前回は瀬戸内海船の石船と砂舟の歴史を見てみました。今回は、石炭船を見ていきたいと思います。テキストは 宮本常一著作集49 塩の民俗と生活214P 石炭と石炭船です。
日本列島では塩を海の潮からつくってきました。その行程の最後には煮詰めるという手順が欠かせません。そのために燃料としての大量の木材が必要とされ、塩田付きの汐木(塩木)山が確保されるようになります。しかし、塩の生産が増えれば増えるほど、消費する木材も増え、塩木山ははげ山化していくことになります。こうして、近世になると瀬戸内海周辺の塩田地帯では、燃料用の木材不足に悩まされるようになります。
その解決法のひとつが石炭の利用です。
今回は、石炭がどのように塩田で用いられるようになったのか、またその輸送はどのように行われたかを見ていくことにします。
今回は、石炭がどのように塩田で用いられるようになったのか、またその輸送はどのように行われたかを見ていくことにします。
石炭はいつどこで使われるようになったのでしょうか。
正保二年(1645)に板行された『毛吹草』という書物の長門の項に「舟木石炭」という言葉がでてきます。この書物は寛永一五年(1638)には成立していたようですから、山口県厚狭郡船木(宇部市)周辺では、そのころから石炭の採掘がはじまっていたことがうかがえます。舟木で採掘された石炭は、小野田の赤崎周辺に運ばれ塩焼きに用いられていたようです。それは小野田市の赤崎神社の境内に、約350年前の石炭ガラの堆積があることから分かります。赤崎神社の北の竜王町は、現在は住宅地になっていますが、もとは塩浜だった所です。このあたりの海岸には、百姓小浜とよばれる小さい揚浜塩田がたくさんあり、赤崎神社の北側もその一つであったようです。
塩田での石炭使用の普及は
明和九年(1771)三月、安芸厳島に安芸・備後・伊予・周防・長門の五カ国の塩田業者が集まって、塩の生産過剰に対して「休浜法」の協議をしています。その際に
「塩並二石炭相場、時々無怠通合候事」
という一条があります。塩と石炭の相場については、怠りなく互いに連絡しあうという合意内容です。ここからは、18世紀後半には石炭が燃料として使用されていたことがわかります。その石炭は、多くは船木・小野田・宇部などから運ばれてきたものでした。百年かけて、塩田での石炭使用が広がっていったことがうかがえます。
北九州でも石炭が燃料として着目されるようになったのは17世紀に入ってからです。
元禄四年(1669)のケンペルの『江戸参府旅行日記』に、黒崎(北九州市八幡西区)で見分したことを次のように記します。
「数力所の石炭坑あり(案内の藩役人が)我等に甚だ珍奇なるもの、注目すべきものとし教えてくれた」
ここからは、17世紀後半に北九州では石炭採掘が行われ市場に出回っていたことが分かります。
12年後に完成した『筑前国続風土記』(貝原益軒)には、次のように記されています。
「燃石、燃 遠賀、鞍手、嘉麻、穂波、宗像の処々の山野に有之、村民是を掘りて薪に代用す。遠賀、鞍手殊に多し。頃年糟屋の山にてもほる」
意訳変換しておくと
燃石(石炭)は遠賀、鞍手、嘉麻、穂波、宗像などの山野にあって、村民はこれを掘って薪の代用にしている。なかでも遠賀、鞍手は産出量が特に多い。近頃は糟屋でも採掘するようになった。
とあって、17世紀後半には盛んに石炭を掘るようになっていたことが分かります。筑前の隣の豊前地方でも石炭はそのころ掘られていましたが、それが製塩のため利用されるようになったのは、明和年間になってからのようです。
このような中で石炭利用の先進地域である筑前の遠賀郡若松(北九州市若松区)の庄屋和田佐平は、塩焼竃の下部に鉄網を敷いて石炭を焚くと火力がつよく経済的であることに気づきます。これを長州の塩田主に売り込もうと石炭を船に積んで三田尻に持って来ます。彼は、宇部地区では石炭を製塩燃料に使っていることを知っていたのかもしれません。三田尻では石炭の使用法をまだ知りませんでした。そのため異国者の佐平のセールスを相手にする者がなく、商談は成立しません。佐平はやむなく石炭を海に捨てて帰国したといわれます。これも宇部以外では、石炭を製塩には使っていなかったことを示すことを裏付ける話です。
1928年国土地理院地図
三田尻の浜主たちが佐平のすすめを思い出したのか、豊前の塩浜が石炭を使用していることを聞いて、塩竃の築造を学び、石炭を試用してるのは安永七年(1778)になってからです。その結果、その効果の大きいことに驚き、すぐに筑前から石炭を買い付けを始めます。ここからも、石炭の使用が広がるのは18世紀後半になってからということが裏付けられます。こうして石炭の使用エリアは西から東に広がっていきます。 三田尻の帆船は、筑紫の遠賀川口につめかけて瀬戸内海沿岸に運ぶようになります。
天保八年( 1837)には6880万斤(4,1万トン)が採掘され、地元消費は60万斤だけです。そのほとんどが他国に「輸出」されていたようです。そのうち最大の購入所は、三田尻塩浜で4565万斤という数字が残っています。筑紫の石炭産出量の約5/7は、三田尻の塩田主が買っています。三田尻が筑紫の最大のお得意さんでした。
天保八年( 1837)には6880万斤(4,1万トン)が採掘され、地元消費は60万斤だけです。そのほとんどが他国に「輸出」されていたようです。そのうち最大の購入所は、三田尻塩浜で4565万斤という数字が残っています。筑紫の石炭産出量の約5/7は、三田尻の塩田主が買っています。三田尻が筑紫の最大のお得意さんでした。
石炭需要の高まりを他の地域も指をくわえて見ているはずもありません。
1928年国土地理院地図 宇部線がかつての海岸線
各地で炭鉱が開かれるようになります。その筆頭が、宇部小野田地区です。宇部は今では海を大きく埋め立て大きな臨海工業都市になっていますが、昔は海岸に松原が並ぶ光景が続いていました。その松原の外側は砂浜、内側は水田です。石炭が掘られたのは水田の東の丘陵地②です。そこに竪坑を掘って、そこから掘り出していました。掘り出された石炭は、ザルに入れて天粋棒で担いで海岸まで運ばれます。それが船に積まれて各地の塩田に運ばれていきました。一荷を一振とよび、 一振一六貫すなわち100斤という計算になります。明治になると炭坑から海岸までレールが敷かれ、炭車に石炭を積んで後を押して海岸まで運び出されるようになります。海岸には何十というほど桟橋がならんでいて、炭車を桟橋の先まで押していき、そこに横着けにしている船にバラ積みします。その船は普通のイサバやバイセンなどとは違って、船べりには垣板がなく、丸太をふたつに割ったものを打ちつけて丈夫に作ってあります。普通の帆船は米を積むのが主で、何石積みというように容量で大きさを示していました。その中で最も大きいものが千石船でした。
それに対して石炭を積む船は、土船または胴船とよばれました。
容量ではなく重量積み、すなわち斤で大きさをはかったのです。二〇万斤も積める船は大きいほうでした。土船というのは土や砂を積む船のことです。17世紀に入ると、内海沿岸では埋立てや干拓が相次いで行なわれ、また塩田も多く築造されるようになります。埋立てのためには、たくさんの土を必要とします。その土は背後の山を切り崩して用いることもありましたが、背後が平地なときには埋立用の土が手に入りにくくなります。そこで近くの島や岬などの土を切り崩して、船に積んで運んでくるようになります。ここで活躍するのが土船です。現在風にいうなら「海のダンプカー」といった所でしょうか・・・
土船は瀬戸内海のいろいろな所にいたようです。
特に倉橋島・能美島に多かったようです。その土船も石炭を積むようになっていきます。宇部市の①居能は、もと北前船の多いところでした。居能の船は日本海岸を山形・秋田方面まで行って米を積んで帰り、下関の亀山の下にずらりと並んでいる米蔵にそれを納めました。彼らの役割はここまでです。いったん米倉に入れられた米は、時期をうかがって大阪・兵庫へ運び出されていきます。そのときには、瀬戸内専用の別船が担当していました。居能など瀬戸内海の千石船は一時は、北前航路専用で運用されていた時期があるようです。しかし、18世紀後半になると近畿や瀬戸内海の北前船は、日本海エリアの船に押されて撤退する船が多くなります。いわば活動場所を失ったのです。
彼らは北前船の経験から土船の規模をを大きくして、より多くの石炭を積めるタイプの船を作ります。胴の張った船だったので胴船と呼ばれたようです。居能の北前船やイサバが胴船に切り替えられるようになったのは明治30年(1871)ごろでした。
埋立てが進むにつれて、宇部には⑥新川という新しい港が造られました。ここには千トンの船も着岸可能だったので、石炭の荷役はここで行われるようになります。そうすると居能の船も新川を中心にして活躍することになります。石炭需要はうなぎ登りですから船主として新造船を投入したいところです。しかし、船乗りがそろいません。居能の人は代々船乗りですからみな水夫として働きます。それでも足りません。そこで宇部周辺の者を水夫として雇おうとしますが、農民は水夫には向かなかったようです。水夫不足という課題を抱えることになります。
石炭の産出は年々増加し、塩田からの石炭需要も増えます。しかし、船員は確保できない。そうなると次に考えることは、船を大きくして一度に運べる量を増やすことです。いまの海運業界の対応と似ています。
こうして明治40年(1907)ごろから腰の高いスクーナー型帆船が造られるようになります。これは黒船または合の子船とも呼ばれたようです。石炭を積むために造られた船です。土船は腰が低く、風浪にも弱く沈没の危険性も高かったようですが、この点でもスクーナー型帆船は改良されています。
土船は「斤積み=重量計測」でしたが、スクーナー型帆船になるとトン積み計算になります。
石炭は炭坑から浜までかごで運ばれ、100斤を一振として取り扱ってきました。それがさきほど述べたように日清戦争前後の明治27年頃に、王子炭破塙が炭坑から海岸までレールを敷いて炭車で運ぶようになったときに、炭車の箱を500斤入りにします。これを半トンとして計算するようになります。つまり「500斤=80貫」、「1トン=270貫」から、「半トン=135貫」になります。500斤を半トンとして計算すると、実際には半トンは55貫も軽いことになりますが、当時はそれでいくことになったようです。こうして炭車の石炭をいくつ積むかで、船の大きさは測られるようになります。 10箱ならば5トン、 100箱なら50トンということです。そして明治40年ごろになると、炭箱も大きさを一定にして、四箱で1トンに標準化されます。
炭車が利用されることによって、積み降ろしも操作も楽になります。スクーナー型帆船の登場で船の大型化と安全性・操作性が高まると、外部からの新規参入者も出てくるようになります。このときに採用された船員は、島根県出身者が多かったようです。こうして大正時代になると、宇部には100隻をこえる石炭船が出現するようになります。
宇部には、瀬戸内海各地から石炭を積みに船がやってくるようになります。
それは阿知須・岐波[宇部市]、三田尻、上関の白井田、広島県の能美・倉橋が多かったようです。前回もお話ししたように能美・倉橋は土船・石船の多いところでした。山田洋次監督の「故郷」の陰の主役は石船でした。広島湾周辺の埋立地で働いていた石船の中には、石炭船に転身するものが出てきます。それを真似て、広島県の幸崎・音戸や、愛媛県の伯方や今治の波方からも石炭船に転業した船がやってくるようになります。
石炭掘りは、たいへんもうかる仕事だったようです。
初めは掘った石炭を共同組合が集めて売っていました。それを船を持っている者が買いとって、それぞれの塩田へ持って行って売るという訪問販売スタイルでした。買ってくれる塩田まで船で運んでいきました。注文を受けての輸送ではないので買い手がつかないと、斎田(徳島県鳴門市)まで行ったこともあるようです。ここまでくると投げ売りで安くても売ってしまうこともあったと口伝は伝えます。
石炭売りは訪問販売でしたので、すべて現金取引きでした。
石炭も採掘方法が進み産炭が多くなると、炭坑自身も資金力をつけて、自前の船を持って売り歩くことも多くなります。これを直売と呼びます。売りさきは石炭問屋が多かったようですが、塩田の浜主のところへ売ることもでてきます。こんな状態が明治30年ごろまで続きます。日清戦争が終わり日本の産業革命が本格化する明治30年をすぎると石炭大型船(黒船)は、大阪の工場へ向かう船が多くなり、塩田の比率は低下していきます。その中で、小型の土船型船の多くは、それまで通り塩田へ石炭を売って瀬戸内海を回っていました。石炭の流通路が大きく変わりつつあったのです。
石炭も採掘方法が進み産炭が多くなると、炭坑自身も資金力をつけて、自前の船を持って売り歩くことも多くなります。これを直売と呼びます。売りさきは石炭問屋が多かったようですが、塩田の浜主のところへ売ることもでてきます。こんな状態が明治30年ごろまで続きます。日清戦争が終わり日本の産業革命が本格化する明治30年をすぎると石炭大型船(黒船)は、大阪の工場へ向かう船が多くなり、塩田の比率は低下していきます。その中で、小型の土船型船の多くは、それまで通り塩田へ石炭を売って瀬戸内海を回っていました。石炭の流通路が大きく変わりつつあったのです。
こうして昭和になると瀬戸内海には石炭を満載した船が、西から東へと連なるようにして運行されるようになるのです。その寄港地として、大崎下島の御手洗の花街は輝き続けます。
以上をまとめておくと
①石炭は17世紀に宇部周辺の塩田で使用されるようになった
②これが周辺に拡大していくのは18世紀後半になってからのこと
③最初は石炭を買い取った石炭船が瀬戸内海の塩田主を訪ねて売りさばく訪問販売で現金支払いだった
④次第に、各地の石船や土船が石炭船に転業し、宇部に石炭の買い出しに訪れるようになる
⑤明治になると千石船から石炭船に乗り換える水夫が増えるなど、実入りのいい仕事であった。
⑥しかし、当時の船乗りは「特殊技能職」で人手が揃わず、資本力のある船は大型化した。
⑦日清戦争後の第2次産業革命の進行は石炭需要を大幅に増大させ、京阪工業地帯へ石炭を運ぶ船は機帆船と成り大型化した。
⑧御手洗などの色街の最大のお得意さんは、石炭船の船乗りであった。
⑨小型の土船は相変わらず地元の塩田へ宇部の石炭を運び続けた
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
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