瀬戸の島から

タグ:風流念仏踊り

                        
佐文綾子踊りについて、いろいろな資料を集めています。分からないことは数多くあるのですが、佐文綾子に先行する那珂郡七箇念仏踊りが、どうして滝宮への踊り込みをしなくなったのかについてを、明らかにしてくれる資料が私の手元にはありません。資料がないままに以前には、次のように推察しました。
①七箇念仏踊りは、高松藩・丸亀藩・満濃池領(天領)の村々の構成体で、運営をめぐる意見対立が深刻化していた。
②天領の村々の庄屋たちは、運営を巡って脱退や会費支払い拒否も見せていた。
③そのような中で、明治維新の神仏分離で滝宮念仏踊りの運営主体である龍燈院(滝宮神社の別当寺)の院主が還俗した。
④そのため龍燈寺は廃寺となり、滝宮念仏踊りの運営主体がなくなり、自然消滅してしまった。
⑤その結果、滝宮念仏踊りは開催されなくなった。

阿野郡の郷
阿野郡の郷
それではその後の滝宮念仏踊りの復興は、どのように進んだのでしょうか。
今回は、明治になって踊られなくなっていた坂本念仏踊りがどのように復活していくのかを見ていくことにします。テキストは 明治に初期における坂本念仏踊りの復興 飯山町誌774Pです。

坂本村史(坂本村村史編纂委員会 編集・発行) / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋

明治初期の坂本念仏踊の復興について、『坂本村史』は次のように記します。(要約)
 明治2年(1869)2月、念仏踊復興のために、滝宮神宮社務・綾川巌の名で香川県参政へ願い出たが、何の連絡もなかった。明治11年(1878)七月になって、阿野郡人民総代泉川広次郎・川田猪一郎、県社天満神社祠掌田岡種重の二人が連署して、愛媛県令岩村高俊あて願書提出したところ、7月29日付で、次のような許可文書がくだされた。
書面頂出ノ趣聞届候条不取締無之様注意可致事 但シ最寄警察分署へ届出ズベシ
愛暖県高松支守
  意訳変換しておくと
提出された復興願いの書面について、聞届けるので、取締対象にならぬように注意して実施すること。但し、最寄警察分署へ実施届出を提出すること
愛媛県高松支守
当時は、香川県はなくなっていたので高松支所からの許可願となっています。
滝宮念仏踊り3 坂本組
坂本念仏踊り

これを受けて、次のような正式の許可願が提出されます。
滝宮県社天満神社及同所滝宮神社神事踏歌ノ儀、該社並組合村中、流例ノ神社之依テ執行御願滝宮踏歌神事ノ儀ハ予テ先般該社神官並鵜足部阿野部給代連署フ以テ願出御指令相成り則本年ハ右神事鵜足部順年二付任吉例来ル二十三日滝宮両社二於テ執行仕り来り候儀二付本年ハ東坂元村亀山神社真時村下坂神社川原村日吉神社西坂元村坂本神社ノ四社二於テ執行仕度就テハ祭器ノ内刀、護刀両器械フモ神事瀾内二於テ相用度此段奉願候 以上
明治十一年八月
組合村第五大区
第 八小区 鵜足部東小川村
第 九小区 同部東坂元村、真時村、川原村
第 十小区 同郡西坂元村、西小川村、西二村、東二村
第十一小区 同郡川津村
人民総代
鵜足郡東坂元村
同 郡川原村
同 郡真時村
同 郡西坂元村
愛媛県令 岩村高俊殿

前記願出之儀許可相成度最モ指掛候儀二付至急御指令相成度奥印仕候也
第五大区九小区長 東 条 友五郎
副小区長 寺 島 文五郎
十小区長 横 田   稔
副小区長 伊 藤 知 機
意訳変換しておくと
滝宮県社天満神社と滝宮神社神事である「踏歌(念仏踊り)」について、該当する神社や組合村々は、神事復活について、各社の神官代表、ならびに鵜足郡・阿野郡の代表者が連署して、許可申請を提出いたしました所、許可をいただきました。つきましては実施に向けた動きを進めていきますが、本年の神事は鵜足郡の担当で、日程は古来通り、23日に滝宮両社で執り行う予定です。その事前奉納を、次の4社で行います。東坂元村の亀山神社、真時村の下坂神社、川原村の日吉神社、西坂元村の坂本神社。なお、その際に祭器の内、刀、護刀についての取扱については、神事のために使用するものであることを申し添えます。 以上
明治11年八月
組合村第五大区
第 八小区 鵜足部東小川村
第 九小区 同部東坂元村、真時村、川原村
第 十小区 同郡西坂元村、西小川村、西二村、東二村
第十一小区 同郡川津村
人民総代
鵜足郡東坂元村
同 郡川原村
同 郡真時村
同 郡西坂元村
愛媛県令 岩村高俊殿

前記の祭礼復活許可をいただいた件について、至急御指令を下されるようにお願いいたします。
第五大区九小区長 東 条 友五郎
副小区長     寺 島 文五郎
十小区長     横 田   稔
副小区長     伊 藤 知 機
ここからは次のようなことが分かります。
①滝宮念仏踊りが「踏歌」と表現されていること。このあたりにも廃仏毀釈の影響からか、当局を刺激しないように、仏教的な「念仏踊り」という表現でなく、「踏歌」としたのかもしれません。
②滝宮両社への奉納以前に、事前に地元神社への奉納許可と、その日程を伝えています。
これに対し、次のような回答が下されています。
書面願出之趣祭典ニアラズシテ神社二於テ賑之儀ハ難聞届候事但八幡神社踏歌神事ハ祭典二際シ古例ナルフ以テ差許候儀二有之且自今如此願ハ受持神官連署スベキ儀卜可相心事
明治十一年八月十三日
愛媛県高松支庁
意訳変換しておくと
 各神社での事前の踊り奉納について、神社における祭典(レクレーション)であれば、許可しがたいが、八幡神社の踏歌神事で、古例なものであることを以て許可する。これより、この種の許可願は受持神官と連署で提出すること
明治十一年八月十三日
愛媛県高松支庁

   神社の祭礼復活についても、いちいちお上(政府)の許可を求めています。許可する新政府の地方役人も尊大な印象を受けますが、これは一昔前の江戸時代の流儀でした。それが抜けきっていないことが伝わってきます。
丸亀市坂本
       現在の丸亀市飯山町西坂本 
東坂本
東坂本
こうして念仏踊復興の動きは、鵜足郡の坂本村を中心に始まり、明治11(1878)年8月23日、亀山神社・下坂神社・日吉神社・坂元神社の四社で維新後最初の念仏踊りが奉納されたことを押さえておきます。

飯山町坂本神社
坂本神社(丸亀市飯山町)

ところが復活から約20年後の明治32年(1899)の念仏踊が踊られる年に台風のため中止となり、その後しばらく中断されます。
この背景については、飯山町誌は何も記しません。
大正2年(1913)に大干魃に見舞われ、中の宮で雨乞念仏踊奉納
これを機に、再び復興機運が盛り上がったようで、以後は、大正3、6、9、12年と3年毎に行われています。ところが、その後は小作争議のため中断します。それが復活するのは、昭和天皇御即位の大典記念事業の時です。そして昭和4年(雨乞いのため)、7年、10年に奉納されています。以後の動きを年表化します。
昭和13(1938)年、日中戦争のため中止
昭和14(1938)年、大早魅のため雨乞念仏踊
昭和16(1941)年、紀元2600百年記念として滝宮両神社で実施し、以後戦中は中断、
昭和27(1952)年 組合立中学校落成記念として実施
戦後は昭和28、31、34年と3年毎に奉納されてきましたが、以後は中止となりました。背景には、町村合併、経費問題、大所帯をとりまとめていくことの難しさ、宮座制の運営をめぐる問題などがあり、昭和34(1959)年の奉納を最後に途絶えます。
 復活の機運が高まってきたのは、1970年代の滝宮念仏踊りや佐文綾子踊りの国無形文化財指定に向けた動きです。
昭和48(1973)年秋、四国新聞社による「讃岐の秋まつり」に坂本念仏踊が有志で略式参加
昭和49(1974)年 飯山中学校落成記念行事に出演。
昭和55(1980)年 飯山町文化祭に特別出場
このような中で、坂本念仏踊りへの誇りと関心が高まり、後世に伝えてゆく必要があるという声が生まれてきます。こうした動きを受けて、昭和56(1981)夏に、保存会設置が決まります。
 坂本念仏踊保存会規約を挙げておきます。
第一条 木会は坂木念仏踊保存会と称し、事務所を飯山町教育委員会内に置く。
第二条 本会はこの地方に往古より伝わる郷土芸能坂本念仏踊を民俗無形文化財として後世に残し伝えてゆくことを目的とし、 一般町民により組織する。
第二条 本会に下記役員を置き任期は三年とする。
会 長 一名  副会長 二名
会計一名 監事二名
世話人 若千名
第四条 本会に顧問若千名を置く。
第五条 本会は毎年役員会を開き、下記要項により協議の上実施する。
一 日 時  八月下旬の日曜1日間
一 町内各神社に奉納
第1年目 亀山神社、下坂神社、東小川八幡神社
第2年目 三谷神社、坂元神社、八坂神社
第3年目 滝宮神社、滝宮天満宮、日吉神社
ここからは、保存会規約によって次の神社に奉納することになっていることが分かります。
東坂元 亀山神社  三谷神社
川  原 日吉神社
西坂元 坂元神社  王子神社
真  時 下坂神社
東小川 八幡神社
下法軍寺 八坂神社
滝  宮     滝宮神社  天満神社
亀山神社の情報| 御朱印集めに 神社・お寺検索No.1/神社がいいね・お寺がいいね|15万件以上の神社仏閣情報掲載
亀山神社(丸亀市飯山町)から仰ぐ飯野山
しかし、実際に3年間やってみて、経費や負担面を考慮して、1984年からは、次のように改められたと飯山町誌には記されています。
①滝宮両神社には、寅、巳、申、亥の年に3年毎に奉納
②滝宮から帰って、町内の二神社を年回りに奉納する
こうして見ると坂本念仏踊りには、次の4度の中断期があったことが分かります。
①幕末~明治11(1878)年まで
②明治32年(1899)~大正2年(1913)まで
③昭和16(1941)年~昭和27(1952)年まで
④昭和34(1959)年~昭和56(1981)年
その都度乗り越えてきていますが、その原動力となったのは、次のふたつが考えられます。
A 雨乞い祈願のため
B 天皇即位・起源2600祭・中学校新築などのイヴェント参加
Aについては、高松藩へ提出した坂本念仏踊りの起源については「菅原道真の雨乞成就への感謝のために踊る」と記されていて、この踊りがもとともは、自らの力で雨を降らせる雨乞祈願の踊りではなかったことは以前にお話ししました。それが近代になると、「雨乞祈願」のための踊りと強く認識されるようになったことがうかがえます。度々、襲ってくる旱魃に対して、近代の人達は雨乞い踊りをおどるようになったのです。

4344102-55郷照寺
宇多津の郷照寺 唯一の時宗札所(讃岐国名勝図会)

最後に念仏踊りの起源について、私が考えていることを記しておきます
 坂本念仏踊りは、中世の郷社に奉納されていた風流踊りです。それが、江戸時代の「村切り」で、近世の村々が作られ、村社が姿を現すと、夏祭りの祭礼に盆踊りや風流踊りとして奉納されるようになります。現在の滝宮念仏踊りの由緒の中には、法然の念仏踊りに起源を説くものがありますが、これは後世の附会です。法然と踊り念仏は、関係がありません。
①踊り念仏は、空也によって開始されたこと
②踊り念仏は、その後一遍の時衆教団によって爆発的な広がりをみせたこと
③そのため高野山を拠点にする聖たちが、ほぼ時宗化(念仏聖化)した時期があること
④その時期に、全国展開する高野聖たちが阿弥陀浄土信仰(念仏信仰)や踊り念仏を拡げたこと
⑤讃岐でその拠点となったのが、白峰寺や弥谷寺などの修験者や聖達の別院や子院であったこと
⑥中世においてもっとも栄えていた宇多津にも、いろいろな修験者や聖達が集まってきた。
⑥彼らを受けいれ、踊り念仏聖の拠点となったのが郷照寺。この寺は今も四国霊場唯一の時宗寺院
⑧この寺が、中讃地区で踊り念仏を拡げた拠点
⑨坂本郷は飯野山の南側で、大束川流域の宇多津のヒンターランドになり、郷照寺の時宗たちの活動エリアでもあった
⑩彼らの中には、滝宮牛頭天王社(滝宮神社)の別当寺・龍燈院に仕える修験者や聖達もいた。
⑪彼らは3つのお札(蘇民将来・苗代・田んぼの水口)の配布のために、村々に入り込み、有力者と親密になる。
⑫そんな中で、郷社の夏祭りのプロデュースを依頼され、そこに当時、瀬戸内海の港町で踊られていた風流踊りを盆踊りとして導入する。
⑬中世の聖や山伏たちは、村祭りのプロデューサーでもあり、「民俗芸能伝播者」でもあった。

高野聖は宗教者としてだけでなく、芸能プロデュースや説話運搬者 の役割を果たしていたと、五来重氏は次のように指摘します。
(高野聖は)門付の願人となったばかりでなく、村々の踊念仏の世話役や教師となって、踊念仏を伝播したのである。これが太鼓踊や花笠踊、あるいは棒振踊などの風流踊念仏のコンダクターで道化役をする新発意(しんほち)、なまってシンボウになる。これが道心坊とも道念坊ともよばれたのは、高野聖が高野道心とよばれたこととも一致する。
聖たちは、村祭りのプロデュースやコーデイネイター役を果たしていたというのです。風流系念仏踊りは、高野聖たちの手によって各地に根付いていったと研究者は考えています。

P1240664
一遍時宗の踊り念仏(淡路の踊屋:一遍上人絵伝)

 どちらにしても、滝宮牛頭天王社(滝宮神社)の社僧達が村々に伝えたのは、時宗系の踊り念仏でした。それが、各郷社で祖先慰霊の盆踊りとして、夏祭りに踊られ、7月25日には滝宮に踊り込まれていたようです。
龍燈院・滝宮神社
滝宮神社(牛頭天皇)の別当寺龍燈院

 戦国時代に中断していた滝宮への踊り込みを復活させたのは、高松藩初代藩主の松平頼重です。その際に、松平頼重は幕府への配慮として、遊戯的な盆踊りや、レクレーション化した風流踊りに、「雨乞い踊り」という名目をつけて、再開を認めました。そのため公的には、「雨乞い踊り」とされますが、踊っている当事者たちに「雨乞い」の認識がなかったことは、以前にお話ししました。雨乞いのために踊るという認識がでてくるのは、幕末から近代になってからのことです。
      最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

念仏踊り 八坂神社と下坂神社 : おじょもの山のぼり ohara98jp@gmail.com

参考文献 明治に初期における坂本念仏踊りの復興 飯山町誌774P
関連記事

               日根野荘1 

和泉国日根荘(大阪府泉佐野市)は、研究者に取り上げられることの多いフィールドです。ここは公家九条家の所領でした。16世紀初頭、前関白九条政基が後柏原天皇の怒りをこうむり、4年あまりここで蟄居生活をおくります。
日根野荘2
日根野荘 大入地区の絵図(上の写真部分) 

彼が日野荘で体験したことは、初めて見聞きすることばかりで、興味をひかれることが多かったようです。ここに滞在中に村で起きたもめごと、農村の年中行事、紀伊の根来寺と和泉守護細川氏の二つの勢力のはざまで安泰を求めて苦悩する村の指導者たちの姿などを、政基は筆まめに書き残しています。これが『政基公旅引付(まさもとこうたびひきつけ』です。

日野荘3

『政基公旅引付」は『新修泉佐野市史 史料編』に注釈とともに現代語訳も載っているので私にも読むことが出来ます。日野荘の雨乞いや神社について、焦点を絞って見ていくことにしましょう。テキストは   日本の中世12   村の戦争と平和  141P 鎮守の森で」です。

日根野荘 風流踊り
洛中洛画図    風流踊り
日野荘の孟蘭盆行事を見てみましょう。
政基が入山田に下った最初の年、文亀元年の7月11日の宵、槌丸村の百姓たちが政基の滞在している大木村の長福寺にやってきて、堂の前で風流(ふりゅう)念仏を披露します。風流念仏とは、きらびやかな衣装を着け、歌い踊りながら念仏を唱えるものです。派手な飾り付けをした笠をかぶったり笠鉾をともなうこともありました。要するに盆踊りの原型です。
 13日の夜には船淵村の百姓がやってきて風流念仏を披露し、さらにいろいろな芸能も演じて見せます。どうせ田舎者のやぼったいものだろう、とたかをくくっていた政基は、思いがけず水準の高い腕前に、次のようにうなっています。

「しぐさといいせりふといい、都の名人にも恥じないものだ」

まんのう町諏訪神社の念仏踊り
まんのう町諏訪神社の念仏踊り(江戸時代後半)

翌14日には大木村、15日には菖蒲村がやってきて、風流念仏を披露します。注目されるのは、その翌日のことです。月が山の頂にのぼるころ、日野荘内の四ヵ村衆が荘鎮守の滝宮に集まり、そこで全員で風流念仏を踊っています。つまり惣踊りになるのでしょう。さらにそのあと、船淵の村人によって能の式三番と「鵜羽」が演じられてお開きとなります。ここからは次のようなことが分かります。
①戦国初期の日野荘では、盆行事として、四つの集落がそれぞれに風流念仏を演じるような「組織」を持っていたこと
②四つの集落は一堂に会して、披露するような共同性もあったあわせもっていたこと
③そのレベルが非常に高かったこと
女も修行するぞ!日本最古の霊場、大阪・犬鳴山で修験道体験 | 大阪府 | トラベルjp 旅行ガイド
犬鳴山七宝滝寺と七宝の瀧
天変地異の生じたときも、四つの村は揃って鎮守で祈祷を行っています。
 政基が日野荘に下った文亀元年は日照りでした。政基の日記には、梅雨のただ中であるはずの旧暦五月でさえ、雨が降ったのは七日だけで、六月のはじめには「百姓たちは甘雨を願っている」と日照りが続いたことを記します。それは七月に入っても変わりません。そこで、7月20日、滝宮で犬鳴山七宝滝寺の山伏たちか雨乞祈祷をはじます。
犬鳴山七宝瀧寺 | かもいちの行ってきました!
七宝滝寺の行場
七宝滝寺は役行者が修行したとされる修験の行場で、山伏の活動の拠点です。
三日のうちに必ず雨を降らせてみせよう、それでだめなら七宝の滝で、それで,だめなら不動明王のお堂で祈祷しよう、なおだめなら滝壺に鹿の骨か頭を投げ入れ、神を怒らせることによって雨を降らせてみせよう。山伏たちはそんな啖呵ををきったと記します。
犬鳴山 七宝瀧寺/イヌナキサンシチホウリュウジ(大木/寺) by LINE PLACE
      七宝滝寺の祈祷場 後には不動明王

 村の雨乞いの主導権を握っていたのは、山伏だったようです。
山伏の祈祷に四ヵ村の村人たちも参加します。祈祷を始めて三日目の7月23日の昼下がり、にわかに滝宮の上に黒雲が湧き、雷鳴がとどろいました。滝宮の霊験あらたかに雨が降るかと思われましたが、雲は消え、さらに五日間、晴れつづけます。それでも村人が祈蒔をつづけていたところ、28日の夕方近くになって、今度は犬鳴山の上空に黒雲が湧き、入山田中に待望の大雨が降ります。雨は入山田にだけ降り、隣の日根野村や熊取村には一滴も降らなかったと記します。翌日からは数日間雨が続き、なんとか滝宮の神も面目を保つことができました。
平成芭蕉の旅語録〜泉佐野日本遺産シンポジウム 中世荘園「日根荘遺跡」 | 【黒田尚嗣】平成芭蕉の旅物語
火走神社

 雨を降らせてくれた神様へのお礼をすることになります。
8月13日、四ヵ村の村人たちは滝宮(火走神社)に感謝の風流踊りを捧げることになります。船淵と菖蒲は絹の旗、大木と土丸の集落は紺の旗を押し立てて滝宮に参り、いろいろな芸能や相撲を奉納しています。村人たちが扮装して物真似芸や猿楽などを演じたようです。猿楽は政基の滞在している長福寺の庭先でも再演されました。その達者ぶりに政基は、「都の能者に恥じず」と、その達者ぶりに驚いています。ここからは雨乞祈願や祭礼も、荘園鎮守を核として4つの村が共同で行っていたことが分かります。
日野荘 火走神社
火走神社(和泉名所図絵)

 荘園鎮守(荘園に建立された神社)とは、どんな役割を担っていたのでしょうか。 
 荘園鎮守は、荘園が成立したときに荘園領主がみずからの支配を正当化するために勧請したものです。そのため勧進された仏神は、荘園領主を目に見える形で体現する仏神であることが多かったようです。例えば
①摂関家や藤原氏の氏寺興福寺を荘園領主とする荘園であれば、藤原氏神の春日権現、
②比叡山領であれば山王権現(日吉社)
③賀茂社領であれば賀茂社
が鎮守として勧進されるという具合です。
これらの神は外からやって来た外来神になります。いわばよそ者の神様です。この外来神だけを勧請したのでは、荘民たちは、そっぽを向いたでしょうし、反発したかも知れません。これは大東亜帝国の建設を叫ぶ戦前の日本が、占領下のアジア諸国に神道を強制し、神社をソウルや台北に勧進し、それまでの在地信仰を圧迫したのと同じような発想で、巧みな支配とは云えません。
 荘園に勧進された神々は、荘園領守の氏神とともに、その土地在来の神(地主神)があわせて祀られることが多かったようです。例えば比叡山の修行道場である近江国葛川(大津市)では、比叡山が勧請した地主神社の境内に、葛川の地元神である思古淵明神を祀っています。ここからは、地元民が信仰していた神々を荘園領主の支配イデオロギーの中にたくみに組み込んでいったことがうかがえます。

大木火走神社秋祭りの担いダンジリ行事 | 構成文化財の魅力 | 日本遺産 日根荘

日野荘の鎮守滝宮は、大木にある現在の火走(ひばしり)神社です。
滝宮という名前からも、七宝の滝のかたわらにある七宝滝寺と神仏混淆して一体的な関係にあったようです。七宝滝寺は、九条家の氏寺で、九条家の繁栄を祈願する寺です。七宝の滝は日根野をうるおす樫井川の上流にあり日根荘の水源にあたります。九条家は水源に、みずからの保護する寺院を建立すことによって、日根荘の開発者であり支配者としての正当性を目に見える形で示そうとしたようです。「水を制する者が、天下を制する」の言葉が、ここでも生きてきます。そして、その宗教的なシンボルモニュメントとして七宝滝寺であり、火走(ひばしり)神社を建立したということになります。
 水源にあることが人々の篤い信仰の裏付けとなっていきます。このように荘園鎮守と荘園の水源は、セットになっていることが多いようです。

日根神社
 
水源に建つのが火走神社であるとすれば、樫井川から引かれた用水の分岐点に立つのが鎮守大井関明神(日根神社:泉佐野市日根野)です。
日野荘 日野神社 井川
 井川(ゆかわ) 日根神社から慈眼院本坊前の境内を流れる。

 井川と呼ばれ、土丸の取水口から日野神社の境内に引き込まれ、そこからあちこちに分水されていきます。この用水が日根荘の中世開発に重要な役割を果たしたと考えられています。そして、水の取り入れ口であり、分水点に鎮守が建立されているのが日根神社になるようです。
由緒 | 日根神社公式
『和泉国五社第五日根大明神社図』江戸時代後期

このような用水路網と宗教施設の立地関係は、讃岐三野平野の高瀬川の用水路網にも見られます。

東国からやってきた西遷御家人の秋山氏は、高瀬川沿いの用水路整備を進める上で、その分岐点毎にに本門寺の分院を建立していきます。そして、その水回りのエリアの農民を檀家に組織しています。こうして「皆法華衆」という法華神と集団を作り上げて行きます。農業油水の供給を受けるためには、法華宗になることが手っ取り早い環境が作られていたとも云えます。
 また丸亀平野の満濃池用水路の主要な分岐点にも、庵やお堂などの宗教施設がかつてはあったことが分かります。そこでは、「お座」や「講」などの庶民信仰の場となっていたようです。水利権と信仰が織り交ぜられて日常化されていたのです。
田植え 田楽踊り
中世の田植え踊り
鎮守における祭礼は、農事暦と深い関係にあることは民俗学が明らかにしてきたことです。
農事暦で中世農村の年中行事を見てみると、 
①一年の農作業の開始と小正月(正月)
②田植えの開始と水口祭(四月)
③畠作物の収穫と孟蘭盆(七月)
④米の収穫と秋祭り(八月末もしくは九月はじめ)
⑤一年の農作業の終了とホタキ(十一月)
などは密接に関わっていることがうかがえます。
 入山田の滝宮で孟蘭盆に風流念仏が行われていたことは見ました。収穫の済んだ稲藁を積み上げて燃やし、来年の豊穣を祈るホタキも滝宮に七宝滝寺の僧を集めて行われていました。また日根野村の大井関明神では四月の水口祭が行われていました。山城国伏見荘(都市伏見区)でも、荘鎮守の御香官(現御香宮神社)で小正月の風流笠や九月初旬の秋祭りが行われていました。荘園鎮守で繰り返される年中行事は、 一年の農事暦と深くかかわっていました。このような立地状況や年中行事からも荘園鎮守は農業神としての性格を併せ持っていたことが分かります。それが住人の信仰に深く関わる源になります。
もともとは荘園鎮守は荘園領主の支配装置として設けられたものです。
それが時代が移り荘園領主がいなくなっても、荘園鎮守が存続し、祭礼がその後の引き継いで現在に至るものがあります。その背景には、鎮守社の二面性のひとつである農業神としての性格があったと研究者は考えているようです。
    荘園に勧進されて建立された「荘園鎮守」を見るときの参考にさせていただきます。感謝
    
    最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
  参考文献
    日本の中世12   村の戦争と平和  141P 鎮守の森で
関連記事

このページのトップヘ