団扇太鼓や鉦を叩き、題目を唱えながら境内や寺の近辺を練り歩きました。古くは、提灯に蝋燭を灯し、団扇太鼓を叩きながら参詣する簡素なものだったようです。それが、江戸末期から明治時代に町火消たちが参詣に訪れるようになると纏を振るようになり賑やかになったようです。日蓮宗の寺では、境内に鬼子母神を祀る場合が多く、鬼子母神の祭りを兼ねる場合も多いようです。また、寺によっては花まつりではなく、お会式や千部会に稚児行列が出る場合があります。
 どうして日蓮のお会式が金毘羅大権現に関係あるの?
  戦国末期に、インドからこの山に招来した金毘羅神は新参者です。信仰する信者集団もいなかったために法華宗の祀った守護神である三十番社の祭礼を、奪って金比羅堂の祭礼に「接ぎ木」するという荒療法を行いました。そのために金毘羅大権現の大祭には法華八講の祭礼が色濃く残るとともに、開催日も日蓮の命日であるお会式前後の十月十日になっているようです。
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 十月十日の祭礼当日の門前町ことひらを見ていきましょう
 高松道からやって来た頭人行列の動きに合わせて東(右)から西(左)に町並みの様子をたどります。まず行列は木戸をくぐります。ここが天領である池料と金毘羅社領の境でした。
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この木戸は、ここからが社領の入口であることを示す役割を持っていました。この木戸を抜けると金毘羅領です。図には、頭人の奴行列の道具を持って金毘羅領に入ろうとしているところが描かれています。それを参拝者が、道の端に寄って、行列を眺めています。
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すぐに鳥居が迎えてくれて、その手前で北からの道が合流しています。ここが丸亀街道の終点になります。丸亀街道からの参拝客を併せて、より大きくなった人の流れは、西(左)へと進みます。
新町の街並み
 この辺りは「新町」と呼ばれる町で、延宝3年(1675)に天領との土地交換で新しく寺領になった所です。それから20年余りで、道の両側には、板屋根の店棚がすき間なく並ぶ門前町を形成しています。地替えは、金毘羅さんには大きなプラスになったようです。 

新町の店は、道に面したところに簡単な棚を作り、その上に商品を並べているようです。よく見ると店の奥行は浅く、間取りは一部屋ほどですぐ裏に抜けます。裏は庭になっていたり、畑になっていたりします。この時期の新町は「新興商店街」で大店のお店はなく小さい店が並んでいたようです。
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 新町の町並みを木戸口の辺りから順にみてみましょう。
道の南側(下方)には、小さな宿屋と思われる家が並んでいます。屋根は板葺きがほとんどで、その中に茅葺きの屋根がポツンポツンと混じっています。その中には、生け花を飾った床の間のある部屋をもつ家や、主人と思われる人が魚を料理している家、食事の用意をしている家、参詣の旅人らしい人が横になり休んでいる家などが鞘橋まで続きます。
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 向かいの家並み(上方)の家並みでは
木戸口のところからめし屋、うどん屋と並び、丸亀道で一旦途切れます。そして、鳥居から魚屋、古着屋(服屋?)、道具屋(小間物屋?)、さらに同じような品物を並べた古着屋と続いて、屋根の付いた鞘橋のたもとにやってきます。
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 鞘橋のたもとに来たところで、川を見ると・・。裸になって泳いでいる人が・・・
最初、この絵を見たときの私の感想です。これは素人の見方です。
本当は金毘羅山に参拝するために、ここで身を清めているのです。鞘橋の下は、沐浴(コリトリ)場として神聖な場であったことを、この絵から知りました。
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鞘橋のたもとのところにも南からの道が合流しています。これが阿波からの阿波街道です。こちらからもたくさんの参詣人がやって来ています。阿波道の角のところには陶器屋が陶器類を並べています。
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身を清めて鞘橋を渡ると、町並みの南側には宿屋と思われる家並みが続いています。
 さらに西(左)へ進むと、この辺りから内町に入ります。
道の南側は宿屋(茶屋)がずっと続いています。入母屋の瓦屋根で立派な建物で、大きな庭もあります。内町は、「高級旅館街」として門前町の中心的な町として栄えていきます。先ほどの新町の宿屋は板葺屋根でしたので「格」が違うようです。後の史料からは茶屋二七軒、酌取旦雇宿六軒の計三三軒があったことが分かります。 「讃岐国名勝図絵」に
「南海中の旅舎、三都に稀なる規模にて当地秀逸と謂べし」と讃えられた「とらや」
は延享四年(1747)に入口・玄関の普請が分限不相応として閉門を命じられ、破風・玄関・式台を取り除いてやっと許された大旅館でした。その他にも、芳橘楼(ほうきつろう)・余島屋などの大旅館と共に、天保の打ちこわしで破壊対象になる米屋・酒屋・油屋などの大商店が軒を並べていました。
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 南側に対して、北側は鞘橋を渡ったすぐのところが服屋(古着屋か)です。その横に、北から合流する道があります。ここが多度津街道のゴールです。多度津道沿いの店は、角が服屋です。その隣(絵で見ると奥側)には、馬方が馬を数頭休めています。馬継所なのかもしれません。残念ながら、そこから奥はきちんと描かれていません。道を挟んだ向かい側は、煎餅らしいものを焼いている店があります。参詣客が、店主に注文しているようにも見えます。何を焼いているか分かりませんが、気になるところです。

DSC01348

その隣の多度津道と本道との交差する角に当たる所は、惣菜屋(めし屋?)のようです。食べ物を売る見せも多いようです。
一方北側を見ると、惣菜屋の隣は、弓師の店です。続いて、小間物屋、道具や、二軒分の家が空いて、桶屋と続きます。 
DSC01051
そして、西へ進んでいくと登り坂になって行きます。坂の両側にも、食べ物屋、うどん屋、宿屋、うどん屋、服屋、あめ屋と続きます。
参道の上り口に当たるこの辺りには札場があったので、札ノ前町と呼ばれました。
そして、その上には大門までの両側に階段状に町が形成されます。札之前町には一一軒、坂町には四軒の茶屋がありました。この両町は、参詣客が両側を見ながら参道を登って行く所で、土産物屋や飲食店が建ち並んでいます。
 代表的な土産物には、上鈴(神鈴了延命酒・薬草・金毘羅団扇・天狗面・白髪素麺(宝暦十=一七六〇年、素麺師かも屋甚右衛門が移住し、製造が始まったと伝えられる)・びっくりでこなどがありました。なかでも、金毘羅大権現の神徳を象徴する土産として特に有名になったものに、大門付近などで売られた金毘羅飴があります。あめ屋の向かい、少し斜め上辺りから南西(左)に、伊予からの道(伊予街道)が合流しています。
DSC01451

伊予街道沿いの町並みが谷川町です。
 延宝三年の地替図では本殿への参拝道が脇道で、伊予街道の方が本道のように描かれ、谷川町が奥の広谷墓地に向かって伸びて賑わっている様子が描かれていました。それから30年余りで状況は逆転して、この屏風絵では参詣道の方がはるかににぎやかになっているようです。谷川町は伊予街道のゴール地点として食べ物屋が建ち並んで、にぎやいだ雰囲気があります。                                                                                    
 これより上、大門(二王門)までは坂町です。
この町並みには宿屋と思われる店がずっと並んで描かれています。大門を入ると、そこは山上と呼ばれる境内です。これからは金光院家中の家が続きます。
DSC01050 
芝居小屋が並ぶ金山地町の賑わい
 さて山上の様子は、またの機会にして、ここからやってきた道を鞘橋まで引き返します。
先ほど見た高級旅館の裏が入っていくと、賑やかな呼び込みの声や音楽が聞こえてきて、芝居小屋が姿を見せます。 ここが金山寺街です。参拝を済ませた客が、願を掛け終えた安堵感・開放感に浸りながら精進落としをする場所です。この辺りは金山寺町と呼ばれ、かつては金山寺というお寺があったと伝わりますが史料は残りません。
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 街に入ると、ちょうど歌舞伎小屋が立ち、中では歌舞伎が演じられているようです。常設の芝居小屋である金丸座が建つのは百年後のことです。
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さらに奥へ行くと、浄瑠璃を演じている小屋もあります。道を挟んだ向かい側には、別な歌舞伎小屋も見えます。参詣客は、歌舞伎・浄瑠璃などを十分に楽しんで、あとそれぞれの村、家へ帰っていったのであろう。この屏風絵には、金毘羅の大祭の賑わいがリアルに描かれています。

  この屏風絵が描かれた元禄年間(17世紀末)の金山寺町の広場には、所狭しと小屋が架けられ、芝居が興行されていたのです。
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 江戸中期以降、全国に131か所もの歌舞伎小屋が散在していました。
その場所と規模を伝えるものに「諸国芝居繁栄数望」(天保十一年子之十一月大新板)という芝居番付が残っています。そこには金毘羅大芝居は金沢・宮島などと並んで、西の前頭六枚目の最上段に「サヌキ金毘羅市」と名前が載っています。ここからは金毘羅の芝居が西国における第一級の芝居として、高い知名度と人気があったことが分かります。
 井原西鶴の「好色一代男」の中にも、安芸の宮島と金毘羅の賑わいを、旅芸人に語らせるシーンがあります。元禄年間おいては、金毘羅の賑わいは有名であったようです。しかし、それに引かれて東国から参拝者が押し寄せるようになるのには、まだ百年の歳月が必要でした。
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 この絵からは人寄せのために芸能や見世物などが催されにぎわうこんぴらの様子が伝わって来ます。金毘羅信仰が盛んになるにつれて、市立と芸能は共に栄え、門前町ことひらは一層繁栄するようになっていった様子が分かります。
DSC01354

参考文献 金毘羅門前町 町史ことひら 127P~

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