
元暦元年(1184)九月小十九日乙巳。平氏一族。去二月被破攝津國一谷要害之後。至于西海。掠虜彼國々。而爲被攻襲之。被發遣軍兵訖。以橘次公業。爲一方先陣之間。着讃岐國。誘住人等。欲相具。各令歸伏搆運志於源家之輩。注出交名。公業依執進之。有其沙汰。於今者。彼國住人可隨公業下知之由。今日所被仰下也。在御判下 讃岐國御家人等可早隨橘公業下知。向西海道合戰事右國中輩。平家押領之時。無左右御方參交名折紙。令經御覽畢。尤奉公也。早隨彼公業下知。可令致勳功忠之状如件。元暦元年九月十九日
意訳変換しておくと
平氏一族は、二月に摂津国一谷の砦で敗北し、九州方面に撤退し、西国諸国を略奪・占領しました。逃亡した平氏を討つために、橘次公業を一方の先陣として軍隊を組織し出発させました。その際に橘次公業の祖先は、讃岐の国司名代だったので、その縁で讃岐国へ行き、平家討伐軍の組織化を行いました。源氏の御家人になっていない讃岐の武士達を勧誘し、討伐軍に参加させようと考えたのです。源氏に対して忠誠を誓い、共に戦おうとするものは、名簿を提出するように。橘次公成が呼びかけました。
この報告に対して、次のような頼朝様の命令と花押があります。
命令する 讃岐国の御家人等へ早々に橘公業の命令に従って、山陽・九州の西海道の合戦に出かけること 右の讃岐の武士達、平家に占領されていながら、源氏に味方するとの名簿を見て、頼朝様は、殊勝である。早々に橘次公成の指揮に従って、手柄を立てるようにとおっしゃった。これが証拠書である。元暦元年九月十九日
讃岐国の武士たちに対し、公業の命令に従つて九州へ向かい合戦に参加することを命じています。本文中に見える「交名折紙」に当たるのが、続けて掲げられている讃岐国御家人交名(名簿リスト)です。
讃岐國御家人注進 平家當國屋嶋落付御坐捨參源氏御方奉參京都候御家人交名事①藤大夫資光同子息新大夫資重
同子息新大夫能資
藤次郎大夫重次同舎弟六郎長資
②藤新大夫光高
③野三郎大夫高包
④橘大夫盛資⑤三野首領盛資
⑥仲行事貞房
⑦三野九郎有忠
三野首領太郎同次郎
⑧大麻藤太家人右度々合戰。源氏御方參。京都候之由。爲入鎌倉殿御見參。注進如件。元暦元年五月日
藤は藤原氏の略です。讃岐藤原氏の初代章隆は、綾貞宣の女子が「家成卿讃州国務の時、召さるるにより」生まれた子で、その関係により藤原姓を継いだとされます。
①藤大夫資光は、新居氏で香川県高松市国分寺町新居
②藤新大夫光高は、大野郷で香川県高松市香川町大野。
③野三郎大夫高包は、阿野郡林田郷
④橘大夫盛資は、鵜足郷(現宇多津町)
⑤三野首領盛資の首領は、三野郡の郡司。
⑥仲行事貞房は、那珂郡で丸亀市に郡家町。行事は郡衙の役人。
⑦三野首領太郎は、郡司盛資の息子。
⑧大麻藤太家人は、香川県善通寺市大麻神社で金毘羅山の隣。
ここには14名の讃岐武士の名前が挙げられています。讃岐武士団の中で、最も早い源氏の御家人となった人たちになります。今回は彼らの動きと、源氏方についた背景を追ってみたいと思います。
テキストは「坂出市史通史上 中世編2020年」です。

一の谷合戦での敗北後、平氏は讃岐の屋島を本拠として瀬戸内海を中心とする西国支配を行おうとします。これに対して頼朝は、まず北九州を攻撃させるために、範頼を平氏追討の指揮官として派遣します。範頼が京都から出発したのは9月1日のことです。これに先んじて、先陣として橘公業は讃岐国に赴いて味方になる武士を募ろうと動いています。実は、この橘公業の存在が大きいようです。
橘公業(きみなり)とは、どんな人物なのでしょうか?
橘 公業は、橘公長の次男として誕生します。吾妻鏡治承(1180)年12月19日条には、この日に、右馬弁橘公長が子息の橘公忠・橘公成(業)を伴い鎌倉にやって来たと記します。父公長は、もともと平知盛の家人で、弓馬の道の達者で、戦場に望んでの智謀は人に勝っていたと記されています。しかし、平氏の運が傾き、故源為義への恩儀もあつて源氏に付くことにしたとされます。彼らは頼朝に認められて源氏の御家人となります。息子の公業は弓術に優れており、鎌倉将軍家の正月に行われる御的始や代替わりの御弓始などでしばしば射手を勤めていたようです。中世の武士のたしなみは、近世のように刀ではなく、乗馬と弓でした。壇ノ浦の那須与一に代表されるように、弓道にすぐれた武人がヒーローだったのです。弓道にすぐれた公業は、武士としての名声も、すでに得ていたようです。


公業の経歴で注目されるのは、『吾妻鏡』の建久六(1195)年2月4日条の次のような記述です。
東大寺再建の落慶供養のため上洛していた頼朝が、勢多橋を渡る際、比叡山の衆徒たちが集まつている中を通るとき下馬の礼を取る必要があるか心配します。頼朝は公業を召し、衆徒たちのもとヘ遣わして、事情を説明させます。
公業は、衆徒の前に脆いて、次のとおり伝えます。鎌倉将軍家が東大寺供養に結縁するため上洛したところ、この群衆は何事か、神慮を恐れていらつしゃいます。ただし、武将の法にはこのような場所での下馬の礼はありません。そこで、乗馬のまま通るが、これをとがめてはなりません。こう言い残して、衆徒の返事を聞かずに通り過ぎ、衆徒の前で弓を取り直す姿勢を見せたら、かれらは平伏した。
公業は武士ですが、平家出身者として小さいときから京都で暮らしていました。そのため色々な場面で、どのように対応するかのマナーを、身につけていたようです。京下りの平家出身者として、鎌倉幕府草創期の頼朝の側近で何かと重宝する人物だったようです。
彼の祖先は衛門府や馬寮などの中央武官として活躍しています。
そればかりでなく讃岐の国司目代を務めていたことが東かがわ市大内町の水主神社所蔵の「大般若経函底書」の記事から分かります。
そればかりでなく讃岐の国司目代を務めていたことが東かがわ市大内町の水主神社所蔵の「大般若経函底書」の記事から分かります。
一 二条院御宇 国司藤原秀(季)能、兵衛佐 七条三位殿内蔵頭俊盛御息 応保三年正月一十四日任御神拝御目代橘馬大夫公盛これを勤む、長寛元年十月二十七日 甲申次御神拝目代右衛門府橘公清これを勤む、公盛息男なり、仁安二年十月一一十五日 己未
ここからは次のようなことが分かります。
①二条天皇の在位中の長寛元(1163)年正月24日に藤原季能が讃岐守に任じられたこと
②1163年10月27日に国司藤原季能の初任神拝を、讃岐国目代橘馬大夫公盛が勤めたこと
③仁安二(1167)年正月20日に藤原季能の父俊盛が讃岐国を知行したこと
④同年の10月25日に公盛の息子公清が初任神拝を勤めていること。国司は季能のままです。
藤原俊盛は、保元二(1157)年から永暦元(1160)年の間、讃岐守を勤めています。その後は息子の季能が国司を務めたことになります。讃岐国は、保元二年以降、長期にわたって俊盛が国司や知行国主を務めていたようです。国司と同じように、目代の地位も父子で相伝されています。ここから橘公盛・公清父子は、藤原俊盛に仕えていた家司だと研究者は考えているようです。
「国司・藤原季能 ー 目代・橘馬公盛」という体制下に置かれた讃岐武士の中には、目代の橘氏との関係を深めた者達が出てきます。
かれらの多くは、府中の国衛で一緒に仕事をしていた在庁官人や郡司の一族であり、目代橘氏の指揮に従って国務を行っていました。その子孫の橘公業が平氏を見捨てて鎌倉に下ると、橘氏との関係が深かった讃岐武士たちの中には、公業を頼って源氏方につくことを願う者達が出てきます。その時期は、京都を占領した木曽義仲と頼朝が派遣した範頼・義経の軍勢が戦っている隙に、平氏が屋島から旧都福原へ拠点を移した元暦元(1184)年1月頃のことです。

ところが、源氏方は讃岐武士たちの寝返りを、すんなりとは受けいれません。
それまで平氏に仕えていた者達を、そのまま味方にはできなかったのでしょう。そこで平氏に一矢を報い、それを土産にして源氏方に受け入れてもらおうと考えます。その標的としたのが瀬戸内海の対岸・備前国下津丼にいた平氏一門の平教盛・通盛・教経父子です。これに対して、見かけだけの攻撃を仕掛けたようです。ところが、裏切りを怒った教経から徹底的な反撃・追跡を受けることになります。讃岐国の武士たちは京都へ逃げ上る途中、淡路島の南端福良にいる源為義の孫たち、掃部冠者(掃部頼仲の子)・淡路冠者(頼賢の子)を頼みにして追撃してきた通盛・教経軍を迎え討ちますが、敗れ去ります。このとき、敗れて斬られた者は130人以上の多数に及んだと『平家物語』巻第九は記します。
院生時代の讃岐国司一覧(坂出市史) 藤原家成の一族が独占している
「国司・藤原季能 ー 目代・橘馬公盛」という体制下に置かれた讃岐武士の中には、目代の橘氏との関係を深めた者達が出てきます。
かれらの多くは、府中の国衛で一緒に仕事をしていた在庁官人や郡司の一族であり、目代橘氏の指揮に従って国務を行っていました。その子孫の橘公業が平氏を見捨てて鎌倉に下ると、橘氏との関係が深かった讃岐武士たちの中には、公業を頼って源氏方につくことを願う者達が出てきます。その時期は、京都を占領した木曽義仲と頼朝が派遣した範頼・義経の軍勢が戦っている隙に、平氏が屋島から旧都福原へ拠点を移した元暦元(1184)年1月頃のことです。

1183年頃の勢力分布図 赤が平家
ところが、源氏方は讃岐武士たちの寝返りを、すんなりとは受けいれません。
それまで平氏に仕えていた者達を、そのまま味方にはできなかったのでしょう。そこで平氏に一矢を報い、それを土産にして源氏方に受け入れてもらおうと考えます。その標的としたのが瀬戸内海の対岸・備前国下津丼にいた平氏一門の平教盛・通盛・教経父子です。これに対して、見かけだけの攻撃を仕掛けたようです。ところが、裏切りを怒った教経から徹底的な反撃・追跡を受けることになります。讃岐国の武士たちは京都へ逃げ上る途中、淡路島の南端福良にいる源為義の孫たち、掃部冠者(掃部頼仲の子)・淡路冠者(頼賢の子)を頼みにして追撃してきた通盛・教経軍を迎え討ちますが、敗れ去ります。このとき、敗れて斬られた者は130人以上の多数に及んだと『平家物語』巻第九は記します。
京都に上つて公業の指揮下に入った讃岐国の武士たちは、在庁官人・郡司系の武士です。
彼らはかつて讃岐国庁で公業の祖父の下で、働いていた者達です。淡路島福良で平氏軍に敗れた讃岐国の武士たちが「讃岐国在庁」軍と呼ばれていることがそれを裏付けます。かれらは福良で敗れた後も、京を目指します。それは公業を頼りとしていて、公業ももとへ馳せ参じればなんとかなるという思いがあったからでしょう。
公業が頼朝に提出した名簿について「度々合戦、源氏御方に参り、京都に候」と記しているのは、下津井と福良での平氏方との合戦を戦い、京都に上って来たことを念頭においているようです。
こうして、公業は讃岐には源氏の味方になる武士たちがいることを知り、それを組織化して平家討伐軍とするアイデアを思いついたとしておきましょう。京都にまでやってきた讃岐武士の拠点を見ておきましょう
参考①藤大夫資光は、新居氏で香川県高松市国分寺町新居参考②藤新大夫光高は、大野郷で香川県高松市香川町大野。高松駅と高松空港の真ん中。参考③野三郎大夫高包は、阿野郡林田郷参考④橘大夫盛資は、鵜足郷で現在の宇多津周辺参考⑤三野首領盛資の首領は、三野郡の郡司。参考⑥仲行事貞房は、那珂郡で丸亀市に郡家町あり。行事は郡衙の役人。参考⑦三野首領太郎は、郡司盛資の息子?参考⑧大麻藤太家人は、善通寺市大麻神社周辺で金毘羅山の隣。
これらの武士たち本拠地や特徴をまとめると次のようになります。
①本拠地は、香東・綾南北両条・鵜足・那珂・多度・三野で讃岐国の西半部に限られている。②讃岐藤原氏や綾・橘両氏の本拠は、新居・羽床・大野・林田・鵜足津と国府の府中を取り巻くように分布している。③ほとんどが在庁官人や郡司で、国府の中核を担っていた武士団である
①については阿波国は、在庁官人粟田氏の一族である阿波民部大夫重能(成良)が平氏の有力な家人で、その勢力下にありました。それに加えて、讃岐の屋島には平氏の本拠地である屋島内裏が置かれています。そのため東讃地域に本拠を持つ武士たちは、平氏の軍事力に圧倒されていたはずです。逆に西隣の伊予国は早くから源氏方についた在庁官人河野氏の勢力下にあって、平氏とたびたび衝突していました。ここからは、中西讃地域の武士達は、東讃地域の武士たちと比べると平氏による圧力が弱かったと研究者は考えているようです。
②③については、讃岐国衛の在庁官人の中でも重要なメンバーであったことが分かります。
それが平氏に反逆したことになります。その背景を考えると「平氏あらずんば人に非ず」という平氏中心の政治運営にあったのかもしれません。平家支配下に置かれた讃岐においても、在庁・郡司系の武士たちはその抑圧に耐えかねて離反したのかもしれません。『平家物語』には、淡路島での合戦で打ち取られた讃岐国の在庁以下の武士は130余人とありますから、平氏に対しての集団的な離反が起きていたことがうかがえます。
それが平氏に反逆したことになります。その背景を考えると「平氏あらずんば人に非ず」という平氏中心の政治運営にあったのかもしれません。平家支配下に置かれた讃岐においても、在庁・郡司系の武士たちはその抑圧に耐えかねて離反したのかもしれません。『平家物語』には、淡路島での合戦で打ち取られた讃岐国の在庁以下の武士は130余人とありますから、平氏に対しての集団的な離反が起きていたことがうかがえます。
まとめておくと
①平家は瀬戸内海の交易ルートを押さえて、西国を重視した下配体制を作り上げた。
②そのため讃岐も平氏支配下に置かれ、平氏の利益追求が露骨となり、在庁・郡司系の讃岐武士の中にも平家に対する反発が高まるようになった。
③そのような中で、中・西讃に拠点を置く古代綾氏の系譜を引く讃岐藤原氏を中心に、平家を見限り源氏に寝返ろうとする武士達が現れる。
④彼らは、平家と一戦を起こした後に、都に駆け込み源氏方の陣に加わることを計画する
⑤その頼りとなったのは、かつて平家方にいたが今は源氏方についていた橘氏であった。
⑥橘氏は、かつては讃岐目代を30年間以上も務めており、在庁官人の武士達と親密な関係にあった。橘氏の子孫公業を頼って、源頼朝へ御家人となることの斡旋を依頼した。
こうして、先駆けて頼朝の御家人となった14人の武士達は、鎌倉幕府の支配下の讃岐において、恩賞や在庁官人や守護所代理として活躍し、大きな発言権を手にするようになる。
綾氏が武士団化した讃岐藤原氏の繁栄も、この時に平家を見捨てて京都に駆け上がり、頼朝の御家人となったことが大きな要因と考えられる。
「綾氏系図」には、讃岐藤原氏の初代章隆は、綾貞宣の女子が「家成卿讃州国務の時、召さるるにより」生まれた子で、その関係により藤原姓を継いだとされます。この話から綾姓から藤原姓への転換が行われたのも、讃岐藤原氏が反平氏の立場にある藤原家成一族との結びつきを示すために藤原姓を称するようになった坂出市史は指摘します。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 「坂出市史通史上 中世編 2020年」
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