瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

佐文綾子踊が無事に奉納できました。多くの人々のお参り参観、ありがとうございました。     
 

箸蔵寺境内図

 「箸蔵寺旧記」には、箸蔵寺の由来や建物履歴などが書かれていますが、その成立については次の2つの説があるようです。
A 箸蔵寺の山号は「宝珠山」だが、修験者たちの山岳修行の行場・道場だったので「仙岳」とも呼ばれた。その箸蔵寺に伝わる縁起や歴史を記したので『仙岳誌』である。
B 幕末に活躍した住職の仙岳が記したことに由来する。
どちらが正しいのかは、追々考えることにして、書かれている内容を冒頭から見ていくことにします。
テキストは「箸蔵寺調査報告書49P 池田町教育委員会」に掲載されている「箸蔵寺旧記聞伝覚書」です。)。
箸蔵寺旧記聞伝覚書1
          箸蔵寺旧記聞伝覚書   現住 仙岳誌 箸蔵寺由来 NO1
冒頭部を意訳変換しておくと
一、この鳥居から箸蔵寺までは十八丁。鳥居の高さは三間、橫は2間半、柱は五尺四寸。
一、A長宗我部元親が土州より侵攻し、大西氏の白地城が落城するまでは、箸蔵寺は上の堂にあった。兵火で焼失して、夜ごとに山中で光るものが見える。これを長曾我部の手勢が見つけて訪ねてみると、樹下に靈像があった。これが当山の権現の本尊薬師如来とその眷属たちの像であった。火中に残り姿を見せていることに深く感じ入った土佐出身の男は、この霊像を祀った。しかし、約三十ヶ年間も、堂寺はなく庵があるだけであった。男は妻を娶り、二人の男の子を得た。そうする中で夢の中に金毘羅大権現が現れ、次のように告げた。「兄に家名を継がせ、弟を出家させて寺堂宮を造立すべし」と。そこで、奥社では遠いので朝暮の山坂で充分に祀ることができないので、寺を現在地に移した。
ここに書かれていることを要約しておきます。
①箸蔵寺は、長宗我部元親と大西氏の兵火の中で焼失した。
②焼失後、退転した寺の管理を行ったのは土佐出身者で、上の堂から現在地に寺を移した。
ここで注目したいのは、退転した箸蔵寺を復興したのが土佐出身者であることです。前々回に紹介した地福寺旧記には、次のように記されていました
①退転した箸蔵寺を再興したのは、地福寺の宥伝と、その末寺真光寺の宥寛の師弟コンビだった。
②弟子の宥寛は、土佐浪人の倅であった。
 箸蔵寺復興者については、地福寺旧記の内容を補完する内容です。退転した箸蔵寺の復興者は、土佐出身の修験者であることがうかがえます。さらに、箸蔵寺に中世の歴史はないとすると、これが実質的創建者とであったと私は考えています。琴平の金毘羅大権現の別当寺の松尾寺も長宗我部元親が土佐から呼び寄せた修験者のボスである宥厳に任されます。金毘羅も箸蔵寺も、土佐の修験者によって復興(創建?)されたことを押さえておきます。また金毘羅神は、近世初頭に天狗信仰者によって生み出された流行(はやり)神であることは以前にお話ししました。中世にその起源を遡ることはできません。
 次は長宗我部元親に代わってやってきた蜂須賀藩の対応が、どのように書かれているかを見ていくことにします。 

箸蔵寺旧記聞伝覚書2
           箸蔵寺旧記聞伝覚書   現住 仙岳誌 箸蔵寺由来 NO2
意訳変換しておくと
一 阿波藩主の先代蓬庵公が巡国の際に、当庵に隠者がいることを聞いて、庵までやって来た。住持は、以前の領主様(大西氏? OR 長宗我部元親?)は、金毘羅大権現の本尊へ供田を寄進されるとともに、自分の祈祷所として保護されていましたと申上げた。これを聞いて蜂須賀家の藩主は、箸蔵寺に対して山内七十七町七反四畝の山林の證文と禁令の制札を下し、藩の祈願所に取立てて保護下に置いた。そして、本社・幣殿、拝殿本堂、鐘楼堂、大門、宝蔵方、庫裏等などが(藩主によって)再興された。
 ところが寛文七(1667)年四月に、火事が起り、寺、諸堂、 社宝物、 證文などが焼失した。この時に、御手板だけは燒残ったので、現在も箸蔵寺で保存されている。その後、長谷川越前様の仕置の際に、杉桧が生え重るようになっていたので(藩の)御林に組み入れられた。
箸蔵寺の高燈籠 煙草・水運関係者
箸蔵寺 高灯籠 左が大門
  高燈籠の高さは、三丈 石口より四間半、周囲は2間四方
昔は、ここに制札場があり、次のような藩主の禁令が掲げられていた。
一 当山では他所の者が無断で材木を切ることを禁令で禁止する。もし伐採する者があれば成敗する。
一 竹の子やひね竹一本でも切ることは許さない。これは堅く守るべきこと。桑や茶の木も、また伐るべからず
                         文禄三年四月三日蜂須賀 御判
ここでは蜂須賀家の保護を受けることで箸蔵寺は大伽藍をもつ大寺に成長したことが記されています。
しかし、前々回に見たように近世の史料からは、箸蔵寺が諸役御免と無役の下人、畠1町八反三歩の御免を受けていたことは記されていますが、多くの神域を保障されていたことなどには触れられておらずよく分かりません。
 私がここで気になるのは、「長宗我部元親=破壊者=悪玉説、蜂須賀家=復興者=善玉説」に色分けされて歴史が叙述されていることです。
その延長線上に書かれている『池田町史 上巻』は、次のように記されています。

長宗我部の侵入の際に、三好郡の神社、仏閣や武士、富裕な農民などの邸宅はすべて焼き払われ、あるいは略奪されたと言い伝えられている。馬場の東福寺、昏石の昏石寺、井ノ久保の大林寺、馬路の明長寺、佐野の最勝寺、野呂内の中蓮寺、大利の真光寺、川崎の安養寺、黒沢の長福寺、新山の法蔵寺、妙蓮寺、州津の奥霊寺等多数の寺々が焼かれたと伝えられている。また、白地城、中西城、漆川城などの城跡周辺には、元親軍との戦いで戦死した武士の墓と伝えられる塚が点々と残っている。

これが本当なのかという疑義を私は持っています。香川県でも長宗我部元親は悪玉として描かれてきましたが、その見直しが始まったばかりです。長宗我部元親は短いけれども支配者として君臨しました。その間に「スクラップ & ビルド」を行っています。ビルドの面があったことも見ていく必要があるように思います。

箸蔵寺旧記聞伝覚書3

縁起 - こんぴら奥の院 箸蔵寺
箸蔵寺全景 大門は右下
意訳変換しておくと
一 茶堂は三間×四間
一 大門は三間×六間の規模であったが、35年前に焼失。それを文政九戌年に復興した。
一 大門・諸堂社の再興時の材木は祖谷山の喜多源内殿からの寄進で、栗ヶ仁尾という高山に生えていた槻木を吉野川を流して運んできたものである。
一 祓(はらい)川と云うのは、弘法大師の加持水で、この水を使って当山参拝者たちが身体の不浄をはらためである。弘法大師は、この川について次のように詠んだ。
○身体に積もる不浄(コリトリ)を浄める祓川。
○清浄の積る塵垢(こり)拂ひ川
(大門の)右手が深沙大様で、怨敵退治の龍神。
左手が不動明王で、悪魔降伏の明王である

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箸蔵寺大門
ここには大門や緒堂の材木が祖谷から吉野川の川流しによって運ばれてきたと記されています。吉野川流域では、現在の早明浦ダムの奥の土佐からも木材が流されていたことは以前にお話ししました。これらは吉野川河口に運ばれ、中世には堺の商人の手を通じて畿内に売りさばかれていました。堺商人の阿波進出は、木材と関係あるようです。そのルートをつたって、吉野川沿いに真宗興正寺派の教線が伸びてきて、美馬が安楽寺がその拠点となることは以前にお話ししました。
 祓川については、讃岐の金毘羅大権現では、髙松街道が土器川を越える辺りが祓川と呼ばれていました。髙松方面からやってきた参拝者たちは、象頭山を仰ぎ見ながら土器川(祓川)で身を清めました。山岳信仰の寺院は、不浄を浄める川や泉は不可欠でした。また大門の右に祀られている深沙大様は珍しい守護神です。 

箸蔵寺 東の堂「蔵谷厳窟」2
箸蔵寺奥の院 金毘羅大権現を祀る蔵谷巌窟
箸蔵寺奥の院 蔵谷権現を祀る
箸蔵寺 蔵谷岩窟に祀られる金毘羅大権現

一 この鳥居の内側は、弘法大師の開山時より、邪(じゃ)結界の霊地で、地名を蔵谷と云う。当山の魔所とされてきた。一年に三度、八丁四方の注連縄を回して、諸人の立ち入りを禁じているエリアである。ここは巌窟から(金毘羅)現権が現れ、弘法大師と出会った場所である。弘法大師は金毘羅大権現から「参詣する諸人に除災興楽を興へよ」という誓願を受けて七堂伽藍を建立した。そして、一年に一度は諸人に不思議を見せ、信仰を生じさせんとして、讃州金比羅から十月十一日の夜に眷属(天狗)に、祭礼に使った頭人祝ひの箸や土器を、この霊窟に運び収めさせたと申し伝えられている。こうして、大祭後の十月十一日の夜の間に箸や土器は金毘羅には壱本も残らずなくなるようになった。

一 これについては天保巳年讃州金光院より御役場へ、箸蔵寺が金毘羅大権現の奥の院と称する由縁についてお訊ねがあった。そこで、箸を蔵谷へ運び収めるとの契約あるによって箸蔵寺と号し、権現出現の時の威光を輝く姿をもって真光院と号すことを伝えた。

ここには、江戸時代に半ばに高野山の高僧が書いた箸伝説縁起が下敷きになったものがそのまま引用されています。そして、琴平の金光院からの詰問に対して弘法大師と金毘羅大権現との間に結ばれた「箸を蔵谷へ運び収める契約」があることを証としたと記されています。

箸蔵寺の金毘羅大権現への接近

しかし、これは箸蔵寺の一方的な言い分で、
本家の琴平の金光院には、箸蔵寺関係の修験者によるの贋開帳記録が次のように残っています。
①天保6年10月 箸蔵寺が、金毘羅の隣りの天領苗田村長法寺で、平家の赤旗など持ち込み、剣山大権現や金毘羅大権現といって開帳。
②11月   箸蔵寺で金毘羅蔵谷出現の奥の院といって開帳。
③天保7年6月  金光院が箸蔵に派遣した調査報告では、神体は岩屋で神像はなかった。
④天保15年 箸蔵寺で贋神号事件が再度発生、
⑤弘化2年4月 贋縁起札守版木など、郡代役所から引渡され、一応落着。
⑥嘉永二年 箸蔵の大秀という修験者が、多度津で銅鳥居の勧進を行い、多度津藩に召捕えられる
⑥嘉永4年、 箸蔵寺、再度贋開帳。
このように箸蔵寺の修験者たちは、長期に渡って金毘羅大権現の贋開帳事件を起こしています。そして贋開帳事件の責任をとって、院主が阿波藩から二度も追放されています。しかし、それでも贋開帳事件は続発します。贋開帳を行っていた箸蔵寺の修験者たちによって「箸蔵=金毘羅さん奥の院」説は流布されたのです。それだけ多くの山伏たちが箸蔵寺の傘下にはいたことになります。それが幕末の伽藍整備の勧進力になるのと私は考えています。続いて見ていきます。
一 当山は東西に伸びた山の形が宝珠に似ているので寶珠山と弘法大師が名付けた。
一 以来、この山は不入の山とされてきた。文政年間の初めからは修験者宗休が蔵谷の八丁下りに堂を作り、十二ヶ年余りに渡って長期間の修行を行ってきた。その後、当山に身を隠した。この行者の験のお陰か、三月、六月、十月十一日十二日の一年に三度、金毘羅大権現が現れた。人々は、山に拝礼し、信心の者は精進潔済して当山に参詣した。年を経て、この行堂も痛みがひどくなったので、七年巳前に三間四方の行堂を再興した。この地は、谷底なので百三十間の岩石が一面に続く瀧がある。
一 ここは今は畠地になったが、昔はここに三重塔があって、字名も三重塔床(跡)と伝えられている。
ここには文政年間に箸蔵山で修行した修験者宗休のことが紹介されています。多くの行者が長期間にわたって修行を行う行場が数多く点在していたこと、そこで数多くの修験者たちが修行に励んでいたこと、幕末の箸蔵寺は修験者の密度が濃かったことがうかがえます。それが阿讃の山を超えて財田から三豊への勧進活動の原動力だったのかもしれません。
  最後に、善女龍王の勧進について見ておきましょう。
一 当山、霊山とされるのは、本社より25丁上の山の峯に、弘法大師が善女龍王を観請し、往来の諸人の渇の乾きを癒やすために、加持して湧き出した一杵(いっしょ)の由来にもとづく。旱魃之際にも、この泉が水量が一定で枯れたりすることないので、諸人は「壱升水」と呼ぶ。
今年のような旱魃の時には、諸国からこの霊水を持ち帰り、雨乞祈祷を行う。その効験あることは世間の知る所である。ある時には善女龍王は小蛇に化身して社頭に姿を見せることもある。まことに不思議の霊場である。
善女龍王は、弘法大師伝説のひとつのジャンルです。善女龍王が讃岐で最初に勧進されるのは、17世紀後半の善通寺です。善通寺を中心に善女龍王伝説は広がっていったようです。その流布ラインが箸蔵寺にまでおよんでいたことがここからはうかがえます。

さて、最初の疑問に戻ります。この文書は何のために書かれたかということです。末尾には「このように藩からのお訊ねがあるときには、住職は以上のように答えてきた。」とあります。これからは藩などの公的機関からの問い合わせに対する想定問答集であったことが分かります。江戸時代後半になると大きな寺院では藩の問い合わせに対して、このような想定問答集が常備されていきます。それを書き写し残したのが幕末から明治にかけて活躍した仙岳だったと私は考えています。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 
「宝珠山真光院箸蔵寺調査報告書 2004年 池田町教育委員会」
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P1160245ha箸蔵寺 天狗面
箸蔵寺本殿 金毘羅大権現の両脇をかためる天狗たち
江戸時代後半の箸蔵山が阿波の人々からどのような目で見られていたのかを今回は見ていくことにします。
まず「阿州寄事雑話(あしゅうきじざつわ)」を取り上げます。

阿州寄事雑話1
この本は阿波国の奇談や地誌、伝承を集めた地誌・随筆集で、著者は横井希純(よこいきじゅん)です。阿波の狸伝説や山川町の妖怪伝説の種本になっていて、近年は人気があるようです。そこには箸蔵山のことが次のように記されています。
三好郡洲津村箸倉山は讃の象頭山の南方に当て四五里を隔つ、昔より伝え云ふ、金毘羅にて用ひ捨つる箸は皆此の山に飛来るとなり、此の山も霊異多し、近年仔細有りて此の山の大木を伐りたるに山騒しくして寺中の小僧等失せて山中に迷ひ居し事度々に乃べり、又白昼に単衣を着せし男身を縮めて紙鳶の如く中天を飛て此の山に至るを近所の民打見およびたる多しと云ふ、
此の辺の人家の内一軒如何成る山神の憎しみを受けし事にや、ある時つぶ打事夥し、且大木をも投げぬ、家人皆逃れ去りしが竟に此の家を打潰しぬ、並に此の伐たる木の末木抔鍛冶炭になせしに其の鍛冶有りし処に火起りし事有りとなり、かやうの山には此の類多し。 (此の類の怪事は今に所々
にて毎時有ゆえ記すに暇あらず)
意訳変換しておくと
三好郡洲津村箸倉山は、讃岐の金毘羅大権現の象頭山の南方四、五里に位置する。金毘羅(大祭)で使用済みで捨てられた箸は、すべてこの山の飛来すると昔から伝えられる。箸蔵寺も霊異が多い山である。近年に仔細あってこの山の大木を伐ったところ、山騒しくなって、箸蔵寺の小僧が山中に迷い込みいなくなってしまった。白昼に単衣を着た男身が紙鳶のように中天を飛んでこの山にやってくるのを近所の人々は何度も見たという。
 箸蔵寺の人家の内の一軒がどうしたことか、山神の憎しみを受けることになってしまった。すると、つぶてが飛んできたり、あるときには大木も投げつけられ、家人は皆逃れ去ったが、それでも許さずに、ついにはこのの家を打潰してしまった。また、この伐った木で炭焼きをして鍛冶炭にしたところ、鍛冶屋が火事になったこともあった。箸蔵山にはこのような類の話が多い。 (此の類の怪事は今に所々にて毎時有ゆえ記すに暇あらず)
ここには 箸蔵山は、奇っ怪なことが起きる不思議な山であることが書かれています。
このような話は、疫病退散のために寝ずに一晩をお堂で過ごす庚申の時に、村人達が語り合った物語が今に伝えられていることが多いようです。これらの物語を伝えたり、創作したのは山伏(修験者・聖)だったと民俗学者たちは考えています。山伏たちは、あるときには薬草をあつかう漢方医であり、悪病退散を祈祷する医術者でもあり、剣山や石鎚山へ信者を誘引することもしました。妖怪伝説や悪霊伝説などの物語が色濃く残っている所には、それに比例して山伏の痕跡が濃いと研究者は指摘します。
 ここには箸蔵山が特別な霊威の空間であることを伝える意図が見えます。例えば「男身が紙鳶のように中天を飛んでこの山にやってくる」というのは、天狗伝説です。中世の山伏たちは、鞍馬天狗や弁慶の物語に出てくるように、修行で天狗になることができると思っていました。そして天狗のように空が飛べる飛行術を身につけようと修行に励んでいたのです。このような天狗信仰者が象頭山に金毘羅大権現を開き、それを箸蔵寺にも勧進してきたということになります。「阿州寄事雑話」で語られた物語が時代を下ると、村々で起きた事件として残されるようになります。
今度は、「燈火録(とうかろく)」に出てくる著倉山を見ていくことにします。
この書は、文化9年(1812年)に出された阿波の総合的な地誌・歴史書で、著者は元木蘆洲(もときろしゅう)です。
箸蔵寺 燈火録
                燈火録(文化9年(1812年)
意訳変換しておくと
讃岐の讃州金毘羅神は、例年十月の御祭礼行啓を終えると陪従の人々に摂侍所にて宴席が設けられる。それが終わると、腕も箸も総てを置いたままで下山する。そして、翌日の十日十一日は申刻過から山門に竹垣を結て登山を禁じる。ところが、どうしたことか、置き残した箸が総て三好郡箸倉山の岩倉へ夜中に山神(天狗)によって持運び納められると云う。また除災の衛護のためにと宿所へ持帰ったものも、土蔵にしまい込んだものも、悉くなくなっている。奇異な事だ。

まずは金毘羅大権現と箸蔵山を結ぶ「箸運搬と天狗伝説」が語られます。次に、その神域を犯す者への天罰が次のように述べられます。

箸蔵寺 燈火2
意訳変換しておくと
 箸倉山の樹を伐ることは、山神の嫌うところある。また霊窟のあたりへは、人々は近寄らない。箸蔵寺の僧ですら、行て帰らないものもいる。神域の林樹を買った者でさへ伐取人はもとより、木を仲介した先々まで神罰があったという。そのため、それを知っている人々は神罰を怖れて、箸蔵山産の薪炭を買うことを避けようとする。
 ある年、当山の寺の木を樵って渓間に多く積み置いていたところ、洪水で流されてしまった。 それが麻植郡の何某の家の垣に流れついた。そこで二階に積み置いて、外へ出て畠の仕事をしていた。すると拾った樵木が水に濡れて乾いてもいないのに火がつき燃え出し、家は跡形もなく焼失してしまった。
 徳島新町鍛冶屋の某は、炭を買て積置いていたところ、火が出て隣家までも焼亡してしまった。後日に聞けば、この炭が箸蔵山で切り出し焼かれた炭だったとのこと。また寛政の頃に、、箸蔵山の樹を買取りって伐出した杉丸太三間を十本ほど、三好郡芝生村の酒屋へ売却し、門内の隅に立懸けて置いた。その家の庭は広いので、七月の盆踊り会場となっていて、周辺の若者たちが集って踊っていた。すると、虚空よりぱらぱらと小石が降ってきたので、人々みな家の内へ駆け込んで、興が冷めてしまった。この家主があやしみ怒って、これは狸の仕業にちがいないと空鉄砲を発射して威嚇すると、小石はますます激しく降ってきた。ついには、二人で持たなければ動かない大石が打ち降り、家の屋根が打ち抜かれ瓦が砕け落るすさまじい音がして、人々は恐怖におののいた。主人が非難すると暫時にして止んだ。家宅は壊れたが、怪我をした人はいなかったのが吉兆だったと、翌日に近隣の人々を集めて酒を勧めて無事を祝した。その時に人々が云うには、箸倉の神の御咎だろうということになり、この丸太を前の川に流した。その後は何の障怪もなかったという。この辺りの人が来て、離したことを語るままに書き付けたものである。

ここには箸蔵山で切られた木がいろいろな禍をもたらすことが繰り返し述べられています。この物語を創作した山伏の伝えたかったことを推論してみます。
①箸蔵山が神域であること
②その木を切ったり、妄りに立ち入った者に対しては神罰が下されること
このような物語を拡げることで、箸蔵山周辺の山伏たちは自分たちの行場ゲレンデであり、聖域であるテリトリーを守ろうとしたことが考えられます。つまりは、箸蔵寺が彼らにとっては守るべき聖域であったことになります。そのために多くの山伏(修験者)がやってきて修行にはげんでいたのでしょう。

全国にある大師堂の多くは、山伏(修験者・高野聖・熊野行者)などの遊行の跡だった研究者は考えています。
ただ彼らは記録を残さなかったので、その由来が忘れ去られてしまいました。全国の多くの熊野社が熊野山伏や熊野比丘尼の遊行の跡であり、多くの神明社が伊勢御師の廻国の跡であるのと同じです。妖怪街道沿いにも、そんな修験者や聖たちの痕跡が数多く見られます。修験者の中で、最初に吉野川流域にやってきたのは熊野行者のようです。熊野行者は、次のようなルートで吉野川の上流をめざしたことは前にお話ししました。

熊野業者による吉野川流域への教線拡大

熊野行者たちは、断崖や瀧などの行場を探して吉野川の支流の山に入り、周辺の里に小さな社やお堂を建立します。そこには彼らが笈の中に入れて背負ってきた薬師さまや観音さまが本尊として祀られることになります。同時に彼らは、ソラの集落の芸能をプロデュースしていきます。盆踊りや雨乞い踊りを伝えて行くのも彼らです。また、今に伝わる昔話の原型を語ったのも彼らとされます。各地に現れた「熊野神社」は、熊野詣での際の道中宿舎の役割も果たし、孤立した宗教施設でなく熊野信仰ネットワークの一拠点として機能します。

  例えば土佐の本山町では、祖先の始祖を若宮八幡や先祖八幡としてまつることが多いようです。
ここでは、若宮八幡は門脇氏一族だけの守護神です。それに対して、聖神は人々の信仰対象になっていて、出物・腫れ物や子供の夜晴きなどを祈っていたようです。このような聖神は山伏の入定塚や六十六部塚が信仰対象になるのとおなじように、遊行廻国者(修験者)が誓願をのこして死んだところにまつられます。聖神は庶民の願望をかなえる神として、「はやり神」となり、数年たてばわすれられて路傍の叢祠化としてしまう定めでした。このような塚が阿波のソラの集落にも数多く見られます。
 熊野行者たちは諸国巡礼を行ったり、熊野先達を通じて、密教系修験者の幅広いネットワークで結ばれていました。
例えば、彼らは讃岐の与田寺の増吽などの師匠筋から「大般若経の書写」への協力依頼が来ると引き受けています。このように阿波のソラの集落には、真言系修験者(山伏)の活動痕跡が今でも強く残ります。妖怪街道と呼ばれる山川町の藤川谷川流域も、山伏たちの密度が濃く、活発な活動が行われていたエリアです。彼らは、庚申信仰を広め、庚申講も組織化しています。悪い虫が躰に入らないように、庚申の夜は寝ずに明かします。その時には、いくつもの話が語られたはずです。その時に山伏たちは熊野詣でや全国廻国の時に聞いた面白い話や怖い話も語ったはずです。今に伝えられる昔話に共通性があるのは、このような山伏たちの存在があったと研究者は考えているようです。以上から山伏が自分たちの行場であり、活動エリアである箸蔵寺周辺を聖地として守るために、意図的にこのような物語は作られたのではないかと私は考えています。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「宝珠山真光院箸蔵寺調査報告書 2004年 池田町教育委員会」
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箸蔵寺の金毘羅大権現化戦略

前回には、箸蔵寺の創建について次のようにまとめました。
A 近世以前の史料は箸蔵寺にはないこと。つまり、金毘羅大権現と同じように近世初頭に生まれた寺院であること。
B 箸蔵寺再興(創建)は、地福寺の修験者たちによっておこなわれたこと
C そのための箸蔵寺は修験者(山伏)の拠点として発展していく。

まず、箸蔵寺が蜂須賀家の保護下に、どのように置かれたのかを見ておきましょう。
 秀吉は四国平定を行うと、天正13年(1585)に蜂須賀家政を阿波に入部させます。支配が安定化した文禄2年(1593)になると、藩主が国内巡視を行うようになり、三好にもやってきます。その時に、箸蔵寺の宥観(寛?)阿闍梨は由緒を言上して藩主を諸堂再建の大施主と仰いで帰順を示します。これに対して藩主は、境内の免地と永代寺領三百石を与え、次のような禁を下して保護をしたと記します。 
定 著藏寺
一 當山において、他所之ものむさと入りこみ材木きる儀、堅令停止候条、所之者としてせいたう可仕事
一、竹の子並ひね竹壱本もきるべからず、 是又堅可相留事
一、 桑之木、並茶之木、これ又伐べからざる事
文禄二年四月三日       蜂須賀(花押)
意訳変換しておくと
定 著藏寺
一 当山において、他所から入り込み材木などを切ることを今後禁止する。もし禁令を犯せば成敗する。
一、竹の子やひね竹なども、一本でも切ることを許さない。堅く守ること
一、 桑の木や茶なども、これを伐ってはならない
文禄二(1593)年四月三日    蜂須賀(花押)
藩主が与えた「境内の免地と永代寺領三百石」というのは、金毘羅大権現の別当金光院に生駒家が与えた寺領に匹敵します。私は、これをそのまま信じることはできません。また、禁令を見ると、当時の箸蔵寺周辺には竹や桑・茶などが「栽培」されていたことがうかがえます。竹は、竹篭などの竹細工の材料、桑は養蚕、茶は中世以来のこの地区の特産品です。
  私が気になるのが「箸蔵寺の住職が宥阿闍梨」と記されていることです。前回見た地福寺旧記には、近世の箸蔵寺の再建者は、地福寺の宥伝とその弟子の真光寺・宥だと記されていました。そうだとすれば、宥観と宥寛は同一人物の可能性もあります。近世初頭の箸蔵寺の梶取りは、地福寺関係者がになっていた可能性を指摘しておきます。
徳川幕府は、各宗派の本山を寺社奉行の支配の下に置きました。
日本仏教史と再臨摂理への準備シリーズ10 | 「洗脳」「マインド・コントロール」の虚構を暴く

寛永十年(1633) には、諸本山に命じて「末寺帳」を提出させています。これによって全国の寺院が、本山→本寺→中本寺→末寺孫末寺に格付けされ、ランキングが固定化されることになります。三好郡では、箸蔵寺・桂林寺・雲辺寺などが中寺として郡代の直接支配下(郡代直当) に置かれました。その他の末寺は、その支配下に服することとなり、「付帳」に記載されます。本寺は末寺に対して書を示し、末寺に対して誓紙を入れ厳しい支配をうけることになります。このような流れの中で箸蔵寺は、慶安四年(1651) に、御室御所 (仁和寺) 上席資格の中山となり、ランクアップに成功します。こうして直属末寺の支配だけでなく、近国の寺院に対する色補任状取扱いを許される寺となります。そして地福寺や真光寺を末寺にしていくことになります。
箸蔵寺の発展の様子を、阿波藩の「棟付帳(賦役帳:人頭税の負担割当)」で見ていくことにします。

三好郡之内州津村棟付人改御帳」に見える箸蔵寺

  明暦四年(1658) 「三好郡之内州津村棟付人改御帳」(注12)の州津村と箸蔵寺
州津村全体で家50戸、 人数179人 (男子のみ)、 高合318石三斗七升七合
壱家、 箸蔵寺、歳三十七、同宿人(弟子?) 歳十五、 寺の小家の下人が二戸で七人
  延宝二年(1674)の「三好郡之内州津村棟付人改御帳」を見ておきましょう。

箸蔵寺延宝二年(1674)の三好郡之内州津村棟付人改御帳

意訳変換しておくと
一 壱ケ寺 宝珠山箸藏寺 歳参拾弐(住職)
張紙
 箸藏寺は諸役御免となっており、その配下の下人は無役であり、棟付帳に書き込まれていない。この度の検地で箸藏寺境内にも竿入(測量)が行われ、「諸役御免」の申立があり協議確認が行われた。関係する畠数一町八反歩については下人についても、今まで通り免除扱いで処理され、その旨が担当者の加嶋伊織殿より申し渡された。棟付帳についても下人も無役であることについて、張り紙をして証明できるような処置することを、聞届けていただくことになった。
享保16(1713)年十二月
  林九平    印
岩田吉兵衛  印
安富丞右衛門  印
以下、箸藏寺の下人が記されています。
小家        作               同四拾八(年齢)
この者は脚が不自由であるので、野々村左門様が作成時には母親が連去っており不在であったために記載漏れになっていた。寛文六年に戻ってきた。
箸藏寺下人
小家      彦十郎   同四拾八
この者は野々村左門様の作成時には同郡東山村へ入婿に入っていて不在だったが、寛文三年にもどってきた。
彦十郎子
壱人  七歳    (以下略)
末尾に、州津村全体で家86戸、人数242人(男子のみ)  高合331石5斗四升二合と記されています。ここからは次のような事が読み取れます。
①この「棟付帳」で、始めて箸蔵寺に「宝珠山」の山号が付けられたこと。
②箸蔵寺が諸役御免と無役の下人、畠1町八反三歩の御免を受けていたこと。
③最後に「(石)高合(計)331石」とあるのは、州津村全体の石高で寺領の石高ではないこと
以上から、箸蔵寺は貢納負担を免除された上に、藩の夫役を免除された「下人」(百姓や雑役夫)を抱え込んで、自由に使役することができていたことが分かります。

明和6年(1769)の「三好郡州津村人数下調御改帳」を見ておきましょう。
(州津)村全体で家一五七戸、人数三六一人 (男子のみ) 高合、 三三六石一升七合三句
一壱ヶ寺  宝珠山箸蔵寺  比箸蔵寺往古より諸役御免 二面下人等無役被仰付尚又境内畠数壱町八反三歩御免地二而拝領居申候」
ここからは州津村の戸数が百年で約2倍の157戸、男子人口も1,5倍に増加しています。しかし、石高は微増に留まっています。この時期になると寺の弟子も三人、小家も七戸、下人も十三人となり、畑作面積も1,8㌶にまで増えています。さらに寺の規模が大きくなっています。ここでは下人について次のような説明文が付けられている者がいます。

箸蔵寺 明和六年(一七六九)の「三好郡州津村人数下調御改帳」

箸蔵寺下人 小家 為六 四拾四(年齢)
この者は、讃岐丸亀藩の財田村の者で18年以前にやってきて箸蔵寺の下人に召し抱えられ、境内の御免地で生活している。
以下の二人も讃岐丸亀藩出身の下男です。
 権六  58歳 この者は、讃岐丸亀藩の大見村出身    
 治平  46歳 この者は、讃岐丸亀藩の大野原村出身
丸亀藩からやってきた百姓が箸蔵寺境内に住み着き下人として暮らしていたことが分かります。彼らを箸蔵寺へ誘引したのも讃岐の三豊地方で活動する修験者だったことが考えられます。

文化期(1804) の「代帳」には、
箸蔵寺の延宝2年(1684)以来の累代の名前と没年が記されています。
箸蔵寺累代住職名
「代統帳」箸藏寺累代住職名
意訳変換しておくと
宝珠山 此僧延宝貳年棟付御帳付二而
箸蔵寺 元禄六酉二月八日病死
宥保 この僧は享保20年十月二日に病死
運智 この僧は元文3年七月廿三日病死
寬悟 宝暦七 隠居 同八年寅戌再住
勝應 此僧宝暦八年 正月廿一日病死
寬悟 此僧後住の勝應が病死したために再度住職に復帰
寺役を務め宝暦12年三月廿一日病死
見光 此僧宝暦12年三月廿一日病死
雲龍 此僧寬政二年二月七日病死
俊珍 此僧文化 正月十一日病死
箸藏寺現住職 寬雅 申歳47才
ここには元禄以前の住職名は記されていません。地福寺や真光寺からやってきた宥元や宥寛の名前はここにありません。そして、名前に「宥」を持つものもいません。代替わりが行われて、其れより前の住職の系図が失われたか、意図的に消去したことが可能性があります。
その後に直属下人9名とその累代の小家下87名が記述さています。また、この時の台帳には箸蔵寺下人の累代の系図も記されています。代々、箸蔵寺に仕える下人であったことが分かります。

文久元年(1861)年に住職の仙岳が著した「箸蔵寺旧記聞伝覚書」には、文化年間(19世紀初め)に箸蔵寺周辺で活動した修験者の宗休について次のように記します。

当寺の奥の院蔵谷で火断木食や断食を行い、諸高山霊跡にて参修行を行い、時々当山に来て唯一山の復旧を語る。身は天狗と化して天保四年の秋に身をかくした。

ここからは箸蔵寺周辺の行場で天狗になることを目指して荒修行に専念する天狗信仰の修験者たちがいたことが分かります。それを誇らしげに記しています。彼らにとって、「奥の院蔵谷」は弘法大師によって開かれた名高い行場で、聖地でもあったことがうかがえます。そして、19世紀になると運智・快典が住職となり、「金毘羅大権現奥の院」を前面に出して全国展開を始めて信者層を全国に広げます。それを担ったのが修験者たちでした。

Cg-FlT6UkAAFZq0金毘羅大権現
       金毘羅大権現と天狗(修験者)達 (金毘羅大権現の別当院金光院発行)
箸蔵寺と天狗
箸蔵寺本社の天狗面と修験者

嘉永七年(1854)の夏には箸蔵寺は次のような「御本社再建寄進帳」を各村々に配付します。

箸蔵寺御本社再建寄進帳 嘉永
箸蔵寺「御本社再建寄進蝶」嘉永7(1854)年夏四月 中津川村

                         世話人 平右衛門  平藏
寶珠山箸藏寺
文政九年の春當山諸堂一宇も残らず焼失す、 其後仮堂社を造営すといへ共、荘厳金美せず、而信仰を運に足ず今般講中 并信心の檀越を語らひ、御鎮座本社拝殿幣殿長廊等 絵図の通、再建致度、當寅夏より普請に取懸罷在候、 是に依て諸国参詣の道、俗貴賎更に十方の信者を募り、御助勢なし被下候得、不日に造立可致候、然上、先々施主の御姓名を記録し、寶殿に於て 永代護摩供及大般若経轉識せしめ法味を奉け奉るへし 然る則家運延長子孫繁栄の基たるへき者也
箸蔵寺知事 敬白
 但シ奉納銀受取集之儀ハ、役僧役人とも一切差向不申候 以上
  意訳変換しておくと
文政九年(1826) 春に当山の諸堂一堂残らず焼失してしまった。その後に仮の堂社を建設したたが充分な荘厳が施されておらず不十分なものなっている。そこで、講中(信者集団)や檀越と協議し、本社・拝殿・幣殿・長廊を絵図の通に再建することになり、この夏より普請に着手した。そして資金調達のために諸国の俗貴の信者十方に寄進を募っている。なお寄進に応じた者については、以下の通り、先々施主の御姓名を記録し、寶殿で永代護摩供と大般若経読経を行うことになっている。ついては、家運延長・子孫繁栄のために寄進に応じたまえ
箸蔵寺知事 敬白
なお、この奉納に関わる金銭の授受に関しては、箸蔵寺の役僧役人は、一切関わりがないことを最後に記す。 以上
そして寄進額に応じて、次のような特典を得られることが記されています
御本社再建依御寄附御礼守等可進候事
一 式朱   五ヶ年之間、日護摩修業満座之節御守可進之事
一 金百疋 右同断御札可進之事
一 金弐百足 右同断木札可進之事
一 金壱両  右同断講座之砌一七日之間、護摩修業木札可進之事
一 金式而  五年之間日護摩修業講座之砌二七日護摩修業木札可進之事 〇永代内陣入
一 金五両  右同断講座之砌三七日之護摩修業木札 
       可進之事 ○永代内陣人
一 金拾両 右同断満座之砌五七ヶ日護摩修業木札 
可進之事 〇永代内陣入日護摩講
一 金弐拾両 永代内陣入日護摩五ヶ年之後御固守 可進之事
一 金三拾両 永代木札可進之事
内陣開扉尤年々御参詣之砌、御礼可進渡候
一 金五拾両 永代木札可進之事 右之御神楽
内陣入開扉年々御参詣之砌御札可進渡候
右勤化御出銀者当年より五年二御神納可被下候御守等之儀者満座之節沾於御神前奉祈念可進之候以上
以下、月日、氏名(略)
2朱だと「五年間の護摩法要加護」で、1両だと17日の護摩修行木札、50両だと永代木札が神楽付で下され、さらに参拝時には内陣扉の内側に入って札を納める特権をえることができるとされています。
この「寄進帳」の冒頭には、文政9年(1826) 春に諸堂一堂残らず焼失したこと、その後に仮社を建てたが、従来の信を取り戻せないので、本格的に御本社を再建したいとあります。そのために「当年より五ヶ年」寄進活動が行うことになったので協力を依頼するものです。ただ、「嘉永五年(1852)壬子僧仙岳又再建ス」と別の史料にあるので、本社以外の各堂宇については復興されていたようです。本社が最後に復興されたということでしょう。こうしてみると現在の箸蔵寺の伽藍は、19世紀前半に整備され、最後に本社が姿を見せます。以上からは、安政年間 (1854一59) 頃には、現在の寺域と堂宇が出来上がっていたことになります。この時期は、金毘羅大権現の金堂や善通寺の五重塔建立と重なります。19世紀前半の半世紀は、善通寺・金毘羅大権現・箸蔵寺で建築ラッシュが続いていたことを押さえておきます。これを年表化しておきます。
文政9(1829)年春 諸堂一堂残らず焼失
嘉永5(1852)年  僧仙岳又再建ス
嘉永7(1854)年夏 御本社再建寄進帳を出して、本社着工
この時期に金毘羅大権現では、三万両を集めた大金堂が30年近くを掛けて1848年に落成しています。同時に周辺整備が行われて、石造物の石畳や燈籠・玉垣が建ち並び、「白く輝く境内」が現れます。金毘羅大権現の奥の院である箸蔵寺も、これに続きます。建物群が完成に近づくと境内整備も同時に進められます。それを裏付けるのが参道に立ち並ぶ巨大な灯籠の寄進時期です。これらはすべて文化・文政以後のもので、江戸時代初期の慶安時代のモノは、御本殿裏にわずかにあるだけです。
 灯籠は、山門より御本殿までに約150基がありますが、その寄進者は全国に広がっています。この時期は、金毘羅大権現の金堂(現旭社)が建立され、周辺に石畳や燈籠が並ぶようになる時期と同時期です。金毘羅信仰の隆盛という波に、「金毘羅の奥の院」と称することで箸蔵寺は、教線拡大のための修験者(山伏)たちを全国に送り込み教勢を急速に拡大したようです。この時期には、金毘羅奥の院として、全国区の知名度を持つようになり、勧進僧(山伏)たちによって多くの勧進が集められるだけの組織も有していたことになります。
 幕末になって、箸蔵寺伽藍が姿を現した経済的な背景を見ておきましょう。
江戸末期から明治期になると煙草業者や船頭などの舟運関係者も水上安全の神として箸蔵大権現を信仰するようになります。本殿前の巨大な灯籠には「烟草屋中」と「船頭中」の文字が筆太に彫られていることが、それを裏付けます。
 また「水竹居日記」には、慶応三年(1861)10月12日の項には、「箸蔵寺大祭(十月九日~十一日)に、賽銭一千七十両が集まった」と記されています。ここからは金毘羅大権現と同じように莫大な収入がもたらされていたことが分かります。その背景には、全国から信者達を誘引してくる多くの修験者たちがいたと私は考えています。

P1160245ha箸蔵寺 天狗面
箸蔵寺本殿の天狗面 

神仏分離令に箸蔵寺は、どう対応したのか?

箸蔵寺と金刀比羅宮の神仏分離策への対応

明治維新を迎えると政府の進める神仏分離策に従って、金光院琴綾宥常は金毘羅大権現を追放し、自らも僧籍を離れ神主になります。これに対して、箸蔵寺ではまったく異なる道を選びます。それは金毘羅大権現を守り通していくという選択です。その意思表明が明治初年、仁和寺法務宮純仁法親王 (小松宮彰仁親王)の庇護を受け、本殿正面に金毘羅大権現の書を賜ったことです。これは、箸蔵寺の金毘羅大権現信仰を守っていこうとする姿勢を示したものと私は考えています。
 また、讃岐の琴平周辺で従来通りの仏式で金毘羅大権現をまつるスタイルの寺院を作ろうとする動きがでてきます。 その中心となったのが長法寺ですが、この寺は箸蔵寺の修験者の拠点のひとつで、金毘羅大権現の贋開帳を何度も開いていました。彼らは長法寺を「金毘羅大権現」を祀る寺院にしていこうと考え、明治16年に新たな伽藍建設地とを求めて麻野村大麻に移転してきます。この顛末については以前にお話ししたのでこれ以上は述べませんが、箸蔵寺の修験者たちは明治以後も金毘羅大権現を信仰し、この布教拡大に努めていたことを押さえておきます。

images (16)箸蔵寺の金毘羅大権現
箸蔵寺 四国霊場別格第15番 四国霊場開設1200年記念
そして、いまでも箸蔵寺は金毘羅大権現を祀り続けています。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
箸蔵寺年表(宝珠山真光院箸蔵寺調査報告書57P) 2004年 
1582  天正十年 長曽我部の阿波侵攻によって兵火に遭遇、宥典阿闍梨が身を捨てて医王仏を守る。
1588 天正十六年 宥観阿闍利が復興に努める。
     地福寺旧記には地福寺の宥伝とその弟子真光寺宥寛が再建をしたとの説もある。
1593 文禄二年 宥観阿闍梨、藩主蜂須賀蓬庵の登山に際し由緒言諸堂再建の大施主と仰ぎ、境内地と永代寺領三百石を賜る。
1596 慶長年間 讃岐で金毘羅信仰が始まる
1651 慶安四年 御室御上席資格の中本山となり近国寺院に対する色補任状取扱を許される。
1658 明暦四年「三好郡之内州津村棟付人改御帳」に箸蔵寺が壱家となり、同宿一人小家が二軒で、この小家の中に下人八人となっている。(男のみ) 計十人。
1667 寛文七年 山火事によって諸堂、宝物、御證文を焼失。
1670 寛文十年 「州津村家数馬牛共御改帳」に「箸蔵寺に同宿一人。小家が四軒でこの小家の中に下人男四、 女四、 計十人」。
1731 享保十六年 藩から諸役御免で、一町八反の畑と無役の下人を抱えることが許される。
1766 明和三年 「箸蔵山由来略記」が高野山の僧南山沙門霊瑞によって記される。
1769 明和六年 「三好郡州津村人数下調御改帳」に「弟子三、小家七軒、下人十三(男十二・女一)計十七人。
1804~18   文化・文政期 運智、快典が、信者を全国に広げる。
1826 文政九年 諸堂一堂残らず焼失。
1848~59  嘉永・安政期龍岳、仙岳、信者層を全国に広げる。
1849年頃 嘉永二年頃 八代目団十郎、灯籠を寄進。
1854年 嘉永七年   本殿再建のために、「寄進蝶」を各村へ配付。
1856年  安政三年 讃岐丸亀領豊田郡黒淵村の百姓93人が池田村へ逃散してくる。 箸蔵寺が一部を受入れをする。
1861 文久元年   「箸蔵寺旧記聞傳覚書」 住職仙岳記す。
1867年 明治初年 仁和寺総法務宮純仁法親王に庇護され、本殿正面の額の書を賜る。
1930 昭和五年 箸蔵登山鉄道開通。
1936 昭和11年 奥の院金毘羅大権現本殿落慶法会と中興の祖仙岳上人銅像除幕式が行なわれる。
1936 昭和11年 野口雨情、箸蔵小唄を詩作。
1944 昭和19年 戦争のため箸蔵登山鉄道も供出、廃業となる。
1945       敗戦後、農地解放によって、三百石の地領を開放。

参考文献
「宝珠山真光院箸蔵寺調査報告書 2004年 池田町教育委員会」
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箸蔵寺の金毘羅大権現化戦略

  前回は箸蔵寺が近世半ば以後に、金毘羅大権現の奥の院という由来を持つことで、急速に成長して行った過程を上記のようにまとめました。それでは中世から近世初めまでの箸蔵寺は、どんな状態だったのでしょうか? これについては、本尊の薬師如来信仰が古くからあったこと、江戸初期には多少の土地が阿波藩から安堵されていたこと以外には、よく分からないようです。それを史料で分かる範囲で見ていこうと思います。
箸蔵寺調査報告書の年表は、「箸蔵寺寺記(1976年)」を元に次のように記します。
828 天長五年項 空海が箸蔵山で金毘羅神将から、この山に道場を建てよとの誓願。
七堂伽藍を建て薬師如来像を刻んで安置したという。
901 延喜年間  阿闍梨宥範のとき、十二院の塔頭、五十有余の堂宇。
平安末期~鎌倉末期    記録がない。 
1460~66寛正年間 傑僧相次ぎ、盛観を徐々に取り戻す。
1532~55天文年間 六十八の堂塔の旧観を複する。
1582  天正十年 長曽我部の阿波侵攻によって兵火に遭遇、宥典阿闍梨が身を捨てて医王仏を守る。
1588 天正十六年  宥観阿闍利が復興に努める。
この内容を検討すると、金毘羅大権現の請願を受けて空海が創建したという記事は、弘法大師伝説としては受け止められ信仰の基盤にはなりますが、歴史的には事実とすることはできません。また、延喜年間の宥範による中興については次のように記されています。

延喜年間 (909~13) 宥範阿闍梨の時、 醍醐天皇の第三皇子(法三宮親王)の登嶺を迎え、 近国の僧侶集して、五日三時の秘法を修せられた。この前後は一山隆昌のを究め、十二院の塔頭と五〇有余の堂宇が並び、その霊城は遠近の頭を接する大さを見せた。
    
しかし、ここに登場する宥範は、中世の善通寺再興の祖であり、金毘羅大権現の金光院の創建者ともされ
ていることは以前にお話ししました。善通寺や金毘羅金光院では、知らないひとがいないほど有名な人物です。その名前が
登場すること自体、事実であるとは思われません。そして
平安末期~鎌倉末期については、「記録なし」と記します。この時代のものとしては、絹本著色不動明王一幅があるだけです。不道明王は修験者の守護神ですから、この地が修験者の行場や霊山となっていたことはうかがえるのかも知れません。ただ、経済力のある有力寺院には後世になると仏像や聖典が集まってきます。そういう意味では箸蔵寺の歴史を古代や中世初頭まで遡ることはできません。
 次いで中世後半については次のように記します。
室町中期の寛正年間(1460~68) から傑僧相つぎ、だんだんと盛観を取り戻す。
室町末期の天文年間(1532~55)に、六十八字の塔の旧観を復して、それに帰した
つまり中世末期には、多くの塔頭が建ち並び盛行を極めたとします。しかし、それを裏付ける塔頭跡や五輪塔などの石造物・瓦類などもでてきません。そして土佐勢の侵攻について、次のように記します。

天正十年(1582)、 土佐長曽我部元親の侵攻によって兵火に遭遇した。 住職宥典阿闇梨は身を捨てて防火にあたり、金堂および本殿の医王仏を守ったが、間もなく遷化した。

明治14年(1881)の「阿波国三好郡村誌」 州津村の項には次のように記します。

「寺 箸蔵寺 東西五町南北五町面積九千坪 本村北方蔵谷ニアリ 真言宗古義派西京仁和寺末 土人伝  天長五年戊申空海開基創立 天正十年壬午兵災二罹リ伽藍ヲ始一山灰燼スト 其後四五年経僧宥観(寛?)一宇ヲ建シ復テシ後 文化十三年丙午僧龍岳諸堂建築セシニ 文政九年丁戌再ヒ灰燼トナレリ 嘉永五年壬子僧仙岳又再建ス 阿波志日(以下「阿波志』本文と同。)」
意訳変換しておくと
「箸蔵寺は、寺域が東西五町南北五町、面積九千坪あり、州津村北方の蔵谷にある。真言宗古義派の仁和寺の末寺で、地元民が伝えるところによると、天長五年戊申に空海が開基創立と伝えられる。天正十年の長宗我部元親の侵攻の際に兵災に遭い、灰燼と帰した。その後45年を経て宥観(寛)によって一宇が再建され、文化13(1816)年になって僧龍岳によって諸堂整備を終えた。ところが文政九(1826)年に、再び灰燼に帰し、嘉永五(1852)年に僧仙岳によって再建された。 阿波志日(以下「阿波志』本文と同。)」
 
これを年表化しておきます。
①天長五(828)年に空海に金毘羅大権現の請願を受けて開基創立
②天正十(1582)年の長宗我部元親の侵攻の際に兵災に遭い、灰燼と帰した。
③1620年代に 宥観(寛)によって一宇が再建
④文化13(1816)年になって僧龍岳によって諸堂整備
⑤文政九(1826)年に、再び灰燼に帰し、
⑥嘉永五(1852)年に僧仙岳によって再建
⑦長宗我部元親の土佐撤退した後、天正16年(1588) 宥観阿闖利によって、四散した信徒を集め、東奔西走してし復興に努めた。
この宥観については、「地福寺旧記」には宥寛として登場します。この史料は箸蔵寺と地福寺の末寺をめぐる争論への訴えでが、その中に箸蔵寺の再興に尽くしたのは地福寺の宥伝と、真光寺の宥寛だったと次のように主張されています。
長曽我部元親当国乱入之節に箸蔵寺焼払申趣に而退転仕居中に付 地福寺宥伝と申僧取建申趣申伝候 地福寺末寺真光寺住持宥寛と申僧宥伝弟子に御座候 故箸蔵寺宥寛に被讓申 宥伝寛二代箸蔵寺取建申由申候 宥寛儀永禄八年箸蔵寺宥伝遷宮棟札 真光寺住寺宥寛と相付申候 宥寛儀元来何某と申土州浪人世枠に而御座候 宥伝弟子に仕候 故宥寛近親の者共地福寺介抱に被成居申を右宥寛箸蔵へ引取 則只今箸蔵家頼に成り下り申候事

意訳変換しておくと

①長宗我部元親の侵攻で箸蔵寺は延焼し退転した。そのため箸蔵寺の管理権は地福寺(井川町)の僧宥伝が引き取った。宥伝には、弟子として末寺の真光寺住職宥寛がいた。退転していた箸蔵寺は、この二人によって復興が始まった。宥伝と宥寛の二代で、箸蔵寺は再建されたといえる。それを裏付けるのが永禄八(1565)年の「箸蔵寺宥伝遷宮棟札」に、「真光寺住寺宥寛」とあることだ。宥寛はもともとは土州浪人の倅であったのが、宥伝の弟子となったものである。その後、宥寛の近親の者が地福寺に住み、宥寛が箸蔵で暮らすようになると、地福寺はいつの間にか、箸蔵の家来のように成り下がってしまった。

以上を要約しておきます。
①退転した箸蔵寺を再興したのは、地福寺の宥伝と、その末寺真光寺の宥寛の師弟コンビだった。
②それは箸蔵寺の再建時の棟札に宥寛の名前があることから裏付けられる
③その後、土佐浪人の宥寛は箸蔵寺を拠点して、一族が地福寺の管理をするようになった
④すると本末が転倒し、箸蔵寺が本寺のようになり、地福寺は末寺のような形になってしまった。
しかし、「箸蔵寺宥伝遷宮棟札」は永禄八(1565)年のものです。長宗我部元親の阿波三好への侵攻は、天正三年(1575年)の土佐統一後のことです。そうすると宥寛は長宗我部元親の侵攻前にこれを建立したことになります。それが事実とすると箸蔵寺は兵火にあっていない可能性が出てきます。そして、土佐出身の宥寛は長宗我部元親も保護を受けながら箸蔵寺を経営していたことになります。このあたりのことが今の私にはよく分かりません。どちらにしても、長宗我部元親の侵攻時に住職として対応した人物して宥寛(観)がいることを押さえておきます。

続きを見ていきます
一 右申上候通り箸蔵寺中興開基者宥伝法印に而御座候 永禄八年当谷氏神遷宮棟札に箸蔵寺宥伝と御座候 是箸蔵寺氏宮初而之棟札に而御座候 永禄拾壱年当寺本尊開眼に者 阿州三好郡田井之庄井之内之郷四ヶ寺と御座候 然者右宮得八師弟之好に招待仕者哉と奉存候 地福寺宥慶儀茂弟子之様に申伝候御事

意訳変換しておくと

一 今申しあげたように、箸蔵寺の中興開基者は宥伝法印である。永禄8(1565)年の井内谷の氏神遷宮棟札に、箸蔵寺宥伝とあるのは、箸蔵寺の氏宮最初の棟札になる。永禄11年 箸蔵寺の本尊開眼に阿波三好郡田井之庄井之内之郷四ヶ寺と記されているのは、箸蔵寺と子弟関係にあったために招待されたものである。ここに出てくる地福寺の宥慶は宥伝の弟子にあたると申し伝えられている(後略)

(後略)
別紙半紙断片には次のように記します。
一 地福寺儀者往古者 讃州多度郡善通寺末寺二而御座候 尤井内谷二而三ヶ寺之門首二而御座候 右之段則地福寺絵像本尊に書記御座候 年号左に書上申候 
一 康応弐年(1390) 又再興 応永弐年(一三九五)  文明七年(一四七五) 又永禄十一年右永禄十一年は当谷四ヶ寺開眼と相見へ申候事
一 先年出入之節 箸蔵寺六ケ寺之末寺四ヶ寺弐寺と相分候 上者弐ケ寺におて慥成証拠茂無之哉と御被為遊山右証跡本尊の軸籠り有之故先師其段
意訳変換しておくと
地福寺は、もともとは讃岐多度郡善通寺の末寺であった。同時に井内谷に三ヶ寺の門首がいた。このことについては地福寺像本尊にも次のように書き記されている。
一 康応弐年(1390) に再興。応永弐年(1395)、 文明七年(1475)、永禄十一年右永禄十一年に、井内谷四ヶ寺が開眼された。
一 先年の争論の祭には、著蔵寺六ヶ寺の末寺を四ヶ寺と二ヶ寺に相分けた。その上で、確かな証拠がない二ヶ寺拠茂之載と被為由右証跡本尊の軸り有之故先師其段
ここでは、井内にある寺院の末寺の所有権をめぐる地福寺と箸蔵寺の争論の顛末が記されています。
もともとは本寺であった地福寺が、教勢拡大を続ける箸蔵寺に末寺を奪われていく様子がうかがえます。地福寺川からすれば、「もともとはこちらが本寺で、箸蔵寺はその末寺だったのに・・悔しい」という思いが伝わってきます。
 地福寺の主張が本当だったとすれば、箸蔵寺側からすればこのことについては触れたくはないことです。地福寺や真光寺出身の住職たちは、寺歴から消されていったことが考えられます。どちらにしても、近世初頭に姿を現した箸蔵寺は、今のような大きな伽藍ではなく一堂程度の小規模だったことが分かります。
 箸蔵寺の実質的な再建者の宥寛(観)を見ておきましょう。
①長宗我部元親に金毘羅大権現の松尾寺を任されたのは土佐出身の修験者である宥厳であった。
②宥寛も「土佐浪人の倅」であり、土佐出身の修験者であった可能性が高い。
③宥厳ー宥盛(松尾寺) 宥伝ー宥寛(地福寺)の法名からは、真言系修験者に共通する法脈があったことがかがえる。
④箸蔵寺の院号「真光院」というのも、創建者の宥寛の真光寺に由来する

宥伝や宥寛が後の箸蔵寺の系譜の中にどのように位置づけられているのかを見ておきましょう。
文化期(1804) の「代帳」には、箸蔵寺の延宝2年(1684)以来の累代の名前と没年が次のように記されています。
箸蔵寺累代住職名
「代統帳」箸藏寺累代住職名
意訳変換しておくと
宝珠山 此僧延宝貳年棟付御帳付二而
箸蔵寺  元禄六酉二月八日病死
宥保  この僧は享保20年十月二日に病死
運智 この僧は元文3年七月廿三日病死
寬悟  宝暦七 隠居 同八年寅戌再住
勝應  此僧宝暦八年 正月廿一日病死
寬悟  此僧後住の勝應が病死したために再度住職に復帰
寺役を務め宝暦12年三月廿一日病死
見光  此僧宝暦12年三月廿一日病死
雲龍 此僧寬政二年二月七日病死
俊珍  此僧文化 正月十一日病死
箸藏寺現住職 寬雅 申歳47才
ここには元禄以前の住職名は記されていません。当然、地福寺や真光寺からやってきた宥元や宥寛の名前もありません。そして、名前に「宥」を持つものもいません。住職の系譜が代わって、それ前の住職の系図が失われたか、意図的に消去したことが考えられます。

次に、箸蔵寺を再興したとされる地福寺や真光寺のあった井内谷を見ておきましょう。
井川町の峠道
地福寺は、祖谷への物資集積センターの役割も果たしていた

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地福寺の本堂
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この看板には次のようなことが記されています。
①大日如来坐像が本尊で、室町時代までは日の丸山中腹の坊の久保(窪)にあったこと。
②南北朝時代の大般若経があること
③平家伝説や南北朝時代に新田義治が滞留した話が伝わっていること。
④地福寺の住職が剣山見残しの円福寺の住職を兼帯していること。
 この寺院は、明治の神仏分離前には対岸の旧郷社・馬岡新田神社の神宮寺だったようです。
②の南北朝時代の大般若経があるということは、「般若の嵐」などの神仏混淆の宗教活動が行われ、この寺が郷社としての機能を果たしていたことがうかがえます。地福寺の住職が別当として、馬岡新田神社の管理運営を行うなど、井内地区の宗教センターとして機能していたことを押さえておきます。

P1170093
地福寺前の祖谷古道の道標
③の地福寺と西祖谷との関係を見ておきましょう。
この寺の前に架かる橋のたもとには、ここが祖谷古道のスタート地点であることを示す道標が建っています。地福寺のある井内と市西祖谷山村は、かつては「旧祖谷街道(祖谷古道)で結ばれていました。地福寺は、井内だけでなく祖谷の有力者である「祖谷十三名」を檀家に持ち、祖谷とも深いつながりがありました。地福寺は祖谷を信仰エリアに取り込んでいたお寺なのです。

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地福寺境内の護摩壇(中央円形)
境内にある護摩壇からは、ここが修験者の拠点であったことが分かります。

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地福寺本堂前の看板 
この看板からは地福寺が剣山円福寺の別院であり、剣山信仰の拠点であること分かります。つまり、井内谷の地福寺は中世以来、祖谷までを信仰圏とする修験者の拠点で、近世には剣信仰の拠点であった寺院なのです。その地福寺の住職が箸蔵寺の住職でもあったことになります。その系譜上に作られた箸蔵寺が修験者の拠点として成長して行くのは当然だったことになります。

「地福寺旧記」を含む地福寺の古文書については「
 井川町の社寺建築 阿波学会研究紀要44号」に次のように記されています。
天保3年(1832)の記載のある「諸証文函」に納められており、Aの函(証文箱上段)51点、Bの函(証文函下段)97点までがリストアップされている。作成年代記載のある最古の文書は、近世初期の寛文4年(1664)地福寺から御室御所へ寺の概況を報告した願文で、永禄年間(1558~1570)に箸蔵寺の末寺になったことの記載。
 あとは18世紀初頭から明治初年に至るまで、2世紀にわたるもので、次のようなグループに分けることができる。
1 御室御所の末寺である地福寺が、寺の様子を知らせる文書。
2 近隣周辺の諸神社の別当である地福寺が、監督下三社の修理や管理について郡代への申請文書
3 地福寺や諸社の修理のための御林材木の伐採許可の申請文書
4 村内・谷内の人々の出入り(紛争・トラブル)の仲裁や調停に関する文書
5 地福寺が地域住民の監督者としての行政機能を持つことを示す文書
6 寺の別当と、神社の禰宜(ねぎ)との出入りや仲直りに関する文書
7 地福寺の寺院経営に関する文書
8 一向宗(真宗)から真言宗への改宗文書。文政9年(1826)年。(B41文書)9 文政13年(1830)御室御所への報告書。(檀家(だんか)800戸、社65社、諸庵(あん)21)

最後に長宗我部元親も侵攻前に三好地方を支配していた大西氏の勢力範囲を見ておきましょう。
大西頼武が阿波の勝瑞や畿内で活躍しているころ、白地城では頼武の弟元武が幼主大西覚用(輝武)を助けて、 白地城大西氏の勢力を拡げていました。もともと大西氏は、西園寺家の荘園田井ノ荘の庄官の出であったことは以前にお話ししました。そのスタートは、山城地域を拠点にした開墾地私有領から出発し、その範囲も、山城・西祖谷・佐馬地・三縄の一部でした。それが元高のころから、細川・三好氏の畿内転戦に従軍し、軍功を重ね、三好氏の勢力伸張に大きな貢献をするようになります。それに伴って留守をあずかる元武や覚用等は、周辺に勢力を拡げて行くようになります。その方法は、三好氏にならって一族を周辺に配置して勢力拡大の手段にすることです。例えば、次のような拠点が育っていきます。
白地大西家の一族配置
こうしてみると井之内や井川は、大西氏の勢力下に置かれていたことが分かります。井之内の地福寺も
大西氏の一族が入り込み、その保護を受けていた寺院であったこと。そして、祖谷への入口の一つとして戦略的な要衝でもあったことがうかがえます。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「宝珠山真光院箸蔵寺調査報告書 2004年 池田町教育委員会」
井川町の社寺建築 阿波学会研究紀要44号」
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箸蔵寺は金毘羅大権現(現金刀比羅宮)の奥の院と称されてきました。その由来は、金毘羅大権現で使われた神箸を、天狗が箸蔵寺の奥の院蔵谷まで運んで納めていたために名付けられたとされます。しかし、この寺については、中世から近世はじめの歴史は、よく分かりません。近世になって金毘羅大権現が流行神として急速に成長してきたように、箸蔵寺も近世後半になって「金毘羅大権現の奥の院」として急速に発展したようです。しかし、史料が少なく手がかりがなかなか見つからないのです。そんな中で、箸蔵寺の建造物が重要文化財に指定される際に作られた報告書を三好市の図書館で借りることができました。これをもとにして、箸蔵寺の歴史を探っていこうと思います。テキストは「宝珠山真光院箸蔵寺調査報告書 2004年 池田町教育委員会」です。最初に年表を掲げておきます。

828 天長五年項 空海が箸蔵山で金毘羅神将から、この山に道場を建てよとの誓願。
七堂伽藍を建て薬師如来像を刻んで安置したという。「由来略記(箸蔵寺記)」
901 延喜年間  阿闍梨宥範のとき、 醍醐天皇第三皇子法三宮を迎え十二院の塔頭、五十有余の堂宇。「箸蔵寺記」
平安末期~鎌倉末期    記録がない。 「箸蔵寺記」
1460~66寛正年間 傑僧相次ぎ、盛観を徐々に取り戻す。 「箸蔵寺記」
1532~55天文年間 六十八の堂塔の旧観を複する。
1582  天正十年 長曽我部の阿波侵攻によって兵火に遭遇、宥典阿闍梨が身を捨てて医王仏を守る。
1588 天正十六年 宥観阿闍利が復興に努める。
      地福寺旧記には地福寺の宥伝とその弟子真光寺宥寛が再建をしたとの説もある。
1593 文禄二年 宥観阿闍梨、藩主蜂須賀蓬庵の登山に際し由緒言諸堂再建の大施主と仰ぎ、境内地と永代寺領三百石を賜る。
1596 慶長年間 讃岐で金毘羅信仰が始まる

お寺の歴史を知る場合には、その由来記を見るのが常道です。 報告書には、箸蔵寺の最初の由来書である「由来略記」が全文載せられています。これを見ていくことにします。「由来略記」が書かれたのは江戸時代半ばの明和3年(1766)年のことで、書いたのは高野山金剛峯寺の南山門霊です。ここでは近世半ばになるまで箸蔵寺には由来書がなかったこと、そしてそれが地元の箸蔵寺で書かれたものではなく、高野山の僧侶が書いていることを押さえておきます。長くなりますが「由来略記」を読んでいくことにします。(原文は漢文)

箸蔵寺由来略記1
箸蔵寺由来略記 明和3年(1766)年 高野山金剛峯寺の南山門霊
以下の冒頭文は、空海の筆によるものとします。
夫具明目者、善視隣虚至義、有數術者、亦量蘇迷太洪、 獨絶視離量者、其惟本地法身也。 爰有山、 在阿之北境、起伏自不凡、似有含光者、躋則週一神人、日法之行也、地霊為之羽翼、此山之霊、亦足以図利生、須其顧悲願以賛我志 是我本地醫王佛之本誓也、余於是始知、神人之為金毘羅神路
天長五年             空海
意訳変換しておくと
 ここに山在り、その山は阿波北辺あり、常ならない起伏で輝き光る。これは神人が活動していることの証である。地霊は羽翼し、山の霊は、人々に利生をもたらす。これは我の悲願で本地でもある醫王佛の本誓でもある。私は、この神人こそが金毘羅神であることを始めて知った。
天長五(828)年             空海
  ここには空海と金比羅神の出合いが書かれています。空海と金毘羅大権現という二大スターを登場させて、その由縁を語ろうというのです。役者としては充分なキャスティングです。以下、空海が箸蔵寺を建立するまでの詳細が次のように述べられていきます。(以下意訳)

當山は弘法大師と金毘羅権現の契約の地で、五十三代淳和天皇、天長五(828)年の開基である。この年、弘法大師が高野山造営後に、父母の舊跡を整えるために讃州善通寺に帰ってきた。その時に、夜中に南の山に金色の光が立ち昇るのを見た。訝しんで光を追って鬱々たる樹木が茂り、人跡のないところまでやってきた。錫を止めて休んでいたが、喉の乾きを潤すための一滴の水もない。そこで金剛杵で加持祈祷を行うと、たちまち神水が涌出した。そこへ善女龍王を勧請した。この泉は今も旱魃の時には遠近の村里がやって来て雨を祈る。すると必ず験があることが知られている。この神泉は、いつも増減なく一升ほどの水をたたえているので一升水と呼ばれている。

ここまでで読みとれる情報を列挙しておきます。
①空海が金色の光の根源を確かめようと、阿讃国境の山に深く分け入ったこと
②そこで神水に善女龍王を勧進したのが、一升水とよばれる雨乞祈祷の聖地で蔵谷
 ここには、金色の光を追ってやってきた所に、弘法大師が泉を湧かせたことが記されています。これは弘法大師の神泉伝説のひとつのパターンであることは以前にお話ししました。注意しておきたいが神泉伝説と雨乞の善女龍王信仰がドッキングして語られていることです。しかし、今ではこの部分は忘れ去られているのか善女龍王の雨乞祈祷については、箸蔵寺ではほとんど触れられていないようなので、改めて押さえておきます。弘法大師が天長元年(824)に神泉苑で雨乞法を行ったときに現れたのが善女竜王です。

善女龍王 本山寺
善如(女)龍王(本山寺) 男性唐服姿のタイプ
以後、雨を降らせる神として高野山や醍醐寺などで祀られるようになります。これが善通寺にもたらされるのは江戸時代前期(1678年)のことで、高野山の高僧浄厳が善通寺誕生院主宥謙の招きで讃岐を訪れた際のことです。これは箸蔵寺由来略記が書かれる約90年前のことです。
 「浄厳大和尚行状記」には次のようなことが記されています。
A 浄厳が善通寺に逗留していた際に、旱魃に遭遇し「善女龍王」を新たに勧進したこと
B 雨乞修法を行い成就させこと
C 「金堂(東院)の傍らの小社(善女龍王社)」をが建立したこと
5善通寺
善通寺東院の善女龍王社(碑文は善女龍王 雨乞祈念)

現在でも善通寺東院には、善女龍王社が残っています。これ以後、讃岐では善女龍王信仰が拡がり、財田の渓道神社などに善女龍王が勧進され、雨乞の聖地とされるようになります。そこで雨乞祈祷を行うようになるのが修験者(山伏)たちです。善女龍王を登場させるのは、「弘法大師(善通寺)+金毘羅大権現(琴平)+善女龍王(財田)」という当時の箸蔵寺周辺の修験者たちの活動エリアが背景にあると私は考えています。修験者たちが善女龍王を登場させてくれと云う依頼をしたのかもしれません。どちらにしても当時は、讃岐の農民達の間に善女龍王信仰が拡がって修験者による雨乞祈祷が行われ始めた時期でした。その聖地のひとつに箸蔵寺が名乗り出ていたことになります。
次の段は、弘法大師と金毘羅神(大権現)の出合い場面が記されています。

 弘法大師が神泉の樹下に宿していると、山中が鳴動して、大木が倒れ、礫を打ち、大叫喚の声がした。大師はこれが魔障であることを知っていたので、湛然として動かず、石上に結跏し、大金剛三味で魔佛一如と見た。そして大般若經を讀誦すると、その文字ひとつが金色の形となって、虚空に並んだ。すると、異類どもが姿を現し、弘法大師に再拝稽首して次のように述べた。我らは宮毘羅大将實類(金毘羅大権現)の眷属なり、非愍を垂れてし給へと乞ふ。すると山中は赤く染まり巌窟より一陣の火が燃え上がり、光明の中に黒色忿怒の大葉奮然が現れた。七千の夜刃無量の守護者が大師に向って微笑んで次のように云った。

最初に、手先の眷属(天狗)たちが現れ、そして次に主役の金毘羅大権現が登場します。

吾(金毘羅大権現)は東方浄瑠璃世界醫王の教えを受け、十二微妙の力を持ち、天下國家、福天地開闢の初まりとなり、海上の風波を止め船舶安全の力も持つ。この窟跡を住処とする宮毘羅大将で、別名を金毘羅大権現ともいう。私は、ここから北東の象頭山へ毎日、眷属と共に往来している。ここでそなたに遭ったからには、一寺を創建し、 金毘羅大権現の本地仏である薬師如来を安置することを願う。この山は加佛成道の場所で、迦牟尼佛の説法の道場でもある。我の願いが叶うならば、寶珠を永くこの山に安置し、無量の利益を施すであろう。そして、衆生と私との縁結びのために、象頭山の祭祀で使った俎豆の箸を、眷族たちに運ばせて、これを証としたい。そう言い残すと、金毘羅大権現は再び巌窟に入った。

弘法大師がその山の形を見ると、八面で、白雲が外にたなびき、碧鬱々として、四時色をかへず、あたかも瑠璃資珠を捧げ出す姿に見えた。この地こそが佛の成道する地である深く感じ、金毘羅大権現の願い通りに、ここに七堂伽藍を建立することにした。金堂には王佛の尊像を、自ら彫刻し、三重塔には五智の尊像に佛舎利二十五を収めて供養し、大門や中門・寶經・厳選廊を備えたフル装備の伽藍を完成させた。こうして、山を蔵山寺は箸が蔵に運ばれてくるので箸蔵寺と名付けた。奥の院の洞窟も箸蔵谷と呼ばれるようになった。また院号は、金色に光る山にあるので眞光院とした。そして金毘羅神の眞像に、脇士として不動明王と毘沙門天の二尊を香木で造り、本殿を造営し奉じ大権現として崇め奉った。周囲八町四方の内は邪結界の地として、例年十月十一日の夜には象頭山より俎豆の箸が天狗(眷属:山伏)によって運ばれてくる。これは今も変わりない。そのため十月十一日の夜は、必ず熱い風が吹くことは人々の知るところである。
 信仰なき者も箸を手に取る者であれば、皆結縁の人である。箸蔵寺は病を救い、家内安全、福増長、海上安全の御願を適える霊山である。
明和三(1766)年乙丑夏日 史料 地福寺旧記 尚又別 半紙断片
                       金剛峯寺 霊瑞南龍書
 ここには金毘羅大権現が弘法大師と出会って「済世利民」の神託を授けられたことが記されています。その神託は「箸を挙(あ)ぐる者、我誓ってこれを救はん」というもので、「箸を挙ぐる者」というのは、全ての人々を救済するという誓いとされます。これが箸蔵寺の名前の由来になります。金毘羅大権現の神託を得て、弘法大師は神像を刻んで本尊(秘仏)とし、七堂伽藍をこの地に建立して、当山を開創したと記します。「権現(ごんげん)」とは「かりにあらわれる」ことを意味し、仏さまが日本の神様にすがたを変えて仮(借)りの姿として現れたものです。これを本地垂迹説といい、「金毘羅大権現=薬師如来を守護する「薬師十二神将」の筆頭天部の「宮毘羅(くびら)大将」ということになるようです。言い換えると、金毘羅大権現の本地仏は、「宮毘羅(毘沙門天)大将」、あるいは薬師如来ということになります。

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                   箸蔵寺本堂に掲げられた天狗絵馬(天狗信仰の証)

箸蔵寺については、本尊の薬師如来信仰が古くからあったこと、江戸初期には多少の土地が藩から安堵されていたこと以外には、よく分かりません。しかし、「状況証拠」としては、周辺には数多くの修験者がいて、近世後半になって台頭する典型的な山伏寺だったようです。
箸蔵寺がはじめて金毘羅へ挨拶に来たのは、宝暦12(1762)年のことです。

箸蔵寺の金毘羅大権現への接近
「由来略記」は、それから間もない明和6(1769)年に、高野山の霊瑞によって作られています。
「由来略記」には、弘法大師伝説と金毘羅大権現が「接ぎ木」されていることは先ほど見たとおりです。そして、金毘羅さんのお祭りの時に使われた箸を、箸蔵山にすむ天狗様が運んで納めたという「天狗の箸運び伝説」を附会します。そして箸蔵寺は以下のような布教戦略を展開します。

箸蔵寺の金毘羅大権現化戦略

こうして箸蔵寺の天狗(修験者)たちによる金毘羅信仰の全国への布教・勧進活動が始まります。箸蔵寺の成長戦略に、金毘羅大権現にあやかって寺勢拡大を計ろうとする意図が最初からあったことがうかがえます。それを正当化するために書かれたのが「由来略記」だと私は考えています。ここで注意しておきたいのは、本家の金毘羅大権現の別当寺金光院は、箸蔵寺が奥の院であることは一切認めていなかったことです。別当院のあずかり知らぬ所で、箸蔵寺の修験者たちは金毘羅大権現のご開帳を行うようになります。

金毘羅大権現扁額1
                箸蔵寺の金毘羅大権現扁額
 19世紀になると箸蔵寺の修験者たちによる金毘羅大権現の贋開帳事件が各地から報告されるようになります。本家の琴平の金光院には、箸蔵寺の贋開帳記録が次のように残っています。
①天保6年10月 箸蔵寺が、金毘羅の隣りの天領苗田村長法寺で、平家の赤旗など持ち込み、剣山大権現や金毘羅大権現といって開帳。
②11月   箸蔵寺で金毘羅蔵谷出現の奥の院といって開帳。
③天保7年6月  金光院が箸蔵に派遣した調査報告では、神体は岩屋で神像はなかった。
④天保15年 箸蔵寺で贋神号事件が再度発生、
⑤弘化2年4月 贋縁起札守版木など、郡代役所から引渡され、一応落着。
⑥嘉永二年 箸蔵の大秀という修験者が、多度津で銅鳥居の勧進を行い、多度津藩に召捕えられる
⑥嘉永4年、 箸蔵寺、再度贋開帳。
このように箸蔵寺の修験者たちは、長期に渡って金毘羅大権現の贋開帳事件を起こしています。そして贋開帳事件の責任をとって、院主が阿波藩から二度も追放されています。しかし、それでも贋開帳事件は続発します。贋開帳を行っていた箸蔵寺の修験者たちによって「箸蔵=金毘羅さん奥の院」説は流布されたのです。それだけ多くの山伏たちが箸蔵寺の傘下にはいたことになります。

金毘羅神 箸蔵寺
箸蔵寺で配布されていた金毘羅大権現の掛軸
以上をまとめておきます
①箸蔵寺の中世のことはよく分からない
②近世初期には藩からの保護を得たが、当時は小さな山寺程度の規模のものでしかなかった。
③近世中期になると、三好周辺には多くの修験者が集住するようになる。
④その中で箸蔵寺の修験者たちは金毘羅大権現の多聞院に接近し、金毘羅大権現を勧進し教勢拡大を図ろうとする
⑤そこで高野山の僧侶に依頼して「由来略記」が作られ「箸蔵寺=金毘羅大権現の奥の院」説が生まれる。
⑥それを信じた箸蔵寺の修験者たちによって贋開帳が各地で開かれるようになる。

こうして見ると由来略記の果たした役割は、次のように云えます。
A 修験者の箸蔵寺に弘法大師と金毘羅大権現が接ぎ木されることによって、
B「金毘羅大権現の奥の院」と「四国霊場別院」という大義名分を得た。
C それが江戸後半から明治にかけての急成長につながった
 その教勢拡大の担い手は、金毘羅大権現とおなじように天狗信仰をもつ修験者(山伏)たちでした。彼らの布教・勧進活動の成果が幕末の伽藍や参道の玉垣・燈籠整備につながることになります。これは日本列島全国だけでなく、日清戦争後は朝鮮半島や中国大陸にもおよんでいたことが朝鮮や満州からの寄進者の名前があることからもうかがえます。明治になっても箸蔵寺の天狗(山伏)達の活動は衰えていなかったのです。

IMG_3671
箸蔵寺参道の天狗

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献「宝珠山真光院箸蔵寺調査報告書 2004年 池田町教育委員会」
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   私の家の前には布帛(ふはく)神社という小さな社があります。その社の境内の中に五角の石柱があり、各面に神々の名前が掘られています。このような五角形の石柱は、三豊や丸亀平野の南部でよく見かけます。これは五角柱地神(じしん)塔と呼ばれているようです。五面に書かれている神の名前は次の通りです。
(五角柱地神)蓮池(香川県木田郡三木町大字田中)
五角柱地神(香川県三木町蓮池)

五角柱地神に登場する神の名前

いつ、誰が何のために、これを設置したのかと不思議に思っていました。今回は私の家の氏神さまの境内にある五角柱地神について調べて見た報告書です。最初に、地神をAIで調べると次のように答えてくれました。

地神信仰とは

この中では一番下の地神塔が最も近いようです。私の家の近くで地神塔が多くあるのは阿波のようです。「阿波の地神塔」で検索すると、AIは次のように答えます。

阿波の地神信仰

阿波地域には土地の守り神や農業の神を祀る地神信仰が根付いていて、境内や村の辻などに「地神社」や「地神塔」と呼ばれる小さなお社や石碑が数多く残されているようです。さらに検索を続けていると出会ったのが、「徳島県郷土研究発表会紀要第42号 北島町における地神信仰 民俗班(徳島民俗学会)庄武憲子・東田塁美・岡島隆夫」です。
https://library.bunmori.tokushima.jp/digital/webkiyou/42/4223.html
地神塔についての調査報告書で、教えられることが多かったので、今回はこれをテキストにして地神塔について見ていくことにします。

報告書は、北島町内の11の地神社を次のようにリストアップします。
北島町の地神社一覧

それを地図に落としたものが下図です。
阿波北島町の地鎮さん分布図
ここからは北島町全体にほぼ均等に分布していることが分かります。集落毎に地神社が祭られていて、コミュニティーセンターの役割を果たしていたのかもしれません。そうだとすると、ソラの集落のお堂と同じような機能があったこと、修験者が運営に参加していた可能性があります。次に北島町の五角地神塔のスタイルを押さえておきます。

阿波北島町の地鎮さん 中村字長池G

阿波北島町の地鎮さん2 G

これを見ると、基本構成パーツが上から「心石(五角石柱) + 台座 + 基壇」の3点であること、大きさやほぼ同じで同一規格下で建立されたことがうかがえます。もう少し詳しく見るために、研究者は地神さんの素材や構成品を次のように一覧表します。(番号が上の一覧表と同一)

阿波北島町の地鎮さんの素材
この表からは、次のような事が分かります
A 11の地神社のすべてが、基壇、台座、心石のパーツで構成されていること
B 基壇や台座には、多少の違いはあももの、心石についてはすべて五角柱であること
C 素材は砂岩。花崗岩が使用されているのは、昭和以降に建替えのため
D 天照大神の面が、すべて北向きに統一されていること
心石には、五神名が刻まれています。その神名の配列順と天照大神の対面方向をまとめたものが表3です。
五角柱地神塔の神名配列順

最後の欄の「向き」とは、天照大神の面がどちらを向いているかと云うことです。総て北です。その他の神々の方向も総て同じです。ここにも規格・統一性が見られます。

これらの地神塔がいつ建てられたのでしょうか。地神社の紀年銘をまとめたものが下表です。

阿波北島町の地鎮さんの紀年名
ここからは次のようなことが分かります。
3の燈籠や、6・11の手水鉢などが最も年代的に古く、18世紀後半まで遡れる。
2は、玉垣の紀年銘から安政6(1859)年以前の建立。
1は、台座の銘から明治32年に再建されたもので、心石の形からは藩政期の創建
地神塔建立の開始時期が18世紀後半で、それ以前のものはないこと。19世紀になって急速に拡大し、明治以後になっても建立が続けられたことが分かります。

統一スタイルの地神塔が同時期に出現し、それが普及していった背景はなんなのでしょうか。
  阿波の地神さんの起源ついては、金沢治氏が次のような説を出しています。

「寛政元年(1790)に、当時勢力のあった徳島城下富田八幡宮の祠官早雲古宝(ふるとみ)が藩主治昭に説いて各村に地神祠を奉斎せしめ、庄屋に祀(まつ)らせた」(『日本の民俗 徳島』)

そして、推進者だった早雲古宝(伯耆(ほうき)の地神信仰との出合いについて、次のように推察します。

おそらく上方で手に入れた大江匡弼著『神仙霊章 春秋社日■儀』(序文に天明元年 〔1781〕には農業の守護神である地神の大切なことが説かれ、その祭り方を示していた。これを手本にした

それでは「手本」にしたとされる大江匡弼の『神仙霊章 春秋社日■儀』には、どんなことが書かれているのでしょうか。
(神仙霊章)春秋社日醮儀
                       春秋社日?儀』と五神名地神塔(京都大学アーカイブス)
この書は京都大学のアーカイブで見ることができます。天明元(1781)年に出されたこの本の中で大江匡弼は、次のように記します。

(神仙霊章)春秋社日醮儀2

中国では古代より年二度、春と秋の社日に五穀豊穣、天下泰平、子孫繁栄などを祈願して五穀の祖神の祭祀をおこなう祭礼を行ってきた。それは清浄な土地に石または土で社壇を作り、五角に切った石のそれぞれの面に以下の五神名を刻んだ碑を立てるというものである。それを我国でも広めるべきである。

そして清朝で行われている地神の祭儀について、次のような挿絵が挿入されています。

(神仙霊章)春秋社日醮儀 地神塔絵図
清国の地神祭の祭壇(春秋社日樵儀)

中国の祭儀に基づいて、我が国で行う際に造立すべき宗教施設を施設を、次のように示しています。

(神仙霊章)春秋社日醮儀 地神塔絵図2
清朝の祭壇を真似て、日本でつくろうとした地神塔(春秋社日樵儀)
五神名石柱には、北面に天照大神が記されている
これは先ほど見た阿波の五神名地神塔と非常によく似ています。この本を見た富田八幡宮の早雲古宝が藩主治昭に進言し、藩が主導して造塔と祭祀が行われるようになったと先ほど紹介しました。寺社奉行の役人がこの挿絵を庄屋たちに指し示しながら「これをモデルに、おのれらのムラに造立せよ」と云う姿まで浮かんできます。そして、それが周辺の村々に拡がって行くという話になります。説得力のある挿絵です。
(神仙霊章)春秋社日醮儀 地神塔絵図3
地神社の社壇配置図((春秋社日樵儀)
 約半世紀後の天保3年(1832年)に、渡辺月石は『堅磐草』の中で次のように述べています。

「近世 江匡弼社日?儀ヲ編撰シタルニ従リ、国命有リテ各村之ヲ祭ル。彼ノ書本邦神代之五神ヲ以テ之ニ配シ大ニ当レリ」

意訳変換しておくと
「50年ほど前に、大江匡弼春秋社日樵儀を編纂した。それが藩主の国命で地神を阿波の各村々に祀ることにつながった。彼の書は、神代の五神の普及に大きな役割を果たした

以上を整理しておきます。
阿波藩の五神名石塔の普及背景

つまり、個人の献策を受けて藩主の肝いりで、地神塔建設は始まったようです。それを受けて庄屋を中心に周辺の集落に拡がって行く様子が見えてきます。つまり、お上の音頭取りで始まった徳島藩の宗教政策の一環だったことになります。同じような例が、阿波ではお堂建設がありました。集落毎にお堂を建設して、宗教的コミュニティーセンターとして活用するというものでした。その推進役は、修験者(山伏)でした。ここでも、地神神の祭礼を行ったのは山伏だったようです。それは後で見ることにします。
阿波北島町の地鎮さん 御祈祷と松明
地神社の前で行われる社日祭(徳島県北島町)
北島町の地神社では、今も春秋の社日祭が執り行われています。
社日は、春分・秋分の日に最も近い戊の日が地神を祭る日とされています。昔、中国で天神を「神」と呼んだのに対し、地神を「社」と称しました。暦法や五行説とともに、地神を祭る社日祭も中国に学んだことは先ほど見たとおりです。この日を阿波では“地神さん”と呼びます。そして、村人たちが地神社に供物を祭り、春は豊作を祈り、秋には収穫を感謝します。
飯田義資氏は「地神碑と社日祭」について、次のように記します。
①県下に約2千社あるが、阿波ではともに“地神(じしん)さん”といっている。
②北島町でもそれを“オジジンサン”又は“ジジンサン”と呼んでいる。
そこでどんな祭りが行われているのかを見ておきましょう。まず祭礼準備です。
①社日祭の準備は、各社とも当家(オトウヤ)が受け持つ。
②氏子が神社(氏神)の氏子と重なるので、神社の当家組が兼ねるところが多い
③そのため4・11 のように地神当家を別にくじで決めるところもある。
④輪番制で、任期は1年か半年、当家数も氏子地域の広狭によって1~10戸とまちまちである。
次に神事(御祈祷(ごきとう)です。

神職が到着すると、参列者(総代・当屋・氏子の有志ら、各地神社とも15人前後)一同が神前に居並び、御祈祷が始まります。神職の所作に倣って拝礼し、かしわ手を打つ。

阿波北島町の地鎮さん 御祈祷と修祓

①「修祓(しゅうばつ)」で、神前や参列者を祓(はら)い清め(図9)
②お供えを「献饌」し、神楽太鼓を打ちながら「中臣祓(なかとみはらい)」を上げる。
③続いて「祝詞」が厳かに奏上され、参列者一同「玉串」を捧げて拝礼
④最後に「撤饌(てっせん)」で終わる。
(神仙霊章)春秋社日醮儀 地神塔祭礼時絵図
地神さんへの供物(春秋社日樵儀)
阿波藩の五神名石塔御供え
北島町の地神社祭礼の御供え (上図との共通点が見られる)
この間約20分、神前にロウソクをともすところや、松明(たいまつ)をたくところもあるようです。
以上からは、今は神主が進行役を勤めていますが、神事が「ご祈祷」と呼ばれていることや、蝋燭やたいまつをともすところから神仏分離以前には修験者がつとめていたことがうかがえます。藩による地神信仰の普及にも、里山伏たちがかかわっていたと私は考えています。
直会(オナオライ・ナオライ)
神事が終わると、お下がりのお神酒・焼き魚、当家の準備した煮しめ・赤飯・巻きずしなどで直会をします。直会は、神からのお下がりを戴くことで神の霊力を授かるとされています。そのため鏡餅などの供え物は参列者が分けて持ち帰ります。以前は鏡餅を小さく切って全氏子に配っていたそうです。

地神祭の直来

北島町の社日祭については、次のような言い伝えが残されていると報告されています。

昔は、この日は農民の休日で、御祈祷の後で農事の相談をした。そして「田畑に入らない、土をいじってはいけない」と言われていた。ふだんは忙しい農家の嫁も、餅を土産に里帰りをした。今はその餅をつく家も少なくなり、ほとんどの人が休まず農作業をしている。そんな中で老門(中村字本須)の三木家のように、床の間に地神さんの神号軸を掛け、灯明をあげ、お神酒、赤飯などを供えるなど、古くから伝わる家の祭りを大切にしている家もある(図12)。
地神信仰の五神の掛け軸

「秋のジジンサンは少々遅くなってもよいが、春は早いうちにお参りするように」との言い伝えは、種まきの時期を失しないようにとの教えで、いまも生きている。
「彼岸の中日と社日が重なった年は、東向きの鳥居を五つ(または七つ)くぐると、無病息災で過ごせる」
山伏たちの活動について最後に触れておきます。
 山伏たちは村々の鎮守社や勧請社などの司祭者となり、拝み屋となって妻子を養い、田畑を耕し、あるいは細工師となり、鉱山の開発に携わる者もいました。そのため、江戸時代に建立された石塔には導師として、その土地の修験院の名が刻まれたものがあります。山伏は、雨乞や虫送り、非業の死者や疫病の死者の供養大念仏があれば、その世話役や本願となって法会を主催し、踊念仏を振り付けることもおこなっていたことは以前にお話ししました。つまり、集落のお堂で行われた庚申信仰から、死者供養の盆踊りまで地域の人たちの生活に根付いた信仰行事を、彼らは担う存在だったのです。そういう意味では、準公務員化した僧侶や神主よりも、庶民に近い位置にいて頼れる存在でした。そして、前回お話ししたように阿波藩では藩の保護を得て、住民からもリスペクトされる存在でした。新たに導入された地神信仰も、庶民救済を優先させて普及のための先頭に立ったはずです。
 山伏と庶民をむすぶのは庶民信仰です。庶民信仰は、教理や哲学などの難しい話なしに、庶民の願望である現世幸福と来世安楽をかなえてくれます。庶民信仰を背負って、民衆の間を遊行したのが山伏でした。ソラの集落の庚申信仰も、このような文脈の中で私は捉えています。
 江戸期後半から幕末にかけて、阿波では地神信仰が広がり、村々に五神名地神塔が立てられるよ
うになります。
それが明治になると、阿讃山脈を越えて讃岐側でも造立されるようになります。最初にお話しした我家の氏神さまの祠の横にある地神塔も明治以後のものです。その背後には、その建立を進めた阿波の修験者の布教活動があったのではないかというのが私の仮説です。つまり、明治以後の阿波修験者の讃岐進出です。そうだとすると、近代になって建立された讃岐の地神塔は、阿波修験者の活動の痕跡といえることになります。この跡を追いかけるのが、今後の課題です。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「徳島県郷土研究発表会紀要第42号 北島町における地神信仰 民俗班(徳島民俗学会)庄武憲子・東田塁美・岡島隆夫」です。
https://library.bunmori.tokushima.jp/digital/webkiyou/42/4223.html
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P1190798
             田野々集落を見下ろす岡の上に建つ庚申塔
かつて阿波のソラの村々のお堂をめぐる端山八十八ヶ所巡礼を行っていたことがあります。その時に訪ねたお堂や庚申塔などからは修験者(山伏)の痕跡を色濃く感じました。そのことについては以前にお話ししました。今回は江戸時代の修験者たちが藩から保護され、村人からは信頼されていた存在であったことを見ていくことにします。

山嶽仏教に始まる修験道は、中世になると熊野山の先達として活発な動きを見せるようになります。彼らは地域に講社を作り、熊野に案内したり、代参することで信徒を増やして行きました。このスタイルが後には、伊勢神宮・多賀神社・愛宕神社・出雲大社などにも導入されていきます。修験道は、山を登り、多くの神社を数多く参詣することによって超人間的な呪術を身につけていると信じられ、病気・不幸・災難の一切から免かれるためのプチ修行を一般信者も行うようになります。このプチ修行は、勤勉な農民の信仰心を捕らえ、各地で講が生まれるようになります。こうして近世後半に開かれた剣山には、先達に誘引された信者達がお山開きになると大勢やってくるようになります。僧侶に世俗的地位と経済基盤を奪われた神主の中にも、山伏的な祈祷師として信仰を集める者も現れます。
 修験道ではイスラム教のメッカ巡礼と同じように「本山参り」が重要な「信仰告白」でした。それを誘引する先達が、修験者(山伏)です。やがて山伏や神主を中心とする講社が作られ、団体で参詣するようになります。さらに順番で代表が参拝する「代参」というスタイルになり、伊勢講・金比羅講などが生まれます。講中で資金を積立て、くじ引きで当たった者が代表で本山参りを行います。伊勢参りなどは二〇人、三〇人で団体行動をしています。また、本山(宮)の修復・拡張などのときには、この講社が集金(勧進)マシーンとしての機能を大きな発揮しました。
例えば、池田町史568Pには、中世の畑栗寺という山伏寺のことが紹介されています
この寺がどこにあったかは分からないようですが、池田町内の棟付帳には、山伏が10戸以上登録されています。その内の玉蔵院を見ておきましょう。(明暦四年池田村棟付帳」)
明暦四年池田村棟付帳」 阿波池田の山伏寺

この史料からは次のようなことが読みとれます
①玉蔵院は、58歳の山伏(修験者)で、快蔵(24歳)と きち(12歳)の男の子がいること
②妻や娘などの女性は記されていない。実際には女子の下人も何人かいた
③石高は5石あるので、自作農クラスの農地を持っていたこと。
③下人は2人で、その内の一人は草履取りで、彼らによって農業経営が行われていたこと
④さらに小家下人一戸がいたこと。
ここからは、農地をもった山伏が「ざうりとり(草履取り)」を従えるという特別な存在で、ムラの宗教行事では指導的な役割を果たす姿が見えてきます。それは普通の百姓よりも、遙かに身分が高い特別な存在に見えたはずです。ここでは山伏が卑下される存在ではなく、村人からリスペクトされる存在であったことを押さえておきます。卑下されるようになるのは、明治維新の神仏分離以後のことのようです。

もうひとり、27歳という若い御蔵山伏の快次郎を見ていくことにします。
 意訳変換しておくと
小家 宝仙    27歳
この者の先祖は明学院で、延宝2年の棟付張には親藤左衛門の家族として登録され、山伏となり賦役免除となったと記されている。この家は代々、山伏業で渡世を営む家で、取調に対してその旨を述べている。本人と惣領が夫役御免になっていて、同家多りとも夫役被仰付旨被仰渡侯(「文化八年西山村「棟付帳」)
 もう一人の山伏宝仙も、山伏という理由で本人と惣領が夫役御免の特権を得ています。こうしてみると棟付帳に載っている山伏は、例外なく夫役御免扱いの特権を得ています。ここからは阿波藩の保護を受けた山伏が一般農民の信頼を受け優遇され、村々で指導的な役割を果たしていたことがうかがえます。
 しかし、だれでもが山伏になれたわけではありません。
山伏なるには、やはり修行が必要でした。山嶽修行の期間や、本山への参拝回数によって、その呪術にも差があるとされました。また、本山からも大先達・中、小先達と位階がつけられます。そのためには本山から免許状を受ける必要がありました。これには金銭的な負担が伴いました。つまり、山伏は困窮した人達の階層に属していたのではなく、ある程度の経済力と身分を持った人達であったことがうかがえます。
 最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

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今回は江戸時代にはムラの神社の祭礼を、お寺の住職がしていたことを見ていくことにします。
式内社など古くからある神社では、神々に仕える家が神主となり管理運営を行っていました。それが中世になると重要な役割を務める家が固定化して「頭屋(頭家・当家)」と呼ばれるようになり、宮座を形成して祭礼を行うスタイルが生まれてくることは以前にお話ししました。それが江戸時代になると神主にも家元制度ができあがり、京都の吉田家か白川許可状がないと神主になれなくなります。そのためにムラの神主たちも、継目ごとに上京して、吉田家で講習を受けて神道成許状を受けるようになります。一方、髙松藩の松平頼重に典型的に見られるように支配安定化のために、神社の保護政策をとるようになります。そして主な神社には、少々でも社料の土地と米を寄進して、保護者として達振る舞うようになりまう。
 このように近世になると神社は、藩の保護と氏子の支えによって維持されるようになります。
神社といっても式内社のような古くからの伝統を持つものもあれば、神主もいない小さな祠や神社もあり、部落でまつる山の神や、龍王さんのような祠のようなものまでさまざまでした。その中で、近世の検地の「ムラ切り」で生まれたムラには、新たに村社が建立されるようになります。そこに祀られた神々は、次のような神々が多いとされます。
A 大国主命や稲倉魂命のように農業を司る神
B 山の神の大山祇の神・悪霊を防ぎ旅の平安を守る猿田彦の八幡神社の武の神々
C 菅原(天神)神社
Bは中世の武士集団によって居館周辺に勧進されたものが、村社に成長したもの。Cは今は学問の神となっていますが、もともとは怒りの怨霊(御霊)で、荒ぶる神でした。それが転じて、近世になると悪をこらしめ、争いに勝つ神であった。学問の神に脱皮・変身していきます。祭神の分布を調べると、江戸時代の人々が、どんな思いでこうした神を祀った見えてくるとかつては云われてきました。これらを勧進したのも廻国の修験者や聖達だったことは以前にお話ししました。
修験役一覧
 幕末の西讃府誌の編纂過程が明らかになるにつれて分かってきたことは、村社と言われる神社でも何を祀っているのか分からずに、レポート提出を求められた庄屋たちが近隣の神主や国学者達に相談して祭神を選んだ例が多数報告されています。村人達にとっては、何を祀っているのかはあまり関心がなかったようです。関心がでてくるのは明治以後の神道が国教化されて以後のようです。

 讃岐の多くの神社の祭りは、氏子から輪番で選ばれた当(頭)屋が神主とともに管理してきました。
私が住む佐文の加茂神社もそうです。8つの小集落(子部落)から年ごとに当番(総代:当屋)が輪番で選ばれます。彼らが準備を行い、岸の上の朝倉神主をお呼びして祭礼を行います。神主については神職の家系もありましたが、特別な霊力を持つ修験者(山伏)が、氏子の信頼を得て、神主を勤めるようになった所も多いようです。以前にお話したように、修験者は、悪霊・疫病退散・先祖供養・虫追い・雨乞祈祷などの様々な村人の願いに応える身近な頼れる存在として、信頼を獲得していました。

 各藩は、お寺に戸籍作成や往来手形の発行をさせ、旅行や移転の取締りやをさせるようになります。
さらにはキリスト教管理のために風紀の仕事もさせたりします。こうして見ると、お寺は藩の行政機関の末端として機能し、僧侶は庄屋などの村役人と並ぶ行政官のような存在だったことが見えてきます。それは身分制社会の中では、住職は社会的な地位が高かったことにつながります。それに比べてムラの神官は修験者上がりのよそ者扱いで、両者の間の社会的地位には大きな格差があったようです。
 各藩は神社の管理を僧侶に委任し、別当職を与えました。

別当寺とは

別当職は、神社の職階の最上位で、平安時代からあった特別職です。神社管理の責任者で、神主(宮坊・神主・社僧・社人・弥宜「寛保神社帳」)を指揮して祭りも執り行う最高責任者です。金毘羅大権現でいえば、金光院院主が別当になります。金光院の歴代院主は、高野山で学んだ真言宗の高僧であると同時に、吉野山で修行を積んだ修験者でもありました。金毘羅大権現の社僧たちは、善通寺誕生院の院主とはかつては高野山で共に学んだ学友であったものもいます。同じ釜の飯を食った中間なのです。そのため大祭などでも、法と称して別当の読話があり、祭具も仏式の物が多く、焼香を行い、神官は内陣に入ることも許されませんでした。そこでは神官は、別当の補助にすぎませんでした。これが国学などの力が大きくなると、反発材料となり、明治の神仏分離・廃仏毀釈運動につながっていきます。ここでは、お寺の住職は江戸時代は準公務員的な立場で、身分的にも高かったこと、お寺の境内は白州場で、村人にとっては敷居が高かったことを押さえておきます。
 盆踊りなどは、祖先供養ですから寺の境内で行われたものと私は思っていましたが、神社で行われることの方が多かったようです。それはお寺が公的な空間で、猥雑化した盆踊りの場としてはふさわしくないとされたのかもしれません。神社とお寺に対しては村人の見方の差あったことを押さえておきます。
 讃岐財田の向こう側の阿波三好市の下野呂内の三所大権現の棟札を見ておきましょう。

阿波三好市の下野呂内の三所大権現の棟札

          阿波三好市の下野呂内の三所大権現の棟札
  遷宮導師大別当箸蔵寺心性法印印
奉上三所権現
  社僧密厳祥寺権別当詳灯
  (裏面)文化元歳九月吉詳日
  野呂内総氏子中
三所大権現は、大きい社ではありませんが、明治初年まで相撲や競馬が行われて栄えていた神社です。この棟札からは、大別当が箸蔵寺で、権別当に箸蔵寺の末寺である密厳寺が当たっていたことが分かります。小さな神社なので、神官はいません。氏子の頭屋が雑務を行い、祭りの進行を取り仕切っていたのでしょう。祭礼で主役となるのは箸蔵寺や、その末寺の蜜厳寺の僧侶です。
 池田町の神社に残る棟札からは、遷宮大導師を務めているのは雲辺寺が一番多いことが報告されています。雲辺寺が池田エリアの多くの寺社を傘下に入れていたのです。それが山頂に立派な伽藍を維持していく経済力となっていました。同じように中世の道隆寺(多度津)が、塩飽から荘内半島にかけての西備讃瀬戸エリアで、多くの寺院や神社を配下に置いていたことは以前にお話ししました。大きな伽藍を持っていた寺院は、近隣だけでなくネットワークを張り巡らして、広域的に多くの寺社を配下に置いていたことを押さえておきます。そこでは、神社の祭礼にも仏式が取り入れられ、般若心経が称えられていたのです。
別当寺による神社支配に対して、神社=神官側も抵抗したこともありました。
例えば、金光院が別当寺として金毘羅大権現の管理権強化を進めていくのに対して、三十番社の神官が幕府の寺社部卿に訴え出ています。しかし、判決は寺領の最高管理者である金光院院主に刃向かったということで一族処刑になったことは以前にお話ししました。寺院が別当職を得て、神社を管理下に置くことを幕府や藩は認めていたのです。神官達の訴えは聞き入れられません。
 一方、氏子たちは、お寺の神社管理をどう見ていたのでしょうか。
 氏子達は中世以来の神仏混交思想に馴れていましたから違和感はなかったようです。そして、宗門改めなどよって、寺院の行政的性格はさらに強化されていきます。その中で讃岐が阿波とは異なる点があります。それは讃岐では浄土真宗興正寺派の比率が非常に高いことです。それも江戸時代になって新たに寺号を得たお寺が多いことは以前にお話ししました。興正寺派は、神社との関係を持ち別当寺となることを自ら禁じていたようです。そのため村々の神社管理や祭礼に関与することを律していた節が見えます。このあたりが讃岐の近世神社の運営の特殊性のひとつかもしれません。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
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綾子踊は恋の唄レジメ15 変遷図

前回までに中世小唄として生まれた恋歌が、歌舞伎や能の舞台で踊られ、風流踊りとして全国に広がり祖先供養の盆踊りとして踊られるようになること、その伝播に大きな役割を果たしたのが修験者や聖などであることを見てきました。今回は、盆踊りとして踊られていた風流踊りが、いつから、どうして雨乞踊りと言われるようになったのかを探って見ようと思います。まず雨乞の歴史について簡単に押さえておきます。
綾子踊は恋の唄36 雨乞は験のある高僧のおこなうもの

古代には、雨を降らせるのは神々と信じられていました。そのため験の高い僧侶が神に祈祷して雨を降らせるという信仰が生まれます。その原形が空海の京都の神泉祈雨伝説です。ここで空海は善女龍王を招聘して雨を降らせたとされます。
2善女龍王 神泉苑g  
         空海の神泉祈雨 蛇の姿をした善女龍王が現れ雨を降らせた

それを継承したのが醍醐寺や高野山で、雨乞と云えば真言系修験者の専売特許のようになります。その際に、祈願の対象は善女龍王だったので、雨乞祈祷の寺院には善女龍王が勧進されます。その善女龍王信仰が讃岐に正式に伝えられるのは、江戸時代の初めの善通寺だったことは以前にお話ししました。

5善通寺
                善通寺の善女龍王社(善通寺東院) 
以後、讃岐では、髙松藩が白峰寺、丸亀藩が善通寺、多度津藩が弥谷寺に、雨乞祈祷を命じるようになります。ここまでで押さえておきたいのは、中世の人達は、雨乞祈祷は験の高い僧侶(修験者)が行うもので、庶民が雨乞をして効き目があるとは考えていませんでした。庶民が踊るのは、その祈祷が成就した時で、そのお礼として踊っていたのです。つまり、雨乞祈願の踊りではなく、雨乞成就のお礼踊りという意識です。滝宮念仏踊りも、雨乞成就祝いの踊りだと由緒書きには記されていますし、七箇村念仏踊りも踊っている当時の人々は雨乞踊りとは思っていなかったことは以前にお話ししました。ところが江戸時代の後半から明治になると、自分たちの踊りは雨乞踊りだと主張する由緒が現れるようになります。その背景に何があったのかを今回は見ていくことにします。

綾子踊 髙松藩の倹約令 盆踊り禁止令

19世紀の文政年間に出された髙松藩の倹約令です。ひな祭り、鯉のぼり、八朔の飾り馬、家の修理、旅行禁止、三味線禁止などが並んでいます。そして最後に盆踊り禁止とあります。ここからは、江戸時代後半になると盆踊りが禁止されていたことが分かります。これに対して、庶民はいろいろな抵抗対応をします。そのひとつが、うちの踊りは盆踊りではありません、雨乞のための踊りですという正当化・大義名分の主張です。この攻防が繰り返される中で、由緒の中に、雨乞のためのおどりと書かれるようになったと私は考えています。それでは、明治の盆踊りがどんなものだったのかを見ておきましょう。
綾子踊は恋の唄44 山形県黒石盆踊

明治初年の山形県の盆踊りを描いたものです

①上段に真ん中の歌い手を中心に大きな輪ができています。②その下には、さまざまな小集団が同時並行で踊っています。これが踊り込みです。

綾子踊は恋の唄45 盆踊りの総合性と猥雑さ 荘内半島 三崎神社 1


衣装や仮面・持ち物がさまざまで、まるで仮装行列と仮面舞踏会が合わさったような雰囲気です。ある意味では、ムラの象郷文化祭ともいえそうです。そして楽しそうです。非日常的で、羽目を外す最大のイヴェント 恋の告白日  しかし、庶民には楽しいイヴェントでも支配者にとっては、破廉恥な風紀の乱れと移ります。そのため江戸時代後半になると倹約令とのからみで、各藩で禁止令や制限令がだされるようになります。そして、明治になると近代的国家にはふさわしくないと各県で禁止令が出されます。

綾子踊は恋の唄46 愛媛県の盆踊禁止令


1874(明治6)年に愛媛県(香川県を併合中)の禁止令です。(意訳)
ここからは香川県でも明治初年には、盆踊りが禁止されたことが分かります。当時の盆踊りの模様を明治21年の雑誌は、次のように記します。

綾子踊は恋の唄47 明治の盆踊り

盆踊りをめぐって、禁止しようとするお上と、踊らせろと反発する庶民のやり取りが続いたようです。そこで讃岐の庶民が考えたのが次のような方策でなかったのでしょうか。

綾子踊は恋の唄48 盆踊り生き残り策としての雨乞踊り

こうして江戸時代末以後に書かれた由緒書きには、この踊りは雨乞のために踊られる踊りであることが強調して書かれるようになります。その口外には、これは盆踊りではないという大義名分が含まれます。以上をまとめておきます。

綾子踊 恋の唄が多いわけは

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
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綾子踊は恋の唄レジメ 1

前回までに中世の小唄が、宴席や港町などで唄われたこと。その現場を法然上人絵伝の室津の遊女船の名乗り場面などで押さえました。この小唄に振りが付けられ、能や歌舞伎の舞台で踊られ風流踊りとして各地に拡がっていきます。今回は、この風流踊りを村々に伝えたのが修験者や聖であったことを見ていくことにします。まず、讃岐に伝わる雨乞踊りの分布を地図で押さえておきます。

綾子踊は恋の唄レジメ31 讃岐の雨乞踊分布図


 これは雨乞風流踊りを地図上に落としたものです。東から見ていきます。

①東讃や髙松には雨乞踊りとされるものは残っていません
②念仏系雨乞い踊りが、滝宮を中心に坂出の北条 丸亀の坂本、多度津の南鴨、善通寺の吉原、まんのう・琴平の七箇村念仏踊がある。
③風流小唄系の雨乞踊りが三豊南部に集中していること。
④中讃の念仏踊りと、三豊の風流小唄系の境界線上に佐文綾子踊が位置する。
これに対して次のような仮説を私は考えています
①については、このエリアが熊野系の水主神社の信仰エリアで、別の雨乞祈祷が行われていたため。
②の中讃に念仏踊りが多いのは、滝宮牛頭天王社の別当龍燈寺の修験者たちの活動エリアであったため
③の三豊南部については、観音寺や七宝山、大興寺、雲辺寺を結ぶ修験者の活動エリアがあったこと、
④については、綾子踊りは中讃と三豊の両者の影響を受けて近世後半に新たに作り出された雨乞に特化した綾子踊であること。ここではこれ以上は触れずに、先に進みます


次に、讃岐の雨乞踊の由来に書かれている伝達者を一覧にして見ておきます。


綾子踊は恋の唄32 雨乞踊りの芸能伝達者

A 滝宮念仏踊りの由緒には「菅原道真の雨乞成就に感謝して踊られた」とあり、だれが伝えた踊りとは書かれていません。後世の附会では「法然が伝えたの念仏踊り」とされます。しかし、法然の時代には念仏踊りはありません。念仏踊りを始めたのは、一遍です。一遍が起こした時衆の念仏阿弥陀聖の踊りが風流踊り化したものと研究者は考えています。
Bの綾子踊は、綾子に旅の僧が伝えた、それは弘法大師だったとします。弘法大師伝説の附会のパターンです。
Cは、宮田の法然堂にやってきていた法然が伝えたとします。

しかし、これらの歌や踊りは、中世に出来上がったものです。空海や道真や法然が生きた時代には、なかった踊りです。いまだうまれていないものを伝えることはできません。この伝承には無理があります。しかし、広く捉えると、伝承者は「高僧が伝えた」とという点では共通します。

 伝承者がはっきりしている「D豊浜和田のさいさい踊り」を見ておきましょう。

綾子踊は恋の唄33 豊浜和田 さいさ踊の薩摩半島 三崎神社 1

まず歌詞を押さえます。薩摩の遊女と一夜を明かして、朝起きたら薩摩の踊りを踊ってひと祈り。薩摩の沖に船を出すと、後から遊女が、船を返してもう一晩、遊女が吾と薩摩踊りを踊ろうと誘う。歌詞の内容は、男と女 港と出船と別れ、で港町ブルースタイプです。

 ここで注目して欲しいのは踊りの隊形です。真ん中で歌い手がいて、二重円で、内側が太鼓、外側が団扇を持った踊り手です。これは盆踊りの隊形です。もともとは盆踊りであったことがうかがえます。この踊りについては、伝承者の墓碑があります。

綾子踊は恋の唄34 豊浜和田のさいさ踊 薩摩法師墓碑 

豊浜の和田の道溝集落の墓地に、ある薩摩法師の墓碑です。①ここには上のように記されています。
ここには旅の僧侶(聖・修験者・山伏)である薩摩(琵琶)法師が雨乞踊りを伝えたことが記されています。薩摩生まれの遍歴の琵琶法師である薩摩の修験者によって、この地にもたらされています。
中世の村々で琵琶法師(修験者)がどんな役割を果たしていたのかを押さえておきます。

綾子踊は恋の唄35 修験者の役割
修験者は修行を重ねながら、験を高めていきます。そして、ムラの様々な宗教活動を担っていくようになります。日照りの際に、村人に雨乞を頼まれれば、それにも応じたようです。その例をもうひとつ見ておきましょう。
綾子踊は恋の唄38 百石踊

兵庫県三田市の百石踊りです。神社の境内で丸い円になって子ども達が太鼓をたたいて踊っています。その真ん中にいるのが芸司です。①衣装に注目してください。白衣の上に墨染めの法衣を着ています。白欅を掛け菅編笠を被っています。これは僧の姿です。この僧が指揮をしたり、口上を述べます。由来伝承にも、「元信と名乗る天台系の遊行聖」がもたらしたと記されていす。ここからは、遊行聖が、雨乞踊りの伝道者であったことが分かります。
これとよく似た姿で踊られる滝宮念仏踊りも見ておきましょう。

綾子踊は恋の唄38 滝宮念仏踊り 讃岐国名勝図会

 場所は、滝宮神社(牛頭天王社)の境内です。天満宮ではありません。時代は、ペリーがやって来た頃に編纂された讃岐国名勝図会に描かれた滝宮念仏踊りです。
①正面が滝宮牛頭天王社(滝宮神社)の拝殿です。
②その前に、有力者達が据わり、地唄方が並んでいます。
③周囲には南無阿弥陀仏の幟が建ち並びます。
④その下には鉦太鼓鼓法螺貝などの鳴り物衆と警固衆が囲みます。
⑤その周りを大勢の見物人が取り囲んでいます。
⑥真ん中に飛び跳ねるように、踊るのが下司(芸司)です。
今は下司は、二本差しで、赤い陣羽織の武士の姿でおどります。しかし、もとともは黒い僧服だったと伝わります。そうだとすると、滝宮念仏踊りを伝えたのは時宗系の念仏聖ということになります。彼らの拠点が滝宮牛頭天王社(神社)でした。

綾子踊は恋の唄39 滝宮牛頭天皇社 讃岐国名勝図会
滝宮牛頭天皇社と龍燈院と滝宮天満宮(讃岐国名勝図会)
ここには綾川沿いに3つの宗教施設がならんでいます。表題は「八坂神社・菅神社・龍燈院」です。菅神社は菅原道真をまつる滝宮天満宮です。それでは八坂神社とは何でしょうか。これは京都の八坂神社の分社ということでしょう。この神社は、明治の神仏分離以前は八坂神社と同じスサノオと牛頭天王を祭神としていました。スサノオは、蘇民将来ともいわれ、その子孫であることを示すお札を家の入口に掲げれば疫病が退散するとされて、多くの信仰を集めていました。その中讃における牛頭信仰の宗教センターが滝宮牛頭天王社だったのです。そして、この神社の管理運営を行っていたのが別当寺の龍燈院でした。神仏分離以前の神仏混淆時代は、神も仏も一緒でした。そのため龍燈院傘下の念仏聖(僧侶)たちが、蘇民将来のお札を周辺の村々に配布しました。龍燈院は、牛頭天王信仰・蘇民将来信仰を丸亀平野一円に拡げる布教センターの役割を果たしていたことになります。同時に彼らは芸能伝達者として、念仏風流踊りを各村々に伝えたと私は考えています。こうして夏越しの大祭には、各村々から念仏踊りが滝宮に踊り込むというパターンが形作られます。まとめておくと、滝宮念仏踊りを周辺の村々に伝えたのは、滝宮龍燈院に集住する念仏聖だったということになります。そして、この踊りも、もともと雨乞の踊りではなく祖先供養の盆踊りだったのです。由来は、次のように記します


綾子踊は恋の唄40 滝宮念仏踊りの由来

 現在でも、滝宮念仏踊りの踊り手達は、踊り手達の家で不幸があったときには、家まで出向いて念仏踊りで供養する所があるようです。また、七箇村念仏踊り(まんのう町)の記録には、大旱魃の対応に忙しいので念仏踊りを中止することが協議されていることは以前にお話ししました。つまり、踊っている本人達に、雨乞踊りを踊っているという自覚がなかったのです。それが、どうして雨乞踊りと言われるようになったのでしょうか? それはまた次回に

綾子踊は恋の唄レジメ 1

4部構成でお話ししています。前回は中世の小唄は、宴席で歌われたもので、その内容は恋の唄が多かったこと、それが風流踊りとなり、綾子踊りにも転用されたことを見ました。綾子踊には、海と海峡と御岬、港と船頭と女というキーワードが含まれる歌がいくつかあります。それがどうしてなのかを今回は、見ていくことにします。
綾子踊は恋の唄レジメ17 室津の遊女

これは法然上人の生涯を描いた絵伝です。法然が後鳥羽上皇の怒りをうけて、讃岐に流される途中で、潮待ちのために立ち寄った室の泊(室津)の場面です。⑥が法然、⑤が随行の弟子たち ④が梶取りです。停泊した船に小舟が近づいてきます巫女姿のように見えますが、実はこれが中世の遊女の船です。

絵伝には、船上で行われた遊女と法然のやりとりが次のよう記されています。

「上人の御船と知って、やって来ました。私は乱世の中で遊女に身を落としてしまいました。この罪深い身ですが、どうしたら往生極楽を果たせるのでしょうか」。


「今の職業を捨てることも難しいようだ。その身のままでも、専ら念仏することだ。弥陀如来は、そなたのような罪人も救ってくさだる。本願をしっかりと持って念仏すれば、往生疑ひなし」


この言葉に対して
遊女は、随喜の涙を流したとあります。しかし、このシーンについては、いろいろと疑問があります。海の上です。船から大声で交わすような会話ではありません。格式を重んじる遊女が行う行為ではないという研究者もいます。しかし、法然の姿を消してみれば、この場面は別の意味をもってきます。それは入港してきたに遊女がこぎ寄せて名乗りを行っているシーンだと研究者は指摘します。そこで歌われていたのが、綾子踊の10番目の塩飽船です。


綾子踊は恋の唄レジメ18 四国船

登場するのは塩飽舟 堺船 多度津船です。それぞれの船が入港すると、迎える遊女の名告りシーンが詠われています。港に入ってきて碇泊した船に向かって、遊女船が梶を押しながら近づきます。その時のやりとりがこの「塩飽船」の歌詞と研究者は指摘します。もう少し詳しく見ておきましょう。

綾子踊は恋の唄レジメ19.png 室津 塩飽船

当時の港町の遊女たちの誘引方法は「あそび」といわれていました。遊女たちは、「少、若、老」の3人一組で小舟に乗ってやってきます。後世の吉原だと「禿、大夫、遣手」でしょうか? 

①の舵を取ているのが一番の年長者の「老」

②が少で、一座の主役「若」に笠を差し掛けます。

③が主役の若で、小堤を打ちながら歌を歌い、遊女舘へ誘います

遊女たちの服装は「小袖、裳袴」の姿で、「若」だけは緋の袴をはいて上着を着て鼓を持っています。一見すると巫女のようないでたちにも見えます。彼女たちは吉原の花魁のように、格が高くプライドを持っていました。入港してくる船を、遊女が小唄でが出迎えるというのは、瀬戸の大きな湊ではどこでも見られたようです。以上を整理しておきます。

綾子踊は恋の唄レジメ20 室津の名乗り

綾子踊歌の中の1番「水の踊り「「四国船」「たまさか」「六調子」「塩飽船」などは、瀬戸内海を行き来する船と港と船乗りと女達の「港町ブルース」であると私は考えています。港での船頭と遊女のやりとりが小唄として歌われ、瀬戸内海の航路ネットワークで、仁尾や多度津、宇多津などの中世の各港に拡がっていったことがうかがえます。
遊女達の名乗りのシーンをもう一場面見ておきましょう。

綾子踊は恋の唄レジメ21 法然上人絵伝 高砂の漁師夫婦の共通性

 室津の前の高砂の場面です。法然がやってきたということで、港近くの家に多くの人が集まってきています。法然の説法が終わると②③の老翁老女の夫婦が、手を合わせ泣きながら次のように問います。

我たちは、この浦の海人(漁師)で朝夕に魚を獲って生業としてきました。生けるものの命を奪う者は、地獄に墜ちて耐えがたい苦しみ受けると聞きました。これを逃れる道はないのでしょうか。どうしたらいいの、どうぞお助けください

 
上人は次のように教え導きます

あなた方は多くの人びとの役に立っています。南無阿弥陀仏を唱えれば、仏の悲願で浄土で往生できます。


 
私が気になるのが浜辺船です。ここには石垣や岩壁、倉庫などのような港湾施設のようなものは見当たりません。砂浜の浅瀬に船が乗り上げて停船しているだけです拡大して見ると、手前の船には縄や網・重石などが見えるので、海民たちの漁船のようです。右手に見えるのは輸送船のようにも見えます。また、現在の感覚からすると、船着き場周辺には倉庫などの建物が建ち並んでいたのではないかと思うのですが、中世にはそのような施設もなかったようです。


一遍上人絵伝 兵庫湊の遊女

こちらは兵庫湊 平清盛によって開かれた港 現在の神戸です。こちらも港と云っても港湾施設はなにもありません。船は砂浜に乗り上げられています。ここでも室津と同じように、入港してきた船に三人一組の遊女船がこぎ寄せています。そして、先ほど見たように、互いに名のりあいをして相手を確かめた上で、若と小が乗り移ります。拡大して見ましょう。

綾子踊は恋の唄レジメ24 一遍上人絵伝兵庫 たまさか

船には楯が並べられているので軍船のようです。乗り移った若が謡ったうのが「たまさか」です。たまさかというのは、スナックでママの「おひさしぶりね 長い間やってこないでつれないわね」という挨拶のようなものです。●古代は男の通い婚でした、中世にもそれの慣習は残っていました。ひさしぶりにやってきた男を、なじりながら迎えて宿に誘引します。そんな場面で歌われたのがたまさかです。


綾子踊 たまさか2番3番

2番は、今夜のしとねです。●読む 今夜のしとねは、寺の菜の花畑の中です。 ふらふらと久しぶりに男はやってきて一夜を過ごします。気がつくと夜明けの鐘が鳴っています。三番は、せわせわとやってきて、髪が白くなったのにひさしぶりにやってきて、閨をともにします。中世の庶民達は、古代の王朝貴族文化の高貴さとは無縁です。ありのまま欲望や姿があけすけに描かれています。宴席では、このような歌が場を盛り上げていったのです。エロチックからポルノチックになり、そして春歌になっていくのは、いつの時代も変わりないようです。
 ここで押さえておきたいのは、このような歌のやり取りが、船頭達によって瀬戸内海の各地の港で謡われていたことです。それが港から後背地の村々に伝えられることになります。仁尾から三豊、多度津・宇多津から丸亀平野へという流れです。
この歌詞を訳して、私が思ったのは歌われている内容が、演歌と同じということです。例えば昭和演歌の代表作「港町ブルース」の歌詞をみてみましょう。

森進一 港町ブルース

そして、演歌のキーワードを並べて見ます

綾子踊は恋の唄レジメ 3 演歌との共通性
演歌のキーワード
船と岬と海峡が歌われている四国船を見ておきましょう。

綾子踊は恋の唄レジメ27 四国船

四国船には四国の岬が歌われます。最初に四国の、次に阿波の鳴門、土佐の岬(室戸)です。これの岬はの難所、船乗りに怖れられていた所です。そこを乗り越えていく船乗り達が「匂いやつす(ほれぼれする)」と歌われます。ある意味では、この歌は遊女達による船頭賛歌かもしれません。これを聞いて、船乗り達は勇気を得たことでしょう。宴席で歌われれば船乗りを勇気づけたはずです。箱の岬」というの現在の荘内半島のことです。どうして、荘内半島が歌われているのでしょうか? 地図を見てみます。


綾子踊は恋の唄レジメ28 荘内半島の地理的重要性

 
荘内半島は讃岐の西北から燧灘に突き出た岬ですそして上の3つの航路のジャンクションになります。また灘と備讃瀬戸の境になります。東からやって来た船は、粟島や志々島で潮待ち、風待ちして出港していきました。三崎の先には速い流れがあり、大きな隠れ岩(岩礁)もあり海の難所でもありました。同時に、ここは七宝山から岬の先端にいたる修験者たちの行場でもありました。そんな所には、海の安全を願う神様が勧進されますそれが三崎(岬)大明神(神社です。

綾子踊は恋の唄レジメ29 三崎神社 荘内半島

荘内半島(岬)の先端です。先端にあるのが三崎灯台、その沖に沖の岩(御幸石)、三崎灯台の上に鎮座するのが三崎大明神(神社)です。中世は、ここは観音寺や善通寺で修行する修験者の海の行場でもありました。この三崎大明神について、幕末の全讃史は上のように記します。ここからは、三崎大明神が海の神様として船乗りの信仰を集めていたことが分かります。金毘羅大権現が海の神様として信仰を集めるようになるのは近世後半以後です。この神社の役割を以前に、まとめておくと次のようになります。

綾子踊は恋の唄30 荘内半島 三崎神社 1

 以上から四国船は、遊女達が船頭達のために歌った応援歌の性格が強いとしておきます。船乗り達が口ずさむようになった歌は、瀬戸に拡がっていきます。このように宴席や、港で歌われた小唄が風流踊りとなり、それが背後の村々に伝わっていくという流れが見えて来ます。それでは、風流踊り村々に伝えたのは誰なのでしょうか。次回は、それを見ていくことにします。今回は、ここまでとします。最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

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綾子踊は恋の唄 表紙


綾子踊は雨乞踊りと云われてきました。その演目は12曲で、3番目に踊られるのが綾子踊です。この踊りは、綾子が旅の僧から教わったとされています。当然、降雨祈願が歌われているのかと思いますが、ところが歌われていのは綾子の恋です。
雨乞にまったく関係ない綾子の恋がどうして謡われているのでしょうか。結論を先に云うと、この歌は雨乞のために作られた歌ではないからです。もともとは、中世の小唄の恋の唄として作られたものなのです。それが、時代の中で盆踊りに転用され、さらに雨乞の時に踊られるようになったためと研究者は考えています。つまり、恋の唄が長い歴史の中で雨乞歌に転用されるようになったということです。今日は、その流れを4つのパートに分けて、次のようにお話しします。

綾子踊は恋の唄レジメ 1

まず、中世の小唄がどんなものであったのか、それが風流踊りとして全国に拡がったプロセスを簡単に見ておきましょう。

綾子踊は恋の唄3 綾子踊の変遷

中世の小唄は、宴席の中で謡われたものです。場を盛り上げる座頭や太鼓持ち・芸子が歌い出すと、それに続いて2番、3番と歌い継がれていく。「ひとつとせ、ふたつとせ」と、みんなで歌が作りだされる空間でもありました。それは盆踊りも、同じです。即興で歌詞が次々と生まれていくのです。そこで謡われるのは、圧倒的に恋の唄が多いのです。しかも宴席ですから、次第にエロチックで、ポルノチックなものまで謡われ、春歌のようなものも伝わっています。こうして時と共に替え歌や合体で何十もの歌が生まれ、人気のあるものは風流歌として拡がっていきます。現在残っているのは、その一部で、特に人気のあった歌だったことになります。
 流行(はやり)歌となった小唄は、出雲の阿国などによって能や歌舞伎に取り込まれて、振りが付けられ踊られるようになります。これが風流踊りの誕生になります。そして人気のある風流踊りは、芸能伝達者によって村々にも伝えられていきます。こうして、風流踊りが盆踊りとして踊られることになります。それでは綾子踊の歌詞を詳しく見ていくことにします。右が現代語訳です

綾子踊は恋の唄レジメ5 綾子踊の歌詞

 あの娘(綾子)身も細るほどの恋をしたようです。「わんわする」とは、恋に夢中になり、心がどきどきしている様子です。そのため食べるものも喉を通りませんしかし、やせしているのです。それを親はいつもの夏やせだというのです。それに対して、ほんとうにあじけないと娘が呟きます。あじけないとは今風に訳すとほんまにせがないわ、やっとれんわ、しんじられんわ」というところでしょうかそうだとすると初恋にワンワ・どきどきする乙女心を歌ったものになります。昭和歌謡のアイドル達が歌った恋の唄と変わりませんちなみに綾子は歌詞には登場しません。出てくるのは「あの娘」なのです。それが「綾子」と歌われるようになり、綾子踊りというタイトルになったのかもしれません。佐文で雨乞のために作られた歌でないことは確実です。

 中世小唄の恋のは、「一つと」「二つと」と歌ってゆく数えタイプが多かったことは先ほど云いました。最初は、座頭や芸子が歌い出して、次第に参加者が次々と歌い継いでいきます。宴会では、一番がおわると、次を急かします。綾子踊の2番のキーワードは沖の石です。比較のために沖の石が出てくる歌を見ておきましょう。

綾子踊は恋の唄レジメ 6 沖の石


岡山の哲西の田植え歌では、我が恋は沖の石と同じだと謡います。何故かというと、潮が引いても姿を見せないで隠れいている、それは涙で濡れた私の袖と同じで乾く暇もないと謡います。沖の石は、秘められた恋に涙で袖を濡らす女をイメージしていたようです。例えて云うと「
沖の石とかけて、私の袖と解く」、そのこころは「いつも乾くことがなく濡れているでしょう」というところでしょうか。それでは綾子踊りでは、どう謡われているか見ておきましょう。


綾子踊2番 沖の石


綾子踊2番にも、綾子の恋が沖の石に例えられています。沖の石という言葉が出てきたら、秘められた恋、涙で濡れる袖なのです。そして
3番のテーマは、丸木橋です。


綾子踊3番 丸木橋


今度のお題は丸木橋です。平家
家物には(読む)渡ろうか、渡るまいか、なんども踏み返され、袖が濡れると歌われます。 ③●和泉大津の念仏踊りには「渡るおそろし 渡らにや殿御に あわりやせぬ」とあります。丸木橋を渡るのは怖い、しかし渡らないと会えない。自分の思いを打ち明けようか、どうしようかと迷う心情なのでしょうか。綾子の気持ちがさらに一歩進んで告白するかどうかに悩んでいるようです。「沖の石」と云えば、秘められた恋心、丸木橋は「恋の告白」と成就がテーマのようです。

綾子踊は恋の唄レジメ 9 丸木橋

綾子踊り3番の歌詞です。平家物語や念仏踊歌と同じ内容です。「細谷川の丸木橋」は、恋を打ち明ける怖さを表現するキーワードだったのです。ここにもの「あじ()きなや」が出てきます。当時の乙女達がよく使った流行語だったことがうかがえます。 綾子踊りの歌詞から分かることをまとめておきます。

綾子踊は恋の唄 歌詞分析

①綾子踊で歌われている内容は、中世の小唄と共通すること。
②中世に歌われていた小唄が、綾子踊の歌詞として伝わっていること
③綾子踊が雨乞のために作られたものではないこと
④弘法大師が綾子踊を伝えたという由来はありえないこと

次に閑吟集のトリを飾る花籠を見ていくことにします。

綾子踊は恋の唄レジメ10 閑吟集 花籠

この歌は閑吟集の最後に歌われている歌です。トリなので人気のあった歌だったことがうかがえます。
①●花が生けられ花籠です。でも、閑吟集では月が入れられています。当時のお約束では、花籠が女、その中に入れられるものが男ということになっていました。意訳すると

(男との逢瀬をいつまでも秘密にしたい・・・)花かごの中に閉じこめられた月をしっかり持っている女性、男との逢瀬の思い出を胸に秘める女と花籠と月の光


ここからは花籠に入る月の光という幻想的なイメージが浮かんできて、美しい歌です。宴席では、これが歌い始めで、
花籠に月に代わっていろいろなものが入れられて歌われていきます。綾子踊りには、なにが入れられるのか見ておきましょう。

綾子踊は恋の唄レジメ11 花籠

意味をとっておくと、一番は玉房(恋文)が入れられます。恋する男に吾が心を伝えようかどうか、揺れる切ない恋心です。2番には我が恋、3番には浮名が入れられます。こうして花籠にいろいろなものが入れられて、恋人に届けられることになります。視点を変えると、500年前の流行歌が姿を変えながら今に歌い継がれている。これはある意味では希有なこと、500年前にたてられた建築物なら重文にはなります。タイムカプセルのように、500年前の流行歌のフレーズと旋律を残した綾子踊りが無形文化財になるのは当然と研究者は考えています。 

 もう少し、艶があってエロチックなのが小鼓です。

綾子踊は恋の唄レジメ14小鼓

1番は、小鼓が男性、それを奏でるのが女性です。ふたりを隔てる川(皮)が恋の響きを奏でます。
2番は、「駒」は馬で、駒に踏みにじられた道草(女)も、露(男)に一夜の宿を貸す、ということでしょうか。
3番は、女性が水草、そこにやどるのが蛍で、男の比喩です。

古浄瑠璃『上るり御前十二段』(浄瑠璃御前十二段)・「まくらもんたう(枕問答)」には次のようなフレーズがあります。(意訳)
駒に蹴られた道芝も、露に、一夜の宿は貸します。
水にもまれる川柳も、蛍に一夜の宿は貸します。
風にもまれし呉竹も、小鳥に一夜宿は貸します。
人にはなさけがあります。なさけは人のためだけではありません。
浮世はまわる車輪のように、めぐりめぐりて後の世、我が身のためになることもあるのです。

この浄瑠璃のセリフを受けて、男が歌っていることが分かります。ここでは、路傍の草のように、相手を思うやさしい心を持ちなさい。私の恋心(下心)を、わかって受け入れて下さいという男の口説き歌になっています。


綾子踊は恋の唄レジメ15 変遷図

中世に恋の唄として歌われた小唄に振りが付けられが、狂言や歌舞伎の舞台で踊られ、風流踊りとなります。それが地方にもたらされて盆踊りに転用されていくという流れになるようです。
第一部は以上です。以下は次回に
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
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史談会ポスター 県下市町の財政

満濃 + 仲南 + 琴南 = まんのう町が成立して20年が経ちました。その中で、財政状況はどう変化してきたのかを今回はお聞きします。興味のある方の参加をお待ちしています。

綾子踊2026年公開ポスター

ユネスコ無形文化遺産に登録後、初めてとなる公開奉納が次の通り実施されます。
日時 9月6日(日) 9:00~
場所 佐文加茂神社(まんのう町佐文)
日程
8:00  受付開始・駐車誘導開始
  8:45   集合・隊列編成(佐文公民館前)     
  9:00  入庭(佐文公民館前スタート)
  9:15  保存会長による口上
  9:20  棒と薙刀の問答
  9:30  芸司口上 踊り開始
①水の踊  ②四国船 
③綾子踊  ④小鼓
  小休止(10分)   来賓紹介
⑤花籠   ⑥鳥籠
⑦たま坂 ⑧六蝶子(ちょうし)
  小休止(10分)  
⑨京絹 ⑩塩飽船
⑪忍びの踊り ⑫かえりの歌         
10:40頃 終了後、全体記念写真

「緩くて眠たくなる」とも言われますが、三味線が登場する前の中世の風流踊りの芸態を残しているとされます。この「緩さ・のんびりさ」が中世風流踊りの「味」かもしれません。時間と興味のある方の来訪をお待ちしています。
連絡事項
① 暑さ対策のために例年より開始を1時間早めています。 暑さへの備えを各自で準備してください。 
② 駐車場については、青い法被を着た係の指示に従ってください。
③ 来場者には綾子踊のうちわを記念品としてお渡しします。神社の受付まで申し出て下さい。

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第3巻は信貴山の中興者(実質的な開山者)の命蓮の姉尼公が、20年間音信のない弟の安否を案じて故郷の信濃国からはるばる大和国まで旅をしてきます。その間にいろいろな人達に消息を訪ね歩く姿が描かれています。そして、東大寺の大仏のお告げによって命蓮が信貴山にいることを知ります。二人は再会を果たし、共に出家生活を営むまでを描いています。巻頭部分から見ていくことにします。テキストは「井上泰 信貴山縁起絵巻 尼公の巻 広島大学教育学部大学院紀要」です。
 
信貴山縁起絵巻 尼公の巻1
             信濃を出国する尼公と従者(信貴山縁起絵巻第三巻冒頭)
場面は、信濃を出国する尼公と従者が描かれています。桟道で補強された切り立った岩の間の道を杖をつきながら歩く蓑笠の従者。その前には、黒駒に乗った尼公がもう一人の従者に牽かれていきます。二人の従者を連れて、馬に乗っての旅ができるということは、尼公の家が信濃の豪族のひとりで経済基盤がしっかりしていたことがうかがえます。だからこそ、命蓮も何十年もの山岳修行生活が送れていたのでしょう。
 道の側には、水量ゆたかな川が流れ下っています。 『新版絵巻物による日本常民生活絵引」は、この場面を「木曾路」として次のように記します。

もと京師から東国へ行くためには二つの道すじがあり一つは東山道、他は東海道である。 木曽路は東山道に属し、美濃から木曽川の谷を経て鳥居峠を越え松本平に出るまでの間で、木曽川のつくった深い谷間を通り、きわめてけわしく、所々に桟道もつくられていた。しかし古代にはこの道が重要な交通路で、東国の牧から献上せられる望月の駒もまたこの谷を下って美濃の平野に出、近江を経て京都にいたった。

信貴山縁起絵巻3巻「尼公ノ巻」3
           尼公の投宿場面(信貴山縁起絵巻第三巻第二画面)
この場面からは次のような事が読み取れます。
①右手に板庇のついた草葺入母屋造の建物がある
②その軒先では、嫗と翁とが笑顔で果物(桃)を鉢に盛っている。
③灯明、火鉢をもった男女が網代垣を出て、尼公のもとに向かおうとしている
④黒駒から荷物を下ろす従者と、尼公の前にひざまづく二人の従者がいる
⑤縁台に俵などの荷物を下ろし、尼公は履を脱いでいる
ここに描かれている桃と米俵は、投宿の謝礼(宿料)として信濃から持参品と研究者は推測します。桃は信濃の特産品でした。桃をもらった翁嫗の顔に笑みがこぼれています。
 尼公は、どんな所に泊まって旅を続けていたのでしょうか?
この宿舎は美濃・信濃の国境にあった「園原の伏屋 (布施屋)」と研究者は推測します。「伏せ屋」について『歌ことば歌枕辞典』は、次のように記します。
和歌で詠まれるのは、歴史文書などで 「布施屋」と表記される、道の難所や渡し場などに設けられた公設の緊急宿泊施設である場合が多い。それは、坂上是則の
「園原やふせ屋におふる帚木のありとは見えてあはぬ君かな」(新古今集・一九九七、 古今六帖・第五・三〇一九) を淵源に、信濃の御坂の麓に設けられた園原の布施屋が詠まれるのが普通であり、「園「原の伏屋」で地名のようにも意識されていた。
 さらに、「おろかにも思はましかば東路の伏屋といひし野辺に寝なまし」 (拾遺集・雑賀・一一九八・よみ人しらず)のように、それ自体で地名のように扱われる例も見られる。
『信貴山縁起』の作者も、信濃から奈良に向かう尼公一行の投宿地を美濃・信濃国境の「園原の伏屋」を比定していた可能性が高いと研究者は考えています。しかし、問題があります。そのひとつは「伏屋 (布施屋)」が、尼公のような一般人の宿泊ができたかどうかです。伏屋については次のような見解があります。
A 調庸の運脚夫や都の宮殿造営に従事する役民等を宿泊させる施設(平安時代史事典)
B 「行旅の窮民」救済施設説で「行基の如きも五畿内に布施屋九所を造て行旅の窮民を救済していた」(綜合日本史大系)
C 奈良時代から平安時代にかけて、駅路の諸所に設けられた旅人の接待所(慈恵的旅館)の一種」(和歌森太郎編 『増訂日本歴史事典』)
Aだとすると、一般人は伏屋には泊まれなかったことになります。ここでは、BCの施設としておきます。
旅を続ける尼公の背景には、当時の庶民の生活が描かれています。

信貴山縁起絵巻 尼公の巻4
尼公の巻に描かれた人びとの生活
A 右手の松の木
B 中央の井戸汲みと洗濯
C 菜園の中で青葉積み
まず、板屋根の民家の前に植えられているのは、A松の木のようです。しかし。よく見ると枝には松葉以外の何かが掛けられています。これは稲束を干しているのだと研究者は指摘します。これがもともとの稲木(稲機)で、後に柵や木組みを使用するようになるようです。この方が積み重ねておくよりも、よく乾きます。こんな方法が平安時代初期には始まっていたようえす。稲以外にも、豆類などもこうして干していました。
次にBの井戸と洗濯です。
信貴山縁起絵巻 「尼公ノ巻 井戸と洗濯

右側の小袖に褶を付けた女は、井戸から釣瓶縄をたぐって水を汲んでいます。くんだ水は井桁に置かれた曲物桶に入れられ、隣の女に渡すのでしょう。左側の女は、曲物桶から柄杓で水を汲んでかけ、両足で踏み洗いしています。庶民の衣類は、繊維の硬い麻や苧(からむし)などから作られていたので、手もみ洗いでなく踏み洗いでした。一方、貴族の着る絹製品は、踏み洗いですと生地が傷むので、手洗いだったことが裏付けられます。

次にCの菜を摘む女を見ておきましょう。 
信貴山縁起絵巻「尼公ノ巻」 菜を摘む女

①季節は春で、畠にはきれいに畦道が作られている。
②小袖の女が、裸足でしゃがんで菜摘みをして、曲物桶の中には摘んだ菜が見える。
③他の部分にも菜が描かれていたが緑色が剥落した
④庶民の家では畠で野菜類が自給されていて、その管理は女の仕事だった。
水汲みや洗濯、糸紡ぎなども女が担当していたようです。

次の場面には、弟の命蓮の消息を訪ねる尼子が描かれています。

信貴山縁起絵巻5
命蓮の消息を訪ねる尼子(信貴山縁起絵巻第三巻)
①頭巾・袿姿で、杖を持ち、数珠を下げて、縁台に座っているのが命蓮の姉の尼君
②今までは乗馬の旅で沓を履いていたのが、ここでは徒歩で脚絆に草鞋になっている。
③烏帽子に蓑を着て立つのが、信濃国から同行している従者。馬ともうひとりの従者はいない。
④従者は裾の短い四幅袴、脚絆、草鞋の旅姿、手に尼君の笠を持つ。
⑤従者の蓑が膨らんでいるのは、その下に荷物を背負っているため
⑥衣類の他に、米などの荷物も背負っていたはずです。尼君の旅は、こうした従者の働きがあってこそできたことを押さえておきます。
尼君の相手をしている小袖の女は、糸を紡いでいるようです。

信貴山縁起絵巻「3巻「尼公ノ巻」2
糸をつむぐ女
紡錘 石山寺縁起絵巻
石山寺縁起絵巻の糸を紡ぐ女
右手下に見えるのを、「手すりつむ」と云うそうです。細い棒に車をつけ、回転させて糸を撚りながら巻きつける道具です。ここでは糸が円錐状に巻かれた形で描かれています。巻かれた糸を受けているのが紡錘車です。膝下に見えるのが手押台です。角棒状の片側は薄く板のようになっていて、膝で固定します。その手前の台形状は、手押木で手代木(てしろぎ)とも言います。手押台に手すりつむの軸を横に置き、その上を手押木で押しますと、「手すりつむ」はくるくる回り、糸を巻きつけることができます。
さて、この女はどういう作業をしているのでしょうか。
女の左手下にある曲物桶は、苧桶にしていて、中に糸が入っています。手すりつむに巻きついた糸を右手で引き出しながら、左手で撚りをつけて、苧桶に落としていると研究者は考えています。
 こうしてみると、尼君の弟を訪ねての長い旅は、人々の援助によって成り立っていたことが分かります。作者は、長い旅であることを示すために、途中で出会った人々の生活まで描きました。それが庶民の仕事ぶりまでが分かる史料となります。

信貴山縁起絵巻 尼公の巻5

峠を越える山道には鹿の群が描かれています。奈良に入ったことが暗示されます。やってきたのは東大寺です。
信貴山縁起絵巻 尼公の巻6 東大寺大仏
          東大寺大仏の前でぬかずく尼公(信貴山縁起絵巻第三巻)
命蓮の消息をたずねて祈るうちに、尼公は仏前でまどろみます。すると夢枕で大仏に西の方、紫雲たなびく山に命蓮がいることが告げられます。そのお告げに従って西を目指して出立していきます。
この場面では、大仏の前で複数の尼公が描かれています。これが「異時同図法」により時間の変化を表現した最初の作品になるようです。なお、ここに描かれた東大寺大仏殿は、治承4年(1180)に平重衡(しげひら)の南都焼き討ちで焼け落ちる以前の建立当初の姿を描いた唯一の史料です。道中の商家、農家、職人の家と庶民の風俗などとともに、価値が高いと研究者は評します。

信貴山縁起絵巻 尼公の巻7 再会
 弟の命蓮と再会する尼公
尼公は信貴山にのぼり、そこで命蓮に20年ぶりに再会します。その時にお土産として命蓮に渡したのが「たい(祇=僧衣)」です。こうして尼公は信濃に帰らず、命蓮と共に信貴山で信仰生活を送ることになります。姉から贈られた「たい(祇=僧衣)」を命蓮はずっと着続けます。そのためにずたずたに破れてしまいます。人々は、その切れ端をお守りとしたと云います。人びとが命蓮によせる思いが伝わってきます。
 こうしてみると命蓮は高僧といわれますが、そうではなかったようです。身分の高い出身で学問のある僧侶でなく、山伏的修行者であったことが分かります。それが庶民信仰にこたえる苦行と説経唱導を行って、民衆の支持を得ていたことがうかがえます。そのために「聖(ひじり)」とよばれたのでしょう。中世の山岳信仰の指導者は、このような人物が多いようです。
 信貴山は高い山ではありませんが、大和平野や河内平野から仰ぎ見ることの出来る霊山です。そして人びとが容易に登れる山に、山岳信仰の道場が開かれます。例えば、行基は生駒山に道場をひらいて生馬(いこま)山房としています。このような庶民にしたしみやすい山に庶民信仰の寺が栄えるようです。そういう目で讃岐を見てみると、丸亀平野の奥の大川山の仲寺廃寺や、髙松平野の女体山の大窪寺、三豊平野の雲辺寺なども、山岳修験者の道場として開かれたものがいくつもあります。それに弘法大師伝説や四国巡礼が接ぎ木され、近世になると四国霊場に転化・展開していきます。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
井上泰 信貴山縁起絵巻 尼公の巻 広島大学教育学部紀要
倉田 実『信貴山縁起』「尼君巻」の「庶民の生活」を読み解く   絵巻で見る 平安時代の暮らし



信貴山縁起絵巻 朝護孫子寺と毘沙門天王信仰の至宝
今回は『信貴山縁起絵巻』を見ていくことにします。テキストは「 五来重 信貴山縁起絵巻の世界」です。
  信貴山の由来は、次のようなものです。
聖徳太子が物部守屋討伐の戦勝祈願をした際、寅の年・寅の日・寅の刻に天空から毘沙門天王が現れて、その加護で勝利した。そこで太子が自ら尊像を彫刻し、「信ずべき、貴ぶべき山」として信貴山と名付け、お寺を建てたのが始まりとされます。

ここからは次のようなことが読みとれます
①もともとは中世の山岳修験の道場として発展した寺院であること
②それが後世に、聖徳太子伝説が接ぎ木されたこと
②戦勝祈願が寅(とら)にちなんだ時刻で、虎を神聖な動物としてきたこと。
③天空に現れたのは毘沙門天王であり、その像が本尊とされていること

信貴山三像(左より善膩師童子像、毘沙門天王像、吉祥天像)
                  信貴山三像(左より善膩師童子像、毘沙門天王像、吉祥天像)
「信貴山縁起絵巻」は、1150年(久安6年)頃に作られた日本最古の絵画資料とされます。
ここには「命蓮」(みょうれん)にまつわる摩訶不思議な説話が描かれています。命蓮は山岳修験者として山にこもり、長い修行生活に入ります。延喜年間(901~923年)には本堂を改築。その後も僧房、中房などを整備していきます。実質的な創建者と推測できます。信貴山朝護孫子寺の寺宝が、国宝「信貴山縁起絵巻」全3巻です。
上巻が「飛倉の巻」(とびくらのまき)
中巻が「延喜加持の巻」(えんぎかじのまき)
下巻は「尼公の巻」(あまぎみのまき)。
絵巻の始まりは、命蓮聖が行力によってこの山に毘沙門天を出現させたことからスタートします。そして命蓮の飛鉢の法によって、山崎長者の米俵を入れたまま、そっくり信貴山に飛んでくる奇蹟の話です。話の冒頭部分を見ておきましょう。

やまとにしぎ(信貴)といふところに、おこ(行)なひて、さと(里)へいづることもなきひじり(聖)さぶらふなり。それこそ、いみじくたふと(尊)くしるしありて、はち(鉢)をとばせて、ゐながらよろづのありがたきことどもを、しさぶらふなれ。

意訳変換しておくと
やまとにしぎ(信貴)という所に、修行のために里に下りることがない聖(業者)がいた。彼には優れた法力があって、鉢を飛ばせて、信貴山に居ながらにして、様々な托鉢を行っていた。
 
信貴山(しぎさん)は聖徳太子の時代に開山されたとされますが、命蓮がやってきたころは荒れ果てて誰もおらず、毘沙門天の像が入った石櫃が転がっていただけでした。そこに山岳修行の道場として庵を建てます。そのうちに里人が「山んなかで、修行に明け暮れる坊主が住みついた」と、遊びにくるようになり、彼らのもめ事の相談や調停をしているうちに、信頼を得るようになります。数年すると「信貴山に住む仙人みたいな法師(修験者)は、すぐれた法力(験)を持っている」という噂が広まって、弟子も増え、堂宇を整っていきます。
 信貴山は、山深い所にあるので里へ下りて托鉢するのが面倒だった。そこで命運は托鉢用の鉢を、法力で里まで飛ばすようになった。飛んできた鉢に、里人は米なんかを入れると、鉢が飛んで帰ってきていました。           

信貴山縁起絵巻 鳶倉1
蔵から転がり出てきた鉢(信貴山縁起絵巻 飛倉の冒頭)
板塀に囲まれ、中庭には瓦屋根の校倉の蔵が建っている富裕な館です。 多くの下女下男が働いており、裕福な地方豪族の館です。ある日、托鉢用の鉢がお布施を求めて山崎の長者の屋敷へ飛んでいきます。ところが長者は「信貴山の、なまくら坊主に施す米などない」と云って、その鉢を蔵の中に放り込んで閉じ込めてしまいます。すると、蔵が地震でもないのにグラグラと揺れだします。長者の家の者達は「なにが起こっておるんじゃぁ」いうて、大騒ぎ。しばらくして蔵の扉が開いて、中から鉢がコロッと転がり出たきました。鉢は蔵の下に潜り込んで浮びはじめます。瓦がずれ落ち軋みの音を立てます。やがて倉は宙に舞い上がり、空の彼方に飛んでいきます。 
 人びとの姿を見ると
①庇で供養を受けていた赤鼻の僧と小僧が立ち上がって中庭の倉を指してわめきます
②中庭では下女や雑司達が目を見張り、悲鳴を上げ、手をかざして右往左往の大混乱です。

信貴山縁起絵巻 鳶倉2
飛び去る蔵を追いかける長者たち(信貴山縁起絵巻 飛倉)
長者や手下は、飛び去る蔵を追いかけようと一斉に裏木戸から飛び出します。赤子をおんぶした女から老女、老僧までも、裸足で衣のはだけるのもかまわず追いかけます。長者は馬に乗り、僧侶は揉み手をしながら追います。

信貴山縁起絵巻 飛鉢2
蔵を持ち上げて浮かんだ鉢
倉は水辺の上を越え、空の彼方へと消えていった。
信貴山縁起絵巻 鳶倉4


 倉は霞の向こうの紅葉や楓の美しい山を越えて飛んでいきます。必死に追いかける長者と従者たちは次第に山中に入っていきます。従う従者も息が切れたり、草履の鼻緒が切れたり、手鼻をかんだりと忙しい。
信貴山縁起絵巻 飛鉢4
                高欄をめぐらした命蓮の住房(信貴山縁起絵巻)
雲の中から信貴山の建物が見えて来ました。縁に座る命蓮の傍らには金の鉢が回収されています。息を切らせてやってきた長者は身を乗り出して、命蓮に返還を懇願します。

お坊様、後生だから蔵を返してください。その倉がなくなったら、これから商売をやっていけません。なにもお布施を拒んで、鉢を蔵の中にいれたわけではありません。鉢が飛んできた時に、忙しくて、後廻しになっただけす。お布施しようと思っていました。ついては、蔵を返してくだされ

そのやりとりを外の庭の従者達はうかがっている。 命蓮は金鉢の方を指さして次のように云います。
倉は返せぬ。 信貴山にこういう校倉がなかったので、是非必要。ただし中の米はお返ししよう。

こうして、蔵は寄進し、米は返してもらうことになりました。しかし、山の上から千俵もの米俵をどのようにて運ぶのでしょうか。
信貴山縁起絵巻 鳶倉6
米俵だけを返還する命蓮と、それを運ぶ飛鉢
校倉の前の前にやってきた命蓮は、従者の一人に倉から米一俵を取り出させ、金鉢に乗せさせます。すると、一俵の米を乗せた金鉢が再び空中に舞い上がります。倉の中の米俵も、それに引き続いて飛び出します。
信貴山縁起絵巻 飛鉢5
        
群雀の飛びたつように、雁の隊列のように 米俵の列は山々を越え、長者屋敷へ飛んでいきます。 山中の鹿もびっくりして振り向いています。遠く霞んだ彼方へと飛びり、また場面は消えていきます。フェードアウトです。そして次の場面では、長者の屋敷の蔵跡に米俵はドスドスと地響きをたてながら降り立ち、家人たちを驚かせる姿が描かれます。
信貴山縁起絵巻 飛鉢6
              山崎の長者の蔵跡に舞い戻ってきた米俵。
 地面には蔵跡の礎石が直角に置かれています。鉢はきちんと蔵のあった所に米俵を戻しています。そしてあとからあとから次々と俵が飛来します。
 
信貴山縁起絵巻 鳶倉10

立ち働いていた下女達は、恐怖の表情に強ばっています。庭先の瓜を摘む下女も身をすくめています。
 最初の蔵が浮かんだときの家人たちの空を仰ぎ見、 躍るかのように手足をのばして、異様な光景に驚嘆し騒ぎ合っている様子や、 千俵の米俵が空から下りてきたのを見た女房の表情などは、それまでの王朝的な様式美には見られないものだと研究者は指摘します。そして「庶民の個性」「生命力にあふれたかれらの活動」と評します。「様式美」を突き崩し、写実的表現をもって描かれているのが『信貴山縁起』というわけです。
 ちなみに、ここには黒いカマドが描かれています。

信貴山縁起絵巻 鳶倉11
             油取りの長木と大きなゆで釜(信貴山縁起絵巻)
ここには油を絞る長木と呼ばれる装置と、大きなゆで釜が描かれています。山崎商人は油売で、全国の商権を独占して裕福な富を蓄えていました。そのためこの屋敷は、近世になると山崎の油売りの長者とされるようになります。ちなみに、山崎という地名は、どこにもでてきません。ここでは近世以降にって山城国(京都府大山崎町)の長者とされるようになったことを押さえておきます。

別の視点で、このストーリを見ておきます。
飛鉢法は、千手観音の秘法です。命蓮が信仰した毘沙門天は、千手観音の同体とされていました。命蓮がこの法を使うのには、それなりの訳があったようです。ここで作者が伝えようとしたのは、何なのでしょうか?それは山岳修行者(山伏)には、飛鉢の術というものがあるということ、その秘法を会得していた命蓮は験の高い修験者であったことを伝えることにあったでしょう。
おなじような飛鉢の話が「元亨釈吉』の「越知山泰澄」伝の中にも出てくるので見ておきましょう。
 白山は古くからの霊山で、天台宗系の神仏習合が行われ、白山寺と白山宮に、僧侶と神主が共存して、明治時代の神仏分離まで宗勢を広めました。白山の開山者が泰澄で、その従者である臥行者(ふせのぎょうじゃ)にも飛鉢の話があります。臥行者は、いつも寝転がって思索に耽(ふけ)っていていました。唯一の仕事は、師の泰澄の食事の世話をすることでした。毎日、臥行者は泰澄から預かった飛鉢を空に飛ばしました。戻ってきた鉢の中には、いつも炊いた飯などが入っていました。あるとき、大量の米俵を運ぶ船が越前沖を進んでいました。臥行者は飛鉢を飛ばして供米(くまい)を乞(こ)いますが、船頭の神部淨定は、政府に納める米だからと断り、鉢を海に投げ捨てました。すると、飛鉢は越知山に飛んで帰り、船に積み上げられた米俵や櫓櫂(ろかい)も、鉢のあとを追ってつぎつぎに越知山へと飛び去ってしまいます。困った浄定は船を下りて山へのぼり、泰澄に非礼を詫びます。すると臥行者は鉢杯分だけの米をのこして、すべての米俵をもとの船まで飛ばせて返します。話の大筋は、『信貴山縁起絵巻』と同じで飛鉢の変化バージョンです。
このような沖ゆく船への飛鉢伝説は、讃岐の屋島寺にも次のように伝わっています。
其後、南都二赴キ給イテ、参内也。担当寺ニ、鑑真和尚所持ノ衣鉢ヲ留玉フ。 此鉢空二昇テ、沖ヲ漕行船具二飛下テ、斎料ヲ請
意訳変換しておくと 
、その後、鑑眞和上は、南都(奈良)にのぼり、朝廷に参内した。屋島寺には、鑑眞の衣と鉢が残されたいた。この鉢は空に昇って、沖を漕行く船に飛下って、斎料(通行税)を求めた。

屋島の飛鉢も沖ゆく船から通行料を徴収したとあります。航路からよく見える霊山は、沖行く船が航海安全のために、奉納品を寺や神社に納めていたことは以前にお話ししました。それが、飛鉢伝説として、語り継がれるようになったと研究者は考えています。納めなければ災いが襲うのです。後の村上水軍が海に関所を設けて、通行料を徴収していたのと同じ論理かもしれません。どちらにしても、鉢を飛ばして奉納品を集めるという術も神仙術です。

もうひとつ『古事談』(巻三)の「飛鉢、天童取之事」の話を見ておきましょう。
この話は平安時代中ごろの修験者として多くの奇蹟がつたえられる浄蔵のことです。彼は叡山で「鉢法」を身につけ、鉢を飛ばして托鉢するようになります。ところが三日間、鉢が空のままで帰ってきます。そこで四日目に山の頂きに立って、鉢の帰るのを見ていました。鉢は食物をいっぱい入れて帰ってきます。その時に、北のほうから別の鉢が飛んできて、浄蔵の鉢の物を取って飛び去っていくではありませんか。不思議なこともあるものだと、自分の鉢に追いかけさせると、北のほうへ飛んでいきます。それを追いかけて浄蔵は谷をわたり峰をわけていくと、苔むした方丈の庵にたどり着きます。庵家の中には老僧が読経していて、「どなたかの、ここはめったに人のこぬ所だが」と聞きます。そこでわけを話すと、老僧は人を喚ぶと、唐装束の天童が「はい」と言って入ってきました。老仲は「これからあんな悪戯をしてはなりませぬ」と申しわたすと、天童は赤面して立ち去りました。それから老僧はおわびのしるしに菓子を御馳走してくれました。その味は天の甘露のようであったそうです。

ここからは老仲に使える天童も飛鉢法を身につけていたことが分かります。
泰澄や老僧の話の中で、飛鉢の術を行うのは、修行者の従者(山伏:天童)であることを押さえておきます。
山伏というのはもともとは、修行者の従者として水を汲んだり、薪を拾ったり、果物を採ったりして、修行者に奉仕するものでした。空海が修行を行ったとされる室戸岬にも従者が食事の準備などを行ったと伝えられる洞窟は御蔵洞(御厨人窟:みくろど)と呼ばれています。ここに従者達は住んで主人の修行を支えたようです。従者がいなければ、修験者は何年もの山岳修行を行う事はできません。従者(山伏)が、ときどき里に下りて食物などを手に入れていたはずです。その行動は、「飛ぶように」走り、天狗のように飛ぶ超人的な脚力を身につけていたのでしょう。飛鉢の術を合理的に解釈すると、研究者は以上のように考えています。まとめておくと
①山岳修験者の修行期間は何年もの長期間におよぶものであった。
②その修行を支えるために食糧調達や料理提供などの従者(山伏)がいた。
③「飛鉢」の話は、従者(山伏)の存在を暗示する

「字治拾遺物語』(巻12)の「清滝川聖の事」では、京都の清滝川の修行僧が、水瓶を飛ばして水を汲んでいた次のような話です。
清滝川の奥で修行していた行者は、自分ほどの験力のある山伏はおるまいと自慢していました。すると、別の水瓶が飛んできて同じように水を汲みます。自分以外に水瓶を飛ばす術を会得しているのはだれだろうかと、水瓶の後をつけていきます。すると庵と持仏堂があったのでのぞいてみました。中には80歳ほどの老僧が居睡りしています。そこでこの老僧と「験競べ」をしてみようと、「火界呪」をとなえ部屋中を火で包みます。ところが老僧は眠ったまま、故杖をとって水をまくと、たちまち火はきえます。そればかりか山伏の衣のほうに火が燃え移ります。大声で助けをもとめると、老僧は散杖で水をかけてくれたので、助かった。

  ここでは飛鉢が水瓶に代わっていますが、修験者が法力で飛ばしているのは同じです。違うのは、「験競(げんくら)べ」が加わっていることですます。ここに出てくる験力とは、何なのでしょうか。
これを解く鍵を『信貴山縁起絵巻』第二巻の「延喜加持の巻」に次のように出てきます。

 延喜の帝が重病になり、いろいろの御修法をおこないますが、何の験(効果)もありません。そこで信貴山の命蓮の評判をきいて、都へ呼んで帝の加持をさせようとして、勅使が信貴山へやってきます。これに対して、命蓮は自分が都へ行かなくとも「剣の護法」を遣わし、帝の御病悩を治しましょうと引き受けます。はたして三日後に帝の夢に「剣の護法」があらわれます。すると、帝の御病気は良くなって気分爽快となった。
 
ここに登場する「剣の護法」とは何者なのでしょうか?
信貴山縁起絵巻』の「延喜加持の巻
命蓮が派遣した「剣の護法」(信貴山縁起絵巻)
「剣の護法」
剣の護法(拡大)
拡大して見ると、次のような姿で描かれています
①数十本の剣を蓑のように体のまわりに垂れて、
②手に剣と羂索を持ち、
③輪宝を輪廻しのように蹴りながら、雲の上を走つている
これが験の高い修験者が意のままにあやつり、奇蹟をおこなう護法童(使役霊)です。平安時代の陰陽師は式神とか識神を意のままに使っていますが、これも使役霊です。剣を持っているのは、病を起こす病魔を退治して、病を治すという意味と研究者は考えています。これも常人の目に見えない修験者の従者ということになります。飛鉢も、この護法童子の仕業ということになります。
 山岳修行者には、つねに金剛童子がついていて、守護するという信仰はこれに由来するようです。
金剛童子 | 明王部 | 仏像画像集
修行で行力が増せば、使役霊を自由自在につかうことができるようになります。これはポケットモンスターのようなものかもしれません。行場で何年も修行を行う修験者を見ていた里人も、次第にこの行者ならば自分の病気を治せるだろう、さまざまな禍を払って商売繁昌させてくれるだろうという信頼が生まれるようになります。

以上をまとめたおきます。
①修験者の法力の中には、千手観音(毘沙門天と同体)の秘法「飛鉢法」があった。
②山岳修験者の命蓮は、信貴山で修行し飛鉢法を会得し、飛鉢で托鉢を行っていた。
③同時に命蓮は、奇蹟をおこなう護法童(使役霊)を自由に操れる法力を会得していた。
④すぐれた法力をもつ修験者は、それを競い合う「験比(げんくら)べ」を行った
⑤これらの法力を身につけたものは天狗とされ、天狗を目指す天狗道が盛んになった。

中世に盛んになる天狗道の原点は、古代の修験道の中の秘法や法力に原形があるようです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献

2026 図書館郷土史 綾子踊り

今回は綾子踊について上記の予定でお話しします。綾子踊は雨乞踊りと云われてきましたが、歌詞を見る限りは雨や雨乞についてては何も触れていません。出てくるのは、恋の歌ばかりです。この小唄がどのようにして讃岐に伝わってきたのか、その伝播ルートを法然上人絵伝の讃岐流刑の各湊のシーンから探っていくことからはじめようと思います。興味と時間のある方はおいで下さい。
 なお今年は、綾子踊の公開年になっています。公開予定日は次の通りです。
日 時 2026年9月6日(日) 9時~11時半
    (暑さ対策のために例年より1時間早くなっています)
場 所 加茂神社(まんのう町佐文)
駐車場 スタッフの誘導に従ってください。

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道の駅、たからだの里さいた(香川県三豊市)
財田(たからだ)の里
三豊市財田町の戸川は、財田川上流の戸川ダム周辺が公園化され、隣接して道の駅や温泉が整備され「財田の里」として観光スポットになっています。新猪ノ鼻トンネルの開通後は国道32号線の交通量も増えて、訪れる人も多いようです。道の駅から国道を500mほど上っていくと、大久保諶之丞の生家跡が残されています。このあたりは背後の谷から豊富な水が湧きだし、用水路を流れています。この水量を利用して江戸時代末期には、いくつもの水車小屋があったようです。

財田町史644P 戸川の水車 

大久保諶之丞の家も、多度津藩御用の水車小屋の権利を得て、油絞りと賃づきをしていた記録が残っています。これが大久保家発展の基盤となったようです。そして、諶之丞は戸川を発展させていくために、周辺の街道整備を行うようになります。

かずら橋のある四国村へ、屋島は観光名所が沢山 | カメラとフェリーと読書等
四国村 わらやの水車(復元)

明治13年の「讃岐国三野豊田両郡地誌略全」の「財田上ノ村」の項には次のように記します。
財田上ノ村 郡中の東南隅にして海岸を隔つる三里余、東北西ノ三面は山岳囲続し特に南方は高山断続して阿波国三好郡東山西山ノ両村に交り四境皆山にして地勢平坦ならず。阿波山(阿波讃岐国境にあり、俗に称して阿波山と云う)北麓に南谷。猪ノ鼻両地あり、往事は山なりしが明治三年旧多度津藩知事京極高典始て開墾し、爾来日に盛なり、其麓に渓道と呼て一線の通路あり、険際にして僅に樵猟の往来するのみ、明治十年村人大久保諶之丞の労にヨり方今は馬車を通し商旅の便をなすに至る
意訳変換しておくと
財田上ノ村は三野郡中の東南隅にあり、海岸線からは三里(12㎞)あまり隔たっている。東北西の三面は山に囲まれ、特に南方は讃岐山脈を隔てて阿波国三好郡東山西山ノ両村と村境を接する。四境すべて山で、平坦な土地はない。阿波讃岐国境の阿波山北麓に南谷・猪ノ鼻がある。かつては山中であったが明治三年旧多度津藩知事京極高典の時に開墾して、その麓に渓道と呼ぶ一線の踏み跡小道があるが、険しくて樵や猟師が往来に使うだけだった。それが明治十年に大久保諶之丞の労で、道が整備され、今は馬車が通るようになり、交易の便に役立っている。
ここには、諶之丞によって渓道の交通の便が改善されたことが特筆されています。さらに「財田上ノ村道路開築并二修繕」には、「猪ノ鼻にも明治十六年ヨり道路を開築中」と記されています。ここからは、この頃には、猪ノ鼻開鑿に着手しつつあったことうかがえます。後に、この猪ノ鼻を四国新道が通ることになります。逆の言い方をすると、以前から工事を進めていた猪ノ鼻ルートを、大久保諶之丞が四国新道計画に取り込んだとも云えます。
 さらに見方を変えると、戸川を中心に街道を再編成するという目論見があったようです。四国新道の整備も、それまでに箸蔵寺と山脇を結ぶ箸蔵街道(現四国の道)に代わって、猪ノ鼻と戸川を結ぶ流通ルートへの変更を意味しました。この結果、戸川は讃岐側の流通拠点として急速に発展していきます。特に、土讃線が財田駅まで開通したときには、土讃線の終着駅の宿場としての役割を担います。今回は明治の財田戸川の発展を見ていくことにします。テキストは「財田町史641P 四国新道と戸川の繁栄」です。

水車4

まず、戸川発展の起動力になった水車を見ていくことにします。
 大久保諶之丞の生家跡には今も水量豊かな用水路があります。谷川から導水した水を動力源にして、水車を廻し、土地の産物を加工し、峠を越えて阿波と交易するというモデルが幕末には生まれていたようです。ちなみに、戸川は行政的には「財田上の村」で、多度津藩に所属していました。これが大きな意味を持っていたのではないかと私は考えています。
 以前にお話したように、小藩の多度津藩は財源確保のために、商人たちを積極的に登用して藩政に関わらせるようになります。その象徴が多度津湛甫工事で、この湊は大きな経済効果を多度津藩にもたらします。その経済力を背景に多度津藩は小藩ながら軍備の近代化を図り、丸亀藩とは異なる独自の道を歩むことになります。その背景にあったのがそれまでの規制や統制にこだわらない積極的な経済政策です。例えば、髙松藩は阿波藩との間に「走人協定」を結び、両藩での国境交易を制限していたことは以前にお話ししました。これに丸亀藩も準じていたようです。ところが多度津藩は、これを無視した動きをするようになったのではないか思えてくるのです。

財田町史644P 財田戸川の水車 
財田町にあった水車一覧(財田町史650P)

土讃線沿いの渓道川沿いが戸川エリアになります。財田の水車について要約しておきます。
①最盛期には営業水車は26軒で、製粉・精米・搾油・胡粉製造等の動力源であった。
②その他に、地区共同利用の水車小屋や個人の水車小屋が各地域に26基
③水車を回す水は、財田川本流を利用が約17基、支流利用が35基
④村内には専門の水車大工がいて組み立てたり修理した

財田町史650P 財田戸川の水車 
渓道川沿いの水車一覧(財田町史647P)
ここでは、明治から昭和前期までは、財田川沿いには多くの水車が回っていたことを押さえておきます。水車が姿を消すのは、四国水力電気が阿波の祖谷に水力発電所を備え、動力源が電力に代わっていく頃です。戦前には、いくつか残っていたようですが、戦後になると姿を消し、今では、どこにあったのか、その痕跡も分からなくなってしまったようです。

財田町史650P 財田戸川の水車2 

明治24(1891)年に四国新道が開通すると、戸川を取り巻く環境は大きく変化します。
讃岐からは米、阿波からは木材や藍玉 (染料)などの物資の流通が急増します。戸川は、讃岐側の物資の集積地点として、人とモノと金が集まるようになります。そこには、精米・精製粉などの水車場、米の移出検査所、荷馬車業、商人宿、人力車・乗合馬車、郵便取扱所など人の往来や物資の流通を担う産業が興ります。また、大久保諶之丞の尽力で、養蚕も始まり、明治23(1890)年には、 金森練糸場が戸川(石野下?)に開業し、日清戦争後の明治28(1895)年には、南海製糸株式会社が財田上に設立されます。こうして戸川には四国新道沿いに宿場街が形成されていきます。
財田戸川 明治の地図
上図からは、次のような情報が読み取れます。
①四国新道は渓道川に沿うように戸川を貫通し、琴平と猪ノ鼻峠を結んでいた。
②渓道川沿いに10軒(①~⑩)の水車があった。
③米移出検査所や運送取扱所もあった
④現在の道の駅辺りには、人力車の駐車場があった
⑤新道沿いに、Aとさ屋、B高知屋、Cさくら屋、D朝日屋、Eもみじ屋、F大谷屋、Gのぼり屋の6軒の旅館があった。
財田町史644P 戸川の旅館 
財田町戸川にあった旅館高知屋(財田町史652P)

池田町史下巻に載せられている伊丹久平さん(明治23年5月1日生)の回想録を見ておきましょう。

大正元年に台湾で除隊し内地に帰り、それから馬と牛を相手に暮らしました。わしの親父は、讃岐から米買うて、池田へ運んでいました。わしも若いしになったころは、親父の手伝いをしたもんです。①明治22年までは猪ノ鼻街道(讃岐新道)が抜けとらなんだ。そのため馬を追うて船原へ上り、②二軒茶屋を越して荒戸という今の財田駅のあるあたりへ降りる。朝の三時ごろ、州津を出たら、朝が白みかける6時ごろ荒戸へ着き、③馬に三斗負わせて、自分は一斗担いでもんて来る。そして昼飯食うて池田へ売りに行くんじゃが、わらじも作らないかん、馬の靴も作らないかんし、二日に一回ですわ。その二日で25銭儲かる。四斗で買うたもんを四斗で売るんで、升を上手に計っても茶碗一杯出るか出んかで、駄賃が25銭ですわ。こんなことした人は、もう皆死んでしもうたわ。

ここからは次のような情報が読み取れます。
①②からは、四国新道完成以前は、財田荒戸 → 二軒茶屋 → 箸蔵寺 → 州津経由で馬に背負われた米が讃岐から阿波に入っていた。
③からは、馬に三斗、自分で一斗、合計四斗で25銭の儲けになっていた。
ここからは財田荒戸には、阿波への米の集積店があったことがうかがえます。
①大正元年、馬車引きを始め、やがて馬を牛にかえて猪ノ鼻から荷を運ぶようになりました。
馬は足は速いがよくおぶける(驚く)んです。キン(睾丸)は抜いとるんですが、おぶけて走ったら馬が死ぬか人間が死ぬか、それでなくとも荷物は転落するし、危険が多いんですわ。それで牛車に替えたんじゃ。

大八車を引く牛
大八車を挽く牛
牛車いうても大正10年ごろまでは、二つ車の天秤という大八車の大きい奴ですわ。②大正10年ごろからは四つ車になって、荷物も三百貫ぐらい積めました。 讃岐の米を阿波へ運ぶんですが、ここの浜から米俵一俵一七貫を井川や池田まで運ぶんが三銭、川口までだと十銭です。池田へ行ったら、あすこ持って行け、ここ持って行けって、配達までするんです。それで三銭です。一五俵積んで、川口まで行って一日一円五〇銭ですな。
 猪ノ鼻から運んで一円八十銭くらいになる。ところが③猪ノ鼻へ行っても荷のないときもありました。くじ引きで当らな荷がないんです。それに大具の渡しの渡し賃が一車二五銭とられる。④阿波池田からの荷物は、専売所の煙草が多かった。
四輪車を引く牛
四つ車
ここからは、次のような事が読み取れます。
①四国新道完成後は、米の輸送ルートが二軒茶屋越えから猪ノ鼻越えに変化したこと
②輸送方法も馬の背から、牛車(四つ車)に代わって輸送力が大幅に向上したこと
③猪ノ鼻に、米の中継店があって財田からは讃岐の牛車、猪ノ鼻からは阿波の牛車が運んでいたこと
④阿波からの積荷は、池田で製造された煙草が多かったこと

猪ノ鼻峠3
切り通しになっていた猪ノ鼻越

こうしてみると、戸川は三好郡池田などへの米などの搬入拠点としても機能していたことが分かります。先ほど見た地図にあった「米移出検査所」も、阿波に移出される米の検査がここで行われていたのかもしれません。

池田町史下巻924Pには、次のような「馬喰(ばくろう)」の回想が載せられています。
借耕牛の世話料は、牛の貸し賃の約一割だった。借耕牛の市は、夏と秋の二回あるが、その一期の値段が戦後では、六千円から一万円くらいだった。問屋と交渉したり、向うの馬喰(ばくろ)と交渉したり、個人同志の貸借りの仲介もあった。
個人の世話をするのに、よう讃岐へ自転車持って行って、丸亀まで送ってもらって、自分は汽車で行って、向うの農家を回る。二晩泊って、西へずうっと回って観音寺まで来て得意先の注文を聞いてくる。そして日を決めて、財田の戸川で両方が会うことになる。戸川の道路のはしに、牛をずらっと並べて交渉するんじゃ。
ここには次のような事が記されています。
①池田のばくろうが丸亀から観音寺まで、讃岐の借り手を自転車で廻って注文聞いていること
②期日を決めて、財田戸川に借り手と貸し手が集まってセリを開いていたこと
③その仲介をばくろがおこない、多いときにはシーズンに120頭もあつかっていたこと。
ここからは、戸川は、阿波の三好郡から三豊方面へレンタルされる借耕牛の集結地でもあったことが分かります。
また、三豊方面で作られた木綿も人の背に背負われて阿波に運ばれています。逆に、池田の専売公社で作られた刻み煙草が讃岐戸川に運ばれ、さらに仁尾・三野・粟島などの湊から船で日本海方面に出荷するルートがあったことは以前にお話ししました。
讃岐から阿波へ 米・塩・木綿
阿波から讃岐へ 煙草・木材・借耕牛

四国新道完成後の財田戸川の発展について、「仲南町誌(998P)」は次のように記します。
四国縦貫の幹線道である四国新道にはしだいに人馬の通行が多くなり、ことに明治29年(1896)善通寺師団が設置されてからは日を追って交通量が増加してきた。土佐・阿波から入隊の兵士やその家族や金毘羅参りの人々は、明治38年に戸川まで乗合馬車が開通してからは馬車を利用するものが多かった。定員わずか8名の馬車でも当時は大量輸送機関であり、利用者も多く繁昌して個人営業者がつぎつぎと現われてきた。そして大正3年(1914)には5つの乗合馬車が営業していた。 

馬車道を行く馬車「写真集・長浜百年」(長浜市刊)より
           馬車道を行く馬車「写真集・長浜百年」(長浜市刊)より
日露戦争後の明治38(1905)年になると、琴平と財田の戸川の間にも馬車の運行が始まります。大久保諶之丞が開いた四国新道を樅ノ木峠を越えて、琴平から乗合馬車がやってくるようになったのです。この時の開業者は、高知県の筒井某とされますが、詳しくは分かりません。間もなく財田村の多田節治が営業権を受け継いでいます。始発所は琴平の鞘橋の北で、6台の馬車がそれぞれ一日一回半運行しました。朝6時半出発の始発便は一時間半で戸川に着いています。運賃は琴平・戸川間が15銭です。面白いのは雨天の日は18銭で、雨天時の運賃が高いことです。それが第一次大戦の始まる大正3(1914)年には、5つの会社が営業を行うようになります。その運賃は次のとおりです。
琴平・戸川間     40銭
琴平・樅ノ木峠間    10銭
琴平・野田原(地蔵前) 間 20銭
琴平・正宗間              30銭
ここからは、明治半ば以後には現在の国道32号沿いに「戸川→黒川→追上→樅の木峠→宮田→買田→琴平」に乗合馬車が何台も走るようになり、戸川はその終着地点となっていたことを押さえておきます。
しかし、乗合馬車の活躍は長くは続きませんでした。1923年になると、琴平が終着駅だった土讃線が財田まで伸びてきたからです。この時点では、財田駅が土讃線の終点で、人とモノはここで降ろされ、猪ノ鼻越を目指しました。そのため財田駅の駅員は50名近くいて、荷物の扱いにあたっています。この時期が猪ノ鼻越の人とモノの量が最盛期で、戸川が最も栄えた時期になるようです。
それが昭和4(1929)年に土讃線が阿波池田まで開通すると、人とモノ流れは劇的に変化します。回想記は、次のように記します。

昭和4年に土讃線 が池田までが開通すると、荷物がばたりと止まりました。その後はカン木って、薪を運んだんです。個人の家では女子衆が薪しましたけん、酒屋や醤油屋、うどん屋などへ薪運ぶんですわ。そのうちにトラックが入って来まして、仕事がだんだん無くなりました。四つ車では三百貫ぐらい、トラックやったら四〇〇貫積めるし、牛車で一日かかるところが一時間で運べますわ。それでも、ぽつぽつやっていましたが、昭和15年ごろやめて百姓することになりました。 

明治維新になって経済の自由が保障され、新しく作られた新道で人やモノの動きが活発に動き始めます。そのため阿讃山脈のふもとには阿波との交易拠点として、次のような宿場が姿を見せるようになります。
A 五郷(観音寺市大野原)  → 曼陀峠
B 戸川(三豊市財田)  → 猪ノ鼻峠
C 塩入(まんのう町)  → 東山峠
D 明神(まんのう町)  → 真鈴峠・二双越・三頭越
E 安原(高松市塩江)  → 相栗峠

昭和4(1928)年、讃岐鉄道が猪ノ鼻トンネを越えて徳島県池田まで延長されると、物資の輸送は劇的に変化します。猪ノ鼻越をする人とモノは激減し、宿場は廃れていきます。そして、電力に水車も駆逐されていきます。かつての山里の賑わいは、今は面影をとどめる建物さえありません。時代の大きな流れの中に飲み込まれ、消えていったようです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「財田町史641P 四国新道と戸川の繁栄」
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かつての讃岐では、村々で雨乞踊りが踊られていました。しかし、その踊りが雨乞踊りと称するようになるのは、江戸時代末から明治以後であることがおおいようです。それまでは風流踊りの流れを汲む盆踊りとして踊られていたようです。それがどうして、雨乞踊りと称するようになったのでしょうか。これについて、幕府や明治政府から盆踊り禁止令を出すようになったこと関係があるのではないかと私は考えています。禁止された盆踊りを、雨乞踊りと称する事で正当化して、踊る機会を確保しようとしたのではないかという仮説です。そこで今回は、明治政府が出した禁止令と、どうして盆踊りが禁止されたのかについて見ていくことにします。テキストは「伊東佳那子・來田享子  明治時代に布達された盆踊り禁止令の記載内容に関する研究」です。

風流踊りから盆踊りへ

次の表のように1870年(明治3)年の群馬県を先頭にして、16県で盆踊り禁止令が出されています。
各県の盆踊り禁止令一覧
盆踊り禁止令を出した各県一覧表 
最初に禁止令を出した群馬県のものを見ておきましょう。
古来ヨリ盆踊ト申事当国ニ於テハ右様賤敷 風俗無之筈之処近来越後辺ヨリ下賤ノ者入込候故歟悪風ヲ佩ヒ盆踊ト唱ヒ夜遊等イタシ候向相聞既ニ昨年中モ厳重取締為致回勤之者見当次第召捕候筈ニ侯処当年之儀モ等一制禁ヲ犯シ相催候儀於有之ハ甚以不埓之事ニ侯以後心得違於有之ハ左之通申付侯事
一、踊之当人ハ其身分ニ応シ相当之過怠金可申付事
一附下女下男ハ其主人ヘ過怠金可申付候事
一、右之催致シタルニ於テハ其居町居村ノ役人共ハ勿論一統ヘ相当ノ過怠金可申付候
一又社寺之境内ニテ催シ候而モ過怠ノ儀同断 猶其上社寺迄可及事
意訳変換しておくと
古来より当国には、盆踊りというような風俗はものはなかった。ところが近年になって越後から下賤の者が入り込んできて、彼らがこのような悪風を拡げ、盆踊りと称して、夜遊などを行うようになったと聞く。すでに昨年中に、巡回して(盆踊りを)見つけたらすぐに逮捕するように命じてある。当年についても、この禁止令を犯し盆踊りを開催することは、大変不埓なことである。以後、心得違の者に対しては、以下のような罰金を申しつける
一、踊った者は身分に応じて相当の罰金を支払うこと。
一、使用人が踊った場合、その主人が罰金を支払うこと
一、盆踊りを主催した村や町の役人はもちろん、その一族も罰金を申しつける。
一、社寺の境内で開催した場合、その社寺も同罪で罰金を支払うこと。
ここでは越後から流入者(民俗芸能伝播者=修験者や山伏)が盆踊りを持込んで、夜遊びなどの「悪風」をひろげたので禁止するとあります。そして、踊ったものだけでなく、盆踊り主催者や場所を提供した寺社などにも罰金刑を課しています。
それでは、明治初年頃の盆踊りとはどんなものだったのでしょうか?

『明治初年ノ黒石盆踊(原作者不明)』
明治初年ノ黒石盆踊(原作者不明)』
場所は、山形町愛宕山地蔵院の境内や黒石陣屋(藩政時代)の周辺で行われていた盆踊り風景です。
①上部の  「組踊りは風流踊りの一種で、規模は100人以上が様々な衣装や仮面を着て踊り歩く大掛かりなもの
②その下に描かれているのが「俄(にわか)」で、路上で寸劇などの芸能を演じる、いわいるストリートパフォーマンス。
③「有来たりの踊り」は「ぞめき踊り」とも呼ばれ、先祖供養を目的とした小規模な輪踊りのこと
こうしてみると明治初年には、江戸時代に流行したいろいろな踊りや芸能を飲み込んで、大型化・パレード型に進化し、総合芸能化していたことが見て取れます。
絵図からは、次のような事が読み取れます。
①円形で盆踊りが踊られていること。
②踊りの輪の下には、別の踊り集団がいくつもあって、同時並行で踊られていること

明治初年ノ黒石盆踊(原作者不明)』2
                   明治初年ノ黒石盆踊(原作者不明)』

③仮面を被ったり、いろいろな出で立ち姿であること、上半身裸の踊り手もいること。
④真ん中の着飾った歌い手の女性は柄杓で酒(水?)を飲みながらやっていること
⑤手にいろいろな持ち物を持って踊っていること

『明治初年ノ黒石盆踊(原作者不明)』3
                  明治初年ノ黒石盆踊(原作者不明)』

⑥輪の外にも、いろいろな人がいて面白おかしく踊っている。
⑦上半身裸で三味線を持って演奏している女性もいる。
⑥仮装した踊り手達が町中を上(カミ)から下(シモ)へ、下から上へと踊りながら行進し、夜更けまで踊り明かしたこと
これを見ると、明治初年の盆踊りは、現在の盆踊りからは想像も出来ないほど、猥雑であったことがうかがえます。だから禁止対象となったいえるかもしれません。

愛媛県の禁止令(明治6年8月29日)を見ておきましょう。

  略)盆踊ハ大概夜中ノ嬉戯ニシテ①男女混同頗ル猥褻ニ渉リ竟ニ言フベカラザルノ嫌ヒナキヲ免カレズ殊ニ妙齢ノ者共心気ヲ浮藻ノ地ニ動カシ本業ノ妨害タル(略)

意訳変換しておくと

 略)盆踊はだいたい夜中に踊られもので、そこに①男女が混同して集まり、非常に猥雑になり、言葉に云い表せられないような忌むべき光景が見られる。特に妙齢の若者男女の心気を浮藻にさせて、本業を疎かにさせる(略) 

ここには男女混同が風俗を乱すものになっていることを指摘して、今後一切の禁止を命じています。盆踊り禁止理由のひとつが男女の風紀の乱れであることを押さえておきます。 

田舎教師/田山 花袋|岩波文庫 - 岩波書店
 
  それを裏付けるのが1909(明治 42)年の田山花袋の「田舎教師」に描かれた盆踊りシーンです。
盆踊りのある処は村の真中の広場であった。人が遠近からぞろぞろと集まってくる。樽拍子の音が揃うと、白い手袋を被った男と女が手をつないで輪をつくって、調子よく踊り始める。(中略)
村にはぞろぞろと人が通った。万葉集のかがいの庭のことが、それとなく清三の胸を通った。男は皆一人ずつ相手をつれて歩いている。猥褻なことを平気で話している。世の羈絆を忘れて、この一夜を自由に遊ぶという心持ちが四辺に充ち渡った。垣の中からは燈光がさして笑い声がした。
「田舎教師」は、青年教師である小林秀三氏の日記を基に、現地調査によって執筆した小説です。この盆踊りの舞台は、埼玉県羽生市発戸とされています。このような光景は、ここだけではなく、全国で見られたシーンであったようです。これが「男女が一箇所に集まり風紀が乱れる」という理由になるようです。これを参加する男女から見れば盆踊りは、唯一の開放的な娯楽の場所で、性解放の機会だったようです。これは期待が膨らむ場所です。しかし、禁止スル側から見れば「それが問題なのだ!」ということになります。 


歌川広重「古代踊尽し 盆のおどり
               歌川広重「古代踊尽し 盆のおどり

 一方、岐阜県や小倉県(福岡県)の禁止令では、「老幼男女群集」、「多人数相集」るものとし、男女だけではなく、多くの年齢層が集まる場と捉えています。権力者は、人が大勢集まる場所を嫌います。それは、一揆などの政治活動の場に転化・利用されてきたからです。研究者の中には次のように指摘する人もいます。

「盆踊りの輪がつくりだす非日常的な社会編成は、集会条例が禁止の対象とした政治演説のアジテーションと同様(あるいはそれ以上に)、治安当局にとって警戒すべき事態だった」

 しかし、自由民権運動が高まり、『大日本帝国憲法』の発布や帝国議会開設へ向けて、大衆の政治熱が大いに盛り上がりをみせるのは明治20年代になってからのことです。盆踊り禁止令が出されているのは明治初頭です。時間的なズレがありますので「盆踊り禁止令=政治運動規制」説は、無理筋のようです。
風俗画報 明治24年より(湘南盆踊り研究会所蔵
明治24年の盆踊り
 各県の禁止理由を、研究者は次のように4つに分類します。
① 一箇所に男女が多人数集まること
 盆踊りは「男女が集まる場所」であり、そのことによって風紀が乱れることを問題視しています。たとえば秋田県の禁止令には、盆踊りが「男女群ヲ成」すことが挙げられます。
② 盆踊り禁止理由の2つ目は「裸体や奇妙な格好をすること」です。

明治初年ノ黒石盆踊(原作者不明)』4
                  明治初年ノ黒石盆踊(原作者不明)』

 禁止令は 「裸体」「異形之体」「奇異ノ姿」などの姿で行われる盆踊りを次のように問題視します。
A 1871(明治 4)年 和歌山藩の禁止令では、男女が化粧をして舞い踊ること
B 1872(明治 5)年 宇都宮県の禁止令では、盆踊りを「裸体や異形の体にて舞い跳びするもの」と捉え、「奇異の姿で行われる」こと
C 1874(明治 7)年 神奈川県の禁止令では、「女児聯伍シ衣服等頗ル美麗ヲ競ウ」とあり、女児が衣服などで美麗を競い合う見世物的要素があったこと
これを裏付けるのが、「田舎教師」(1909(明治 42)年)と同じ年に発行された森鴎外の自叙形式の小説「ヰタ・セクスアリス」の描写です。そこには森鴎外が10 歳の記憶として盆踊りの場に「男が女装」、「女が男装」した人がいたことが描かれています。以上からは、盆踊りには異性装で踊る慣習があったことが分かります。異性装は風流踊りの要素のひとつでもありました。
 異性の服装で踊ることについては、研究者は次のように解釈します。
①仏教的宗教性に加えられた演出として、盆踊りの仮装性を捕らる視点
②祝祭空間での異性装が「神性」に近づこうとするものであったという視点
盆踊りに異性装するのは、当時の庶民感覚では「当たり前」のことでした。ところが文明開化を推進する明治政府の役人達の中には、異性装は恥ずべき風習と考える人達がいたようです。両者に大きな隔たりがあったと研究者は指摘します。政府の役人達は、大衆を無知で遅れた存在ととらえ、彼らを文明開化に導いていくという指命感があったようです。別の言葉で言い換えると、政府役人が庶民を「矯正」しようとしているのです。これは政府の庶民の娯楽的風俗への介入です。それが「親心」であれ、実態は庶民の宗教的感性の抑圧になります。

月百姿 盆の月 月岡芳年作 画像は復刻版
月百姿 盆の月 月岡芳年作  (湘南盆踊り研究会所蔵)

③ 盆踊り禁止理由の3番目は
「楽器等を打ち鳴らすこと」です
 盆踊りに楽器を叩きながら踊ることは、一遍の念仏踊りに原点があると研究者は考えています。
神奈川県の禁止令では、「大鼓竹甄」を打ち鳴らすもの、秋田県の禁止令では「管弦等を鳴らして歌舞をする」ものと記します。ここからは「邦楽器の使用」も政府のめざす文明開化には、そぐわないとされたようです。絵図には、いろいろな楽器を打ち鳴らす姿が描かれています。しかも、いくつも集団が混じり合って、同時に演奏しています。これは「騒音」とされてもしかたない面もあったようです。         
④ 盆踊り禁止理由の4番目は「町中を踊り歩く(踊り騒ぐ)もの」です
夜中に町中を踊り歩く(踊り騒ぐ)ことが禁止の理由とされています。
秋田県では「深夜外歩」、若松県では夜中に道路で踊り騒ぐこと、栃木県では夜中の路頭を徘徊することが問題視さています。念仏踊りの頃には、盆踊りは神社の境内などで円形隊列で踊られていました。ところが江戸時代中頃になると伊勢踊りの「道行き」の要素が加わってきたようです。道行きとは、一箇所に留まらず往還をゆっくりと踊りながら進んでいくスタイルです。これを「踊(練)り歩く」と表現しました。これは江戸時代以降に加わったものです。これが禁止理由のひとつになっています。
 山形県の禁止令では、盆踊りと同じように「群行市在踊リ歩」くことと、通りがかりの家で酒や食事を貪る風習を問題視して「卑陋」として禁じています。

1873(明治 6)年に出された磐城県(現:福島県)の「念仏躍」禁止令は、次のように記します。

磐城之風俗旧来念仏躍ト相唱ヘ湛秋之際仏名ヲ称ヘ太鼓ヲ打男女打群レ夜ヲ侵シテ遊行シ中ニハ如何ノ醜態有之哉之由文明ノ今日有間敷弊習ニ付管内一般本年ヨリ右念仏躍禁止申付侯条少年児女ニ至迄兼テ相達可申事

 意訳変換しておくと
磐城の風俗である念仏躍は、晩秋に仏名を称えて太鼓を打ち鳴らし、男女が群集し夜を徹して、遊行する。中にははなはだ醜態をさらす者もいる。これは文明開化の今日では許されない悪習である。ついては県内では本年より、念仏躍を禁止する。少年・少女に至るまで通達するように

 ここで禁止理由は、男女が群れ夜中に遊行することが問題視されています。明治時代の念仏踊りは、盆踊りとして踊られていました。娯楽的な面が高まるにつれて、男女が一夜を共にすることが普通のこととされるようになります。そのため、磐城県ではこうした行為が醜態であるとし、念仏踊りを「文明の今日あるまじき弊習」と指弾します。以上、明治初年の禁止令の4つの禁止理由を見てきました。
 盆踊りは、江戸時代にも禁止令がだされています。
しかし、明治時代の盆踊り弾圧と江戸時代とのものは、禁止背景が異なると研究者は指摘します。例えば、江戸で出された 触れには、次のように記します。
1677(延宝 5)年 「8 月になって踊り続けるのはいけない」
1709(宝永 6)年6 月 夜中に町々に踊る者がいるので、交通の妨害になるから差し止める」
ここに書かれている禁止利用は、盆踊りによって人々が家業などを忘れ怠惰すること、江戸の秩序が乱れること、交通の邪魔、近所迷惑になることから禁止、制約したものです。ところが、明治時代の禁止は、諸外国との不平等条約改正を目的に行われた近代化政策の一環でもあったようです。盆踊りを「文明国として欧州に伍する為に廃止すべき弊風」とみなす延長線上にありました。ここでは、同じような表現を用いた禁止でも、江戸時代と明治時代とでは、その意味は大きく違っていたことを押さえておきます。
 また、禁止することは、大衆の反感を招き、騒動になるおそれがあることを役人達は知っていました。そこで踊りの日数を短縮させて許可するなどの懐柔策も併用しています。天皇制を浸透させる祝日である天長節が盆踊りを許可する日として指定いるのも象徴的です。

風俗画報明治30年より、河内音頭の図
                  風俗画報明治30年より、河内音頭の図(湘南盆踊り研究会所蔵)
もうひとつ盆踊りが弾圧対象とされた背景には、神道の神仏分離・廃仏毀釈の攻撃目標になったのではないかと私は考えています。
明治初年に明治政府の意志決定場面に近い所にいた神道学者たちは、仏教だけでなく、修験者や民間信仰までも排斥対象としていました。そのような目で見ると、庶民のなかで大きな娯楽であり、影響力をもつ盆踊りは潰しておきたい存在だったのではないでしょうか。それは、文明開化を推進するの近代化官僚と目的は違えども利害は一致します。民衆の中にある猥雑な大衆娯楽を取り除くというスローガンで、穢れの多い盆踊りを排斥したのではないかと私は考えています。

最後に盆踊り禁止令をめぐるその後を見ておきましょう。
明治初年に盆踊り禁止令が出されて、取り締まり対象となります。しかし、布告だけで庶民の最大の娯楽である盆踊りをやめるはずもありません。取締まる側と民衆との間で、攻防戦が展開されます。その結果、緩和と制限が繰り返されます。
愛媛県(香川県を併合中)の場合も見ておきましょう。
1878(明治10)年 盆踊り禁止令公布
1881(明治14)年 8月8日 愛媛県が盆踊り禁止(愛媛県甲第147号達)
1889(明治22)年 禁止していた盆踊りを許可(県令54号)
1893(明治26)7月 盆踊りを旧暦7月10日~20日の間に制限して許可(香川県県告諭第669号)
愛媛県に併合されていた香川県は、独立後に盆踊りを期間を短縮して許可しています。これは、県民達は喜んだはずです。東京からやってきた知事の人気取り政策のひとつであったのかもしれません。また、許可された期間が7月10日~20日の10日間となっています。ここからは、江戸時代には、これよりも長く盆踊りは、夏の夜に毎晩、踊り続けられていたことが分かります。

明治中期の盆踊り取締まり状況を、日本之時事第7号 明治21年(1888年)を見てみましょう。
記事概要(意訳)
数百の老若男女が一同に、立場のわけへだてなく集まって、灯籠をかかげ、声がとどろき、踊りが沸き立ち、手拍子が響き渡る、これが田舎の盆踊りである。市街の路上、名主の門前、鎮守の杜内などで、時期は盂蘭盆、七月十五六日の夜である。男性の女装、女性の男装、ボロをきたり、貴族の装いをしたり、奇抜な格好で、意表をつく趣向をこらして、皆の目をひこうと競い合う。卑猥でみだらで、男女の情が交錯し、一夜の契りを結んで果ては子を宿すこともあり、風紀を乱すとういうことで、以前より警察により取り締まられることになった。

 この盆踊りは、田舎に多いが、特に東北が盛んであった。筆者は、避暑のために東北に旅行したが、丁度8月15日~16日にあたった。東北では、陽暦でも陰暦でもなく、その中間のやり方で、この季節を盂蘭盆としているのが多い。今年は西日本が水害などで大変だったが、東北は非常に季候が良く、作物もよく実った。農家の人は意気揚々とし、それが商工業の人にも波及して、腹をたたいたり、胸をたたいたり、往事の盆踊りの賑わいであった。老若男女が熱狂して踊り騒いでいる。警察もこれを黙認していた。これをみて、眉をひそめる人もあるかもしれない。ああ、また風俗が乱れていると。しかし、筆者は思う。煌びやかな場で行われる舞踏会は男女が抱擁して跳ね回っているではないか。また、仮装舞踏会なども盆踊りの仮装と何が違うのだろう。もし、風俗をただすというなら、庶民からでなく上からやるべきではないだろうか。何事も西洋がよいといって、カルタはだめでトランプはよい、とか、盆踊りはだめで舞踏会はよい、とか、忠義は反逆罪より卑しいとか、そういう人もいまだに多い。庶民の風紀をただそうと、厳しく禁じたところで、元をたださないと、どうにもならないのではないか。そうしたこともあるから、最近は警察も粋にはからって、盆踊りも黙認するようになったのではないか。古来中国では、気候変化の予兆から、農家の苦境を知ったというが、このように農民が歓喜しているのは、気候がよく豊穣が見込まれるからであり、むしろ大いに楽しんでもらうべきではないか。盆踊りも村芝居もよいではないか。

 ここからは、警察によって取り締まられていた盆踊りが、黙認され、また賑わいを取り戻す姿が描かれています。また、盆踊り復活を肯定的に捉える世論が形成されつつあることがうかがえます。

ところが緩和の動きが反転するのが明治末です。
「第二次桂内閣 1908年(明治41年)~1911年(明治44年)の文部大臣 小松原英太郎 内務大臣 平田東助が盆踊り禁止令を再発動して、農村粛正にのりだします。生産阻害、風俗壊乱の元兇として盆踊り廃止を説いてまわります。これを『盆踊り退治』と称したようです。この影響で、盆踊りがやまった時期が明治の終わり頃か、大正の初め』と伝えられる村も多いといいます。(永田衡吉「民俗芸能 明治・大正・昭和」より)

このように江戸時代末から大正初めにかけて、幕府や明治政府は盆踊りを禁止する方向にあり、守ろうとする民衆と綱引きを繰り返していたと云えそうです。
以上をまとめておきます。
①一遍上人の踊り念仏は、江戸時代になり風流化され、村々で盆踊りとして踊られるようになった。
②その中で、仮面や女装男装姿で踊ることが定着し大衆化し、猥雑化し、人びとの最大の娯楽となっていた。
③明治になると、文明開化=近代化を掲げる明治政府は、猥雑さを伴う盆踊りを禁止した。
④しかし、庶民は禁止令を無視し、盆踊りを続けようとする。
⑤そこで、取り締まる側と、庶民との間で攻防戦が展開されるようになる。
⑥その中で、讃岐では「この踊りは、ただの盆踊りではありません。雨乞踊りなのです。旱魃の時に踊られ続けて来た神聖な踊りです」という由緒が強調されるようになる。
⑦その結果、盆踊りであった滝宮念仏踊りなども、雨乞踊りというキャッチフレーズが付けられて紹介されるようになる。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「伊東佳那子・來田享子 明治時代に布達された盆踊り禁止令の記載内容に関する研究」
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八朔の団子馬3

私の住んでいる丸亀平野南部のまんのう町では、旧暦8月1日の八朔を「馬節供」と称し、団子馬を作って男児の誕生と成長を祝っていました。八朔は、稲の穂が出る時期にあたり、農村では豊作祈願など次のような儀礼が行われてきました。

八朔の団子馬4
A 初穂を刈って神にささげる
B 主人が田をめぐりながら田の神に豊穣を祈願する「田誉め」
C 稲作が害虫の被害に遭うことを防ぐための虫送り
D 八朔に上巳(3月3日)や端午(5月5日)の節供と同じような行事を行う。
八朔は季節の節目とも考えられて、次のようなこととも関連していたようです。
夜なべ仕事が始まる日
奉公人の任期が終わる日
一連の盆行事の終わる日
ある意味では、特別な日で「ハレ」の日でもありました。八朔の行事としては『日本民俗地図』には、広島・香川・愛媛・福岡・佐賀県では、八朔に米の粉で作った馬や人形を飾り、子どもの成長を祈願する風習が報告されています。どうして、これらのエリアだけに残ったのでしょうか。この疑問には、また別の機会に考えることにして、先を急ぎます。

八朔の団子馬 馬台
馬台と団子馬
西讃地方では、男児の誕生と成長を祝う「馬節供(うまぜっく)」が行われてきました。
これは馬台と呼ばれる骨組みに、米粉を使った団子を盛り上げて作る「団子馬」を、武者人形などとともに床の間や玄関などに飾るものです。私の家でも幼年期にも作られたようで写真や馬台が残っています。今回は、八朔の団子馬について見ていくことにします。テキストは「服部 比呂美 八朔の馬節供 西讃地方の団子馬製作を中心に」です。

八朔の団子馬7

  この論文には、八朔や馬節句に関する先行研究史や史料、聞き取り調査などが載せられていて、読み応え充分です。検索すればPDFでも読むことができます。

西讃府誌34

  まず、西讃府史にどのように書かれているかを見ておきましょう。
西讃府誌は幕末の安政5年(1858)、丸亀藩主・京極高朗が、儒臣の巌村秩と加藤穀の願いを受け、那珂郡櫛梨神社の祠官秋山惟恭らに命じて作らせた編纂所で、各村の庄屋などが書き上げたレポートをもとにして編纂されたことは以前にお話ししました。。『西讃府志』には「猪駒」とでてきます。
猪駒(ししこま)
八月朔日、此日田実トテ男子ノアル家ニハ、米ノ粉ノ団子ニテ馬ヲ作リテ飾ル、是猪駒ト
云、子生レテ初テナルハ、初馬トテ親キ人ナド招き、宴ナド設ケテ祝フモアリ、又三野豊田ノアタリニハ、雛祭リスルモアリ、又丸亀アタリノ町人ハ、船ヲ作リテ飾ルモアルナリ、又奴隷ヲ養ヘル家ニハ、今日ヨリ夜作(ヨナベ)ヲサシム11)
意訳変換しておくと

八月の八朔には、男児のある家では、①団子で馬を作って飾る。これを猪駒と呼んでいる。特に生まれて②初めての八朔は初馬といって、宴席を設けて子どもの親族などが祝う。また、③三野豊田あたりでは、八朔に雛祭りをし、④丸亀あたりの町人は、船を飾って飾る。また⑤奉公人のいる家では、この日から夜なべを始める。

西讃府誌 団子馬34

ここからは「①団子馬はかつてはシシコマと呼ばれていたことが分かります。その他にも番号をつけた4つの情報を得ることができます。
 
次に団子馬(=シシコマ)が登場する最も古い史料を見ておきましょう。
讃岐国豊田郡和田浜村(観音寺市豊浜町)の豪農であった藤村家の年中行事を記録した文化12年(1818)の「讃岐藤村家年中行事録」に、次のように出てきます。
八月一朔日 頼節句
獅子駒   祝
酒肴
此又世上有ふれにてよし 格別珍敷沢なる事無用
ここに登場する獅子駒が団子馬のようです。八朔の団子馬の風習は、史料的には19世紀初頭までした遡れないようです。
嘉永5(1852)年に宇多津の『阿比野家祭式 八朔の馬節供全』には、次のように記します。
男子出生ニテモ馬ハカざらす 男子無之候而も有無ニハカゝわらず吉米五合粉ニ引テ牛馬斗り作り 牛ハクラヲイ馬ハクラ俵三俵置 粉之余りニ而作物心次第ニ作り 足付膳ニ乗テ座敷床ニのし付テかざり晩ニヲロシ祝事 前日ニ拵ヘテ一夜置テ翌朔日晩ニさけてアフリ祝フテクウ事
意訳変換しておくと

男子が生まれたから馬を飾るのではない。男子のあるなしに関わらず吉米五合を製粉して牛馬を作る。牛は鞍を背負わせ、馬は俵三俵を置く。余った粉でいろいろな作物を作り 足が付いた膳に乗せて座敷の床間に飾る。その晩に祝事宴席し、前日に供えて、一夜置いて翌朔日晩に下げてきたものを炙って食べる

ここには、男児の有無に関係なく団子馬がつくられたことが記されています。これについて秋山照子氏は、次のように評します。

「馬の鞍に置いた俵などからは農耕との強い関連がうかがえ、近づく稲刈を予祝する行事ともとれる。このような慣習は、西讃地域に伝承される馬節供のより素朴な形態であり、団子馬の前段階の風習が推定できる」

つまり、馬節供に先行する形で、「稲刈を予祝」行事があり、それに男子の健やかな成長を願う思いが後世に接ぎ木されたということになります。

八朔の団子馬 着付け

『四国新聞』の前身である『香川新報』は、明治22年4月10日に創刊されました。『香川新報』に載せられた八朔記事を見ておきましょう。
○香川新報 明治24(1891)年9月3日(旧暦8月2日)八朔の獅子駒 
昨三日ハ陰暦の八月朔日俗に八朔と称へて市中の男児持つ家甲所乙所には米の粉で作りたる獅子駒を派手に飾り立て楽むなりし故か一昨夜より昨夜へ掛けては市内大通り辺ハ人の出却々に多く随分賑しきとなりき
意訳変換しておくと
昨日ハ陰暦の八月朔日で俗に八朔と呼ばれる。髙松市内の男児がいる家では米の粉で作った獅子駒を派手に飾り立て楽しむ。そのためか一昨夜から昨夜へかけては市内大通りの賑わいが普段よりも格別だった

この記事からは、明治24年には、高松市内の大通りでは、男児のいる家で団子の獅子駒が飾り立てられ、これを見るために多くの人々が町へ繰り出して、いつもよりも人通りが多かったことが分かります。夕凪のため夜が更けるまで蒸し暑い夏の夜には、獅子駒飾りを見ることは一つの楽しみでもあったのかもしれません。明治には、髙松でも八朔に団子馬が作られていたことを押さえておきます。

八朔の団子馬 仁尾6

○香川新報 明治25(1892)年9月21日 旧暦8月朔 獅子駒の入費三百円 (現代語訳)
今日は陰暦八月の朔日で、俗に八朔と呼ばれる。男児のいる家では座敷に獅子駒を飾る日である。そのため髙松市内でも例年夜分になると賑ふのであるが、今年は格別であった。また多度津では会議員の小国茂吉方が獅子駒の飾付けを三日前に完成させ。それは実に目を驚すばかりの立派さで、見物人が昼夜引も切れず訪れている。明治になって、讃岐では古いものは総て破棄すべきとの風評があるが、これには見るべきものがある。大広間の中央に二間四方の泉水を作り、その周りに他の物を飾り附けてある。泉水に五十円、大人形には七十余円を要し、総ての費用は約三百円に達したという。
この記事で取り上げられている「獅子駒」も団子馬のことのようです。準備に3日もかけ、大広間に泉水を作ってその周りに武者人形などを配置して飾る様子は、髙松にはない風習だったようです。

八朔の団子馬 飾り付け
これは仁尾や多度津などの港町で栄える商人たちの家で行われていたデコレーション方法だと研究者は指摘します。団子馬を飾るときに、蚊帳で作った山や砂で作った川に松や竹を植えるといった「景色をつくる」手法です。この記事からは、こうした豪華な飾り方がこの頃には多度津では行われていていたことが分かります。獅子駒は派手に飾り立てるもので風流(ふりゅう)的な要素がありましたが、明治になると藩の倹約令の制約がなくなり、「目を驚かす」景色を作り出すより派手さと豪華さが演出されるようになったことを押さえておきます。

八朔の団子 丸亀駅展示6
丸亀駅に飾り付けられた団子馬
香川新報 明治25年9月22日(旧暦8月2日)八朔と市の商業(現代語訳)
例年旧暦八月朔日は周辺の村々から祭りの買ひ物に出かけてくる人達が多く、市内でも獅子、駒等の団子(馬)細工に相当のお金をかけて飾り付けをおこなう。それに使用する縮緬、鹿の子なども売れるのだが、今年は団子細工屋も鹿子屋も八朔のお陰にはあずかっていないようだ。その背景には、今年が不景気であるからだと云う。周辺の村々は、収穫はまだだだし、髙松市内は岩瀬尾八幡さんのお祭りには、小遣いが消費されるようになるかも知れない。
先ほどの翌日の記事になります。前日の記事には、多度津町の獅子駒の飾りには300円かけたという景気の良い内容がありましたが、高松市内の八朔には景気のいい記事はありませんが、こからは次のような情報が読み取れます。
①「獅子、駒の団子細工」と表記されて、獅子と駒が別のものであったこと
②「団子細工屋」という専門店があったこと
③獅子駒も、団子馬に帯揚げや帯を巻き付けたように、縮緬や鹿の子などの布で装飾されていたこと
④八朔は高松市内では経済効果が期待される日でもあったこと

八朔の団子馬 着付け

香川新報 明治36(1904)年9月22日 西讃の八朔(現代語訳)

高松以東の八朔は、獅々と駒を陳列し祝うが、その飾りつけは温雅なものが多く、華美なものは少ない。ところがこれに反して綾歌郡坂出以西は、端午の菖蒲人形にプラスして鹿、駒などを飾る。その華美なことは、初めて見る人のを驚かすに充分なものがある。五節句すべてを祝ふことは明治になって衰へ頽れても、この八朔の飾り付けについては今でも数百円を投じる家もある。昨日も坂出、宇多津、丸亀等の家々を見てまわったが、宇多津町の久住泰三といふ家では間口三間半奥行二間の表座敷を舞台しえ、城郭を築き、その内外に松樹を植へ込み、城内には一個数円の武者人形を、城外には白に栗毛、黒毛毛色様々の野馬、乗馬を約数十頭もレイアウトして置いてある。これだけでも数十円を投じていると思われる。これを見ながら親族や友人を招いて宴会を開く。その費用は百数十円にもなろうと思われる。こうして見てみると、八朔行事でも高松と丸亀とには、大きな違いがある。これも東讃と西讃と区分する一つの原因かもしれない。

ここからは次のような事が読み取れます。
①八朔の飾り付けが高松以東は華美ではないが、西讃の飾りは「眼なれぬ人をして驚かしむる」ほど華美であること
②西讃の都市部の商家では、座敷には数十頭の馬の人形が配され、親戚や知人を招いての宴会も費用をかけておこなわれていた
③明治になって仁尾 → 多度津 → 宇多津と海運業や塩田業で栄える港町に豪華な八朔人形の飾り付けが拡がっていったこと。
④明治期には、西讃のように派手な飾りではないが、東讃にも「獅子駒」の団子馬の習俗はあったこと
八朔の団子 1940年6

先述したように、近世の西讃地方では「獅子駒」に次の二つのタイプがありました。
A 豊作を予祝するタイプ
B 男児の誕生を祝うタイプ
新聞記事からは、明治になると東讃でも西讃でもAの豊作を予祝するタイプは見えません。八朔行事のテーマは男児の節供です。その中で東讃では飾りが華美になってゆく気配がありません。これに対し、西讃では飾りが次第に豪華になります。、中でも馬の飾りが存在感が増していくと研究者は指摘します。

八朔の団子馬 飾り付け2

 また、西讃でも八朔飾りが豪華になっていくのは明治以後のことです。
安政年間(1854~59)の丸亀藩の倹約令は、次のように記します。(現代語訳)
一 雛人形の衣裳などは、四代に渡って使い、その分限に応じたものにすること。
一 節句の五月幟は一本だけにすること。彩色や紋様入のものは使用しないこと
一 七月の盆灯籠(とうろう)は、代金二匁以下のものにする
一 八朔飾馬(はっさくうま)については、これまでよりも減らすこと
一 来客者に対してはさ湯と薬物だけの接待で、決して酒宴の席を設けないこと
ここからはひな人形や、五月の幟(後の鯉のぼり)の本数も一本だけに制限されています。また八朔の飾馬については、数を減らすように通達されています。ということは、何頭もの馬や飾られていたことがうかがえます。幕末には、豊かな商家や庄屋では八朔飾りが華美になっていく傾向があったのでしょう。それに歯止めをかけるために、この通達は出されています。
 このような倹約令の下では、豪華な飾り付けはできません。それが変化するのは制約がなくなった明治以後のことで、そこから豪華化は始まると私は考えています。その動きが始まる場所は、仁尾や多度津、宇多津などの豊かな商家です。特に幕末期からの多度津は、多度津藩の政策もあって商人達が活発に動き始めるようになります。それが「多度津の七福神」と呼ばれる商業資本集団を形成していき、鉄道、銀行、電力などの近代工業に出資して、産業資本家へと成長していくことは以前にお話ししました。彼らが江戸時代の制約が亡くなり、経営基盤が軌道に乗った明治半ば以後に、豪華な八朔飾りを始めたと私は考えています。また、多度津や宇多津は金比羅大権現への参詣者が押し寄せた港町でもあります。そこでは「人の目を驚かす」という風流(ふりゅう)意識が富裕層には脈々と生きていました。それが豪華な八朔の飾り付けの原動力となったとしておきます。

  もうひとつ団子馬は、米粉で作られます。そのためには米を大量に粉にしなければなりません。これが可能になるのは水車の普及を待たなければいけません。水車もやはり18世紀後半から讃岐の川筋に出現するようになります。これと小麦からつくるうどんの大衆化は重なります。団子馬も、このような水車の普及を背景に、拡がったと私は考えています。言うなれば、うどんが半夏(はんげ)というハレの日の特別食であったように、団子馬は八朔の時の特別食だったと云えそうです。

大正7年の『多度津町史』には、馬節供のことを次のように記します。
今も郡内に於て男児ある家には、米の粉にて団子馬を作り、室内に樹石などを配置して山川を形造り、武者人形等を並べ飾る風習あり。之を馬節句とも云ふ。初めは丸き胴に短き首足を作りて猪駒など称せしが、今は胴とて木又は金にて骨格を組み、一、二升乃至一斗余の糯を以つて造り、鬣、尾、轡、手綱、腹帯等を着く。之を馬の衣裳と云ふ。男児生れて初めなるときは、初馬とて  親戚知友より糯馬或は忠孝武勇に秀てし人形等を贈り、初馬の家には奇麗に之を飾付け、贈り人を招きて酒宴を為す。之れ其の児の出世を祝ふなり。而して翌日其の馬を割きて配贈す。
 八朔に馬を飾るは、足利時代に此の日将軍家より 朝廷に御馬を献上するに習へりと云ひ。又 崇徳院当国に在らせ給ひし時、村嫗院の無聊を慰めむと、団子を馬の形に造りて奉りしに起る。故に此の儀西讃に盛なりとも云ふ。馬飾りの事団子馬の腐敗すとて一時衰へしか、近来美しき人形を主として、今も盛に其の儀を行へり12)
意訳変換しておくと
今でも仲多度郡内では男児がいる家では、米の粉で団子馬を作り、室内に樹石などを配置して山川のジオラマを作って、武者人形を並べ飾る風習がある。これを馬節句とも云う。団子馬は、初めは丸い胴に短き首足をつけたもので猪駒など呼ばれた。しかし、今では胴は木や鉄で骨格を組み、それに一、二升から一斗余の米粉の団子で作って、それに、尾、轡、手綱、腹帯等を飾り付ける。これを馬の衣裳と云う。特に男児生れて初めテキストの時には、、初馬と称して  親戚や友人が糯馬や忠孝武勇に秀てし人形を贈る。初馬の家では、それらを飾付け、贈っていただいた人を招いて酒宴を催す。これはその児の出世を願う行事でもある。そして、翌日に団子馬を割って配贈する。
 八朔に馬を飾るようになったことについては、足利時代にこの日に将軍より朝廷に御馬を献上することに習ったつ伝わる。又、崇徳上皇が讃岐に流刑になった時に、その寂しさを慰めるために、団子を馬の形に造って、奉ったことに始まるという説もある。そのために、この行事は西讃で盛んに行われている。団子馬については、腐敗するとされて一時は衰退したが、近年になって美しい人形を中心に復活して、今でも盛に作られるようになった。
八朔の団子馬5

観音寺中央公民館刊行の『郷土の文化』には、大正時代の八朔の団子馬製作について次のように記します。
「少年時代 八朔の思い出」
私の少年時代である大正七・八年頃と言えば、もう半世紀以上も昔となりました。楽しかった旧八月一日八朔人形の事を思い出します。私は大野原の農家に生れましたので、その付近の事を書くことにします。当時の農家の土間は、どこでも広くできていました。八朔が近づくと、まず広い土間に涼み台(三尺×六尺)を二台も三台も敷き詰め、その涼台に御座とか莚を敷きます。野原より芝草の土が付いている物を沢山取ってきて、その芝草を奥を高く山に見立て積上げ、前を平に敷詰めます。芝草で山や谷、野原や川等も造り、松や笹で繁みを造っていきます。木の沢山繁っている奥の方から虎が出て来ている様に見せます。その虎を加藤清正の人形が槍をかまえて向っている様に見せるのです。山の上では、足柄山の金時が獣を集めて相撲の稽古をしている風に飾りつけます。色々な人形を高い所から谷川附近や平野の所へうまく飾っていきます。当時の人形は現代の様に小型化し上品にできていない時代の事で、さも素人くさい人形で土俗的なにおいがぷんぷんとしていました。どの人形も大型にできていたようです。讃岐や阿波地方の方言では、人形のことを「でこ」とも言っていました。男の子の生れた初馬の家があると、村中の男の子も女の子も大人迄もが見に集ったものです。仲間同志「どこそこのでこは、ほんとうにきれいやぜ」と言って何度も見にいったものです。
 ダンゴ馬は、前足、後足、頭の部分は鉄ででき、胴体と台は木材でできている馬の型に、米ダンゴの蒸した物を上手にくっつけて造り上げて行きます。家によっては前足を高く上げている馬、後足をはね上げている馬等色々な型の馬がありました。身長はでき上りが五十糎前後と思います。時には割箸を折って骨組にして小さなダンゴ馬を何頭も造り上げている家もありました。立髪や尾には麻が用いられていました。こうしてできた馬に派手なしぼりの帯を胴中に結びつけると素晴しいダンゴ馬になったものです。その馬は前列に飾ら
れました。沢山の人々に見てもらい、八朔が終るとダンゴ馬は適当に切り取られて隣近所へもおすそ分けをしました。そのダンゴを焼いて食ると仲々おいしい味がしたものです。現代の様にラジオ・テレビ、映画等何でも楽しむ事ができる時代ではなく何にもこれと言う娯楽のない時代の事ですからそれを見に行くのが何よりの楽しみでありました。集った子供達は子供なりにどこそこのが一番良かった、二番がどこ、三番がどこと言う風に子供なりに等級をつけて楽しんだものです。少年時代の八朔のおもかげが少しでも残っているだろうかと思って見るだけでもほのかな心地良い思い出がよみがえってきます
八朔の団子馬 善通寺 

こうして多度津や仁尾・宇多津の八朔人形の飾り付けは、金毘羅の旅館などにも取り入れられ、人びとの楽しみとなります。明治末から大正時代になると、それが周辺の村々の富裕層の家々にひろがります。さらに、一般の家でも馬節共の飾りがおこなわれるようになったとしておきます。
  
八朔の団子馬 変遷 

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「服部 比呂美 八朔の馬節供 西讃地方の団子馬製作を中心に」
動画については

変容の危機にある無形の民俗文化財の記録作成

讃岐の馬節供

江戸時代の農村 全景図
         タイムトラベル 近世の村 帝国書院 中学校社会科歴史教科書 
ここには東海道が貫く江戸時代の村が描かれています。秋の収穫の終わった村では、アで米の脱穀・選別が行われ、それがウの庄屋の屋敷に運び込まれています。計量後に俵に詰め換えられて白壁の土蔵に一旦納められています。そして決められた日時に、藩の蔵に搬出されることになります。そのはるか向こうには、海が見えます。帆を上げて出港していく船が描かれています。

タイムトラベル 江戸時代の街道 木綿畑
新田開発で生まれた塩田と綿花畑
手間の塩田では、多くの人夫が働いています。この塩田も干拓によって新しく作られたものでしょう。。そこで作られた塩を積み込んで、帆船は出港していきます。その手前(ウ)には白い花のような作物が育ています。これが綿花畑です。今回は、江戸時代の綿花栽培について見ていくことにします。
テキストは「田中裕子 カムイ伝講義 小学館」です。
近づいてゆくと、白い花が丸い毬のように見えます。

綿花の開花 カムイ伝

白土三平のカムイ伝には「ポン」と音がしてはじける様子が描かれています。

「ポン」「ポン」「ポン」と、あちこちで花が開く。その様子を、一方で百姓たちが、別の方向からは穢多たちが、見つめている。花は開いてワタになった。畑一面、白いワタの色で次々と被われてゆく様子が想像できる。「正助、「よくやった」と父親が言う。百姓たちが思わず駆け出す。穢多たちも駆け出す。そして抱き合う。

江戸時代に入って、綿花の真っ白な花が日本中でみられようになります。
綿花は室町時代に国産化が始まっていましたが、それが拡がるのは江戸時代になってからです。そして、明治になると消えていきます。つまり、日本で綿花が大量に栽培されたのは江戸時代だけのことになるようです。「江戸時代=綿花の時代・木綿の時代」であったことを押さえておきます。
 江戸時代に農民が種から実験を繰り返し、肥料を試し、さまざまな種類を作り出し、糸を紡ぎ、機械を改良してゆき、機織りの技術を向上させていったのです。かつて村は、加工技術を含む「木綿づくり」の現場だったことになります。工業が農村から分離したのは明治になってからです。開国と同時に、安価な綿布が入ってきます。さらに、トヨタ自動車の創業者、豊田喜一郎の父である豊田佐吉 が動力織機を発明します。これをきっかけに、各地でいろいろ改良され力織機が普及するようになります。すると、国内産綿花は追いやられてしまいます。機械で紡ぐのに適していたのは、繊維の長い綿や細い外国産の綿花でした。国内産綿花は、外国産に比べて繊維が短く、糸が太いため機械で紡ぐことには適していなかったのです。そのため明治30年代には、各地の綿花地帯は姿を消してしまいます。日本で大規模に綿花が栽培されたのは、明治前半までなのです。
江戸時代の農書「綿画要務」で綿花栽培の過程を見ていくことにします。

「綿画要務」大蔵永常と
           大蔵永常 「綿画要務」(1833年)
 江戸時代は、農民が積極的に農業技術マニュアル書き、技術を共有しようとした時代でした。大蔵永常は前回紹介した『農具便利論』の著者でもあります。町家に奉公していた大蔵は、天明の大飢饉に苦しむ農家を目のあたりにして、暮らしの安定には換金作物の普及が重要と感じて農学を志したと云います。彼の農業への関心のスタートは、実家で祖父が行っていた綿の栽培でした。祖父は、町家でありながら農業にくわしく、なかんづく綿花栽培に優れた知識と経験があり「わが子を育てる心で臨んだ」と本書冒頭の「惣論」には書かれています。大蔵永常が力を入れた商品作物のなかでも、綿はとりわけ思い入れの深いものだったようです。
 まず種蒔きです。
綿の種は麦を刈った後に、その場所に蒔くのがいいとされました。まだ麦を刈り取っていないなら、麦の根によせて蒔く。そのために、まず麦を蒔くときの畦の作り方を、道具まで示して具体的に示しています。
綿作 『農具便利論』
種まき 大蔵永常の農業便利論 

秩序正しく蒔いた麦は、その種の位置の通りに麦の穂が出ます。その麦の根に寄せて、綿花の種を蒔くのです。これは手間がかかりますが、麦と同時栽培を行うためには必要です。土や養分との関係で、作物どうしの組み合わせにも、経験的なノウハウがあったのかも知れません。
 種を蒔く前に、綿で数珠つなぎになった種をばらばらにする作業から始まります。綿の繊維は丈夫で、それを分けるのは一苦労です。そのために使ったのが小便と薬灰です。灰を小便で溶き、それを種にまぶしてもむと、種はきれいに分かれる、と記します。小便と灰という組み合わせは、肥料の役目も果たすと記します。

そして水やりです。
 綿花の成長には大量の水が必要でした。そのために水やりは欠かせません。たんごを担いでの水やりは重労働でした。その際に水を無駄にしないための用具が開発されます。

おけ 『農具便利論』
綿花への水やり作業   大蔵永常の農業便利論    
「小生(こおい)の綿に底穴桶(そこあなおけ)をもて水をかくる図」と記します。桶ひとつに水 15 リットル程度入れています。その底から布が垂れているのが見えます。別の挿絵を見てみましょう。

水やり桶 『農具便利論』
             ・図版□    底ぬけタンゴの桶 大蔵永常の農業便利論 

これが底抜けタンゴ桶です。大蔵永常の農業便利論には、その使用方法と制作方法が絵図入りで紹介されています。これを見て底抜けタンゴを作って使用した人もいたはずです。それが技術伝播を早く、広くします。
底抜けたんご
     堺市石津(1958年) 底抜けタンゴの底板の穴を棒で持ち上げ、効率よく散水する。

綿花は肥料にお金がかかりました  

金肥 干鰯

  二葉が出たときに、綿の根元へ穴をあけ、菜種油やごま油の油かす、干鰯を入れるからです。これは高価なものでした。さらに、約2週間後に、鍬で筋を引き、人糞尿を薄めた「水肥」をやります。これを夏までに3回、施肥しますが、早くしないと葉だけ茂って実のつき方が少ないと言われました。
 綿花は、肥料のやり方で収穫に大きな差が出たようです。それだけに栽培に知識と経験が必要でした。
 間引きもする必要がありました。
15㎝ほとまで伸びたときに1,5mに10本ずつ残して他は捨てます。そして、油かすや干鰯を施肥すします。このように、様子を見ながら手入れを怠らないようにするのが綿作でした。その際に、どんな手入れが必要かを指導するのが農書でした。 江戸時代になると、知識と手間によって収穫量に違いが出てくることや、質の高さが市場を動かすことを農民達は学びます。そして彼らは、努力と知恵が人生を変える、という信念をもった百姓に育って行きます。
 いよいよ収穫です。
糸繰り、糸紡ぎまで行う家もあれば、綿花のままで出荷する家もありました。さらに綿布にまで織り上げる集落も、あればそこまでおこなわない集落もあります。 大規模になってくれば、分業もすすんで、関係する人びとも多くなり底辺が拡がります。その広がりを箇条書きにしておきます。
①綿花栽培しかしない家は、綿仲買がやってきて、実をつけたままの綿花を問屋に売る。
②繰屋が多くの人を雇って、繰綿機で実を取り去り「繰綿」にする。その繰綿を問屋に売る。
③綿問屋は海運、陸運を使って各地方に販売する。
④受け取った先の荷主が店で売り捌く。
⑤店から「綿打」に出すと、綿弓で「打綿」にして、篠巻(篠竹に巻くこと)にする。
⑥これを糸に紡いで枠にかけ、「かせ糸」にする。
⑦かせ糸が仲買に売られ、さらに諸地方の織口 (織り人)に売られる。
⑧織口は縞木綿にする場合はこの段階で染め屋に出し、 染め屋からもどってきたものを織る。
⑨仲買が織所をまわって布になったものを買い集め、問屋へおろす。
⑩問屋から呉服屋へ行く。
⑪糸を染めずに織った白木綿は、仲買から仕入れ屋の手にわたり、 そこから染めや絞りなどに出してから、呉服屋へおろす。
このような綿花産業には裾野の広がりがありました。水常は次のように記します。

「綿は人手にかかる事十四、五段を経て用をなすもわたといや  綿花栽培のはじまりのなれば、国民をにぎはすの大益あり」

経済活性化とは、働く機会(人手にかかる事)が増え、多くの人が職を得ている状態です。輸入に頼れば国の支出ばかり増えるが、自分たちで働いて布を織り上げれば、国内で人を豊かにできる、と考えていました。彼の考える豊かさとは、いつでも仕事があり、汗水流して働き、多くの人が収入を得られるというものでした。
綿花 河内の問屋制家内工業
               河内の綿織物業者と買付問屋
 河内では豊かな百姓が、問屋(商人)と結びつき、問屋から原料や道具などを借りて、家内で手工業による綿織物をつくるようになります。木綿の問屋制家内工業の形成です。上図には、農家に織機をおき、織物を織っているところや綿織物を買いに来ている商人が描かれています。

綿づくりは、どのくらいの収入があったのでしょうか?
 1反(約 0.1ha)あたり 30 ~ 40 貫(約 110 ~ 150㎏)の収穫でした。多くは、そのまま仲買人や操屋(くりや)(綿の種を取り去り繊維だけにする)に売ると、一反あたり、銀 240 匁ほどの売り上げになったようです。これを米に換算すると、ほぼ4石の値段と同じになります。当時は、上田でも一反あたり1,55 石くらいの収穫でした。綿花は米の倍以上の収入がある換金作物だったことになります。綿花栽培にチャレンジしていく意欲的な農民は、富裕になっていきます。一方で、そうでない農家は貧しいままで、村の中で農民の二極分裂が始まります。

綿の普及は江戸時代の経済を変えたとさえ云われます。この意味を最後に見ておきましょう。
綿布は、麻などのそれまでの繊維に比べるとはるかに丈夫でした。その丈夫さゆえに、17 世紀後半になると帆布として用いられるようになります。

松右衛門帆で航行する北前船
                               松右衛門帆で航行する北前船(復元船)
A 当時の構造船技術の進歩で、大型の帆船が登場します。そうするとそれまでの菰や筵の藁による帆の船に比べて、綿の帆布は横風や逆風に強く、水夫の数も少なくて済み、航海の所要日数を短縮させる効果がありました。北前船などの遠距離航海が可能となったことで、廻船業が発達につながります。
B 綿糸は地引き網や船曳網に使用されるようになます。

鰯網漁 九十九里

漁網の改良は、鰯の漁獲量を増加させます。綿の栽培には多くの肥料を要することは、先述しました。地引き網で大量の鰯が獲れて、干鰯に加工され金肥として流通するようになります。綿花栽培と鰯漁は、ウインウインの関係になります。
C 阿波では、藍の生産が飛躍的に増大します。それは木綿の染料として需用が大幅に増加したことが背景にあります。 
このように木綿産業の発展が新たな産業を生み出して行くことになり、社会を発展させる原動力になります。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
田中裕子 カムイ伝講義 小学館」
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江戸時代の農村 全景図
        タイムトラベル 近世の農村(帝国書院 中学校社会科歴史教科書)
ここに描かれているのは江戸時代後半の東海地方の村で、前回はアの農家の庭で使用されている農具を見ました。今回は、その前を通る東海道を行き交う人びとの中のエを見ていくことにします。

備中鍬を買う百姓

エの場面は「百姓がお金を払って、新しい鍬を買っているところ」とあります。百姓が手に入れた鍬とはどんなものだったのを今回は見ていくことにします。
テキストは「大網白里町史451P 農具の発展」です。
近世になると有肥、連作農業が行われるようになります。そのためには深耕する必要がありました。それを可能にしたのが鍬です。また、鍬は牛耕装備などに比べると安価なので、下層農民にまで普及するようになります。
その中でも、備中鍬(びっちゅうぐわ)は別名の「万能鍬」のとおり、画期的なものでした

鋤の改良

備中鍬は、平鍬(風呂鍬)から分化した打(うち)鍬専用の鍬です。鍬身が三本か四本の刃に分かれていて備中鍬と呼ばれました。この鍬は、総てが鉄で出来ていて重量があり、丈夫なために、より深く土地を耕すことが出来ました。また、刃先が分かれているので、土がつきにくいという利点もありました。そのため深く耕せます。中世後半から西日本で使われていましたが、この時期に全国的に普及します。

『農具便利論』に記された備中鍬
備中鍬 農具便利論
農具便利論には、三本備中鍬、四本備中鍬などが描かれています。刃の先端部が広がったものは、ばち付き備中鍬とよばれました。同時に、深耕用に便利であることが詳しく紹介されています。それまでは、一つの鍬で荒起、砕土、うね立て、中耕、土寄せ、除草などを行っていて、用途別に使い分けると云うことはありませんでした。備中鍬の登場で、用途に応じた鋤が登場するようになります。「諸国の鍬」として『農具便利論』には、いろいろな鍬が紹介されています。

掘り起こし 『農具便利論』
諸国の鋤(農具便利論)掘りあげ起こし
意訳変換しておくと
種子をまくときに、(地面に)筋を細かく切る時に、この鍬を使用すること。ゴボウ、にんじん、かぶなどを掘り起こす時にも、この鍬を用いる。
 
諸国の鍬 『農具便利論』
  『農具便利論』諸国鍬之図
諸国の鍬
すべて鍛冶は、泉州堺のものがよい。研ぎも細工も器用である。


諸国の鍬3 『農具便利論』
                 (農具便利論)金さし 地ならし
意訳変換しておくと
(右側)金さしへ
広島のものと同じく麦や菜種の代株を起出して、土を深く耕すときに使用する。土の塊を砕き、ならすのに効率が良く、役立つことこの上ない。その他にもいろいろな使用用途がある。
本起こしつるはし 『農具便利論』
          『農具便利論』地起こし鍬(農具便利論)本起こし(つるはし)
意訳変換しておくと
この鍬は砂地で主に使用する。綿花栽培の時には、砂地に水がしみこむように先を作物の根際に突き入れて、水肥を注ぎ入れる。

備中鍬は、鍬先に錬鉄が使用されていて、使っている内に摩耗していきます。そのために修理が必要でした。中世には「回遊職人」が村にやって来て「庭先製造」していました。それが、次第に注文生産となり、近世中期になると商品化されるようになります。鍬を求めてわざわざ奥州まで、出向いている史料を見ておきましょう。(大網 苅谷英二家文書)。

文化十年(1813)、大網村の平右衛門が、奥州棚倉領河下村の近藤建吾のところまで、「遠路被成御出、鍬荷直段取極、御売(買)受」

ここからは次のような事が読み取れます。
①平右衛門は、大網村で鍬の仕入・販売を営む農具商人
②鍬を入荷するのに、遠路奥州まで買い入れに出向いていること。
③それだけ鍬の需用があり、小農たちにも普及していたこと

安良盛昭氏『幕藩体制社会の成立と構造』には、小農と備中鍬の関係が次のように記されています。

「近世農業の基本的な形態は、畑作の二毛作、三毛作などの連作、あるいは水田裏作農業であり、それを可能とする刈敷(かりしき)を投入しての有肥農業には深耕が不可欠である。が、近世初頭に地主が用いていた牛馬用の犂は、その構造上非常に安定的であるにもかかわらず、深耕には甚だ不向きであった。これに対し、小農が使用する鍬は、手軽な人力用具であっても、深耕によく適し、夫婦中心の家族労働力だけで十分に連作、有肥の農業を発展させることができたとした。こうして、生産用具における犂から鍬への転換が、近世農業を発展させる上で「てこ」の役割を果たした」

以上を整理して箇条書きにしておきます。
①畑作の二毛作、三毛作などの連作や水田裏作農業が行われるようになった
②そのために刈敷(かりしき)で山野の草木をすき込みむ有肥農業と深耕が不可欠であった。
③しかし、名主層が行っていた牛馬用の犂は、深耕には不向きであった。
④これに対し、小農の鍬は、手軽な人力用具である上に、深耕によく適した
⑤また、夫婦中心の家族労働力だけで連作、有肥の農業を発展させることができたとした。
⑥こうして、犂から鍬への転換が、近世農業を発展させる上で「てこ」の役割を果たした。

ここで出てくる小農とは、次のような農家です。
①一町歩以下の耕地を保有し、
②その農耕は単婚小家族の家族労働力のみの投入に依拠し、
③鍬・鎌の人力農具で耕作する小規模な農民
このような小農が自立し、生産力向上の推進役になっていきます。その武器となったのが備中鍬だというのです。
 中世には「名田地主」は、多くの隷属農民達を抱えていました。当時の低い生産力の下では、本家を離れて生活を維持できませんでした。自分たちの生活を守っていくには、名主や本家に従属するしかありません。それが寛永期から元禄期になると、小農民が自立できる条件が整ってきます。それをもたらしたのが備中鍬に代表される農具の改良だと研究者は考えています。

名主経営から小農経営へ

 検地帳などからは、時代が下るにつれて田畑一枚が細分化され、分地が行われたことが分かります。ここからは名主から土地を分けられ独立(分家)していく姿が見えてきます。名主(主家)に隷従していた人々は、独立(自立)していきます。このような小農民が、次第に村の主体となっていくようになります。そうすると、いままでの「名田地主」を中心的として近世初期の村は、変化せざるえなくなります。それは、惣百姓を中核とする横のつながりのある村への変容でした。備中鍬は、世の中を変えた農具といえそうです。
 最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「大網白里町史451P 農具の発展」 

江戸時代の農村 全景図
タイムトラベル 近世の農村(帝国書院 中学校社会科歴史教科書)
ここに描かれているのは江戸時代後半の東海地方の村で、次のようなシーンが描き込まれています。

タイムトラベル 近世の村 4
今回は、その中でアの場面を見ていくことにします。拡大して見ます。

タイムトラベル 江戸時代の街道左

本百姓の家の庭先では収穫した稲の脱穀・餞別が行われています。ここから読みとれる新しく登場した農具のことを今回は見ていくことにします。テキストは「農具の発展 大網白里町史451P」です。


江戸時代の農村 全景図 解説1

庭先には、千歯扱きや唐箕など、当時最新の農具が揃っています。
 農具は、A 耕耘(こううん)用具  B 脱穀調整用具、 Cその他に大別されます。


江戸時代に登場した農具
江戸時代の農具改良

これらの農具がどのように改良され、進歩していったかを見ていくことにします。まず、脱穀用具から見ておきましょう。
千歯扱き以前は、次のような竹を割ったコキバシが使われていました。

千歯扱(せんばこき)とは? 意味や使い方 - コトバンク
上がこきはし、下が千歯扱き

              テレビアニメ「天穂のサクナヒメ」第2話でチラっと登場した「こき箸(こきばし)」。 脱穀、つまり稲穂から籾(もみ)を落とすときに使われていました。  農研機構職員がこき箸を再現して作ってみました! #サクナヒメ

扱き箸(こきはし)は、2本の竹棒の一端を藁などで結び、その間に穂先を挟んで籾を扱き落とします。扱き竹とも言いました。割り竹を用いる場合と丸竹のままの場合があったようです。もう少し長いものを二人で用いる方法があって、大コハシと呼ばれていました。能率は高いですが、やや荒っぽい方法だったようです。白土三平のカムイ伝には、コキバシが次のような場面が描かれています。

カムイ伝 コキグシ 脱穀

このような中で元禄期に出現した千歯扱(せんばこ)きは、画期的な効率性をもたらします。

『農具便利論』に記された千歯扱き3
千歯扱き(大蔵永常「農具便利論」)
台上に先の尖った鉄刃を数十本取りつけ、固定した鉄刃の間に稲束をひっかけて一気に籾を落とします。この千歯扱きは、それまでの扱き箸に比べて十倍もの能率向上をもたらしました。そのため急速に普及します。そのころ、脱穀作業は婦女子の担当でしたが、千歯扱きの出現によって、婦女子の生業が奪われるようになったので「後家倒し」とか「後家泣かせ」などとも呼ばれるようになります。
 
『農具便利論』に記された千歯扱き2
            千歯扱き(大蔵永常「農具便利論」)

千歯扱きは、歯が多くあるから千歯扱き、千把扱くことができるので千把扱きと呼ぶなどの説があります。歯の数は、実際は19本、23本、25本で奇数が一般的です。歯の間隔は、約2~3mmです。江戸時代は歯の断面は長方形でしたが、明治時代には台形となります。その後、半円形、三角形と、隙間に稲が詰まらないように工夫が重ねられました。また、歯の並べ方を湾曲形にして、稲束を扇状に広げ、扱手(こきて)からそれぞれの歯が等距離となるようにしました。
 千歯扱きの生産地は、もともとは釘の産地だったところが多く、鉄歯作りは釘作りの技術が元になったと考えられています。千歯鍛冶は全国各地を訪れて修理をし、商人と組んで「直しと行商」のスタイルを作り出します。こうした行商により日本中の村々に千歯扱きが行き渡るようになりました。大正時代に回転式の足踏脱穀機が出現するまでの約200年間、広く愛用されました。

籾磨(もみすり)は、それまでの木の磨臼(すりうす)から、土の唐臼(からうす)が使用されるようになります。

唐臼1

これは寛永元年(1624)頃に、中国から長崎にやってきた土臼作りが、日本人にその製法と使用方法を伝え、それが各地に拡がって行きます。臼は地面に固定し、杵をシーソーのような棒の先端につけ、反対側を足で踏んで放せば、杵が落下して臼の中の穀物を搗きます。米や麦、豆など穀物の脱穀に使用し、踏み臼とも呼ばれました。
唐臼』
 木臼の能率が一日一石程度なのに対し、土の唐臼は一日三石を摺ることができました。

選別用具としては、箕(み)や篩(ふるい)に代わって、唐箕(とうみ)が使われるようになります。

風起こし選別 『農具便利論』
              箕(大蔵永常「農具便利論」)
箕は籾摺(もみすり)後の米などを入れて上に放りあげ、風によって殻、塵などを選別する農具です。どこの農家にも2~3枚あり、穀類を干したりするときにも使われました。
「箕売り」は、秋の収穫作業が始まる頃、真っ白い箕を10枚ぐらい重ねて肩にかけ、手にを持ち、人が集まる精米所にやってきます。作業の合い間に、地元の人達と作物の出来具合いなどの話をしながら、使い手の好みを聞き取って帰り、次の年の同じ時期にもやって来て箕や箒を売りさばきました。箕も元禄期に中国から伝来したといわれます。

籾篩(もみふるい)
             籾篩(もみふるい)
脱穀した籾をすくいとって、両手で持ってふるいます。籾は篩の目から落ち、切れた穂や藁くずなどが篩の中に残ります。篩による籾の選別は少しずつしかできず、根気のいる仕事でした。

『農具便利論』に記された選別板
                      淘板
唐箕が登場するのは17世紀後半で、中国から伝来したようです。

唐箕(天工開物 風力を利用した穀物選別機)の挿絵 
               天工開物の「風扇車」
明末17世紀)に宋応星の天工開物には、「風扇車」として唐箕が載せられています。
日本側の記録として残るのは、佐瀬与次右衛門の『会津農書』(1684年刊)、図が最初に記されるのは寺島良安の『和漢三才図会』(1712年刊)なので、元禄年間に伝来し、急速に普及したことがうかがえます。

唐箕 とうみ

手作りの世界史実物教材 備中ぐわ、千歯こき、唐箕

これは米と籾殻を選別するのに効果的で、より早くより多くの餞別が出来るようになり、労力省略につながりました。
唐箕 カムイ伝
カムイ伝に登場する唐箕

次に登場するのが千石簁(せんごくとおし)です。
千石とおし

傾斜させた木枠に網目の異なる金網を複数段重ねて、上から穀物を落とし込むことで、粒の大きさや種類(米、糠、くず米など)ごとに効率よくふるい分けました。作業の流れとしては
 千歯こき(せんばこき)で稲穂から籾を外し、
②千石とおしで米粒と籾殻や糠を選別
③さらに唐箕(とうみ)の風力でゴミを飛ばす


以上をまとめておきます。
江戸時代の農業技術の発展

 このように江戸時代の農具の改良・発達が農業生産力の発展に大きく貢献することになります。
これらの新しい技術を、よりはやく、よりひろく普及させたのが農書の出版でした。
A 17 世紀末 宮崎安貞(やすさだ)の『農業全書』
B 1822年 大蔵永常(ながつね)の『農具便利論』や『広益国産考』
特にBは、何度も版を重ね、明治期になっても多くの人々に読まれるベストセラーとなりました。この本が読み継がれた理由を挙げておくと
絵が豊富に用いられていて見やすく、全体的にやさしい文体で書かれていること。
②図には、農具の寸法や重量も記されていて、本書を参考に実際に農具を製作できること
農具を用いて農作業をしている風景も多く挿入されていること
④「便利な農具で労力が軽減されれば、女性や子どもも農事に参加することができる」など編集方針が合理的なこと
 これらの農書によって、改良された農具は早く広く世間に広まっていきました。
しかし、これらの農書を百姓達は読めたのでしょうか?
江戸時代は、それまでの時代と違って庶民階級への教育が急速に広まり、識字率をいっきに上昇させた時代だったようです。小さな村にも手習い(寺子屋)ができ、親たちに求められて僧侶、神官、富農、医者などが読み書きを教えるようになります。これは都会に出て金を稼ぐためではありません。読み書きそろばんができなければ、一人前の百姓とはいえなかったのです。宮崎安貞や大蔵永常のような人々によって大量の農書が書かれ、技術が伝播していく背景には、農民が本を読めた、という事実がありました。肥料・農具の知識の拡大も、その上に立っています。肥料は商人が持ってきたものを使えばいい、というものではなく、育てている植物と肥料の量や施肥方法との組み合わせ次第で成功も失敗もします。
 大蔵永常は「農稼肥培論』で、次のように記します。

「肥しのかけ引、良医の薬を配する如し」、
つまり肥やしは医者が薬を処方するようなものだ。
なぜなら、「虚弱の病人に強き薬を用ふれバ却て害をなす道理なり」
弱っている病人に強い薬を使えばかえってよくない結果になる、逆に成長している最中のものには少し強いくらいの肥やしをやった方が生育する。
「肥を施すに薬と同じくかげんあるものなれ」
肥やしのやり方はの処方と同じような加減があるのだ、

 ここでは、医術と農業を比べて、肥やしはやればやるほどいいのではなく、加減やあんばいが大切だ、と説きます。現在でも、薬は毒でもあるから「服用の決まりを守りましょう」と表示してあります。肥料も、これと同じかもしれません。江戸時代の百姓は、土や作物の状態を見て、量を決めたのである。そのような知識の上に、豊かな実りは生まれました。そういう自覚が一部の百姓達の中にうまれだしていたとしておきます。
17世紀中頃になると、それまで家父長的地主層を中心の農業形態にも変化があらわれます。
小家族で農業経営を行う小農が村の新たな担い手として姿を見せるようになるのです。

名主経営から小農経営へ

このような小農経営の発展は、農業生産力の向上によるものでした。その原動力として分かりやすいのが、農業技術の進歩と新田開発です。今回は農具改良に焦点を当てて、農業生産力の発展の軌跡を追ってみました。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
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タイムトラベル 城下町
           中学校の歴史教科書(帝国書院)のタイムトラベル 太閤検地と築城

ここでは天守が立ち上がる城郭と整備が進む城下町が描かれています。天守の遙か向こうの山上に見えるのが中世の山城です。中世の城は、土塁と空堀と曲輪で構成され、石垣が使われていないのが特徴です。それが信長・秀吉の時代になると、石垣で囲まれた堀と、その上に天守が姿を見えるようになります。検地が行われている田んぼの横の道を巨石が運ばれて行きます。

タイムトラベル 城下町 石材運搬

拡大すると次の3つの運搬集団が描かれていることが分かります。
A 先頭  巨石を引っ張って運ぶ修羅(しゅら)集団
B 2番目  牛に牽かせた牛車
C 3番目 人が担いで運ぶ集団
これらの参考になっている『築城図屏風』(愛知県指定文化財)を見ておきましょう。

『築城図屏風』 全体

 この屏風は建築中の城周辺の様子を描いたもので、城の構造や芝居小屋、町並みの様子などが6枚の屏風に描かれています。慶長12年(1607)の第一期駿府城とする説が有力ですが、駿府城の縄張り(建物配置)と一致しないので、名古屋城や金沢城説もあるようです。この屏風絵図で運搬集団を見ておきます。
『築城図屏風』 牛車
         築城図屏風 牛車が曳く切出石 背後に石垣が組まれている
『築城図屏風』2
石材を大勢で担いでいく集団
この集団の上方に2軒の店がありますが、その右脇が饂飩(うどん)屋であることは以前にお話ししました。拡大したものが下図です。

『築城図屏風』 うどんや.2jpg

うどん屋の店内では、 半裸の男がのし棒で生地を伸ばし、その右では朱色の椀を手にした男がうどんををすすっています。見世棚には、外が黒で内側が朱の椀や、全体が朱の椀、盆が重ねて置かれ、栓のある樽もあります。これはお酒でしょう。うどんの他に酒も売っていたようです。そして店の前では、喧嘩が起こっています。
屏風図の最後(左下)に描かれる運搬集団が修羅です。

『築城図屏風』 修羅
築城図屏風の修羅集団

これほどの巨石となると牛車には乗せられませんし、人間が担ぐことも出来ません。修羅(シュラ)が丸太をかませながら曳かれています。100人以上の大人数でこの巨石は引かれています。修羅の語源は、仏陀の守護神・阿修羅に由来するようで次のように説明されます。

「だれにも動かすことができなかった帝釈天を、唯一動かした神が、阿修羅だった。この故事から、帝釈(たいしゃく)と大石(たいしゃく)をごろ合わせし、大石を動かす木ゾリを修羅と呼ぶようになったらしい」

古墳時代に石室運搬に使用されていた修羅は、近世になっても使われます。私が気になるのは、修羅の上に乗っている人達です。ズームアップしてみましょう。

『築城図屏風』 修羅の集団

おどけた表情のお面をつけ、思い思いの楽器を持ち、変わった形の帽子を被って、服装は統一性がありません。てんでんばらばらの独創的いでたちです。高烏帽子のような被り物は、加藤清正を模しているのかも知れません。その隣の人の帽子は、西洋のカーニバルの被り物で南蛮風です。その右隣のほら貝を吹くしゃくれあごのパンチパーマは山伏のようです。その隣は、南蛮装束で軽やかなステップを踏むカールひげ男などは、異人のようにも見えます。ここには当時の風流(ふりゅう)集団の雰囲気が漂います。
 彼らは、どんな集団で、何のために修羅の上に上がっているのでしょうか?
 巨石巨木には強い霊魂が宿ると、当時の人達は信じ、信仰対象になっていました。築城現場に運ばれる前は、どこかの聖地で崇拝の対象だったかもしれません。それを切り離して、城に運び入れようとしていることになります。その際には強力な霊魂を鎮めたり、逆に霊力を高めたりの儀礼が求められたのかも知れません。そうだとすると、この集団は、霊的呪術をつかさどるシャーマンたちということになります。お城に神聖な巨石がたどり着くまで、いろいろなパフォーマンスで巨石に宿る霊魂のパワーをコントロールするのが彼らの役目だったのかもしれません。そこでは当然、「重くて動かないのは石に宿る霊魂の仕業、そんなトラブルは俺たちにお任せ」とばかりに呪術的パフォーマンスを行っていたかも知れません。そうだとすると、築城の石曳きは、風流芸能集団の仕事場であったのかもしれません。
 関西地方のダンジリや曳山の中には、築城石曳きをルーツとするとの伝承を持つものがいくつもあります。そのような流れは、この修羅の上の集団が、「呪術者集団=風流芸能集団」として演出したものかも知れないと私は思っています。

風流踊りとは

何かを大勢の人間が曳く作業は、単なる土木作業を越えた霊的な意味があったようです。
それが祭礼行事に育って行くこともありました。都市で修羅を曳くのは、宗教的な意味を持ちお祭りにつながっていました。例えば近世では、運河や開拓地の砂ざらえが行われ、さらえた砂を皆で引っ張って運びました。これを砂持ち作業と呼びました。これが祭礼化するのです。下絵は寛政元年(1789)5月下旬から大坂玉造稲荷で熱狂的な賑わいで行われた「砂持」の様子を描いたものです。

DSC01581

この絵は、町単位でそろえられた纏と法被(はっぴ)が描かれています。砂持ちに参加した人々は、砂持ち大明神を担ぎ出し、町毎の幟を立て、太鼓や鉦を打ち鳴らして加勢します。ここからは、砂持ち大明神のパレードに町々が競い合った様子がうかがえます。
 川ざらえの土砂運搬である「砂持」は、しだいに祝祭的な要素を加えていきます。

DSC01582

 「砂持」は、さらえた土砂を新開地や神社へ運ぶという作業を祭礼行事(パレード)に変えて行きました。人々は鳴り物入りで踊りながら熱狂してパレードした様子が伝わって来ます。さらに時代が進むと山車も登場しますし、「仮装」も行われ、祭礼空間が産みだされています。ここからは。このようなパフォーマンスを演出する芸能集団が江戸時代後期になっても活動していたことがうかがえます。

巨石運搬の祭礼化
 巨石運搬の祭礼化
このような動きは幕末の宇多津でも見られました。「歴世年譜」は次のように記します。

「(宇多津)城下ノ者ハ土俵ヲ車輿牛馬二積ミ 各邑ノ旗幟ヲ建テ種々ノ紛議ヲ演ジ 鉦鼓管弦且ツ奏シ且ツ行キ往来織ルカ如夕日夜絶エズ」

ここには各村々がのぼり旗を立て、仮装行列化し、鉦や太鼓で囃し立てる光景が記されています。大坂で風流として流行していた風俗が宇多津にも現れていたことが分かります。これは、高松藩の為政者には「統制できない不穏な動き」の前兆と写ったようです。以後、高松藩はこのような動きに対して規制を強めます。その結果、騒ぎは次第に収まっていったようです。
以上をまとめておきます。
①古墳時代の石棺運搬などには修羅が使用されているが、それは運搬作業以上の神霊的な意味を持っていた。
②巨石の運搬には呪術者が伴い、独自のかけ声や踊りをしながら行われる霊的な行道(パレード)であった。
③それは近世の築城の際の巨石運搬にまで受け継がれていて、修羅の上に独自の呪術者集団が乗った。
④彼らは派手な衣装と身なりで、独自の踊りやパフォーマンスを行い、修羅運搬という土木作業に神霊的な意味づけを行い、祭礼パレードへと発展させた。
⑤修羅や荷車を大勢で引くことを祭礼につなげる感性を民衆は持っていた。
⑥同時に、それを演出する風流=呪術者集団がいた。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

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タイムトラベル 太閤検地 全体図
   タイムトラベル 秀吉の太閤検地と刀狩り 中学校社会科歴史教科書(帝国書院)

前回は、秀吉によって天下平定が進む西日本のお城と城下をイメージして描かれた絵図で太閤検地を見ました。
 今回は刀狩りを見ていくことにします。この絵図で刀狩りが描かれているのは右端のシーンです。拡大して見ます。

タイムトラベル 刀狩り寺院に対する刀狩シーン
豊臣政権は「刀狩令」によって、百姓から武器を取りあげましたが、寺社勢力からも取りあげています。それは中世の大きな寺院が比叡山の延暦寺や紀州の根来寺のようにたくさんの僧兵をかかえ一大軍事拠点でもあったからです。善通寺も室町時代には軍事集団の拠点として機能していたことは、以前にお話ししました。そのため信長や秀吉は、寺社勢力の勢力を削ぐ政策を進めました。
 
刀狩り セリフネーム

門前にやって来た刀狩執行役人と対応する住職は、どんなやりとりを行っているのでしょうか。セリフを入れさせて、生徒の理解度を測ることが授業では行われているようです。たとえばこんなやりとりでしょうか。
担当役人
太閤秀吉様によって、天下泰平の世の中がもたらされた。もはや刀や薙刀などの武具は不用である。ちなみに、平和な世の中の到来を感謝して、太閤さまは京に大仏を建立することになった。ついては、その工事に使うのでお寺にある武具を、差し出すようにとの命令である。この寺には、多くの武具がしまい込まれていると聞いているぞ。隠し立てすると、ためにならんぞ。すべてここに持って参れ
住職
はは、分かりました。秀吉様のありがたい功績に感謝して、武具を差し出します。大仏建立に使われるのであれば、本望です。
こうして兵農分離が進みましたという授業の流れのようです。
タイムトラベル 秀吉が近世への道を開いた

しかし、近年では短期間で一気に変わったのではないと研究者は考えるようになっています。その説を今回は見ていくことにします。テキストは「太閤検地と刀狩~その時、時代は変わらなかった!?  歴史街道2019年3月号」です。

刀狩については、太閤検地以上にわからないことが多いようです。
刀狩令の原本は13通が伝わっていますが、九州方面に残っているものが多いのです。その背景として、天正15年(1587)の秀吉の九州征伐の際に、国衆や農民の一揆を鎮めに出されたためと研究者は考えています。つまり、最初は九州限定で発布されたが、徐々に全国的な法令として広められたという説になります。その内容を押さえておきます。

刀狩り令1
 秀吉の刀狩令 第一条
 条々
一 諸国百姓刀わきさして鑓(やり)てつぽう(鉄砲) 其外武具の類所持候事堅御停候。いらざる子細ハ不入道具を相たくハへ 年貢所当を難渋しめ自然一揆を企て給ひ人に対し非儀動(ひぎのうごき)をなす族(やから)勿論可有御成敗 然者(しかれば)其所の田畠令不作 知行ついゑになり候間 其国主給人代官として武具悉取集 可致進上事
一 右とりをかるへき刀脇指ついゑにさせらるべき 儀にあらす 今度大仏御建立の釘かすかいにおおせつけらるべし。可被仰付然者今生の儀者不及申 来世までも百姓たすかる儀に候事

一 百姓ハ農具さへ持耕作専に仕候へは子々孫々まで長久に候百姓御あれミを以てかくのごとくまことにらく如此被仰/出候誠国土安全万民快楽之基異国にてハ唐のそのかミ天下を鍛のうきにもちう撫宝剣利刀を農器用となり本朝にてためしあるへからす此旨をまもり各々趣を存知百姓い農桑を精に可入事いるべき右道具急度取集可致進上候不可油断候也
                            秀吉朱印
天正十六年七月八日印 

意訳変換しておくと
 条々
一 諸国の百姓は刀(わきさし)・鑓(やり)てつぽう(鉄砲)以外の武具のの所持を禁止する。不必要な武具を持ち、年貢徴税に抵抗し、一揆を企てるような非儀を行う者達は成敗する。ついては、その国の大名はすべての武具を集めて、進上すること。
一 差し出された刀や脇指については、今度に建立される大仏の釘やかすかいに使用される。刀が大仏建立のために役立てば、来世でも百姓たちは救済されることになる。

一 百姓は農具のみを持ち耕作に専念し、子々孫々まで長久に暮らしていけるようにとの太閤様のはからいである。国土安全・万民快楽の基礎とする。中国の唐の時代には、天下を耕すために宝剣利刀を農器用したこともある。この趣旨に学び、百姓は農業に精をだすべし。よって農業に不必要な武具などは急ぎ回収するので差し出すこと。この布令に従い協力すること 
                                    秀吉朱印 
天正十六年七月

第1条は、農民の武具の所持を禁じて、国主らに農民の武具の没収と進上を命じている。
第2条は、取り上げた刀などの武器は、大仏(方広寺)を建立する際の釘などに活用すること。これにより、農民は現世だけでなく、来世までも救済されると説く。
第3条は、農民は農具をもって耕作に専念すれば、子々孫々まで長く続き、それは秀吉が農民を憐れむ気持ちの顕れである
ただ差し出せと云わずに、「大仏殿の釘などに使う。それがお前達の功徳となる」という言い回しが秀吉らしいところです。しかし、この刀狩には例外事項が数多くあると研究者は指摘します。例えば、町人には帯刀を許しています。また、寺社などの神事のときには刀などの使用を認め、所持を許しています。言わば祭器として許可されていたとも云えますが、総てが没収されたわけではないことを押さえておきます。農民の場合も、害獣(鹿、猪)駆除のためには鉄砲の所持を認めています。こうして見ると、総て一律に武器所有を禁止したものではないのです。そういう意味では、刀狩そのものは不徹底なものだったと研究者は指摘します。
 また、村々に代官を派遣して、一軒一軒を訪ねて調査したうえで、武器を取り上げることは現実的には無理がありました。そのため村の代表者に依頼し、適当に済ませることもあったようです。例えば加賀・前田家の場合は、村の代表者が誓紙(誓約書)を提出し、辻褄合わせだけをしたと伝えられます。そうすると、「刀狩り=農民の全面的な武装解除」というイメージとは程遠い現状であったことになります。
 以上から、刀狩の目的は、農民の武装解除ではなく、身分標識(帯刀できるのは武士身分だけ)を明確にする点にあったと考える研究者もいます。
 中世社会は危険な社会で、農民も脇差しを手放さなかったことは以前にお話ししました。
村では水争いや、入会権など縄張り争いが頻発していました。戦乱に巻き込まれることもありました。日頃の治安維持や害獣の駆除にも武器が必要です。これはアメリカの西部劇と同じで、自分たちの身は自分たちで守らねばならなかった時代だったのです。そんな中では、刀などの武器は農民に必要不可欠でした。そんな中で、刀狩令という布告だけで農民達が刀や鉄砲を手放したと考えるのは不自然です。江戸時代になっても農民は武器を所持し続けていたことが次のように報告されています。
A 1588 年8月に京から贈られた加賀の大聖寺領内への 「加州江沼百姓らの武具の請取状」の添え書には次のように記します。

「町人で田畠をつくらない者には、人を指定して、刀・脇差 をもたせてもよい」

ここからは町人に対しては、免許制にして協力的な者には帯刀を認めていたことが分かります。百姓は禁止し、町人には認めると云うことは「農と商の分離」の身分分断政策の一環として刀狩令が出されたと研究者は指摘します。(藤木久志『刀狩り』岩波新書、pp.77 ~ 78、要約)
B 同じく刀狩令が出されてから1カ月後の加賀の大聖寺領内ではすでに刀狩が終了し、刀1073腰、脇差1540 腰、 鑓身 160 本、こうがい 500 本、小刀 700 本の多量 の武具が集められました。ところが、ここにはもっとも強力な武器である弓矢や鉄砲は一つも記されていません。しかも、京の取次ぎ役からは「刀・脇差の員数が少ない」と催促されています。(前出『刀狩り』pp.75 ~ 77、要約)
C 1590 年の出羽仙北の一揆解体を進めた上杉景勝軍の奉行は、一揆方の村々から 4473 点の武具を没収しています。その中から秀吉方で受けとったのは刀・脇差だけで、鉄砲はありません。すると17世紀末の農村には、武士層のもつ以上の鉄砲が残されていたことになります。それを裏付けるのが徳川綱吉の時代に、仙台藩には 3948 挺、尾張 藩 3080 挺以上、長州藩 4158 挺、紀州藩に至っては 8013 挺もの鉄砲があったことを研究者の報告です。(塚本学『生類をめぐる 政治』講談社学術文庫、p.13、要約)
以上からは、刀狩令以後も村には鉄砲などの大量の武具が残されていたことが分かります。すぐに兵農分離は実現したわけではないようです。

 織田信長が戦に強かったのは、兵農分離を実現し、農閑期以外も戦えたためと云われてきました。
しかし、これは史料によって裏付けられたものではありません。断片的な史料をつないで推測されているに過ぎないのです。先進的とみられる織田軍団でさえも、兵農未分離だったと研究者は指摘します。   
兵農分離の通説と異説

 歴史教科書に書かれていることを要約すると、次のようになります。

近世の城下町には武士が集住し、町人の居住地が定められたり、寺社も集中配置され寺町を形成する。そして百姓は村落で農耕に専念する。つまり、秀吉の検地と刀狩りによって兵農分離が進み、村にいた武士たちは城下町に住むようになった。そのため近世の村には武士はいなくなった。

しかし、兵農分離による城下町の形成は、どうもこのように円滑に進んだわけではないようです。
武士は、それまでは自分の所領に住んでいて「一所懸命」で土地とのつながりが強かったのです。そのため所領から引き離し城下に集住させるのには、いろいろな困難がありました。讃岐生駒藩では、江戸時代になっても生駒藩に登用された地元の武士集団が、相変わらず自分の領地に居住し、盛んに新田開発などを進め、農業に従事しています。これが生駒氏が連れてきた家臣集団と対立し、生駒騒動の原因となることは以前にお話ししました。 そのため高松城の城下町には、家臣団の屋敷が建設されずに空き地が数多くあったのです。そうなると藩主が描いた城下町プランは、なかなか進まずに「絵に描いた餅」状態になります。その一例が、生駒藩時代の高松城だったと研究者は考えているようです。
 
最後に  香川叢書第二(名著出版1972年)の「高松領郷中帯刀人別」という史料を見ておきましょう。
高松藩 郷中住居の御家来

ここには宝暦年間の高松藩内の郷士・牢人などの帯刀人を一覧化されていて、帯刀を許された由来が記されています。「郷中住居之御家来(村に住んでいる家臣)」とあって、上記の12名の名前が挙げられています。  郷居武士とは、藩に仕える身ですが訳あって村に居住する武士です。兵農分離で、武士は城下町に住むのが普通です。彼らは、村に住んでいますが身分的には、れっきとした武士です。そのため村内での立場や位置は、明確に区別されていたようです。 藩士は高松城下町に居住するのが原則でしたが、村に住む武士もいたようです。ここからも、一律に兵農分離が行われた訳ではないことが見えて来ます。
兵農分離が実現しなかったからといって、秀吉の行なった諸政策が否定された訳ではありません。
秀吉の目指した政策は、現実社会との葛藤のなかで、実現のためには長い時間を要したということになります。そういう意味では、秀吉の政策は江戸幕府に継承されながら時間をかけながら整備されていったということになります。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「太閤検地と刀狩~その時、時代は変わらなかった!?  歴史街道2019年3月号」
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タイムトラベル 太閤検地 全体図
          中学校歴史教科書 帝国書院 タイムトラベル 太閤検地

 このイラストは秀吉によって天下平定が進む西日本のお城と城下をイメージして描かれているようです。
前面には田んぼと農家、その背後に姿を現しつつあるお城と城下町が描かれています。遠くの山の上には中世の山城が見えます。それがやって来た藩主によって、海の近くに新しいお城が築かれています。丸亀城や高松城もこんな風に作られたのかも知れません。 城の周りには同時並行で、城下町が作られます。これについては、また別の機会に見ていきます。今回見るのは、中央の田んぼの中です。

太閤検地 kakudai

竹竿と縄で測量が行われています。これが太閤検地です。田畑の面積は、それまでは百姓の自己申告による「指出検地」でした。それがひとつの土地にひとりの年貢請負人(=土地所有者)を決め、面積と田畑の質によって年貢を決める仕組みになります。役人が田畑に直接入り込んで検地をするというのは、それまでなかったことで画期的な出来事です。今回は、秀吉によって行われた太閤検地を、阿波に残された史料で見ていくことにします。テキストは、徳島県立文書館の展示史料です。

上のイラストをもう一度見てみます。
中央の田んぼの中では、棹を立て縄を張っているようすが見えます。これは検地をしている場面です。編笠をかぶり刀を差している武士らしい人が何人か見えます。彼らは検地役人です。戦国時代の検地は,その土地の持ち主の自主申告による差出検地でした。しかし、ここで行われている太閤検地は,検地役人が実際にその土地に入り,決められた基準で検地を行っています。これを丈量(じょうりょう)検地といいます。土地の所有者、面積、生産力ランクなどが決められると、それに応じた年貢が定められます。
検地2
         『徳川幕府県治要略』に描かれている江戸時代の検地
①真ん中の十字の器具をもった人がいて、この「十字木」を中心に縄が張られる。
②田んぼ周囲には長い竿をもった人達が8人。
③四角形の頂点に立つのが「細見竹持(さいみだけもち)」
④各辺中点に立つのが、先に梵天のついた竿をもつ「梵天竹持(ぼんてんたけもち)
⑤指揮・記載していく役人(二本差しの武士)

検地用用具 茨城大学
復元された十字木と縄(茨城大学教育学部)
面積を測りたい土地について、それがどんなに複雑な形だったとしても、同程度の面積の四角形に見なします。そして梵天竹持や細見竹持の動きで、さまざまな形の土地を等積の四角形にしていきます。
検地台帳には何が記録されたのでしょうか。阿波に残る史料で見ていくことにします。

検地帳 阿波那賀郡
阿波那賀郡の検地帳
 
阿波の本格的検地は1589(天正十七)年に始まります。
その前年に佐々成政が秀吉の命令を無視して肥後で検地を強行して失敗します。それを受けて秀吉は、蜂須賀家政、浅野長政・加藤清正・福島正則などを肥後に派遣して検地を行わせます。その経験を活かして翌年に、蜂須賀家政は自国阿波で検地を行います。この時の「阿波天正十七年検地」は、里の村だけでなく、ソラの村も含めた全域で実施されています。
太閤検地 阿波の検地台帳
                      阿波天正十七年の検地台帳

検地の4つの項目
土地ランクを灌漑の実利便性・作物の生育状況等から、上々田・上田にランク分け、
田畑一筆ごとに検地縄と検地竿を使って土地の面積を計測
その土地の生産力を米の収穫高として表示する石高を算出
名請(名負=所有権を認められた)百姓を定めて検地帳。
具体的な表記例を見ておきましょう。
阿波の 太閤検地の記載例 

太閤検地 天正検地帳の基本石高

上記のように検地によって田畑の面積が確定され、それに応じた税が決定されます。
これは農民にとってはそれまでになかった利点がありました。名負人に名前が記されれば、その土地の所有者として認められたことになります。もっと云えば、農民の土地所有が新たにやってきた大名によって保障されたことになります。これは、古代以来の荘園制にとどめをさします。
太閤検地が中世を終わらせた
同時に、荘園の財政基盤としてきた寺社勢力にとっては大きな打撃となります。ある意味で、太閤検地によって中世は終わったと云えそうです。そういう意味では、秀吉は中世を終わらせ、近世の幕を開いたといえるのかもしれません。
  検地を行う役人への注意書きも残されていますので見ておきましょう。

「御両国御検地御作法之事」出原家文書九三 役人への注意書き1
意訳変換しておくと
 (「御両国御検地御作法之事(出原家文書九三)
一 検地をする村々については、前年の収穫高の善し悪しを考慮して竿を入れること。
一  検地に出かけた時は、村全体を見た上で、土地の善し悪しを考慮して検地を行う事
一 御検地之村々、第一用水之有無、悪水仕之趣洪水之害被是相考、田畠之差別尤矩之了簡可仕事
一 方円曲直之外異形之地面竿立難随其地形、猶又地主難心得於地面引地主とも致得心候様可仕候地面之広狹相改候儀竿立肝要之事
一 大地を以小切ニ仕入、尤間数相延口地面ハ是又ヲ引、随其縄打可申事
一 竿立之次第雖為委細、竿之打様依善悪余田不足地有之事二候故、竿ニハ両手をかケヲ折右之ヲ、竿先不曲候様打可申旨、打之者とも二可申付候、竿立竿打悪敷、縦ハ壱反之地壱歩広ク成候へハ壱歩之御年貢百姓永代作取仕、赤壱反之地壱歩狭ク成候へハ壱歩之無地御年貢永代百姓まとひ中段、彼是ヲ以無物仕合、不安義二候事【後略】
(「御両国御検地御作法之事」出原家文書九三)
意訳変換しておくと
一 検地をする村々については、用水の有無、排水の状況洪水の害など、いろいろ考えて、田畠のランク付けを行い、石盛の基準を決定すること。
一 方形・円形・曲線・直線のほか特異な地形の土地の検地は、その地形にしたがって計測すること。それでも、地主が納得しない土地は地縄を引いて、地主共が承服するように検地をせよ。土地の広さ・狭さを再調査する場合も竿できちんと測ることが大事である。
一 広い土地は検地縄で小さく分割して竿で測れ。長さが長い土地も検地縄を引いて、縄に沿って竿で測ること。
一 検地竿の立て方の善し悪しにより、実際の土地より広くなったり狭くなったりする。そこで竿には両手をかけ、腰を折り、右膝を突き、竿先が曲がらないように測れと打ちの者共に申し付けるべし。検地の仕方が悪く、例えば一反の土地で一歩広くなれば、一歩の年貢を百姓が永代作り徳になり、逆に一歩狭くなれば、実際には一歩の土地が無いにもかかわらず、百姓はその年貢を永代払い続けねばならなくなる。あれこれ無駄になるのが惜しく、心配である。
【後略】                 
ここには農民達の反発に学んで、できるだけ納得のいく形で検地を進めていこうとする藩の意向が具体的に示されています。ここには悪代官と大庄屋の賄賂や癒着などは入り込めない緊張感が感じられます。
 時代は下りますが19世紀の住吉新田の検地古文書を見ておきましょう。
住吉新田は、笹木野村の東側に広がる扇形の干潟で干拓されたものです。天明三(1783)年に阿波郡伊沢村(阿波町)の伊沢亀三郎が大坂の商人鴻池清助の出資を受け天明七(1787)年に37町歩の新田を完成させます。その後、弘化四(1847)年に初めて検地を受けています。この時の検地文書を対岸の村の大松村の中家の人が写したものには次のように記します。(意訳)
御検地に付き、氏神の前にて以下のことを誓った
起請文前書きのこと当新田(住吉新田)にご検地が仰せ付けられた。田畑は一カ所も一歩も隠すようなことはしないこと。また道・溝(用水路等)・堀・岸等を田畑にするようなことは少しもしないこと。もちろん、村境もはっきりと申し出ること。
1 田畑であると言って掠めるようなことはしないこと。
2 この度のご検地で、万一竿違い(土地の計り違い)があり、田畑の広い狭いがあった場合は、遠慮なく申し出ること。
3 この度お断り申し上げた、道・畦・用水・堀などに仰せ付けられた土地は、後年になって田畑にすることがないようにすること。
4 この度ご逗留中のお奉行様方は当然ですが、お竿打衆、ご家来衆まで草履、草鞋、雑子(人夫役もしくは粗末な食事の外は、少しもお礼のようなことはしないこと。
この文書が村の氏神(住吉神社?)の前で検地について間違いがないように、起請文形式で取交わしたものであることが分かります。第四条の「お礼をするな」というのは、役人へ賄賂を送るなと云うことです。ここでも同じような細かい注意がされています。(「起請文前書之事」中財家文書二〇)

住吉新田の検地前には、担当名主に対して次のような心得が出されています。
  申渡覚【中略】
板野郡住吉新田が、この度御検地を仰せ付けられ、名主の心得は誓紙前書きの通り大事なことなので、すべて忘れることがないようにしなさい。少しでも心得にくいことがあれば指図を受けなさい。
 御検地のことは百姓にとってずっと気にかかることであり不安なことである。だから心して取り組んで行くが、問題は多岐に渡るので、土地の善し悪しをきちんと掌握することは難しく、不行届になることもある。だから名主(庄屋)の覚悟が肝心である。御検地に出来不出来があっては、後々まで煩わしいことになり、作人共の苦労はとても重いことになる。名主はすべてに心を配り、問題が生じたときには申し出なさい。言うには及ばないことだが、不埒な申し出に対しては、監督不届きとして処罰もある。
一 検地の際に、周辺に戸外に出て見守ることは、役目を勤める者以外で無用の者が出てくることは、絶対に止めさせること。
一 郷役の雑子(人夫役もしくは粗末な食事)、草履、草鞋以外、少しのお礼(賄賂)も厳禁でである。そのことは役人の家来の者共へも申し付けてある。万一家来の理不尽な行動があったならば、早速申し出なさい。そのことを隠しおいて後で分かった場合は、あなた方が不届きなこととなり処罰の対象となる。
一 役人の旅宿へ名主の外、無用の人々の出入りは差し止める。もっとも、名主であっても用事が済んだならば、早速退出すること。
 火の用心を堅く申し付けておく。
 右の条文の通り、忘れないように、堅く心得ておくこと。
(「申渡覚」中財家文書二〇七)
 これを見ると起請文前書きを受けて、さらに細かな名主の心得が書き出されています。第六条には起請文前書きと同じく検地役人に対する賄賂の禁止が繰り返して記されています。さら第七条では、農民が検地役人に近づくことまで規制しています。幕末になっても検地作業の現場は、緊張感でピリピリしていたことがうかがえます。研究者は次のように指摘します。
私たちは、映画やテレビドラマから、ともすれば、検地役人が一方的に土地の面積を測り、等級を決め、石高を定めたように思いがちですが農民側の意向も踏まえながら慎重に検地をしたようです。検地帳は、土地基本台帳として、筆写されたり、付箋が貼られたりし ながら幕末・明治初めまで、大切に使用・保管されてきました。 
次に一番手前の農家の庭先を見ていくことにします。

タイムトラベル 太閤検地 升

庭先には、役人がやってきて、村絵図を見ながら枡を主人に渡しています。なんと言いながら渡しているのでしょうか?
こことここが、お前の土地に間違いないか。この土地の面積や等級は検地台帳の通りに決まった。ついては、これらの土地の所有をみとめるので、定められた石高の年貢をきちんと納めること。その際には、この升を使用すること。今まで使っていた升は廃棄せよ。

秀吉の度量衡


この農家を見ると、築地塀に囲まれ、牛や馬がいるので、この村を代表する指導的な本百姓のようです。彼らは戦国時代には国衆として、戦国大名の軍事力を担う存在でもありました。新たにやって来た大名とっては彼らを支配下にうまく組み込んでいき、年貢徴収などに協力させることが大きな課題となります。江戸時代になると彼らに,年貢の徴収や村の中のさまざまな事件の処理,人心の掌握などを任せるようになります。その最初の接点が、検地であり、刀狩りであったことになります。

石高制の確立
太閤検地 年貢米の計算

こうしてみると、秀吉は課税をしにくい畠や宅地(居屋敷)についても、米価に換算するための価値尺度を作ったことになります。豆類や大根やニンジン、野菜などの農作物を、米だったら○石○斗になりますと換算表示するのが石高制です。そしてその石高をもとに徴税するシステムです。また、田も畠も土地の善し悪し(土質)や水利によって収穫高は異なるります。そのために田畠をランク分けして、公平に徴税できるようなしくみをつくったことになります。現在なら、給料30万円の月収といえばその人の財力をだいたい知ることができるように、30石の米がとれる農地を持っている百姓とか、30万石の米がとれる領地を持っている大名とかいえば、同じ米という価値基準でその人の財力をはかることができます。石高や徴税の原則を立ててしまえば、米という価値に一本化するので、徴税・納税もやりやすくなります。ここでは石高制とは、お金の代わりに米で農民や武士の収入基盤を表現し、課税したり知行地として支給したりするために考え出された制度であるとしておきます。しかし、米はお金と違って、年によって収穫量が変化します。
 
検地帳に基づく年貢徴収は、村役人の高度な簿記・計算能力が求められました。
同時に、年貢割りつけの本百姓同士の連帯と調整能力も必要です。村役人の高い能力があって初めてできることでした。同時に、検地で本百姓に登録され、土地所有を認められたことは、子孫に至るまでずっとこの土地を耕し、年貢を皆済し、家を存続させていくことが勤めという意識が生まれることにもなりました。

ここまでは阿波蜂須賀藩の検地を見てきましたが、讃岐生駒藩の状況はどうだったのでしょうか?
生駒藩では組織的な検地が行われなかったようです。そして家臣が藩から与えられた所領(知行地)を自ら経営して米などを徴収する昔ながらの方法が続きます。生駒藩の出来事を記述した「小神野夜話」には次のように記します。

御家中も先代(生駒時代)は何も地方にて知行取居申候故,屋敷は少ならでは無之事故,(松平家)御入部已後大勢之御家中故,新に六番町・七番町・八番町・北壱番町・古馬場・築地・浜の丁杯,侍屋敷仰付・・」

意訳変換しておくと

家臣団も先代(生駒時代)は、地方で知行取が行われていた。そのため城下に家臣の屋敷は少なかった。それが松平家の入部以後に、家臣団の多くが城下に屋敷を構えるようになった。そのため新に六番町・七番町・八番町・北壱番町・古馬場・築地・浜の丁などに、侍屋敷が形成拡大されることになった

ここからは次のような事が読み取れます。
生駒時代は知行制が温存されため、高松城下に屋敷を持つ者が少なかったこと、
②松平家になって家中が大勢屋敷を構えるようになり、城の南に侍屋敷が広がったこと
つまり太閤検地によって否定された「国人領主制」が生駒藩では温存され、知行制がおこなわていたようです。そのために家臣団は、讃岐各地に自分の所領を持っていて、そこに屋敷を構えて生活している者が多かったと記されています。さらに、生駒家に新たにリクルートされた讃岐侍の中には、さかんに周辺開発を行い知行地を拡大する動きも各地で見られるようになります。つまり、生駒藩では検地も不徹底で、家臣団の髙松城下町への集住も進まなかったことを押さえておきます。言い換えると、讃岐では太閤検地は、農村に劇的な変化をもたらさなかったし、兵農分離も進まなかったということになります。
歴史の授業では、次のように展開します。
タイムトラベル 秀吉が近世への道を開いた

ここまでは太閤検地の統一性に重点を置いて見てきましたが、近年になって報告されている不統一性や不完全性を挙げておきます。
1590年の小田 原攻撃後に、秀吉は腹心の増田長盛を安房国に派遣して検地を行わせていますが、その知行充行状には次のように記します。

「一、本銭百六十五貫文 三百三拾石 な かさ郡かいすか村」

ここには知行高が石高で表示され ていますが、その実体は本銭の貫文を1貫文=2石の比 率で換算しなおしたものです。(川名登『戦国近世変革期 の研究』岩田書院、pp.230 ~ 233、要約)
②1597 年に徳川家康が行った武州入西郡妙覚寺内桃木村の検地では「一 畑百弐拾文」と貫文表示しか記録されていません。(中野達 哉『近世の検地と地域社会』吉川弘文館、pp.44 ~ 48、要約)
③太閤検地には朝鮮侵略の兵力動員の割当て を定める目的もあったと研究者は指摘します。。
④長宗我部元親が行った検地帳には石高の記録がない。長宗我部が秀吉に申告 した石高は9万8千石でうが、関ヶ原の戦い後に土佐国領主になった山内氏の報告では、24 万8千石だっ た。(三鬼清一郎「天下人秀吉の誤算」NHK取材班『歴史誕 生7』角川書店、pp.46 ~ 53、要約)

秀吉による近世の幕開け
秀吉による近世社会の幕開け
このような報告から近年の研究者は、秀吉の太閤検地や刀狩りで兵農分離が劇的に進行したとは考えていないようです。それは江戸時代を通じて長い年月を経て形成されたと考えるようになっています。次回は、この絵図に書かれている刀狩りを見ていくことにします。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
徳島県立文書館の展示史料
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長谷川喜平次

中讃ケーブルテレビ 歴史の見方で、満濃池と長谷川喜平次についてお話ししました。その内容をアップしておきます。また7月中に毎日放送中です。時間と興味のある方は御覧下さい。
Q1 江戸時代の満濃池の底樋やユルは、どんなものだったのか?   
                              
満濃池の底樋模型

 当時はコンクリートはありませんので池の底樋とユルは木で作られていました。時代を経るに従って技術力が高まり耐用年数は長くなりますが、木製ですので永久的なものではありません。20年から30年で交換しなければ腐食して、水漏れを起こして堤防の決壊を招く危険性がありました。

木製底樋
木製の底樋 当時の最先端技術で専門の大工によって作られたもの
Q2 どうして長谷川喜平次は、木製から石組みの底樋に変えようとしたのでしょうか
木製底樋では、決壊を防ぐためには定期的に交換する必要がありました。交換のためには堤防を掘り下げなければなりません。そのために多くの農民が讃岐中から動員され、約一週間ほど寝泊まりして従事しました。この負担は大きく、農民達は次のようなザレ歌を残しています。
 
満濃池普請
 
ここからは農民が満濃池普請を嫌がっていたことが伝わってきます。   
 そのような中で19世紀になると「技術革命」が起きます。そして平賀源内や伊能忠敬のような新しい科学知識や土木技術新を身につけた人達が登場します。そのような中には、底樋を石組みで作る技術者も現れます。そうすれば、交換する必要がありません。メンテナンスフリーになります。これを見た長谷川喜平次も「石組みの底樋」を満濃池に採用します。その根底には、農民の負担軽減という思いがあったのだと思います。
Q3  この時の様子を描いた満濃池普請図からは、どんな情報が読みとれますか?

満濃池普請絵図 嘉永年間石材化4
長谷川喜平次による石組底樋への転換工事
① 左側の丘が護摩壇岩です。空海がここで護摩を焚いて安全祈願したといわれます。
右側の丘に池の宮が鎮座しています。
③ このふたつを結んで当時の堰堤は造られていました。
一番下の矢倉樋が備え付けられています
堰堤が掘り下げられて、底樋が据え付けられようとしています。
⑤ 石材が牛に曳かれて運び込まれ、それを大勢で引っ張っています。

満濃池普請絵図 嘉永年間石材化(底樋) - コピー

 面白いのは見物人まで描かれていることです。

満濃池普請見学

川のこちら側には、金毘羅に長逗留している金持ちたちが芸者をつれて、工事見物にやってきています。大工事は、見物人が数多く集まる所でもありました。同時に、新工法に対する当時の人びとの期待感もあったのかもしれません。

Q4 満濃池が決壊した原因は?
 ひとつは、技術的には未熟で、堤防にかかる水圧に耐えきれなかったことです。
 近年に見つかった榎井村の百姓総代が倉敷代官所へ提出した文書には次のように書かれています。

長谷川喜平次 農民の訴え

ここからは改修工事は「欠陥工事」で、近々に壊れるだろうという認識が農民達の間にはあったことが分かります。
 これに追い打ちを掛けたのが大地震です。改修が終わった翌年1854年6月14日に畿内を中心に大きな地震が起きます。この揺れで石材が折れたようです。それから約20日後に、底樋あたりから濁り水が噴出し始めます。そして4日後には亀裂が拡がって堤防は決壊します。こうしてみると決壊原因は、新採用の石組底樋工法の未熟さと大地震が重なったためと云えそうです。

Q5 石組底樋を導入した長谷川喜平次の評価は、どうでしょうか
彼には2つの評価があります。まず当時の農民達は、未熟な技術を導入し、決壊を招いた張本人というキビシイ評価をしています。
 これに対して、後世になると再評価の動きが出てきます。それは、明治維新前後に満濃池再築を行った長谷川佐太郎が喜平次の失敗に学んで、岩盤に穴を開けて底樋とする手法としたからです。これは喜平次の先例がないと実現しなかったかもしれません。こうして最先端技術の導入者として彼を評価する見方が出てくるようになります。今では、郷土史の書籍は、後者の面からプラス面で彼を評価するものが多いようです。

Q6 長谷川喜平次が導入した石組みとは、どんなものだったのでしょうか

満濃池底樋石組化

  金倉川の改修工事中に、川の中から決壊でながされた石組みの一部が出てきました。その底に当たる部分を並べたのがこれです。このような形で石組で底樋としたと推測されています。底の部分がまっぷたつに折れています。想定外の力が石組みにかかったことがうかがえます。

満濃池底樋石造化工事2


番組は、こちらのユーチューブからも御覧いただけます。
https://youtu.be/t-oyJJ76eok

関連記事

郷土史講座 満濃池と西嶋八兵衛

上記講座で使用した資料を中心にアップしておきます。時間と興味のある方は御覧下さい。

満濃池 3人の再築した人物

満濃池は8世紀初頭に築造されたとされますが、何度も決壊しています。空海の修復後も源平合戦頃には決壊したまま放置されます。そのため池跡が開発されて、池之内村ができていたと伝えられます。それが再築されるのは天下泰平になった江戸時代初期です。それを指揮したのが西嶋八兵衛ということになります。今回は、この西嶋八兵衛について見ていくことにします。

西嶋八兵衛 どうしてやってきたのか

これらについては、西嶋八兵衛が藤堂高虎の子飼いの腹心であったためであったと答えられます。まず主君の藤堂高虎を見ておきましょう。

西嶋八兵衛と藤堂高虎


藤堂高虎は、今年の大河ドラマの主役である秀吉の弟秀長に見いだされます。その後、主君を秀吉→家康と乗り換えて、戦乱を生き延びていきます。「戦乱の風見鶏」と評される由縁です。さらに晩年に駿府に隠居した家康の傍らに仕えて、絶大な信頼を得ます。外様大名でありながら譜代大名あつかいとなり、時の老中と親族関係を結ぶなど大きな政治力をもつ存在になっていきます。西嶋八兵衛は、その藤堂高虎に、若い頃に仕官します。英才教育を受けて栄達していきます。それを年表で押さえておきます。

西嶋八兵衛 藤堂高虎の英才教育を受けた

西嶋八兵衛の父は、もともとは藤堂高虎に仕えていましたが病気で浜松に隠居していました。八兵衛が17歳になると、駿府にいる高虎を訪ねています。見所があったのでしょう150石で小姓に取り立てられています。以後、高虎の身近にあって、英才教育を施されていきます。そして高虎の信頼を得た若者に成長していきます。
  
どうして西嶋八兵衛は、讃岐にやってきたのか?

西嶋八兵衛 生駒家と藤堂家は親族

生駒家3代目の正俊が突然若死にします。残された4代目の高俊は11歳の幼年です。この時期の幕府は、難癖を付けては外様大名を取り潰したり、無理難題を押しつけていた時代です。生駒藩も幕府の標的になる可能性がありました。生駒藩の危機です。これを救おうとしたのが伊勢津藩藩主の藤堂高虎です。
 高虎は生駒親正
に深い御儀がありました。高虎には、主君の秀長(秀吉の弟)が亡くなると、無能な主君に仕えること嫌って高野山に出家して隠遁生活を送っていた時期がありました。その時に秀吉への再就職を勧誘・説得を行ったのが生駒親正です。これによって高虎は秀吉に仕え、伊予宇和島7万石の大名にリクルートできました。高虎は、親正に大きな恩を受けたことになります。その後は、上図のように高虎の娘が生駒家に嫁いできていて子どもを産みます。それが生駒家4代目の高俊になります。つまり高俊は高虎の孫でもあったのす。高虎と父正俊から一字ずつもらって高俊です。高虎は、このように親密な関係にあった生駒藩の危機に対して一肌脱ごうとしたようです。そこで全権委任大使として生駒藩に派遣されたのが若き西嶋八兵衛ということになります。
 家老待遇として生駒藩にレンタルされた西嶋八兵衛を待ち受けていたのは大旱魃でした。

西嶋八兵衛来讃時の讃岐は大旱魃


 八兵衛がやってきた
のは寛永二年(1625)ですが、翌年から災害が続きます。旱魃・台風と2年続きの凶作で餓死者がでます。農民達は土地を捨てて他国に逃散するものも現れます。生駒藩存続の危機が訪れたのです。これに対して右往左往する生駒藩の指導者達に対して、藤堂高虎はレンタルしている西嶋八兵衛にやらせろと命じます。こうして西嶋八兵衛を中心としての災害対策、つまりそれは丸亀平野や髙松平野などのの総合開発プロジェクトでした。

 ここで注意しておきたいのは、満濃池だけを西嶋八兵衛は作ったのではないと云うことです。ため池 + 土器川・金倉川の治水工事 + 灌漑用水路の整備という3つの要素を同時に行っているのです。しかもこれを讃岐全土で同時進行で行っています。これは西嶋八兵衛が単なる技術者ではなく、当時の政策担当者の中枢部にいたからできたことです。それを裏付ける史料を見ておきましょう。

大川神社へ寄進された鉦 西嶋八兵衛・尾池玄蕃


これは1628年(満濃池着工時)に、琴南の大川神社(権現)に寄進された鉦です。ここには上記のような文字が刻まれています。ここからは次のようなことが分かります。


①大川神社は権現で、修験者たちの管理運営下にあったこと。


②雨乞い祈願用に、生駒藩奉行(家老)が寄進していること


③それをとりまとめたのが尾池玄蕃であること。


②の三人の奉行の中に西嶋八兵衛の名前があります。彼が生駒藩中枢にあり、政務を担当していたことが裏付けられます。また丸亀平野の担当が尾池玄蕃であったこと、当時の生駒藩が大旱魃に対して、権現の力を借りて雨を降らせようとしていたことも分かります。
それでは、西嶋八兵衛が讃岐にやってきたときに満濃池はどうなっていたのでしょうか?

満濃池営築図2 矢原家
満濃池営築

西嶋八兵衛がやって来た時の満濃池跡です。地元の矢原家に残っていた絵図です。

①の左下から中央を通って上に伸びていくのが金倉川で、川の中には大小の石がゴロゴロと転がっている

②右側が「うてめ」(余水吐)跡で、機能を失って川のように描かれている。

③金倉川を挟んで2つの岡があり、左(東)側が「護摩団岩」で空海がこの岩の上に護摩団を築いて祈祷を行ったとされる。この岩は今では満濃池に浮かぶ島となっている。

④右(西)側の丘に池の宮(現神野神社)が鎮座している。

古代に空海が再築した満濃池も③と④の二つの丘を堰堤で結んでいたとされています。それが崩壊したまま450年間放置されてきた姿が描かれています。つまり、ここに描かれているのは17世紀初頭の「古代満濃池の堤跡」なのです。


絵図の上方に描かれた堤跡の内側を見ておきましょう。

西嶋八兵衛 池之内村

④の池の宮の南側(上側)には、民家と農地を区切るあぜ道が描かれています。讃岐国名勝図会(1853年)には、次のように記します。

(満濃池)跡地は、(再開墾されて)五百石(25丁㌶)ほどの谷間の山田となった。人家も次第に増えて、池の内村と呼ばれる村ができていた。


ここからは源平合戦の頃に決壊した満濃池は、中世には農地化されて、内部に村ができていたことが分かります。これを「池内村」と呼んでいたようです。位置的には現在の神野寺の下あたりになります。ここには豊富な湧水があったようなので、それを水源とする村ができたのでしょう。

 
さらに絵図上部には、文字がぎっしりと書かれています。何が書かれているのか見ておきましょう。

西嶋八兵衛と矢原家

ここには工事が始まる2年前の寛永3年(1626)8月、奉行の西嶋八兵衛が矢原正直方へやってきたことが記されています。矢原家というのは、当時の池の内村の有力土豪だったようです。そして、西嶋八兵衛は当主と那珂郡の毎年の旱害について懇談します。その話を聞いて、矢原正直は池の内に所持している田地(500石=25町)を残らず差し出すことを申し出たと記されています。これに藩主は喜んで、後に褒美を取らせると約束します。ちなみにこれは後の池守となる矢原家にとっては、その正当性をしめす証拠資料ですから、記録として残され大切に保管されてきたようです。つまり、旧満濃池跡地の池之内村の領主が矢原家であったことになります。

 矢原家には、次のような文書も残されています


西嶋八兵衛と矢原家文書
御意として申せしめ候。仲郡満濃池上下にて、高五十石永代に遣わされ候間、
常々仕かけ水、堤まわり諸事由断なく、指図つかまつり、堅く相守るべく候ものなり。
よってくだんのごとし。 

寛永拾弐年亥四月三日   西嶋八兵衛之尤(花押)  
                  浅田右京 直信(花押)
矢原又右衛門(正直) 
ここからは池跡の25㌶(500石)を、藩に差し出したことへの恩賞として、藩主から代替地を満濃池周辺で与えられたこと、満濃池の池の守(管理人)に任命されたことが記されています。

こうして矢原家の土地寄進を受けて、工事が始まります。先ほどの絵図をトレスしたものを見ると、工期が日程が上段にはびっしりと書き込まれています。

満濃池着工と完成

冒頭の着工日と末尾の完成日時は上記の通りです。こうして西嶋八兵衛によって満濃池は再び姿を見せます。その満濃池を見ておきましょう。
西嶋八兵衛の満濃池
堰堤は、護摩壇岩と池の宮を結ぶようにして築かれています。そして現在の堰堤よりも前方にありました。この堰堤は戦後の嵩上げ工事によって、護摩壇岩だけを残して、今は池の中に沈んでしまいました。西嶋八兵衛が再築した満濃池の約200年後の姿を見ておきましょう。

満濃池遊鶴 
満濃池遊鶴(まんのう町蔵)
護摩壇岩と池の宮を結んで堰堤が築かれています。その向こうに拡がる池面を鶴の群れが飛んでいます。こうして満濃池は名勝地としても知られていくようになります。この絵図の5年後の讃岐国名勝図会に載せられた満濃池も見ておきましょう。

満濃池 讃岐国名勝図会2
ドローンで堤防北側上空から俯瞰した姿が満濃池を描く定番になっていきます。

江戸時代の満濃池は西嶋八兵衛が再築したスタイルが変化することなく踏襲され、維持管理されたことを押さえておきます。それだけ優れた設計だったことになります。これが崩壊するのは、新しい技術を取り入れ底樋を石造化したときに、技術が未熟で決壊します。同じ讃岐国名勝図会に載せられた矢原氏の屋敷です。

矢原邸 讃岐国名勝図会

矢原邸には空海が持ち帰ったかりんの大木があったとされますが、この絵図にはそれは見えません。描かれているのは大きな松の木が2本です。矢原家は移転地として満濃池の下の「池下」や「池尻」などに土地を支給され、江戸時代を通じて存続していきます。今でも満濃池周辺の土地は矢原家が所有しているようです。現在の矢原家周辺を見ておきましょう。


満濃池からの矢原家

満濃池堰堤から見た矢原家跡(こんもりとした森)

西嶋八兵衛は満濃池を再築しただけではない。丸亀平野総合開発プロジェクトを推進した。
地元でも西嶋八兵衛のことを知っている人は、そんなに多くありません。多くの人が空海が作った満濃池が存続していたと思っている人の方が多いように思えます。知っている人も「満濃池再築者」という点に限られています。しかし、彼が築造したのは満濃池だけではありません。同時進行で、次のようなため池の築造を行っています。
西嶋八兵衛 讃岐における業績一覧

これらのため池が西嶋八兵衛が作ったため池とされています。しかし、先ほど見たように彼は生駒藩の三人の奉行のひとりで、藩政の中枢にいた人物です。ただの技術者とはちがいます。各地の築造現場に頻繁に出向くことは難しかったのではないかと思います。また重臣が工事現場に常駐して指揮すると云うことは、当時の建設システムからは考えられません。黒鍬組のような土木技術者集団を引き連れていて、指示を受けた技術者たちが請け負っていたことが考えられます。その際の各地の庄屋たちの協力を取り付けるためのお膳立てはしたかもしれません。しかし、満濃池に西嶋八兵衛がかかりっきりで陣頭指揮をしたとは私には考えられません。問題提起としておきます。

もうひとつの問題提起は、満濃池を作っただけでは丸亀平野に水はやってこないということです。

西嶋八兵衛 丸亀平野総合開発事業の一環としての満濃池

池の水を下流に提供するためには、上記のように治水工事(既存の川の流路変更)と、灌漑用水路の整備がセットで求められます。つまり、丸亀平野の総合開発計画の実行ということになります。これはひとつやふたつの村の協力ではできません。多くの村々の庄屋たちの協力なしではできることではありません。西嶋八兵衛は、藤堂高虎が派遣した目付で、国奉行として藩政の中心にいたことからこそ立案・実行できたのです。満濃池の築造と同時期に行われた治水・灌漑を見ておきましょう。

満濃池水掛かり図.JPG 1870年
この絵図は、明治になって長谷川佐太郎によって再築された満濃池水掛の各村々とそこに至る用水路が水色で書き込まれています。上図を拡大して90度回転させて見てみます。

近世:治水整備後に整えられた灌漑網

これを見ると、用水路が東は土器川の左岸まで、西は金倉川を越えて、善通寺から多度津白方方面にまで伸びていることが分かります。灌漑受益の村単位の分布は、現在のものとほぼ同じです。そして、これは近世初頭に西嶋八兵衛が満濃池を築造して以来、大きくは変化していないようです。ここからは次のような事が読み取れます。
①満濃池の受益面積は桃色の髙松藩が最も多いこと。最大の受益者は髙松藩。
②土器川から分水導入している用水路は左岸にはないこと 土器川左岸は満濃池に依存していたこと
③金倉川も善通寺・多度津方面以外は、分水を行っていないこと。つまり、土器川と金倉川には灌漑機能はなく、放水路の機能を持たされていたこと。だから白色で描かれている。
④黄色の天領(五条・榎井・苗田)は、丸亀藩の給水分岐点であり、戦略的な意味を持っていたこと。
⑤善通寺・多度津白方方面は苗田村で一度金倉川に水を落とし、その下流で再度導水していたこと
⑥この水掛図で、最も灌漑用水が不足するのが多度津の白方方面であったこと。
このように丸亀平野一円に用水路を張り巡らせるために、どのような治水工事が行われたのでしょうか金倉川から満濃池用水路の導入口の③附近を拡大して見ます。③でそれまでの流路が変更され、新しく金倉川が人工的に作られたと丸亀市史は次のように記します。

西嶋八兵衛 四条川治水と用水路建設
つまり、満濃池再築以前には、③→④→⑤という流路で「四条川」が流れていたのを、③で放水路として金倉川を開削し、丸亀平野の西端に移動させ、中央部を洪水の被害を受けないようします。その上に新たな用水路網を開いたというのです。言い換えれば、満濃池用水は旧四条川の流路変更の上に作られたことになります。この工事が満濃池築造と同時期に、庄屋たちの分担作業で行われていたことが考えられます。その段取りをつけたのが西嶋八兵衛とその配下の土木技術者集団だと私は考えています。

③の金倉川からの分水点である水戸大横井を見ておきましょう。

西嶋八兵衛 水戸大横井

③の水戸大横井堰(まんのう町吉野下)は、パン屋さんのカレンズの近くの橋のすぐ上流に何代目かの堰が今もあります。ここでせき止められた水がコントロールされて用水路に流れていきます。附近には旧四条川の痕跡が残っています。また、金倉川は西へ西へと丸亀平野の西の奥まで追いやられ、象頭山の麓の「石淵」にぶつかって流れを北にとり、琴平の町中を通過して行きます。平野中央部に自由自在に流れていた暴れ川を、コントロールするために使われる土木技法の一つです。平野の角の山手に追いやり、中央には人工的な水路を通し、水害から水田を守るという手法です。
 ちなみに西嶋八兵衛が伊勢藩に帰国して開いたのが雲出井用水です。規模も建設方法、完成後の管理方法が満濃池用水によく似ていることは前回お話ししました。讃岐での経験が伊勢藩で活かされているように思えます。

西嶋八兵衛の雲出井用水

伊勢の雲出井用水 満濃池用水と類似点が多い

西嶋八兵衛は満濃池を完成させた後も、重臣の座にいながら各地で総合開発プロジェクトを進めます。

西嶋八兵衛の讃岐滞在2

そして満濃池完成後の8年後の1639年に、伊勢藤堂藩に帰ります。この年は生駒騒動が勃発した年です。生駒藩の家臣団の亀裂は深まるばかりで、押さえが効かなくなっていきます。沈み行く船を見捨てての、伊勢藤堂藩への帰国という形になります。彼にしてみれば20歳代後半から20年間に渡って、生駒藩に関わってきました。それが、生駒騒動という形で終末を迎えることにはいろいろな思いがあったはずです。
 ところが帰国した西嶋八兵衛に幕府から呼び出しがかかります。どんな用向きだったのでしょうか

西嶋八兵衛 生駒藩転封後の来讃

生駒騒動で生駒藩が改易された後は、幕府は高松藩と丸亀藩に2:1の石高比率で東西分割することにします。そうすると両藩の境界線が丸亀平野の真ん中に引かれることになります。これは満濃池の水掛かりが、ふたつの藩に引き裂かれることです。水利権の問題は複雑です。後世に問題を残さないように処理することが担当者には求められることになります。讃岐に派遣された幕府要人は、この課題処理のために白羽の矢を立てたのが、生駒藩奉行として満濃池築造するだけでなく、多くの民政に関わった西嶋八兵衛でした。彼は満濃池再築の責任者として、他国人ではありますが庄屋たちからはリスペクトされていたようです。庄屋たちから水利や里山利用の問題点を聞き取り、それを文書化して後に問題が起きないようにまとめて幕府要人に提出しています。そこには例えば満濃池管理について、次のように記されています。

西嶋八兵衛 満濃池水掛村鷹

西嶋八兵衛 満濃池水掛村高末尾鷹

これをまとめたのが西嶋八兵衛です。これを見えも西嶋八兵衛が満濃池の諸問題について、よく理解していたこと、同時に丸亀平野一円の庄屋たちの信頼を得ていたこともうかがえます。西嶋八兵衛の働きぶりに対して幕府要人は、小太刀一振りを与えてねぎらっています。有能な働きぶりだったことが裏付けられます。
伊勢帰国後の働きについては、前回にお話ししたので省略します。最後に西嶋八兵衛の業績と評価を振り返っておきましょう。

西嶋八兵衛 業績と評価

 天下泰平の時代がやって来ると、戦乱からの復興が政策者には求められるようになります。それまで放置されてきた農業への資本投下がやっと行われるようになります。新田開発と用水の確保はセットで求められますから大規模な治水灌漑工事がどの藩でも行われるようになります。その際に「転用」されるのが築城技術です。石垣などは、堤などにもすぐに転用できます。軍用技術の民政への転用というこになります。こうして家臣団の中に『民政臣僚』と呼ばれる集団が現れます。その走りが藤堂藩で、西嶋八兵衛もそのなかの一人だったようです。彼の場合は、その場がレンタル客臣として赴いた讃岐で、そこで讃岐平野全体の総合開発事業に家老として関わるようになったのです。そのシンボル的な事業が満濃池再築だったとしておきます。
 それでは西嶋八兵衛の讃岐での満濃池周辺での評価はどうでしょうか。
最初に見たように3人の満濃池再築者の中で、空海には遠く及ばず、長谷川佐太郎よりも知名度は低いといったところでしょうか。それでは西嶋八兵衛があまり知られていないのはどうしてなのでしょうか? 例えば満濃池に空海の銅像や長谷川佐太郎の顕彰碑はあります。これらは20世紀になって姿を見せるようになりました。

満濃池 空海の銅像
満濃池の空海像と長谷川佐太郎顕彰碑
ところが西嶋八兵衛のものは見当たりません。どうしてなのでしょうか?
それには次のような背景が考えられます。

西嶋八兵衛 銅像がないのはどうしてか

第1に西嶋八兵衛が讃岐の人ではなく他国人であったことです。そのために、後世に応援団(顕彰団代やファンクラブ)が育ったなかったことがあります。また、生駒藩がなくなったことです。そのため西嶋八兵衛の業績についての資料の多くが失われました。また、その後にやってきた松平髙松藩では、初代松平頼重がカリスマ化されていきます。その結果、先代の生駒藩の偉人伝は語られることがありませんでした。西嶋八兵衛は江戸時代には讃岐では忘れ去られた存在のようになていました。それが再評価されるのは、近代になってからです。こうして満濃池周辺では銅像も顕彰碑も建てられなかったようです。ただ髙松では、木太北部公園のように地域興し事業の一環として顕彰碑が姿を見せるようになりました。
西嶋八兵衛功徳費 

西嶋八兵衛が満濃池に着工し、完成させた年をもう一度見ておきましょう。

西嶋八兵衛 満濃池再築400周年
2年後が着工400周年 5年後が完成400周年にあたるようです。これを機会に、西嶋八兵衛の再評価が進み、銅像建立につながればと願っている私です。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
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西嶋八兵衛の讃岐滞在2

西嶋八兵衛は満濃池完成後の8年後の1639年に、伊勢藤堂藩に帰ります。この年は生駒藩では、譜代家臣達が職務を放棄して、讃岐の地を立ち退くという実力行使をとって、生駒騒動が勃発します。生駒藩内の対立は、藩政の中心にいた西嶋八兵衛は充分に分かっていたはずです。藩内の対立を和らげるのも、藤堂高虎が客臣として西嶋八兵衛を生駒藩に送り込んだ要因のひとつだったかもしれません。しかし、生駒藩の亀裂は深まるばかりで、今や沈み行く船となっていきます。そのような中で、西嶋八兵衛は、伊勢藤堂藩に帰ってきたことになります。彼にしてみれば20歳代後半から20年間に渡って、生駒藩に関わってきました。それが、生駒騒動という形で終末を迎えることにはいろいろな思いがあったはずです。

西嶋八兵衛の略歴
 伊勢に帰国した西嶋八兵衛を待ち構えていたのは、またしても旱魃でした。
寛永19年(1642)、伊勢の志郡一帯は大旱魃に襲われ稲は枯死し収穫は皆無になります。さらに3年後の正保3年(1646)にも凶作に見舞われ、農民は餓死寸前に追い込まれます。これに対して二代目藩主藤堂高次は、讃岐で業績を上げて帰国していた西島八兵衛に対策を命じます。今回は伊勢に帰国した西嶋八兵衛が行った灌漑事業を見ていくことにします。テキストは、 雲出井土地改良区のHPです。https://www.zc.ztv.ne.jp/kumozuyu/rekishi.html

HPには次のように記されています。

領内巡視を行った西嶋八兵衛は、雲出井水開鑿の大工事に着手した。正保3年(1646)、水不足に苦しむ雲出・伊倉津地域の農民のために津藤堂藩高次の命を受け、 西嶋八兵衛は2万人以上人夫で3年を費やし、13㎞も離れた上流の戸木村羽野の雲出川から雲出井(くもずゆ)を掘削した。高茶屋四ツ野で三つの水路に分け、14ヶ村600町歩の水田に水の恵みをあたえた。土地の人々は八兵衛を顕彰するため、ここに水分(みくまり)神社を建立した。

西嶋八兵衛と雲出井用水
雲出井用水への着工
西嶋八兵衛の雲出井用水


これは戸木村で雲出川に堰を設けて分水し、水路を掘り進めて、高茶屋で水を3分(高郷井、八寸、揚溝)して、高茶屋、雲出地区まで網の目のように用水路を張り巡らせようとするものでした。これは、丸亀平野の土器川・金倉川を治水して、平野の真ん中に大規模用水路を通す工事と、規模も内容もよく似ています。また工事の進め方も、大庄屋と協議して彼らの協力と取り付けて、工事区間を分割して、それぞれを大庄屋に責任を持たせて進めています。これらのやり方も、満濃池用水路の開削と同じ手法だったのではないかと私は考えています。そして、慶安元年(1648)に完成させています。水路延長は7,200間(13㎞)で、本郷、長常、伊倉津など雲出の村々14ケ村600町歩の田畑が恵みを受け、1万石近くの収穫増につながります。

 《雲出井(くもずゆ)の維持管理》
慶安元年(1648)に雲出井が完成すると、西島八兵衛は雲出村庄屋の笠井又兵衛を井守に命じます。そして、用水管理について次のような細かい指示を出しています。(要約)

西嶋八兵衛 雲出井水掟書    
       西嶋八兵衛が書いた雲出井水掟書 雲出本郷町 笠井家文書
9ヵ条の内の5ヵ条を見ておきましょう。
一 今瀬せきあげのかげん第一に候、細々見廻候、而、石俵くさり候ハハ取かへ、くずれ候所をばつきなをし、湯流口へ川水よくのり候ごとく可念入事、付大雨ふり可申気色に候ハハ何時も湯流の戸をさし可申、此段、戸木之加兵衛にも申付候間、常々相談可仕候事
一 稲代川のつきあて、其外古川迄の井溝うまり候所有之者、無油断さらへさせ可申候事
一 石せきより雲出までの井溝うまり候所、又ハつつみそこね候所於有之ハ、其領内きりに修理仕候へと、其村々庄やへ申渡し、其方もともどもに肝をいり可念入候、同井水をみだりにいやが上かけ候所有之は其庄やへ相届、我ままにさせ申間敷事
一 四野のわけまたより、北へ水を分候義ハ、その時々此方より可申遣候間、可得其意候、無左候 下としてわけ遣し申間敷候、小森より北郷水つまり申候ハハ急き此方へ可申聞候事
一 戸木より雲出までの間大井手の義ニ付いづれの村にても疎略仕候もの於有之者、有体に此方へ申聞候、少もゑこのひいき仕間敷候事
  意訳変換しておくと
一 用水路の管理については堰の管理が第一である。頻繁に見廻り、石俵や鎖などは定期的に取り替え、崩壊しそうな場所があれば修復し、取り入れ口へ川水がよく流入するようにすること。大雨時には取入口に戸をさして流入を防ぐこと、これらのことは、戸木之加兵衛にも申付てある。常々、協議してメンテナンスを行う事。
一 稲代川や古川までの用水路は、土砂が溜まり所なので、油断せずに定期的に井手浚いをおこなうこと
一 取入口の堰から雲出までの井溝も、土砂が溜まったり、また堤防が痛んだりするところが出てくれば、その区画毎で修理することを、関係する庄屋へのへ申渡し、其方と協力しながら維持管理を行うこと。この用水路について、勝手に改変したりする者があれば、担当庄屋に報告し、自分勝手な運用をさせないこと。
一 四野の分水点より北への分水については、その都度、こちから連絡を取りながら納得のいく形で運用すること。小森より北の郷水についても同様である。
一 戸木から雲出までの間の大井手については、各村で申し合わせ事項を疎略にあつかう者があれば、丁寧に申し聞かせて、えこひいきの内容にないように運用すること。
ここからは雲出井用水の管理について庄屋笠井又兵衛を管理人として、各村々の庄屋と協議しながら運用していくシステムを作っていることが分かります。その後、明暦4年(1658)、延宝8年(1680)にも雲出井手郷中へ「定条々」「定」が出されています。その文書には、庄屋や年寄が署名押印して約束を守ることを明示しています。これも以前にお話しした満濃池水掛申候村高之覚に記された満濃池管理の手法と同じやり方です。讃岐で学んだ治水灌漑の運用システムが、伊勢でも活かされています。

満濃池水懸申候村高之覚

満濃池水懸申候村高之覚」と「先規

 雲出井用水は多くの田畑を潤し、農民達は八兵衛に感謝するようになります。そのため、毎年伊勢神宮に参拝し、神楽を奉奏し大麻を贈ってその健康と子孫繁栄を祈ったと伝えられます。

西嶋八兵衛 雲出井用水 水分け神社5

 西嶋八兵衛が1680年に亡くなると、四ッ野分水点に水分神社(俗称:八兵衛神社)を建立し、感謝と豊作を祈願する祭典を行なうようになります。伊勢では、西嶋八兵衛は神となって、分水地点に祀られたのです。四ッ野分水施設は、昭和47年6月20日、津市教育委員会より史跡に指定されています。

西嶋八兵衛 雲出井水分水点
                     四ッ野分水施設
雲出井用水を管理する土地改良区の会報には、次のような言葉が見えます。
(西嶋)八兵衛の歴史と歩む
今年も4月19日に水分神社で西嶋八兵衛翁の遺徳を偲ぶと共に、五穀豊穣、通水
安全の祈願を行い通水を開始しました

西嶋八兵衛 雲出井用水会報


西嶋八兵衛 雲出井用水会報3
雲出井用水
西嶋八兵衛 雲出井用水会報2
この会報を読むと、用水を開いた西嶋八兵衛の遺徳に感謝しながら、それを未来に繋いでいこうとする願いが伝わってきます。「井戸の水を飲むときには、その井戸を掘った人達の行為に感謝しながら飲まなければならない」という中国の諺を思い出します。
 そして、土地改良区が西嶋八兵衛の業績を伝えるための広報活動を積極的に行っています。その中には、漫画偉人伝の作成もあります。それが、市民による銅像の建立にもつながっているようです。

西嶋八兵衛像

ひるがえって讃岐を振り返ってみると、満濃池周辺には西嶋八兵衛の銅像も石碑もありません。これをどう考えればいいのでしょうか。このことについては、改めて見ていきたいと思います。
 最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
雲出井土地改良区HP https://www.zc.ztv.ne.jp/kumozuyu/rekishi.html

たいむタイムトラベル 博多全体
帝国書院 中学校社会科歴史教科書(旧版) タイムトラベル 中世の博多
 ここに描かれているのは15世紀頃の博多です。
当時の東アジアは中国は明帝国の時代で、鄭和による南海遠征後には東南アジアとの南海貿易が開始されます。そこに琉球や日本・朝鮮との東アジア交易圏なども組み込まれて、アジアの「大航海時代」が始まっていました。当時の日本列島における拠点が博多で、多くの人とモノが行き交う貿易港の役割を果たすと同時に、中国人が数多く定住しチャイナタウンを形成していました。今回は、このイラストからいろいろな情報を読みとっていこうと思います。

中世の博多地図

  博多は、「息浜」という自然の砂州から発展した港湾都市でした。砂浜が拡がるだけの港の背後の中洲に町は発展していきます。
たいむタイムトラベル 博多左上

 息浜の港には多くの船が停泊しています。港から伸びてくる一本の道の両側には、店が建ち並んでいます。燕の巣があるので季節は5月初夏のようです。表通りの道は瓦の破片を敷きつめた舗装道路で、側溝もあります。これなら雨が振っても泥濘むことはありません。港と町の境には木戸があります。周囲は柵(釘くぎ貫ぬき)で囲まれています。町屋は板葺の屋根で、その上には石や太い木がおかれています。よく見ると,草葺や柿こけら葺ぶき(木羽板葺)の屋根もあります。しかし、瓦葺きの大きな家はありません。中世の町屋は,近世と比べるとまだ小さく,粗末だったようです。

たいむタイムトラベル 博多 商店
表通りの店先 一番手前が反物屋

表通りの一番手前にあるのが反物屋で、反物が並べられたり、吊されたりしています。
注意して欲しいのは、完成した呉服が売られていないことです。近代までは、着物は反物を買って、自分で縫っていたようです。完成品の着物は売られていませんでした。反物屋の軒先を見ると、売り手も買い手も女性です。そういえば、一遍上人絵伝の福岡の市の反物屋も売り手は女性でした。中世は性別分業がはっきりしていて反物商売は女の職業だったようです。その向こうが酒屋です。軒先には男性たちが酒をあおってたむろしています。時代が変わっても、人間の酒好きは変わらないようです。
その隣が曲げ物屋です。桶師(桶屋)が地面に座り込んで,桶に箍(たが)をはめています。

職人絵図 桶師
結桶は室町時代に登場した優れもので、頑丈なので水などの液体を運搬することができるようになりました。酒などもこの時期には瓶(かめ)でつくっていましたが,近世になると大きな結桶で大量の酒を醸造するようになります。それが醤油や味噌などにも転用されます。そして江戸時代になると樽に入れられた酒が、大量に灘から江戸に船で運ばれるようになります。現在のコンテナの出現のように、ある意味では運輸革命につながります。
 桶屋の前では、喜捨を求めた黒い僧服を着た僧侶が追い払われています。阿弥陀浄土信仰を説く念仏聖かもしれません。讃岐でも中世には、志度寺・白峰寺・弥谷寺などは念仏聖の拠点となって、多くの聖達が住み着いて、周辺への布教活動を行っていたことは以前にお話ししました。富み栄える港町には、いろいろな宗派の僧侶がやってきて布教活動を行っていました。

その向こうが米屋で,枡(ます)で量り売りをしています。次は刀剣を商っている刀屋。一つ道をはさんで向こう側が,陶磁屋です。中国からもたらされた陶磁器も扱われていたのでしょう。
博多 中国人の墨書陶磁器

 博多区店屋町冷泉(てんやまちれいせん)公園東側では、波打ち際に廃棄された12世紀初めの白磁の山が出土し、当時の博多の荷揚げ場(港)は「博多浜」の西部にあったと推定されます。また、「博多浜」の中央部にあたる店屋町や冷泉町周辺からは多くの中国製陶磁器類が一括して出土し、これらを取り扱う事務所や倉庫が軒を連ねていたと考えられます。

 今度は通りを行き交う人々を手前から見ていくことにします。
市女(いちめ)笠をかぶっているのが女主人で,頭上に包みをのせているのは侍女でしょう。頭上に薪をのせて売り歩いている女性もいます。かつては日本のどこでも、頭上に荷物を載せて運ぶことが普通に行われていたようです。

たいむタイムトラベル 博多左下
画面手前には,粗末な木の鞍をつけた馬が描かれています。これが運輸業者の馬借(ばしゃく)で、依頼に応じて荷物や商品を指定地まで運んでいました。馬借の登場で陸上輸送が発達し、商品がより大量に円滑に流通するようになります。宅配の出現で、アマゾンや楽天が成長するのと同じです。また馬借は、トラックやタクシー運転手と同じで、ネットワークを持ち情報伝達の役割ももっていました。そのために、土一揆などの広がりなどにも大きな影響を与えたとされます。

その向こうには、杖をついた2人づれの琵琶法師や猿曳ひき(猿回し)もいます。
芸能集団も孤立した存在でなくネットワークを持ち、活動していました。そして、それぞれの守護神をもち信仰団体としての側面を持っていました。
猿曳の芸を見物している人垣の背後には、守護の率いる武士集団が近づいてきます。それを町の有力者が迎えています。ここで注意しておきたいのは、中世の都市が支配者である武士集団の支配下に置かれていたのではないことです。都市は、自治権をもって独自に運営されていました。武士居館が都市の中にあることはありません。これが近世の城下町とは異なるところです。近世の城下町は、商人や有力寺院などを強制的に移住させて出来上がった人為的な空間であることを押さえておきます。
 町屋の壁のところに小さな屋根の小屋があって、乞食の親子と覆面をした「癩者(らいじゃ=ハンセン病患者)が物乞いをしています。
一遍上人絵伝の中にも、彼らは何度も登場してきます。中世の都市や寺社の門前には,けがれた存在として差別された人々も生活していたことを押さえておきます。

たいむタイムトラベル 博多 守護 陶器屋

木戸からの道の真ん中を、赤と青の長い袖の中国服を着た明の商人たちが歩いてきます。
律令体制が解体していく平安末期になると、古代からの官衛センターの鴻臚館(こうろかん)は機能しなくなります。それに代わって始まるのが、中国商人による私貿易です。そのために中国商人たちが、博多に住みつくようになります。彼らは「博多綱首」と呼ばれ、寺社や貴族などと結びつきながら、船主や船長として日中間を盛んに往来し、東アジア海域の貿易活動の主役になります。
 こうして博多は「博多綱首」と呼ばれる人達を中心に多くの中国人が定住するようになります。史料に出てくる「博多津唐房」の「房」は「坊」で、町の区画を表す言葉です。明代末期の伝承では「大唐街」と呼ばれるチャイナタウンが形成されていたとも記されます。そうすると、日本で最初のチャイナタウンができたのは博多と云うことになります。
「博多浜」の東部では、宋人が建てた「博多百堂(仏堂)」の跡地に、12世紀末に栄西によってわが国最初の禅宗寺院聖福寺が建立されます、また、1242年には博多綱首謝国明(しゃこくめい)によって聖一国師(しょういちこくし)を迎えて承天寺が創建されました。いずれも博多居住の中国人の直接・間接の援助によって建てられたもので、チャイナ・タウンの中核として、かれらの活動のより所となります。こうして、中国商人の保護を受けながら初期の禅宗寺院は博多に根付いていきます。

 町屋の裏は生活空間でした。

たいむタイムトラベル 博多右下
井戸や菜園があり,女性が洗濯や立ち話を,子どもは桶で水運びをしています。牛車には酒の瓶がのせられています。牛車の横の建物は土蔵です。また,乞食小屋の後ろで,子どもが独楽を回して遊んでいます。
ここで登場する人達の、衣類や髪形を見ておきましょう。

たいむタイムトラベル 博多 古代よりの烏帽子をかぶる習慣がくずれ,応仁の乱以降,頭に何もかぶらない露頭が増えた
烏帽子を被る人と露頭の人 後は小屋掛けするハンセン病患者
中世中頃までは,男は烏帽子をかぶっていたのですが,この頃になると,なにも被らない露頭の人々も増えてきます。ただし,髷(まげ)はまだ登場しません。髷は近世のもので、この時代には見当たりません。
 中世の働く女性はも,褶(しびら)と呼ばれる布を腰に巻いていました。
*
褶(しびら)

それがこの頃から前垂れ(エプロン)に変わり始めまます。この時期は,衣類や頭髪スタイルは古代と近世の二つの時代のものが混じり合う過渡期だったようです。奈良時代や鎌倉時代と比べると、次のような事が云えます
①着物の柄があざやかになったこと
②下駄をはく人が増えていること
③古代よりの烏帽子をかぶる習慣がくずれ,応仁の乱以降,頭に何もかぶらない露頭が増えた。
④これが月代(つきやき)につながっていくこと
 
港と沖に浮かぶ船を見ておきましょう。

たいむタイムトラベル 博多右上の港
博多
港の船(港湾施設はなく、着岸はできない)
右端の大きな船を拡大して見てみます。

たいむタイムトラベル 博多 沖の船

A 一番大きな船が右側の明船(ジャンク船)
B その左隣の船が朝鮮の船
C その奥が日本の貿易船
D 四番目は軍船
港には着岸できないので、沖合に停泊して渡船で乗り降りしています。中世の港湾施設は質素なモノであったことは以前にお話ししました。大型船が着岸できるような岸壁はありません。
Aの明船に乗りこむために、禅宗の留学僧が小舟に乗っています。それを多くの人達が見送っています。この時期には禅宗僧侶が数多く中国に留学しています。彼らは禅宗を学ぶとともに、中国語を学び、商売のやり方まで学んで帰ります。そして、日明貿易が大きな富をもたらすことを支配者たちに教えます。武士集団の多くが禅宗に帰依していくのは、信仰心だけでなく、富をもたらす交易に参画したいという経済的な背景もあったようです。それは、イエズス会修道士に布教の自由を認める代わりに、交易権を得ようとした大名達と同じです。
Bの船の小舟から下船した人達の服装は、朝鮮スタイルです。朝鮮半島とも活発な交易活動が行われていたことは以前にお話ししました。

当時の博多が国際都市であったことを、もう一度押さえておきます。
史料からも16世紀の博多の東門外に百人以上の唐人が住み着き、妻子とともに家を構えて、日本の女を妻にしている者がいたことが分かります。そして倭人も貿易に携わり、国籍や民族を超えて東アジアの海を行き来していたのです。そして彼らの中には軍事集団として、沿岸周辺を襲う倭寇にも姿を変えました。この港に描かれている軍事集団は、そのような性格をもっていたと考えられます。
 博多を舞台に国際的な経験と知識をもって、外交と貿易に活躍したのは僧侶たちです。
例えば禅宗僧侶の弁円(諡・聖一国師)がいます。彼も博多商人の保護を受けて宋に渡り禅宗を学び「聖一派」を開いていきます。留学僧として学んできた禅僧は、知識と語学力や医学・薬学の知識をもつ専門家でもありました。彼らを政治家や商人達が放っておく筈がありません。通訳から外港・貿易指南として、側近に登用するとともに宗教的な保護を与えたのです。
 そんな中で当時の博多で知られていたのは宗金です。彼は僧籍の商人で、この数年後には図書倭人の地位をえて、朝鮮貿易に力を発揮します。早田左衛門太郎等とともに、銅2800斤を輸出し、綿紬2800匹を博多に持ち帰ったといわれます。彼は、管領斯波氏の朝鮮貿易をも請け負い、1447年には総勢50人を率いて朝鮮に渡った記録も残っています。こうした宗金の活躍は、この時の博多での宋希璟との交わりから生まれた信頼関係が背景があったからできたことです。宋金一族はその後も、朝鮮や明との貿易にたずさわり、息子の性春・孫の茂信も博多を代表する商人として活躍します。このように博多は、東アジア貿易センターの日本側の窓口だったことを押さえておきます。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
帝国書院 中学校社会科歴史教科書(旧版) タイムトラベル 中世の博多
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タイムトラベル 中世の村 武士居館

前回は中世の農村を描いた絵図の武士居館から、次のような情報を読みとりました。
① 地域の軍事拠点であったこと
② 武士集団が武装集団で、暴力装置であったこと
③ 周囲の名主や百姓から領主として徴税する権利を得ていたこと
つまり、東国からやって来た武士集団の棟梁は、地域の警察署長と税務署長を兼ねるような存在であったということです。今回は、武士居館の背後に描かれている名主の活動を読みとっていこうと思います。テキストは「帝国書院 中学校歴史教科書 タイムトラベル 中世の農村」です。
 武士居館の背後に見える大きな建物は、名主の屋敷です。

タイムトラベル 中世の村 名主

街道両側の田んぼは稲刈りが終わって、稲の切り株が綺麗に並んでいます。秋祭りが開かれている②鎮守の岡の麓に、大きな家が建っています。これが③名主の家です。そのとなりに④下僕の竪穴式の小さな家があります。拡大して見ると、名主の舘の前には米俵が積み上げられて脱穀が行われているようです。しかし、右隣の下僕の家には何もありません。両者のちがいがくっきりと描かれています。名主の家の左隣は、鍛冶屋小屋です。この時代は、鍛冶屋職人は有力者に呼ばれて出向いて、そこで鍛冶仕事をしていました。経済的基盤がないと鍛冶屋は呼べません。当然、当時の最先端の農具などを持てるのは、名主などの有力者たちに限られます。こうして百姓の中での階層分化が進みます。

中世の鋤の改良

タイムトラベル 中世の村 鋤

 当然、当時の最先端の農具などを持てるのは、名主などの有力者たちに限られます。有力者は、当時ハイテク技術で改良された鋤を先行使用することで、新田開発や治水灌漑工事を進め耕地を増やして行きます。こうして百姓の中での階層分化が進みます。
たいむタイムトラベル 中世農村解説1 名主


池田町史(上巻190P)には、中世の田井ノ庄(三好市)の農民達の生活が物語り風に次のように記されています。
応仁の乱が終わって間もない時期。
夫婦と子ども三人の百姓の家庭。
子どもも生産のにない手。
田畑五反ほどを耕作している。
常食は麦で、正月や節句には米も食べる。
食事は朝・昼・晩の三食(鎌倉期までは朝晩の二回)。
おかずは、最近このあたりに作られるようになったウリ、ナス、ゴボウ、
特にコイモ(里芋)は保存がきくので評判がよい。
食器は、木地屋から買った木の棚に並べてある。
父が男の子をつれて山へ狩に行く。兎や猫の肉はごちそうである。

中世になると、新たに開発された谷田などでは二毛作が行われるようになります。平地の皿田では排水が難しかったのですが、谷田の場合、排水は比較的容易でした。 そのため谷田の私有田は、二毛作に適していました。二毛作には、麦と米、麦と豆がありました。山村の焼き畑では、奏と大豆の組合せも早くから行われていたようです。古代の稲作が「かたあらし」という隔年で耕作したり、何年も荒らしておいたりしていたのと比べると、二毛作は農民達により多くの収穫物をもたらすようになります。

 昔(南北朝ころ)は松の枝をたいて明りをとっていたが、今では油をしぼって燈明にできるので明るいし、目に煙がしむこともないと母親はよく昔話をする。燈明に照し出された家の中を見ると、部屋はふた間で、板の間にむしろが敷いてある。この板の間も、父の自慢のもので、村の半数位の家は土間にむしろを敷いている。土間は広く、この土間で父は仕事をし、母は糸をつむぎ布を織る。糸の原料は梶とひゅうじの皮であるが、ひゅうじの皮を集めるのは、弟妹の役目で長男は父の仕事を手伝う。
 土間のすみには①木製の鍬やすきが置かれている。その側に②備前焼の壺が黒光りに輝いている。二、三年前に種物を入れるために、大事にしていた銭を出して、医家大明神の市で買ったものである。種が、いつもねずみに食い荒らされるので、無理をして買ったものである。

①の農具については鎌倉時代には、鉄製の鍬、鎌、馬把などが使われるようになります。
しかし、当時は貴重品で使えるのは名主層だけに限られていました。牛・馬の利用にしても同じで、一般農民は、名主層から借用して利用していたようです。それが室町時代になると、鉄製農具が農民の間に広まり、農耕の効率は高くなります。さらに牛馬が農耕にひろく利用されるようになります。「昔阿波物語」には、盗賊が農家に侵入して牛馬を盗んだ記事が出てきます。ここからは牛馬を農民達が保有していたことがうかがえます。畜力の利用は、農耕の能率を高めるとともに、深耕を可能にして、反当収量の増加にもつながります。ここでは鎌倉時代には鉄製の鋤は、有力者に限定された農具で、それを使用できたものが谷田などを開き、名主へと成長していったことを押さえておきます。

中世の農業経営=集約化・多角化


たいむタイムトラベル 中世農村解説2 灌漑施設

「タイムトラベル中世の農村」には、右奥に谷川沿いに開かれた水田と灌漑施設が描かれています。
水田を開かれた順に3区分すると次のようになります。
A 荘園の荘司(上図の大きな屋敷)によって開かれた左岸水系
B 名主によって開発された右岸水系
C 地頭としてやってきた東国武士(西遷御家人)が開いた下流エリア
タイムトラベル 中世の村 潅漑施設


Aのエリアは、開発領主としての荘司の館の前に広がる水田の水源は、上流から取水されているようです。不足する用水に対応するために川からの④揚水用水車が登場しています。これは水不足の際には、威力を発揮して、安定生産に貢献したでしょう。それでは、Bエリア(右岸)の水源はどこなのでしょうか。よく見ると定期市の奥に、①ため池が見えます。そこから②用水路が伸びて③「かけい(用水橋)」で川を渡って右岸に水を供給しています。これらは名主によって開かれたことが考えられます。そして、Bエリアが新たな水田地帯として開かれたという筋書きです。
 さらにCは、東国からやってきた武士団が進んだ土木技術で治水灌漑工事を行い、谷間出口の扇状地を開発したことが見えてきます。川から取水した用水路は、武士居館の堀に導かれ、下流に分配されていきます。こうしてみると堀は軍事的防御施設としてだけでなく、灌漑用の分水機能を持っていたことになります。
 各地の荘園研究からは、荘域と灌漑エリアが一致することが報告されています。
例えば播磨国斑鳩荘や近江国江部荘でも、荘域エリアと、井堰の灌概エリアが一致します。井堰の設置が平安末期にさかのぼる場合は、荘園開発のために開発開削されたこと、その灌概エリアが荘園一円化・荘域確定の際の根拠となっていったと研究者は考えています。ここでは「用水の掌握が領域支配確立の基盤の一つであった」ことを押さえておきます。
 これは「中世の灌概用水の管理権・給水権が、領主の中枢的権力を構成する」 と指摘する研究者(宝月圭吾、福留照尚)もいます。戸田芳実氏は、次のように述べます(要約)

在地領主制の根幹たる「所領」「本領」の所有は、単なる小作制に基づく地主的所有制ではなく、下地進止権を本質とし、自らの開発による「直営・勧農を根底 とした領主経営」がその淵源 にあった 。例えば平安中期の大和国の藤原実遠の所領の多くが名張川・宇陀川など大河に接しており、蓄財を投じてその治水・開発・勧農を行うことで実現されたものである。

荘園の安定的な支配のために、灌漑用紙を自らの管理下におくことは大きな意味を持っていたはずです。鎌倉時代の初期の居館が河川の水利開発と深い関わりを示していたこと、 初期在地領主がさかんに用水支配を行う存在であったこと、水利開発と用水支配が「所領」支配の根拠となり、その領主権のひとつの要素 となっていったと研究者は考えています。

 このような風景が讃岐で見えてくるのが丸亀平野の土器川と大束川に挟まれた法勲寺周辺です。
飯山法勲寺開発1地図
鵜足郡法勲寺荘(丸亀市飯山町)
法勲寺荘は土器川と大束川に挟まれ、飯野山の南側です。このあたりは古代寺院の法勲寺を中心に早くから開けた地域です。しかし、かつては土器川が流れ込み、大束川と合流し河津方面に流れ込んでいた痕跡があります。
大束川旧流路
飯野山南側の土地利用図 土器川の流入跡が見られる

飯山法勲寺古地名全体
この地図からは次のような情報が読み取れます。
①上法勲寺は条里制地割が全域に残り、古代から開発が進んだ地域である
②東小川は、土器川の氾濫原で条里制地割は一部のみ
③大窪池の谷筋や丘陵地帯も条里制地割は見えない
土器川の右岸は、氾濫原で条里制地割は見えません。古代の開発が行われなかった「未開発地域」だったようです。そこへ中世になると開発の手が伸びていくようになります。地図を見ると、太郎丸・黒正・末広・安家・真定や、東小川の森国・国三郎など、中世の人名だった地名が見られます。これらは、名田を開発したり、経営した名主の名前が付けられたものと研究者は考えています。

東小川を拡大して見ていきます。  まず中方橋のあたりです。
飯山法勲寺古地名新名出水jpg

「新名出水」という地名は、新しく開発された名田の水源となった出水のことです。土器川の伏流水を利用して、それまで水田化されていなかった氾濫原の開発に乗り出した開発領主がいたようです。地図で、開発領主の痕跡をしめす地名を挙げてみます。

「あくらやしき」「蔵の西」「馬場」「国光」「森国」「馬よけば」

「馬場・馬よけ場」という地名からは、武士集団の存在がうかがえます。彼らによって、いままで放置されていた氾濫原に用水がひかれ水田化したことが考えられます。つまり新田開発のための治水潅漑の土木技術をもった集団の「入植・開発」があったということです。

飯山法勲寺古地名2jpg

 中方橋の北側のエリアを見ておきます。

「明光寺又・円明院出水・首なし出水・弘憲寺又・障子又」

地名の後につく接尾詞の「又」とは何でしょうか?
「又」は用水の分岐点です。出水や用水分岐点は、水争いの場所にもなる所で、重要戦略ポイントでした。そんな所は、竜神信仰の聖地としたり、堂や庵などを建立して水番をするなど、農業経営維持のためのしくみが作られていきます。ここにも「堂の元(下)」という地名がみえますからお堂が用水管理のための施設として建立され、時には寝ずの番がここで行われたのかもしれません。こんなお堂がお寺に成長していくことも多かったようです。
 東小川の「障子又」は、「荘司」に由来するようです。
荘司は荘園の管理者のことですから彼の屋敷か、直接経営する名田があったのでしょう。居館のそばにお堂があったのかもしれません。そこには宇多津の郷照寺などを拠点として活動する念仏聖が住み着き、阿弥陀信仰や念仏信仰の布教場所になっていきます。同時に、芸能伝播者としての聖から風流念仏踊りなどが地域の人々に伝えられる場所にもなります。
高野聖は宗教者としてだけでなく、芸能プロデュースや説話運搬者の役割を果たしていたと、五来重氏は次のように指摘します。

(高野聖は)門付の願人となったばかりでなく、村々の踊念仏の世話役や教師となって、踊念仏を伝播したのである。これが太鼓踊や花笠踊、あるいは棒振踊などの風流踊念仏のコンダクターで道化役をする新発意(しんほち)、なまってシンボウになる。これが道心坊とも道念坊ともよばれたのは、高野聖が高野道心とよばれたこととも一致する。

滝宮牛頭天王社に奉納された坂本念仏踊りは、このような時宗系念仏聖によって伝えられたと私は考えています。
下のリストは承久の乱後に地頭として讃岐にやってきた東国の西遷御家人のリストです。

飯山地頭一覧
この中に鵜足郡法勲寺領の地頭職を得た壱岐時重が右から4番目にいます。 
 法勲寺地頭職を得た壱岐時重は、承久の変後に讃岐に置かれた新補地頭の一人です。『吾妻鏡』に、彼の地頭職を巡る判決が次のように記されています。(書き下し文)
 廿八日、発巳、讃岐国法勲寺地頭職壱岐七郎左衛門尉時重、本補新補両様を兼帯せしむるの由、雑掌之れを訴え申すに就いて、評定有り、年序を経るの由、地頭之れを申すといえども、其の理無きの間、一方に於いて者停止せらるべし、然らば本司の跡たるべきか、はた又、新補たるべきか、望み申に随って、仰せ下さるべし、一方注中すべきの旨、今日仰せ下され、云々
 ここに出てくる法勲寺とは法勲寺領のことで、荘・郷などと同格に扱われています。その地頭職持っていた壱岐七郎左衛門尉時重が「本補と新補」の両方の権利を主張したのに対して、評定では、その理はないので、一方どちらかを選ぶようにとの裁定が降されたとあります。ここからは、壱岐尉時が法勲寺領の地頭であったことが裏付けられます。
 それでは法勲寺領の地頭として讃岐にやって来た壱岐時重の居館はどこにあったのでしょうか?
 その候補地の一つが讃岐富士の麓のダイキ飯山店の下に眠っている居館跡です。

飯山国持居館2地図
土器川の支流が飯野山にぶつかり90度流れを変えるところにある飯山北土居遺跡

飯山国持居館3グーグル地図
グーグルマップで見た飯山北土居遺跡(武士居館跡)

武士居館
武士居館の復元モデル
この地図からは土器川支流の河川跡がはっきりとわかります。ここにはいまも伏流水がながれていて、この旧河道沿いに用水路が古代から確保されていたことが発掘調査から分かっています。それが下図の上井用水です
飯山町 秋常遺跡灌漑用水1
上井用水は、大窪池の下の谷間の出水を水源として、古代寺院の法勲寺や、鵜足郡郡衙跡(推定)を経て河津地区までまで用水を供給していました。古代に開削された用水路が改修を重ねながら現在にまで維持されてきた大型幹線水路です。今も下流の西又用水に接続して、川津地区の灌漑に利用されています。東坂元秋常遺跡の調査では、古代期の水路に改修工事の手が入っていることが報告されています。中世になっても、東坂元秋常遺跡の勢力が、上井用水の維持・管理を担っていたことが分かります。それは単独で行われていたのではなく、下流の川津一ノ又遺跡の集団とともに、共同で行っていたようです。これらの治水灌漑工事を中世初期に完成させたのが、飯山北土居遺跡の武士居館の武士集団=地頭としてやって来た壱岐時重であったと私は考えています。
灌漑用水網と居館群
 地頭などによって開発された用水路も後世になると、維持するのは各地域の農民達です。潅漑施設の維持管理のために、彼らは共同作業・共同管理を行うようになります。そのために各集落の人々が地域の郷社に集まり、有力者が宮座を形成して、祭礼をおこなうスタイルが生まれます。滝宮牛頭天王社に踊り込んでいた坂本念仏踊りも、そのような集落(郷村)連合で編成されたことは以前にお話ししました。

タイムトラベル 中世の村

 最初の中世の農村イラストは、以上のような潅漑施設の整備を通じて、地域の支配権を強化しようとする名主や武士集団の戦略が見えてもきます。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「帝国書院 中学校歴史教科書 タイムトラベル 中世の農村」です。



タイムトラベル 中世の村
中学校歴史教科書 帝国書院 タイムトラベル中世の農村

ここに描かれているのは、鎌倉時代の領主屋敷がある村です。承久の乱後に、東国からやってきた西遷御家人の地頭舘かもしれません。
谷間を流れる川沿いに水田が開かれ、谷の出口に領主屋敷があります。その前を川沿いに街道が走っていて、多くの人が行き交います。街道沿いには、定期市も開かれるようです。田んぼを見ると、稲刈りが行われ、刈り取った稲がはぜに架けられて干されていてます。収穫の秋の一日が描かれています。村の小高い丘には鳥居が見え、幟が立っています。神社の秋祭りのようです。そのために、琵琶法師や風流踊りの集団が街道をやってきています。今日は賑やかな秋祭りのようです。そして稲刈り跡の田には,貧しい女性(寡婦)や老女,子どもが落ち穂拾いをしています。落ち穂拾いは,こうした人々の権利であり,彼らの大切な食料となりました。
 今回は、その前面に描かれた武士居館を見ていくことにします。
武士居館を描いた史料絵図として、最も古いのが次の粉河寺縁起とされます。

武士居館 『粉河寺縁起』に描かれた河内国の長者の舘 
         『粉河寺縁起』に描かれた河内国の長者の舘 
 門前には、飾り付けた馬が繋がれています。門の前は深い堀があって、丸太の板橋が架かっています。その橋の上にいるのが、袈裟を付け、数珠を手にした垂髪姿の童行者(千手観音の化身)です。長者の娘の病を聞いて訪れ、門番に取り次ぎを頼んでいます。門番は家の中を指差して応対しています。その横を農民達が、唐櫃を担いで運び入れています。
 居館内側には竹藪がめぐり、その外を板塀が囲みます。板橋の前が入口で、そこには櫓門が建っています。上の屋形には、矢の束が見えるので、非常時にはここから矢が撃たれるのでしょう。屋形には帷が垂らされています。このような櫓門は、『一遍上人絵伝』巻四の筑前の武士の館にも描かれています。この時期になると、有力者が武装化し武士団が形成されていたことがうかがえます。このような絵図史料を参考にして、イラストは描かれています。

たいむタイムトラベル 中世農村解説3 武士居館
櫓(矢倉)門付近を拡大して見てみましょう。

タイムトラベル 中世の村 軍事拠点としての居館

ここでは居館が、武士という軍事集団(暴力装置)の軍事拠点であったことを押さえます。
周囲には堀が掘られています。ここでも唐櫃を担いだ人々が入って行きます。門を入ると馬屋があり、駿馬の世話をしています。中世の武士のたしなみは「弓馬の道」でした。源平合戦のスターは屋島合戦の那須与一です。彼は乗馬からの騎射で有名になりました。剣の道がもてはやされるようになったのは、江戸時代になってからです。武士にとって騎馬と弓射が最重要の武芸ですから,馬屋は大切にされ,きれいに掃除されていました。そして、高級車を持つことステイタスシンボルであるように、名馬を持つことが誉れでもありました。そのために馬には惜しげもなく投資したのです。高級外車は玄関前の車庫にあるように、玄関前に馬小屋があり、何頭もの馬がいます。

たいむタイムトラベル 中世農村解説4 武士居館

武士達が何をしているのか拡大して見ましょう。

タイムトラベル 中世の村 弓の作成


 庭では武士が弓の弦を2人がかりで張っており,もう1人の武士は弓の強さを試しています。中門廊では,武士が自ら矢をつくっています。弓の羽根などの材料については、強いこだわりがあって、どの鳥のどの羽根が矢羽根には相応しいとランキングまでされていました。ここからは、戦いのプロ=軍事集団としての武士の姿が垣間見えます。
武士達には、もうひとつ徴税官としての性格がありました。それが先ほど見た粉河寺縁起の中に描かれています。
『粉河寺縁起』に描かれた河内国の長者の舘2 貢納物 
粉河寺縁起
縁先の唐櫃(からひつ)には、山の幸である柿・栗・梨・石榴など、後から運ばれてくる方には、伊勢エビ・大魚・昆布・さざえなど海の幸が盛られています。腰刀を差した男が、よいしょと担ぎ寄せます。狩衣の老人が、手ぶりよろしく口上を述べます。

那珂郡小松郷佐文村の太郎兵衛からの貢納品でございます。赤く大きな伊勢えびに、縁起物の鯛に、よろコンブに、朝取れたばかりのサザエです。

なんて云っていたのかもしれません。
その後に、折枝に雉子を結わえて差し出す男。ほかにも、なにやら大事げに箱を棒げる痩せ男など、貧富さまざまです。しかし、その表情をよく見ると、彼らの表情は、心なしか暗いように見えます。それに対して、縁にどっかと腰を下ろして、目録に眼を通しているのが、この家に仕える家司のようです。家司のニコニコした顔と、里人の浮かぬ顔が対照的に描き分けられていると研究者は指摘します。
 これらの貢納品が長者(武士)の富になります。里人たちは、武力によって生業を保証される代わりに、様々な貢物が要求され、納めなければならない従属的な関係にあったことが見えてきます。これを支配・非支配の構図とよぶのでしょう。この絵図を参考にイラスト化されているのが次の部分です。

タイムトラベル 中世の村 貢納品

屋敷には米俵などがかつぎこまれ、家来たちが俵を調べています。縁には家司の武士がいて、唐櫃(からびつ)の中の年貢を,目録と照合しているところです。横にいる女性(領主の妻)は,織物・布を見ています。そばには,猫が紐でつながれています。中世ではつながれて飼われていました。また、この時代の屋敷は板敷きが基本で、畳は敷きつめられていませんでした。

以上からは中世の武士居館には、次のような機能があったことが読みとれます。

タイムトラベル 中世の村 地頭の定着


タイムトラベル 中世の村 武士居館

こうしてみると地頭として東国からやって来た西遷武士達は、武力を持った軍事集団で、警察署長と税務署署長のふたつの役割を持っていたことになります。そして彼らは新参者で、集落から離れた所に拠点を構え、武力を背景にして名主や荘司たちを圧迫していきます。同時に彼らは、東国で培った土木工事を梃子にして周辺開発を行います。
発掘調査などから分かってきた武士居館の復元模型を見ておきましょう。

武士居館
武士居館の復元模型
武士居館は各地域でばらばらなスタイルがあるわけではなく、全国的な定型モデルがあるようです。その背景には、鎌倉時代に東国武士達の西遷で東国スタイルの居館モデルが全国に普及したためと研究者は考えています。その際に、東国武士の信仰の厚かった八幡信仰が氏神(守護神)として持ち込まれ、それが近世になると村の鎮守に脱皮成長していくという筋書きになります。
 また、周囲の堀は上流から引いた灌漑用水の分水池の役割を果たしていたことは以前にお話ししました。その水域の水源と灌漑用水網を支配することで、地域の生命線を握る戦略もあったようです。武士集団が灌漑整備を積極的に行った痕跡が丸亀平野にも見られます。

例えばこれは江戸時代に描かれた「大(王)堀佐古絵図」(まんのう町吉野)を描いたものです。

武士居館 まんのう町大堀左古絵図

この絵図は、次のような情報が読みとれます。
①右上の濃紺部分が佐古(さこ=出水)
②土器川からの取水路が右方につながり、各方面に用水路が分配されていること
③堀の中央が江戸時代には水田化していたこと
④右側の堀の内部に社が祀られていて、少し小高くなっていてここに居館があったこと。
まんのう町周辺では、近世後半になっると神櫛王伝説が流布されるようになります。そのため、神櫛王の舘跡で「大(王)堀」と呼ばれるようになります。しかし、先ほどの居館模型と見比べると一目で、中世の武士居館跡であることが分かります。

大堀居館と潅漑施設

土器川や金倉川からの取水し、それを居館の堀に引き込み、下流の灌漑地域を自己の支配下に置いていた武士集団がここにはいたことになります。そして、その居館では、イラストに描かれたような武士達の活動や生活があったことが想像できます。
灌漑用水網と居館群
中世居館と井堰型水源4
武士居館の水堀で分水されて下流に用水が提供されている

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
帝国書店 中学校歴史教科書 タイムトラベル 中世の農村
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タイムトラベル 奈良時代
中学校の歴史教科書(帝国書院)の「タイムトラベル 奈良時代」のイラスト
中学校の歴史教科書(帝国書院)には、絵図史料の時代考証をきちんと行ったうえで、各時代のようすが載せられています。今回は、その中の奈良時代の国分寺建設の風景を描いたものを見ていくことにします。
 まず季節を確認します。右端で、女性が稲の刈り入れを行い,調・庸などの税を納めるようすが描き込まれているので秋ということがわかります。男達は半袖や上半身が裸で働いているので晴れた暑い日のようです。画面は左側の国分寺建設と右側の大道部分に分けられます。
 国分寺は、741(天平13)年に、聖武天皇の発願で国府近くに僧寺と尼寺をセットで建てるように勅命がだされました。これにもとづいて各国に派遣された国司は争うように国分寺建設に着工します。そのための資金と労働力集めが彼らの手腕の見せ所となります。讃岐では国府の東の国分台の麓で建設に着工し、金堂・講堂・五重塔・僧坊などの伽藍が姿を見せるようになります。『続日本紀』には天平勝宝8歳(756年)に「讃岐国を含む26か国の国分寺に仏具等を下賜」とあるので、この頃には伽藍が整っていたようです。

 全国の国分寺の伽藍は、方2町(約210m四方)が標準で,中門と金堂を回廊でつないだ空間の外側に,塔・講堂・僧坊(共同生活所)などを配置するのがスタンダード版でした。

讃岐国分寺 伽藍
讃岐の国分寺の伽藍配置
讃岐の国分寺は、南北240m×東西220mで、南北が少し長く、現在は東隣に隣接する宝林寺も寺域に含んでいました。大官大寺式伽藍配置で、中門・金堂・講堂が南北一直線上に並び、中門と金堂を回廊で結んだ内側の区画の東側に塔が建てられていました。
 国分寺建設の目的は,疫病や兵乱,新羅との緊張関係などから国家鎮護を願ったものとされます。その建設地の立地条件については、人々の集まりに便利な「好処」を選べと命令されています。讃岐国分寺は、南に南海道が東西に走り、国府にも近く、五色台をバックに南面して髙松平野を望む「好処」といえます。ここに描かれているような工事作業が行われたことが想像できます。

タイムトラベル 奈良時代 国分寺
        タイムトラベル 奈良時代の拡大 国分寺建設(帝国書院 教科書)

  国分寺の建設現場では,人夫たちを監督する役人たちが描かれています。
役人は、次のように服の色で身分(位階)がわかるシステムでした。
A 四位と五位の貴族は緋(あけ)色 ( 四位は深こき緋,五位は薄緋)
B 六位と七位は緑色
C 八位と初位は縹(はなだ)色

古代官職と衣類の色
そうすると、ここに描かれている人の中で一番偉いのはウの緋色を著て馬に乗っている役人になります。
国司の編成 丸亀市史
国司の編成表
上の編成表からすると、
① ウは五位以上の貴族で,中央から派遣された長官(国司の守)
② そのまわりで緑系の服のを着て木簡や笏を持つ役人たちは六位以下
③ 青い服の役人は、さらに下級の者で、地方採用の官吏

讃岐国司(守)としてやってきた菅原道真は、浅緋色の服を着て職務をこなしていたことになります。また、地方の郡司クラスの子弟で、国府に採用された綾氏のような人達は、青い服を着ていたのでしょう。
讃岐国分寺建立の頃の三木郡大領の小屋県主の宮手を見ておきましょう

宮手は、罰を受けた妻の虫女を救うために多くの財を東大寺に寄進したと日本霊異記は次のように記します。
三木郡の田中真人広虫女の夫・小屋県主宮手とは?

しかし、東大寺への寄進の目的は、それだけだったのでしょうか? 『続日本紀』765年の「天平神護」には次のように記します。

「讃岐国の人外大初位下日置(叱)登乙虫、銭百万を献る。外従五位下を授く。」

ここには讃岐の日置(叱)登乙虫が銭百万両を国家に奉納する代償として、外従五位下の爵位を得ています。銭を献上することで、官位を得ています。いわゆる売官制度です。771年(宝亀二)には、三野郡の丸部臣豊球は、私財を貧民のために投じたことで官位を授けられています。この時期になると、郡司などの地方役人の経済基盤が掘り崩されてうまみがなくなります。そのため空海の実家の佐伯直氏などの本家も本貫を京に移し、中央貴族化をめざす動きが現れることは以前にお話ししました。その兆しが見え始めているのかもしれません。讃岐国分寺は、このような有力者の寄進を受けて進められたようです。
古代国家が姿を現す頃の讃岐

『万葉集』の山上憶良「貧窮問答歌」には、ムチをもって税を取り立てにくる里長が描かれています。里長のような下級の役人には、徴税権と刑罰権がセットで与えられていました。ここに登場する人夫達も里長によって割り当てられ、動員された農民達であったことになります。彼らの労働は「雑徭」で、賃金が支払われることはなく、無償の労働提供でした。つまり人頭税でした。
  税の名前  納めるもの    納め先      対象
租(そ) 稲(収穫の約3%) 地方の正倉 口分田を持つ男女
調(ちょう) 布・絹・地方特産物 都(中央政府) 成年男子
庸(よう) 都での労役10日(または布2丈6尺) 平城京 成年男子
雑徭(ぞうよう) 無償労働(年最大60日)地方の役所 成年男子
出挙(すいこ) 稲の利子(50〜100%) 国・郡や貴族 農民全般
道路に面した竪穴式の作業小屋では、国分寺を荘厳する金属製品が作られています。

タイムトラベル 奈良時代 大道と側溝

足踏みのふいご
炉とるつぼ
鋳型
などを使って技術者集団が釘などを作っています。その背後の建設現場では材木の加工が,やりがんなや手斧により行われています。これらはハイテク技能を持つ技術者集団でなければ担当することはできません。そのような職能集団を確保することも国司の手腕だったのかもしれません。絵図には,過酷な労働で倒れている人夫も描かれています。建設材料の運搬には荷車や修羅(しゅらら)が使われています。
 寺院は瓦葺きでした。そのため瓦を焼く半地下式の登窯が粘土が確保できる所に作られます。
遠くに煙が何本も上っているのが登り窯です。この姿は、藤原京の宮殿の瓦を製造するために誘致された三豊市の宗吉瓦窯の登窯を連想させます。

宗吉瓦窯 想像イラスト
宗吉瓦窯(三豊市) 船で遠く藤原京に運ばれた
寺院の瓦を焼くために作られた窯なので、工事が終了するとうち捨てられ、技術者集団も次の作業現場へと去って行きます。これも渡来人集団のハイテク技術に頼らなければなりませんでした。ちなみに瓦を作る粘土は、左の前方後円墳を削り取った土が用いられています。この時期になると、かつて権力の象徴であった前方後円墳は、その用途も忘れ去られ、信仰の対象でもなかったことがうかがえます。

タイムトラベル 奈良時代 大道と側溝

画面右側には、真っ直ぐに伸びた「官道」が描かれています。いろいろな人々が歩いています。
まず調庸を平城京に運ぶ「運脚夫」が大きな荷物を背負って役人に引率されて歩いています。大きな荷物の中身は,何だったのでしょうか。荷物の脇には,調庸の種類や量,納税者の所属する国郡名を記した「木簡」がつけられています。手前の人物の木簡には「遠江国」と記載されているのが読み取れます。
貢納品荷札の例
調として都に運ばれた荷物に付けられていた木簡
この木簡からは尾張国知多郡の農民が調として納めた塩が納められていたことが分かります。
讃岐からも塩が運ばれたことを裏付ける木簡を見ておきましょう。

讃岐国三野郡阿麻郷・戸主佐伯直赤猪調塩三□〔斗

讃岐国阿野郡日下部犬万呂―□四年 調塩」平城京
この他にも讃岐から運ばれたモノとしては、次のような木簡が正倉院に保存されています。
讃岐から運ばれた調 木簡


庸は、平城京での労役10日か布2丈6尺でした。これは布で納める方が、農民達には有利だったので布が納められています。調は、布・絹・地方特産物で、その長さも決まっていました。23は鵜足郡小川郷の戸主大伴首三成が調(特産品)として納めた布です。讃岐からは布が調や庸として実際に都に運ばれていたことが裏付けられます。その他に伊豆からは鰹節が送られています。
都に送られた調 特産品

イラストの運脚の中には、疲れのためにうづくまる者も描かれています。
 
都に調を運ぶ農民達
授業実践例の中には、それぞれの人達のセリフを考えさせて、そのあとグループで集団決定して、それを演じるという事例も報告されています。楽しい授業になりそうです。
A もう歩けない 疲れた
B 何をしているのだ! それでは今日の駅家までたとりつけないぞ。立って歩け
C こっちは重い荷物をかつがされているんだ。あんたは馬に乗って怒るだけか
D 振り返るな さっさと歩け 
E おおい! 水を持ってきてくれ!
運脚夫の後ろに隊列を組んでやってくる一段は、都や九州などに送られる兵士たちのようです。
防人が残した手紙

野田嶺志『防人と衛士』教育社歴史新書、p144には、次のように記されています。
「防人の武器は、自前の随身兵器と国家営造の戎器からなっていた。(中略)
防人の私自備の器杖は、兵器と戎具であった。刀剣・弓箭を自装したと思われる。しかし、(中略)私有を禁じた兵器として、弩・甲があげられているところから、甲冑を自装していたとは思われない。(中略)
防人ひとりひとりの武装状況は、刀剣と弓箭であったと考えられる」。
防人達は、武具も食糧も自弁で徴兵されていたと研究者は考えています。国家支給のGI(ガーバメント イッシュ)とはほど遠い存在でした。世界中の古代国家の財政基盤は、土地税ではなく人頭税です。律令国家でも租よりも、庸や雑徭の方が農民にとっては負担が多かったのです。その中でも防人や衛士として徴兵は最大の負担となりました。別の見方をすれば、このイラストには農民の最大の負担である労働地代(人頭税)としての以下の三つが描き込まれています。
A 雑徭(国分寺造営工事や官道整備)
B 都への庸調の運搬
C 防人や衛士としての徴兵   

都と諸国を結ぶ交通動脈として、白村江の敗北の後に軍用道路としてして整備されたのが東海道・東山道など七道の「官道」です。

1300年前のハイウエイを探る -古代官道ロマン-:古代官道ロマン

紀伊と四国は南海道に属し、讃岐には紀伊・阿波を経て南海道が伸びてきました。この道路は以前にお話ししましたが、側溝をもつ幅10mを超える直線道で,16㎞ごとに馬を常備した駅家(うまや)がおかれていました。まさに「古代の高速道路」でした。この官道を使って、平城京へモノは運ばれました。瀬戸内海の海運が利用されるようになるのは、もう少し後のことになるようです。
絵図には、道の両側に側溝を掘っている人夫が描かれています。

古代の山陰道の復元イラスト
                古代の山陰道の復元イラスト(鳥取県埋蔵文化財センター)

この側溝が丸亀平野からも出てきたことは以前にお話ししました。

岸の上遺跡 南海道の側溝跡
丸亀市飯山町の岸の上遺跡 南海道の側溝 道は一直線に善通寺の我拝師山に続く

こうしてみると、南海道は人とモノの輸送を円滑に行うためのものではありますが、そこに次のような明確に国家意思が表れています。
①始皇帝の大道のように、軍事道路で軍隊移動の円滑化
②全国の物資を支配者のすむ平城京に運ぶための輸送道路
つまり、地方のモノと人を収奪し、中央の支配者に納めさせるシステムの一部だったとも云えます。これを中央集権制度と呼ぶのでしょう。戸籍と土地台帳で、個別人身支配体制を作り上げたヤマト政権が中央に富を運び、軍隊を円滑にスウイングさせるために必要なシステムとしておきます。そして、中央に富を吸い上げられた均田農民たちは、有利な場所を求めて有力者の庇護下に入っていきます。それが荘園制への移行へとつながると中学校では教えているようです。
たタイムトラベル 均田農民の没落背景 

 この絵図は、讃岐の古代の姿が垣間見えてきます。想像力を羽ばたかせながら絵図をみることを楽しんでいる今日この頃です。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
帝国書院 中学校歴史教科書 タイムトラベル 奈良時代
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講演会 満濃池と西嶋八兵衛ポスター

今年もまんのう町の町立図書館で、3回のお話しをすることなりました。最初は、満濃池シリーズの3回目で、西嶋八兵衛について上記の通り取り上げます。興味と時間のある方の参加をお待ちしています。

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https://www.youtube.com/watch?v=K0gHOxzXlhw(動画)


  前回までに、召集令状(赤紙)と、役場の兵事掛かりについて見てきました。今回は、徴兵された兵士達がどのようして村の人達から見送られて出征していったのかを見ていくことにします。テキストは「 吉良芳恵 昭和期の徴兵・兵事史料から見た兵士の見送りと帰還 国立歴史民俗博物館研究報告第101集2003年3月」です。
国防婦人会/藤井 忠俊|岩波新書 - 岩波書店

 藤井忠氏は著書「国防婦人会」には、次のように記します。

日中戦争からアジア太平洋戦争の時代は、出征兵士と送り出す側の「別れ」が生み出す一体感が、戦争を「聖なるもの」とした。

出征兵士を送り出すセレモニーが、送る側と送られる側の一体感を作りだし、それが戦争を浄化し、「聖なるもの」としたというのです。それでは、実際にどのような見送りが行われていたのか見ていくことにします。
1932年の満州事変後に、市町村では入営・除隊兵の歓送迎会が毎年開かれるようになります。
長野県南佐久郡野沢町でも、小学校で会費10銭で歓送迎会が開かれています。その準備のために在郷軍人会と青年団の役員は、入場券を売りさばくために各戸を訪問し、出席を要請してまわっています。これが軌道に乗った4年後の1936年1月5日の兵士送迎会の案内状には、次のように記されています。
 兵士送迎会は除隊の兵士諸君を迎へてその労を謝し、新に入営せらる兵士諸君の行を壮にしてその前をする意味を以て全町を挙げて送迎会でありますから、子供が会員券を持つて来て受付で菓子を貰ってそのまま、すぐ帰ると云ふやうなことでなく、(中略)
なるべく大人の方々が出席せられて終りまで会に列せられ、奉公の大義に出入する町出身の兵士諸君を心から送迎するの誠を現はしていただきたいことであります。
 ここからは、子供らが大人のかわりに菓子をもらいに来るような「お祭り」感覚の雰囲気が強かったことがうかがえます。そういう意味では、「兵士を支える銃後体制の構築」という軍のねらいには、ほど遠い性格だったようです。
 1932年2月23日になると、第14師団管下の松本第五〇連隊にも動員令が下されます。
長野県下で召集された兵士達は翌24日から3月1日にかけて、松本、宇都宮、水戸の各部隊に入隊し、第五〇隊は3月5日に松本を出発します。その連隊が帰還するのは、1934年5月のことです。この時期になると兵士が出征する度に、小学校で壮行会や送別会が開かれ、在郷軍人会が分会旗などを先頭に町村長分会長小学校長、町村会議員、助役、各種団体員、町村民が、旗やとともにパレードで停車場まで兵士を見送るようになります。
「野沢町報」は、次のように報告しています。

青年訓練所生徒が行列の整理にあたり、小学校生徒は途中まで軍歌「天に代りて不義を打つ」を合唱しつつ見送った。主婦会・女子青年団等の婦人団体員の参加が特に多かった

 ところが戦争熱がおさまった1934(昭和9)年になると、昭和恐慌の影響もあって入営除隊のあり方が問われるようになります。
12月13日頃に、第二師団管下の独立山砲兵第一連隊長が、各町村に入隊の際の祝費節約について次のように通達しています。
現下 非情時局に直面し珠に最近東北地方一般に凶作不況の折柄、入営者に対し各町村に例の如き祝意を表せらる事は努めて省略せられ、単に物質的よりも精神的の意に止められ、以つて冗費の節約と将来除隊に際しての返礼用土産物の費用を成るべく節約せしめられ度き考えに有之、当隊にては毎年等の習を打破する如く努め居りふも往々入営前に是等祝儀及祝品を預かる関係上、自然除隊に際してかる返礼に苦慮し相当の金銭消費致し家政上からさる工面と苦慮にはされ居る者も有之、次第に就き、各位特に在郷軍団、青年団員各位の御賢察と御指導により是非此際無汰を省略する様御取計らい相成度(44)

意訳変換しておくと 
非常時の時局に加えて、最近は東北地方が凶作不況なので、入営者に対して例年のような過剰な祝意を行う事を省略するように伝えること。物質的よりも精神的に祝意を表し、冗費の節約につとめるべし。また将来の除隊の際には、返礼の土産物用費用が必要となり、それが家計を苦しめているとも聞く。当隊では、毎年の悪習を打破することに努めているが、入営前に祝儀や祝品を貰った以上は、除隊の際に返礼品を送ることが恒例化しており、家計を圧迫している。ついては、在郷軍団、青年団員各位の指導により、これらの悪習を省略するように取計らって欲しい

 隣接する東北農村が凶作に苦しんでいる中で、入営兵への送別餞別や除隊兵の返礼などの冗費節約を求めています。
 同年の12月24日には、高田連隊区司令官が市町村長へ次のような指示を出しています。
入営壮丁や付添人や町村吏員について、宿舎の設備や待遇などについて苦情を漏し不平を述べ不合理なる要求をなすものありとの噂を聞く。しかし、その多くは入営壮丁ではない。
(中略)付添人、町村吏員の中に不心得の言動をなすものあるようだ。宿舎に蒲団寝巻(中略)の差し入れ以外に酒食を強要したり、飲酒が横行して無垢の青年達を毒している。
ここからは、満州事変から数年が経過して、軍隊内部での士気や規律が弛緩して、入営兵の付添人や役場吏員の中には入隊に際して、目に余ることが多かったことがうかがえます。しかし、これらの通達でも改善はされなかったようです。翌年の1935年10月19日にも、再度市町村長に「入隊兵の別及除隊兵の土産物廃止に関し御協力相成度件通牒」を送付し、次のように要望しています。
 除隊兵か土産物を購入するためには在給せらる、給料(伍長勤務上等兵七円、上等兵六円四〇錢、一二等兵五円五十銭)中より毎月(一人平均二十五円位にて貯蓄せる金額の殆んと全部手拭等を購入し除隊前人をして郷里に小包郵便等を送せしめ置くを一般の風習とす)を消費しある状況にして、此際家市町村民の時弊矯正を断行するの勇気に欠くるには、を旨とし勤の美をしを郷里に及ぼすべき所謂良兵良民主義の軍隊教育の効果を実現することはさる次第と存しと述べた上で、さらに次のことを要請した。
 市町村民を一層徹底的に啓発指導せられ、入除隊の際は各戸に国旗を掲け入隊兵の壮行会除隊兵の歓迎会等は貧富の別なく一様に氏神の社殿に於て之を行ひ、神殿に詞を捧げしむる等、天皇親の皇軍の本義に基づき最も熱誠ある精神的行事を挙行し、一方幟旗(祝入学祝除隊記名あるもの)餞別、土産物等市町村民の負担に係はる物質的儀礼は一切之を廃止する様致度存し居り右重ねて御依頼申上候
意訳変換しておくと
 除隊兵が土産物を購入するためには支給される給料(伍長勤務上等兵七円、上等兵六円四〇錢、一二等兵五円五十銭)の中から毎月25円位を貯蓄して、手拭等を購入して除隊前に郷里に小包郵便で送付させておくようにしている。この際に、市町村民の悪習矯正を勇気を持って断行して欲しい。それが郷里に良兵良民主義の軍隊教育の効果を実現することにつながる。
市町村民を啓発指導して、入除隊の際には各戸に国旗を掲けること。
入隊兵の壮行会や除隊兵の歓迎会などでは貧富の別なく氏神の社殿で、式典を行い、神殿に詞を捧げること。
皇軍の本義に基づく精神的行事を挙行すること。
幟旗(祝入学祝除隊記名あるもの)や餞別、土産物など市町村民の負担なるような物質的儀礼は一切廃止すること
以上を、重ねて依頼申上げる。
ここまでをまとめると次のようになります。
①満州事変以後の段階では、入営・除隊兵の歓送迎会は、戦争に民衆を送り出すための装置として盛大に行われていた。
②それが世界恐慌後に農村が疲弊すると、軍は民衆の負担となる餞別や返礼などの廃止を要望するようになったこと。
③代わりにお金のかからない精神的なセレモニーを行うように市町村に指導通達を繰り返していた。

満州事変から5年後の1937(昭和12)年7月7日、軍部は柳条湖事件を引き起こし、日中全面戦争へと突入します。
このため軍は大規模動員に迫られ、全国で在郷軍人への赤紙が配られ始めます。この年には93万人の兵士が動員されます。そのうちの約60万人が赤紙召集兵で、現役兵約34万人に対して、ほぼ倍の人数が召集されます。満州事変に比べると桁外れの動員が行われ、社会に不安と動揺を与えたようです。
 日中戦争開始後の長野県の南佐久郡の動員を見ておきましょう。
① 7月16日、桜井村では郷軍分会長が会旗とともに、召集兵を中込駅まで見送り。
② 7月20日、戦勝祈願祭が村社桜井神社で開催。
③ 7月16日、八月村でも平賀神社で武運長久祈願祭が挙行
④ 小学校で村民参加の壮行会が開催
 こうして兵士が召集されるたびに、各村社で各種団体、小学校、村民一同等による皇軍戦出征軍人安祈願祭を開催され、小学校では村民による壮行会が開かれることがパターン化します。

出征兵士2
皇軍戦出征軍人安祈願祭 出征兵士の名前が並んでいる

そして8月23日になると、中込駅長の音頭で、郡下の桜井前山・野沢・大沢・平賀・内山・申込の七つの村が協議して所定の場所での送迎会を合同でおこなうことが決定します。こうして応召兵を送り出す宴と武運長久を祈る祈願祭である「赤紙の祀り」が始まります。

イメージ 1
婦人会による駅での見送り

 その中で問題になってくるのが、動員に関する機密秘密の漏洩です。
 軍の機密事項である軍用列車の発着日時をめぐり、時刻等を事前に知らされていた駅長と在郷軍人等各種団体との間に軋轢が生じます。兵士の送迎では、駅長の役割が大きかったことは先ほど見たとおりです。出征兵士の壮行会や歓送会を盛大にやることは、動員の秘密事項保持と矛盾します。
 8月19日、高田連隊区司令官が町村長在郷軍人分会長に「出征軍人部隊送に関する指示」を送付して次のように指示しています。
 精神的歓送は盛大に行われることを希望するが機密保持も絶対必要である。ついては、
駅での見送りは入場数を制限する。そして出発前に各市町村で盛大なる壮行式を行ことにする。その席には、官民や出征兵家族を出させるが、駅での歓送は、機密保持のために、以下の人間のみに制限する
 1、官公術、市町村並学校(中等学校、青年学校小学校等)の代表者(学生を含む)
 2、在郷軍人連合分会及同分会代表者
 3、各種団体 男女青年団、婦人団体、教育会、神職会仏教界、自警団、町会代表者
 4、出兵兵の家族
ここでは駅での見送りは、規模が縮小されたことを押さえておきます。
そして、次のような注意書が付けられています。
一、歓送用国旗は携行してなきも、之を列車内の将兵に手渡し
二、発車の際は列車に向ひ隊列を整へ、知事又は市長等の声にして万歳をへられたし
三、在郷軍人会、愛国婦人会、国防婦人会青年団等は補充に援助を与へられたし、但し発車の直前定位に復せられたし
しかし、この通達はすぐに展開されて、9月27日に新しい通達「第二師団司令部の要望事項に関する件」が市町村長へ送付されてきます。

 今次動部隊の各編成地出発に方り、停車場の見送りは連隊区司令部又は部隊より出発時刻を通知せる最小限の人数以外は、停車場構内への入場は禁止すべき方針にして、後の熱誠なる後援にゆるには極めて冷淡にして情に於てはひさる所なるも、発動完結後の部隊の行動は全くの軍事行動にして、特に輸送の日時等は絶対とする為め、必要止むを得るに出てたるものなることを諒せられ度

つまり、人数制限して駅での見送りを認めた前通達を撤回し、駅構内への入場を禁止するものになっています。今までは盛大な歓送を奨励していたのに、冷淡と批判されようが、動員の秘密事項は守らざるを得ないことを銃後民衆には納得してもらいたいという内容です。こうして駅での見送り禁止されました。しかし、応召兵の祈願祭や壮行式、駅までの見送りが禁止されたわけではありません。長野県南佐久郡内の「桜井時報」や「野沢町報」にも、それらのその壮行式等が盛大に行われたことが記事として掲載され続けています。
 
武藏嵐山駅前で鎌形の入営兵歓送

武藏嵐山駅前で鎌形の入営兵歓送

こうした中、12月23日に南京が陥落すると、戦争は終わったとする弛緩した空気が広がります。
そして任務を終えた部隊が郷里に帰還するようになると、これを盛大に迎えようとする動きが高まります。これに対して、1938年3月初めには、陸軍省兵務局長の通牒「帰還軍隊の輸送間に於ける送迎に関する件」が市町村長に送付されてきます。その内容は次の通りです。
此等部隊は事変の終結により帰還するものに非すして、今後の長期持久に即応する如く、出動部隊一部の整理交代に基つくなるをて、其の歓送迎は専ら精神的方面に意を用ひ、形式的事項は力めを抑制し、以て緊張したる国民精神を消せしめ延びてつ地に在る出動部隊に及ぼす等の事からしむる如く深の考慮を払必要がある

意訳変換しておくと

この度の帰還部隊は事変終結により帰還するものではない。今後の中国戦線での長期持久に対応するための部隊の整理交代である。そのため歓送迎については精神的面に限定し、形式的祝い事などは抑制すること。緊張した国民精神を弛緩させる出動部隊の戦意を弱めることのないような考慮が必要である

ここでは戦争は終わったという気分と、長期戦になるという軍部の思惑のちがいがあったことがうかがえます。かつての露戦争時の凱旋とは、意味が違うというのです。別の所では次のような注意も行っています。

 帰還者に対する歓迎の様式程度に就ては、色々の考方もあろうと思ひますが、決論的に申せば、官民が今迄やつて来た還送勇士に対すると同様にするのが適当と存するのであります。一切の歓迎会、祝賀会等は之を行はず、幟や流し等は之を廃し、最も精神的に感謝の意を披して之を迎へ、其の労功をたいと思ふのであります。特に帰還兵に対しては、凱旋の辞句を使はしめぬ様にせられたいのであります。村に帰った際、氏神様の社頭を挙行し、神前に供た冷酒を戴いて武運の加護を謝し、将来の報告をふ等は最も望ましい事であります。未だ勝利したのではありません。(中略)
貴き犠牲者の遺骨さへ尚、大部は帰還して居ないのであります。又その慰霊の行事さへ十分出来ぬ情勢に於て祝賀会を実施すると云ふ事は適当でないと考へます。

 軍としては、兵士の帰還は単に部隊の交代であり、まだ戦争が終わっていないことを強調しています。死者の家族のためにも、凱旋気分で帰還兵士の歓迎会や祝賀会をしないよう、幟やアーチや旗などで迎えぬよう指示しています。
入営祝い幟
入営祝いの幟

さらに3月5日に陸軍省副官は「召集解除者の贈答等虚礼廃止に関する件」を通知しています。
 部隊の交代整理等により召集を解除せらるる者か、応に当り受けたる送別に対し餞別返礼等贈答に腐心するからさる様にして、巷間にも之が制止方要望し来るものあり。
 時局は尚愈々重大を加ふるの秋、多くの戦友たち召集を解除せらるる者は充分其の言動を慎重ならしむるは勿論、特に無意義な贈答等の虚礼は百害ありて一利なきものなることに深く留意し、断然之を廃止し、寧ろ帰郷後は率先銃後の核心となって尚戦地に残戦友の労に報ゆる如く、此等召集解除者に対しては充分なる指導を加へられ度。
 帰還兵が出征前に受けた餞別についての返礼を・贈答を行わないように通達指導せよとの内容です。ここからは、餞別の返礼等が依然として残っていたことが分かります。
以上をまとめておきます
①満州事変後に、軍は入営兵への餞別や除隊兵の返礼などの冗費の節約に力を入れるようになった。
②日中戦争後に、多くの兵士が動員されるようになり、応召兵の赤紙の祭礼が始まった。
③戦争が長期化すると、軍は防諜を理由に入営・応召兵の壮行会や歓送会、激励会、武運長久を祈る祈願祭の簡素化を試みた。
④特に日中戦争の帰還兵士の歓迎には神経をつかい自粛を求めるようになった。

このような軍の方針は、1941年7月のが独ソ戦開始と、12月のアメリカとの開戦で、紆余曲折をたどることになります。それはまた別の機会に。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
吉良芳恵 昭和期の徴兵・兵事史料から見た兵士の見送りと帰還 国立歴史民俗博物館研究報告第101集2003年3月」
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前回見たように徴兵名簿作成で大きな役割を担っていたのは、役場の兵事係でした。彼らは、徴兵検査や召集令状の交付だけを行っていたのではありません。今回は、兵事係の果たしていた役割について見ていくことにします。テキストは「吉田敏浩 赤紙と徴兵」です。

赤紙と徴兵

各役場には兵事係という担当者がいました。彼らの業務を挙げておくと次のようになります。
A 出征兵士の見送り
B 武運長久祈願祭の開催
C 戦地への慰問袋の取りまとめ
D 戦死者の告知と公葬
E 出征軍人家族や遺族の援護
DSC00582
A 出征兵士の見送り (観音寺)


DSC00572 戦死者村葬 昭和13年 仁尾町
戦死者の村葬(仁尾)

ここからは徴兵制に関わる村役場の業務を兵事係が一人で担当していたことが分かります。

次に徴兵名簿が出来るまでのプロセスを見ておきましょう。
①戸籍簿と徴兵適齢届に基づいて家庭環境、経歴、病歴、性格、品行、風評などを調べて「現役兵身上明細書」を作成
②「在郷軍人名簿(在隊時の勤務状況、品行、賞罰等在隊間成績調査)
③赤紙(召集令状)の交付記録、動員日誌、召集令状の交付手順を記した動員実施業務作成
④家の不動産や戸主の収入、課税額の調査
⑤「特に注意すべき件」には「他人の無品を掠めるかもしれない性癖」等の個人情報記入
⑥在郷軍人名簿の作成
こうして出来上がった一覧表リストは、次のように各師団に集約されていきます。
①市町村は毎年1月10日までに県の兵事官に提出
②県の兵事官は、1月20日まで陸軍の連隊区司令部に提出
③連隊区司令部は、1月31日まで所属師団長に提出
④各師団長は「師管壮丁人員表」を作成し、2月10日までに陸軍大臣に提出
⑤大臣は天皇の裁可を経て毎年の徴集人員を連隊区司令部に割り当て、更に末端の市町村に割り当て
こうして徴兵名簿が各村に送られてきます。 兵事係を務めた人の回想が載せられているので見ておきましょう。
「赤紙は昼夜の別なく来ましたが、来るのはなぜか夜間が多かったです。軍事機密に関わるからでしょうか。警察署から「動員令予報」の電話があり、役場の宿直の使丁(小使い)が自宅に知らせにくると、すぐに役場に行きました。村長と兵事係と書記と収入役が役場に集まって、警察官が赤紙を届けにくるのを待ちます。それが届くと「在郷軍人名簿」と照らし合わせて氏名など間違いがないか確認するんです。人の命がかかっているので、間違いがあってはいけません。何回も見直して、とても神経を使いました。兵事係の責任は重大なんです」

「そして、自転車に乗って赤紙を届けました。大阪や京都に出稼ぎや丁稚奉公に行っている人も多かったので、本人がいないときは家族が受け取りました。本人には家族が電報などで知らせるようにしていたんです。赤紙を朝、配るときもあり、本人が家にいなくて田や畑に出ていれば、そこまで行って渡したものです」

「また、私だけでは配りきれないので、信頼できる青年団員にも赤紙を配る使者の役目を頼みました。「動員令予報』があると、前もって決めてある村内令状配達区域の青年団の若者を役場に呼び集めたんです。そして自転車で配達させました。」
「ただ、家によっては何人も召集された家もあります。だから、すでに出征者のある家や戦死者が出ている家には、必ず私が届けるようにしました。やはり気の毒でしたから……
   出征した五人の息子さんのうち三人が戦死した寺田利兵衛さんの家に赤紙を届けたとき、本人が不在で代わりに利兵衛さんが受け取り、「そうですか、また来ましたか」とじっとうつむいて、ぽろっと涙を落とされたこともありました。あのときは、こっちまで泣けてきました……。
どの家も働きざかりの息子や夫を軍隊に取られて、戦争で命までも取られるかもしれないのですから。赤紙というのはただ簡単に渡せるものじゃないんです。赤紙を配るのはつらいことでしたが、国のため、役目だと思ってやりました」
赤紙通達人 1
赤紙通達人2
赤紙を各家まで配ったり、戦死の知らせを家族に伝えたりする「陸軍動員用急使」の札。札の裏には、次のように記されています。

「これを持っている者は動員用の書類をもち最重要な任務についているので、万一事故にあった時には、最寄の巡査駐在所か村役場に急報するように。

軍からは兵事係などの「動員用急使」に対して13条の「赤紙を配達する者の心得」を次のように示しています。
①途中乗り物が破損して急に修繕のできないような場合には、直ぐ下りて少なくとも1時間4キロ以上の速さで行かねばならない。
②自転車は全速力で走らせ、途中で誰かに話しかけられても、決して応じてはならない。自転車は止めてもいけない。 
⑨令状等はなるべく5分以内に渡すように心がけねばならない。
⑨は到着して相手と話す時間まで決めています。感情移入が起こる人間の心を察して、それを押し殺して渡して、指名押印させたらすぐに引き上げよということでしょうか。

兵事係には、赤紙を渡した後の「町内巡視」報告の提出も義務づけられていました。
規則では「条令(赤紙)発送後、巡視係を命じ巡視せしむ」とあります。そのため役場の書記や書記補佐を巡視係として赤紙受領者(応召員)の身辺を監視しました。赤紙を受け取った応召員の士気とその家族の様子、その周りの住民の様子などを含めて巡視係は兵事係に報告しています。兵事係はそれを詳しく記録して報告しています。まとめられた報告書の一部を見ておきましょう。

「応召員 志気最モ旺盛ニシテ、令状受領セバ直チニ体ヲ潔メ、自家の神仏に生還を期セジトノ出征ノ旨ヲ告ゲ、家族又応召者ニ対シ志気ヲ激励シ、村民一般国家的観念盛ニシテ応召員ノ出発二際シテハ全村民挙ゲテ駅頭ニ歓送セリ。」p132

「自家の神仏に生還を期セジ」と「一般国家的観念(天皇陛下万歳)などのフレーズが決まり文句となって綴られています。
しかし、戦後になって兵事係は次のように回顧しています。
「当時、村の人たちはみんな、口にこそ出しませんが、自分の家に私(兵事係)が来なければいいと思っていたはずです。私が自転車に乗って走っていると、いったいどこに行くのか、どこかの家に赤紙を届けているのではないかと、いつもみんなが私を見つめて、注目していました・・・・・・。
兵事係が召集の人選をすると思い込んでいる人もいました。だから私を恨んだ人もいたでしょう。面と向かって言われたことはありませんが。そう感じていました。」
「すでに何度も赤紙が届いて、息子さんたちが召集されていたある父親が、自分で捕った大きな鯉を私の家に持ってきて、「なんとか、もう自分の息子たちを召集しないでほしい」と、私に頼み込んだこともありました。自分が召集の人選をしているわけではないと、繰り返し説明しましたが、とても気の毒で、本当に弱りました……」

戦時下の生活 帝国書院 タイムトラベル
戦時下の国民生活 中学校歴史教科書(帝国書院)

戦況が悪化すると兵事係の業務は、多忙を極めるようになります。
それまでの徴兵検査の手続きや召集令状の交付など、男たちを戦場へと送り出すことにとどまらなくなります。
A 国防献金や戦地に送る慰問袋の取りまとめと発送
B 武運長久祈願祭の執行
C 出征軍人家族や戦没者遺族や傷痍軍人とその家族への援護
D 戦死の告知
E 戦死者の公葬や慰霊祭の執行
など、戦場の後方にあって戦争を支える銃後の護りの最前線に立つことになります。

戦時下の生活 帝国書院 タイムトラベル2


例えば出征した兵士が戦死した場合を見ておきましょう。

①市町村長に戦死の電報(内報)が届く。
②「内報」は兵事係から遺族に伝えられ、部隊長からの「戦死公報」は数ヶ月後に届けられた。
③戦死者の葬儀は役場(兵事係)が主宰
兵事係は戦地からの出征兵士が使者となって帰ってきた場合の対応まで含まれていたことになります。

 戦没者の公葬について、元兵事係は次のように語っています。

遺体は白木の箱に入って帰ってきました。それを遺族が連隊に受け取りに行きます。その時に兵事係の私は在郷軍人会の分会長と、駅まで迎えに行き、汽車からご遺族が白木の箱を抱えて降りてくると、一緒に村を歩いて帰りました。在郷軍人会の分会長が分会旗を捧げ持って歩きました。白木の箱に遺骨は入ってなくて、名前を書いた紙が一枚入っているだけだと、ご遺族から聞きました」
 
 そして慰霊祭が行われ靖国神社合祀となって英霊と崇めらることになります。こうして村ぐるみ、
地域ぐるみで戦争を支える体制が出来上がっていました。
元兵事係の最後に次のように回顧しています
  
  赤紙を配るときに「兵事係の〇〇さんがやってきた」と嫌がられ、戦死の通知のときにま「また兵事係の〇〇さんが来はった!」彼の動きは死を告げる使者であった。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「吉田敏浩 赤紙と徴兵」
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召集令状 赤紙 石川県 学び舎
中学校歴史 学び舎の教科書に載せられた赤紙
戦争体験を読んでいると「赤紙一枚で戦場に送られた」という言い方によく出会います。召集令状は赤い用紙に印刷されていたので「赤紙」とよばれていたようです。今回は、その召集令状から何が読みとれるかを見ていくことにします。前半部を拡大します。

召集令状 赤紙 石川県 学び舎 前半

読みとれる情報を挙げておきます
①昭和16(1941)年7月18日8:30に金沢師団に招集することを命じている
②受領は、7月10日午後4時45分
③収集対象は予備役になっていた根尾忠で本人の印が押されている
④根尾忠は、成人に達した昭和9年に招集され、その後に予備役になっていた。そこに召集令状が届けられた。当時は26歳になっていたこと。
この召集令状が出された背景を見ておきましょう。
日中戦争の泥沼化の中で、1941年6月22日に独ソ戦が開始されます。これを受けて軍部は、在満州・朝鮮防備という名目で対ソ戦準備のための極秘の大動員が出します。そして7月7日に陸軍は「関東軍特種演習(関特演)」部隊を動員するほか、内地から二個師団等の動員派遣が構想され、約55万人が新たに動員されることになります。そのために長野県や新潟県・北陸地方でも大動員が行われることになります。この召集令状もこの時に出されたもののようです。


赤紙 学び舎 裏側

招集令状の裏側に書かれた「受領書ニ関スル心得」を見ておきましょう。(意訳)
①本人が直接にこの令状を受け取った際には、受領日時と指名を記入し押印して、公布した者に返却すること
②本人不在の時には、戸主・招集通報人などが替わって記銘・押印すること。
③印鑑を持参していないときには、花押や指印も可
ここからは召集令状は郵送されていたわけでないことがうかがえます。戦場での様子を描いた小説や栄映画などには、上官が初任兵に対して「お前等の命は一銭五厘の価値しかない。招集葉書の切手の値段と同じだ」と怒鳴りつけるシーンが出てきたのを覚えていますが、招集通報人という役人がいたことになります。それを裏付ける資料を見ておきましょう。 
赤紙通達人 1

これは奈良県の県立図書館に保存されている「動員用急使」の札です。裏面には次のように記されています。
赤紙通達人2
意訳
この急使いは、(召集令状などの)動員用書類を携行している重要な職務を務めている者である。ついたは、もし事故などに遭った時には、直ちに最寄りの交番や村役場に急報すること。

この札を持っていたのは軍と連絡をとり、在郷軍人を管理していた役場の兵事係でした。
赤紙を各家まで配ったり、戦死の知らせを家族に伝えたりするのも兵事係の仕事だったようです。ここでは次の事を押さえておきます。
①赤紙は徴兵検査の結果、現役兵とならなかった人や、除隊後に予備役になっていた人など、在郷軍人に召集をかける際に発行された。
②赤紙は郵送ではなく、役場の兵事係が直接家まで届け、本人に直接手渡すのを原則としていた
③赤紙の前半部の受領書(署名押印部)は兵事係が持ち帰り、後半部のみが本人の手元に残された

召集令状の切り離し

残された部分もふたつに分割されます。
召集令状の切り離し 信州戦争資料センター



召集令状 赤紙 石川県 学び舎 後半
赤紙の後半部 本人が持ち、入隊時に提出した

一番後の運賃割引証(左端の切り離し部分)には、応召者(召集される本人)が所属部隊へ向かう鉄道や汽船の切符を購入する際、運賃の割引や免除を受けるための記入欄です。ここに出発する駅名や乗車区間、運賃などを記入し、駅の窓口に提示して乗車券と引き換えていました。後払証となっていた場合は、本人負担はなく、乗車指定駅で切り離して目的地までの切符が交付されました。
そして残された中央部分も入隊の時に受付に提出したので、赤紙は本人の手元には残らなかったことになります。
次に召集令状の裏側を見ていくことにします。

赤紙 奈良県 裏側
収集令状の裏側(奈良県)

赤紙の裏側 前半部 
汽車などを利用する場合の注意書き(裏側拡大 一番右側)
赤紙の裏側 
召集令状の裏側 応召員心得(裏面の中央から右側の部分)
  軍隊に入るにあたっての次のような注意事項が記されています。
①招集当日までに持参すべき携行品(軍隊手帳、印章、現金、弁当、日用品など)
②病気や事故などで指定された日時・場所に出頭できない場合の連絡先代理人について
③規則正当な理由なく召集に応じなかった場合、軍法会議や刑罰(懲役・禁錮・罰金など)の対象となること

召集令状の発行・交付までの流れをまとめておきます。
①発行された令状は最寄の警察署の金庫に密封保管
②動員令が発令されると警察官が市区役所・町村役場にこれを持参
③役所役場の兵事係吏員が応召者本人に直接手渡し(不在の場合はその家族に)交付
④令状は本記と受領証の2枚つづりで、本記は部隊までの交通切符代わりになる。
⑤受領証は受取人が受領日と時刻を分単位で記入、捺印の上で官吏に渡す。
⑥官吏はこれを役場に持ち帰り、「召集令状受領綴」という記録簿に保管していた

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
赤紙と徴兵

前回は「空海が讃岐うどんを中国から持ち帰った」「それを智泉大徳が学び、讃岐に伝えたものが拡がった」という説が俗説であることを見ました。それでは、讃岐うどんが庶民のものとなった道筋とは、いったいどんなものだったのでしょうか。それを今回は見ていくことにします。

饂飩(うどん)のルーツについては諸説ありますが、鎌倉時代に禅宗僧侶が持ち帰り、寺院で点心として僧侶が食べらていた特別食であったという点では、研究者の見解は以下のように一致します。

 うどん=不屯(ぶとう)起源説

「うどん=ほうとん起源説」

史料的にも以下のように饂飩の起源が遡れるのは中世までで、空海の時代までは遡れません。

饂飩が登場するのは中世以後

禅宗寺院での饂飩は、その他の宗派の寺院へも広がり、僧侶達が点心として饂飩をたべる風習が中世後期には各地に拡がっていたことを押さえておきます。
さて、それでは讃岐には饂飩はいつごろ伝わっていたのでしょうか?
神仏分離前の金光院日帳 宝暦11(1751)年(町史ことひら3 259P 年中行事)には次のような記事が載せられています。
 九月一日 今朝四時から恒例の御参籠。
「弘化行事」 神前で修法一座開白のあと、籠所へ入られる。追って所まで脇坊中法中そろってあいさつに参上する。(中略)
  九月四日 参籠の中日なので僧へ饂飩を下さる。
九月五日 八日の潮川神事また九日・十日十一日の頭屋へお出ましのお供を決められる。

「僧へ饂飩を下さる」からは、9月の参籠の中日には、山上の社僧たちに饂飩(うどん)が振る舞われていることが分かります。ただ、「僧へ饂飩」とあるのでスタッフ全員にはではなく、社僧のみに出されていたようです。
院主の法要の際にも饂飩が出されていたようです。
暮れ時から始まる宵(前夜)法要を見ておきましょう。法要の場所は、表書院での法要後の食事について次のように記されています。

お上(金光院院主)は上段の間の紙を立て切った所でお勤をされたが、法事の席へは出ず、終わってから僧に「太儀に存じます」とあいさつされた。今夜は客僧衆また院内の出家まで、夜食に饂飩・吸物・笠の飯を二菜で出す。ただし酒は出さず、客僧のうち特に望まれる人には見合わせに出すことにする。

 ここでは夜食に饂飩が出されています。その支給範囲は「客僧衆また院内の出家まで」と限定されています。ここからは金毘羅大権現の別当寺である金光院では、特別のハレの日には饂飩が出されていたことが分かります。讃岐における饂飩の普及は、有力寺院での法要などで出されたことに始まるとされますが、それを裏付ける史料です。以上をまとめておくと
A 饂飩は、晴れの日の特別食で、いつでも食べれるものではなかったこと
B 食べれる人は僧侶などの特別な身分の人に限られていたこと
このような金比羅山上で僧侶達が食べていた饂飩を庶民も食べるようになります。
18世紀初頭に描かれた金毘羅大祭絵図には、門前町に三軒のうどん屋が描かれています。

木戸前後
           元禄末期に描かれた金毘羅大祭絵図に登場するうどん屋

これが讃岐での饂飩屋の最初の絵図資料になるようです。
近世前期まで、うどんは味噌で味をつけて食べていたようです。
なぜなら醤油がなかったからです。醤油は戦国時代に紀伊国の湯浅で発明されます。江戸時代前期には、まだ普及していません。江戸時代中期になって広く普及し、うどんも醤油で味をつけて食べるようになります。醤油を用いた食べ方の一つとして、出しをとった醤油の汁につけて食べる方法が生まれます。つまり中世には、付け麺という食べ方はなかったようです。これは、そばも同じです。醤油の普及が、うどんの消費拡大に大きな役割を果たしたと研究者は指摘します。現在のようなうどんが登場するのは江戸時代半ばであることを押さえておきます。

さらに、江戸後期になるとうどんは庄屋などの富裕層の法事などにも出されるようになります
坂出市史 村と島6 大庄屋渡部家
坂出青海村の大庄屋渡辺家

渡辺家でも幕末になると宵法事や非時にはうどんやそばが出されています。
慶応4(1868)年の13回忌の法事には「温飩粉二斗前」(20㎏)が準備されています。
明治29年(1896)の東讃岐の仏事史料には、次のように記します。

うとん 但シ 壱貫目ノ粉二而 玉六十取 三貫目ニテ十二分二御座候

ここからは一貰目(3,75㎏)の小麦粉で60玉(一玉の小麦粉量63㌘)、3貫目の小麦で180玉を用意しています。渡辺家が、準備したうどん粉は20㎏なので約330玉が作られた計算になります。そばも、そば粉一斗を同じように計算すると約260玉になります。うどんとそばを合計すると590玉が法事には用意されていたことになります。参列者全員にうどんが出されていたのでしょう。
その前の文久元年(1861)の仏事では、「一(銀) 温飩粉  二斗五升 但揚物共」とあるので、揚物の衣用の温鈍粉を除いても約300玉以上のうどんが作られ、すし同様に一部は周辺の人々への振る舞われています。現在のうどんは一玉の重さが200㌘で、約80㌘の小麦粉が使われています。そうすると幕末や明治のうどん玉は、今と比べると少し小振りだったことになります。ここでは幕末には、うどんやそばなどの麺類が、大庄屋の法事には出されるようになっていたことを押さえておきます。これが明治になると庶民にも拡がっていったようです。」

江戸時代後半になると、うどんは庶民も食べるようになります。
その背後には二毛作で小麦が作られるようになったこと、水車が急速に普及したことなどがあったようです。水車の普及で自分の田んぼで収穫した小麦を、小麦粉にすることが容易になります。手に入れた小麦粉で何を作るかという時に、農民達は庄屋さんや富農と同じように法要に、饂飩をうって供するようになります。さらに特別な日にも饂飩を食べるようになります。讃岐では、うどんはハレの日の食べ物であったことを押さえておきます。
 氏神様の祭礼・半夏生(夏至から数えて11日目で、7月2日頃)は、田植えの終わる「足洗(あしあらい)」の日でした。この日の御馳走として農家では饂飩が作られるようになります。
「四国新聞2007年7月10日 21世紀へ残したい香川」には、次のように記されています
  「『半夏半作(はんげはんさく)』いうてな。昔は半夏(七月二日ごろ、今年は一日)までに田植えを終えるのが目安だった。それを過ぎると稲の育ちが悪うなって、秋の収穫が減るといわれた…」
夏至から数えて十一日目。忙しかった麦刈りや田植えを済ませ、農家の人が半日、地域によっては一日ゆっくり骨休めするのが半夏(半夏生)と、綾南町滝宮の大熊喩さん(83)。
「毎年、半夏の時分になると、新麦を持ち込んでくる農家が増え、そりゃあ、忙しかった」。
府中ダム建設で立ち退く昭和三十九年まで、綾川べりで最後まで水車を回し続けた大熊さんはそう言って懐かしむ。新しい麦で打つ打ちたてのうどんは、張りと風味があって、白く輝いていた。
「半夏は『半夏じまい』言うて、阿波から讃岐山脈を越えてやってきた借耕牛(かりこうし)や田植えの早乙女さんに田植え賃を支払う日だったのを知ってますか」。
特別な日の味から、日常の味となったうどん。
「半夏から盆にかけて打つ塩気の効いた、うどんがうまいんじゃ。昔はうどんにも、それぞれの家庭の味があったのう」。久々に麺棒(めんぼう)を握った大熊さんの手に力が入った。

こうしてうどんは「特別な日の味から、日常の味」となり、庶民に親しまれるものとして定着していったのです。

以上をまとめると次のようになります。
讃岐でのうどん普及

庶民にとっては、江戸時代には僧侶や金持ちのたべる憧れの食べ物だったのです。それが身分が取り払われ、誰でもが食べれるようになります。すると、自分の家の法要に取り込み、そして特別な日にはうどんを食べるという風習が定着していったと私は考えています。
 そのため各家では、法事の前では各家でうどんがうたれていました。そのためそれぞれの家の個性がありました。私の家にも、うどん制作一式の道具が今でも納屋に眠っています。祖母がなくなってからは使われたことはありません。そして、いまではうどん玉は、お店から買ってきます。しかし、小さい頃からうどんを食べたという体質は失われていません。うどん好きは、讃岐人のDNAとして私の中にも組み込まれています。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
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四国学院 インタレスト うどん

インタレストは、四国学院の学生達が発行している雑誌です。その中に讃岐うどんの起源について調べたレポートが載せられていました。今回は、これを紹介します。参考文献は「日本全国うどんの起源説 インタレスト 2024年 通巻38号」です。

「讃岐うどん」の起源については、ネット上でいろいろな説が飛び交っています。その中から以下の3つのHPを取り上げて比較しています。
A 香川県ホームページ
B うどん発祥の地を名乗っている綾川町HP
C 四国新聞HP
どのHPともに「空海が唐からうどんの原型を持ち帰り、それを教わった智泉大徳が両親に振る舞って広がり始めた」という話が紹介されています。
智泉大徳

空海と、その甥で弟子である智泉大徳

ここからは「空海 → 智泉大徳」というストーリーが現在の通説となっていることが分かります。
「うどん」の原型は、どのHPにも「うどんの原型が中国から入ってきた」と記されています。

2 それでは日本にうどんがもたらされたのは、いつ、だれによってと書いているのでしょうか?
A 香川県HPには、次のように記されています。

今から1300年前の奈良時代に「麺」は中国から伝わってきたようですが、今のような「うどん」の姿ではありませんでした。今のような「うどん」は、平安時代(約1200年前)に空海が、当時のいろいろな生活技術と一緒に中国から持ち帰ったのだろうと言われています。また、父が滝宮龍燈院(綾南町)の菅原氏、母が空海の姉(後、智縁)の間に生まれた智泉大徳が、空海からうどんの作り方を伝授され、故郷である滝宮で両親をもてなしたのが最初という説もあります。
 
B    綾川町HPには、次のように記されています。
綾川町は「うどん発祥の地」として名乗りを上げています。うどんの原型は唐菓子と言われていますが、その唐菓子は延暦2年(804年)に唐に留学した弘法大師・空海によって日本にもたらされたと言われています。そのなかでも「うどん」の源流となるのは「ほうとん」とか「こんとん」と呼ばれるもので、その製法は空海の弟子に当たる智泉に伝承されたと伝えられてきました。
 智泉は空海の甥にあたり、延暦8年(789年)滝宮で生まれました。父は讃岐滝宮の官吏である菅原氏、母は佐伯氏の出身で空海の姉にあたります。つまり、智泉は空海の弟子であり、甥でもありました。空海から「ほうとん」の作り方を教わった智泉は、帰郷した折に自ら小麦粉をこねて「ほうとん」を作り、父母にごちそうしたと伝えられてきたのです。この地では弥生時代から麦が栽培されていたと推測されているので、この「ほうとん」は瞬く間に広まったとされています。つまり、わが国でいち早くうどんらしきものが作られたのは滝宮周辺であると、この地の人々は信じてきました。
C  四国新聞HPには、次のように記されています。

 うどんの歴史は実は不明なことがたくさんあります。弘法大師が唐から伝えた、との説もありますが、当時のうどんは団子状のもので、小麦粉をこねて薄くのばし、包丁で細長く切って仕上げる「切り麺」は、室町時代に日本で誕生したという説が有力です。それが江戸時代の初期からうどん屋の商品として発達したようです。香川県では智泉大徳が、師であり、叔父でもあ空海から「うどんの祖」を伝授され、故郷・綾南町滝宮の両親をうどんでもてなしたのが最初、と伝えられています。

いつ誰がうどんをもたらしたかについて確認するとは、以下の通りです
A 香川県HP 「奈良時代に中国から伝わってきた」「切り麺は空海がもたらした」
B 綾川町HP 「空海によって日本にもたらされた」
C 四国新聞HP 「切り麺(うどん)は、室町時代に日本で誕生」
ここからは四国新聞HPだけが「空海招来説」をとらずに「室町時代誕生説」をとっていることを押さえておきます。AとBは「うどんの原型を空海が中国から伝えた説」で、これは1960年代頃から言われ始めたようです。

全国のうどん起源説のルーツ系譜
ご当地うどんの原形とされるもの

全国のうどん起源説一覧年表

うどんの原形になるものいつ、誰が持ち帰ったかについては、いろいろな言い伝えがある

全国のうどん起源説年表

3 空海は、何を持ち帰ったのか? 
綾川町HPは、空海が持ち帰ったのは唐菓子で、その中に「うどん」 の源流となる「ほうとん」とか「こんとん」と呼ばれるもがあった」という説、C四国新聞HPは「空海が伝えた当時のうどんは団子状のもの」で切り麺ではなかった、つまり現在の讃岐うどんとは別物だったという説をとります。以前にもお話ししましたが、現在のうどんの起源(切り麺+だし汁スタイル)は近世初頭にまでしか遡ることはできません。空海の時代に、うどんはなかったと研究者は考えています。

うどん=不屯(ぶとう)起源説

「うどん=ほうとん起源説」

饂飩が登場するのは中世以後

以上のようにうどんの原形が遡れるのは、中世までです。そして、うどんの有力なルーツは次の2つです。
①宋代に流行した切り麺を、禅宗僧侶が持ち帰えり、太いうどんに改良したった説
②鎌倉時代の禅宗僧侶の食べていた点心を改良した「ほうとん」説
どちらも時代的には鎌倉時代の禅宗僧侶によって生み出されたと研究者達は考えています。空海の時代にうどんの祖型があったとは史料的にはいえないようです。

次に空海からうどんの製法を学んだというの弟子「智泉大徳」について『ウィキペディア(Wikipedia)』には次のように記されています。(要約) 

延暦8年2月14日789年3月15日)? - 天長2年2月14日825年3月25日
讃岐の人。俗姓菅原氏(一説に阿刀氏)。母は空海(弘法大師)の姉と伝えられる。
③空海の甥で十大弟子の一人。空海が亡き智泉の供養のため書いた「亡弟子智泉が為の達嚫文」が『性霊集』巻八にある。
④延暦16年(797年)、9歳のとき空海に連れられて故郷を去り、大安寺の勤操に預けられた
⑤延暦21年(802年)、14歳のとき空海の近士(従者)となった
⑥入唐留学僧・空海の侍者として智泉も同行(?)
⑦大同4年(809年)7月、嵯峨天皇の勅命で空海が高雄山寺に入った時に智泉も随行(?)⑧弘仁3年12月、空海により高雄山寺の三綱の1人(ほかは杲隣、実恵)に選ばれる。
⑨弘仁年中、空海に随い高野山に来て東南院を造り滞在
825年3月25日)、病により高野山東南院にて没す(享年37)。

以上からは智泉大徳は、空海の甥で早くから空海の信頼を得た人物であったとされています。それが享年37歳の若さで亡くなってしまいます。叔父で師匠だった空海より先に亡くなった智泉の死を、空海は深く惜しみ悲しんだと伝えられます。そして、後世になると智泉にもいろいろな伝説が附会されていきますが、その内容は、彼が「孝順の士」と呼ばれるように、父母にまつわるものが多いようです。その中に、父の死を予感して讃岐に帰ってくる次のようなストーリーがあります。

大同4年(809年)、河内の高貴寺に滞在中のある晩、胸騒ぎがして急に父母に会いたくなり讃岐に帰郷したところ、父は病に臥せっていた。父は死ぬ前に会えたことを喜び、智泉の手を握って、お前のおかげで浄土に往生できると言い、息を引き取る。智泉は百日の間泣きながら経を唱え冥福を祈ったと伝えられる。
この話に讃岐帰国の際に父母にうどんを振る舞ったことが、後世に接ぎ木されていきます。それが各HPが「智泉大徳が空海からうどんの作り方を伝授され、故郷・滝宮で両親にもてなしたのが最初」という話につながっていきます。
それでは智泉大徳は、どんな「うどん」を父母に振る舞ったと記されているのでしょうか。
県HP 「うどんの作り方を伝授され」
 その前に「空海が切り麺を伝えた」と読める記述があるので、智泉大徳が両親に振る舞ったのは「切り麺」だったと読みとれます。

綾川町のHP 「空海から教わったほうとんを作り、父母にごちそうした」
 ここには切り麺かどうかについては触れていません。最後の方で「うどんらしきもの」という表現が使われているように、切り麺だったとは断定はしていません。

四国新聞HPには
「空海から「うどんの祖」を伝授され、綾南町滝宮の両親をうどんでもてなした」
「切り麺は室町時代に日本で誕生したという説が有力」
四国新聞はHPは、「智泉が作ったのは切り麺(うどん)ではない」という立場になります。学界の研究成果に学んでいます。
 ところで智泉については、ウキは「滝宮天満官の宮司家である菅原氏の出身で、その母を空海の姉」としますが、これは無理筋だと指摘する研究者もいます。
なぜなら智泉が生まれたのは延暦八年(789)で、菅原道真が讃岐にやってくるのは、その役百年後のことです。そして太宰府に左遷された菅原道真がなくなるのは延喜三年(903)です。つまり、智泉の時代には滝宮天満宮はまだありません。存在しない滝宮天満宮の官司家の出身することはできません。また、智泉の母を空海の姉とするのも根拠がありませんし、年齢的にも無理があります。研究者は、次のように批判します。
「智泉を滝宮天満宮の宮司家や竜燈院の出身とする説は根拠のない虚説」
「智泉の母が空海の姉というのも、円珍の稲木氏(和気氏)と同じで創作
 つまり智泉大徳は存在したが、その出身を滝宮とする根拠はなにもないのです。これは中世や近世に滝宮牛頭神社の別当寺であった龍燈寺の真言系僧侶達の創作話である可能性が高いと私は考えています。
滝宮念仏踊りと龍王院
      滝宮(八坂)神社と別当寺龍燈寺と天満宮 讃岐国名勝図会(1853年)

現在の讃岐うどんの一般的な起源説をHPで見てきました。そこから分かることは、今世間で語られているのは綾川町のHPに記された「空海伝来 → 智泉大徳継承」説が一般的な説であるということです。しかし、この説が通説となるにはいくつかの過程があったことをインタレストは指摘します。次に、そのプロセスを見ていくことにします。
1960年代末までは「うどん=奈良時代渡来説」が主流だったようです。

讃岐うどん起源説2

1969(昭和44)年 東京の讃岐うどん店「うどん坊」の「讃岐饂飩由来記」の一節

「うどんの歴史は遠く奈良時代に中国から渡来した唐菓子だといわれ、最初はアンコ入りでした。名前も、?飩、温飩饂飩となり、江戸時代からうどんと呼ばれるようになったといわれます」

同年 郷土詩人・河西新太郎氏のコラム

文献によれば、うどんは奈良朝時代に中国から伝わった唐菓子の一種である。小麦粉のだんごにアンを入れて煮たもので、最初は「こんどん」と呼ばれ、転じて「うんどん」となり、江戸時代になって「うどん」と名前が変わり、現在のような線状の麺類となったのである

同年 郷土史家・佐々木正夫氏のコラム

「うどんの歴史は古代に中国から渡来した唐団子だといわれ、最初はアンコ入りだった。名前も、飩(とんとん)、饂飩(うんどん)、饂飩(うどん)となり、江戸時代から「うどん」と呼ばれるようになった」
 
以上のように1969年に書かれたものには、奈良時代のあんこ入りの唐菓子の一種 → 江戸時代に切り麺のうどんに変化したと書かれています。これが当時の研究者達の通説で、それを讃岐の文化人も踏襲しています。つまり、空海の時代には、現在の切り麺のうどんはなかったことになります。そうすると空海がうどんをもたらしたということも云えません。空海と饂飩は、切り離されて結びつくことはなかったのです。それが1970年代になると地元で、空海と結びつけた説が次のように出されるようになります。

空海持ち帰り説登場 昭和50年代

A「讃岐の手打ちうどんの始まり弘法大師が唐から秘法を持ち帰り教えたものと伝えられている」
(金刀比宮で行われた式の記事)
B「うどんの歴史は古く奈良時代に遡り、唐から渡来した菓子の一種だった」(四国新聞記事)
C「さぬきうどんは、お大師さんが唐から製法を持って帰ったと言われてます」
屋島のうどん店店主のコメント)
D「奈良時代に渡来した唐菓子の饂飩は、さぬきの風土にはぐくまれ、名物さぬきうどんとなった」
(四国新聞記事)
こうしてみると1970年代になって、讃岐うどんブームの到来と供に、その源流を空海に求める動きが加速していったことがうかがえます。うどんの起源についての記述が四国新聞に初め載ったのは1969年のことのようです。それを根拠に郷土詩人の河西新太郎氏や郷土史家の佐々木正夫氏などが「奈良時代に中国から伝わったアンコ入りの唐菓子がうどんの起源だ」という説を紹介するようになります。それを前提にして、讃岐うどんの起源説に「空海」が登場してくるのは、1973年に金刀比羅宮で行われた献麺式の記事の中です。
そして、1976(昭和51)年以降になると文化人達は「空海持ち帰り説」に傾斜していきます。

昭和50年代 空海持ち帰り説の通説化 讃岐うどん

A 昭和51年空海?   (四国新聞記事)
「弘法大師が唐へ留学した帰りに持ち込んだものだという説をとれば、約1200年の歴史をもつ食べ物といえる」
B 昭和52年    (山田竹系著「随筆うどんそば」より)
「弘法大師がさぬきうどんの創始者だということは、もはや疑う人はいないくらい有名になったが、それとて確たる証拠はない。しかし、大師が郷里讃岐の農民に「うどん」の作り方を教えたであろうことは容易に想像でるし、大師とうどんを結びつけても決しておかしくはない。だから誰の反対もなく、何の抵抗もなく大師説が取り入れられ広まっているのである」

C 昭和53年空海説
「さぬきうどんは弘法大師が唐からその製法を伝えたといわれてます」(前川忠男香川県知事の対談記事)
D「弘法大師は31歳の時、留学僧として唐に渡った。そのころ唐では「うんとん」というものが盛んに作られ、それは今のような長いうどんではなく、早くいえばダンゴのような型であった。翌年、大師は長安の都に着3年間の仏教の勉強の後、帰国した。讃岐帰った大師は、当時すでに栽培されていた讃岐三白の一つである小麦を原料として農民たちに唐のうんとん製法を生かした今のうどん製法を伝授し、乏しい農家の食量事情を救ったという。
 (香川県と県観光協会が出した「うどんの日」の新聞広告に書かれた文章)
以上のように、当時の全国的なうどんに関する研究成果を無視し、「讃岐うどんの始まりは弘法大師が唐から秘法を持ち帰り教えたものと伝えられている」という説が繰り返し語られるようになります。その根拠史料も示されていません。どこからそういうストーリーが出てきたのか、私にはよく分かりません。
 讃岐には、今でも空海伝説が強く「何かわからないことがあると空海のせいにすれば安心する」という風土があります。20世紀後半になっても、起源の分からない業績は空海のものとされて流布されていきます。それを望んでいる読者がいるから受けいれやすいのでしょう。香川県民にとって「奈良時代説 VS 空海説」となれば、勝敗は明らかです。こうして「空海持ち帰り説」があっという間に「奈良時代渡来説」を駆逐します。1981年以降になると、四国新聞には「空海説」しか出てこなくなりました。四国新聞も「空海持ち帰り説」の立場に立ったと云えます

 20世紀末に綾南町が「智泉大徳説」を持ち出した
このような中で、1998年4月に綾南町(現綾川町)が「道の駅滝宮」と「綾南町うどん会館」をオープンさせます。その新聞広告には、次のように記されています。

「空海から麺作りを教わっ智泉大徳が、讃岐滝宮の宮使をしていた父にうどんを振る舞い、そこから滝宮が、うどん発祥の地となった」

これも先ほど見たように智泉大徳が父の死に目に帰ってきたという伝説に、うどんをご馳走したということが接ぎ木されています。文章中には具体的な出典等ははっきりと示されていません。この主張の裏付けとなる論文を探していますが未だに見つかりません。自らの望む歴史的な評価や業績を、史料の裏付けなく語る説は「俗説」です。ここでは、讃岐うどんの起源については「奈良時代説」→「空海説」→「智泉大徳説」と移行してきたことを押さえておきます。
 最後に、以前にお話した讃岐のうどんの広がりについて、まとめておきます。
讃岐でのうどん普及

①中世までに、切り麺は存在しなかった。うどんは、古代にはなかった。
②現在のようなうどんの原形が登場するのは近世になってからで、その背景には切り麺と出汁としての醤油の登場があること。
③絵図からも、うどん屋や蕎麦屋の登場は、近世以降であることが裏付けられる。
④寺院で生まれたうどんが、近世初頭に都市のファーストフードとして屋台で食されるようになる。
⑤それが讃岐で最初に見られるのは、18世紀初頭の金毘羅大祭屏風図で、そこには三軒のうどん屋が描かれている。これが讃岐うどんの最も古い史料である。

DSC01341 金毘羅大祭屏風図 うどんや
金毘羅大祭絵図に描かれた金毘羅門前町のうどん屋(18世紀初頭)

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
参考文献は「日本全国うどんの起源説 四国学院大学インタレスト 2024年 通巻38号」
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郷照寺3
 四国霊場 宇多津の郷照寺
前回までに郷照寺について、次のようなことを見てきました。    
 ①中世の志度寺や郷照寺・弥谷寺・白峰寺などは、さまざまな宗教者の道場(活動拠点)で、そこには時宗系念仏行者や高野聖・修験者が活動していたこと
②彼らは、いろいろな要素を持っていて、真言系や時宗系、熊野系などのように区分できるのではなく、混淆とした存在であったこと
③同時に彼らは、諸国をめぐる芸能伝達者でもあり、村々にさまざまな芸能を流布したこと。そのなかに滝宮念仏踊りの元になったや風流踊りもあったこと。
④中世にはさまざまな宗教者が混在して混沌とした宗教空間だった郷照寺も、近世になるとその様相を大きく変えたこと。その背景は、時宗本山との本末関係の中に入ったため。
⑤しかし、郷照寺は「道場寺」とも呼ばれたように、中世の混沌とした信仰活動を受け継いだ部分があったこと。   
以上から以前にお話しした弥谷寺の阿弥陀浄土信仰の拠点化と同じ動きが郷照寺でも考えられます。

弥谷寺の阿弥陀浄土への道

 郷照寺では、阿弥陀念仏信仰と弘法大師信仰がどのようにミックスされながら伝えられたのでしょうか。それを江戸時代以降の堂宇変遷で、見ていくことにします。テキストは「郷照寺調査報告書 第2分冊 香川県教育委員会 2026年3月」32pです。

郷照寺 調査報告書

郷照寺の地形区分図を見ておきましょう。

郷照寺 地形図

郷照寺の境内は、青ノ山(223m)東麓の標高約20mの尾根上にあります。旧参道は、遍路道(丸亀街道)を南へ脇道を入り、参道を南東方向へ登っていました。参道石段上には、次の3つの平場が重なっています。
平場1 本堂や庚申堂(太子堂)、茶堂、本坊
平場2 本堂の上に鎮守社跡(熊野権現)
平場3 大師堂
郷照寺の諸堂建立や建て替えは、上記の3つの平場を中心にして行われてきました。この3つのエリアに諸堂は展開していたことを押さえておきます。

郷照寺の遺構変遷について、研究者は次のように5つに時代区分します。
(1)第1期 17世紀から18世紀中葉
郷照寺の「寺開基由来帳」(延享5年(1748)k-119)には、次のように記されています。
四国兵乱による堂宇の焼失で退転していたものを、文禄年中(1592-1596)に覚阿弥により再興された

ここでも長宗我部元親によって兵火にかかった伽藍が、生駒藩時代に再興されたとします。しかし、ここに登場する覚阿弥による再興については詳しいことは分かりません。
それから百年後の刊行物には、次のように記されています。
「四国路日記」(承応2年(1653) 「道場(郷照)寺 本尊阿弥陀」
「四国遍路道指南」(貞享4年(1687)「少山上、(本堂)ひがしむき」
そして、「四国遍礼霊場記(元禄2年(1689) には「少山上、(本堂)ひがしむき。(中略)本尊阿弥陀第一尺八寸御作」と書かれ、以下のような絵図が添えられています。
郷照寺 「四国遍礼霊場記(元禄2年(1689)
道場(郷照)寺 四国遍礼霊場記(1689年)
この絵図からは次のような情報が読み取れます
①尾根上の平場に阿弥陀堂(本堂)、鎮守社(熊野社)、鐘楼のみが描かれている。
②髙松・丸亀街道沿いには家が建ち並んで、宇多津の町場が形成されている
③参道には石段や石垣のようなものは見えない。
鐘楼には、貞享3年(1686)「仏光山江照(郷照)寺」の銘が刻まれています。ここからは郷照寺は、戦国時代に一度退転した郷照寺は17世紀後半には「中興」されていたことが裏付けられます。
ここで私が注目するのは、鎮守社が熊野神社であることです。熊野神社の別当寺として創建された四国霊場は多いのですが、例えば登禅「四国辺路日記」(1653)には、愛媛の八坂寺のことが次のように記されています。意訳)

八坂寺は、熊野権現を勧請した寺である。昔は、三山権現が立並び、その前には25五間の長床があったという。しかし、これもいまでは小社となっている。本寺堂には本尊の阿弥陀如来が安置されている。昔、伊予国に長者がいて、熊野権現の霊験があらたかなことを知って、三年続けて熊野詣でを行った。そして、熊野権現を伊予に勧請したいと申し入れると、御咤宣も吉と出たので、歓んで八坂村に神社を勧請した。故に熊野山八坂寺妙見院と号する。院号は長者の尼公号と云う。今は、この寺も衰微して妻帯の山伏が住持していた。ここから十町ばかり行った円満寺という真言宗にー宿した。十四日、その寺を出発して15町行った西林寺に至った。

ここからは八坂寺は、熊野権現を勧進した別当寺で、本尊は阿弥陀如来だったとされています。どちらにして、熊野行者の痕跡が色濃く残ります。郷照(道場)寺も八坂寺と同じようなルーツをもつ寺であったことがうかがえます。そこに、阿弥陀念仏信仰が高野の聖たちによって持ち込まれます。そして近世に入って弘法大師信仰が接ぎ木されていくという筋書きが描けます。この構図は、四国霊場の多くの寺院に見られるパターンです。なお、瀬戸内海沿岸への熊野権現の勧進の拠点となったのは、児島の五州修験であったことは以前にお話ししました。

五流修験のテリトリー拡大

五流修験 小豆島遍路開設説

 江戸時代中期の延享5年(1748)の「寺開基由来」には、聖徳太子堂(庚申堂)、石像弘法大師堂、熊野権現社、鐘楼、客殿、境内用水池が記されています。それを研究者が平面図に落としたものを見ておきましょう。

郷照寺 18世紀後半
18世紀後半の郷照寺
上記の伽藍配置を、次の年表と対比して見ておきます。
①天明4年(1784) 大師堂が本堂の上の平場3に建替えられ、尾根の上に伽藍が拡大。
②享保19(1734)  弘法大師絵像が奉納(「当寺諸寄附宝物」延享4年(1747)
③延享5年(1748)までに石造弘法大師堂建立
④明和元年(1764) 高松正覚寺で本尊開帳、その際に高松藩松平家の帰依により弘法大師繍画が製作寄進され、その安置のために奥の院が建立された。(「開帳中記録」天明4年)
⑤天明3年3月から4月 弘法大師950年遠忌に伴う本尊開帳 → 弘法大師信仰の高揚
⑥天明4年2月  大師堂が落慶(開帳中記録)
⑦大師堂の落慶までは、奥の院を「仮堂小屋」としています。明和元年に弘法大師繍画が寄進されてから天明4年の大師堂落慶までの期間おいて御影は奥の院に安置されていたようです。しかし、奥の院がどこにあったかは分かりません。
⑧寛政5年(1793) 塩飽や備前国下津井の講中の寄進で茶堂建替願を髙松藩に提出。
⑨寛政7年の本山の第54代遊行上人の来国を控え、本堂や客殿・庫裏の建替を出ている。

こうして整備された境内景観を「四国遍礼名所図会」(寛政12年(1800)で見ておきましょう。

郷照寺 四国遍礼名所図会 1800年

この絵図から読みとれる情報を挙げておきます。
①参道を上った平場1の石段の南側に鐘楼と本坊、北側に茶堂、平場奥に裳階付の本堂がみえる。
②太子堂(庚申堂)は、現在と位置が異なる。天明3年の弘法大師950年遠忌の本尊開帳では「庚申堂台進行上人御居間江幅壱之仮廊掛ル」(「開帳中記録」)とあるので、本坊(客)脇にある宝形造の小堂は太子堂(庚申堂)考えられる。
③本堂と茶堂との間の石像が描かれる場所は、石像大師堂の跡地
④平場3の宝形造の小堂が四国遍礼名所図会で「大師堂本堂のうらにあり」とされる大師堂
⑤平場2の小舎は、鎮守社(熊野権現)
この時期には、明和元年(1764)の弘法大師繍画寄進から天明3年(1783年)の弘法大師950年遠忌に合わせて、大師堂改築、本堂建替など、伽藍整備が活発に行われた時期になるようです。

第3期 19世紀前葉
郷照寺 19世紀前半 伽藍図
郷照寺 第3期19世紀前葉の堂宇配置
 諸堂の配置は、平場1に本堂、鐘楼、茶堂、平場2には熊野権現社、平場3に大師堂が建ちます。先ほど見た「四国礼名所図会」(寛政12年(1800)と比較して見ると、次のような点が読みとれます
①本堂に変更はない。
②太子堂(庚申堂)は、本堂前の北側に移築されている
③客殿と庫裡が別棟になって大規模化している。
④平場2・3の斜面落ち際には、土塀や石垣を表すとみられる二重線がみられる
郷照寺に石垣が登場するのは19世紀になってからです。

郷照寺の石垣
郷照寺の石垣 3・4・5 19世紀のもの
旧参道の2基の石垣記念碑(参道4:文化7年、備前下津井萩野屋久兵衛、播磨屋喜八郎、茶堂宗玄 参道5:再建発願人当山茶堂宗玄、施主当所井近郷分講中)は、平場2・3への石垣3~5の築造や平場1の石垣修理の祈念に建てられたものと研究者は考えています。寄進碑に名前のみえる宗玄は、寛政5年(1793)に茶堂に置かれたとみられる道心者と同一人物のようです。
第4期19世紀中葉
この時期に書かれた「金毘羅参詣名所図会』(弘化4年(1847))や「讃岐国名勝図会』(嘉永7年(1854~)に描かれた境内絵図を見ておきましょう。           

郷照寺 金毘羅参詣名所図会2
             郷照寺 金毘羅参詣名所図会(1847年)
4344102-55郷照寺2
郷照寺 讃岐国名勝図会(1853年)

伽藍で現存する建物としては、次の通りです。
A 本堂(桁行3間、梁間5間、二重、向拝1間、寄棟造、本瓦葺19世紀前業)
B 庚申堂(正面3間、側面2間、青画仏壇突出、向拝1間、宝形造、本瓦葺18世紀中葉)
C 大師堂(正堂正面1間、背面3間、側面2間、宝形造、本瓦葺明治10年(1877)
D 礼堂・桁行3間、梁間3間、入母屋造、向拝1、本瓦葺大正6年(1917
E 鐘楼(桁行間、梁間1問、入母屋造、本瓦葺19世紀中葉)
Aの本堂は、玄関(軒唐破風付入母屋造、本瓦葺)や客殿(入母屋造、本瓦葺)は江戸後期のもので、本山の遊行上人の宿舎として整備されたもので、格の高い建物となっています。「身舎の四隅の柱や柱などの重要な柱を残しつつも、柱を省略して大空間を設ける架構が特徴的」と研究者は評します。
Bの庚申堂は、建立年代が最も古い建築であり、「軸部に当初材をよく残し、組物や彫刻に整った意匠を有する小規模な仏堂」です。
Eの鐘楼は、昭和50年(1975)に本坊前から北へ移築されていますが幕末の建築です。

宇多津 讃岐国名勝図会2
讃岐国名勝図会に描かれた宇多津 本妙寺の隣に郷照寺
以上をまとめておきます
①現在の郷照寺境内は、江戸後期の18世紀後半に基本的な構成ができあがった
②その後、四国遍路の盛行や遊行上人廻国の受入を契機として、幕末までまで整備拡充が行われた
③3段の平場の伽藍地は小規模だが、他の札所寺院と比べて、二重、寄棟造、階付きの本堂や客殿は、大掛かりである
④この背景には、時宗総本山の遊行上人廻国の化益賦算所と宿坊となったことによるところが大きい。 ⑤四国遍路札所として、大師堂や茶堂はあるが、それよりも時宗寺院としての讃岐での中核末寺としての寺歴が現在の伽藍には反映されている。
投影されていると考えられる。
⑥近代になっても諸堂の充実が進められるとともに、参道の両脇や本堂と大師堂との間の平場2は墓地化した。墓地の拡大は、江戸時代の檀家が2軒、だったのに対して明治以降には40軒に増加したことを反映するものである。
⑦昭和30年代に大師堂の礼堂前に鞘堂(回廊)が設置
⑧昭和50年には参道が北へ振替えられ、旧参道の石階部分は埋め戻され、石垣に参道石段が新設された。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 「郷照寺調査報告書 第2分冊 香川県教育委員会 2026年3月」32p
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4344102-55郷照寺2
           四国霊場 郷照寺(道場寺) 讃岐国名勝図会
前回は郷照(道場)寺について、史料から次のような事を見ました。
①郷照寺は寺伝にあるように、中世から時宗寺院であったのではない。
②中世は、高野聖や廻国行者たちの布教活動拠点として、さまざまな宗教活動者が混在していた。
③それが髙松藩の松平頼重の宗教政策の一環として再整備され、時宗に改宗された
今回は郷照寺と時宗本山の藤沢市の清浄光寺との関係を史料で見ていくことにします
テキストは「郷照寺調査報告書 第2分冊 香川県教育委員会 2026年3月」です。

時宗総本山である清浄光寺(しょうじょうこうじ)について、ウキに書かれていることを要約しておきます。

時宗総本山清浄光寺 郷照寺本山

①神奈川県藤沢市にある時宗総本山の寺院で、藤沢山無量光院清浄光寺と号す。
②明治時代からは法主(ほっす)・藤沢上人と遊行上人が同一上人なので、 遊行寺(ゆぎょうじ)と呼ばれるようになった。また藤沢道場ともいう。
③中世の西俣野(藤沢市)の領主だった俣野氏の一族・俣野五郎景平が開基。
④景平の弟である遊行上人第四代呑海が、正中2年(1325年)に俣野領内の廃寺極楽寺を清浄光院として再興したのが開山
⑤延文元年(1356年)八代渡船が鋳造した梵鐘には「清浄光院」と陽刻がされている。
⑥永享7年(1435年)足利持氏が仏殿120坪を寄進
⑦永正10年(1513年)伊勢宗瑞(北条早雲)と三浦道寸、太田資康との戦いにより全山焼失。
⑧天順が慶長12年(1607年)に清浄光寺を再興。これは後北条氏時代の焼失から、94年後のこと。
⑨寛永8年(1631年)に江戸幕府寺社奉行へ清浄光寺は「時宗藤沢遊行寺末寺帳」を提出し、時宗274寺の総本山と認められる。
時宗総本山清浄光寺(遊行寺) 郷照寺本山
時宗の総本山である清浄光寺(しょうじょうこうじ)

「第1表」は、本山藤沢清浄光寺や京都七条道場金光寺に残る「藤沢山日鑑」「「行日鑑」「遊行在京日鑑」などの郷照寺の記録を研究者が抜き出したものです。

時宗総本山清浄光寺(遊行寺)to 

この表からは次のようなことが分かります。
①郷照寺は本山に対して年始伺い、暑中見舞い、上人相続の際、その都度、白銀などを献上している。
②僧侶昇進に関わる記録からは、両者が本山末寺の関係であったことが裏付けられる

例えば「藤沢山日鑑第6巻」安永9年7月の条を見てみましょう。
ここには、郷照寺の僧雪山の本山勤仕についての記載が次のように記されています。(要約)

雪山は高松藩寺社役所より百日間の暇をもらい本山の学寮で修養していた。その成果が良かったのか安永8年に本山の学寮主を拝命した。そこで、本山の衆役から高松藩寺社役所に雪山の「長之暇」を申し入れた。ところが松藩の寺社奉行からの回答は「他国の寺院に入ることは許可できない」というものであった。

ここからは末寺の郷照寺から本山に修行に出て、そのまま本山に残るようなシステムがあったことが分かります。しかし、それを髙松藩は認めていません。
時宗総本山清浄光寺(遊行寺) 一遍像
清浄光寺の一遍像
江戸時代の時宗の僧階と郷照寺の関係を史料で見ておきましょう。
時宗の浅草日輪寺が享和元年(1801)に幕府寺社奉行に提出した「時宗法眼井法開階級之次第」に次のように記します。
「右剃髪仕世寿十五歳以上、藤沢山 京都七條道場 遊行回国先、右三会下之内、最寄を以掛錫仕、法騰相立候」

ここからは次のような事が分かります。
①仏門に入るのは15歳以上
②修行場所は、本山の藤沢清浄光寺や京都の金光寺の他に、廻国先でもよかったこと
③掛錫(修行)の年数を経るごとに僧階を昇格すること

僧階の序列と昇進については次のように記されています。
①掛錫が4年で茶執司となり「茶執司、掛錫より四夏相満候間を茶執司と申候面、藤澤上人遂行上人而上人之侍者為政給仕申」と藤澤上人や国先にて遊行上人の側で給仕を務める役となる。
②さらに6年で十室(漢室・岩室・純室・連室・伝室・行室・学室・了室・同室・聞室・安室)となり「十室、五夏相満候後、此十室二入候、此位階面宗門之安心伝法等相承仕」とあり、この段階で時宗の修行や教学を師匠から伝授された。
③9年で五軒(慈照臥龍軒文峰軒萬生軒衆領軒)の斬号を付与され「五軒、掛八夏相調候ハマ軒号を蒙り申候、宗門之伝法宗威血脈不残相承仕、初て和尚号を付(中略)在家之引導香仕事を差許申候」とあり、時宗の伝法、宗、血脈を相伝し、和尚と称することが許された。また在家信徒の引導や葬式などの仏事を執り行うことができるとうになった。
④13年で「二常住庵等覚庵」となり「二庵掛錫合十二夏相満、此階級二相進み、庵りを蒙り(中略)此法綸旨参内差許申候」とあり、「上人号」の旨を寺社伝奏勧修寺家へ申請、皇居への参内が許されるようになる。
⑤18年で、本寮(四院)(桂光院院興院東陽院)となり「本寮,十七年之法相談、十八年二宗門之書籍之内何でも壱部講釈相済、此階級=相進み、惣じて一宗之法務、右本寮四院有之之之是を司り、本山貴主を補佐する所之老僧と相唱中、是迄末寺井所化昇進之次第二御座」とあり、僧侶の最終階となる。そして時宗の書籍の講釈や宗派の運営に携わり、本山貫主の補佐も行う。また弟子を取ることができる

 郷照寺の位牌や過去帳には、18世紀の後半になると時宗僧階の最終位の院号をもつ住持が4人登場してきます。
A 洞雲院但阿存海和尚(寂年 天明4年(1784)第33世)
B 興徳院覚阿一浄智存和尚(寂年 文政13年(1830)第35世
C 興院覚阿和尚(寂年 安政6年(1859)第36世)
D 大僧都桂光院其阿上人本空和尚(寂年 明治42年(1909)
この4人に共通するのは、本山の遊行上人の廻国の際の受け入れを行っていることです。その功績を背景に昇任を果たしたことがうかがえます。それを裏付けるのが次の宝暦10年(1760)9月の第52代遊行上人他阿から郷照寺□□相阿弥仏へ宛てた書状です。

「鵜足郷照寺義 此度建立等出精二て、地頭表殊、之外首尾能御領分動化相済、其上右勧化御城主今から御取会被下候由」

とあって、境内建物の整備に務めた功績として木蘭衣(軒号)が与えられています。ここからは地方の末寺住持にとって遊行上人の廻国などの本山勤行に励むことは、位階の昇任につながる功績として評価されていたことが分かります。
 さらに文化9年(1812)第55代一空上人の相続の前年に本山への出仕を行っていることや、万延元年(1860)年の京都七條道場金光寺の意に沿わない郷照寺住持の交代を命じた通達などからも、人事権を含む支配関係があったと研究者は考えています。ここでは、時宗本山が僧階権を握ることによって末寺の郷照寺を支配下に置き管理していたことが見えて来ます。

時宗の総本山は藤沢の遊行寺でしたが、西国を束ねる実質的本山は京都七条道場の金光(こんこう)寺でした。
 総本山の清浄光寺は法主の遊行上人が隠居した藤沢上人の住坊でした。それに対して京都の金光寺は、遊行上人が住職である寺で、西国の事実上の本寺でした。例えると、藤沢・遊行両上人の関係は、上皇と天皇の関係に置き換えると分かりやすいようです。

時宗総本山 京都金光寺1 書評

時宗総本山 京都金光寺1
金光寺の年表

 一遍によって開かれた時宗は、京都でも活発に布教が行われ、次々と時宗の寺院が建立されるようになります。その中で金光寺(こんこうじ)は、鎌倉時代後期の正安3年(1301)に七条東洞院(京都市下京区材木町)に建立されます。場所は、七条慶派仏師仏師定朝の屋敷跡に呑海が創建したもので、七条道場とも呼ばれ、周辺の仏師集団が信徒となっていたようです。彼らによって、優れた彫造が残されています。こうして、この寺は時宗遊行派の京都での拠点として隆盛を誇りました。現在の京都駅烏丸口のすぐ東側がその境内地でした。

時宗総本山 京都金光寺1 平面図
金光寺の境内緒堂建物絵図

 14世紀初めには、善阿が連歌師として活躍し、1461年(寛正2年)の飢饉では、金光寺の願阿弥という僧が勧進して六角堂の近くに小屋を建て、苦しむ市民に粥を施したり、五条橋の修復も行っています。
 豊臣秀吉の京都の都市改造の際には、七条仏所を他に移して拡張し、400石が与えられています。和漢三才図会では寺領197石と記します。 江戸時代には学寮が置かれ、それに隣接して火葬場が元禄年間に設けられています。しかし、明治40 年(1907)に長楽寺に合併され、跡地は民地となり、その跡形は消えてしまいました。なお、下京区本塩竈町には金光寺(市屋道場)が現存しますが、これとは別の寺院のようです。
 それでは金光寺と宇多津の郷照寺の関係を物語る史料を見ていくことにします。

郷照寺 万延元年(1860)年に作成された「[書状〕(智覚へ看住申付けるにつき)」(k-89)

「〔書状〕(郷照寺後住に智学仰付けられたにつき)」(k-8987)

万延元年(1860)年に作成された書状「智覚へ看住申付けるにつき」(k-89)です。
ここには京都の七条道場金光寺より郷照寺世話人中宛に、郷照寺が無住となったため智覚を看住として取り急ぎ寺務を取らせることが記されています。ここに登場する智覚は、安政5年(1858)に作成された郷照寺の「人別御改帳」(k-60)に次のように記されています。

郷照寺 安政5年(1858)に作成された「人別御改帳」(k-60)

「鵜足郡宇足津村郷照寺 現住鵜足郡土器村出生 智隆 当年五拾八才一、同郡宇足津村出生弟子智覚当年拾六才」

ここからは智覚が第36世住持智隆(58歳)の弟子で、地元宇多津村出身で16歳であったことが分かります。その後の智覚については「郷照寺後住に智学仰付けられたにつき)」(k-87)次のように記されています。
「〔書状〕(郷照寺後住に智学仰付けられたにつき)」(k-87)
「〔書状〕(郷照寺後住に智学仰付けられたにつき)」(k-87no)

「智覚 病身に付寺務難相勤二付 後住之僧差向候処」

ここには、智覚が病身なので寺務が勤め難くなったため、後任の僧を本山の金光寺より派遣されるようになったことが記されています。ところが、これに対して智覚は、異議を唱えて次のように返答しています。

「御領法御指支之儀有之候ニ付御断 且智覚儀病気追々快方二付弟子致無話取立居候」
意訳変換しておくと
金光寺より当寺(讃岐の郷照寺)に僧を送り込むことは、藩の法に差し支える。また私自身の病気も快方に向かっているため、そのような話は無用である

これに対する本山金光寺の回答は次の通りです
「智覚儀 宗法相背候麁有之候二付 此度取上退院申付候(中略) 当寺差向智学僧江後住職被仰付候様強面御願申上候」

意訳変換しておくと
 智覚については本山金光寺の意向に沿わないことが度々あったので郷照寺からの退去を申し付ける。今後については、金光寺より智学を後任住職として派遣することを高松藩に申し出ている。

 ここからは、末寺の郷照寺の住職については、七条道場の意向に沿わない者は辞めさせ、後任を派遣する権限を本寺は持っていたことが分かります。郷照寺も時宗本山の本末関係の中にあったことが裏付けられます。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
郷照寺調査報告書 第2分冊 香川県教育委員会 2026年3月
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宇多津の郷照寺 四国霊場で唯一の時宗寺院

宇多津の郷照寺は、四国霊場の中で唯一の時宗寺院です。この寺については、時宗開祖の伊予出身の一遍によって時宗の拠点であったとされてきました。しかし、最近刊行された調査報告書には、この寺が時宗に改修されたのは、髙松藩初代藩主の松平頼重によってであると記されています。どうして、そう言えるのかを今回は見ていくことにします。テキストは「郷照寺調査報告書 第2分冊 香川県教育委員会 2026年3月」です。



宇多津地形復元図
DSC03878宇多津
中世の宇多津海岸線の復元図と各寺院

6宇多津1
中世宇多津の景観復元図

6宇多津2
中世の宇多津地形復元図と各寺院

6宇多津の寺院1

郷照寺の開基由来について

郷照寺縁起

 郷照寺の開基については、A「寺開基山来帳」(延享5年(1748)には、次のように記します。
①天台宗寺院として創建後、空海の四国霊場開基の際に78番札所となり、その後の退転
②一遍が正応元年(1288)に(1239-1289)が時宗に改めて再興
③中世後半は、24代遊行上人不外(1460-1526)より讃岐国内に末寺7か寺を賜るなどの寺勢を誇った
④天正期(1573~1592)の四国兵乱により悉く焼失(「寺開基由来帳」)。
寺蔵文書であるB「開帳中記録」には、次のように記します。「開帳中記録」天明4年(1784)
①弘仁3年(812)に弘法大師による阿弥陀如来の彫像を契機に「仏光山道場寺」として開山
②天台宗恵心僧都(942-1017)の後に退転していた諸堂を、仁治4年(1243)に讃岐へ配流された僧道範(1178-1252)が「大師古跡の場」「真言止観の床」として再興
③正応元年に一遍が時宗寺院の「郷照寺」に改めたと
ふたつの縁起ともに、18世紀になって書かれたもので、札所霊場としての弘法大師空海の由緒や、一遍の晩年の伊予帰郷や讃岐・阿波の遊行(「一遍聖絵」正安元年(1299))をもとに、後世に創作され付け加えられたものと研究者は考えています。どちらにしても、これらの由緒は同時代史料ではなく、そのまま信じることはできません。 建立時期の参考になるのは、次の二点です
A 本尊の阿弥陀如来坐像が平安時代後期の作と想定されること
B 境内から古代末から中世初頭の丸瓦(工芸品4・5)が出土していること
ここからは郷照寺は、古代に遡ることはできず、中世初頭頃までの創建と研究者は想定しています。
縁起が説く弘法大師空海伝説の「道場寺」と一遍の「郷照寺」の由緒は、中世以前の諸宗派による複数坊が並立していたことを伝えるものなのでしょう。ここからは、何人もの念仏聖や廻国修験者たちが、それぞれの坊を持ってこの地で活動していたことがうかがえます。それは善通寺や白峯寺・弥谷寺でも同じで、そのような姿が中世の一般的な寺院の姿だったことを押さえておきます。

宇多津 讃岐国名勝図会2
            讃岐国名勝図会 宇多津

郷照寺は、道場寺とも呼ばれていて、ふたつの名前を持っていたようです。
高松藩初代藩主松平頼重の命により、寛文9年(1669)に各大政所(大庄屋)に郡内の寺社を書き上げさせたC「御領分中宮由来同寺々由来」には次のように記します。

藤沢遊行上人末寺 時宗 鵜足郡 郷照寺 
一、開基永仁年中、一遍上人建立之、文禄年中、覚阿弥再興仕事」

意訳変換しておくと
「藤沢遊行上人の末寺で、時宗の鵜足郡郷照寺
 一、開基は永仁年中で、一遍上人が建立。文禄年中に、覚阿弥が再興した」
寛文年間(1661~1673)の藩政資料にも、遊行上人末寺の時宗寺院と記されています。
寺院名については、藩政史料や時宗本山との記録には「郷(江)照寺」の名称が使用されています。ところが江戸時代に刊行の四国遍路関係の案内本などには「道場寺」と記され、弘法大師ゆかりの札所と紹介されています。例えば真念の「四国辺路道指南」(貞享4年(1687)では、次のように記されています。
「讃州丸亀城下へわたる時は宇足津道場寺より札はじめよし」
「七十八番道場寺 少山上 堂ひがしむき 鵜足郡宇足津村 本尊阿弥陀 座一尺八寸
 御作おどりはね念仏 道場寺 ひやうしをそろえかねを打也」
意訳変換しておくと
「讃州丸亀城下へ船で渡るときには、宇足津道場寺から巡礼を始めるのがよい」
「七十八番道場寺は、小さな山の上にある。本堂は東向きで鵜足郡宇足津村にあり、本尊は一尺八寸の阿弥陀仏が座している。御作おどりは、念仏を唱えながら拍子をそろえ、鐘を打ち鳴らして飛び跳ねる」
  ここからは道場(郷照)寺には、時宗の念仏踊りが近世初頭まで伝わっていたことが分かります。

1 郷照寺踊り念仏
跳ね踊る時宗の念仏踊り 中央が一遍 (一遍絵図)
滝宮念仏踊りの由来の中には「菅原道真の雨乞成就を祈念して踊られるようになった」と記されます。しかし、古代に念仏踊りはありません。念仏踊りを始めたのは、中世の一遍です。一遍によって時宗の布教手段として全国的に広がります。それが風流踊りとして、近隣の村落に受けいれられるようになります。滝宮念仏踊りの起源は、時宗の念仏踊りにあることを押さえておきます。

郷照寺には、六字名号(南無駄弥陀仏)の版木が残っています。


南無阿弥陀仏版木2 郷照寺
六字名号版木 郷照寺
   弘法大師信仰を持った念仏行者が、この版木を使って、摺写した念仏を宇多津で広めたことが分かります。ここには高野系念仏聖の存在がうかがえます。この版本が作られた室町時代末期から江戸時代初期の四国辺路(遍路)は、六十六部廻国行者、山伏、念仏行者などいろいろな宗教者が巡っていました。この中で高野聖や時宗経系念仏聖は、弘法大師信仰を持ちながら念仏行や念仏踊りを踊っていたことが分かってきました。つまり、近世以前の郷照寺は、志度寺と同じようにさまざまな宗教者が集まって布教活動の拠点となっていたのです。だから「道場寺」なのです。時宗単独の寺とは云ず、真言系や天台系などの修験者や廻国行者の活動拠点となっていたことを押さえておきます。

 志度寺や郷照寺・海岸寺などの海沿いの霊場を拠点に活動した高野聖を見ておきましょう。
高野山といえば真言密教の聖地という先入観があります。もちろん、そうなのですが高野聖の長い歴史から見ると、中世の高野山は「日本随一の念仏の山」でした。納骨と祖霊供養によって「日本総菩提所」に仕上げたのが高野聖でした。 四国霊場の志度寺や弥谷寺や郷照寺も別格霊場の海岸寺も死者が集まる寺という共通性があったようです。高野聖が死霊の集まる四国霊場の寺やってきたのは、彼らがもっとも得意とした「滅罪生善」のために遺骨を高野へ運ぶためでした。

五来重「高野聖」読書メモ 四国霊場の弘法大師一尊化を進めたのは高野聖だった。 : 瀬戸の島から
高野聖
 高野聖の廻国のことを「歩く宗教家」と呼ぶ人もいます
その行装は「高野檜笠に脛高(はぎだか)なる黒衣きて」と『沙石集』にしめされたような姿で遊行し、関所通行御免の特権ももっていました。時宗の遊行聖は、旅に生き旅に死するのを本懐とし、一遍の跡を辿るものが多かったようです。六十六部の法華経を全国六十六か国の霊場に納経する六十六廻同聖も、減罪を目的に全国を回遊します。
  崇徳上皇の霊を慰めるために讃岐にやって来たと云われる西行も、「高野聖」です。
彼の讃岐行は、遊行廻国の一環とも考えられます。白峰寺参拝後には、空海の修行地とされる善通寺背後の五岳・我拝師の捨身瀧で3年も暮らしているのは、空海生誕の地で山岳修行を行うと共に、高野聖としての勧進の旅であったと研究者は考えているようです。観音寺に、やってきて長逗留した宗祗の旅も連歌師が時宗聖の一種であったことに行き当たると「ナルホドナ」と納得がいきます。
清涼寺の勧進聖人であった嵯峨念仏房の勧進願文には、「念仏者は如来の使なり」と記されます。
 中世は、村人は遊行聖が村にあらわれるまでは、先祖や死者の供養とか、家祈祷(やぎとう)・竃祓(かまどばらい)すらできなかったのです。専門教育を受けた宗教指導者は村にはいませんでした。そんな中に、遊行の聖が現れれば排除されるよりも、歓迎された方が多かったようです。
こうして、死者が集まる霊山・寺院には高野山からやってきた聖達が住み着くようになります。
そして、その寺を拠点に周辺村々への勧進活動を展開していきます。さらに中世末期から近世初頭にかけて、集落にあった小堂や小庵への遊行聖が住み着き定着がはじまります。現在の集落や字ごとに寺院ができる根っこ(ルーツ)のようです。
志度寺や弥谷寺・郷照寺に住み着いた 「聖」は、どんな人たちだったのでしょうか?
  空也以後の聖は念仏一本と、私は思っていたのですが、そうではないようです。確かに法然・親鸞・一遍が主張した専修念仏では法華経信仰と密教信仰は否定されます。そして、念仏だけを往生への道として念仏専修が王道となります。しかし、それ以前の、往生伝や『法華験記』に出てくる聖は、法華経と念仏を併せて修める者が多かったようです。さらに、これに密教呪法をくわえて学ぶ者もいました。法然とその弟子たちの信仰にも、戒律信仰や如法経(法華経)信仰が混じり合っていたと研究者は指摘します。高野聖の中には念仏と密教を併せて学ぶものが多く、修験行道と念仏は、彼らの中では一体化したものだったようです。
 ここでは次のことを押さえておきます
①志度寺や郷照寺・弥谷寺)は、さまざまな宗教者の道場(活動拠点)であった。
②そこには時宗系念仏行者や高野聖・修験者が活動していて、真言系や時宗などに区分することができなかった。
③廻国行者たちは芸能伝達者でもあり、村々にさまざまな芸能を流布した。そのなかには念仏踊りもあった。

中世にはさまざまな宗教者が混在して混沌とした宗教空間だった郷照寺も、近世になるとその様相を大きく変えます。 
貞享四年(1687)頃の真念『四国辺路道指南』には、次のように記されています。

「男女ともに光明真言、大師宝号(南無大師遍照金剛)にて回向し、其札所の歌三遍よむなり」

ここからは真言宗本来の光明真言が唱えられるようになっています。南無阿弥陀仏の念仏は、各霊場から「追放」され、弘法大師の一尊化が確立していたことがうかがえます。つまり、江戸時代初期から元禄時代にかけての間に、大きな変化があったことが分かります。郷照寺の版木は、弘法大師の多様さとそれを支えた念仏行者の存在が見えてきました。彼らの伝えた念仏踊りが、滝宮念仏踊りとして伝えられていると私は考えています。それは中世の道場寺(郷照寺)の性格を表すものなのです。

郷照寺は、道場寺とも呼ばれていた。
鵜足津湊、道場寺 第四巻所収画像000015
道場寺と表記されている郷照寺 (金毘羅参詣名所図会)
各書物には郷照寺の呼名が次のように記されています。
A 寂本の「四国編礼霊場記」元禄2年(1689)
「仏光山道場寺此寺本尊阿弥陀大師の御作鎮守社・鐘楼あり 
 いつのよ(世)りか、時衆の寺となれり」
B 四国遍礼名所図会(寛政12年(1800) 
「七十八番道場寺「仏光山江照寺」と両寺名併記
C 金毘羅参詣名所図会(弘化4年(1847)
「仏光山道場寺宇足津にあり四国遍礼第七十八番の札所なり」
D讃岐国名勝図会(嘉永7年〈1854)、
「江照寺 仏光山広徳院道場寺と云ふ 寺領五斗二升 時宗相州藤沢浄光寺末寺 
 四国八十八ヶ所の一、七十八番札所
寺院境内や周辺の道路道沿いにある明治期までの道標の多くには「道場寺」と記されているようです。 以上をどう考えればいいのでしょうか。研究者は次のように指摘します。

江戸時代から明治時代にかけては時宗寺院としての「郷照寺」と、弘法大師ゆかりの四国霊場第78番札所である「道場寺」という2つの名称をその性格により使い分けていた

このためふたつの名前が併存していたようです。

4344102-55郷照寺
四国霊場 郷照寺 (讃岐国名勝図会)

どうして郷照寺は、江戸時代になってもふたつの寺号を使い分けたのでしょうか?
それは時宗末寺の「郷照寺」でありながら、17世紀後半になると四国遍路が盛況になり、「弘法大師古跡の場」として札所の由緒を示す「道場寺」の寺号を手放すことができなかったためと研究者は指摘します。
 「四国遍路道指南』には次のように記されています。
(大坂から船で)讃州丸亀城下へわたる時は、宇足津道場寺より札はじめよし」

ここからは全国からの金毘羅参りの盛行と併せて、畿内からの四国遍路たちは丸亀湊に上陸し、郷照寺が打ち始めの札所としていたことが分かります。そのため郷照寺には多くの遍路がやって来るようになります。それが郷照寺に経済的利益をもたらすようになります。
 寛政5年(1793)の茶堂寄進の「下津井講中」「普請中順留諸法一件書出控」や、文化7年(1810)の石垣寄進碑にみられる「備前下津井萩野屋久兵衛」、「同播磨屋喜八郎」(石造物参道4)などです。これらは備讃瀬戸対岸の備前児島下津井の寄進者達の名が刻まれています。これは当時の丸亀湊へ備瀬戸主要航路の活発な交易活動の中で捉えられるものと研究者は指摘します。

それでは江戸時代の郷照寺が本山の記録に、どのように記されているのかを見ておきましょう。
寛永10年(1633)の時宗本山の末寺帳には、郷照寺の名はありません。つまり、この時点では、郷照寺は時宗末寺ではなかったことになります。それが享保6年(1721)の七条道場の末寺帳の讃岐の項目に次のように「讃岐七ヶ寺」が記されています。
「興善寺 爾保、興勝寺 勝間、荘厳寺 一宮、江(郷)照寺 宇多津、興徳寺 太田尼、
 浄土寺 由祐尼、高称寺 観音堂尼」

 これ以降の末寺帳には郷照寺の名が記されるようになります。つまり、高松藩初代藩主の松平頼重がやってくる寛永19年(1642)以前に記された史料には時宗寺院としての郷照寺の一次史料はないようです。 それが松平頼重が寛文9年(1669)に作成させた「御領分中宮由来・同寺々由来」には、次のように記します。
「藤沢遊行上人末寺 時宗 鵜足郡郷照寺」
「寺社記」(天保4年(1833)書写)には
「一、高五斗弐升 相州藤沢山清浄光寺末寺鶴足郡宇足津村時宗郷照寺」
藩政史料には、郷照寺は藤沢市の時宗総本山の清浄光寺の末寺とされています。
そして、「寺開基由来帳」(延享5年(1748)には、次のように記します。
「一 寺領高五斗弐升 従古来附来り候処 龍雲院様御代古来之通御改御寄附候由」

ここからは高松藩主松平頼重(龍雲院)から寺領として5斗2升の経済基盤が保証さます。以後は、寺領が保護され続けてたことが分かります。

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四国霊場 宇多津郷照寺
松平頼重は政治的な意図をもって、次のような藩内の宗教政策を進めたことは以前にお話ししました。
松平頼重の宗教政策

郷照寺を時宗に改宗させて、保護を与えた背後にはなんらかの意図があったことが考えられます。
以上をまとめておくと
①郷照寺は、寺伝にあるように中世から時宗寺院であったのではない。
②髙松藩の松平頼重の宗教政策の一環として、時宗寺院として再整備された
 松平頼重の宗教政策については以前にお話ししました。そのなかで讃岐の真言宗勢力の抑制のために、金倉寺や白峰寺・根来寺・長尾寺などを天台宗に改宗して整備保護していました。郷照寺の時宗への改宗もなんらかの政治的な意図があったことがうかがえます。それが何なのかは、今の私には分かりません。  最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「郷照寺調査報告書 第2分冊 香川県教育委員会 2026年3月」です。








琴平町の三水会の横関智也氏が紹介された備中国小野家の「讃岐国那珂郡七箇村五条村榎井村苗田村絵図」を見ています。前回までに五条村と榎井村を見てきましたので、今回は苗田村を見ていくことにします。
金毘羅天領の古地図 倉敷市歴史資料館
下(南)から 五条・榎井・苗田の三つの村が書き込まれています。現地で作成したものを、天領を統括する倉敷の代官所に提出したものです。
苗田村について、上絵図から読み取れる情報を挙げておきます。
①茶色が丸亀街道で、南北に延びてきたルートが長法寺の手前で西に曲がり、石井神社でドッグレッグしている。
②金倉川手前の横瀬で街道が南に向きを変える辺りに出水③が描かれている。
③この出水から北に用水路が伸びている。
④石井神社の北側の光賢寺の西側に、高札と郷倉があるので、この辺りが村の中心地であった。


苗田村拡大
上図の苗田村拡大図 石井神社周辺

角川出版の地名大辞典(627P)は、苗田村について次のように記します。(要約)
A 石高841石余。幕府領五条村・榎井村を合わせて池御領・池領・御領などと呼ばれた。
B 東西に分けて苗田東村(苗田村東組)苗田西村(苗田村西組)と称して庄屋が置かれた。
C 五条村・榎井村とともに金毘羅祭り(頭人祭り)の頭人を勤める家があり、祭りのための奉加米3石5斗が出されていた。
D 金毘羅大権現参詣道の丸亀街道が村内を通り、丸亀方面からの入口に当たり、門前町に見られるような富鬮が寛保元年、芝居が寛延3年・宝暦9年に行われている。
E 遊女も多く、風呂屋といわれる置屋もあって、遊女が門前町に入り込み問題となった。
F 「金毘羅御神事古法次第」には、天保10年の記録として
東組が庄屋1名・年寄1名のほかに惣百姓34人で、長法寺の名が見える
西組は庄屋1名・庄屋代1名・年寄4名のほか惣百姓34人で、光賢寺・西福寺・福成寺の寺院名が見える。
G氏神は石井八幡で、金毘羅大権現別当金光院で灌頂などがあった後に、愛宕権現称名寺鎮守と五条村大井八幡・榎井村春日明神と当村の石井八幡を参詣して回る五社参りが行われた。
H明治の「新撰讃岐国風土記」には、田111町余畑8反余・宅地9町余、戸数271、人口1,194(男601女593)。川は石淵川(野田川)、池は徳女池、泉は操矢井・樋口井・羽根出水・三田井など、神社は石井神社のほか稲生社、古川社など12社が記されており,村役場・尋常小学校がある。
I明治23年 象郷村の大字となる。
もう少し詳しく見ておきましょう。

天領と寺領
満濃池御料の三村(白色部分) 上が南
A 石高841石余。幕府領五条村・榎井村を合わせて池御領・池領・御領などと呼ばれた。
B 東西に分けて苗田東村(苗田村東組)苗田西村(苗田村西組)と称して庄屋が置かれた。
Aについては、苗田村は満濃池の維持管理のために置かれた池御料(天領)三ケ村の中の一つで、地理的には一番北側に当たります。この村は東西に分かれていますが灌漑用水路の水系が異なります。

琴平大井・春日神社

 上の土地利用図を見ると古代の水源は、①五条の大井神社 → ②榎井の春日神社 → ③苗田の石井神社を結ぶラインに旧河川跡の伏流水です。この線上に豊富な出水があり、大井や石井などと呼ばれ、そこに水神が勧進されて神社に成長していったことがうかがえます。一方、西側エリアでは大西病院裏の横瀬の出水から用水路が伸びています。また、さらに西側には金倉川が氾濫原として拡がっていて、この辺りは古代条里制施行の空白地帯で、中世や近世になって開発されたエリアであることが分かります。
 那珂郡南部の古代からあった式内神社は、大麻神社と櫛梨神社です。この周辺が古代の有力氏族の拠点だったのでしょう。それが中世になって出水からの灌漑用水路を整備して名主が登場し、それが国衆に成長していく様子が見えてきます。
Cには、「五条村・榎井村とともに金毘羅祭り(頭人祭り)の頭人を勤める家があり、祭りのための奉加米3石5斗が出されていた」と記されています。

苗田村も金毘羅祭り(頭人祭り)には頭人を出していました。

この祭りは、もともとは三十番社の祭りでした。それを近世初頭に流行神として登場してきた金毘羅神が、株取りして接木したものであることは以前にお話ししました。古代や中世には、金毘羅大権現は現れていません。この祭りを担ったのが中世の名主や地侍たちであったことについては、以前にお話ししました。
①中世の小松荘で行われていた八講会は、地頭、代官、領家などの領主主催の祭礼運営スタイルがとられていた。
②それは荘園領主の九条家が荘内の神社の祭礼を主催して、荘園支配を円滑に行おうとする統治意図が働いていた。
③祭礼実施のため「頭役(とうやく)」には重い負担がかかってくるので有力者が指名された。
④九条家のころは、預所のもとで案主、田所、公文などの荘官が中心になって法会を行っていた
⑤それが南北朝時代以後になると、荘内の有力者が頭屋に定められて、法会に奉仕することになった
⑥「金毘羅山神事頭人名簿」には、慶長年間の頭人として、次のような家が記されている。
香川家が五条村
岡部家が榎井村
石川家が榎井村
金武家が苗田村
泉田家が江内(榎井)村、
守屋家が苗田村
荒井家が江内(榎井)村
彼らは、それぞれの村の中心になった有力者で、「地侍」とも国衆とも呼ばれました。彼らは有力農民であるとともに、また武士でもありました。彼らが長尾城主の長尾氏の家臣団に組織され、守護の細川氏の軍団として畿内に送り込まれていたことは以前にお話ししました。
 生駒騒動後に讃岐が東西に分割されると、新たに設置された天領・池御領を代官として苗田村の守屋家でした。
寛永19年(1642)に池御料が置かれてから、元禄三年(1690)まで49年間、守屋家が代官として池御領を支配することになります。 幕府は、この時期になると新しく天領にした所では、現地のやり方や支配関係を継承して、急速に改めることを避けるようになります。「継続・安定」を重視して、在地の土豪を代官に任命するやり方をとりました。池御領の代官についても、まずは地元の最大の有力者である金光院主に代官就任を請います。しかし、金光院主の答えは「大恩ある生駒家の不幸を考えると受諾することができない」というものでした。そこで那珂郡の大庄屋で、金毘羅大権現の庄官でもあった与三兵衛を代官に任命します。 与三兵衛は、守屋与三兵衛と名を改め、苗田村に政所を置いて、幕臣として満濃池の管理と池御料の統治に当たることになります。

守屋家代官所跡

その後の経緯については以前にお話ししたので、ここでは省略します。
D 金毘羅大権現参詣道の丸亀街道が村内を通り、丸亀方面からの入口に当たり、門前町に見られるような富鬮が寛保元年、芝居が寛延3年・宝暦9年に行われている。
E 遊女も多く、風呂屋といわれる置屋もあって、遊女が門前町に入り込み問題となった。
Dについては、金毘羅参拝道の髙松街道沿いに発展したのが榎井村で、丸亀街道沿いに発展したのが苗田村になります。高灯籠から石井神社には門前町としての街並み形成が近世末には見られたようです。そして、Eのように苗田から金毘羅に遊女が入り込んで問題となります。榎井と同じように、苗田村では丸亀街道沿いに家並み形成が行われていた所もあったことがうかがえます。

G 氏神は石井八幡で、金毘羅大権現別当金光院で灌頂などがあった後に、愛宕権現称名寺鎮守と五条村大井八幡・榎井村春日明神と当村の石井八幡を参詣して回る五社参りが行われた。

Gの石井神社では、金光院 → 愛宕権現称名寺 → 大井神社 → 春日神社 → 石井神社の五社参り(巡礼)のひとつであったとあります。この背後には、金毘羅門前町の民政を取り仕切った普門院(多聞院)の組織力が働いていたと私は考えています。多聞院(片岡氏)は、土佐の仁淀川沿いの片岡の有力国衆で、長宗我部滅亡後に金光院に呼ばれて金毘羅にやって民政を統括します。片岡氏は、吉野参りを何度も行う真言系修験者で、彼を頼って全国から修験者が金比羅にやってきます。彼らは、金比羅周辺の堂や庵に住み着いて、天狗信仰や愛宕信仰などを拡げていきます。榎井や苗田などの神社も、彼らの影響下にあったようです。そして、寺領と天領の村社の別当寺的な役割を果たしていたようです。
佐渡島の大般若経 榎井・苗田からの搬出

  それを裏付けるのが上の佐渡島の佐渡市文化財指定の大般若経です。その解説は、次のように記します。
「この写経は、比叡山より讃州仲郡子松庄(香川県琴平町)石井八幡宮と榎井大明神宮の別当社に伝わり、所有していた。それが慶長十年(1605)、法印快秀の手によって(佐渡島の)畑野町長谷寺にもたらされた。長谷寺から大和田薬師に伝来したのはいつであるか不明である。」

ここからは佐渡に渡った大般若経六百巻が、もともとは石井(苗田)・榎井神社(春日神社)に共有の形で所蔵されていたことが分かります。有力寺社では毎年期日を決め、恒例行事として大般若経の転読が行われていたことは以前にお話ししました。そのため大般若経を持っているかどうかが、寺社のステイタスを表すものでもあったようです。それが共有されていたということは、背後の別当寺が同一であったことがうかがえます。そして、それは金毘羅寺領の民政を担当する普門院(多聞院)であったという可能性が高くなります。
  尻切れトンボ的になりますが、今回はこのあたりで終わります。

石井・大歳・櫛梨・富隈神社
丸亀街道沿いの神社 (金毘羅参詣名所図会)
石井神社と金刀比羅街道
拡大版 苗田村の石井神社周辺と丸亀街道
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 琴平町三水会の横関智也氏によって提供された「讃岐国那珂郡七箇村五条村榎井村苗田村絵図」(倉敷歴史博物館)を見ています。

金毘羅天領の古地図 倉敷市歴史資料館
讃岐国那珂郡七箇村五条村榎井村苗田村絵図」(倉敷歴史博物館)
前回は、天領の絵図下部の五条村を見ました。今回は中央の髙松街道沿いに発展した榎井村を見ていくことにします。榎井村東部の拡大図です。

榎井村 髙松街道 18世紀後半 讃岐国那珂郡七箇村五条村榎井村苗田村絵図」
髙松街道と榎井村東部(拡大)
上の絵地図から読み取れる情報を挙げておきます。
①榎井村の中央を髙松街道(茶色)が貫き、沿道に家が建ち並んでいる。
②土器川を渡った髙松街道が真楽寺の所でドッグレッグして、春日神社の北側を西に伸びていく
③春日神社には出水が描かれている
④法蔵寺近くの十字路の東側に高札場と郷倉があり、榎井村の中心であった

①については、後に述べます。
②について、髙松街道が真楽寺の所でドッグレッグしているのは何故でしょうか?
その理由として考えられるのは、土器川(祓川)の渡場から真っ直ぐに西に伸びてきた髙松街道を、金倉川にかかる鞘橋に結びつけるには、どこかで南にルート変更する必要がありました。その変更点がこの地点だったと私は考えています。ここには榎井の村社である春日神社があります。そして春日神社には、こんこんと湧き出す泉(出水)があります。春日大社と鞘橋は早くから生活道で結ばれていたのかもしれません。
DSC05362
              春日神社(琴平町)の本殿横の出水
③の春日大社の出水は、前回お話しした五条村の大井神社と同じで、神聖な場であると同時に、下流の水源地としても機能していました。春日大社の水源をもとに開かれたのが榎井村になることは以前にお話ししました。五条が本村、榎井が新村です。

駅から近いです
奈良市の高札場
④の高札場と郷倉が榎井村の中心だったようです。この辺りに中世の石井氏の居館もありました。

琴平 本庄・新庄2
琴平の五条の能勢氏の本庄城と、榎井の石川氏の石川居館(山本祐三氏 琴平の山城より)
現在は春日神社と呼ばれ、「立荘の際に藤原氏の氏神である奈良の春日大社を勧進」したからと説明されます。しかし、社伝には「榎井大明神」と記されています。そして、榎の大樹の下に泉があり、清水が湧出することから名付けられと記します。また、社殿の造営なども次のような人たちが関わっていたことが棟札からも分かります。
寛元二年(1244)、新庄右馬七郎・本庄右馬四郎が春日宮を再興
貞治元年(1362)、新庄資久が細川氏の命により本殿・拝殿を再建
永禄12年(1569)、石川将監が社殿を造営
ここに出てくる新庄氏・本庄氏は、観応元年(1350)十月日付宥範書写(偽書)の『金毘羅大権現神事奉物惣帳』に、「本庄大庭方」「本庄伊賀方」「新庄石川方」「新庄香川方」などと出てくる宮座を構成する有力メンバーです。彼らは小松荘の本庄(五条)・新庄(榎井)に名田を持つ名主豪農クラスの者で、後に国人土豪層として戦国期に活動したことが、残された感状などからも分かります。以上からは、春日神社は新庄氏や石川氏の氏神としての性格を併せ持っていたことが分かります。それが近世になって「榎井大明神」から「春日神社」に接ぎ木されて株取りされたようです。どちらににしても春日神社と石川氏の居館跡の辺りを中心に、中世の中心はあったのでしょう。それが18世紀になって髙松街道沿いに東西に発展していきます。ここに高札場が設けられたのは、そのような背景があるからだと私は考えています。

絵地図の西側を見ておきましょう。

榎井西部 興泉寺
榎井村西部
⑤髙松街道沿いに、南に法蔵寺・玄龍寺、北に興泉寺がある。
⑥興泉寺が金毘羅寺領の新町との境界であった。
⑦興泉寺には南東から(琴平マルナカ)流れる水路が描かれている

  18世紀初頭の元禄時代に書かれた金毘羅大祭行列屏風図と見比べて見ましょう。

金毘羅大祭行列屏風図 新町 容量縮小版
大祭行列屏風図の榎井と寺領境界(元禄年間)
多く人達が行列を組んで髙松街道を、本社に向かっている姿描かれています。この絵図からは次のような事が読み取れます。
①榎井の間には、木戸が金毘羅寺領の新町側に木戸が構えられている。
②街並みは新町側で終わっていて、榎井側には家並みはなく田んぼが続いている
この絵図が書かれたのが18世紀初頭です。そして、池御料地図は18世紀後半に書かれたものです。そうだとすると、18世紀の短期間の間に、榎井の髙松街道沿いに家並みが建ち並び都市化したことがうかがえます。18世紀は、榎井村にとっては大発展の世紀であったことを押さえておきます。

木戸前後
               大祭行列屏風図の榎井との境界部の拡大
木戸を抜けると金毘羅領です。頭人の奴行列が金毘羅領に入ろうとしているところです。それを参拝者が、道の端に寄って、行列を眺めています。大祭に奉仕する女頭人を乗せた駕籠が、丸亀街道との合流点に立つ鳥居を今まさにくぐったところです。そして男頭人は、乗馬姿で髙松街道を池の御領方面からやってきて木戸に差し掛かろうとしています。その木戸を入ったところに、うどんの看板を掲げた店があります。これが讃岐でのうどん屋出現を示す最も古い史料になります。空海が中国から持ち帰ったのを弟子が讃岐に伝えたというのは俗説です。
今度は幕末の讃岐国名勝図会に描かれた榎井村を見ていくことにします。

榎井・五条天領 大井八幡
髙松街道沿いの榎井村(讃岐国名勝図会)
北からの髙松街道榎井の俯瞰図になります。この絵図からは次のような事が読み取れます。
①東から伸びてきた髙松街道が真楽寺でドッグレッグしている。
②榎井村の西端に興泉寺が描かれていて、街道には切れ目なく民家が建ち並び門前町を形成している。
③街道沿線には、寺社がいくつも描かれている
こうしてみると、幕末には榎井村は人口がさらに増えて街道の背後まで家が建ち並ぶようになっていたことが分かります。讃岐国名勝図会が榎井村の名勝として絵図入りで紹介している玄龍寺です。

榎井 玄龍寺の松
榎井村の玄龍寺
左からうあってきた髙松街道が右の金毘羅側に続き。多くの往来が描かれています。この辺りに、榎井村の高札と郷倉があったことになります。
天領と寺領
池御料三村と金毘羅寺領(上が南)

榎井の東端でドッグレッグした髙松街道を東に進むと、四条村です。ここは髙松藩になります。四条については、讃岐国名勝図会には次のように描かれています。

讃岐国名勝図会 髙松街道 土器川・四条
土器川周辺・四条村 (讃岐国名勝図会)
以上をまとめておきます。
①古代中世の榎井は、春日神社(榎井大明神)の出水を利用したエリアに集落が形成された。
②中世には大井神社を中心とする五条が本所(庄)で、石井氏の榎井大明神(春日神社)は新所(庄)で、それぞれの国衆の氏神であった。
③春日神社と石井氏の居館を結ぶ用水路沿いと、その下流域が榎井エリアであった。
④それが流行神の金毘羅神の登場で、金比羅寺領の門前町化が18世紀になって進むと、榎井も髙松街道沿いに人家が建ち並ぶようになった。
⑤榎井村の高札場は、石井氏の居館に近い髙松街道沿いに建てられた。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考史料
 横関智也の提供「讃岐国那珂郡七箇村五条村榎井村苗田村絵図」(倉敷歴史博物館)
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   決壊中の満濃池   
満濃池と池御料三村(白色)と金毘羅寺領(黄土色)
1640年に生駒騒動で生駒藩が転封すると、その後の讃岐は髙松藩(草色)と丸亀藩(茶色)の東西に分割されます。その時に満濃池の管理費の捻出のために設置されたのが池御領という天領(白色)でした。こうして金毘羅寺領に接した①榎井②五条③苗田の三村は、幕府の直轄地となり倉敷代官所などの支配下に置かれることになります。金毘羅寺領と池御領の位置関係は上の絵図の通りです。

1648年 幕府の金光院への朱印状
金毘羅寺領と天領三村の石高
倉敷代官役所管下の天領・窪屋郡倉敷村の庄屋を勤めた小野家には、「讃岐国那珂郡七箇村五条村榎井村苗田村絵図」という大きな一枚の絵図があります。これを初めて紹介したのは、琴平町の三水会の横関智也氏です。
金毘羅天領の古地図 倉敷市歴史資料館

横関氏は、次のように報告しています。
①提出先が倉敷代官「万年七郎右衛門 様 御役所」 となっている。
②この代官の任期は、一回目が明和7年~安永4年(1770年~1775年) 、二回目の任期が天明4年~天明7年没(1784年~1787年没)なので、制作されたのは18世紀後半
④提出者が苗田村・東庄屋新左衛門と同村西庄屋五郎衛門 
⑤いままでの紹介されたことのない新史料の絵地図であること
以上から、この絵図が18世紀後半に池御料で制作されて、倉敷代官所に提出されたものであることが分かります。今回は、この絵地図の中の五条村について見ていくことにします。
五条村の部分からは、次のような事が読み取れます。

五条村絵地図 18世紀後半
五条村の部分
①川は青色で描かれていて、金倉川と買田川が石淵の手前で合流している。
②石淵の対岸には神事場は描かれていない。神事場が整備されるのは神仏分離の明治維新後。
③街道は茶色で描かれていて、阿波町から阿波街道が五条村の中央を東西に貫通している。
④阿波街道沿いに札場と所蔵(郷倉)がセットであり、ここが行政的中心であったこと。
⑤札場から阿波街道はくねくねと曲がっているが、これは出水①の用水路沿いに作られたため。
⑥出水①が中世以来の五条の水源で、その水の供給範囲が中世の荘園領であった。
⑦出水④の水が湧き出す霊域に祀られたのが「大井神社」で、その背後は四条村になる。

高札場とはどんなものだったのかを見ておきましょう。

高札場とは何?復元された名古屋市緑区東海道鳴海宿の高札場に行った感想

名古屋市の東海道鳴海宿の高札場

高札場のことを。AIに訊ねると次のように答えます。
高札場とは幕府や領主が、法度(法律)や禁制(禁止事項)を記した木の板(高札)を掲げた施設のこと。設置場所は、村の中心部や、橋のたもと、十字路など、人の往来が多い所。構造は、権威を示すために一段高く作られ、雨風から札を守るための屋根や、保護のための柵が設けらた。
次に郷倉を見ておきます。

吉野上村郷倉平面図
まんのう町吉野上村の郷倉平面図です。明治になって小学校や交番として利用されるようになります。

幕府は、1788(天明8)年2月に「郷倉設置令」を出して、飢饉に備えて村ごとに非常救米の備蓄を命じています。

 
これを受けて高松藩・丸亀藩や天領でも一斉に、郷倉(所蔵:ところくら)が設置されます。そして、年貢米の一時的集積地となります。池御料の年貢米は、ここから那珂郡と鵜足郡の人夫と馬の夫役で、宇多津まで運ばれ、そこから倉敷へ送られました。 
 郷倉は明治になって、戸長役場や小学校・交番に転用されます。ちなみに各村の郷倉は、年貢の一時保管庫以外にも、犯罪者や問題を起こした人間を入れておく留置場の役割も果たしていたことは以前にお話ししました。ここでは、札所と郷倉はセットで、村の中心に作られたことを押さえておきます。五条村では、現在の琴平高校の南側の旧阿波街道沿いに建てられていたようです。この辺りに、本村や本条という地名も残っています。
 私が注目したいのは、出水①④のある大井神社と五条村の関係です。
  角川の地名大辞典には、次のように記します。

五条は金倉川の上流域に位置する。地名の由来は、条里制那珂郡五条にあたることにちなむ。南部の買田峠の三坂山一体には古墳群があり、仲多度農業普及事務所(琴平マルナカ東)の構内からは弥生式土器が出土している。

琴平町五条
現在の琴平町五条 中央水色が金倉川

グーグル地図で現在の琴平町五条を押さえておきます。
①五条の真ん中を、東西に金倉川が貫通する。
②大井八幡が氏神で、この周辺の出水から導水されたJR土讃線の北側の範囲に集落が形成された。
③R32号が金倉川を渡る橋の東側下に、いまも豊かな出水があり、古代の重要な水源地となっていた。
④その水源を霊地として「大井神社」が建立された。これは榎井の春日神社よりも古い。
⑤五条集落の形成は、榎井よりも早い。五条が本村で、榎井は新村(分村)

琴平大井・春日神社
五条附近の金倉川痕跡 
上記の土地利用図からは次のような情報が読み取れます。
A 金倉川は三坂山の所で流路を大きく変えていたこと
B かつての河道は大井神社から春日神社方面や、買田峠のすぐ下を流れていたことあったこと。
C 五条方面では、JR土讃線に沿うように流れていたこともあった。
こうしてみるとBの大井神社や春日神社にいくつも出水があり、それが聖域化し、そこに神社が建立されたことや、」C沿いに伏流水が流れて、それに沿って阿波街道も開けたようです。

まんのう町条里制と遺跡
三坂山の群集墳と準郡衙的な買田岡下遺跡と四条の弘安寺
⑥買田の三坂山には、古墳時代後期の群集墳があったとされ、岸上には、横穴石室の古墳もある。
⑧買田のJOYの南側からは、8世紀の官衛的遺跡も発掘されている。
⑨五条の東側の四条には、白鳳時代の瓦が出土している弘安寺が建立されている。
以上からは五条・買田附近では、弥生時代に大井神社付近の出水を水源にして稲作が始まり、古墳時代には群集墳の渡来人による開発が進み、律令時代には官衛的な建物や古代寺院が姿を現すようになったと云えそうです。古代から順調に力を伸ばし続けた勢力の拠点地であったことがうかがえます。これをまとめると次のようになります。

五条・買田の歴史

つまり、那珂郡の最南端の条里制や、四条の弘安寺・買田の郡衙的建物は、五条近辺に勢力を持っていた古代豪族によって作られたと私は考えています。それは佐伯氏ではありません。ここは多度郡ではなく那珂郡です。佐伯氏の勢力の及ぶ範囲ではありません。また、和気氏(因支首氏)でもありません。ましてや神櫛王(綾氏)でもありません。それについては、以前にお話ししたのでここでは触れません。
丸亀平野条里制 琴平の五条・四条
丸亀平野の条里制 琴平町の五条は那珂郡条里制の最南端に位置する

次に中世の五条周辺を見ておきましょう。

まんのう町の郷
五条は小松郷に属した

延慶二年(1309)の九条家の「九条忠教注給条々」には、次のような記載があります。
  小松荘 御馬飼赳晶公器談
此の如く仰せらると雖も、其足に及ばずと称し、行宣御預を辞し了ぬ、其以後各別の沙汰と為て、馬飼に於ては小豆嶋に宛てる所也 
意訳変換しておくと
 小松荘には、峯殿と呼ばれた九条道家の建立した寺のために、馬の飼育が充てられていた。行宣という者がその負担が困難だと辞退してきたので、馬飼の役を同じ九条家領の小豆島に替えた。

ここからは次のようなことが分かります。
①14世紀初頭の小松荘には、九条家から馬が預けられ飼育されていたこと
②飼育を行っていた行宣も預所であったこと
③九条家には小豆島にも馬の飼育を行う牧場があったこと
①②からは小松荘には九条家の馬を飼育する牧場があったことが分かります。つまり、九条家の荘園になっていたことが裏付けられます。
九条道教は貞和4年(1348)に亡くなり、経教があとを継ぎます
南北朝動乱後の応永3年(1396)4月の「九条経教遺誠」を見ると、道教の時40か所あった所領が16か所に激減しています。そして、讃岐国小松荘の名は、そのなかから消えています。一方、応永十二年(1405)に、室町幕府三代将軍足利義満は、備中守護職の細川頼重に次のような所領安堵の御教書を与えています。
    御判  (足州義満)  
備中国武蔵入道(細川頼之)常久知行分閥所等 讃岐国子松荘、同金武名(中首領跡)、同国高篠郷壱分地頭職、同公文職、伊予国新居郡ならびに西条荘嶋山郷の事、細河九郎頼重領掌、相違有るべからずの状件の如し、
応永十二年十月廿九日
意訳変換しておくと
備中国の武蔵入道(細川頼之)が知行していた領地と、併せて讃岐国の小松荘、金武名、高篠郷一分地頭職、同じく高篠郷の公文職、伊予国新居郡ならびに西条荘嶋山郷について、細河(細川)九郎頼重が相続したことを認める。

ここからは、九条家領であった小松荘が備中守護細川氏の所領になっていることが分かります。小松荘については、九条家領からその名が消えて、細川氏家領として記されています。九条家が持っていた荘園領主権が細川氏の手に移ったことが分かります。その時期は、頼之が讃岐守護となった貞治元年(1326)以後のことと研究者は考えているようです。
 以後、小松荘は、義満以下代々の将軍の安堵を受けて、備中守護細川家に伝領されていきます。讃岐守護は細川氏の惣領家です。分家である備中細川氏の所領の保護は怠りなかったでしょう。
しかし、応仁の乱が起きると、それも安泰ではなくなったようです。
讃岐の細川家の所領も、このころには細川氏の手を離れたようです。以後の備中細川家の安堵状には、小松荘の名は見えなくなります。小松荘は誰の手に置かれたのでしょうか。
 16世紀初頭の永世の錯乱後、阿波勢力の讃岐侵攻を受けて讃岐は各国に先駆けて戦国時代に突入します。そのような中で丸亀平野をめぐっては、阿波三好氏に属した長尾城主と、反三好の天霧城香川氏の勢力争いが展開されます。そのような中で小松庄の国衆は、長尾氏の参加に編入されていったことは以前にお話ししました。その拠点とされるの五条の古城です。

琴平 本庄・新庄
琴平高校北側の本庄城は能勢氏の居館((山本祐三 琴平町の山城より)
 一枚の絵地図を見ながら、私の考えている五条の歴史を振り返ってみました。最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
横関智也氏提供 「讃岐国那珂郡七箇村五条村榎井村苗田村絵図」
参考文献
関連記事

象頭山金毘羅全図1 新町 阿波町
金毘羅五街道 五街道が集まって一本の参道となる
「四国の道は、こんぴらに続く」と云われるように、五街道が金毘羅門前町で合流し、一本の参道となって本社につながっていました。そのうちの阿波から金比羅への道を「阿波みち」と呼んでいました。その街道の付け根に、お旅所(神事場)があり、街道にはノコ屋、目立て屋、ヤスリ屋、鍛治屋などがひしめていました。今回は、この阿波町について見ていくことにします。
  テキストは「町史ことひら3 民俗編 83P」です。
まず略図で阿波町の位置を確認しておきます。

金毘羅門前町
街道の合流位置は、次の通りでした。
①の髙松街道に、
②の丸亀街道が新町で北から合流
③の阿波街道が鞘橋手前で南から合流
⑤多度津街道が内町で北から合流
④伊予土佐街道が、谷川町で合流。
ここでは、③の阿波街道は鞘橋の東側が起点になっていたことを押さえておきます。それを18世紀初頭に描かれた「金毘羅大祭行列屏風図」で見ておきます。

金毘羅大祭行列屏風図 10
「金毘羅大祭行列屏風図」(金刀比羅宮宝物館)

金毘羅大祭行列屏風図 新町 容量縮小版
            大祭行列屏風図 寺領入口の木戸から鞘橋まで

鞘橋祭礼屏風図鞘橋沐浴図
鞘橋周辺の拡大図 右下が阿波町

この部分からは次のような事が読み取れます。
①池の御領(天領)の榎井村から寺領への入口には木戸が設けられていること
②木戸から鞘橋まで街道沿いに「新町」が形成されていたが、その背後は田んぼであったこと
③新町の丸亀街道の合流点に石造の白い鳥居が建っていること
④鞘橋手前で南からの阿波街道が合流していること
⑤そして街道沿いに阿波町が形成されていること。
DSC01023鞘橋から阿波町
金毘羅門前町 阿波町
この絵図では阿波町が鞘橋を起点に、石淵附近までのびていたことが分かります。神事場が整備されるのは神仏分離の明治維新以後のことです。神事場のたりには雑木林が描かれています。注目したいのは、街並みが戸切れるところに柵のように見える木製の鳥居が描かれていることです。これは、あとで見ることにして幕末の阿波町を、讃岐国名勝図会で見ておきましょう。

大祭絵図 鞘橋・阿波町・金倉川 讃岐国名勝図会
           瀬川神事(後の大祭行列) 金毘羅参詣名所図会
この絵図からは次のような事が読み取れます。
①頭家行列が本社から下りてきて内町から鞘橋を渡ろうとしている
②金倉川の対岸には、神事場に続く阿波町の街並みが続く。
③建物は川にせり出すような2階建ての建物が並ぶ
④鞘橋の上流には小さな板橋も渡されている。
この絵図からは幕末の阿波町は、金倉川沿いに南に伸びて、その沿道が市街化していったことが裏付けられます。 文政五年(1822)に片岡正範が著した「証記」の中に「当地町方の事」には次のように、阿波町が記されています。
阿波町の事 是又昔はとぼとぼにこれ有り、今は繁昌し町並に成り阿波国え越く出口故阿已町と云う事
意訳変換しておくと
阿波町については、昔はぽつぽつとしか家がなかったが、今は繁盛して街並みとなっている。阿波への出口なので阿波町という。

先ほど見た阿波町の入口にあった鳥居を見ておきましょう。
 
3 阿波町鳥居
阿波町の鳥居(現在は学芸館前 もともとは南神苑(神事場)東側に立っていた)

この鳥居は、嘉永元年(1848)に阿波国三好郡講中の人たちによって奉納されています
鳥居の銘文にある講中の村々を挙げてみます。

 東山・昼間・足代(三好町)太刀野・太刀野山・芝生(三野町)・中庄・西庄・西庄山・加茂(三加茂町) 辻・西井川(井川町) 池田・州津・西山(池田町)

こうして見ると三好・三野・三加茂・井川・池田など三好郡の吉野川の両岸に分布する村々の人達の寄進で建立されたことが分かります。昼間村から講元引請人と世話人四人を出しているので、このエリアの人達が中心になって寄進奉納が行われたことがうかがえます。昼間には「金毘羅さんの奥社」を自称する箸蔵寺があって、箸蔵の修験者たちが金比羅周辺でも活動していたので、そんな関係もあったのかも知れません。ここでは、昼間村を中心とした勧進活動が行われ阿波町の入口に鳥居が建立されたことを押さえておきます。
 どうして阿讃山脈の向こう側の三好の人達が金毘羅門前町に鳥居を寄進したのでしょうか
金毘羅ほどの賑わいのある町は、吉野川沿いにはありませんでした。金比羅は品物も豊富で、金毘羅さんの阿波街道の入口には「阿波町」が形成され、阿波出身の商人達がいろいろな店を出していました。贔屓の店が、ここにあったのです。また。山仕事に必要な道具を扱う鍛冶屋、鋸屋など職人の町でもありました。ここには阿波の人たちによって鳥居が奉納され、大勢の阿波の人達が金毘羅参詣を兼ねて訪れました。東山では明治の中頃まで、年末になると金毘羅の阿波町へ正月の買い物にいき、めざしや塩鮭、昆布、下駄などを天秤棒にぶらさげて、日の明るい内に帰ってきたと伝えられます。
阿波の人達によって寄進された石畳と玉垣・灯籠・鳥居などの寄進を歴史順に並べると次のようになります。
①文政三年(1820) 阿波藩主の灯籠寄進
②天保十五年(1844)  「阿州藍師中」による玉垣奉納
③嘉永元年(1848) 阿波街道起点の石鳥居 吉野川上流の村々から奉納
④安政七年(1860)  石燈龍奉納 麻植郡の山川町・川島町の村人77人の合力
⑤文久二年(1862)  阿波敷石講中による桜馬場敷石奉納スタート   池田・辻中心
4 玉垣桜馬場21
⑤の文久二年(1862)阿波敷石講中による桜馬場の玉垣 「阿州穴吹」と見える
ここからは、阿波の蜂須賀家の殿様 → 藍富豪 → 一般商人 → 周辺の村々の富裕層へという寄進層の変遷が見えます。殿様が灯籠を奉納したらしいという話が伝わり、実際に金毘羅参拝にきた人たちの話に上り、財政的に裕福になった藍富豪たちが石垣講を作って奉納。すると、われもわれもと吉野川上流の三好郡の池田・辻の町商人たちが敷石講を作って寄進。それは、奉納者のエリアを広げて祖谷や馬路方面まで及んだことは以前にお話ししました。

DSC01447阿波町 阿波街道
琴平町阿波町 
「町史ことひら3 民俗編 83P」には阿波町の賑わいを次のように記します。

阿波町界隈には、ノコ屋九軒、ノコ目立て屋四軒、ヤスリ屋四軒のほか、農鍛冶屋、ヤリ屋、下駄屋布団屋、小間物屋、麦わら帽子屋豆腐屋、肥料屋、箱製造、表具屋、染め物屋、能屋、提灯屋八百屋、古物屋、酒屋、たばこ屋質屋果物屋、風呂屋、床屋、建材店、桶屋、精米店、佛壇屋、運送屋、魚屋、うどん屋等々が建ち並んでいた。徳島県からの参拝客だけでなく、ほかの街道を通った人達も、何でもそろっている阿波町に立ち寄った。

 ノコは山林用に使う大物から小物まで多彩。こんぴら参詣のついでに目立てノコを持参して、お参りする前に阿波町に立ち寄り、帰りに仕上がったノコをもらって帰った。日数のかかる目立てノコは、近所の人がこんぴら参りをするとき、持って帰ってくれた。その代わり、以前預けた人のノコを持ち帰ることもあった。

 阿波町のノコ製造は、江戸末期ごろから始まり、明治末期からは、谷口清太郎、山下長松浅田(庚申堂)の三人が「こんぴらノコ」の基礎を作った。材料のハガネは山陰の東郷や安木から仕入れ、フイゴと「トッテンカン」の荒打ち作業、仕上げ作業を経参詣客用の土産ノコを作った。
 
ヤリ屋は「ぼう屋とか」、ロクロを回すので「ロクロ屋」とも呼ばれる。

 江戸時代、槍の柄を作っていたので「ヤリ屋」と呼ぶ。ヤリ屋の仕事は、真樫で鍬の柄(え)を作ることだった。両方の掌にすっぽりと収まる柄は、真ん中にいくほど、細くなるように仕上げる。材料の真樫は、満濃町、仲南町・綾南町のヤリ屋仲間と一緒に、徳島県の半田や高知県の大辺りまで木を見に出かけて手に入れる。いい木があると伐ってもらい、柄が取れるように、クサビを打ち込み、カケヤを使って「フロワリ」する。あとは、フロワリした材を束ねて運び出す。原木のまま運ぶより、その方が作業がはかどる。フロワリした材は、二年以上仕事場で干す。しっかり乾燥した材は、狂いが少ない。一本作るのに、すべて手作業である。(中略)阿波町のヤリ屋の手仕事は、五色台の瀬戸内海民俗資料館に収蔵されている。

以上をまとめておきます。
①金毘羅門前の鞘橋から神事場にいたる街道沿いに阿波町が形成された。
②この町筋は、ノコやヤリ屋などの職人や阿波からやってきた人達が商売をしていた
③阿波三好の人達は、徳島城下町よりも金比羅の方が便利であったので、何かの折には阿波町の贔屓の店を利用した。
④そのため阿波町の鳥居は、三好郡の有力者の寄進によって建立されている。
⑤阿波街道を経ての人とモノの流れの起点となっていたのが阿波町であった。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
    「町史ことひら3 民俗編 83P」 
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P1190798
田野々の庚申塔
 阿波のソラの集落を廻っていると、お堂と庚申信仰の痕跡によく出会います。

庚申信仰=山伏形成説

山伏たちによって庚申信仰がソラの集落に拡げられ、そこをテリトリーとしていたことがうかがえます。ところが、私の住む金毘羅周辺には、庚申信仰はあまりみられません。どうしてなのか疑問に思っていましたが金光院日帳を見ていると疑問が解けてきました。今回は金光院と庚申信仰の関係を見ていくことにします。テキストは「町史ことひら3 民俗編274P」です。

金毘羅天領と寺領
満濃池水掛村々之図(1870年)の拡大図 黄色が天領 赤が金毘羅寺領 桃色が高松藩領

 金光院住職は、金比羅社領330石の小さいながらも領主で「お山の大将」でした。

そのため領主として禁令やお触れを出しています。禁令が出されると云うことは「禁止すべきようなことが当時は行われていた」ということです。そういう目で見ていきます。
①元禄二年(1689)十一月  髙松藩より境内での殺生禁止、山林竹木切るべからざるの制札下さる。
②元禄七年(1694)十月 宿貸し・遊女博奕停止のこと触す。
③正徳四年(1714)六月二十日 庚申待無用申し渡される。
④享保六年(1721)十一月八日 近在に辻芝居があるので、住民に見物無用申し渡す。
⑤享保十八年(1733)八月二十日 町方裏借屋は法度に仰せ付けられる。
⑥享保二十年(1735)一月十九日 町方で綱引のとき口論があり、以後綱引停止。
⑦寛保三年(1743)六月二十二日 (金倉川)川筋にて殺生禁の札を建てる。
⑧延享四年(1747)五月二日  内町虎屋兵次郎、入口玄関の普請分不相応につき閉門八日、破風玄関式台取り除き閉門御免。
⑨寛延三年(1750)六月二十三日  苗田村の相撲見物無用申渡す。
⑩寛延四年(1751)九月二十四日 年中の月待日待・庚申待は夜食切に仕舞うよう申し渡す。
⑪宝暦二年(1752)二月九日  愛宕町の平兵衛、南の山にて小松を伐採したので追放。
⑫宝暦三年(1753)二月 曜日婚礼の折り、石打ちする者があり組頭とも閉門。
⑬宝暦五年(1755)七月二十九日 昼の葬礼また川より西にて火葬のこと無用申し渡す。
 十一月二十八日 醤油仕込みの節、老女呼び上げること無用。
⑮宝暦九年(1759)七月十三日 笛田村の相撲見無用。
⑯          七月二十四日 桜藤三郎、屋敷の木を切ったので閉門
十二月十七日 町方借者に念を入れるよう申し渡す。
⑱宝暦十一年(1761)十月晦日  榎井村のあやつり芝居見物無用。
⑲明和二年(1765)五月十七日  神前近辺で薪をこしらえること御法度。
  六月十八日 五條村の相撲芝居見物無用。
⑳安永三年(1774)五月十八日 奉公人のうち、貸屋者の請状を出さない者があるので、総体に申し渡される。
㉑ 天明五年(1785)十月   奉公人の宿貸しするのは風儀上良くないので無用申し渡す。
 十一月  会式中に奉公人で宿貸した者があり、閉門申し付ける。
㉓寛政四年(1792)八月  高松様御逝去の忌中のところ、謡をうたった者があり遠慮申し付ける。
㉔天保元年(1830)五月二十一日  社領の者に、一向宗法談聞のこと差し止める。
 九月十六日、   十二日夜に石打徒党の者に閉門申し付ける。
㉖天保五年(1834)五月十四日 五日の夜、鞘橋の下で殺生した内町屋太兵衛の清之助、同嶋屋金蔵伜十太、金山寺町弥三郎作俊吉、取調べのうえ入牢申し付けた。このほど格別を以て御免になり、それぞれの親へ預けるよう仰付られる。
       十一月二十九日  神前の灯籠を盗んだ甚兵衛件磯吉を召し捕え、裸乱髪に橋の下にさらし、五日目に追払い申し付ける。
㉘天保六年(1835)六月十九日 前町にて御守札に寄せの小絵図を売る者があるのを指し止める。
㉙天保七年(1836)五月十一日  出来屋善左衛門外二名、十二景図を土産に紛らわしく仕立てて売り出した咎により戸閉め申し付ける。
㉚弘化三年(1846)三月二十五日  榎井村口の諸殺生・山林竹木のお札新たに出来、古き分は西口峠(牛屋口)へ廻す。
 六月二十三日  石渕の神事場へ殺生禁断の制札を立てる。

まず庚申講について、見ておきましょう。

庚申待2

③の正徳四年(1714)の「庚申待無用申し渡される。」が、最初のお触れです。18世紀初頭に金毘羅周辺でも庚申信仰が広まってきたことがうかがえます。それに対し「庚申待無用」を金光院は通達しています。しかし、人々の信仰熱は押さえられません。約40年後の⑩寛延四年(1751)九月二十四日 年中の月待日待・庚申待は夜食切に仕舞うよう申し渡す。」と再度の通達が出されています。
 補足すると次のようになります。

「夜遅くまで会合しても、決まり通り法中は法衣を着し修法などして、在家も真言を唱えて殊勝に待つのであれば祈疇にもなることであるが、そうではなく深夜まで遊興がましいことばかりするのでは無益であるだけでなく悪業をも増すことになって全く良くないので、法事のあとは夜食切りで解散するように心懸けること」

これは「深夜まで遊興がましいこと」を行う庚申待ちが流行してきたので、それにブレーキをかけるものです。しかし、「禁止」ではありません。一晩中寝ずに庚申待ちをするのは止めよと、後退した内容です。
庚申待ち2
庚申待ちの様子を描いた絵図 床の間に庚申さまが掛けられているが拝んでいるのはひとりだけ。あとはどんちゃん騒ぎの様子。
 以上をまとめておきます。
①金毘羅門前町では18世紀初頭には庚申信仰が流行神として拡がってくるようになった。
②これに対して金光院は「庚申講無用」とするが、広がりを押さえることは出来なかった。
③そこで18世紀半ばには、「庚申待は夜食切に仕舞え」と再度通達している。
④この背景には、庶民の中での庚申講の盛行があり、頭から禁止できないほどになっていたことが考えられる。
⑤しかし、金毘羅周辺には庚申碑は見られないので、庶民は金光院の意を汲んで石碑を建てることは
控えていたのかもしれない。

①⑦に見られるように社領内では、早くから殺生と竹木伐採が禁止されていました。
⑯では「桜藤三郎、屋敷の木を切ったので閉門」とあり、自分の家の中の木を切ることも許可が無ければできなかったようです。
には「神前近辺で薪をこしらえる(採取)こと御法度」とあり、本社周辺では薪拾いも禁止されています。㉖には、「鞘橋の下で殺生した三人に取調べのうえ入牢申し付けた。」とあります。
㉚の弘化三年(1846)になると、(髙松街道の入口の)「榎井村口に殺生・山林竹木のお札新たに出来、古き分は西口峠(牛屋口)へ廻す。」とあり、㉛には、「石渕の神事場へ殺生禁断の制札を立てる。」とあります。ここからは幕末には、榎井村口、石渕、佐文の牛屋口(西口峠)など、社領と隣村の境には領内での殺生禁止と木竹伐採禁止の立札が建てられていたことが分かります。鞘橋のかかる金倉川には社家による大祓や、僧侶の流れ勧進が行われていました。また参詣者が垢離をとる所でもありました。

鞘橋 金毘羅大祭行列図屏風
鞘橋の下の金倉川は垢離取り場でもあった(金毘羅大祭行列屏風 18世紀初頭)
金倉川は神聖な川であり、そこで殺生を行うことは禁止されていたことを押さえておきます。

金毘羅周辺の村々で行われる行事には、金比羅領民は参加すべからずというのが金光院の基本方針だったようです。
④享保六年(1721)十一月八日  近在に辻芝居があるので、住民に見物無用申し渡す。
⑨寛延三年(1750)六月二十三日  苗田村の相撲見物無用中渡す。
⑱宝暦十一年(1761)十月晦日  榎井村のあやつり芝居見物無用。
  六月十八日 五條村の相撲芝居見物無用。 
以上からは近在の村で芝居・相撲などがあっても、領内の者には「見物無用(行ってはならぬ)」という氏姓です。これは領内の芝居の繁栄を考えたためなのでしょうか? 私にはよく分かりません。

 金毘羅は門前町として繁盛するにつれて、周辺からの人口流入が強まり、都市化が進みます。
そのため流入者が増えて住宅需要が増大します。流入者は借屋を探すのですが、治安にも関係するので勝手に貸すことは禁止されて、借人諸状のこともやかましく言われていたようです。
⑤享保十八年(1733)八月二十日 町方裏借屋は法度に仰せ付けられる。
⑳安永三年(1774)五月十八日 奉公人のうち、貸屋者の請状を出さない者があるので、総体に申し渡される。
㉑ 天明五年(1785)十月 奉公人が参詣人に宿貸しするのは風儀上良くないので無用。
十一月 会式中に奉公人で宿貸した者があり、閉門申し付ける。

逆にいうと18世紀後半頃から参拝客の増加や、周辺農民の流入による住宅不足が深刻化していたことがうかがえます。金毘羅の都市化は、18世紀後半になって拍車がかかったようです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
]
参考文献 「町史ことひら3 民俗編274P」
関連記

 金光院の初代院主宥盛は、高野山で学んだ真言僧侶であると同時に、修験者で天狗信仰の持ち主でした。彼は象頭山にあったいろいろな宗教施設との権力闘争に勝ち抜いて支配権を得ていきます。明治以前の金毘羅大権現は別当寺の金光院が寺領の小領主となり「お山の大将」として支配するようになります。ある意味では、金毘羅大権現は「流行(はやり)神」として急成長していった「成り上がりもの」でした。そのため周辺寺社から羨望や反発を受けることもあったようです。その例が善通寺誕生院から出された「金光院は、我が寺の末寺である」という次のような提訴であることは以前にお話ししました。

善通寺誕生院と金毘羅金光院の本末争い

以後、金光院は周辺寺院との反発や軋轢を生まないような対応を心がけたようです。それでは金光院は周辺の真言寺院と、どのような関係を保っていたのでしょうか。テキストは「町史ことひら 3(民俗)273P 近郷の諸寺院からの願い出」です。
 初代高松藩主松平頼重の保護を受けた金毘羅大権現は、18世紀初頭の元禄年間になると讃岐の諸寺院を圧倒する力を持つようになります。その結果、近郷諸寺院からも色々な依頼や願い出を受けるようになります。その依頼や対応について、金光院日帳の中の記事を抜き出したものを見ていくことにします。 

享保十一年(1726)
十一年二月二十日 予州宅善寺から、三月二十二日には多度郡明王院(道隆寺)から灌頂道具を借用依頼
十七年三月十九日 三野郡威徳院から灌頂道具を借用依頼、四月四日返納
十九年二月十七日 多度郡明王院と阿野郡摩尼珠院から、三月十一日には伊予誓源寺と一ノ宮大宝院から法衣借用を申し出る。

この年は、弘法大師九百年遠忌の年であったので法衣の借用申し入れが多かったようです。多度津の道隆寺は、潅頂用具や法衣などを金光院から借用しています。その他の借用依頼のあった寺名を挙げておきます。
享保二十(1730)年十月二十二日 阿州雲辺寺から曼荼羅供の道具借用
寛保三(1743)年十月十七日 高松無量寿院へ法衣貸与。
宝暦二年二月二十六日 中津村正花寺から天満宮年忌につき法衣借用申し出る。
宝暦十三年六月七日 白峯寺より法衣借用依頼。
文化元年(1804)九月二十五日 善通寺五重塔落慶供養につき丸亀藩役人より法衣借用申し来る。
文化十年二月八日 崇徳天皇六百五十年忌につき、摩尼珠院より霊宝拝借したき旨願い出る。
ここからは、雲辺寺・無量寿院・白峰寺などからも特別な行事に着用する法衣を借りに来ていることが分かります。財政的に豊かだった金光院は、高価な法衣もそろえていたようです。また、本末論争を展開した善通寺誕生院も19世紀初めには、法衣借用を丸亀藩を通じて申し出ています。

次に立札の依頼を見ていくことにします。

天明四年(1784)1月多度郡善通寺から、弘法大師九百五十年遠忌の建札の件願い出る。坂口に建てさせる。
文化十一(1814)年十一月十七日 丸亀円光寺が法華経講釈致したく、小坂下に建札したき旨願い出る。
文化十四(1817)年三月九日 多度郡生野村浄証寺、開帳につき建札願。
文久二(1862)年一月十七日 予州石槌山開帳に付き、当建札のこと願い出る。
文久八年七月一日 隣村榎井村玄龍寺社領内に建札したき旨願い出る。
那珂郡西念寺、説法の建札社領内に建てたい旨願い出る。
 善通寺や石鎚山から賑わう金毘羅門前町に開帳などの立札を立てさせてくれとの依頼もあります。

また、他寺の火災再建などについても、次のように援助の手を差し伸べています
宝暦元年(1751)6月2日 天領池領の龍松寺から材木をもらいたいと願い出た。それは断り、代りに本尊へ三百疋供える。
安永五年(1776)10月27日 高野山浄菩提院焼失につき寄進を願い出る。
文化九(1812)年十月二十日 那珂郡恵光寺(買田)全焼、助情として文銭十貫文遣わす。
天保十二年(1841)十一月五日 三野郡財田村伊舎那院楼上棟につき鏡餅を献上する。使者を以て金三百疋・昆布三連遺わす。
同月二十三日 京都愛宕山福寿院社頭再建に付き寄附を願い出る。
慶応三年(1867)六月二十日 榎井村興泉寺へ本堂再建資金二百両遣わす。
こうして見ると、周辺の天領や買田などの寺に対しては、多額の援助を行っています。疑問なのは、榎井の興泉寺は真宗興正派に転宗していますが、宗派を超えて「本堂再建資金二百両」を提供していることです。金光院と興泉寺の特別な関係がうかがえます。また、京都愛宕山福寿院の社頭再建を援助しています。象頭山に続く愛宕山は、愛宕信仰の拠点として修験者たちが活発な動きを見せていた所であることは以前にお話ししました。本家の京都の愛宕山との関係があったことが、ここからはうかがえます。

また、面白い所では次のような記録も残っています。

宝暦六(1756)年四月九日 阿州極楽寺隠居、四国巡拝の途中路の借用を頼み来る。三十目貸与。

これは四国巡礼に出た阿波の極楽寺の隠居が、金毘羅に立ち寄った際に路銀借用を願い出てきたので三十目貸したというものです。この時期には、四国の真言僧侶が四国巡礼に出ていたことが分かります。また、当時の四国巡礼では金毘羅大権現は札所ではありませんが、参拝するのが当然であったことは以前にお話ししました。
このように金光院が社領を朱印地として認められ、勅願所でもあり、徳川家祈願所でもあるという格式を持つようになると、周辺寺院から頼りとされるようになっていたことがうかがえます。また宗派の寺院でも、住職交替の挨拶に登山し、以後は出入りを願うというような例が多かったようです。それに対して金光院は、たいていの願い事は聞き届けていたようです。そのため善通寺よりも金比羅の金光院の方が頼りになると云われていたようです。

金光院歴代院主一覧
歴代金光院院主一覧

次に9代目金光院院主の宥弁の一周忌の法事について、どんな寺院がやってきているのかを金光院日帳で見ておきましょう。
 宥弁は宝暦10(1760)年十二月五日に江戸で亡くなりました。一周忌の法要には、次のような寺に使僧が案内しています。
丸亀藩領内
下勝間威徳院・仁尾覚成院 仁尾瑞雲院 本山持宝院・財田伊舎邪院・同所宮坊・上ノ村萬福寺・上高ノ村延命院・西ノ村宗運寺・中ノ村薬師坊・姫ノ浜満願寺・大野阿弥陀院・下高野延寿寺・上高野宝積院・大野薬王寺・加茂明王院・笠岡長林寺・
高松藩領
円明院・東福寺・愛染寺・行徳院・大宝院・栗熊能満寺・栗熊円福寺・羽床菩提院・滝宮龍灯院・四条村の浄願院・弘安寺・長尾村の佐岡寺・川津村の宝珠院
讃岐以外
伊予川之江の宅善寺・阿波の舞寺・林下寺・極楽寺
案内した寺院の分布を見ると、高松領よりも丸亀領の方が多いようです。特に三豊とのつながりがうかがえます。以上が金光院と密接な関係にあった寺院と云えるようです。気になるのは、近隣の天領のこう
十一月二日に、法要に向けた役割分担が院主から次のように言い渡され準備が進められます。
膳方奉行役人二人・膳方働人十四人・富士の間給仕人 内町綿屋清兵衛・同山屋富弥新町つねや惣右衛門・阿玉屋半蔵・同伊せや伊助・片原町國屋条松同石田屋孫七(四日の朝六時、羽織袴で登山する)
町料理札之前丹治郎・金山寺町吉次・横町金二郎・西山長七
夜具奉行役人二人 風呂奉行は玄関を兼ねて役人一人・台所奉行役人二人・長屋奉行役人一人・御次役人三人・玄関役人九人・生菓子方役人一人と手明日雇二人。町方からの夜具二十通・木綿の夜具十通借り上げる。寺には絹の夜具十通は備え付けがある。 
十一月四日 二日法要なので前日から案内があった住職がやってきます。

阿波林下寺以下三十一か寺で、うち羽間佐岡寺は隠居が来られ、川之江宅善寺・高松蓮花寺・栗熊円満寺は代僧が見えた。諸寺院の弟子衆は二十六人、下部は六十人ばかりであった。右の寺院方へまず落付の煮染と茶を差し出した。諸寺院がそろったところで、お上は、上之間でお逢いになった。終わって午後四時、二汁五菜の食事を出す。膳部は百人前用意しておく。濃茶は五人詰にして出す。茶葉は羊羹・鰻頭・川葺である。食事の間に、お上は顔を出してあいさつされ、脇坊・役人もあいさつに出て来る。院内の出家分、先住実家の当主等へも二汁五菜の料理・茶菓子を出す。

金光院日帳は、後のための記録資料として記録係が書いていたので、出されたお茶やお菓子などが具体的に記録されています。これが後世の担当者にとっては、役立つ史料となったのでしょう。暮れ時から始まる宵(前夜)法要を見ておきましょう。法要の場所は、本堂の観音堂ではありません。表書院で行われています。

表書院平面図
表書院平面図 もともとは仏間があった
 食事が終わり、暮時分から法事が始まる。光明三昧の導師は上高村延命院、光明真言頭は下勝間威徳院、前讃は高松東福寺、伽陀は阿州林下寺が勤める。七賢の間から虎の間にかけて仏前の荘厳として檀・三方・折敷・玉幡二流・小幡四流・花鬘三ツ大幡六流を飾る。お供え物は御本尊へ饅頭二盛(盛五十積)干菓子二盛・柿一盛(以上塗三宝)・羊羹一盛・金子台、御神前へは饅頭一盛(五十積)・干菓子一盛・団子一盛・祐一盛(以上白木脚打)羊羹一盛・金子台、先寺様総牌前へは干菓子一盛・饅頭一盛(五十積、共に白木脚打)を供えた。外に諸方から到来した品々を見合わせに少しずつ供える。
 お上(金光院院主)は上段の間の紙を立て切った所でお勤をされたが、法事の席へは出ず、終わってから僧に「太儀に存じます」とあいさつされた。
今夜は客僧衆また院内の出家迄、夜食に饂飩・吸物・笠の飯を二菜で出す。ただし酒は出さず、客僧のうち特に望まれる人には見合わせに出すことにする。院内の侍以下にも夜食を出す。
 加羅風呂屋に据風呂を二つ建てて客僧衆が追々に入られる。客僧衆のお供は長屋で朝夕とも一汁二菜の食事を出す。ここでも長前に据え風呂を二つ建てて入らせる。
 今夜は夜廻りを出し、拍子木を打って院内を回らせる。台所の使い水が不足なので町方から汲み上げさせる。今晩から明日にかけて非人たちに施行をする。
導師の名前、仏前の荘厳(飾り付け)、お供え物、夜食などが記されています。夜食には、饂飩が出されています。讃岐における饂飩の普及は、法要などで出されたことに始まるとされますが、それを裏付ける史料です。また、臨時の風呂も用意されています。非人立ちへの施しがされています。金毘羅門前町にも非人たちがいたことが分かります。
翌日の法要です。 
焼香は役人・侍分から始め、焼香台を富士の間の敷居の内一畳目くらいに置き直して手代・料理人・諸方の屋敷守と続く。そのまた、台を持仏堂入口に置き直して町方重立の者たちが焼香する。終わって、持仏堂正面の虎の間敷居際へ焼香台を出し、客僧衆焼香がある。
 終わって昨日の通り二汁五菜のお膳を出す。お膳の途中で、お上また脇坊役人中があいさつに出られることも昨日と同じである。茶菓子は餅と煮染を銘々盆で出す。薄茶も出す。
 お膳の後、お布施を拵えて払方が脇坊中へ渡し、脇坊中の取り計らいで列座の場へ盆に乗せて給仕の者に取らせる。本寺衆・一寺衆は金二百疋宛、末寺衆は金百疋宛である。諸寺院の弟子たちは銀二両ずつ、当山の脇坊中は金百疋、同宿は銀二両ずつであっ客衆がだんだん帰られるので、お上も表へ出て来られお暇いをされる。
   お墓所へ五寸角一丈二尺余の卒都婆を建て香花を供え、墓前に縁取りを一枚ほど敷いておく。役人はじめ侍中へは餅と煮染を銘々に盛って、通りの間・六畳敷きなどで見合わせに出す。中通り以下の者にも食べさせる。法事のお供え料として十疋ずつ役人中から、五十銅ずつ差し上げる。お次表諸役手の侍中からも豆腐・菓子などを差し上げる。(以下略)
焼香の順番、お膳内容が記され、お布施については金額や、その渡し方まで記されています。その後に墓所にも出向いて卒塔婆を建てています。
  こうしてみると金毘羅大権現は金光院という別当寺が支配し、近隣の真言寺院のネットーワークの核として機能していたことがうかがえます。しかし、注意しておきたいのは最初に見た本末争論を展開した善通寺の誕生院は呼ばれていないことです。誕生院と金光院は、その後も反目状態にあったのかもしれません。 最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献  
町史ことひら 3(民俗)273P 近郷の諸寺院からの願い出」
金毘羅庶民信仰資料集 年表編
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金光院日帳 1834年 正月
江戸時代に金刀比羅宮を管理していた別当寺の金光院の日帳を見ています。前回は金光院院主は元旦には、まず護摩堂で護摩祈祷を行った後で、神前奉納を行っていたこと、「仏が先、神は後」であったことを見ました。今回は正月三日から始まる参籠について見ていくことにします。テキストは「町史ことひら 3(民俗)246P 金刀比羅宮の行事」です。
 金光院日帳には、次のように記されています。
正月三日 午後四時から参籠。 脇坊中も神前に詰める。
正月四日  お山の口明け。小頭・中間が神酒一升持参ででかけ、薪一荷ずつ拵える。 松葉は瓦屋へ渡す。
三日から参籠が始まります。子房(脇坊)も、これに従っています。
四日の「口明け」というのは、「はじまり」を意味する言葉で、象頭山への入山解禁を山の口明けとか山の口と云っていたようです。小頭と中原が神酒をもって山に入り、山を浄めた後に、薪を一荷だけ山から下ろしています。作業というよりも、これも儀式です。
正月五日 町方重立の者へお節を下さる。正午ごろ登山、料理一汁二菜、酒肴三種、吸い物なし。東西領の出入りの中、今日も登山。
 正月六日 参籠の中日なので台所で①饂飩(うどん)を拵えて籠所へ差し上げる。ただし、②切り火で整える。③金剛坊宥盛の祥月なので尊前へ仏供を供える。

 ここで注目したいのは、参籠の中日に饂飩が出されていることです。饂飩が讃岐で最初に確認できる史料は、元禄時代の「金毘羅大祭行列屏風」です。

金毘羅大祭行列屏風図 10
元禄時代の金毘羅大祭行列屏風図(金刀比羅宮宝物館)
この大きな屏風図の中には、次の3軒のうどん屋が描かれています。

1 うどん屋2 金毘羅祭礼屏風

1 うどん屋3 金毘羅祭礼屏風

1 金毘羅祭礼図のうどん屋2

1 うどん屋の看板 2jpg

軒先に、この招牌が掲げられているのでうどん屋であることが分かります。現在の所では、これが讃岐で最初に登場する饂飩屋の絵図史料になるようです。文書史料としては、金光院日帳のものが一番古いのではないかと思います。空海が饂飩を持ち帰ったというのは俗説で、饂飩が登場するのは近世になってからです。それが金光院では正月参籠の中日に出されていたことを押さえておきます。
 
参籠中日に出す饂飩の調理は「切り火(きりび)で整える」とあります。
これは火打石と火打鎌(鉄片)を打ち合わせて火花を出し、厄除け、清め、邪気払いを祈願する日本古来の伝統的な風習です。鬼滅の刃にも、次のように登場します。
鬼滅の刃】狛治と恋雪さん、かまぼこ隊に切り火で魔除けをする 【コラ注意】

  正月七日
 七草の雑煮を籠所で差し上げる。 年男が若餅を籠所へ持参して、お上に直接差し上げる。
「弘化行事」 脇坊・役人そのほか一統 籠所で人日のあいさつを申し上げる。
  正月八日 
神前お経の口明。 籠所での鏡餅を雑煮にして出す。また小附飯も出す。 本坊でも鏡餅を雑煮にして出勤している者一同に下さる。酒は出さない。
「宝暦九年日帳」 お経の口明、雑煮だけであったが蓋の飯も出すようせ出される。
  正月九日
 いつものように当月御祈の札守を高松の殿様・若殿様・水戸様に差し上げるので、寺社奉行まで使僧を差し出す。昨年の暮れ、お申越しの五穀成就の祈祷の札守も一緒に差し上げる。明日からの会式の役割を申し渡す。 夜、町方から寄進の掛行灯を御神前までの道筋にともす。 表門へ菊の紋付の雪洞一ツ台行灯ともす。 黒門は平常の金灯籠で済ませる。 御守所へ晒幕を掛け、菊の紋付の雪洞一ツ、内に大行灯をともす。
「弘化行事」 参籠結願なので脇坊・法中が籠所へ恐悦のあいさつに上る。
  正月十日 
役割の通り、銘々詰所へ出動する。 護摩堂で恒例の大般若の修行があり、衆僧へ昼食に焼飯を出し、斎(とき)・非時(ひじ)は籠範所で出す。焼飯は切り火で拵える。
 参籠中の食事は、「籠堂へ持参」とあります。お籠もりなので。本坊には下りてこずに籠所で夜も過ごしたことが分かります。また、正月に院主が護摩堂で祈祷祈願したお守りは、「髙松の殿様・若殿様・水戸様に差し上げる」とありますが、丸亀藩については何も記されていません。9日が参籠結願の日です。この日には、参道の燈籠に灯りが灯されます。こうして3日から9日まで続いた参籠が終わります。
 それでは院主が参籠した籠所とは、どこにあったのでしょうか?
金毘羅大権現 本社と観音堂 讃岐国名勝図会


讃岐国名勝図会の絵図をつなぎ合わせてみます。右が金毘羅大権現の本社、左が松尾寺本堂の観音堂です。
金毘羅大権現観音堂 讃岐国名勝図会
            金毘羅大権現の松尾寺本堂 観音堂(讃岐国名勝図会)
伽藍の一番南に「籠堂」とあります。ここに金光院主は正月に1週間ほど参籠していたようです。しかし、そこで何を行っていたのかは、いまの私にはよく分かりません。
 中世の参籠の流儀を見ておきましょう。
 まず、七日七夜をかけて参籠に先立って精進潔斎します。到着すると祓殿(はらえどの)で身を清め、斎屋(ゆや)で斎戒沐浴(さいかいもくよく)します。夜になると本堂に上がり、御師(おし:祈祷僧)に願文を託して、夜通し祈りを捧げ、夢のお告げを待ちました。夜が明けると、一旦、籠所に下がります。籠所のない所では、斎屋・橋殿・僧坊などが利用されたようです。そして、夜になるとまた本堂に上がることを繰り返します。裕福な層の人たちは、あらかじめ本堂と籠所にスペースを局(つぼね)を確保しました。そうでない人たちは、床下などに籠ることもあったようです。帰宅すると精進落としをして一区切りとなります。
 金光院院主は金毘羅大権現の最高指導者で、330石の寺領朱印地の小領主でもありました。ここでは、その地位にある人物が一週間の参籠を年頭に行っています。その背景には、金光院院主の出発地点が、天狗信仰の修験者に始まると云うことを示す者ではないかと私は考えています。
 最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
町史ことひら 3(民俗)246P 金刀比羅宮の行事
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 金刀比羅宮は、明治維新の神仏分離までは神仏が習合した信仰の場で金毘羅大権現という神号社号で呼ばれていました。山号・象頭山、寺号・松尾寺、院号・金光院と称する古義真言宗の無本寺で、金光院住職は金毘羅大権現の別当職として神前奉仕を行っていました。それでは具体的にはどんな宗教活動を金光院院主は行っていたのでしょうか。それを「金光院日帳」で見ていくことにします。

金光院日帳
金光院日帳(記)
金光院日帳 1834年 正月
金光院日帳1756年 正月

金光院日帳は金光院院主側近の側用人と、脇坊と重役が勤める役の両方から提出された情報を、用人部屋で記録したものです。そのため院主の動静がよく分かります。院主は、「御上(おかみ)」「御前(ごぜん)」「旦那様」などと記されています。宝暦年間 (1751~64)に、院主がどんな活動をしていたか、まず正月元旦の様子から見ていくことにします。テキストは「町史ことひら 3(民俗)246P 金刀比羅宮の行事」です。
正月朔日
 お上(金光院院主)、午前零時お目覚め、若湯を召される。このとき土蔵奉行が湯を差し上げる。午前一時、①護摩堂へ出仕、天下泰平・国家安全祈疇のため護摩供を開白、二時ごろ終わり居間へ入る。

ここからは金光院院主が、年の初めにまず行う事は、護摩堂での護摩祈祷であったことが分かります。
ここに出てくる護摩堂について見ておきましょう。

金光院の護摩堂と阿弥陀堂
金光院表書院の南側にあった護摩堂と、その本尊の不動明王(金刀比羅宮宝物館)

 『金毘羅山名所図会』(文化年間(1804~18)の護摩堂の項には、次のように記されています。(意訳)
護摩堂では、天下泰平・五穀成就、参詣者の請願成就のため、又御守開眼として、護摩祈願が行われており、元旦から12月の除夜まで、絶えることがない。(後略)

 ここからは金光院の護摩堂では、金光院の僧侶達によって連日護摩が焚かれたことが分かります。
この護摩堂の本尊が、現在宝物館に展示されている不動明王になります。この不道明王は「足もとから、胸元にかけて、火にあったようなただれた部分が見られ、塗りがおちて、部分的に木地が露出している」と報告されています。「ただれ跡の剥落」は「かつて護摩を焚いた熱によるもの」と研究者は考えています。ここでは、金光院院主の年頭最初の仕事は、護摩堂で不動明王に向かって護摩祈祷をおこなうことであったことを押さえておきます。

弘化年間の日記には、次のように記されています。
護摩修行を終えて帰りがけ、御影堂・阿弥陀堂・持仏堂歳徳神・大黒天・奥の間毘沙門天を順拝される。

ここからは、阿弥陀堂や大黒天・毘沙門天なども当時の金毘羅大権現には安置されていたことが分かります。

konpira_genroku 元禄末頃境内図:
                    金刀比羅宮 元禄末頃(1704)境内図
午前2時頃に護摩祈祷から帰った後の動きを見ておきましょう。

ほどなく、②書院の間で寺院のあいさつを受ける。続いて同宿役人・人・医師・侍・神役・茶道がお礼を申し上げる。次に③富士の間で御供禅門・男・五師・冶師などの御礼を受けられる。右の者と同席に百姓組頭・三条村百姓町方独礼のがお礼、大井宮神主も御礼申し上げる次に、次に④通りの間で小頭共、さらに⑤大台所で草履取・中間・堂禅門伽藍中間・勝手門番・畑男・前屋敷番・太鼓打・下屋敷番・地方肝煮・山留共がそろってお礼。
   次に、⑥お上へ蓮菜・口取・大福茶を差し上げ、寺院書院・法中・役人へ大福茶を出す。
つづいて⑦寺中・法中・役人御相伴にて雑煮を差し上げる。酒は三献、肴は二種、梅干とせり。次に七賢の間で町方御用のお礼を受けられる。
ここからは次のような事が読み取れます。
②③④⑤からは、各スタッフや町衆の指導者から年頭の挨拶を表書院で受けています。そこには、だれがやって来て、どの部屋に通して、何を出したかがきちんと記録されています。

表書院3
ここで注意しておきたいのは、身分によって使用される部屋が異なることです。
『金刀比羅宮応挙画集』は、表書院が客殿であったことに触れた後、次のように記します。(意訳)

公的な諸儀式や参拝に訪れた賓客の応接にこの客殿(表書院)を用いた。その内の二之間(山水之間)は主として諸候の座席に、七腎人の間は儀式に際しての院主の座席に、虎之間は引見の人々や役人の座席に、鶴之間は使者の間とも呼ばれ、各大名家などからやってくる使者の控室として用いられた。

ここからは、各間が次のような役割を持っていたことが分かります。
①二之間(山水之間) 諸候の座席
②七腎人の間 儀式に際しての院主の座席
③虎之間 引見の人々や役人の座席
④鶴之間 使者の間とも呼ばれ、各大名家などからやってくる使者の控室

表書院展開図2
江戸時代後期の表書院各間は、身分可視化の場でもあった

年頭の挨拶を受けた後は、神前に向かいます。
 しばらく居間で休憩して神前出仕。供は奥の者六人、外に七人。
 ⑦神前では恒例の神事、五人百姓・神役も出仕する。⑧終わって午前八時、本坊へ降りる。
⑦からは、護摩祈祷後に本殿に上がって、五人百姓や神官とともに神事を行っています。ここには、僧侶は出席していないようです。その神事の内容については、よく分かりません。神事を終えて、本坊に下りてくるのが午前8時です。そこで、また次のように挨拶を受けます。
⑨休息のあと七賢の間で町年寄また重立の者のあいさつを受ける。つづいて⑩富士の間で町医者・各町組頭のあいさつを受ける。この時、町重立の者は前々通り、御守所でお守りを頂戴する。
 ⑪小松庄の五條・榎井・苗田・四条の四ヶ村また隣郷の、前々から出入りしている人達が登山してお礼のあいさつを申し上げる。今日は朝夕とも、院内上下の者に雑煮とお節、また酒も下さる。お節は脇坊・役人・法中は富士の間でお相伴で頂く。
 ⑫明後三日からの参籠のお供のお触れがある。高松のお船の祈祷を船行宛に手紙を添えて使僧に持たせてやる。

⑨⑩⑪などからは町年寄や町医者・町組頭など身分に応じて、通される部屋が違っています。身分を可視化するための装置として、表書院の各部屋は造られていたことを押さえておきます。

表書院平面図
江戸時代中期の表書院平面図
 表書院の間取図を見ると、上段・二之間・七賢間・虎の間(広間)・鶴の間・富士の間などの名称や間取りは、現在とほとんど変わらないようです。大きい違いは、上段・二之間と富士の間に挟まれて仏壇と仏間があることです。この仏間は、持仏堂と呼ばれて法要が営まれていました。これは、明治の神仏分離で取り払われます。正月などに町方の者が登山して料理や酒が振る舞われるのが「通りの間」や大台所が表書院に、もともとはあったことを押さえておきます。 
それでは正月二日に進みます。
 朝飯後、高松領・丸亀領のこれまで出入りの人達があいさつに登山、お次の広間で逢われる。登山の人々に吸い物・酒を出す。恒例の畑の耕し初めがあり、銚子に酒を少し入れ、畑で松幣を建てる。

「弘化年間」には、「町方重立の者・御用組頭のあいさつを受ける。 夜、座の間で謡初、酒がある。」と記されています。
  正月三日  
昨日と同じように東西領の出入りの人達があいさつに登山する。 財田中之村の百姓も毎年のように登山。 丸亀・高松・萱原の屋敷守も御礼に参上する。近在の寺院が三ヶ日のうちに登山した場合は酒と吸い物を出す。午後四時から参籠。 脇坊中も神前に詰める。

正月年賀の挨拶参りの人達のがやってきますが、その参賀日にはルールがあったようです。元旦は、各院主からはじまり、スタッフ、門前町の町衆代表などで、2・3日には周辺の人達と同心円的に拡がって行きます。正月3日に「財田中の村百姓も毎年のように登山」とあるのは、金光院主を輩出する山下家の出里が財田であったためのようで、その縁から来ているようです。
そして、3日4時からは6日間の参籠が始まります。これについては、また次回に
以上をまとめておきます。
①明治以前の神仏混時代の金毘羅大権現では、真言僧侶の金光院院主が「小領主」として支配していた。
②正月年頭に、最初に行う事は護摩祈祷であり、金光院の修験者的性格を引き継いでいる。
③「仏道が先、神事は後」で、神前儀式は護摩祈祷の後に行われている。
④金光院の客殿(表書院)には、年頭挨拶に訪れる時間帯が身分毎に決められていた。
⑤また、身分毎に通される部屋も異なっており、各身分を視覚化し、再確認させる場ともなっていた。
⑥金光院日帳には、やって来た人々、通された部屋、出された飲食物などが記載されて、後の参考にされた。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 「町史ことひら 3(民俗)246P 金刀比羅宮の行事」
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