1972年公開の山田洋次監督「故郷」は、瀬戸内海の倉橋島で石船で生計を立てていた夫婦が工業化の波の中で、島での生活を諦めて故郷を捨てる決断をするまでを描いた作品でした。見終わった後に心にずっしりとしたものが残った記憶が今でもあります。この映画の影の主役は「石船」でもありました。
映画「故郷」の蔭の主役 石船
船が石を運ぶ、海のダンプカーのような役割を果たし、それが夫婦で運営されていることも印象深いことでした。瀬戸内海の石舟の歴史について、知りたいなとかねてから思っていたのですが宮本常一の著作集を読んでいると出会うことができました。今回は読書メモ代わりに瀬戸内海の石舟を見ていきます。テキストは宮本常一著作集49 塩の民俗と生活221P 石船・砂船です。この時代の石垣の多くは、穴太衆が積む石垣のように大きな石の間に小さい石をはさんだものです。 ところが、近世になって海岸埋立てのための石垣や波止(防波堤)が築かれるようになると、それでは波が小さな石をぬきとって石垣を崩していきました。そのために大きい石のみを積み重ね、その石のからみあいによって破壊されることを防ぐようにするようになります。そのために使われるようになるのが花崗岩です。
瀬戸内海は1300年前には火山の密集地帯で、活発な火山活動を行っていましたから花崗岩は各地に分布しています。東から見ても、兵庫県男家島・西ノ島、香川県小豆島・豊島・庵治町、岡山県大島、香川県櫃石島・与島・小与島・広島、岡山県北木島・白石島、愛媛県越智大島、広島県倉橋島・能美島、山口県浮島・黒髪島などと東西に並びます。
小豆島は大坂城の石垣の石を出したところといわれ有名です。しかし、周辺の島々を訪ねて歩いていると各大名の石切場として大阪城に石を出したという島がたくさんあります。当然、採石場のあるところには石船が多かったことは家島をみても分かります。石船というのは石を積むのに適した造りの船で、頑丈でした。船底を浅くして石の積みおろしに便利なように造り、船べりが高くはありませんから、波には弱かったようです。映画「故郷」で活躍していた石船も、江戸時代からの石船の延長線にあるようです。
江戸時代の海岸の埋立ての手順を見ておきましょう
①遠浅地形の石垣を築こうとするところへ捨石をする。②届石を海中に投げ捨て、千潮のときにはその石群が水面へ出るようにする。③するとその石の周囲に砂が集ってきて、州ができる。④そして捨石群が列に置かれていれば自然に長い州ができ、そこへ石垣をついていく⑤最後は干潮時でも干上がらぬ所が出てきます。そこを残して石垣を積み上げ、大潮の干上がりのとき、せきとめをする。
宇多津の復元塩田
ここからは置石をポイントに並べていくことがポイントであることが分かります。また、石垣を組む作業が出来るのは干潮の限られた時間だけです。そのため塩田のような大きな干拓を行なうときには10年以上もかかることがあったようです。
映画「故郷」の舞台となった広島県能美島にも石船が昔から多かったと宮本常一は指摘します。
小型のものは、大黒神島から屑石を主として広島湾岸の埋立地の捨石として運んでいました。この島には自然のままの屑石が多く、それをかき集めては船に積んで運び、帰りにはその地の塵芥をもらい受けて持ち帰り、これを堆肥にして畑に入れたといいます。映画でも出てきましたが、資本力のある家は、船を大型化していきます。そして、石を運ぶよりも、宇部や九州から石炭を塩田へ運ぶようなります。これは大崎や油良の石船も同じて、石船の多くが石炭運搬船に変わっていったようです。
瀬戸内海の石船や石工は、塩田築造にも大きく関わっています。
広島県生口島南岸にはかつては小さい入浜塩田が多くありました。その塩田の石垣は越智大島からやってきた石工によって築かれたものが多く、石も大島から船で運んだきた伝えられます。そして、そのまま定着し塩田経営者になった者も多かったと云うのです。塩田の石垣作りを依頼されてやってきて、傍らに自分の塩田を作って塩田主に変身したということになります。
生口島には、砂船乗りが多かったようです。
干拓地を作るのなら土を運びますが、塩田の場合には砂を多く運ぶことになります。この島では土船といわず砂船と呼んでいたこともそれを裏付けます。明治時代には300隻をこえる砂船がいたとされます。船は大きいものではなく、石船をさらに小さくしたようなもので、たいてい夫婦で乗っていたようです。ここにも、昭和の石船につながる姿が見えてきます。
讃岐を稼ぎ場にしていた砂船の船頭は次のように回顧しています
石垣の築造が進むと、次には塩田に入れる砂を運ぶ。粗い砂はどこの砂浜のものを採ってもよかった。塩田の近くの場所で、砂がとれる所に冥加金をおさめて船へ砂を運び込む。築造地へ行って、その砂を田面にまいてゆく。船から陸へあゆみの板をかけ、砂を皿籠に入れて天粋棒で担いで運ぶ。荷揚げしてしまうと、また砂を採りにいく。満潮時でないと船を塩浜の中へ乗り入れることができないので、稼ぎの時間は限られていて、毎日砂をあげる時間が違っていたのが辛かった。
粗妙をまき終わって粘土を入れ、その上に目の細かい砂をまく。これはどこの砂でもいいものではなかった。愛媛県の新居郡の浜まで採りにいかねばならなかった。新居郡で手に入らないと大分県の海部郡の海岸にも採りに行った。
砂船の多かったのは生口島の南側ばかりでなく、生口島の東南の生名島や徳島県の撫養にも多かったようです。
大正時代になると、塩田築造はほとんどなくなり、砂を運ぶ仕事がなくなります。
仕事場をなくした船は貨物運搬に転ずるものが多かったようです。しかし、中には大阪付近の川ざらいの仕事に携わる者も出てきます。川底の砂をすくいあげて運ぶのです。いわゆる河川改修工事にあたるのでしょうか。
大正12年(1923)の東京震災の後は、東京から仕事が舞い込み、焼跡の瓦礫を深川付近の低地埋立てのために運びます。これをきっかけにして瀬戸内海から東京に進出した者が多く現れます。彼らは船を家として働く家船生活で、子供たちも親と共に船で生活するようになります。瓦礫運搬の終わった後は、利根川の改修工事が舞い込みます。このようにして隅田川を根城にしていた水上生活者は、瀬戸内海から出かけて行った砂舟業者が多かったようです。
大正12年(1923)の東京震災の後は、東京から仕事が舞い込み、焼跡の瓦礫を深川付近の低地埋立てのために運びます。これをきっかけにして瀬戸内海から東京に進出した者が多く現れます。彼らは船を家として働く家船生活で、子供たちも親と共に船で生活するようになります。瓦礫運搬の終わった後は、利根川の改修工事が舞い込みます。このようにして隅田川を根城にしていた水上生活者は、瀬戸内海から出かけて行った砂舟業者が多かったようです。
戦後、陸上ではトラック輸送によって土が運ばれるようになり、水上では浚渫船が活躍するようにると、砂船や土船は隅田川から姿を消すことになります。
その後、臨海工業地帯の造成のための大規模な埋立工事が行われるようになります。しかし、ここには瀬戸内海の砂船には登場の機会はありませんでした。大型化されシステム化された企業の活躍の場となっていったのです。
映画「故郷」は「人類の進歩と調和」を掲げた万博を終え、「大きいことはいいことだ」とCMが歌いあげていた1970年代前半の日本を見事に切り抜いて見せてくれます。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
宮本常一著作集49 塩の民俗と生活221P 石船・砂船
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