崇徳上皇白峰陵墓
前回は白峰寺の発展の原動力が崇徳上皇陵が造られ、その慰霊地とされたことに求められることを見てきました。今回は、白峯寺の発展を経済的な側面から見ていくことにします。近代以前においては、寺社の経済基盤は寺領にありました。これは中世西欧の教会や修道院とも同じです。そのため寺社が大きくなればなるほど、封建領主の側面を持つことになります。白峯寺の場合は、どのように寺領を拡大していったのでしょうか。それを今回も、新しく出された坂出市史中世編をテキストに見ていきたいと思います。 白峯寺は、松山荘と西庄のふたつの寺領を、経済基盤にしていました。
この寺領は崇徳上皇の追善のために建立された崇徳院讃岐国御影堂(後の頓証寺)に附属するもので、後には「神聖不可侵」なものと主張するようになります。そのような主張に至る過程を、まずは松山荘で追ってみます。
この寺領は崇徳上皇の追善のために建立された崇徳院讃岐国御影堂(後の頓証寺)に附属するもので、後には「神聖不可侵」なものと主張するようになります。そのような主張に至る過程を、まずは松山荘で追ってみます。
明治35年国土地理院地形図 松山村周辺
松山郷は、坂出市神谷町・高屋町・青海町・大屋富町・王越町辺り一帯とされます。それがのちには青海町・高屋町の旧海岸地域、さらに崇徳院御陵のある白峰寺一帯を指すようになります。また、崇徳上皇を詠った歌枕として使用されるようになり「白峯=松山」と近世には認識されていたようです。松山荘の荘名は、藤原経俊の日記『経俊卿記』の正嘉元(1257)年4月27日条に「賀茂社司等中す、松山庄替地の事」と見えるのが初見のようです。
ついで、同年7月22日条には「賀茂社と白峯寺相論す、松山庄事」とあり、松山荘をめぐりって、京都の賀茂社と白峯寺との間で訴訟があったことが分かります。4月27日条によると、讃岐国衛の在庁官人が松山荘の見作(実際の耕作地)と不作(休耕地ないし耕作放棄地)について賀茂社の主張を確認し、所当六石を白峯寺より賀茂社へ返付するよう決裁しています。ここからは、松山荘内に賀茂社の社領(鳴部荘の一部?)が含まれていたことがうかがえます。つまり、この時点では松山郷=松山荘ではなく、松山郷には他領が含まれていたことが分かります。どちらにしても、崇徳上皇が葬られて約70年後の13世紀半ばには、白峯寺は松山荘を実質的に管理し、周辺部の賀茂神社の社領にも「侵入」していたことがうかがえます。しかし、松山荘の立荘の経緯については、不明なことが多いようです。。
白峯寺の「公式見解」は、応永十三(1406)年成立の「白峯寺縁起」には、次のように記されています。
安元二年七月二十九日、讃岐院と申しゝを改めて、崇徳院とぞ、追号申されける、その外あるいは社壇をつくりいよいよ崇敬し、あるいは庄園をよせて御菩提をとぶらう、今の青海・河内は治承に御寄進、北山本の新庄も文治に頼朝大将の寄附にてはべるなり、治承・元暦の乱逆も、かの院の御怨念とぞきこえし、
意訳変換しておくと
ここからは白峯寺縁起が寺領の寄進について、次のように主張していることが分かります。安元二(1177)年7月29日、讃岐院(崇徳上皇)の号を改めて、崇徳院して追号し、その外にも社壇を造って追善し、荘園を寄進して菩提をともなった。今の青海(松山)・河内は治承年間に寄進されたもので、北山本の新庄も文治年間に頼朝大将によって寄進されたものである。治承・元暦の乱逆も、崇徳上皇の御怨念と世間は言う、
①「青海・河内」が治承年間(1177~81)に後白河上皇より寄進②「北山本新荘(西庄から現在の坂出市街)」が文治年間(1185)に源頼朝より寄進
ここには2つの偽造・作為があります。ひとつは青海とともに寄進されたという「河内」です。
河内とは、どこのことでしょうか?
「白峯寺縁起」に
「国符(国府)甲知(河内)郷、鼓岳の御堂」
とあります。つまり、国府のあった府中や鼓丘周辺を指しているようです。しかし、ここは国府があった場所で、そこが白峰寺に寄進されたというのは無理があるようです。これは「北山本の新庄も文治に頼朝大将の寄附にてはべるなり」と同じように後世の仮託・作為だと坂出市史は指摘します。河内郷に白峰寺の寺領や荘園が存在したことはありません。
もうひとつは「北山本の新庄(西庄)」です。
これは、後に説明しますが後白河上皇が京都に建立した「崇徳院御影堂」に寄進した荘園です。後白河上皇は、讃岐以外に京都にも「崇徳院御影堂」を建立していたのです。その寺領として寄進されたのが「北山本の新庄(西庄)」です。それを15世紀初頭の「白峯寺縁起」が書かれた時代には、白峯寺が「押領」し、寺領に取り込んでいたのです。それを正当化しようとしていると坂出市史は指摘します。ちなみに「北山本の新庄(西庄)」のエリアは、西は御供所町から福江町を経て綾川までの広大なエリアを有する「海の荘園」だったと坂出市史は指摘します。
これは、後に説明しますが後白河上皇が京都に建立した「崇徳院御影堂」に寄進した荘園です。後白河上皇は、讃岐以外に京都にも「崇徳院御影堂」を建立していたのです。その寺領として寄進されたのが「北山本の新庄(西庄)」です。それを15世紀初頭の「白峯寺縁起」が書かれた時代には、白峯寺が「押領」し、寺領に取り込んでいたのです。それを正当化しようとしていると坂出市史は指摘します。ちなみに「北山本の新庄(西庄)」のエリアは、西は御供所町から福江町を経て綾川までの広大なエリアを有する「海の荘園」だったと坂出市史は指摘します。
白峯寺の荘園 松山荘と西庄(坂出市史より)
本題の青海(松山郷)にもどります。
①の「青海(松山)・河内」が崇徳院の御陵に寄進されたという主張の根拠を、確認しておきましょう。九条兼実の日記『玉葉」の建久二(1191)年閏12月22日には、次のように記されています。
讃岐院(崇徳上皇)と宇治左府(藤原頼長)について、明日発表する内容について、今日すでにその書を見たが内容は次の通りであった。讃岐院(崇徳上皇)について①白峰の御墓所を詔勅で山陵として、その周辺の堀を整備して周辺からの穢れを防ぐ。②御陵を守るための陵戸(50戸)を設ける。③陰陽師と僧侶を現地に派遣して鎮魂させる。④崇徳上皇の国忌を定めること。⑤讃岐国白峰墓所に、一堂を建て法華三昧を行うこと
いま関係があるのは②と⑤です。⑤には崇徳上皇陵の追善のために、後白河上皇が「一堂(崇徳院御影堂)」を建立したとあります。しかし、寺領の寄進については何も触れていません。②には「御陵を守るための陵戸」の設置が記されます。しかし、これは寺領寄進とは別のものです。陵戸とは山陵を守るために設けられた集落です。中国の唐王朝では、長安郊外の皇帝陵墓周辺に有力者が移住させられ、陵墓の管理維持の代わりに、多くの特権を得ていました。これに類するものです。土地の面からすれば料所にあたり、青海(松山郷)に設置されたというのです。戸数50戸でした。松山郷全体を指すものではありません。しかし、白峯寺はこれを拡大解釈し、松山郷自体が白峰寺に寄進された荘園で寺領だと主張するようになります。
古代松山郷の海岸線復元図
綾川流域の条里制遺構
古代の海岸線復元図を見ると、雄山・雌山辺りまでは海で、現在の雌山の西側にある惣社神社あたりに、林田湊があったと考古学者たちは考えていているようです。また青海方面にも入江が深く入り込んでいたようです。その奥に松山津があったことになります。
綾川流域の条里制遺構
「白峯寺縁起」は、その後の寄進について、次のように記します。
①後嵯峨院が、白峯寺千手堂を勅願所として、建長四(1252)年11月に法華経一部を本納②その翌年には松山郷を寄附して、不断法華経供養の料所とした
ここには歴代の院や天皇が堂宇や寺領を寄進したと記します。こうして、松山郷における寺領面積は拡大したというのです。
「建長年中(1249~56)当山勤行役」との貼紙のある「白峯寺勤行次第」には、次のように記されています。
讃岐国白峯寺勤行次第 山号綾松山なり、後嵯峨院御勅願所 千手院と号す、土御門院御願、千手院堂料所松山庄一円ならびに勤行次第、十二不断行法毎日夜番供僧、同供僧二十一口、人別三升供毎日分、分田松山庄内にこれあり
意訳変換しておくと
讃岐国の白峯寺の勤行次第は次の通りである山号は、綾松山、後嵯峨院が御勅願所に指定して千手院と号すようになった。土御門院によって、千手院堂料所として松山庄一円が寄進された。勤行次第は、十二不断行法が毎日夜番で供僧によって奉納されている、供僧二十一人、人別三升供毎日分、分田が松山庄内にある
ここには、白峯寺が後嵯峨院や土御門院の勅願所などに指定され、その勤行が21人の僧侶によって行われていること、そのための分田が松山荘内にが確保されているとあります。21人の僧侶というのは、当時のあったとされる別坊の数と一致します。
このように松山荘は、松山郷青海の料所の寄進をスタートに、その後は後嵯峨院による料所として、郷全体の寄付を受けて立荘されたと白峯寺は主張します。その成否は別にして、13世紀半ばには松山郷全体が白峰寺の寺領として直接管理下に置かれるようになったのは事実のようです。
この時期に白峯寺を訪れているのが高野山のエリート僧侶である道範です。
道範は、建長元(1249)年7月、高野山での路線対立をめぐる抗争責任を取らされ讃岐にながされてきます。8年後に罪を許され帰国する際に白峰寺を訪れたことが「南海流浪記」には記されています。
道範は、白峰寺院主備後阿闇梨静円の希望で、同寺の本堂修造曼茶羅供の法要に立ち合い、入壇伝法を行うために立ち寄ったのです。このとき道範は、白峯寺を
道範は、白峰寺院主備後阿闇梨静円の希望で、同寺の本堂修造曼茶羅供の法要に立ち合い、入壇伝法を行うために立ち寄ったのです。このとき道範は、白峯寺を
「此寺国中清浄蘭若(寺院)、崇徳院法皇御霊廟也」
と評しています。つまり、讃岐国中で最も清く、また崇徳上皇の霊廟地だとしているのです。ここからは鎌倉末期の白峰寺は、讃岐にある天皇陵を守護する「墓寺」として「清浄」の地位を確立していたことが分かります。その背景には、松山郷全体を寺領とするなどの経済的基盤の確立があったようです。
以上をまとめておきます。
①兄崇徳上皇の怨霊を怖れた弟後白河上皇は、追善のために白峰陵を整備し、附属の一堂を建立した。これが「崇徳院御影堂」である。
②「崇徳院御影堂」に寄進されたのが青海(松山郷の一部)で、これが松山荘の始まりであると白峯寺は主張する。
③白峯寺は、青海を拠点に13世紀半ばまでには、松山郷全体を寺領化していき、その支配下に置いた。
④この頃に白峯寺を訪ねた道範は、白峯寺を「此寺国中清浄蘭若(寺院)、崇徳院法皇御霊廟也」記している。
こうして古代の山岳寺院としてスタートした白峯寺は、崇徳上皇の御霊を向かえることで「上皇追善の寺」という性格を付け加え、松山郷を寺領化することに成功します。この経済基盤が、ますます廻国の修験者たちを惹きつけ、多くの子院が山中に乱立する様相を呈するようになるようです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
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