明治時代の小学校の修学旅行とは、どんなものであったのでしょうか
それを教えてくれる文章を見つけましたので紹介します。テキストは「和田仁 象郷尋常小学校の修学旅行と運動会 ことひら53 H10年」です。まず、小学校の修学旅行はいつごろから始まったのでしょうか。
高松高等小学校の初期の修学旅行について見てみましょう。
高松高等小学校の初期の修学旅行について見てみましょう。
高松の高等小学校は五番丁にありました。現在に中央公園にあたり、石碑が建てられています。
荒井とみ三『高松今昔記』(第二巻)に、「三泊四日の修学旅行」の題で、次のような徳田弘氏の思い出話しが載せられていますので要約して紹介します。
荒井とみ三『高松今昔記』(第二巻)に、「三泊四日の修学旅行」の題で、次のような徳田弘氏の思い出話しが載せられていますので要約して紹介します。
高等小学校の二年(12、3歳)の年、明治32年1月の真冬に高松から琴平を経て、観音寺・詫間・多度津・丸亀を回って帰校する三泊四日の修学旅行に出かけています。全員が男子です。今のように乗物を利用するスケジユ―ルとは違って、
「足並演習の規模をひろげたような汽車旅行と徒歩をおりまぜた、キツイ修学旅行」
であった。足並演習というのは、兵隊の行軍に似てるところから名付けられた用語で、遠くまで自分の足で歩くことをモットーにした「遠足」のことである。
「キツイ足並演習」の実態は?
讃岐の鉄道は、讃岐鉄道会社が明治22年、琴平・多度津・丸亀間で開業したのが始まりです。その8年後の明治30年に丸亀から高松にまで延長されます。この修学旅行が行われたのは高松延長後、まだ二年と経っていなかった時期です。鉄道延長が修学旅行実施計画の契機になっていたようです。以後も、新しく鉄道が開通すると、その方面へ行先が代わっていくことから推測できます。
徳田少年一行の修学旅行コースを辿ってみます。
「西浜の高松駅から汽車に乗って琴平へ向かった。生徒の大部分は、はじめての汽車旅行であった。琴平に到着すると、こんぴらさんに参詣して「芳橘」(内町の敷島旅館?)という宿屋に泊まった。夜になって降り出した雨が翌朝もあがらなかったので、宿屋の番頭が子どもたちに退屈しのぎの落語を語って聞かせてくれた。そのうち氷雨もあがったので、少し予定には遅れたが、琴平を出発し、観音寺の町まで足並演習をした。乗り物を利用しようにも、この二つの町の間には電車もバスも通っていなかった」
西浜の初代高松駅(明治末の地図)
ここからは西浜にあった初代に高松駅(現盲学校周辺)から汽車に乗ったことが分かります。西浜は江戸時代は岩清尾八幡の社領でしたから明治になっても田んぼが広がっていました。そこに西から線路が伸びてきて田んぼの真ん中に新しい駅ができたようです。それを描いているのが下の絵です。
ここから汽車に乗って終点の琴平まで汽車で行っています。琴平・多度津・観音寺間に鉄道が開通するのは、第一次大戦の始まる大正三(1914年)12月のことです。琴平から観音寺は歩くしかなかったのです。
高松市西浜の初代高松駅
ここから汽車に乗って終点の琴平まで汽車で行っています。琴平・多度津・観音寺間に鉄道が開通するのは、第一次大戦の始まる大正三(1914年)12月のことです。琴平から観音寺は歩くしかなかったのです。
「竹の皮でつくった、いわゆる″皮ぞうり″をはいてドンドン歩いた。和服だから靴なぞははいていない。金持ちの息子は麻裏ぞうりだったが、そのうち、みんな足のウラが痛くなってきた。それでも歩いた。大変な修学旅行である」。
季節は1月で真冬です。一団は琴平から善通寺を経て、大日峠を越えるコースを選んでいます。三豊と丸亀平野を結ぶ大日峠・鳥坂峠・伊予見峠は、冬は西風が強く今でも雪が積もって大渋滞が発生することがあります。この時も峠手前から「猛吹雪」となります。
そのころの旅行者のいでたちは
「みんな日清戦争の出征兵士が、外とうを、タテに長く丸太ん棒のようにまるめて両端をヒモでしばって肩にかけていたように、赤ゲット筒を肩から背中へ斜めにくくりつけていた。私たちもそのとき筒状にまるめた赤ゲットを肩にかけ、 一方の肩には弁当を包んだ白いふろしきをタスキがけにしていたが、吹きつける雪にさからいながら、その赤ゲットをひろげて頭から、すっぽりかぶり、目玉だけ出して、ベソをかきながら、吹雪の行進をつづけ」、観音寺の町に着いたときは、「もうとっぶりと暮れ果てて」いた
と記します。
高瀬から豊中を経て観音寺まで「雪中行軍」となったようです。
翌日も強い西風が吹き荒れていたので、観音寺から海岸線づたいに歩いて仁尾に出て名所の平石を見物する予定であったのをやめて、詫間へ抜けて多度津へ直行し、3泊目の宿を取っています。
明治末の国土地理院地図 多度津以西に線路は伸びていないのと、多度津駅が港に接してあることに注目
3日目は桃陵公園で遊び、多度津から乗車するのかと思えば、さらに丸亀まで歩き、市内を見物して、.丸亀から汽車に乗って高松へ帰り着いています。
3日目は桃陵公園で遊び、多度津から乗車するのかと思えば、さらに丸亀まで歩き、市内を見物して、.丸亀から汽車に乗って高松へ帰り着いています。
学校としては、これが初めての修学旅行だようです。
が、「キツイ足並演習」+「雪中行軍」+「経験不足」で難行軍となったようです。修学旅行は、「キツイ足並演習」であり「自分の足で遠くまで歩く遠足」からスタートしていることを押さえておきます。
が、「キツイ足並演習」+「雪中行軍」+「経験不足」で難行軍となったようです。修学旅行は、「キツイ足並演習」であり「自分の足で遠くまで歩く遠足」からスタートしていることを押さえておきます。
象郷尋常小学校(琴平)の修学旅行を見てみましょう。
象郷(ぞうご)村は1890年に苗田村(のうだむら)と上櫛梨村(かみくしなしむら)、下櫛梨村(しもくしなしむら)が合併してできた村です。「象郷尋常高等小学校沿革史」には、修学旅行のことも書かれています。象郷小学校で修学旅行が始まったのは、明治33年からです。先ほど見た高松高等小学校の実施の翌年になります。この時期に、県下の小学校では修学旅行が始まったのがうかがえます。
象郷小学校にはこの時は高等科がなく、尋常小学校就業年数は4年でしたから卒業旅行のような形で実施されたようです。卒業生28人は、明治32(1899)年2月21日、高松市への一日修学旅行を行います。
明治40年のスタンプの入った琴平駅
当時の琴平駅は終点で、現在のロイヤルホテル琴参閣一帯にありました。ここから汽車に乗り、高松に着くと、栗林公園や公園内の県立博物館(32年2月開館・現在の商工奨励館)、師範学校(高松市天神前)、高松電灯会社(内町、28年設立)などを見物しています。参加者のほとんどは初めての高松旅行であったようで、目を丸くして見物していたことが想像できます。
明治40年のスタンプの入った琴平駅
当時の琴平駅は終点で、現在のロイヤルホテル琴参閣一帯にありました。ここから汽車に乗り、高松に着くと、栗林公園や公園内の県立博物館(32年2月開館・現在の商工奨励館)、師範学校(高松市天神前)、高松電灯会社(内町、28年設立)などを見物しています。参加者のほとんどは初めての高松旅行であったようで、目を丸くして見物していたことが想像できます。
「沿革史」を編纂した校長三井興三郎は次のように記しています。
「此時初メテ修学旅行ヲナセシ由、本校児童ノ幸福実二従来ノ児童二倍スルヲ知ルニ足ル」
翌年も卒業生30人が同じコースで実施されます。その後二年間はなぜか実施されていません。再開されるのは日露戦争が始まった37年6月です。行先は多度津・詫間です。
どうして多度津や詫間なの?と疑問に思えます。
明治24年 多度津駅の裏側が港であった
どうして多度津や詫間なの?と疑問に思えます。
旅行目的には次のように記されています。
目的トスル所ハ、日露戦役ニツキ第十一師団出征ノ歓送(見送リ)
当時、善通寺第十一師団や丸亀歩兵第十二聯隊の兵士は、多度津港か詫間港から船出していました。国定教科書に取り上げられた「一太郎ヤあーい」の母の見送りもこの年の8月27日の多度津港でのことを教材化したものであることは以前にお話ししました。
出征する息子を見送る母
善通寺の兵士が詫間へ出るには鳥坂峠を越えて、大見村(現三野町)経由の道を行軍しています。出征兵士の見送りとリンクされることで、中止されていた修学旅行が復活したのかも知れません。学校行事が国家意識の涵養と結びつけられていく過程が見えてきます。多度津港
修学旅行の一行は多度津へ出ていますが、汽車に乗ったという説明はありませんから「足並演習」で、多度津街道の「魚道」を利用したのでしょう。観音寺に向けての予讃線は、まだありません。そこで「汽船ノ力ヲかリ(借り)テ」詫間に向かっています。
当時の多度津港は、大型船が入港できる讃岐の拠点港で丸亀港や高松港を凌駕していました。蒸気船となった金毘羅船や各地から神戸・大阪に向かう客船も寄港し、尾道や鞆との間にも旅客船が就航していました。まさに四国の玄関口として機能していた黄金期に当たります。
多度津港の出港時刻表 神戸・大阪・鞆・尾道へと航路が開かれていた
ここから小型の蒸気船をチャーターして詫間を目指したようです。ところが慣れない児童たちは「悉ク」船酔いしてしまったようです。
ここから小型の蒸気船をチャーターして詫間を目指したようです。ところが慣れない児童たちは「悉ク」船酔いしてしまったようです。
「翌日、元気旧二復セシヲ以テ、粟島航海学校(明治十年設立)ヲ参観」
粟島は目と鼻の先ですが「然ルニ児童悉ク酔ヒ、遂二帰校ノ予定ヲ変更」し、もう一泊することになっってしまいます。こうして出征兵士を「翌日又歓送(見送り)シテ帰」路につきます。詫間から鳥坂峠越えならば象郷小学校まで約20㎞になります。こうして2泊3日の「本校創立以来ノ大旅行」は、多くのハプニングを乗り越えて修了します。
初代多度津駅 西はすぐに多度津港
復活したその後の修学旅行を見ておきましょう。
明治39(1906)年正月、高等科と尋常科4年の78人が校長と4人の職員に引率されて、高松・八栗・屋島への修学旅行を行っています。この時の費用は25銭、ほかに「米五合」持参の旅です。最初に紹介した高松高等小学校の場合が一円でした。
明治22年開通当時の讃岐鉄道時刻表 終点は丸亀駅
当時鉄道運賃は、並車両利用で1マイル1銭5厘です。琴平・高松間は27マイルなので「27マイル×1,5銭=片道約40銭」という計算になります。割引運賃だったとしても、ほかに宿泊料なども必要です。全額で25銭というのは、割安感があります。
翌年の明治40(1907)年2月は、高等科卒業生は観音寺へ1泊2日の修学旅行を実施しています。この時も予讃線未開通なので汽車利用なしの「足並演習」です。
年度が改まった四月には、高等科三・四年の男子が箸蔵・池田方面に2泊3日の修学旅行を実施しています。琴平ー池田間の土讃線が開通するのは昭和になってからなので、この時も大久保諶之丞が開いた四国新道を徒歩で越えての「キツイ修学旅行」だったはずです。
高等科二年男子は1泊2日で、琴南町の大川山登山。高等科1年と高等科女子と尋常科三・四年は滝宮地方に1泊2日の旅行。残り尋常科1・2年は大麻山に日帰りの遠足が行われています。全て徒歩です。
明治36年の時刻表 左が尾道=多度津航路利用
明治43(1910)年4月には、初めて海を越えて3泊4日で岡山方面に出掛けています。
この時にどのようにして瀬戸内海を越えたのでしょうか。
宇高連絡船の開通はこの年6月12日のことで、4月にはまだ就航していません。多度津からのチャーター船を利用したのでしょうか。どちらにしても宇高連絡船就航前の岡山行きです。時代のひとつ先を修学旅行も目指していたようです。
以後は、尋常科の修学旅行は1泊2日で高松・屋島へ、高等科は3泊4日で岡山地方へ行くのが、定例コースとなっていきます。
例外として大正5(1916)年4月に、日帰りで川之江の奥ノ院へ、翌々年の五月には2泊3日で別子銅山への修学旅行を行っています。これも鉄道年表を見ると、大正5年に予讃線が川之江まで延長したことによるものだと推測できます。
こうしてみると、宇高連絡船就航や予讃線の延長などによって、鉄道や船を利用して遠距離への旅行が可能になったことと修学旅行の行き先も関係していることがうかがえます。それでも修学旅行には歩くことがつきものでした。荒井とみ三さんは次のように指摘します。
予讃線が延長され、多度津駅も移動
こうしてみると、宇高連絡船就航や予讃線の延長などによって、鉄道や船を利用して遠距離への旅行が可能になったことと修学旅行の行き先も関係していることがうかがえます。それでも修学旅行には歩くことがつきものでした。荒井とみ三さんは次のように指摘します。
「歩け歩けの旅行」を、学校側は修学旅行と呼び、家庭では遠足といい、新聞記事では兵隊の行軍あつかいに、「足並演習」の字を使っていた
修学旅行の教育目的が、単に社会見学というだけでなく、身体の鍛練や忍耐力の養成と、さらには国家意識の涵養におかれていたことを押さえておきます。それが高度経済成長期になってバスによる観光旅行に重点を移しすぎたときに「原点復帰」をめざし「遠くまで歩く遠足」復活が叫ばれることにもなったようです
大正・昭和になると、伊勢神宮の参拝を兼ねた「参宮旅行」が主流になります。
その先駆けとなる「天皇陵巡拝旅行」が明治44(1911)年8月に行われています。これは、学校単位の実施ではなく、香川県教育会が主催して県下一般から参加者を募ったもので、総勢76人が大阪・奈良県内の御陵を巡拝しています。指導的な教員のモニター旅行のようなものです。
さらに昭和3(1928)年に御大礼の後、京都御所の拝観が許されるようになります。これ以後は、伊勢、奈良に加えて京阪神も含め、5泊か6泊の修学旅行が多くなります。その背景には「整備された鉄道網 + 旅行費負担ができる保護者の経済力向上 + 皇国史観と天皇制高揚」などがあったようです。これも戦時体制下体制が強まる昭和15(1940)年には「修学旅行制限」の通達が出され、全国的に中止されるようになります。
初代多度津駅
以上をまとめておきます
①明治期の遠足や修学旅行は「キツイ足並演習」で、一部に開通した汽車が利用された
②日露戦争時には戦意高揚のために多度津や詫間に行き、出征兵士を見送る修学旅行も行われた。
③修学旅行の行き先は、宇高連絡船や予讃線の延長などの交通網の整備が敏感に反映され変化している。
④昭和になると整備された鉄道・客船網を使って、畿内への5、6泊の修学旅行が始まる
⑤ここには「伊勢神宮 + 天皇陵巡り + 京都御所拝観」などの天皇制を体感させ国民意識の高揚をはかるという当時の国民教育の目標が、それを下支えしていた
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「和田仁 象郷尋常小学校の修学旅行と運動会 ことひら53 H10年」
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tono202
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