
田中善隆氏の成果を次のように整理します。
⓵信仰の起点を阿波国麻殖郡に拠点をもった阿波忌部の拓殖神話と関連させて理解すること②以後、大師信仰、修験道等が展開した
次に、田中省造氏の研究に対しては、次のように評します。
①「史料を読み込んで推論を丁寧に重ねて高越寺の歴史を描いており、貴重」②しかし、阿波忌部との関係、大師信仰、修験道など、霊場としての性格をとらえるという視点からは「不分明」。
③特に修験道史については、今日の研究状況からすれば疑問がある
江戸時代前期の四国遍路のガイドブック『四国遍礼霊場記』(元禄2年(1689)は、弘法大師の聖跡巡礼としてまとめられています。その中には、大師による開基と伝えられない霊場や大師堂のない霊場が載せられています。さらに『霊場記』には、札所外の霊場も少数ですが挙げられています。そこには大師の事跡を説くものと、そうでないものとがあり、札所とのはっきりした差別化はみえません。四国遍路の形成のプロセスの中で、大師信仰は必要項目ではなかったようです、何か別の条件のもとでの霊場の取捨選択があったと研究者は考えています。
阿波国高越山寺、又大師所奉建立也。又如法奉書法華経、埋彼峯云々。澄崇暁望四遠、伊讚上三州、如在足下。奉造卒塔婆、千今相全、不朽壊。経行之跡、沙草無生,又有御手辿之額、干今相存.
意訳変換しておくと
阿波国の高越山寺は、①弘法大師空海が創建した寺である。空海は法華経をしたためて、この山上の峰に奉納したと伝えられる。頂上からは四方の眺望があり、伊予・讃岐・土佐の三州が足下に望める。卒塔婆を奉納したが今になっても壊れず形が残る。経を埋めた跡は草木が生えず山の額のように見える。
高越寺には大般若経(保安三年(1123)が伝来しています。そこには比叡山の僧とみられる円範、天台僧と称する寛祐の名があります。天台系の教線がこの地に伸びてきていたことがうかがえます。さらに12世紀のものとされる経塚が発見されていて、常滑焼の甕、銅板製経筒(蓋裏に「秦氏女(渡来系秦氏の子孫?)」との線刻)、法幸経を意図したと思われる白紙経巻八巻などの埋納遺物があります。このような状況と大師伝承は同時進行関係にあったようです。以上から12世紀に高越寺は顕密仏教の山岳霊場となっていたと研究者は判断します。以上はが、これまでに高越寺について述べられてきた「研究史」になります。
「私記」にも大師が高越山にやって来たことが記されています。ここからは「空海来訪」伝承は、その後も長く受け継がれてきたことが分かります。でも、どのように定着していたのかということは何も記されていません。ただ、『高野大師御広伝」と「私記」を直線的に結んで推論しているのに過ぎません。
「私記」自体は失われていますが、幸いなことに『高越寺旧記』という史料に全文が引用されているので、その内容を知ることができます。高越寺は天和2年(1683)、真言宗の大覚寺末寺に編成されます。そのため「私記」は中世から近世への過渡的な段階で書かれたものと言えます。「私記」の構成は、次の通りです。
「天聟天皇御宇、役行者開基、山能住霊神、大和国与吉野蔵王権現 体分身、本地別体千手千限大悲観世音菩薩」、「役行者(中略)感権現奇瑞、攀上此峯」
ここには、役行者による開基が記され、蔵王権現(本地仏 千手観音)の山で、役行者が六十六か所定めた「一国一峯」の一つとされたことが記されます。
②弘法大師に関する伝承
「弘仁天皇御宇、密祖弘法大師、有秘法修行願望、参詣此山」、「権現有感応、彿彿而現」
③聖宝に関する伝承
④山上を起点にして宗教施設
⓵「私衆百因縁集』(正嘉元年(1257)に「山臥道尋源.皆役行者始振舞再起」という記載が現れた13世紀以後のこと
さらには「顕・密・修験三道」(近江同城寺)や「顕・密・修験之二事」(若狭明通寺)というような表現が各地の寺院関係史料にみられます。四国でも、土佐足摺岬の金剛福寺の史料に「顕蜜兼両宗、長修験之道」と記されています。こうした状況からは「修験道」が顕教・密教と並ぶ仏教の一部門として認知されるようになっていたことがうかがえます。『私衆百因縁集』で「山臥の行道」とあるのも、「道」として体系化・実体化の過程にある修験道のことと研究者は考えています。こうして役行者は、修験道形成の流れの中で山伏に崇拝されるようになり、蔵王権現と緊密な関係をもつようになります。このような状況の中で、蔵王権現感得諄が現れ、されが高越寺に及んで定着したとしておきます。ここで研究者が注目するのは、「私記」には聖宝の伝承が含まれていることです。
高越寺には南北朝~室町時代のものとされ聖宝像があります。
ここからは、中世後期には聖宝信仰があったと考えらます。聖宝は、空海の弟・真雅の弟子で、醍醐寺を開いた高僧で、真言密教小野流の祖とされます。蔵王権現とも関係が深く、『醍醐根本僧正略伝』(承平7年(927)には、金峯山に堂を建て、金剛蔵王菩薩を造立したとされる人物です。13世紀後半以降には、「本願聖宝僧正専斗藪之根本也」と醍醐寺における山伏の祖としてとらえられるようになります。

さらには天台寺門系の史料『山伏帳巻下」(南北朝~室町初期成立か)にも「聖宝醍醐僧正」と記されているので、宗派を越えて崇拝されるようになります。聖宝が信仰対象となるのは、13~14世紀頃のことで、修験道の実体化と並行していることを押さえておきます。高越寺が修験道霊場化という流れの中で、聖宝像も姿を見せるようになるのです。ただし、聖宝は真言宗の高僧で、中世には讃岐出身説がありました。また四国で修行して讃岐に至ったという伝承もあったようです。こうした伝承が、高越寺の聖宝信仰につながっていたと研究者は考えています。そうすると修験道だけでなく、この聖宝像には複合的な背景があったとも考えられます。
これについては、研究者は否定的です。なぜなら醍醐寺三宝院門跡が当山派を統括するイメージが強いようですが、実際に三宝院が修験道組織を掌握するのは近世になってからのことです。三宝院が山伏と結びつくことはあったかもしれませんが、それを当山派に直結させてとらえるのは、正しい認識ではないというのです。さらにいうなら、中世の聖宝信仰は真言宗だけではありません。天台寺門派にも連なった山伏がいたことが明らかとなっています。近年の研究では、讃岐の雲辺寺や大興寺、金蔵寺などの真言と天台を併せもった信仰だったことが明らかとなっています。したがって、聖宝信仰と修験道の関連は深いとしても、その修験道=当山派という形ではないことを押さえておきます。こうしてみてくると、修験道の霊場としての性格に遡れるのは、13世紀頃ということになります。
摩尼珠山高越寺私記』(寛文五年(1665)は、中江(中ノ郷)の宗教施設が次のように記されています。
①山上から7町下には、不動明王を本尊とする石堂②山上から18町下には「中江」(現在の中の郷)に地蔵権現宮、また「殺生禁断並下馬所」③山上から50町の山麓は「一江(川田)」といい、虚空蔵権現宮と鳥居
A「中江」と呼ばれていたことB 地蔵権現社が鎮座していたことC「殺生禁断並下馬所」で、「聖俗の結界」の機能を果たしていたこと
中之郷は表参道の登山口と山上のほぼ中間地点にあたり、ここには、近世以降は中善寺があります。

中之郷のアカガシの根元の中世の石造物
また貞治3年(1364)、応永6・16年(1399・1409)、永享3年(1431)の板碑が残っています。ここからは、この地が中世には聖域化していたことがうかがえます。中世の山岳霊場では「中宮」といわれるところが、聖俗の結界所となっています。この中の郷が「結界」とされたのも高越山山上の聖域化が進んだことを示すものです。裏読みすると14世紀には、山麓と山上が結ばれ、高越山内は霊場としての体裁が整いつつあったことになります。こうした状況は、修験道の霊場としての興隆と重なりあって進んでいたことが考えられます。
高越山中ノ郷の鳥居(標高555m)
明石の浦より船に乗つて、阿波の国に付(き)て、焼山、つるが峰を拝みて、讃岐の志度の道場、伊予の菅生に出(で)て、土佐の幡多まで拝みけり」
ここには、当時の阿波を代表する霊場として焼山寺(徳島県神山町)、つるが峰(鶴林寺:勝浦町)が記されていますが、高越寺は出てきません。高越寺は霊場としては、焼山寺・鶴林寺・志度寺ほどの知名度をもっていなかったようです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「長谷川賢二 中世における阿波国高越寺の霊場的展開 四国中世史研究NO10 2009年」
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