
①天霧城攻防戦で敗れた香川氏は、毛利氏の下へ亡命したこと、
「天正四年二識州香川兵部大輔元(之)景、香西伊賀守佳清使者ヲ以テ信長ノ幕下二候センコトラ乞フ、……香川元(之)景二一字ヲ賜テ信景卜称ス」
意訳変換しておくと
天正四(1576)年に、識州香川兵部大輔元(之)景は、香西伊賀守佳清を使者として、信長の幕下に加わりたいことを願いでた。そこで信長は、香川元(之)景に自分の一字を与えて、信景と称するようになった」
南海通記の「之景が信長の字を拝領して信景と称した」という記述に従って、之景と信景は同一人物とされてきたことを押さえておきます。

しかし、之景と信景の花押を確認した研究者は、素人目に見ても大きく違っているとし、「花押を見る限りでは、「之景と信景は別の人物」と判断します。続柄からすると、之景と五郎次郎は父子で、「五郎次郎=信景」で、亡命から帰還後に五郎次郎が使ったのが「信景」と研究者は考えています。
次に高瀬町史の年表編(22P)で、天霧城攻防戦の前後の香川氏の動静の概略を押さえておきます。
ここでは次の事を押さえておきます。
A 天霧城攻防戦は1558年ではなく1563年で、攻め手は三好実休でなく篠原長房であったこと
B 香川氏の抵抗は続くが、1565年に備後に亡命すること
C 香川氏は一度も三好氏に従属したことはないこと
次に、この時期の香川氏の発給文書から、香川氏の動静を見ておきましょう。
香川之景の単独発給のものについて、研究者は次のように指摘します。


意訳変換しておくと
今度の合戦について、辛労について感謝する。ついては、三野郡高瀬郷水田分内の原・樋口の三野掃部助知行分と、同分守利名内の真鍋三郎五郎の買徳した田地の両所を知行地として与えるものとする。恐々謹言永禄四(1561年)正月十二日 (香川)之景(花押)秋山兵庫助殿御陣所

⓵すべて天霧城籠城に関する内容のものであること。⓶天霧城籠城戦前後から、初めて五郎次郎の名前が登場すること。
今度者無事二御退大慶此事候、然者人数阿また討死之由、忠節之至無比類候、将亦退城之側同心可申処、不相構俄之事候間不及了簡候ツ、我々無等閑様体具三菊可申候条、中々書状不申候、恐々謹言八月七日 五次(五郎次郎) (花押)(香川) 之景 (花押)
今度の(天霧山城攻防戦で)無事に脱出できたことは大慶であった。ただ、数多くの討死者を出してている。これは比類ない忠節であった。退城の働きに対して、論功行賞をすべき所であるが、現状ではそれも適わぬことで、簡略な書状だけに留める。中々書状不申候、恐々謹言八月七日 五次(五郎次郎) (花押)(香川之景) (花押)

天霧城籠城戦に破れて、香川氏はすぐに多度津を去ったのでしょうか?
天霧城籠城戦の際に、飯山に在陣し辛労した功績は言葉で云い表せないほど大きいものである。この功労に対して、新恩として河田七郎左衛門尉に扶持していた菅左衛門尉の本知行地の返却する。併せて、別に杵原寺分については、松肥との交換を行うように申しつける。令異見可返付候、弥御忠節肝要候、恐々謹言、永禄六(1563)年 八月十日 五郎次郎(花押)(香川)之 景(花押)三野菅左衛門尉殿進之候
尚々、今度之御辛労不及是非候、臆而/ヽ御越有へく候、万面以可申候外不申候、今度之儀無是非次第候、無事其島へ御退、我々茂無難退候事、本日出候、然者御左右不聞候而、千万無心元存もたへ申処孫太夫折紙二申越一段悦入、候雅而/ヽ此方へ可有御越候、万以面可令申候、将又国之儀存分可成行子細多候間可御心安候、両方へも切々働申付候、定而可有其聞候、委猪右衛門可申渡候間不能巨細候、恐々謹言二月三日 五郎次郎御判秋山藤五郎殿まいる
今度の(天霧城落城の)辛労はあまりに大きく、言葉に表し尽くせない。しかし、(秋山氏が)無事に「其島(笠岡神島?)へ退出することができたと聞いて安心している。我々も無事に脱出した。分散した家臣団の再組織を計り、詳細な情報を集め、適切な対応をとっているので安心するように。再起への道を探すためにすでに西方(豊田郡方面?)への軍事行動を開始している。委細については猪右衛門から口頭で伝える。渡候間不能巨細候、恐々謹言二月三日 五郎次郎御判秋山藤五郎殿
③一方、香川氏は三野郡にとどまり、分散した家臣の再組織を計りながら、豊田郡方面への軍事行動を開始していること
①永禄7(1564)年5月に三野菅左衛門尉に返進を約束した鴨村祚原守分について、その宛行いを実行②永禄8(1565)年6月の秋山藤五郎宛の香川之景の発給文書③永禄8(1565)年8月には、秋山藤五郎に対して、知行地の安堵、新恩地の給与文書

讃岐・備中方面での活動を追加してみると・・・。
1564(永禄7)年3月 豊田郡地蔵院(萩原寺)に禁制を下す1567年 6月 鵜足郡宇多津鍋屋下之道場に禁制を下す(西光寺文書)6月 備前で毛利側の乃美氏と戦う(乃美文書)1569年 6月 鵜足郡聖通寺に禁制を下す(聖通寺文書)1571年 1月 鵜足郡宇多津西光寺道場に禁制を下す(西光寺文書)5月 備前児島に乱入する.
今度帰来善五郎至神島相届候、別而令辛労候之条、帰来小三郎跡職悉為新給令扶持候、井於国吉扶持之所々目録二相加袖判候、全可知行者也、弥相届忠節奉公肝要之旨堅可申付候、恐々謹言永禄六(年)六月一日 (香川)之景(花押)河田伝有衛門尉殿
今度の帰来善五郎の神島(備中笠岡)への遠征について、その労に報いるために、帰来小三郎跡職と国吉の扶持を目録通りに、新たに知行地として与える。よって今まで通り忠節奉公に励むように(帰来善五郎)申付けること、恐々謹言永禄六(1563年)六月一日 之景(花押)河田伝有衛門尉殿

ここで注目したいのは、上表の右端の多度津の問丸です。
通行税無料の過書船の船頭は紀三郎、問丸は道祐、国料船の船頭・問丸と同じです。一般船も4件の内の2件は、船頭・紀三郎、問丸・道祐です。ここからは多度津の問丸は道祐が独占していたことが分かります。

6月12日
足利義昭が小早川隆景に,香川某と相談して讃岐へ攻め渡るべきことを要請(柳沢文書・小早川家文書)8月1日
足利義昭が三好氏によって追われた香川某の帰国を援助することを毛利氏に要請する.9月17日
小早川隆景.配下の岡就栄らに,22日に讃岐へ渡海し,攻めることを命じる(萩藩閥閲録所収文書)」
このような香川氏の多度津「帰還運動」が実現するのが1577(天正5)年の元吉合戦です。



毛利氏にとって、この戦いの意味は次の3点です。
A 石山本願寺戦争に対して、戦略物資輸送路として備讃瀬戸の南側の脅威をとりのぞく。B 信長包囲網の一環として、信長の同盟軍である阿波三好氏を討つ。C その後の西讃経営のために、香川氏を天霧城に帰し、毛利氏の拠点とする。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
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