愛媛県朝倉村の「金毘羅山 満願寺」は、不思議なお寺です。
いまでも境内に金毘羅さんの神殿や本殿があります。ここには神仏分離がなかったかのような伽藍配置を今でも見ることが出来ます。
いまでも境内に金毘羅さんの神殿や本殿があります。ここには神仏分離がなかったかのような伽藍配置を今でも見ることが出来ます。
その向こうには鳥居が見えてきます。
境内には薬師堂や不動明王を祀るお堂があり、熊野信仰以来の修験の寺であることがうかがえます。
現れるのは金比羅堂です。
裏側に回って本殿を見ると、造りは神社です。お寺の敷地の中に金比羅神社があります。このお寺に神仏分離はなかったのでしょうか。別の見方で云うと、神仏分離をこの寺はどうくぐり抜けたのでしょうか。それを語る物語に出会いましたので紹介します。
テキストは神仏分離こんぴらの一夜彫り石 (愛媛県越智郡朝倉村) 成重芙美子 ことひら52 H9年です。
明治になったとたん、新政府がおかしなお触れをだした。
「何、今からは、仏さんより神さんの方が位が上になる?」
「それに、神仏を別々に祭れじゃと?仲よう、いっしょにござるものを、なぜ別にせんならん?」
なんぼ、頭をひねって考えても、だあれも訳が分からんかった。そのうち、
「日本は大昔から神の国じゃけれ、寺はいらん、仏もいらん。神さんだけにしろ…ということじや」
誰が言い出したんやら、これが、たちまち全国にひろまって、蜂の巣をつついたような騒ぎになってしもた。
「ちがう、ちがう。神社と寺院を別の場所に、分けて祭れば良いのじゃ」
政府はあわてて説明のお触れをだしたが、もう手遅れよ。
気の早い地方では、ひとつ残らず寺をこわし、仏壇やいはいを大川に投げすてた。仏像も仏具も焼き払い、おじぞうさんも、土手の下積み石にしてしもた。
となりの高知県でも、ようけの家が、葬式や法事の仏式をやめて神式に改めた。
さあ‥‥朝倉のこんぴらさんのことじゃ。
同じ境内に、満願寺ちゅうお寺もあるので、檀徒衆は気が気でない。よそのうわさを聞くたびに集まった。
「お上のお触れにさかろうちゃいかん。早うこんぴらと寺を分けろ」
「おう、神さんが上になったんじゃけれ、寺をこわせ」
「いや、こんぴらを退けろ」
しろんごろん言い合うのを、時の住職、恭恵さんはまあまあと押しとどめ、
「仏教が伝来してこの方、寺をこわせ、神仏いっしょはいかんじゃの、国が命令したことは一ぺんもありません。これは何かの間違いです。考えても見なされ。今まで、病気や災難からお守り下された神社や寺を、わがらの勝手でよそへ移せると思いなさるか。罰があたりますぞ。それに」
と、そばの寺社総代に目を向けられた。
「寺とこんぴらを分けたら、第一、経営が成り立ちますま い?
それは、あなたが一番ようご存じのはず」
それは、あなたが一番ようご存じのはず」
総代はうなずいた。
「はい、分かっとります。ほじゃけんど、おとがめがあったら、どないにされますぞ?わしらは、それが、いっち、おとろしい」
「その時の責めはわたしが負います。皆の衆は心配せんでよろしい。とにかく、神仏はどちらも大切。上も下もありません。両方存続さすことを考えてくだされ」
恭恵さんは、きっぱりと言われた。
それからというもの、何ぞええ思案はないものかと、寝ても覚めても思うておられた。あちこち人をやって調べもされた。すると、もともと政府の趣旨をはき違えて起きたことじゃ。地方、地方の役人により、だいぶん方針や程度に差があった。伊予はかなりゆるやかなようじやつた。
恭恵さんは望みをすてず、あせる壇徒衆に、
「もうちっと、がまんがまん」
ほしたら、明治二年になって具体的な通知があった。
やっぱり、寺と神社を分けろという。それも直ちにせいちゅうのよ。いよいよ正念場じゃ。
恭恵さんはうす暗い本堂にすわり、ご本尊の薬師如来に一心に祈られた。
「なむ、神仏ともにお祭りできる良い知恵をお授け下され」
後ろでは寺社総代はじめ、主だった壇徒らが、神妙にねんぶつを唱える。その中に石工の弥平次もおった。
「‥・・!?」
恭恵さんに、パッとひらめきがあった。
すっくと立ち上がり、ご本尊を背にして言われた。
「み仏の教えに、方便、という言葉があります。そこで、こんぴら宮には、しばらくお隠れ願うて、満願寺に前へ出てもらいましょう。丁石の(金毘羅本殿へ00丁)を(不動殿大門へ00丁)と彫りなおすのです。さあ、せわしゅうなりましたぞ。みなさん、手をかしてくだされ」
なんと― 恭恵さんは、大日如来の化身である。(不動明王)を奉じて、理不尽な国の政策に立ち向かわれた。
この方は、宇宙でいちばん偉いお方で、
「仏教に敵対するものは許さんぞっ」
と言うて、あのように恐い形相をしてござるのよ。
石工の弥平次は…。
寺から帰るなり、何事か弟子に指図した。弟子たちは、あわただしく、あちこちに分かれて走った。
やがて、おおぜいの石工仲間が、それぞれ弟子を引き連れかけつけた。
「ほいさ、ほいさ」
村の若い衆らが、道々から丁石を集め、荷車に積みやってきた。
弥平次は、ふかぶかと頭を下げて言うた。
「この五基の丁石(金毘羅へ00丁)を消して、(不動殿へ00丁)と彫りなおしたい。こんぴらの一大事じゃ。ぜひ力をかしてくれや」
仲間が言うた。
「親方のため、こんぴらさんのためなら、何でもやらしてもらいます。そいで、いつまでに、また彫り方は?」
「期日は明朝、彫り方はすずり彫りじゃ。
「ええっ、明朝? しかもすずり彫りー そりゃあ、むりぞのもし。
なんぼ親方の頼みでも、でけん相談じゃ。時間が足らん」
「ええっ、明朝? しかもすずり彫りー そりゃあ、むりぞのもし。
なんぼ親方の頼みでも、でけん相談じゃ。時間が足らん」
弥平次は首をふった。
「いいや、わしの言うとおりにしたら必ずできる。まず、石面を削りつぶして、もとの字を消せ。その時まわりの縁を残すんじゃ。すずり彫りになろが? それから字を彫れ。しんどなったら交替せい。とにかく一本の石にいつも二人はかかっとれ」
「なあるほど…それならできるかも知れんのう」
「よっしゃ、やろうじゃないか。これで、こんぴらさんがお救いできるなら、石工みょうりにつきるぞ」
「おう、やろやろ」
そうと決まったら、ちょいとの間も惜しい。いそいで丁石を、仕事場に一基、残りの三基は前の道にならべた。
「ほんなら、わしが一番乗り!」
元気なものらが石にとびついた。
そのころ、こんぴら本殿でも大さわぎじゃった。
こんぴら権現の像を脇へ移し、わきの不動明王を正面に…
つまり場所の入れ替えをしよったんよ。
つまり場所の入れ替えをしよったんよ。
なにしろ、大切なお像じゃ。いためたら取り返しがつかん。
大工のとうりょうも、手伝う若い衆も一生懸命じゃった。
足場をかため、力じまんがお像を抱きかかえた。
大工のとうりょうも、手伝う若い衆も一生懸命じゃった。
足場をかため、力じまんがお像を抱きかかえた。
「なうまく、さんまんだ、ばさらだん、さんだ…」
恭恵さんは、じゅずを押しもんで念じた。
ようよう、無事、不動明王が正面に祭られた。
ローソクに灯をともして見上げると、右目をカッと見開き、くちびるをグッとかみしめた。
おとろしいお顔が、皆にはこの上なく頼もしゅう拝めた。
門前では相変わらず、カッツンカッツン、ノミ音が勇ましかった。
炊きだしの握り飯も交替でほうばった。
たくさんの提灯に灯がともされる頃、ようよう、もとの字が消せた。これから本番。弥平次が気合いを入れた。
「ええか?急ぐいうても、ええ加減な仕事はするな。末代まで残るものぞ」
ひとりは上から、ひとりは横から、カッツンカッツン。
- ノミがちびたら、かじ屋に走って焼きを入れ直した。
なんぼ交替でも人数に限りがある。夜の更けるとともに皆だんだん疲れがでてきた。
(朝までにできろか?)
その不安を打ち消すように、誰かが般若心経を唱えだした。
すると、手待ちのものらの大唱和となった。
「かんじぃざい、ぼうさつ、ぎょうじん、はんにゃ…」
それに力を得て、ノミ音が勢いを取りもどした。
「できたっ」
五基の丁石が彫り上がったとき、朝日が山の端を離れた。
みなの顔がぱっとかがやいた。
さわやかな、こんぴらの里の夜明けじゃ。
丁石を積んだ荷車が走り去る。境内が掃き清められる。
恭恵さんは、静かにみなの衆と役人を待った‥‥。
現在、あのときの一基(不動殿大門へ三十丁)が、 一夜彫り石として、仁王門のそばに大事に据えられとる。じゃが、これらを語る人はもう誰もおらん。身の丈七尺五寸の仁王さんだけが知ってござるのよ、のう……。 おしまい
物語はおしまいなのですが、境内の建築物は「おしまい」ではありません。金比羅堂の上には、まだ堂宇があるのです。
金毘羅神社から、さらに参道をのぼっていくと
現れたのは大師堂です
全景図を見ると、この寺は、今は満願寺という寺院ですが金毘羅の神殿や本殿が境内の中にあります。神仏分離以前の神仏混淆の姿を維持した宗教施設ともいえます。
その成り立ちを考えると
「熊野信仰 + 修験道(不動明王) + 弘法大師信仰 + 金毘羅信仰」と時代とともにその時代の流行の信仰を受入て混淆してきたことがうかがえます。
近世のはじめに金比羅大権現を厄除け守護神として勧請し、神仏混交の寺として修験山伏のてによって創建されたのでしょう。明治期の廃仏稀釈で一時期廃寺になったようですが、再建されたときには神仏分離以前の形を維持したようです。そこには信徒の根強い信仰が支えになったのでしょう。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
成重芙美子 こんぴらの一夜彫り石 (愛媛県越智郡朝倉村) ことひら52 H9年
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
成重芙美子 こんぴらの一夜彫り石 (愛媛県越智郡朝倉村) ことひら52 H9年
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