讃岐の古代寺院 法隆寺は、讃岐にどんな影響を与えたのか : 瀬戸の島から

壬申の乱前後の7世紀後葉~末葉になると、讃岐でも仏教寺院が姿を見せ始める頃になります。この時期の寺院の建立者たちは、首長層や郡司に任命されるような有力者です。丸亀平野周辺でその氏族を挙げると
①坂出の下川津遺跡を拠点とする勢力
②善通寺の佐伯氏の氏寺である伝導寺(仲村廃寺)・善通寺
③宗吉瓦工場を創業した丸部氏の妙音寺
④南海道に沿った那珂郡郡家の宝幢寺
 この時期に創建される地方寺院の多くは法隆寺式伽藍配置と法起寺式伽藍配置で、前者は山田寺式軒丸瓦、後者は川原寺式軒丸瓦の系統の瓦類が多いようです。丸亀平野の古代寺院は、川原寺式系統の軒丸瓦が出てきます。田村廃寺も、前回お話ししたように創建時の白鳳瓦は川原寺式系統の軒丸瓦です。ここからは伽藍配置として、法起寺式伽藍配置が第一候補として挙げられますが、発掘調査されていないので今は、判断のしようがありません。

古代寺院の寺域のほとんどは、条里型地割の一町(約109m)を単位とします。そして、伽藍方向も丸亀平野条里型地割(N30°W前後)に沿った形で建立されています。しかし、条里型地割が行われる前に建立された寺院は、この基準に合わないものも出てきています。例えば、善通寺に先立つ佐伯氏の氏寺とされる伝導寺(仲村廃寺)では、ほぼ真北を指す伽藍配置で、丸亀平野の条里制とは一致しません。その後、伝道寺は奈良時代に消失し、あらためて南西500mの所に現在の善通寺を佐伯氏は建立します。この善通寺の寺域は条里型地割に沿っている上に、面積は216m×216mで4倍の広さになります。
 丸亀市の宝幢寺池にあった宝幢寺も、那珂郡郡家に近く南海道のすぐ北に建立されています。これも伽藍方向は伝道寺と同じように条里制地割ラインと一致しません。そして、田村廃寺の周辺の遺構である区画溝や掘立柱建物跡も真北を向いて作られています。つまり、条里制ラインとは合わないということです。
ここからは、田村廃寺の創建は、条里型地割工事が行われるよりも早かったということが想定されます。
丸亀平野で条里型地割の工事が開始されるのは、 7世紀末葉~8世紀初頭の時期とされます。地割は、まず南海道がひかれて、南海道を基準に郡界がひかれ、条里制もひかれたことが明らかにされています。鵜足郡と那珂郡、多度郡などの郡界線も南海道を基準にして直交方向にひかれています。そして、以前にお話ししたように四国学院大学構内遺跡・池の上(丸亀市飯山町)からは南海道の側溝とされる溝跡がでてきています。
 この南海道を基準とした土地区画である条里制は、国家側からしてみれば、班田収授法に象徴される各種税徴収の前提としての土地管理政策です。実際、少なくとも8世紀後半以降は、条里プランにもとづいて土地管理がなされていることも明らかにされています。
 その一方で、条里型地割の施行は耕作地のみならず、宅地や建築物の再編成をも促していることが分かってきました。新たに家を建てたり、寺を建てたりする際には条里制の方向に沿って建築せよという「行政指導」が行われていたようです。それが国家意思でした。
 伝道寺建立からわずかの期間で、条里制に沿う形で新たに善通寺を建立した佐伯氏は、地方豪族として国家意思に忠実であることを示そうとしたのかも知れません。これを時系列に並べて見ると次のようになります。
   ①妙音寺 → ②伝道寺(仲村廃寺)→③田村廃寺→④南海道・条里制工事 → ⑤善通寺

①②③は南海道や条里制の前に、すでに建立されていたことになります。
 稲木北遺跡からは、条里型地割工事の直後に作られた計画的に配置された大型建物跡群が出てきました。
これは郡衙的なレベルの建物群です。それまで宅地としては利用されていなかった所に、条里型地割工事が行われ、そして建てられています。これも「国家意思」に沿った「建築群再編成」の一端かもしれません。そして、田村遺跡からも、条里型地割の工事が行われてすぐに建てられた集落が出てきました。ところが、田村廃寺周辺に条里制施行後に建てられた建物は、条里制ラインには沿っていないのです。どうしてなのでしょうか? 国家意思への反逆を現しているのでしょうか? まさか・・・

田村廃寺周辺の条里制を見ておきましょう

田村廃寺周辺条里制
           丸亀平野の条里制

現在の⑥丸亀城がある亀山が鵜足郡と那珂郡の境界となります。那珂郡はそこから西に1条から6条まで条が続きます。多度郡と那珂郡の境界は真っ白で、条里制が実施されていません。これが旧金倉川の氾濫原とされます。
田村廃寺は那珂郡二条二十三里七ノ坪に位置することになります。
田村遺跡の西側の先代池から丸亀城西学校にかけては、条里型地割が乱れ、空白地帯となっています。これは、平池方面から流れ込んでくる旧河道(旧金倉川)が条里制施行の障害となったことがうかがえます。さらに東側をよく見ると、蓮池にかけても空白地帯があります。しかし、ここは旧河道ではなく微髙地で、田村廃寺が立地していた所になります。どうして、田村廃寺のまわりは条里制の空白地帯なのでしょうか。

条里制が作られた後も、それに沿って建物が建てられなかったのでしょうか?
田村遺跡の土地利用の転換点は7世紀末葉だと報告書は指摘します。
その背景には、古代寺院である田村廃寺の登場があるようです。この前と後では大きく異なってきます。寺域内にある建物跡Ⅱ・Ⅲ群は、田村廃寺の創建と共に建てられた関連施設とします。そのため、田村廃寺に主軸方位をそろえます。
田村廃寺周辺条里制と不整合
          田村廃寺周辺の地割ライン
上図は、丸亀平野条里型地割と建物跡Ⅱ群(N20°W前後)・建物跡Ⅲ群(ほぼ真北)と方位が同じ地割を描き出したものです。ここからはつぎのようなことが分かります。
① 田村廃寺推定地には、真北を向く地割(点線部)がある。これが田村廃寺の寺域である。
② 建物跡Ⅱ群と同じ地割は、田村廃寺の北側にもある。
③ 丸亀平野条里型地割は、田村廃寺の寺域の北側にはない。(条里制空白部)
ここからは田村廃寺の北側には、丸亀平野の条里型地割とはちがう地割があること、その地割に沿って建物跡Ⅱ群は建てられていたことが分かります。そうすると田村廃寺の北側の地割は、建物跡Ⅱ群が建てられる前の7世紀末葉頃には出来上がっていたことになります。
 この地割りエリアを「田村北型地割」と報告書は名付けます。

田村北型地割 ・・・田村廃寺伽藍の北側で認められる、N20°W前後の地割

それでは田村北型地割は、いつ頃、どのような経緯で成立したのでしょうか
まず押さえなければならないことは、7世紀末葉というのは丸亀平野に南海道がひかれ、それを基準に条里型地割の施行開始時期でもあることです。つまり、田村廃寺が早いか、南海道の出現が早いかを、もう一度確認しておく必要があります。
①田村北型地割の成立が7世紀後葉以前に遡ることが確認されれば、この地割は条里型地割に先行する地割という位置づけになる。
②丸亀平野条里型地割の施行開始と同時期かそれ以降であるならば、下川津遺跡と同様(大久保1990)、何らかの制約を受けたために、周囲の条里型地割とは異なった、いわば、変則条里型地割が作られたことになる。
これを明らかにするために、「まな板」の上に載せるのが次のような7世紀後葉以前の状況です。
①田村遺跡でから出てきた建物跡は、ばらつきが多く、田村北型地割との関連は想定できないこと
②極めて散在的に分布し、地割の規制を受けて配置されているような斉一性はないこと
ここからは、この時期に地割はなかったことがうかがえます。報告書は「現状では、田村北型地割の成立は丸亀平野条里型地割の施行開始と同時期かそれ以降に求めるほかはない。」と記します。つまり、田村北型地割は条里制よりも早いとは云えないというのです。

一方、この調査からは、調査エリア内で7世紀末葉頃に建物跡配置上の再編成が行われていることが分かっています。そして、主軸方位等に向かって斉一性の高い建物跡群(建物跡Ⅱ群)が建てられています。これは、稲木遺跡・金蔵寺下所遺跡などで見られる「条里制工事を行った後の建築物の再編成」という現象と同じです。つまり、「7世紀末葉頃の土地利用上の画期」とは「地割施行に基づく集落の再編成」という点で、丸亀平野の各地で見られる現象なのです。それが条里制に沿ったものではなく、変則条里型地割(田村北型地割)に沿ったものだったのです。
  これを報告書は、次のように記します。
「田村北型地割とは、丸亀平野条里型地割が何らかの制約を受けることで生じた、変則条里型地割であると認識する。」

 以上から分かったことを整理しておきます
①丸亀平野条里型地割は、7世紀末葉頃には田村遺跡近辺で行われていた
②田村廃寺周辺では、「何らかの制約」を受けて丸亀平野条里型地割と異なる地割が作られたこと
「何らかの制約」とは一体何なのでしょうか。
それが田村廃寺の存在だと報告書は指摘します。
①主軸方位が真北である田村廃寺の伽藍配置
②N-30°W前後である丸亀平野条里型地割
これが同一平面上に置かれれば、どこかで不整合が生じます。不整合を解消するためには、地割の方位を変更させる必要がでてきます。もちろん、田村廃寺との不整合を無視し、新たな基準となる丸亀平野条里型地割を優先させることは出来たでしょう。しかし、条里制施行が行われたのは、田村廃寺が出来たばかりの時期でもありました。田村廃寺を建立した氏族にとって、田村廃寺へ続く参拝道は大きな意味を持っていたはずです。参道を重視するために条里制施行外エリアとして、田村廃止の伽藍に沿った地割を残した。その施行責任者は、この寺を建立した氏族にあったと私は思います。これが変則条里型地割(田村北型地割)の出現背景だと報告書は記します。

 7世紀に讃岐で行われた大規模公共事業を挙げて見ると次のようなものが浮かんできます。
①城山・屋島の朝鮮式山城
②南海道建設
③それに伴う条里制施工
④各氏族の氏寺建立
これらの工事に積極的に参加して、いくことがヤマト政権に認められる道でした。郡司たちは、ある意味で政権への忠誠心を試されていたのです。綾氏は、渡来人達をまとめながら城山城を築くことによって実力を示し、郡司としての職にあることで勢力を拡大していきます。三野郡の丸部氏は、当時最先端の宗吉瓦窯を操業させ、藤原京に大量の瓦を提供することで、地盤を強化します。善通寺の佐伯氏は、空海指導下で満濃池再興を行う事で存在力を示します。まさに、この時代の地方の土木工事は郡司や地方有力者が担ったのです。
 田村廃寺を建立したばかりの氏族に選べる選択肢は、次のどちらかでした
①佐伯氏のように新たな寺院を「国家意思」の条里制ラインに沿って建立する
②田村廃寺周辺は、条里制ラインとはちがう「変則条里型地割」にして、参道を維持する
そして、取られた選択は②だったと報告書は考えているようです。

     
丸亀平野の古代の建物跡群は、条里制ラインがひかれる7世紀後葉以前と7世紀末葉以後とでは建築者の意識が大きく異なることがうかがえます。条里制がひかれる前の建物跡は、その軸をそろえる意識があまりありません。しかし、南海道が走り、条里制が敷かれる 7世紀末葉頃からは、向きを揃えるようになります。これは、ある意味では「国家意思」が目に見える形で住民にまで及んできたと云えます。これもひとつの律令国家の出現の形なのかも知れません。
まとめておくと
①南海道・条里制の出現以前は丸亀平野では建築物の向きはバラバラであった
②それが南海道通り、条里制が施行されると、それに沿ったように建築物は建てられるようになる③そこには条里制工事が終わると、その更地に条里制に沿った公共建築物群が建てられるという「建築物の再編成」さえ行われている。
④このため郡司なども氏寺や居館は、この条里制ラインに沿って建てるようになる。
⑤しかし、南海道が現れる前にすでに建立されていた寺院は周囲の条里制と不整合ラインができていまった。