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四国霊場根香寺 牛鬼はいつ、どのようにして生まれたの?

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根香寺にはゆかりの怪物がいます。牛鬼です。
今では、境内に立つブロンズの牛鬼像の方が、本尊の千手観音より有名だという話まであります。確かに、千手観音は秘仏で33年毎の開帳ですから・・・
さて、この牛鬼像には原型となった二つの絵があることをご存じでしょうか?それがこの絵図です。
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牛を思わせる頭部で、2本の角に鋭い牙と爪を持ち、全身は毛に覆われ、両脇には羽のようなものが描かれています。  この絵には右下に署名も、制作年月日も記されています。そこから文化五年(1808)に石田雪眼が描いたものとわかります。ただ、雪眼の経歴等は分かりません。

根香寺にはいつの頃からか次のような話が伝えられています。

400年ほど昔の戦国末期のことです。
牛鬼が根香寺付近に現れて田畑を荒らしていました。
弓の名手であった山田蔵人高清が討ち取ろうとしますが、
なかなか姿を見せません。そこで、根香寺の本尊千手観音に祈願したところ、とうとう21日目の満願の日に目を光らせた牛鬼を見つけることができました。
飛びかかってくる牛鬼に高清は矢を放ちます。
3つめの矢が牛鬼の口中に刺さり、牛鬼は悲鳴を上げて逃げました。高清が血の跡をたどっていくと、定が渕というところで牛鬼が死んでいました。高清は牛鬼を供養するために角を切り取って奉納しました。
退治した牛鬼の姿を掛け軸にしたのが、上の絵のようです。
そして、奉納された牛鬼の角も寺には、伝わっています。
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根香寺に伝わる牛鬼の角

牛鬼を退治した山田蔵人については

高松市塩江町の岩部に墓碑があり、文禄三年(1594)の年記が刻まれています。また白峯寺の住職・増真上人について記した「増真上人伝」(『香川叢書』)には増真の叔父と記されれて、天正・文禄・慶長頃の人で弓を得意としたことが伝えられています。実在した人物のようです。
高松藩家老の木村黙老の伝える牛鬼は?

「山田藏人の牛鬼退治」が根香寺の「公式見解」だとすると、もうひとつの話が記録に残されています。それは、高松藩家老の木村黙老が残した随筆『聞くまゝの記』に、寺の伝説とは別の話が次のように記しています。
文化年間(1804~18)の末頃、香西村の猟師徳兵衛が、根香山の谷川で眠っていた怪獣を鉄砲で撃った。海中にも住んでいた生物らしく、角に牡蟻の殼などが付いていた。高松藩士の久本某がその形を写して関西の博物学者に鑑定してもらったが、正体はわからなかった。
という内容です。
 根香寺に伝わる「角」も海から上がってきたことを思わせるものであり、伝説に比べると時代が近く内容も具体的で、こちらが事実に近いような感じがします。
 黙老は、同書に牛鬼の図も写しています。そこには、口角の牙がなく、手首の爪の描き方が異なるほか、足も蹄風ではなく五本指を描くなど寺に残る絵図とは違います。写し違いとも考えられますが、別の牛鬼図があった可能性もあります。

 牛鬼については、安永五年(1776)刊行の鳥山石燕著『画図 百鬼夜行』に三本爪に鋭い牙をもっだ牛鬼図が紹介されています。
伝説上の怪物を描くにあたって、このような図が参考にされたのかもしれません。
文化五年(1808)に石田雪眼が描いた牛鬼図は、今に伝わる根香寺の牛鬼の視覚的イメージを最初に作りだした作品と言えそうです。そういう意味では根香寺の「牛鬼の誕生画」と言えそうです。
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大正時代に描かれた牛鬼図

約百年後の大正時代末に描かれた「牛鬼図」です。

江戸時代の石田雪眼の牛鬼図をもとに、約百年後の大正時代末に描かれた「牛鬼図」です。体毛が薄くなりモコモコ感を余り感じなくなります。哺乳類から爬虫類への退化?、別の言い方だとぬいぐるみのかわいらしさが残る牛鬼から、悪魔のイメージへと変化して行ったような印象が私にはします。そして、背景に根香寺のシンボルで境内の大榛が描かれます。この寺と関連性が強く打ち出されてきます。
 作者である桃舟の経歴は分かりません。
しかし、この牛鬼図のほかにも、この寺に残る「根香寺境内図」や「良覚像二心」「浄心院像」(齢)を描くなど、大正時代末期に根香寺ゆかりの作品をまとめて制作したことが分かります。
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 現在の「ゆるキャラ」のように新しいキャラを生み出すことで「話題」を提供し、寺の知名度アップと参拝客の増加を図る戦略がとられたのかもしれません。
 200年前に生み出されたキャラクターが、今も人々に話題を提供し続けています。

参考文献 香川県立ミュージアム 調査報告書第4号(2012年)

この寺には、納経所の裏に五大明王堂があります。

恵峰さんと巡ろう 四国おへんろ|瀬戸マーレ vol.50

その内陣最奥の壇上に中尊不動明王を中心に、等身の不動明王と四天明王が横一列に並びます。
東方に降三世(ごうさんせ)
南方に軍荼利(ぐんだり)
西方に大威徳(だいいとく)
北方に金剛夜叉(こんごうやしゃ)
の各明王(みょうおう)の豪華キャストたちです。
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根香寺の四天明王たち

 明王は、明(みょう)(真言(しんごん)ダラニ)を唱えながら拝むと、霊力がアップすると言われます。どの明王も、救いがたい愚かな衆生を教化するため、いずれも光焔を負います。忿怒表情ですざましく、幾つもの手が武器を振りかざします。
あらゆる悪魔的な力を打ち破るため、怒髪(どはつ)天をつき、多面(ためん)、多臂(たひ)、多足(たそく)の非人間的な姿で表現されます。
 護摩の炎の中で極彩色の五大明王の目がぎらぎらと輝きます。
忿怒の怒りの表情に、思わずおそれ畏怖を感じます。
鎌倉時代の昔、この山深い根香寺の堂の中で、五大明王を前にして護摩(ごま)をたいて祈祷し、行場を廻る辺路修行を行う修験者たちがいたのです。

  これまで護摩堂の明王たちは、まず不動様が先に作られ、その後で四天明王が安置された考えられてきました。時期的には、不動さまが南北朝頃、四大明王が鎌倉時代とされてきました。「中世に遡る等身の五大尊像」として昭和44年には県の指定有形文化財を受けています。
 台座の構造劣化など寄る年月に明王たちも苦しむようになり、平成十六年より1年に一仏ずつ解体修理が行われました。その結果、不動明王像と四天明王の大威徳明王像から像内墨書や納入文書が見つかりました。
さて、そこには何が書かれていたのでしょうか?
また、そこから何が分かってきたのでしょうか。
真ん中の不動さまから、報告書にそって見ていきましょう。
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不動明王(根香寺)
顔は正面を向き、ほぼ直立して岩座上に立つ。
頭部は巻髪、萍書、左耳前に髪を緩り束ねて垂らす。
正面巻髪の間に、頭飾をあらわす。頭飾は、扇形の線帯に列弁文を重ねた花文で、冠帯はつくらない。
面部は、額に水波相をあらわし、両目は見開いて眼目し、
口をへの字に曲げて左牙を下出、右牙を上出する。
三道相。耳は耳孔をつくらず、耳采環状貫通とする。
左手はやや前方に出しながら垂下し、全指を曲げて祠索(両端に三鈷形と杏葉形の金具を取り付ける)を握り、右手は腎を外に張って曲げ、剣(刀身に樋を刻み、柄を三鈷形とする)を執る。条帛、裳、腰布をつけ、腕・腎・足に釧をつける。
光背 迦楼羅焔光            ’
台座 岩座 枢座 長方形
松平初代藩主頼重が、この不動明王に「霊験あれば示し給え」と祈念したところ、この不動がやおら立ちあがったという伝説が伝わります。それも「ほんまかな」と思えてくるお不動様です。

そして今回の解体修理で像内を開くと・・・・・・
背中や腰の内側には墨書がびっしりと書かれていました。
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根香寺不動明王の像内腰部墨書
何が書かれているのか・・ 
  奉造立等身不動明王
  夙聞大聖明王者大日如来教令輪
  身魔界降伏之忿怒尊也故現
   口口罪垢常念奇口
  覚位霊観夢依宿願集
  口(裏)因模尊鉢等生恵黄口(賞)
  口口平等利益敬白 弘安九年磐二月廿五日奉介御身
  ここには、不動明王が大日如来の化身であること、忿怒の形相の所以など、そのありがたさが書かれています。
そして最終行に弘安九年(1286六)の年号が見えます。
ここからこのお不動さんの制作年が鎌倉時代13世紀末と判明しました。この時期は、香川県の寺院建築で唯一国宝に指定されている本山寺の本堂が建設中だった頃になります。

   寺伝では、開基智証大師によって彫られたと伝わります。
しかし、前回も述べたとおりこの不動が創建時からここにあったは思えません。根香寺は、戦国末期と江戸時代前期に2度の大火にあって伽藍が焼け落ち、寺宝も失っています。智証大師像や毘沙門天さまと同じく、後からやってきた仏様と考えるのが自然です。
それでは、どこからやってきたのでしょか。
このお不動さんの由来を示す資料は、今のところないようです。
次に四天明王を見てみましょう。 まずはメンバー紹介から始めましょう。
降三世(ごうさんせ)明王像です
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      根香寺の降三世明王像
四面、八腎。顔は正面、左右両脇、後に各一面。
各面単髪、地髪マバラ彫り、皆、左右こめかみの髪際は炎髪。各面天冠台、紐一条に列弁文を重ね、正面に花飾を付す。馨の根元にも山型飾(背面を除き、紐二条を結ぶ)を付す。各面ともに天眼をあらわし、両目は眼目。上歯上牙で下唇をかむ。
三道相。耳は耳孔をつくり、耳采環状貫通。鼻孔をつくる。
左右第一手は屈腎して、胸前で左手を上にして手首を交叉して甲を重ね、第五指を絡めて第二指を立て他は曲げ、降三世印とする。
第二、三、四手は、第一手の後方の上中下の位置で屈腎し、各持物をとる。
左第二手は三鈷杵、第三手持物(弓)は亡失、
第四手は龍索、右第二手は五鈷鈴、
第三手が箭、第四手は剣を持つ。条帛をかけ、裳(右柾)をつける。裳の前裾は、大腿部を巻きこんで、左右脹脛を通って外へ翻る。腰布を巻いて正面で結ぶ。
左足は伸ばして大自在天の右胸を、右足は膝を軽く曲げて鳥摩妃の左手を踏んで立つ。左足の第一指を反らす。胸飾、腕・腎・足に釧をつける。
天座 岩座上に大自在天と烏摩妃を配する。大自在天は頭を左方へ向けて岩上に仰向けに横臥し合掌する。顔を正面に向けて目を見開き眉をしかめ、口を軽く開く。地髪は平彫、単馨を結う。条帛をかけ、裳、腰布をつけ、正面で結ぶ。 
烏摩妃は頭を右方へ向けて、右手を岩上について上体をささえて横臥し、左手は体側に沿わせる。
右足を大自在天の右足の上にのせる。
頭飾をつけ、地髪はマバラ彫り、髪を肩上でゆるく持ち上げ単馨を結う。髪髪をU字に垂らす。大袖の衣に鰭袖の衣を重ね、腰紐を結ぶ。
光背 輪光・火焔付 台座 岩座枢座 長方形
 降三世明王は、顔が3つ、手が8本で、足下に大自在天(だいじざいてん)とその妃の烏摩(うま)を踏んでいます。これは、欲望にうずく世界、物質にとらわれる世界、意識にこだわる世界の煩悩を降伏(ごうぷく)する明王と信じられています。この三世界の主である二天をも降伏することから降三世の名がついているといいます。

軍荼利(ぐんだり)明王像

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 一面、八腎。単馨、地髪マバラ彫り。
天冠台をつけ、紐一条に列弁文を重ね、正面に花飾を付す。
その根元に山型飾を付し紐二条がめぐる。
左右こめかみ髪際、耳後及び後頭部は天冠台上から炎髪をあらわす。各面ともに天眼をあらわし、両目は眼目。
上歯をみせ、牙を上出す。
三道相。鼻孔、耳孔をつくり、耳采環状貫通。
第一手は左右とも第一、五指をおって掌を内に向け、
胸前で左手を上に交叉する。
ほか三手は、第一手の後方の上中下段に配される。
左第二手は輪宝、第三手は三叉鉾、第四手は
右第二手は三鈷杵をとり、第三手は掌を前に第二指を上に立て、他の指は第一指を内に握り、第四手は掌を前に向けてひろげる。条帛をかけ、裳をつけて、その正背面に獣皮(各頭付、正面虎、背面豹)を重ね、腰布をまわして正面に花結びをみせる。
裳裾の翻る様は降三世に同じ。
獣皮正面では頭を下に向けた二匹の蛇が交叉する。
左足は伸ばし、右足は膝を曲げて軽く上げ、いずれも第一指を反らして蓮華座を踏む。
胸飾をつけ、頚元に二匹の蛇を絡ませ、各手に腎釧をつけ、
各手と足首に蛇が巻きつく     
光背 輪光・火焔付台座 岩座柾座 長方形
 軍荼利明王は、すざましいお顔に目が3つ、手が8本。
12匹の蛇が、脚・首・手に巻きついています。
軍荼利(甘露をたたえた瓶)の甘露で種々の障害を除いてくださるといいます。五大明王から私がすがる仏を選べと言われたら迷わずこの方を選びます。 

金剛夜叉明王像 

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三面、六腎。各単馨、地髪マバラ彫、
左右こめかみ上髪際と後頭部、耳後より炎髪をあらわす。
各面天冠台、紐一条に列弁文を重ね、正面に花飾、愕の根元に山型飾と紐二条を結ぶ。
本面は天眼と四目、左右脇面は天眼と二目、天眼のほかは皆瞑目。各面とも開口し、上歯牙と舌をのぞかせる。
三道相。本面は耳孔をあけ、三面とも耳采環状貫通。
鼻孔をつくる。
第一手左は腹前に屈腎して五鈷鈴を、
右は胸前に屈腎して逆手に五鈷杵をとる。
第二・二手は、第一手の後方上下に配して屈腎し持物をとる。
左第二手は輪宝、第三手は、右第二手は三鈷剣、第三手は箭をにぎる。条帛をかけて、裳(右粁)をつけ、腰布を巻いて正面で結ぶ。
裳裾の左右に翻える様は降三世に同じ。
左足を伸ばし、右膝を曲げて、前傾姿勢をとり、各蓮華を踏んで立つ。胸飾、腎・腕・足に釧をつける。
光背 鳶光・火焔付 台座 蓮華座岩座枢座

 金剛夜叉明王は顔が3つで、その中の中心の顔には目が5つあります。手は6本。金剛杵(しょ)の威力をもつ夜叉の意味で、人の心の汚れた欲心を食い尽くし、真実の悟りにいたらせるといいます。この明王の名前がつけられた有名な「戯曲」がありますね。

大威徳明王像

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六面、六腎、六足。各面単馨、地髪平彫り、左右こめかみの髪際と両耳後から、頭上面はさらに後頭部に炎髪をあらわす。
各面天冠台、紐一条に列弁文を重ね、正面に花飾を付す。
頭上面の馨根元に山型飾を付す。
各面ともに天眼をあらわし、両目は瞑目。
本面は開口(上歯牙・下牙)、左脇面開口(上歯牙・下牙)、右脇面閉口(上歯牙)。頭上正面開口(工歯牙・下牙)、左は開口(上下歯・上牙)、右は閉口(上歯牙)。
いずれも三道相をつくる。
本面と両脇面は耳采環状貫通、頭上面は耳采不貫とする。
耳孔はつくらない。左右第一手は胸前にて、各第三指を伸ばして相合わせ、他の指は組み合わせて掌を合わせる。
第二、三手は屈腎して、第一手の後方で上下に配し持物をとる。左第二手は三叉鉾、第三手は輪宝、右第二手は三鈷剣、第三手は如意棒をとる。
条帛をかけ、裳(右任)をつけ、腰布を巻いて、結び目を正面にみせる。裳裾は各膝頭を包みながら覆い、一部は左右足の前方に垂れ、後方では左右足裏から翻る。
左第一足を珈し、他は垂下して水牛の背にまたがる。
胸飾、腕・腎・足に釧をつける。
牛座 正面を向いて、鱒る。光背 輪光・火焔付
台座 枢座 長方形
大威徳明王は、水牛に乗っているので間違うことはありません。
一切の悪毒龍を調伏する大威徳のある明王です。六面・六臂(ぴ)・六足で水牛にのっていて、農耕の仏ともいわれ農民たちの信仰を集めました。
そして、「お宝」は、この大威徳明王像から発見されました。
この像内の背部からは貼付けた文書、牛座からは墨書と納入文書二種が出てきたのです。それを見ていくことにしましょう。
大威徳明王像一、像内背部貼付文書
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五大尊四鉢ノ内大威徳明王施主 
  松平讃岐守様也 
  昨者京七條大佛師 
  左京法眼康知弟子佐々木内近作之也
  康知(開山従定朝廿四世運慶より十九代孫也
  天和参歳抄三月拾日
  将運綱儀公  大佛師内近

  帝 今上皇帝
  右之御取次木食専心坊様也
  大威徳明王座像弐尺弐寸五分
  うしあり
ここから、四天明王は高松藩初代藩主松平頼重が護摩堂本尊として京都の仏師に作らせたことが明らかとなりました。その取り次ぎをおこなったのが「木食専心」であったとも記されています

 そのうち最後の大威徳像は天和三年(1683)に、京都七条大仏師康知の弟子である佐々木内匠の作であること、他の三像は大仏師久七の作でことが分かりました。そして仏師の住所も「綾小路烏丸東入丁大仏師久七」と分かります。この明王たちの「誕生地」を訪ねることも出来ます。

 ちなみに大仏師久七の作品としては、

万治三年(1660)の金剛峯寺真然大徳坐像と、寛文十三年(1672)長野県千曲市長雲寺の愛染明王坐像が確認できるようです。近世京都の仏師には全国のお寺から注文が入っていたことが分かります。長雲寺愛染明王像と根香寺降三世像を比べて、専門家は次のように指摘します。
顔の表現には相通じるものが感じられる。開口と閉口という差、また十年という制作時期の差があるが、頬骨を高くしてこめかみを引き締めた面相のバランス、目を瞑らして眉間につくる瘤、こめかみから立ち上がる炎髪と髪際の処理などの表現には、同一作者ゆえの傾向がみてとれるだろう。
根香寺の四大明王像は、東寺講堂の明王像に似ていると言われてきました。
東寺像と比較すると、手勢、持物に違いはありますが、動きや姿勢はほぼ同じです。東密の四大明王像をモデルにしているようです。それも、大仏師久七が東寺の「お抱え仏師」であったことが分かると「なるほどな・・」と合点がいきます。 
しかし、専門家は「降三世明王像は、東寺像と異なる様相」があると指摘します。
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根香寺の像は、体の色が群青色ではなく、右は黄、左は緑、背面は紅色と塗り分けて「派手」です。
降三世の四面の色を明記した経典としては
「金剛頂喩伽降三世成就極深密門」(不空訳)があります。そこには「降三世喩伽、二羽印営心、慧手持五鈷、努腎如下擬、次箭剣直執、定上五鈷鈎、次弓次執索、皆直引腎持四面正青色。右黄左緑色後紅、咸忿怒」と記されています。
体の色については「四面正青色。右黄左緑色後紅」とあり根香寺の降三世さんの方が「原典に忠実」です。他にも東寺像では、右足が烏摩妃の乳房を踏むのに対して、根香寺像は、烏摩妃が左手(掌を上に向けている)で受けていることがわかります。
 つまり、この像に関しては全て東寺像を「コピー」した訳ではないようです。
なぜ降三世は、独自色が強いのでしょうか?
専門家は、それを大威徳の次の墨書銘に求めます。
讃州右京大夫様/護摩堂之御本尊也」とあり、この四大明王の造立は、高松藩主初代松平頼重が護摩堂の本尊として発注した物であることが分かります。

そこで五大明王像の経緯を見ていきましょう 

まず根香寺に現存する史料から始めます。
 根香寺の近世期の縁起には「青峰山根香寺略縁起」及び「讃岐国根香寺記」があります。前者は五世俊海が、後者は第六世受潤が延享三年(一七四六)に著した物です。この両縁起には寺の創立由緒を智証大師とする意図が強くあると言われます。
例えば
「不動明王像も本尊千手観音像とともに智証大師の作である」
とします。前回に見てきたようにこれは歴史的事実ではありません。
今、見ておきたいのは近世期の根香寺の動向です。
「慶長年中には讃岐国主であった生駒一正により本尊千手観音像と不動明王像を拝顔して敬信し、二尊のために堂于を建て替えた」
といいます。そして高松藩主初代松平頼重が延宝年中に住持龍海へ命じて金堂、五大尊堂(護摩堂)、祖師堂、僧坊などを建立させ、降三世、軍荼利、大威徳、金剛夜叉の四明王を造立し不動明王とともに五大尊としたと記します。松平頼重が施主となって護摩堂本尊として造立したという銘記の内容と一致します。
 この寺の中興の祖とされる龍海については元文六年(1742)「浄行院龍海和尚伝」があり、それにも四大明王像は頼重の造立であると伝えます。ただし五大尊は「祈祷所本尊」であり、二代頼常によって根香寺へ移されたとします。
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また天保四年(一八三三)の「青峰山根香寺由緒等書上控」に、
不動明王は「智護大師之真作、殊二霊威新故、御下屋敷江御勧請(延宝年中)三間二五間之護摩堂御建立有之、御安置候而」と記されています。
根香寺にあった不動明王が、頼重の下屋敷に建てられた護摩堂に安置されたことが分かります。
さらに「由緒等書上控」は
仏工「法橋治部」に命じて降三世など四大明王を造らせて五大尊とし、龍海と了尊の2人に預けた」
「国家安全御武運長久」のため、長日の護摩供、正、五、九月は百座の護摩修行を仰せ付けられた」
「頼重没後の元禄年中に、二代頼常が五大尊を根香寺へ移した

と記します。
 下屋敷とは、頼重が居住した宮脇の下屋敷と考えられます。
先ほどの「龍海伝」にいう「祈祷所」とは、この下屋敷護摩堂を指すようです。頼重自らが下屋敷に護摩堂を建立し、根香寺から移した不動明王像に、京都の仏師に依頼した四大明王を加えて五大尊として祀り、国家鎮護のために護摩法をさせたということになります。隠居後にもかかわらず頼重は、自分が祈祷するための環境を、日常寝起きする下屋敷内に整えたということです。つまりプライベートな祈祷環境を整えたのです。彼は、そこで日常的に祈祷を行っていたのかもしれません。頼重の信仰世界が少し見えてきたような気もします。
   どちらにしても、これは金毘羅大権現保護や仏生山建立などの寺院保護や再興の域を超えています。頼重が根香寺のお不動さまに強く惹かれたことは事実のようです。
下屋敷に五大堂を建て祀ることを進言した宗教的指南役は?
そのプラン全体を考えたのは誰か。
牛座内の納入文書等には「此御本尊御取次木食専心様」とあります。頼重の宗教的ブレーンは「木食専心」のようです。しかし、今の段階ではこの人物についての資料は見つかっていないようです。降三世像を東寺講堂像のモデルからグレードアップし、四面の色、持物を「原典」通りにしたのは、五大尊の「霊力アップ策」だったのかもしれません。
 どちらにしろ江戸時代を通じて、密教系の加持祈祷・護摩が頼重に見られるように支配層の上層部の信仰心を捉えていたことが分かります。根香寺の四大明王は、鎌倉時代の不動明王に祈りを捧げるようになた頼重が京都の仏師に作らせ下屋敷に安置したものなのです。

参考史料
香川県立ミュージアム 調査研究報告第4号 根香寺の彫刻調査
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本堂の毘沙門天立像はどこから来たの?

県立ミュージアム調査研究報告第4号(2012年)は、根来寺の総合調査報告です。仏像については、本尊の秘仏千手観音像(重要文化財)と仁王門の仁王像をのぞく、本堂三件、大師堂五件、五大堂四件の調査が行われています。
さて、専門家が書く仏像の調査報告書というものはどんなものだと思いますか?
この調査の中で一番古いとされた本堂の毘沙門天立像についての報告書を、写真と見比べながら見てみましょう。  
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本堂の毘沙門天立像

兜をかぶる。頭頂に宝珠をおく。
顔はやや左方に向き、目は眼目して見開き、口を閉じる。
上半身に大袖、鰭袖の衣をまとい、下半身に裳、袴を着け、沓をはく。
頚当、胸甲、龍手、脛当、全身に表甲を着る。
胸甲は、二重線帯で縁取りの楕円形、
背面にまわる表甲から太めの帯がのびて胸甲と連結する。
表甲は、背面の背と腰から、正面の大腿部を包み込む。
表甲は、正面中央にて右椎し、その上に前楯を重ね、甲締具でしめる。
表甲の下縁は、直線的に背面に連なる。
なお、背面には獣皮をかけない。
腰帯に帯喰(巻髪、髭あり、上下牙、歯をみせる)をつけ、
前楯上部は円形、下端は長方形なだらかに垂下し、翻転なし。
腰帯は捻りながら腰をまわり、天衣をまわしかける。
左手は屈暫し宝塔をささげ、右手は高く挙げて三叉戟を執る。
左足に重心をおいて、身体は穏やかな動きをとり邪鬼を踏まえて立つ。 
邪鬼は開口する。                         光背 火焔付輪光、柄付台座 長方形振座、岩、邪鬼
この文章だけを読むと、素人には何のことか分かりません。
しかし、写真と見比べながらひとつひとつの部位を確認していくと、専門家が仏像を見るポイントがどこにあるのかはなんとなく分かってくるような気もします。
あくまで気持ちだけですが・・・。、
仏像を頭から足先まで各部位や着衣、形体などを単文でコンパクトに記していきます。ある意味「機械的」です。
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この毘沙門天立像はもともとは「四天王像のうちの多聞天像」?

 この報告書では、本堂の毘沙門天立像はもともとは「四天王像の多聞天像」ではなかったのかと指摘します。多聞天像は、兜をかぶり、左手で宝塔を捧げ、口を閉じているスタイルが平安時代中期に定着します。また、うごきがが穏やかで、各部の彫りも浅く、裳裾にボリュームをもつ姿も、平安時代中期の和様化か進められた四天王像に通じるようです。
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 また、眉間の瘤、瘤の左右から上方へ皺を刻むという表現方法も、東寺講堂像や六波羅蜜寺像の多聞天と同じ表現です。ただ腹部が絞られて肉感が押さえられて少々スマートな感じや、着甲の表甲、下甲の正面合わせ目の作り方に甘さが出てきているので、時代はやや下がり十世紀末以降とします。 つまり、この仏はもともとは独尊ではなく四尊セットの四天王の一人だったと多聞天ではないかとその「出自」を推測します。  

ここで、私が疑問に思ったのがこの寺の由緒書や(『南海通記』)の記述です

そこには天正十三年(1585)の長宗我部軍の侵入により、ほとんどの堂宇および仏像、寺宝が焼失したと書かれています。その2年後の天正十五年に生駒氏が讃岐国に入り、生駒一正により慶長年間に寺領寄進と復興が行われます。「根香寺記」「略縁起」「由来」「翁嘔夜話」等)。
 そして、本格的な復興が行われるのは、水戸からやってきた松平頼重の時代です。頼重は、当時真言宗であった根香寺を天台宗に帰宗させ、京都聖護院宮の末寺とし、寺内各堂宇の新造や道具類の寄進など再興に力を注いだとされます(「根香寺記」「略縁起」)。
 しかし、享保三年(1718))に再び大火災に見舞われ、堂宇や生駒氏領知宛行状、縁起等を失ったといいます。その後、宝暦期になってから五代藩主頼恭による大規模な再建が行われたことが寺伝来棟札などから分かります。現在の根香寺の原型は、この時に作られたようです。
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 解体修復以前の毘沙門天立像
さて、天正と享保の2度の大火を経て、仏像は残ったのでしょうか?
特に享保の大火は一番に持ち出すべき、生駒氏の領知宛行状や寺の縁起まで失っています。本尊やその他の仏像類は況んやです。
全てが焼け落ちたと言われるのに「毘沙門天立像」があるのはどうしてでしょうか
  この像以外にも先日紹介した開祖智証大師(円珍)像も、その像底に元徳三年(1232)の年号が入っています。これも焼けずに残ったと考えるのは不自然です。
私の郷土史の師匠の言葉によると「仏さんがもともとからそこに座っていたとおもたらいかん。
仏さんは、後からやってくることもある。」
というのです。
つまり本殿の創建時からいた仏と、あとからやってきた「伝来仏」の2つがあるのです。
四国霊場などには近世以後の寺の隆盛とともに、周辺の廃寺となった寺から幾つもの仏が集まってきて、そのためのお堂が建てられるということが起きてきます。仏もお金のあるところに集まってくるのでしょうか? 仏像が「歩く」とすれば ・・
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 讃岐国分寺から根香寺へ移されたと伝えられる如来形立像

根香寺の毘沙門天立像は、どこからやってきたのでしょうか。

『下笠居村史』(昭和三十一年)には、この仏像は「祖師堂安置」と書かれています。しかし、今は本堂に安置されています。
この寺の住職が書いた「青峰山根香寺記」には「大師開基時 安多聞天像 今所存像是也」とあり、智証大師がこの寺を開いた時に「多聞天像」を安置した。それが現在の「毘沙門天」だと記します。
毘沙門天像は根香寺創建期以来のものとしますが、もともとは多聞天像だったというのです。
それに対して、増田休意編の「三代物語」明和五年(一七六八)には、天正十三年(1585)の兵火により本尊千手観音像及び諸仏像、経巻、什物や曼荼羅とともに灰煌に帰し、わずかに残るのは法華経と弘法大師の袈裟のみだった。そこで本尊千手を根香と白峯の間にある吉水寺から移した」と記され、さらに、この毘沙門天も「吉水寺四天王之一也」と記しています。
  この記述と、先ほど見てきた「この仏はもともとは独尊ではなく四尊セットの四天王の一人」だったという説は補完しあいます。
ちなみに吉水寺は根香寺近くにあった寺で、根香寺、白峯寺などと同じ霊木で彫った仏像が安置されていたと伝えられます。江戸時代には廃寺となっていたようですが、先日紹介した「根香寺古図」にも縁の深い寺として創建時の景観の中に描かれています。
以上から次のような推論ができます。
①根香寺の本尊千手観音(重文)と毘沙門天立像は、吉水寺にもともとはあった。
②中世末までに吉水寺や根香寺も衰退した。
②江戸時代になって松平頼重によって、寺内各堂宇の新造されその際に、吉水寺の仏像類が根香寺に移された。
しかし、これに対しては次のような疑問が投げかけられることが予想されます
① 天正十三年の兵火で根香寺は焼け落ち全てを失ったというのに、近くにある吉水寺は難を逃れたというのか?
② 松平頼重の復興事業の中で吉水寺から仏像が移されたのなら享保三年(1718)の再度の大火災では、どうして焼失しなかったのか? 


   根香寺の毘沙門天立像は何者なのでしょうか?
 謎の多い仏です。
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近世百姓の生活はどのようなものだったのでしょうか。 

中世は絵画といえば、西洋と同じで仏画や宗教画が中心でした。
庶民の姿が描かれることは殆どありませんでした。しかし、西洋では近世になるとフィレンツェでは大富豪の依頼に基づいて肖像画が描かれ始めます。そして、ネーデルランドのアントワープでは、大商人がパトロンとなり自らの生活を描くことを画家に求めるようになります。
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ブリューゲルの農民の踊り
ヴァン=ダイクらは油絵によってキャンバスに富豪の生活を描き、それらは発注者である中産階級の居間の壁に掲げられたりするようになります。さらに進んでブリューゲルは中世の画家たちが「貧しく猥雑」として見向きもしなかった農民たちを描き始めます。絵画に描かれる対象がぐーんと広がったのです。
 同時期の日本でも、その流れは安土桃山時代を境に大きく転換し、現世の風物や人間を描く世俗画が描かれるようになります。農村もまた描写対象になり、一双の屏風に農村の四季を描く「耕作図屏風」や絵巻物形式の「耕作絵巻」が作られるようになるのです。その中の代表的な作品「豊年万作の図」を眺めていて楽しくなってきましたので紹介したいと思います。

「豊年万作の図」 作者は浮世絵師 歌川貞吉です。

「歌川貞虎‐1豊年万作の図」の画像検索結果
     「豊年万作の図」原図は3枚続きです。

 「豊年万作の図」は、農業を教える教養画とされ、農業を知らない町方の商人たちの「教養絵巻」の役割も果たしたようです。そういう意味では、今私たちが見ても、近世百姓の稲作農業を知るのに役立つ絵図と言えます。
原図は3枚続きです。右の方から見ていくことにしましょう。

1 右上図 まず、右側は春から夏の農作業が描かれています

「 豊年万作の図 歌川貞虎」の画像検索結果
  ①モミ乾し ④苗を運ぶ男 草取りをする女 

画面の上方には富士の雄姿が見えます。富士山は五穀豊穣を司る神の象徴として、江戸の浮世絵農耕図には定番だったそうです。讃岐ならば飯野山や羽床富士などのその地域の富士山が描き込まれたことでしょう。
ここには、稲荷神社と大きな倉が3つ並んでいる庄屋の家が背景に描かれています。この絵図の発注者の館かもしれません。
①作業のスタートは上段右の「もミを日にほす絵」で、赤子連れの夫婦が俵を開け広げるところから始まります。水に漬けておいた種籾を日に干して発芽を促します。
④苗取りの上には、苗を運ぶ半裸体の男がいます。

2 右下図 モミまき 苗取り 代掻き

「 豊年万作の図 歌川貞虎」の画像検索結果
②種籾干しの次は、その下の男が[たねをまく(種を蒔く)図」です。
③そして、左の「苗取の図」へとコマが移動します。
⑤飯椀を頭に乗せ、薬缶をもった女性があぜ道を行く姿が大きく描かれます。その先を行く子どもは先導しているのでしょうか。この後、昼食か小休止になるのでしょう。
 絵巻物と同じように、同一場面に異なる時間推移が描かれます。
現在のマンガのコマ割りとは少し違いますので、最初は違和感があるかもしれません。

3 中央下図 代掻き 千羽漕ぎ 俵詰め

「 豊年万作の図 歌川貞虎」の画像検索結果
⑥その左に手前の本田では、馬に引かせて代掻き作業が進みます。
 馬の轡に結ばれた手綱を引くのは子どものようです。一人前に馬を誘導しています。子供も大切な働き手だったことが分かります。
⑦代掻きの隣は、千羽漕ぎを使う女性が描かれています。
⑧その上には俵詰め作業です。
⑦⑧は秋の収穫シーズンの最終工程です。
その間の行程はどこに?

4 中央上図 田植え 草取り 踏み車

関連画像
この間の夏の行程は中央奥に描かれています。
⑦苗代で苗が育ち、本田の代かきが終ると、いよいよ田植えです。
 横一列に並んだ早乙たちの田植え姿が遠望できます。その上には高く鶴?か鷺が舞っています。稲がもっとも水を必要とするのは、苗の育つ田植えの時期と穂に実が付く彫刻み期です。だから、田植えはちょうど雨の多い梅雨に合わせて行われました。
⑧田植え後は田の草取りと田水の調節に作業の中心は移りますが中心的な作業となります。④の苗運びの半裸の農夫の向こうで、水田に入って農婦が腰をまげているのは草をとっているようです。除草は、一番草、二番草、三番草と何回もやらなければなりません。
⑨ 田植え作業の左には、踏み車による田への水取り作業も描かれています。これもも暑い夏に向かっての野良仕事でした。

一番左の絵図には、稲の実りから収穫が描かれています。

 刈り取られた稲は農家の庭先で脱穀作業に掛けられます。詳細に農具が描かれています。
「稲をこく図」では千歯扱き、
「もミをうつ図」では唐棹、
「もミをする図」では石臼。
図がかすれて見えにくのですが「ミにてふく図」では箕が使われています。
しかし、籾殻と玄米を選別する「唐箕」は見あたりません。
「3 中央下」で見たように俵詰めされた玄米を蔵に納め、春から続いた米作りが終わるのです。

ちなみに最終段階の「御上納米拵え」は、千羽漕ぎは女性が担当していたことが分かります。脱穀作業も明らかに女性がリードしています。これは、稲刈りが男ないしは男女共同であったことと対照的です。どうも西国・東国を問わず、この仕事は女性が上手だったようです。同時に、男尊女卑が強まる明治以後よりも女性の役割が大きかったことがうかがえます。
 「豊年万作の図」は蔵入れの図で終了します。
こうしてみるとこの絵図が「農作業の絵解き図」であったことがよく分かります。
 江戸時代のお寺のお坊さんが、文字が読めない庶民に「地獄絵図曼荼羅」を示しながら地獄のイメージを植え付けたように、この絵図でコメ作りの概要を知ることが出来たようです。そういう意味ではよくできた「教材」と言えます。

この絵図を当時の文字資料と突き合わせってみましょう。

絵図の書かれた加佐郡西部(現京都府)の山八川流域村々の事例を見てみましょう。ここには同時期の各村から大庄屋(上野家)宛に提出された報告書が残っています。例えば「豊年万作の図」の第一場面だった種籾関係の記事を探すと、
三月二二日に「種そろへ(種揃え)、池へ付く(浸く)」
とあります。種籾の池への浸種は、発芽を促すためのもので、田植え予定日(5月の夏至)から逆算して53日前までに行うのが決まりで、それが3月22日になります。
 三週間ほどの浸種の後、 日に干して苗代への種蒔きとなります。こちらは田植えから30日前の4月22日前後になります。そして、5月12日から田植えが始まります。田誉え初日のあらましは次のようです。ちなみに、文中の暦は旧暦ですので一月ほど遅くなります。
5月11日 (男は)前日に胆き聯した田を彰で均す。女は植付けをする。植えた傍へ柴肥(しばごえ)をどっさりと入れる。植え始めの日を「さひらき(早開き)」といい、苗二把を洗い、神酒とともに明神に御供えする。
「豊年万作の図」でもそうでした、田植えは女性の役目でした。
肥料として柴肥(低木の若葉)を大量に投入することにも注目しておきましょう。これが草刈り場の入会権の問題として、後々重要なポイントになります。

 当日の作業終了後、豊作を祈願して苗二把と神酒を氏神社の熊野神社に奉納します。田植えはこの日から一週間、早稲・中稲・晩稲の順に進められます。田植えの終了日は、田の神が昇天する「さのぼり」と呼ばれ、苗三把と神酒を明神に奉納します。田植え後の中心作業の草取りは、6月に始まり7月25日の盆の頃まで続きます。農作業が神事と結びついているのもポイントです。

 これも「豊年万作の図」には描かれていませんが、主に女性の行う「下木刈り」も大切な農作業でした。村山に生える柴や草の刈り取りで、7月5日に始まり20日間ほど続けます。これらを腐らせて作った肥料は、二毛作の麦作り用の肥料として使われました。すでにこの時点から、秋の麦作りの下準備が行われているのです。

一枚の絵図から色々なことに合点がいくようになります。
同時に新たな疑問も沸き出してきます。
私にとっては下草刈りの意味がそうでした。
それは、また別の機会に・・

参考文献 水本邦彦 「村 百姓達の近世」 岩波新書













  

どうして明治になって五重塔が建てられたのか

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解体修理が終わった本山寺の五重塔 スリムな印象を受けます
 
 本山寺の五重塔は、三豊平野の中にすくっと立ちランドマークタワーの役割を果たしてきました。遍路道を歩いてくると大和の古寺巡礼のように平野のただなかに立ち、古色蒼然として立派に見えます。本堂が鎌倉時代の国宝建築ですから「五重塔も鎌倉時代のものです」と言われても素人の私は「ああそうですか」と応えてしまいそうです。しかし、この塔の建立は明治43年3月(1910)の造営で約百十年前のものです。後で訪れる善通寺の五重塔のと建設期間は重なる部分があります。
 建設時期を聞いただけで、多くの疑問点が私には涌いてきます。

同時期に建立された善通寺の五重塔は、難産の末

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 幕末から明治にかけて建てられた善通寺の五重塔 

以前に、このブログに述べたとおり、善通寺の五重塔の建立は、明治維新を挟んで発願から完成まで62年がかかっています。資金不足に見舞われ、工事が度々中断するのです。勧進をしながら資金を集め、建設を再開し、資金がなくなると中断ということが繰り返されます。
 例えば1882年(明治15年)に五重上棟が上がって以後は、17年間ストップします。塔の一番上に載せる青銅製の相輪を発注する資金がないのです。そのため相輪がないままの姿で、その間放置されます。勧進等によって資金が集まり、相輪が載せられて完成するのは1902(明治35年)のことです。善通寺という末寺を幾つも持つ大寺でさえ五重塔建立というのは大変な事業でした。
 その善通寺の苦労を身近に知りながら、本山寺が三豊に新しく五重塔を建てようとしたのはすごいと思います。
これを勧めた住職さんとは一体何者なのでしょうか?
私の第1の関心は、そこにありました。
 五重塔内部を見学して下りてきた時に、参加の質問に答えていた研修者らしき女性に、次のような質問をぶつけてみました。
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「善通寺の五重塔建設が難渋するするなかで、建設しようとしたのはどうしてですか?」
 すると彼女は次のように応えてくれました。
「住職さんの人柄と熱意による所が多いのではないでしょうか。当時の住職は頼富実毅(よりとみじっき)です。この人について残された資料に当たって見たのですが、この人の存在が五重塔建立に大きな役割を果たしていると思うようになりました。この人なしでは、この五重塔は生まれなかったのかもしれません。」と話してくれます。

この女性が整備委員会委員長の建築家・多田善昭氏の娘さんで、整備委員会の事務局的な役割を担っている方であることを後で知りました。

住職の頼富実毅(よりとみじっき)とは何者なのでしょうか?

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 境内の中に祀られる頼富実毅像
彼は幕末、ペリーがやって来る7年前の1846(弘化3)年に香川県さぬき市富田南川で生まれます。生まれながら盲目だった実毅は、幼い頃より遍路として四国巡礼を重ねていたようです。そして、四国五十九番伊予国分寺を巡礼後に、突然に目が見えるようになったといいます。その恩に報いるため、仏門に入り堂宇の復興を志すようになります。
 11歳で出家し、佐伯旭雅,雲照,竜暢に師事します。後には、大坂に書塾をひらいていた讃岐出身の藤沢南岳の元でも漢学や書を学びます。その後、高野山で本格的な修行を重ね、僧侶としての名声を高めていきます。彼の高野山での業績のひとつは、明治期の高野山大学の創立に尽力を尽くしたことがあげられます。
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 「当山中興の祖 大僧正実毅像」と刻まれています

高野山時代に五重塔建設の認可を得た頼富実毅

 同時に、彼は初志通りに高野山で五重塔を建立する計画を進めます。五重塔の建設というのは、江戸時代以前は自由に寺院が造れるものではありませんでした。皇室の許可を得て、初めて建設が可能になったのです。例えば幕末から工事が始まった善通寺の五重塔は、皇室からの建設許可を得て工事が始まった最後の塔のようです。
 明治になってからは、国の認可が必要でした。
頼富実毅は、明治政府との多岐にわたる交渉の末に建設認可を得ていたようです。そのような中で、かれは故郷の讃岐の本山寺住職となるのです。彼は国の五重塔建設認可状を胸に抱きながら三豊の地にやって来ます。そして、五重塔をこの地に建立していくのです。
 末寺もない地方の寺院が五重塔を建立するというのは無謀にも思えます。

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五重塔建設を可能にしたものは何だったのでしょうか?


 それは「人の輪(和)」であったようです。
まず、本山寺の檀家集団でした。新しく高野山からやってきた住職の人柄や深い知識に強い信頼感を抱いていったようです。そして住職の五重塔建立という「初志」に理解を示し、全面的な協力を行って行くようになります。
 今回の平成の改修も、その費用は4億円と言われます。
この五重塔は国宝でも重文でもないので国や県からの補助はありません。これを、地方の一寺院が負担するというのは並大抵で出来ることではありません。それをやり遂げたという背景には明治の建立の時と同じく、檀家集団の理解と協力なしでは考えられないことです。
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 本山寺の「般若の風」と地域や檀家との結びつき

この寺では、大般若経六百巻が村回りをしていました。大船若緑六百巻を全部読むことはできませんから「転読」します。「転読」というのは、六角経蔵、あるいは八角経蔵をぐるぐる回すことです。チベットでもお経を回す信仰があります。お経を一巻一巻広げて転がして、十人なら十人の坊さんが並んで、それぞれ三行か五行ずつ読んでいくのがかつての日本の転読でした。折り本の先を扇形に開いて、片方からサラサラと広げては、その間に七行、五行、三行と読んでいきます。それが悪魔払いだとされて、般若声といわれる大きな声で机をたたいて読んでいくことが行われていました。

本山寺では、戦前まではお経を担いで村を回る「般若の風」が行われていました。
これも村を回ってお経を読むのですから広い意味では「転読」です。しかし、全てのお経を持って行くのは大変なので、住職が理趣分という四百九十河巻のうち一冊だけもって七五三読みで読みます。大般若の箱を担いで歩くのは村の青年たちです。村を一軒一軒回って転読します。それを「般若の風」といって、風に当たれば病気にならないという信仰がありました。そういう村の家々との関係や檀家との関係を大切にしてきた伝統が、この寺にはあります。そして、今でも住職さんは檀家との関係を非常に大切にしていると周りの人たちはいいます。
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建設費は、どのように集められたのでしょうか?

  江戸時代以後に盛んに行われていた「講」システムが活用されていたことが分かってきました。整備委員会では将来の国の重文指定に備えて、建物だけでなく五重塔建立に関する文書類の保存・整理も平行して行ってきました。その結果、寄付金を「講」という形で西日本全域に呼び掛けていることが分かる文書類が出てきたのです。資金を提供した「講」の責任者の子孫を訪ねて島根や鳥取方面にも出向いて確認したといいます。
 丸亀港の太助燈籠が江戸の商人たちの「講」で建設されたのは、よく知られています。その後、幕末から建設の進む金毘羅山の旭社や善通寺の五重塔も「講」システムを使って、全国の信者に喜捨を呼び掛けています。そのシステムが、本山寺でも使われたようです。
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 しかし、このシステムが機能するためには、いくつかの条件が必要です。例えば「知名度」です。金比羅さんや善通寺は、全国的な知名度という条件をクリアするかもしれません。しかし、「本山寺」はどうでしょう。「四国霊場」という枕詞が付けば少しは、上がるかもしれませんがクリアという訳にはいかないのではないでしょうか。
これに関して、住職の頼富実毅自身が山陰などにも足を運び、各地の講で法話を行い、資金集めに尽力したことが残された文書からも分かってきました。彼は、当時は権(ごんの)大僧という立場でしたが遠方に出向くことも厭わなかったようです。
 このような尽力の結果、善通寺の五重塔が明治維新の混乱を挟んで62年の歳月を経て難産の末に完成したのに対して、本山寺は14年で完成するのです。

  どんな棟梁が腕を振るったのですか

  頼富実毅住職は高野山の人脈を通じて、小豆島の宮大工の棟梁を紹介されたようです。 整備委員会委員長の建築家・多田善昭氏は、宮大工・平間美能介の子孫を訪れた際のことを次のように記しています。
本山寺五重塔解体・保存修理を進めていく中、当時の住職 頼富実毅住職と平間美能介・勝範棟梁との想像を越えた情熱と斬新さを感じていました。
 長田住職とともに、曾孫さん夫婦とお子さんたちを訪ねました。福岡市中央区渡辺通にて桜もち、おはぎ、きな粉もちなどを手作りされている「平間まんじゅう店」の店舗やお座敷には、かつての大工棟梁の作品も大切に飾られていました。
百年以上大切に資料を保管されていたこと、偶然にも工事の事を知り、またすぐに連絡をくださったこと … よいご縁が重なっていきます。
… 今回、五重塔含む社寺建築物や洋風建築物の図面を見せて頂いたことで、良いものをつくる前向きで挑戦的な強い意志を改めて感じました。謎の多かった木部接合の工夫に関しても、納得できる部分がありました。 

  平間美能介棟梁は、この五重塔の建設の後は大阪を中心に活躍するのですが、残した建物の多くは大型の洋風建築部であったといいます。宮大工としての技量を活かしながら、それを様式建築に活かしていく才能と開拓心を持っていたようです。

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 整備委員会委員長・多田善昭氏のスライドより
 
こうして、こんもりした本山寺の境内の森の中に五重塔が姿を見せるようになります。五重塔は、明治29年(1896年)の着工から14年の年月をかけて完成します。
塔が立ち上がっていく様子を見ておきましょう
明治二十九年 八月に着手、
  三十一年十一月第一層、
  三十三年 九月第二層、
  三十六年二月第三層、
  四十三年三月第四層、第五層が落成。
明治36(1904)年からは、一時的な中断もあったようです。それは日露戦争が勃発したからです。戦争遂行と戦後の混乱のために中断期が生まれたようです。しかし、日露戦争後は戦勝碑が各村々に建てられていくように、五重塔の建立についても追い風となったようです。時運も塔建立に一役買いました。

落慶法要には5万人が集まり、塔の歓声を祝ったといいます。
三豊に初めて姿を見せた五重塔は多くの人に「誇り」を抱かせると共に、陸のランドマークタワーとしての役割を果たすようになります。総工費は十万百十一円二十二銭七厘。棟梁は、前述したように平間美能介勝範と多田寅市です。

本山寺五重塔 江戸と明治の建築技術の共存

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この五重塔の建立年代は明治です。そのため江戸時代から引き継ぐものと、明治の近代的な要素の二面性が見られると専門家は指摘します。
 懸垂構法の心柱、各階に床を張り参拝者を登らせる仕組み、装飾的な組物などは、いずれも江戸後期に生み出されたものです。
一方、木部接合の工夫として尾垂木はボルトで固定されていることが分かりました。旧軍施設などの洋風建築にも生かされた、いかにも明治建築らしい技といえます。
 
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 また、五重の小屋組から賞で吊られた心柱は、地面まで伸びず二重の床で止まっています。そして心柱の底には大量の「経石」がでいっぱい入った「重量箱」が取り付けられていました。「経石」は参拝者や「講」のメンバーが祈りを込めてお経の一文字を書き、寺に納めた小石です。塔建設に喜捨した信者のものだと思われます。これも今までにない「明治の工法」です。
また、雨戸瓦の葺き方には、三豊地域の特色がみられ「地方色」と言えます。
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さてこの五重塔を見上げて私が感じるのは「スリムで華奢な印象」「エンピツやロケットのように細い」「ミニスカートをはいた細身の女性」という印象です。実際に、登って見ると狭いのです。善通寺に比べると1/4の平面面積になるそうです。  

どうして細身の五重塔が建てられたのでしょうか

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一般的に五重塔は、飛鳥時代から江戸時代にかけて新しいものほど、細身になっていくことが知られています。それには倒れにくくする建築技術が必要です。上重の屋根を大きくして細長く建てることことが大工の技量の見せ所でもあったようです。江戸時代以降の新しい塔は、法隆寺五重塔など古い塔に見られるどっしりとしたものよりも「細いスリムな塔」を棟梁たちはめざしていたようです。
  昭和に入ると古今集よりも万葉集の益荒男ぶりがもてはやされるようなります。五重塔もどっしりと安定感のある法隆寺や醍醐寺など古い五重塔を手本にして建立される傾向が強くなります。昭和になるとヒョロ高い不安定な見た目の五重塔は、建てられなくなります。
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塔にもデザインの「流行」があるようです。そういう意味では、この本山寺五重塔は「スリム型の最終形体」と言えるのかもしれません。最後の例として非常に貴重といえます。
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礎石から相輪先端までの高さは31・5メートル。
和様を基調とした本瓦ぶきで、江戸期までの伝統に忠実な建築法が随所に見られるほか、獅子鼻や龍頭といった装飾が細かに施されていて、平成26年1月に市文化財に指定されています。
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善通寺の五重塔は明治期のものですが、重文指定になっています。改修の終わったこの塔についても、近いうちに重文指定がされることが確実視されています。そのためにも下手な改修はできないという気合いが関係者にはあったようです。
 建築家や大学教授、寺関係者でつくられた整備委員会は「歴史的、文化的な価値を損なうことなく、次の百年に残せる保存法を検討していく」ことを基本原則として、改修にとりくんできたようです。それは地域の宝、地域のシンボルを残し、活かす方策にもつながる道なのでしょう。
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おつきあいいただき、ありがとうございました。

本山寺の本堂・仁王門の折衷様式は、どこからもたらされたのか

文化財協会の研修で改修が終わったばかりの本山寺の五重塔と善通寺の五重塔を見に行くことになりました。明治以後に作られた讃岐の五重塔を実際に見て、登って内部まで身近に観察し、ふたつの塔を比較しようとする企画です。しかも、案内してくれるのは改修工事を進めた設計事務所の責任者の方です。ホイホイと付いていくことにしました。
 また、本山寺には香川県では2つしかない国宝建築物の本堂と重文の仁王門、さらに登録文化財に指定されている建物が境内には並びます。それらも新たな目で見てみましょう。
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まずやってきたのは、本山寺。迎えてくれるのは仁王門です。
 近世の大形化した仁王門に見慣れていると小さく感じるかもしれません。見所はと聞かれると
「いろいろな様式が取り入れられ、瀬戸内の寺院らしい折衷様式の仁王門」
と言うことになるようです。詳しく見てみましょう。
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柱は円柱で前列・中列・後列にそれぞれ四本づつ合わせて十二本の使われています。まん中の柱が本柱で、前後別の柱は控柱で八本あり入脚門と呼ばれます。控柱には天竺様式の粽があります。切妻造、本瓦葦、軒は二重繁垂木、組物は和様三ツ斗です。
肘木の両端には禅宗様式の象鼻に似た絵様繰形があります。
木鼻の上には天竺様(大仏様式ともいう)の特色である皿斗が見られます。和様、唐様や天竺様の手法を多く取り入れて、それを大胆奇抜に組合せていています。

「宮大工の腕が存分に発揮されている」とも言えますが、私には良い意味で「遊んでいる」とも思えます。
 その「折衷感=ごちゃ混ぜ感」が全国的にも類例がなく貴重だと言われているようです。

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なぜ、全国でも珍しい折衷様式の門や本堂がここに建てられたのでしょうか?
 ある宮大工は、次のように瀬戸の寺を勧めます
 国宝、重要文化財というと、まず頭に浮かぶのが奈良、京都ですが「鎌倉、室町時代」という中世の建築を見るのなら、瀬戸内をお奨めします。
兵庫県小野市の浄土寺浄土堂から始まって、山陽道の福山の明王院・尾道の浄土寺などの中世のいいお寺がいくつもあります。播磨の浄土寺浄土堂は、東大寺大仏殿を再建した重源が残した数少ない天竺様の建物です。尾道の浄土寺の本堂は東大寺大工が奈良からやってきて造っています。
 尾道の浄土寺本堂に残っていた棟札には、大工藤原友国、藤原国貞という名前が残っていて、藤原という立派な姓まである東大寺大工のようです。この二人が奈良から呼ばれて、はるばる尾道までやってきて、浄土寺本堂を建てたのです。
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その仕事ぶりを専門家は次のように評します。
東大寺の真似をしないで、自由な発想で仕事をしている。東大寺を真似したようなところはまったくない。やればできたはずなのに、していない」
というのです。しかも、和様の中に天竺様を取り入れた折衷様にして、実によく整った姿の本堂を造っています。この本堂と、その隣にある阿弥陀堂の軒反りは「中世建築を代表するほどの美しい」と言われます。
二人の大工は、なぜ、東大寺の真似をしなかったのでしょうか。
 現在の宮大工の一人は次のよう推理します
奈良からはるかに離れた尾道の地に来たことで、普段の枠を離れて仕事をできたからではないか。格式が高く、何かと規制も厳しかった奈良から離れて、尾道にやって来たことが規制から離れて、自由な発想で仕事をできたのではないか
 職人にとって一番幸せなのは、思う存分に仕事ができることでしょう。しきたりや決め事から離れて、思う存分に瀬戸内海の港町で仕事をしたのではないでしょうか。それが新しい折衷様式を生み出す原動力になったのかもしれません。
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 仁王門の中には木造金剛力士立像(県指定重要文化財 平成9年5月23日)指定がにらみを効かせています。

   本山寺の本堂についても見ておきましょう。
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「桁行五間に梁間五間の規模で、屋根は本瓦葺きの一重寄棟造。正面に三間の向拝がつけられた中世密教本堂の典型
もともと、この本堂は正応年間京極近江守氏信の寄進にと伝えられてきました。しかし、昭和28年2月からの解体修理の際に、礎石に
「為二世恙地成就同観房正安二年三月七日」(1300年)
という墨書銘が発見され、鎌倉時代後期の正安2年(1300年)に建てられた事が分かりました。そして修理が完了した昭和30年に国宝指定がされました。
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 その際に、墨書銘より「末清および国重」という二人の宮大工によって建てられた事が分かりました。その後の研究で、この二人は奈良の宮大工で、奈良の霊山寺本堂や、西の京の薬師寺東院堂を手がけていることも分かってきました。
 ちなみに、本山寺の本堂は尾道の浄土寺に40年近く先行することになります。最初、私は尾道の浄土寺の動きが先行し、本山寺が影響を受けたのだろうと考えていました。しかし、それは逆なのです。可能性としては、本山寺の方が浄土寺に影響を与えたと考えるべきなのです。その意味でもこの本堂は「折衷様遺構の最古」と言えるようです。
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 今は海は人々を隔てるものと写ります。しかし、当時の瀬戸内海は、人々を隔てる物ではなく人と物を結びつけるものだったのです。三豊と福山・尾道は廻船を通じて海でつながっていました。仁尾の港と尾道の数多くの船が行き来していたことが資料からも明らかになっています。
 ここからは私の想像ですが、今までにない不思議な形をした本堂が讃岐の本山寺に現れたという噂は、尾道にも伝わっていたかもしれません。それを聞いて、浄土寺の住職や奈良きた棟梁がこの三豊の地まで見学に訪れる。そして「うちも本山寺のように折衷でやってください。おまかせします」なんて言ったかも・・・・
そんなストーリを考えると楽しくなります。

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 そのような流れの中で、この寺の本堂・仁王門を考えて見たときに「瀬戸内海式の和唐折衷様式」というのは納得のいく話です。 

本堂の外陣で住職から次のような話を伺いました

昭和の解体修理の時は「建設当時の姿にもどす」というのが原則でした。そのため内陣に置かれていたいろいろな付属品などは取り払いすっきりしました。
当時の住職が、修理終了間際に「外陣の畳はいつ入るのですか」と問うと、「鎌倉時代の寺院には畳はありません」と言われたそうです。その後、寺のお金で畳は用意したということです。
外陣が当時の真言のお寺さんとしては広いようで、そこに鎌倉時代の「仏教の庶民化」という流れが出ているそうです。
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時間が来てしまいました。
今日はここまでです。
五重塔については、また次回に

参考文献 松浦昭次 宮大工と歩く千年の古寺

ペリーが来航した頃の幕末の金毘羅さんは建築ラッシュ

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 ペリーが来航した頃の幕末の金毘羅さんは建築ラッシュでした。
まずは、本堂(現旭社)の再建工事が40年にわたる長き工期を終えて完成を迎えます。
「金堂上梁式の誌」には
「文化十酉より天保八酉にいたるまて五々の星霜を重ね弐万余の黄金(2万両)をあつめ今年羅久成して 卯月八日上棟の式美を尽くし善を尽くし其の聞こえ天下に普く男女雲の如し」と書かれています。
ちなみに、式では投げ餅が一日に七五〇〇、投げ銭が一五貫文使われています。そのにぎわいがうかがえます。

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 今は旭社と呼ばれていますが文化3年(1806)の発願から40年をかけて建築された仏教寺院の金堂として、建立されました。そのため、建立当時は中には本尊の菩薩像を初めとする多くの仏像が並び、周りの柱や壁には金箔が施されたといいます。それが明治の廃仏毀釈で内部の装飾や仏像が取り払われ、多くは破棄・焼却され今は何もなくがらーんとした空洞になっています。金箔も、そぎ落とされました。よく見るとその際の傷跡が見えてきます。柱間・扉などには人物や鳥獣・花弄の華美な彫刻が残ります。
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清水次郎長の代参をした森の石松が、この金堂に詣って参拝を終えたと思い、本殿には詣らずに帰つたという俗話が知られています。確かに規模でも壮麗さでも、この金堂がこんぴらさんの中心と合点して不思議でなかったでしょう。
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 金堂が完成すると境内では、金堂のすぐ前に手水鉢・釣り灯箭・井戸の寄進(弘化二年)、坂の付け替え(嘉永二年)、廻廊の寄進(安政元年)などの整備が進みます。また、町方では、嘉永三年(1850)に銅鳥居から新町口までの間に、江戸火消し四十八組から石灯龍が寄進され「並び燈籠」として丸亀街道沿いに整備されます。
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   高灯寵の建造  

 このような中で、明治維新を目の前にした慶応元年(1865)に次のような寄付状が金光院に提出されます。
寄付状の事  一 高灯龍 壱基
 右は親甚左衛門の鎮志願いニ付き発起いたし候処、此の度成就、右灯龍其れ御山え長く寄付仕り者也、依って件の如
      讃岐寒川住  上野晋四郎  元春(花押)
      慶応元年    乙丑九月弐拾三日
 これは、子の晋四郎が父・甚左衛門の鎮志願いに発起し、金光院へ寄付を、高灯籠の完成後に願い出たものです。願主の上野晋四郎は、寒川郡の大庄屋を務めていた人物です。しかし、この寄付は上野晋四郎一人によるものではなく、寒川郡全体の寄付でした。次の史料からそれがうかがえます。 
高灯籠の事
 右 発起人 高松御領寒川郡津田浦上野甚右衛門、同志度浦岡田達蔵、引請人志度浦岡田藤五郎、寄付人寒川郡申一統 嘉永七寅年十月願書を以て申し出、嘉永八卯年則安政二年二成正月十三日願い済み二相成り申し候、安政五午年三月二日ヨリ十月二十三日迄二石台出来、同未年四月十八日ヨリハ月二十九日迄二灯箭成就仕り候事
ここには、高灯寵の建設過程が簡単に記されています。意訳すると
安政元年(1854)10月に上野甚右衛門が総代発起人となって高灯寵建築の願書を差し出し、翌安政二年に許可になった。翌年の三年には、さっそく地堅めのための相撲を挙行し、四年の二月から地築きに取り掛かる。そして、五年に石台が完成し、六年八月には灯龍が完成したのである。
   年表にすると
1854嘉永7年建築願書
1857安政4年地築
1858安政5年石台完成
1859安政6年燈寵造立
1860万延元年9月最終完成
こうして出来上がった高灯寵の大きさは次のようになっています。
「石台高さ5間3尺(約10m)、石台下端幅51尺(約5.45m)、石台上端幅28尺(約8.48m)、総高15間」

ところが安政2年に書かれた播磨屋嘉兵衛の見積仕様書によると
「石台高さ二一尺五寸、石台下端幅四一尺、石台上端幅二八尺、総高63尺」
で計画されています。つまり、出来上がった実物は1,5倍になっていたのです。そのいきさつは、よく分かりませんが「瀬戸内海を行く船からよく見えるように少し高くした」と地元では言い伝えられています。
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 この高灯籠建設に関する募金額について「高灯籠入目総目録」と記された史料が残されています。それを見ると「一金三千両内子三拾六両郡中寄附」と書かれており、以下寄付した人名と金額が並んでいる。ちなみに、発起人総代の上野甚左衛門は、四〇〇両という大金を寄付しています。また、「郡中寄附」として1036両もの額が集まっています。名前は記されていませんが募金に応じた人々が数多くいたのです。この募金には前山村・小田村・原村をはじめに、富田・津田・牟礼・大町・鶴羽・是弘・神前・志度・石田といった寒川郡内のすべての村が漏れる事なく網羅されています。その上に、郡内は「萬歳講」、郡外は「千秋講」という当時流行の「講」を組織して集められています。
これだけの募金が集められた経済力の源は何だったのでしょうか?
 東讃においては寛政元年(1789)ころより、薩摩に習って砂糖生産が行われるようになります。そして、天保六年(1835)の砂糖為替金趣法の実施などで軌道に乗るようになります。ちなみに、高松藩の甘藷植え付け面積の推移を簡単にみると、
天保五年1210町程度であったものが
弘化元年(一八四四) 一七五〇町、
嘉永元年(一八四八)二〇四二町、
安政三年(一八五六)三二二〇町、
安政五年(1858)三七一五町と着実に増加しています。
では、なぜ金毘羅への寄進になったのか。それは、大坂などへ砂糖を運ぶ際の船の安全を祈願することでもあったと言われます。
 
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総工費3,000両のうち1,036両という費用が寒川郡中の砂糖生産を背景として、経済的な成長を遂げた人々の寄付で付で賄われました。ちなみに1835天保6年に建てられた金丸座が1000両、金堂(旭社)が20000両です。

工事を担当したのは、塩飽大工の山下家の末裔である綾豊矩です。彼の父は金毘羅さんの金堂建築に棟梁として腕を振るった名大工でした。その子豊矩が最初に手掛けた大規模建築が高灯籠でした。
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 上の絵はこんぴら町史の図版編に収められている高灯籠を描いたものです。これを見て、高灯籠とは思えませんでした。それは、周辺の様子が今と全く違うからです。まず、この絵には湖面か入江のように広い水面が描かれていますが、今の金倉川からは想像も付きません。高灯籠の足下近くまで川岸が迫っているように見えます。
 この絵からは高灯籠が丸亀街道と金倉川の間に建てられていますが、周囲は河原であったことが分かります。
もう少しワイドに見てみましょう。

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日清戦争後の明治28年(1895)の「金刀比羅神山全図」です。
右下から左に伸びているのが丸亀街道、その途中に先ほどみた高灯籠がロケットのように建ち、その境内の前には大きな鳥居と一里松が見えます。もう少し部分的に拡大してみましょう 
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右手からは煙をはいて讃岐鐡道の豆蒸気機関車が神明町の琴平駅に入ってきています。その手前に平行して走るのが大久保諶之丞によって開かれた四国新道。そして、金倉川が高灯籠の間を流れます。
もちろん、まだ金倉川に大宮橋は架かっていません。
 鳥居と大きな木に注目して下さい。

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丸亀街道の高灯籠方面を眺めた明治30年ころの写真です。

丸亀街道を南から北に向かって撮影されています。いくつかの気になるものを映り込ませています。まず黒い鳥居。これは天保年間に江戸の鴻池一族により寄進されたものですが、この後の明治36年に崩れ落ちてしまします。その後、修復されて現在は社務所南に建っています。右手には江戸の火消組などから寄進された灯籠が並んでいます。灯籠の前には櫻の苗が植えられています。それが今も春には花を咲かせます。灯籠の向こう側には「一里松」と親しまれた大きな松がまだ建材です。今は、姿を消しました。
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1900年前後の高灯籠周辺は空き地

土讃線が財田まで伸びて新琴平駅が開業するのは1923年のことです。その時に駅前から真っ直ぐに高灯籠の前を通って神明町に伸びる道路が作られますが、この写真には、その道路はありません。この時代も高灯籠の周りは空き地です。高灯籠と金倉川の間には木造家屋が建っていますが、約30年後にこの辺りに琴電琴平駅が姿を見せるようになります。その前に、この家屋は洪水で姿を消します。
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大正年間に大雨により琴平町内を流れる金倉川は、大洪水となり護岸を崩し、橋を流しました。
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その普及後の護岸がこれです。石組み護岸に補強され、ここに線路が敷かれて琴電琴平駅が姿を現すのが1926年のことでした。
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参考文献 町史 ことひら 

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琴平に4つの鉄道が乗り入れていた時代

 1889年に丸亀ー琴平間にマッチ箱のような小さな客車4両の汽車が走り始めます。しかし、以後30年間、土讃線は南に伸びることはありませんでした。第一次世界大戦後にやっと財田までの延長工事が始まります。そして、今から約百年前の1920年代は、琴平に次々と電車が乗り込んでくるようになります。琴平には4つの鉄道駅が並立する時代を迎えるのです。その過程を見ていきましょう。
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切通の土砂をトロッコで運び線路を敷く
日露戦争後の讃岐では、電気軌通会社の設立が次のように行われます
1908 明治四十二年十月 高松電気軌道が設立。
1909 明治四十三年五月 東讃電気軌道が設立
1910 明治四十四年九月 讃岐電気軌道(後のコトサン)が設立
しかし、琴平までの開業は、第一次世界大戦後のことになります。
それをまず年表で確認しておきましょう。
1919 大正8年3月 土讃線 琴平-土佐山田間の路線決定
1920  2月 高松-琴平間の「コトデン鉄道申請」の認可状交付
1920  4月 3日 土讃線琴平~財田着工。
1922 10月22日 琴平参拝電車の丸亀-善通寺間の開業
1923  5月21日 琴平-讃岐財田間が開通 琴平駅が移転。
1923  8月 5日 コトサン善通寺-琴平間開通 琴平駅が開業
1924 10月 9日 コトサン 善通寺-多度津間の開業
1928  1月22日 コトサン 丸亀-坂出間が開通して全線開業
1929  3月15日 「コトデン」が、琴平町へ乗り入れ開始
1929  4月28日 土讃線 財田-阿波池田間完成。
1930  4月 7日 琴平急行電鉄 坂出 - 電鉄琴平間を開業
1935 11月28日 土讃線開通、高松・高知間が全通。
1944  1月    琴平急行が不要不急線として営業休止。
  琴平への乗り入れの順番で、3つの電車会社を見ていくことにしましょう。まずはコトサンです。
 国鉄の財田までの延長に伴い、土讃線は琴平市街の東を迂回するルートになり、新駅も建設されます。創業以来、30年以上使われてきた旧琴平駅は廃止されます。その旧駅舎に隣接して、コトサンの新琴平駅が建設され、3ヶ月後にチンチン電車の終着駅となります。
コトサンが開業までに18年もかかった背景は?
  琴平参宮電鉄(コトサン)が、営業申請したときの社名は「讃岐電気軌道株式会社」で、明治三十七年(1904)のことです。設立から開業までに18年の時が流れています。一体何があったのでしょうか?
 この会社の発起人に名前を通ねたのは、次の人たちです。
丸亀市の生田丈太郎、
仲多度郡の増田一良・増田穣三・東条正平・長谷川忠恕・
景山甚右衛門・掘家虎造、
綾歌郡の鎌田勝太郎
木田郡の大場長平・久保彦太郎、
大川郡の松家徳二 蓮井藤吉、
三豊郡の小野麟吾
  ここには「多度津の七福人」の総帥・景山甚右衛門や代議員の堀家虎造・坂出の鎌田家など地元の資産家達が顔を並べています。一方で、増田一良・増田穣三の七箇村の増田家の従兄弟二人の名前も見えます。増田穣三は、当時は村長兼県会議員という立場です。彼らは、中讃地域での「電灯会社」設立にも関わっています。
 この会社の営業免許を得た後の動きは不可解です。
得たばかりの営業免許を堺市の野田儀一郎ほか六名に譲渡してしまいます。その結果、創立総会も大阪で行われた上、本社も大阪市東区に置かれます。しかも、株式の第一回払込時に、地元株主の株数数は全体の二割程度でしかなかったようです。つまり、開業する意志がなく、営業権を得た会社そのものを「転売」する目論見が最初からあったのではないかとおもわれます。
 営業免許は、初代社長才賀藤吉の死去とともに、三重県の竹内文平とその一族に相続され、その後も高知県の江渕喜三郎、広島県桑田公太郎などの手を渡っていきます。大正6(1917)年に、ようやく事務所が丸亀東浜町に開設され、翌年に本社が丸亀東通町に設置されるという経過をたどります。
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多度津 土讃線を跨ぐコトサンのさよなら電車
コトサンの琴平駅について
 大正11(1922) 10月22日 丸亀-善通寺間の開業にこぎ着けます。翌年の8月には琴平まで線路が伸びてきます。コトサンと土讃線と四国新道は、3本が善通寺の風折あたりから条里制に沿って、真っ直ぐ南に並んで琴平に入ってきます。
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手前からチンチン電車のコトサン・その向こうに土讃線・讃岐新道が並んで走る
そして、コトサンの琴平駅は、現在のロイヤルホテル・琴参閣の場所で、南向きに新築されました。その隣には、3ヶ月前の5月までは国鉄の琴平駅として営業していた駅舎がありました。この年の土讃線の財田までの延長に伴い現琴平駅に移転したのでもぬけの殻状態でした。
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国鉄の旧琴平駅(現在の琴参閣周辺) 隣接してコトサン琴平駅はあった

そのため旧琴平駅舎一帯が空地となりました。 このことは事前に分かっていたのでコトサンでは、時の鉄道大臣・元田肇あてにこの廃駅舎と線路用地一切の払下願書を提出しています。しかし、なぜか琴参電鉄と琴平町との再三の払い下げ申請も、結局は実現しませんでした。
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コトサンの終点琴平駅
コトサンヘの社名変更
 
 開通に合わせて会社申請時の「讃岐電気軌道株式会社」から「琴平参宮電鉄株式会社」への社名変更を行います。大正11(1922)年11月10日に金刀比羅宮へ、次のような社名改称趣意書を提出して、賛同を求めています。(意訳)
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開業当時のコトサンの琴平駅 
 香川県の鉄道旅客数は、金刀比羅宮参詣者が大きな割合を占めている。讃岐を代表するのは金刀比羅宮であり、讃岐すなわち金刀比羅宮というつながりは、わが国の国民の脳裏に深く浸透している所で、琴平という地名はわが国民の意識に広く深く浸透している。我社業は中讃の要枢に交通機関経営を行うもので、従来の官線鉄道は多度津を迂回することにより時間と費用を余分に掛けていた。これを、本社の琴平への直通軌道によっていちじるしく節減できることになる。年々歳々千万の乗客は必ず我軌道を選び利用するようになるであろう。我社の前途洋々として未来に開けている。
 伊勢に参宮電車あり、高野に高野鉄道、日光に日光電気鉄道、その他、西大寺軌道、豊川鉄道、富士身延鉄道、成田電車、太宰府軌道、熱田電車、能勢電車、宇佐参宮鉄道など、有名な神社仏閣には参拝鉄道があり、その地域の基点となる地名を採って、其社に冠している。金刀比羅参りの軌道も同じである。金刀比羅宮と極めて密接深甚なる歴史的関係を有する丸亀市を起点とせる軌道を経営する我社は、従来の社名を琴平参宮電鉄株式会社と改称し、以て神徳の宏大無辺とともに社運の隆昌発展を期せんとす。
  『琴平参宮電鉄六十年史』
これに対して、金毘羅宮は「願了承」の回答を直ちに行っています。
こうして、金刀比羅宮の社名に冠した琴参電鉄は、丸亀ー坂出間の全路線が開通します。
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昭和38年廃業2ヶ月前のコトサン坂出駅 JR坂出駅構内から
その後の年間利用乗客数は?
昭和3年(1928)には     387万人
第二次世界大戦勃発の1939年には569万人
本土空襲が始まった1944年には 832万人
戦時下においては、「武運長久」を祈って神社仏閣への参拝が半ば強制され、陸海空の将兵とその家族たちの金比羅参拝の列がひきもきらない日々が続きます。まさに金比羅山参拝の足として活躍しました。
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昭和30年頃の善通寺赤門前 右が丸亀 左(直進)が多度津へ

 そして戦後は、復員、引揚者や食糧不足のヤミ物資を求める旅客で電車は毎日超満員となる姿が日常的に見られるようになります。1947年には、1468万人の利用者をマークします。
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善通寺赤門駅北側  ここが多度津と丸亀の分岐駅

しかし、世の中が落ち着きを取り戻し、道路事情も良くなって路線バスが普及するのに伴い、電車の利用者は年を追って落ち込みます。高度経済成長のスタートとなる1960年には、年間四八四万人と、ピーク時の三分の一に激減。その結果、1963年9月15日、交通手段をバスに転換することにより、40年の長きにわたって庶民の足として親しまれたコトサン電車は廃止されました。そして、コトサンと国鉄の旧琴平駅の敷地には現在は、琴参閣ホテルが建っています。
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コトサン さよなら電車

参考文献 町史 ことひら



明治23年 七箇村議会開設と増田穣三

 増田穣三に関しての資料は少ない。日記や手紙・私信等は戦争末期の高松大空襲の際に居住していた家屋が焼け、ほとんど残っていない。写真類も少ない。いわゆる「根本資料」がない。そのため周辺部から埋めていき人物を浮かび上がらせるという手法をとらざるえない。そんな中で
「まんのう町役場仲南支所に古い議会録が残っており、その中に明治期の七箇村のものがある」
と教えられた。閲覧を申し出ると、閲覧以外に写真撮影の許可もいただくことができた。この「七箇村村会議事録」を資料として、村会設立当時のまんのう町の情勢や行政課題、それに当時の指導者がどう向き合ったのかを見ていきたい。資料は明治23年から明治34年まで、穣三が村長を務めたいた時期も含めての議事録が(1部欠けている年度もあるが)5冊にわたって綴じ込まれている。

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 議事録は明治23年4月7日に始まる。
この年は前年に大日本帝国憲法が施行され,地方行政においても町村制が実施され、各村々に村議会が開設されることになった年でもある。
 ちなみにこの年は、譲三の華道師匠園田如松斉の七回忌でもあり、その顕彰碑が建てられた年であることは述べた。村会議員に選ばれ、同時に未生流の師範の地位を固めた年でもあった。穣三33歳の時である。まんのう町の議会政治の幕開けと、その「議事事始め風景」を見てみよう。
明治23年4月7日 七箇村村会義のメンバー11人は?
  最初に11人の議員の番号と名前が議長により確認される。
議員番号1番の増田傳吾は、増田本家の当主で穣三の叔父に当たる人物で、村長決定までの仮の議長を務めている。8番の増田喜与三郎と記されているのが穣三である。彼は、30代半ばまではこの名前を使っており、後に穣三と改名する。7番の田岡泰は、増田穣三と同年生まれの幼なじみで、未生流華道の園田如松斉の下に共に通った仲でもある。ちなみに、この中には春日の増田一門につながる議員が3名含まれている。
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  最初に「村会運営細則」が議長の進行で1条ずつ審議され、挙手や起立や拍手による賛意表明ではなくひとりひとりを議長が指名し、賛否表明を求め賛成多数を確認後に決して行くという形で進められる。ちなみに成立した「運営細則」は次のような物であった。
第1条 会議の時間は午前10時に始まり、午後4時に終わる。ただし議長意見を以て伸縮することあるべし。
第2条 議員の席順はあらかじめ抽選にてこれを決めておく。
第3条 議場においては議員の姓名を呼ばず、その議員番号をもちうること。
第4条 議案は議員召集の際にあらかじめ伝えること。ただし場合により本条が適応できないこともある
第5条 議長は書記に提出議案等を朗読させる。
    (途中破損)     
第9条 議論饒舌になり無用の説と認められるときには、議長がこれを制すことが出来る。
第11条会議中は議員相互の私語することは禁止。                                                      (以下破損により読み取り不能)
第13条 議員病気又は事故で欠席する場合は、書面を提出すること。ただ、本条の届書は保証人として最寄りの議員の連名が必要である。
第14条 この細則に違反し、正当な理由なくして欠席又は遅刻する者は議論の上2円以下の過怠金を課することができる。
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村長と助役選挙の結果が知事に次のように報告されている。  

七箇村村長及び助役選挙のため4月7日、七箇村大字七箇において村会議を開き、議長に増田伝蔵、立会人に近石植次郎を選任し、村長選挙を実施した。
投票総数は12票
11点 田岡泰
1点  増田穣三
続いて助役投票を行った。開封の結果は次の通り
8点  矢野熊五郎
4点  増田穣三
以上の投票数の多数を比較し田岡泰を村長当選者、矢野龜五郎を助役当選者と決定した。投票終了後に再度投票用紙等を確認し、選挙事務を終了し閉会とした。選挙の結果を記録し議員の面前でこれを朗読後に、2名の議員によって確認しながら清書をした。
以上 署名押印 議長 増田伝吾 近石桂次郎
  増田穣三(当時は喜与三郎)が次点に挙げられている。

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しかし、村長に当選したのは幼なじみの田岡泰であった。

増田穣三の幼なじみの田岡泰について 知事への選挙結果報告書には、田岡泰の自筆履歴書が添えられている。これを見ながらその人となりを見ていこう。
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田岡 泰 七箇村初代村長                                            
安政5年(1858) 9月8日 ~ 大正15年(1926)10月10日  (64歳)
春日、田岡照治郎の長男。梅里と号し、明治元年から明治4年まで三野郡上麻村の森啓吾に従って漢学を学び、
明治5年から明治7年まで高松の黒木茂矩に皇漢学を学んだ。
明治8年から1 年間県立成章学校(後の香川師範学校)に入学して普通学を修め、
明治10年から1年間大阪の藤沢南岳に師事して儒学を修めて帰郷した。(20歳?)
明治12年七箇村黄葉学校の教員兼併区監視
明治13年高篠学校の教員を勤め、
明治18年~明治21年まで那珂、多度併合会議員に選ばれた。
明治22年3月には榎井村養蚕伝習所に入所して養蚕伝習受講。
 明治19年1月居村窮民為救助白米を施与したことにつき賞せられる。賞状は別途の通り
 罰 刑罰なし 以上の通り相違なし。
 香川県那珂郡七箇村大字七箇村 平民 田岡泰
この履歴書に加えて、仲南町誌には以下の内容が加えられている
明治23年4月1 日から明治31年まで七箇村の初代村長に選ばれた。
明治31年4月25日から明治32年3月7日まで県会議員、
明治32年9月30日から明治36年9月29日まで郡会議員を勤めた。この間、七箇村外三カ村連合村会議員にも選ばれた。
明治33年10月には、営業前の西讃電灯の臨時株主総会において、監査役に就任。村長在任中は地方行政に数多くの功績を残されたが、なかでも塩入新道の開通には特に力を入れて現在の県道丸亀三好線(県道4号線)の基をつくった。
後年、広島村長、吉原村長にも選ばれ、これらの功績により勲七等瑞宝章を賜り、晩年は丸亀で余生を楽しまれた。

春日のお寺の墓地で、田岡泰の墓を見つけた。

この墓に漢文で刻まれた碑文も村長就任時の履歴書がベースになっているようだ。この履歴書からは、興味深いことがいくつか分かる。
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まず生まれが安政5年9月であり、増田穣三より1ヶ月遅生まれの幼なじみになる。
同じ春日に、生まれた二人の生き方は、この後、互いに交わりながら人生の糸を紡いでいく。 
田岡泰の墓碑には、穣三の碑文にはなかった次のような教育歴が載せられている。
上麻村(高瀬町)の森啓吾(漢学) → 高松の黒木茂矩(皇漢学) → 香川師範学校(普通学) → 大阪の藤沢南岳(儒学)20歳で帰郷
  彼も幼年期には、馬背峠を越え佐文を抜けて上麻までの道のりを勉学のために通っていたことになる。続いて高松在住でまんのう町出身の黒木茂矩について皇漢学を学び、その上で師範教育を受けている。さらに、当時、数千人の門人を擁した大坂の泊園書院への遊学経験もある。20歳で帰郷後は、七箇村の教員を務め、さらに榎井村私立養蚕伝習所に入り、養蚕技術の指導をめざすなど、隣村財田村の大久保諶之丞を見習ったような経歴もある。
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田岡泰の墓碑

 地域にとっては、近代教育を受けた頼りになる若きリーダーとして地歩を固めていった。明治初年は高等教育が整備されておらず、農村の富裕層の師弟は、いち早く整備された師範学校に進んだ者が多い。卒業後、教員として地域に馴染み、その後に村の指導者に成長・転身していくというパターンである。田岡泰も、その典型と言えよう。
 明治23年大日本帝国憲法施行 → 国会開設 → 県・市町村地方議会の開設  という政治的な流れの中で、初めての村会議員選出が行われる。選出された議員の中に33歳の田岡泰と増田穣三がいる。そして、議員互選により初代七箇村長に選出されたのは、田岡泰であった。
なぜ初代村長は増田穣三でなく田岡泰だったのか。
 当時の増田穣三は「お花の先生」「浄瑠璃の太夫」「書道家」というに風流人としての「粋さ」を身につけた「増田家分家の若旦那」という印象を周囲からもたれていたのではないかと書いた。対して田岡泰は「師範学校出身の先生」「養蚕技術の導入者」として頼りになる村のリーダーというイメージがあったのではないか。行き過ぎた推論かもしれないが、こんな人物評が田岡泰を初代村長に推した背景ではないだろうか。 

 助役に就任するのが矢野龜五郎

 亀五郎は、増田穣三よりも20歳年上で、明治維新後の七箇・塩入村戸長となり、その後22年間村政の舵取り役を務めている。そして、次世代の若きリーダーとして田岡泰・増田穣三を育成し、明治23年に新役場が開かれると、田岡泰を村長に据えて自分は助役に就任。さらに4年後には、助役も退き増田穣三にバトンタッチ。次世代への引継ぎを円滑に行って勇退している。彼も春日出身である。春日の七箇村での優位性指導性と共に人脈の豊富さを感じさせる。春日の若きリーダーによって「村の明治維新」は、姿を整えられていく。
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   なお、亀五郎の養子である晃は、戦後に多度津国民学校校長依願退職後に、増田一良の後を受けて第10代七箇村村長に就いている。

参考文献 仲南町史
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浄瑠璃の義太夫としての増田穣三

 私が穣三が浄瑠璃が玄人はだしの腕前であることを知ったのは、明治37年に出版された「讃岐人物評論 讃岐紳士の半面」という書物からである。この本は、当時の香川県の政治経済面で活躍中の50人あまりの人物を風刺を効かしながら紹介している。その中に穣三も取り上げられ
得意の浄瑠璃は鞘橋限りなきの愛嬌をして撥(ばち)を敲きて謹聴せしめ得たるもの」
と記されている。
 最初は、金比羅山の門前町として明治になって一層の賑わいを見せる琴平で、師匠について身につけた芸かと思ったがどうも違うようだ。
人形浄瑠璃という形で、阿波から伝わった新しい「文化伝播」を吸収した成果なのだ。どんな風にして若き日の譲三が浄瑠璃大夫の名手に成長していったのかを、人形浄瑠璃を通じての阿波とまんのう町の明治期の文化交流の中から見ていきたい。
 
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 明治期における阿波人形浄瑠璃のまんのう町での流行

  明治期になると文物の経済統制がなくなり、人と物が自由に動き出す。その恩恵を受け経済成長を遂げたもののひとつに阿波の藍産業がある。藍生産者や藍商人は資本を蓄積し、豪壮な館が林立する屋敷を建てるようになる。さらに、その経済力を背景に、数々の文化活動の支援者ともなる。藍の旦那衆が保護し、夢中になったのが人形浄瑠璃である。

 その一座が讃岐山脈を越えて、まんのう町で「公演活動」を行っていた記述が仲南町誌に残されている。「塩入の山戸神社大祭には、三好郡昼間の「上村芳太夫座」や「本家阿波源之蒸座」がやって来て、「鎌倉三代記」とか、「義経千本桜」などを上演した。」とある。
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人形一座は、三好郡昼間からやってきた。

昼間は、現在の東みよし町に属し、箸蔵寺の東側にあたり県道4号線(丸亀ー三好線)の徳島側の起点でもある。後に穣三は、七箇村長として、男山を経て東山峠を切り通して塩入までの車馬道を開通させることになる。それ以前は、この地区の人々の往来は徳島県側の各集落から樫の休場(二本杉越)を経て、塩入集落に到る峠越が阿讃往来の主要ルートであった。人形師の一座も人形や衣装などの道具類を荷物箱に入れ前後に振り分けて担いで塩入に入って来た。
 ひとつの人形の扱いには3人の人形遣いが必要となる。3体が同時に舞台に立つ演目だと、それだけで9人、さらに太夫や三味線が何人か加わると総勢は30人前後にもなったという。
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 塩入はその名の通り、阿波への塩の集積地であると同時に、

徳島からの借子牛の市が立つようになるなど明治になると急速に発展し、宿場町的な機能や形態をを持つようになった。
 明治期の国土地理院の地形図などを見ると宿場町化している様子が読み取れる。隣村の財田の戸川や琴南の美合なども明治期に宿場町化した地域である。阿波からの人と物が行き交い経済的なつながりや婚姻関係なども幾重にも結ばれ、阿波との関係が明治期に強くなった地域であった。これを背景に秋の大祭には、明治のいつの頃から昼間からの人形一座が招かれるようになるなど、峠を越えての阿讃の文化交流が深まっていった。
 三味線の響きと浄瑠璃の語りにあわせて人形が演じる劇を初めて見たときの塩入・七箇村の人々の驚きと喜びは、いかばかりであったろう。幼い増田穣三や一良も、人形浄瑠璃がやって来るのを楽しみにしていただろう。祭りの後は、誰彼となく太夫の浄瑠璃を口ずさむようになる。そして、塩入や春日を中心に浄瑠璃が流行し、自分たちで芝居をやりたいという気運にまで高まる。しかし、人形浄瑠璃をやるには人形頭も衣装も人形遣いの技量もない。そこで、人間が演じる「農村歌舞伎・寄芝居」という形で上演するようになっていく。
 素人が集まって農閑期に稽古をして、衣裳などは借りてきて、祭の晩や秋の取入れの終わった頃に上演する。そして見物人からの「花」(祝儀)をもらって費用にあてる。
  
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塩入の山戸神社拝殿 人形浄瑠璃の舞台として使用

明治中期 七箇村で広がる農村歌舞伎

 仲南町誌には、農村歌舞伎について次のような記述が載せられている。 
明治中頃、春日地区で、増田和吉を中心に、和泉和三郎・山内民次・林浪次・大西真一・森藤茂次・近石直太(愛明と改名)・森藤金平・太保の太窪類市・西森律次たち、夜間増田和吉方に集合して歌舞伎芝居の練習に励んだ。ひとわたり習熟した後は、増田穣三・増田和吉・和泉広次・近石清平・大西又四郎たちの浄瑠璃に合わせて、地区内や近在で寄せ芝居を上演披露し、好評を得ていた。
 明治43年ごろには、淡路島から太楽の師匠を招いて本格的練習にはいり、和泉兼一・西岡藤吉・平井栄一・大西・近石段一・大西修三・楠原伊惣太・山内熊本・太山一・近藤和三郎・宇野清一・森藤太次・和泉重一 ・増田和三郎たちが、劇団「菊月団」を組織。増田一良・大西真一・近石直太(愛明)・本目の山下楳太たちの浄瑠璃と本目の近石周次の三味線に合わせて、歌舞伎芝居を上演した。当地はもちろん、財田黒川・財田の宝光寺・財田中・吉野・長炭・岡田村から、遠く徳島県下へも招かれていた。その出し物は、「太閤記十役目」「傾城阿波の鳴門」「忠臣蔵七役目」「幡州肌屋敷」「仙台萩・政岡忠義の役」「伊賀越道中沼津屋形の役」などを上演して好評を博していた。 (仲南町誌617P)

 この資料からは明治中頃以後、春日を中心に農村歌舞伎の練習が農閑期に行われ、各地で上演され好評であったことが紹介されている。この中に「ひとわたり習熟した後は、増田穣三・たちの浄瑠璃に合わせて」という部分から穣三が太夫を演じていたことが分かる。
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  増田本家のふすまに張られた一良使用の浄瑠璃床本

人形浄瑠璃の太夫とは、どんな役割なのだろうか。

   徳島の阿波人形浄瑠璃十郎兵衛屋敷を訪ねて、学芸員の方にたずねた。それによると、太夫は義太夫節で物語を語り、登場人物の言葉、動作、心情などを表現する。見台(けんだい)に乗せた床本(ゆかほん)という台本を読んでいく。ただ読むのではなく、人形の所作に合わせて太夫自身が声や顔の表情、身振り手振りまで交えて、全身で人形に魂を吹き込んでいく。声の高さや調子を変えて、男役、女役も演じ分ける。太夫の語りは、芝居全体の雰囲気を演出する重要な役目を担うことになる。以前は、太夫が一座の責任者を務めていたという。役者は人形で、人形遣いは表には出ないので、太夫は一座のスターでもあり、キーパーソンでもあったようだ。
さらに、こんなことも教えてくれた。
「浄瑠璃を詠っている藍屋敷の旦那は、祭りの時には人形一座を呼んで、村の神社の境内に小屋掛けさせ上演させることが多かったようです。その時に「太夫は俺にやらせろ」と、一番おいしい所を自分が語ることもあったようです。つまり、お金を払ってでも太夫をやりたいと思う人は多く、まさにみんなの憧れでもあったようです。」
さらに三味線弾きとの関係については、次のように教えてくれた。
「三味線弾きの方が師匠で、師匠が弾きながら弟子が語るという練習が一般的です。いまでも浄瑠璃の発表会では、師匠の三味線弾きの方が何人もの弟子さんの伴奏を行う姿が見られます。また、三味線弾きは遠くからプロの方を呼んで上演することもあったようです。」
 
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穣三も太夫を演じるためは稽古をつけてもらいに、師匠の下に通ったと思われるがそれがどこかは分からない。しかし、人や物の流れから推察すれば、それは峠を越えた向こう側の阿波のどこかではなかったのか。
 峠越えを当時の人たちは苦にしていない。東山峠の向こう側の男山の人たちは、琴平程度なら日帰りで帰っていたと云うし、後に増田一良も土讃線誘致運動の一環として、春日から東山峠を抜けて池田まで行き財田経由で琴平まで1日で帰っている。穣三も未生流の師匠として徳島側に出向き、その折りに浄瑠璃を教わっていたということも考えられる。心理的にも峠の向こうの阿波側は、今よりも遙かに近い存在であった。
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  こうして20代後半の穣三は、「躰幹短小なるも能く四肢五体の釣合いを保ち、秀麗の面貌と軽快の挙措とは能く典雅の風采を形造」するハンサムな風貌の上に、「未生流師範」「浄瑠璃太夫」「呉服商」「酒造業」「増田家分家の若旦那」という地位や素養に風流人としての「粋さ」も身につけ、周囲からも1 目置かれる存在に成長していった。

中寺廃寺について、分からないこと、分かったこと 

中寺廃寺は大川山に近い山の中にある「山林寺院」として「国史跡」に指定されています。しかし、地上に残るものを見てもその「ありがたさ」が私にはもうひとつ理解できません。そこで自分の疑問に自分で答える「Q&A」を作って見ました。
 なおこの寺の現況については以前に紹介しましたのでこちらをご覧ください。

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大川山からのぞむ中寺廃寺

Q1 中寺廃寺が、大川山の奥に建立されたのはどうして

 大川山(標高1043m)は。丸亀平野から見るとなだらかな讃岐山脈の上にとびだすピダミダカルな頂が特徴的でよくわかる山です。この山は、天平6年(734)の国司による雨乞伝説を持ち、県指定無形文化財となった念仏踊りを伝える大川神社が山頂に鎮座します。讃岐国の霊山・霊峰と呼ぶのにふさわしい山です。
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B地区 割拝殿跡から望む大川山
聖なる山を仰ぎ見る「山岳信仰」と山林寺院は切り離せません。
仏教が伝来する前から、人々は山を神とあがめてきました。
比叡山延暦寺と日吉大社の関係をはじめとして、「山林寺」に隣接して土地の神(地主神)や山自体を御神体とする神社が祀られています。中寺廃寺は、大川山を信仰対象と仰ぎ見る遙拝所としてスタートしたと考えられます。
大川山を遙拝するなら、どうして山頂に寺院は建てられなかったの?
 大川山が聖なる山で、中寺廃寺はその遙拝所だったからです。
霊山の山頂には、神社や奥院、祭祀遺跡や経塚があっても、山林寺院が建立されることはありません。石鎚信仰の横峰寺や前神寺を見ても分かるように、頂上は聖域で、そこに登れる期間も限られた期間でした。人々は成就社や横峰寺から石鎚山を遙拝しました。つまり、上には神社、遙拝所には寺院が建てられたのです。
 また、生活レベルで考えると山頂は、水の確保や暴風・防寒などに生活に困難な所です。峰々は修行の舞台で、山林寺院はその拠点であって、生活不能な山頂に建てる必要はないのです。
 B地区が大川山の遙拝所として利用され始めるのが8世紀、
割拝(わりはい)殿や僧房などが建てられるのは10世紀頃になってからのようです。

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B地区 割拝殿と僧坊 ここからは大川山が仰ぎ見えます

Q3 古い密教法具の破片からは何が分かるの? 

 中寺廃寺跡からは、銅製の密教法具である錫杖や三鈷杵(さんこしよう)の破片が出土しています。これらの法具は、空海が唐から持ち帰る以前の古い様式のものです。このことから寺院が建てられる前から小屋掛け生活して、周辺の行場を回りながら「修行」をしていた修験者がいたことがうかがえます。
 空海によって密教がもたらされる以前の非体系的な密教知識を「雑多な密教」という意味を込めて「雑密」と呼びます。その雑密の行者達の修行が、行われていたことを示します。
 空海が密教を志した8世紀後半は、呪法「虚空蔵求聞持法(こくぞうぐもんじほう)」の修得のため、山林・懸崖を遍歴する僧侶がいました。空海も彼らの影響を受けて「大学」をドロップアウトして、その中に身を投じていきます。ここから出土した壊れた密教法具の破片は、厳しい自然環境の中、呪力修得に向け厳しく激しい修行を繰り広げていた僧侶の格闘の日々を、物語っているように思えます。そして、その中に若き空海の姿もあったかもしれません。そんなことをイメージできる雰囲気がここにはあります。

若き日の空海(真魚)の山林修行は?

山林仏教の修行者となった青年空海は、二十四歳の時、自らの出家宣言として書き上げた「三教指帰』の序文で次のように述べています。
「ここに一の沙門あり。余に虚空蔵求聞持の法を呈す。その経に説かく、「もし人、法によって(正しく)この真言一百万遍を誦せば、すなわち一切の教法の文義(文章と意味)暗記することを得」と。
 ここに大聖(仏陀)の誠言を信じて、飛頷を讃燧に望み(大変努力して、阿国(現在の徳島県)大滝嶽にのぼりよじ、土州(現在の高知県)室戸崎に勤念す谷、響きを惜しまず、明星(金星)来影す(姿を現す)。        (『定本弘法大師全集』七、四一頁)
空海は求聞持法をおこなった場所として具体的に地名を挙げているのは「大滝嶽」「室戸崎」だけですが、辺路修行として他の四国の聖山・聖地で行った可能性はあります。空海は、正式な得度や度牒を得ない私度僧の立場でこの修行をおこなっていたようです。
 当時、南都仏教の学解僧を中心とする大きな存在があった一方で、山林に入って一定期間大自然と一体化する山林修行や、求聞持法のような古密教的な修行法を重視する実践系の仏教集団が形成されていたのです。むしろ、両者の要素を兼ね備えた僧が周りの尊敬を集められたのです。。
 空海が四国の海辺や山岳が求聞持法の修行地として選んだことは、のちに続く密教山岳僧に大きな影響をもたらします。空海が中国からもたらした体系的な密教の実践エリアとして、この地が選ばれるようになります。空海を始祖の一人とする辺地修行と密接に結びつく聖地となっていくのです。それが平安後期から鎌倉期にかけて「弘法大師信仰」によって統一され、次第に「四国遍路」として体系化されることになります。ここはそんな空間のひとつだったのかもしれません。

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A地区 本堂と塔がある中寺廃寺の中枢地区です

中寺廃寺は、いつごろ存続した山林寺院なのですか

この寺院の活動期は次のような3期に分類されているようです。
  1 8世紀後半~9世紀  大川山信仰と修行場
 尾根の先端B地区において、行者たちの利用が始まります。。この時期には建物跡は確認できません。遺構が残らないような簡易施設で「山中修行場」として機能した時期で、B地区は遙拝書として機能していました。
  2 10世紀~  伽藍出現と維持期
谷の一番奥で標高が一番高いA地区に塔・仏堂が姿を現し、B地区では仏堂・僧房が、C地区おいて石組に遺構群が作られる時期です。この時期は、機能が異なるA・B・Cの3つの空間が愛並び、谷を囲んで向かい合う山林寺院として整った時期です。これには、讃岐国衙や国分寺も関わっているようです。
  3 12世紀以降 消滅期 
各地区から建物遺構が見られなくなる時期です。平安時代末期のこの時期に中寺廃寺は衰退・廃絶したと考えられます。
つまり、空海が活躍する9世紀後半以前から、ここは行場として修験者たちが活動する聖地になっていたようです。そして、平安時代が終わるに併せるかのように破棄され忘れ去られていきました。
国司として赴任した菅原道真は、この寺の存在を知っていたのですか?
 道真が着任した仁和2年(886)の夏のことです。
国府の北にある蓮池の蓮の花が真っ盛りでした。土地の長老が「この蓮は元慶(877 - 84年)以来葉ばかりで花が咲かなかったが、仁和の世になると、花も葉も元気になった」と云います。蓮は仏教ではシンボル花なので道真は「池の蓮花を採取して「部内二十八寺」に分捨する」ように提案すると、役人は喜んで香油なども加えて「東西供養」したといいます。[『菅家文草』巻4、262]。
「部内二十八寺」とは、讃岐の国衙が管理する寺28寺です。
ここから、9世後半の讃岐国には、28もの寺院が活動していたことが分かります。これは、考古学的に存在が確認されている白鳳期の讃岐の古代寺院の数と、ほぼ一致します。古代豪族によって白鳳期に建立された氏寺は、200年後にもほぼ存続していたようです。
 菅原道真が、讃岐国にある寺院数を知っていたのは、古代寺院が各国の国守の管轄下にあったからです。寺院に属する僧侶は、国家が直接管理した東大寺、下野薬師寺、筑前観世音寺に設けた三つの戒壇で受戒(合格し採用)した官僧であり、国家公務員でした。その動向や、彼らが居住する寺院の実態を、国守が把握するのは職務のひとつでもあったようです。
 菅原道真がカウントした「讃岐28ヶ寺」のなかに、この中寺廃寺が含まれているかどうかは、年代的に微妙なところです。9世紀後半は、中寺廃寺の本堂や塔が姿を見えるかどうかのラインのようです。
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A地区 本堂から塔跡の礎石を見下ろします
この寺の造営や維持管理に、讃岐国府は関わっていたのですか?
 繰り返しになりますが、古代律令国家においては、個人が出家し得度することは国家が承認しなければ認められませんでした。僧侶は国家公務員として、鎮護国家を祈願しました。祈願達成のために、多くの僧が国家直営寺院で同じ法会に参加します。一方で、僧は
「清浄を保ち、かつ山林修行を通じて自分の法力を強化」
することが国家から求められのです。これが国家公務員としての僧侶の本分のひとつでした。
 9世紀後半の光仁・桓武政権は、僧侶の「浄行禅師による山林修行」を奨励します。山林寺院を拠点とした山林修行は、国家とって必要なことであるとされていたのです
 国家は「僧侶が清浄を保ち、かつ山林修行を通じて自分の法力を強化」するための施設整備を行うことになります。このような動きの中で10世紀になると、国衙の手によって山林寺院が整えられていくようになります。大川山信仰や行場としてスタートした中寺廃寺に、本堂や塔があらわれるのもこの時期です。
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僧侶は勝手に山岳修行を行うことはできなかったのですか?

 養老「僧尼令」禅行条は、官僧が修行のために山に入る場合の手続きについて、次のように規定しています。
1地方の僧尼の場合は、国司・郡司を経て、太政官に申請し、許可を公文書でもらうこと。
2その修行山居の場所を、国郡は把握しておくこと。勝手に他に移動してはならない。
 この条件さえ満たせば、官寺に属する僧侶でも山岳修行は可能でした。
また、修行と同時に「僧としての栄達の道」でもあったのです。ここで修行した「法力の高い高僧」が祈雨祈念などを行い、成功すれば権力の近くに進む道が開けたのです。
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山中に山寺を建立する理由は「山岳修行」だけですか? 

 中寺廃寺は、讃岐・阿波国境近くに立地します。
古代山林寺院が国境近くに立地する例は、中寺廃寺以外にも、
比叡山延暦寺(山背・近江国境)
大知波峠廃寺(三河・遠江国境)
旧金剛寺  (摂津・丹波国境)
などの数多く見られようです。
国境は、国衙が直接管理すべき場所でした。古代山林寺院の多くが、国境近くに立地するのは、国衙の国境管理機能と関連があるようです。さらに讃岐山脈の稜線を西に辿れば、
尾野瀬寺(旧仲南町)→ 中蓮寺(旧財田町)→ 雲辺寺(旧大野原町)
と阿讃山脈稜線沿いに山岳寺院が続きます。中寺廃寺は当時の行場ネットワークを通じて、他の山岳・山林寺院と結びついていたのかもしれません。これを後の四国霊場の原初的な姿とイメージすることもできます。

遺構や出土物からは、どんなことが分かるのですか?

 A地区の伽藍配置は、讃岐国分寺と同じ大官大寺式であるようです。ここにも造営に当たって讃岐国衙の「管理コントロール」が働いていたことがうかがえます。
また、塔心礎下に埋められて須恵器壷群は、讃岐国衙直営の陶邑窯(十瓶山窯)製品です。その上、発色する胎土を用いて焼くという他には例がないものです。そのために赤みを強く帯びています。つまり、地鎮・鎮壇具として埋納するための須恵器は、国衙がこの寺用に作らせた特注品が使われているようです。
小説なら「空海、地元の中寺廃寺で修行する」というテーマで、讃岐にやって来た菅原道真の時代に割拝殿が作られることになり、それを国司である道真が「空海が若き日に修行した寺院」と伝え聞いて、特注制の陶磁器などの制作を命じて、空海由来の寺院として整えられていくたというストーリーが書けそうな材料はそろいます。

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また、B地区で出土した灰粕陶と見間違える多口瓶も、わざわざ播磨の工房に特注して作らせた可能性が高いようです。
 つまり、10世紀の中寺廃寺には、仏具として荘厳性の強い多口瓶を、わざわざ西播磨から取り寄る立場の僧侶がいたことになります。中寺廃寺は、単なる人里離れた山寺ではないことはここからも分かります。この寺は讃岐国衙や讃岐国分寺とストレートに結びついていた寺院なのです。
参考文献
上原 真人 中寺廃寺跡の史的意義 調査報告書第3集
加納裕之  空海の生きた時代の山林寺院「中寺廃寺跡」

                          
                          
                                    


中讃地域に真宗興正寺派のお寺が多いのはどうして?

掛け軸 六字名号・南無阿弥陀仏 安田竹葉 (肉筆) :YT66000:掛け軸の ...
中讃地域では仏さんの前で正信偈があげられ「南無陀弥陀仏」の六文字が称えられることが多く、真宗信者の比率が非常に高いと感じます。資料を見ると

県下の寺院数910ケ寺の内、約半分の424ケ寺が真宗です。

次が真言宗で、この二つで8割以上を占めています。四国の他県の真宗比率を見てみると、阿波では13%、伊予ではわずか9%、土佐では24%です。阿波では、中世に阿波を支配していた三好氏が禅宗を保護したからです。伊予では臨済宗が多のですが、これは伊予の河野氏が禅宗に帰依し、保護したためのようです。それぞれの県に「背景」と「歴史」があるようです。それでは、讃岐に真宗が多いのはなぜでしょう?問題を過去に遡って考えるというのが歴史的な考え方です。それに従うことにしましょう。
正信偈 - 生涯学習の部屋

いつごろどのようなルートで讃岐へ、真宗が入ってきたのか?

 讃岐における最初の浄土真宗寺院は、暦応4年(1341)に創建された高松の法蔵院とされます。ここへ入ってきて、そこから周辺へ広かったのではないか、という推測ができます。しかし、残念ながら裏付ける資料がありません。
珍種】常光寺のラッパイチョウが世にも珍しい件 | ガーカガワ 香川県の ...
讃岐への真宗伝来を伝えるのは、三木郡の常光寺に残る文書です。
 史料①『一向宗三木郡氷上常光寺記録』〔常光寺文書〕 
当寺草創之濫腸者、足利三代之将軍義満公御治世之時、泉洲大鳥之領主生駒左京太夫光治之次男政治郎光忠と申者、発心仕候而、法名浄泉と相改口口口引寵り、仏心宗二而罷在候、其後京都仏口口口常光寺と号ヲ与へ給候、爰二又浄泉坊同詠之者二秀善坊卜申者在之候是も仏光寺門下と相成、安楽寺卜号ヲ給候、
然二仏光寺了源上人之依命会二辺土為化盆、浄泉・秀善両僧共、応安元年四国之地江渡り、秀善坊者阿州美馬郡香里村安楽寺ヲー宇建立仕、浄泉坊者当国江罷越、三木郡氷上村二常光寺一宇造営仕、宗風専ラ盛二行イ候処、阿讃両国之間二帰依之輩多、安楽寺・常光寺右両寺之末寺卜相成、頗ル寺門追日繁昌仕候、
この文書は江戸時代に書かれたものですが、比較的信憑性が高いとされています。要約すると
①足利三代将軍義満の治世(1368)に、佛光寺了源上人が、門弟の浄泉坊と秀善坊を「教線拡大」のために四国へ派遣し、
②浄泉坊が三木郡氷上村に常光寺、秀善坊が阿州美馬郡に安楽寺を開いた
③その後、讃岐に建立された真宗寺院のほとんどが両寺いずれかの末寺となり、門信徒が帰依していった。
 ちなみに仏光寺というお寺は、そこにいた経豪上人が蓮如上人に仕えて、蓮如の一字をもらって蓮教と名を改めます。そして後に、興正寺というお寺に発展していきます。現在は京都の西本願寺の南に隣接してあります。
興正寺について|本山興正寺
ここが真宗の讃岐伝播のひとつのポイントのようです。
真宗といえば、すぐに本願寺を連想しますが、讃岐に真宗を伝えたのは「仏光寺(興正寺) → 秀善坊」なのです。興正寺によって讃岐に真宗が伝わってくるのですが直接ではありません。興正寺(仏国寺)の伝播は、まず阿波に入ります。
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阿波の美馬市郡里寺町に安楽寺というお寺があります。

安楽寺はもともと浄土宗の寺院でしたが、真宗に改宗していきます。安楽寺を拠点にして阿波と讃岐へと広がっていくのです。
安楽寺について資料を見てみましょう。
 史料②は篠原長政書状とありますが、これは安楽寺が焼かれ讃岐ヘー時的に「亡命」した時に出されたものです。この時に、財田駅の北側に宝光寺が創建されますが、私は「仏難を避け亡命政権」と考えています。
どこいっきょん? 宝光寺の紅葉(三豊市)

この寺が後には、三豊方面への「真宗布教前線基地」になります。しばらくして、もとの美馬へ帰ることになります。阿波守護代の三好氏の許可状とともに、この長政の添状が「亡命政権」に届いたためです。
    史料②篠原長政書状〔安楽寺文書〕
 就興正寺殿ヨリ被仰子細、従子熊殿以折紙被仰候、早々還住候て、如先々御堪忍可然候、諸課役等之事閣被申候、万一無謂子細申方候、則承可申届候、於今度山科二御懇之儀共、不及是非候、堅申合候間、急度御帰寺肝要候、恐々謹言
      永正十七年十二月十八日          篠原大和守
長政(花押)
      郡里  安楽寺

①「興正寺殿ヨリ被仰子細」とあります。先ほど紹介したように、安楽寺の本寺である興正寺が和解に向けて働いたことが分かります。
②財田への「亡命」の背景には「諸課役等之事閣被申候、万一無謂子細申方候」という、賦役や課役をめぐる対立があったことが分かります。さらに「念仏一向衆」への宗教的な迫害があったのかもしれません。
④要は、相談なしの新しい課役などは行わないことを約束して「阿波にもどってこい」と云っている内容です。安楽寺側の勝利に終わったようです。
 この領主との条件闘争を経て既得権を積み重ねた安楽寺は、その後
急速に末寺を増やしていきます。安楽寺に残されている江戸時代中期の寛永年間の四ケ国末寺帳を見ると、讃岐に50ケ寺、阿波で18ケ寺、土佐で8ケ寺、伊予で2ケ寺です。讃岐が群を抜いて多いことが分かります。
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安楽寺は阿波にありながら、なぜ讃岐に布教拡大できたのか。

讃岐と阿波との国境の阿讃山脈を越えて讃岐へと伝わります。
現在は三頭トンネルができて早くいけるようになりましたが、これは安楽寺と中讃を結ぶルートに当たります。三頭越のルートで伝わったのです。讃岐へ下りていくと土器川の上流に当たります。これを下れば丸亀平野です。国境を越えるといえば大変なように考えますが、当時はこれが「国道」で街道には人が行き交っていました。
安楽寺の末寺はほとんど中讃地域で、それも山に近い所に多いのはその「地理的な要因」がありそうです。

 真宗寺院の分布は、高松周辺と丸亀周辺にかたまっています。
これは比較的新しくできた寺院が多いようです。一方、農村部に沢山の寺院があります。この農村部にある寺院の多くが安楽寺の末寺です。そして、山沿いのお寺の方が古いようです。これは山から平野に向けて真宗の「教線拡大」が進んだことを示しています。ここからも、讃岐の真宗の伝播は、一つには興正寺から安楽寺を経て広がっていったということが分かります。
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ところで、吉野川の南側には安楽寺の末寺は見当たりません。

どうしてでしょうか。
わたしは、吉野側の南側は高越山や箸蔵寺に代表される山岳密教の修験者達のテリトリーで、山伏等による民衆教導がしっかり根付いていた世界だったからだと思っています。そこには新参の真宗がは入り込む余地はなかったのでしょう。そのためにも阿讃の山脈を越えた讃岐が安楽寺の「新天地」とされたと思います。そして財田への「亡命」時代に布教のための「下調べと現地実習」も終わっています。こうして、阿讃の山々を越えての安楽寺出身の若き僧侶達の布教活動が展開されていきます。それは、戦国時代の混乱期でもありました。

参考文献 橋詰 茂讃岐における真宗の展開             

江戸時代の庄屋(村役人)さんの「日常業務」とは、どんなものだったのでしょうか。

多度津・葛原村の庄屋を長く務めた木谷家には、享保から文政までのほぼ一世紀間、葛原村のさまざまな日常生活の様子が文書として記録されています。木谷家の歴代当主の残した「萬覚帳」をのぞいて、庄屋の日常を垣間見ることにしましょう。

村は警察機能の末端として、今の駐在所のような役目も果たしました。

その一つに、葛原村や千代池で起こる投身自殺の処理について次のような記録が「萬覚帳」に出てきます。
丸亀藩士の下女が千代池で人水自殺し、翌朝発見されたので藩に報告した。多度津藩から通服を受けた兄弟(親藩の足軽)2人がその日の夜半に丸亀から駆けつけ、遺体を引き取って行った。その対応の迅速さに驚いた。
丸亀藩領の他村で起こった身元不明の僧と女性の「相対死」(心中)入水事件に身元確認のために現場に呼ばれた。葛原村の村役人として、顔吟味に参加したが自村のものではないので、代官に当村に該当者無しと報告した。

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千代池

  この文書からは、村には江戸の街のような奉行も岡っ引もおらず、庄屋自らが出向いて、業務にあたっていることが分かります。村には「専従職員」がいないのです。庄屋さんは、村長兼と駐在所員、時には裁判官といくつもの職務を「兼務」していました。村役場も独立したものはなく庄屋宅に置かれていました。

葛原村墓地で博打と強請(ゆすり)が発覚します。

文政2年(1819)4月のことです。
まず庄屋は、藩に内々での処置を申し出て同意を取り付けています。この賭博事件の被害者で、同時に博打禁止の違反者でもあるのは葛原村の五人、加害者、強請った四人中三人は他村の者でした。葛原村の村役人が藩に事件を公にせず内済を望んだ背景には事件全体の違法性と合計銀五〇匁-という被害額、さらに犯人が他村にまたがる訴訟へのためらいがあったようです。

若殿の籠に、投げたものが当たってしまう事件には

同じ年には、藩主の若君がお忍びで葛原村を通った際に、若君の「御犬」が一農民の軒先で竹龍内の白鷺に吠えかかる事件が起きます。追い払おうと農民が犬に投げたものが若君の御駕寵にあってしまったのです。村を訪れる代官を、庄屋はじめ村役人が土下座して迎えるという時代ですから、これは一大事です。
 庄屋の木谷小左衛門(永井)は、早速その農民を郷倉(牢)に入れ「無礼」を罰します。同時に藩の代官と内々の折衝を続け、二日後に「御願書差上」という形で事件を「御代官様お手元切りに相済ます」決着に漕ぎつけています。

庄屋の村人を守るという役割 

このように、村は村内での事件や小犯罪をできるだけ藩にゆだねず、内々に処理しています。事件の処理が藩の手にわたると被疑者は拷問や厳しい追及に苦しみ、そのうえ刑が村外あるいは領外追放など比較的重いものになることが多かったのです。これに対し村の裁量に任された場合は、たいてい郷倉入りや自宅での閉門や禁足ですみました。
 「萬覚帳」に見る限り、郷倉入りで外との行き来を閉ざされたとはいえ、家族から百米麦七合までの「賄い」の差し入れは許されました。もし、家族が貧しい際には五人組や村が代わって負担しています。さらに郷倉入りの本人が高齢のうえ病弱であったりすると、倅が代人を努めることさえ許されています。
ここには、藩に対して村人を守ろうとする姿勢がはっきりと読み取れます。
「江戸時代 郷倉」の画像検索結果

さらに、庄屋が身元引受人となっている例です

 村人が多度津藩に小人(使い走り)として奉公する際に、庄屋が身元保証人になっています。それだけでなく、切米(給与)額や休日数などの雇用条件を細く決めた契約書(「御請状」)を、庄屋が身代わりになって藩との間で交わしていることが分かります。
 「萬覚帳」には寛政元年(1789)と同4年、二通の御請状写しがあります。その中の条項には
「奉公人への給米は年二回に分けて先払いされるが、もし期日前に米を返さず退職した場合、本人は立替え分に五割の利子をつけて返済する。
また決まった休日の日数をこえて欠勤する場合も、代人を立て役目に支障が起こらないようにし、それを怠った日数だけ切米は減額される。そして奉公人がその義務を果たさない場合、「御請状」を書いた庄屋が代わって弁済する」
と、現在からすれば「労働者側に不利な勤務条件」が記されています。要するに、庄屋は村出身の奉公人の身元保証にとどまらず、共同体の親として「悴(せがれ)」の不始末の尻拭いを求められていたのです。庄屋の「業務」は、広いのです。 

最後に、葛原村らしい四国巡礼の遍路に対する「業務例」を見てみましょう。

村には、七十六番札所金倉寺から七十七番道隆寺への遍路道は南北にまっすぐ村を貫いていました。その途中、八幡の森は深い木陰ときれいな湧き水で、疲れた遍路に得がたい休息の場を提供しました。森のはずれ、八幡宮参道口近くには旅寵もあり、村人も「お遍路」を心暖かく迎えたました。しかし、病をもつ老遍路のなかには、そのまま立ち上がれなくなる者も出ました。

「萬覚帳」には行き倒れ遍路について藩への届けが八件あります。

持っていた往来手形から名前・年齢・生国がわかり、遺体は国元に通知されることなく、その地に埋葬されました。身元不明の場合、村は丸亀・多度津両藩に通知し、遺体はその場に二、三日保存された後に葬られています。これも庄屋がおこないました。 

遍路が帰国をのぞむ場合は「村送り」による「送り戻し」(送還)を願い出ることもあったようです。

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  捨て往来手形

庄屋は、その遍路が「往来手形」で属する宗門が明らかで、多少の路銀をもち、順路の村々に大きな負担を掛けないですむかどうかを考えてから「送り手形」を発行しています。
 病人で歩けない遍路を村境で受け取り、隣の村境まで送り、時には夜宿泊の世話もする「村送り」は、人手の要る作業です。これは藩を超えた村の連帯感と庶民の「御大師信仰」に根ざした「おせったい」の心なしにはできないことです。 

同時に、村送り遍路への措置や手続きから見えてくるのは、 藩が民衆の移動の管理を行っていることです。

幕府や藩は農民が土地を離れ、他郷に行くことを基本的に嫌い、抑制しています。「移動の自由」は保証されていません。
 村民の一家が他村に引っ越す際にも、転居先の村へ予め「送り手形」を届けるこを求めています。その中で送出す村は、本人に年貢の未納や借財がないことを保障し、自分の村の人別帳からこの一家が抹消された後、相手村の「帳面」に書き加えられるよう依頼しています。また他村への養子縁組でも「送り手形」が相手側に送られています。

村と庄屋の二面性がもたらすものは?

以上見てきたように、村は行政の末端行政組織として藩の触れや法令を伝える支配機構の一部でした。しかし、それだけではなく、村内の争いや事件を解決するため村の掟を造り、司法・警察・消防の役割まで果たす「自治的共同体」の機能も持っています。
つまり二面性があったということです。
そして村には専門の専従者がいたわけでなく、村人は村役人や村寄合の指示に従い、自発的あるいは義務として協力したのです。

このような村民の頂点に立つのが庄屋でした。

庄屋は村役人中でも別格で、百姓身分で村人たちを代表する存在にもかかわらず、領主の意向を代表する任務を負わされています。
そして庄屋の私宅は村政の事務所=「政所」となり、村人はここに呼び出されて藩の触れや新法令の発布を知らされました。
 庄屋は村人自身によって選ばれ、村の自治を代表するとはいえ、その任免権は藩の手にあり、領主支配の末端業務の責任を負ったのです。庄屋の役割の二重性は、百姓の共同体であるとともに幕藩体制の末端行政組織という村の二重性をそのまま反映しています。 

領主と農民の間に立ち、対立する利害を調整する庄屋の立場は難しかったようです。

有能な庄屋は双方の立場と要求、力関係をはかりながら妥協と調停の道をさぐります。そのような庄屋の姿勢を指して、
人は「庄屋と屏風はまっすぐでは立たぬ」と云ったのでしょう。
これを現在では、政治力というのかもしれません。

 また江戸時代は、藩と村とのやりとりは細かいことまですべて文書をつうじて行われましたから、読み書きに馴れ、年貢徴収のための計算能力が求められます。場合によっては未進(年貢未納)農民に代わって米や代銀を立て替える財力も必要となります。もっともこの立替えにあたり、未進農民は自分の土地を質地として差し出しますので、土地併合には有利なポジションにあったと云えるかもしれません。

江戸時代の落語でよく登場する「大家さん」と同じように「庄屋さん」も庶民からは、悪者扱いされたり、批判の対象となることが多いようです。その裏で「日常業務」は大変だったことを改めて知りました。

多度津・千代池の改修工事はどう進められたか

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千代池からの大麻山と五岳

前回は金倉川の付け替えによって廃河跡が水田として開発され、
河道を利用してため池が次々と作られたこと、
その開発リーダーが多度津・葛原村の庄屋・木谷家であった
という「仮説」をお話ししました。

今回は、築造された千代池を木谷家が、どのように維持改修したかを見ていくことにします。今回は仮説ではありません。

木谷家には代々の家長が残した記録が「萬覚帳」として残されています。これを紹介した「讃岐の一豪農の三百年」によって眺めていきます。その際に、江戸時代前半と、後半ではため池改修工事の目的が変化していくことに注意しながら見ていこうと思います。
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多度津の旧葛原村には、今でも千代池、新池、中池、上池の四つのため池があります。これらは旧四条川の河道跡に17世紀後半に築造されたものです。その中でも千代池は広さ五㌶、貯水量90万㎥と、多度津町内のため池の中では最大級の池です。  

ため池には、メンテナンス作業が欠かせませんでした。

特に腐りやすい木製の樋管、排水を調整するか水門(ゆる)やそれを支える櫓などは約二〇年おきに取り替える必要がありました。
また粘土を突き固めただけの堤もこわれやすく
「池堤破損、年々穴あき多く、水溜まり悪しく、百姓ども難儀仕り候」

と藩への願書がくりかえし言うように、修理が常に求められたのです。これを怠ると水が漏れ出し、堤にひびが入り、最悪は決壊ということもありました。
「ため池 樋管」の画像検索結果
現在のため池の樋官

それでは、江戸時代のため池改修はどんな風に行われたいたのでしょうか?

江戸時代前半は「木製の樋竹・水門・櫓などの修理」に重点

 江戸時代前半期の修築工事は、丸亀藩の意向もあったのか、朽ちた木製の樋竹・水門・櫓などの修理に重点が置かれています。堰堤の補修や補強にはあまり力を入れた形跡がありません。
 木谷家に残る江戸時代前期の資料からは、当主四代、ほぼ六〇年間に行われた計27件の池普請に使われた労働力の内訳が記録されています。それを見ると大工99人、木挽き79人など木製品に関わる職人数が多く、堤の補修にたずさわる人足は延べ604人に過ぎないのです。
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丸亀藩の補修工事には「郷普請」と「自普請」ありました。
前者はため池の水を利用する村(水掛り村)が複数ある場合で、藩が工事を直接指揮監督しました。後者は水掛り一村のみで、藩の援助は無く費用も労力(人足)も、その村が単独で負担しました 
葛原村の池普請は、すべて後者でしたから藩の援助はありません。
その場合でも村役人は大庄屋・代官を通じ藩に、その計画・実施を願い出、許可を受ける必要がありました。そのため「萬覚帳」には、享保(1726)から文政元年(1818)の92年間に計34件の池停請が申請文書が残されています。村にある4つの池で、3年に一度はどれかの池で修築工事が行われていたことになります。
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旧河道に架けられた橋

 木谷小左衛門の試みは、貯水量を増やすこと       

 江戸時代後半になると、村の周囲はほぼ水田化され耕地を増やす余地がなくなってきます。そんななかで、米の収穫量を増やす道は、乾燥田への給水確保以外になくなります。つまり、ため池の貯水量の増量という方法です。そのためには堤防のかさ上げが、もっとも手っ取り早い方法です。
 この「要望」に、対応したのが江戸時代後半に木谷家当主となる木谷小左衛門です。彼は天明八年(1788)に庄屋となると、ため池補修の重点を、池全体の保水量を増やすため、堰堤のかさ上げや側面補強などに移します。彼は、堰堤を嵩上げする作業を「萬覚帳」に「上重(うわがさね)」と記しています。その方法手順は、
1 まずに工事現場に築堤用土を運び上げ、堤敷に15㎝の厚さに撒き、
2 それを大勢の人足が並んで踏みつけながら、突き棒で10㎝ぐらいまでに突き固め、
3 めざす厚さまで何回も積み重ねる
4 そして池底の浚渫・掘り下げです。晩秋、すべての農作業が終わった後、池を空にして底土を堀りおこし池の深さを確保する。
こうして貯水量を増やそうとしたのです。
この工事成否は投入される人足の数にありました。
 小左衛門は寛政三年(1791)から文政元年(1818)まで、28年間に計7件の池普請を願い出ています。
そのうち最も人掛かりなのは寛政7年の千代池東堤(長さ282㍍)の嵩上げと前付け、さらに南・北堤(合わせて長さ430㍍)の前付け・裏付け(両側面補強)に池底の一部(1700㎡)の掘り下げなどを加えたものです。
 これらの工事に投ぜられた人足数は延べ6699人に達しています。先ほど見た江戸時代前期の改修工事の延べ人足数が600人程度であったのに比べると10倍です。このほかの6件も樋・水門・水路などの従来型補修のほかに、堤の嵩上げ、補強、池底掘り下げなどを含む規模の大きな工事です。それらには計13400人の人足が動員されています。結局、全7件の人足総数は延べ2万人を超えました。

「ため池 å·\事」の画像検索結果
人足は、賦役として動員された「ただ働きの人足」だったのでしょうか?
「萬覚帳」によれば、池普請で働く人足一人には一日あたりし7合5勺の米が扶持として給されています。その総量は150石余(375俵)になります。自普請の場合、この費用は名目上は、村が負担しましたが、実は村の納める付加税の四分米(石高の四パーセント)がこれにあてられました。葛原村にとって、それは一年につき38石=95俵になります。
 これは藩にとり付加税収入の減少を意味します。もちろん池普請は毎年あったわけではありませんが、財政窮迫に悩む多度津藩にとって、決して好ましいことではなかったはずです。 
藩の意向にさからってまで、池普請で村を豊かにしようと努めた小左衛門は新しいタイプの庄屋と言えるのかもしれません。
 
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別の視点から池普請を見てみることにしましょう。

 労働力市場から見ると人口800人ばかりの村にとって、農閑期の三、四か月間に参加すれば一人当り米七合五勺を支給される冬場の池普請は、貧しい水呑百姓や賎民たちには「手間賃かせぎ」の好機として歓迎されたようです。今で云う「雇用機会の創出」を図ったことになります。ピラミッドもアテネのパルテノン宮殿も、大阪城も、「貧困層への雇用機会の創出という社会政策面」を持っていたことを、近年の歴史学は明らかにしています。そして、これをやった指導者は民衆の人気を得ることできました。
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こうして、千代池は川下の堤防だけだったのが、周囲全体に堤防が回る現在の姿に近づきました。近年には散策路や東屋も作られ、散歩やジョッキングする人たちの姿を見かけるようになりました。

多度津の豪農木谷家 なぜ安芸から讃岐に移住したのか?

前に書いた「丸亀平野 消えた四条川 作られた金倉川」
で、丸亀市史を参考にしながら次のようなことを書きました。
1 金倉川は満濃池再築以前に、水路網整備のために新たに作られた「人工河川」であること。つまり17世紀半ばの近世に河道が付け替えられ金倉川が生まれたこと
2 それ以前には「四条川」が琴平・多度津間は流れており、この旧河道上に明治になって土讃線、四国新道(現R396号)が建設されたこと。
3 旧四条川の金蔵寺付近よりも下流は、旧河道域を利用して、千代池などのため池群が築造され、水田化も進められたこと
4 旧四条川の地下水脈はいまも、豊富な湧き水をもたらしていること。その典型が、金陵の多度津工場で豊富な伏流水を利用して酒造りが行われていること
これらを書きながら思い出したのが「讃岐の一豪農の三百年・木谷家と村・藩・国の歴史」という本です。
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この本は、戦国末期に安芸・芸予の武士集団・木谷一族が仕えていた毛利・小早川・村上などの諸大名が衰退していく時代の流れのなかで、海を越えた讃岐の多度津・葛原村に新天地を求め、ここで帰農し、庄屋化していくプロセスを追った労作です。小さな本ですが読みごたえがありました。
 それもそのはず、作者は名古屋大学教授の木谷勤氏です。ちなみに彼の専攻は、ドイツ近代史です。そして彼は木谷家の末裔です。讃岐の一豪農の歴史を専門外の大学教授が書いているのです。これだけでも異色です。

今回見ていきたいのは、次の三点です

1どうして、安芸の木谷一族が讃岐の多度津を「移住」先として選んだのか
2帰農定住した多度津・葛原村ですぐに庄屋に成長していった背景は何なのか
3旧四条川の河道変更と、その後の千代池の築造・水田開発のリーダーとして、「移住」してきた木谷家が活躍したのではないか

この本に導かれながら見ていきましょう

1どうして木谷一族が多度津を「移住」先として選んだのか?

 まず、移住以前の木谷家について見ておきましょう。
戦国時代には、安芸や芸予の島にはいくつもの木谷家があり、グループを形成していたようです。それを作者は3つに分類します。
(1)竹原・小早川家の重臣を出した木谷氏主流
(2)村上水軍に属した木谷氏の支流ないし傍流
(3)十三世紀の後藤実基からでた最も旧い木谷氏
多度津にやってきた2つの木谷家のルーツは(1)の主流ではなく、(2)の村上水軍に属した芸予諸島の木谷氏である可能性が一番高いとします。その理由は、当時の政治情勢です。
 木谷家の「讃岐移住」は天正十五年の「刀狩り・海賊禁止令」前後とされます。この時期、小早川家はまだ安泰で、安芸の主流木谷一門に郷土を捨てる動機はなく(1)の可能性は低いのです。これに対し、毛利についた村上武吉のように能島・因島村上側の人々は、秀吉の天下統一が着々と進むなか、その圧力をひしひしと感じ、海賊禁止令のような取締りが強まるのを恐れ、将来への不安が高まったでしょう。特に能島を拠点にする村上武吉の配下では、ことさらだったでしょう。彼らが、山が迫る安芸沿岸や狭い芸予の島々をいち早く見限り、海に近く野も広い西讃岐・葛原村に新天地を求める決断をしても、決して不自然でないと作者は考えているようです。

それでは、なぜ多度津を選んだのでしょうか?

木谷家は、なんらかの関わりが西讃地方にあったのではないでしょうか?毛利側の史料『萩藩閥閲録』には、次のような記録があります。
天正五年(一五七七)、讃岐の香川氏(天霧山城主?)が阿波三好に攻められ頼ってきた。これに対して毛利方は、讃岐に兵を送り軍事衝突となった。これを多度郡元吉城の戦い(元吉合戦)とする。元吉城は善通寺市と琴平町の境、如意山にあったとされ、同年七月讃岐に多度津堀江口(葛原村の北隣)から上陸した毛利勢の主力が、翌月この城に拠って三 好方の讃岐勢と向き合った。毛利方は小早川家の重臣、井上・浦・村上らの率いる援軍をおくり、元吉城麓の戦いで大勝をおさめた。毛利は三好側と和を結び、一部兵力を残して引き揚げた。
 ちなみに元吉城とされる櫛梨山からは山城調査の結果、大規模な中世城郭跡が現れ、これが事実であることが分かってきました。『香川県史・2』はじめ大方の歴史書もこの時期の毛利の讃岐侵攻を「元吉合戦」とするようになりました。

この記述だけでは分かりにくいので当時の情勢を補足します

信長の石山本願寺攻略が佳境に入った頃のことです。この合戦で毛利側が目指したのは、前年に石山本願寺へ兵糧搬人で手にいれたかに見えた瀬戸内東部の制海権が、翌年には信長方の「鉄の船」の出現と反撃で危うくなったのです。これを挽回するため、毛利は海上交通の要である讃岐や塩飽に勢力をのばし、一向門徒の信長への抵抗を「後方支援」しようとしたようです。  
 注目したいのは、『萩藩閥閲録』の最後の部分に
「毛利は三好側と和を結び、一部兵力を残して引き揚げた」
とあります。一部残された残存兵力の中に木谷家の一族がいたのではないでしょうか。あくまで私の想像(妄想)です・・・。

 船乗りにとって海は隔てる者ではなく、結びつけるもの

 秀吉進出以前の小早川・村上水軍は、芸予諸島と塩飽に囲まれた瀬戸内海域を支配し、各所に「海関」を設け、内海を通る船から通行料や警固料を徴収するだけでなく、自らも輸送・通商にたずさわっていました。
 海上の交通は比較的便利で安芸東部と西讃は
「海上一〇里にすぎず、ことあるときは一日の内に通ず
(南海通記)という意識があったようです。いまでも、晴れた日には庄内半島の紫雲出山の向こうに福山方面が見えます。
 その一例として、15世紀半ば京都の東寺は伊予の守護に、弓削島の製塩荘園が押領されたことを訴えています。訴えられているのが安芸小泉氏、能島村上、そして讃岐白方・山地氏の三海賊衆です。(「東寺百合文書」『愛媛県史』資料編古代・中世)。
 白方は弘田川の河口で、古代以来の多度郡の湊があったと目されるところです。山地氏はこの白方を拠点に、天霧山に城を築き、多度津本台山(現、桃陵公園)に館をおく守護代香川氏の水軍として、戦国末期まで活躍します。同時に、能島の村上武吉などとも連携していたことが分かります。このように当時の瀬戸内海では能島・来島・因島の三村上からなる村上水軍を中心に、さまざまな地域土豪の海賊衆が競い合っていたようす。彼らの間には対立と同時につながりや往来が生まれていたのです。
戦国末期に両岸の往来は、江戸時代よりも活発で、西讃沿岸は対岸の安芸の海賊衆にすでになじみの土地だったのかもしれません。それが江戸時代になり、幕藩体制が強化されていくと海を越え藩を超えた自由な往来も難しくなっていたようです。
 ちなみに、信長・秀吉・家康についた塩飽は「人名」として「特権」を与えられ、北前船の拠点として繁栄の道を進むことになります。敗者となった毛利側についた村上水軍の武将達は、散りじりになりました。その後に待ち受ける運命は過酷であったようです。その中に、木谷家のようにふるさとを捨て、新天地を目指す者も現れたのです。
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 木谷一族が葛原村で庄屋に成長していった背景は何か?

 生口島や因島など芸予諸島に住み、村上水軍の武将クラスで互いに連携していた2軒の木谷家は少数の従者を率いて、同じころに、あるいは別々に讃岐・葛原村に移住したのでしょう。そして、北條木谷家が村の中心部に住みつき、別の木谷氏は村のはずれの小字下所前に居を構えます。 一定の財力を持ってやってきた彼らは、新しい土地で、多くの農民が生活に困り、年貢を払えず逃亡する混乱の中で、比較的短い間に土地を集めたようです。そして、百姓身分ながら、豪族あるいは豪農として一般農民の上に立つ地位を急速に築いきます。

特に目覚ましかったのは中心部に住み着いた北條木谷家です、

年表にすると
1611年 村方文書に葛原村庄屋として九郎左衛門(22代)の名があります。
1628年 廃池になっていた満濃池(まんのう町)の改修に着手
1631年 満濃池の改修が完了
1670年 村の八幡宮本殿が建立、その棟札に施主・木屋弥三兵衛(木谷八十兵衛、二十四代)の名が記されています。
そして以後、村人から「大屋」とあがめられた北條木谷家は、明和五年(1768)まで百数十年にわたり、世襲の庄屋役をつとめることになります。

その原動力の一つが「旧四条川河道総合開発計画」ではなかったのかというのが私の「仮説」です
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『新編丸亀市史』は、満濃池の再築の寛永三年(1628)から同五年の間に、事前工事として治水工事として旧四条川の流れを金倉川の流れに一本にする付け替え改修を行ったとします。その後に行われた一連の開発を「旧四条川河道総合開発」と呼ぶことにします。まず、旧流路跡は水田開発が行われます。水田が増えると水不足になるので、廃川のくぼ地を利用して千代池や香田池(買田池)などのため池群が旧河道沿い築造されます。ちなみに買田池は寛文二年(一六六二)築造で、その他の池も、河道変更後の築造です。これらの治水灌漑事業にパイオニアリーダーとして活躍した人たちの中に、木谷家の先祖もいたのではないでしょうか。

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 そして、1670年の八幡本宮建立は「旧四条川総合開発計画」の成就モニュメントとして計画されたのではないでしょうか。残念ながら、この仮説(妄想?)を裏付けるような資料は、私の手元にはありません。今回は、ここまでです。おつきあいありがとうございました。

 小説「釈伝 空海」について

前回は「空海=母・阿刀氏の本拠である摂津・生誕生育説」が研究者の支持を集めていることをお伝えしました。昨年には、この説に基づく小説「釈伝 空海」も発表されています。小説では、空海の父と母の出会い、佐伯氏と阿刀氏の結びつきがどのように描かれているか興味深いところでもあります。少し、紹介したいと思います。

村屋坐弥富都比売神社(祭神・三穂津姫と壱与)

物語は宝亀三年(772)の秋口、大和の中つ道を南下する讃岐国郡司少領佐伯直田公、つまり空海の父の姿から始まります。彼は、讃岐郡司として平城京に春米(白米)を納めるために上京して、その任を終えたばかりのようです。そして、祖先を祀る村屋坐弥富都比売神社に参拝のために道を急いでいるのです。神社で、同席したのが阿刀豊嶋(空海の母の父)でした。
大神神社別宮・村屋坐弥冨都比売神社に参拝 | 大楠公末裔 楠公研究会 ...

小説では、阿刀氏の出自が背景が次のように描かれます。

祭礼を受けた後、酒宴の座ではさまざまな話題が出たが、室屋氏は次のようなことを語りはしめた。現神職の室屋氏と阿刀豊嶋の先祖は、ともにかっての物部氏であった。特に室屋氏は物部守屋大連の子孫である。物部守屋は、河内国の渋川に本宅を構え、北の淀川と南の大和川の水運を押え、絶大な勢力を誇っていた。 さらに、時の用明帝の宮が磐余(桜井市安倍)にあったから、その宮に近い阿都の地に別業(別宅)を設け、宮廷に出仕の際に利用していた。阿刀の地は、大和川の上流初瀬川の中流域にあり、昔から大和川舟航の終着点として、新羅や任那の使人たちが上陸した船着場かおり、川辺にはそういう使人たちを休息させる館が置かれ、海柘榴市も立つ賑やかで異国情緒のある土地柄であった。推古十年(六〇八)に帰国した遣随使小野妹子が隋人裴世清らを伴って、ここから上陸している。
 
2 奈良村屋神社2
阿刀豊嶋の先祖は、この大和川の水運に携わる跡部を統轄して、本拠地をこの阿都の地に置き、同時に物部守屋の別業を管理していた。用明帝の二年(五八七)四月、用明帝が亡くなられると、その三ヵ月後、国つ神を奉じて仏教を排そうとしていた物部守屋は、泊瀬部皇子(崇峻帝)や厩戸皇子(聖徳太子)、蘇我馬子らの軍に攻められ、渋川の本宅で討たれてしまった。ここに守屋の末流たちは榎井、石上、阿刀などと、その住む地名に氏名を変えて生き延びた。榎井を名乗った守屋の子の忍勝は、後に物部の氏名に戻り、物部忍勝連となり、推古女帝の元 年上一月、村屋神社の世襲の祝職を継ぎ、以後、室屋(守屋)氏を代々名乗ってきた。また、阿刀氏友。阿都の地にあって、この神社の神人(氏子)の長を代々継いできたのである。

田公は豊嶋に招かれ、一夜をその館で過ごすことになります。

2 奈良村屋神社

場所替えて向き合う二人は、親子ほどもちがう年齢ですが、いろいろな話が交わされます。この会話を通じて佐伯氏と阿刀氏をめぐる様子も分かってくるという酒肴です。 
こうして、またしても酒宴がはじまったのであるが、二人の会話は、自然に、暮らし向きのこと、世情の噂や、先祖のことへと移っていった。
 田公が、国元の多度津には時折、唐の江南地方の商人などがやってきて、貿易をする様子を語る豊嶋は興味深けに聞き入り、かすかに嘆息をもらし、近頃は中央の官吏などより地方官の方が豊かな生活に恵まれている、と愚痴をこぼした。
 実際、阿刀氏の一族のものは、ほとんどが中央の下級官吏であって、生活に厳しいものかおり、一族のものには書の才能のある者が多いため、写経所などに写経生として雇われる場合かあるが、薄給であった。あるいは豊嶋の父雄足のように、造東大寺司の舎人から抜擢され、東大寺の荘園である越前国坂井郡の桑原荘に送り込まれ、そこでの経営を勤め、片手間に私出挙(稲・米を貸し元手こ利息を執邑を行って豊かになる者もいた。

ここには近年の若き日の空海についての研究成果が生かされています。

空海の父・田公は、多度津を拠点に瀬戸内海運を行い、そこで集めた物資を住吉津に運び、阿刀氏がそれを車馬で八尾街道を一直線に跡部郷に運び、水路で平城京や大和、あるいは長岡京に運送する。その事業の連携のために佐伯氏と阿刀氏と接触、ここに婚姻関係が生まれる背景があったのではないかとという研究者の仮説が出されていました。
田公と「阿刀の娘」の初めての出会いは、こんな風に描かれています。 
田公が燈台のともし火に眼をやったとき、部屋に入ってくる者があった。
部屋中にかすかな香の薫りが漂う。女性である。瓶子を捧げ持っている。白い絹の桂をすらりと着流し、薄紫の帯を前に結んで余りを垂らし、浅緋色の総の袖(上衣)を上からはおっている。つややかな黒髪は二つの書(わげ)を頭上に結い、残りを後背に垂らしている。ややふっくらした顔立ちで、瞳は湖をたたえたように静かで思慮深い眼差しを客に向けている。
 わが最愛の娘であると豊嶋は言う。村屋神社の大祭の日に生まれたので、祭神弥富都比売にあやかって、弥穂都子と呼ぶという。十七、八歳というところか。田公はといえば、その匂うような気品に気おされて、しばし、われを失っていた。豊嶋が娘の名を口にしたとき、娘は父を軽く睨んで、瓶子を少し傾け田公に盃を促した。
 田公はわれに返って娘の酌を受けた。
豊嶋によれば、娘には二人の兄がいるという。長男は真足といって、今は都に住んでおり、今年四月に大学助になったばかりという。次男の大足については余り語らなかった、どうやら大変な学者であるらしい。しかし田公は豊嶋の話をうわの空で聞いていた。娘の方から惨み出てくる何かが田公をとらえていたのだ。しかも、娘が女にしては珍しく学問を身につけていることに感嘆していた……。
 日が斜めに昇りかかるころ、中つ道を北上する田公主従の影があった。従者は、田公の様了がいつもとは違っていることに気づいていた。時折、ホーツと溜息をつき、何事かを考えこんでいるようであった。なんとしても通わねばなるまいと思わず口に出る。国元で唐の商人から手い入れた、青い石の埋め込まれた銀の算のことを考えていた。
ここに出てくる次男の大足とは、後に親王の家庭教師を務める人物です。そして『続日本後紀』に
  年十五にして、舅(母方の兄弟)の従五位下阿刀宿禰大足に就いて、文書を読習し(後略)
とあるように空海が「文書読習」を教わる阿刀宿禰大足のことです。  つまり豊嶋には上から 真足  大足  娘(空海の母)というできのいい子どもがいたと云うことを伝えています。そして、空海(幼名・真魚まお)が生まれます。
宝亀五年(774年)十月二十七日、大和国磯城郡阿刀の村のほぼ中央、阿刀宿禰氏の妻家に元気な産声があがった。母は阿刀宿禰弥穂都子、父は讃岐国郡司少領佐伯直田公である。赤子は母によって、遥か遠い讃岐の海を思いやって真魚と名づけられた。真魚出生の知らせは、すぐさま讃岐国の父の許へ届けられ、折り返し、父から、近く都への所用があるゆえ必ず対面に参るという喜びに満ちた書状と帛や真綿など大量の祝いの荷が送られてきた。
 讃岐 空海、佐伯直と阿刀氏 - Forum_tokyoblog

母親の名前は阿刀氏の娘としか分かりません。弥穂都子というのは小説上の命名です。讃岐を本貫とする佐伯田公と河内国渋川郡跡部郷を本貫とする阿刀娘子の結婚は、当時は妻訪婚ですから、田公が娘子のいわば実家へ通うことになったという「新設」で描かれています。現在のように、海を越えて「瀬戸の花嫁」のように讃岐に輿入れすることはないという考えです。
 古代氏族阿刀氏(あとうじ)の氏神社 阿刀神社へ: 古寺とお城の旅日記Ⅱ

阿刀氏の一族である玄昉僧正を通じて空海の未来を大足に語らせます。

 阿刀氏の一族である玄昉僧正は幼い頃、と大足は語りはしめた。
一を聞いて十を知るというまことに優れた資質をて知られ、若い頃には外典(仏教以外の学問)も学ばれ、梁代の詩人の謝玄暉や書の達人伝眸酔され、それぞれから玄と昉の字をとられ、出家のときの法号を自ら玄防とされたという伝があると、いかにも学者らしい注釈をする。
 この玄防僧正の弟子となった、今を時めく法相宗の善珠禅師も、わが阿刀氏一族の出身で、興福寺に在って法相と因明に精進され、法相教説端派に闘いを挑んでおられる。この善珠禅師も幼少の頃は、この阿刀村の南のはずれに真魚と同じように母と一緒に暮していたのだ。
 この子は、と真魚を指し示し、むしろ玄昉僧正に匹敵するほどの人物になるかも知れない。いかに官吏になったとしても、この子の父の官位は正六位であって、どれはどの才能があろうともヽせいぜい五位どまりであろう、と大足は愚痴っぽく言うと、母も頷く。しかし、と大足は気を取り直したかのように言った。この子の資質がいかなるものであるか教えてみたい。いずれ僧侶の道を歩むにせよ、官吏の道を歩むにせよ、広く学問を身につけることは、この子の将来のだめに大切なことなのだ、と。
 真魚はすでに、母から書の手ほどきを受け、書聖といわれる王義之の字を集めて韻文とした。『千字丈』を手本とし、時折、母が好きな『文選』の中の詩を、覚えた文字で書してみたりした。 
かくして、阿刀大足は、出仕の合間を見ては馬を駆って阿刀の村に赴き、ほとんど二日あるいは三日おきに真魚に『孝経』から『論語』や『文選』などを教えはしめた。ところが、真魚の頭脳は水を吸う海綿のようで、大足の二言一句ことごとく吸い取られていくかの感があった。特に韻文に対する感性は恐るべきものがあった。
 空海は阿刀宿祢家で育てられることになります。
空海(真魚)は神童とされるように、並の幼児教育では追いつかなくなります。
それに対応するだけの環境と教育力が阿刀家にはあったことを、阿刀大足を軸に描いています。
1善通寺宝物館5


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      円珍が残した 和気氏の系図

 八~九世紀、讃岐の有力豪族たちは、それまでの姓を捨て自らの新しいアイデンティティーを求め、改姓申請や本貫地の変更申請をおこないます。
その中に、空海の佐伯家やその親族で円珍(智証大師)を出した因支首氏(いなぎのおびと)もありました。今回は円珍を出した讃岐那珂郡(現善通寺市金蔵寺町)の因支首氏が和気氏に改姓するまでの動きを追ってみましょう。 

圓城寺には、円珍の「和気家系図」が残っています。

日本名僧・高僧伝”19・円珍(えんちん、弘仁5年3月15日(814年4月8日 ...

承和年間(834~848)のもので29.4×323.3cmの景行天皇から十数代後の円珍までの系図です。全文一筆でかかれていますが、円珍自筆ではないようで、別人に書写させたことが円珍の自筆で注記されています。その上に、円珍自筆の加筆があり、自分の出身氏族について注意を払っていたこと分かります。
 これは竪系図としては、わが国最古のもので、平安時代の系図のスタイルを示す貴重な史料として国宝に指定されています。円珍が一族(叔父の家丸〔法名仁徳〕という説が有力)と協力し、先祖の系譜を整理して、近江・坂本の園城寺に残したものが、現在に伝わったようです。

この系図からは何が分かるのでしょうか?

  この系図からは円珍が武国凝別皇子を始祖とする讃岐国那珂郡の因支首(いなぎ・おびと)の一族であったことがわかります

それでは一族の始祖・武国凝別皇子とは何者なのでしょうか?

 研究者は武国凝別命は景行天皇の皇子ではなく、豊前の宇佐国造の一族の先祖で応神天皇や息長君の先祖にあたる人物としています。子孫には豊前・豊後から伊予に渡って伊余国造・伊予別公(和気)・御村別君やさらには讃岐の讃岐国造・綾県主(綾公)や和気公(別)がいます。そして、鳥トーテムや巨石信仰をもち、鉄関係の鍛冶技術にすぐれていたことから、この神を始祖とする氏族は、渡来系新羅人の流れをひくと指摘する研究者もいます。
 ちなみに、武国凝命の名に見える「凝」(こり)の意味は鉄塊であり、この文字は阿蘇神主家の祖・武凝人命の名にも使われています。 これら氏族は、のちに記紀や『新撰姓氏録』などで古代氏族の系譜が編纂される過程で、本来の系譜が改変され、異なる形で皇室系譜に接合されたようです。  

この系図は、何のために、だれが造ったのでしょうか

 伊予国の和気氏は、七世紀後半に評督などを務めた郡司クラスの有力豪族です。改姓によって和気氏の系譜関係を公認してもらい、自らも和気氏に連なろうと因支首氏は試みたと考えられています。
その動きを年表で示すと
799年 政府は氏族の乱れを正すため各氏族に本系帳(系図)を提出するよう命じ、『新撰姓氏録』の編集に着手。
800年 那珂郡人因支首道麻呂・多度郡人同姓国益ら,前年の本系帳作成の命に従い,伊予和気公と同祖であること指名した系図を作成・提出する。しかし、この時には改姓の許可は下りず。
861年 佐伯直豊雄の申請により,空海の一族佐伯直氏11人.佐伯宿禰の姓を与えられる
866年 那珂郡人因支首秋主・道麻呂・多度郡人同姓純雄・国益ら9人,和気公の姓を与えられる(三代実録)

 改姓申請で和気氏が主張したのは、七世紀に伊予国から讃岐国に来た忍尾別君(おしおわけのきみ)氏が、讃岐国の因支首氏の女と婚姻して因支首氏となったということです。つまり、因支首氏は、もともとは伊予国の和気氏と同族であり、今まで名乗っていた因支首氏から和気氏への改姓を認めて欲しいというものです。
 つまり、この系図は讃岐国の因支首氏が伊予国の和気氏と同族である証拠「本系帳」として作成・提出されたものの控えのようです。

800年の申請の折には、改姓許可は下りなかったようです。

寒川郡の讃岐国造であった讃岐公氏が讃岐朝臣氏に改姓が認められ、円珍の叔父に当たる空海の佐伯直氏が佐伯宿祢氏に改姓されていくのを見ながら、因支首氏(いなぎのおびと)の一族は次の申請機会を待ちます。そして、2世代後の866年に、円珍の「立身出世」を背景にようやく改姓が認められ、晴れて和気公氏を名乗ることができたのです。 改姓に至るまで半世紀かかったことになります。
  
円珍は814年生まれで、天安2年(858年)新羅商人の船で唐から帰国後は、しばらく郷里の金倉寺に住み、寺の整備を行っていたと言われます。改姓許可が下りたのは、この時期にあたります。金蔵寺でいた間に、一族から「改姓についての悲願」を聞いていたかもしれません。
 和気氏への改姓後は、円珍には仏や先祖の加護が働いたようです。
比叡山の山王院に住し、貞観10年(868年)延暦寺第5代座主となり、園城寺(三井寺)を賜り、伝法灌頂の拠点として組織化していきます。

   円珍は、園城寺では宗祖として尊崇されています。

この寺には、多くの円珍像が伝わります。

唐院大師堂には「中尊大師」「御骨大師」と呼ばれる2体の智証大師像があり、いずれも国宝にです。それらと同じように「和気家系図」は、この寺に残されたのです。手元に置いたこの系図を見ながら円珍は、自分につながる故郷の祖先を思うこともあったのでしょうか。

「ごうつくで がいな女?」三木郡の古代豪族の妻 広虫女 

空海がまだ讃岐善通寺の地で幼名の真魚と呼ばれていた頃、薬師寺の僧・景戒が仏教説話集『日本霊異記』を編集しています。
1日本霊異記

これは、仏教の説法や布教活動に使う「あんちょこ集」みたいなものですが、
この中には讃岐国を舞台とする「ごうつくで、がいな女」の話が載せられています。話は、ごうつくな女が一度死んだ後に、上半身が牛の姿でよみがえり、寺への寄進を行うことで罪を許されるという因果応報の話です。

田中真人広虫女(たなかのまひとひろむしめ)がヒロイン(?) のストーリーを見てみましょう。

三木郡の大領小屋県主宮手の妻である広虫女は、多くの財産を持っており、酒の販売や稲籾などの貸与(私出挙=すいこ)を行っていた。貪欲な広虫女は、酒を水で薄め、稲籾などを貸し借りする際に貸すときよりも大きい升を使い、その利息は十倍・百倍にもなった。また取り立ても厳しく、人々は困り果て、中には国外に逃亡する人もいた。
 広虫女は七七六年(宝亀七)六月一日に病に倒れ、翌月に夢の中で閻魔大王から白身の罪状を聞いたことを夫や子供たちに語ったのち亡くなった。死後すぐには火葬をせず儀式を執り行っていたところ、広虫女は上半身が牛で下半身が人間の姿でよみがえった。そのさまは大変醜く、多くの野次馬が集まるほどで、家族は恥じるとともに悲しんだ。
 家族は罪を許してもらうため、三木寺(現在の始覚寺と比定)や東大寺に対して寄進を行い、さらに、人々に貸し与えていたものを無効としたという。そのことを讃岐国司や郡司が報告しようとしていると息を引き取ったというストーリーです。
 以上のように、生前の「ごうつく」の罰として上半身が牛の姿でよみがえり、寺への寄進を行うことで罪を許されるという『日本霊異記』では、お決まりの話です。
この時点で、仏教が地方の豪族層に浸透している様子もうかがえます。一方で、『日本霊異記』成立期と近い時代の讃岐国が舞台になっています。そこから当時の讃岐の社会環境が映し出されていると専門家は考えるようです。
香川県立ミュージアム「讃岐びと 時代を動かす 地方豪族が見た古代世界」を参考に、広虫女の周辺を見ていくことにしましょう

広虫女の実家の本拠地とされるのが三木郡田中郷です。

ここは公淵公園の東北部にあたり、阿讃山脈から北に流れる吉田川の扇状地になります。そのため田畑の経営を発展させるためには吉田川や出水の水源開発と、用水路の維持管理が必要になってきます。広虫女の父・田中「真人」氏は、こうした条件をクリアするための経営努力を求められたでしょう。

彼女は、吉田川の下流を拠点とする小屋県主宮手に嫁ぎます。

夫の小屋県の氏寺が「罪を許してもらうために田畑を寄進」した三木寺(現在の始覚寺)と考えられています。この廃寺からは、讃岐国分尼寺と同じ型で作られた瓦が出土し、郡名の「三木」を冠した寺に、ふさわしい寺とされています。
四国の塔跡
三木町始覚寺

 始覚寺は東西、南北ともに1町(約109m)の敷地をもつことが調査から分かってきました。回廊で囲まれた中心域での建物配置は不明ですが、五重塔の心礎はもとの場所から動かされて現在地にあるようです。今は、その上に石塔が載せられています。
始覚寺跡|三木町役場

             始覚寺五重塔の心礎
寺域の向きは、条里制地割とは異なる正方位(真北方向)に設計されていて、条里施工前に建設された可能性があり、白鳳期建立を裏付けます。
また、この寺から出ている八世紀の瓦は、東大寺封戸が置かれた山田郡宮処郷の宝寿寺(前田東・中村遺跡を含む)と同じものがあります。これを三木郡司・小屋県主の東大寺へ寄進の見返りとして、東大寺側が小屋県主の氏寺建立に技術援助・支援した「証拠」と見ることもできます。

夫の小屋県宮手は、始覚寺周辺の井上郷を本拠としていました。

その井上郷の周辺の三木郡の郷名には、井閑・池辺・氷上・田中など、水田と用水源にまつわるものが多いようです。
その地名の由来は井上・井閑は、『和名抄』ではともに「井乃倍」と読み「水路や水源を拓き管理する集団」
池辺は「伊介乃倍」であり、「池を管理する集団」
氷上は樋上すなわち[水路の上流、取水源]と考えられます。
 また、この地域を流れる新川や吉田川は、碁盤の目のような条里型地割に合わせて人工的に付け替えられています。[井]や「樋」で表される水路とは、付け替えられた川のことを示します。川の周辺の伏流水を利用する出水も「井」と呼ばれていました。つまり三木郡の中央部は、洪水を繰り返す川を濯漑用の水路に生まれ変わらせた指導者がいた地域のようです。ここからは、小屋県主氏がこの地区の郡司として、公共事業として「丼の戸」[池の戸]というかたちで労働力を組織化し、低地の開発を進めた姿が浮かび上がってきます。

古代讃岐三木郡

高利貸しは、貧農救済? 

『日本霊異記』の中で、作者は広虫女を次のように非難します
「 多くの財産を持っており、酒の販売や稲籾などの貸与(私出挙=すいこ)を行っていた。貪欲な広虫女は、酒を水で薄め、稲籾などを貸し借りする際に貸すときよりも大きい升を使い、その利息は十倍・百倍にもなった。」

 しかし、当時は「高利貸しとしての私出挙」は、毎年作付ける種籾を利子付きで貸す伝統的な農業経営方式でした。ある意味では、農業経営が十分に行えない貧農を助けるもので、地域支配者としての支援方法でもあり、非難されるものではなかったようです。
寄進のもうひとつのねらいは?
 広虫女の罪をあがなうために
「東大寺へ、牛七〇頭、馬三〇匹、治田二〇町、稲四千束を納めた」

と詳しい記述が出てきます。罰を受け虫女を救うために東大寺へ多くの財を寄進したのです。これが僧侶が説くように「救済」のためだけだったのでしょうか?別の視点で見ると「寄進の目的は、中央とのつながり」作りでもあったのではないでしょうか?

有力寺院への寄進により、自らのステイタスを挙げる地方豪族

 東大寺の造立は、国家の威信をかけた一大プロジェクトで国策です。そのため東大寺に対する地方豪族の寄進も盛んで、広虫女が亡くなった七七六年(宝亀七)頃は、大仏は完成したものの周辺建築物の造営期でした。寄進には、開墾制限に対する対応策の一面もあり、自ら開発した土地の管理権を守るという目的もあったはずです。
 『続日本紀』七七一年(宝亀二)には、同じ讃岐の三野郡の郡司・丸部臣豊球が、私財を貧民のために投じたことで官位を授けられたことが記されています。寄進によって、地方豪族としての自らの地位を高めるという動きが当時はあったのです。その時流に宮手も乗ったとも考えられるのです。これが郡司としての生き残りにつながります。

以上のように、仏教説話の中に「がいな女」の因果応報の話として取り上げられている広虫女は、当時の地方豪族の妻としては相当なやり手であったということは言えるようです。

参考文献
香川県立ミュージアム「讃岐びと 時代を動かす 地方豪族が見た古代世界」

「空海=多度津白方誕生説」は誰によって語られ始めたのか?

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多度津白方の海岸寺奥の院
 
空海は、善通寺の誕生院で生まれたと信じられています。
誕生院は佐伯氏の旧邸宅とされ、誕生時に産湯を使ったという池も境内にあります。(なお、父が善通であったというのは俗説で、資料的には確認されていません)
 ところが、この正統的なる弘法大師伝に対して、空海が多度津白方の屏風が浦で生まれ、父をとうしん太夫、母をあこや御前とするなど、まったく異なる伝記があります。「空海=多度津白方生誕説」を説く伝記は、以下のようなものがあります。
 『説経かるかや』「高野の巻」
 『弘法大師御伝記』善通寺所蔵版
  『南無弘法大師縁起』
  
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「空海=多度津白方生誕説」縁起は、いつころ制作されたのでしょうか。

 一つは、はじめに縁起の成立があり、その後に白方屏風が浦の各社寺が縁起に沿って、弘法大師誕生地説を作りあげたという縁起先行説が考えられます。
もう一つは白方屏風ガ浦の各社寺にあった誕生説を集めて縁起が成立した縁起後行説です。
しかし、本縁起には白方屏風ガ浦の海岸寺等の寺院名がまったく見えません。このことから「空海=多度津白方生誕説」の縁起本が産まれた後、白方の各寺社が既成事実を作り出していった縁起先行説の方が有力です。

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 この縁起がいつ成立したかについては、その中に讃岐守護代で天霧城主の香川氏が秀吉軍の侵入で天霧城が落城した後に、元結いを切って辺路に出たという記事がありますので、永禄二年(一五五九)以降であることは間違いありません。
 次に下限をみます。澄禅の『四国逞路日記』の中に、空海の父母とされる「とうしん大夫夫婦」の石像が弥谷寺にあったと記されてます。つまり澄禅が辺路した時には、すでに「空海=多度津白方生誕説」が札所間(弥谷寺周辺か)に定着していたのです。そして、彼は「空海=善通寺誕生説」には何も触れていません。このことから本縁起の成立は、澄禅『四国逞路日記』の承応2年(1653)よりも、かなり古いと考えられます。
「空海=多度津白方生誕説」が世に広がり、白方の大善坊が仏母院へと寺名変更するのが寛永十五年(1638)であることが目安となります。白方の仏母院の御胞衣塚の五輪塔は、大師誕生地を積極的にアッピールするために建立されたとみられますが、その形状から判断して江戸初期ころのものとされています。近世における創作なのです。
以上から縁起先行説に立って、本縁起の成立を永禄11年
(1559)から寛永年間(1614~1644)と考えます。
 この時期、古くから大師誕生地として広く認められていた善通寺は、永禄元年(1558)の兵火で金堂も五重塔も燃え落ちます。江戸時代になって生駒氏が援助の手を差しのべるまで、約80年間は衰退を余儀なくされていたようです。本縁起は、ちょうどこれを狙うようにして「空海=多度津白方生誕説」が生まれ、広げられていくのです。逆に見ると当時の善通寺は、これらの動きを止めることも出来ないほど活動力を失い、荒廃していたのかもしれません。
 なお、先日アップした記事で示したとおり寛永十一年(一六三四)の「善通寺西院内之図」には、生駒親正が寄進した御影堂と三代藩主正俊の正室・円智院が建立した御影堂が描かれており、このころから善通寺の復興が始まります。
この縁起はどこで作られたのでしょうか。
本縁起の舞台は讃岐白方屏風が浦近辺です。しかし、縁起の中に具体的な寺社の名称は善通寺以外、まったく出てきません。ただ状況証拠から、いくつかの候補となる寺社が浮かび上がってきます。
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 まず、天霧山の向こう側の弥谷寺です。

澄禅『四国逞路日記』を見てみましょう。
澄禅は、ここで本縁起の登場人物の「とうしん太夫とあこや御前」つまり、空海の父母の石像を拝んでいるのです。つまり、その時には、
空海の両親として「とうしん太夫とあこや御前」説がここでは流布されていたようです。澄禅は、讃岐守護代の香川氏の居城・天霧城の傍らを通って海岸寺に降り、そこでは空海が幼少のころに遊んだという浜を過ぎて仏母院に至っています。
 この時期は仏母院は大師誕生地として備前・但馬あたりでも、すでに広く信じられていました。ここで御影堂を開帳してもらい、空海十歳の像を拝し、寺僧から霊験あらたかなる説法を聞いたのです。さらに空海の氏神と伝える熊手八幡も参拝しています。
澄禅の時代には、空海の誕生の地はまさに多度津白方だったのです。

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そして善通寺の存在もあなどれません。

灰塵に帰した善通寺とはいえ、いくつかの小堂は火災を免れていたはずです。そして、そこには本縁起に係わってもよさそうな人物(念仏聖など)が寄居していたことが考えられます。しかし、資料はありません。あくまで憶測です。
 本縁起の「白方屏風ガ浦」という地名から、この地域の社寺を見てみましたが、これらの社寺は本縁起に洽った寺伝を持っており、この辺りとの関連が濃厚に感じられます。ただ本縁起には、これらの社寺は善通寺以外まったく記されていないことは何度も触れた通りです。それは、本縁起成立後に、各社寺で大師伝説を作り上げたと考えられるからです。言い換えれば、本縁起が高野山で創作されたとしても不思議ではないわけです。制作地を特定するのは難しいようです。
誰が「空海=多度津白方生誕説」の縁起を書いたのでしょうか。
 さてもう一度本縁起をみてみます。
前半部の中山寺や徳道上人からは、西国三十三所と関係が見えてきます。後半部には阿弥陀信仰、極楽往生思想が濃厚にみられ、念仏に関係するものです。そして高野山に参詣することや都率(弥勒)来迎のことも記されるなど高野山に関する記述がみられます。そこには高野山に係る念仏聖の存在が浮かび上がってきます。

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では高野山との関係が見いだせるのは、先に見た寺社の中でどこでしょうか。
高野山から移ってきた住職の存在や水祭りの行事が行われるという弥谷寺が、まず浮かびます。また海岸寺所蔵の棟札をみれば、弥谷寺と海岸寺は密接な関係を有していたようです。海岸寺の大師堂は天正二十年(1592)には建立されていて、新たな大師信仰を創り出していく充分な要素が当時の海岸寺にはあったと思います。また仏母院には寛文十三年(1673)の念仏講の石碑があり、それ以前の念仏行者の存在がうかがえます。
 以上の「状況証拠」から、本縁起に係わったのは白方周辺に関りを持ち、しかも高野山との関係を有する念仏系の僧が浮かび上がってきます。つまり高野聖ということです。
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さらにこの縁起を書写したのは高野山千手院谷西方院の真教です。

彼が聖方に属した僧侶であったことも匂います。真教も中世的な高野聖と言えるのではないでしょうか。書写の人物が高野山・西方院であることは、本縁起が高野山にいた人物が制作したことも考えられます。
 
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 では何の目的で作られたのか。
 この縁起は、讃岐白方屏風ガ浦で弘法大師が誕生したと記します。
しかし、それを強く主張するものではありません。それよりも主眼は、後半部に説かれる四国八十ハケ所を辺路の勧めです。辺路によって諸仏諸神が来迎して、極楽往生できる功徳が強調されます。四国辺路を進めるのが、この縁起の目指すところであったように思えます。

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 この縁起は弘法大師一代記の語り物語なのです。

これを語り、四国八十ハケ所の辺(遍)路を進めたのは誰だったのでしょうか。時衆系高野聖であったのか、また熊野比丘尼のような唱導者であったのか、今となっては、歴史の奥に隠れて見えなくなっています。
 しかし真念・寂本が
「四国には、その伝記板にちりばめ、流行すときゆ」

とあるように、これが版本とされ、多くの人に読まれることによって、庶民が参加する四国八十八ヶ所辺(遍)路が一層盛んになったことは間違いでしょう。
 つまりこの縁起の成立は、四国辺路から四国八十ハケ所辺(遍)路への移行、いわばプロの修行辺路から庶民が参加する辺路を促す動きの一部と捉えることもできるようです。
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 ちなみに四国遍路の功労者とも寂本は、真念『四国遍礼功徳記』付録の後書きなかで「空海=多度津白方生誕説」縁起本を次のように厳しく批判しています。
然るに世にし礼者ありて、大師の父は藤新太夫といひ、母はあこや御前といふなど、つくりごとをもて人を侑、四国にはその伝記板に鏝流行すときこゆ、これは諸伝記をも見ざる愚俗のわざならん、若愚にしてしるもの、昔よりいへるごとく、ふかくにくむべきにあらず、ただあはれむべし

参考史料 武田 和昭 『弘法大師空海根本縁起』について

讃岐の古代寺院 

   

讃岐の古代寺院 

 

 

                        

善通寺にやってきた師団は、産業に何をもたらしたか?

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設立されたばかりの電力会社には追い風に・・

まず、電力関係では、設立されたばかりの讃岐電灯株式会社の成長の追い風になりました。師団創立の前年に操業を始めたこの電力会社は、需要数の拡大に苦戦していました。しかし、師団開設後の日露戦争期に師団から電灯等の大口契約を受け、1000灯余りが新設されるなど順風が吹きます。
 また金融面では、師団設置に伴う金融的処理の激増を受け、1900(明治33)に百十四銀行が善通寺に支金庫を設置、国庫金の取り扱いを開始します。さらに1913(大正2)年には善通寺支店に格上げされます。

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駅前通には旅館が建ち並ぶ 

 善通寺駅前通りの片原町付近では、師団指定の旅館が建ち並ぶようになります。特に戦局が激しく多くの兵隊が召集された際には、郷土から面会に来る家族の利用で大変賑わったといいます。また利用客数も多く、師団指定の旅館で部屋数が足りない場合には、間数の多い一般の民家が客を泊めたそうです。
 片原町では旅館の他、師団相手の商店が建ち並ぶようになり、兵隊の記念写真を撮影する写真館や軍靴を修理して販売する店、土産用として杯を売る店など様々な顔ぶれがそろいます。この頃、農村部における麦桿真田共同販売組合の設立、これに関連して善通寺町隣接村にも有限責任信用購買組合が設立されるなど、いわゆる経済行為の組織化が進行していきます。
 一方、歳入の約7割を町税で賄っていた善通寺町の財政基盤は、1902(明治35)年~1913(大正2)年の合計予算額はおよそ平均3万7千円程度にまで膨らみます。師団開設以前の1890(明治23)年の約1213円から比べると30倍近くの急激な伸びとなっています。

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昭和恐慌の影響をあまり受けなった善通寺?

 昭和初期の日本経済は1921(大正10)年に起こった関東大震災を引き金に、1927(昭和2)年の金融恐慌によって大打撃を受けました。香川県下においても銀行の取り付け騒ぎが各地で起こるなどの混乱が起きましたが、善通寺町は例外として恐慌の影響が少なかったようです。
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1926(大正15)年、琴平銀行の休業や高松百十四銀行善通寺支店の取付けなど、金融恐慌が襲いかかってきます。しかし、善通寺支店の取付け期間はわずか一日で、終わります。
これにはいくつかの理由が考えられるようですが、一つは善通寺町の製造業を中心とする第2次産業の割合が低かったことが挙げられます。さらに当時は第十一師団の存在と善通寺参詣道に沿った道路に関わる公共事業が展開中で、好景気感が強く住民が深刻な不況を感じる雰囲気になかったようです。
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「昭和二年の善通寺町会会議録」で当時の予算編成について見てみると、招魂祭諸費に1000円を計上していることや、遊興税徴収交付金が144円増加となった理由を
「遊興税徴収額が前年度に比して増収の見込みである」
と記されています。軍都 + 門前町としての観光と軍人の遊興飲食に関するサービス業が繁盛し潤っていたことが分かります。善通寺には1899(明治32)年に完成した劇場「富士見座」や、善通寺南大門南にも「大栄座」という劇場が存在していて、入場客も多かったのです。
むしろ善通寺の場合、金融恐慌ではなく、1925(大正14)年陸軍歩兵第四十三連隊の徳島移動など、連隊縮小や移転などの「軍縮」の方が大きな問題でした。

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15年戦争下の善通寺は?

 日本は1937(昭和12)年、日中戦争から15年戦争に突入していきます。これに応じて第十一師団の出動・帰還も多くなり、善通寺では師団に対して町をあげての歓送迎が行われました。善通寺駅からの出征には町役場でサイレンを鳴らして町民に予告し、出征軍人の家族はもちろん、町長、町会議員、役場を始めとする公務員、その他の団体代表者、小中学校の児童・生徒をあわせ、約7000人が毎回見送りに出ました。
 1939(昭和14)年の善通寺銃後奉公会の設置や、「善通寺町税条例」(生活用品に税をかける)を施行して戦争に協力し、師団が身近にある環境として、軍部への協力姿勢には強いものがありました。
 しかし、戦況が悪くなるにつれ、強い統制経済下における物資不足と物価高騰、出征による人員不足(労賃の値上がり)により、善通寺の主たる事業となっていた土木工事や建設事業に支障がでるようになります。

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どうして軍都 善通寺は空襲を受けなかったの?

敗戦末期の1945(昭和20)年2月に香川県下(観音寺町沖合)で初めて空襲があり、第十一師団地の善通寺も、本土決戦や防空訓練など臨戦態勢をとります。
 しかし、善通寺は軍都にもかかわらず空襲を受けませんでした。
それは1942(昭和17)年1月に国内で初めて開設された善通寺捕虜収容所があったためとされています。敗戦時にはアメリカ将校・准士官以下544名、イギリス404名が収容されていたです。その存在により戦災を免れました。
 敗戦に伴い11師団は高知で解体され、終焉を向かえます。その後、師団の土地、建物は一旦国有財産化されますが、その後町の復興計画として払い下げられます。

                           

井戸寺-三つの信仰対象 

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お薬師さんを7体も揃えた寺

十七番の井戸寺とは俗称で、正式には明照寺といって、本坊のあるところを真福院と呼んでいます。『四国偏礼霊場記』では、すでに瑠璃山明照寺真福院となっています。
 たいへん珍しいことに、このお寺は七仏薬師を本尊にしています。
ここの七仏薬師は元禄年間ごろの仏像です。まん中に一体、その両脇に三体ずつ、全部で七体の薬師さんを本尊にしているのは非常に珍しく、近畿地方でもほとんどありません。「七仏薬師法」というのがありますが、その場合は画像を掛けますから、木像をそろえるということはありません。

薬師さんを七体もそろえたお寺がどういう成立の寺かというこかとを考えてみたいとおもいます。このお寺には、七仏薬師堂のほかに六角堂に十一面観音像があるのが一つの問題です。それから、井戸寺と呼ばれるお大師さんをまつったお堂があって、「水大師」とも「目限大師」ともいわれます。それから、このお寺の右手のほうに八幡さんがあります。
「四国飼礼貳場記」では、八幡さんもこの境内の中に入っています。
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1つの境内の中に三つの信仰太守対象があるわけです。
 阿波の藩主の御殿の門といわれる門から入ると、本堂、庫裡、水大師、六角堂があります。昔は大きな伽藍入口に馬場があって、そこに松並木がありました。もちろんいまはありませんで、みな人家になっています。
 
元禄ごろにできた御詠歌は、
「影をうつして以れば井戸の水 むすべばむねのあかやおちなむ」となっています。
結ぶというのは飲むことです。井戸寺の井戸に自分の面影を映してみると罪が滅びる、その水を飲むと自分の胸の中の煩悩の垢も落ちてしまうという歌です。いまでもお遍路さんは、映れば健康になるといって、ここにお参りするときに、みんなこの井戸に自分の影を映しています。
 この井戸と同じお堂の中に石像の弘法大師像(水大師)がまつられています。それを歌っているので、御詠歌からいうと井戸寺です。
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しかし、本尊さんはどうも明照寺の本尊さんのようです。

 縁起は、聖徳太子の開創とも、弘法大師の開創ともいっています。
のちになって弘法大師信仰が八十八か所の信仰を一貫したころから、弘法大師開創ということができて、どこでも弘法大師開創もしくは弘法大師再興となっています。
 また、たいへん多い聖徳太子開創という縁起は、すなわち飛鳥・白鳳の発祥であるということを示しています。聖徳太子開創といわれますので、たぶん飛鳥・白鳳の池なり塔なりをもった寺城があったと考えてよいでしょう。
 一町(約一〇九タートル)四方と書いていますが、一町四方ぐらいに収まることは収まりますから、そういうお寺だったわけです。縁起では三町四方、あるいはおそらく大きなことをいって、八町四方などというのが出てきます。しかし、多くは一町四方で、ここもおそらく一町四方ぐらいになるとおもいます。実測で二町四方あっただろうと考えられる善通寺は弘法大師誕生のお寺ですから、特別大きいわけです。

 弘仁六年(八一五)に弘法大師が開創したというのは、弘仁六年は弘法大師がよく旅に出たと考えていい年なので、具合よく六年と定めたのでしょう。本堂横の六角堂に安置されているのが弘法大師植から彫られて一木造りの異形な相貌をした十一面
観音だといわれています。これも本尊だというのですから、この寺は二つの寺が合併したものであることは容易に想像できます。
十一面観音を本尊とするお寺はおそらく八幡さんの別当寺ではないかとおもいます。つまり、十一面観音を本尊とするお寺と、七仏薬師を本尊とれるお寺の二つの寺が一緒になったのです。 

弘法大師がこのとき錫杖で掘ったのが「面影の井戸」で、

同時に自らの姿をこの井戸水に映して石に彫ったのが「日限大師」あるいは「水大師」と呼ばわる石像大師像だとされています。
 その後、南北朝の初めの14世紀後半のの細川頼之の兵乱で寺は焼失します。
天正十一年(1583)には、戦国時代には阿波三好氏と長宗我部の戦いで焼失します。
江戸時代に入ると徳島藩の蜂須賀光隆により復興されたといっています。
中世のことがほとんどわからなくて、近世になってからまたわかるということは、中世には古代寺院が滅びてのちに小さいお寺ができた、と考えてよろしいとおもいます。

こういうところからこのお寺の歴史を分析していきますと、

この寺の正式な寺号は明照寺、俗称は井戸寺となっていますが明照寺と井戸寺は別寺であったともいえます。井戸寺という名前が大師伝説の弘法井戸からきていることはいうまでもありません。これこそ庶民信仰のお寺なのです。
それ以前の七仏薬師のお寺のほうは、組織的に発掘が行われていないので、飛鳥・白鳳のどちらともいいかねます。瓦が出てくるとお寺の年代がわかりますが、出ないうちは何ともいえません。だいたい飛鳥・白鳳に建てられたお寺は、どこでも寺号も創始者もわかりません。ただ、諸般の事情から考えてみますと、渡来人の建てたお寺が多い。奈良時代以前には、大きな富を蓄えるには開墾や灌漑の技術を持っている渡来系の人たちが大きな土地を所有する、いわば財閥でした。文化意識も高かったので大陸にあるような伽藍を自分の財力で建てたというのが一般的です。
 井戸寺にあります石像の大師像は、なかなか珍しいものでして、
これを「水大師」とか「日限大師」というのは、まったくの庶民信仰です。いちばん古いのは水大師の信仰です。水が信仰対象になるのがいちばん古くて、泉があるところを聖地として寺ができました。
ヨーロッパでも有名な伽藍(カテドラル)はかならず泉をもっておりまして、泉の神様としてマリアがあります。日本の場合は、泉の仏様として弘法大師がまつられています。みな一つの法則のようなものがあって、それで割りつけていくとよくわかります。このような庶民信仰の井戸が、札所としてお堂をもつに至ったものであろうとおもわれます。
 これは中世に荒廃したというよりも、大師堂と井戸だけだった霊場が、近世になってから明照寺と合併して寺院のかたちを整えたということでしょう。
「面影の井戸」は、水神が井戸にいるという信仰から、井戸そのものが神として信仰対象になり、それが大師伝説に移行したわけです。
「面影の井戸」は、日限を限って祈願すれば霊験あらたかであるとされています。
たとえば、一週間という日にちを限って断食をするなり断ちものをするという日限信仰が信じられていたわけです。
 明照寺の方は、七仏薬師を本尊とする寺と十一面観音を本尊とする寺の合併と推定されます。その場合、井戸寺の右隣に八幡社があることは無視できません。明照寺の本坊が真福院に違いないのですが、明照寺または真福院がおそらく八幡社の別当だった時代があったはずです。飛鳥・白凰の寺のときには明照寺はありません。中世以降、別当寺が合併して明照寺になりました。
 この小さな寺に七仏薬師が本尊となっている謎も、古代には薬師を本尊とする巨大な白鳳寺院があったことを想定すれば容易に解釈がっきます。
 神通力があって、光を放っているその仏を信仰すれば吉祥が多い、憂いもなくなるというような功徳を七体の薬師に分けて、別々の信仰対象にしたわけです。全部合わせて完全になります。仏さんはすべて光明を放ちます。薬師さんの場合は、光を放つということを「瑠璃光」といっています。
 これを総称して、「七仏薬師法」という密教修法の本尊としています。天台密教のほうではとくに盛んにやりましたが、真言のほうではほとんどやりません。四箇秘法の一つの七壇の御修法は、壇を七つにして、修法者が七人そろって行いますから、よほど大きなお寺でないとできません。 
七仏薬師法は、息災と増益の秘法として『平家物語』にも出てきます。
『太平記』でも、安産を祈るときに修されています。本来は薬師信仰だけでしたが、密教が入ってから、ここに七仏薬師を造立するぐらいの一族がまだ健在だったとみえて、一体の薬師をこの時代に修築していたことがわかります。
 本尊は平安時代に七仏薬師に変わりました。そのほかに、火災で焼けるまでは七仏阿脈陀があったそうです。九体阿弥陀または七仏阿弥陀がまつられたとすると、たいへん大きなお寺ですから、相当な大寺院であったことが想像されます。 
このほかに十一面観音を本尊とする寺が併祀されています。
これが八幡さんの別当寺だろうとおもいます。いずれも大寺院が護持の豪族の没落後に、弘法井戸の庶民信仰に支えられて存続したものです。伽藍は壊れてしまったけれども、弘法さんの井戸があると言うことで御参りが続き、札場霊場として残ったわけです。井戸寺は古代から続いた霊場だと考えても良いと思います。

観音寺-もとは小さなお宮の別当寺

十六番の観音寺は、もともとは小さな村の中のお寺でした。その辺にあるお寺となんら変わりはありません。そばにある大御和神社という国府に所属していたらしい大きなお宮の陰に隠れて、なおさら小さく見えます。
その土地の村の鎮守さんの別当寺が八十八か所をそろえるときに割り込んできた
と言われます。この前にお話した十三番の大日寺も村の鎮守さんの別当寺でしたが、観音寺はそれよりももっと小さなお宮の別当寺です。

 観音寺の本尊は千手観音です。
「忘れずも導き給へ観世音 西方世界弥陀の浄土へ」という御詠歌は、
観音は阿弥陀から導かれる、観音を介して阿弥陀に頼んだという意味です。
縁起は、聖武天皇勅願によって開創されたと伝えています。
弘仁七年に弘法大師が彫刻したといわれる千手千眼観世音と、脇侍に不動明王と毘沙門天をまつっていますが、不動明王と毘沙門天を観音さんの脇侍にするのは非常に古い組み合わせです。
 中世に荒廃して、江戸時代に藩主蜂須賀光隆によって再興されました。このときの住職は宥雄という人物です。
観音寺には霊験談として、大正二年(1922)に盲目の遍路が開眼した、あるいは明治二十七年(一八九四)に邪険な女性の遍路が大火傷をしたという話が伝えられています。
歴史としては、元禄元年の『四国偏礼霊場記』には次のように記されています。
寺大師ひらき給ふ名藍なり。朱堂華間軒をかさね、棟を比ぶ。本尊御長六尺に作り、本堂に安置。脇士不動毘沙門なり。
然といへども日月の物を磨す。堂舎廃毀し、一宇なを全からず。
蔀宕夜月すさまじく、人まれにして満鰯苔花あざやかなり。
州の太守光隆公信義ありて、双方腫を企てり。
故に住持宥雄此廃替を太守に説、太守早く肯ひ万治年中修復せられしとなり。
今の堂の南の方半町ほどさりて、むかしの大門の跡あり。
東西には坊舎のありし跡おほく見ゆ。

 同書より三十五年ほど前に書かれた『四国辺路日記』によると、三町四方ぐらいのお寺だったようです。現在はびっしりと家が立ち並んでいます。
また、観音寺は中世は衰退していたことがわかります。
現在の境内は村の人家の間にわずかな空間を保持しています。
道路に面して山門があり、寺その正面に本堂、その右に大師堂、左に庫裡、納経受付所、右の隅のほうに八幡宮があります。八幡宮は寺の管理でなく、村人のまつる社です。別に世話人もあるというので、この寺の前身は八幡宮の別当であったろうとおもいます。
 讃岐の一宮寺のように、明らかに大社の神宮寺であったところありますし、村の社の別当寺で札所になる寺もあります。十三番の大日寺は、かつての阿波一の宮神社の別当寺であったといいますが、阿波一の宮神社は大麻比古神社ですから、ここを一の宮というのはおかしいわけです。実際は村社の別当です。
 このように、四国霊場寺院は神仏分離以前の神仏混淆の信仰のもとに維持されてきましたが、人為的、政治的に神仏が分けられ、同一境内が分割管理されている霊場がたくさんあります。それは十二番の焼山寺に行くとすぐわかります。焼山寺境内の十二社神社もその例に湘れず、神社はけっこう壊れています。

 おそらく伊予の四十一番の龍光寺がもとだったとおもいますが、ところが、龍光寺といってもちっとも地元の人にはわかりません。お稲荷さんが本尊ですから、稲荷寺と呼んでいるのです。これは次の十七番の井戸寺と明照寺のような俗称と正式の名前の関係です。
 稲荷寺に入ってみますと、正面にあるのは稲荷神社です。神仏分離のときに、神社に本堂を取られてしまいました。石段の右のほうにある大師堂だけが残って、それを本堂にしています。ところが、稲荷神社は類廃そのもので、旧本堂はひどく壊れてしまいました。
ここなどは神仏分離でお寺が得をして、神社が損をしたひとつの例です。
 四十三番の明石寺も境内が二つになりました。右のほうが熊野十二社権現、左のほうが明石寺で、熊野権現の信仰が中世まで行われていたので、邨の大木があります。お寺のほうは繁昌しています。明石寺の境内を二分して、一方には熊野十二社権現の社殿が並んでいますが、大きな熊野権現は遍路も参らないのでさびれたままになっています。
 こういうお寺は、幸いなことに八十八の集印をする人があって、計画的に参らないといつまでたっても抜けたままだというので参ることになる。それによって、生き長らえているという感じです。これが巡礼というものの姿です。

常楽寺―奥の院の十一面観音と立木地蔵 

十四番の常楽寺の御詠歌は
「常楽の岸にはいつかいたらまし 弘誓の船に乗りおくれずば」です。
常楽寺の名前を取って常楽と詠んでいます。
常楽我浄といって、永遠に変わらない楽じみです。
永遠の仏である弥勒菩薩に救われれば常楽の岸に着くことができる。
しかし、それも弘誓の船に乗り遅れたらダメだ、乗り遅れなかったら行けるといっていますが、弘誓の船というのはどういう船かわかりません。
おそらく信仰すれば、それが船なのでしょう。

 縁起は、弘法大師が弥勒像を作り、真然僧正という弘法大師の甥に当たる人が金堂を建てたと書いています。真然僧正は高野山の伽藍を完成した人です。
講堂、三重塔、仁王門を建てたという祈親法師は、高野山が焼けたときに伽藍全体を再建した人ですから、高野山の伝記をこちらへもってきたのでしょう。この講堂、三重塔、仁王門を建てたといういささか大げさな縁起は、高野山の縁起を真似た疑いが濃いとおもいます。

『四国偏礼霊場記』も『四国辺路日記』も縁起を記さず、草堂一宇としているので、近世初期は荒れ寺であったことがわかります。
 歴史としては、『四国偏礼霊場記』に「此寺本尊弥勒菩薩、大師の御作也、むかしの本堂七間四方と見たり。いまに石ずへ存せり」とあります。この礎石は、いまは見えません。
「其他坊舎の跡皆あり、今茅堂の傍、一庵あり。人ある事をしらず」と書いているので、住職もいなかったようです。
 さらに、「古句を思ひ出、愧帳八興亡無二問処へ黄昏啼殺。樹頭。鴉」と書いています。惘帳は、たいへん嘆かわしいという意味です。啼殺は鳴き殺すということですが、やかましく鳴いているということだとおもいます。この寺が興ったり亡びたりしたのはその歴史をたずねるところもない、夕方、木に止まった烏が鳴いているだけで入っ子一人いなかったとあるので、いかに荒れていたかということがわかるとおもいます。
 現在は入口の石段を登っ正面奥に本堂があります。これも明治初年期頃のものと思われます。右手に愛染堂、大師堂、地蔵堂、庫裡が並んでいます。
 大師堂の前に一位の大木があります。一位の木をアララギともいいますが、これに向かって祈れば眼の病が治るというので、「アララギ大師」といっています。一位は神主さんの笏を作る木です。ここでは一位の木を箸にして分けてくれます。
 

ここには奥の院があります。

奥の院の成立にはいろいろなものがあるということを考えなければいけません。
隠居寺が奥の院と称している場合もあって、八十七番の長尾寺などは隠居寺を奥の院といっています。大日寺の奥の院のように、もとそこに寺があったという旧寺地を奥の院とすることもあります。
 ここの場合は、よくわかりません。札所を二か所もっているとお賓銭も二倍になりますから、番外札所のようにして、奥の院をまつっていたのではないかと私はみています。ここの奥の院をおすすめするひとつの理由は、十一面観音が非常に古い、たぶん平安時代だと考えられるからです。それから地蔵堂の地蔵さんが、立木の中に彫り込んでありまして、そのからくりを知りたいものとおもっております。 
立木に仏を彫るのは遊行者に非常に多い一つの伝統です。
円空も大木を彫って、仁王さんにしています。
飛騨高山の千光寺というところの山門は、立木に仁王を彫っています。木瞼行雄という人も各地で立木を彫りました。
山梨県下にもたくさん立木を彫っているところがありますが、みんな枯れてしまっています。その人たちは枯れるとおもわないで、仏が生きているということを示そうとおもったのでしょう。生きた木に彫った仏ならば、仏さんが生きているだろうという遊行者の伝統があったのではないかとおもいますが、よくわかりません。

   切幡寺 流水濯頂会で有名
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 御詠歌は「欲心をたゞ一筋に切幡寺 のちの匪障りとぞなる」です。

 これは欲心を切り捨て、もし切り捨てなければのちの世まで障りになりますよという歌です。
 切幡寺の縁起については、一人の機織り女が機を織っていると、弘法大師が着物の綻びをつくろう布を所望したので、女は惜しげもなく機にかかっている布を切って差し上げた。その女が「千手観音で皆を救ってあげたい」というので、大師がすぐに像を刻むと千手観音になったというものです。
 しかし、実際には機の布を切るということは、幡をあげることだったとおもいます。
『四国偏礼霊場記』は、その縁起を
「此所は伝て云、大師初てこゝにいたり給ふ時、天より五色の幡一流降り、山の牛朧にして皿幡ふ右しらず、下は此山に落ちけり。怪異の事なれば、是を伝んとて、大師寺を立、切幡け玉ふとなん」と書いて、さらに「是より海を望む、頗る絶景なり」と記しています。
 
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  霊場寺院は、前がどうであったかということを考えないといけません。
ここには水神の信仰がありました。山の信仰には、山の神の信仰と水の神の信仰の両方があります。ここにはまず水神信仰があって、水神に御幣をあげました。幣といわれるものは、本来は麻です。麻の幣を立てて神様にあげていたのが、のちになると麻の布にたり、さらに木綿の布になったわけです。
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そういう古い礼拝のしかたをするのはお稲荷さんです。

お稲荷さんを拝むのに、山の奥に入っていって幣を立てた、布を立てて拝んだということが『今昔物語集』に出ています。いまは赤い幡のところもあるし、白い幡のところもありますが、お稲荷さんには幡をあげます。幡をあげるというのは、もともと幣をあげることです。それが切幡寺の幡です。ですから布を織る機ではなくて幡だとおもいます。
 一般には機を織っていた女が大師のために機の布を切って差しあげたので、この寺名があるといっています。しかし、布は幣の古態で、水神のに献ずるものであったといわれます。稲荷に幡をあげるのもこれですから、仏教以前の信仰が生きていたわけです。 
  所には仏教以前の信仰も残っています。死者供養をするような札所の信仰も、仏教以前の信仰が残っているものと考えて差しつかえありません。
  
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 切幡寺には流水濯頂会があります。

龍王信仰のある加持水の湧く経木場で、経木をあげて亡くなった人の供養をするわけです。流れ潅頂は四国をめぐっているとそこかしこで見られます。切幡寺の流れ灌頂は、もともとはお産で亡くなった人の菩提のためだといわれています。
 できれば亡くなった人が身に着けていた布を一尺四方ぐらいに切って、4本の足を付けて加持水に浸し、かたわらに杓を置いて、通る人ごとに水をかげてもらいます。

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 切幡寺の場合はすべての死者の供養のための流水面頂となっているようです。
流水腹頂には別の行事もあります。たとえば水で亡くなった人のための供養も流水濯頂です。ですから漁村などで亡くなる人があると、流水面頂をします。流水濯頂は中国では水陸会といわれました。京都の黄葉山ではお盆のときに宇治川に船を浮かべて塔婆を流します。いろいろなかたちがあって、布を垂らす流水濯頂もあれば、塔婆をあげるものもあります。

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 これは精神的に清めるのですが、精神的に清めましたというだけではいけません。それをなんらかのかたちに表すところに庶民信仰があるのです。インテリは「水をかけなくても清めてやろうとおもっただけで清まるではないか」といったりしますが、やはりかたちに表すと言うことに意味があります。切幡寺の流水濯頂はこのあたりでは非常に大きな行事になっています。
 『四国辺路日記』には「本堂南向、本尊三如来、二王門、鐘楼在、寺「妻帯ノ山伏住持セリ」とあるので、山伏がここにいたことがわかります。山伏はだいたい妻帯しています。

            

 郷照寺は八十八か所の中で唯一の時宗のお寺です。

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一遍上人は四国の人ですから、しばしばこういうところを歩いたにちがいありません。また最後の遊行を前にして、自分の郷里伊予に帰ったこともはっきりしています。亡くなる一年前に帰って、郷里のあちらこちらにお参りしています。

 武具が非常に多いので有名な大三島の大山祗神社にお参りしたりして、それから十六年に及ぶ最後の遊行に出発します。善通寺から郷照寺を通りすぎて、淡路島から明石に渡って、神戸まで行って正応二年二二八九)八月末に亡くなっております。
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郷照寺は、もとは道場寺と呼ばれていました。

寺は海に臨んだ高台ですが、昔はすぐ下まで海であったといわれています。
正面に庫裡、客殿、庭園があります。納経所は寺他の石段の上にあります。
本堂は東向きに建っていて、その前に庚申堂があります。
本堂の後ろの高いところに大師堂があり、その裏に淡島堂(粟島明神堂)と稲荷社があります。淡島堂は以空上人が建てたということがはっきりしています。
以空上人は、五剣山ハ栗寺に弁財天をまつった人です。

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 縁起は、霊亀年間(七一五-一七)に行基菩薩が開削して、もとは仏光山道場寺
と名づけたと書いています。
 弘法大師が再興し、尊心憎都、通苑阿闘茶などが住んだといいますが、現在は時宗で一遍上人の止住を伝えています。一遍は四国の松山の人で、善通寺に参詣して阿波から淡路へ越えたことがあるので、ここを遍ったことは確かです。
天正年間(一五七三-九二)の長宗我部氏の兵火で焼けたあと、江戸時代に再興して藩主の保護を受けました。書院にはすばらしい庭園があって、名石や名木があります。
 
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郷照寺は宇多津の港に臨む高台にあって、仏光山の名のごとく灯台の役を果たしました。あるいは庚申堂の常夜灯であったかもしれません。庚申信仰は念仏信仰です。
昔はお葬式を手伝いあうのが庚申請でした。
庚申念仏のために人々が集まる道場が道場寺になったようです。
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このあたりは秘事法門が多いといわれるのは、このような念仏信仰が真言念仏・秘密念仏化したものがベースにあるのかもしれません。
 庚申堂本尊も密教の青面金剛です。もとは庚申請の掛軸を出したり、七色菓子を出したりしたかもしれません。現在は大師信仰だけになりました。

 ハ栗寺 聖天堂が大にぎわい
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八十五番のハ栗寺について「四国辺路日記」は、このように書いています。 
本堂は南向、本尊千手観音、大師大唐ノ時、唐より粟子ヲハツ、海上ニ投玉フ。 仏法繁昌ノ霊地ト可成所ニ至テ、生成セョト約束シ玉フ。
此系数万ノ波濤ヲ唆テ、此嶋二流留ルト也。
八本ノ栗本生成テ、大師阪朝ノ後、当国ニ至テ尋付玉テ御覧スルニ、
此嶋ニ業八木生ナリ。
 近世の縁起には、本尊はもとは十一面観音で、高松の殿様が本尊を変えたと書いてあります。
大師が唐に行くときに栗を投げたというのは、帰ってこられるかどうかという一種の占いだったとおもいます。占いとして海上に栗の実をハつ投げて、栗が着いたとこそに自分が帰ってお寺を建てると約束しました。
「唆テ」は「凌テ」です。「数万ノ波濤」は数万里という意味です。
海を隔てた唐から日本に流れて、この島に流れ寄ったと伝えられています。
栗は、よく占いに出てきます。
のちになると、弘法大師の法力だとされ、弘法大師の投げた栗がこの栗だ、
しかも一年間に二度もしくは三度実をむすぶという二度栗伝説・三度栗伝説が生まれます。
 こういう弘法大師伝説の一つのタイプを縁起に使って、この場合は栗の生えたところに仏法が繁昌するという話にしたわけです。それがハ栗寺の起源です。
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 この説のほかに、もう一つ、奥の院に登ると非常に眺望のいいところですから、ハつの国が見える、ハ国寺がハ栗寺になったのだという縁起もあります。

  峯ハ大磐石、金輪際より出生テ、形如五鈷杵。
 ハ栗寺の奥の院は五つの峰からできていて、密教の法其の五鈷のような形だと書いています。しかし、現在は峰は四つしかなくて、元禄十一年(一六九九)と宝暦三年(一七五三)の地震と風で落ちたと書かれています。
 五剣山ですから、一つの峰を剣と呼んで、一ノ剣、ニノ剣、三ノ剣、回ノ剣、五ノ剣があります。いちばん高かった五ノ剣は半分から崩れたと伝えています。
頂上は普通の修験の山では馬の背という行場に当たります。せいぜい五〇センチぐらいの本当に狭い道で、両側は断崖ですから、心がよほど平静でないと危険です。そこを通るときには、「南無大師遍照金剛」と唱えます。

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 昔は五剣山の麓に四十八のお寺があったと伝わります。
その一つで、本坊として残ったのが千手院で、それを全体の名前としてハ栗寺千手院と呼ばれるようになりました。 
絶頂は彼磐石ノ五鈷形二上ル間、中々恐キ所ナリ。
 いま遍路の方はほとんど登れません。というより、転落事故も起きているので、登らせないように「危険につき登山禁止」になっています。
 当山権現は蔵王権現です。
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 しかし、本格的な辺路修行では、ここを回ってさらに竹居観音まで回ったと考えられます。それが山と海との行道です。四国遍路の寺には山のほうを金剛界とし、海のほうを胎蔵界とするという名づけ方があります。幸いハ栗寺にはその伝承が残っていて、竹居観音を奥の院としてお参りしています。ここの 場合は潮垢離をとるということも行道の目的だったでしょう。
竹居観音の海で潮垢離をとって山をめぐる、めぐり終わったらまた潮垢離をとる、
まためぐるという行道をしていたことが推定されるような場所であります。

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 ハ栗寺の本堂は観音堂でして、正面に観音堂、その右手に大師堂があります。
五剣山は、四つの峰と瘤がつながっており、三ノ剣といわれる蜂の下の大きな洞窟の中に宝飯印塔があって、その下が本堂の観音堂で、その横に大師堂があります。
霊場であれば、どこでも本堂と大師堂は並んでいます。
 ところが、聖天堂のほうに大勢のお参りがあるわけです。
聖天堂は大きな岩の洞窟の中に建物が半分入っている、T字形になった撞木造のお堂です。現在のハ栗寺は聖天さんの信仰のほうが大きくなりました。大阪の生駒でも聖天さんは商売繁昌の神様として信仰されています。もう一つは、縁結びということでお参りが多いのです。

 
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聖天さんをまつる人は一生涯拝まなければいけません。

途中でやめたら逆にその人が災いをこうむります。
功徳も多いけれども崇りも恐ろしいということになっています。
住職は毎日、聖天供といって、朝早く起きて聖天さんの像に油を温めてかけなければなりません。それから、歓喜団という中にあんこを入れて油で揚げた歓喜天の団子を毎朝あげなければなりません。それをずっと続けているそうです。
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 ハ栗寺には半分は岩窟の中に入ったお堂に天狗さんがあって、ここからIノ剣に登っていきます。ここにはいろいろの洞窟があります。第一宮の洞窟は求聞持窟とも考えられますが、いまは以空上人をまつっていて 「以空上人様」と書いてあります。

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以空上人は、紀州の淡島神社から出て行った「淡島願人」

淡島願人は病気平癒の祈願のために女性や子どもが身につけたものを預かったり、死んだ子どもの菩提を弔うためにおもちゃなどを預かって、淡島神社まで運びました。そして一年に一回の祭にそれを海に流していたのです。
 のちになると淡島さんが神社になってしまいました。
神社ももってくれば預かるようですが、本殿が非常に立派になって、もとの庶民信仰的な気分はなくなりました。各地に淡高堂ができて、それを中心に活動しています。神仏分離以前は全国に淡島願人がいました。
 願人というのは代わってお願いする人、つまり代願人です。
鞍馬願人も鞍鳥山に代わってお参りする人です。
淡島願人も鞍馬願人も江戸にちゃんと出張所かあって、江戸時代には江戸を中心に活動していました。淡島願人は明治以前はそれほど卑しめられなかったようですが、どちらかというと放浪者としてここへ来た人が聖天を拝んだのではないかと考えられます。
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この山は次々といろいろな霊能者が出ています。

 大正年代ぐらいには泉聖天が繁昌しました。
中世は無辺上人が再興したといわれています。
おそらく以空以前に無辺という者が聖天の信仰をもって信者を集めて、その次に以空上人が来たとおもわれます。
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 お寺に残っている境内図では撞木造の聖天聖が洞窟にさしかけたようになっています。聖天堂の上に三重塔が描かれていて、その横を奥の院への道が通じています。奥の院というのは五剣山です。「山絵図」を見ると、山の状態がたいへんよくわかりますが、そこここに何々窟と書いてある文字は、ほとんど剥落 して読めません。
 

窟には二つの用途があります。

一つは住むところ、一つは本尊を安置するところです。
それから、室戸岬の洞窟にはお供の人が住めるようなところがもう一つ付いています。修行者はお供の者に炊事をしてもらって、そこで食事をしながら行道をしたり火を焚く行をしたとおもわれます。室戸岬の場合は、その窟が「みくりや洞」、いまの「みくろ洞」です。
 弘法大師のお供をしたみくりやの神様が、のちに愛慢愛語という名前で高野山の奥の院に仏縁としてまつられたことが中世の記録に出てきます。現在は愛慢愛語のかわりに味試地蔵がまつられています。いま御供所の横に官試地蔵がまつられているのは、かつての「みくりや洞」がそれを表しています。
 
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もう一つは、一夜建立の洞といっている細い洞窟に本尊の虚空蔵菩薩をまつっていました。つまり虚空蔵が保存されている一夜建立の洞と、みくりや洞と、神明窟、それから何もない洞、この4つの洞があります。
 ハ栗寺の洞窟の場合はおそらく居住区です。
籠りのある小さな洞窟は真言を繰る洞だったようです。
現在では七番目の行者の像があります。

        

 国分寺-古代寺院を彷彿とさせるお寺

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 四国の各県の国分寺と一の宮は、みんな札所になっています。六十六部は、神社である一の宮も全部回ったので、そういう伝統が遍路にも残ったということでしょう。
日本全国六十六か国の一の宮を回る伝統が、四国では四か国の一の宮を回ることになりました。そして、幸いなことに四国は四か国とも旧国分寺の境内をそのまま使って新しい国分寺ができています。
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伊予の国分寺の場合は、いまは薬師さんの薬師寺だけが残って、伽藍跡としては100メートルほど離れた人家の間に、塔の礎石が残っているだけです。讃岐の場合は、自然環境もすっかりそのまま残りました。しかし、創建寺の金堂と塔は残っておりません。講堂があった位置に現在の国分寺の本堂があります。もっとも、その本堂は鎌倉時代の建物です。
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 国分寺が衰えた理由は簡単でして、国家が造ったものは国家が面倒を見きれなくなるとつぶれてしまいます。ここに官寺大寺の盛衰の大きな原因があります。
 国家によって建てられ、国家によって保護され、国家によって維持されたものは、国家の保護がなくなれば衰えてしまいます。それと同じことは国分寺の場合にもいえます。国分寺は国費によって建てられ、国々の国司が国衛稲(国司のところに収納する租税)の一部を国分寺と国分尼寺に分けていました。佐渡や若狭の場合は全く跡形もなくなって、別なところに国分寺という名前のお寺が造られました。幸いなことに、四国の場合は、昔の寺他の近く、もしくはもとあった場所にあります。

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 奈良西大寺の指導下に、本堂は再建されました。

中世の讃岐国分寺は、権力と結び付きを強くした真言宗を堕落したものと見なし、南都(奈良)西大寺の叡尊から始まる教団(真言律宗)とのつながりを強めていきます。南都西光寺は仏教の根本である戒律を重んじ、真言律宗の大きな課題として各地の国分寺復興に積極的に取り組みます。その、再建方法が資金や資材を広く集める勧進(かんじん)という方法でした。こうして、西大寺の指導下に、讃岐国分寺の本堂は再建されます。再建場所は、8世紀の講堂礎石の上でした。それは、真言律宗の「原理主義」を体現したものかもしれません。本堂は、豪快な木組みによる高く広い空間を作る、簡素な折衷様で、南都の技による建築の流れをみることができます。
 この時期は寺社の再興・創建が相次ぎ、多くの堂塔や社殿が建てられました。讃岐に現存する建築としては、讃岐国分寺本堂・観音寺本堂・本山寺本堂・屋島寺本堂などがあります。これらは折衷様(せっちゅうよう)あるいは新和様(しんわよう)と呼ばます。東大寺の再建や鎌倉の禅宗寺院などで取り入れられた新たな技術と様式が、従来の和様と融合してできた様式です。その建設には多数の職人が必要で、畿内から来たと思われる棟梁や上級の職人の下で地元の職人が働き、新たな技術と様式を地元の職人たちは吸収していったのでしょう。
 屋根に葺かれる瓦も、それまでの青味がかった灰色から黒色の燻し瓦へと変わっていきます。軒丸瓦の文様は、それまでの蓮華文から三つ巴文へと変わっていきます。こうした変化は、地元の瓦職人たちが担いました。    

 讃岐の国分寺は、そのたたづまいがよく残りました。

 金堂と七重塔さえあったら奈良時代の国分寺もこういう状態ではなかったかとおもわれるぐらい、たたずまいがよく残りました。礎石も金堂と塔の礎石はほとんど完全に残っています。
 本尊は本来は釈迦如来だったはずです。
ところが、鎌倉時代に復興したときに国分寺の千手院だけが残って、講堂跡にできたのが現在の千手観音を本尊とする国分寺の本堂です。古代寺院だったということもあって、たいていのお寺は境内の主要な場所に庫裡を堂々と建てたりするのに、ここの国分寺の場合は、お寺の管理をする庫裡や納経所などは築地塀の外に控えめに配置されています。
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ご詠歌は
「四を分け野山を凌ぎ寺々に 記れる人を助けましませ」で
国分寺を読み込んで、「四を分け」と家っています。
四つの国を分けて遍路が野山の苦しみをしのぎながら寺々をめぐっている、訪れた人をそれぞれの寺の本尊さんが助けてあげてください、という意味だとかもいます。
幼稚なようですが、味わってみるとなかなか味のある歌です。

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聖武天皇の発願で天平十三年(741))国分寺建立の勅によって、国中一四一か寺ずつの金光明四天王護四之寺と法華滅罪寺が建てられました。これは家大寺と法華寺の関係にもなります。いずれも国家を守護するということを目的にしてできたものです。
 国分寺の建立は、天平九年(737)以降の疫病と国作を鎮めるためだとされています。庖疸の流行は、藤原四家がそれぞれ当主を失ってしまうくらいの疫病でした。それを鎮めるためだとされています。
 が、実際は良弁らの建言で、中国が大雲寺を国々に建てたのに依って、国家統一を目指したものでしょう。その結果、各国に一つずつ国分寺を建て、中央の奈良に東大寺を建てたのです。
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 各国の国分寺の本尊は釈迦如来です。

梵網経に読かれているように盧舎那仏を中心にして、その周りに百億の出生の釈迦がいるとすれば、盧舎那仏を中心とする一つのヒエラルヒーというか、一つの組織ができます。
 西国直二郎先生は、これが目的だったという説を出して、梵網経をそのまま東大寺と国分寺の関係に広げています,現在では、それに添えて法華経による死者の魂の滅罪を願ったのが国分尼寺だということに落ちついています。
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 国分寺は本尊の釈迦牟尼像一丈六尺と大般若経六百巻を供えました。
大般若経は、国家的な災い、たとえば災害や怨言を鎮めたりする力かあるというので、各国の国分寺に大般若経六百巻を供えるように命令しています。国分寺建立の記には、本尊を納める金堂と七重塔を造り、「金光明最勝王経」と「読華経」とを供えて、これを読誦しなさいということも記されています。
 しかも、造る場所は「好処を選べ」と命令しています。
土地によって場所が違いますが、だれが見てもいい場所を選びなさいということで、奸処が選ばれました。しかし、旧址がそのまま現在の国分寺として保存された例はあまり多くありません。
その中では讃岐国分寺と土佐四分寺と阿波国分寺はよく残されていて、四国の場合は四か寺とも八十八か所の霊場になっています。
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 現在の讃岐国分寺は、山を北に背負って南に開いた位置にあります。
しかも、境内の外に出ると淵ケ池という大きな池まであって、かりに人家がなかったら極楽の姿を呈するような場所です。背後の山は国府台という丘陵で、もう少し北に行くと五色合があります。

縁起には、大蛇退治の読が出てきます。

聖武天皇の勅願で行基菩薩が開基となって建立された、千手観音を本尊としたとありますが、実際には釈迦如家を本尊です。のちに弘法大師が中興したといっているのは、霊場としての意味をもたせるためでしょう。
 ただ、ここは弘法大師が生まれたところからあまり遠くなく、讃岐国府にも近いので来たことはあったかもしれません。司馬遼太郎氏は『空海の風景』の中で、弘法大師がここへ来たと書いていますが、そういう想像をさせるような場所でもあります。
 本尊は弘法大師が修補したとされています。
現在の本尊は平安時代末期ぐらいのものだとおもいます。しかし、一木ですから、中期のものかもしれません。
 国分寺に関しては次のような伝説があります。安原淵に大蛇がいて人々をとって食べた。戸継三郎という者が大蛇退治に出かけたが、大蛇が銅鐘を頭に載せて浮き上がってくるので、なかなかしとめることができない。そこで千手観音を念じたら退治することができたので、鐘を大蛇から取って国分寺に納めたということになっています。
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国分寺の縁起の半分は鐘の由来に割かれています

 国分寺の奈良時代の銅鐘は重要文化財に指定されています。
 この鐘を慶長十四年(1609)に高松藩主生駒一正が高松城の時鐘(時を知らせるための鐘)にしたところ、鐘の崇りがあったので、国分寺に戻されたという記録があって、実際に国分寺に戻っています。
 慶長十四年二月の「高松城に鐘を納めよ」という文書と、三月の「鐘を返すから受け取れ。そのかおり領主の煩いを治すように祈りなさい」という文書があるので、鐘を国分寺から高松城にもっていったら、生駒一正が病気になってしまって、鐘の崇りだと考えて返したことが証明されます。したがって、これは縁起でも伝説でもなくて事実です。
 そのころの武士たちは縁起をかつぎました。
豊臣秀吉も善光寺如来を京都へ移したら病気になったので、すぐ返したという事実があります。
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  国分寺は五色合の南の国府台の南麓にあります。

 古代国分寺の旧地を占める閑寂な境内です。広い境内に点在する奈良時代の礎石と亭々たる古松が美しく、旧国分寺の七重塔の礎石十五個と金堂の礎石三十三個は、いずれも奈良時代の巨大な礎石です。どこの国分寺も七重塔を復興したところはありませんが、讃岐の国分寺の場合は石造七重塔があります。鎌倉時代には領主のあつい保護があったようで、金堂も石造七重塔も鎌倉時代です。
 ただし、慶長年間以前の古文書がないので、庇護者の名前はわかりません。
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 鐘松には重要文化財の奈良時代の銀鎖が残っています。
金堂跡の東に地蔵堂、その東の築地塀の外に、庫裡、納経所、大師堂があります。
金堂址と池を隔てた講堂址に建てられた現国分寺千手院の本堂は、九間四面の鎌倉時代の建築です。本尊は一木造の平安時代の十一面千手観音です。

 このお寺は板壁に遍路の落書があるので有名です。
しかし、これは一般に公開しておりません。松山の円明寺の銅板納札は「四国仲遍路」と書いてありますが、国分寺の落書は平安時代以来使われている辺路を使って「四国中辺路」と書いてあります。
 紀州の中辺路もこの字を使っているので、もとは遍路を辺路と呼んだことは明らかです。やがて道路という文字の言まで「ヘンロ」と読まれ、さらに八十八か所を全部回るということから「遍路」と変わります。そうなると、「ヘジ」ではなくて「ヘンロ」と読むようになったのです。
 国分寺の落書は、永正十年(1513)のほかに、大永年(一五二八)、天文七年(一五三八)、弘治三年(一五五七)があるので、室町時代ごろになってから出てきます。
辺路が海岸の修行であるのに対して、中辺路は内陸の修行を意味しているという説を完全な定説とするわけにはいきませんが、紀州の中辺路も内陸の修行を中辺路といっていますから、この落書の場合も内陸の修行と解釈できるかとおもいます。

高照院天皇寺は、滝を水源とする霊水信仰が源

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 七十九番の余輩山高照院は非常に特色のあるお寺です。別名を天皇寺といいます。
本尊は十一面観音で、ご詠歌は

「十楽の浮世の中を尋ぬべし 天皇さへもさすらひぞある」

 意味は、流刑となっていた崇徳上皇がここで亡くなられて、死骸をしばらく水に漬けて腐敗を防いだという伝承があり、浮世には十楽というものがあるそうだが、十楽をすべて全うできる天皇でさえもこういうところをさすらったのだという歌です。

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 流刑の際に、崇徳上皇はお寺の少し北を流れる綾川という川をさかのぼって白峰に入ったといわれているので、この近くにしばしば足を運んだことは事実でしょう。

 お寺は、現実には四つに分かれています。
寺地に入っても、庫裡と本堂や大師堂のあるところまでが非常に遠い。それは、その間に、金山権現という神社があったからです。つまり神社によって、庫裡と本堂のある場所が二区に分けられているのです。
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 境内から西に行くと泉の水源に当たる金山という二八一メートルの山があります。そこが奥の院です。弘法大師に金山権現が現れて舎利を与えたというので、金華山摩尼珠院といいました。これがもとの山号です。『金華山摩尼珠院」は奥の院であると同時に、もとの寺地でした。現在は広場になっている正面に金山権現がまつられていて、金山がもとの信仰対象であったとおもわれます。
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『四国辺路日記』には次のように記されています。

① 佐留礼親王が八十余人の兵とともに悪魚退治にぎて、魚の毒気に当てられたのを、坂瀬明怖が八十場の泉という霊水で蘇生させたこと。
② 弘法大師がこの泉のほとりに十一面観音と阿弥陀如来と愛染明王をまつったのが高照院の起源だとしています。
③ 佐留礼親王ではなくて日本武尊だと書いてあるものもありますが、いずれにしても霊水信仰から出発しています。
④ この泉の水源に薬師如来の石像を安置して、これを闘伽井としました。
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崇徳天皇の御遺体を八十場の水に浸したという伝えがある。

 夏には石清水が流れ込む泉に、トコロテンが浸してあって、箱から押し出して酢をかけて食べます。地元では「八十場の(やそば)のトコロテン」と親しまれています。清水の落ち込みを聞きながら食べるところてんの味は趣があります。
 御遺骸を八十場の水に浸し、京都に通知し、勅許によって白峰山で荼毘に付したというのは、ここで殯をしたことを表します。そのためこの寺の別名は天皇寺と呼ばれるようになります。

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 天皇の御遺骸を安置したところに、明治になって京都に作られた白峰宮と同じ名前の神社が建てられています。
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この寺が金山にある行場から出発したことだけは確かです。

したがって、この滝を水源とする霊水信仰からいろいろの伝承が付随したのだろうと考えられます。金山の中腹にあったころは、常夜灯が海から見えたので、高照院と呼ばれていました。奥の院からは、東北に白峰山と五色台が見えます。その間に崇徳上皇が上陸されたといわれる綾川が流れています。
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『四国辺路日記』には金山薬師、野沢の井が出てきます。

 この日記には八十場を野沢と書いています。毒の魚を殺した菩提のために寺を建てた「魚ン御堂」ともあります。魚を捕る漁師さんたちが、魚供養に建てたというのがこのお寺の一つの特色です。捕った魚の供養をしなければ食べない、あるいは食べれば供養をするというのが魚供養です。
 三重県熊野市には百八本の鯨の供養の碑が立っておりますが、百八という数が煩悩の数に当たるからでしょう。鯨を食べても供養する心を忘れないのが日本人です。

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 道隆寺-山伏が再興した寺

道隆寺の建立者道隆と善通寺の建立者善通は兄弟?

七十七番桑多山道隆寺の本尊は薬師如来です。
御詠歌は「ねがひをば仏道隆に入りはてて菩提の月を見まくほしさに」
道隆というこのお寺を建てた人の名前を詠み込んだ歌です。
「道隆寺文書」(『香川叢書』史料篇②収)には
①14世紀初頭(一三〇四)の発願状があって、沙弥本所(山伏)による寺の由来が記されていること。
鎌倉時代末期の嘉元二年に、領主の堀江殿が入道して、本西と名乗ったこと。
③讃岐国仲郡鴨庄下村地頭の沙弥本所は、庄内の道隆寺を氏寺として崇敬してきたが、その由来をたずねると、内大臣藤原道隆と善通寺の善通は兄弟であること
がこの縁起は書いています。

道隆の兄の善通は善通寺の善通と云います。
 大領は郡長さんに当たりますから、多度郡の郡長さんが善通寺の善通で、お寺を再興したので功徳といっています。善通は白鳳期の「善通寺」を再興した人です。しかし、この人物が空海の父や祖父とは別人であることは「善通寺」のところで述べました。
①兄の善通が多度郡に善通寺を建てたのを見て、仲郡に道隆寺を建立したこと。
②ふたつの寺が薬師如来を本尊としているのは、兄弟建立という理由によること。
③道隆寺は、もともとは法祖宗か何かのお寺でしたが、その後衰退します。
④それを山伏の本所が再興したので、山伏の所属する真言宗になりました。
⑤本堂と御影堂と本尊、道具、経論、などが建立され伽藍が整備できたようです。

白鳳期ごろのお寺は、渡来人が建てた寺が多いようです。

現在の飛鳥・白鳳期の寺址は、三百か寺ぐらい数えられますが、これはやはり渡来人が建てたと考えられます。飛鳥・白鳳期にかけて秦河勝が山城平野を開拓。それに南のほうでは、稲荷山を建てた秦中京伊侶具が非常に富み栄えました。秦中京は秦の本家という意昧でしょう。
 ここにひとつ濯漑の問題があります。
渡来人が日本人を使いながら、潅漑用水を造ってつぎつぎと開拓を行うことができたのは、水準器をもっていたからです。水がどちらに流れるかを水準器で測りながら用水路を造っていきます。当時は、日本人にはその技術がありません。そのうちに日本人もすっかり習得してしまったので、渡来人は不要の存在となり、次第に没落します。そうして、白鳳期のお寺もだんだんに衰退していったのです。
やがて勧進聖やその地方の援護者なりが出てきて、これを再興します。道隆寺にもこんな構図が考えられます。
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 道隆寺の縁起は、次のような悲しい物語です。

もと一大桑園があったが、大平時宝(七四九―五七)のころに、和気道隆が誤って乳母を弓で射殺してしまいます。その菩提のために、桑の木で薬師如来を刻み小堂を建てます。その後、弘法大師が薬師如来の大像を刻んで、桑の木で作った小さな薬師如来を胎内に納めて本尊とします。一方で、観音の像を刻んで観音堂の本尊としたということになっています。

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しかし、現実には

白鳳期の寺を道隆という山伏が再興したとするのが事実。

資料から推察できるのは次のようなことです。
 この寺は、和気氏が俗別当として、管理権を手中にしていました。
和気氏は、智証大師の和気氏と同族です。その関係から智証大師は、ここに五大尊示伽・降三世・軍茶利・会剛夜叉・大威像)の像を刻んだとされています。しかし、智証大師は平安時代初期の人で、金堂の中にあるのは鎌倉時代の五大尊ですから、この話は時代がずれています。
 道隆寺でおもしろいのは、中世に何度も田地寄進が行われ、弘法大師の御影供(弘法大師の三月二十一日の法要)、伽藍三時供養法、道隆寺鎮守花会(法花会)、一切経供養会、焙魔堂供養などが行われていることです。特に戦国時代の16世紀初めのの阿弥陀堂、阿弥陀像造立は、この寺の隆盛ぶりを示しています。

 
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これらは道隆寺が山伏寺になってからのことです。

道隆寺の住持が塩飽島に聖宝尊師のお堂建てています。
聖宝尊師は、醍醐寺の像験道の開祖に当たる方です。
これは道隆寺がこのあたりの山伏を支配していたことを示しています。
「道隆寺文書」によって室町時代の、大峰の入峰を捨身といっていたことがわかります。この文書以外ではまだ見たことかありません。
この文書では修験について、次のようなことも書かれています
入峰するということは自分の身を捨ててしまうことだ、死ぬことだと考えていたことがはっきり文章になっています。山に人るのは死ぬことである、よって山から出てきたときは生まれ変わっていると、修験の本質についてもきちんと書かれています。 そういう意味で、「道隆寺文書」は修験道の史料としても非常に貴重です。


 

四国霊場 37番岩本寺の以前の札所は五社神社の別当寺だった

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岩本寺は窪川町の町の中にあるお寺です。しかし、その成り立ちは複雑です。
37番の札所は、近世以前には別の所にありました。窪川の町から2㎞ほどはなれた四万十川の源流を渡ると、東の山の影に五社と呼ばれる社が五つ並んでいます。五つのお宮の一つの中宮の別当・福円満寺が37番の札所でした。今も中宮には福円満寺の寺地が残っています。江戸時代前半に、別当であった福円満寺が衰えた時に、岩本寺に別当権が移ったようです。つまり、五社から窪川の宿坊であった岩本坊に札所の権利が移ったのです。しかし、さらにさかのぼれば山の上にある陵がいちばんの奥の院だったともいえます。札所はそういう発生のしかたをします。神社をもって札所とするところが意外に多くて、土佐一宮の場合も神社そのものが札所でした。四国の四つの一宮はみな札所になっています。 
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五社の真ん中の中宮に「元三十七番福円満寺」という本の札が立っています。
ここに五社の社務所があって、現在は高岡神社と呼んでいます。奥の院は磐座です。
御詠歌は 「六つの塵 五つの社あらはして ふかき仁井田の神のたのしみ」となっています。
なんでもない歌のようですけれども、神社が札所であるということを説明する歌として重要です。
「五つの社」は五社を表し六つの塵というのは煩悩です。六塵煩悩という六種類の煩悩を「五つの社」が現れて和合したというのが和光同塵(どうじん)です。この時の札所が岩本寺でなくて仁井田五社、すなわち仁井田明神であったことはご詠歌からも分かります。
 縁起は、行基が開いた、そして行基菩薩以前から仁井田明神がいたので、ここを札所にしたという決まりきった縁起です。その別当寺はもとは福円満寺でしたが、この寺が退転したのちに岩本寺が別当になったことは前述したとおりです。
 仁井田明神は、伊予の名族越智氏の祖先だという五社を仁井田五人士とも五人衆とも呼ばれる五家がまつってきたものです。それぞれ五軒の持ち役があって、まつってきました。
  仁井田五社の福円満寺の札所権を、窪川の町の中の宿坊であった岩本坊が手に入れたわけです。岩本寺は、窪川の町中にあり、茂串山を背後にしているのでもとはこの山が奥の院としたのでしょう。
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いま岩本寺に行って、正面から拝もうとすると汽車が通ります。茂串山とお寺との間にJRがかかってしまいました。もともとは山の麓にできたお寺でした。この間には複雑か経緯がありました。岩本寺の前身は五徳智院とも五智院ともいう五社から足摺岬までの途中の宿坊でした。中世末期に諸国をめぐって一宿した尊海法親王が、この宿坊に岩本坊の名を与えたのが岩本寺の起源だと『南路志』は説いてします。 

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 山内一豊が土佐藩主になったときに仁和寺の聡獣快長法印が、ここに隠居してから足摺岬金剛福寺から独立します。もとは金剛福寺が住職を任命してわけです。岩本寺が仁井田五社の別当寺となってからは、本尊は五社の本地仏の五鉢をまつるようになります。現在も本尊は不動

                       本山寺 国宝の本堂と新しい五重塔

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 江戸時代初期の『四国損礼霊場記』は「本山寺宝持院」と書かれています。
本尊は馬頭観音です。この寺は、五重塔が三豊平野の中にすくっと立ちランドマークタワーの役割を果たしてきました。しかし、この塔の建立は大正二年(1922)の造営で百年前のものです。善通寺の五重塔よりも若いのですが、古色蒼然としており、鎌倉時代の建築ではないかと見間違えるほどです。平野のただなかにそびえて、立派に見えます。

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 本堂は鎌倉時代の建物(国宝)ですから、四国霊場の中では古い建築が残っています。本山寺の奥の院は、もとは長福寺といったようです。石切り場のようなところを通って本山寺から三キロほど山の中に入ると、寺の跡がありますが、あまり大きな規模ではありません。参道には鎌倉時代中・末期あたりの五輪塔がたくさん残っています。これらの五輪塔は、ながく伝わることを意図したわけでもないでしょうが、幸いにも、坂の上の崖が上部だけ庇のように残っていて、運よく保存されたのだとおもいます。


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 その中でも完全な姿の五輪塔が、いくつか本山寺の境内に移されています。文化財に指定していませんが、十分に文化財としての価値がある石造五輪塔です。
奥の院の寺地には宝証印塔が二基残っています。これも鎌倉時代中期以前の塔です。

ご詠歌は「本山に誰か植ゑける花なれや 春こそ手折れ手向にぞなる」で、あまり出来のいい御詠歌ではありません。「手向にぞなる」と詠んでいるところをみると、おそらく奥の院は、亡くなった人の供養の寺だった。それで鎌倉から室町時代にかけて、大勢の人が死者供養のためにここに登って、五輪塔をあげたわけです。

 霊場に行かれたら、まず奥の院を訪ねてください。

そうすると、そのお寺の本質がよくわかると同時に、四国遍路とはいったいどういうものかということがわかります。本山寺の奥の院の奥に入ると滝があります。ことによると、このあたりに本当の奥の院があったとも考えられます。
 そして、七宝山を登りつめると、海を眺めることができます。七宝山の山すそが観音寺市の町です。ここでも奥の院から山を越えて海に行く、あるいはそこから戻ってくるという辺路修行があったと考えられます。
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 例えば、こんなストリーが考えられます。
仏像のかたちをした石が辺賂の海で拾われる。
その石をまつったところが奥の院となり、これを拝む人には、仏様が海のかなたからやってきて福を授けてくださる。そこにお堂ができます。最初は旅僧が行ってしばらく留守居をしました。明治維新以後も、四国八十八か所の霊場の中には、旅憎がしばらくそこに留まってお守りをする、次の人が来て半年なり一年なりお守りをするというように、旅僧が交代でお守りをしていた寺がたくさんあります。
 しかし地理的に参詣に不便だということで、街道筋にお寺を移しだのが現在のお寺となります。そして、海から上がった石をまつったところは奥の院と呼ばれるようになります。

本山寺は四国の八十八か所では、唯一馬頭観音が本尊です。

 このお寺は高野山真言宗に属しており、本尊の馬頭観音に対して、脇侍は阿弥陀如来と薬師如来です。かつては牛馬の安全を折る信仰があったところなのでしょう。
本堂は鎌倉時代末期のかなり保存状態のよい建築で改修も終わりました。
寺伝では、五重塔は天府二年にできたといっていますが、天府二年は平行門の乱の十三年後です。仁王門は平安時代の建築といっておりますが、そこまではいかないとおもいます。
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 ここでは大般若経六百巻が村回りをしていました。

 大船若緑六百巻を全部読むことはできないから転読する。
紀州の山間部では、本堂の中で巻物を投げたようで、かなり傷むとおもいますが、折り本ができる南北朝以前は床を転がしたりしたことから、転読というのです。
一般には転読とは、六角経蔵、あるいは八角経蔵をぐるぐる回すことです。チベットでもお経を回す信仰があります。しかし、お経を一巻一巻広げて転がして、十人な
ら十人の坊さんが並んで、それぞれ三行か五行ずつ読んでいくのがかつての日本の転読だったとおもいます。折り本の先を扇形に開いて、片方からサラサラと広げては、その間に七行、五行、三行と読んでいきます。それが悪魔払いだということで、般若声といわれる大きな声で机をたたいて読んでいくのです。
 本山寺ではお経を担いで村を回ります。これも回って読む一つのやり方ですから、転読といえるでしょう。住職が理趣分という四百九十河巻のうち一冊だけもって七五三読みで読みます。大般若の箱を担いで歩くのは村の青年たちです。村を一軒一軒回って転読します。それを「般若の風」といって、風に当たれば病気にならないという信仰がありました。

参考文献 五来重:四国遍路の寺

 


小松尾寺は、天台・真言の合同学問所だった?

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『四国領礼霊場記』は、小松尾山大興寺と呼んでいますが、俗称は小松尾寺です。
本尊は薬師如来。
ご詠歌は「うゑおきし小松尾寺を眺むれば 法の教への風ぞ吹きぬる」です。
植えると小松を掛けて、吹く風に法の教えの遺がついたと詠んでいます。小松を弘法大師が植えておいたという意味だとおもいますが、弘法大師お手植えと伝えられる松があります。

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縁起は平凡です。

 弘法大師が弘仁十三年(822)に、嵯峨天皇の勅命によって熊野三所権現鎮護の霊場として建立し、本尊薬師如来を彫刻したという縁起です。熊野三所権現のなかでは、新宮大社が薬師如来を本地としていますが、本末は阿弥陀如来です。しかも、三尊がそろっていないと熊野三所権現とはいえません。
 小松尾寺は熊野三所権現を移したというよりは、むしろ阿須賀神社を移したのだろうとおもいます。ですから薬師如来が本尊としてまつられているのです。
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『四国損礼霊場記』に、「台密二教漢学の練衆、朧のごとく群をなせりとなん」とありますから、盛んなときは鹿のように群れをなして学問をする者がいたわけです。
そして、非常に珍しいことに、このお寺は天台宗寺院と真言宗寺院の両方から成り立っていたことが分かります。大和の当麻寺のように、真言宗と浄土宗が一つになったお寺はよくあります。真言宗が加持祈祷をし、浄土宗が亡くなった方の供養と「分業」している例です。しかし、天台と真言が一寺を形成したというのは、きわめてまれな例です。そこで両宗が教学を競うように、講学練達の学僧がが集まったのだとおもわれます。
 雲辺寺も「四国高野山」と呼ばれる教学の寺だと伝わりますので、山上と里に僧侶達の学問所が並立していたことになります。

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もとは真言宗の寺院が二十四坊、天台宗の寺院が十二坊あって、本堂の左右に並んでいたそうです。『四国損礼霊場記』には、
「天台大師の御影あり。醍醐勝覚の裏書あり」と書いているので、天台大師の像は雨像だとおもわれます。
 弘法大師の遺跡としては、お手植えの樟と称する大木があります。

この寺の歴史は、むしろ鎮守の熊野権現の別当寺が大興寺だったので札所になったのでしょう。

本尊の薬師如来も熊野権現の本地仏です。
『四国偏礼宣揚記』の挿絵では、石段正面に薬師堂があって、大師堂があり熊野権現が描かれています。石段の下に大興寺あり。ここからも本来は熊野権現が本尊で、その本地仏が薬師ですから、二にして一なるものです。「小松尾寺図」は、熊野社と本地堂(薬師堂)を中心にして、これに奉仕する供僧別当が大興寺であったことを示しています。

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 この寺は鎌倉時代には京都にまでも聞こえていたらしくて、「大興寺」の額は京都の世尊寺家で藤原行成第ハ世の孫の藤原経朝が書いています。額には「従三位藤原朝臣従朝文末四年即成七月計二日 丁末書之」という裏書があります。
 室町時代には三十六坊が並んでいたといいます。しかし、讃岐の神社仏閣の例に漏れず天正年間の長宗我部の兵火に焼かれ、慶長年間にに再建されました。
その時に現在地点に移ってきたといわれます。旧寺地は1キロほど北西だったようです。
江戸時代の記録には
「本尊薬師如来、脇士不動、毘沙門立像長四尺、皆大師の御作、十二神将各員三尺三寸、堪(湛)座作なり。本堂の右に鎮守熊野権現の祠、左に大師の御影堂、大師の像堪座作なり」とあります。
 こう見てくると村の中のお寺で、熊野権現がなければ札所になるのは考えられないようなお寺です。民家がすぐ前に建っている絵図を見ますと、昔から民家の間にあったようです。
 
 参考文献 五来重:四国遍路の寺

           雲辺寺-昔は四国坊とよばれる学問所のあった寺 

 
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香川県側からロープウエイで登る参拝者が多いので、香川の札所と思われていますが、阿讃県境の南側にあり行政的には徳島に属します。しかし、讃岐の霊場としてカウントされています。
 ここは、911㍍の讃岐山脈の山を越えたところにあって、北に向かうと讃岐の平野と瀬戸内海が見えます。南に向かうと阿波のほうは山また山です。

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 かつては大師堂があるところと千手院という現在の納経所とは、非常に離れていました。そして大師堂を中心に、その周辺にたくさんのお堂がありました。そのお堂は十二坊あるいは四国坊といったようです。昔は、阿波の者はここに泊まる、土佐の者はここに泊まるというように、それぞれの国の人が泊まるところが分かれていてたくさんの坊があったようです。しかも、一般の参拝者が泊まるところではなくて、ここへ集まって学問をする学問道場であり、別名四国高野とも呼ばれて、高野山と同じように学問をする場所だったようです。そのために十二坊があったのです。
 ところが歴史の中で千手院だけが残ったので、大師堂から離れた山頂近くに本坊ができたわけです。鐘楼と仁王門地もそこにありました。
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御詠歌は「はるばると雲の辺りの寺に来、月日を今は麗にぞ見る」はスケールの大きい歌です。

雲辺寺の縁起は?

この寺の縁起は『四国損礼霊場記』に出てくるもので、米収という武士が一匹の鹿を射て、血の跡を追ってこの山に入り一つの堂の前に出た。見ると弘法大師が作ったといわれる本尊に矢が当たった跡があったので、米或は発心して出家したという粉河寺式の縁起が載せられています。ただ、出家してのちのことは書いてありません。
 この本尊は寺の火災で見えなくなったけれども、のちに忽然として出現した。その間に何か物語があったか、少々説明不足です。

弘法大師が十六歳でこの山に登ったときに、本尊の千手観音を彫刻したというのは、弘法大師は十五歳から十八歳まで奈良の大学にいたから、つじつまがあいません。
さらに、大同二年(ハ○七)大師帰朝のときに登って、彫刻したともいっています。大同二年というと、大師が三十三歳のときです。たしかに弘法大師は大同二年に唐から帰ってきますが、京都に二年間入れませんでした。したがって、大同二年と三年はどこにいてもいいわけです。京都以外のどこかにいたことになりますから、その間ここにいたということになっていると考えておきましょう。
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 弘法大師は帰朝してから、自分は入唐してこれだけの勉強をした、これだけの典籍と密教の法具をもってきたという目録を作って朝廷に提出しました。しかし、留学期限を自分の判断で打ち切って勝手に帰国した空海に対して、時の政府は入京を許されませんでした。
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 弘法大師は行きは運よく遣唐大使と同じ船に乗りました。このことから空海を遣唐大使の通訳だったと推定する人もいます。昔の遣唐船は四隻です。新造船に遣唐大使が乗りました。伝教大師(最澄)は二の船に乗っています。ハ○四年の遣唐使の船は全部難破。第四船は行方不明になりますが、あとはそれぞれ漂着して肋かりました。新造船の第二船が、安全であったわけです。

この寺の山号は巨魁山です。

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 大きな亀という意味で、中国の伝説に出てくる大きな島を支えている亀のことで、海とのつながりがある信仰が見えてきます。この寺の讃岐側の山に立つと瀬戸内海を行き交う舟が見えます。辺路のお寺ですが海洋宗教に関係のあるお寺だということを示す山号です。
 大挙山の山上ヶ岳の行場の入口に、亀石という亀の形をした石があります。先達がお亀石をよけて通れよという意味の歌を歌います。踏んだりしてはいけないというので囲ってあるその石はは、那智の滝に通じている、海とのつながりのある山だということを暗示しています。
 つまり海とのつながりを暗示する亀石の存在から、この山号を得たのだろうとおもいます。このように、山号や寺号あるいは御詠歌は、その寺の歴史を調べるうえでの一つの手がかりになります。

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『四国損礼霊場記』は、『列子』という中国古代の文献に、海中の五山を巨贅という大きな十五の魚が支えているように、この山も巨瓶に支えられているようにそびえているから、巨瓶山と呼んだのだといっています。
 しかし、那智の滝に連なる亀石があるように、海に根が連なるという伝説をもつ亀石があったものとおもわれます。山頂から海が望まれることから、これも辺路信仰で名づけられたものです。辺路信仰で始まっているので、海に縁のある千手観音がまつられました。観音の性格として、千手観音は海に縁があり、十一面観音は山に縁があります。
 例えば、那智の海渡寺の本尊は如意輪観音ですが、那智大社のいちばん中心になる本地は千手観音です。千手観音がなぜ海の観音になるのかといいますと、千手観音が立っている像は、からだが帆掛け舟の帆柱で、手が帆のように見えるからとされます。ちなみに補陀落渡海をする人だちは、千手観音の像を岫先につけて船出しましたた。
 海に関係のある千手観音をまつる信仰に、大師信仰が加わって雲辺寺ができたと考えられないでしょうか。
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 山頂から四つの国が望まれるので、四国坊と呼ばれる四か寺ありとされ、そのいわれについて『四国損礼霊場記』は次のように述べています。
「其幡根四国にわたり、むかしは四国防とて四ケ寺ありとかや。今は此一寺に、阿州の城主より造立し給ひぬれど、讃岐の札所に古来属せり。本尊千手観音坐像長三尺三寸、脇士 不動、毘沙門、皆大師の御作なり。御影堂、千体仏堂、鎮守祠、伴社、鐘  楼、仁王門あり。境内高樹森々として絶塵世」

 山の根は四国にわたっているといっています。阿波と讃岐の境にあって、少し離れたところに伊予があり、もう少し行くと土佐があるので、大雑把にいうと、この山全
体が四国に当たらないこともありません。根っこが阿波・土佐・伊予・讃岐の四国にまたがっているので、昔は四国坊といって四か寺あった、阿波の城主の蜂須賀家が建てたと書かれています。
 水堂があるので、水源信仰があるのだろうとおもっていたら、近年になって篤志家が建立されたものでした。水源はずっと下の谷にあって、モーターで上げているのだそうです。


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長宗我部元親が土佐からこの寺に登って、四国統一の野望を固めた地とも伝わっています。四十八代住持の慶成和尚に戒められたにもかかわらず、ついに讃岐の地に攻め入り戦乱を起こします。その戦乱で寺も焼かれて、のちに阿波の蜂須賀氏によって再興されたわけです。
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この寺には寺には聖衆来迎図があります。
鎌倉時代の本尊の千手観音も毘沙門天も重要文化財です。
聖衆来迎図も鎌倉時代のものです。亀山天皇の御遺髪塔もあります。

参考文献 五来重:四国遍路の寺

牛屋口の並び燈籠は、誰が奉納したのか

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伊予土佐街道は,金毘羅さんの石段中腹の坂町から別れ、谷川町筋を旧墓に沿って谷道を登る。この道はカゴノキやカシの巨木に鬱蒼とおおわれ昼でも暗く、時代劇にすぐにも使えそうな雰囲気を残していた。しかし、資生堂のレストラン「椿」の営業と共に道路が舗装され、通行には便利になったが時代劇に使われる雰囲気ではなくなった。残念だ。

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 登り詰めたところが,象頭山と愛宕山との鞍部,172mの牛屋口峠。(別名 御使者口・西口)
 バブルの時代に金比羅方面に急ぐ坂本竜馬の銅像が建てられ、今ではGooglマップには「牛屋口 坂本龍馬像」記されている。その道をレストラン「椿」に向かう車が走り抜けるようになった。時代が流れて行く。

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 ここは江戸時代には土佐・伊予方面から来た参拝者がはじめて金毘羅領に入る所で、茶店なども軒を並べていたという。今も鳥居、狛犬が建ち、並燈が並び、その景観をとどめている所だという。
 これだけの景観からその賑わいを想像するには、相当の想像力が必要だ。まあ、鳥居をくぐって並ぶ燈籠を眺めながら想像力が羽ばたき始めるのを待とう。

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 整然と同じ凝灰岩から同規格で大量生産品のように並んでいる燈籠。金毘羅さんの境内にある大型で手の込んだものとは趣を異にする。
これらはいつ、どんな人たちがたてたのだろうか。

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燈籠のひとつひとつを見ていくといろいろな情報が見えてくる。
ここには、団灯籠 の職域名・地域名 ・講名 ・年代・世話人などが刻まれている。また、献灯者の職業をうかがうこ とができる場合もある。どんなことが分かるのか。見ていくことにしよう。
1 まず奉納者は、どこの人たちか? 
ほとんどが高知県の人たちで、高知市を中心に県中央部にひろがっている。燈籠の竿正面には、
高知講中、材木町講中、梅田橋講中、後免講中、朝倉町講中、押岡講中、鄙野西講中、鄙野村講中、神田・土崎講中、本山多野郷講中、田井講中、中嶋講中、汗見川講中、西和食浦・西分村講中
などの講地名が刻まれている。

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それでは最も多く建立している地域は?
ここには柏栄連と刻まれた燈籠が並ぶ。柏栄連とは伊野で組まれた講名で、12基の燈能を奉納しており、これが最も多い。和紙生産と流通を背景とした当時の伊野の経済力を物語っている。伊野という地域のなかで金毘羅講が高い密度で組織されていたようだ。

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次に多いのは、高知通町。一・二・三・四丁目のそれぞれから一基ずつ奉納している。この講名は長栄講である。金比羅講とはなに?
                                      
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先ほど紹介した伊野の商人たちが組織したのが「柏栄連」である。
例えば江戸千人は、丸亀京極藩が新堀掘鑿のために、江戸商人の金毘羅信仰を利用し、献灯を呼び掛け、その寄金募集のために組織された。世話人は江戸の有力出入商人5名で、わずかの間に講員が3800人にもなり、預金が3000両を越えたという。 これにより天保6年には、丸亀新堀の築造が完成し、さらに海上安全に供する青銅製灯籠の献納も行われたという。
土佐の奉納者の個人的な性格が分かるものは? 
 高知市の下稲荷新地の花山講中には皆登楼、松亀楼などの楼名が記されている。「稲荷新地」は、「玉水新地」とともに高知の二大歓楽街であったところで、遊郭の主人が集まって奉納したようである。

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 荊野村中奉納の燈寵には、世話人6名と、講員20名人の名前が見える。その講員のなかに士族四人が混っている。この村では金毘羅講が維新前からあり、士族と百姓が同じ講中に属していたのかもしれない。土佐藩は、郷士を村に住まわせ土着性が強かったから、郷士と農民で講をくむことがあっだのかもしれない。奉納にいたる事情がいろいろと想像できて楽しくなってくる。
燈籠はいつ頃、奉納されたものなのか?
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 燈籠に刻まれた年代は、一番早いものが明治6年、最後のものが明治9年。わずか4年の間に69基の燈籠が作られた事になる。
年に20基弱のハイペースだ。なぜ、明治初年に土佐の人たちによって短期に集中して作成されたのか?
 
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それは幕末から維新への土佐藩の土・民の各界での躍進を背景にしているのではないか。明治2年から3年にかけて四国内の13藩が琴平に集まり、維新後の対応について話し合う四国会議が開かれた。そこで主導的立場をとっだのは土佐藩であり、徳川幕府の親藩であった伊予の松山藩や、讃岐の高松藩とは政治的立場が逆転した。こうした政治・社会的情況が石燈龍奉納に反映されているのではないか。

それまで伊予土佐街道の燈籠・道標は、松山からの奉納が大部分であった。維新を境に、土佐の燈籠が短期間に並び立つようになる。
明治維新における土佐人の「俺たちの時代が来た。俺たちが四国を動かす」という意気込みが伝わって来そうだ。
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しかし、金毘羅街道に燈籠が寄進され、夜道を明るくし人々を琴平へ導いたのもわずかの期間であった。新しい主役が登場する。
まずは、四国新道。そして鉄道。
この二つにより旧琴平街道は歴史の裏に、立たされていく。
時代が廻ったのだ。
庶民の金毘羅さんに対する信仰のあかしを石燈龍として私たちに伝えてくれる。
参考文献 金比羅庶民信仰資料集第3巻 



   法然ゆかりのお寺 まんのう町岸上の真福寺 
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 最初にこのお寺と出会ったのは、もう何十年も昔。丸亀平野が終わる岸上の丘の上にどっしりと立っていた。この周辺に多い浄土真宗のお寺さんとは立地環境も、境内の雰囲気も、寺院建築物も異なっており、「なんなのこのお寺」という印象を受けたのを今でも覚えている。境内の石碑から「法然ゆかりのお寺」ということは分かったが、それ以上のことを知る意欲と機会に恵まれなかった。
改めて訪ねて見て「寺の歴史」を書物だけからでも調べておこうと思った。以下は、真福寺に関しての読書メモである

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法然上人御旧跡とあります。
この寺と法然には、どんな関係があるのでしょうか?
1207年2月、専修念仏禁止令が出され、法然は土佐に、弟子の親鸞は越後に流罪となります。しかし、法然を載せた舟は、土佐には向かわず瀬戸内海の塩飽諸島の本島をめざします。その後は、讃岐の小松庄(現在の琴平・まんのう町周辺)に留まる。そして10ヶ月後には赦免され讃岐を離れることになります。
 この背景には、法然の擁護者であった関白藤原兼実(かねざね)の力が働いていたようです。法然が過ごした本島も、小松庄も九条家の荘園で、兼実の庇護下で「流刑」生活でした。そのため「流刑」と言うよりも未知の地への布教活動的な側面も生まれたようです。
4月頃に九条家の小松庄に本島からやって来た法然は、生福寺(現西念寺)という寺院に入ります。
「法然上人行状絵図」には
「讃岐国小松庄におちつき給いひにけり。当座のうち生福寺といふ寺に住して、無常のことはりを説き、念仏の行をすすめ給ひければ、当国近国の男女貴賤化導に従ふもの市のごとし
と書かれています。当寺、生福寺周辺には真福寺・清福寺の2つの寺があり併せて「三福寺」と呼ばれていたようです。
九条家の荘園である小松庄の大寺院は、古代瓦が出土する弘安寺だと思われるのですが、なぜか法然はそこには行きません。小松荘の東端で土器川の川向こうで、西山のふもとの生福寺を拠点にします。そして、周辺の真福寺と清福寺を「サテライト」として活動したとされています。

法然がやって来たときに真福寺は、どこにあったのか?

  真福寺についての満濃町史には「 空海開基で荒れていたのを、法然が念仏道場として再建」とあります。真福寺が最初にあったとされるまんのう町大字四條の天皇地区にある「真福寺森」の地名が残る場所へ行ってみましょう。
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「真福寺森」は、西に象頭山、その北に善通寺の五岳山がのぞめ、北は丸亀平野が広がる田野の中にありました。満濃池のゆるが抜かれて田植えが終わったばかり。
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この集会所の周囲が寺域とされているようです。
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かつての寺院のものとも思われる手洗石造物が残るだけ。
当寺の真福寺を偲ばせるものはこれのみ。
ここでも法然は、念仏の功徳を民衆に説いたのでしょうか?
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しかし、この寺院も長宗我部軍と長尾大隅守との戦いの兵火に焼かれて消失したと伝えられます。復興の動きは江戸時代になってからです。生駒家の家臣の尾池玄蕃が、真福寺が絶えるのを憂えて、岸上・真野・七箇などの九か村に勧進して堂宇再興を発願。その後、1662(寛文二)年に僧広誉退休によって、現在の高篠村西念寺の地に再建されたようです。つまり、真福寺は元あった場所ではなく、法然が居住した生福寺(現西念寺)に再建されたようです。


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ところがわずか十余年後に、初代高松松平城主としてやってきた頼重は、再びこの寺を移転させます。それが現在の岸上の岡の上。

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この時に、寺領五〇石の他に仏像・仏具や山林なども頼重から受領しています。
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当時の境内は東西約110㍍、南北約140㍍で、馬場・馬場裏などの地名が残っていると云います。
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広い境内に堂宇が立ち並んでいたのでしょう。江戸時代に、この寺が管理していた寺院は岸上薬師堂・福良見薬師堂・宇多津十王堂・榎井村古光寺・地蔵院・慈光院などであったと云います。まさに高松の殿様の庇護を受けて再建されたお寺なのです。それにふさわしい場所が選ばれ、移ってきたのでしょう。周辺の浄土真宗のお寺とは規模も寺格も異にするお寺さんであったようです。

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ここからは神野・真野・吉野方面が一望できる。支配モニュメントの建設場所としてはうってつけの場所だ。
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頼重の宗教政策の一環として保護を受け再建され、藩政下においては隆盛を誇った寺院。今でも法然由来の寺院として信仰を集めているが訪れる人は少ない。しかし、私はこのお寺の雰囲気と景観が好きだ。



塩飽諸島 高見島一周ウオーキング

快晴の青い空を見て山陽汽船の新しい舟に乗ることを思い立ち原付バイクを多度津港に走らせる。

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桟橋に入り、最後まで行き先を佐柳島か高見島か迷う。

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そして買ったのは近い方の高見島行きのチケット往復960円。
優柔不断さがますます進む今日この頃・・・自覚症状有り・・

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昨年就航した「なぎさ2」が「いらっしゃ~い」と迎えてくれる。
今治市の大三島の藤原造船で生まれた舟だ。総トン数は88屯。
小豆島や岡山港を結んでいる舟の1/10で小さくてかわいい。

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定刻9:05分出航。久しぶりの「船旅」に心はウキウキ。

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建造中の今治造船の巨大船に見送られながら沖合の高見島を目指す。
途中、備讃瀬戸南航路を横切るために西行する舟の進路妨害をしないように、航路を微妙に調節しながら進む。

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浦集落が見えてきた。小中学校跡やお寺の屋根などが識別できる。

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高見島港での乗客を降ろした後、舟はきびすを返し、
素早く軽やかに岸壁を離れ、
次の寄港地佐柳に向かうために港を出て行った。

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下船した数人の乗客は、私が舟を見送っている間に誰もいなくなった。観光客は私一人。孤独な岸壁と待合室である。
昨年の「瀬戸芸」の賑わいは何処に・・・?

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まずは地図を見ながら今日の戦略を考える。
どっちの島へ行くかも決めていなかったのだから計画性などは何もない。
私の頭の中にある予備知識を並べてみると
①塩飽人名の島で廻船で財を為した富裕層がたくさんいた島
②咸臨丸に乗り込み勝海舟とサンフランシスコに渡った水夫がいた
③その水夫の中には、幕末に榎本等とオランダに留学し、倒幕後は榎本と行動を共  にした者がいた。
④映画「男はつらいよ 46」の琴島の舞台となり、引退船長の娘役に松坂慶子が出演。この島の石垣と階段の風景が印象的であった。
⑤両墓制が残り、埋め墓と祀り墓が分離している。
⑥独特の食べ物として、伊予新宮など四国の奥地の集落で栽培された茶(発酵茶?) を用いた茶がゆが残っている。
  以上である。
我ながら予備知識はいいかげんにあるなとうぬぼれていると・・・
 「なお、島には売店も自動販売機もありませんので飲み物は各自用意してください」とある。自動販売機くらいはあるだろうと、持てる水量はペットボトル半分のお茶のみ。さてどうなることやら。

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そしてやってきたのは浜集落の両墓制の墓地。
人は自分の予備知識を確認したいものなのだ。
地蔵の背後が埋め墓だろうと推察。ここに埋葬し、白骨化した後に骨挙げして本墓に移す。沖縄にも同じ風習があった。骨揚げの際の「洗骨」をするのは女の役目とか・。火葬しないので薪が必要ない、木を切らなくていい、環境には優しい風俗やわなあ・・・と考えながら、本墓へ向かう。

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ひときわ目立つ墓に出会う。これが咸臨丸の水夫で、蝦夷共和国建国のために戦った男ではないかと思ったが・・・・
右側面にはまったく異なることが刻まれていた。
砲塔らしきものを見て気付くべきであったと反省。
うきうきするような成果は何もなく、島の西方探索を終えて、浦の集落に引き返すことにする。

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浦集落の島で唯一の民宿手前の道を登っていくことにする。
チャレンジ坂、アート・石垣・絶景のビューという言葉が少し軽く響いてくる。

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すぐ上が旧高見小・中学校。今は廃校になっている。

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野外研修センターになっているようで、野外炊飯所やシャワールームなどが整備されている。

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校庭のネットの向こうはすぐに海。
福山辺りの製鉄所に鉄鉱石を下ろしたのか喫水線が大きく海上部に出たバラ済み舟がゆっくりと備讃瀬戸航路を西に向かっている。

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それを眼下に見下ろしながら二宮金次郎は読書にいそしむ。
男子タルモノこうありたいものだと常々思ってはいるのだが・・・

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おむすび山の讃岐富士を後にして進む舟に何かしら惹かれ、長い間見送ってしまう。

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島の最高峰竜王山への分岐点にやって来た。
行くべきか行かざるべきか、悩む。
ペットボトルにはほとんどお茶はない。水分をもたないまま高低差250㍍50分の行動は、今の私にはきつい。
結論はすぐに出せた。「頂上は目指さない」である。
しかし、この石垣の緻密な作りはどうだ。インカ帝国クスコの町の石組みにも似ている。(行ったことはないが・・・)
どんなお宅か拝見させて貰う。

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むむ・・・ いったいこれは・・・何?

以下は次回へ(発行予定未定)

浄瑠璃の義太夫としての増田穣三

 私が穣三が浄瑠璃が玄人はだしの腕前であることを知ったのは、明治37年に出版された「讃岐人物評論 讃岐紳士の半面」という書物からである。この本は、当時の香川県の政治経済面で活躍中の50人あまりの人物を風刺を効かしながら紹介している。その中に穣三も取り上げられ「得意の浄瑠璃は鞘橋限りなきの愛嬌をして撥(ばち)を敲きて謹聴せしめ得たるもの」と記されている。
 最初は、金比羅山の門前町として明治になって一層の賑わいを見せる琴平で、師匠について身につけた芸かと思ったがどうも違うようだ。次第に、阿波からの影響ではないかと考えるようになった。それは人形浄瑠璃という形で、阿波からの新しい「文化伝播」を吸収した成果なのではないかと思うようになったからだ。どんな風にして若き日の譲三が浄瑠璃大夫の名手に成長していったのかを、人形浄瑠璃を通じての阿波とまんのう町の明治期の文化交流の中に見ていきたい。
  

明治期における阿波人形浄瑠璃のまんのう町での流行

 明治期になると文物の経済統制がなくなり、人と物が自由に動き出す。その恩恵を受け経済成長を遂げたもののひとつに阿波の藍産業がある。藍生産者や藍商人は資本を蓄積し、豪壮な館が林立する屋敷を建てるようになる。さらに、その経済力を背景に、数々の文化活動の支援者ともなる。藍の旦那衆が保護し、夢中になったのが人形浄瑠璃である。



 その一座が讃岐山脈を越えて、まんのう町で「公演活動」を行っていた記述が仲南町誌に残されている。「塩入の山戸神社大祭には、三好郡昼間の「上村芳太夫座」や「本家阿波源之蒸座」がやって来て、「鎌倉三代記」とか、「義経千本桜」などを上演した。」とある。
 人形一座は、三好郡昼間からやってきた。昼間は、現在の東みよし町に属し、箸蔵寺の東側にあたり県道4号線(丸亀ー三好線)の徳島側の起点でもある。後に穣三は、七箇村長として、男山を経て東山峠を切り通して塩入までの車馬道を開通させることになる。それ以前は、この地区の人々の往来は徳島県側の各集落から樫の休場(二本杉越)を経て、塩入集落に到る峠越が阿讃往来の主要ルートであった。人形師の一座も人形や衣装などの道具類を荷物箱に入れ前後に振り分けて担いで塩入に入って来た。
 ひとつの人形の扱いには3人の人形遣いが必要となる。3体が同時に舞台に立つ演目だと、それだけで9人、さらに太夫や三味線が何人か加わると総勢は30人前後にもなったという。
 塩入はその名の通り、阿波への塩の集積地であると同時に、徳島からの借子牛の市が立つようになるなど明治になると急速に発展し、宿場町的な機能や形態をを持つようになった。
 明治期の国土地理院の地形図などを見ると宿場町化している様子が読み取れる。隣村の財田の戸川や琴南の美合なども明治期に宿場町化した地域である。阿波からの人と物が行き交い経済的なつながりや婚姻関係なども幾重にも結ばれ、阿波との関係が明治期に強くなった地域であった。
 秋の大祭には、明治のいつの頃から昼間からの人形一座が招かれるようになるなど、峠を越えての阿讃の文化交流が深まっていった。三味線の響きと浄瑠璃の語りにあわせて人形が演じる劇を初めて見たときの塩入・七箇村の人々の驚きと喜びは、いかばかりであったろう。それまでは天領「金比羅さん」の金丸座で演じられる歌舞伎は遙か遠くのものであった。それが自分の村の神社の境内で見ることが出る。この驚きと喜びは、いかばかりであったろう。幼い増田穣三や一良も、人形浄瑠璃がやって来るのを楽しみにしただろう。祭りの終わった後は、誰彼となく太夫の浄瑠璃を口ずさむようになる。塩入や春日を中心に浄瑠璃が流行し、自分たちで芝居をやりたいという気運にまで高まっていく。しかし、人形浄瑠璃をやるにも人形頭も衣装も人形遣いの技量もない。そこで、人形でなく人間が演じる「農村歌舞伎・寄芝居」という形で上演するようになっていく。
 素人が集まって農閑期に稽古をして、台詞はしゃべらずに浄瑠璃の大夫に併せて演じる。衣裳などは借りてきて、祭の晩や秋の取入れの終わった頃に上演する。そして見物人からの「花」(祝儀)をもらって費用にあてる。
  明治中期 阿讃の麓に広がる農村歌舞伎
 仲南町誌には、農村歌舞伎について次のような記述が載せられている。
 明治中頃、春日地区で、増田和吉を中心に、和泉和三郎・山内民次・林浪次・大西真一・森藤茂次・近石直太(愛明と改名)・森藤金平・太保の太窪類市・西森律次たち、夜間に増田和吉方に集合して歌舞伎芝居の練習に励んだ。ひとわたり習熟した後は、増田穣三・増田和吉・和泉広次・近石清平・大西又四郎たちの浄瑠璃に合わせて、地区内や近在で寄せ芝居を上演披露し、好評を得ていた。
 明治43年ごろには、淡路島から太楽の師匠を招いて本格的練習にはいり、和泉兼一・西岡藤吉・平井栄一・大西・近石段一・大西修三・楠原伊惣太・山内熊本・太山一・近藤和三郎・宇野清一・森藤太次・和泉重一 ・増田和三郎たちが、劇団「菊月団」を組織。増田一良・大西真一・近石直太(愛明)・本目の山下楳太たちの浄瑠璃と本目の近石周次の三味線に合わせて、歌舞伎芝居を上演した。当地はもちろん、財田黒川・財田の宝光寺・財田中・吉野・長炭・岡田村から、遠く徳島県下へも招かれていた。その出し物は、「太閤記十役目」「傾城阿波の鳴門」「忠臣蔵七役目」「幡州肌屋敷」「仙台萩・政岡忠義の役」「伊賀越道中沼津屋形の役」などを上演して好評を博していた。 (仲南町誌617P)
 
 この資料からは明治中頃以後、春日を中心に農村歌舞伎の練習が農閑期に行われ、各地で上演され好評であったことが紹介されている。この中に「ひとわたり習熟した後は、増田穣三・たちの浄瑠璃に合わせて」という部分から穣三が太夫を演じていたことが分かる。
  人形浄瑠璃の太夫とは、どんな役割なのだろうか。
   徳島の阿波人形浄瑠璃十郎兵衛屋敷を訪ねて、学芸員の方にたずねた。それによると、太夫は義太夫節で物語を語り、登場人物の言葉、動作、心情などを表現する。見台(けんだい)に乗せた床本(ゆかほん)という台本を読んでいく。ただ読むのではなく、人形の所作に合わせて太夫自身が声や顔の表情、身振り手振りまで交えて、全身で人形に魂を吹き込んでいく。声の高さや調子を変えて、男役、女役も演じ分ける。太夫の語りは、芝居全体の雰囲気を演出する重要な役目を担うことになる。以前は、太夫が一座の責任者を務めていたという。役者は人形で、人形遣いは表には出ないので、太夫は一座のスターでもあり、キーパーソンでもあったようだ。さらに、こんなことも教えてくれた。
「浄瑠璃を詠っている藍屋敷の旦那は、祭りの時には人形一座を呼んで、村の神社の境内に小屋掛けさせ上演させることが多かったようです。その時に「太夫は俺にやらせろ」と、一番おいしい所を自分が語ることもあったようです。つまり、お金を払ってでも太夫をやりたいと思う人は多く、まさにみんなの憧れでもあったようです。」
  さらに三味線弾きとの関係については、次のように教えてくれた。
「三味線弾きの方が師匠で、師匠が弾きながら弟子が語るという練習が一般的です。いまでも浄瑠璃の発表会では、師匠の三味線弾きの方が何人もの弟子さんの伴奏を行う姿が見られます。また、三味線弾きは遠くからプロの方を呼んで上演することもあったようです。」

 穣三も太夫を演じるためは稽古をつけてもらいに、師匠の下に通ったと思われるがそれがどこかは分からない。しかし、人や物の流れから推察すれば、それは峠を越えた向こう側の阿波のどこかではなかったのか。峠越えを当時の人たちは苦にしていない。東山峠の向こう側の男山の人たちは、琴平程度なら日帰りで帰っていたと云うし、後に増田一良も土讃線誘致運動の一環として、春日から東山峠を抜けて池田まで行き財田経由で琴平まで1日で帰っている。穣三も未生流の師匠として徳島側に出向き、その折りに浄瑠璃を教わっていたということも考えられる。心理的にも峠の向こうの阿波側は、今よりも遙かに近い存在であった。 

  こうして20代後半の穣三は、「躰幹短小なるも能く四肢五体の釣合いを保ち、秀麗の面貌と軽快の挙措とは能く典雅の風采を形造」するハンサムな風貌の上に、「未生流師範」「浄瑠璃太夫」「呉服商」「酒造業」「増田家分家の若旦那」という地位や素養に風流人としての「粋さ」も身につけ、周囲からも一目置かれる存在に成長していった。

まんのう町佐文に伝わる如松流華道
 増田穣三が宮田の西光寺(法然堂)の住職園田氏実(法号波法橋、流号如松斉)から華道を学び、若くしてその継承者になったことは前述した。代議士を引退した後の穣三は「家元」として「活花指導に専念した」と伝えられている。どんな活動が行われていたのだろうか、そしてその後の流派は、どうなっているのだろうか。今も譲三が家元であった「如松流」を掲げる華道の流れが佐文にあると聞いて訪ねてみた。
琴平方面から観音寺方面に国道377号を2㎞ほど行くと国重要民俗文化財「綾子踊りの里」として知られる佐文盆地が広がる。
 旧土佐伊予街道が金比羅さんに向けて、その中央を通っている。その旧街道沿いにある尾﨑家の玄関には、3代にわたる華道師範の「看板」が掲げられている。これを見て、最初に私が気づいたのは「未生流」ではなく嵯峨流とともに「如松流」という流派を名乗っていることだ。如松とはもちろん法然堂の住職であった如松斉のことである。つまり、未生流から独立し新たに如松斉がおこした「新流派」を継承しているのだ。
一番左が尾﨑傳次(号清甫)のものである。
彼は明治3年3月29日生まれで、増田穣三よりも13歳年下になる。傳次が生まれた翌年明治4年に如松斉は法然堂を出て、生間の庵に隠居して華道に専念する。その庵に多くの者が通い如松斉から未生流の流れをくむ華道を学んだ。
 幕藩体制の身分制度社会の下では、いろいろな事が禁令として定められていた。例えば丸亀藩では、百姓が家に花や木を植え育てることも
「百姓が米作りに専念することに差し障りがある」
と禁止していた。明治を迎え、花を育てることも活花を楽しむこともできる世の中がやってきた。時代の新しい流れ「新流行」が、ここでは活花であったのかもしれない。
如松斉から手ほどきを受けた高弟の中に、佐文の法照寺5代住職三好霊順がいる。
如松斉の顕彰碑裏面の発起人一覧の中に増田穣三、田岡泰に続いて3番目に彼の名前は刻まれている。霊順は、如松斉から学んだ立華を、自分の寺のある佐文の地で住民達に広げていった。 
 その際に今の私たちの感覚と違うのは、華道を学びに来たのが男達であったことだ。農作業等が終えた男達が寺に集まり、自分たちが集めてきた花や木を花材に花を生けた。「華道」のために男達が集まり、そこから新たな文化が芽生えていく様子が垣間見える。丹波からやって来た如松斉の華道は、こうしてこの地の人たちに受けいれられていった。
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 尾﨑傳治も若いときから法照寺に通い霊順から手ほどきを受けた。
そして、入門免許を明治24年12月に21歳で得ている。その際の入門免許状には「秋峰」つまり増田穣三の名と印が押されている。
 この前年には、如松斉の七回忌に宮田の法然堂境内に慰霊碑が建てられている。この免状からは、穣三が未生流から独立し「如松流」の第2代家元として活動していたことが分かる。

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尾﨑傳次は、その後も熱心に如松流の華道の習得に努めた。

そして、増田穣三が代議士を引退後には直接に様々な教えを学んだ。
 尾﨑家には、傳次が残した手書きの「立華覚書き」が残されている。その中には、師である増田穣三の活けた作品を写生したものも含まれているかもしれない。
 孫に当たる尾﨑クミさんの話によると、祖父傳次が座敷に閉じこもり半紙を広げ何枚も立華の写生を行っていた姿が記憶にあるという。
 また、如松流の創始者である如松斉が住職を務めた「法然堂の市」の際には、門下生がその成果を発表する華道展が毎年開かれていた。そこには増田穣三の門下生達の作品が多く展示された。
 その準備等を取り仕切ったのが尾﨑傳次ではなかったのか。そして次第に、譲三の信頼を得て門下生の中でも「高弟」に当たる地位と役割を果たしていくようになる。
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尾﨑傳次(清甫)
 傳次はその後も精進を続け、大正九(1920)年には、華道香川司所の地方幹事兼評議員に就任する。
一方、大正15年3月に師範免許(59歳)を、続いて昭和6年7月に准目代(64歳)、最後に昭和12年6月には会頭指南役の免状を、「家元如松斉秋峰」(穣三)から授かっている。
昭和12年というと増田穣三の最晩年にあたり、翌年には銅像が建立される時期である。
「如松斉流」の第3代家元を、譲三は誰に譲ろうとしていたのかも気に掛かるところである。
 傳次は戦中の昭和18年8月9日に73歳で亡くなる。
その前年2月に、長男である沢太(号湖山)に未生流師範を授けられている。沢太は小さい頃から父傳次より如松流の手ほどきを受けていたというから、代替わりという意味合いもあったのかもしれない。
 その後、沢太は戦後の昭和24年9月には荘厳華教匠、昭和25年10月には嵯峨流師範と未生流以外の免状を得て、昭和27年には香川司所評議員、33年には地方幹事に就任し、未生流のみならず香川の華道界のために尽力した。
 戦後、農村では食糧増産のために熱気ある時代が訪れ、青年団や婦人会活動などの「新農村文化活動」が芽生えてくる。そんな中で、再び男達が花を活けることを楽しみ出す。自分の花器をしつらえ山から切り出してきた木や庭から摘んできた花を活ける。その輪の中の中心で指導を行ったのが尾﨑沢太であった。沢太は青年団に招かれ若い青年達に活花の手ほどきを行ったという。

 考えてみれば、幕末に丹波からやって来た法然堂の住職がもたらした未生流華道の流れが、増田穣三を経て、尾﨑家に伝わり、佐文の地に広がり、今も受け継がれている。「如松流」の看板が掲げられていると言うことは、様々な意味があることに改めて考えさせれた。

   土讃線開通と増田穣三
「土讃線ルート」の決定には、増田穣三が大きな政治力を発揮したとされている。
その一例として次の新聞記事を見てみよう  
 「四国の群像69 増田穣三 土讃線ルートに政治的手腕」
              (朝日新聞1981年7月19日)
ドドーン、ドン」空に花火がこだまし、芸者の手踊りや花相撲が繰り広げられ、夜のちょうちん行列に琴平の町は三日間にわたる祝賀行事でにぎわった。香川県内の土讃線琴平-讃岐町田間の起工式があった大正9(1920)年4月1日のことだ。当時土讃線のルート決定に際し、以下の3案を巡り激しい陳情合戦が展開された。
1 高松から清水越えで徳島県脇町ー池田に至るルート。
2 西讃の観音寺ー池田間。
3 中間の琴平ー池田の現路線
それぞれの関係町村は地元選出国会議員を先頭に徳島県側の町村と連携し、鉄道院・国会へあの手この手の猛運動を続けた。それが現在の路線に決まった裏に。仲南町出身の増田穣三の政治的手腕が大きく影響した。
 中略  
増田穣三は、香川県議になって住居を高松市に移し、第十三代県議会議長を務める。次いで衆院議員へと、舞台が大きくなるにつれ、策士ぶりを発揮した。土讃線のルート決定に先立つ明治32,3年ごろ、徳島ー池田間の軽便鉄道敷設権を、徳島県出身の内務大臣らが取得した。これが実現すれぱ、香川県からの土讃線ルートも大きな影響を受けた。そこで、善通寺にあった旧陸軍十一師団の乃木希典師団長に「徳島ー池田軽便鉄道敷設に異議を唱えて欲しい」と申し入れた。
 土讃線が琴平ー池田ルートに決まった理由の一つに善通寺第十一師団と金刀比羅の存在が挙げられる。それだけに、軍部の意向をくんだ増田穣三の政治判断がルート決定に大きな影響を与えた。
 と、当時の路線決定の経緯を紹介した上で「現路線に決まった裏に、増田穣三の政治的手腕が大きく影響」と評価している。

 この記事の下敷きになっているのが従兄弟の増田一良(いちろ)によって語られた回顧談である。

 増田一良は、譲三の15歳年下の従兄弟になる。
二人は旧仲南町春日出身で、一良が増田家本家、穣三はその分家の跡継ぎの関係だ。一良は譲三の後ろ姿を追いかけるように、七箇村村会議員を経て村長・県会議員へと進み、地域の発展に貢献した。さらに譲三が師範であった未生流の活花や浄瑠璃の弟子でもあり、ふたりのつながりは、地縁・血縁的なもの以上に深いものがあった。
 その増田一良が、晩年に増田穣三について語った回顧談が仲南町史に収められている。土讃線誘致に関する部分を見てみよう。  

「塩入駅名の弁」(仲南町史1008P)で、増田一良は次のように述べている

土讃鉄道の建設については激烈なる競争運動あり。当時の記憶をたどり述べんと思う。
此の鉄道には3線の候補ありて、東讃方面は高松から清水峠を経て徳島県脇町に出て西、池田に至る線、仲讃としては多度津琴平間既成鉄道あるを以て琴平町を起点とて塩入越を経て池田町に至る線、又、西讃に於ては観音寺町より曼陀越を経て池田町に至る線にして、何れも帝国議会及鉄道院に請願陳情、国会議員間も亦、百方手を尽したるものにして東讃は高松選出田中定吉代議士を基とし、東讃選出代議士外有志、中讃にありては仲多度郡選出増田穣三代議士を首とし綾歌郡選出大林森次郎代議士及丸亀市選出加治寿衛吉代議士外有志、西讃に於ては三豊郡選出松田三徳代議士を首として、元代議士高橋松斉氏、観吉寺町長西山影氏外有志等、特に松田氏の如き所属政党を脱し鉄道院総裁後勝新平伯の傘下に走るなど、激烈な誘致合戦の末に、現路線に決定した。
 この回顧談にはいくつかの疑問点が出てくる。それを洗い出してみよう。

 第一に「土讃線」誘致合戦が行われた時期はいつなのか

1889 明治22年5月 讃岐鉄道琴平~多度津開通 
1890 高松・阿波脇町間の鉄道建設計画で実地調査の結果、
   脇町線建設は困難との調査報告が柴原知事より提出(讃岐日報) 
1893 鉄道院が線路調査に際して、高松-箸蔵間は猪鼻線として計上
1912 第11回衆議院議員選挙執行.増田穣三初当選 
1914 徳島線が延長し池田まで開通し、阿波池田駅設置。
12月二個師団増設案成立のために大浦内相が政友会議員に買収工作実施
1915 3月 第12回衆議院議員総選挙で大浦内相による選挙干渉激化
    白川友一・増田穣三共に当選後に大浦事件に関わり逮捕・拘束
    9月 第9回県会議員選挙実施 増田一良 次点で落選   
1916 1月 白川友一衆議院議員の当選無効確定し補充選挙実施
1917 12月 塩入線鉄道期成同盟会をつくり貴衆両院へ請願書提出
 塩入線の速成を貴衆両院へ請願書提出することとなり塩入線鉄道期成同盟会をつくり会長に堀家嘉道副会長に沢原頁岩を選定した。(町史)
1919 3月 琴平-土佐山田間が鉄道敷設法第一期線に編入=路線決定
   9月 県会議員選挙で増田一良初当選
1920 1月 実測開始、豊永を境とし、土讃北線は多度津建設事務所担当
  4月1日 土讃鉄道工事起工祝賀会開催(琴平)

この年表からは
1917年に塩入線鉄道期成同盟会設立、
1919年には路線決定、
1920年工事開始という動きが分かる。すると誘致合戦が行われたのは1917年前後から本格的に動き始めたようだ。  

 まず路線決定を行う鉄道省の思惑を見ていきたい。

 鉄道省は琴平起点の土讃線ルート(財田猪ノ鼻線)を早い時期から本命と考えていた。その背景には、
第1に、1889年に鉄道が琴平まで延びていること。
第2に、第11師団が善通寺に置かれていること。
第3に、池田ー財田間がもっとも山間部が短く、かつトンネルの長さも短くてすむこと
第4に、四国新道沿いであり工事にも利便性が高いこと
など、外のルートにくらべて優位性が高く早い段階からこのルートを「既定路線」として考えていたようだ。それを裏付ける記述がまんのう町周辺の町誌にいくつか見いだせる。
例えば財田町誌には、琴平まで鉄道が開通した段階で「四国新道」沿いに池田に通じる「猪ノ鼻ルート」建設が当然とされており、そのための誘致運動を行った記録はない。増田穣三や一良が行ったという塩入ルートに関しては「そのような誘致運動があったことは、仲南町誌を見て知った」と記されている。
 また三好町誌や池田町誌にも1914年に開通した徳島線が、池田で土讃線と結ばれることは当然と考えられていたことが記されている。三好側が七箇村塩入と箸蔵を結ぶ塩入ルート建設運動を働きかけた見当たらない。

 仲多度に設立されたという「塩入線鉄道期成同盟会」も、

「塩入線」と名付けた運動団体の存在を示す当時の新聞記事や資料などから私は見つけ出すことが出来ない。その名前があるのは仲南町誌のみである。鉄道促進運動を担った仲多度地区の議員達は「猪ノ鼻ルート」を念頭に置いて運動を行っていたように見える。誘致運動で「塩入ルート」を考えていたのはごく一部だったのではないか。 

最後に、誘致運動が佳境であった1917年前後の増田穣三の置かれていた政治的な状況を見ておこう。

譲三は、前々年に衆議院議員総選挙後の大浦事件に関わり白川友一等と共に逮捕・拘束されている。白川友一は議員を失職。その後、穣三は不起訴には終わったが同僚の政友会の議員を政府資金を用いて買収を行ったという事実は残った。政友会の同僚議員の目は冷たかった。このような中で表立った政治活動を行うことは難しく「政治的謹慎状態」が続いていた。そして、次期総選挙には出馬せずに政界からの引退という道を選ぶことになる。このような中で「塩入線誘致運動」の先頭に立って旗振りを行う状況にはなかったと思われる。
 つまり「塩入線誘致合戦」に増田穣三が積極的に動ける状態ではなかった。一良も1915年の県議会初挑戦では落選しており、誘致運動が展開された時期には県議会議員ではない。
 以上のような背景を考慮に入れると「塩入線鉄道期成同盟会」→ 増田一良 → 増田穣三 を通じて誘致運動が増田穣三を中心に推し進められたという状況は考えにくい。  

増田穣三が乃木希典に土讃線建設について要望陳情を行ったという話について

  乃木希典は1889年(明治32)年に善通寺第11師団長に就任。一方、増田穣三は3月に県会議員に初当選し、4月に七箇村長にも就任している。穣三は七箇村村長として、設置が決まったばかりの善通寺第十一師団の練兵場建設に「援助隊」募り派遣した。その助力に対して師団より村長宛の感謝状をもらっている。各施設の建設が進む中で、師団長として陸軍中将乃木希典が任地に善通寺に赴任する。この時期、穣三は県議会の副議長や参事議員を務めており、公的な行事で乃木師団長と出会うこともあり顔見知りとなっていたことは考えられる。
 土讃線に関する陳情が行われたとすればこの時期であるが、前述したようにこれは土讃線誘致運動の時期よりも十数年早い段階のことである。土讃線誘致にからんで乃木希典に陳情を行ったということないようである。しかも、陳情を行ったのは土讃線のことではなく、徳島線に関することである。   
増田一良が回顧している徳島ー池田軽便鉄道敷設権について見ておきたい。
此時最も難問題として起たのは徳島県出身の元内務大臣、芳川顕正伯の主唱によって徳島、池田間に軽便鉄道敷設権が認可されたことだ。これ実現すれば香川県よりの三線ともその影が薄くなり大いなる影響を及ぼすことが考えられる。そのためこれを打破する事が最も重要となった。しかし貴衆両院通過成立したものを取消す事は勅命によるか参謀本部の異議による外道なく窮余の考として堀家、三谷、松浦、増田等共に第十一師団を訪つれ参謀長に面談協力を求めた。しかし、乃木閣下は軍人が政治に容喙するは良くないとの信念を待ち、「吾々は何共申上兼ぬるか資格を離れ個人としては高知との短距離の結び付は固より望む所である」との事にて期待した回答を得ることは出来なかった。また、これも増田代議士へ報告せり。
 其後伝聞する所によれば乃木中将上京となり参謀本部の抗議によりたる者か徳島池田間軽便鉄道は実現を見す沙汰止となれり。
  一良の回顧談の「此時最も難問題として起た・・・」の部分は「塩入線誘致運動」に続けて載せられている。最後の部分が「また、これも増田代議士へ報告せり。」で終わっているために塩入線誘致の際のことと誤解されやすいが、これは乃木師団長在任中のことであり、誘致運動佳境の十数年前のエピソードである。
 しかも、内容は徳島線の軽便鉄道敷設権認可に関わることである。その後、徳島線は1914年に池田まで開通しており、土讃線の路線決定に影響を及ぼす要因とはなっていない。あるとすれば池田で土讃線と結ばれるというのが鉄道院の既定路線であったということである。
 長々と述べてきたが以上から推察すると、「増田穣三が土讃線のルート決定に大きな政治力を発揮した」「塩入線誘致運動を進めた」ということを裏付ける史料は、穣三の従兄弟の増田一良が「仲南町誌」作成の際に語ったことに基づくものに限られるようだ。「塩入ルート」が、路線検討の対象となったかどうかは、今後の検討課題としたい。  

  一良は自分の回顧を次のように閉めている

欺の如くして獲得したるものにして塩入と云う名の広く知れ渡りたる関係上、福良見、小池、春日の三部落を隔たて一里以上離れたる十郷村帆山に設置されたる駅の名を塩入と名づけたるは増田穣三の銅像を駅構内に設置と共に意義を得たるものにして適当なる所置と信す。
 尚ほ塩入線の決定に附ては第十一師団の軍事上の観点と金毘羅宮の所在地琴平町を起点とする所に潜在の大なる力のありたる事を認むべきと思ふ茲に其経過関係の概要を述べて参考に資す。                     増田一良回顧談 昭和四十年六月

 増田穣三の従兄弟・増田一良について  

 増田穣三と深く関わる人物として挙げたい人物がもうひとりいる。増田一良(いちろ)である。
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一良は譲三より14歳年下で、増田家の本家と分家で隣同士という地縁血縁的に非常に近い関係になる。一良は、譲三の後ろ姿を見ながら育ち、成長につれて「兄と弟」のような強い絆で結ばれていく。
 例えば、若き時代の二人が熱中したものに浄瑠璃がある。当時、塩入の山戸神社大祭には阿波から人形浄瑠璃がやって来て、「鎌倉三代記」とか、「義経千本桜」などを上演していた。阿波は人形浄瑠璃が盛んで、塩入には三好郡昼間の「上村芳太夫座」と「本家阿波源之蒸座」がやって来ていた。
 その影響を受けて、春日を中心に浄瑠璃が「寄せ芝居」として流行していく。素人が集まって、農閑期に稽古をして、衣裳などは借りてきて、祭の晩や秋の取入れの終わった頃に上演する。そして見物人からの「花」(祝儀)をもらって費用にあてる。ちなみに大正15年ごろの花代は、50銭程度だったという。この寄せ芝居で若き時代の譲三や一良は、浄瑠璃を詠って好評を博していた。県会議員時代には、この時の「成果」が酒の席などでは披露され「玄人はだし」と評されている。
 仲南町誌には、次のような記述が載せられている。
明治中頃、春日地区で、増田和吉を中心に、和泉和三郎・山内民次・林浪次・大西真一・森藤茂次・近石直太(愛明と改名)・森藤金平・太保の太窪類市・西森律次たち、夜間増田和吉方に集合して歌舞伎芝居の練習に励んだ。ひとわたり習熟した後は、増田穣三・増田和吉・和泉広次・近石清平・大西又四郎たちの浄瑠璃に合わせて、地区内や近在で寄せ芝居を上演披露し、好評を得ていた。
 明治43年ごろには、淡路島から太楽の師匠を招いて本格的練習にはいり、和泉兼一・西岡藤吉・平井栄一・大西・近石段一・大西修三・楠原伊惣太・山内熊本・太山一・近藤和三郎・宇野清一・森藤太次・和泉重一・増田和三郎たちが、劇団「菊月団」を組織。増田一良・大西真一・近石直太(愛明)・本目の山下楳太たちの浄瑠璃と本目近石周次の三味線に合わせて、歌舞伎芝居を上演した。当地はもちろん、財田黒川・財田の宝光寺・財田中・吉野・長炭・岡田村から、遠く徳島県下へも招かれていた。
 その出し物は、「太閤記十役目」「傾城阿波の鳴門」「忠臣蔵七役目」「幡州肌屋敷」「仙台萩・政岡忠義の役」「伊賀越道中沼津屋形の役」などを上演して好評を博していた。                                                              (仲南町誌617P)
  若き時代の二人が浄瑠璃を共に詠い、村の人々共に演じ、娯楽を提供していた姿が伝わってくる。これ以外にも、未生流の活花や書道も一良は、譲三を師としている。

 その一良に大きな影響を与えた師が大久保彦三郎である。

 大久保彦三郎は、安政6年(1859年)生で、増田穣三より1歳年下になる。讃岐国三野郡財田上村戸川に富農階層の次男として生まれた。現在の尽誠学園の創設者でもある。兄は「四国新道」を作った大久保諶之丞になる。
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まず大久保彦三郎が歩んだ「学びの道」をたどってみたい。
 明治初年期は、尋常小学校が整備されていない。そのため江戸時代と同じように寺小屋で読み書きを学んだ後、富裕層クラスの師弟は周辺の知識人の塾の門を叩く。この辺りは、増田穣三が琴平の日柳三舟のもとに通ったのと同じだ。
 大久保彦三郎は、十郷村山脇の香川甚平の塾まで歩いて通った。
香川甚平は、藩政改革に大きな実績を上げて著名になっていた備中の儒者山田方谷の徳業を称えていたという。さらに、明治9年(1876)9月からは、高松の黒本茂矩の下で漢学及び国学を学ぶ。黒本茂矩は、古野村(現まんのう町)大宮神社の社家に生れ、明治2年33歳で高松藩校講道館皇学寮教授になり、田村神社の禰宜をしながら高松で私塾を開いていた。 明治初期の讃岐における著名人である。ちなみに増田穣三と幼なじみで初代七箇村長を務めた田岡泰も、ここの門下生であった。田岡泰は、この時期に整備されていく師範学校に進んだが、彦三郎は、儒学・国学・仏教方面をより深く学ぶため京都へ上り、さらに東京で終生の師三島中洲出会い漢学等を修める。しかし、学半ばにして病にかかり保養のため郷里財田村に帰郷する。当時、兄の諶之丞は戸長として、財田村のために尽力していた最中だ。その姿を見ながら彼はかたわら塾を開く。 
 病が一服した明治17(1884)年3月1日には、正式に「忠誠塾」を開設する。
設立目的を述べた「教旨」によると、「国家有用の真士」を作ることであり、そのための手段は主として「儒教・漢学を通じての忠誠心涵養」に求めるとある。対象は小学校を卒業上級志向者で、中学校の代用学校の役割をもったものであったようだ。 
開塾されたばかりの「忠誠舎」の門を、叩いたのが増田一良である。
 彦三郎25歳、一良11歳の師弟の出会いとなる。
忠誠舎は、漢文だけではなく、新聞体、西洋訳書、新著書その他「有益書」を選択して教えたり、体操、詩歌吟舞、学術演説、討論等も教授する新しいタイプの教育機関を目指した。
 明治20年には彦三郎は「忠誠塾」の発展を願い、拠点を京都に移し「尽誠舎」と改名する。忠誠塾の一期生である一良も、これを追いかけて京都に上り、尽誠舎に入学する。師である彦三郎を慕い仰ぐ気持ちが伝わってくる。こうして、一良は忠誠塾の一期生、尽誠舎でも第一期生としての誇りを持つと同時に、大久保彦三郎の薫陶を深く受ける。母校に対する愛情は深く、終生変わらぬものがあったようだ。
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尽誠の同窓会にて 中央に座るのが増田一良 
 一良に遅れて2年後(M22年)に入学してくるのが山下谷次である。
 山下谷次は、まんのう町帆山出身で、後に「実業教育の魁」として衆議院議員に当選し活躍する。この時期、彼は同郷出身者を訪ね、勉学の熱意を訴え支援を仰いだがかなわず、貧困の中にあった。谷次を援助したのが彦三郎である。彦三郎は、尽誠舎への入学を認めると共に、舎内への寄宿を許した。そして、谷次に学力が充分備わっているのを確かめると、半年で卒業させ、さらに大抜擢し学舎の幹事兼講師として採用している。 
この時期は、一良の京都遊学時代と重なるようである。
ふたりは京都尽誠舎で、「師弟の関係」にあった可能性がある。
後に谷次は、香川選挙区から衆議院議員に立候補し当選する。
その原動力の一つに、現職の県会議員増田一良や、元衆議院議員の増田穣三など「増田家」に連なる人々の支援があったのではないだろうか。       参考資料 福崎信行「わが国実業教育の魁 山下谷次伝」
 
 尽誠舎卒業後の一良の足取りは、上京し駒場農林学校に進学するまではたどれるが、そこから先が今のところ分からない。資料がそろっていないのだ。今後の課題としたい。 

一良の政治家としてのスタート

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一良は明治35年に29歳で七筒村会議員に当選する。これが政治家としてのスタートになる。当時、七箇村長は増田穣三である。譲三は県会副議長も兼務しており、明治34年からは多度津に設立されていた「讃岐電気株式会社」の社長も務めていた。そのため多忙で高松に家を借り、春日の本宅を空けることが多くなっていた。そのような中で、譲三が帰宅すると一良は隣の譲三宅を訪ね、いろいろな情報のやりとりを行う一方、二人で浄瑠璃や活花を楽しむ姿がよく見られたという。
 譲三が衆議院議員になり上京することが多くなると、その「国家老」的役割を果たしていたのは一良であったと思われる。例えば、土讃線誘致合戦の一コマについて一良は、次のような回顧を行っている。 
1917(大正6年) 12月に「塩入線鉄道期成同盟会」をつくり貴衆両院へ請願書提出した。仲多度多度郡に於ては郡会議員を実業会員として発足し、徳島県関係方面との連絡を取る必要ありとして会長堀家嘉造、副会長三谷九八、松浦英治、重田熊次郎、増田一良(本人)と出発の際、加治寿衛吉氏加わり一行六名塩入越を為し徳島県昼間村に至り村長に面談。共に足代村長を訪い相携えて箸蔵寺に至る。住職大いに悦び昼食の饗応を受け小憩、此の寺を辞し吉野川を渡り、池田町に至り嶋田町長と会談を為し、徳島県諸氏と別れ猪の鼻峠を越え琴平町に帰着、夕食を共にし別れる。
 此の旨、在京増田代議士に之通告す。
  土讃線の琴平ー池田ルート誘致のために徳島への誘致工作を、郡議会議員が行った際のことである。わずか一日で、塩入から東山峠を越え昼間ー箸蔵寺ー池田と訪問し、夕方には琴平に帰っている。百年前の人たちの健脚ぶりに驚かされる。
 同時に「此の旨、在京、増田(譲三)代議士に之通告する」とし、頻繁な連絡が取られていたことが推察される。
 また情報を分析して有利と思われる新規事業には二人で共に投資を度々行っている。その幾つかをあげてみると
1903(M36)年 八重山銀行設立(黒川橋東詰)社長に一郎就任。
1911年 讃岐電気軌道株式会社のが設立発起人に、増田一良・増田穣三・長谷川忠恕・景山甚右衛門・掘家虎造の名前がる。
1921年 七箇・十郷村に初めて電力を供給した塩入水力電気株式会設立社設立も、一良・譲三が中心となって行っている。 
このようにふたりは、政治的にも経済的にも緊密な関係を維持しつつ諸事に対応していたことが窺える。

村議から県会議員、そして村長へ

一良は明治35年(1902)に29歳で七筒村会議員となり、翌年には、仲多度郡会議員も兼務する。しかし、村長職には年上の従兄弟増田正一が就任しており、一良が村長に就くのはずっと後になる。
 そのためか、譲三が衆議院議員に転出した後の県議会への出馬の機会を伺う。最初の挑戦は、大正4年9月であった。この時は、5月の衆議院選挙で増田穣三が再選されるも、その直後に大浦事件が発覚し、譲三が刑事訴追されるという逆境の中での選挙となり、結果は次点であった。
 2回目は、4年後の大正8年(1919)9月である。この時は「譲三の後継者」と、土讃線誘致運動の中心人物としての実績を前面に出し、初当選を果たす。

 一良は、雅号を春峰と称し、琴古流尺八は悟竹と号して、譲三と共に浄瑠璃は玄人の域に達していた。「春と秋」の二人で浄瑠璃を楽しむ姿が、譲三の晩年にもよく見られたという。
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春日の一良の家の客間には「老木の木」と題された文書と写真が掲げられている。

昭和39年一良が91歳の時に書き残したものである。
全文を紹介する。 
 老木の木       昭和39年6月増田一良撰
吾が邸内の北隅に数百年を経たると思われる榎木の老木あり。周囲2丈余。其根東西に張り出すこと四間余。緑濃く繁茂空を掩い樹勢旺盛にして其枝広く四方に延び、特に北方の枝先地に垂れ、吾幼少の頃、枝先より登り遊びたることあり。
 6年前その枝が倒れ折れ垣塀二間を破壊し、裏の畑地に横たわる。その木にて基盤3面を取り、余りは木を挽いて板と為す。其後南方に出たる枝折れ、続いて北の方、東の方の枝も折れ、西向の枝のみ生残り居りしが。昭和38年風も無きに東方の折れ株が朽ち落ちると間もなく生き残りの西方の枝(周囲1丈一寸)の付け根より6丈ほどの處にて西北と西南とに分岐し居りしが大音響と共に付け根の處より裂け折れ、西南の枝は向こうの部屋の屋根の棟木と母屋を折り枝先向庭の地に付き、西方の枝は垣塀の屋根を壊し藪際の畑地にその枝先を付け茲に長く家の目標となりし老木も遂に其終わりとなる。
付記
  往年増田穣三氏若かりし時、呉服商を営み居りしを以てわが妹の婚衣買い求め為、呉服仕込みの京都行に同行。帰途穣三氏が曾て師事したる大阪の日柳三船先生訪問にも同行。三船先生は元那珂郡榎井村の出身にして維新の際勤王家として素名を知られたる日柳燕石先生の男にして大阪府参事官をつとめ大阪に住せり。種々談を重ねるうち先生曾て吾家に来りしことあり。巨木榎に及び其時古翠軒という家の号を書き与えらる。今吾居室に掲げある大きな額が夫れである。
 一良は戦後、村長職を退いた後も春日の地に留まり、晩年は県下最年長者として悠々自適の老後を送り104歳の長寿を全うした。

 
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前川知事が県下最長寿者・増田一良を訪問

 増田一良の年譜

1858 安政5年    増田譲三と田岡泰が七箇村春日に生る。
1873 明治6年  7月22日 増田一良(いちろ)生  
1884 明治17年3月 大久保彦三郎により財田上ノ村に開設されたばかりの忠誠塾入塾。
1887 明治20年大久保彦三郎が京都に開設した尽誠舎入学     
   その後、駒場農林学校に進学。(卒業後の経歴が不明)
1890 明治23年6月 七箇村役場(旧東小学校)開庁
1897 明治30年 春日地区で、増田穣三等の浄瑠璃に合わせて寄せ芝居を上演披露し好評。
1899 明治32年3月 第5回県会議員 増田穣三が初当選(41歳)
        4月 増田穣三第二代七箇村長に就任(41歳)
1902 明治35年3月 増田一良(29歳)が七筒村会議員となる。
           以後20年間村議を務める。
1903 明治36年9月 増田一良、仲多度郡会議員に当選。
           以後大正8年まで連続四期当選
1903 明治36年 黒川橋の東に八重山銀行設立。社長に増田一郎就任。副社長:大西豊照(帆山)ほか七名の重役格と業務執行者森川直太郎によって営業
1906 明治39年3月 増田穣三 七箇村村長退任 
          9月 第3回県会議員選挙に増田穣三出馬せず
1911 明治44年9月 讃岐電気軌道株式会社が設立。
    発起人に、仲多度郡の増田一良・増田穣三・長谷川忠恕・景山甚右衛門・掘家虎造の名前あり。
                3月 増田正一が七箇村村議に選出され、助役に就任。
1912 明治45年5月 第11回衆議院議員選挙で増田穣三初当選。
1914 大正3年 7月 七箇村長に増田正一就任(譲三・一良の従兄弟)
1915 大正4年 3月衆議院議員総選挙で白川友一と共に増田穣三再選。
   5月 白川友一代議員と大浦内相が収賄で高松高裁へ告訴され「大浦事件」へ
   9月 第9回県会議員選挙に増田一良初出馬するも428票で次点。1917 大正6年12月 塩入線鉄道速成会総会で土讃線の速成を貴衆両院へ請願書提出。
1919 大正8年 9月 県会議員選挙で増田一良初当選(46歳)
1920 大正9年 4月 土讃鉄道工事起工祝賀会開催(琴平)
1921 大正10年 増田一良 穣三らと共に塩入水力電気株式会社設立。
1923 大正12年5月 土讃線琴平-讃岐財田間が開通 琴平駅が移転。
1924 大正13年5月 山下谷次 香川選挙区より衆議院議員初当選
1926 大正15年   七箇村会議員選挙実施 増田一良は2位当選
1934 昭和9年 9月 増田一良 第6代七箇村長就任
1935 昭和10年11月 土讃線全面開通(三縄~豊永間が開業)
1937 昭和12年増田一良村長の呼びかけで生前に増田穣三の銅像建立
1938 昭和13年   山下谷次の銅像建立(十郷村会の決議で大口に)
1939 昭和14年2月 増田穣三 高松で死去(82) 七箇村村葬。
1943 昭和18年2月 増田一良が第9代目村長に再度就任。
1963 昭和38年3月 増田穣三の銅像が塩入駅前に再建される。
1977 昭和52年9月12日 増田一良104歳で永眠。


まんのう町吉野の「大堀」とは?

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 まんのう町の吉野字大堀(長田うどんの交差点を満濃池方面に500㍍行ったところ)の県道の東に小さな堀が残っている。説明板には「王堀」と呼ばれ「中世の豪族の館跡」と書かれている。いったいどんな「王堀」なのか、資料に当たりながら実相を見てみよう。
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絵図上の野々井出水にあたる部分だけが残っている

 この堀については
「那珂郡吉野上村場所免内王堀大手佐古外内共田地絵図」
という長い名前がつけられた資料が「讃岐国女木島岸本家文書」の中に残されている。
 絵図からは、堀、土塁、用水井手、道路、道路の一部としての飛石、畦畔、石垣、橋、社祠、立木、輪郭の形状が見て取れる。文字部分は、墨書で絵図名称と方位名を、朱書で構造物と地形の名称と規模が書かれている。
 「大堀」の内側の水田については
「此田地内畝六反四畝六歩」
と面積が示される。そして、堀の外周と内周の「竪長」と、堀の「幅」について数値が記入される。以上から100㍍×60㍍が館の面積となる。また、絵図が書かれた当時は、用水管理池としても使用されていたようで、水量を調整する堰が描かれている。
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周囲との位置関係を絵図に書かれた文字資料から見ておこう。
①「五毛往来」「五毛」は、満濃池の南東隅にある地名。
②「巳午ノ間満濃池当り」 南南東の方角には、満濃池がある。
③「南」角丸長方形の堀は、二つの対角線が南北方向の線上にのっている。これは、堀の長軸方向が那珂郡条理地割の方位であるN-301Wにのっているため。
④「未方真野村一向宗光教寺」 「光教寺」は、真野字吉井に現存 。同寺は、中世の「文明年中」の建立という由来をもつ。
⑥「西酉方金毘羅社当り」 西の方角には、金毘羅社がある。
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⑦「戌方八幡宮」「八幡宮」は、満濃町大字吉野字八幡にある「八幡神社」が相当。 方角は、およそ北西方向。
⑧北方面は「丑ノ方当新名氏屋敷当几三丁」「黒木玄碩屋敷几八丁」「新名氏屋敷」の2つの屋敷は、当時吉野に存在した屋敷。
「黒木玄碩屋敷」は、大宮神社付近。
以上からこの絵図が「大堀」のかつての姿を写したものであることが分かる。
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⑧「黒木玄碩屋敷」は、この人物の生没年がこの絵図の作成時期をきめる有力証拠になる。が、詳細は不明。しかし「新名」や「黒木」の苗字を有する人物が江戸時代に大庄屋、社人といた。ここから本絵図が江戸時代に作成されただろうことが推測できる。
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 航空写真で見てみると・・・・
 今は王堀の中央を県道が走り、倉庫が建てられるなどこの地に立っても当時の様子を偲ぶことは難しい。しかし、上空からの航空写真で見てみると長方形の大きな堀跡が読み取れる。堀跡の西・北・東の細長い田地や円弧を描く畦畔として残されている。南辺は幅が狭くなっており、南西隅は宅地のために旧状は失われている。土塁は、東辺・南辺の畑や、西辺の草地や畦道がそのなごりを示している。北辺はその痕跡はうかがえない。四周する土塁の内側の田地の畦畔の位置は、絵図のそれと大体一致しており、旧状を保っている。
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 この堀については、「王堀」「大堀」と呼ばれ、次のような伝承も伝わっている。
 神櫛別命の裔で、那珂郡神野郷を本拠とする豪族の酒部黒麿は、「移りて良野の大堀と云処に居住」した。酒部黒麿の居宅の場所は、「王堀」または「王屋敷」と称していた。王屋敷の東南には「冠塚」「御衣塚」があり、東方には「御殿が岡」があった。
この伝承は、この堀が古代以来の由緒をもつことを物語っている。

 もうひとつの視点としては、近年の中世城館跡の調査研究の成果から考えられる推察である。
中世の武士集団は、まず平地に立地し、方形か長方形の堀と土居をともなう居館を造営し防御性を高める。そして、麓の居館と最寄りの山城とでセットとなる根小屋式城郭の、居館に相当するものであったのではないか。
理文先生のお城がっこう】歴史編 御家人の館

 そういう視点でみるならここから3㎞北には、土器川を挟んで長尾山山上に西長尾城がある。県下有数の山城との関係なども想像してみるのも楽しい。
 H16年に県道拡幅の際に一部の調査が行われた結果、普通の農民の住居とは思えない太い柱をもつ建物が出てきている。そして14世紀前半の鎌倉時代で廃墟となっているようである。戦国時代の建物群は今のところ見つかっていない。
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 つまり、戦国期を迎える前に周辺勢力との武力抗争で滅び去った武家の居館とも考えられる。滅ぼしたのは長尾氏なのか??? あくまで推理推測である。
 どちらにせよ、この絵図は「田地絵図」という農業的要素よりも、同地の軍事的な価値を記した「館跡絵図」の性格が強い。四国新聞2016年9月14日版「古からのメッセージ」では「大堀城跡」として紹介されたいた。

参考資料
 野中寛文  吉野上村の田地絵図は館跡絵図     香川県立文書館紀要3号

県議会議員時代の増田穣三 

1899(明治32)年3月7日に行われた第5回県会議員半数改選に増田穣三は初当選し、翌月には、二代七箇村長に就任している。穣三41歳のことである。
その5年後に、「讃岐人物評論 讃岐紳士の半面」という本が出版されている。
当時の香川県の政治経済面で活躍中の人物を風刺を効かしながら紹介している。その中に増田穣三もいる。これを見ながら、増田穣三の県議会時代を垣間見てみよう。
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讃岐電気会社社長 県参事会員 増田穣三先生

躰幹短小なるも能く四肢五体の釣合いを保ち、秀麗の面貌と軽快の挙措とは能く典雅の風采を形造し、鼻下の疎髭と極めて稀薄なる頭髪とは相補いて讃岐電気会社社長たる地位を表彰す、増田穣三先生も亦好適の職に任じられたるもの哉。
 村長としての先生は夙に象麓の柳桜を折り、得意の浄瑠璃は鞘橋限りなきの愛嬌をして撥(ばち)を敲きて謹聴せしめ得たるもの、出でて県会議員となり参事会員の要地を占めるや、固より以て玉三の金藤治の如く、堀川の弁慶の如き硬直侃鍔の理屈を吐かざるも、萬事万端圭角を去て圓満を尊び、能く周旋調定の労を執りて敢て厭う所なきは八百屋の献立の太郎兵衛に肖、また7段目の平右衛門に類するなきが、而かも先生義気の横溢する、
 知友堀家虎造先生の参謀長を以て自ら任じ、当に作戦計画の上に於いて能く推握の効を収むるのみならず、時に或は兵器弾薬の鋳造運搬をさへ司るに到る、事茲に及びて侠名豈獨り幡随院長兵衛の占有物ならんや。義気将に畠山庄司重忠の手に奪ふを得べし。
 入って電気会社の事務を統ぶるに及び、水責火責は厭わねど能く電気責の痛苦に堪えうる否やと唱ふる者あるも、義気重忠を凌駕するのは先生の耐忍また阿古屋と角逐するの勇気あるべきや必
 先生の議場にあるや寡黙にして多く語らず、而して隠然西讃の旗頭を以て居る、何処かに良いところ無くては叶わず、先生夫れ不言実行の人か、伝説す頃者玉藻城下に於いて頻りに其美音を発揚するの機会を得と、真ならんか羨望に堪えざる也。妄言多謝

 県会議員としては「寡黙」で「裏業師」?

 まずは増田穣三の風貌が「躰幹短小」「秀麗の面貌」「鼻下の疎髭と極めて稀薄なる頭髪」と簡略にが描写されており興味深い。
 「得意の浄瑠璃は鞘橋限りなきの愛嬌をして撥(ばち)を敲きて謹聴せしめ得たるもの」は、若い頃に人形浄瑠璃に魅せられて興味を持ち、玄人はだしの腕前であったことに言及し、風流人としての「粋さ」を伝えている。。
 「出でて県会議員となり参事会員の要地を占めるや、固より以て玉三の金藤治の如く、堀川の弁慶の如き硬直侃鍔の理屈を吐かざる」とある。

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「参事会員」とは何だろうか?

  参事会とは県会に設けられた機関で、県知事・高等官二人と府県会互選の県会議員四人で構成された委員会で、県会の議事立案、執行など執行機関としての性格を持っていた。このため県政に深く関わることが多く、他の議員には知り得ない情報も入ってくるし、予算案等に意見を述べることも出来た。つまり、新人議員ながら県政の中心に飛び込んだというこになる。県の財政や政務の運営を眼のあたりに見ることができるポストに就いたのだ。これは、穣三にとっては大きな経験と財産になっただろう。
  
 県会議員としては
「萬事万端圭角を去て圓満を尊び、能く周旋調定の労を執りて敢て厭う所なし」
というのが増田穣三の流儀のようである。
 しかし、議会内の活動状態については「先生の議場にあるや寡黙にして多く語らず、而して隠然西讃の旗頭を以て居る、何処かに良いところ無くては叶わず、先生夫れ不言実行の人か」と紹介している。
 また、「香川新報」も「県会議員評判録」で「議場外では如才ない人で多芸多能。だが、議場では、沈黙しがちな議員のなかでも1、2を争っている」と、議場における寡黙さを強調する言動が記されている。
 県会での政治的立場としては
「知友堀家虎造先生の参謀長を以て自ら任じ、作戦計画の上に於いて能く推握の効を収むるのみならず、時に或は兵器弾薬の鋳造運搬をさへ司るに到る」
裏工作には積極的に動いたようだ
同期初当選である丸亀出身の白川友一議員とともに堀家虎造代議士の下で、様々な議会工作に関わったことがうかがえる。

 例えば、明治36年11月に政友会香川支部から多くの議員達が脱会し、香川倶楽部を結成に動いた「政変」の際にも、堀家虎造代議士の指導下に実働部隊として動いたのは増田穣三や白川友一 ではなかったのか。この「論功行賞」として、翌年の県会議長や堀家虎造引退後の衆議院議員ポストが射程範囲に入ってくるではないか。
この本が出版された翌年M38年11月 穣三は県会議長に選任された。議長としての穣三はどうであったのだろうか?
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  第7回通常県会の模様を、香川県会史は次のように記している
 山田利平太(綾歌郡)は議長に増田穣三(仲多度)を指名し、全員が異議なく了承。議長に推薦された増田穣三が
「諸君のご推薦にあずかり議長の職を汚します。補佐あらんことを希望します」
とあいさつをした。その後、副議長選出については議会の承認のもと、増田穣三議長が佐野新平(大川)を指名。また、名誉職参事会員も同様に6名を指名       香川県会史(990P)
 そして次のような議題が新議長の下で審議された。
1 小野田元煕知事の議案説明
2 粟島海員学校・丸亀女学校・高松商業等4校の県立移管問題
  財政上延期かどうか
3 女学校の寄宿舎建設延期
4 職員の給与増額
5 韓国への漁業者移住促進


 議員としては「口数が最も少ない議員 議場外での裏工作が得意」と表された穣三であるが、議長としての議会運営ぶりはどうだったのだろうか。次のような資料が残っている。
 中学校寄宿舎の建築問題をめぐって、建設積極派と建設消極派が協議を重ねた。この時、膠着した事態を打開するために、増田穣三議長自らあっせんに乗り出して、異なる二つの意見の調整に努めた。その結果、建設を進める方向で話かまとまり、長年、結論が出なかったこの問題は、一気に議決へと向かった。実直かつ寡黙な議長であり、議員から
「1つ1つの審議に時間がかかりすぎる。もう少し手際よく進めてほしい」
との要望が出るほど、丁寧な議事進行を心がけた。 
 丁寧な議会運営に心がけ、対立点を見極めた上で妥協案を示すソフトな対応ぶりがここからはうかがえる。
 順風満帆な議員生活とは半面、「電気痛の痛苦」が穣三に襲いかかってくる。当時、彼が関わっていた当時の新産業「電灯会社」誕生までの苦難と、彼の経営者ぶりを見ていくことにしよう。

四国新道完成後の財田の様子については、次のような記述があります。

四国縦貫の幹線道である四国新道にはしだいに人馬の通行が多くなり、ことに明治29年(1896)善通寺師団が設置されてからは日を追って交通量が増加してきた。土佐・阿波から入隊の兵士やその家族や金毘羅参りの人々は、明治38年に戸川まで乗合馬車が開通してからは馬車を利用するものが多かった。定員わずか8名の馬車でも当時は大量輸送機関であり、利用者も多く繁昌して個人営業者がつぎつぎと現われてきた。そして大正3年(1914)には5つの乗合馬車が営業していた。    (仲南町誌)
  この資料から開通後の四国新道沿線沿いの十郷・財田村の活況さがうかがえる。財田町誌にも

「特に、財田の戸川集落には旅籠や乗合バス亭・水車による脱穀業などが新しく並び立ち、新たな賑わいを見せるようになった。(財田町誌682P)」

と四国新道完成後の沿線の「経済効果」を紹介しています。
 視点を変えると「新道」は、現在の「バイパスあるいは高速道路」です。新道が出来たために物と人の流れが変わり、周辺には寂れていく街道や宿場も出てきます。四国新道の完成は七箇村を通る「塩入街道」にも影響を及ぼしました。
「春日を通過する塩入街道が寂れていく」という危機感をバネに「わが村にも第2の四国新道建設を!」

という思いを持つ指導者が徳島の昼間村に現れます。

 讃岐山脈を越えた徳島県昼間村(現みよし町)の村長田村熊蔵は、樫の休場経由の塩入道を、車馬の通行可能な新しい道路にグレードアップする道を探っていました。その際にルートを、東山峠越で塩入に至るルートに付け替えようと考えます。
徳島県三好側からの東山峠までの「新道」開通に向けた動きを見てみましょう。
香川県仲多度郡七ケ村につながる道は険悪であった。そこで人馬の通行が円滑になるようにと、昼間村長田村熊蔵、有志三原彦三郎等が香川県に属する分の改修を七ケ村長(田岡泰)に交渉した。明治25年(1892)昼間・撫養街道分岐点より延長三百余間の改修を行った。しかし、全線に係る工費は巨額で村力の及ぶところではなかった。その後も、郡費補助をたびたび要求した。
 その結果、明治30年度に金792円74銭の補助が受けられることになり、時の村長丸岡決裁はこれと同額の金額を有志の義捐に求め前の改修に接続して、延長千七百間の改修を行った。が、東山字内野まで伸張し、一時工事中止となった。
 明治32年5月に内野から県境までは測量は終了したが、郡財政上着工にまでは至らなかった。その後明治35年度において再び郡費補助を得たが、今度は村の自己負担分の工費が工面できず県費補助を要求した。
 その結果、明治36年度より39年度に至る四か年の継続事業として郡県の補助を得ることが出来るようになった。それを生かし道路用地は各持主の寄付によることを協定し、更に県の実測を経て里道改修工事を竣工させた。総工費22334円にて、内5262円53銭9厘の県費補助、6729円43銭3厘は郡費補助を受け、残額10142円49銭6厘は村の負担として、有志の義金又は賦役寄付に求めた。(以上 三好町誌)
 明治39年になって三好町昼間から男山を経て東山峠までの新道が完成します。いままでの獣道ではなく車馬交通の便を開けたのです。

 そこに至る経過を整理しておきましょう

1892年(明治25)昼間村長は田岡泰七ケ村長と話し合い「自分の村の改修は自ら行う」ことを確認します。県境を挟んだ両村が東山峠までの新道を互いに責任を持って建設し、東山峠でドッキングする約束をしたのです。そして、工事開始。しかし、当時の里道建設は「全額地元負担」でした。そのため
「全線に係る工費は巨額にして村力の及ぶところにあらず」

であえなく中断。以後は、小刻みに伸ばしていく戦略に切り替えます。
5年後、郡からの半額補助を受けて内野まで延長。さらに6年後に、郡・県から半額補助を受けて、4ヶ年計画で東山峠まで伸張し、1906年(明治39年)に香川県側の七箇村塩入から伸びてきた道とドッキングさせてています。香川側の完成から16年後のことになります。

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  東山峠

 この際に大きな追い風となったのは、主要里道の建設改修に対して、県や郡からの補助金が出るようになったことです。村の村長としては、新道建設の重要性を説くと共に、補助金確保のため県会への働きかけが大切な仕事になります。補助金が付き、認可が下りても今度は、地元負担金を準備しなければならない。これをどうするのか。
 「苦心惨憺一方ならざるものあり」と資料は記します。
当時は、建設費の半分は地元負担が原則です。自分の村を通る道は自分で作るのだという自負と決意がなければ、当時の里道建設はなかったようです。
  七箇村の田岡泰や増田穣三達、若きリーダーも、徳島側と連携をとりながらこの「自負と決意」を固め、実行に移していったのでしょう。それでは、香川県まんのう町側の「塩入街道改修」はどのように進められたのか、またを負担金はどのように集めたのかを次回は見ていくことにします。

第19話 プラットフォーム
鮠沢 満 作
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 私は急いでタラップを降りた。
フェリーが予定より五分遅れて接岸したからだ。
あと三分少々で列車が出発する。プラットフォームは二番線。
が、この二番線がくせもので、一番線、三番線、
そしてそれに続く四番線以降のプラットフォームは、
刈りたての頭みたいに横一列にきちと揃っているのに、
この二番線だけどいうわけか一番線と二番線に押し出されたように奥まったところにある。
ヨーロッパの駅ではこういったことはさほど珍しいことではないが、
数年前に立て直したばかりの新駅舎ということを考えると、
どうしてかな、と納得がいかない。
なぜわざわざ二番線だけ輪から弾き出したように奥まったところに作ったのだろうか。
出発時間が迫っているためか、目指す二番線は普段以上に遠い。
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 秋の夕暮れは本当につるべ落とし。
さっきフェリーからぼた餅のようにでかい夕陽を見たばかりなのに、
駅構内はすっかり闇の皮膜に包まれている。
雨よけの屋根に取り付けられた蛍光灯から吐き出される白っぽい光にも暗さが忍び込み、
行き交う人が亡霊のように現れては消えてゆく。
腕時計に目をやる。
ぎりぎり間に合いそうだ。
プラットフォームの中ほどに自販機があった。
その前に黒い人影が見える。
小さい。縮こまってるようだ。
私は小走りに通り過ぎようとした。
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「あの~」
遠慮がちな女の声がした。
私は一瞬逡巡したが、立ち止まり、声の方に振り向いた。
小さな黒い影の正体は老女だった。
手に何か持っている。
眼窩に沈んだ目が憶病そうに私の反応をうかがっている。
「どうかしましたか」
「ええ。これなんですが……」
 老女は何か差し出した。
それは缶コーヒーだった。
まさか私にくれるというのではあるまい。
「これがどうか」
「これ、固くて開かないんです」
老女の小さな手から缶コーヒーを受け取った。
熱い缶コーヒーの温もりが手の中に広がった。
私は造作なくプルトップを引き上げた。
「さあどうぞ」
 老女の顔に笑顔が咲いた。
「ありがとうございます。今日は寒くて……」
老女は感極まったように言うと、何度も何度も頭を下げた。
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 私が飛び乗ると、列車は錘が外されたように構内を滑り出した。
車窓を街の灯りがなぞって飛んでいく。
老女も背後の闇に紛れ、過去の時間の一部となって消えていった。
なのに老女の残像が頭を離れない。
私が考えていたのは、母のことだった。
母もあの老女と同じように、缶コーヒーのプルトップを開けられずに四苦八苦しているのだろうか。
よく考えると、もうその年齢だ。
プルトップさえ開けられなくなった母。
最近忙しさにかまけてそんな母のことを忘れていた。
プラットフォームのベンチにぽつりと座り、
缶コーヒーの温もりで手を温める老女の姿が、老いた母と重なった。
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 プラットフォーム。
再開の喜びと別れの悲しみを綴る場所。
そして帰る場所を持たない人間に最も孤独を押しつける場所。
胸の奥に小さな痛みが走った。
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第18話 牛小屋
鮠沢 満 作
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大きく愛くるしい目。
これを見ていると、本当に牛が好きなる。
と同時に切なさがこみ上げてくる。
記憶の端っこに引っ掛かって外れないもの。牛。
そのべべんこ(仔牛)が来たのは、
確か秋が深まりときどき北風が寒風の尾っぽを振り始めた頃だった。
前にいた牛が売られ、その後釜に買ってきたものだ。
私はモウと名前を付けた。

 百姓の家はどこでも一頭の牛を飼っていた。
牛が耕耘機の代用として、力仕事をさせられていた。
理由はそれだけではない。
農家にとって牛は大切な換金動物だった。
犬や猫のようにペットフードなどを食べさせなくても、
藁を切って米ぬかをまぶしてやれば、牛はいやがらずに食べる。
ときどきそこら辺りに生えている青草を与え、栄養のバランスを取る。
それで十分だった。
牛の糞も肥料として使える。
いろんな意味で牛は百姓にとって有益だった。
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 冬を越し、春の匂いが鼻先をくすぐる頃になると、
モウの身体も随分と大きくなっていた。
あと二ヶ月もすれば田植えが始まるが、そのときには一人前の働きを期待されるだろう。
その大事な牛に餌をやるのが、私に与えられた役割分担だった。
そこで毎日、早く大きくなれと、祈るような気持ちで世話をしていた。
毎日顔を合わせていると心が通う。
犬と同じで牛も利口な動物で、こちらの気持ちを十分に汲み取るようになる。
いつしか仲間意識が生まれた。
 小学生だった私は、よくモウと会話をしていた。
私がその日あったことを細かく説明すると、
大きな目をこちらに向けて真剣に聞いてくれる。
ときどき頭をぶるぶるっとゆすって、こちらに近づけてくる。
「君の話はよく分かったよ」という合図だ。
こんなとき「ありがとう」と言って、頭を撫でてやる。
すると、とても嬉しそうな表情を作るのだ。
そんな優しい心根のモウが好きだった。
けれども牛小屋で飼われてろくすっぽ外にも出られないモウが哀れでもあった。
所詮は人間と対等ではなかった。
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 その頃、よく牛の運命について考えていたように思う。
もし自分が牛に生まれていたらどうなっていただろうか、などと。
中でも私を苦しめたのは、モウが大きくなって大人の牛になるときのことだった。
そうなると牛市に連れて行かれてしまう。
それは私にとってはとても悲しいことだった。
いつそのときが来るのか、びくびくしながら暮らしていた。

 季節が一度巡った。
夏が過ぎ、空が一段と澄んで高くなり、あちこちで祭り囃子が聞こえるようになった。
収穫も終わり、農家ではひとときの休みに入る。
モウはすっかり大人の牛になっていた。
筋肉が首、そして肩口から背中にかけて盛り上がっていた。
足も太い。
モウの成長に呼応したように、私たちの関係もこの一年でぐっと深くなっていた。
私は相変わらずモウに何でも話していた。
モウはそんな私の話を身をすり寄せてきて、
大きな目をじっとこちらに向けたまま聞いてくれるのだった。
涙を含んだような潤んだ目が柔らかな光を帯び、
その中心に私の顔が映ると、私はモウと一緒に生きていると感じた。
雲一つない大空のように澄んだ瞳に掬われると、
どんなに苛立っていても気持ちが和らぐのだった。
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 でも私が恐れていたことが起こった。
その日は朝から暖気が漂い、昼間にはぽかぽか陽気の小春日和となった。
その陽気も手伝って、私は放課後友達に誘われるままサッカーに興じ、普段より遅く家に帰った。
もうすっかり暗くなっていた。
カバンを置いて真っ先にモウのところに行った。
電気のスイッチを入れた。裸電球がぱっとオレンジ色の光を放射した。
その瞬間、私は言葉を失った。
いない。
そこにいるはずのモウがいないのだ。
数日前、父が有線電話で誰かと話をしていた。
その会話の一部が思い出された。
「じゃあ、木曜日の午前中にでも引き取りにきてください」
父の声は低く、声を落としているようだった。
考えるに、あれはモウの引き渡しの話をしていたのだ。
私はすべてを悟った。
まず、モウに申し訳ないことをしてしまったという罪悪感が登ってきた。
私は唇を噛みしめ嗚咽した。涙が止まらなかった。
その晩、蒲団にくるまって、モウ、モウ、モウと心の中で叫んでいた。
いくら呼んでも心に開いた穴を埋めることはできなかった。
トラックに乗せられ牛市に連れて行かれるモウ。
何度も後ろを振り返り助けを求めるモウ。
悲しみに満ちたモウの目が私をじっと見ていた。
明け方、やっと睡魔が襲ってきて眠りに落ちた。
私は愛犬のミックが死んだ日と、モウが姿を消した日を忘れることができない。
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 思い出はいっぱいある。
でも大人になる過程で、燃えるものと燃えないもの、
捨てるものと捨てないものに分別して整理してきた。
捨てないでおいた思い出も、時間の経過と共にその色合いを失っていった。
けれどもこの二つの思いでは、
真夏の夜空に咲いた打ち上げ花火のような鮮烈な印象を今も残している。
ミック。モウ。
楽しかったよ。
素晴らしいひとときをありがとう。
そしてお休み。
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  人間は他者の命と引き替えに生きている。

小豆島見目のやきいも
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今から200年ほど前に書かれた「小豆島図絵」

ずっと気になっていたこの一枚の絵の

「今」を探しに出かけました。

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やってきたのは、島の北浦の見目(みめ)

絵図に愛宕権現と書かれた山らしきものが見えますが・・

絵に描かれている山容よりも「貧相」に思えて・・・(^_^;)

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彼岸参りの帰りのおばあちゃんに聞きました。

「そうじゃ。あれが愛宕さんを祭ったるとこじゃ。

夏には子供らがたいまつ持って登って、

頂上にある大きな石の上で大きな火を燃やっしょったんで。

夜空を焦がすぐらい炎が昇ってな・・・」

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「今は、若いもんが少なくなってしもて、やっとらん」

「小学校も廃校になる言うし・・」

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「愛宕さんに登るか」

「ほんならこれ持って行け、愛宕さんに供えてつか

お婆ちゃんからもらった、焼き芋。

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これは是が非でも登らなくては・・ (^_^;)

気合いを入れて、水筒に水をくむためにあけた井戸に

青い空と私が映っていました。

第12話 酸っぱいミカン(前編)
鮠沢 満 作
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日曜日の午後、申し分ない天気だったので、誘われるように散策に出た。
場所は壺井栄で有名な小豆島は坂手。
かつては大阪行きのフェリーが発着して賑わいもあったが、今はその便もなくなり
迫った山に押しつぶされるように狭い土地に囲われた淋しい漁村に後戻りしている。
 でも私はそんな鄙びた漁村が好きである。
人間の力ではどうすることもできなかったやるせない思いとか崩れた夢の破片が、
首をすっこめてあちこちに潜んでいるから。
ときには心をぐっと温めてくれることもあるし、逆に抉ってくることもある。
未来に煌めきを見出すほど斬新なことが起こりそうにもない。
ただ過ぎゆく時間の谷間に生かされ、一日が無事終われば神に感謝する。
そういった毎日が、最大の幸せであると気付くのに何十年とかかる土地。
坂手はそんな場所である。
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 例えば古びた瓦とか戸板をはがしてみる。
すると長年の風雨に耐えてきた黴びた時間の残骸が降り積もっていて、
それらが冬眠から叩き起こされたみたいにのろのろと動き出す。
大きく張り出した大木の枝にすっぽり包み込まれた小さな神社。
その境内から鬼ごっこに興じる子供たちの歓声が、
過去という時間の壁を破って聞こえてくるような気がする。
「もういいかい? まあだだよ」
ぺんぺん草に覆われた廃屋の大黒柱が、
折れた背骨をぐいと青空に突き立てて、
今もって往事の矜恃を見せつけていることもある。
まさに歳月の辛辣さと、それに翻弄される命ある者の儚さを感じてしまう一瞬だ。
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 坂手港に車を置き、狭い路地を登っていった。
狭い路地といっても住民が普段使っている生活道路で、車も自転車もリヤカーも通る。
わびしいがしっくりそこの空気にとけ込んでしまうある種の安堵感が浮遊している。
アキレス腱に少し痛みを感じながらも、小豆島霊場第一番洞雲山を目指し、
一歩一歩自分を押し上げていった。
少しずつ視界が大きくなっていく。
それに合わせて気持ちも晴れる。
民家が途切れ、段々畑が現れた。
老夫婦が地べたに腰をおろしたまま大豆の皮を剥いていた。
野良仕事に服従してきた背中が丸くて小さい。
陶器の人形のようにも見えるその後ろ姿に、突然、父と母の顔が浮かんだ。
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一時の感傷を捨て、さらに上に行く。
もう随分と上まで来ていた。
視界を遮るものはなかった。
家々のくすんだ甍の向こうに別の甍の波が広がっていた。
海だった。
雲間からなだれ落ちる逆行の太陽光線が、鋭い針のように海面に突き刺さっている。
その部分だけがスポットライトを浴びせられたように照り輝いているが、
秋の物寂しい海にやんわりと説得されて周囲の空気と折り合いをつけていた。
太陽が雲に隠れた。
眩しさが引っ込むと、視界に色が戻ってきた。
秋の色が空気だけでなく、木々にも野草にも、
そして土にもこびりついているのが分かった。
目の前に紫色の大きな花がぬっと現れて、その頭を風に揺らしていた。
近寄ってみると、一つの花ではなく、
無数の小さな花弁が寄り集まって一つの房を作っていた。
残念ながら名前は知らない。
私は額の汗を手の甲で拭うと、再び歩き出そうとした。
と、そのとき雲が破れ、その隙間からまたしても太陽の光が落ちてきた。
紫色の花に代わって、今度は無数の黄金色の玉が浮き上がってきた。
それらは洗い立てのようにきらめき、水気を帯びた瑞々しい柔らかささえ放っていた。
目の前に現れたのはミカンだった。
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 私はこんな光景を子供の頃何度も夢に見たことがあった。
大人になった今もそうである。
オレンジ色のミカンが鈴なりで、その向こうに真っ青な海が広がっている。
その海を割るように真っ白い船が走る。
まさにメルヘンだが、今でも丘の上のミカン畑の向こうに広がる青い海が、
私の想像力をかき立ててやまない。
瀬戸内の風景を語るとき、ミカンと青い海という組み合わせをを欠かすことができない。
まさに私にとっては牧歌的要素の代表格である。
 ミカン、か。
 思い出すと、小さな溜息が出る。
苦いというか、酸っぱいというか、一つの思い出に行き着く。
今考えたら、自分がなんて親不孝だったのか、と自分を責めずにはおれない。
が、もう遅い。
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 私の父は他界するまでの約二年間を人工透析の厄介になった。
腎臓疾患だと分かると、医者の勧めで食事療法に乗り出した。
最初はそれで少し進行は抑えられたが、一年くらいすると、
もう食事療法では対処しきれなくなった。そしてやむなく人工透析。
父は人工透析するくらいなら死んだ方がましだと、
頑迷に医者の忠告を聞き入れようとはしなかった。
私と兄がなんとかそれを説得した。
「親父、長生きしたらまだまだいろんなことができる。好きな花や茶も楽しめる」
「そうや。週に三回はしんどいかもしれん。
でも生きとったら、兄貴の言うとおりまだやり残したこともできる。
親父の人生やからとやかく言う筋合いでないかもしれん。
だがわしら子供は親父に悔いのない人生送ってもらいたいんや」
「金もいらん。名誉もいらん。ええ人生やったと言うてくれたらそれでええ」
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翌日から透析が始まった。
親父を説得したものの、
透析が終わって病室に帰ってきた親父のぐったりと憔悴しきった姿を見るにつけ、
本当に説得が正しかったのかどうか、二人して顔を見合わせることが何度もあった。 
後編に続きます。

小豆島坂手の洞雲山より
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壺井栄のふるさと坂手の街を歩いていると

どこにいても覆い被さるように見える山。

洞雲山です。

「アホの子と煙は高いところに昇る」の言葉通り、登ってみます。

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やってきました。頂上です。

白い花崗岩と岩苔がロックガーデンのよう(^_^;)

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2番札所の向こうに大嶽がそびえ立ちます。

ギニア高地のテーブルマウンテンのよう(*^_^*)



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足下を見ると・・・真下に屋根が・・

見えますか? 一番札所の本堂の屋根のようです。

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その向こうには「岬の分教場」に続く半島が続きます。

右側が内海(うちのみ)湾、天然の良港として栄えたわけです。

左側が備讃瀬戸東航路の海。

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もう少し、尾根の先に行くと坂手の街が見え始めました。

かつては別府航路への客船が寄港した坂手港。

そのランドマークタワーが、この山だったのかなと思いました。

小豆島 満月の下の潮干狩り
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仕事帰りに見えたお月様。

彼岸の大潮に当たるようです。

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満月の光の下で、貝掘りに励む姿。

春にしては空気は澄んでいますが、その分寒い(;_;)

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「よーけ、とれたで。帰って煮た後で冷凍にしておくじゃわで」

40を過ぎた長男に嫁が来ないのを嘆きながら掘る手は休めません(^O^)

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いつも紹介する小豆(あずき)島の上にも月が・・

本日異動辞令をいただきました。島を離れなければなりません。(>_<;)

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眺めていると海に映る月が、姿を変えて・・・。

「龍」に見えてきました。(^_^;)

「昇竜」は吉兆のしるし

そう言い聞かせ、島を離れる準備を進めます。(-_-;)

小豆島 生田春月の詩碑
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壺井栄の故郷「坂手村」の丘の上に立つ詩碑。

昭和14年に栄が発表した文章には、こんなふうに書かれてあります。

詩人生田春月が、洋上から見ると陸地が空白に見えると云う詩を残して
播磨灘へ投身し、自殺して流れついたのが私の村である。
空白に見えた陸地は小豆島であろうか。
今、春月は私共の先祖の墓地のある丘の上にその詩碑が建てられ、
永遠の眠りを小豆島にとっている。
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ついこの間帰島した私は、両親の墓参の時そこを通ると、
トランクを持った旅の学生が柵にもたれて物思かしげな恰好で沖を眺めていた。
妹の云うことに「姉さん、春月の墓に似合うとるのう」とにやにやする。
墓ではなく詩碑なのだろうけれど、私たちは墓なみに、持っていた椿や金盞花を供えた。
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絶筆「海図」の詩が原稿のまま銅板で自然石の詩碑にはめこまれ、
後ろに廻ると石川三四郎氏の筆で故人の来歴が刻まれてあった。
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小豆島は石の産地でもあり、北浦村あたりには大阪築城の残石が残っている位だから、
この詩碑も島の自然石なのだろうが、
周囲の地盤がコンクリートで固められてあるのは、心ないわざのように思える。
地盤をめぐらした鉄の鎖の外側は雑草が乱れていて、紫の露草の花が咲いていた。
夏が来れば虫も泣くであろうに、コンクリートは雑草もよせつけない固さで
しろじろとしているのは、春月氏のためにも辛い感じである。
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村中を見良せるこの丘は山を背負い、静かな海を目の下に眺められる特等席である。
空白の陸地に立って今春月の霊は、どんな気持で海を眺めているであろうか。
昭和十四年(1939年発表) 今から約70年前のことになります。(^_^;)

今は詩碑の周りは、芝生。

昨日は彼岸、詩碑の後ろの桃の花が、咲き始めていました。

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