ウナギで天気予報?讃岐二ノ宮大水上神社 | 香川県まちなび
大水上神社の参道
大水上神社は、古代には延喜式の讃岐の二宮神社でしたが、中世には衰退します。二宮三社縁起には、近藤氏がそれを八幡神と合祀して二宮三社神社として再建したこと、そして、神職も近藤氏の一族が務めるようになったことを記していることを前回は見てきました。中世には、近藤氏の保護を受けて二宮三社(大水上神社)は存続していたようです。今回は、大水上神社の保護者であった二宮近藤氏を見ていきたいと思います。テキストは高瀬町史です。
まずは近藤氏の系譜を最初に確認しておきます。
『源平盛衰記』や『吾妻鑑』に、「近藤国平」が記されています。
1 国平は讃岐守護となり、子孫は地頭として讃岐に定着する。
2 近藤国平の子の国盛は土佐に移住し、土佐大平氏を称し、子孫は後に讃岐に帰ってきた。
3 室町時代の「見聞諸家紋」には、大平氏は近藤国平の子孫を称している
4「見聞諸家紋」には「藤原氏近藤、讃岐二宮」とあって、室町期には二宮、麻の両系統の近藤氏がいた。
5 二宮近藤氏は、大水上神社領を中核とした二宮荘を根拠地とした近藤氏
6 麻近藤氏は、土佐から讃岐に再び移住してきた大平氏の一族で勝間、西大野に所領を持った。
 ここではふたつの近藤氏がいたことを押さえておきます。
① 麻近藤氏 本地は麻城(高瀬町麻)
② 二宮近藤氏 本拠地は、大水上神社領を中心として
二宮荘(羽方、神田、佐俣)で神田城拠点
この内の①麻の近藤氏については、大野庄の年貢を手形送金していたことや、押領して訴えられていたことを以前にお話ししました。今回見ていくのは、②の二宮近藤氏です。
大水上神社 近藤氏系図

二宮近藤氏の祖先は、鎌倉時代初期に守護として讃岐にやってきたようです。
近藤国平は、源頼朝の挙兵に応じて、戦功を挙げて頼朝側近の一人として仕えます。国平は元暦二(1185)年2月、頼朝の命で鎌倉殿御使として上京します。その直後の3月24日、平家は壇ノ浦合戦に敗れ滅亡します。しかし、平家滅亡後も世の中が落ち着いたわけではなく、不穏な空気が瀬戸内海には漂います。そうした中で讃岐に、武士の乱暴狼籍の鎮定のために派遣されてくるのが近藤国平です。建久10(1199)年には、讃岐守護に就任します。混乱を鎮めた経験を買われ、動揺した讃岐国内を鎮める役割を果たしたようです。つまり、近藤氏は、讃岐守護としてやってきた西遷御家人になるようです。しかし、その後の近藤氏はパッとしません。その後の讃岐守護には有力御家人三浦氏や北条一門が就いています。近藤氏の出番はなくなり、その動向は鎌倉末まで分からなくなります。近藤氏は讃岐国内においては、大きく成長することはなかったこと、二宮荘を拠点として、細々と存続していたことがうかがえます
一族の中で、国平の子の国盛は、土佐に移住して大平氏を称します。
『見聞諸家紋』には、大平氏は近藤国平の子孫を称していて、同じ左巴紋で「藤原氏近藤、讃岐二宮同麻」と記されています。室町期には、二宮、麻にふたつの近藤氏がいたことを押さえておきます。、
①二宮近藤氏は大水上神社領を中核とした二宮荘(三野郡)を根拠地
②麻近藤氏は土佐から讃岐に再び移住してきた一族で、麻を本拠地

その後の、史料に現れる近藤氏を見ておきましょう。
元德3年(1331)二宮荘を下地中分
文和4年(1355)藤原(近藤)国頼が祇園社領西大野郷の代官職獲得
文安3年(1446)祇園社から麻殿へ西大野郷の料足10貫文の請取受取
享徳3年(1454)将軍足利義政から近藤越中守に勝間荘領家職(三野郡)と西大野郷領家方代官職が安堵
このように近藤氏は、三野郡の大野郷・勝間郷を基盤として活動し、「麻近藤入道」あるいは「近藤二宮元国」と称されたようです。近藤氏は、西大野郷以外に「麻(勝間郷)」にも勢力を拡げます。その結果、讃岐二宮の大水上社に強い影響力を持つようになったようです。近藤氏は細川京兆家の内衆としては、名前が出てきません。しかし、応安2 年(1368)以後は在京していたことが、史料から確認できるので、守護細川氏の被官として奉公していたことは確かなようです。

大水上神社 羽方エリア図
二宮庄の羽方村エリア 北に佐俣、南に神田がある
二宮近藤氏が基盤とした二宮庄を見ておきましょう
 二宮荘は天文二(1533)年の「法金剛院領目録」に大水上社とあり、大水上神社を中心に、羽方・佐俣・神田のエリアで成立した荘園のようです。ここには、田101町2段70歩、畠151段160歩と記されています。元弘の乱後の元徳三(1331)年に、二宮庄の地頭近藤国弘以下の武士達が、年貢の滞納・押領の罪で領家の臨川寺に訴えられ、下地中分が行われたことが史料に残っています。
 『二宮記録』天正二(1574)年の記事には、領家方、地頭方に分かれて神事を負担したことが記されています。約240年前に下地中分で分割されたエリアが、戦国期になっても残っていたことがうかがえます。その地頭方と領家方にそれぞれ記されている名田をあげると次のようになります。

 地頭方として、
是延、友成、成重、徳光、時真、利真、友貞、是方、貞弘、光永、大村分、正時、吉光、末利、助守の一五名、
 
領家方として、
清真、光末、真久、為重、守光、安宗、光包、時貞、友利、末光、末真、国行、重安、是安、吉真、真近、国真の一八名

 これらの名主や地侍達が、二宮三社の神事を指図した宮座のメンバーたちのようです。羽方エリアには地頭の吉成、領家の光真、黒嶋に領家方の光弘の名が見えます。彼らは、数町規模の名を持っていた有力者だったのでしょう。
二宮三社縁起によると14世紀の半ばに、二宮近藤氏が本殿を建立したことを次のように記しています
大水上神社縁起14
意訳変換しておくと
永享11(1439)年9月10日に、二宮(近藤)国重が造営奉行に任命されて、京都より帰国し、11月10から造営が開始された。そして、西讃守護の香川氏と東讃守護の安富氏から150貫の寄進を受け、近藤氏が造営奉行として、社殿を完成させた。
畏くも二宮社に祀られた神仏は次の通りである。
八幡大菩薩  本地阿弥陀如来
大水上大明神 本地釈迦牟尼如来
三嶋竜神    本地地蔵菩薩 亦宗像大明神とも奉号
永享十二(1440)年四月日 にこれらの神仏は安座した。
ここからは次のようなことが記されています
①二宮(近藤)国重が在京していたときに造営奉行に任じられて帰国し、建立に取りかかったこと
②その際に東西守護代の安富氏と香川氏と150貫の寄進があったこと
③建立された本陣には3つの神々と、その本地仏が祀られたこと
  この縁起は、江戸時代の中期に書かれたもので「造営奉行」などという用語も使われているように同時代史料ではないので、そのままを信じることはできません。しかし、「従京都下着」とあるように、近藤氏が常々は京都にいたことがうかがえます。また、近藤氏によって二宮三社の本殿がこの時期に建立されたことは事実と高瀬町史は考えているようようです。
 それでは二宮近藤氏の居城は、どこにあったのでしょうか
大水上神社 神田
神田エリアは二宮荘の南部に当たる。
全讃史には「神田村にあり、近藤但馬、これに居りき」とあります。ここから二宮近藤氏の居城は神田城(現山本町神田砂古)とされています。位置は、国道377号沿いのファミリーマート神田店の東南の竹藪の中になります。グーグルに「神田城跡」とマーキングされている所は、記念碑が建てられている所で、城郭跡はこの竹藪のうえになります。

大水上神社 神田城2
 
 中世城館調査報告書(香川県)で、神田城の縄張図を見ておきましょう。

大水上神社 神田城
神田城縄張図 中世城館調査報告書(香川県)

 記念碑が建っているのは城郭先端の「シロダイ」から伸びて来た尾根のスソになります。「城の下」や「下屋敷」という地名も残ります。下屋敷からは道路工事に伴う発掘調査で、中世後半の遺物が出ています。その前を神田川が流れています。このあたりに居館があったのかもしれません。城郭跡として確かな遺構は2本の堀切だけです。その他は山全体が畑化された際に破壊され、「曲輪らしいといえるだけ」と、報告書は記します。そして次のように続けます
「縄張り図のIも完全な削平地ではなく、Ⅲは広くはないが平坦地で曲輪と言え、両側に堀切がある。これより南東にも平坦地が続くが畑と考えられ、堀切までが城域と判断する。北の堀切から北東の谷に向かって溝が下り、先端に城の井戸といわれる小池がある。尾根先端部にも平坦地があるがかつて畑化されており、南端に城の井戸と言われる穴があり、昔からあったというが、表面観察では後世のものと思えたが、試掘調査を行った。遺構は存在しなかったが、中世後半の遺物が出土している。
  実際に、素人の私が見るとただの竹藪にしかみえません。しかし、「2本の堀切」と「中世後半の遺物が出土」しているので城郭跡にはまちがいないようです。二宮近藤氏の居城なのでしょう。

この地区には次のような話も伝わっています。
下屋敷の農家の庭先を東へ進むと雑木林の中に宝筐印塔があります。笠の古いものもあり、地元の人々の話では、ここを筍藪にでもしようと思って開墾にかかったところ、人骨が次々と出て、それがフゴに一杯もあった。しかたなくこれを川に流したところ、不吉なことが次々と起こった。そこで再び墓地にもどし、散乱した墓石などを整理した
これも落城悲話のひとつとして、古老が語り伝えてきた話です。この墓地は、二宮近藤氏の兵を弔うものでしょう。墓地からは、谷一つ向うに筍籔となった神田城跡があります。

 前回見た大水上神社に伝わる『二宮記録』には、本殿建立者として近藤国茂の名前がありました。
この城のある神田は、大水上神社の氏子エリアでもあります。近藤但馬の子孫という人たちが住む城跡北東の土井地区には、「ドイ」・「ドイノモン」の地名も残っています。その近くの薬師庵には、近藤但馬の墓と伝えられる五輪もあります。二宮近藤氏は、この城のある神田地区を拠点に、二宮三社(大水上神社)の筆頭氏子として宮座を率いて祭礼を行い、二宮荘への影響力を行使していたとしておきましょう。
 仁尾の近藤家の一族を見ておきましょう。
 応永九(1402)年、草木荘(仁尾町)の近藤二宮元国が仁尾の常徳寺に三段あまりの本浜田を寄進したという記録が残っています。草木荘は石清水八幡宮護国寺領の荘園で、現在の仁尾町草木にありました。「二親之菩提」と「当家繁栄」を祈るために寄進するとあます。ここからは、仁尾にも二宮近藤氏の一族がいて、その菩提寺が常徳寺であったことが分かります。ここからは二宮近藤氏のひろがりがうかがえます。草木には中上館跡と呼ばれる地頭の館跡との伝わる場所があります。また、土井、上屋敷、城の門、大門、上屋敷、前屋敷といった地名が残されています。これらが二宮近藤一族の館と高瀬町誌は推測しています。

 応仁の乱と近藤氏  
 応仁の乱において讃岐の武士たちは、守護の細川勝元にしたがって戦いました。応仁の乱で細川方についた武士の家紋を記した「見聞諸家紋」に、麻と二宮の近藤氏が載っています。ここからは近藤氏が従軍し、京都で戦闘に参加したことがうかがえます。
 応仁の乱後も、讃岐では兵乱が続きます。
文明十一(1479)年には守護細川政元の命で阿波・讃岐の兵は、山名氏に味方した伊予の河野氏を攻撃します。この戦いで麻近藤国清は合戦に参加し、伊予寒川村で病死しています。二宮近藤氏も従軍していた可能性があります。
大水上神社 近藤氏系図
讃岐近藤氏の系図
国清のあとは、国保、国匡と続きます。近藤国匡は土佐の大平国雄から大江流軍法を学んだと云います。大平国雄は文明年間に在京して、和歌、連歌、五山僧と交流を持った人物で、父国豊から学んだ大江流軍法から二、三項を抜き書きし、心あるものに伝えようとしたことが五山僧月舟の「書決勝後」と題する一文に書かれています。ここからは、大平氏から近藤氏に大江流軍法が伝えられたことがうかがえます。これは、実戦に役立つものというよりも、武士としての必要な教養でした。どちらにしても、麻の近藤氏は在京し、中央の高い文化に触れていたことが分かります。
長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)の四国統一

 二宮近藤氏の阿波三好氏への接近がもたらしたものは? 
国匡の次が国敏になります。国敏は、阿波の三好婦楽の娘を妻に迎えます。阿波三好氏の一族と婚姻関係を結び、三好氏との連携を強化しようとしたようです。そして、生まれるのが国雅で、大永二(1522)年のことです。
  国敏によって取られた阿波三好氏への接近策は結果としては、二宮近藤氏を衰退に導くことになります。阿波三好氏の讃岐侵攻が本格化すると、近藤氏は阿波三好氏の先陣として動くようになります。
これに対して、西讃岐の守護代として自立性を強めていた天霧城の香川氏は、織田信長や長宗我部側につこうとします。こうして次のような関係ができます
 織田信長=天霧城の香川氏 VS 阿波三好氏=麻・二宮近藤氏

  永禄三(1560)年、尾張で織田信長が今川義元を打ち破った年から翌年にかけて、麻や二宮周辺で小競り合いがあったことが秋山家文書から分かります。天霧城主の香川氏から秋山氏に戦功を賞する書状や知行宛行状が残されていることは以前にお話ししました。麻口合戦とあるので、高瀬町の麻周辺のことだと思われますが、よくは分かりません。この戦いで国雅が永禄三年に討死しています。これらの戦いは、麻の近藤氏と三野の秋山氏の間で代理戦争のような前哨戦が行われていたようです。

次に近藤氏の一族(?)である大平氏を見ておきましょう
 武家家伝_大平氏大平国祐・国秀・国久 
麻口合戦で討ち死にした国雅の跡を継いだのが国祐です。かれを取り巻く肉親関係は少々複雑ですが見ておきましょう。国祐は大平氏を名乗ります。母親は大西長清の娘と伝えられ、弟が出羽守国久です。国祐の子が国常で、その母親は香川元景の娘だとされます。国祐を土佐の大平氏が滅亡後に讃岐に落ち延びてきたものという伝承もありますが、土佐大平氏の滅亡は天文十五(1546)年前後のことなので、国祐が土佐から落ち延びてきた人物とは考えられないと高瀬町史は記します。

 永禄六(1563)年8月7日に阿波三好勢の圧力を受けて、香川之景は、天霧城を一時的に落ち延びます。この時の感状が秋山氏や三野氏に出されています。しかし、城は落ちても香川氏の抵抗は続いていたようです。例えば、閏12月6日に財田では、讃岐武士が阿波大西衆と戦う財田合戦がありましたが、ここには秋山氏の一族である帰来秋山氏が参戦し、感状を香川氏から受けています。感状が出せるというのは、香川氏が一定の支配権を維持していたことがうかがえます。

大水上神社 長宗我部元親

長宗我部元親の讃岐侵攻
 このようななかで阿波三好勢の讃岐侵攻を根本からひっくり返すような「国際情勢の変化」が起きます。長宗我部元親が土佐から西阿波へ侵入してくるのです。天正5(1577)年に土佐勢は、阿波白地城の大西覚養を攻め落城させ、ここを阿波・讃岐侵攻の拠点とします。大西覚養は讃岐二宮の近藤国久のもとへに落ち延びたと西讃府志は記します。伝承では、近藤国祐や国久の母は阿波白地の大西長清の娘でだったとされます。そのために近藤氏は、母方の里である阿波の大西方として戦うようになったとします。
 白地城
長宗我部元親が白地城を落とした天正五(1577)年は元吉合戦が行われた年でもあります。
 この合戦で、香川氏は毛利方と協力し、讃岐の三好の勢力を一掃します。そして、次のような処置がとられています
①尊経閣文庫所蔵文書の「細川信元書状」では、大西跡職を香川中務大輔に申し付けられ
②出羽方所領の50貫文が帰来秋山親安に与えられてること
ここからは、毛利=香川=秋山氏が勝ち馬側で、大西氏側についた近藤氏は負け馬側となり所領を没収され、それが香川氏配下の秋山氏などに与えられたようです。近藤氏の勢力は、これによって大きく減退したと高瀬町史は指摘します。
近藤氏の滅亡 
第9章:讃岐侵攻 -長宗我部元親軍記-

 毛利氏が讃岐から手を引くのを待っていたかのように、長宗我部元親の讃岐侵攻が始まります。
大水上神社 麻城

元吉合戦の翌年の天正6(1578)年、麻城は、財田本篠城を陥落させ侵攻してきた長宗我部の攻撃を受け落城します。その年代はよく分かりませんが、麻城城主の国久は麻城の谷に落ちて死んだと伝えられ、その地を横死ヶ谷と呼んでいます。
 大平国祐の居城である獅子ヶ鼻城(和田城、大平城とも)も、落城します。国祐は出家して、姫郷和田村(豊浜町和田)にあった真言宗の寺を廃して、日蓮宗の国祐寺を開きます。その後、秀吉の四国平定後、仙石秀久につかえ九州遠征に従軍し、入水自殺し、国祐寺に葬られます。
雲風山・國祐寺 | kagawa1000seeのブログ

 国祐の弟で国久の兄国秀は、財田上の橘城(天王城)の城主でしたが、これもまた落城します。伝承では長宗我部元親によって焼かれたとあります。この城の構造は、讃岐にはあまり見られない竪堀構造で、土佐の山城の特徴を持っています。これは、藤目城や本篠城と同じです。落城後には土佐軍の讃岐侵攻の拠点として、土佐風の改修が行われたようです。この城跡の南東にある鉾八幡は、国秀が付近の神社を合祀したものとされます。また伊舎那院には中将国秀と書かれた竹筒が出土しています。
橘城の図/香川県三豊市|なぽのホームページ

 財田上の橘城(天王城)
二宮の近藤氏の居城である神田城については、どの史料にも落城のことは出てきません。しかし、麻城や獅子ヶ鼻城の落城のようすからみると、二宮近藤氏も最後まで抵抗し、落城した可能性が高いように思えます。こうして、麻の近藤氏 二宮(神田)の近藤氏 財田の近藤氏は領地を没収されることになります。
それでは、没収された近藤氏の領地はどうなったのでしょうか?
 長宗我部氏の事跡を記した『土佐国朧簡集』には、三豊市域の地名がいくつか記されています。三豊平定から3年後の天正九年(1581)八月、37か所で坪付け(土地調査)を行い、三町余の土地が吉松右兵衛に与えられています。吉松右兵衛は、香川氏に婿入りした長宗我部元親の次男親和に従って土佐からやってきた人物です。そこには、次のような地名が記されています。
「麻・佐俣(佐股)・ヤタ(矢田)・マセ原(増原)・大の(大野)・はかた(羽方)・神田・黒嶋・西また(西股)・永せ(長瀬)」

これらは高瀬町や周辺の地で、大水上神社の旧領地であり、同時に近藤氏の領地でもあった所です。翌年三月には、「中ノ村・上ノ村・多ノ原村・財田」で41か所、五月には「財田・麻岩瀬村」で6か所が吉松右兵衛に与えられています。これらの地は財田・山本町域になります。ここからは、長宗我部元親に抵抗した近藤氏やそれに従った土侍衆から土地が没収され、土佐からやって来た新たな支配者に分配されたことがうかがえます。
 江戸中期に書かれた大水上神社に伝わる縁起の最後の巻には次のように記されます。
大水上神社縁起16
意訳変換しておくと
     昔は二宮三社神社(大水上神社)は大社であったが長曽我部元親の狼藉で御社大破し、竹の林の奥の仮屋にお祭りするという次第になってしまった。元親は土州からやってきて、金毘羅権現の近辺に放火し香川中務大輔同備後守の居城天霧に押し寄せた。香川氏が備前児嶋に出兵している隙を狙って、金昆羅に本陣を構まへた。その時に金毘羅大権現も荒廃させられた。

ここからは、土佐軍侵入で大水上神社は「御社大破し、竹の林の奥の仮屋」になるほど衰退し、神宮寺も兵火に会ったこと。そして、近藤一族などの保護者を失い再建不能な状態にあったことが分かります。近藤氏の多くは神田を中心に帰農しますが、一部は大水上神社の神職として神に仕えるものもいたようです。後の時代に彼らの子孫達にとって書かれた縁起が、長宗我部元親に対して厳しいのは当然のような気がします。

高瀬町史は新たな視点から長宗我部元親の三豊支配に光を当てます。
 高瀬町の矢大地区は、土佐からの移住者によって開拓されたとの伝承があるようです。またこの地にある浄土真宗寺院は土佐から移住してきた一族により創建されたと云われます。一方、高瀬町上勝間に鎮座する土佐神社は、長宗我部元親が創建した神社で、もともとは矢ノ岡にあったものを、延宝三年(1675)に日枝神社境内に遷座したと伝わります。明治の北海道移住者が出身地の寺社を勧進し、新たな入植地の精神的なシンボルとしたように、土佐から移ってきた人々の信仰対象として祀られたものかもしれないと高瀬町史は指摘します。それは、先住者を追い出して土佐人が入植したと云うよりも、原野が開発され、新たな村落が形成されたという事実を紹介します。

そして、次のように閉めます。
 戦いの時に寺社は軍勢の駐屯地になり、もし敵に攻められれば火を放つこともあった。それは戦いの常套手段であり、かならずしも長宗我部氏だけがしたことではない。元親は大野原の地蔵院に禁制を出し、禁止事項を厳命している。これは戦時における寺院保護のため出されたものであり、寺院焼き打ちとは反対の施策である。以上のことから何を知ろう。「侵略者は悪者」といったイメージは勝手に作り上げられたものであり、歴史的事実の上で再度見つめ直さなければならないと考える。

 長宗我部元親=侵略者という論を越えた所に高瀬町史は、立っているようです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
高瀬町史 近藤氏の動向 127P