龍馬亡き後に、海援隊を再組織する長岡謙吉(左端)
前回までに鳥羽伏見の戦い後に、再結成された海援隊の動きを見てきました。それは、海援隊が塩飽と小豆島の天領を自己の占領下に置くという戦略でもありました。隊長の長岡謙吉の思惑は成功し、小豆島では、岡山藩の介入を排除しながら、塩飽では小坂騒動を平定しながらこれらの島々を占領下に置くことに成功します。こうして、次のような組織系統が形成されていきます。①塩飽に八木(宮地)彦三郎②小豆島に岡崎山三郎(波多彦太郎)
この二人を統治責任者として配置し、丸亀(海援隊本部)から長岡謙吉が管轄するという体制です。更にその上に、土佐藩の川之江陣屋が予讃の「土佐藩預り地」を統括するという指揮系統になります。

長岡謙吉
海援隊隊長の長岡謙吉は、丸亀で何をしていたのでしょうか?
彼が郷里の者に宛てた私信(2月13日付け:近江屋新助宛)には次のように記されています。
私は、高松征伐の先発として、高松城占領に向かったために小豆島や塩飽諸島のことには関わらなかった。讃岐の島嶼部を3分割して、小豆島は波多彦太郎、塩飽は八木彦三郎にまかせ、私は丸亀の福島にいて全体を統括した。公務の合間には、私塾を開いて京極候の幼君を初め、同地の子弟に和漢洋の学問を授けた。時折管内の本島、草加部(小豆島)を巡視したようで、その際には塩飽の土民が上下座して敬ひ拝する
ここには長岡は、「丸亀の福島にいて全体を統括」と記されています。彼が拠点の宿としたのは、太助灯籠などの灯籠が立ち並ぶ丸亀港の東側にあった旅宿「中村楼」(平山町郵便局向かい)であったようです。ここは、金毘羅船頻繁に出入りする港に面した所で、多くの旅籠や店が軒を並べた繁華街でした。人とモノが集まり、情報と人の集積地でもあったところです。拠点とするのには適していたかも知れません。高松討伐の際に、土佐軍幹部が使った宿でもあるようで、何らかの協力関係があったのかも知れません。
金毘羅船の出入りでにぎわう丸亀湊
また長岡は、次のように記しえいます。「私塾を開いて丸亀藩主の京極候の幼君を初め、同地の子弟に和漢洋の学問を授け」
最初にこれを読んだときには、「また大法螺を吹いているな、藩主の息子を教えるなどと・・」と思いました。ところが、これはどうやら事実のようです。
白蓮社があった遍照寺(丸亀市新浜町)
海援隊本部は「白蓮社」に置かれとされてきました。
「白蓮社」は、現在の福島町隣りの新浜町にある遍照寺にあった御堂であることが、最近の丸亀市立資料館の調査で分かってきたようです。
長岡の別の私信には1月27日、丸亀藩の要請により、「白蓮社」に私塾開塾し、長岡が「文事」を教え、「岡崎」が「武事」担当したとあります。門人約20人で、その運営には、丸亀藩の土肥大作や、金毘羅の日柳燕石、高松藩の藤川三渓が協力したようです。土肥や草薙燕石は、土佐軍の進駐によって、丸亀藩や高松藩の獄中にあったのを解き放たれた「元政治犯」でした。
「白蓮社」は、現在の福島町隣りの新浜町にある遍照寺にあった御堂であることが、最近の丸亀市立資料館の調査で分かってきたようです。
長岡の別の私信には1月27日、丸亀藩の要請により、「白蓮社」に私塾開塾し、長岡が「文事」を教え、「岡崎」が「武事」担当したとあります。門人約20人で、その運営には、丸亀藩の土肥大作や、金毘羅の日柳燕石、高松藩の藤川三渓が協力したようです。土肥や草薙燕石は、土佐軍の進駐によって、丸亀藩や高松藩の獄中にあったのを解き放たれた「元政治犯」でした。
土肥大作は丸亀藩の勤王家で慶應2年以来幽閉されていたのを、1月18日に長岡謙吉が丸亀藩への使者として訪れた際に赦免されます。そして、陸路高松に進軍した丸亀藩兵(長岡謙吉も合流)を参謀として率いた人物で。御一新後の丸亀藩政改革の中で、重要な役割を担う立場にありました。土肥と長岡は、親密な関係にあったことがうかがえます。
長岡は、この時期に金毘羅さんから軍資金の提供を引き出しています。彼の1月下旬頃の書簡に、
「(1月)廿一日隊士二人と象頭山ニ至り金千両ヲ隊中軍用ノ為メニ借ル」
とあります。また、琴陵光重『金刀比羅宮』193 頁には、長岡謙吉の千両の借用証書が紹介されています。この返礼に、長岡は1月24日には、金毘羅大権現別当の松尾寺金光院の重役・山下市右衛門に「懐中銃」を進物として送り、親交を求める書状を送っています。これには千両に対するお礼の意味があったと研究者は考えているようです。
また軍資金千両の使い道は、以下のように記されています。
「蒸気船壱艘 小銃五百挺 書物三十箱戦砲五挺」
塩飽で組織した志願兵部隊の梅花隊の装備や海援隊の艦船購入に宛てられたようです。ちなみに鳥羽伏見の戦い以後に、再結成された海援隊のメンバーは操船も出来ませんでしたし、持ち舟もなかったことは以前にお話した通りです。
なお、金光院は3月には神仏分離令により廃寺となり、金刀比羅宮は海援隊の統治下に置かれることになります。『町史ことひら 3 近世 近代・現代 通史編』400 頁には、明治3年(1870)9 月、長岡謙吉は融通された千両について個人による年賦返済を申し入れています。これにたいして金刀比羅宮は、借用証書を川之江の役所に返上し棄捐した記されています。
ここで海援隊の動きを年表を見てみましょう。(香川県史より抜粋)
1・20 塩飽諸島が土佐藩預り地となり,高松藩征討総督が八木彦三郎に事務を命じる
1・21 長岡謙吉が「隊士二人と象頭山ニ至り金千両ヲ隊中軍用ノ為メニ借ル」
1・25 直島・女木島・男木島3島が土佐藩預り地となる(丸亀県史)
1・27 金光院寺領(金毘羅大権現)が土佐藩預り地となる(丸亀県史)
1・27 丸亀藩の要請により、長岡謙吉が丸亀「白蓮社」に私塾開塾
1・25 直島・女木島・男木島3島が土佐藩預り地となる
2・ 9 朝廷から土佐藩へ、讃岐諸島・小豆島等の鎮撫を命じる親書が出される
2・- 塩飽諸島で土佐藩が1小隊を編成し、梅花隊と名づける.
2・20 長岡謙吉が上京(長岡私信)
3・- 小豆島東部3か村(草加部・大部・福田)土佐藩預り地となる
4・12 海援隊が土佐藩から小豆島・塩飽鎮撫を正式に認められた
4・15 海援隊が占領管内に布令を出す(?)
4・29 土佐藩による海援隊の解散命令
5・17 小豆島や琴平は新設された倉敷県に編入
5・17 小豆島や琴平は新設された倉敷県に編入
5・23 八木彦三郎が塩飽等を倉敷県参事島田泰夫に事務を引き継ぎ
7・ 1 直島・女木島・男木島3島から土佐藩兵の撤退。
ここからは1月末から2月中旬にかけて、土佐軍と海援隊の占領地の組織が形作られていったことが分かります。こうして、海援隊は海軍に必要な操船技術(塩飽水主)、兵力(梅花隊)、石炭の確保に成功したこと、さらに。金刀比羅宮から軍資金も調達していたのです。当初の狙い通りの成果を挙げたといえるでしょう。
長岡謙吉
長岡の私信には、切迫した情勢や戦闘的な描写は見られません。
四国にやって来て彼らは、一戦もしていません。長岡は、戊辰戦争のさなかも、丸亀に落ち着いて塾を開き、大漁を祈る塩飽島の臨時大祭の手配に腐心したり、小豆島の神懸山(寒霞渓)に登って景勝を楽しみ詩吟したりしています。また、土佐の近江屋新助には次のような私信も送っています
「どうぞどうそ御家内一同島めぐりニ御出可被下候、芝居入二御覧一度候一笑一笑」「こんぴらさまへ御参りニ家内不残御出...」「何も不自由ハナケレドモ女の字ニハ困り入申事ニテ 隊中の壮士時時勃起シテ京京ト申ニ困り入申候」
と、金毘羅大芝居見物に金毘羅参拝を誘ったり、と呑気な様子を書き送っています(慶應4(1868)年2 月13 日付け)。ここからは、長岡謙吉の立位置がうかがえます。
また年月は分かりませんが、この頃に長岡謙吉が美馬君田(阿波出身で琴平で活動していた勤王家)に宛てた書簡(草薙金四郎「長岡謙吉と美馬君田」71 頁)には、次のように記されています。「當地」(丸亀?)で「書肆文具一切」を扱う店を開店したので、「鐵砲其他西洋もの一切」も販売するために「長崎之隊士へ申通し、上海より直買に為仕含に御座候」と、その営業計画が述べられています。
鉄砲を始め、西洋のあらゆるものを取り扱う貿易会社を開店した。長崎の旧海援隊に依頼して、上海から直接仕入れる予定である。
ここからは次のようなことがうかがえます。
①長岡謙吉は、塾以外に貿易会社を丸亀に開店していたこと。②海援隊の長崎グループからの仕入れを考えており、彼らとの関係は持続していたこと
このような動きからは長岡謙吉の目指したのは、天領の無血開城であり、その後の平和的な戦後統治であったと研究者は考えているようです。

当時の丸亀
私が分からなかったのは、2月20日に長岡が上京することです。
この辺りのことを、長岡は土佐の親友に次のように私信で伝えています。
2月20日に火急な御用があり、上京した。以後、京都に留ることになった。用件は正月以来、占領している塩飽・小豆島についてのことだった。この両島については、朝廷からの内命で占領・統治を行っていたが、各方面から異議が出るようになった。そこで、正式な任命状をいただけるように運動した結果、4月12日に土佐藩の京都屋敷御目附小南殿より別紙の通りの「讃州島御用四月十二日付辞令書」をいただけることになった。御覧いただくと共に、伯父や親類の人へも安心するように伝えていただきたい。以下略 四月十三日認 弟 殉
廣陵老契侍史
ここには次のようなことが書かれています。
①塩飽・小豆島の占領支配については、朝廷からの内命が海援隊に下りていた②両島の占領について各方面から異議が出るようになったために2月20日、上京したこと③その結果、4月12日に海援隊が小豆島・塩飽の占領軍として土佐藩から正式に認められたこと
しかし、以前にも指摘したとおり、2月9日には朝廷から土佐藩へ、讃岐諸島・小豆島等の鎮撫を命じる親書が出されて、岡山藩も撤退しています。天領をめぐる対立は解消済みと私は考えていました。どうして、上京し、朝廷に対して工作を行う必要があったのか、私には分かりませんでした。別の言い方をするのなら、2月20日から4月12日までは、京都にいて何をしていたのかという疑問です。まず、それをさぐるためにこの時に朝廷に提出した2つの建白書を見てみましょう。
【建白A】石田英吉、長岡謙吉、勝間桂三郎、島田源八郎、佐々木多門の海援隊士 5 名の連名の建白書。
「元来貧地ニテ生活之為ニ而己終身日夜困苦罷在候上徳川之暴政苛酷ニ苦シミ難渋仕候儀見聞仕実ニ嘆敷奉ㇾ存候既ニ先達テ四国近海塩飽七島之居民私怨ニ依テ紛擾争闘及民家ヲ放火シ即死怪我人夥敷有ㇾ之打捨置候ハハ如何成行候モ難ㇾ計早速同所ヘ罷越悪徒ヲ捕窮民ヲ救人心鎮定致候段於二播州一四條殿下(遠矢注:中国四国追討総督・四条隆謌)ヘ御達申上候通ニ御座候塩飽スラ如ㇾ此ニ御座候得ハ況テ佐渡ヶ島新島三宅島八丈島ハ流人モ多ク罷在兼テ人気モ不穏此節柄別テ貧窮ニ迫リ擾亂仕候儀眼前ニ御座候間」、
意訳変換しておくと
天領の島々はもともと貧困で、生活のために日夜困苦しています。その上、徳川の暴政苛酷に苦しみ難渋してきました。私たちが見聞したことも実に嘆かわしきありさまです。先達っては、四国塩飽七島の島民が私怨のために紛争を起こし、民家に放火し、使者や怪我人が数多く出ました。(小坂騒動のこと)。これを打捨てて置くことはできませんので、早速出向いて、悪徒を捕らえ窮民を救い、人心を鎮めたところです。このことについて播州一四條殿下(中国四国追討総督・四条隆謌)へ報告した通りです。塩飽でさえもこのような有様です。佐渡ヶ島・新島・三宅島・八丈島ハ流人も多く、不穏な時節柄なので貧窮も加わり騒乱が起きることが予想されます。そこで、御仁政の趣旨を布告すれば彼らは感涙することでしょう。私どもは先年、彼地に行って民俗や民情を調査いたしました。(真偽不明)。そこで、私たちはそれら島々へ渡り「布告」し「民心ヲ鎮定」を行いたいと考えます。島々には徳川の命を受け航海術を修練した者もいます。(長崎海軍伝習所における塩飽水夫などのこと?) さらに屈強な者を選抜し航海技術を伝授し、将来的には海軍ヘと発展させるように、仰せ付けいただければ兵備も充実することでしょう。
【建白B】長岡謙吉と石田英吉の 2 名連名の建白書
「先般、塩飽七島の島民の紛争について、私どもが鎮撫したことについて、播州で四條殿下ヘ報告いたしました。この島民達を朝廷の海軍ヘ採用するように献策いたします。讃岐の小豆島も塩飽と同じように、鎮撫中ですので、この両島ともに鎮撫命令を下し置きいただけるようにお願いいたします。以上」
この2つの建白書(A・B)は2月中(日付不明)に、土佐藩ではなく新政府に対して出されています。ここがまずポイントです。交渉相手を土佐藩ではなく、直接に新政府を相手としていることを押さえておきます。
建白書Aでは、塩飽での騒動鎮圧と平定の実績を報告をした上で、その支配権の追認を求めています。つまり、新政府による海援隊の塩飽占領支配の保証です。いままでは、土佐藩から委託・下請けされた権限だったのを、新政府から直接認められることで、より強固なものにしようする思惑があったことがうかがえます。つまり、これは岡山藩などに対する対外的な意味合いよりも、土佐藩内部の海援隊による塩飽・小豆島東部占領支配に対する異論封じ込めを狙ったものだったとも思えてきます。
そして、塩飽の水夫たちを、新政府の海軍に重用することを求めています。さらに、天領であった佐渡島や八丈島・三宅島を、海援隊が占領支配することも新たに求めています。
全体的に見ると、建白の意図は、島々の水夫の「海軍」への徴用とそれを理由とした海援隊による塩飽・小豆島鎮撫の正当化にあると研究者は考えているようです。
平尾道雄氏は、「坂本龍馬 海援隊始末記』253 頁)で次のように指摘しています。
「諸島鎮撫の目的は、ただ「王化を布く」というだけではなく、すすんで土地の壮丁たちを訓練して、新政府のために海軍の素地をなさんとしたところに終局の目的があったようである」
建白書のAとBを比較してみると、Aは小豆島について何も触れていません。それに対して、Bは小豆島鎮撫の実績を取り急いで長岡と石田だけで、追加報告したものと研究者は考えているようです。そうすれば、A→Bの順に得移出されたことになります。

また、一番最初に名前が出てくる石田英吉は、鳥羽伏見の戦い後に長岡や八木彦三郎らが丸亀に渡った時に乗船した土佐船「横笛」の船将です。ここからは、以後はそのまま備讃瀬戸グループに合流したことがうかがえます。しかし、この建白直後に、備讃瀬戸グループから離脱し長崎グループに鞍替えしています。意見が合わなかったようです。そして、戊辰戦争へと石田は参戦していきます。
長 岡 謙 吉爾来之海援隊其儘を以て讃州島に御用取抜勤隊長被仰付之辰四月十二日八木彦三郎波多彦太郎勝間圭三郎岡崎恭介桂井隼太橋詰啓太郎島橋謙吾武田保輔得能猪熊島田源八朗島村 要堀 兼司長岡謙次郎右面々讃州島に御用被仰付長岡謙吉に附属被仰付之
この文書からは、次のようなことが分かります。
①長岡謙吉の配下いた海援隊12名が「讃州島ニ御用被仰付 長岡謙吉ニ附屬被仰付候事」となったこと
②長岡謙吉が正式に海援隊隊長となり、讃州島(塩飽・小豆島)の占領統治者に任命されたこと
「海援隊其儘ヲ以テ」とあるので、「新海援隊」ではなく、旧来からの海援隊を引き継ぐのは長岡であることも認められたことになります。「讃州島」とありますが、実態は「塩飽」に限定されず備讃瀬戸全体にまたがるエリアであったことを研究者は指摘します。
ここからは、2月20日に上京して以来、新政府に働きかけていた「塩飽・小豆島鎮撫」が、ある意味成就したことを意味します。しかし、長岡が望んだように新政府からの任命状ではなく、土佐藩からの任命状であったことは押さえておきます。
次なる疑問は、次の通りです
①なぜ海援隊本流の長崎グループ(古参メンバー)ではなく備讃瀬戸グループが、この時期にわざわざ「爾来之海援隊其儘」の海援隊であると、土佐藩は認定したのか?②長岡の海援隊の動きを土佐藩は、どのように見ていたのか?
それを解く鍵は、海援隊に対して土佐藩から出された通告文にあるようです。
①占領地に於ける租税については、申告された人口、戸数等に基づき検討中であるから決定次第連絡する予定であること、
②宗門改(キリシタン摘発を目的とする住民調査)を「川の江出張所」(川之江陣屋のこと)に提出すること
③海援隊士の経費は島々の租税により支給する予定だが、指示があるまで待つこと、
④「土兵」(梅花隊)の経緯や経費についても③に同じこと、
⑤学校の経費について③に同じこと、
⑥⑦商船・船舶については「従前のままになしおくこと」(詳細不明)
⑧船の旗号は「紅白紅旗」(土佐藩の旗)を使用すること
⑨諸事につき「川の江出張所」に伺いをたてること。
①③④⑤については、現地徴収して占領経費に使用してよいかという問い合わせへの回答のようです。土佐藩の回答は「まだ、現地徴収してはならない」という答になります。⑧の船の旗については、土佐藩のものを使用せよと云うことです。専門家は、「紅白紅旗(にびき)は土佐藩の船印であり、海援隊のオリジナルシンボルマークなどではない」(『空蝉のことなど』148 頁)と指摘します。あくまで、海援隊は土佐藩の配下であり、下請的な存在なのです。


⑨は海援隊が独自に判断し、勝手な施策を行うなということでしょう。ここでも、土佐藩の配下であることをわきまえよとも読み取れます。
①③④⑤の現地徴収と経済的なことについては、塩飽諸島・小豆島等統治の占領費に土佐藩の財政が耐えられなくなったことが背景にあるようです。4月9日に小崎左司馬、毛利恭助(土佐藩京都留守居役)が連名で新政府の弁事役所に、占領地からの租税を運営費に充てたいと伺い出ています。このことと①③④⑤は関連するようです。たしかに、小坂騒動後の復興資金は、土佐藩から出されていました。
『山内家史料 幕末維新 第九編』110~111頁には、占領経費が膨らんだ要因を小坂騒動により「人家漁船等夥敷焼失致シ 出兵救民之入費」で、復興支援費がかさんだことを挙げています。
またその後5月9日に、土佐藩から再度伺いを出した文面には、次のように記されています。
「去四月民政御役所ヘ申出候處 右地租税之員數届出候様御沙汰有之則牒面寫ヲ差出申候」「島島取締之儀兎角於弊藩難二取續候間御免之上可然御評議被仰付度奉存候」
意訳変換しておくと
土佐藩は塩飽・小豆島の統治任務から撤退したいと新政府に云っているのです。ちなみに新政府は、これを却下しています。4月に新政府の民政御役所ヘ申出たように、塩飽・小豆島の地租税の員數調査については写しを提出済です。」「塩飽諸島や小豆島の占領管理については、財政的にもとにかく困難な状態で藩は苦慮しております。できれば本藩による管理停止を仰せ付けいただけるようにお願いいたします。
当時の占領実態をうかがえるものとして『小豆郡誌』143 頁には、占領経費600円を受け取るため年寄・長西英三郎らが京都まで行ったものの、70日滞在しても受領できず空しく帰島したというエピソードが紹介されています。
また、宮地美彦「維新史に於ける長岡謙吉の活動(補遺)」10 頁には、塩飽本島から小豆島へ梅花隊が派遣された際、十数人の旅費として「一分銀百円」が支給されます。本島で現地採用された隊士らは「わずかにこれだけの人數が、本島から小豆島に行くのに、これほどの大金をくれるのは、土佐は富んでいるわ、と非常に驚いた」というエピソードがあります。こうした放漫な支出も政費を圧迫したのかもしれません。

土佐藩の台所を預かる財務担当者にしてみれば、駐留経費も出ず、現地徴収も許されずに、藩の持ち出しばかりがかさむ「塩飽・小豆島鎮撫」からは、早く手を引かせたいというのが本音だったようです。私は「現地徴収」によって占領にかかる経費は充分賄われ、そこからあがる経費が土佐藩の財政を潤していたのではないかという先入観をもっていましたが、そうではなかったようです。土佐軍の「討伐・占領」は経済的には見合うものではなかったのです。
土佐藩は、藩主山内容堂の意向を受けて「高松・松山でも長期駐屯による民心離反防止、民心獲得のために次のような処置を行っています。
①松山城下で商家を脅した兵士の斬罪処分②川之江で土佐藩兵により火災となった石炭小屋への金三十両の補償など
海援隊による小坂騒動鎮定なども、その延長上にあると研究者は考えているようです。
その背後には次のような思惑が土佐藩にはあったと研究者は指摘します。
「元々中央政府の土佐藩に対する高松・松山征討命令は土佐藩からの内願により実現したもので、土佐藩による高松、松山両藩の接収は「占領」と言うより「保護・救済」を意図したものである。その背景には、この時期すでに中央における薩長勢力の拡大に対抗するという底意がある。」
つまり、土佐藩には領土的な野心や経済的な思惑はなく、高松・丸亀藩への討伐遠征は、薩長勢力に対抗するための四国勢力の団結を図るためのものであったというのです。それが、四国会議の開催につながっていきます。四国における指導権を土佐藩が握ること、そのためにも親藩である高松・松山を押さえ込むこと、そして土佐寄りの立場に立たせるようにすること。そのためには、征服者としての横暴な統治政策は慎まなければなりません。反薩長の立場に四国をまとめ、土佐が盟主とた四国十三藩の統一体をどう作り上げていくかという課題を、土佐藩の政策担当者は共有していたことになります。
そうだとすれば、高松・松山藩の謹慎処分が解ければ、土佐占領軍が撤退することになんら異議は、ないでしょう。同時に、塩飽・小豆島から撤退することが次の課題になることは、当然のことでしょう。
塩飽本島(南が上)
このような土佐藩の対応ぶりと、海援隊を率いる長岡謙吉の思惑は大きく食い違っていきます。
先ほどから見たように、備讃瀬戸の要衝の島々を占領管理下に置くことで、海援隊の存在意義は高まるし、新政府の水夫供給地とすることで海援隊の未來も開けてくると長岡達は考えていたはずです。塩飽からの早期撤退という土佐藩の意向に従うことはできません。そうなれば、土佐藩から離れ、自立・独立路線を模索する以外にありません。それが2月20日以後の長岡の上京と、新政府に対する塩飽・小豆島の占領統治の承認を得るという献策活動ではなかったのでしょうか。
4月12日に土佐藩から正式の任命書をもらうと、4月15日付で海援隊は占領管内へ次のような布令を出します。
布 令御一新の御時節につき、御上に対して何事によらす捨て置かずに、連絡や報告を行うこと一、昨年までの年具未納分について、いちいち詮議はしないので、各村で調査し、明白に分かる分については申し出ること一、このような時節なので、当地で小銃隊を組織することになった。ついては、年齢17歳から30歳までで志願する者は兵籍に編入することにする。期日までに生年名前記入し、申し出ること。これについては、道具給料など迷惑をかけぬように準備すること一、小豆島三ケ村御林については、期日を決めて入札を行う一、直島御林、閏月5日に入札を行うそれぞれの民兵の備えのための施策を仰せつける。入札を希望する者は予定額を記入し、申し出ること以上、各村役人へもらさず伝達すること。この触書は、最後には下村出張所へ返却すること。以上。四月十五日長岡謙吉波多彦太郎八木彦三郎草加部村大部村福田村男木島女木島塩飽島村々役人中
ここからは、次のようなことが分かります。
①これらの島々からの徴税減額を行おうとしていたこと②現地志願兵の編成を計画していたこと③そのためにかかる経費を、御林(幕府御用林)の入札で賄おうとしていたこと。
つまり、海援隊の活動に関わる資金も人員も「現地調達」しようとしていたことが分かります。さらに、この時点では「半永続的な占領」政策を考えていたこともうかがえます。これは、土佐藩の意向を無視したものです。
②については、すでに本島で現地の人名師弟たちを採用した「梅花隊」を組織していました。それを、占領地の全エリアで行おうとするものです。「土民を募集して兵卒を訓練し、共才能ある者は抜燿して士格にも採用」するという「人材の現地登用」策です。
4月18日に、長岡謙吉は8 ヶ条の海軍創設の建白書を新政府に提出しています。
①総督一名 :「宮公卿任之」②副総督三名:「公卿諸侯任之」③参謀十名・副参謀二十名:「草莽間ヨリ特抜ス」④海軍局:「瀬海ノ地ニ於テ 巨厦ヲ造築ス兵庫蓋其地ナリ」⑤局 費:「徳川氏封地中ニ就テ八分ノ三ヲ採リ局中ノ緒費ニ抵」「或ハ暫ク關西諸國ニ散在セル徳(川)領及ヒ旗本領ヲ収用スルモ亦可ナリ」、⑥船艦:「徳川氏ノ戦艦ヲ収用シ諸費局中ヨリ出ツ」⑦局中規律:「洋人數十名ヲ招請シ天文地理測量器械運用等一切ノ諸課ヲ教導セシメ或ハ一艦毎ニ教導師一二名ヲ乗ラシム而シテ學則軍律悉ク洋式ニ従フ」、⑧生徒:「海内ノ列藩ニ課シ有才ノ子弟ヲ貢セシム」
さきほど見た2月の建白書A・Bを土台にして、海援隊長としての所見を明確にしたものと研究者は考えているようです。天領占領を前提に、水夫徴用、費用の割当、幕府海軍の接収を行い、その土台の上に外国人教員と各藩子弟を瀬戸内海(神戸)に集め施設を作るという構想のようです。建白は短文で、具体性と情報量に乏しいものです。内容的には「近代海軍の創設」というより、海援隊の理念(「海島ヲ拓キ」)を拡張した「水軍」に近いものをイメージしているようです。⑧の生徒を「列藩」の「有才ノ子弟」から集めるのに対して、⑨の幹部である参謀・副参謀をわざわざ「草莽間ヨリ」選ぶとしています。これは、海援隊の幹部就任を想定しているようにも読めます。この建白が採用されることはありませんでした。
木戸孝允日記の慶應4年(1868)4月29日の条に長岡謙吉が木戸を訪れたことが記載されています。ここからは、4月末になっても長岡はまだ京都にいたことがうかがえます。2月20日に上京して以後、2ヶ月以上にわたって長岡は、丸亀を留守にしていたのです。
土佐藩のコントロールから離れ自立性を強める海援隊に対して、4月29日土佐藩は次のような解散通告を出します
「昨年深き思召有之、海陸援隊御組立相成候より、各粉骨を盡し、出精有之候處、爾後時勢變革、今日に至り候ては、王政復古、更始御一新の御趣意に奉随、一先御解放之思召有之候間、各其心得、隊中不漏様可被申聞候」。
この解散命令は、長崎で、土佐家老深尾鼎・参政真辺栄三郎が、長崎グループ宛(大山壮太郎・渡辺剛八)に出しています。なぜ、長岡謙吉の備讃瀬戸グループ宛てではなかったのでしょうか。どちらにしても、長岡謙吉の海援隊長任命からわずか一ヶ月での解散になります。その背景には何があったか、研究者は次のように考えているようです。
ひとつの仮説として、長岡謙吉の土佐藩によるコントロール不能化の進行。
①土佐藩の方針を無視した年貢半減令②現地徴用による独立軍隊化(梅花隊)③長岡が丸亀藩の政治顧問に就任するなど、丸亀藩との密接化
以上からは草莽集団化していく海援隊を、土佐藩要人からは危険視するようになっていたと研究者は考えているようです。また、土佐藩には財政負担から塩飽・小豆島から撤退の意向があったことは、前述した通りです。
長岡謙吉書簡には、次のような記述が見えます
慶應4年(1868)1月
「此挙(塩飽・小豆島鎮撫)ハ暗ニ 朝意ヲ請ヒシ事ナルカ故ニ本藩ノ指示ニヨルニアラス」慶應4年(1868)4 月 13 日付
「両島(塩飽・小豆島)之變は勿論公然たる総督並に朝命を奉じて取締候へ共俗吏之論も有之様に相覚え申候間猶又分明之上命を拝せん」
と書くなど、塩飽・小豆島占領管理を土佐軍の指示によるものではなく、朝意(朝廷の意向)に基づくものだと記しています。これは、土佐藩からの自立性を主張することにつながります。そういう目で見ると、4月12日付けの土佐藩による長岡の海援隊長任命は、海援隊が藩の統制下にあることを、再確認させ認識させるための「儀式」であったのかもしれないと研究者は指摘します。それを、長岡は無視した行動を続けたことになります。それを受けての解散命令だったようです。
塩飽・小豆島の占領統治にあたっていた海援隊員や土佐人はどうなったのか?
その後、海援隊メンバーは倉敷県等へ任官します。5月16日に、倉敷代官所は「倉敷県」に生まれ変わります。そして、塩飽諸島は6月14日に倉敷県の管轄となり、7月には八木彦三郎から倉敷県大参事島田泰雄に事務引継ぎが行われています。小豆島、直島、女木島、男木島も 7月に八木彦三郎から倉敷県へ事務引継ぎが行われています。つまり、海援隊の支配はわずか4か月間で終わります。
倉敷代官所は現在のアイビースクウェアにあった
倉敷代官所の旧支配地であった塩飽諸島、小豆島・直島・女木島・男木島は、土佐藩預り地でした。そこで鎮撫していた海援隊士たちは、そのまま倉敷県に任官することになります。つまり、海援隊員から県職員にリクルート(or配置転換)されたことになります。倉敷県の職員を見ると知県事:小原與一、以下、権知事(No.2):波多彦太郎、会計局:島田源八郎、刑法局:岡崎恭助、軍務局:島本虎豹など、計35名中32名が土佐藩出身で占められています。
塩飽の責任者であった八木彦三郎も倉敷県設置と同時に、同県大属(NO5)となり、すぐに「金毘羅出張所御預り所長」(軍務、庶務、刑法、会計を兼務)に任命され、琴平に転出します。


長岡謙吉は、どうなったのでしょうか?
海援隊長ですから倉敷県の知事に就任したのかと思っていると、どうもそうではないようです。6月9日に新たに設置された三河県の知県事(No.1)に任命されます。その判県事(No.2)は、なんと土肥大作が指名されました。『愛知県史 資料編 23 近世 9 維新』124~125 頁には、次のように記されています。
「慶應四年六月 三河県赴任に伴う事務執行方法につき知事長岡謙吉より伺書写」(6月14日)には、「私儀兼テ敞藩ヨリ小豆諸島引渡方被申付有之候間、不日ニ相仕舞次第彼地ヱ罷越申候、此条前以奉申上置候」
とあり、突然に、知らない土地へ転出させられとまどっていることがうかがえます。
「土肥大作と勤皇の志士展」パンフレット(丸亀市立資料館)には、土肥大作が三河県の判県事に任命されたのは、6月15日で、23日に赴任していることが記されています。
先ほど見たように、長岡と土井は高松城占領以後は非常に親密な関係にありました。ある意味、「丸亀の長岡謙吉私塾」の塾長と副塾長が三河県の知事と副知事に任命されたようなものです。二人揃って大栄転のように思えます。ところが長岡は、なぜかその月の28 日に免官されています。
倉敷代官所の井戸
倉敷県には、その後のどんでん返しが用意されていました。翌年の明治2年8月に、土佐藩士は、倉敷県のポストから一掃されることになります。その経過は次のように記されています。
「如此人員ハ多キモ土州人ナレハ、原、慷慨ヨリ出デ、或ハ脱走シテ未帰籍不ㇾ成者有、都テ疎暴、政事上甚激烈ニ渉リ、人民大ニ苦シム 于ㇾ時七月初旬自二東京一被ㇾ召、小原、(略)上京、於二彼地一免職、餘ハ御用状態、八月十三日不ㇾ残免職被二仰渡一、即十五、十六之此より、逐々出立、九月初悉皆引取ニ相成タリ」
意訳変換しておくと
このように免職されたのは土佐人ばかりであった。中には慷慨して脱走し、帰庁しなかった者もいる。まさに粗暴な政治的仕打ちであり、人々は大いに苦しめられた。
ある職員は七月初旬に東京へ出張ででかけ、(略)上京中に免職される始末。8月13日から免職が言い渡され、十五、十六人が首を切られ、九月初めには、ほとんどの土佐人職員が職を失った。
『倉敷市史(第十一冊)』25 頁には
「土州藩不残御引払之御沙汰有之、知事様東京へ御出張被遊、其儘本国エ御引取」
とあります。琴平で在職中の八木以外の全員の土佐出身の職員に免職を言い渡し、知事は東京に引き上げ、そのまま本国に引き取った、というのです。
また、福島成行「新政府の廓清に犠牲となりたる郷土の先輩」『土佐史談』第 32 号(1930 年)には、倉敷県庁勤めの岡崎恭介が、東京出張中に「職務被免」とされ、京坂を彷徨っているうちに路銀を使い果たし宿泊にも困るようになり、各地の不平士族と親密に結びついていく過程が克明に語られています。
ここからは、配置転換されて1年後には、土佐人はほとんど全員が解雇になったことが分かります。この思惑はなんなのでしょうか。
①長岡を除く主だったメンバーは倉敷県へいったん配置転換し②長岡はメンバーから引き離され一人だけ三河県知事に任命され、直後に免官となり③その後、時を置いて倉敷県に再雇用した全員を解雇する
という新政府の筋書きが見えてきます。
このような措置に対する怒りが、先ほど見たように土佐人を自由民権運動に駆り立てる一つのエネルギーになっていくようです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
テキストは遠矢浩規「坂本龍馬暗殺後の海援隊―備讃瀬戸グループの活動を中心に」(明治維新史学会報告資料、2017年)







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