平城京から出てきた木簡の中に
「讃岐国阿野郡日下部犬万呂―□四年調塩」
と記されたものがあります。
ここからは、阿野郡の日下部犬万呂が塩を調として納めていたことが分かります。また『延喜式』に「阿野郡放塩を輸ぶ」とあります。阿野郡から塩が納められていたことが分かります。放塩とは、粗塩を炒って湿気を飛ばした焼き塩のことのようです。炒るためには、鉄釜が使われました。ここに出てくる塩も、阿野郡のどこかで生産されたものなのでしょうか。今回は、坂出周辺の古代の製塩地捜しに出かけて見ることにします。テキストは「坂出市史 中世編 海を取り巻く様相 107P」です
愛知県知多から平城京への塩の送り状
奈良や京都の有力寺社は、塩を手に入れるために、瀬戸内海に製塩地を持っていました。いわゆる「塩の荘園」と云われる荘園です。その中でも。伊予弓削島は「塩の島」と呼ばれるように東寺の重要な塩荘園でした。讃岐でも有力寺社の製塩地がありました。坂出市域の北山本新荘(後の西庄)や林田郷をはじめ、志度荘・三崎荘(庄内半島)・肥土荘(小豆島)などです。
当時の塩は、どのようにして造られていたのでしょうか?
瀬戸内の海浜や島々には、弥生時代中期から奈良・平安時代にかけて営なまれた土器製塩遺跡が200か所以上あります。中でも、吉備と讃岐に挟まれた備讃瀬戸地域は、最も分布密度の高く、このエリアでが製塩の発生地域であることが明らかにされています。
弥生時代は、製塩土器が用いられていました。
備讃瀬戸で発生した製塩法が、古墳時代になると山口市沿岸,芸予諸島,小豆島,淡路島,大阪湾沿岸,鳴戸,和歌山の各地方,さらに九州,若狭湾,東海沿岸へと拡大されていきます。
弥生時代は、製塩土器が用いられていました。
備讃瀬戸で発生した製塩法が、古墳時代になると山口市沿岸,芸予諸島,小豆島,淡路島,大阪湾沿岸,鳴戸,和歌山の各地方,さらに九州,若狭湾,東海沿岸へと拡大されていきます。
製塩土器
6世紀後半~7世紀前半になると、丸底で今までにない大型品の製塩土器が使用されるようになります。その容量は2,000ccにもなり、これまでの製塩土器に比べると2~3倍になります。この土器を「師楽式土器」と呼んでいます。直島の北にある喜兵衛島〈きへいじま〉遺跡群で発見された炉は、それまでのものよりも大型化し、丸底の土器にあわせて底面に石が敷かれています。使用済の製塩土器廃棄量も大量になり、喜兵衛島遺跡群の土器捨て場には実に厚さ1mにもなる製塩土器層が出てきています。
また瀬戸大橋工事にともなう大浦浜遺跡(櫃石島)の発掘調査からは、約20万点にもおよぶ製塩土器や塩水溜・製塩炉が見つかっています。これは、もはや弥生時代の塩作りとは、規模やレベルそのものが違う生産量です。専業化した専門集団がいて、備讃瀬戸地域の海岸部分や島嶼部分に製塩拠点を構えていたことがうかがえます。まさに備讃瀬戸の塩作りが最も栄えた時期とも云えます。そのような影響が塩飽や坂出の海岸部にも伝播してきます。
本島では早い時期から塩作りが行われていました。
7月14日の御盆供事として、「塩三石 塩飽荘年貢内」と藤原摂関家領であった塩飽荘の年貢として塩が上納されています。その内の塩三石は、法成寺の盆供にあてられています(執政所抄)。寺社の行事には、清めなどに塩が大量に必要とされました。塩飽の塩は宗教的な行事に使われています。なお近世以前には、「塩飽=本島」と認識されていたことは以前にお話ししました。
塩飽(本島)のどこで塩が生産されていたのでしょうか。
これもはっきりとした史料はありません。ただ、島の北部にある砂浜地帯に「屋釜」という地名があります。これは塩を煮た釜を推測できます。また南部の泊の入江付近は、かつては海岸部が内側に入り込んでいて、干潟が広がっていたようです。その干潟を利用して塩浜が開かれていたと研究者は推察しています。
櫃石島の大浦浜では弥生時代から製塩が行われていました。
その後も塩飽では塩作りが盛んに行われていたことが推察できます。沙弥島でも弥生以来の製塩が引き継いで続けられていたのでしょう。これらを担っていたのは、製塩という特殊技術を持った「海民」の一族であったと研究者は考えているようです。
その後も塩飽では塩作りが盛んに行われていたことが推察できます。沙弥島でも弥生以来の製塩が引き継いで続けられていたのでしょう。これらを担っていたのは、製塩という特殊技術を持った「海民」の一族であったと研究者は考えているようです。
奈良時代の塩作り 製塩土器を使用している
仁和二(886)年に、讃岐国司として菅原道真がやってきます。
赴任した冬に詠んだ『寒早十首』(古代篇Ⅲl3‐田)の中に、「塩作人」について、次のように記されています。
何人寒気早 誰に寒さは早く来る寒早売塩人 寒さは塩作人(塩汲み)に早く来る煮海雖随手 塩焼きは手馴れているけれど衝煙不顧身 煙にむせて身を擦りへらしている旱天平價賤 お天気続きは塩の値段を下げちゃうから風土未商貧 この地で塩商人は大もうけ欲訴豪民 お役人訴えたくて、港で待っているんだ。(塩焼きには給料をほんの少ししか渡さず、有力者たちが大もうけしていることを訴えたくて)
ここには塩を作る人の労苦が記されています。周囲を海に囲まれた島々では、生活の糧を得る手段としては海に携わるしかありません。特殊技術をもつ「海民」の活躍の舞台でもあったのです。製塩も古代以来、海民によって担われてきたようです。「塩焼きは手馴れているけれど」、しかし、流通面を塩シンジケート組織に押さえられていたことがうかがえます。中国の塩の密売ルートも同じです。流通組織がシンジケート化し、力を持つようになり生産者(海民)を圧迫します。そのため彼らの生活は、決して楽ではなかったことが、ここからはうかがえます。中世になっても、塩の生産は向上しますが、そこに従事する海民の生活は、あまり変わらなかったようです。
中世の自然浜
中世になると、塩の需要が高まり、塩を多く生産するために塩浜が開発されていきます。
陸地部では、阿野郡林田郷に塩浜が開かれていました。暦応二(1340)年の顕増譲状には、次のように記されています。
「潮入新開田内壱町 塩浜五段内三反坪付等これあり」
と、記されています。ここからは、祗園社執行の一族である顕増が大別当顕賀に譲った所領に塩浜五段があったことが分かります。「潮入」とあるように、満潮の時には潮が入り込み、干潮時に潮が引いて干潟になる地形が利用されていたのでしょう。
オレンジが古代の坂出海岸線
林田郷を上空から見ると、綾川の流域の平地に田地が広がっていて、少し小高くなった微髙地に集落があります。治水工事が行われない古代中世は、洪水のたびに平地は冠水しました。そこで人々は、一段と高くなった微髙地に住居を建てて集住するようになります。これは弥生人以来の「生活防衛手段」でした。中世になると、洪水から田地を防ぐために堤を築き、新たな土地を切り開いていくようになります。
阿野北平野の条里制 条里制施行されていない所は海
綾川平野の南部は条里制跡がありますが、北部にはありません。つまり条里制施工時には、北部は耕地でなかったことを示しています。綾川北部は、その後に開発新田として成立したのです。その際に塩浜も開発された形跡があるようです。具体的には、綾川の河田部の干潟を利用して塩浜を開いていったと研究者は考えているようです。弘安三(1279)年の京都の八坂祇園社の記録に、次のように記されています。
「讃岐国林田郷梶取名内潮入新開田」
林田郷内の梶取名にも潮人新開田が開発され、半分が祇園社領となっていたことが分かります。「潮入新開田」からは、塩浜が開かれ、生産された塩は八坂神社へと送られたことがうかがえます。
「梶取名」という地名が出てきます。
梶取は、荘園所属の「年貢輸送船」を運行する海運従事者(船頭)のことです。梶取名から「梶取」がいたことが推測できます。
綾川左岸に西梶・東梶の地名が残る、その下流は新開
この付近の綾川右岸(東岸)には、いろいろな建物が建っていたことを示す地名が残っています。
綾川左岸に西梶・東梶の地名が残る、その下流は新開
この付近の綾川右岸(東岸)には、いろいろな建物が建っていたことを示す地名が残っています。
「東梶乙」には「蔵ノ元」「蔵元」、「城ノ角」には「蔵佐古」「城屋敷」・「蔵前苫屋敷」「馬場北」から「惣社」には「弁財天西」・「弁財天裏」「東梶乙」には「ゑび堤添宝永六巳新興」、「西梶」には「宮ノ脇」・「宮ノ東堤下屋敷」・「寺裏」・「祇園前」・「祇園前新開」・「祇園東さこ新開」
このあたりが船の「舵取り」たちの居住区だったとされるエリアです。船頭・船乗りや蔵本たちが生活し、蔵が建ち並んでいたとも伝えられます。
東梶乙の「蔵ノ元」・「蔵元」は、綾川の右岸(東岸)堤防から100mほど東の土地です。
このあたりから「城ノ角」の林田小学校付近にかけては、南北に細長い微高地があります。その上に「蔵ノ元」・「蔵元」の地名があるのは、水運に便利な綾川から近い場所に物資管理用の倉庫が立ち並んでいたことをうかがわせます。
また、坂出市立林田小学校の北方の「蔵佐古」・「城屋敷」「蔵前苫屋敷」は、微高地の北端に当たります。そして小高い所に「城屋敷」の古地名があるのは、中世城館があったことを示しているようにも思えます。
このエリアの居住者が海運従事者であり、交易業者で、京都の八坂神社に従属する者として、京都への塩輸送に従事していたとも考えられます。林田郷の綾川流域では、塩田が開発され、塩の生産と塩輸送の集団が集住したとしておきましょう。
このエリアの居住者が海運従事者であり、交易業者で、京都の八坂神社に従属する者として、京都への塩輸送に従事していたとも考えられます。林田郷の綾川流域では、塩田が開発され、塩の生産と塩輸送の集団が集住したとしておきましょう。
京都崇徳院御影堂領であった北山本新荘福江(坂出市福江町)にも、塩浜があった次の記事が残されています。
「讃岐国北山本ノ新庄福江村年貢五斗五貫文内半分検校尊道親王御知行、半分別当法輪院御恩拝領塩浜塩五石、当永享十年よりこれを定、京着」
現在の坂出高校グランド南西角付近の文京2丁目遺跡からは、多数の製塩土器が出ています。ここからは、福江湊の砂州上では古代から中世にかけて塩浜が造られ、塩作りが行われていたことが分かります。島嶼部の沙弥島のナカンダ浜でも弥生時代の製塩土器が大量に見つかっていることと併せて考えると、坂出の旧海岸線では古代・中世にも、盛んに製塩が行われ、それが京都の荘園領主の寺社に年貢として届けられていたことが見えてきます。平城京本簡に記された阿野郡の塩は、これらの地域で生産されていた坂出市史は記します。
どれくらいの塩が、中世には生産されていたのでしょうか。
塩の生産量を統計したような史料は、もちろんありません。しかし、手がかりとなる史料はあります。以前に紹介した『兵庫北関人船納帳』です。兵庫沖を通過する船は、通行料を納めるために兵庫湊に入港し、通行税を納める義務がありました。その通行料は東大寺や興福寺の修繕費や運営費に充てられました。徴税のために一隻一隻の母港や船頭名(梶取)や積荷とその量まで記録されています。
北関入船納帳には、兵庫港(神戸港)へ出入りした讃岐17港の舟の船頭や積荷が記されています。讃岐船の特徴は、積荷の8割は「塩」であること、大型の塩専用輸送船が用いられていたことです。
以前に、屋島の潟元(方元:かたもと)の塩を積んだ輸送船のことについてお話ししました。ここでは坂出周辺の塩輸送船について見ておきましょう。船籍一覧表からは、坂出周辺の湊として、宇多津・塩飽・平山が挙げられます。
塩飽船は讃岐NO2の通行回数で、最大の積荷は塩で、約5000石を輸送しています。この塩は、塩飽で全て生産されたのではないようです。周辺の阿野郡の塩浜で生産された塩が集められて塩飽塩として輸送されたと研究者は考えているようです。塩飽や沙弥島などの島々で開始された製塩は、次第に坂出の陸地部にも拡がりでも塩浜が開かれ、塩の生産が行われていたことは先ほど見たとおりです。それらの船が荘園主の元に、塩専用船で運ばれ、それ以外は一旦、塩飽に運ばれ、積み替えられて畿内に塩飽船で輸送されたことが考えられます。そのため塩飽塩として扱われたのでしょう。これは、宇多津や平山についても云えます。
塩飽船は讃岐NO2の通行回数で、最大の積荷は塩で、約5000石を輸送しています。この塩は、塩飽で全て生産されたのではないようです。周辺の阿野郡の塩浜で生産された塩が集められて塩飽塩として輸送されたと研究者は考えているようです。塩飽や沙弥島などの島々で開始された製塩は、次第に坂出の陸地部にも拡がりでも塩浜が開かれ、塩の生産が行われていたことは先ほど見たとおりです。それらの船が荘園主の元に、塩専用船で運ばれ、それ以外は一旦、塩飽に運ばれ、積み替えられて畿内に塩飽船で輸送されたことが考えられます。そのため塩飽塩として扱われたのでしょう。これは、宇多津や平山についても云えます。
ここからは宇多津や塩飽は、塩のターミナル港としても機能していたことが分かります。そのため出入りの船が数多く行き交うことになったのでしょう。もうひとつ考えられるのは、塩飽船が生産地近くの港まで出向いて積み込んだこともあったかもしれません。近世になると、小豆島の廻船は、小豆島の塩だけでなく、引田や三本松に立ち寄り、そこで塩を買い入れて、九州方面に出発していることを以前に紹介しました。そのような動きが中世からあったことも考えられます。
どちらにしても、讃岐の中世海上運送は塩の輸送から始まったと云えそうです。
先ほど見たように、生産者から安く買いたたき、畿内に運んで高く売るという商売が成り立ちます。塩を中心とするシンジケートが商業資本化していく気配がうかがえます。彼らは近畿にだけ、モノを運んでいたとは、私には思えません。九州方面やあるときには、朝鮮・中国との交易を行おうとし、それが倭寇まがいの行為に走ることもあったのではないでしょうか。中世の交易船はいつでも、海賊船に「変身」できました。
新しい交易地を開く際に頼りになったのは、僧侶たちでした。
例えば高野山は、各地からやって来る僧侶や参拝者によって、最新の情報が集まる場所でした。そして、情報交換も場でもありました。そこからやってきた修験者や高野聖たちは、瀬戸内海の各港や生産物の情報を「遍歴・廻国」で実際に自分の目と耳で確認しています。地元の交易船の先達として、新たな交易ルートを開く水先案内人の役割を務めたのがこれらの僧侶たちではないかと私は考えています。そうだとすると、坂出地区でその役割が務められるのは、白峰寺になります。白峰寺は、讃岐綾氏の流れをくむ武士集団と連携し、林田郷の「梶取り」集団を傘下にいれ瀬戸内海交易にも進出していたという仮説は「勇足」でしょうか。
先ほど見たように、生産者から安く買いたたき、畿内に運んで高く売るという商売が成り立ちます。塩を中心とするシンジケートが商業資本化していく気配がうかがえます。彼らは近畿にだけ、モノを運んでいたとは、私には思えません。九州方面やあるときには、朝鮮・中国との交易を行おうとし、それが倭寇まがいの行為に走ることもあったのではないでしょうか。中世の交易船はいつでも、海賊船に「変身」できました。
新しい交易地を開く際に頼りになったのは、僧侶たちでした。
例えば高野山は、各地からやって来る僧侶や参拝者によって、最新の情報が集まる場所でした。そして、情報交換も場でもありました。そこからやってきた修験者や高野聖たちは、瀬戸内海の各港や生産物の情報を「遍歴・廻国」で実際に自分の目と耳で確認しています。地元の交易船の先達として、新たな交易ルートを開く水先案内人の役割を務めたのがこれらの僧侶たちではないかと私は考えています。そうだとすると、坂出地区でその役割が務められるのは、白峰寺になります。白峰寺は、讃岐綾氏の流れをくむ武士集団と連携し、林田郷の「梶取り」集団を傘下にいれ瀬戸内海交易にも進出していたという仮説は「勇足」でしょうか。
もうひとつ白峰寺との関係で押さえておきたいのは、備讃瀬戸対岸の五流修験との関係です。
五流修験は以前にお話したように、「新熊野」と称し、熊野からの亡命者であるとします。そして、大三島や石鎚などでの修験活動を行います。同時に小豆島や塩飽本島へも進出してきます。讃岐の海岸沿いには、五流修験者の痕跡が残ります。多度津の海岸寺や道隆寺、聖通寺、白峰寺などです。白峰寺が五流修験を通じて、瀬戸内海の修験者たちとつながっていたことは押さえておきたいと思います。そして、林田湊や福江・御供所港は、その寺領であったのです。かつての四国辺路の霊場であった金山権現も、そういう五流や白峰に集まる修験者の行場であり、辺路ルートの上にあったと私は考えています。
そのルートは次の通りです。
五流修験 → 塩飽本島 → 沙弥島 → 聖通寺 → 金山権現 → 白峰寺 → 根来寺 → 国分寺
以上をまとめたおくと
そのルートは次の通りです。
五流修験 → 塩飽本島 → 沙弥島 → 聖通寺 → 金山権現 → 白峰寺 → 根来寺 → 国分寺
以上をまとめたおくと
①備讃瀬戸一帯は、弥生時代に始まる小型製塩土器を用いた製塩発祥の地であった。
②古代には大型の製塩土器である師楽式土器が使われるようになり、生産量は増大する。
③中世になると、入浜を用いた製塩業が行われるようになり、朝廷や大寺社は塩を安定的に手に入れるために、「海の荘園」を設けるようになった。そこからは本領の専用船で畿内に輸送された。
④当時の讃岐船の積荷の多くは、塩であった。
⑤塩飽・宇多津・平山などを母港にする輸送船は、周辺生産力からの塩を集荷して、大型船で畿内に輸送した。
⑥これらの輸送船を経営する海民たちは、シンジケートを形成し、商業資本化していくものも現れた。
⑦塩を生産した坂出周辺の塩浜は、本島・沙弥島・御供所・福江・林田が史料では確認できる。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
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