昨年末に発行された坂出市史を眺めていると、大束川の旧河道について、鎌田池から福江を経て、現在の坂出駅付近で海に流れ出していたことが書かれていました。これを今回は紹介します。
以前に「神櫛王伝説 坂出の福江は、綾氏の鵜足郡進出の拠点だった?」では、つぎのようにまとめました。
①悪魚伝説の中に出てくる福江は、古代には湊として機能していた②その背後の下川津遺跡は鵜足郡の郡衙跡の可能性がある③福江湊と下川津遺跡は、郡衙と外港という関係にあった。④このふたつを拠点に、綾氏は大束川沿いに勢力を鵜足郡にも拡大した⑤そして飯野山の南側を拠点して、古代寺院法勲寺を建立した。⑥法勲寺は島田寺として中世も存続し、「綾氏系図」を作成し、悪魚伝説普及の核となった。
大束川河口の開発を進めた勢力が力を失った後に、綾氏がとなりの綾郡から入り込んできた。綾氏は福江湊を拠点に、大束川流域の経営を進めたという仮説でした。しかし、資料不足と勉強不足で旧大束川の具体的な河道跡を提示することはできませんでした。今回出されて坂出市史には2つの資料から河道跡を提示しています。それを見ていくことにします。
坂出市史が「証拠資料」として、まず提示するのが国土地理院の土地利用図です。
福江町付近の土地利用図からは、次のようなことが分かります。
①鎌田池の北東隅から北に旧大束川の河道跡が残ること。②鎌田池から南は、貯水池を経て川津町にいたるルートが旧大束川の河道であったこと③坂出商業高校付近は東西に伸びる砂堆上で、ここより北は潟であったこと。
砂堆の北側にある坂出高校のグラウンドの南西隅付近の文京町2丁目遺跡からは、製塩土器が多数出土しています。奈良時代の海岸線は、この付近を東西に伸びる砂堆の北側近くにあったと研究者は考えているようです。
川津の貯水池と讃岐富士
旧大束川の流れを確認しておくと
川津 → 貯水池 → 坂出中学校 → 鎌田池 → 福江
となります。
鎌田池の付近を拡大して見ます。
そのため南北に長い瓢箪池の形をしています。現在はこの間に坂出中学校が、池を埋め立てて造成されています。坂出中学校は、旧大束川河道の上に建っているようです。
下の写真は笠山と角山、鎌田池で区切られる平野部の空中写真(1961年)です。
川津 → 貯水池 → 坂出中学校 → 鎌田池 → 福江
となります。
ブルーのラインが旧大束川河道跡(明治末の地図)
鎌田池の付近を拡大して見ます。
明治末の鎌田池(鎌田池と貯水池はつながっていた)
鎌田池は、旧河道に堤防を築いて作られたため池と伝えられます。そのため南北に長い瓢箪池の形をしています。現在はこの間に坂出中学校が、池を埋め立てて造成されています。坂出中学校は、旧大束川河道の上に建っているようです。
下の写真は笠山と角山、鎌田池で区切られる平野部の空中写真(1961年)です。
上の航空写真からは、次のような事が見えてきます。
①鎌田池北側には整然とした条里制が坂出高校の南側まで広がる。②鎌田池の北東部からは、乱流する大束川旧河道が北に伸びている
丸亀平野でも金倉川や土器川の流路跡の氾濫原には条里制の跡は残りません。ここからは、条里制が施行された7世紀末には大束川は福江を通過して、海に流れ出していたことが分かります。
福江周辺の大束川河道跡
福江は瀬戸内海と川で結ばれており、その河口付近にある港で、瀬戸内海水運に従事する船の拠点となっていたようです。神櫛王の悪魚退治伝説でも福江は、悪魚を退治した神櫛王の上陸地点ですし、悪魚が打ち上げられる所でもあります。福江は重要なステージとして登場することは以前にお話ししました。 福江は川船で、鵜足郡の郡衙があったとされる川津ともつながっていたようです。つまり、川津の外港が福江ということになります。古代においては、鵜足郡の港は宇多津でなく福江で、大束川流域への入口であったことを押さえておきます。
金山・笠山・常山に囲まれた福江を、私は常山の麓の塩田背後の集落くらいに思っていました。しかし、古代には海がここまで入り込んでいたようです。福江という地名は、海が深く良湊を意味する深江が転化したと伝えられています。綾氏系図に、日本武尊の神櫛王が景行天皇の命により悪魚を退治し、福江湊に上陸した記されていること何度か紹介しました。
そして、先ほど見てきたように条里制施行時には大束川は、福江の前を流れて海に出ていました。福江と郡衙があったと考えられる川津までは川船で結ばれていました。古代においては、大束川流域の物資の積み出し港が福江だったことになります。
福江の背後あるのが常山ですが、これは元々は「津の山」でしょう。
福江周辺を歩いてみて感じるのは、瀬戸内海の島の港町を歩いているような印象を受けることです。坂の多い路地と、あちらこちらにいらっしゃる石仏や標識、そしてお堂や庵。古い歴史を背後にもつ集落であることが、歩いていると分かります。そして、かつては富の蓄積もあったことがうかがえます。それが何からきているのかが分からなかったのですが、中世までは交易港であったことが分かると全てが納得できました。 古代の福江と川津の関係については、以前にお話ししたので省略して、中世の福江を今回は見ておきます。
福江
『華頂要略』に引かれた「門葉記」の崇徳院御影関する記事には、次のように記されています。
讃岐国北山本ノ新庄福江村年貢五十五貫文内、半分検校尊道親工御知行、半分別当法輪院御恩拝領、塩浜塩五石、当永享十(1438)年よりこれを定、京着、鯛四十喉、
ここからは、中世には福江は北山本新荘に属していたことが分かります。また年貢に塩5石や鯛40とあるので、半農半漁的な立地を示しているようです。しかし、福江はそれだけではありませんでした。中世交易湊の姿も見せてくれます。
北山本新荘の年貢を運送していた国料船に福江丸という船がいたようです。
宝徳元(1449)年の史料に阿野郡北山本新荘の年貢輸送の国料船である福江丸に、管領細川勝几から次のような下知状が発給されています。
「崇徳院御影堂領讃岐国北山本新庄国料舟之事」崇徳院御影堂領讃岐国北山本新庄国料船福江丸・枝丸等事、毎季拾艘運上すべし云々、海河上諸関その煩い無くこれを勘過すべし、もし違乱の儀あれは厳科に処すべきの由仰せ下さる也、例て下知件の如し宝徳元年八月十二日右京人夫源朝臣(細川勝元)
意訳変換しておくと
「崇徳院御影堂領の讃岐国北山本新庄の国料舟について崇徳院御影堂領讃岐国北山本新庄国料船の福江丸・枝丸(関連船)について、毎年10回のフリー運用を認めるので、海上や河川の諸関において、この権利を妨げることなく通過させよ。もし違乱することがあれば厳罰に処すことを申し下せ。例て下知件の如し宝徳元年八月十二日右京人夫源朝臣(細川勝元)
ここには、京都の崇徳院御影堂へ北山本新庄より年貢を運ぶ福江丸が登場します。福江丸船団も「国料船」で、港や川に設けいれた関所に支払う関料免除の特権を室町幕府より認められていました。摂津国兵庫津と坂出福江を行き来していた福江丸は、福江村を含む北山本新庄の年貢を運んでいた船で、「福江」という母港名がつけられているので、福江には港があり、そこに所属する船を福江丸と呼んでいたのでしょう。ここからは福江には、瀬戸内海交易に携わる輸送船を操る集団もいたことが分かります。
福江丸は、管領細川勝元から崇徳院御影堂用の国料船として、関連船も含めて毎年10艘の運行が認められています。北山本新庄では、塩浜が拓かれ塩の生産が行われていました。荘内の海で水揚げされた鯛とともに福江丸に積載して、京都の崇徳院御影堂へ輸送されたようです。
ところが寛正元(1480)年四月、この春に限つて兵庫南北関で、突然に関料を徴収されます。これに対して崇徳院御影堂衆が幕府へ訴えた文書が残っています。
崇徳院御影堂禅衆等謹んで言上右当院領讃岐国北山本新庄年貢輸送国料船福江丸と号すこと、海河上の諸関その煩い無く勧過の所、今春に限り兵庫両関新国料と号し、過分の関役を申し懸け、剰え以前無為の役銭共に責執の条、言語道断の次第也、所詮応永八年以来の御教書等の旨に任せ、彼の役銭など糾返され、国料船においてはその煩い無く勧過有るべく旨、厳密に御成敗を成し下さるは、御祈祷の専一たるべく者也、傷て粗言上件の如し長禄四年卯月 日
意訳変換しておくと
京都の崇徳院御影堂の禅衆等が謹んで言上致します当院領の讃岐国北山本新庄の年貢輸送を担う国料船福江丸について、海上や河川の諸関を自由に通行できる権利を得ていましたが、今春になって兵庫両関新国料と称し、過分の関銭を徴収されました。従来から支払いを免除されている役銭も徴収されるなど、言語道断の措置です。応永八年以来の御教書の「関銭不用・フリー通行」の原則にもとづいて、徴収した金銭を返還し、国料船に対して今まで通りの権利を保障するように、厳密に御成敗を下さるよう祈祷致しております。粗言上件の如し長禄四年卯月 日
ここからは、次のようなことが分かります。
①北山本新庄の年貢輸送船福江丸に対して、過書が応永8(1401)年に発行され、長期間にわたって関銭免除の特権を行使してきたこと。
②それが長禄四(1458)年卯月になって、突然に、通行税を徴収されたこと、
③それに対して崇徳院御影堂の禅衆が幕府に訴え出ていること。
どうして突然に、通行税を国料船の福江丸に対しても徴収を始めたのでしょうか?
この前年に、興福寺は国料船・過書船の免除停止を発しています。これを受けて北山本新庄国料船に対しても関料免除停止の措置を取ったようです。この背景には、国料船に名を借りて物資を積み込む状況が多発していたからです。兵庫関の関銭は東大寺と興福寺の財源でした。それが減収していたようです。その対応策として、国料船の関料免除を廃止して関料徴収と入関船の管理統制を強化しようとしたのです。
瀬戸内海を物資を積載して航行する船は、東大寺の設置した兵庫北関と、興福寺が設置した兵庫南関で関料を納入しなければなりませんでした。これに習って中世では全国中に関所が出来て、関銭が徴収されるようになります。それが寺社の財源となっていたのです。それを取り払おうとするのが織田信長の楽市楽座になります
兵庫関でも過書船が多くなれば収益が減少するため、過書船への対応には留意していたようです。過書船は年貢物に限定され、商売物を混入して輸送することは禁止でした。しかし、梶取りたちは関料を免れるため、いろいろな抜け道を見つけ、事件を起こしたことが資料からもうかがえます。そこで興福寺や東大寺は、幕府へ過書停止の訴えを起こし、幕府もこれを認めたようです。
以上をまとめておきます
①古代の大束川は「河津 → 鎌田池 → 福江」というルートで現在の坂出方面に流れていた。
②東西に大束川が形成した砂州が発展し、その南側に潟が形成されていた。
③福江は、笠山まで湾入した潟と、旧大束川の河口に位置し、海運と川船が交錯するジャンクションの機能を果たした。
④大束川を遡った河津は弥生時代以来の集落が発展し、鵜足郡の郡衙跡と考えられる。
⑤その河津と福江は川船で結ばれ、鵜足郡の湊の機能も果たしていた。
⑥このような福江の役割が、中世に作られた神櫛王の悪魚退治伝説にも反映され、福江は重要なステージとして登場する。
⑦中世には、大束川の流れは変更され、宇多津に流れ出るようになり、宇多津に守護所が置かれ繁栄するようになる。
⑧しかし、福江もこの湊を母港に活動する国料船福江丸の存在が史料からは分かり、御供所などとともに瀬戸内海交易に活躍する梶取りたちの存在がうかがえる。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 坂出市史 通史上 中世編
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