金刀比羅宮へ通じる土佐伊予街道の牛屋口には69基もの石灯籠が並んでいます。これらの石灯籠は『金毘羅庶民信仰資料』(第二巻)にも載せられていて、以前に次のようにまとめておきました。
①刻まれた寄進者名から、ほとんどが土佐の人たちによる奉納であること②明治6年から明治9年までの4年間に集中して建立されていること。③高知の各地の講による寄進が多い。その中でも伊野の柏栄連のものが一番多い
燈籠を見ていて気付くのは伊野町の「柏栄連」と刻まれたものが多いことです。
「柏栄連」と刻まれた燈籠は12基あります。さらに調査書をみてみると 「土佐国伊埜沖 柏栄連」と記録されているのもあり、これを加えると13基になります。土佐全体からみると13/69が伊野の柏栄連によるものです。これは土佐の城下町の講よりも多い数になります。それだけの信仰心と、経済力を持つ人たちが伊野にはいたことがうかがえます。
さらに柏栄連の燈籠の建立年を見ると、明治7年1月と10月の2回だけなのが分かります。寄進人名は講元(世話人)が延べ39人、寄進者が延べ172人となります。
さらに柏栄連の燈籠の建立年を見ると、明治7年1月と10月の2回だけなのが分かります。寄進人名は講元(世話人)が延べ39人、寄進者が延べ172人となります。
牛屋口に13基の燈籠を寄進した伊野の当時の背景を見てみることにします。テキストは「広谷喜十郎 土佐和紙の伊野町と金毘羅庶民信仰 ことひら53 H10年」です。
土佐灯籠(牛屋口)
伊野町には「紙の博物館」や紙すき体験ができる工房もあり、土佐和紙の本場だったことは以前から知っていました。この町が「和紙の町」として有名になるのは、土佐七色紙を生み出した地だからのようです。江戸時代後期にまとめられた『南路志』には、次のように記されています。
戦国時代末期の頃、土佐和紙の祖といわれた安芸家友と養甫尼とが、七色紙を考案して、慶長六年(1601)に土佐に入国した親藩主山内一豊に献上したところ、以後「御用紙」として指定された
しかし、なぜかこの製紙法を教えた恩人である伊予の旅人新之丞の名前は出てきません。この製紙法が藩外にもれるのを怖れ、彼を惨殺したという伝承が今も語り継がれています。彼が惨殺されたとされる仏が峠には供養のための古びた石仏とれた「紙業界之恩人新之丞君碑」が建てられています。
江戸時代初期から、伊野町を中心にして製紙業が発展するようになります。七色紙を考案した安芸家友は、藩庁から給田一町と成山の総伐畑(焼畑)を支給され、御用紙方役に任命されます。24人の紙漉人に江戸幕府への献上紙や藩主用の御用紙を漉かせます。彼らは特別の保護をうけ、田畑を与えられ、紙の原料を藩内全域から強制的に集めることができ、藩有林(御留山)の薪を自由に燃料として伐採する権利も得ていました。
ある意味、藩は官営マニファクチャーを組織して、その運営を安芸家友にまかせたとも云えます。そのため安芸家は、藩のきびしい監督下におかれ、製品を他に販売したり、紙漉人が国外へ旅行することも禁止され、縁組にまで干渉されるという徹底した管理下に置かれます。「紙=お上」で「御用紙」の荷物がさしかかると、武士でさえ道を譲って敬意を表し、庶民たちはこれを見かけると低頭して見送ったとも伝えられます。
七色紙とは「黄色」、「紫色」、「浅黄色」、「桃色」、「柿色」、「萌黄色」、「青土佐(朱善寺紙)」の七種類の色紙です。
やがて各地に製紙業が発達していくと、藩は宝永六年(1709)に「御用紙」、正徳四年(1714)に「御蔵紙」を設定して、紙の専売制の強化をはかり藩の財源を確保しようとします。いわゆる重商主義による制限がかかります。財政窮乏になやむ藩庁は、紙の専売制をさらに強化しようとして宝暦二年(1753)に国産方役所を設け、国産問屋を設置します。
ところが、宝暦五年(1755)の津野山騒動にみられるように農民たちのはげしい抵抗にあいます。このしっぺ返しの結果、宝暦十年(1760)に専売制を廃止して、藩へ割当て分を納入した後は、残った分を「平紙」として自由に販売することを認めるようになります。この結果、自由な生産・販売権を手にした業者達の生産意欲は上昇し、平紙の生産はますます盛んになります。そして幕末には、土佐全体で製紙業者が一万五千戸余り、年産出額が七百万束にも達し、上方市場では長門国の紙の生産に匹敵する地位をえて、土佐和紙は全国的な地位を築きます。
ところが、宝暦五年(1755)の津野山騒動にみられるように農民たちのはげしい抵抗にあいます。このしっぺ返しの結果、宝暦十年(1760)に専売制を廃止して、藩へ割当て分を納入した後は、残った分を「平紙」として自由に販売することを認めるようになります。この結果、自由な生産・販売権を手にした業者達の生産意欲は上昇し、平紙の生産はますます盛んになります。そして幕末には、土佐全体で製紙業者が一万五千戸余り、年産出額が七百万束にも達し、上方市場では長門国の紙の生産に匹敵する地位をえて、土佐和紙は全国的な地位を築きます。
製紙業の発展につれて、伊野町は和紙の集散地の在郷町として発展します。
明治初年には、この町では県下の約二割の和紙を生産し、県全体の販売量の半分を占めるようになていたようです。明治末期には、仁淀川筋に散らばっていた原料扱いの商人や紙問屋も現在の伊野町の問屋坂に集まってきます。業者集中の生み出した効果は大きく、その経済力は一段と高くなり、工場生産を展開する業者も現れます。
この時期に御用紙づくりの伝統的な技術を受け継いでいた吉井源太は、紙漉き用の桁を大型化すると共に、笙員を精巧なものにすることによって、土佐和紙の品質と能率の大巾な向上を実現しました。彼が取得した新案特許は28種類に及ぶといわれ、彼の著書『日本製紙論』に、その技術が詳しく記されています。
「土佐典具帖紙」
「土佐典具帖紙」は、はじめは岐阜県で作られた薄紙でした。これを吉井源太が笙貝桁に工夫して、「かげろうの羽」ともいわれる世界で最も薄い紙を作り出します。この紙は昭和48年には国の重要無形文化財(記録選択)に指定されています。
土佐の薄葉雁皮紙は、七色紙の伝統的製紙法による土佐和紙の一つですが、薄葉で墨汁ののりがよく、染み込みません。その特性から騰写印紙、版画用紙、日本画用紙など多方面に利用されることになります。この紙は昭和五十五年に県の無形文化財に指定されています。こうして幕末から大正時代にかけて伊野は和紙の町として大きく飛躍したのです。
伊野の琴平神社
土佐電伊野駅の前を愛嬌のある狛犬に迎えられ鳥居をくぐって階段を登っていくと、伊野の琴平神社が鎮座しています。
「神社明細帳』によると、次のように記されています。
「天保十三年二月坊ヶ崎へ宮殿を建築し、十月遷座す。坊ヶ崎は伊野村の町入口にある。この神社の出来た天保十三年から金毘羅宮と蔵王権現の遥拝所を神社の近くに定めた」
「伊野、琴平神社の金石文」にも、次のように文言があるようです。
「遥拝所土地開発称石築頭取」「森木重次右衛門自建之七十七中又」「弘化二年乙巳二月九日成就」
ここからは琴平神社が建築されたのが今から約200年前の天保13年(1816)で、その約20年後の弘化二年(1845)に、神社本殿前の広場を遥拝所として整備したことが分かります。また、同時に勧進されたのが蔵王権現ですから、修験道山伏の手によって行われたことがうかがえます。
境内にある手水鉢には
境内にある手水鉢には
「嘉永四(1857)年辛亥十月吉日 御用紙漉伝右工門 同源二郎三輪屋瀬助 仙代屋梶平 徳升屋金次郎 高岡村石工文次作」
と刻まれています。それに、「永代月燈」には「百姓伊三郎 百姓藤次 百姓貞次(略)安政四巳五月令日」の銘があります。もう一つの「永代月燈」には「慶応三(1867)丁卯十月令日」とあり、北山・枝川地区の農民によって明治直前に寄進されたものであることが分かります。
これらの石造物から岡本健児氏は、伊野の琴平神社の発展を次のように記します。
「安政四(1857)年、慶応三(1867)年の永代月燈は琴平神社建立以後の神社の拡張を物語るものであり、その信仰が伊野から周辺の農民に及んだことを示している。さらに、その後狛犬、鳥居、玉垣など造成され、特に狛犬は「明治十三辰年六月令日塚地村石工井上五平次」とあり、琴平神社の信仰が農民層から町民層へと広く波及したことがわかる」
これらは讃岐の金毘羅本社の発展の軌跡とも符合します。金毘羅が全国的なブームになるのは、19世紀になってからです。このような発展ぶりから琴平神社は、明治12年に村社になっています。近年、発見された神社の棟札には「明治四拾三(1910)年二月 本殿葺替 扮葺」と記されています。ここからは長岡郡五台山村(高知市)の大工を雇用して粉(こけら)葺に葺替えをしていることが分かります。
琴平神社の境内は、句碑の庭としても整備されています。
「春の夜はさくらに明けて仕舞いけり」
の句を刻んで建立したものです。
伊野町琴平神社
芭蕉の句碑の古いものは文化、文政年代に建てられています。これらの句碑は、芭蕉の遺徳を偲んで「社中」とか「連」とかの俳人仲間の組織が資金を集めて建立されたものが多いようです。幕末期は、各地在郷浦町が経済的に急成長した時期で、経済的に裕福になった商人たちを中心にして、俳句吟社がつくられ、俳句人口が急速に増加していった時期でもあるようです。伊野町の場合も、先ほど見たように製紙業が急成長していきます。それにつれて、俳句人口も増加して、数多くの句碑が建立されるようになります。またこの神社の境内には、明治時代から昭和初期にかけての紙業功労者の大きな記念碑が8つも建っています。まるで「碑林」のような光景です。
以上から伊野の当時の状況を考えて見ると次のようになります。
①19世紀初め以後、伊野では伝統的な和紙産業が着実に成長し、関係業者が成長し富裕層を生み出していた②明治初年には、伊野は県下の約二割の和紙を生産し、県全体の販売量の半分を占めるようになった。③すぐれた技術力を活かし、他の生産地に先駆けて大型化や大量生産化への取組みも始まった。
つまり、牛屋口に13基もの燈籠を寄進した伊野町の「柏栄連」の講員172名にとっては、商売や稼業がうまくいき未來に希望がもてる環境の中にいたことがうかがえます。
明治7年という年は、ある意味エポックメイキングなとしでもありました。
金毘羅崇敬講社が設立された年でもあるのです。崇敬講社については以前にお話ししましたが、「取次定宿制度」で、参拝者が安心して宿泊できるように講社が定めた宿が指定され、金比羅詣でが安全で便利に行えるようになりました。ここで燈籠勧進までの過程を物語り化しておきましょう
金毘羅崇敬講社が設立された年でもあるのです。崇敬講社については以前にお話ししましたが、「取次定宿制度」で、参拝者が安心して宿泊できるように講社が定めた宿が指定され、金比羅詣でが安全で便利に行えるようになりました。ここで燈籠勧進までの過程を物語り化しておきましょう
④伊野の琴平神社の整備とともに、讃岐本社の金比羅講である「柏栄連」の講員も増えた。讃岐の金毘羅本社への参拝熱が高まってきた。
⑤明治になって移動の自由が保障され、金毘羅崇敬講社も整備され、讃岐への道は心理的にも経済的にも近くなった。
⑥こうして「柏栄連」の講員の中から集団での金毘羅参りが行われることになった。
⑦土佐伊予街道を歩いて参拝する中で、道標や燈籠のほとんどが伊予の人たちによって寄進されたものであることに気づき、土佐人のプライドが高まる。そんな中で牛屋口までくると、土佐の燈籠がいくつか建立されていた。これを見て、講員に呼びかけて、ここに「柏栄連」と刻んだ燈籠を寄進することが提案された。帰って講員に計るとほとんどの人たちの賛同を得て、燈籠寄進が行われることになった。
土佐灯籠(牛屋口)
3年後の明治10年にも組織的な参詣がおこなわれています。
この時の記録は、地域名しか記されていないので詳しくは分かりませんが、伊野周辺の30ケ村から参詣団になっています。ここからは伊野の琴平神社を中心して、周辺部の農村にまで金毘羅信仰がひろがっていることがうかがえます。このような土佐の集団参拝は、漁村にも波及します。そして、かつお船団の船員が漁の始まりや終わりに参拝に訪れ、そして花街で派手な精進落としを行うようになっていきます。
この時の記録は、地域名しか記されていないので詳しくは分かりませんが、伊野周辺の30ケ村から参詣団になっています。ここからは伊野の琴平神社を中心して、周辺部の農村にまで金毘羅信仰がひろがっていることがうかがえます。このような土佐の集団参拝は、漁村にも波及します。そして、かつお船団の船員が漁の始まりや終わりに参拝に訪れ、そして花街で派手な精進落としを行うようになっていきます。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「広谷喜十郎 土佐和紙の伊野町と金毘羅庶民信仰 ことひら53 H10年」
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