天正三年(1575)に長宗我部元親は、土佐一国を統一します。37歳の時のことです。そして、すぐに四国平定への道を歩み始めます。今回は、四国平定を進める長宗我部元親の頭の中には、どんな外交戦略が描かれていたのかを見ていくことにします。テキストは「平井上総 長宗我部元親・盛親 ミネルヴァ日本評伝選」です。
土佐の長宗我部元親から畿内を見た場合に、どんな政治情勢が見えたのでしょうか。
まず見えてくるのは織田信長です。
天正三年(1575)時点で、信長は室町幕府に代わる中央権力を握っていました。信長は天正元年(1573)に足利義昭との連合政権を解消し、義昭を京都から追放しています。そして本願寺や武川勝頼との対決を経て、天正三年には朝廷から将軍並の扱いを受けるようになります。
天正三年(1575)時点で、信長は室町幕府に代わる中央権力を握っていました。信長は天正元年(1573)に足利義昭との連合政権を解消し、義昭を京都から追放しています。そして本願寺や武川勝頼との対決を経て、天正三年には朝廷から将軍並の扱いを受けるようになります。
もうひとつは反信長勢力です。
天正四年(1576)に信長に追放された足利義政は中国地方の毛利輝元を頼って福山の鞆を拠点に反信長包囲網の形成を計ります。小説家達は義政のことを時代の流れの読めぬ将軍崩れと軽視しますが、歴史家達は義政の業績を評価します。なにより毛利・石山本願寺・上杉謙信などのを勢力を「反信長統一戦線」としてまとめ上げたことは事実です。これを軽視することは出来ないというのが歴史家達の立場です。
天正四年(1576)に信長に追放された足利義政は中国地方の毛利輝元を頼って福山の鞆を拠点に反信長包囲網の形成を計ります。小説家達は義政のことを時代の流れの読めぬ将軍崩れと軽視しますが、歴史家達は義政の業績を評価します。なにより毛利・石山本願寺・上杉謙信などのを勢力を「反信長統一戦線」としてまとめ上げたことは事実です。これを軽視することは出来ないというのが歴史家達の立場です。
天正四年から本能寺の変が起きる天正10年(1582)までの情勢は、織田信長とそれに結びつく大名だちと、足利義昭とそれに結びつく大名だちとの、二大勢力による抗争としてとらえることができます。この時期の元親が頼るべき相手は、次の2者しかいないということになります。
①天下人としての信長②信長に反旗を翻す足利義政とその保護者毛利元就
結論から言うと元親は、最初は織田政権に接近・従属して行動しますが、最終的に毛利勢力に与し、信長とは対立するようになります。
当時の長宗我部家は土佐国内第一の勢力となったとはいえ、全国的には地方の一領主にすぎません。他国との関係に逆らって自立していくよりは、地位を保障してくれる上位の権力に結び付いた方が戦略上有効です。それでは取り入る先の政権はと見ると、信長以外に考えられないでしょう。


長宗我部元親は、織田信長にどのように接近したのでしょうか
ここでまず登場してくるのが土佐国守護の京兆家細川氏です。元親の父国親は、土佐国守護の京兆家細川氏の影響を強く受けていると研究者は指摘します。足利義政同じくの京兆家当主細川昭元は、勢力を失って「過去の存在」であったかもしれません。しかし、政治的な利用価値は充分にあったようです。細川昭元は、足利義昭と織田信長が決裂した際に、信長側につきます。昭元は名家の当主として信長に庇護される状態でした。信長は昭元を道楽で保護していたわけではなく、彼には利用価値があるとかんがえていたのです。
その例として、研究者が挙げるのが、讃岐国の守護代香川信景との交渉です。
細川京兆家は土佐の守護でもあり、讃岐の守護でもありました。香川氏と長宗我部氏は、同じ主君に仕える身でもあったわけです。天正11年(1583)に細川昭元は香川信景に、讃岐国東部の管轄も任せる旨の書状を発給しています。この昭元の動きの背景には、信長の意向があります。信長は讃岐守護という昭元を利用して、霧城城主の香川氏を取り込もうとします。(橋詰茂『瀬戸内海地域社会と織田権力』)。
香川氏の長宗我部元親への同盟(降伏?)は、細川氏の臣下として逆臣三好一族を共に討伐するという大義名分があったからだと研究者は考えているようです。足利や細川とネームバリューは地方の国人たちにとってはまだまだ効き目があったようです。それを信長はよく知っていたということでしょう。 同じように、長宗我部と織田関係にも細川昭元の力が働いていると研究者は指摘します。
長宗我部-織田関係をとりもつもうひとりの人物は、明智光秀です。
天文六年(1537)、元親が長男弥三郎の実名に信長から一字を拝領しか際に、信長は光秀を取次として「仁」の字を与えています。この取次としての活躍は、光秀自身の努力や才能もありますが、光秀配下の斎藤利三・石谷頼辰兄弟の存在が大きいようです。元親の妻は石谷家出身であり、頼辰はその義理の兄にあたります。同時に斎藤利三の実弟です。「元親記」は信長の上洛(永禄11年1568)以前から元親が信長に連絡を取っていたと記します。しかし、その頃は元親はまだ土佐統一を成し遂げていません。少し早すぎるようです。

斎藤利三は後に稲葉一鉄の元を離れて明智光秀の家臣となります。そのため元親は織田家の重臣である光秀を取次とすることができるようになります。このようにみると、元親が石谷家から妻を迎えたことは結果として長宗我部家にとって非常に有利に働いたといえます。 そこには妻の縁を利用して織田家と結び付こうとする元親の外交戦略があったことがうかがえます。こうして元親は、明智光秀を通じて信長政権への接近策をとります
阿波三好家との戦いは、どのようにして始まったのか
「昔阿波物語」には、次のように記されています。
阿波国一宮城主の一宮成相は細川真之側につき、土佐国の長宗我部元親や紀伊国に援軍を頼んだ。そこで元親は海部に攻め入り、さらに土佐の北方から阿波・讃岐の境界地域にある三好郡白地に攻め込み、三好側だった白地城主の大西覚用を服属させた。
ここには、元親の阿波侵攻は細川真之に協力する形で進められたと記されます。元親は、阿波南方攻略と、阿波三好郡攻略を同時進行で連携させておこなっています。
土佐軍による阿波侵攻には、信長の全体プランの中で進められた形跡があります。
信長は阿波三好家勢力封じ込めのために、讃岐の香川信景に接触し反三好同盟を形成します。同じように、阿波での細川真之による三好長治討伐と長宗我部元親の阿波進出もまた、信長が対三好包囲網の一環として働きかけた結果だという説です。(天野忠幸「織田・羽柴氏の四国進出と三好氏」)。そうだとすると、阿波三好は長宗我部・香川氏・信長の包囲網の中に囲まれていたことになります。この説は、天正四年の政変へ織田政権が関わったことを示す史料がほとんどないのであくまで仮説ですが、非常に魅力的な説です。
阿波の国侍達にとっては、長宗我部元親はよそ者です。それが阿波のことに首を突っ込んでくることに当然反発が起きます。土佐の元親にとって、細川真之や織田信長に協力して阿波三好家と戦うという名目は「錦の御旗」のような役割を果たしたのかも知れません。
信長と元親の交渉は、天正6年(1578)頃からは、一次史料ではっきりと追えるようになってくるようです。
たとえば10月付で信長が元親の息子弥三郎に宛てた朱印状には、次のように記されています。
惟任日向守(明智光秀)に対する書状を見ました。阿波方面への在陣はもっともなことです。いよいよ忠節に励むことが肝心です。字のことについては、「信」を遣わすので、「信親」と名乗るのがよろしいでしょう。なお明智光秀が申します。
12月に元親が義兄石谷頼辰に宛てた書状には、次のように記されています。
(前略)弥三郎の字のことを斎藤利三まで申したところ、ご披露なされて(信長の)朱印状をいただき、「信」の字を拝領したことはこの上ない名誉です。)阿波国のことについては、攻略を油断せず進めていますので、ご安心ください。
この二つの書状からは次のことが読み取れます。
①元親が息子弥三郎のために信長の名前から一文字をもらったこと②この交渉に元親の縁者斎藤利三とその主人明智光秀が活躍していること、③そして元親が阿波国攻略について信長に報告していること
元親が自分の跡取りを信親と名乗らせようとしたのは、明らかに織田政権への接近策です。将軍や大名、あるいは烏帽子親から名前の一文字(偏譚)をもらう行為は、よく行われます。例えば信長の場合は、徳川家康の息子信康などにも一字を与えています。元親は信長の朱印状を「御朱印」、「信」の字を「御字」と述べていて、長宗我部家側か低姿勢です。こうした低姿勢は、阿波国攻略とも関係していると研究者は考えているようです。
元親が信長に示している態度は、信長の命のもとで阿波国を攻め取るという形をとっています。
元親は、自らを「四国最大の信長派」と位置づけていたといえます。そうした態度は、当初からの姿勢です。これを研究者は次のように指摘します。
元親は、自らを「四国最大の信長派」と位置づけていたといえます。そうした態度は、当初からの姿勢です。これを研究者は次のように指摘します。
織田政権派の大名として振る舞い、息子に一字を受領することでさらにその関係を強化することで、元親は阿波国への進出を強固なものにしようとした。信長と対等の立場で天下人となることを狙うのではなく、その配下に入った上で、自分の領地を着実に広げていく、というのが元親の外交方針だったのである。
信長の権勢や威光を背負いながら四国平定は、うまく進んで行きます。讃岐侵攻も「信長様に抵抗する阿波三好氏の讃岐拠点・十河氏を叩くため」という名分で合理化されます。
元親は、信長配下の武将として、阿波・讃岐では三好家、伊予では河野・西園寺・宇都宮家などと戦い四国平定を進めていきます。その結果、天正八年(1580)初頭には、阿波では南方と上郡を手に入れた上に下郡にも進出し、讃岐では西讃を手に入れ、伊予では東予と南予に一定の地歩を築いきます。ここまでは元親の思い描いたとおりの進行だったのではないでしょうか。


天正八(1580)年が対信長外交のターニングポイントになるようです。
これ以後、信長との関係が急速に悪化していくのです。天正8~10年の政治情勢を見てみましょう。
三好康長の讃岐・阿波へ介入を信長が許します
天正九年(一五八一)六月、織田信長は元親の弟香宗我部親泰に朱印状を送っています。その朱印状の文面は次の通りです。(「香宗我部家伝証文」)。
三好式部少輔のことについては、こちらは別心はありません。そちら(阿波)で相談なさり、連携していることは珍重です。阿波方面の馳走(平定)に専念してください。なお三好山城守康長が連絡します。
これとほぼ同時に出された三好康長の書状も見てみましょう。
(前略)阿波方面について、信長が朱印状で、今後は特別に親しくするようにとご命令なさいました。同名の三好式部少輔は若輩者です。近年の騒ぎが無事に収まりますよう、いろいろと指南してくださり、大切にしてくだされば珍重です。
両方を合わせると、信長は香宗我部親泰に三好式部少輔を支援させようとしています。それが三好康長の希望によるものだったことも分かります。
ここに登場してきた三好康長とは何者なのでしょうか?
ここに登場してきた三好康長とは何者なのでしょうか?
三好康長は、三好長慶の叔父にあたり、宗家の三好義継が滅ぼされた後も、幾内で最後まで信長に抵抗していました。信長に降伏して仕えるようになると、本願寺との和睦交渉も担当するなど、信長の信頼を得るようになります。当然、康長は三好一族として阿波国の回復を望んでいます。さらに讃岐国の十河在保、伊予の河野氏や西園寺氏もまた、元親に奪われた所領回復を望んで信長を頼っていたようです。さきほどの朱印状は、信長が康長を三好家の当主として位置づけたことを意味します。そして天正八(1580)年に康長を讃岐国の安富館へ派遣したのです。
これはある意味、三好康長に阿波を与えたとも解釈できます。さらにいえば、信長と康長は、長宗我部家の阿波攻略に介入しようとしていたともいえます。
どうして信長は、三好康長に阿波・讃岐攻略を命じたのでしょうか。 「元親記」は、その理由を次のように記します
信長は元親に、四国のことは元親の手柄次第に切り取るようにと朱印状を出していた。だが、ある人が信長にそのことを注意し、「元親は西国に並びない弓取りなので、今後天下統一の障害になるでしょう。(元親が)阿波と讃岐を手に入れたならば、すぐに淡路にも手を出し始めるでしょう」と言った。そこで信長は、伊予国と讃岐国を取り上げ、阿波南郡半国と本国の土佐のみ認めると言い出した。
ここには、何者かが信長に讒言し、それを受けた信長が長宗我部家から四国各地を取り上げようとしたとされています。「元親記」は長宗我部家臣が江戸時代に記したものであり、その記述も元親を贔屓した見方になっていることが多いようですが、天正11(1583)の石谷光政(空然)宛の近衛前久書状に、これを裏づける次のような記述があります。
去々年(天正九《1581)年冬、安土で信長に対して(長宗我部家のことを)いろいろと悪し様に語る者がいて、両家の関係が途絶えようとしたところ、私か信長に「元親には(信長を)疎んじる気持ちはありません」と弁解して一度は納得してもらえましたが、元親を悪く言う者はさらに様々に言った。
ここには元親のことを悪し様に告げる者がいて、弁解を試みたが結局失敗したとします。この発言者が誰なのかは分かりませんが、長宗我部家を取り次いでいる明智光秀と対抗している者か、あるいは三好康長と結び付いた者だったのでしょう。明智光秀のライバル的存在とすると、羽柴秀吉の名前が挙がってきますが裏付け史料はありません。
翌天正10(1582)年正月、石谷頼辰(元親の義兄)と仁首座が、明智光秀の使者として土佐にやってきます。
この時に頼辰は信長の朱印状を持ってきたようです。その内容は残っていませんが、後に元親が斎藤利三に送った書状から見て「讃岐国と阿波国を織田政権に差し出せ」というものだったようです。
この時に頼辰は信長の朱印状を持ってきたようです。その内容は残っていませんが、後に元親が斎藤利三に送った書状から見て「讃岐国と阿波国を織田政権に差し出せ」というものだったようです。
これまで数年間をかけて地道に攻略してきた讃岐・阿波両国を差し出せという要求は元親にとって簡単に受け入れられるものではありません。使者の頼辰やその兄斎藤利三、そして明智光秀も元親が反発することを心配しており、元親の義父で土佐に下っていた石谷光政(空然)に元親の説得を依頼しています。
「元親記」には、元親はこの要求を次のような言葉で断ったと記されています。
「四国は私の手柄で切り取ったのです。信長様からの恩義ではありません。思ってもみないお言葉、驚きました」
元親にとっては、三好康長のことで信長への不信が積もっていました。その上にこの命令を受けたことから、信長に従い続けることの限界を感じたのかもしれません。
元親が阿波・讃岐を差し出さないとみると、信長は四国への出兵をすすめます。あらかじめの行動だったのでしょう。(神戸)信孝を三好康長の養子として入れ、讃岐国を信孝、阿波国を三好康長、伊予・土佐は信長が淡路に到着次第決定する、という朱印状を、5月7日付で信孝に宛てて発します。


信長は息子信孝に、次のように讃岐統治をについて指示しています
「国人たちの忠否を礼し、安堵すべき国人は安堵し、追放すべき国人は追放し、政道を堅く申し付けるように。三好康長を主君や父母だと思って、手伝うように」
この遠征をきっかけに讃岐・阿波を織田の直接支配下に置く目論見だったようです。もし、元親が抵抗するならば、全面的な軍事衝突もやむなしという態度です。
信孝は、丹羽長秀・蜂屋頼隆・津田信澄らを副将とした四国攻撃軍を五月末に大坂周辺に集結させ、6月3日をXーDAYとして作戦準備を進めます。
一方、「元親記」には5月上旬に三好康長が先遣隊として阿波国にやってきて、勝瑞城に入るとともに長宗我部側の一宮城・夷山城を攻め落としたと記します。勝瑞城は阿波の三好勢力を統括する三好存保の城ですから、存保も織田勢に属していたことがうかがえます。これは長宗我部元親にとって最大の危機となります。


勝瑞城 復元図
これに元親はどのような対応を取ったのでしょうか
・今度のご命令を受けるのが今まで遅れてしまったのは、進物の用意が調わなかったからです。宮城をはじめ、夷山城、畑山城、牛岐城、仁宇城などは、ご命令に応じて残らず明けて退城します。・海部城と大西城については、長宗我部家に残してください。それは私か讃岐と阿波を欲しがっているからではなく、土佐国の入口を守るべき城だからです。

ここには元親が信長の命令を断ったわけではなく、手続きが遅れただけで、阿波国内の主要な城を明け渡すつもりがあったことが記されています。
文面通りに受け取れば、元親は一度は断った信長の要求を受け入れ、讃岐・阿波を差し出すことに方針転換したことになります。ただ元親もこの手紙を信長が素直に受け入れてくれるとは思っていなかったようで、利三に
「(信長への)ご披露は難しいと頼辰もおっしゃっています。長宗我部家滅亡の時期が来たのでしょうか。長年織田政権のために尽くしてきて、少しも裏切るつもりは無かったのに、不意にこのようなことになってしまったことは納得できません」
との恨み節も記しています。
信長の圧力に屈したかのように見える元親ですが、本当にく抵抗するつもりがなかったのでしょうか。
この利三への書状を記す三日前、元親は讃岐国で家臣に土地を与えています。(「土佐国貴簡集」)。つまり織田政権に渡すはずの土地を、家臣に与えているのです。これを見ると元親が、どこまで本気であったか疑問がでてきます。ここからは、元親は本能寺の変が起こるのを読んでいたという説も出てきます。
元親は、恭順の姿勢を示すだけではなく、交渉の甲斐なく信長が長宗我部家を滅ぼそうとしたときに備えて、織田信孝勢の退路を断って撃破するプランも同時に立てていたのではないかと考える研究者もいるようです。
織田勢の四国攻撃隊は、出陣予定日の前日に本能寺の変が起こり中止となります。
明智光秀は織田政権の重臣であり、家臣の斎藤利三が長宗我部家と遠縁にあたることから、織田家と長宗我部家の間を取り次いでいたことは、今までにも触れてきました。その光秀がなぜ信長を殺害するに至ったのかについては、様々な説が出ておりいまだに決着がついていなません。
主要な説を挙げておくと次のようになります(谷口克広『検証本能寺の変』)。
主要な説を挙げておくと次のようになります(谷口克広『検証本能寺の変』)。
・怨恨説 光秀が信長を恨んでいた。・野望説 自分が天下を取るために信長を殺した。・足利義昭黒幕(連携)説:義昭を京都に迎え入れ室町幕府を再興しようとした。・朝廷黒幕(連携)説 信長に圧迫された朝廷と組んだ・イエズス会黒幕(連携)説 信長を滅ぼそうとするイエズス会が朝廷・光秀と組んだ。・四国政策説 対四国外交をめぐって政権での立場が危うくなり追い込まれた。
本能寺の変の原因の中に「四国政策説=長宗我部元親黒幕説」があるようです。
対四国外交をめぐる対立が、光秀と信長の間にあったというのです。その対応をめぐって光秀の面目が失われるとともに、政権内での彼の立場が弱まり、いずれ信長に追放されてしまうのではないかという恐れを光秀が抱いたことが原因とする説です。この説に関する記述が「元親記」にあるようです。そこには
対四国外交をめぐる対立が、光秀と信長の間にあったというのです。その対応をめぐって光秀の面目が失われるとともに、政権内での彼の立場が弱まり、いずれ信長に追放されてしまうのではないかという恐れを光秀が抱いたことが原因とする説です。この説に関する記述が「元親記」にあるようです。そこには
「斎藤利三が、四国のことを気遣ったのか、明智光秀に早く謀反を起こすよう勧めた」
と記されています。むろんこれは二次史料の記述にすぎず、参考程度に扱われてきました。しかし、あらたに「石谷家文書」が発見されたことによって、利三と元親が本能寺の変直前に連絡を取り合ってきたことが明らかになり、再評価できる可能性が出てきたようです。ただ「元親記」の記述は、元親を救うために光秀が謀反を起こしたという、いわば長宗我部救援説です。元親を救うために主君を殺して独立するという行動までには飛躍があるように思えます。

長宗我部元親
本能寺の変について、元親がどのような感想を持ったのかはよく分かりません。「四国軍記」に「信長公は武道では天下無双であったが、文道には暗く、無念の最期を遂げられたものよ」
という慨嘆が記されているのが数少ない例のようです。
以上をまとめておくと
①長宗我部元親は土佐統一後、直ちに四国平定に向けて軍事行動を開始する
②外交戦略としては、信長政権に接近して「四国最大の信長派」を自称し、天下人の信長の権威を利用しながら調略工作を進めた。
③この外交戦略はうまく運び天正8(1580)年までには、四国の大部分を占領下に置いた
④しかし、長宗我部元親の巨大化を怖れた信長は、それまでの「同盟関係」を破棄し、讃岐と阿波の返還を迫り、軍事的な圧迫を加えた。
⑤元親は、一旦は断ったが結局はこれを受けいれる以外になかった。
⑥しかし、織田軍出陣の前日に本能寺の変が起こり、元親の危機は去ったかのようにみえた。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「平井上総 長宗我部元親・盛親 ミネルヴァ日本評伝選」





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