瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

中讃TV「歴史の見方で、満濃池を再築した西嶋八兵衛のことについてお話しました。2月中いっぱい平日の毎日放送されるようです。興味のある方で、時間のある方は御覧下さい。こちらからも御覧になれます。
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津田古墳群 うのべ山・けぼ
津田古墳群 鵜部半島の3つの古墳

津田湾の鵜部半島は、古代は島でした。その島に3つの古墳があります。その造営順は、うのべ山古墳→ 一つ山古墳 → けぼ山古墳となります。今回は、臨海エリアで最後の古墳となるけぼ古墳を見ていくことにします。テキストは「津田古墳群調査報告書 2013年 さぬき市埋蔵物調査報告書第11集」です。
津田古墳群 一つ山・けぼ古墳
けぼ古墳(4期)と一つ山古墳(3期)
けぼ山古墳は、鵜部山から西に延びた尾根上にあり、北側は海蝕崖になって瀬戸内海に落ちています。古墳は前方部を東側(平野側)に向けた前方後円墳です。この古墳の250m東には、前回にみた一つ山古墳(円墳)があります。けぼ山古墳の谷を隔てた南側の尾根は、今は削られて平坦になっていますが、かつてはここにも古墳があったようです。けぼ山古墳からは、平野方面の眺望は開けていませんが、北側は小豆島、東は淡路島方面への海を望むことができます。一つ山古墳とけぼ山は、畿内や紀伊から瀬戸内海南航路をやってくる古代の交易船が最初に目にした古墳になります。けぼ山古墳の先行研究史を見ておきましょう。

けぼ山古墳5
けぼ山古墳の最初の記録は明治時代中期頃の松司調氏『新撰讃岐国風土記』です。その中に「鵜部塚」として次のように紹介されています。
頂上に大石で1間~2間の範囲で囲んだ場所があり、その中に白粉石で細長く円形に造った物を上下に合わせているのを埋めている。これを石棺と見ています。
大正11年(1922)の大内盬谷氏『津田と鶴羽の遺蹟及遺物』には、次のように記します。
大正11年(1922)以前に発掘され、鋼鏡、鉄刀、勾玉、7尺ほどの人骨が出土したこと、細長い円形の石棺があったこと、板石・栗石・土器片が散在していたこと

先ほど見た「新撰讃岐国風土記」の記録から松岡調などによって明治中期頃に発掘された可能性があるようです。
聞き取り調査によると、その後、昭和9(1934)に地元の住民の連絡で岩城三郎氏らが墳頂部の調査を行ったようです。その時には、方形の蓋が並んで見られ、石をいくつかはずした段階で元に戻したこと、蓋石の下は空洞になり、竪穴式石室と刳抜型石棺が見えたと伝えられます。
昭和10年(1935)、寺田貞次氏は「讃岐における後円墳」で、けぼ山古墳を前方後円墳としています。
昭和34年(1959)の『津田町史』には、昭和15年頃に主体部が掘り出されて、4枚の蓋石が投げ出されていると記します。
昭和40年(1965)六車恵一氏は「津田湾をめぐる4、5世紀ごろの謎」で、けぼ山古墳の墳丘の特徴を次のように指摘します。
①前方部と後円部の高さの差がなく出現期の前期古墳ではないこと
②墳丘裾部に葺石、埴輪があること、
③埴輪は墳頂部にもあること
1976年、藤田憲司氏は「讃岐(香川県)の石棺」で、次のように記します。
①石棺の蓋がとがって家のようであったという言い伝えを紹介し、岡山県鶴山丸山古墳のような特殊な家形の石棺であった可能性
②蓋石に縄掛突起の加工があることから鶴川丸山古墳との類似点
③岩崎山4号墳に続く古墳であること
1983年、真鍋昌宏氏は『香川の前期古墳」で次のように記します。
①蓋石の縄掛突起は奈良県新庄天神山古墳、宮山古墳に例があるので5世紀のもの
②墳形・施設・遺物などを考慮すれば5世紀前半代のもの
1990年、国木健司氏は「富田古墳発掘調査報告書』で、けぼ古墳について次のように記します。
①後円部に尾根から墳丘を切り離す区画溝が見られること
②後円部が正円であること
③二段築成であること
これらの諸特徴から讃岐色の強いそれまでの古墳にはない「墳丘築成上の技術的革新」が見られることを指摘します。
2003年、蔵本晋司氏は「四国北東部地域の前半期古墳における石材利用についての基礎的研究」で、次のように記します。
古墳の表面に安山岩類の板状石材の散乱が確認される古墳の一つがけぼ山古墳である。埋葬施設の構築材、とくに板石積み竪穴式石椰に伴なう可能性の高い。

以上が研究史です。
 今回の調査で刳抜型石棺の発見された基檀が解体され、次のような情報を得られたようです。
基檀を解体していくと、基檀内から石仏の台石が2段出てきました。ここからは基檀は、明治12・13年(1879・1880)の石仏安置から一定期間を経た後に増築されたことが分かります。石仏の前に位置している礼拝石には一部基壇の石積が重なっています。その礼拝石の下から十銭が出てきました。十銭は錫製で昭和19年(1944)の年号があります。つまり、昭和19年以降の大平洋戦争終戦前後に基檀は造られたことになります。
基檀に使用されている石材は安山岩の板石で、埋葬施設の竪穴式石室の石材を転用しているようです。そのため埋葬施設、刳抜型石棺が破壊され、その一部が基檀として利用され、破壊された石棺片の一部が石仏横に安置されたと研究者は考えています。そして今も墳頂部の凝灰岩製蓋石の下には石棺片がいくつか埋まっているようです。
 後円部の墳頂部平坦面は直径12mに復元できます。ここには過去の記録では4枚の蓋石があったとされています。現在、観察できるのは3枚です。ただし、残り1枚も露出した蓋石に隣接していることが確認できます。石材は火山で採石される凝灰岩(火山石)です。
南端の蓋石(蓋石1と呼ぶ)は完全にずらされた状況で少し離れて南側に位置し、南端から2枚目の蓋石(蓋石2と呼ぶ)もずらされているようです。3枚目の蓋石(蓋石3)は盗掘孔に対して直交して位置します。
次に個別に蓋石を見ておきましょう。報告書には次のように記されています。(要約)
けぼ山古墳 口縁部と蓋石

けぼ山古墳の後円部と蓋石 
蓋石1
幅0、9m・長さ1、72m・厚さ0、24mの長方形。両端に縄掛突起を造り出す。縄掛突起は中軸線からずらしており、両端部で対角線上に設けている。縄掛突起は端部の剥離が顕著なため、本来の形態、法量はよくわからない。現状では幅28㎝、厚さ26㎝、突出高13~15㎝の楕円形を呈し、2つの縄掛突起は同形。付け根から先端部にかけて少し広がっている。蓋石との接合部は両端で若千異なっている。西側の縄掛突起は、上側が蓋石上面から一段下がって縄掛突起がのびるのに対して、下側は蓋石下面からそのまま縄掛突帯に至り外方に広がっている。東側の縄掛突起は蓋石の上面、下面ともに段をもって整形されている。表面は破砕痕や落書きが顕著に見られ、蓋石製作時の工具痕はよく分からない。また、赤色顔料の塗布は外面に一部可能性のあるものがあるが、ほとんど確認することができない。

けぼ山古墳 蓋石
蓋石2
西側端部の一部が露出し、幅0、8m以上。北側長辺より25㎝内側に縄掛突起が見られる。蓋石1と同じ法量とすると、縄掛突起は中軸線より横にずらして造り出している。縄掛突起は幅30㎝です。厚さ、突出高は土中のためよく分からない。蓋石1に類似した構造のようで、赤色顔料は塗布されていない。
蓋石3
両端部は土中のため不明。幅0、9m、長さ1、5m以上、厚さ0、25~0、29m。蓋石1ほぼ同じ規模。両端部が土中のため縄掛突起は観察できない。赤色顔料の塗布は認められない。
蓋石4
全て土中であり、観察できない。
けぼ山古墳の刳抜型石棺
けぼ山古墳刳抜型石棺

刳抜型石棺片は3片出ています。報告書には次のように記されています。
3片ともに火山で採石される凝灰岩。小口部の破片1片と側面部で接合関係にある2片がある。小口部の破片は小口部が傾斜し、また、刳り込みの上端幅が狭いことから棺蓋と判断される。刳り込みは下端部からゆるやかに立ち上がり天丼部中央が最も高くなっている。中央部は側面肩から24㎝内側で、ここを軸として復元すると、刳り込み幅48㎝。深さ19㎝、石棺幅は77㎝に復元される。

刳抜型石棺片は3片出ています。3片ともに火山で採石される凝灰岩です。これらはパズルのように組み合わせることができるようです。

けぼ山古墳のまとめ (調査報告書103P)
①全長55mの前方後円墳で津田古墳群の中では岩崎山4号墳とともに最大級の古墳
②岩崎山4号墳と比較して前方部の発達が見られ、形としては富田茶臼山古墳に近い。
③時期的には埴輪の特徴から津田古墳群の中でも新しい段階に位置づけることができる
④刳抜型石棺の形態からは前期、前期後半の築造年代が推測される。
そういう意味では、次に現れる富田茶臼山との関係を検討する上で重要な古墳であると研究者は考えています。
畿内的特徴の多い富田茶臼山古墳に対して、けぼ山古墳は葺石・構造・埴輪に畿内的特徴とは異なる点を研究者は次のように指摘します。
①葺石構造は、拳大の石材を墳丘裾部に礫敷きしている可能性がある。
②埴輪は壺形埴輪を墳丘に並べるという特異な様相を見せる。
③円筒埴輪は破片が1点出土したのみで形象埴輪は出土しなかった。
このようにけぼ山古墳には、独特の墳丘施設が見られます。これは九州や讃岐など、畿内地域以外の地域間の交流があったことを研究者は考えています。一方、墳丘に多量に利用されている小礫は先行する一つ山古墳、赤山古墳にも見られる特徴です。一方で岩崎山4号墳、龍王山古墳では見られません。これをどう考えればいいのでしょうか。津田古墳群の中での津田地域と鶴羽地域の地域性のちがいととらえることができそうです。
津田湾 古墳変遷図
 
津田古墳群 変遷図3
津田古墳群変遷表

このような上に立って広い視点で4期の津田古墳群を見ておきましょう。
①4期には、羽立エリアに岩崎山4号、鶴羽エリアにけぼ山古墳が現れ、ふたつの地域に首長が並び立っていた。
②しかし、その首長墓は従来の讃岐在来色からは大きく脱したもので、首長たちの権力基盤や交流ネットワークに大きな変化があったことがうかがえる
③従来は、この変化を「瀬戸内海南岸ルート押さえるために畿内から派遣された軍事指導者達の痕跡」で説明されてきた。
④5期になると、鶴場エリアでは古墳造営がストップする。羽立エリアでも前方後円墳は消える。
⑤そして、突然内陸部に富田茶臼山古墳が現れる。
⑥これは津田湾だけでなく、内陸部も含めた政治統合が畿内勢力によって進められた結果だと説明される。
⑦そして畿内勢力は、髙松平野の東の奥から次第に中央部に勢力を拡げて、髙松の峰山勢力を飲み込んでいく。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「津田古墳群調査報告書 2013年 さぬき市埋蔵物調査報告書第11集」
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津田古墳群周辺図4
津田古墳群の分布地図
津田湾 古墳変遷図
③鶴羽エリアの古墳築造順は
「うのべ山古墳 → 川東古墳 → 赤山古墳 → 一つ山古墳 → けぼ山古墳」

津田古墳群変遷1
津田古墳群の変遷

前回は津田古墳群・臨海エリアの鶴羽地区で、最初に現れたのがうのべ山古墳で、それに続いて赤山古墳が登場することを見ました。今回は、これらに続いて現れる一つ山古墳について見ていくことにします。テキストは「津田古墳群調査報告書 2013年 さぬき市埋蔵物調査報告書第11集」です。
津田古墳群 うのべ山・けぼ

一つ山古墳は、鵜部半島東側の独立した丘陵頂部にある円墳です。古代には陸から離れた島で、潮待ちのための船が立ち寄っていたことがうかがえます。津田湾に入ってくる船からはよく見える位置にあります。また、墳丘からは北に小豆島、東に淡路島が見え、被葬者が瀬戸内海のネットワークに関わっていたことがうかがえます。

津田古墳群 一つ山・けぼ古墳
①墳形は円墳で最高所の標高は32m
②丘稜には一つ山古墳が単独で築造されている
一つ山古墳3 津田古墳群
一つ山古墳墳丘復元図

一つ山古墳は、20年前の2004年の調査までは、あまり注目されてこなかった古墳のようです。

最初の記録は、約百年前の大正11年(1922)発行の大内盤谷氏『津田と鶴羽の量蹟及遺物』です。そこには、二十四輩さんを墳頂に安置したときに、石棺に朱づめにした人骨や、約15cmの鏡や太刀が出土したことが記されています。二十四輩さんは、明治7年(1874)に設置されているので、この時が一つ山古墳は発見されたことになります。出土遺物は津田分署に引き取られたとされますが、現存はしていないようです。大内氏自身が現地を訪れた時は、石仏以外は何もなく土器も採集できなかったと記します。
昭和元年(1926)の『津田町史』には、一つ山古墳については何も記していません。戦後の昭和34(1959)年刊行の『津Ш町史』には、明治年間に発掘されたこと、その時に石棺材も連ばれたことが記されています。
昭和40年(1965)、六車恵一氏は「讃岐津田湾をめぐる四、五世紀ごろの謎」で、直径20m、高さ3mの円墳と紹介し、墳丘裾に海岸の砂利を葺石にして使用していると指摘します。こうしてみると、明治7年(1874)の発見以降、一つ山古墳は発掘調査がされていないことが分かります。

調査報告書は、一つ山古墳の墳形の特徴を次のように記します。(56P)
①墳形は南北直径27m、東西直径25mのやや楕円形を呈する円墳。
②円墳ではあるが、規模は60m級の前方後円墳の後円部直径に相当する
③墳丘裾部を水平に揃え、丁寧に段築のテラスを造作し、テラス面に小礫を敷く工法けぼ山古墳に共通
④葺石に基底石に大型石を置き上位の葺石を傾斜面に直交してさしこむように積んでいく工法は岩崎山4号墳、青龍王山古墳と共通
以上から一つ山古墳は円墳ですが、首長墳の一つとして研究者は考えています。

明治初期に盗掘された際に破壊された刳抜型石棺の一部は周辺に投げ捨てられていたようです。それを埋め戻したものが盗掘孔内の埋土からて出てきました。
一つ山古墳石棺 津田古墳群
一つ山古墳の石棺(津田古墳群)
調査報告書は、刳抜型石棺について次のように記します。
刳抜型石棺は安山岩集中地点の南に棺蓋が横になった状態で検出(石棺1と呼称する)され、北側にも部材が確認できる(石棺2と呼称する)。現在のところ、この2片が比較的形状のわかる個体で、他に破砕片が数点観察される。石棺1の両端はトレンチ外に延びていたが平成23年(2011)の亀裂によって縄掛突起が露出し小口面の形状が明らかとなった。石棺高が低く、赤山古墳2号石棺蓋に比較的類似することから棺蓋として記述を進める。幅52cm、高さ29cmである。長さは途中で欠損しており、140cm分が残存している。平面形は長方形で片方に向かって広がる形態ではなく、高さもほぼ同値である。
一つ山古墳石棺2 津田古墳群
一つ山古墳の刳抜型石棺
ここからは次のようなことが分かります。
一番大きい部位は長さ140cmの火山産凝灰岩で、石棺1が棺蓋であること。赤山古墳2号石棺とよく似ていて、同時代に造られたことが考えられること。
津田碗古墳群 埴輪編年表2

葺石の構造は基底に大型大の石をさしこんでいます。
讃岐の従来工法は、石垣状に組む手法です。ここでも外部の技法が導入されています。墳丘には壺形埴輪が並べられていました。そのスタイルは先行するうのべ山古墳のものとは、おおきく違っています。うのべ山古墳の埴輪は、広口壺で讃岐の在地性の強いものでした。ところが一つ山古墳の埴輪はタタキなどが見られない粗雑な作りです。
 一つ山古墳よりも一段階古いとされるのが前回見た赤山古墳です。
赤山古墳は前方後円墳で円筒埴輪が出てきます。ところが一つ山古墳からは、円筒埴輪が出てきません。ここからは、被葬者の身分や墳丘形によって、.採用される埴輪の種類が決められていたことが考えられます。墳丘や埋葬品によって、被葬者の格差に対応していたことになります。
津田碗古墳群編年表1
津田古墳群変遷図
一つ山古墳の調査結果を、調査報告書は次のようにまとめています。
刳抜型石棺は、津田古墳群では前方後円墳の首長墓からだけ出てくるので、この古墳の被葬者が準首長的な存在であったことがうかがえます。前方後円墳ではありませんが首長墳の一つと研究者は位置づけます。また、刳抜型石棺は赤山古墳2号石棺と共通点が多いようです。特に小口部が上端に向って傾斜する構造は、これまで赤山古墳だけに見られる特徴で、九州の刳抜型石棺の系譜上にあるもとされます。赤山古墳や一つ山古墳の初期の津田古墳群の首長たちが、九州勢力とのネットワークも持っていたことがうかがえます。同時に、三豊の丸山古墳や青塚古墳には、わざわざ九州から運ばれた石棺が使用されてます。この時期の讃岐の首長達は畿内だけでなく、瀬戸内海・九州・朝鮮半島とのさまざまなネットワークで結ばれていたことが裏付けられます。

最後に研究者が注目するのは、立地条件です。
海から見える小高い山上にある津田古墳群の中で最も東にあるのが一つ山古墳になります。つまり、畿内方面からやって来る航海者が最初に目にする古墳になります。一つ山古墳のもつ存在意義は重要であったと研究者は推測します。
東瀬戸内海の拠点港としての津田古墳群
東瀬戸内海の南航路の拠点としての津田古墳群
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「津田古墳群調査報告書 2013年 さぬき市埋蔵物調査報告書第11集」です。

以前に「岩崎山第4号古墳発掘調査報告書2002年 津田町教育委員会」にもとづく津田古墳群の性格について読書メモをアップしておきました。それから約10年後に「津田古墳群調査報告書」が出されています。これは周辺の古墳群をほぼ網羅的に調査したもので、その中で見つかった新たな発見がいくつも紹介されています。津田古墳群の見方がどのように変化したのかに焦点を当てながら見ていくことにします。テキストは「津田古墳群調査報告書 2013年 さぬき市埋蔵物調査報告書第11集」です。
東讃地区の古墳編年表
讃岐東部の古墳変遷表
津田湾 古墳変遷図
津田古墳群の変遷表
前回に示されていた古墳編年表です。ここからは次のような事が読み取れます。
①1期に各エリアに初期型前方後円墳が登場すること
②3期になると前方後円墳は赤山古墳だけになること
③その背景には津田湾周辺を巡る政治的な統合が進んだこと
④5期には前方後円墳が姿を消し、円墳しか造営されなくなること
⑤そして、内陸部に富田茶臼山古墳が現れ、他地域から前方後円墳は姿を消すこと
⑥これは、津田湾から髙松平野東部にかけての政治的な統合が進んだことを意味する
なお鶴羽エリアの築造順は、次の通りです 

うのべ山(鵜部)古墳 → 赤山古墳 → 一つ山古墳(円墳) → けぼ山古墳


一つ山古墳が円墳ですが首長墓として認められるようになっていることを押さえておきます。それでは今回の調査で新たに明らかになったことを見ていくことにします。まず第1は、1期に先立つ初期モデルがうのべ(鵜部)山古墳とされたことです。
津田古墳群首長墓一覧
津田古墳群の首長墓一覧

最初に津田古墳群の総体的な変遷を見ておきましょう。

津田古墳群周辺図1
津田古墳群
①臨海域では、初期モデルとして「うのべ山古墳」が出現
②少し時期をおいて「赤山古墳 → 岩崎山4号墳 → けぼ山古墳」と築造が続く。
③円墳の「一つ山古墳、龍王山古墳」も前方後円墳の後円部直径に匹敵することから首長墓の一つ
④「野牛古墳、泉聖天古墳、岩崎山2・5・6号墳、吉見弁天山古墳、中峠古墳」は小規模古墳で、階層的に首長墓の1ランク下の位置付け。
⑤臨海エリアでは、中期初頭(4期)の岩崎山1号墳を最後に古墳が築造されなくなる。
⑥それ以降は古墳時代後期の宮奥古墳だけで、臨海域の古墳は築造時期が古墳前期に集中する。
内陸エリアの前期古墳を見ておきましょう。、
①川東古墳、古枝古墳、奥3・13・14号墳が前期の前方後円墳。
②その中には、奥2号墳のように円墳が含まれる。
③川東古墳は相地峠と津田川の支流土井川に比較的近い場所に、古枝古墳は津田川沿い、奥3・13・14号墳は津田川から雨滝山を山越えする連絡路沿いに立地し、臨海域と内陸域を結ぶ要衝に立地する。
④内陸エリアでも、前期後半になると前方後円墳が造られなくなる。
⑤そして登場するのが中期初頭の四国最大規模の前方後円墳・富田茶臼山古墳。
⑥富田茶臼山古墳の後には、前方後円墳そのものが姿を消し、大井七つ塚古墳群や石田神社古墳群のような群集円墳が造られるようになる。

この背景を研究者は次のように解釈します。
①弥生時代後期から古墳を造り続けた雨滝山西部から南部にかけての地域は、前期中頃には前方後円墳が築造できなくなったこと。
②中期になると北西の寺尾山(寺尾古墳群)や南束の大井地区(大井七つ塚古墳群、落合古墳群)へと指導権が移行したこと
③後期になると横穴式石室を埋葬施設に持つ古墳が出現するが、この時期に再び雨滝山に古墳が確認されるようになる(奥15号墳)
④この段階の古墳の分布として、平砕古墳群、一の瀬古墳群、八剣古墳群、柴谷古墳群と各地に群集墳が展開
津田古墳群 うのべ山・けぼ
鵜部半島の古墳群

うなべ山古墳 津田古墳群
うのべ山古墳
それでは、津田古墳群で最初に登場するうのべ山古墳を見ておきましょう。
うのべ山古墳のは、今は鵜部半島の付け根辺りに位置しますが、地形復元すると古代にはこの半島は島であったようです。その島に初期の古墳が3つ連続して造られています。うのべ山古墳からは、広口壺が出てきます。これが弥生時代からのものなので、うのべ山古墳は出現期古墳に位置付けられることになります。また、類似した広口壺はさぬき市丸井古墳、稲荷山古墳等に見られ、香川県の独特の広口壼でもあるようです。
うのべ古墳 津田湾古墳群の初期モデル

報告書は、うのべ古墳の特徴を次のように指摘します。
①広口壺の出土から築造年代は、古墳時前期初頭の出現期古墳であること
②香川県内でも最古級の古墳であり、津田古墳群の中で最初に築造された古墳
③墳丘が積石塚であり、讃岐の在地性が強い
④前方後円墳の墳形が四国北東部の古墳に多い讃岐型前方後円墳であること
⑤後円部から前方部中央を取り巻く外周段丘を有すること、
⑥全長37mは四国北東部の多く前方後円墳と、ほぼ同規模であること、
⑦弥生時代以来の伝統を受け継いだ広口壺を供献していること
これらの特徴から、この古墳が四国北東部の在地型古墳として造られていると研究者は判断します。ここでは、後の津田古墳群が畿内色が強まる中で、最初に造られたうのべ山古墳は讃岐色の強い古墳であったことを押さえておきます。

一方、うのべ山古墳の特殊性を研究者は次のように指摘します。
⑧標高9mという島の海辺に築造されていること
⑨積石塚としてのうのべ山古墳は海辺に立地し、安山岩の入手が困難だったために、海浜部を中心として様々な石材を使用している。
⑩海に隣接する低地への築造に海と密接に関わる津田古墳群の特徴が見て取れる。
赤山古墳1号石棺 津田碗古墳群

次に登場する赤山古墳を見ておきましょう。
赤山古墳は臨海エリアの津田町鶴羽から、富田の内陸エリアに抜ける相地峠の登口の道沿にあります。ここの道は近世には「馬道」と呼ばれており、物資輸送等に使用された古道でもあようです。現在この道は赤山古墳を取り囲むようにして津田湾へと下っていきます。この道が古墳時代にまで遡るかどうかは分かりませんが、赤山古墳は津田湾から富田方面への入口に当たる地点に築造された可能性が高いと研究者は考えています。
 赤山古墳は火山の北東の谷地に突出した標高23mの尾根上です。墳丘からは北に津田湾を一望でき、北東にはけぼ山古墳、うのべ山古墳、一つ山古墳のある鵜部山を望むことができます。墳形は前方部を南側(山側)に向けた前方後円墳です。過去の記録には全長50mとありますが、現在は後円部の一部を残すのみとなっているようです。ここには2基の刳抜式石棺が露出しています。
 赤山古墳が発見されたのは安政2年(1855)頃で開墾中の出来事です。
明治時代中期頃の松岡調氏の「新撰讃岐国風土記」は、次のように記します。

赤山古墳石棺 津田碗古墳群
赤山古墳の2つの石棺

石棺が発見され、そばから勾玉、壺、高杯等の土器が多数出土したとされます。石棺は3基が発見された。1基は凝灰岩の蓋石をもつ石槽の中から、2基は石棺単独で埋められていた、石棺発見後は祟りを恐れて元のように埋め、桜と火山にあった白羽明神を遷し祀った。

 大内空谷氏『津田と鶴羽の遺蹟及遺物』(大正11年(1922)は、次のように記します。
1922年当時すでに畑などの開墾が行われ墳形が変形して、円墳と判断。
古墳の周囲の田畑からは採集された土器片については、「弥生式に祝部を混じ偶に刷毛目のあるものもあり祝部には内部に渦文の付せられたる土器把手も落ちて居る」
大内氏が紹介した3年後の10月10日に盗掘に遭います。
赤山古墳石棺2 津田碗古墳群
赤山古墳の石棺(津田古墳群)
盗掘翌年の大正15年(1926)の『大川郡誌」は次のように記します。
「前方後円墳で、開墾によって形状が大きく変化しているが瓢箪形をしている」
「前年の盗掘については、石棺(1号石棺)は孔を穿って盗掘され、石棺の中に遺物は残されていなかったが付近から管玉、ガラス玉12個を採集した。盗掘孔に緑青の破片が落ちていたことから銅製品があった可能性がある。小型の石棺(2号石棺)は蓋を開けて盗掘され、残された遺物として頭骸骨の破片、歯「(門歯4本、大歯1本、自歯2枚)、管玉11個、ガラス玉93個」があった」
報告書(2013年)の赤山古墳のまとめを要約しておきます。
①赤山古墳は全長45~51mの前方後円墳であること
②円筒埴輪は岩崎山4号墳円筒埴輪に極めて似ていて、同じ埴輪製作集団が作った可能性が高い
③岩崎山4号墳円筒埴輪のやや新しい特徴を備えた橙色弄統の円筒埴輪が赤山古墳円筒埴輪には見られない
④突帯がわずかに高いこと、形象埴輪を伴わないことから、やや赤山古墳円筒埴輪が時期的に先行する
⑤到抜式石棺からは1号石棺⇒2号石棺の時期的遺構が想定できる
⑥2号石棺は、一つ山古墳出土の刳抜式石棺に類似する。
⑦以上から、赤山古墳⇒一つ山古墳の築造順になる
⑧岩崎山4号墳の刳抜式石棺とは、形態差が大きく同じ系譜上にはない
⑨平面形が角の明瞭な長方形を呈する岩崎山4号刳抜型石棺に対して、一の山古墳刳抜式石棺は隅丸方形で、赤山古墳⇒岩崎山4号墳の順になる。
このように考えると津田湾の臨海域でうのべ山古墳の次が赤山古墳となり、その間に若干の時期差があるようです。

津田古墳群の刳抜型石棺の比較について

赤山古墳1号石棺2 津田碗古墳群
 赤山古墳1号石棺
津田湾古墳群の石棺編年表1
          火山石石棺の比較
一つ山古墳石棺 津田古墳群
一つ山古墳石棺
津田湾の刳抜型石棺については、渡部明夫氏によって編年表が示されています。それを要約整理しておきます。
①火山石石棺群の特徴は棺蓋は横断面が半円形を基本とし、両端部上面を直線的に斜めに切っていること
②棺身は小口面が垂直であること
③形態変化としては、棺蓋両端部上面を斜めに切った部分の傾斜角度が大きくなり、前後幅が狭くなっていくこと
④その点に忠告すると注目すると、赤山1号石棺⇒赤山2号石棺⇒一つ山石棺⇒鶴山丸山石棺 → けぼ山石棺
⑤棺蓋長側面の下部が平坦而を持たないものから内傾する平坦面、垂直な平坦面へと変化して、平坦面が強調され、幅広の凸帯になっていくこと
⑥その点に注目すると赤山1号石棺 ⇒ 赤山2号石棺 ⇒ 一つ山石棺 ⇒ 鶴山丸山石棺
⑦刳り込みの隅が曲線に仕上げられ稜をもたないものから鈍い稜線が目立つようになり、明確な稜線を持つようになること
⑧その点に注目すると赤山1号石棺・2号石棺⇒一つ山石桔⇒ 岩崎山石棺・けぼ山石棺。大代石棺
⑨刳り込みの中央部を両端よりも深くするものから平坦な底面への展開
⑩その点に注目すると赤山1号石棺・2号石棺⇒ 一つ山石棺⇒ 岩崎山石棺・鶴山丸山石棺・けぼ山石棺
以上、各属性の変遷から刳抜型石棺の出現順を研究者は次のように判断します。

赤山1号石棺⇒赤山2号石棺⇒一つ山石棺⇒岩崎山石棺

津田碗古墳群 埴輪編年表2

さらに土器・埴輸・割抜式石棺編年を加味した編年的位置づけを次のように述べています。  160P
墳丘形態・墳丘構造、埋葬施設、副葬品の編年的位置づけから、土器・埴輪・刳抜型石棺だけではよく分からなかった奥3号墳、古枝古墳、岩崎山1号墳の位置付けが見えて来ます。
①奥3号墳と古枝古墳は墳丘スタイルから古墳時代前期前半の川東古墳と同時期、
②岩崎山1号墳は副葬品から津田古墳群では最も新しい古墳時代中期初頭に位置付けられる
③奥13号墳は十分な資料がなく、時期的な位置づけが困難であるが、低い前方部、墳丘主軸に斜交する竪穴式石室からは奥14号墳に近い時期の可能性が強い。

津田碗古墳群編年表1
津田古墳群の編年表
 以上より、報告書は 津田古墳群の前期前半の編年を次のように記します。
①前期前半のものとしては、うのべ山古墳、川東古墳、古枝古墳、奥3号墳、奥14号墳。
②これを二つに分類すると、前半にうのべ山古墳、奥14号墳、後半に川東古墳、古枝古墳、奥3号墳
③奥14号墳は壷形土器からはうのべ山古墳より後に見えるが、墳形からはうのべ山古墳に近い時期を想定
④後半の3古墳の前後関係としては、副葬品から奥3号墳 ⇒ 古枝古墳
⑤この時期は墳形、葺石構造、壷形土器、東西の埋葬方位等に讃岐的特徴が認められる。
⑥墳丘全長はうのべ山古墳(37m)、川東古墳(37m)、古枝古墳(34m)、奥3号墳(37m)、奥14号墳(30m)で格差はない。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
津田古墳群調査報告書 21013年 さぬき市埋蔵物調査報告書第11集
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 阿波国守護の細川氏の拠点としては、勝瑞が有名です。それ以前は秋月に拠点がありました。しかし、「秋月」については守護館跡をはじめ、町場跡や梵光寺跡などの位置が分かっていません。

秋月城4
          秋月城跡 かつては細川氏守護館跡と考えられていた
かつては「秋月城跡」(土成町秋月)を細川氏守護館跡とする説が定説化していました。
ところが発掘調査の結果、秋月城跡からは守護館跡に関連する遺構や遺物が出てきませんでした。その結果、「秋月城跡が守護館跡である可能性なし」との結論に至っているようです。考古学による「通説否定」の上にたって、「秋月」の空間構成を研究者がどのように考えているのかを見ていくことにします。テキストは「福家清司 「秋月」の空間構成  四国中世史研究17号 2023年」です。

秋月 細川氏拠点2JPG

まず最初に研究者が確認するのは「秋月」の領域は、古代和名抄郷「秋月郷」の「秋月荘」の荘域全体に及んでいたことです。そして、守護館・町場跡・梵光寺跡を次のように比定します。
A【守護館】 山野上城(伝細川隠居城・仏殿城・阿波市市場町大野島王子前)

山の上城跡 細川氏守護所跡候補
山野上城跡 細川氏の守護所候補地
秋月城跡が否定された後、新たな守護館候補として研究者が考えるのが「山野上城跡」です。この城は、阿波市市場町大野島の王子神社の北東200mの一帯にあります。中世山城・居館という視点から次のように評されています。

「南側の平野部に突き出した比高5mほどの土手状地形を利用して築かれたもので、東側には小川、西側には切通しの道路が通っており、これによって区画された東西50mほどの部分が城であったようだ。内部にはわずかな段差があり、3つの区画が想定できるが、後世の改変もあり、旧状がこの通りであったかどうかは分からない。」

という評価であまり特徴があるようには見えません。
しかし、明治初期編纂の「阿波郡風土記」は、細川氏の守護所について次のように記します。

「(秋月城には)射場という処もあり。此処は細川阿波守和氏の住まれし古址なるなり。按ずるに、此所分内小際にして北山に迫れり。大国の府城を営みし址とは見えず。「阿波物語」に秋月を守護所と定めらるとあるは此所にはあらで、山の上村成るべし。」

意訳変換しておくと
「秋月城には射場という所もあり、ここは細川阿波守和氏の拠点古址とされる。しかし、ここは後に山が迫り狭い。大国の府城を置いたところとは思えない。「阿波物語」に秋月を守護所と定めるとあるのは、秋月城ではなくて、山の上村であろう。」

『阿波郡風土記』の編者(近藤忠直・浦上利延)は、「射場(的場)=秋月城跡)」を守護館とするには、あまりにも小さく狭いとして、「山野上村の屋形跡=守護館」説を唱えています。「秋月城」説が発掘調査によって否定されたので、「山野上村の屋形跡」説についても改めて検討する必要が出てきます。研究者がこの説に注目するのは、次の3つの理由からです。
①吉野川の段丘を利用した立地条件
②仏殿庵の所在であること
③仏殿庵には「梵光寺観青御宝前」と彫り込まれた寛文4(1644)年の手水鉢があること
③については、仏殿庵は「梵光寺」にあったと伝えられます。梵光寺は秋月荘や守護所の鎮守社である秋月八幡宮別当院で、「秋月」にとって最も重要な寺院です。その梵光寺を「鬼門鎮護の守り」としているのが山野上村の「屋形跡」です。ここから梵光寺が守護する館こそA守護館の可能性が高いと研究者は判断します。

B【補陀寺〈ふだじ):安国寺〉】(秋月城跡周辺)を見ておきましょう。
日本歴史地名大系 「補陀寺跡」には、次のように記されています。
御嶽(おみたけ)山南麓、秋月城の近くに位置した臨済宗寺院。
南明山安国補陀禅寺・安国補陀寺などと称され、阿波国の安国寺とされたほか(光勝院縁起略)、諸山の寺格も与えられた(扶桑五山記)。近接して光勝(こうしよう)院・宝冠(ほうかん)寺が建立された。光勝院は当寺の後身ともいわれ、のち板野郡萩原(現鳴門市)に移されて同地に現存している。
阿波州安国補陀寺仏殿梁牌(夢窓国師語録拾遺)に「阿波州安国補陀寺仏殿」とみえ、暦応二年(一三三九)八月に足利尊氏が造立し、開山は夢窓疎石とされている。しかし夢窓疎石は招請開山で、実際には細川和氏が秋月府内南明山に建立し、和氏の五男、細川頼之の猶子笑山周を開山としたという。また足利尊氏の保護を受け、同年阿波国の安国寺に指定されたとされる(光勝院縁起略)。ただし「夢窓国師語録」「阿波志」は翌三年の創建と伝える。安国寺とともに建立された利生塔は切幡(きりはた)寺に建てられた(贈僧正宥範発心求法縁)。康永元年(一三四二)夢窓疎石の招聘により大道一以が入寺し(禅林僧伝)、以後、黙翁妙誡・大岳周崇・鉄舟徳済・観中中諦などが住持となったという(「夢窓国師語録」「阿波志」など)。出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について
補陀寺は阿波初代守護和氏が夢窓礎石を開山に招いて創建した禅宗寺院で、和氏の墳寺でした。和氏は尊氏の側近として活躍したことから、創建に際しては尊氏からも寄進が寄せられ、後に阿波安国寺に指定されます。補陀寺は夢窓派の重要寺院として、夢窓派の僧侶が住持として派遣され、四国内では唯一の十刹寺院でした。通説では秋月が勝瑞に移転した時に、光勝院と合併して萩原の地に移転されたとされています。しかし、萩原に移転したのは光勝院のみで、補陀寺は守護所移転後も引き続き戦国期に至るまで、秋月にあって法灯を伝えたと考える研究者もいます。

C  切幡寺に建てられたという「利生塔」を見ておきましょう。
 
切幡寺の安国寺利生塔礎石

足利尊氏は全国66ヶ国へ利生塔を建てます。そのねらいは、戦没者の遺霊を弔い、民心を慰撫掌握するとされていますが、それだけが目的ではありません。南朝残存勢力などの反幕府勢力を監視抑制するための警察権行使の拠点置の目的もあったと研究者は指摘します。つまり、利生塔が建てられた寺院は、室町幕府の直轄的な警察的機能を担うことにもなったのです。その利生塔が、阿波安国寺の補陀寺に建立されることになります。その際に供養導師を務めているのが善通寺誕生院の宥範です。これについて『贈僧正宥範発心求法縁起』は、次のように記します。
 阿州切幡寺塔婆供養事。
此塔持明院御代、錦小路三条殿従四位上行左兵衛督兼相模守源朝臣直義御願 、胤六十六ヶ國。六十六基随最初造興ノ塔婆也。此供養暦応五年三月廿六日也。日本第二番供養也 。其御導師勤仕之時、被任大僧都爰以彼供養願文云。貢秘密供養之道儀、屈權大僧都法眼和尚位。爲大阿闍梨耶耳 。
  意訳変換しておくと
 阿州切幡寺塔婆供養について。
この塔は持明院時代に、足利尊氏と直義によって、六十六ヶ國に設置されたもので、最初に造営供養が行われたのは暦応5年3月26日のことである。そして日本第二番の落慶供養が行われたのが阿波切幡寺の利生塔で、その導師を務めたのが宥範である。この時に大僧都として供養願文を供したという。後に大僧都法眼になり、大阿闍梨耶となった。

 ここで研究者が注目するのは、切幡寺が「日本第二番・供養也」、善通寺が「日本第三番目之御供養也」とされていることです。しかし、これは事実ではないようですが、切幡寺や善通寺の利生塔は、全国的に見ても早い時期に建てられていることを押さえておきます。当時の讃岐と阿波は、共に細川家の勢力下にありました。細川頼春は、足利尊氏の進める利生塔建立を推進する立場にあります。守護たちも菩提寺などに利生塔を設置するなど、利生塔と守護は強くつながっていました。ただ「八幡町史」は、利生塔造立地は現在の切幡寺境内ではなく、字観音の「西堂(りじどう)」と呼ばれる地点とします。
D 【守護創建寺1 梵光寺】(阿波市市場町山野上)を見ておきましょう。
秋月には補陀寺以外にも守護創建の十院がありました。その代表的寺院が梵光寺です。しかし、この寺は今となっては、どこにあったのかも分からなくなっています。そんな中で戦前に「再発見」されたのが「秋月荘八幡宮鐘銘」です。この古鐘銘について 阿波学会研究紀の「市場町の石造文化財について 郷土研究発表会紀要第25号」は次のように記します。

昭和13(1928)年頃、松山市弁天町の善勝寺に日切地蔵尊の釣鐘として使われていたが、少しヒビが入ったので撞かずにしておいた。当時、戦争のため物資が不足し、各寺院では、国防資材として不用のものを供出する運動が起り、この釣鐘も競売してその代価を献納することになった。競売の結果、同市新玉町の古物商亀井季太郎氏の手に落ちた。ところがその釣鐘の銘文を調べてみると、室町時代初期の鐘銘があり、道後湯之町岩崎一高氏が再調査したところ、準国宝級のものとの噂が高まった。そして、これが阿波国八幡の八幡宮の古鐘であることがわかった。この鐘が、どうして善勝寺に入ったかを調べると、昭和13年頃から70・80年前に善勝寺の先々代の稲岡上人が讃岐で買入れたものとわかった。(中略)
 この由緒ある古鐘は、流れ流れて現在は広島県豊田郡瀬戸田町の耕三寺の博物館の所蔵となっており、銘の拓本取りどころか、なかなか細かな調査もできなくなっている。 

以上を整理・要約しておくと、
①幕末の1850年前後に、松山市の善勝寺の住職が讃岐で古鐘を手に入れた。
②日中戦争が激化して金属物の供出運動が起こり、古物商の手に落ちた。
③銘文を改めて調べてみると室町時代初期の阿波国市場の八幡神社の古鐘であることが分かった

 銘文は、4区の面にタガネ刻で次のように刻まれています。
 第1区奉鋳造
   ①大阿波国秋月庄八幡宮
   大檀那
    梵光寺  ②守格
    右京大夫 (細川)頼元
    兵部少輔 義之
第2区右奉為
   金輪聖皇天長地久御願
   円満天下奉平国土豊饒
   殊者大檀那御息災安穏
   増長福寿家門繁栄 并
   結縁奉加之衆現当二世
 第3区願望成就乃至鉄囲沙界
   之情非情悉利益平等敬白
    応永二暦乙亥八月十二日
    勧進沙門金対資頼業敬白
   神主 宇佐輔景宗
   大工 伴左衛門正光
 第4区奉再興
   明月山梵光寺住持②比丘尼守久
   神主 沙弥盛宗
   永享七年(1435)乙卯六月廿九日
   願主 内藤元継敬白
  一打鐘声 当願衆生
  脱三界苦 得見菩提
 この史料からは次のようなことが分かります。
①梵光寺が秋月八幡宮の別当寺であったこと
②住職として「守格」「守久」の名前があること。
③「守格」は細川頼春の子で、梵光寺の開山者。「守久」は頼有の子で、「守格」の後継者として梵光寺に入ったこと。
④守久は尼僧であるので、梵光寺は尼寺だったこと。
⑤大檀那京太夫頼元は阿波国守護の細川頼春の三子で頼之の弟。
⑥義之は細川詮春の次子で、応安3年(1370)官軍の菊池武政を長門で破った武将
阿波市場の八幡神社 
              市場の八幡宮

郷土研究発表会紀要第25号は、続けて次のように記します。
              

市場の八幡宮には、寛永17(1636)9月吉日の棟礼があり、その中に秋月五カ庄、日開谷、尾開、切幡、秋月、日吉、成当、大野島、山野上、浦池、粟島、伊月とあり、秋月郷の郷社であった。

 鐘銘にある梵光寺は、八幡宮の別当で山野上の仏殿庵が鐘銘の梵光寺である。この敷地からは、南北朝時代の古瓦が多く出土して、その中に阿波細川系の寺院特有の青梅波文様の軒平瓦があり、敷瓦も多く発見されている。仏殿庵は、現在敷地が9畝11歩あり、細川頼春の位碑「光勝院殿故四洲総轄宝洲祐繁大居士」の戒名を記したもので、頼春の持仏の如意輪観音菩薩像が祀られていたというが、現在所在不明である。

「観中和尚語録』永徳元(1381)年8月6日条には「秋月捻分八幡霊祠」として出てくるのが八幡神社です。守護所が置かれた秋月荘の鎮守社でした。それが近世になっても郷社として、周辺の村々の信仰の中心となっていることが分かります。

 また市場の八幡神社には、次のような梵光寺の銘文のある手洗鉢が本堂の前に残っています。

梵光寺の銘文のある手洗鉢 
この手洗鉢は砂岩製で、横巾55cm、高32cm、厚36cm。
 正面に
  寛文四(1644)甲辰年
   梵光寺
  観音御宝前
   手洗鉢
  願主  山上村八左衛門
   六月十八日造立
寛文4年(1644)の江戸時代には神仏混淆下にあり、別当寺の梵光寺の社僧達の管理下にあったことが分かります。

D【守護創建寺院2 光勝院については、一般的には次のように云われています。
 南北朝時代の歴応2年に阿波細川家の祖となる細川和氏が居城とした秋月に夢窓疎石上人を勧請開山に南明補陀寺として創建された。和氏の5男で細川頼之の猶子笑山周念上人が開山に迎えられた。その後、足利尊氏、義直兄弟が阿波国安国寺に当て、安國補陀寺と改称し幕府の保護を受ける官寺として諸山の寺格を与えた。
貞治2年に幕府管領細川頼之が父頼春(光勝院殿)の13回忌に普明国師を開山に迎えて安國補陀寺の南に光勝寺を創建し、応安年間に頼之の弟詮春が居城を勝瑞に移すと安國補陀寺と光勝寺を合併し現在地に移転して安國補陀寺光勝院と改称し、室町時代の文明18年に十刹に列した。
光勝院は守護頼之が、亡父頼春の十一回忌に際して創建した禅宗寺院です。通説では秋月のBの補陀寺に隣接して建てられたとされています。しかし、研究者の中には補陀寺境内に建てられた仏堂とする説もあります。これも「寺々注文」に出てくる寺院ですが康暦の政変後に、頼之によって板東郡萩原の地に独立移転されたという説もあります。

秋月 細川氏拠点2JPG

E【菩提寺参道】
かつての「大道」とされる旧川北本道から補陀寺山門まで南北方向には、直線的に延びる道です。守護が書提寺補陀寺参詣のために開いた参詣道とされます。
F【大道】
藩政期の川北本道と重なる「大道」です。山野上城跡の市側の河岸段上直下も吉野川沿いの街道とともに中世の守護所設置時期にはすでにあったと研究者は考えています。
H【町場(含む市庭)
秋月八幡宮の周辺に広がる「八幡町」は、近世初期には「郷町」で町場でした。つまり、蜂須賀氏入国以前に町場が成立していたことになります。その起源は補陀寺などの寺院の門前町が町場化したことが考えられます。さらに、町場の起源は、守護所が置かれていた時期まで辿ることができるようです。以上から近世の郷町「八幡町」を守護所に伴う町場の発展型と研究者は考えています。
なお、周辺には「市の本」(阿波市市場町山野上)、近世初期の「古市付」(現在の阿波市市場町市場・香美)があります。「市の本」は古野川水運(地名「渡」)を核として成立した市庭の発展型と考えられます。
秋月荘は古野川に面していたので、当然川湊があったことが推定できます。
その地点は、その後の吉野川の流路変更で、特定することは難しいようです。敢えて探すとすれば、秋月八幡宮から南に直進した地点や市場町香美渡付近あたりが考えられます。

J【外港 引田港】(香川県東かがわ市)
引田 大内郡 正保国絵図
           引田と周辺地域 正保国絵図
「秋月」から最も近い海港は、讃岐国の引田港などになります。引田港は以前にお話したように、中世においては大坂峠を越えて阿波もヒンターランドとしていて、畿内・瀬戸内方面への拠点港となっていたしまた。また阿讃山地沿いに東進すると、撫養港(鳴門市撫養町)に出て、阿波国南部への航路と接続が可能でした。

以上から研究者は「秋月」の空間構成を次のように考えています。
① 守護所エリアは秋月荘全域。
② 守護所空間は大きく三ケ所
 A 守護役所〈館・被官屋敷等〉空間、B 寺院空間、C 鎮守・町場空間)の空間を核として、有機的に結節。
③ 守護所に付随した町場は秋月八幡宮周辺や古市など吉野川北岸域に成立。
④ これまで守護所とされてきた秋月(旧秋月村)は隣接する切幡(旧切幡村)も寺院空間に含む

こうして見ると、「秋月」は吉野川北岸の街道「大道」沿いの約1㎞の範囲内に「守護役所等」「鎮守社」「町場+市庭」「川湊」などが集中しています。そしてそのエリアから約1㎞北に隔てた山麓部に菩提寺・利生塔を配する寺院空間(奥津城)が配置されています。ある意味で集中性の高い空間構造であったことが見えて来ます。ここからは逆に、細川氏が阿波国守護になった後も国府地域へ進出せずに、引き続いて秋月を守護所としたのはどうしてか?という問題にも答えることができそうです。
 
 阿波国守護細川氏は、和氏・頼春ともに守護職在職当時は阿波国以外での活動に多くの時間を割かざるを得ない状況にありました。
阿波細川氏年表1
阿波細川氏の年表
 瀬戸内海・畿内方面への軍事的移動を考えると、その外港は南海道を利用した引田港になります。引田港へは阿讃山脈越えになりますが、大坂峠は低い峠道で古代以来南海道として整備されており、短時間で引田港へ出ることができます。そういう点からすれば、秋月の地は、阿波国府地域よりも瀬戸内海方面への軍事力の移動などにははるかに有利だったと研究者は考えています。
 頼春が観応の擾乱によって京都市中で戦死した後を受けた頼之と、頼之が管領として上洛した後を受けた頼有もまた、阿波一国だけでなく、四国の他国や中国地方の守護などを引き続き兼務していました。そのために「秋月」から守護所を移すことはありませんでした。要するに「秋月」は阿波国守護所であると同時に、瀬戸内海・中国地方での活動などを含めた広域守護細川氏にとっての活動拠点としての適地であったと研究者は考えています。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
福家清司 「秋月」の空間構成  四国中世史研究17号 2023年
阿波学会研究紀 市場町の石造文化財について 郷土研究発表会紀要第25号
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秋山氏

以前に秋山氏のことは上のようにまとめておきました。
今回は、上表で⑥と⑦の間に位置するころの「秋山氏の鷹贈答文化政策」を見ていくことにします。
テキストは「溝渕利博 中世後期讃岐における国人・土豪層の贈答・文化芸能活動と地域社会秩序の形成(中) 髙松大学紀要」です。
香西元長による管領細川政元暗殺に端を発する永世の錯乱(1507年)は、「讃岐武士団の墓場」と呼ばれ、多くの讃岐武士団の凋落をもたらします。同時に、中央での細川氏同士の争いは、阿波細川氏の讃岐への侵攻をもたらします。その結果、讃岐は他国に魁けて戦国時代に突入したと研究者は考えています。

1 秋山源太郎 細川氏の抗争
この時期に秋山源太郎は、細川澄元や淡路守護家細川尚春(以久)に接近しています。
その交流を示す資料が、秋山家文書の(29)~(55)の一連の書状群です。阿波守護家は、細川澄元の実家であり、政元の後継者の最右翼と源太郎は考えて、秋山家の命運を託そうとしたのかも知れません。 
 この時期の城山文書からは次のような事がうかがえます。
①高瀬郷内水田跡職をめぐって秋山源太郎と香川山城守が争論となった時に、京兆家御料所として召し上げら、その代官職が細川淡路守尚春(以久)の預かりとなっていたこと。
②この没収地の変換を、秋山源太郎が細川尚春に求めていたこと。
③そのために、源太郎は自分の息子を細川尚春(以久)の淡路の居館に人質として仕えさせていたこと
④淡路守護家に臣下の礼をとり、尚春やその家人たちへの贈答品を贈り続けていたこと。
⑤その淡路守護家からの礼状が秋山文書の中には源太郎宛に数多く残されていること。
⑥ここからは、秋山氏と淡路の細川尚春間の贈答や使者の往来が見えてくること。
この文書については、以前にお話ししました。それを一覧化したものを見ておきましょう。

秋山源太郎 淡路細川尚春書状一覧

秋山源太郎 淡路細川尚春書状一覧2
     秋山源太郎への淡路細川尚春(以久)やその奉行人からの書状一覧
①一番上が日付 
②発給者の名前に「春」の字がついている人物が多いので、細川淡路守尚春(以久)の一字を拝領した側近
③一番下が秋山源太郎からの贈答品です。鷹・小鷹・鷂(ハイタカ)・悦哉(えっさい:ツミ)が多いのが分かります。
鷹狩り

鋭いかぎ爪でハト襲うハイタカ 繰り返された野生の攻防 沖縄・名護市 | 沖縄タイムス+プラス
            鳩を捕らえたハイタカ(牝)

鷹狩りには、オオタカ・ハイタカ・ハヤブサ・ツミ(愛玩用?)が用いられたようですが、秋山源太郎が贈答品に贈っているのはハイタカが多いようです。
ハイタカは鳩くらいの小型の鷹で、その中で鷹狩りに用いられるのは雌だけだったようです。そのハイタカにも細かいランク分けや優劣があったようです。源太郎から送られてきたハイタカは「山かえり(山帰り)」で一冬を山で越させて羽根の色が毛更りして見事なものだったようです。
文書の中に贈答品として、鷹がどんな風に登場するかを見ておきましょう。
(年欠)7月5日付 秋山源太郎宛 細川氏奉行人薬師寺長盛書状 
「就中、重寶之給候」
(年欠)10月29日付 細川氏奉行人 春綱書状
「就之儀、石原新左衛門尉其方へ被越候、可然様御調法候者、可為祝着之由例、諸事石原方可被申候間、不能巨細候」
調教済みの鷹を贈られたことへのお礼が述べられています、
同11月9日付 細川氏奉行人 春綱書状
「なくさミのためゑつさい所望之由」
なぐさめ(観賞用)の悦哉(ツミ)を、細川家の奉行人が所望しています。
同12月27日付 細川氏奉行人 春綱書状
「鷂(ハイタカ)二居致披露候處祝着之旨以書札被申候」
秋山氏から鷂が贈られてきたことへの細川氏奉行人の春綱書状お礼です。用件のついでに、鷹の進上への謝辞をさらりと入れています。
 今度は、淡路守護細川尚春から秋山源太郎へ書状です。                    
今度御出張の刻、出陣無く候、子細如何候や、心元無く候、重ねて出陣調に就き、播州え音信せさせ候、鷹廿居尋ねられ給うべく候、子細吉川大蔵丞申すべく候、
恐々謹言          以久(淡路守護細川尚春)花押
九月七日
秋山源太郎殿
意訳すると
今度の出陣依頼にも関わらず、出陣しなかったのは、どういう訳か! 非常に心配である。重ねて出陣依頼があるようなので、播州細川氏に伝えておくように、
鷹20羽を贈るように命じる。子細は吉川大蔵丞が口頭で伝える、恐々謹言
先ほど見たように、当時は「永世の錯乱」後に、細川政元の養子となっていた「澄之・澄元・高国」による家督争いが展開中でした。澄元方の播州赤松氏は、播磨と和泉方面から京都を狙って高国方に対し軍事行動を起こします。しかし、京都の船岡山合戦で破れてしまいます。これが永正8(1511)年8月のことです。この船岡山合戦での敗北直後の9月7日に淡路守護細川尚春が秋山源太郎に宛てて出された書状です。 内容を見ていきましょう。冒頭に、尚春が荷担する澄元側が負けたことに怒って、秋山源太郎が参戦しなかったのを「子細如何候哉」と問い詰めています。その後一転してハイタカ20羽を贈るようにと催促しています。この意味不明の乱脈ぶりが中世文書の面白さであり、難しさかもしれません。
それから3ヶ月後の淡路守護細川尚春からの書状です。
鵠同兄鷹(ハイタカ)給い候、殊に見事候の間、祝着候、
猶田村 弥九郎申すべく候、恐々謹言
           (細川尚春)以久 (花押)
十二月三日
秋山源太郎殿
意訳すると
  特に見事な雌の大型のハイタカを頂き祝着である。
猶田村の軒については、使者の弥九郎が口頭で説明する、恐々謹言
先ほどの書状が9月7日付けでしたから、それから3ヶ月後の尚春からの書状です。 出陣しなかった罰として、ハイタカ20羽を所望されて、急いで手元にいる中で大型サイズと普通サイズのものを秋山氏が贈ったことがうかがえます。重大な戦闘が続いていても、尚春はハイタカの事は別事のように執着しているのが面白い所です。当時の守護の価値観までも透けて見えてくるような気がします。
 ここからは、澄元からの出陣要請にも関わらず船岡山合戦に参陣しなかった源太郎への疑念と怒りがハイタカ20羽で帳消しにされたことがうかがえます。鷹の価値は大きかったようです。細川家の守護たちのご機嫌を取り、怒りをおさめさせるのにハイタカは効果的な贈答品であったようです。三豊周辺の山野で捕らえられたハイタカが、鷹狩り用に訓練されて淡路の細川氏の下へ贈られていたのです。

 ところで秋山氏の所領がある三野郡に、これだけの鷹類がいたのでしょうか?
 私もかつて日本野鳥の会に入っていて、鷹類の渡り観察会に参加していました。阿波の鳴門や伊予の三崎半島の突端には、東から多くの鷹たち(多くはサシバ)がやってきて、西へと渡って行きます。鷹柱になることもあります。それらを見晴らしのいい高台から眺めるのは気持ちのいいものでした。香川県支部タカ渡り調査グループの調査記録によれば、荘内半島近辺は、春に朝鮮半島へ向かう鷂が集まりやすい地形で、秋には差羽(サシバ)、雀鷹(ツミ)・鷂(ハイタカ)なそが岡山県側から備讃瀬戸の島伝いに南下してくることが報告されています。秋山氏の所領の高瀬郷付近は、春と秋に渡り鳥が飛来する適地であったようです。
 鎌倉時代の関東からの西遷御家人によって、西国に東国の鷹狩り文化が持ち込まれたと云われます。元寇後に讃岐にやって来た西遷御家人でもある秋山氏も、東国で行っていた鷹狩りを讃岐でも行うようになった可能性はあります。贈答用のハイタカは庄内半島周辺で捕らえられ、源太郎家で飼育され、狩りの訓練もされていたのでしょう。尚春のもとで仕えていた秋山新六も、鷹の調教には詳しかったようで、他の書簡には「調教方法は詳しく述べなくても新六がいるので大丈夫」などと記されています。ハイタカの飼育・調教を通じて新六が尚春の近くに接近していく姿が見えてきます。

どうして上級武士達は鷹狩りに熱中したのでしょうか?
古代の鷹狩は「遊猟」と書き、「かり」「みかり」と読まれる神事・儀式だったようです。
遊猟(鷹狩) は「君主の猟」といわれ、皇族や貴族に限られ、庶民が鷹を飼うことは厳禁でした。その背景には、鷹が「魂の鳥、魂覓(ま)ぎの鳥」と見なされていたことがあります。中世でも鷹は仏神の化身として、神前に据える「神鷹」の思想へと受け継がれていきます。このように古代から支配者の狩猟活動は、権威のシンボル的意味を持っていたことは、メソポタミアの獅子刈りがそうであったように世界の古代帝国に共通します。その中で鷹狩(放鷹)は、調教した鷹を放って鳥や獣を捕える技で、天皇・皇族が行う遊猟とみなされてきました。そのため鷹狩はレクレーションではなく、国家権力行使の一部と見みられます。こうして鷹の雛採取の権利は、山林支配権とも結びつきます。それは天皇家から武家政権にも継承されます。今でも「鷹の巣山・大鷹山、鷹山(高山)」などの山名を持つ山は、この系譜に連なっていた可能性があるようです。その一大イヴェントが源頼朝が建久4年(1193)に富士の裾野で大規模で行った巻狩です。これは軍事演習であると同時に、統治者としての資格を神に問うものでもありました。

源頼朝の富士裾野の巻狩り
源頼朝の富士の裾野の巻狩図
「一遍上人絵伝」を見ていると、武家屋敷主屋の縁先に鷹が描かれています。中世武士と鷹との関係は日常的なものだったようです。
 室町期には、狩野永徳の「洛中洛外図屏風」等に嵐山渡月橋近くを行く鷹匠一行が描かれています。鷹狩が定着すると、室町幕府は公家の放鷹や諏訪流鷹術を学んで大名・守護の鷹狩を公認するようになります。その一方で、幕府への鷹の進上を大名・守護に求めるようになります。これはドミノ理論のように、将軍家の鷹献上のために、守護は被官たちに鷹の進上を求めるようになります。自分で鷹狩りをするためだけでなく、鷹が贈答品としての大きな価値を持つようになったのです。だから、守護の中には幾種類何十羽の鷹を飼育し、専業者を雇い入れる者も出てきます。
 そのような中で出されたのが6代将軍足利義教の時の鷹・猿楽統制令です。
これは鷹狩と猿楽は室町殿だけに許される芸能として、他のものには許認可制とするものです。鷹狩と猿楽を権力の象徴として、室町殿の管理下に置こうとする動きと研究者は考えています。その後、三管領等の有力大名から、年頭に将軍に「美物」が献上されるようになります。「美物」として挙げられているのが次のものです。(室町幕府政所代蜷川親元の日記『親元日記』文明17年(1485)

「白鳥・雁・鴨・鶇・青鷺・五位鷺・菱食・鴫・初雁・水鳥・鷹」

こうして室町時代には、鷹の献上・下賜儀礼品化が進んでいきます。
後の信長や秀吉も、この先例を引き継ぎます。こうして戦国期には鷹狩が大流行し、織田信長は大名や家臣から鷹を献上させます。それでは満足できずに、鷹師を奥羽に派遣して逸物の鷹を手に入れ、朝廷に「鷹・雁・鶴」を献上します。それだけでなく「鷹」を家臣団をはじめ安土城下の町民にも下賜しています。
 続いて豊臣秀吉は、全国の鷹を居ながらにして獲得できる鷹の確保体制を築き上げます。
そして、朝廷と武家の儀礼を融合した独自の贈答儀礼を創りだします。天正16年(1588)5月には、鷹狩の獲物が献上品となり、朝廷へは白鳥が、大名には鶴・雁が献上されるようになります。こうして家臣や従属下にある領主から献上させる場合には「進上」という言葉が使われるようになります。これは単なる贈与ではなく、従属関係にあることをはっきりとさせたものです。それだけにとどまりません。それは次のような2つの政治的意図がありました。
①鷹の上納を一元化することで、小領主が持っていた山野支配権を否定
②村落内の小領主は、棟別銭免徐と竹林伐採禁止の特権を獲得
秀吉のやり方は、見事です。村落は鷹を進上することで山野の利用権(野山入会権)を設定し、村落内の小領主も鷹を進上することで、彼らの既得権を維持させたのです。

最後に秋山氏以外の讃岐における国人・土豪層の鷹狩文化を見ておきましょう。
①明応元年(1492) 香川備中守息の香河五郎次郎が鷹野に往っている(蔭凉軒日録)。
②明応6年(1497) 山城国守護代となった香西元長は、翌年に南山城で鷹狩実施。
新しく守護代となって支配者の特権である鷹狩権を山城で行使しています。これは自らの支配権を目に見える形で行使するデモンストレーションでもありました。
③永正元年(1504) 主君細川政元から東讃守護代安富元家に対して「自御屋形鷹二・鳥十・鯛一折、被送下候、祝着畏入候」とあり、鷹・鳥・鯛が下賜。(『細川家書札抄』(高松松平家蔵)
④阿波の三好長治が元亀3年(1572)冬に、山田郡木太郷で讃岐諸将(多度津雅楽助・大林三郎左衛門)を召集して鷹狩実施(南海治乱記)。
これも三好氏による讃岐占領地である山田郡での支配者としての示威行動ともとれます。
⑤『玉藻集』には「阿波の屋形へ羽床伊豆守より白鷺を指上る」とあり、羽床伊豆守政成が「今度於綾川ニ、盡粉骨白鳥一羽生捕畢。進上之如件」(綾川で取れた白鳥(白鷺)を進上)という宛状を調えて、「屋形様 御近習衆中」宛てに送っています。ここからは、白鳥が「美物」であったことが裏付けられます。
⑥「多田刑部は西郡に住す。代々鷹の道をよく知ると云々」とあり、讃岐西部の香川氏家臣多田刑部が「鷹の道」に通じていたこと。ここからは西讃には秋山氏以外にも鷹匠的技能をもつ武士たちがいたことが分かります。彼らが近世になると大名の鷹匠へと招聘されていくのかも知れません。
以上をまとめておきます
①日本には古代の天皇の放鷹にみる「鷹狩する王」(狩る王)の系譜があった。
②中世にはその伝統が在地武士の小領主の間にも広がり、
③鷹はその小領主権を象徴し、鷹の献上は服属の儀礼を意味するようになった
④秀吉は、それを逆手にとって鷹の上納を一元化することで、小領主が持っていた山野支配権を否定
⑤その代償として、村落内の小領主に対しては棟別銭免徐と竹林伐採禁止の特権を与えた。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献

悪魚退治伝説 綾氏系図
綾氏系図 冒頭が神櫛王(讃留霊王)の悪魚退治伝説
綾氏系図

①香西氏は「綾氏系図」(『続群書類従』第七輯上・武家部)には、鳥羽院政期に讃岐国に知行国主であった中納言藤原家成の子章隆に始まる讃岐藤原氏の子孫と記されます。その氏祖は承久の乱頃の鎌倉御家人香西資村と記します。香西の地名は、平安時代後期の郡郷改編で香川郡が東西に分割されて成立した香西郡のことです。『兵庫北関入船納帳』の文安2年(1445)5月15日条に「香西」と見えるのが初見のようです。同文書の同年9月13日条には「幸西」との表記もあるので、「こ-ざい」と古くから呼ばれていたことが分かります。また、香西の名字は、『実隆公記』紙背文書(続群書類従完成会)の明応6年(1497)10月5日の女房奉書に「かうさいのまた六」(香西又六元長)と見え、地名の香西に因んでいたことが分かります。 香西氏は資村のあと中世を通じて勢力を伸ばし、南北朝期には足利尊氏方に付き、その後讃岐守護となった細川氏との結び付きを強めていきます。
香西氏に関する史料を年代順に並べて見ておきます。
建武2年(1335)11月 細川定禅(顕氏弟)に率いられて、香西郡坂田郷鷺田庄で挙兵 (『太平記』の諸国ノ朝敵蜂起ノ事)
建武4年(1337)足利尊氏方の讃岐守護細川顕氏に従った(西野嘉右衛門氏所蔵文書)

香西氏の成長2


室町期の香西氏は、管領細川京兆家の内衆として在京し、その分国丹波国の守護代や摂津国住吉郡守護代を務めています。(『康冨記』応永19(1412)年6月8日条)。また、讃岐では細川氏所領香西郡坂田郷代官や守護料所三野郡仁尾浦代官、醍醐寺領綾南条郡陶保代官を務めた。
『南海治乱記』『南海通記』等には、香西氏の系譜について次のように記します。
香西氏系図 南海通記
南海通記の香西氏家譜
A 細川勝元より「元」字を与えられた①香西元資は、香川元明・安富盛長・奈良元安とともに「細川ノ四天王」と呼ばれて細川家内で重きをなした。
B ①元資の後、②長子元直とその子元継は丹波篠山城にいて上香西と呼ばれ、
C ③次子元網(元顕)は、讃岐の本領を相続して在国し、下香西と呼ばれた。
D ④香西氏は、在京と在国の一族分業体制を採っていた
しかし、これらの内容は残された史料とはかみ合わないことは以前にお話ししました。南海通記の記述は長老からの聞き書きに頼っているようですが、その時点で香西氏の家譜については、記憶が失われていたようです。ただ室町~戦国時代の香西氏には、次の2系統があったことは史料からもうかがえます。
A 豊前守・豊前入道を名乗る豊前守系統と
B 五郎左(右)衛門尉を名乗る五郎左(右)衛門尉系統
Aは嘉吉年間、讃岐国仁尾浦代官職・春日社領越前国坪江郷政所職を務めた豊前(豊前入道)と、醍醐寺報恩院領綾南条郡陶保代官職を務めた美濃守とに分かれたようです。応永21年(1414)12月8日に細川満元が催した頓證寺法楽和歌会に、香西豊前入道常健は、のち丹波国守護代となる香西豊前守元資とともに列席しています。「松山百首和歌」にそれぞれ2首、1首が載せられていることから裏付けられます。香西氏が京兆家細川家の内衆として現れるのは、満元時代の常健が初見となります。
Bの香西氏について年表化しておきます
①嘉吉元年(1441) 仁尾浦神人等言上状に香西豊前とともに香西五郎左(右)衛門が見えるのが初見
②万嘉吉3年6月1日条 里小路時房の『建内記』に、香西五郎右衛門尉之長が京兆家分国摂津国住吉郡守護代であったこと
③文明18年(1486)『蔭凉軒日録』11月27日条 香西五郎左衛門が初めて登場し、細川政元の使者をしばしば務めていること
④長享元年(1487)12月 将軍足利義尚の近江六角氏追討に際して政元の伴衆に加わる政元の内衆の1人として登場
⑤長享3年(1489)8月13日の政元主催の犬追物に香西又六元長とともに射手を務める
⑥文明17年(1485)から永正4年(1507)の間、香西彦二郎長祐が、細川政元邸で開催される2月25日の「細川千句」の執筆役を務めていること。
こうしてみると香西氏は細川京兆家に仕えて、和歌・連歌・犬追物活動に従っていたことが分かります。 

香西氏と
                  勝賀城と佐料城

讃岐における香西氏の拠点は、ランドマークともいえる勝賀山に築かれた大規模な山城(勝賀城)と山麓館(佐料城)のセットでした。以前にお話したように天正5年(1577)に藤尾城に移るまでは、佐料城を拠点とします。
佐料城周辺図
          佐料城周辺 勝賀山城発掘調査報告書1979年 より

佐料城地籍図
佐料城跡

佐料城跡は一辺約65mの方形区画溝をもつ屋敷地だったようです。周辺には「城の内」「内堀」「北堀」「御屋敷」「せきど」「城の本家」「城の新屋」「城の台」「馬場の谷」「東門」等の屋号が残ります。 
 香西氏の文化活動としてまず挙げたいのが夢想礎石の招聘です。
夢窓疎石(むそうそせき)という鎌倉時代から室町時代に活躍した枯山水の庭師・作庭家 - 枯山水めぐり

暦応5年(1342)に夢想礎石が阿波国丈六寺釈迦像開眼の導師のために阿波に渡ってきます。入仏の式を終えた後、礎石は讃州七観音霊地の巡礼を望みます。讃州七観音霊地とは「国分寺 → 白峰寺 → 根来寺 → 屋島寺 → 八栗寺 → 志度寺 → 長尾寺」で、この観音霊場巡りの「中辺路」が、後の「四国遍路」につながると研究者は考えています。
『香西雑記』には、この時のことを次のように記します。

「平賀近山来由景象記」には「常世山其名殊に霊也。・・・往昔神仙の地也と謂いて、其名有といへり。・・・昔麓に常世山宗玄寺と云禅林有て、有時夢想国師の止宿を香西氏奔走せられし旧跡也。・又曰、往昔細川頼之阿国勝浦邑に梵宇を建、丈六の釈尊の像を刻彫し、夢想国師を請して開眼の導師とせられ、当地に 来られ常世山宗玄寺に止宿の時、城主香西氏奔走して、佐料城南泉房泉の清水を汲て喫茶を促。国師此名水を賞して、則泉房記を書れり、香西氏得之て大に悦寵賞せられしとなり」

意訳変換しておくと
「平賀近山来由景象記」には次のように記す。「常世山は、まさに霊山である。・・・往昔は神仙の地とされ、この名がつけたらたと云う。昔はその麓に常世山宗玄寺と禅寺があって、夢想国師が来訪したときに香西氏が宿として提供した旧跡である。また次のようにも記す。その昔、川頼之が阿波の勝浦邑に梵宇を建立し丈六の釈尊像を刻彫し、夢想国師に開眼の導師を依頼した。その際にこの地にやってきて常世山宗玄寺に止宿した。城主香西氏は奔走して、佐料城南泉房泉の清水を汲んで喫茶で接待した。国師はこの名水を賞して、泉房記を香西氏に与えた。香西氏はこれを手にして大に悦んだという」

ここからは香西氏の居城である佐料城近くに常世山があり、そこに宗玄寺という香西氏と関係の深い禅宗寺院があったことが分かります。
礎石はその禅寺に止宿したとあるので、宗玄寺にも旦過寮または仮宿院・接待庵にあたる宿泊施設があったことがうかがえます。中世後期には、国人領主の城館の周辺には重臣の館や迎賓館的禅宗寺院が姿を見せるようになります。そして日常的な居所は山城に移転し、麓の居館 (公務の場)と城下に2分されるようになります。宗玄寺も香西氏の迎賓館的性格を持った禅宗寺院ではなかったかと研究者は推測します。ここからは香西氏が禅宗の学僧との接触を通じて、詩賦の教養を高めたていたことがうかがえます。
室町時代の讃岐では、守護細川氏の保護もあって、臨済宗、特に五山派の受容が広がっていました。
例えば、細川顕氏は父頼貞の菩提を弔うために宇多津に長興寺を建立して無德至孝を招いています。細川頼之は夢窓疎石や絶海中津を讃岐に招いています。五山派が守護の保護を受けたのに対して、林下は守護代や国人クラスの地方武士に積極的に取り入り、仁尾に常徳寺を開くなど教線の拡大を図ります。一方、曹洞宗も寛正年中(1460~1466)に細川勝元によって大内郡東山の宝光寺が再興され、讃岐禅門洞家の最初の道場としたといわれています。禅宗の地方展開は、このような地方有力武士と名の知れた禅僧との特別な関係だけではないようです。法系図に名前が残されていない「参学ノ小師」とされる無名の禅僧と、それを庇護した中小の在地武士や土豪層に支えられていた面も大きかったと研究者は指摘します。 
室町~戦国時代の武士にとって戦いの中で生み出された怨霊を鎮魂し、安穏をはかることは欠かせない行為でした。『足利季世記』には、次のように記されています。

「かの法師を陣僧に作り、廻状を書て彼の陣に送りける」

ここからは、陣僧と呼ばれる従軍僧が軍団の中に多数いことが分かります。陣僧とは右筆的性格や使僧的性格だけではないようです。大橋俊雄氏は次のように指摘します。

「仏の教えを説き、戦陣にある将兵たちに生きるささえを教え(中略)、ときに死体処理にもあたった『従軍僧』というのが実際の姿に近かったのではないか」

ここからは陣僧には、従軍医的側面もあったことがうかがえます。そのため易学・兵学中心の講義が行われた足利学校の卒業生(軍配者)たちは、軍師として各地の大名に招かれることが多くなり、そのブレーンとなケースも出てきます。
 
阿弥衆 毛坊主・陣僧・同朋衆(桜井哲夫) / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋

 禅僧は、戦闘はしなくても合戦の行程を管理して「頸注文」のような報告書の作成にも関与していました。
南北朝時代から軍忠状には、寺院は祈祷と具体的な合戦における死者手負が列挙されるようになります。室町時代の『蔭凉軒日録』には「分捕頸注文」と呼ばれる戦果報告書群が数多く記載されています。これは合戦の大将に提出する軍忠状の一種で、大将や軍奉行の承認を受けて、後日、恩賞の給付や安堵を受ける際の証拠資料となるものです。
 延徳4年(1492)4月1日の「頸注文」には、次のように記されています。

「頸五十余、名が判明するもの  十二名、 未詳のもの  四十余り、 死者 三百余人、 安富筑後守元家方の負傷者   安富修理亮・三上与三郎 討死」

同年4月4日付の「頸注文」には、3月29 日巳~午の刻合戦分として「安冨筑後守元家  手勢が討ち取った頸六十七」と記されています。
これらの首見分や死体処理に携わったのも従軍僧侶(陣僧)です。彼らは、戦争のときには、まず先に調伏祈祷行為を行い、南北朝時代には和議の斡旋にも関わり、和議が破れた際には両者の間に立って調整に務めます。戦国時代になると、自ら軍師となったり、陣僧と称して軍陣において敵味方の間を往復周旋して和平交渉を務める者も出てきます。
 一方で、血まみれになり修羅と化した武士達に、心の平安をもたらしたのが従軍を厭わない禅僧たちであったのです。こうして陣僧達は武士の心を摑みます。武士が禅僧を保護するようになるのには、こんな背景があるようです。そういう流れの中で、香西氏も氏寺として禅寺を建立し、迎賓館として整備し、そこに賓客として夢想礎石を迎えたという話になります。

香西氏の和歌や連歌などの文化活動を年表化してみます。
・応永21年(1414)12月8日 讃岐守護細川満元が、法楽和歌会を催して詠んだ百首及び三十首和歌を讃岐国頓證寺(白峰寺)へ奉納。この中に香西常建と香西元資が詠んだ歌が載せられている。
文明17年(1485)2月25日、香西彦二郎長祐は細川政元の「北野社法楽一日千句連歌」に参加、以後永正4年(1507)2月25日まで政元の命により御発句御脇付第三の執筆担当
長享3年(1489)7月3日   細川政国主催の禅昌院詩歌会に飛鳥井雅親・細川政元・五山僧侶らとともに香西又六・牟禮次郎が列座
延徳3年(1491)3月3日    細川政元は馬の買い付けのために香西又六元長や冷泉爲広らを同行して奥州へ出発。その途中の3月11日に、加賀国白江荘で細川政元が道端の桜を見て歌を詠み、それに続いて冷泉爲広・香西元長・鴨井元朝も続けて歌を詠んでいます。ここから細川京兆家内衆の歌に対する関心は、非常に高かったことがうかがえます。
明応元年(1495)8月11日 香西藤五郎元綱が歌会主催。この歌会には『松下集』の作者である僧の正広も参加。
明応5年(1496)2月22日、香西元資が勧進して東讃守護代の安富元家・元治や在地武士・僧侶・神官・愛童等を誘って連歌会を主催。「神谷神社法楽連歌」1巻を神谷神社に奉納。端書並びに端作には「明應五年二月廿二日」「神谷社法楽」「賦三字中畧連歌」とあり、神谷神社法楽を目的として巻かれたものです。
香西元資は、細川勝元の家臣で、連衆は、安富元家・同元治など29名です。神谷神社所蔵の鎌倉期古写の『大般若経』600巻のうち、巻591は享徳4年(1455)に宗安、巻593は同じ年に宗林、巻451 は文明13年(1481)に祐慶法師が補写されています。ここからは、宗堅・宗高・宗勝など「宗」の字を持つ人物や、「祐」の字を持つ祐宗らのうち何人かは神谷神社の神官や僧侶ではないかと研究者は推測します。
 また、年代不明ながら身延文庫本『雑々私用抄』及び『甚深集』の紙背文書に、香西又六元長の連歌会での百韻連歌懐紙の名残りの折に、句上げを掲げて次のように記されています。

「元長二、元秋一、元能一、方上一、内上一、筑前一、禅門一、宗純一、氏明一、秀長一、泰綱十二、元堯七、(7人略)長祐十二、業祐一」

ここからは、香西又六元長を筆頭とし彦六、元秋、孫六元能(孫六元秋、彦六元能か)、4人おいて、真珠院宗純と香西兄弟が上位に並び、長祐は香西彦二郎長祐の順で座っていたことがうかがえます。

犬追物

犬追物
 管領細川政元と香西孫五郎との親密な関係がうかがえるのが犬追物の頻繁な開催です。
犬追物は、40間四方の平坦な馬場に150匹の犬を放ち、36騎(12騎が一組)の騎手が決められた時間内に何匹犬を射たかを競う競技です。射るといっても犬を射殺すわけではなく「犬射引目」という特殊な鏑矢を使います。ただ当てればよいというわけではなく、打ち方や命中した場所によって判定が変わる共通ルールがあったようです
それが細川政元の時代になると、次のように頻繁に行われるようになります。
1484年3月9日   細川政元邸の犬追物で香西孫五郎・香西又五郎・安富與三左衛門尉らが射手を務める(『萩藩旧記雑録』前編)。
1488年正月20日  細川政元が犬追物を行い、香西又六・牟禮次郎が参加(『後鑑』)
1489年正月20日  香西又六元長が細川政元の犬追物で射手を務める(小野均氏所蔵文書)。
1489年8月12日  細川政元邸の犬追物に備えて京に香西党300人程が集まり注目を集める。牟禮・鴨井・行吉等は香西一族(『蔭凉軒日録』)
1490年8月13日 細川政元、犬追物を行い、香西又六・牟禮次郎・安富又三郎・安富與三左衛門尉・安富新兵衛尉・香西五郎左衛門尉・奈良備前守が参加(『犬追物日記』)。
1493年7月7日 細川政元亭の犬馬場で犬追物があり、「天下壮観也。・・・香西又六、牟禮次郎十二騎」と記される(『蔭凉軒日録』)
1493年8月23日 細川政元亭の犬追物興行に香西又六・牟禮次郎らが参加し「天下壮観也」 (『蔭凉軒日録』)。
1493年11月16日 細川政元亭の犬追物興行に香西又六・牟禮次郎が参加(『犬追物日記』)

1491年に実施されていないのは、先ほど見たように細川政元が香西又六元長や冷泉爲広馬とともに奥州へ馬の買付に出向いていたからと思われます。1492年は吉備での戦争従軍のためのようです。それを除くと、年に1回だったのが2回へと増え、1493年には3回になっています。
蔭凉軒日録』長享3年(1489)8月12日条には次のように記します。

「塗師花田源左衛門尉来る。雑話剋を移す。勧むるに斎をもってす。話、京兆(政元)の件同に及ぶ。来る十三日三手の犬大義なり。二百匹過ぎ一献あり。一献おわりてまた百匹。三十六騎これあり。(中略)また香西党はなはだ多衆なり。相伝えて云く。藤家七千人。自余諸侍これに及ばず。牟禮・鴨井・行吉等また皆香西一姓の者なり。只今また京都に相集まる。則ち三百人ばかりこれ有るかと云々」

塗師の花田源左衛門尉が依頼品を収めに来て、いつものように讃岐の情勢を話して帰る。話は京兆家の細川政元のことに及んだ。13日の犬追物では、3回に分かれて行われた。1回目が二百匹あまり、2回目が百匹。これを36騎で追った。(中略)
中でも香西衆は数が多い。伝え聞くところによると、讃岐藤家は七千人という。他の侍これに及ばず。牟禮・鴨井・行吉等また皆香西一姓の者なり。只今また京都に相集まる。則ち三百人ばかりこれ有るかと云々」


ここからは、細川政元邸の犬追物に備えて讃岐から京に香西党300人程が集まって犬追物がおこなわれたことが分かります。300騎というのは軍事集団で、ある種の示威行動でもあり、人々から注目されています。讃岐では香西氏が属する讃岐藤原氏は7、000人もいて他の侍はこれに及ばず、香西氏は集団からなる党的武士団であるとされています。京都の人々から「天下壮観也」と表されています。香西氏一門の名を誇示する場となっていたがうかがえます。こうして香西又六元長は、政元の寵愛をうけることで、京都の警察力を握り権力中枢に最接近していきます。そして、己の力を過信して永世の錯乱を招くことになると私は考えています。
以上をまとめておくと
①香西氏は細川氏の内衆として、丹波など畿内で守護代をつとめるなどいくもの傍流が存在した。
②その中で、讃岐に拠点を置いた香西氏は勝賀城と佐料城を拠点に、阿野北平野方面まで勢力を伸ばしていた。
③香西氏が建立した宗玄寺は迎賓館的性格を持った禅宗寺院で、禅宗の学僧との接触を通じて、教養を高めようとしていた。
④香西元資は、東讃守護代の安富元家・元治や在地武士・僧侶・神官・愛童等を誘って神谷神社で法楽連歌会を開催し、一族や幕下との連帯強化を図っている。
⑤香西孫五郎は、細川政元の寵愛を受けて一族で犬追物に参加し、最有力の内衆となり、京都の警察権を握った。
⑥それが細川政元の後継者問題への介入につながり、永世の錯乱へ続き墓穴を掘ることになった。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
中世後期讃岐における国人・土豪層の贈答・文化芸能活動と地域社会秩序の形成(中) 髙松大学紀要
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武士に求められた諸要素
 
前回は東讃守護代の安富氏が連歌や和歌などの文化力を政治的に活用していたことを次のようにまとめました。
①細川家主宰の連歌会などの重要なメンバーとなることで政治的な地位を高めたこと
②国元の讃岐でも連歌師を呼んで連歌会を開いて、文化的な伝達役を果たしていたこと
③それが一族や家臣団の意志疎通や団結など政治的にプラスの役割を果たしたこと
④法楽連歌などを神前で開いて、奉納することで有力寺社とのつながりを強めたこと
今回は、猿楽能と田楽がどのようにして讃岐に定着していったのか、その際に細川氏の被官達が果たした役割がなんだたのかを見ていくことにします。テキストは「溝渕利博 中世後期讃岐における国人・土豪層の贈答・文化芸能活動と地域社会秩序の形成(中) 髙松大学紀要」です。

室町幕府の勧進猿楽のモデルは、永享5年(1433)に6代将軍足利義教が音阿弥に命じて京都の糺河原で勧進猿楽を興行したことに始まるようです。

貞秀「東山殿猿楽興行図」
貞秀「東山殿猿楽興行図」 
                 東山殿猿楽興行図
これをモデルにして、文亀 3年(1503)に11代義澄は猿楽興行を定例化します。その背景には、義澄が管領の細川政元との関係修復させ、政元の幕政参加で政治基盤の安定化をはかろうとする政治的意図があったと研究者は指摘します。足利幕府の支持基盤である諸勢力の結束を強めて、幕政運営体制を維持・強化しようとして行った政策の一環として猿楽能興行が取り上げられたというのです。
 合戦や政変後の猿楽興行には、戦乱や政変の終焉を告げることや、戦後の権力者の序列を示して幕政体制を安定化させ再構築するという意味もあったようです。
猿楽興行は、新たな政治的ランク付けを目に見える形で提供する秩序構築の場でもあったのです。これは、郷村における神社の祭礼の宮座の座席位置が、その人のランク付けとして機能していたことと通じるものがあります。
  中世の武士は、自らの実力によって所領保全に努めました。
しかし、室町時代にはそれだけでなく室町殿とのつながりを求め、その支援を得て所領保全を図ろうとする地方武士も多く現れます。中央権力とのつながりを持った地方武士たちの中には、室町殿の邸宅を模した屋敷や文芸を催すための会所を造り、そこで室町殿と同じような儀礼を行うようになります。また、中央・公家文化の担い手を国元に招いて京都と同じことを催すようになります。そのねらいは、地域社会に対して自らが室町殿と直結していることやその文化的な優越性を誇示することでした。それが自らを権威づけ、一族や家臣団の求心力を高めることに気がつくのです。 

 15世紀後半の将軍や管領細川氏の主宰した田楽・猿楽を年表化してみます
1465年正月23日 細川右京大夫勝元亭への御成があり、能が催され(『親元日記』)
1465正月26日  室町殿では諸大名が召されて田楽を拝覧(『大乗院旧記』)
1466正月8日   細川殿・右馬頭・安富勘解由左衛門尉が旧例によって相賀し、猿楽を行って歌舞献賀を行った(『蔭凉軒日録』)
1470年3月23日 細川被官人共が猿楽で相交わり(『大乗院旧記』)
1490年5月5日  細川政元亭で田楽(観世太夫能)
1490年5月12日 京兆第で猿楽が興行(『蔭凉軒日録』) 
このような京都での田楽・猿楽の流行が在京細川家被官を通じて、次のように讃岐にも伝えられます。
1353年3月5日  三野の秋山泰忠は置文で、一族子孫に本門寺御会講を心一つにして勤め、白拍子・猿楽・殿原で懇ろにもてなすよう命じている(秋山家文書)
1460年12月 讃岐守護細川勝元の「讃岐国一宮田村大社壁書之事」において、猿楽・ 白拍子の舞を奉納(田村神社文書)
1480年9月8日 石清尾八幡宮の猿楽(能)面作成(『石清尾八幡宮関係資料』)、
1497年正月 小豆島で利貞名ほか5名が共催して相撲・流鏑馬・放生会・後宴猿楽を実施(赤松家文書) 
こうして見ると15世紀後半には、讃岐でも猿楽や白拍子などが寺社の祭礼などで演じられるようになっていたことが分かります。
田楽という言葉は、田植え行事に関わる芸能の総称で、田楽法師とは法体姿の田楽専門芸能者でした。

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中世は「芸能の世紀」といわれ、中でも田楽はその代表的な芸能で、鎌倉末期から室町時代にかけて猿楽を凌駕して人気がありました。それが讃岐にも及んでいたことは残された地名から推測できるようです。中・近世期において流鏑馬・競馬・獅子舞等の寺社芸能に出演の芸人には、禄物が支給され、その財源のために免田が設置されていたことは以前にお話ししました。このうち田楽法師を招く経費に充てられた田のことを田楽田と呼びました。讃岐にも「踊り田・放生田・さるが田・神楽田・神子田」などの芸能に関係した字名が数多く残っています。この土地からの収穫物が芸能奉納費用に充てられていたのです。ここからも社寺祭礼行事で芸能が盛んに行われていたことが裏付けられます。

奈良・春日若宮おん祭での田楽座
奈良・春日若宮おん祭での田楽座

江戸時代後期の高松藩領『東讃郡村免名録』(鎌田共済会郷土博物館蔵)には、山田郡西前田村滝本免の中 に「田楽」の字名が見えます。

宮處八幡宮と田楽と前田氏
宮處八幡宮と前田城

前田地区の「田楽」地名の由来は、前田氏が在地支配の一環として行った宮處八幡宮の祭礼諸行事での田楽奉納にあります。その経費のために田楽田が設けられます。それがやがて「田楽」と省略されたようです。前田氏は讃岐国山田郡内を名字の地とする国人で、宮處八幡宮の参道先には前田氏が築いた前田城跡があります。室町時代には細川京兆家の被官となっていて、応永22年(1415)には管領細川満元の使者として前田某 が見えます。(『兼宣公記』)。
宮處八幡宮と田楽と前田氏2

宮處八幡宮
その頃、京都では勧進田楽・猿楽が盛んに行われていました。
応永29年(1422)には細川満元が、永享5年(1433)には細川持之がそれぞれ将軍が観覧するための桟敷の管理を任されています。前田氏も上・在京して桟敷管理の任に当たり、田楽や猿楽に触れた可能性があります。前田地区の在地領主であった前田氏が、地域の氏神的存在であった宮處八幡宮の祭礼行事を氏寺宝寿寺を通じて主宰することになったのでしょう。それは領域内における前田氏の支配権と祭祀権を確立しようとする政治的なねらいがあったとしておきます。
 
室町時代の放生会には獅子舞と田楽がセットで興行されたようです。
当時の神事渡物は、次の3部門で構成されていました。
①通常神輿・神官・御幣等の神事
②一物・獅子舞・神楽・田楽・猿楽等の芸能集団
③競馬・流鏑馬・相撲等の競技集団
『年中行事絵巻』に描かれた田楽法師(国立国会図書館所蔵)
 「年中行事絵巻」に描かれた田楽法師(国立国会図書館所蔵)
このうち②に属する田楽師の姿は、もともとは水干に指貫姿で綾藺笠を被り、太鼓の伴奏でビンザサラを使って、円陣や相対しながら躍動的でシンメトリックな動きをする踊りだったようです。それが次第に獅子舞や競馬・相撲等と一緒に一連の祭礼行事の一部分となっていきます。そして風流化して、華美な花笠や異形な被り物で顔を隠したり、緩慢な動作で踊りの隊列も変化に富むようになります。宮處八幡宮の祭礼行事も、室町時代に行われていた仏教系の放生会行事が、江戸末期の神仏分離思想の影響で収穫感謝の秋祭りに変わったようです。

   松岡調の『新撰讃岐国風土記』(多和文庫蔵)には、次のように記されています。
「宮処八幡神社の大祭に、氏子地四箇村より当人とて、童子に潔斎させ、白の直衣を着せて御輿の前に立ち行くに、それが前に大なる団扇を指立て、練り行くなり。これ他村にせぬ供奉なり」
意訳変換しておくと
「宮処八幡神社の大祭には、氏子である四箇村より当(頭)人として、童子を潔斎させて、白の直衣を着せて、御輿の前を歩かせて行く。その前に大きな団扇をさしかかて練り歩く。これは他村にはない供奉である」

 これは近世になって現れたものではなく中世の田楽や猿楽の流れを汲む祭礼行事でした。そのため近隣の村社には見られないものだったのでしょう。近くの滝本神社では競馬が行われています。この獅子舞や相撲・競馬等は中世の神事である渡物の名残です。童子にさしかけた蓋は風流の象徴としておきます。
1田楽と能
猿楽と田楽 伴信友写『職人歌合画本』(天保9年)国立国会図書館デジタルコレクション

最後に前田氏について見ておきましょう。
前田氏は讃岐国山田郡内の前田を名字の地とする国人で、室町中期には細川京兆家の被官となっています。史料には次のように登場します。
応永22年(1415)  管領細川満元の使者として広橋兼宣のもとに赴いた「前田某」が細川氏被官としての初見(『兼宣公記』)
文安元年(1444)6月 万里小路時房は伝聞として次のように伝える。
香西の子と前田の子15歳が囲碁の対局中に、13歳の細川九郎(勝元)が香西の子に助言した。それを遺恨に思った前田の子は、一旦退出の後に舞い戻って休息中の勝元に切りかかった。父が四国に在ったため親類に預けられ、一族の沙汰として切腹させられた。
 この時に前田一党に害が及ぶことはなかったようです。(『建内記』)。香西の子と前田の子は、成人すればそれぞれの家を担っていく者たちです。主家の細川惣領家に幼少時から仕えることで主従関係を強固なものにしようとしたこと、武士の教養として囲碁を学んでいたことがうかがえます。 
文安4年(1447)「細川内前田宿所」が火災に遭ったこと((『建内記』)
享徳元年(1452)京兆家犬追物に前田次郎右衛門尉が参加(『犬追物手組日記』)
永正元年(1504)8月4日条 「細川被官前田五郎左衛門」
永正4年(1507)8月朔日条、「讃岐武士の墓場」とされる永世の錯乱で香西元長が討死する際の記事に「又六カ与力ニ讃岐国住人前田弥四郎ト云者」とある。ここからは、元長に代わって彼の具足を着けて前田弥四郎が討死したことが分かります。讃岐国住人の前田弥四郎は、もともとは京兆家被官でしたが、この時点では香川元長の寄子となっていたようです。
前田氏の本拠は、現在の香川大学医学部の北西で、十河氏の拠点は、香川大学の南側で隣接する位置になります。
十河氏の細川氏支配体制へ

前田氏と十河氏の関係はどうだったのでしょうか?
応安 4年(1371)地頭十河千光が蓮華王院領十河郷半済所務職を請け負い
文安 2年(1445)十河氏が安富氏の管理下にあった山田郡の庵治・片本の港の管理権を讃岐守護兼管領の細川勝元から与えられる
こうして十河氏は、15 世紀半ばには山田郡における最も有力な国人領主に成長しています。『南海通記』によれば、前田氏はこの十河氏の支族で、十河存春(景滋)の弟宗存が分家して前田頼母宗存と称して文明年間(1469~87)に前田に本拠を構えたのに始まるとされています。そして、その後に子の前田主殿頭宗春、孫の前田甚之丞宗清と 3代続き、天正11年(1583)に長宗我部軍に滅ぼされたと伝えます。ここではじめて十河氏が前田氏を名乗ったとされています。

十河氏1

しかし、実態は十河氏が前田氏の名跡を継ぐ形をとってこの地区に進出してきたのではないかと研究者は考えています

十河氏の背後に阿波の三好氏がいたように、前田氏の場合も三好氏の讃岐戦略の中に組み込まれていったというのです。研究者は前田氏を、次のように前後期に区別します。 
前期前田氏 十河氏に取って代わるまでの前田氏
後期前田氏 国人領主十河氏が分家し、前田氏の名跡を継ぐ形で前田氏を名乗ってから以後を後期

以上をまとめておきます
①15世紀後半に、室町幕府や猿楽や田楽を公式行事として行うようになった
②猿楽・田楽の興行は幕政運営体制を維持・強化しようとする政策の一環でもあった。
③衆軍の代替わりや合戦や政変後の猿楽興行には、戦乱や政変の終焉を告げることや、戦後の権力者の序列を示して幕政体制を安定化させ再構築するという意味もあった。
④京都での田楽・猿楽の流行は在京細川家被官を通じて、讃岐にも定着された。
⑤それは「踊り田・放生田・さるが田・神楽田・神子田」などの芸能に関係した字名が数多く残っていることから裏付けられる。
⑥この土地からの収穫物が芸能奉納費用に充てられていた。
⑦中世に讃岐に伝わった田楽・猿楽は風流化し、獅子舞や競馬・相撲等と一緒に祭礼行事の一部分となって受け継がれていく。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
溝渕利博 中世後期讃岐における国人・土豪層の贈答・文化芸能活動と地域社会秩序の形成(中) 髙松大学紀要
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武士に求められた諸要素
  
中世後期になると武士の領域権力化には、次のような要素が求められるようになります
①軍事力(ハードパワー)
②文化力(ソフトパワー)
③それを支える経済力
④それらを総合した政治力(外交力を含む)

これらの要素を総合的に備える武士団が生き残り、戦国大名へと成長して行くようです。そのような中で、讃岐で②の文化力が最も高かったのが東讃守護代を務めた安富氏のようです。今回は安富氏のどんな点が評価されているかに焦点をあてて見ていくことにします。テキストは「溝渕利博 中世後期讃岐における国人・土豪層の贈答・文化芸能活動と地域社会秩序の形成(中) 髙松大学紀要」です。

まずは安富氏の出自と讃岐定住までを押さえておきます。

安富氏2

讃岐安富氏は、下総国の民部太夫照之が祖と伝えます。鎌倉時代の幕府奉行人の中に安富氏が見えるので、下総の安冨氏の一族から室町時代に細川氏の近臣安富氏が起こったようです。室町幕府右筆方奉行人の中に安富行長等幾人かの安富氏一族の名があります。『西讃府志』には、細川頼之に従って応永年間(1368~74)に讃岐に入部し、三木・寒川・大内3郡18か村を領して、後継のいなかった三木氏に代わって平木城主になったと記します。安富氏が細川氏の被官として史料上にあらわれるのは『相国寺供養記』で、明徳3年(1392)の相国寺落慶法要に際して、細川頼元の「郎党二十三騎」の1人として安冨安芸又三郎盛衡が供奉しています。その後、安富氏は讃岐の守護代に任じられ、応永16年(1409)には安芸入道盛家が又守護代の安富次郎左衛門に施行状を下しています。
 以上から14世紀後半に細川頼之に従って来讃した安富氏が15世紀初頭には東讃守護代のポストを得ていることを押さえておきます。

近年の研究で、安富氏は鎌倉時代に六波羅探題をはじめ関東や鎮西探題でも活躍した奉行人だったことが明らかにされています。
建長2年(1250) 六波羅奉行人には安冨五郎左衛門尉・安冨民部大夫、同3年には安冨民部太夫
建治3年(1277) 関東では安富民部三郎入道(泰嗣・法名行位)が引付奉行人に補任
正和5年(1316) 安富行長、文保元年(1317)には安冨兵庫允が補任。
ここからは、安富氏は吏僚としてのスタートを六波羅奉行人から始め、鎮西探題が発足すると鎮西引付奉行人として活躍したことが見えて来ます。特に正和5年(1316)に六波羅奉行人になった安富行長は、室町幕府にも仕え、足利尊氏の側近として彼の右筆を務めた人物として知られています。 
佐藤進一氏は、室町幕府開創期の六波羅探題と室町幕府との連続面に注目して、六波羅評定衆や同奉行人の多くが室町幕府に再出仕していた事実を明らかにしました。室町幕府は六波羅探題の発展型であるということです。それは西国の政治・社会情勢に明るかった六波羅奉行人・在京人の多くは、そのまま足利高氏に掌握され、開創期の室町幕府の主要構成員となったという事実に基づいています。ここでは、室町幕府の諸機関の多くは、鎌倉的幕府秩序の維持者としての性格をもち、その構成員もまた、それぞれの機関の性格にあった階層の文士・武士によって占められていたことを押さえておきます。
安富氏のように前代奉行人の家の出身と推測される者は次の通りです。
足利直義の執政機関の康永3年(1344)の編成表に、1番の安冨孫三郎、2番の安冨進三郎、
貞和5年(1349)の編成表には、4番に安冨三郎左衛門尉の名があります。 
一方、在京人で六波羅探題下に属していた香川氏は、正嘉元年(1257)の新日吉社小五月会の流鏑馬や乾元2年(1303)の幕府御的始において、それぞれ香川新五郎光景、香川五郎が射手を勤めています。こうして見ると安富氏や香川氏は鎌倉時代には洛中警固を主な任務とした武士(武官)としての系譜を持っていました。これが後の讃岐国守護代としての在地支配の在り方や性格にも少なからず影響を与えたのではないかと研究者は考えています。

 15世紀初頭に、東讃守護代として登場してくるの安富宝蜜・宝城兄弟です。
『顕伝明名録』では「宝蜜=周防守入道」で「宝城兄」としています。亡父の追善和歌の勧進等でも宝蜜が主導していることなどから、宝蜜が宝城の兄であるようです。両人の文化的な活動を年表化して見ていくことにします。
絵本太閤記 7 2版にある「光秀連歌の図」(出典:国立国会図書館デジタルコレクション)
絵本太閤記 7 2版にある「光秀連歌の図」(出典:国立国会図書館デジタルコレクション)

①応永21年(1414)4月17日、讃岐守護の道歓細川満元邸で催された「頓証寺法楽千首和歌」

頓證寺法楽続百首和歌
                  頓證寺法楽続百首和歌
前年が崇徳院250 年遠忌に当たっていたので、その慰霊のための法楽の催しだったようです。詠者の中には、道歓、梵燈、重阿、堯孝、正徹等の他に、満元の被官であった安富宝密・安富宝城兄弟が参加しています。このうち安富周防入道宝蜜は、崇徳院御影堂に掲げる額の字の揮毫を、道歓を介して将軍義持に願い出ています。これに対して将軍は、仙洞の御小松院に執奏して「頓証寺」の勅額を賜っています。(白峯寺)院主御坊宛の宝蜜書状には、次のように記します。

「(前略)百首法楽申候、当座卅首共に一貫にあすかゐ殿遊させ候て、また屋形法楽候一日千首も、此筑後殿に進之候、いつれも箱に入て候、此まゝ御奉納あるへく候」

ここからは、後に催された「頓證寺法楽続百首和歌」「頓證寺法楽当座続三十首和歌」と一緒に、同年12月に「松山法楽一日千首短冊帖」(金刀比羅宮寶書84号)として頓証寺(白峰寺)に奉納されたことが分かります。その橋渡し役を果たしたの東讃守護代の安富氏だったことを押さえておきます。

頓證寺法楽続百首和歌3

頓證寺法楽続百首和歌2
頓證寺法楽続百首和歌

「頓證寺法楽続百首和歌」「頓證寺法楽当座続三十首和歌」(白峯寺蔵)は、飛鳥井宋雅筆と伝えられます。
両者を合わせて1巻として法楽のために頓證寺(白峰寺)奉納されています。この「続百首」の成立は、応永21年(1414)12月8日で、「続三十首」も同じ日に詠まれたようです。「続三十首」の詠者18 名の内、善節1人を除く17名までが「続百首」の作者46名の中に入っているので、おそらく「続百首」の披講を終えた後、その日の出席者のみで「当座三十首」の会がもたれたと研究者は考えています。「当座三十首」の 歌人は、宋雅(飛鳥井雅縁)・雅清(飛鳥井雅世の初名)の飛鳥井家の歌人を筆頭に、道歓(細川満元)・持元・持頼・持之等の細川一族が中心的な位置を占めています。他に(安冨)宝城・(安冨周防入道)宝密・(横越)元久・(秋庭)元継等の細川氏の被官と、正徹・堯孝・梵灯等の歌僧が参加しています。彼らが 細川家の文芸を担った代表的な人物のようです。
②応永22年(1415)9月に成立した「詠法華経品々和歌一巻」(白峯寺蔵)
これは安富宝蜜・宝城兄弟による亡父の追善が目的でした。応永21年4月の「一日千首和歌」、同12月の「法楽百首」「当座三十首」、応永22年9月頃の「詠法華経和歌」の4つすべてに顔を見せているのは、道歓・宝城・之重・宝密・堯孝・正徹・梵灯の7名だけです。彼らは細川道歓の歌壇と深い関係を以ていたことがうかがえます。
 安富宝城は東讃守護代でもあり、連歌を嗜み「北野万句連歌」にも出座するなど、細川歌壇の中で最も文芸を長けた人物の1人だったようです。常建・元資は東寺百合文書に、それぞれ丹波国守護代香西入道・香西豊前守とあり、共に細川京兆家被官の丹波系の香西氏です。之重は、寒川氏のようです。
ここでは15世紀初めには、細川氏参加の讃岐武将の中に連歌を巧みにする者達が登場していたこと、その中でも安富氏は、管領細川家の文化的な中心メンバーであったことを押さえておきます。

安富氏15世紀

 安富氏は東讃の守護代に任じられていましたが、細川氏の身近に仕えるために讃岐を離れ、ほとんど京都に常駐していたことは以前にお話ししました。そのため中央政治においては重要なポストを得て活躍しますが、東讃支配という面では香西・寒川・植田氏などの反抗を受けて戦国大名化を進めることができませんでした。
中世讃岐の港 讃岐守護代 安富氏の宇多津・塩飽「支配」について : 瀬戸の島から

この時期の安富氏の文化的活動を見ていくことにします。
①1454年「細川持之十三年忌引品経和歌」、1458年の「細川満元朝臣三十三回忌品経和歌」に讃岐守護代安富智安が参加。
②1455年 守護代の安富盛保が和爾賀波神社(三木町)に「三十六歌仙扁額」6 枚を奉納
     ここでは社家奉行も兼ねる安富盛保が三木郡の式内社和爾賀波神社に三十六歌仙の扁額を奉納しています。和爾賀波神社は、三木郡井戸郷に鎮座する古社で、貞観2 年(860)に京都男山八幡を勧請したので八幡社と呼ばれていました。末社75を数え、延喜式内讃岐国24社の神として信奉されます。特に室町期には讃岐守護細川勝元の信仰が厚く、その庇護を得て毎年正月の参拝や戦勝祈願参拝にも訪れています。安富氏が来讃した時には、最初は三木郡の平木城主でした。その初期の本貫地にあった、この神社を在地支配の拠点にしようとしたようです。「扁額歌仙絵で社殿の荘厳化を図るなどした、室町後期における中央文化伝播の好例」と研究者は評します。有力寺社に恩を売って、在地支配を浸透させていく宗教政策がとられていたようです。
③1460年「讃岐国一宮田村大社壁書之事」は、讃岐守護細川勝元が同社関係者に対し守るべき事項を26箇条にまとめて奉納。安富筑後入道智安、社家奉行安富山城守盛長、同林参河入道宗宜、同安富左京亮盛保を通じて周知。その14条に法楽千句田に関する規定があり、運営資金調達方法も整備されていたことが分かる
④1463年3月27日、「賦何船  連歌百韻」(香川県立ミュージアム蔵)には、讃岐守護細川勝元が亭主となって、守護代安富智安らの細川京兆家被官や歌人として名高い長谷川正広、連歌師専順などの名が連なる。
⑤1464年 安富盛長が興行した「熊野法楽千句」には細川氏やその重臣が多く参加し、彼の政治的地位や経済力を確認できる。勝元(細川)はこの会の主客として参加。
⑥1485年 管領細川宗家(京兆家)を中心に行われた2月25 日の聖廟千句「細川千句」の連衆の中には、讃州座の守護代安富元家が発句を、香西彦二(次)郎長祐が執筆。
⑦1486年 守護代職を安富智安から引き継いだ元家は、自邸で和歌会が開き、「細川道賢十三回忌品経和歌」に参加。 
⑧1496年 香西元資主宰の法楽連歌会には、香西氏一族や神谷神社近隣の在地武士とその愛童や神官・僧侶たちが参加しています。連衆として、宗堅、宗高、(安富)元家、元親、祐宗、元門、宗清、宗勝、重任、増吉、歳楠丸、増林、増認、貞継、有通、盛興、元資、宗元、宗秀、宗春、元隆、幸聟丸、(安富)元治、寅代、師匠丸、石王丸、土用丸、鍋丸、惣代の29名の名が見えます。ここには東讃守護代で、連歌に熱心であった安富元家・元治も参席しています。
ここからは15世紀後半になると讃岐でも、法楽連歌が国人衆の手によって開かれるようになっていたことが分かります。こうしてみると安富氏は、細川京兆家被官の中でも早くから和歌や連歌などに通じていた一族であったことが分かります。
その背景や要因を、研究者は次のように挙げます。
①安富氏の出自が鎌倉幕府及び室町幕府の奉行人という文人官僚の系譜を持っていたこと
②安富氏は、単なる武力のみを誇示する家系ではなかったこと
③細川氏の内衆として京都在京期間が長く、王朝古典文化や在京文化人に触れる機会も多かったこと
応永・永享期の北山文化時代は、室町将軍御所で月次の歌会や連歌会が開かれるようになります。
参加者達は歌の出来具合を互いに競争し刺激し合います。そして修練のため各自の邸宅で月次の歌会を催したり、王朝古典の書写に力を入れる者も出てきます。北山文化時代の歌・連歌の詠み手は大名・守護たちでした。それが応仁の乱後の東山文化時代になると、大名・守護に代わって守護代層が登場するようになります。さらに国元の国人層も中央文化を吸収することに努めるようになり、京都からの文化的情報に絶えず気を配るようになります。 その文化的情報の媒介者となったのが応仁の乱などの戦乱を逃れて、各国の国人層等から招かれて地方へ下向した公家・禅僧・連歌師・猿楽師等でした。彼らの活動拠点にしたのが「別所」などを持つ白峰寺ではなかったのかと私は考えています。

    戦乱の続いた中世に武家が熱心に和歌を詠み続けたことを知ったときには、私は何か意外で違和感を持ちました。どうして、武家が連歌や和歌にのめり込んでいったのでしょうか。それは、一門や家臣との結束を図り、また合戦を前に神仏と交流することや、他国との交渉などに和歌や連歌が有効であったからだと研究者は指摘します。

14世紀頃の連歌会の様子
連歌会
 連歌会は多くの人達が集まって長時間詠むことで、集団の結束を図るのに都合の良い文芸です。
参加者同士が新たな人間関係を結ぶコミュニテイ形成のツールでもありました。そこでは、連帯感や同じ価値観を共有することを認識・確認し合う場にもなりました。また、連歌は祈りを込められて詠まれる場合が多く、追悼・追善の連歌や法楽連歌、戦勝祈願の連歌も少なくなく、これらの連歌会への参加は名誉なことともされました。 
 中世は知識情報は偏在していて、京都とか寺社にいる知識人に会いに行かなければ、知識情報を得ることはできませんでした。今風に云うと「インテリジエンス」を得るためには情報伝達者が不可欠でした。情報伝達者としての連歌師は、地方の守護や国人衆の依頼を受けて、京都在住の能筆公家に書写・校合の依頼をしたり、また、人物の紹介や書状・金銭の伝達、寺院寄進・荘園返還の交渉、合戦の和睦交渉までさまざまな情報伝達を行っています。

職人尽歌合」に見る中世の職業・職人・商人《第二》【みんなの知識 ちょっと便利帳】 さん
連歌師

 連歌師は連歌を教授し、連歌会興行を行うために地方に出向く機会が多く、諸国の事情に精通しその土地の事情に詳しい人物もよく知っていました。当時、連歌師は中立の立場で、敵対する勢力の領国でも通行できる特権を持っていたようです。それは、国境まで双方の勢力に護衛されて送られていることからもうかがえます。このように廻国する連歌師は、情報の伝達者であって高いコミュニケーション能力が必要とされ、公家と武家との斡旋役や、地方に来訪した歌人や連歌師等の文化人を接待する文化的接待役も務めました。
こうして見ると安富氏は早くから在京して、貴族や禅僧、歌人や連歌師、在京する他の武士等との交流の中で、京文化を学び、身に付けていたことが分かります。
安富が讃岐に帰讃することは、文化の担い手が京都から讃岐に移動することを意味したのです。例えば細川頼之が一時的に失脚し、宇多津で生活したことは、宇多津が讃岐の政治・軍事の拠点であるにとどまらず、文化活動の中心となったことを意味します。細川氏や安富氏は、上洛在京中に公家衆と交わり和歌会に列席し、連歌師を招いて連歌会を開き、五山禅僧を訪ねて治国の要を聞き、また能を鑑賞し、蹴鞠の会にも姿を見せていまします。また、讃岐にあっては、中央文化人を積極的に呼び文化摂取に努めています。特に応仁の乱以降は、公家は地方の有力武士を頼って地方へ下り、禅僧・連歌師、芸能人もまた地方へ分散します。それが経済と文化の交流を産みだし、中央文化を摂取・吸収して在国に地方文化圏を成立させていったと研究者は考えています。そのような目で、細川氏や安富氏の動きを見る必要があるようです。

応仁の乱後の明応2年(1493)頃に、細川政元政権下で「守護代・国人体制」が成立したとされます。
守護代・国人体制2

実権を握っていた細川政元の下で細川氏有力内衆によって構成された9~10 名からなる評定衆によって政権運営が行われるようになります。安富氏は一時的には、その評定衆の中で筆頭格的地位を占め、その統括を行うようになります。しかし、その地位は絶えず繰り返される内衆間の抗争で不安定なものでした。その結果、細川高国政権成立後には内衆の再編が行われ、安富氏は畿内からその姿を消し、四国に限定されてしまいます。それまでが安富氏の最も輝いた時期になるようです。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
溝渕利博 中世後期讃岐における国人・土豪層の贈答・文化芸能活動と地域社会秩序の形成(中) 髙松大学紀要
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前回見たように滝宮氏の初見史料は、次のA・Bのふたつです。
A  1458年5月3日
 瀧宮実明,賀茂別雷社領那珂郡万濃池の年貢6貫600文を納入する(賀茂別雷神社文書)
B 1458年7月10日
 瀧宮実長,善通寺誕生院領阿野郡萱原領家方代官職を請け負う(善通寺文書)
同じ年の文書で、Aが京都の賀茂別雷社領の満濃池跡の池之内の請負契約書で、Bが善通寺誕生院領の萱原領家方代官職の契約書です。同じ滝宮氏が請け負っていますが、請負人の名前がAが「実明」、Bが「実長」です。ここからは二つの滝宮家があったことが分かります。南海通記によると、滝宮氏には2つの流れがあり、居館は次の通りです
Aが本家(実明系)で、松崎跡で滝宮豊後守
Bが分家(実長系)で、滝宮城を拠点
今回は滝宮氏の2つの居館跡を見ていくことにします。讃岐中世の居館を見る際に私が愛用している「中世城館跡分布調査報告書(香川県) 2018年8月10日」を、テキストにします。

香川県中世城館跡詳細分布調査報告 - 古書店 氷川書房


まず、Bの滝宮城跡ですが、これは今は滝宮神社や天満宮の社地となっているようです。

滝宮城
滝宮城

 西側に綾川が入り込む深い谷があり、その上に拡がる広い微高地に立地していたようです。周辺の地形観察等から研究者は次のように指摘します。
①綾南警察署から100m南で幅の広い谷が川から入り込み、またこの東延長上も堀切状となっている。
②この入江は川港の役割も果たしていた可能性がある。
③滝宮天満宮正面の東西の道辺りに空堀があったと伝えられる。
④滝宮神社を中心とした南北200mx東西150mの台状地形を復元できるが、城域とするには広い。
⑤遺構は未確認である。
⑥A地点で行われた試掘調査で、滝宮城跡と同時期とされる柱穴群・土師器・瓦が確認
次に、滝宮城の北方1kmの松崎城(柾木城)跡を見ていくことにします。

松崎城 2滝宮氏

松崎城
松崎城は県道184号線沿いにある松崎バス停付近に築かれていたようです。伝承地を地形復元すると綾川に流れ込む南と北の谷に囲まれた段丘状の解析台地上に立地します。府中湖の低地に突き出た舌状地形になっています。古代の綾氏は、陶に最先端の須恵器工場群を造って、水運を通じて綾川河口から畿内へ運び込んでいたとされます。綾川は重要な交通路でした。その綾川を見下ろす丘にお城は築かれいたことになります。また、川港としても利用されていたことがうかがえます。どちらにしても、戦略的な要衝で城を築くには好適の地です。ただ、西側の谷の付け根には堀切の痕跡はないようです。

松崎城 滝宮氏
松崎城跡周辺 綾川に面した入江の上に立地する
天正年間に松崎城主として『南海通記』などに登場する滝宮豊後守は、実長の後裔とされます。そこには、次のように記されています。

松崎城主の滝宮豊後守安資は、羽床城主羽床伊豆守資載の女を妻にしていた。ところが同じく羽床伊豆守資載の女を妻に迎えていた勝賀城主香西伊賀守佳清が、天正6年(1578年)に、これを離縁した。これに憤激した羽床氏と香西氏の間で争いが始まり、羽床伊豆守の嫡男羽床忠兵衛が軍勢を率いて柾木城を攻めてきた。滝宮豊後守の軍勢が羽床忠兵衛を討ち取ると、伊豆守が大軍を率いて押し寄せてくるのを恐れ、松崎城から香西氏の勝賀城へ逃れた。

 南海通記については、その内容に誤りや作為が多くてそのままは信じることができないと研究者は考えています。しかし、敢えてこれを事実を伝えているとすると、次のような事が読み取れます。
①滝宮氏は、羽床氏と深いつながりがあった
②しかし、羽床氏と香西氏の抗争がはじまると、松崎城主の滝宮豊後守は香西方についた。
③その結果、羽床氏の攻撃を受けて、松崎城を退いて香西氏の勝賀城に身を寄せた。
④一方、滝宮城の滝宮弥十郎は羽床氏に従い、松崎城を攻め勢力を拡大した。
⑤滝宮城の滝宮氏は、その後も羽床氏に従い、長宗我部元親に降伏後は東讃制圧の先兵として活動した。
⑥秀吉の讃岐侵攻後には長宗我部元親に従って土佐に引き上げたとも伝えられるがよく分からない。
 
羽床城縄張り図
羽床城縄張図 滝宮氏の居館と比べると格段の相違

ここには、滝宮氏が香西氏と羽床氏にの抗争に巻き込まれ、一族同士が相争う状態になったと記されています。そういう点からすれば、羽床氏も香西氏も讃岐綾氏の同族の流れを汲む名門武士団です。それが、時の流れの中で相抗争していることになります。
 しかし、この記事が本当かどうかは分かりません。私は疑いの目で見ています。
その根拠は、当時の讃岐が阿波三好氏の氏配下にあったという視点がないからです。前回お話ししたように、当時は阿波三好氏の讃岐支配が進展し、讃岐国人の裁判権を三好氏が握っていました。それをもう一度確認しておきます。「阿波物語」第二は、1570年代のこととして三好氏の有力武将であった「伊沢越前守の叔父である讃岐の滝野宮豊後殿」が次のように出てきます。

伊沢殿の遺恨と云うのは、長春様の臣下である篠原自遁・その子息は篠原玄蕃(長秀)のことである。伊沢氏と篠原氏は車の両輪のように阿波三好家を支えた。ところが長秀の父自遁の権勢が次第に強くなり、伊沢越前をはねのけて、玄蕃(長秀)ひとりが権勢を握るようになり、伊沢氏の影響力はめっきり衰退した。そんな折りに、伊沢越前守の叔父である讃岐の滝野宮(滝宮)豊後殿の公事の訴訟で敗れ切腹を命じられた。しかし、これは伊沢越前守の意見によってなんとか切腹は回避された。この裁判を担当した篠原長秀と、それに異議を唱えなかった長治に伊沢越前守は深く恨みを抱き敵対するようになった。

年代的に見てここに出てくる「滝宮豊後殿」は「1458(長禄2)年に善通寺から讃岐国萱原の代官職を預かっていた滝宮豊後守実長の子孫で、当時の松崎城の主人と研究者は考えています。
ここからは滝宮氏と阿波・伊沢氏との関係について次のようなことが分かります。
①滝宮豊後守は三好氏を支える有力者・伊沢氏と姻戚関係を結んでいたこと。
②滝宮豊後守と讃岐国人の争論を、阿波の三好長治が裁いていること
③争論の結果として、讃岐の滝宮豊後守は一度は切腹を命じられたこと
④しかし、親戚の阿波の伊沢氏の取りなしで切腹が回避されたこと
⑤ちなみに、伊沢越前守は、東讃守護代の安富筑後守も叔父だったこと。
 こうして見ると滝宮氏は、三好氏の有力家臣伊沢氏と婚姻関係を結んでいたことが分かります。また阿波三好家は、16世紀後半には讃岐の土地支配権・裁判権を握り、讃岐国人らを氏配下に編成し軍事動員できる体制にあったことも分かります。言い換えれば、讃岐は阿波三好家の領国として位置付けられるようになっていたことになります。こうした中で、三好氏が傘下に置いた羽床氏や香西氏の軍事衝突を許すでしょうか? 
丸亀平野の元吉(櫛梨)城をめぐる合戦について毛利方史料には次のように記します。
天正五(1577)年閏七月二十二日付冷泉元満等連署状写「浦備前党書」『戦国遺文三好氏編』第三二巻
急度遂注進候、 一昨二十日至元吉之城二敵取詰、国衆長尾・羽床・安富・香西・田村・三好安芸守三千程、従二十日早朝尾頚水手耽与寄詰口 元吉城難儀不及是非之条、此時者?一戦安否候ハて不叶儀候間、各覚悟致儀定了、警固三里罷上元吉向摺臼山与由二陣取、即要害成相副力候虎、敵以馬武者数騎来入候、初合戦衆不去鑓床請留候条、従摺臼山悉打下仕懸候、河縁ニ立会候、河口思切渡懸候間、一息ニ追崩数百人討取之候。鈴注文其外様躰塙新右帰参之時可申上候、
猶浄念二相含候、恐性謹言、
意訳変換してみると
急いで注進致します。 一昨日の20日に元吉城へ敵が取り付き攻撃を始めました。攻撃側は讃岐国衆の長尾・羽床・安富・香西・田村と三好安芸守の軍勢合わせて3000人ほどです。20日早朝から尾頚や水手(井戸)などに攻め寄せてきました。しかし、元吉城は難儀な城で一気に落とすことは出来ず、寄せ手は攻めあぐねていました。
 そのような中で、増援部隊の警固衆は舟で堀江湊に上陸した後に、三里ほど遡り、元吉城の西側の摺臼山に陣取っていました。ここは要害で軍を置くには最適な所です。敵は騎馬武者が数騎やってきて挑発を行います。合戦が始まり寄せ手が攻めあぐねているのをみて、摺臼山に構えていた警固衆は山を下り、河縁に出ると河を渡り、一気に敵に襲いかかりました。敵は総崩れに成って逃げまどい、数百人を討取る大勝利となりました。取り急ぎ一報を入れ、詳しくは帰参した後に報告致します。(以下略)
ここには、阿波三好氏の指示で讃岐国衆の「長尾・羽床・安富・香西・田村と三好安芸守の軍勢合わせて3000人程」が元吉城に攻めかかってきたと記されています。羽床氏と香西氏は、三好配下にあって元吉攻めに従軍していたことが裏付けられます。ここからも南海通記の記録は、そのままは受け取ることはできません。

滝宮氏が去った後の滝宮城はどうなったのでしょうか。
それがうかがえるのが幕末の讃岐国名勝図会に載せられた「滝宮八坂神社・龍燈院・天満宮」です。

龍燈院・滝宮神社
滝宮神社(讃岐国名勝図会)
ふたつの神社に挟まれた龍燈寺が別当寺で、この社僧達がこれらの宗教施設を管理運営いました。神仏混淆下にあって大いに栄えていたことがうかがえます。この繁栄の基盤は中世の滝宮氏の時代に作られ、それが生駒・松平の保護を受けながら、この絵図の時代に至っていたようです。それが明治の神仏分離で龍燈寺が姿を消して行くことになります。

 祇園信仰 - Wikipedia
 最後に江戸時代の人々が、滝宮牛頭天王社や龍燈寺をどのように見ていたのか昔話から探っておきます。
綾川シラガ渕
山あいの水を集めて流れる綾川は、堤山を過ぎると急に流れを変えて、滝宮の方へ流れます。むかし綾川は、そのまま西へ流れていたそうです。宇多津町の大束川へ流れこんでいたのですが、滝宮の牛頭天王さんが土を盛りあげ、水を滝宮の方へ落してしまいました。
さて、奈良時代のことです。
島田寺のお坊さまが、滝宮の牛頭天王社におこもりをしました。
祭神のご正体を、見きわめるためだったといいます。
おこもりして満願の日に、みたらが淵に白髪の老人が現れました。
すると、龍女も現れ、淵の岩の上へともしびを捧げられました。
白髪のおじいさんというのが、牛頭天王さんであったようです。
龍女が灯を捧げた石を、「龍灯石(りゅうとうせき)」と呼ぶようになりました。
しらが淵のあたりは、こんもりと木が茂り昼でもうす暗く気味の悪いところだったと言います。
大雨が降り洪水になると、必ず白髪頭のおじいさんが淵へ現れました。このあたりの人たちは、洪水のことを、シラガ水と呼んでいます。まるで牙をむくように水が流れる淵には、大きな岩も突き出ています。岩には、誰かの足跡がついたように凹んでいます。
ここからは次のようなことが推測できます。
①滝宮神社は牛頭天王社であったこと
②牛頭天王社の祭神は白髪老人で牛頭龍王であった
③牛頭天王に灯を捧げたのが龍王で、その場所が龍灯石であったこと
④別当寺龍燈院のいわれは、「龍灯石」であること
⑤牛頭天王が現れるみたらが渕は霊地として信仰されていたこと

滝宮(牛頭)神社
滝宮神社に奉納された牛 牛頭天王信仰の痕跡
以上をまとめておきます
①滝宮氏には、本家分家の2つの流れがあった。
②本家は、松崎城を居館とする滝宮豊後守
③分家は、滝宮城を居城として牛頭天王を奉り、氏寺として龍燈院を建立していた。
④両秋山氏の居館は、古代以来から河川水運として利用されていた綾川沿いに立地する。
⑤周辺の陶は、平安期まで須恵器などの讃岐窯業の中心地で、これらは古代綾氏によって整備された
⑥藤原氏は古代の綾氏が武士団化したものとされるが、その流れを汲むのが滝宮氏や羽床氏だったと推測できる。
⑦南海通記には、天正年間になると両滝宮氏は、香西氏と羽床氏の抗争に巻き込まれ、一族同士が相争うようになったと云うが、それには疑問が残る。
⑧滝宮氏が去った後の滝宮城跡には、牛頭天王社・龍燈院・天満宮が並び立ち、神仏混淆下で牛頭天王(蘇民将来)信仰の拠点となった。
⑨龍燈寺の社僧達は、蘇民将来などのお札を周辺の村々に配布し、牛頭天王信仰を拡げると供に、風流念仏踊り等も村々に伝えた。
⑩牛頭天王社の大祭には、中世の郷単位で構成された踊り手達が「踊り込み」奉納を行った。
⑪それが現在の滝宮念仏踊りの源流である。

滝宮神社(旧牛頭天王社)の絵札
         龍燈院が配布していたお札 「牛頭天王」とみえる


滝宮神社(旧牛頭天王社)の布教戦略

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 「中世城館跡分布調査報告書(香川県) 2018年8月10日」
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滝宮念仏踊りのシステム

 滝宮念仏踊りの原形は、滝宮牛頭天王社(現滝宮神社)へ奉納するために周辺の村々の信者達から奉納されていた風流念仏踊りであると私は考えています。その牛頭天王社を庇護下に置いていたのが滝宮氏ないかと思うようになりました。それは滝宮神社が、滝宮氏の居館に隣接してあったとされるからです。ある意味、滝宮牛頭天王社と別当寺龍燈院は、滝宮氏の氏神・氏寺的な性格ではなかったのかという仮説です。その検証のために、滝宮氏に関することをメモ書きとして残しておこうと思います。

滝宮氏は、讃岐武士団最大の讃岐藤原氏の分流とされます。

讃岐藤原氏系図1

古代の綾氏が武士団化したのが讃岐藤原氏で、その初期の棟梁は羽床氏であったとされます。そして羽床氏の傍流が滝宮氏と云うのです。しかし、これも南海通記に軍記的話としては登場しますが、史料的に裏付けされたものではありません。滝宮氏がいつ、どのようにして滝宮に拠点を構えたかについてはよく分かりません。
香川県史の年表で「滝宮氏」を検索すると、登場してくるのは次の5回だけです。
A  1458年5月3日
 瀧宮実明,賀茂別雷社領那珂郡万濃池の年貢6貫600文を納入する(賀茂別雷神社文書)
B 1458年7月10日
 瀧宮実長,善通寺誕生院領阿野郡萱原領家方代官職を請け負う(善通寺文書)
C 1484年10月11日
 瀧宮実家,弟又二郎を南御所の被官とすることで,南御所領阿野郡南条山内徳珍名の代官職を請け負う。ついで,同月20日,65貫文で請け負う(宝鏡寺文書)
D 1490年10月20日 瀧宮実家,南御所領阿野郡南条山西分代官職を100貫文で請け負う(宝鏡寺文書)
E 1491年7月・ 近衛政家,細川被官の求めにより阿野郡瀧宮へ三十六歌仙を書く(後法興院記)

滝宮氏が史料に出てくるのは15世紀後半以後であることを押さえておきます。
①については、「瀧宮新三郎」が荘園主の京都の上賀茂神社に提出した年貢請負の契約書で、次のように記されています。(京都の上賀茂神社の「賀茂別雷神社文書」)
 讃岐国萬濃池公用銭送状送り参らす御料足事 合わせて六貫六百文といえり。ただし口銭を加うるなり。右、讃岐国萬濃池内御公用銭、送り参らすところくだんのごとし。                    
                    瀧宮新三郎
長禄二(1458)年五月三日            賓(実)明(花押)
      賀茂御社
  意訳変換しておくと
讃岐国の萬濃池の領地を請け負いましたので、その年貢として銀6貫600文を送金します。ただし「口銭」料(手形決済の手数料)を差し引いています。

ここからは次のようなことが分かります。
①この時代には、すでに手形決済が行われていたこと
②手形手数料を差し引いた金額が、滝宮新三郎実名から荘園主の賀茂神社に送付されたこと
③古代末に決壊した満濃池跡地が開発されて荘園となって「池内(いけのうち)」と呼ばれていたこと
④15世紀半ばには、荘園主が亀山上皇から上賀茂神社に変わり、請負者も泰久勝から瀧宮新三郎に変わっていること
Bは、満濃池跡の管理権を得た2ヶ月後の7月10日のもので、次のように記します。
預り申す。萱原領家方御代官職の事
長禄二年戊宙より壬午年まて五年あつかり申候。大師の御領と申天下御祈格料所の事にて候間、不法榔怠有る可からす候。年に随い候て、毛の有色を以て散用致す可く候。御領中をも興行仕り、不法の儀候はすは、年月を申定め候とも、尚々も御あつけあるへく候。仍て頂状件の如し。        
長禄二年成寅七月十日                        瀧宮豊後守 実長(花押)
(善通寺)誕生院
  意訳変換しておくと
長禄二(1458)年から5年間、滝宮豊後守実長が(善通寺誕生院から)萱原領家方代官職をお預かりします。弘法大師の御領で天下御祈格料所の荘園ですので、不法なことがないようにいたします。年貢の納入については、毛の有色(作物の出来具合)に応じて決定いたします。また預かる期間については5年とありますが、不法なことがなければ、期間を超えてお預かりします。仍て頂状件の如し。        
長禄二年成寅七月十日                        瀧宮豊後守 賞長(花押)
誕生院
滝宮豊後守実長が善通寺誕生院の萱原領家方代官職を預かるという内容です。先ほど見た文書は「実明」でしたので、滝宮氏にも複数の勢力があったことがうかがえます。
預り状として一応契約のかたちをとっていますが、次の点に問題があります。
①年貢の納入は、「毛の有色」つまり作物のでき具合を見て故用=算用する
②所領を預かる期間も、不法のことがなければ延長する
これでは実質的な無期限契約で、押領化への道を開くものです。代官職を得て、押領を重ねることで勢力を確実に蓄えていた時期かもしれません。ここでは次の二点を押さえておきます。
Aの1458年の史料からは、滝宮氏の勢力が丸亀平野南部の満濃池跡の池内方面に伸びていたこと。
Bの史料からは、善通寺誕生院が阿野郡萱原に持っていた領家方代官職を実質的に押領してたこと。

 Cの1484年に、登場する瀧宮実家は,Aの「実明」の孫にあたる可能性があります。
阿野郡南条山内徳珍名の代官職を65貫文で請け負っています。着実に周辺の代官職を得て、勢力を拡大しています。

Dの延徳 2年(1490)10 月には瀧宮実家が南御所の料所である南条山西方代官職を請け負っています。
 C・Dについては香川県史の中世編(405P)に、書かれていることを要約すると次のようになります。
1484年に、実家は「南御所」の「料所」である「讃岐国南條山内徳診名」内の年貢公事等納入を請け負っています。 この時、実家の弟の又二郎が南御所の「御被官」となっていました。それを受けて2年後の1490年10月に実家は、「惣荘御代官職」であるということで「南御所」「御料所」「南條山西方政所土居丼びに拾式名」の年貢・公事等の納入を請け負うことにになります。また、これと同年月日付で実家は「南條山西分代官職」も請け負っています。請負条件は詳細です。公用は毎年100貫文の「請切」とあるので、所領経営を完全に任されていたようです。もし公用が果たせない場合は実家が別に知行する「摂津州平野内下司職参分壺」を当てるとあります。さらに「請人(保証人)」をも設定されています。
瀧宮実家が代官職請負契約を結んだ「南御所」は、「尼五山の一」とされる宝鏡寺と並ぶ尼寺です。この寺は、将軍足利義教から所領安堵を受けていました。南條山西分も永享2年(1430)に義教から安堵されています。15世紀後半には将軍足利義政と火野富子との間の女子が南御所に入っていて、父義政が「人事」の時には「親しく相公の病席に侍」しています。その女子も延徳2年(1490)10月10日に死亡し、「光山聖俊尼」と称されています。しかし、南御所の組織は継続していたようです。 南御所が将軍に非常に近い立場にあったからでしょう。その所領は「料所」と称されています。代官職請負契約の内容を見ると、先ほどの善通寺誕生院のものと比べると遙かに厳格です。請負者は「御被官」と称され、「毎年参洛してて御礼を致」し「本公」することが約束させられています。つまり、毎年京都にやってきて挨拶を欠かすなということです。この「御被官」という立場は、将軍の御家人たる「奉公衆」に近いと研究者は評します。そういう意味では、滝宮氏の家格がぐーんと上がったことになります。細川京兆家の本国ともいうべき讃岐国に将軍の縁者である南御所の料所があって、請負者がその被官であることは、細川氏にとって重要であったと研究者は指摘します。同時に、滝宮氏にとっても大きな意味があったはずです。ところが細川政元の下で香西氏が権勢を握るようになると、その代官職を明応2年(1492)に香西仲兵衛尉長秋に取って代わられます。そして滝宮氏は天文11年(1542)頃には、香西氏の幕下となったようです。これについては、後に詳しく見ていくことにします。
Eの『実隆公記』明応5年(1496)7月18日条には、次のように記します。

讃州滝宮丗六人歌仙源公忠朝臣・忠峯・平兼盛・中務四人板也、歌依細川被官人所望染筆了」

ここからは三条西実隆に、細川家(管領細川政元)の被官人から讃州滝宮社に奉納する三十六歌仙扁額に源公忠朝臣・忠峯・平兼盛・中務の四人の歌を書いて欲しいとの依頼があったことが分かります。
扁額は9面36人の板額だったようで、実隆の担当分担は1面4歌仙であったようです。残り8面32人分は他の人物に依頼したようです。これは、康暦年間(1379~80)に細川頼之が再建した滝宮社の社殿に掲げるためのものだったのでしょう。依頼人は「細川被官人」とだけ記します。
この背景を理解するために、東讃守護代を務めていた安富氏の宗教政策を見ておきましょう。
安富氏は、応永21年(1414)に崇徳院御陵に建立された頓證寺への勅額依頼や守護細川満元の法楽連歌の奉納を安富宝蜜と同筑後守(のち筑後入道智安)が取り次いでいます。有力寺社に恩を売って、在地支配を浸透させていく宗教政策がとられていたようです。その一環として享徳年間(1452~55)には、社家奉行安富盛保が三木郡の式内社和爾賀波神社に三十六歌仙の扁額を奉納しています。和爾賀波神社は、三木郡井戸郷に鎮座する古社で、貞観2 年(860)に京都男山八幡を勧請したので八幡社と呼ばれていました。末社75を数え、延喜式内讃岐国24社の神として信奉されます。特に室町期には讃岐守護細川勝元の信仰が厚く、毎年正月の参拝や戦勝祈願参拝にも有力者が訪れています。安富氏が来讃した時には、最初は三木郡の平木城主でした。その初期の本貫地にあった、この神社を在地支配の拠点にしようとしたようです。「扁額歌仙絵で社殿の荘厳化を図るなどした、室町後期における中央文化伝播の好例」と研究者は評します。
 それを滝宮氏も真似ているようです。滝宮牛頭天王社(現滝宮神社)に掲げる扁額の依頼を京都の三条家に管領細川氏の被官人が依頼しています。この時期の将軍は「天狗になろうとして修験道に夢中だった細川政元」です。政元の厚い信頼を得て、京都の警察権を握っていたのが香西氏でした。それでは扁額を求めた「細川被官人」とは誰なのでしょうか? 
① 讃岐国東方守護代を務めた安富元家
② 同年 2月に神谷神社法楽連歌を奉納した香西元資
③ 滝宮氏自身
 第3は可能性が薄いでしょう。当時の政治情勢からすれば権勢が最も高まっていた②の香西元資の可能性が高いように私には思えます。どちらにしても、この扁額は享徳 4年(1455)に細川氏の社家奉行安富盛保が奉納した和爾賀波神社扁額と同じように中央で制作された作品で、「中央文化における歌仙絵扁額の流行が地方普及の潮流の中で現出」したものと研究者は評します。 細川頼之が再建した滝宮社の社殿の荘厳に相応しいものでした。中世末期には滝宮氏は、滝宮牛頭天皇社を在地支配の拠点としていたことを押さえておきます。同時に、滝宮神社は周辺からも名の知られた存在になっていたことががうかがえます。
 下の縄張図からは、滝宮神社や天満宮は、滝宮城の中に鎮座していることが分かります。
滝宮城
           滝宮神社と天満宮が滝宮城跡
明治の神仏分離までは、滝宮神社と天満宮の間に、別当寺の龍燈寺があって社僧達が牛頭天王を奉っていました。それを伝えるのが下の絵図です。

滝宮念仏踊りと龍王院
滝宮(八坂)神社と龍燈寺と天満宮 讃岐国名勝図会(1853年)

この絵の註には「八坂神社・菅神社・龍燈院」とあります。菅神社は菅原道真をまつる滝宮天満宮です。それでは八坂神社とは何でしょうか。これは当時の滝宮が京都の八坂神社の分社と称していたことが分かります。何故かというと、この神社は、八坂神社と同じでスサノオを祀る牛頭天王社だったのです。
祇園信仰 - Wikipedia
牛頭天王=素戔嗚尊(スサノオ)=蘇民将来=京都の八坂神社
スサノオは蘇民将来ともいわれ、その子孫であることを示すお札を家の入口に掲げれば疫病が退散するとされて、多くの信仰を集めていました。その中讃における牛頭信仰の宗教センターが滝宮牛頭天王社だったのです。そして、この神社の管理運営を行っていたのが別当寺の龍燈院滝宮寺でした。

滝宮神社(旧牛頭天王社)の絵札

 神仏分離以前の神仏混淆時代は、神も仏も一緒でした。そのため龍燈院参加の念仏聖(僧侶)たちが、蘇民将来のお札を周辺の村々に配布しました。龍燈院は、牛頭天王信仰・蘇民将来信仰を丸亀平野一円に拡げる役割を果たしました。同時に彼らは、雨乞祈祷・疫病平癒祈願・虫送り祈願・火防祈願・怨霊鎮送祈願などを、村々に伝えた「芸能媒介者」でもありました。こうして7月下旬の夏越しの大祭には、各村々の氏神に踊りが奉納された後に、滝宮に踊り込むというパターンが形作られます。そして、これらの宗教施設の背後には滝宮氏がいたことになります。これは滝宮氏の庇護下にあったことを物語ります。そして、滝宮氏が戦国末期に衰退した後に、その城跡にこれらの宗教施設が建てられた
のかもしれません。
滝宮氏の本家とされる羽床氏は、古代綾氏の流れを汲むという讃岐藤原氏の嫡流でした。
羽床氏は讃岐在庁官人として在地支配権を拡大する一方で、荘官としても武力を蓄えて武士団化していきます。源平合戦では、早くから源氏皮に加勢して御家人として勢力を拡大しますが、その後の承久の乱では敗者側の上皇方について一時所領を失い衰退します。その後南北朝期になると、羽床政成が幕府方として参陣し、楠木正成を攻めて討ち死にするなど忠功を積んで復活したようです。しかし、そのころまでには、庶家の香西氏に一族の本流の地位を奪われてしまいます。滝宮氏も羽床氏と行動を供にしながら、次第に滝宮を拠点に勢力を拡大したようです。
 それでは滝宮氏と羽床氏・香西氏の関係はどうなっていたのでしょうか?
 南海通記には、三好長慶と敵対した細川晴元を救援するために、天文18年(1549)に香西氏が摂津中島へ出陣したとして、その時の軍編成が記されています。これについて研究者は、「この年、讃岐香西元成が細川晴元支援のため摂津中島へ出陣したことはありえないことが史料的に裏付けられいる」と出陣を否定します。この記述については、著者香西成資の「誤認(創作?)」であるようです。しかし、ここに書かれた香西氏の陣編成については、事実を伝える物があるのではないかと研究者は考えています。南海治乱記は、香西氏は次のような武将を招集したとは記します。
  我が家臣として
新居大隅守・香西備前守・佐藤五郎兵衛尉・飯田右衛門督。植松帯刀後号備後・本津右近。
  幕下として、
羽床伊豆守、瀧宮豊後守・福家七郎右衛門尉・北条民部少輔、其外一門・佗門・郷司・村司等」
そして、留守中の領分防衛のために、次のような武将を讃岐に残しています。
①東は植田・十河両氏の備えとして、木太の真部・上村の真部、松縄の宮脇、伏石の佐藤の諸士
西は羽床伊豆守・瀧宮豊後守・北条西庄城主香川民部少輔らの城持ちが守り、
③香西次郎綱光が勝賀城の留守、
④香西備前守が佐料城の留守
⑤唐人弾正・片山志摩が海辺を守った。
出陣の兵将は、
⑥香西六郎。植松帯刀・植松緑之助・飯田右衛門督・中飯田・下飯田・中間の久利二郎四郎・遠藤喜太郎・円座民部・山田七郎。新名・万堂など多数で
⑦舟大将には乃生縫殿助・生島太郎兵衛・本津右近・塩飽の吉田・宮本・直島の高原・日比の四宮等
     以上から、戦国期の香西氏の軍事編成を、研究者は次のように考えています。
A 執事の植松氏をはじめとする一門を中核とする家臣団を編成するとともに、
B 周辺の羽床・滝宮・福家など城主級の武士を幕下(寄子)としていた
ここで注目しておきたいのは、滝宮氏は羽床氏と供に「城持ち」で「幕下」というあつかいであることです。この時に羽床氏は香西氏は「押さ」へで遠征軍には含まれていません。16世紀中頃には、羽床氏や滝宮氏は、香西氏の「幕下」として参陣する立場にあったことを押さえておきます。

次に、阿波三好氏の讃岐支配が進展した時期には、どうなったを見ておきましょう。
「阿波物語」第二は、三好氏の有力武将であった伊沢氏が三好長治から離反した理由を次のように記します。
伊沢殿意恨と申すは、長春様の臣下なる篠原自遁の子息は篠原玄蕃なり、此弐人は車の画輪の如くの人なり、然所に自遁ハ長春様のまゝ父に御成候故に、伊沢越前をはせのけて、玄蕃壱人の国さはきに罷成、有かいもなき体に罷成り候、折節讃岐の国に滝野宮豊後と申す侍あり、伊沢越前のためにはおち(叔父)なり、豊後殿公事辺出来候を、理を非に被成候て、当坐に腹を切らせんと申し候を、越前か異見仕候てのへ置き候、この者公事の段は玄蕃かわさなる故なれ共、長春様少も御聞分なき故に、ふかく意恨をさしはさみ敵となり候なり、

意訳変換しておくと
伊沢殿の遺恨と云うのは、長春様の臣下である篠原自遁・その子息は篠原玄蕃(長秀)のことである。伊沢氏と篠原氏は車の両輪のように阿波三好家を支えた。ところが長秀の父自遁の権勢が次第に強くなり、伊沢越前をはねのけて、玄蕃(長秀)ひとりが権勢を握るようになり、伊沢氏の影響力はめっきり衰退した。そんな折りに、伊沢越前守の叔父である讃岐の滝野宮(滝宮)豊後殿の公事の訴訟で敗れ切腹を命じられた。しかし、これは伊沢越前守の意見によってなんとか切腹は回避された。この裁判を担当した篠原長秀と、それに異議を唱えなかった長治に伊沢越前守は深く恨みを抱き敵対するようになった。

ここに出てくる「伊沢越前守の叔父である讃岐の滝野宮豊後殿」は何者なのでしょうか?
年代的に見て1458(長禄2)年に善通寺から讃岐国萱原の代官職を預かっていた滝宮豊後守実長の子孫で、滝宮城の主人と研究者は考えています。
ここからは滝宮氏と阿波・伊沢氏との関係と、当時の情勢について次のようなことが分かります。
①滝宮氏は三好氏を支える有力者・伊沢氏と姻戚関係を結んでいたこと。
②滝宮氏と讃岐国人の争論を、阿波の三好長治が裁いていること
③争論の結果として、讃岐の滝宮豊後守は一度は切腹を命じられたこと
④しかし、親戚の阿波の伊沢氏の取りなしで切腹が回避されたこと
⑤ちなみに、伊沢越前守は、東讃守護代の安富筑後守も叔父だったこと。
 こうして見ると伊沢氏は、中讃の滝宮氏・東讃の安富氏という讃岐の有力国人と姻成関係を結んでいたことになります。伊沢氏は、婚姻関係を通じて讃岐国人たちとつながりを強め、対吉備方面での外交・軍事活動を進めていたことになります。ここでは阿波三好家は、16世紀後半には讃岐の土地支配権・裁判権を握り、讃岐国人らを氏配下にに編成し軍事動員・外交を行えるようになっていたことを押さえておきます。言い換えれば、讃岐は阿波三好家の領国として位置付けられるようになっていたことになります。こうして三好氏の讃岐支配が進むにつれて、滝宮氏はそれまでの香西氏から伊沢氏へと重臣を移していったことがうかがえます。
以上、滝宮氏の動きをまとめておきます。
①滝宮氏は、中世の讃岐武士団で最大勢力集団であった讃岐藤原氏に属した。
②讃岐藤原氏の棟梁羽床氏は、源平合戦でいち早く源氏方に加勢し、その結果御家人として論功行賞を得て、これが一族雄飛のきっかけとなった。
③しかし、羽床氏は承久の乱で敗者側の上皇について、棟梁の地位を失い衰退する。
④代わって讃岐藤原氏の棟梁の地位に就いたのは香西氏であった。
⑤その後、羽床氏や滝宮氏は綾川上流の地域で荘園の代官職を得て押領を繰り返し、勢力を拡大していく。
⑥そして香西氏の「幕下」として香西氏を支える立場にあった。
⑦しかし、三好氏によって阿波勢力による讃岐支配が進展すると、阿波伊沢氏と婚姻関係を結ぶなど、香西氏から伊沢氏へと重心を移していた。
⑧長宗我部元親の讃岐侵攻では、羽床氏と供に軍門に降り、その後には土佐軍の先兵として東讃制圧に活動した。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 「溝渕利博 中世後期讃岐における国人・土豪層の贈答・文化芸能活動と地域社会秩序の形成(中) 髙松大学紀要」

前回に続いて、神谷神社本殿を支えてきた人々の近世編になります。

神谷神社の香西氏連歌会

15世紀末に香西氏が神谷神社神前で、一族や幕下の羽床・滝宮氏などを集めて団結誇示のために法楽連歌会を開いていたことを前回お話しました。そこからは当時の阿野北平野が香西氏のテリトリーであったことがうかがえるとしました。その連歌会の30年ほど前に行われた本殿改修の棟札(写)が伝えられています。
神谷神社 1460年の棟札
神谷神社寛正元(1460)年の棟札(写)

①一番右側の吉兆の言葉の下に寛正元(1460)年の年紀が見えます。応仁の乱の少し前です。
②建築にあたった大工と小工の名前が並んで記されます。③真ん中の一行「奉再興神谷大明神御社一宇」からは、当時の神谷神社が神谷大明神と呼ばれていたことが分かります。④その下に来るのが改修総責任者の名前です。「遷宇行者神主松元式部三代孫松元惣左衛門正重」とあるので、総責任者を松本式部の3代後の孫が務めていたことになります。これは三代前から社司が松元氏によって「世襲化」されつつあったことを示しています。以後、神谷神社は近世を通じて松元(本)氏が社司を務めます。
 この棟札で問題なのは裏の「弘仁三(812)年 河埜氏勧請」という一行です。
「河埜氏」は阿刀氏と同族で、物部氏を祖先とするので、このように記されたと近世の史書は記します。阿刀氏は空海の母親の出身氏族です。つまり空海の母親の実家が勧進したということになります。しかし、これには無理があります。阿刀氏は畿内泉州を本貫とする中央貴族であることは以前にお話ししました。讃岐にいた記録はありません。この棟札の裏書については「江戸時代になって弘法大師伝説が広まる中で作成されたもの」と研究者は考えているようです。つまり、「弘仁三年に阿刀大足による勧請」を伝えるために、江戸時代になって書かれた(写された)ものなのです。しかし、「写」であっても表の「奉再興神谷大明神御社一宇」や、寛正元(1460)年の修理棟札の記載内容は、信じることができるようです。


神谷神社棟札1540年

神谷神社 天文九(1540)年の棟札

   地域の氏子等の奉加によって本殿の屋根葺き替えを行ったときのものです。ここでも松元氏が筆頭者になっています。松元氏は社司であると同時に、有力な国人勢力であったようで、幕末の讃岐国名勝図会にも神谷神社のすぐそばに大きな屋敷が描かれています。そして奉行(勧進責任者)として、蓮歳坊ともう一名の名前が見えます。ここからは、社司以外にも社僧が何人かいて、彼らの勧進活動によって遷宮(葺替え修復)が行われていたことが分かります。

神谷神社江戸時代の棟札

       永禄11(1568)年の棟札は、本殿屋根の葺き替えで、前回から28年経っているので、30年おきに遷宮(葺き替え)が行われていたようです。この時には鍛冶宗次の名が見え、屋根の構造的な部分に手が入れられたことがうかがえます。さらに脇之坊増有とあるので、本坊以外にも社僧が居たことが分かります。
以上のように残された棟札からは、次のようなことが読み取れます。
①中世は、荘官や政所などの個人によって、檜皮葺の屋根の葺き替え工事が行われていた
②それは社僧達(勧進聖)たちの勧進活動によっても賄われていたこと
③それが近世になると村人達が氏子となって、改修修理を担うようになっていたこと
④それをまとめ上げていたのが社司の松元氏であった。
それでは社司の松元家をも少し見ていくことにします。

神谷神社 讃岐国名勝図会1

讃岐国名勝図会(1854年 約170年前)に描かれた「神谷神社」周辺です。
①流れ落ちる神谷川 その川に沿って真っ直ぐに続く松並木の参道
②その上に神谷神社があります。(神社と表記されていることを押さえておきます。神社の背後の三重塔はありません。
③別当寺の青竜(立)寺は現在地に移っています。
④青竜寺の前には三好氏の大きな屋敷があります。
さて、右側の神谷神社周辺を拡大して見ておきましょう。

神谷神社 讃岐国名勝図会2
 
ここで目が引かれるのは、社司松本(元)家の屋敷です。神社の下側に隣接して大きな門構えです。その下に民家が密集しています。この松元家が15世紀の半ばから近代に至るまで、社司を務めたことになります。もうひとつ気がつくには、神社の周りには仏教的性格の建物がなくなっていることです。ここからは神谷明神では、近世の早い時期に松元氏によって「神仏分離」が行われたことがうかがえます。そして、別当寺は現在地に下りていったようです。その経過については、今の私には分かりません。どちらにしても江戸時代の神谷神社の管理権を握っていたのは社司の松元家であったことを押さえておきます。
 私が気になるのは、鳥居は2つ描かれていますが玉垣や狛犬はないことです。玉垣や狛犬などの石造物は、いつ頃奉納されたのでしょうか?

神谷神社 手水 玉垣

手水石(ちょうず)には「天保9(1838)年」と見えます。約190年前のものになります。その奥に見える玉垣は、明治28(1895)年ですから日清戦争の戦勝祝いとして奉納されたようです。

神谷神社 鳥居・狛犬

 二の鳥居は、嘉永2(1849)年で約170年前、狛犬は1864年で、160年前です。

神谷神社 石造物一覧

神谷神社の石造物を年代順に並べたものです。これを見ると、石造物が設置されるようになるのは19世紀になってからだということが分かります。約190年前頃から境内は整備され、現在の原型ができたようです。これは金毘羅さんの整備状況から見てもうなづけることです。金毘羅の参道は、石段と石畳に玉垣、そして燈籠と石造物で埋め尽くされ白く輝くようになり、その姿が一新するのは19世紀前半のことです。その姿を周辺の寺院も真似るようになります。この時期、村人達は隣の村の神社と競い合うように石造物を次々と奉納し、伽藍は整備されていきます。ちなみに本殿や拝殿などの建築物の新築・改修などには、髙松藩の許可が必要でした。髙松藩は新築や増築工事をなかなか認めません。従来通りの改修が認められるだけでした。そのため氏子達は石造物の寄進という方法に自然と進んでいきます。

近世の村社

天保10年4月5日にと神谷村の庄屋・久馬太から髙松藩に願い出た文書です。
神谷神社と市と芝居

ここでは4月6日の神谷明神祭礼で市と芝居興行を行うことを、その前日に神谷村の庄屋が願いでています。その経費は氏子からの持ち寄りで賄い、村入目(公的財源)は使わないと記されています。費用がどこから出されるかを藩は主にチェックしていたようです。また前日に出すのは、藩からの口出しを免れる意図もあったようです。こうしてみると19世紀半ばの神谷明神は、信仰だけでなく人々の娯楽や交流の場としても機能していたことが分かります。市や芝居小屋が建つためには、広い参道や神前の広場が必要です。それらが整備されれば鳥居や手水石・燈籠などが寄進されます。そんな風に幕末の整備は進んだと私は考えています。
神谷神社の中世から近世への担い手の移りかわりをまとめておきます。
①中世は、荘司や政所と脇坊の寄進と僧侶(山伏)による勧進活動で改修が行われていた
②それが近世になると、社司松元氏とと「本願主」や「組頭」の肩書きをもった「オトナ」衆によって改修が行われるようになった。
③19世紀になると、地域の人達が氏子となって積極的に境内整備を行うようになった
④その背景には、信仰の場としてだけでなく、市や芝居・見世物などのレクレーションの場としても神社が活用されてきたからである。
⑤それが明治以後、神仏分離と国家神道によって信仰の場だけに役割が純化・制限されていった。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 「坂出市域の神社 神社の建立と修復   坂出市史近世下142P」

坂出市の文化財保護協会の神谷神社見学会の後で、お話ししたことをアップしておきます。

中世の神谷神社1

白峯寺にある白峰寺古図です。白峰寺の中世の様子を江戸時代になって、洞林院が描かせたものとされています。そのため栄華が誇張されていて、事実を伝えるものではないと思われてきました。その評価大きく変わったのは最近のことです。発掘調査が行われた結果、三重塔が描かれている本堂横と別所跡から塔跡が出てきたのです。いまでは、ここに書かれている建物群は実際にあったのではないかと研究者は考えるようになっています。中世の神谷明神が置かれた環境を、この絵図から情報が読み取りながら見ていきたいと思います。最初に全体的な絵解きをしておきます。神谷神社がどこにあるか分かりますか?。

中世の白峰寺古図

 雌山・雄山・青海の奥まで海が入り込んでいたこと  海からそそり立つのが白峰山 そこから稚児の瀧が流れ落ちる。断崖の上に展開する伽藍が霊山としてデフォルメされています。①まず注目したいのは、白峯山です。ここには権現とあります。修験者たちが開いた霊山が権現と呼ばれます。②ここに別所があります。奥の院への入口あたりです。別所は、修験者や聖・僧兵たちの拠点となったところです。③ここが崇徳上皇陵です。中世には修験者の天狗信仰と結びつきます。④本堂と別所の間に、洞林院があります。それ以外にも多くの子院が描かれています。中世の白峰寺というのは、このような子院の連合体で運営されていました。④注目したいのは三重塔が3つ描かれています。神谷神社にも三重塔が描かれています。比叡山で云えば山上の大伽藍に対して、麓にいくつもの里の宗教施設をもっていました。中世の神谷明神も、白峰寺勢力を取り巻くサテライト寺院のひとつであったことを押さえておきます。見方を変えて云えば、ここに描かれている範囲が白峰寺の宗教的テリトリーであったとも考えられます。
神谷神社を拡大して見ていくことにします。

白峰寺古図の神谷明神
 
ここに「神谷明神」と書かれています。ここからは白峰寺の大門(現在の展望台)に向けて道が伸びています。神谷明神は白峰寺への入口でもあったことが分かります。
神谷の谷にいくつかの建物が描かれています。
①が一番奥の三重塔です。白峰寺の本堂横・別所にも三重塔は描かれていました。その存在が発掘調査で確かめれています。とすれば、ここにも三重塔があった可能性が高いと研究者は考えています。②が本堂でしょうか。しかし、妻入り社殿のようにも見えます。③が僧坊のようです。どちらにしても、ここからは中世には清瀧寺という神宮寺(別当寺)が神谷明神を管理していたという言い伝えが裏付けられます。ここで注目したいのが④の随身門です。これが随身門なら随身様がここにはいたはずです。
宝物庫には鎌倉時代作とされる随身立像があります。それを見ておきましょう。

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宝物庫前の随身像の説明版
神谷神社の随身さん

神谷神社の宝物庫の随身立像です。
 鎌倉時代中期の13世紀の作品とされ、全国でも記銘がある中では二番目に古い随身さんです。それを裏付けるかのように、次のような古風な要素を持ちます。
① 床几に坐る形式の随身像が多いが、立っている。
② 両手の肘を張つて手を前に出す姿勢はきわめてめずらしい。様式化される前のタイプ。
③ かたいケヤキ材を用い、頭部を頸のあたりで輪切りにし、襟にみられる棚状の矧ぎ面にのせて寄本造りの形をとっている。
④ これと同じ造りの随身さんが高屋神社にもある。
ここからは、随身さんや仏像などの職人集団が白峰寺の周辺にはいた可能性もうかがえます。また、この随身立像は、先ほどの絵図に描かれていた随身門に納められていたものかもしれません。また鎌倉時代の作とされる木造狛犬1対もあります。こうして見ると本堂が姿を現した13世紀初頭以後に、神谷明神が整備されていったことがうかがえます。この随身様の他にも、別当寺青竜寺の本尊とされる仏さまが伝わっています。

青竜寺本尊 阿弥陀如来立像

現在の青龍(立)の本尊「木造阿弥陀如来立像」(県文化)です。
ヒノキの寄木造、像高99cmで、胸部内側に墨書銘があって、「1270(文永7)年に僧長円が両親の極楽往生を願って造立した」とあります。とすると神谷神社本社が建立されて、約半世紀後の造られた阿弥陀仏になります。「讃岐国名勝図会」には、上図のように記します。これによるともともとは、神谷神社(五社明神)の別当寺清龍寺の本尊であったたものが、中世に寺が退転した後、現在地に下りて青竜寺の本尊として迎えられたようです。中世の別当寺の本尊が阿弥陀如来であったというのは興味深いところです。ここからはこの寺が阿弥陀浄土信仰の拠点として、高野聖などの念仏聖たちがいたことがうかがえます。
神谷神社には、中世の舞楽面が2つ伝えられています。

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神谷神社の舞楽面
神谷神社の舞楽面
 ひとつは抜頭面で、父親をかみ殺した猛獣と格闘し、勝利して喜ぶ様を演じた舞に使用されたものです。もうひとつは還城楽面(げんじょうらく)で、西域の胡人の姿に扮して朱の仮面をつけ、桴(ばち)を持ち、捕らえた蛇を食うさまを模した舞に使われるものです。ちなみに、讃岐で舞踊が奉納されていた記録が残るのは、善通寺と観音寺だけです。これらに比べると、各段に小規模な神谷明神に舞楽面が残されていることをどう考えればいいのでしょうか?
 それを解くヒントは、神谷集落に残る額(楽)屋敷という地名です。楽屋敷は、白峯寺の楽人が住居していたという伝承があります。ここからは神谷集落の舞楽集団は、白峯寺の「楽所」として、白峯寺に舞楽を奉納していたことが考えられます。そうだとすればここからも、神谷明神と白峯寺との関係の深さが見えて来ます。

神谷神社には、香西氏が「法楽連歌会」を神前で開いて奉納した記録があります。

神谷神社の香西氏連歌会

「神谷神社法楽連歌一巻」(神谷神社蔵)は、明応5年(1496)2月22日に神谷神社法楽を目的として巻かれたものです。時代は応仁の乱の後の15世紀末で、この時期の香西氏は、管領細川政元の右腕として栄華の絶頂期にあった頃です。香西氏が率いる讃岐武士達が京都の政治動向を左右していたのです。
作者の香西元資は細川勝元の家臣で、香西氏一族や神谷神社近隣の在地武士とその愛童や神官・僧侶たちに勧進して法楽連歌が行われたようです。連衆として、宗堅、宗高、元家、元親、祐宗、元門、宗清、宗勝、重任、増吉、歳楠丸、増林、増認、貞継、有通、盛興、元資、宗元、宗秀、宗春、元隆、幸聟丸、元治、寅代、師匠丸、石王丸、土用丸、鍋丸、惣代の29名の名が見えます。ここには東讃守護代で、連歌に熱心であった安富元家・元治も参席しています。
 神谷神社神前で開いた連歌会には、香西氏一族だけでなく、守護代の安富氏や有力武士や社僧・神官など29人が参加しています。明智光秀が本能寺の信長を襲う前にも連歌会を開いて、身内の団結と戦勝を願っています。 法楽連歌は、歌の内容如何にかかわらず、神仏に対する祈願を籠め、参加者の統合を保証するものでした。地縁・血縁等で結ばれた領主の連合=国人一揆は、公方や守護の圧力に対抗するために開かれたりもします。 
室町時代には連歌は武士の必須教養とされるようになります。
複数の者が集まって長時間詠むことで、集団の結束を図るのに都合の良い文芸で、コミュニテイ形成のツールでした。円滑な社会秩序の安定には価値観や情報の共有を図ることが不可欠です。連歌会は参加者同士の新たな人間関係を生み出します。連帯感や同じ価値観を共有する集団に属することを認識・確認し合う場でもありました。また、連歌は祈りを込められて詠まれる場合が多く、追悼・追善の連歌や法楽連歌、戦勝祈願の連歌も少なくなく、これらの連歌会への参加は名誉なこととされました。この連歌会を運営するにはプロの連歌師を京から呼ぶ必要がありますた。在京が長かった香西氏や安富氏に招かれて来讃する連歌師・猿楽師等がいたようです。彼らが逗留し活動拠点になったのが白峰寺だったのかもしれません。

連歌会を行うのは、自分が保護し、伽藍を整備した寺社が選ばれます。そういう意味からすると、神谷神社が香西氏の勢力下にあり、保護を受けていたことがうかがえます。また神谷明神は、讃岐武士団の団結を誓う場として機能していたことになります。それだけの規模設備があったのでしょう。香西氏は、一族や有力国衆を神谷神社の法楽連歌会に結集して、政治的・宗教的な人的ネットワークをより強固なものにしていたことを押さえておきます。

もうひとつ、神谷神社に残る中世的要素を見ておきましょう。鎌倉時代後期の層塔です。
神谷神社の層塔
           神谷神社の層塔と白峰寺十三重石塔
玄武岩ではなく凝灰岩の層塔なので、天霧産と思われます。これも別当寺の青竜寺に寄進されたのものでしょう。白峰寺十三石塔とよく似ています。もともとは十三重の塔だったのかも知れません。層塔を布教拡大のモニュメントとして使ったのが奈良の西大寺です。西大寺は天皇より各国の国分寺の再興を命じられ、瀬戸内海で活発な活動を展開します。讃岐国分寺再興や白峰寺に十三重塔が姿を現すのと同じ時期になります。これは律宗勢力伸張の痕跡とされます。そのような動きの中で、建立されたのがこの層塔ではないかと私は考えています。石造物にも、白峰寺のサテライト的な性格が見られることをここでは押さえておきます。
以上、中世の神谷明神を取り巻く環境をまとめておくと次の通りです。

中世の神谷明神と別当青竜寺

次回は近世の神谷神社について見ていきたいと思います。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 坂出市史   坂出市史 中世編 神谷神社の立地と沿革  206P
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坂出市の文化財協会の神谷神社本殿の修理保存見学会に行ってきました。

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最初に宮司の中尾格さんから今回の落雷被災の経過からクラウドファンデイング(CF)に至る経過について、次のようなお話しをうかがいました。
神谷神社 本殿2
          国宝 神谷神社 三間社流造 (1219年の墨書棟木あり)

神谷神社 屋根上部にあった箱棟
神谷神社 落雷した北側(左側)の千木
①2022年9月27日 正午頃に千木に落雷(避雷針なし)。千木を通じて屋根内部で火災発生し、風の影響か東側(右側)に火元が移動。そのため右側の方が激しく焼けている。

神谷神社 火災5

②消火施設は落雷のため機能せず。燃えているのが屋根内側のため放水しても効果なし。御神体を遷した後、檜皮葺屋根をはがして消火活動再開。
③消防士が消火活動を再開し、延焼を屋根部分に限定できた結果、16:30分頃鎮火
④屋根部分だけの被災にとどめることができたために、国宝指定解除にはならず。
④復興費用については、国宝なので国と県の補助金が下りるが、地元負担も1000万円を超える。

神谷神社 クラウドファン

⑤氏子140軒で年金生活者が多い現状では困難。そこで宮司の娘さんの提案でクラウドファンデイングを実施。
神谷神社 クラウドファティーグ

⑥最初は危ぶんでいたが、蓋を開けてみると開始して3ヶ月後には目標額に到達。結局、倍の2000万円が集まった。
神谷神社 工事計画日程
神谷神社本殿 工事計画 2025年夏の完成予定
⑦資金目処を得て、約1年後の2023年10月に工事開始。今年の秋の完成を目指している。
以上のようなお話しでした。
このあと参加者全員がヘルメットを被って工事現場に案内していただき見学しました。

案内していただく前に、神谷神社本殿がどうして国宝に指定されているかを見ておきましょう。

流れ造と神明造り


神社様式で最も古いのは神明造りです。伊勢神宮正殿が原形とされます。その特徴は、本を伏せたような切妻造(きりづまづくり)の屋根、屋根の端に飛び出た板・千木(ちぎ)、棟の上の丸太・鰹木(かつおぎ)などです。
 これに対して、新しく登場してくるのが流造りです。この特徴は、
正面側の屋根を長く伸ばした優美なな曲線美です。これはそれまでの直線的な外観の神明造と見た目に大きく異なる姿です。ここでは、流造りというのは、古代末から中世初頭に新しく登場してきた神社モデルであることを押さえておきます。それでは、代表的な三間社流造りの圓城寺新羅堂と神谷神社を比べてみなす。

神谷神社と圓城寺新羅堂

新羅善神堂(国宝)は、讃岐出身の円珍(智証大師)の創建した寺院です。その守護神が奉られているのが新羅堂で。両者はよく似ていていますが、相違点を挙げると次のような点です。

神谷神社の方が屋根の反りが強い。

②神谷神社は乱積み石垣の基壇の上に載っている。

③神谷神社は、扉口が真ん中だけで、脇間は板壁で閉鎖的である

④新羅堂は屋根がさらにのびて向背が付け加えられている。

以上からは、神谷神社の方がより古いタイプであると研究者は考えています。次に神谷神社の特徴を挙げておきます。

神谷神社の特色

ここからは、「古代様式 + 中世様式 + 仏教様式」が混じり合った建物で「古いスタイルをとりながらも仏教の影響を受けた中世的な新たな展開」の建物と研究者は評します。このように古いタイプの流造り社殿であることは、分かっていたのですが、国宝指定の決め手となったのは建築年代がわかる史料が見つかったことです。

神谷神社の墨書銘



 大正時代に行われた大改修の時に
、棟木に建築年代を記した上のような墨書銘が見つかったのです。

それを見てみると、
①まず「正一位
神谷大明神」とかかれています。ここからは中世は神谷神社でなく、神谷明神と呼ばれていたことが分かります。
②「健保(けんぽ)
7年2月10日に始之」とあるので、約800年前の1219年に、着工したことが分かります。建保7年は、その年の内に承久に代わります。後鳥羽上皇が承久の乱を起こす2年前のことです。施主は荘官であった刑部正長(さんみぎょうぶのすくね ながまさ)です。この物については、なにも分かりません。 当時は、古代綾氏が国府の在庁官人から武士団化する時期にあたります。そんな一族なのかも知れませんが手がかりはありません。 

神谷神社 本殿5
神谷神社本殿

 どちらにして、神谷神社本殿が約800年前に建てられた建物で、当時姿を現したばかりの流造り様式の原初的な位置にある建物であることが分かりました。これは、神社様式を考える上で、重要な建物になります。それが国宝に指定された決め手のようです。

神谷神社 落雷被災6


次に再建に向けたこれまでの動きを見ていくことにします。

まず足場が組まれ、覆屋が架けられ、次のような手順で作業は進められてきました。

神谷神社 改修手順
解体手順

P1280472
屋根の解体手順

神谷神社 桧皮葺屋根の解体4
檜皮葺屋根解体

神谷神社 桧皮葺屋根の解体5
檜皮葺の撤去

神谷神社 野垂木解体
野垂木解体 焦げていても仕える木材は出来るだけ残す

神谷神社 化粧裏板解体
化粧板解体

神谷神社 屋根解体終了
小屋組解体

神谷神社 部材検討
下ろした古材の保管と点検

私が興味があったのは、先ほど見た「建保(けんぽ)7年2月10日月始之」の年期の記された棟木です。

神谷神社 棟木墨書.3jpg
墨書銘の記された垂木
下ろされた棟木を見てみると、火災の煙で真っ黒になっています。ライトを当てて見ると・・・

神谷神社 棟木墨書.4jpg

浮かび上がってくる文字が見えるようです。神谷神社 棟木墨書.2jpg

大正時代の大改築の時の写真(右側)と比べて見ると「建保(けんぽ)7年2月10日月始之の最後の3文字だけがかすかに確認できたようです。この棟木も火災で真っ黒になりましたが、強度には問題ないので再建が進む本殿に使われていました。

P1280484

順調に工事は進んでいて、その様子を覆屋の中の2回に上がって身近に見ることができました。
貴重な機会を与えていただいたことに感謝。

神谷神社2
神谷神社本殿
そして本殿が私たちの前に一日も早く姿を見せてくれることを祈念。
今回の被災と復興をめぐる動きを見ながら私が思ったことを最後に記します。
神谷神社の起源は、この奥にある磐座(いわくら)である影向石(ようこうせき)への巨石信仰に始まるのかもしれません。それが阿野北平野の古代豪族綾氏に引き継がれ、ここに神社が創建されたのでしょう。。

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              神谷神社の磐座 影向石
綾氏は、讃岐で最大の古代豪族として国府の府中誘致などに力を発揮します。そして、他の郡司たちが律令制の解体の中で姿を消して行く中で、国府の在庁官人や武士団化してその統領として勢力を維持します。古代末から中世かけての阿野北平野の情勢を考える際に、綾氏一族を抜きにしては考えられません。800年前に神谷神社本殿を再建した庄司も綾氏につながる一族だったのではないかと私は考えています。そして、綾氏=讃岐藤原氏の一族である香西氏の勢力範囲に置かれるようになります。

神谷神社が受け継がれてきたのは・・・

そのような中で、神谷明神本殿は上図のような人たちによって、改修を重ねてきました。
そして今回の改修再建については、21世紀型の勧進活動=クラウドファンデイングによって実現したようにも思えます。担う人達がバトンタッチされながら、そのスタイルは違うかも知れませんが、この神社の本殿を未来に残したいという願いは同じではないかと思えてきました。中世の勧進聖達がこんな「勧進スタイル」を生み出した人達を驚きながら誉めてくれそうです。もし、崇徳上皇が天狗となって白峰寺から見ていたらこんな風に呟いたのではないでしょうか。
 天狗や雷神は私の配下の者達である。その者達が、この度は手違いで大きな迷惑と苦労をかけたことを詫びる。しかし、儂も越えられない試練は課さない。見事に21世紀型の勧進・結集(けつじゅう)で、困難を乗り越えたのは見事であった。以後も、天狗として天から見守っておるぞ・・・」
崇徳上皇と松山天狗

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考資料
【国宝神谷神社本殿建造物保存修理事業】01プロローグ 工事内容紹介
https://youtu.be/rELeCq-v08Q
【国宝神谷神社本殿建造物保存修理事業】02解体作業状況
https://www.youtube.com/watch?v=O0Dxp1jr6-s
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象頭山と愛宕山2

金毘羅大権現(金毘羅神)が登場するのは近世になってからです。天狗信仰の修験者たちによって新しく生み出された流行神(はやりかみ)が金毘羅神です。それがクンピーラの住む山と結びつけられ「象頭山(琴平山)」と呼ばれるようになります。金毘羅大権現が現れる近世以前に、この山を象頭山と呼んだ記録はありません。それ以前は、この山は大麻山と呼ばれ、忌部氏の勢力下にありました。その氏寺が式内社となっている大麻神社です。この神社が鎮座する山なので大麻山です。しかし。近世以後に金毘羅大権現の勢力が大きくなると南側が象頭山と呼称されるようになります。それは、金刀比羅宮のある山の南側が象の頭とされているのもそれを裏付けます。
 金刀比羅宮の鎮座する象頭山から南に伸びる尾根をたどると愛宕山があります。今は忘れられた山となっていますが、神仏分離の金毘羅大権現時代には、この山も金比羅信仰を構成する重要な役割を担っていたようです。今回は、この愛宕山について見ていくことにします。テキストは「羽床正明 崇徳上皇御廟と安井金毘羅宮  羽床正明 ことひら53 H10年」です。
まず、絵図で愛宕山を確認しておきます。
愛宕権現 箸洗池 大祭行列屏風
金毘羅大祭行列図屏風(18世紀初頭) 
この図屏風は下図のように「六曲一双」で、10月10日の大祭の様子を描いたものであることは以前にお話ししました。愛宕山が描かれているのは左隻第六扇になります。一番最後で、象頭山の左端に「おまけ」のように描かれています。
554 金毘羅祭礼図・・・讃岐最古のうどん店 | 木下製粉株式会社

霊山として険しい岩稜の山のように描かれていますが、デフォルメされた姿です。拡大して見ておきましょう。
愛宕山と
愛宕権現と箸洗(はしあらい)池
金毘羅全図 一の橋2
金毘羅全図(1840年代後半)

象頭山と愛宕山の鞍部を伊予土佐街道が抜けています。この峠が牛屋口になります。この絵図には、山頂付近に社が見えます。次に金毘羅参詣名所図会の愛宕山を見ておきましょう。

2-17 愛宕山

2-13 金毘羅愛宕山
金毘羅参詣名所図会に描かれた愛宕山(幕末)

天神社
愛宕町の正面にあり。中央に天満大自在天神、相殿に愛宕権現、荒神等を祭る。
愛宕(あたご)山
愛宕町より向ふに見ゆる山也。山上に愛宕山大権現の社あり、金毘羅山の守護神すみ給ふ山にて魔所なりといふ。
箸洗池
愛宕の山中に巨巌ありて是に一つの小池あるをいふ。此の水いかなる早魃にも乾くことなし。是十月御神事に供ずる箸をことごとく御山に捨るを、守護神拾ひあつめ此の池にて洗ひ、阿州箸蔵寺の山谷にはこび給ふといひつたふ。ゆへに箸あらひの池と号す。
十二景の内
箸洗清漣(はしあらいのせいれん)             林春常
一飽有余清  波漣源口亨  漱流頻下箸  喚起子十刑情
意訳変換しておくと
天神社(天満宮:菅原道真)
愛宕町の正面に見える神社である。中央に天満大自在天神(菅原道真)を奉り、相殿に愛宕権現、荒神等を祭る。
愛宕(あたご)山
愛宕町から見える山である。山上に愛宕山大権現の社がある。この山は、①金毘羅山の守護神が住む山で、魔所とされている。
箸洗池
愛宕山の山中に巨巌があり、そこにある小さな池のことである。この水はどんな早魃でも干上がることはない。10月10日の大祭の御神事の後の食事で使用した箸は、すべて御山に捨てる。それを守護神(天狗)が拾い集めて、この池で洗い、阿波の箸蔵寺に運び去ると言い伝えられている。そのため箸洗池と呼ぶ号す。
ここで注目したいのは、次の2点です
①愛宕山が金毘羅神の守護神の住む山で「魔所」とされていること
②箸が洗われた後に、阿波修験道の拠点である箸蔵寺に持ち去られること
①の「金毘羅神の守護神」とされる愛宕権現とは何者なのでしょうか?
①修験道の役小角と泰澄が山城国愛宕山に登った時に天狗(愛宕山太郎坊)の神験に遭って朝日峰に神廟を設立したのが、霊山愛宕山の開基
②愛宕山は修験道七高山の一つとなり、「伊勢へ七たび 熊野へ三たび 愛宕さんには月まいり」と言われるほど愛宕山は修験道場として栄えた。
③塞神信仰から、愛宕山は京の火難除けや盗難除けの神として信仰された。
④それに、阿当護神と本尊の勝軍地蔵が習合して火防せの神である愛宕権現として、愛宕修験者によって全国に広まった。
⑤愛宕修験でも天狗信仰が盛んだったため、愛宕太郎坊天狗も祀った。
こうして修験者の聖地で、天狗信仰のメッカでもあった金毘羅大権現も、愛宕信仰を受入たようですももうひとつ見ておきたいのは、愛宕信仰は妙見信仰も混淆していることです。

秦氏の妙見信仰・虚空蔵

愛宕山自体が山城の秦氏の霊山で、妙見信仰(北斗星)を基盤にしていることは押さえておきます。それらを混淆して、愛宕山大権現として象頭山にももたらされたとしておきます。

象頭山天狗 飯綱
象頭山の愛宕明神と飯綱明神 火除けの神として信仰されていたことが分かる

知切光歳著『天狗考』上巻は、愛宕天狗について、次のように記します。

天狗の中で、愛宕、飯綱系の天狗は、ダキニ天を祀り、白狐に跨っており、天狗を祭り通力を得んとする修験、行者の徒が、ダキニの法を修し、これを愛宕の法、または飯綱の法と呼ぶ、(以下略)
整理しておくと
①愛宕天狗は両翼をもち白狐に乗り、ダキニ天を祀る。
②全国各地の金毘羅社の中には、烏天狗を祀るところが多い。
ここからは、各地の金毘羅宮は愛宕山を通じて愛宕天狗と結ばれていたことがうかがえます。そして、修行・参拝のために天狗になろうとする修験者たちが金比羅の愛宕山を目指したのでしょう。当然、それを迎え入れる愛宕系の子院があったはずです。それが私は多聞院であったと考えています。
京都愛宕山との交流を示す絵馬や記録も残っていることが、それを裏付けます。

『麒麟がくる』ゆかりの地・愛宕山4 勝軍地蔵と太郎坊天狗に祈りを捧げた明智光秀 - れきたびcafe
愛宕天狗
また、逆に愛宕権現と金毘羅大権現が習合して、各地に奉られていくという現象も起こります。
愛宕神社と金毘羅大権現の関係

愛宕神社と金毘羅大権現2 愛知県
        愛知県 井代星越 愛宕神社の奥社として鎮座する金毘羅大権現
上図の愛知県新庄市の愛宕神社では、奥社(守護神)として金毘羅大権現が奉られています。ここでは愛宕神社が本社で、金毘羅大権現が末社となっていて、主客が逆転していることを押さえておきます。このようなスタイルが各地で見られるようになります。

次に、金比羅の愛宕天狗以外の天狗たちを見ていくことにします。
江戸前期の『天狗経』には、全国で名前が知られた天狗がリストアップされています。これらが天狗信仰の拠点であったことになります。

7 崇徳上皇天狗

讃岐に関係するのは、赤い丸を付けた次の3つの天狗達です。
①黒眷属金毘羅坊(くろけんぞくこんぴらぼう) 
②白峯相模坊  天狗になった崇徳上皇に仕える白峰寺の天狗。
③象頭山金剛坊    
①③が金比羅の天狗ですが、このふたつには次のような役割分担があったと研究者は指摘します。
①黒眷属金毘羅坊 全国各地の金毘羅信者の安全と旅人の道中安全を司る天狗。地方の金比羅社
に奉られる天狗で姿は烏天狗
③象頭山金剛坊は、讃岐の本宮を守護する山伏姿の天狗で、金毘羅大権現の別当金光院が担当
両者の関係は、③の金剛坊が主人で、①黒眷属金毘羅坊はその家来とされました。

それでは、③の象頭山金剛坊を象頭山に根付かせたのは誰なのでしょうか?
江戸時代中期(1715年)に浪華の吉林堂から出された百科辞書の『和漢三才図絵』(巻79)には、次のように記します。
相伝ふ、当山(金毘羅大権現)の天狗を金毘羅坊と名づく。之を祈りて霊験多く崇る所も亦甚だ厳し。

また、江戸中期の国学者、天野信景著の『塩尻』には、次のように記します。
  讃州象頭山は金毘羅を祀す。其像、座して三尺余、僧形也。いとすさまじき面貌にて、今の修験者の所載の頭巾を蒙り、手に羽団を取る。薬師十二将の像とは、甚だ異なりとかや。

ここからは金毘羅宮の祭神は、僧(山伏)の姿をしていて団扇を持った天狗で、薬師十二神将のクビラ神とはまったくちがう姿であったとされています。『塩尻』に出てくる修験者の姿の木像とは、実は初代金光院主だった宥盛の姿です。観音堂の裏には威徳殿という建物があって、その中には、次のような名の入った木像がありました。

天狗道沙門金剛坊形像、当山中興権大僧都法印宥盛、千時慶長拾壱年丙午拾月如意月

意訳変換しておくと
天狗道沙門の金剛坊像は、当山中興の権大僧都法印宥盛の姿である。慶長11年10拾月如意月

ここからは宥盛が金毘羅信仰の中に天狗信仰をとり入れ定着させた人物であったことが分かります。宥盛は修験道と天狗信仰を極め、死後は天狗になって金毘羅宮を守ると遺言して亡くなり、観音堂のそばにまつられます。宥盛は死後、象頭山金剛坊という天狗になったとされ、金剛坊は金毘羅信仰の中心として信仰を集めるようになります。
金毘羅大権現の天狗信仰を視覚化した絵図を見ておきましょう。

金毘羅と天狗
金毘羅大権現 別当金光院発行の金毘羅大権現と天狗達
一番下に「別当金光院」と書かれています。金光院が配布していた掛軸のようです。
①一番上の不動明王のように見えるのが金毘羅大権現
②その下の両脇で団扇を持っているのが金剛院で大天狗姿
③その下が多くが黒眷属金毘羅坊で、団扇を持たず羽根のある烏天狗姿
ここからは金比羅の修験者たちは、自分たちは金毘羅大権現に仕える天狗達と認識していたことがうかがえます。近世はじめに流行神として登場した金毘羅神を生み出したのは、このような天狗信仰をもった修験者たちであったと研究者は考えています。
そして、この2つの天狗達に後から仲間入りをするのが最初に見た愛宕山太郎坊になります。
この天狗信仰と金比羅信仰のつながりを、模式化したのが次の表です。

金毘羅の天狗信仰

江戸時代前期 もともとは「①黒眷属金毘羅坊と③象頭山金剛坊」に「愛宕山太郎坊」が追加    
江戸時代後期 ④「象頭山趣海坊」+⑤「安井金毘羅宮」の浸透
④「象頭山趣海坊」とは崇徳上皇の家来です。京都では安井金毘羅宮を中心に、崇徳上皇=金毘羅大権現とする説が普及し、滝沢馬琴も『金毘羅大権現利生略記』の中で崇徳上皇=金毘羅大権現とする説を採用しています。
文化五年(1808)の冬、幕臣の稲田喜蔵が神城騰雲から聞き取った『壺産圃雑記』という随筆集の中には、騰雲は趣海坊という金毘羅の眷属の天狗の導きで天狗界を見てきたとか、金毘羅権現は讃岐に流された崇徳上皇が人間界の王になれぬので天狗界の王になろうと天に祈った結果、終に天狗となったものだと語ったと記されています。
こうして見てくると、江戸時代の金光院などの社僧の僧侶は、根強い天狗信仰をもっていたことがうかがえます。そのような中で、愛宕信仰を持つ影響力の強い修験者がやってきて、金比羅に愛宕大権現を開山し、「金毘羅神」の守護者を名乗るようになったとしておきます。

最後に愛宕大名神の現在の姿を見ておくことにします。
琴平愛宕山ルート図

象頭山と愛宕山の鞍部の牛屋口から尾根づたいの整備された道を辿ります。この当たりは、昔は松茸がよく生えていた所で、戦前までは入札していたことが記録に残っています。

愛宕山;石柱:八景山遺蹟。

まず最初のピークに八景山遺構の石碑が立っています。昭和16年(1941)に建てられたものです。次のピークが愛宕山になります。

愛宕山山頂6
愛宕山山頂
山頂には
愛宕山遺蹟の石柱があります。頂上は、整地されていて広く、神社の拝殿などがあったことがうかがえます。

愛宕権現 琴平町
          愛宕山山頂の愛宕社の祠(琴平町)
そこには、いまは石の祠だけが鎮座しています。山頂にあった愛宕大権現の御神体は神仏分離後はふもとの天満宮に下ろされ、天満さま(菅原道真神社)と合祀されているようです。そちらに行って見ます。
愛宕神社・菅原神社の鳥居
金比羅芝居の金丸座の裏からの車道を300mほど行くと、菅原神社の登山口です。鳥居と石碑が迎えてくれまます。

菅原神社・愛宕神社

入口の石碑は菅原神社と愛宕神社がならんで刻まれています。もともとは、愛宕権現のテリトリーに天神信仰の高まりの中で天満宮が勧進されたのでしょう。それが愛宕権現と並んで奉られていたことは、最初に見た金毘羅参詣名所図会に書かれていました。長い階段を登っていくと本殿が見えて来ます。

金刀比羅宮の境外末社である愛宕神社の例祭3
菅原神社・愛宕神社(現在は金刀比羅宮の末社)
中央が菅原社、右側が竈神社、左側が愛宕社です。今の主役は菅原道真です。

金刀比羅宮の境外末社である愛宕神社の例祭4
                  菅原神社・愛宕神社
明治になって、金刀比羅宮の末社となり、祭礼が続けられています。
以上を整理しておきます。
①金毘羅大権現は、天狗信仰をもつ修験者によって象頭山に根付いた。
②金毘羅大権現の別当・金光院院主の宥盛も「死して天狗となってこの山を守らん」と云って亡くなった。
③近世はじめの象頭山は、天狗信者の拠点で全国から数多くの修験者たちを受けいれた。
④金光院がお山の大将となって封建領主化した後も、多聞院を中心とした修験者の活動は続いた。
⑤その聖地が、象頭山に続く愛宕山であった。
⑥その名の通り、この山には愛宕信仰を中心とする修験者の拠点となり、周辺の村々にお札を配布するなどの活動を行った。
⑦神仏分離で山伏排斥を受けて、愛宕権現は金光院の末社となり、今は菅原道真と合祀されている。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 羽床正明 崇徳上皇御廟と安井金毘羅宮  羽床正明 ことひら53 H10年
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播磨の大避神社

瀬戸内海の赤穂市坂越の大避神社は秦河勝(かわかつ)を祀る神社です。そして、この神社の周辺や千種川流域には多くの大避神社が鎮座しています。どうしてこれだけの濃密な分布が見られるのでしょうか? それは古代以来の秦氏の活動の痕跡だと研究者は考えています。今回は、大避神社の歴史と秦氏との関係を見ていくことにします。テキストは「大和岩雄 秦史の研究 大避(おおさけ)神社 「猿楽宮」といわれる理由と播磨の秦氏  396P」です。
まず祭神として奉られている秦河勝を押さえておきます

秦川勝
 秦河勝 聖徳太子のブレーンとして活躍
秦河勝は飛鳥時代に聖徳太子の最高のブレーンとして朝廷の財務担当責任者として活躍した人物です。彼は新羅使の導者を3回務め、『日本書紀』には、推古11年・24年・31年に新羅王から仏像を贈られたと記します。推古21年の記事には、仏像を「葛野秦寺」に収めたとあります。これが広隆寺になるようです。24年の記事には新羅仏とあって寺は記されていませんが、『聖徳太子伝暦』『扶桑略記』には蜂岡寺(これも広隆寺のこと)に置いたとあります。また、11年の仏像については『聖徳太子伝補閥記』や『聖徳太子伝暦』に「新羅国所献仏像」とあります。『扶桑略記』は広隆寺縁起を引き、国宝第一号となった「弥勒仏」のことだとします。その広隆寺と一体で管理されたのが山城国の大酒神社で、山城秦氏の本拠地太秦(うずまさ)の拠点となります。
次に赤穂坂越の大避神社を見ておきましょう。
京都の大酒神社と同じように、秦河勝を氏神として祭ったのが赤穂市坂越(さこし)の「大避大明神」(大避神社)です。神明帳には「元名大辟」と書く「オオサケ神」を「大荒大明神」と記します。周辺には、大酒神社と酒の字をあてる神社もありますが酒の神ではないようです。坂越の大避神社と同じ性格で境の意の「辟」が「酒」になったのであり境界神としての神社名を持つ塞の神、道祖神的な意味をもっていると研究者は考えています。
③『播磨鏡』(宝暦12年(1762)成立)は、大避神社の社伝を引用し、次のように記します。

秦河勝がこの地で没したので、河勝の霊と秦氏の祖酒公を祀り、社名を「大荒(さけ)」「大酒」と称したが、治暦4年(1068)に「大避」に改めた。また、山背大兄王と親しかった河勝が蘇我入鹿の嫉みを受け、ひそかにこの地に難を「避けた」ので、「大避」に改めた

この社名由来は、秦河勝を祀る山城の神社の「大酒」をもともとの表記と思い込み、「大避」と書く理由を述べています。しかし、神名帳の大酒神社の注記からは「酒」よりも「辟」「避」の方が古い表記であることが分かります。
播磨の大避神社と山城国の大洒神社は、同じ秦河勝を祭神にし、社名も同じで、祭祀氏族も秦氏です。しかし、同じ秦氏の氏神と云っても、次のような違いは見られます。
①山城の大洒神社は広隆寺の境内社で桂宮院(太子堂)の守護神、鎮守の性格
②播磨の大避神社は、猿楽との関わりが強い
どうして、播磨の大避神社は猿楽との関係が深いのでしょうか。
世阿弥は『風姿花伝』で、次のように記します。

(申(猿)楽の祖は秦河勝で)、彼河勝、欽明・敏達・用明・崇峻・推古・上富太子に仕へ奉り、此芸をば子孫に伝え、化人跡を留めぬによりて、摂津国難波の浦より、うつほ舟に乗りて、風にまかせて西海に出づ。播磨の国坂越の浦に着く。浦人舟を上げて見れば、かたち人間に変れり。諸人に憑き祟りて奇瑞をなす。則、神と崇めて、国豊也。
意訳変換しておくと
申(猿)楽の祖は秦河勝で、この河勝は、欽明・敏達・用明・崇峻・推古・上富太子(聖徳太子)に仕えた。猿楽の芸を子孫に伝え、その継承跡を留めないようにと、摂津国難波の浦から、うつほ舟に乗って、風にまかせて瀬戸内海を西に漕ぎ出し、播磨の国坂越の浦に着いた。浦人が舟を上げみると、かたちが人間に変わっていた。そして諸人に奇瑞をもたらしたので、神と崇められて、国は豊かになった。

金春禅竹は『明宿集』で『風姿花伝』と同じような記述をして、更に次のように記します。
坂越ノ浦二崇メ、宮造リス。次二、同国山ノ里二移シタテマツリ、宮造リヲ、タタシクシテ、西浦道フ守り給フ。所ノ人、猿楽ノ宮トモ、宿神トモ、コレヲ申タテマツルナリ。
  意訳変換しておくと
(秦河勝は)坂越の浦に社殿を建立し、次二、同国の山里に移って、宮を正式に建立した。そして、西浦道を守ったので、人々は、猿楽ノ宮とも、宿神とも、この宮を読んで崇拝した。

ここには、秦河勝が建立した神社を「猿楽ノ宮」と呼び、祭神の秦河勝を「宿神」と記します。
大避神社を「猿楽ノ宮」と呼ぶのは、秦河勝を猿楽の祖とみるからでしょう。この猿楽の徒の神「宿神」について、禅竹は『明宿集』で、次のように記します。

「翁ヲ宿神卜申タテマツル」「秦ノ河勝ハ、翁ノ化現疑ヒナシ」

『風姿花伝』は次のように記します。

秦河勝が猿楽の祖といわれるのは、聖徳太子が「六十六番の物まね」を秦河勝に演じさせたからだ。そのとき太子は「六十六番の面」を作って河勝に与えたが、そのなかの一面(鬼面)だけが円満井座に伝えられて重宝になった

初めて一般公開される「蘭陵王の面」など大避神社の宝物
  秦河勝の作とも伝わる「蘭陵王」面(大避神社)
ここでは中世以後に「秦河勝=猿楽の祖」とされ、大酒神社が「猿楽の宮」と呼ばれるようになったことを押さえておきます。

次に播磨国の大避神社(赤穂市坂越)周辺に秦氏がいたことを史料で押さえておきます。
①延暦12 年(793)4 月 19 日付の播磨国坂越・神戸両郷解(げ)には天平勝宝 5 年(753)頃、この地に秦大炬(おおこ)なる人物がいたこと
②「三代実録」の貞観6 年(864)8 月 17 日条には播磨国赤穂郡大領外正七位下秦造内麿が外従五位下になったこと。
③赤穂郡の大領が秦造であったということが「続日本紀」にある。大領は郡の長官でもとの国造クラスで、有力な豪族が郡の大領に任ぜられるのが律令制の慣例でした。その大領が秦造になります。
④「平安遺文」の11 世紀後半の東寺文書の中に、赤穂郡の大領秦為辰(はたためとき)が土地の開発領主として開墾していること
⑤長和4 年(1015)11 月の国符に記された赤穂郡有年(うね)荘の文書に寄人41人の連名があり、その中に秦姓を名乗る者が 12人いること
以上から、秦河勝を氏神として祭った大避神社が鎮座する赤穂郡は秦氏の勢力範囲であったこと史料からも裏付けられます。
 赤穂周辺の秦河勝を祭神とする大避神社の分祀は30社あまりあるようですが、その分布は、千種川流域の赤穂郡を中心として佐用郡・揖保郡にまで、秦河勝の伝承が伝えられています。ある研究者は、「旧時、赤穂郡内の神社の1/3は秦河勝を奉祀した大避社であった」と記します。

播磨坂越の大避神社 播磨名所縦覧

坂越の大避神社
坂越周辺の地で祀られる大避神社と秦氏の関係について太田亮は、次のように記します。
「播磨赤松氏は天下の大姓にして其の族類極めて多く、而して一般に村上源氏と称するも、其の発生に関して徴証乏しく、果して然りしや否や証なき能はず。赤穂郡は古代秦氏の繁栄せし地なり。
貞観六年八月紀に『播磨国赤穂郡大領外正七位下秦造内麻呂、借りに外従五位下に叙す』と、有勢なりしや明白なりとす。よりて思ふに此の秦氏、系を雲上家に架して村上源氏と称せしにあらざるか。郡内に大酒神社あり。秦氏の奉斎にかかる」。
『角川日本地名大辞典兵庫県』は、「氏神は大酒神社」と書き、「地名の由来は、秦酒公を祀る大酒神社にちなむと思われる。高瀬舟に従事した人たちの信仰」と記します。
現在の祭神は天照大神・春日大神・大避大神ですが、本来の祭神大避大神は先ほど見た『風姿花伝』『明宿集』には「秦河勝」と明記されていました。大避神社を氏神とする上月町大酒の人たちは、かつて「高瀬舟に従事した人々」とされていますが、彼らは渡守です。白山開基の泰澄は、渡守の秦氏だから、秦氏奉斎の大避神社を氏神とする大酒の人たちも、秦氏及び秦氏と結びつく人たちです。

大避神社2

 もう少し周辺の大避神社を見ておきましょう。
千種川中流の上郡町の金出地(かなじ)は、明治22年まで金出地村でした。
延享4年(1747)に書かれた『播州赤穂郡志』には「金出地八幡宮総山月大避明神」と書かれています。そして、八幡宮の祭神を大避神と記します。金出地の地名について『角川日本地名大辞典・兵庫県』は次のように記します。
山中に溶滓が散在する所」があるから「銅あるいは砂鉄を産出したと伝えられることによるものか

大避神を祀る岩木・金出地以外にも、上郡町旭日には旭山(旭日)鉱山があり、金・銀の採掘をおこなっていました。このように、上郡町は金・銀・銅や砂鉄が産出地でした。岩木・金出地以外に上郡町には大避神社が、大枝新・竹万・休治にもあるので合計5社になります。これは金属の採鉱と精錬にたずさわった人たちが、大避神社を祀っていたからと研究者は考えています。
千種川上流の上月町には、大酒の大酒(避))社以外に、久埼(旧久崎村)、西大畠(旧西庄村)に大避神社が鎮座します。

大酒神社 播磨上郡町

この町は、千種川・佐用川の流域にあり、金属資源にめぐまれていました。千種川上流の千種町も有名な千種鉄・千種鋼の産地です。鉱山と水運という秦氏の職能分野です。

技術集団としての秦氏

中世の赤松氏の菩提寺・法雲寺の境内には赤松円心・則祐・満祐等の五輪等が残されています。上郡町の中心から国道375号線を千種川に沿って北上すると左側に広い沖積地に鎮守の森が見えきます。それが上郡町大枝新の酒神社です。

大酒神社2 播磨上郡町

境内には巨木が何本も生えていて歴史を感じる神社です。

大酒神社3 播磨上郡町
 旧赤松村の岩木にも大避神社があります。
播磨岩木の大避神社
旧岩木村の大避神社
この岩木は「慶長播磨絵図」に載せられている岩木鍛冶屋村を含む旧岩木村です。岩木には良質の銅鉱山の峯尾山がありました。そこに鎮座する大避神社は鍛冶鋳物・採鉱にかかわる人たちが祀っていたのでしょう。岩木鍛冶屋村は鍛冶村とも呼ばれていたようですが、それよりも昔は鍛冶千軒ともいわれていたようです。
千種の鉄山も、中世には秦氏出自ではないかといわれる赤松氏の支配下にありました。
上月町には西新宿の八幡神社も、秦河勝と誉田別命(応神天皇)を祭神にしています。誉田別命は宇佐八幡宮の祭神ですが、上月町早瀬の白山神社の祭神も誉田別命です。白山神社も宇佐八幡宮も秦氏が祭祀する神社です。上月町で、大避神社の祭神秦河勝が八幡神社でも祀られ、八幡神社の祭神が白山神社で祀られているのは、秦氏系氏族との関係なくしては考えられません。

技術集団としての秦氏

相生市にもかつては大避神社が三社あったと伝えられます。

『角川日本地名大辞典・兵庫県』は、相生市北部から南部にかけて、「近世まで六社あった」と書いています。相生市は赤穂郡に属し、平安時代から中世にかけての八野郷・矢野荘が相生市全域とほぼ重なります。
『三代実録』の貞観六年(864)8月条に、赤穂郡大領の秦造内麻呂が従五位下に叙せられたという記事があります。『峰相記』は三濃山には、秦内麻呂が観音寺を建立したとあります。現在は元三濃山求福教寺といわれ、境内に観音堂と大避神社があります。

元三濃山求福教寺2

元三濃山求福教寺
元三濃山求福教寺の観音堂
 秦河勝が大蛇を退治したという似た伝説を伝える相生市若狭野町下上井にも、大避神社があります。この下上井の大避神社を「土田宮」というのは、土地の人たちが河勝を上段座を設けて供応したという伝説からきているようです。
大避神社を氏神とする若狭野町下土井は、鎌倉時代から中世に活躍した寺田氏の本拠地です。
ここには中世矢野荘の鎮守社としてたびたび登場する大避神社が鎮座します。ここにも秦河勝の末裔の秦為辰の子孫と称する家があります。秦為辰は、11世紀に、相生市とその周辺を開発した人物で、国行の大塚と赤穂郡司を兼ねていた人物です。
①為辰の子孫で牛窓荘司であった寺田太郎人道法念は、坂越の大避宮別当神主祝師職
②法念は弘安四年(1281)に山陽海路の警固に動員されており、坂越浦の水軍の長
③法念の子範兼は正和三年(1313)に、長男の範長に大避宮別当神主祝師職を譲っている
④秦氏の末裔の寺田氏によって世襲されていたこと。
以上からは、秦氏の末裔が中世になっても「金属精錬+海野の民としての水運・水軍」などとして活躍していたことが分かります。
大避宮のある坂越の属す赤穂市には、木津・西有年(うね)・中山にも、大避神社があり、木津にも秦河勝の末裔と称する家があります。

大避神社 木津
赤穂市木津の大避神社
木津の地名は、その名前の通り古代に千種川河口で、材木の集散地であったことによるとされます。『角川日本地名大辞典 兵庫県』は次のように記します。

「七世紀中頃、秦河勝に随従した匠(大工)たちが住みついたため、字名に大工山、通称地名に大工村・手能(手斧)村がある。(中略)通称大工村の住人大多数が領内外の寺社建築に携わる」

 この地の秦の民は、上寸大工、宮大工だったようです。

赤穂市西有年にも大避神社があります。
西有年 大避神社
西有年の大避神社
この有年の地も千種川に沿いにあって、有年谷回は江戸時代に高瀬舟による運漕業の拠点でした。上月町大酒の大避神社が、高瀬舟に従事していた人たちが祀っていたことからみて、有年谷回の人たちも、西有年の大避神社を奉斎していたでのでしょう。有年にも、秦河勝の末裔と称する家があります。

以上述べたように、坂越の大避神社を取り巻く状況について整理要約しておきます
①鎌倉時代には、大避神社の別当神主祝師職であった秦河勝の末裔の寺田氏は、「海の民」の末裔として水軍の長として坂越浦・那波浦を本拠に、瀬戸内海の海運を握っていた。
②その時には、大避神社は海運の神だった
③千種川を上下する高瀬舟に従事する秦氏も、それぞれの居住地に海軍の神としての大避神社を祀った
④千種川とその支流で採鉱・鍛冶などにかかわる秦氏や、寺社造営にかかわる秦氏も、大避神社を信仰していた。
⑤これらは猿楽・海運・水運・採鉱・鍛冶・寺社造営などに、秦氏がかかわっていたからである。
⑦大避神社を奉斎する播磨の秦氏は、赤穂郡が本拠地として、周辺に勢力を拡大した。

最後に、広峯神社と秦氏の関係を見ておきましょう。
 飾磨郡の枚野里の新羅訓村のいわれは次のように記します。

「新羅訓と号くる所以は、音、新羅の国の人、来朝ける時、此の村に宿りき。故、新羅訓と号く。山の名も同じ」

「しら」「ひら」は同義ですから「ヒラノ」も「白野」です。「シラクニ」は、今は「白国」と書かれますが(姫路市白国)、「山の名も同じ」といわれる山は、広峯山のことだと研究者は考えています。「広」は「シラ → ヒラ → ヒロ」と転じます。白国(新羅訓)山が白峯山になり、更に広峯山になったことが考えられます。現在ここには広峯神社があります。
廣峯神社 | 観光スポット | ひめのみち
                 広峯神社
この神社はかつては、西方の白幣山にあり、天禄3年〈972に遷座したと伝えられます。秦氏系の赤松氏が城をかまえた白旗山と同じに、白神信仰による名が白幣山と研究者は考えています。幣・旗を神が依代にして降臨することは、山頂の上社(広峯神社)に対する下社が、広峯山の山麓にある式内社の白国神社になります。
白國神社(しらくにじんじゃ、姫路市) : 古代史探訪


同郡の賀野里は「幣丘」と『風土記』には記します。たぶん「幣丘」も「白幣丘」の意なのでしょう。「カヤ」は「伽耶」で、加羅の意ですが、加羅・新羅から渡来して来た秦氏系を中心とする人たちが、飾磨郡には住んでいたことを、この地名は示していると研究者は考えています。

以上見てきたように、赤穂郡を中心に大避神社は佐用郡・揖保郡に分布しますが、いずれも秦氏の伝承があります。一方、飾磨郡の秦氏は広峯(白国)山の信仰が主体で、この秦氏は秦巨智氏と研究者は考えています。どちらにしても大避神社が広く分布するのは、古代における秦氏の活動の痕跡であるとしておきます。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 「大和岩雄 秦史の研究 大避(おおさけ)神社 「猿楽宮」といわれる理由と播磨の秦氏  396P」
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金毘羅庶民信仰資料集 全3巻+年表 全4冊揃(日本観光文化研究所 編) / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋

1979(昭和54)年に、金毘羅さんに伝わる民間信仰史料が「重要有形民俗文化財」に指定されました。指定を記念して金刀比羅宮から調査報告書三巻と「年表編」が刊行されました。この年表を手にしたときに驚いたのは、近世以前の項目がないのです。何かのミスかと思いましたが「後記」を見て納得しました。
  この年表を作成した金刀比羅宮の松原秀明学芸員は、後記に次のように記します。

 金毘羅の資料では,天正以前のものは見当らなかった。筆者が,この仕事に当っていた間に香川県史編さん室でも,広く県内外の資料を調査されたが,やはり中世に遡る金毘羅の資料は見付からなかった様子である。ここでも記述を,確実な資料が見られる近世から始めることとした。

「金毘羅庶民信仰資料集」の「年表篇」を作るように言われてお引受けしたのは「第一巻」が出版された昭和57頃であった。それ以後,暇ごとに手近な資料から「年表」の材料になると思われる事柄をカードに書取って,それがかなりの分量になり,時間的にもこれ以上遅らせなくなったところで,年月順に並べて書き写したのがこの年表である。 
それでは松原秀明氏による年表の18世紀半ばまでの部分をアップしておきます。

1581 天正9 10.土佐国住人某(長曽我部元親か)、矢一手を額仕立として奉納。
1583 天正11 三十番神社葺替。
1584 天正12 10.9長曽我部元親、松尾寺(のちの金毘羅)仁王堂を建立。
1585 天正13 8.10仙石秀久、松尾寺に制札を下す。
10.19仙石秀久、金毘羅へ当物成十石を寄進。仙石秀久、源信国作太刀一振を献納。
1586 天正14 2.13仙石秀久、金毘羅へ三十石寄進。
8.24仙石秀久、榎井村六条の内を以て、三十石寄進。
1587 天正15 1.24生駒親正、松尾村にて高二十石を献ず。
1588 天正16 7.18生駒一正、榎井村にて二十五石寄進。
1589 天正17 2.21生駒一正、小松村にて五石寄進。
1594 文禄3   8.10宥盛、松尾寺再興のため勧進帖を撰す。
1596 慶長1   3.5別当大僧都宥厳、観音堂に鰐口奉納。 7.上旬宥盛「破禅抄」書写。         
1597 慶長2   4.14宥盛「色葉経」書写。 5.下旬宥盛「南台門僧正空海記」書写。
1598 慶長3   8.1榎井村久右ヱ門より田地寄進。 
9.8大井八幡宮遷宮、導師善通寺誕生院尊翁、金光院宥厳・宥盛奉仕。
1600 慶長5   12.13生駒一正、院内にて三十一石寄進。
下川家初代帥坊、紀州下川村より移る。宥厳没、宥盛入院。
1601 慶長6   3.5生駒一正、諸国より金毘羅へ移住する者の税をゆるめる。
28生駒一正、金毘羅へ四十二石五斗寄進。
4.11生駒一正、三十番神社を改築。摩利支天堂・毘沙門天堂創祀。
1603 慶長8   「金毘羅山神事頭人名簿」書き始められる。
1604 慶長9   1.宥盛、禁戒文を撰す。護摩堂創祀、本尊不動明王造像(雪津入道作)。
1605 慶長10 1.土佐出身の片岡民部、宥盛の弟子となり、多聞天の像をもらって多聞院を名乗る。
宥盛、先師宥厳菩提のため、自ら如意輪観音を彫む。
1606 慶長11   3.宥盛高野山浄菩提院を兼任。 
  10.宥盛、自らの木像を彫み台座に「入天狗道沙門金剛坊形像、当山中興権大僧都法印宥盛」と彫込む。
1607 慶長12   4.2生駒一正、生駒将監名にて、那珂郡高篠村にて三十石寄進。
生駒一正、浅井周防名にて、七ヶ村真野にて十石寄進。 
5.先の松尾寺住職宥雅、宥盛を生駒家へ訴える
6.宥盛、宥雅の訴えに答えて目安を撰す。 
9.6生駒一正、寺高諸役免許のことなど安堵する。 
9.21生駒一正、浅井喜八郎名にて、買田村にて十石寄進。
10.20生駒一正、浅井周防名にて、七ヶ村真野にて五石寄進。
1609 慶長14   9.6生駒一正、先規により、城山称名寺山を献じ、寺領諸役免除を安堵。
1610 慶長15   8.7生駒一正、浅井右京名にて、金毘羅へ出入する米の道切手を遣わす。
1611 慶長16   薩摩国島津義弘より紺紙金泥金剛不空三摩耶経二軸を献納。
1613 慶長18   1.6宥盛没。宥睨入院、実家山下家が、この頃豊田郡河内村から金毘羅へ移住。
14生駒正俊、城山称名寺山を従来の如く献じ、寺領諸役を免除する。
16生駒家より作事用木を寄進する。また寺領並びに称名寺分高八十石の諸役を免除
1614 慶長19   8.生駒家家老香川与三兵ヱより五条村にて初穂米寄進。
多聞院宥哩、土佐へ退去。金剛坊創祀。
   ※慶長年間 観音堂改築。
1615 元和1   長修理頭、金光明最勝王経十巻を献ず。
1616 元和2  木村家、寒川郡鶴羽村から移住。荒川家、鵜足郡栗熊村から移住。
1617 元和3   2.21生駒正俊寄付の鐘できる。
1618 元和4   3.10生駒正俊、先規により院内廻り七十三石五斗、苗田村五十石、木徳村二十三石五斗ばかりにて、百四十七石寄進。
閏3.10生駒正俊、金地着色三十六歌仙扁額三十六面寄進。
1620 元和6   9.生駒正俊、鐘楼堂建立寄進。
10.6生駒正俊、会式につき、八日より十一日まで米出入の儀に異議なき旨を申達す。
1621 元和7  5.18宥睨、法印となる。
11.28生駒高俊、五条村にて百石寄進。都合神領二百四十七石となる。
また、寺高諸役免除のことなど保証する。
1622 元和8   8.15生駒家よりの寄進、三百三十石となる。
1623 元和9   金毘羅本社でき、古堂は行者堂に引直す。
東元和年間、宥盛の弟子寛快、普門院を再興。
1624 寛永1   観音堂改築、宥睨、装飾のため擬宝珠を作らせる。
金倉川に鞘橋が架かる(元和七年とも)。
1626 寛永3   宥睨、多聞院宥哩に帰山の書状を遣わす。
1627 寛永4   9.10生駒円智院より頭屋米十石寄進。
1628 寛永5   菅納家、備前金川村より移住。竹川家、三野郡財田中ノ村より移住。
1629 寛永6   6.宥睨の付弟宥儀、高野山にて「金剛界念誦次第」(遍智院本)書写。
1631 寛永8   多聞院片岡家、土佐国より再度移住。A宥睨の付弟宥儀没。
1633 寛永10   12.荒川家より一ノ鳥居建立寄進。
小国小兵ヱ移住。付添って、備前岡山生れの塩屋惣四郎も移住。
1634 寛永11   1.岩手宗也、独吟和漢連句を奉納。
1635 寛永12   6.宥典、高野山にて「智袋」を求む。
1637 寛永14   11.2宥睨、京都嵯峨大覚寺宮御令旨により上人位となる。
1638 寛永15   11.里村玄陳、自筆「詠歌体」一冊奉納。A大覚寺宮尊性法親王参詣。
1639 寛永16   生駒高俊、頭屋米四十石寄進。
1640 寛永17   生駒高俊、讃岐国大絵図一舗を奉納。生駒家改易。
受城使として尼崎城主青山大蔵小輔参詣。
1642 寛永19   1.10別当宥睨、里村玄陳等を招き連歌を興行。
5.松平頼重、高松に入城 天領池領(五条村・榎井村・苗田村)設置。
1643 寛永20   丸井小助(虎屋惣右ヱ門:虎丸旅館)、豊田郡丸井村より移る。
   高松藩船奉行渡辺大和、玄海灘にて霊験を蒙る。
   ※寛永年中、荒川九郎兵ヱ、初めて町年寄役申付けらる。中村家、京都より移住。
1644 正保1   大井八幡宮改築。                                  
1645 正保2   1.6宥睨参府、将軍家光に御目見。
5.幕府寺社奉行宛、社領三百三十石に御朱印頂きたき旨願い出る。 
11.3宥睨没、五十一歳。 12.宥典入院。
] 寺中役人等より先代同様疎意なき旨の連判状をとる。
高松城主松平頼重、三十番神社を改築。大行司堂改築。
1646 正保3   1.21宥典、大覚寺宮御令旨により上人位となる。 2.宥典、将軍に謁す。 
11.25普門院・菅孫左ヱ門・木村猪右ヱ門等、三十番神社社人松太夫・権太夫の儀につき神文を差出す。
12.伊福院追放。宥典、再度参府。
1647 正保4 10.松平頼重より、寺社奉行安藤右京進・松平出雲守に金毘羅へ朱印状下されたき旨願出
 ※正保年間 尾崎家初代八兵ヱ召出される。
1648 慶安1   1.6宥典、将軍家光に謁す。 
2.24将軍家光、金毘羅権現社領、那珂郡五条村内百三十四石八斗余、榎井村内四十八石一斗余、苗田村内五十石、本徳村内二十三石五斗、社中七十三石五斗、都合三百三十石を先規に任せ寄付し、山林竹木諸役等免除の旨の朱印状を授く。
3.17初めて朱印状を頂戴す。 8.26松平頼重、参詣一宿。
松平頼重、三十六歌仙扁額奉納。従来の参詣道を変更して大略今日の如く改める。
1648 慶安2   1.松平頼重から用材の寄進を得て大門上棟。 
6.21三十番神社社人松太夫・権太夫のことで出入あり、この日、山下・菅納・木村などの諸家の取扱にて落着。
1650 慶安3  12.松平頼重、登山参龍して和歌を詠ず。
松平頼重、阿弥陀仏千体を寄進、これを阿弥陀堂に合祀し、以後この堂を千体仏堂という。
松平頼重神馬並びに飼葉料として毎年米三十石寄進。
1651 慶安4   8.松平頼重寄進の木馬舎上棟。仁王門を廃して中門とする。大門改築竣工。
新たに仁王像を作り、これを大門に安置。のち大門を仁王門と呼ぶ。
松平頼重、神馬舎に木馬を寄進、飼葉料は従来のままとする。
  ※慶安年間 京都仏師田中家二十五代弘教宗範、御内陣の獅子高麗彫刻。
1653 承応2   10.12京都智積院の学僧澄禅、四国順拝の途次参詣し、真光院に宿る。
12.17社領に宿かしのこと、博突停止のことなど触達す。
1654 承応3   10.里村玄陳等、石燈箭一対奉納、榎井長兵ヱ長好取持。
松平頼重より、二品良尚法親王筆「象頭山」「松尾寺」の額奉納、「象頭山」を仁王門に掲げる。
1655 明暦1   1.松平頼重、明本一切経奉納。 10.丸亀福島橋西畔に金毘羅屋敷普請成就。
12.20高松の金毘羅屋敷の地所を買取る。
従来の雪津入道作護摩堂本尊を廃し、伝智誼大師作不動尊像にかえる。
1656 明暦2   5.10松平頼重、自筆の「讃州路象頭山縁起」を奉納。
  池領の者、丸亀領佐文村へ入込み、入割になったのを調停に入る。
1657 明暦3   3.町方へ吉利支丹宗門のこと、旅人宿のことを申渡し請書を取る。
1659 万治2   4.10御本社下遷宮。 6.13京都大徳寺の天祐紹呆参詣。 8.28御本社上遷宮。
9.13善通寺内十善坊・常林坊、境内に潜入のところを見咎められ詫状を書く。
観音堂を御本社脇より下向坂方面に移転改築。
金剛坊を御本社前脇より観音堂脇に奉遷し、間もなく観音堂後堂に移転。
小松庄内の寄進にて、鐘楼のもとに鳥居建立。御祈祷参箭所移築。
1660 万治3   10.10松平頼重、一切経蔵を建立寄進。
本地堂創祀。中門に京都仏師田中家二十五代弘教宗範彫刻の持国・多聞の二天を安置、以後中門を二天門と称す。
丸亀城主京極高和、江戸三田の藩邸に金毘羅権現勧請。大阪の金毘羅屋敷造営。
 ※万治年間 日比常真「象頭山十二景図」を描く。
この頃、塗師五兵ヱ(のち役人河野家)備前岡山より移る。
1661 寛文1   3.15松平頼重、千体仏堂を改築。
1662 寛文2   3.高松大本寺日誓、経蔵一覧の碑文を撰す。
1665 寛文5   4.吉利支丹宗門の儀に付、念書を取る。 
7.11将軍家綱、社領の朱印状を授く。 9.28松平頼重参詣、願文を奉る。
1666 寛文6   7.1社領内へ博突停止などの触を出す。宥典隠居。宥栄入院。
1667 寛文7   1.15宥栄、将軍家綱に謁す。 
2.宥栄、大覚寺宮御令旨により上人位となる。 
9.28宥栄、神野大明神本尊鎮座法楽理趣三昧導師を勤める。
1668 寛文8   1.10松平頼重、石燈箭両基献納。
10.10僧一死、慶安元年四月房州平群天神山で拾得した不動尊を奉納。
多度郡生野村出生の大工棟梁平八(西屋、川添姓)、当所高藪町に移住。
1669 寛文9   1.10松平頼重、石燈龍両基献納。 11.15古田古畑たばこ作りのことで触達す。
1673 延宝元  11.10松平頼重、金毘羅大権現神供領、千体仏堂領並びに神馬領高五十石、
また金光院内王祠供料十石を寄進。
安房勝山城主酒井忠朝より古語二幅が献ぜらる。 
  2.19松平頼重隠居、嗣子頼常が継ぐ。
  5.3松平頼重、石燈販献納。12.松平頼重、多宝塔を建立寄進。
1674 延宝2  18.10池領の者たち、社領内で理不尽に池を掘る、高松藩より竹井西庵、郡代・大庄屋召連れ検使に来て調査の結果、社領に間違いないことを確認、松平頼重の命として、以後このようなことのなきよう申付らる。
1675  延宝3  11.吉野屋長治郎外八名、土佐光信筆「源氏物語図」額奉納。
閏4.瓦師久兵ヱ、備前岡山より移住。6.16社領と池領と地替え済み。
11.19右の件、公辺より裏書下さる。。25宥典没、五十九歳。
1676   延宝4  伊予国宇摩郡川之江より伊予屋市兵ヱ移住。
  多度郡中村出生の張物師大津屋権六郎移住。
1677   延宝5  9.10有馬玄蕃頭頼利室清涼院(松平頼重娘)、六歌仙扁額奉納。
護摩堂改築、旧護摩堂を移転改築して釈迦堂創祀。
1678  延宝6   5.14宥栄、先師宥典菩提のため阿弥陀堂廊下造築、奉行松寿院典醒。
のちの江戸湯島霊雲寺開山の浄厳参詣。
1679  延宝7  孔雀明王像を造る。また護摩堂の諸仏四大明王・十二天・八大童子像を造る。
丸亀藩主京極高豊、江戸三田の金毘羅祠を、虎の門の新邸へ遷座。
1680 延宝8  宥栄、将軍綱吉に謁す。
 ※延宝年間 狩野安信・時信筆「象頭山十二景図」なる。
1682 天和2   9.25俳人岡西惟中参詣、木村寸木邸に宿る。翌日、金光院に遊ぶ。
1683 天和3   宗門指出帳宛名、木村権平・荒川伊兵ヱ(三代)。
 ※天和年間 三井道安金毘羅小坂に住居。
1684 貞亨1   9.26宥栄、満濃池池宮大明神の本尊鎮座法楽導師を勤める、願主矢原政勝。
1685 貞享2   6.11将軍綱吉、社領の朱印状を授く、
俳人大淀三千風、金光院にて「不二の詞」を撰すo
         12.18古酒八分、新酒六分、豆腐十二文と値を決める。座頭への施物は軽く、日用賃一日一人七分と触達す。
この頃、谷川も町並みになる。
1686 貞享3   7.26大雨洪水、鞘橋流失。 10.3高松の城にて、将軍綱吉の朱印状を頂く。
1687 貞享4   9.9大風にて神林の松損木多し。材木にて鞘橋普請、川筋の石垣も出来る。
 ※貞享年間の頃 役人牧野家・高木家・東條家・医師安藤家、召し出さる。
1688 元禄1   3.28社領内、鉄砲所持の分書出す。金毘羅十日講銀にて頭屋米百石買上げる。
宥弁真念の「四国辺路道指南」刊す。
1689 元禄2   4.博突・遊女停止のこと申渡し、請書を取る。
9.11松寿院典醒を以て社領内鉄砲を高松矢倉へ納める。 9.社領内総鉄砲数七十挺。
11.高松より、境内にて殺生禁止、また山林竹本伐るべからざる旨の制札を二枚下さる。
小書院普請。寂本撰の「四国遍礼霊場記」刊。
1690 元禄3   「日本行脚文集」刊、大淀三千風撰。
1691 元禄4   7.11宥栄隠居、宥山入院。 11.宥山参府。 12.宥山、江戸にて霊雲寺浄厳と往来あり。
1692 元禄5   1.15宥山、将軍綱吉に謁す。
1693 元禄6   1.15宥栄没、六十四歳。
1694 元禄7   3.石槌山前神寺金毘羅堂に燈龍建立。 6.上旬御本社葦替。
7.9日向国細島の六兵ヱ・伜三之丞、佐田の沖にて霊験を蒙り難船を免れる。宥山その事を書誌す。
10.宿貨し・遊女・博突停止のことなど触達す。
予州宇摩郡天満村寺尾氏春、苗田村にて石燈龍奉納。
唐国雷音博「讃州象頭山十二境詩」撰す。
1695 元禄8   4.松平頼重没。 8.15六角越前守広治、願文を捧ぐ。
9.宥山の求により、高野山義剛、「覚禅抄」に朱点を付ける(元禄十一年まで)。
九月吉日、本地堂棟札、奉行坂上庄兵ヱ、大工吉田久右ヱ門。
町方升屋三平と三野郡上高野村百姓助九郎との田地に関わる訴訟、升屋三平非分となる。
1696 元禄9  2.5宥山、権律師になる。 3.予州宇摩郡中之庄坂上羨鳥、銅燈龍献納。
坂上羨鳥撰「簾」刊。
1697 元禄10   1.10浄厳、「金毘羅神勘文」を撰す。熊谷立閑「讃州象頭山十二境詩」撰す。
家内並に家来を召連れた浪人小河弥三郎、江戸へ出向き、以後社領住居の浪人はなく、浪人帳も廃す。
         町方にて喧嘩をし、相手を突殺した鍛冶伝右ヱ門、高松へ頼み斬罪申付らる。
1698 元禄11   大井八幡宮神門再興。宗門指出帳宛名、木村権平・荒川伊兵ヱ。「あしろ笠評リ、僧露泉編。
1699 元禄12   1.14松平頼豊参詣し、剣一振・黄金十両など奉納。4.10宥山、権少僧都となる。
観音堂開帳。観音の御影新刻さる。この頃、雲外車竺外「象頭山十二景詩」を撰す。
1700 元禄13   「金毘羅会計」、木村寸木編。
1701 元禄14   3.高野山通玄の法華経講鐘あり、町方へ聴聞衆への応待心得を触達す。 
5.松平頼豊、神供領・千体仏堂領並に神馬領高五十石安堵。
1702 元禄15   6.10本社屋根葺替。 7.20宥山、権大僧都となる。
8.29高松藩儒菊池武雅参詣一宿、宥山と詩の応酬あり。
9.池領代官遠藤新兵ヱ、榎井村着。多聞院尚範・山下弥右ヱ門盛安外挨拶に出向く。
寒川郡志度村金兵ヱ、御前四段坂に銅包本鳥居建立寄付。宥山、金兵ヱに感謝の詩を贈る。
1703 元禄16   3.3子供芝居寺へ上る。座本権左ヱ門・太夫本嵐勘四郎、お目見。 
3.池領榎井村の遊女を残らず追払った旨、札之前町組頭より届出あり。
4.11下屋敷にて宗門改。
  ※元禄年中 余島屋茂右ヱ門(のち吉右ヱ門)当地へ移住。
元禄末年 岩佐清信に「象頭山祭礼図屏風」を描かせる。
1704 宝永1  真光院引直し造作。
6.8姫路城主本多忠国より鶴奉納、豊島松翁立合にて、神前にて放す。
10.5大芝居・竹田代り浄瑠璃芝居の桟敷のこと申付る。
1705 宝永2   春。松平頼重二男靭負、東海道赤坂駅にて怪猫の難を免る。
5.2宥山、京都仁和寺宮御令旨により法印となる。
5.坂上羨鳥、手水鉢献納。 11.8宥山、多聞院に赴く。
1706 宝永3 3.9新町にて、阿州白地の長右ヱ門、白狸を見せ物にする。
3.20宥山、菅納三郎兵ヱ方へ出向く。
12.山奉行はじめてでき、河野助左ヱ門に申付ける。
町人布屋源四郎、金倉寺領三十石のうち十七石七斗買取る。
長崎浦上の無凡山神宮寺に金毘羅権現勧請。
1707 宝永4   2.19広谷庵上棟。 3
.26酒奉行呼あげ、上酒一匁八分・中酒一匁五分・下酒一匁二分を、高松なみに上酒一匁六分・中酒一匁三分・下酒一匁に値下申付る。
4.10役人小川又兵ヱ方にて不動講あり。
1708 宝永5   7.宥山後嗣宥曼、江戸湯島霊雲寺において「真言事」書写。
8.宥山、仁和寺院家自性院兼帯。
9.10高松城主松平頼豊より太刀一振献納。
9.24宥山の実父山下道移寄進の広谷庵地蔵菩薩供養。
10.7寺にて芝居。西山の片岡家、召出される。
1709 宝永6   1.23将軍家宣、庖癒につき、高松より平癒祈祷の依頼あり。
3.26酒運上御免。 4.17宥山出府に付、高松にて五十挺立船拝借のこと整う。 5.10宥山、権僧正となる。 6.1宥山、拝天顔。。14宥山の後嗣宥曼没。
7.1宥山、将軍家宣に謁す。
8.豊後の俳人来拙、木村寸本を訪う。
9.1当役所内、当番の者袴着用申渡す。
10.1芝居の者お目見。別宗祖縁外「和象頭山十二景詩」を撰す。
1710 宝永7   6.1太鼓堂上棟、宥山、普門院にて見物。参詣人多し。
7.11巡見使、宮崎七郎右ヱ門外社領通過。
10.15菅納源左ヱ門・近藤九郎左ヱ門・片岡松蔵三人に日帳を記すよう申付る。
        11.18町方木村平十郎外寒気見舞に登山。
城州伏見鍛冶職忠右ヱ門を当処へ呼下しお目見。
  ※宝永年間 銅華表建立。宝永初年、金川屋小次郎、備中成羽より移住。
宝永末年、三野郡財田中ノ村より渡辺家召出され移住。
1711 正徳1   1.12丸亀妙法寺看坊参詣、札守を受ける。
3.土州山御用木元締大橋屋源助外、太鼓堂造立料として小判百十両寄進。 4.29木村新右ヱ門、上方より帰り挨拶に登山。
6.6木村平十郎外、御留主見廻に登山。 10.3多聞院へ不動尊を下さる。 11.16高松より為替米代金の請求あり、町方へその段申渡す。
25予州松山の浄熊と中す座頭、中之庄坂上半兵ヱより大野原村平田源次へ頼み、源次より山下弥右ヱ門へ頼み、宥山、中之間にて三味線を弾かせる。
1712 正徳2   3.1多度津藩主京極壱岐守高澄より石燈龍寄進。。
2智貞(宥山実母)死去に付、近国の座頭集り取り遣りあり。
4.3多聞院尚範死去、四代目慶範家督。
12金川屋小次郎に菓子の御用申付る。 6.5引田屋(荒川)安太夫に閉門申付 
7.10智貞様追善のため町方べ接待。23豆腐値段申付る。念仏踊、御成門の外にて躍る。
8.14大井宮造営に付、白銀五十枚寄進。17大井宮へ材木二本寄進。
9.28大井宮普請に付、行器五荷、酒二斗遣わす。10.1神輿出来る。
12.7小川又兵ヱ・矢部惣右ヱ門へ社領境目調べるよう申付る。
1713 正徳3   2.3高松城より能の案内あり。5宥山、高松へ出向く。
25池領と社領との境を決めようと那珂郡高篠村庄屋千葉弥三郎より申出あり。 
4.22堺目見分のため高松役人・池領代官所役人到着。 
5.2大坂泉屋(住友)吉右ヱ門より、小守を遣わした御礼物が届く。
13引田屋安太夫の件で、多聞院高松へ出向く。28宥山、将軍家継に謁す。
6.29池領御巡見役人登山。7.2那珂郡大庄屋より雨乞願出る。
10智貞様追善のため、坂下にて接待、広谷坊主に世話申付る。
9.17五三昧庵主死去、それに付、後役真言道心の隨な者をおくよう申付る。
広谷坊主・五三昧庵主とも普門院弟子の振合。
23伊予屋半左ヱ門、片原町の家屋敷売払う。 10.8神馬屋に盗人入る。
12、7日より十二日まで夥しい人出、前代未聞。
12.18五条村五郎左ヱ門登山、大井宮遷宮成し下されたく願出る。
1714 正徳4   1.11堺目見分に付、高松領庄屋たちと当山役人が出会う。
15菅納三郎兵ヱ婿米屋文三郎、御目見、宥山より下され物あり。
20鍛冶忠右ヱ門、大工同様扶持下さる。
2.23高松買津屋作左ヱ門、初めてお目見え差上げ物あり。
3.4内町引田屋安太夫家屋敷、同族大黒屋助次郎に売渡す。
3.18宥山実父山下盛貞没、七十八歳。
4.22松平頼豊より、盛貞死去の悔状まいる。
5.7境目のこと埓明き、塚を築く。 6.20庚申待無用に申付る。
28前屋敷にて宗門判。
7.10満濃村庄屋登山、那珂郡中より五穀成就の祈祷願入る。
8.10高松金毘羅屋敷普請、宥山お忍びにて見分に出向く。
8.26池領代官高谷太兵ヱ、榎井村へ到着、それより登山参詣。
9.10寒川郡長尾村の西善寺初めて参り、宥山に挨拶、以後お出入りを願う。
13予州宇摩郡中之庄坂上羨鳥より唐金塔寄進。
25池領と社領の境目絵図でき、見分。
         11.1伊勢御師来田監物大夫直参に付、旅宿へ音物を遣わす。
22馬屋より出火、長屋奉行吉田庄右ヱ門に閉門申付る。
12.26草履取平二郎に庭木作りを命ずる。延宝三年度の「社領境目絵図」を改訂。
1715 正徳5   1.21京都政所様より絵馬奉納。 3.25金山寺町火事、類焼家数釜処二十六軒。
4.28木村寸木没、六十九歳。
6.21菅納市右ヱ門柳陰第七男宥英、江戸深川永代寺に入院。
塩飽牛島丸尾家の船頭たち、釣燈龍一対奉納。
7.23七ケ村念仏踊、当山にて例年三庭のところ、今年は五庭踊る。
8.21池領代官高谷太兵ヱ、榎井村到着。24予州代官平岡彦兵ヱ、参詣止宿。
坂上羨鳥、鋳塔献納。 9.20四条村・五条村より大井宮遷宮のこと願出る。 10.27大井遷宮の場所見分。 11.2宥山、大井宮遷宮に出向く。
高野山より職人町人御金蔵にて金請取のことにつき公儀触の廻状来り、差戻す。
1716 享保1   1.10多度津藩主京極高澄、大般若経六百巻を寄付、表題箱書は大通寺南谷。
12高野山より金銀通用のことで廻状あり、差戻す。
2.町の座頭豊都、官位につき白銀五枚遣わす。広谷の禅門、墓守御免。
3.池領巡見衆到着。 9.京極壱岐守より大般若寄進。太田備中守
今回は、このあたりまでとしておきます。
以上から松原秀明氏は次のように指摘します。
①創世記の金毘羅信仰において、大きな役割を果たしているのは金光院の修験者たちであること
②霊山象頭山にあった宗教勢力の権力闘争を勝ち抜いたのが金光院で、宥盛の力が大きい。
③「庶民信仰の金毘羅さん」と言われるが、その初期においては、長宗我部元親・生駒親正・松平頼重などの保護寄進で、経済基盤や伽藍整備が行われた。
④特に生駒藩による330石の寺領寄進と、髙松藩の松平頼重による朱印地化や伽藍整備が行われたことが大きい。
⑤これが西国大名からの代参や寄進を呼び、それが庶民参拝につながっていくという過程が見える。
⑥つまり「最初に庶民信仰ありき:でなく、藩主の保護 → 各大名の代参の活発化 → 庶民信仰という道筋であること
次に「海の神様・金毘羅さん」についてです。
18世紀初頭までの年表には、海や船に関することはほとんど出てきませんとよく言われます。このことについて松原秀明氏は、次のように記します。
これまでの多くの発言は,金毘羅が海の神であることは既定の事実として,その上に立っての所説であるように思われる。しかし筆者には,金毘羅が何時,どうして海の神になったのかよく分らないのである。
   金毘羅大権現は海の神であるという信仰は、多分,金毘羅当局者が全く知らない間に,知らない所から生れたもののように思われる。当局者が関知しないことだから,金毘羅当局の記録には「海の神」に関わる記事は大変に少ない。金毘羅大権現は,はじめから海の神であったわけではない。勝手に海の神様にまつりあがられたのだ
金毘羅大権現の年表 松原秀明


松原秀明は年表後記に次のように記します。

「資料集」三巻三冊は,奉納者の心がこもり,物としても立派な献納品を取扱うことで,自然と内容にも重みが伝わってきているが,この「年表篇」はそれに相応しいもとは言えそうにない。大事なことで見落したものも多く,資料の読み違いからくる誤も多いことと思われる。
しかし「年表篇」の仕事をさせて貰ったことで「勉強になって有難かった」という気持も強い。
 ここで,「やや明瞭になった」と思われる事を箇条書にしてみる。それが「資料集」とともに,このF年表篇」を読まれる方々の参考として少しでも役立てば幸いである。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 松原秀明 金毘羅庶民信仰資料集 年表篇 
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鎌田勝太郎略歴1

   前回は、坂出の醤油屋の長男として生まれた鎌田勝太郎が福沢諭吉と出会って、企業家・教育者として育って行く道筋を大まかに概観しました。今回は、醤油屋の息子から塩田経営者へ、そして銀行家など、産業人へと成長し、さらに政治家へとスッテプアップして行く姿を見ていくことにします。テキストは「 西尾林太郎   貴族院多額納税者議員鎌田勝太郎 一貴族院改革を中心に一  」です。

 結婚した翌年(1882年)に鎌田勝太郎に転機が訪れます。
それは岡山の塩田王・野崎武吉郎との出会いでした。
明治維新後の鎌田家では、旧髙松藩の坂出塩田の一部を譲り受けて製塩業に乗り出していました。それまでの醤油業から製塩業という異業種への進出になります。そんな中で同業者が経営不振に陥り、岡山県児島の「塩田王野崎家」に7400円という多額の負債を負い、その債務の履行が困難になります。そこで、救済を同業者の鎌田家に求めてきたのです。

野崎邸
             岡山県児島の塩田王 野崎家

 7400円は明治15年の野崎家総収入のほぼ1/5にあたる大金です。野崎はその返済を求めて裁判所に提訴しています。これに対して鎌田勝太郎は債権者に代わって再建案を作成し、返済の暫時の猶予を野崎に申し出ます。この時の交渉相手が野崎家当主の武吉郎でした。この交渉を通じて、野崎武吉郎は、勝太郎の熱意と能力を認め、その申し出に応じるのです。こうして鎌田勝太郎は、これを機に自らも資金を拠出して塩生産会社を設立し、坂出の塩業復興に乗り出すことになります。 これが鎌田勝太郎の製塩業への本格的な進出となるようです。同時に、18歳の若い当主が同業者たちからリーダーとして認められることにもつながります。このきっかけをもたらしたのが野崎ということになります。 終生、勝太郎は野崎武吉郎を師と仰いだと伝記類には記されています。
その野崎武吉郎を見ておきましょう。

野崎武吉郎 児島の塩田王
                 野崎武吉郎

  武吉郎は、岡山県児島の野崎家に1848年8月31日に生まれていますので、鎌田勝太郎よりも16歳年上になります。父が早逝したため17歳で家督を相続している境遇が勝太郎によく似ています。家督相続の翌年1866年には、岡山藩の借上金8500を上納したうえに、総額2万両余を藩に提供しています。それだけの財力があった家なのでしょう。そのためか明治維新後に岡山県が成立すると、1877年(明治10年)まで勧業掛、勧農掛を務めています。

野崎武吉郎 児島の塩田王2

 野崎家の財政基盤は、塩田経営(161㌶)にありました。塩田主として、野崎武吉郎は塩田減反政策である「休浜法」推進の立場に立ち、各地の塩浜集会に備前浜の代表として出席する一方で、次のような要求を政府に働きかけます。
1875年(明治8年)政府に対して清国塩況視察員派遣
1876年(明治9年)以降、塩田保護を請願
1884年(明治17年)十州塩田同業会を発足させ、岡山県支会を野崎家に設置
1885年 農商務省の通達により十州塩田組合両備支部設置
1887年(明治20年)十州塩田組合本部長に就任。
また、耕地に関しては明治10年代のインフレ・デフレ期に田畑を集積し、明治22年にはそれまでの倍以上の422㌶を所有する大地主に成長します。塩田経営では、当作歩方制を、耕地経営には請切小作制を取り入れ、近代的な改革を意欲的に進めていきます。このような動きは、鎌田勝太郎の参考になったはずです。
 そして1890(明治23年)には、岡山県多額納税者として貴族院議員に互選されます。以後は、大日本塩業協会、大日本塩業同志会の創立・運営に関与し、塩業調査会委員を務め、日露戦争後の1905(明治38年)の「塩専売」の実現に尽力します。このような歩みに連携したのが鎌田勝太郎になるようです。

塩田主である野崎家や鎌田家が当時直面していた問題を見ていくことにします。
 明治10年代の瀬戸内海沿岸では、塩は生産過剰で価格下落が続いていて、どこの塩田主も困っていました。
このような中で勝太郎は、児島の野崎武吉郎と連携しながら塩の販路拡大に努めると供に、塩産業者の生活安定を目指して坂出塩産合資会社を設立します。こうした活動は、勝太郎を地域の政治指導者にも押し上げて行くことにもなります。明治22(1889)年1月、愛媛県から独立して、最初の香川県会議員選挙が実施されることになります。これに勝太郎は、押されて出馬し初招集された香川県の県会議員となります。そして3年後には、25年には県議会議長の座に就き、以後重要な役職を次のようにいくつも兼務するようになります。                        
明治26年(1893)6月、株式会社坂出銀行取取に就任、宇多津塩田株式会社社長        
明治27年(1894)6月、讃岐鉄道株式会社取締役に就任。9月、衆議院議員に当選) 
明治29年(1896)5月、讃岐紡績株式会社々長就任 、7月 髙松銀行取締役に就任    
明治31年(1898)1月 讃岐農工銀行取締役に就任、5月讃岐貯蓄銀行監査役
明治33年(1900)7月、塩産合資会社顧問。
これらの企業活動を行う上で中央政治の動向を摑んだり、政府に働きかけていくことの重要性を野崎から教えられたようです。野崎は明治23(1890)年の岡山県多額納税者議員選挙に当選し貴族院議員となっていました。そして大隈重信の改進党に近い立場で、塩業産業の利益代表者として政治的活動を行っていました。そんな中で勝太郎に対して、「君も代議士として中央で活躍すべきだ、私の右腕として助けて欲しい」などと口説かれたのではないかと私は想像しています。
 これを受けて日清戦争の始まった1894年の衆議院選挙に勝太郎は出馬します。
 この時の出馬に至る「密約」が資料に次のように残されています。香川第3区は、改進党の勢力が強く議席を独占していました。この選挙区には、綾井武夫と都崎秀太郎をリーダーとする2つのグループがあり、それぞれのリーダーを選挙のたびに交互に改進党の候補者とする約束があったようです。そこで、鎌田勝太郎は都崎グループの支援を受けて出馬・当選しました。ところが、それは1期だけで次の選挙では出馬せずに綾井武夫グループに譲るという内容です。これが、後の鎌田勝太郎の衆議院から貴族院への転換につながります。
 野崎武吉郎は、衆議院議員になったばかりの鎌田勝太郎と大日本塩業同盟会をその年の11月15日に結成します。
 塩の生産量や価格は「十州同盟」という瀬戸内海沿岸の播磨を始めとする十州の塩田主の代表が年に2回(春秋)に集まって、決めていました。塩カルテルによる価格操作で塩の価格下落を防いでいたのです。それが明治23(1890)年に政府の方針でなくなると、価格競争による生産過剰と塩価下落が製塩業者を襲います。その打開策として野崎が考えたのが清国への塩の輸出です。「中国に、日本の塩が売れれば、過剰対策はいっぺんに解決する」という目論見だったようです。
 日清戦争が始まると「大日本塩業同盟会」は、貴衆両院に塩の対清輸出の請願書を提出し受理されます。さらに戦後の明治28年3月になると、鎌田勝太郎は「清国二向ヒ食塩輸出ノ意見」と題し、13ページにわたって持論を論じたパンフレットを作成して各方面に配布しています。そこには次のように記されています。
「我国ノ食塩ヲ清国二輸出セントスルノ拳ハ積年当業者ノ苦心経営スル所ニシテ」(中略)末尾で「我国今日二於テ予メ戦後ノ貿易二留意シ…〔中略〕…彼ノ清国ヲシテ塩禁制ヲ解カシメ以テ我食塩ノ輸入ヲ図ルカ如キハ其ノ急務中ノ最モ急務ナルモノトス」
意訳変換しておくと
「我国の食塩を清国に輸出することは、長年の塩業関係者の念願である」
末尾で「日清戦争の終結という時点で、戦後の我が国の貿易については…〔中略〕…清国に塩の輸入規制を解除させて、我が国の食塩の輸入を実現させることは、最も急務なことである。

 実はこれに先だって日清戦争中の1894年12月5日付で、野崎、鎌田をはじめ岡山、香川、広島、山口、愛媛、兵庫、徳島7県の塩産業者10名の連名で「日清新条約ノ締結二当タリ我ガ食塩二限リ清国二輸入ノ条歎ヲ加ヘラレン事」という要望書がを内閣に出されています。この誓願内容は鎌田のパンプレットと同一です。以上からは、次のことが分かります。
①清国への塩輸出をめぐる運動の中心に鎌田勝太郎がいたこと
②鎌田勝太郎が大日本塩業同盟会の団体利益の代表として、野崎らとともに活動していたこと
このような動きを受け、政府は日清戦争後に調査のため農商務省の技官を遼東半島に派遣します。
ところが調査の結果、遼東半島とその周辺の塩は安くて品質良好であることが分かります。野崎や勝太郎の目論見は外れたのです。
このことを知った野崎と鎌田は連名で、その年の9月、「政府ノ遼東塩業調査二依テ更二意見ヲ述ブ」というパンフレットを作成し次のように主張します。

 中国への塩の輸出は山東半島産の塩の価格競争力が強くて、輸出には望みがないことが分かった。そこで自分たち塩田主は塩質の改善や生産費の削減を図りつつ、インド、豪州、欧米などの「塩況」を調査して輸出の道を講ずるべきである」

 ちなみに日清戦争後の明治29年の東京市場における塩の価格は、1石(101kg)につき以下の通りでした。
赤穂塩 1円59銭
輸入塩   85銭
つまり国内産の塩は国際競争力がなかったのです。「欧米などの塩価格を調査して輸出の道を講ずるべき」とは書かれていますが、日本産の塩を外国に輸出するということは実現性がありませんでした。逆に、欧米州の岩塩や清国の天日干塩などの輸入塩が、国内業者にとっては大きな脅威になってきます。
このことに気づいた鎌田勝太郎が次に考えたのが、「塩専売化による製塩業者の利益保全」です。
 政府も「専売化」このことを検討していました。1898(明治31)年に大石正巳農商務相は、塩業調査会の会合の席上で塩の専売制導入について触れています。しかし、この時点では野崎や一部の塩生産者と大半の塩問屋などの流通業者は「塩専売」には反対だったようです。これを積極的に勧めていくのが鎌田勝太郎になるようです。
 そんな中で、明治29(1896)年に、鎌田勝太郎は衆議院議員を辞任します。
これは先ほど述べたように、香川三区の改進党には「契約証」があったからです。その「契約証」には「二年間の議員後、議員を他派に譲る」と明記されているが研究によって明らかとなっています。次の衆議院選挙には鎌田勝太郎は立候補できない立場だったのです。そこで「病気」と称して辞表を提出したのです。そして、次期の明治30年の貴族院選挙に鞍替えして出馬します。そして6月10日の選挙では、15票中10票を集めて当選します。当時の貴族院について見ておきましょう。

 貴族院議員は、次のような4つの選出母胎から互選された議員によって構成されていました。
①成年皇族、25歳以上の公爵及び侯爵の家柄で構成された華族の5ランクのうち、上位2ランク)
②25歳以上の伯爵、子爵、男爵の中から互選で選ばれた者
③30歳以上の国家功労者または学識者の中から特に天皇に選ばれた者
④30歳以上の高額直接国税納税者から互選され、天皇により任命された者
この中の④の各府県から選出されるされる多額納税者議員は、各県の名士であり、地方「貴族」ともいうべき名誉ある地位にありましました。 そのため、互選資格を有する者の間で、交代につとめることが多かったようです。約束にもとづいて任期途中で辞職し、次々に交代した例が数多く見られます。青森県や愛媛県などでは交代の約束をめぐって紛争になっています。そのような紛争を招かないためにも、その地位を独占せずに後継者にゆずるというのが「美徳」とされました。そのため在任期間一期7年間を勤め上げる者は少なく、任期途中で「病気辞任」する例が数多く見られます。全国的に見て再選は珍しく、3選は極めて稀です。その中で鎌田勝太郎は4選されています。これは貴族院政治史で鎌田勝太郎だけのようです。勝太郎が貴族議員を長く務められたのはどうしてなのでしょうか?。それは香川県政界において、鎌田勝太郎が確固たる地位にあり続けたことを示していると研究者は評します。。
 また貴族院の中心は、①②③の華族議員や勅選議員が中心でした。④の多額納税者議員が政治的主導権を握ることはありませんでした。ある意味では、政治的には影の薄い存在だったのです。このためマスコミや華族議員・勅選議員たちの中には、多額納税者議員たちのことを「長者議員」と呼んで蔑視・椰楡するものもいたようです。
 
鎌田勝太郎肖像
                       鎌田勝太郎
 それでは鎌田勝太郎の多額納税者議員として、どんな動きを見せたのでしょうか?
当選後の当初の鎌田勝太郎は、野崎武吉郎とともに改進党一進歩党系の「懇話会」に所属し、谷干城や曽我祐準らと行動を共にしています。懇話会は近衛篤麿や二条基弘らの三曜会とならんで貴族院において反藩閥政府の旗幟を鮮明にしていたグループです。鎌田がこの会派を選んだのは、師と仰ぐも言うべき野崎武吉郎の誘いがあったと研究者は考えています。野崎は、野崎家理事である田辺為三郎(大東汽船社長、衆議院議員)、野崎家東京別邸執事・手島知徳(野崎の親戚)の3名と一体となって近衛と面談をしたり建策したりしていることが、近衛の日記から分かります。このような野崎の政治運動の一翼を鎌田勝太郎も担うことになったようです。
鎌田勝太郎の名前が知られるようになるのは、第13議会(明治31年12月召集)の貴族院での地租増徴反対の演説からです。
この時の山県内閣の重要法案は地租増徴案(地価修正法律案)でした、これは日清戦争後の国際情勢を踏まえ、引き続き軍拡と近代産業の育成のための増税を国民に求めるものです。この法案は衆議院を通って、貴族院に送られてきます。同案は予算委員会で可決された後、12月27日の貴族院本会議に提出されます。貴族院の大勢は地租増徴に賛成でした。ところが鎌田勝太郎は次のように激しく政府を批判する演説をします。
①5ヵ年で3500万円の増収、6年目からは地価修正により375万円の減税などということではたして財政基盤を強固にすることができるのか? 
②この増税案の衆議院通過にあたり政府は「種種なる卑劣な手段を用いた」、
③重大なこの案件の衆議院での採決が無記名投票で行われたのはおかしい
 この鎌田勝太郎の衆議院批判に対し勅選議員の三浦安が取り消すよう要求して、一時議場は騒然となります。結局、同案は218対55の多数で成立します。しかし、時の政権に向かって、堂々と反対演説を行ったことで、鎌田勝太郎の名は知られるようになります。そして伊藤博文に誘われて政友会のメンバーとして活動するようになります。ここでは、鎌田勝太郎は、貴族院においても野崎武吉郎と行動を共にしていたこと、そして次第に頭角を現す存在になっていたことを押さえておきます。

鎌田勝太郎が発議者となって提出・成立した「植物病理研究所設置に関する建議案」を見ておきましょう。
この建議案は、農産物の病害虫について農事試験場に研究所を設置し、病害虫駆除の方法を研究することを求めたものでした。その背景には、鎌田が帝国大学での就学を経済的に支援した堀正太郎の助力があったことが残された書簡からは分かります。建議案は貴族院で採決された後、政府でも採用決定され、農商務省の農事試験場に病理部が設けられます。そして、初代病理部長には堀正太郎が採用されています。ここからは、鎌田勝太郎がひとつの法案を提出・成立させ、人事面にまで政治力を行使できる存在になっていたことがうかがえます。

鎌田勝太郎の貴族院での主な演説や活動歴を挙げておきます
①植物病理研究所設置
②田畑地価修正案につき反対討論
③軍備の充実と財政の確立
④鉄道敷設の継続工事は地方開発上不可欠である
⑤貴族院制度の改正
第16議会召集の明治34(1901)年12月直後に鎌田は政友会に入党します。
政友会

そして鈴木伝五郎(前貴族院多額納税者議員)を会長とする政友会香川県支部を立ち上げ、その筆頭幹事となります。それにしても、どうして鎌田勝太郎は政友会に入ったのでしょうか?
彼の伝記『淡翁鎌田勝太郎』は、次のように記します。

15議会の折、地租増徴に反対する鎌田に対し伊藤首相の幕僚・金子堅太郎が接近し、金子は鎌田を伊藤に引き合わせた。そして明治34年3月28日伊藤は鎌田を大磯の別邸に招き夕食を共にした。「伊藤侯ヲ大磯二訪フ。晩餐ヲ饗応サレ数時欺談ス」とその日の日記にある。この時伊藤から「君も政友会に入らぬか」と勧誘され、感激して入党を決意した。

 しかし、これは事実ではないと研究者は指摘します。もっと以前から政友会入りを伊東から勧誘され、入党を決意していたことが次の鎌田から近衛への書簡から分かります。
陳ば春畝公の新政党愈発表相成候趣、右に対する御高慮は如何に御座候哉。未だ発表早々に付き当県内有志の意向も充分相分かり兼候へ共陰に同情を表し居候者、元進歩派に属するものにも有之、且他より勧誘を受け居候ものも有之、小生へも勧誘有之候。此際小生等親友両三輩の態度甚だ大切に付き、篤と閣下のご意見拝承致度候条、乍御面倒内々御洩らし被下度願上候。小生も来月二十日頃には出京可仕候に付き、其れ以前続々相談秘密に可有之と被存候に付、秘密に閣下のご意見御伺申上候。決して親友にも漏洩は致さず候条、御申聞被成下度願上候。 勿々頓首。
     八月二十六日         鎌田勝太郎
  霞山公侍史(近衛)
意訳変換しておくと
 私(鎌田勝太郎)は、伊藤博文公の新政党結成について、近衛公がどのようにお考えなのかをお聞かせいただきたい。このことについては発表されておらず当香川県内有志の意向も充分相分かりませんが、陰より支援を表明する者、元進歩派に属する者には勧誘を受けている者もいます。小生へも勧誘がありました。この際、小生や親友両三輩の態度を決めるに当たって、近衛公のご意見をおうかがいしたいとおもいます。つきましては御面倒ですが内々にお洩らし下さいますよう願い上げてます。なお、小生も来月二十日頃には上京しますので、それ以前に相談は秘密裏におこなわれるでしょうから、閣下のご意見を伺っていただけないでしょうか。このことは決して親友にも漏らしません。 条、御申聞被成下度願上候。 勿々頓首。
   八月二十六日                 鎌田勝太郎
  霞山公侍史

 この手紙からは、伊藤が結成した政友会に対して、香川県の改進党・進歩党・憲政本党員の一部も関心を示し、鎌田自身も同調の関心があったことが分かります。これに対し近衛は8月29日に「これに加入するの不得策なる事」と、鎌田に返信しています。その後、鎌田は朝日倶楽部「月報」発行の準備を倶楽部の会務を何事もないかのように続けています。ところが12月22日に近衛に面会し同倶楽部脱会の旨を伝えると、その日の内に、書簡で政友会入会を申し入れています。ここからは鎌田の政友会入りは1900(明治33)年12月下旬には、実質的に決定されていたと研究者は判断します。明治1901(明治34)年3月28日の伊藤との会食は、その結果でしかなかったことになります。
 後年「明治の元勲であり、時の総理の伊藤公に特別に招かれた勝太郎はよほど得意であった見え、よくその会談のことを話していた」と評伝には書かれています。この夕食の席上、彼の持論である塩専売制も話題になったのかもしれません。
 鎌田勝太郎はそれから2週間後、近衛を始めかつての同志たちを招待し、歓談しています。
評伝には「鎌田は不得止して政友会に投ぜんとしたるも、旧政友には疎んぜられ、新政友には親しまれず、甚だ窮境にありとの繰言を述」べたとあります。これに対し近衛は「何故に公然政友会に投ぜざるやを詰り、如此曖昧なる対度こそ新旧の友人に疎んぜらるる所以なりと告げ」と鎌田を説諭しています。
 鎌田勝太郎は野崎の下で塩田主の利益代表者として政治的に動いてきたことは、これまでに見た通りです。
 鎌田勝太郎が推進した「塩専売」に向かって政府が動き始めるのを後押ししたのは日露戦争の勃発でした。「戦費調達という財政上の観点 + 国内塩業の保護」という両観点から政府は専売制を導入することを決定します。これが明治38(1905)年1月のことです。塩業協会幹事でもあった手島知徳は、塩専売法成立直後に、鎌田勝太郎に手紙を送り、次の様にその労をねぎらっています。

「第一の問題たる塩専売法は意外にスルスルと安産、御同喜此事に御座候。全く大兄の御計画に基き候事トテ感謝二不勝候」

以上を整理・要約しておきます。
①明治維新以後、鎌田家は醤油醸造業から製塩業へと経営拡大を行っていた
②そのような中で経営危機に陥った同業者救済の過程で、児島の野崎武吉郎と懇意になった。
③野崎武吉郎は瀬戸内海の塩田主の利益代表として、貴族院議員として活動していた。
④野崎の勧めもあって鎌田勝太郎は衆議院議員、後には貴族院議員に転じて、製塩業主の利益確保ために活動した。
⑤そして、日露戦争を契機に「塩専売制」の実現を果たすなど、次第に政治力を増した。
⑥そのため4期28年の長きに渡って貴族院議員を務めることができた。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献  西尾林太郎   貴族院多額納税者議員鎌田勝太郎 一貴族院改革を中心に一

公益財団法人 鎌田共済会 郷土博物館 | ワクサポかがわ

   なかなか行けなかった坂出の鎌田博物館に行ってきました。小さな古い博物館という先入観があったのですが、そこに展示されているものは想像以上に見応えがありました。

鎌田博物館 内間銅鐸
       内間銅鐸(鎌田博物館)
まず、香川県出土の銅鐸のコレクションは充実しています。銅鐸に興味のある方は、お勧めです。また「塩の町坂出」の基礎を作った久米通賢に関する史料や工具もいいです。ワクワクする時間を送らせていただきました。さらに刊行物なども充実していて、長い時間をかけて整備されてきた歴史を感じる郷土の博物館でした。
鎌田勝太郎肖像.2JPG

博物館の正面に立っているのが鎌田勝太郎です。鎌田勝太郎については興味があったのですが、基本となる史料や書物に会えないでいました。そこで出会ったのがこの本です。鎌田勝太郎に関する文書目録と基本的な文書が収録され、研究者による詳細な解説もついています。この本の読書メモを載せておきます。
2024 春

鎌田勝太郎は、明治維新まであと4年という幕末の1864年(文久四)年1月22日に生まれています。私は、明治に活躍した人物が、明治維新を何歳で迎えているかに興味を持っています。鎌田勝太郎は、4歳で迎えたことになります。ちなみに多度津の景山甚右衛門は1855年生で14歳です。鎌田勝太郎は景山甚右衛門の約10歳年下と言うことになります。両者は一回り年が離れていることを押さえておきます。

鎌田勝太郎略歴1

勝太郎が生まれたのは坂出村の醸造業だった旧家・鎌田家です。

鎌田家本家の祖父(醤油屋の主人)の宇平太は、子がなかったので、その弟・大三郎の長女・勇子を養女として迎え、その婿に羽床村(現綾川町)の庄屋・宮武才助の五男茂平を迎えまします。つまり、夫婦養子が跡を継いだことになります。その間に生まれたのが勝太郎ということになります。
 ちなみに父の生家の宮武家は、反骨のジャーナリスト・宮武外骨の生家でもあります。外骨と勝太郎は、従兄弟同士(?)で、生まれも近く幼なじみであったようです。しかし、鎌田家では宮武外骨のことを毛嫌いしていたようです。これについては、面白い話があるのですがここでは素通りして、元に返ります。
 ところが宮武家から迎えた父茂平が慶応元年に22歳の若さで亡くなります。
 茂平の病没後、勇子は、三原正平を夫として迎え再婚し、祖父宇平太と共に鎌田家を支えます。祖父宇平太は家業の醤油の販路拡張には、ことのほか熱心だったようです。例えば鎌田家と墨書された傘をいつも店頭に用意して顧客に無料で貸して、傘が戻って来なくてもだまっていたとか、昼食時に醤油を買いに来た客には昼食の用意までしてサービスに努めたと伝えられます。目先の利益を追求するだけでなく、長い目で商売を考えていた商売人の感覚が見えてきます。
 鎌田家の稼業である醤油醸造を少し見ておきましょう。
 坂出では、塩の生産地で、その搬出のために港が整備されていました。その結果、塩を運んだ帰りに荷に九州などから麦が運び込まれます。ここからは「塩 + 麦」=醤油 という図式が成立します。これは小豆島の図式とよく似ています。明治20年頃までに坂出で創業するようになった醤油屋や商店を見ておきましょう。
鎌田醤油  坂出村、寛政元(1789)年11月、鎌田宇平太創業 鎌田勝太郎が家業を継いで、明治35年に鎌田商会と改称
堺屋醤油 坂出付、文政2(1819)年 鎌田醤油が屋号を堺屋として操業した 清酒・食酢醸造
筒井商店清水屋  西庄村、明和年間(1767~72)創業 トコロテン製造・販売。
中川商店  林田村、慶応元(1865)年設立 酒類卸売り。
高須商会 坂出村、明治2年創業。砂糖・小麦粉販売.
野口呉服商店 坂出村(港町)、明治初年。
荒井醤油醸造場 府中村、明治初年.
坂出製氷株式会社 坂出村、明治2年6月、製氷業.
濱田屋呉服店 坂出村、明治10年.
前川商店 江尻村、明治20年創業.味噌・醤油製造.
筒井蒟蒻製造所  坂出村 明治20年創業. コンニヤク製造販売.
六醤油醸造店 坂出村、明治20年9月、醤油業.
林田塩産株式会社 林田村、明治21年4月、製塩業
掘田鉄工所 坂出村、文政12年4月、窯業用機械業
 ここからは江戸時代半ばから醤油醸造など食品製造業が始まり、明治になるとさらに増えていること分かります。その中心にあったのが鎌田家だったようです。このような同業者組合を後の鎌田勝太郎はまとめていくことになります。

871(明治4)年に、祖父、宇平太が53歳でこの世を去ります。
この時に勝太郎は8歳で、坂出小学校に入学します。この校舎は、後添えの義父・正平が校舎を寄付したと伝えられ、当時の校長は三土幸太郎(梅堂:三土忠三の養父)でした。梅堂は経学者として有名で学徳兼備の人でした。勝太郎は、ここで約5年間、梅堂の薫陶を受けます。

学問のすゝめ」のススメ。 | 東和工業株式会社

 そんな時に少年勝太郎が目にしたのが刊行が始められた福沢諭吉の「学問ノスヽメ」でした。
その初編第1Pに掲げられていたのが『天は人の上に大をつくらず人の下に人をつくらず』の名文句です。この出合いが、大きな刺激となって勝太郎の東京遊学につながったと評伝は記します。
  1878(明治11)年、勝太郎は15歳で上京して福沢諭吉の門下生となります。
当時は旧制中学も大学も整備されていない時代です。大庄屋や大商人の息子は、「東京遊学」が流行でした。1年くらい東京で生活して、漢詩や華道などの素養を身につけるのがよく行われていました。先ほど見た鎌田勝太郎の実父の実家である宮武家の長男(外骨)も東京遊学をしています。そこで手に入れた三輪自転車をお土産に持って帰り髙松の町で走らせたことを、宮武外骨は後に記しています。お坊ちゃんの「見分拡げ」的なものがあったのです。しかし、鎌田勝太郎は、福沢の門下生となることで多くのものを学んだようです。それが、新しい時代にふさわしい政治家、実業家、教育家としての基礎知識となっていったと研究者は考えています。ここでは東京遊学で、「明治の先駆者」としての精神が培われたとしておきます。
 東京遊学の期限はあらかじめ1年とされていたのでしょう。その期間が終わると義父の正平の隠居に伴い、若くして家督を相続することとなります。福沢諭吉の下にいたのは、わずか1年のことになるようです。
 そんな中で鎌田勝太郎が福沢諭吉の教えを受けて実行に移すのが北海道視察旅行です。
それは1880(明治13)年5月の頃です。この時期の北海道は最も過ごしやすい季節で、「鎌田勝太郎伝』には次のように記されています。
「桃李梅桜共に花咲くと云う大自然の楽園」
「同行者は福江村出身の安井勇平氏(鎌田勝太郎より20才の年長)であった」
「東京から帆船に乗じ、房総半島を回り、金華山を過ぎ、陸奥の東海岸を経て函館に着いた。」
「函館から札幌を目指し」したが道路は「開拓使の手によって整備されていた」
「翁と安井氏の二人は乗馬で行くこととして馬で旅行を続けた
札幌について、「数日間研究調査を遂げた後、再び馬の背に揺られながら函館に帰り、さらに海路東京に着いた」
   当時の北海道は開拓使の手により開拓が進められ、農作物では、麦、かばちや、じやがいも、とうもろこし、各種疏菜が栽培されるようになります。りんご栽培に成功し、ビール・ワインの製造も進みます。漁業では江戸時代からの場所請負制を廃止して、自由営業へ転換し海産物の取り扱い方法の改善や缶詰工場の建設も進みます。このように開拓使主導で建設された工場は、40余になります。それらは、製材、鋳造、煉瓦、製紙、馬具、家具、製粉、各種飲料、味噌、醤油、肝油、缶詰、燻製、製糸、魚粕製造、製塩などの各分野に及びました。この視察の中で、開発の進む北海道とその資源・穀物の豊富さを目の当たりにします。
その成果が「快航丸による四国と北海道との運輸交易事業を行う」事業展開にことにつながります。
快航丸は排水量300トン・2000石の積載能力を持った三本帆柱の帆船で、塩飽出身の乗組員で固められていました。積荷は、坂出で塩を積んで北海道の函館に向かい、帰路には鰊粕等の肥料を積んで坂出に帰るもので、積荷自体は江戸時代の北前船と変わっていません。しかし、航路は坂出から瀬戸内海を東に、鳴門海峡を過ぎて紀州灘を横切」り、「遠州灘を越え、紀伊沖から房総灘を過ぎ、金華山沖に出て」「津軽海峡には行って函館に到着」というコースをとっています。これは江戸時代の日本海を舞台とする北前船とは違うコースです。ここでは北海道視察旅行が、四国と北海道の運輸事業を展開するきっかけとなったことを押さえておきます。鎌田勝太郎には、行動力とチャレンジ精神があったようです。
北海道から帰った翌年には、岡山県浅口郡の大庄屋中原家の芳枝を妻に迎えます。
この時、勝太郎は17歳です。明治維新を若くして迎えた有能な若者は、先行者から道を譲られることがままあります。それまでのやり方が通じないと見た年寄りたちが早く引退し、その後を若者にまかせるというパターンです。若くして鎌田家の当主となり、妻を娶った勝太郎は塩業や醤油醸造業・水運など地場産業の発展に尽くしていきます。
その活躍ぶりを年表化すると次のようになります
①千葉県銚子の醤油醸造業を視察して、醤油醸造の改善をはかる
②1883(明治16)年、製塩事業では、塩産合資会社を設立し社長に就任
③1890(明治23)年 宇多津塩田株式会社を創設
④1893(明治26)年 株式会社坂出銀行を設立し頭取就任
⑤1896(明治29)年 讃岐紡績株式会社を設立し社長就任
この他にも、讃岐信託株式会社社長、鎌田産業株式会社社長、坂出舎密株式会社及び宇多津化学工業株式会社社長などの多数の会社の社長や取締役として経営に当たっています。そして、1928(昭和3)年には、香川県商工連合会長に就いています。
坂出駅 3つの駅
1935年坂出駅周辺地図 坂出駅は鎌田家のすぐ側に誘致されたことがうかがえます。

教育・育英事業では、1886(明治19)年に香川県の中等教育機関として、私学済々学館を創立しています。
1876(明治9)年に、愛媛県に合併されて、香川県はなくなります。そのため各県1校設置とされた旧制中学校は、香川県には出来ませんでした。讃岐の中学校空白状態をなんとか埋めようとしたのが、坂出での私立中等学校設立です。鎌田勝太郎らの坂出有志を中心に資金を集め、1886(明治19)年5月に塩釜神社境内の中の塩業者集会所に済々学館が設置されます。館長に就任した鎌田勝太郎は、済々学館閉館に際して述べた「開館の辞」において、当時のことを次のように述べています。
「小生はつとに当地方学事の振起せずして、もとより中等以上の教育を施すべき場所なきを憂い、 一の私立学校を起して中等の教育を施さんと思い、当地の人に対し時々学校新設のことを語りしことあり。明治十九年の春、勧業諮問会のため松山に出張せり時に、濱田企太郎氏、手紙を送り来りて学校創設のことを促せる。依りて当時の県知事、関新平氏に就きて私学建設のことを謀る。関氏大によろこび直に東京の諸学士に紹介せられたれば、小生は間もなく東京に上り、二三の学士と相談して教師を招き学則を定め、同年五月を以て済々学館を元の塩会所に開きたり」(閉館の辞一意訳)
鎌田勝太郎は、7年後に香川県立高松中学校が開校によってして済々学館が閉校するまで、館長として携わっています。済々学館については、また別の機会にお話ししたいと思います。
1901(明治34)年から2年間は香川県教育会会長もを務め、その後は長きに渡って香川県育英会理事長として育英事業を推進しています。また社会教育事業の展開のため、財団法人鎌田共済会を設立しています。その目的は、学資金貸与、学校・青年団などに研究助成金、奨励金などを贈与することにありました。その「理念」は、鎌田博物館に今も次の掲示されています。

「百年の大計は人を樹うるに在りの信念は須央も息まず」

共済会は各種育英資金を提供するとともに、坂出において各種講演会を実施するなどの社会教育事業を今も続けています。
 さらに、日清戦争、日露戦争を経て日本が大陸に進出していくと、拓殖開発事業も展開します。
朝鮮実業株式会社、朝鮮拓殖株式会社、朝鮮興業株式会社、満洲興業株式会社、満洲殖産株式会社の社長や重役として経営に関わるようになります。  以上見てきたように「利益追求」だけでなく、教育や人材育成・生涯教育へと広い視野を持った人物だったことが分かります。次回は、政治家としての鎌田勝太郎を見ていきたいと思います。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

鎌田勝太郎肖像
  
鎌田勝太郎略歴(明治末まで)
万治元年(1864)1月22日 阿野郡坂出村に、父茂平・母勇子の長男として生まれる
明治 4年(1871)坂出校学校に入学
明治 9年(1876)高松の3野盤渓塾などに学ぶ                                        
明治11年(1878)東京に遊学し福沢諭吉に学ぶ(14歳)                              
明治12年(1879)父の隠居で家督を継ぐ。    (15歳)                              
明治13年(1880)北海道視察旅行
明治14年(1881)岡山県浅日郡の大庄屋中原家の方枝を妻に迎える。(17歳)
明治16年(1883)2月、塩産合資会社社長に就任                                      
明治19年(1886)5月、私学済々学館を創立、館長に就任(22歳)                    
明治22年(1889)1月、香川県会議員に当選。4月、讃岐糖業会社取締役就任(24歳). 
明治23年(1890)3月、坂出町会議員に当選 .7月、宇多津塩田株式会社社長           
明治25年(1892)2月、香川県会議長就任                                            
明治26年(1893)6月、株式会社坂出銀行取取に就任.                                 
明治27年(1894)6月、讃岐鉄道株式会社取締役に就任c9月、衆議院議員に当選(30歳). 
明治28年(1895)2月、真宗信徒生命保険株式会社取締役に就任 3月坂出町会議員に当選
明治29年(1896)2月、株式会社京都起業銀行取締役に就任 
5月、讃岐紡績株式会社々長就任 ・7月 髙松銀行取締役に就任。          
        6月10日 衆議院副議長島田二郎宛、「病気」を理由とする辞表を提出
明治30年(1897)6月 貴族院多額納税者議員互選で当選                            
明治31年(1898)1月 讃岐農工銀行取締役に就任 5月讃岐貯蓄銀行監査役
明治33年(1900)7月 塩産合資会社顧問。 12月 真宗本願寺派護持会財団監事       
明治34年(1901)  香川県教育会長
明治36年(1903)2月、香川県育英会理事長に就任.                                   
明治37年(1904)6月、貴族院多額納税者議員互選て当選。
10月10日、病気を理由に貴族院議員辞職 12月25日、香川県多額納税者議員補欠選挙当選
明治38年(1905)2月、香川県教育会名誉会員 3月、坂出町会議員に当選。
           8月、朝鮮実業株式会社取締役、日本赤十字社香川支部商議員を嘱託。
          12月.鎌田産業株式会社々長に就任.    
明治39(1906)年4月、勲4等に叙し旭日小綬章を下賜。8月、朝鮮勧業株式会社相談役
          11月、朝鮮拓殖株式会行取締役会長に就任,                             
明治40年(1907)3月、満洲興業株式会社監査役に就任、8月、東京醤油株式会社監査役
明治41年(1908)3月  朝鮮興業株式会社取締役                                      
明治44年(1911)3月 四国水力電気株式会社監査役 坂出町会議員に当選
           6月、貴族院多額納税者議員互選で当選

参考文献 小林和幸 貴族院議員鎌田勝太郎とその資料
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第一次大戦後の1920年代に琴平には4つの鉄道が乗り入れていました。今回は最後に乗り入れてきた琴平急行電鉄(コトキュウ)について見てみましょう。まずは、いつものように年表チェック

琴平に乗り入れていた4つの鉄道

琴平急行電鉄は、1930年4月に金刀比羅宮へ乗り入れます。琴平参詣路線としては4番目の最後の乗り入れになります。起点になる坂出は、丸亀と並んで本州と四国をつなぐ重要な港町で、金刀比羅宮へ参拝客増加から充分に採算がとれると見込んだようです。しかし、髙松や丸亀・多度津と比べると、参拝客の利用は各段に劣りました。その上に、坂出には先行するライバル会社として、琴平参宮電鉄(路面電車)と、鉄道省(後の国鉄)予讃本線支線(現・四国土讃線)があり、それぞれの駅は下図のように隣接していました。
坂出駅 3つの駅

1935(昭和10)年の坂出駅周辺 ①鉄道省 ②琴平参拝鉄道 ③琴平急行
さらに琴平電鉄(琴電)が、宇高連絡船の発着する高松市から琴平まで路線を先に延ばしています。そこに後から割り込んでいくという構図になります。これは当時の人口からしてしても過当競争です。その上沿線は、農村地帯を結ぶ「人口希薄地帯」です。営業は当初から不振が続きます。
 琴平急行電鉄の強みは、その名が示すとおり、何と言ってもそのスピードでした。

坂出発琴平 3つの路線図
会社名   略称     路線距離 所要時間  運行間隔
琴平急行  コトキュウ   15.7km  41分  25分
琴参電鉄  コトサン    20.6km  70分  15分
国鉄(省営)ショウエイ   22.3km  50分  16往復
琴平参宮電鉄(琴参)が坂出・丸亀から善通寺を経由し琴平まで70分かかるのに比べると、琴平急行電車は琴平まで一直線で41分で結びました。それは新型の大型車両で、スピードが出せたからです。
琴平急行電鉄デ1形電車
            琴平急行電鉄デ1形電車
電車は日本車輌製造で作られた制御電動車の新型車両が6両導入されました。そのため乗り心地もよくスピードもだせたようです。ちなみに社名の「急行」は、路面電車の琴平参宮電鉄や汽車の土讃線に比べて速いという意味でで、実際には全列車が各駅停車だったようです。

琴平急行 路線図
                琴平急行電鉄のパンフレット
このパンフレットの真ん中には、丸亀平野のシンボルである讃岐富士(飯野山)が描かれています。そして、左側に赤く坂出と、右側に象頭山金毘羅さんがあり、両者をコトキュウ(琴急)が一直線に結ぶ様子がデフォルメされて描かれています。「坂出からは、コトキュウが琴平に一番早い!」を売り物にした広報戦略は、先行する省線(鉄道省)やコトサンに危機感を抱いたようです。

琴参2
丸亀・多度津からの金毘羅参拝の利便性をアピールする琴参

電車るーと香川
コトキュウの路線を包囲するかのような琴参・琴電連合(?)
琴電のCM
琴電のパンフレット 髙松から琴平への「ちかみち」鉄道をアピールしている


坂出駅と琴平急行鉄道駅
     隣接する坂出駅(鉄道省)と琴平急行電鉄
 それに拍車を掛けたのが、先ほど見たように3社の坂出駅が隣接していたことです。金毘羅参拝客は、坂出の3つ駅の前で、乗る電車を選びます。その際に、早くて快適で時間は半分で安いとなれば、琴平急行が選ばれるのが当然になります。そのため各社間の競争は熾烈なものとなりました。特にコトサンとコトキュウの競争は激しかったようです。タオルや石鹸などの景品付乗車券や映画入場券付乗車券なども販売され、両社で競い合います。

琴平急行 乗車券2
    琴平急行の切符     「女学校前」は現在の坂出商業高校

琴平急行電鉄駅名
     琴平急行電鉄の駅 (数字は坂出駅からの距離数)

琴平急行電鉄にはスピードという武器がありましたが、それは坂出・琴平間を直線に結んでいたからです。しかし、それは一方では沿線観光不足という弱点にもなります。また沿線が坂出・琴平間の農村部ということは、通勤客などの固定客不足ということを意味しました。そこで会社は、次のような沿線の観光資源開発に尽力します。
①讃岐富士と呼ばれる飯野山
②1922年に陸軍特別演習の時に、皇太子(後の昭和天皇)の御野立台となった与北村の買田池周辺
③1932年8月7日に、坂出小歌の盆踊りを飯野余興所で3年連続で開催
琴平急行 飯野山
       コトキュウの讃岐富士登山案内 
このように人を集めるためのイベントを行って乗客確保に努めています。コトキュウはコトサンと競いながら、沿線開発やさまざまなイベントを開催しますが、営業的には苦しかったようです。

コトキュウ開業の2年後には日中戦争が勃発します。
戦時体制が色濃くなった1938年8月には、国は鉄道・バス会社の整理統合の促進をはかるため陸上交通事業調整法を施行します。4つの鉄道が乗り入れ鉄道過密状態にあった丸亀平野は、「交通事業調整委員会」での審議した結果、適用地域に指定されます。その結果、鉄道会社の統合が国策によって進められます。1943年11月1日に琴平電鉄、高松電気軌道、讃岐電鉄の3社は統合され、高松琴電気鉄道が誕生します。そして、コトキュウは1944年1月に営業を休止します。
それでは「日本車輌製造」で作られた6両の車両は、どこにいったのでしょうか?

琴平急行電鉄デ1形電車2
 女学校前駅から川津駅に向かって走る琴急(現在の坂出商業高校付近でバックは笠山)
琴平急行鉄道路線1
①コトキュウ坂出駅→②女学院(坂出商業)→③川津駅(鎌田池西)→津之郷駅の線路が見える 

坂出市史には「全施設を撤去し、日本占領下にあった南方のセレベスに送るために営業を停止した。」とあります。しかし、これは誤りのようです。14年しか使用されていなかった車両の第二の働き先は海外ではなく国内でした。沿線に多くの軍需関連施設を抱えて、輸送力増強が急務であった名古屋鉄道(名鉄)へ、全6両が譲渡されます。書類上は1944年3月7日付認可で譲渡されたこととなっていますが、名鉄側に残る記録では前年の6月購入とあるようです。ここからはコトキュウは1944年1月以前に営業休止になっていた可能性があります。考えて見れば1944年というのは、南洋航路が途絶え、敗戦が明らかとなっていた時代です。そこに鉄道を移築するということは考えられない話かもしれません。
琴平急行 琴平駅

琴平急行電車(コトキュウ)の琴平駅 (現琴平郵便局)
琴平急行
「急行電車のりば」の看板が屋上に掲げられている
開業時の1930年にコトキュウに導入された電車6両は、終戦末期に名古屋鉄道で第二の人生を送ることになります。ウキで「 琴平急行電鉄デ1形電車」を検索すると、次のように記されていました。

 譲渡後のデ1形1 - 3・5・7・8は、名鉄においてはモ180形の形式称号およびモ181 - モ186の記号番号が付与された。導入に際してはパンタグラフを名鉄における標準機種であった東洋電機製造PT-7へ換装した程度の小改造に留められ、当時架線電圧が直流600 V規格であった尾西線において運用を開始した。当時の尾西線は、尾西線を敷設・運営した尾西鉄道発注のモ100形(初代)など高経年の木造車によって運行されており、小型車ながら比較的経年の浅い半鋼製車体を備える本形式は琴平急行電鉄にちなんだ「こんぴらさん」の愛称で呼称され、利用者や現場から歓迎されたという。また戦中戦後の混乱期においては、構造の単純な直接制御仕様の本形式は間接制御仕様の他形式と比較して故障が少なく、尾西線の輸送力維持に貢献した。

「琴平急行電鉄にちなんだ「こんぴらさん」の愛称」で呼ばれていたという所を見て、なにかホッとしたような気になりました。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 坂出市史通史 近代篇
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「遺告二十五ヶ条」(略称「御遺告」)10世紀半ば成立
       遺告二十五条 巻頭部
「御遺告」は、承和三年(835)2月15日の日付があり、空海が亡くなる直前に書かれたとされてきました。しかし、今では10世紀半ばのものとされています。この中に「入定留身」信仰について、どのように触れられているのかを見ていくことにします。

「遺告二十五ヶ条」巻末に空海・実恵
遺告二十五条 巻尾部

遺告二十五条第1条「成立の由を示す縁起第一」には、次のように記されています。

   吾れ、去(いん)じ天長九年(832)十一月十二日より、(A)深く穀を厭(いと)いて、専ら坐禅を好む。皆是れ令法久住の勝計なり。并びに末世後生の弟子・門徒等が為なり。方(まさ)に今、諸の弟子等、諦(あきらか)に聴け。諦に聴け。(B)吾生期、今幾ばくならず。仁等(なんじたち)好く住して慎んで教法を守るべし。吾れ永く山に帰らん。吾れ入減せんと擬することは、今年三月廿一日の寅の刻なり。諸弟子等、悲泣を為すこと莫れ。吾れ即滅せば両部の三宝に帰信せよ。自然に吾れに代って眷顧を被らしめむ。吾生年六十二、

②吾れ初めは思いき. 一百歳に及ぶまで、世に住して教法を護り奉らんと。(C)然れども諸の弟子等を侍んで、忽(いそい)で永く即世せんと擬するなり。

A・B・Cは、「入定」のことを指す表現とも受けとれます。とくに(B)の「吾れ人滅せんと擬することは」は、「人滅に似せる、人滅をまねる」ともとれます。しかし、「人定」ということば自体は、まだ出てきません。また、自分の入滅日を「三月二十一日」と予告しています。これも今までになかった記述です。
次に、「御遺告」の第十七条を見ておきましょう。
夫れ以(おもんみ)れば東寺の座主大阿閣梨耶は、吾が末世後生の弟子なり。吾が滅度の以後、弟子数千萬あらん間の長者なり。門徒数千萬なりと雖も、併(しかし)ながらわ吾が後生の弟子なり。、租師の吾が顔を見ざると雖も、心有らん者は必ず吾が名号を開いて恩徳の由を知れ。
(D)是れ吾れ白屍の上に、更に人の労を欲するにあらず、密教の寿命を譲り継いで龍華三庭に開かしむべき謀(はかりごと)なり。
(E)吾れ閉眼の後に、必す方に兜率陀天(としつたてん)に往生して、弥勒慈尊の御前に侍すべし。五十六億余の後に、必ず慈尊と御供に下生して吾が先跡を問うべし。亦且(またかつ)うは、未だ下らざるの間は、微雲の菅より見て、信否を察すべし。是の時に勤め有んものは祐を得んの不信の者は不幸ならん。努力努力、後に疎(おろそ)かに為すこと勿れ。

意訳変換しておくと
 私(空海)が目を閉じた後に、以後の弟子が数千万いようとも、門徒が数千万いようとも、それらはすべて私の後生の弟子達である。祖師や、私の顔を見ることがなくても心ある人はかならず私の名号を聞いて恩徳のわけを知るべきである。このことは私が世を去ったことに、さらに人びとのいたわりをのぞんでいるわけではない。(D)ただ密教の生命を護りつないで、弥勒菩薩が下生し、三度の説法を開かせるためのはかりごとからである。
(E)私の亡き後には、かならず兜率天に往生して、弥勒菩薩の御前にはべるであろう。
五十六億七千万年後には、かならず弥勒菩薩とともに下生し私が歩んだ道をたずねるであろう。
ここで研究者が注目するのは、次の二点です。
(D)の弥勒片薩の浄土である兜率天への往生と
(E)②弥勒菩薩ががこの世に下生されるとき、ともに下生せん」の部分
これは『御遺告』で初めて登場する文章です。しかし、ここには空海を「お釈迦さまの入涅槃から弥勒菩薩の出生にいたる「無仏中間(ちゅうげん)」のあいだの菩薩」とみなす考えは、まだ見られません。
 『御遺告』で、空海の生涯が著しく神秘化・伝説化されたことは以前にお話ししました。
今までに書かれていなかった新しい記述が加えられ、新たな空海像が提示されていきます。これは、釈迦やイエスについても同じです。後世の弟子たちによってカリスマ化され、神格化させ、祀られていくプロセスの始まりです。以上からここでは『御選告』の特色として、次の点を押さえておきます。
①第1は「入定」が暗に隠されているふしがみられること
②第2は、兜率天往牛と弥勒善薩との下生説がみられること
③ 第3は、『御遺告』で、空海の生涯が著しく神秘化・伝説化されたこと

『空海僧都伝』

『御遺告』と、ほぼ同じ時代に成立したのが『空海僧都伝』です。

その最後の部分を、六段に分けて見ていくことにします。
 A 大師、天長九年(832)十二月十二日、深く世味を厭いて、常に坐禅を務む。弟子進んで曰く、「老いる者は唯飲食す。此れに非ざれば亦隠眠す。今已に然らず。何事か之れ有らん」と。報えて曰く「命には涯り有りの強いて留まるべからず。唯、尽きなん期を待つのみ。若(も)し、時の至るを知らば、先に在って山に入らん」と。
意訳変換しておくと
A 大師は、天長9年(832)十二月十二日に、深く世情を避けて、常に坐禅をするようになった。弟子が「老いる者はただ飲食のみか、そうでなければ眠るかである。ところが大師は、ちがう。どうしてなのか」と訊ねた。これに大師は、次のように答えた。「命には限りがあり、いつまでもこの世に留まることはできない。唯、尽きない時をまつだけである。もし、自分の死期を知れば、先に高野山に入ろうと思う」と。


B 承和元年五月晦日、諸の弟子等を召して語らく、「生期(吾生イ)、今幾くならず。汝等、好く住して仏法を慎み守れ。我、永く山に帰らん」と。

C 九月初めに、自ら葬処を定む。
D 二年正月より以来、水漿(すいしょう)を却絶す。或る人、之を諫めて曰く、「此の身、腐ち易し。更に奥きをもって養いと為すべし」と。天厨前(てんちゅうさき)に列ね、甘露日に進む。止みね、止みね。人間の味を用いざれ、と.
E 三月二十一日後夜に至って、右脇にして滅を唄う。諸弟子等一二の者、揺病(ようびょう)なることを悟る。遺教に依りて東の峯に斂(おさ)め奉る。生年六十二、夏臓四十一

F 其の間、勅使、手づから諸の惟異(かいい)を詔る。弟子、左右に行(つら)なつて相い持つ。賦には作事及び遺記を書す。即の間、哀れんで送る。行状更に一二ならず。

意訳変換しておくと
B 承和九年(832)五月晦日に、弟子等を召して次のように語った。「私の命はもう長くない。汝等は、仏法を慎み守れ。私は、高野山に帰る」と。

C 九月初めには、自らの墓所を決めた。
D 835年正月から、水漿(=水や塩)を絶った。これを諫めた人に対して、「この身、は腐ちやすい。更に躰の奥から清めなければならない」と云った。滋養のあるものを並べ、食べていただこうとするが「止めなさい。人間の味を使うな」と云うばかりであった.
E 3月21日夜半になって、右脇を下にして最期を迎えた。諸弟子は、揺病(ようびょう)なることを悟る。遺言通りに東の峯に斂(おさ)めた。生年六十二、出家して四十一年

F この間のことを、勅使は「手づから諸の惟異(かいい)を詔る」(意味不明) 弟子、左右に行(つら)なつて相い持つ。賦には作事及び遺記を書す。即の間、哀れんで送る。行状更に一二ならず。

この中には次の4つの注目点があると研究者は指摘します。
①Aは832年に、最期のときを悟ったならば、高野山に入ろうと弟子たちに語ったこと。ここからは、空海が自分の死に場所は高野山だと、生前から弟子たちに語っていたことが記されます。
②C・Dは承和元年(834)年9月はじめに埋葬場所を決めいたこと。翌年正月からは水と塩気のあるものを絶ったこと。つまり、空海は最期に向けて「断食=木食(ミイラ化)」を行っていたこと。これが後の真言修験者の「木食修行」につながっていくようです。
③Eからは3月21日の深夜に、右脇を下にして最期を迎えたこと、そして遺言によって「東の峯に斂めた」とあります。従来は「東の峯=奥の院」とされてきました。本当にそう考えていいのでしょうか。また「斂」は「おさめる」で、「死者のなきがらをおさめる」意と解されていたことがうかがえます。そうだとすると「入定」とは少しかけ離れたことばと研究者は指摘します
④Fの「勅使、手づから諸の惟異を詔(つげ)る」と意味不明部分があること。文脈からすると、葬儀のあいだのできごとをさしているようですが、よく分かりません。

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G 雅真撰『金剛峯寺建立修行縁起』(修行縁起) 康保五年(968)成立 
この評伝は、草創期の高野山を考えるうえでの根本史料のひとつになります。そして、ここではじ
めて「入定」ということばが4ヶ所で使われます。長文になりますが見ていくことにします。
A 大師、諸の弟子等に告げて曰く。「吾れ、却世の思いあり。明年三月の中なり。金剛峯寺を以て真然大徳に付す。件の寺の創造、未だ終わらず。但し、件の大徳、自力未だ厚からず。実恵大徳、功を加うべし、と云々。吾れ、初めは思いき、一百歳の間、世に住して密教を流布し、蒼生を吸引せんと、然リと雖も、禅師等、恃(たの)む所の至篤(しとく)なり。吾が願、又足んぬ。仁等(なんじら)、まさに知るべし。吾れ、命を万波の中に忘れ、法を千里の外に尋ぬ。僅かに伝うる所の道教之を護持して、国家を安鎮し、万民を撫育(ぶいく)すべし。」と云々。
意訳変換しておくと
A 大師は、弟子等に次のように告げた。①「私の死期は明年3月半ばである。②ついては金剛峯寺は真然大徳に任せる。寺の造営は、まだ終わっていない。しかし、真然の力はまだまだ弱い。実恵大徳がこれを助けよ。」
「私は、百歳になるまで、長生きして密教を流布し、蒼生を吸引せんと、初めは考えていた。しかし、それも適わぬものであると知った。私の願いは達せられないことを、なんじらは知るべし。私は、命を幾万もの波の中に投げだし、法をもとめて千里の道を長安に訊ねた。③そこから持ち帰った教えを護持して、国家を安鎮し、万民を撫育すべし。」と云々。
以上の部分を整理・要約すると
①死期の預言
②金剛峯寺の後継者を真然(空海の弟)に指名し、それを東寺長者の実恵が助けよ
③教団の団結と教え
B 承和二年三月十五日、又いわく。「(ア)吾れ、人定に擬するは来る二十一日寅の刻なり。自今以後、人の食を用いず。仁等、悲泣すること莫れ。又、素服を着ること勿れ。
 吾れ(イ)入定の間、知足天に往きて慈尊の御前に参仕す。五十六億余の後、慈尊下生の時、必ず須く随従して吾が旧跡を見るべし。此の峯、等閑にすること勿れ。顕には、丹生山王の所領、官持大神を勧請して、嘱託する所なり。
 冥には、古仏の旧基、画部の諸尊を召集して安置する所なり。跡を見て必ず其の体成を知り、音を聞いて則ち彼の慈唄を弁ずる者なり。吾が末世の資、千万ならん。親(まのあ)たり、吾が顔を知らずと雖も、一門の長者を見、及び此の峯に寄宿せん者は、必ず吾が意を察すべし。吾が法、陵遅せんと擬する刻は、吾れ必ず絡徒禅侶の中に交わって、此の法を興さん。我執の甚しきにあらず。法を弘むる計なるのみ。
意訳変換しておくと
B 承和二年(835)三月十五日には、次のように言われた。④私が「人定に擬する」のは3月15日寅の刻である。今からは何も食べず断食に入るが、なんじらは悲泣するな。又、喪服も着るな。
 ⑤私が入定したら知足天に行って慈尊の御前に仕える。五十六億余年の後、慈尊が下生する時、必ず一緒に現れて、高野山に帰ってくる。その時までこの峯を守り抜け。⑥表では、丹生山王の所領、官持(高野)大神を勧請して、守護神としている。裏には、古仏の旧基、画部の諸尊を召集して安置した。その姿を見て必ず体成を知り、音を聞いて慈唄を弁ずるであろう。
 ⑦私に続く者達は末世まで続き、千万人にもなろう。その中には、私の顔を知らないものも出てこようが、一門の長者を見、高野山に寄宿する者は、必ず私の意が分かるはずである。私の教えを陵遅せんと擬する刻は、私は必ず禅侶の中に交わって、この法を興すであろう。我執の甚しきにあらず。教えを弘めることを考え実践するのみである。
この部分を整理・要約すると
④入滅日の予告と断食(木食)開始
⑤入定後の行き先と対処法
⑥高野山の守護神である丹生明神と官持(高野)大神の勧請(初見)
⑦高野山を護る弟子たちへの教えと願い
C 則ち承和二年乙卯三月二十一日、寅の時、結珈朕坐して大日の定印を結び、奄然として(ウ)人定したまう。兼日十日四時に行法したまう。其の間、御弟子等、共に弥勒の宝号を唱う。唯、目を閉じ言語無きを以て(エ)人定とす。自余は生身の如し。時に生年六十二、夏臓四十 。
意訳変換しておくと
C 承和二年(835)3月21日寅の刻、(大師は)結珈朕坐して大日の定印を結び、(ウ)人定した。その後、兼日(けんじつ)十日四時に行法した。その間、弟子たちは弥勒の宝号を唱えた。ただ目を閉じ話さないことを以て(エ)人定とする。それ以外は生身のようである。この時大師齢六十二、出家して四十一年目 。
基本的な内容と論の進め方は、先行する「遺告二十五条」と同じなので、これを下敷きにかかれたものであることがうかがえます。
読んで気がつくのは、「入定」ということばが次のように4回出てくることです。
ア、吾れ、入定に擬するは来る二十一日寅の刻刻なり。
イ、吾れ入定の間、知足天に往きて慈尊の御前に参仕す。
ウ、寅の時、結珈欧座して大日の定印を結び、奄然として入定したまう。
エ、唯、目を閉じ言語無きを以つて入定とす。自余は生身の如し。

これを分類すると、アは「入定に擬する」で、「入定のまねをする」ととれます。それに対して、イ・ウ・エでは「入定の間」「入定したまう」「入定とす」とあって、まさに「入定」です。また(エ)では、「入定」の定義が次のように示されています。

唯、目を閉じ言語無きを以って入定とす。自余は生身の如し。

ここからは、入定とはただ目を閉じ、ことばを発しないだけでって、それ以外は生きているときと同じ「生身の如し」とします。

奥院への埋葬の次第については、次のように記されています。

⑧然りと雖も世人の如く、喪送(そうそう)したてまつらず。厳然として安置す。則ち、世法に准じて七々の御忌に及ぶ。御弟子等、併せ以て拝見したてまつるに、顔色衰えず髪髪更に長ず。之に因って剃除を加え、衣裳を整え、石壇を畳んで、例(つね)に人の出入すべき許りとす。其の上に石匠に仰せて五輪の率都婆を安置し、種々の梵本・陀羅尼を人れ、其の上に更に亦宝塔を建立し、仏舎利を安置す。其の事、 一向に真然僧正の営む所なり。

意訳変換しておくと
⑧(空海は亡くなったが)、世人のような葬儀は行わなかった。ただ厳然と安置した。それは、世法に准じて七日ごとの忌日を務めた。弟子たちが、空海の姿を拝見すると、顔色は変わらず、髪は伸びていた。そこで剃髪し、衣裳を整え、石壇を畳んで、つねに人が出入し世話できるようにした。その上に石工に依頼して五輪の率都婆を安置し、種々の梵本・陀羅尼を入れて、その上に更にまた宝塔を建立し、仏舎利を安置した。これを行ったのは、真然僧正である。

葬儀を筒条書きにすると、次の通りです。
1、通常の葬送儀礼は行わず、厳然と安置した。
2、常の習いに准じて、七日七日の忌日は勤めた。
3、弟子らが拝見すると、この間も大師の顔の色はおとろえず、頭髪・あご髪はのびていた。
4、そこで、髪・鬚を剃り、衣を整え、人の出入りできる空間を残して石壇を組み、
5、その上に、石工に命じて五輪塔を安置し、梵本・陀維尼を入れ、さらにその上に、宝搭を建て
仏合利を安置した。
6、これらはすべて、真然僧正が執り行った。

これらの記述を読んで、次のような疑問が湧いてきます。
①石壇を組んだ場所はどこか
②梵本・陀羅尼を入れたのはどこか
③仏舎利を安置したのはどこか
これらについては示されていません、また、これらをすべて真然が執り行ったとする点と、①で金剛峯寺の責任者に真然を指名したという話については、研究者は疑問を持ちます。

このように『修行縁起』には、はじめて登場する話が数多く載せられています。
別の見方をすると、に遺告二十五条や『空海僧都伝』と、この雅真撰『金剛峯寺建立修行縁起』とのとのあいだには、大きな相違・発展があるということです。分量自体が大幅に増えていることからも分かります。9世紀には一行であった空海の最期についての記述が11世紀になると大幅に増えていることをどう考えればいいのでしょうか。
 これについて、考証学は「偉人の伝記が時代を経て分量が増えるのは、後世の附会によるもの」とします。新たな証拠書類が出てきたわけではなく、附会する必要が出てきて後世の人物が、有りもしないことをあったこととして書き加えていくことは、世界中の宗教団体に残された史料からも分かります。11世紀に「入定」を附会する必要性が高野山側には生まれていたとしておきます。その背景については、また別の機会に・・。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 武内孝善 「弘法大師」の誕生 137P
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奥の院御廟が確認できるのは12世紀以後

前回は空海が「入定」したとされる高野山奥の院の御廟が、いつごろから存在したのかを見ました。今回は「入定」という言葉がいつ頃から史料に登場してくるのかを見ていくことにします。テキストは「武内孝善 弘法大師 伝承と史実 絵伝を読み解く 朱鷺書房215P」です。

まず空海の跡を継いだ、実恵の書簡を見ていくことにします。

1 空海系図52jpg
          佐伯直 空海系図 実恵は佐伯直の本家筋にあたる

実恵は空海から見れば「佐伯家本家の従兄弟」にあたり、幼い頃から顔見知りだったかもしれません。空海が唐から帰って京都高雄寺を拠点としていた頃から傍らに仕えていて「空海第一の弟子」とされます。弘仁元年(810年)に、数ある弟子の中から一番早く実恵に胎蔵・金剛両部灌頂を授けていますので、空海の信頼や期待も高かったことがうかがえます。また、高野山開創の際に、空海が先行派遣させているのも実恵と泰範です。弘仁八年(817年)、実恵32歳の時になります。晩年の空海は多忙に追われながら体は悪性の腫瘍にむしばまれ、信頼をおく実恵をかた時も離さなかったようです。
 この実恵の書状は、空海入滅の翌年に、長安の恵果和尚の墓前に報告するために書かれたもので空海の最期を次のように記します。
A 承和三年(836)5月5日付 青龍寺宛て実恵等書状

其の後、和尚(空海)、地を南山に卜して伽藍を置き、終馬の庭とす。共の名を金剛峰寺と曰く。上の承和元年を以って、都を去って行きて住す。二年の季春、薪尽き火減す。行年六二。

ここには簡潔に「新尽き火減す」とあり、新が燃えつきるがごとく、静かな最期を高野山の金剛峯寺で迎えたことが記されるのみです。「入定留身」については何も触れられませんし、どこに埋葬されたかも記されていません。

B 『続日本後紀」の空海卒伝 貞観11年(870)成立
870年に成立した正史の『続日本後紀』の巻第四の承和三年(835)3月庚午(25日)条の「空海卒伝」は次のように記します。
禅関僻左(へきさ)にして、凶聞、晩(おそ)く伝ふ。使者奔赴して荼毘を相助くることあたわず自ら終焉の志あり。紀伊国金剛峯寺に隠居す。化去の時、年六十三。
ここで注目されるのは「荼毘を相助くることあたわず」と「荼毘」ということばがあることです。
ここから歴史学者は「入滅火葬説」をとなえ、真言宗内からは「入定留身:説が唱えられていることは前回お話した通りです。しかし、この史料からも空海は「化去」し、「禅居に終る」とあって、入定については何も触れられていません。しかし、通常とは違うことばで、空海の最期を記録している点に研究者は注目します。

C 聖宝撰「贈大僧正空海和上伝記」(略称:寛平御伝)  寛平7年(895)成立
これは真言宗内で書かれたもっとも占い大師伝になるようです。撰者は、かつては空海の弟の真雅とされてきましたが、今では醍醐寺開山の聖宝(理源大師)とする説が有力です。ここには、次のように簡潔に記します。
承和二年(834)、病に罹り金剛峯寺に隠居す。三年三月二十一日卒去す。

ここからは空海は病を患っていたことが分かります。
   空海の病気については、『性霊集』補闘抄の「大僧都空海、疾(やまい)に嬰りて上表して職を辞する奏状」に次のように記します。
天長八年(831)庚辰(かのえたつ)今、去る月の薫日(つもごりの日)に悪瘡躰(あくそうてい)に起って吉相現せず。両檻夢に在り、三泉忽ちに至る。」

ここには、831年5月の末に「悪瘡」が体にできて直る見込みがなく、「吉相」を見せることができず死期が近づいていることを述べ、淳和天皇に大僧都の職を辞任して自由の身になりたいと願い出たことが記されています。この悪瘡について「大師御行状集記」では「癖瘡(ようそう)」、『弘法大師年譜』には「?恙」と記されます。悪性のデキモノのようです。空海は晩年には悪性の皮膚病で苦しんでいたようです。
「病に嬰りて金剛峯寺に隠居す」からは、空海は自分の意志で高野山に隠居したことが分かります。「卒去」は人の死をあらわす一般的表現です。空海が亡くなって三代あとの時代には、その最期が単に「卒去」と記されています。「卒去」からは「特別待遇」ではなく一般的なニュアンスしか伝わってきません。

D 伝寛平法皇作「諡号を賜らんことを請う表」延喜18年(918)8月11日
寛平法皇が醍醐天皇に空海への大師号下賜を依頼したときのものとみなされてきたもので、次のように記します。
承和二年(834)、病に嬰りて高野の峯に隠肝す。金剛峯寺という是れなり。同三年二月二十一日、和尚卒去す。

この文章については以前にも見た通り、全文が先ほど見たCの『寛平御伝』を下敷きに書かれています。この部分もほぼ丸写しです。寛平法皇(宇田天皇)は、この当時は出家して真言宗教団の中心的存在であったようです。それが「寛平御伝」を下敷きにして、「卒去す」とだけ記していることになります。このこと自体が、この時にはまだ入定信仰について何も知らなかったことを物語ると研究者は考えています。
 添田隆昭師は『大師はいまだおわしますか』(46P)で、次のように記します。

どこにも入定留身したとは書いていない。大師に対する熱烈な思慕を持ち、後世、入定留身説話の主人公となる観賢僧正も、寛平法皇も、まだこの時代には、人定留身というアイデアは生まれなかったと考えられている。

   以上から空海に大師号が下賜される以前の10世紀初めまでは、真言宗内においては、空海の最期を特別視する風潮はまだなかったことが分かります。それが変化し出すのは、大師号下賜以後に書かれた伝記類からのようです。

私が気になるのはCの「寛平御伝」に、「病に嬰りて金剛峯寺に隠居す」とあることです。
この悪瘡について「癖瘡(ようそう)」=「悪性の皮膚病説」があることは先に述べた通りです。
この皮膚病の原因は何なのでしょうか。これは丹生(水銀)と関係あるのではないかとという説があります。これを最後に見ておきましょう。

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空海は道教や錬丹術に強い関心をもっていたとされます。
内藤正敏は『ミイラ信仰の研究』の「空海と錬丹術」の中で、次のように記します。
空海が僧になる前の24歳の時に書いた『三教指帰』は、仏教・儒教・道教の三教のうち、仏教を積極的に評価し、儒教・道教を批判しています。が、道教については儒教より関心をもっていたようです。そして、空海は『抱朴子」などの道教教典を熟読し、煉金(丹)術や神仙術の知識を、中国に渡る以前にすでに理解していたとします。
確かに、三教指帰では丹薬の重要性を説き、「白金・黄金は乾坤の至精、神丹・錬丹は葉中の霊物なり」と空海は書いています。白金は水銀、黄金は金です。神丹・錬丹は水銀を火にかけて作った丹薬です。

「空海が中国(唐)にいる頃は、道教の煉丹術がもっとも流行した時代であった。ちょうど空海が恵果阿闍梨から真言密教の奥義を伝授されている時、第十二代の店の皇帝・憲宗は丹薬に熱中して、その副作用で高熱を発して、ノドがやけるような苦しみの末に死亡している。私は煉丹術の全盛期の唐で、すでに入唐前に強い興味を示していた煉丹術に対して、知識欲旺盛な空海が関心を示さなかったはずはないと思う。ただ、日本で真言密教を開宗するためには、おもてむきに発表するわけにはいかなかっただけだと思うのだ

また高野山自体が丹生(水銀・朱砂)などの鉱物生産地で鉱山地帯であった可能性があるようです。
そのため空海の高野山の選択肢に、鉱脈・鉱山の視点があったとする研究者もいます。その根拠としては、次のような点を挙げます。
狩場明神さまキャンペーンせねば。。 | 神様の特等席
     重文 弘法大師・丹生・高野明神像 右下が丹生明神
①空海死後ただちに編纂された「空海僧都伝」に丹生神の記述があること、
②高野山中腹の天野丹生社が存在していたこと、
③高野山が丹生(水銀)や銅を産出する地質であったこと
人定信仰や即身成仏信仰の形成、その後の真言修験者の即身成仏=ミイラ化などの実践は、その上に生まれたものだと云うのです。つまり、空海は渡唐して錬丹術を学んで来たこと。鉱脈・鉱山開発の視点から高野山が選ばれたという説です。
丹生明神と狩場明神
重要文化財 丹生明神像・狩場明神像 鎌倉時代 13世紀 金剛峯寺蔵

 松田壽男も次のように記します。

空海が水銀に関する深い知識をもっていたことを認めないと、水銀が真言宗で重視され、その知識がこの一派に伝わっていたことや、空海の即身仏の問題さえ、とうてい解決できないであろう」

例えば空海が若い頃に書いた「三教指帰」の中には、丹薬の重要性が次のように記されている所があります。
白金・黄金は乾坤(けんしん)の至精、神丹・錬丹は薬中の霊物なり。服餌(ぶくじ)するに方有り、合造(かつさう)するに術有り。一家成ること得つれば門合(もんこぞ)つて空を凌ぐ。一朱僅かに服すれば、白日に漢に昇る。

意訳変換しておくと
「白金・黄金は水銀と金である。乾坤は天地陰陽のこと、神丹・煉丹は『抱朴子」に『黄帝九鼎神丹経』の丹薬として紹介されている。神丹は一匙ずつ飲めば百日で仙人になれ、煉丹は十日間で仙人になれ、禾(水銀)をまぜて火にかけると黄金になるという丹薬である。
 一家で誰かがその薬をつくることに成功すれば家族全部が仙人になれる。仙人になる描写を白日に漢(=天)に昇る。
ここからは空海が道教の仙人思想と水銀と金の役割を、早くから知識としては知っていたことが分かります。
須恵器「はそう」考

内藤正敏は、空海と丹生(水銀)が強く結びついていたことを次のように記します。
空海は砒素とか水銀などの有毒薬物を悪瘡治療のために服用していたのではないか。さらに悪瘡ができた原因も、水銀とか砒素などの中毒ではなかったか。

「私は空海の悪瘡の話を読むたびに、砒素や水銀の入った丹薬を飲みすぎて、高熱を出し背中にデキモノができて中毒死した唐の皇帝・宣宗の話を思い出す。そして、空海が死ぬ前年に書いた「陀羅尼の秘法といふは方に依って薬を合せ、服食して病を除くが如し……」という『性霊集』の一節も、実は空海自身の姿を表わしているように思えてしかたがない。」
  空海は、当時の最先端技術である錬金術や錬丹術の知識を習得するだけでなく、実践していた節があるというのです。話が大きく逸れたようです。今回はここまでとします。最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
高野山丹生明神社
   高野山奥の院の御廟に並んで鎮座する高野・丹生明神社

参考文献
「武内孝善 弘法大師 伝承と史実 絵伝を読み解く 朱鷺書房215P」
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空海火葬説
            空海=火葬説
前回は史料からは、空海やその師の恵果が火葬されていることが読み取れることを見てきました。今回は空海が、どこに埋葬されたかについて見ていくことにします。

   空海には今なお生き続けているという入定留身信仰があります。
入定とは禅定(瞑想)に入ることで、空海は入滅(逝去)したのではなく入定しているというのが真言教団の立場です。例えば、次のようなエピソードが語られてきました。

 内閣総理大臣を務めた近衛文麿が、空海の廟所である高野山奥之院に参拝した時のこと。近代真言宗の高僧と呼ばれた金山穆韶師に案内され、「空海は永久に入定したまま、今もなお衆生済度のために尽力している」との説明を受けたのですが、近衛は一笑に付しました。その夕べ、金山師が近衛を訪ね、さらに入定の由縁をじゅんじゅんと説いたところ、近衛は従者にこう話したそうです。「ともかくよくわからないが、老師の努力と信念には感心した」。(「沙門空海」 渡辺照宏・宮坂宥勝著)

これが宗門および大師信者の弘法大師に対する信仰を代弁したものと云えそうです。
  そのため戦前の歴史学者・喜旧貞吉の「空海=火葬説」に対して、真言宗内から多くの反論が出されました。以後、これに正面から答えようという動きはなくタブーとされていた観があります。それが21世紀になってやっと「真言宗内には入定信仰が定着しているが、空海がどのような最期を迎えたかをはっきりさせておくことは、空海の末徒として必要」と考える書物が出されます。それが「武内孝善 弘法大師 伝承と史実 絵伝を読み解く 朱鷺書房」です。これをテキストにして、今回は空海がどこに埋葬されたのかを見ていくことにします。

「―遍聖絵」(歓善光寺蔵)に描かれた高野山奥の院
一遍絵図の高野山奥の院
空海の廟所については、一般的に次のように云われています。
弘法大師御廟は奥之院の最も奥に位置する三間四面、檜皮葺、宝形造の建物で、一般には御廟と呼ばれている。御手印縁起付載絵図には「奥院入定廟所」と記され、廟堂(宇治関白高野山御参詣記)、高野廟堂(白河上皇高野御幸記)、高野霊廟(鳥羽上皇高野御幸記)とも記される。
空海は承和元年(834年)9月に自ら廟所を定めたといわれ、翌年3月21日寅の刻に没した。七七日(四十九日)を経て、弟子(実恵、眞雅、真如親王、眞濟、眞紹、眞然)によって定窟に奉安され、その上に五輪卒塔婆を建てて種々の梵本陀羅尼を入れ、その上に宝塔を建てて仏舎利を安置した。廟の造営にはもっぱら眞然大徳が当たった。

弘法大師空海-生涯と奥の院の秘密 | やすらか庵
                弘法大師御廟
それでは「奥の院」の廟所の存在が確認できるのは、いつからなのでしょうか。 
言い換えると、いつまで奥の院は遡ることができるかを見ておきましょう。確認できる確実な史料として、研究者が挙げるのが天永4年(1113)5月3日の日付をもつ比丘尼法薬の埋経です。この埋経は1964年の秋・開創1150年の年に、御廟周辺整備の時に出土したものです。そにには次のような語句が出てきます。
斯の経巻をもって高野の霊窟に埋め、云々
② 弥勒慈尊出性の時を期せんが為に、殊に弘法大師入定の地を占す、まくのみ。
③ 仰ぎ願わくは、慈尊兼ねて斯の願を憐憫し、伏して請うらくは、大師常に斯の経を護持し、必ず其れ三会の座席に接せんことを。
ここには「高野の霊窟」「弥勒慈惇出世の時」「弘法大師入定の地」「三会の座席」などの言葉が出てきます。これらは入定留身する大師や奥の院の御廟を意識していることが分かります。出土地が御廟のすぐ横ということからも、平安末の天永4年(1113)には、御廟が現在地にあったことが裏付けられます。
次に奥の院の存在を示すのが「御入定所」と記した「高野山図」です。   211P

高野山図 平安時代
              高野山図
高野山図2
          高野山図 江戸時代の複写

「高野山図」が、いつ成立したものなかのか押さえておきます。
①奥の院入定所が描かれているので、弘法大師御入定説成立以前ではない。
②奥の院御廟の左の丹生・高野両社は、天暦6年(952)6月に奥院廟塔が類焼
③翌7月に執行職に就いた雅真が、翌天暦7年(953)夏に奥院御廟を再興したもの(「検校帳」)
④同時に、それまで御廟橋の近くにあつた丹生・高野両社を御廟の左に移築した(『高野春秋』)ものなので、それ以後のもの
⑤絵図の下石の垣荘は、天慶9年(946)に石垣荘上下二荘に分割して以来のこと(正智院文書)
⑥東搭は天治元年(1124)10月、鳥羽上皇の高野参詣の際に完成したものなので、東搭が描かれているので、絵図の成立をそれ以前に比定することはできない。
以上からは比丘尼法薬の埋経からは、12世紀はじめには御廟はいまの奥の院に存在していたことが裏付けられます。しかし、それ以前に御廟がどこにあったかは分かりません。確かな史料がないのです。
そこで研究者が注目するのは「高野山七廟説」です。

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『紀伊続風土記』の「高野山之部」巻之十の「奥院之五 附録」には、次のように記されています。

①慶安三年(1650)頃初て七廟の名を載て、奥の院(廟所)・高野山とも、是は日本国中の大師の廟門七ヶ所あることにて、当山に七廟ある説にあらず。(中略)

②寛文の頃(1661~73)、或記に初て当山七廟の名を載て、奥の院(今の助所)・高野山)姑耶也)・遍照岡・正塔岡・大塔・御影堂・弥勒石といふ此説ありてより、好事のもの雷同して終に巷談口碑せり。             (『紀伊続風土記』四 189P)

①からは、近世になるまで七廟はなかったこと、②からは17世紀後半になって「七廟」という表現が用いられ始めたことが分かります。ここでは「七廟」というのは、近世以後の表現であることを押さえておきます。
そして「紀伊続風土記」の「高野山之部」の著者道猷も、いまの奥の院が最初から大師の御廟の場所であったどうかは疑わしいと次のように記します。
是らに因り猶大師の墓所を考ふるに、今山上にて七廟の説を伝ふ。其実は大師の葬処造にかくと定めかたし。或いはここならんといひし所七ケ所ありし中、今の奥院の処と定まりしとなん。然れともし廟の説によりて考ふれば、南谷宝積院の地こそ葬庭ならんかといふ。因りて書して後の考に備ふ。
意訳変換しておくと
①今日、高野山には七廟説が伝わっていて、大師の墓所はここで間違いないと言えるところはない。
②ここだあそこだと言ってきた七廟説のなかで、今の奥の院に落ち着いてきた。
③しかしながらいま一度、七つの候補地を検討すると、大師の廟所としては、市谷の宝積院の地が最も相応しいといえる。
④後世のために、あえて記しておく。        (『続真言宗全書』三六  23P)

とあって、最も有力な候補地として③の「南谷の宝積院の地」としています。さらに、割注でその根拠を次のように挙げています。(要約簡条書)
①今の高野山は、弘法大師の時代にくらべると、百倍も開かれているといえよう。
②奥の院の地は、今日でも中心部からは遠く、幽奥僻遠の地といった感じを強くうける。
③大師在世の時代にあっては、このように幽奥僻遠の地を選ぶ理由などなかったはずである。
④南谷宝積院の地は、大師が生活していた寺の向いで、遍照岡と呼ばれていた。
⑤また宝積院は、ふるくは阿逸多院といい、阿逸多坊とも呼ばれた。
⑥遍照は大師の号であり、阿逸多は弥勒菩薩の梵語である。
⑦この寺名は、大師が入定されたことに由来するとすれば、ここが大師の墓所であったと考えるのが自然である。
⑧宝積院を再建したときの記録には、次のように記されている。
境内を掘つたところ、奇怪な響きがした。寺主は不思議に想つて、さらに深く掘ったところ、五、六尺のところから一つの石函が出てきた。その一辺は一丈ばかりであった。恐れをなして、もとのように埋めてしまった、という。
⑨この記録は、この地が大師の墓所であったことの根拠といえるのではないか。
⑩ただし、今の奥の院が古くから大師の廟堂とされているので、このことは異聞としておく。

以上から道猷は「空海奥の院入所説」に対して、次の3つの根拠を挙げて疑義を表明します。
A ①②③で、開創当時の高野山を考えたとき、奥の院は伽藍建立の地である壇上から遠いこと
B ④⑤⑥⑦で、南谷宝積院の地は遍照岡ともいい、古くはは阿逸多院・阿逸多坊ともいい、大師および弥勒苦薩との関係ががえること。
C ⑧には宝積院を再営したときの記録に、境内から石函が掘り出されたこと

弘法大師が入定した約1300年前の高野山を取り巻く地形を「地形復元」してみると、山上は原生林におおわれていたことが想像できます。奥の院は最初に開かれた壇上伽藍から4㎞東の原始林の中です。そこにいろいろなものを運ぶとなると、多くの困難を伴ったことが想像できます。

高野山建設2
高野山開山 (高野空海行状図画) 原始林を切り開いての建築作業で宝剣出土

しかも、当時の高野山は伽藍の堂搭も、まだほとんどは姿を見せていない「開拓地」状態です。
その際に、参考になるのが高野山第2世の真然が、どこに、どのように葬られたかです。

真然大徳廟

  真然の入滅については「高野春秋編年曹録』巻第3 寛平3年(891)の条に次のように記します。

秋九月十一日。長者真然僧正、愛染王の三摩地に住し、病無く奄然として中院において遷化す。門人、院の東方の原野に賓斂す(中略) 寿八十九   (『大日本仏教全書」131 36P)

意訳変換しておくと

秋9月11日、真然は中院(現・龍光院)の愛染王の三摩地にて、病にかかることもなく忽然と亡くなった。弟子たちは中院の東方の原野に埋葬した。齢89歳であった

ここには「院の東方の原野に埋葬」とあります。大師から50年後の真然の場合でも墓所は、いまの金剛峯寺の裏山です。
空海の甥で十大弟子の一人である智泉(ちせん)の場合を見ておきましょう。

智泉大徳 2月14日は常楽会の日として知られますが本日は智泉大徳のご命日でもあります。 また、本年は1200年目の御遠忌でもあり  智泉大徳は平安時代前期の真言宗の僧で母は弘法大師の姉と伝えられ弘法大師の甥にあたり十大弟子の一人でもあります。若くして病に倒れた甥 ...
                  知泉大徳廟 
彼も讃岐出身で、母は空海(弘法大師)の姉で阿刀氏出身と伝えられます。空海が若くして惜しまれつつ亡くなった智泉の供養のため書いた「亡弟子智泉が為の達嚫文」が『性霊集』巻八にあります。知泉は、天長2年(825)に高野山で入滅ししますが、その墓所については次のように記されています。
蓋し大師在世の日には、智泉大徳、此地に一字の僧房を営んで正住し給ふ故に、当院封内羊申の角に、師の墓所あり。此地、東塔の東にして、南は蛇原を限り、東に大乗院あり
                   (『紀伊続風土記』四  375P)
ここからは空海よりも10年前に亡くなった智泉の墓所も、伽藍東塔の東どなりに作られたことが分かります。こうして見ると高野山の開山途上にある時点で、空海の墓所が遠く離れた奥の院の原始林を拓いて作られたという話には疑義があると研究者は判断します。

以上を整理・要約しておきます。
①「空海は永久に入定したまま、奥の院で今もなお衆生済度のために尽力している」という入定留身信仰がある。
②奥の院の御廟の存在を確かな史料で確認できるのは、12世紀初め以後になる。
③17世紀後半になって「高野山七廟説」が説かれ始めるようになる。
道猷は、奥の院が最初から大師の御廟の場所であったどうかは疑わしいと記し、最も有力な候補地として「南谷の宝積院の地」を挙げる。
⑤空海の十代弟子であった知泉や、高野山2世も東塔周辺に埋葬されている。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「武内孝善 弘法大師 伝承と史実 朱鷺書房 210P」

弘法大師入定留身の形成過程

前回は、上記のように空海への大師号下賜がきっかけとなって、入定留身信仰が形成される過程を「高野空海行状図画」で見てきました。入定留身説が初めて語られるようになるのは、11世紀初頭のようです。それと、観賢の御廟開扉の話をからめて語られるようになるのは、約80年後の11世紀の後半以降だとされます。今回は、「入定留身」について、史料はどのように記しているのかを見ていくことにします。
まず最初に「空海の最期はどうであったか」を史料で押さえておきます。
大正から昭和にかけての歴史学者の喜田貞吉は「空海=火葬説」を出しますが、真言宗内からの猛反論を受けます。以後、この問題に正面から答えようという動きはなかったようです。21世紀になってやっと「真言宗内には入定信仰が定着しているが、空海がどのような最期を迎えたかをはっきりさせておくことは、空海の末徒として必要」と考える研究者が現れます。これが「武内孝善 弘法大師 伝承と史実 朱鷺書房 198P」です。これをテキストにして見ていくことにします。

弘法大師伝承と史実: 絵伝を読み解く
伝記などに書かれているように、空海は自分の意志で入定したのでしょうか?
これについて研究者は「NO」の立場です。その根拠を見ておきましょう。空海の最期について、もっとも信憑性が高い史料は空海の最期をみとった実恵(じちえ)をはじめとする弟子達の手紙です。

実恵 
         実恵(観心寺)
実恵は空海の筆頭弟子で、高野山開創を手がけた高弟で、東寺の長者(管長)を務めた人物です。実恵の手紙は、空海入滅の翌年の承和3年(836)5月5日付で、その師・恵果和尚の墓前に報告するために、長安の青竜寺に送った書状です。この手紙は、承和の遣唐使の一員として入唐することになった真済と留学僧真然に託して、青竜寺に届けるために書かれたものです。
実恵の青竜寺に宛てた手紙のなかで、空海の最期を記したところを見ておきましょう。
【史料1】承和3年(836)5月5日付実恵等書状(『弘法大師全集」・第五輯、391P~)
①その後、和尚、地を南山に卜して一つの伽藍を置き、終焉の処とす。その名を金剛峯寺と曰う。②今上の承和元年を以って、都を去って行きて住す。③二年の季春、薪尽き火滅す。④行年六十二。
⑤鳴呼哀しいかな。南山白に変じ、雲樹悲しみを含む。⑥一人傷悼し、弔使馳驚(りぶ)す。⑦四輩鳴咽して父母を哭するが如し。鳴呼哀しいかな。⑧実恵等、心は火を呑むに同じく、眼沸泉の如し。死減すること能わず、房を終焉の地に守る。
研究者は次のように現代訳します。
①空海は南山・高野山の地を卜定して一つの伽藍を建てられ、そこを終焉の地となされた。その名を金剛峯寺といった。②今上、つまり仁明天皇の承和元年(834)をもって高野山に隠居なされた。③同二年の季春(二月)に、薪が燃え尽き、火の勢いがだんだんと弱くなるように最期を迎えられた。④このとき62歳でした。⑤空海の滅を哀しんで、南山の樹々は一度に白くなり、雲も樹々も悲しみを表しました。⑥天皇は深く哀悼なされ、速やかに弔使を遣わされた。⑦また、 一般の人たちも鳴咽して、父母の死を悼むがごとくであった。⑧残された実恵等の弟子は、心は火を呑むように苦しく、眼からは泉のように哀しみの沸が流れた。⑨殉死することもままならず、師の開かれた房舎を末永く守ることにした。

ここには、空海の最期に立会った弟子の真情がストレートに現れていると研究者は評します。
ここで研究者が注目するのは、この文章の内容が空海が書いた「恵果和尚の碑文(大唐神都青龍寺故三朝國師灌頂阿闍梨耶恵果和上之碑 日本國學法弟子 苾蒭空海撰文并書)」を参考にしていることです。
「恵果和尚の碑文」とは、長安で空海が恵果の弟子を代表して碑文を起草したものです。
全文が空海の韓詩文集である「遍照発揮性霊集」に収録されています。そこには、恵果の最期と埋葬のようすが次のように記されています。

遂に乃ち永貞元年に在る極寒の月満を以って、住世六十、僧夏四十にして、法印を結んで摂念し、人間に示すに、①薪の尽くるを以ってす

嵯呼痛いかな、日を建寅の十七に簡(えら)んで、塚を城郎の九泉に卜す。腸を断つて玉を埋め、肝を爛して②芝を焼く。泉扉永く閉じぬ。天に想うれども及ばず。茶蓼鳴咽(とりょうおえつ)して③火を呑んで滅えず。(傍線筆者)

これを「性霊集講義侃(107P)」は、次のように現代訳しています。

断腸の思いをしながら尊体を埋め、肝を焼爛せらるる思いをしながら之を焼き奉る。ああかくて永遠に貴泉に旅立たれてしまった。天に訴え叫けべども今は詮かたなし。

 ①「薪の尽くるを以ってす」と ②「之を焼き奉る」からは、恵果和尚が火葬されたのを空海は見ていたことになります。碑文を書いた空海は、師である恵果和尚の最期や葬送儀式に立ち会っていたはずです。そうすると、自分の最期を迎えるとき、師・恵果和尚の葬儀を思い返したことでしょう。

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         恵果崩御(高野空海行状図画)
また、実恵らの手紙の文章に対応する空海の「碑文」のことばをあげると(前が実恵らの手紙、後が空海の「碑文」)
③「薪尽き火滅す」     → 「人間に示すに、薪の尽くるを以てす」
⑤「雲樹悲しみを含む」→ 「天雲鯵々として悲しみの色を現わし、松風厖々として哀しなの声を含めり」
⑧「心は、火を呑むに同じく」→「荼蓼(とりょう)鳴咽して火を呑んで滅えず」
この対応関係からは、空海の最期を恵果和尚に重ね合わせて書かれたことがうかがえます。ここからは実恵が報告文を書く際に、空海の文章を何度も読んでいたことが見えて来ます。実恵らの書状には、「薪尽き火滅す」とあるだけで、具体的な葬送儀礼は伸べられていませんが、状況証拠からして、空海は火葬されたと研究者は考えています。なお「南山白に変じ、雲樹悲しなを含む」は、お釈迦さまが涅槃に人られたとき、沙羅双樹の葉が瞬時に白くなってしまったことを下敷きにしているようです

次に正史の『続日本後紀』巻四の承和2年3月21日の記録を見ておきましょう。

承和2年3月丙寅(21日)、大僧都伝燈大法師位空海紀伊国の禅居に終る

ここでは「禅居に終る」と記すだけです。これに対して、3月25日には、後太上天皇(淳和天皇)をはじめとする人たちの対応のようすが次のように詳しく記されています。

庚午(25日)、勅して内舎人(うどねり)一人を遣わして法師の喪を弔し、併せて喪料を施す。後太上天皇(淳和天皇)の弔書有りて曰く、真言の洪匠、密教の宗師。。邦家、其の護持に憑り、動植、共の掃念を荷ふ。あに図らんや。御慈いまだ逼(せま)らず。無常速に侵さんとは。仁舟悼を廃し、弱喪帰を失ふ。ああ哀しいかな。A禅関僻差(へきさ)にして、凶間、晩く伝ふ。使者奔赴して茶毘を相助くることあたわず。これを言いて恨みとす。帳恨何ぞ巳(やみ)なん。付にして旧窟を思うこと、悲涼料べし。今は通かに単書を寄せて之を弔す。著録の弟子、入室の桑門、棲愴(せいそう)奈何、兼ねて以つて旨を達す、と。  (『国史大系』第二巻 38P)

ここで研究者が注目するのが、Aの文章です。

禅関僻差(へきさ)にして、凶間、晩く伝ふ。使者奔赴して茶毘を相助くることあたわず。

周辺部を意訳変換しておくと

「大師のお住まいは僻左で、ずいぶん遠い山のなかであるから、その訃報が届くのが遅かった。そのため、使者を派遣して荼毘をお助けすることができなかったことは、痛恨の極みである

荼毘を相助くる」の「茶毘」をどう理解すればいいのでしょうか?
一般的には「茶毘にふす」といった形で使われ、火葬のことをさすことばです。これを「茶毘」は、「火葬ではなく、単に葬儀をさすことばである」とする説もありますが、すなおに読めば「火葬」とするのが自然と研究者は判断します。
我が国における火葬の初見記録は、『続日本紀』巻  文武四年(700)三月己未(十日)条の道昭の卒伝で次のように記します。
道昭和尚物化(みまか)りぬ。縄床に端座して、気息有ること無し。時にし七十有二。弟子ら、遺(のこ)せる教を奉けて、栗原(あわはら)に火葬せり。天下の火葬、此より始まれり。

ここには「栗原に火葬せり」と出てきます。考古学的には、それ以前の火葬の例も報告されているので、奈良時代にはある程度普及していたとされます。したがって、空海が火葬にされたことは充分に考えられます。しかし、ここでも研究者は断定はしません。それはこの後太上天皇の弔書が、いつの時点で書かれたかがよく分からないからです。天皇が正確な報告を開かないで書いたとすれば、推測で「茶毘」と記したとも考えられるからです。

ここまでを整理・要約しておきます。
①真言教団では入定留身信仰から「空海=火葬説」はタブーとされてきた。
②空海は入唐時に師の恵果の葬儀に参列し、その追悼文に「薪の尽くるを以ってす」②「之を焼き奉る」と書いている
③ここからは、恵果和尚が火葬されたことが分かる。
④空海入滅を長安の青竜寺に報告するために、実恵は留学僧に文書を渡した。
⑤その空海入滅報告書には、空海入定については何も触れられていない。
⑥空海の葬儀について、正史の『続日本後紀』巻四の承和2年3月25日の条には、「荼毘を相助くる」という言葉が出てくる
⑦これは「荼毘=火葬」と考えるのが自然であると研究者は判断する。
以上から、根本史料からは「空海火葬説」が優位であるします。また、空海入滅直後の記録には、生きながらにして成仏したということを裏付ける記述は見えないようです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献
「武内孝善 弘法大師 伝承と史実 朱鷺書房 198P」
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大師は高野山の奥の院に生身をとどめ、つぎの仏陀である弥勒菩薩がこの世にあらわれでられるまでの間、すっとわれわれを見守り救済しつづけているという信仰があります。これを「弘法大師の入定留身」と呼ぶようです。この信仰が生まれる契機となったのは、大師への大師号下賜だったとされてきました。それは次のような話です。

  空海は、承和2年(835)年3月21日に入滅した。その86年後の延喜21年(921)年10月27日に、「弘法大師」の諡号が峨醐天皇から下賜されることになった。その報告のため、奥の院に参詣した観賢は、人定留身されている空海の姿を拝見し、その髪を剃り、醍醐天皇から賜わつた御衣を着せて差し上げた。

 26御衣替
奥の院に参詣した観賢が、人定留身の空海と出会う場面

今回はこの「入定留身」伝説を、高野空海行状図画で見ていくことにします。テキストは「武内孝善 弘法大師 伝承と史実 絵伝を読み解く 朱鷺書房192P」です。

今生での別れのときが近いことを悟った空海は、承和元年(834)5月、弟子たちを集めます。
そして「僧団のあるべき姿と日々の仏道修行のあり方を、また高野山を真然に付嘱すること」を遺言したとされます。その場面が「門徒雅訓」です。

第九巻‐第2場面 門徒雅訓 高野空海行状図画


門徒雅訓 江戸時代の天保5年(1834)に模写
           門徒雅訓 高野空海行状図画(トーハク模写版)

 この絵図版は、狩野〈晴川院〉養信ほかが、天保5年(1834)に模写したもで、トーハク所蔵でデジタルアーカイブからも見ることができます。原本は、鎌倉時代・14世紀に描かれたもののようです。
 中央の椅子にすわりこちらにむかってっているのが空海です。そして弟子たちがその廻りに座っています。しかし、空海の顔が見えませんし、弟子たちは七人しか描かれていません。

門徒雅訓 高野空海行状図画 親王本
    門徒雅訓 高野空海行状図画(親王版) 十大弟子に遺言する空海
一方、こちらは十大弟子とされる「真済・真雅・実恵・道雄・円明・真如・杲隣・泰範・智泉・忠延」が、空海ののまわりを取り囲んでいます。今の私にはこの絵の中に、誰がどこに描かれているのかは分かりません。悪しからず。
 空海が高野山を開いた当時は、奈良の「南都六宗」の力が巨大で、生まれたばかりの真言宗は弱小の新興勢力でしかありません。そのために空海はブレーンを集めるのに苦労したようです。そこで頼ったの「血縁と地縁」です。実恵は空海の佐伯直本家出身、真雅は空海の弟、智泉と真然は甥、とされます。空海と同じ讃岐の出身者の割合が高いのです。初期の真言集団が、讃岐出身者で固められていたことをここでは押さえておきます。
 祖師に仕える十人の弟子の絵は、何を表しているのでしょうか?
 
これを深読みすると、当時の真言宗の階層性社会が見えてくると研究者は考えています。別の視点から見ると、高野山の伽藍の堂宇は彼らによって造営されたものです。人物は高野山の伽藍を象徴しているとします。僧侶の肖像画は、教団と伽藍を示す暗喩でもあると云うのです。
 また地蔵院流道教方の歴代僧侶画像には「真雅・源仁・聖宝・観賢・淳祐・元杲・仁海・成尊・義範・勝覚・定海・元海・実運・勝賢・成賢・道教」が描かれています。密教では師から弟子へと教えを引き継ぐ儀式を灌頂といい、頭の上(頂)から水を注(灌)ぐように、師の知識や経験、記憶は弟子へと受け継がれていきます。その際には、教えを受け継いできた歴代僧名を記した系譜「血脈(けちみゃく)」が与えられます。そういう意味では、この歴代僧侶画像は「血脈を絵画化」したものと研究者は考えています。
 歴代先師の肖像は、僧侶が受け継いだ教義の道程を示すものであり、僧侶自身が歴史の連続体の中にあることを実感させる道具の役割を果たします。
いわば肖像は、過去から現在へと連なる時間の流れを視覚化するものなのです。並んだ歴代肖像画を見上げる僧侶達は、自分がとどの祖から派生し、どの血脈に賊するかがすぐに分かります。十人の弟子たちが描かれていると云うことは、そんなことも意味するようです。とすれば、トーハク版の法が十人をしっかりと描いていません。原画は、それに無頓着な時代に描かれたことが考えられます。
 またこの十大弟子に、後に孫弟子で「高野山二世」となった真然(しんぜん)と、平安中・後期に高野山の再興に尽くした祈親上人(定誉)の2人が追加され、十二人になります。十二人ですが「釈迦の十大弟子」になぞらえ、人数が増えてもそのままの呼称で呼ばれているようです。

入定留身1 高野空海行状図画
             入定留身

空海は、承和2年(835)3月15日、改めて弟子たちに遺言します。
これが「遺告(ゆいごう)二十五条」とされてきて権威ある文書とされてきました。しかし、近年では空海がみずから書いたものではないとする説が有力のようです。それは別にして、このこの「遺告二十五条」には、この時に空海は次のように云ったと記されています。

私は来る三月二十一日の寅刻(午前4時)に入定し、その後は必ず兜卒天(とそつてん)の弥勒菩薩のもとに行き、お前たちの信仰を見守っていよう。一心に修行するがよい。五十六億年あまりのち、弥勒菩薩とともに、必ずこの世に下生するから、と,(『定本全集』七 356P)

ここからは空海が亡くなったのは、承和2年(835)年3月21日の寅の刻であることが分かります。空海は胎蔵・大日如来の法界定印をむすび最期を迎えます。御歳63歳、具足戒ををうけてから31年目のことになります。
 この時のことを、高野空海行状図画は三場面で描いています。
右は、諸弟子に見守らて最期を迎えられたところです。真ん中にすわる空海となみだをぬぐう十人の弟子たち、
入定留身 高野空海行状図画親王本
 入定留身(高野空海行状図画 親王院本)
中央は、大塔のよこを黒い棺に人れられて運ばれている場面です。目指すのは左の奥の院です。
一説には次のように記します。
「弟子たちは、埋葬後も生前と同じように仕え、49日目に、鬚をそり、衣服をととのえて、住まわれていた住房(現御影堂)から奥の院に移した。後に石室を造り、陀維尼と仏舎利をおさめ、五輪塔をたてた」

ここでは、空海は黒い布が架かられた御簾で運ばれています。
左の奥の院には、一番奥に宝形造りの御廟と灯籠堂が、御廟の右に丹生・高野明神社が描かれています。この奥の院の風景は、平安末から鎌倉時代にかけてのものであり、当時のものではないことを研究者は指摘します。

入定留身 高野空海行状図画 生身の空海
       入定留身(高野空海行状図画模写)
江戸時代末の模写を見てみると、空海はまさに生き身の姿で担がれています。「入定留身」をより印象づける姿です。
入定留身 奥の院 高野空海行状図画
入定留身 奥の院への道には卒塔婆が並ぶ
時衆の開祖一遍も高野山にやってきています。それが  「一遍聖絵」(歓善光寺蔵)に描かれています。そこに描かれた奥の院を見ておきましょう。

「―遍聖絵」(歓善光寺蔵)に描かれた高野山奥の院

             「一遍聖絵」(歓善光寺蔵)に描かれた奥の院
①参道の両脇に立ち並ぶのは石造の長い卒塔婆のようです。
②その途中に右から左に小川が流れ、そこにに橋が架けられています。この川があの世とこの世の結界になるようです。これが今の「中橋」になるようです。
③中橋を渡り参道を登ると広場に抜け、入母屋造りの礼堂に着きます。
④その奥の柵の向こうに、方三間の方形作りの建物があります。これが弘法大師の生き仏を祀る廟所のようです。
⑤周りには石垣や玉垣がめぐらされ、右隅には朱塗りの鎮守の祠が建ちます。
⑥廟所の周りにいるのは烏たちです。カラスは死霊の地を象徴する鳥です。
この絵からは高野山の弘法大師伝説の定着ぶりが確認できます。

空海への大師号下賜


    921年の観賢の2度目の上奏に対して、醍醐天皇は勅書をもって空海に「弘法大師」の諡号を下賜したことが次の史料で裏付けられます。(『国史大系』第。1巻、24P)

己卯。勅す。故贈大僧正空海に論して、弘法大師と曰う。権大僧都観賢の上表に依るなり。勅書を少納言平惟扶(これよりともいう)に齋さしめ、紀伊国金剛峯寺に発遣す。

〔現代語訳〕
(延喜21年10月)27日、醍醐天皇は故贈大僧正空海に諡号を下賜され、その贈り名を「弘法大師」とした。このことは、権大僧都観賢からの上表によって実現したことである。 そこで、この贈り名を下賜する勅出を少納言惟扶に持たせて、(その報告のために)紀伊国金剛峯寺にむけて派遣させた。

  このあたりのことを高野山のHPには次のように記します。
10月27日、勅使の平維助卿一行が高野山に登嶺し、厳かに宣命を読み上げられました。その後、東寺の住職、観賢僧正は下賜伝達のため、弟子の淳祐を伴い、高野山へ。入定後初めて御廟の扉を押し開けたところ、そこには深い霧が立ちこめ、お大師さまの御姿を拝することが叶いませんでした。僧正は自らの不徳を嘆き、一心に祈られました。すると霧が晴れ、そこには天皇から聞かされていたとおりのお大師さまの御姿がありました。しかし、淳祐にはどうしてもその姿を拝することが叶いません。そこで僧正は淳祐の手を取り、お大師さまのお膝にそっと導かれます。その膝は温かく、淳祐の手には御香の良い香りが残りました。
 二人は準備しておいた剃刀ていとうでお大師さまの髪や髭を整えると、新しい御衣にお召し替えいただき、大師号下賜の報告を申し上げました。そしていよいよ観賢僧正と淳祐が御廟を退座し、御廟橋の袂たもとで後を振り返ると、そこにはお大師さまのお姿がありました。僧正は御礼を申し上げると、お大師さまは「汝なんじ一人を送るにあらず、ここへ訪ね来たるものは、誰一人漏らさず」と仰せられました。淳祐の手の香りは生涯消えず、持つ経典に同じ香りが移ったといわれております。

贈大師号 高野空海行状図画
          贈大師号 右が空海との対面場面 左が剃髪場面
右の場面は、大師号が下賜されたことを伝えるために、高野山に登った東寺長官の観賢と弟子淳佑(しゅんにゅう)が、奥の院の廟竃を開き、禅定の姿をした空海と対面した所です。
26御衣替
 高野山HPの空海との対面場面 

大師号下賜 親王院本九- 院納院本
贈大師号 高野空海行状図画(親王院本)
親王院本を見ると空海の頭には、長く伸びた髪が描かれています。この時に、姿を見たのは観賢だけで弟子淳佑は見ることはできなかったと記します。そこで観賢は、その姿を分からせるために空海の膝に触れさせようと、手を取って導いています。

大師号下賜 高野空海行状図画親王院本 剃髪

左の場面は、のびるにまかせていた空海の髪を観賢が剃っているシーンです。御髪を剃った観賢は、次のように詠います
たかの山 むすぶ庵に袖くらて 苔の下にぞ有明の月

空海が登場する霊夢を見た醍醐天皇自らが贈られた檜皮色の御衣を着せて、もとのように石室を閉じた、とします。この故事にもとづき、今も高野山では衣服を取り替える儀式が行われているようです。この「お衣替」の儀式は、 甦り、再生の儀式でもあると研究者は指摘します。こうして「空海は生命あるものすべてを救済するために、奥の院に生身をとどめておられる」という「人定留身信仰」が生まれます。そして11世紀はじめになると、高野山の性格は「修行の山から信仰の山へ」と大きく変わっていくのです。空海はいまも、「虚空尽き、衆生尽き、涅槃尽きなば、我が願いも尽きん」との大誓願のもと、われわれを見守りつづけてくださっているというのが高野山の立場のようです。
 研究者が注目するのは、画面に五輪塔が描かれていることです。しかし五輪搭があらわれるのは平安中期以後で、このような大型のものは、奈良西大寺の律宗の布教戦略に絡んで出現します。10世紀前半には五輪塔は早すぎるというのです。
以上を整理・要約すると
①空海は入滅後は、高野山奥の院の霊廟に入定した。
②それから86年後に空海に大師号が下賜された。
③それを知らせに高野山に赴いた東寺の観賢は、霊廟をあけると空海が髪を伸ばして座っている姿に出会った
④そこで髪を剃り、天皇より下賜された服を着せ、霊廟を閉めた。
⑤こうして空海は生命あるものすべてを救済するために、奥の院に生身をとどめているという「人定留身信仰」が生まれた。
⑥この信仰は高野聖などによって各地に伝えられ、弘法大師伝説と高野山を使者供養の信仰の山として
全国に流布することになった。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 
「武内孝善 弘法大師 伝承と史実 絵伝を読み解く 朱鷺書房」
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前回は空海への大師号下賜について、次のように見てきました。

空海への大師号下賜

ここで注目したいのが④⑤です。④で観賢がお願いした大師号は「本覚大師」でした。ところが、⑤で下賜されたのは「弘法大師」だったのです。どこで、誰が、何を根拠に、「本覚大師」を「弘法大師」に変更したのでしょうか。今回は、このことについて見ていくことにします。テキストは、武内孝善「弘法大師」の誕生 大師号下賜と入定留身信仰 春秋社」です。

「弘法大師」の誕生 大師号下賜と入定留身信仰
 
「弘法大師」という大師号は、何を根拠に命名されたのでしょうか?。
その代表的な説は、賢宝の『久米流記』所収の「無畏三蔵懸記」で次のように記します。

のちの世に、必ず法を弘め衆生を利益する菩薩があらわれ、この秘密の教えを世界中に広めるであろう、と。正に、これは空海にぴつたりです。あたかも割符のようある。

つまり、「無畏三蔵懸記」に依拠したものである、とします。しかし、この賢宝説について研究者は、
「久米流記」の成立は鎌倉時代のもので、大師号下賜より後の時代の書物であると、次のように指摘します。
①「国書総目録」によると、「久米寺流記』の1番古い写本は、元亨3年(1323)書写の高野山大学蔵本であること。
②『久米寺流記」の活字本(「続群書類従」第27輯下所収)には、ここに引用した一文がないこと
③『国書総目録』には、「無畏三蔵懸記』は載っていないこと。
以上から、賢宝説を認めることは出来ないと研究者は判断します。

それでは「弘法大師」という大師号は、どもに出典があるのでしょうか?
それは空海の著作の中から取られたものと考えた研究者は、『定本弘法大師全集』で「弘法」を検索します。弘法大師の著書の中で「弘法」という言葉が出てくるのは次の3つのようです。
①「弘法利人(りにん)    三ヶ所
  「広付法伝」「恵果和尚」の項
  「龍猛阿闍梨」の項
  「十二月十日付けの藤原三守あて書状)
②「弘法利人之至願」   一ヶ所(弘仁六年(815)4月の「勧縁疏」)
③「弘法利生」      一ヶ所(弘仁12年(821)11月の藤原冬嗣・三守あて書状)

「弘法利人」とは、「法=密教の教えを弘めて、人びとを利益し救済すること」、
「弘法利生」とは、「法=密教の教えを弘めて、生きとし生けるものすべてを利益し救済すること」

の意味のようです。この言葉がどんな場面に使われているかを見ておきましょう。
①の「弘法利人」は、『広付法伝』「恵果和尚」の項に引用されている呉慇(ごいん)纂「恵果阿閣梨行状』に出てきます。それは恵果和尚の人となりを記した一節で、次のように記します。

人間空海③ 「入唐」恵果和尚から密教継承 帰国後、天皇2人に灌頂 静慈圓がみた 人間空海|文化・芸能|徳島ニュース|徳島新聞デジタル
     恵果(右)と空海(左)
【史料12】『広付法伝』『定本弘法大師全集』第一、111P)

大師は唯心を仏事に一(もっぱら)にして意を持生に留めず。受くる所の錫施(しゃくせ)は一銭をも貯えず。即ち曼茶羅を建立して弘法利人を願い、灌頂堂の内、浮屠(ふと)塔の下、内外の壁の上に悉く金剛界及び大悲胎蔵両部の大曼茶羅及び十一の尊曼茶羅を図絵す。衆聖厳然として華蔵(けぞう)の新たに開けたるに似たり。万徳輝曜(きよう)して密厳の旧容に還れり。一たび視一たび礼するもの、罪を消し福を積む。 

  〔現代語訳〕
大いなる師・恵果和尚のみこころは、つねに仏さまに関することだけであつて、いのちをいかに永らえるかなどは眼中になかつた。すなわち、施入された財貨などは一銭たりとも蓄えることはなさらなかった。もつぱらの願いは、いかにすれば法を弘めひとびとを救うことができるかであって、曼茶羅の図絵を精力的になされました。たとえば、濯頂堂の中は、仏塔の下といい、内外の壁といい、金胎の両部曼茶羅とたくさんの別尊曼茶羅がすきまなく画かれていました。そこは大日如来の密厳浄土そのものであって、光り輝く仏さまの満ち満ちた世界が厳然とあらわれていました。その注頂堂をひとたび見、ひとたび礼拝するだけで、これまでの罪をすべて消し去り、さとりへの功徳がえられるのでした。
ここには、恵果和尚が何を願い、いかなる日々を送られていたかが描かれています。それを一言で言うのなら「弘法利人=いかにすれは法を弘めひとひとを救うことかできるか」ということになります。
帰国したあと、空海は困難なことに出会ったとき、指針としたのが恵果和尚の人となりであり、恵果和尚のことばであったとされます。こう考えると、空海の後半生は、「弘法利人」の精神をいかに具現化するの日々とも云えます。

つぎは、「弘法利人之至願」を見ておきましょう。
このことばは、弘仁6年(815)4月の『勧縁疏』に出てきます。

泉涌寺勧縁疏〈俊芿筆(蠟牋)/承久元年十月日〉 文化遺産オンライン
                 勧縁疏
『勧縁疏』は、空海帰朝後9年目に、空海が密教をわが国に広め定着させる運動を本格的にはじめた巻頭に書いた文章で、次のように記します。

「わが国に密教を弘めることを誓って帰国し多年をへたけれども、その教えはまだ広く流布していない。それは密教の経論が少ないからである。そこで、顕教にあらゆる点で勝るこの密教に結縁していただき、密教経論三十五巻を書写してほしい」

と有縁のひとびとにお願いし、秘密法門=密教経論の流布を図っています。この「勧縁疏」は、短いものですが、密教の特色が簡潔に記されているので、空海の思想の成立ちを考える上で、よく引用・利用されています。その中で「弘法利人之至願」という表現は、『勧縁疏』の最後の「願意」をのべたところに次のように出てきます。
【史料13】『勧縁疏』(『定本弘法大師全集』第八、 176P)

庶(こうねが)わくは、無垢の限を刮(ほがら)かにして三密の源を照らし、有執(うしゅう)の縛を断じて五智の観に遊ばしめん。今、弘法利人の至願に任(た)えず。敢えて有縁の衆力を憑(よ)り煩わす。不宣、謹んで疏(もう)す。

  〔現代語訳〕
わたくしの願いは、人びとをして、けがれなき清きまなこをかっと見ひらいて、密教の真髄である三密喩伽の根源を見きわめ、煩悩にしばられた心を断ちきつて、大日如来のさとりの世界たる五智の観想を味わっていただきたいことであります。いま、この最勝最妙なる密教の教えを弘め人びとを救いたい、ただそのことだけを願って、特にこ縁のある方々に密教経論の書写への助力をお願いする次第であります。意を尽しませんが、心からお願い中しあげます。

研究者は「今、弘法利人の至願に任えず」を、「いま、この最勝最妙なる密教の教えを弘め人びとを救いたい、ただそのことだけを願って」と解釈します。ここで空海は、初めて大々的に密教宣布を表明しています。その中で「最新の仏教=密教」を弘めることによって、日々苦しんでいる人たちに何とか手を差しのべたい、お救いしたい」と宣言しています。これはさきほどみた恵果和尚の弘法利人と共通する精神が読みとれます。以上から、わが国への密教の宣布を誓われた最初のことばが「弘法利人の至願」であり、この「弘法利人」をつづめて「弘法」とし、空海への大師号「弘法大師」としたと研究者は判断します。
それでは、この「弘法」を空海の著書から抜き出していきた人物はだれなのでしょうか。
空海への大師号下賜に、中心的な役割を果たしたのは次の3人でした。

①二度上表した観賢 「本覚大師」の下賜を願う
②禅譲後に真言宗僧侶として見識を高めていた寛平法皇(宇多天皇)
③大師号を下賜された醍醐天皇

①の観賢は、最初に見た通り具体的に「本覚大師」という名前を挙げて下賜を願いでています。そして彼は、申請時には第2代醍醐寺座主、第4代金剛峯寺座主を兼務する立場です。彼の申請をはねつけて別の大師号にするという僧侶は、③の醍醐天皇周辺の真言宗のお抱え僧侶の中にはいないはずです。そうだとすれば、②の寛平法皇が自然と浮かび上がってきます。

 寛平法皇

寛平法皇の譲位後の真言僧侶としての活動を年表化して見ておきます。
①寛平9年(897)7月2日、30歳で醍醐天皇に譲位
②昌泰2年(899)10月24日、仁和寺で益信を戒師として落飾し、空理、または金剛覚と称す
③同年11月24日東大寺戒壇院にて具足成を受け
④延喜元年(901)12月13日、東寺灌頂院において、益信を大阿開梨として伝法灌頂を受法
⑤延喜18年5月には、東寺濯頂院において法三宮真寂親王はじめ六名に、伝法灌頂
⑥同年8月には嵯峨大覚寺で寛空はじめ七名に、伝法灌頂
ここからは、延喜21(921)年の時点で寛平法皇が「すでに真言密教に精通され」ていたことが裏付けられます。真言宗と空海への知識と理解の上で、寛平法皇が「本覚大師」を退けて「弘法」案を出したと研究者は推測します。
以上を整理・要約しておきます。
①921年年10月2日に、観賢は2回目上奏を行い、諡号「本覚大師」下賜を願いでた。
②その月の下旬に、醍醐天皇より諡号が下賜されたが、それは「弘法大師」であった。
③「弘法」という言葉は、空海の著作の中には「弘法利人」「弘法利生」などが出てくる。
④これは空海の師匠である恵果和尚の人となりに触れたもので、空海のその後の生き方に大きな影響をもたらした言葉でもある。
⑤申請された「本覚大師」に換えて「弘法大師」下賜案の影の人物としては、真言僧侶として研鑽に努めていた寛平法皇の存在が見え隠れする。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 
武内孝善「弘法大師」の誕生 「弘法大師」の誕生と入定留身信仰 春秋社」

空海に大師号をたまわりたい、と真言宗から願い出たときの上奏文が4通、伝わっています。
その内の「①延喜18(918)年8月11日 寛平法皇、贈大僧正空海に諡号を賜わらんことを請わせ給う。」については、寛平法皇(宇多天皇)が上表したとされるものですが、後世の偽書的な要素が強いことを前回は見てきました。今回は、空海への大師号下賜の決め手となった観賢の上奏文を見ていくことにします。テキストは「武内孝善 弘法大師の誕生 大師号下賜と入定留身信仰 春秋社」です。

「弘法大師」の誕生: 大師号下賜と入定留身信仰 [書籍]

残されている
観賢の上奏文は、次の3通です。

②延喜18(918)年10月16日 観賢、空海に諡号を賜わらんことを奏請す。
③同 21(921)年10月 2日 観賢、重ねて空海に諡号「本覚大師」を賜わらんことを奏請す。
④同年        10月 5日 観賢、早く諡号を賜わらんとの書を草す。
④については、③との間隔が短すぎるので、実際には提出されなかったとされます。そうだとすると、空海の場合は、観賢僧正による2回(②③)の上奏をへて、下賜されたことになります。
空海に大師号が下賜されたとき、中心的な役割を果たしたのは誰か。
研究者は次の3人の名を挙げます。
①二度上表した観賢
②偽作ではあるが上奏文の残る寛平法皇(宇多天皇)
③大師号を下賜された醍醐天皇
①の観賢僧正について見ておきましょう。
854年 空海と同郷の讃岐・鶴尾(旧鷺田村)の豪族伴氏(秦氏?)の家に生まれる。
8歳の時に巡錫中の聖宝(理源大師)が掠うように連れ帰った。
18歳の時に、真雅(空海の弟)について出家・受戒し、聖宝より三論・真言密教の教学を学ぶ
895年(寛平7年) 灌頂(41歳)
900年(昌泰3年) 仁和寺別当となり、般若寺を再興し、その後は弘福寺別当・権律師となる。
909年には第9代東寺長者となり
919年に第2代醍醐寺座主、そして第4代金剛峯寺座主を歴任し
923年(延長元年)には権僧正に任じられた。
以上から、観賢が讃岐出身で理源大師の直弟子であったこと、理源大師の後、醍醐寺の第二代座主についた人物であること、修験者的要素を持つ人物であったことなどを押さえておきます。


観賢僧正(854-925)は、讃岐国の出身。
中央が聖宝(理源大師)・右が役行者・左が
観賢 (醍醐寺)
観賢僧正(854-925)は、讃岐国の出身。聖宝尊師の没後、醍醐寺の第一世の座主となった。
                    観賢
最初に上奏された918年から921年に下賜されるまでの間、醍醐天皇・寛平法皇・観賢の3名を結びつけたのが『三十帖策子』の回収作業だったと研究者は指摘します。

東京古典会>出品目録:三十帖策子
                 三十帖策子

『三十帖策子』とは、在唐中の空海が経典・儀軌など150部を筆録した枡形の小冊子です。
東寺経蔵に秘蔵されていたものを、真然が持ち出し、弟子の寿長・無空へと伝えました。無空が山城圍提寺で亡くなったあと、『策子』はその弟子たちが分散所持していました。空海の根本法文が散逸していることを藤原忠平が醍醐天皇に奏上します。それを受けて天皇はその回収を観賢に命じます。すべてを回収できなかった観賢は、920年2月、寛平法皇の力をかりてすべてを回収して目録を作成し、天覧します。
天覧の場には、天皇だけでなく寛平法皇も臨席されていたでしょう。『策子』を目にした人達は、空海の入唐の労苦を偲ぶとともに、その大いなる恩恵を語ったなかで、大師号のことが話題に登ったという物語を研究者は考えています。
 この『三十帖策子』改修作業と並行して、919年10月、観賢は空海への大師号の下賜を上表していたことになります。この時は、天皇の内意は得られたが、勅書は出されなかったとされます。そして、『三十帖策子』が改修され東寺に秘蔵された後の920年10月の2度目の上表に応えて勅書が下されます。「三十帖策子」の回収と天覧が、大師号の下賜に大きな役割を果たしたことになります。
観賢僧正による1回目「延喜18年(918)10月16日付」の上奏文を見ておきましょう。
『追懐文藻』『弘法大師全集』第五輯、410P)
観賢(式部少輔大江千古、観賢に代りて文を作る)
諡号を真所根本阿閣梨贈大僧正法印大和尚位空海に追贈せられんことを請うの事
       右、空海、
ア 智慧鏡を懸け、戒定珠(たま)を護る。法水の方流を酌み、禅門の偉器為(いきた)り。
イ 爰に命を魏欠(ぎけつ)に衛んで、週に聡明を渉り、道を唐家に問って、遂に玄妙を窮む。如末秘密の旨、伝印相承し、恵果甚深の詞、写瓶して漏らさず。
ウ 其の帰日に臨んで請来の法文、都慮二百十六部四百六十一巻、皆な足れ護国の城郭、済世の舟柑たる者なり。
エ 閣梨、其の道至って優れ、其の徳弥広し。
オ 公私共に帰依の意を寄せ、紺素争って欽仰の誠を凝らす。
カ 況んや復、門徒業を受くる者、肩を比べて相い連なれり。弟子風に染む者、跡を継いで絶えず
キ 其の大阿閣梨為ること、世を歴ると雖も知るべし。
ク 只だ贈位の勅のみ有って、曾って礼論の栄無し
ケ 茲に因って真言を習うの侶、卓書を学ぶの流、其の称揚に当つて、動もすれば忌講に触れん。
コ 方に今、当時の恩朽株に被り、仁枯骨を霧すこと、既に千年の運に遇う。何ぞ万代の名を埋めん。
サ 望み請うらくは、殊に天の恩裁を蒙り、将に諡号を追賜せられんことを。懇切の至りに任えず。仍って事の状を録して、謹んで処分を請う。
延喜十八年十月十六日           権大僧都法眼和尚位観賢
乃ち允許の天気を蒙ると雖も、米だ施行の明詔有らず。
〔現代語訳〕
諡号を真言の根本阿閣梨・贈大僧正法印大和尚位の空海に追贈せられんことをお願いする事
右、空海は、
ア 智慧をよりどころとして掲げ、戒定慧の三学を宝珠のように護って、仏法の最高の教えである密教を学び、禅定門の偉人な師となられました。
イ ここに朝廷から命をうけ、留学僧として大海をわたり、仏道を唐の長安に求め、ついに奥深い教えを余すところなく体得されました。正統なる如来秘密の教えを誤りなく相承し、恵果和尚の甚深なる教えを一滴たりとも漏らすことなく伝えられました。
ウ その帰朝に際してわが国に請来した法文は、全部で二百十六部四百六十一巻に及びます。これらはみな国を護る城に等しい教えであり、世の人びとを彼岸に渡す舟であります。
エ 大阿閣梨たる空海が求めえた教えはこの上なく優れ、またその徳は広大無辺であります。
オ 天子様をはじめ多くのひとが親しく帰依し、僧も俗人もきそって欽仰の誠をささげました。
カ その法を受け一門に人ったものは数多くあり、今に相続いています。空海の教えを慕い信奉するものも跡を絶たず、しっかり受け継がれています。
ク これまではただ、贈位を下賜されただけでありまして、いまだ諡号の栄誉には預かっておりません。
ケ よってここに真言密教を習っている僧侶、また草書を学んでいる文人が、空海を称揚するあまり、どうかすると天子様のお怒りにふれないかと恐れています。
コ 今まさにご恩を賜りますならば、その仁徳によって生命がよみがえり、まぎれもなくその誉れは千年におよび、万代にもその名は伝わるでありましょう。
サ お願いいたしたきことは、天子様の特別の思し召しをこうむりまして、正に諡号を追賜せられんことであります。本心からの真のお願いでございます。そのため、お願いにいたった経維を記しまして、謹んでご聖断をお願いいたす次第でございます。
延喜十八年十月十六日           権大僧都法眼和尚位観賢
〇かくて允許するとのご意向をこうむったけれども、実際に詔勅を下されるまでにいたらなかった。

この上奏文で、研究者が注目するの次の2点です。
第1は、巻首に、「式部少輔であった大江千古、観賢に代りて文を作る」とあります。ここからはこの上奏文が、観賢から依頼を受けて、式部少輔大江千古(ちふる)が代作したものであることが分かります。千古は、「本朝秀才のはじめ」といわれた大江音人の子で、従四位上式部少輔で、兄が三十六歌仙のひとり大江千里です。千古は学問の家、学者の家系に生まれ育った名文家であったようです。

第2の注目点は、上表文の最後に、「乃ち允許の天気を家ると雖、未だ施行の明詔有らず」です。「允許する」との朝廷の内意はあったけれども、具体的な勅許の沙汰はなかつたと、最後に註記します。
この「未だ施行の明詔有らず」をうけて、3年後の921年10月2日、再度の上奏がおこなわれることになります。
【史料8】『迫懐文藻』(『弘法大師令集」第5、410P)
観賢(大学の頭三善文江(みよしふみえ)、観賢に代りて文を作る)
 重ねて処分を被り、諡号を真言根本阿間梨贈大僧正法印大和尚位空海に追賜せられんことを請う事
右、空海、
ア 戒行倶に足りて、人天皆な敬う。虚鳥の翅自ら軽く、水鮫の眼溺れず。
イ 昔王言を聖朝に奉りて、遠く仏語を震旦に求め、葦を萬里の外に浮べ、 三密を寸心の中に請う。
ウ 是に於いて波を踏んで津を問い、岸に帰って道を伝う。
エ 二百十六部、之を習う者は、不空の前に対するが如く、四百六十一巻、之を受くる者は、自ら如来の室に入る。
オ 世を済い物を済う、其の務め深し。惑を断じ機を断ず、其の情至れり
カ 故に前年、誠を抽んでて 諡号を賜わらんことを請う。而るに卑聴、猶隔てあり。懇志披かず。
キ 空く机檀を改め、多く冷焼を過ぎん。阿闍梨深く定水の心を凝らし、兼ねて臨池の妙を究む
ク 締素皆な脩頼を成し、倭漢推して借模と為す。
ケ  夫れ以みれば、諡は其れ功を顕わし、徳を施すの称、古を引き後を誠めるの法なり゛
コ  若し斯の人をして其の名を埋め令めなば、則ち美玉山巌の下に潜み、黄金沙石の中に免れ不るなり。
サ  望み請うらくは、殊に天裁を蒙り、本覚大師と号し、将に溢号を追贈せ被れんことをことを。猥りに軽毛の心に任せ、偏に逆鱗の畏れ忘る。仍って事の様を注して重ねて重ねて処分を請う
延喜二十一年十月二日                          権大僧都法眼和尚位観賢上表す
〔現代語訳〕
重ねてご聖断をたまわりまして、諡号を真言の根本阿閣梨・贈大僧正法印大和尚位・空海に追賜せられますことをお願いする事
        右、空海は、
ア 戒律を守り徳行を十分に備えた方であって、人間界だけでなく天上界からも敬慕されています。大鳥の翅といえども軽く、水中にすむ龍は決して溺れることはございません。
イ かつて天子の勅命により、仏の真実のことばをはるか唐に求めて、小舟をもって万里の波濤をわたり、心から三密の教えを請い求められました。
ウ このように大海を越えて教えをもとめ、帰り来たって真実の道を伝えられました。
エ その請来された仏典は二百十六部、これを学習するものは、あたかも不空三蔵の面前にいるかと想い、四百六十一巻の経巻によって受法するものは、おのずと大日如来の曼茶羅世界に入っていきました。
オ 世の悩み苦しむ人びとに救いの手を差しのべ、また生きとし生けるものすべてを救わんとなさる、その活動は極めて意義深いことです。
カ それゆえ、先年、真心を尽して、読号を賜わりたき旨をお願いいたしました。しかるに、浅はかなお願いであったのか、朝廷とのあいだに開きがあり、真心からのお願いにもかかわらず受け入れられませんでした。
キ 世の無常にめざめて大学をやめ(役人となる道を)改めてから、幾星霜が過ぎたでありましょう。阿閣梨はひたすら深き禅定に心を集中なさり、一方で書の妙境を究められました。
ク 僧も俗人もみな心から信頼をよせ、わが国でも唐でもすすんで手本としています。
ケ よくよく考えてなると、諡号はその人の功績を顕彰し、功徳をたたえる呼称であって、先の性の人を引きたて後の世の人びとの誡めとする法であります。
コ もし空海の名を(いま顕彰しないで)埋没させるならば、それは美玉を山の巌のもとに隠し、責金を沙石のなかに埋めるに等しきことであります。
サ お願いいたしたきことは、天子様の特別の思し召しをこうむりまして、正に諡号「本覚大師」を追贈せられんことであります。思慮もなく安易な心に任せてのお願いではございますが、(真心からのお願いでありますから)天子様のお怒りをかうなどと言うことを忘れるほどでございます。そのため、お願いにいたった経緯を記しまして、重ねてご聖断をお願いいたす次第でございます。
延喜二十一年十月二日         権大僧都法眼和尚位観賢上表す

この上奏文で研究者が注目するのは、サの部分です。
殊に天裁を蒙り、本覚大師とし、将に諡号を追贈せ被れんことを。

ここでは観賢は空海に「本覚大師」の諡号をたまわりたいと、具体的な名前を挙げてお願いしていることです。「本覚思想」は、空海が最終的にたどりついた密教世界のこととされます。したがって、観賢としては、「本覚大師」こそが、空海にもっともふさわしい諡号とと考えていたことが分かります。

観賢僧正の2度目の上奏に対して、その25日後に、醍醐天皇は勅書をもって空海に「弘法大師」の諡号を下賜します。
【史料1】(『国史大系』第。1巻、24P)

己卯。勅す。故贈大僧正空海に論して、弘法大師と日う。権大僧都観賢の上表に依るなり。勅書を少納言平惟扶(これよりともいう)に齋さしめ、紀伊国金剛峯寺に発遣す。

〔現代語訳〕
(延喜21年10月)27日、醍醐天皇は故贈大僧正空海に諡号を下賜され、その贈り名を「弘法大師」とした。このことは、権大僧都観賢からの上表によって実現したことである。 そこで、この贈り名を下賜する勅出を少納言惟扶に持たせて、(その報告のために)紀伊国金剛峯寺にむけて派遣させた。

    もう1つの根本史料が、延喜21年10月27日付の「勅書」です。
この「勅書」の本文は、あまり紹介されていないようです。そこで研究者は、この「勅書」を読み下し、現代語訳しているので見ていくことにします。
【史料10】『迫懐文藻』(『弘法大師全集』第五、412P    
 琴絃己絶、遺青更清、
 蘭叢雖凋、余芳猶播。
故贈大僧正法印大和尚位空海
 消疲煩悩、
 地却晰貪
 全三十七品之修行、
 断九十六種之邪見。
既而
 仏日西没、渡冥海而仰余輝、
 市法水東流、通陵谷而導清浪,
 受密語者、多満山林、
 習真趣者、自成淵叢。
況太上法皇
 既味其道、
 宙迫憶其人。
 誠雖浮天之波涛、
 前何忘積石之源本。
宜加崇訪之典、諡号弘法大師
       延喜二十一年十月十七日  勅使 少納言平惟扶
〔読み下し文〕
勅す
 琴絃已に絶えて、遺音(いいん)更に清く、
 蘭叢凋めりと雖も、余芳猶お播(ほどこ)す。
故の贈大僧正法印大和尚位空海は、
 煩悩を消疲し、
 驕貪を地却す。
 三十七品の修行を全し、
 九十六種の邪見を断つ。
既にして
 仏日西に没し、冥海を渡って余輝を仰ぎ、
 法水東に流れ、陵谷に通じて清波を導く
 密語を受くる者、多く山林に満ち、
 真趣を習う者、自ら淵叢を成す。
況や太上法皇、
 既に其の道を味わい、
 宙追って其の人を憶う。
 誠に浮人の波涛と雖も、
 何ぞ積石の源本を忘れんら
宜しく崇訪の典を加へ、諡して弘法大師と号すべし。
延喜十1年十月十七日   勅使

〔現代語訳〕
天皇のおことばを伝えます。
少納言平惟扶
琴のいとが切れてしまったように、すでに身まかられたけれども、その名声は清く高く、
蘭がしぼんでしまったように、生命は天地にかえったけれども、残された教えは今なお広まる。
故の贈大僧正法印大和尚位空海は、
煩悩を消し去り、
おごりとむさぼりとを脱却し、
三十七種の涅槃にいたる修行を先令におさめられ、
九十六種の外道の説く邪見を断ちきられた。
すでに、
釈尊は西方のインドにて洋槃に入られ(たけれども)、大海を渡ってその遺風を仰ぎ受け、
これにより仏法は東国に伝えられ、あらゆる山野の凡夫を導くこととなった。
密教を受法する者多く山林に満ち、
真言の教えを習う者これまた多く群がる。
まして太上法皇は、
 すでに真言密教に精通され、
 宙空海への想いしきりであられる。
 じつに大空にうかぶ大波であっても、
 どうして石積みの本源を忘れることがあろうか。
よってここに、常しく崇め尊ぶよりどころとして、諡号弘法大師を贈る
延喜二十一 年十月二日  勅使 少納言平惟扶

この「勅書」で、研究者が注目するのは、諡号に弘法大師が贈られていることです。
先ほど見たように延喜21年10月2日付で観賢がお願いした大師号は「本覚大師」でした。ところが、下賜されたのは「弘法大師」です。どこで、誰が、何を根拠に、「本覚大師」を「弘法大師」に変更されたのでしょうか。誰が何を根拠に「弘法大師」と命名したのかが分かりません。 この「弘法大師」という大師号は、何を根拠に命名されたのでしょうか?。それは次回にするとして、今回はここまでです。
以上を整理・要約しておきます。
919年10月、観賢は1回目の空海への大師号の下賜を上表したが、天皇の内意は得られたが、勅書は出されなかった。
②920年の
『三十帖策子』の回収作業と天覧を通じて、醍醐天皇・寛平法皇・観賢は同士的な結びつきを深めた。
③921年
年10月2日に、観賢は2回目上奏を行い、諡号「本覚大師」下賜を願いでた
④その月の下旬に、醍醐天皇より諡号が下賜されたが、それは「弘法大師」であった。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「弘法大師」の誕生 大師号下賜と入定留身信仰 春秋社」

大師号の下賜についてみておきました。その中で、最初に諡号を下賜されたのが天台宗の最澄と円仁であったこと、空海はそれより55年遅い921年に贈られたことを押さえました。つまり、空海は、最澄に比べると諡号下賜が半世紀以上遅れています。これは、当時の天台宗と真言宗の「政治力の差」と研究者は評します。今回は、当時の真言宗が空海の諡号追善実現のために、どのような動きをしたのかを見ていくことにします。テキストは「武内孝善 「弘法大師」の誕生 大師号下賜と入定留身信仰 春秋社」です。

「弘法大師」の誕生 大師号下賜と入定留身信仰

空海に大師号をたまわりたい、と真言宗から願い出たときの上奏文が4通、それに応えて下賜されたときの勅書が1通伝存しています。
①延喜18(918)年8月11日  
 寛平法皇、贈大僧正空海に諡号を賜わらんことを請わせ給う。
②同 18(918)年10月16日 
 観賢、空海に諡号を賜わらんことを奏請す。
③同 21(921)年10月2日  
 観賢、重ねて空海に読号「本覚大師」を賜わらんことを奏請す。
④同   (921)年10月5日  
 観賢、早く諡号を賜わらんとの書を草す
⑤同 21(921)年10月27日 
 贈大僧正空海、「弘法大師」の諡号を賜う
この内の④については、③との間隔が短すぎるので、実際には提出されなかったとされます。そうだとすると、空海の場合は、寛平法皇による1回(①)と、観賢僧正による2回(②③)の計3回にわたる上奏をへて、下賜されたことになります。
まず①の寛平法皇の上奏文について、見ていくことにします。

   寛平法皇(宇多天皇)即位 887年9月17日 - 897年8月4日

寛平法皇とは宇多天皇のことです。
宇多天皇の即位当初の政治基盤は弱く、執政の藤原基経に依存するものでした。そのための基経の嫡子時平を参議にする一方で、源能有など源氏や菅原道真、藤原保則といった藤原北家嫡流から離れた人物も抜擢し、基盤を強化していきます。そして、遣唐使の停止、諸国への問民苦使の派遣、昇殿制の開始、日本三代実録・類聚国史の編纂、官庁の統廃合などの改革を次々と進めます。また文化面でも寛平御時菊合や寛平御時后宮歌合などを行い、これらが多くの歌人を生み出す契機ともなりました。30歳で譲位した後は、真言僧侶となり経典研究なども行う文化人でもあったようです。
 寛平法皇の譲位後を年表化しておくと、次の通りです。
①寛平9年(897)7月2日、30歳で醍醐天皇に譲位
②昌泰2年(899)10月24日、仁和寺で益信を戒師として落飾し、空理、または金剛覚と称す
③同年11月24日東大寺戒壇院にて具足成を受け
④延喜元年(901)12月13日、東寺灌頂院において、益信を大阿開梨として伝法灌頂を受法
⑤延喜18年5月には、東寺濯頂院において法三宮真寂親王はじめ六名に、伝法灌頂
⑥同年8月には嵯峨大覚寺で寛空はじめ七名に、伝法灌頂
以上からは、延喜21年の時点で、寛平法皇が「すでに真言密教に精通され」ていたことが裏付けられます。

①の「延喜18(918)年8月11日  寛平法皇、贈大僧正空海に諡号を賜わらんことを請わせ給う。」は、退位後の寛平法皇自らが空海への諡号下賜を上表した文書ということになります。その上表文を見ていくことにします。
上段が寛平法阜撰とみなされてきた「請賜諡号表」、下段が『寛平御伝』の本文です。
上奏文全体の構成は、次の通りです。
前半には、寛平7年(895)3月10日の奥書をもつ貞観寺座主(じざす)撰『贈大僧正空海和上伝記』(『寛平御伝」)の令文引用
後半には、諡号を下賜せられんことを懇請する文章

寛平法皇の空海諡号下賜上表文1

寛平法皇の空海諡号下賜上表文2
寛平法皇の空海諡号下賜上表文3

寛平法皇の空海諡号下賜上表文3


上奏文の現代語訳を見ていくことにします。
ア、わが国における密教仏教の根源は、南岳の師すなわち空海にはじまります。
イ、空海の法流を受法したものは、誰ひとり、空海の旧跡を仰ぎ讃えないものはありません。
ウ、空海がわが国に請来した経論類は、総計二百十六部四百六十一巻にのぼります。
工、真言宗が確立し法を相承する僧も多く輩出するにおよんで、朝廷は真言宗を鎮護国家の中心におかれました。
オ、秘密の教えが弘通し業行も定まったことから、この法流をもって仏道修行の究極である悉地成就のはたらきが増しています。
力、現今、人々は(あまり)変わつていないけれども仏道は盛んとなり、人は滅び去る(運命である)けれども、その名は新たに(讃嘆される)でありましょう。
キ、仏法では、死後にその人の事績を崇め尊ぶことを行なつてきました。
ク、王法では、死者を讃える規範を廃されたのでありましょうか、いえそんなことはないはずでございます。
ケ、そこでお願いいたしたきことは、諡号を南岳の師(空海)に賜わりますとともに、この秘密の教えを官廷内にも盛んにせんことであります。誠心誠意のお願いであります。
コ、謹んで事の成り行きを記録いたしまして、恐れながら、お願い中しあげる次第でございますり何とぞご高意を賜わりますように。
譲位後は、真言宗の僧侶となり潅頂を行う立場にまでなった法皇が、空海への諡号下賜を願って書いたものということになります。しかし、  これを寛平法皇の真撰としてよいかについては、意見の分かれるところのようです。
まず、この上奏文は寛平法皇の真撰であり、大師号の下賜に大いに力があったとみなす説を見ておきましょう。
  蓮生観善師『大師伝』では、寛平法皇を諡号下賜の発議者とみなして、次のように述べています。
その事を第1番に発言されたのは宇多天皇様でありました。大師号を空海和尚に追贈して頂きたいと云う事を、初めて願出でられたのは、字多天皇様であります。宇多天皇は大師のお徳を慕い、出家して真言の灌頂を受け、御名を空理と称せられ、京都仁和寺を御建立遊ばされた御方であります。宇多天皇は御出家後、寛平法皇と申し上げて居りましたが、延喜十八年八月十一日に、醍醐天皇に対し、真言の根本阿閣梨贈大僧正法印大和尚位空海に諡号を追贈せられんことを請うの表を奉られました。その表文の中に、
 朝家以て鎮護息災の要と為し、紺流以て出世悉地の用と為す。当今民旧り、道盛んに、人亡びて名新なり。仏法猶尋崇の道を貴ぶ。王法何んぞ迫餅の典を廃し玉はん。望み請ふ諡号を南岳に贈り、秘教を北間に興さんことを。今ま懇款(こんかん)の至りに任へず。謹で事状を注し、上表以聞す。
と仰せられ、空海大和尚にどうぞ大師号を贈って頂きたいと御奏請あらせられたのであります。(中略) 
此の問題につきての発議者は寛平法皇にて、寛平法皇は醍醐天皇の御父上であり、醍醐天皇と寛平法阜とは御親子の間柄であらせらるヽと共に、(中略)
故に此の問題につきても書面の奏請は表面の事にて、内部にては御親子親しく御相談の上の事に違いないと信じます。(673~5P)

ここには最初の上奏が寛平法皇によって行なわれたことを微塵も疑っていないこと分かります。
これに対して、守山聖真『文化史伝』は、「寛平法皇の上奏」疑問説に立ち、次のように述べています。
この諡号奏請の歴史を見るに、伝教大師(最澄)は遷化後44年にして貞観8年7月13日に諡号宣下があり、慈覚大師(円仁)も同日の宣下であるから、これは入滅後僅かに3年目である。こうした方面から見ると、我が大師の諡号宣下のあったのは、入定後87年目であるから、相当に長い年月を経過して居る。大師に最初に諡号宣下を奏品したのは、寛平法皇であるとせられている。それは「諡号雑記」並びに「続年譜」にその表文があるからである。『続年譜』は、『諡号雑記』から採ったものであろう。①観賢また同年10月15日に上表奏請していることを『諡号雑記』に記して居り、「正伝」付録には後者を採録しているが載せては居ない。之はその確実性を疑ったものであろう。
 事実これは文章も粗雑にして、記事も相違して居る個所もあり、②荘重である可き法皇の上表文としては、余りに重みが欠けて居るばかりでなく、③全く貞願寺座主の『贈大僧正空海和上伝記』と同様のものであることである。寛平法皇でないとしても、表請文としてはその体をなして居ない。若しこれを以って、法皇の表請文とすれば、それは法皇を誤まるものではなかろうか。(中略)
 要するに偽作者があって、寛平法皇の如き至尊が大師の為めに諡号を奏請したとして、大師伝に光彩を添えんと試みたものであろう。(885~7P)
守山氏が寛平法皇の上奏文を疑わしいとみなす根拠は次の4点です。
① 『総号雑記』と『続弘法大師年譜』は、法皇の上奏文を収録するが、天保4年に高演が撰述した『弘法大師正伝』は収載していないから疑わしい
② 文章が粗雑な上に誤記もあり、寛平法皇の上奏文としては、荘重さに欠ける。
③ 文章の大部分が「寛平御伝」と同じで引き写しである。
④ 表請文としての体をなしていない。
これらをうけて「若しこれを以って、法皇の表請文とすれば、それは法皇を誤まるものではなかろうか」「大師伝に光彩を添えようとして偽作されたものであろう」と結論づけます。

 寛平法皇はきわめて賢明な天皇であり、漢詩文にもよく通じた文章家だったと研究者は評します。従って、もし法皇が上奏文を書いたとすれば、空海の事績を記すのに『寛平御伝』をほぼそっくり引き写すようなことはしないはずだと云うのです。法皇の教養は、漢文で書かれた日記『寛平御記』や醍醐天皇
に与えられた『寛平御遺誠』をみれば、一目瞭然と指摘します。
実は、真言教団はこれ以前にも空海への諡号追善について、動いたことがありました。
①天安元年(857)10月21日、真済(しんぜい)の上表によって、空海に大僧正位が追贈されています。この時の真済の上表文を見ておきましょう。
  【史料4】『高野大師御広伝』(『弘法大師伝全集』第1、270P)
沙門真済言す
臣一善を得ては則ち必ず其の君に献ず。子一善を得ては則ち必ず其の父に輸(おく)る。真済の先師空海禅師は、去る延暦の末年、遠く大唐に入り秘法を学得す。大風樹を抜くの災、樹雨陵に襲るの異、詔を奉り結念すれば期に応じて消滅す。上国の真言、此より始めて興り、聖邦の濯頂此より方(まさ)に行わる。真済等毎(つね)に思う。先師の功人にして賞少なく、節屈して名下れりと。
伏して惟れば、皇帝陛下、大いに天工に代わり世範を成立し、能く道中を得て品物を亭育す。
 伏して乞う、真済所帯の僧正を譲って、禅師の発魂に贈らんことを賜許したまえ。然れば則ち、陛下忽ちに聖沢九泉を潤すの人恵を顕わし、人天必ず礼骸報主の深志を尽さん。今懇誠迫慕の心に任えず。謹んで本人以聞す。
 伏して願わくば鴻慈微誠を照察せよ。真済誠慢誠恐、謹言。
天安元年十月十七日      沙円僧正伝灯大法師位上表す

文徳天皇は、この真済の上表に応えて、10月22日に空海に僧正位を追贈します。
こののときの記録が正史の1つ『日本文徳天皇実録』天安元年(857)10月22日の条に次のように宣命書きで記されています。
【史料5】『文徳天皇実録』九(『国史大系』第4巻、 103~4P)
法師等に詔して曰く。天皇が詔旨と、法師等に向さへと。勅命を白(まうさく)、増正真済大法師上表以為、
故大僧都空海大法師は、真済が師なり。昔延暦年中、海を渡りて法を求む。三密の教門此より発揮す。諸宗の中、功二と無し。願う所は、僧正の号を以て、将に先師に譲らんとす、者(てへり)。
師資其の志既に切なるを知ると雖も、朕が情に在っては、未だ許容布らず。仍て今先師をば、大僧正の官を贈賜ひ治賜ふ。真済大法師をば、如旧(もとのごと)く、僧正の官に任賜事を。白(まを)さへと詔勅叩を白す。            (傍線筆者)

ここからは、真済はみずからが賜わつた「僧正位」を師に譲りたいと願いでたのに対して、文徳天皇は師の空海には「大僧正位」を贈り、真済の「僧正位」はそのままとする、と応答したことが分かります。ここからは天安元年(857)10月22日、空海が「大僧正位」を賜わったことが確認できます。
「贈位」のいま1つは、その7年後の貞観6年(864)2月27日、空海に法印大和上(尚)位が追贈されたことです。      55P
これは『日本三代実録』貞観六年二月二十七日の条に次のように記されています。
 『日本一代実録』八(『国史大系』第4巻、 134P)

十七日癸丑、贈大僧正伝灯大法師位空海、延暦寺座主伝灯大法師位最澄に、並びに法印大和上位を贈る。

ここからは、最澄とともに空海に法印大和上位を贈られたことが分かります。この「法印大和上位」は、その年の2月16日に、新たに制定された僧位の1つでした。「法印大和尚位」の僧階は僧綱に任ぜられる高僧と凡僧とのあいだに格差をもうけるために新設されたものでした。この僧制をさかのぼらせて、貞観6年(864)2月27日、最高位の法印大和上位が空海と最澄にも適用され追贈されています。ちなみに、空海は生前に大僧都に任ぜられていますが、最澄が僧綱に任ぜられた形跡はないようです。空海がこの法印大和上位を追贈されたのは、貞観六年(864)2月のことです。よって、その後の57年間、空海への諡号下賜はありません。このことを「只だ贈位の勅のみ有って、曾って礼論の栄無し」と訴え、読号の追贈を願ったことになります。それに対して最澄には、2年後の貞観8年、伝教大師の諡号が下賜されています。これを真言教団が黙って見ていることは出来なかったはずです。

以上をまとめておきます
①我が国で最初に諡号を下賜されたのが天台宗の最澄と円仁であった。
②空海はそれより55年遅い921年に贈られた。
③ここには当時の天台宗と真言宗の「政治力の差」があった。
④遅れた真言教団は、何度も空海への諡号下賜を朝廷に働きか掛けたが実現しなかった。
⑤そこで退位後に真言僧となり、真言宗に理解の深かった寛平法皇を通じて朝廷工作をおこなうという案が実行に移された。
⑥それが後世には、寛平法皇自身が上表書を書いたという話が加味され、その文書が偽作された。
どちらにしても、この時期の真言教団にとって空海への大師号下賜は、最重要用課題であったことが分かります。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「弘法大師」の誕生 大師号下賜と入定留身信仰 春秋社」

 921年に大師号が下賜されてから、約1100年あまりの年月が過ぎました。空海の大師号が「弘法大師」ですから、「空海=弘法大師」で同一人物なはずです。しかし、人格的には、両者を別人としてあつかった方がいいと研究者は考えているようです。どうしてなのでしょうか?
空海は、宝亀5年(774)に誕生して、承和2年(835)に入寂します。その間、62年間、真言宗の開祖となった仏教界はもとより、詩文、書、芸術、教育、社会事業、土木技術などの諸分野で大活躍した実在の人物です。一方、弘法大師とは、人寂のあと86年目に、生前の功績を讃えて醍醐天阜から贈られた最高の称号です。信仰や説話・伝承の世界で、いかなる願いも叶え、生死の苦しみや困難に出迎ったとき、必ず手を差しのべて救ってくれるスーパーマンのような存在として語られる人物です。つまり、弘法大師の名で語られる人物は、必ずしも実在した空海その人ではないということになります。
 それでは、弘法大師を主人公として語られる物語には、空海は存在しないのでしょか?
空海ほど伝記の多い人物はいないとされます。特に、空海が開眼してから時代が降るにしたがって、伝記には荒府無稽とも思われる物語が加えられ、超人・弘法大師として語られるようになります。それは弘法大師伝説として、ひとつの研究分野にもなるほどです。

弘法大師伝説集 1~3巻(斎藤昭俊 編著) / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋

 たとえば、弘法大師は唐から帰国するに先立って、明州の浜で「密教を広めるにふさわしいところがあれば教えたまえ」と祈念して、持っていた三鈷杵をわが国に向けて投げ上げます。それを帰国後に、高野山の松の樹上に発見し、この地に伽藍を建立することになった話などが、その典型的なものです。
 それらの奇蹟諄を想像力たくましく絵画で表わしたのが、『弘法大師行状絵詞』『高野大師行状図画』といった絵巻物であることは以前にお話ししました。そこには、われわれ常人を超えた能力を持った人物として描かれています。しかし、その裏には宗教的な真理、歴史的な真実が隠されていると研究者は次のように述べます。

 絵巻物をひもとく楽しみのひとつは、それら背後に隠された歴史的な真実、宗教的な真理を探索することにある。一見して、実在した空海とは無関係と想われる物語も、冷静に読みすすめると、空海の事績が核となり肉付けされていることが多い。すなわち、弘法大師として語られる荒唐無稽とも思われる不思議な「弘法大師」物語からも、真実の空海を読みとり、日々の生活に役立つ教訓を読みとることができる。

弘法大師伝説の中に実在した空海が隠されている。注意深く読み取れば、それが見えてくるということでしょうか。この時に注意すべきことを、次のように記します。

空海と弘法大師とを混同すべきではない。このふたつの名前は厳然と峻別しておくことをお勧めしたい。歴史的事実が信仰を否定するものでも、フィクションが事実をゆがめるものでもないからだ。ただひとついえることは、歴史的に実在した空海だけを追っかけても真実の空海像にはたどり着けないということだ。いい換えると、真実の空海を知るには超人的な能力、奇蹟諄をもって語られる弘法大師伝説が不可欠である」

空海と弘法大師を「別人」と捉えながらも、弘法大師伝説を読み解いていく地道な作業が必要なようです。そこで、今回は空海が弘法大師になっていく過程を史料で辿っておきたいと思います。テキストは「武内孝善 「弘法大師」の誕生 大師号下賜と入定留身信仰 春秋社」です。
「弘法大師」の誕生: 大師号下賜と入定留身信仰 [書籍]

まず空海が弘法大師と呼ばれるようになった経緯を見ていくことにします。
『日本紀略』延喜21年10月27日条に次のように記されています。
【史料1】(『国史大系』第。1巻、24P)
己卯。勅す。故贈大僧正空海に諡して、弘法大師と曰う。権大僧都観賢の上表に依るなり。勅書を少納言平惟扶に齋さしめ、紀伊国金剛峯寺に発遣す。
〔現代語訳〕
(延喜21年10月)27日、醍醐天皇は故贈人僧正空海に諡号を下賜され、その贈り名を「弘法大師」とされました。このことは、権大僧都観賢からの上表によって実現いたしました。 そこで、諡号下賜する勅出を少納言惟扶に持たせ、(その報告のために)紀伊国金剛峯寺にむけて派遣いたしました。

ここからは、醍醐天皇が空海死後86年目の延喜21年(921)10月27日に、「弘法大師」の諡号を下賜したことが分かります。
それでは大師号とは何なのでしょうか? 『国史大辞典』(第8巻、751P)には、次のように記されています。   
①梵語シャーストリの漢訳。偉大なる師、大導師の意で、はじめは釈迦大師というように仏の尊称として用いられた。
②後世、中国では高徳の僧に対する敬称となり、智顎の智者大師(または天台大師)、菩提達磨の達磨大師、慧思の南岳大師、曇鸞の曇鸞大師、善導の善導大師、吉蔵の嘉祥大師、窺基の慈恩大師、法蔵の賢首大師、澄観の清涼大師などがある。これらは私的な敬称である。
③唐の宣宗が大中2年(848)に廬山慧遠(ろざんえおん)に辮覚(べんかく)大師の号を贈ったのが諡号のはじめといえよう。
④わが国では原則的に諡号として用いられ、最初は貞観8年(866)に最澄に贈った伝教大師と円仁に贈った慈覚大師とであり、その他、代表的なものに空海の弘法大師、親鸞の見真大師、道元の承陽人師、日蓮の立正大師などがある。
ここには大師号はもともとは大師号は私的なモノだったとあります。そして皇帝から下賜される形の大師号は9世紀半ばからです。これは、最初に最澄や円仁に諡号が送られた時期とほぼ同時になります。諡号は案外新しいものであることを、ここでは押さえておきます。

次に大師号を下賜された24人のメンバーを見ておきましょう。 
大師一覧表
大師一覧表2


この一覧表を見て気がつくことを挙げておきます。
①最初に下賜されたのは天台宗の天台宗の最澄・円仁であったこと、
②空海への大師号の下賜は、それに遅れること55年目であったこと
③大師号を贈られた僧は24名いるけれども、その大部分は江戸時代以降に下賜されている

大師号下賜 時代別
④平安時代に大師号を下賜されたのは最澄・円仁・空海・円珍の4名だけ、
⑤鎌倉時代は益信1人だけ
⑥江戸時代が7名、
⑦残り12名は明治時代以降の下賜であること。
⑧真言宗に属する先師は、空海を筆頭に道興大師(実恵)・法光大師(真雅・空海弟)、本覚大師(益信)・理源大師(聖宝)・興教大師((覚錢)・月輪大師(俊高)の7名
⑨法然のように一人で8回も下賜された例もあること。
ここで押さえておきたいのは最初に諡号を下賜されたのが天台宗の最澄に「伝教大師」、円仁に「慈覚大師」であることです。空海にこの大師号が贈られたのは、最澄らより55年遅い921年のことになります。空海は、最澄に比べると半世紀以上遅れています。

私にとって予想外であったのは、明治になって諡号されている人達が半分以上になることです。これはどうしてなのでしょうか?明治になると各宗派から諡号下賜申請が次々と出され、申請運動が高まります。
そこで、明治12(1879)年4月、道元へ諡号考証にあたって次のような「大師号国師号賜与内規」が定められます。

 一 大師号を賜与するは宗名公称の各宗宗祖に限るべし
 一 国師号は各宗の祖若くは其第二世以下其宗の中祖とも称すべくして特別徳望あるもの又は旧来各分派の名実ありし其派祖及び二世以下と雖も前後に諡号の勘例ある者に限るべし
 一 大師国師を論ぜず古来加号の例規ありし者は猶期年に至り上請の上 特旨を以て加号の御詮議あるべし
 一 生前死後に論なく特旨を以て大師国師号等を賜与せらるるは固より定例規格の外とす

朱書きの注意書きには、次のように記されています
第1項の大師号については当時、大師号がなかった道元、隠元、日蓮、一遍を想定。
第2項の国師号の派祖については、栄西、蘭渓道隆のみであり、二世以下の場合も授翁宗弼は例外的に漏れていたのであって、滅多にない例と記している。また真宗、日蓮宗の諸派は「近世の分派」であるから派祖であっても「諡号に及ばず」とあります。
第1項は、法然、無学祖元、宗峰妙超、夢窓疎石、関山慧玄、隠元を挙げていますが、必ず加号するものとの契約があるわけではないとします。

それから4年後の明治16年10月6日に、次のように改定され内規となります。

大師号国師号賜与内規 表紙

大師号圀師号賜与内規制定ノ件1
             大師号国師号賜与内規(朱が運用基準)

第一条 大師号を賜与するは左の六項に限るべし(大師号下賜の6条件)
一 一宗の開祖
二 一宗の中教旨に差異ありて別に一派を開き布教隆盛なるものの派祖
三 天皇の御崇敬を得て一大寺を開基し特別の由緒及び功徳ある者

大師号圀師号賜与内規制定ノ件2

四 一宗の第二世以下と雖も宗風を拡張し中興とも称すべき功徳ありて開祖に比肩すべき者
五 皇子にして学徳顕著なる者
六 天皇の戒師にして特別の功徳ある者
第二条 国師号を賜与するは左の七項に限るべし
 一 一宗一派の開祖
 二 一宗一派第二世以下と雖も特別功徳ある者
 三 勅願に依て一寺を創立し由緒功徳ある者
 四 一派を中興せし者
 五 皇子をして学徳ある者
 六 天皇の戒師たりし者
 七 学徳優長にして各宗同く景仰する者

大師号圀師号賜与内規制定ノ件3

第三条 大師号国師号は死後之を賜はるものとす
第四条 大師国師を論ぜず年期加号の例は自今之を廃止す
こうして見ると、明治になるまで親鸞や道元には大師号はなかったことが分かります。それが浄土真宗の明治政府への協力ぶりと働きかけで親鸞と蓮如が大師号を得ると、各宗派も自らの開祖に諡号を求めて政府への働きかけを強めます。それが近代以後に、大師号を送られた僧侶が数多く現れる背景のようです。
大師号下賜 近代以後

当初の「着陸予定地」が大きく狂ってしましましたが、今回はこの当たりで終わりにします。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
武内孝善 「弘法大師」の誕生 大師号下賜と入定留身信仰 春秋社」です。

 金光院の公式文書で初代院主とされる宥盛は、高野山で学び山岳修験を積んだ真言修験者でもありました。彼は「弘法大師信仰 + 高野念仏聖 + 天狗信仰の修験者」などの各信仰を持っていました。そのためその後の金光院には修験道的な要素が色濃く残ることになります。例えば金毘羅大権現時代には、お札は金光院の護摩堂で修験者が祈祷したものが参拝者に渡されていました。そして、護摩堂には、本尊として不道明王が祀られることになります。不道明王は修験者の守護神ともされ、深い関係にありました。修験の流れを汲む金光院で不動明王が大切にされたのには、こんな背景があるようです。そのため金刀比羅宮には不動明王の絵画がいくつも伝来しています。今回は金刀比羅宮の不動さまの絵画を見ていくことにします。テキストは、「伊東大輔 平成の大遷座祭斎行記念 金刀比羅宮の名宝(絵画)」です。

不動明王にはいくつかのパターン図柄がありますが、まず円心(えんじん)様の不動明王二童子像を見ておきましょう。
円信様式 富豪明王 嵯峨寺

円心は正確には延深(えんじん)という名の絵仏師て、11世紀中頃に活動したとされます。円心様の不動の特徴は、次の二点です。
①海中の岩座に立つ
②剣を持つ右腕は肘を大きく横に張り出し、髪は巻き毛でフサフサと豊かである
それでは次に金刀比羅宮の「不動明王像 伝巨勢金岡筆(室町時代)」を見ておきましょう。
26不動明王
       金刀比羅宮の「不動明王像 伝巨勢金岡筆」

①円心の不動は寸胴で武骨な力強さを見せるのに対して、金刀比羅宮図像は、比較的伸びやかな肢体で華麗な印象を与える。
②金刀比羅宮像の火炎は、緩やかに波打ちながら上方へすらりとした曲線を描き、細く枝分かれした炎の先端は繊細なゆらめきを見せる。
③不動の肉身も青黒い体の要所に照り隈が施され、ぼってりとした筋肉の盛り上がりが感じられる。
④左の衿羯羅(こんがら)童子の顔貌部や肉体は、補筆が多く加えられている
⑤右の制多迦(せいたか)竜子の方は、当初の状態がよく残っていて、肉身を描く線も緩いながらも柔らかな抑揚を示しており、丸みを帯びた童子らしい肉体を巧みに描写している
 それらを勘案してみると、金刀比羅宮像は14世紀の後半の室町時代の者と研究者は判断します。

金刀比羅宮のもうひとつの不動明王(血不動)を見ておきましょう。
「血不動」と呼ばれている不動さまですが、もともとは「黄不動」(黄色は本来金色)を描いたもので、「血不動の通称は、黄不動の転訛」と研究者は指摘します。黄不動は、讃岐出身の智証大師(円珍:814~891)が感得した不動明王像とされ「天台宗延暦寺座主円珍伝」には、次のように記されています。

承和5年(838年)冬の昼、石龕で座禅をしていた円珍の目の前に忽然と金人が現れ、自分の姿を描いて懇ろに帰仰するよう勧めた(「帰依するならば汝を守護する」)。円珍が何者かと問うと、自分は金色不動明王で、和尚を愛するがゆえに常にその身を守っていると答えた。その姿は「魁偉奇妙、威光熾盛」で手に刀剣をとり、足は虚空を踏んでいた。円珍はこの体験が印象に残ったので、その姿を画工に命じて写させた

智証大師の描かせた原本は園城寺に秘仏として伝えられています。しかし、霊験ある像として広く信仰されたために、下の曼殊院本を筆頭に転写本が案外多く残っているようです。
絹本著色不動明王像(国宝、曼殊院所蔵)。平安時代後期(12世紀)の作で、黄不動の模写像としては最古例[1]。
不動明王像(国宝曼殊院所蔵) 平安時代後期(12世紀) 黄不動の模写像としては最古例

圓城寺像の古い模写である蔓殊院の黄不動さまを研究者は次のように評します。
①肉身は白色に透明な黄色をかけ、腹部は膨らみを表すために暈しをかけている。
②太めの硬質な線で輪郭を適確に描き、その色料は珍しく朱と墨を混ぜている。
③かっと見開いた両眼の瞳には金泥が注され、また渦巻状の髪も金泥を用いている。
④着衣文様は彩色のみで、院政期仏画にしては珍しく截金は使用していない。
⑤園城寺の原本と比べるとプロポーションが洗練されて筋骨隆々の成人体躯となっていたり、岩座が描き加えられている。
それでは金刀比羅宮の「血不動(黄不動)」を見ていくことにします。

21 不動明王(血不動)(伝円珍筆)
    不動明王(血不動)伝円珍筆 室町時代 (金刀比羅宮蔵)

絹の傷みがひどく不動さまの姿はかすかにしか見えません。まるで「闇夜の烏」のようです。まず、上から見てく行くと忿怒の顔が見えて来ます。
「不動の肉身は、肥痩のある墨線で描かれ、筋肉の隆起した遅しい姿は原本の雰囲気をなお伝えている」
「不動の左の足元を見るとわずかに岩座を描く線が残っている」
と研究者は記すのですが、私にはそれもなかなか見えて来ません。
金刀比羅宮の血不動の制作時期については、研究者は次のように判断します。

墨線は平安仏画の鉄線描に見られるような粘った強さはなく、やや走ったような軽さがうかがえる。また装身具の形態描写も崩れがあり、時代的には下っていることを予想させる。諸模本との比較が不可欠だが、室町時代の制作であろうと思われる。

最初にも述べた通り金毘羅大権現の別当寺としての金光院は、真言宗寺院でした。院主は高野山で学んでいます。その中にあって天台宗の円珍が感得した黄不動が伝わるのは一見不思議に思えます。しかし、それは近世の本末制度が固定化して以後のことに縛られた見方で、近世以前には地方の寺院ではいろいろな宗派が入り乱れて宗教活動を行っていたことは以前にお話ししました。諸宗派の垣根は低く、近隣の金倉寺が智証大師誕生所となっているので、その縁によって伝わったのか、あるいは黄不動の信岬は東密にまで広がっていたので、高野山を通じでもたらされたのかも知れません。
松原秀明「金毘羅庶民信仰資料集 年表篇』の明暦元年(1655)の項には、次のように記されています。
「従来の根津入道作 護摩堂本尊を廃し、伝智証大師作不動尊像にかえる」

ここからは1655年に金光院内になった護摩堂本尊を、それまでの根津入道作から、伝智証大師作の不動明王に交換したことが記されています。
不動明王3
           不動明王(金刀比羅宮)
それが現在の宝物館の不動像になります。これは木彫作品ですが、護摩堂というのは、ここで加持祈祷されたお札が参拝客に配布されるなど、金毘羅大権現の宗教活動の中心的な場になります。そこに「伝智証大師作不動尊像」が迎え入れられたのです。この木造不動さまと、「血不動」のどちらが先にやってきたかは分かりませんが、前後した時代であったはずです。
金毘羅大権現境内変遷図1 元禄時代

元禄時代の金毘羅大権現境内図 護摩堂は金光院の中にあった
最後に「不動種子 伝覚鍔筆」を見ていくことにします。

24 不動種子 伝覚鍔筆 絹本著色金泥 室町時代
          「不動種子 伝覚鍔筆」(金刀比羅宮)

画面の中央に金泥で不動明王の種子である「カーンマン」が金泥で大きく書かれています。
右側には不動の二側面の化現である衿蜈羅(こんがら)、制多迦(せいたか)二童子が描かれます。
①慈悲を示す小心随順とされる白身の衿務羅は種子に向かって手を合わせ、
②方便としての悪性を示す赤身の制多迦は剣を握り体を背けつつも視線を種子に送る。
向かって左側には、不動明王の象徴とされる倶利伽羅龍(くりからりゅう)のまとわりついた宝剣が描かれます。
太田記念美術館 Ota Memorial Museum of Art on X: "来年2024年の干支は辰。それにちなんで葛飾北斎が描いた龍 の絵をご紹介。不動明王が手にする倶利伽羅剣(くりからけん)にぐるりと巻き付いている龍が、剣先を呑み込もうとしています。倶利伽羅不動と呼ばれます。北斎  ...
           倶利伽羅龍北斎漫画』十三編より

童子の上方には、金泥によって「不動尊」の三字が記されています。このように、画面内には種子、漢字、画像が入り混じり複雑な表現世界を形作っています。
どうして、不動明王を絵画でなくて種子で表現するのでしょうか。
それに対して研究者は次のように答えます。
「漢字によって示される意味の世界が記憶する現実界との連続性や、視覚像の直接的な具体性を超えた種子の観念的絶対性も印象付けられる。変転する色相の世界を超越した尊格生起の根本原因としての種子の意義が巧みに表現されている」

作者については覚鑁(かくばん)の伝承筆者名がありますが、実際の製作年代は室町時代と研究者は判断します。

  金毘羅神は、近世はじめに天狗信仰を持った修験者たちによって生み出された流行神でした。
それが急速に教勢を伸ばします。いくつもできた子院の中で頭角を現すのが金光院です。金光院は神仏混交の金毘羅大権現の別当の坐に就き、長宗我部元親・生駒親正・松平頼重などの藩主の特別な保護を受けてお山の大将になっていきます。この間に、他の宗教勢力と権力闘争を繰り返してきたことが史料からもうかがえます。初代金光院主とされる宥盛は、優れた修験者であり、有能な弟子を数多く育てています。同時に彼は、高野山で学んだ高僧でもあり「弘法大師信仰 + 真言密教修験者 + 高野念仏聖」などの性格を併せ持っていたことは以前にお話ししました。ここで押さえたおきたいのは、神仏混淆下の金毘羅大権現の支配権は真言宗を宗旨とする金光院が握っていたことです。そのため数多くの仏像や仏画が金光院に集まってきました。そのうちの仏像については明治の神仏分離の際に、オークションに掛けられ、残ったものは焼却されました。しかし、仏画に関しては、秘匿性が高かったので優良なものは密に残したようです。そのため優れた仏画がいくつも残っているようです。その中で研究者が高く評価するのが「釈迦三尊十六羅漢像」です。優れたものであるにもかかわらず、これまでその存在を世に知られていなかった作品だは評します。
今回はこの伝明兆筆とされる「釈迦三尊十六羅漢像」を見ていくことにします。テキストは、「伊東大輔 平成の大遷座祭斎行記念 金刀比羅宮の名宝(絵画) 金刀比羅宮」です。この仏画は、次のように3幅対の構成です
中幅  釈迦、文殊、普賢を描いた釈迦三尊像
左右幅 羅漢を八尊ずつを描いた羅漢図(右と左が同じ画像になっています)
仏教全体の祖師である釈迦の像や、釈迦の弟子である羅漢の図が描かれ始めるのは平安末期になってからです。その背景には
①仏教の原点回帰運動の風潮に乗って釈迦信仰が高まってきたこと
②日宋貿易による多くの仏画伝来
そんな中で、中世になると釈迦三尊像が盛んに描かれるようになります。金刀比羅宮の釈迦像と羅漢図も中世に流行したスタイルを踏襲しています。三幅対にまとめる手法も中国元代の作や、日本の鎌倉・南北朝時代の作に見られます。しかし、これらの作品は、脇幅が十八羅漢図であるのに対して、金刀比羅宮のものは十六羅漢図です。十八羅漢図の中から、各幅一尊ずつを消去し、各幅八、計十六になっています。 
それでは、金刀比羅宮本のどのような点を研究者は評価するのでしょうか? 
まず、羅漢図の評価を見ておきましょう。
27 釈迦三尊 
   釈迦三尊十六羅漢像 左幅 伝明兆筆 室町時代(金刀比羅宮蔵)
①十六羅図に変更していることは、先例を逸脱した新しい展開であり、やや時代の進展を予想させると。
②十六羅漢図の人物に見られるやや白みがかった肌色に、朱隈を添える色感は、金処士の「羅漢図」(メトロポリタン美術館)や睦信忠の「涅槃図」(奈良国立博物館)に登場する人物の色感に類似し、南宋本の仏画の感覚を忠実に踏襲しているように思われること。
③衣では、具色を用いた中間色は少なく、和様化の傾向が窺われること。
④火の線描は切れのある筆遣いでよどみなく変転する衣惜を描き出し、この画家が優れた技量の持ち主であったことを窺わせる
⑤肉身は、衣文より細めの線を用いるせいか、時にお手本を引き写したような弱々しさを見せることもあるが、全体的には切れ込むように引き締まった線の中に、緊張感ある肥痩を見せ、宋元人物画の品格を的確に継承している。
⑥水墨による自然景の描写は、たどたどしく、特に松樹の表現は神経質な細線を用いていて、原本となった宋元画の重厚感は描写し得ていない。
⑦このことは、この画家が、水彩画生画よりも著色の仏画を得意とした絵仏師系の人物であることを想像させよう。
⑧全体の構成は、宋元の先例などに比べ緊密感に著しく欠け、画家の主体的な構成意識よりも、各部分をパーツとして写し取ることの方に意識が奪われているを感じさせる。
以上からは、宋や元の仏画をお手本に、緊張しながら写し取っていく絵師の姿がうかがえます。絵画は、模写から始まるとされていたので当然なことかもしれません。
次に中央の釈迦三尊像を研究者は評します。

27 釈迦三尊十六羅漢
 釈迦三尊十六羅漢像 中幅 伝明兆筆 室町時代(金刀比羅宮蔵)
頭光に火炎の縁取りがないことや、象の足元の蓮盤の数が少ないことを除けば、一蓮寺本の中幅に最も近い。しかし蓮寺本の幽暗な色彩感に比べ、金刀比羅宮本は明快で暖かみのある色彩であり、金彩による装飾も日立っていて、和様化の進展を感じさせる。釈迦の相貌も。一蓮寺本の鈍い目をした厳しいものから、より和らいだものに変化している。この点は、宋元仏画の色感に比較的忠実な十六羅漢図との時代観の相違を感じさせる。これは、この三幅対が異種配合によって出来た可能性をも想像させるが、詳細に観察するとそうした色感の相違は肉身部に限られ、衣の彩色は両者に共通すると言えよう‐
中幅の各尊像の衣文線は、宋元画に比べれば緩さを感じさせる。
軽い打ち込みとともにナイフで布を明りつけたような鋭さを感じさせるものであり、形態の描写にも崩れはなく、ここでも高い技量を認めてよい。釈迦の台座や、菩薩の衣服、獅子や象に施された装飾品などの細々とした細部の描写も破綻しておらず、手本を模写したとはいえそれなりに優れた画家であったと想像できる。獅子や象の文高く伸び上がった姿にもさわやかさがある」
一蓮寺の釈迦三尊十六羅漢像(真ん中)
釈迦三尊十六羅漢像 中幅(一蓮寺)
 確かに、金刀比羅宮本とよく似ています。ここからは両者には、共通する「手本」があったことがうかがえます。
社伝では明兆筆と伝えられるようですが、どうなのでしょう?
 
明兆
 明兆は淡路島に生まれ、淡路の安国寺で臨済宗の高僧だった大道一以 (1292~1370)に禅を学んだと伝えられます。『本朝画史』には、絵ばかり描いて禅の修行を怠ったので師から破門された記します。そのため明兆は自らを「師に捨てられた破れ 草鞋わらじ 」にたとえて「 破草鞋はそうあい 」と号しています。しかし、大道に従って東福寺に入り、寺では高位に就くことも期待されたとされますから、禅の修行を怠って破門されたのではありません。ただ、明兆が出世を拒否し、寺の管理や仏事の道具を整える「 殿司(でんす) 」にとどまり、「 兆殿司 」と呼ばれていたのは事実のようです。殿司職は今の会社でいえば庶務係で、地位や名誉より絵を描き続けることを選択し、「寺院専属の画家」になろうとしたのかもしれません。多くの伽藍を持ち、大きな絵を飾る広々とした空間があった東福寺は、明兆にとって最高の勤務先だったとしておきます。そこで彼は、伝来した宋元の仏画を手本にし、仏事で用いる儀式用の仏画を描き続けます。その代表作が、大徳寺の宋画五百羅洪図を模写した「五百羅漢図」(東福寺、根津美術館)です。

明兆 五百羅漢図2
         明兆「五百羅漢図」(東福寺、根津美術館)
この大作のおかげで後世には「羅漢図といえば明兆」とされるようになります。その意味で、金刀比羅宮本の作者としても相応しい人物です。しかし、研究者は「本図に明兆その人の個性の明確な痕跡を見出すことは難しい。」と指摘します。具体的には、明兆筆「五百羅洪図」のは色面がかなリフラットになっていることと比較して、金刀比羅宮本の羅漢が「より隈取りが強く、羅洪図に関する限り、明兆と共通する感覚は見られない。」と評します。
27  釈迦三尊十六羅漢像 伝明兆筆 右幅
釈迦三尊十六羅漢像 右幅 伝明兆筆 室町時代(金刀比羅宮蔵)

 そして、金比羅宮本の製作年代については次のように記します。
①鎌倉時代後半の初期の「釈迦三尊十八羅漢図」に比べると、和様化が進展し、両脇幅では十六羅漢に図像が変化していること
②構図の緊密感にやや欠けること
③中幅における金彩の目立つ明快な色彩感覚などを見られること
以上を勘案すると、明兆と同時代(14世紀後半~15世紀前半)の絵仏師の作と想定します。

 金刀比羅宮には、もうひとつ明兆作と伝わる「楊柳観音像(瀧見観音)室町時代」があります。
28 瀧見観音
「楊柳観音像(瀧見観音) 伝明兆筆 室町時代」
懸崖の下、海中に突き出た岩座に、正面向きに生す白衣観音の姿です。このモチーフは、明兆やその弟子たち、狩野派の画家たちにも受け継がれ、白衣観音として広く流布するようになります。中でも、背景を水墨で描き、観音を著色で描くスタイルは、下図の東福寺の大幅の明兆筆「白衣観音図」を代表作として、明兆派による作例が多く残されています。金刀比羅宮本にも、明兆筆の伝承筆者名があります。

明兆 白衣観音
            東福寺の大幅の明兆筆「白衣観音図」

東福寺の白衣観音と比べて見ると、大枠としては明兆系の匂いを感じる作品と云えそうです。
しかし、研究者は次のように評します。
①観音像は、明兆画のような抑制を利かせたメリタリーのあるものではなく、のっペーとして流派的特色をあまり見せない保守的なものとなっている
②山水景の表現は、断崖から垂れる草木の筆致は鈍いものの、岩座の鼓法は比較的力強く立体感を描き出し、海波も動感あるものとなっている
③どちらかと言えば水墨技の方に技量があり、著色の仏画はお手本をなぞったような凡庸さを感じさせる。
ボストン美術館の狩野元信筆「白衣観音像」
ボストン美術館の狩野元信筆「白衣観音像」

ボストン美術館の狩野元信筆「白衣観音像」に比べると、金刀比羅宮本は、明兆につながる室町時代的な雰囲気を感じます。
しかし、明兆やその弟子の赤脚子、霊彩らほどの精彩は放っておらず、製作年代がもう少し降ると研究者は判断します。そして、金刀比羅宮本を描いた絵師については、「狩野派の新様が有力になる直前頃か、もしくはそれ以降であっても狩野派とは接触を持たなかった室町後期の保守的な作家による作品」とします。
 金刀比羅宮に残る「伝明兆筆」とされる作品は、明兆のものではありませんが評価すべきもののようです。また、「伝明兆」とされる作品が多いのも、それだけ明兆の作品が後世からも評価されていたことがうかがえます。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 「伊東大輔 平成の大遷座祭斎行記念 金刀比羅宮の名宝(絵画) 金刀比羅宮」

33 なよ竹物語 (トップ)絵は3・5
なよ竹物語(詞1 絵3 絵5)
「なよ竹物語」は、物語中で女主人公が読む和歌の文句を取って「くれ竹物語」とも呼ばれます。また後世には「鳴門中将物語」とも呼ばれるようになります。そのあらすじは

鎌倉後期、後嵯峨院の時代、ある年の春二月、花徳門の御壷で行われた蹴鞠を見物に来ていたある少将の妻が、後嵯峨院に見初められる。苦悩の末、妻は院の寵を受け容れ、その果報として少将は中将に出世する。人の妻である女房が帝に見出され、その寵愛を受け容れることで、当の妻はもとより、周囲の人々にまで繁栄をもたらす

しかし、「なよ竹物語」では、主人公の少将が、嗚門の中将とあだ名され、妻のおかげで出世できたと椰楡される落ちがついています。「鳴門」は良き若布(わかめ)の産地であり、良き若妻(わかめ)のおかげで好運を得た中将に風刺が加えられています。戦前の軍国主義の時代には、内容的にもあまり良くないと冷遇されていた気配がします。
 この物語は人気を得て広く流布したようです。建長6年(1254)成立の「古今著問集』に挿人されたり、鎌倉時代末から南北朝期の「乳母草子」や二条良基の『おもひのまヽの日記」にその名が見えます。こうして見ると物語としては13世紀に成立していたことになります。絵巻は、現状では九段分の画面に分けています。今回は金刀比羅宮にある「重文・なよ竹物語」を見ていくことにします。テキストは「伊東大輔 平成の大遷座祭斎行記念 金刀比羅宮の名宝(絵画) 金刀比羅宮」です。
 金刀比羅宮のなよ竹物語については形式化を指摘する声が強いようです。これに対して研究者は次のように反論します。
33 なよ竹物語  絵1蹴鞠g
        なよ竹物語 第1段(冒頭の蹴鞠場面) 金刀比羅宮蔵

33なよ竹物語 蹴鞠2
 確かに、冒頭、自然景の中での蹴鞠の場面では、堂々たる樹木の表現に比べて、人物たちは小振りでプロポーションも悪く、直線的な衣の線は折り紙を折って貼り付けたような固さと平面性をかもし出している。
 しかしこれが、第三段の清涼殿南庇間における饗宴の場面や、第五段の最勝講の場、第七段の泉殿と思しき殿合で小宰相局が院に手紙の内容を説明する場面など、建築物の内部を舞台とする場面では、定規を用いた屋台引きの直線が作り出す空間の中で、直線を強調した強装束をまとった人物たちは、極めて自然な存在感をかもし出す。全体に本絵巻の作者は、建築物を始め、車輌や率内調度品などの器物の描写に優れ、やや太目の濃墨線で、目に鮮やかにくっきりとそれらの「もの」達の実在感を描き出す。
衣服の紋様表現や襖の装飾なども、神経質な細かさを見せており、直線的な強装束をまとった人物表現や、少々厚手で濃厚な色彩感などと相候って、全体としてグラフィカルな感覚を前面に強く押し出した画風を創出している。


33なよ竹物語 第三段の清涼殿南庇間における饗宴の場面

      なよ竹物語 第三段の清涼殿南庇間の饗宴場面(金刀比羅宮蔵)

33 なよ竹物語  五段の最勝講の場 
          なよ竹物語 第五段の最勝講の場
33なよ竹物語9
           なよ竹物語 第九段
一方で自然景のみを独立して見た場合、冒頭の蹴鞠の場の樹木表現や、第八段の遣水の表現など、この画家が自然の景物の描写についても決して劣っていなかったことが容易に分かる。院と少将の妻が語らう夜の庭に蛍を飛ばすなど、明けやすい夏の夜の風情を情感景かに盛り上げる叙情的なセンスも宿している。そのことはまた、両家が物語世界を深く理解していたことも示していよう。
33なよ竹物語8
          なよ竹物語 第八段
このように評した上で金刀比羅宮の「なよ竹物語」と「狭衣物語絵」(東京国立博物館・個人蔵)を比較して次のように指摘します。
重要文化財 狭衣物語絵巻断簡
重要文化財 狭衣物語絵巻断簡  鎌倉時代・14世紀 東京国立博物館蔵
①人物のプロポーションや、殿上人の衣の縁を太目の色線でくくる表現などが「狭衣物語絵」(東京国立博物館・個人蔵)と共通
②第八段の男女の夜の語らいの姿を殿合の中央に開いた戸の奥に見せる手法は「狭衣物語絵」第五段の狭衣中将が女と契りを結ぶ場面と似ている
③「狭衣物語絵」の人物の顔貌が引目鉤鼻の形式性をよく残すのに対して、金刀比羅宮の絵巻の顔はより実人性を強く見せること
④「狭衣物語絵」の霞のくくりがより明確な線を用いていること
⑤ゆったりとした人物配置や空間のバランス感覚は、両者に共通
以上から両者が14世紀前半の近い時代に制作されたものと研究者は判断します。そうすると、なよ竹物語の成立は13世紀前半ですが、金刀比羅宮のものは、それより1世紀後に描かれた者と云うことになります。
さてこの絵巻は、どんな形で金刀比羅宮にやってきたのでしょうか? 
金刀比羅宮の「宝物台帳」は、この絵巻の伝来事情を次のように記します。
「後深草天皇勅納 讃岐阿野郡白峯崇徳天皇旧御廟所准勅封ノ御品ニテ 明治十一年四月十三日愛媛県ヨリ引渡サル」

意訳変換しておくと
「後深草天皇が讃岐阿野郡の白峯崇徳天皇の旧御廟所(頓證寺)に奉納した御品で、明治11年4月13日に愛媛県より(本社に)引渡された。」

ここからはこの絵巻が、白峰寺の崇徳天皇廟頓證寺に准勅封の宝物として大切に伝えられたもが、愛媛県から引き渡されたことが分かります。
それでは、白峰寺から金刀比羅宮に引き渡されたのはどうしてなのでしょうか?
明治11年に、次のような申請書が金刀比羅宮から県に提出されます。

金刀比羅宮の頓證寺摂社化

ここでは②「抜け殻」になった頓證寺を③金刀比羅宮が管轄下におくべきだと主張しています。この背景には、江戸後期になって京都の安井金毘羅宮などで拡がった「崇徳上皇=天狗=金昆羅権現」説がありました。それが金毘羅本社でも、受け入れられるようになったことは以前にお話ししました。そして明治の神仏分離で金毘羅大権現を追放して、何を祭神に迎え入れるかを考えたときに、一部で広がっていた「金毘羅=崇徳上皇」説が採用されることになります。こうして金刀比羅宮の祭神の一人に崇徳上皇が迎え入れられます。そして、崇徳上皇信仰拠点とするために目をつけたのが、廃寺になった白峰寺の頓證寺です。これを金刀比羅宮は摂社化して管理下に置こうとします。
 申請を受けた県や国の担当者は、現地調査も聞き取り調査も行なっていません。
机上の書面だけで頓証寺を金刀比羅宮へ引き渡すことを認めてしまいます。この瞬間から頓証寺は白峯神社と呼ばれる事になります。つまり頓証寺という崇徳天皇廟の仏閣がたちまちに神社に「変身」してしまったのです。そして、その中に補完されていた宝物の多くが金刀比羅宮の所有となり、持ち去られます。ある意味では、これは金刀比羅宮の「乗っ取り」といえます。これが明治11年4月13日のことです。「金毘羅庶民信仰資料 年表篇」には、これを次のように記します。
阿野郡松山旧頓詮寺堂宇を当宮境外摂社として白峰神社創颯、崇徳天皇を奉祀じ御相殿に待賢門院・大山祇命を本祀する」

この経緯が、かつての金刀比羅宮白峰寺の説明版には次のように記されていました。

金刀比羅宮白峰寺の説明館版

ここからは次のようなことが分かります。
①頓證寺が金刀比羅宮の境外摂社として
②敷地建物宝物等一切が金刀比羅宮の所有となったこと。
③大正3年になって、白峯神社が金刀比羅宮の現在地に遷座したこと
④現白峯神社の随神は、頓證寺の勅額門にあったものであること
こうして、明治になって住職がいなくなった白峰寺は廃寺になり、その中の頓證寺は金刀比羅宮の管理下に置かれて「白峯寺神社」となったことを押さえておきます。頓證寺にあった宝物は、金刀比羅宮の管理下に移されます。この時に、なよ竹物語などの絵画も、金刀比羅に持ちされられたようです。これに対して白峯寺の復興と財物の返還運動を続けたのが地元の住人達です。

頓證寺返還運動

高屋村・青海村を中心とする地域住民による「頓証寺殿復興運動」が本格化するのは、1896年8月ことです。その後の動きを年表化しておきます
1896年8月 「当白峯寺境内内二有之元頓証寺以テ当寺工御返附下サレ度二付願」を香川県知事に提出。この嘆願書の原案文書が青海村の大庄屋を務めた渡辺家に残っている。
1897年 松山村村長渡辺三吾と代表20名の連署で「頓證寺興復之義二付請願」を香川県知事に提出
1898年9月27日 香川県知事が頓証寺殿復旧について訓令。頓証寺殿は白峯寺に復するとして、地所、建物、什宝等が返還。
1899年2月 宝物返還を記念して一般公開などの行事開催。しかし、この時にすべての什宝が返還されたわけではなかったようです。
1906年6月27日に 白峯寺住職林圭潤や松山村の信徒総代等が「寺属什宝復旧返附願」を香川県知事小野田元煕に提出
これは3年後の1909年の「崇徳天皇七五〇年忌大法会」に向けての「完全返還」を求めての具体的な行動で、未だ返還されていない什宝返還を願い出たものだったようです。
 当初、1878年に白峯寺から金刀比羅官に移された宝物総数は54件、延点数173点でした。
それが1898年に返還されたのは、24件、延点数67点にしか過ぎません。返還されたのは仏具など仏教関係のモノが中心で、その他のものは返還に応じません。この結果、半分以上のものが返還されないままだったのです。その代表が「なよ竹物語」です。そこで改めて「崇徳天皇七五〇年忌大法会」を期に「完全返還」を求めたのです。しかし、この願いは金刀比羅宮には聞き届けられません。その後も何度か返還の動きがあったようですが返還にはつながりません。
 戦後の返還運動は「崇徳天皇八百年御式年祭(1964年)」後の翌年のことです。
この際は、松山青年団が中心となって1965年9月7日付けで、金刀比羅陵光重宛に「白峯山上崇徳天皇御霊前の宝物返還についてお願い」を提出しています。 これ対し金刀比羅宮は、1898(明治31)年に頓証寺堂宇を白峯寺に引き渡した際に、所属の宝物と仏堂仏式に属する什宅については同時に引き渡したと言う内容の回答を行っています。両者の言い分は次の通りです。

白峯寺と金刀比羅宮の言い分


松山青年団の返還申請

 
政府や県の承認にもとづいて頓證寺の占有権を得たのであって、その時期に金刀比羅宮のものとなった宝物の返還の義務はないという立場のようです。こうして、百年以上経ったいまも金刀比羅宮蔵となってます。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 「伊東大輔 平成の大遷座祭斎行記念 金刀比羅宮の名宝(絵画) 金刀比羅宮」
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25弁財天十五童子像
絹本着色弁才天十五童子像(南北朝 金刀比羅宮蔵)

金刀比羅宮には、南北朝期の絹本着色弁才天十五童子像があります。かつてのこの画像をいれた箱の表には「春日社御祓講本尊」とあり、裏には19世紀中頃の文政の頃に金光院住職の宥天がこれを求めたことが書かれていたようです。ここからは、もともとは奈良の春日社に伝わっていたものであることが分かります。この弁財天については、以前にその由来を次のようにまとめました。

金毘羅大権現の弁才天信仰

今回はこの絵図についてもう少し詳しく見ていくことにします。テキストは「金刀比羅宮の名宝(絵画)」322Pです。
 弁才天の起源はインドの河の神サラスバティーで、土地に豊穣をもたらす女神でした。
後に弁才の神ヴァーチと習合し、弁舌・学問・知識・音楽の女神として信仰されるようになります。日本には奈良時代にやってきて、「金光明最勝王経」を拠り所の経典として像が造られ、礼拝されますが、当時はマイナーな仏だったようです。
それが中世になると変化してきます。「仏説最勝護国宇賀耶頓得如意宝珠陀羅尼経(以下:陀羅尼経)」などの弁天五部経が成立すると、弁才天は財福神として広く信仰されるようになり、像も盛んに行われるようになります。そして「弁才天」から「弁財天」へとネーミング変更して、七福神のメンバー入りも果たします。
もともとの弁財天の姿は、次の2つの姿がありました。
A「金光明最勝玉経」 武具を手に取る戦闘神風の姿
B「現図胎蔵受茶霧」 琵琶を抱えた音楽神としての姿
しかし、中世に成立した「陀羅尼経」では、その姿を次のように記します。
①8本の手で、その内2つの手には武具ではなく、財福の象徴である宝珠と鍵を持つこと
②穀物の神である宇賀神を頭上に白蛇の姿で載せること
③宇賀神は老人の顔で、体は蛇体
④眷属として十五童子を伴うこと
この記述通りに、弁財天の周囲には十五童子が集まっていて、頭上には老人顔蛇身の字賀神を載せています。


弁才天2
           頭上に「老顔白蛇」の宇賀神を載せる弁財天

経典の規定と違うのは、手が8本でなく6本なことです。持物は、左手には宝珠、弓、鉾を、右手には鍵、矢、剣を執っています。二本の手が減っているので左手側の輪と、右手側の棒が描かれていません。その代わりに財福を象徴する宝珠と鍵を体の中心に置いて目立たせて、財福神としての存在をアピールしているかのようです。水中の岩に座を設け、そこに豊かな体をゆったりと立たせる姿も如何にも福徳神らしい姿だと研究者は評します。

25弁財天
           弁才天十五童子像(拡大:金刀比羅宮)

 一方、十五童子像の中で、向かって左側に並ぶ童子の中には、笛、笙、竿、琵琶を持っているものがいます。これが弁才天の首楽神としての性格も表わしているようです。

弁才天に宝樹の盛られた鉢を棒げる異国使節団
  宝樹の盛られた鉢を奉納する龍王?(弁才天十五童子像:金刀比羅宮)
 画面下の水中からは異国の姿をした礼拝者が宝樹の盛られた鉢を棒げて弁才天を供養しています。これが龍王とすれば、弁才天の水神、河神としての性格も表現されていることになります。以上からは、弁才天の複合的な性格がよく表されていると研究者は評します。
 研究者が注目するのは、画面上方に円内の五尊が描かれていることです。

弁才天十五童子像の五尊

   向かって右から釈迦、薬師、地蔵、十一面観音、文殊の春日本地仏です。

春日本地仏曼荼羅 
            春日本地仏曼荼羅

これは春日本地仏曼荼羅に描かれる仏達と、顔ぶれが一致します。画面上部の大きな円相には、春日の神々の本来の姿である本地仏が描かれます。その下には、奈良の春日山、御蓋山(みかさやま)、若草山や春日野の風景が描かれます。
 最初に見たように、この絵が入っていた以前の箱書には「春日御祓講本尊」とあったようです。これは本地垂述思想に基づく春日曼荼羅の一種で、春日信仰との関連でとらえられるべきだと研究者は考えています。それはおそらく弁才天が寺院の枠をはみ出し、むしろ宇賀神との習合なども含めて神社での信仰が盛んになり、弁才天社が数多く作られてゆくような状況と関連していたのでしょう。
 
金刀比羅宮の
弁才天十五童子像の制作年代をを押さえておきます。
①絵の中に、河神や音楽神などが描き込まれて古いタイプの「弁才人」の特性も表現されていること
②そこから財福神に特化する前の比較的早い時期のものと推測できること
弁天五部経の成立や弁天信仰の隆盛は室町時代であること。
④以上から、
室町初期頃のもの
「室町時代初期頃に成立し、中世的な弁天信仰に基づく初期形態を示す画像として貴重」と研究者は評します。
 江戸時代の庶民は移り気で、新たな流行神の出現をいつも求めていました。
そのために寺社は繁栄を維持するためには境内や神域にそれまでない新たなメンバーの神仏を勧進し、お堂や行事を増やして行くことが求められました。金毘羅神だけでは、参拝客の増加は見込めないし、寺の隆盛はないのです。それは善通寺もおなじでした。庶民の信仰欲求に応える対応が常に迫られていたのです。
 金毘羅大権現の別当金光院では、明和六年(1766)に「三天講」を行うようになります。
三天とは、毘沙門天・弁才天・大黒天のことで、供物を供え、経を読んで祀つる宗教的なイヴェントで縁日が開かれ、多くの人々が参拝するようになります。
毘沙門天は『法華経』
弁才天は「金光明経』
大黒天は『仁王経』
の尊とされるので、この三天を祀ることは護国の三部経を信仰することにつながります。生駒氏が領主であった慶長六年(1601)に松尾寺の境内には、摩利支天堂と毘沙門天堂(大行事堂)が建立されています。すでに毘沙門天と大黒天の尊像はあったようです。足らないのは、弁財天です。
こうした中で弁才天画像を春日神社から手に入れたのは金光院院主の宥天(在職期間1824~32年)でした。
宥天が弁財天画像を求めたのは、「三天講」のためだったと研究者は推測します。こうして三天講の縁日当日には、三天の尊像が並べて開帳されます。そこに祀られたのが三天講の本尊の一つで春日社から購入した宇賀弁才天画だったというストーリーになります。ここで押さえておきたいのは、仏像や仏画などは、財力のある有力な寺院に集まってくると云うことです。そこに室町時代作の仏像や仏画があっても、その寺の創立がそこまで遡るとは限らないのです。金毘羅大権現には、多くの仏像や仏画が近世に集められたようです。

象頭山と門前町
       金丸座のあたりが金山寺町(讃岐国名勝図会 1854年)

文化十年(1813)には、芝居小屋や茶店が建ち並ぶ金山寺町に弁才天社の壇がつくられています。

さらに嘉永元年(1848)には金山寺町に弁才天社の拝殿が建立されています。松尾寺で三天講が行われるようになったことがきっかけとなって弁才天に対する信仰が高まり、門前町の金山寺町に弁才天社がつくられたようです。宥天の求めた弁才天十五童子像も、そうした弁才天信仰の高揚が背景にあったようです。
 松尾寺の境内には金毘羅大権現の本宮以外にも、諸堂・諸祠が建ち並び、多くの神や仏が祀られていました。それらの神や仏の中に、宇賀弁才天も加えられたということでしょう。弁才天の陀羅尼を誦せば所願が成就し、財を求めれば多くの財を得られるとされました。そのため庶民は弁才天を福徳の仏して、熱心に拝むようになります。
  最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 「伊東大輔 平成の大遷座祭斎行記念 金刀比羅宮の名宝(絵画) 金刀比羅宮」322P
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                金刀比羅宮の名宝(絵画)
金刀比羅宮の名宝(絵画)を見ていて、気になった六字名号があったので紹介しておきます。

阿弥陀名号(十界名号)伝空海筆 江戸時代
          阿弥陀名号(十界名号)伝空海筆 江戸時代(金刀比羅宮蔵)  

「南無阿弥陀仏」の六字は、六字名号といわれ、これを唱えると極楽往生ができるとして、浄土教系諸宗派では大切にされてきました。ここでは六字名号が仏のように蓮台に載っています。名号が本尊であることを示しています。六字名号を重視する浄土真宗では、これを「名号本尊」と呼びます。浄土真宗では、宗祖親鸞は六字名号、八字名号、十字名号などを書いていますが、その中でも特に十字名号を重視していたことは以前にお話ししました。その後、室町時代になって真宗教団を大きく発展させた蓮如は、十字名号よりも六字名号を重視するようになります。この名号も、そのような蓮如以後の流れの延長上にあるものと研究者は考えています。
 親鸞はどうして、阿弥陀仏を本尊として祀ることを止めさせたのでしょうか。
それは「従来の浄土教が説く「観仏」「見仏」を仮象として退け、抽象化された文字を使用することで、如来の色相を完全に否定するため」に、目に見える仏でなく名号を用いるようになったとされます。ある意味では「偶像崇拝禁止」的なものだったと私は思っています。ところが、この六字名号は少し変わっています。
阿弥陀名号(十界名号)伝空海筆 江戸時代(
          阿弥陀名号(十界名号)伝空海筆 (蓮華部と「佛」部の拡大)

よく見ると筆画の中に、仏や礼拝者の姿が描かれています。さらによく見ると、南無阿弥陀仏の小さな文字をつないで蓮台は表現されています。抽象的な「南無阿弥陀仏」の文字には、仏の絵を当てはめ、具象的な蓮台は抽象的文字で表すという手法です。浄土真宗教団には「偶像崇拝禁止」的な「教義の純粋性」を追求するという動きが当時はあったはずです。その方向とはちがうベクトルが働いているように思えます。これをどう考えればいいのでしょうか。もうひとつの疑問は、この制作者が「伝空海筆」と伝わっていることです。空海と南無阿弥陀仏は、ミスマッチのように思えるのですが・・・これをどう考えればいいのでしょうか。
 金刀比羅宮のもうひとつの六字名号を見ておきましょう。
阿弥陀六字名号(蓮華形名号)金刀比羅宮
          23 阿弥陀名号(蓮華形名号)伝高弁筆 江戸時代  321P
こちらも蓮の花の蓮台に南無阿弥陀仏が載っている浄土真宗の名号本尊の形式です。よく見ると南無阿弥陀仏の各文字の筆画は蓮弁によって表現されています。中でも「無」は、蓮の花そのものをイメージさせるものです。
伝承筆者は高弁とされています。
高弁は、明恵上人の名でよく知られている鎌倉時代の僧です。彼は京都栂尾の高山寺を拠点にしながら華厳宗を復興し、貴族層からも広く信仰を集めます。但し、高弁の立場は「旧仏教の改革派」で、戒律の遵守や修行を重視して、他力を説く専修念仏を激しく非難しています。特に法然の死後に出された『選択本願念仏集』に対しては「催邪輸」と「推邪輪荘厳記』を著して激しく批判を加えています。また、高弁は阿弥陀よりも釈迦や弥勒に対する信仰が中心であったようです。そんな彼の名が六字名号の筆者名に付けられているのが不可解と研究者は評します。庶民信仰の雑食性の中で、著名な高僧の一人として明恵房高弁の名が引き出されてきたもので、実制作年代は江戸時代と研究者は考えています。
 
 「空海と南無阿弥陀仏=浄土信仰は、ミスマッチ」と、先ほどは云いましたが、歴史的に見るとそうではない時期があったようです。それを見ておきましょう。
   白峯寺には、空海筆と書かれた南無阿弥陀仏の六字名号版木があります。
白峯寺 六字名号
この版木は縦110.6㎝、横30.5㎝、厚さ3.4㎝で、表に南無阿弥陀仏、裏面に不動明王と弘法大師が陽刻された室町時代末期のものです。研究者が注目するのは、南無阿弥陀仏の弥と陀の脇に「空海」と渦巻文(空海の御手判)が刻まれていることです。これは空海筆の六字名号であることを表していると研究者は指摘します。このように「空海筆 + 南無阿弥陀仏」の組み合わせの名号は、各地で見つかっています。
 天福寺(高松市)の版木船板名号を見ておきましょう。

六字名号 天福寺

天福寺は香南町の真言宗のお寺で、創建は平安時代に遡るとされます。天福寺には、4幅の六字名号の掛軸があります。そのひとつは火炎付きの身光頭光をバックにした六字名号で、向かって左に「空海」と御手判があります。その上部には円形の中にキリーク(阿弥陀如来の種子)、下部にはア(大日如来の種子)があり、『観無量寿経』の偶がみられます。同様のものが高野山不動院にもあるようです。
また天福寺にはこれとは別の六字名号の掛軸があり、その裏書きには次のように記されています。
讃州香川郡山佐郷天福寺什物 弥陀六字尊号者弘法大師真筆以母儀阿刀氏落髪所繍立之也
寛文四年十一月十一日源頼重(花押)
意訳変換しておくと
讃州香川郡山佐郷の天福寺の宝物 南無阿弥陀仏の六字尊号は、弘法大師真筆で母君の阿刀氏が落髪した地にあったものである。
寛文四年十一月十一日 髙松藩初代藩主(松平)頼重(花押)
これについて寺伝では、かつては法然寺の所蔵であったが、松平頼重により天福寺に寄進されたと伝えます。ここにも空海と六字名号、そして浄上宗の法然寺との関係が示されています。以上のように浄土宗寺院の中にも、空海の痕跡が見えてきます。ここでは、空海御手番のある六字名号が真言宗と浄土宗のお寺に限られてあることを押さえておきます。浄土真宗のお寺にはないのです。
 空海と六寺名号の関係について『一遍上人聖絵』は、次のように記します。

日域には弘法大師まさに竜華下生の春をまち給ふ。又六字の名号を印板にとどめ、五濁常没の本尊としたまえり、是によりて、かの三地薩坦の垂述の地をとぶらひ、九品浄土、同生の縁をむすばん為、はるかに分入りたまひけるにこそ、

意訳変換しておくと

弘法大師は唐に渡るのを待つ間に、六字名号を印板に彫りとどめ本尊とした。これによって、三地薩坦の垂述の地を供来い、九品浄土との縁を結ぶために、修行地に分入っていった。

ここからは、中国に渡る前の空海が六字名号を板に彫り付け本尊としたと、一遍は考えていたことが分かります。一遍は時衆の開祖で、高野山との関係は極めて濃厚です。文永11年(1274)に、高野山から熊野に上り、証誠殿で百日参籠し、その時に熊野権現の神勅を受けたと云われます。ここからは、空海と六字名号との関係が見えてきます。そしてそれを媒介しているのが、時衆の一遍ということになります。
   どうして白峯寺に空海筆六字名号版木が残されていたのでしょうか?
版木を制作することは、六字名号が数多く必要とされたからでしょう。その「需要」は、どこからくるものだったのでしょうか。念仏を流布することが目的だったかもしれませんが、一遍が配った念仏札は小さなものです。しかし白峯寺のは縦約1mもあます。掛け幅装にすれば、礼拝の対象ともなります。これに関わったのは念仏信仰を持った僧であったことは間違いないでしょう。
 四国辺路の成立・展開は、弘法大師信仰と念仏阿弥陀信仰との絡み合い中から生まれたと研究者は考えています。白峯寺においても、この版木があるということは、戦国時代から江戸時代初期には、念仏信仰を持った僧が白峯寺に数多くいたことになります。それは、以前に見た弥谷寺と同じです。そして、近世になって天狗信仰を持つ修験者によって開かれた金毘羅大権現も同じです。

六字名号 空海筆
空海のサインが記された六字名号

金毘羅大権現に空海筆とされる六字名号が残っているのは、当時の象頭山におおくの高野山系の念仏聖がいたことの痕跡としておきます。
同時に、当時の寺院はいろいろな宗派が併存していたようです。それを髙松の仏生山法然寺で見ておきましょう。
法然寺は寛文10年(1670)に、初代高松藩主の松平頼重によって再興された浄土宗のお寺です。再興された年の正月25日に制定された『仏生山法然寺条目』には次のように記されています。
一、道心者十二人結衆相定有之間、於来迎堂、常念仏長時不闘仁可致執行、丼仏前之常燈・常香永代不可致退転事。附。結衆十二人之内、天台宗二人、真言宗二人、仏心宗二人、其外者可為浄土宗。不寄自宗他宗、平等仁為廻向値遇也。道心者共役儀非番之側者、方丈之用等可相違事。
意訳変換しておくと
来迎堂で行われる常念仏に参加する十二人の結衆は、仏前の燈や香永を絶やさないこと。また、結衆十二人のメンバー構成は、天台宗二人、真言宗二人、仏心宗二人、残りの名は浄土宗とすること。自宗他宗によらずに、平等に廻向待遇すること。

ここには、来迎堂での常念仏に参加する結衆には、天台、真言、仏心(禅)の各宗派2人と浄土宗6人の合せて12人が平等に参加することが決められています。このことから、この時代には天台、真言、禅宗に属する者も念仏を唱えていて、浄土宗の寺院に出入りすることができたことが分かります。どの宗派も「南無阿弥陀仏」を唱えていた時代なのです。こういう中で、金毘羅大権現の別当金光院にも空海伝とされる六字名号が伝わるようになった。それを用いて念仏聖達は、布教活動を行っていたとしておきます。
以上をまとめておきます。

空海の六字名号と高野念仏聖

 最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 武田 和昭 四国辺路と白峯寺   調査報告書2013年 141P
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金刀比羅宮には、象頭山の美しい景観を十二の景勝に分けて描いた「象頭山十二景図」があります。
この制作過程については、以前に次のようにお話ししました。

象頭山十二景の作成手順

④の髙松藩の狩野常真(じょしん)に描かせたのが下の「象頭山十二境図巻」2巻です。
HPTIMAGE

              「象頭山十二境図巻」の雲林洪鐘
これを江戸に送って、江戸の奥絵師が描いたのが次の絵です。
雲林洪鐘 鐘楼・多宝塔
                象頭山十二景図の雲林洪鐘 狩野安信

つまり、江戸の狩野安信と時信の父子は、送られてきた絵図と漢詩を手がかりに、この絵を描いたことになります。金毘羅には出向いていないようです。
まず図巻について、研究者は次のように評します。
全体的に濃彩で、目に鮮やかな松樹・竹林・山肌の緑に、時折描かれる梅花の赤や桜花の白がアクセントを加えている。松樹の葉などは部分に応じて顔料の明度を変じ、筆を綱かく使って細部に至るまで丁寧に描き込まれている。
 掛幅については
  一方の掛幅は色彩が淡く、筆を面的に用いたグラデーションの強弱でもって各モチーフを色付かせている。本々などのモチーフの描写は図巻と比べて簡略化されており、画面の抽象度が高くなっていると言えよう

今回は、狩野安信と時信の 「象頭山十二景」に何が書かれているのかを見ていくことにします。テキストは「伊東大輔 平成の大遷座祭斎行記念 金刀比羅宮の名宝(絵画) 金刀比羅宮」334Pです。
金光院院主の有栄が選んだ十二題は次の通りです。
⑦左右桜陣  ⑥後前竹国  ⑪群嶺松雪  ③幽軒梅月
⑫箸洗清漣  ②橋廊複道  ⑧前池躍魚  ⑨雲林洪鐘
⑤五百長市  ⑩裏谷遊鹿  ④石淵新浴  ①万農曲流
その位置を番号で地図上で示すと以下の通りです
象頭山12景 番号入り
象頭山十二景図のデータ

「象頭山十二景図」の制作担当者は、次の通りです。
「左右桜陣」図から一幽軒梅月」図までが、賛は林蒼峰の、画は狩野安信
「雲林洪鐘」図から「萬農曲流」図までが、賛は林鳳岡の、画は狩野時信
制作者のプロフィールを見ておきます。
漢詩作者の林育峰(1618~68)は林羅山の第二子で春斎と号し、幕府に仕え、寛文3年(1663)に弘文院学七の称号を賜り、父に次いで二代目大学頭に就任しています。林鳳岡(1644~1732)は、その育峰の次男で名を信篤(のぶあつ)といい、整宇とも号します。貞享4年(1687)に弘文院学士となり、のち三代目大学頭となっています。「讃州象頭山十二境」詩巻では、先の十二題のうち前半の六首を林鵞峰(林学士)が、後半の六首を林鳳岡(林整宇)が作っています。
 掛幅を描いた狩野安信(1612~85)は探幽・尚信の弟で、狩野宗家貞信の養子となって狩野家の家督を継いた人物です。中橋狩野家の祖となり、寛文11年(1662)に法眼に叙せられます。掛幅のもう一人の筆者・時信(1642~78)は安信の長男で、父に画を学びます。図巻の筆者である結野常真は安信の門人で、本姓を日比氏、名を宗信といい、法橋に叙せられた三尚松藩初代御用絵師を務め、元禄十年(1697)に没しています。
それでは一枚一枚を見ていきましょう

39 象頭山十二景 左右桜陣(桜の馬場)
             象頭山十二景図「左右桜陣」図

[解説]
大門を入って約二町(約220mの間は、参道の左右に数十株の桜が植わり、桜馬場と称される。そこを指して「左右桜陣」と言う。春には桜が咲き誇ることから、花の名所とされる。画面には大門に続く桜馬場の景観が描かれる。安信筆の掛幅画は、常真筆の図巻からモチーフを中央にとりまとめるようにして画面全体を構成する。掛幅ではまた、画面中央の遠山の背後にさらなる逮山の稜線を薄く引いており、画面の天地が狭いという形態上の制約を持った常真筆の図巻では表現し難かった空間の奥行き=三次元性を追究している。

大門から続く桜の馬場周辺を描いたこの絵から得られる情報を挙げておきます。
①桜の馬場には、石畳も石灯籠などの石造物が何もない。これらが設置されるのは19世紀なってから。
②桜の馬場の右側には、各院の建物が並んでいる。

39 前後竹囲
         象頭山十二景図「後前竹囲」図

象頭山の山裾から郊外にかけて竹林が多く群生する様を指して「後前竹囲」と言う。 本図は象頭山麓の郊外を描いたもの。画面に見える竹林は年々減少していき、現在では本図により往時の景趣が偲ばれるのみである。

39 浦谷遊鹿
         象頭山十二景図「前池躍魚」図
「解説]
魚が遊泳する池を中心に、通用門、中間、玄関、そして表書院と奥書院といった、両書院一帯の景観が描かれている。安信筆の掛幅は、常真の図巻がわずかに示した遠山ブロックを画面上方に拡大して配し、両中空間に奥行きを創出している

39 前池躍魚 十二景
          象頭山十二景図「裏谷遊鹿」図
[解説]
「裏谷」とは現在の裏参道の道中にある千種台(ちぐさのだい)地域を指す。ここはかつて草生地や山畑であり、鹿が多数いた。 しかし、その数は減少の一途を辿り、明治期になると遂に見られなくなったという。画面には紅葉鮮やかな山道に、群れ遊ぶ三頭の鹿と帰路の樵らしき人物が描かれ、牧歌的な画趣を示す。
39 群嶺松雪
         象頭山十二景図「群嶺松雪」図

「群嶺」とは、象頭山の山嘴である八景山、愛宕山、天神山、祖渓、琵琶渓、金山寺山などの諸嶺を指す。画面にはこの諸嶺の裾野に沿って松樹が配され、両者は降り積もる雪により白く色づいている。これが「松雪」。この雪は、図巻では顔料を振りまいて描くことて粒子状の表現となっている。掛幅では顔料を筆で掃いて描くことで面的な表現となっている。掛幅・図巻ともに山と松樹のスケール比がやや現実にそぐわないが、これは詩題のメインモチーフのひとつである松樹を強調する意図によるもの。

39 橋廊複道(さや橋)狩野安信・時信筆の「象頭山十二景図」(図版39)の「橋廊複道」
      象頭山十二景図 「橋廊複道」図 (鞘橋) 
[解説]

象頭山の麓、市街を南北に貫流する潮川(宮川:金倉川)に架した鞘橋には屋根があり、これを指して「橋廊」と云い、また「複道」と言う。この鞘橋はもともと現在の一之橋の位置(髙松街道)にあったが、明治38年(1905)に御神事場に程遠くない現在地に移築された。また、画面に描かれた橋には橋柱が描かれ、橋梁に湾曲も見られないが、これは明治2年(1869)の改築以前の姿である、この時の改築により橋柱は取り除かれて橋は両岸からの組み出し構造となり、それゆえ湾曲も強くなった。図巻の方が描出の視点を遠くに設定して景観を放射状に広がるように描いているため、掛幅よりも広々とした視覚印象を覚える。図巻では、荷物を手に橋を往来する二人の人物が描かれている。しかし、掛幅の画面に見られる橋上の人物が何をしているのかは、一見した限りでは不明である。わずかに前傾姿勢をとっており、橋を渡って参道へと歩みを進めているようにも、水面を見つめているようにも見える これが賛の「風力推無運、始知不足舟」に対応するならば、彼は物思いに耽るうちに橋を舟になぞらえ、風の吹くままに身を任せている心地なのだろう。しかし、現実には風がいくら吹いても舟は進むことはなく、橋上の自分という現実に立ち戻るのである。
 
この絵図を見ると、延宝頃(1673~81)の鞘橋は、一棟の長い屋根で描かれています。「金毘羅庶民信仰資料集 年表篇」には、鞘橋は寛永元年(1624)に初めて架けられた記します。そして、その約60年後に「大雨洪水、鞘橋流失」し、翌年に「材木にて鞘橋普請、川筋の石垣も出来る」とあります。ここからは、貞淳3年(1686)に、鞘橋は大雨・洪水で流失し、翌年に再建されたことが分かります。この時に屋根の形式が変更されたようです。

鞘橋 金毘羅大祭行列図屏風
        貞淳3年(1687)に再建された鞘橋 金毘羅大祭行列屏風図
この屏風図には、三連の屋根になっています。このように17世紀の金毘羅大権現の伽藍や境内の姿を描いた絵図はあまりありません。その中で「 象頭山十二景図」は、いろいろな情報を伝えてくれる絵画史料でもあるようです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 「伊東大輔 平成の大遷座祭斎行記念 金刀比羅宮の名宝(絵画) 金刀比羅宮」334P
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金毘羅大祭行列図屏風右隻(複製品:香川県立ミュージアム) 

554 金毘羅祭礼図・・・讃岐最古のうどん店 | 木下製粉株式会社

これは元禄時代の金毘羅大権現の大祭の様子を描いた六曲一双の屏風で、宝物館の1Fに展示されています。複製品が髙松の県立ミュージアムにもあって、間近で直接見ることが出来ますし写真撮影もOKです。この屏風については以前に触れましたが、今回は別の視点で見ておこうとおもいます。テキストは「伊東大輔 平成の大遷座祭斎行記念 金刀比羅宮の名宝(絵画) 金刀比羅宮」313Pです。
「金毘羅祭礼図屏風」について、作成者や作成時期については次のようにように云われています。
①元禄15年(1702)に金毘羅本社の屋根の葺き替えが完成したのを記念して、金光院住職の宥山が高松藩の御抱絵師狩野常慶を通じて表絵師の狩野清信に制作を依頼して出来上がったもの
②制作年代は「元禄屏風」と伝承されていることから、翌元禄2(1703)10月の大祭前までに作られたもの
③描作成者は狩野清信は、図屏風制作に当たって、先行する「象頭山十二景図」を参考モデルにしていること

金毘羅大祭行列屏風図 新町 容量縮小版
        右隻 新町から金倉川にかかる鞘橋まで(金毘羅大祭行列図屏風) 

 毎年10月10日に行われる金毘羅大権現の例大祭の時、頭人らが社領地の木戸を通り、門前町を行列して山上に参向する様子と、門前町の賑わい振りを描かれています。当時の金毘羅の町並みや風俗などを知る上で貴重な資料です。
右隻には、高松・丸亀方面から来た頭人が鞘橋を渡り、小坂に達するまでの道筋、表町の商店や裏町の芝居興行などの有様
左隻には、大門から桜の馬場を経て、本社に達するまでの子院や諸堂社などの山内の様子
画面には神事の行列だけではなく、行き交う参詣者や軒を並べる商家の様子が細かく描きこまれていて、いろいろな情報が読み取れる「絵画史料」でもあります。
    
木戸前後
          金毘羅寺領 髙松街道入口の木戸(元禄金毘羅祭礼図屏風)
例えばの道筋には、次のようなうどん屋の看板を掲げた店が3軒描かれています。
1うどん

DSC01341 金毘羅大祭屏風図 うどんや
新町のうどん屋(元禄金毘羅祭礼図屏風)
これが讃岐でのうどん屋史料第一号です。これよりも早いうどんの史料はありません。空海が中国から持ち帰ったのを弟子が讃岐に伝えたというのは俗説であることは以前にお話ししました。

 それでは、これを書いたのはだれなのでしょうか?
両隻には次のような落款と印があります。
狩野休円清信no

「清信筆」の落款があり、「岩佐」(白文長方印)、「清信」(朱文旧印)捺されています。そのため筆者は、狩野休円清信(1641~1717)とされてきました。清信について辞書で調べると次のように記されています。      
寛永18年に、幕府表絵師・御徒町家の狩野休伯長信の三男として生まれる。名は清信、通称内記。明暦元年に朝鮮通信使来朝の際、朝鮮王国へ贈る屏風を制作し、明暦3年には江戸城本丸御殿の再建に参加。幕府から拝領した木挽町屋敷に住み、南部家から5人扶持を支給された。それにより奥絵師から独立し麻布一本松狩野家を起こし、幕府表絵師のひとつとなった。元禄16年享年77歳で死去。狩野 休円の代表作として、『維摩・龍虎図』『金毘羅祭礼図』『鯉の滝登り(登竜門)図』『蘇東坡・龍図』
狩野博幸氏は、筆者について「狩野休圓清信説」を採って、次のように記します。
「風俗画ということからいえば、浮世絵師の鳥居清信が浮かぶが、画風から彼とは別筆と見るべきである。本図の筆者は狩野休圓清信と考えられる」

狩野 休円、『龍虎図』
                狩野 休円の代表作『龍虎図』
しかし、これに対して、土居次義氏は「狩野休円清信の作品とすると、「岩佐」(白文長方印)の存在は不審」として疑問を投げかけます。加えて研究者は「画風上も必ずしも狩野派風が強くはなく、むしろ素朴さが目立っている」と評し、次のような疑義を述べます。
①広く撒かれた金砂子や画中の人物の衣文に加えられた金泥線などは後補
②金砂子は元々のすやり霞にあわせて自然に見えるように撒かれている部分もあるが、図様との境目において、重なり方に不自然さある。
③人物の衣の金泥線の人り方は不規則かつ粗維で、墨で描いた本来の衣文線とは全く有機的に結びついておらず、明らかに後補
④これら後補の金彩を取り除いた全体の印象としては浮世絵風が混じっている
以上からは、筆者を「狩野休円清信」とすることについては「要検討」とします。ここでは、「狩野休円清信説」が一般的的だが異論として「浮世絵師の鳥居清信説」もあるとしておきます。

次に、この絵が描かれた時期を見ていくことにします。
制作時期は、通説は「元禄末年頃」とされてきました。それは、絵の中に書かれている次の3つの建造物との関係からです。
① 大門前に鼓楼がないこと。鼓楼は宝永7年(1710)の完成ですから、描かれていないと云うことは、鼓楼が姿を見せる前に描かれていたことになります。ここから下限が1710年とされます。

象頭山社頭并大祭行列図屏風  大門内側
右端の大門の下に鼓楼がない。
金毘羅大祭行列図屏風
金毘羅大権現境内変遷図1 元禄時代
1704年の金毘羅大権現の伽藍配置 鼓楼が出来るのは1710年

② もうひとつの上限年代を示す建物は、本宮前の四段坂の途中の鳥居です。
大祭行列図屏風 山上拡大図 本殿 金剛院
         金毘羅大祭行列図屏風 本社下の四段坂の鳥居
本宮前の急坂は「御前四段坂」と呼ばれています。松原秀明「金毘羅庶民信仰資料集 年表篇」(1988年)には、元禄12年(1702)の記事として、次のようなことが載せられています。
6.10 本社屋根葺替。
7.20 宥山、権大僧都となる。
8.29 高松藩儒菊池武雅参詣一宿、宥山と詩の応酬あり。
9.  池領代官遠藤新兵ヱ、榎井村着。多聞院尚範・山下弥右ヱ門盛安外挨拶に出向く。
寒川郡志度村金兵ヱ、御前四段坂に銅包木鳥居建立寄付。宥山、金兵ヱに感謝の詩を贈る。
この年の一番最後に、寒川郡志度村の金兵南が、四段坂に銅包木鳥居を建立寄付し、別当宥山が金兵衛に感謝の詩を贈ったという記事があります。そして、四段坂を見てみると朱の鳥居がみえます。            
ここからはこの屏風は、元禄15年(1702)以降に描かれたことになります。

③もうひとつの有力情報は、鞘橋です。
鞘橋 金毘羅大祭行列図屏風
               鞘橋(金毘羅大祭行列図屏風)

この屏風では、鞘橋の屋根の形が中央で切り分けられた三棟の形式となっています。
これと延宝頃(1673~81)に描かれた狩野安信・時信筆の「象頭山十二景図」の鞘橋と比べて見ましょう。
39 橋廊複道(さや橋)狩野安信・時信筆の「象頭山十二景図」(図版39)の「橋廊複道」
狩野安信・時信筆の「象頭山十二景図」の鞘橋
これを見ると、延宝頃(1673~81)の鞘橋は、一棟の長い屋根で描かれています。「金毘羅庶民信仰資料集 年表篇」には、鞘橋は寛永元年(1624)に初めて架けられた記します。そして、その約60年後に次のような記事が見えます。
1686 貞享3 丙寅  7.26大雨洪水、鞘橋流失
10.3高松の城にて、将軍綱吉の朱印状を頂く。
1687 貞享4 丁卯 9.9大風にて神林の松損木多し。右材木にて鞘橋普請、川筋の石垣も出来る。
ここからは、貞淳3年(1686)に、鞘橋は大雨・洪水で流失し、翌年に再建されたことが分かります。この時に屋根の形式が変更された可能性があると研究者は考えています。

IMG_0001
          鞘橋周辺の護岸は石垣積
「川筋の石垣も出来る」とあるので、川筋は石垣で固められています。以上から鞘橋の屋根形式の変化からは、屏風が書かれたのは鞘橋再建(1687年)より後のことになります。
 以上から、屏風の制作年代は、次のふたつの時期の間と云うことになります。
①下限は、大門下の鼓楼完成前の宝永7年(1710)
②上限は、鞘橋の屋根が三棟形式で再建された1687年以後
これは、従来云われてきた「元禄末年頃説」を追認することになります。この屏風は通説どおり、元禄末期の制作ということになります。

 最後に、このふすま絵を描かせたのは誰なのでしょうか?
 それは当時の金光院の宥栄か、髙松藩主の松平頼重のどちらかではなかいと私は思っています。
 まず宥栄について考えると、歴代の金光院の住職は金毘羅プロモーションのために、中央の名のある学者や絵師に詩や絵図の制作を依頼していることは先ほど見たとおりです。
例えば、先ほど見た「象頭山十二景図」の制作担当者は、次の通り江戸の絵師です。
「左右桜陣」図から一幽軒梅月」図までが、狩野安信(父)
「雲林洪鐘」図から「萬農曲流」図までが、狩野時信(子)
象頭山十二景の作成手順

当時、この下図を書いたのは高松藩お抱え絵師の狩野常真宗信や、その子常慶でした。金光院の宥栄は、宗信を通じて、彼の師である江戸の狩野派宗家中橋家の当主狩野永真安信と子の右京時信に「象頭山十二景図」の「本図」制作を依頼したのは以前にお話ししました。
 宥山が金光院当主となったのはその後の元禄4年(1691)で、その時期には髙松藩初代松平頼重の保護によって、金毘羅境内の諸堂・諸院が新たな装いで生まれ変わった時期です。また『金光院日帳』を宝永五年(1708)から作りはじめるなど、金毘羅の権威高揚に努め、中興の英主と仰がれた人物です。こうして見ると「金毘羅祭礼図屏風」の制作を発注する人物として、宥山は第一候補になります。
 ちなみに狩野家の血筋や姻戚筋の御用絵師家は、相互に交流があり、「寄り合い描き」を行ったり、養子その他の縁組みなどがよく行われていたようです。各家系が互いに提携し合うために、頭取や触頭という肝煎役も設けられています。ここでは、金光院と高松藩との関係や狩野派絵師同士の交流関係があったことを押さえておきます。そうすると、次のような仲介依頼を通じて、制作依頼が行われたことが推測できます。
金光院宥山 → 高松藩の御抱絵師狩野常慶の仲介者 → その師匠筋に当たる狩野派宗家中橋家の当主で狩野永真安信の孫永叔主信 → 表絵師狩野休圓清信

 金光院と狩野家宗家中橋家との関係は、「象頭山十二景図」制作依頼の時にも見られました。また、狩野家宗家中橋家と狩野休圓清信との関係は、狩野永真安信と狩野休圓清信が、明暦元年(1655)と天和2年(1682)の朝鮮国王への贈呈屏風制作時に共同参画した時に始まると研究者は指摘します。『古画備考』には、例年正月五日に御書初めとして狩野探幽とともにお城に召される間柄であったことが記されています。
 しかし、このように見てくると高松藩主が制作依頼し、後に奉納寄進説したということも同時に考えられます。それは松平頼重が描かせたと言われる高松城城下屏風があるからです。

高松城下町1

この屏風図は松平家初代頼重(1622~95)の時代の高松城と城下町を描いた屏風とされます。この屏風を見ていると、松平頼重やその後の藩主が眺めていた屏風ではないかという想像が湧いてきます。
しかし、今のところそれを裏付ける確かな史料はありません。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 「伊東大輔 平成の大遷座祭斎行記念 金刀比羅宮の名宝(絵画) 金刀比羅宮」313P
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表書院 虎の間
              表書院 「七賢の間」から望む「虎の間」

虎の間は、東西五間・南北三間の30畳で表書院の中では一番大きな部屋でした。東側が鶴の間、西側で七賢の間に接しています。上の写真は、七賢の間から見たもので正面が西側の「水呑の虎」です。ここには、応挙によって描かれた個性のある虎たちがいます。今回は、この虎たちを見ていくことにします。テキストは「伊東大輔 平成の大遷座祭斎行記念 金刀比羅宮の名宝(絵画) 金刀比羅宮」299Pです。まず、虎たちの配置を押さえておきます。
虎の間配置

①東側の大襖(四面、2-A          水呑の虎)
②北側の襖(八面、2-B・2ーC)  八方睨みの虎 寝っ転がりの虎)
③西側の大襖(四面、2‐D)      白虎)
④南側の障子腰貼付(八面、2‐E、2‐F)
西北隅には高く険しい岩、東北隅に岩峰から流れ落ちる白い瀑布と松樹が配置され、西・北・東三面の自然的な繋がりを生み出しています。東側から見ていくことにします。

虎の間 水呑の虎
①東側の大襖(西側四面、2-A      水呑の虎)
虎の間 水呑の虎 円山応挙

後には流れ落ちる瀑布があり、そこから流れてくる水を二頭の虎が飲んでいます。「水呑の虎」とよばれています。しかし、私には左の虎は「猫バス」を思い出してしまいます。次に北側(B)に目を移します。

虎之間 円山応挙「遊虎図」

      ②北側の襖(B) 「八方睨みの虎」(金刀比羅宮表書院 虎の間)
ここには、「八方睨みの虎」がいます。

IMG_0004
②北側の襖(B) 「八方睨みの虎」
虎は、鋭い眼光で四方八方から押し寄せる厄災から家を守ってくれるので魔除けとされたり、「1日にして千里を行き千里を返す」という例えから開運上昇の霊獣ともされました。「八方睨みの虎」は、上下左右どこから見ても外敵を睨んでいるように描かれた虎の絵柄で、後世になると魔除けや家内安全の願いを込めて用いられるようになります。この虎がよほど怖ろしかったのか、描かれてから約80年後の1862年に、小僧がこの虎の右目を蝋燭で焼こうとして傷つけられて修復した記録が残っています。しかし、私の目から見ると、なんだか愛くるしい「猫さん」のように見えていまいます。

虎の間北側 寝っ転がりの虎 円山応挙
            ②虎の間・北側の襖(2ーC)
 八方睨みの虎のお隣さんが「丸くなって寝っ転がる虎(私の命名)」です。まだらヒョウのような文様で、目を閉じ眠っています。最後が西側です。

虎之間 円山応挙「遊虎図」2
金刀比羅宮表書院 虎の間の北と西
表書院虎の間西 円山応挙
虎の間 西側

西側には3頭の虎がいますが、その中で目を引くのが白虎(ホワイトタイガー)です。
IMG_0006
表書院虎の間の「白虎」(円山応挙)

しっぽを立てて、威嚇するような姿に見えます。しかし、前足の動きなどがぎこちない感じです。また
実際の虎の瞳は丸いのですが、ここにいる虎たちはネコのように瞳孔が細く描かれています。それも可愛らしい印象になっているようです。
 前回見た鶴の間の鶴たちと比べると「写実性」いう面では各段の開きがあるように思います。18世紀後半になると魚や鳥などをありのままに写実的に精密に描くという機運が画家の中には高まります。その中で鶴を描くのを得意とする画家集団の中で、応挙は成長しました。彼らはバードウオッチングをしっかりとやって、博物的な知識を持った上で鶴を書いています。しかし、その手法は虎には適用できません。なぜなら、虎がいなかったから・・。江戸時代は国内で実物のトラを観察することができず、ネコを参考に描き上げたことをここでは押さえておきます。
虎の画題は、龍とともに霊獣として古くから描かれてきました。
国宝の旅 - 龍虎図(重文) 伝・牧谿筆 @大徳寺 | Facebook
伝牧籍(南宋)の筆「龍虎図」(大徳寺)

しかし、日本に虎はいません。そこで画家達は、上図のような中国から伝わったこの絵をもとに、変形・アレンジを繰り返しながら虎図を描いてきました。その到達点が17世紀半ばに狩野探幽が南禅寺小方丈の虎の間に描いた「水呑の虎」のようです。

ぶらり京都-136 [南禅寺の虎・虎・虎] : 感性の時代屋 Vol.2
       狩野探幽の「水呑の虎」 (南禅寺小方丈虎の間)

応挙も画家として、人気のある虎の画題を避け通ることはできませんから、墨画によるものや彩色を施されたもの、軸、屏風に描かれたものなどいろいろなものを描いています。

円山応挙の「虎図」=福田美術館蔵
                   円山応挙の「虎図」=福田美術館蔵
円山応挙 幻の水呑の虎


「写生画」を目指した応挙にとって、見たこともない「虎」を、実物を見たように描くということは、至難のことだったはずです。
それに応挙は、どのように対応したのでしょうか? それがうかがえる絵図を見ておきましょう。

虎皮写生図(こひしゃせいず)
  応挙筆「虎皮写生図(こひしゃせいず)」 二曲一双 紙本着色 本間美術館蔵
    150㎝ × 178㎝(貼り切れない後脚と尾は裏側に貼ってある)             
この屏風は、応挙が毛皮を見て描いた写生図です。毛並みや模様を正確に写していることが分かります。虎皮は実物大に描き、貼りきれなかった後足と尾の部分は裏側に貼られているようです。各部の寸法を記した記録や、豹の毛皮の写生、そして復元イメージの小さな虎の絵も添えられています。しかし、先ほど見たように「虎の目は丸い」ということまでは毛皮からは分かりません。猫の観察から「細い眼」で描かれたようです。表書院の虎たちが、どこか猫のように可愛いのはこんな所に要因があったようです。

 しかし、応挙の晩年に描かれた虎たちには別の意図があったと研究者は次のように記します。

それまでの応挙の「水呑の虎」は「渓流に前足を踏み入れ、水を呑む虎の動作を柔軟に動的に表現」している。ところが「虎の間」の「水呑みの虎」は、墨画によるもので「虎の毛並みの表現に集中した静的で平面的な表現である。つまり両者の間には、着色で立体的に描かれた背景と、平面的に描かれた虎という対比的な表現法がとられている。平面的に描かれた虎は、背景の自然物の空間にはなじんでいない。ここでの虎は、自然の中を闊歩する動物としての虎ではなく、霊獣としての意味合いをもって立ち現れているのではないだろうか。 

つまり、表書院の虎たちは平面的で静的にあえて墨で描かれているというのです。その意図は、何なのでしょうか? それは、この部屋の持つ役割や機能と関係があるとします。
以前お話ししたように迎賓館的な表書院の各間の役割は、以下の通りです。

金刀比羅宮表書院の各部屋のランクと役割

表書院は、金光院と同格の者を迎える場で、大広間であり、小劇場の舞台としても使用されました。その機能を事前に知っていた応挙が、霊獣としての虎をあえて平面的に用いてたのではないかというのです。

虎の間の東側南端の落款には「天明七年(1787)」とありますので、応挙55歳の夏のものであることが分かります。
この時に、鶴の間の鶴たちも同時に金光院に収められたと研究者は考えています。この年の応挙は、南禅寺塔頭帰雲院、大乗寺山水の間、芭蕉の間も制作しています。生涯の中で、最も多く障壁画を制作した年になるようです。
  応挙は、これらの障壁画を現地の金刀比羅宮で制作したのではなく、大火後に家を失ってアトリエとして利用していた大雲院で制作したようです。完成した絵図は、弟子たちによって運ばれ、障壁画としてはめ込まれます。応挙が金毘羅を訪れた記録はありません。
 
 最後に、完成した虎の間が、実際にはどのように使われていたのかを見ておきましょう。
松原秀明「金昆羅庶民信仰資料集 年表篇」には「虎の間」の使用実態が次のように記されています。
①寛政12年(1800)10月24日  表書院虎の間にて芝居。
②文化 7年(1810)10月18日  客殿(表書院)にて大芝居、外題は忠臣蔵講釈。
③文化 9年(1812)10月25日  那珂郡塩屋村御坊輪番恵光寺知弁、表書院にて楽奉納
④文政5年(1832)9月19日     京都池ノ坊、表書院にて花奉納
⑤文政7年(1834)10月12日    阿州より馳馬奉納に付、虎の間にて乗子供に酒菓子など遣わす
⑥弘化元年(1844)7月5日      神前にて代々神楽本納、のち表書院庭にても舞う、宥黙見物
⑦弘化3年(1846)9月20日     備前家中並に同所虚無僧座頭共、虎之間にて音曲奉納
ここからは、次のような事が分かります。
A 表書院で最も広い大広間でもあった虎の間は、芸能が上演される小劇場として使用されていた
B ⑤の文政7年の記事からは、虎の間が馬の奉納者に対する公式の接待の場ともなっていたこと
C ⑥の記事からは単なる見世物ではなく、神前への奉納として芸能を行っていたこと
D 神前への奉納後に、金光院主のために虎のまで芸が披露されてたこと
以上から、虎の間は芸能者が芸能を奉納し、金光院がこれを迎える、公式の渉外接待の場として機能していたと研究者は判断します。それらをこの虎たちは見守り続けたことになります。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「伊東大輔 平成の大遷座祭斎行記念 金刀比羅宮の名宝(絵画) 金刀比羅宮」


前回は18世紀末に、金刀比羅宮表書院のふすま絵リニューアルを円山応挙が担当することになったこと。担当者となった応挙は、それまでの各間の呼称に従って絵を描いたことを見ました。今回は、そのなかで玄関に一番近い鶴の間に、応挙がどんな絵を収めたのかを見ていくことにします。まずもう一度、表書院の間取りを確認しておきます。

表書院平面図2

玄関に一番近いところにあるのが鶴の間です。各間には、次のようなふすま絵が描かれました。

表書院間取り3
             表書院の間取りと各部屋の障壁画

最初に迎えてくれるのが鶴の間で、ここには遊鶴画が描かれています。鶴の間は、東西二間、南北二間の十二畳の部屋です。玄関を入ってすぐ左にあって、西側の虎の間に続きます。鶴の間の絵図配置の拡大版を見ておきます。
表書院鶴の間 1
表書院 鶴の間の配置図
1ーA 稚松双鶴図(ちしょうそうかくず)  東側の壁貼付で床の間三面
1ーB 稚松図(ちしょうず)        障子腰貼付二面  
1ーC  稚松丹頂図 西側の襖四面
1ーD  芦(あし)丹頂図 北側の大襖四面
1ーE 芦図(あしず) 南側の障子腰貼付四面
全て円山応挙の障壁画です。ここに描かれている鶴たちを見ていくことにします。テキストは「金刀比羅宮の名宝(絵画)298P」です。

鶴之間 円山応挙「遊鶴図」西側
              鶴の間の西側(1-C)と北側(1-D)

鶴の間には見る者の視線を次のように誘導する配慮・配置がされていると研究者は指摘します。
①まず縁側廊下を西に進むと最初に見えてくるのが西側(1-C)です。

1-C西側 松に丹頂
             1ーC  稚松丹頂図  西側の襖(金刀比羅宮表書院)

②西側には松と3羽の鶴が描かれています。わたしは若鶏を連れた丹頂の夫婦と思っていました。北海道の道東地方の沼や湿原で、こんな丹頂の姿を何度も見ました。異なる鶴同士が一緒に行動することはほとんどありません。しかし、右端はマナヅルだそうです。当時はいろいろな種類の鶴が描き込まれるのが流行だったようです。
③左端の丹頂は、首をひねって後方を見渡しています。その鶴の視点に誘導され、西側から北側(正面)へと視線を移動させると、「1-D」の芦の中の丹頂たちと向き合うことになります。

1-D北側 芦丹頂飛翔
④北側4面(1ーD)の大襖の2枚には、舞い降りてくる丹頂が描かれています。鶴の動きを追ってみると、後ろの鶴は飛翔体制ですが、前の鶴は脚を出していて着地体制に入っています。ここには時間的連続性が感じられます。そのまま私たちの方まで飛んできそうな感じです。大空を飛ぶ躍動感が伝わってきます。
鶴の間北側 芦辺の丹頂
       1ーD  芦(あし)丹頂図 北側の大襖四面(金刀比羅宮表書院)

⑤その隣が芦辺に舞い降りた一対の丹頂鶴が描かれています。警戒心を持つ左が牡で、エサをついばもうとしているのが牝と私は勝手に思っています。これもつがいで行動する丹頂のよく見える姿です。

鶴の間東側1-A 稚松双鶴図
        鶴の間東側(1-A)の「稚松双鶴図」(金刀比羅宮表書院)
⑥そして、視線が最後に行き着くのが東側(1-A)の「稚松双鶴図」です。ここには床の間に身を寄せ合うようにし一本立ちで眠る二羽の真鶴と松が描かれています。この鶴は小さく描かれ、左側には大きな余白が作られています。これはどうしてなのでしょうか? それはここが床の間で、空白部分には軸を飾るためだそうです。

1A丸山応挙 表書院鶴の間
        鶴の間東側(1-A)の「稚松双鶴図」(金刀比羅宮表書院)

見てきた通り、この部屋には多くの鶴が描かれています。
日本画に描かれるのが最も多いのが丹頂鶴で、次に真鶴(マナヅル)が続き、鍋鶴は毛色が地味なのでほとんど描かれることはないようです。野鳥観察という視点から見ると、応挙は鶴をよく観察していると思います。相当な時間を鶴のバードウオッチングに費やしていることがうかがえます。
応挙と鶴の関係を見ておきましょう。
①享保18年(1733)丹波国穴太村(京都府亀岡市)の農家出身
②延享 4年(1747)15歳頃、京都の呉服商に奉公し、
   後に玩具商尾張屋(中島勘兵衛)の世話になり、眼鏡絵を描く作業に携わる。同時に、尾張屋の援助で狩野派の石田幽汀門に入り絵の修業を積む。
③宝暦 9年(1759)27歳頃、「主水(もんど)」の署名で、タンチョウとマナヅルを描いた「群鶴図」(円山主水落款・個人蔵)制作

円山応挙 双鶴図(仙嶺落款・八雲本陣記念財団蔵)
               円山応挙「双鶴図」(仙嶺(せんれい)」の署名
④明和2年(1765)、30歳頃から「仙嶺」の署名で「双鶴図」(八雲本陣記念財団蔵)制作
⑤応挙が師事した石田幽汀の代表作品は「群鶴図屏風」(六曲一双・静岡県立美術館蔵)
⑥若き日の応挙は、石田幽汀の下で、鶴の絵の技法などを学ぶ。
応挙の師である石田幽汀の作品を見ておきましょう。

石田幽汀 《群鶴図屏風》

石田幽汀 《群鶴図屏風 応挙の師匠
         石田幽汀 《群鶴図屏風》1757-77 六曲一双屏風 各156.0×362.6cm
ここにはさまざまな姿の鶴が描かれています。種類は、タンチョウ・ナベヅル・マナヅルの他にも、ソデグロツル・アネハヅルまでいます。趣味として野鳥観察を行っていたレベルを越えています。博物学的な興味となんらかの制作事情が重なったことがうかがえます。そして、若き日の応挙は、この石田幽汀一門下にいたのです。鶴への知識が豊富なはずです。それが18世紀の「写生」時代の絵画の世界だったのかもしれません。ここでは、応挙は、鶴の博物学的な師匠から学んだことを押さえておきます。
ただ、師匠の描く鶴は多種多様な鶴たちの乱舞する鶴たちでした。しかし、晩年の応挙が鶴の間に残した鶴たちは、つがいで行動する鶴たちでした。印象は大きく違います。

鶴の間には落款がありませんが、その作風から隣の虎の間と同じ天明7年(1787)、応挙55歳の作と研究者は判断します。ところがその翌年に、応挙は京都の大火に被災して焼け出されてしまいます。そのため一時は創作活動が停止します。その困難を克服後の寛政6年(1794)に完成させたのが七間・風水の間の絵になるようです。
ちなみに客殿として使用された表書院には、各間に次のようなランクがあったことは前回お話しました。
表書院の部屋ランク


金刀比羅宮表書院の各部屋のランクと役割

やってきた人の身分によって通す部屋が違っていたのです。その中で鶴の間は、玄関に一番近く部屋ので、最も格下の部屋とされていました。格下の部屋には、画題として「花鳥図」が描かれるのがお約束だったようです。円山応挙に表書院のふすま絵のオファーが来たときから、それは決まっていたことは前回にお話しした通りです。
幕末から明治にかけては、満濃池にも鶴が越冬のためにやってきたようです。
満濃池遊鶴(1845年)2
      満濃池遊鶴(1845年)に描かれた群舞する鶴
金堂(旭社)の完成を記念して刷られた刷物には、満濃池の上を乱舞して、岸辺に舞い降りた鶴の姿が描かれ「満濃池遊鶴」と題して、鶴が遊ぶ姿を歌った漢詩や和歌が添えられています。ここからは、200年前の丸亀平野には鶴がやって来ていたことが分かります。そして、いま鶴よりも先にコウノトリが帰ってきたとしておきます。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 伊東大輔 平成の大遷座祭斎行記念 金刀比羅宮の名宝(絵画)
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「金刀比羅宮の名宝(絵画)」を手にすることができたので、この本をテキストにして、私の興味があるところだけですが読書メモとしてアップしておきます。まず、表書院について見ていくことにします。

39 浦谷遊鹿
        象頭山十二景図(17世紀末)に描かれた表書院と裏書院

金光院 表書院
        金刀比羅宮表書院(讃岐国名勝図会 1854年)

生駒騒動後に、松平頼重が髙松藩初代城主としてやってくると、金毘羅大権現へ組織的・継続的な支援を次のように行っています。

松平頼重寄進物一覧表
松平頼重の金毘羅大権現への寄進物一覧表(町誌ことひら3 64P)

松平頼重が寄進した主な建築物だけを挙げて見ます。
正保二年(1645)三十番神社の修復
慶安三年(1650)神馬屋の新築
慶安四年(1651 仁王門新築
万治二年(1659)本社造営
寛文元年(1661)阿弥陀堂の改築
延宝元年(1673)高野山の大塔を模した二重宝塔の建立
これだけでも本堂を始めとして、山内の堂舎が一新されたことを意味します。表書院が登場するのも、この時期です。
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表書院は、客殿として万治年間(1658~61)に建立されたと伝えられています。

先ほど見たとおり、松平頼重の保護を受けると大名達の代参が増えてきます。その対応のためにもきちんとした客殿が必要になったのでしょう。建設時期については、承応2年(1654)に客殿を建て替えたという文書もあるので、万治2年(1659)の本宮造営完了の頃には姿を見せていたと研究者は考えています。そして、その時から各部屋は「滝之間、七賢之間、虎之間、鶴之間」の呼び名で呼ばれていたことが史料で確認できます。それが百年以上経過した18世紀後半になって、表書院をリニューアルすることになり、各部屋のふすま絵も新たなものにすることになります。その制作を依頼したのが円山応挙だったということのようです。この時期は、大阪湊からの定期便が就航して以後、関東からの参拝客が急速に増加して、金光院の財政が潤い始めた時代です。


表書院
表書院平面図2
                    表書院の間取り
 
円山応挙が表書院の絵画を描くようになった経緯については、金毘羅大権現の御用仏師の田中家の古記録「田中大仏師由緒書」に次のように記されています。

田中家第31代の田中弘教利常が金光院別当(宥存)の意を受けて円山応挙に依頼したこと、資金については三井北家第5代当主高清に援助を仰いだこと。

金光院歴代院主一覧
歴代金光院院主一覧表
当時の金光院別当の宥存については、生家山下家の家譜には次のように記します。
俗名を山下排之進といい、二代前の別当宥山の弟山下忠次良貞常の息として元文四年(1739)10月26日に京都に生まれた。
宝暦5 年(1755)9月21日(17歳)で得度
宝暦11年(1761)2月18日(23歳)で金光院別当として入山し27年間別当職
天明 8年(1787)10月8日(49歳)で亡くなる。
宥在は少年時代を京都で過ごし、絵画を好んだので若冲について学んだと伝わります。
金光院別当宥存は京の生まれで、少年時代を京で過ごした経歴を持ち、絵事を好んで若冲に教えを受けたことがあるとされます。ここからは表書院の障壁画制作の背景について、次のように考えることができます。
①京画の最新状況に詳しい金光院別当の宥存
②経済的に他に並ぶものがない豪商三井家
③平明な写生画風によって多くの支持層を開拓していた円山応挙
これらを御用仏師の田中家が結びつけたとしておきます。京から離れた讃岐国でも、京都の仏師達や絵師たちが、善通寺の本尊薬師如来を受注していたことや、高松藩主松平頼重が多くの仏像を京都の仏師に発注していたことは以前にお話ししました。京都の仏師や絵師は、全国を市場にして創作活動を行っていました。金刀比羅宮表書院と円山応挙の関係もその一環としておきます。

金刀比羅宮 表書院4
       表書院 七賢の間から左の山水、右の虎の間を望む
応挙が書いた障壁画には、次のふたつの年期が記されています。
①天明7年(1787)の夏    虎の間・(同時期に鶴の間?)
②寛政甲寅初冬(1794)10月 山水の間・(同時期に七賢の間?)
ここからは2回に分けて制作されたことが分かります。まず、①で鶴の間・虎の間が作られ、評判が良かったので、7年後に②が発注されたという手順が考えられます。応挙が金毘羅へやってきたという記録は残っていないので、絵は京都で書かれ弟子たちが運んできたようです。
 なお、最初の天明7年(1787)10月には、施主であった第十代別当宥存(1727~87)が亡くなっています。もう一つの寛政6年(1794)は、応挙が亡くなる前年に当たります。そういう意味で、この障壁画制作は応挙にとっても集大成となる仕事だったことになります。ちなみに、完成時の別当は第11代宥昌になります。
 表書院は客殿とも呼ばれていて、表向きの用に使われた「迎賓館」的な建物です。
実際にどんなふうに運用されていたのかを見ていくことにします。『金刀比羅宮応挙画集』は、表書院が金光院の客殿であったことに触れた後、次のように記します。

「表立ちたる諸儀式並に参拝の結紳諸候等の応接には此客殿を用ゐたるが、二之間(山水之間)は主として諸候の座席に、七腎之間は儀式に際しての院主の座席に、虎之間は引見の人々並に役人等の座席に、鶴之間は当時使者之間とも唱へ、諸家より来れる使者の控室に充当したりしなり」

意訳変換しておくと
公的な諸儀式や参拝に訪れた賓客の応接にこの客殿を用いた。その内の二之間(山水之間)は主として諸候の座席に、七腎人の間は儀式に際しての院主の座席に、虎之間は引見の人々や役人の座席に、鶴之間は使者の間とも呼ばれ、各大名家などからやってくる使者の控室として用いられた。

ここでは、各間の機能を次のように押さえておきます。
①二之間(山水之間) 諸候の座席
②七腎人の間 儀式に際しての院主の座席
③虎之間 引見の人々や役人の座席
④鶴之間 使者の間とも呼ばれ、各大名家などからやってくる使者の控室

表書院の「運用実態」を、金光院日帳の正月元旦の記述で見ておきましょう。

金光院日帳
金光院日帳 1834年 正月
元旦の午前2時頃に護摩祈祷から金光院主が帰った後の動きです。


ほどなく、①書院の間で寺院のあいさつを受ける。続いて同宿役人・人・医師・侍・神役・茶道がお礼を申し上げる。次に②富士の間で御供禅門・男・五師・冶師などの御礼を受けられる。右の者と同席に百姓組頭・三条村百姓町方独礼のがお礼、大井宮神主も御礼申し上げる次に、次に③通りの間で小頭共、さらに④大台所で草履取・中間・堂禅門伽藍中間・勝手門番・畑男・前屋敷番・太鼓打・下屋敷番・地方肝煮・山留共がそろってお礼。
   次に、お上(院主)へ蓮菜・口取・大福茶を差し上げ、寺院書院・法中・役人へ大福茶を出す。つづいて寺中・法中・役人御相伴にて雑煮を差し上げる。酒は三献、肴は二種、梅干とせり。次に⑤七賢の間で町方御用のお礼を受けられる。
ここからは、身分や位に応じて、年頭挨拶を受ける場所が違うことです。別の言い方をすると、身分によって通される部屋が違っていたことになります。そして、だれがやって来て、どの部屋に通して、何を出したかがきちんと記録されています。

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松原秀明「金昆羅庶民信仰資料集 年表篇」には、「虎の間」の使用実態が次のように記されています。
①寛政12年(1800)10月24日  表書院虎の間にて芝居.
②文化 7年(1810)10月18日  客殿(表書院)にて大芝居、外題は忠臣蔵講釈.
③文化 9年(1812)10月25日  那珂郡塩屋村御坊輪番恵光寺知弁、表書院にて楽奉納
④文政5年(1832)9月19日     京都池ノ坊、表書院にて花奉納
⑤文政7年(1834)10月12日    阿州より馳馬奉納に付、虎の間にて乗子供に酒菓子など遣わす
⑥弘化元年(1844)7月5日      神前にて代々神楽本納、のち表書院庭にても舞う、宥黙見物]
⑦弘化3年(1846)9月20日     備前家中並に同所虚無僧座頭共、虎之間にて音曲奉納
虎の間3
虎の間(金刀比羅宮表書院 円山応挙)
ここからは、次のような事が分かります。
A 表書院で最も広い大広間でもあった虎の間は、芸能が上演される小劇場として使用されていた
B ⑤の文政7年の記事からは、虎の間が馬の奉納者に対する公式の接待の場ともなっていたこと
C ⑥の記事からは単なる見世物ではなく、神前への奉納として芸能を行っていたこと
D 神前への奉納後に、金光院主のために虎のまで芸が披露されてたこと
以上から、虎の間は芸能者が芸能を奉納し、金光院がこれを迎える公式の渉外接待の場として機能していたと研究者は判断します。
表書院平面図


改築前の表書院復元図
表書院のでの芝居上演については、金光院日帳に次のように記されています。(意訳)

 十月十二日 客僧衆が望まれるので、お寺で大芝居をさせることにして、その旨多聞院へ連絡する。承知の返事があったので、荷物上げ人足小頭を添えて二十人ばかり遣わす。荷物は勝手門から入り、中門を通って①鶴の間の縁へ上げさせる。また荷物の出入りは作事奉行が監視する。②七賢の間との間の間の敷居の所へ手摺を置き、毛壁を掛ける。お上(院主)は、そこへ簾をかけて御覧になる。③鶴の間の太夫の座に簾をかける。楽屋のことは小頭一人・中間二人に受持たせ湯茶の準備もさせる。火鉢一ツ 薬罐一ツ炭・煙草盆・硯箱・番附を書くための杉原紙など渡す。
芝居の役者は勧進元が召し連れて御門からの間へ通る。前々の通り、芝居の当日は、朝夕とも支度を米で渡し、昼食は役所で拵えて食べさせる決まりで、その旨台所奉行へ連絡する。食には煮染・香の物など出す。楽屋で使う日用人にも昼食を食べさせ酒も出す。芝居座本へは鳥目三貫文、目録を添え、多聞院か勧進元へ渡す。多聞院また警固役は、芝居の間、棒突を連れて広縁に詰めている。
十月十三日 お上が浄瑠璃を聞かれるので、その旨、多聞院へ申しやり、浄瑠璃語りの者三人・三味線二人暮方から出かけて来て、お次広間で語らせる。終わって玄関で、味噌煮と茶漬を食べさせる。

鶴の間 西と北側
             表書院 鶴の間(金刀比羅宮)
同じように、鶴の間についても松原氏の年表で見ておきましょう。

①天保8年(1837)4月1日  金堂講元伊予屋半左衛門・多田屋次兵衛、以後御見席鶴之間三畳目とし、町奉行支配に申しつける

ここからは当時建立が決定した金堂(旭社)建設の講元の引受人となった町方の有力者に対して、「御目見えの待遇」で町奉行職が与えられています。それが「鶴の間三畳目」という席次になります。席次的には最も低いランクですが、町奉行支配という形で、金刀比羅宮側の役人に取り立てたことを目に見える形で示したものです。
七賢の間
七賢の間(金刀比羅宮表書院) 
七賢の間については、金光院表役の菅二郎兵衛の手記に次のように記されています。

万延元年(1860)2月の金剛坊二百丘十年忌の御開帳に際して、縁故の深い京の九条家からは訪車が奉納されたが、2月5日に奉納の正使が金毘羅にやってきた。神前への献納物の奉納後、寺中に戻り接待ということになったが、その場所は、本来は七賢の間であるべきところが、何らかの事情により小座敷と呼ばれる場所の2階で行われた

ここからは、七賢の間は公家の代参の正使を迎える場として使われていたことが分かります。
 天保15年(1844)に有栖川宮の代参として金刀比羅宮に参拝にやって来て、その後に奥書院の襖絵を描いた岸岱に対する金刀比羅宮側の対応を見ておきましょう
天保15年(1844)2月2日、有栖川宮の御代参として参詣した時には、岸岱は七賢の間に通されています。それが、6月26日に奥書院の襖絵を描き終わった後の饗宴では、最初虎の間に通され、担当役人の挨拶を受けた後、院主の待つ御数寄屋へ移動しています。この時、弟子の行芳、岸光は鶴の間に通され、役人の扶拶のないまま、師の岸岱と一緒に数寄屋へ移動しています。
表書院 虎の間

          七賢の間から望む虎の間(金刀比羅宮表書院)
以上から、表書院の部屋と襖絵について研究者は次のように解釈します。
表書院の部屋ランク

つまり、表書院には2つの階層格差の指標があったのです。
A 奥に行くほど格が高く、入口に近いほど低いという一般常識
B 「鶴(花鳥)→虎(走獣)→賢人→山水」に格が高くなると云う画題ランク

以上を踏まえた上で、表書院の各室は次のように使い分けられていたと研究者は指摘します。

金刀比羅宮表書院の各部屋のランクと役割


このことは先ほど見たように、画家の岸岱が有栖川宮の代参者としてやってきた時には「七賢の間」に通され、画家という芸能者の立場では「虎の間」に通されていることとからも裏付けられます。
表書院は金刀比羅宮の迎賓館で、ランク毎に使用する部屋が決まっていたのです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 伊藤大輔 金刀比羅宮の名宝(絵画) 
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井関池
                  井関池

  前回は大野原新田開発に、そのシンボルとして井関池が登場するまでを追いかけてみました。完成後の井関池は、次のように決壊と復旧をの繰り返します。
①正保元年(1644年)2月に7ヶ月の突貫工事で井関池完成
②同年8月に堤防決壊
③翌年正保2年(1645)2月に復旧したものの、7月の大雨で再び決壊
④慶安元年(1648年)に決壊
こうしてみると数年で3回も決壊しています。工法に問題があったのと、余水吐けの排水能力が不足していたようです。井関池は、柞田川に直接に堤防を築いています。そのために台風時などの大雨洪水になると、東側のうてめだけでは余水が処理しきれなくなり、堤防の決壊を繰り返したようです。その結果、修復費用がかさみ資金不足のために復旧に目途が立たず、入植した百姓達の中には逃げ出すものも出てきます。大野原開発の危機です。
 これに対して平田家は、次のように対応策を打ちだします。
①丸亀藩に対して井関池復興事業を藩普請で行うように求めて同意を取り付けたこと
② 洪水時の流下能力向上のために、うてめ(余水吐け)の拡張工事を行う事
③明暦(1656)年11 月に平田与一左衛門が亡くなった後は、二代目与左衛門源助が本拠を京
から大野原に移して腰を据えて新田開発に取り組む姿勢を見せたこと
こうしてようやく平田家の開墾新田は軌道に乗っていきます。
そのような中で、井関池の改修がどのように行われたのかを、尾池平兵衛覚書で見ていくことにします。テキストは観音寺市文化財保護協会 尾池平兵衛覚書に見る江戸前期の大野原」です。

尾池平兵衛覚え書



尾池平兵衛覚え書11~15

「12 東宇手目(うてめ)は地蔵院の寺領を所望せし事」45P
解読文 12
東宇手目(うてめ)ヨリ横井キハ迄生山ヲ堤二仕候分ハ、
地蔵院寺領之内ヲ、山崎様御代二御所望被成、
池堤二被仰付候。
   
ため池の構造物
          ため池の構造物  宇手目(うてめ)=余水吐け

  意訳変換しておくと
東うてめ口から横井の際までは、山を堤として利用している。この山については、もともとは地蔵院寺の寺領であったものを、山崎家にお願いして池堤として利用できるようになった。

大野原開墾古図 1645年(井関池周辺)
         大野原開墾古図(1645年) 井関池周辺の部分図

大野原開墾古図 1645年(部分)
                    上記のトレス図

地図を見ると井関池の東側には、地蔵院(萩原寺)が見えます。中世にはこの寺は非常に大きな寺勢を有した寺でした。現在の井関池の東側までは地蔵院の寺領だったようです。そこで藩主に願いでて払い下げてもらって、堤として利用したと書かれています。その尾根を切通して「うてめ(余水吐け)」を作るというプランだったことが分かります。井関池は西嶋八兵衛が底樋を設置するまで工期が進んでいたとされるので、この堰堤位置を決定したのは西嶋八兵衛の時になるのかも知れません。西嶋八兵衛が築造した満濃池のうてめ(余水吐け)を見ておきましょう。

満濃池遊鶴(1845年)2
           満濃池遊鶴図 池の宮の東につくられた「うてめ」
満濃池のうてめも堅い岩盤を削ってつくられている。
②井関池の「うてめ」拡張工事について、「尾池平兵衛覚書10 井関池東宇手目(うてめ)を十間拡げた事」44Pには次のように記します。
大野原之義井関池ハ川筋ヲ築留申二付、東
宇手目幅四間岩ヲ切貫候故、水大分参候時ハ本
堤切申二付、毎年不作仕及亡所二、最早中間
中も絶々二罷成候。然処ヲ柳生但馬様ヲ頼上、
山崎甲斐守様江御歎ヲ被仰被下二付テ、山崎様
ヨリ高野瀬作右衛門殿と申三百石取フ為奉行、御鉄
胞衆弐百人斗百十日西(東力)宇手目拾間廣被下候。
以上拾四間二候。夫ヨリ以来堤切申義無之候。
意訳変換しておくと

  大野原の井関池は、柞田川の川筋に堤防を築いているために、幅四間の岩を切り貫ぬいたうてめ(余水吐け)では、洪水の時には堤防を乗り越えて水が流れ、決壊した。毎年、不作が続き「中間」中でも資金が足りなくなってきた。そこで、柳生但馬様を通じて、丸亀藩の山崎甲斐守様へ藩の工事としてうてめ拡張工事を行う嘆願し、実現の運びとなった。山崎様から高野瀬作右衛門殿と申三百石の奉行が鉄胞衆200人ばかりを百十日動員して、東のうてめを10間拡げた。こうしてうてめは14間に拡張し、それより以後は堤が切れることはない。

  ここからは、もともとのうてめは幅4間(1,8m×4)しかなかったことが分かります。それが堤防決壊の原因だったようです。拡張工事を行ったのが、丸亀藩の鉄砲衆というのがよく分かりません。火薬による発破作業が行われたのでしょうか? 

現在の井関池の余水吐けを見ておきましょう。

井関池のうてめ

井関池のうてめ.2JPG
        井関池の東うてめ(余水吐け) 固い岩盤を切り通している

余水吐けの下は「柱状節理」で、固い岩盤です。これを切り開いて余水吐としています。満濃池もそうですが、うてめは岩盤の上に作られています。土だとどんなに堅く絞めても、強い流水で表面が削り取られていきます。柱状節理や岩盤の尾根を削って余水吐けを作るというのは、西嶋八兵衛が満濃池で採用しているアイデアです。また、西嶋八兵衛が井関池建設に着工していたとすれば、金倉川と同じように柞田川の大雨時の流入量も想定していたはずです。幅4間の狭い余水吐けで事足りとはしなかったはずです。平田氏は池普請にどのような土木集団を使ったのでしょうか? その集団が未熟だったのでしょうか。このあたりのことが、もうひとつ私には分かりません。
次に「11 井関池東の樋を宮前の樋と申し伝える由来(45p)」を見ておきましょう。
 大野原請所卜成、東宇手ロキハノ堤ノ上弁才天
池宮ヲ立置候処二、戸マテ盗取候二付、今慈雲寺
引小社之ノ中ノ弐間在之力、先年ノ井関二在之社二候。
然故、井関東ノ樋ヲ宮ノ前ノ樋卜今二言博候。
意訳変換しておくと
大野原が平田家の請所となって、東の宇手目(うてめ:余水吐)の堤上に弁才天池宮を勧進した。ところが宮の戸まで盗まれてしまった。今は慈雲寺に二間ほどの小社があるが、これは井関池にあった弁才天社をここに遷したものである。この由来から井関池の東樋を「宮の前の樋」と今でも呼んでいる。

  もういちど大野原開墾古図を拡大して見てみましょう。

大野原古図 井関池拡大
大野原開墾古図 井関池拡大
この図からは尾根を切り通した「うてめ」の西側に「弁才天」が見えます。そこまでが「山」で、ここを起点に堤が築かれたことが分かります。池の安全と保全、そして大野原開発の成就を願って、ここに弁才天が勧進され小社が建立されたようです。それが後に、慈雲寺に遷されますが「宮の前の樋」という名前だけは残ったと伝えます。

東うてめ拡張以前のことについて「13 新樋の事、慈雲寺橋の事(45P)には、次のように記されています。

尾池平兵衛覚書13新樋の事、慈雲寺橋の事(45P)
               「13 新樋の事、慈雲寺橋の事(45P)
解読文
新樋卜申ハ先年東宇手目四間ニテハ水吐不申
ニ付、彼新樋ノ所ヲ幅八間ノ宇手ロニ仕候。堤ヲ宇手目
ニ仕候ヘテ、中之水ニテ洗流二付、下地へ篠ヲ敷其上ヲ
拾八持位ノ石ヲ敷、又其上ヲ篠ヲ敷其上ヲ真土ニテ
固メ、其上ヲ大石ヲ敷宇手ロニ仕候得共、洪水ニハ
切毎年不作仕候。其時分ハ今ノ小堤西南ノ角フ又
堤二〆、四尺斗之樋ヲ居裏表二鳥居立二仕、宇手目    .
吐申時ハ東小堤へ方へ水不参様二仕、用水ノ時ハ戸ヲ明候。
扱大井手下ノ高ミノキハ二四尺四方ノ臥樋ヲ居、宇手目  一
吐中時ハ戸ヲ指、宇手目水ヲ今ノ大河内殿林中へ落し候。
其臥樋今ノ慈雲寺門ノ橋二掛在之候。
大野原古図 井関池拡大
            大野原開墾古図 井関池拡大図の「うてめ」

意訳変換しておくと
新樋というのは、先年に東うてめ(余水吐)四間だけでは充分に洪水時の排水ができないので、幅八間のうてめを新たに堤に設置したもののことである。堤から流れ落ち流水で下地が掘り下げられるのを防ぐために、下に篠を敷いてその上に10人で持ち上げられるほどの大きな石を強いて、さらにその上に篠をしいてその上に真土で堅め、その上に大石をおいてうてめ(余水吐け)とした。しかし、洪水には耐えることができなかった。その頃は今の小堤の西南のすみに堤を築いて閉めて、四尺ばかりの鳥居型の樋を建てた。東のうてめから水が流れ出しているときには、東の小堤へ方へ水が行かないように閉めて、用水使用時には戸を明けた。大井手の下の高ミノキは四尺四方ノ 竪樋で、うてめが水を吐いているときには戸を指し、うてめ水を大河内殿林側へ排水した。その底樋が今の慈雲寺門の橋となっている。

ここからは、東のうてめの拡張工事の前に、西側に8間の新しい「うてめ(余水吐け)」を堤防上に開いていたことが分かります。先ほども述べましたが、うてめは強い流水で表面が削り取られていきます。そのためにコンクリートなどがない時代には、岩盤を探して築かれていました。そのための工法が詳しく述べられています。それでも洪水時には堪えることが出来なかったようです。土で築いた堤防上に「うてめ」を作ることは、当時の工法では無理だったようです。そこで池の西南隅に別のうてめを作ったようです。以上から井関池では洪水時の排水処理のために次の3つの「うてめ」が作られていたことが分かります。
①東のうてめ(幅4間で岩盤を切り抜いたもの)
②堤防上に「新うてめ」(8間)
③西南のうてめ
④東のうてめの拡張工事(8間)

東うてめの拡張工事後の対応について「14 ツンボ樋の事」は、次のように記します。
尾池平兵衛覚え書14
解読文
右之宇手目数度切不作及亡所二候故、御断申
宇手目ノ替二壱尺五寸四方ノ新樋ヲ居、池へ水参ル
時ハ立樋共二抜置、池二水溜不申様二仕候。然共洪水ニハ
中々吐兼申二付、東宇手目拾間切囁今拾四間ノ宇
手ロニ成候。右之新樋ハ東方ノ石樋潰ツンホ樋ト
名付、少も用水ノタリニ不成候二付、右之新樋ヲ用
水樋二用末候。
意訳変換しておくと
  右の宇手目(うてめ)は、数度に渡って決壊し使用されなくなったので、うてめの替わりに壱尺五寸四方の新樋を設置した。そして大雨の時に池へ水が流れ込む時には、立樋と共に抜いて放流し、池に水が貯まらないように使用した。ところが洪水の時には、なかなか水が吐けなかった。そこで東うてめを10間を新たに切り開いて、併せて14間の「うてめ」とした。そのため新樋は東方の石樋完成によって使われなくなり「ツンホ樋」と呼ばれ、まったく要をなさないものになった。そのため新樋を水樋に使用した。

③の西南のうてめも数度の決壊で使用不能となっています。そこに1尺5寸(50㎝)四方の底樋を埋めて新樋とします。そして大雨時の排水処理に使おうとしたようですがうまくいきません。結局、東うてめの拡張工事が終わると無用のものとなり「ツンボ樋」と呼ばれるようになったようです。
ここからも東うてめ拡張以前に、いろいろな対応工事が行われていたことが分かります。

今回は「尾池平兵衛覚書」の井関池のエピソードから分かることを見てきました。最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 「観音寺市文化財保護協会 尾池平兵衛覚書に見る江戸前期の大野原」
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前回は大野原新田の着工までの動きを以下のように見てきました。

大野原新田着工まで


着工に先だって、平田・備中屋・米屋・三嶋屋は「仲間(請負連合)」を形成し、次のように契約を書面にしたためています。
①開発費用はすべて平田が一旦立替えて出すこと
②目処が立った後で備中屋などの三者は、3人で経費の半分を負担すること
③新田開発の利益の1/6を備中屋・米屋・三嶋屋が取り、残りの6分の3を平田が受け取ること
 

こうして「中間」たちは中姫村庄屋・四郎右衛門宅に逗留して、新田開発を進めます。そして、つぎのような作業を同時並行で進めていきます。
A 藩の役人や近隣の村役人立会いの下、請所大野原エリアの確定
B 開拓者の募集
C 自分たちの土地・屋敷を整えること
D 郷社の建設
E 井関池の築造
この中でも最重要課題は井関池の築造でした。大野原は、雲辺寺を源流として流れ出す柞田川の扇状地の扇央部にあります。そのため土砂が厚く堆積して、水はけが良く地下水脈が深く、水田には適さない土地です。この地を美田とするためには、大きなため池と用水路が不可欠です。井関池築造について、「尾池平兵衛覚書」にどのように記されているかを見ていくことにします。テキストは「尾池平兵衛覚書」に見る江戸前期の大野原」です。

尾池平兵衛覚え書


尾池平兵衛覚書
尾池平兵衛覚書

「尾池平兵衛覚書(10番)」は、井関池築造について次のように記します。
尾池平兵衛覚書10井関池築造の事

上記を解読すると(「尾池平兵衛覚書」に見る江戸前期の大野原」(44P)
生駒様御代二、西嶋人兵衛殿と申役人、無隠案
者ノ見立テ井関池ヲ築立、井関村ハ大野原カ
福田原江百姓御出シ、浪指ハ落相、宇手ロハ東ハ
地蔵院山ノタリ西ハ鋳師岡ヲ水吐二〆、大野原
不残田地二〆万石も可在之積、靭ハ杵田邊観音寺
迄ヘモ用水二可遣トノ積ニテ、樋御居(据?)サセ被成候。樋尻
東江向有之候.然処二生駒様御落去以後打
捨在之、山崎様へ願銭持ニテ池二築立候。樋初ハ
弐ケ所在之候。壱ケ所ハ石樋二仕、長三十三間蓋迄
石ニテ仕二付、堤ノ土ニテシメ割、役二不立二付、京極様
御代二成御断申埋申候.猫塚池下掛樋二石樋
有之蓋石壱つハ中間入口門ノ跡石二成候。此コトク
成石樋二候。今ニテも入用二候得ハ堤ノ裏方堀候得ハ何
程も在之候。今ノ東方樋ヨリ七八間西方二候堤前ノ本槙木ノ樋二候。

意訳変換しておくと
生駒様の御代に、西嶋人兵衛殿という役人が、井関池築造に取りかかった。井関村や大野原・福田原へ百姓を動員し作業を始めた。計画では、宇手ロ(うめて:余水吐口)は東の地蔵院山で、堤は西の鋳師岡までくもので、大野原だけでなく、杵田・観音寺へも給水を行う計画であった。しかし、底樋の樋尻を東へ向けて設置したところで、生駒様は御落去となって以後は打捨てられた状態になっていた。そこで、丸亀藩山崎家に対して「銭持(町人請負)」での池の築造計画を願いでた。
 樋は最初は、2ケ所に設置した。1ケ所は石樋で、長さ33間(1間=1,8m)の石造であったが、堤の土の重さに耐えきれずに割れてしまったので、京極様の許可を得て堤防の中に埋めた。そこで猫塚池の下掛樋に石樋蓋石があったが、これは中間入口門の跡石であった。これがコトク成石樋二候。今でも必要であれば、堤の裏方を堀ればでてくるはずである。現在の東方の樋から8間西に堤前のものは本槙木製の樋である。

ここには生駒時代の西嶋八兵衛による築造計画が記されています。
西嶋八兵衛

西嶋八兵衛と治水灌漑工事
寛永3年(1626)4月地震・干ばつで生駒藩存続の危機的状況
寛永4年(1627年)西嶋八兵衛が生駒藩奉行に就任
1628年 山大寺池(三木町)築造、三谷池(三郎池、高松市)を改修。
1630年、岩瀬池、岩鍋池を改修。藤堂高虎死亡し、息子高次が後見人へ
1631年、満濃池の再築完了。
1635年、神内池を築く。
1637年、香東川の付替工事、流路跡地に栗林荘(栗林公園の前身)の築庭。
     高松東濱から新川まで堤防を築き、屋島、福岡、春日、木太新田を開墾。
1639年、一ノ谷池(観音寺市)が完成。生駒騒動の藩内抗争の中で伊勢国に帰郷。
西嶋八兵衛は、慶長元(1596)年遠州浜松に生まれで17歳の時に父が使えていた伊勢津藩主藤堂高虎の小姓になります。藤堂高虎は「城造りの名手」で、若き日の西嶋八兵衛は、近習として天下普請である京都二条城の築城や大阪城の修築に従事して、築城・土木・建築技術を学びます。その後、藤堂家と生駒藩との姻戚関係で、客臣(千石待遇・後には五千石の家老級)として生駒藩に西嶋八兵衛やって来ます。そして、うち続く旱魃で危機的な状態にあった生駒藩救済策として。数々の総合開発計画を進めます。その一環が満濃池などのため池築造であったことは以前にお話ししました。
 ここには西嶋八兵衛が築こうとした井関池の規模を「大野原だけでなく柞田から観音寺までも潤す満濃池にも劣らないほどの大規模なもの」で、東は地蔵院山,西は鋳い物師岡の谷を山の高さで柞田川を堰き止める」計画だったと記します。しかし、底樋の石を設置した段階で、生駒藩が転封となったために放置状態になったようです。
  西嶋八兵衛による井関池築造が挫折した後を受けて、これに乗り出したのが平田与一左衛門と備中屋籐左衛門,三島屋叉左衛門,松屋半兵衛」の近江と大坂の商人連合(仲間)でした。 ここでは、石造の底樋のことが記されています。しかし、石造底樋については数々の問題があったことは、以前に「満濃池の底樋石造化計画」でお話ししました。

次に「尾池平兵衛覚書NO69:井関池外十三ケ所の池の事」73Pを見ておきましょう。

尾池平兵衛覚え書.69 井関池
                尾池平兵衛覚書NO69

一、井関池 南請 但生駒様御代二堤形有之
        山崎様御代大野原より願銭持ニテ
        築立ル
寛永弐拾未年二
請所申請候。正徳六申年迄七拾四年二成ル。井関築
立二現銀弐百貫目余入、大阪ョリ銭ヲ積下シ観音寺方
牛車ニテ毎日井関マテ引上ル。牛遣ハ大津方抱参候
久次郎と申者、右之車外今中間明神様御社之
下二納在之候。其時分観音寺る海老済道ハ在之候
得共、在郷道二候ヘハ幅四五尺斗之道ニテ、杵田川方ハ
北岡岸ノ上江登り、善正寺ノキハヲ天王江取付候。牛車
通不申二付御断申上、川原ヨリ天王宮ノ下今ノ道へ、
新規二道幅も井関迄弐間宛仕候.井関池下二町
並二小やヲ立、酒肴餅賣居申。又四国ハ不及申
中国ョリも、讃岐二池ノ堤銭持在之候卜間俸、妻
子召連逗留日用仕候。堤ハ東と西方筑真中ヲ
川水通、此川筋一日二築留申日、前方方燭ヲ成
諸方方大勢集、銭フイカキニ入置握り取二仕候。
毎日ノ銭持ハ土壱荷二銭五歩札壱銭札ヲ持せ、十荷
廿荷と成候時ハ十文札五十文札二替手軽キ様二仕候。
其時二桜ノ小生在之ヲ、今ノ中間へ壱荷二〆銭百文ニ
買四本並植候。老木二成枯(漸今壱本残ル。
意訳変換しておくと
一、井関池   生駒様の御代に堤の形はあったが、山崎様の御代に大野原から願い出て、町人受で資金を拠出して築造した。寛永20年(1643)に、(新田開発)の請所を申請し、正徳6年(1716)まで74年の年月を経て完成した。①井関池築造のために銀二百貫目余りを投入した。②銭は大坂から船便で、観音寺まで送り、そこから牛車で毎日井関まで運んだ。牛遣いは、大津の時代から平田家に仕えていた久次郎という者にやらせた。その頃の観音寺から井関までは海老済道(阿波道?)があったが、途中までは幅四・五尺ほどの狭い在郷道だった。そこで杵田川から北岡・岸ノ上で上がって、善正寺(川原)から天王宮下を通り、井関まで二間ほどの道を新規につけて運んだ。
  ③井関池の下には多くの小屋が建ち並び町並みを形成するほどであった。そこでは酒や肴・餅などを売る店まで現れた。 ④井関池工事に行けば「銭持普請」(毎日、その日払いで銭を支払ってくれた)で働けることを伝え聞いて四国だけでなく、遠く中国地方からも多くの人足が妻子連れで長逗留の準備をして集まって来た。
堤は東と西より土をつき固めていき、真ん中は山からの川水を通すため開けておき、最後に一気に川筋を築き留めるという工事手順だった。そのため最後の日は前々から周知し、銭を篭に入れて、労賃を握り取るという方法で大勢の人足をかき集めてた。
 ⑤毎日の労賃の支払いは土一荷(モッコに二人一組で、土を入れ運んだ?)に銭5歩札の札を与え、10荷、20荷単位で十文札、50文札に替えて銭と交換した。堰堤が完成したときには、桜の苗を4本買って植えた。それも老木になって枯れていまい、壱本だけ残っている。
ここから得られる情報をまとめておきます。
①井関池は、平田家が銀二百貫目余りを投下する私的な単独事業として行われた。
②銭(資金)は大坂から船便で観音寺まで運ばれ、そこから牛車で毎日井関まで運んだ。
③労賃支払いは「銭持普請」(毎日現金払い)のために、遠くからも多くの人足が妻子連れでやってきた。
④そのため井関池の下には多くの小屋が建ち、酒や肴・餅などを売る店まで現れた。
⑤毎日の労賃支払方法は、土一荷(モッコ一籠)について銭5歩で、現金払いであった。
ここで押さえておきたいのは、池の築造は近江の豪商平田与一左衛門が丸亀藩に願い出て町人普請として着手されたことです。大野原新田開発は、井関池関係だけでも銀200貫を要しています。工事全体では全体720貫の額に膨れあがったようです。そのため当初の「中間(仲間:商人連合)」の契約では、完成までの費用は平田家単独で支出するが、工期終了時には平田家3/6、他の3家は1/6毎に負担する契約でした。しかし、工事資金が巨額になって支払いに絶えられなくなった3家は「仲間」を脱退していきます。以後の大野原開発事業は、平田家の単独事業として行われていくことは前回お話しした通りです。どちらにしても、井関池が寛永20年8月から翌年2月までのわずか半年間で築かれたこと、その費用は、すべて平田家によって賄われたことを押さえておきます。

こうして出来上がった井関池の規模と構造物について、「尾池平兵衛覚書」は次のように記します。

尾池平兵衛覚え書.69 井関池の規模と構造物jpg
        「尾池平兵衛覚書NO69:井関池外十三ケ所の池の事」73P
 堤長弐百拾間(約282m)、根置(堤の底面幅)30間(約55m)、樋長22間(約66m)、
高6間(約11m)、馬踏(堤の上部幅)3間(約5・5m)で、所によって2間半もある。
水溜りは、新樋は四間五尺で、土俵三俵二水溜リテ□
(上の文書はここから始まる)
東の古樋は八寸五分二九寸で、櫓三つでスホンは三穴五寸
新樋は壱尺五寸二壱尺六寸で、櫓三スホン六櫓一ニ二宛
              スホン上ノ穴八寸 宛下ハ六寸
仮樋は八寸四方で、櫓一つで鳥居立一スホンニ穴五寸宛
              此樋自分仕置候
樋尻の小堤は長さ七拾六間
池之内の面積は、十二町壱反
池の樋取り替えは、延宝七未年、仮樋も同年に行った。。
正徳六申迄三十八年六月ヨリ工事を始め、12月21日に成就した。

ここに出てくる「スホン」は樋穴を塞ぐスッポンのことです。満濃池の櫓樋とスッポンを見ておきましょう。

P1240778
  讃岐国那珂郡七箇村満濃池 底樋 竪樋図(樋櫓から下にのびているのがスッポン)
  水掛かりについては、次のように記します。
  池の水掛については①大分木(大分岐)水越九尺
  内
壱尺        萩原          田拾六町此高百六拾石
壱尺         中姫          田四拾町此高四百石
            
壱尺   杵田四ケ      田十三町高弐百汁石       黒渕
田五拾九丁                  田拾五町高百五拾石       北岡村
高五百汁石                  田拾壱町高百拾石 大畑ケ
           田拾町高七拾石 山田尻
六尺 大野原  田百拾町高七百七拾石
水掛畝〆弐百弐拾五町 高〆千人百六拾石
右之通ノ水越寸尺ニテ候処、先年方三分古地方七分
大野原申偉、則御公儀上り帳面二も其通仕候。

大野原開墾古図 1645年(部分)
   大野原開墾古図(1645年)トレス図(部分) 黒い部分が井関池の堤防 

 ①の大分木(大分岐)は、井関池本樋の250mほど下流に設けられた最初の分岐のことです。
この大分木について研究者は次のように解説しています。

「大分木を越えていく水が幅にして九尺分あるとすると、その内一尺分を萩原の田へ引くようにする。同様に一尺分は中姫へ、同じく一尺分の水は杵田四カ村(黒渕・北岡。大畑。山田尻)へ、そして大野原へは幅6尺分の水を流すようにする。」

つまり井関池本樋から流れて来た水を、「大分木」で次のように配分します。
3/9は、萩原・中姫・杵田へ、
6/9は、大野原へ
これは開拓に取り掛かる際に丸亀藩と交わした「1/3は古地へ、2/3分は大野原新田へ」という水配分の約束に従っていることが分かります。「大分木」で大野原への用水路に流された水は、さらに約800m南西へ下った所にある「鞘分木」で、小山・下組・上之段へ行く3つの水路に分けられ、大野原の新田を潤します。
観音寺市立中央図書館に「大野原開墾古図」という、和紙を貼り合わせた縦横が5×4mほどの大きな古地図があります。

大野原開墾古図
                  大野原開墾古図
開発が始まって2年目の正保二(1645)年9月に作成されたもので、ここには井関池から伸びる用水路がびっしりと描き込まれています。ここに描かれた用水路は、基本的には現代のものと変わりないと研究者は評します。

大野原古図 17世紀
大野原開墾古図(1645年) 縦横に用水路が整備されている
大野原開墾古図1645年(トレス図)
            大野原開墾古図(トレス図)

  こうして工期7ヶ月の突貫工事で、正保元年(1644年)2月に、大野原新田開発のシンボルとして井関池は姿を見せます。その年の4月には18,6kmの灌漑用水網も出来上がり、126haの開墾用地に62軒の農家が入植しました。ところがその年の8月には堤防が決壊します。工事を急いだ突貫工事であったことや工法に問題があったことが考えられます。翌年の正保2年2月に復旧したものの、7月の大雨で再び決壊、さらに慶安元年(1648年)にも決壊するなど、わずか数年で3回も決壊しています。このため平田家と仲間の負担は限度を超え、資金不足のために3回目の復旧は目途が立たず、入植した百姓達の中には、逃げ出すものも出るようになります。このような危機をどう切り抜けたのでしょうか。それはまた次回に・・・
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 観音寺市文化財保護協会 「尾池平兵衛覚書」に見る江戸前期の大野原
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尾池平兵衛覚え書

尾池平兵衛覚書 四国新聞
 
図書館の新刊書コーナで、「大野原開基380年記念 「尾池平兵衛覚書」に見る江戸前期の大野原」という冊子を見つけました。手に取ると久保道生氏が「観音寺市古文書研究会」のメンバーとの読み込み活動の成果として「大野原開基380年」に出版されたものです。原本史料の下に印字文が書かれていて、古文書を読むテキストにも最適です。
1大野原地形

  大野原は雲辺寺の五郷から流れ下る柞田川の扇状地で、砂礫の洪積台地で地下水が深く中世までは水田化が進まなかったことは以前にお話ししました。そのため近世初頭までは「大きな野原=おおのはら」のままの状態だったようです。「大野原総合開発事業」が開始されるのは、生駒騒動後に讃岐が2つに分割され、山崎家が丸亀城主としてやって来るのと同時期のことで、寛永20(1643)年のことになります。昨年が380周年になるようです。
 開発の主役は京都の商人・平田与一左衛門で、巨費を投じて新田開発に着手します。そのことを書き留めたのが、平田家の手代・尾池平兵衛です。彼は開墾10年目にの11歳で丸亀から大野原新田にやってきて享保元年(1716)まで60年に渡って、新田開発に関わった人物です。その彼が残した史料を採録し、解説したものがこの書になります。
最初に尾池家について記した部分をまとめておきます。
①尾池平兵衛(1654~1720)の祖父・尾池官兵衛は、生駒家に仕える武士。
②『西讃府志』の「生駒家分限帳」に、生駒将監の組内に、高二百石の尾池官兵衛の名あり。
③生駒騒動(1640)年で、官兵衛は領主について改易地の矢島へ行くが、すぐに丸亀へ帰郷。
④その息子が平兵衛の父・尾池仁左衛門(1666~88)で、「仁左衛門 町年寄相勤申」とあり町年寄を務めていた。
「町年寄」とは、町奉行の下で町の令達・収税を統括役する役割です。町人ですが公儀向の勤めを立場であったことが分かります。ここからは、生駒騒動後の身の振り方として、祖父は主君に従って一旦は改易地にいきますが、すぐに状況を見て帰讃して、武士を捨てたようです。父は山崎藩の下で塩飽町の町年寄りを務めるようになっています。塩飽町の町年寄とあるので、旅籠的なものを営んでいたのではないと思います。それは、京都の平田家が丸亀来訪時の常宿に尾池家をしているからです。

ちなみにウキには「尾池官兵衛は尾池玄蕃(義辰:よしたつ)の末子」と次のように記します。
尾池玄蕃は、高松藩主生駒氏の下にあったが、熊本藩主細川忠利に招かれ、百人人扶持を給されて大坂屋敷に居住する。その子の伝右衛門と藤左衛門は生駒騒動や島原の乱が起こった寛永14年(1637年)に熊本藩に下り、それぞれ千石拝領される。
「系図纂要」では登場しない。「姓氏家系大辞典」では、『全讃史』の説を採って室町幕府13代将軍足利義輝と烏丸氏との遺児とする。
中略
 横井城主であった尾池光永(嘉兵衛)の養子となった玄蕃は、讃岐高松藩の大名となった生駒氏に仕えて2000石を拝領した。2000石のうち1000石は長男の伝右衛門に、残り1000石は藤左衛門に与えた。二人が熊本藩に移った後も、末子の官兵衛は西讃岐に残ったという。
ここからは次のような情報が読み取れます。
①尾池玄蕃は、生駒騒動の直前に息子二人と熊本藩細川家にトラバーユした
②尾池玄蕃の末子官兵衛は西讃に残ったが生駒騒動で禄を失った。
③官兵衛の子・仁左衛門(1666~88)は、在野に下り、丸亀福島町の旅籠経営し町年寄を務めた
④その旅籠を定宿としていたのが、京都の平田家であった。
⑤そのため平田屋の大野原開発事業に対して協力的であった。
⑥そのような中で生まれてくるのが仁左衛門の子・平兵衛であった。
こうしてみると平兵衛の祖祖父は、尾池玄蕃であったことになるようです。

このくらいの予備知識を持って「尾池平兵衛覚書」を最初から読んでいくことにします。

尾池平兵衛覚書
                  尾池平兵衛覚書
01 大野原開墾と仲間のこと
尾池家と大野原新田開発との関わりを、「覚書」は次のように記します。 
尾池平兵衛覚書1
         尾池平兵衛覚書01ー1「大野原開墾と仲間の事」
  平兵衛大野原江被曜申由緒ハ、山崎甲斐守様丸亀御拝知被為成、御居城御取立入札被仰付候。依之京都平田与市左衛門様銀本ニテ、手代木屋庄二郎、大坂備中屋藤左衛門殿、同所米屋九郎兵衛子息半兵衛、同所三嶋屋亦左衛門右四人連ニテ下り、塩飽町同苗仁左衛門宅ヲ借り逗留候。御城入札ハ何茂下り無之内二埒明申二付、折角遠方ヲ下り此分ニテハ難登候。相應之義ハ有之間鋪哉卜仁左衛門へ被尋候。仁左衛門答ハ自是三里西二高瀬村卜申所二余程之入海在之候。是ヲ築立候ハヽ新田二可成と望手も有之候得共、未熟談無之と申候ヘハ、ゐと不案内二候。乍大義同道頼度との義二付、仁左衛門同道彼地一覧被仕、成程新田ニモ可成候得共、連望申上ハ此場所ヨリ廣キ所ハ有之間鋪哉と評判申候処へ、何方トモナク出家壱人被参、各々ハ何国方被参候哉と被申候ヘハ、右之子細申聴候。
意訳変換しておくと
尾池平兵衛が大野原開発に関わるようになった由縁は次の通りである。
①山崎甲斐守様が天草から藩主としてやってきて、丸亀城の改修工事の入札を行うことになった。②入札に参加するために京都の平田与一左衛門様を元締にして、平田家手代の木屋庄三郎、大坂の備中屋藤左衛門、同所米屋九郎兵衛の子の半兵衛、同じく大坂の三島屋亦左衛門の四人が連れ立って丸亀にやって来た。③そして丸亀塩飽町の尾池仁左衛門宅を借りて逗留し、入札への参加を企てたがすでに終わってしまっていた。④そこで四人は『せっかく遠方からやって来たのに、このままでは帰れない。どこか相応の物件はないものか』と仁左衛門に尋ねた。これに対して『ここから三里西へ行ったところに高瀬村という所があります。そこに広い入海(三野湾?)があります。そこに堤を築き立てれば新田になる』と答えます。
 四人は地理に不案内なので仁左衛門に案内を乞い、高瀬村へやって来た。しかし三野湾は確かに新田にはなるが余りにも狭い。もっと広い所は無いものかと、あれこれ話していた。そこへどこからともなく一人のお坊さんがやって来た。そのお坊さんに、どこからやってきた客人か?などと聞かれるままに事の次第を話した。
これらを関連年表の中に落とし込んでおきます。
1628年 西島八兵衛,満濃池の築造工事に着手する
1641年 幕府は生駒藩騒動の処分として生駒高俊を、出羽国矢島1万石に移す.
   同年 肥後天草の山崎家治に西讃5万石を与えられ、城地は見立てて決定するよう命じられる
1642年 ①幕府より丸亀の廃城を修築し居城にすることを許され、入札開始(小規模改修)
   同年 ②入札参加のために平田与一左衛門の手代等が丸亀にやってきたが入札はすでに終了。
      ③その際に宿したのが塩飽町の町役人の尾池家
1643年 ④尾池家の案内で大野原視察し、開発開始。井関池着工
1645年 大野原開墾古図作成。
1663年 二代目平田源助(与左衛門正澄)が京都から大野原へ本拠地移動
1665年 尾池平兵衛が11歳で大野原へやってくる。
私がここで気になったのは、ここでは丸亀城の改修工事の入札のために、京都の平田氏を中心とする大商人の手代達がやってきたとあることです。そうだとすると、山崎藩はお城の普請工事を大商人に請け負いさせていたことになります。
続いて尾池平兵衛覚書を見ていきます。
 
尾池平兵衛覚書2
 尾池平兵衛覚書01ー2「大野原開墾と仲間の事」
彼僧被申ハ、是ヨリ三里西二壱里四方之野原在之候。此場所生駒様御時代二、新田二被仰付トテ谷川ヲ池二築掛在之候。御落去以後、打捨り居申候。今日被参候テ見分可然と申、兎哉角評判申内彼僧行衛不知候。末々二至テ考申ハ、平田家筋ハ法花(華)宗高瀬二法花寺在之候。芳以祖師之御告ニテ可在之と申博候。

 右教ノ□其日中姫村迄参庄屋ヲ尋候ヘハ、四郎右衛門ト申此宅二何茂一宿仕、四郎右衛門案内ニテ及見有、荒給固二書丸亀へ帰宅申、新田ニモ望候ハヽ請所二可被仰付哉と宿仁左衛門ヲ頼、甲斐守様御役人衆へ内窺仕候。其働甲斐様御一家二山崎主馬様卜申テ、此御方ョリ仁左衛門内方ヲ筆娘二被成候由緒と申、仁左衛門町年寄相勤申二付御公儀向勤、亦則右之旨内窺申上候ヘハ、成程請所二願候様二
と被仰二付、
京都へ相達候得ハ重畳ノ義二候、御城普請ハ営分縦利潤在之テも末々難斗候。新田卜申ハ地一期子孫二相博候得ハ、万物二勝タル田地ノコト、随分御公儀向宿仁左衛門ヲ頼願叶次第、瑞左右可申越と申末候。然故新田願書指上ケ、首尾能相叶候新田成就之時ハ、六ツニ〆三ハ与市左衛門様、残三ヲ右二人卜〆取申極。然共始終ノ銀子入目ヲ元利与市左衛門様へ返済無之候テハ、右之配分無之極之書物二候。
意訳変換しておくと
するとお坊さんは次のように云った。①『ここから三里西に、一里四方の野原がある。ここは生駒様の時代に新田にしようと、谷川をせき止め池を築こうとしていたのだが、生駒様御落去で打ち捨てられ今日に至っている』とのことであった。それを聞いてとにかく行ってみようと相談しているうち、ふと気がつくと、お坊さんはいなくなっていた。後々になって思い至ったのは、②『平田家は法華宗であり、高瀬には大きな法華寺院(本門寺)があるので、これは日蓮祖師のお導き違いない』と申し伝えられている。」

 教えの通りにその日のうちに五人は中姫村へ行き、庄屋の四郎右衛門の家に一泊し、翌日には四郎右衛門の案内で原野を視察した。③それを直ぐに「荒絵図」に描き記し、仁左衛門を通じて新田開発願いを藩の役人に提出した。なお仁左衛門の奥方は藩主・山崎甲斐守の一族・山崎主馬の娘を、頼まれて筆娘にした懇ろな関係にあったことや、仁左衛門が町年寄を務めるなど公儀の役目にあったこともプラスに働いたようだ。

 この視察報告を受けた京都の平田与一左衛門は、「大変結構な事である。御城普請は一時の利益に過ぎないが、新田開発は末々まで価値を生む田地を子孫に残す万事に勝る」との快諾の返事を寄した。こうして、新田開発が首尾良く成就した際には、3/6は平田与市左衛門様、残りを備中屋・米屋・三嶋屋で分与すること。但し備中屋・米屋・三嶋屋は平田が立替えた費用の自己負担分を元利合わせて返済した場合のみ、6分の1の配分に関わる権利を有すること約した。但し、最初に平田家が立替えた銀子費用の返済がなければ、これは適用されないという契約内容を文書で交わした。

ここには次のような事が記されています。
①僧侶は生駒藩時代の新田開発候補地として「大野原」を勧めた。
平田家は法華宗なので、法華衆の高瀬本門寺の宗祖日蓮の導きにちがいないとした。
③大野原を新田開発の適地として、山崎藩に申し出ると問題なく認可が下りた。
④着工に先だって、平田・備中屋・米屋・三嶋屋は「仲間」を形成した。
⑤そして開墾にかかる費用はすべて平田が一旦立替えて出すこと、そこから上がる利益の1/6を備中屋・米屋・三嶋屋が取り、残りの6分の3を平田が受け取ることが約された。


尾池平兵衛覚書02
 02尾池仁左衛門長男に庄大郎と命名したこと

右之由緒ニ付、仁左衛門子共之内壱人ハ大野原江囃当国之支配ヲモ頼可然と、新田取立前後評判在之候処二、幼少二付大野原へ可預ケ様無之と打捨置候。併讃岐新田鍬初之時分ヨリ宿と言、御公儀然願ハ仁左衛門被致候ヘハ、子共ノ内責テ為由緒名成共付置候得と、与市左衛門様ヨリ手代庄二郎へ被仰越、則仁左衛門惣領男子ヲ庄三郎ョリ庄太郎卜名ヲ付被申候。其時分仁左衛門ヨリ庄二郎然へ頼申手筋ニテ無之候得共、与市左衛門様御名代二庄二郎と従御公儀御證文ニも書載申程ノ庄三郎二候ヘハ、右之首尾二仕候処ニ庄太郎死去申候。右之由緒二付大野原開発ヨリ今二至迄宿卜成候。

意訳変換しておくと
この関係について、尾池仁左衛門の子供の内の一人は平田家へ奉公に出して、後々には大野原新田の経営に当たらせるという話が当初からあった。しかし、仁左衛門の子供はまだ幼少だったので、打ち捨てられて具体的な話は進まなかった。これと併せて、新田開発当初から尾池仁左衛門宅は平田家の定宿となり、讃岐支社の様相を呈し、丸亀藩へとの連絡業務は仁左衛門を通じて行われていて、両者の関係はますます深くなった。そこで京都の平田与一左衛門は、手代の庄三郎に対して「両家の深い付き合いの手始めに、仁左衛門の惣領男子の名付け親になるように」と命じた。(この時(与一左衛門の子・与左衛門(大野原平田家の祖)は、まだ大野原へは来ていなかった)。そこで庄三郎は、自らの「庄」の字を取って仁左衛門の長男に庄太郎と名付けた。こうして将来は庄太郎が大野原へ来るものと皆思っていた。ところが庄太郎が病死してしまった。そこで寛文年間(1661~73)に、庄太郎の代わりに平兵衛が大野原へ来ることになった。

ここからは次のような事が読み取れます。
①当初から尾池仁左衛門の子供の一人を平田家へ奉公にだすことが約されていたこと
②尾池仁左衛門が新田開発について藩とのとの仲介を果し、京都の平田家との関係が深まったこと
③尾池仁左衛門の長男が死去したため、次男の平兵衛(14歳)が大野原に送り込まれたこと

尾池平兵衛覚書03・04

03 尾池平兵衛が大野原に参りたる次第
平兵衛義、家ノ惣領二候得共、庄太郎替リニ大野原開発指越旨、山中親五郎右衛門殿ヲ以平田源助様ヨリ被仰聞何分可任仰と答、則御公儀へも惣領之義二付町年寄ヲ頼御願申上候ヘハ、聞停候処古キ馴染之手筋二候間、勝手次第二仕候得と被仰渡候。

意訳変換しておくと
   平兵衛は、尾池家ノ惣領ではないが、長男の庄太郎に替って大野原開発に関わっていくこととなった。これについては、山中親五郎右衛門殿に対して平田源助様から事前に相談すると、丸亀藩としては、惣領として塩飽町の町年寄を継いで欲しいが、大野原開発に携わるのなら、古い馴染の手筋でもあるので、勝手次第にせよと許可が出た。


NO4 平田与左衛門が源助と改名した次第
平兵衛十一才ノニ月十一日ニ大野原へ罷越申候。其時分ハ源助様ヲ平田与左衛門様と申候へ共、御郡奉行二山路与左衛門様之御名指相申ニ付、源助と御改被成候。

意訳変換しておくと
こうして尾池平兵衛は11才の2月11日に大野原へやってきた。その時分は平田家の源助様は与左衛門と名乗っていた。ところが郡奉行が山路与左衛門様という御名の方になったために、源助と改名した。以後、平田与左衛門は平田源助となった。

尾池平兵衛覚書5・6・7

NO5  平田源助様(与左衛門正澄)と尾池平兵衛が大野原に参る

一、寛文三卯年二源助様ハ京都ヨリ御引越御下り被成候。平兵衛ハ寛文五巳年二参候。

意訳変換しておくと
寛文3年(1663)に平田源助様(与左衛門正澄)は京都から大野原へ移住してきた。平兵衛が大野原へ来たのは、その2年後の寛文5年のことである。

NO6 当時の手代のこと
其時分、手代ニハ山中五郎右衛門殿御公義被勤候。内證手代ハ多右衛門と申仁、夫婦台所賄方勤ル。廣瀬茂右衛門二も内證手代二候得共、五郎右衛門殿指合之砌ハ公用被勤候。
意訳変換しておくと
「その時分、手代は3人いた。一人は、御公儀向きの勤めをする山中五郎右衛門(備中屋藤左衛門の二男)、もう一人は、奥向きの台所賄いなどの仕事をする多右衛門夫婦、も一人は、広瀬茂右衛門で、台所賄い方や財政に関する仕事をしながら時には五郎右衛門が多忙な時には、公儀向きの仕事も助けた。

そこへ11歳の平兵衛がやって来ます。最初は見習いでしたが次第にめきめきと力を発揮し、やがて公儀向きの重要な仕事を任されるようになります。

  07 平田源助 吉田浄庵老の娘と結婚のこと
  先源助様之奥さま、嵯峨吉田浄庵老申御仁之御娘子、弐十四才二て寛文六午年四月二御下リ御婚礼。今之源助様御惣領奥様ハ、角蔵(角倉:すみのくら?)与市殿御親類先。角蔵与市殿ハニ子宛出生。以上廿四人在之由。十七人目ノ孫子ヲ吉田浄庵老御内室二被成候。其御内室様二も当地へ御下り二年御滞留、御名ハ寿清さまト申候。
  意訳変換しておくと
先の平田源助様の奥さまは、嵯峨吉田浄庵老と申す御仁の御娘子で、寛文六年(1666年4月2に大野原にお輿入れになった。今の源助様の惣領の奥様は、角蔵(角倉:すみのくら?)与市殿の親類から輿入れた方で、角蔵与市殿は子沢山で、24人に子どもが居たがその17人目ノ孫子が吉田浄庵老御内室になられた。その御内室様も当地へ御下りになり2年滞留された。名前は御名ハ寿清さまと申す。

尾池平兵衛覚書8JPG

NO8 仲間解散し、大野原を平田家が片づけることになった次第
 寛文之頃、先年之大野原請所中間(仲間)備中屋藤左衛門、米屋九郎兵衛、前方与市左衛門 取替申銀子指引も被致候。大野原も如何様各々評判被致候様二と催促申候ヘハ、右両人取替銀之返弁撫と申ハ不寄存候。然上ハ大野原ハ与左衛門殿へ片付候間、向後可為御進退と大野原不残与左衛門様へ片付候故、寛文頃方百姓方諸事之證文二平田与左衛門同市右衛門と為仕候。三嶋屋亦左衛門ハ、先年大野原ヲ欠落九州へ参候様二風間仕候。市右衛門様京都米沢や西村久左衛門殿二御掛り、東国へ御商賣二御下リ
 意訳変換しておくと
  寛文年間頃に、大野原開発の「中間(仲間)=開発組合」であった備中屋藤左衛門・米屋九郎兵衛・前方与市左衛門に対して、平田家が立て替えている費用の納期期限が近づいているので、支払いの用意があるかどうかの意向確認を行った。これに対して三者は、支払いは行わないとの返事であった。こうして三者が「仲間」から手を引いたので、今後の大野原開発は平田与左衛門殿が単独で行うことになった。寛文年間頃には百姓方諸事の證文には平田与左衛門と市右衛門の名前が見える。三嶋屋亦左衛門は、先年に大野原を欠落して九州へ云ったと風の噂に聞いた。市右衛門様
京都米沢や西村久左衛門殿二御掛り、東国へ商売のために下った。

「大野原総合開発事業」は平田家・備中屋・米屋・前方の四者が「中間(仲間)=商人連合体」を形成してスタートしました。その初期費用は、平田家が単独で支払うという内容でした。ちなみにこの事業に平田家がつぎ込んだが負担した費用は、借銀だけで約二百貫目に達します。最初の契約では、平田家が立替えた諸費用の半分を、備中屋たち3者が後に支払うことになっていました。
これについて『西讃府志』(667~668P)には、次のように記します。

「明暦三年十二月に至リテ、彼ノ三人ノ者与一左衛門ヨリ借レル銀、七百二十一貫ロニナレリ、是二於テ終二償フコトヲ得ズ、開地悉ク与一左衛門二譲り、翌ル年ヨリ与一左衛門ノ子与左衛門一人ノ引請トナリシカバ、与左衛門京師ヨリ家ヲ挙テ移り来り、遂二其功ヲトゲテ、世々此地ノ引受トナレリ」

意訳変換しておくと
「明暦三年(1657)12月になって、「仲間=開発組合」の借入銀は、721貫に達した。ここに至って、三者は借入金の1/6を支払うことができずに開発地の総てを平田与一左衛門に譲渡することになった。そうして翌年には与一左衛門の子である与左衛門が引請者として京都から一家で大野原にやってきた。こうして大野原は平田家の単独引受地となった。

ここから開墾開始から14年後の明暦3(1657)年には、「仲間三者」が手を引いて、大野原は平田一人の請所となり、仲間は解散してしまったことが分かります。

11歳で大野原へやって来た平兵衛(幼名:文四郎)の果たした役割は大きいと研究者は評します。
そのことについて「NO40 平兵衛功労のこと」で、自分の労苦を次のように記します。
14歳で年貢の請払という仕事の手伝いを始めた。17歳で元服し「平兵衛」を名乗るようになってからは、山中五郎右衛門の補佐をしながら丸亀勘定方との交渉役を勤めるようになった。平田家手代の中心であった五郎右衛門が亡くなると、もう一人の手代である広瀬茂右衛門とともに、大野原開発の全ての仕事を担うようになった。
 開発が軌道に乗るのは、延宝時代になってからで、大方の田畑が姿を見せ、新しく来た百姓たちも居付きはじめた。その頃、藩による検地が行われたが、私(平兵衛)はずっと一人で検地役人の相手を勤めた。そのうえ夜になると測量した野帳の間数や畝数、坪数を改めて清書し、検算した。それを私一人で行った。当時は19歳だった」
「今、考えてみるに、14歳から年貢方の請払いで大庄屋所の寄合に出席したり、知行新田の興賃の取り引きや稲の作付に関することの交渉をやってきた。17歳からは御公儀向きの仕事にのみ従事するようになった。私は相手が年長の旦那方であっても、何とか百姓たちが大野原に居付いてくれるように、一人で交渉し話し合ってきた。今になっては、我ながらよく勤めたものだと思っている」

若くして重要な仕事を任され、大人たちに交じって夢中で勤めを果し、一定の成果をあげてきたという平兵衛の自負が強く感じられると研究者は評します。
今回はここまでとします。最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献

「大野原開基380年記念 「尾池平兵衛覚書」に見る江戸前期の大野原」

京都の養蚕(こかい)神社は、太秦の木島坐天照御魂神社の中にある境内社です。しかし、今では本社よりも有名になっているような気もします。この地は山城秦氏の本拠地で、秦氏は「ウズマサ」とも呼ばれました。古代の秦氏と太秦(うずまさ)関係を、まず見ておきましょう。
『日本書紀』雄略天皇十五年条には、秦酒公について次のように記されています。

秦酒公
秦酒公

詔して秦の民を聚りて、秦酒公に賜ふ。公乃りて百八十種勝を領率ゐて、庸調(ちからつき)の絹練を奉献りて、朝庭(みかど)充積む。因りて姓を賜ひて㝢豆麻佐(うずまさ)と曰く。一に云はく、㝢豆母利麻佐(うつもりまさ)といへるは、皆満て積める貌なり。

意訳変換しておくと
朝廷は詔して秦の民を集めて、秦酒公に授けた。以後秦酒公は百八十種勝(ももあまりやそのすぐり)を率いて、庸調(ちからつき)の絹を奉献して、朝庭(みかど)に奉納した。そこで㝢豆麻佐(うずまさ)という姓を賜った。一説には、㝢豆母利麻佐(うつもりまさ)といへるは、絹が積み重ねられた様を伝えるとも云う。

ここからは、秦酒公が絹を貢納して「㝢豆麻佐(うずまさ)=太秦」とい姓を賜ったことが記されています。
その翌年の『日本書紀』の雄略紀16年7月条には、次のように記されています。

詔して、桑に宜き国県にして桑を殖えしむ。又秦の民を散ち遷して、庸調を献らしむ。

  ここには葛野に桑を植え、秦の民を入植させて、庸調として絹を貢納させたとあります。肥沃な深草エリアに比べると、葛野の地は標高も高く水利も悪い所です。当然、葛野の開発は深草よりも遅れたはずです。秦氏の各集団を動員して開拓させても、水田となしうる地は少なく、多くは畦地(陸田)だったことが予想できます。そこで秦氏が養蚕にとりくんだとしておきます。
『新撰姓氏録』(左京諸蕃上)は、太秦公宿爾のことが次のように記されています。

太秦公宿爾(うずまさのきすくね) 秦始皇帝の三世孫、孝武王自り出づ。男、功満王、帯仲彦(たらしねひこ)天皇の八年に来朝く。男、融通王(一説は弓月王)、誉田天皇の十四年に、廿七県の百姓を来け率ゐて帰化り、金・銀・玉・畠等の物を献りき。大鷺鵜天皇の御世に、百廿七県の秦氏を以て、諸郡に分ち置きて、即ち蚕を養ひ、絹を織りて貢り使めたまひき。天皇、詔して曰く。秦王の献れる糸・綿・絹品(きぬ)朕服用るに、柔軟にして、温暖きこと肌膚の如しとのたまふ。仍りて姓を波多(はた)と賜ひき。次に登呂志公。秦公酒、大泊瀬幼武(はつせわかため)天皇の御世に、糸・綿・絹吊を委積(うちつ)みて岳如(やまな)せり。天皇、嘉(め)でたまひ、号を賜ひて㝢都万佐(うずまさ)と曰ふ。
 
意訳変換しておくと
太秦公宿爾(うずまさのきすくね)は、中国の秦始皇帝の三世孫で、孝武王の系譜につながる。功満王は、帯仲彦(たらしねひこ)天皇の八年に来朝した。融通王(一説は弓月王)は、誉田天皇の十四年に、廿七県の百姓を引いて帰化した。その際に、金・銀・玉・絹等の物を貢納した。大鷺鵜天皇の御世に、127県の秦氏を、諸郡に分ち置いて、蚕を養い、絹を織る体制を作った。その貢納品について天皇は「秦王の納める糸・綿・絹品(きぬ)を服用してみると、柔軟で、暖いことは肌のようだ」と誉めた。そこで波多(はた)の姓を授けた。次に登呂志公や秦公酒は、大泊瀬幼武(はつせわかため)天皇の御世に、糸・綿・絹吊を朝廷に山のように積んで奉納した。天皇はこれを歓んで、㝢都万佐(うずまさ:太秦)という号を与えた。

ここには次のようなことが読み取れます
①秦氏は、秦の始皇帝の子孫とされていたこと
②一時にやって来たのではなく、集団を引き連れて何波にも分かれて渡来してきたこと
③引率者は○○王と称され、金・銀・玉・絹等をヤマト政権の大王にプレゼントしていること
④ヤマト政権下の管理下に入り、糸・綿・絹品(きぬ)を貢納したこと
⑤それに対して㝢都万佐(うずまさ:太秦)の姓が与えられたこと

秦氏の渡来と活動

『新撰姓氏録』(山城国諸蕃)には、秦忌寸について次のように記されています。
秦忌寸 太秦公宿祓と同じき祖、秦始皇帝の後なり。(中略)普洞王の男、秦公酒(秦酒公)、大泊瀬稚武天皇臨囃の御世に、奏して称す。普洞上の時に、秦の民、惣て却略められて、今見在る者は、十に一つも在らず。請ふらくは、勅使を遣して、検括招集めたまはむことをとまをす。天皇、使、小子、部雷を遣し、大隅、阿多の隼人等を率て、捜括鳩集めじめたまひ、秦の民九十二部、 一万八千六百七十人を得て、遂に酒に賜ひき。
  意訳変換しておくと
秦忌寸(いみき)は、太秦公宿祓と同じき祖先で、秦始皇帝の末裔である。(中略)
普洞王の息子の秦公酒は、秦の民が分散して諸氏のもとに置かれ、おのおのの一族のほしいままに駈使されている情況を嘆いていた。そこで、大泊瀬稚武(おおはつせわかため)天皇に、次のように申し立てた。普洞王の時に、秦の民は総て分散させられて、今ではかつての十に一にも過ぎない数となってしまった。つきては、勅使を派遣して、検索して招集していただきたい。天皇はこれに応えて、使(つかい)、小子(ちいさこ)、部雷(べいかづち)を全国に派遣して、大隅や阿多の隼人等にも命じて、探索活動を行った。その結果、秦の民九十二部1867。人を見つけ出し、秦公酒に引き渡した。
 酒公はこの百八十種勝(ももあまりやそ の すぐり)を率いて庸、調の絹や縑(かとり)を献上し、その絹が朝廷にうず高く積まれたので、「禹豆麻佐」(うつまさ)の姓を賜った
ここでは太秦公宿禰と同祖で、秦公酒の後裔、また摂津・河内国諸番に秦忌寸と同祖で弓月王の後裔であり、養蚕・絹織に秦氏が関係していたことが記されています。

さらに時代を下った『二代実録』仁和三年(887)7月17日条には、従五位下時原宿爾春風が朝臣姓を賜わった記事に、春風が次のように語ったことが次のように記されています。

自分は秦始皇帝の11世孫功満王の子孫で、功満王が帰化入朝のとき「珍宝蚕種等」を献じ奉った。

祖先が「蚕種」に関係したことを挙げています。子孫からしても秦氏と養蚕は切り離せないと思っていたことがうかがえます。

技術集団としての秦氏

『三国史記』新羅本紀には、始祖赫居世や五代婆沙尼師今が養蚕を奨めたと記します。
養蚕神社の祭祀者である秦氏は、新羅国に併合された加羅の地からの渡来人ですから新羅系とされます。『三国史記』の知証麻立14年(503)十月条には、古くは斯麿・新羅と称していた国号を、この年に「新羅」に定めたと記します。そして「新」は「徳業が日々に新たになる」、「羅」は「四方を網羅する」の意とします。しかし、その前から国号を、「シロ・シラ」といっていたので、新羅国は「白国」でした。
 6世紀になると秦氏の族長的な人物として活躍するのが、秦河勝(はたかわかつ)です。

秦川勝
            秦川勝 聖徳太子のブレーンとして活躍
彼は、聖徳太子の側近として活躍する人物で、新羅使の導者を3回動めています。『日本書紀』には、推古11年・24年・31年に新羅王から仏像を贈られたと記します。21年の記事には、仏像を「葛野秦寺」に収めたとあります。これが広隆寺になるようです。24年の記事には新羅仏とあって寺は記されていませんが、『聖徳太子伝暦』『扶桑略記』には蜂岡寺(これも広隆寺のこと)に置いたとあります。また、11年の仏像については『聖徳太子伝補閥記』や『聖徳太子伝暦』に「新羅国所献仏像」とあります。『扶桑略記』は広隆寺縁起を引き、国宝第一号となった「弥勒仏」のことだとします。
3つの半跏首位像 広隆寺・ソウル

大和飛鳥に公伝した仏教は百済系の仏教です。しかし、秦氏はそれ以前から弥勤信仰を重視する新羅の仏教を受けいれていた節が見られます。秦河勝が京都の太秦に広隆寺を建立するが、その本尊は新羅伝来の弥勤半伽思惟像です。平安仏教の改革者となった最澄も渡来系で、留学僧として唐に出向く前には香春神社で航海の安全を祈り、帰国後にも寺院を建立しています。
『広隆寺来由記』には、白髪の天神が広隆寺守護のため新羅から飛来たと記します。こうしてみると「養蚕 ー 新羅 ー 秦氏」は一本の糸で結ばれています。「天日矛の説話を有する地域と秦氏の居住区は、ほぼ完全に重複している」と研究者は考えています。天之日矛は新羅国の皇子です。

古墳時代の養蚕地域

この遺跡分布図は弥生から古墳時代前期の秦氏渡来前の養蚕・絹織地の分布を示しています。
 この遺跡分布図と天之日矛伝承地は、ほぼ重なります。これをどう考えればいいのでしょうか?
秦氏の渡来時期のスタートは五世紀前後とされます。天之日矛伝承は垂仁紀のこととして記されています。そこから天之日矛伝承は秦氏渡来以前の新羅・加羅の渡来伝承とされます。そうすると、秦氏も先住渡来人エリアで、養蚕・絹織に従事したことが考えられます。そういう視点からすると分布図からは次のような事が読み取れます。
①北九州や日本海側の出雲・越前に多く、瀬戸内海側にはない。
②新羅系渡来人によって、日本海を通じて古代の養蚕は列島にもたらされた。
③その主役は新羅・秦氏で、それが新羅神社の白神信仰、白山神社の白山信仰につながる

どうして養蚕神社は木島坐天照御魂神社の境内社なのでしょうか?
それは、木島坐天照御魂神社の白日神(天照御魂神)と桑・蚕がかかわるからだと研究者は考えています。
『三国遺事』が伝える新羅の延鳥郎・細鳥女伝説は、つぎのようなものです。
 この地に延烏(ヨノ)という夫と細烏(セオ)という妻の夫婦が暮らしていました。ある日、延烏が海岸で海草を取っていたら、不思議な岩(亀?)に載せられてそのまま日本まで渡って行き、その地の人々が彼を崇めて王に迎えた(出雲・越前?)というのです。一人残された細烏は夫を探すうちに、海岸に脱ぎ捨てられた夫の履物を発見し、同じく岩に載ることで日本に渡り、夫と再会して王妃となりました。
 しかし、韓国では日と月の精であった二人がいなくなると、日と月の光が消えてしまった。それで王が使者を日本に送って戻ってきてくれるようにいうのですが、延烏は「天の導きで日本に来たのだから帰ることはできない」と断ります。代わりに王妃が織った絹を送り、それで天に祭祀を捧げるようにいいます。実際にそのようにすると、光は戻ってきたので、新羅王はその絹を国宝とし、祭祀をした場所を「迎日県」としたというのです。そこは現在の浦項市南区烏川邑にある日月池であるといいます。

養蚕には桑の木が欠かせません。中国では、太陽は東海の島にある神木の桑から天に昇るとされ、日の出の地を「扶桑」と呼びました。『礼記』にも「后妃は斎戒し、親ら東に向き桑をつむ」と記します。桑をつむのに特に「東に向く」のは、扶桑のこの由来からくるようです。
太陽の中に三本足の鳥がいるという伝承は、古くから中国にあり、新羅の延鳥郎・細鳥女も、日神祭祀にかかわる名のようです。このように、桑は太陽信仰と結びついているから、日の出の地を「扶桑」と書きます。

以上をまとめておきます。
①渡来系の秦氏は深草にまず定着し、その後に太秦周辺の開発を進めた。
②水利の悪い太秦地区には、桑が植えられ先端テクノの養蚕地帯が秦氏によって形成された
③秦氏は多くの絹を朝廷に提供することで、官位を得た。
④また、そこに新羅系の白日信仰(日読み)の木島坐天照御魂神社や養蚕神社を建立した。
⑤養蚕や白日神信仰については「新羅 → 日本海 → 出雲 → 越前」という流れがうかがえる。
⑥仏教伝来期には、天皇家や蘇我氏に先行して氏寺を建立していた痕跡もうかがる。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 大和岩雄 綾氏の研究325P 養蚕(こかい)神社 秦氏と養蚕と白神信仰

木島坐天照御魂神社さんへ行ってきました | 京都市工務店 京町家工房
                   木島坐天照御魂神社

京都の木島坐天照御魂神社は、明治の神仏分離前までは秦氏の氏寺・広隆寺境内の最東端に鎮座してました。広隆寺と引き離されてからは、境内社の蚕養神社の方が有名になってしまって「蚕の社」と呼ばれることの方が多いようです。『延喜式』神名帳には、山城国葛野郡の条に「木島坐天照御魂神社」と記されています。天照御魂神社と称する寺院は、『延喜式』神名帳には、この神社以外には次の3つがあります。
大和国城上郡の他田坐天照御魂神社
大和国城下郡の鏡作坐天照御魂神社
摂津国島下郡の新屋坐天照御魂神社
この三社は、尾張氏と物部氏系氏族が祭祀していました。尾張氏は火明命、物部氏は饒速日命を祖としますが、『旧事本紀』(天孫本紀)は、両氏の始祖を一緒にして、「天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊」
と記します。両氏の始祖を「天照国照彦」といっているのは、「天火明」「櫛玉饒速日」の両神を、「天照御魂神」とみていたからと研究者は考えています。それでは尾張氏・物部氏がという有力氏族が祭祀氏族だった天照御魂神を、渡来系の秦氏がどうして祀っていたのでしょうか? 
その謎を解くのが、わが国唯一とされる「三柱鳥居」だと研究者は考えています。

木嶋坐天照御魂神社(このしまにますあまてるみたまじんじゃ)

「三柱鳥居」は「三面鳥居」「三角鳥居」とも呼ばれますが、現在のものは享保年間(1716~36)に修復されたもののようです。この鳥居については、明治末に景教(キリスト教の異端ネストリウス派)の遺跡で、これを祀る秦氏はユダヤの末裔という説が出されて、世間の話題となったようです。

西安碑林博物馆
          大秦(ローマ帝国)景教流行中国碑(長安碑林博物館)
この説を出したのは東京高等師範学校の教授佐伯好郎で、「太秦(萬豆麻佐)を論ず」という論文で次のように記します。

①唐の建中2年(782)に建てられた「大秦景教流行中国碑」が長安の太秦寺にあること
②三柱鳥居が太秦の地にあること
③三角を二つ重ねた印がユダヤのシンボルマーク、ダビデの星であること
④太秦にある大酒神社は元は「大辟神社」だが、「辟」は「聞」で、ダビデは「大開」と書かれること
以上から、木島坐天照御魂神社や大酒神社を祭祀する秦氏(太秦忌寸)は、遠くユダヤの地から東海の島国に流れ来たイスラエルの遺民だとしました。そして、秦氏に関する雄略紀の記事から、景教がわが国に入った時期を5世紀後半としました。しかし、景教が中国に入ったのは随唐帝国成立後のことで、正式に認められたのが638年のこですから佐伯説は成立しません。また「太秦」表記は、『続日本紀』の天平14年(742)8月5日条の、秦下島麻呂が「太秦公」姓を賜わったというのが初見です。したがって、「太秦」表記を根拠に景教説を立てるのも無理です。三柱鳥居についてこうした突飛もないような説が出るのは、他に類例のない鳥居だからでしょう。
この三柱鳥居は、何を遥拝するために建てられたのでしょうか?
それは冬至と夏至の朝日・夕日を遥拝するためで、その方位を示すための鳥居であると研究者は考えています。三柱鳥居と秦氏と関係の深い山の方位を図で見てみましょう。ここからは次のような事が読み取れます。

三柱鳥居 木島坐天照御魂神社
白日神信仰 木島坐天照御魂神社

①冬至の朝日は稲荷大社のある稲荷山から昇るが、この山は秦氏の聖地。
②夏至の朝日は比叡山系の主峯四明岳から昇るが、比叡(日枝)山の神も秦氏の信仰する山
③冬至に夕日が落ちる愛宕山は、白山開山の秦泰澄が開山したといわれている秦氏の山岳信仰の山
④夏至には夕陽が落ちる松尾山の日埼峯は秦氏が祀る松尾大社の聖地。
こうしてみると、冬至の朝日、夏至の夕日が、昇り落ちる山の麓にそれぞれ秦氏が奉斎する稲荷神社・松尾大社があり、その方向に、三柱を結ぶ正三角形の頂点が向いています。三柱を結ぶ正三角形の頂点のうち二点は、稲荷と松尾の三社を指し示します。もう一点は双ヶ丘です。

白日神は日読み神

研究者が注目するのは、双ヶ丘の三つの丘の古墳群です。
一番高い北側の一ノ丘(標高116m)からニノ丘・三ノ丘と低くなっていきます。一ノ丘の頂上には古墳が1基、 一ノ丘とニノ丘の鞍部に5基、三ノ丘周辺に13基あります。この内の一ノ丘頂上古墳は、秦氏の首長墓である太秦の蛇塚古墳の石室に次ぐ大規模石室を持ちます。

京都双ケ岡1号墳 秦氏の首長墓

日本歴史地名大系『京都市の地名』の「双ヶ丘古墳群」の項で1号墳について次のように記します。

「他の古墳に比べて墳丘や石室の規模が圧倒的に大きくしかも丘頂部に築造されているところからみて、嵯峨野一帯に点在する首長墓の系譜に連なるものであろう。築造の年代は、蛇塚古墳に続いて七世紀前半頃と推定される」

「一ノ丘とニノ丘の間に点在する古墳及び三ノ丘一帯の古墳は、いずれも径10mないし20mの円墳で、いわゆる古墳後期の群集墳である。(中略) 双ヶ丘古墳群は、その所在地からみて秦氏との関連が考えられ、墓域は若千離れているが、嵯峨野丘陵一帯の群集墳とも深いかかわりをもっているとみてよいだろう」

ここからは、双ヶ丘は嵯峨野一帯の秦氏の祖霊の眠る聖地で、三柱鳥居の正三角形の頂点は、それぞれ秦氏の聖地を指し示している記します。太陽が昇る方位だけでなく、沈む方位や祖霊の眠る墓所の方位を示していることは、この地も死と再生の祈りの地だったと云えそうです。その再生祈願の神が天照御魂神と研究者は考えています。

尾張氏や物部氏が祭祀する天照御魂神を、なぜ、渡来氏族の秦氏が祀るのでしょうか?
それは朝鮮でも同じ信仰があったからと研究者は推測します。白日神の信仰が朝鮮にあることは、『三国遺事』(1206~89)の日・月祭祀の延鳥郎・細鳥女伝承から推測できます。

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三国遺事には祭天儀礼をおこなった場所を「迎日県」と記します。迎日県は現在の慶尚北道迎日郡と浦項市に比定されているようです。向日と迎日の違いはありますが、迎日郡には白日峯があります。向日神社の冬至日の出方位に朝日山があるように、白日峯の冬至日の出方位(迎日県九竜浦邑長吉里)には迎日祭祀の山石があります。
白日神 韓国
                    九竜浦邑(慶州の真東)

この岩は「わかめ岩」と呼ばれ、 この地方の名産の海藻の採れるところだったようです。
『三国遺事』は、この地の延鳥郎・細鳥女伝説を次のように伝えます。
 この地に延烏(ヨノ)という夫と細烏(セオ)という妻の夫婦が暮らしていました。ある日、延烏が海岸で海草を取っていたら、不思議な岩(亀?)に載せられてそのまま日本まで渡って行き、その地の人々が彼を崇めて王に迎えた(出雲・越前?)というのです。一人残された細烏は夫を探すうちに、海岸に脱ぎ捨てられた夫の履物を発見し、同じく岩に載ることで日本に渡り、夫と再会して王妃となりました。
 しかし、韓国では日と月の精であった二人がいなくなると、日と月の光が消えてしまった。それで王が使者を日本に送って戻ってきてくれるようにいうのですが、延烏は「天の導きで日本に来たのだから帰ることはできない」と断ります。代わりに王妃が織った絹を送り、それで天に祭祀を捧げるようにいいます。実際にそのようにすると、光は戻ってきたので、新羅王はその絹を国宝とし、祭祀をした場所を「迎日県」としたというのです。そこは現在の浦項市南区烏川邑にある日月池であるといいます。
□「虎のしっぽの先」から海の向こうの日本を望みました! | 韓国・ソウルの中心で愛を叫ぶ!
     「虎尾串(ホミゴッ)」の海を臨む公園にある「延烏郎(ヨノラン)と細烏女(セオニョ)」の像
延鳥郎は海藻を採りに行き、岩に乗って日本へ渡ったと『三国遺事』は記します。岩に乗る延鳥郎とは、海上の岩から昇る朝日の説話化でしょう。白日峯の冬至日の出方位にある雹岩は、太陽の岩なのでしょう。この岩礁地帯は現在も聖域になっているようです。以上からは、迎日祭祀が朝鮮でおこなわれていたことが分かります。
以上をまとめておくと
新羅の迎日県の白日峯にあたるのは、三柱鳥居の地からの迎日の稲荷山、比叡山系の四明岳
木島坐天照御魂神社の鎮座地は、白日神祭祀の聖地、祭場で、そこに三柱鳥居が建つ
ここでは秦氏が祀る天照御魂神社の三柱鳥居は、朝鮮の迎日祭祀の白日神の信仰と、稲荷大社にみられる祖霊信仰がミックスした信仰のシンボルとされていたことを押さえておきます。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 大和岩雄 秦氏の研究312P 木島坐天照御魂神社 ~三柱鳥居の謎と秦氏~



前回は「志呂志神社(近江日高島郡)の祭神は、賀茂別雷神社の祭神別雷神や兄弟又は伯叔父に当られる白日神と同一神」という説を見てきました。今回は、白鬚(髪)神社(滋賀郡小松村大字鵜川)が比良明神と同一祭神を祀っているのではなかという説を見ていきます。テキストは「大和岩雄 秦氏の研究372P    志呂志(しろし)・白髭神社~白神信仰と秦氏~」です。

白鬚神社 琵琶湖 秦氏
            白鬚(髪)神社と鳥居

白鬚神社は、比良山系の北端の断崖が琵琶湖の西岸にせまる高島町鵜川の明神崎の突端に鎮座します。湖中に朱塗りの大鳥居があり、国道161号線をはさんで社殿が建ちます。「白鬚さん」「明神さん」の名で広く親しまれ、「近江の厳島(いつくしま)」とも呼ばれているようです。「白家(髪)」という社名は、弘安2年(1280)前後に書かれた「比良荘堺相論絵図」が初見のようです。

比良荘堺相論絵図 白鬚神社
             比良荘堺相論絵図 (白カミ明神と表記されている)
それ以前は白鬚神社は「比良宮」と呼ばれていたことが次の史料からは分かります。
①平安時代中期の文献を編集した『天満宮託宣記』に「比良宮」
②『最鎮記文』(貞元2年(977)には、「近江国高嶋郡比良郷」
③『三代実録』貞観7年(865)正月十八日条に「近江国の無位の比良神に従四位下を授く」
④社伝にも「天武天皇の御代に比良明神と称した」とあること
⑤保延6年(1140)の『七大寺巡礼私記』古老伝の引用に、比良明神が老翁として現れたとあること。
⑤に描かれた老翁のイメージが、白髪神になるようです。古代は比良明神と呼ばれていたのが、中世になって白鬚神社と呼ばれるようになったことを押さえておきます。

白髪神社 なるこ参り

白髪神社の秋の大祭(9月5日・6日)には、「なる子まいり」という神事が行われます。
数え年で2歳の子どもに神様から名前を授かるのです。子ども連れでお参りし、本名とは別に神様からいただいた名前で3日間その子を呼ぶと、無事に一生幸福の御守護があるといわれています。かつては、北は福井、南は京阪神方面から多くの人が「なる子まいり」に参詣していました。「なる子」は「成る子」です。産屋を「シラ」ということからみても、白(比良)神を祀る白髪神社にふさわしい祭です。
古事記には、この「なる子まいり」の伝承が次のように記されています。

建内宿禰が品陀和気命(応神天皇)を連れて、近江・若狭を経て越前の角鹿に至り、仮宮を造って居たとき、夢の中に伊奢沙和気大神(気比大神)が現れ、神の名を名乗るようにいわれ、名を易えた。

ここでは気比大神と太子が互いに名を交換したとありますが、そうではなくて、太子が気比大神の神名に名を改めたのであり、「なる子まいり」の名替えと同じだと研究者は考えています。白神信仰には「死と再生」観念がテーマとしてありますが、ここではそれが「変身」という形で改名伝承に示されています。
ホムタワケは近江・若狭を巡幸したあと角鹿に仮宮を建てて住んだとあります。仮宮は霜月神楽の「白山」です。死装束をして「白山」に入り、籠りが終わって「白山」から出た人を「神の子」としました。品陀和気命が、仮宮に籠っているときに見た夢の啓示で、気比大神の神名(イササワケ)に改名します。これは白山儀礼と同じ死と再生の儀礼です。「なる子まいり」で別名を名乗ることによって健康に成育し幸福な生涯をおくれるのは、神の子として生まれかわるからです。「成る子」の「成る」は再生の「ナル」と研究者は考えています。このような再生の生命力が、「白神」の霊力であり、神威なのでしょう。
沖縄では、産屋を「シラ」と呼びます。

産屋(そら知らなんだ ふるさと丹後-71-)

白山としての仮宮は、神の子として再生するための産屋と考えられます。日本書紀にも、産屋を海辺に作って鵜の羽で葺いた記事が出てきます。白髪神社があるのは「鵜川」で、鵜の羽で葺いた産屋を川辺に建てたことによる地名と研究者は推測します。そう考えれば、白神が鵜川に鎮座することや、「なる子まいり」の意味が見えて来ます。
  敦賀半島の西北端の敦賀市白木浦の式内社の白城神社の産屋を見ておきましょう。

白城神社[敦賀市白木・式内社]: 神なび

この神社は、かつては鵜羽明神と呼ばれたようです。「鵜羽」は「鵜川」よりもはっきりと産屋の存在を示します。白木では、お産のたびに産屋を焼いて建て直したようです。
  谷川健一は、この習俗を記・紀の火中出生諄に結びつけ、次のように記します。
  どうして産屋に砂を敷くか?それは砂や上の上にワラをおけば、床板の隙間から風が人りこむというような寒い日にあわなくてもすむということがある。その上、砂は地熱をもつ。こうした実際の効用のほかにもう一つの意味がウブスナにはかくされていると私はおもう。
 常宮(白木と同じ敦賀半島にある地名、気比神宮の摂社常宮神社がある)で、次のような話を聞いた。海のなぎさのそばに産屋をたて、砂を床にして子どもを産むのを、まるで海亀のようだと地元の人びとは話しあったという。海亀は季節をさだめて海の彼方からやってき、砂に穴を掘って卵を産みつけ、その卵を地熱によって孵化させる。この海亀を連想したということは、もともとなぎさの近くで産屋をたてて子どもを産むという行為が、海亀や鮫などわだつみを本つ国とする海の動物たちの産卵にあやかったのではないかという類推へと私をみちびく。(中略)
 事実、白木や丹生の定置網には海亀がたまに入ることがあるという。また、この地域では、「砂の上で生まれたので亀の子と一緒」といわれているという。
研究者はこの記述と『日本書紀』の垂仁天皇34年3月2日条の、次の三尾君の始祖伝承を重ね合わせます。
天皇が山城国に行幸したとき、綺戸辺(かにはたとべ)という美人がいることを聞き、矛を執って祈いをして、「必ずその美人に会いたいので、道の途中で瑞兆が現れてほしい」というと、行宮に至るころに大亀が河の中から出てきた。その亀を大皇が矛で刺したところ、たちまち亀が白石に化したので、天皇は側近の者に、「このものによって推しはかると、かならず霊験があるだろう」といった。そして、後宮に召された綺戸辺は、三尾君の始祖の磐衝別命を生んだという。

 大亀が河にいるはずはないから、もともとは海浜の伝承だったのかもしれません。亀が白石になったというのは、亀が海辺に卵を残していたのでしょう。それが亀が矛で刺されて白石に化したという変身・転生説話になったようです。ここにも白神信仰のモチーフである「死と再生」が見られます。

大原の産屋

これは、次の垂仁紀の二年条の大加羅国の王子都怒我阿羅斯等の白石の話と共通します。

ツヌガアラシトが国にいたとき、ある村で自分の牛が行方不明になった。調べてみると、殺されて食われてしまったことがわかったので、その代償に、村で祀っている神がほしいといった。そこで村人は白石を献じた。やがてこの白石が美しい乙女になったので、妻にしたが、いつしかいなくなってしまった。行方をきくと、日本に行ったというので、追って日本へ来たという(この白石は豊国国前郡と難波の比売許曽社の神だとある)。

美人と白石と求婚のモチーフは、どちらの話にも共通しています。たぶん、白石が美人になった話が変型して、三尾君の始祖伝承になったと研究者は考えています。両者の内容を要約すると
①亀が白石になって、白石が美女に変じる転生・変身説話で、白石は卵のイメージ
②三尾君は越前・加賀・能登ともかかわり、ツヌガアラシトは越前・敦賀にかかわること
③越前の気比浦にアラシトは着いたとあること
④気比神宮の摂社の角鹿神社は、ツヌガアラシトを祀っていること
白日神に関わる白石伝承が日本海側の越前から近江に拡がっていたことがうかがえます。

こうして見てくるとホムタワケ(応神天皇)の改名伝承は、白髪神社の「なる子まいり」と重なります。
「なる子まいり」の神事は、転生・変身の「シラ」神事です。改名が健康・招福を約束するように、亀が白石に変ずるのも祥瑞です。これらの伝承が「白」のつく神社にあります。ここには朝鮮半島からの渡来人にかかわっていることになります。加羅・新羅の卵生伝承と亀旨峯降臨神話と、亀が白石に変じた話は、日本海を越えてもたらされた神話だと研究者は考えています。

鵜羽明神と呼ばれる白城神社の祭神について、『特選神名牒』は次のように記します。

「白城は新羅とて新羅の神なるべし。新撰姓氏録に、新良貴。彦波激武鵬鵜草葺不合尊男稲飯命之後也。是出於新良国。即為国主。稲飯命出於新羅国王之祖也、とみえ、神社頚録に今鵜羽明神と称すとあるを思ふに、新羅の天日矛の後裔此国に留り、其遠祖鵜葺不合尊又は稲飯命を白城神と祭れるならん、地名の白城も新羅人の住ゐより起れる名なるべし」

意訳変換しておくと
白城は新羅で、新羅の神であろう。新撰姓氏録に、「新良貴は新羅の国王で、稲飯命は新羅国王の祖先である」と書かれている。神社頚録には鵜羽明神とあるを見ると、新羅の天日矛の子孫がこの国に留って、遠祖である鵜葺不合尊や稲飯命を白城神として祀ったのではなかろうか。地名の白城も新羅人が住んでいたことに由来するのであろう。

『大日本史』には次のように記します。
「今在・白木浦・称白木明神又鵜羽明神、蓋祀二新良貴氏祖稲飯命ことあり

稲飯命
稲飯命について、紀記は次のように記します。
『日本書紀』は、「剣を抜きて海に入りて、鋤持神となる」
『古事記』は、「批の国として、海原に入り坐しき」

『日本書紀』では、稲飯命は神武東征に従いますが熊野に進んで行くときに暴風に遭います。「我が先祖は天神、母は海神であるのに、どうして我を陸に苦しめ、また海に苦しめるのか」と言って剣を抜いて海に入って行き、「鋤持(さいもち)の神」になったとします。「鋤持神」については、『古事記』の神話「山幸彦と海幸彦」でも「佐比持神(さいもちのかみ)」が登場します。これらは鰐(わに)の別称とされます。『古事記』の神話では、山幸彦は海神宮から葦原中国に送ってくれたワニに小刀をつけて帰したと記します。ここからは「さい」とは刀剣を指し、鰐の歯の鋭い様に由来すると研究者は考えています。『日本書紀』神代上では「韓鋤(からさい)」、推古天皇20年条では「句禮能摩差比(クレイノウマサヒ)」などが登場するので、朝鮮半島から伝来した利剣を表すともされます。また『新撰姓氏録』は、稲飯命は新羅王の祖であるとする異伝があります。
『古事記』には稲飯命の事績は何も書かれて折らず、稲飯命は妣国(母の国)である海原へ入り坐(ま)したとのみ記されています。
 高句麗の建国神話で、建国の祖・高朱蒙が次のように尋ねます

「私は天孫(太陽の子)で河伯の外孫である。今日逃走してきたが、追手がいよいよ迫っている、どうすれば渡れるか?」と言うと、魚やが浮かんで橋を作り、朱蒙らは川を渡ることができた

この高句麗の建国神話と、山幸彦の話は重なりあうところがあります。

それでは「批の国」は、どこなのでしょうか。

『古事記』は須佐之男命についても、「批の国根の堅州国」へ行ったと記します。『日本書紀』は「根国」と書き一書の四に、「新羅に天降り、五十猛命と船で出雲へ来た」と記します。ここからは、根国を新羅とみていることが分かります。日本海沿岸の人々にとって、批(はは)の国・根の国は日本海の彼方にあり、その地が新羅と考えられていたようです。そのような中で、秦氏は朝鮮半島の神々をこの国に伝え、信仰し、さまざまな神社を建立したことになります。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献
「大和岩雄 秦氏の研究372P    志呂志(しろし)・白髪神社~白神信仰と秦氏~」


『古事記』の大年神神統譜には、兄弟神として白日神・韓神・曽宮理神・聖神が記されています。

伊怒比売(いのひめ)は神活須毘神(かむいくすびのかみ)の娘

大年神と伊怒比売(いのひめ)との間に生まれた兄弟五神
  この兄弟五神については、その神名から渡来系の神とされ、秦氏らによって信仰された神とされます。大年神の系譜中の神々については、農耕や土地にまつわる神が多いのが特徴です。これは民間信仰に基づく神々とする説や、大国主神の支配する時間・空間の神格化とする説があるようです。さらに日本書紀のこの系譜の須佐之男命・大国主神から接続される本文上の位置に不自然さがあり、その成立や構造については、秦氏の関与や編纂者の政治的意図があったことが指摘されています。今回は、この五兄弟の中の白日神について見ていくことにします。テキストは「大和岩雄 秦氏の研究372P    志呂志(しろし)・白髭神社~白神信仰と秦氏~」です。

西日長男は、白日神と志呂志神の関係について、次のように記します。

式神名帳に所載の近江日高島郡志呂志神社は、日吉三宮と呼ばれ、今、鴨村に鎮座し、その地はもと賀茂別雷神社の社領であったともいうから、神系の上からしても、『白日』が「志呂志」に転訛したものではなかろうか。
 即ち、志呂志神社の祭神は、日吉三宮(今の大宮)の祭神大山昨神や賀茂別雷神社の祭神別雷神や兄弟又は伯叔父に当られる白日神で、そのために日吉三宮と呼ばれたのではあるまいか。そうして、この志呂志神社は滋賀郡小松村大字鵜川に鎮座の白髭神社、即ち、かの比良明神とも同一祭神を祀っているのではなかろうか。而して『比良神」が『夷神』で蕃神の意であろうことは殆ど疑いを納れないであろう。

西田長男のいう「蕃神」は、「新撰姓氏録』が渡来系氏族を「諸蕃」としたことをうけた表現です。
  秦氏らによって信仰された渡来系の神々ということになります。ここでは、「白日が志呂志に転じた」という説を押さえておきます。
志呂志(しろし)神社境内にあった古墳を見ておきましょう。

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志呂志神社の森
高島市南部の鴨川とその北を流れる八田川が合流する南側の小さな森に志呂志神社は鎮座します。
かつての境内の中にあったのが高島市唯一の前方後円墳とされる鴨稲荷山古墳です。明治35年の道路工事中に、後円部の東南に開口した横穴式石室から擬灰岩製家形石棺が発見され、石棺から遺物が出土しました。更に大正12年、梅原末治らによって発掘調査がおこなわれ、石棺内から金製垂飾耳飾、金鋼製冠、双魚侃、沓などの金、金鋼製の装飾品が出土します。
注目したいのは、副葬品が「朝鮮半島直輸入」的なものが多いことです。

伽耶の新羅風イヤリング. 陝川玉田M4号墳jpg
伽耶の新羅風イヤリング(陝川玉田M4号墳)

鴨稲荷山古墳出土の耳飾り

冠(復元品)

                      沓(復元品)
①冠と耳飾りは、新羅の王都慶州の金冠塚の出土品
②沓も、朝鮮半島の古墳からほぼ同類
③水品切子玉、玉髄製切子玉、琥珀製切子玉、内行花文鏡、双竜環頭大刀、鹿角製大刀、鹿角製刀子などのうちで、環頭大刀、鹿角製刀子は朝鮮半島に類似品あり。
④棺外からは馬具と須恵器が出土
京国大学による鴨稲荷山古墳の発掘調査書(1922年(大正11年)7月)は、次のように記します。
被葬者の性別は
「武器などの副葬品の豊富である点から、もとより男子と推測することが出来る。」
「(副葬品については)日本で製作せられたにしても、それは帰化韓人の手によったものであり、その全部あるいは一部が彼の地から舶載したものとしても、何らの異論はない。」
出土品の冠、装飾品が、朝鮮半島に源流を持つ物であるとします。
「(被葬者の出自については)此の被葬者が三韓の帰化人もしくは、其の子孫と縁故があったろうと云ふ人があるかも知れない。しかしそれには何の証拠もない。」
と、朝鮮半島からの渡来人説には慎重な立場を取っています。
そして「当時において格越した外国文化の保持者であり、外国技術の趣味の愛好者であった。」と指摘します。

被葬者についてはよく分からないようです。『日本書紀』継体天皇即位前条には、応神天皇(第15代)四世孫・彦主人王近江国高島郡の「三尾之別業」にあり、三尾氏一族の振媛との間に男大迹王(のちの第26代継体天皇)を儲けたと記します。継体天皇の在位は6世紀前半とされ、三尾氏からは2人の妃が嫁いでいます。そのため被葬者としては三尾氏の首長とする説があります。しかし、高島の地方豪族であった三尾氏の古墳にしては、あまりにも「豪華すぎる」と否定的な意見もあるようです。いろいろな候補者はありますが、本命はいないようです。
 この古墳が鴨稲荷山古墳と呼ばれていたことを見ておきましょう。
志呂志神社はの地名は「高島町大字鴨」で、その名の通りかつての鴨村です。
鴨というのは、上賀茂(賀茂別雷)神社の社領だったからで、上賀茂神社の祭祀に秦氏や秦氏奉斎の松尾大社社司が関わっていました。

全国の古墳に稲荷神社が数多く鎮座する背景は?

また、稲荷山古墳というのも古墳上に稲荷神社が勧進され祀られていたからです。古墳の上に稲荷神社が祀られるのは、伏見大社の修験者たちが「お塚信仰」を拡げ、稲荷神社を古墳に勧進したからだったことは以前にお話ししました。以上のような状況証拠を重ねると、稲荷社や志呂志神社は、古墳に葬られた祖先神やお塚信仰への秦氏と鴨(賀茂)氏による祭祀だったことがうかがえます。この古墳の被葬者を、秦氏は自分たちの祖先として信仰していた可能性があります。

  最初に見た「白日神=志呂志神」説を、見ていくことにします。

蚕の社ー木嶋坐天照御魂神社

木島坐天照御魂神社(木島神社)の中にある向日神社は白日神を祭り、秦(秦物集氏)が信仰していたことは以前に次のようにお話ししました。

①向日神社は、朝日山から昇る冬至の朝日、日の岡から昇る夏至の朝日の遥拝地
②朝鮮の慶尚北道迎日郡の白日峯が海岸の雹岩から昇る冬至の朝日の遥拝地

これに対して、志呂志神社から見た冬至日の出方位は、竜ヶ岳山頂(1100m)、夏至日の出方位は、見月山山頂(1234m)になります。志呂志神社も向日神と関係があるようです。
向日神について南方熊楠は、次のように記します。
「万葉集に家や地所を詠むとて、日に向ふとか日に背くとか言うたのが屡ば見ゆ。日当りは耕作畜牧に大影響有るのみならず、家事経済未熟の世には家居と健康にも大利害を及せば、尤も注意を要した筈だ。又日景の方向と増減を見て季節時日を知る事、今も田舎にに少なからぬ。随って察すれば頒暦など夢にも行れぬ世には、此点に注意して宮や塚を立て、其影を観て略時節を知た処も本邦に有ただろう。されば向日神は日の方向から家相地相と暦日を察するを司った神と愚考す」
意訳変換しておくと
「万葉集で家や地所について詠んだ歌には、「日に向ふ」とか「日に背く」という表現がある。日当りは、農耕や木地には大きな影響をもたらすばかりか、様々な点で未熟な時代だった古代には、生活や健康にも大きな影響をもたらし、そのことには注意を払ったはずだ。日の出・日の入りの方向と増減を見て季節や時日を知ることは、今でも田舎ではよく用いられている。とすれば暦の配布などがない時代には宮や塚を立て、その影を観て時節を知たこともあったろう。そうだとすれば向日神は、日の方向から家相地相と暦日を察することを司った神と私は考える」

そして次のようにも記します。(意訳要約)
  オリエンテーションとは、日の出の方向を基準として方位や暦目(空間と時間)をきめること。「方位」という言葉はラテン語の「昇る」からきている。ストーンヘンジについては、中軸線が夏至の日の出線になり、その他の石の組合せによって日と月の出入りが観測できるので、古代の天文観測所とする説がある。また、神殿の集会所とする説もある。

冬至や夏至の「観測」を、わが国では「日読み」といったようです。
「日読み」は重要な「マツリゴト」でもありました。「日」という漢字には「コヨミ(暦)」の意味もあります。『左氏伝』に「天子有・日官、諸候有二日御」とあり、その注に、「日官・日御は暦数を典じる者」とあります。向日神社が「日読み」の神社であることは、冬至・夏至日の出方向に朝日山・日の岡があることからも推測できます。もうひとつは白日神の兄弟神に聖神がいることです。柳田国男は、「聖は「日知り」だと云います。そうだとすれば、「日読み」と「日知り」の神が兄弟神なのは当然です。
秦氏が信仰する木島坐天照御魂神社も、白日神社です。
木嶋坐天照御魂神社(このしまにますあまてるみたまじんじゃ)

この神社にある三柱鳥居は、稲荷山の冬至、比叡山(四明岳)の夏至の日の出遥拝のためにある「日読み鳥居」と研究者は考えています。

三柱鳥居 木島坐天照御魂神社
白日神信仰 木島坐天照御魂神社

志呂志神社、向日神社、木島坐天照御魂神社は、かつては川のそばにあったようです。

ここにも朝鮮神話と結びつく要素があります。新羅の白日峯の夏至日の出遥拝線上の基点に悶川があります。朝鮮語の「アル」は日本語の「アレ(生れ)」です。この川のほとりに新羅の始祖王赫居世が降臨します。「赫」は太陽光輝の「白日」のことで、アグ沼のほとりで日光に感精した女の話が『古事記』の新羅国王子天之日矛説話に載せられています。このアグ沼も悶川と同じです。三品彰英は、経井を「みあれの泉」「日の泉」とします。  川・沼・井(泉)などのそばで日女(ひるめ)が日光(白日)を受けて日の御子(神の子)を生むのは、日の御女が「日読み(マツリゴト)」をおこなう「日知り」の人だからと研究者は推測します。
以上をまとめておきます。

白日神は日読み神

①大年神神統譜に出てくる兄弟神「白日神・韓神・曽宮理神・聖神」は、渡来系の神々である。
②『白日神』=「志呂志」=「白髪神」である。
③白日神を祀る近江高島町鴨の志呂志神社は、古墳に葬られた祖先神やお塚信仰への秦氏と鴨(賀茂)氏による祭祀が行われていた
④冬至や夏至の「観測」は「日読み」で、白日神は日読みの神で、聖(日知り)神でもあった。 
⑤「日読み」は重要な「マツリゴト」で、「日」という漢字には「コヨミ」の意味もあった。
⑥ 木島坐天照御魂神社の三柱鳥居は、稲荷山の冬至、比叡山(四明岳)の夏至の日の出遥拝のためにある「日読み鳥居」で、この神社も白日神が祀られていた。
⑦『古事記』の「新羅国王子天之日矛説話」からは、これらの神々が朝鮮半島の神々であったことがうかがえる。
⑧川・沼・井(泉)などのそばで日女が日の御子(神の子)を生むのは、「日読み(マツリゴト)」をおこなう「日知り」の「先端技術知識者」であったから。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
大和岩雄 秦氏の研究372P    志呂志(しろし)・白髭神社~白神信仰と秦氏~

史談会2024年12月 白川琢磨No4

白川琢磨先生の4回目のお話しになります。いよいよ讃岐の身近な例を題材に「神仏分離」のお話しが聞けそうです。興味と時間のある方の来訪を歓迎します。なお、当日会場で今回のテキスト的な書物である以下の書籍を販売します。興味と資力のある方はお買い求め下さい。4620円です。おつりの要らないようにお願いします。
顕密のハビトゥス―神仏習合の宗教人類学的研究


福井県立歴史博物館│泰澄展

白山開山者とされる泰澄については、信頼できる基本的な史料が少なく架空の人物であるという説もあるようです。そのような中で白山神社のHPには、泰澄のことが次のように記されています。
長い間、人が足を踏み入れることを許さなかった白山に、はじめて登拝(とはい)したのが僧泰澄です。泰澄は、天武天皇11年(682)に、越前(現在の福井県)麻生津(あそうず)に生まれました。幼いころより神童の誉れ高く、14歳のとき、夢で十一面観音のお告げを受け、故郷の越知山(おちざん)にこもって修行にあけくれるようになりました。
霊亀2年(716)、泰澄は夢で虚空から現われた女神に「白山に来たれ」と呼びかけられます。お告げを信じた泰澄は、それまで誰も成し遂げられなかった白山登拝を決意し、弟子とともに白山を目指して旅立ちました。そして幾多の困難の末、ついに山頂に到達。養老元年(717)、泰澄36歳のときでした。
白山の開山以来、泰澄の名声はとみに高まり、都に赴き元正天皇の病を祈祷で治したり、大流行した天然痘を鎮めるなど、華々しい活躍をします。開山から8年後の神亀2年(725)には、白山山頂で奈良時代を代表する名僧行基と出会い、極楽での再会を約束したとも伝えられています。数々の伝説を残し、「越の大徳」と讃えられた泰澄は、神護景雲元年(767)に越知山で遷化。享年86歳でした。
ここには泰澄が秦氏出身であることは、何も触れられいません。『泰澄和尚伝記』には、泰澄は俗姓が三神氏で、越前国麻生津の三神安角の2男とあります。母は伊野氏で白玉の水精を取って懐中に入る夢を見て懐妊し、天武天皇11年(682)6月11日に誕生したと記します。

泰澄和尚伝記』大谷寺本(越知山大谷寺所蔵)
泰澄和尚伝記

次に「泰澄=秦氏出身」説を、別の史料で追いかけます。『白山大鏡』(鎌倉時代成立?)は、泰澄について次のように記します。
越前国足羽南郡阿佐宇津渡守 為泰角於父生古志路行者秦泰澄大徳

意訳変換しておくと

泰澄の父は越前国足羽南郡阿佐宇津の渡守で泰角於である。 古志路行者の秦泰澄大徳

ここからは泰澄の父が阿佐宇津(麻生津)の渡守(津守)で、泰澄にも秦の姓が付けられています。
麻生津とは福井市浅水町付近とされ、その南に泰澄寺(福井市三十八社町)が現存し、生誕の地とされているようです。

泰澄寺
                      
麻生津が文献に登場するのは『和名類聚抄』で、「丹生郡朝津郷訓阿佐布豆」、『延喜式』巻第28の兵部省では「朝津 駅馬 伝馬各五疋」と記します。津という表記と周囲に浅水川があるので河川交通の要所で、北陸道の朝津駅の付近から陸上交通の拠点であったことが分かります。日本海交易の受口として、朝鮮半島などからもさまざまな人とモノが行き交う所であったことがうかがえます。天台宗僧の光宗の著した『渓嵐拾葉集』(正和3年(1314)成立)にも「越州浅津船渡子」と記します。泰澄の父が船守であったという伝承も、麻生津という地域性から来るものなのでしょう。同時に、秦氏は瀬戸内海でも海運業に携わるものが多かったことは以前にお話ししました。日本海交易を通じて、広いネットワークをもっていたことが考えられます。

技術集団としての秦氏

泰澄の生誕地とされる麻生津の地には、今市岩畑遺跡(福井市今市町)があります。
発掘調査により奈良時代の遺構・遺物が数多く発見され、仏教色の強い遺物も含まれていました。研究者が注目するのは「大徳」と記された墨書土器です。これは8世紀のもので、越前町の佐々生窯跡の丹生窯産とされています。大いなる「徳」とすれば、泰澄は「越の大徳」とも称されていました。泰澄の生まれた伝承地で、この土器が出てきたことに意味があります。

『元亨釈書』(巻十五、方応の部)には、泰澄の母伊野は「白玉」が懐に入るのを夢に見て泰澄を身ごもったと記します。
これは朝鮮半島の神話にもよく出てくるパターンだと研究者は指摘します。加羅の皇子・角鹿阿羅斯等(つぬがあらしひと)の妻はもともと白石で、新羅の王子天日矛の妻は赤玉でした。白玉を懐中にして妊娠した伊野は、白石・赤玉から美女になったヒメコソ神と共通します。加羅・新羅の始祖王の卵生伝承の卵が、白玉になったとあります。「白玉伝説」を持つ泰澄が秦氏出身であることがますます深まります。
継体天皇の考察④(越前の豪族)|古代史勉強家(小嶋浩毅)

それでは、当時の足羽郡に秦氏はいたのでしょうか? 
天平神護1年(766)10月の『越前日司解』に、次の氏名が見えます。
足羽郷 秦文鷹秦荒海・秦文、
家郷 秦前田麿、前多鷹(前田麿の子)・秦安倍、
利刈郷 秦井出月魔
伊濃郷 秦八千麻呂
こうしてみると、足羽郡には秦氏一族がいたことが分かります。泰澄が秦角於の子であってもおかしくないようです。
渡来集団 秦氏とは?

泰澄は丹生郡の越知峯に籠って修行したとされます。今度は丹生郡を見ておきましょう。
『越前国司解』には、丹生郡人として泰嶋圭、丹生郡弥太郷に秦得麿の名があります。泰澄の父といわれる茶角於は、阿佐宇津の渡守(津守)ですが、敦賀郡の津守郷には秦下子公麿がいます。『日本古代人名辞典』(第5巻)は、8世紀の越前の秦氏として、秦16人、秦人部2人をあげています。この地域には秦氏の一族が勢力を持っていたことが分かります。

越前の八坂神社
八坂神社
越前の八坂神社・泰澄の道

越知山の麓に鎮座するのが八坂神社です。ここには泰澄伝承はありませんが、越知山信仰圏への入口としてその歴史は古いとされます。牛頭天王を祀る応神宮や境内にはその神宮寺である応神寺があります。また、多数の諸仏群があり、国の重要文化財である。木造十一面女神坐像も末社の御塔神社から発見された像のようです。

越知神社|おすすめの観光スポット|【公式】福井県 観光/旅行サイト | ふくいドットコム
 
 泰澄の最初の修行地とされる越知山の山頂からは近年、奈良時代の須恵器が採取されているようです。丹生窯跡で生産された奈良時代(8世紀中頃)のものなので、誰かが奈良時代に持ってあがったのでしょう。それを残した人物が泰澄かどうかはわかりませんが、奈良時代には越知山周辺では山林修行者が活動していたことが分かります。

最初に見たHPには「白山の開山以来、泰澄の名声はとみに高まり、都に赴き元正天皇の病を祈祷で治した」とありました。京都での活躍ぶりを見ておきましょう。

木嶋坐天照御魂神社(このしまにますあまてるみたまじんじゃ)

京都の木島坐天照御魂神社
(このしまにますあまてるみたまじんじゃ)は木嶋神社(このしまじんじゃ)」や「蚕の社(かいこのやしろ)」とも呼ばれ、古くから祈雨の神として信仰された神社です。境内には珍しい三柱鳥居があることで知られています。この神社の愛宕山は、秦氏の山岳信仰の聖山です。愛宕神社の神宮寺白雲寺の縁起は、大宝年中に役小角と雲遍上人(泰澄)が愛宕山に登り、山嶺を開き、朝日峯に神社を造立したのにはじまると記します。ここに出てくる「予云遍上人」は泰澄のことで、愛宕山も「白山」とも呼ばれます。ここからは山城国の泰氏の本拠地の「白山(愛宕山)」の開山も泰澄とされています。「泰澄=秦氏出身」はますます強まります。
今度は、白山の三つの山(御前峰。大己貴岳・別山)を見ておきましょう。
御前峰に白山妙理大菩薩が鎮座したために、それまでの御前峰の地主神は別山に移ったという伝承があります。これについて、水谷慶一は次のように記します。

「『白山』を現今の朝鮮語の発音でよめば「ペッサン」の声になるが、これが案外、『別山』の名称の起りではなかろうか。朝鮮語では濁音と半濁音の区別がないので、ペッサンはベツサンでもいい。

ここからは次のようなストーリーが考えられます。
①古墳時代に、白山は「ペッサン」と呼ばれた
②奈良時代に仏教が入るとベッサン(白山)神が最高峰の御前峰を仏教系の白山妙理大菩薩に明け渡して鎮座の場所を移した。
③その際に、名称も共に移動して、『別山』と称するようになった
④『泰澄和尚伝』が別山を「小白山」と書いていることがそれを裏付けらる。

朝鮮には、儒教式祭祀以外に、巫女が主催する別神クッ・都堂クッといわれる部落祭があります。
クッは、儒教の祭に対してシャーマニズム、巫式の祭で、古い型とされます。このクッを、江原道・慶尚道などの日本海側の地域で、特に「別神クッ」「別神祭」と呼んでいるようです。この地域は「狛」とされた地で、日本海を通じて、加賀白山につながります。「別山=白山」とすれば、「別神=白神」となります。
別神祭は、3年か5年ないし10年など周年ごとに営まれる盛大な祭で、この祭には仮面劇がおこなわれます。別神祭の仮面劇には、「死と再生」の場面が含まれていると研究者は指摘します。こうしてみてくると、白山信仰も死と再生の信仰なので、両者がつながります。
 白山の別山を小白山と呼ぶのは、大(太)白山に対しての表現です。
朝鮮の太白山祠について、『東国興地勝覧』(巻四十四。三防祠廟)は、次のように記します。

「太白山祠 在山頂 俗称天王堂」、「春秋祀之」

『虚白堂集』(巻11)には、太白山祠の神は4月8日に村の城陛(部落の聖域)に降臨し、村に留まって村人から旗施鼓笛の盛大な迎接を受け、5月5日に山祠に戻ると記します。4月8日に山の神が里に降りる例は、日本各地にも見られます。ただ、日本の山の神が山へ戻るのは秋です。その点が朝鮮半島とは異なるようです。ただ、太白山神は、普通の山の神ではなく、恐ろしい神のようです。「鬼涯」(『成宗実録』巻236)には次のように記します。

「吉凶立応 前有太守死者数人 皆曰 白頭翁為祟 人心尤畏忌 或曰 夢見白頭者 皆死」(『林下筆記』巻十六)

意訳変換しておくと

「この山の祟りで太守が数人亡くなった。そこで皆が云うには白頭山の祟りであると。人々はこれを非常に怖れた。また、白頭山の夢を見た者は皆死すると」

ここからは太白山神が鬼神・白頭翁と化して崇る神であったことが分かります。これは白山神が陰神、崇神といわれるのと共通しています。このような朝鮮半島の祭祀・信仰は、日本列島と無関係ではありません。

朝鮮半島から日本に入って来た信仰のひとつに韓神(カラカミ)信仰があります。
浅香年木は「韓神からのかみ)信仰」の越前への広がりについて、次のように述べています。
韓神信仰と申しますのは『日本書紀』の皇極天皇元年(642)条に、「村々の祝(ほふり)の教えのままに、或いは牛馬を殺して、諸々の社の神を祭る」という表現で登場する信仰です。(中略)
 この韓神信仰で、注目したいのは分布の特異性にあります。厳しい抑圧の対象とされておりました韓神信仰は、もとより広い範囲に定着していたはずでありますが、延暦十年(791)の禁令が出されている地域は、伊勢・尾張・近江・美濃・紀伊若狭・越前の七カ国、だいたいお分かりと思いますが、紀伊半島から、中部地方の西側を廻って、越前までです。いまの石川県の辺りまでの範囲に相当しますが、この七カ国を対象に特に禁制が強化されております。さらに10年後の延暦20年(801)には、 この七カ国のなかでも、特に北陸道のみに限定して、国家権力が厳しい弾圧令を試みております。ここからは北陸道の、特にこの越前国やその周辺地域において、韓神信仰が広く信仰されていたというふうに理解されるのであります」
ここからは、次のような事が読み取れます。
①韓神信仰は祭礼で、牛馬を殺して神に捧げるものがあり、日本ではたびたび禁止とされていたこと
②延暦十年(791年)の禁令では、伊勢、尾張、近江、美濃、紀伊、若狭、越前の7か国を対象に、特に禁制が強化されていること
③その10年後の延暦二十年(801年)には北陸道のみに限定して厳しい禁制が行われていること
④以上から北陸には根強い韓神信仰があったこと

「日本霊異記」にも、8世紀の中頃、摂津国の金持が、年ごとに一頭の牛を殺して韓神の祭に用いたとことが記されています。このような「殺牛用祭韓神」に対する禁令に、越前の人々が応じなかったことも、白山信仰と韓神信仰が無関係でないことがうかがえます。
どうして、牛を殺していたのでしょうか?
『東国興地勝覧』の太白山祠の春と秋の祭の「繋牛於神坐前、狼狽不顧而走」を、『林下筆記』(巻16)は、「山下人殺食 無災謂之退牛」と記します。ここからは、もともとは牛を殺して食べていたのが禁じられたため、「繋牛於神坐前、……而走」となったようです。これは「山下人殺食……」に続いて次のように記されていることからもうかがえます。

「官荷聞之 定監考曰納於官邑人厭牛会 有山僧沖学 焚其祠 妖祠乃亡 因無献牛之事 監考亦廃」

これを金烈圭は「殺食無災」について、「食べても災がない」と読み下し、これは「たんなる食肉ではない。呪術的食肉である」として、次のように推察します。
生の牛肉を食べることによって、神に接することができると信じた事例があることから、呪術的食肉の傍証が成り立つ。牛を食べるということは、牛が象徴する生成力を所有するようになることを意味する。虎肉を食べて山にはいれば、獣や鬼神を防ぐことができるという俗信も、呪術的食肉から由来したものである。食牛は、2つの意味をもっている。
 第一は、祠神に捧げられたために、祠神の力が加わった牛であるという考えである。この意味からすると、その牛は祠神と同一である。その牛肉を食べるのは、少なくともその祠神の力を分与してもらうことを意味する。
 第二にこの祠神は、白頭翁として象徴される恐ろしい山神である。その山神の患は、虎患であると思われる。山神に捧げられても無事な牛は、その山神に勝った牛である。したがって、その牛肉を食べることは、山神に勝つ力を所有するという意味になる。どちらの食牛の意味をとっても、呪術的食肉は、 マナ(Mana)の所有を意味している。

「牛を殺して韓神を祭るのに用いる」という『日本霊異記』の記事を、牛を生け贄とし捧げたとみる説があります。しかし、もともとは「殺食(食牛)」のためで、越前の「殺牛」も「殺食」だった研究者は判断します。この「殺食」が行われる場所は、「鬼涯」と呼ばれる太白山祠の「山下」でした。「祠神」とは、「鬼涯」の白山神のことです。こうして見ると、「殺食」が越前で盛んにおこなわれたのは、そこが白山の山下であったことが考えられます。金烈圭は「牛食」を死と再生の「生成力象徴」の儀礼とみます。白山信仰の儀礼も死と再生の儀礼ですから、両者の信仰の本質は同じです。韓神信仰と白山信仰はつながります。
もうひとつ秦氏の神々を見ておきましょう。
伊怒比売(いのひめ)は神活須毘神(かむいくすびのかみ)の娘で、大年神(おおとしのかみ)と結婚して
次の5神を生みます。

伊怒比売(いのひめ)は神活須毘神(かむいくすびのかみ)の娘
大年神と伊怒比売(いのひめ)との間に生まれた兄弟五神

大国御魂神(おおくにみたまのかみ)
韓神(からのかみ)
曾富理神(そほりのかみ)
白日神(しらひのかみ)
聖神(ひじりのかみ)
この兄弟五神については、その神名から渡来系の神とされ、秦氏らによって信仰された神とされます。大年神の系譜中の神々については、農耕や土地にまつわる神が多いのが特徴です。これは民間信仰に基づく神々とする説や、大国主神の支配する時間・空間の神格化とする説があるようです。さらに日本書紀のこの系譜の須佐之男命・大国主神から接続される本文上の位置に不自然さがあり、その成立や構造については、秦氏の関与や編纂者の政治的意図があったことが指摘されています。
 「韓神」の名を持つ神としては、『延喜式』神名帳の「宮内省に坐す神三座」に「薗神社」と共に「韓神社二座」が記されています。
園韓神社 - 園韓神社の概要 - わかりやすく解説 Weblio辞書
平安京の韓神社二座
この神社は『江家次第』『古事談』『塵袋』『年中行事秘抄』などに、平安京以前から鎮座していたことが記されています。この神社を内裏建設の際に、別の場所に遷座させようとしたところ託宣があって、帝王の守護として留まって宮内省に鎮座したと伝わります。そして、その鎮座する大内裏は、もと秦河勝の邸宅跡の地であるというのです。ここからも、これらの神は秦氏の地主神としての性格を持つと考えられます。
秦氏の渡来と活動

秦氏は、渡来系の技術者集団として何波にも分かれて列島にやってきました。それをヤマト政権や各地の勢力は、迎え入れて勢力下に入植させていきます。そこには、人とモノだけでなく信仰ももたらされました。それが八幡・稲荷・白山信仰として定着していきます。そのような延長線上に、秦氏出身の泰澄も登場します。それが白山開山につながると私は考えています。
 もうひとつ私が気になるのが、泰澄と空海の活動がよく似ていることです。どちらも秦氏の支援を受けて布教活動を展開している点など類似点が数多く見られます。それがどうしてなのかは、今の私には分かりません。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献「大和岩雄 秦氏の研究356P 白山神社~朝鮮の白山信仰と秦氏~」

秦氏の研究 正・続(2冊揃い)(大和岩雄) / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋


稲荷大社と秦氏
前々回に、全国の古墳の上に稲荷神社が数多く鎮座することの背景を、次のように見てきました。

全国の古墳に稲荷神社が数多く鎮座する背景は?

つまり、稲荷山の「お塚(古墳)信仰=穀物信仰」が修験者や聖によって、全国の古墳に勧進されたという説になります。
 子どもの頃にはいなり寿司が大好きでした。お稲荷さんと云えば狐です。今回は、稲荷神社と白狐のつながりを追いかけてみようと思います。テキストは「大和岩雄 秦氏の研究289P 伏見稲荷大社」です。
霊狐塚】アクセス・営業時間・料金情報 - じゃらんnet
豊川稲荷
「狐塚」の古墳と狐塚の関係について、柳田国男は次のように記します。
「村の大字又は小字の地名となって残って居るもので、今日は其名の塚があるかないか未定なものまで合すれば、北は奥州の端から南は九州の末までに少くも三四百の狐塚といふ地名がある」
「塚の上に稲荷の小祠があるから狐塚だといひ、又はその祠の背後には狐の穴のあるのも幾つかある。古墳には狐はよく穴居するから、それから出た名とも考へられ、又現実に狐塚を発掘して、古墳遺物を得た例が二三は報告せられてある」
 また、稲荷と狐塚の関係については、次のように記します。

「多くの他の塚と同じ様に、狐神といふ一種の神を祭る為に設けたる祭壇である。狐神は恐らくは今日の稲荷の前身である」

歌川広重の狐
                歌川広重 大晦日の狐火

 このように柳田国男は、「狐神=田の神」で、狐塚は「もともとは田の神の祭場だった」とします。その理由として、山の神が早春に里に降りて田の神となり、秋の収穫後に山に入るのと、山の狐が里に現れることとの共通性を挙げます。その際に、狐が山(田)の神の神使となった理由については次のように記します。
「以前は狐が今よりもずっと多か々 つたこと、彼の挙動にはやや他獣と変つたところがあり、人に見られたと思ふとすぐに逃富せず、却って立上って一ぺんは眼を見合せようとすること、それから又食性や子育ての関係から、季節によって頻りに人里に去来することなどを例挙してもよい」

稲荷の神が山(田)の神だから、狐が稲荷社の神使になったとします。以上のように、柳田は、山の神が田の神となって里に現れるのと、狐が里に現れることの共通性を指摘します。

  柳田國男説
  「狐神=田の神の使者」 → 「狐塚=田の神の祭場」 → 「狐が稲荷神社の神使」説

稲荷大社 狐神

しかし、これに研究者は異論を唱えます。この二つは時期がちがうと云うのです。

古代人の種へのイメージ

山の神が里に現れるのは種まきから収穫まです。その間は里にいて田の神になります。ところが、狐が里に現れるのは、田の神が山に帰った後です。だから、狐が山から里に現れるからと云って、単純に田の神と重ねることはできないと云うのです。里人が狐を見るのは、草木の枯れ伏した後で、白鳥が飛来してくる時期です。とすれば、里人は白鳥と同じイメージで狐を見ていたことになります。

常滑郷土文化会つちのこ, 写真集 つたえたい常滑

狐塚の「狐」に冬、「塚」に死のイメージがあることと、稲荷山の「山の峯」に塚(古墳)と白鳥伝説が重なることは前回お話しました。また、穀霊として登場する鳥が「白」鳥であるように、稲荷神の化身は「白」狐です。「白」には、古代人は死と再生のふたつのイメージを持っていました。そして白狐は「白=再生」「狐=塚・死」のイメージです。そんなことが背景にあって、白狐が稲荷大社の神の化身になったと研究者は考えています。白狐は白鳥と共に、生命の源泉である「種」として、豊饒(福)を約束するものであったことを押さえておきます。

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寒施行(狐施行・野施行・穴施行)シーボルト、文政九年に大阪訪問。
狐の餌が無い寒中、狐が棲む神社・森・藪などに赤飯・餅・油揚げ・野菜天婦羅などを置いて歩く。  稲荷の狐への感謝と・豊作祈願を祈った。

京阪地方の行事に、狐の「寒施行(狐施行)」があります。
旧正月前後の夜、小豆飯とか油揚を、狐のいそうな所に置いてくるのです。また、京都・兵庫から福井・鳥取にかけての農村には、旧正月の年越しの晩に「狐狩り」の行事があります。「狩り」という言葉から、狐の害を防ぐために狩り立てるのだという説もありますが、「寒施行」と同じで「もともとはは年のはじめに、狐からめでたい祝言を聴こうとした一つの儀式」で「福をもたらす狐を招き入れようとする行事」と研究者は考えています。この行事は小正月の行事で、時期的には「寒施行」と同じ時期です。白鳥が豊饒(福)をもたらす冬の鳥であったように、狐も福をもたらす冬の動物として登場しているのです。それが稲荷信仰と、どこかで結びついったようです。ちなみに、秦氏を祀るその他の神社には狐神信仰がありません。狐神信仰があるのは、伏見稲荷大社だけです。これをどう考えればいいのでしょうか?
秦氏には、狐だけでなく狼伝承もあります。
『日本書紀』の欽明天皇即位前紀は次のように記します。
天皇幼くましましし時に、夢に人有りて云さく。「天皇、秦大津父(はたのおおつち)といふ者を寵愛みたまはば、壮大に及りて、必ず天下を有らさむ」とまうす。寝驚(みゆめさ)めて使を遣して普く求むれば、山背国の紀郡の深草里より得つ。姓字、果して所夢ししが如し。是に、析喜びたまふこと身に遍ちて、未曾しき夢なりと歎めたまふ。乃ら告げて日はく、「汝、何事か有りし」とのたまふ。答へて云さく、一無し。
但し臣、伊勢に向りて、商償して来還るとき、山に二つの狼の相同ひて血に汗れたるに逢へき。乃ち馬より下りて口手を洗ひ漱ぎて、祈請みて曰く、『汝は是貴き神にして、麁き行を楽む。もし猟士に逢はば、禽られむこと尤く速けむ』といふ。乃ち相闘ふことを抑止めて、血にぬれたる毛を拭ひ洗ひて、遂に遣放して、倶に命全けてき」とまうす。天皇曰く、「必ず此の報ならむ」とのたまふ。乃ち近く侍へじめて、優く寵みたまふこと日に新なり。大きに饒富を致す。
意訳変換しておくと
天皇が幼いときに、夢にある人が出てきて次のように云った。「天皇が、秦大津父(はたのおおつち)という者を寵愛すれば大きな益をもたらし、必ず天下を治めるようになるでしょう」と告げた。夢から覚めて、使者を各地に派遣して、秦大津父を探させたたところ、山背国の紀郡の深草里にいた。姓字も、夢に出てきたとおりであった。天皇はまさに正夢であったと喜んだ。そこで「汝、何事か吉兆があったか」と問うた。それに秦大津父は、次のように答えた。「臣が伊勢で、商償して帰って来るときに、山の中にで二匹の狼が血まみれになって争っている場面に遭遇しました。そこで、馬から下りて口手を洗ひ浄めて、『汝は貴い神にして、荒行を楽しんでるよようだが、もし猟士がやってきたら速やかに捕らえられてられてしまうだろう。」と告げた。2匹の狼は、それを聞いて闘うことを止めて、血にぬれたる毛を拭ひ洗った。そして、去って行く際に、私たち2匹は命をかけてあなたに尽くす」と云った。これを聞いた天皇は、「必ずその報の通りになるであろう」と云って、近習の一人に招き入れた。その結果、大きな饒富を天皇にもたらした。

ここに登場する2匹の狼について西田長男は、次のように解釈します。
「汝は是貴き神」と云っているので、狼は「神そのものとして考へられていた」とし、秦大津父が「馬より下りて」、狼の「口手を洗ひ漱ぎ」、狼に「祈請みて」言っていることは、「神に就いての作法を語るものに外ならない」と指摘します。そして、「オオカミ」は「大神」だとも云います。
千葉徳爾は、次のように記します。

「日本書紀では狼を大口の真神と呼んだ。(中略) わが国の肉食の猛獣としては人里に現れることの多いものだったから、人間の側からは畏怖すべき存在であった。大口は姿を形容したもの、真神とはその威力をたたえた言葉で、これが縮まって大神、オオカミとなったとみられる」

そうだとするとこの話は、秦大津父が狼を助けて「大きに饒富」したのは、神(オオカミ)を助けたため、神から福と富をさずかった話ということになります。柳田国男も、「秦の大津父の出世諄以来、狼が人の恩に報いた話は算へ切れぬほどある」と述べています。「狼=大神」とすれば、秦大津父に福をもたらした狼は、伏見稲荷大社にとっては「貴き神」の代表で、祀るべき神にだったはずです。
それがどこかで狼から狐に変ったようです。どうしてなのでしょうか?
西田長男は、秦大津父が助けた狼について次のように記します。

「稲荷社の替属たる狐神で、古くはこの狐は狼であったのではあるまいか。若しくは狐と狼とは同類に考えられていたのではあるまいか」

柳田国男は、狐塚で狼を供養する例をあげていますが、古代には狐と狼は同類とみられていたようです。
塚(墓)で狐や狼を供養するのも、死と再生の儀礼です。これについて柳田國男は、狼や狐に小豆飯などを供える「初衣祝」は、「産育の際に食物を求めて里を荒らしにくることをおそれて、人間の誕生と同じ祝いをし、狼や狐の害を防ごうとしたのだろう」と推測しています。しかし、これには次のような反論があります。
伴信友は『験の杉』で、秦大津父の狼の話について次のように書いています。

名神大社:大川神社(舞鶴市大川)
丹後の大川神社 オオカミを使者としてまつる

今丹後国加佐郡に大川大明神の社あり、此神社式に載られたり。狼を使者としたまふと云ひ伝へては縦淵..其わたりの山々に狼多く棲り。さらに人の害をなす事なし。諸国の山かたづきたる処にて、猪鹿の多く出て用穀を害ふ時、かの神に申て日数を限りて、狼を貸したまはらむ事を祈請ば、狼すみやかに其郷の山に来入り居りて、猪鹿を逐ひ治むとぞ。又武蔵国秩父郡三峯神社あり。其山に狼いと多し。これも其神に祈請ば、狼来りて猪鹿を治め、又其護符を賜はりてある人は、其身狭害に遭ふ事なく、又盗賊の難なしといへり。

  意訳変換しておくと
丹後国の加佐郡に大川大明神の社がある。この神社は延喜式に載せられている古社である。狼を神の使者としていたと云ひ伝へていて、周辺の山々に狼多く棲んでいる。しかも、人の害をなす事はない。諸国の山で、猪鹿が出没して被害をもたらすときには、この神社の神に依頼して日数を限って、狼のレンタルと願えば、狼はすみやかに依頼のあった山に入って、猪鹿を退治するという。
また武蔵国秩父郡に三峯神社がある。この山にも狼が多く棲んでいる。ここでも神に祈請すれば、狼がやってきて猪鹿を対峙する。またその護符を賜わった人は、災害が遭う事がなく、盗賊の難もないとされる。
ここでは、狼が神の使者として害獣退治の役割を担っていたことが書かれています。秩父の三峯神社では、狼に小豆飯(赤飯)をあげるのを、「御犬様(山犬、狼のこと)の産養ひ」と表現するそうです。武蔵の狼信仰は、三峯神社を拠点として各地にひろがっています。

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三峯神社のオオカミ

「初衣祝」も「御犬様(山犬、狼のこと)の産養ひ」と同じ行事と研究者は考えています。
これは「寒(狐)施行」「狐狩り」が、狐の害を防ぐことでなく、狐から福をさずかる行事であるように、狼や狐の出産(多産)にあやかった豊饒予祝の行事と云うのです。狼や狐は、山に住む冬の動物というだけでなく、巣穴で子を沢山生みます。そのことも、死(穴こもり)と再生(多産)のイメージにつながります。塚や墓を狐塚といい、そこで狼を供養するのと、狼や狐に小豆飯を供える「初衣祝」「産見舞」の儀礼は一連の死と再生儀礼と研究者は考えています。
 多産な動物は狼・狐以外にもいますが、特に狼・狐が選ばれているのは、山の神の化身とみられていたからでしょう。山の神は、秋の終わりに山へ戻り、春の始めに再び山から里に降りて田の神になるといわれています。狼や狐の寒施行や産見舞は、山の神が里に降りる前の時期におこなわれることからみて、春の予祝行事としての冬(殖ゆ)祭と研究者は考えています。
 白鳥が冬の鳥であるように、狼も狐も冬の動物です。
その点では、狼を助けて「大きに饒富を致」した秦大津父の話は、秦伊侶具が「梢梁を積みて富み裕ひき」の白鳥伝説と同じ、秦氏にとっては大切な話であったはずです。だから、「オオカミ=狐」と姿を変えて伝わったとしておきます。稲荷の狐は「白狐」です。中国では、白狐は吉、黒狐は凶とされました。
『土佐郷土民俗諄』や『南路志』の土佐民話に「白毛の古狼」があります。
狼が鍛冶屋の姥に化けて出てきますが、この民話は「産の杉」という古木のそばで旅の女が子供を生んだ話から始まっています。「白」には死と再生(誕生)のイメージがあります。稲荷大社の創始伝承に登場する白鳥の「白」も、白狼・白狐の「白」と関係がありそうです。冬の鳥である白鳥や白鶴に穂落し伝承があるのも、「白」に死と再生のイメージがあるからだと研究者は考えています。「稲の産屋」を「シラ」と呼ぶのも、「白」のイメージにつながるようです。

三峰神社オオカミ
三峯神社の山犬(オオカミ)
三峰神社の狛犬でなくオオカミ
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大嶽神社(西多摩郡檜原村白倉)の社伝には、日本武尊と山犬伝承があります。
『日本書紀』の景行天皇四十年条に載る日本武尊の東征伝承に、次のように記します。

山の神、王を苦びしめむとして、白き鹿と化りて王の前に立つ。王異(あやし)びたまひて、 一筒蒜を以て白き鹿に弾けつ。則ち眼に中りて殺しつ。爰に王、忽に道を失ひて、出づる所を知らず。時に白き狗、自づからに来て、王を導きまつる状有り。

意訳変換しておくと
(信濃に入った日本武尊が、信濃坂を越して美濃に出るときのこと)山の神が、王を苦しめようとして、白き鹿に化身して王の前に立った。日本武尊は怪しんで、 一筒蒜(ひる)を白き鹿に放った。それは鹿の眼に当たり殺した。ところが王は、道を失って、山からの出口が分からなくなってしまった。そこへ白き狼がやってきて、王を導き助けた。

ここに登場する「白き狗」は山犬(狼)のことです。この話が秩父と奥多摩の神社の社伝になっています。        
1987年9月23日の朝日新聞には、西多摩郡檜原村の旧家に「魔よけ」にしていた狼の頭骨があったと報じています。景行紀の日本武尊伝承の「鹿」や「狗」も「白き」鹿・狗です。『古事記』では、この伝承は相模国の足柄山での話になっていますが、やはり「白き鹿」が登場します。山村・農村の人々にとって狼が、畑を荒らす鹿や猪を退治してくれることと共通します。白鹿・白狗・白猪が登場する記・紀のヤマトタケル物語では、墓に葬られたヤマトタケルは白鳥になって墓からぬけ出し、墓(白鳥陵)に入り、更に墓から天に飛び去っています。これは白鳥の死と再生の循環を示す物語テーマです。  
 伏見大社と白狐(イナリさま)の関係にも、こんなテーマが背後にあるようです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 大和岩雄 秦氏の研究289P 伏見稲荷大社
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伏見稲荷大社について|歴史や概要を詳しく解説
伏見大社(1897年)

伏見稲荷大社の創建を、『山城国風土記』逸文は、次のように記します。

   風土記に曰はく、伊奈利と稱ふは、秦中家忌寸(はたのなかつへのいみき)等が遠つ祖、伊侶具の秦公、稻粱(いね)を積みて富み裕(さきは)ひき。乃ち、餅を用ちて的と為ししかば、白き鳥と化成りて飛び翔りて山の峯に居り、伊禰奈利(いねなり)生ひき。遂に社の名と為しき。其の苗裔(すゑ)に至り、先の過ちを悔いて、社の木を抜(ねこ)じて、家に殖ゑて祷(の)み祭りき。今、其の木を殖ゑて蘇きば福(さきはひ)を得、其の木を殖ゑて枯れば福あらず。

意訳変換しておくと

風土記によれば、イナリと称する所以はこうである。秦中家忌寸などの遠い祖先の秦氏族「伊侶具」は、稲作で裕福だった。ところが餅を矢の的としたところ、餅は白鳥に姿を変えて飛び立ち、この山に降りた。そして山に稲が成ったのでこれを「稲荷(イナリ)という社名とした。(稲が自分の土地に実らなくなったことを)子孫は悔いて、社の木を抜き家に植えて祭った。いまでは、木を植えて根付けば福が来て、根付かなければ福が来ないという。

ここには次のような事が記されています。
①イナリ大社は、秦中家忌寸を祖先神とする秦氏の氏神であったこと
②秦氏がこの地に入って稲作農耕で豊かになったこと
③ところが稲で作った餅を矢の的にしたところ、餅は白鳥に化身して山に帰った。
④子孫は、これを悔いて山の木を抜いて家に持ち帰って植えて毎年祀った

「其の苗裔」とは、伊侶具の子孫の「秦中家忌寸等」のことです。「先の過」(伊侶具が餅を的にした行いのこと)を悔いて、神社の木を家に植えて根づくか枯れるかの祈いをおこなったというのです。ここに登場する「白鳥」については、穀霊の白鳥に穂落し神のモチーフがあると研究者は指摘します。そして、稲荷山の3つの峰の古墳祭祀(お塚信仰)と白鳥伝承は、結びついていると云うのです。

伏見稲荷大社創建伝説
伏見稲荷大社創建説話と白鳥伝説

 また「木を抜じ」とは、死を意味し、餅を的にして射る行為と重なっているとします。そして木の植え替えの記事を「死と再生の説話」と読取り、「稲荷信仰=白神信仰」につながるとします。その根拠を今回は見ていくことにします。テキストは「大和岩雄 秦氏の研究289P 伏見稲荷大社」です。

稲の作神、農神としての田の神・山の神

まず民俗学で、稲の作神、農神としての田の神信仰がどのように伝えられているかを押さえておきます。田の神は、苗代作事や田植の直前に、近くの山から降りてきて、田に入り、稲の守り神として収穫時まで滞在し、収穫後、農家で手厚く祀られた後、山に戻るとされます。これを頭に入れて次に進みます。

まず穂落し神説話を見ておきましょう。これは穀物起源伝承でもあるようです。

ウカノミタマ(宇迦之御魂神)の姿と伝承|ご利益・神社紹介
                 宇迦之御魂神(ウカノミタマ)

稲荷大社の主祭神は宇迦之御魂神(ウカノミタマ)です。「宇迦」は「うけ(食物)」の古形で、穀霊のことです。『日本書紀』は、「倉稲魂」を「子介能美施磨」と注しています。『延喜式』の大殿祭の祝詞にも、「屋船豊宇気姫」に注して、「是れ稲霊なり。俗の詞に宇賀能美多麻」と記します。稲霊としてのウカノミタマは地母神で、『古事記』のオホグツヒメと同性格になります。
ウカノミタマ

『古事記』は、スサノヲが出雲で「大気都比売神」に食物を乞うたシーンを次のように記します。
大気都比売、鼻口また尻より、種々の味物を取り出でて、種々作り具へて進る時に、速須佐の男の命、その態を立ち伺ひて、機汚くして奉るとおもほして、その大宣津比売の神を殺しきたまひき。故、殺さえましし神の身に生れる物は、
頭に蚕生り。
二つの目に稲種生り。
二つの耳に粟生り。
鼻に小豆生り。
陰に麦生り。
尻に大豆生りき。
故、ここに神産巣日御祖の命、これを取らしめて、種と成したまひき。
『日本書紀』は、月夜見尊が保食神を殺した死体から、穀物・牛馬・蚕が化生した話を載せています。
  こうして見ると「穀物起源説話=死体化生伝承」でもあることが納得できる気がしてきますす。
なぜ穀物起源説話に、神や人間の祖先の死体から穀物などが発生したとする死体化生の神話が登場するのでしょうか? それについて研究者は次のように説明します。
①「種」には「死」が内包するとされていた。
②「種」は、春、土にまかれて「芽」となり、夏に成育・生長し、秋に「実」となり、刈りとられて再び「種」となる。
③土から離れることは死を意味し、死と再生の循環があった。
④「種」の保管場所が「倉」でなので、「種」は「倉稲魂」という神名を与えられた
⑤「倉」にある期間は、種は土から離れた「死」の状態で、この時期が「冬」になる。
⑥「死ー冬―種」は、古代人にとって一連の同義語で、「倉稲魂」も同じ意味になる。
⑦  折口信夫は「冬」は「殖ゆ」だと云う。
このように古代人の死のイメージは、私たちが考える「終末としての死」ではないようです。再生・循環のための死が冬ですから、冬に飛来する白鳥は穀霊のシンボルとなります。穀物が死体から化生するのも、死・冬のイメージからきます。ヤマトタケルが死んで白鳥になるのも、白鳥に死のイメージがあったからです。穀物の死体化生と同じように、白鳥は誕生もイメージします。「白鳥=冬・死・種・倉稲魂」なのです。 「イネナリ」の白鳥伝説に死と再生のモチーフがうかがえるのも、「白鳥=冬・死・種・倉稲魂」のイメージが重なっているからと研究者は考えています。
そこに穀霊伝承としての白鳥伝承とお塚信仰が結びつきます。『山城国風土記』逸文に、次のように記します。
南鳥部の里、鳥部を称ふは、秦公伊侶具が的の餅、鳥と化りて、飛び去き居りき。其の所の森を鳥部と云ふ。
意訳変換しておくと
南鳥部(トリベ)の里を、鳥部と呼ぶのは、秦公伊侶具が矢を放った的の餅が、白鳥に化身して飛び去って、やってきたのがこの森だったので鳥部と云う。

稲荷山の白鳥は鳥部の森へ飛んでいます。現在の鳥部は鳥部北麓の清水寺西南、大谷本廟の墓地の周辺だけを指しますが、もともとはもっと広い範囲だったようです。顕昭の『拾遺抄註』に、次のように記します。
「トリベ山ハ阿弥陀峰ナリ、ソノスソフバ鳥辺野トイフ。無常所ナリ」

鳥辺山=阿弥陀峰で、古代は北・西・南麓の扇状地一帯を指していたようです。そしてそこは「無常所ナリ」とあるので葬地だったことが分かります。
 稲荷山・鳥部のどちらの伝承も、登場人物は秦伊侶具です。葬地としての二つのアジールは、秦氏の勢力下にあったことがうかがえます。鳥部に秦氏がいたことは、天平15年(743)正月7日の『正倉院文書』に、愛宕郡鳥部郷人として「秦三田次」の名があることからも裏付けられます。この地には、鳥部古墳群・梅谷古墳・総山古墳がありますが、どれも後期古墳です。こうした古墳があることから、平安遷都以前からの葬地だったことがうかがえます。こうしてみると白鳥伝承は葬地としての稲荷山と鳥部から生まれたことがうかがえます。

谷川健一 『白鳥伝説』 (集英社文庫) 全二冊 | ひとでなしの猫

稲荷社創始の白鳥伝説には、次のように記されていました。

「白き鳥と化成りて飛び翔りて山の峯に居り、伊爾奈利生ひき。遂に社の名と為しき。」

稲荷山の峯に稲が実ったのです。稲荷山の峯には古墳があります。こうして稲荷山山頂の被葬者は穀神(ウカノミタマ・オホゲツヒメ・ウケモチ)になります。稲荷大社の主祭神がウカノミタマなのは、稲荷山山頂に葬られた死者を穀神と当時の里人達が考えていたからと研究者は推測します。ここからは、稲荷山のお塚信仰が穀神信仰から生まれたことがうかがえます。

記・紀は、ヤマトタケルは死んで白鳥になったと記します。
冬に飛来する白鳥は、死霊の化身です。「餅を用ちて的と為ししかば、白き鳥と化成りて」とあったように、弓で射られた餅が白鳥になったというのは、白鳥を死霊と見立てていると研究者は指摘します。
『豊後国風土記』速見郡田野の条には、次のように記します。

百姓が餅を的にして射つたところ、餅が白鳥に化して南へ飛び去った後、「百姓死に絶えて、水田を造らず、遂に荒れ廃てたり」

これは稲荷山の白鳥伝承と重なり会います。ところが「豊後国風土記」は「豊国(豊前+豊後)」の起源説話には、白鳥が北から飛米して餅となり、しばらくして、数千株の里芋に化して「花と葉が冬も栄え」たので、朝廷に報告したら天皇が「豊国」と命名したと記します。
『豊後国風土記』の白鳥となって飛び去り、また白鳥が飛び来ることは、滅(死)と豊(生)をあらわ
すと研究者は指摘します。「山城国風土記」の射られた餅が白鳥になったのは、死であり、その白鳥が稲荷山の峯に飛来したのは、生です。それは、死からのよみがえりの再生です。この死と再生を一緒にした話が、『山城国風土記』の伝承と研究者は考えています。鳥部へ白鳥が飛んで行ったというのも、この場所が葬地だったからです。葬地は再生の場所でもありました。
そう考えると、稲荷のお塚信仰は、単なる祖霊信仰ではなく、稲成りの信仰ということになります。『山城国風土記」の白鳥伝説が、秦伊侶具の「稲梁を積みて富み裕ひき」という話になっているのも、そのことを示しています。稲荷のお塚信仰と白鳥伝承は別個のものと、従来はされてきたようです。しかし、以上のような立場に立つと、稲荷大社の二月の初午祭も、冬(死)から春(再生)への、死と再生の祭りと研究者は考えています。
 なんか分かったような、わからないような展開になりました。民俗学的な話は、どうも私には苦手です。しかし、伏見稲荷大社の白狐伝説を理解する上では、避けては通れない道のようです。最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 大和岩雄 秦氏の研究289P 伏見稲荷大社

空海と秦氏の関係を追いかけていると出会ったのがこの本です。

秦氏の研究 日本の文化と信仰に深く関与した渡来集団の研究 / 大和岩雄 著 | 歴史・考古学専門書店 六一書房

秦氏の渡来と活動


この本の中にある秦氏の神社と神々の中に伏見稲荷大社のことが書かれてありました。興味深かったので、読書メモ代わりに載せておきます。

花洛名勝図会 高瀬川から伏見稲荷への参道
     『花洛名勝図会』高瀬川から伏見稲荷までの参詣道。初午のにぎわい。
伏見稲荷大社の創建は、『山城国風土記』逸文に、次のように記します。

伊奈利と称ふは、秦中家忌寸(はたのなかつへいきみき)等が遠つ祖、伊侶具(いろぐ)秦公、稲梁(いね)を積みて富み裕(さきは)ひき、乃ち、餅を用ちて的と為ししかば、白い鳥と化成りて飛び翔りて山の峯に居り、伊繭奈利生(いねなりお)ひき。遂に社の名と為しき。

意訳変換しておくと
伊奈利(いなり)は、秦中家忌寸(はたのなかつへいきみき)等が遠祖で、伊侶具(いろぐ)秦公が稲梁(いね)を積んで富み栄え、餅を的としたところ、白鳥に化身して、飛び翔って山の峯にとまった。これを伊繭奈利生(いねなりお)と呼び、社の名となった。

ここからは、「稲 → 餅 → 白鳥 → 稲荷山」と穀物信仰と、秦氏の祖先信仰がミックスされていることがうかがえます。

伏見稲荷大社の創建を見ておきましょう。
『二十二社註式』や『神名帳考証』『諸社根元記』は、稲荷社の創祀を和銅四年(711)とします。
『年中行事秘抄』は、神祗官の『天暦勘文』(10世紀中頃)を引用して次のように記します。
  但彼社爾宜祝等申状云、此神、和銅年中、始顕在伊奈利山三箇峯平処、是秦氏祖中家等、(中略) 即彼秦氏人等、為爾宜祝、供仕春秋祭等・。
意訳変換しておくと
  彼社爾宜祝等には、この神は和銅年中に始めて伊奈利山三箇峯に現れ、これを秦氏の祖先が祭ったと記す。(中略) そこで、 秦氏一族は、春秋に祭礼を行う。

 ここにも、稲荷社の創祀は和銅年間とされています。しかし、この「創祀」は秦氏が社殿を建てて「伊奈利(イナリ)社」として祀った時期のことで、それよりも古くから稲荷山の神が信仰されていたことになります。


  研究者が注目するのは、稲荷山には、一ノ峯、ニノ峯、三ノ峯、荒神峯の山頂に、それぞれ古墳があったことです。『史料・京都の歴史・考古編』は、次のように記します。

伏見稲荷大社|京都|商売繁盛・産業振興、神秘の神奈備「稲荷山」 | 「いにしえの都」日本の神社・パワースポット巡礼
稲荷山古墳群 丘陵斜面 稲荷神社境内 円墳 三基 半壊 横穴式石室 後期
稲荷山一ノ峯古墳 山頂 円墳 全壊 前期
稲荷山ニノ峯古墳 山頂 前方後円墳の可能性あり 半壊 前期
稲荷山三ノ峯古墳 山頂 墳形不明 半壊 竪穴式石室 二神三獣鏡 碧玉白玉 変形四獣鏡片出土 前期
稲荷山の峯には、三基の前期古墳がある。それぞれ継続的に築造されたと考えられ、稲荷山古墳を形成する深草一帯の首長墓である。

『日本の古代遺跡・京都1』は、次のように記します。

「一ノ峰、ニノ峰、荒神峰の頂上『お塚』のあるところが古墳である。『お塚」で古墳は変形されているが、ニノ峰古墳は全長約七〇メートルの前方後円墳、他の三基は直径五〇メートルの大型円墳とみられる。古く鏡、玉類が出土しており、継起的にきずかれた前期古墳とおもわれる。西麓にあった番神山古墳はこれらにつづく首長墓とみられているが、全長五〇メートルの前方後円墳という以外いっさい不明のまま消滅した」

こうして見てくると稲荷山の山頂の3つの古墳は、「秦氏の始祖の墳墓」のように思えてきます。確かに秦氏の稲荷信仰を、稲荷山に対する秦氏の祖霊信仰とする説もあります。しかし、そうではないと研究者は指摘します。
 秦氏が大和の葛城から深草に移住し、更に葛野(嵯峨野)へ入植するのは5世紀後半のことのようです。井上満郎氏は次のように記します。
「嵯峨野の古墳が五世紀末・六世紀初ということは、葬られている人間が生きていたのは五世紀後半ということにならぎるをえない。すなわち、嵯峨野一帯の開発、つまりは秦氏の定着はこのときということになる」
 稲荷山山頂に前期古墳が築かれるのは4世紀後半のことですから、秦氏がやってくる前にあったことになります。秦氏以前の氏族の墓ということになります。

伏見稲荷山周辺の古墳群
伏見稲荷山周辺の古墳群(山頂が前期、山麓が後期古墳群)

ただし、
①西麓の番神山古墳は5世紀末で、
②稲荷山山麓には円墳の山伏塚古墳、谷口古墳、
③深草砥粉山町の丘陵尾根上には、砥粉山古墳群と呼ばれる円墳3基
これらは後期古墳なので、秦氏の墓とできそうです。
 つまり、同じ稲荷山の古墳でも、山頂と山麓では被葬者は別の氏族で、稲荷山山頂の古墳は秦氏
の移住前の首長の墓であることを押さえておきます。
①秦氏以前の氏族は稲荷山山頂の古墳を、祖霊墓のある神聖な山として祭祀
②こうした地元民の祖霊の山の信仰に、秦氏の信仰が接ぎ木され
③現在の稲荷山の信仰へ
という流れを押さえておきます。

『枕草子』の「うらやましげなるもの」の段に、稲荷山参拝が次のように記されています。
稲荷に思ひおこして詣でたるに、中の御社のほどの、わりなう苦しさを念じ登るに、いささかの苦しげもなく、遅れて来と見る者どもの、ただ行きに先に立ちて詣づる、いとめでたし
意訳変換しておくと
思い立って稲荷山に参拝した。中の御社への苦しい登りを念じながら登ると、いささかの苦しみもなく登れた。私が遅れるだろうと想っていた者どもの先に立って詣でることができた。いとめでたし

ここからは、清少納言がニノ峯の中社に詣でていることが分かります。一ノ峯は上社、三ノ峯は下社で、二ノ峰が中社ですが、その他に詣でたことは記されていません。どうしてでしょうか?
 伴信友は『験の杉』で、中社が本社だと書いています。「中の御社」のニノ峯古墳だけが前方後円墳で、他は円墳であることも、稲荷山信仰の原像が「先祖崇拝」であったことがうかがえます。


 全国遺跡地図には「稲荷」のつく古墳名が総計189基が載せられています。
「稲荷」とつくのは、古墳に稲荷社を祀ったためですが、「稲荷」の名のつかない古墳にも稲荷社が祭られているところがあります。例えば、『岡山県埋蔵文化財台帳』には、岡山市高松に竜王山古墳群(十一基)があり、山麓に最上稲荷神社があります。また、茨城県石岡市の山崎古墳、結城市の繁昌塚古墳、滋賀県栗東町の宇和宮神社境内の古墳、京都市右京区太秦の天塚古墳、西京区大枝東長町の福西古墳群、京都府天田郡夜久野町の枡塚古墳にも、稲荷社が祀られているようです。
これは、伏見稲荷山「お塚信仰」と結びついているようです。
上田正昭は、お塚の「塚」の由来について、次のように記します。

「ニノ峰より傍製の二神三獣鏡や変形四獣鏡が出上しており、四世紀の後半頃にはすでにその地域が聖なる墓域とされていたことをたしかめることができる」

ここからは、お塚信仰は、この山頂の古墳祭祀にさかのぼることがうかがえます。

16世紀前半に作られたとされる「稲荷山山頂図」には、山頂に上ノ塚・中ノ塚・下ノ塚・荒神塚などの名が見えます。
上ノ塚は一ノ峯古墳、
中ノ塚はニノ峯古墳  倉稲魂神を主神 佐田彦命
下ノ塚はノ峯古墳
荒神塚は荒神塚古墳
「お塚」は現在、稲荷山に約一万基も立てられていますが、不規則にあるのではなく、 一ノ峯、ニノ峯、三ノ峯の山頂を中心に、それぞれ円陣をえがき、ストーンサークル状に配されています。お塚に詣でることを「お山する」というようです。稲荷山山頂に登ることは、「お塚(古墳)」を拝することでした。この「山の峯」に「社」を作ったと、『山城国風土記』逸文は記します。
当社の社殿は、三つの峰にあったようで『雍州府志』には次のように記します。

山頂有三壇、古稲荷三社在斯所、弘法大師移今地、毎年正月五日、社家登山上拝三壇始依為鎮座之処也。

意訳変換しておくと

山頂には三壇あり、古くは稲荷三社はここにあった。それを弘法大師が今の地に移した。毎年正月五日に社家が山上に登り、三壇に拝する。これが最初の鎮座場所である。

ここからは、山頂の三壇(古墳)が信仰対象であったこと、弘法大師が登場してくるので真言密教の社僧の管理下に置かれたことが分かります。こうして平安時代になると稲荷信仰は真言密教と習合して、修験者や聖などによって各地に広められていくことになります。ここまでをまとめておきます。

全国の古墳に稲荷神社が数多く鎮座する背景は?
                全国の古墳に稲荷神社が数多く鎮座する背景


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             吉田初三郎による『伏見稲荷全境内名所図絵』


今は山麓の稲荷社拝殿から山頂にかけての参拝路には、約二万といわれる朱塗の鳥居が立ち並びます。現在の「お山巡り」も、中世の一ノ塚、ニノ塚、三ノ塚、荒神塚の「お塚巡り」を継承しているようです
以上をまとめておきます
①稲荷山周辺には、有力氏族がいて古墳時代初期に二ノ峰に首長墓である前方後円墳が築いた。
②その後は盟主分と円墳がそれぞれの山頂に継続的に築かれ、祖先神を祭る霊山となった。
③先住氏族に替わって5世紀後半に入植した秦氏も稲荷山に古墳を築き、引き続いて信仰対象とした。
④奈良時代以後も、稲荷山周辺は死霊をまつる霊山として信仰の対象となった
⑤稲荷山参拝は「お塚(古墳)」を拝する「お塚めぐり=お山巡り」という形で受け継がれた。
⑥古代末から稲荷大社では、弘法大師信仰が高まり真言密教系の社僧が管理運営するようになった。
⑦すると、廻国の修験者や高野の聖達によって、「お塚信仰」が全国に展開し、古墳に稲荷神社が勧進されるようになった。

今回、私が興味深かったのは、山の上に造られた古墳が祖先崇拝のシンボルとして、後の人達に受け継がれて、その山が信仰対象として霊山化していく過程やそれが全国展開していく道筋が辿れることです。これを丸亀平野に落とし込んでみると、大麻山の山頂近くに姿を見せる野田院古墳が思い浮かんできます。この古墳が祖先崇拝の対象となり、麓に大麻神社が鎮座し、霊山化し、そこに山林修験者が入ってくる。そして彼らが「大麻山 → 五岳 → 七宝山 → 観音寺」をつないで修行し「中辺路」を形成していくというストーリーです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献
大和岩雄 秦氏の研究289P 伏見稲荷大社

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