瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

中讃TV「歴史の見方で、満濃池を再築した西嶋八兵衛のことについてお話しました。2月中いっぱい平日の毎日放送されるようです。興味のある方で、時間のある方は御覧下さい。こちらからも御覧になれます。
https://www.youtube.com/watch?v=K0gHOxzXlhw

郷照寺3
 四国霊場 宇多津の郷照寺
前回までに郷照寺について、次のようなことを見てきました。    
 ①中世の志度寺や郷照寺・弥谷寺・白峰寺などは、さまざまな宗教者の道場(活動拠点)で、そこには時宗系念仏行者や高野聖・修験者が活動していたこと
②彼らは、いろいろな要素を持っていて、真言系や時宗系、熊野系などのように区分できるのではなく、混淆とした存在であったこと
③同時に彼らは、諸国をめぐる芸能伝達者でもあり、村々にさまざまな芸能を流布したこと。そのなかに滝宮念仏踊りの元になったや風流踊りもあったこと。
④中世にはさまざまな宗教者が混在して混沌とした宗教空間だった郷照寺も、近世になるとその様相を大きく変えたこと。その背景は、時宗本山との本末関係の中に入ったため。
⑤しかし、郷照寺は「道場寺」とも呼ばれたように、中世の混沌とした信仰活動を受け継いだ部分があったこと。   
以上から以前にお話しした弥谷寺の阿弥陀浄土信仰の拠点化と同じ動きが郷照寺でも考えられます。

弥谷寺の阿弥陀浄土への道

 郷照寺では、阿弥陀念仏信仰と弘法大師信仰がどのようにミックスされながら伝えられたのでしょうか。それを江戸時代以降の堂宇変遷で、見ていくことにします。テキストは「郷照寺調査報告書 第2分冊 香川県教育委員会 2026年3月」32pです。

郷照寺 調査報告書

郷照寺の地形区分図を見ておきましょう。

郷照寺 地形図

郷照寺の境内は、青ノ山(223m)東麓の標高約20mの尾根上にあります。旧参道は、遍路道(丸亀街道)を南へ脇道を入り、参道を南東方向へ登っていました。参道石段上には、次の3つの平場が重なっています。
平場1 本堂や庚申堂(太子堂)、茶堂、本坊
平場2 本堂の上に鎮守社跡(熊野権現)
平場3 大師堂
郷照寺の諸堂建立や建て替えは、上記の3つの平場を中心にして行われてきました。この3つのエリアに諸堂は展開していたことを押さえておきます。

郷照寺の遺構変遷について、研究者は次のように5つに時代区分します。
(1)第1期 17世紀から18世紀中葉
郷照寺の「寺開基由来帳」(延享5年(1748)k-119)には、次のように記されています。
四国兵乱による堂宇の焼失で退転していたものを、文禄年中(1592-1596)に覚阿弥により再興された

ここでも長宗我部元親によって兵火にかかった伽藍が、生駒藩時代に再興されたとします。しかし、ここに登場する覚阿弥による再興については詳しいことは分かりません。
それから百年後の刊行物には、次のように記されています。
「四国路日記」(承応2年(1653) 「道場(郷照)寺 本尊阿弥陀」
「四国遍路道指南」(貞享4年(1687)「少山上、(本堂)ひがしむき」
そして、「四国遍礼霊場記(元禄2年(1689) には「少山上、(本堂)ひがしむき。(中略)本尊阿弥陀第一尺八寸御作」と書かれ、以下のような絵図が添えられています。
郷照寺 「四国遍礼霊場記(元禄2年(1689)
道場(郷照)寺 四国遍礼霊場記(1689年)
この絵図からは次のような情報が読み取れます
①尾根上の平場に阿弥陀堂(本堂)、鎮守社(熊野社)、鐘楼のみが描かれている。
②髙松・丸亀街道沿いには家が建ち並んで、宇多津の町場が形成されている
③参道には石段や石垣のようなものは見えない。
鐘楼には、貞享3年(1686)「仏光山江照(郷照)寺」の銘が刻まれています。ここからは郷照寺は、戦国時代に一度退転した郷照寺は17世紀後半には「中興」されていたことが裏付けられます。
ここで私が注目するのは、鎮守社が熊野神社であることです。熊野神社の別当寺として創建された四国霊場は多いのですが、例えば登禅「四国辺路日記」(1653)には、愛媛の八坂寺のことが次のように記されています。意訳)

八坂寺は、熊野権現を勧請した寺である。昔は、三山権現が立並び、その前には25五間の長床があったという。しかし、これもいまでは小社となっている。本寺堂には本尊の阿弥陀如来が安置されている。昔、伊予国に長者がいて、熊野権現の霊験があらたかなことを知って、三年続けて熊野詣でを行った。そして、熊野権現を伊予に勧請したいと申し入れると、御咤宣も吉と出たので、歓んで八坂村に神社を勧請した。故に熊野山八坂寺妙見院と号する。院号は長者の尼公号と云う。今は、この寺も衰微して妻帯の山伏が住持していた。ここから十町ばかり行った円満寺という真言宗にー宿した。十四日、その寺を出発して15町行った西林寺に至った。

ここからは八坂寺は、熊野権現を勧進した別当寺で、本尊は阿弥陀如来だったとされています。どちらにして、熊野行者の痕跡が色濃く残ります。郷照(道場)寺も八坂寺と同じようなルーツをもつ寺であったことがうかがえます。そこに、阿弥陀念仏信仰が高野の聖たちによって持ち込まれます。そして近世に入って弘法大師信仰が接ぎ木されていくという筋書きが描けます。この構図は、四国霊場の多くの寺院に見られるパターンです。なお、瀬戸内海沿岸への熊野権現の勧進の拠点となったのは、児島の五州修験であったことは以前にお話ししました。

五流修験のテリトリー拡大

五流修験 小豆島遍路開設説

 江戸時代中期の延享5年(1748)の「寺開基由来」には、聖徳太子堂(庚申堂)、石像弘法大師堂、熊野権現社、鐘楼、客殿、境内用水池が記されています。それを研究者が平面図に落としたものを見ておきましょう。

郷照寺 18世紀後半
18世紀後半の郷照寺
上記の伽藍配置を、次の年表と対比して見ておきます。
①天明4年(1784) 大師堂が本堂の上の平場3に建替えられ、尾根の上に伽藍が拡大。
②享保19(1734)  弘法大師絵像が奉納(「当寺諸寄附宝物」延享4年(1747)
③延享5年(1748)までに石造弘法大師堂建立
④明和元年(1764) 高松正覚寺で本尊開帳、その際に高松藩松平家の帰依により弘法大師繍画が製作寄進され、その安置のために奥の院が建立された。(「開帳中記録」天明4年)
⑤天明3年3月から4月 弘法大師950年遠忌に伴う本尊開帳 → 弘法大師信仰の高揚
⑥天明4年2月  大師堂が落慶(開帳中記録)
⑦大師堂の落慶までは、奥の院を「仮堂小屋」としています。明和元年に弘法大師繍画が寄進されてから天明4年の大師堂落慶までの期間おいて御影は奥の院に安置されていたようです。しかし、奥の院がどこにあったかは分かりません。
⑧寛政5年(1793) 塩飽や備前国下津井の講中の寄進で茶堂建替願を髙松藩に提出。
⑨寛政7年の本山の第54代遊行上人の来国を控え、本堂や客殿・庫裏の建替を出ている。

こうして整備された境内景観を「四国遍礼名所図会」(寛政12年(1800)で見ておきましょう。

郷照寺 四国遍礼名所図会 1800年

この絵図から読みとれる情報を挙げておきます。
①参道を上った平場1の石段の南側に鐘楼と本坊、北側に茶堂、平場奥に裳階付の本堂がみえる。
②太子堂(庚申堂)は、現在と位置が異なる。天明3年の弘法大師950年遠忌の本尊開帳では「庚申堂台進行上人御居間江幅壱之仮廊掛ル」(「開帳中記録」)とあるので、本坊(客)脇にある宝形造の小堂は太子堂(庚申堂)考えられる。
③本堂と茶堂との間の石像が描かれる場所は、石像大師堂の跡地
④平場3の宝形造の小堂が四国遍礼名所図会で「大師堂本堂のうらにあり」とされる大師堂
⑤平場2の小舎は、鎮守社(熊野権現)
この時期には、明和元年(1764)の弘法大師繍画寄進から天明3年(1783年)の弘法大師950年遠忌に合わせて、大師堂改築、本堂建替など、伽藍整備が活発に行われた時期になるようです。

第3期 19世紀前葉
郷照寺 19世紀前半 伽藍図
郷照寺 第3期19世紀前葉の堂宇配置
 諸堂の配置は、平場1に本堂、鐘楼、茶堂、平場2には熊野権現社、平場3に大師堂が建ちます。先ほど見た「四国礼名所図会」(寛政12年(1800)と比較して見ると、次のような点が読みとれます
①本堂に変更はない。
②太子堂(庚申堂)は、本堂前の北側に移築されている
③客殿と庫裡が別棟になって大規模化している。
④平場2・3の斜面落ち際には、土塀や石垣を表すとみられる二重線がみられる
郷照寺に石垣が登場するのは19世紀になってからです。

郷照寺の石垣
郷照寺の石垣 3・4・5 19世紀のもの
旧参道の2基の石垣記念碑(参道4:文化7年、備前下津井萩野屋久兵衛、播磨屋喜八郎、茶堂宗玄 参道5:再建発願人当山茶堂宗玄、施主当所井近郷分講中)は、平場2・3への石垣3~5の築造や平場1の石垣修理の祈念に建てられたものと研究者は考えています。寄進碑に名前のみえる宗玄は、寛政5年(1793)に茶堂に置かれたとみられる道心者と同一人物のようです。
第4期19世紀中葉
この時期に書かれた「金毘羅参詣名所図会』(弘化4年(1847))や「讃岐国名勝図会』(嘉永7年(1854~)に描かれた境内絵図を見ておきましょう。           

郷照寺 金毘羅参詣名所図会2
             郷照寺 金毘羅参詣名所図会(1847年)
4344102-55郷照寺2
郷照寺 讃岐国名勝図会(1853年)

伽藍で現存する建物としては、次の通りです。
A 本堂(桁行3間、梁間5間、二重、向拝1間、寄棟造、本瓦葺19世紀前業)
B 庚申堂(正面3間、側面2間、青画仏壇突出、向拝1間、宝形造、本瓦葺18世紀中葉)
C 大師堂(正堂正面1間、背面3間、側面2間、宝形造、本瓦葺明治10年(1877)
D 礼堂・桁行3間、梁間3間、入母屋造、向拝1、本瓦葺大正6年(1917
E 鐘楼(桁行間、梁間1問、入母屋造、本瓦葺19世紀中葉)
Aの本堂は、玄関(軒唐破風付入母屋造、本瓦葺)や客殿(入母屋造、本瓦葺)は江戸後期のもので、本山の遊行上人の宿舎として整備されたもので、格の高い建物となっています。「身舎の四隅の柱や柱などの重要な柱を残しつつも、柱を省略して大空間を設ける架構が特徴的」と研究者は評します。
Bの庚申堂は、建立年代が最も古い建築であり、「軸部に当初材をよく残し、組物や彫刻に整った意匠を有する小規模な仏堂」です。
Eの鐘楼は、昭和50年(1975)に本坊前から北へ移築されていますが幕末の建築です。

宇多津 讃岐国名勝図会2
讃岐国名勝図会に描かれた宇多津 本妙寺の隣に郷照寺
以上をまとめておきます
①現在の郷照寺境内は、江戸後期の18世紀後半に基本的な構成ができあがった
②その後、四国遍路の盛行や遊行上人廻国の受入を契機として、幕末までまで整備拡充が行われた
③3段の平場の伽藍地は小規模だが、他の札所寺院と比べて、二重、寄棟造、階付きの本堂や客殿は、大掛かりである
④この背景には、時宗総本山の遊行上人廻国の化益賦算所と宿坊となったことによるところが大きい。 ⑤四国遍路札所として、大師堂や茶堂はあるが、それよりも時宗寺院としての讃岐での中核末寺としての寺歴が現在の伽藍には反映されている。
投影されていると考えられる。
⑥近代になっても諸堂の充実が進められるとともに、参道の両脇や本堂と大師堂との間の平場2は墓地化した。墓地の拡大は、江戸時代の檀家が2軒、だったのに対して明治以降には40軒に増加したことを反映するものである。
⑦昭和30年代に大師堂の礼堂前に鞘堂(回廊)が設置
⑧昭和50年には参道が北へ振替えられ、旧参道の石階部分は埋め戻され、石垣に参道石段が新設された。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 「郷照寺調査報告書 第2分冊 香川県教育委員会 2026年3月」32p
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4344102-55郷照寺2
           四国霊場 郷照寺(道場寺) 讃岐国名勝図会
前回は郷照(道場)寺について、史料から次のような事を見ました。
①郷照寺は寺伝にあるように、中世から時宗寺院であったのではない。
②中世は、高野聖や廻国行者たちの布教活動拠点として、さまざまな宗教活動者が混在していた。
③それが髙松藩の松平頼重の宗教政策の一環として再整備され、時宗に改宗された
今回は郷照寺と時宗本山の藤沢市の清浄光寺との関係を史料で見ていくことにします
テキストは「郷照寺調査報告書 第2分冊 香川県教育委員会 2026年3月」です。

時宗総本山である清浄光寺(しょうじょうこうじ)について、ウキに書かれていることを要約しておきます。

時宗総本山清浄光寺 郷照寺本山

①神奈川県藤沢市にある時宗総本山の寺院で、藤沢山無量光院清浄光寺と号す。
②明治時代からは法主(ほっす)・藤沢上人と遊行上人が同一上人なので、 遊行寺(ゆぎょうじ)と呼ばれるようになった。また藤沢道場ともいう。
③中世の西俣野(藤沢市)の領主だった俣野氏の一族・俣野五郎景平が開基。
④景平の弟である遊行上人第四代呑海が、正中2年(1325年)に俣野領内の廃寺極楽寺を清浄光院として再興したのが開山
⑤延文元年(1356年)八代渡船が鋳造した梵鐘には「清浄光院」と陽刻がされている。
⑥永享7年(1435年)足利持氏が仏殿120坪を寄進
⑦永正10年(1513年)伊勢宗瑞(北条早雲)と三浦道寸、太田資康との戦いにより全山焼失。
⑧天順が慶長12年(1607年)に清浄光寺を再興。これは後北条氏時代の焼失から、94年後のこと。
⑨寛永8年(1631年)に江戸幕府寺社奉行へ清浄光寺は「時宗藤沢遊行寺末寺帳」を提出し、時宗274寺の総本山と認められる。
時宗総本山清浄光寺(遊行寺) 郷照寺本山
時宗の総本山である清浄光寺(しょうじょうこうじ)

「第1表」は、本山藤沢清浄光寺や京都七条道場金光寺に残る「藤沢山日鑑」「「行日鑑」「遊行在京日鑑」などの郷照寺の記録を研究者が抜き出したものです。

時宗総本山清浄光寺(遊行寺)to 

この表からは次のようなことが分かります。
①郷照寺は本山に対して年始伺い、暑中見舞い、上人相続の際、その都度、白銀などを献上している。
②僧侶昇進に関わる記録からは、両者が本山末寺の関係であったことが裏付けられる

例えば「藤沢山日鑑第6巻」安永9年7月の条を見てみましょう。
ここには、郷照寺の僧雪山の本山勤仕についての記載が次のように記されています。(要約)

雪山は高松藩寺社役所より百日間の暇をもらい本山の学寮で修養していた。その成果が良かったのか安永8年に本山の学寮主を拝命した。そこで、本山の衆役から高松藩寺社役所に雪山の「長之暇」を申し入れた。ところが松藩の寺社奉行からの回答は「他国の寺院に入ることは許可できない」というものであった。

ここからは末寺の郷照寺から本山に修行に出て、そのまま本山に残るようなシステムがあったことが分かります。しかし、それを髙松藩は認めていません。
時宗総本山清浄光寺(遊行寺) 一遍像
清浄光寺の一遍像
江戸時代の時宗の僧階と郷照寺の関係を史料で見ておきましょう。
時宗の浅草日輪寺が享和元年(1801)に幕府寺社奉行に提出した「時宗法眼井法開階級之次第」に次のように記します。
「右剃髪仕世寿十五歳以上、藤沢山 京都七條道場 遊行回国先、右三会下之内、最寄を以掛錫仕、法騰相立候」

ここからは次のような事が分かります。
①仏門に入るのは15歳以上
②修行場所は、本山の藤沢清浄光寺や京都の金光寺の他に、廻国先でもよかったこと
③掛錫(修行)の年数を経るごとに僧階を昇格すること

僧階の序列と昇進については次のように記されています。
①掛錫が4年で茶執司となり「茶執司、掛錫より四夏相満候間を茶執司と申候面、藤澤上人遂行上人而上人之侍者為政給仕申」と藤澤上人や国先にて遊行上人の側で給仕を務める役となる。
②さらに6年で十室(漢室・岩室・純室・連室・伝室・行室・学室・了室・同室・聞室・安室)となり「十室、五夏相満候後、此十室二入候、此位階面宗門之安心伝法等相承仕」とあり、この段階で時宗の修行や教学を師匠から伝授された。
③9年で五軒(慈照臥龍軒文峰軒萬生軒衆領軒)の斬号を付与され「五軒、掛八夏相調候ハマ軒号を蒙り申候、宗門之伝法宗威血脈不残相承仕、初て和尚号を付(中略)在家之引導香仕事を差許申候」とあり、時宗の伝法、宗、血脈を相伝し、和尚と称することが許された。また在家信徒の引導や葬式などの仏事を執り行うことができるとうになった。
④13年で「二常住庵等覚庵」となり「二庵掛錫合十二夏相満、此階級二相進み、庵りを蒙り(中略)此法綸旨参内差許申候」とあり、「上人号」の旨を寺社伝奏勧修寺家へ申請、皇居への参内が許されるようになる。
⑤18年で、本寮(四院)(桂光院院興院東陽院)となり「本寮,十七年之法相談、十八年二宗門之書籍之内何でも壱部講釈相済、此階級=相進み、惣じて一宗之法務、右本寮四院有之之之是を司り、本山貴主を補佐する所之老僧と相唱中、是迄末寺井所化昇進之次第二御座」とあり、僧侶の最終階となる。そして時宗の書籍の講釈や宗派の運営に携わり、本山貫主の補佐も行う。また弟子を取ることができる

 郷照寺の位牌や過去帳には、18世紀の後半になると時宗僧階の最終位の院号をもつ住持が4人登場してきます。
A 洞雲院但阿存海和尚(寂年 天明4年(1784)第33世)
B 興徳院覚阿一浄智存和尚(寂年 文政13年(1830)第35世
C 興院覚阿和尚(寂年 安政6年(1859)第36世)
D 大僧都桂光院其阿上人本空和尚(寂年 明治42年(1909)
この4人に共通するのは、本山の遊行上人の廻国の際の受け入れを行っていることです。その功績を背景に昇任を果たしたことがうかがえます。それを裏付けるのが次の宝暦10年(1760)9月の第52代遊行上人他阿から郷照寺□□相阿弥仏へ宛てた書状です。

「鵜足郷照寺義 此度建立等出精二て、地頭表殊、之外首尾能御領分動化相済、其上右勧化御城主今から御取会被下候由」

とあって、境内建物の整備に務めた功績として木蘭衣(軒号)が与えられています。ここからは地方の末寺住持にとって遊行上人の廻国などの本山勤行に励むことは、位階の昇任につながる功績として評価されていたことが分かります。
 さらに文化9年(1812)第55代一空上人の相続の前年に本山への出仕を行っていることや、万延元年(1860)年の京都七條道場金光寺の意に沿わない郷照寺住持の交代を命じた通達などからも、人事権を含む支配関係があったと研究者は考えています。ここでは、時宗本山が僧階権を握ることによって末寺の郷照寺を支配下に置き管理していたことが見えて来ます。

時宗の総本山は藤沢の遊行寺でしたが、西国を束ねる実質的本山は京都七条道場の金光(こんこう)寺でした。
 総本山の清浄光寺は法主の遊行上人が隠居した藤沢上人の住坊でした。それに対して京都の金光寺は、遊行上人が住職である寺で、西国の事実上の本寺でした。例えると、藤沢・遊行両上人の関係は、上皇と天皇の関係に置き換えると分かりやすいようです。

時宗総本山 京都金光寺1 書評

時宗総本山 京都金光寺1
金光寺の年表

 一遍によって開かれた時宗は、京都でも活発に布教が行われ、次々と時宗の寺院が建立されるようになります。その中で金光寺(こんこうじ)は、鎌倉時代後期の正安3年(1301)に七条東洞院(京都市下京区材木町)に建立されます。場所は、七条慶派仏師仏師定朝の屋敷跡に呑海が創建したもので、七条道場とも呼ばれ、周辺の仏師集団が信徒となっていたようです。彼らによって、優れた彫造が残されています。こうして、この寺は時宗遊行派の京都での拠点として隆盛を誇りました。現在の京都駅烏丸口のすぐ東側がその境内地でした。

時宗総本山 京都金光寺1 平面図
金光寺の境内緒堂建物絵図

 14世紀初めには、善阿が連歌師として活躍し、1461年(寛正2年)の飢饉では、金光寺の願阿弥という僧が勧進して六角堂の近くに小屋を建て、苦しむ市民に粥を施したり、五条橋の修復も行っています。
 豊臣秀吉の京都の都市改造の際には、七条仏所を他に移して拡張し、400石が与えられています。和漢三才図会では寺領197石と記します。 江戸時代には学寮が置かれ、それに隣接して火葬場が元禄年間に設けられています。しかし、明治40 年(1907)に長楽寺に合併され、跡地は民地となり、その跡形は消えてしまいました。なお、下京区本塩竈町には金光寺(市屋道場)が現存しますが、これとは別の寺院のようです。
 それでは金光寺と宇多津の郷照寺の関係を物語る史料を見ていくことにします。

郷照寺 万延元年(1860)年に作成された「[書状〕(智覚へ看住申付けるにつき)」(k-89)

「〔書状〕(郷照寺後住に智学仰付けられたにつき)」(k-8987)

万延元年(1860)年に作成された書状「智覚へ看住申付けるにつき」(k-89)です。
ここには京都の七条道場金光寺より郷照寺世話人中宛に、郷照寺が無住となったため智覚を看住として取り急ぎ寺務を取らせることが記されています。ここに登場する智覚は、安政5年(1858)に作成された郷照寺の「人別御改帳」(k-60)に次のように記されています。

郷照寺 安政5年(1858)に作成された「人別御改帳」(k-60)

「鵜足郡宇足津村郷照寺 現住鵜足郡土器村出生 智隆 当年五拾八才一、同郡宇足津村出生弟子智覚当年拾六才」

ここからは智覚が第36世住持智隆(58歳)の弟子で、地元宇多津村出身で16歳であったことが分かります。その後の智覚については「郷照寺後住に智学仰付けられたにつき)」(k-87)次のように記されています。
「〔書状〕(郷照寺後住に智学仰付けられたにつき)」(k-87)
「〔書状〕(郷照寺後住に智学仰付けられたにつき)」(k-87no)

「智覚 病身に付寺務難相勤二付 後住之僧差向候処」

ここには、智覚が病身なので寺務が勤め難くなったため、後任の僧を本山の金光寺より派遣されるようになったことが記されています。ところが、これに対して智覚は、異議を唱えて次のように返答しています。

「御領法御指支之儀有之候ニ付御断 且智覚儀病気追々快方二付弟子致無話取立居候」
意訳変換しておくと
金光寺より当寺(讃岐の郷照寺)に僧を送り込むことは、藩の法に差し支える。また私自身の病気も快方に向かっているため、そのような話は無用である

これに対する本山金光寺の回答は次の通りです
「智覚儀 宗法相背候麁有之候二付 此度取上退院申付候(中略) 当寺差向智学僧江後住職被仰付候様強面御願申上候」

意訳変換しておくと
 智覚については本山金光寺の意向に沿わないことが度々あったので郷照寺からの退去を申し付ける。今後については、金光寺より智学を後任住職として派遣することを高松藩に申し出ている。

 ここからは、末寺の郷照寺の住職については、七条道場の意向に沿わない者は辞めさせ、後任を派遣する権限を本寺は持っていたことが分かります。郷照寺も時宗本山の本末関係の中にあったことが裏付けられます。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
郷照寺調査報告書 第2分冊 香川県教育委員会 2026年3月
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イメージ 2
宇多津の郷照寺 四国霊場で唯一の時宗寺院

宇多津の郷照寺は、四国霊場の中で唯一の時宗寺院です。この寺については、時宗開祖の伊予出身の一遍によって時宗の拠点であったとされてきました。しかし、最近刊行された調査報告書には、この寺が時宗に改修されたのは、髙松藩初代藩主の松平頼重によってであると記されています。どうして、そう言えるのかを今回は見ていくことにします。テキストは「郷照寺調査報告書 第2分冊 香川県教育委員会 2026年3月」です。



宇多津地形復元図
DSC03878宇多津
中世の宇多津海岸線の復元図と各寺院

6宇多津1
中世宇多津の景観復元図

6宇多津2
中世の宇多津地形復元図と各寺院

6宇多津の寺院1

郷照寺の開基由来について

郷照寺縁起

 郷照寺の開基については、A「寺開基山来帳」(延享5年(1748)には、次のように記します。
①天台宗寺院として創建後、空海の四国霊場開基の際に78番札所となり、その後の退転
②一遍が正応元年(1288)に(1239-1289)が時宗に改めて再興
③中世後半は、24代遊行上人不外(1460-1526)より讃岐国内に末寺7か寺を賜るなどの寺勢を誇った
④天正期(1573~1592)の四国兵乱により悉く焼失(「寺開基由来帳」)。
寺蔵文書であるB「開帳中記録」には、次のように記します。「開帳中記録」天明4年(1784)
①弘仁3年(812)に弘法大師による阿弥陀如来の彫像を契機に「仏光山道場寺」として開山
②天台宗恵心僧都(942-1017)の後に退転していた諸堂を、仁治4年(1243)に讃岐へ配流された僧道範(1178-1252)が「大師古跡の場」「真言止観の床」として再興
③正応元年に一遍が時宗寺院の「郷照寺」に改めたと
ふたつの縁起ともに、18世紀になって書かれたもので、札所霊場としての弘法大師空海の由緒や、一遍の晩年の伊予帰郷や讃岐・阿波の遊行(「一遍聖絵」正安元年(1299))をもとに、後世に創作され付け加えられたものと研究者は考えています。どちらにしても、これらの由緒は同時代史料ではなく、そのまま信じることはできません。 建立時期の参考になるのは、次の二点です
A 本尊の阿弥陀如来坐像が平安時代後期の作と想定されること
B 境内から古代末から中世初頭の丸瓦(工芸品4・5)が出土していること
ここからは郷照寺は、古代に遡ることはできず、中世初頭頃までの創建と研究者は想定しています。
縁起が説く弘法大師空海伝説の「道場寺」と一遍の「郷照寺」の由緒は、中世以前の諸宗派による複数坊が並立していたことを伝えるものなのでしょう。ここからは、何人もの念仏聖や廻国修験者たちが、それぞれの坊を持ってこの地で活動していたことがうかがえます。それは善通寺や白峯寺・弥谷寺でも同じで、そのような姿が中世の一般的な寺院の姿だったことを押さえておきます。

宇多津 讃岐国名勝図会2
            讃岐国名勝図会 宇多津

郷照寺は、道場寺とも呼ばれていて、ふたつの名前を持っていたようです。
高松藩初代藩主松平頼重の命により、寛文9年(1669)に各大政所(大庄屋)に郡内の寺社を書き上げさせたC「御領分中宮由来同寺々由来」には次のように記します。

藤沢遊行上人末寺 時宗 鵜足郡 郷照寺 
一、開基永仁年中、一遍上人建立之、文禄年中、覚阿弥再興仕事」

意訳変換しておくと
「藤沢遊行上人の末寺で、時宗の鵜足郡郷照寺
 一、開基は永仁年中で、一遍上人が建立。文禄年中に、覚阿弥が再興した」
寛文年間(1661~1673)の藩政資料にも、遊行上人末寺の時宗寺院と記されています。
寺院名については、藩政史料や時宗本山との記録には「郷(江)照寺」の名称が使用されています。ところが江戸時代に刊行の四国遍路関係の案内本などには「道場寺」と記され、弘法大師ゆかりの札所と紹介されています。例えば真念の「四国辺路道指南」(貞享4年(1687)では、次のように記されています。
「讃州丸亀城下へわたる時は宇足津道場寺より札はじめよし」
「七十八番道場寺 少山上 堂ひがしむき 鵜足郡宇足津村 本尊阿弥陀 座一尺八寸
 御作おどりはね念仏 道場寺 ひやうしをそろえかねを打也」
意訳変換しておくと
「讃州丸亀城下へ船で渡るときには、宇足津道場寺から巡礼を始めるのがよい」
「七十八番道場寺は、小さな山の上にある。本堂は東向きで鵜足郡宇足津村にあり、本尊は一尺八寸の阿弥陀仏が座している。御作おどりは、念仏を唱えながら拍子をそろえ、鐘を打ち鳴らして飛び跳ねる」
  ここからは道場(郷照)寺には、時宗の念仏踊りが近世初頭まで伝わっていたことが分かります。

1 郷照寺踊り念仏
跳ね踊る時宗の念仏踊り 中央が一遍 (一遍絵図)
滝宮念仏踊りの由来の中には「菅原道真の雨乞成就を祈念して踊られるようになった」と記されます。しかし、古代に念仏踊りはありません。念仏踊りを始めたのは、中世の一遍です。一遍によって時宗の布教手段として全国的に広がります。それが風流踊りとして、近隣の村落に受けいれられるようになります。滝宮念仏踊りの起源は、時宗の念仏踊りにあることを押さえておきます。

郷照寺には、六字名号(南無駄弥陀仏)の版木が残っています。


南無阿弥陀仏版木2 郷照寺
六字名号版木 郷照寺
   弘法大師信仰を持った念仏行者が、この版木を使って、摺写した念仏を宇多津で広めたことが分かります。ここには高野系念仏聖の存在がうかがえます。この版本が作られた室町時代末期から江戸時代初期の四国辺路(遍路)は、六十六部廻国行者、山伏、念仏行者などいろいろな宗教者が巡っていました。この中で高野聖や時宗経系念仏聖は、弘法大師信仰を持ちながら念仏行や念仏踊りを踊っていたことが分かってきました。つまり、近世以前の郷照寺は、志度寺と同じようにさまざまな宗教者が集まって布教活動の拠点となっていたのです。だから「道場寺」なのです。時宗単独の寺とは云ず、真言系や天台系などの修験者や廻国行者の活動拠点となっていたことを押さえておきます。

 志度寺や郷照寺・海岸寺などの海沿いの霊場を拠点に活動した高野聖を見ておきましょう。
高野山といえば真言密教の聖地という先入観があります。もちろん、そうなのですが高野聖の長い歴史から見ると、中世の高野山は「日本随一の念仏の山」でした。納骨と祖霊供養によって「日本総菩提所」に仕上げたのが高野聖でした。 四国霊場の志度寺や弥谷寺や郷照寺も別格霊場の海岸寺も死者が集まる寺という共通性があったようです。高野聖が死霊の集まる四国霊場の寺やってきたのは、彼らがもっとも得意とした「滅罪生善」のために遺骨を高野へ運ぶためでした。

五来重「高野聖」読書メモ 四国霊場の弘法大師一尊化を進めたのは高野聖だった。 : 瀬戸の島から
高野聖
 高野聖の廻国のことを「歩く宗教家」と呼ぶ人もいます
その行装は「高野檜笠に脛高(はぎだか)なる黒衣きて」と『沙石集』にしめされたような姿で遊行し、関所通行御免の特権ももっていました。時宗の遊行聖は、旅に生き旅に死するのを本懐とし、一遍の跡を辿るものが多かったようです。六十六部の法華経を全国六十六か国の霊場に納経する六十六廻同聖も、減罪を目的に全国を回遊します。
  崇徳上皇の霊を慰めるために讃岐にやって来たと云われる西行も、「高野聖」です。
彼の讃岐行は、遊行廻国の一環とも考えられます。白峰寺参拝後には、空海の修行地とされる善通寺背後の五岳・我拝師の捨身瀧で3年も暮らしているのは、空海生誕の地で山岳修行を行うと共に、高野聖としての勧進の旅であったと研究者は考えているようです。観音寺に、やってきて長逗留した宗祗の旅も連歌師が時宗聖の一種であったことに行き当たると「ナルホドナ」と納得がいきます。
清涼寺の勧進聖人であった嵯峨念仏房の勧進願文には、「念仏者は如来の使なり」と記されます。
 中世は、村人は遊行聖が村にあらわれるまでは、先祖や死者の供養とか、家祈祷(やぎとう)・竃祓(かまどばらい)すらできなかったのです。専門教育を受けた宗教指導者は村にはいませんでした。そんな中に、遊行の聖が現れれば排除されるよりも、歓迎された方が多かったようです。
こうして、死者が集まる霊山・寺院には高野山からやってきた聖達が住み着くようになります。
そして、その寺を拠点に周辺村々への勧進活動を展開していきます。さらに中世末期から近世初頭にかけて、集落にあった小堂や小庵への遊行聖が住み着き定着がはじまります。現在の集落や字ごとに寺院ができる根っこ(ルーツ)のようです。
志度寺や弥谷寺・郷照寺に住み着いた 「聖」は、どんな人たちだったのでしょうか?
  空也以後の聖は念仏一本と、私は思っていたのですが、そうではないようです。確かに法然・親鸞・一遍が主張した専修念仏では法華経信仰と密教信仰は否定されます。そして、念仏だけを往生への道として念仏専修が王道となります。しかし、それ以前の、往生伝や『法華験記』に出てくる聖は、法華経と念仏を併せて修める者が多かったようです。さらに、これに密教呪法をくわえて学ぶ者もいました。法然とその弟子たちの信仰にも、戒律信仰や如法経(法華経)信仰が混じり合っていたと研究者は指摘します。高野聖の中には念仏と密教を併せて学ぶものが多く、修験行道と念仏は、彼らの中では一体化したものだったようです。
 ここでは次のことを押さえておきます
①志度寺や郷照寺・弥谷寺)は、さまざまな宗教者の道場(活動拠点)であった。
②そこには時宗系念仏行者や高野聖・修験者が活動していて、真言系や時宗などに区分することができなかった。
③廻国行者たちは芸能伝達者でもあり、村々にさまざまな芸能を流布した。そのなかには念仏踊りもあった。

中世にはさまざまな宗教者が混在して混沌とした宗教空間だった郷照寺も、近世になるとその様相を大きく変えます。 
貞享四年(1687)頃の真念『四国辺路道指南』には、次のように記されています。

「男女ともに光明真言、大師宝号(南無大師遍照金剛)にて回向し、其札所の歌三遍よむなり」

ここからは真言宗本来の光明真言が唱えられるようになっています。南無阿弥陀仏の念仏は、各霊場から「追放」され、弘法大師の一尊化が確立していたことがうかがえます。つまり、江戸時代初期から元禄時代にかけての間に、大きな変化があったことが分かります。郷照寺の版木は、弘法大師の多様さとそれを支えた念仏行者の存在が見えてきました。彼らの伝えた念仏踊りが、滝宮念仏踊りとして伝えられていると私は考えています。それは中世の道場寺(郷照寺)の性格を表すものなのです。

郷照寺は、道場寺とも呼ばれていた。
鵜足津湊、道場寺 第四巻所収画像000015
道場寺と表記されている郷照寺 (金毘羅参詣名所図会)
各書物には郷照寺の呼名が次のように記されています。
A 寂本の「四国編礼霊場記」元禄2年(1689)
「仏光山道場寺此寺本尊阿弥陀大師の御作鎮守社・鐘楼あり 
 いつのよ(世)りか、時衆の寺となれり」
B 四国遍礼名所図会(寛政12年(1800) 
「七十八番道場寺「仏光山江照寺」と両寺名併記
C 金毘羅参詣名所図会(弘化4年(1847)
「仏光山道場寺宇足津にあり四国遍礼第七十八番の札所なり」
D讃岐国名勝図会(嘉永7年〈1854)、
「江照寺 仏光山広徳院道場寺と云ふ 寺領五斗二升 時宗相州藤沢浄光寺末寺 
 四国八十八ヶ所の一、七十八番札所
寺院境内や周辺の道路道沿いにある明治期までの道標の多くには「道場寺」と記されているようです。 以上をどう考えればいいのでしょうか。研究者は次のように指摘します。

江戸時代から明治時代にかけては時宗寺院としての「郷照寺」と、弘法大師ゆかりの四国霊場第78番札所である「道場寺」という2つの名称をその性格により使い分けていた

このためふたつの名前が併存していたようです。

4344102-55郷照寺
四国霊場 郷照寺 (讃岐国名勝図会)

どうして郷照寺は、江戸時代になってもふたつの寺号を使い分けたのでしょうか?
それは時宗末寺の「郷照寺」でありながら、17世紀後半になると四国遍路が盛況になり、「弘法大師古跡の場」として札所の由緒を示す「道場寺」の寺号を手放すことができなかったためと研究者は指摘します。
 「四国遍路道指南』には次のように記されています。
(大坂から船で)讃州丸亀城下へわたる時は、宇足津道場寺より札はじめよし」

ここからは全国からの金毘羅参りの盛行と併せて、畿内からの四国遍路たちは丸亀湊に上陸し、郷照寺が打ち始めの札所としていたことが分かります。そのため郷照寺には多くの遍路がやって来るようになります。それが郷照寺に経済的利益をもたらすようになります。
 寛政5年(1793)の茶堂寄進の「下津井講中」「普請中順留諸法一件書出控」や、文化7年(1810)の石垣寄進碑にみられる「備前下津井萩野屋久兵衛」、「同播磨屋喜八郎」(石造物参道4)などです。これらは備讃瀬戸対岸の備前児島下津井の寄進者達の名が刻まれています。これは当時の丸亀湊へ備瀬戸主要航路の活発な交易活動の中で捉えられるものと研究者は指摘します。

それでは江戸時代の郷照寺が本山の記録に、どのように記されているのかを見ておきましょう。
寛永10年(1633)の時宗本山の末寺帳には、郷照寺の名はありません。つまり、この時点では、郷照寺は時宗末寺ではなかったことになります。それが享保6年(1721)の七条道場の末寺帳の讃岐の項目に次のように「讃岐七ヶ寺」が記されています。
「興善寺 爾保、興勝寺 勝間、荘厳寺 一宮、江(郷)照寺 宇多津、興徳寺 太田尼、
 浄土寺 由祐尼、高称寺 観音堂尼」

 これ以降の末寺帳には郷照寺の名が記されるようになります。つまり、高松藩初代藩主の松平頼重がやってくる寛永19年(1642)以前に記された史料には時宗寺院としての郷照寺の一次史料はないようです。 それが松平頼重が寛文9年(1669)に作成させた「御領分中宮由来・同寺々由来」には、次のように記します。
「藤沢遊行上人末寺 時宗 鵜足郡郷照寺」
「寺社記」(天保4年(1833)書写)には
「一、高五斗弐升 相州藤沢山清浄光寺末寺鶴足郡宇足津村時宗郷照寺」
藩政史料には、郷照寺は藤沢市の時宗総本山の清浄光寺の末寺とされています。
そして、「寺開基由来帳」(延享5年(1748)には、次のように記します。
「一 寺領高五斗弐升 従古来附来り候処 龍雲院様御代古来之通御改御寄附候由」

ここからは高松藩主松平頼重(龍雲院)から寺領として5斗2升の経済基盤が保証さます。以後は、寺領が保護され続けてたことが分かります。

イメージ 3
四国霊場 宇多津郷照寺
松平頼重は政治的な意図をもって、次のような藩内の宗教政策を進めたことは以前にお話ししました。
松平頼重の宗教政策

郷照寺を時宗に改宗させて、保護を与えた背後にはなんらかの意図があったことが考えられます。
以上をまとめておくと
①郷照寺は、寺伝にあるように中世から時宗寺院であったのではない。
②髙松藩の松平頼重の宗教政策の一環として、時宗寺院として再整備された
 松平頼重の宗教政策については以前にお話ししました。そのなかで讃岐の真言宗勢力の抑制のために、金倉寺や白峰寺・根来寺・長尾寺などを天台宗に改宗して整備保護していました。郷照寺の時宗への改宗もなんらかの政治的な意図があったことがうかがえます。それが何なのかは、今の私には分かりません。  最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「郷照寺調査報告書 第2分冊 香川県教育委員会 2026年3月」です。








琴平町の三水会の横関智也氏が紹介された備中国小野家の「讃岐国那珂郡七箇村五条村榎井村苗田村絵図」を見ています。前回までに五条村と榎井村を見てきましたので、今回は苗田村を見ていくことにします。
金毘羅天領の古地図 倉敷市歴史資料館
下(南)から 五条・榎井・苗田の三つの村が書き込まれています。現地で作成したものを、天領を統括する倉敷の代官所に提出したものです。
苗田村について、上絵図から読み取れる情報を挙げておきます。
①茶色が丸亀街道で、南北に延びてきたルートが長法寺の手前で西に曲がり、石井神社でドッグレッグしている。
②金倉川手前の横瀬で街道が南に向きを変える辺りに出水③が描かれている。
③この出水から北に用水路が伸びている。
④石井神社の北側の光賢寺の西側に、高札と郷倉があるので、この辺りが村の中心地であった。


苗田村拡大
上図の苗田村拡大図 石井神社周辺

角川出版の地名大辞典(627P)は、苗田村について次のように記します。(要約)
A 石高841石余。幕府領五条村・榎井村を合わせて池御領・池領・御領などと呼ばれた。
B 東西に分けて苗田東村(苗田村東組)苗田西村(苗田村西組)と称して庄屋が置かれた。
C 五条村・榎井村とともに金毘羅祭り(頭人祭り)の頭人を勤める家があり、祭りのための奉加米3石5斗が出されていた。
D 金毘羅大権現参詣道の丸亀街道が村内を通り、丸亀方面からの入口に当たり、門前町に見られるような富鬮が寛保元年、芝居が寛延3年・宝暦9年に行われている。
E 遊女も多く、風呂屋といわれる置屋もあって、遊女が門前町に入り込み問題となった。
F 「金毘羅御神事古法次第」には、天保10年の記録として
東組が庄屋1名・年寄1名のほかに惣百姓34人で、長法寺の名が見える
西組は庄屋1名・庄屋代1名・年寄4名のほか惣百姓34人で、光賢寺・西福寺・福成寺の寺院名が見える。
G氏神は石井八幡で、金毘羅大権現別当金光院で灌頂などがあった後に、愛宕権現称名寺鎮守と五条村大井八幡・榎井村春日明神と当村の石井八幡を参詣して回る五社参りが行われた。
H明治の「新撰讃岐国風土記」には、田111町余畑8反余・宅地9町余、戸数271、人口1,194(男601女593)。川は石淵川(野田川)、池は徳女池、泉は操矢井・樋口井・羽根出水・三田井など、神社は石井神社のほか稲生社、古川社など12社が記されており,村役場・尋常小学校がある。
I明治23年 象郷村の大字となる。
もう少し詳しく見ておきましょう。

天領と寺領
満濃池御料の三村(白色部分) 上が南
A 石高841石余。幕府領五条村・榎井村を合わせて池御領・池領・御領などと呼ばれた。
B 東西に分けて苗田東村(苗田村東組)苗田西村(苗田村西組)と称して庄屋が置かれた。
Aについては、苗田村は満濃池の維持管理のために置かれた池御料(天領)三ケ村の中の一つで、地理的には一番北側に当たります。この村は東西に分かれていますが灌漑用水路の水系が異なります。

琴平大井・春日神社

 上の土地利用図を見ると古代の水源は、①五条の大井神社 → ②榎井の春日神社 → ③苗田の石井神社を結ぶラインに旧河川跡の伏流水です。この線上に豊富な出水があり、大井や石井などと呼ばれ、そこに水神が勧進されて神社に成長していったことがうかがえます。一方、西側エリアでは大西病院裏の横瀬の出水から用水路が伸びています。また、さらに西側には金倉川が氾濫原として拡がっていて、この辺りは古代条里制施行の空白地帯で、中世や近世になって開発されたエリアであることが分かります。
 那珂郡南部の古代からあった式内神社は、大麻神社と櫛梨神社です。この周辺が古代の有力氏族の拠点だったのでしょう。それが中世になって出水からの灌漑用水路を整備して名主が登場し、それが国衆に成長していく様子が見えてきます。
Cには、「五条村・榎井村とともに金毘羅祭り(頭人祭り)の頭人を勤める家があり、祭りのための奉加米3石5斗が出されていた」と記されています。

苗田村も金毘羅祭り(頭人祭り)には頭人を出していました。

この祭りは、もともとは三十番社の祭りでした。それを近世初頭に流行神として登場してきた金毘羅神が、株取りして接木したものであることは以前にお話ししました。古代や中世には、金毘羅大権現は現れていません。この祭りを担ったのが中世の名主や地侍たちであったことについては、以前にお話ししました。
①中世の小松荘で行われていた八講会は、地頭、代官、領家などの領主主催の祭礼運営スタイルがとられていた。
②それは荘園領主の九条家が荘内の神社の祭礼を主催して、荘園支配を円滑に行おうとする統治意図が働いていた。
③祭礼実施のため「頭役(とうやく)」には重い負担がかかってくるので有力者が指名された。
④九条家のころは、預所のもとで案主、田所、公文などの荘官が中心になって法会を行っていた
⑤それが南北朝時代以後になると、荘内の有力者が頭屋に定められて、法会に奉仕することになった
⑥「金毘羅山神事頭人名簿」には、慶長年間の頭人として、次のような家が記されている。
香川家が五条村
岡部家が榎井村
石川家が榎井村
金武家が苗田村
泉田家が江内(榎井)村、
守屋家が苗田村
荒井家が江内(榎井)村
彼らは、それぞれの村の中心になった有力者で、「地侍」とも国衆とも呼ばれました。彼らは有力農民であるとともに、また武士でもありました。彼らが長尾城主の長尾氏の家臣団に組織され、守護の細川氏の軍団として畿内に送り込まれていたことは以前にお話ししました。
 生駒騒動後に讃岐が東西に分割されると、新たに設置された天領・池御領を代官として苗田村の守屋家でした。
寛永19年(1642)に池御料が置かれてから、元禄三年(1690)まで49年間、守屋家が代官として池御領を支配することになります。 幕府は、この時期になると新しく天領にした所では、現地のやり方や支配関係を継承して、急速に改めることを避けるようになります。「継続・安定」を重視して、在地の土豪を代官に任命するやり方をとりました。池御領の代官についても、まずは地元の最大の有力者である金光院主に代官就任を請います。しかし、金光院主の答えは「大恩ある生駒家の不幸を考えると受諾することができない」というものでした。そこで那珂郡の大庄屋で、金毘羅大権現の庄官でもあった与三兵衛を代官に任命します。 与三兵衛は、守屋与三兵衛と名を改め、苗田村に政所を置いて、幕臣として満濃池の管理と池御料の統治に当たることになります。

守屋家代官所跡

その後の経緯については以前にお話ししたので、ここでは省略します。
D 金毘羅大権現参詣道の丸亀街道が村内を通り、丸亀方面からの入口に当たり、門前町に見られるような富鬮が寛保元年、芝居が寛延3年・宝暦9年に行われている。
E 遊女も多く、風呂屋といわれる置屋もあって、遊女が門前町に入り込み問題となった。
Dについては、金毘羅参拝道の髙松街道沿いに発展したのが榎井村で、丸亀街道沿いに発展したのが苗田村になります。高灯籠から石井神社には門前町としての街並み形成が近世末には見られたようです。そして、Eのように苗田から金毘羅に遊女が入り込んで問題となります。榎井と同じように、苗田村では丸亀街道沿いに家並み形成が行われていた所もあったことがうかがえます。

G 氏神は石井八幡で、金毘羅大権現別当金光院で灌頂などがあった後に、愛宕権現称名寺鎮守と五条村大井八幡・榎井村春日明神と当村の石井八幡を参詣して回る五社参りが行われた。

Gの石井神社では、金光院 → 愛宕権現称名寺 → 大井神社 → 春日神社 → 石井神社の五社参り(巡礼)のひとつであったとあります。この背後には、金毘羅門前町の民政を取り仕切った普門院(多聞院)の組織力が働いていたと私は考えています。多聞院(片岡氏)は、土佐の仁淀川沿いの片岡の有力国衆で、長宗我部滅亡後に金光院に呼ばれて金毘羅にやって民政を統括します。片岡氏は、吉野参りを何度も行う真言系修験者で、彼を頼って全国から修験者が金比羅にやってきます。彼らは、金比羅周辺の堂や庵に住み着いて、天狗信仰や愛宕信仰などを拡げていきます。榎井や苗田などの神社も、彼らの影響下にあったようです。そして、寺領と天領の村社の別当寺的な役割を果たしていたようです。
佐渡島の大般若経 榎井・苗田からの搬出

  それを裏付けるのが上の佐渡島の佐渡市文化財指定の大般若経です。その解説は、次のように記します。
「この写経は、比叡山より讃州仲郡子松庄(香川県琴平町)石井八幡宮と榎井大明神宮の別当社に伝わり、所有していた。それが慶長十年(1605)、法印快秀の手によって(佐渡島の)畑野町長谷寺にもたらされた。長谷寺から大和田薬師に伝来したのはいつであるか不明である。」

ここからは佐渡に渡った大般若経六百巻が、もともとは石井(苗田)・榎井神社(春日神社)に共有の形で所蔵されていたことが分かります。有力寺社では毎年期日を決め、恒例行事として大般若経の転読が行われていたことは以前にお話ししました。そのため大般若経を持っているかどうかが、寺社のステイタスを表すものでもあったようです。それが共有されていたということは、背後の別当寺が同一であったことがうかがえます。そして、それは金毘羅寺領の民政を担当する普門院(多聞院)であったという可能性が高くなります。
  尻切れトンボ的になりますが、今回はこのあたりで終わります。

石井・大歳・櫛梨・富隈神社
丸亀街道沿いの神社 (金毘羅参詣名所図会)
石井神社と金刀比羅街道
拡大版 苗田村の石井神社周辺と丸亀街道
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 琴平町三水会の横関智也氏によって提供された「讃岐国那珂郡七箇村五条村榎井村苗田村絵図」(倉敷歴史博物館)を見ています。

金毘羅天領の古地図 倉敷市歴史資料館
讃岐国那珂郡七箇村五条村榎井村苗田村絵図」(倉敷歴史博物館)
前回は、天領の絵図下部の五条村を見ました。今回は中央の髙松街道沿いに発展した榎井村を見ていくことにします。榎井村東部の拡大図です。

榎井村 髙松街道 18世紀後半 讃岐国那珂郡七箇村五条村榎井村苗田村絵図」
髙松街道と榎井村東部(拡大)
上の絵地図から読み取れる情報を挙げておきます。
①榎井村の中央を髙松街道(茶色)が貫き、沿道に家が建ち並んでいる。
②土器川を渡った髙松街道が真楽寺の所でドッグレッグして、春日神社の北側を西に伸びていく
③春日神社には出水が描かれている
④法蔵寺近くの十字路の東側に高札場と郷倉があり、榎井村の中心であった

①については、後に述べます。
②について、髙松街道が真楽寺の所でドッグレッグしているのは何故でしょうか?
その理由として考えられるのは、土器川(祓川)の渡場から真っ直ぐに西に伸びてきた髙松街道を、金倉川にかかる鞘橋に結びつけるには、どこかで南にルート変更する必要がありました。その変更点がこの地点だったと私は考えています。ここには榎井の村社である春日神社があります。そして春日神社には、こんこんと湧き出す泉(出水)があります。春日大社と鞘橋は早くから生活道で結ばれていたのかもしれません。
DSC05362
              春日神社(琴平町)の本殿横の出水
③の春日大社の出水は、前回お話しした五条村の大井神社と同じで、神聖な場であると同時に、下流の水源地としても機能していました。春日大社の水源をもとに開かれたのが榎井村になることは以前にお話ししました。五条が本村、榎井が新村です。

駅から近いです
奈良市の高札場
④の高札場と郷倉が榎井村の中心だったようです。この辺りに中世の石井氏の居館もありました。

琴平 本庄・新庄2
琴平の五条の能勢氏の本庄城と、榎井の石川氏の石川居館(山本祐三氏 琴平の山城より)
現在は春日神社と呼ばれ、「立荘の際に藤原氏の氏神である奈良の春日大社を勧進」したからと説明されます。しかし、社伝には「榎井大明神」と記されています。そして、榎の大樹の下に泉があり、清水が湧出することから名付けられと記します。また、社殿の造営なども次のような人たちが関わっていたことが棟札からも分かります。
寛元二年(1244)、新庄右馬七郎・本庄右馬四郎が春日宮を再興
貞治元年(1362)、新庄資久が細川氏の命により本殿・拝殿を再建
永禄12年(1569)、石川将監が社殿を造営
ここに出てくる新庄氏・本庄氏は、観応元年(1350)十月日付宥範書写(偽書)の『金毘羅大権現神事奉物惣帳』に、「本庄大庭方」「本庄伊賀方」「新庄石川方」「新庄香川方」などと出てくる宮座を構成する有力メンバーです。彼らは小松荘の本庄(五条)・新庄(榎井)に名田を持つ名主豪農クラスの者で、後に国人土豪層として戦国期に活動したことが、残された感状などからも分かります。以上からは、春日神社は新庄氏や石川氏の氏神としての性格を併せ持っていたことが分かります。それが近世になって「榎井大明神」から「春日神社」に接ぎ木されて株取りされたようです。どちらににしても春日神社と石川氏の居館跡の辺りを中心に、中世の中心はあったのでしょう。それが18世紀になって髙松街道沿いに東西に発展していきます。ここに高札場が設けられたのは、そのような背景があるからだと私は考えています。

絵地図の西側を見ておきましょう。

榎井西部 興泉寺
榎井村西部
⑤髙松街道沿いに、南に法蔵寺・玄龍寺、北に興泉寺がある。
⑥興泉寺が金毘羅寺領の新町との境界であった。
⑦興泉寺には南東から(琴平マルナカ)流れる水路が描かれている

  18世紀初頭の元禄時代に書かれた金毘羅大祭行列屏風図と見比べて見ましょう。

金毘羅大祭行列屏風図 新町 容量縮小版
大祭行列屏風図の榎井と寺領境界(元禄年間)
多く人達が行列を組んで髙松街道を、本社に向かっている姿描かれています。この絵図からは次のような事が読み取れます。
①榎井の間には、木戸が金毘羅寺領の新町側に木戸が構えられている。
②街並みは新町側で終わっていて、榎井側には家並みはなく田んぼが続いている
この絵図が書かれたのが18世紀初頭です。そして、池御料地図は18世紀後半に書かれたものです。そうだとすると、18世紀の短期間の間に、榎井の髙松街道沿いに家並みが建ち並び都市化したことがうかがえます。18世紀は、榎井村にとっては大発展の世紀であったことを押さえておきます。

木戸前後
               大祭行列屏風図の榎井との境界部の拡大
木戸を抜けると金毘羅領です。頭人の奴行列が金毘羅領に入ろうとしているところです。それを参拝者が、道の端に寄って、行列を眺めています。大祭に奉仕する女頭人を乗せた駕籠が、丸亀街道との合流点に立つ鳥居を今まさにくぐったところです。そして男頭人は、乗馬姿で髙松街道を池の御領方面からやってきて木戸に差し掛かろうとしています。その木戸を入ったところに、うどんの看板を掲げた店があります。これが讃岐でのうどん屋出現を示す最も古い史料になります。空海が中国から持ち帰ったのを弟子が讃岐に伝えたというのは俗説です。
今度は幕末の讃岐国名勝図会に描かれた榎井村を見ていくことにします。

榎井・五条天領 大井八幡
髙松街道沿いの榎井村(讃岐国名勝図会)
北からの髙松街道榎井の俯瞰図になります。この絵図からは次のような事が読み取れます。
①東から伸びてきた髙松街道が真楽寺でドッグレッグしている。
②榎井村の西端に興泉寺が描かれていて、街道には切れ目なく民家が建ち並び門前町を形成している。
③街道沿線には、寺社がいくつも描かれている
こうしてみると、幕末には榎井村は人口がさらに増えて街道の背後まで家が建ち並ぶようになっていたことが分かります。讃岐国名勝図会が榎井村の名勝として絵図入りで紹介している玄龍寺です。

榎井 玄龍寺の松
榎井村の玄龍寺
左からうあってきた髙松街道が右の金毘羅側に続き。多くの往来が描かれています。この辺りに、榎井村の高札と郷倉があったことになります。
天領と寺領
池御料三村と金毘羅寺領(上が南)

榎井の東端でドッグレッグした髙松街道を東に進むと、四条村です。ここは髙松藩になります。四条については、讃岐国名勝図会には次のように描かれています。

讃岐国名勝図会 髙松街道 土器川・四条
土器川周辺・四条村 (讃岐国名勝図会)
以上をまとめておきます。
①古代中世の榎井は、春日神社(榎井大明神)の出水を利用したエリアに集落が形成された。
②中世には大井神社を中心とする五条が本所(庄)で、石井氏の榎井大明神(春日神社)は新所(庄)で、それぞれの国衆の氏神であった。
③春日神社と石井氏の居館を結ぶ用水路沿いと、その下流域が榎井エリアであった。
④それが流行神の金毘羅神の登場で、金比羅寺領の門前町化が18世紀になって進むと、榎井も髙松街道沿いに人家が建ち並ぶようになった。
⑤榎井村の高札場は、石井氏の居館に近い髙松街道沿いに建てられた。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考史料
 横関智也の提供「讃岐国那珂郡七箇村五条村榎井村苗田村絵図」(倉敷歴史博物館)
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   決壊中の満濃池   
満濃池と池御料三村(白色)と金毘羅寺領(黄土色)
1640年に生駒騒動で生駒藩が転封すると、その後の讃岐は髙松藩(草色)と丸亀藩(茶色)の東西に分割されます。その時に満濃池の管理費の捻出のために設置されたのが池御領という天領(白色)でした。こうして金毘羅寺領に接した①榎井②五条③苗田の三村は、幕府の直轄地となり倉敷代官所などの支配下に置かれることになります。金毘羅寺領と池御領の位置関係は上の絵図の通りです。

1648年 幕府の金光院への朱印状
金毘羅寺領と天領三村の石高
倉敷代官役所管下の天領・窪屋郡倉敷村の庄屋を勤めた小野家には、「讃岐国那珂郡七箇村五条村榎井村苗田村絵図」という大きな一枚の絵図があります。これを初めて紹介したのは、琴平町の三水会の横関智也氏です。
金毘羅天領の古地図 倉敷市歴史資料館

横関氏は、次のように報告しています。
①提出先が倉敷代官「万年七郎右衛門 様 御役所」 となっている。
②この代官の任期は、一回目が明和7年~安永4年(1770年~1775年) 、二回目の任期が天明4年~天明7年没(1784年~1787年没)なので、制作されたのは18世紀後半
④提出者が苗田村・東庄屋新左衛門と同村西庄屋五郎衛門 
⑤いままでの紹介されたことのない新史料の絵地図であること
以上から、この絵図が18世紀後半に池御料で制作されて、倉敷代官所に提出されたものであることが分かります。今回は、この絵地図の中の五条村について見ていくことにします。
五条村の部分からは、次のような事が読み取れます。

五条村絵地図 18世紀後半
五条村の部分
①川は青色で描かれていて、金倉川と買田川が石淵の手前で合流している。
②石淵の対岸には神事場は描かれていない。神事場が整備されるのは神仏分離の明治維新後。
③街道は茶色で描かれていて、阿波町から阿波街道が五条村の中央を東西に貫通している。
④阿波街道沿いに札場と所蔵(郷倉)がセットであり、ここが行政的中心であったこと。
⑤札場から阿波街道はくねくねと曲がっているが、これは出水①の用水路沿いに作られたため。
⑥出水①が中世以来の五条の水源で、その水の供給範囲が中世の荘園領であった。
⑦出水④の水が湧き出す霊域に祀られたのが「大井神社」で、その背後は四条村になる。

高札場とはどんなものだったのかを見ておきましょう。

高札場とは何?復元された名古屋市緑区東海道鳴海宿の高札場に行った感想

名古屋市の東海道鳴海宿の高札場

高札場のことを。AIに訊ねると次のように答えます。
高札場とは幕府や領主が、法度(法律)や禁制(禁止事項)を記した木の板(高札)を掲げた施設のこと。設置場所は、村の中心部や、橋のたもと、十字路など、人の往来が多い所。構造は、権威を示すために一段高く作られ、雨風から札を守るための屋根や、保護のための柵が設けらた。
次に郷倉を見ておきます。

吉野上村郷倉平面図
まんのう町吉野上村の郷倉平面図です。明治になって小学校や交番として利用されるようになります。

幕府は、1788(天明8)年2月に「郷倉設置令」を出して、飢饉に備えて村ごとに非常救米の備蓄を命じています。

 
これを受けて高松藩・丸亀藩や天領でも一斉に、郷倉(所蔵:ところくら)が設置されます。そして、年貢米の一時的集積地となります。池御料の年貢米は、ここから那珂郡と鵜足郡の人夫と馬の夫役で、宇多津まで運ばれ、そこから倉敷へ送られました。 
 郷倉は明治になって、戸長役場や小学校・交番に転用されます。ちなみに各村の郷倉は、年貢の一時保管庫以外にも、犯罪者や問題を起こした人間を入れておく留置場の役割も果たしていたことは以前にお話ししました。ここでは、札所と郷倉はセットで、村の中心に作られたことを押さえておきます。五条村では、現在の琴平高校の南側の旧阿波街道沿いに建てられていたようです。この辺りに、本村や本条という地名も残っています。
 私が注目したいのは、出水①④のある大井神社と五条村の関係です。
  角川の地名大辞典には、次のように記します。

五条は金倉川の上流域に位置する。地名の由来は、条里制那珂郡五条にあたることにちなむ。南部の買田峠の三坂山一体には古墳群があり、仲多度農業普及事務所(琴平マルナカ東)の構内からは弥生式土器が出土している。

琴平町五条
現在の琴平町五条 中央水色が金倉川

グーグル地図で現在の琴平町五条を押さえておきます。
①五条の真ん中を、東西に金倉川が貫通する。
②大井八幡が氏神で、この周辺の出水から導水されたJR土讃線の北側の範囲に集落が形成された。
③R32号が金倉川を渡る橋の東側下に、いまも豊かな出水があり、古代の重要な水源地となっていた。
④その水源を霊地として「大井神社」が建立された。これは榎井の春日神社よりも古い。
⑤五条集落の形成は、榎井よりも早い。五条が本村で、榎井は新村(分村)

琴平大井・春日神社
五条附近の金倉川痕跡 
上記の土地利用図からは次のような情報が読み取れます。
A 金倉川は三坂山の所で流路を大きく変えていたこと
B かつての河道は大井神社から春日神社方面や、買田峠のすぐ下を流れていたことあったこと。
C 五条方面では、JR土讃線に沿うように流れていたこともあった。
こうしてみるとBの大井神社や春日神社にいくつも出水があり、それが聖域化し、そこに神社が建立されたことや、」C沿いに伏流水が流れて、それに沿って阿波街道も開けたようです。

まんのう町条里制と遺跡
三坂山の群集墳と準郡衙的な買田岡下遺跡と四条の弘安寺
⑥買田の三坂山には、古墳時代後期の群集墳があったとされ、岸上には、横穴石室の古墳もある。
⑧買田のJOYの南側からは、8世紀の官衛的遺跡も発掘されている。
⑨五条の東側の四条には、白鳳時代の瓦が出土している弘安寺が建立されている。
以上からは五条・買田附近では、弥生時代に大井神社付近の出水を水源にして稲作が始まり、古墳時代には群集墳の渡来人による開発が進み、律令時代には官衛的な建物や古代寺院が姿を現すようになったと云えそうです。古代から順調に力を伸ばし続けた勢力の拠点地であったことがうかがえます。これをまとめると次のようになります。

五条・買田の歴史

つまり、那珂郡の最南端の条里制や、四条の弘安寺・買田の郡衙的建物は、五条近辺に勢力を持っていた古代豪族によって作られたと私は考えています。それは佐伯氏ではありません。ここは多度郡ではなく那珂郡です。佐伯氏の勢力の及ぶ範囲ではありません。また、和気氏(因支首氏)でもありません。ましてや神櫛王(綾氏)でもありません。それについては、以前にお話ししたのでここでは触れません。
丸亀平野条里制 琴平の五条・四条
丸亀平野の条里制 琴平町の五条は那珂郡条里制の最南端に位置する

次に中世の五条周辺を見ておきましょう。

まんのう町の郷
五条は小松郷に属した

延慶二年(1309)の九条家の「九条忠教注給条々」には、次のような記載があります。
  小松荘 御馬飼赳晶公器談
此の如く仰せらると雖も、其足に及ばずと称し、行宣御預を辞し了ぬ、其以後各別の沙汰と為て、馬飼に於ては小豆嶋に宛てる所也 
意訳変換しておくと
 小松荘には、峯殿と呼ばれた九条道家の建立した寺のために、馬の飼育が充てられていた。行宣という者がその負担が困難だと辞退してきたので、馬飼の役を同じ九条家領の小豆島に替えた。

ここからは次のようなことが分かります。
①14世紀初頭の小松荘には、九条家から馬が預けられ飼育されていたこと
②飼育を行っていた行宣も預所であったこと
③九条家には小豆島にも馬の飼育を行う牧場があったこと
①②からは小松荘には九条家の馬を飼育する牧場があったことが分かります。つまり、九条家の荘園になっていたことが裏付けられます。
九条道教は貞和4年(1348)に亡くなり、経教があとを継ぎます
南北朝動乱後の応永3年(1396)4月の「九条経教遺誠」を見ると、道教の時40か所あった所領が16か所に激減しています。そして、讃岐国小松荘の名は、そのなかから消えています。一方、応永十二年(1405)に、室町幕府三代将軍足利義満は、備中守護職の細川頼重に次のような所領安堵の御教書を与えています。
    御判  (足州義満)  
備中国武蔵入道(細川頼之)常久知行分閥所等 讃岐国子松荘、同金武名(中首領跡)、同国高篠郷壱分地頭職、同公文職、伊予国新居郡ならびに西条荘嶋山郷の事、細河九郎頼重領掌、相違有るべからずの状件の如し、
応永十二年十月廿九日
意訳変換しておくと
備中国の武蔵入道(細川頼之)が知行していた領地と、併せて讃岐国の小松荘、金武名、高篠郷一分地頭職、同じく高篠郷の公文職、伊予国新居郡ならびに西条荘嶋山郷について、細河(細川)九郎頼重が相続したことを認める。

ここからは、九条家領であった小松荘が備中守護細川氏の所領になっていることが分かります。小松荘については、九条家領からその名が消えて、細川氏家領として記されています。九条家が持っていた荘園領主権が細川氏の手に移ったことが分かります。その時期は、頼之が讃岐守護となった貞治元年(1326)以後のことと研究者は考えているようです。
 以後、小松荘は、義満以下代々の将軍の安堵を受けて、備中守護細川家に伝領されていきます。讃岐守護は細川氏の惣領家です。分家である備中細川氏の所領の保護は怠りなかったでしょう。
しかし、応仁の乱が起きると、それも安泰ではなくなったようです。
讃岐の細川家の所領も、このころには細川氏の手を離れたようです。以後の備中細川家の安堵状には、小松荘の名は見えなくなります。小松荘は誰の手に置かれたのでしょうか。
 16世紀初頭の永世の錯乱後、阿波勢力の讃岐侵攻を受けて讃岐は各国に先駆けて戦国時代に突入します。そのような中で丸亀平野をめぐっては、阿波三好氏に属した長尾城主と、反三好の天霧城香川氏の勢力争いが展開されます。そのような中で小松庄の国衆は、長尾氏の参加に編入されていったことは以前にお話ししました。その拠点とされるの五条の古城です。

琴平 本庄・新庄
琴平高校北側の本庄城は能勢氏の居館((山本祐三 琴平町の山城より)
 一枚の絵地図を見ながら、私の考えている五条の歴史を振り返ってみました。最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
横関智也氏提供 「讃岐国那珂郡七箇村五条村榎井村苗田村絵図」
参考文献
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象頭山金毘羅全図1 新町 阿波町
金毘羅五街道 五街道が集まって一本の参道となる
「四国の道は、こんぴらに続く」と云われるように、五街道が金毘羅門前町で合流し、一本の参道となって本社につながっていました。そのうちの阿波から金比羅への道を「阿波みち」と呼んでいました。その街道の付け根に、お旅所(神事場)があり、街道にはノコ屋、目立て屋、ヤスリ屋、鍛治屋などがひしめていました。今回は、この阿波町について見ていくことにします。
  テキストは「町史ことひら3 民俗編 83P」です。
まず略図で阿波町の位置を確認しておきます。

金毘羅門前町
街道の合流位置は、次の通りでした。
①の髙松街道に、
②の丸亀街道が新町で北から合流
③の阿波街道が鞘橋手前で南から合流
⑤多度津街道が内町で北から合流
④伊予土佐街道が、谷川町で合流。
ここでは、③の阿波街道は鞘橋の東側が起点になっていたことを押さえておきます。それを18世紀初頭に描かれた「金毘羅大祭行列屏風図」で見ておきます。

金毘羅大祭行列屏風図 10
「金毘羅大祭行列屏風図」(金刀比羅宮宝物館)

金毘羅大祭行列屏風図 新町 容量縮小版
            大祭行列屏風図 寺領入口の木戸から鞘橋まで

鞘橋祭礼屏風図鞘橋沐浴図
鞘橋周辺の拡大図 右下が阿波町

この部分からは次のような事が読み取れます。
①池の御領(天領)の榎井村から寺領への入口には木戸が設けられていること
②木戸から鞘橋まで街道沿いに「新町」が形成されていたが、その背後は田んぼであったこと
③新町の丸亀街道の合流点に石造の白い鳥居が建っていること
④鞘橋手前で南からの阿波街道が合流していること
⑤そして街道沿いに阿波町が形成されていること。
DSC01023鞘橋から阿波町
金毘羅門前町 阿波町
この絵図では阿波町が鞘橋を起点に、石淵附近までのびていたことが分かります。神事場が整備されるのは神仏分離の明治維新以後のことです。神事場のたりには雑木林が描かれています。注目したいのは、街並みが戸切れるところに柵のように見える木製の鳥居が描かれていることです。これは、あとで見ることにして幕末の阿波町を、讃岐国名勝図会で見ておきましょう。

大祭絵図 鞘橋・阿波町・金倉川 讃岐国名勝図会
           瀬川神事(後の大祭行列) 金毘羅参詣名所図会
この絵図からは次のような事が読み取れます。
①頭家行列が本社から下りてきて内町から鞘橋を渡ろうとしている
②金倉川の対岸には、神事場に続く阿波町の街並みが続く。
③建物は川にせり出すような2階建ての建物が並ぶ
④鞘橋の上流には小さな板橋も渡されている。
この絵図からは幕末の阿波町は、金倉川沿いに南に伸びて、その沿道が市街化していったことが裏付けられます。 文政五年(1822)に片岡正範が著した「証記」の中に「当地町方の事」には次のように、阿波町が記されています。
阿波町の事 是又昔はとぼとぼにこれ有り、今は繁昌し町並に成り阿波国え越く出口故阿已町と云う事
意訳変換しておくと
阿波町については、昔はぽつぽつとしか家がなかったが、今は繁盛して街並みとなっている。阿波への出口なので阿波町という。

先ほど見た阿波町の入口にあった鳥居を見ておきましょう。
 
3 阿波町鳥居
阿波町の鳥居(現在は学芸館前 もともとは南神苑(神事場)東側に立っていた)

この鳥居は、嘉永元年(1848)に阿波国三好郡講中の人たちによって奉納されています
鳥居の銘文にある講中の村々を挙げてみます。

 東山・昼間・足代(三好町)太刀野・太刀野山・芝生(三野町)・中庄・西庄・西庄山・加茂(三加茂町) 辻・西井川(井川町) 池田・州津・西山(池田町)

こうして見ると三好・三野・三加茂・井川・池田など三好郡の吉野川の両岸に分布する村々の人達の寄進で建立されたことが分かります。昼間村から講元引請人と世話人四人を出しているので、このエリアの人達が中心になって寄進奉納が行われたことがうかがえます。昼間には「金毘羅さんの奥社」を自称する箸蔵寺があって、箸蔵の修験者たちが金比羅周辺でも活動していたので、そんな関係もあったのかも知れません。ここでは、昼間村を中心とした勧進活動が行われ阿波町の入口に鳥居が建立されたことを押さえておきます。
 どうして阿讃山脈の向こう側の三好の人達が金毘羅門前町に鳥居を寄進したのでしょうか
金毘羅ほどの賑わいのある町は、吉野川沿いにはありませんでした。金比羅は品物も豊富で、金毘羅さんの阿波街道の入口には「阿波町」が形成され、阿波出身の商人達がいろいろな店を出していました。贔屓の店が、ここにあったのです。また。山仕事に必要な道具を扱う鍛冶屋、鋸屋など職人の町でもありました。ここには阿波の人たちによって鳥居が奉納され、大勢の阿波の人達が金毘羅参詣を兼ねて訪れました。東山では明治の中頃まで、年末になると金毘羅の阿波町へ正月の買い物にいき、めざしや塩鮭、昆布、下駄などを天秤棒にぶらさげて、日の明るい内に帰ってきたと伝えられます。
阿波の人達によって寄進された石畳と玉垣・灯籠・鳥居などの寄進を歴史順に並べると次のようになります。
①文政三年(1820) 阿波藩主の灯籠寄進
②天保十五年(1844)  「阿州藍師中」による玉垣奉納
③嘉永元年(1848) 阿波街道起点の石鳥居 吉野川上流の村々から奉納
④安政七年(1860)  石燈龍奉納 麻植郡の山川町・川島町の村人77人の合力
⑤文久二年(1862)  阿波敷石講中による桜馬場敷石奉納スタート   池田・辻中心
4 玉垣桜馬場21
⑤の文久二年(1862)阿波敷石講中による桜馬場の玉垣 「阿州穴吹」と見える
ここからは、阿波の蜂須賀家の殿様 → 藍富豪 → 一般商人 → 周辺の村々の富裕層へという寄進層の変遷が見えます。殿様が灯籠を奉納したらしいという話が伝わり、実際に金毘羅参拝にきた人たちの話に上り、財政的に裕福になった藍富豪たちが石垣講を作って奉納。すると、われもわれもと吉野川上流の三好郡の池田・辻の町商人たちが敷石講を作って寄進。それは、奉納者のエリアを広げて祖谷や馬路方面まで及んだことは以前にお話ししました。

DSC01447阿波町 阿波街道
琴平町阿波町 
「町史ことひら3 民俗編 83P」には阿波町の賑わいを次のように記します。

阿波町界隈には、ノコ屋九軒、ノコ目立て屋四軒、ヤスリ屋四軒のほか、農鍛冶屋、ヤリ屋、下駄屋布団屋、小間物屋、麦わら帽子屋豆腐屋、肥料屋、箱製造、表具屋、染め物屋、能屋、提灯屋八百屋、古物屋、酒屋、たばこ屋質屋果物屋、風呂屋、床屋、建材店、桶屋、精米店、佛壇屋、運送屋、魚屋、うどん屋等々が建ち並んでいた。徳島県からの参拝客だけでなく、ほかの街道を通った人達も、何でもそろっている阿波町に立ち寄った。

 ノコは山林用に使う大物から小物まで多彩。こんぴら参詣のついでに目立てノコを持参して、お参りする前に阿波町に立ち寄り、帰りに仕上がったノコをもらって帰った。日数のかかる目立てノコは、近所の人がこんぴら参りをするとき、持って帰ってくれた。その代わり、以前預けた人のノコを持ち帰ることもあった。

 阿波町のノコ製造は、江戸末期ごろから始まり、明治末期からは、谷口清太郎、山下長松浅田(庚申堂)の三人が「こんぴらノコ」の基礎を作った。材料のハガネは山陰の東郷や安木から仕入れ、フイゴと「トッテンカン」の荒打ち作業、仕上げ作業を経参詣客用の土産ノコを作った。
 
ヤリ屋は「ぼう屋とか」、ロクロを回すので「ロクロ屋」とも呼ばれる。

 江戸時代、槍の柄を作っていたので「ヤリ屋」と呼ぶ。ヤリ屋の仕事は、真樫で鍬の柄(え)を作ることだった。両方の掌にすっぽりと収まる柄は、真ん中にいくほど、細くなるように仕上げる。材料の真樫は、満濃町、仲南町・綾南町のヤリ屋仲間と一緒に、徳島県の半田や高知県の大辺りまで木を見に出かけて手に入れる。いい木があると伐ってもらい、柄が取れるように、クサビを打ち込み、カケヤを使って「フロワリ」する。あとは、フロワリした材を束ねて運び出す。原木のまま運ぶより、その方が作業がはかどる。フロワリした材は、二年以上仕事場で干す。しっかり乾燥した材は、狂いが少ない。一本作るのに、すべて手作業である。(中略)阿波町のヤリ屋の手仕事は、五色台の瀬戸内海民俗資料館に収蔵されている。

以上をまとめておきます。
①金毘羅門前の鞘橋から神事場にいたる街道沿いに阿波町が形成された。
②この町筋は、ノコやヤリ屋などの職人や阿波からやってきた人達が商売をしていた
③阿波三好の人達は、徳島城下町よりも金比羅の方が便利であったので、何かの折には阿波町の贔屓の店を利用した。
④そのため阿波町の鳥居は、三好郡の有力者の寄進によって建立されている。
⑤阿波街道を経ての人とモノの流れの起点となっていたのが阿波町であった。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
    「町史ことひら3 民俗編 83P」 
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P1190798
田野々の庚申塔
 阿波のソラの集落を廻っていると、お堂と庚申信仰の痕跡によく出会います。

庚申信仰=山伏形成説

山伏たちによって庚申信仰がソラの集落に拡げられ、そこをテリトリーとしていたことがうかがえます。ところが、私の住む金毘羅周辺には、庚申信仰はあまりみられません。どうしてなのか疑問に思っていましたが金光院日帳を見ていると疑問が解けてきました。今回は金光院と庚申信仰の関係を見ていくことにします。テキストは「町史ことひら3 民俗編274P」です。

金毘羅天領と寺領
満濃池水掛村々之図(1870年)の拡大図 黄色が天領 赤が金毘羅寺領 桃色が高松藩領

 金光院住職は、金比羅社領330石の小さいながらも領主で「お山の大将」でした。

そのため領主として禁令やお触れを出しています。禁令が出されると云うことは「禁止すべきようなことが当時は行われていた」ということです。そういう目で見ていきます。
①元禄二年(1689)十一月  髙松藩より境内での殺生禁止、山林竹木切るべからざるの制札下さる。
②元禄七年(1694)十月 宿貸し・遊女博奕停止のこと触す。
③正徳四年(1714)六月二十日 庚申待無用申し渡される。
④享保六年(1721)十一月八日 近在に辻芝居があるので、住民に見物無用申し渡す。
⑤享保十八年(1733)八月二十日 町方裏借屋は法度に仰せ付けられる。
⑥享保二十年(1735)一月十九日 町方で綱引のとき口論があり、以後綱引停止。
⑦寛保三年(1743)六月二十二日 (金倉川)川筋にて殺生禁の札を建てる。
⑧延享四年(1747)五月二日  内町虎屋兵次郎、入口玄関の普請分不相応につき閉門八日、破風玄関式台取り除き閉門御免。
⑨寛延三年(1750)六月二十三日  苗田村の相撲見物無用申渡す。
⑩寛延四年(1751)九月二十四日 年中の月待日待・庚申待は夜食切に仕舞うよう申し渡す。
⑪宝暦二年(1752)二月九日  愛宕町の平兵衛、南の山にて小松を伐採したので追放。
⑫宝暦三年(1753)二月 曜日婚礼の折り、石打ちする者があり組頭とも閉門。
⑬宝暦五年(1755)七月二十九日 昼の葬礼また川より西にて火葬のこと無用申し渡す。
 十一月二十八日 醤油仕込みの節、老女呼び上げること無用。
⑮宝暦九年(1759)七月十三日 笛田村の相撲見無用。
⑯          七月二十四日 桜藤三郎、屋敷の木を切ったので閉門
十二月十七日 町方借者に念を入れるよう申し渡す。
⑱宝暦十一年(1761)十月晦日  榎井村のあやつり芝居見物無用。
⑲明和二年(1765)五月十七日  神前近辺で薪をこしらえること御法度。
  六月十八日 五條村の相撲芝居見物無用。
⑳安永三年(1774)五月十八日 奉公人のうち、貸屋者の請状を出さない者があるので、総体に申し渡される。
㉑ 天明五年(1785)十月   奉公人の宿貸しするのは風儀上良くないので無用申し渡す。
 十一月  会式中に奉公人で宿貸した者があり、閉門申し付ける。
㉓寛政四年(1792)八月  高松様御逝去の忌中のところ、謡をうたった者があり遠慮申し付ける。
㉔天保元年(1830)五月二十一日  社領の者に、一向宗法談聞のこと差し止める。
 九月十六日、   十二日夜に石打徒党の者に閉門申し付ける。
㉖天保五年(1834)五月十四日 五日の夜、鞘橋の下で殺生した内町屋太兵衛の清之助、同嶋屋金蔵伜十太、金山寺町弥三郎作俊吉、取調べのうえ入牢申し付けた。このほど格別を以て御免になり、それぞれの親へ預けるよう仰付られる。
       十一月二十九日  神前の灯籠を盗んだ甚兵衛件磯吉を召し捕え、裸乱髪に橋の下にさらし、五日目に追払い申し付ける。
㉘天保六年(1835)六月十九日 前町にて御守札に寄せの小絵図を売る者があるのを指し止める。
㉙天保七年(1836)五月十一日  出来屋善左衛門外二名、十二景図を土産に紛らわしく仕立てて売り出した咎により戸閉め申し付ける。
㉚弘化三年(1846)三月二十五日  榎井村口の諸殺生・山林竹木のお札新たに出来、古き分は西口峠(牛屋口)へ廻す。
 六月二十三日  石渕の神事場へ殺生禁断の制札を立てる。

まず庚申講について、見ておきましょう。

庚申待2

③の正徳四年(1714)の「庚申待無用申し渡される。」が、最初のお触れです。18世紀初頭に金毘羅周辺でも庚申信仰が広まってきたことがうかがえます。それに対し「庚申待無用」を金光院は通達しています。しかし、人々の信仰熱は押さえられません。約40年後の⑩寛延四年(1751)九月二十四日 年中の月待日待・庚申待は夜食切に仕舞うよう申し渡す。」と再度の通達が出されています。
 補足すると次のようになります。

「夜遅くまで会合しても、決まり通り法中は法衣を着し修法などして、在家も真言を唱えて殊勝に待つのであれば祈疇にもなることであるが、そうではなく深夜まで遊興がましいことばかりするのでは無益であるだけでなく悪業をも増すことになって全く良くないので、法事のあとは夜食切りで解散するように心懸けること」

これは「深夜まで遊興がましいこと」を行う庚申待ちが流行してきたので、それにブレーキをかけるものです。しかし、「禁止」ではありません。一晩中寝ずに庚申待ちをするのは止めよと、後退した内容です。
庚申待ち2
庚申待ちの様子を描いた絵図 床の間に庚申さまが掛けられているが拝んでいるのはひとりだけ。あとはどんちゃん騒ぎの様子。
 以上をまとめておきます。
①金毘羅門前町では18世紀初頭には庚申信仰が流行神として拡がってくるようになった。
②これに対して金光院は「庚申講無用」とするが、広がりを押さえることは出来なかった。
③そこで18世紀半ばには、「庚申待は夜食切に仕舞え」と再度通達している。
④この背景には、庶民の中での庚申講の盛行があり、頭から禁止できないほどになっていたことが考えられる。
⑤しかし、金毘羅周辺には庚申碑は見られないので、庶民は金光院の意を汲んで石碑を建てることは
控えていたのかもしれない。

①⑦に見られるように社領内では、早くから殺生と竹木伐採が禁止されていました。
⑯では「桜藤三郎、屋敷の木を切ったので閉門」とあり、自分の家の中の木を切ることも許可が無ければできなかったようです。
には「神前近辺で薪をこしらえる(採取)こと御法度」とあり、本社周辺では薪拾いも禁止されています。㉖には、「鞘橋の下で殺生した三人に取調べのうえ入牢申し付けた。」とあります。
㉚の弘化三年(1846)になると、(髙松街道の入口の)「榎井村口に殺生・山林竹木のお札新たに出来、古き分は西口峠(牛屋口)へ廻す。」とあり、㉛には、「石渕の神事場へ殺生禁断の制札を立てる。」とあります。ここからは幕末には、榎井村口、石渕、佐文の牛屋口(西口峠)など、社領と隣村の境には領内での殺生禁止と木竹伐採禁止の立札が建てられていたことが分かります。鞘橋のかかる金倉川には社家による大祓や、僧侶の流れ勧進が行われていました。また参詣者が垢離をとる所でもありました。

鞘橋 金毘羅大祭行列図屏風
鞘橋の下の金倉川は垢離取り場でもあった(金毘羅大祭行列屏風 18世紀初頭)
金倉川は神聖な川であり、そこで殺生を行うことは禁止されていたことを押さえておきます。

金毘羅周辺の村々で行われる行事には、金比羅領民は参加すべからずというのが金光院の基本方針だったようです。
④享保六年(1721)十一月八日  近在に辻芝居があるので、住民に見物無用申し渡す。
⑨寛延三年(1750)六月二十三日  苗田村の相撲見物無用中渡す。
⑱宝暦十一年(1761)十月晦日  榎井村のあやつり芝居見物無用。
  六月十八日 五條村の相撲芝居見物無用。 
以上からは近在の村で芝居・相撲などがあっても、領内の者には「見物無用(行ってはならぬ)」という氏姓です。これは領内の芝居の繁栄を考えたためなのでしょうか? 私にはよく分かりません。

 金毘羅は門前町として繁盛するにつれて、周辺からの人口流入が強まり、都市化が進みます。
そのため流入者が増えて住宅需要が増大します。流入者は借屋を探すのですが、治安にも関係するので勝手に貸すことは禁止されて、借人諸状のこともやかましく言われていたようです。
⑤享保十八年(1733)八月二十日 町方裏借屋は法度に仰せ付けられる。
⑳安永三年(1774)五月十八日 奉公人のうち、貸屋者の請状を出さない者があるので、総体に申し渡される。
㉑ 天明五年(1785)十月 奉公人が参詣人に宿貸しするのは風儀上良くないので無用。
十一月 会式中に奉公人で宿貸した者があり、閉門申し付ける。

逆にいうと18世紀後半頃から参拝客の増加や、周辺農民の流入による住宅不足が深刻化していたことがうかがえます。金毘羅の都市化は、18世紀後半になって拍車がかかったようです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
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参考文献 「町史ことひら3 民俗編274P」
関連記

 金光院の初代院主宥盛は、高野山で学んだ真言僧侶であると同時に、修験者で天狗信仰の持ち主でした。彼は象頭山にあったいろいろな宗教施設との権力闘争に勝ち抜いて支配権を得ていきます。明治以前の金毘羅大権現は別当寺の金光院が寺領の小領主となり「お山の大将」として支配するようになります。ある意味では、金毘羅大権現は「流行(はやり)神」として急成長していった「成り上がりもの」でした。そのため周辺寺社から羨望や反発を受けることもあったようです。その例が善通寺誕生院から出された「金光院は、我が寺の末寺である」という次のような提訴であることは以前にお話ししました。

善通寺誕生院と金毘羅金光院の本末争い

以後、金光院は周辺寺院との反発や軋轢を生まないような対応を心がけたようです。それでは金光院は周辺の真言寺院と、どのような関係を保っていたのでしょうか。テキストは「町史ことひら 3(民俗)273P 近郷の諸寺院からの願い出」です。
 初代高松藩主松平頼重の保護を受けた金毘羅大権現は、18世紀初頭の元禄年間になると讃岐の諸寺院を圧倒する力を持つようになります。その結果、近郷諸寺院からも色々な依頼や願い出を受けるようになります。その依頼や対応について、金光院日帳の中の記事を抜き出したものを見ていくことにします。 

享保十一年(1726)
十一年二月二十日 予州宅善寺から、三月二十二日には多度郡明王院(道隆寺)から灌頂道具を借用依頼
十七年三月十九日 三野郡威徳院から灌頂道具を借用依頼、四月四日返納
十九年二月十七日 多度郡明王院と阿野郡摩尼珠院から、三月十一日には伊予誓源寺と一ノ宮大宝院から法衣借用を申し出る。

この年は、弘法大師九百年遠忌の年であったので法衣の借用申し入れが多かったようです。多度津の道隆寺は、潅頂用具や法衣などを金光院から借用しています。その他の借用依頼のあった寺名を挙げておきます。
享保二十(1730)年十月二十二日 阿州雲辺寺から曼荼羅供の道具借用
寛保三(1743)年十月十七日 高松無量寿院へ法衣貸与。
宝暦二年二月二十六日 中津村正花寺から天満宮年忌につき法衣借用申し出る。
宝暦十三年六月七日 白峯寺より法衣借用依頼。
文化元年(1804)九月二十五日 善通寺五重塔落慶供養につき丸亀藩役人より法衣借用申し来る。
文化十年二月八日 崇徳天皇六百五十年忌につき、摩尼珠院より霊宝拝借したき旨願い出る。
ここからは、雲辺寺・無量寿院・白峰寺などからも特別な行事に着用する法衣を借りに来ていることが分かります。財政的に豊かだった金光院は、高価な法衣もそろえていたようです。また、本末論争を展開した善通寺誕生院も19世紀初めには、法衣借用を丸亀藩を通じて申し出ています。

次に立札の依頼を見ていくことにします。

天明四年(1784)1月多度郡善通寺から、弘法大師九百五十年遠忌の建札の件願い出る。坂口に建てさせる。
文化十一(1814)年十一月十七日 丸亀円光寺が法華経講釈致したく、小坂下に建札したき旨願い出る。
文化十四(1817)年三月九日 多度郡生野村浄証寺、開帳につき建札願。
文久二(1862)年一月十七日 予州石槌山開帳に付き、当建札のこと願い出る。
文久八年七月一日 隣村榎井村玄龍寺社領内に建札したき旨願い出る。
那珂郡西念寺、説法の建札社領内に建てたい旨願い出る。
 善通寺や石鎚山から賑わう金毘羅門前町に開帳などの立札を立てさせてくれとの依頼もあります。

また、他寺の火災再建などについても、次のように援助の手を差し伸べています
宝暦元年(1751)6月2日 天領池領の龍松寺から材木をもらいたいと願い出た。それは断り、代りに本尊へ三百疋供える。
安永五年(1776)10月27日 高野山浄菩提院焼失につき寄進を願い出る。
文化九(1812)年十月二十日 那珂郡恵光寺(買田)全焼、助情として文銭十貫文遣わす。
天保十二年(1841)十一月五日 三野郡財田村伊舎那院楼上棟につき鏡餅を献上する。使者を以て金三百疋・昆布三連遺わす。
同月二十三日 京都愛宕山福寿院社頭再建に付き寄附を願い出る。
慶応三年(1867)六月二十日 榎井村興泉寺へ本堂再建資金二百両遣わす。
こうして見ると、周辺の天領や買田などの寺に対しては、多額の援助を行っています。疑問なのは、榎井の興泉寺は真宗興正派に転宗していますが、宗派を超えて「本堂再建資金二百両」を提供していることです。金光院と興泉寺の特別な関係がうかがえます。また、京都愛宕山福寿院の社頭再建を援助しています。象頭山に続く愛宕山は、愛宕信仰の拠点として修験者たちが活発な動きを見せていた所であることは以前にお話ししました。本家の京都の愛宕山との関係があったことが、ここからはうかがえます。

また、面白い所では次のような記録も残っています。

宝暦六(1756)年四月九日 阿州極楽寺隠居、四国巡拝の途中路の借用を頼み来る。三十目貸与。

これは四国巡礼に出た阿波の極楽寺の隠居が、金毘羅に立ち寄った際に路銀借用を願い出てきたので三十目貸したというものです。この時期には、四国の真言僧侶が四国巡礼に出ていたことが分かります。また、当時の四国巡礼では金毘羅大権現は札所ではありませんが、参拝するのが当然であったことは以前にお話ししました。
このように金光院が社領を朱印地として認められ、勅願所でもあり、徳川家祈願所でもあるという格式を持つようになると、周辺寺院から頼りとされるようになっていたことがうかがえます。また宗派の寺院でも、住職交替の挨拶に登山し、以後は出入りを願うというような例が多かったようです。それに対して金光院は、たいていの願い事は聞き届けていたようです。そのため善通寺よりも金比羅の金光院の方が頼りになると云われていたようです。

金光院歴代院主一覧
歴代金光院院主一覧

次に9代目金光院院主の宥弁の一周忌の法事について、どんな寺院がやってきているのかを金光院日帳で見ておきましょう。
 宥弁は宝暦10(1760)年十二月五日に江戸で亡くなりました。一周忌の法要には、次のような寺に使僧が案内しています。
丸亀藩領内
下勝間威徳院・仁尾覚成院 仁尾瑞雲院 本山持宝院・財田伊舎邪院・同所宮坊・上ノ村萬福寺・上高ノ村延命院・西ノ村宗運寺・中ノ村薬師坊・姫ノ浜満願寺・大野阿弥陀院・下高野延寿寺・上高野宝積院・大野薬王寺・加茂明王院・笠岡長林寺・
高松藩領
円明院・東福寺・愛染寺・行徳院・大宝院・栗熊能満寺・栗熊円福寺・羽床菩提院・滝宮龍灯院・四条村の浄願院・弘安寺・長尾村の佐岡寺・川津村の宝珠院
讃岐以外
伊予川之江の宅善寺・阿波の舞寺・林下寺・極楽寺
案内した寺院の分布を見ると、高松領よりも丸亀領の方が多いようです。特に三豊とのつながりがうかがえます。以上が金光院と密接な関係にあった寺院と云えるようです。気になるのは、近隣の天領のこう
十一月二日に、法要に向けた役割分担が院主から次のように言い渡され準備が進められます。
膳方奉行役人二人・膳方働人十四人・富士の間給仕人 内町綿屋清兵衛・同山屋富弥新町つねや惣右衛門・阿玉屋半蔵・同伊せや伊助・片原町國屋条松同石田屋孫七(四日の朝六時、羽織袴で登山する)
町料理札之前丹治郎・金山寺町吉次・横町金二郎・西山長七
夜具奉行役人二人 風呂奉行は玄関を兼ねて役人一人・台所奉行役人二人・長屋奉行役人一人・御次役人三人・玄関役人九人・生菓子方役人一人と手明日雇二人。町方からの夜具二十通・木綿の夜具十通借り上げる。寺には絹の夜具十通は備え付けがある。 
十一月四日 二日法要なので前日から案内があった住職がやってきます。

阿波林下寺以下三十一か寺で、うち羽間佐岡寺は隠居が来られ、川之江宅善寺・高松蓮花寺・栗熊円満寺は代僧が見えた。諸寺院の弟子衆は二十六人、下部は六十人ばかりであった。右の寺院方へまず落付の煮染と茶を差し出した。諸寺院がそろったところで、お上は、上之間でお逢いになった。終わって午後四時、二汁五菜の食事を出す。膳部は百人前用意しておく。濃茶は五人詰にして出す。茶葉は羊羹・鰻頭・川葺である。食事の間に、お上は顔を出してあいさつされ、脇坊・役人もあいさつに出て来る。院内の出家分、先住実家の当主等へも二汁五菜の料理・茶菓子を出す。

金光院日帳は、後のための記録資料として記録係が書いていたので、出されたお茶やお菓子などが具体的に記録されています。これが後世の担当者にとっては、役立つ史料となったのでしょう。暮れ時から始まる宵(前夜)法要を見ておきましょう。法要の場所は、本堂の観音堂ではありません。表書院で行われています。

表書院平面図
表書院平面図 もともとは仏間があった
 食事が終わり、暮時分から法事が始まる。光明三昧の導師は上高村延命院、光明真言頭は下勝間威徳院、前讃は高松東福寺、伽陀は阿州林下寺が勤める。七賢の間から虎の間にかけて仏前の荘厳として檀・三方・折敷・玉幡二流・小幡四流・花鬘三ツ大幡六流を飾る。お供え物は御本尊へ饅頭二盛(盛五十積)干菓子二盛・柿一盛(以上塗三宝)・羊羹一盛・金子台、御神前へは饅頭一盛(五十積)・干菓子一盛・団子一盛・祐一盛(以上白木脚打)羊羹一盛・金子台、先寺様総牌前へは干菓子一盛・饅頭一盛(五十積、共に白木脚打)を供えた。外に諸方から到来した品々を見合わせに少しずつ供える。
 お上(金光院院主)は上段の間の紙を立て切った所でお勤をされたが、法事の席へは出ず、終わってから僧に「太儀に存じます」とあいさつされた。
今夜は客僧衆また院内の出家迄、夜食に饂飩・吸物・笠の飯を二菜で出す。ただし酒は出さず、客僧のうち特に望まれる人には見合わせに出すことにする。院内の侍以下にも夜食を出す。
 加羅風呂屋に据風呂を二つ建てて客僧衆が追々に入られる。客僧衆のお供は長屋で朝夕とも一汁二菜の食事を出す。ここでも長前に据え風呂を二つ建てて入らせる。
 今夜は夜廻りを出し、拍子木を打って院内を回らせる。台所の使い水が不足なので町方から汲み上げさせる。今晩から明日にかけて非人たちに施行をする。
導師の名前、仏前の荘厳(飾り付け)、お供え物、夜食などが記されています。夜食には、饂飩が出されています。讃岐における饂飩の普及は、法要などで出されたことに始まるとされますが、それを裏付ける史料です。また、臨時の風呂も用意されています。非人立ちへの施しがされています。金毘羅門前町にも非人たちがいたことが分かります。
翌日の法要です。 
焼香は役人・侍分から始め、焼香台を富士の間の敷居の内一畳目くらいに置き直して手代・料理人・諸方の屋敷守と続く。そのまた、台を持仏堂入口に置き直して町方重立の者たちが焼香する。終わって、持仏堂正面の虎の間敷居際へ焼香台を出し、客僧衆焼香がある。
 終わって昨日の通り二汁五菜のお膳を出す。お膳の途中で、お上また脇坊役人中があいさつに出られることも昨日と同じである。茶菓子は餅と煮染を銘々盆で出す。薄茶も出す。
 お膳の後、お布施を拵えて払方が脇坊中へ渡し、脇坊中の取り計らいで列座の場へ盆に乗せて給仕の者に取らせる。本寺衆・一寺衆は金二百疋宛、末寺衆は金百疋宛である。諸寺院の弟子たちは銀二両ずつ、当山の脇坊中は金百疋、同宿は銀二両ずつであっ客衆がだんだん帰られるので、お上も表へ出て来られお暇いをされる。
   お墓所へ五寸角一丈二尺余の卒都婆を建て香花を供え、墓前に縁取りを一枚ほど敷いておく。役人はじめ侍中へは餅と煮染を銘々に盛って、通りの間・六畳敷きなどで見合わせに出す。中通り以下の者にも食べさせる。法事のお供え料として十疋ずつ役人中から、五十銅ずつ差し上げる。お次表諸役手の侍中からも豆腐・菓子などを差し上げる。(以下略)
焼香の順番、お膳内容が記され、お布施については金額や、その渡し方まで記されています。その後に墓所にも出向いて卒塔婆を建てています。
  こうしてみると金毘羅大権現は金光院という別当寺が支配し、近隣の真言寺院のネットーワークの核として機能していたことがうかがえます。しかし、注意しておきたいのは最初に見た本末争論を展開した善通寺の誕生院は呼ばれていないことです。誕生院と金光院は、その後も反目状態にあったのかもしれません。 最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献  
町史ことひら 3(民俗)273P 近郷の諸寺院からの願い出」
金毘羅庶民信仰資料集 年表編
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金光院日帳 1834年 正月
江戸時代に金刀比羅宮を管理していた別当寺の金光院の日帳を見ています。前回は金光院院主は元旦には、まず護摩堂で護摩祈祷を行った後で、神前奉納を行っていたこと、「仏が先、神は後」であったことを見ました。今回は正月三日から始まる参籠について見ていくことにします。テキストは「町史ことひら 3(民俗)246P 金刀比羅宮の行事」です。
 金光院日帳には、次のように記されています。
正月三日 午後四時から参籠。 脇坊中も神前に詰める。
正月四日  お山の口明け。小頭・中間が神酒一升持参ででかけ、薪一荷ずつ拵える。 松葉は瓦屋へ渡す。
三日から参籠が始まります。子房(脇坊)も、これに従っています。
四日の「口明け」というのは、「はじまり」を意味する言葉で、象頭山への入山解禁を山の口明けとか山の口と云っていたようです。小頭と中原が神酒をもって山に入り、山を浄めた後に、薪を一荷だけ山から下ろしています。作業というよりも、これも儀式です。
正月五日 町方重立の者へお節を下さる。正午ごろ登山、料理一汁二菜、酒肴三種、吸い物なし。東西領の出入りの中、今日も登山。
 正月六日 参籠の中日なので台所で①饂飩(うどん)を拵えて籠所へ差し上げる。ただし、②切り火で整える。③金剛坊宥盛の祥月なので尊前へ仏供を供える。

 ここで注目したいのは、参籠の中日に饂飩が出されていることです。饂飩が讃岐で最初に確認できる史料は、元禄時代の「金毘羅大祭行列屏風」です。

金毘羅大祭行列屏風図 10
元禄時代の金毘羅大祭行列屏風図(金刀比羅宮宝物館)
この大きな屏風図の中には、次の3軒のうどん屋が描かれています。

1 うどん屋2 金毘羅祭礼屏風

1 うどん屋3 金毘羅祭礼屏風

1 金毘羅祭礼図のうどん屋2

1 うどん屋の看板 2jpg

軒先に、この招牌が掲げられているのでうどん屋であることが分かります。現在の所では、これが讃岐で最初に登場する饂飩屋の絵図史料になるようです。文書史料としては、金光院日帳のものが一番古いのではないかと思います。空海が饂飩を持ち帰ったというのは俗説で、饂飩が登場するのは近世になってからです。それが金光院では正月参籠の中日に出されていたことを押さえておきます。
 
参籠中日に出す饂飩の調理は「切り火(きりび)で整える」とあります。
これは火打石と火打鎌(鉄片)を打ち合わせて火花を出し、厄除け、清め、邪気払いを祈願する日本古来の伝統的な風習です。鬼滅の刃にも、次のように登場します。
鬼滅の刃】狛治と恋雪さん、かまぼこ隊に切り火で魔除けをする 【コラ注意】

  正月七日
 七草の雑煮を籠所で差し上げる。 年男が若餅を籠所へ持参して、お上に直接差し上げる。
「弘化行事」 脇坊・役人そのほか一統 籠所で人日のあいさつを申し上げる。
  正月八日 
神前お経の口明。 籠所での鏡餅を雑煮にして出す。また小附飯も出す。 本坊でも鏡餅を雑煮にして出勤している者一同に下さる。酒は出さない。
「宝暦九年日帳」 お経の口明、雑煮だけであったが蓋の飯も出すようせ出される。
  正月九日
 いつものように当月御祈の札守を高松の殿様・若殿様・水戸様に差し上げるので、寺社奉行まで使僧を差し出す。昨年の暮れ、お申越しの五穀成就の祈祷の札守も一緒に差し上げる。明日からの会式の役割を申し渡す。 夜、町方から寄進の掛行灯を御神前までの道筋にともす。 表門へ菊の紋付の雪洞一ツ台行灯ともす。 黒門は平常の金灯籠で済ませる。 御守所へ晒幕を掛け、菊の紋付の雪洞一ツ、内に大行灯をともす。
「弘化行事」 参籠結願なので脇坊・法中が籠所へ恐悦のあいさつに上る。
  正月十日 
役割の通り、銘々詰所へ出動する。 護摩堂で恒例の大般若の修行があり、衆僧へ昼食に焼飯を出し、斎(とき)・非時(ひじ)は籠範所で出す。焼飯は切り火で拵える。
 参籠中の食事は、「籠堂へ持参」とあります。お籠もりなので。本坊には下りてこずに籠所で夜も過ごしたことが分かります。また、正月に院主が護摩堂で祈祷祈願したお守りは、「髙松の殿様・若殿様・水戸様に差し上げる」とありますが、丸亀藩については何も記されていません。9日が参籠結願の日です。この日には、参道の燈籠に灯りが灯されます。こうして3日から9日まで続いた参籠が終わります。
 それでは院主が参籠した籠所とは、どこにあったのでしょうか?
金毘羅大権現 本社と観音堂 讃岐国名勝図会


讃岐国名勝図会の絵図をつなぎ合わせてみます。右が金毘羅大権現の本社、左が松尾寺本堂の観音堂です。
金毘羅大権現観音堂 讃岐国名勝図会
            金毘羅大権現の松尾寺本堂 観音堂(讃岐国名勝図会)
伽藍の一番南に「籠堂」とあります。ここに金光院主は正月に1週間ほど参籠していたようです。しかし、そこで何を行っていたのかは、いまの私にはよく分かりません。
 中世の参籠の流儀を見ておきましょう。
 まず、七日七夜をかけて参籠に先立って精進潔斎します。到着すると祓殿(はらえどの)で身を清め、斎屋(ゆや)で斎戒沐浴(さいかいもくよく)します。夜になると本堂に上がり、御師(おし:祈祷僧)に願文を託して、夜通し祈りを捧げ、夢のお告げを待ちました。夜が明けると、一旦、籠所に下がります。籠所のない所では、斎屋・橋殿・僧坊などが利用されたようです。そして、夜になるとまた本堂に上がることを繰り返します。裕福な層の人たちは、あらかじめ本堂と籠所にスペースを局(つぼね)を確保しました。そうでない人たちは、床下などに籠ることもあったようです。帰宅すると精進落としをして一区切りとなります。
 金光院院主は金毘羅大権現の最高指導者で、330石の寺領朱印地の小領主でもありました。ここでは、その地位にある人物が一週間の参籠を年頭に行っています。その背景には、金光院院主の出発地点が、天狗信仰の修験者に始まると云うことを示す者ではないかと私は考えています。
 最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
町史ことひら 3(民俗)246P 金刀比羅宮の行事
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 金刀比羅宮は、明治維新の神仏分離までは神仏が習合した信仰の場で金毘羅大権現という神号社号で呼ばれていました。山号・象頭山、寺号・松尾寺、院号・金光院と称する古義真言宗の無本寺で、金光院住職は金毘羅大権現の別当職として神前奉仕を行っていました。それでは具体的にはどんな宗教活動を金光院院主は行っていたのでしょうか。それを「金光院日帳」で見ていくことにします。

金光院日帳
金光院日帳(記)
金光院日帳 1834年 正月
金光院日帳1756年 正月

金光院日帳は金光院院主側近の側用人と、脇坊と重役が勤める役の両方から提出された情報を、用人部屋で記録したものです。そのため院主の動静がよく分かります。院主は、「御上(おかみ)」「御前(ごぜん)」「旦那様」などと記されています。宝暦年間 (1751~64)に、院主がどんな活動をしていたか、まず正月元旦の様子から見ていくことにします。テキストは「町史ことひら 3(民俗)246P 金刀比羅宮の行事」です。
正月朔日
 お上(金光院院主)、午前零時お目覚め、若湯を召される。このとき土蔵奉行が湯を差し上げる。午前一時、①護摩堂へ出仕、天下泰平・国家安全祈疇のため護摩供を開白、二時ごろ終わり居間へ入る。

ここからは金光院院主が、年の初めにまず行う事は、護摩堂での護摩祈祷であったことが分かります。
ここに出てくる護摩堂について見ておきましょう。

金光院の護摩堂と阿弥陀堂
金光院表書院の南側にあった護摩堂と、その本尊の不動明王(金刀比羅宮宝物館)

 『金毘羅山名所図会』(文化年間(1804~18)の護摩堂の項には、次のように記されています。(意訳)
護摩堂では、天下泰平・五穀成就、参詣者の請願成就のため、又御守開眼として、護摩祈願が行われており、元旦から12月の除夜まで、絶えることがない。(後略)

 ここからは金光院の護摩堂では、金光院の僧侶達によって連日護摩が焚かれたことが分かります。
この護摩堂の本尊が、現在宝物館に展示されている不動明王になります。この不道明王は「足もとから、胸元にかけて、火にあったようなただれた部分が見られ、塗りがおちて、部分的に木地が露出している」と報告されています。「ただれ跡の剥落」は「かつて護摩を焚いた熱によるもの」と研究者は考えています。ここでは、金光院院主の年頭最初の仕事は、護摩堂で不動明王に向かって護摩祈祷をおこなうことであったことを押さえておきます。

弘化年間の日記には、次のように記されています。
護摩修行を終えて帰りがけ、御影堂・阿弥陀堂・持仏堂歳徳神・大黒天・奥の間毘沙門天を順拝される。

ここからは、阿弥陀堂や大黒天・毘沙門天なども当時の金毘羅大権現には安置されていたことが分かります。

konpira_genroku 元禄末頃境内図:
                    金刀比羅宮 元禄末頃(1704)境内図
午前2時頃に護摩祈祷から帰った後の動きを見ておきましょう。

ほどなく、②書院の間で寺院のあいさつを受ける。続いて同宿役人・人・医師・侍・神役・茶道がお礼を申し上げる。次に③富士の間で御供禅門・男・五師・冶師などの御礼を受けられる。右の者と同席に百姓組頭・三条村百姓町方独礼のがお礼、大井宮神主も御礼申し上げる次に、次に④通りの間で小頭共、さらに⑤大台所で草履取・中間・堂禅門伽藍中間・勝手門番・畑男・前屋敷番・太鼓打・下屋敷番・地方肝煮・山留共がそろってお礼。
   次に、⑥お上へ蓮菜・口取・大福茶を差し上げ、寺院書院・法中・役人へ大福茶を出す。
つづいて⑦寺中・法中・役人御相伴にて雑煮を差し上げる。酒は三献、肴は二種、梅干とせり。次に七賢の間で町方御用のお礼を受けられる。
ここからは次のような事が読み取れます。
②③④⑤からは、各スタッフや町衆の指導者から年頭の挨拶を表書院で受けています。そこには、だれがやって来て、どの部屋に通して、何を出したかがきちんと記録されています。

表書院3
ここで注意しておきたいのは、身分によって使用される部屋が異なることです。
『金刀比羅宮応挙画集』は、表書院が客殿であったことに触れた後、次のように記します。(意訳)

公的な諸儀式や参拝に訪れた賓客の応接にこの客殿(表書院)を用いた。その内の二之間(山水之間)は主として諸候の座席に、七腎人の間は儀式に際しての院主の座席に、虎之間は引見の人々や役人の座席に、鶴之間は使者の間とも呼ばれ、各大名家などからやってくる使者の控室として用いられた。

ここからは、各間が次のような役割を持っていたことが分かります。
①二之間(山水之間) 諸候の座席
②七腎人の間 儀式に際しての院主の座席
③虎之間 引見の人々や役人の座席
④鶴之間 使者の間とも呼ばれ、各大名家などからやってくる使者の控室

表書院展開図2
江戸時代後期の表書院各間は、身分可視化の場でもあった

年頭の挨拶を受けた後は、神前に向かいます。
 しばらく居間で休憩して神前出仕。供は奥の者六人、外に七人。
 ⑦神前では恒例の神事、五人百姓・神役も出仕する。⑧終わって午前八時、本坊へ降りる。
⑦からは、護摩祈祷後に本殿に上がって、五人百姓や神官とともに神事を行っています。ここには、僧侶は出席していないようです。その神事の内容については、よく分かりません。神事を終えて、本坊に下りてくるのが午前8時です。そこで、また次のように挨拶を受けます。
⑨休息のあと七賢の間で町年寄また重立の者のあいさつを受ける。つづいて⑩富士の間で町医者・各町組頭のあいさつを受ける。この時、町重立の者は前々通り、御守所でお守りを頂戴する。
 ⑪小松庄の五條・榎井・苗田・四条の四ヶ村また隣郷の、前々から出入りしている人達が登山してお礼のあいさつを申し上げる。今日は朝夕とも、院内上下の者に雑煮とお節、また酒も下さる。お節は脇坊・役人・法中は富士の間でお相伴で頂く。
 ⑫明後三日からの参籠のお供のお触れがある。高松のお船の祈祷を船行宛に手紙を添えて使僧に持たせてやる。

⑨⑩⑪などからは町年寄や町医者・町組頭など身分に応じて、通される部屋が違っています。身分を可視化するための装置として、表書院の各部屋は造られていたことを押さえておきます。

表書院平面図
江戸時代中期の表書院平面図
 表書院の間取図を見ると、上段・二之間・七賢間・虎の間(広間)・鶴の間・富士の間などの名称や間取りは、現在とほとんど変わらないようです。大きい違いは、上段・二之間と富士の間に挟まれて仏壇と仏間があることです。この仏間は、持仏堂と呼ばれて法要が営まれていました。これは、明治の神仏分離で取り払われます。正月などに町方の者が登山して料理や酒が振る舞われるのが「通りの間」や大台所が表書院に、もともとはあったことを押さえておきます。 
それでは正月二日に進みます。
 朝飯後、高松領・丸亀領のこれまで出入りの人達があいさつに登山、お次の広間で逢われる。登山の人々に吸い物・酒を出す。恒例の畑の耕し初めがあり、銚子に酒を少し入れ、畑で松幣を建てる。

「弘化年間」には、「町方重立の者・御用組頭のあいさつを受ける。 夜、座の間で謡初、酒がある。」と記されています。
  正月三日  
昨日と同じように東西領の出入りの人達があいさつに登山する。 財田中之村の百姓も毎年のように登山。 丸亀・高松・萱原の屋敷守も御礼に参上する。近在の寺院が三ヶ日のうちに登山した場合は酒と吸い物を出す。午後四時から参籠。 脇坊中も神前に詰める。

正月年賀の挨拶参りの人達のがやってきますが、その参賀日にはルールがあったようです。元旦は、各院主からはじまり、スタッフ、門前町の町衆代表などで、2・3日には周辺の人達と同心円的に拡がって行きます。正月3日に「財田中の村百姓も毎年のように登山」とあるのは、金光院主を輩出する山下家の出里が財田であったためのようで、その縁から来ているようです。
そして、3日4時からは6日間の参籠が始まります。これについては、また次回に
以上をまとめておきます。
①明治以前の神仏混時代の金毘羅大権現では、真言僧侶の金光院院主が「小領主」として支配していた。
②正月年頭に、最初に行う事は護摩祈祷であり、金光院の修験者的性格を引き継いでいる。
③「仏道が先、神事は後」で、神前儀式は護摩祈祷の後に行われている。
④金光院の客殿(表書院)には、年頭挨拶に訪れる時間帯が身分毎に決められていた。
⑤また、身分毎に通される部屋も異なっており、各身分を視覚化し、再確認させる場ともなっていた。
⑥金光院日帳には、やって来た人々、通された部屋、出された飲食物などが記載されて、後の参考にされた。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 「町史ことひら 3(民俗)246P 金刀比羅宮の行事」
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法照寺寺史

法照寺歴代住職後半部


法照寺寺史の歴代住職一覧は、15代霊順法師について次のように記します。

大正2(1913)年 12月31年没 
未生流皆伝(諸国総会司)。経済力に強く、寺田1町を小作人に耕作させ、寺経済に寄与していた
 
    前後の在職年数を整理すると、先代は幕末から明治半ばまで34年に渡って住職を務めています。
                 在職期間     在職年数
14代 勧浄法師 万延 元年~明治27年  34年    漢方薬「奇妙湯」調合販売
15代 霊順法師 明治27年~大正 2年  19年  未生流皆伝(諸国総会司)                             
先代の勧浄による漢方薬「奇妙湯」調合販売が経済的にプラスに働いたのか、霊順については「経済力に強く、寺田1町歩を小作人に耕作させ、寺経済に寄与」と、「未生流(立花)皆伝(諸国総会司)」と記されています。法照寺には、未生流の「初傳・中傳・奥傳」の3冊と、立花絵図と「天円地方」論などの書物が残されています。これらの書物は総て、師範である如松斎丹波法橋の署名と印があり、彼から免許の授与と同時に渡されたもののようで、時期は明治13年前後のものになります。この時期に、霊順が如松斎丹波法橋から未生流を学んでいたことが分かります。今回は、これらの花伝書を見ていくことにします。
初傳表紙
高井流 立花初傳關疑抄 (法照寺文書)
巻末を見てみます。

如松斎丹波法橋 初傳 明治14年10月

              高井流 立花初傳關疑抄の巻末
如松斎丹波法橋(藤原氏貫)が、明治14年10月に三好霊順に初傳を相伝したことが分かります。次に中傳を見ておきましょう。

如松斎丹波法橋 中伝巻末明治13年11月

中伝の巻末は、虫に食われてボロボロになっています。名前の部分が失われていますが、如松斎丹波法橋が三好霊順に与えたものでしょう。注意しておきたいのは、以下の二点です。
①如松斎丹波法橋が「未生流家元 国會司師範代」と名のっていること
②日付が明治13年11月で、相伝された花伝書の中では一番早いこと

次に奥傳の「如松流 立華奥傳秘極書」を見ておきます。

如松流 立華奥傳秘極書            嵯峨御所御立華職 家元如松齊自然法橋 藤原氏貫
嵯峨御所御立華職 家元如松齊自然法橋 藤原氏貫
年号はありませんが、如松斎丹波法橋が未生流から独立して「如松流」を名のり、その家元と称していたこと、また、三好霊順の華号が蓮甫であったことが分かります。

如松斎丹波法橋 花伝絵図1

       嵯峨御所御立花職 兼未生家師範代 如松齊園田丹波法橋撰 慶応初年

如松斎丹波法橋 花伝絵図巻末 三好家宝物
巻末に「佐文村 三好家有宝物」と記されている
ここからは、これらの花伝書が「宝物」として、法照寺に伝えられてきたことがうかがえます。
明治初期に、未生流立花を三好霊順に伝えた如松斎丹波法橋とは何者なのでしょうか?

増田穣三法然堂碑文.J2PG
        園田翁(如松斎丹波法橋)顕彰碑(まんのう町宮田の法然堂(西光寺)
 丹波法橋の顕彰碑が宮田の西光寺境内に建っています。これについては以前にお話し、内容を年表的にまとめると次のようにまとめておきました。
①如松斉は丹波国、園田市左衛門の二男で、悟譽蓬山和尚という浄土宗西山派の僧侶
②文久2(1862)年 西光寺第17世住職となり堂塔修繕など功績多し
③明治4(1871)年2月10日、生間の豊島家の持庵に移り、未生流師範として活動
④遠近から教わりに来る者が多く、各地方に招かれて出張指導も行った。
⑤その結果、未生流は広く那珂郡南部一帯に広がり、門弟は六百余名に達した。
⑥明治13・14年 三好霊順に初・中・奥傳を伝授
⑦明治16(1883)年2月17日死去、享年76歳。
⑧生前に春日の増田秋峰(穣三:後の国会議員)に家元を継承させる
ここからは幕末に丹波法橋が廻国の僧侶として、西光寺にやってきて勧進活動を進めて堂塔修繕をおこなったこと、その後は引退して10年余りを未生流華道の普及に尽くしたことが分かります。
丹波法橋の七回忌にあたる明治23(1890)年4月に、この碑は建立されています。
碑文裏側には、建立発起人の名前が並んでいます。

増田穣三法然堂碑文

その先頭にあるのは、池元を継承した増田秋峰(穣三)です。2番目の田岡泰は、穣三の幼なじみので、初代七箇村村長になる人物です。この二人は、丹波法橋が亡くなった時には27歳でした。そして3番目に三好霊順の名前があります。ここからは次のような情報が読み取れます。
①筆頭に名前のある増田穣三が如松斉亡き後の門下を束ね、如松流家元を継承した
②三好霊順も丹波法橋に高く評価され、如松流立花集団の中で髙い立場にあり、さまざまな文化人との交流があった
③立花集団の指導者の年齢が20代後半で、非常に若いこと

尾﨑清甫 華道作品
如松流立花の作品 (尾﨑家)
 如松流の創始者である如松斎丹波法橋が住職を務めた「法然堂」の春市には、門下生がその成果を発表する華道展が毎年開かれていたようです。それらを取り仕切ったのも若き日の増田穣三や三好霊順だったのでしょう。華道を通じて霊順の人的ネットワークも広がります。また、霊順は地元の佐文でも青年たちに、未生流立花の指導を行ったようです。その中から現れるのが三好霊順と同じ佐文に住む尾﨑伝次(蔵)です。伝次は、霊順の指導で如松流を学ぶようになり、明治24年に次のような皆伝を2代目家元の増田秋峰(穣三)から受けています。

尾﨑清甫華道免許状
               尾﨑伝次(清甫)の免許状 秋峰(穣三)の名前が見える

以上の未生流の家元継承を表にすると以下のようになります。

増田穣三・尾﨑清甫

ここでは三好霊順は、浄土真宗の僧侶としてだけでなく、如松流立花の高弟、漢方薬「奇妙湯」の製造販売元という肩書きをもって活動していたことを押さえておきます。

未生流物販 – 未生流
未生流(みしょう)華道とは、どんな流派だったのか。
江戸時代後半になって町人文化が成熟期に入ると、生花にも多くの流派が生まれます。中には花をいけるに理屈は関係なく、ただ上手に生けられればいいとする風潮や、変わった形や、複雑化、単に形のための形を求めるといった流れも出てきます。
そのような中で 未生斎一甫は、文化十三年(1816年) 「生花百錬」を著します。

流派のあゆみ – 未生流

花とは何か。どうして美しく咲いている花を切って活けるのかということを問いかけます。そして「未生自然の花矩(はながね)」にたどりつきます。これは「天地創造に当たって、混沌としたカオスが生命の根源として存在する。」という立場で、立花を通じて、宇宙観、生命観を追求していくというスタイルをとります。
本朝 挿花百練(著:未生斎一甫 画:蔀関牛) / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋

未生斎一甫の「生花百錬」
この中で未生自然の花矩とは「天円地方説」という宇宙観から成り立っているとします。

天を円形、地を正方形で表し、円に正方形を内接してできた図形に天、人、地の三才(三つの働き)を配し、天と地の間に森羅万象が存在するとして「天地間の形するものにこの三角形より出ざるものなし」とした。これはガリレオの人体図にもみられる構図で、盛花の造形理論にも同じ図形が取り入れられます。この天・地・人の長さの比は、西洋の「黄金比」(1:0.618)とほぼ同じで「白銀比(はくぎんひ)」(1:0,708) )とも呼ばれ、美しい構成比とされました。一甫は、格外に枝や蔓(つる)が伸びるのも臨機応変に認め、「格に入って格を出よ」と説きます。
 こうしていままでのルールに縛られることなく、自己否定によってさらに美の追求を可能とする自由な芸術論の地平に立つことができるようになります。これは当時の知識人にとっては、今までにない新鮮でアカデミックな雰囲気がする華道の流派と感じられたようです。そのため知識人を中心に広く受け入れられ、門人を増やします。
 未生流二代目をついだ未生斎広甫は、大覚寺の華務職となり、多くの未生流の著作を世に出します。その結果、未生三百といわれるほど多くの未生流系の諸流が各地に生まれることになります。ちなみに、遠州流は約八十流派以上に、古流は百以上に分派します。こうした中で、未生流生け花が丹波法橋によってまんのう町にもたらされます。
 幕末の金毘羅周辺の村々には、遍歴の宗教者(僧侶・山伏・修験者)が集まってきて住み着きます。
その例を挙げておくと
A 棒術などの武芸を身につけた修験者
B 街道整備の勧進集団を率いる土木集団系勧進僧

道造行人 智典
会津からやってきた智典法師
丹波法橋もこのような廻国の勧進僧だったのでしょう。宮田の法然堂(西光寺)の改修活動を通じて、人々の信頼を集め、その後は未生流華道を広め、如松流として独立し家元を称することになります。
 明治維新によっていろいろな封建的な束縛から解放された若者は、新たな知識や習い事に飢えていました。若者たちが生間に隠居した丹波法橋の庵を訪れ、立花を習ったのです。そのメンバーが建立したのが西光寺の顕彰碑になります。ある意味で、外部からやってきた僧侶(知識人)が新しい文化を植え付けたことになります。現在の「町作り支援隊」にもつながるものがありそうに思えてきます。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
まんのう町佐文 法照寺の文書
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三好製薬所 表紙

  まんのう町佐文の法照寺の文書の中に「大正3年度 緒薬原品買入及使用 三好製薬所」があります。中を見てみましょう。
三好製薬所2

                三好製薬所(法照寺)の漢方薬の材料買入一覧
ここに出てくるのは、その薬草などの原材料の買入表になるようです。
  右が6月15日、左が7月20に仕入れた薬草になるようです。1ヶ月毎に薬材を仕入れていたことが分かります。仕入品目には、次のようなものが並びます。
A 露房
B 大黄
C 耳草
D 甘枝(草)
E 丁子
F 玉阿曜
G 山帰来
D 龍黄
私は漢方薬についてはまったくの素人なので、AIに教えられながら調べたことを記しておきます。
A  露房
 露蜂房 | スターの漢方専科

   「露蜂房」は、スズメバチやアシナガバチなどの巣を乾燥させた生薬(蜂房)です。「雨露に当たった巣の方が良い」ということからこの名前で呼ばれています。 効能は、殺菌解毒作用、血液凝固促進作用、利尿作用、鎮痙・鎮静作用、抗炎症作用など、様々な効果がある。
B 大黄( ダイオウ)はタデ科のダイオウ類の根茎を乾燥したもの。

ダイオウ
瀉下、清熱、活血、駆瘀血の作用があり、便秘、熱性疾患、打撲、月経異常などに用いられます。

C 耳草(ユキノシタ)
ユキノシタ(虎耳草)の販売店
ユキノシタを乾燥させたもの
漢名は「虎耳草(コジソウ)」で、毛が生えた肉厚の葉が虎の耳に似ていることから付いた名前といわれます。漢方のバイブル『本草綱目』には急性の中耳炎に対して生のユキノシタをついた汁を耳に垂らすという用法が記されています。中耳炎に対する効果があり、耳と関係が深い薬草のようです。

D 甘枝(甘草:カンゾウ)
カンゾウ属 - Wikipedia
炙甘草(しゃかんぞう)|生薬辞典|漢方薬・生薬大辞典 - 漢方薬のきぐすり.com

  甘草はカンゾウの根や根茎を乾燥させたもので、有効成分はグリチルリチン酸です。この成分は砂糖の50倍もの甘みを持ち、医薬品や食品の甘味料として幅広く利用されています。 多くの漢方処方(約7割)に配合され、「国老」という重要な称号で呼ばれたりもします。主な効能は、鎮咳・去痰: 咳や痰を抑える効果、 炎症やアレルギー反応を抑える作用、鎮痙・鎮痛: 筋肉の痙攣や痛みを和らげる効果、胃の働きを活発にする効果があります。化粧品の成分としても使われ、「芍薬甘草湯(しゃくやくかんぞうとう)」などの漢方薬に用いられます。

E 丁子(ちょうじ)は、
チョウジ - Wikipedia
常緑高木「チョウジノキ」の開花直前の蕾を乾燥させたもので、別名をクローブといい、香辛料や生薬として広く利用されています。丁子は「釘」に似た形をしていて、和名や中国名の「丁」、英名のClove(クローブ)」の語源もこの形状(釘を意味する言葉)に由来しています。甘く濃厚で独特な香りを持っており、その香りの強さから「百里香」という別名もあります。
 用途と効果としては、丁子は香辛料としてだけでなく、漢方薬やアロマテラピー、防虫剤など幅広い用途で使われています。効能は、 消化促進や体を温める作用があり、冷えによる腹痛、消化不良、嘔吐、しゃっくりなどの漢方処方に用いられます。主成分である「オイゲノール」には鎮静・抗炎症作用があり、歯科の痛み止めとしても利用されていました。その他: 強い香りを利用して、ペスト予防のポマンダー(匂い玉)として使われた歴史や、ゴキブリなどの虫除けとしても効果があることが知られています。
 G   山帰来(サンキライ)は、「サルトリイバラ」 
No.73 サルトリイバラ(山帰来) – 株式会社 宮城環境保全研究所
 
名前の由来は、「山へ捨てられた病人が、この根を食べて病気が治り、元気に山から帰ってきた」というエピソードからきているようです。薬効としては、 根茎は「山帰来」や「土茯苓(どぶくりょう)」と呼ばれ、解毒や利尿、関節痛などの生薬として利用されます。 花言葉は、「不屈の精神」「屈強」「元気になる」など、生命力の強さや薬効にちなんだポジティブな意味を持っています。 

H 「龍黄(りゅうおう:牛龍黄):」

 【楽天市場】【ポイント20倍】【第2類医薬品】ウチダ和漢薬の牛龍黄 20カプセル ごりゅうおう 牛黄 ごおう ウチダ : あおき漢方堂

希少な動物性生薬である牛黄(ごおう)、蟾酥(せんそ)、鹿茸(ろくじょう)が配合されています。
効能: 動悸、息切れ、気付けなどに効果があるとされています。
以上は買入リストでしたが、次のような使用リストもあります。

法照寺 製薬使用
出てくる薬剤品名は買入リストと同じです。使用した分を確認し、翌月に補填していたことがうかがえます。どうして、このような漢方の薬剤買入リストが大正時代の法照寺にあるのでしょうか?
その答えは、「法照寺寺史の歴代住職一覧」にあります。

法照寺寺史

法照寺歴代住職後半部
法照寺歴代住職一覧 後半部

14代観浄法師(明治27年没)の欄には、次のように記されています。

「奇妙湯(淋病・しょうかち・寝小便・血の下り等に特効有りあり)医薬を製造販売していた」

ここからは明治から大正3年には、法照寺が「奇妙湯」という漢方薬を製造販売していたことが分かります。お寺が薬品を製造するというのは、現在から見るとミスマッチのような感じがします。しかし、伝統的な民間薬や治療法の由来をたどると、宗教者(修験者)にたどりつくと研究者は考えています。 
 例えば修験者は、自ら狩猟で捕らえた熊の各部分を薬品として使用し、祈祷時に薬として病人に与えていました。ここからは「呪医=狩猟者 + 修験者」という姿が垣間見えてきます。熊の肝臓は高級漢方でした。 修験者と漢方の関わりを見ておきましょう。
修験者の拠点であった埼玉県秩父地方の三峰神社では現在でも次のような漢方が販売されています。

普寛行者と三峰山 | 角笛山空間
A 胃痛・下痢などに効く「三峰山百草」
B 心臓病・腎臓病・疲労回復などに効く「長寿腹心」
C 眼病・痔疾・便秘症などに効く「家伝安流丸」
D 胃カタル・胃酸過多などに効く「神功散」
金毘羅神信仰の修験者たちが数多く集まってきた金毘羅大権現にも、独自の漢方薬が製造販売されていたことは以前にお話ししました。参拝客の多い寺社では、お土産としても人気があったようです。また、山岳修行の山々には、薬草が多いといわれます。

  「越中富山の万金丹」で有名な富山の薬は、もともとは砺波平野の里山伏たちが開発したものでした。彼らは農耕儀礼の祭祀者であるとともに、民間医療の担い手でもありました。符呪やまじないなどマジカルな病気治し以外に、施薬、医療も行なっていて、次のような薬が里山伏系の寺社で販売されていました。
神職越野家(旧山伏清光寺)の貝殻粉末の傷薬、
海乗寺の喘息薬
松林寺の腹薬
利波家の喘息薬
山田家の「カキノタネ」などの下痢止め
  野尻村法厳寺の薬は明治維新の神仏分離後になると真宗等覚寺に伝授されます。こうして、真言修験者系の専売特許的な漢方薬が浄土真宗などの寺院にも伝わっていきます。佐文の法照寺も、このような流れの中で漢方薬の製法を学び、製造販売を始めたことが考えられます。そして報恩講などでは、次のようなやりとりがあったかもしれません。
門徒「うちの孫は、いまだにおねしょが止まらないんですわ。」
住職「それならうちの奇妙湯を飲ませなさい、これは寝小便には良く効く。試しに、これを持って帰りなさい」
とセールスしていたのかもしれません。
 しかし、法照寺で漢方薬で調合されていたのも大正3年までのようです。これ以後の記録がありません。また、前年に住職が交代しています。新しい住職になってからは、調合をやめたようです。
以上をまとめておきます。
①法照寺では明治になって奇妙湯という漢方を調合・販売していた。
②奇妙湯製造のための漢方薬剤の仕入・使用の帳簿が残っている。
③薬剤を仕入れて、調合していたようで当時の住職が漢方薬剤の知識を持っていたことがうかがえる。
④これらは薬剤使用量からしても少量で、信徒など限られた人達だけへの販売で、手広く製薬業をおこなっていたのではない。
⑤しかし、定期的に仕入れているので、薬材行商人的な行者が定期的に法照寺を訪れていたことが考えられる。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
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私の家の檀那寺は、法照寺(まんのう町佐文)です。年初のお参りにお出でになった若い住職さんから法照寺の史料を見せていただきました。それに刺激を受けて法照寺の歴史について、私に分かる範囲で書残しておこうと思います。

佐文誌

法照寺については、佐文誌には、次のように記します。
佐文 法照寺2
法照寺 仲南町佐文(十八代住職釈俊昭)
 真宗興正寺派鶴林山法照寺。本尊阿弥陀如来、①万治元年(1658)戌五月開基。
②当初生間村字明通寺にあったが、享保年間佐文村下地に移転した。本堂六間半に七間、境内三七六坪、鐘堂五坪、山門九坪、檀徒150軒。
同寺所蔵の古文書に、その昔生間村より佐文村へ引寺した移転申請書なる「奉願上口上覚」に③「生聞村一向宗法照寺貧寺に御座侯処に(中略)
④享保七(1722)年寅二月、門徒総代、佐文村庄屋、七ケ村庄屋、山地六助右門殿」と記され、まず、下地に移転し、さらに現在地の北岡に移転した。
⑤(後世の)本堂屋根ふき替えの申請書「奉願上口上之覚」には
「拙寺本堂五間四面、右は去る享保八年(1723)卯の年生間村より当村へ引寺仕り当年より数十年前より、堂舎かや葺であるを…………」
と記され、(生間より移転数十年後に)かやぶきから瓦屋根にふきかえた様子がうかがえる。
⑥また、「御慈悲おうかがい口上の覚」(旱魃に伴う減免願書)には、
「寛政九年(1797)巳十月十八日、佐文村法照寺組頭二名、佐文村庄屋連名で土居村庄屋高木久太夫殿」とあり、当時は、寺住職も村役人と共に、政治に関与していたことがわかる。
⑦また、「和談離縁御願」と称して、養子縁組の解消を証明する役割も住職の業務であった。
 その昔、徳川幕府の宗教政策であるキリシタン禁制を徹底させた「門徒人別帳」も保存されているが、長年月を経過して破損が甚しい
  これを法照寺の歴代住職一覧と付き合わせてみます。

法照寺の歴代住職一覧
法照寺の歴代住職一覧(前半部)
  (享保7年5代の竜玄法師の時に屋根の葺き替えを行ったとするのは、史料の読み違えで佐文移転後のこと)
2つの史料からは、次のような情報が読み取れます。
①万治元(1658)戌5月 2代目大玄法師によって生間村字明通寺に開基
②享保8(1723)年 6代目正玄法師の時に佐文村と七箇村の庄屋の協議の末に佐文村下地に移転
③その後、現在地(佐文北岡)に移転し、茅葺きから瓦葺きに屋根を葺き替えた
④寛政9(1797)年   7代目秀玄法師の時に旱魃時の減免嘆願書に庄屋と連名

こうして見ると、法照寺は江戸時代初期に生間に道場を開いた付玄法師を開祖とし、2代目大玄法師の時に寺格を得て、その後約80年間は生間にあったようです。
  どうして生間から佐文に移転してきたのでしょうか?
  江戸時代になって新たな村が作られます。村が安定化してくるとお寺がないと不便なことがいろいろと起きてくるようになります。お寺は藩の末端行政機関でもありました。戸籍登録、宗門改め、手形発行などは寺の仕事です。村に寺がないと、周辺のお寺に出向かなければなりません。村にお寺のないのはプライド的にも許されなくなります。そこで寺がない村は、誘致運動を展開するようになります。村によっては、檀家ではないのに他宗派の寺をわざわざ誘致して、門徒でない村人が全員でその寺の維持に関わっている所もあったようです。
享保七(1722)年寅二月、門徒総代、佐文村庄屋、七ケ村庄屋、山地六助右門殿」
とあるので、佐文村や七箇村の庄屋や門徒総代が協議して佐文への移転が決まったようです。そして最初は「下地」に建立されます。ここで注意しておきたいのは、この時点では佐文の人達は法照寺の門徒(檀家)ではなかったことです。法照寺がやってくる前からある家は、檀那寺変更をしなかった家もあります。
 ちなみに我家は、法照寺が生間からやって来ることになった時に、寺にくっついて佐文にやってきたと伝えられています。その時には、開墾の進んでいなかった佐文の南側斜面の尾郷原や神田原への入植が許されたようです。このように寺だけでなく門徒も一緒についてくることもありました。お寺さんは、変わりなく同じ場所に有り続けるものと思っていましたが、そうではないようです。近世以前の寺院や農民は、移動を繰り返していることを押さえておきます。
 次に法照寺の本末関係を見ておきましょう。

興正寺派常光寺末寺
丸亀平野南部の常光寺末寺(黄色の星)

佐文と満濃池跡
讃岐国絵図(満濃池築造以前)
①満濃池跡に七ケ村池内村が見える 満濃池再築以前
②池内村の北に照井、金毘羅の南に相見(佐文)が見えるが生間は見えない。 

以前にお話しした三木町の常光寺の末寺リストの中に法照寺が次のように出てきます。

常光寺末寺リスト 円徳寺
三木町の常光寺の末寺リスト

これを見ると円徳寺末寺として3つの寺が記されています。 円徳寺をめぐる本末関係を図にすると次のようになります。
髙松藩
「円徳寺末寺那珂郡垂水村西坊」
丸亀藩
「円徳寺末寺那珂郡佐文村 法照寺」
「円徳寺末寺池御領苗田村 西福寺」
常光寺末寺リスト3 円徳寺 法照寺

円徳寺(まんのう町照井)に今は照井にありますが、もともとは本目にあったと伝えられています。
円徳寺は、末寺の法照寺の佐文移転をどう考えたのでしょうか? 本寺の承認なしには、移転は進みませんので、円徳寺も同意の上に移転は進められたはずです。考えられるのは、照井と生間という距離です。両寺は3㎞あまりしか離れていません。檀家の持ち替え整理などをしながら、法照寺をもう少し離れた新天地に移すことで新たな門徒獲得を狙ったのかもしれません。
 佐文は金毘羅大権現の土佐・伊予街道の入口に当たります。当時の金毘羅大権現は髙松藩主松平頼重の手厚い保護で伽藍は一新して参拝者が急増していた時期にあたります。招来の発展性がある佐文の地への移転を決めるひとつの要素であったかもしれません。
以上をまとめておくと、 
①法照寺は浄土真宗興正寺が本寺で、常光寺が中本山、円徳寺(まんのう町照井)の末寺であったこと。
②常光寺 → 円徳寺 → 法照寺という教線ラインの中で、17世紀初頭に寺格を得たこと(?)
以前にお話したように、讃岐への真宗興正派の教線伸張は、阿波美馬の安楽寺と、三木町の常光寺によって進められました。その中で常光寺の那珂郡南部の布教拠点となったのが円徳寺だったようです。この寺を拠点に周辺の村々に道場が開かれ、江戸時代になると寺へと成長して行ったことがうかがえます。
真宗興正派の教線伸張には、以下のような3つのステップがあることを以前にお話ししました。
興正派の教勢拡大 時期

蓮如が指示した布教方法は

蓮如の伝道方策(岐阜県大野郡旧清見村)

布教活動の様を橋詰茂氏は「讃岐における真宗の展開」で次のように記します。

お寺といえば本堂や鐘楼があって、きちんと伽藍配置がととのっているものを想像しますが、この時代の真宗寺院は、道場という言い方をします。ちっぽけな掘建て小屋のようなものを作って、そこに阿弥陀仏の画像や南無阿弥陀仏と記した六字名号と呼ばれる掛け軸を掛けただけです。そこへ農民たちが集まってきて念佛を唱えるのです。大半が農民ですから文字が書けない、読めない、そのような人たちにわかりやすく教えるには口で語っていくしかない。そのためには広いところではなく、狭いところに集まって一生懸命話して、それを聞いて行くわけです。そのようにして道場といわれるものが作られます。それがだんだん発展していってお寺になっていくのです。それが他の宗派との大きな違いなのです。ですから農村であろうと、漁村であろうと、山の中であろうと、道場はわずかな場所があればすぐ作ることが可能なのです。」

このような布教活動が三好氏が支配下に置かれた讃岐の山沿いの村々で始まります。三好氏は16世紀初頭の永世の錯乱以後、讃岐に侵入し支配地を拡大していきます。長尾氏や二宮の近藤氏も三好氏配下に組み込まれていきます。そして三好氏の保護を得た阿波美馬の安楽寺の伝道活動が活発化します。
 もうひとつの波は、秀吉の四国制圧後です。新たな領主となった生駒氏にリクルート出来なかった長尾氏や三好氏は、在野に下るしか生きる道がありませんでした。彼らはその際に浄土真宗に改宗し、その宗教的な指導者として在野における指導力や影響力を残そうとします。長尾城周辺の尊光寺や超勝寺慈光寺などの真宗寺院には長尾氏出自の系図を持つ寺院が多いことがそれを裏付けます。
 そういう視点で法照寺を見ておきましょう。
法照寺18代院主故三好俊昭氏は、次のように話していたそうです。

 うちの開祖は阿波より来た武士であったが、殺生な戦をするのに無常の感を覚え、仏門に入った。

開祖の付玄法師は1636年没です。そして姓は「三好」です。ここからは想像になりますが、もともと三好氏一族として讃岐支配にやってきていた人物が、長宗我部元親の讃岐侵入や秀吉の四国制圧の中で敗残兵となり、その後にやってきた生駒氏へのリクルートが適わずに在野に下ったことが考えられます。これは長尾氏の身の振り方と同じです。そして、中本寺の常光寺や、円徳寺で修行を重ねた後に生間で道場を開いたという物語になります。それでは法照寺は、寺号を得ていたのでしょうか?
西本願寺側の「木仏之留」に記された讃岐の真宗寺院を見ておきましょう。
『木仏之留』とは、本願寺が末寺に木仏などを下付したことの控えです。17世紀末成立の「高松藩御領分中寺々由来書」に出てくる真宗寺院で、西本願寺の「木仏之留」に名があるのは、香東郡安養寺など次の22ヶ寺だけです。その中でまんのう町周辺で木仏が下付されている寺院は次の通りです。

尊光寺・長善寺の木仏付与
「木仏之留」に記されたまんのう町周辺の真宗寺院
ここには円徳寺の名前は見えません。もちろんその末治であった法照寺もありません。「木仏下付=寺号付与」はセットでした。その時期が讃岐では寛永18(1641)年前後に集中しています。これはどうしてなのでしょうか?

尊光寺本尊 本寺からの下付
まんのう町の尊光寺の木仏(2回目に下付された18世紀の木仏:阿弥陀仏)

 木仏下付が始まるのは、慶長6年(1603)に本願寺が東西に分裂して以後のことです。
分裂を契機に、東と西の本願寺は激しい勢力拡張運動を展開してしのぎを削るようになります。翌年になると西本願寺は、勢力維持のために地方の念仏道場に寺号を与えて寺に昇格させると同時に、木仏の下付を始めます。このような動きが讃岐にも波及してきます。そして、讃岐で木仏下付が一気に拡がるのが寛永18(1641)年です。その背景には、生駒藩転封後に松平頼重が初代髙松藩主としてやって来ることがあったようです。松平頼重と興正寺との間には深い関係があったことは以前にお話ししました。西本願寺派の真宗寺院の数を増やすために、松平頼重の承認を受けて髙松藩内で木仏付与が一斉に行われたことがうかがえます。それは自藩における興正派寺院の培養という松平頼重の政治的なねらいとも一致します。以後、髙松松平藩と興正寺は明治に至るまで、強いつながりをもって政治力を発揮していきます。
 これを法照寺の歴史と搦ませて見ておきましょう。
法照寺が生間に建立されたのは万治元(1658)戌5月のことでした。しかし、西本願寺の『木仏之留』リストには、法照寺はありません。ちなみに本号免許や法宝物の下付については、本山への礼金や冥加金の納入が必要でした。西本願寺の場合、「公本定法録 上」(「大谷本願寺通紀」)には、その「相場」が次のように記されています。
木仏御礼      両2分
木仏寺号御礼
開山(親鸞)絵像下付 24両2分
永代飛檐御礼両1分
こうしてみると木仏御礼に16両が必要だったことが分かります。この金額を生間時代の貧寺と自称する法照寺が納めることができたかは疑問です。法照寺は正式に寺格を認められていなかった可能性が高いと私は考えています。

佐文 法照寺
土佐伊予街道沿いにある法照寺(まんのう町佐文北岡)
 佐文に移ってきた法照寺は、行政・文教センターの役割を担っていくことになります。
先ほど見たように寛政9(1797)年に、大旱魃がやって来た時には7代目秀玄法師は庄屋たちと連名で減免嘆願書を藩に提出しています。ここからは、佐文にやってきて70年あまり経過した法照寺が佐文の行政センターとして機能していることが見えてきます。
以上をまとめておきます
①長尾氏や三好氏が在野に下ったものの中には、真宗興正派の僧侶として布教活動を行う者達が現れた。
②その拠点となったのが、阿波美馬の安楽寺と三木の常光寺であった。
③常光寺は、円徳寺を拠点に布教活動を展開し各地に道場を開いた
④その中のひとつがまんのう町生間に開かれた法照寺であった。
⑤開祖は阿波からやって来た元武士で、姓は「三好」を名のっていた。
⑥当時の佐文は、発展する金毘羅大権現の西の入口として人口増加が続いていたが寺院がなかった。
⑦そこで本寺の円徳寺や七箇村と交渉して、1723年に法照寺の佐文下地への移転を実現した。
⑧その後、現在地(佐文北岡)に移転し、茅葺きから瓦葺きに屋根を葺き替えた
⑨寛政9(1797)年、7代目秀玄法師の時に旱魃時の減免嘆願書に庄屋と連名している。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
関連記事


歴史の見方

中讃TV「歴史の見方で、満濃池を再築した西嶋八兵衛のことについてお話しました。
2月中いっぱい毎日21:00から放送されるようです。興味のある方で、時間のある方は御覧下さい。
西嶋八兵衛76

Q1西嶋八兵衛は満濃池を造るためにやってきたのではないのですか?
 そうではないようです。西嶋八兵衛は若い頃から藤堂高虎に仕え小姓や右筆として英才教育を施された人物でした。ところが高虎が娘を嫁がせていた讃岐の生駒藩に存亡の危機が訪れるんです。

生駒騒動 関係図1
それは3代藩主の生駒正俊が30歳過ぎで若死にしてしまいます。残されたのは11歳の幼君で、これが高虎の孫で生駒藩を継ぐことになります。当時の幕府は、幼い殿様が継いだ外様藩に対しては、落ち度を見つけては言いがかりをつけては取り潰すことを繰り返していました。生駒藩がその取り潰しのターゲットになったわけです。そんな中で藤堂高虎は家康に気に入られて、幕府からも一目置かれる存在でした。そこで生駒藩を守り、幕府介入の口実を与えないために目付(全権委任腹心)を送り込むことにします。その目付に撰ばれたのが育ててきた西嶋八兵衛だったのです。
 こうして讃岐にやってきた八兵衛は当時は26歳なんですが、今の県庁で云えば総務部・土木部部長に東京出張所所長を兼ねたような権限を持っていたことになります。ちなみに、この時点では、生駒藩の重臣たちは西嶋八兵衛が土木技術者であることはどうも知らなかったようです。西嶋八兵衛はあくまで藤堂高虎が送り込んだ全権委任の家老代理のような存在だったのです。

西嶋八兵衛 来讃理由

Q2 なぜ若い他国者の西嶋八兵衛に大工事を任せたのですか?

生駒藩 藤堂高虎
藤堂高虎
 それは主君藤堂高虎が「築城の名手」であったからです。高虎は、家康の命令で江戸城・二条城・大阪城のなどの天下普請を行っています。そこに八兵衛を参加させ実際に縄張り造り(設計)もやらせています。天下普請は、当時の最大の規模で、最高の技術を競う「土木技術競技会=土木技術コンテスト」のようなものでもありました。そこで西嶋八兵衛は腕を磨いた経歴も持っていました。それを知っていたので旱魃で農民達が逃散する現状打開のために、藤堂高虎は生駒藩の重臣たちに次のように伝えています。
「生駒藩が現在の危機をのりこえるためには、灌漑の便をよくし、百姓共の心をを落ちつかせることである。ついては、目付として遣わしている西島八兵衛は、伊勢藩では郡奉行をつとめ、灌漑土木事業には巧者(たっしゃ)の者である。故、西島と心を合わせて事を運ぶよう」

 こうして生駒藩では西嶋八兵衛を中心に「挙国一致」で体制が整えられます。それが讃岐各地で一斉にため池や用水路の大型土木工事が始まる政治的な背景になります。これを大きな目で見ると天下泰平の世の中になって、城づくりの軍用技術が、治水灌漑などの民政技術に転用される時代がやってきたこと、そのさきがけを告げるもので、その中心に讃岐では西嶋八兵衛がいたという意味づけができます。

矢原邸(現在)
現在の矢原邸跡(まんのう町池の尻 ほたる見公園付近)
Q3 満濃池再築で立ち退きを迫られた人達はどうなったのですか?
このあたりが立ち退きを迫られた池之内村の人達の移転先と伝えられています。満濃池の堰堤の下側に当たるので「池の尻」と呼ばれています。このあたりを描いた江戸末期の絵図がこれです。

諏訪三島神社・矢原邸・神野神社
            矢原家(まんのう町池の尻) 讃岐国名勝図会
大きな屋敷と松が描かれています。これが池之内村の名主だった矢原氏の移転後の屋敷になります。その跡がこの森になります。矢原家に残された文書には、西嶋八兵衛とのやりとりが次のように記されています。

   矢原家が満濃池跡に所持する田畠二十五町余を、池の再築のために総て差し出すことを、主君に伝えました。するとその行為についてお喜びの様子でした。いずれかの機会に、何らかの形で矢原家への処遇を考えたいと仰せられていた。讃岐の衆人の見守る中での今回の行い、まことに誉れ有る行為である。

 ここからは、家老待遇の身でありながら西嶋八兵衛が矢原家に何度か足を運んでいたこと、そして満濃池築造の必要性を訴えて協力を求めていたことが分かります。今でも大規模工事をスムーズに進めるには地元の人達の協力が必要です。そういう点で西嶋八兵衛は、矢原家などの同意と協力を得ながら再築を奨めたことがうかがえます。そして矢原家の協力に対して、25石の所領と池の守の役職を与えることで報いています。いろいろな配慮や調整をしながら工事を進める利害関係調整能力や、その人柄までもがうかがえます。
Q4 空海に比べて西嶋八兵衛の業績があまり語られないのは?
満濃池を修復をした人物は3人います。
A 古代の空海
B 近世はじめの西嶋八兵衛
C 明治維新前後の長谷川佐太郎

弘法大師像除幕式 1933年.2JPG
満濃池の空海像 1933年建立

弘法大師像除幕式 1933年

空海については、神野寺に大きな銅像が昭和8(1933)年に建てられています。これが満濃池=空海築造を思い浮かばせるモニュメントとなっています。

長谷川佐太郎顕彰碑
満濃池堰堤の長谷川佐太郎の顕彰碑
長谷川佐太郎については堰堤に大きな顕彰碑が建てられています。ところが西嶋八兵衛については、石碑も銅像も満濃池にはありません。満濃池と西嶋八兵衛を視覚的に結びつけるモニュメントがありません。これがひとつの理由かもしれません。
Q5 どうして西嶋八兵衛の顕彰碑や銅像ががないのでしょうか?
  いろいろ考えられますが、西嶋八兵衛には後世の応援団がいなかったことがひとつの理由だと私は思っています。具体的には、次のような事が考えられます。
A地元讃岐の人間ではなかったこと 伊勢から生駒藩にレンタルされてやって来た客臣だったこと
Bもうひとつは彼が活躍した生駒藩が生駒騒動でなくなったこと。その後やってきた髙松松平藩では、初代の松平頼重がカリスマ化されて、それ以前の偉人に関してはあまり評価されなかったこと。
Cそのため西嶋八兵衛は江戸時代には忘れ去られた存在となっていたこと。彼の業績などが語られることがなかった、蓄積されなかったことが挙げられます。
Q6   西嶋八兵衛の再評価について
  西嶋八兵衛が満濃池を再築したのが1631年です。つまり、5年後に再築400周年をむかえることになります。それに向かって、西嶋八兵衛の果たした業績を、ため池づくりだけでなく、丸亀平野や髙松平野全体から見た治水灌漑プランからもみておくこと、ひいては戦乱から泰平時への移りかわりのなかで生駒藩が讃岐にもたらしたものという視点でとらえることが求められていると思っています。その中で西嶋八兵衛の果たした役割が見えてくるはずです。

時間と興味のある方はこちらの「歴史の味方(9分)を御覧下さい。
https://www.youtube.com/watch?v=K0gHOxzXlhw
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

大川神社に奉納された雨乞い用の鉦
尾池玄蕃が大川神社(権現)に寄進した雨乞用の鉦
1626(寛永3)年  旱魃が続き,飢える者多数出で危機的状況へ
1627(寛永4)年春   浅田右京,藤堂高虎の支援を受け惣奉行に復帰
同年 8月   西島八兵衛、生駒藩奉行に就任
1628(寛永5)年10月   西島八兵衛,満濃池の築造工事に着手 
      尾池玄蕃が大川権現(神社)に鉦を寄進
1630(寛永7)年2月  生駒高俊が,浅田右京・西島八兵衛・三野四郎左衛門らの奉行に藩政の精励を命じる
1631(寛永8)年2月 満濃池完成.
1620年代後半に讃岐生駒藩は長年の旱魃で飢饉となり、多くの農民が土地を捨てて逃散していきます。まさに存亡の危機に追い込まれます。これに対して当時、生駒藩の後見人だった藤堂高虎は生駒藩の重臣たちに次のように伝えます。

「生駒藩が現在の危機をのりこえるためには、灌漑の便をよくし、百姓共の心をを落ちつかせることが肝要である。ついては目付として遣わしている西島八兵衛は、伊勢藩では郡奉行をつとめ、灌漑土木事業には巧者の者である。故、西島と心を合わせて事を運ぶよう」

  藤堂高虎の指示に従って、生駒藩は目付として送り込まれていた西嶋八兵衛のもとに団結し、危機を乗り越えようとします。当時30歳だった西嶋八兵衛を中心に「挙国一致」で体制が整えられ、「ため池 + 大型河川の治水灌漑 + 用水路網整備 + 農地開墾・開拓」などがセットになった「丸亀平野総合開発事業」がスタートします。
 西嶋八兵衛は藤堂高虎から英才教育をうけていて、天下普請の京都二条城、大阪城などにも参加し、設計や現場監督も務めた経験をもった当代一流の土木技術者でもありました、その彼に持てる力を発揮する場所が与えられたことになります。別の視点から見ると、城づくりなどの軍用技術が、天下泰平の世の中になって、治水灌漑などの民政技術に転用される時代がやってきたこと、その中心に讃岐では西嶋八兵衛がいたという意味づけができます。ながくなりましたがここまでは前振り導入です。ここからが本題です。
 当時の西嶋八兵衛の動きを追いかけていると、本当にこれをひとりでやったの?と思えてきます。
 彼は「目付」の「レンタル客臣」で家老並みの石高2000石待遇です。今の県庁で云うと、総務部長・土木建築部長・東京出張所所長というポストかもしれません。そして残された文書には、3人の奉行の一人として彼の花押(サイン)があります。つまり目を通していたことになります。現場監督をやっている暇はなかったのではないかと思えるのです。もともと西嶋八兵衛は満濃池を造りに派遣されたのでありません。後見人の藤堂高虎の目付(全権委任責任者)として、讃岐にやってきているのです。
 そんな疑問の中で、私が注目したのが尾池玄蕃です。
彼については、以前に次のようにまとめました。

尾池玄蕃2

こうしてみると、尾池玄蕃は「丸亀平野開発プロジェクト」を担った能吏のひとりであったことが見えてきます。ところが生駒騒動前に尾池玄蕃は、熊本藩細川家に招かれ、百人扶持でトラバーユしていくのです。さらに後には二人の子供も、熊本藩に就職し、それぞれ千石拝領されています。形としては生駒騒動以前に、生駒藩に見切りをつけていたようにも見えます。尾池玄蕃の肥後藩への再就職には、どんな背景があったのか気になっていました。それに応えてくれる論文に出会いましたのでアップしておきます。テキストは「 小川雄   西山左京・八郎兵衛宛て曾我古祐・包助書状の検証  足利道鑑(尾池玄蕃)と西山氏・尾池氏をめぐる研究の基礎作業として」です。

まず、尾池玄蕃の息子の 西山至之(にしやまのりゆき)を、ウキで見ておきます。
室町幕府13代将軍足利義輝の遺児といわれる尾池義辰(玄蕃)の子。初め尾池伝右衛門(諱:唯高)と称し、後に姓名を改めて西山左京(至之)を名乗った。父を招いた熊本藩主細川忠利から細川綱利の代まで仕える。石高は1000石。家格は比着座同列定席。子に西山重辰、西山之氏。経歴『全讃史』によれば、父の義辰は讃岐高松藩主生駒家より2000石を授けられており、至之と弟の尾池藤左衛門が各1000石を相続したという。 寛永14年(1637年)の生駒家改易(生駒騒動)や島原の乱の頃に肥後熊本藩主細川氏から熊本城下に召し寄せらる。高松藩時代同様に知行1000石・無役・客分に遇され、左右着座の上座にあたる比着座同列定席の家格に編入される(弟の藤左衛門も1000石を知行した)。
新たに称した西山姓は室町3代将軍義満(北山殿)や8代将軍義政(東山殿)に倣ったものかと思われる。綱利の参勤交代に従って江戸に滞在する間に病没した(後略)
ここからは次のような情報が読み取れます。
①尾池玄蕃には、3人の子どもがいて、長男が西山至之(伝右衛門)、次男が尾池藤左衛門が供に、細川藩に仕えることになった。ちなみに末子:官兵衛は生駒藩に残り、後にその子孫は大野原開発に関わることになる。
②尾池玄蕃は、室町幕府の足利義輝の嫡男であることを宣言するために「足利道艦」と改名した。
③長男の尾池伝右衛門も、室町3代将軍義満(北山殿)や8代将軍義政(東山殿)に倣って「西山」に改姓した。
ここからは、尾池玄蕃が「足利義輝の直系子孫」であることを強く印象づけようとしていることがうかがえます。どうして、そのような必要があったのでしょうか?
研究者が新たに発掘した書状を見ていくことにします。
発給者の曾我古祐・包助は、足利将軍家の直臣で、この時点では徳川将軍家に召し抱えられた曽我氏の子孫になるようです。兄の古祐は大坂町奉行、弟の包助は館林松平氏(徳川一門)の家老をつとめつ立場で、徳川将軍家に重用されていたことがうかがえます。

武家家伝_曽我氏
曽我氏系図 「曾我兄弟」の子孫

一方、受取人は西山左京・八郎兵衛で、尾池玄蕃の長男で、彼らは足利義輝(室町幕府十三代将軍)の落胤を称していたことは先ほど見た通りです。つまり、足利幕府にかつて使えていた者同士の書簡のやりとりということになります。それでは見ていくことにします。

尾池玄蕃 旗本家からの書状
 意訳変換しておくと
 なお(西山左京の息子)勘十郎様や山三郎様へ書簡を先に差し出しておくべきところですが、長年音信不通で連絡がとれなく返信が困難な可能性もあり見合わせていました。道閑(尾池玄蕃)様は、このとをご存じないと存じて書状も差し上げませんでした。
 尾池伝右衛門尉殿が江戸へお上りになることについてご連絡頂き、それを見て、勘十郎様・山三殿にもお伝えしました。伝右衛門尉殿については(細川家への就職が内定し)、おめでとうございます。細川殿は肥後在国中だそうですがで、そろそろ江戸に出立するころと察せられます。なお将軍(家光)にも若君様(長男竹千代:後の徳川家綱)が御誕生したとの情報が内々ではひろがっています。これは肥後殿にとっても大慶で、下々に至るまで恐悦なことです。また私儀のことになりますが、急な用向きで、先月21日朝に、大坂へ帰任しましたが、いろいろなことで書簡を出すのが遅れてしまいました。心配しておりましたが、藤左衛門尉殿が京都にいらっしゃるようですが、日程が合えばお会いしたいとも思います。猶期後音之時度候、恐惶謹言、
曽我丹波守八月十(寛永十八年)
 八月十七日 (曽我)古祐(花押)
 西山左京様参御報(尾池)

この文書からは次のような情報が読み取れます。
①大坂町奉行在任中の曾我古祐が、西山左京に宛てた書状であること
②時期は「若君様の御誕生」から、将軍徳川家光の子息で八月出生は、寛永十八年(1641)の長男竹千代(後の徳川家綱)だけなので、この書簡は1641年のもので、生駒騒動発生前年のことになること
③内容は、尾池玄蕃の次男伝右衛門が江戸に下向することを伝えたことへの左京の書状の返書
④追伸部分に登場する勘十郎と山三郎は、西山左京の子息にあたる。
⑤江戸下向が話題にのぼっている尾池伝右衛門・藤左衛門も西山左京と同じく、足利道鑑(尾池玄蕃)の子息になる。
この中の伝右衛門については、従来は西山左京と同一人物とされていました、しかし、この書簡からは別人であったことが確認できます。以上から、尾池玄蕃は三人(西山左京と尾池伝右衛門・藤左衛門)息子と行動をともにしていたとしておきます。
ここで研究者が注目するのは②のこの書簡が、生駒騒動発生の前年にあたることです。
それでは、沈み行く生駒藩から尾池玄蕃とその息子たちが肥後の細川藩へと乗り換えたのはいつなのでしょうか。最初に肥後藩に仕えたのは、次男の西山左京だったようです。そして肥後藩の大阪事務所に勤務するようになります。それがいつなのかはよく分かりません。ただ、寛永15年(1638)には左京は熊本に移り、細川氏の家中に加わていたことが確認できます。その3年後(1641年)正月二日に、熊本で藩主細川忠利は、尾池玄蕃と西山左京勘十郎・山三郎をはじめとする家中の客分たちを熊本城の奥書院で引見しています。ここからは、1641年には尾池玄蕃と次男の西山左京は、細川藩の客分として正式に迎え入れられていたことが分かります。
 研究者が注目するのは、この時の藩主引見には、尾池伝右衛門・藤左衛門の二人の息子の名前がないことです。
尾池玄蕃や左京とちがって、伝右衛門・藤左衛門はまだ細川氏に召し抱えられていなかったと研究者は判断します。 この書簡がやりとりされた1641年の時点では、息子の尾池伝右衛門・藤左衛門のリクルートはまだ進行中で、実現はしていなかったことを押さえておきます。
 そんななかで藩主忠利が寛永18年3月に熊本で死去します。これにより伝右衛門・藤左衛門のリクルート対象は、忠利から嫡子の光尚に替わります。父が亡くなったときに光尚は江戸にいて、将軍家(家光)から家督相続と帰国を許され、熊本に下向ています。そして、用向きを終えると9月末頃に再び江戸に向かって出立しています。その途中の伏見で尾池藤左衛門と対面しています。この「殿様面接」を経て、藤左衛門も細川氏への仕官が正式決定となります。そして12月17日に、妻子を連れて熊本に到着します。
 以上から書簡に出てくる尾池伝右衛門・藤左衛門の江戸下向とは、伏見で江戸に向かう藩主細川光尚と合流し、その江戸参府に随行して上京する計画だったと研究者は考えています。書簡からは、藤左衛門が京都にいたことが分かります。それは藩主光尚の熊本出立を京都で待っていたいたようです。分からないのは、藤左衛門のみが藩主と対面していることです。伝右衛門の名前がないのです。
こうしてみると、細川家は生駒家に仕えていた尾池玄蕃と2人の息子を、客分待遇1000石で迎え入れたことになります。それも生駒騒動勃発の直前です。
尾池玄蕃の家族を客分として迎えた細川藩には、どんな思惑があったのでしょうか?
 近世に生き残った将軍足利氏の子孫としては、次の2氏が知られているようです。
A 鎌倉公方・古河公方の系譜を引く喜連川氏
B 足利義稙(十代将軍)の系譜を引き、足利義栄(十四代将軍)を輩出した平島氏
Aの喜連川氏については徳川将軍家、 Bの平島氏は阿波蜂須賀氏によって扶助されました。
しかし、喜連川氏や平島氏がと違い、尾池氏(西山氏)は、真正の足利氏後裔とはいえません。自称「足利義輝の子孫」なのです。
細川家には近世大名にのし上がるまでに数々の栄光がありました。その中にただひとつ汚点があります。それが家祖・藤孝(幽斎)が将軍足利義昭(義輝弟)の側近でありながら、織田信長に通じて義昭を裏切ったことです。これは、細川氏が自分の系譜を誇るうえで、マイナスポイントとして作用するようにもなります。そこで、細川氏は「尾池玄蕃=足利将軍の落とし子」の真偽を度外視して、尾池玄蕃と西山左京父子を家中に迎え入れたと研究者は考えています。これは「弟(義昭)は裏切ったが、兄(義輝)の子弟は客分として迎えている」という「旧主を庇護する忠臣の演出」ということになるのでしょうか。
 足利道鑑(尾池玄蕃)や西山氏・尾池氏を足利将軍家の後胤とするのは、肥後細川氏の家中の中だけで通用する虚構でした。ところが、足利家の末裔で徳川幕府の有力旗本となっていた曾我古祐・包助兄弟も、西山氏と交際するようになります。足利義昭を見捨てて、後の戦乱の世を生き延びたという経緯は、熊本の細川家と同じです。そのため、旗本の曾我兄弟は細川氏の「尾池玄蕃=足利将軍の落し子」というフィクションを受入て、西山父子を尊重する態度をとっていたのは、先ほど見た書簡の通りです。これについて研究者は次のように記します。

その裏には、今は徳川将軍家の旗本であるが、かつての旧主(尾池・西山家)にも礼を尽くしているというポーズを演出しつつ、足利将軍家旧臣としての自意識を満たそうとしたのだろう。

以上をまとめておきます。

①伊勢藩の藤堂高虎が目付として生駒藩に派遣した西嶋八兵衛は、大旱魃への対応策として「ため池 + 治水工事 + 用水路整備」がセットになったで大規模な「総合開発事業」を各地で同時に進行させた。
②丸亀平野地域の責任者が尾池玄蕃で、青野山に代官所をもうけて指揮にあたった。
③それが残された大川山の鐘や、多度津念仏踊りの史料からうかがえる。
④尾池玄蕃は自分の出自を、室町幕府13代将軍足利義輝と烏丸氏との遺児と称した。
⑤そして讃岐香川郡の横井城主であった尾池光永(嘉兵衛)の養子となったとした。
⑥後に生駒氏に仕えて2000石を拝領した。2000石のうち1000石は長男の伝右衛門に、残り1000石は藤左衛門に与えた。
⑦二人が熊本藩に移った後も、末子の官兵衛は西讃岐に残ったという。
⑧熊本藩細川家は「尾池玄蕃=足利将軍の落とし子」の虚構をあえて信じて「旧主を庇護する忠臣」という立場を演出した。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「 小川雄   西山左京・八郎兵衛宛て曾我古祐・包助書状の検証  足利道鑑(尾池玄蕃)と西山氏・尾池氏をめぐる研究の基礎作業として」
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丸亀平野の古代史を考える上で、避けて通ることの出来ない遺跡がいくつかあります。その中のひとつが下川津遺跡(坂出市)です。この遺跡は坂出インターチェンジ建設のために発掘されたので、その調査エリアが広大で、ひとつの集落がまるごと出てきました。それも弥生時代から室町時代までの集落変遷がわかるものです。こんな例は善通寺王国の旧練兵場遺跡群以外には讃岐では例がありません。ここから明らかになったデータを元にして、さまざまな指標が作成され讃岐の古代が語らえています。まずは古代の川津郷をとりまく状況を報告書で見ていくことにします。テキストは 大久保 下川津遺跡周辺の遺跡分布 瀬戸大橋建設に伴う埋蔵文化財調査既報告 下川津遺跡」です


古代川津郷は、鵜足郡北端の大束川下流地域にありました。

川津・二村郷地図
大束川河口の川津郷
川津は大束川河口部で瀬戸内海に通ずる津でした。古代は「丸亀扇状地」を、土器川がいくつもの首を持つ龍のようにのたうって流れていました。そのため弥生時代の集落は不安定な状態におかれていて、洪水によって流されることもたびたびあったことが発掘調査から分かっています。
 鵜足郡北端部の川津郷は東西約3km,南北約3kmの範囲を自然の境界によって区画され、「地理的な一小単位」を構成します。交通路から見ると、大束川河口部を経て広く内海沿岸諸地方に連なり,東の谷筋を抜けて後の国府ができる阿野郡中枢部府中にも通じます。さらに古代には、大束川には川船が行き来して水運機能もありました。つまり、川津は「瀬戸内海海運+大束川水運+主要陸上路」の交点として、交易上の要地であったことになります。そして、近世後半段階になると旧東西川津村域は200町歩以上の穀倉地帯がひろがる地帯となります。

  弥生時代以降の地域史を考えるためには、現在の現景観に至る耕地拡大の歴史を知ることが大切だと言われます。いわば「復元地形」をイメージすることです。そのために川津エリアの水利条件と潅漑設備の整備の歴史から見ていくことにします。

下川津遺跡周辺では、現在は次の3つの水系から取水しています。
下川津遺跡水路図2
下川津遺跡周辺の用水路網
A 大束川中流
B 綾歌郡飯山町で取水する坂元用水
C 西又用水と丸亀市飯野町で土器川中流から取水する飯野幹線用水
ここでは域外からの広域用水路への依存が高いことを押さえておきます。
どうして域外からの取水に大きく頼るのでしょうか? それは大束川が用水源になり得ていないことにあるようです。
大束川 川津遺跡周辺
大束川と周辺遺跡の高低関係 大束川の水位が低く直接には取水できない

その要因は、大束川の河床が低過ぎて取水・揚水ができなかったためと研究者は考えています。そのため古代の川津は、周辺丘陵部からの落ち水や小河川に用水を頼らざるを得なかったのです。そうなると、大束川東岸南部の城山川流域の谷筋はまだしも、その程度の小川すらない東岸北部の下川津遺跡周辺や、西岸の飯野山山麓地域は水利面で非常に不利なエリアだったことになります。

下川津遺跡 条里制
下川津遺跡周辺の条里制分布図

上の条里制分布図を見てみると、川津は丸亀平野の条里地割分布域の東端に当たります。しかし、東の大束川との間を含めて、周辺の方格線はやや乱れて、空白になっているところが多いようです。これは古代において開発が遅れたエリアであったことになります。都市化した集落が出現しているのに、周辺の土地開発は遅れていたことになります。これをどう考えればいいのでしょうか?
 それは置いておくことにして先に進みます。周辺を見ると、次のような3つのエリアに分類できます。
A 城山川流域は東西坪界線がはっきりとしていること。これは城山川を取水源として大束川に排水する水利系が早くから作られたため
B 下川津遺跡周辺は条里地割がもっとも未発達。城山川流域から引水する南北線が僅かにみえるだけ。
C 大束川西岸の飯野山山麓地域では東西線の方が明確で、大束川は排水路の役割のみ。
こうしてみると大束川に頼らない灌漑網の整備が進められてきたことがうかがえます。。これは金倉川と同じ性格です。
 同時に城山川流域、下川津周辺地域,飯野山山麓地域の3つのエリアでは、それぞれ条里地割の分布パターンにちがいがあります。これは古代の水利条件の違いを反映していると研究者は考えています。さらに推論するとこのエリアがもともとは、三つの勢力によって開発されたことを示すものかもしれません。 ここでは下川津遺跡の位置は灌漑面では不利で、その中では城山川流域がもっとも容易に開発を進められる条件を備えていたことを押さえておきます。
次に各時代の下川津遺跡周辺の遺跡分布を見ていくことにします。
弥生時代中期中葉から後期までの丸亀平野の初期農耕集落は、短期間で移動を繰り返していました。

丸亀平野の環濠集落
中ノ池遺跡(丸亀市)の二重環濠集落 坂出市史より

中ノ池遺跡のように環濠をもつ集落に成長して行く所もありますが、突然のように中期前半になると姿を消します。そして、中期後半~後期初頭には、丘陵上に生活拠点を移します。

度重なる大きな洪水に襲われそこから再生して集落
古代における洪水の脅威
これは気候変動による洪水のためとする研究者もいますがよく分かりません。どちらにしても平地部の遺跡がなくなるのです。そのような中で生き残るのが善通寺王国の旧練兵場遺跡です。ここでは弥生時代前期に下川津に定着した人々は、後期になると姿を消すということを押さえておきます。 

丸亀平野 扇状地から平野へ

次に下川津遺跡周辺の古墳群の展開と消長を見ていくことにします。

古墳時代前期の下川津遺跡周辺には、次の4つの初期前方後円墳が造られます。

坂出の古墳 聖通寺・ハカリゴーロ
①聖通寺山山頂には墳形不詳の積石填,聖通寺山古墳がある。
②その南に続く尾根鞍部には、この地域最大の全長79mの前方後円墳で埴輪を持つ田尾茶臼山古墳
③下川津遺跡の東に川津(連尺)茶臼山古墳
④青の山南麓に、筒形銅器と鋼鉄を出土した吉岡神社古墳。
古墳編年 西讃
大束川河口の前方後円墳の系譜 聖通寺山 → 吉岡神社 → 川津茶臼山 →田尾茶臼山古墳
③の川津茶臼山古墳と④吉岡神社古墳は副葬品から前Ⅰ期以降のもの、②の田尾茶臼山古墳は埴輪から前期Ⅲ期以降のもの研究者は考えています。そして、①~④の4つの前方後円墳を「恐らく単一の首長墓系列」と判断します。津之郷盆地の首長が海に突き出した半島だった角山から聖通寺山の尾根の上に備讃瀬戸南航路を意識して、同一の首長系譜が連続して造ったものと考えられます。これらの①~③の初期前方後円墳の首長を支える母胎集落が、下川津遺跡であったことが想像できます。ちなみに④の吉岡神社古墳が姿を見せるのと、下川津遺跡が2度目の消滅が重なりあうようです。これをどう考えればいいのでしょうか? 課題ばかりが増えていきます。
讃岐の古墳時代前期の情勢

 ここまで4つの前方後円墳を築き、小さいながらもヤマト連合政権の一員であった下川津(津之郷)勢力には続く後継墳が見当たりません。後期段階で首長墓とできるのは6世紀後葉の青の山南麓の大形横穴式石室を持つ竜塚古墳だけです。そして、その期間は下川津遺跡は消えたままです。

坂出古代海岸線
7世紀頃の坂出周辺の海岸線復元図 聖通寺山は半島で、下川津まで海が湾入

古代坂出海岸線復元図
坂出・川津の古代海岸線復元図 津之郷盆地に海が湾入していた

もっと広い視野で丸亀平野一円を見ておくことにしましょう。

丸亀平野古墳分布図
丸亀平野の古墳分布図
丸亀平野では、小さな範囲内で継続的に首長墓系列を造り続けたエリアがいくつかあります。
A 大束川上流地域
 ①綾歌町石塚山古墳群 ②快天山古墳 ③陣の丸古墳群
B 綾川下流域
 ④爺が松・ハカリゴーロ両古墳 ⑤綾北平野の雌山古墳群 ⑥タイバイ山古墳や白砂古墳群
C 弘田川下流域では
 ⑦多度津白方のミタライ山古墳 ⑧黒藤山古墳群
D 弘田川上流、金倉川中流
 ⑧善通寺地域 ⑨吉原地域
E 土器川上流
 ⑩まんのう町長尾地域でも規模は小さいが前方後円墳を含む1単位の系列と考えられる古墳群

こうして見ると丸亀平野では、小地域単位で前方後円墳を主体とする首長墓系列が水系毎にあったことが見えてきます。これを研究者は次のように記します。

小地域集団の首長たちは最小クラス規模の勢力でありながら、前方後円墳を築きうる立場を畿内中枢の諸首長との関係において保持していた

 下川津の属する津之郷盆も、こうした地域のひとつだったとしておきます。。

古墳編年表4

 そのような中で前期後半以降になるとこれらのグループに「地域間格差」が現れ始めます。
川津(津之郷)エリアでは、先ほど見たように4つの前期後半に続く首長墓系列がはっきりしません。かといって中小規模墳の群集墳も現れません。探すとすれば、副葬品の点から川津向山古墳や青の山墓地公園東古墳になります。すでに壊されたものもあるでしょうが、大規模な群集墳があった形跡はありません。
 それに比べて綾川が大きく屈曲する羽床盆地では津頭西・東古墳、岡の御堂1号墳などの武具・馬具を揃えた首長墓クラスの大形円墳が前期後半以降になっても築造され続けます。同時に規模・石室構造・副葬品などの面で、ランク下の滝の宮万塚古墳群、浦山古墳群などの中小規模墳が密集して造られるようになります。この地域の中小規模墳で時期が推測できる約70基のうち50基近くが前期後半段階のものだと研究者は指摘します。これは後期後半以降の横穴式石室墳よりはるかに多いようです。おなじような状況は大束川上流地域でも見られます。岡田万塚古墳群では小型の前方後円墳を中心にかつては数十の中小規模墳が群集していたようです。
 これらの群集化・密集化と対照的なのが弘田川上流の善通寺地域と、綾川下流の綾北平野です。
善通寺地域では青竜古墳生野カンス塚古墳等の首長墓クラスの大形円墳と共に周辺丘陵裾部に箱式石棺群の群集が濃密です。そして中小規模墳の数は余り多くありませんし,群集墳もありません。これは綾川下流域も同じです。善通寺は後の佐伯氏の拠点、綾北平野は、綾氏の拠点となるところです。ここでは川津(津之郷)地域は、善通寺や綾川河口の綾北平野の状況に似ていることを押さえておきます。
群集横穴式石室墳の広がりと群集墳出現の関係
A 横穴式石室の採用を契機に群集墳が形成される地域
B 横穴式石室以前から群集墳が造られているに地域
羽床地域や大束川上流地域はBで、前代ほどの群集はありません。逆に善通寺域はAで「墳丘を有する」古墳はこの時期に爆発的に増大します。Aの川津・津之郷地域は、この段階で群集墳の形成が始まり、青の山の横穴式石室墳の群集や、飯野山山麓、城山川流域の谷部等に群集墳が現れます。古墳時代後期後半、6世紀後半段階に造られる横穴式石室群集墳の量は,前代の群集墳に比べると多くなっています。しかし、周辺地域に比べて特に強い群集状況ではありません。
 例えば城山川流域の谷部は、土地条件から見て最も開発が容易で、交通路から見ても阿野郡中枢部へ抜けるコース沿いに位置していて、「最適な開発候補地」なはずですが、ここにも古墳はあまり造られません。青の山の後期古墳群にしても群集密集度という点では傑出したものではありません。高松市浄願寺山古墳群などと比べると、その違いははっきりと現れます。ここでは大束川下流域のエリアでは、後期段階の首長墳系列の不明確であることを押さえておきます。ここからは突っ込んで考えると6世紀の下川津・津之郷エリアには、古墳を築く首長たちや群集墳を築く中間層もいなくなっていたということも推測できます。
讃岐須恵器窯の分布
須恵器 讃岐7世紀の窯分布図

讃岐の須恵器窯の分布 7世紀は一郡一窯体制
讃岐では奈良時代までは、各郡単位に次のような須恵器窯があったことは以前にお話ししました。
①阿野郡では綾川上流(現府中ダム)に打越窯
②多度郡では弘田川下流に黒藤窯
③鵜足郡域では岡田廃寺の瓦窯で須恵器を焼成している例
④青の山南麓の青の山1,2号窯が7世紀前半の操業
⑤城山川上流峠奥窯は、7世紀を通じて操業
こうしてみると鵜足郡と阿野郡には、須恵器生産という最先端のハイテク技術を持った渡来系技術者集団が集中していたことにもつながります。
 ハイテク技術と文明化の象徴は、古代寺院建立にも見られます。
讃岐地方は南海道諸国中、古代寺院の数が最も多く32ケ寺を数えます。阿野郡と那珂郡を見ると、
A 阿野郡 国分寺・国分尼寺に綾川流域に開法寺・鴨廃寺・醍醐廃寺
B 鵜足郡 大束川上流の法勲寺廃寺と岡田廃寺
C 那珂郡 丸亀市の田村廃寺・宝憧廃寺,まんのう町の弘安寺廃寺
C 多度郡 善通寺市の仲村廃寺・善通寺
  それぞれ郡域の中枢部分に分布します。ところが津之郷盆地には古代寺院は最後まで姿を見せませんでした。
以上、下川津についてまとめておきます。
①津之郷盆地の川津は、土地条件・交通関係に恵まれ、鵜足郡の中枢として十分機能しうる位置にある
②古墳時代前期にでは、4つの前方後円墳から首長墓系列が復元可能
③しかし前期末以降その系列は途絶え、中小規模墳の展開もあまり見られない。
④古墳時代後期以降は、下川津は相対的な「地盤沈下」傾向が奈良時代まで続く
⑤そのためか津之郷盆地には古代寺院が姿を見せない。建立できる有力氏族の不在が考えられる
⑥にもかかわらず、6世紀末~7世紀代には鵜足郡域の須恵器生産と供給の中心地であった
こうしてみると7世紀には、有力氏族はいないが鵜足郡の経済活動の中心地ではあったということになります。これをどう考えればいいのでしょうか? 

次に断片的に残された文献資料から古代・中世の川津周辺を見ていくことにします。
  正倉院資料中に「讃岐国鵜足郡川津郷戸主内部宮麻呂調施萱匹長六丈虞一尺九寸 天平十八年十月」の墨書があります。これが文字資料として現れる「川津」の初例のようです。調物として縄を川津から貢納していたことが分かります。川津郷は752年(天平勝宝4年)他の19郷と一緒に東大寺封戸に編入されたのです。この時に一緒に勅施入されたのが讃岐では山田郡宮処郷(現高松市前田町周辺),香川郡中間郷(現高松市中間町,御厩町周辺)です。
 封戸制度はm東大寺の荘園ではありません。そのため東大寺が直接的に経営に関わり、川津郷に対して強い影響を行使することはなかったようです。管理経営は、国司や郡司などの在地支配層が間に入りって行いました。しかし、この関係によって古代末まで「川津郷」が東大寺文書に散見することになります。
 その中の天暦四年(950)「東大寺封戸井寺用雑物目録」では、川津郷から封物として調綿40疋7尺,庸米44石5斗5升,租白米41石2斗6升5合,中男抽1斗5升を毎年貢納することになっています。これら頁納物の品目は、讃岐の宮処郷・中間郷と同じです。その中に調縮40疋があります。これが川津エリアの特産物であったようです。

律令国家の動揺の中で、各地の東大寺初期荘園・封戸も解体していきます。
川津郷も御多分に漏れません。康治元年(1142)「東大寺返抄案」で讃岐園百五十戸料として御封米732石4斗4升6合が頁進されます。ここからは12世紀中葉までは、封戸が川津郷にあったことが分かります。しかし弘安三年(1168)寺家御封便補保として三木郡原保,那珂郡金倉保を代わりに立てています。ここからは川津郷を含めた讃岐園封戸三郷からの対物確保が難しくなったために、新たな対応策がとられたことが分かります。
 13世紀中葉には、九条道家初度惣処分状(建長二年1250)の一条実経譲与分の「新御領」中に「春日社領河津庄」が出てきます。これは九条道家が讃岐の知行国主であった頃に、公領川津郷の一部を割いて立荘したようです。ここからは平安時代末から鎌倉時代になると律令制度に基づく収奪や封戸制度としての収奪ができなくなって、立荘や公領の纂奪=荘園化で対応するようになったことが見えてきます。律令的収奪に抵抗する動きや、荘園化によって負担軽減,権利拡大を求める在地の動きがあったのかもしれませんが史料からは分かりません。ここでは13~14世紀になると、公領川津郷と河津「庄」が併立していたことを押さえておきます。
 このときの郷と庄の位置関係を記した史料はないようです。ただ川津町東山に春日神社が鎮座します。ここからは川津郷東南部の城山川流域を中心とする地域が河津庄の故地と研究者は推測します。先ほど見たように。城山川流域が開発が最も進んだ地域だったのです。
 
 鎌倉時代末から室町時代初頭の南北町の騒乱期には、川津庄でも混乱が起きます。
建武四年(1337)から暦応四年(1341)にかけて「川津郷 + 河津庄 + 興福寺領二村荘」で仁木弥次郎が軍勢を率いて盛んに檻妨を働き,これに対して興福寺衆徒,川津郷領家職修理亮資任から濫妨停止の申状が出されています。修理亮資任申状案(「外記日記」紙背文書)には、仁木弥次郎は「預所」と号したとあります。ここからは二村郷の在地支配権を巡る紛争だったことがうかがえます。彼が在地勢力であるのか,本家や領家により任命され外部から派遣された者なのかはよく分かりません。ただ記録を見る限りは4年間も,鵜足郡北部で荘園秩序を脅かす活動を続けています。その背後には荘園領主の支配に抵抗し、それを支える在地の勢力があったことがうかがえます。そのために興福寺等の荘園領主は、幕府に訴えてその解決を求めなければならなかったのでしょう。この一連の騒動の後,宣政門院領川津郷・春日社領河津庄・興福寺領二村荘に関する史料はないようです。つまり、その後の経過は分かりません。

中世になると堆積や気候変動などで海岸線が前進してきます。その結果、川津や津之郷は陸封され、湊としての機能を失うようになります。それに代わって宇多津が新しい湊として台頭してきます。宇多津には室町時代前半には、細川氏が守護所を置きます。こうして守護細川氏の領国支配の政治的拠点として,また物資集散地として讃岐の中で最も活発な交易活動を展開するようになることは以前にお話ししました。
こうして古代には「都市化」していた川津や津之郷は、中世に成ると周辺湿地帯を開拓して農地に変え、農村地帯へと変貌していくことになります。そして宇多津の後背地としての役割を果たすようになります。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 大久保 下川津遺跡周辺の遺跡分布 瀬戸大橋建設に伴う埋蔵文化財調査既報告 下川津遺跡」
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白村江の敗北と捕虜たち

前回は新羅救出戦争に出兵した倭軍が白村江で敗北し、多くの兵士が捕虜となり、唐で奴隷などとして長年の抑留生活を送ったこと、そのなかに伊予軍の越知直氏がいたことを見ました。今回は、捕虜とならずに帰国した「(備後国)三谷郡大領の先祖」を見ていくことにします。テキストは下向井 龍彦 百済救援戦争の歴史的位置」です。

白村江の戦い」中川恵司 画
白村江の戦い 大型の唐軍船に立ち向かう小型の倭軍船
663年8月27・28日   白村江で倭軍水軍は大敗北
9月7日 周留城は唐軍に降伏 百済王族・貴族・将軍など多くの百済人は、残存日本軍が集結していた「弖礼城」(所在地未詳)に敗走。
9月25日 撤退する倭軍船に便乗し、倭に亡命。
敗軍を救護し、収容する博多湾はパニック状態へ。
中大兄皇子らは敗北の衝撃に動揺するなかで、大本営の長津宮に敗軍の将や亡命百済高官を集め、軍を解散し、飛鳥へと引き上げていきます。多数の亡命百済人が中大兄ら政府首脳に従ったようです。一方、全国各地から動員された評造軍も解散を告げられて、それぞれ国毎に生存者をまとめて帰郷の途につきます。それは傷ついた心と躰と引きずりながら、傷病者を連れての長く辛い旅路だったでしょう。
 百済救援派遣軍に動員された人名として史料に残る人達を一覧表にしたのが下表です。
白村江の捕虜一覧表
 この中の⑰には、名前は分かりませんが出身地が備後国三谷郡の評造(後の郡司)が記されています。

備後三谷郡周辺
三谷郡は現在の広島県三次市の南東部にあたります。ここに登場する「三谷郡の大領(郡司のトップ)の先祖」について、仏教説話集『日本霊異記』上巻7縁には、次のように記します。
亀の命を贖ひ生を放ちて現報を得亀に助らるる縁 第七
禅師弘済は,百済国の人なり。百済の乱(百済救出戦争)の時に当りて,備後国三谷郡の大領の先祖,百済を救はむが為に軍旅に遣さるる時に,誓願を発して言(申)さく「もし平に還来らば,諸の神祇の為に伽藍を造立て多諸くの寺を起らむ」とまうす。
 遂に災難を免れ,すなはち禅師を請へて相共に還来り三谷寺を造る。其の禅師の伽藍と諸の寺とを造立てたる所以なり。道俗観て,共に為に欽敬ふ。
意訳変換しておくと
亀の命を救って、放生の結果、亀に助けられた話 第七
①禅師弘済は,百済国の人である。②備後国三谷郡の大領の先祖は,百済救援戦争の派遣軍として動員された際に、「もし無事に帰国することができれば,諸々の神祇のために伽藍を造立て寺院を建立する」と誓願した。 その結果、災難を免れ,③禅師を伴って帰国し、三谷寺を建立した。百済から亡命禅師が伽藍と諸寺を周辺にも造立した。人々は,これを見て崇拝した。
ここからは次のような情報が読み取れます。
①僧侶弘済は、百済滅亡の際に倭にやってきた亡命百済人(渡来人)であること
②備後国三谷郡の大領の先祖(三谷氏)は,百済救援戦争に動員され白村江で敗残兵となったこと
③三谷氏は帰国中に、ひとりの亡命百済僧に出会い仏教に帰依したこと
④三谷氏は、禅師に、誓願通り氏寺建立を次のように依頼した
「是非、私の故郷『三谷』に来ていただきたい。私は出陣に当たって無事帰還できたら伽藍を立てると産土神に誓願した。産土神のお陰で生還できた。三谷に寺院を建立し、住持になってくれまいか」
⑤「遂に災難を免る。即ち禅師を請うけて、相共に還り来る」とあるので、 百済僧弘済は、見知らぬ三谷を終の棲家にする決意をしたこと。

「(三谷)大領の先祖」が率いた評造軍の軍士の全員が生きて故郷の土を踏めたわけではないでしょう。多くの兵士たちが異国に眠ったままになりました。戦死・行方不明の兵士の家族は泣き崩れ、長く悲嘆に暮れたことでしょう。遺族に僧弘済は、懇ろに仏の功徳を説いて励まします。『日本霊異記』には、「三谷寺は、其の禅師の造立する所の伽藍なり。道俗観て共に欽敬を為す」とあるので、彼らの信仰を得たようです。実は、この話はここまでは「前振り」なのです。本当のテーマは、救った亀に助けられるという浦島太郎のような「放生」にあります。回り道になりますが、後半も見ておくことにします。

禅師尊き像を造らむが為に,京に上り財を売る。既に金と丹との等き物を買得て,難破の津に還到る。時に海の辺の人大なる亀四口を売る。禅師人に勧へて買ひて放たしむ。すなはち人の舟を借り,童子二人を将て共に乗りて海を度る。日晩れ夜深けて舟人欲を起し,備前の骨嶋の辺に行到りて,童子等を取りて海の中に擲入る。然うして後に禅師に告げて云はく「速に海に入るべし」といふ。師教化ふといへども賊なほ許さず。茲に願を発して海の中に入る。水腰に及ぶ時に石を以ちて脚に当つ。其の暁に見れば,亀負へり。其の備中の浦にして,海の辺に其の亀,三頷きて去る。是れ放てる亀の恩を報ゆるかと疑ふ。時に賊等六人,其の寺に金と丹とを売る。壇越まづ量るに価を過ゆ。禅師後に出でて見れば,賊等忙然しくして退進を知らず。禅師憐愍びて刑罰を加へず。仏を造り塔を厳り,供養し巳りぬ。後に海の辺に住みて往き来る人を化ふ。春秋八十有余のとしに卒ぬ。畜生すらなほ恩を忘れず,返りて恩を報ゆ。何にいはむや,人にして恩を忘れむや。 

意訳変換しておくと
そこで禅師は、尊き仏像を本尊として安置するために,④京に上って、材料となる金と丹を買い入れて,難破の津までもどってきた。すると海辺で大きな亀四匹を売っていた。禅師は、これを買って放生した。その後、難波の津から船乗りを雇って、童子二人を連れて瀬戸内海に出港した。日が暮れて、夜深けになり備前の骨嶋(?)の辺に至ったところで、船乗りが悪心を起して,童子等を海の中に放り込んだ。そして、禅師に「おまえも海に入れ」と迫った。師は教え諭したが賊は許さない。そこで、願を発して海の中に入った。すると腰が水に浸かるまでに、足を何かが支えた。よく見ると亀の甲羅に立っていた。そのまま亀に背負われ④備中の浦の海の辺に送られた。これは放生した亀の恩のお礼であろう。
 その後、賊等六人は,その寺に盗んだ金と丹とを売る。壇越まづ量るに価を過ゆ。禅師後に出でて見れば,賊等忙然しくして退進を知らず。禅師は憐愍して、この罰を問わなかった。こうして仏像を造り、塔を建て、供養を重ねた。瀬戸内海や出雲の海の辺に住む⑤「海の民」たちと往来を重ね、教化を奨めた。禅師弘済は、八十有余で亡くなった。畜生の亀でさえ恩を忘れず,恩を返そうとする。何にいはむや,人にして恩を忘れむや。
   この物語の本題は、難波で捕らわれていた亀を買って放生したところ、備前で海賊に変身した船頭に海に突き落とされ時に、亀が甲羅に載せて備中の浜辺まで運んで無事帰郷できた、という因果応報譚を伝えることにあるようです。しかし、ここではそれは置いて三谷氏の氏寺を見ていくことにします。

備後三谷郡 寺町廃寺 復元模型
三谷寺とされる寺町廃寺
三谷寺=寺町廃寺説

弘済が三谷氏のために建立した三谷寺は、どこにあったのでしょうか?

備後三谷郡 寺町廃寺周辺
 ①寺町廃寺 ②寺町廃寺跡に瓦を供給していた大当瓦窯跡 ③上山手廃寺跡(向江田町)
寺町廃寺は三次市の東南部にあります。寺町廃寺については次のような事が分かっています。
①基壇の装飾にせん塼(レンガ)が使われていること
②創建時瓦は、素弁軒丸瓦であること
③これらは同時期の百済寺院に類似していること
④寺町廃寺の同笵瓦が、その北北西1,5㎞の大当瓦窯跡で焼かれたこと
⑤同笵の素弁軒丸瓦は備中国賀陽郡の栢(かや=伽耶)寺廃寺跡からも出土
⑥備中の栢寺の笵が寺町廃寺の笵に転用されていること
備後三谷郡 寺町廃寺金堂基壇 百済風の煉瓦1
寺町廃寺 金堂基壇装飾に百済式の塼(レンガ)が使われている

金堂や塔の基壇には一番下に塼(せん)を立て並べて、その上 に塼や瓦を積み上げる工法が用いられています。こうした構築方法は日本列島の寺院には例がないようです。これも百済工法の「直移植」と研究者は考えています。
備後三谷郡 寺町廃寺 水切り瓦
創建時瓦が、素弁軒丸瓦(百済様式)であること

百済瓦
備後三谷郡 寺町廃寺 金堂の版築技術
寺町廃寺 金堂基壇に高度な版築技術が用いられていること
金堂の建物を支える基壇は,土を交互に積み重ねて突 き固める「版築工法」が用いられています。この工法は当時は中国や百済の工法で、日本では飛鳥周辺地域の寺院のみで使用されてものです。寺町廃寺跡の造営には、百済亡命技術者によって先端技術が導入されたことが分かります。
備後三谷郡 寺町廃寺 唐三彩
寺町廃寺 唐三彩の完成品

地方の古代寺院としては唯一唐三彩の破片が出ていること
備後三谷郡 寺町廃寺1
寺町廃寺 金堂跡と塔跡の石積階段

以上からは、備中栢(伽耶)寺や三谷廃寺は、百済亡命者の技術者集団によって建立されたと研究者は判断します。
 また先ほど見たように、弘済は飛鳥京まで出かけて、金や丹を購入しています。
ここで注意しておくのは「本尊購入」ではないことです。手に入れたのは資材で、本尊本体を製作したのが三谷郡周辺に定着した百済技術者集団であったことと研究者は考えています。また海賊化した船頭に襲われた弘済らを、亀が運んだのは「備中」の海浜でした。ここからは、弘済と備中栢寺との繋がりが見えてきます。それを裏付けるのが寺町廃寺をはじめ備中・備後地域の古代寺院跡には独特の水切瓦が使われていることです。
寺町廃寺の水切り瓦
備中備中栢寺廃寺と寺町廃寺の軒丸瓦の共通性=共通の技術者集団
 この地域に百済系寺院建立技術を移植し、水切瓦を使った亡命百済僧や技術者集団がいたと研究者は推測します。
三谷寺の伝承から見えてくること
ここからは、弘済はひとりでではなく、造寺・造瓦・造仏の技術者集団たちとともに亡命した亡命百済技術者集団が7世紀後半の備中や備後には形成されていたことがうかがえます。このような集団は周辺の讃岐や伊予など、百済救援戦争に従軍したエリアでも見られたことなのかもしれません。例えば、讃岐の朝鮮式山城の城山城や屋嶋城を築城したのも、亡命百済石工集団や築造集団が技術者集団として、それを佐伯直氏や綾氏などの評造が支えたことが考えられます。

備後三谷郡 寺町廃寺 伽藍置配置
寺町廃寺 全国の法起寺式伽藍配置の寺院跡の中で、最も遺存状態が良好な寺院跡

寺町廃寺の伽藍プラン2
 寺町廃寺跡の伽藍プラン
  寺町廃寺跡の伽藍プランは上図のように,伽藍中軸線から左右同じ距離になる位置に,金堂と塔の壁が 位置します。
また、塔よりも規模が大きな金堂側の回廊を,塔側の回廊よりも一間分 (柱と柱の間隔)ほど外に広げた位置に配置しています。これは中門から入った時に中軸線上から講堂を見た時に塔・金堂・回廊の視覚的なバランスを創り出すためだと研究者は考えています。こうした設計手法は法隆寺西院伽藍と同じです。つまり670 年に焼失した法隆寺の再建に採用された設計手法が,同時期に創建された寺町廃寺跡にもそのまま用いられていることになります。もう一歩踏み込んで云うと、法隆寺西院と
につながりのある技術者集団が寺町廃寺創建に関わっていたことになります。

古代伽藍配置の変遷 塔から金堂中心へ
寺町廃寺(法起寺様式)は、塔から金堂中心に変遷する過渡期の伽藍様式
三谷寺=寺町廃寺とすると、従来の地方の仏教寺院の建立手続きも見直す必要が出てきます。
 従来は、地方寺院は地方豪族(評造・郡司)には、建立技術がなく中央の認可や支援を受けて建立された、早くから氏寺を建立できた勢力の背後には、ヤマト政権との強いつながりがあったとされてきました。しかし、寺町廃寺を見ると三谷氏が亡命百済人集団と結びついて、独力で寺院を建立していたことが分かります。これをどう考えればいいのでしょうか。
 「中央とのつながり」以外にも、亡命百済集団には単独で寺院を建立し、運営して行くだけのネットワークがあったことになります。これらの技術者集団が、備中や備後にいくつもの古代人を建立したでのです。同じような動きは四国にもあった可能性はあります。中央とのつながりだけに目を向けていては、見逃すものがあるような気がします。
弘済は三谷寺で、どんな仏の教えを説いたのでしょうか。
 百済という国が滅びる姿を自分の目で見て体験した弘済は、さまざまな悲劇と人間の運命を心に刻んだはずです。そして命を失った人達への供養、殺生忌避を誓ったのではないかと研究者は推測します。同時に弘済らは、仏教技術を生活技術へと転用して(たとえば道橋・灌漑・建築)、地域社会の生活向上に寄与したでしょう。弘済は、いろいろなかたちで備北地域の地域文化の形成に貢献したことが考えられます。これが地域の仏教受容のひとつの形かもしれません。
以上をせいりしておきます。
①備後三谷郡の郡司(大領)の先祖は、百済救援戦争に動員されて評造として、一族や地域の有力者を従えて博多に集結した。
②そして派遣部隊に編成され朝鮮半島南部伽耶に渡った。
③彼らは水軍でなく陸戦部隊だったので白村江の海戦には参加せず、捕虜となることなく帰国することができた。
④帰国の際に、百済人僧侶を三谷郡に連れ帰り、氏寺の建立を依頼した。
⑤百済人僧侶は、周辺の亡命百済人技術者や備中の栢(伽耶)寺廃寺や畿内の亡命集団とのネットワークを使って、三谷寺=寺町廃寺を造営した。
⑥この寺は、亡命してきたばかりの技術者集団によって造営されたために百済色の非常に強いものとなった。
⑦7世紀の地方寺院の中には、ヤマト政権の支援や認可なしで、渡来人によって建立された寺院があったことを寺町廃寺は示している。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
下向井 龍彦 百済救援戦争の歴史的位置
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白村江の敗北と捕虜たち

前回は百済救援戦争にむけて地方の評造(元国造)たちが大きな役割を果たしたことを見ました。今回は、その後の白村江の敗北で多くの捕虜が発生し、長い抑留生活を余儀なくされていたことを見ていくことにします。テキストは、「下向井 龍彦 百済救援戦争の歴史的位置」です。
まず白村江への航路を、伊予の越知直氏の体験通じて物語り風にして記しておきます。
越知氏の「大領の先祖」は、一族の軍士たちとともに出陣前に、産土神(大三島?)に武運長久と無事生還を祈願した。生きて帰ることが出来たら産土神のために伽藍を建立することを誓った。そして、準備した船で集結地の筑紫に向けて出港した。軍士たちの家族・親族、「評(後の郡)」の住民のすべてが無事生還を祈って船を見送った。それは『万葉集』防人歌のシーンと同じように「別離の悲歎」が詠い踊られた。その中には、大王の前で出陣前に軍事氏族の大伴氏が詠い、佐伯氏が舞ったという次のような久米歌が演じられたかもしれない。
「おおきみ大王のへ辺にこそ死なめ、顧みはせじ」(大伴家持)
「今日よりは顧みなくて大王のしこ醜 のみたて御楯と出で立つ我は」(防人歌)
船は国宰駐在地(国府)に集合し、他の伊予の評造軍とともに伊予総領に引率されて博多長津宮の大本営に集結した。西日本中心にら同じように国宰に引率された評造軍が続々と集結する博多湾岸には、軍士たちを収容する小屋やテントが建ち並んだ。武器・軍粮の梱包が積み上げられ、湾内には軍船がひしめきあう。陸上では近隣諸国から動員された人夫や炊出しの女性たちがせわしく立ち働き、海浜では激しい戦時訓練が行われていた。
 
白村江への道663年2
白村江に至る道
天智2(663)年 3 月 全軍が渡海完了して5ヶ月後のことです。半島南部に展開していた日本軍は、唐・新羅の周留城包囲網を打破して、一挙に反転攻勢に出ようとします。そのため全軍が集結して、錦江河口白村江に陣取る唐軍軍船集団に決戦を挑みます。籠城する百済復興軍も日本軍の攻撃に呼応して討って出ました。これが史上名高い「白村江の戦い」です。日本書紀は次のように記します。

白村江への道663年4

*(8 月17日) 賊の将軍(新羅の将軍)は州柔城(百済復興軍の本拠)を囲み、大唐の将軍は軍船 170 艘を率いて白村江に陣取った。
*(8 月27日)倭国の軍船うち最初に到着したものと大唐の軍船が出会って戦争に なった。倭国軍は負けて退却して、大唐は守りを固めた。
*(8 月28日) 日本の諸々の将軍と百済王豊璋は状況を観ずに、語り合って言った 。「我らが先に戦争を仕掛ければ、彼らは自然と退却するでしょう」と
*①倭国軍は統率が乱れながら兵卒を率いて進んだ。大唐軍は陣を硬くして 、左右から船を挟んで囲んで攻めた。須臾之際(あっという間に)、倭国軍は破れた。水に落ちて溺れて死ぬ者が多かった。
②(倭軍の軍船)は舳先と船尾を回旋させることができなかった。朴市田来津は天を仰いで誓い、歯を食いしばって怒り、数十人を殺したが戦死した。この時、百済王の豊璋は数人と船に乗って高麗に逃げ去った。
*(9 月7日) 百済の州柔城(ツヌサシ)が唐に降伏した。
*佐平余自信、立率木素貴子、谷那晋首、憶礼福留と一般人民は弖礼城についた。翌日、船を出して倭へむかった。
中国文献の『旧唐書・劉仁軌伝』は次のように記します。

水軍および糧船を率い、熊津江より白江に往き、陸軍と会し、同じく周留城に趣く趣けり。仁軌、白江の口において倭兵に遇い、四戦にかち、その舟400艘を焚けり。煙焔は天に漲り、海水みな赤く、賊衆(倭軍)大潰せり。余豊、身を脱して走れば、その宝剣を獲たり。偽りて王子・扶余忠勝・忠志ら士女および倭衆ならびに耽羅国を率いて使いし、一時に並びて降りれり。百済の諸城はみな帰順すれど、賊師・遅受信、任存城に拠りて降りざりき。

白村江敗北

8 月27・28 日 日に、倭軍ははじめて唐水軍と対戦し、瞬時のうちに壊滅的敗北をしています。倭軍の兵船 400 艘が焼き払われ、炎と煙が天を焦がし、血と炎で海は朱に染まった。「倭衆は・・一時に並びて降りれりと『旧唐書』は記します。ここからは大量の捕虜が出てきたことが分かります。
白村江への道 戦力比較
両軍の戦力比較 

この時の敗因としては、兵力量の差、軍船の大きさの差、兵器体系の差など、いくつもの敗因をあげることができます。
研究者が注目するのは『日本書紀』からうかがえる両軍の命令系統と戦術の差です。バラバラに突進する小型の倭軍兵船は「争先」「乱伍」と表記します。それに対して整然とした鉄壁の陣形で迎え撃ち、囲い込んで殲滅する唐軍巨大兵船(「堅陣」)。ここからは、組織的な訓練を十分に積み、一糸乱れずに動く東軍と、統一的な訓練を受けなかった雑多な編成の日本軍のバラバラな動きが対照的に描かれています。
白村江の敗北6
「②船の舳先と船尾を回旋させることができなかった」という記述からは、倭軍船には舵もなかったことがうかがえます。この戦いを経験した評造たちは、軍事力の編成・訓練システムなどを含めて、倭軍の後進性を躰で味わったことになります。「大東亜戦争」の無謀性を痛感した世代と同じ体験に似ているようにも思えてきます。海に投げ出された何千もの軍士が溺れ死んでいく中で、味方の残存兵船に救出され者もいたようです。しかし、戦場に取り残された多くの軍兵は唐の捕虜となります。

白村江への道 戦力比較2

その後、長い抑留生活から帰国できたことがわかる兵士の一覧表を見ていくことにします。
日本書紀には唐・新羅の捕虜となって何年か後に帰国した人々の記事が、天武13年(684)から慶雲四年(707)にかけて四例出てきます。それらを一覧表にしたのが次の表です。
白村江の捕虜一覧表
         捕虜解放され帰国したことが史料に残る動員兵士の氏名と出身地

この表から帰国した指揮官や兵士の本貫地を見てみると次のような情報が読み取れます。
①陸奥・筑後・肥前・備中・備後・讃岐・伊予・土佐で、陸奥・筑紫を除けばすべて西日本地域に集中②特に北九州~瀬戸内の出身者が目立ち、異国での労苦に対して課役の免除など恩典を得ている
③捕虜となった兵士の中に、土佐の④布氏首磐 伊予の⑫物部薬・⑱越知直ら8名 讃岐の⑭錦部刀良がいる。
ここからは、広範囲に多くの人達が百済救援戦争に動員されていたことが分かります。同時に、讃岐であれば、綾氏や佐伯直氏などの評造(元国造、後の郡司)クラスのメンバーは、ほとんどが従軍したことがうかがえます。
まず⑭の讃岐出身の「錦部刀良(にしこりのとら)について見ておきましょう。(新編丸亀市史)
彼には姓はなく、讃岐国那賀郡の人とのみ記します。錦部氏は百済からの渡来人系氏族で、綾や錦織りの職人として大王に仕えた錦織部(錦部)と関係する人物のようです。刀良の場合は、無姓なので部民だったようです。彼について『続日本紀』巻第三、文武天皇の慶雲4年5月(707年)は次のように記します。

刀良ほか2名に、各(おのおの)衣と塩・穀とを賜ふ。初め百済(くだら)を救ひしとき、官軍利あらず。刀良ら、唐の兵の虜(とりこ)にせられ、没して官戸(奴隷)と作(な)り、?(四十)餘年を歴(へ)て免されぬ。刀良、是に至りて我が使(遣唐使)粟田(あはた)朝臣真人(まひと)らに遇ひて、随ひて帰朝す。その勤苦を憐みて、此の賜有り

意訳変換しておくと
 刀良ほか2名に衣と塩・籾を賜った。昔、百済を救うために派兵した。(663年)、官軍は不利で、(刀良たちは)唐軍の捕虜となり、賤民の官戸とされ、四十年あまりを経て、ようやく解放された。刀良はここに至って、わが国の遣唐使粟田朝臣真人らに会い、彼らについて帰朝した。その勤めの苦労を憐んで、この賜り物があった

ここからは次のような情報が読み取れます。
①日唐国交回復後に、唐に派遣された遣唐使・粟田真人が慶雲元年7月(704年)に唐から帰国した
②その時に白村江で捕虜となった讃岐出身の錦部刀良を伴って帰国した
③刀良は、軍丁(いくさよろず)として、動員され伊予惣領軍に従軍した可能性がある。
④20歳で従軍したとしたら40年近い月日が流れているので60歳だったことになる。
⑤その抑留生活への褒賞は、わずかの衣と塩・穀のみであった。
これが刀良についての記録のすべてです。
  前回に「備中国風土記』逸文を紹介しました。そこには、斉明天皇が難波から筑紫に向かう途中の備中国下道郡迩磨郷に立ち寄った時の出来事を次のように記していました。
① 皇極天皇6(660)年 唐に侵攻され滅亡した百済の遺臣が倭に軍事援助をもとめたこと。
②それに応じて、斉明(皇極)天皇と、皇太子の中江大兄王子が海路で筑紫に向かった
③その途中の吉備のある里でで、兵士募集をしたところ2万の兵が集まった
ここからはヤマトの大王が現地行幸で、多くの豪族と人民を戦争に徴発したことが伝えられています。
   讃岐那珂郡の錦部刀良も、このように動員され多度郡の評造佐伯直氏の配下などで軍丁として行動を共にしていて捕虜となったことが考えられます。

⑱の越知直ら8名については、仏教説話集『日本霊異記』は次のように記します。(要約)

伊予国越智郡の大領(郡司のトップ)の先祖である越智直は白村江の戦いに参加し、唐軍に捕われある島に同族八人とともに抑留された。彼らは観音信仰に目覚め菩薩像に、「舟を造り、帰国できるように」と祈願した。その結果、西風に乗って無事到着することができた。政府が事情を天皇に報告すると、天皇はこれを憐れに思って彼らの願いを聞いた。そこで越智直は新しい郡をつくり、そこを治めたいと申し出た。天皇はこれを許可し、彼を大領に(郡司のトップ)に任じた。

ここからは次のような情報が読み取れます。
①越智直は大領の先祖とされているので越智郡内の有力豪族で評造であった。
②越智氏は小市国造の系譜をもつので、兵士として参加したのではなく、一族や農民を率いた指揮官として従軍した
③越智氏は「海の民」で紀氏と結びついていたので、水軍兵力として従軍して海戦に参加したこと
④越知氏はもともとは氏神信仰者であったが、捕虜抑留という危機打開のために仏教に加護を求めた。
⑤そのため越智郡の支配維持・再編のためのシンボルとして仏教寺院を建立したこと。
越智直の「直」とは、善通寺の佐伯直と同じで、地方豪族に与えられることの多かった姓です。
越智氏は、伊予五国造の小市氏以来の在地豪族で、その後も「郡司、大領従八位上越智直広国」(天平八年〈738〉伊予国正税帳)など、後に郡司を世襲していることが分かります。ここに出てくる主人公は、その先祖にあたりるようです。越智氏は高縄半島とその周辺一帯の島嶼部を勢力エリアとしていました。天武政権で国県制から律令的国郡制への移行が進む中で、帰国した越知直を新しく設置した越智郡の大領に任じたことになります。

日本霊異記 | 文学,日本文学小説 | 万能書店

越知直が無事に帰国できたのは、観音像を信仰したご利益のためだったと『日本霊異記』は説きます。
観音さまは、災難を除いて幸福を招くという典型的な仏です。このように『日本霊異記』には、郡司たちの仏教信心の話が数多く入っています。その中でも氏寺を建立する例が多いようです。当時は、郡司達は争って氏寺を建立していた時期で、白鳳瓦を屋根に乗せて輝く伽藍が地方にも姿を見せ始めた頃になります。これは古墳時代の前方後円墳と同じく支配者のシンボルモニュメントでもありました。新たなモニュメントは、過去の神話から脱皮して新しい支配権を確立するための装置として機能します。こうして地方でも仏教導入が進んで行きます。その契機が越知氏の場合は、他国での戦争捕虜と抑留生活という苦難の中で手にしたものだされます。どちらにしても、越知直の体験や功績は、白村江の敗北 → 唐での抑留生活 → 帰国と越智郡設立 → 氏寺建立として伝えられ、それが先祖の功績顕彰するために、氏寺の縁起として伝えたものなのでしょう。それが『日本霊異記』に載せられたとしておきます。
 
 白村江の敗北という巨大な危機感は、「倭から日本へ」の政治革新エネルギーへと昇華されていきます。それが古代律令体制を産み出す原動力になったと研究者は考えています。地方では地方行政機構が革新され、国郡里(郷)制へと変化していくことになります。集団で捕虜生活を送った越知氏一族は、唐の巨大さと先進性を自分の目で見て帰ってきたのです。ヤマト政権の進める次のような戦後政策を理解し、支持する心の準備ができていたでしょう
①瀬戸内海防備のための朝鮮式山城の建設など防備体制強化
②軍団移動のための大道建設(南海道整備)
③進んだ文化・技術を導入するための渡来人の積極的な受入
④大量の人民徴兵のための個別人身支配体制(戸籍制度+土地制度整備)
⑤自らが郡司に就任し、郡衙などの施設を建設し政府の新政策を地方で担う心構え
⑥新文化の象徴である仏教信仰と、ステイタスシンボルとしての氏寺建立

身を以て敗戦体験をした評造たちは「新国家の建設」にむけて、これらの新政策の実現に向けて協力したとも考えられます。我が国の戦後民主主義が、悲惨な戦争教訓の上に立って推し進められたことを思い出させます。私は元国造であった綾氏や佐伯直氏も百済救援戦争に従軍し、敗戦を体験していると考えています。
 総勢数万におよぶ軍団は「官費支給兵(GI)ではありませんでした。食糧から武具まで兵士自弁兵でした。そのため兵士を徴発された地域にも大きな負担となったはずです。そのことがそれまでの氏族的支配を動揺させ、新たな律令的支配を受容せざるをえない状況をつくりあげていったと研究者は考えています。ここでは、白村江の敗北は、九州だけでなく、瀬戸内海一円の国々において律令制国家を作り出していくプラス要因として働いたとしておきます。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
愛媛県史 越智直・日下部猴之子
下向井 龍彦 百済救援戦争の歴史的位置
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7世紀後半、白村江敗北と壬申の乱後の天武朝時代になると、讃岐では大型土木工事が目白押しとなります
A 城山・屋島の朝鮮式山城
B 讃岐平野を東西に伸びる南海道の建設
C 郡衙建設と郡司達の氏寺建立
D 条里制工事
これらの工事を担当したのはかつての国造で、彼らが郡司へと移行していきます。これだけの大土木工事は大きな負担だったはずです。それを国造たちを、どうしてすんなりと受入れたのでしょうか? そんな疑問が私にはありました。それに答えてくれる論文に出会いましたので見ていくことにします。テキストは「下向井 龍彦 百済救援戦争の歴史的位置」です。 

白村江への道663年
白村江に至る道
「備中国風土記』逸文に、斉明天皇が難波から筑紫に向かう途中の備中国下道郡迩磨郷に立ち寄った時の出来事を次のように記します。

 この国の風土記には次のようにある。皇極天皇6(660)年、大唐の将軍である蘇定方(ソテイホウ)が新羅軍を率いて百済を攻めた。そこで百済は使者を遣わせて救援を乞うたので、天皇は筑紫に行幸して救援の兵を送った。その時、皇太子だった天智天皇が摂政として随行し、下道郡に身を置いた。そこで、ある郷の村を見ると戸数が大変多かったので、皇極天皇は詔を下して この郷で兵士を集った。その時に得た兵は2万人だったので、天皇は大変喜んで この村を二萬郷(にまんのさと)と名付けた。これが後に爾磨(にま)と改められた。その後、天皇が筑紫の仮宮で崩御したので、この軍勢は遣わせずに終わった。」

ここからは次のような情報が読み取れます。
① 皇極天皇6(660)年 唐に侵攻され滅亡した百済の遺臣が倭に軍事援助をもとめたこと。
②それに応じて、斉明(皇極)天皇と、皇太子の中江大兄王子が海路で筑紫に向かった
③その途中の吉備のある里でで、兵士募集をしたところ2万の兵が集まった
この2万という数字はともかく、ヤマトの大王が現地行幸することで、多くの豪族と人民を戦争に徴発できるようになったことがうかがえます。
日本書紀は3回に分けて、次のような軍事力が派遣されたと記します。数
第一派:
1万余人、船舶170余隻。指揮官 安曇比羅夫、狭井檳榔、朴市秦造田来津。
第二派:
2,7万人 主力指揮官は上毛野君稚子、巨勢神前臣譯語、阿倍比羅夫。
第三派:
1万余人 指揮官は廬原君臣(廬原国造の子孫。静岡県清水市本拠)
推古政権時代にも、新羅将軍・久米王子に神部、国造・伴造らと軍兵2,5万人が授けられたことがあります。約1世紀前に大伴金村が筑紫で行った部民制による兵士動員スタイルが、吉備でも行える体制が整っていたことがうかがえます。
 百済救援軍の派兵決定に踏み切った直後の斉明 6(660)年 12 月、政府は諸国に「諸軍器」の「備え」と軍船建造を命じています。
『日本書紀』には、「駿河国」への造船指令で完成した船が曳航中に伊勢国で転覆したという事件だけが記されています。これは「事故」であったから報告されたので、多くは命令通りに各国で輸送船や軍船が造られていたはずです。駿河国に造船指令が出されていたのなら瀬戸内海の讃岐にも造船指示があったでしょう。それを遂行する国司は、この時点ではまだいませんでした。だとすれば、これらを担当したのは国造たちや有力豪族たちだったのでしょう。

郡郷制変遷表
国郡里制の変遷

 この時点であった地方支配機構は評造(こおりのみやつこ)だけです。任命されたのは旧国造・旧地方伴造で、田地調査、人口調査、50 戸制を創設し、課税・徴兵などを担当させていました。しかし、これは整備されたものではなく、中央の命令が地方にまで法令として下りてくるものではなくAboutで大雑把なものだったようです。  
そのために置かれたのが総領です。
これは百済救援軍の準備・動員のために斉明7(661)年の初めに置かれました。総領―国宰―評造という命令系統を通して次のような事が行われました。
兵器の製造修理
指定数の船舶の造船修理
指定量の軍粮備蓄
指定数派遣軍軍士の選抜・訓練
兵站基地である筑紫博多湾までの輸送
伊予総領は、伊予・讃岐・阿波を支配し、後には朝鮮式山城の築造・運営にもあたっています。 ここでは、古代律令国家の中央集権的な行政機構が、百済救援軍動員を契機に整備され始めたことを押さえておきます。
 ちなみに6世紀に、朝鮮半島政策遂行のために動員された多度郡国造の佐伯直氏の祖先が眠るのが善通寺市有岡町の大墓山や菊塚古墳である可能性を前回お話ししました。この古墳からは百済的な馬具や王冠、鉄剣が出土します。半島での駐屯活動の中で手に入れたことが考えられます。

善通寺大墓山古墳の馬具2
             大墓山古墳出土の馬具類(善通寺郷土資料館)
 6世紀に朝鮮半島に派遣された軍隊は、佐伯直氏軍団のように西国の「評造軍」を中核として編成されていました。それは国造たちの私兵集団で、高価な武具・馬具を自力で整えられる国造領内富裕層に限られていました。装備は自分持ちで、自宅管理、訓練は自己訓練です。それは当時の群集墳の副葬品の武器からうかがえます。
 例えば土器川中流部のまんのう町長尾の町代古墳群(6世紀前半~後半)からは馬具や鉄剣・鉄鏃などの武具が出土しています。

町代3号墳馬具
         まんのう町の町代3号墳の馬具

町代3号墳鉄製遺物2

武具副葬は被葬者の生前のステイタスを誇示する威信財です。ここからは被葬者が国造軍軍士であったことが分かります。6世紀には国造を指揮官とする国造軍が半島に派遣されていたのです。

郡郷制変遷表
国郡(評)里(郷)制変遷図
次に大化の軍制改革で、あらたに創設された「評造軍」を見ておきましょう。
①「兵庫」を設置して、個人装備を一括収蔵・管理
②50 戸制を踏まえた新規選抜軍士の編成(兵力数増員)
③その指揮官が「評造」
個人装備の一括収蔵や新しい軍隊編成法は、装備の点検・修理と廃棄などを効率化し、動員可能数を増やしました。そして評造指揮下の訓練の集団化も行われるようになります。そういう意味では、評造軍は国造軍に比べてはるかに革新され強化された軍隊と云えそうです。
 佐伯直氏が多度郡の「評造(後の郡司)」として果たした役割を挙げてみましょう。
①割り当てられた兵力数を支配下の評造軍軍士から選抜して訓練実施
②一般住民男女は派遣軍軍士たちの装備の製作・修理
③騎馬・駄馬の生産・育成
④軍服などの縫製
⑤軍粮の備蓄
⑥軍船の制作・水夫集団の提供
これらの活動は、綾氏や佐伯直氏にとっては負担の多い役務だったかもしれません。しかし、視点を変えて見ると、中央政府の命令に従ってこれらを行う事で、いろいろな役得がありました。それは新しい武具の供与であり、製法伝授などの先進技術の需要につながったかもしれません。また、軍港提供でそれが交易港として機能し、経済的な利益をもたらすことがあったかもしれません。また「中間搾取」などもあり、後の郡司は美味しい職であったことは以前にお話ししました。
 どちらにしても多度郡の佐伯氏は、大伴軍団の一員として早くから朝鮮半島での駐屯活動に従事し、
その活動の中で先進的な軍事技術や経済的な富を7世紀になっても手に入れていたことがうかがえます。
 例えば、讃岐の古代氏寺は一町(107m)四方の伽藍が一般的です。
ところが佐伯直氏の氏寺である善通寺は、その四倍の2町四方の伽藍を有します。ここにも他の郡司を凌駕する経済力がみえてきます。当時の寺院は、大学でもあり、病院でもあり、僧侶は最高の文化人でした。寺院の中では東アジアの国際用語である中国語が日常用語として使用してされていたと研究者は考えています。それはイスラム教が国や地域は違ってもモスクの中ではアラブ語が用いられるのと似ています。幼い空海は善通寺に出入りし、そこの僧侶達と中国語で話していたかも知れません。これが遣唐使の一員として唐に渡ったときに役立つことになったのではないかと私は考えています。そのような環境の中で空海は育ったことになります。最後は佐伯直氏の国際性と経済基盤の源がどこにあったかという話しにすり替わっていったようです。
以上をまとめておきます。
①百済救援戦争に各国の軍隊を率いたのは、評造(元国造)たちだった。
②評造たちは船や水夫の提供・戦略物資の供出・輸送など後方支援活動を担った。
③同時に評造は、一族や動員された兵士を引率し、筑紫博多湊に集結した。
④そこで伊予大領の軍団として編成され、対馬海峡を渡り半島に上陸した。
⑤しかし、軍団は評造軍の寄せ集めで、統一性がなく集団的な動きができなかった。
⑥また軍船なども遙かに劣っており、唐水軍の敵ではなく、白村江で大敗北を喫した。
⑦この時に多くの兵士が唐軍の捕虜とされ、唐で奴隷として長い歳月を送った。
⑧戦後30年近くを経て、唐との国交回復が進む中で、捕虜たちの帰国が実現した。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
下向井 龍彦 百済救援戦争の歴史的位置
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前回は空海の生家・佐伯直氏と大伴氏の関係を次のようにお話ししました。

大伴・佐伯=同祖兄弟氏族を裏付けるもの

ここからは佐伯直氏が大伴氏の同族として、軍事行動をともにしていたことが見えて来ます。そうだとすれば大伴氏の活動には、佐伯直氏が付き従っていたことになります。もっと云えば、大伴氏の活動を追いかければ、佐伯直氏のうごきもある程度は見えてくるのではないかという推察です。そこで、大伴氏の全盛期を築いたとされる大伴金村の動きを今回は追ってみたいと思います。テキストは「小嶋 篤(九州国立博物館)  筑紫・大伴・大伴部     「大宰府前夜 ─筑紫の大宰と豪族」です。

まず大伴金村に至る大伴氏の系譜を見ておきましょう。
大伴氏系図1
紀記の中で、大伴氏の活躍する伝承は次の項目です。
①天孫降臨先導伝承
②神武東征従軍伝承
③日本武尊東征従駕伝承
④継体天皇擁立伝承
⑤壬申乱参戦伝承
①では、天津日命の子孫で、もともとは物部を名のったが、②の功績で「将軍」を名のるようになった
と記します。③で登場するのが武持で、ここで大伴氏を名のります。しかし、ここまでの系図については信憑性が低いと研究者は考えています。
例えば、川口常孝氏は大著「大伴家持」で次のように記します。

「日本書紀」の記述は、いわゆる歴史以前とも称すべき部分で武持・武以の実在性は十全には信じがたい。ゆえに、厳密に実在した人物の場合は、武以の子といわれ、金村の祖父にあたる、允恭十一年(422)紀の、大伴室屋連あたりからとすべきである。この大伴連室屋が、物部連目とともに大連を賜わったことが、雄略即位(457)前記に見える。大連は、大王の称号の確立に伴って生じてきたものと考えてよく、即位前紀の記事は、今や大伴氏が、物部氏とともに、大和朝廷の最高執政官の役割をになうに至ったことを告げており、大伴氏の史上への登場を確認してよいであろう。したがって、大伴氏は、室屋のあたりからは、神話への依拠を要せぬ彼等の系譜を作製することができるようになる。そして、談大連を経て金村の代になると、逆臣平群真鳥の討伐、武烈天皇即位の輔佐、継体天皇の擁立等々その功多く、大伴氏の極盛時代を現出することになる。」

  ここでは、大連の姓を持つ室屋を「大伴氏の史上への登場」とし、金村の時代を「大伴氏の極盛時代」とします。
大伴氏の出自や本貫について、北山茂夫氏は『大伴家持』で次のように記します。
「この豪族の起源については、不明の点が多いが、おそらく本拠は、河内の、後に難波と呼ばれた地域であったろう。早く六世紀以前に、世襲王権を確立した大王家(後の天皇家)に服属して、物部氏とともに、とくにその軍事的伴造を領し、その名称の大伴が示すごとく、巨大な勢力の形成へと向かったようである。五世紀から六世紀の前半にかけて、内戦外征がつづき、したがって大伴、物部には活躍の機会と場が多く、軍事的伴造の首長から、王権下の寡頭執政機関たる大連にのしあがった。しかし、五四〇年の百済への任那四県の譲に関与して大金村が失脚し、大伴氏は大きく傾いた。
 五八七年の物部大連家のごとく、諸氏族の集中攻撃をうけて滅亡に瀕したのではないから、なお伴造の大首長としての潜勢力を保つことができたものの、もはや子孫は大連に復帰しえなかった。大王家の王権と結んで政界を制覇した蘇我大臣家の下風にたって、余勢を保つのに汲々たる状態に甘んじねばならなかった。」
ここでは、5世紀から6世紀前半のヤマト政権の「内戦外征」を通じて、物部氏と共に軍事的指揮官から大連にのし上がり実権を握ったとします。つまり6世紀前半には、物部氏と大伴氏の2トップの軍事集団体制ができあがり、それが軍事面だけでなく内政・外交まで牛耳る体制が形成されていたというのです。
このような時期に登場するのが大伴金村です。彼の年表を見ておきましょう。
大伴家年表 旅人・家持

大伴金村

ここからは大伴金村が大連として、5世紀末から540年に至る約半世紀間、ヤマト政権中枢部でおおきな役割を果たしていたこと、特に朝鮮半島政策は、彼によって立案・実行されていたことがうかがえます。少し寄り道しますが、その外交政策を史料で裏付けながら見ていくことにします。 

 書紀には大伴金村は、継体政権誕生の立役者として描かれています。キングメーカーとなった金村は、大連(王権下の寡頭執政機関)として政権を運営していく立場に就きます。そこで、直面したのは朝鮮半島政策です。
    下表は倭の新羅侵攻の記事を、三国史記に基づいて年次別に集計したものです。
倭の新羅への侵攻一覧 古代日朝交渉史序説(田村)
ここからは次のような情報が読み取れます。
①五世紀がヤマト王権の新羅侵攻のピークであったこと
②ヤマト王権の新羅侵攻は5世紀で終っていること
③これは、新羅に対するヤマト王権の劣勢の現われであること
④475年の漢山城陥落によって高句麗の優勢が確定したこと
④の敗北は、朝鮮半島に軍事情勢の激変をもたらします。502年以後、高句麗の長寿王は連年のように北魏に入貢しています。これに応えて、梁の武帝は、武寧王に征東大将軍を与えます。このような冊封体制下で百済は、もはや自力で高句麗に対抗できずに苦境に追い込まれます。そのような中で、百済がとった打開策が伽耶方面への南下政策です。

朝鮮半島三国の勢力推移
中国の漢帝国が朝鮮半島に進出し、楽浪郡を設置したことは東アジアの諸民族におおきな影響を与えます。それが朝鮮半島や日本列島において古代国家形成につながると研究者は考えています。その中で、いち早く体制を整えたのが高句麗です。高句麗は北方系遊牧騎馬民族国家として、騎馬軍団で半島南部への南下政策を開始します。この脅威に対応するために、新羅や百済も軍事力強化を余儀なくされます。そのためには兵力動員面からも「国家」の形成が求められるようになります。そのような中で、高句麗の外圧に直接さらされなかった南部エリアでは、中小の小国家が並立する状態が続き、統一国家形成が進まず小国家分立状態が続きます。ところが百済や新羅で国家形成が進むと、高句麗に奪われた領土を、南方の伽耶諸国を併合することで穴埋めしていく戦略がとられるようになります。
こうして朝鮮半島では、各国の思惑が次のように錯綜します。

古代朝鮮半島をめぐる各国の思惑
①高句麗 魏晋南北朝の中国分裂に乗じて、周辺への領土拡大政策。朝鮮半島への南下
②新羅  高句麗の南下を中国王朝の冊封体制に入ることで回避 → 伽耶への侵攻
③百済  失われた北辺領土を伽耶併合で埋め合わせる     → 倭の軍事力利用
④倭   鉄と馬とハイテク技術・知識などの供給地伽耶の確保 → 駐留使節団設置
⑤伽耶諸国 独立維持のための外交展開            → 倭の軍事力利用
任那日本府とは

このような中でヤマト政権の朝鮮半島外交を担当していたのは誰なのでしょうか?
6世紀の大臣・大連一覧表
6世紀前半の大臣・大連一覧表  (古代日朝交渉史序説(田村)より
 上表からは6世紀初頭には、大臣として巨勢男人、大連として大伴金村と物部麁鹿火の3人が中枢ポストにいたことが分かります。512年(武寧王12、継体6)、百済の武寧王の派遣した使者が難波にやってきます。このことについて日本書紀は、次のように記します。(要約)

百済が外交使節を難波に派遣し、(継体天皇に)上表文を差し出して、「任那国の上哆唎(おこしたり)、下哆唎(あろしたり)、娑陀(さだ)、牟婁(むろ)の四県を欲しい」と願った。哆唎国守(現地責任者)の穂積臣押山(ほづみのおみおしやま)が『四県は百済に連なり、日本とは遠く隔たっています。百済に(四県を)たまわって、合わせて同じ国にすれば、保全のためにこれ以上の策はありません』と言うと、大連の大伴金村もこれに同調。そこで、大連の物部麁鹿火(もののべのあらかい)が宣勅使となり、難波館で待機している百済の使者にこれを伝えることになった。ところが麁鹿火が難波館に出向こうとすると、妻から「神功皇后は(朝鮮半島の各国に)官家(王権の直轄地)を設け、わが国の守りとされた由来がある。これを割いて他国に与えると、後世長く非難を受けることになる」と諭された。「病気と言って、勅宣を受けなければよい」という妻に従い、使者を断った。そこで、別人が勅を伝え、任那四県を百済に割譲したという。


伽耶諸国分割変遷表

 上・下喇は全羅南道の栄山江の東岸にあたり、今の光州・霊岸地方、娑陀・牟婁は栄山江の西方の地帯になります。つまり全羅南道の西半部が、任那の四県になるようです。475年に漢山城を放棄して南遷した百済は、失われた領土の代替として、加羅のこの地域を求めてきたこと、それを当時の外交責任者の大伴金村は認可したと日本書紀は記します。この書き方だと、倭国が伽耶諸国を領有しているように思えます。『日本書紀』は「日本の天皇は、古来、朝鮮半島に直轄地をもっていて、利権を掌握していた」と主張するの常です。研究者の多くは、この通りには受け取れない考えているようです。教科書からも「任那日本府」と用語は、20世紀末には消えています。「割譲」というよりも「承認」を求められた方が事実に近いようです。

任那割譲問題


 倭国の「承認」に対して翌年513年に、武寧王は継体の宮廷に五経博士の段楊を送っています。これは「最先端技術をもった知識人の貢進」で、「四県割譲」に対する謝意のあらわれと受け取れます。当時は、「倭国の軍事援助」の見返えりが、「百済からの文化・ハイテク技術提供」だったことを押さえておきます。
 百済の「任那併合」を倭が認めたことは、伽耶諸国からすれば倭の裏切りです。
倭を後ろ盾としてきた伽耶諸国は、その安全保障体制の見直しを迫られます。その結果、伽耶諸国は百済・倭から離脱して、新羅に接近する動きが拡がります。このような動きを受けて、新羅も伽耶地域に勢力を伸ばしてきます。
 533年には、伽耶の中心であった金官国が新羅に併合されています。これについて三国史記は次のように記します。

(法興王)十九年、金官国主金仇亥、與妃及三子長日奴宗、仲日武徳、季日武力、以国宝物米降、王礼待之、 授位上等、以本国為食邑、子武力仕至角千。

意訳変換しておくと

 金官国の国王の金仇亥、妃と三子が、国幣と宝物をもって新羅に降り、法興王は新羅の最高位である上大等を授け、本国を食邑とすることを許した。

伽耶諸国2
金官(海)は、南加羅とも呼ばれ、弁辰十二国のうちのかつての邪韓国でした。その位置は洛東江下流金海地方です。これは新羅が戦略的要衝にあたる洛東江河口を確保したことになります。ヤマト王権と加羅諸国とを結ぶ動脈が、新羅の進出によって遮断されたのです。これはヤマト王権の生命線である鉄の供給や先進文化受容拠点が奪われたことになります。今なら「シーレーン防衛の破綻」というところでしょうか。
これに対して、ヤマト王権は536年に、筑紫の那津に官家を設け、畿内・北部九州から運ばれた兵糧を貯蔵することになったことが日本書紀に次のように記されています。
(宣化元年)夏五月辛丑朔、詔日、食者天下之本也、黄金貫不可療、白玉千箱何能救冷、夫筑紫国者、遐之所届、去來之所三門、是以海表之候、海水以来賓、望天雲而奉、自胎中之帝泊三干朕身、収藏穀稼蓄積儲粮、遙設三四年、厚良客、安之方、無此、故遣阿蘇君三河内國茨田郡屯倉之穀、蘇我大臣稻目宿禰宜遣尾張尾張屯倉之穀上、物部大麁鹿火、宜遣新家連運新家屯倉之穀、阿倍臣、宜遣伊賀臣伊國屯倉之穀、脩造官家那津之口、又其筑紫肥豊三國屯倉、散在懸隔、運輸遙阻、如須要以備卒、宜課諸郡分移、聚三建那津之口、以備非常、永爲民命、早下郡縣知心
ここには阿蘇氏は河内の茨田郡の屯倉の穀を、尾張氏は尾張の屯倉の穀を、新家氏は新家の屯倉の穀を、伊賀氏は伊賀の屯倉の穀を、全国から穀物を海路によって、筑紫那津の官家に運び、また筑紫・肥・豊の三国の屯倉の穀も、那津の官家に集めたことが記されています。那津の官家は、福岡市南区三宅本町あたりにあったとされます。那津の官家設置の目的は、朝鮮半島の軍事情勢の急激な変化に対応するための措置だと研究者は考えています。新羅による金官加羅の併合や、慶尚北道慶山卓淳(慶尚北道大邱)への進出は、ヤマト王権にとっては国家存亡の非常事態です。レアアースの輸出規制よりも深刻だったはずです。同時に、発生した亡命者(旧加羅人)の受けいれや、加羅・百済に対する救援の措置が検討され、その一環として那津の官家設置となったのでしょう。こうして以後、筑紫の那津は、百済加羅援助の基地として機能していくことになります。 .
 那津官家の設置について日本書紀は、「非常に備え、永く民の命となす」と記します。
ここからは兵糧などの戦略物資の朝鮮半島への輸送・集積は一回限りのことではなく、以後も続けられたことがうかがえます。秀吉の朝鮮出兵を見ても分かるとおり、軍団・物資輸送には船舶造船から始まって、水夫の組織化、港・官家の維持や穀稼の保管・配給などの煩雑な業務が大量に発生します。この様な動きの中心にいたのが大伴金村でした。日本書紀には、次のように記します。

(宣化)二年冬十月、壬辰朔、天皇以新羅寇於任那、詔大伴金村大連、遺其子磐与狭手彦以助任那、是時、磐留筑紫執其国政、以備三韓、狭手彦往鎮任那、加救百済。

意訳変換しておくと
(宣化)二年冬十月、壬辰朔、天皇は新羅の任那(金棺伽耶)への侵攻に対処するために、大伴金村大連に命じて、その子である磐と狭手彦に任那救援の職務につかせた。この時に、(長男の)磐は筑紫執として国政を掌り、三韓(朝鮮半島の有事)に供えた。また、(次男の)狭手彦は任那に出陣し、百済救援軍とした。

こからは次のような情報が読み取れます。
①新羅が加羅に侵攻したので、ヤマト政権は大伴金村に対応を任せた
②大伴金村は、長男磐を筑紫に留まらせて後方支援活動を担当させ
③次男狭手彦を伽耶に派遣して、百済支援部隊とした。
こうしてみるとこの時期の朝鮮半島経営は、大伴金村が担当していたことが改めて裏付けられます。

④については、「三韓に備え」とあるので、磐の職務は筑紫の軍政官であり、朝鮮半島への軍事兵站基地の役割を果たしたことが考えられます。これと那津官家の機能とは無関係ではないはずです。またここに登場する「筑紫」は、宣化元年詔の「筑紫・肥・豊三国」の総称と研究者は考えています。
 一方、弟の狭手彦の軍事的作戦範囲は、金官国の復興という積極的なものではなく、加羅諸国の確保という消極的なものに限定されていたようです。具体的には、新羅の侵入阻止、ヤマト王権の戦略拠点としての伽耶諸国の維持です。
 いつの時代でもそうですが、他国への軍事行動には兵站基地が不可欠です。
それが筑紫であったことになります。さらに云えば朝鮮戦争の時に、日本列島が米軍の「不沈空母」として機能したように、狭手彦の半島での軍事行動や長期駐屯には、兵站基地の役割を果たす九州北部(筑紫)の確保が不可欠だったことになります。ヤマト王権にとっては「加羅確保=筑紫支配強化」だったのです。このふたつに対応するために、宣化政権から加羅の救援を命じられた大伴金村は、磐と狭手彦の二子に、職務を分担して目的遂行を図ったと研究者は考えています。
 伽耶防衛と北九州の兵站化は、メダルの裏表の関係であることを指摘しました。
このような国家目的の遂行の中心に大伴金村がいたことも押さえました。それでは「大伴・佐伯直=同祖兄弟氏族」とされていた善通寺の佐伯直氏はどのような動きを求められたのでしょうか。考えられることを挙げて見ると
①半島への戦略物資輸送用の船・水夫の提供
②馬具・武具などの戦略物資の拠出
③瀬戸内海航路の拠点としての白方港の提供と警備
④軍団の一員としての朝鮮半島派遣への従軍
⑤伽耶諸国亡命者(渡来人)の受入
具体的な史料はないのですが、佐伯直氏が大伴氏の支族として朝鮮半島政策に関わっていた可能性は強いと私は考えています。
もうひとつ佐伯直氏の朝鮮半島従軍を裏付けるものがあります。それが国の史跡になっている大墓山古墳(善通寺市)です。この古墳の特徴を以前に次のように要約しました。
①構築時期は古墳時代後期(六世紀後半)
②り県下では最後の前方後円墳(現在では菊塚がより新しいと判明)
③埋葬石室は県下では最も古い形態の横穴式石室=前方後円墳の横穴式石室
④玄室内部からは九州式「石屋形」が発見。→ 九州色濃厚
⑤被葬者は、空海の生家・佐伯直氏の祖先
2王墓山古墳2

王墓山古墳は石室内部には数多くの副葬品が残されていました。
 
1王墓山古墳1

その中で目を引くのは「金銅製冠帽」です。
冠帽とは帽子型の冠で、朝鮮半島では権力の象徴でした。冠帽を含め金銅製の冠は国内ではこれまでに30例程しか出ていません。ほぼ完全な形で出土したのは初めてだした。

DSC03536
善通寺郷土博物館
 王墓山古墳の副葬品で、研究者が注目するものがもうひとつあります。
それは、多数出土した鉄刀のうちのひとつに「銀の象嵌」を施した剣があったのです。象嵌とは刀身にタガネで溝を彫り金や銀の針金を埋め込んで様々な模様の装飾を施すものです。ここでは連弧輪状文と呼ばれる太陽のような模様が付けられていました。刀身に象嵌の装飾を持つ例は極めて少ないようです。 大墓山古墳に続く菊塚古墳からは、多くの馬具が見つかっています。

1菊塚古墳

これらの副葬品を、大墓山古墳の被葬者はどのようにして手に入れたのでしょうか?
 以前は、ヤマト政権から功績を認められて下賜されたと説明されてきました。しかし、この被葬者が6世紀中頃に、大伴氏に従軍し朝鮮半島に長期駐屯していたとすれば、直接現地で手に入れたことも考えられます。また、古墳の構造に九州色が強いのも、磐井の反乱鎮圧などの軍事行動に参加して、九州勢力と関係を深め、技術者集団を導入することができた結果だとも考えられます。
 どちらにしても、大墓山と菊塚の2つの古墳に眠る被葬者は、大伴金村などの配下で、九州や朝鮮半島で軍事行動をともにした武人であったのではないかと想像しています。
一方で大墓山古墳と斑鳩の法隆寺のすぐ近くにある藤ノ木古墳の相似性が次のように指摘されています。
 王墓山古墳と同じように六世紀後半の構築である藤ノ木古墳でも冠は潰されて出土していて、同じ葬送思想があったことがわかります。また、複数出土した鉄刀の1点に連弧輪状文の象嵌が確認されているほか、複数の副葬品と王墓山古墳の副葬品との間には多くの類似点があることが判明しています。そのため、王墓山古墳の被葬者と藤ノ木古墳の被葬者の間には、何かつながりがあったのではないかと考えられています。
これも大伴氏や蘇我氏とのつながりを物語るものかもしれませんが、裏付け史料はありません。
最後は妄想気味になりましたが、善通寺の佐伯直氏の本家とされる大伴氏には、伝承だけでなく、実際に軍事行動などを一緒に行った痕跡がある事を指摘しておきたいと思います。以上をまとめておきます。
①6世紀初頭の継体政権の朝鮮半島政策の責任者は、大伴金村であった。
②新羅の伽耶諸国への侵攻に対して、北九州を兵站基地として、朝鮮半島に軍団や戦略物資を送り込んだ
③それを担当したのも大伴氏で、各地から大伴一族に動員がかけられた。
④大伴・佐伯=同祖兄弟支族に基づいて、善通寺の佐伯直氏にも物資の供出・輸送・が求められた。
⑤また、佐伯直氏の中には軍団を率いて北九州に集結し、伽耶に渡り長期駐屯するものもいた。
⑥その中には、馬具や王冠などを入手し、大墓山や菊塚古墳に副葬品として埋葬した者もいた。
⑦これらの軍事活動を通じて佐伯直氏は、瀬戸内海や朝鮮半島の交易に参入し経済基盤を高めた。
⑧また直接的に朝鮮半島のハイテク技術や人材・国際性を獲得できる立場にあった。
⑨佐伯直氏が獲得した文化・技術・国際性・経済力の上に、空海は登場する
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「小嶋 篤(九州国立博物館)  筑紫・大伴・大伴部     「大宰府前夜 ─筑紫の大宰と豪族」
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大伴・佐伯=同祖兄弟氏族を裏付けるもの

 空海は、天長五年(828)2月、陸奥国に赴任する(大)伴国道に詩文を贈り、次のように記しています。
貧道と君と淡交にして玄度遠公なり。絹素区に別れたれども、伴佐昆季なり。

ここには、「(大)伴と佐(佐伯)は昆季(兄弟)なり」とあり、空海が大伴と佐伯を、同祖兄弟氏族と思っていたことが分かります。空海が佐伯氏の同祖を思っていた大伴氏とは、どんな氏族だったのかを今回は見ていくことにします。テキストは「菅野雅雄 大伴氏の系図」です。
   大伴氏について語るときに、引き合いに出されるのが「万葉集巻第十八4094」の 大伴宿祢家持の歌です。
海行かば水漬(みづ)く屍(かばね)
山行かば草生(くさむ)す屍
大君の辺(へ)にこそ死なめかへり見はせじ

意訳変換しておくと
海に戦いに行ってわたしの屍が水に漬かろうとも
山に戦いに行ってわたしの屍に草が生えようとも
大君のおそばでこそ死のう迷うことはするまい

この歌は戦前には「忠君愛国」の歌として国定教科書に取り上げられていて知らない人はいませんでした。大伴氏というとこの歌が思い浮かべられたようです。

海ゆかば - Wikipedia


この歌は、大伴家持の長歌の一部ですが、家持のオリジナルではないようです。大伴氏の祖先が戦いに臨んで唱い舞ってきたフレーズの一部とされてきました。
 『続日本紀』には、聖武天皇が大伴氏に向けた詔書に、つぎのようにこの歌が引用されています。

おまえたちの祖先はこのように歌って歴代の天皇に忠誠を尽くしてきてくれた。今後もその心がけを忘れてくれるなと。

これに対しての家持の『万葉集』の長歌は、その返答なのです。家持は、さらにこう詠んでいます。
大伴と佐伯の氏は 人の祖(おや)の立つる言立て
人の子は親の名絶たず 大君にまつろふものと言ひ継げる
意訳変換しておくと
大伴氏と佐伯氏は祖先の立てた誓い「子孫は親の名(=代々の家名)を絶えさせず大君に従うものだ」を言い伝えてきたのです

ここに大伴氏と並んで佐伯氏が登場してきます。出陣の際には、この歌を大伴氏の長が詠い、佐伯の長が舞ったとされます。最初に見たように、このことを空海は知っていたから「(大)伴と佐(佐伯)は昆季(兄弟)なり」と記したのでしょう。ここでは空海の頃には、大伴氏と佐伯直氏は同祖で、大王のそばに仕え、行動を共にしてきた軍事(護衛)集団であるという誇りが出来上がっていたことを押さえておきます。
この歌は「久米歌(くめうた)」と呼ばれていて、 ウィキペディアは次のように記します。

 記紀の 神武天皇のヤマト征討したとき久米部がうたった歌で、大和国平定記事に組まれた宮廷歌曲群であり、『日本書紀』に8首、このうち6首が『古事記』にも書かれている。大和王権に服した久米氏が、近衛軍団の伴造、あるいは膳夫(かしわで、調理人)となり、戦闘後の酒宴の合唱と舞いとで、宮廷儀礼の場で大王(天皇)に忠誠を誓って奏したものである。」((https://ja.wikipedia.org/wiki/久米歌 参照 2026年1月11日))
 
ここで注意しておきたいのは、この歌がもともとは大伴氏のものではなかったということです。久米歌は、久米部(くめべ)という部民が歌った軍歌・戦闘歌であったと記します。それでは久米氏(部)とは、どのような氏族だったのでしょうか? 

 『古事記』では天孫降臨の場面に、久米氏は次のように登場します。

故に天津日子番能邇邇芸命に詔りたまひて、天の石位を離れ、天の八重多く雲を押し分けて、伊都能知和岐知りたたして和岐豆、天の浮橋に宇岐士摩理、蘇理多多斯豆、竺紫のはゆぎ日向の高千穂の久士布流多気に天降りまさしめき。故天忍日命、天津久米命の二人、天の石を取り負ひ、頭椎の大刀を取りき、天の波士弓を取り持ち、天の眞矢を手挟み、御前に立ちて仕へ奉りき。故、其の天北中天津久米命等の此は久米直等のなり。

 ここでは久米氏の祖先は、忍日命と記載されて、久米氏天津久米命は大伴氏祖天忍日命と共天孫を先導する役割を務めています。ところが日本書紀では、大伴氏が久米氏を率いる立場として描かれます。
 天孫降臨についての書紀と古事記のちがいを挙げると
A 古事記 大伴・久米の併立状況
B 書紀  久米部を帥いる大伴氏の姿を描いている
 日本武尊の東征については、古事記には大伴氏の出番はありません。ところが「書紀』景行天皇四十年七月条の文末には「天皇、則ち吉備武彦と大伴武日連とに命せたまひて、日本武尊に従はしむ。七脛を以て夫とす。」
  こうして見ると、久米氏はもともとは天皇の直属軍事氏族として活躍していたのが、どこかで勢力を失い、後発の大伴氏にその地位を取って代わられたことがうかがえます。
紀記の中で、大伴氏の活躍する伝承は次の項目です。
①天孫降臨先導伝承
②神武東征従軍伝承
③日本武尊東征従駕伝承
④継体天皇擁立伝承
⑤壬申乱参戦伝承
紀記では①②③の場面は、久米氏のみの登場か並立関係だったのが、次第に久米氏が大伴氏に従属していく関係になっていきます。これについては、④の継体天皇擁立と⑤壬申の乱参戦という大伴氏の戦功を背景に、①②③の神話伝承が紀記に組み込まれたと研究者は考えています。そして、④⑤の中には、久米氏の姿は見えなくなります。別の視点から大伴氏=新興勢力説を見ておきましょう。

大和政権の豪族分布図

上の大和盆地の前方後円墳分布図からは、次のような情報が読み取れます。
①大和盆地東部に位置する大王家・物部氏が前方後円墳の密集地帯であること 物部氏の勢力の大きさ
②大王家を挟むように北に物部、南に大伴氏の勢力があること
③大伴氏の勢力内の初瀬川左岸(西南部)流域には前方後円墳がないこと
③からは大伴氏について、次のようなことが推察できます。
A 大伴氏は首長墓である前方後円墳を築くだけの力を持つ氏族ではなかったこと
B 大伴氏は前方後円墳造営終了後に、台頭した新興勢力であったこと
C 大伴氏が、奈良盆地のヤマト王権メンバーの中では、軽量級であったこと
D 大伴氏は物部氏とともに大王家を挟む位置にあり、強いライバル関係にあったこと

Bの大伴氏=新興勢力説をもう少し見ておきましょう。
新興の軍事氏族である大伴氏は、継体天皇を擁立してヤマト政権の中で確実な地歩を占めるようになります。  大伴氏の台頭背景には、大伴氏が渡来した新しい武器 + 鉄を手に入れるルートを持っていたことが考えられます。
百済の騎馬軍団と戦うために

5世紀は高句麗の騎馬戦術に対応するために、軍事兵器の革新が最重要政策となった世紀です。蘇我氏と同じように、そのルートや方策を大伴氏が握ったことが考えられます。それが久米氏に代わって、大伴氏が新興軍事集団として政権内で台頭した背景にあると研究者は推測します。そして、8世紀初頭の紀記編集時代になると、久米氏と大伴氏は同祖で兄弟氏族だという論法を展開したようです。
同祖氏族化の手法には、「A 地縁に基づく擬制」と「B血縁に依る擬制」がありました。
  Aについて、久米氏と大伴氏の本貫を見ておきましょう。
  久米直氏は大和国久米(橿原市久米町)の地を本貫
  大伴連氏は、別業は「竹田」「跡見庄」(橿原市東竹田=竹田庄、桜井市外山跡見庄)
久米と竹田とは近接していて、地縁関係があったようです。
 Bの血縁的擬制については先ほど見たように、大伴氏が久米氏と姻戚関係にあったことが何カ所かで主張されています。こうして、久米氏と隣接し、地縁をもとに同祖氏族であることを唱え、更に同族関係を固めるため、血縁=婚姻を重ね「大伴氏+久米氏=同祖兄弟氏族」伝承を作り上げたと研究者は考えています。
最後に、大伴氏が渡来人と密接な関係にあったことを見ておきましょう。
『万葉集』に八十四首の歌を残している大伴坂上郎女は、大納言安麻呂の娘で旅人の異母妹、家持の叔母に当たります。その経歴は、穂積皇子に嫁しますが皇子の死後に、藤原麻呂の寵を受けます。やがて麻呂と別れ、異母兄宿奈麻呂の妻となり坂上大嬢・二嬢を生む。さらに安倍虫麻呂とも親密な関係を結ぶなど恋多き女性のようです。神亀年間に大宰府に下り、天平二年十一月に帰京、坂上の里に居住したので坂上郎女と呼ばれたようです。
坂上の地(奈良市法華寺町西北辺り)は、渡来人の居住地でした。
ここを本貫としたのが坂上直氏です。坂上氏は、壬申の乱で次のような活躍をしています。

是の日(天武元年六月二十九日)に、大伴連吹負、密に留守司坂上直熊毛と漢直等に謂りて曰はく、「我詐りて高市皇子と称りて、数十騎を率て、飛鳥寺の北の路より、出でて営に臨まむ。乃ち汝内応せよ」といふ。既にして兵を百済の家にひて、南の門より出づ。

ここからは壬申の乱の際に、大伴氏が坂上氏・漢直と供に挙兵したことが記されています。三者の親密な関係が見えて来ます。それもそのはずで、坂上直氏は、東漢氏のリーダー的な存在で、次のように改姓を重ねた渡来系氏族なのです。
天武十一年五月 
同十四年六月 忌寸
天平宝字八年九月 大忌寸
延暦四年六月 大宿禰
「新撰姓氏録」右京諸蕃上には「坂上大宿禰出自後漢霊帝男延王」
「坂上系図」の「姓氏録」逸文には「阿智王(阿知使主)の孫の志努直は坂上大宿禰らの祖」
と記されています。坂上氏(東漢氏)と大伴氏との強いつながりが見えて来ます

大伴坂上郎女は『万葉集』巻三に、尼理願の死去を悲嘆して歌(460)を残しています。
これに注して、次のように記します。
右、新羅国の名は理願といふ。遠く王徳に感けて、聖朝に帰化ぬ。時に大納言大将軍大伴卿の家に寄生しすでに数紀を経たり。ここに、天平七年乙亥をもち忽ちに運病に沈み、すでに泉界に趣く。ここに、大家石川命婦、餌薬の事によりて有間の温泉に行きて、この喪に会はず。ただ郎女ひとり留まりて、屍を葬り送るとすでにりぬ。よりてこの歌を作りて、温泉に贈入る。
 新羅の人が大伴の家の「寄生」していたと記します。
これ以外の史料からも大伴氏は渡来人との関わりが非常に強かったことがうかがえます。従来は、八神代以来の名族といわれる大伴氏ですが、その台頭の背後には渡来系氏族の影を見えて来ます。
以上を整理して起きます
①大伴氏は、大王直属の軍事集団とされるが、大伴氏以前には久米氏がいた。
②大伴氏は、百済との強いパイプを持つことで馬飼育方法や馬具制作・鉄製品の供給などの先端ハイテク技術の供給体制を握ることによって、政権内部での地位を急速に高めた。
③そして久米氏にとって代わり、佐伯氏と共に大王直属の軍事氏族という立場を築いた。
④そのため大伴氏の周りには渡来系氏族との関係がうかがえるものが多数ある。
⑤大伴・佐伯=同祖兄弟説も、このような中で6世紀に生まれてきたものである。

こうして見ると空海の実家の佐伯直氏も、大伴氏に従軍し、瀬戸内海航路を行き来し、九州や朝鮮半島で活発に活動していたことが考えられます。そのような環境の家に空海は生まれたことになります。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 菅野雅雄 大伴氏の系図
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菅原道真は仁和三(886)年正月に讃岐守に任命され、2月に赴任しています。彼が国司として直面したものはどんなものであったのかを見ていくことにします。テキストは「新編丸亀市史Ⅰ 428P 律令体制下の人と村落」です。

国司の編成 丸亀市史
国司編成表
職員令によると、国には大・上・中・下の四等級がありました。等級は、公田や戸の数によって決められたようです。国司は上表のように四等官で構成され、国の等級によって人数が定められていました。讃岐は上国守一人、介一人、掾一人、目一人、史生三人になります。その他の主な職務は、次の通りです。
介は守が不在のとき、守の職務を代行、
掾は国内の治安維持や文書の審査
目は文書の作成・点検および読み上げ
史生は公文書の書写や四等官の署名を取ってまわることなど、書記官として雑務遂行
国司の長官である守の職掌は職員令の規定には、次のような項目が挙げられています。
①国内の民政(戸籍・計帳による人民の把握とその生活の維持
②農業の指導
③田地・宅地の把握
④人民の身分区分の把握)
⑤財政(租税の徴収や徭役(ようえき)〔雑徭(ぞうよう)や歳役など力役〕の徴発、
⑥調庸の運搬
⑦租税を収納する倉庫その他の官庫の管理)
⑧軍事・警察・裁判(国内の治安維持、裁判、兵士の徴発、軍団の人事、兵器や軍事施設の管理)
⑨交通行政(駅や伝馬(てんま)の監督
⑩関所通行証としての過所(かしょ)の発行)
⑪宗教行政(神社や僧尼名簿の管理)
⑫学生(がくしょう)の推挙
⑬道徳的にすぐれたものの表彰
⑭牧・馬牛・遺失物の管理・調査
これを見るとすべての権限が、国司の内の守に任されていたことが分かります。
こうした職務は文書で行われたので、事務処理能力を持った人間の養成が求められました。そのため官人養成機関として、中央に大学、地方諸国には国学が設置されます。国学では、郡司の子弟などから選ばれた学生を国博士などが教えました。国医師も国学に勤務し、医生を教授したり、医療にもあたったりしています。
 国司の収入はというと、国司には季禄が支給されませんでした。その代わりに、史生以上に職分田(職田)と職分田の耕作にあたった事力(じりき)が支給されています。大宝令では公廨田(くがいでん)とよばれていた職分田は、田租を納めることを免除された田で、国の等級や官職によって、支給された面積に差がありました。

 それでは国司としての菅原道真は、このような広範な職務をどんなふうに対応・処理していたのでしょうか?
 彼の在任中に詠んだ詩が『菅家文草』におさめられているのは以前にお話ししました。着任した886年、最初に詠んだ「金光明寺百講会有」には「一か月以上早天が続いていたが、金光明寺で行われた仁王会の霊験によって雨が降った」と記します。金光明寺は、三豊郡仁尾町の金光寺の古名だとされます。そうだとすると、道真は仁尾の寺で行われた仁王会に参会したことになります。小まめに讃岐国内の巡視活動を行っていたことがうかがえます。
 九月九日の重陽節の日には、里長(部長)らが菊の花をプレゼントされています。そのお礼に、国府の役人や郡司らと酒宴を催しています。その時には、彼らと租税とりたての方法を論じています。その合間には訴訟の判決文を書いています。
 この年の冬には、寒さが身にしみる貧しい庶民を思いやって、「寒早十首」という詩を詠んでいます。
「寒さは誰に早く来るのだろうか」の問いかけに、十の連句で具体的な人々を詠った詩文です。そこには次の10人の庶民の姿が詠われています。
菅原道真 寒早十首
寒早十首
これは、国司として国内巡視する菅原道真が目の当たりにした人々の生活なのでしょう。これらの詩文を読み込んでみると、詠う対象の背景に、海上輸送労働者を雇う船主や、零細な製塩業者を押しのけて大規模製塩をする豪族の姿が透けて見えてきます。彼らは、それぞれの地域を経営し開発等を進め、讃岐国の国力を高めていった存在で、郡司に連なる一族もいたはずです。その筆頭が綾氏ということになります。
 こうした豪族らによる開発で田数や人口を増加させる一方、税を負担すべき零細民の生活を圧迫します。道真は現実を見つめる中から、どう豪族層を取り込むのか、そして、どのようにして税収を上げていくのか、その案配を考えていたのかもしれません。

菅原道真 菅家文草 寒早十首9 国司の見た讃岐  坂出市史資料編24P
菅家文草 寒早十首 国司の見た讃岐  坂出市史資料編24P

元日に郡司らを集めて宴をひらくのは、国司の重要な務めだったようです。
そして、別の機会には旅亭に郡司等を招いてい親睦のために宴会を催しています。招かれた郡司や郷長たちは礼儀知らずの田舎者で、酔っぱらって車にさかさまに乗ったりするものも現る始末です。それを道真はとがめだてせず、努めて明るく振る舞います。戦前の内務省から派遣されてくる県知事と同じで、地元の有力者との顔つなぎが円滑な統治運営の鍵と認識していたのでしょう。
国内の巡視に出かけると、行く先々で、人々が面会を求めてきます。
それは断って出席することはありません。しかし、郡司らの送迎を断るわけにはいきません。わずらわしいが、がまんしなければなりません。巡視の道々、府庫を修理し、溝やあぜの崩れているのがあれば修理を指示し、罪人の判決を正し、貧乏人や老人を救済し、農民に作柄を聞いています(行春詞)。
 ここに詠われている内容を見ると、菅原道真が民衆想いの優れた国司であったと思います。 しかし、最初に国司の職務一覧で見たように、これらは戸令に定められた国司の職務で義務だったのです。
①年に一度、国内を巡行し百姓の生活を視察
②生業を奨励
③刑の得失をしらべ
④郡司の務めぶりを監督
⑤好学孝養などの人を顕彰
それを道真は忠実に実行しているのです。
 「寒早十首」や、巡行の上で出会った老人に生活や国政のあり方などを聞いた「路遇白頭翁」の詩には、菅原道真がまじめに民情を問い、国司の務めを果たそうとしていたことがうかがえます。彼は器を売りにきた老人に米を与え、病気の下役人に薬を分けています。
 任期3年目の仁和四年(888)に、讃岐は旱魃に襲われます。

「風は春の山に巻きて、雲は谷に宿る。火は夏の日焼きて、地は種を生ず」

道真が赴任以来、国内の28か寺に配って仏の供養としていた国府の北の池も枯れます。寺や神社の請雨祈願も功なく、見回りの馬も疲れて道に倒れてしまった。」
祀城山神文は次のように記します。

道真は、五月六日(旧暦)、城山の神に捧げる祭文をつくり、八か郷二〇万口の讃岐の人民の一郷も損することなく、一口もえることがないよう、心をつくして降雨を祈った」
その至誠が天に通じ、七日七夜の祈願の満願の日、空がにわかにくもって、三日三晩大雨が降り続いた。歓喜した農民たちは、当時滝宮にあった道真の館の前に集まって、感謝の心をこめて踊りくるった。これが滝宮に伝わる念仏踊りの起こりだということである。

 しかし道真は、この祈雨のことも、降雨のこともなにも詩にのこしていません。
秋には、のんびりと江(綾川?)のほとりにたたずんで、秋のの景色をながめ、あるいは重陽の菊を賞しています。旱魃の危機は去ったようです。
 ここまで見てきたように菅原道真が国守として直接的政務にたずさわる姿はあまり見えてきません。
描かれたシーンは、庶民の生活を見聞したり、郡司や国府の下級役人との人間関係に心をつかったりする場面が多いようです。これは詩であることや、道真の人柄にもよるのかもしれません。もともと4~6年ぐらいの任期で、中央から派遣されてくる10人ほどの都人が、自分たちの力だけで多くの国務を執り行うのは、不可能なことだったのかもしれません。次のような国政の実務は、綾氏などの在地の豪族出身の郡司、里長の手によって行われていたのです。菅原道真を担いだ郡司層を見ておきましょう。

郡司職ランキング表
郡司の編成

各郡では、郡司とよばれる役人たちが郡衙(郡家(ぐうけ))で、職務にあたりました。
郡司も国司と同じで上表のように4クラスで構成されていました。
大領(たいりょう) 長官
少領(しょうりょう)    次官
主政(しゅせい)
主帳(しゅちょう)
(正式採用ではない) 四等官のもとで働く雑任(ぞうにん)とよばれる下級職員
国司が中央から派遣されるのに対して、郡司は現地採用でした。官人に位階や官職を授けるさいの規定を定めた養老選叙令(せんじょりょう)には次のように記します。
「大領・少領には職務を的確に処理できる人を、主政・主帳には身体が強靭で、頭脳は聡敏、書と計算にすぐれた人を任用せよ
「大領・少領」(郡領)に関しては、個人の才能が同じ場合は「国造」を採用せよ。
讃岐でも佐伯直氏のように、大領には国造一族が撰ばれることが多かったようです。
その子弟は兵衛(ひょうえ)として、姉妹または娘は采女(うねめ)として、中央政府に出仕した。また、その任期は終身であった。郡領の任務は郡内の以下のような行政・警察・裁判であり、主政・主帳はそれを補佐しました。
租庸調などの徴収
雑徭の徴発
出挙の出納
戸口調査
治安維持
産業育成など、
律令体制成立以前の国造は、地域の君主としてクニとその成員を支配してきた伝統と力を持っていました。天武政権は、国造や村落共同体の首長たちを郡司や里長に任命して、地方支配の末端権力を形作っていったのです。その際に、国造家の伝統的権威は、地方支配に有効的に機能しました。
 これを地方の郡司たちから見ると、菅原道真など中央から派遣されてやって来る国司たちは、自分たちが担ぎ上げている「神輿」ということになります。道真が讃岐をうまく統治していくためには、郡司や里長たちを確実に掌握し、彼らの協力を得ることが第一でした。道真のころには、奈良時代よりも国守の権限が強くなり、その政治力が国政におよぼす度合も大きくなっていたようですが、基本的には変わりがありません。道真の心づかいは、讃岐の豪族や民衆の信頼を得るに十分であったはずです。そういう意味でも名国司だったと云えそうです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 「新編丸亀市史Ⅰ 428P 律令体制下の人と村落」
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前回は筑前志摩郡の郡司・肥君猪手の戸籍を見ました。

筑前国嶋郡の大領(郡司)・肥君猪手の家族構成

志摩郡の郡司の戸籍には124人もの構成員が記されていました。ここからは、当時の家は大家族制であり、多度郡の郡司とされる佐伯直氏も、このくらいの
規模であったことがうかがえます。さて、それではその居館はどうであったのでしょうか?   今回は古墳時代後期(6世紀半ば)の有力者の居館を見ていくことにします。
古墳時代の家族構造がよく分かるのは、6世紀半ばに榛名(はるな)山の噴火で埋もれてしまった群馬県黒井峯(くろいみね)遺跡 です。
黒井峯・西組遺跡復元模型4

噴出した厚さ2メートル前後の軽石層下に埋没した集落跡が出てきています。黒井峯遺跡では、村を埋めた軽石層下の調査によって、村の構成や建物の構造、さらには屋根の形の他に、次のような事が明らかにされました。

群馬県黒井峯西組遺跡の屋敷地(石井克己・梅沢垂昭『黒井峯遺跡』
        群馬県黒井峯西組遺跡の屋敷地(石井克己・梅沢垂昭『黒井峯遺跡』)

黒井峯・西組遺跡復元模型2
上記復元模型
①垣根で囲まれた屋敷地
②数棟の平地住居や納屋・作業小屋・掘立柱の高床(たかゆか)倉庫・家畜小屋
③踏み固められた中庭のような作業空間(広場)
④畦をもつ畠
⑤垣根の外の大型の竪穴住居
⑥垣根の外には水場や村の祭祀場
⑦それぞれ道でつながり、さらに村の周囲には畠、低地には水田
これを見るとひとつの「ムラ」のように見えます。しかし、前回見た戸籍に登場する「戸」の実態がこの「ムラ」だと研究者は指摘します。律令制にもとづく支配の最小単位は「戸」とよばれ、その内部に戸主の下に、親族のほか、非血縁の寄口(きこう)や奴婢(ぬひ)も含んでいました。
そのため全体の構成員数は、平均30人前後で、志摩郡の郡司の戸は124人でした。このような構成員が、この空間の「平地式建物」の中に分散して住んでいたのです。ある意味では、ここに見える「ムラ」が生産単位であり、消費単位で「郷戸」であったのです。
肥君猪手の戸籍

 7世紀の律令政府は、このムラを「戸」と名付けて課税単位としたようです。そのためにムラ単位で戸籍をつくり、この単位で課税を行いました。私はかつては「公地公民」というのは、小家族に均等に口分田を与える平等主義にもとづく「疑似社会主義的政策」と早合点していたことがありました。しかし、実態はちがいます。このような血縁関係で結ばれた生産単位を「戸」として、戸籍を作り、そこに様々な課税と、一戸に一人の「国民皆兵制」を課したと捉えることもできます。

戸籍と郷戸

整理しておきます。
口分田も「家(小家族)」毎ではなく、一戸(一族)毎にまとめて支給されました。全部で何町何段という形でやってきた土地を、自分たちで分けろということです。そして秋が来て税の取り立ての際には、戸単位に徴税します。戸主と呼ばれる戸長が税を集めました。納めることのできない人が出たら、戸主が「今回は、わしが代わりに納めておこう」という感じです。役人にしてみれば、とにかく税が納まればいいし、口分田は戸毎に支給するので仲間内(戸内)で分けてくれたらいいんだというわけです。これで入りと出とが決まります。
 もともと生活の単位、地域の人々の結び付きの単位があったのです。その戸単位に、土地を分けたり税を集めたりするシステムです。地方役所としては、一族や地域の人を束ねて決められたものを納めてくれればいいわけです。こうして、だんだん人が増えてきて五十戸ぐらいになったら郷が成立します。その郷名は、代表的な一族の名前を付けたり、その土地で昔から呼ばれている地名が付けたりしたようです。復元模型に登場する柴垣に囲まれた数軒の家屋は、一つの単位集団(複数の家族)が生活するワンセットで、律令時代には「戸」として掌握されたことを押さえておきます。
別の角度から見ておきましょう。

黒井峯・西組遺跡復元模型
群馬県黒井峯西組遺跡の屋敷地

①隣接する地域に畑や小屋があり、他の一角には祭祀場とみられる区域がある。
②住民の家屋は竪穴住居と平地住居とがあり、両者ともカマドが付設されている
③竪穴住居は、地表に屋根が密着し煙突がみえる。家屋本体はすっぽりと地下に納っている。
④外周の畑地に接して、物置、食糧庫などの小屋がある。
⑤馬の足跡や家畜小屋もみつかっている。
こうしてみると、母屋の竪穴住居、〝離れ〟の平地住居、穀物倉庫、天屋の作業場や器材置場、家畜小屋、野菜畑、祀祠など、米づくりためのの屋敷原形が古墳時代にはできあがっていたことが分かります。また、馬+カマド+半地下住居=渡来系住人の家屋であったことがうかがえます。

群馬県黒井峯西組遺跡の屋敷地5

群馬県黒井峯西組遺跡の屋敷地4

このムラ=屋敷=戸をベースに、讃岐の空海の実家佐伯直氏の家を想像しておきます。

①百人を超える大家族構成でも大邸宅であったわけではなく「母家+いくつもの離れ」で構成されていたこと
②高床式の穀物倉庫が何棟もあったこと
③水が湧き出す湧水があり、水の儀式の祭場があったこと
④周囲に畑や水田が拡がっていたこと

それではどこに佐伯直氏の屋敷はあったのでしょうか?

旧練兵場遺跡 詳細図
善通寺周辺遺跡図
①病院地区が平形銅剣をシンボルとする「善通寺王国」の拠点エリア
②古墳時代になると東側の試験場地区に遺跡が多くなる
③この勢力が6世紀末に、横穴石室を持つ前方後円墳・大墓山古墳と菊塚古墳を造営
④続いて7世紀後半に仲村廃寺を造営(この時点では、南海道・条里制未着工)
⑥南海道が伸びてきた以後に、その近くに2町四方の善通寺建立
⑦四国学院の南側に、多度津郡衙建設
これらの事業を進めたのが佐伯直氏と研究者は考えています。そして、佐伯直氏が国造から多度郡郡司へと成長していきます。そうすると、③の時点での佐伯直氏の舘は、仲村廃寺周辺にあった。そして、⑥⑦の白鳳時代には、郡衙周辺に舘は移ったと私は考えています。
以上を整理しておきます。
①群馬の黒井峯遺跡からは、垣根で囲まれたムラが出てくる
②このムラが当時の最小の生産単位であり、消費単位でもあった。
③首長を中心に血縁関係で結ばれたいくつかの家族が、各家屋に分散して生活していた。
④7世紀の律令国家は、このムラを課税・均田制支給、徴兵の最小単位としてとらえようとした。
⑤そのためムラの首長を戸主とし、責任者とした。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
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             空海の誕生場面(弘法大師行状絵詞)
空海の誕生場面を弘法大師行状絵詞では、次のように記します。(意訳)

「讃岐国屏風ヶ浦の大師の生家。佐伯直氏の屋敷。多度郡郡司らしい地方豪族の館。広い庭には犬が飼われています。けたたましい鳴き声で鳴き立てる犬の声に「何事ぞ 朝早くからの客人か」といぶかる姿板戸を開けて外をうかがうのが大師の父田公のようです。その奥に夫婦の寝室が見えます。枕をして寝入るのが大師の母(右上)」

これが後世の画家達がイメージした多度郡司佐伯直氏の家です。しかし、戸籍に残された郡司の家は、これとは、まったくちがう様相をしていたことを教えてくれます。最近まで「日本で一番古い」とされてきた「 筑前国嶋郡川邊里戸籍」から、佐伯直家を今回は見ていくことにします。

筑前国嶋郡川邊里」戸籍 奈良

 「筑前国嶋郡川邊里」の戸籍の一部です。 縦27cm、横64.5cmの和紙に、縦書きで28家族438人分の情報が一人一行ずつで記されています。

筑前国嶋郡川邊里」戸籍 奈良拡大

最初に登場するのが戸主で、姓名、年齢、税の区分、続柄が記されます。以下は、配列は血縁順です。全面には「筑前国印」の朱印が隙間がないほどびっしりと押されています。

肥君猪手の戸籍 筑前国印

どうして白鳳時代の戸籍原本が、今に伝えられたのでしょうか。
大宝律令(701年)によって、全国に律令の周知徹底が進みます。そんな中で翌年の大宝2年(702年)に、この戸籍は作られています。当時の戸籍は三通作成され、一つは地元(国)に保管、残り二つは中央に送られるように命じられます。そこで郡衙では、50の戸(=家)が集まった郷(ごう)ごとに一巻の戸籍がつくりました。それが国府に集められて、国府印を隙間がないほどベタベタ押して、中央政府に送られたのです。これも農民達が背負って都まで運んだのでしょう。
 全国から集まった戸籍の数は、一万巻にもなりました。戸籍は6年毎に作られたので、政府の倉庫はいっぱいになります。そこで保管期限を30年として、期限を過ぎると反故(ホゴ)として、東大寺などに払い下げました。紙は貴重なものでしたから、寺や写経所では巻物になっていた戸籍を、手頃な大きさに切ってメモ用紙にしました。そのため残っている戸籍の裏には、当時のメモや写経が書かれているものがありますし、大きさもバラバラです。戸籍として、つなぎ合わせてみると途中が無い部分もあるようです。以上をまとめておくと、反故にされた戸籍は、寸断されメモ用紙として使われ、その一部が正倉院に残ったことになります。正式名称は「重要文化財 表 筑前国嶋郡川辺里大宝二年戸籍断簡、紙背(裏)千部法華経校帳断簡」です。

それでは、この戸籍はいつ作られたものなのでしょうか。
大宝律令(701年)が出されて、国郡里(郷)の行政区分が定められます(国郡里制)。その翌年に、この戸籍は作られています。実際に戸籍が作られ、一人ひとりを古代国家が掌握し、土地支給を行う「個別人身支配体制」が始まっていたことが、この戸籍からは裏付けられます。それでは戸籍を見ていくことにします。まず概要を挙げておきます。
①記載方法1行1名で、戸口(個人)の配列は血縁順
②戸の終わりには与えられた区分田総数が記される
③文字のある部分と紙の継目の裏には「筑前国印」を捺している。
④文字は六朝風で整然と書かれている。
⑤筑前国嶋郡川辺里は、今の福岡県糸島郡志摩町馬場あたりで、嶋郡の郡衙所在地 
⑥裏は天平20年(748)の『千部法華経校帳』の断簡になっている
⑦戸籍の保存期間が過ぎて、写経所に払い下げられ裏面利用されたもの
川邊里(郷)の中で、最も人数の多い戸(大家族)の「肥君猪手(ひのきみのいで)」を戸主とする家族です。
「筑前国嶋郡川邊里」戸籍1

  まず右から1行目 
A「①戸主 追正八位上勲十等②肥君猪手 年伍拾参歳 ③正丁大領 ④課戸」

戸主は「正八位上勲十等」位を持つ肥君猪手で、年齢は53 
大領(郡司)の肥国猪手は、熊本(肥国)の「火の君」の流れを汲む嶋郡で最有力の豪族です。多度郡の空海の実家である佐伯直氏と同格クラスでしょう。大領職にあるので、その職田として6町(6㌶)が別に支給されています。
③の「正丁」は21歳以上60歳以下の男子
大宝律令の年齢区分

④「課戸」は、課税対象者で納税の義務者。
⑤口分田は全体で13町6反120歩(約14ヘクタール)
2行目
B「庶母 宅蘇吉志須弥豆賣(やかそのきし すみずめ) 年陸(六)拾伍(65)歳 老女」
「庶母」とは実の母ではなく義母のこと。とすると妻の母か、父の後添え?
C 3行目は「妻 哿多奈賣(かたなめ) 年伍拾貳(52)歳 丁妻」
 52歳の正妻。姓がないので、2行目の庶母と同姓の宅蘇吉志(やかそのきし)
D 4行目。「妾 宅蘇吉志橘賣(たちばなめ) 年肆拾?(47)歳 丁妾」
 妾47歳も同じ姓の宅蘇吉志
E 5行目「妾 黒賣(くろめ) 年42歳」で二人目の妾。
F 6行目「妾 刀自賣(とじめ) 年35歳」三人目の妾。
 黒賣も刀自賣も姓がないので、これも宅蘇吉志?
以上を整理しておくと、
庶母 宅蘇吉志の須弥豆賣 65歳妻    
〃     哿多奈賣 52歳妾  
橘賣   47歳妾    
〃   黒賣   42歳妾    
〃   刀自賣  35歳妾
姓がみな宅蘇吉志となります。これをどう考えればいいのでしょうか?
吉士氏は渡来人系であることを前回お話ししました。紀記には、吉士氏の一族が次のように登場します。
①良馬をもたらした「阿知吉士」
②論語十巻・千字文一巻をもたらした「和迩(わに)吉士」
その他の活動もまとめると、新羅や百済、唐との外交交渉に活躍し、半島派遣軍の将や、屯倉の税の徴税・管理責任者として活躍する海の民だったようで、各地に吉志部が置かれていました。
以上の読み取った情報からは、次のような事が推察できます。
①5人の女性がいずれも宅蘇吉志(やかそのきし)の出身であること
②彼女らの年齢構成から考えると姉妹であったこと
③ケース1 庶母と正妻が姉妹であり、妾3人は別の姉妹。姓が一緒なのは親戚筋か。
④ケース2 年齢的には庶母と正妻が親子とは考えにくいので、正妻と妾3人が4姉妹。
⑤ケース3 戸主の肥君猪手は53歳。庶母が産んだとは考えにくいので、庶母の須弥豆賣は父の妾であった可能性。
⑥少なくとも、肥君家は親子2代に渡って宅蘇吉志家と婚姻関係にあったこと
ここからは、古代の女性たちが嫁いでも旧制を名のり続けていたことが分かります。結婚で姓が変わるというのは、後世になってからのようです。また、姉妹を妾にするというのは、日本書紀の天皇家にはよく見られます。天武天皇は兄天智天皇の娘4人を妻にしています。聖徳太子のあの入り組んだ複雑な姻戚関係も事実であったことに納得がいきます。古代では、このような婚姻関係は中央でも、地方でも一般的であったことがうかがえます。さらに⑥からは、肥君家と宅蘇吉志家が婚姻を通じて、強く結びついていたことがうかがえます。
 肥君猪手の戸籍は、第7行目から彼の「子」「子の妻」「孫」へ、それから戸主の「弟」「妹」へ、男から女へと記述されます。
第7行は長男の「肥君興呂志(よろし) 29歳 嫡子」とあり、正妻との間の長男。
第8行目には「勲十等 肥君泥麻呂(ひじまろ) 27歳 妾橘賣男」とあります。泥麻呂には18歳の妻との間に男女2人の子供があります。
 ここで注目したいのは、妾の子・泥麻呂が勲十等の位階をもち、嫡子である興呂志が無位であることです。どうしてなのでしょうか? 何かの論功行賞・売官・国家への寄付などが考えられますが、このあたりは私には分かりません。ただ思い出すのは、空海の父佐伯直田公も無冠でした。
  こうしてみると肥君猪手は、妻や妾たちとの間に次のように子をもうけています。
正妻と2男1女
第一妾と5男2女
第二妾と1男
第三妾との間には子供がない。
肥君猪手には、子が12人、孫が10人いたことになります。それが一緒に生活していたことになります。現在では考えられないものですが、古代にあってはこれが普通だったようです。当時の家族は、この構成単位くらいまでは、一つの屋敷内に同居していたのだろうと研究者は考えています。
しかし、一緒に生活していたのは、これだけではありません。次のような一族もいました。
■ 寄口(きこう)
古代戸籍の親族呼称は「いとこ」までで、それより遠い親類や縁者を寄口(きこう:よりく)呼びました。彼らも一族として住む労働力の担い手でした。肥君家には3家族14人が記されています。
■ 奴婢(ぬひ)
有力者の家には奴隷がいました。奴(やっこ)は男、婢(めやっこ)は女です。彼らは牛馬同様に主人の持ち物で、売買や贈与される存在でした。魏志倭人伝の中に卑弥呼が、魏へ生口(せいこう)と呼ばれる奴婢を送っています。川邊里の戸籍が造られた8世紀初頭でも、奴隷制度は残っていたようです。肥君猪手の戸籍には「戸主奴婢」10人、「戸主母奴婢」8人、「戸主私奴婢」18人、所属不明1人、計37人と記されています。

その他を加えて合計すると、老若男女あわせて124人の大人数になります。

筑前国嶋郡の大領(郡司)・肥君猪手の家族構成

こうしてみると郡司の家族構成は、大家族制度だったことが分かります。空海の佐伯直家もこのような大家族制だったはずです。このような大家族になると、普通の広さの家屋では入りきれません。おそらく、古墳時代の豪族の家のような大きな家だったことが推察できます。それでも百人近くの家族が一軒の家に住めたとは思えません。広い敷地の中に、いくつもの家が建ち並び、それぞれの小家族が生活していたことが考えられます。そして、その中には結縁者以外の寄口や奴婢たちもいたことを押さえておきます。
 郡司は役人としてだけでなく、口分田を耕作し、収穫した種籾を周辺の農家に貸し与えて利息をとることなどでも富を蓄積していきました。また開墾が奨励されると、親族や周辺の農民なども動員しながら開墾を行い、私有地(初期荘園)を広げていきました。国司の下であっても、郡司である地方豪族は役得の「中間利益」も多く一定の力を保持していきます

河辺里(郷)のその他の戸と人数を見ておきましょう。各戸の人数(戸口)の多い順に並べたものです。
肥君猪手の戸籍
これを見ると、郡司の戸口124人というのは飛び抜けて多く、20~30人が普通の規模だったことが分かります。その中で、以上をまとめておきます。また、37人もの奴婢を持っているのも郡司の家だけです。空海の佐伯直氏の家にこのくらいの奴婢がいたのかも知れません。

筑前国嶋郡の郡司・肥君猪手の戸籍

以上のような視点で佐伯直氏の系図を見てみます。
1 空海系図

この時代の戸主とは戸籍の筆頭者で、戸の最年長者がなるのが普通で、戸口の租・庸・調の責任を負いました。それがここでは佐伯直氏の場合は道長と記されています。彼の戸籍にも、妻や妾・そして兄弟や自分の息子たちの家族が含まれ、総数は百人近くの戸口の名前が並んでいたことが推測できます。その中の一人に、空海の父である田公もいたと考えられます。つまり、戸主が空海の父親や祖父であったとは限らないのです。道長は、田公の叔父であった可能性もあります。ここでは、戸籍に戸長とある道長が空海の祖父とは云えないことを押さえておきます。

また、空海と弟の真雅が年齢が離れているのも、父田公に何人かの妾がいて、異母兄弟だったと考えれば不自然ではなくなります。「筑前国嶋郡川邊里」の戸籍は、佐伯直氏の家族構成を考える上でもいろいろな情報を与えてくれます。


    古墳時代の三野湾には、首長墓と言われる前方後円墳がひとつも登場しません。その理由の一つが早い段階で、畿内豪族の直接的な支配下に置かれたためでないかと考えられています。そして、中央の勢力によってハイテクの宗吉瓦窯に先行する三野古窯群などの「殖産興業」が行われていきます。このような古代三野湾の開発を担った勢力は、何者なのでしょうか?

『 先代旧事本紀』の「天神本紀」には、三野物部のことが記されています。
それによると、三豊湾から庄内半島にかけてを三野物部が本拠地としていたことがうかがえます。三野物部は、「天神本紀」に筑紫聞物部、播磨物部、肩野物部などと一緒に記されています。ここからは、中央の物部氏が瀬戸内海の港津を拠点として掌握していたことがうかがえます。もっと具体的に言うと、朝鮮半島や九州の海上ルート維持のために三野湾に物部氏の拠点が置かれていたことになります。そして、三野物部が庄内半島や三野湾を拠点に、交易・軍事・政治的活動を行ったとも言い換えられます。この説によると、三野物部によって三野古窯群も、朝鮮からの渡来技術者を入植させることで「殖産興業」化されたことになります。また、首長墓とされる前方後円墳が三野湾に登場しないのも、物部氏の支配下にあったからだと説明が出来ます。
 物部氏は用明天皇2年(587)に、蘇我馬子・厩戸皇子と争いに敗れ滅びます。
その後の三野湾の周辺の支配権はどうなったのでしょうか? 敗者である物部氏の所領は、勝者である蘇我氏が接収したようです。しかし、蘇我氏も、皇極天皇4年(645)の乙巳の変(大化の改新)のクーデターによって、蘇我蝦夷・入鹿が倒され滅亡します。後に成立した養老律では、謀反人などの財物は、親族、資財、田宅を国家が没収すると規定 されています。そして没収財産は、内蔵寮、穀倉院など天皇家の家産機構にくりこまれることになっています。蘇我本宗家の滅亡の場合も、 同じような扱いになったのではないかと研究者は考えているようです。ここまでの三野湾一帯の所領変遷を、整理すると次のようになります。

古代三野湾の物部氏から支配権推移は?

7世紀末に三野湾には、物部三野が残した大規模な三野窯跡群が残り、その周辺にヤマト政権の所領があったことが想定できます。
 三野湾以外にも、中央の有力豪族は瀬戸内海ルート確保のために、潮待ち風待ちの拠点として、配下の部民を各地に置いていたようです。その部民たちの痕跡が、鵜足郡や那珂郡にも見えますので追いかけて見たいと思います。テキストは「新編丸亀市史 鵜足・那珂郡の古代氏族 311P」です。

丸亀市史は、鵜足・那珂郡の古代豪族たちを次のように一覧化しています。

鵜足・那珂郡の部民一覧

   鵜足郡には大伴部、吉士(きし:吉志:吉師)・宗我部らの名前があります。彼らは大伴氏、蘇我氏、吉士氏らの畿内豪族が支配所有した部民で、部曲とよばれた民の子孫と研究者は考えています。

部民の由来

ヤマト政権の豪族たちは、その地位を示す姓をあたえられて、それぞれの職務に世襲的に従事していました。その職務遂行のために支配下に組み込んだのが部曲です。彼らは必要な労力や物品を負担・提供しました。それが時が経つにつれて「擬似的血縁関係」で結ばれていきます。
部民と伴部
伴部と部民の概念図

 大伴氏は、物部氏とともに大和政権の軍事力をになう大豪族で、5世紀後半にヤマト政権の支配勢力が全国に拡大するようになると、大伴部を各地に設置しています。雄略天皇が亡くなる時に、大伴室屋大連と東漢直菊は、「大連等、民部(部曲)広く大きにして国に充ち満ち」と云っています。その力で、皇太子清寧天皇を補佐してくれるよう頼まれたとされます。こうしてみるt、鵜足郡に大伴部が置かれたのも、5世紀後半ということになります。

大伴部は、鵜足郡のほかに多度郡にもいました。
多度郡の大伴部は、空海の実家である善通寺の佐伯直氏とつながりがあるようです。
佐伯氏の出自については、次のような3つの説があります。

佐伯直氏について

佐伯部は、大王の宮の警護にあたった軍事的部民で、大伴氏の管理下に置かれていました。佐伯連は中央豪族なので、讃岐の佐伯氏とはもともとは血縁関係はありません。上の表の佐伯直(あたい)説を多くの研究者は支持しているようです。佐伯氏自身も「佐伯(さえき=さえぐ=進軍を阻止する)」で、もともとは渡来系の軍事集団として多度郡に定着したことが考えられます。それが中央の佐伯連の編成下に置かれ、同属意識をもち佐伯氏を名のるようになります。また中央の佐伯連は大伴氏配下にあったので、次第に佐伯直氏も大伴氏の一族と「疑似血縁意識」が形成されていきます。9世紀に佐伯直氏が佐伯への改姓を朝廷に申請したときも、その世話をしているのは大伴氏であることは以前にお話ししました。
以上を整理しておくと 
①古墳時代の多度郡の首長は、佐伯直氏の祖先だった。
②空海自身が述べているように、佐伯直氏は中央の大伴氏と同属意識で結ばれていた。
③そこで、佐伯氏の支配していた民を割り取って大伴部とした
④鶏足郡の大伴首は、その地方における管轄者、下級伴造である。
⑤彼らの任務は、中央の大伴主家の命に従って、上京して朝廷の警備にあたり
⑥大伴軍団の一員として朝鮮半島にも従軍した
   先ほど見たように、物部氏が三野湾に三野物部が置いたのは、南瀬戸内海航路の拠点確保のためでした。そうだとすると大伴氏が多度郡や鵜足郡に大伴部を置いたのも同じ目的であったことが考えられます。当時の多度郡の湊は、弘田川河口の白方津であったことは以前にお話ししました。

白方 古墳分布
       多度津町奧白方の古墳分布図と白方湾 弘田河口は大きく湾入していた
多度郡の大友部は、その白方湾を拠点としていたと私は考えています。善通寺の佐伯直氏は、白方湾を外港として、自らも瀬戸内海で活動していました。佐伯直氏の経済基盤は大伴氏から受け継いだ外港白方を通じての交易活動に負うことが強かったと推察できます。
 また、鵜足郡の拠点は、大束川の当時の河口である川津や津之郷(鵜足郡の津)が考えられます。

古代の坂出市福江と宇多津・川津
古代大束川河口復元図
 吉士氏も新羅系渡来人系の豪族のようです。紀記には、吉士氏の一族が次のように登場します。
①良馬をもたらした「阿知吉士」
②論語十巻・千字文一巻をもたらした「和迩(わに)吉士」
その他の活動をまとめると
A 新羅や百済、唐との外交交渉に活躍し、半島派遣軍の将としても活動
B 屯倉の税の徴税・管理責任者
ここからは吉士氏も海上交通に携わる典型的な渡来系の「海の民」であったことがうかがえます。
吉士は「吉師、企師、吉」などとも表記されます。新羅では「吉士、吉次、吉之」などと記します。彼らは、ヤマト政権の役人となって、外国使節の接待、通訳など主に外交に携わったり、白村江の戦いには、倭国軍の道案内をつとめています。記紀には「難波吉志」が数多く登場します。ここからは大阪を本拠とし、磐井の乱、朝鮮半島の動乱などの緊張などに関与して、頭角を現したことがうかがえます。

大阪府 (吹田市) 吉志部神社 | みぞかつのぶらり散歩

吹田市には「吉志部神社」があります。ここも朝鮮からの渡来人「吉志」一族の氏神です。
吉士氏は外交使節や軍事部隊を乗せて朝鮮半島に向かい、また当時のヤマト政権の最大の戦略物資である鉄製品や鉄原料などを積み込んで瀬戸内海を上下しています。そうだとすれば鵜足郡の海岸線のどこかにその拠点を持っていたことが考えれます。想像を膨らませると、沙弥島の千人塚が思い浮かびます。その埋葬主が、鵜足吉士部の始祖と私は想像しています。どちらにしても対馬海峡を自由に行き来できる「海の民」たちが島嶼部や河口部に住み着いて、交易活動や製塩を開始します。その一族が鵜足郡を拠点とする吉士氏一族のようです。

さらに紀氏(きし)と吉士(きし)は、同祖同族関係で、両者共に新羅系の氏族と伝えます。
観音寺市大野原には、6世紀後半の巨石墳群がならびますが、その東に「紀伊(きい)」という地名が残ります。ここはもともとは紀氏の拠点地とされ、大野原古墳群も紀氏に関わるものではないかという説もありますます。この紀氏は、紀伊(和歌山)を本拠にして瀬戸内海を舞台に活躍した「海の民」です。
 『伊予国風土記』逸文には、愛媛県野間郡の熊野の地名の由来として、かつてここで「熊野」という船を造ったからだと伝えられています。この熊野は紀氏の本拠地である紀伊熊野に由来するもので、紀氏の活動痕跡と考えられます。そういう視点で、今治から西條・四国中央市、そして讃岐の観音寺市から仁尾までの燧灘沿岸を見てみると、そこには色濃く紀氏=吉士の痕跡があることに気がつきます。それが中世の熊野水軍の活動につながり、熊野行者の活動 → 石鎚山開山・石手寺創建などの動きになっていくと私は考えています。
 渡来系氏族である紀氏と越智氏が密接な関係をもつようになったは、どうしてでしょうか?
  その背景には推古朝の朝鮮半島をめぐる厳しい対外的緊張があったと研究者は考えています。この時期に紀氏と深いかかわりをもつ吉士が朝鮮半島問題で活発な活躍を展開しています。彼らの活動を支えたのが瀬戸内海・対馬海峡の海上航路を握る紀氏であったというのです。海の民である紀氏(吉士)が伊予国で伝統的な水軍兵力を持っていたとされる越智氏と結びつくことは自然だったのかもしれません。ここでは「吉士=紀氏」と在地系の越知氏が結びついていくことを押さえておきます。これが中世の芸予の海賊衆につながっていくのかもしれません。
 蘇我氏は、6世紀になってヤマト政権で台頭してきた新興豪族で、渡来系諸豪族の代表者的な性格がします。
葛城氏や物部氏の没落後は、内政・外交に絶大な権力をふるうようになります。そして、葛城氏や物部氏のように、阿波、讃岐、土佐、播磨、備前、備中・周防・筑前など瀬戸内海沿岸諸国に多く設置していきます。 讃岐の蘇我部は、鵜足郡と山田部に置かれています。

屋嶋城と備讃瀬戸

両郡は、後に屋島城や城山が築かれます。当時の支配者たちが鵜足郡や山田郡を戦略的な要衝と考えていたことがうかがえます。讃岐の蘇我部も、蘇我氏の瀬戸内海海上ルート確保のために置かれたとしておきます。ちなみに蘇我氏に水軍や海上輸送の便を提供して成長するのが先ほど述べた紀伊氏とされます。大野原に突然のように大きな巨石墳が登場するのも、燧灘の東の拠点として紀伊氏が打ち込んだ楔と考える研究者もいます。その背後には蘇我氏がいたことになります。

 建部は、『日本書紀』によると、日本武尊の名代とされています。
しかし日本武尊を実在の人物とはできません。「建部=楯部」とすると、やはり軍事的部民として、各地に置かれた集団と考えるのが妥当な線です。空海の実家で佐伯直氏も「佐伯=さえぐ=防ぐ」で軍事的な部民出身とされることは先ほど見た通りです。
   こうしてみると、6世紀ころの鵜足・多度郡には、軍事的部、あるいは朝鮮半島にかかわりをもっている海の民出身の部が集中していたことになります。これは綾(東)氏などにも共通する点です。最近のDNA分析からは、古墳時代にそれまで日本列島に在住していた人口を超える人達が大陸から渡来してきたことを明らかにしています。稲作・鉄器・陶器などの先端技術を持ち込んだ「海の民」たちは、ヤマト政権の豪族として、讃岐の沿岸部を拠点として定着し、その後、弘田川や大束川を遡って、内陸にさらなる拠点地を築いて、勢力を拡大していきます。

古代の綾氏

多度津の佐伯直氏や阿野・鵜足郡の綾氏以外にも、そのような動きを見せていた海の民たちがいたようです。最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献

屋嶋城
屋嶋城 讃岐の郡司達の動員によって作られた

日本書紀には、667 年に次のふたつの記事が並びます
A 屋嶋城が築城された
B 王宮を飛鳥から近江大津に遷した。
この両者の背景にあったものは何なのでしょうか?
まず考えられるのは 663 年の朝鮮半島の白村江海戦での大敗北です。これによって、日本列島が唐の軍事攻勢の直接の対象になったという危機意識が、当時の支配者に働いた結果と推測できます。

例えば空海の実家の佐伯直氏は、多度郡の郡司を務めていました。当時の中央政府から佐伯直氏にどのような指示があったかを推測し歴史順に列挙すると次のようになります。
①白村江への兵士の軍事的動員
②坂出城山の朝鮮式山城の築造工事
③軍事的機能を持つ南海道の整備
④南海道に沿って整備される条里制造成工事
⑤新都・藤原京造営への資材提供
⑥中央政府から許可を得て氏寺(古代寺院)建立
⑦国造から郡司に任命され、郡衙などの建設
⑧律令制に基づく貢納品の藤原京への輸送
⑨国分寺建立工事への動員
このような郡司たちに下りてきた動員命令等は、国家のどのような政策判断のもとで出されたものなのでしょうか。その国家意思は、どのようにして形成されたものなのでしょうか。別の言い方をすれば、地方行政に国家意思がどのような形で下ろされてくるのかが知りたいと思います。「井上和人 都城建設の時代 -国土防衛と古代山城-」をテキストにして見ていくことにします。
まず、7世紀の「東アジア世界の中での日本の立ち位置」について押さえておきます。
日本における国家成立は、外圧への対応策として出発したようです。これは戦前の皇国史観に基づく一国史観の見方とは異なります。中国における随唐帝国の出現と、その脅威に対する対応策として、古代律令国家は生まれたとする考え方です。
 6世紀の末に、中国大陸は隋王朝によって統一されます。隋以前は、後漢の滅亡以後の三国時代、五胡十六国時代、南北朝時代と北方民族の侵入による分裂抗争の時代が長く続き、軍事的ベクトルは中国大陸の内向きに働きました。ところが隋は、華夷イデオロギーを掲げて、皇帝権力拡大のための征服戦争を開始し、外向きにベクトルを転換し世界帝国を目指します。しかし、これはうまくいかずに、煬帝の高句麗遠征の失敗がきっかけとなって、隋帝国はわずか 30 年ほどで滅亡します。隋帝国の出現と高句麗侵攻は、大きな衝撃を東アジア各国に与えます。日本列島で律令国家のスタートは、隋の成立に促されての現象だと研究者は考えています。その時に、ヤマト政権の中心にいたのは蘇我馬子です。その対応策は、日本書紀には厩戸皇子の業績として記されている緒改革です。

唐帝国へのヤマト政権の対応策変遷

隋にかわて政権を握ったのが、唐王朝です。
628 年 唐が隋滅亡後の国内の混乱状況を平定。
629 年、北からの脅威であった東突厥を攻め、国王を殺害して滅亡
631 年 これを見て高句麗は唐との国境に千余里の長城を建設し、防衛線構築。
630 年 大和政権は飛鳥の最奥部への王宮遷都
このヤマト政権の飛鳥への遷都も、高句麗と同じ対唐防衛策であったと研究者は考えています。
そういう意味では唐帝国の誕生と膨張策への警戒が、飛鳥の地に宮殿を置かせることになったと云えます。
こうして飛鳥の狭い谷間に次のように都が継続して置かれることになります。これが事実上の飛鳥時代の開始です。
飛鳥の都と防衛システム
皇極朝の飛鳥板蓋宮
斉明朝の後の飛鳥岡本宮
天武朝の飛鳥浄御原宮
飛鳥正宮
これが上図の明日香村・岡の飛鳥宮跡になります。同じ場所に引き続いて宮殿の造営が繰り返されるのは今までになかったことです。飛鳥岡本宮以前は、歴代遷宮の名が示す通り、天皇(大王)の代替わりごとに王宮が別の新しい、広やかな場所に新造されていました。この大王家の長い伝統は 630 年を境に途絶えたことになります。
同じ年に、舒明政権は第1次遣唐使を派遣します。硬軟両面策を講じることによって、王権維持、ひいては国家の存続をはかったものと研究者は考えています。
この時期、大和政権を実質的に担っていたのは蘇我蝦夷でした。
この時点では、日本列島への唐の軍事的脅威は直接的なものではありませんでした。唐による征服戦争は西域諸国や、東に向かってはもっぱら高句麗に限定されていました。ある意味では、海の向こうの遠い国通しの争いでした。ところが660 年に、唐は新羅と連合し、百済を攻撃して、首都扶余を陥落させます。新羅を挟んで百済と同盟関係にあった大和政権は、百済再興のために援軍を派遣します。そして663 年、白村江の海戦で唐艦隊に完敗します。日本列島が唐の軍事的攻撃の直接の対象となる状況が生まれます。支配者たちの危機感は一気に高まります。これに対して中大兄皇子政権が取った対処法は
A 北部九州から瀬戸内海沿岸地域への朝鮮山城の築城
B 城塞施設を結ぶ烽とぶひ(狼煙台)の設置。
C 軍用道として南海道などの建設
以上のような唐の軍事的侵入に備えての防衛体制づくりを行います。
 大和飛鳥でも上図のように王宮と後飛鳥岡本宮を取り囲む丘陵の尾根に沿って長大な掘立柱塀を設置するなど、防御施設の営造が進められます。飛鳥の周囲にも山城が設けられたとみる研究者もいます。
ここでは、このような防衛施設は、百済亡命者が首都・扶余の防衛システムを踏まえて築造したものであったことを押さえておきます。
 中大兄皇子は、このような防衛体制だけでは不十分だと判断したのでしょう。
667年には近江・大津に新たに王宮を造営し遷都します。そして、」翌年に天智天皇として即位します。ここで研究者が指摘するのは、唐の侵入に対して、百済はこのシステムで対応しきれなかったということです。百済の防衛システムは朝鮮半島の三国間で相互抗争に備えたものでした。対唐戦争を前提としたものではありません。

百済の王宮と防衛システム
百済の王宮防備システム  
 効果が怪しい百済・扶余の防衛システムを北部九州と、瀬戸内海沿岸地域に整備したことになります。
これは一億総玉砕を掲げて、戦闘機もないのに各県にいくつも飛行場を建設させた敗戦直前の大本営のやり方を思いださせます。もっぱら軍事施設、しかも旧式の百済方式の防備システムを作りあげようとしたところに、天智政権の限界があったと研究者は指摘します。これに対して、批判的に見ていた人達もいたはずです。このままでは、国家が危ういと・・・
671 年に天智天皇がなくなると、壬申の乱に勝利し政権の在に着いたのが天武天皇です。
天武政権は大津宮を廃して、飛鳥に帰還します。そして新たな王宮を造営することなく、新しい国家防衛策を打ちだして行きます。それが唐帝国の支配イデオロギーや支配システムの導入です。具体的には
次の通りです
律令の編纂
地方行政制度の整備
地方有力者の郡司登用
耕地管理制度(条里制)の構築
戸籍管理による個別人身支配体制確立
官道網の建設
このような中で、象徴的で最も重要な事業が大陸式の巨大な矩形都城・藤原京の造営だったと研究者は指摘します。
 藤原京は20 年以上の歳月を費やして造営が続けられます。
694年、飛鳥浄御原宮から藤原宮に王宮が遷されます。ただし、完成はさらに遅れ、704 年のことになります。しかも完成しないままに終わったと研究者は考えています。
 藤原京については、1996年以来の発掘調査から次のようなことが分かってきました。

日 本史ナビ

藤原京
藤原京2
藤原京
①10 条 10 坊の正方形の全体プラン
②王宮が中央に設置
この参考史料になったのは、次の古代中国の周の国の制度を記したとされる『周礼』に説かれている理想の王城スタイルです。

周礼の理想王城
これを強く意識したのが藤原京と研究者は考えています。藤原京造営の目的のひとつが、唐長安城をしのぐ皇都実現にありました。つまり、長安を強く意識した、基本的な設計図が作られたのです。こうして「藤原京 + 大宝律令」の完成という実績を積みし、古代国家の確立という自負をもって702 年(大宝2)に、遣唐使が派遣されます。これは669 年に中絶して以来、33 年ぶりの復活です。反新羅・反唐という外交政策の転換点でもあります。執節使(長官)に撰ばれたのは民部卿・粟田朝臣真人(あわたあそんまひと)でした。第7次遣唐使の一行が目にした長安城は、壮大で華麗な外観を呈する世界的基準の構築物でした。それまで自負していた藤原京が、かすんで見えたはずです。
 藤原京のどこが問題だったのでしょうか?
①都城の顔となる羅城、羅城門がない
②広大かつ長大でなければならない中央道路(朱雀大路)は、長安城の1/6の規模
③藤原京の周囲には城壁がめぐらせてない
長安を実際に見て、粟田朝臣真人はすぐに感じ取ったはずです。藤原京では唐や新羅などの周辺諸国の使節団を迎えた時に胸を張って誇示できるものではない、この貧弱さでは、天皇の権威に傷が付くと思ったかもしれません。
 当時の政権の中心人物・藤原不比等は藤原京遷都後に政権内での実権をほぼ掌握していました。しかし、まだ絶対的な権力を得てはない段階です。そのため彼は、造営プラン段階から藤原京では天皇の威信誇示装置としては、貧弱であると思っていたのかもしれませんが口が挟めなかったのかもしれません。そこで不比等は、未完成状態の藤原京建設を中止し、長安城タイプの新都を建設することの必要性を説いて、政権内部での賛同者の獲得を計ります。そのひとつの方策として、側近であり、当代きっての知識人でもある粟田真人を遣唐使を唐に派遣したことが考えられます。
704 年( 慶 雲 1) に 遣唐使が帰国すると、長安城を強く意識した新都の建設計画が動き始めます。そこには不比等の意向があったのでしょう。そして708 年(和銅1)には、平城京遷都の詔が発せられます。 

平城京と長安の比較
完成した平城京を見ておきましょう。
平城京は南北に長い矩形に見えるので、横に長い長安城とはスタイルが違うようにみえます。しかし、上図のように長安城の4分の1の横長の矩形を90度回転させると、平城京と一致すると研究者は指摘します。また平城京の朱雀大路は幅が75mで長安城の朱雀街の1/2までに広くなっています。
 平城京を初めとする日本古代都城は、その特質として羅城がなかったといわれてきました。
しかし、発掘調査から、外周を高さ5mほどの築地塀(城壁)があったことが分かってきました。長安城の城壁は「高さ一丈八尺(約5,3 m)とされるので、遜色のない高さのものがあったことになります。
 平城京には、東南隅に大規模な人工の苑池が今もなお残っています。これも長安の東南隅の皇帝の離宮であった芙蓉苑と曲江池を真似た人工のもので、当初から設計図に書き込まれたものであるようです。このように平城京は、長安を引き写しにしたような要素がいくつも見られます。この背景には、唐の使節団に対しては、唐に対する恭順の姿勢を目に見える形で表現しようとしたと研究者は考えています。
 藤原京・平城京の造営の背景を、次のように整理しておきます。

平城京建設のねらいと意味

①唐の圧倒的な軍事攻勢の中で、国家としての存亡を計ろうとした天武政権によって築造された。
②独自の華夷システム=天皇を頂点として、隼人、蝦夷、新羅、のちには渤海を夷狄や蕃国として位置付ける統治システムを目に見える形で示す政治的な舞台としての役割が込められた。
③唐に極力配慮しつつも、周辺の諸国、諸民族に対して天皇権力を誇示するシンボルモニュメントが平城京だった
言い方を換えると、藤原京、平城京の建設は、国家統合のシンボルとして、大陸式の都城を造営し、顕示する必要性があると不比等たちは考えたのでしょう。そして、ふたつの都城を作り上げて行くことは、それまでのように畿内だけの資材や資源で対応できるものでなかったのです。例えば、藤原京の宮殿は「本邦初の総瓦葺」でした。そのために畿内以外でも最新鋭のハイテク瓦工場を建設する必要がありました。それに応えたのが三野郡の丸部氏だったことは以前にお話ししました。丸部氏は、瓦職人である渡来系技術者たちを迎え入れ、粘土や燃料の木材を用意し、船で畿内に輸送する体制を整えていきます。これをやり遂げることで、郡司としての勤務評定はよくなります。このようにして、地方豪族をヤマト政権の忠実な下僕へと取り込んでいく道が開けます。

 藤原京・平城京造営は、単なる土木事業ではなく、日本列島における国家構築の歴史の一コマでもあったようです。古代律令国家は、6世紀末の隋による中華統一帝国の誕生と、それに始まる対外征服戦争の緊張感の中で、どのようにして日本列島を防衛していくかという危機意識の中から生まれたと研究者は考えているようです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「井上和人 都城建設の時代 -国土防衛と古代山城-」


「水門・津・泊・船瀬」が

讃岐の郡と津や湊の関係を見ています。前回は那珂郡についてみました。
郷史関係の本を読んでいると、古代の郡にはそれぞれに港があったと書かれていること出会います。そして、それが近世の港へと引き継がれたと云うのです。例えば、次のような各郡と港です。
A 阿野郡  松山湊
B 鵜足郡  宇多津
C 那珂郡  中(那珂)津・津森(守)
D 多度郡  多度津(白方)
E 三野郡  三野津
まずA・B周辺の海岸線復元図を見ておきましょう。
坂出・宇多津古代海岸線復元2
この復元図からは次のような情報が読み取れます。
① 大屋富一青海一高屋一林田-西庄一江尻一福江一坂出一御供所と集落が連なる旧海岸線
② その中央に幾筋もにも分かれゆったりと注ぎ込む綾川
③ 綾川河口の阿野北平野の雌山・雄山の西側は海だったこと
④ 坂出は、金山の下まで海が入り込み福江・御供所が湊であったこと。
⑤ 聖通寺山や青野山は、海に突き出した半島であったこと。

以上のようなことを押さえた上で、まずAの阿野郡と松山津の関係について見ていくことにします。
松山津と林田津 古代坂出
綾川河口の阿野北平野の地形復元図 
古代の阿野北平野の北部は、上図のように綾川の扇状地・三角州で、網の目状にいくつもの川筋となって流れだしていました。この中で中世史料に登場するのが「松山津」です。
まず、菅原道真の「菅家文草」には「松山津」とは表記されていません。松山に遊んだとあるのみです。従来の書物の中には、これをもって松山に「松屋津」があったと判断しているものが多いようです。「松山津」と記されていないことをここでは押さえておきます。
「松山津」の史料上の初見は、西行が崇徳上皇の慰霊のために讃岐に渡ってきた時の様子を記した山家集で、次のように記されています。

「讃岐に詣でて、松山の津と申所に、院おはしましけん御跡尋ねけれど、形も無かりければ]

これに続いて『白峯寺縁起』(1406年、応永13)に「松山津」と見えます。しかし、『とはずがたり』(1313年)や新葉和歌集(1381年)、『鹿苑院殿厳島詣記』(1389年、康応元)などには「松山」とのみ記します。「津」がないのです。ここからは中世に「松山津」があったとは断定できないと研究者は考えているようです。そうなると、古代はさらに不明確になります。
 それでは国府や阿野郡の港湾施設はどこにあったのでしょうか? もう一度復元図を見ていくことにします。

古代綾川河口復元図1

研究者が注目するのは、雄山・雌山の西側の総社神社周辺で、次のように述べています。(要約)
①総社神社境内と東側・北側の総社集落は、周囲の土地とははっきりとした高低差がある微高地
総社神社周辺の微高地は、自然堤防や砂堆で「古代の古・坂出湾において最も海側に突出した安定した地形面に遺跡が所在」する場所
③8~9世紀の綾川河口の林田郷において、唯一の臨海性遺跡
④この遺跡からは製塩土器や漁携具が出て来ない代わりに、畿内系土師器が出土する。
以上からは、畿内などとの交易活動を行う港湾機能をもった湊がここにあったことが推測できます。
また、綾川河口には総倉神社があり、旧河道を挟むように「東梶」「西梶」の古地名が残ります。「梶」は梶取りで、船頭のことを指します。この周辺には船乗りや船頭集団がいたことがうかがえます。
 尾道のような中世港町は、海民たちの複数集落の寄り集まりでできていました。
それぞれの集落に船着き場、船主や船頭・水主らの住居、物資を保管する倉庫業者、港の住人の生活物資や集まった物資の売買に当たる商人など、さまざまな住民が住んでいたことが分かっています。地域的な日常的生活での繋がりをベースにして、ひとつの船に乗りこんでいたのです。船の運航は、陸上で生活をともにする海民集団によって担われていたということです。船乗りを他所から自由に雇い入れたりするようなことは、できなかったようです。

 そういう目で林田の復元図を見ると、河口一帯に小さな港湾施設が散在し、それが総合的に「林田湊」や「松山湊(津)とよばれていたことが考えられます。あるいは、次のように2つに機能分離していたことも考えられます。
松山湊 高屋町にあって、国府の外港
林田湊 林田町の総社神社辺りに交易港
どちらにしても、従来の説のように、「国府の湊=阿野郡の湊=松山津」とは言い切れないようです。
 なお、雄山・雌山の南辺りまでは条里制地割が残っていますが、それより北には見えません。また、雌山より北は近世になって干拓されたものです。

次にBの鵜足郡の郡湊候補の、宇多津を見ていくことにします。
宇多(鵜足)津に関しては、大束川の河口に大集落川津があったので、その外港として宇多津があったと思えます。しかし、古代の宇多津は、史料的にはどこにも登場せず、影が薄いのです。どうも古代においては、現在宇多津は海の底にあったようです。

宇多津・津之郷・川津

 宇多津に代わって有力なのが「川津」と「津之郷」です。このふたつは、古代鵜足郡の郷でもありました。大束川河口の川津、さらに遡ると「津の郷」という関係にあります。両者ともに大束川沿いに発展した郷で、上流からの川船で運んできた物資の集結地として機能したことが考えられます。また、古代・中世の津や湊は、いくつかの海民集団が散在していました。ひとつの場所と固定することは避けた方がいいのかもしれません。ここでは、鵜足郡の津は、川津と津之郷であったとしておきます。

しかし、鵜足郡にはもうひとつ活発な海運活動を行う海民の拠点がありました。

古代の坂出市福江と宇多津・川津
それが坂出市の福江です。考古学的には古・坂出湾の古代臨海性遺跡としては、坂出市福江浦に近い文京町二丁目西遺跡があります。
坂出の復元海岸線2
 ここでは砂堆が北にあり、潟湖が坂出駅から八幡神社方面まで湾入し、福江は海に面していました。その想像図は下図の通りです。

福江 中世
中世の福江・御供所(坂出市) 坂出市史より

福江も古代は漁労活動(飯蛸漁)を行った海民たちが8世紀後半頃になると、交易活動に乗り出していきます。これは先ほど見た阿野北平野の総社神社遺跡の海民の活動と同じ時期になります。
 また、古代の大束川は現在の鎌田池を経て、福江(坂出)に流れ出していました。そうすると、綾川河口の福江が鵜足郡の湊の役割を果たしていたことが考えられます。宇多津は中世には、讃岐NO1の湊に成長して行きますが、それが古代から継続した結果かどうかは分からないことを押さえておきます。「鵜足郡の湊=宇多津」とは、すんなりと行かないようです。
6宇多津1
中世宇多津の復元図

Dの多度郡については、次のように湊が移動したことを以前にお話ししましたので省略します。

古代 弘田川河口の白方
中世前期 堀江
中世後期 多度津
ここでは古代の多度郡の湊が多度津ではなく、白方であったことを押さえておきます。

最後に、Fの三野郡の湊を見ていくことにします。

古代三野郡郷名
古代三野郡の郷名と古墳群 近世以前には三野津湾があった

平安時代末の西行の『山家集』には、讃岐を訪れた際のことを次のように記しています。

さぬき(讃岐)の国にまかりてみのつ(三野津)と申す津につきて、月の明かくて ひびの手の通わぬほに遠く見えわたりけるに、水鳥のひびの手につきて飛び渡りけるを

ここからは西行が「みのつ(三野津)と申す津」に上陸したこと分かります。同時に、三野に津があったことも分かります。それでは、上陸した津はどこにあったのでしょうか?
 
中世三野湾 復元地図
秋山文書に出てくる地名を地図に落としたもの(三野町の中世文書より)
実線が中世の海岸線 青字が海岸関係地名 赤字が中世関連地名 

上の地図の実線が中世の海岸線になります。時計と反対回りに海岸に関係ある地名を拾ってみると
「汐木山 → 吉津 → 宮ノ浦 → 津の前 → 浜の江 → 塩門地(塩田) →東の浜 → 川尻 →淺津」などがあり、このラインが海岸線であったことがうかがえます。 そして、「津」はどこにもあります。これらを総て含めて「三野津=三野郡の湊」と呼んでいたと研究者は考えているようです。
そうすれば、最初に見た綾川河口の松山津や、金倉川下流の那珂津も、こんなイメージで捉えた方がよさそうです。
古代三野湾2 宗吉瓦窯積み出し
吉宗瓦窯と藤原京に瓦を積み出す「三野津」の像像図
ここには初めて宮殿を総て瓦葺きにすることに決まった藤原京に瓦を供給するために、当時ハイテクの大型瓦工場が造られました。そしてそれは、三野湾を利用した水運で藤原京まで運ばれたことを以前にお話ししました。まさに当時の三野津は、三野郡の最重要拠点であったのです。
 すこし見方を変えると阿野郡の綾氏なども、綾川上流の陶に新型須恵器工場を建設して、讃岐の市場独占を果たすと共に、畿内へも搬出ししたことは以前にお話ししました。水運を通じて、畿内と結びついて、最先端製品である瓦や須恵器を供給するというのが当時の経営学だったのです。それは、古代の臨海工業地帯の形成と言えるかもしれません。地方の郡司達は、先を見通してこのような
先手を打たないといつ衰退していくか分からない立場に置かれていたのです。  
 そのような意味でも、現在と同じように社会資本としての湊の整備や管理経営は、重要であったと思うのです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
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  郷土史関係の本を読んでいると、古代の郡にはそれぞれに港があったと書かれています。それが近世の港へと引き継がれたと云うのです。例えば、次のような各郡と港です。
A 阿野郡  松山湊
B 鵜足郡  宇多津
C 那珂郡  中(那珂)津・津森(守)
D 多度郡  多度津
F 三野郡  三野津
これらの港が本当に郡の港であったのかどうかを見ていくことにします。今回は、Cの那珂郡の湊とされる中津・津之郷についてです。
那珂郡の湊については、柿本人麿の歌が万葉集に次のように載せられています。

「王藻よし 讃岐の国は国柄か 見れども飽かぬ神柄 か ここだ貴き 天地 日月とともに たりゆかむ 神のみ面と つぎ来る 中(那珂)の水門ゆ 船浮けて 吾が 漕ぎくれば 時つ風 雲居に吹くに 沖見ればとい浪立ち辺見れば……(中略)。 
反歌二首 妻もあらば疹みてたげまし佐美(沙弥島)の山 作の 上のうはぎ 過ぎにけらずや (後略)」

ここには人麻呂が「中(那珂)の水門」から船出して、強風で沙弥島へたどり着いた時のことが記されています。この歌に出てくる「中の水門=那珂郡の湊」が、どこにあったについていろいろな説が出されています。例えば「丸亀の歴史散歩」には、次のように記します。(要約)
①途中に亀山があるが、中津、今津、津森、中府、高津などを結ぶが線がほぼ一直線となっているので、この直線のあたりが昔の海岸線。
②現在の中津、今津、津森のあたりから北は海で、柿本人麿が舟出した中の水門も、今津か津森
③現在に残る地名由来からすると、「津の守」は郡港役所のあった所、宮浦は船の着く所、八日市は八のつく日に物々交換の市が立った所。
④津森天神のあたりが港で、津ノ守から津森の地名になった。
 津森天神宮の名前については、次のような2つの話が伝えられます。
A 景行天皇の孫津森別命と津森王が、ともにここにいたという説
B 菅原道真が国司として国内巡視の際に、亀山の麓の松原から那珂の入江の風光を眺め、「あの森は何か」と聞かれたので「加治須(梶州)の森といい、天穂日命を祭る社です」と答えたところ、道真は「わが遠祖の神だ」と言い、わざわざ下馬参拝したので、やがて州の森が津の森となったという説

そして次のように続けます。

古代においては津森(津守)が那珂郡の湊であったが、それが土器川と金倉川の堆積作用で、砂州帯が形成されて埋まっていまう。鎌倉時代には、北方約700mの所にある法然上人ゆかりの擢掘の井戸のあたりも砂浜となっていた。鎌倉時代の海岸線はこの井戸の北にある県道多度津線のあたりと思われ、今津や津森は既に陸地になっていたわけである。

 整理すると古代の那珂郡の湊は、「津森=那珂津」であったが、中世には堆積作用で陸封された。そこで、今津に湊が移動した。つまり、那珂郡の湊は、古代の津森から中世には今津に移動したというのが従来の説のようです。
この説を、地形復元しながら見ていくことにします。

丸亀 西出汐川・塩屋. 3
丸亀市の中府・津森・今津・中津周辺の土地条件図
前回にお話ししたように、西汐入川は丸亀競技場の先代池や平池附近を源流として、Aの今津で大きく東に屈曲して丸亀福島町で瀬戸内海に流れこんでいます。A地点で屈曲する理由は、北にB・C・Dの砂丘帯が東西に伸びているからです。そのため北上できずに東流し、砂丘帯の隙間を縫って福島へ流れ出します。問題は、この砂堆がいつからあったのかということです。
 「丸亀の歴史散歩」には「津森(津守)が那珂郡の湊であったが、それが土器川と金倉川の堆積作用で、砂州帯が形成されて埋まっていった」とありました。しかし、この状態は中世にはじまるものではなく弥生時代以前まで遡ると研究者は考えています。そうすると、津森や今津は古代にはすでに「陸封」され、湊の機能を果たすことはなかったことになります。確かに、15世紀半ばの兵庫北関入船納帳に、多度津や宇多津は登場しますが、津森や今津はでてきません。交易活動などが史料では追いかけられません。
 それでは那珂郡の湊は、どこにあったのでしょうか? 私が注目するのは金倉川河口の西側周辺です。
金倉川河口2

金倉川河口 明治39年
  
道隆寺 堀江の旧干潟2
金倉川河口の土地利用図 Bは那珂郡と多度郡の旧郡境

  金倉川河口西側の下金倉や中津万象園は、丸亀市に属します。それは、Bの那珂郡と多度郡の郡境がここにあったためです。古代の郡境は川が「自然国境」とされることが多かったようです。そういう意味では、金倉川の西に那珂郡の一部(下金倉)があります。これは、古代に郡境線が川沿いにひかれた後に、流路変更があったことを伺わせます。もともとは旧金倉川は、下金倉と北鴨の間を流れ、堀江付近で海に流れ出していたことが考えられます。もうひとつは、堀江にも砂丘堆が東西に伸びて、その背後に大きな潟湖があったことが地形復元できることは以前にお話ししました。
道隆寺 堀越津地図
堀江から道隆寺に駆けて拡がっていた「堀江潟」
また、古代には「港」という言葉は使わずに、次のような用語が使い分けられていました。

「水門・津・泊・船瀬」が

柿ノ本人麻呂は「中(那珂)の水戸」と表記しています。水戸=水門=「河口にできた船着き場」になります。そうすると「中の水戸」は、金倉川河口にあったことになります。
 以上から那珂郡の湊は、この潟湖の中の那珂郡に属する部分か、旧金倉川沿いあったのではないかと私は考えています。その根拠を挙げておきます。
①金倉川は那珂郡の重要輸送ラインであった。その河口に湊を設置するのが便利
②道隆寺・下金倉・北鴨 →  金倉寺は活発な人とモノの動きがあった。
③多度郡の古代の郡港は弘田川河口の白方にあり、競合関係にはなかった
④「中(那珂の水戸」は、旧金倉川河口にあった潟湖が考えられる。
以上を整理して起きます
1 柿ノ本人麻呂の歌の中に「中の水門=那珂郡の湊」から出港したことが出てくる
2 那珂郡の湊については、従来の説では津森や今津などが挙げられてきた。
3 しかし、津森や今津は古代の時点で砂堆によって陸封化され、湊としての利用は難しかった
4 そこで、現在の金倉川河口の東側の那珂郡に属する潟湖の内側が那珂郡の湊候補として考えられる
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

追補
 「中乃水門」について「新編丸亀市史1 398P」には次のように記します。
①四条川は田村番神から左折して、津森町の東部を北流し海に注いでいた。②その河口に開けたのが中之水門であり、ここに津の守が設けられた。近世にはいり集落が形成されて、現在の津森町の地名になった由来ももこれに起因する。
平野部に位置し津としての立地条件はよくないが、南海道那珂郡衙からまっすぐに通じ、距離もわずか三・五㎞と近い。四条川によって長年月にわたり運ばれたおびただしい土砂は、海中に堆積して広大な洲を形成した。現在の福島町・新町・新浜町・塩屋町・前塩屋町・天満町などである。
 このように③四条川の河口に開けた中乃水門は、しだいに内陸部に位置するようになり、津としての機能を失ってゆく。④中世に至って、四条川の支流である西汐入川に新しく開けたのが今津である。承元元年(1207)三月、専修念仏停止で讃岐国に配流となった法上人が、5月に小舟で塩飽を出て上陸したのがここ今津である。
丸亀市史は、流路変更される以前の旧金倉川は四条川であったという立場で書かれています。これを「四条川=旧金倉川」に置き換えて要約してみます。
①四条川は田村番神から左折して、津森町の東部を北流し海に注いでいた。
②その河口に開けたのが中之水門であり、ここに津の守が設けられた。
③近世にはいり集落が形成されて、現在の津森町の地名になった由来ももこれに起因する。
④四条川の河口に開けた中乃水門は堆積作用で陸封化され、津としての機能を失っていった
⑤中世に至って、四条川の支流である西汐入川に新しく開けたのが今津である。

 津森周辺の土地利用図を見ておきましょう。

丸亀市 津森2
丸亀市津森・今津周辺の土地利用図 旧金蔵川の河道跡が何本も見える

先ほど見た西汐入川(旧金倉川)の支流が幾筋も現在の金倉川と併行に南北に流れています。津森町も東西に支流跡が見えます。このように丸亀平野になる前に「丸亀扇状地」では、土器川や金倉川は幾筋もの流れに分かれて網の目状にながれていたことは以前にお話ししました。ここでは、旧金倉川も数多くの支流があったことを押さえておきます。
 次に「北流し海に注いでいた」とありますが、先ほど見たように津森の北には、東西に走る砂堆が東西にB・C・Dとありました。砂堆は、B・C・Dの順番に形成されてきたものですが、その起源は古代に遡ります。そのため旧金倉川は北流できずに、東流して福島町あたりで海に流れ出していました。当時の津森や今津と砂堆の間は、洪水時には湧水池化して広大な芦ノ原となっていたことが考えられます。
以前にもお話ししたように、津森は丸亀扇状地の突端あたりに位置します。その下の砂州の一部を開発することは出来ても、北側にできた遊水池を全面的に開拓できる技術力は古代にはありません。また、湧水地に福島方面から船が入ってこられていたかどうかは分かりません。もし、堀江潟のようになっていたのなら港としての機能はあったかもしれません。今の私に言えるのは、ここまでです。
また、丸亀市史399Pは中津については次のように記します。
 那珂郡の古代の津は、中乃水門であったことはうなずけるが、中世においては堀江津の可能性もある。いずれにしても、中津という津はまったく存在しない。従来、現在の中津町の読み方を誤解して、金倉川の河口を那珂津に比定する説が多いが、これらの説は間違っているのである。起名の由来は中州であり、このナカスが濁音化してナカズとよばれるようになったのである。近世後期に入って、たまたま中津の字が使われたもので、現在もナカツとは決してよぶことはないし、「中州」「中津」は俗称地名であった。

丸亀市史は、金倉川について「人工河川」説を唱えています。その背景として、西嶋八兵衛が満濃池を再築する時に、灌漑用水網を丸亀平野に整備するために、その邪魔になる金倉川の流路変更を行ったということが考えられます。そんな中で、さらに次のような説が出されています。

「金倉川の下流部は、生駒藩時代に流路変更されている。旧金倉川は現在の西汐入川である。」

この説を今回は、見ていきます。  テキストは田中健二 「正保国絵図」に見る近世初期の引田・高松・丸亀」香川大学教育学研究報告147号(2017年)です。まず地図で西汐入川を見ておきましょう。

丸亀 西出汐川・塩屋
現在の金倉川と西汐入川の流路
上図からは次のような情報が読み取れます。
①金倉川は中津万象園の東側に河口があること
②西汐入川は、丸亀競技場の先代池や平池あたりを源流としていること
③西汐入川は、JR塩屋駅の南500m辺りで流れを、北方向から東北方向に大きく変えること
④西汐入川は、丸亀駅の北に今は河口があること。

約120年前の明治39(1907)年の地理院の地図で、見ておきましょう。

丸亀 西出汐川・塩屋. 明治39年G
              現在の金倉川と西汐入川の流路(1909年)
西汐入川の流路に、大きな変化は見られません。A地点で、大きく屈曲しています。金倉川は、まっすぐに北上するのに、どうして西汐入川はA地点で東に流れを変えるのでしょうか? それを解くヒントが土地利用図に示されています。

丸亀 西出汐川・塩屋. 3
       西汐入川の屈曲点Aの北側には、砂丘帯B・C・Dが東西に横たわっている 

この土地利用図からは、B・C・Dの砂丘帯(微高地)が黄色で着色されています。土器川河口から、多度津までは、土器川と金倉川によって堆積した砂州が続いていました。その砂州の一部がB・C・Dのようです。この砂州によって、西汐入川は北上を阻まれて、東に流れを変えていたのです。
丸亀の砂嘴・砂堆
丸亀周辺の砂州と金倉川・土器川
次に、金倉川の下流部は西汐入川であったという説を見ていくことにします。
まず西汐入川の源流を確認します。
西汐入川の源流2
西汐入川の源流は、平池・先代池あたり
この土地条件図からは次のような情報が読み取れます。
西汐入川の源流は、平池・先代池あたりで、金倉川と併流していること
②金倉川が、かつては東の西汐入川に流れこんでいた形跡があること。
③先代池の北側には「原」「荒」の地名が残り、開発が遅れ湿地が広がっていたこと

金倉川が西汐入川として、丸亀城下に流れこんでいたことを示す絵地図が残されています。
 
金倉川流路変更 
高松市歴史資料館の「讃岐国絵図」 の「圓(丸)亀古城」部分
この地図からは次のような情報が読み取れます。
①「圓(丸)亀古城」が丸亀城で、海側に「町」とあるのが丸亀城下町
②東(左)に土器川河口が描かれている
③西(右)側から「町」丸亀城下に川が流れこんでいること。
④西側の河口から砂嘴が伸びていること
①の「圓(丸)亀古城」の表記は、一国一城令で、廃寺となったので「古城」と呼ばれたようです。しかし、城はなくなっても城下町の一部は残っていたことがうかがえます。それが、御供所・平山・南条・塩飽などの町筋であったようです。
 この地図で研究者が注目するのは、③の西側(右側)から回り込むようにして「町」の北に流れ込んでいる川です。最初は西汐入川かと思っていました。しかし、川の西(右)側には中津・下金倉・上金倉の地名が見えます。中津と上金倉の間を流れています。どうやらこの川は、金倉川のようです。金倉川が今津の北で西汐入川に流れこんで流域を広げて、大きく東に向きを変えて、丸亀城の北側で瀬戸内海に流れ出している様子が描かれているようです。

丸亀城周辺 正保国絵図
 一方、国立公文書館版の讃岐国絵図を見てみましょう。ここからは次のような情報が読み取れます。
①②丸亀城を囲んで、東に土器川、西に金倉川が流れている
③の土器川河口の砂嘴の上に船番所が置かれ、そこから丸亀城に東汐入川が伸びている
④の西汐入川河口にも船番所が置かれていること
ここから先ほど見たように、丸亀城下に西側から流れこんでくる川が小さく描かれています。そして、多度郡と郡境近くに金倉川は下金倉村で海に流れ出しています。この絵地図と先ほど見た絵地図は生駒藩時代のほぼ同時代に、作られた絵図なのに金倉川の流路が違います。これをどう考えればいいのでしょうか。
研究者は次のように記します。
①旧金倉川は中津と今津との間を流れ東流し、九亀城北方の二本の砂堆の間で海へ注いでいた。
②ところが「正保国絵図」では、金倉川は砂堆の間を通らず今津・下金倉間から真直ぐ北に流れ海へ注いでいる。
③一方、北方の二本の砂堆間の入江は金倉川とはつながっていない。ここには西汐入川が流れ込んでいた。
④西汐入川は、かつての金倉川の流路を流れていた。
⑤西汐入川は、中津から今津、津森にかけての後背低地や旧河道からの排水路の役割を果たしている。
①の旧金倉川河口が、丸亀城下町の西北にあっために、この附近の南条・塩飽町や三浦の街並みは、台風などの度に大きな被害を受けたことが考えられます。

この被害を小さくするために旧金蔵川のルート変更を、現在の原田町や金蔵町付近で行ったのでしょう。その結果、丸亀城下町の水害は大きく減少したはずです。その一方で⑤の結果、中津から津森にかけては、砂堆の後背地湿地が広がり、葦の原野となっていきます。それは「原」「荒」などの地名からもうかがえます。
丸亀新田町
先代池が丸亀扇状地の突端部 その北の新田町
 丸亀扇状地の突端部は、先代池であることは以前にお話ししました。その北側は一段低くなっていて、かつてはここまで海だったようです。ゆめタウン建設時の発掘調査からは、海に面した集落として次のようなものが出てきています。
①製塩土器
②飯蛸壺が8か所から14点
また条里制遺構もでてきています。この辺りが丸亀平野の条里制の北限部であり、人が住んでいたのもここまでだったとされます。
 そして近世に至るまでは、その目の前には旧金倉川が逗留し、葦が茂る湿地が砂堆との間に拡がっていたことになります。ここで開拓が始まるのは山崎時代の承応年中(1652~55)のことで、塩飽島の岸本十郎重綱の子孫で又右衛門によってでした。彼らも廻船業などで得た資金を手にして入植したようです。
 ゆめタウン北東にある天満池を囲むように南と西に、塩屋の飛地がありました。この飛地は新田の開拓より数年遅れて、塩屋の人々が約11町歩の土地を開拓したという記録があります。赤穂からきた塩職人が塩田を開き、塩屋別院を建立し、門徒たちが集まり住むようになります。その門徒集団によって開かれた飛び地のようです。先に塩飽島出身者が開墾した新田に刺戟され、塩屋の天満の人々が新田に隣接したこの地を開墾したことが考えられます。
以前を整理して起きます。
①旧金倉川は金倉附近から、現在の西汐入川に流れ込み、丸亀の西へ流れこんでいた
②丸亀城下町の水害からの防衛のために、金倉川が金倉附近で付け替えられ、まっすぐに北上して下金蔵で海に流れ出すように流路変更が行われた。
③その結果、旧金倉川流路が湿地化し、開拓が始まり、新田が開発された。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
田中健二 「正保国絵図」に見る近世初期の引田・高松・丸亀」香川大学教育学研究報告147号(2017年)


金毘羅領の成立    県史
上の表は『新編香川叢書・史料篇・』に収められた金毘羅大権現別当金光院への寄進地一覧です。ここからは次のような情報が読み取れます。
①金光院への寄進は、関ヶ原の戦い後の慶長12(1607)年に、生駒家3代の当主たちによって行われた。
②慶安元(1648)年に、生駒家の寄進地が幕府朱印地330石に統合されたこと。
③寛文13(1673)年に、松平頼重が三条村(丸亀市三条町)に50石を寄進した。
②の社領330石を統合したのは、初代髙松藩藩主の松平頼重です。
③については、金刀比羅宮史料八巻には、次のように記します。
寛文十三(1673)発丑年霊元天皇御宇
 一、正月十日讃岐高松城主松平讃岐守頼重、那珂郡三条村に於て、御供領、不体仏堂領、神馬領として、高五十石を献ず  
ここからは1673年に松平頼重が、仲郡三条村で神馬料高30石・千休仏頷10石・御供田10石、合計50石を寄進したことが分かります。この中の「御供田(ごくでん、おともだ、おくだなど)」とは、神仏に供えるお米(神饌米)を栽培するために使われた田んぼのことです。
 三条村は、もともとは木徳村の中の「三条免場」と呼ばれた所です。ここには元和四年三月に生駒正悛から寄進されていた23石5斗の社領がありました。それに並んだ所に、頼重は50石の土地を寄進したようです。そのため後世になると「三条村の御供田」とか「三条村の朱印地」と呼ばれるようになります。
今回は③の松平頼重が寄進した三条村の御供田と寺領を見ていくことにします。テキストは「丸亀の歴史散歩」237Pです。
 
金刀比羅街道 与北茶屋 金毘羅参詣名所図会
金毘羅参詣名所図会 与北茶屋と皇宮神社(美屋)と御供田
この絵図からは次のような情報が読み取れます。
①金毘羅街道沿いに与北の茶屋があったこと
②手前が与北の皇宮(美屋)神社の社叢と社人の家があること
③左隅に「金ヒラ(金毘羅) 御供田」と書かれて、松並木道が続いていること
この三条の御供田は、どのあたりにあったのでしょうか。金刀比羅宮に残された地図を見てみましょう。
金刀比羅宮寺領 三条御供田2
          三条御経田絵図(金刀比羅宮蔵)  伊与勢池が見える
この絵図には、右隅に伊予勢池が書き込まれています。この池の東側から北に向けて一帯が寺領と御供田があったことが分かります。それを簡略図で表すと次のようになります。
金刀比羅宮の寺領 丸亀三条
この地図からは次のような情報が読み取れます。
①寺領(金光院に寄進)がA~Hと南北にならんでいたこと。
②その中のEが御供田であったこと。
③伊予勢池の南側が、三条村(現丸亀市)と与北村(現善通寺市)の境界であったこと。
④広さは数町歩(数㌶)
③はかつては、髙松藩と松亀藩の境界でもありました。ここでは、松平頼重は自藩の一番西の三条村の土地を金毘羅に寄進したこと、その土地は伊予勢を水源としていたこと、寺領の中の一部(E)が御供田だったことを押さえておきます。

御供田(図のE)を耕作していたのが香西氏です。その子孫の方が次のように述べています。

 御供田が他と異なる点は濯漑用水である。この付近の田は通常伊予勢池と桝池の水を使用するのであるが、社領地はその外に与北にある買田池の水も引くことができた。御供田はさらに買田池の寸ノ水までも使えることになっていた。寸ノ水というのは池底に残る少量の水のことで、一般の濯漑用水には使用せず、旱魅の際に翌年の種籾を採るためにのみ使われるものであった。
 旱天で御供田に買田池の水を入れなければならなくなった場合には、与北部落の人々とともに早朝から水路に立ち、池から水が流れ出せば赤い旗を立て、水の流れに従って旗を下流へ次々に掲げ、御供田へ水を引く。夕方、八反歩の御供田が満水となれば、逆に順次水上へ 旗を倒して終了となる。この日には終日、赤い旗が買田池までの水路に立ち並んだ。日照りが続く時には「水一升金一升」といわれるほど、水は農家にとって貴重であったので、亀裂している隣接の田に水が盗まれないよう監視したのである。
 最後に赤い旗が並んだの場1939年大旱魃の時だったようです。
御供田は金毘羅宮の神前に供える稲穂を献納したので、耕作には特別の配慮が払われた。
図のEの土地には昭和の初め頃まで松の大木が東側に四本、西側木徳町との境に五、六本並んでいたようです。昔はもっと多く、北側にもあって東・北・西の三方を囲んでいたと伝えられます。
  御供田は神に供える稲を作るために穢れをきらいました。 「金毘羅山名所図絵」には、御供田について次のように記します。
御供田 金刀比羅宮社領地と御供 金毘羅参詣名所図絵

御供田  高松太守御寄附五十石 六十三石
 御神田 三条村にあり。東西北の三おもては、なみまつにてかこめり。扨、田うゝるとて、地をかへすに、牛のくそましりなむことをいミて、しりに、ふごといふものをつけり。また並松には、しめ繩引はへて、年おひたるかきりの女をつとひてかく。よのつねのこやしをもちゆる事なく、象頭山の下草をかりて、こやしにかへ用ゆ。もとより秋さくのミにして、あたしものをうゆる事なし。

意訳変換しておくと

御供田  高松藩主(松平頼重)公の御寄附五十石 六十三石
御神田は、三条村にある。東西北の三面は、松並木に囲まれている。神に奉納する扨を収穫するために、田植えの時に、耕しするときにも、牛の糞が入ることを忌み、牛の尻に「ふご」をつける。また松並木には、しめ繩を引いて、年寄りの女を集めて田植えを行う。人糞や堆肥を使うことはなく、象頭山の下草を刈敷として肥やしにして用いる。もちろん一回だけの耕作で、二毛作は行わない。
雪の色を うはひて見ゆる 真しらかの おうなかうゝる みとしろの小田   青 野
守糸に題いろ糸や 御山の露の したゝりに 名物三八餅 苗田村ニアリ    碧 松
鐘の声 また幽かなり 春の旅  
ここからは次のような情報が読み取れます。
①穢れを嫌うために、代かき時の牛の尻には「ふご」をつける。
②堆肥は使わずに、象頭山から刈ってきた刈敷の芝草が使用された。
③田植えの日には周囲の松の木に注連縄を張り巡らし、近村からも老婆の参集を求めた。
④耕作は神に捧げる稲だけで、二毛作はしない

秋になると、収穫に先立ちよく稔った稲穂を一反に、一束ずつ集め、支配人が羽織袴に威儀を正して金毘羅宮へ奉献し、その後で社領地の米と同じ様にお山蔵へ納めました。お山蔵は善通寺街道に沿う地図上のM点にあったようです。
 現在の伊予勢周辺をGoogleマップで見ておきましょう。
御供田 金刀比羅宮社領地と御供2
丸亀市三条町伊予勢池 
伊予勢池と中池の東側に寺領と御供田が南北に並んでいたことになります。それは髙松藩と丸亀藩の境界でもありました。また、一帯は条里制跡が良く残っています。「三条」自体が、那珂郡の三条にあたります。三条は上図の東側のと西側の赤いラインに挟まれたエリアになります。条里制復元図を見ておきましょう。
三条の金刀比羅寺領 珂郡条里三条14里
那珂郡条里三条附近復元図
この復元図では19坪が、御供田だったことになります。そして伊予勢池の南側の実線には、余剰帯があります。余剰帯がともなう条里は、かつてそこが「大道」であったことが各地から報告されています。
この余剰帯を東にたった飯山の岸の上遺跡、西に辿った四国学院遺跡からも余剰帯が出てきています。これは東西に一直線につながります。このラインが古代の南海道だと近年の発掘調査は語るようになっています。

南海道 金倉川
那珂郡三条十四里が南海道
南海道 郡家
 郡家の古代寺院の宝幢寺跡の南を通過している南海道
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「丸亀の歴史散歩」237P
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 中世後半に丸亀平野の開発は進められますが、最後まで手がつけられず残されたのは土器川や金倉川の氾濫原でした。
二つの川の氾濫原は台風などの洪水の度に、水に流され湿地化していたことが想像できます。その開発に着手するのが生駒藩です。生駒藩は築城技術を民生の土木工事に転用し、霞堤防などの新技術を用いて、土器川・金倉川の流路変更をおこないつつ、コントロール下に置くことに成功します。こうして17世紀初頭に丸亀平野の両河川の氾濫原の開発が急速に進みます。その際に、生駒藩が取ったのが「入植者や開発した耕地は、入植者のものになる」という原則です。この結果、讃岐だけでなく他国からも氾濫原への入植者たちがやってきます。

芸予海賊木谷氏の多度津葛原への移住

金倉川沿いの葛原開発を行った木谷氏は、芸予諸島の村上水軍の出身だとされますが、秀吉の海賊禁止令を受けて早い時期に海賊稼業に見切りをつけて、多度津にやってきて開発定住者となっていきます。その際に、資金と一族の団結が大きな力となったことは以前にお話ししました。前置きが長くなりました。
 そういう目で土器川流域を見てみると、小谷氏と同じような他国からの有力開発者集団の痕跡が見えて来ます。今回はそれを「丸亀の歴史散歩」で追いかけてみようと思います。

丸亀の歴史散歩(直井武久) / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋
丸亀の歴史散歩 直井武久 昭和58年

 土器川の氾濫原を開いた開拓者一族として「丸亀の歴史散歩」が挙げるのが堀田氏です。
 県道4号(長尾線)とR11号が交差する西村の南東に堀田家本家はあります。

土器川下流 西村 上分 堀田家
                   明治39年測量図
土器川下流 西村 上分 堀田家2
土器川
下流の土地条件図 西村周辺に旧河道があることが分かります。
 江戸時代の初め、堀田英直は丸亀藩主山崎家に仕え農人町に住んでいたが、山崎家が絶家となったのでやむなく①土器の西村へ移り住んだ。そこで初代英直、二代忠直は、西村の荒れ地を開拓した。②直行の弟直道は、土器川の東を開き、本家から分かれて上分に住み為光安太夫と名乗り、③後に高松藩の大森家に仕え百十石の騎馬役となった。④本家四代目の弥三郎直美も牛窪家の騎馬役となった。五代目を弥三郎直俊といい、関口新心流兵法の居合免許を持ち、大森家の与力となっていた。
このころ著された進藤政量の讃岐廻遊記に「堀田家の庭は、その風景並びなく、庭に茶庭もあり……」と記されている通り、直俊は武術だけでなく風流もたしなんだ。遠心流生花伝授の資格を持ち、茶道にも造詣が深く、茶会をしばしば催し、挿花、床飾りにも通暁していた。
さらに敬神の念が厚く、④今日吉岡神社の参道入り口にある一対の常夜燈にその名が残っている。
 直俊は天保六年(1835)に亡くなった。その墓には次の辞世の歌がある。
  彼岸へ行そ楽しきさゝの舟 常無風の吹に任せて
ここからは堀田家の土器川開発について次のような情報が読み取れます。
①堀田家は,山崎藩断絶後に土器川左岸(西側)の土器町西村を拠点に開発に着手した
②その後、分家が右岸の土器町上分を開拓した。
③本家・分家ともに、髙松藩の有力家臣の騎馬役や与力を務めた。
④吉岡神社の参道入口の一対の常夜灯を寄進している
こうしてみると、堀田家が丸亀城内から西村にやってきて帰農したのは山崎藩断絶後のことで17世紀後半になるようです。その時点でも土器川両岸の西村や上分には氾濫原の原野が拡がっていたことになります。堀田家は、髙松藩の騎馬役に取り建てられることによって、家格を安定させています。
香川叢書第二(名著出版1972年)には「高松領郷中帯刀人別」には騎馬役として次のようなリストが挙げられています。

高松藩帯刀人 他所牢人。郷騎馬
高松領郷中帯刀人別 郷騎馬・他所牢人代々帯刀

郷騎馬は武士ではなく在郷の帯刀人です。注記を意訳しておくと、
(藩主の)年頭の御礼・御前立の間に並ぶことができる。扇子五本入りの箱がその前に置かれ、お目見えが許される。代官を召し連れる。
一 総領の子は親が仕えていれば、引き続いて帯刀を許す。
一 役職を離れた場合は、帯刀はできず百姓に戻る。
郷騎馬は、連枝や家老格に従う騎乗武士で、馬の飼育や訓練に適した村から選ばれたようです。役職を離れた場合には百姓に戻ると書いてあります。郷騎馬として出陣するためには、若党や草履取などの従者と、具足や馬具・鈴等の武装も調えなければなりません。相当な財力がないと務まらない役目です。また馬場などの広い土地も必要でした。開発後も、土器川周辺にはそのような原野が残っていたことが考えられます。ちなみに髙松藩の騎馬役は6名で、この時には堀田家の名前は見えません。

堀田家よりも少し上流の二子山の東側で開発を進めた
進藤家を見ていくことにします。

丸亀市二子山 明治39年

 双子山から土器川の間の氾濫原を開発したのが進藤家です。その墓地が土器川堤防の下にあります。ここは進藤家の江戸時代以降の墓で観音堂もあったようです。このあたりは土器町の南端にあたり、小字は樋渡です。
この墓地からさらに約300m北にも墓があります。この墓が、進藤家の初期のもののようです。進藤家の由来は次のように記します。
①京の近衛家に仕えていたが、近衛家の播州姫路や丹波へ亡命を守護し、土着
②その後、讃岐へ一族郎党36名で移ることになった
③姫路から土器川河口まで船でやってきて、河口からは小舟に乗り換え、川を遡って樋渡に着いた。
④36人とは武田、大西、河西、岩崎、上村、村上、高倉氏らをいう。
⑤ここに屋敷を構えた一族は荒れ地を開いたが、堤防がなかったので土器川の氾濫で屋敷や田畑はしばしば水害に見舞われた。
⑥先ほど見た初期の墓は、五代高信と六代高利のもので、高利は元和四年(1618)没
⑦それ以後の墓は水害の少ない南方へ移した。
ここからは次のような情報が読み取れます。
①近衛家護衛集団の一族と称しますが、集団で生駒藩の時代に国外からやってきた武士集団であったこと
②土器川河口が湊で、二子山辺りまでは川船が遡っていたこと
③荒れ地を拓いたときには堤防はなく、洪水のたびに舘や田畑がながされたこと
④一族の墓が土器川沿いに作られ、その後その前に堤防が作られたこと。
⑤初期の墓からは川西への入植が生駒藩時代だったこと
その後、進藤家は、享保20年(1735)から高松藩の庄屋や大庄屋並みの役を五代にわたって務めています。
最後に、寺院が開発の核となった丸亀南中学校周辺を見ておきましょう。

南中周辺
丸亀南中周辺 左が明治39年地理院発行 右が土地条件図 
このふたつの地図からは次のような情報が読み取れます。
①丸亀南中学校は、ふたつの池を埋めた上につくられていること
②馬池や宮池は、旧土器川跡に作られた溜池であること。
③南中の南には、原、大林(おおばえ)など、かつての原野を連想する地名が残ること
④原集落は微高地の上に立地し、その真ん中に東光寺があること。
まず東光寺について見ていくことにします。
 
この寺は天文年間に誓玄という僧が開基したとい伝えられます。その地点は、もともとは祚原の三本松(今の正面寺集落)で本光寺として建立されたのが始まりのようです。建立者について、寺の記録は「清水宗晴(長左衛門尉、後の宗洽)の次男釈清厳か讃州柿原郷に住居し本光寺を開基す」と記します。ここに登場する清水宗晴は、豊臣秀吉の備中高松城の水攻めの際に、清水宗治や兄の月清入道らを自刃させ、その代わりとして城兵を助け和議を結んだ人物のようです。その次男が開いたとします。つまり、武人出身者によって開かれた真宗寺院ということになります。
 祚原にあった本光寺は、元禄年間に寺の東に光り輝く霊光を見て現在の原に移され、名を東光寺と改めたとされます。現在丸亀南中学がある一帯について「丸亀の歴史散歩」は次のように記します。
この附近は、木や茅などの茂った未開の地で、今日地名として残っている郡家の原、大林、川西の原などは濯木の続く原野であったと思われる。その原野の一隅に東光寺ができてから人々が次第に姚まり聚落ができていったが、これは歴代住職の学徳に負うところが多い。

元禄年間(17世紀末に)に柞原から、原野の中の「原」に東光寺が移ってきて地域の開発センターの役割を果たすことになります。
七代住職了空は東光寺中興の高僧と慕われている。了空は児峰とも号し、仏典に精通していたので遠近を問わず教えを乞う仏弟子が多かった。また村民には農産業の知識技術を授け、希望する者には読み書きも教え、民衆から慈父の如く慕われた。  
 了空は安永七年(1778)80歳で没し、左の辞世の歌と詩を残している。
  ながき世の苦しき海は夢なれや 今宵は法の 舟にひかれて
  八十年来 何の為す所ぞ  すべて苦患に沈み 一事無し
  た’ゝ 今夜願船に乗るを喜ぶ しばしの間彼の地の蓮台に坐すべし
 七代住職了空のもとで、「農民に農作業の知識技術」を与えとありますが、原野の開発を進めたのもこの時期のことなのでしょう。つまり、南中一帯も元禄年果敢までは原野だった。それを開発したのが東光寺の了空と、その門徒集団だったと私は考えています。未開墾地の原や大林に、開墾拠点を移し、東光寺を中心に真宗門徒たちが団結し、周辺を開発していったことが見えて来ます。東光寺によって拓かれた南中周辺と云えそうです。
 幕末から明治の初めにかけて東光寺では、近隣の子弟に読み書きを教えていました。そのため、この塾が双山小学校になります。東光寺の双山小学校は、児童増加に対応して、春日神社の東の竜王へ移されたようです。

近世の土器川開発者

以上、堀田家と進藤家や東光寺による土器川氾濫原の開発について見てきました。共通しているのは近世になっても、土器川の氾濫原は放置されていたところが多かったと点を押さえておきます。そして江戸時代になって開発の手が入ります。その主体は、農民達ではなく有力な武士団が帰農して入植したり、寺院が開発センターの役割を果たしていることです。
古代からの丸亀平野開発の経緯をまとめておきます。
古代の丸亀平野は土器川や金倉川の作りだした扇状地で、その上をいくつもの川筋が「山田の大蛇」のように暴れていました。そのため古代人たちは、微高地に住居を建てて湧き出してくる湧水を水源として、限られた範囲を耕作していました。古代の丸亀平野は、照葉樹の森の中に切り開かれた耕地が展開するという光景だったようです。現在の全面水田が拡がる光景とはほど遠かったのです。発掘調査からは律令制の基盤となる条里制工事が行われたのは全体の3~4割程度で、半分は畑で、潅漑施設が整い水田化されていたのはその半分見も満たないとされています。
 それが大きく変化するのは中世になってからです。原因はよく分かりませんが地殻変動などで、それまでの河道が大きく変化し、固定化されるようになります。その結果、洪水危険範囲が狭まります。同時に、それまでの潅漑用水が使えなくなり、新たな用水開発が求められるようになります。それに対応したのが、中世の名主層です。また鎌倉時代に地頭や西遷御家人として讃岐にやってきた東国の武士団も治水潅漑工事を進めたことは以前にお話ししました。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献
直井武久 丸亀の歴史散歩  昭和58年 263P
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聖心女子大学の図書館のデシタルライブラリー「讃岐国地図」で、長尾氏の西長尾城周辺を見ていました。https://livedoor.blogcms.jp/blog/tono202/article/edit?id=33654434

長尾・城山 綾歌三山
讃岐国地図 西長尾城(まんのう町)周辺
右(西側)を流れているのが土器川です。土器川の東側の打越池から綾歌(青山)三山と呼ばれる城山・猫山・大高見峰が東に伸びていきます。城山は、長尾氏が山城を築き、その後に長宗我部元親によって大規模改築された山城遺構が残っています。ところが、この絵地図で城山を探しても見つからないのです。もう少し、拡大して見ます。デジタルアーカイブは、自由自在に拡大ができて便利で重宝しています。
城山は権現山
             讃岐国地図 城山はなく、あるのはオカダ 大権現」
①城山があるべき所には、「オカタ(岡田)大権現」とあります。大権現とは、修験者(山伏)たちが開山した霊山で、周辺には行場が拓かれることが多いことは以前にお話ししました。②は、今も猫山です。③は今は大高見峰ですが、この時の表記は「大高山(おおたかぼうさん)」です。地元では、この山のことを今でも「たかんぼさん」と親しみを込めて呼んでいます。もともとは「大高坊山」だったことがうかがえます。そうすると、この山も「大高坊」という修験者(山伏)と祀る権現山だった可能性があります。この地図でもうひとつ押さえておきたいのは、②の猫山と③の大高坊山の間に黒い実線が通っています。これが鵜足郡と阿野郡の郡境線になります。現在も、丸亀市と綾川町の境界となっています。

綾歌三山 猫山 高見峰2 
              綾歌三山(城山 猫山 大高見峰)
 大高見峰の頂上直下には、今も高見坊神社(権現)が鎮座しています。

高見峰神社6
             大高見(坊)神社(権現)
その拝殿にお祀りされているのは・・

高見峰神社8
               天狗信仰の大高見(坊)神社 
ここには天狗の面や絵馬・額など天狗に関するものが数多く奉納されています。天狗信仰のメッカであることが分かります。途中の登山道には天狗岩もあります。

大高見山前の天狗岩
大高見(坊)神社の登山道にある天狗岩
ここも天狗になろうとして修行を重ねた修験者たちの行場のひとつでしょう。城山から大高見峰は、修験者たちの行場エリアであったと私は考えています。それは、郡境の山脈によって阿讃山脈の龍王山や大滝山、そして大川山などの霊山に続いていたのでしょう。

高見峰神社5
            坂出・綾歌方面に展望が開ける大高見(坊)神社
高見峰の綾歌側からの登山口が勝福寺になります。

勝福寺からの大高見峰
               勝福寺から見える大高見峰

しょう高見峰登山口 

この登山口の入口には、次のような説明版が立てられています。
高見峰と天狗伝説

ここには次のように記されています。
①山岳修験者の霊場となり、その統率者の大高見坊の名前が山の名前になった
②ここは讃岐四大天狗伝説の聖地(白峯相模坊・象頭山金毘羅の金剛坊・五剣山中将坊)
③修験行者ルートが、大鉢山や竜王・大滝山へ伸びていた。
また福成寺(まんのう町)に残る天狗に関する古文書には、次のように記されているようです。
天文十三年(1544)年3月18日の六代住職が勤行の妨害をしたとして、天狗の腕を切り落とした
この背景には、16世紀初頭の永世の錯乱以後、阿波三好氏が土器川沿い讃岐に進出し、長尾氏など讃岐の国衆を配下に置くようになります。その後を、三好氏の保護を受けた美馬の安楽寺も、阿讃山脈を越えて浄土真宗興正寺派の教線ラインを土器川沿いに北上させることは以前にお話ししました。その結果、まんのう町の各地に真宗の道場が開かれます。その流れの中で、真言系修験者の中にも浄土真宗に改宗する者が現れます。浄土真宗に改宗した僧侶に対して、妨害活動を行った修験者に対して「天狗の腕を切った」として記録に残ったことが考えられます。
 大高見峰に天狗信仰の権現さんが、どのようにして現れたのかを簡単に推察しておきたいと思います。
① 古代 霊山大川山信仰と、遙拝所としての山林寺院中寺廃寺の登場  
② 中世 中寺廃寺の退転と、それに代わる金剛寺の登場 → 霊山大川山の遙拝所
③ 鎌倉 末法思想の聖地として経塚群と、坊集落「金剛院」の形成
綾歌三山の修験者の活動を考える時に、大きな意味を持つのが金剛寺(まんのう町長炭)です。
この説明板には次のように記されています。


金剛寺は平安末期から鎌倉時代にかけて繁栄した寺院で、金剛院金華山黎寺と称していたといわれている。楼門前の石造十三重塔は、上の三層が欠けているが、 鎌倉時代後期に建立されたもの。寺の後ろの小山は金華山と呼ばれており、各所に経塚が営まれていて山全体が経塚だったと思われる。部落の仏縁地名(金剛院地区)や経塚の状態からみて、 当寺は修験道に関係の深い聖地であったと考えられる。経塚とは、経典を長く後世に伝えるために地中に埋めて塚を築いたもの。 

金剛院集落 坊集落
         金剛院集落に残る宗教的用語(四国の道説明版)
坊集落金光院の仏縁地名 満濃町史1205P
金剛院周辺の仏縁地名(満濃町史1205p)
これを見ると丸亀平野からの峠には、「法師越」「阿弥陀越」があります。また、仏教的用語が地名に残っていることが分かります。そして各戸がそれぞれ①から⑧まで「坊名」を持っています。ここからはこの地が修験者たちによって拓かれた坊集落であることがうかがえます。

坊集落金光院の性格

金剛院では鎌倉時代中期頃には、写経し経典を奉納する経塚が作られ続けています。彼らは、写経するだけでなく行場でも修行も行いました。その行場が綾歌三山であったと私は考えています。

④ 綾歌三山の行場化と聖地化 多くの修験者の活動 
⑤ 室町 天狗信仰の拠点地化と、長尾氏の保護 → 金剛院と長尾氏の結びつき
⑥ 近世初期 天狗信仰による金毘羅信仰の隆盛 → 周辺の修験者の天狗行者化

大川山 金剛院
金剛院集落 後ろの山が経塚
金剛院を拠点に活動する修験者たちを保護していたのが長尾氏と私は考えています。
長尾氏の山城である長尾城は、背後の猫山や大高見峰が修験者たちの行場であり、霊場であったことになります。
西長尾城概念図3
長尾氏の西長尾城の背後の峰が修験者の行場となっている。

長宗我部元親は修験者たちを、メッセンジャーとしても情報収集者としても活用しています。天霧城を拠点とする香川氏は、弥谷寺を菩提寺として、修験者たちを取り込んでいました。長尾氏も金光院の修験者たちを配下において、三好氏との情報のやりとりおこなった可能性があります。彼らの活動ルートは、大滝山や龍王山へと伸びていたのは先ほど見たとおりです。その向こうは阿波です。

鷹丸山(たかまるやま)387.2mからの城山
長尾の鷹丸山から望む城山 左手は象頭山、その奥が善通寺五岳
 長宗我部元親の侵入から生駒氏の来讃までに、長尾氏は没落していきます。長尾氏の生き残り戦略として、浄土真宗の道場の主人となり、寺院の住職として勢力を温存するという方法が取られたことは以前にお話ししました。
 それでは天狗信仰を持つ真言系修験者たちは、どのようにして生き残ったのでしょうか。ひとつは金比羅行者となって、全国に金比羅信仰を拡げるために散っていったことが考えられます。もうひとつの道として、滝宮牛頭天王社(別当・龍燈寺)の社僧として、牛頭天王のお札を配ったのではないかと私は考えています。滝宮牛頭天王社は、周辺の村々からいくつもの念仏踊りが奉納されていました。それは坂出の阿野北平野や、飯山の坂本念仏踊り、多度津の賀茂念仏踊り、那珂郡南部一帯の七箇村念仏踊りなです。滝宮に来れた野踊りが奉納されるということは、これらの地域を信仰圏に置いていたことになります。それは午頭天皇のお札を配る、そしてその奉納金を集めるという形で行われていました。つまり、ミニ伊勢御師のような存在が必要でした。それをつとめていたのが社僧(修験者)でした。そのため滝宮周辺のお堂や神社には、多くの修験者たちがいたことが推測できます。そして、修験者には、行場が必ず必要です。行を行わないと高い験は得られないのです。滝宮牛頭天王社などの修験者たちが行場としていたのが綾歌三山の霊山ではないかと私は考えています。

綾歌三山の権現開山と行場化(仮説)

 想像がふくらみすぎたようです。最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
聖心女子大学の図書館のデシタルライブラリー「讃岐国地図」https://livedoor.blogcms.jp/blog/tono202/article/edit?id=33654434
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木地師については以前に次のようにお話ししました。

木地師5
木地師 左上が、親王が考案した(?)綱引きろくろ

木地師

全国にの山野に展開する木地師たちは、次のような「朱雀天皇の綸旨」を持っていました。

承平5年(935年)の日付のある朱雀天皇の綸旨 (石井眞之助旧蔵)
         承平5年(935年)の日付のある朱雀天皇の綸旨 (石井眞之助旧蔵)

ここには次のように記されています。
近江州愛智郡小椋庄筒井轆轤師職頭之事
称四品小野宮製作被職相
勤之所神妙之由候也専為
器質之統領諸国令山入旨
西者櫓櫂立程東者駒蹄之
通程被免許訖者
天気所候也仍執達如件
承平五年十一月九日 左大丞 
     器杢助
意訳変換しておくと
近江国愛智郡小椋庄の筒井の轆轤(ろくろ=木地)師の特権について
木工製作にあたって神妙に職務に励んでいる。ついてはもっぱら器質の統領として、諸国の山々に山入できる特権について、西は櫓櫂の立つほど、東は駒蹄の通うまでの範囲について免許を与える。天皇のお考えはここに示した通りである」
承平五年十一月九日 左大丞 
     器杢助
文末の「天気所候也仍執達如件(天皇のお考えはここに示した通り)」は綸旨の常套句で、承平年間の天皇、すなわち朱雀天皇の綸旨であることを示しています。これによって木地師は全国の山に入る許可を天皇から受けたとされました。こうして、江戸時代に入ると全国の木地師達は、次のどちらかの神社の氏子として登録されることになります。
A 神祗官の白川家擁する君ガ畑村(東近江市君ヶ畑町)の大皇太神(鏡寺)
B 神祗官の吉田家擁する蛭谷村の筒井八幡(帰雲庵)(東近江市蛭谷町)
両社は、それぞれ自分たちを木地師の氏神と称し、競って自社の氏子に登録していくようになります。これを「氏子狩」と呼んだようです。こうして総代代理と称する勧進僧が近江からやってきて寄進を募るようになります。これが「氏子駆」で、その時に作られた「勧進帳」が両社に数多く残されることになります。これを見ると幕末には、木地師は全国に7000戸ほどいたことが分かります。そして木地師の多くが小椋姓を名乗りました。

木地屋の家 歴第60図 祖谷山絵巻
         木地師の家  祖谷山絵巻

寛政九(1797)年の近江国筒井八幡宮の氏子(氏子狩り)文書の中に、讃岐の氏子達が次のように記されています。
 讃州大内郡与田山村
一、一匁二分 御初穂  庄蔵
一、二分 氏子   同人
一、一匁 氏子(狩)かり  同人
一、二匁     御初穂   長左衛門
一、八分     氏子かり   同人
一、三匁二分一、  御初穂 市郎左衛門
一 八分     氏子駆  同人
ここからは大内郡与田山村には3軒の木地師たちが住んでいたこと、彼らが近江からやって来た勧進僧に初穂料(入会金:登録料)や氏子狩(駆)の代金を支払っていたことが分かります。与田山村は東かがわ市の水主神社の南で、阿波との県境付近の山村です。そこには小椋という姓の家があります。
 与田山の小椋家は木地師文書を持っていませんが、白鳥町五名下の小椋家には朱雀天皇の綸旨があります。五名下の小椋家については木地師文書に次の記述があります。
一、二匁  御初穂   喜八郎
一 六分   氏子駆 同人
一、二匁 御初穂 彦左衛門
一、一匁   氏子狩  同人
ここからは、五名にも2軒の木地師たちがいたことが分かります。彼らは、木地を挽くために樹木を求めて阿波の山村から讃岐の地に入って来たと研究者は考えています。氏子狩り(木地師の冥加金集め)のために阿波にやって来た近江の筒井八幡の神人が、讃岐の地にも木地師が住むのを知って納金を求めてこの地にやって来たことが考えられます。

木を求めて移動する木地師

 与田山の木地師は、どの家が本家なのかはよくわからないようです。しかし、小倉家では裏の畑に屋敷神として金神さんを祀っていて、戦前までは祭りの日に社前に幟を立てていたと云います。屋敷神のある、この家が本家のようです。未開のこの地に入って来て、木地を挽くかたわらに焼畑耕作などを行っていたのが、やがて定住して農業を営むようになったことがうかがえます。
 五名の小椋さんの裏山には、高良玉埀明神という謎多き神が屋敷神として祀られています。
高良玉垂明神は、小椋さんの祖先の神と伝えられます。もともと、高良玉垂明神というのは武具の神であるとされています。鎧や兜の製造に木地師の技術を必要とするところがあったのかもしれません。九月十五日が高良玉重明神の祭りで、昔は一族の者が寄り集まっていたとそうです。

 木地師たちが大事に持っていた「承平5年(935)の朱雀天皇綸旨」には「西者櫓櫂立程、東者駒蹄之通程」(東は船の行けるところまで、西は馬の行けるところまで)諸国の山に入る権利を持つ」と書かれてありました。それはやってきた社僧(山伏)たちが木地師に文書の写しを販売したものです。これについて研究者は「明白な偽作文書」と断定してきました。しかし、木地師の集団がこうした文書の写しを大切に保管し、代々伝えて来たことは事実です。そこには「貴種の子孫」というプライドもあったかも知れません。さらに「実際的な効能」もあったかもしれません。その効力が薄れていくのが江戸時代末期です。この時期が来ると、ほとんどの林野は村の村林や御林として藩有林に取り込まれていきます。そのため木地師が自由に使用できる所は少なくなっていきます。そして、村々の住民との相論が各地で起きるようになります。

水主神社領
                熊野信仰が色濃い与田寺と水主神社
水主神社(讃岐国名勝図会)2
                 水主神社 讃岐国名勝図会
どちらにしても大内郡の水主神社や与田寺は、神仏習合時代には大きな力を持っていた宗教勢力でした。その経済力を背景とした仏像や神像が水主神社には、今に伝えられています。

P1120208水主神社 狛犬
狛犬 水主神社


P1120165 水主神社 女神像2
女神像 水主神社

P1120169水主神社 女神4
                   女神像 水主神社
その背景には、与田山などの木地師などの職人たちの存在があったことが見えて来ます。同時に、阿波との深いつながりがうかがえます。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
香川県史14巻民俗編73P 大川郡白鳥町福栄地区 
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水主神社による熊野信仰の髙松平野へ伸張

髙松平野とその丘陵部の東西の植田町には、熊野神社が数多く分布すること、その背景として、中世に屋島寺や大内郡の水主神社の熊野行者の活発な活動があったことを以前にお話ししました。熊野行者の痕跡は、香川県史14巻民俗編第8節「髙松市東植田地区」461Pに「熊野信仰の道」として報告されています。この中には、熊野信仰の道と「平家落人の道」・「義経がきた道」が重なりあっていることが指摘されています。今回は、これを見ていくことにします。
 髙松平野から塩江に至るルートには、次のような熊野信仰の痕跡が残されていることを以前にお話ししました。
①松縄町の熊野神社(熊野大社別当・熊野湛増の子孫の建立)
②元山町の熊野神社(元山権現) 大熊氏(熊野湛増の子孫)の建立
③十川西町佐古の熊野神社(吉田神社と同居)
④ヒジリ(聖)の墓  熊野神社をつなぐ街道沿いには、修験者の痕跡
⑤トンボ越 修験者の聖地
⑥城池 植田美濃神の戸田城 山伏池と祠
⑦戸田城の守護神宝(熊野)権現           
⑧菅沢町の熊野三所権現
⑨塩江の熊野権現
「松縄 → 植田 → 菅沢→ 塩江」までは熊野行者の活動拠点が点々と続きます。これに県史14巻に載せられている平家落人伝説を重ねていきます。
まず②の「かまとこ寺蔵」からみていくことにします。 
 春日川の上流、神村(こうのむら)には、かまとこ地蔵が祀られてある。
平家の落人がここまで逃げてくると馬の足音がする。 追手が来た、とまだ火を入れていない炭焼窯にかくれたところ、源氏の兵たちはその炭焼窯を土でふたをしてしてしまった。それから後、さまざまの怪異が起きたので、源氏でもない平家でもない地元の人たちは炭焼窯の床に地蔵を祀った。窯の床に祀られた地蔵のそばに、桜の古木が植えられてある。
炭焼き窯に隠れた兵への落人を供養して地元の人たちが、その窯の床に寺蔵を祀ったというお話しです。続いて大石には「平家ばあさんの木」の話が伝わります。ここには姫君と乳母の塚があり、木を切るとたたりがあるとされます。桜切る馬鹿梅切らぬ馬鹿、こんなことわざとともに、平家ばあさんの木を切ることを諫めています。
黒岩神社 植田町
黒岩神社 髙松市西植田町
黒岩では平家の宝刀が埋められていると伝えられます。祈願を黒岩神社にこめたところ、病が治ったのでお礼に剣を埋めたと云います。
落人ではありませんが祇王(ぎおう)祇女が隠れ住んだという下谷も近くにあります。 妓王は「平家物語」に登場する白拍子のことで、ふたりとも 平清盛に寵愛されますが、仏御前に寵愛が移ると冷遇され、屈辱から自害を決するが母に止められ出家します。そして二人を追って仏御前もやってきたというのです。そして、それが次のような地名になっていきます。
①仏を背負って越えた峠が仏坂
②祇王たちが住んだ近くの山は祇王山
③これら迷いの多い女たちが煩悩を解脱したのが生枯(はえがらし)
④「もえ出るも枯れるも同じ野辺の草いずれか秋にあわれはつべき」と彼岸に達したところの地名が生枯
こんなストーリーを語るのは、行者や聖が得意とするところでした。全国を廻国して仕入れた情報や話題が「還元」されていきます。
 平家の女人伝説はさらに、綾上町前山に続きます。この周辺には姫塚伝説が各所に残ります。
都が見えるところ、すなわち海が見える高地へ葬られた塚とされます。さらに琴南町雨島にも姫塚があります。姫塚は、どこも屋島から逃れてきた足弱な姫君がみまかったところとされます。今は、山桜の古木が枝を広げています。景色の良い山の上に石組みの塚が造られていたことがうかがえます。それが姫塚として、平家落人伝説に結びつけられていきます。
 しかし、民俗学者は「姫塚」の別の用途を次のように述べます。

卯月八日の「山遊び」は山の神を迎えるため
山の神を迎えに、人々は春の山に登って、積善のために石を積んだ。

「春山入り仰山遊び仰国見」「花見」や「磯遊び仰川遊び」などの中に「石塔(塚)」もあったようです。讃岐山脈の雪が消え、春の芽吹きの頃、山桜の咲く頃に、豊作祈願や国見を兼ねて見晴らしの良い山に登ります。そこで積善のために石が積まれたのです。以前にお話ししたように、中寺廃寺のCゾーン(祈り)の石組みも、春の「山遊び」の際に積まれた石組み(塚)と研究者は考えています。讃岐の景色のいい山の頂上近くや川原にも、このような塚が積まれたことがうかがえます。それが後世になって用途が分からなくと、修験者が落人伝説と結びつけて「姫塚」と呼ぶようになったと私は考えています。
中寺廃寺Cゾーン 石組み
中寺廃寺Cゾーンの石組み(まんのう町) これが姫塚とされた?

 屋島から矢が飛んできたという岩、平家の落人と地元の兵たちが戦った弓取橋など、名もない塚などはすべて落人の塚として今に伝わっています。

大滝山 龍王山から大川 讃岐国図2
                  江戸時代初期の讃岐国絵図 
山田郡の下司 → 塩江 → 貝の脵川 → 堂床 → 雨島 → 横畑というルートが見えてくる
   美合村(まんのう町)横畑集落の宮本家に伝わる平家落人伝説について、香川県史14巻民俗編540Pは、次のように記します。
屋島の源平合戦に敗れた平久盛以下数十人の集団は海上へ逃がれることができずに、屋島の津から山へ山へと入りこんだ。春日川沿いを上流へ上流へとさかのぼる。途中、①高松市西植田町あたりに、馬切りだとか平家落人の塚というのが点在する。さらに川沿いの道は谷に入りこむ。炭焼窯に身を隠して果てた落人を祀ったと言う②かまとこ地蔵、③平家乳母の塚、落人ゆかりの伝説がいくつか語り残されている。春日川上流の峰を越えると香川郡香川町、さらに山道は綾歌郡綾上町仲多度郡琴南町へと一直線上にけもの道が隠されている。 
ここからは横畑への落人の道は、次の2つのルートがあったようです。
A 塩江町から貝股川沿いに、浅木原を越えて、横畑へ入りこんだルート
B 綾上町柏原から西谷川沿いに郡境を越えて、まんのう町の雨鳥の郡境尾根から浅木原→横畑というルート
大滝山 龍王山から大川 讃岐国図

そしてこれらのルート途中には、次のような落人伝説があるようです。
雨島に平家落人の塚
前の川に四方塚
長谷に、体の弱った兵たちがはぜの木にまけたという地名由来
雨島峠4
           綾川方面からの美合への入口となった雨島峠

こうしてみると、どちらのルートにも落人伝説が散在しています。これは、熊野行者や高野聖などの修験者が、このエリアを行場や霞として通ってきていたからだではないでしょうか。それが横畑の宮本家に残る平家落人伝説につながることは以前にお話ししました。

雨島峠の寺蔵
雨島峠に建つ「二界万霊」地蔵
 香川県史14巻468Pには、通説のルートとは違うもうひとつの「義経が来た道」紹介されています。それは吉野川をさかのぼり、まんのう町勝浦を越えて来たというルートです。それを最後に見ておきましょう。
 勝浦(かつうら)とは縁起のよい地名だと勇みたった義経軍は、通る道が二つ分かれた、右するか左するか、ええい、真ん中を通るべしと野原の中央を通る。中通(なかと)と現在呼ばれる地点である。流れの激しい渕では馬を休める、渕の石には義経の馬のあとが岩にきざまれる。駒が淵を通り、物見の兵が山へあがる。雨島の遠見山である。平家姫君の塚がある山である。日が暮れて道がよくわからないので、松明に火を点じたところ、牛の尾に火がついて山の木立が燃えはじめた。このあかりで峠を越える。これが焼尾峠、琴南町から綾上町へ抜ける峠道である。
 
 山が燃えたので雨が降り出した。しぼり谷でぬれた衣をしぼったものの兵たちに生気がない。そこで義経は牛の子堂に祈願をこめる。「勝利に導きたまえ。我にお力添えをいただけるのなら、あかしを見せ給えと。そのとき山上から赤い子牛が下りてきて、先へ先へと歩いてゆく。木が茂り曲がりくねったところも牛に続いて歩けば道は開ける。曲木(もじき)・開(ひらき)と呼ばれるところ。萩戸から菖蒲を通り、四歩市、九十谷へ来たとは、いつの間にか牛が九〇匹となり、千疋へ来たときは牛が千匹にもなっていた。矢坪で矢の用意をし、牛の角松明をつけて屋島へと向かった。義経弁慶石のあるあたりは柴折り神さんとなり、柴を折って手向ける。
 東谷には、義経の馬の病気を治したという神職の話も残されている。
これらの話も、大川神社の別当を務めていた山伏たちが祭りや庚申講の時に夜を徹して話したことが伝わったものでないかと私は考えています。「平家落人伝説の影には、山伏あり!」です。
 最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
 
香川県史14巻民俗編第8節「髙松市東植田地区」461Pに「熊野信仰の道」
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香川県史14巻民俗編の東植田町についての聞取調査報告を読みながら、現地を訪れていろいろ考えたことをまとめています。今回は、東植田町の下司廃寺跡と近くの大泉神社の湧水をみながらボケーと考えたことを書いておきます。「現場でボッケーと考える妄想シリーズ」です。時間と興味のある方はお付き合いください。
まずは髙松南部の丘陵地帯を見ていくことにします。
 東植田町はゆるやかな丘陵地帯が続きます。背後の讃岐山脈の連なりからすれば、ほんのわずかなふくらみにしか見えません。こうした丘陵地帯に降った雨は、多くの枝分かれした谷を通って、高松平野に流れ出して行きます。川と言っても短く、雨を集める流域面積もたいしたことはないので、ふだんはほとんど水が流れなかったでしょう。その一方で、大雨が降ると土砂を含んだ雨水が急激に流れ出し、平地部の川の天井川化や洪水を引き起こすことがしばしばありました。
 地面にしみ込んだ雨水の一部は地中にもぐり、地層の切れ目から湧き水として出てきます。それは多くはありませんが、コンスタントに湧出します。丘陵南端に見られる「垂水(湧水)」は、この地下水の出口です。
そのひとつである東植田町の下司の大泉神社の湧水を見ておきましょう。
 
東植田町 下司廃寺2

地形図で見ると、郷や下司の南側にはいくつの小さな尾根が南北に走り、その両側に小さな谷が開かれています。その谷を流れるいくつもの川は、北で朝倉川に流れ込み、西へと流れて稗田で春日川に合流し、髙松平野に流れ出していきます。朝倉川と高様川の合流点が下司になります。

東植田町 下司廃寺
髙松市東植田町下司周辺の土地利用図
ここでは、下司・郷・杣尾・高柿は、周囲からの小さな川がいくつも流れ込む小盆地地形にあることを押さえておきます。これらの谷川の水に頼れば、春日川などの洪水の被害を受けずに、稲作が出来るので早くから開発が行われたようです。
 下司には、 弥生時代後期から古墳時代にかけての遺跡が多く、下司廃寺の塔跡も残っています。

髙松市植田町清光神社2
下司廃寺跡近くの湧水
この塔跡は春日川の支流朝倉川の南岸段丘上にあり、古代の山田郡植田郷条里二条二里八坪に位置します。方約10m、高さ2mの塔基壇が残り、樟の大木の下に塔礎石が5個ほど顔をのぞかせています。

髙松市東植田町 下司廃寺の白鳳時代の軒丸瓦
その周囲には多量の古瓦片が散らばっていて、白鳳期後半の「川原寺式の退化型式の複弁八葉軒丸瓦」も出土しています。また、塔基壇北部で採集された四国唯一の三尊像嬉仏破片は、白鳳期特有のもので、飛鳥の弘福寺の荘厳にも使用されているものです。ここからは下司廃寺建立にあたり、瓦製作や堂宇建設の様々な支援や情報を中央の貴族から直接的に得ることのできた氏族がいたことがうかがえます。想像を膨らませるなら、中央貴族との強い結びつきをアピールするために「讃岐の川原寺」としての荘厳が行われたのかもしれません。どちらにしても渡来系の氏族でしょう。そしてちかくには、この氏寺を建立した氏族の居館もあったはずです。古代の下司は、この周辺の支配・文化センターであったことになります。
下司廃寺跡2
下司廃寺塔跡 塔楚石らしき石が5ケある
私は、下司廃寺の西にある「大泉神社の湧水」周辺が豪族の舘があった所ではないかと想像しています。
大泉神社の湧水
大泉神社の湧水(東植田町下司)
今は蓋をされて見ることも出来な小さな湧水(出水)です。しかし、もともとの名前は「大泉神社」です。聖なる泉が湧きだし、そこが聖地とされ神社が建立されて、信仰対象となっていたことがうかがえます。地形から考えても、そんなに多くの水量が湧き出ていたとは思えません。しかし、水に乏しい丘陵部では、わずかでも水が湧き出していれば、人々の関心を引くには十分です。少量でもコンスタントな湧き水があることは、有利な条件です。ここに「水の神」を祀り、この湧水(泉)を源に舘が構えられていたという想像です。
DSC05364
琴平町榎井の春日神社の本殿横の出水 神聖な場所として信仰されてきた
DSC05362
今も澄んだ水が湧き出してくる榎井の春日神社の湧水
古代の人達にとって、泉(湧水)とは、どんなものであったのかを見ておきましょう。

泉信仰が鏡信仰へスライド移行した    
古代の泉への信仰は、鏡への信仰にスライとしたと民俗学者たちは考えています。
神話に登場する泉の3つのタイプ
神話には以上のような3つのタイプの泉が登場します。泉は信仰対象でした。そこでは、聖なる儀式や神事が行われるのも林の中の泉でした。このような湧水(泉)は、宗教的の信仰対象であったことは以前にお話ししました。
 泉や井戸や川が祭祀遺跡として見られるようになったことを研究史で押さえておきます。
1976年に、奈良盆地の纏向遺跡の報告書「纏向」が出されます。その中の「三輪山麓の祭祀の系譜」で、湧水に達するまで掘られた土墳から 容器・農具・ 機織 具 ・焼米・水鳥形木製品・ 舟形木製品・稲籾などが出土し、その湧水の隣には建物を伴う祭祀が行われていたことが分かってきました。これを「火と水のまつり」として「纏向型祭祀」とします。
 文献史学の立場からは、風土記や日本書紀などに描かれた「 井 」や「井水」の祭儀の重要性が指摘されるようになります。そして水神信仰の例が「延喜式」などからも説かれるようになり、さらに「風土記』に記されてた井泉とかかわる地名起源伝承から、地域首長が井水に対する祭祀を行う風習が各地にあったことも明らかにされます。
水の祭礼 滋賀県の服部遺跡の導水施設の構造図

滋賀県の野洲川下流域の弥生中期の下鈎遺跡からは、泉(湧水)からの祭礼場所までの導水施設が出てきました。水の祭礼が行われた聖なる場所です。

下鈎遺跡の導水施設下鈎遺跡の導水施設イラスト
弥生中期の下鈎遺跡
弥生中期の下鈎遺跡では、泉(井戸)から祭礼の行われる覆屋まで聖なる水を導いています。土坑には覆屋が被せられ、近くには祭祀用の掘立柱建物もあります。これが「水の祭礼」現場の祖型と研究者は考えています。ここでどんな「水の祭礼」が行われていたかを復元図で見ておきましょう。

水の祭礼 下鈎遺跡の導水施設での祀り(想像図)
下鈎遺跡の復元図 (https://mizunosaishi.yayoiken.jp/w-d-matsuri.html 
導水施設とそれを覆い隠す覆い屋、(左上)
祭祀を執り行ったと考えられる掘立柱建物(右上)
その間に広がる「広場」
それら全体を区画溝で区切るなどの祭祀遺構が揃っています。また、導水施設周辺には何も遺物はなく、区画溝には多量の土器・炭化物、焼けた土が入れられています。これらの事実より、ある程度の祀りの様相が見えますが、祭祀の主体は分かりません。」

服部遺跡の導水施設服部遺跡の導水施設
古墳時代早期の水の祭礼
                
鈎遺跡の導水施設状遺構イラスト

 古墳中期の下鈎遺跡の「水の祭礼」
水祭礼 奈良県かしはら考古学研究所博物館の想像模型
水の祭礼 

この時期になると、浄水部に当たる土坑に祭祀具を捧げる儀式が行われるようになりました。そばには独立した土坑もあります。祭祀用の建物も建てられていました。木槽はなく土坑ですが、多くの玉製品が入れられており「水辺の祭祀」の場となっています。そして「聖なる水」を得る導水施設から「水辺の祭祀」に変わったようです。独立棟持柱建物の大型祭殿と、その前面にある井戸の組み合わせは、「特別な水」を用いる首長の祭祀遺構に発展したと研究者は考えています。

ここで行われた儀式について、研究者は次のように記します。
この儀礼は渡来人と首長を含めた少人数で、夜間に執行された、水を用いた秘儀であった可能性が高い。閉鎖的な空間はそれを象徴していよう。また、供物として肉、塩、果物、水などが土器や木製容器などに盛られ、机の上にならべられた。量が多いので、適宜入れ替えられた可能性がある。上記アイテムのうち、モモ、ヒョウタン、ウマ、壷などは水を連想させる。建物の外側には盾や蓋を立てかけ、内部は要所を石製品などで飾ったと考えられる。参加者は竪櫛や勾玉などを身につけ、刀剣を帯び、下駄を履き、従者にさしばや蓋を翳させて、椅子もしくは木樋脇の板に着座したと考えられる。
 飾りつけが終わり、一同が揃うと、木製品を使って農耕、機織り、戦い、音楽などの情景を、場面を入れ替えながら演者が水を用いて象徴的に演じたと考えらる。なお、儀礼終了後、それらの木製品は刃物で斬りつけられ、火をつけてから、ダムか木樋周辺に投棄した可能性がある。その他の遺物も、順次水に投棄されたようだ。ところで、この施設は、一見したところ恒久的な性格を帯びているように見えるが、1回しか使われなかった火きり臼の存在などは、短期間しか使われなかった可能性も残す。
青柳泰介 2010「ヤマト王権と水のマツリ」安土城考古博物館」
  そして「水の祭祀」について、研究者は次のように考えています。

常に湧きあ ふれ出る井泉の水の生命力・ 永遠性は、首長権の象徴にもなり、井水は首長権 の継承儀礼にも欠かせないものであるとともに、 地域首長にとって国の物代ともいえる聖水を大王に体敵する行為は大王への服属の証として 重要な儀礼となっていった

湧水点祭礼 城の越遺跡4
城之越遺跡(三重県上野市) 湧水近くに建てられた豪族の舘

古墳時代の首長居館跡とされる城之越遺跡の調査報告書には、次のように記します。
①湧水に隣接してあった大型建物は、首長居館・居宅遺構であったこと
②湧水点祭祀の主宰者が地域首長層であったこと
③湧水点祭祀が古墳時代首長の実施する祭祀の中でも最も重要度の高いものであったこと
 この遺跡だけでなく井泉と大型建物がセットで出土している遺跡は各地にあり、その建物形式も共通していることが指摘されます。ここからは首長層の間に湧水点祭祀について、なんらかの全国統一マニュアルがあったことが想定できます。これが飛鳥の「水の遺跡群」に、成長・発展していくと研究者は考えているようです。

湧水点祭礼 飛鳥
    用明天皇の水の祭礼遺跡(奈良明日香)
下司の大泉神社の泉は、このような祭礼儀式の場として相応しいと私には思えてくるのです。そういう目で周りを見回していると、このあたりの風景も飛鳥の丘陵地帯とよく似ているように思えます。髙松平野の春日川などの龍のように暴れる大河をコントロールできない古代の支配者が撰んだ生活基盤は、下司のような場所だったのではないかと思えてくるのです。 「現場に立って妄想するシリーズ」でした。最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
導水施設と水の祭礼 https://mizunosaishi.yayoiken.jp/w-rekishi.html
青柳泰介「ヤマト王権と水のマツリ」安土城考古博物館」
香川県史14巻民俗編 東植田町

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金光院歴代院主
歴代の金毘羅大権現金光院の院主
第9代金光院別当の宥存は、明和8年(1771)に金堂建立を思い立ちます。
そこで丸亀の金毘羅屋敷の佐野久太夫に「金堂再建趣意書」を刊行させています。この趣意書には、次のように記します。
 一讃州金毘羅象頭山の儀ハ御存じの通り諸堂相揃い居り申し候処、就中、金堂殊の外小さク御座候二付き、大堂二御再興成られたくの旨承知仕り候、此の儀ハ高札の通り是まで諸勧進何方えも申し出ず候間、此の差障り二少しも相成らざる義二候、勝手次第為るべき旨御聞き届け相済み候、これに依り同士の面々申し談じ新た二講組を立てられ、別紙絵図の通り桁行き拾間五尺八寸、梁行八間壱尺弐寸、柱高サ四間弐尺二造り立て仕りたく候へ共、過分の義故講中迄自カユ及び難く候二付き、当卯ノ冬より未ノ歳迄五ヶ年の開二成就仕りたき念願二御座候、左の通りの銘の寄進物世話所と相極め候間、
  御志の御方ハ多少に限らず御寄付成さるべく候、金子百匹以上の物の土地え掛け札に記して置き申し候、以上以
   明和八辛卯年初冬吉日      
惣請込 讃州丸亀 八筝 久太夫
講元  讃州丸亀 津作地又右衛門
講元  讃州丸亀 藤四田 為之丞
講元  讃州大浜 辻与左右衛門
意訳変換しておくと
一 讃州金毘羅象頭山については、ご存じの通り諸堂が整備されていますが、ただ金堂だけは、ことのほか小規模です。つきましては、これを大堂に再興することを承知願えないでしょうか。許可いただければ来年には高札を掲げて、世間への通知をおこなう予定です。その際には、藩の差障りにならないようにします。金毘羅が勝手次第に行う事ですので、聞き届けいただければご迷惑はおかけしません。
 同士の者達で協議した所、二講組を立て、別紙絵図の通り桁行き拾間五尺八寸、梁行八間壱尺弐寸、柱高サ四間弐尺の金堂を建立する計画です。過分のことですので、当冬より5ヶ年の開講し、成就させる念願です。左の通りの寄進物と世話所を定めます。つきましては、御志の御方は多少に関わらず御寄付いただけるようお願いします。金子百匹以上の物の土地え掛け札に記して置き申し候、以上以
要約すると次のようになります。
①金毘羅は緒堂が整備されているが、金堂が小さいので大きく再建したい
②そのために金堂建立場所を選定し、建立通知の高札を掲げたい。
③予定規模は、桁行 拾間五尺八寸、梁行 八間壱尺弐寸、柱高 四間弐尺 の超大型であること
④資金は5年間の寄進講
しかし、これは金毘羅を直撃した大水害や疫病流行、また宥存の病気のために建立計画は延期・頓挫していまいます。
象頭山金毘羅大権現 金堂改築前
金堂再建前の薬師堂は、小さかった
宥存の没後に、金堂再建に乗り出すのが宥昌です。
文化3年(1806)、金光院別当宥昌は、先代別当の宥存の意志を継いで、薬師堂を廃して金堂建立の願書を提出します。宥昌は、実務を金毘羅の酒屋の秦半左衛門と多田屋香川治兵衛に当たらせ、金堂建立のための講を組織させます。しかし、宥昌は翌年5月2日に没します。金堂再建は遺言のような形で残ります。
代わって院主となった宥彦の代になって 金堂再建のために講は開かれますが、なかなか軌道に乗らなかったようです。彼の死後の文化9(1812)年の11月になって施主が決まり、普請小屋の場所の見分が行われています。その翌年1813年に、起工式を執り行うまでにこぎつけています。以後、建築用材などが順調に集まり始めます。各地で講が組織され奉納金も着実に増加します。しかし、入仏がおこなわれたのは弘化2(1845)年のことになります。約30年余におよぶ大プロジェクトで、その間に費やされた人数と金銭は膨大なものでした。この資金をどのようにして集めたのでしょうか。
 それがうかがえる史料を見ておきましょう。

「金毘羅山 金堂御用 槻荒木材直段積」
「金毘羅山 金堂御用 槻荒木材直段積」酒井家文書
阿波の酒井家に残る「金毘羅山 金堂御用 槻荒木材直段積」と題する摺り物は、募金集めの宣伝ビラで次のようなことが分かります。
① 末尾の「癸酉五月」とあるので、文化十(1813)年5月に発行されたものです。これは建立が本格始動した翌年にあたります。
② 発行者の「引請世話人中」とは、金堂の建築用材を調達した大坂の西村屋愛助らのこと
③  冒頭の「金毘羅山 金堂御用 槻荒木材直段積」は金堂建築使用の柱等木材の値段で以下の通り
④ 「本柱」長さ四間半、断面一尺八寸四方 代金三十五両
⑤ 「外柱」長さ三間  断面一尺六寸四方 代金 十二両




⑥「虹梁」長さ二間  幅二尺 厚さ一寸二 代金  十両
⑦ 隅搉    代金 二十両
⑧ 間搉    代金  三両

斗栱 枡形

⑨ 本枡形 (斗栱) 代金五両
⑩ 小枡形  代金三両八分

旭社 正面 唐扉
旭社の唐扉
⑪ 唐扉  代金二十両

旭社の銅瓦調査1
旭社銅瓦の調査

⑫ 銅瓦 代金銀三匁
この広告には、必要な部材を一つ一つ書き上げ、その金額が示されています。ここに挙げられているのは、目立つ部材のみが挙げられているようです。この広告を見た人たちは、どのくらいの金銭で、どこの部材が調えられるか、具体的な感触を得て、こんな風に思ったはずです。
「35両で大黒柱一本か、金刀比さんの本堂に自分の寄進した大黒柱が使われるというのは、有難いこと」と考え、金堂が自分の寄進で成就する姿を思い浮かべ、寄進に応じようとする富裕層も出てきたはずです。詳しい数値、目立つ部材という仕掛けを通して、寄進者の気持ちをその気になせる巧みな戦略です。どちらにしても、数多くの人達の寄進によって旭社が出来上がったことが感じられます。

  広告には、続いて「右に書き上げたほか(建立に必要な)品数が多くあるので、お志にまかせて御寄進ください。もっとも、御当山(金光院)から諸勧進の人は差し出しません」と記されています。つまり、引請世話人たちは、金光院からの援助とは別に、こうした摺り物を独自に作成して、木材購入に必要な金銭を集めたようです。
 こうした広告の成果を見ておきましょう。
天保三(1832)年には摂津国池田(大阪府池田市)の神酒講から本柱に必要な35両が奉納されています(『金毘羅庶民信仰資料集年表篇』金刀比羅宮社務所、 1988年)。本柱の35両とは、広告の摺物に書いてあった金額と一致します。摂津国は、引請世話人の西村屋の地元です。この広告が摂津国で流布して、それに応じた人達がいたことがうかがえます。その10年後の天保13(1834)年には西村屋が金堂用材の橡105本を秋田から廻送しています。

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         金刀比羅宮旭社(旧金堂)の柱に掘られた江戸の寄進者の名前

旭社正面の柱に彫られた江戸の寄進者の名前。先ほど見た広告によると「外柱(長さ三間・断面一尺六寸四方は、代金十二両」でした。その12両をこれらの人達で分割し寄進したことが考えられます。

 この摺り物は徳島県の酒井家に伝わったもので、今は徳島県立文書館蔵に酒井家文書として保管されています。
酒井家は、阿波国半田村(美馬郡つるぎ町)で運送業を営んだ町人で屋号は堺屋です。この摺り物を収集したのは、五代目武助のようです。武助は天保六年に亡くなり、金堂が完成した弘化二(1845)年には、六代目弥蔵が当主になっていました。金毘羅信者が多かった阿波国は、新浜(徳島市)の善蔵が金堂願主になっているので、金堂建設資金の募集拠点のひとつでもあったことがうかがえます。徳島繁栄講の講元である後藤民之助が360両を、また講中が畳料三貫五百目を寄進しています。

金毘羅参詣名所図会 旭社・二天門・観音堂
弘化二(1845)年に完成した金堂(旭社) 金毘羅参詣名所図会(1848年)

金堂寄進帖〜讃岐国
金毘羅大権現金堂への寄進名簿 丸亀や三豊の人々の名前が見える
こちらの寄進一覧には丸亀と三豊の人達の名前が並んでいます。奉納額は10両~20両です。名前を見ると丸亀の船頭中(船頭仲間)や福島湊の福島町の講も見えます。

金堂寄進帖〜武蔵国
武蔵国からの寄進帳

弘化二(1845)年、金毘羅では金堂入仏を祝して、2月から5月まで3ヶ月間に渡って開帳が行われました。
その間、堺屋(酒井)弥蔵は半田村から何度も金毘羅に参詣し、その模様を「弘化二年乙巳春中旅日記」(酒井家文書83)に次のように書き残しています。
2月1日
金堂御入仏の奉納物が内町から練り上るということで、おやま(遊女)たちが色々に持 え、三味線や太鼓で囃し練り歩いたのを面白く見物し、それから参詣をした
2月8日
参詣し、翌日の入仏式の当日には「参詣会式の事は中々筆に言われず、ここに略す」
3月11日 芝居見物
3月26日
内町南裏手からの出火に遭遇し、「金山寺町の小芝居が焼失、大芝居は無事であった、さてさて騒がしいこと」
4月7日 参詣
4月22日 母を伴い参詣。翌日に軽業見物
このように、弥蔵は足繁く阿波から金昆羅に足を運んでいます。おそらく自分や父親が寄進をした金堂が立派に成就したのを目の当たりにして、感無量だったのかもしれません。あるいは馴染みの芸子がいたのかもしれません。母に芝居や軽業も見せています。どちらにしても阿波の檀那衆を惹きつけるだけの娯楽と魅力が金比羅にはあったということでしょう。阿讃の峠を越えて、足繁く通っています。そういう意味では、金比羅は信仰の町であると同時に、歓楽・娯楽の町としての魅力にも溢れる街になっていたようです。巨大な金堂は、金毘羅の「集客モニュメント」としても機能していくことになります。

旭社正面 神社明細帳附図
完成した金毘羅大権現の金堂

以上を整理しておきます。
①初代髙松藩主松平頼重の保護を受けて、元禄期には金毘羅大権現の境内の整備は進んだ。
②18世紀後半になり、金比羅船を利用した参拝客が増えるに従って、さらなる集客力アップのための建造物モニュメントの必要性が出てきた。
③そこで1771年に、金堂建設計画を発表するが、数々の障害で着手には至らなかった。
④本格的な動きが開始されるのは1812年になってからで、講組織による全国的な資金集めが行われた。
⑤そこでは、金堂の建設資材の柱に値段を付けて寄進を募るという方法が採用された。
⑥こうして全国からの寄進で購入された柱には、寄進者の氏名が彫り込まれている。
⑦こうした幅広い寄進を行う事で、2万両という資金を40年掛かりで集め、金堂は完成した。

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旭社の「総六材木」 寄進者の名前が彫り込まれている
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

金刀比羅宮 旭社 氏子神饌【旭社→御本宮 編】
金刀比羅宮 旭社(旧金堂)

参考文献 徳島県酒井家文書にみる金刀比羅宮金堂建立の寄進  ことひら74
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前回は、水主神社による熊野信仰の髙松平野へ伸張について次のように整理しました。

水主神社による熊野信仰の髙松平野へ伸張

 髙松市松縄町の熊野神社が、髙松平野における水主神社の熊野行者たちの記念碑的なモニュメントになったことを前回は見ました。この神社の出現を契機に、熊野権現(神社)が周辺に姿を現すことになります。それを今回は追ってみたいと思います。テキストは「髙松市東植田地区 古道」香川県史14巻450Pです。まず、松縄神社の東にある元山の熊野神社を見ていくことにします。

髙松市元山の熊野神社
髙松市元山町の熊野神社
元山町の元山(熊野)神社について、香川県史14巻463Pには、次のように記します。 
ここは①熊野のお札を配っていたころの拠点だった伝えられる。この社の近くに②大熊氏の城があった。大熊氏も(熊野別当の)湛増の子孫であることはすでに述べたとおりである。
 この大熊備後守清助、どうしたことか男子に恵まれなかった。嗣子がないとは残念なりと、紀州熊野に祈願をこめた。「何卒、男子を授け給え」と祈念した。その霊験あらたかに男子を授かった③清助は、神恩報謝のためと熊野の分霊をお受けし、元山郷の氏神として奉祀した。境内には百間馬場があったと言う。また、近くには二王田というところがあるが、かっての仁王門の跡だと言い、熊野神社の西のあたりには社僧も住んでいた。
 備後守清助の一子が善兵衛。これが熊野権現の申し子で、体躯偉大にして武芸に秀でたと「木田郡誌」にある。とにかく、尋常な人ではなかったと伝えられている。大熊亀田池戸を領した大熊氏は、十河氏の麾下として鳴らした。琴電長尾線の元山駅あたりにかっての大熊はあったと言う。熊野のお札を配っていたとか、そのお陰をいただいたという小社は意外に多い。神仏分離のとき、名称は変更されながら「権現堂」などの地名は今に残されている。元山権現からさらに東植田よりに権現堂というバス停がある。新道がついてむかしの権現堂からは離れているものの、地名はそのままである。
ここに書いてあることを整理すると次のようになります。
①元山の熊野神社は、熊野札の配布所であった。
②湛増の子孫と称する大熊氏が勧進建立し、元山郷の郷社となった。
③大熊氏は、大熊・亀田・池戸を領地として、十河氏の配下にあった武将である。
ここでは元山の熊野神社が大熊氏の氏寺として建立されたこと、熊野札の配布所になっていたことを押さえておきます。
次に、十川西町佐古にある吉田神社と同居している熊野神社を見ていくことにします。

髙松市 吉田神社(合祀熊野神社)
髙松市十川西町佐古にある吉田神社(合祀:熊野神社)
 農作物の虫封じの神である吉田神社の社殿が大きく、熊野大権現のお堂は小さくなってしまった。地元の人たちは、「片間貸して本間とられた権現さん」と言っている。後からやってきた吉田さんに片間を貸したところ、だんだん大きくなり、今では吉田神社の方を信仰する人が多くなったのである。鳥居や玉などはかっての大庄屋が寄進している。
 旧街道沿いの権現堂は、道路拡張によりだんだん敷地が狭くなってしまった。なお、近くには東林山光清寺があり、四つ辻には疣(いぼ)を取ってくれるという薬師堂がある。薬師堂のわき水をくんで岩を洗い、疣を洗うと落ちると言い、むかしから多くの人が参詣した。これらは比較的人々の往来が盛んな街道に位置するが、香地池を越え東植田町に入りこむと人通りはまばらになる。わずかに阿波越えをした旅人たちが通ったであろう山道が細々と続いている。(香川県史14巻464P)
この南には十河氏が拠点とした十河城跡があり、そのテリトリー内になります。十河氏は阿波三好氏の一存が養子として入り、東讃へ支配浸透の拠点となった所です。戦国時代末期には、軍事的な緊張関係のまっただ中にありました。

熊野神社をつなぐ街道沿いには、修験者の痕跡が残っています。それを県史14巻465Pは次のように記します。

 その十字路のほとりにヒジリ(聖)ゴという塚があった。ヒジリの墓というだけで一人の墓なのか、幾人もの人を葬ったものかさだかではない。ここも道路改修のため塚は別の地点へ移転した。石を三つばかり重ねたと、手洗石めいたものが仙尾の墓場に移されている。ヒジリゴのそばには、妙見屋敷というたんぼが残されているが、この地へ妙見さんを祀るはずであったという。だから、この地を不浄にすると障りがあると、聖なる地として取り扱っている。

ここには聖(修験者・高野聖)たちの墓(塚)があったと伝えられています。また妙見屋敷と呼ばれる田んぼからは妙見信仰を持った修験者が住む坊やお堂があったことがうかがえます。さらに次のように記します。

髙松市公渕池 とんぼ坂
 この聖郷の前を行くととんぼ越えとなる。この坂道は多くの①験者(ゲンジャ)が通った道でもあった。②ゲンジャというのは少々風体の違った山伏も拝み屋も、山で修業する人たちも言い表わしたようである。カマド祓いや牛屋はらいなどの風体の異なる人も含まれていた。③石鎚参りの集団も多く通行した道で、④お山(修行)をして帰る行者があると、子供たちはその前へ横たわってまたいでもらった。夏痛みせず元気になるというので、子供たちはこぞって三尺道へ横になっていた。このように験者が越える道には、目のぎょろりとした恐ろしいトンボがいたとも言う。眼光光々とした験者を指したものか、恐ろしい山伏くずれの者が通行人を脅かしていたものか。里人たちにとっては恐怖の道であった。平家の残党が人々を襲っていたのを奥美濃の旧家の力持ちが退治したという話もある。とんぼ越えの恐ろしいものを退治した刀を蜻蛉切りの名刀とした。とんぼ越えは現在も町境となっている。
公渕池と三つ子池に挟まれたトンボ坂あたりには、いろいろな修験者が通っていたようです。④のお山で修行して験(げん=パワーポイント)を高めた修験者は、いろいろな効能をもっています。そのために、子ども達は、道に並んで寝て跨いで貰っていたようです。それが「夏痛み」への効能と信じられていました。
定住した修験者(里山伏)の活動は?

公渕池から双子山、出貝丘と山道をさらに進むとある城(じょう)池については、次のように記します。
植田氏の戸田城跡
         
植田氏の戸田城 守護神は熊野三所権現を勧進したもの

城池には、かって植田美濃守がよった戸田城があった。岡の城とも呼ばれている。城の内堀のような形で残されたのが①山伏池である。そのほとりに②山伏の塚がひっそりと祀られ、植田美濃守の子孫たち数名が現在もお祀りしている。③山伏の御神体を近くで拝んでみると、まるで生首のように目があり鼻がある。鼻が張ったふしぎな石の御神体である。(県史14巻466P)

 岡の城跡の後方には、④戸田城の守護神宝権現が祀られてある。戦勝を祈願した社で、祭神は伊弉諾命、速玉男命、事解男命、菅沢町の熊野三所権現の分霊を受けたものである。正式名称は宝神社であるが、地元では昔のままに権現さんと呼んでいる。祭りの日のも宝大権現と染めぬかれてある。秋の大祭は特別な行事はないが、毎年の大晦日にお火焚き祭りが行われている。

ここからは次のような情報が読み取れます。
①植田氏の戸田城(岡の城)は、残った堀が山伏池と呼ばれていること。
②その池の畔に山伏の塚があり、植田氏の子孫がまつられていること。
③同時に山伏が御神体としてまつられていること。
ここからは植田氏の一族の中にも、入道と呼ばれ熊野信者や天狗信者として活躍していた人物がいたことがうかがえます。
④戸田城の宝権現(神社)は、菅沢町の熊野三所権現の分霊で、もともとは植田氏が勧進した熊野権現であったこと
この地域の中世武士団が熊野信者となって、居館や城の近くに熊野神社を勧進していたことが見えて来ます。同時に、熊野行者などの修験者の痕跡が濃厚にうかがえます。

村に現れた聖たち

④の菅沢の熊野神社について香川県史14巻470Pには次のように記します。

菅沢の熊野神社1
菅沢氏の勧進した熊野神社(髙松市菅沢町)
東植田と菅沢は、高松市に合併するまでは同じ町に属していた。菅沢町の産土神として宮谷に熊野神社が祀られてある。熊野神社は、菅沢甚兵衛という人が600年も昔に紀州熊野からお迎えして祀りはじめたものと言う。その時に一緒に持って帰った赤樫の木が境内で大木に育っている。
 この菅沢氏の先祖は、十河存久の次男存常が別家して、菅沢へ住むようになったのが初めと言う。 二六代目の菅沢官兵衛義長は、仙石秀久の配下に属し、生駒家に仕えて360石を賜わる。さらに、二七代の菅沢甚兵衛義は、生駒家の弓師範として家禄をつぐ。寛永十五年には高俊公より100石を加増されたとある。この甚兵衛が、紀州から熊野神社の分霊を受けてきたことになる。
熊野神社の境内には耳塚がある。
菅沢の熊野神社 耳塚
耳塚
これは菅沢内膳義景が秀吉の下知により十河存保、仙石権兵衛ともども九州へ出陣し、戸次川の戦いであえなく討死してしまう。義景の体の一部をその子義長が持ち帰って葬ったものと言う。こうして名門十河家も亡んでしまう。松平頼重公入封に伴い、菅沢を熊野姓に改めて松平公に仕える。寛文八年のことと(菅沢熊野家記録)記されてある。
熊野の分霊をお受けして帰ったという由緒により、現在も菅沢熊野氏をカンヌシと呼んで秋の祭礼を行う。ミタマウツシのとき、チョウノザに座るのはカンヌシと呼ばれる熊野氏、そして神職、宮代と並んで神事を行う。祭神は、伊弉諾尊、速玉男命、事解男命で熊野権現と呼ぶ。社宝には菅沢義が生駒高俊公から拝領したとという馬具があった。
ここからは次のような情報が読み取れます。
①菅沢は、十河氏の分家であること
②後に生駒家の弓師範になり、紀州から熊野神社の分霊を勧進したこと
③境内の耳塚は、先祖が十河氏に従って秀吉の九州征伐に遠征時に討ち死にしたものを持ち帰ったもの
④菅沢氏は、髙松松平氏に仕えるときに熊野姓にあらためたこと。

菅沢の熊野神社から、さらに南に向かうと塩江の不動の滝の入口にも熊野神社が鎮座します。

塩江の熊野権現社
この神社の由緒について香川県史14巻471Pには、次のように記します。

むかし、松平の殿さんが馬に乗ったまま熊野神社の前を通ると、馬が暴れ困ったと言う。この熊野神社の由来は、源頼光の子孫が祀り始めたものとも言う。頼光の子孫は、松原氏とも赤松氏とも伝えられている。不動の滝にある蔵王権現を祀りはじめたのは平宗盛なのだ、とも伝わっている。平家の落人だった平宗盛自身が祀られたところだとも言い、蔵王権現が好んだという桜の古木も共に残されている。蔵王権現は熊野神社となり、現在も丁寧な祭礼が行なわれている。熊野のひじりたちが行き交ったであろう古道には、屋島おさめた源氏の話、敗北を喫した平家の伝説が草の実のようにこぼれ落ちている。

ここからは次のような情報が読み取れます。
①塩江の熊野神社の建立者は源頼光の子孫である松原氏や赤松氏とされる。
②熊野神社はもともとは蔵王権現であり、蔵王権現信仰から熊野信仰に取り替えられた気配がある。
こうしてみると、髙松平野から塩江にかけては熊野行者たちの活発な動きが見えて来ます。
前回とまとめて整理し、推察しておきます
①髙松平野への熊野信仰の浸透は、東讃の水主神社や屋島寺の熊野行者たちによって進められた。
②熊野行者たちは髙松平野の武士団に熊野詣でを進め、彼らを熊野に誘引した。
③熊野参拝で熊野信仰を高めた武士たちは、熊野三社を氏神として勧進する者が現れた。
④植田町や塩江周辺部には、多くの熊野権現が武士・熊野行者たちによって勧進された。
⑤その周辺には、熊野行者や修験者・聖たちが住み着き、修行やお札配布・芸能活動も行った。
⑥修験者たちは武装化し、僧兵的な役割を担って居館や山城周辺に住み着いていたことも考えられる。
⑦このような修験者集団を配下に置いた水主神社や屋島寺は、宗教的にだけでなく、政治・軍事的にも大きな力を持つことになった。
以上です。最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「髙松市東植田地区 古道」香川県史14巻450P
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髙松平野南部の神社分布図を見ていると、熊野神社が多いことに気がつきます。

髙松市十郷町の熊野神社
髙松平野南部の十河町周辺の熊野神社
熊野系の神社は「熊野神社」と呼ばれる以外にも「十二所権現、三所権現、若一王子権現、王子権現」などとも呼ばれます。その祭神の多くは伊邪那岐命、速玉男命、事解男命の三神です。それらを考慮しながら髙松周辺の熊野系神社(『香川県神社誌』)を一覧表化したのが次の表です。

讃岐の熊野神社3
          高松市周辺の熊野神社一覧
ここからも植田町から塩江などに、熊野神社が数多く点在していることが分かります。
どうして、髙松平野の南部には熊野神社が多いのでしょうか?

髙松平野の武士団による熊野神社の勧進

上皇や公家たちの間での流行であった熊野信仰が、地方の地頭クラスの武士たちに拡がっていったのは12世紀初頭の承久の乱以後とされています。そして、讃岐で熊野詣でが活発に行われるようになるのは14世紀以後のことです。こうして熊野から勧進された熊野系神社が讃岐にも姿を見せるようになります。その勧進で大きな役割を果たすのは、次の2者です
A 増吽のような熊野行者たち
B 熊野詣でを行い信仰心を高めた武士団の棟梁たち
以上を予備知識として、髙松市東植田町周辺の熊野系神社は、建立に関してどのような由来を持っているのか、具体的にはどんな人によって建立されたと伝わるのかを見ていくことにします。テキストは「髙松市東植田地区 古道」香川県史14巻450Pです。

熊野参拝システム

髙松市南部の熊野神社の教勢拡大の拠点とされるのが松縄の熊野神社のようです。

髙松市松縄の熊野神社2 
髙松市松縄の熊野神社
その説明版を見ておきましょう。
髙松市松縄の熊野神社 
 髙松市松縄の熊野神社説明版 
ここには次のように記されています。
「祭神:伊弉冊尊・事解男命・速玉男命元久・
承元年間(1204~1210)紀州の熊野清光が三木郡田中村から山田郡の十河村、それより松縄村に移住した。そこで、熊野神社の神霊を勧請して社殿を新宮・本宮・那智三社を三所に造営した。そのため三所権現と称した。大正六年(1917)に合祀して一社とした。文明年中(1469~1487)に宮脇越中守長定が再建し祭田を寄進した。その後、元亀・天正の戦乱によって社殿もこわれたのを、元和元年(1615)生駒家三代正俊が社殿を再興し社領三石を与えた。この熊野神社のある丘の周辺が松縄城跡と推測され、代々宮脇氏が居城した。宮脇氏は紀伊熊野の海賊を率いて活躍した新宮別当湛増の子孫とも伝えられ鬼無の佐料城に居城する香西氏に属していた。戦国時代末期には、宮脇長門守又兵衛が、信長・秀吉に仕え、軍功をたてたという。高松市教育委員会。」
ここからは次のような情報が読み取れます。
①紀州の熊野清光(熊野別当湛増の子)が、移転を重ねながらここに熊野神社を造営したこと
②当初は新宮・本宮・那智三社あったので三所権現と呼ばれた
③香西氏に従っていた宮脇氏(熊野清光の子孫)が、衰退していたものを居城の松縄城周辺に再建した
建立者の熊野清光は、熊野別当の湛増(たんぞう)の子とされます。しかし、①②③からは、清光の子孫を名のる宮脇氏が、湛増・清光の創建伝説に自分たちの再建を「接木」したものに思えます。
 また、清光が松縄にやって来たとしても承久の乱以後で、それは13世紀初頭のこととされます。そうすると熊野神社の勧進もその前後になります。これは、熊野行者による全国展開よりも百年以上早いことになります。これも、この伝承をそのままは信じられない理由のひとつです。
ウキには湛増について次のように記します。
元暦2年(1185年)、源義経によって①平氏追討使に任命された熊野別当湛増は、200余艘の軍船に乗った②熊野水軍勢2000人を率いて平氏と戦い、③源氏方として屋島の壇ノ浦の戦いに参加し、河野水軍・三浦水軍らとともに、平氏方の阿波水軍や松浦水軍などと戦い、源氏の勝利に貢献した。これらの功績により、文治2年(1186年)、熊野別当知行の上総国畔蒜庄地頭職を源頼朝から改めて認められた。
ここからは湛増が「熊野信仰の責任者 + 熊野水軍指導者 + 源氏方に協力」した宗教者であり、水軍などの軍事指導者であったことが分かります。その子・清光が讃岐にやってきて勧進したのが松縄の熊野神社とされます。

武蔵坊弁慶と熊野別当湛増と闘鶏の像 - Picture of Tokei Shrine, Tanabe - Tripadvisor
弁慶の父ともされる湛増
 さらに伝説では、湛増は義経に仕えた弁慶の父とされていました。そうだとすると清光と弁慶は兄弟関係だったことになります。かつては「弁慶の兄弟清光が建立した松縄の熊野神社」として人々には伝えられていたのです。由来に登場させる人物としては申し分ありません。

熊野信仰の讃岐への浸透

湛増と松縄の熊野神社の関係を、香川県史14巻462Pには、聞き取り調査報告として次のように記します。

(湛増の子清光は)野原荘、太田荘などの領地を得て住みついた。そして、松縄に熊野三所大権現を勧請し、紀州熊野から本宮・那智・新宮の三社神をお迎えした。かつては宮西の二つの丘にそれぞれ別々にお祀りされ、祭りの日も新宮が八月十三日、本宮九月十五日、那智九月十七日であり、たかばたけの宮、いかきの宮と呼ばれていた。大正の初めに寄せ宮となり、現在の地に祀られるようになった。鳥居の神額は「熊埜三所「宮」となっている。御手洗の井戸水は現在も飲料水となっているとか。長い年月の間にさまざまの浮き沈みがあったが、この松縄に熊野神社を勧請したのは熊野清光なのである。松縄道と呼ばれる松並木の道は、改修によりかっての面影は半減したが、今なお昔の繁栄がしのばれる。
この地にしっかりと根をおろした①熊野湛増、清光の子孫は、宮脇、大熊両家へ引継がれてゆく。②湛増の子孫は、松縄城に住み、越中守長定、兵庫頭と続く。兵庫頭の娘は、勝賀城主香西伊賀守清の片腕と言われた植松備後守に嫁いだ。香西伊賀守は讃岐の中世の武将のなかで悲運をかった盲目の城主なのだが、この香西氏は先見の明があり、瀬戸内海という航路に早くから目をつけ、国内は言うに及ばず、遠く南方にまで貿易の手をのばしていたと伝えられる。
系譜の偽作方法は、史料や記憶で遡れるとことまで遡ったら、あとはかつて実在した名家の家譜に「接ぎ木」することであることは以前にお話ししました。ここでも①②の熊野別当の湛増や、その子清光に、宮脇家や大熊家の家譜が接ぎ木されていることがうかがえます。それを近世の戦記物が取り上げ、広まっていきます。
  松縄の熊野権現(神社)の創建は、先ほど見た説明版の「文明年中(1469~1487)に宮脇越中守長定が再建し祭田を寄進した。」の「再建」を「創建」とした方が妥当だと私は考えています。つまり、15世紀後半に宮脇氏によって建立されたという説です。そうだとすると宮脇氏の熊野信仰の先達(熊野行者)はどこにいたのでしょうか? 周囲を見回してみると、眼に入るのは屋島寺です。

以前に
屋島寺に残る熊野権現の痕跡を次のようにまとめました。 
屋島寺に残る熊野信仰痕跡
特に応永14(1407)年の「行政坊有慶吐那売券」には「八島(屋島)高松寺の引 高松の一族」とあり、屋島寺周辺に熊野先達が「髙松の一族」を熊野詣でに先達したことが分かります。屋島寺は、京都の律宗西大寺の影響下にもありましたが、坊主の中には熊野信仰を持つものもいたはずです。ひょうとしたらここに出てくる「行政坊有慶」が、宮脇氏の一族の者を率いて熊野詣で行っていたかもしれません。ここでは松縄周辺の熊野神社は、屋島寺を拠点として活動する熊野行者たちによって建立されたものではないかという説を出しておきます。それは時期的には大内郡の与田寺で増吽が活躍していた頃です。
 屋島寺の髙松平野南部への影響力を示す伝承がありますので見ておきましょう。
香川県史14巻民俗編479Pは、次のように記します。
(東植田町の)杣尾は、屋島寺を建てる木材を供給したところなので、杣尾・寺峰の名がついた。もともと屋島寺はこの地へ建てる予定であった。堂池へは本堂を建て、寺峰へは鐘撞堂を建立するつもりでキズクリを始めた。高柿にあった大柿の木を切り倒して材としていた。昼も夜もとんかんとキズクリをする音がやかましいと言う人が、樵夫たちを追っぱらってしまった。すると、音がぴたりと止み、夜のうちに屋島寺建立の木材は消えうせてしまった。一夜のうちに、木を運んで行ったものがあるのだ。しかし、あまりにもあわてていたのか縁の板を一枚途中で落としてしまう。 だれが運んで行ったかと問えば、天狗だとも狸だとも言う。狸は山王さんに棲んでおりなかなかの知恵者であった。屋島山へ木材を運んで行った山王さんのは、そのまま屋島寺へ棲みついてしまう。これが、現在の屋島狸太三郎狸はげ狸の先祖だと言う。 なお、キヅクリの音がやかましいと追い立てた男は、金槌を盗み出していたとも言い、一夜のうちに木を運び出したものに「七代出生ささんぞ」と言い渡されてしまった。 鐘撞堂を建てる手はずになっていた寺峰へは、田の中に塚が一つ残されている。屋島寺の緑の板は途中で落としてしまったので現在も不足のままだと伝えられている。本堂を建てる予定地の堂池は、葦などが生い茂ったままになっていたが、から池なので埋め立てられてしまった。
だれが運んで行ったかと問えば、天狗だとも狸だとも言う。狸は山王さんに棲んでおりなかなかの知恵者であった。屋島山へ木材を運んで行った山王さんのは、そのまま屋島寺へ棲みついてしまう。これが、現在の屋島狸太三郎狸はげ狸の先祖だと言う。
なお、キヅクリの音がやかましいと追い立てた男は、金槌を盗み出していたとも言い、一夜のうちに木を運び出したものに「七代出生ささんぞ」と言い渡されてしまった。
鐘撞堂を建てる手はずになっていた寺峰へは、田の中に塚が一つ残されている。屋島寺の緑の板は途中で落としてしまったので現在も不足のままだと伝えられている。本堂を建てる予定地の堂池は、葦などが生い茂ったままになっていたが、から池なので埋め立てられてしまった。

ここには、杣尾は屋島寺への木材供給地だったとします。とすると杣尾周辺は、屋島寺の寺領か管理地で、木材の切り出しができた所ということになります。杣尾周辺に屋島寺の影響力が伸びてきていたことがうかがえます。それに対して、妨害・対立する勢力があったようです。そのため天狗が一晩で、切り倒した木材を屋島寺に運んでしまったというのです。これも屋島寺の飛鉢伝説と同じで、修験者たちの「創作話」によく出てくる話です。修験者たちの拠点であった屋島寺の当時の性格を表しているとも云えます。
さて、杣尾のすぐ南には松縄の熊野権現を勧進した清光を祀る祠があります。

髙松市植田町清光神社2

髙松市東植田町下司には、古代の下司(げし)廃寺塔跡があります。発掘調査はされていませんが、この塔跡は、比較的よく残しています。高松市文化財保護協会1992年『高松の文化財』は、次のように記します。
塔跡基壇は高さ約2メートル、大きな楠の樹間に祠(ほこら)が置かれ、礎石数個が露出し、古瓦破片が散乱している。境内地並びに堂宇の全容は不詳であるが、周辺の地名(東の丁・中の丁・西の丁など)があり、相当広い寺域にわたっていたことが推定され、この地が宗教的に開けていたことを物語っている。

髙松市東植田町 下司廃寺の白鳳時代の軒丸瓦

昭和38年道路工事の際に出土した軒丸瓦(復葉蓮華紋)には、蓮9個、八葉複弁蓮華紋で周囲に波紋があります。他に布目瓦も出土しているので奈良期白鳳時代の古い寺とわかります。古代から開けたエリアで、有力豪族がいたことがうかがえます。
 また下司という用語は、中世の荘園の荘官のことで、後には「役所のこと」として使用されました。この附近には、中の丁、東の丁、西の丁という地名が残っていて、条里制の条と考えられ、四方に水利を引いていたようで、その取水点に荘園の下司(役所)が置かれていたことが考えられます。古代寺院跡から中世荘園の荘官跡へのつながりがたどれます。下司廃寺の境内に含まれる中の街道沿いに清光神社という小祠があります。
髙松市東植田町下司 清光神社
熊野清光を祀る清光神社(髙松市東植田町下司)
これが松縄の熊野神社を勧進した清光を祀る祠です。

髙松市植田町清光神社3
清光神社の釈迦如来と薬師如来
祠には、石造りの釈迦如来と薬師如来が祀られてあり、椋の巨木の根の下には布目瓦が幾枚もくみ敷かれています。どうして、清光を祀ったかについては、次のような話が香川県史14巻462Pに載せられています。
 平野部を行く南海道に対して山間部を行く脇街道としてにぎわった下司から、とんぼを峰越え三木町三つ子池へののぼり坂となる。三つ子池を望む地点が村境である。池の中に小祠のある大岩があり、この大岩を清光が背負って来たという。

髙松市三つ子池の大岩
三つ子池の大岩 行場で聖地となっていた
ここでの話は、熊野権現のお告げにより三つ子山から清光が大岩をかかえ下ろしたと言う。これが光護石とも言われる。清光は最初は三木郡田中に住み、後に山田郡十河を経て、高松市松縄町に移り住んだ。彼は源平屋島合戦に功績のあっ熊野別当湛増の子孫であると伝えられている。
 もともとは、松縄の熊野権現の建立者として登場した熊野清光が、ここでは大岩を抱えて運んできた強力として伝えられています。これも庶民の語り継ぐ「村の歴史」かもしれません。それにしても、この周辺には熊野神社が多いことに改めて築かされます。その背景を次回は考えたいと思います。
以上を整理しておきます。

水主神社による熊野信仰の髙松平野へ伸張

①14世紀になると髙松平野にも熊野信仰が浸透してくるようになった
②それを伝えたのは、屋島寺や東讃の水主神社の熊野行者たちであった。
③彼らは周辺の行場で活動を行いながら髙松平野の武士団に熊野詣でを進め、熊野に誘引した。
④武士団の中には熊野詣でに参加し、高まった熊野信仰を背景に、熊野三社を氏神として勧進するものも現れた。
⑤こうして15世紀なると、松縄などに武士たちによって勧進された熊野神社が姿をあらわすようになった。
⑥後世になると、その建立由来は熊野別当の湛増や清光の系譜に接ぎ木されるようになった。
⑦ここからは屋島寺や水主神社の髙松平野への勢力伸長と、それを受けいれた武士団の熊野信仰の受容や熊野権現建立が見えてくる。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「髙松市東植田地区 古道」香川県史14巻462P
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  香川県史14巻民俗編には、旧琴南町中熊の造田家の聞取り調査報告が載せられています。今回はこれを見ていくことにします。

中熊と山熊神社

中熊は、明神の谷川うどんの前から琴南総合センターの前を辿って行くと、すぐに土器川支流の中熊川沿いに南斜面が開けます。中熊は、ソラの集落としては開発にはもっとも条件がよい場所で、早くから開かれた集落だとされています。それでは県史の記述を見ていくことにします。

中熊下
中熊下 集落の中央に山熊神社が鎮座する ⑤が造田家

 (前略) 谷のほとりの幾分平たんな土地へ人々は焼畑を作り、日当たりのよいところへ住まいも建てた。美合中熊の集落も、谷川を前に山の根にしがみついたようなところである。①山熊神社の周りに農家が点在する小集落で、南面し住居のなかで②ひときわ大きい屋敷を地元の人は「土居」と呼ぶ。③造田氏の屋敷なのだが、屋号の土居の方が通りがいい。
                        香川県史14巻民俗編 546P
 
中熊の造田氏
中熊の造田家 土居屋敷と呼ばれる
 土居屋敷の隅に土蔵がある。ここにはシロフスマという妖怪が棲んでいると言う。
目が一つの大きなマノモンだと恐れられている。目が一つ、足も一本のシロフスマは、いつもは蔵の中に棲んでいるが、雪が降り出すと屋敷の中を歩きまわる。一本足の足跡が、ぽつんぱつんと雪の中へ残されるが降り積む雪で足跡は消される。土蔵の北隅には④護摩札が祀ってある。この護摩札がじーんと鳴りはじめるとシロフスマが現われると言う。造田家の当主が幼いころはなんとも恐ろしいマモノだったと言うが、このシロフスマは造田家の者にしか見えない。
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中熊の山熊神社
 この造田家の当主が行かなければ祭りにならないというのが山熊神社の秋の祭りである。
⑤造田氏は、羽織袴の正装で神社へ出向き、頭屋の人たちとともに神輿にミタマウツシを行なう。谷川のほとりへはハッタンノボリという白布を八反つづり合わせた大きな幟を立ててある。ヨミヤの日にお旅所と社の前へ立てるもので、遠くからでもよく見える。
 祭礼の日、ミタマウッシの後、神輿はお旅所までおみゆきする神輿の先導に立つ若衆は、黄色いたすきを首の両側に垂らして道案内となり、頭屋が白い御幣を、⑥造田氏が五色の御幣を持ってく。
 谷川を隔てた対岸には大川山があり、大川神社が祀られている。⑦大川神社の祭神と、山神社の神さまとは姉と妹。山熊神社の玉垣の中で、大川から遊びに来た姉神が妹神と仲よく手まりをついて遊んでいたとか。美しい姫神は、とてもかわいい神であったとも言う

以上からは、次のような情報が読み取れます。
①②③からは、「土居」と呼ばれる中世居館を中心に造田氏が舘を構えたこと。造田氏の氏神として、山熊神社が建立され、周辺に集落が形成されたこと
④からは、土蔵の北隅には護摩札が祀ってあり、修験者による護摩祈祷が行われていたこと
⑤⑥からは、造田氏は祭礼儀式に重要な役割を演じていたこと
⑦からは大川大権現(神社)と山神さまは姉妹関係とされていたこと。

造田家文書によると、山熊神社はもともとは造田一族の氏神として創建されたと伝えます。それを裏付けるかのように社殿の棟札には造田氏一族の名前が大檀那として書き連ねられています。江戸時代の祭礼の時には、造田氏一族のみに桟敷設置が認められ、祭礼の儀式も造田氏の本家筋の当主が主祭者となっていました。山熊神社は造田氏の氏神で、中熊は造田氏によって開発が始まったことが裏付けられます。
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山熊神社の神木

それでは、山熊神社の祭礼者たちはどんな人達だったのでしょうか?
中熊神の観音堂について、佐野家に弘化二(1845)年の由来記には、次のように記されています。
     口上
一、中熊寺の前庵に奉納せる弥陀観音勢至三尊仏と申すは、法然上人御直作にて、大川宮別当十二房の内、房久保に御鎮座し、その後土洲長曽我部元親乱入の節、僧房焼き払われ候瑠り、(後略)

意訳変換しておくと

一、中熊寺の前庵に奉納されている弥陀観音勢至三尊仏は、法然上人の自作の仏たちである。もともとは大川宮の別当十二房の内の房久保に鎮座していた。ところが土佐の長曽我部元親の乱入の際に、僧房が焼き払われしまった。(後略)

ここには大川神社(当時は権現)には、別当が12坊あったと記されています。神仏混淆下の大川山は修験者たちによって開山され大川大権現と呼ばれ、役行者や不動明王が祀られた霊山でした。その霊山に仕えていたのが周辺の里に住み着いた修験者たちです。彼らが「別当十二坊」のメンバーたちで、その中に山熊神社の別当をつとめる社僧(山伏)もいたはずです。彼らは、里の拠点として、小さな別当寺を持っていたことが考えられます。
 同時に⑦には、「大川神社(大権現)と山神社は姉妹」とあります。各集落の人々と大川権現を結びつけたのも彼らです。彼らは芸能伝達者として、踊りや歌などの芸能を伝えると同時に、平家落武者伝説などの話から、妖怪話などまでいろいろな話を、庚申講などでは寝ないで夜を徹して語ったります。「庚申講=山伏による組織化=妖怪話や民話の豊富さ」が民俗学者からは報告されています。美合のソラの集落に、面白い民話が数多く残されているのは、大川山を中心とする山伏たちの活動が背景にあったと私は考えています。
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       山熊神社 本殿

山熊神社を考える上で、押さえておきたいのが熊野行者との関係です。神仏分離前に熊野神を祀っていた中讃地区の神社一覧表です。


神仏分離前に熊野神を祀っていた中讃地区の神社一覧表
これを見ると中熊の山熊神社には祭神として、天神地祈(てんじんちぎ)が祀られていたことが分かります。
天神地祇は「天の神」と「地の神」を意味するあらゆる神々の総称で、熊野信仰は神仏習合の思想を基盤とした「甦り(よみがえり)」を願う信仰です。この二つは、日本の古代信仰と神仏習合の過程で深く結びついています。中世では熊野行者が信仰した神です。つまり、ここには熊野行者の痕跡が見られます。また、造田氏が熊野詣でをおこなうなど熊野信仰をもっていたことも推測できます。そして、熊野行者たちが、霊山大川山で活動していた痕跡が見えます。 

修験者たちは、どのようにして里に定住するようになったのでしょうか?
天正18年(1590)に、安房国の修験寺院正善院が、配下寺院37カ寺について調査した内容を書き上げた「安房修験書上(37)」という史料を見ておきましょう。
「安房修験書上(37)」

ここには、それぞれの修験寺院について、所在する村、村内で管理する堂社や寺地などについて詳しく記されています。ここからは、次のようなことが分かります。
①修験寺院が村々の堂社の別当などとして活動していたこと
②山伏は村内の堂社や付随する堂領などの管理・運営を任されていて、その祭礼などを担っていたこと
戦国期に山伏は、村々の百姓たちを檀那として取り込みながら、村落へ定着していきます。その際の「有力な武器」が、呪術的祈祷や堂社の管理・運営です。その一方で、これまで盛んに行われていた熊野先達業務は、その規模を縮小させ次第に行われなくなったようです。それに代わる霊山として参拝知るようになるのが、伊予では石鎚、阿波では剣への参拝登山ということになります。
 もうひとつ大川山周辺の修験者にとって大きな問題がおきます。それが阿波三好氏の保護を受けた美馬の安楽寺の真宗興正寺派の教線の拡大です。三頭越や真鈴越から情熱的な真宗僧侶がやってきて、里の農民達を組織し、道場を開いていきます。これへの対応には苦慮したはずですが、それはまたの機会にします。山神神社と造田氏の関係ついて戻ります。
 
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山神神社 拝殿 
 山熊神社は、造田氏の氏神として創建されたとしました。
そのため造田氏による「特権的な祭礼儀礼」が取られてきました。それに対して江戸時代の中ごろになると、台頭してきた高持百姓たちが祭りの運営をめぐって反発するようになり、両者の間でたびたび軋轢が起きるようになります。これに対して天保二(1832)年に、阿野郡南の大庄屋が調停に乗り出し、裁定を下しています。その文書によると造田氏の棟札特権は、大幅に縮小されています。例えば、棟札には「総氏子一同」と書かれるようになります。そして祭礼時に造田氏に認められていた桟敷も全廃されます。造田氏に認められたのは祭礼儀式の上で一部分だけになります。この動きをまとめておくと
①中世以来の造田氏一族の宮座独占に対する百姓達の発言権の高まり
②その反発を受けて「氏神」から「産土社」への転換
 この裁定によって山熊神社は「造田氏の氏神」から中熊集落の「産土神」に「脱皮」を遂げたと言えるのかもしれません。県史に語られていた造田氏の役割は、幕末の「祭礼変革」以後に一部残された特権の名残とも言えるようです。

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中熊の山熊神社
もうひとつ押さえておきたいのは、中熊の住人たちは大熊神社の氏子となったと同時に、「大川権現の別当12坊」の社僧たちによって、霊山大川山の信者としても組織されていたということです。だから、住人たちは地元の神社の祭礼も執り行うし、共同して大川権現の祭礼にも共同して参加していたことになります。
以上をまとめておきます。
①美合の中熊集落は造田氏によって開かれ、その氏神として山神神社が建立された。
②造田氏の入植は、屋敷周辺が「土居」呼ばれるなど中世居館の痕跡を残すので中世に遡ることが考えられる。
③中世から近世にかけて中熊川沿いのエリアが開発され、中熊と呼ばれる集落を形成するようになった。
④江戸時代後半になって、中堅農民が台頭するにつれて造田氏に対する反発が強くなった。
⑤その一例が、造田氏による山神神社の祭礼独占であり、自らの参加を求めるようになった。
⑥これに対して大庄屋の調停で農民達の祭礼参加が認められ、造田氏の権限は大幅に縮小された。
⑦しかし、その後も造田氏は中熊で隠然たる力を持ち続けた。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
香川県史14巻民俗編546P 造田家

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横畑 平家伝説の里3
            横畑 阿波国境に面して竜王峠の北側に位置する
  横畑は、阿讃山脈の寒風越の北側にある集落です。かつては鵜足郡長尾郷六村の勝浦村に属して、鵜足郡でもっとも南にあり、阿波国と国境を接していました。

横畑3 三条神社
横畑は川奥集会所(旧川奥小学校)から明神橋を渡る
横畑へは三頭トンネルの手前を土器川支流の明神川沿いに遡っていきます。川奥集会所(川奥小学校跡)の手前を右に曲がって林道を登っていくと開けてくるのが横畑集落です。

まんのう町 横畑集落3
横畑から望む竜王山方面
谷を越えた南側には、目の前に阿讃山脈が連なります。奥の山々が竜王山に連なり、三方を山に囲まれた地形です。阿讃山脈の向こうは阿波なので、阿波の村々との交流が古くからあり、寒風峠を越えて阿波文化圏の強い影響を受けています。ある意味では、讃岐のソラの集落と云えるかもしれません。今回は、この横畑について「香川県史14民俗539P」に「村の起こりと旧家」と題して、フィールドワークの成果が報告されてますので紹介したいと思います。

横畑 三条神社.と宮本家jpg
横畑の三条神社と宮前の宮本家
横畑の集落でもっとも古いとされる宮本家には、次のような平久盛の子孫説が伝えられます。
屋島の源平合戦に敗れた平久盛以下数十人の集団は、海上へ逃げることができずに、屋島の津から山へ山へと入りこんだ。春日川沿いを上流へ上流へとさかのぼる。途中、高松市西植田町あたりに、馬切りだとか平家落人の塚というのが点在する。さらに川沿いの道は谷に入りこむ。炭焼窯に身を隠して果てた落人を祀った。(中略)
 平久盛一行は、横畑からさらに阿讃山脈の峠を越えて祖谷まで落ちて行くつもりであった。が、あまりにも兵たちの疲れが激しいので、ひとまずこの地に落ちつくこととした。持っていた旗さしものを倒して横に寝かせ、山を開きはじめた。旅さしものを横に寝かせたということで、横畑の地名になった。このとき、武士の数は七人になっていた。
横畑は不思議な地形で、南面した山肌は比較的ゆるやかで、落人が隠れ住むにふさわしい。ふもとからは見通すことができないが、こちらからは意外に遠くまで見渡すことができる。だから、明神川に架かった橋、もちろん、昔は橋の形も違っていたのだが、このところへ見張りの番卒をたて、さらに、背後の山と山との峠道にも番卒をたてて固めておけば、追捕の兵をかわすことができると、厳重な木戸口を設けた。橋のほとりからは、木戸番の墓というのが掘り出されたことがある。峠道のキビヂリ屋敷時は、かって番卒が住んだところと伝えられている。(香川県史14巻540P)
ここには横畑が、平家の落武者7人を中心に開かれたことが語られます。これをそのまま信じることは出来ません。平家の落人伝説は、修験者や山伏によって広められたと研究者は考えています。また、修験者が開発・開墾し、そこに定住した「坊集落」は、落人伝説と重なることころが多いという報告もあります。つまり、横畑は修験者の坊集落として開発されたという見方も出来ます。定住後の開発の様子を、次のように記します。
 
横畑 平家伝説の里
横畑
まんのう町横畑

一段一段と山を聞いた。山を開墾し始めた最初の地には、オコンドサンという小さな石を重ねたものが祀られた。県史14巻541P)
まず、②木を切り、草を刈枯らして火をつけて焼く。木や草を焼いたは、土とまぜて種を播はじめは、ヒエの種を播いた。庄次郎畑という名がついているから庄次郎という人が開いた畑だろうと言う。次郎畑にヒエが実った。ヒエを刈りとり束にして積み重ねた。日当たりがよく平たい地形のところをヒエグロと呼んでいる。
③このヒエグロの続きの土地へ七人の武士の一人が屋敷を構えた。
ヨモギと屋号で呼ばれる屋敷地は、かってよもぎ原だったと言う。平久盛の子孫という宮本家は宮の前とも川崎屋とも呼ばれている。他に、カミジ、フルヤ、ニシ、ナカウラ、カイケノシタ、ニギヤ、クリノシタと、おいおい人口も増えて戸数も増し、屋号も多くなってきた。宮本家へは阿波から嫁入りすることもある。
 ④宮の前と呼ばれる宮本家は、三条神社のすぐ近く、さしものにはじまり刀などさまざまなものがあったという。⑤平家ゆかりのものを奉納して三条神社を祀った。
ここからは次のような情報が読み取れます。
②には、焼畑から開墾が始まり、最初にヒエの種を蒔いたこと
③には、開墾地の近くに家を建て屋号で呼ばれるようになったこと
④には、建立した三条神社の前に、宮本家の屋敷が位置したこと
⑤には、三条神社には平家ゆかりのものが奉納仏としておさめられたこと

まんのう町 横畑 三条神社と宮本家
横畑の三条神社
しかし、現在は何も残っていない。こんな言い伝えのみが残されている。
 ⑥勝浦村明神の庄屋が、神社のものすべてを持って帰ってしまった。最初に畑を開いたところのオコンドハンまで運んでしまった。しばらくたってから、墓石を受け取りに来いと言う。オコンドハンは丸い石なので、どうも物石にしていたようである。この石が「横畑へいぬ、いぬ」と泣いたという。気味悪くなった庄屋が、石だけを返してきた。他のものについては何も言わない。横に寝かせたというさしものもこのとき紛失してしまった。
 また、三条神社が勝浦神社と合併したことがあった。寛文年間とも言われるが、その間、祭りも合併で挙行したのだが、勝浦神社の祭りでありながら、三条神社の氏子たちが上座に座って祭祀を行う。年の初めの祝いにも上を占めていた。

ここからは次のような情報が読み取れます。
⑥は横畑が江戸時代には勝浦村庄屋の管理下に置かれていたこと 
⑦横畑の三条神社と勝浦神社が合祀されたことがあったが、その時には、三条神社の氏子が各上扱いされた。 
(中略)(県史14巻542P)
宮本家のもうひとつの屋号、川崎屋というのは、伊勢の太夫さんが名付けてくれたものである。
 ⑧伊勢の太夫というのは、来田監物太夫のことで、長谷坂、半坂、勝浦、下福家、八峯、家六、谷田、粉所、猪之鼻、渕野、樫原 堀田 前之川、明神、中熊、川之奥、美角、横畑へとお札を配ってきていた。横畑では、松右衛門宅へ来てから峠道を越え、阿州の別床、伊沢へも足をのばしていた。監物太夫が、宮本家が水に不自由しているのを見かねて水を呼んでくれたと言う。同じくフルヤという家の井戸も掘ってくれ、双方とも現在まで使用中である。このとき、川崎屋という屋号をつけてくれた。
 伊勢の太夫へのもてなしはねんどろだったが、時節柄、御馳走はいらないと断った書状が残されているところをみると、かなり無理をしてもてなしていたことがうかがえる。
 ⑨二段になった聖地には、伊勢屋敷があり、お伊勢さんを祀っていた。二間半と三間の社を建て、年に一度太夫が来たときには参詣の後、ここへ籠もったという。そして、方々へお札を配って回った。現在は屋敷はなく小さな祠があるのみだが、一畝ばかりの土地は、聖なる地ということで人々は立ち入らない。
⑧からは、宮本家が伊勢太夫の伊勢お札配布の拠点となっていたことが分かります。このことについて、満濃町誌の記述を要約すると次のようになります。
A 横畑には、阿波から寒風峠を越えて伊勢太夫が正月にやってきた。
B 伊勢太夫のための宿舎として「伊勢家(おいせやはん)」と呼ばれる二間+三間の平屋に、お伊勢さんが祀られていた。(⑨)
C 伊勢太夫はここを拠点にして訪問、配札等の伝道活動を行った。
D 伊勢信仰が盛んになるにつれ、多くの檀那衆や信者が横畑へ集まってくるようになった。
E 伊勢太夫の中でも来田監物は横畑との関係が深かく、農業用水や井戸など水源を開いた。それは「伊勢太夫が呼んだ泉」と呼ばれ、今も二か所残っている

まんのう町 横畑集落4
横畑からの望む龍王山方面
文久三(1863)年4月に、来田監物大夫が勝浦村と川東村の檀家回りをしています。
その時の集落の講元は、稲毛文書によると次の通りです。(琴南町誌363P)
長谷坂 佐野甚平 (一宿)
半坂  佐野喜三郎。勝浦 佐野喜十郎 (一宿)
下福家  古川多兵衛 八峯 佐野徳兵衛 家六 岡坂甚四郎 (一宿)
谷田  牛田武之丞 本村 稲毛千賀助 (一宿)
所村  与平次 新谷村 牛田藤七 
猪の鼻  磯平 
渕野  次郎蔵 
樫原  梅之助、藤八 
明神  古川嘉太郎 中熊八百蔵 
中熊  源次郎 
川奥  西岡忠太郎 (一宿)
美角  七兵衛
横畑  拾右衛門 (一宿)
堀田  林兵衛
前の川  御世話人
来田監物から宮本家へ宛てた書状からは、勝浦、川東、中通の三村で22軒の檀那(伊勢太夫に奉仕する家)があり、これを五泊六日で巡回していたことが分かります。
「横畑の宮本家は伊勢太夫の世話をよくしたので、その功により「川崎屋」という屋号を与えらた」とあります。
これについて、別の視点で考えて見ます。

坊集落・金剛院の性格は
坊集落としてのまんのう町長炭の金剛院集落
中世の熊野詣での先達たちは、修験者たちでした。それが次第に里に定住する者が現れます。彼らが開墾して、姿を見せるのが「坊集落」です。このあたりでは、まんのう町の金剛院が典型的な坊集落であると研究者は考えています。阿波のソラの集落にも、修験者たちが定住して坊を開き、周辺を開拓したところがあることは以前にお話ししました。
村に現れた聖たち

 彼らは修験者としての痕跡を持っているので、伊勢御師などの廻国の行者たちとのつながりがあり、保護・支援しました。横畑の宮本家も「伊勢家(おいせやはん)」という宿舎兼布教所を持ち、伊勢御師と深いつながりを持っています。宮本家も、もともとは修験者であった可能性があります。ここでは、このくらいにして県史の続きを見ていきます。  
 横畑から阿波の伊沢へ伊勢の太夫が行くのには理由がある。( 県史14巻543P)
七人の落武者が一段一段とだんだん畑を開いた。生活が落ち着くにつれ人口もおいおい増加し、そのなかの何人かが伊沢へ分村して行ったようだ。ある年のこと伊勢の太夫の都合が悪くなり、⑩横畑の者が太夫の代わりにお札を持って伊沢へ行った。ところが「炭焼きがやってきた」と伊沢の人たちは、横畑の者を粗略に扱った。別に大事にしてくれとは言わないが、お札を持って来たのであるからそれでは困ると伊勢の太夫に愚痴をこぼした。次の年、伊勢の太夫は、今年はこのお札を別に持って行き、夜は枕元へ置いておくようにと言った。さて、伊沢へ泊まった夜、伊沢の山々では山犬が騒いで恐ろしいこと限りがない。「どうしてこんなに山が荒れるのだろう」と伊沢の人々は言う。「それは伊勢のお札を大事におまつりしないからだ」と教えたという。それから、伊沢の人たちもお札を大切に祀り、横畑の者にも親切だったという。
⑩からは、伊勢御師のお札配布を「横畑の者=宮本家(?)」が行っていたと記します。以前見たように、伊勢御師の檀那とお札を配っているのは、「○○坊」と称する修験者や聖が多かったことは以前にお話ししました。これも宮本家=修験者起源説の補強になります。

三条神社横畑 平家伝説の里
横畑の三条神社
 三条神社の祭礼や正月には、必ず伊沢から参詣にやってきた。 県史14巻544P)
この阿波から来る人のために、寒風峠の道のミチツクリを毎年、十月三日に行なっている。阿波から来るという人のなかには、幼い者も混っているというが、まだだれも行き合った人はいない。
 寒風峠は風がたむろしているように吹きあげる峠道で、ここには物見やぐらがあって見張りをしていた。三頭越えをする人も、吉野川も見え、阿波の動静が一望にできるところである。また、何かのときには祖谷へ知らせ任務も帯びていたという。ここにも番卒の墓というのが十あまりかたまってある。これらは現在も宮本家が供養を続けている。(中略) 
 サルガフタエを行くときは、石鎚参りの山伏たちも、「ぼーぼー」と法螺貝を吹き鳴らして通り過ぎる。平家谷伝説が語られるのにふさわしい地形と言えよう。現在、道路はよく整備され、平家落人が聞いたという畑は茶の木に囲まれ一面のキャベツ畑になっている。
ここからは正月などには、伊沢から横畑の神社に参拝に人々が訪れていたことが記されています。それと、伊勢神社のお札配布はリンクします。つまり、伊沢集落は「修験者宮本家」のかすみ(テリトリー)であったことがうかがえます。
   修験者のなかで、定住した修験者のことを里山伏または末派山伏(里修験)と言います。

定住した修験者(里山伏)の活動は?

彼らは、村々の鎮守社や勧請社などの司祭者となり、拝み屋となって妻子を養い、田畑を耕し、あるいは細工師となり、鉱山・山林の開発に携わる者もいました。そのため、庚申塔などには導師として、その土地の修験院の名が刻まれたものが見つかっています。また、高野聖が修験道を学び修験者となり、村々の神社の別当職を兼ねる社僧になっている例は、数多く報告されています。近世の庶民信仰の担当者は、寺院の僧侶よりも高野聖や山伏だったようです。ソラの集落の信仰には、里山伏(修験者)たちが大きな役割を果たしていたことは以前にお話ししました。

庚申信仰=山伏形成説
 庚申信仰を拡げた修験者(山伏)たち
横畑の山向こうの葛寵野の大師堂には、次のような話が伝えられます。
昔、一人の修験者が大きなツヅラを背負ってこの地にやってきました。
ツヅラの中は立派な仏像でした。修験者はこの地の草庵に住み着いて、付近の集落を托鉢する日日を送ります。そのうちこの仏像が霊験あらたかで、どんな病気もなおしてくれ、願いごともかなえてくれることが近隣に知れわたるようになります。そのため遠くの村々からも参拝者が相つぎ、葛龍野の急坂に列をなしたというのです。そこで参詣者には、風呂を沸かして接待して大変喜ばれたと地元では言い伝えられています。
 伝説かと思っていると、実際に使われた護摩札が残っているようです。
護摩札は、文化11(1814)年のものと、文政三(1820)年の年号があります。山伏がツヅラに背負って持ってきた仏像もあり、江戸中期の作とされています。実際に、山伏たちがソラの集落に定住していたのです。
近世初頭の山伏の業務内容

こうして見ると横畑にも修験者の痕跡がおぼろに見えて来ます。
「石鎚参りの山伏たちも、「ぼーぼー」と法螺貝を吹き鳴らして」ともあります。石鎚講の先達に率いられて石鎚詣でをする人々がいたことがうかがえます。また、阿波のソラの集落に住み着いた山伏たちは、剣山詣での先達としても活躍する一方で、いろいろな加持祈祷を行っていました。同じような雰囲気が横畑からも感じます。
以上が、横畑から竜王山を見ながら考えたことです。しかし、横畑からは大川山は見えません。見えるのは竜王山です。ここに坊集落を開いた修験者たちは、大川山ではなく目の前の竜王山や大滝山を霊山として崇め、周辺の行場修行に励んでいたことが考えられます。
大滝山には太龍寺があります。 

大滝寺2
大滝山直下の大瀧寺 神仏混淆時は、西照神社の別当寺

大瀧寺は寺伝によると、江戸時代には稲田氏から禄を与えられ、西照神社の峰より東へ八丁、西へ八丁、それから麓に至るまで寺領として認められたといいます。また、寺の裏手(北側)も高松藩より権現林(寺領)として寄進されています。さらに髙松藩からは供米として五十石を与えられていたと記します。その結果、山頂の伽藍の建築物としては、登山道には鳥居の数が十八基、寺域には西照大権現一宇、竜王堂・観音堂・不動堂・護摩堂・奥院に熊野十二社大権現などのほか、多数の建物があったと記します。今日に残された自然環境は、この時の寺域のようです。当時の盛大さがしのばれます。
 この大龍寺の影響力の下にあった修験者が開いたのが横畑ではないかと私は考えています。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 仲多度郡琴南町美合地区 香川県史14巻民俗編539P
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まんのう町文化財協会の秋のフィールドワークで、金刀比羅宮の重要文化財の建物めぐりを行いました。別宮・本宮をめぐって、下りの石段を下りていきます。石段の途中から大きな建物が見えてきました。
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金刀比羅宮の旭社(旧金毘羅大権現の金堂)
逆光の中で建物が浮かび上がってくるように見えます。
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 金刀比羅宮 旭社 特徴は軒下の欅板に掘られた渦巻き文様
 ケヤキの大きな板一枚一枚に渦巻き文様が彫られています。この軒下の彫り物が、この金堂の特徴だそうです。組物も豪快です。

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金刀比羅宮 旭社の内部は空っぽです。太鼓がみえるだけです。

旭社は、神仏分離の前は何だったのでしょうか?

金毘羅参詣名所図会 旭社・二天門・観音堂
金毘羅参詣名所図会(1848年)  
金毘羅参詣名所図会は、金堂(旭社)について次のように記します。
金堂  観音坂の下、南の方にあり。境内中、第一の結構荘厳もっとも美麗なり。
本尊  薬師瑠璃光如来 知日証人師の御作
金毘羅参詣名所図会からは、次のような情報が読み取れます。
①観音堂の下の空間には巨大な「金堂」があった。
②金堂(旭社)の下には多宝塔があった。
③金堂は1845年に完成したばかりで、多宝塔横の参道は石段や玉垣が未整備で、燈籠もない。
④本尊が薬師如来像であった。

讃岐国名勝図会に描かれた金堂も見ておきましょう。

金堂・多宝塔・旭社・二天門 讃岐国名勝図会
讃岐国名勝図会の金毘羅大権現金堂(1853年)
金毘羅参詣名所図会の5年後に描かれた讃岐国名勝図会です。これを見ると金堂周辺整備が進み、石段や玉垣・燈籠なども石造物の整備が進んでいることが分かります。旭社は金毘羅大権現の金堂として、1845年に完成したことを押さえておきます。 

旭社正面 神社明細帳附図
金毘羅大権現金光院金堂(現旭社) 正面
金堂上梁式の誌には、次のように記します。
①文化十酉より天保八酉にいたるまて五々の星霜を重ね②弐万余の黄金(2万両)をあつめ
②今年羅久成して 卯月八日上棟の式美を尽くし善を尽くし其の聞こえ天下に普く男女雲の如し」。
ここからは次のような情報が読み取れます。
①1806年の発願から1845の完成まで約40年がかりの建築工事だったこと
②建設資金は約2万両で勧進講で集めたこと
ちなみに、式では投げ餅が一日に7500、投銭が15貫文使われています。そのにぎわいがうかがえます。建立当時は中には本尊を初めとする多くの仏像が並び、周りの柱や壁には漆が塗られその上に金箔が施されたといいます。

旭社 神社明細帳附図
            金毘羅大権現金光院金堂(現旭社) 側面
 それではこの金堂には、どんな仏さまが本地仏として安置されていたのでしょうか?
松尾寺の本尊は、十一面観音だったので観音堂が本堂でした。それに対して、金堂に安置されたのは、金光院の本地仏である薬師如来像でした。そのため薬師堂とも呼ばれています。どうして薬師如来だったのかというと、次のように考えられていたようです。

金毘羅大権現の本地仏は薬師如来

1十二神将12金毘羅ou  
薬師十二神将

「金毘羅大権現の本地仏=薬師如来説」に対して、次のような熊野行者勧進説もあります。
山林寺院の中には熊野行者によって開かれた寺院が多く、熊野神宮の本地仏のひとつが薬師如来でした。そのため薬師如来を本尊とするところが多いとされます。後に薬師堂となる本地堂に薬師如来が安置されていたのは松尾寺の熊野行者や熊野信仰との結びつきを示すものと考える研究者もいます。このあたりは、今の私にはよく分かりません。

1 善通寺本尊2
善通寺東院金堂の本尊 薬師如来坐像
ちなみに象頭山周辺で薬師如来を金堂の本尊とするが善通寺東院です。東院金堂には、江戸時代になって勧進活動で得た資金で京都の仏師に発注した薬師さまがいらっしゃることは以前にお話ししました。金光院は善通寺をライバル視していて仲が悪かったので、善通寺金堂を意識していたはずです。「善通寺さんよりもよりも大きく高いものを!」と。しかし、どんな薬師さまが安置されていて、それが廃仏毀釈によって、どこに売却されたかは今の私には分かりません。

イメージ 2
金刀比羅宮 旭社(旧金堂)

 明治の廃仏毀釈で金堂はどうなったのでしょうか? 金刀比羅宮が県に提出した「金刀比羅宮神仏分離調書」を見てみましょう。

[境内仏堂]
 仏堂に於ては素より仏式の作法なりしが、神仏分離に当り、仏堂は全部廃され、其建物は概ね境内神社の社殿に充当せらるヽと共に、仏式作法廃滅せり。
     (『中四国神仏分離史料』第九巻四国・中国編)
意訳すると
 仏堂は、もとから仏式作法であったが、神仏分離に当り、仏堂は全部廃された。その建物は、境内神社の社殿に充当した。共に、仏式作法は廃滅した。

ここには境内仏堂の廃止と、その跡建物を利用した神社の整備・変更などを行なったことが報告されています。
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旭社の柱に掘られた江戸の寄進者の名前

金堂も旭社と名前を変え、祭神は天御中主神、高皇産霊神、神皇産霊神、伊邪那岐神、伊邪那美神、天照大御神、天津神、国津神、八百万神 などを祀るようになります。しかし、今は空っぽに見えます。

旭社平面図 神社明細帳附図
旭社平面図
旭社(旧金堂)は、神仏分離後には神道の「教導説教場」として使用されるようになります。

旭社内部 天井 神道
現在の旭社内部の「素木の講壇」
明治の金刀比羅宮は、讃岐における神道の指導センターの役割を果たすようになります。そのため神道の教えを教導するための教習場となり、県下から神官が集まってきました。その時の講習会場として、この建物は使われるようになります。その際に、仏式に荘厳されていた天井や壁などから金箔がそぎ落され、素木とされたようです。記録には「明治6年6月19日 素木の講檀が竣成」とあります。
 しかし、神官による説法は僧侶に比べると面白くなく、教導効果を上げることが出来なかったようです。そのため明治15年(1882)には説教指導は取りやめられます。その時に講演に使われていた講檀も撤去されます。そして、明治29年(1896)1月に、社檀を取り除いて殿内に霊殿を新築し、現在に至っているようです。

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           旭社の扁額
この建物が完成したのが1845年のことで、180年前のことになります。近年南側の欅の軒下の松材が白蟻の被害を大きく受けていることが分かりました。そのため大改修が来年から始まるようです。金刀比羅宮のHPには次のような「旭社 令和の大改修プロジェクト御奉賛のお願い」が載せられています。
今般、二階の屋根材木に白蟻被害が確認され、一部の柱に圧壊も認められたことから、半解体による大規模な修理工事が必要となりました。
調査の結果、修理には、工事用道路、覆屋の建設、解体、修理、復元とさまざまな工程を18年に亘り進める必要があり、約50億円の経費が必要であることが分かりました。旭社は国の重要文化財に指定されておりますので、修理費の一部は国や地元自治体からの補助をいただく予定ですが、事業規模がこれまでになく大きく、「令和の大改修プロジェクト」として、旭社の建築時と同様、多くの方々から御奉賛をいただきながら、事業を確実に進めていきたいと考えております。
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           金刀比羅宮旭社 南面部 この軒下部が白蟻被害部分
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                      その拡大
渦巻きの掘られた檜板は被害を受けていませんが、その内部の松材が被害甚大だそうです。
完成から200年後の2045年頃まで改修工事が続くことになるようです。私が生きているうちには、改宗後の姿は見られないようです。大切なものを未来に残していく作業が、ここでも始まろうとしています。最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
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まんのう町文化財協会の秋のフィールドワークで、重要文化財となっている金刀比羅宮の別宮・本宮・旭社を巡ってきました。今回は本宮についてお話しします。テキストは、帰りに手に入れた次の報告書です。
金刀比羅宮本社上空写真1
        金刀比羅宮本宮地域建造物調査報告書 2024年 金刀比羅宮
左奧が別宮・手前が本宮です。明治の再営時には、観音堂と旧本宮(金大権現本社)は、それぞれ旭社への下り道と、御前四段坂の参道の前に線を揃え東面して並び建っていました。この配置を踏襲して、同位置に別宮、新本宮が造営されます。別宮が完成し、明治9年に仮遷宮が行われると旧本宮は取り壊され、その跡地に新本宮の造営工事が開始されます。そして、1年間の短期間で明治11年に正遷宮が行われます。
 本宮・別宮ともに本・中・拝殿が連結された複合社モデルです。それぞれ左右に神殿と直所が渡殿や渡廊下で繋がるよく似た形式でが、本宮は建築面積にして別宮の二倍を超える大規模なものです。それにもかかわらず仮遷宮後、2年で正遷宮を迎えています。短期間で工事を終えることが出来た要因については、旧本宮の基本的な構成と配置を大きく違えることなく、地盤面の石材などを再利用し、大規模な基礎工事を避けたためと研究者は考えています。

金刀比羅宮本社周辺図

本宮は四段坂の階段を登ってくると、その正面に姿を現します。

金刀比羅宮 石段777段目
785段の石段のゴール・四段坂の正面にたつ金刀比羅宮本宮

P1290074
金刀比羅宮本宮 拝殿正面
お参りしたのは11月末でしたが、正月の参拝客に備えて高い拝殿への階段には木の板が張られ、注連縄も新しくなっていました。正面から見るとシンプルに見えます。

金刀比羅宮 拝殿正面
                金刀比羅宮本社 拝殿正面図
拝殿前から振り返ると四段坂の最後の急勾配の石段が見えます。本宮は参道ゴールに鎮座していることを押さえておきます。お参り後に、移動してから拝殿の北側を見てみます。

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                金刀比羅宮 本宮拝殿北側
正面から見る印象と、横から見る印象が違います。屋根には千鳥破風と軒唐破風が乗っていて複雑です。この屋根を造ったの檜皮師たちは、下表のように摂津国兵庫の職人と、讃岐・備前連合の2つのグループだったことは、前回お話しました。

金刀比羅宮「御本宮再營諸職人」 檜皮師
               金刀比羅宮 御本宮再營諸職人 檜皮師

報告書40Pには、本宮拝殿について次のように記します。
①高2,3mの高床建築で桁行三間、三関の横長の平面。
②円柱を礎石建てとし、切日長押、内法長押、頭、台輪を回し
③組物は各間の中央にも配した三手先詰組で基本は角形、組物間には通射本を多用する。
④軒は二軒角繁垂木とし小天井を備える。
⑤屋根は入母屋造で、正背面には大棟と棟を揃えた大きな千鳥破風を備え、両側中央に軒唐破風を備える。
⑥妻飾りは本屋・千鳥破風とも花狭間格子とする。正面向拝を設け、軒とする。
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                 金刀比羅宮 本宮拝殿北側

金刀比羅宮本宮拝殿 組み物

③④の拝殿組物

金刀比羅宮本社拝殿 向拝
⑥の拝殿の正面向拝

金刀比羅宮本宮拝殿内部
金刀比羅宮 本宮拝殿内部
讃岐風俗舞を奏進、田耕行事を行い、続いて田舞3
本宮拝殿内部
金刀比羅宮 新嘗祭 本宮拝殿
本宮拝殿内部 新嘗祭

拝殿にお参りすると、これが本宮だと思ってしまします。しかし、本宮は「拝殿 + 中殿 + 本殿」の3つの建物が連なった複合施設です。それを次の絵図で見ておきましょう。

金刀比羅宮 拝殿
金刀比羅宮本宮  左から「本殿 + 中殿 + 拝殿」
これを断面図で見ると次のようになります。

金刀比羅宮本宮断面図
金刀比羅宮本宮の断面図

3つの建物がつながっていることが分かります。また、先ほど見たように拝殿は高床式で、縁の下に通路が2本あるのも確認できます。この縁の下の通路は何のために設けられたのでしょうか?

HPTIMAGE
本宮拝殿正面の縁下通路
幕末の金毘羅参詣名所図会には、拝殿について次のように記します。
金毘羅大権現 
その祭神は未詳であるが、三輸大明神、素蓋鳴尊、金山彦神と同心権化ともされる。
拝殿   
その下を通行できるようになっていて、参拝者はここを通って、拝殿を何回も廻って参拝する。拝殿右の石の玉垣からの眺望は絶景で、多度津、丸亀の沖、備前の児島まで見渡すことができる。 
ここからは、拝殿下の通路を使って、拝殿の周りを何回も「行道(堂)」する祈願スタイルが行われていたことが分かります。そのために、明治の再営でも廊下通路は造られたようです、しかし、再営後には拝殿周囲には柵を巡らしているので、従来の祈願スタイルは禁止となっていたようです。ちなみに、このスタイルは、倉敷市の由加神社本宮(旧瑜伽権現本社)や高松市の石清尾八幡宮下拝殿(明治14年(1881)などにも受け継がれています。

金刀比羅宮本宮平面図
金刀比羅宮 本宮平面図
 次に中殿を見ていくことにします。中殿は幣殿とも呼ばれ、拝殿と本殿を繋ぐ縦長の建物です。調査報告書には次のように記します。

金刀比羅宮 中殿内部1
金刀比羅宮本宮 中殿内部
①桁行三間、梁間一間の縦長平面。
②礎石建ての拝殿とは異なり土台建てだが、軒桁の高さは拝殿に揃える。
③両側面は桁行に切目長押、内法長押、頭貫、台輪で固める。
④第一間は拝殿脇間との境を開放し、第二間は双折戸を両外開に構え外に切目縁を備える。
⑤第三間は腰板壁と格子窓とする。
⑥組物は組の平三斗の上にさらに通肘木3段及び通実肘木を連斗を介して重ねた
金刀比羅宮 中殿組物1
金刀比羅宮本宮 中殿組物
中殿については、外からは見えにくい所にあるので、あまり馴染みのない建物になります。
本殿について報告書は次のように記します。

金刀比羅宮 本殿
金刀比羅宮 本宮本殿
①三間社入母屋造で、向拝は設けずに正側面の三方に緑を回す
②正面中央間の軒下部分は両側面のみを閉ざして中殿から一連の内部空間とする。
③身舎円柱に切目長押、内法長押、木鼻付き頭台輪を回す。
④頭賞木鼻は形のない簡素な角形ながら入八双金物で飾る。
⑤身組物は角形の財木を用いた三手先の話組で、丸に金の神紋を中備とする。
⑥軒は二軒角繁垂木とし、正面中央間では組物は前面の天井桁を受け、軒を現さない。
⑦屋根は入母屋造とし、大棟に千木・堅魚木を置き、正面には大棟と高さを揃えた大きな千鳥破風を飾る。
⑧妻飾りは本屋・千鳥破風とも花狹間格子とし大きな鰆付きの猪目懸魚を飾る。
金刀比羅宮本宮本殿3
金刀比羅宮 本宮本殿
金刀比羅宮本社本殿組物
金刀比羅宮 本宮本殿の組物

金刀比羅宮 本宮本殿平面図(明治32年)
金刀比羅宮 本宮本殿平面図(明治32年)

金刀比羅宮 本宮本殿大床内部
                金刀比羅宮 本宮本殿大床内部
本殿・中殿・拝殿の格天井については、次のように記します。

素木のままの天井板と桜樹木地蒔絵を描いた天井板とを交互に市松文様状に配っている。絵柄は拝殿では円形にデザインされた桜樹、中殿と本殿では1本から数本の桜の折枝とし、一枚ごとに変化を持たせている。

そして桜の木は、本殿の外側の壁にもデザインされています。

金刀比羅宮 本宮本殿の側面壁の桜の蒔絵
本宮本殿の側面壁 ガラス面に金色に輝く蒔絵

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金色の蒔絵の桜の木
これらの蒔絵を担当した職人たちの名前が、棟札には次のように記されています。

金刀比羅宮「御本宮再營諸職人」 檜皮師
本宮棟札に書かれた蒔絵師たちの名前
ここからは蒔絵を担当したのは、東京の山形次郎兵衛を頭取とする東京グループと、西京2名と大阪1名の職人だったことが分かります。

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 現在の本宮がいつ再営されたのかを棟札で見ておきましょう。

金刀比羅宮本殿棟札明治10年
           金刀比羅宮(事刀比羅宮)本宮(本殿・中殿・拝殿)の棟札 
明治 8年1月22日 開始
明治 9年4月15日 仮遷宮
明治10年4月15日 本宮上棟祭
明治11年4月15年 本遷宮 

 以上見てきたように本宮の形式や意匠からは、神社建築の新しい形式や表現を求めたことがうかがえます。その原動力は何だったのでしょうか?

松尾寺 金毘羅大権現と三十番社
         金毘羅大権現に描かれた旧本社 讃岐国名勝図会(1853年)

本宮再営の「御本宮再管竣功之記」には、次のように記します。

金刀比羅宮 旧本社天保3年(1832)8月「天保三年御本社園」
         神仏分離以前の金毘羅大権現の旧本宮 (彩色美に彩られていた)

  旧社殿の造り様は彩色や彫刻など仏教風が強く異国風(インド・中国的)であり、大神に釣り合っていなかった

ここからは施主である金刀比羅宮の指導者たちが、インド・中国的な異国の仏教的な要素を排して、「大神に釣り合う」復古調的な神道様式を望んでいたことがうかがえます。例えば、旧本宮は屋根は檜皮葺でしたが、袖部は極彩色や動物などの彫刻で飾られていたことが上の「天保三年御本社圖」からは分かります。これらを仏教風なものとして排除し、総檜の素木造として木肌の美しさで清静さを表現しようとします。

金刀比羅宮本社
           金刀比羅宮 本宮
屋根には新たに千木・堅魚木を置くなどして、神社建築の伝統的な要素が加えられます。そして本殿と中殿の連結の仕方に工夫を凝らし、各所に目隠しとし脇障子を多用するなど伝統にとらわれない新しい感性がみられます。
金刀比羅宮本社2

以前に見たように先行する別宮新宮では、頭買などの木鼻を角形として絵様形を排除する方向性が見えました。しかし、肘木下端には曲面を残し、向拝や木鼻や虹梁は旧来と変わらない彫物や絵様形が残されて華やかな細工になっています。これに対して、本宮工事では肘木も角形になっています。そして、彫刻的細部は向拝中備など最小限にとどめ装飾的細部を、さらに削ぎ落としています。
 別宮も本宮も、大工棟梁は琴平高藪町の綾坦三であったことは前々回にお話ししました。
同じ棟梁が担当しながらも、2年しか経っていないのに、別宮と本宮で様式的な変化を造りだしています。これは別宮の完成後に脱神仏混淆様式の追求を、本宮ではさらに推し進めるようにとの要望が施主側の金刀比羅宮からあったからかもしれません。どちらにしても本宮には、前例のない新しい様式が取り入れられています。これは金毘羅大権現の造営を担ってきた地元大工集団にとっては挑戦にもなりました。このような宮大工の研究心が19世紀末から始まる善通寺の11師団の建築群工事や、旧制丸亀中学の学校建築などにも活かされていくことは以前にお話ししました。
 また、装飾的要素を全面的に否定したわけではありません。
絵様形と彫物に代わって、銅金物がその役割を担うようになります。本宮では錫金物が各所に多用されて華やかさを増し、さらに桜樹木地蒔絵が施されています。装飾のモチーフとして選ばれたのは、丸に金の神紋と葛紋・花狭間・桜樹です。そこには動物の姿は見えません。旧本宮や旭社(旧金堂)にみられた三つ巴紋も姿を消します。これに代わって金毘羅灯籠などに広く用いられてきた丸に金の神紋が各所に多数現れるようになります。

金刀比羅宮 明治12年
金刀比羅宮 新しく登場した本宮と別宮(明治11年)

金刀比羅宮境内図 明治45 縦
                  金刀比羅宮 明治45年
こうして象頭山には、明治の新しい神社建築様式をもつ本宮と別宮が並んで登場します。
これは物見高い民衆の評判にもなり、参拝客はますます増えるという「集客力向上」にもつながります。また、金刀比羅宮の新しい本宮・別宮モデルは、人々には新鮮なものとして好印象で受け止められます。すると、香川県西部や徳島県西部では、角形射木など金刀比羅宮の影響を受けた様式が、この時期の神社建築に見られるようになります。

岩清尾八幡 髙松市
      髙松の石清尾八幡宮の下拝殿(明治14(1881年)は金刀比羅宮本宮に酷似
例えば、旧高松城下町の氏神とされた石清尾八幡宮の下拝殿は、金刀比羅宮の本宮完成後の3年後(明治14年/1881)に出来上がっています。その姿を見ると角形の肘木・木昴、多角形手挟が使用され、花狹間格子の特徴的な妻飾も取り入れられていて、金刀比羅宮拝殿に酷似していると研究者は指摘します。

 熊手八幡宮
多度津町白方の熊手八幡神社本殿(明治23年/1890)
 岩清尾八幡社絵馬堂(明治26年/1893)や多度津町白方の熊手八幡神社本殿(明治23年/1890)、拝殿(明治21年/1888)では、角形肘木を用いる一方で木鼻は彫物とするなど金刀比羅宮の様式を選択的に取り入れています。この様式は、多度津では戦前まで地域の神社建築様式として長く影響を与え続けたと研究者は報告しています。(1.「多度津伝統的建造物群保存対策調査報告書」令和2年3月多度町教育委員会)
 さらに阿波街道で結ばれていた阿波の美馬・三好郡には明治期神社の本殿に肘木のみ角形とするものが数多くあり、肘木・木鼻とも角形とする例も次のように報告されています。
①三好市井川の馬岡新田神社(明治16年)
②つるぎ町半田の石堂神社本殿(明治24年)
③美馬市美馬弁財天神社本殿(明治28年)
④杉尾神社本殿(明治35年)
「郷土研究発表会紀要』第38号1992.3、第44号1998.3.「阿波学会紀第49号2003.3、第53号2007.7.55号2009.7.第57号2011.7)。
ここからは、かつては「四国の道は金毘羅に通じる」と言われたようですが、金毘羅は神社建築などでも文化情報の発信地であったことが見えてきます。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

「金刀比羅宮 本宮地域建造物 調査報告書」
参考文献は、巫女がお持ちの「金刀比羅宮本宮地域建造物調査報告書 2024年」です。
関連記事

金刀比羅宮 本宮
金刀比羅宮 本宮 

本宮工事の時に「御本宮再營諸職人」という板札

本宮建設に関わった職人240名のリスト
明治の本宮造営の時には「御本宮再營諸職人」という板札が残されています。ここには本宮建立に参加した職人たち240名が職種別に記されています。これを見ていくことにします。テキストは金刀比羅宮本宮地域建造物調査報告書 2024年 金刀比羅宮」です。前回に上段の大工たちは見ましたので、今回は中段からになります。
その筆頭に来るのが「御宮材木調進方」です。    

「御本宮再營諸職人」という板札
金刀比羅宮 御本宮再營諸職人 御宮材調進方
 「御宮材調進方」の主事は、別宮・本宮ともに小原林右衛門です。出身地を見ると手附3名を含めて全員が土佐国高智(高知)です。別宮・本宮は、両方とも総檜造でした。そのため檜の調達が最優先となるので、檜の産地である土佐出身者が臨時職員として採用されたと研究者は考えています。「御本宮再警竣功之記」には、次のように記します。
①宮材となる檜の良材は土佐国船戸山の峡谷(高岡郡津野町船戸)のものが使用された
②檜の無節にこだわり、渡殿や廊下などでは僅かに節が混じるものは丹念に取り除いて木を撰んだ。
小節ひとつといえども許さない心意気だったことが伝わってきます。

2段目の次に記されるのが蒔絵師です。
江戸時代、蒔絵を施す蒔絵師。細かい作業をする職人に眼鏡は欠かせない(『和国諸職絵尽』より) - 江戸ガイド|江戸ガイド
蒔絵師
本宮の本殿画面板壁と脇障子、本殿・中殿・拝殿の各格天井には、檜の柾目板の木地に高蒔絵の桜の木が描かれています。
P1290091
金刀比羅宮本宮の 本殿画面板壁 桜が描かれている。
白木の上に金色に輝く桜の木の蒔絵を作成した職人たちを見ておきましょう。

金刀比羅宮「御本宮再營諸職人」 檜皮師
           金刀比羅宮 御本宮再營諸職人 蒔絵師 
 
蒔絵師頭取は東京の山形治郎兵衛で、配下の手附も東京です。山形治郎兵衛率いる東京の絵師集団が作成したことが分かります。さらに拝殿の格天井には、西京2名と大阪1名の蒔絵師が加わっています。蒔絵技術を持つ職人は、琴平にはいなかったようです。

続いて金物師を見ておきましょう。
本宮では、素木造の社殿に対して銅金物が各所に多用されています。そこには丸に金の神紋や紋を打ち出しや、地金に葛紋を線刻した意匠で統一されています。板札には、それぞれのグループが担当した部位も詳細に記しています。
金刀比羅宮本社2
           金刀比羅宮本宮の金具

金刀比羅宮「御本宮再營諸職人」 金物師
            金刀比羅宮 御本宮再營諸職人 金物師

別宮棟札には、金具師は琴平の藤本茂吉だけしかみえませんでしたが、本宮では藤本茂助に加えて大阪の大西仙助が頭取として加わっています。そして、次のように2グループ合計32名の名前があります。
頭取 琴平の藤本茂助 その手附に、西京8、近江国2名、大阪4名、高松1名、当村2名の計17名
頭取 大坂の大西仙助 その手附に、大阪から11名、西京から4名の計15名
さらに鉄金物については琴平村の金物師田村榮吉1名、鋳物師は備中国阿曽の林友三郎1名で拝殿擬宝珠を製作しています。こうしてみると金具も京都や大阪の職人が中心となっていたことが分かります。 

2段目の一番最後に出てくるのが檜皮師です。

檜皮師
檜皮師の作業

金刀比羅宮「御本宮再營諸職人」 檜皮師
            金刀比羅宮 御本宮再營諸職人 檜皮師

別宮では、水野宗三郎の頭取1名の1班体制でした。それが本宮では次のように編成されています。
A 檜皮師頭取 摂津国兵庫 小泉 為七 手附は摂津国兵庫から1名、西京から6名の計7名
B 檜皮師頭取 琴平村   岡内小四郎 手附は伊豫国西条から1名、当国丸亀から4名、備前国岡山から2名の計7名
Aの京都職人とBの讃岐・備前・伊予連合の2班体制になっています。檜皮も他国職人に発注しなけらばならなかったようです。

最後の下段には、石工が並びます。
最初、本宮のどこに石が使われているのかと私は疑問に思いました。しかし、報告書には本宮の特色を次のように記します。
本宮本殿・中殿・拝殿は、四段坂の参道に軸線を揃えて旧本宮とほぼ同位置に再営されている。大規模な高床の拝殿の脇間背面通りから後方は、地盤を1、4m高くして、中殿と本殿が建つ神城とする。正面や両側面の壁には延石、地覆石、羽目石、葛石からなる化粧石が施され、擁壁の縁に沿って葛石を布基礎とする透塀を回し、透塀の場内に拳大の玉石を敷き詰める。拝殿・中殿・本殿が接続して後方に高まりながら複雑な屋根の構成をみせる総檜の素木造、総檜皮葺の複合社殿形式になる

豆知識|寺院、神社の新築、改修、屋根(銅・チタン)、地震対策はカナメ

建物の下には大量の石材が使用されているようです。これを扱った石工集団を見ていくことにします。

「御本宮再營諸職人」 石工
2つの石工グループ
金刀比羅宮「御本宮再營諸職人」 石工 琴平在住
           手伝頭・香原政吉が率いる琴平の「引受」石工56名
①最初に来るのが丸亀の石工集団で、頭取の小野利助と小野藤吉が率いる総勢9名
②次に、地元琴平の佐々木儀三郎が頭取を務める備前・長門の12名
③その後に地元の手伝頭・香原政吉が率いる琴平の「引受」石工56名
 別宮や本宮で使用された石材はほぼ全てが花崗岩です。花崗岩は讃岐でも産出しますが、職人の出身地は大きな広がりを見せます。地元讃岐だけでは間に合わなかったのかもしれません。丸亀や備前・長門から運び込まれた石材を修正して設置したのが③の「琴平村の手伝頭・香原政吉が率いる「引受」石工56名」ということになるようです。
ここで疑問に思うのは、琴平にどうして石工が56名もいたかということです。
それは大工が沢山いたことと同じ要因が考えられます。次の表は境内に、いつごろ玉垣が整備されたを示すものです。
4 玉垣旭社前122
ここからは次のような情報が読み取れます。
①18世紀以前には石造の玉垣はほとんどなく、朱色の木造玉垣が主であった。
②石造物の玉垣が造られ始めるのは、1840年頃からである。
③1845年の金堂完成に併せて周辺整備が進められ玉垣・石段・敷石が急速に普及した。
④幕末から明治にかけて、玉垣など石造物で埋められ白く輝く境内に変身した
⑤同時に、石造物需要が高まり、石工が琴平に数多く定住するようになった。
このように明治初頭の琴平には、大工や石工などが数多くいたのです。彼らに仕事を与えるためにも新しい神道様式の本宮・別宮は求められていたのかもしれません。ある意味で、住民に仕事を確保する公共事業的な役割もあったのでしょう。
以上を整理しておきます。
①別宮・本宮造営については大工については、琴平在住の大工で対応ができた。
②しかし、金物師、檜皮師(ひわだし)、石工のなどの各職種については、地元の職人だけでは対応できずに、他国の職人に発注しているものもある。
③一方、琴平出身者がリーダーとなりながら他国者を入れた混合の班編制をして運用している職種もある。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
金刀比羅宮本宮地域建造物調査報告書 2024年 金刀比羅宮
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P1290062
金刀比羅宮 別宮
金刀比羅宮の重要文化財に指定された建築物の中の別宮について、いろいろとみています。今回は別宮建設に関わった技術者集団について見ていくことにします。テキストは「金刀比羅宮本宮地域建造物調査報告書 2024年 金刀比羅宮」です。

金刀比羅宮 別宮5
金刀比羅宮別宮
まず明治時代の別宮造営時の棟札を見ていくことにします。

金刀比羅宮 別宮棟札2
別宮 棟札(明治8年)

まず工期と宮司と権宮司を確認します。
明治8年1月22日 新始式
    10月12日 上棟
明治9年(1876)4月10日 落成・仮遷宮
宮司  深見逸雄(鹿児島県出身 明治政府の派遣) 
権宮司   琴綾宥常(旧金毘羅大権現の金光院主)
禰宜 松岡調(讃岐国名勝図会の絵図製作者・多和文庫創設者)
拡大して、一番下の職人集団のリーダーたちの名前を見ておきましょう。

別宮棟札13の拡大

一番下段には小さな文字で、次のような職人集団の指導者の名前が記されています。
大工棟梁 1名 綾 担三
大工副棟梁 2名 川添清八郎 白川駒造
大工世話方 4名 箸方興平 大西貞蔵 高島久吉 綾儀三郎  
檜皮師、金具師、石工、宮材主事 各1名
棟梁は綾担三、副棟梁は川添清八郎と白川駒造で、琴平村在住の大工たちです。明治8年の別宮上棟に綾担三自身が書いた板札には次のように記されています。

「父ハ綾九良右衛門豊章 金堂今旭社教殿之棟梁也」
意訳変換しておくと
「私の父は綾九良右衛門豊章で、 金堂(現旭社)教殿の棟梁を務めた」

綾担三の父、豊章は旭社を建てた棟梁だと記します。綾担三は、若い頃には豊矩と名のっていて高燈寵を建てています。明治になると名を豊矩から坦三と改めて、金刀比羅宮本宮や別宮の棟梁を務めたことになります。
副棟梁の川添清八郎(明治25年1月没)は、先代の長兵衛の代からの宮大工で、屋号は「西屋」でした。川添家は長宗我部元親の讃岐侵攻の際に土佐から移り、寛文8年(1688)に琴平町に定住したと伝えられます。
 大工棟梁を務めた綾氏は、もともとは山下姓だったようです。 
 
4 塩飽大工
高倉哲雄・三宅邦夫「塩飽大工」成29年(2017)年3月 塩飽大工彰会
以前紹介した「塩飽大工」には、本島泊浦の大工山下家の流れについて次のように記します。

「塩本島泊浦の大工山下家から江戸初期に西讃地方に移った三兄弟がそれぞれ仁尾町、高瀬町、三野町を拠点に宮大工として活躍しするようになる。その高瀬山下家の流れを汲むのが琴平で活躍するようになる綾氏」

そして綾氏(改姓前は山下)が残した建築物を、次のように挙げています。


名前 住所   建設年     建設所在地
山下太郎右衛門  苗田村  1760 宝暦10  善通寺五重塔  
山下理右衛門豊春      1823 文政6  石井八幡宮拝殿  琴平町
山下理右衛門豊春      1824  文政7  石井八幡宮    琴平町
 山下から綾へ改名
越後   豊章 高藪町  1837 天保8  金刀比羅宮旭社  琴平町
綾九郎右工門豊章 高藪町  1849 嘉永2  金刀比羅宮寵所  琴平町
綾九郎右工門豊章 高藪町  1841 天保12  金刀比羅宮表書院 琴平町
綾九良右工門豊章 高藪町  1852 嘉永5  金刀比羅宮米蔵  琴平町
綾九郎右衛門豊章 高藪町  1852 嘉永5  金刀比羅宮通夜堂 琴平町
綾九良右工門豊章 高藪町  1852 嘉永5  金刀比羅宮法中部屋琴平町
綾九郎右工門豊章 高藪町  1854 嘉永7  金刀比羅宮廻廊  琴平町
綾九郎兵衛門豊矩 高藪町  1857 安政4  金刀比羅宮宝蔵  琴平町
綾九郎右衛門豊矩 高藪町  1859 安政6  金刀比羅宮奥殿  琴平町
綾九良右衛門豊矩 高藪町  1859 安政6  金刀比羅宮高燈寵 琴平町
綾坦三(豊矩が改名)高藪町 1875 明治8  金刀比羅宮別宮・神饌所 
綾坦三      高藪町  1877 明治10  金刀比羅宮本宮  琴平町

ここからは次のような情報が読み取れます。
①1760年頃に、高瀬から琴平の苗田にやって来て善通寺五重塔に関わったのが最初
②19世紀初頭に、豊春が苗田村の石井神社拝殿・本殿を担当
③これを契機に、豊章は旭社・表書院などの棟梁を務めるようになり、住所を高藪に移した。
④天保2(1831)年2月に金光院棟梁役を仰せつかった際に、金光院院主を輩出する山下家との混同を避けて綾氏に改名
⑤19世紀中頃から豊章の後を豊矩(後の担三)が継いで、高灯籠などを担当
天保2(1831)年の金毘羅大権現の旭社(旧金光院松尾寺金堂)の初重上棟の脇棟梁に綾九郎右衛門豊章の名前があります。綾と名のっていますが、これは山下理右衛門豊章が金光院院主を輩出する山下家との混同を避けるために「綾氏」に改名した名前だとされます。二重の上棟時には棟梁となり、以後は金毘羅大権現のお抱え大工として華々しい活躍をするようになるのが上表からも分かります。彼の居住地は金毘羅さんの高藪町になっています。豊章という名前からは、豊春の子ではないかと推測できますが、確証できる資料はないようです。豊章の子が豊矩で幕末に高燈寵を建て、明治になると名を坦三と改めて、別宮や本宮の棟梁を務めることになります。 次の綾坦三の棟梁任命書が、それを裏付けます。
 「綾坦三 御別宮棟梁申付候事 明治七年七月十七日 (讃岐国金刀比羅宮印) 
  「綾坦三 御本宮御造営棟梁申付候事 明治十年四月 (讃岐国金刀比羅宮印)」

高灯籠版画
高灯籠 綾担三(豊矩)は、高灯籠の棟梁も務めた

19世紀は金毘羅信仰の高まりと共に、参拝客が激増して財政的に金光院は潤ったことは以前にお話ししました。その経済力を背景に境内整備が進められ、大工たちにとってはいい仕事が続いてあったことを押さえておきます。
別宮の棟札にもどります。大工たちの出身地を見ておきましょう。
「大工世話方係」は班長格の大工で、4名すべてが地元琴平村出身、その配下となる大工80名中69名も琴平出身者です。琴平以外は大阪1名、塩館10名です。別宮や本宮は、地元琴平の大工の手によって建てられたと云ってもいいようです。私は、神仏混淆様式を排した近代的な神道建築のためには、京都から宮大工を招いたのかと思っていましたが大外れです。それに対応できる大工集団が琴平にはいたようです。思い返してみれば、19世紀前半の金毘羅大権現は金堂工事が期間30年間・経費2万両の大工事を行っていました。その後には、7500両の経費がかかった高灯籠も綾担三(豊矩)が務めたことは先ほど見たとおりです。さらに、善通寺の五重塔も同時進行で建設中だったことは以前にお話ししました。そのため腕のいい大工集団が集まっていたようです。

金刀比羅宮 本宮
金刀比羅宮本宮
 次に本宮の建設に関わった大工たちを見ていくことにします。
本宮工事の時には「御本宮再營諸職人」という板札が残されています。ここには今宮建立に参加した職人たち240名が職種別に記されています。これを見ていくことにします。

本宮工事の時に「御本宮再營諸職人」という板札
          御本宮再營諸職人 本宮建設に関わった職人240名のリスト

本宮工事に「御本宮再營諸職人」という板札
               金刀比羅宮 御本宮再營諸職人(一部拡大)

三段になっていますが上段に並ぶのが大工たちの名前です。筆頭部分を拡大してみます。
金刀比羅宮「御本宮再營諸職人」 大工
金刀比羅宮 御本宮再營諸職人の大工筆頭部 大工棟梁は綾担三


大工棟梁   綾担三
大工副棟梁  川添清八郎 白川駒造
大工世話方  箸方興平 大西貞蔵 高島久吉 綾儀三郎 綾弥三蔵 綾喜三郎
先の別宮スタッフに加えて新たに大工世話係に、「綾弥三蔵 綾喜三郎」の2名が加えられています。綾家の三人は名前からして、担三の子息か親近者のようです。以下、出身地を「同村(琴平村)」と表記された大工たちが70名並びます。その中には、綾姓が8名、箸方姓が7名います。琴平以外では、塩飽大工が10名、大阪府が1名のみです。こうしてみると、別宮と同じように、本宮も琴平在住の大工集団で建てられたことが分かります。それだけの技術力や経験を金刀比羅宮の宮大工たちは持っていたことになります。
 大工棟梁の綾坦三に金刀比羅宮が求めたものは何なのでしょうか?
「御本宮再管竣功之記」には、金毘羅大権現の旧本宮について次のように記します。

  旧社殿の造り様は彩色や彫刻など仏教風が強く異国風(インド・中国的)であり、大神に釣り合っていなかった

金刀比羅宮 旧本社天保3年(1832)8月「天保三年御本社園」
金毘羅大権現本社(旧本宮) 天保三年御本社圖
ここからは施主である金刀比羅宮の指導者層が、インド・中国的な異国の仏教的な要素を排して、大神に相応しい復古調的な神道様式を望んでいたことがうかがえます。旧本宮は、袖部は極彩色や動物などの彫刻で飾られていたことが上の「天保三年御本社圖」などからは分かります。脱神仏混淆色のために、動物デザインなど仏教風なものを排除し、総檜の素木造として木肌の美しさで清静さを表現しようとします。屋根には新たに千木・堅魚木を置いて、神社建築の伝統的な要素を加えます。そして本殿と中殿の連結の仕方に工夫を凝らし、各所に目隠しとし脇障子を多用するなど伝統にとらわれない新しい工夫を見せます。
 先に工事を行った別宮では、頭買などの木鼻を角形として絵様形を排除する方向性を取りました。しかし、肘木下端に曲面を残し、向拝やの木鼻や虹梁は旧来と変わらない彫物や絵様形が描かれて華やかな細工になっています。これに対して、続いて行われた本宮工事では、肘木も角形になっています。彫刻的細部は、向拝中備などにしかありません。装飾的細部をさらに削ぎ落としています。
 別宮も本宮も大工棟梁は綾坦三でした。2年しか経っていないのに、次のような様式的な変化が見られます。
A 別宮では伝統的な様式を残し、神仏混淆様式からの脱却が徹底していない
B 本宮では脱神仏混淆色を、より進めて徹底した。
 そのような要望が施主側の金刀比羅宮からあったのかもしれません。それを実現するだけの技術と創意が大工たちにあったようです。どちらにしても、本宮の細部様式は、前例のない新しい様式でした。これは、金毘羅大権現の造営を担ってきた地元大工集団にとっても新しい挑戦にもなりました。 このような宮大工の研究心が、19世紀末から始まる善通寺の11師団の建築群や、旧制丸亀中学の学校建築などにも活かされていくことは以前にお話ししました。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 金刀比羅宮本宮地域建造物調査報告書 2024年 金刀比羅宮
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観音堂と十一面観音
松尾寺の本堂観音寺
神仏分離以前の松尾寺の本堂観音寺堂と、その本尊十一面観音立像です。前回は、この観音堂がもともとは、現在の本宮の位置にあったこと、それが金毘羅神が流行神として信仰を集めるに従って、その場所を金毘羅大権現に明け渡し、この地に移ってきたことを見ました。観音堂の南側には、籠堂や通夜堂などもあり、観音信仰の拠点として活動していたことがうかがえます。それが明治の神仏分離で大きく姿を変えて、観音堂は撤去され、現在の別宮(三穂津姫社)が現れることになります。今回は、その経緯を見ていきます。テキストは「金刀比羅宮本宮地域建造物調査報告書 2024年 金刀比羅宮」です。
明治政府の神仏分離・廃仏毀釈によって、金毘羅大権現の仏教施設は廃止され、急しのぎで次のような神道施設に改変されます。

境内変遷図2 幕末・明治
金刀比羅宮 建物変遷図
①三十番神社 廃止し、その建物を石立社へ
②阿弥陀堂 廃止し、その建物を若比売社へ
③観音堂 廃止し、その建物を大年社へ
④金堂    廃止し、その建物を旭社へ
⑤不動堂 廃止し、その建物を津嶋神社へ
⑥摩利支天堂・毘沙門堂(合棟):廃止し、常盤神社へ
⑦孔雀堂 廃止し、その建物を天満宮へ
⑧多宝塔 廃止の上、明治3年6月 撤去。
⑨経蔵    廃止し、その建物を文庫へ
⑩大門    左右の金剛力士像を撤去し、建物はそのまま存置
⑪二天門 左右の多聞天像を撤去し、建物はそのまま中門へ
⑫万灯堂 廃止し、その建物を火産霊社へ
⑬大行事社 変更なし、後に産須毘社と改称
⑭行者堂 変更なし、大峰社と改称、明治5年廃社
⑮山神社 変更なし、大山祇社と改称
⑯鐘楼    明治元年廃止、取払い更地にして遙拝場へ
⑰別当金光院 廃止、そのまま社務庁へ
⑱境内大師堂・阿弥陀堂は廃止
別宮の周辺の建物だけを取り出して見ておくと

神仏分離による仏堂改変

松尾寺は徹底的に破壊され、神社に改造された跡がうかがえます。       
その翌年(明治2(1869)年4月、「事比羅宮」(旧金毘羅大権現)を多和神社社人の松岡調が参拝しています。彼の日記『年々日記』同年4月12日条に、次のように記されています。(意訳)
4月12日 護摩堂、大師堂なども見てまわったが、①堂内には檀一つも置かれていない。それを見た老女が涙を流しながら「かしこき事よ」と呟いた表情が、印象に残った。
 本宮に詣て、拝殿に上り拝奉した。御前の様子は御撫物は、もとのままであるが、②その他は全て神式に改められていた。白木の丸い打敷のような物に、瓶子が置かれ、平賀のさましたる器に、③鯛が2匹が供えられていた。参拝する人々の中には、生ものが供えられていることに驚く者もいたが、私はその心遣いが上古よりのものであり、こよなく貴いものをと思った。
 絵馬堂を見て、階段を下ろうとすると観音堂も金堂も十王堂も皆、③仏像は取り除かれている様子で、その跡に御簾をかけて、白幣を立置いてあった。
この日記からは、仏教伽藍から神社へのリニューアルが進む明治2年の金刀比羅宮の様子が見えて来ます。仏像仏具に関しては、次のように「廃仏毀釈」されています。
①護摩堂、大師堂などの、堂内には仏像はもちろん檀一つも置かれていない。
②拝殿も全て神式に改められ生ものの鯛も供えられていた。
③観音堂も金堂(現旭社)も十王堂も、仏像は取り除かれ、その跡に御簾をかけて白幣を立置かれてあった。
③からは観音堂も仏像が撤去されて、御簾がかけられていたことが分かります。そして、寺院時代には備えられたことのない生身の鯛が御供えされています。寺院から神社への転換が象徴的に記されています。
 松岡調の日記からは仏像たちがお堂から撤去され、神仏分離が急ピッチで進行していたことが分かります。ちなみに、これから3年後の明治5年〔1872〕1月27日に松岡調は、金刀比羅宮の禰宜に就任し、「近代化」を進めていく立場に立つことになります。そのために行ったことが神仏混淆色を拝した神道施設の建立です。具体的には、今までの金毘羅大権現の本殿を撤去して、新しい本宮を建てると云うことになります。その前に本宮の神々の一時的な遷宮先を確保する必要がありました。そこで着手されたのが別宮建立です。以上をもう一度整理すると以下のようになります。
 
別宮登場の背景は?

本宮の仮遷先となる別宮の造営先として撰ばれたのが旧観音堂(大年社社殿)です。
こうして明治8(1875)年1月12日に旧観音堂の取り壊しが始まります。
多聞院の「片岡信範明治八年仮日記」(「金刀比羅宮史料」第十九巻(大正8年7月)所収)には、次のように記されています。
一月十二日の条
 -旧観音堂 今日ヨリ取壊シ相成候事
二月二十一日の条
 -当月九日 御別宮地所 地築相初リ市中ヨリ寄進指出シ日々々敷恐悦為候事 
ここからは1月12日から旧観音堂の取り壊しが初まり、2月9日は地鎮祭が行われたことが分かります。その様子を示したのが次の絵図です。

事比羅宮境内建物之図 観音堂跡が更地
「事比羅宮境内建物之圖」
「事比羅宮境内建物之圖」には、旧観音堂(大年社)がきれいさっぱりと更地になって、その跡地に工事用の仮囲いが描かれています。右の本宮は金毘羅大権現時代の社殿で、この後に新築されることになります。
 松岡調の「年々日記」(明治八年一月条:「黎明期の金刀比羅宮と宥常」所収)には、次のように記されています。
 ***三日・(前略)・・・三時も過る頃にいたりて、遙に太鼓の音聞ゆるなへ、人のハやセる声も聞ゆ、さらハ御宮材を引来るならんと、此方よりも太鼓打合せやかて黒門より男も女も若もたるも、めてたしと手を拍つ□おとり来る、其さまのいさきよき事、云んかたなし、・・(中略)・・三時にいたれハ、やうにひきとりつ、今日の材木を引ものともは、坂町、内町新町の者ともの、八百人ハかりも引なるか、昨夜より丸亀へものして、車四つにて引来れる今は御柱のれうの一本を、金の大鳥居より引来れるなりとそ、・・・・(後略)

意訳変換しておくと

 1月3日 ・(前略)・・・三時すぎになって、太鼓の音が遙かから聞こえる。人の掛け声や囃す声も聞える。さらには御宮材を引っ張るのを手伝いとして、どこかしこから太鼓を打合せて、黒門から男女や若者も集まってくる。めでたしと手を拍ち、踊りながらやって来る、その光景は言葉に表せないほど貴い。・・(中略)
三時になると賑わいも鎮まった。今日の材木を山上へ引き上げるのは、坂町、内町新町の者たちで、八百人ばかりの人達が参加した。この材木は昨夜から丸亀へ出かけて、車四台で引き帰ったものである。今日はその内の御柱の一本を、金の大鳥居より引き上げるという。・・・(後略)

ここからは次のような情報が読み取れます。
①木材は船で丸亀湊に輸送してきたものを、荷車で琴平に運んできたこと。
②門前町の人々が祭りの山車のように木材を山上にボランテアで引き上げていること

 こうして旧観音堂跡地には「本殿 + 中殿 + 拝殿」の複合社殿「別宮」が姿を現します。

金刀比羅宮 別宮5
金刀比羅宮 別宮

最後に別宮の役割と特徴について、整理しておきます。
①別宮は本宮よりも小規模で、簡素な造りとされているが、正遷宮後は末社社殿として位置づけられ、仮宮としての機能を担っている。
②木鼻を角形とする試みもいち早く取り入れるなど、続く本宮工事への試行的要素も見られる。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「金刀比羅宮本宮地域建造物調査報告書 2024年 金刀比羅宮


P1290064
金刀比羅宮 別宮
前回は明治維新後の神仏分離で姿を現した金刀比羅宮の別宮(現三穂津姫社)について、次のようにまとめました。

別宮登場の背景は?

明治時代に別宮が出来るまでは観音堂があったのです。観音堂は次のように立地場所を移します。それを今回は追いかけて見ようと思います。

金毘羅大権現観音堂の変遷

①1571年 宥雅が松尾寺の本堂観音堂を建てたのは現本宮の位置
②1624年 本宮の向かい側の北寄りに移築
③1659年 別宮の位置に東向きに移築
まず松尾寺観音堂の創建から見て行きます。

宥雅の建立した松尾寺と守護神金比羅堂の位置

長尾城城主の宥雅(長尾高広)が善通寺での修行を終えて、その末寺の称名寺に入るのが1570年のことです。この時期は丸亀平野の支配権をめぐって、天霧城の香川氏と阿波三好氏に従う香西・羽床・長尾氏などの間で、小競り合いが続く頃です。1573年には、天霧城が落城し、香川氏が備後に亡命する事件が起きています。一方、三好氏の保護を受けた真宗興正寺派の阿波の安楽寺が、讃岐に教線を伸ばし、各村々に道場が姿を見せる時期でもありました。
 このような中で1571年に、宥雅は新たな真言寺院・松尾寺を建立します。そして、その守護堂とし2年後に建立したのが金毘羅堂です。この時の棟札が宝物館には保存されています。これが金毘羅神についての最も古い一次史料になります。つまり、金刀比羅宮には中世に遡る歴史はないと近年の研究者は考えています。  
宥雅の金毘羅建立

 それでは宥雅は観音堂や金毘羅堂を、どこに建てたのでしょうか? 
金毘羅堂と観音堂の位置

上の図で見ておきましょう。
A 観音堂   現在の本宮
B 金刀比堂  四段坂の登り口
Aの観音堂の建つ位置は、 象頭山の地層が変わるとこで断崖にテラス状の平地が現れるところで展望も優れています。山林寺院の建立場としては最適です。ここに松尾寺の観音堂は姿を見せます。その本尊として迎えられたのが十一面観音です。

11金毘羅大権現の観音
             金刀比羅宮宝物館の十一面観音

金刀比羅宮十一面観音の由来 仮説1

藤原期の十一面観音像とされますが、今は化仏がありません。この観音様は、いまは宝物館にいらっしゃいます。明治の「廃仏毀釈」の中でも金刀比羅宮が守り通した仏像です。松尾寺の観音堂には、この観音様が安置されていたことを押さえておきます。 
 しかし、松尾寺を建立したばかりの宥雅に、思ってもいなかった激変が襲いかかってきます。
土佐軍の讃岐侵攻です。宥雅は堺に亡命し、無人となった松尾寺は、長宗我部元親の配下の修験者宥厳に管理運営を任されます。この時期は土佐の修験者たちによって松尾寺が運営され、多くの院坊が形成されます。そのような中で主導権を握ったのが宥盛です。彼は強い天狗信仰をもち「死しては天狗となって金毘羅大権現を守らん」とも云ったと伝えられます。こうして宥厳・宥盛の時代に、金光院は 松尾寺から金毘羅大権現へと立ち位置を移していきます。それが伽藍配置に目に見える形で現れます。

金刀比羅宮 正保年間境内図

まず1618年の生駒藩からの寺領寄進状には、それまでの松尾寺や金光院でなく「金毘羅大権現」と記されます。これが金毘羅大権現の初見史料になるようです。そして1623年になると新しい金毘羅堂が建立されています。ここには「内陣・弊(拝)殿・拝殿」と記されているので、神道的な本宮が登場したことが分かります。また、旧金比羅堂をを役行者堂にしたとあるので、それまでの仏教的堂ではなく神道的本宮だったことが裏付けられます。その場所が、いままで松尾寺の観音堂があったところだったようです。そして、観音堂は金毘羅大権現本宮に場所を譲って、翌年に移築されます。このことについては後世の人達から「松尾寺は、金毘羅大権現に軒先を貸して、主屋を乗っ取られた」と揶揄されることになります。ここでは観音信仰から出発した松尾寺は、17世紀初頭には金毘羅信仰へと大きく信仰対象を換えたとを押さえておきます。その管理運営の中心が金光院と云うことになります。

金刀比羅宮 元禄頃の境内図
元禄末頃(1704)の金毘羅大権現境内

そして髙松藩初代藩主・松平頼重の保護を受けた金毘羅大権現は、上図のように元禄末頃には伽藍を一新します。観音堂も本宮の横から現在の別宮のある所に移って大型化します。18世紀初頭に書かれた金毘羅大祭屏風図を見ておきましょう。

金毘羅大祭行列図屏風(18世紀初頭) 
金比羅大祭屏風図(18世紀初頭)の本宮と観音堂

金毘羅大権現伽藍 金毘羅参詣名所図会
          金毘羅大権現 本社 (金毘羅参詣名所図会)

こうして見ると一等地を金毘羅大権現に譲り、その南に観音堂は控えたような風情がしてきます。
それでは観音堂の役割は何だったのでしょうか?

金毘羅大権現 観音堂行堂(道)巡図
金毘羅大祭の舞台となった観音堂(金毘羅山名所図会)
ここには10月10日の金刀比羅宮の大祭「お十日(おとうか)さん」の観音堂行堂(道)巡図」がえがかれています。大祭の際に、観音堂のまわりを神官や五人百姓たちが「行堂=行道=行進(パレード)」する姿です。もともとは松尾寺の法華経を守護する三十番社のお祀りでした。そのため本堂である観音堂を舞台に行われていました。各地から集まった信徒たちが観音堂の周りを練り歩いたのです。讃岐国名勝図会に載っているものも見ておきましょう。

大祭観音堂行道 讃岐国名勝図会
                観音堂行堂巡図(讃岐国名勝図会)
①観音堂の周りを神輿が練り歩いている。
②これに五人百姓たちも従っている。
③観音堂の縁台には、頭家(とうや)僧が見守っている。
ここで注意しておきたいのは、行堂(道)は本宮ではなく観音堂のまわりを巡っていること、その主催者は神官ではなく僧侶であることです。何かを担いでいる人が五人百姓のようです。何を担いでいるのかは、よく分かりませんが「奉納品」のようです。そうだとすると、近世に流行神として金毘羅大権現が勧進される以前から、五人百姓と修験者たちは観音堂への信仰によって結ばれていたことになります。ここでは、五人百姓が金毘羅大権現が現れる前から観音堂の信者であり、祭礼に重要な役割を果たしていたこと、松尾寺から金毘羅大権現へ信仰対象を移し替えても、大祭は従来通り観音堂に捧げられていたということを押さえておきます。

大祭4
大門前に整列し、観音堂に登っていく大祭行列

DSC01629大祭図
同じく大門前の大祭祭礼図

観音堂のもうひとつの役割が、金剛坊殿と併設されていたことです。
金毘羅大権現観音堂 讃岐国名勝図会
金毘羅大権現 観音堂(讃岐国名勝図会1854年)
金剛坊は金光院の初代院主とされる宥盛のことです。
『古老伝旧記』は金光院別当の宥盛(金剛坊)のことを、次のように記します。
宥盛 慶長十八葵丑年正月六日、遷化と云、井上氏と申伝る
慶長十八年より正保二年迄間三十三年、真言僧両袈裟修験号金剛坊と、大峰修行も有之
常に帯刀也。金剛坊御影修験之像にて、観音堂裏堂に有之也、高野同断、於当山も熊野山権現・愛岩山権現南之山へ勧請有之、則柴燈護摩執行有之也
意訳変換しておくと 
宥盛は慶長十八葵丑年正月六日に出家し、俗名は井上氏と伝わる。慶長十八年から正保二年迄間三十三年、真言僧で両袈裟で修験号を金剛坊と称し、大峰修行も行っている。常に帯刀也。金剛坊(宥盛)の御影は修験姿で、観音堂裏堂に安置されている。高野山、熊野山権現・愛岩山権現などを勧請した。また柴燈護摩祈祷を何度も行った。
ここには金剛坊の御影の修験姿像が観音堂裏堂(金毘羅堂)に安置されていると記されています。こうしてみると、金毘羅大権現として祀られていた修験者の姿をした木像は、宥盛であったかもしれない可能性も出てきます。それをまとめると次のようになります。
①金光院の修験者達は、その始祖・宥盛の「祖霊信仰」をはじめた。
②その信仰対象は宥盛が自ら彫った宥盛像であった。
③この像が金毘羅大権現像として観音堂浦堂の金毘羅堂に安置された。
④その脇士として不動明王と毘沙門天が置かれた

観音堂平面図 江戸時代
観音堂の金剛院殿内部の略図

松尾寺観音堂鰐口2
金毘羅大権現 観音堂に吊されていた鰐口(金刀比羅宮宝物館蔵)

松尾寺観音堂鰐口
最後に幕末の観音堂の周りの宗教施設をもういちど見ておきましょう。

金毘羅大権現観音堂 讃岐国名勝図会
金刀比羅宮観音堂の南にある籠堂・通夜堂(讃岐国名勝図会)
この絵図を見ると観音堂の南側には絵馬堂や千体仏堂・孔雀堂などの施設が見えます。私が気になるのは、籠堂と通夜堂です。この名前の通り、観音堂の法会などでは世を明かしての宗教的な行事や、修験者や天狗信者に対する宿泊施設のサービスが行われていたことがうかがえます。観音堂は、金毘羅大権現における仏教行事の中核センターであったとも思えてきます。そういう意味でも、江戸時代の金毘羅大権現は神仏混淆の仏教施設であったとしておきます。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
ことひら町誌
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まんのう町文化財保護協会の秋のフィルドワークで、今年も金刀比羅宮を訪ねました。昨年は宝物館を中心に見学しましたが、今年は重要文化財に指定された本宮・別宮(三穂津姫社)・旭社を見てまわりました。その報告記を載せておきます。
最初に「四国新聞・2024/05/18」で事前学習をしておきます。
(前略)
明治初頭の神仏分離で仏教色を排し、神社として再興するため境内を再編しており、明治政府の宗教政策への対応を示す貴重な事例。複合社殿の本宮と別宮は独自の細部意匠を備え、両宮をつなぐ渡り廊下など一連の施設と共に優れた景観を形成していることも評価された。(中略)
金刀比羅宮本社周辺図


県内では明治以降の建造物が重文指定されるのは初めてで、今回答申された建造物は次の12棟。
「本宮本殿・中殿・拝殿」
「本宮神饌殿(しんせんでん)」
「本宮直所(じきしょ)」
「別宮本殿・中殿・拝殿」
「別宮神饌殿」「別宮直所」
「祓所殿(ばつじょでん)」
「南渡殿(みなみわたどの)」
「神楽殿」「御炊舎(みかしぎしゃ)」
「神輿(しんよ)庫」
「神庫」
 いずれも1874~78(明治7~11)年に建てられた。金刀比羅宮はかつて「金毘羅大権現(こんぴらだいごんげん)」として神仏混交の寺院でもあったが、1868(同元)年の神仏分離令から神社として再興。組織の再編に合わせ、境内も大規模に改編した。
県教委などによると、1878(同11)年建築の本宮は仏教色をなくし、壁面や天井に木地蒔絵(まきえ)を施した複合社殿。拝殿から本殿に向かって床高を上げることで格式を高め、破風(はふ)を多用した屋根も荘厳で優美な雰囲気を醸し出している。本宮本殿などを修理する際に本宮からご神体を移す別宮も本宮に準じた高い格式で、神饌殿や直所など付属施設を伴う構成も同じという。また、両宮をつなぐ全長42メートル、高さ2・2メートルの長い渡り廊下「南渡殿」は金刀比羅宮独特の形式。同時期に建てられた神楽殿、御炊舎など各殿舎も残り、同審議会は「優れた社頭景観を呈するとともに、神仏分離による境内改編の様相を伝え、歴史的に価値が高い」としている。
それではまんのう町役場から町のマイクロバスで出発です。

P1290044
金刀比羅宮山上から望む阿讃山脈と大川山
今回は文化財研修ということで、専用道路の使用許可をいただき町バスで山上まで上がること出来ました。バスから下りるとこんな風景が拡がります。阿讃の山が幾重にも連なり、朝の神域は空気まで美味しく感じます。

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昨年と同じ学芸員の森下さんに御案内していただきます。
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大銀杏が色付き初めています。まずは正面の祓除殿に向かいます。
金刀比羅宮本社上空写真1
      金刀比羅宮本宮地域建造物調査報告書の表紙 2024年 金刀比羅宮
金刀比羅宮本社周辺図

四段坂の階段を登った所に本宮、旭社(旧金堂)への下口前に別宮が鎮座します。山上の本宮と別宮をを回廊が結んでいます。まず山上の一番南の建物から見てまわります。

P1290050
金刀比羅宮 別宮の南側より 左が祓除殿・右が直所
金刀比羅宮 祓除殿2
金刀比羅宮 祓除殿
祓除殿(ばつじょでん:はらえでん)」は、穢れや災厄を取り除く儀式である「祓い」を行う場所だそうです。殿上に上がる時には、ここで「祓い」受けます。この施設は、神仏混淆の金毘羅大権現時代にはありませんでした。神仏分離後の明治10年(1877年)に建立されたものです。この建物も重要文化財に指定された12棟の文化財の一つです。もともとはガラス扉はなく、開放的な空間だったようです。

金刀比羅宮 別宮 祓除殿 直所
                 金刀比羅宮 祓除殿(左)と直所(右)

金刀比羅宮 別宮祓除殿内部
金刀比羅宮 祓除殿内部 ここで穢れや災厄を取り除く「祓い」を行います。

金刀比羅宮 直所1
金刀比羅宮 別宮の直所
祓除殿に並んであるのが直所です。直所は拝殿の番所です。「金刀比羅宮攝末社陪祀史」第二巻」(大正10年)には次のように記します。

「夜間出仕一人奉仕して警衛の任に当たる」

建築年代は、別宮と同じ明治8年(1875)に付属施設として建てられています。

金刀比羅宮 別宮直所内部
金刀比羅宮 別宮の直所内部

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かつては祓除殿の南側には隣接して絵馬堂がありましたが、今は更地になって広々した空間になっています。
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ここは神域の景観が大きく変わったとこです。そのために南方の景色がよく見えるようになりました。

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大銀杏の下を通って、別宮の南側から正面に移動していきます。

P1290058
 別宮の正面が見えて来ました。

P1290061
別宮は、旭社への下り参道の正面に建っています。振り返ると別宮の正面です。

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金刀比羅宮 別宮拝殿の正面 
金刀比羅宮 別宮正面図
金刀比羅宮 別宮(三穂津姫社)拝殿 正面図
調査報告書56Pには、別宮について次のように記します。

金刀比羅宮 別宮5
金刀比羅宮 別宮 拝殿と本殿
①拝殿から後方は地盤を0.7mほど高めて、周囲に切石2段の石積上に葛石を回し、
②この石を布基礎として透塀を回して中及び本殿を開い。内部に拳大の玉石を敷き詰める。
③拝殿・中・本殿が接続して複雑な屋根の構成をみせる
④総欅の素木造、総檜皮葺の複合社殿形式
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金刀比羅宮 別宮拝殿
⑤拝殿は高床の建築で、切石二段布積の布基礎上に上部梓付きの角柱を土台建て
⑥組物は大斗財木で柱間の使い正背面両脇は疎組だが、柱間中央では大木を配って詰とする。
⑦軒は二軒で角垂木を疎らに配る。
⑧屋根は入母屋造檜皮葺で、飾は前の上に三を組み、中に神紋を備えた彫物を配し、絵様を施した虹の上に笈形付大東を立て、破風の拝みに鯖付き無懸魚を釣る。


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⑨正面千鳥破風は大棟に高さを揃えて前方に棟を延ばし、妻は花狭間格子、拝懸魚は大屋根と同様とする。

金刀比羅宮 別宮本殿
金刀比羅宮 別宮平面図
平面図を見ておきましょう。
①桁行三間、梁間二間で、正面中央間特に広く12尺(3.6m)
②疎垂木を16枚(1枚=7寸5分)に割り付け、両脇は9枝と狭くし、側面は11枝等間
③拝殿中央間の柱は、正面向拝並びに後方に続く中殿及び本殿の間口に揃えた重要な基準間
④正面及び両側面は各間に双折れ唐戸を両外開に構え、正面中央間は長押を一段切り上げる
⑤背面は中殿に続く中央間を開放とし、両脇間は両外開きの唐戸を構える。

金刀比羅宮 別所本殿内部
金刀比羅宮 別宮拝殿から本殿への階段

金刀比羅宮 別宮 三穂津姫社例祭2
金刀比羅宮 別宮拝殿内部 (三穂津姫祭)

この別宮が建てられる前には、ここには何が建っていたのでしょうか? 

金毘羅大権現観音堂 讃岐国名勝図会
金毘羅大権現の観音堂(讃岐国名勝図会)
讃岐国名勝図会には、別宮がある所に松尾寺の本堂(観音堂)が描かれています。
 明治維新の神仏分離によって、金刀比羅宮は金毘羅大権現を追放し、新たな国家神道の宗教施設としての道を歩み始めます。しかし、山上には今までの神仏分離の仏教色の強い本宮や、旧観音堂(松尾寺の旧本堂)が、そのまま残っていました。これらの宗教施設を一掃し、近代的な国家神道に相応しい宗教施設群の建設を金刀比羅宮は目指そうとします。ちなみに、幕末から明治にかけての金毘羅信仰の高まりはすざましく、経済的基盤にはめぐまれていたことは以前にお話ししました。こうして、山上におけるリニューアル工事が明治8年にはじまり、旧本社や旧観音堂は撤去されることになります。
 さて、ここで学芸員の方から出されたクエスチョンです。本宮と別宮では、どちらが先に建てられたでしょうか?
本宮の方が優先度が高いはずです。しかし、新しい本宮を建てるためには、神様を別の施設に遷宮をしなければなりません。つまり、祭神を一時的に迎える宗教施設が必要になります。そのために建てられたのが現在の別宮なのです。現在の別宮は、祭神の遷宮受け入れ先として造られたことを押さえておきます。建築順からすると、本宮よりも別院の登場の方が早いということです。

別宮登場の背景は?

P1290066
重要文化財と書かれた別宮と三穂津姫社の看板の大きさに注目
かつては、この建物の看板には三穂津姫社と大きく書かれ、そこには祭神である大国主命の妻を夫婦で祀ってあることになると書かれていた記憶があります。しかし、重要文化財指定後は「御別宮」と大きくあり、三穂津姫社の説明版は小さくなっています。ここには、この建物が遷宮祭の際に使用される「別宮」であることの方をを強く打ちだしているように感じます。

金刀比羅宮 別宮 三穂津姫社例祭
金刀比羅宮 別宮拝殿で奉納される三穂津姫舞

ちなみに、この建物が三穂津姫社とされるようになるのは、いろいろな経緯を経て後年のことになるようです。そこにはいろいろな内部での意見対立などもあったようです。最後に、別院は三穂津姫を祀るために造られたのではなく、別院として造られた。そのために、別院は面積的には本宮の半分の規模だが、本宮と同じように、直所や神饌所などの付属施設を持っているのです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
 金刀比羅宮本宮地域建造物調査報告書紙 2024年 金刀比羅宮
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「氏神」を国語辞典『日本国語大辞典(第二版)」(小学館、2001年)で調べてみると次のように記されています。
①氏人がまつる氏族と関係の深い神や氏族の祖先神など。またそれをまつった神社。藤原氏の春日、鹿島、香取神社、橘氏の梅宮神社、源氏の平野、八幡神社平氏の平野、厳島神社など、氏の神。
②村落共同体が共通の守護神としてまつる神。またそれをまつった神社村氏神。鎮守。産土神。
②の用例として、「臥雲日件録』文安四年(1447)8月13日の次の記事を挙げています。
凡世人、以神明主于我所生之地者、謂之氏神
(凡そ世人、神明の我が所生の地に主たる者を以て之を氏神と謂う)
「氏神」という言葉は、古くは①のように「氏族の神」でした。藤原氏や源氏などの大氏族が自らの神とする春日社、八幡社などの神社ではなく、地域の有力者がそれぞれの家で祀っていた、それぞれの氏の神であったはずです。
 戸田芳実は、紀貫之の屋敷の垣根に用いられる卯の花を詠った次の歌に注目します。

「祭る時咲きも合うかな卯の花は なお氏神の花にぞ有りける」(「貫之集」三四二、)

意訳変換しておくと
 春の氏神の祭の時に咲く卯の花は、まことに氏神を象徴し、荘厳する役割を与えられた花であることよ

 ここには屋敷の中で祀られる「氏神」と卯の花の関係が詠われています。屋敷の中に祀られた先祖神を祀る神が氏神という認識です。これに対して、②の用例に挙げられた風雲録相国寺の僧瑞渓周鳳の日記)の例は、「村の鎮守=氏神」とします。これは①の氏族の神、屋敷の神という意味とはちがう使い方で、新しく使われ始めた用法のようです。

氏神の認識変化

そうだとすれば、もともとは領主の屋敷の神であった氏神が、どこかの時点で村の神として祀られるようになり、それを「氏神」と呼んだことが考えられます。 ここには中世前期には、領主層の氏神祭礼であったものが、中世後半になると郷村の文化へと転化していく姿が見えてきます。ある意味で武士居館は、先進文化の導入口の役割を果たしていたことになります。中世の武士たちが戦乱の中で離散し姿を消しても、その慣習・文化は郷村のものとなり、維持、活用されていったことが考えられます。
 中世社会では、武家屋敷の東北に鬼門除けの宗教施設が置かれることがよくありました

飯山国持居館1
中世の武士居館 東北の尾根の上に鎮座する氏神
室町幕府の「御所八幡」などもその例です。室町幕府を開いた足利尊氏が、自らの邸宅内の守護神として、八幡神社を舘の東北隅に勧請します。それが居館が廃絶した後も、神社は村のものとして受け継がれて氏神として発展していくのです。武士居館の中には、神社だけでなく、持仏堂(じぶつどう)や屋敷墓も造られました。

持仏堂のある武士の舘 一遍上人絵伝
武士居館の中の持仏堂 一遍上人絵伝
持仏堂は、個人が平素から信仰している仏像(念持仏)や祖先の位牌を安置するための堂です。武士の居館内に建てられることが多かったようです。源頼朝が奥州征伐の祈願所として御所の裏山に設けた持仏堂は、頼朝死後に法華堂と呼ばれ、彼の墓所となりました。そして、菩提寺へと成長して行きます。持仏堂が、武士たちが離散し居館が消えても、郷村の手によりお堂として管理維持されていくものがありました。
 近江一向一揆の拠点として有名な金森の場合を見ておきましょう。
ここでは集落の南西側に隣接して城館がありました。
金森寺内町
金森寺内町絵図
現在の集落の中にある金森御坊は、武士居館跡の東北に当たります。つまり、武士居館の東北に建てられた浄土真宗の道場が金森御坊のスタートだったことが考えられます。そして、その周囲に寺内町が形成されたことが推測できます。
 館跡の屋敷墓が村の共同墓地となっている例として研究者がとりあげるのが、木部城跡(滋賀県野洲町)です。
 木部は、浄土真宗木部派の本山錦織寺がある所です。その寺伝には、もともとは天台宗の別院があったのを「邑主石畠資長」が親鸞に帰依して跡を継いだとされます。ここからは武家領主による関与がうかがえます。木部城跡周辺の地籍図を見てみましょう。
木部城跡の屋敷墓

居館跡の東北隅には、木部地区の共同墓地があり、元禄3年(1690)の「三界万霊塔」が中心に立っています。この墓地はもともとは、居館の屋敷墓だったものが、近世に共同墓地化したことが考えられます。

屋敷墓の起源と性格

 屋敷墓とは、屋敷地内の東北隅に造られた墳墓のことです。祖先(屋敷創設者)の墓を造り、先祖を神として祀ると共に、屋敷相続の正当性を得るという思惑があったようです。讃岐でも12世紀から屋敷墓が造営され、14世紀前半で中断します。これは惣村の発生によって、屋敷の所有権が村落共同体によって保証・強化されるようになったので屋敷墓の存在意義がなくなったためとされます。一族の離散や滅亡と共に居館が廃絶した後に、屋敷墓を中心に集落の共同墓地が造られるようになります。それは、居館から見ると東北部に位置することになります。
 木部城跡の北側には「北三行寺」、東側に「南三行寺」の地名が残ります。これがかつての「天台宗の別院」跡かもしれません。こうしてみると「木部城」の東北隅にも、かつて何らかの宗教施設があり、館が廃絶した後に、その場所が村の共同墓地化したと推測できます。

 滋賀県守山市の勝部火屋城の地籍図を見ておきましょう。
勝部火屋城跡の共同墓地
中央に「火屋共同墓地」があります。地籍図を見ると、墓地があるのは、堀跡を思わせる水路に囲まれた一画の東北部にあたります。隣接地には「城ノ越」の小字があります。先ほど見た木部城の場合と同じように、領主館の鬼門除けの位置にあった中世墓地が、館の廃絶後に村の共同墓地・火葬場とになったことがうかがえます。
以上から次のような説が生まれてきます。
①中世武士の居館の東北には鬼門除けの宗教施設が置かれた。
②それが八幡神社やお堂・寺院・先祖神を祀る墓などであった。
③それらの宗教施設は、武士居館廃絶後には、郷村の手によって守られることがあった。
④逆に言うと中世に遡る寺院や神社の西南方面には、武士居館が隣接していた可能性がある。
④の「古い寺社の西南に武士居館あり」説を、多度津の道隆寺で見ておくことにします。
多度津の道隆寺は、中世には「海に開かれた寺院」として、塩飽諸島から荘内半島までの数多くの寺社を末寺とする大寺でした。
道隆寺と入道舘
道隆寺境内の東南東100㍍ほどの所に「入道屋敷(武士居館)」と呼ばれる東西75m・南北65mの畑があります。近年までは堀状の凹溝があったようです。これは武士居館とされます。その鬼門の東北部に現在の本坊があります。このレイアウトは「中世に遡る寺院や神社の西南方面には、武士居館あり」説にピタリと当てはまります。武士居館が堀江の入江に建てられ、その氏寺として東北部に建てられたのが「原道隆寺」、それが中世に現在地に移動という筋書きが描けそうです。
武士居館と寺院・中世墓・神社・集落との位置関係には、なんらかの関係がありそうです。

古い寺社の西南に武士居館あり」説

 中世には武士居館は「文明の窓口」としての機能や役割がありました。武士居館を通じて郷村にもたらされた宗教的施設や文化が、郷村の手によって引き継がれ残されたとしておきます。それが「氏寺」の呼称に痕跡が見られるようです。
参考文献
小島道裕 儀礼の場としての武士居館
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室町時代の国人館や大名館の居館レイアウトは、よく似ています。
飛騨の江馬氏館と、洛中洛外図屏風に描かれた幕府(将軍邸)や細川氏館と比べて見ましょう。

江馬氏下館
飛騨の江馬氏館 下は発掘平面図

飛騨の江馬氏館

ふたつを比べて見ると
A 館の正面に堀(薬研堀)と築地塀を設けて二つの門を開け
B 門を入ると広場と建物群
C 右に大きな園池
これを見ると飛騨の江馬氏は、都の花の御所をモデルにして自分の館を造営したことがうかがえます。 江馬氏は、南北朝初期から室町幕府と密接な関係がありました。飛騨の在地支配を行なう上でも、幕府の権威を目に見える形で表す建造物を目指したのでしょう。鎌倉期に在地性を強めた国人領主たちが、室町時代になると幕府と個別に関係を結びつき、国人領主同士が協働して地域秩序を形成するようになります。そのような中で、将軍家の舘のレイアウトを真似た建物群が地方にも現れるようです。これを研究者は「花の御所体制」と読んでいます。
 応仁の乱後になると守護が戦国大名化するようになります。そして国衆(国人領主)は、その被官となり組織化されるようになります。
 この時期の守護大名も室町幕府のモデルをコピーにしたようで、その構造はよく似ています。

朝倉一乗谷舘復元
 越前の一乗谷 朝倉氏館
大友宗麟武家屋敷
豊後の大友氏館(豊後府内)

今川義元居館
今川義元居館
越前の一乗谷朝倉氏館、豊後の大友氏館(豊後府内)、今川義元居館などの発掘調査で、分かってきたのは
「館の正面に堀(薬研堀)と築地塀を設けて二つの門 + 広場と建物群 + 池のある庭園」の共通点があることです。岐阜城の麓にある織田信長の館でも、大規模な庭園があったことが近年の発掘調査で分かってきました。

岐阜城の信長居館2
岐阜城下の信長舘と庭園
ここでは信長が安土城を築いて、天守に象徴される近世城郭モデルが普及するまでは、室町幕府の「花の御所」モデルが規範となっていたこと、それを真似て戦国大名達は自分の居館を造営したこと押さえておきます。
 戦国期までは、室町幕府に連なることを目に見える形で示すために、京都の将軍と同じような館を築くことが、ステイタスシンボルとして求められたようです。これは、前方後円墳というモニュメントを築くことで、広域的政治連合に加わり、地元での地盤を固めた古代豪族と共通点があるようにも思えてきます。
 次に犬追馬場と儀礼の共通性を見ていくことにします。
犬追物は40間四方の平坦な馬場に150匹の犬を放ち、36騎(12騎が一組)の騎手が決められた時間内に何匹犬を射たかを競う競技です。射るといっても犬を射殺すわけではなく「犬射引目」という特殊な鏑矢を使います。ただ当てればよいというわけではなく、打ち方や命中した場所によって判定が変わる共通ルールがあったようです。つまり、競技場となる「犬の馬場」には、共通の規格性があったことになります。

犬追物 洛中洛外図屏風(歴博甲本)
洛中洛外図屏風歴博甲「本」に描かれた「犬追馬場」

犬追物に熱心だったのが管領の細川政元でした。
彼は15世紀末に、細川一族をまとめて上げて権力を握ります。しかし、天狗になろうとして修験道に凝って奇行が多かったとされます。その細川政元に可愛がられたのが香西又六(元長)です。政元は、犬追物を頻繁に行っていますが、その中心として活躍している元長の姿が、史料から次のように見えて来ます。
1489(長享3)年正月20日 元長の最初の登場記録

 細川政元、犬追物を行う。香西又六(元長)・牟礼次郎ら参加する。(「小野均氏所蔵文書」『大日本史料』 第八編之二十八、198P)

1489年(長享3)年8月12日
蔭凍軒主のもとを訪れた塗師の花田源左衛門の話が細川京兆家の政元に及んだ。13日の犬追物では、香西党ははなはだ多数であり、(香西氏が属する)讃岐藤原氏は七千人ほどもいて、他の武士団は動員力でこれには適わない。牟礼・鴨井・行吉なども香西と同族の者である。現在、京都に集まつている香西一族は300人を越えるのではないかという。
(「蔭涼軒日録」同前、3巻470頁)
 都に300人を集めての「犬追物」が行われています。ここからは次のような情報が読み取れます。
①軍事的示威行動でもあり、権力示威イベントでもあったこと
②「香西一党」は、在京武士団の中では最強の軍事集団だったこと
 管領細川政元が越後に下向した際の記録でも、連日のように馬場に出ています。これは政元が熱中していたと云うこともあるでしょうが、別の意味があったことが考えられます。それは犬追物が屋外での接客の場で、中央権力者と地方有力者をつなぐ「名刺交換会」の役割をもっていたことです。
 中央の権威を反映した館(モニュメント)を建造すると同時に、有力国衆は、犬追物を行うための施設・装置も求められていたことになります。また、そこで名を上げるためにも大小の国衆たちは自前のトレーニング場が必要になってきます。犬追物は、縦の武士社会の中で求心力を持つための装置であったと研究者は考えています。

三宅御土居の復元模型
                                                            益田市七尾城 三宅御土居の復元模型
 そのため武士居館の付属施設として犬追物が馬場(犬の馬場)が設置されています。地名から残る犬の馬場の一例を挙げると
①益田氏の七尾城の麓にある小字名「上犬ノ馬場・下犬ノ馬場」
②朝倉氏の越前一乗谷
③大友氏の豊後府内
④六角氏の近江観音寺城
⑤上杉氏の越後府内
など、多くの事例が挙げられます。

佐料城周辺図
例えば香西氏の居館跡とされる佐料城跡の西側にも「馬場の谷」が見えます。ここでも乗馬以外にも、騎射や犬追物のトレーニングが行われると同時に、一族の「犬追物大会」が行われていたことが推測できます。ここでは武家としての儀礼を行なう場として、居館とセットで犬追物の施設が作られていたことを押さえておきます。 
 犬物は、多くの参加者が集う場で、地域の武士を集め、自らの権威を増すための装置として機能もあったはずです。

犬追物屏風3 17世紀
犬追物屏風(右2枚) 17世紀

犬追物屏風2 17世紀
               犬追物屏風(中央) 17世紀
犬追物屏風 17世紀
                犬追物屏風(左2枚) 17世紀
最後に中央の権威を反映した館(モニュメント)と共に、「犬の馬場」は、武士社会の中で求心力を持つための装置であったことを押さえておきます。そこで犬追物が行われる時には、物見高い民衆が集まってきたはずです。犬追物は、地域の一大イヴェントに成長して行きます。武士の居館は、イヴェント会場の施設でもあったことになります。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
小島道裕 儀礼の場としての武士居館
参考文献


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