今年も年3回行われる町立図書館の郷土史講座の講師を引き受けることになりました。その初回は、昨年に引き続いて満濃池を取り上げます。「満濃池は空海が作った」と言われていますが、それについて、現在の研究者や考古学者たちがどう考えているのかを見ておこうと思います。興味と関心と時間があるかたの来訪を歓迎します。
関連記事

⓵信仰の起点を阿波国麻殖郡に拠点をもった阿波忌部の拓殖神話と関連させて理解すること②以後、大師信仰、修験道等が展開した
①「史料を読み込んで推論を丁寧に重ねて高越寺の歴史を描いており、貴重」②しかし、阿波忌部との関係、大師信仰、修験道など、霊場としての性格をとらえるという視点からは「不分明」。
③特に修験道史については、今日の研究状況からすれば疑問がある
阿波国高越山寺、又大師所奉建立也。又如法奉書法華経、埋彼峯云々。澄崇暁望四遠、伊讚上三州、如在足下。奉造卒塔婆、千今相全、不朽壊。経行之跡、沙草無生,又有御手辿之額、干今相存.
阿波国の高越山寺は、①弘法大師空海が創建した寺である。空海は法華経をしたためて、この山上の峰に奉納したと伝えられる。頂上からは四方の眺望があり、伊予・讃岐・土佐の三州が足下に望める。卒塔婆を奉納したが今になっても壊れず形が残る。経を埋めた跡は草木が生えず山の額のように見える。
「天聟天皇御宇、役行者開基、山能住霊神、大和国与吉野蔵王権現 体分身、本地別体千手千限大悲観世音菩薩」、「役行者(中略)感権現奇瑞、攀上此峯」
「弘仁天皇御宇、密祖弘法大師、有秘法修行願望、参詣此山」、「権現有感応、彿彿而現」

①山上から7町下には、不動明王を本尊とする石堂②山上から18町下には「中江」(現在の中の郷)に地蔵権現宮、また「殺生禁断並下馬所」③山上から50町の山麓は「一江(川田)」といい、虚空蔵権現宮と鳥居
A「中江」と呼ばれていたことB 地蔵権現社が鎮座していたことC「殺生禁断並下馬所」で、「聖俗の結界」の機能を果たしていたこと

明石の浦より船に乗つて、阿波の国に付(き)て、焼山、つるが峰を拝みて、讃岐の志度の道場、伊予の菅生に出(で)て、土佐の幡多まで拝みけり」


①文永7(1170)年 筒野八面笠塔婆②弘安6(1283)年・9年(1286)の長尾寺笠塔婆③永仁3(1295)年 新川の笠塔婆④応安5(1372)年、永和2(1376)年の西教寺六角笠塔婆⑤応永8年(1401) 下り松庵の六地蔵笠塔婆
A 多度津町高見島五輪塔B 伝横尾時陰五輪塔C 善通寺市三帝廟D 岡山県笠岡市正顔五輪塔
①地輪は低く、水輪は荘重感があり、きれいな円形にならない。②火輪は軒が厚く外側にやや傾斜する③最も特徴的なのは空風輪で、空輪と風輪が分割成形で、一石でつくられないこと④空風輪を分割成形する地域として愛媛県松山市を中心に展開する凝灰岩(伊予の白石)の五輪塔があり、その時期は鎌倉時代中期からであること。
①真反で外方にやや傾斜する火輪の軒、大きな空風輪が共通すること②火輪の軒が外方に傾斜する点は香川東部の石造物とも共通すること
A 丸亀市中津八幡神社B 多度津町光厳寺C 善通寺市三帝廟
①塔身を空洞に割り抜き、内部に石仏を安置すること。②正面には窓を穿つ例が多いこと③空洞にはしないが、塔身正而を方形に深く彫り窪め、内部に石仏を刻むこと。これは備中東部内陸部の花満岩製宝塔に事例あり。④首部は塔身と別石で組み合わす例が多いこと。これは対岸の岡山県五流尊龍院宝塔や広島県浄土寺宝塔に事例あり。こうしてみると宝塔は岡山、広島の花崗岩製宝塔との関係がありそうです。⑤相輪は伏鉢・請花と九輪から上位で分割成形されていること。この類例は他地域にはないようです。天霧石石造物は近世初頭まで分割成形の相輪が見られます。


①東塔(左)が弘安元年(1278)櫃石島産の花崗岩で作られたもので、頼朝寄進と伝来②西塔(右)が元亨4年(1324)天霧山凝灰岩製で、弥谷寺(天霧山)石工によるもの
①は笠の一部と塔身、基礎の内部を空洞にしていること②これは、五輪塔、宝塔など天霧石石造物でも見られる特徴。③内部空洞化は室町時代以降も行われていて、岡山県西大寺層塔などにも見られ、天霧石石造物に多い特徴であること④観音寺市神恵院層塔の塔身や多度津町多聞院多宝塔には扉の表現が見られる。⑤その他、層塔は塔身の銘文、四仏の種子に独自性があるが、形態には在地色はあまり見られない。
A 高松市、坂出市に所在する摩尼輪塔(白峰寺)B 善通寺市三帝廟C 白峯寺十三重塔


①天霧系石造物にはない反花式基壇が見られ、諸属性も在地品と異なる点が多い②特に五輪塔水輪は最大幅を中位にとる整った円形で、壷形、筒型の多い天霧石五輪塔とはタイプが異なる。③整った円形の水輪は、大和の特徴なので、これらも大和石造物のコピーである可能性が強い④宝掟印塔の笠からも大和との関わりが推測される⑤しかし、大和の石造物そのものではなく、五輪塔空風輪、宝塔塔身などに天霧石の独自性が見られる

①鎌倉時代中期の白峯寺と円通寺は中央と深いつながりがあった②そこには大和石工が出張製作した花崗岩製の石造物が造立された③このような香川と大和の石造物・石工の関わりを背景として、14世紀初頭になると地元の天霧石石工は大和石工の製作した石造物を模倣して畿内風の石造物を製作するようになった。
a 寺内山林分b 樺山前後山林分c 吉岡界分
「観念禅寺々領 山野地事 四至 右件山野等者、為古岡庄領家之間、所本寄進当寺也」
c 吉岡界分が古岡荘内(領家方・地頭方)に含まれる山野地a・b得恒名の山林
① 桑村本部の得恒名田畠を中核として、桑村本部の恒光名・恒正名田畠、田・池田・拝志郷などに散らばる得恒名田畠、②それ以外の部分




A.康永3(1344)年9月9日 越智信高以下35名連署寄進B.康永3(1344)年11月5日 越智兼信以下3名連署置文C.貞和3(1347)年9月9H 越智信高以ド35名連署師壇文D.貞和4(1348)年12月15日 鉄牛継印置文E.康安2(1362)年4月8日 観念寺々領注文
盛氏後家尊阿正応五年二月晦日当寺寄進状云、右寄進願者、故散位越智宿祢盛氏、依為御興行之寺、為奉訪彼後菩提、所令興行不断念仏三味者也、然者氏人時衆相共致忠勤之思、至千未来際、無退転可令勤行者也、若背此旨、珈於寺内山林并田畠等、寄事於左右、於致違乱煩之不信之輩者、氏人相共同心合力、可令停止彼悪行者也云々、
盛氏の後家である尊阿による正応五年二月晦日の当寺への寄進状には次のように記されている。この寄進発願者は、故越智宿祢盛氏であり、この寺の設立者でもある。よってこの寺を菩提寺として、不断念仏三味行うものとする。一族・氏人は時衆を信仰し忠勤し、未来来迎まで退転することなく勤行するべし。もし、これに背いて寺内の山林や田畠などを侵そうとする不信の輩がいれば、氏人・一族が心を一つにして共同で、悪行者を排除すべし。
「新居弥三郎盛康之族後家弥阿同息男盛清等、且為奉祈 天長地久之御願、ユ為本訪先祖代々之菩提、専改禅院為氏寺、重寄進田畠等所奉寄附鉄牛和尚也」
「新居弥三郎盛康の一族である後家弥阿と息子の盛清などが、観念時を再興し天長地久の祈願所とと先祖代々の菩提として禅院に改宗し氏寺として、田畠を鉄牛和尚に寄進した」
伊予国御家人新居三郎五郎入道円心相伝知行分諸郷散在得恒名并各別相伝田畠等内観念寺寄進」
「為沙弥円心先祖開発重代相伝之地、関東六波羅殿大番以下諸公事等令勤仕」
①「円心坊=新居盛康」説をとる岩本裕氏②「円心坊=子息盛清」説をとる店本裕志氏
「当寺繁晶是氏入繁昌、当寺衰微是氏人衰微也」
「当寺(観念寺)の繁栄は、新居氏一族の繁栄であり、当寺の衰微は新居氏の衰微である」
(当寺は)「大檀那氏人并一族等永任寄付契約之旨、可被致護持者也」
5月2日(金)19:00 佐文公民館出発22:30 ホテル到着予定(淡路SA以後はノンストップ)5月3日(土)8:30~ 着付け(ホテル内の会場)11:00 ホテル出発13:30 EXPOメッセにて公演(30分)15:00 万博会場出発16:00 夕食(ホテル内)5月4日(日)8:30 ホテル発 会場到着後は自由行動11:30 パソナ館15:30 万博会場出発20:00 佐文帰着


①吉野は土器川と金倉川に挟まれたエリアであり、洪水時は遊水地であったこと。②土器川は、吉野木ノ崎を扇頂にして、いくつもの流れに分流し扇状地を形成していたこと。③その分流のひとつは、木ノ崎から南泉寺前→大堀居館→水戸で合流していたこと。
①上が土器川方面で、石垣の土器川西堤が真っ直ぐにのびている②木ノ崎には金毘羅街道が通り、その沿線沿いに民家が建ち並んでいる③鳥居と須佐神社が書き込まれ、このまえに関所があった。④木之崎新池絵図が描かれた当時、岩崎平蔵は新池の北側付近の木ノ崎に居住していた。⑤須佐神社の敷地内に、大正12年(1922)5月に、水利のために活躍した岩崎平蔵を顕彰する石碑が建てられている。
①水田6枚を積み重ねた縦長の形をした池②それを南泉寺の上で堤を一文字に築造して水をせき止める。③北側に石積みの堤築造、南側は山際で堤の必要はない。
ここに池があったという話は聞いたことがない。しかし、この田んぼは少し掘ったら礫と砂ばかりで、水持ちが悪い。かつて耕地整理したときに2トンもある丸い大きな石が出てきた。土器川にながされ運ばれて角が取れた川原石や。
①年配の方々は、かつて池があったこの地を「シンケ(新池)」と呼んでいる。②この地の田畑や墓の上留・囲いなどには、若干丸みを帯びた石が用いられているが、これは池の中や、周辺にあつた石を利用したものと伝えられている。③今はなくなったが、かつては大きな目立つ石が、木之崎徊池であった場所にあり、そこがかつて池の揺があった場所と伝えられていた。④木之崎新池は、山から流れてくる水を水源としていた⑤池の水持ちが悪くて短期間で、田畑に戻した
寛保3年(1743)から御撫物の下賜、宝暦3年(1753)12月に宥弁が法印に叙せられる
十 代宥存(1761~87年)、 姉小路大納言十一代宥昌(1788~99年) 油小路前大納言十二代宥彦(1799~1811年) 甘露寺前大納言十三代宥慎(1811~13年) 鷲尾頭丼十四代宥学(1813~13年) 綾小路中納言十五代宥恰(1814~24年) 甘露寺前大納言十六代宥天(1824~32年) 甘露寺前大納言十七代宥日(1832~36年) 甘露寺前大納言十八代宥黙(1827~1857) 葉室前大納言一九代宥常(1857~明治元年) 甘露寺中納言
文化13(1816)年 9月28日。九條家の日夏筑前介より、金毘羅万福院・菅納丈助・矢野延蔵に「九条家御講寄付」の申出あり。しかし、幕府が禁止する富くじと同様のものなので断る。
文政7(1824)年8月2日。京都九条殿が金ぴら御代拝として佐々木高正を讃岐へ下向させる。文政8(1825)年9月 九条殿富興行を金びらに行う。十ヶ年の期限つきで許可。同年11月25日 初興行。九条殿大般若経御寄付のため万人講開催。
九條殿御富、当初金毘羅にて御興行の事として前々より御懸合これ有り候え共出来申さず処、大般若御寄附と御申立て、右御祈薦料として米御寄附に相成り、右御米入札を以て御払なされ候段、之表にて文政八酉年霜月より、初めて金山寺芝居土地にて出来申し候事
九條富を金毘羅で行う事については、当初はいろいろな懸念・障害があって実施することができなかった。そのような中で九條家より大般若経の講として寄附のための祈薦料という名目で行う事が提案され、(これで髙松藩にも暗黙の了解を得て)、表向きには「御米入札」という形で、文政八年霜月から、金山寺芝居が行われる場所で興行されることになった
九條殿御寄附大般若講御米入札来る十一月二十五日社領に於て興行御座候事
最初の大般若講の興行時の寄高は4053枚で文句富。その銀録は入札一枚につき銀六匁で、寄高一万について、寄銀高の内3割が御益諸人用となる。壱 番 銀壱〆八百目拾 番 同壱〆二百目廿 番 同番大節 一二拾番 銀七〆弐百日四拾番 同壱〆弐百目五拾番 同断乙錐 六拾番銀弐〆七百六拾目間々同四百八拾目右割合を以て寄高ニ応じ配当仕り候興行の開催月は、正月・2月・4月・11月・12月の年六回会日はその月の25日が講会日、当りくじ銀度しは翌日、富会所(内町)で渡す。
口入(くにゅう) 兵庫・長崎・鳥取その他各地に世話人あり、口入は募集札を取回る役目。凡そ二十四名。口屋 口入が持かえりたる札を整理する。仲買役名。銀座 口屋より持込む富札銀を取引し、 一般富くじの銀行の如き役所。富座 銀座より領収印ある駒札を取集め、奉行所立会開票す。諸役人凡そ弐百人あり。一回の募集十万国以上の時は、 一・二・三の組を同時に開く。富の計算(推定) 銀八百五十貫、 一口手取八匁目の十万□、 一口分。内訳 弐百貫目大束作業員。三百七十貫目、当りくじ百七本分。壱等賞は大束五十万束として、正銀百貫目を渡す。壱貫目は米三石の価格なり。六十貫目、役所費。六十貫目、住民一戸へ毎月三十目づつ御手当金、但し後家は二十目三十貫目。興行物、鹿の手入れ、町役人、米守級銀差引、 二百二十貫 国守運上銀
「日帳」の同年十一月二十七日の条に、九條家出役人入江丹宮へ、近年の一年分を平均として御講益金一五〇両、九條家役人中祝儀二十一両、出役祝儀九両の口演書を渡した。
大般若講高松上納一、十一月七日 金七両一、十一月二十二日 二十五両右両度の御益、今日普門院出府に付相頼み遺し候事。但し去ル文政十二年十月より、当天保五年十月会迄納高七百三十二両也。
一ケ年 一銀弐貫也髙松へ年々四月ニ相納候筈ニ成右は九條殿御寄附大般若講入札指引詰残銀の内、寺社御役所へ相納候筈二、高松出役吉田甚介殿より寛又蔵殿へ申達し御聞き届に相成り候二付、午年(天保五年)分より相納候事。
一年に銀2貫を、髙松藩へ年々4月に納入することになった。これは九條富(九條殿御寄附の大般若講の入札指引詰)の延長に絡んで、高松出役の吉田甚介殿から寛又蔵殿への申し出を御聞き届いただいたことに伴うもので、午年(天保五年)分より上納する。
九條殿御講当会より、定小屋にて興行に相成候事。但し、当月より前会は番札壱万詰、後会は文句入に相改め候事、月に二回も興行に相成る也。代官技茂川杢之助、警固伊藤平右衛門、山下栄之助、年寄り井上太郎左衛門。右御講の日は、入札相済み候迄芝居相休みに成る也。木戸回へ九條様御紋附きの御幕張り、内は桟敷へ勘定場、買方、舞台真中へ富箱飾り同所にて開札致し候。御用人は西側桟敷に罷有り候。九條様御紋附の御幕を張り、代官警固は御山の御幕張る也。高張りも勿論□の也。年寄りは自分の高張用ゆる也。
当会より番札壱万詰に相成り、申(七年)の四月会迄番札、文句一度替りに相成り、申の五月十日会より亥(十年)の十二月会迄都て番札に相成り、結の義は壱又は弐万、五万迄。時に繁栄によって高下これ有り候。会日は月々弐回宛興行これ有り候。番札弐万結の割銀録別紙これ有り候。番札略す。
九條殿御講は今回から常設芝居小屋(金丸座)で興行することになった。そして、月2回の興行となった。月前半の前会は番札壱万詰、月後半の後会は文句入に改められた。役割は代官・技茂川杢之助、警固・伊藤平右衛門、山下栄之助、年寄・井上太郎左衛門。富くじの日は、入札(当選発表)が終わるまでは芝居は休みになる。木戸には九條様御紋附きの幕張り、内は桟敷へ勘定場、買方、舞台真中へ富箱を飾り、そこで開札を行う。御用人は、西側桟敷に座る。九條様御紋附の御幕を張り、代官警固は御山金毘羅の御幕を張る。高張りも□の也。年寄りは自分の高張を使用する。
今回から番札壱万詰になり、七年四月会まで番札、文句一度替りに改まった。申の五月十日会から亥(十年)の十二月会まですべて番札で行うことになる。結の義は壱又は弐万、五万まで。その時々の集客で売上高に上下はある。実施回数は、月2回となった。。番札弐万結の割銀録の別紙もあるが、これは略す。
一昨日九條様御寄附大般若講御延年相済み候。左の通り寺社方より申し来り候。一筆令啓上候、御社領二於て九條殿より御寄附の大般若講富十月二て満講に相成り候処、今拾ケ年相催しされ度御同所より御頼みに付、なお又当十一月ょり来る己の十月迄拾ケ年の同年迄、御申立の通り相済み候間、左様御心得成されべく候。恐慢謹言七月二十七日 寛 又蔵金光院天保七年(一八三六)三月十日、九條様御講会但し番札三万枚詰となる。出張菅納実。
一昨日、九條様御寄附の大般若講の延長について、髙松藩寺社方より以下のような連絡があった。金毘羅寺領で開催されている九條殿から寄附された大般若講富は、この10月で10年の満期となる。これについて、10年間の延長申請が出されていたが、11月からの十年間の延長を認める。左様御心得成されべく候。恐慢謹言七月二十七日 寛 又蔵金光院
「九条富は、九條家と金毘羅との相談で行われてきたできたことだから、藩としては知らない体にする」
(前略) 翌年七月九日、大坂に於て講元ほか掛りの者共左の通り仰せ付けらる。講元 鶴田屋卯兵衛 山尾 直之進其方共諸堂傾覆のため大般若と相唱え、昨冬富博変以寄りの義相い企て申し候由、尤も自分得用にて仕まつらず共、右相い斗り候段不届の次第、これに依り過料五貫文ヅツ申付け候。跡掛りの者共右同断二て過料三貫文ヅツ申付け候。右の通りの御裁許二て過料相納め候ハバ、勝手次第国元へ引取り候申し渡す。
1840年7月9日、大坂奉行所で講元の他、関係者に次のような処分が下された。講元 鶴田屋卯兵衛 山尾 直之進その方どもは、堂修復のためと大般若経を唱え、昨年冬に富くじ講を組織した。これについては、私的利益のためではないと云え、幕府の禁止する富くじを行ったことは不届の次第である。よって、五貫文づつの過料を申付ける。残りの関係者についても同断で過料三貫文を申付ける。この裁許に従って過料を納めれば、勝手次第に国元へ引取ることを許す。
九條家では御講(九條富)が中絶以来、経済均にひときわ難渋しています。その上に、姫君の御入内のことが決まり、莫大な費用が必要となっています。ついては、金毘羅に対して九条家より次のように申し入れがありました。一、大塔建立を申し立てて、益金が九條家へも入るよう取計らう。二、 一〇〇〇両、二〇〇〇両の調達、融通する。三、九條富の再興をす。この三か条のうちのどれかをお聞き取り願いたいとの強い申し入れがあった。金毘羅としては、一、二件は到底受け入れることはできないので、講を再興する以外ないと思うので、何卒お許し願いたい
昨今善通寺が丸亀藩の許可を得て、大般若講同様の九條家寄進の護摩講と名付け講会を催している。金毘羅社領でも御講(富くじ)を再開したい
「近年は京都警護の人数も差し出しており、武備の手当も整い難いので、お聞き届けできない」
「毎度御内談願っているが、近くは丸亀領善通寺も興行あり、其外向地辺の予州今治領三嶋にても、砂糖入札と称して近年興行しており、金毘羅が中絶のままでは町の繁栄にもかかわる」
「御講一条入割も委敷相話し候虎、何様□□公辺御制禁の義に付、六ケ敷由中され、併せて御重役中も段々替り、時勢も替り候開、いかがこれ有るべきや篤と勤考致すべく由
「嘉永五子年並びに文久二成年二も御答への通りで、九條様よりお申し立てがあっても、御断りになられるように」と、残念なことではあるがとの返事があった。
①出雲井流末の夫馬・烏脇・池下の村落に居住していた夫馬氏、烏脇氏、池下氏は、すべて大原氏の庶流②小田村・野一色村も下線の領主は、大原氏の庶流③三島池畔には三嶋神社が鎮座し、佐々木秀義や大原氏初代重綱が伊豆三嶋社を勧請したものと伝えられること。④三嶋池築造の際に、佐々木秀義の乳母比夜叉御前が人柱にたったという伝説があること⑤竹腰氏、野一色氏も大原氏の一族で、野一色氏は重綱の子秀俊を祖とする早い時期の庶子家
①用水支配権を武器にして、所領内の村々に庶子を定着させる②その上で村落支配を深化 し、 所領支配を拡大していく③このような動きが、「権力の在地性深化」の実態といえる

A 下司・地頭層 = 在地領主B 公文層 = 村落領主
C 地頭の系譜を引き、在地領主の発展段階とされる「国人領主」D 村落 レベルの 「土豪」

①農耕儀礼や共同作業を通じて結びついた名主層を中心に農民たちの地縁的な自治組織を惣村という。②惣村は、惣百姓が参加した寄合の決定に基づいて自治が行われ、秩序の維持のため警察権を行使する地下検断や、年貢を領主に一括納入する地下請などを通じて、支配者から自立していった。③惣村の成立の背景には、農業生産力の向上による農民の成長と、戦乱に対する自衛の必要性があった。名主層の中には、守護と主従関係を結んで侍身分を獲得する者(地侍)もいて、これも惣村が支配者から自立する要因となった。

A 惣の主導型B 居館領主主導型
①姉川が平野に流れ出る喉元に「郷里井」と呼ばれる井堰設置②この灌漑域は344町で、上流の出雲井と並んで姉川筋の二大水利集団を形成③郷里井は扇型に灌漑エリアが西に拡がり、その範囲は扇状地と一致④郷里井灌漑エリアには多くの居館型集村があり、扇央部の西上坂村がその中心集落⑤この西上坂村に国人領主上坂氏の居館跡があり、水堀や土塁などが残っている。

①公野湧からの水流はすべていったん殿屋敷の水堀に集められます。②その後に、西方耕地の灌漑に用いられる③ここからは、公野湧の水を自分の居館に引き込んでいる居館領主が、灌漑用水を握っていたことがうかがえる。
宝治二年 (1248)、 佐々木重綱が大原荘にやってきたときに、家臣の出雲喜兵衛が行った。そのため出雲井と呼ばれるようになった
①出雲井からの用水配布エリアの大部分は、姉川左岸の段丘下位面にある。②この水の届きにくい高燥面の水田化は、出雲井が開削される以前は開発困難だった③大原氏館はこの段丘上に位置し、段丘上を潤してきた出雲井の幹線水路が流れ込んでいる。④以上から、段丘面の灌漑と同時に居館水堀の水源として出雲井の利用が当初から考えられていた
①宝治二年 (1248)、 佐々木重綱が近江大原荘の地頭職に補任されやってきた②家臣の出雲喜兵衛に未開発だった段丘面の開発を命じた。
在地領主制の根幹たる「所領」「本領」の所有は、単なる小作制に基づく地主的所有制ではなく、下地進止権を本質とし、自らの開発による「直営・勧農を根底 とした領主経営」がその淵源 にあった 。例えば平安中期の大和国の藤原実遠の所領の多くが名張川・宇陀川など大河に接しており、蓄財を投じてその治水・開発・勧農を行うことで実現されたものである。



「御家人トハ、往昔以来、開発領主トシテ、 武家ノ御下文ヲ賜ル人ノ事ナリ」「開発領主トハ、根本私領ナリ」
A 平時の居住に重きをおくものを「居館」B 戦闘機能に重心をおくものを 「城」C その双方の要素を含むものを総称して「城館」

①防御機能の強化②低湿地 にお ける排水機能③農業用水への利用④舟運利用
A 方一町のものB 半町四方のもの
C 荘域を管掌する地頭・下司層=在地領主D 村落を支配対象とする公文層=村落領主
①堀・土塁の規模は、南北約170m、東西110m②堀跡は幅8~10mで、周辺田地との比高差は40~50cm。
①用水統御機能を持つ居館を拠点に水田開発が進めらた。②そこに「領主型村落」が形成され、③その結果、郡郷内の村々に一族庶子を配置して開発を推進していく「堀ノ内体制」論が展開
①12・13世紀の前期居館は周囲を溝で区画したにすぎず、 灌漑機能を持つ本格的な水堀を備えた方形館の出現は14世紀以降であること、②史料に出てくる「堀ノ内」は領主居館を指すとは考えられないこと
①東国領主の堀ノ内は交通路に面した村落と外界の結節点に位置する②そこに市や宿が建てられ町場が形成され③そこを基地として、都市と連結した経済活力が新田開拓につながる④それが「領主型村落」の祖型となる。
A 長原遺跡の水堀は「初期館においては防御を主目的とするものではなく、田畠への水利を目的とするもの」B 居館水堀の埋土分析から流水状況が認められないとして、水田をうるおす用水路の役割は果たしていなかった
①居館の用水支配に基づく勧農機能②都市と直結した経済活力の投入







①文字部分は、墨書で絵図名称と方位名②朱書部分は、構造物と地形の名称と規模③「大堀」の内側の水田については「此田地内畝六反四畝六歩」と面積が示される。④堀の外周と内周の堀の「幅」の数値から100㍍×60㍍が館の面積⑤絵図が書かれた江戸時代には、用水管理池としても使用されていたようで、水量を調整する堰
①堀・土塁の規模は、南北約170m、東西110m、堀跡は幅8~10m
②鎌倉時代(13世紀前半)に、南北に区切る堀とその周囲に建物が築かれた。③その後しばらくして、堀に石垣が張られた。
④建物は何度か住替えがあり、堀は14世紀後半に埋まり、居館もその役割を終えた。⑤外周の現存する堀は形状から16世紀ごろのものという指摘もある。
⑤江戸時代には水田となり、堀は灌漑用水路の中に組み込まれた。


①応安元年(1368) 庄内半島から西長尾城に移って代々大隅守と称するようになった②宝徳元年(1449) 長尾次郎左衛門尉景高が上金倉荘(錯齢)惣追捕使職を金蔵寺に寄進③永正9年(1512)4月長尾大隅守衆が多度津の加茂神社に乱入して、社内を破却し神物略奪④天文9年(1540)7月詫間町の浪打八幡宮に「御遷宮奉加帳」寄進」
①備中への三好氏に従っての従軍記録②香川氏の居城天霧城攻防戦へ。三好支配下として香西氏・羽床氏と共に従軍していること③毛利軍が占領した元吉城(琴平町の櫛梨城)へも香西氏・羽床氏と三好氏配下として従軍④天霧城の香川氏は、三好氏に抵抗を続けたこと。そのため三好配下の長尾氏と抗争が丸亀部屋で展開されたこと
②鎌倉時代(13世紀前半)に、南北に区切る堀とその周囲に建物が築かれた。④建物は何度か住替えがあり、堀は14世紀後半に埋まりその役割を終えた。⑤外周の現存する堀は形状から16世紀ごろのものという指摘もある。
A出現期が13世紀前半の鎌倉時代の承久の乱前後B消滅期が14世紀後半の南北朝以後
6月10日の夜、
炭所西村の片岡上所横井(常包横井)
大向興免横井
長尾村薬師横井
札の辻横井6月22日八ツ時(午後2時)に、
炭所西村大向の吉野上村荒川横井
吉野上村大宮横井
恐れながら書付を以て願い上げたてまつり候、松平讃岐守領分、讃州鵜足郡炭所西村、長尾村、岡田村并に那珂郡吉野上村総代小右衛門、与左衛門、縄次、十右衛門申し上げ侯、去る巳年六月二十三日、当御支配所那珂郡苗田村庄屋倅源太 δ郎、同庄屋吉左衛門倅佐太郎、同年寄弥右衛門倅伊久治、庄屋虎五郎弟又五郎、同村百姓右衛門、辰蔵、千七郎、留吉、伝蔵、音松、滝蔵、直蔵、金占、忠蔵養子秀蔵、半蔵倅惣五郎、平兵衛、権蔵、問蔵、喜兵衛、弥二郎、庄吉、外三名名前相知れず、大勢并に、讃岐守領分同郡東西高篠村、四条村百姓共と一同申し合わせ、徒党を致し罷り越し、村々え引取候井路(井手)及び、炭所西村片岡上所、同興免、長尾村薬師下、同村札の辻、吉野上村大向荒川、同大宮荒川右六ケ所の堰利不尽に切り払い候、素より照り続く早魃の時節、右然の浪藉を致され、御田地の耕作相続出来中さず候、勿論右堰(横井)の義は役場え相願い、御普請を受け候ものにて、御村方の進退自由に相成らず、捨て置き難く、其節早速役場へ願い上げ候所、則ち東高篠村百姓岩蔵、源三郎、大五郎、竹蔵、四条村百姓増蔵、駒吉、清兵衛、政蔵、外に二人召し出され、御純の上入牢仰せつけられ御吟味に付、苗田村の者共狼藉の始末願い上げ奉る可くと存じ奉り罷り在り候所、追々取扱人立ち入り、種々取り計らい候義にて、成尺熟談仕り度く、素より御役所へ御迷惑掛け奉り候段恐れ入り候、是又勘弁仕り居り申し候得共、弥々熟談相調い申さず、苗田村の者共追々我意相募り、連も熟談内済相調い候義、心証更に御座なく候、既に当年の田水にも指し掛り居り、捨て置き候仕り候に付、止むを得ざること願い上げ奉り候間、何卒苗田村の百姓前願人則ち弐拾壱人を召し出して御吟味の上、以来右黙の狼藉仕らざるよう仰せ付けられ下され度存じ奉り候、願い立て恐れながら書付を以て願い上げ奉り候以上文政六未年五月
松平讃岐守領分讃州鵜足郡炭所西村水掛百姓総代 小右衛門 判長尾村水掛百姓総代 与左衛門 判岡田村水掛百姓総代 縄 次 判讃州那珂郡吉野上村水掛百姓総代 十右衛門 判右郡村役人総代 伊右衛門 判同 浄 平 判大草太郎右馬様倉敷御役所
○ 恐れながら書付で次の事について願い出ます。松平讃岐守の領分である鵜足郡炭所西村、長尾村、岡田村、ならびに那珂郡吉野上村総代小右衛門、与左衛門、縄次、十右衛門が申し上げます。去る巳年六月二十三日に、那珂郡苗田村の庄屋倅源太 δ郎、庄屋の吉左衛門倅佐太郎、年寄弥右衛門倅伊久治、庄屋虎五郎弟又五郎、百姓右衛門、辰蔵、千七郎、留吉、伝蔵、音松、滝蔵、直蔵、金占、忠蔵養子秀蔵、半蔵倅惣五郎、平兵衛、権蔵、問蔵、喜兵衛、弥二郎、庄吉、外三名は名前は不明。彼らが、那珂郡東西高篠村、四条村百姓たちと申し合わせ、徒党を組んでやってきました。そして、土器川からの用水取入口の横井や水路(井手)ある炭所西村片岡上所、同興免、長尾村薬師下、同村札の辻、吉野上村大向荒川、同大宮荒川右六ケ所の堰を切り払いました。この狼藉の結果、照り続く早魃での時節だったために、田地の耕作ができなくなりました。この件については放置することが出来ず、早速に藩へ届け出ました。その結果、東高篠村百姓岩蔵、源三郎、大五郎、竹蔵、四条村百姓増蔵、駒吉、清兵衛、政蔵、外に2人が連行され、郷倉に入牢という処罰となりました。一方、天領の苗田村の狼藉者の始末(処罰)については、仲介人を立てて、慎重に調査を進めてきました。しかし、苗田村の「我田引水」的対応で協議は不調に終わりました。すでに今年の用水確保にも指し障りが出てきていますので、放置することができません。つきましては、事件に関わった苗田村の百姓21名を召し出して吟味した上で、以後の狼藉を再び起こさないように仰せ付けいただきたい。以上を恐れながら書付で願い上げ奉ります。(以下略)
○ 夫婦井横井の関立場所を決めることから始めたい。
この点については、宝暦年中入割の際に御裁許になっていることであるから、これと相違するような内容であれば承知できない、役所との交渉もあるので、まず全般についての仮議定書を見せてほしい。
常包横井以下の横井を苗田村の者が切り崩したことについては、苗田村から高松藩に詫書を入れる。 夫婦井横井掘割関立方については、木水道より烏帽子岩目当に真一文字に掘り割りする。岩薬師の川上に流水がある時には、羽間の中井手筋へ分水する、流水がなくなれば烏帽子岩から岩根右へ取り付け、横井を関立てる
夫婦井横井の関立てについては、宝暦五年の仰せ渡され書の通りに決まらなければ、私としては承知できない。井堰(横井)の場所の決定は私の権限外で、郷普請奉行の権限である。また仲裁人が現地を知らないでは話しにならない。仲裁人がが現地を見分した上で、仮議定書を再検討してほしい
○ 夫婦井横井は論所ではあるが訴状に含まれていない。見分するとすれば常包横井であるが、苗田側から仲裁人が出ているから見分の必要はない。
○ 夫婦岩の所は願書に書かれてないので、見分の場所ではないが、見分しなければ解決しないというのであれば、近く小豆島へ植付見分に渡海するので、そのついでに現地に行って見分しよう。仲裁の決定を日延し、帰村して十分に相談するよう
○ 現地視察をしなければ問題が解決しないという言い分はよくわかる。が、それをあくまで通そうとすると、倉敷代官が直接取り調べるというたいそうなことになる。そうなれば、文政四年六月に問題が起こった時、真光作左衛門が横井を立て直したこと、高松藩が仲裁を依頼した阿野郡南萱原村庄屋の治右衛門が、内済にするために烏帽子岩より五間下手にあった横井を、岩下手弐間半の所に築き直したこと、示談も整い内済になるべき所を、榎井村の半四郎と治右衛門が立ち入って仲裁が不調になったことなども表面に出て、最悪の場合には既得権利を失うことにもなりかねない。
高松藩の立場を心配しているようであるが、これは倉敷代官所から添翰を送って了解を求めるから、まず仮議定書に調印して仲裁を受け入れるようにしてもらいたい。仮議定書の文面は、正式の議定書に調印するまでに、交渉を続けて改定することもできるから。
内済議定証文讃州髙松御領分包横井切り放し候一件に付、炭所西村・長尾村・岡田村・吉野上村、右村々総代浄平・伊右衛門より、苗田村へ相懸り候倉敷御役所へ御訴証申し上げ、御吟味中に御座候所、備中国都宇郡下庄村庄屋忠次、那珂郡三ケ村立会年寄榎井村半四郎・治右衛門、倉敷郷宿猶田屋幸助、同戸田屋寿助立人、双方ヘ理解申し談じ、右横井切り放し候義は心得違いの段、詫書差し入れるべき所扱人噺請、詫書の義は御役所へ指し上げ候て、訴証方中分これなく納得仕り候、然る上は、右一件出来候訳は、夫婦岩水鯰岩の溜りに落入候用水、木水道へ取り来り候井路筋指し縫れの論中より事起り候義にこれ有り、右に付き今般王書等取り調べの上利解申し談じ双方至至極納得和融内済儀(議)定左の通り一 夫婦岩用水引方の義は、鯰岩通烏帽子岩より木水道へ一文字に横井掘り割り致す可き事但し年々掘り割り普請の義は、高松御領より取り計らい申す可く候、若大水にて右掘割埋まり候はば、是亦高松御領より早々修繕申す可く候一 岩薬師川上より流水これ有る節は、水掛り村役人立ち会い相談の上、中井手筋へ分水致す可く、流水これ無き節は、烏帽子岩より横岩へ取り付け、堰方致す可き事但し川上より流水これ無き節は、鯰岩・横岩、表手通り砂相坪し、洩れ水これ無き様致す可く、砂地故若し洩れ水これ在り候はば真土(粘土)を入れ、洩れ水これ無き様致す可く、尤も尚又烏帽子岩の内手砂地故、洩れ水これ在り候はば、前同様真土を入れ洩れ水これ無き様取り計ろう可く候、尤も両所共御普請の節は水組役人立ち会わせ、高松御領より取り計らい中す可き事一 烏帽子岩下手凡そ五間掘り割り、横井より中井手の間有形の通にて、手入致し間敷候一 川内井路筋掘り浚えの事は、指し支えなく高松御領より致すべき事但し指し掛り掘り浚えこれ在る節は、東高篠村へ掛け合い候て、同村より指し支えこれ無き様、早々取り扱かい申す可き事一 木水道洩れ水これ在る場所は、用水引元迄指し支えなく、高松御領分より修繕中すべき事一 用水掛け時の御普請井びに修繕の節は、出来高の上水掛り村々え、東高篠村より通達これ有る可き事、右の条々の通り、今般双方熟談内済和融致し候上は、向後違変致し間敷候、依て儀(議)定証文絵図相添えて、取り替せ中す所件の如し大草太郎右馬御代官所那珂郡苗田村東組庄屋 吉左衛門文政六来年八月年寄 弥右衛門同 十右衛門百姓代 喜惣太苗田村西組庄屋代 佐 市年寄 弥源太同 熊 蔵百姓代 治兵衛那珂郡東高篠村 庄屋 紋右衛門組頭 七郎右衛門百姓代 九右衛門同西高篠村兼帯四条村庄屋 勝 蔵西高篠村組頭 利八郎那珂郡大庄屋代 吉野上村庄屋 平 蔵同郡組頭四条村 浄 平鵜足郡大庄屋代長尾村庄屋 喜三右衛門同村組頭 伊右衛門右前書の通り銘々共に立ち入り、双方納得和融熟談の上にて、儀(議)定証文等調い候に付、奥書印形致し置き候以上備中国都宇郡下庄村庄屋 中心 次那珂郡三ケ村立会年寄治右衛門代兼 半四郎倉敷村戸田屋寿助代兼 猶田屋幸助右の通り今般高松領分より苗田村に相掛り候一件、和融内済仕り候に付、取り替せ儀(議)定写し井びに絵図面相添え願い上げ候以上大草太郎右馬様
内済議定証文讃岐髙松領分の包横井の破壊の件について、炭所西村・長尾村・岡田村・吉野上村の総代浄平・伊右衛門より、苗田村への提訴があった。この件について倉敷代官所で、備中国都宇郡下庄村庄屋の忠次、那珂郡三ケ村立会年寄の榎井村半四郎・治右衛門、倉敷郷宿猶田屋幸助、同戸田屋寿助が調停斡旋人となり和解調停作業が進められた。双方ヘの和解工作の結果、横井切り放しについては、苗田村の心得違いであり、詫書を関係村々に差し入れることになった。詫書の内容については双方が納得し、すでに倉敷代官所へ提出している。残る課題は、夫婦岩水鯰岩の溜りの用水、木水道へ取入口の位置についてである。これについては双方の言い分を良く聞いた上で以下の通りとりまとめた。一 夫婦岩用水の取入口については、鯰岩・烏帽子岩から木水道へ一文字に横井掘り割ること。但し、毎年の掘割普請については、高松領が行うこと。もし台風などの大水で掘割が埋まった場合には、高松領が修繕すること一 岩薬師の川上からの流水がある場合は、水掛りや村役人が立ち会って相談した上で、中井手筋へ分水すること、もし流水がない時には、烏帽子岩より横岩へ堰方を伸ばすこと。但し。川上より流水がない場合は、鯰岩・横岩附近を、表手で砂をならし、洩れ水がないようにすること。もし、砂地なので洩れ水がある場合には真土(粘土)を入れて、洩れ水がないようにすること。さらに、烏帽子岩の内手は砂地なので、洩れ水があれば、真土(粘土)を入れて洩れ水がないようにすること。この普請作業の際には、水組役人立ち会わせ、高松御領で行うこと一 烏帽子岩の下手の約五間を掘り割り、横井より中井手の間は手を入れてはならない。一 川内と水路筋掘り浚えは、高松御領が行う事但し、掘り浚えなどを行う場合には、東高篠村へ相談して、同村から差し支えがないことを確認してから作業に取りかかること一 木水道からの洩れ水がある場所から用水引元までは、高松領分でり修繕すること一 用水使用中に普請や修繕を行い場合は、下流の水掛かりの村々へ、東高篠村より連絡すること右の条々の通り、双方が内済融致した。その上は、これを破ることなく遵守しなければならない。以上について、定証文絵図相添えて、書面を取り替す。

A 天領の小松荘4ケ村(榎井・五条・苗田・西山)B 髙松藩の真野・東七ケ村・岸上・吉野・塩入C 丸亀藩の西七ケ村・佐文

「鵜足郡と那珂郡の間を流れる大川(土器川)筋の井堰を天領苗田村の者たちが切放し、夫婦横井の水を奪おうとした一件について、文政6未年4月2日から9月28日まで備中倉敷代官所で行われた仲裁交渉についての控」
○ 中井手用水は、古絵図にも見えている用水で、郷普請奉行が仕渡しているものであるから、岩薬師という所の上に流水がある時は、中井手用水に水を遣すこと、この水分けをする時には双方の村役人が立ち合って、騒動がないようにすること
○ 水流がなくなって、出水からの水だけになると、三つの村の者が川の中の水路を掘り浚えて木水道へ水を引くことになる。中井手筋水掛りの者が、横井を塞き立てたり、川端を切り開いたりしてはいけない
「勿論当村百姓共より申出候は、弥々右普請相止め申さざる時は、御役所表江御訴証も致し候段申出候云々」
「藩が郷普請で維持している横井を、数か所にわたって、しかも白昼に切り崩したのは、理不尽な暴挙である。厳重に取り調べてほしい。」
○ 佐岡夫婦井横井の川上にある常包横井は、石だけで関(築)立てる慣行であったのに、近年になって石関の上に筵や菰をかけ土砂を持ちこみ、手丈夫に関立て少しの洩水もなくなった、常包横井にならって川下の横井も同様に関立てるようになったので、佐岡夫婦湧出水の水が出なくなった、横井を切り崩したのはそのためである。
○ 木水道(埋樋)とその井路筋(用水路)の掘り浚えの普請は、高松藩側で行ってきた普請であるが、近年になって修繕してくれないので、苗田村へ水が届かなくなった。
○ 鯰岩の際の岩(烏帽子岩)の下手に横井を関立て、木水道へ水を引く慣行であったのに、近年になってこの横井を烏帽子岩の上手に関立てるようになったので、木水道に水がかからなくなった、6月26日に改めて岩の上手へ関立てたので、7月2日に異議を中し立てると、岩の下手に関立てた。この七、8日の間に大切な水を失った。このようなことがないようにしてほしい。
○ 常包横井は石関立というが、石だけで水を引くことはできない。常包横井のある場所は川幅が至って狭く、 一面岩滑の上に関立てるので、下敷はしだ(羊歯)であって、その上に川筋にある砂に川筋にある砂を持ちこんで石で関立ててあるが、延や菰は一切使用していない。この横井の普請は炭所西村・長尾村・吉野上村の村役人が立ち合って、究め(規約)の通りに運用している。大向興免、薬師横井、札の辻横井も石を使っているが、延や菰は使用しないので、洩れ水がないように塞きとめることはできない。6月10日の夜、これらの横井に水が充分にあったということは虚偽で、ほとんど水はなかった。
○ 大向荒川横井と大宮荒川横井は、ともに吉野上村が水掛かりの横井で、二つとも川幅の広い所に設けてある。そのため川幅一ぱいに関立てることはできない。水流に応じて流れこみの石や砂の上に横井を関立てて筵や菰をかけ、川筋の土砂を持ち掛けて仕立ててある。横井の下手30間(約55m)ほどの所に漏れ水が湧き出ている。常包横井以下の横井が関立方を改めたので、夫婦湧出水の水が出なくなったというのは、池御料(天領苗田)側の強弁である。
○ 近年になって、木水道や井路筋の普請をなおざりにしたというのは、池御料側の詭弁である。享和年中(1801~4)以来、用水路の掘り浚えは隔年毎に行っている。池御料関係の用水路426間(約775m)についても、人夫313人を使って、さらえと刃金(粘土)入れ普請を行っている。
○ 鯰岩際の横井の立場所については、特定の規約はない。川中の流れの様子により、適当な場所を選んで関立ててきた。池御料側が横井の仕置を下げるように主張するのは、現在の川の流れからみると、下げる方が有利であるからで「木水道の取り入れ日から烏帽子岩にかけて」というのが原則であると思う。

第一、方針戦局の推移は松根油の増産に関する既定計画の完遂のみに止まるを許さざるものあるに鑑み速かに拡充増産対策措置を強行し以て国内液体燃料の確保増強を図らんとす第二、目標昭和二十年度国内都道府県生産確保既定目標16万キロリットルを40万キロリットルに改訂す第三、措置第一次増産対策措置要綱の実施を強化するの外左の各項を実施するものとす一、松根の外、桧の根、針葉樹の枝葉樹皮等も本増産の対象となすこと二、所要労務に付ては農山漁村所在労務を動員する外農業出身工場労務者の帰農、農家の子弟たる国民学校卒業者の確保、中等学校学徒動員の強化等の方策を講じ以て不足労務の補填を図ること三、松根所在町村に対し所要の乾溜釜を速かに設置せしむること五、精製工場の急速整備を図ること備考二、松脂に就ても本要綱に準じ極力増産を企図し其の増産分は液体燃料用に振向くる如く措置すること
三、本件は外地に於ても強力に実施すること
①松根以外に、桧の根、針葉樹の皮、そして松油も対象とすること、②国民学校卒業生や旧制中学生の学徒動員など③配備が遅れている乾留釜の設置
「終戦の年の春からは、ほとんど学校には行かずに山に入って松の根を掘っじょった。
「朝日新聞 1945年8月4日(昭和20)「と(採)らう松脂、決戦の燃料へ」簡単に出来る良質油 本土到るところに宝庫あり。航空戦力の増強に重要な役割を果す液体燃料の飛躍的増産を目指すため政府では液体燃料増産推進本部を設置して航空燃料の緊急確保をはかることになった。航空機の食糧ともいふべきガソリン補給の遅速が直接本土決戦の勝敗を左右する。陸軍燃料廠本部では簡易な処理方法によって優秀な航空燃料が得られる①生松脂の生産を新たに採上げ、学童を動員して緊急増産に拍車をかける一方、一般国民に呼掛けて本格的増産運動を展開することになった、原油の南方依存が困難になった現在、アルコール、松根油等の国内増産はますます重要性を加へてゐる。②簡単な作業で誰にも容易に作れる生松脂はかけがへのない特攻機の優秀燃料として、総力を挙げてその増産を助長しなければならない、」
1945年8月12日の毎日新聞 「国歩艱難のとき、黎明をつげる松脂の航空燃料が登場した」特集「松脂戦線を行く」 千葉県松丘村(現・君津市)からのルポ村長は「松脂を採れ」の指令を受けるや(略)緊急常会を開いた、6月29日のことだ。
村長は「皆の衆、理屈は抜きだ。(略)この松脂がとてもいい航空燃料になるんだ。文句はあるまい、明日からでも採ろうよ」と説明し、村の松を全部開放して責任分担をした。
『サァ皆んで採らう 素敵な航空燃料 これで飛ぶゾ 友軍機も。
松脂の採集方法は、まず松の幹に眼の高さ程の個所から根元少し上の部分まで六、七十センチの間を幹の廻り三分の二位の幅で表面の樹皮を剥ぎとり、次に剥ぎとった部分の中央部に一本溝をつけ、ここに釘などを打って脂入れを取りつけ、この溝を中心に下の方から約四十五度の角度で溝を切りつけること、溝の深さは木質部に約一ミリ程入る程度に注意すること、方法はこれだけで、これだけやって置いたら次の日には約二十グラムは溜まっている、溝からは一日間より脂が出ないから二日目は前の溝の上の方約一センチの間隔にまた切口をつける、こうしておけば女子供でも毎日二十グラムは楽に採れるし、松は死にはしない、このようにして採った松脂を工場で水蒸気蒸留し、航空機燃料に加工するテレピン油を精製する。
①マツを伐倒して根を乾留する方法②樹皮から松ヤニを採取する方法
①「大きなマツからは松油をとった。男の青年団が鋸で松の幹に斜めに何段か切れ込みを入れ,タケの筒を樋にして下に小さなカンカンをつけると油がぽちぽちと落ちる。一晩でまあまあ溜まる。その油を集める作業は女子の青年団の仕事であった」
ここ下之郷(したのごう)東山の里山には、幹に矢羽根のような傷を受けて「松脂(やに)を採った跡のある木が数十本あります。第二次世界大戦末期、日本は戦闘機などの燃料(ガソリン)が不足していました。そのため軍部は松脂から航空機用燃料を作ろうと考えました。そして、松脂をとることを国民にすすめ。下之郷でも松脂採集組合をつくって大々的に集めました。(中略)
これらの傷をつけらた松は、大戦中の燃料不足を物語る「戦争遺跡」として今も生きているのです。」 上田市教育委員会
この松の傷は太平洋戦争が終わった年、昭和20(1945)年の6月頃、政府の指示で軍用航空機の燃料にするために松脂を採集した跡である。

①『翼賛壮年運動』の地元の翼壮は、他地区に負けまいとして誇張・強調し、②新聞記者は「モデル地区」に仕立てて全国に発信
タイトル 応召する三百歳の杉並木右上 松並木遠景左上 市長による斧入伐られた松には「供木 二宮松並木」とある
昭和一八年には、松根油をやることになった。ガソリンが底をついたんで、 松根油を航空燃料にということで、池田で講習会をやった。秋もおそうになったころじゃった。 実は、昭和八年、世の中がどん底になった時代に、何とかせなと思うて、自分と竹内昌平さんと二人でやっとったことがあった。二年ぐらいやったけど結局いかなんだ。そんな経験があったもんじゃきに町長から、お前手伝ってくれやということになって、国から(県かも知れんが)来た技師と一緒に元のちり焼場の所へ釜をついた。経験があったから、わしの言うように技師も反対せえへなんだ。もっともっということで、とうとう10基こしらえた。農業会の仕事で、わしらはそれを助けとったということです。県の西部モデル工場ということになり、私が工場主任。従業員は二十五人ぐらいで丸五の製材より多かった。軍需工場じゃきに、微用受けても、松根油の従業員だということですぐもんて来よった。

松根油の絵の構造を絵に書いてみた(上図参照)釜は、だいたい風呂の釜を据える要領で据え、煉瓦で二段になっとる。釜は蓋がついていて、万力を六か所(八か所か)つけて、しっかり締めつけるようになっている。釜の下から管が出て、いったん下に向かってタールを落とすようになっている。蒸気が上に上がり、水の入った冷却タンクの中を回って、テレビン油の受け口につながっている。冷却タンクの中を通るバイブは、新山でやっとったときは銅管を使ったが、昭和18年に銅が手に入るわけがない。初めは竹で妙げなことして、昔の水道の管みたいに、大きな木の枕(継手)こっしゃえて、直角の方向から枕に孔あけて、竹が両方から入るようにして冷却タンクの中を回したりしとったが、うまくいかんので、箸蔵寺の絵馬堂の屋根の銅板はいで、それでバイブ作って、冷却タンクの中をまわした。軍の命令じゃきん、何もかもれへんわで。松根(松を伐った後に残った根が一〇年以上も経つと油分を含んだ芯だけが残っている。これを肥松とか松根という。)を小さく割って釜の中に詰め、蓋をして万力で締めつけ、下のたき口から燃やす。燃料は松根を割ったときに出る脂分の少ない屑木を使う。どんどん燃やすと釜の中の松根が熱せられて油分が蒸気になり、下の管から出ていったん下がり、どろどろしたタールは蒸気にならず下の受け口に落ちる。油の蒸気は管の中を上にあがって、冷却タンクの中に入り、冷やされて液状になって受け口に落ち込む。冷却タンクの水は熱くなれば替えるが、一釜ぐらいはいける。
蒸留した液は、テレビン油といって爆発力はガソリンより大きいと言っていました。私が、昭和八年に松根油やりよるときは、松根油は船のローブを浸すのに使ったんじゃそうで、これに浸したロープにはカキがつかんというて買うてくれていた。テレビン油の受け口のところから出とる蒸気にたき口の火が飛んでよく燃えました。タールも、何か役に立ったんでしょう、持って帰りました。松根は、池田町の町内会へ割り当てて掘った。道具も、着るもんも、足元もないのに、あずってこしらえて、鍵掛の方から掘って来たんですわ。みな芋食うて、池田の町の山ほとんど掘ってしもた。国のためじゃ思やこそ、誰があんなことすりゃあ。あほらしい。
上等の松根一〇〇貫でテレビン油三升ぐらいしか採れなんだ。それに、タールが二斗ぐらい出た。十基あったが、松根がぼろじゃったら三升もとれん、一〇〇貫で二升や一升五合のこともある。去年やぐらい伐った松の根持って来たってどればぁあらえな。一日平均一〇基で一斗五升もできたでしょうか。松根油の工場始めてから、テレビン油は全部で、ドラムかん三十本ぐらいだった。持って帰ったのは二十本ぐらい。戦争すんでから、残りがどうなったか知るかえな。戦争負けたとき、野戦へも一緒に行っとった巡査の真野さんが、そばに居ったんじゃが、あれと二人で泣いたでよ。ほんと、あのときは、こんなに苦労したのにってくやしかったが、もう昔になって、松根油のこと知っている人も少なくなってしもた。

1944年3月、ベルリン駐在武官から軍令部(海軍)宛ての電報で「ドイツでは松から採取した油で航空機を飛ばしている」という情報が届いた。海軍はすぐに調査を始め海軍関係のほか林業試験場なども加えて検討し「松根油からのガソリン生産計画は可能である」として、国内年間消費量の1/3ほどの採油が可能と報告した。その計画に陸軍、農商省、内務省が乗っかり、10月20日には最高戦争指導会議で承認された。

「皇国決戦の段階に対処し山野の随所に放置せられある松根の徹底的動員を図り乾留方法に依る松根油の飛躍的増産を期するは刻下極めて喫緊の用務なるを以て、皇国農山漁民の有する底力を最高度に結集発揚し以て本事業の緊急完遂を企図し皇国戦力の充実増強に寄与せんとす」
皇国決戦の最終段階に対応するために、山野に放置されている松根を動員する。そして乾留方法で松根油の飛躍的増産を図る。現在は非常に重要な局面にあり、ことは緊急を要する。ついては、皇国の農山漁民の底力を最高度に結集発揚し、本事業の完遂を図り、皇国戦力の充実増強に寄与すべし。
「松根及松根油の生産は地方長官の責任制とする」
①松の立ち枯れた古木(樹齢50年以上)をさがしてし、松株を掘る。②伐根のノルマは 1 日 150~250kg③掘り出された松の根は、貯木場に蓄えられた後、小割材にしてカマス袋に入れ、乾溜缶(100 貫釜)に運ぶ。④釜の内部には中カゴがあり、この中にあらかじめ割砕した松根原料を詰める。⑤粘土と石灰を練り合わせたものを、釜と蓋の間に塗り込み密閉し、火を焚いた。⑥出てきた蒸気を冷却し、液体化した油分である「粗油」を改宗する⑦これを第一次精製工場で軽質、重質油に分け、⑧軽質油を第二次精製で水素添加して航空ガソリンにする
とに角この仕事に動員された人々は、ここでも滅私奉公を強要され、腹をすかしながら馴れぬ手に血豆を作り、死に物狂いで松根の掘り起しに従事した。先ず在来の松脂集めには、国民学校の生徒や、都市から農山村に疎開している婦人達が充当された。松根株集めには、鉄道の枕木、鉱山の杭木用に伐採されて全国の山野に放置されている推定八十億株の松の古株を第一目標にした。これが無くなれば次々に立木を伐採し、枝も葉も根も接触分解法や乾溜法の原料にすることになった。
旧石見町では中野茅場にまず松根油抽出工場が建ち、抽出釜6基を配置。田植えが済むと松根堀りに駆り出され、中野の松根油は検査の結果、島根県下最優秀油に選ばれ、軍部も目をつけるようになった。山口の徳山から技術者を呼び寄せ、工場は矢上にも建てられ、抽出釜は中野7基、井原7基、矢上6基を設置してフル回転。海軍省からは矢の催促と慰問、激励を受けた。そこで、村民あげての松根堀りになった為に、20基そこそこの釜では対応し切れず、根っこをそのまま大田や松江の工場へ運ぶほどだった。そのおかげで、島根県の松根油は海軍大臣より感謝状を贈られた。
「200本の松で航空機が1時間飛ぶことができる」「掘って蒸して送れ」「全村あげて松根赤たすき」

大戦末期の松根油の採集・増産活動は、松林の広域伐採を招き、これが敗戦後の山地荒廃を招いたとする説がある。しかし、実際にどれほどの松の木が伐採され、山地荒廃にどれほどの影響を与えたかは資料的に残っていない。文献資料を通じて、松根油生産の実態を可能な限り詳細に明らかにすることを目的とした。
①松根油生産は第二次世界大戦以前から生産が行われていたが、その生産は大戦末期に極限に達した。②松根油を生産する地域には偏りがあったが、大戦末期になるに従い、全国的に生産されるようになった。③過剰な松根油生産が山地荒廃につながる危険性が認識されながら、大戦末期には過剰な生産ノルマが設定された可能性が高い。④松根掘り取り過程に関しては、概ね生産ノルマが達成された。
⑤松根油生産が山地荒廃に与えた影響を検討するためには、対象地区を限った上で調査を行う必要がある。
当寺の初祖智證大師は、原田戸主長の和氣宅成の次男である。母は佐伯氏で、弘田郷領の出身で、弘法大師の姪である。嵯峨天皇の弘仁四年夏、母の夢の中で、日輪赫変が口に飛び入ってくるのを見て、授かった子である。そして翌年3月25日誕生した。生まれるときには、天中から声が聞こえ、南無大通智勝佛が唱えられ、眼は重瞳で、頂骨は隆起し覆盆のようで、肉髪に似ていた。宅成公は、この姿を見て奇相と思い、廣雄と名付けた。二歳の時に麻田に遊び入ると廻りが光明を発して光り輝いた。隣の里の人々までもが驚嘆した。三歳の春二月には、弘法大師が円珍を見て、その母に「あの子は非凡である」と告げたという。これを軽々しく捨て置く事はできない言葉である。ある日には童子八人が天から下りてきて、円珍と遊んだ。円珍は幼くして老成の趣があった。見識のある者は異才と思った。五歳の時、訶利帝母が現れ、次のように告げた。汝は三光の中の明星となれ。あなたは天子の精で、虚空菩薩の権化(生まれ代わり)である。私はあなたと多くの契りを交わそう。あなたは将来、佛法を興すことになる人物である。私は、あなたの庇護者となろう。七歳の時には、雲衣童子が現れて次のように云った。私は文殊大士の指示で、あなたが生まれる前から見守り、保護してきたと。八歳の時には、父が云うには。内典の中に、過去や因果を記した経典があると聞く。願わくば吾をして、習わしめんと
「A 母佐伯氏 B 故僧正空海阿閣梨之姪也」
「円珍の母は佐伯氏出身で、故僧正空海阿閣梨の姪である」


父親の願いを聞いて、驚くべきことにすぐに付箋をつけた。九歳の時に、師祖である伝教大師が亡くなられた。十歳の時、毛詩・論語。漢書・文選等を学び、多くの書物も読破し身につけた。十四歳の時、叔父の仁徳法師に従って上洛した。十五歳で叡山に登り、事座主義真和尚を師とした。和尚は円珍を見るなり、その器量を見抜き、心を尽くして善導した。そこで學んだのは、法華・金光明経などや天台宗章琉、などで、ほとんどを網羅したものであった。淳和天皇の天長九年、円珍十九歳で年分試を奉じ、三月十五日断髪、四月八日受戒し沙爾となった。その名は円珍。文字の意味は遠崖。この月二十一日に都を出て、二十八日に讃岐原田郷の自在王堂に還ってきた。留まること五ケ月で、深山山林原野の山林修行に入り、伽藍を造営し、仏像を彫った。。こうして道隆寺、宝幢寺、金剛寺、城山寺、白峰寺、根香寺、古水寺、鷲峰寺、千光寺などの伽藍を造営した。(注記)古記に曰わく、讃岐の智証大師開基の寺は17寺に及ぶと) 八月一日に讃岐を離れ、五日に入京。七日に叡山に帰った。
沙弥円珍年十九 讃岐国那珂郡金倉郷 戸主因支首宅成戸口同姓広雄
沙弥円珍は十九歳、讃岐国那珂郡金倉郷 戸主因支首宅成の戸籍 広雄
①円珍の本貫が 那珂郡金倉郷であったこと②戸籍筆頭者が宅成であったこと③俗名が広雄であったこと
貞観二年(860)、円珍が五色台の山の守護神の老翁に出会い、この地が慈尊入定の地であると伝えられた。そこで、補陀落山から流れついたといわれる香木を引き上げ、円珍が千手観音を作り、根香寺、吉水寺、白牛寺(国分寺?)、白峯寺の四ヶ寺に納めた。


綾姓第十一世は、原田戸主長者で和氣道善である。天平年間に原田中郷に移り住んだ。善公は、身なり正しく、三宝を信仰し、心から仏道に帰依した。暇さえあれば法華経を読んだ。賓亀五(774)年正月、等身の金輪如意像を作り、その身内に明珠子を入れて安置した。また道善公自からが仏像を彫って頂上佛とした。そして一堂を建ててこれを安置した。これを自在王堂と名付けた。平城天皇の大同四年十月に、長子の宅成に云うには中冬の初めに私は逝く。子はこれを記した。11月3日なって弥陀念仏を念じながら端坐して逝った。112歳であった。
道善公の弟が和氣道隆である。道隆は天平年中に、堀江に移り周辺に千株の桑を植えた。このため人々は桑園公と呼んだ。勝賃元年六月に、その桑樹の上で発光するものを見つけた。道隆公は妖怪かと驚いて弓矢でこれを射た。手応えを感じて樹下に確かめに行くと、そこには道隆の乳母が倒れていた。道隆公はこれを見て大いに悲しんだ。そして、桑の木を切って、冥福を祈りながら薬師如来の小像を彫った。小像が完成すると、乳母は生き返った。そして矢傷も見えなかった。これを見た者は、手を打って喜んだ。これ以後は、道隆公は世俗を離れ、一心に仏道に励み怠ることがなかった。延暦24年7月15日、道隆公は五輪塔婆を建立し、爾勒定で逝った。時に99歳であった。天長9年、智證大師が、道隆公の旧跡に伽藍を造営した。薬師如来像を自らの手で彫り、その胎内に道隆公の小像を入れ安置した。また道隆公の累代の菩提寺として妙見尊を奉り守護神とした。これを道隆公にちなんで道隆寺と号した。世間ではこれを桑多寺とも呼んだ。延應元年8月10日、道隆の子孫で道隆寺住職の朝祐は、金倉寺講衆から法華八講を学び修めた。それ以来金倉寺學頭一の学僧が招かれ、法事を執り行うしきたりとなった。
善茂の娘の珠妙尼は、性格が柔和で、俗事に染まらない気質を持っていた。幼年の時に、髪を落として尼僧となった。一生、勘行精進し、法華経万部を誦読し、一千部を写経した。和銅5年2月15日、父兄が先に逝き、追うように年若若く33歳で逝った。綾姓第十二世は、原田戸主長者の和氣宅成(円珍の父)である。寛容で思慮深い性格であった。京師に遊学し、四書五経などを学び、仏教にも接した。長く仏教を信仰してきた家として、なにか世間に役立つことをしたいと考えた宅成は、弘仁年間の初めに、父道善が建立した自在王堂を官寺とし、国衙から租税を支給されることを願うようになった。このことについて、何度か国衙に願いでたが許されなかった。そこで仁壽元年に、息子の円珍の護持を受けて願い出た。時の国衙役人は、円珍が天皇や公家たちから頼りとされ、深く帰依されていることを知っていた。そこで解状を書いて朝廷に奏上した。この年11月に下された庁宣には、次のように記されていた。讚岐國原田郷道善寺に下す。
寺領三十二町を自在王堂如意輪精舎(道善寺)に下す。この地は、善茂が開墾した地であり、伽藍は道善の建立したものである。大聖金輸如意尊は、出家した善甲が彫刻し、自在王としたものである。その聖胎の中には妙見珠が収められている。尊像も佛閣も、皇法護持の秘佛であり、國家繁栄の霊場である。よって解状の趣旨を受けて燈明料として国家の保護を与える。ついては、士利を募って、僧侶の衣食に充てよ。なお、すべての雑税を皆免する。ついては円珍を護持長吏として、皇祖長久、四海泰平を祈念させよ。これは是宅が望んでいた遺志に報いることでもある。齊衡2年2月14日、沐浴し着替え、弥陀念仏を唱えながら宅成は逝った。壽98歳であった。
伝えるところでは、智證大師は、唐越州の開元寺に留学中に、不動尊と訂利帝母が現れて、汝の父の死期が近い。我ら二尊が力を貸すので、今生の別れを告げてこいと。こうして二尊によって讚州原田郷宅成のもとに送り届けられ、最後の別れを遂げることができた。齊衡2年2月1日、大唐大中九年の事という。
綾姓第十三世は、原田長者の和氣善甑である。仁孝で、先志をよく継いだ。天安2年秋に、智證大師が当留学から帰国すると、この道善寺で一時生活した。甕公はこの地に移り住むことを望み、智証大師のために規模拡張工事を行い、貞観3年に造営完了した。多くの僧達が参加して、智証大師の下で落慶法要が営まれた。こうして、「(国分寺の)鷲峯(寺)台の嶺の秋月、鵜足山頭の壇場、蘭陀青龍寺の春華、道善寺賓房の薫堂」と並び称せられ、日夜香燈の光焔が絶えることがなく、菩提の気風が満ち満ち、朝暮の鐘の音が殷賑に響き、煩悩を感じることもなかった。道善寺の盛んなことかくの如し。

「現住権大僧都了春、博く旧典を取り、且その訣漏を補い、精選するところなり」
元禄2年(1689)寂本 『四国偏礼霊場記』元禄13年(1700)「覚」「金倉寺由来及び什宝書上げ」

前略讚岐國那珂郡の鶏足山金倉寺は、護法善神の出現する名跡であり、智証大師生誕の霊場でもある。その源を察するに、十二代景行天皇の第二皇子である小碓命(ヤマトタケル)は、魁偉で、身長一丈(=10尺=3mあまり)で、有智に長けて、力は鼎を持ち上げるほどであった。若い頃に父の天皇の命で、何度も東西の逆徒を討ち、内海を平定した。そこで日本武尊と呼ばれた。武尊には十四人の男子と一女がいた。長男が稲依別王、次男が足仲彦箪(仲哀天皇)、
三男が稚武王、四男が武卵王(たけかいこう)で、これが綾氏に始祖になる讚留霊王のことである。讃留霊王は、人に穏やかに接しながらも謀りごとに長けていた上に勇敢でもあった。成務天皇の時に西海に大魚が現れ大いに暴れ、民は苦しんだ。そこで天皇は武卵王に、これを討つように命じた。武卵王は熊襲の士を率いて力の限りを尽くして戦い、ついに大魚を讚州の海中で倒した。天皇はこの功績を讃え、武卵王を讚州の地に留めた。そのため自からを讃岐の国名にちなんで讚留霊公と称するようになった。また霊公の胸には「阿野(綾)」という二文字があったので阿野という姓を賜った。そして阿野の地で居住した。霊公には三男一女の子がいた。神功皇后40年9月15日に、125歳で亡くなった。聖武天皇帝年中に、高僧の行基が、霊公旧跡に法動寺を建立した。さらに延暦13年、法動寺を鵜足郡井上郷に移して、弘法大師が薬師如来と十二神将、四大天王像を自ら造って安置した。又五佛像・三屠賓塔も安置した。


(法勲寺造営の際には)讃岐國内の僧侶達は鐵筆で五部大乗典を陶瓦に彫り、霊公の墳墓を覆った。九月十五日には法華八講を唱え、霊公に捧げる。この功徳によって長らく凶事は起こらず平穏であった。このような平安を人々は法勲寺のお陰であるとした。桓武帝はこれを聞いて、勅して法勲寺を官寺として、官戸五百戸を寄進した。綾姓第二世は、綾鵜足と云う。周辺の開拓・開墾に努めたので、天皇は国造の称号を与えた。応神天皇の時には、拠点をここに移して、その地を鵜足郡と人々は呼ぶようになった。綾姓第三世は綾隈玉で、巨富を有するようになり、仁徳天皇8年に三井上郷に移った。綾姓第四世は綾真玉で、允恭天王26年に108歳で亡くなった。綾姓第五世、綾益甲である。允恭天皇27年7月7日の夜夢で、益甲が艮維涌泉で、その水底をのぞき見ると輝く玉が見えた。すると「この玉、取るべし」という声が聞こえてきた。目が覚めた後で、すぐにこの泉を探すと、その珠玉が見つかった。その大きさは五寸ほどで、星影を映し、螢のように瞬いた。そこで宝殿に安置し厚く敬った。それからは、霊験が次々と現れ、凶事は何事も起こらなかった。これを妙見尊と呼ぶようになった。
雄略天皇の時には 甕の麦酒を天皇に献上し、天皇から賞賛され、酒部黒麻呂長者という称号をいただいた。それは献上した酒が黒色だったからである。第5世は仁賢天皇九年八月十日に、105歳で亡くなった。綾姓第六世は、酒部鵜隈。綾姓第七世、那珂畝首領酒部成善。宣化天皇三年正月朔日夜に、妙見尊が成善小女に託して曰く、我宮を那珂郡の吉野郷に移せば吉兆ありと。そこで吉野郷に移住したところ開墾が大いに進み、天皇は那珂畝首領の称号を下賜された。達天皇九年正月十五日に、103歳で亡くなった。綾姓第八世は酒部善満長者という。
綾姓第九世は郡家戸主の酒部善里である。舒明天皇9年正月18日、妙見尊が再び信託を下し、原田東郷に移るべしと。これより以後は人々は、この地を郡家郷と呼ぶようになった。ここは郡主の居館のあったところである。ここで善里は沙門に仏教の教えの深きことを聞き、信仰するようになった。そこで小さな仏像を彫って常に髪の中入れるようにした。そして往生の志を持つようになったという。白鳳三年正月十一日に、奄爾は99歳で亡くなった。綾姓第十世は木徳戸主 和氣善茂と云う。
慈仁に深く、常に貧困者には施しをした。二男一女があり、白鳳14年正月朔日、妙見尊が、その娘に信託して曰わく、急いで原田西郷に移るべし。そこで原田西郷にすぐに移り住み、この地の経営に励み、日ならずして開墾の成果を収めた。そこで、原田西郷に寺院を建立し、自ら薬師如来立像を彫って安置した。その堂前後左右に杷木十二株を植えて瑠璃世界七賓行樹を表現した。朱雀元年五月には、疫病が流行し、死者が数多く出た。善茂はこれを憐れんで薬師如来仏に祈った。すると、堂前の枇杷の実が熟し、たちまち金鈴となった。善茂がこれを病者に食べさせると、一人として死者は出なかった。そこでこの枇杷の実を天皇に貢納した。
郷からその効能が伝えられると、天皇はかつてないほど悦び宣命を下して云うには、木の実は甘美で、人の氣力を高める効能がある。褒美に主領の地位を与えよと。こうして和氣善茂は木に縁があると、人々は木徳公と呼ぶようになった。そして、この地は木徳郷と称された。この年八月、木徳公の創建した寺院は金林寺と称され、荘田十二頃が寄進され官寺となった。 こうして宣命で讚岐國木徳金林寺は、和氣善茂が創建した寺院で、医王善逝應化の梵刹となった。天平十三年十二月十日、善茂は病もなく東方に向かって逝った。異香が室に満ち連日に渡って香った。綾姓第十一世は、原田戸主長者で和氣道善である。
天平年間に原田中郷に移り住んだ。善公は、身なり正しく、仏の三宝を信仰し、心から仏道に帰依した。暇さえあれば法華経を読んだ。賓亀五年正月、等身の金輪如意像を作り、その身内に明珠子を入れて安置した。また道善自からが仏像を彫って頂上佛とした。そして一堂を建ててこれを安置した。これを自在王堂と名付けた。平城天皇の大同四年十月に、長子の宅成が云うには中冬の初めに私は去る。子はこれを記した。11月3日なって弥陀念仏を念じて端坐して逝った。112歳であった。




「七堂伽藍、弐拾七之別所、百三拾弐坊之建立、末寺以七村為収巧之地」「仏閣僧坊甍をならへ、飛弾の匠其妙を彰し、世に金倉寺の唐門堂と云ふ」
七堂伽藍が整い、27の別所を擁し、132坊が建ち並ぶ、末寺は周囲七ケ村に散在する仏閣僧坊が甍を並べ、飛弾の匠が技術の粋を尽くした門は「金倉寺の唐門堂」と呼ばれた
「唯今之通二伽藍大破致居申候而者御法事難相勤」いとして、「伽藍造立之上、右御法会修行申度」いので、その資財として「人別奉加両年分御免被下候様」
「現在、伽藍が大破しており(智証大師850年忌の)法会が勤められないような有様です。伽藍を造立した上で、御法会を行いたいと思います。つきましたは、その資財集めに「人別奉加(寄進活動)を2年間行う事を許可してください」

天明7年(1787)に900回忌天保11年(1840)に950回忌明治23年(1890)に1000年忌
「金倉寺村・原田村等二寺跡数多御座候得共、百姓屋敷又者田畑二罷成、尤寺号も俄に知不申」
ここにはかつては、金倉寺村や原田村に、末寺や塔頭などが数多くあった。しかし、それも今では百姓の屋敷や田畑となっている。寺号も知ることができない
①鎮社六含講(「□鎮社六會講寄進」)②長栄講」(「明治長栄講元掛金并二朱分請取通」)③五穀成就牛馬堅固御祈予壽永代講④「訶利帝母講」(版木14)
「領内壱郡一箇所、大内郡虚空蔵院、寒川郡志度寺、三木郡八栗寺、山田郡屋島寺、香川東阿弥陀院、香川西地蔵院、阿野南国分寺、阿野北白峯寺、鵜足郡聖通寺、那珂郡金倉寺、右真言。天台十箇寺二、使寄附本尊愛染明王并五大虚空蔵之図像、祈願毎年五穀成就焉」(「続讃岐国大日記」『香川叢書』第二、1941年)
当郡百姓共農具、毎歳三月廿一日善通寺会式二而調来申候所、時節遅ク百姓共木綿作仕付ニ指支迷惑仕候、依之金倉寺境内明年より毎歳三月二日・三日農具市企申度奉存候、右善通寺他領之義二御座候間、何卒御領内二而農具市出来仕候得者、売買之百姓共万々勝手之儀も御座候、其上早ク相調候二付、手廻克罷成候義二御坐候間、右願之通宜被仰上相済候様被仰付可被下候、已上 (1-24-6「目次 宝暦七丁丑年二月」)
那珂郡の百姓たちは毎年3月21日に、農具を丸亀藩領の善通寺の会式で調達しています。しかし、3月では作付け時期には遅れがちで百姓たちの木綿作り支障をきたしています。そこで金倉寺境内で来年から毎歳3月2日・3日に農具市が開催できるようになれば、百姓たちにとっては大変助かります。善通寺は丸亀藩で他領の地です。何卒、領内で農具市が開催でき、しかも今までよりも早く農具を調達できます。この件についてご検討いただけるようにお願い致します、已上
「初発之儀人出も難計間、境内賑合市成就之ため、前々之通芝居等興行申度」
「農具市は初めての開催なので、どれだけの人がやってきてくれるか心配です。つきましたは、集客のために境内で市や芝居などの興行を許可していただきたい。
「善通寺市を此方引移シ申事、彼院へ対シ候而も寺より何角取計候而芝居等願申事不宜」
「善通寺の農具市を金倉寺へ引移して行う事を許可した経緯を考えよ。善通寺への配慮を金倉寺も行うこと。また芝居開催などは認めない」

①讃岐國の国領地の金倉郷が、智証大師円珍ゆかりの地という由縁で園城寺(三井寺)に寄進されたこと②寄進の際に官宣旨がだされ、さらに綸旨によって保証されていること。③寄進が在地領主によるものではなく、朝廷の意向によったものであること
「讃岐國金倉上庄公文職事右沙弥成真を以て去年十月比彼職に補任し畢んぬ。成真重代の仁為るの上、本寺の奉為(おんため)に公平に存じ、奉公の子細有るに依つて、子々孫々に至り更に相違有る可からずの状、件の如し。弘安四年二月二十九日 寺主法橋上人位学頭権少僻都法眼和尚位 (以下署名略)
讃岐國金倉上庄公文職について沙弥成真を昨年十月にこの職に補任した。成真は何代にもわたって圓城寺に奉公を尽くしてきた功績を認めて、子々孫々に至りまで公文職を命じる。弘安四年(1280)2月29日 (圓城寺)寺主法橋上人位学頭権少僻都法眼和尚位
当寺再興の御沙汰頂き、□□天下安全御家門繁栄御所祥精誠□□当寺は、智證大師誕生の地で(中略) 金倉寺周辺の武士たちは承久の変の際に、京に参上せずに天台顕密修学に尽くしていました。そため乱後の処置で、地頭に「小笠原二郎長」が任命されてやって来て、多くの土地を没収しました。この間、衆徒たちは反抗したわけではないことを何度も申し披(ひら)き、正応六年になってようやく地頭を取り除くことができました。しかし、やってきた地頭の悪行で、堂舎佛閣のほとんどが破壊されてしまいました。その上に徳治3(1308)年2月1日、神火(落雷)のために、金堂・新御影堂・講堂が焼失してしまいました。それから30余年の日月が経過しましたが、金倉寺の力は無力で、未だに再興の目処が立たない状態です。(以下略)
「七堂伽藍、弐拾七之別所、百三拾弐坊之建立、末寺以七村為収巧之地」「仏閣僧坊甍をならへ、飛弾の匠其妙を彰し、世に金倉寺の唐門堂と云ふ」
七堂伽藍が整い、27の別所を擁し、132坊が建ち並ぶ、末寺は周囲七ケ村に散在する仏閣僧坊が甍を並べ、飛弾の匠が技術の粋を尽くした門は「金倉寺の唐門堂」と呼ばれた
法幢院之講田壱段少 大坪拾ケ年之間可有御知行年貞之合五石者右依有子細、限十ケ年令契約処実也。若とかく相違之事候者、大坪助さへもん屋敷同太郎兵衛やしき壱段小 限永代御知行可有候、乃為己後支證状如件。金蔵寺 法憧院 賃仁(花押)明応四乙卯十二月廿九日澁谷殿参
法幢院の講田壱段少について 大坪(良(吉)田郷石川方の百姓太郎二郎と彦太郎の二人が)納入する知行年貞米を毎年五石、十ケ年に渡って(渋谷殿)に納めることを契約する。もし、違約するようなことがあれば大坪助左衛門の屋敷と太郎兵衛屋敷の一段小を抵当に入れて、永代知行(譲渡)する。乃為己後支證状如件。金蔵寺法憧院 賃仁(花押)明応四乙卯十二月廿九日澁谷殿参


法憧院々領之事一町九段小
①供僧二町三段大 此内ハ風呂モト也 是ハ③学頭田也 護摩供慶林房三段六十歩、支具田共ニ支具田ハ三百歩一段ナル間、ヨヒツキニンシ三段六十歩アル也 己上岡之屋敷二段 指坪一段已上 五町四反余ァリ
永正六年八月 日 一乗坊先師良允馬永代菩提寄進分一、②護摩供養 慶林坊 三段半此内初二段半者六斗代支供田ハ四斗五升也一、④岡之屋敷二段中ヤネヨリ南ハ大、東之ヤネノ外二小アリ中ヤネヨリ北ハ一反合二反也
法憧院の院領二町九段小について供僧管理下の土地は二町三段大で、これは風呂もとにあり、学頭田である。②護摩供養田は慶林房の抵当となっている三段六十歩、支具田は三百歩一段、ヨヒツキニンシ三段六十歩、上岡屋敷の二段、指坪の一段 以上合計で 五町四反余が法憧院の院領である。
永正六年(1509)8月
一乗坊の先師良允馬の永代菩提寄進分 護摩供養 慶林坊三段半この内初二段半は六斗代支供田、ハ四斗五升也、岡之屋敷の二段中は屋根から南は大、東側の屋根の外に小ある。中屋根より北は一反合二反である
① 善通寺の寺内や坊には軍勢・武士たちが寄宿することのないようにすること。② 寺僧が弓や箭兵杖などで武装することは、以後は認めない。③ 寺領や免田等に対しての地頭や御家人たちが押領を停止し、寺領を保護すること④ 善通寺諸方免田について、寺内に居住しない俗人や武士が所有することを禁止する。
⑤ 今後は、寺領免田の知行者については、非俗人で、寺内に居住する者に限定する。⑥ 寺務については、勧行や修造に傾注すること⑦ 境内での乗馬は、今後は禁止する⑧ 境内での殺生、山林竹木を勝手に伐り取ることは先例通り禁止する⑨ 徴税などのために守護使はこれまで通り寺領に入らせない。
上金蔵の段銭の事、おんとリニかけられ申す候事、不便に候よししかるへく申され候、不可然候、定田のとをりにて後向(向後力)もさいそく候へく候、恐々謹言。
二月九日 (香川?)元景(花押)
三嶋入道殿

A 下金倉(中津)=上金倉村 + 金蔵寺村B 上金倉 =丸亀市金倉町 + 善通寺金蔵寺町
諸津へ寺修造時要却引附 金蔵寺当寺大破候間、修造仕候、如先例之拾貫文預御合力候者、可為祝著候、恐々謹言、先規之引附宇足津 十貫多度津 五貫堀江 三貫
諸港へ 金倉寺の修造費用の寄進依頼 金蔵寺より当寺は(大嵐で)大破したので修理が必要です。ついていは先例の通り寄進に協力していただければ幸いである。恐々謹言、なお先例の寄進額は以下の通りです。宇足津 十貫多度津 五貫堀江 三貫

当時、細川氏の政所が置かれた宇多津の僧侶が4名、その背後の羽床羽床郷の西迎寺坊中、同郷大野村住の僧侶の名前があります。第493・588を写経した金剛佛子宥海と、第571巻写経の金剛仏子宥蜜には「金剛」がつくので真言系密教僧(修験者)であり、名前に「宥」の一字がありますので同じ法脈関係にあったことがうかがえます。①巻第四百七・四百九 讃州安国寺北僧坊 (宇多津) 明俊②巻第五百十七 如幻庵居 (宇多津) 比丘慈日③巻第五百二十七 讃岐州宇足長興寺方丈 (宇多津) 恵鼎④巻第五百二十八 讃州長興知蔵寮 (宇多津) 沙門聖原⑤巻第五百五十三 讃州綾南条羽床郷西迎寺坊中(羽床)⑥ 同郷大野村住(不明) 金剛佛子宥伎⑦巻第五百七十二・五百七十三 讃岐國仲郡金倉庄 金蔵寺南大門大賓坊 信勢
本島の正覚寺の大般若経 表紙見返し①文和4年(1355)に写経事業が始まり、延文二年(1358)年頃には全巻完成②那珂郡下金倉の惣蔵社に奉納③約130年後の延徳三年(1491)に、道隆寺の僧が願主となって、大般若経全巻を折り畳み、巻物から旋風葉にスタイル変更④永享7年(1435)に破損巻を、那珂郡杵原宝光寺(退転)の慶宥が写経補充⑤慶宥は三宝院末弟とあるので真言宗醍醐寺系の寺院に関係ある僧侶
「讃岐国金倉下村 惣蔵社御経 延徳三年(1491)六月二十二日」

「讃州多度郡於道隆寺 宝積院 奉折如件」
①賀茂社摂津国米谷荘、播磨国安志荘・林田荘、備前国山田荘・竹原荘、備後国有福荘、伊予国菊万荘、佐方保、周防国伊保荘、淡路国佐野荘。生穂荘
②鴨社長門国厚狭荘、讃岐国葛原荘(多度津)、安芸国竹原荘、備中国富田荘、摂津国小野荘

古代から中世の神社において、社家に仕えて神事、社務の補助や雑役に当たった下級神職・寄人である。社人(しゃにん)ともいう。①神人は社頭や祭祀の警備に当たることから武器を携帯しており、僧兵と並んで乱暴狼藉や強訴が多くあったことが記録に残っている。このような武装集団だけでなく、②神社に隷属した芸能者・手工業者・商人・農民なども神人に加えられ、やがて、③神人が組織する商工・芸能の座が多く結成されるようになった。彼らは神人になることで、④国司や荘園領主、在地領主の支配に対抗して自立化を志向した。上賀茂神社・下賀茂神社の御厨に属した神人は供祭人(ぐさいにん)と呼ばれ、近江国や摂津国などの畿内隣国の御厨では⑤漁撈に従事して魚類の貢進を行い、琵琶湖沿岸などにおける独占的な漁業権を有していた。石清水八幡宮の石清水神人は淀の魚市の専売権、水陸運送権などを有し、末社の離宮八幡宮に属する大山崎神人は荏胡麻油の購入独占権を有していた(大山崎油座)
「櫓(ろ)・悼(さお)・杵(かし)の通い路、浜は当社供祭所たるべし」「西国の櫓・悼の通い地は、みなもって神領たるべし」
(神人船の)櫓(ろ)・悼(さお)・杵(かし)がおよぶ航路や浜は、当社の供祭所で、占有地である西国(瀬戸内海)の神人船の櫓・悼の及ぶ地は、みな神領である」
①葛原荘(多度津)が京都の加茂神社の荘園となり、分社が勧進された。②同時に御厨として、海産物の神饌貢納のために「神人」が堀江に定着するようになった。③堀江の神人達は、排他的操業権や水上交易の交易を握り、瀬戸内海交易の拠点とした。④その結果、多度郡の港は弘田川河口の白方から金倉川河口附近の堀江へと移った⑤葛原荘は、賀茂神社の勧進によって北鴨・南鴨と呼ばれるようになった。⑥京都の鴨神社の荘園となった葛原荘の堀江は、丸亀平野の拠点港として機能するようになった。

①鎌倉時代末期の嘉元二(1304)年に、領主の堀江殿が入道して本西と名乗ったこと。②那珂郡鴨庄下村地頭の沙弥本西(堀江殿)は、道隆寺を氏寺として崇拝する理由を、藤原道隆と善通寺の善通は兄弟だからだ答えたこと③兄の善通が多度郡に善通寺を建てたのを見て、仲郡に道隆寺を建立したこと。④ふたつの寺が薬師如来を本尊としているのは、兄弟建立という理由によること。
①堀江港の管理センター的な役割を担わさせること②交易活動を通じて、塩飽諸島や庄内半島にいたるまでの寺社を末寺化していくこと
「仲・多度・三野郡・至塩飽島末寺ノ衆僧 集会ス」
①14世紀前後に、一宮・荘郷鎮守などの有力寺社が周辺の小規模な村堂を末寺化していく②郷村の寺院同士が造営や大般若経写経などを「合力しあう連帯」して取り組むようになる③その連帯関係は、祖先崇拝や地蔵信仰など、地域の上層農民の信仰を基盤に成立していた






A 奈良時代まで遡る可能性がある八葉複弁蓮華文軒丸瓦B 平安時代前期に属する軒平瓦C 平安時代後期から鎌倉時代に属する軒平瓦。

①玄室の奥から後世(8世紀前半頃の須恵器と9世紀前半頃)の須恵器(壷)が出土した。②開口部には河原石が集めて積まれ、その周辺では火を焚いた跡がある。③ここからは後世に何者かが閉塞石を取り除いて玄室に入って、何かの宗教的行為を行ったと推測できる。④そのために玄室の副葬品を羨道へ移動させ、行為が終ると再び閉塞石を戻した⑤開口部の焚き火についても、この宗教行為の一環として行われたのではないか
「石室は小振りではあるが構築状況は見事」玄門部には両側に扁平で四角い巨大な自然石が対象に置かれ、見事な門構造を呈している。
5箇所で墳丘の断面観察を行ったが、小規模な後期古墳としては極めて丁寧な版築土層に当時の高度な土木技術の一端を垣間見ることもできた。
本墳の見事な玄門構造及び中津山周辺に分布する後期古墳の形態等から、この地にこれまで余り知られていなかった九州文化系勢力が存在していたことを如実に示す資料として注目される。



「高坏という高い脚のついた大きな盆につまみのある蓋付の容器が7つ載せられています。茶碗形をした部分は高坏と一体で作られており、複雑な構造をしています。須恵器は登り窯をつかって高温で焼きしめることにより作られた焼き物で、土器よりも硬い製品です。この須恵器は亡くなった人に食べ物を捧げるため古墳に納められたもので、実際に人が使うために作られたものではありません。5世紀に朝鮮半島を経由して中国風の埋葬法が伝えられると、多くの須恵器を使って死者に食べ物を捧げる儀式がととのい、こうした埋葬用の容器も製作されるようになりました。いろいろな種類の食べ物を捧げ、死後も豊かな生活が続くことを願った古代の人々の暖かな気持ちを、この作品から読み取ることができます。(https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/533792)



① 「白鳳時代の寺院跡」である「弘安寺跡」から約500mしか離れていないこと② 土器川対岸の中津山には安造田古墳群など中・後期古墳が群集すること
①床面部に柱穴跡がないので、柱材は床面に据え置かれていた②竃(カマド)は、北壁面の北東隅部寄りの位置。③煙道部の上部構造の一部は、原形を保っていたが、燃焼部、器設部各上部構造は完全損壊④燃焼部と器設部は、高さ約15cmの下部構造が保存⑤下部構造の基底部の規模は、原形は幅約50cm、 奥行き約80cm、 高さ約50cmの規模⑥煙道部は、住居側が地下構造
①カマドの前において調理された小型平底鉢
②食器の一種としての把手付鉢、平底鉢
③カマドにかけて湯沸かしに用いられた長胴甕
④カマドにかけられた羽釜(はがま)
⑤大人数のために煮込み調理などがなされた鍋
⑥厨房道具としての移動式カマド
⑦蒸し調理に用いられた甑(こしき)
⑧北方遊牧民族の調理具である直口鉢(?ふく)
⑨カマド全面を保護するためのU字形カマド枠



①50は、口縁部がラッパ形に開口する大型品である。②51の外面には、 2本の斜線で構成された大小2種類のV字形の線刻文が施されている。③53と54の原形は、長胴の形態が考えられる。④58は、口縁部から把手の接合部までが均整のとれた円筒型の形態である。(→甑)⑤60は、縁端部が外側の下方向に折り曲げられた後に、先端部が器壁に接着されないままで成形を終えている。⑥61は全体の器壁が一定の厚さで精巧につくられた資料で、特に口縁部が明瞭な稜線が形成されるように丁寧に仕上げられている。⑦63と64は65~72に比べて、口縁端部が内側へ折り曲げられるように成形されたために、同部が垂直気味の形態を示す。
調査報告書は、2007年に書かれているので「 韓式系軟質土器」という用語はでてきません。⑧73~87は、かえし部が短い器形で、同部の内側への傾斜角度が大きい特徴がある。⑨88の口縁部外面には、矢羽状のタタキロが認められる。⑩89の片面には金属のヘラ状工具で鋸歯文と斜格子文が線刻されている

①5世紀初頭 河内湖南岸の長原遺跡群で開発スタート②5世紀中葉 生駒西麓(西ノ辻遺跡、神並遺跡、鬼虎川遺跡)、上町台地(難波宮下層遺跡)へと開発拡大③5世紀後葉以降に、北河内(蔀屋北・讃良郡条里遺跡、高宮遺跡、森遺跡)へ進展


A海岸線 当時は現在の標高5mの等高線が海岸線であったB岡田台地 丘陵上で近世までは台地だったC旧金倉川流路の琴平→善通寺生野→金倉寺の氾濫原D土器川の氾濫原
①土器川は、木崎を扇頂に扇状地を形成している②吉野には、旧金倉川も含めて網状河川が幾筋にも流れていた。③吉野は、洪水時には遊水池で低湿地地帯(葦野)であった。④そのため条里制適応外エリアとされた。




⓵2号墳は径約16mの円墳で、その出土遺物から6世紀前半頃の築造。⓶3号墳は径約10mの円墳で出土遺物から2号墳より遅れて6世紀末頃の築造③3号分の石室内は中世頃住居として使用されたために攪乱していて埋葬面はよくわからない④下層で小礫を敷詰め1次の埋葬を行ない、さらに追葬の際、平坦な面を持つ人頭大程度の砂岩て中層を敷き、下層よりやや大きめの小礫で上層を形成したようである。⑤玄室規模は長さ3、75m、幅1、85~1、95mと目を引く規模ではない⑥石室内からは金鋼製の辻金具を含む豊富な鉄製品や馬具が出土
126~135は鉄尻鏃126~128は鏃身外形が長三角127・128は直線状。128は大型。129は鏃身外形が方頭形130は鏃身部が細長で、鏃身関部へは斜関で続く131~133は鏃身外形が柳葉形で鏃身関部へは直線で続く。
133は別個体の鉄製品が付着134・135は鏃身外形が腸快の逆刺136~130は小刀と思われるが、いずれも破損
140に木質痕が認められる。146は鎌。玄室最上層の炭部分から出土147~149は、か具である。148は半壊、147・148は完存。形が馬蹄形で、 3点とも輪金の一辺に棒状の刺金を掘める形式
150は轡と鏃身外形が方頭形で、鉄鏃2本が鉄塊状態で出土151・152も轡。155は半壊した兵庫鎖。153と154は、その留金。153は半壊。156は断面が非常に薄く3ヶ所の円形孔が認められる。
157は4ヶ所の鋲が認められる。159は楕円形の鏡板で4ヶ所に鋲がある。160は平面卵形で、断面が非常に薄い。161・162は辻金具。161は塊状で出土しており、接続部の金具は衝撃で3点は引きちぎれ1点も歪んでいる。いずれも金銅製。

A 青ノ山号墳は6世紀中葉築造の横穴式石室を持った円墳B 王墓山古墳は6世紀中葉築造の横穴式石室を持った前方後円墳C 長佐古4号墳は6世紀後半築造の横穴式石室を持った円墳
これらの小古墳の被葬者は、渡来系の馬飼部であると同時に軍事集団のリーダーであった可能性があるという視点で見ておく必要があります。大川町大井七つ塚1号墳 第2主体と第4主体高松市夕陽ケ丘団地古墳綾川町浦山4号墳観音寺市上母神4号墳同 黒島林13号墳同 鍵子塚古墳



①『複室構造』を持った安造田神社前古墳②「一墳丘二石室」の佐岡古墳③阿波美馬の『断の塚穴型』の石室構造を持った断頭古墳と樫林清源寺1号墳④日本初のモザイク玉が出た安造田東3号墳

「ドーム状石室は、徳島県美馬の段の塚穴古墳があり、当古墳はその流れを組むのではないかと考える。」
特異な須恵器及び土師器碗の出土から本古墳の被葬者は、近隣の文化とは異なった文化をもつ集団の長であったのではなかろうか。




①麻植郡の忌部山型石室は、忌部氏の勢力エリアであった②美馬郡の段の塚穴型石室は、佐伯氏の勢力エリアであった。

①ドーム型天井の古墳は、6世紀中葉に登場し、6世紀後半の太鼓塚で最大期を迎え、7世紀前半には姿を消した。②同じ形態のドーム型天井の横穴式を造り続ける疑似血縁集団(一族)が支配する「美馬王国」があった。③樫林清源寺1号墳は7世紀初頭の築造なので、太鼓塚より少し後の造営になる。

かじやの久保(風呂塔)から金丸、三好、滝倉の一帯は古代銅産地として活躍したと思われる。阿波の上郡(かみごおり)、美馬町の郡里(こうざと)、阿波郡の郡(こおり)は漢民族の渡来した土地といわれている。これが銅の採掘鋳造等により地域文化に画期的変革をもたらし、ついに地域社会の中枢勢力を占め、強力な支配権をもつようになったことが、丹田古墳構築の所以であり、古代郷土文化発展の姿である。


「積石塚前方後円墳・出土土器・道路の存在・文献などの検討よりして、阿波国吉野川中流域(美馬・麻植郡)の諸文化は、吉野川下流域より遡ってきたものではなく、讃岐国より南下してきたものと考えられる」
①第一次世界大戦前後の麦稈真田の輸出額は、神戸港ではベスト10に入っていた②工場で作られた品質の良い麻真田の出現で、麦稈真田は安値低迷に苦しんでいる③麦稈真田は農家の副業のために、品質向上などへの取り組みが弱く競争力に劣る④このような状況が麦稈真田の未来を危うくしている。
麦稈真田が海外輸出商品としての地位を得るようになって二十年余りが経過した。(中略)麦稈・経木真田の現況は、第一次世界大戦勃発以前に既に憂うべき数字を示していた。その上に戦乱の影響で、さらなる苦境に立たされた。これについては、世界大戦という未曾有な混乱が原因で、内地生産だけを原因とすることはできない部分もある。しかし、この機会にこそ自ら省みて挽回と発展の策を講じ、力を尽して本業の将来を繁栄へと導かなければならない。麦稈真田産業が今日の発展を為し得た要因を挙げると、次のようになる。①先覚者の研究苦心に負う所が多い②製造方法が手仕事で、我が邦人天賦の技巧に適し、初期投資が少ない③原料の麦稈を最安価に自給できたこと④広く山間僻村で生産が行われ、安価な労働力が豊富にあったこと
世界には、低価格の支那真田、技術精巧な伊太利(イタリア)、仏蘭西(フランス)、瑞西(スペイン)製品などの強敵が控えている。日本の麦稈真田産業の発展は、販路の拡張、技術向上、製品改良などにかかっている。今回の調査で得た研究資料の概要を述べたい。麦稈真田の生産組織を一言で云うならば「農村における婦女の副業」である。この麦稈真田産業は工場生産ではなく、農家の副業として製造されてきた。そのため原料は、農家自身が栽培する麦稈を利用し、各農家が随時随所で簡単に加工した。それが農家の副業としては最適な産業であったと云える。従事者の年齢は、12歳以上20歳未満の少年・少女が成人以上に当動力として利用せれている。生産に割かれる時間は、児童の遊戯時間、老人の座談、閑居に空費する時間、家婦の不生産的消費時間なども活用できる。さらには広島県呉市や福岡県八幡市では、各種職工の家族の授産事業としても運営されたり、岡山、香川では小漁村の救済事業として行われているところもある。まさに勤労の美風、風教の改善などにも好影響を及ぼしている。
麦稈真田生産は、初期設備投資がほとんどいらず小資本で起業できる点が工場生産とは異なるところである。しかし将来のことを考えると、製品改良、技術向上、原料精選などに努めるとともに、消費者に好まれる製品を作り、購買心を刺激しないと麦稈真田の発達はないと云える。業者もその点を分かっていて、多品種化や品質向上などに努めているが、それが欧米人の趣味嗜好にマッチしていないことがある。さらに問題なのは、生産に従事する者の多くは、麦稈真田が国際的な貿易商品であることを理解していないことことである。そのため市場が好況になってよく売れれば粗製乱造に走り、不況で生産が落ち込めば、生産を放り投げてしまう。このため次のような弊害が放置されていることが各県からは報告されている。①製造後、短尺(「尺切のこと」)が混じっている(製品チェックの不備)②組流れを、そのまま製造している③幅員が不揃いなもの④乾燥が不充分なために腐蝕を招くもの⑤生産組合の規定である八列九重の仕立方を省略して短尺を図るもの⑥引延ばすもの⑦汚損したものを出荷するもの⑧穴が空いているものを出荷するもの⑨不良原料を使用したために、製品に欠点がでること、これらの弊害の原因は次の2点に起因する。A 生産者が故意に不正し、利を得ようとするものと、B 生産者の技術拙劣から来るものこの弊害を更に助長するのが、流通ルートの欠陥である。この改善のためには、まず生産者に対する適切な技術指導と、買い取り方法の改善が求められる。次に生産組合による自主的な取締活動が求められる。指導・取締については、とりあえずは農商務省令の発布の条項に従って行えば良い。
麦稈原料の採取や加工方法は、直接に製品に影響を及ぼす問題である。例えば、麦稈の採取、加工について香川・岡山県は、生産組合の活発に活動して改良に勤めている。また天候や風土によって、刈取時期、野晒方法、撰別、号別などが適当でないために生ずる欠点や弊害も多い。原料の麦稈を自分で栽培せずに、他地域から買い入れている福岡県、広島県の一部、山口県などでは、製造家が粗悪原料の使用を余儀なくされているとの報告もある。原料生産地には、改良改善に充分な注意が求められる。特に経木の場合は原料加工、晒白などが採取地の山村で、経験に頼って行われている状態なので、薬液の定量を誤って腐蝕を招く例もあった。原料採取に従う者に対して製造方法を指導し、指示された基準・手順で生産するようなシステムを強制的にも形作っていくことは製品改良の上で必要なことである。 真田の網製は誰にでも簡単に習得できる。そのため未熟者の製造したものが市場に出回ることも多い。常に技術の向上を図り、訓練する必要がある。
真田製造は手指による手工品なので、作る人の人格や観念が知らず知らずのうちに、製品に反映する。例えば中流農家で作られた麦稈真田は、下層農家に比べると入念に作られたものが多いように思える。これは従事者の価値観や世界観の現れであろう。現場の生産者に対して、麦稈真田が国際商品であり、我が國の主要輸出品たることを知らしめなければならない。製品の良否はひいては、我が国の国力の伸長にも関わることを自覚させることが求められている。以上については、なかなか実行するのが難しいものもあるが、既に実行されて効果を上げている例として次のような活動がある麦稈青刈の奨励品評会の開設同業組合に於ける毎反検査の講評特技者の表彰協議会の開催技術講習会巡回指導員の設置府県試験場でのその地方に適当な品種や加工法の研究指導府県市町村だけでなく、同業組合と連携を図りながら進めていくことが要点である。
真田の買い取りについては、生産農家が景気動向や市況のことについて疎いことが多い。これに乗じて中間仲買人の暗躍で生産農家は不利益な取引を余儀なくされ、それが農家の生産意欲を失わせている例もある。また、商況が良好な時には、仲買人は品質を問わずに先を争って均一価格で買い求める。ここにも真田の改良、向上を阻害する要因がある。生産農家の保護、製品の改良は、麦稈真田産業の発展のための避けて通れない問題である。この流通ルートには農家や輸出港での売買などに多くの仲間業者が入り込んで複雑化している。これを簡略化することが価格安価や取引の安全につながる。このような流通ルートの改善については、香川県同業組合や岡山県の一部において、先進的な取組が紹介されている。また、共同販売や輸出港で売買市場の開設などについては神戸、横浜において試験実施が行われている。注目したい試みであるが、その経営は不振で軌道に乗っていないのが残念である。
麦稈真田は流行や景気変動の影響を受けやすく、価格変動が大きい商品である。そのことが普及拡大の障害となっていると言われる。これについての防止策としては、一時期に集中する註文を、分散して受けるようすれば、価格変動幅を緩和できるという意見もある。しかし、生産農家にとっての最大の不安は、農家に対して融資をおこなう金融機関が身近にないことである。農家が利用できる金融制度や機関がまず求められている。次いで、価格調節の行える集団を将来的には考えるべきである。
麦稈真田が始めて海外に輸出せれたのは明治7年のことである。以来、明治25(1892)年までは統計調査がないので詳しくは分からない。日清戦争勃発時の明治26年には輸出額は37万円に過ぎず、その発展も遅々たつものであった。ところがその5年後の明治30年には、318万円に達している。10倍の驚くべき急成長ぶりである。それ以後は、輸出数量は以下のように増加している。
明治37(1904)年 1300万反 輸出額 516万円
大正元 (1912)年 2400万反、 輸出額 1680万円
この大正元年がピークで、翌年には減退し、大正3(1914)年の第一次政界大戦の勃発で大打撃を受け輸出額は急落した。こうして戦争景気で他産業が好景気に沸く中で、麦稈真田の問屋や仲買業者中は破産や操業停止に追い込まれるところが続出し、惨澹たる悲境に陥った。大正5(1916)年になると、景気は回復傾向に転じ、昨年大正6年には好況の波に乗ったかのように見えるが、これはかつての隆盛には遠く及ばない。対一次大戦勃発前後の麦稈真田の輸出状況をもう少し詳しく見ておくと次のようになる。大正2年以前の3年間の平均輸出額 1602万円大正3(1914)年 1435万円大正4(1915)年 1413万円大正5(1916)年 1631万円
戦乱勃発前の真田の輸出先は、次の通りである第1位が英国で、次いで北米・仏蘭西、独逸、伊太利、濠洲、比律賓などが主要な輸出先である。戦乱の結果、輸出額の減少と共に輸出先にも大きな変化が現れた。麦稈真田は北米、英国、仏蘭西、比律賓諸島、濠洲、伊太利、支那の順序に其他十九ケ国に輸出。経木真田は英国、北米、仏蘭西、比律賓など十ケ国、麻真田は北米、英吉利、仏蘭西、濠洲、加奈陀など19ケ国に輸出されている。戦前三ケ年と前時中の平均輸出額品種別推移を見ると戦前の輸出額A 麦稈真田 492万円B 経木真田 211万円C 麻真田 866万円大戦の始まった大正3(1914)年以降、戦乱の影響や流行の変化を受けて麦稈真田や経木真田は衰退傾向を見せ始めます。それに対して麻真田が急速に輸出額を伸ばしています。真田の集散は関東では横浜港、関西では神戸港之が集散市場である。また集散製品にも横浜港は麻真田、神戸港は麦稈、経木真田という棲み分け現象がみられる。麦稈真田総輸出額の9割以上、経木真田の8割以上は神戸港からの輸出で、半ば独占状態となっている。これに対して麻真田は横浜港から輸出されるものがほとんどで、神戸港からの輸出は2割程度である。
麦稈真田生産の利益は、独特の製法で作られる物なので家族経営でおこなうのが一番利益を上げられる。中でも農家が自分の家で栽培した麦で作れば 利益は大きいものになる。例えば一反当たり50貫の麦稈材料が確保できる。5反の田んぼで裏作に麦を作れば、
50貫×5反=250貫で、これを材料吟味して4割の歩留まりとすれば、約100貫の材料をえることができる。この麦藁材料を用いて平均的な麦稈真田を組むと1貫で7反が作れるので、106貫×7反=742反の真田が作れることになる。平均的出荷額は「1反=30銭」なので、その収入は「742反×30銭=約221円」となる。材料である麦を買うことなく、職人を雇わず家内工業で行えば、これがすべて家族の丸儲けとなる。
しかし、材料を他から買い入れ、職人を雇い入れたりすれば、このような高利益は上がらない。 1/3程度の利益しか上がらないだろう。まさに麦稈真田生産は農家の余暇を使って営める副業であり、しかも高利益が上げられる。何人も速やかに起業すべきである。
①大卒サラリーマンの初任給(月給)は、50~60円②職業婦人の平均月給はタイピストが40円③電話交換手が35円④事務員が30円


数日前の貴紙社説欄に麦稈真田の輸出振興策として漂白輸出を開始すべきだと述べていたことに大に我意を得た思いがする。輸出用の麦稈真田は、発展への今が大きな分岐路になっている。そのために発奮努力して日本麦稈の真価を世界に周知させる時である。①麦稈真田の世界市場での競争者は瑞西(スペイン)と伊太利(イタリア)である。瑞西の麦稈は、日本のものと似て細小である。それに対して伊太利のものは麦稈に穂先だけで組むトスカンと包被部分をも用いた二種がある。②日本麦稈と競合する中国の麦稈の産地は、山東、河南、安徽から揚子江北岸までの間のエリアである。ここの麦稈は伊太利トスカンとは違って、繊緯が強靭にして量目も重く欠点が多いので主に労働者用帽子の原料として使用されている。そのため価格も伊太利トスカンや日本麦稈に比べると低廉である。日本麦稈と同じように、一度欧洲に輸出せられた後に漂白染色して、中米南米方面に輸出されている。これは日本麦稈のライバルではない。
③日本麦稈は瀬戸内海の両岸の岡山・香川を主産地とする。繊緯は緻密で軟かく、そのうえ光沢に富み、軽いことを特色として、紳士用の夏帽子や婦人用の四季帽子に使用せられいる。帽子原料としての麦稈に求められる二大要件は、軽いこと、被って気持ちいいことであるが、色彩光沢に富み染上が美しいのは、日本麦稈だけである。この点では、ライバルである瑞西麦稈も伊太利麦稈も我國の麦稈には及ばない。④この真価が次第に世界の製帽家に認識せられるようになって、麦稈輸出が再び復興してきたとと思う。
日本の麦稈真田の次の課題は、新たなる飛躍策である。ところが日本麦稈の主産地である岡山・香川の瀬戸内海両岸の地は、⑥麻真田が市場に参入して人気を集めるようになると、生産意欲が萎縮しているように思える。ここには麦稈栽培を専業にする者はいない。そのため生産高が上がらず、品質も降下気味である。これを放置すれば、今後の輸出振興に大きな障害となりかねない。岡山・香川、山口などの主産地はもちろんのこと、⑦その他の各府県に対しても麦稈栽培を奨励し、同時に検査所の権限を拡張し、品質の均一化を計り、輸出振興策を今のうちから行うべきである。
一方、対岸の支那麦稈は粗悪で改良の余地がある。そこで日本は、技術者や指導者を派遣して播種耕作や乾燥技術などの技術援助を提案する。それが実現すれば、中国でも今まで以上の優良品を生産できるようになり、生産額も増加する。そうなれば我が國のみならず東洋麦稈の改良と産額の増加の実現につながる。これは世界の新需要につながる道となる。日本が率先して漂白輸出の道を開くためには、⑧今は一度欧洲へ運ばれている支那麦稈を隣国の日本で漂白して、日本経由で南米諸国へ輸出することになる。日本は日本麦稈と支那麦稈を双手に握って東洋のルートン、リヨン、もしくはフローレンスへの道を目指すべきである。近頃、支那の孫中山(孫文)氏が、やってきて盛に東亜同盟を説きつつある。私の立場からすれば、そのためには先ず実業界において「麦稈トラスト」を組織し、東洋麦稈の商権を伊仏英の手中より奪い、日華両国の支配下に置くことを主張したい。日本と中国の麦稈合同は、日本による漂白輸出の開始を意味する。そうなれば東洋麦稈は数年ならずしてイタリアの麦稈を凌駕するであろう。

神戸港の麦稈真田の輸出額は、年々その額を増加し重要物産中でも十指に数えられるまでに至った。近頃は不景気によって打撃は受けているものの、世間ではなお前途は楽観視され、通商発展は有望とされているように見える。しかし、昨今の麦稈真田の安値に市況は一段と沈静し、同業者は悲観の態である。下半期の業績もきびしい状況が予想せられている。これについて当事者の情況分析をを綜合すると、原料安に伴って麦稈帽なども三分の一の市価に落ち込んでいるという。値段が安ければ需要が増える、従って製品の販路は増えるというのが世間の見方だが、近頃の傾向はこれと正反対であるという。安値の藁帽子などは、中流以下の階級者に需要が多く、富裕層は麻真田とか品質のよいものが歓迎されていて、麦稈帽の人気は下落しているという。これは麦稈真田の同業者にとっては聞き捨てならないことである。
このような状況を打開するために香川県などの生産組合は、製品改良に努め、各地で講習会を開催するとか、技術員を駐在させて麦稈製品の品質改善に努めている。しかし、その効果はあまり現れていない。その要因は、麦稈生産者の多くが農家の副業者であるからだ。技術者が改良を奨励しても、それに応えずに普通の編み上げを続け、何等の改良を加えない農家も多いという。この点を考慮して伊賀上野では、細目の編方を奨励し成果を上げ、非常な好評を博し需用を伸ばしている。改良すれば改良する程、それが副業であろうと本業であろうと、それだけ収入を増加することができる。ところが農家の副業では、技術者の指導を馬耳東風と吹き流し、昔から仕来りの編方を踏襲してなんの改良を加えない。そして、一反25銭の編賃を得て満足しているのである。改良した編方をすれば収入は倍額になるのに、農民たちはそんな手間のかかる仕事は真平御免だと言わぬばかりに一向に改良をしようとしない。こんな様なので、生産組合も今は持て余し気味である。今の状態では麦稈帽の将来は危うい。当業者もこのことに気づいて、大改良を加え品位の向上はもちろん、加工にも十分の注意すべく計画中であという。
麦稈真田に比べて有望視されているのが麻真田である。麻真田は大工業家の手によって生産されているので、品質改良や生産工程の効率化などが着実に進められている。そういう点からすると、現在の麦稈帽は技術も品質も、麻真田に対して優った点を見出す事が出来きない。このままでも労働者の被る麦藁帽子などにも麻真田に奪われて行く可能性がある。今の内に、麦稈真田は改良すべきであるとの意見が昂まって来た」


香川県の農業は米麦作が主体で、剰余労力が多いので農家副業が欠かせない。香川県の麦稈真田の製造は明治15(1882)年に大阪の商人原田某氏が小豆郡草壁村に、麦稈購入にやってきて真田の製法を村民に伝えたことに始まるとされる。その後、麦作に適した気候風土もあって、麦稈の光沢が美しく、品質優良と認められ世界に販路を広げた。こうして農家副業として近年は急成長を遂げてきた。中でも大正元(1912)年度は、生産額が237万円に達した。①これは、生産額1位の岡山県に次いで、全国第2位になる。ところが流行の変化で麻真田帽や紙製帽が欧米の流行の中心となると、麦稈真田の需用は急減退し、市価も低落した。そのため②昨年度(1915年)の香川県の生産額は36万円まで落ち込んだ。しかし、③今春以来再び英米の需用が増えて、初夏以来は注文が頻々と舞い込んでいる。そのため業者は目下の所は麦稈真田の製造に忙殺され需用に追いつかないほどの未曾有の活況を呈している。香川県麦稈真田同業組合の小林氏の話によると、麦稈真田の価格は高騰しており、昨年1反9銭だったのが本年は15銭となっているという。特に合九平22粍巾のものは昨年は一反19銭だったのが本年は43銭と、倍以上に高騰して、需用に追いつかない状況にあるという。このような時期には、粗製濫造に走る業者も出てくるので、当局側はそれへの対応に追われている。また香川県は、岡山や広島県に麦稈真田の原料を供給している。昨年は1貫目22銭だったのが、今は34銭で取引されている。香川県にとって将来有望な種類は合三平種である。(中略)
合三平四五の巾で一反の売価22銭に対して、コストは組賃9銭、原料7銭、仕立・雑費2銭を除くと4銭の利益となる。目下香川県の麦稈真田界は黄金時代を謳歌している。九月中に同業組合は証紙検印を行うようにして粗製濫造を防止しようとしている。今年の海外輸出反数は、110万反にのぼる予想がでている。
香川県では農家の副業して麦稈真田が根付くことによって貧しかった農村は次第に富裕となってきた。中流以下の農家でも貯金が出来る者が少なからず現れている。もともと香川県は空気が乾燥し、土壌が砂質なので麦稈真田の材料となる麦類栽培に適していた。その上に県民が手工に長ずるという特性も重なって発展してきた。①大正元(1916)年度の産額は1072反・生産額は237万円で、本県の生産品の首位を占めるまでになった。以上を要約しておくと
ところが1917年度になって関東地方で麻真田が作られ海外に輸出されるようになった。麻真田は軽いので婦人帽子に使われ人気が出た。②そのため麦稈真田は婦人用帽子には使われなくなり、男子帽のみの原料となったために需用は低下し、価格も低落した。その結果、1917年の生産高は641反 売上額は115円と、前年度の半分まで落ち込んだ。本年度も麻真田が人気なので、
麦稈真田の回復の見込みはなく、しばらくはこの苦境がつづくことが予想される。(後略)
香川県下では米作に次ぐ農家の収入源となっているのが麦稈真田である。①第一次世界大戦のために、一時は輸出が途絶え、さらに船便不足で販売が伸び悩んでいたが、②休戦成立以後は次第に好転し、7月以後は価格も記録的な高騰を見せ、収益も順調に伸びている。「四菱」などは一斑90銭内外となって、織賃も上がって一日で初心者でも1円50銭、熟練者になると3円内外の収入となっている。③香川県下の紡績、製糸、燐寸などの各工場の女工たちの中には、それまでの工場を辞めて自宅に帰って賃編に従事する者も現れる始末。そのため工場も女工の賃金を三割から五割上げる対応をとっているが、それでも応募者が現れないような状況が続いている。以上を要約しておくと
麦稈真田同業組合調査によると昨年大正8年1月から11月末までの生産高は約2694反で、販売額は876万円に達している。(中略)
統計によれば、前6年の合計生産額が、昨年一年間に及ばない。しかも昨年は11ヶ月間の統計なので、十二月分も合わせれば総額は売上額は千万円を越えたかもしれない。これについて同組合員の談話によると④戦前は、輸出運賃単四菱一反で2銭だったのが、大戦開始以後は28銭に高騰したため輸出が途絶え、大きな打撃を受けた。それが平和が回復され船腹確保できるようになって、運賃も低下して、戦前の二銭に戻ってきたので輸出も回復したとみている。目下の所、単四菱一反極上品が90銭、最下等70銭で推移しているが、好況に大変化がない限り、この価格を維持でき、多数の県民福利を増進できると考えている。ちなみに香川県の麦稈真田組合会員数は、製造業者57951人 販売業者208人 仲買業36人であるが、この好況に伴い製造、販売、仲買人ともに大幅に増加しているという。
輸出用の麦稈真田市場は新稈の出廻りを眼先に控えているのに、亜米利加からの註文も手控え状態で取引は極めて閑散としている。岡山・香川の生産地情報によると備後地方は刈取期の本月下旬に降雨が多かったために、品質は極めて低下しているという。それに加えて、前年も品底気味であったので、本来ならば優良品は相当高値になるはずであるが、今後の天候次第である。香川県地方では、岡山に比べて収穫期が遅いため降雨の被害は少い見込みで、昨年より良好とされる。以上から麦稈原料の市価も大した変化はないと見られる

① 麦稈真田の前途については、以前にも報告したように明るい兆しが見られない。同業組合や産地でもさまざまな改善策を講じ、品位向上に努めているが、生産農家が副業であるのがネックとなっていて改善は進んでいないのが現状のようだ。現在は主産地の岡山、広島、香川が盂蘭盆であり、製産品が市場に出廻らず品薄になる時期なので価格上昇が見られる時期である。ところが②海外からの注文薄のため相場は取引数も少なく、安値定着で、同業者は全く閉口している。一方相場の安値定着は、生産者に大きな打撃を与えていると思われるかもしれない。けれども副業としている農民たちは、案外のんきな対応ぶりである。(中略)③香川県などでは、麦稈真田を副業そしていた農家の大半が他の副業に転じているようだ。また同業者も対策に相当努力を払っているが、何分にも相場が安いため手の打ちようが無い状態だという。(中略)粗製品を売って利益を得ることは得策のように思えるかもしれないが、それは信用を失いて損失を招くことになる。今は輸出業者が団結一致し粗製品の濫造を防止することが必要であろうと同業者は語っていた」
「麦藁(ばっかん)」とは、麦のクキを日に干したもの、つまり麦わらのこと。それをで真田紐のように編んだもの。夏帽子や袋物の材料に用いる。裸麦・大麦の麦稈を最良として、編み方により菱物・平物・角物・細工物などがある。岡山県・香川県などの産。




麦稈真田の創業については今から23年前の明治15(1882)年、 大阪の原田某氏が大阪より小豆島の草壁に来て麦わらを買いつけた。何に使うかと問うと、加工して海外への輸出商品にするという。そこで試しに2、3人が作り始めた。これが香川県の麦稈真田業の始まりである。(明治38(1905)年
讃岐の地質は、主に花崗岩で構成され、地勢は南から北に傾斜する乾燥地形で麦作に適している。そのため麦稈にも光沢があり、真田の原料として品質がよく他の生産地に勝る。そのため讃岐産の麦稈を求めて商人たちが押し寄せるようになった。しかし、当時は農家は麦稈のままで出荷し、真田に加工して販売する者はほとんどいなかった。また明治31(1897)年頃までは、麦稈真田に従事する戸数は、全県下で200戸あまりに過ぎなかった。
明治32(1898)年頃になると、欧米で麦稈真田に対する需用が次第に高まり、販売数が増大するようになった。麦稈真田が利益率の高い副業であることが分かると、前年までは200戸余りだった生産農家が7倍も増加した。明治35(1902)年には、9350戸に至るまでに急増した。

麦稈真田の需用は近年ますます増加の一途にある。特に小豆島では、数年前から苗羽村の田の浦産は最上級品と需用が高い。そのためアメリカやイギリス・フランス・香港などからは需用に追いつかず品不足の様相を呈している。この田の浦は、わずか百戸ばかりの小さな集落に過ぎないが、麦稈真田からの収益金は一戸当たり年間1000円を下らないという。もし、農家の副業として麦稈真田が県下全体に普及すれば、小豆島の1/3としても300円が見込まれる。農家の救済方法を考えることは目下の大きな課題である。麦稈真田が、その救済手段となりえるように、将来に備えて検討していくことが必要である。
米作改良、麦作改良、肥料改善、養蚕普及、溜池利用、記念植樹、勤倹貯蓄の普及、
麦得真田の伝習

「翻刻香川県下に於ける副業中の首位を占め年産額に於て讃岐米に次ぐ数字を示せる麦稈真田は戦乱以来輸出杜絶又は船腹払底の為め久しく悲境に陥り居たりしが休戦以来昨年の春頃より漸次順調に立戻り七月以後益好況に赴き価格の騰貴は未曾有の記録を作り単四菱の如き一斑九十銭内外となり従って之が編賃も騰貴し一日少きも一円五十銭多きは三円内外の収入となるより県下紡績、製糸、燐寸等各工場の女工にして熟練せる工場を捨て自宅に於て賃編に従事するより何れの工場も女工の大払底を告げ三割乃至五割の労銀値上げを為すも応募者なき状況なるが麦稈真田同業組合調査に依る昨八年一月以来十一月末迄の産額は二千六百九十三万七千百三十六反価格八百七十五万九千八百九十五円の多額を示し居れるが大正二年以来七箇年間の産額を示せば左の如し(但し八年は十一月迄)
香川県下の副業の中で讃岐米生産に次ぐのが麦稈真田である。第一次世界大戦のために、一時は輸出が途絶え、さらに船便不足で販売が伸び悩んでいたが、休戦成立の昨年より次第に好転し、7月以後は価格も記録的な高騰を見せ、収益も順調に伸びている。「四菱」などは一斑90銭内外となって、織賃も上がって一日で初心者でも1円50銭、熟練者になると3円内外の収入となっている。県下紡績、製糸、燐寸などの各工場の女工たちの中には、それまでの工場を辞めて自宅に帰って賃編に従事する者も現れる始末。そのため工場も女工の賃金を三割から五割上げる対応をとっているが、それでも応募者が現れないような状況が続いている。麦稈真田同業組合調査によと昨年大正8年1月から11月末までの生産高は約2694反で、販売額は876万円に達している。参考までに大正2年以後の7年間の香川県の出荷額は以下の通りである。
大正2(1913)年 6415538反、1153368円大正3(1914)年 4335724反五、616263円、大正4(1915)年 3338219反 362952円大正5(1916)年 5594076反 859919円大正6(1917)年 6038636反 1045094円大正7(1918)年 5754223反、1880879円大正8(1919)年26937136反 8759895円
この統計によれば、前6年の合計生産額が、昨年一年間に及ばない。しかも昨年は11ヶ月間の統計なので、十二月分も合わせれば総額は売上額は千万円を越えたかもしれない。これについて同組合員の談話によると戦前は、輸出運賃単四菱一反で2銭だったのが、大戦開始以後は28銭に高騰したため輸出が途絶え、大きな打撃を受けた。それが平和が回復され船腹確保できるようになって、運賃も低下して、戦前の二銭に戻ってきたので輸出も回復したとみている。目下の所、単四菱一反極上品が90銭、最下等70銭で推移しているが、好況に大変化がない限り、この価格を維持でき、多数の県民福利を増進できると考えている。ちなみに香川県の麦稈真田組合会員数は、製造業者57951人 販売業者208人 仲買業36人であるが、この好況に伴い製造、販売、仲買人ともに大幅に増加しているというし居れりと(高松)」
①明治20(1887)年 約110万反②明治29(1896)年 約550万反③明治33(1900)年 約882万反
神護景雲二2(768)年二月、筑前国怡土城成。讃岐国寒川郡人外正八位下韓鐵師部毘登毛人、韓鍛師部牛養等壱百弐拾七人 賜姓坂本臣
神護景雲2(768)年2月、筑前国の怡土(いど)城が完成した。讃岐国寒川郡の人で外正八位下韓鐵師部の毘登毛人、牛養など127人に坂本臣が賜姓された。
日本大百科全書(ニッポニカ)には、次のように記されています。韓鍛冶部は韓土渡来の鍛冶部、すなわち渡来系の新技術を有する鍛冶職集団の称。倭鍛冶部(やまとのかぬちべ)に対する。『古事記』応神段に、手人韓鍛名は卓素(たくそ)なる者を百済から貢上した、とあるのが早い例で、以後数多く渡来したらしく、その分布は大和、近江、丹波、播磨、紀伊、讃岐の諸国に及ぶ。これらのなかには官位を得たり、日本姓に改姓を認められたり、郡の大領(長官)として巨富を蓄えたりする者も現れたから、韓・倭の別もしだいに不分明となった。[黛 弘道]」
神護景雲2(768)年2月、筑前国の怡土(いど)城が完成した。讃岐国寒川郡の人で外正八位下韓鐵師部の毘登毛人、牛養など127人に坂本臣が賜姓された。
「寒川郡盬(塩)山,白施紅、坂本毛人所献、在内印」
凡直の先祖は星直で敏達天皇の時に国造の業を継ぎ紗抜大押直(さぬきのおおしのあたい)の姓を賜りました。ところが、庚午年籍の編成時に一部は凡直と記すようになり、星直の子孫は讃岐直と凡直に分かれてしまいました。そこで先祖の業に因んで讃岐公の姓を賜りたい。

①古代の鉄器の種類の豊富さからは、加工用具として重要な役割を持っていたこと。②鉄器なしでは、生産できないものがたくさんあったこと③厚手の鉄塊は、鉄素材として朝鮮半島から持ち込まれ流通していたこと④鉄器のメンテナンスのために砥石が使われていたこと⑤鋳造の際に使用した円礫の鉄床石がでてくる

「群集墳の被葬者層という新しい須恵器の需要者が広範に出現したことに支えられて、須恵器生産は最初の画期を迎えた」[田辺1981:p.48]
①提瓶や短頸壺などの増加する器種が、栄山江流域でも同時期に増加②杯身・杯蓋の大型化、𤭯の長頸化といった型式変化も両地域で連動③装飾付器台の増加や角杯の部分的受容といった新羅からの影響が見られる
「5世紀後葉に河内において集中するピークがあり、河内平野を中心に広く工房が散見される。一方、6世紀前半に引き続き、操業を行うものが少なくなり、特定工房(大県遺跡、森遺跡)への再編を予想せしめる」という[花田2002:p.29]。
①5世紀前半から6世紀初頭に竪穴式住居で構成されていた集落が(上段)②6世紀初頭から6世紀中葉には、居住域拡大とともに方形区画にかこまれた大型の掘立柱建物群が出現し(中段)、③短期間のうちにより計画的な建物配置へと変貌する過程が示されている(下段)。
①猪名川流域は、古代寺院の分布から5つの小地域が分立していたこと。②前期古墳分布からは、各小地域がほぼ対等な力関係にあった③中期になるとその中から豊中台地と猪名野の勢力が他を圧倒するほどに強大になった。④2つの地域の隆盛が百年ほど続いた後、中期末(五世紀末頃)に勢いは急速に衰えた。⑤後期になりと、有力な前方後円墳を築くことのできなかった長尾山丘陵や池田エリアに前方後円墳が現れる
A ③の中期に桜塚古墳群台頭のきっかけとなった大塚古墳B 後期に長尾山丘陵エリアで150年ぶりに復活した前方後円墳の勝福寺古墳
①六世紀前葉に登場した継体大王を支援する勢力の墳墓として、この地に築造されたもの②勢いを失っていく豊中台地の桜塚古墳群に対して、6世紀前葉に新たに台頭する猪名川本流沿いの勢力であること。③それはたんなる地域内の勢力争いというより、倭の中央政権内で展開する激しい主導権争いが波及した結果に他ならないこと。

津田古墳群でも②の三期と⑤の富田茶臼山古墳の出現期の2回に渡って大きな「地域変動」があったことが分かります。これは都出比呂志氏が指摘したように、「地域的な主導権の変動は、畿内の大王陵クラスの巨大前方後円墳築造地の移動現象と軌を一にしている。」ということの讃岐版の現象と捉えることがえきそうです。①1期に各エリアに初期型前方後円墳が登場すること②3期になると前方後円墳は赤山古墳だけになること③その背景には津田湾周辺を巡る政治的な統合が進んだこと④5期には前方後円墳が姿を消し、円墳しか造営されなくなること⑤そして、内陸部に富田茶臼山古墳が現れ、他地域から前方後円墳は姿を消すこと⑥これは、津田湾から髙松平野東部にかけての政治的な統合が進んだことを意味する
①中期初頭は巨大前方後円墳の築造地が大和盆地から河内平野へと移る時期②後期初頭は継体大王陵とされる今城塚古墳が淀川流域に登場する時期
①中央政権の中で政治的主導権を握る勢力の交代を反映したものという説②政権中枢は一貫して大和盆地内にあり墳墓の造営場所だけを他所に求めたという説



「器形や製作技法が三国時代の韓半島南部地域にみられる赤褐色軟質土器に酷似したもので、長胴甕、小型平底鉢、甑、鍋など、日常の調理に用いられた器種を主体とする土器群」( 田中清美2005「河内湖周辺の韓式系土器と渡来人」『ヤマト王権と渡来人』大橋信弥・花田勝広編 サンライズ出版)
①カマドの前において調理された小型平底鉢②食器の一種としての把手付鉢、平底鉢③カマドにかけて湯沸かしに用いられた長胴甕④同じくカマドにかけられた羽釜はがま⑤大人数のために煮込み調理などがなされた鍋⑥厨房道具としての移動式カマド⑦蒸し調理に用いられた甑こしき⑧北方遊牧民族の調理具である直口鉢(?ふく)⑨カマド全面を保護するためのU字形カマド枠
大阪府大県遺跡(鍛冶)大阪府南部泉北丘陵一帯に広がる陶邑窯跡群(窯業)奈良県曽我遺跡(玉作)大阪府奈良井遺跡,蔀屋北遺跡・讃良郡条里遺跡(馬飼)和歌山県西庄遺跡(製塩)
①古い共同体の分解とともに出現した家父長的首長層の墳墓とみる近藤義郎の議論[近藤1952]②古墳を身分表示として理解し,家父長的家族層に至るまで身分秩序に組み込まれたと考える西嶋定生説[西嶋1961]
出現契機を共同体を解体することなく,5世紀後半から6紀にかけて生産力の著しい発展を基礎として新しく台頭してきた中小共同体の首長層や有力成員層を,ヤマト政権が直接その支配秩序に組み込もうとしたものである[白石1976]。
①5世紀初頭に河内湖南岸の長原遺跡群で開発が始まり②5世紀中葉に生駒西麓(西ノ辻遺跡、神並遺跡、鬼虎川遺跡)や、上町台地(難波宮下層遺跡)へと広がり、③5世紀後葉以降に、北河内(蔀屋北・讃良郡条里遺跡、高宮遺跡、森遺跡)

①住居域と倉庫群、水利施設が溝によって区画されて配置されていること②これは韓国・忠清南道の燕岐・羅城里遺跡と同じ集落構造であること③鉄滓、鞴羽口、刀装具未成品、鉄鏃、砥石、紡錘車、織機といった各種手工業の痕跡発見
A 玉製品の生産拠点となった曽我遺跡B 小型把手付台付鉢や小型器台などの初期須恵器が出土した四条大田中遺跡、C 阿羅加耶系陶質土器が出土し、多量の製塩土器に加えて木器、鋳造鉄斧、織機具部材、鞴羽口、鉄滓等の手工業生産関連遺物を豊富に出土した新堂遺跡・東坊城遺跡、D 鍛冶関連遺物を出土した内膳・北八木遺跡
①渡来系工人を主体とする大庭寺遺跡の出現段階(TG232期)、②小阪遺跡への倭系工人の須恵器生産への参画(TK73期)
③伏尾遺跡の出現期に居住・生産・流通をなど計画的集落形成が行われた。④この計画的集落形成や須恵器生産設備の拡充整備は、ヤマト政権の政策的介入があった⑤これが5世紀前後にはじまる大規模須恵器生産につながる。⑥さらに小規模方墳群の築造は中央政権による手工業生産の組織化と結びついていた



「象頭山には瓦にする土は、それまでなかったのに、宥厳の加護によってあらわれた。」
①観音信仰から天狗信仰へ②中心建物は、観音堂から金毘羅堂へ③松尾寺から金光院へ

今まで今まで日本にいなかった金比羅神が、どのようにして生まれてきたかを見ていくことにします。それは、言い換えれば誰が金比羅神を創造したのかということです。その根本史料が宝物館に保存されている金比羅堂の棟札です。それを見ていくことにします。
表は「象頭山松尾寺の金毘羅王赤如神のための御宝殿を、別当金光院住職である宥雅が造営した。日付は1573年11月27日
裏は「金比羅堂を建立し、本尊が鎮座したので、法楽のための儀式を行った。その導師を高野山金剛三昧院の権大僧都法印良昌が勤めた。」
この棟札は、かつては「本社再営棟札」と呼ばれ、「金比羅堂は再営されたのあり、これ以前から金比羅本殿はあった」とされてきました。しかし、近世以前の資料が金比羅にないとすると、これが金比羅についての初見史料になります。この時に金比羅堂は建立されたのです。それでは宥雅とは何者なのでしょうか?

金比羅の民政一般を取り仕切ったのが多聞院です。
その歴代院主が日記を残しています。その日記の中に宥雅は次のように記されています。次の4点が分かります。
①宥雅は、西長尾(鵜足郡)の城主であった長尾大隅守高家の甥(弟?)であること
②宥雅は、長宗我部元親の侵入に際して、堺への逃走したこと
③宥雅は、その時に記録や宝物を持ち去ったこと
④宥雅は、そのため歴代院主に含めない。つまり歴代院主として抹殺された存在だった
これ以外は宥雅については分かりませんでした。ところが高松の無量寿院に、宥雅が残した「控訴史料」が近年見つかりました。ここでは深くは触れませんが、ここから金比羅神を産み出す際に宥雅の果たした役割が分かるようになりました。宥雅の出自である長尾氏の居館を見ておきましょう。

以前にお話したように、1520年に阿波美馬の安楽寺は、讃岐の財田に集団亡命してきました。安楽寺は、その際に三好氏から布教活動の自由などの特権を条件に美馬へ帰国しました。以後、安楽寺は吉野川沿いの船頭達(運輸労働者=わたり衆)を中心に、川港を拠点に道場を展開していきます。そして、三好氏が讃岐への進出を本格化させると、それを追うように教線ラインを讃岐山脈の越えて、髙松平野や丸亀平野へと伸ばしていきます。そして、長尾氏や羽床氏・香西氏も三好氏の配下に入ると、土器川沿いの丸亀平野にも道場が形成されるようになります。
それに拍車がかかるのが石山合戦のはじまりです。
宥雅は長尾氏の一門として善通寺で出家したようです。それは善通寺中興の祖=宥範の一字を持っていることからも分かります。その後は、高野山でも修学をしたようです。そして、讃岐帰国後に拠点とするのが称名寺でした。
先ほどの棟札をもう一度見ておきます。導師として招かれているのが高野山金剛三昧院の住職良昌です。この寺は高野山の数多くある寺の中でも別格的な存在です。多宝塔のある寺と云った方が通りがいいのかも知れません。北条政子が夫源頼朝の菩提のために創建したお寺で、将軍家の菩提寺となります。
②もうひとつの史料からは、良昌は、讃岐三野郡の財田の生まれで、法勲寺と島田寺の住職も兼務していたこと、そして、天正8(1580)年に亡くなっていることが分かります。導師を勤めた5年後には亡くなっています。研究者が注目するのは、法勲寺と島田寺の住職だったということです。法勲寺といえば、「綾氏系図」に出てくる古代寺院で、古代綾氏の氏寺とされます。また、島田浄土寺は、法勲寺の流れをくむ寺です。この寺で神櫛王の「悪魚退治伝説」が生まれたとされます。
神櫛王の悪魚退治伝説とは、綾氏系図(讃岐藤原氏・香西・羽床・滝宮氏)の冒頭を飾るお話しです。
悪魚に飲み込まれて腹を割いて出てくる神櫛王(金毘羅参詣名所図会)
宥雅と良昌とは、旧知の間柄であったのではないかとおもいます。二人の間ではこんな話がされていたのではないでしょうか?ここからは私の作ったお話しです。
宥雅
「近頃は南無阿弥陀仏ばかりを称える人たちが増えて、一向のお寺はどんどん信者が増えています。それに比べて、真言のお寺は、勢いがありません。私が建立した松尾寺を盛んにするためにはどうしたらよいでしょうか」
良昌
「ははは・・それは新しい流行神を生み出すことじゃ。そうじゃ、わが島田寺に伝わる悪魚伝説の悪魚を新しい神に仕立てて売り出したらどうじゃ」
「なるほど、新しい神を登場させるのですか。
「祟り神である悪魚を、神魚にして、そこにインドの番神を接ぎ木するというのはどうじゃ。まあ、ワニの化身とされるクンピーラあたりがいいかもしれん。それは私にまかせておきなさい」
「強力なパワーを持つ誰も知らない異国の番神を勧進するのですか。それを是非松尾寺の守護神として迎え入れたいと思います。その時には、お堂の落慶法要においでください」
「よしよし、分かった。信心が人々を救うのじゃ。人々が信じられる神・仏を生み出すのも仏に仕える者の仕事ぞ」
悪魚を神魚に転換して、そこに異国の番神ワニ神クンピーラを接ぎ木・融合させ、これを金昆羅神として登場させたという説です。この神が祀られた金比羅堂は、現在の本社下の四段坂の登り口にありました。しかし、金比羅神の像が奉られることはなく本地仏して薬師如来が安置されていたことは前回にお話しした通りです。
これは「布教」の際にも有利に働きます。「松尾山にしかいない金比羅神」というのは、大きなセールスポイントになります。讃岐にやって来る藩主への売り込みの際の「決め手」になります。ちなみに松尾寺の観音堂の本尊も、このとき島田寺経由でもたらされた法勲寺の仏のひとつではなかったのかと考える研究者もいます。
以上で第2部修了です。ここでは次のことを押さえておきます。
①金毘羅神は近世に現れた流行神である。
②金比羅神の登場した時代には、石山合戦の時代で、真宗興正派が丸亀平野で教線を急速に拡張する時期でもあった。
③そのような中で長尾氏出身の宥雅は、新たな流行神の勧進を行おうとした。
④相談を受けた良昌は、「島田寺の悪魚伝説 + 蛮神クンピーラ = 金毘羅神」を創りだした。
⑤こうして松尾寺の守護神として金比羅神が松尾山に現れることになった。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 町史ことひら 近世編
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その前に舞台となる金毘羅山上の様子を絵図で見ておきます。
①神仏分離前の幕末の金毘羅大権現の観音堂です。現在は、この地には大国主の姫神三穂津姫を祀る建物があります。神仏分離後に神社風に改められて最近、重文指定を受けました。②その背後に金剛坊とあります。金剛坊は「死しては、天狗になって金毘羅を護らん」と云った宥盛という修験者です。宥盛を金光院では実質的な始祖としてきました。宥盛は神仏分離後は、奥社に奉られています。左の方には大きな絵馬堂 そして籠堂もあります。参拝者達がここで夜を明かしていたことがうかがえます。さて、このお寺は創建時は松尾寺と呼ばれました。観音堂が本堂なので観音信仰のお寺だったようです。観音堂の本尊を見ておきます。平安期の観音像です。頭の 十の観音が抜き取られて、かつては正観音とされていたようです。今は宝物館にいらっしゃいます。明治の神仏分離後も、この本尊を廃仏することはできなかったようです。観音堂の右側は、どうなっているのでしょうか?


金毘羅参詣名所図会に描かれた金毘羅大権現です。
ここでは、本社下の四段坂の一番下の本地堂を押さえておきます。ここが金毘羅神が最初に祀られた所になります。それが、本社の位置に格上げされて、観音堂を押しのけたかっこうになります。また金毘羅神の本地仏は、薬師堂とされました。そのため金堂の位置には薬師堂が建てられます。そして、幕末には大きな金堂として新築され、中には善通寺金堂の薬師さまと変わらない大きさの薬師さまが安置されていました。それは神仏分離後に売却され、金堂はもぬけの空となって旭社と呼ばれるようになります。
もうひとつ押さえておきたいの、二天門です。これは土佐の長宗我部元親が寄進したものです。俗説では、逆(賢)木(さかき)門ともいわれ、一日で大急ぎで立てたので、柱の上下が逆になっているといわれる門です。
金比羅さんについては、かつては上のように説明されてきました。
しかし、香川県史や町史ことひらなどは、このような立場をとりません。それでは現在の研究者は、金毘羅信仰についてどのように考えているのでしょうか? まず、「古い歴史をもつ金毘羅さん」について、見ておきましょう。

流行(はやり)神というのは、それまでになかった神が突然現れて、爆発的に信者をあつめる現象です。この見解を、後に続く香川県史や「町史こんぴら」も、この立場を継承します。金比羅神が何者であるかは後回しにして、まずこの神がだれによって全国に拡げられたかを見ていくことにします。
当時の松尾山(象頭山)は、どうみられていたのでしょうか。

これは天狗経という経典です。今では偽書とされていますが、当事はよく出回っていました。ここには、各地の有力天狗が列挙されています。そこは天狗信仰の拠点だったということです。先頭に来るのは京都の愛宕天狗です。鞍馬天狗もいます。高野山も天狗の拠点地です。そして、(赤丸)「黒眷属金比羅坊」が出てきます。「白峯相模坊」もでてきます。崇徳上皇が死して天狗になり怨念をはらんとしたのが、白峯です。その崇徳上皇の一番の子分が相模坊です。この下には多くの子天狗たちがいました。ひとつ置いて、象頭山金剛坊とあります。これが後の金光院です。こうして見ると象頭山は、天狗信仰の拠点だったことが見えてきます。
本当に金比羅・象頭山に天狗はいたのでしょうか?
その痕跡を残すのが奥社(厳魂神社(いづたまじんじゃ)です。ここには金剛坊とよばれた宥盛が神となって奉られています。奥社の横は断崖で天狗岩と呼ばれています。そこには、大天狗と烏天狗の面が架けられています。そして高瀬の昔話には上のように記されています。ここからはこの断崖や奥の葵滝などは、天狗信者の行場で各地から多くの人が修行に訪れていたことが分かります。
金刀比羅宮奥の院の天狗岩の天狗面(右が大天狗・左が小天狗)と奥社のお守り
右が団扇を持つ大天狗で、左が羽根がある烏天狗です。大天狗の方が格上になるようです。奥社のお守り袋は、天狗が書かれていて「御本宮守護神」と記されます。これは、ここに神となって奉られているのが天狗の親玉とされる金剛院宥盛なのです。彼は「死しては天となり、金比羅を護らん」といって亡くなったことは先にもお話しした通りです。どこか白峰寺の崇徳上皇の言葉とよく似ています。ここでは宥盛は天狗として、金毘羅宮を護っているということを押さえておきます。それでは、天狗になるためにここに修行しに来た修験者たちは、どんな布教活動を行っていたのでしょうか?
安藤広重の「沼津宿」には、天狗面を背負った行者が描かれています。
左は、金毘羅資料館の、金比羅行者です。箱に天狗面を固定し、注連縄(しめなわ)が張られています。天狗面自体が信仰対象であったことが分かります。天狗面を背負って布教活動を行う修験者を金比羅行者と呼んだようです。
金刀比羅宮には、金比羅行者が亡くなった後に、弟子たちが金毘羅に奉納した天狗面があります。ここからは金比羅行者が天狗面を背負って、全国に布教活動を行っていたが分かります。それでは、どんな布教活動だったのでしょうか?
具体的な布教方法は分かりませんが、布教活動の成果が分かる史料があります。信州の芝生田村の庄屋・政賢の願文です。願文を意訳変換しておくと
金毘羅大権現の御利益で天狗早業の明験を得ることを願う。そのために月々十日に「火断」を一生行い大願成就を祈願する。
願掛け対象は、金毘羅大権現と大天狗・子天狗です。大願の内容は記されていませんが、「毎月十・二十・三十日に火を断つ」という断ち物祈願です。ここで押さえておきたいことは、海とは関係のない長野の山の中の庄屋が金毘羅大権現の信者となっていることです。それは金比羅行者の布教活動の成果であることがうかがえます。このように金毘羅大権現の初期の広がりは海よりも山に多いことが民俗研修者によって明らかにされています。
それでは、金毘羅大権現と、大天狗と子天狗は、どんな関係にあったのでしょうか。

江戸時代中期に金比羅を訪れ、金剛坊に安置されていた金毘羅大権現を拝んだ天野信景は次のように記しています。
讃岐象頭山は金毘羅神の山である。金毘羅神の像は三尺ばかりの坐像で、僧侶姿である。すざましい面貌で、修験者のような頭巾を被っている。手には羽団扇をもつ。その姿は、十二神将の宮毘羅神将とは似ても似つかない。
金光院の公式見解は次のようなものでした。
「金毘羅神は、インドのワニの神格化されたクンピーラである。それが権現したのが宮毘羅神将である」
しかし、これは金光院の公式文書の中に書かれたものです。この説明と実態は違っていたようです。つまり金光院は2つの説明バージョンを持っていて、使い分けていたようです。大名達の保護を受けるようになると、天狗の親玉が金比羅神では都合が悪くなります。そのために金比羅神の由来を聞かれたときに公式版回答マニュアルを作成しています。そこには、インドのガンジス側のワニが神霊化し守護神となったのがクンピーラで、その本地仏は宮毘羅神将だと書かれています。これが公式版です。が、実際の布教用には金比羅神は天狗の親玉と修験者たちは言い伝えていたようです。ダブルスタンダードで対応していたのです。
それが分かるのが、「塩尻」です。
そこで観音堂裏の金剛院にある金毘羅像を拝観したときのことを次のように記します。
僧のような姿で、修験者のような服装をして、手に羽根団扇を持つ。これは宮毘羅神将の姿ではない。死して天狗にならんとした宥盛が自らの姿を刻んだという自造木像を社僧たちは金毘羅神として崇めていたのではないかと私は想像しています。そこでは、「金毘羅大権現=天狗=宥盛」といった「混淆」が進みます。
ちなみに江戸時代後半になると京都の崇徳神社では、崇徳上皇と金毘羅神は同じ天狗だとされ、さらに崇徳上皇=金毘羅大権現という説が広まります。それが、明治になって金毘羅大権現を追放した後に、その身代わりとして崇徳上皇を祭神として金刀比羅宮が迎え入れる導線になるようです。ここまでで、一部終了です。
ここまでは以下のことを押さえておきます。
①金比羅には、中世に遡る史料はないこと
②金毘羅は近世になって登場した流行神であること
③金毘羅神は、宮毘羅神将とはにても似つかない修験者姿であったこと④金毘羅信仰をひろげたのは、天狗信仰をもつ修験者の「金毘羅行者」たちだったこと
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
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①凶作などで自作農が田畑を売却して、貧農に転落するのを防止すること②抵当地の勝手な売買で、領主の領知権と年貢の収納権が侵されることを防止すること
①百姓所持の田畑を質入れし、質流れによって所持権が移転することが法的にも認める②不在地主が小作地から小作料をとることも公認され保障される
「右は我等勝手筋有之候に付、此度右畝高の分銀何貫目請取、永代譲渡候間云々」「田地売主何右衛門」
A 炭所西村村高760石余りのうち、入作は86石2斗 (11%)B 長尾村村高1029石余りのうち、入作は74石6斗6升(7%)
①高松入作 5石4斗6升4合②金毘羅入作 1石2斗8升2合③他村入作 13石3斗5升2合④他郡入作 40石4斗3升5合⑤池御料榎井村入作 14石1斗3升
一 高拾九石七斗九升七合 造田免にて榎井村長谷川佐太郎持高一 高壱石四斗弐升九合 内田免にて同人(長谷川佐太郎)持高〆弐拾壱石弐斗弐升六合一 高壱石三斗七升四合 金毘羅領 利左衛門持高
郡々大庄屋只今迄、御領分ぇ他領者入作為仕候義在之、 別て西郡にては数多有之様相間、 古来より何となく右様成行候義、 可有之候得共、元来他領者入作不苦と申義は、御国法に有之間敷道理に候条、弥向後不二相成候間、左様相心得、村役人共ぇ申渡、端々迄不洩様相触せ可レ申候。(中略)他領者ぇ、田地質物に指入候義、 向後無用に為仕可申候。尤是迄指入有之候分は、 追て至限月候へば詑度請返せ可申候。自然至限月候ても返済難相成、日地引渡せ可申、至期候はば、村役人共より世話仕り、如何様仕候ても、領分にて売捌無滞指引為致可申候。
各郡の大庄屋へこれまで髙松藩領へ他領(金毘羅領)から入作することが、(金毘羅に近い)藩西郡では数多く見られた。 これは慣行となっているが、もともとは他領者が入作することは、国法に照らしてみればあってはならないことである。そこで今後は、これを認めないので心得置くように。これを村役人たちに申渡し、端々の者まで漏れることなく触れ廻ること。(中略)他領者へ、田地を質入れすことについても、 今後は認めない。すでに質入れしている田畑については、返済期限が来たときに担保解消をおこなうこと。期限が来ても返済ができない場合は、引き延ばし、村役人の世話を受けても返済すること。いかなる事があっても、領内における担保物権の所有権の移動は認めない。
天明2年(1782)に銀300目天明3年(1783)に銀200目天明5年(1785)に鞘橋の修繕に銀600目
御用聞き 多田屋治兵衛・山灰屋保次・伊予屋愛蔵・屋恒蔵・山屋直之進新御用聞き 釘屋太兵衛・金尾屋直七・鶴田屋唯助・福田屋津右衛門・玉屋半蔵・行蔵院
①菜種の年間手作手絞高(年間生産量)は、約20石(菜種油は藩の数量制限あり)②大坂から買い入れる27石の種子油③それ以外の油は、買田の水車で綿実から絞った白油
水車多く候節は、男子夜仕事も致さず風俗の害に相成候由相聞候間、 一通りにては取次申間敷候
「水車が稼働する期間は、男子が夜仕事せず水車小屋に集まり、風俗の害ににもなっていると聞く。そのために設置状況を調査し報告するように」
①川東村矢渡橋の水車で、枌所東村の直次郎が資本を出し、挽臼一丁と唐臼四丁②明神の水車は粉所西村の鶴松の出資で、挽日二丁と唐臼六丁
大庄屋に銀10匁、郡奉行、代官、郷会所元締めに銀四匁、銀二匁か酒二升。秋の松茸一籠、冬の山いも一貫目、猪肉一梱包(代六匁)、ふし(歯を染めるのに使用)一箱
「東二村水車買付に付諸事覚書(西村文書)]
那珂郡岸上村、七ケ村、吉野上村辺(五毛か)人家少なにて、自然と田地作り方行届不申、追々痩地に相成、地主難渋に成行、 指出田地に相成、 長々上の御厄介に相成、稲作に肥代も被下、追々地性立直り、御免米無恙(つつがなく)相育候様、作人共えも申渡候得共、元来前段の通人少の村方に付、他村他郡より右三ケ村の内ぇ引越、農業相励申度望の者も在之候得ば、建家料并飯料麦等別紙の通被下候間、望の者共右村方え罷越、 篤と地性等見分の上、村役人え掛合願出候得ば、御聞届被下候間、引越候上銘々出精次第にて、田地作り肥候得ば、其田地は可被下候。又最初より田地望も有之候得は、当時村支配の田も在之候間、其段村々え可申渡候。但、引越願出候共、人振能々相調、 作方不出精の者に候はば、御聞届無之候間、左様相心得可申候。別紙一、銀三百目 建築料一、家内人数壱人に付大麦五升ずつ。右の通被下候。天保十年二月 元〆大庄屋宛
もともと那珂郡の岸上村、七ケ村、吉野上村(五毛)は人家が少く、そのため田地の管理が行届ず、痩地になっている。これには地主も難渋し「指出田地」になって、お上の御厄介になっている所もある。肥料代があれば、やせ地も改善し御免米も無恙(つつがなく)育つようになる。そこで、他村他郡からこの三ケ村の(岸上村、七ケ村、吉野上村)へ移住して、農業に取り組もうとする者がいれば、建家や一時的な食料を別紙の通り下賜することになった。移住希望者がいれば、人物と土地等を見分して、村役人へ届け出て協議の上で定住を許可する。また、移住後にその意欲や耕作成績が良ければ、その田地を払い下げること。また最初から田地取得を望むものは、村支配となっている田があるはずなので、そのことを各村に伝えて協議すること。ただし、移住願が出されても、その人振や能力、出来・不向きなどをみて、耕作能力に問題があるようであれば、除外すること。左様相心得可申候。別紙一、銀三百目 (住居)建築費一、家内の人数1人について、大麦五升ずつ。右の通被下候。天保十年(1839)2月 元締め大庄屋宛
十月三日一金山寺町さつ、山下多兵衛殿借家二罷在候家ヲふさぎ借家かリヲも置不申、段々我儘之事
廿九日一金山寺町山下太兵衛借家二さつと申女、当春火事己後も焼跡二小屋かけいたし居申候二付、太兵衛普請被致候二付、出中様二と申候得共、さつ小屋出不申由、依之町年寄より急度申付小屋くづし右家普請成就し今又さつ親子三人行宅へはいり借家かりをも置不申、我儘計申由、町年寄呼寄候へ共不来と申、権右衛門多聞院宅出右之入割先町家ヲ出候様二被成被下候と申、段々相談之上さつ呼寄しかり家ヲ出申候
十月三日一金山寺町のさつは、山下多兵衛の借家に住んでいるが借家代も支払わず、段々と我儘なことをするようになっている
10月29日
金山寺町・山下太兵衛の借家のさつという女は、この春の大火後も焼跡に小屋がけして生活していた。太兵衛が新たに普請するので立ち退くように伝えたが、さつは小屋を出ようとしない。そこで町年寄たちは、急遽に小屋を取り壊し、普請を行った。さつ親子三人は新たに借家借りようともしないので、町年寄が呼んで言い聞かせた。そして、権右衛門多聞院宅の近くに町家を借りて出ていくことになった。いろいろと相談の上でさつを呼んで言い聞かせ家を出させた
①竃数(檀家数)59戸、154人が借家人として生活していたこと②借家数59に対し、檀那寺が40寺多いこと③男性よりも女性が多いこと④3年後の史料には、金山寺町の全戸数は137軒、人口296人とあるので、竃数で43%、人数で約40%が借家暮らしだったこと
「筑後久留米之醤師上瀧完治と申者、昨三月当所へ参り、治療罷有候所、当所御醤師丿追立之義願出御無用無之候所、右家内妹等尋参り、然ル所完治好色者酌取女馴染、少々之薬札等・而取つづきかたく様子追立候事」
「筑後久留米の医師上瀧完治と申す者が、昨年の三月に金毘羅にやってきて、治療などをおこなっていた。これに対して当所の御醤師から追放の願出が出されたが放置してしておいた所、右家内の妹と懇意になったり、酌取女と馴染みになり、薬札などを与えたりするので追放した」
①独居住まいが約2割、2人住まいが約3割、4人までの小家族が約8割を占める。②宗派割合は、一向宗(真宗) → 真言 → 法華 → 天台 → 禅宗 → 天台の順③一向宗(真宗)と真言の比率は、讃岐全体とおなじ程度である。
天保4年(1833)2月には、まだ仮小屋であった芝居小屋で、酌取女が舞の稽古することを許可天保5年(1834)8月13日の「多聞院日記」に「平日共徘徊修芳・粧ひ候様申附候」とあり、平日でも酌取女が化粧して町場徘徊を許可
「今夕内町森や喜太郎方へ、榎井村吉田や万蔵乱入いたし、段々徒党も有之、諸道具打わり外去り申候、元来酌取女大和や小千代と申者一条也」
「今夕に内町の森屋喜太郎方へ、榎井村吉田屋万蔵が乱入してきた。徒党を組んで、諸道具を打壊し退去したという。酌取女の大和屋の小千代と申と懇意のものである」
御料所の若者共が金毘羅に出向いて遊女に迷い、身持ちをくずす者が多いので御料一統連印で倉敷代官所へ訴え出るという動きが出てきた。慌てた金光院側が榎井村の庄屋長谷川喜平次のもとへ相談に赴き、結局、長谷川の機転のよさで「もし御料の者が訴え出ても取り上げないよう倉敷代官所へ前もって願い出、代官所の協力も得る。」ということで合意した、
「御社領繁栄付御流ヲ汲、当料茂自然と賑ひ罷有候義付、一同彼是申とも心聊別心無之趣と。、御料所一統之所、精々被押可申心得」
「御社領(門前町)が(遊女)によって繁栄しているのが今の現状です。それが回り回って周辺の自分たちにも利益を及ぼしているのです。そのことを一同にも言い聞かせて、何とか騒ぐ連中をなだめてみましょう。
送り手形之事一 三人 庄五郎 歳四拾女房 歳三拾男子卯之助歳七右の者、今般金毘羅御社領御地方二而借宅住居仕り度き段、願出候二付、聞届け、此方宗門帳差除き候間、自今已後、其御領宗門御帳面へ御書加え、御支配成らるべく候、且又宗旨之儀は代々一向宗二而多度郡弘田村円通寺旦那二而紛れ御座なく候、尤当村に於いて、己来何の故障も御座なく候、送り手形依而如の件し天保三年壬辰十一月多度郡善通寺村組頭 孫太夫金毘羅御社領百姓組頭治助殿治兵衛殿次郎助殿
以下の三人 庄五郎(40歳)・女房(30歳)・男子卯之助(7歳)について、このほど金毘羅寺領地方(町場)に、借宅を借りて生活を始めたことについて願出があった。ついては、こちらの宗門改帳から除き、今後は、そちらの金毘羅寺領の宗門帳面へ書き加えて、支配していただきたい。なお宗旨は、代々一向宗で多度郡弘田村の円通寺の門徒である。また当村では、何の問題もなかったことは送り手形の通りである。天保三(1832)年壬辰十一月多度郡善通寺村組頭 孫太夫金毘羅御社領百姓組頭治助殿治兵衛殿次郎助殿
送り手形一札之事一 弐人 口嘉 歳三拾五女子そね 歳拾七右之者今般勝手二付、御町方二而借宅仕り度き段、願出で候二付、聞届け、此の方宗門帳面差除き候間、自今已後、御帳面二御差加え、御支配成らるべく候、尚又宗旨之儀は、代々当所普門院旦那二而紛れ御座なく候、送り手形働て如の件し百姓組頭(治) 次助印天保四(1833)年巳十二月高藪組頭勘助殿(枝茂川家文書「天保三~六年枝茂川杢之助日記」)
浪人与申す義、心得違いニ候、已前ハ少々浪人もこれ有り候而、其の節は宗門帳ニも浪人帳与申し候而これ有り。皆其の義ハ、町人二而、町方町人帳二以前より今に相認め候、勿論皆々屋号を付キ商売方第一仕り候間、外々二而も評判これ有る通、町人ニハ紛れこれ無く候
浪人とするのは、心得違です。以前は少々の浪人がいて、宗門帳にも浪人帳に浪人と書くこともありました。しかし、今は町人として町人帳に記すようになっています。もちろん皆々が屋号を持ち商売を第一としていて、外部からも評判もありますので、町人に間違うことはありません。
①師の後藤一『一隅』・艮山医学の要点をまとめたもので、「医原(養庵先生遺教)」「艾炙」「泉浴」「肉養」「薬療」②宝暦7年(1757)、加藤暢庵録の後藤艮山の遺著を筆写5月18日に『師説筆記』136条10月10日に『病因考』2巻10月16日に『(先生手定)薬能』『薬能附録』の筆写終了
①京都など西国の医家の多くは、古方派の医学理論と処方学を基盤にしていた。②それを基盤に、それぞれ専門科目の医術を付け加えていた③新たに付け加えられて専門科目とは、1800年頃には荻野元凱の腹診術、華岡流外科、池田流治痘術などで、④1830年頃になると賀川流産科術、小石元俊らの蘭方であった。⑤古方派の処方学を基盤に、それぞれの時代の最新の医学知識を刷新しながら加えて学んでいた。⑥こうした学び方が、「漢蘭折衷」と言われる医学の普通に見られるスタイルであった
①医業を創始した立誠が京都で後藤艮山に学んでいること。②その後継者たちが長く後藤艮山流をベースにした医学・医療を行ていたこと。③尾池薫陵の養子となった桐陽が後藤艮山の外孫であるともされ、京都の古方派諸家と長年にわたって結びつきが深かったこと。
②尾池薫陵書簡―宝暦9年(1759)10月12日、赤木要蔵宛―(赤木制二氏所蔵)赤木要蔵様 常(前略)御聞及被下候通、小生義兼々大望御座候ニ付、初秋上京仕、古方家先生方へ相見、疑問仕候而得鴻益、大悦御察可被下候。山脇・吉益・松原三家とも豪傑ノ先生ニ而、各所長御座候。傷風寒治療、山脇ハ承気湯類ニ長シ、松原ハ真附・四逆・附子湯ニ長シ候様ニ相見へ申候。何分、三家中ニ而ハ山脇先生術ニ長シ申候様ニ相見へ申候。専ラ艮山先生称シ、古方ノ今日ニ弘リ候も全ク後藤先生輙被レ藉レ口申候。依之、小生義束脩之力也ト、動仕入門仕候。京都ニも三十日斗留滞仕候。晝夜とも山脇家へ相通イ、其暇ニ吉益・松原へ相通、論説とも承申候。扨々面白敷義ニ御座候。傷寒論讀方とも違イ申候義とも御座候。見識ハ諸先生ノ力ニテ相立申候様ニ被存候へ共、帰郷後扨々難行ハ、術ノコトニ御座候。(後略)
お聞きおよびの通り、小生には大望があます。ついては、私は初秋に上京し、古方医学の先生方をお訪ねして、かねより疑問に思っていたところを問い、それに親しく答えていただきました。山脇・吉益・松原三家とも豪傑の方々で、それぞれに長所をお持ちです。傷風寒の治療に関しても、山脇先生は承気湯類に詳しく、松原先生は真附・四逆・附子湯に長じているように思えました。その三家中では山脇先生に一日の長があるように見えます。山脇先生は後藤艮山先生を尊師として仰ぎ、古方医学の今日の隆盛も後藤先生のお陰手であると云います。これを聞いて、小生もその下で学びたいと思い入門いたしました。京都には三十日ばかり滞在しました。昼夜なく山脇家へ通い、その間にも吉益・松原先生方も訪ね、お話しをうかがうことができました。その話の内容は、私にとっては興味深いものでした。傷寒論の読み方(解釈)もそれぞれが異なります。

「見識ハ諸先生ノ力ニテ相立申候様ニ被存候へ共、帰郷後扨々難キハレ 行ハ術ノコトニ御座候」
「宋後之書一向読ミ不申候様ニと受レ教ヲ申候。然とも先入為レ主候而、後世方用度所存萌シ出テコマリ申候。宋後之書ナキ世トアキラメ、古方書ノミニテ済シ申度コトニ御座候」
「見識については諸先生の力で見立てができても、帰郷に見立てに応じた治療方法をどうおこなうのかが難しいのです」「中国の宋以後の医学書を読んで、教えを受けたことを伝えています。しかし、先の教えと、後世の教えに矛盾が出てきて困っています。宋以後の書はないものとしてして、古方書の教えだけを伝えるようになりました。」
当夏より隣村及ヒ金毘羅より門人両生石川林之介、三木市太郎投塾、御存之通ノ矮屋、恰如有舟中、紛々罷在候。依之小屋相構申候而、屋敷北ノ方へ結構仕候。二間四間余。大方成就仕候。自今以後、御渡海も被成候ハヽ、御投宿被成候ニも可然ヤトハ御噂申事ニ御座候。当秋より門前観音堂ニ而三 八ノ夜、論語開講仕候処、近隣風靡、聴衆も大勢有之、悦申候。何トソ打續ケかしと所祈御座候。傷寒論も不絶讀申候而、此間より金匱要畧讀申候。上京之節、後藤・香川両家へも相尋申候。両家とも無異事、後藤家繁昌之體ニ相見へ、門生も七人投塾罷在候。香川家も不相替候。
この夏から隣村や金毘羅から門人の石川林之介、三木市太郎が塾生となり、通ってくるようになりました。わが家はご存じの通り、小さな家などで手狭で、まるで舟中にいるがような狭さです。そこで、屋敷の北方へ二間四間の離れを増築しました。今後は、わが家に投宿したときには、お使いいただきたいと思います。
この秋から門前観音堂で、3日と8日の夜に、論語の購読を開講しました。それが近隣の噂となり、多くの人々がやって来るようになり喜んでいます。これが続いていくことを願っています。傷寒論も何度も読み返し、行間からさまざまなことを学んでいます。上京の節には、後藤・香川両家へも伺いました。両家とも繁昌のようすで、門生も七人抱えています。香川家も変わりありません。
「先生は天資温和にして人の善を賞揚し、よく父母につかえ、仁術をもって皆をよろこばせ、郷里の人々によく学問を教えた」
永禄8年(1565年)に将軍義輝が討たれた(永禄の変)際、懐妊していた烏丸氏は近臣の小早川外記と吉川斎宮に護衛されて讃岐国に逃れ、横井城主であった尾池光永(嘉兵衛)に匿われた。ここで誕生した玄蕃は光永の養子となり、後に讃岐高松藩の大名となった生駒氏に仕えて2000石を拝領した。2000石のうち1000石は長男の伝右衛門に、残り1000石は藤左衛門に与えた。二人が熊本藩に移った後も、末子の官兵衛は西讃岐に残ったという。
一 尾池玄蕃君、諱道鑑、承應二年卒。是歳明暦ト改元ス。一 休意公ハ玄蕃君ノ季子也。兄二人アリ。是ハ後ニ玄蕃君肥後ヘツレユケリト。定テ肥後ニハ後裔アラン。
尾池恭庵(?~1771)は後藤艮山の門人で,実子の義永と義漸が共に早世した。そこで寛延元年(1748)に 16才で入門してきた谷口正常(1733~1784)が秀抜だったため、やがて娘を配した.この養嗣が尾池薫陵で、字は子習という。現存する父子の著述は全て写本で、父の『恭庵先生雑記―方録之部―』(1810 写)、子の『試効方』(1753 自序)・『経穴摘要』(1756自序)・『素霊八十一難正語』(1763自序)・『医方便蒙』(1810写)・『古方要方』・『脚気論治』が残っている。
ここまでを意訳変換しておくと①尾池薫陵『筆記』(中澤淳氏所蔵)一 宝暦三癸酉六月廿五日、有故、師家之義子ト成。(中略)一 宝暦四甲戌閏二月九日宿本發足。金毘羅へ廻り丸亀ニ而一宿。十日丸亀より乗船、即日ニ下津井へ着、一宿。十一日岡山ニ一宿。十二日三ツ石ニ一宿。十三日姫路ニ一宿。十四日明石ニ一宿。十五日西宮一宿。十六日八ツ時大坂へ着。北堀江高木屋橋伊豫屋平左衛門方ニ逗留。十九日昼船ニ乗、同夜五ツ時、京都三文字屋へ着。同廿七日、香川先生へ入門。即日より後藤家ニ入塾。同廿四日平田氏東道へ發足
一 宝暦3癸酉6月25日、故あって私(薫陵)は、師家の義子となった。21歳の時である。(中略)一 宝暦四(1754)年2月9日に宿本を出発し、金毘羅廻りで丸亀で一宿。10日に丸亀より乗船し、下津井へ渡り一宿。11日 岡山で一宿。12日 三ツ石で一宿。13日 姫路に一宿。14日 明石ニ一宿。15日 西宮一宿16日 八ツ時大坂着。北堀江高木屋橋の伊豫屋平左衛門方に逗留。19日(淀川の高瀬舟に)昼に船に乗船し、五ツ時、京都の三文字屋へ着。27日 香川先生へ入門。即日より後藤家ニ入塾。28日 平田氏が江戸へ出発。
一 三月十一日夜より時疫相煩、段々指重り申候處、新蔵様・宗兵衛様、但州御入湯御出被成ニ付御立寄被下。右御両人様にも様子見捨難、御介抱被成被下候。右御両所より國本へ書状被遣、國本よりも両人伊平治・久五郎、四月十七日罷登り申候。伊平治ハ同廿日帰シ申候。段々快復仕ニ付、御両人様とも四月廿一日京都御發足、但州御出被成候。五月朔日ニ久五郎帰シ申候。一 右病気ニ付、三月廿七日より外宿。油小路竹屋町下ル所、嶋屋傳右衛門裏座敷にて保養申候。四月廿六日ニ後藤家帰り申候。一五月十二日平田氏関東より出京被成候。旅宿竹屋町三条上ル所ニ御滞留。六月廿三日京地御發足。一惣兵衛様、但州にて六月一日より水腫御煩被成候所、段々指重(2a)、同十四日ニ棄世被成候。拙者も右不幸ニ付、六月廿八日發足、平田氏と大-21坂より同船にて七月二日乗船。同五日ニ帰郷申候。又々同十八日和田濱より出船致候所、時分柄海上悪敷、同廿二日ニ明石より陸ニいたし、廿三日大坂へ着。北堀江平野屋弥兵衛ニ逗留。廿七日夜船乗、廿八日上京仕候。一八月十三日京都發足、河州真名子氏へ参、逗留仕。十四日夜、八幡祭礼拝見。同十八日ニ帰京。一九月廿五日、南禅寺方丈拝見。一十月四日、高尾・栂尾・槙野楓拝見、且菊御能有之候(2b)。一亥正月十 紫宸殿拝見一同十七日 舞御覧拝見一同廿三日 知恩院方丈拝見一二月五日 今熊野霊山へ見物一香川先生二月七日御發駕、播州へ御療保ニ被成、御帰之節、丹州古市にて卒中風差發、御養生不相叶、翌十三日朝五ツ時御逝去(3a)被遊候。同十四日、熊谷良次・下拙両人、丹州亀山迄御迎ニ参申候。十四日ニ御帰宅、同廿五日御葬送。一 三月九日、國本より養母病気ニ付、急申来、發足。同十四日帰郷。
一 3月11日 夜より疫病に患う、次第に容態が重くなり、後藤家の新蔵様・宗兵衛様が但州の温泉治療に向かうついでに立寄より、診断していただいた。その結果、放置できないと診断され、御両所から讃岐の国本へ書状を送った。それを受けて讃岐から伊平治・久五郎が4月17日に上京した。伊平治は20日は帰した。次第に回復したので、御両人様も4月21日京都を出立し、但州へ温泉治療に向かわれた。5月朔日に久五郎も讃岐へ帰した。一 この病気静養のために、3月27日から、油小路竹屋町下ルに外宿し、嶋屋傳右衛門の裏座敷にて保養した。それも回復した4月26日には後藤家にもどった。。一5月12日平田氏が関東より京都にやってきて、竹屋町三条上ルの旅宿に滞留。6月23日に京を出立した。一惣兵衛様が但州で6月1日より水腫の治療のために温泉治療中に、様態が悪化し、14日に亡くなった。拙者もこの際に、国元で静養することにして、6月28日に京を出立し、7月2日に平田氏と供に大坂より乗船。5日に帰郷した。そして、18日には和田濱から出船したが、折り悪く海が荒れてきたので22日に明石で上陸し、陸路で23日に大坂へ着き。北堀江の平野屋弥兵衛に逗留。27日夜の川船に乗、6月28日に上京した。一8月13日京都出立し、河州真名子氏へ参拝し逗留。14日夜は、八幡祭の礼拝を見学。18日帰京。一9月25日、南禅寺の方丈拝見。一10月4日、高尾・栂尾・槙野の楓見物。菊御能有之候。宝暦5年(1755)一正月10日 紫宸殿拝見一同 17日 舞御覧拝見一同 23日 知恩院方丈拝見一2月 5日 今熊野霊山へ見物一香川先生が2月7日に発病され、播州へ温泉治療に行って、その帰路に丹州古市で卒中風が襲った。看病にもかかわらずに、翌13日朝五ツ時に逝去された。被遊候。同 14日、熊谷良次と私で丹州亀山に遺骸をお迎えに行った。24日 御帰宅、同25葬送。一 3月9日、讃岐の国本から養母病気について、急いで帰るようにとの連絡があり、14日帰郷。
七月六日 國本發足、同九日讃ノ松原ノ海カヽリ、白鳥大明神へ参詣。同日夜俄大風、殊之外難義。翌十日、松原上リ教蓮寺隠居ニ一宿。同所香川家門人新介方ニ一宿。十四日朝、大坂へ着。十七日ニ大坂發足、渚ニ一宿。十八日八幡へ寄、同日晩方京着。七月廿七日、芬陀院へ尋、即東福寺方丈幷見。其時、芬陀焼失、南昌院ニ在住。同廿八日、嵯峨へ先生墓参。八月四日、與二石原氏一、之二(4a)。黄檗及菟道一。途中遇雨八月十日、與吉田元・林由軒、之鞍馬及木舟。同十三日、嵯峨墓参。同廿四日、與石原生・奥村生・周蔵氏、之愛宕嶽。廿二六日、後藤斎子・上山兵馬同道、比叡山へ行、唐崎遊覧、大津ニ一宿。廿七日、石山遊行而返ル八月廿二日、要門様御上京。九月九日、藤蔵同道、妙心寺方丈拝見。同廿七日、義空師上京。同廿九日、牧門殿預御尋、直ニ同道、芬陀院へ参、一宿。十月四日、歌中山清眼寺へ行。同六日、養伯子發足。東福寺中ノ門迄見立。東福寺南昌院へ尋ル。牧門殿之介、仭蔵司留守ニ而不逢候。十月十五日、義空師關東へ下向。同十九日、菊御能拝見。同廿一日、真名子要門様、木屋町迄御尋申候。十一月廿一日、河州へ下ル。同廿四日、上京。同廿六日、御入内。同廿八日、御上使御着。十二月四日、御参内。同七日、 兵馬子帰郷。同八日、 御上使御發足。
宝暦6年(1756)子正月卅日、鹿苑院金閣寺拝見。二月一日、三清同道、東山銀閣寺、鹿谷永観堂拝見。四月十九日、入湯御發足。六月十九日、御帰家。戊寅二月一日、平井順安老、丸亀迄渡海。即日観音寺浮田氏へ着、滞留。同九日、丸亀より乗船、帰郷
7月6日 ①大野原を出立し、9日に讃岐の松原の海(津田の松原)を抜けて、白鳥大明神へ参詣。その夜に俄に大風が吹き、殊の外に難儀な目にあった。翌 10日、(津田)松原から教蓮寺隠居で一宿。同所香川家門人新介方で一宿。14日朝、大坂着。17日に大坂出立、渚で一宿。18日に、岩清水八幡に参拝して、同日の晩方に京着。7月27日 芬陀院を訪問し、即東福寺方丈幷山門拝拝観。、芬陀焼失、南昌院ニ在住。28日、嵯峨へ香川先生の墓参。8月 4日、與二石原氏一之二 黄檗及菟道一。途中遇雨8月10日、與吉田元・林由軒、鞍馬及木舟(貴船)見学。13日、嵯峨墓参。(香川先生)24日、與石原生・奥村生・周蔵氏、之愛宕嶽。(愛宕山参り)26日、後藤斎子・上山兵馬同道、比叡山参拝、唐崎を遊覧、大津に一宿。27日、石山遊行。8月22日、要門様御上京。9月9日、藤蔵同道、妙心寺の方丈を拝見。27日、義空師が上京。29日、牧門殿預御尋、直に同道、芬陀院へ参拝し一宿。10月4日、歌中山の清眼寺へ参拝。6日、養伯子へ出発。東福寺中ノ門まで見立。東福寺南昌院を訪問。牧門殿之介、仭蔵司留守ニ而不逢候。10月15日、義空師關東へ下向。19日、菊御能拝見。21日、真名子要門様、木屋町迄御尋申候。11月21日、河州へ下ル。同24日、上京。26日、御入内。28日、御上使御着。12月 4日、御参内。7日、兵馬子が帰郷。8日、御上使御發足。宝暦6年(1756)正月30日、鹿苑院金閣寺拝見。2月1日、三清同道、東山銀閣寺、鹿谷永観堂拝観。4月19日、入湯(温泉治療)に出立。6月19日、温泉治療から帰宅。戊寅2月1日、平井順安老、丸亀まで渡海。即日観音寺浮田氏へ着、滞留。9日、丸亀より乗船、帰郷


①鏡は高松藩の寛政典が所蔵していたが明治6年(1873)から後に行方不明となってること②東京の人から伺書の付属する石棺図が送封されてきたこと③伺書は明治6年(1873)に久保秀景が名東県県令に提出したもので岩崎山4号墳の発掘に関する伺書であること④図面が5図載せられていて、石枕、人骨、石製品など石棺内部の様子や石棺の形、蓋石の様子、方形に並べられた49個体の埴輪列が描かれていること
①前方後円墳は前方部が先端に向ってあまり開かない柄鏡形②前方部を平野側に向け墳丘裾部を水平に整形する点は臨海域の津田古墳群と同じ③葺石は大型石を基底石にして上部は人頭大の石材をさしこむように積んいる④この積み方も、海岸エリアの先行する古墳群を踏襲⑤全員61,8mで津田古墳群の中では最大規模です。⑥トレンチ調査では段築と断定できるものは出土しなかった。


①埋葬施設が南北方向を向いていること②多量の副葬品が見られること
③葺石構造においても、従来の讃岐の古墳には見られない工法が用いられていること。④それは大型石を基底石としてその上に人頭大の礫を墳丘傾斜面に差し込むように石積する手法で、同時期の一つ山古墳、龍王山古墳などにも用いられていること。⑤墳丘の大部分が地山を整形して造作されていること。⑥墳丘裾部は水平に揃えられていること。これもも一つ山古墳、けぼ山古墳などと共通する。⑦後円部端、前方部端は墳丘を自然地形から切り離した区画溝があること。⑧円筒埴輪片が各トレンチから多量に出土し、円筒埴輪が墳丘を囲続していたこと⑨一方、壺形埴輪や朝顔形埴輪片はほとんど出てこなかったこと