丸亀城  山﨑時代の城郭絵図2
①が現在の裁判所付近
前回は大手町が明治以後は丸亀12連隊の兵舎や倉庫、病院になっていたことを見ました。今回は発掘地点の丸亀裁判所には、江戸時代には誰の屋敷があって、住人がどのように移り変わっていったのかを見ていくことにします。
丸亀連隊 西端
内堀の向こうに見えるのが丸亀十二連隊 

そのために、まずやらなければならないことは発掘地点が絵図のどの辺りにあたるかを確定しなければなりません。普通は道路などで簡単に現在位置との関係が分かるのですが、ここではそうは行かないようです。明治の連隊建設の際に、敷地が奇麗さっぱりと更地にされているからです。調査地周辺は、目印になるものがほとんど残っていません。街路も近世には鉤状に屈曲する部分がありましたが、近代の連隊建設の際に、街路は直線的な道路へと作り替えられました。そのため街路も基準になりません。そうなると、基準点は現在の道路にも引き継がれる外堀くらいになります。
   外堀を基準に、基準線を引くプロセスは以下の通りです。
①西隣の郵便局の西側から出土している①外堀遺構を基準点にする
②発掘エリアから出てきた2本の屋敷割の溝②までの距離の確認
③のマンション建設の発掘調査区から石組みの護岸を持つ溝の西側の肩の確認
以上のような基準点を地図上に落としたものが次の下図①②③になるようです。

丸亀城大手町屋敷割り

報告書は、これを嘉永8年の絵図と比較し、基準線を次のように決めていきます。
①西側の外堀(旧R11号)から外堀沿いの屋敷地・屋敷地東の街路を超え、今回調査地が位置する屋敷地の大区画の西端に至るには、街路②の距離を仮に数間程度と見積もると、10間以上(約18m)の距離が想定される。
②最も西端の岩間長屋の区画の東西幅は27間(48.6m)なので、全体では70m弱になります。
③外堀のラインから今回調査地までの距離を計測し、その条件に最も近いものは2区の区画施設である(約75m)。
以上から検出された溝②を、屋敷間の区画施設(ライン)と考えます。
次のような理由を挙げてこの溝②が区画であることを補足します。
①この溝の近辺から多く廃棄土坑がでてくること
②溝のすぐ東に丼戸があること
③溝を境として出土する陶磁器破片の組成が違うこと
こうして区画②が屋敷間の区画であるとします。
 以上からこの発掘地点は、嘉永7年絵図の「岩間長屋」「高宮」にあたると結論づけます。こうして、江戸時代の絵図から裁判所周辺の屋敷変遷を見ることが出来るようになります。
丸亀城 大手町居住者19jpg

上の絵図は享和2年(1802年)作成のもので、裁判所付近の屋敷を切り取ったものです。
①は「林求馬」と読めます。彼は以前にお話ししたように、多度津陣屋や湛甫の建設に尽力し、藩政改革を進めた多度津藩の家老です。そして、その屋敷と背向かいにあるのが②「御用所」です。これは多度津藩の政庁になります。多度津藩は、分家しても陣屋を構えずに丸亀城下内のここに政庁を置いていたのです。つまり本家への「間借り状態」にありました。それが、幕末がちかづくにつれて自立心が高まり、本家丸亀藩からの自立・独立路線を指向するようになります。その動きが新たな陣屋建設でした。この後多度津藩は、家老林求馬によって完成した陣屋に移って行くことになります。この周辺は家臣の氏名から、多度津藩に関係のある家臣の屋敷が多いと研究者は指摘します。
江戸時代の8つの絵図資料に記された屋敷図を模式化して示すと次のようになります。
丸亀城 大手町居住者変遷表

絵図を簡略化し、居住者が書かれています。例えば山崎藩時代の正保の「讃岐国丸亀城絵図」には、屋敷の主の名前はなく「侍屋敷」としか書かれていませんのでこうなります。
次の「元禄年間丸亀城下図」には、林求馬の屋敷の所が「壱岐守」となっています。これは、分家して成立したばかりの多度津藩藩主のことです。多度津藩藩主は、本家京極藩の家老の屋敷よりもはるかに小さい屋敷です。別の所に本宅はあったのかもしれません。そして、多度津藩の「御用所」は「御配所」とあります。これは当時丸亀藩に預けられていた、日蓮宗の僧日尭、日了の配流地だったことを示しています。

1832(天保3)年の絵図に記された住人達を視てみましょう。
多度津藩御用所のあった部分が空白になっています。それ以外の区画についても住人変更があったようです。これは、さきほと述べたように陣屋完成に伴って、多度津藩の藩士達が多度津に住居を移したためと考えられます。一方、一番西の「岩万長屋」の住人は、多度津藩士でなかったのでしょう。

次のような居住者の変更があったことが分かります。
①1692年(?⇒原田、実態不明)
②1692年~1802年(原田⇒伴)
③1802~1830年代(伴⇒高宮)
④1865年前後(高官⇒連隊建物)
この4つのタイミングで居住者の変更が起こっています。
大手町の丸亀地裁エリアの遺構がどんな変遷を経ているのか、またそれにはどんな事件が背景に考えられるのかを報告書は教えてくれます。その変更背景を、報告書は次のような図に整理して提示しています。表の左側が遺物や遺構の整理から導かれる年代、右側が、丸亀城下町や大手前の出来事です。
丸亀城大手町 裁判所付近時代区分表

第一の画期は、京極家による「城下の再整備」が考えられます。丸亀城Ⅰ期です。
 山崎藩時代には城の南側にあった大手門を付け替え、北側に移したことです。これに伴い城下の再整備計画が行われ、屋敷地や拝領地にも変更がうまれ、スクラップ&ビルドが行われたことが考えられます。この時期に、廃棄された瓦が大量に出てくることがそれを裏付けます。新しい主の京極氏によって、建物の建て替えなどが行われたとしておきましょう。
第2の画期は、18世紀後半代から始まり、19世紀の初めごろまで続きます。
この時期に、瓦などの廃棄物を埋めた土坑が屋敷の中にいくつも掘られています。これはこの時期に屋根の葺替えと、それに伴う瓦の廃棄があったことが考えられます。安永7年(1777年)に、二の守の修理が行われたことが、銘が刻まれた瓦から分かっています。その「大工事」に伴って瓦の大きな需要や生産体制の変化があったこと推測できます。それに伴い城下での瓦の消費拡大が起き、廃棄瓦の増加という形になったことが考えられます。
 それ以外には、先ほど述べたように多度津藩が自前の陣屋を築いて丸亀城下町から出ていったことです。ここでも住民異動によるリフォームなどで古い瓦の大量廃棄が起きたことが考えられます。これが第2の画期と報告書は指摘します。それは、この発掘エリアの一番西側の岩間長屋では、この時期の遺構は少なく、この変動が及ばなかったことが裏付けとなります。
第3の画期は、明治になっての陸軍歩兵12聯隊の建設です。
これは前回にお話ししたように、大手町全体の屋敷地引き払いを伴う大規模な接収でした。具体的には城の北側の内堀と外堀に挟まれた広大なエリアが国に摂取されます。そして、そこに建っていた家臣団の屋敷は解体破棄されたのです。そのエリアをもう一度地図で確認しておきましょう。
丸亀連隊 エリア地図
ピンクの部分が連隊用地として買い上げれたエリア
 
 建物の解体ももちろんですが、道の形状もそれまでの城下町特有の折れ曲がったりしたところが直線化されています。そのため街路に面していた区画も取り壊された所があるようです。
 例えば発掘エリアの岩間長屋からは、土塀瓦のほかに、京極家の家紋が施された軒九瓦、軒平瓦が出てきます。この付近には京極家と関係のある屋敷はありません。これはかつての多度津御用所や、周辺の塀などの解体が同時に進み、それが併せてここに掘られた廃棄穴に投棄されたものと報告書は推測しています。

以上をまとめておくと
①山崎氏から京極氏に藩主が変わり、城の大門が南から北に移設されたに伴い城下町の再編成が行われ、建築群もスクラップ&ビルドが行われた。
②裁判所周辺には多度津藩の政庁が置かれ、周辺には多度津藩士の屋敷が集まっていた。それが多度津陣屋の建設で退去し、大幅な寿運変更が行われた。その際にも廃棄瓦の量が増えている。
③明治になって十二連隊が設置されることに成り、大手町全体が国により買収された。藩士は屋敷を売り、全員がここから退去した。
④その後に、丸亀十二連隊の施設が作られ敗戦まで設置されていた。⑤丸亀城下町は、そういう意味では「軍都」であった。
⑥戦後、その後に市庁舎などの公共的な建築物が立ち並ぶエリアとなった。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
高松家裁・地裁丸亀支部庁舎新営工事に伴う埋蔵文化財発掘調査報告 丸亀城(大手町地区)2018年

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