高野空海行状図画の入唐求法 「空海は、どうして文殊菩薩と「虚空書字」を行ったのか?
「虚空書字」 赤い服を着た文殊菩薩の化身と空海が虚空に文字を書いている(高野空海行状図画)
書の腕前を丈殊善薩の化身である五弊童子と競い合う場面です。赤い服を着た童子が文樹菩薩の化身です。場所は長安城中の川のほとり。そこで出会った一人の童子から、「あなたが五筆和尚ですか。虚空に字を書いでいただけませんか」と声をかけられます。空海が気安く書くと、童子も書きます。すると二人の書いた文字が、いつまでも虚空に浮んでいたという話です。
何乃出里来 何ぞ乃高里より来たれる、可非衡其才 其のオを行うに非るべし増学助玄機 増すます学んで玄機を助けよ、土人如子稀 上人すら子が如きは稀なり`
あなたは、いかなる理由があつて万里の波涛を越えて唐まで来られたのですか。その文才を唐の人たちにひけらかすために来られたのではないでしょう(おそらく、あなたは真の仏法を求めて来られたのでしょうから)ますます学ばれて、真実の御忠を磨かれんこヒを折ります唐においてすら、あなたのような天才は稀れであり、ほとんど見当らないのですから
詩の奇数句において、最初の字の「篇」と「旁」を切り離す。切り離したいずれかを複数句の一字目に用い、それぞれで残った「篇」と「旁」を組み合わせて文字(伏字)を作る、高度な言葉遊びの一種。
これだけでは、分からないので具体的に、空海に贈られた「離合詩」を例にして見ておきましょう。
登危人難行 石坂危くして人行き難し、 (「登」の原文は「石+登」表記石瞼獣無昇 石瞼にして獣昇ること無し¨燭晴迷前後 燭暗うして前後するに迷う、蜀人不得燈 蜀人燈を得ず
あなた(惟上)の故郷である剣南に行くには、危険な石段があって行くことは困難を極め、険峻な岩山があって獣すら登れない燈火も暗くて、進むことも退くこともできず迷ってしまう。蜀の人すら登破するための燈を手に入れていない。
あなたの故郷である剣南への道は、仏道修行のようなものです。私(空海)万里の波涛を越えてやってきて、余す所なく密教を学ぶことができ、これから生きていく上での燈火なるものも、すでに手に人れました。ところで、あなたは長く学んでおられますが、何か燎火となるものは得られましたか。仏法を故郷に伝えるにはきわめて困難がともないますが、法燈を伝えるために、ともに努力しましよう。
空海の入唐求法 絵伝の五筆和尚(空海)は、東寺の菩提実念珠の由来を語るための創作だった
唐の宮中に2,3間の壁がある。もともとは①晋の王羲之という人の書が書かれていたが、②破損したあとは修理して、そのままになっていた。③怖れ多くて揮毫する人がいない。④そこで皇帝は、空海に書くことを命じた。空海は参内し、⑤左右の手足と口に5本の筆を持って、五行同時に書き進めた。それを見ていた人達は、驚き、怪しんだ。まだ書かれていない一間ほどの壁が空白のまま残っている。それを、どのようにして書くのだろうかと、人々は注目して見守った。空海は墨を摺って、⑤盥に入れて壁に向かって投げ込むと、「樹」という文字になった。それを見た人々は、深く感嘆した。そこで皇帝は、「五筆和尚」の称号を空海に与えた。書道を学ぶ者は、中国には数多くいるが、皇帝からの称号をいただいたのは空海だけである。これこそが日本の朝廷の威を示すものではなかろうか。
口と両手・両足に五本の筆を持って、一度に五行の書をかけるのは曲芸師の技です。これが皇帝の命で宮中で行ったというのは、中国の宮中のしきたりを知らない者の空言です。これは、どう考えてもありえない話です。しかし、弘法空海伝説の高まりとともに、後世になるほど、この種のエピソードが付け加えられていきます。それを大衆が求めていたのです。
唐の皇帝から送られたと伝わる菩提実の念珠(東寺)
五筆和尚の話は、皇帝から宮中の壁に書をかくよう命ぜられた空海が、口と両手・両足に筆をもち、一度に五行の書を書いたという話でした。
空海の漢詩文を集めた『性霊集』の文章からは、空海が書を書くときには、筆・紙などに細心の心配りをしていたことがうかがえます。その点から考えると宮中で、皇帝の勅命という状況で、山芸師まがいのことをしたとは、研究者や書道家達は考えていないようです。とすると、この話は何か別のことを伝えるために挿入されたのではないかと思えてきます。
(福州の開元寺)寺主憎恵潅(えかん)は、「五筆和尚、在りや無しや」と借聞せられた。円珍はこれが空海であることに気がついて、「亡化せらる」と応えた。すると恵潅は胸をたたき悲慕して、その異芸のいまだかつて類あらざることを、と賞賛された。
意訳変換しておくと
(半世紀前に唐土を訪ねた空海のことを)、開元恵湛が「五筆和尚はいまもお健やかですか」と聞かれた。最初は、誰のことか分からないで訝っていたが、すぐに空海のことだと気がいた。そこで「亡化なさいました」と答えたところ、恵湛は悲歎のあまり胸をたたいて、類まれなる空海の異芸を賞讃した。
どうして、50年後の福州の僧侶が空海のことを知っていたのでしょうか?
それを探るために研究者は、中国・福州での空海の足跡をふりかえります。遣唐大使・藤原葛野麻呂の帰国報告で、804(延暦23)年7月から11月の空海を取り巻く状況を年表化すると次のようになります。
7月 6日 第一船に大使とともに、肥前国松浦を出帆8月10日 福州長渓県赤岸鎮の已南に漂着10月3日 福州到着「藤原葛野麻呂のために、福州観察使に書状を代筆。10月 福州の観察使に書状を送り、自らの人京を請う。11月3日 大使一行とともに福州を発ち、長安に向かう。
通常は、海路三千里にして揚州・蘇州に至っていたが、今回は七百里を増して福州(原文は衡州)に到った。そこで、大使藤原葛野麻呂は福州の長官に書を呈すること三度におよんだが、長官は開き見るだけで捨て置かれ、船を対じ、人々は湿沙の上に留め置かれていた。最後の切り札として、大使は空海に書状をしたためることを依頼した。空海が書状を呈する、福州の長官は「披(開)き覧て、咲(笑)を含み、船を開き、問いを加えて長安に奏上した。
A 大使のために福州の観察使に与ふるの書B 福州の観察使に請うて人京する幣
因支首氏は、空海の名声が高まるにつれて佐伯直氏と外戚関係にあったことを、折に触れて誇るようになることは以前にお話ししました。円珍もこのエピソー下を通じて、空海と一族であることをさらりと示そうとしているようにも私には思えます。
唐の宮中三間の壁あり。王羲之の手跡なり。破損・修理の後、手を下す人なし。唐帝、大師に書かしむ。空海、筆を五処、口・両手・両足に執り、五行を同時に書く。主・臣下、感嘆極まりなし。今、一間には、缶に墨をいれそそぎ懸けると、「樹」の字となる。唐帝、勅して「五筆和尚」と号し、菩提樹の念珠を賜う。 (『伝全集』第一 51~52P)
大唐には之を尊んで、通じて日本の大阿閣梨と称し、或いは五筆和尚と号す(中略)又、神筆の功、天下に比い無し。(中略) 或いは五筆を用いて、一度に五行を成し、或いは水上に書を書くに、字点乱れず。筆に自在を得ること、勝て計うべからず。 『伝全集』第一 63P)
大師、兼ねて草法を善くせり。昔、左右の手足、及び口に筆を持って、書を成す。故に、唐朝に之を五筆和尚と謂う。
神筆の条第七十三或る伝に曰く。大唐公城の御前に、 三間の壁有り。是れ則ち義之通壁の手跡なり。而るに、一間間破損して修理の後、筆を下すに人無し。今、大和尚之に書すべし、者。勅の旨に依って、墨を磨って盥に集め入れ、五筆を五処に持って、一度に五行を書すなり。殿上・階下、以って之を感ず。残る方、争処日、暫らくも捨てず。即ち次に、盥を取って壁上に沃ぎ懸けるに、自然に「樹」の字と成って間に満つ、と云々。 (『同73P頁)
御筆精一正唐の宮内に三間の壁有り。王羲之の手跡なり。破損して以後、二間を修理するに、筆を下すに人無し。唐帝、勅を下して日本の和尚に書かしめよ、と。大師、筆を五処に執って、五行を同時に之に書す。主上・臣下、感歎極まり無し。今一間、之を審らかにせず。腹千廻日、暫らくも捨てず。則ち大師、墨を磨り盥に入れて壁に注ぎ懸けるに、自然に間に満ちて「樹」の字と作る。唐帝、首を低れて、勅して五筆和尚と号す。菩提実の念珠を施し奉って、仰信を表すなり。(『同右』208P)
天、我が師に仮して伎術多からしむ。なかんずく草聖最も狂逸せり。唐帝の宮内、帝の御前に二間の壁有り。王義之の手跡有り。一間頽毀して修補を加うるに、筆を下すに人無し。唐帝、勅を下しして大師をして之を書かせしむ。大師、墨を磨り其れを盥器に入れ、五処に五筆を持し、一度に五行を書す。主上・臣下、悉く以って驚き感じて之を見る。目、暫らくも捨てず。いまだ書せざる一字有り。大師、即ち磨りたる墨を壁面に沃ぎ瀞ぐに、自然に「樹」の字と成る。唐帝、勅して五筆和尚と号す。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「武内孝善 弘法大師 伝承と史実 絵伝を読み解く80P 五筆和尚の伝承をめぐって
関連記事
弘法大師行状絵詞の入唐求法 福州から長安入洛までが絵図には、どのように描かれているのか
福州から長安までの延暦の遣唐使団がたどったルートが、絵図にどのように描かれているのかを見ていくことにします。根本史料となる『日本後紀』の葛野麻呂の報告書を、まずは押さえておきます。
十月三日、州ニ到ル。新除観察使兼刺史閻済美処分シ、且ツ奏シ、且ツ廿三人ヲ放テ入京セシム。十一月三日、臣等発シ都ニ赴上ス。此ノ州京ヲ去ルコト七千五百廿里。星ニ発シ、星ニ宿ス。晨昏兼行セリ。十二月廿一日、都ノ長楽駅ノ宿ニ到上ス。
意訳変換しておくと
新除監察使兼刺史閻済美が、長安へ上奏し、23人が入京することになった。11月3日に、われわれ使節団は、長安に向かって出発した。向州(福州)から長安まで7520里にもなる。この道のりを、星が見えなくなる未明に宿を出て、星が現れるまで行軍して宿に入るという強行軍を重ね、やっと12月21日に、都の長楽駅の指定された宿に着くことが出来た。
ここから分かる延暦の遣唐使船(第1船)の長安への行程を時系列に並べておきます。
804(延暦23)年7月 6日 肥前国(長崎県)田浦を出港8月 1日 福建省赤岸鎮に漂着10月3日 省都福州に回送、福建監察使による長安への報告11月3日 福州を遣唐使団(23人)出発 福州→杭州→開封→洛陽→長安12月21日 長安郊外の万年県長楽駅への到着
まず、弘法大師行状絵詞には、福州出発の様子が描かれているので、それを見ていくことにします。
「われこそは皇帝の命を受けて、長安からまいった使者です。お急ぎ、御案内申す」
七珍の鞍を帯て、大使並びに大師を迎える。次々の使者、共に皆、飾れる鞍を賜う
飾り立てられた馬が使者達にも用意されたようです。こうして隊列は整えられて行きます。いよいよ出発です。今度は、高野空海行状図画の福州出立図を見ておきましょう。
高野空海行状図画 福州出立図
一番前を行くのが、長安からやって来た迎えの使者 真ん中の黒い武人姿が大使、その後に台笠を差し掛けられているのが空海のようです。川(海?)沿いの街道を進む姿を、多くの人々が見守っています。ここからは福州を騎馬で出発したことになります。しかし、これについては、研究者の中には次のような異論が出されています。
中国の交通路は「南船北馬」と言われるように、黄河から南の主要輸送路は運河である。そのため唐の時代に、福州から杭州へも陸路をとることはまずありえない。途中、山がけわしく、 大きく迂回しなければならず、遠廻りになる。杭州からは大運河を利用したはず。
次に描かれるのは長安を間近にした遣唐使団の騎馬隊列です。
洛陽から再び陸路を取り、函谷関を越えると陝西盆地に入って行きます。その隊列姿を見ておきましょう。最初に高野空海行状図画を見ておきます。
次に、弘法大師行状絵詞の方の長安入洛を見ておきましょう。
空海の前を行くのが大使と副使です。ここが長い行列の真ん中当たりになります。その姿を見ると黒い武士の装束です。この絵図が描かれたのが鎌倉時代のことなので、当時の武士の騎馬隊列に似せられて描かれているようです。時代考証的には、平安貴族達が武士姿になることはありません。
先頭の勅使(弘法大師行状絵詞)
以上、弘法大師行状絵詞に描かれた福州から長安までの行程を見てきました。最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
弘法大師行状絵詞入唐求法編2 福建省福州にたどり着いた空海は、2つの書簡を書いた。
大使と空海の乗った第1船は8月10日に、帆は破れ、舵は折れ、九死に一生の思いで中国福州(福
大使従四位上藤原朝臣葛野麻呂上奏シテ言ス。臣葛野麻呂等、去年七月六日、肥前国松浦郡田浦従リ発シ、四船海ニ入ル。七日戌ノ剋、第三第四ノ両船、火信応ゼズ。死生ノ間ニ出入シ、波濤ノ上ヲ掣曳セラルルコト、都テ卅四箇日。八月十日、福州長渓縣赤岸鎮已南ノ海口ニ到ル。時ニ杜寧縣令胡延等相迎ヘ、語テ云ク。常州刺史柳、病ニ縁リテ任ヲ去ル。新除刺史未ダ来タラズ。国家大平ナルモ。其レ向州(福州)之路、山谷嶮隘ニシテ、擔行穏カナラズ。因テ船ヲ向州ニ廻ス。十月三日、州ニ到ル。
大使従四位上の藤原朝臣葛野麻呂が帰国報告を以下の通り上奏します。私、葛野麻呂は、昨年7月6日に、肥前国松浦郡田浦から4船で出港し、東シナ海に入りました。ところが翌日七日夜9時頃には、第三第四両船の火信(松明)が見えなくなりました。死きるか死ぬかの境を行き来して、波濤の上を漂うこと34箇日。8月10日に、福州長渓縣赤岸鎮の南の湾内に到達しました。対応に当たった当地の責任者である杜寧縣令胡延は、次のように語りました。「常州刺史柳は、病気のために当地を離れていて、新除刺史もまだ赴任していない。国家は大平であるが、向州の路は山谷を通り険しく細いので、通行するのは難儀である。」と。そこで、船を向州(福州)に廻すことにして、十月三日に到着した。
唐では許可なく外国船や船籍不明船が、上陵するのは禁止されていました。浜にやってきた県令は「自分には許可を出す権限がない」と、省都福州へ使いを出します。その間、空海たちは上陸も許されないまま、船の中で2カ月間過ごすことになります。役人達は、国書や印を持たない遣唐使船を密繍船や海賊船と疑っていたようです。結局、役人の指示は次のようなものでした。
「州の長官が病で辞任しました。新しい長官はまだ赴任していません。だから、われわれは何もしてあげられません。とにかく州都の福州に行きなさい。陸路は険しいので海路にていかれよ」
十月三日、州(福州)ニ到ル。新除監察使兼刺史閻済美処分シ、且ツ奏シ、且ツ廿三人ヲ放テ入京セシム。十一月三日、臣等発シ都ニ赴上ス。此ノ州京ヲ去ルコト七千五百廿里。星ニ発シ、星ニ宿ス。晨昏兼行セリ。十二月廿一日、都ノ長楽駅ノ宿ニ到上ス。
意訳変換しておくと
新除監察使兼刺史閻済美が、長安へ上奏し、23人が入京することになった。11月3日に、われわれ使節団は、長安に向かって出発した。向州から長安まで7520里にもなる。この道のりを、星が見えなくなる未明に宿を出て、星が現れるまで行軍して宿に入るという強行軍を重ね、やっと12月21日に、都の長楽駅の指定された宿に着くことが出来た。
①福州の監察使は閻済美であったこと
②長安に使者を出し、23人が遣唐使団と長安に入京することになったこと
③福州到着から1ヶ月後の11月3日に出発して、長安に12月21日に到着したこと
ここには、国書を紛失して不審船と扱われたことや、当初は空海が上京メンバーに入っていなかったこや、空海の活躍ぶりなどには一切触れられていません。
通常は、海路三千里にして揚州・蘇州に至っていたが、今回は七百里を増して福州(原文は衡州)に到った。そこで、大使藤原葛野麻呂は福州の長官に書を呈すること三度におよんだが、長官は開き見るだけで捨て置かれ、船を対じ、人々は湿沙の上に留め置かれていた。最後の切り札として、大使は空海に書状をしたためることを依頼した。空海が書状を呈する、福州の長官は「披(開)き覧て、咲(笑)を含み、船を開き、問いを加えて長安に奏上した。
「然りといえども、船を封じ、人を追って湿地の上に居らしむ」
とあり、 停泊するや否や、役人が乗りこんできて、乗組員120人ばかりを船から降ろして、船を封印してしまったというのです。役人達は、遣唐使船を密貿易船と判断したようです。もし。国書を亡くしていたとするなら、それも仕方ないことです。正式の外交文書を持たない船の扱いとしては、当然のことかも知れません。しかし、プロの役人であれば、国書は最も大切なモノです。それを嵐でなくすという失態を演じることはないと私は考えています。
空海によると一行は、宿に入ることも、船にもどることも許されず、浜の砂上で生活しなければならなくなります。ここからが高野空海行状図画の記すところです。
「私は日本国の大使である」と蔵原葛野麻呂は、書簡を書いて福州長官に送った。しかし、その文書は、あまりにつたなく役人は見向きもしない。」
文書の国では、国書を持たない外交使節団など相手にするはずがありません。そこで登場するのが空海と云うことになります。誰かが空海の能筆ぶりを知っていて、大使に推薦したのでしょう。空海が大使の代筆を務めることになります。
②福州の役人は「厄介者がやってきた、仕事を増やしたくない」との素っ気ない対応ぶりです。
福州での空海代筆その1(弘法大師行状絵詞)
福州での空海代筆その2(弘法大師行状絵詞)
①皇帝に対して、自分たちの入唐渡海がいかに困難なもので、国書や印を失ったこと伝え
②その上で昔から中国と日本が友好関係にあるのに。役人達が自分たちを疑うの何ごとか
③いまさら国書や印符などにこだわる必要はないほど両国は心が通じあっているはずだ。
④しかし、役人である以上はその職務に忠実であらねばならず、その対応も仕方ない
⑤それにしても自分たちを海中におくのは何ごとと攻め、まだ天子のの徳酒を飲んでもいないのに、このような仕打ちをうけるいわれはない
⑥自分たちを長安へ導くことが、すべての人々を皇帝の徳になびかせることではないか
論理的に、しかも四六駢儷体の美文で、韻を踏んで書かれています。しかも、形式だけではなく、内容的にも「文選」や孔子や孟子の教え、老子の道教の教えなどが、いたるところにちりばめられています。名文とされる由縁です。
赤字錦を張った仮屋が急ぎ建てられます。束帯で威儀を正した大使と副詞、その後の仮屋には従者達が控えます。国の使者らしい威厳を取り戻します。
荷駄を運ぶ人や、物売りが行き交います。真ん中のでっぷりと肥えた長者は、モノ読みの口上に耳を傾けているようです。こうして、長安へ遣唐使到着の知らせが出され、それに応じて長安からの迎えの使者がやってくることになります。それは約1ヶ月後のことになります。それまで、一行は福州泊です。
①空海が20年の長期留学僧に選ばれるようになった経緯②長安への道が閉ざされようとしていることへの思い③観察使へ上京メンバーに加えてもらえるようにとの伏しての願い
A 大使に替わって書かれた「大使のために福州の観察使に与うる書」B 長安行きの一行に空海の名前がなかったので、空海も加えていただきたいとの嘆願書「福州の観察使に請うて入京する啓」
ここからは、福州でのピンチを空海は自らの書と漢文作成能力や語学力で救ったという印象を受ける記述になっています。最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「武内孝善 弘法大師 伝承と史実 絵伝を読み解く63P 入唐求法をめぐる諸問題」
関連記事
弘法大師行状絵詞 空海の入唐渡海は、どのように描かれているのか
空海の入唐求法について、従来の問題点を整理する
空海
の入唐求法NO1 空海は何を求めて唐に渡ったのか?
弘法大師行状絵詞 空海の入唐渡海は、どのように描かれているのか
入唐の旅は、「久米東塔」から始まります。
絵伝は、右から左へと巻物を開いてきますので、時間の経過も右から左と描かれています。また、同じ画面の中に、違う時間帯のことが並んで描かれたりもします。同じ人物が何人も、同じ場面に登場してきたら、そこには時が流れ、場面が転換しています。
④空海は、久米寺を訪ね、東塔の場所を尋ねているところです。
なぜなら、奈良時代に平城京の書写所で、以下のように大日経が書写されているからです。
谷響きを情しまず、明星水影す。
これは若き日の空海が四国での求聞持法修行の時に体感した神秘体験です。それがどんな世界であるかを探求することが求法の道へとつながっていたと研究者は考えています。それが長安への道につながり、青竜寺で「密教なる世界」であることを知ります。その結果が、恵果和尚と出逢いであり、和尚の持っていた密教世界を余すところなく受法し、わが国に持ち帰えります。そういう意味では、空海と密教との出逢いは、四国での虚空蔵求聞持法の修練だったことになります。
①八幡神は、高雄・神護寺に鎮守として勧請されている②八幡神は、東寺にも勧請され、平安初期の神像が伝来している。③空海と八幡神が互いに姿を写しあったとの話が、『行状図画』に収録されている(外五巻第1段‐八幡約諾)④長岡京の乙訓寺の本尊「合体大師像」は、椅子にすわる姿形は空海で、顔は八幡神である。
空海の入唐渡海の根本史料は、大使の藤原葛野麻呂の報告書です。
大使従四位上藤原朝臣葛野麻呂上奏シテ言ス。臣葛野麻呂等、去年七月六日、肥前国松浦郡田浦従リ発シ、四船海ニ入ル。七日戌ノ剋、第三第四ノ両船、火信応ゼズ。死生ノ間ニ出入シ、波濤ノ上ヲ掣曳セラルルコト、都テ卅四箇日。八月十日、福州長渓縣赤岸鎮已南ノ海口ニ到ル。時ニ杜寧縣令胡延等相迎ヘ、語テ云ク。常州刺史柳、病ニ縁リテ任ヲ去ル。新除刺史未ダ来タラズ。国家大平ナルモ。其レ向州之路、山谷嶮隘ニシテ、擔行穏カナラズ。因テ船ヲ向州ニ廻ス。十月三日、州ニ到ル。新除観察使兼刺史閻済美処分シ、且ツ奏シ、且ツ廿三人ヲ放テ入京セシム。十一月三日、臣等発シ都ニ赴上ス。此ノ州京ヲ去ルコト七千五百廿里。星ニ発シ、星ニ宿ス。晨昏兼行セリ。十二月廿一日、都ノ長楽駅ノ宿ニ到上ス。
大使従四位上の藤原朝臣葛野麻呂が帰国報告を以下の通り上奏します。私、葛野麻呂は、昨年7月6日に、肥前国松浦郡田浦から4船で出港し、東シナ海に入りました。ところが翌日七日夜9時頃には、第三第四両船の火信(松明)が見えなくなりました。生きるか死ぬかの境を行き来して、波濤の上を漂うこと34箇日。8月10日に、福州長渓縣赤岸鎮の南の湾内に到達しました。対応に当たった当地の責任者である杜寧縣令胡延は、次のように語りました。常州刺史柳は、病気のために当地を離れていて、新除刺史もまだ赴任していない。国家は大平であるが、向州の路は山谷を通り険しく細いので、通行するのは難儀である。とそこで、船を向州(福州)に廻すことにして、十月三日に到着した。
新除観察使兼刺史閻済美が、長安へ上奏し、23人が入京することになった。11月3日に、われわれ使節団は、長安に向かって出発した。向州(福州)から長安まで7520里にもなる。この道のりを、星が見えなくなる未明に宿を出て、星が現れるまで行軍して宿に入るという強行軍を重ね、やっと12月21日に、都の長楽駅の指定された宿に着くことが出来た。
桓武天皇御代の延暦23(804)年5月12日(新暦7月6日)、大師御年31歳にて留学の勅命を受けて入唐することになった。このときの遣唐大使は藤原葛野麻呂で、肥前国松浦から出港した。
遣唐使船が肥前国(長崎県)田浦を出港する所です。
中央の僧が空海、その右上が大使の藤原葛野麻呂です。当時の遣唐使船は帆柱2本で、約150屯ほどの平底の船として復元されています。1隻に150人ほど乗船しました、その内の約半数は水夫でした。帆は、竹で伽んだ網代帆が使用されていたとされてきましたが、近年になって最澄の記録から布製の帆が使われたことが分かっています。(東野治之説)
無名の留学僧が大使の次席に描かれているのは、私には違和感があります。
そのため別名「四(よつ)の船」とも呼ばれたようです。第1船には、大使と空海、第2船には副使と最澄が乗っていました。この時の遣唐使メンバーで、史料的に参加していたことが確認できるメンバーは、次の通りです。
延暦の遣唐使確定メンバー
出港以後の経過を時系列化すると次のようになります。
804年7/6 遣唐使の一行、肥前国松浦郡田浦を出発す〔後紀12〕7/7 第三船・第四船、火信を絶つ〔後紀12〕7月下旬 第二船、明州郡県に到る〔叡山伝〕8/10 第一船、福州長渓県赤岸鎮に到る。鎮将杜寧・県令胡延汚等、新任の刺史未着任のため福州への廻航を勧む9/1 第二船の判官菅原清公以下二十七名、明州を発ち長安に向かう9/15 最澄、台州に牒を送り、明州を発ち台州に向かう〔叡山伝〕
かつてのシルクロードを行き交う隊商隊が、旅の安全のために祈祷僧侶を連れ立ったと云います。無事に、目的のオアシスに到着すれば多額の寄進が行われたととも伝えられます。シルクロード沿いの石窟には、交易で利益を上げた人々が寄進した仏像や請願図で埋め尽くされています。こうして、シルクロード沿いの西域諸国に仏教が伝わってきます。その先達となったのは、キャラバン隊の祈祷師でした。この絵を見ていると、空海に求められた役割の一端が見えてきます。
こうしてたどりついた福建省で遣唐使たちを待ち受けていたのは、過酷な仕打ちでした。それをどう乗り越えていったのでしょうか。それはまた次回に・
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「武内孝善 弘法大師 伝承と史実 絵伝を読み解く67P 絵伝に見る入唐求法の旅」
関連記事
空海の入唐求法NO3 空海入唐時の遣唐使船4隻を追いかけて見る
空海の入唐求法について、従来の問題点を整理する
①入唐の動機・目的はなにか。②誰の推挙によって入唐できたのかt③いかなる資格で入唐したのか、④入唐中に最澄との面識はあったか。⑤長安における止住先(受入先)はどこであったか。⑥わが国に持ち帰えった経典・マンダラ・密教法具などの経費の出所はどこか。⑦帰国時に乗船した高階達成(たかしなとおなり)の船は、どんな役目で唐にやってきた船なのか。⑧入唐の成果はなにか。空海は入唐してなにをわが国にもたらしたか。
A『大日経』の疑義をただすためB 密教受法のためC 灌腸授法のためD 密教の師をもとめて
②誰の推挙によって入唐できたのか
A 母方の叔父である阿刀大足が侍講(家庭教師)をしていた伊予親王B 入唐前の師とみなされてきた勤操(ごんぞう)大徳
③どんな資格で、空海は入唐したのか
空海は20年という期限を勅命で決められた留学僧でした。しかし、それを破って1年半あまりで帰国してしまいます。『請来目録』のなかで、空海は次のように記します。
「欠期ノ罪、死シテ余リアリト雖モ」
欠期は、朝廷に対する罪で、身勝手に欠期することは「死シテ余リアリ」と認識していたことが分かります。ここからも空海が長期留学生であったことが裏付けられます。
空海 遣唐大使の藤原葛野麻呂(かどのまろ)とともに第1船最澄 副使の石川道添(みちます)とともに第2船
空海は多量の経典を書写させ、密教法具を新しく職人に作らせています。これには多額の資金が必要だったはずです。最澄と違って、長期留学生の空海には、そのような資金はなかったはずです。それをどう調達したかは、私にも興味のあるところです。
従来は、讃岐の佐伯直氏は、斜陽の一族で経済的には豊かでない一族とされてきました。そうだとすれば『御請来目録』に記された膨大な請来品の経費をどうしたのか。誰かの援助なしには考えがたいとする説が出されます。そして、推薦者のとしても名前があがった伊予親王や勤操が、出資者として取り沙汰されてきました。これに対して、研究者は次のような点を指摘します。
高木紳元説 新たに即位した順宗へ祝意を表するために派遣された船武内孝善説 一時的に行方不明になった延暦の遣唐使船の第四船
関連記事
空海の入唐求法NO1 空海は何を求めて唐に渡ったのか?
空海の入唐求法NO5 空海の招来目録の冒頭部を読んでみる
空海と秦氏NO5 空海は唐から帰国後に、なぜ二年半も九州に留まったのか
古代讃岐の豪族・佐伯直氏 佐伯直氏一族にはふたつの系譜があった。
以前に空海を生み出した讃岐の佐伯直氏一族には、次のふたつの流れがあることを見ました。
①父田公 真魚(空海)・真雅系 分家?②父道長(?)実恵・道雄(空海の弟子)系 惣領家?
官位がなければ官職に就くことは出来ません。つまり、田公が多度郡郡長であったことはあり得なくなります。当時の多度郡の郡長は、実恵・道雄系の佐伯直氏出身者であったことが推測できます。一方、空海の弟たちは地方役人としては高い官位を持っています。父が無官位で、その子達が官位を持っていると云うことは、この世代に田公の家は急速に力をつけてきたことを示します。
佐伯宿価真持長人真継正雄
836(承和3)年11月3日 讃岐国の人、散位佐伯直真継、同姓長人等の二姻、本居を改め、左京六條二坊に貫附す。837年10月23日 左京の人、従七位上佐伯直長人、正八位上同姓真持等、姓佐伯宿禰を賜う。838年3月28日 正六位上佐伯直長人に従五位下を授く846年正月七日 正六位上佐伯宿禰真持に従五位下を授く846年7月10日 従五位下佐伯宿禰真持を遠江介とす.850年7月10日 讃岐国の人大膳少進従七位上佐伯直正雄、姓佐伯宿禰を賜い、 左京職に隷く.853(仁寿3)年正月16日 従五位下佐伯宿禰真持を山城介とす。860(貞観2)年2月14日 防葛野河使・散位従五位下佐伯宿禰真持を玄蕃頭とす。863年2月10日 従五位下守玄蕃頭佐伯宿禰真持を大和介とす。866年正月7日 外従五位下大膳大進佐伯宿禰正雄に従五位下を授く。
870年11月13日 筑後権史生正七位上佐伯宿禰真継、新羅の国牒を本進す。即ち「大字少弐従五位下藤原朝臣元利麻呂は、新羅の国王と謀を通し、国家を害はむとす」と告ぐ。真継の身を禁めて、検非辻使に付せき。
870年11月26日 筑後権史生正七位上佐伯宿禰貞継に防援を差し加へて、太宰府に下しき。
①改姓・京都への本貫地の移動が実恵、道雄系の方が40年ほど早い②その後の位階も、中央官人ポストも、実恵、道雄系の方が勝っている。
①同族の玄蕃頭従五位下佐伯宿而真持、正六位上佐伯宿輛正雄等は、既に京兆に貫き、姓に宿爾を賜う。而るに田公の門(空海の甥たち)は、猶未だ預かることを得ず。謹んで案内を検ずるに、真持、正雄等の興れるは、実恵、道雄の両大法師に由るのみ。是の両法師等は、贈僧正空海大法師の成長する所なり。而して田公は是れ「大」僧正の父なり。
②大僧都伝燈大法師位真雅、幸いに時来に属りて、久しく加護に侍す。彼の両師に比するに、忽ちに高下を知る。
③豊雄、又彫轟の小芸を以って、学館の末員を恭うす。往時を顧望するに、悲歎すること良に多し。正雄等の例に准いて、特に改姓、改居を蒙らんことを」
④善男等、謹んで家記を検ずるに、事、憑虚にあらず』と。之を従す。
意訳変換しておくと
①豊雄らと同族の佐伯宿爾真持、同正雄(惣領家)は、すでに本貫(本籍地)を京兆(京都)に移し、宿爾の姓を賜わっている。これは実恵・道雄の功績による所が大きい。しかし、田公の一門の(我々は)改居・改姓を許されていない。実恵・道雄の二人は、空海の弟子である。 一方、田公は空海の父である。
②田公一門の大僧都真雅(空海の弟)は、今や東寺長者となり、(我々も真雅からの)加護を受けて居るが、実恵・道雄一門の扱いに比べると、及ぼないことは明らかである。
③一門の豊雄は、書博士として大学寮に出仕しているが、(伯父・空海の)往時をかえりみると、(われわれの現在の境遇に)悲歎することが少なくない。なにとぞ(惣領家の)正雄等の例に習って、宿爾の姓を賜わり、本貫を京職に移すことを認めていただきたい。
④以上の申請状の内容については、(佐伯直一族の本家に当たる)伴善男らが「家記(系譜)」と照合した結果、偽りないとのことであったのでこの申請を許可する。
本家の真持・正雄の家系は、改姓・改居がすでに行われて、中央貴族として活躍している。それは、東寺長者であった実恵・道雄の中央での功績が大である。しかし、実恵・道雄は空海の弟子という立場にすぎない。なのに空海を出した私たちの家には未だに改姓・改居が許されていない。非常に残念なことである。今、我らが伯父・大僧都真雅(空海の弟)は、東寺長者となった。しかし、我々は実恵・道雄一門に比べると、改姓や位階の点でも大きな遅れをとっている。伯父の真雅が東寺長者になった今こそ、改姓・改居を実現し、本家筋との格差を埋めたい。
そうだとすれば、善通寺周辺には、ふたつの拠点、ふたつの舘、ふたつの氏寺があっても不思議ではありません。そういう視点で見ると次のような事が見えてきます。
①仲村廃寺と善通寺が並立するように建立されたのは、ふたつの佐伯直氏がそれぞれに氏寺を建立したから
②多度郡の郡長は、惣領家の実恵・道雄の一門から出されており、空海の父・田公は郡長ではなかった。
③それぞれの拠点として、惣領家は南海道・郡衙に近い所に建てられた、田公の舘は、「方田郷」にあった。
④国の史跡に登録された有岡古墳群には、横穴式石室を持つ末期の前方後円墳が2つあります。それが大墓山古墳と菊塚古墳で、連続して築かれたことが報告書には記されています。これも、ふたつの勢力下に善通寺王国があったことをしめすものかも知れません。
ここでは、次の事を押さえておきます。
①地方豪族の中にも主流や傍流などがあり、一族が一体として動いていたわけではなかったこと
②佐伯直一族というけれども、その中にはいろいろな系譜があったこと
③空海を産んだ田公の系譜は、一族の中での「出世競争」では出遅れ組になっていたこと
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
武内孝善 弘法大師 伝承と史実 絵伝を読み解く56P 二つの佐伯直氏
関連記事
讃岐の古代豪族NO10 空海を産んだ佐伯氏とは、どんな一族だったのか?
空海の系譜No4 空海の系譜は、佐伯氏本家ではない?
讃岐の古代豪族 空海の家系についての研究史を見てみると
古代の善通寺NO6 佐伯直氏の最初の氏寺伝導寺はなぜ短期に廃棄されたのか?
善通寺の古墳NO3 王墓山古墳に葬られているのは空海の祖先?
讃岐の古代豪族・佐伯直氏 空海の本籍地は弘田郷ではなく方田郷であった。
留学僧空海 俗名讃岐国多度部方田郷、戸主正六位上佐伯直道長、戸口同姓真魚
ここからは次のようなことが分かります。
そのため従来は弘田郷については、次のように云われてきました。
「和名抄」高山寺本は郷名を欠く。東急本には「比呂多」と訓を付す。延暦二四年(八〇五)九月一一日の太政官符(梅園奇賞)に「留学僧空海、俗名讃岐国多度郡方弘田郷戸主正六位上佐伯直道長戸口同姓真魚」とあり、弘法大師は当郷の出身である。
平凡社「日本歴史地名大系」
太政官符に「方田郷」とあるのに「弘田郷」と読み替えているのは、次のような理由です。
方田郷は「和名類来抄」の弘田郷の誤りで、「方」は「弘」の異体字を省略した形=省文であり、方田郷=弘田郷である。方田郷=弘田郷なので、空海の生誕地は善通寺付近である。
こうして空海の誕生地は、弘田郷であるとされ疑われることはありませんでした。しかし、方田郷は弘田郷の誤りではなく、方出郷という郷が実在したことを示す木簡が平成になって発見されています。それを見ていくことにします。
.1つは、平成14年に明日香村の石神遺跡の7世紀後半の木簡群のなかから発見されたもので、次のように墨書されています。
表 「多土評難田」 → 多度郡かたた裏 「海マ刀良佐匹マ足奈」 → 「海部刀良」と「佐伯部足奈」
表 □岐国多度評方□
「評」は「郡」の古い表記なので、これも「讃岐国多度郡方田郷」と記されていたようです。この二つの木簡からは、方田郷が実在したことが裏付けられます。今までの「弘田郷=方田郷」説は、大きく揺らぎます。
そうすると方田郷は、いったいどこにあったのでしょうか。
善通寺市史第1巻には「方田横井」碑が載せられていて、「方田」という地名が存在したことを指名しています。そうだとすると、律令時代の佐伯一族は、善通寺伽藍の周辺に生活していたことになります。
古墳時代の前方後円墳の大墓山や菊塚古墳の首長達は、旧練兵場遺跡に拠点を持ち、7世紀後半なるとに最初の氏寺として仲村廃寺(伝導寺)を建立したとされます。それが律令時代になって、南海道が善通寺を貫き、条里制が整えられると、それに合わせた方向で新しい氏寺の善通寺を建立します。その時に、住居も旧練兵場遺跡群から善通寺西方の「方田郷」に移したというシナリオになります。
佐伯氏の氏寺 善通寺と仲村廃寺(黄色が旧練兵場遺跡群)
①田公 真魚(空海)・真雅系②空海の弟子・実恵・道雄系
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
関連記事
讃岐の古代豪族 空海の家系についての研究史を見てみると
空海=摂津・生誕育成説の小説「釈伝 空海」について
讃岐の豪族6 阿刀氏? 空海が生まれたのは摂津の母親の実家?
古代の善通寺NO6 佐伯直氏の最初の氏寺伝導寺はなぜ短期に廃棄されたのか?
郷土史講座No4 七箇念仏踊から干された佐文は、独自に綾子踊を踊るようになった
①阿野郡北条組(坂出市) 「丑・辰・未・戊」の年②阿野郡南条組(綾川町) 「子・卯・午・酉」の年③鵜足郡坂本組(丸亀市飯山町) 「申・巳・中・亥」の年④那珂郡七箇村組(まんのう町 + 琴平町) 「丑・辰・未・戊」
以前にもお話ししたように、これらの組は、一つの村で編成されていたわけではありません。中世の郷内のいくつかの村の連合体で、構成されていました。その運営は中世の宮座制によるもので、役割も世襲化されていました。それが各村の村社に踊り奉納を終えた後に、7月下旬に滝宮牛頭天王社(現滝宮神社)に踊り込んでいたのです。村ごとの村社がなかった中世は、それが風流踊りや芸能の郷社への奉納パターンでした。それを江戸時代の生駒家が保護し、後の髙松松平家初代の松平頼重の保護・お墨付きを与えます。しかし、その後の幕府の方針で、華美な踊りや多くの人々が集まる祭礼などは規制がかけられるようになります。そのため庶民側は、「雨乞のための踊り」という「雨乞踊り」の側面が強調し、この規制から逃れようとします。ここでは、滝宮念仏踊りは、もともとは時衆の風流念仏踊りの系譜を引くものであったことを押さえておきます。
②その前に、有力者達が座っています。その前に地唄方が並んでいます。
③周囲には南無阿弥陀仏の幟が建ち並びます。
④その下には鉦・太鼓・鼓・法螺貝などの鳴り物衆が囲みます。
⑤その周りを大勢の見物人が取り囲んでいます。
⑥真ん中に飛び跳ねるように、踊るのが下司(芸司)です。
ここには年ごとに順番でいくつかの踊り組が、念仏踊りを奉納していました。それでは、どうして周辺エリアの村々が滝宮に踊り込み(奉納)を行っていたのでしょうか?
②「八坂神社・菅神社・龍燈院」とあります。菅神社は菅原道真をまつる滝宮天満宮です。それでは八坂神社とは何でしょうか。これは京都の八坂神社の分社と滝宮神社は称していたことが分かります。何故かというと、この神社は、八坂神社と同じでスサノオを祀る牛頭天王社だったのです。
③スサノオは蘇民将来ともいわれ、その子孫であることを示すお札を家の入口に掲げれば疫病が退散するとされて、多くの信仰を集めていました。その中讃における牛頭信仰の宗教センターが滝宮牛頭天王社だったのです。そして、この神社の管理運営を行っていたのが④別当寺の龍燈院滝宮寺でした。
神仏分離以前の神仏混淆時代は、神も仏も一緒でした。そのため龍燈院参加の念仏聖(僧侶)たちが、蘇民将来のお札を周辺の村々に配布しました。龍燈院は、牛頭天王信仰・蘇民将来信仰を丸亀平野一円に拡げる役割を果たしました。同時に彼らは、雨乞祈祷・疫病平癒祈願・虫送り祈願・火防祈願・怨霊鎮送祈願などを、村々に伝えた「芸能媒介者」でもありました。
①菅原道真が祈雨祈祷を城山で行って成就した。②降雨成就のお礼に国中の百姓が集まってきて滝宮の牛頭天皇社で踊った。③これが滝宮踊りの始まりである。
この絵で注目したいのは周囲に建てられた見物小屋です。これは踊り見物のための臨時の見物小屋です。小屋には、所有者の名前が記入されています。右側の見物小屋に「カミマノ(上真野)大政所、三原谷蔵」とあります。三原谷蔵が那珂郡の大政所を勤めたのは、文久二(1862)年のことです。谷蔵が自分の晴れ姿を絵師に描かせたという説を満濃町誌は採っています。そうだとすれば先ほど見た滝宮念仏踊図が書かれた約10年後のことになります。庶民は、見物小屋の下で押し合いへし合いながら眺めています。彼らは、頭だけが並んで描かれています。彼らの多くは、この踊りにも参加できません。これが中世的な宮座制による風流踊であったことを物語っています。ここでは、「那珂郡七か村念仏踊り」は宮座による運営で、だれもが参加できるものではなかったことを押さえておきます。
中世の祭礼は、有力者たちがが「宮座」を形成して、彼らの財力で、運営は独占されていたのです。見物小屋は宮座のメンバーだけに許された特等席で、世襲され、時には売買の対象にもなりました。祭りの時に、ここに座れることは名誉なことで、誇りでもあったのです。ここからもこの踊りが雨乞踊りではなく、中世に起源を持つ風流踊りであったことが分かります。
奈良家文書(嘉永6年) 旱魃対策で忙しいから踊りは中止とする
岸の上の奈良家に残る1852年の史料です。この時の総責任者も真野の三原谷蔵です。このときは、7月中に各村の氏神を廻って奉納する予定でした。ところが、丸亀藩陵の佐文や後の旧十郷村から、上表のような申し入れがありました。これを読んだときに私の頭の中は「?」で一杯になりました。「滝宮念仏踊りは、雨乞いのために踊られるもの」と思い込んでいたからです。ところが、この史料を見る限り、当時の農民たちは、そうは思っていなかったことが分かります。「旱魃で用水確保が大変なので、滝宮への踊り込みは延期」というのですから。
①弘化3(1846)年7月吉日に踊った②文久11(?)年6月18日③文久元(1861)年7月28日踊った。延期して8月1日にも踊った④明治8年(1874)月6日より大願をかけて、13日まで踊った。(それでも雨は降らないので)、願をかけなおして、また15・16・17日と踊った。それでも降らないので、2度の願立をして7月27日に踊った。また併せて、添願として神官の願掛けを行い、8月5日にも踊った。ついに11日雨が降った。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
関連記事
讃岐の雨乞い信仰 滝宮念仏踊りは、雨乞い踊りではなく各郷で躍られていた踊り念仏だった。
滝宮念仏踊七箇村組(まんのう町)は、最初は東西2組編成で奉納されていた
讃岐の風流踊り 綾子踊りの前には、念仏踊りを踊っていた佐文
讃岐の祭礼11 七箇村組(まんのう町)の滝宮念仏踊りについて
まんのう町の七箇村踊組は、滝宮念仏踊りに参加していた
坂本念仏踊り 念仏踊りは法然が伝えたのではなく、一遍時宗系の念仏聖達によってもたらされた。
ふるさと探訪 七箇村組念仏風流踊の出演権は世襲・売買もされていた
綾子踊歌解釈NO9 「那珂郡七か村念仏踊り」の中心から外された佐文村は、新たに綾子踊りを踊り出した
多度津南鴨念仏踊 南鴨念仏踊りは、旧多度郡全域の村々で構成された風流念仏踊りだった
北条念仏踊 青海・神谷・高屋村を中心に10ヶ村で構成された風流念仏踊り
郷土史講座NO4 綾子踊りは、三豊の風流踊の影響を受けて成立したハイブリッド型の躍りである
ある年、たいへんな日照りがありました。農家の人たちは、なんとか雨が降らないかと神に祈ったり、山で火を焚いたりしましたがききめはありません。この様子に心をいためた綾子姫は、沖船さんを呼んでこう言いました。「なんとか雨がふるように雨乞いをしたいと思うのです。あなたは京の都にいたときに雨乞いおどりを見たことがあるでしょう。思い出しておくれ。そして、わたしに教えておくれ」「 わかりました。やってみます」。沖船さんは家に帰るとすぐ、紙と筆を出して、雨乞いの歌とおどりを思い出しながら書きつけました。思い出しては書き、思い出しては書き、何日もかかりました。どうしても思い出せないところは自分で考え出して、とうとう全部できあがりました。綾子姫は、沖船さんが書いてきたものに自分の工夫を加えて、歌とおどりが完成しました。二人は、喜びあって、さっそく歌とおどりの練習をしました。それから、雨乞いの準備に取りかかりました。次の朝早く、村の空き地で、綾子姫と沖船さんは、みのと笠をつけて、歌いおどりながら、雨を降らせてくださいと天に向かって一心にいのりました。農家の人たちも、いっしょにおどりました。すると、ほんとうに雨が降り始めました。にわか雨です。農家の人たちおどりあがって喜びました。そして、二人に深く感謝しました。
こうして見ると500年前に歌われていた流行(はやり)歌が、恋の歌から先祖供養の盆踊り歌、そして雨乞い踊りと姿を変えながら歌い継がれてきて、それを、今の私たちは、綾子踊りとして踊っていることになります。
それでは、風流踊りを伝えた人達(芸能伝達者)は、どんな人達なのでしょうか。それを一覧表化したものを見ておきましょう。
A 滝宮念仏踊りの公式由緒には「菅原道真の雨乞成就に感謝して踊られた」とあり、だれが伝えた踊りとは書かれていません。後世の附会では「法然が伝えたの念仏踊り」とされますが、一遍の時衆の念仏阿弥陀聖の踊りが風流踊り化したものと研究者は考えています。
B佐文綾子踊は、綾子に旅の僧が伝えた、それは弘法大師だったとします。弘法大師伝説の附会のパターンですが、これも遍歴の僧です。
Cは、宮田の法然堂にやってきていた法然が伝えたとします。
Dは、先ほど見たとおりです。
ここで由来のはっきりとしている雨乞風流踊りである百石踊りを見ておきましょう。
兵庫県三田市の百石踊りです。ここでも神社の境内で踊られています。
①下司は白衣の上に墨染めの法衣を羽織り、白欅を掛け菅編笠を被った旅僧の扮装
②持ち物は、右手に軍配団扇を、左手に七夕竹を持ちます。下司は踊りを伝えた僧形で現れ、踊りの指揮をしたり、口上を述べます。しかし、時代の推移とともに下司の衣装も風流化します。江戸時代になって修験者や念仏聖達の地位の低下とともに、裃姿に二本差しで現れることが多くなります。そして僧形で踊る所は少なくなります。今では被り物と団扇などの持ち物だけが、遊行聖の痕跡を伝えている所が多くなっています。その中で僧姿で踊る百国踊りは、勧進僧の風流踊りへの関与を考える際に、貴重な資料となります。
それでは、雨乞祈祷を行っていたのは誰なのでしょうか?
「駒宇佐八幡神社調書」には、雨乞祈祷は、駒宇佐八幡神社の別当寺であった常楽寺の社僧が行ったことが記されています。ここでは、駒宇佐八幡神社は江戸時代中期ころには、雨乞祈願に霊験あらたかな八幡神=「水神八幡」として地域の信仰を集めていたことを押さえておきます。これは、次回の述べる滝宮牛頭天王社とその別当であった龍燈院滝宮寺と同じような関係になります。
百石踊りの芸態を伝えたのは誰なのでしょうか?
由来伝承には、「元信と名乗る天台系の遊行聖」と記されています。ここからは、諸国を廻り勧進をした遊行聖の教化活動があったことがうかがえます。その姿が百石踊りの新発意役(芸司)の僧姿として、現在に伝わっているのでしょう。これを逆に見ると別当寺の常楽寺は、遊行聖たちの播磨地方の拠点で、雨乞や武運長久・豊穣祈願などを修する寺だったことがうかがえます。そして彼らは、雨乞祈祷・疫病平癒祈願・虫送り祈願・火防祈願・怨霊鎮送祈願などを、村々に伝えた「芸能媒介者」でもありました。滝宮の龍燈院も、同じような性格を持った寺院だった私は考えています。
以上をまとめておくと
①三豊南部の雨乞踊を伝えたのは、遍歴の僧侶(山伏・修験者・聖)などと伝えるところが多い
②彼らの進行と同時に、もたらされたの祖先供養の風流盆踊りであった。
③そのため三豊の雨乞風流踊りには、芸態や地唄歌詞などに共通点がある。
④近世中頃までは、雨乞祈祷は験のあるプロの修験者が行うもので、素人が行うものではなかった。
⑤そのため雨乞成就のお礼踊りとして、盆踊りが転用された。
⑥それが近世後半になると、農民達も祈祷に併せて踊るようになり、雨乞踊りと呼ばれるようになった。
⑦近代になると盆踊りは風紀を乱すと取り締まりの対象となり、規制が強められた。
⑧そのような中で、庶民は「雨乞」を強調することで、踊ることの正当性を主張し「雨乞踊り」を全面に出すようになった。
⑨このような動きは、三豊南部で顕著で、それが麻や佐文にも影響し、新たな雨乞取りが姿を見せるようになった。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
讃岐の風流雨乞踊 和田・姫浜・田野々の風流踊りは、一人の薩摩法師が伝えた
讃岐の雨乞踊り 財田中の弥生苗・八千歳踊は、もともとは盆踊りであったものが雨乞い踊りとして踊られるようになった。
讃岐の雨乞踊 「西讃府志」に紹介されている山本町大野の豊後・小原木踊り
風流踊り 勧進聖の痕跡が強く残る播磨三田市の百石踊り
讃岐の雨乞踊り 善女龍王信仰は、どのようなルートで財田の渓道龍王社に伝わったのか?
「武田明 雨乞踊りの分布とその特色」を読んで考える。その2 風流小歌系
郷土史講座NO3 綾子踊りの地唄は、恋の歌
「汐が引いた状態でさえ、その存在がわからない沖の石のように、あの人には私の恋心は気付かれないでしょう。実は深く恋い焦がれているのですよ。
平家物語には、「なんども踏み返され、袖が濡れる」、和泉大津の念仏踊りには「渡るおそろし 渡らにや殿御に あわりやせぬ」とあります。丸木橋を渡るのは怖い、しかし渡らないと会えない。転じて自分の思いを打ち明けようか、どうしようかと迷う心情が見えて来ます。「細谷川の丸木橋」は、恋を打ち明ける怖さを表現するものとして、当時の歌によく使われています。
ここからは「沖の石」や「細谷川の丸木橋」というのは、流行歌のキーワードで、「秘められた恋心」の枕詞だったのです。艶歌の世界で云えば「酒と女と涙と恋と」というところでしょうか。こうしてみると綾子踊りの歌詞には、雨乞いを祈願するようなものはないようです。まさに恋の歌です。
次に花籠を見ておくことにします。
ここには「男との逢瀬をいつまでも秘密にしたい・・」「花かごの中に閉じこめられた月をしっかり持っている女性」という幻想的なイメージが浮かんできます。それはそれで美しい歌ですが、『閑吟集』は、それだけでは終わりません。実は当時は「花籠」が女性、「月」が男性というお約束があったようです。そういう視点からもう一度読み返すと、この歌は情事を描いたものと研究者は指摘します。愛する男性を我が身に受け入れても、その事は自分の胸の内しっかり秘めて、決して外には漏らさないようにしよう。男の心を煩わしさで曇らさないために、という内容になります。こういう歌が中世の宴会では、喝采をあびていたのです。それが風流歌として流行歌となり、盆踊りとして一晩中踊られていくようになります。
その答えを与えてくれたのは、武田明氏の次のような指摘でした。
つまり、雨乞い踊りの歌詞は、もともとは閑吟集のように中世や近世に歌われていた流行歌(恋歌)であったということです。それがどのようにして雨乞い踊りになっていったのでしょうか。それを知るために佐文周辺の風流雨乞い踊を次回は見ていくことにします。
まんのう町図書館郷土史講座NO2 西讃府史と尾﨑清甫文書には、どんなことが書かれているのか?
その理由のひとつは、根本史料が残されていたからです。近世には、讃岐のどこの村でも雨乞い行事が行われていました。それが記録としてのこされなかったから、明治になって消えていったのです。その中で佐文の綾子踊りは2つの史料が残されました。それが西讃府誌と尾﨑清甫が残した記録です。
これは公的な一級資料になります。西讃府誌の要点を列挙しておきます。
西讃府史には、これに続いて12曲の歌詞が記されています。しかし、これ以外のことは西讃府誌には書かれていません。由来や綾子踊り取り方、団扇や花笠の寸法などは何も書かれていません。それが書かれているのが尾﨑清甫文書になります。
①女装した6人の小踊り(小学校下級年)②その後に全体の指揮者である芸司が一人、おおきな団扇でをもって踊ります。③その後に太鼓と榊持(拍子)④その後に鉦や鼓・笛などの鳴り物が従います。⑤そのまわりを大踊り(小学生高学年)が囲みます。
尾﨑清甫の残した隊形図を見ておきましょう。
①正面に磐座があり、その背後に「蛇松」がある
②その前に、御饌が置かれ、台笠や善女龍王の幟が立っている。
③その前に、地唄が横に9人並んでいる
④その前に、小踊りが6人×4列=24人
⑤その他の鳴り物も。現在の数よりも多い人数が描かれている
⑥特に、一番後の外踊りは数え切れない多さである。
⑦それを数多くの見物人が取り囲み、警固係が警備している。
関連記事
佐文綾子踊 綾子踊文書を書かれた順番に並べると、見えてくるものは?
佐文綾子踊 西讃府誌と、尾﨑清甫が書いた「雨乞踊諸書類」を比べて見る
佐文綾子踊 尾﨑清甫が残した綾子踊由来記を読む
綾子踊りの団扇・花笠・衣装について、尾﨑清甫にはどのように記しているのか?
綾子踊りも、芸司や拍子の持つ団扇は大型化しています。
芸司 大団扇寸法(鯨尺)縦 1尺7寸5歩(約52㎝) 横 1尺3寸(39㎝) 柄 6寸(18㎝)廻りには色紙を貼り、金銀色で日と月を入れて、その下に「水の廻巻」か、上り龍・下り龍を入れるのもよし。拍子(榊持ち) 中団扇寸法(鯨尺)縦 1尺2寸5歩(約38㎝) 横 9寸(27㎝) 柄 6寸(18㎝)デザインは、大団扇に同じ。小踊 女扇子台笠 (省略)
団扇には①月と太陽が貼り付けられています。月と太陽は、修験者の信仰のひとつです。この踊りを伝えたのが聖や修験者などであったことがうかがえます。なお、月・日の下に描かれているのが「水の廻巻」のようですが、今の私にはこれが何なのか分かりません。「雲」と伝えられるので、雨をもたらす「巻雲」と考えていますが、よく分かりません。ちなみに、ユネスコ登録を機に新しく大団扇を新調することになりました。大きさは、尾﨑清甫の言い伝えの通りに発注しました。分かることは、出来るだけつないでいこうとしています。
芸司・拍子スワタシ(直径) 1尺5寸5歩(鯨尺 約46㎝)3色で飾り付けよ、ただし赤色は使用しないこと小踊花笠スワタシ 1尺2寸5歩(約37㎝)ただし、ひなりめんにして両側を折る、そして正面は7寸(21㎝)開ける
①最初に来るのが「幟一本」で「佐文雨乞踊」と書かれたものです。それを礼服で持ちます。②「警固十(六)人」とあります。当初は十人と書かれていたものを六人プラスして「増員」しています。これ以外にも「増員」箇所がいくつかあります。その役割は、「五尺棒を一本持って、周囲四隅の場所を確保すること」で、履き物は草鞋ばきです。③次が「幟四本」で「一文字笠、羽織袴姿で上り雲龍と下り雲龍」を持ちます。
警固以外に杖突も6人記されています。
④「杖突(つけつき)六人」で「麻の裃で小昭楮、青竹を持て龍王宮を守護するのが任務」⑤「棒振(ぼうふり)・薙刀振(なぎなたふり)一人」で「赤かえらで刀頭を飾る。衣装は袴襷(たすき)」です。⑥「台笠一人」で、「神官仕立」で、神職姿で台笠を持つ」⑦「唐櫃(からひつ)」で、縦横への御供えを二人で担ぎます。これも神職姿です。⑧「正面幟二本」で「善女龍王」と書かれた二本の幟を拝殿正面に捧げ。一文字笠を被り、裃姿です。
綾子踊 善女龍王の幟(佐文賀茂神社)
⑨は「螺吹(かいふき)一人」で、法螺貝吹きのことで、「但し、頭巾山伏仕立、袈裟衣で」とあります。かつては頭巾を被った山伏の袈裟姿だったようです。
村雨乞行列略式 NO4(尾﨑清甫文書 昭和14年)
⑨「鼓(つづみ)二人」の衣装は「裏衣月の裃に、小脇指し姿で、花笠」とあります。「小脇指」を指していることを押さえておきます。⑩「鉦(かね)二人」は「麻衣に花笠仕立て」で現在も黒い僧服姿です。
⑪「笛吹二人」は「花笠・羽織袴で、草履履き」です。太鼓や鼓に比べると「格下」扱いです。⑫「小踊六人」は「花笠姿で、緋縮綿の水引を八・九寸垂らす。(後筆追加?)。小姫仕立で赤振袖に上着は晒して麻帯、緋縮綿(ひじりめん)に舞子結」⑬「地唄八人」は「麻の裃に小服で、青竹の杖を持って、一文字笠を被る」とあります。裃姿でも、その材質によって身分差が示されています。⑭「大踊(おおおどり)」は、「大姫は女仕立で、赤い振袖で上着は晒して、麻の片擂(かすり)で、水のうずらまき模様りの袖留め。帯は女物で花笠を被る。
以上からは、衣装や笠については、その役割に身分差があって、細かく「差別化」されていたことが分かります。戦後の綾子踊り復活に関わった人たちは、尾﨑清甫の残した記録を参考にしながら、意図をくみ取って、できるだけ見える形で残してきたのだと思います。
まんのう町図書館郷土史講座 ユネスコ無形文化遺産登録書には何が書かれているのか?
佐文に住む住人としてして、綾子踊りに関わっています。その中で不思議に思ったり、疑問に思うことが多々でてきます。それらと向き合う中で、考えたことを今日はお話しできたらと思います。疑問の一つが、どうして綾子踊りが国の重要無形文化財になり、そしてユネスコ無形文化遺産に登録されたのか。逆に言うと、それほど意味のある踊りなのかという疑問です。高校時代には、綾子踊りをみていると、まあなんとのんびりした躍りで、動きやリズムも単調で、刺激に乏しい、眠とうなる踊りというのが正直な印象でした。この踊りに、どんな価値があるのか分からなかったのです。それがいつの間にか国の重要文化財に指定され、ユネスコ登録までされました。どなんなっとるんやろ というのが正直な感想です。今日のおおきなテーマは、綾子踊りはどうしてユネスコ登録されたのか? また、その価値がどこにあるのか?を見ていくことにします。最初に、ユネスコから送られてきた登録書を見ておきましょう。
ユネスコの登録書です。何が書かれているのか見ておきます。
①●「convention」(コンベンション)は、ここでは「参加者・構成員」の意味になるようです。Safeguardingは保護手段、「heritage」(ヘリテージ)は、継承物や遺産、伝統を意味する名詞で、「intangibles cultural heritage」で無形文化遺産という意味になります。ここで注目しておきたいのは登録名は「Furyu-odori」(ふりゅう)です。「ふうりゅう」ではありません。どこにも佐文綾子踊の名称はありません。それでは風流と「ふりゅう」の違いはなんでしょうか。
「風流(ふうりゅう)」を辞書で引くと、次のように出てきました。
「上品な趣があること、歌や書など趣味の道に遊ぶこと。 あるいは「先人の遺したよい流儀」
たとえば、浴衣姿で蛍狩りに行く、お団子を備えてお月見するなど、季節らしさや歴史、趣味の良さなどを感じさせられる場面などで「風流だね」という具合に使われます。吉田拓郎の「旅の宿」のに「浴衣の君はすすきのかんざし、もういっぱいいかがなんて風流(ふうりゅう)だね」というフレーズが出てくるのを思い出す世代です。
これに対して、「ふりゅう」は、人に見せるための作り物などを指すようです。
風流踊りに登場する「ふりゅうもの」を見ておきましょう。
中世には、春に花が散る際に疫神も飛び散るされました。そのため、その疫神を鎮める行事が各地で行われるようになります。そのひとつが京都の「やすらい花」です。この祭の中心は「花傘(台笠)」です。「風流傘」(ふりゅうがさ)とも云い、径六尺(約180㎝)ほどの大傘に緋の帽額(もっこう)をかけた錦蓋(きぬかさ)の上に若松・桜・柳・山吹・椿などを挿して飾ります。この傘の中には、神霊が宿るとされ、この傘に入ると厄をのがれて健康に過ごせるとされました。赤い衣装、長い髪、大型化した台笠 これが風流化といいます。歌舞伎の「かぶく」と響き合う所があるようです。
奥三河の大念仏踊りです。太鼓を抱えて、背中には巨大化したうちわを背負っています。盆の祖先供養のために踊られる念仏踊りです。ここでは団扇が巨大化しています。これも風流化です。持ち物などの大型化も「ふりゅう」と呼んでいたことを押さえておきます。
綾子踊りについてもも時代と共に微妙に、とらえ方が変化してきました。国指定になった1970年頃には、綾子踊りの枕詞には必ず「雨乞い踊り」が使われていました。ところが、研究が進むに雨乞い踊りは風流踊りから派生してきたものであることが分かってきました。そこで「風流雨乞い踊り」と呼ばれるようになります。さらに21世紀になって各地の風流踊りを一括して、ユネスコ登録しようという文化庁の戦略下で、綾子踊も風流踊りのひとつとされるようになります。つまり、雨乞い踊りから風流踊りへの転換が、ここ半世紀で進んだことになります。先ほど見たようにいくつかの風流踊りを一括して、「風流踊」として登録するというのが文化庁の「戦略」でした。しかし、それでは、各団体名が出てきません。そこで、文化庁が発行したのがこの証書ということになるようです。ここでは「風流踊りの一部」としての綾子踊りを認めるという体裁になっていることを押さえておきます。
以上をまとめておきます。
①かつての綾子踊りは、「雨乞い踊」であることが強調されていた。
②しかし、その後の研究で、雨乞い踊りも盆踊りもルーツは同じとされるようになり、風流踊りとして一括されるようになった。
③それを受けて文化庁も、各地に伝わる「風流踊」としてくくり、ユネスコ無形文化遺産に登録するという手法をとった。
④こうして42のいろいろな踊りが「風流踊り」としてユネスコ登録されることになった。
今日はここまでとします。最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
関連記事
中讃ケーブル 歴史のみ方「綾子踊り 地域の伝統を守った尾﨑清甫」
小学校で綾子踊について、どんなことが取り挙げられているのか?
1939(昭和14)年の大旱魃 佐文ではどんな雨乞い祈願が行われたのか?
ユネスコ無形文化財 綾子踊公開奉納の御案内
下記の通り実施予定だった綾子踊は、台風接近のため中止となりました。残念です。2年後の公開に向けてまた準備を進めていきます。
で
佐文公民館(まんのう町佐文) 火の見櫓
ユネスコ文化遺産に登録されて初めての公開奉納が以下の日程で行われます。
日 時 2024年9月1日(日) 10:00~ (雨天中止)場 所 佐文賀茂神社(まんのう町佐文)日 程 9:00 受付開始10:00 公民館前出発 加茂神社への入庭10:15 保存会長による由来口上10:20 棒・薙刀問答10:30 芸司口上 踊り開始①水の踊 ②四国船 ③綾子踊 ④小鼓小休止⑤花籠 ⑥鳥籠 ⑦たま坂 ⑧六蝶子(ちょうし)小休止⑨京絹 ⑩塩飽船 ⑪忍びの踊り ⑫かえりの歌
香川県の電力史 増田穣三は西讃電灯をどのようにして営業開始させたのか?
①資本金に変化はないが、株主数は減少していること。②架線長・線条長(送電線)は3~5割増だが、街灯基数・需要家数は、明治35年には大幅減となっていること。③戸数は減少しているが、取付灯数は倍増していること。
①多度津の景山甚右衛門と坂出の鎌田家の連合体②中讃農村部の助役や村会議員(地主層)たちの「中讃名望家連合」
11月10日 長谷川佐太郎(榎井の大庄屋で満濃池再築指導者)11日 大久保正史(多度津町大庄屋)景山甚右衛門(後の讃岐鉄道創立者)12日 丸亀の要人 鎌田勝太郎(坂出の鎌田醤油)13日 金倉・仲村・上櫛梨・榎井・琴平・吉野上・五条・四条の要人14日 宇多津・丸亀・多度津(景山甚右衛門)15日 琴平・榎井(長谷川佐太郎)
拝啓、予而大久保諶之丞 御噺申上候高知新道開鑿之義二付、御協議申度候条、本月十八日午前十時揃、琴平内町桜屋源兵衛方迄、乍御苦労、御出浮被下度、就而者、御地方御有志之諸彦御誘引相成度、同時迄二必御御苦労被降度候、頓首十七年十一月十四日長谷川佐太郎大久保正史景山甚右衛門大久保諶之丞
拝啓、私、大久保諶之丞が高知新道開鑿の件について、協議いたしたいことがありますので、、本月十八日午前十時、琴平内町桜屋源兵衛方まで、ご足労いただきたくご案内申し上げます。各地域の有志の方々にもお声かけいただき、揃って参加いただければ幸いです。頓首十七年十一月十四日
それから約十年後の増田穣三も名望家の家を一軒一軒めぐって、電灯事業への出資を募ったようです。
その発起人の名簿を見ると、村会議員や助役などの名前が並びます。彼らはかつての庄屋たちでもありました。ここからは、農村の名望家層が鉄道や電力への出資を通じて、近代産業に参入しようとしている動きが見えてきます。
明治30年12月18日 那珂郡龍川村大字金蔵寺の綾西館で創立総会を開き、定款を議定し、創業費の承認。資本金総額 十二萬圓 一株の金額 五十圓
募集株数 二、四〇〇株払込期限 明治31年5月5日取締役社長 樋口 治実専務取締役 赤尾 勘大取 締 役 山地 善吉外三名監 査 役 山地 健雄 富山民二郎支配人、技師長 黒田精太郎(前高電技師長)明治30年12月28日、西讃電灯株式会社設立を農商務大臣に出願明治31年9月 西讃電灯株式会社創立。明治32年1月、発電所・事務所・倉庫の用地として金蔵寺本村に三反四畝を借入
①西讃電灯発起人には、都市部の有力者がいない。
②中讃の郡部名望家と大坂企業家連合 郡部有力者(助役・村会議員クラス)が構成主体である
③七箇村からは、増田穣三(助役)・田岡泰(村長)・近石伝四郎(穣三の母親実家)が参加している
④1898年9月に金倉寺に発電所着工するも操業開始に至らない。
⑤そのために社長が短期間で交代している
⑥1900年10月には、操業遅延の責任から役員が総入れ替えている。
⑦1901年8月前社長の「病気辞任」を受けて、増田穣三が社長に就任。
⑧増田家本家で従兄弟に当たる増田一良も役員に迎え入れられている。
入って電気会社の事務を統ぶるに及び、水責火責は厭わねど能く電気責の痛苦に堪えうる否やと唱ふる者あるも、義気重忠を凌駕するのは先生の耐忍また阿古屋と角逐するの勇気あるべきや
意訳変換しておくと
電気会社の社長として、その経営に携わって「水責火責」の責苦や「電気責の痛苦」などの経営能力に絶えうる能力があるのだろうかと危ぶむ声もある。「義気重忠を凌駕」するのも、増田穣三先生の耐忍や勇気であろう。
増田穣三の経営者としてのお手並み拝見というところでしょうか。
増田穣三は社長就任後の翌年明治36(1903)年7月30日に営業開始にこぎ着けます。この時の設備・資本金は次の通りです。
①発電所は金蔵寺に建設され、資本金12万円、②交流単相3線式の発電機で60kW、2200Vで丸亀・多度津へ送電③点灯数は483灯(終夜灯82灯、半夜灯401灯)
金蔵寺駅の北側を東西に横切る道より少し入り込んだ所に煉瓦の四角い門柱が二つ立っていた。門を入った正面には、土を盛った小山があり、松が数本植えられていた。その奥に小さな建物と大きな建物があり、大きな建物の屋根の上には煙突が立ち、夕方になると黒い煙が出ていた。線路の西側には数軒の家があったが、東側には火力発電所以外に家はなく一面に水田が広がり、通る人も稀であった。
石炭は丸亀港や多度津港に陸揚げ可能でしたが、港近くには安価で広く手頃な土地と水が見つからなかったようです。港から離れた所になると、重い石炭を牛馬車大量に運ぶには、運送コストが嵩みます。そこで明治22年に開通したばかりの鉄道で運べる金蔵寺駅の隣接地が選ばれます。
収入が支出の三倍を超える大赤字です。
こうして明治39(1906)年1月に、増田穣三は社長を辞任します。
「それまでの累積赤字を精算する」ということは、資本金12万から累積赤字84000円が支払われるということになります。そして、残りの36000円が資本金となります。つまり、株主は出資した額の2/3を失ったことになります。
参考文献
近代産業の発展に伴う電気事業の形成と発展 四国電力事業史319P
関連記事
日露戦争後に水力発電所が作られるになったのは、高圧送電技術の進歩があったから
増田穣三と電力会社設立物語 (四国水力発電会社前史)
四国琴平に4つの鉄道が乗り入れていた時代 その1 琴平参拝鉄道版
増田穣三と電灯会社設立の関係年表1894 明治27年 増田穣三が七箇村助役就任(36歳)→M30年まで
電力供給不足のため150㌗発電機増設。新設備投資が経営を圧迫
日露戦争後に水力発電所が作られるになったのは、高圧送電技術の進歩があったから
四国電力事業史319P」です。
③ここからは、東京・横浜・大阪・名古屋・京都・神戸の6社が全国の取付灯数のうちの約75%を占めていたことが分かります。そういう意味では、明治20年代は、地方への電灯事業はまだまだだったようです。
上表の下から8番目に高松電灯の名前が見えます。
高松電灯は明治28年11月3日に、試験点灯を行っています。これが香川の電気の夜明けになるようです。初代社長の牛窪求馬(うしくぼもとめ)は、高松藩の家老職の生まれで、「ハイカラだんな」と呼ばれたような人でした。高松で最初に自転車に乗り、靴をはき、洋服を着たと言われる人物です。
求馬は明治26年、数え年31歳の時に、発起人となって電気事業の創設を志して資金集めに東奔西走します。しかし、思ったように資本は集まらず頓挫寸前になります。ここで救世主となったのが、旧藩主の松平家の殿様でした。こうして資本金5万円で、明治28年に高松電灯は発足します。本社事務所と石炭火力発電所を市内寿町(現在の四国電力本店の西で日本銀行高松支店のあたり)におき、50㌗発電機2台でスタート。当初の送電エリアは狭く、丸亀町、兵庫町、片原町という高松市の中心部だけで、電灯を取りつけたのは294戸、灯数は657灯でした。
電灯会社設立当初は、発電所から近いエリアの市街地に電灯を灯すことが業務で、その対象は公官庁や高所得者層でした。
そのため小規模で建設費が安い火力発電所を都市周辺に設置することが一般的でした。これに対して、当時の水力発電は、送電技術が未発達で近距離送電しかできません。水力発電が行える所は河川流域上部に限られますが、そこは高い料金の照明用電灯要家の数も少なく、事業としては成り立ちません。
蹴上発電所
最初は、120馬力のペルトン式水車2基で、エジソン型90馬力2基の発電機を稼動して、直流550Vの発電を行い、2 km以内の地域に動力用に供給します。翌年の明治25年末には、交流式1000V90馬力の発電機の増設によって、遠距離送電も可能となります。そこで、京都電灯への卸売供給を始めるとともに、2年後には一般電灯供給も行うようになります。
①送電距離の延長という技術問題が解決したこと②日清戦争後の石炭価格の上昇で電カコストが高騰し、水力発電への転換が求められたこと
すでに先進国では、工業原動力は蒸気力から電力へ移っていました。しかし、火力発電では低価格で電力を供給することは困難でした。そのため、コストの安い水力発電にる電力供給が求められるようになります。
明治40年(1907)12月20日に運転開始した駒橋発電所(15,000KW)から東京の早稲田変電所までの約80Kmを高圧送電した「55KV駒橋線(2回線)」です。これが大都市圏への初の送電線となります。
鶴川横断地点の鉄塔
この鉄塔は、アメリカからの輸入品です。どの鉄塔もパネル割が同一で、鉄塔高も同じなので、同一仕様のものを22基輸入したものと研究者は指摘します。アメリカ西海岸のカリフォルニア州では、木柱線路の中の長径間箇所用に、この鉄塔を量産していて、それをそのまま輸入して使用したようです。
この長距離送電の成功を確信した各地の電気事業者や起業者は、積極的に電力消費地の遠隔地域での発電所建設に取り組み始めます。これが、後の大規模水力発電開発へとつながります。
中世は鯛ではなく鯉が魚介類の最上位とされていた?
「鯉ばかりこそ、御前にても切らるヽものなれば、やんごとなき魚なり」
ここには鯉が「やんごとなき魚」として特別の魚とされ、14世紀初頭の魚ランキングでは、最上位の魚として位置づけられていたことが分かります。それでは室町期の流派相伝書に、鯉がどのように記されているのかを見ていくことにします。
「一美物上下之事。上ハ海ノ物、中ハ河ノ物、下ハ山ノ物、但定リテ雉定事也。河ノ物ヲ中二致タレ下モ、鯉二上ラスル魚ナシ 乍去鯨ハ鯉ヨリモ先二出シテモ不苦。其外ハ鯉ヲ上テ可置也。」
意訳変換しておくと
「美物のランキングについては、「上」は海の物、「中」は河ノ物、「下」は山ノ物とする。但し、鯉は「河ノ物」ではあるが、これより上位の魚はない。但し、鯨は鯉よりも先にだしても問題はない。要は鯉を最上に置くことである。」
「一美物ヲ存テ可出事 可参次第ハビブツノ位ニヨリティ出也。魚ナラバ、鯉ヲ一番二可出り其後鯛ナ下可出。海ノモノナラバ、 一番二鯨可出也。」
意訳変換しておくと
「美物を出す順番は、そのランキングに従うこと。魚ならば、鯉を一番に出す。その後に鯛などを出すべきである。海のものならば、一番に鯨を出すべし。」
「物一別料理申ハ鯉卜心得タラムガ尤可然也。里魚ヨリ料理ハ始リタル也。蒲鉾ナ下ニモ鯉ニテ存タルコソ、本説可成也。可秘々々トム云々」
意訳変換しておくと
「特別な料理といえば、鯉料理と心得るべし。里魚から料理は始めること。蒲鉾などにも鯉を使うことが本道である。
①『大草殿より相伝之聞古』(推定1535~73)
「一式三献肴之事 本は鯉たるべし 鯉のなき時は名吉たるべし。右のふたつなき時は、鯛もよく候」
意訳変換しておくと
「一式三献の肴について、もともとは鯉であるべきだ。鯉が手に入らないときに名吉(なよし:ボラの幼魚)にすること。このふたつがない時には、鯛でもよい。
一式三献とは出陣の時、打ちあわび、勝ち栗、昆布の三品を肴に酒を三度づつ飲みほす儀式のことで、これを『三献の儀(さんこんのぎ)』と呼びました。以後は三献が武士の出陣・婚礼・式典・接待宴席などで重要な儀式となります。そこでは使われる魚のランキングは「鯉 → ボラの幼魚 → 鯛」の順になっています。
②「大草家料理吉」推定(1573~1643年)
「式鯉二切刀曲四十四在之。式草鯉三十八。行鯉ニ三十四刀也.(下略)」
「出門に用る魚、鯛、鯉、鮒、鮑、かつほ、数の子、雉子(きじ)、鶴、雁の類を第一とす。」「一、三鳥と言は、鶴、雉子、雁を云也 此作法にて餘鳥をも切る也」「一、五魚と言は、鯛、鯉、鱸、王餘魚(カレイ)をいふ 此作法にて餘の魚をも切る也。」
「河魚にも鯉を第一之本とセリ」「水神を祭可申時、鯉・鱸(すずき)・鯛、何れにても祭り可申事同然可成哉、(中略)、鯉の事欺、尤本成べし、鯛・鱸にてハ不可然、但鱸之事は河鱸にてハ苦しからすや、海鱸にてハ不可然(下略)」「但分て鳥と云へきハ雉子之事なるべし」
「河魚ではあるが鯉を第一とすること。」「水神を祭る時に、鯉・鱸(すずき)・鯛のどれにでもかまわないと言う者もいるが、(中略)、鯉を使うこと、鯛・鱸は相応しくない。但し、鱸は河鱸は可だが、海鱸は不可である(下略)」「但し、鳥と云へば雉子と心得ること」
「包丁手数職掌目録 右三十六数は表也 (中略) 右之外三拾六手之鯉数を合て目録ヲ定、表裏の品ヲ定て習之也」
「一夫包丁は鯉を以テ源トス、(中略)、凡四條家職掌庖丁ハ鯉を第一トス、雑魚雑鳥さまざまに、猶他流に作意して切形手数難有卜、皆是後人の作意ニよつてなすもの也、然共、鱸・真那鰹・鯛・雉子・鶴・雁ハ格別の賞翫也、是又従古包丁有し事上、(下略)」「一夫包丁ハ鯉ヲ源トス、鯉鱗の長龍門昇進ノ徳有魚也(下略)」「鯛 一延喜式二此魚を平魚卜云、国土平安の心ヲ取捨日本各々祝儀二も第一賞翫二用之也」
「包丁手数職掌目録 これは36六数を表とする (中略) この外に36手の鯉数を合せて目録を定めています。表裏の品を定めてこれを習う」
「包丁は、鯉が源である。(中略)、四條家の職掌庖丁は、鯉を第一とする。雑魚雑鳥がさまざまに、他流では用いられ、形や技量が生まれてきたが、これは皆後世の作意である。しかし、鱸・真那鰹(なまがつお)・鯛・雉子・鶴・雁は格別の賞翫である。これは伝統ある包丁の道でもある。(下略)」「包丁は鯉が源である、鯉の鱗は、長龍門を登った徳のある魚である(下略)」「鯛については、延喜式でこの魚を平魚と呼んで、国土平安の心を持ち、日本のさまざまな祝儀でも第一の賞翫として用いられる。
「一鯛十枚 鮒十枚(喉・唯)何ぞ名魚はこんの字を人て書物也」「二 唯鯉 一二つ鯉は四条家の秘伝也」
「本書は、専門家の包丁人ばかりでなく、公家、武家また裕福な町人、上級文化人の間で読まれたのであろうか、その(端本)流布状態は、当初筆者が考えていた以上に広範囲に及んでいた」
「鯉の鮨賞翫ならず。認むべからず」「鯉鮪賞翫ならず。」
「式正膳部集解』、安永5年(1776)成立
「小川たゝきの事 鯉は賞翫なるを以饗応にかくべからず」
御料理調進方』、慶応3年(1866)以前成立)
「塩鯉。江戸にては年頭の進物にする。其外一切賞翫ならず」
以上からは鯉料理に対する否定的な見方が拡がっていたことがうかがえます。
文明5年(1483)、伊勢貞陸から足利義政への献上品の魚介類では、鯛25回(103尾と2折、干鯛2折)、鯉5国(11喉と2折)、以下、蛸(7回)、鰐(6回)、鳥賊(6日)、海月(4回)、鱸(3回)などが頻度が多い魚です。
「山科家礼記」などの5つの史料に出てくるの魚類消費の調査報告書です。そこには、淡水魚介類と海水魚介類の比較を次のように報告しています。
「教言卿記」は淡水魚介類のべ30件、海水魚介類59件「山科家礼記』は淡水魚介類のべ194件、海水魚介類492件、「言同国卿記」は淡水魚介類のベ132件、海水魚介類174件
「教言卿記」は、鯉6件、鯛25件「山科家礼記」は、鯉43件、鯛155件「言国卿記」は、鯉19件、鯛84件
「山科家礼記」では、鮎64件、鮒58件、鯉43件「言国卿記」では、鮎68件、鮒30件、鯉19件
「中世社会においては魚介類は儀礼的、視党的な要素の強い宮中の行事食や包丁道の対象としても用いられており、これらの記述からは中世後期において魚介類相互間に人々が設定した一種の秩序意識、鯉を頂点とする秩序意識をも看取することができる」
「(しかし)山科家の日記類のなかには、こうした秩序意識の理解に直接資する記事は少なく、包丁書などで述べられる事柄と交差する点が見いだし難い」
「それぞれの魚介類の記事件数のみを物差しにすれば、鯉よりむしろ鯛の方が贈答されることが多く、重視されているように思われる」
「贈答や貫納の場面では鯛の需要が他の魚種を引き離し食物儀礼の秩序とは異なる構図がみえて興味深い,」
「ここからは「儀礼魚」としての役割が鯉から鯛へと重心移動しつつあった15世紀の現実世界を魚類記録は映し出してくれる」
「龍門(前略)此之龍は出門・津門・龍門とて三段の龍也、(中略)三月三日に魚此龍の下ニ集り登り得て、桃花の水を呑ば龍に化すと云う事あり」(包丁故実之書)
「目録之割 (前略) 鯉鱗の長龍門昇進ノ徳有魚也、毎鱗黒之点有之、鱗数片面三拾六枚有、依之衣共鱗数三拾六手の数ヲ定メ給ふ卜言ふなり」(『職掌包丁刀注解』)
意訳変換しておくと
「(黄河の)龍門(前略)の滝は、出門・津門・龍門の三段に流れ落ちる。(中略)三月三日に魚たちは、この滝の下に集まって、この滝を登り得た魚だけが、桃花の水を呑んで龍に変身すると伝えられる。」(包丁故実之書)
「目録之割 (前略) 鯉は龍門の滝を昇進した有徳の魚である。鱗ごとに黒い点があり、鱗数は片面で36枚ある。そのため包丁人は伝書に鱗数と同じ36手の数を定めている。(『職掌包丁刀注解』)
ここからも「鯉の優位」を説く中世の伝書は、包丁家などに伝わる儀礼的な場面を想定して、鯉を「出世魚=吉兆魚」としていたことが推察できます。「徒然草」の「鯉ばかりこそ、御前にても明らるゝものなれば、やんごとなき魚なり」というのは、包丁人たちによって形成された評価と研究者は考えています。
今日はここまでです。最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
讃岐の婚礼料理 明治以後に烏賊が蛸を圧倒するようになったのはどうしてか
最古の料理専門書とされる『料理物語』にも次のように料理法が記されます。
「たこは 桜いり するがに なます かまぼこ 此外色々 同いひだこ すいもの 同くもだこ さかな」
「烏賊は うのはな なます さしみ なます かまぼこ に(煮)物 青あへ 其外いろいろ」
『古今料理集』にも、烏賊、蛸のいろいろな調理法が紹介されていますが、どれも「賞翫(良い物を珍重し、もてはやすこと。物の美を愛し味わうこと。物の味をほめて味わうこと)」の食品とされています。
このように近世料理書では、烏賊と蛸とは他の魚介類とは異なる形状などの類似性から、よく並記されることが多いようです。
「いた子せんきり(汁)」「とふ(豆腐)二手長たこ(大平)」などの汁物や煮物、「ひかん飯たこからし(辛子)あへ(丼)」「いかかたこかのあい物(丼)」などの和物「けづりたこ(指身)」「たこのすし(皿)」
「いかかたこかのあい物(丼)」「あられいか(壷)」
「きのめ和へいか(丼)」「いかの青和へ (皿)」「小いか、ゆりねごまあへ (丼)」などの和物九例「いかのつけ焼(丼)」「やきいか(硯蓋)」などの焼物、「まきいか(さしみ)」「生いか、青のし玉子、針うど(丼)」などの刺身「塩烹、巻いか、竹の子(丼)」「いか、かんぴよう、しいたけ(坪)」などの煮物
明治以後の婚礼供応は、料理人の台頭などもあって、農村部でもプロ化が進みます。
このような傾向が、細工、彩色が容易な烏賊に追い風となります。さらに、調理法が簡便なこと、種類が多くほぼ通年使用可能なことなども増加理由として挙げられます。
「いかあへもの」「あへもの いか木の芽(道具入、二十五人)」「あいもの(八十人位)」「いか附焼」「内ノ分 四十人分 いか」
関連記事
讃岐の祝事と鯛 タイが祝魚となっていった歴史
讃岐で薬味としての生姜と山葵は、どのように定着したか?
讃岐の祝い事に、蒲鉾などの水産練製品は、どのように登場したのか
讃岐の祝い事に、蒲鉾などの水産練製品は、どのように登場したのか
讃岐の水産練製品の古い事例としては、明和年間(1764年から1772年)の高松藩主の茶会記「穆公御茶事記 全」に、次のような練製品が登場します。
「崩し(くずし)、摘入(つみれ)、真薯(しんじょ)、半弁、王子半弁、蒲鉾、竹輪」
「摘入(つみれ)、小川崩し、すり崩し、しんじょう、半弁、結半弁、大半弁、角半弁、茶巾、小茶巾、箸巻、市鉾、角蒲鉾、小板、船焼、大竹輪、合麹」
上分には「摘入、しん上、半弁、分鋼半弁、角半弁、竹輪、蒲鉾、鮒焼王子」下分へは「摘入、半弁、竹輪、蒲鉾」
「進上、白子進上、炙十半弁、小判型半弁、茶巾、蒲鉾、舟焼、青炙斗玉子、養老王子、ぜんまい崩し、生嶋崩し、柏崩し」
②中讃の本村家の婚礼儀礼(明治期)には、多量の水産練製品
「生崩し十五杯、白玉九十九個、半弁(丸半弁)四一本、蒲鉾(蒲鉾圧文板)一六七枚、茶巾 十五枚、箸巻(青箸巻)六七本、生嶋崩し十八枚、藤半弁一七枚、相中蒲鉾八枚、花筏四〇枚、合麹二十枚」
ここでは、いろいろな形に成形、彩色した細工蒲鉾類が数多く使われるようになっていることが分かります。
「摘入、しんじょう、王子しんじょう、安平、半弁、小半弁、雪輪(半弁)、小板、白板、蒲鉾、肉餅、合麹」
⑤火事見舞(明治4年)には酒、菓子などの食品・日用品とともに、「竹輪、蒲鉾、紅白板、小板、箱浦鉾」が贈られています。
・①蒲鉾(かまぼこ)類・②細工物、細工蒲鉾類)・③半弁(はんべん)類・④竹輪(ちくわ)類・⑤真薯(しんじょ)類・⑥舟焼(ふなやき)類 ・・⑦天ぷら類・⑧その他
その起源は永久3年(1115)に、関白右大臣藤原忠実の祝宴で亀足で飾った蒲鉾の絵が最古とされます。また、「宗五人双紙」(1518年)には「一 かまぼこハなまず本也 蒲のほ(穂)をにせたる物なり」とあり、「蒲のほ(穂)に似せて作られたと、その曲来が記されています。製法は『大草殿より相博之聞書』(16世紀半ば)に次のように記します。
「うを(魚)を能すりてすりたる時、いり塩に水を少しくわへ、一ツにすり合、板に付る也。(中略) あふり(炙り)ようは板の上に方よりすこしあふり、能酒に鰹をけつり(削り)、煮ひたし候て、魚の上になんへん(何遍)も付あふる也`」
ここからは、蒲鉾の初期の加熱方法は焼加であったことが分かります。
一カマボコ 二切ホトニ切 ソレヲ三ツニ切タマリ 懸テケシ打チテ温也一ヘキ足付三ツカマホコ キソク赤白(文禄三年九月二五日昼)
その製法は経験と熟練による高度な技術が必要な「ハイテク蒲鉾」でした。例えば、
②すり身を薄焼卵や黄色の奥斗(すり身を薄く伸ばして蒸したもの)で包んだ「茶巾」「巾着」
⑤二色のすり身を巻き切り口に渦巻模様を作る「花筏」「源氏巻崩し」
⑥すり身と簾盤を合わせた合麹、麹巻
半弁は明和年間に、蒲鉾とともに登場する代表的な水産練製品の一種です。
しかし、その名称と実態がよくわからないようです。史料には濁音符、半濁音符がないので、半弁は「はんペん、はんべん、はべん」とも読め、名称が特定できません。 讃岐の半弁は関東一円に流通するすり身に山芋、でん粉などを加え気泡により独特の軽い食感を持つ「はんぺん」とはまったくちがう製品であることは間違いないようです。
青海村の渡辺家出入りの「多葉粉犀」は高松藩御用達の魚屋ですが、明治13年の渡辺家婚礼には鯛、幅などの魚介類とともに蒲鉾、半弁、茶巾などの水産練製品を大量に納人しています。また、渡辺家の「家政年中行司記」には次のように記されています。
「年暮 煙卓屋二くずし物買物之覚丸半排壱本 箱王子半分 小板三枚 竹わ五拾 半弁三本 小板三枚」(万延元年・1860)「節季買物 上半弁二本 並雪輪同三本 小板五枚 船焼王子壱枚 竹輪三十本」(慶応四年・1868)
④さらに製品格差だけでなく、一人当たりの分量の概数にも差別化が行われていること
前回は、うどんが讃岐の庄屋層の仏事には欠かせないメニューとして出されるようになったこと、それが明治になると庶民に普及していくことを見ました。蒲鉾などの練り物も、婚礼の祝い物などとして姿を現し、幕末には供応食としてなくてはならないものになります。それが明治には、庶民にまで及ぶようになるという動きが見えます。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
讃岐で薬味としての生姜と山葵は、どのように定着したか?
それに対して山葵は、近世にはまったく使わた記録がありません。それが明治になって急速に使用頻度が高くなり、大正・昭和になると使用頻度が低くなります、また身分階層による使用頻度も大きくちがうようです。
[近世後半]生盛(辛子酢、針生姜)刺身(辛子酢)・刺身(辛子酢、けん生姜)漆原家(文化年間) 差身(辛子酢) 刺身(辛子酢)*大喜多家(天保年間) 筏盛(刺身) (煎酒、蓼酢)
[明治時代]・皿(けん生姜) 皿(生姜)・刺身(辛子酢、山葵醤油)・生盛(辛子酢、山葵将油)。刺身(辛子、山葵将油)・刺身(辛子酢) 刺身(生姜醤油)、 刺身(山葵)
・刺身(辛子酢)・刺身・刺身(生姜醤油)・刺身(山葵)・刺身(山葵)
辛子酢味噌
①明治中期の冠婚葬祭祭には、煎酒、辛子酢、三杯酢などの酢系統の調味②明治39年以降になると、生姜醤油、山葵醤油の醤油系統が主流となり酢系統と拮抗③昭和期には山葵醤油が席捲
室町期の「四条流庖丁書」には、次のように記されています。
「一サシ味之事。 鯉ハワサビズ(酢)。鯛ハ生姜ズ。備ナラバ蓼ズ フカハミ(實)カラシノス。エイモミカラシノス。王余魚ハヌタズ.」
ここには、鯉は山葵酢、鯛は生姜酢と、それぞれの魚に適した辛味が書かれています。このような多様な味の系統が明治期まで引き継がれていたことがうかがえます。ちなみに、大正3年には粉山葵(こなわさび)の製造が始まります。それ以降の「刺身に山葵、山葵将油」の画一化が加速したと研究者は考えています。
讃岐うどんは、どのようにして法事に出されるようになったのか
「麦粉を捏ねて非常に細く薄く作り、煮たもので、素麺あるいは切麦のような食物の一種」
⑤慶長15年(1610)の『易林本小山版 節用集』にも14世紀以降は「うとむ・うどん・うんとん・うんどん」などと呼ばれ、安土桃山以降は「切麦」と呼ばれていたようです。きりむぎは「切ってつくる麦索」の意で、これを熱くして食べるのをあつむぎ、冷たくして食べるのをひやむぎと呼んだようです。
中央の店でうどん玉をこねている姿が見えます。そして、その店先にはうどん屋の看板がつり下げられています。
金毘羅祭礼図屏風のうどん屋
藁葺きの屋根の下には、うどん屋の看板が吊されています。上半身裸の男がうどん玉をこねているようです。その右側の店では、酒を酌み交わす姿が見えます。うどんを肴に酒を飲むこともあったのでしょうか。街道には、頭人行列に参加する人たちが急ぎ足で本宮へと急ぎます。
「讃岐三白」と言われるようになる塩を用いて醤油づくりも、小豆島内海町安田・苗羽では、文禄年間(16世紀末)に紀州から製法を学んで、生産が始まります。目の前の瀬戸内海では、だしとなるイリコ(煮千し)もとれます。うどんづくりに必要な小麦・塩・醤油・イリコが揃ったことで、讃岐、特に丸亀平野では盛んにうどんがつくられるようになります。和漢三才図会(1713年)には、「小麦は丸亀産を上とする」とあります。讃岐平野では良質の小麦が、この時代から作られていたことが分かります。
うとん 但シ壱貫目ノ粉二而 玉六十取 三貫目ニテ十二分二御座候
ここからは一貰目(3,75㎏)の小麦粉で60玉(一玉の小麦粉量63㌘)、3貫目の小麦で180玉を用意しています。渡辺家が、準備したうどん粉は20㎏なので約330玉が作られた計算になります。そばも、そば粉一斗を同じように計算すると約260玉になります。うどんとそばを合計すると590玉が法事には用意されていたことになります。参列者全員にうどんが出されていたのでしょう。
「一 (銀)二分五厘(五分之内)温飩入用 粒胡椒」「一(銀)五分 粒胡椒代」
現在のうどんの薬味と云えば、ネギと生姜(しょうが)です。
丸亀藩が編纂した『西讃府志』(安政五年)にも、生姜は出てきます。生姜の料理への利用については、鮪、指身などの生物料理に「辛味」「けん」として添えられました。 以上から生姜は、日常的な薬味として料理に使われていたようです。それがうどんの薬味にも使われるようになったとしておきます。
以上をまとめておきます
②だし汁をかけて食べるようになるのは、醤油が普及する江戸時代中期以後のことである。
④江戸時代後半になると、讃岐ではうどんはハレの日の食べ物になり特別な食べ物になっていく。
⑤大庄屋の渡辺家でも幕末になると宵法事や非時にはうどんやそばが出されている。
⑥明治になると、これを庶民が真似るようになり、法事にはうどんが欠かせないものになっていった。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
秋山照子 近世から近代における儀礼と供応食の構造 讃岐地域の庄屋文書の分析を通じて 美巧社(2011年)
関連記事
うどんの歴史No2 近世絵図に描かれたうどん屋をめぐる
うどんの歴史NO1 滝宮=うどん発祥地説は本当か?
坂出青海村の大庄屋・渡辺家の幕末の葬儀から見えてくることは
前回は坂出の青海村の大庄屋渡辺家の概略を見ました。今回は、渡辺家の幕末から明治に行われた葬儀に関する史料を見ていくことにします。ペリーがやって来た頃に、渡辺家では次の①から③ような大きな葬儀が連続して行われています。
①「宝林院」(渡辺五百之助妻) 嘉永六年(1953)11月13日没 享年54オ②「欣浄院」(渡辺槇之助妻) 安政2年(1855)11月 2日没(11月3日葬儀)」享年25才③「松橋院」(渡辺五百之助) 安政3年(1856) 8月 2日没(8月3日葬儀) 享年62才④「松雲院」(渡辺槇之助) 明治4年(1871) 5月17日没(5月16日葬儀)」享年44才
1795(寛政7年)生、1856年(安政3)没1835(天保6)年、林田・大薮・乃生・木澤などの砂糖会所の責任者に就任し、砂糖の領外積み出しなどの業務担当。1837年、大坂北堀江の砂糖会所定詰役1845(弘化2)年 林田村上林田に文武の教習所・立本社を創設1853(嘉永6)年、大政所渡辺一郎(本家)の跡役として、大政所就任1854年 病気により子槇之助(敏)が大政所代役就任
1827(文政10)年生、1871(明治4)年没。1854(嘉永7)年 父五百之助の病気中に大庄屋代役就任1856(安政3)年 父の死後大庄屋役となり、砂糖方入れ更り役を仰せ付けられる。また、林田村総三の浜塩田の開拓、砂糖方の出府などに活躍。
人の死は、告知されることにより個の家の儀礼を超えて村落共同体の関わる社会的儀礼となります。告知儀礼は、第一に寺方、役所などに対して行われます。具体的には「死亡届方左之通」として、次のような人達に届けています。
郡奉行(竹内興四郎)
郷会所(赤田健助・草薙又之丞)
砂糖方(安部半三郎・田中菊之助)
同役(本条勇七)
一類(青木嘉兵衛・山崎喜左衛門・小村龍三郎・松浦善有衛門・綾田七右衛円)
案内状の文面は、以下の通りです。
郡奉行中江忌引一筆啓上仕候、然者親五百之助義久々相煩罷在候処養生二不叶相、昨夜九ツ時以前死去仕候、忌中二罷在候問此段御届申し上候、右申上度如斯二御座候以上八月二月 渡辺槇之助竹内典四郎様
郡奉行への忌引連絡一筆啓上仕ります。我父の五百之助について病気患い、久しく養生しておりましたが回復適わず、昨夜九ツ時前に死去しました。忌中にあることを連絡致します。以上八月二月 渡辺槇之助竹内典四郎様
これと同時に次のような寺方へも連絡が行われます
①旦那寺行 ②塩屋行 大ばい行 ③専念寺行〆 (下)藤吉 次作④坂出 八百物いろいろ〆 忠兵術 龍蔵高松行 久蔵 弥衛蔵 亀蔵西拓寺行 清立寺 蓮光上寸 徳清寺〆 三代蔵 恭助正蓮キ案内行〆 卯三太林田和平方行 卯之助 佐太郎高屋行 熊蔵横津行 関蔵 乙古 伊太郎
渡辺家の宗派は、浄土真宗です。①その菩提寺(旦那寺)は、明治までは丸亀藩領の田村の常福寺(龍泉山、本願寺派、寛永15年木仏・寺号取得)でした。前回お話ししたように、渡辺家は那珂郡金倉郷、鵜足郡坂本郷を経て、青海村にやってきました。青海村にやってくるまでの檀那寺が常福寺だったようです。②の「塩屋行」の塩屋は本願寺の塩屋別院のことです。役寺である教覚寺や③瓦町の専念寺などにも案内として派遣されたのが下組の藤吉と次作ということになります。④は葬儀のための買い物が坂出に3名出されたことを示します。その他、髙松や関連寺院へも連絡人足が出されています。
これを讃岐では、「講中」や「同行(どうぎょう)」と呼びます。青海村では、免場(組)と呼ばれていたようです。免場とは、もともとは免(税)が同率の集合体、すなわち徴税上のつながりでした。それが転じて、地縁による空間的絆、葬儀などを助け合う互助組織として機能するようになります。
青海村の免場は、以下の8つの組からなります。
①向(下、東、西)組 ②上組 ③大藪南数賀(須賀)組
④大藪中数賀組 ⑤大藪谷組 ⑥鉱 ⑦北山組 ⑧中村組
この中で、渡辺家が属する免場は①の向組でした。
五月二十四日之分免場東西不残朝飯後より外二折蔵義者早朝より好兵衛倅与助 半之助 網次同二十五日之分朝早天より一 免場東西組不残 勘六 辰次郎 作蔵 (北山)虎蔵・清助・久馬蔵・権蔵 (大屋冨船頭)市助(惣社)和三郎家内 好兵衛倅半之助 同晰・与助
(惣社)網次二十六日三拾壱軒 免場不残 おてつ おぬい おいと おしげ おとみ おげん 長太郎給仕子供兼三郎 (北山)三之丞以下省略(五十七名)
ちなみに「村八分」という言葉がありますが、村から八部は排除されても、残りの二分は構成員としての資格を持っていたとされます。それが葬儀と火事対応だったとされます。
葬列には導師をはじめ数ヵ寺の僧侶が加わり、位牌は一類の者が持ちます。葬列の後尾の跡押、宝林院の時には当主の槙之助、松雲院では親族の藤本助一郎(後、久本亮平と改名)です。親族は女、男と分けて列の後部に続き、その後に一般の会葬者が続き、長い葬列になります。
「庄摩、大庄屋など農村部の上層の家における冠婚非祭の儀礼は自家の権勢を地域社会に誇示する側面を有するが、他面、華美や浪費により家を傾けることを戒めており、この双方への配慮、平衡感覚の中で行われた」
庄屋たちが気を配ったのは「自家の権勢保持」と「華美・浪費回避」のバランスだったようです。それでは渡辺家では、どんな風にバランスが取られていたのでしょうか。
宝林院、欣浄院、松橋院、松雲院の時の布施内容を一覧化したのが次の表です。
②参加寺院についても、布施は均等でなく格差があること
葬儀の格式については、明和年間の安芸国の史料では葬式を故人と当主との続柄によって次のように軽重が付けられています。
大葬式(祖父母、父母、本妻)小葬式(兄弟、子供、伯父伯母)
大葬式では、2ヶ寺で、住職・伴僧・供を含めて15人、布施総額は33匁、小葬儀では、1ヶ寺で、住職その他は1人から4人
「衆僧十僧より厚執行致間敷、施物も分限に応、寄付致」
ここには参加する僧侶は10人を越えないこと、葬儀が華美にならないように規定されています。 渡辺家でも葬儀に参列する僧の人数は旧例を踏襲しながら、故人の生前の功績なども考慮して、増加する事もあったようです。
一人の僧侶に、各数名の弟子、若党、中間などがついて、伴僧などを含めると総勢97人にもおよびます。これらの僧侶に対して、布施が支払われます。布施の金額は檀那寺の「金壱一両 銀七拾三匁 五分九厘」が上限です。その他の伴僧はほぼ同格で僧侶、弟子その他を含めて各63匁八分~75匁の布施です。なお、中間は僧侶の駕籠廻4人の他、曲録、草履、笠、雨具、打物、箱、両掛などの諸道共を持つ係です。檀那寺以外の伴僧では弟子、若党、中間ともに人数は少なくなっていて、布施の額も減少します。これらの布施については「右品々家来二為持、 十七後八月十三槙之助篤礼提出候事」とあるので、槇之助自らが寺に敬意をはらい自ら持参したことが分かります。
野辺送りをイメージすると、檀那寺、伴僧の僧侶は中間のかつぐ駕籠に乗って、仏具を持つ多くの人々を従えて、美々しい行列を仕立て進んで行きます。それは死者を弔いその冥福を祈るとともに、家の格式また権勢を地域社会に誇小する行進(パレード)でもあったようです。
江戸時代の坂出・青海村と大庄屋の渡辺家について
その時は、当主達の残した「御用日記」を中心に、当時の大庄屋の日常業務などが中心にお話ししました。今回は別の視点で、渡辺家と阿野北の青海村について見ていくことにします。テキストは「秋山照子 近世から近代における儀礼と供応食の構造 讃岐地域の庄屋文書の分析を通じて 美巧社(2011年)」です。
まず、青海村の属していた阿野郡北を見ておきます。
阿野北は、青海村をはじめ木沢、乃生、高屋、神谷、鴨、氏部、林旧、西庄、江尻、福江、坂出、御供所の村々を構成員としました。
阿野郡北の各村々の石高推移は、以下の通りです。
この表を見ていて、反別面積の大きい林田や坂出の戸数・人口が多いのは分かります。しかし、青海村は耕地面積が少ないのに、戸数・人口は多いのです。この背景には、このエリアが準農村地帯ではなく、塩や砂糖などの当時の重要産業の拠点地域であったことがあるようです。
青海村の産業を見ておきましょう。青海村の産業の第一は糖業でした。
上右表からは、阿野郡北の文政7年(1824)の甘藷の植付畝数は157町、その内、青海村は7、3町です。また同時期の阿野郡北の砂糖車株数(上左表)の推移を見ると、10年間で約20%も増加しています。同時期の高松藩の甘藷の作付面積は天保5年(1814)1814)が1120町で、以後も増加傾向を示します。この時期が糖業の発展期でバブル的な好景気にあったことがうかがえます。この時期の製糖業は高松藩の経済を支えていたのです。
坂出は塩業生産の中心地でもありました。
文政10年(1827)江尻・御供所に「塩ハマ 新開地 文政亥卜年築成」、
文政12年(1829)、東江尻村から西御供所まで131、7町の新開地
その内、塩田と付属地は115、6町、釜数75に達します。ここに多くの労働者の受け皿が生まれることになります。
郡奉行の下代官職がいて、代官の下の元〆手代が郷村の事務を握っていました。各村々には庄屋1名、各郡には大庄屋が2名ずついました。庄屋以下には組頭(数名)、五人組合頭(―数人)を配し、村政の調整役には長百姓(百姓代)が当たりました。その他、塩庄屋・塩組頭・山守な下の役職がありそれぞれの部門を担当します。庄屋の任命については、藩の許可が必要でしたが、実際には代々世襲されるのが通例だったようです。政所(庄屋)の役割については、「日用定法 政所年行司」に月毎の仕事内容が詳述されているとを以前にお話ししました。
渡辺家の残された文書の多くは、藩からの指示を受けて大庄屋の渡辺家で書写されたり、記帳されて各庄屋に出されたものがほとんどです。定式化されて、月別に庄屋の役割も列挙されています。二名の大庄屋が東西に分かれ隔月毎に月番、非番で交代で勤務にあったことが分かります。
①万治2年(1659)に初代の嘉兵衛の代に青海村に定住。
③三代繁八は父の跡を継いだが早世したため、善次郎が再度政所就任
④繁八の弟與平次の3男藤住郎義燭を養子として家を継がせた。
⑤その子五郎左衛門義彬が1788(天明8)年12月阿野北郡大政所(大庄屋)に就役
⑥七郎左衛門寛が1818(文化15)年から大政所役を勤め、1829(文政12)年には藩士の列に取り立てられた。
⑦寛の弟良左衛門孟は東渡辺家の同姓嘉左衛門義信の家を継ぎ、養父の職を継いで政所となった。
寛の子五百之助詔は1820(文政3)年、高松藩に召出されて与力(100石)となり、次のような業績を残しています。
寛政7年(1795)生、安政3年(1856)没
1837年、大坂北堀江の砂糖会所定詰役
1853(嘉永6)年、大政所渡辺一郎(本家)の跡役として、大政所就任
1854年 病気により子槇之助(敏)が大政所代役就任
1827(文政10)年生、1871年没。
渡は経常の才に優れ精業、塩業、製紙、船舶、鉄道、銀行、紡績など各会社の設立しています。また、神仏分離で廃寺となった白峰寺の復興、さらに金刀比羅宮の管轄となった「頓証寺」の返還運動にも力を尽くし、この功績により同境内には顕彰碑が建立されています。
菩提寺は、もともとは丸亀藩領の田村の常福寺(龍泉山、本願寺派、寛永15年木仏・寺号取得)でした。先述したように渡辺家は、那珂郡金倉郷、鵜足郡坂本郷を経て、青海村にやってきました。青海村にやって来るまでの檀那寺が常福寺だったようです。しかし、明治8年(1885)に加茂村の正蓮寺(常教院)に菩提寺を移しています。墓所は青海村向の水照寺(松山院、無檀家寺)に現存します。
渡辺家「小作人名」から免場(組)、村別に小作人数をまとめたのが次の表です。
ここからは次のようなことが分かります。
①青海村々内の免場(組)小作人は158人(実数は173人)
②他村その他は17人(同21人)
明治4(1871)年の青海村戸数は319人です。青海村の半数以上が渡辺家小作人であったことになります。
塩業「大蕨製塩株式会社」
製紙「讃紙株式含社」
船舶「共同運輸会社」
鉄道「讃岐鉄道株式合社」
銀行「株式会社高松銀行」
紡績「讃岐紡績会社」
このような事業の設立・運営などによって資本蓄積を行います。
参考文献
「秋山照子 近世から近代における儀礼と供応食の構造 讃岐地域の庄屋文書の分析を通じて 美巧社(2011年)
関連記事
坂出市史近世・大庄屋渡辺家 村役人には文章能力が不可欠だった
讃岐因支首氏系図 『円珍俗姓系図』は、どのように作成されたのか。
円珍を輩出した因支首氏は、貞観8年(866)に和気公へ改姓することは以前にお話ししました。これまでの研究では、地方氏族の改姓申請の際には、対象となる氏族の系評(本系帳など)が参照されていることが指摘されています。空海の佐伯直氏も改姓申請の際には、同じ祖先で一族とされた物部氏の長の「同族証明書」を発行してもらっています。同じ事が円珍の因支首氏にも求められています。そして、改姓のために作られたのが「円珍系図」でした。
「讃岐国那珂郡の人、因支首秋主・同姓道麿・宅主、多度郡の人、因支首純雄・同姓国益・巨足。男縄・文武・陶通等九人、姓を和気公と賜ふ。其の先、武国凝別皇子の市裔なり」
貞観七年(865)に、改めて因支首秋主らが改姓を求める解状を提出します。これが那珂・多度郡司と讃岐国司の審査を経て、改姓が認められます。こうして、因支首氏は60年近くの歳月を経て、悲願を達成したのです。これを受けて、次のような手順が踏まれます。
④この系図が因支首氏の系譜を後世に伝えるため、あるいは円珍の出自を明らかにするために作成されたものであれば、因支首氏の系譜だけを単独で記せば事は足りる。
「別公の本姓、亦、忌請に渉る。(略)望み請ふらくは(略)玩祖の封ぜらる所の郡名に拠りて、和気公の姓粍賜り、将に栄を後代に胎さんことを」
意訳変換しておくと
「別公の本姓、の「別」という文字は怖れ多い。(中略)そのためお願いしたいのは、先祖の封ぜらた郡(伊予御村別君氏の本拠である伊予国和気郡:松山市北部)の名前に因んで、「和気公」の氏姓を賜りたい。
佐伯有清氏はこれを、「別(わけ)」より「和気」の方が「とおりが良かった」ため、後者の表記を授かることを目的とした一種の「こじつけ」であるとします。いずれにしろ改姓の申請では「別」を忌避したことになっています。
四人の中で生年が分かるのは円珍だけです。
円珍は弘仁5年(814)の生まれなので、この書き継ぎはそれ以降のことです。それに対して、宅成は道麻呂の子で、秋古・秋継は宅成と同世代に当たります。道麻呂が那珂部の代表者として改姓申請を行った大同年間の頃には、宅成・秋古・秋継らは生まれていたはずです。 円珍俗姓系図は、大同の頃の人物までを記して、いったんは終了していたことがここからも裏付けられます。とするならば『円珍系図』の原資料の結合は、因支首氏と伊予御村別君氏が同祖関係にあることを示す必要が生じた延暦・大同期に行われた可能性が高いことになります。以上を整理しておくと、次のようになります。
次にC部分の冒頭に置かれた忍尾別君の尻付と、その子である□思親幌剛醐[]波・与呂豆の左傍の注記について見ておきましょう。
①伊予国で「別(わけ)」を称号として勢力を持っていた氏族が因支首氏の祖先であるとする佐伯有清説②因支首氏は伊予国和気郡より移住してきたとする松原説
円珍の因支首氏の系譜は、どのように成立したのか
以前に円珍系図について、次のようにまとめておきました。
さらに伊予の和気氏と讃岐の因岐首氏が婚姻によって結ばれたのは、大化以後のことと研究者は考えていました。この説は1980年代に出された説です。それでは現在の研究者達はどう考えているのかを見ていくことにします。テキストは、鈴木正信 円珍俗姓系図を読み解く「古代氏族の系図を読み解く」です。
その場合のキーパーソンは「身」です。この人物は「子小乙上身。(難破長柄朝廷、主帳に任ず。〉」とあります。ここからは孝徳天皇の時代(645~54)に、主帳(郡司の第四等官)に任命されたとされます。「小乙上」とは、大化五年(649)に制定された冠位十九階の第十七位か、天智3年(664)に制定された冠位26階の第22位に当たるようです。Bの部分には冠位を持つ人物が多いのですが、C部分では身が唯一です。この人物は略系図の冒頭にも置かれている上に、貞観9年(867)「讃岐国司解」でも触れられています。因支首氏の中で重要な意味を持つ人物であったことが分かります。
①「讃岐国司解」の「少身の官職初位上」②「円珍俗姓系図」の「小乙上」「難破長柄朝廷」「主帳に任ず」
「其の郡司には、並びに国造の性 識清廉くして、時の務に堪ふる者を取りて大領・少領とし、強く幹しく聡敏くして、書算に巧なる者を主政・主帳とせよ」
ここからは、主帳が孝徳朝から置かれていたことが分かります。。
①身は7世紀半ばの大化年間の人物ではなく、8世紀前半に少初位上の位階を持った讃岐国多度郡の主帳に任じられた人物であること②それゆえに因支首氏にとっては顕彰すべき祖先であったこと
そして「墓記」(氏族の祖先が王権に代々奉仕してきたことを記した書物)の提出や、氏上の選定が命じられるなど、氏族に関するさまざまな政策が実施されます。これは中央氏族を対象としていましたが、その影響が地方氏族も及んでいたようです。7世紀後半から8世紀前半にかけて、諸氏族の系譜が整備される中で、『円珍俗姓系図』の原資料も成立していたことが推定されます。すなわち、
参考文献 鈴木正信 円珍俗姓系図を読み解く「古代氏族の系図を読み解く」
関連記事
円珍系図 伊予和気氏と讃岐因支首氏の系図の接ぎ木部分を探る
飛鳥よりも早く豊前「秦王国」には仏教が伝わっていた。
②『彦山縁起』が典拠とする『熊野権現御垂逃縁起』(『熊野縁起』)には、熊野三所権現は唐の天台山から飛来した神で、最初は彦山に天降って、その後に彦山から伊予の石鉄山、 ついで淡路の遊鶴羽岳、さらに紀伊の切部(切目)山から熊野新宮の神蔵山ヘ移った
「私は修験道史の立場からは、欽明天皇七年戊午(588年)の仏教公伝よりはやく、民間ベースの仏教伝来があったものと推定せざるを得ない」「民間ベースの仏教伝来」の例として、『日本霊異記』(上巻28話)の、役小角が新羅に渡ったとあること、「彦山縁起』に、役小角が唐とも往来したとある例がある」「これは無名の修行者の往来があったことを、役小角の名で語ったもの」で、「彦山は半島にちかい立地条件にめぐまれて、朝鮮へはたやすく往来できた」「無名の修行者」が、仏教公伝より早く、仏教を彦山にもちこんむことも可能であった。朝鮮への仏教渡来は、「道人」が伝えている。そのため列島への豊前への仏教伝来も「道人」といわれる日本の優婆塞・禅師・聖などの民間宗教者によって行われ、仏教にあわせて陰陽道や朝鮮固有信仰などを習合して・占星術・易占・託宣をおこなったものとおもわれ、仏教・陰陽道・朝鮮固有信仰がミックスしたかたちで入った」
雄略朝の豊国奇巫は、「巫僧的存在ではなかったかと想像される」として、「少なくとも5~6世紀の頃、豊国に於ては氏族の司祭者と原始神道と仏教が融合している事実がみられる」
用明天皇二年(587)に、豊国法師が参内していることから、6世紀末には「九州最古の寺院」が、「上毛・下毛・宇佐郡に建立されていて、」「秦氏と新羅人との関係からすると、その仏教の伝来は新羅人を通して6世紀初頭に民間に伝わって来たか、乃至は新羅の固有信仰と共に入ったものではあるまいか」
「宮廷に豊国法師が迎え入れられたのは、九州の豊前地方には、後に医術によって文武天皇から賞せられた法蓮がいたように、朝鮮系の高度の文化が根を張っており、したがって医術の名声が速く大和にまで及んでいた」
宝亀8年(777年)に託宣によって八幡神が出家受戒した時には、その戒師を務めて、宇佐市近辺にいくつもの史跡・伝承を残しています。『続日本紀』の大宝三年(703)9月25日条は、次のように記します。
史料A 施僧法蓮豊前國野冊町。褒霊術也(僧の法蓮に豊前国の野四十町を施す。医術を褒めたるなり)
史料B 養老五年(七二一)六月三日条、詔曰。沙門法蓮、心住禅枝、行居法梁。尤精霊術、済治民苦。善哉若人、何不二褒賞。其僧三等以上親、賜宇佐君姓
詔して曰く。「沙門法蓮は、心は禅枝に住し、行は法梁に居り。尤も医術に精しく、民の苦しみを済ひ治む。善き哉。若き人、何ぞ褒賞せざらむ。その僧の三等以上の親に、宇佐君の姓を賜ふ」)
豊国法師の伝統を受けついだ代表的な僧が、法蓮であったから、彼の医術は特に「監」と書かれたのだが、法蓮は、薬をまったく用いなかったのではない。薬だけでなく巫術も用いたから、単なる「医者」でなく「巫医」なのだ。法蓮が用いた薬に、香春岳の竜骨(石灰岩)がある。「竜骨」を薬として用いる術は、豊国奇巫・豊国法師がおこない、その秘術を法蓮が受けついでいた。このような豊国の僧(法師)の実態は、仏教公伝以前に秦王国に入っていた仏教が、巫術的なものであったことを示しており、豊国奇巫ー豊国法師―僧法蓮には、一貫した結びつきがある。
震国の「王子晋」は、舟で豊前国田河郡大津邑に着き、香春明神の香春岳に住もうとしたが、「狭小」だったので、香春より広い彦山の「磐窟」の上に天降り、四十九箇の洞窟に、「御正然」を分けた『彦山流記』『彦山縁起』も、法蓮も玉屋谷の般若窟に住み、その他の修行者も、彦山四十九窟の洞窟を寺とした。
彦山四十九窟は、豊前・豊後。筑前にまたがる彦山を中心に分布しています。これについて、中野幡能は、次のように記します。
「個々の宮寺を窟又は岩屋という」修験の霊山は、「他には豊後国の六郷山しかなく」、筑前宝満山にも「四十八嘔」があるが、この「岨」は、吉野の大峯の「宿」と同じ意で、彦山や六郷山の宮寺を「窟」というのとちがう。そして、新羅の慶州の「南山の五十五ヶ寺の寺院が、一ヵ寺ずつ、寺号を名乗っている」のは、六郷山の「窟又は岩屋」が「一々山号寺号をもっている」のと「似て」おり、「六郷山の原型」は、「新羅の慶州南山」とみられる。「その意味では彦山四十九窟も、慶州南山のあり方と全く同じ方式とみてよい」
宇佐八幡宮の祭祀氏族の辛島氏と深くかかわる修験の求菩提山も、石窟がたいへん多いところです。
其国東有大穴、号隧神。亦以十月迎而祭之
『魏志』東夷伝の高句麗の条にも、
其国東有大穴、名隧穴。十月国中大会迎隧神。還於国東上祭之、置木隧於神坐。
『宋史』列伝の高麗の条には、
国東有穴 号歳神。常以十月望甲迎祭。
大穴を、「終神・隧穴・歳神」などと呼んでいたようです。これについて上橋寛は、『魏志』東夷伝高句麗の条の「隧穴」に、「置木隧於神坐」とあり、『宋史』が歳神と書いていることから、木隧を豊饒を祈る木枠のようなものと解釈します。
新羅に人った仏教は、王都の慶州にもひろまり、法興王は仏教を受け入れようとした。ところがこれに貴族の大半が反対した。
ここからは、最初に新羅に入った仏教は、一般庶民サイドの上俗信仰と習合した仏教であったことが分かります。わが国に公伝した仏教も、飛鳥の場合には「私宅仏教」の信者であった百済系渡来人が受容します。公伝以前から仏教信者であった鞍部は、雄略朝に渡来し、高市郡の桃原・真神原に住んでいました。その時、鞍部と共に衣縫部も来ていますが、『日本書紀』は、崇峻天皇元年(588)に、次のように記します。
「飛鳥衣縫造が祖樹葉の家を壊して、始めて法興寺を造る」
ここでは最初に伽藍仏教の寺院を建てた地を「真神原」といっています。衣縫造は鞍部村主と同じに、「私宅仏教」の信者であり、この私宅を「伽藍仏教」の伽輛(寺)にし、法興寺(飛鳥寺)を創建したと研究者は指摘します。
真神原と呼ばれたこの地には、飛鳥寺の創建以前から槻の林があった。飛鳥寺の造営のため一部は伐採され、土地は拓かれて寺地となったが、なお飛鳥寺の西の槻の林は残されていた。槻の林は、元来はこの地に居住していた飛鳥衣縫氏の祭祀の場であり、すなわち宗教的な聖地であったと思われる。朝鮮半島において、原始時代に樹木崇拝が行われていた。樹木の繁茂する林は神聖な場所であり、巫峨信仰の本拠でもあった。新羅仏教史において、早い時期に建立された寺のなかに、林に関連した事例がある。すなわち慶州の興輪寺は天鏡林が、同じく四天王寺は神遊林が、寺の根源であったと考えられる。図式的にいえば、仏教伝来以前の樹木崇拝の聖地に、仏教の寺院が建てられ、そして巫現が僧尼になったことになる。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
空海請雨伝承NO2 「神泉祈雨事」は、さまざまな宗派によって行われていて、最初から真言宗が独占していたのではない
①諸大寺での読経②大極殿での読経③東大寺での読経④神泉苑での密教的な修法
(前略)屈六十僧於大極殿 限三箇日 転読大般若経 十五僧於神泉苑 修大雲輪請雨経法 並祈雨也。 (後略)
(前略)六十人の僧侶が大極殿で三日間、大般若経の転読を行った。一方、十五人の僧侶が神泉苑 で大雲輪請雨経法を修法して祈雨した。(後略)
貞観年中種々祈雨事。但以神事無其験云々。僧正真雅大極殿竜尾壇上自不絶香煙祈請。小雨降。
意訳変換しておくと
貞観年中には、さまざまな祈雨が行われた。但、神事を行ってもその効果はなかったと云う。(空海の弟である)僧正真雅は大極殿の竜尾壇上で香煙を絶やさず修法を行った。その結果、小雨があった。
申時黒雲四合。俄而微雨。雷数声。小選開響。入夜小雨。即晴。先是有山僧名聖慧。自言。有致雨之法 或人言於右大臣即給二所漬用度紙一千五百張。米五斗。名香等聖慧受取将去。命大臣家人津守宗麻呂監視聖慧之所修。是日宗麻呂還言曰。聖慧於西山最頂排批紙米供天祭地。投体於地 態慰祈請。如此三日。油雲触石。山中遍雨。
意訳変換しておくと
祈雨修法が行われると黒雲が四方から湧きだし、俄雨が少し降り、雷鳴が何度かとどろいた。次第に雷鳴は小さくなり、夜になって小雨があったが、すぐに晴れた。ここに聖慧という山僧が云うには、雨を降らせる修法があると云う。そこで右大臣は、すぐさま祈祷用の用度紙一千五百張。米五斗、名香などを聖慧に与えた、家人の津守宗麻呂に命じて、聖慧の所業を監視するように命じた。 宗麻呂が還って報告するには、聖慧は西山の頂上に紙米を天地に供え、五体投地して懇ろに祈願した。その結果、この三日間。雨雲がわき上がり、山中は雨模様であった。
古老の言うには、神泉苑には神竜がいて、昔旱勉の時には水をぬいて池を乾かし、鐘太鼓を叩くと雨が降ったという。その言葉に従って、神泉苑の水をぬいて竜舟を浮かべ、鐘・太鼓を叩いて歌舞を行った。
このように、古老の言い伝えによる土俗的方法までも、朝廷は採用しています。効き目のありそうなものは、なんでも採用するという感じです。そこまで旱魃の被害が逼迫していたとも言えそうです。
そのためこの年も種々の修法が提案され、様々な方法が取り上げられています。それを『三代実録』で見ておきましょう。
(前略)是日。左弁官権使部桑名吉備麿言。降雨之術。請被給香油紙米等試行之。三日之内。必令有験。於是給二香一斤。油一斗。紙三百張。五色細各五尺。絹一疋。土器等
(前略)この日、左弁官権使部の桑名吉備麿が自ら、私は降雨之術を会得しているので、香油紙米らを授けて試行させたまえ、されば三日の内に、必ずや験がありと云う。そこで、香一斤・油一斗・紙三百張・五色細各五尺・絹一疋・土器を授けた。
屈伝燈大法師位教日於神泉苑 率廿一僧。修金麹鳥王教法。祈雨也。
伝燈大法師が神泉苑で、21人の僧侶を率いて。金翅鳥王教法を修法し、祈雨を祈願した。
遣権律師法橋上人位延寿。正五位上行式部大輔兼美濃権守橘朝臣広相於東大寺大仏前 限以三日‐修法祈雨。遂不得嘉満
権律師法橋上人位の延寿をして、正五位上行式部大輔兼美濃権守橘朝臣広相が東大寺大仏前で 三日間に限って 祈雨修法を行うが、効果はなかった。
先是。内供奉十禅師伝燈大法師位徳寵言。弟子僧乗縁。有呪験致雨之術 請試令修之。但徴乗縁於武徳殿 限以五日 誦呪祈請。是日。未時暴雨。乍陰乍響。雨沢不洽。
内供奉十禅師の伝燈大法師位・徳寵が云うには、弟子僧の乗縁は祈雨の術に優れた術を持っていることを紹介して、試しにやらせてくれれと申し入れてきた。そこで、武徳殿で五日に限って修法を行わせたところ 暴雨になり雨は潤沢に得た。
(前略)有勅議定。始自廿二日、三ケ日間。於賀茂松尾等社 将修二濯頂経法 為祈雨也。(後略)
(前略)勅議で22日から三ケ日間、賀茂松尾等社で「濯頂経法」が修法され、祈雨が行われた。(後略)
ここにも「濯頂経法」というこれまでにあまり聞かない祈雨修法が行われています。この後、大雨となりすぎて、逆に神泉苑で濯頂経法を止雨のために修法しています。これらを見ると、この時も祈雨修法のやり方が固定化していなかったことがうかがえます。
極大極殿 延屈名僧 令転読大般若経 又於神泉苑 以二律師益信 修請雨経 同日。奉幣三社
大極殿で延屈名僧によって大般若経が転読されるとともに、神泉苑で東寺の律師益信によって請雨経法が修せられ、三社に奉納された。
ここでは、それまでのようないろいろな修法を試すという状況は、見られません。そして、この後は、神泉苑での祈雨は、東密によって独占されていきます。891年に、益信が祈雨を行った時には、すでに神泉苑での祈雨が東密の行うものであるという了解のようなものが、ほぼできあがっていたと研究者は考えています。
天長年中有早災 皇帝勅和上 於神泉苑令祈膏雨 自然傍詑。乃賀其功 任少僧都
天長年間に旱魅があり、天皇の命により空海が神泉苑で祈雨を行って雨を降らし、その功によって少僧都に任じられた
ここからは、この記事が書かれた寛平7年には、もうすでに空海請雨伝承が成立していたことが分かります。寛平7年は、益信の祈雨より4年後のことになります。伝承成立が、益信の祈雨以前であったと研究者は考えています。真言側は、この空海請雨伝承でもって、自らの神泉苑での祈雨の正当性を朝廷に訴えていったのでしょう。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
空海請雨伝承 「神泉祈雨事」はどのように成立したのか
鎌倉中期成立の『高野大師行状図画』で、「神泉祈雨事」の部分を見ておきましょう。
淳和天皇の御宇天長元年に天下大に日でりす。公家勅を下して。大師を以て雨を祈らしめんとす。南都の守敏申て云守敏真言を学して同じう御願を祈らんに、我既に上臆なり。先承りて行ずべしと奏す。是によりて守敏に仰せて是を祈らしむ。七日の中に雨大に降。然どもわづかに京中をうるほし。いまだ洛外に及ぶ事なし。
重て大師をして神泉苑にして請雨経の法を修せしむ。七日の間 雨更にふらず。あやしみをなし。定に大観じ給ふに守敏呪力を以て、諸竜を水瓶の中に加持し龍たり。但北天竺のさかひ大雪山の北に。無熱池と云池あり。其中に竜王あり。善女と名付。独守敏が鈎召にもれたりと御覧じて公家に申請て。修法二七日のべられ。彼竜を神泉苑に勧請し給ふ。真言の奥旨を貴び 祈精の志を感じ 池中に形を現ず。金色の八寸の蛇。長九尺計なる蛇の頂にのれり。実恵。真済。真雅。真紹。堅恵。真暁。真然。此御弟子まのあたりみ給ふ。自余の人みる事あたはず。則此由を奏し給ふ。公家殊に驚嘆せさせ給ひて、和気の真綱を勅使にて、御幣種々の物を以て竜王に供祭せらる。密雲忽にあひたいして、甘雨まさに傍陀たり。三日の間やむ事なし。炎旱の憂へ永く消ぬ。上一大より下四元に至るまで。皆掌を合せ。頭をたれずと云事なし。公家勧賞ををこなはれ。少僧都にならせ給ひき。真言の道、崇めらるゝ事。是よりいよくさかんなり。大師茅草を結びて、竜の形を作り、壇上に立てをこなはせ給ひけるが。法成就の後、聖衆を奉送し給ひけるに、善女竜王をばやがて神泉苑の池に勧請し留奉らせ給ふて、竜花の下生、三会の暁まで、此国を守り、我法を守らせ給へと、御契約有ければ、今に至るまで跡を留て彼池にすみ給ふ。彼茅草の竜は、聖衆と共に虚にのぼりて、東をさして飛去。尾張国熱田の宮に留まり給ひぬ。彼社の珍事として、今に崇め給へりといへり。仏法東漸の先兆、東海鎮護の奇瑞軋にや。大師の言く、此竜王は。本是無熱池の竜王の類なり。慈悲有て人のために害心なし。此池深して竜王住給は七国土を守り給ふべし。若此竜王他界に移り給は七池浅く水すくなくして。国土あれ大さはがん。若然らん時は。我門徒たらん後生の弟子、公家に申さず共、祈精を加へて、竜王を請しとゞめ奉りて、国土をたすくべしといへり。今此所をみるに。水浅く池あせたり。をそらくは竜王他界に移り給へるかと疑がふべし。然ども請雨経の法ををこなはるゝ毎に。掲焉の霊験たえず。いまだ国を捨給はざるに似たり。(後略)
淳和天皇治政の天長元(824)年に天下は大旱魃に襲われた。公家は、弘法大師に命じて祈雨祈祷を行わせようとした。すると南都奈良の守敏も真言を学んでいるので、同じく雨乞祈祷を行わせてはどうかと勧めるものがいた。そして準備が既に出来ているということなので、先に守敏に祈祷を行わせた。すると七日後に、雨が大いに降った。しかし。わずかに京中を潤しただけで、洛外に及ぶことはなかった。
そこで弘法大師に、神泉苑での請雨経の法を行わせた。七日の間、修法を行ったが雨は降らない。どうして降らないのかと怪しんだところ、守敏が呪力で、雨を降らせる諸竜を水瓶の中に閉じ込めていたのだ。しかし、天竺(インド)の境堺の大雪山の北に、無熱池という池あった。その中に竜王がいた。その善女と名付けられた龍は、守敏も捕らえることができないでいた。
そこで、その善女龍王を神泉苑に勧請した。すると、真言の奥旨にを貴び、祈祷の志を感じ、池中にその姿を現した。それは、金色の八寸の蛇で、長九尺ほどの蛇の頂に乗っていた。実恵・真済・真雅・真紹・堅恵・真暁・真然などの御弟子たちは、その姿を目の当たりにした。しかし、その他の人々には見ることが出来なかった。すぐにそのさまを、奏上したところ、公家は驚嘆して、和気の真綱を勅使として、御幣など種々の物を竜王に供祭した。すると雲がたちまち広がり、待ち焦がれた慈雨が、三日の間やむ事なく降り続いた。こうして炎旱の憂いは、消え去った。上から下々の者に至るまで、皆な掌を合せ、頭をたれないものはいなかったという。これに対して、朝廷は空海に少僧都を贈られた。以後、真言の道が崇められる事は。ますます盛んとなった。大師は茅草を結んで、竜の形を作り、壇上に立て祈雨を行った。祈雨成就後は、善女竜王を神泉苑の池に勧請し、留まらせた。こうして未来永劫の三会の暁まで、この国を守り、我法を守らせ給へと、契約されたので、今に至るまで神泉苑の池に住んでいます。また茅草の竜は、聖衆と共に虚空に登って、東をさして飛去り、尾張国熱田の宮に留まるようになったと云う。熱田神宮の珍事として、今も崇拝を集めています。これこそが仏法東漸の先兆で、東海鎮護の奇瑞である。大師の云うには、この竜王は、もともとは無熱池の竜王の類である。しかし、慈悲があり、人のために害心がない。この池は深く、竜王が住めば国土を守ってくれる。もしこの竜王が他界に移ってしまえば池は浅くなり、水は少なくなって、国土は荒れ果て大きな害をもたらすであろう。もし、そうなった時には、我門徒たちは、後生の弟子、公家に申し出ることなく、祈祷を行い、竜王を留め、国土を守るべしと云った。今、この池を見ると、水深は浅くなり、池が荒れています。このままでは、竜王が他界に移ってしまう恐れがある。しかし、請雨経の修法を行う度に。霊験は絶えない。いまだこの国をうち捨てずに、守っていると言える。(後略)
天長年中有旱 皇帝勅和上 於神泉苑 令祈膏雨 自然傍詑。乃賀其功 任二少僧都
意訳変換しておくと
天長年間に旱魅があり、天皇の命により空海が神泉苑で祈雨を行って雨を降らし、その功により少僧都に任じられた
「空海神泉苑請雨祈祷説が流布しつつあった十世紀初頭は、東密がそれまで空海以降、人を得ずふるわなかったのを、復興につとめそれをなしえた時期にあたる。聖宝、観賢とその周辺が空海神泉苑請雨祈祷説を創作することによって、請雨経法による神泉苑の祈雨霊場化に成功したと推測したが、観賢がいわゆる大師信仰を鼓吹した張本人であってみればその可能性はつよい」
佐々木氏が言うように、説話の成立にはそれが必要とされた歴史的な背景があったようです。次にその説話成立の背景を探ってみましょう。
命二少僧都空海 請仏舎利裏 礼拝濯浴。亥後天陰雨降。数剋而止。湿地三寸。是則舎利霊験之所感応也。
意訳変換しておくと
空海を少僧都を命じる。空海は内裏に仏舎利を請じて、礼拝濯浴した。その結果、天が陰り雨が降った。数刻後に雨は止んだが、地面を三寸ほど湿地とするほどの雨であった。これは舎利の霊験とする所である。
讃岐雨乞い信仰No1 空海は善女竜王に祈って雨を降らせた
讃岐の雨乞い 善如竜王から善女龍王へ女性化したのは、醍醐寺の布教戦略?弘法大師伝説 古代の泉は神聖な場所で、神託の場でもあった
八栗寺調査報告書NO2 近世絵図に見る八栗寺伽藍の変遷
①五剣山を見ると、5つの峯が全部描かれています。このうち宝永地震で、一番左側の峯が崩落してしまうので、それ以前の五の峰が揃った姿ということになります。この峯々に何が祭られていたかを本文には次のように記します。
「中峰の峙つ三十余丈、是に蔵王権現を鎮祠し、北に弁才天、南ハ天照太神なり」
一番高い中央の峰の頂上部に「蔵王」と記された祠が描かれていて、ここに蔵王権現が祀られています。ここからはこの地が修験者たちによって開かれた霊山であったことが分かります。
「丈六の大日如来を大師 岩面に彫付給へり」「中区に大師求聞持を修し給ふ窟あり、是を奥院と号す、寺よりのぼる事四町ばかり也、此窟中 大師御影を置」
「丈六の大日如来を弘法大師は、岩面に彫付けた。」「中央に大師が虚空蔵求聞持法を修した窟がある。これを奥院と呼ぶ。寺より登ること四町ばかりである。この窟中に、弘法大師の御影がある。」
さらにその下の中央部に「観音堂」が南面して建ちます。
「大師千手観音を刻彫して―堂を建て安置し玉ひ、千手院とふ」「本堂の傍の岩洞に不動明王の石像あり、大師作り玉ひて、此にて護摩を修し玉ふと也、窟中一丈四方に切ぬき、三方に九重の塔五輪など数多切付たり」
ここでは、もともとは千手観音が本尊だったことを押さえておきます。ちなみに今は聖観音です。「弘法大師が千手観音を刻彫して、安置した一堂を千手院と云う」「本堂の傍の岩洞には不動明王の石像がある。これも大師の作で、ここで護摩祈祷を行ったという。窟の中は一丈四方を刳り抜いたもので、三方に五輪塔が多数掘られている。
寛成年間に描かれた絵図なので、宝永地震で崩落した五峯がなくなって、四つの峰となった五剣山です。絵図下方に二天門があり、そこから正面に向かって五剣山を背に西面した本堂(観音堂)が描かれています。「本堂本尊聖観音御長五尺大師御作」とあるので、それまでの千手観音像から聖観音像へと変更されたようです。
その屋根の上方には岩壁に刻まれた五輪塔が2基見えます。また聖天堂の下方の現在の通夜堂の場所、二天門の右上現在の茶堂の場所に、それぞれに建物が描かれています。通夜堂の場所にある建物については築地塀を挟んで二つの建物が並んで描かれています。また本文には「大師堂あり」と記されていますが、絵図中には描かれていないようです。鐘楼は「四国術礼霊場記」に描かれた場所と、変わりないようです。
①五剣山の行場に関する情報が描かれなくなった。行場から札所への転換②聖天堂が姿を現し、新たな信仰対象となっている
八栗寺所蔵の摺物で、年紀はありませんが建物の様子などから幕末期に作成されたものと研究者は考えています。『讃岐国名勝図会」の境内図との相違点としては、次のような点が挙げられます。
①鐘楼の位置が本堂と同じ石垣の上に移動②「七曲」の参道から境内に至る道沿いに「七間茶や」と記された7軒の茶屋が描かれている③聖天堂上方、五剣山麓に「中尉坊社」と記された堂が描かれている
明治後期の八栗寺境内が詳細に描かれています。研究者は次のような点を指摘します。
四国霊場八栗寺調査報告書を読む 立地と歴史
宝永地震 八栗寺五剣山の五の峰を突き崩した大地震
中世讃岐高松の七観音NO2 屋島寺・八栗寺・志度寺・長尾寺は観音信仰で結ばれていた。
中世の志度道場は、修験者、聖、唱導師、行者、優婆塞、巫女、比丘尼などの一大根拠地であった。四国霊場八栗寺調査報告書を読む 立地と歴史
図書館に「八栗寺調査報告書」が入っていました。今年の春に発刊されたばかりの報告書です。読書メモ代わりにアップしておきます。まずは、八栗寺をとりまく周辺の歴史を押さえておきます。
第85番札所八栗寺は、標高375mの五剣山の中腹にあります。
北は瀬戸内海を展望し、西には屋島や五色台、南には高松平野を眼下に望めます。さらにはるか南には阿讃山脈、東は志度湾から遠く播磨灘まで望むことができます。
髙松藩の『御領分中寺々由来之書』によると、八栗寺の寺名由来は、もともとは山頂から八か国の境を見渡すことができることから「八国寺(やくにじ)」と呼ばれ、「四望晴」と記されています。
①天平年中(729-749)に疫病が流行し、行基菩薩が勅を奉じて当寺を建立して析願したところ、疫病は平癒し、国家安全となり、寺号を国豊寺と称した。②その後、七堂伽藍を整備し、六万体の薬師銅像を安置し、六萬寺と改称した③牟礼・大町の2村に42の子院を持っていた④延暦年中(782-806)に弘法大師が六萬寺で彫った千手観音を八栗の嶽に安置して千手院と号した。⑤その後、八栗寺と改め、六萬寺の奥の院と定めた
ちなみに八栗製石造物の最も古いものは、一宮寺境内の御陵中央搭(宝塔)で宝治元年(1247)のものになるようです。また近年、讃岐国府跡でも八栗産の石造物が多数確認されています。見つかっているのは層塔の部材で、最古のものは10世紀前葉とされます。さらに讃岐国府に接する開法寺池(開法寺跡)から採集された石造仏頭も八栗に分類さています。以上からは八栗石材が7世紀後半という早い時期から、讃岐国府に提供されていたことが分かります。
「柚留木亀千代の男相語って云々。(中略)讃岐国蜂起之間、ムレ(牟礼)父子を遣わす処、両人共に攻め殺さる。今に於ては安富(元家)罷り下るべしと云々。大儀出来」
A 牟礼郷が国人蜂起の標的にされたことB 牟礼城主の牟礼氏は守護代安富氏の配下で京都におり、急ぎ帰ったが逆に国人衆に討ち取られたこと
③方本船籍は、400~550石クラスの大型船④庵治船籍は、170~280クラスの中型船
「平家物語」や『吾妻鏡」からは、庵治半島が合戦の舞台であったことが分かります。これを受けて周辺には、次のような名勝が点在します
①那須与一が扇の的を射落した「駒立岩」②逃げる源氏を平家が熊手で引っ掛けて甲冑の銃を引きちぎった「しころびき跡」③義経が海に落とした弓を拾い上げた場所である「弓流し跡」
阿波勢力による讃岐支配の終焉は、どのように進んだのか
三好実休の子・長治の下で阿波・讃岐両国が統治されるようになることは、先に見てきた通りです。しかし、1576(天正4)年11月になると細川真之・一宮成相・伊沢越前守が長治に造反し、長治は横死に追い込まれます。
【史料1】三好越後守書状 法勲寺村史所収奈良家文書」御身之儀、彼仰合国候間、津郷内加わ五村進候、殿様(三好義竪?)へ之儀随分御収合申、似相地可令馳走候、不可有疎意候、恐々謹言、三好越後守天正五年二月朔 □円(花押)奈良玄春助殿御宿所
【史料1】三好越後守書状 法勲寺村史所収奈良家文書」御身に、津郷(津之郷)の内の五村を知行に加える。殿様(三好義竪?)への忠節を尽くせば、さらなる加増もありうるので、関係を疎かにせつ仕えること、恐々謹言、三好越後守 □円(花押)天正五年二月朔奈良玄春助殿御宿所
これに対して伊沢氏と姻戚関係にあった安富氏は「反勝瑞派」の一宮成相との提携を目指して阿波の勝瑞に派兵します。ところが同時期に、毛利氏が丸亀平野に侵入してきます。そして7月に元吉城(琴平町)を確保し、備讃瀬戸通行権を確保します。これは石山合戦中の本願寺への戦略物資の搬入に伴う軍事行動だったことは、以前にお話ししました。
丸亀平野中央部の元吉城に打ち込まれた毛利勢力の拠点に対して、安富氏、香西氏、田村氏、長尾氏、三好安芸守ら「讃岐惣国衆(讃岐国人連合軍)」が攻め寄せます。このメンバーを見ると、天霧城攻防戦のメンバーと変わりないことに気がつきます。特に東讃の国人武将が多いようです。私には東讃守護代の安富氏が、どうして元古城攻撃に参加したのかが疑問に感じます。
そしてその年の11月には毛利氏と和睦が結ばれ、「阿・讃平均」となります。阿波三好家は三好義堅が当主となることで再興され、讃岐も阿波三好家の支配下に戻ります。
細川真之は一時的には「勝瑞派」と提携することもありましたが、三好義堅が当主となると「反勝瑞派」や長宗我部氏と結んでおり、讃岐へ影響を及ぼすことはなかったようです。
【史料2】細川信良書状「尊経閣所蔵文書」今度峻遠路上洛段、誠以無是非候、殊阿・讃事、此刻以才覚可及行旨尤可然候、乃大西跡職事申付候、但調略子細於在之者可申聞候、弥忠節肝要候、尚波々伯部伯者守(広政)可申候、恐々謹言、三月三日 細川信元(花押)香川中務人輔(香川信景)殿
今度の遠路の上洛については、誠に以って喜ばしいことである。ついてはそれに報いるための恩賞として、大西跡職を与えるものとする。但し、調略の子細については追って知らせるものとするので忠節を務めることが肝要である。詳細は伯部伯者守(広政)が申し伝える。恐々謹言、三月三日 細川信元(花押)香川中務人輔(香川信景)殿
【史料3 三好義堅感状「木村家文書」於坂東河原合戦之刻、敵あまた討捕之、自身手柄之段、神妙之至候、猶敵陣無心元候、弥可抽戦功之状如件、八月十九日 (三好)義堅(花押)木村又二郎殿
坂東河原の合戦において、敵をあまた討捕える手柄をたてたのは誠に神妙なことである。現在は戦陣中なので、戦功については後日改めて通知する。如件(天正6年)八月十九日 (三好)義堅(花押)木村又二郎殿
これに対して、天霧城の香川氏は長宗我部氏と結んで、その先兵と讃岐平定を進めます。
その結果、天正8(1581)年中には安富氏が織田氏に属すようになり、十河城の義堅に味方するのは羽床城のみという状況になります。天正9年に、義堅は雑賀衆の協力を得て勝瑞城への帰還を果たします。しかし、その後の讃岐国人は個別に織田氏や長宗我部氏と結びます。こうして阿波三好家による讃岐国支配権は天正8年に失われたと研究者は考えています。
⑧その結果、阿波三好家は讃岐国人を軍事動員や外交起用、讃岐国人に裁許を下すなど統治権を握った。
阿波三好氏の讃岐支配 滝宮氏や安富氏は阿波の伊沢氏と婚姻関係を結んでいた
【史料1】三好義堅(実休)書下「由佐家文書」
就今度忠節、安原之内経内原一職・同所之内西谷分并讃州之内市原知行分申付候、但市原分之内請米廿石之儀ハ相退候也、右所々申付上者、弥奉公肝要候、尚東村備後守(政定)□□候、謹言、八月十九日 (三好)義堅(花押)油座(由佐)平右衛門尉殿
今度の忠節について、安原内経内原の一職と同所の内の西谷分と、讃州の市原氏の知行分を併せて論功行賞として与える。但し市原氏の知行分の請米20石については、治めること。この上は、奉公が肝要である、東村備後守(政定)□□候、謹言、八月十九日 (三好)義堅(花押)油座(由佐)平右衛門尉殿
【史料2】三好長治書状「志岐家旧蔵文書」篠原上野介・高畠越後知行棟別儀、被相懸候由候、此方給人方之儀、先々無異儀候間、如有来可被得其意事肝要候、恐々謹言、十月十七日 (三好)彦次郎(長治)花押安筑進之候(安富筑後守)
篠原上野介・高畠越後の知行への棟別料の課税を認める。この給付について、先々に異儀がないように、その意事を遵守することが肝要である。恐々謹言、(三好)彦次郎(長治)花押
十月十七日安筑進之候(安富筑後守)
今度峻遠路上洛段、誠以無是非候、殊阿・讃事、此刻以才覚可及行旨尤可然候、乃大西跡職事申付候、但調略子細於在之者可申聞候、弥忠節肝要候、尚波々伯部伯者守(広政)可申候、恐々謹言、三月三日 細川信元(花押)香川中務人輔(香川信景)殿
今度の遠路の上洛については、誠に以って喜ばしいことである。ついてはそれに報いるための恩賞として、大西跡職を与えるものとする。但し、調略の子細については追って知らせるものとするので忠節を務めることが肝要である。詳細は伯部伯者守(広政)が申し伝える。恐々謹言、三月三日 細川信元(花押)香川中務人輔(香川信景)殿
阿波三好家は河内にも進出しますが、河内で活動する三好家臣に讃岐国人はいないようです。また、阿波でも讃岐国人が権益を持っていたことも確認できないないようです。ここからは阿波三好家は讃岐国人に対しては、讃岐国内のみで知行給付を行っていたことがうかがえます。
十河一存は、養子として讃岐国人の十河氏を継承します。彼は長慶・実休の弟で、三好本宗家・阿波三好家のどちらにも属しきらない独自な存在だったようです。しかし、一存が1561(永禄四)年に亡くなり、その子である義継が長慶の養嗣子になると、立ち位置が変わるようになります。十河氏は三好実休の子である義堅が継承し、十河氏は阿波三好家の一門となります。これは、別の見方をすると阿波三好家が讃岐の支配権を掌握したことになります。
伊沢殿意恨と申すは、長春様の臣下なる篠原自遁の子息は篠原玄蕃なり、此弐人は車の画輪の如くの人なり、然所に自遁ハ長春様のまゝ父に御成候故に、伊沢越前をはせのけて、玄蕃壱人の国さはきに罷成、有かいもなき体に罷成り候、折節讃岐の国に滝野宮戦後と申す侍あり、伊沢越前のためにはおちなり、豊後殿公事辺出来候を、理を非に被成候て、当坐に腹を切らせんと申し候を、越前か異見仕候てのへ置き候、この者公事の段は玄蕃かわさなる故なれ共、長春様少も御聞分なき故に、ふかく意恨をさしはさみ敵となり候なり、
意訳変換しておくと
伊沢殿の意恨と云うのは、長春様の臣下である篠原自遁・その子息は篠原玄蕃(長秀)である。伊沢氏と篠原氏は車の両輪のように阿波三好家を支えた。ところが長秀の父自遁の権勢が次第に強くなり、伊沢越前をはねのけて、玄蕃(長秀)ひとりが権勢を握るようになり、伊沢氏の影響力はめっきり衰退した。そんな折りに、伊沢越前守の叔父である讃岐の滝野宮(滝宮)豊後殿の公事の訴訟で敗れ切腹を命じられた。しかし、伊沢越前守の意見によってなんとか切腹は回避された。この裁判を担当した篠原長秀と、それに異議を唱えなかった長治に越前守は深く恨みを抱き敵対するようになった。
ここに出てくる「伊沢越前守の叔父である讃岐の滝野宮豊後殿」については、1458(長禄2)年に讃岐国萱原の代官職を預かっている滝宮豊後守実長が「善通寺文書の香川53~54P」に出てきます。「滝野宮豊後」は実長の後裔で、滝宮城の主人と推測できます。
ここには次のようなことが記されています。
両者の動きを年表化して、確認しておきます。
関連記事
戦国時代の讃岐 阿波三好氏の讃岐侵攻 十河一存の場合
【史料1】細川晴元書状「服部玄三氏所蔵文書」去月二十七日十河城事、十河孫六郎(一存)令乱入当番者共討捕之即令在城由、注進到来言語道断次第候、十河儀者依有背下知子細、以前成敗儀申出候処、剰如此動不及足非候、所詮退治事、成下知上者安富筑後守相談可抽忠節候、猶茨木伊賀守(長隆)可申候也、謹言八月廿八日 (細川)晴元(花押)殖田次郎左衛門尉とのヘ
昨月27日の十河城のことについて、十河孫六郎(一存)が私の下知を無視して、十河城に乱入し当番の者を討捕えて占領したことが、注進された。これは言語道断の次第である。十河一存は主君の命令に叛いたいた謀反人で退治すべきである。そこで安富筑後守と相談して、十河一存討伐に忠節を尽くすように命じる。、なお茨木伊賀守(長隆)には、このことは伝えておく謹言八月廿八日 (細川)晴元(花押)殖田次郎左衛門尉とのヘ
①1541(天文10)年8月頃に、十河一存が晴元の下知に背いて十河城を奪ったこと
②これに対して晴元は一存成敗のために、讃岐国人殖田氏に対し、安富筑後守と相談して、これを討つように求めていること。
一存が十河城を不当に奪収しようとしているということは、それまで十河城は十河一存のものではなかったことになります。また、後の晴元陣営に一存に敵対する十河一族がでてきます。ここからは一存は十河氏の当主としては盤石な体制ではなかったことがうかがえます。十河一存が、足下を固めていくためには讃岐守護家である京兆家の支持・保護を得る必要がありました。そのための十河一存のとった動きを追いかけます。
【史料2】細川晴元書状「大東急記念文庫所蔵文書」就出張儀、其本働之儀申越候之処、得其意候由、先以神妙候、恩賞事、以別紙本知申会候、急度可及行事肝要候、猶波々伯部伯(元継)者守可申候、恐々謹言、八月十八日 晴元(花押)十河民部人夫殿
この度の出張(遠征)について、その働きが誠に見事で神妙なものだったので、恩賞を別紙の通り与える。急度可及行事肝要候、猶波々伯部伯(元継)者守可申候、恐々謹言、天文17(1549)年8月18日
(細川)晴元(花押)十河民部人夫(一存)殿
こうして一存は躊躇する兄長慶に対し、晴元攻撃を強く主張するようになります。それは晴元が新たに十河氏の対抗当主を擁立しないうちに決着を付けたいという思惑が一存にあったからかもしれません。その後の一存は、氏綱配下で京都近郊で活動します。ここからは十河一存が京兆家被官の地位を維持していることが分かります。
まず、細川晴元と安富氏の当主・又三郎との関係です。
【史料3】細川晴元吉状写「六車家文書」為当国調差下十河左介(盛重)候之処、別而依人魂其方儀無別儀事喜悦候、弥各相談忠節肝要候、乃摂州表之儀過半属本意行専用候、猶波々伯部伯者人道(元継)・田井源介入道(長次)可申候、恐々謹言、四月二十二日 (細川)晴元(花押影)安富又二郎殿
当国(讃岐)へ派遣した十河左介(盛重)と、懇意であることを知って喜悦している。ついては、ふたりで相談して忠節を励むことが肝要である。なお摂州については過半が我が方に帰属ししたので、伯部伯者人道(元継)・田井源介入道(長次)に統治を申しつけた、恐々謹言、四月二十二日 晴元(花押影)安富又二郎殿
【史料4】細川晴元書状「尊経閣文庫所収文書」就年始之儀、太刀一腰到来候、令悦喜候、猶波々伯部伯(元継)者守呼申候、恐々謹言、二月廿九日 (細川)晴元(花押)香川弾正忠殿
年始の儀で、太刀一腰をいただき歓んでいる。なお波々伯部伯(元継)は守呼申候、恐々謹言、二月廿九日 晴元(花押)香川弾正忠(之景)殿
【史料5】細川晴元書状「保阪潤治氏所蔵文書」其国之体様無心元之処、無別儀段喜入候、弥香川弾正忠(之景)与相談、無落度様二調略肝要候、猶石津修理進可申候、謹言、卯月十二日 晴元(花押)奈良千法師丸殿
讃岐国については変化もなく、合戦や災害などの別儀もないことを喜入る。領地経営や調略については香川弾正忠(之景)と相談して落度のないように進めることが要候である。なお石津修理進可申候、謹言、卯月十二日 細川晴元(花押)奈良千法師丸殿
1559(永禄2)年 瀬戸内海の勢力を巻き込んで香川氏包囲網形成し、香川氏の本拠地・天霧城攻撃
1563(永禄6)年 天霧城からの香川氏の退城
1564(永禄7)年 これ以降、篠原長房の禁制が出回る
1565(永禄8)年 この年を最後に香川氏の讃岐での動き消滅
1568(永禄11)年 備中の細川通童の近辺に香川氏が亡命中
ここからは、西讃岐は篠原長房の支配下に入ったと研究者は考えています。
三好支配時期の讃岐に残る禁制は、全て篠原長房・長重父子の発給です。
三好氏当主によるものは一通もありません。ここからは篠原父子の禁制が残る西讃岐は、香川氏亡命後は篠原氏が直接管轄するようになったことが分かります。一方、宇多津の西光寺に残る禁制では長房・長重ともに禁制の処罰文言を「可被処」のように、自身ではなく上位権力による処罰を想定しています。ここからは宇多津は三好氏の直轄地で、篠原氏が代官として統治していたことがうかがえます。ここでは、この時期の篠原氏は西讃岐に広範な支配権をもっていたことを押さえておきます。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「嶋中佳輝 細川・三好権力の讃岐支配 四国中世史研究17号(2023年)」
讃岐の戦国時代 阿波三好氏は讃岐をどのように支配下に置いたのか? 細川晴元の場合
この争いのなかで、細川晴元の父・澄元は、細川高国に負けて阿波に逃げてきます。その後も高国の圧迫を受けて、すっかり弱ってしまった父は細川晴元が7歳のときに阿波・勝瑞城(しょうずいじょう)で亡くなります。父の復讐を果たそうと晴元は、宿敵・細川高国を討ち果たすことに執着した、というのが軍記ものの伝えるところです。
細川晴元と三好元長は、将軍と管領逃げ出してもぬけのからになった京に代わって、摂津の堺さかいに『堺公方府(さかいくぼうふ)』という幕府っぽいものをつくり拠点とします。これは細川晴元をリーダーとした擬似幕府でしたが、2年ほどで三好元長とけんか別れします。すると雌伏していた細川高国が報復の動きを開始します。そこで仕方なく三好元長と仲直りして再度手を握り、1531年の大物(だいもつ)崩れに勝利します。
こうして、『永正の錯乱』と呼ばれた細川京兆家の内輪揉うちわもめに、父の仇かたきを討って勝利した細川晴元は、室町幕府の最高権力者となります。こうなると晴元にとって堺公方府の意味はなくなります。この結果、堺公方府を自分の権力拠点としていた三好元長との関係が悪化します。
そんな中で、河内守護・畠山氏と木沢長政の争いが起こります。
畠山氏の援軍に向かった三好元長に、細川晴元は山科本願寺の一揆軍を誘導してぶつけます。これが1532年の『天文の錯乱』を招く大混乱を招くことになり、この騒動に巻き込まれた三好元長は自害します。ここまでは晴元の策略どおりでしたが、一向一揆軍が暴徒化してしまい手におけなくなります。そこで山科本願寺を焼き討ちにして弾圧しますが、これが火に油を注ぐ結果となり、怒った本願寺と全面抗争に発展してしまいます。
以上のように、細川晴元は細川高国との争いを制して、室町幕府の中枢に君臨し、幕政を意のままにしました。しかし、細川京兆家の内紛に明け暮れ、盛衰を繰り返すうち、家臣の三好長慶によって政権から遠ざけられ、幽閉先の摂津・普門寺城で亡くなります。1563年3月24日、享年50歳で亡くなります。死因は不明。
晴元が畿内での足場を確かにするようになると、讃岐では守護代家の安富氏や香川氏が次のような書下形式の文書を発給し始めます。
当寺々中諸諜役令免除上者、□不可有相違状如件享禄二一正月十六日 (安富)元保(花押)宇多津 法化堂(本妙寺)
また四国を本拠とする三好長慶は、東瀬戸内海から大阪湾地域を支配した「環大阪湾政権」と考える研究者もいます。その際の最重要戦略のひとつが大阪湾の港湾都市(堺・兵庫津・尼崎)を、どのようにして影響下に置くかでした。これらの港湾都市は、瀬戸内海を通じて東アジア経済につながる国際港の役割も担っており、人とモノとカネが行き来する最重要拠点でもあったわけです。その港湾都市への参入のために、三好長慶が採った政策が法華宗との連携だったようです。
【史料2】香川元景書下「本門寺文書」讃岐国高瀬郷之内法花堂之事、泰忠置文上以 御判并景任折紙旨、不可有相違之由、所可申付之状如件、天文八 六月一日 (香川)元景 花押西谷藤兵衛尉殿
讃岐国高瀬郷の法花(華)堂(本門寺)について、(秋山)泰忠の置文と(守護代)の香川和景の折り紙を先例にして、諸役免除特権を認める。この書状の通り相違ない。天文八(1538)年 六月一日
(香川)元景 花押西谷藤兵衛尉殿
晴元が讃岐の在地支配に関与している例を見ておきましょう。
【史料3】飯尾元運奉書「秋山家文書」讃岐国西方三野郡水田分事、如元被返付記、早可致全領知之由候也、乃執達如件、大永七 十月七日 (飯尾)元運(花押)秋山幸久丸殿
「史料4」飯尾元運・徳阿連署状「覚城院文書」当院棟別事、令免許申上者、更不可有別儀候、恐々謹言、甲辰十二月廿日 (飯尾)元連(花押)徳阿(花押)覚城院御同宿中
①守護代の安富・香川氏よる支配②畿内の奉行人による京兆家当主の支配
【史料5】細川晴元感状写「三代物語」去年十二月六日至三谷弥五郎要害大麻(多度郡)、香西甚五郎取懸合戦時、父五郎四郎討死尤神妙也、謹言、三月七日 六郎(晴元)花押小比賀桃千代殿
昨年12月6日に、大麻(多度郡)の三谷弥五郎との合戦の際に、香西甚五郎とともに奮戦した、(小比賀桃千代の)父・五郎四郎が討死したことは神妙である、謹言、三月七日 六郎(晴元)花押小比賀桃千代殿
【史料6】細川晴元書状「服部玄三氏所蔵文書」去月二十七日十河城事、十河孫六郎(一存)令乱入当番者共討捕之即令在城由、注進到来言語道断次第候、十河儀者依有背下知子細、以前成敗儀申出候処、剰如此動不及足非候、所詮退治事、成下知上者安富筑後守相談可抽忠節候、猶茨木伊賀守(長隆)可申候也、謹言八月廿八日 晴元(花押)殖田次郎左衛門尉とのヘ
昨月27日の十河城のことについて、十河孫六郎(一存)が私の下知を無視して、十河城に乱入し当番の者を討捕えて占領したことが、注進された。これは言語道断の次第である。十河一存は主君の命令に叛いたいた謀反人で退治すべきである。そこで安富筑後守と相談して、十河一存討伐に忠節を尽くすように命じる。なお茨木伊賀守(長隆)には、このことは伝えておく。謹言八月廿八日 (細川)晴元(花押)殖田次郎左衛門尉とのヘ
【史料7】細川晴元書状写「南海通記」第七出張之事、諸国相調候間、為先勢明日差上諸勢候、急度可相勤事肝要候、猶香川可申候也、謹言、七月四日 晴元判西方関亭中
「京への出張(上洛戦)について、諸国の準備は整った。先兵として、明日軍勢を差し向けるので、急ぎ務める(海上輸送)ことが肝要である。香川氏にも申し付けてある」で
日付は七月四日、差出人は細川晴元、受取人は「西方関亭中」です。
同名右兵衛尉跡職名田等之事、昆沙右御扶持之由被仰出候、所詮任御下知之旨、全可有知行由候也、恐々謹言。武部因幡守 重満(花押)永禄四年六月一日石井昆沙右殿
同名(石井)右兵衛尉の持っていた所領の名田について、毘沙右に扶持として与えるという御下知があった。命の通りに知行するように
讃岐の戦国時代 阿波三好氏は讃岐をどのように支配下に置いたのか? 三好之長の場合
①永世の錯乱の一環として讃岐を舞台に高国派と澄元派の戦闘があったこと②澄元が阿波勢力の後援を受けていたわけではないこと
阿波は阿波守護職を世襲した讃州家の分国
で、両家の権限は基本的に分立していたことを押さえておきます。
讃州家被官系(阿波守護)の人脈が讃岐の統治に介入してくる最初の例が三好之長(みよし ゆきなが)のようです。
ただし、之長ら讃州家から付けられた家臣の立場は讃州家と京兆家に両属する性格を持っていたと研究者は指摘します。当時は、このような両属は珍しいことではなかったようです。
この時に京兆家当主となった澄元より、之長は政治を委任されたとされます。しかし、実権を握った之長には増長な振る舞いが多かったため、澄元は本国の阿波に帰国しようとしたり、遁世しようとして両者の間はギクシャクします。阿波細川家出身の澄元側近の之長が京兆家の中で発言力を持つことに畿内・讃岐出身の京兆家内衆(家臣)や細川氏の一門の間で反発が高まっていきます。
香川中務丞(元綱)方知行讃岐国西方元(本)山同本領之事、可被渡申候、恐々謹言永正参十月十二日 之長三好越前守殿篠原右京進殿
讃岐国蜂起之間、ムレ(牟礼)父子遣之処、両人共二責殺之。於千今安富可罷下云々。大儀出来。ムレ兄弟於讃岐責殺之。安富可罷立旨申之処、屋形来秋可下向、其間可相待云々。安富腹立、此上者守護代可辞申云々。国儀者以外事也云々。ムレ子息ハ在京無相違、父自害、伯父両人也云々。
意訳変換しておくと
讃岐国で蜂起が起こった時に、京兆家被官の牟礼氏を鎮圧のために派遣したが、逆に両人ともに討たれてしまった。そこで、守護代である安富元家が下向しようとしたところ、来秋下向する予定の主人政元にそれまで待つよう制止された。その指示に対して安富元家は、怒って守護代を辞任する意向を示した。
軍陳為御見舞摩利支天之御礼令頂戴候、御祈祷故軍勝手開運珍重候、即讃州於鶴岡五十疋令券進候、遂武運長久之処頼存候、遂所存帰国之砌、知行請合可申候、恐々頓首、九月 三好越前守判太龍寺
舞摩利支天の御礼を頂戴し、祈祷によって勝利の道を開くことができたことは珍重であった。よって讃州・鶴岡の私の所領五十疋を寄進する。武運長久の頼り所については、(私が阿波に)帰国した際に、知行請合のことは処置する、恐々頓首、九月 三好越前守判(阿波)太龍寺
こうして阿波勢力の三好氏が京兆家の讃岐に勢力を伸ばしてきます。これに対してする反発も強かったようです。1508(永正五)年に澄元は畿内で勢力を失うと、讃岐経営に専念するようになり、京兆家の讃岐支配を強化する動きを見せます。そんな中で1510(永正七)年に、澄元の奉行人飯尾元運が奉書を発給しています。それを受けて守護代香川備前守に遵行を命じたのは西讃岐守護代家の香川元景で、三好之長ではありません。澄元は讃岐掌握を進める上で、従来の守護代家の香川氏の命令系統を使っていることを押さえておきます。
之長はこの時、高国方の西讃岐守護代香川元綱と通じていたようです。その背景には澄元の讃岐経営から排除された不満があったと研究者は推測します。
①1511(永正八)年の澄元の上洛戦が失敗②その直後に細川成之・之持といった当主格が死去し、讃州家が断絶③そうすると澄元にとって、讃州家再興が優先課題に浮上④その結果、澄元による阿波勢力掌握が進展
去廿一日於櫛無山致太刀打殊被疵由尤神妙候也謹言七月十四日 澄元(細川澄元)花押秋山源太郎とのヘ
去る廿一日、櫛無山(琴平町)に於いて太刀打を致し、殊に疵を被るの由、尤も神妙に候なり、謹言七月十四日(細川)澄元(花押)秋山源太郎とのヘ
讃岐の国西方の内、秋山備前守跡職、所々散在被官等の事、新恩として宛行れ詑んぬ、早く領知を全うせらるべきの由候なり、依って執達件の如し永正八 (飯尾)十月十三日 一九運(花押)秋山源太郎殿
①庶流家の源太郎は、細川澄元方へ②惣領家の秋山水田は、細川澄之方へ
彼は阿波の細川氏の奉行人である飯尾氏と研究者は考えています。ここからは、秋山家の惣領となった源太郎が、最初は細川澄元に接近し、その後は細川高国方に付いて、淡路守護家や阿波守護家の細川氏に忠節・親交を尽くしていることが分かります。その交流を示す史料が、秋山家文書の(29)~(55)の一連の書状群です。
どうして、源太郎は京兆家でなく阿波守護家を選んだのでしょうか? それは阿波守護家が細川澄元の実家で、政元継嗣の最右翼と源太郎は考えていたようです。応仁の乱前後(1467~87)には、讃岐武将の多くが阿波守護細川成之に従軍して、近畿での軍事行動に従軍していました。そのころからの縁で、細川宗家の京兆家よりも阿波の細川氏に親近感があったとのかもしれません。
ここから細川淡路守尚春(以久)の一字を、拝領した側近たちと推測できます。これらの発給者は、細川尚春(以久)とその奉行人クラスの者と研究者は考えているようです。一番下の記載品目を見てください。これが源太郎の贈答品です。鷹類が多いのに驚かされます。特に鷹狩り用のハイタカが多いようです。
【史料三】瓦林在時・湯浅国氏・篠原之良連署奉書「秋山家文書」 讃岐国西方高瀬内秋山幸比沙(久)知行本地并水田分等事、数度被成御下知処、競望之族在之由、太無謂、所詮退押妨之輩、年貢諸公物等之事、可致其沙汰彼代之旨、被仰出候也、恐々謹言、永正十八九月十三日 瓦林日向守 在時(花押)湯浅弾正 国氏(花押)篠原左京進 之良(花押)
当所名主百姓中
意訳変換しておくと
讃岐国・西方高瀬内の秋山幸比沙(久)の知行本地、并びに水田分について、数度の下知が下されているが、領地争いが起こっているという。改めて申しつける。押妨の輩を排除し、年貢や諸公物について、沙汰通りに実施せと改めて通知せよ 恐々謹言、永正十八(1521)九月十三日
瓦林日向守 在時(花押)湯浅弾正 国氏(花押)篠原左京進 之良(花押)当所 名主百姓中
④しかし、讃州家が直接的に讃岐支配に関与することはなかった。
讃岐戦国史 永正の錯乱前後から阿波勢力は讃岐に侵攻していた
讃岐武将の墓場となった永世の錯乱を史料で見ておくと
真宗興正派は、どのようにして讃岐で教線を拡大したのか 高松御坊と松平頼重
これ以外にも髙松藩と興正寺の間には、家老などの重臣との間にも幾重にも婚姻関係が結ばれて、非常に緊密な関係にあったようです。そのことをもって、松平頼重の興正寺保護の要因とする説もありますが、私はそれだけではなかったと考えています。政治的な意図があったと思うのです。
宗教政策をめぐる松平頼重の腹の中をのぞいてみましょう。
大きな勢力をもつ寺社は、藩政の抵抗勢力になる可能性がある。それを未然に防ぐためには、藩に友好的な宗教勢力を育てて、抑止力にしたい。それが紛争やいざこざを未然に防ぐ賢いやりかただ。それでは讃岐の場合はどうか? 抵抗勢力になる可能性があるのは、どこにあるのか? それに対抗させるために保護支援すべき寺社は、どこか?
東讃では、髙松城下では? 中讃では?
もっとも手強いのは真言宗のようだ。その核になる可能性があるのは善通寺だ。他藩にあるが髙松藩にとっては潜在的な脅威だ。そのためには、善通寺包囲網を構築しておくのが無難だ。さてどうするか?
高松御坊は、水戸から松平頼重がやってきたときにはここにあったようです。頼重は、その坊舎を修繕し、150石を寄進して財政基盤を整えます。その際に創建されたのが奈良から移された勝法寺です。
そして高松御坊・興正寺代僧勝法寺として、京都興正寺派の触係寺とします。勝法寺は、京都の興正寺直属のお寺として高松御坊と一体的に運営されることになります。そして勝法寺を真宗の触頭寺とします。
このように勝法寺は髙松藩における真宗興正派の拠点寺院として創建(移転)されたのです。そのため興正寺直属で、京都からやってきた僧侶が管理にあったりました。しかし、問題が残ります。勝法寺は、讃岐に根付いた寺院ではなく、末寺もなく人脈もなく政治力もありません。そのためいろいろと問題が起こったようです。そこで松平頼重が補佐として、後から後見役としてつけたのが常光寺と安養寺でした。そのうちの安養寺は、それまでの河内原からこの地に移されます。後から移されたので、建設用地がなくて堀の外側にあります。こうして高松御坊と一体の勝法寺、それを後見する安養寺と、3つの子院という体制ができあがったのです。御坊町はこうして、真宗興正派の文教センターとなっていきます。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
関連記事
讃岐高松藩 初代藩主松平頼重は、どうして真宗興正派を保護したのか
真宗興正派は、どのようにして讃岐で教線を拡大したのか 安楽寺の髙松平野への教線ルート
前回までに阿波安楽寺の讃岐への教線拡大の拠点寺院となった3つの寺院を見てきました。中本寺としての安楽寺があり、三豊への布教拠点となった寶光寺、丸亀平野への布教拠点となったのが長善寺ということになります。今回は髙松平野の拠点となった安養寺見ておきましょう。
髙松藩に提出された由来を見ておきましょう。意訳変換しておくと
①安養寺の開基については(中略)本家の安楽寺から間信住職がやってきて、讃岐に末寺や門徒を数多く獲得しました。②間信は寛正元(1460)年に、香川郡安原村東谷にやってきて道場を開き、③何代か後に河内原に道場を移転し、④文禄4(1595)年に安養寺の寺号免許が下付されました。
①設立年代については、これを裏付ける史料がないのでそのまま信じることはできません。道場を開いたのは安楽寺からやってきた僧侶とされています。②「道場の場所は最初が安原村の東谷 その後、川内原に移転」とあります。いくつかの道場がまとめられ、惣道場となり、それが寺になっていくという過程がここでも見えます。地図で位置とルートを確認しておきます。安楽寺の真北が高松です。ここでも峠を越えてやってきたその途上に開かれた道場が末寺に成長して、里に下りていく過程がうかがえます。
③寺号許可は1595年とします。安養寺に下付された木仏が龍谷大学の真宗研究室にはあることが千葉氏の論文の中には紹介されています。木仏には1604年の年紀がはいっているようです。ここからは安養寺の寺号許可は17世紀初頭であることが分かります。本願寺が東西に分かれて、末寺争奪を繰り広げる時期です。この時期に、寺号を得た道場が多いようです。安養寺という重要な役割を果たした寺院でも寺号の獲得は、17世紀になってからだったことを押さえておきます。
寛文年間(1661~73)に、高松藩で作成されたとされる「藩御領分中寺々由来書」に記された安養寺の末寺は次の通りです。
安養寺の天保4(1833)年3月の記録には、東讃を中心に以下の19寺が末寺として記されています。(離末寺は別)
ここからは次のような事がうかがえます。
①香川・山田郡の髙松平野を中心に、東の寒川方面にも伸びています。②注意しておきたいのは西には伸びていません。丸亀平野への教線拡大は、常光寺や安楽寺と棲み分け協定があったことがうかがえます。③一番最後を見ると天保4(1833)年3月の日付です。これは最初に見た常光寺の一覧表と同じ年なので、同時期に藩に提出されたもののようです。ここには、髙松平野を中心に19寺が末寺として記されていますが、その多くがすでに離末しています。安養寺は安楽寺の末寺ながら、その下には多くの末寺を抱える有力な真宗寺院に成長していたことが分かります。まさに髙松平野方面への教線拡大の拠点センターであったようです。安養寺が髙松方面に教線を拡大できたのは、どうしてなのでしょうか。それには、次の二人の保護があったと私は考えています。
真宗興正派を保護したのが、この兄弟がす。ふたりは姓は違いますが実の兄弟です。一人が三好長慶で、もうひとりが讃岐の十河家を継いだ十河一存(かずまさ)。この二人を見ていくことにします。
美馬安楽寺に免許状を与え讃岐への教線拡大を保護したのは三好長慶でした。三好長慶は、天下人として畿内で活躍します。一方、弟たちは上図のように、阿波を実休、淡路を冬康・讃岐を十河一存が押さえます。そして、兄長慶の畿内平定を助けます。長慶が天下人になれたのも、弟たちの支援を受けることができたのが要因のひとつです。その末弟一存(かずまさ)は、讃岐の十河家を継ぎ、十河氏を名乗ります。十河氏は三好氏の東讃侵攻の拠点になります。また、三好・十河氏は、共通の敵である信長に対抗するために本願寺と同盟関係を結びます。「敵の敵は味方」というのは戦略のセオリーです。こうして安楽寺は三好一族の保護を得て、各地に道場を開いて教線を伸ばしていきます。それを史料で見ておきましょう。
十河一存の後継者となった存保(実休の息子)が真宗興正派の高松御坊の僧侶達に出した認可状です。①の野原郷の潟(港)というのは、現在の高松城周辺にあった湊です。②高松にあった寺内町と坊を三木町の池戸(大学病院のあたり)の四覚寺原に再興することを認める。③ついては課税などを免除するという内容です。「寺内」となっているので、寺だけでなく信徒集団も含めた居住エリアがあったことがうかがえます。地図で見ると池戸の四覚寺原とは、現在の木田郡三木町井上の始覚寺周辺です。高松御坊が、高松を離れ三木の常光寺周辺に移ったことが分かります。それを十河氏が保護しています。ここで注目したいのは、新たに寺内町が作られることになった位置とその周辺です。近くには十河氏の居城十河城があります。そして、東には常光寺があります。ここからは常光寺や高松御坊が十河氏の庇護下にあったことがうかがえます。十河氏の保護を受けて常光寺や安養寺は髙松平野や東讃に教線ラインを伸ばしていたことがうかがえます。この免許状が出されたのは1583年で、秀吉の四国平定直前のことになります。三好長慶は、阿波の安楽寺に免許状をあたえ、十河存保は高松御坊に免許状をあたえています。
今までお話ししたことを、高松地区の政治情勢と絡ませて押さえておきます。
①1520年の財田亡命帰還の際の三好氏の免許状で、安楽寺は布教の自由を得た。しかし、吉野川より南は、真言密教系修験者の勢力が強く、真宗興正派の布教は困難だった。
②そのような中で三好氏の讃岐侵攻が本格化する。香西氏など東讃武士団は、三好氏配下に組み入れられ上洛し、阿波細川氏の主力として活動するようになる。
③そこで堺で本願寺と接触、真宗門徒になり菩提寺を建立するものも出てきた。
④彼らに対して、本願寺は讃岐の真宗布教の自由を依頼。
⑤こうして、本願寺や真宗興正派は髙松平野での布教活動が本格化し、数多くの道場が姿を見せるようになる。それは16世紀半ばのことで、その拠点となったのが安養寺や常光寺である。
こうして、生駒氏がやってくるころには、讃岐には安楽寺・安養寺・常光寺によって、真宗興正派の教線がのびていました。それらの道場が惣道場から寺号を得て寺に成長して行きます。それを支えたのが髙松藩の初代藩主松平頼重という話になると私は考えています。今回はここまでとします。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
関連記事
讃岐の真宗興正派 18世紀になると中本山の安楽寺や常光寺から離末する末寺が増えた
真宗興正派は、どのようにして讃岐で教線を拡大したのか 安楽寺の丸亀平野への教線ルート
これをグーグル地図に落とすと次のようになります。
黄色いポイントが初回に見た三木の常光寺の末寺です。緑ポイントが安楽寺の末寺になります。右隅が勝浦の常光寺です。そこから土器川沿いに下っていくと、長尾氏の居城であった城山周囲のまんのう町・長尾・長炭や丸亀市の岡田・栗熊に末寺が分布します。これらの寺は建立由来を長尾氏の子孫によるものとする所が多いのが特徴です。
また、土器川左岸では垂水に浄楽寺があります。
讃岐の真宗寺院で本願寺から木仏が付与されているのは寛永18(1641)年前後が最も多いようです。その中で、安楽寺末寺で木仏付与が早いのが上の4ケ寺になります。この4ヶ寺を見ておくことにします。
勝浦本村の中央に、白塀を巡らした総茅葺の風格のある御堂を持つ長善寺がある。この寺は、中世から多くの土地を所有していたようである。勝浦地区の水田には、野田小屋や勝浦に横井を道って水を引いていたが、そのころから野田小星川の横井を寺横井と呼び、勝浦川横井を酒屋(佐野家)松井と呼んでいる。藩政時代には、長善寺と佐野家で村の田畑の三分の一を所有していた。
長善寺は浄土真宗の名刹として、勝浦はもちろん阿波を含めた近郷近在に多くの門信徒を持ち庶民の信仰の中心となった。昭和の初期までは「永代経」や、「報恩講」の法要には多勢の參拝借があり、植木市や露天の出店などでにぎわい、また「のぞき芝居」などもあって門前市をなす盛況であったという。
旧長善寺の鐘楼(鉦の代わりに石が吊されていた)
現在の長善寺(旧勝浦小学校跡)
上の史料整理すると
A 仲郡たるミ(垂水)村 明雪坊B 宇足郡岡田村 乗正坊C 南条郡羽床村 乗円坊D 南条郡羽床村 弐刀E 北条郡坂出村 源用坊F 宇足郡岡田村 了正坊G 那珂郡たるミ(垂水)村 西坊H 宇足部長尾村 源勝坊
岡田村(綾歌町岡田)にはB乗正坊と、F了正房が記されています。
現在、グーグル地図には岡田駅北側には、ふたつの寺が並んでいます。鎌田博物館の「國中諸寺拍」には、岡田村正覚寺・慈光寺と記され阿州安楽寺末で、「由来書」にはそれぞれ僧宗円・僧玉泉の開基とあるだけで、以前の坊名は分かりません。讃岐国名勝図会の説明も同じです。しかし、慈光寺については、寛永18(1641)年に、まんのう町勝浦の長善寺と同じ時期に木仏が付与され寺号を得ています。坂本郷の宗門改めが行われたのは、寛永21(1644)のことです。この時には慈光寺は寺格を持った寺院として参加しています。つまり慈光寺以外にB乗正坊と、F了正房があったということです。ふたつの坊が、統合され西覚寺になったことが推測できますが、あくまで推測で確かなものではありません。
この時期の真宗の教線拡大について、私は次のように考えています。
中世の村です。前面に武士の棟梁の居館が描かれています。秋の取り入れで、いろいろな貢納品が運び込まれています。それを一つずつ領主が目録を見て、チェックしています。武士の舘は堀や柵に囲まれ、物見櫓もあって要塞化されています。堀の外の馬に乗った巡回の武士に、従者が何か報告しています。
指さす方を見ると、大きな農家に大勢の人達が集まっています。拡大して見ましょう
後に大きな寺院が見えます。その前の家の庭に人々が集まっています。その真ん中にいるのは念仏聖(僧侶)です。聖は、定期市の立つ日に、この家にやって来て説法を行います。それだけでなく、お勤めの終わった後の常会では、病気や怪我の治療から、農作物や農学、さらにさまざまなアドバイを夜が更けるまで与えます。こうして村人の信頼を得ていきます。この家の床の間に、六寺名号が掲げられると、道場になります。主人は毛坊主になり、その息子は正式に得度して僧侶になり、寺院に発展していくという話になります。
蓮如の布教戦略を見ておきましょう。
蓮如は、まず念仏を弾圧する地頭・名主にも弥陀の本願をききわけるよう働きかけてやるべきだとします。そして、村の坊主と年老と長の3人を、まず浄上真宗の信者にひきいれることを次のように指示しています。
「此三人サヘ在所々々ニシテ仏法二本付キ候ハヽ、余ノスヱノ人ハミナ法義ニナリ、仏法繁昌テアラウスルヨ」
意訳変換しておくと
各在所の中で、この三人をこちら側につければ、残りの末の人々はなびいてくるのが法義である。仏法繁昌のために引き入れよ
村の政治・宗教の指導者を信者にし、ついで一般農民へひろく浸透させようという布教戦略です。
蓮如がこうした伝道方策をたてた背景には、室町時代後期の村々で起こっていた社会情況があります。親鸞の活躍した鎌倉時代の関東農村にくらべ、蓮如活躍の舞台となった室町後期の近畿・東海・北陸は、先進地帯農村でした。そこでは名主を中心に惣村が現れ、自治化運動が高揚します。このような民衆運動のうねりの中で、打ち出されたのが先ほどの蓮如の方針です。彼の戦略は見事に的中します。真宗の教線は、農村社会に伸張し、社会運動となります。惣村の指導者である長百姓をまず門徒とし、ついで一般の農民を信者にしていきます。その方向は「地縁的共同体=真宗門徒集団」の一体化です。そんな動きがの中で村々に登場するのが毛坊主のようです。
岐阜県大野郡の旧清見村では、次のような蓮如の伝道方策が実行されます。
①まず村の長百姓を真宗門徒に改宗させ
②蓮如から六字名号(後には絵像本尊)を下付され
③それを自分の家の一室の床の間にかけ、
④香炉・燭台・花瓶などを置き、礼拝の設備を整える。
⑤これを内道場または家道場という
⑥ここで長百姓が勧誘した村人たちと共に、念仏集会を開く。
⑦長百姓は毛坊主として集会の宗教儀礼を主宰する。
⑧村人の真宗信者が多くなると、長百姓の一室をあてた礼拝施設は手狭となる。
⑨そこで一戸建の道場が、村人たちの手によって造られる。これを惣道場と称する。
⑩この惣道場でも長百姓は毛坊主として各種の行事をリードする。
この長百姓の役割を果たしたのが、帰農した長尾氏の一族達ではなかったのかと私は考えています。
長尾一族は長宗我部に帰順し、その先兵として働きました。そのためか讃岐の大名としてやってきた生駒氏や山崎氏から干されます。長尾一族が一名も登用されないのです。このような情勢の中、長尾高勝は仏門に入り、息子孫七郎も尊光寺に入ったようです。宗教的な影響力を残しながら長尾氏は生きながらえようとする戦略を選んだようです。長尾城周辺の寺院である長炭の善性寺 長尾の慈泉寺・超勝寺・福成寺などは、それぞれ長尾氏と関係があることを示す系図を持っていることが、それを裏付けます。
②長尾氏が在野に下り、帰農する時期に安楽寺の教線ラインは伸びてきた
③仕官の道が開けなかった長尾氏は、安楽寺の末寺を開基することで地域での影響力を残そうとした。
④そのため阿野郡の城山周辺には、長尾氏を開基とする安楽寺の末寺が多い。
今回は、このあたりまでとします。最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
関連記事
まんのう町のかやぶきのお寺 長善寺
讃岐における真宗興正寺派の拡大 まんのう町尊光寺の場合
まんのう町尊光寺 本願寺から御本尊や御絵像は、どのように下付されたのか
阿波の真宗寺院 美馬町郡里の寺町に大きな寺院が多いのはどうしてか
ふるさと探訪 どうして、まんのう町には真宗興正寺派のお寺が多いのでしょうか。
讃岐の真宗興正派 18世紀になると中本山の安楽寺や常光寺から離末する末寺が増えた
讃岐への真宗布教 海からの「真宗教線拡大」の拠点となった宇多津西光寺
飛騨の真宗道場は、いつごろ成立し寺院化したのか?
飛騨の毛坊主道場 飛騨の村々に真宗を広めたのは毛坊主だった。
近世の浄土真宗 「信長=仏法の敵」説は、どのようにして形成されたのか
真宗興正派はどのようにして讃岐で教線を拡大したのか? 美馬の安楽寺の場合
手前は、今は水田地帯になっていますが、近世以前は吉野川の氾濫原で、寺の下まで川船がやってきていて川港があったようです。つまり、川港を押さえていたことになります。河川交易と街道の交わるところが交通の要衝となり、戦略地点になるのは今も昔も変わりません。そこに建てられたのが安楽寺です。ここに16世紀には「寺内」が姿を現したと研究者は考えています。
八間の本堂の庭先には、親鸞と蓮如の二人の像が立っています。この寺には安楽寺文書とよばれる膨大な量の文書が残っています。それを整理し、公刊したのがこの寺の前々代の住職です。
三好千熊丸諸役免許状と呼ばれている文書です。下側が免許状、上側が添え状です。これが安楽寺文書の中で一番古いものです。同時に四国の浄土真宗の中で、最も古い根本史料になるようです。読み下しておきます。
文書を見る場合に、最初に見るのは、「いつ、誰が誰に宛てたものであるか」です。財田への逃散から5年後の1520年に出された免許状で、 出しているのは「三好千熊丸」 宛先は、郡里の安楽寺です。
興正寺殿より子細仰せつけられ候。しかる上は、早々に還住候て、前々の如く堪忍あるべく候。諸公事等の儀、指世申し候。若し違乱申し方そうらわば、すなわち注進あるべし。成敗加えるべし。
意訳します。
三好氏は阿波国の三好郡を拠点に、三好郡、美馬郡、板野郡を支配した一族です。帰還許可状を与えた千熊丸は、三好長慶かその父のことだといわれています。長慶は、のちに室町幕府の十三代将軍足利義輝を京都から追放して畿内と四国を制圧します。信長に魁けて天下人になったとされる戦国武将です。安楽寺はその三好氏から課役を免ぜられ保護が与えらたことになります。 短い文章ですが、重要な文章なのでもう少し詳しく見ておきます。
この免許状が出されるまでには、次のような経過があったことが考えられます。
①まず財田亡命中の安楽寺から興正寺への口添えの依頼
②興正寺の蓮秀上人による三好千熊丸への取りなし
③その申し入れを受けての三好千熊丸による免許状発布
という筋立てが考えられます。ここからは安楽寺は、自分の危機に対して興正寺を頼っています。そして興正寺は安楽寺を保護していることが分かります。本願寺を頼っているのではないことを押さえておきます。
三好氏の支配下での布教活動の自由は、三好氏が讃岐へ侵攻し、そこを支配するようになると、そこでの布教も三好氏の保護下で行えることを意味します。安楽寺が讃岐方面に多くの道場を開く時期と、三好氏の讃岐進出は重なります。
富田林の寺内町
①吉野川水運の拠点で、多くの川船頭達がいたこと
②東西に鳴門と伊予を結ぶ撫養街道が伸びていたこと
③阿讃山脈の峠越の街道がいくつも伸びていたこと
ここに結集する船頭や馬借などの「ワタリ」衆を、安楽寺は信徒集団に組み入れていたと私は考えています。
周囲の真言系の修験者勢力や在地武士集団の焼き討ちにあって財田に亡命してきたのは、僧侶達だけではなかったはずです。数多くの信徒達も寺と共に「逃散・亡命」し、財田にやってきたのではないでしょうか。それを保護した勢力があったはずですが、今はよく分かりません。
財田の地は、JR財田駅の下の山里の静かな集落で、寶光寺の大きな建物が迎えてくれます。ここはかつては、仏石越や箸蔵方面への街道があって、阿讃の人とモノが行き交う拠点だったことは以前にお話ししました。中世から仁尾商人たちは、詫間の塩と土佐や阿波の茶の交易を行っていました。そんな交易活動に門徒の馬借達は携わったのかも知れません。
江戸時代初期の安楽寺の末寺分布を地図に落としたものです。
①土佐は、本願寺が堺商人と結んで中村の一条氏と結びつきをつよめます。そのため、土佐への航路沿いの港に真宗のお寺が開かれていきます。それを安楽寺が後に引き継ぎます。つまり、土佐の末寺は江戸時代になってからのものです。
①集中地帯は髙松・丸亀・三豊平野です。
②大川郡や坂出・三野平野や小豆島・塩飽の島嶼部では、ほぼ空白地帯。
この寺も安楽寺末寺です。寺の由来が三好町誌には次のように紹介されています。
ここからは安楽寺の教線が峠を越えて讃岐に向かって伸びていく様子がうかがえます。注目しておきたいのは、教順の祖先は、讃岐の宇足郡山田の城主後藤氏正だったことです。それが瀧の宮の城主蔵人に敗れ、この地に隠れ住みます。そのひ孫が、開いたのが徳泉寺になります。そういう意味では、讃岐からの落武者氏正の子孫によって開かれた寺です。ここでは安楽寺からのやってきた僧侶が開基者ではないことをここでは押さえておきます。安楽寺からの僧侶は、布教活動を行い道場を開き信徒を増やします。しかし、寺院を建立するには、資金が必要です。そのため帰農した元武士などが寺院の開基者になることが多いようです。まんのう町には、長尾氏一族の末裔とする寺院が多いのもそんな背景があるようです。
安楽寺の僧が布教のために越えた阿讃の峠は?
安楽寺の僧侶達は、どの峠を越えて讃岐に入ってきたかを見ておきましょう。各藩は幕府に提出するために国図を作るようになります。阿波蜂須賀藩で作られた阿波国図です。吉野川が