讃岐の海岸線は、埋め立てや干拓によって北へ北へと移動していきました。現在の海岸線とは、大きく違っていたようです。今回は、坂出の海岸線の変遷を見ていこうと思います。テキストは 「森下友子 坂出市における海岸線の変遷 香川県埋蔵文化財センター 考古学講座 56 令和 2 年 11 月 8 日」です。


ます旧市街周辺の海岸線から見ていきましょう。
江戸時代末に宮崎栄立が著した『民賊物語』(嘉永3年(1850)には、戦国時代の坂出市西部の海岸の様子が次のように記されています。
「元亀二辛未歳奈良氏宇多津聖通寺山に城を築き累代居城とす城東は入海にして角山の麓まで海潮恒に満干いたせり。角山の麓より三四丁計り沖に出て東西の寄洲三十七八丁ありて、其の東に南北の洲在つて横たわれり、海潮の満たる時、津郷、福江の大道を往来せり、潮の干たる時は海中の洲を諸人共往来せしとなり、遠近の違いあること弓と弦との如し」
意訳変換しておくと
元亀2年(1571)に奈良氏が城を築いた聖通寺山の東には海が入り込んでいて、満潮時は角山の麓まで潮が入っていた。角山の麓から3,4丁(300~400m)沖に出ると東西の寄洲が37、8丁(3,7㎞)ほどあって、その東に南北の砂州が横たわっていた。満潮の時は、津の郷(宇多津町津の郷)から福江(坂出市福江町)の大道を往来し、潮が引いた時は、海中の中州を往来していた。干満の差が大きく、まるで弓と弦のようである
ここからは、次のようなことが分かります。
①戦国時代には聖通寺山の東には干満差の大きな干潟が広がっていたこと
②角山の麓から沖に出たところに東西の寄州があったこと
③満潮の時には、津之郷から福江の大道を利用し、干潮の時には中洲を通行利用したこと
寄州とは波や風によって移動した土砂が海岸線に平行して帯状に小高く堆積した浜堤(砂州)のこと。
①北浜堤(砂堆B) 八幡町・白金町・寿町・本町・元町付近②南浜堤(砂堆A) その南約600mの富士見町・文京町付近
『民賊物語』に出てくる「東西の寄洲」は「角山山麓より沖に出たところ」とあるので、①の北浜堤のことを指しているようです。この浜堤の間は「潟湖」で、海が大きく湾入していたことが分かってきました。
ここからは北の砂堆Bと砂堆Aの間にあたる本町・京町・室町付近には潟湖があったと推測できます。上のは文京町二丁目西遺跡調査報告書に示された図や成果を基に作成した図です。砂碓Aは縄文時代に形成された砂碓で、この北面が古代の海岸線となります。この砂碓Aの北側にもう1つの砂堆列B・Cがあったことが分かっています。砂堆Bは「玉藻集」に「中道」と出てくるもので、16世紀後半にはようやく渡れる状態だったことが分かります。一方、砂碓Aと砂碓Bとの間は足も立たない「深江(ふかえ)」であったと記されています。
これを満潮時の様子とすると砂碓A(①北浜堤)と砂碓B(②南浜堤)との間に潟湖が存在し、奥の部分では干潮時には製塩に利用されたと考えられます。福江からは荘園主に塩5石が納められていました。その塩が作られたのも、この潟湖の干潟を利用したのかも知れません。それが堆積作用で、室町時代後半には砂堆B(北浜堤)まで海岸線が後退します。その結果、福江の港湾機能は低下し、御供所に移ったと研究者は考えているようです。
これを満潮時の様子とすると砂碓A(①北浜堤)と砂碓B(②南浜堤)との間に潟湖が存在し、奥の部分では干潮時には製塩に利用されたと考えられます。福江からは荘園主に塩5石が納められていました。その塩が作られたのも、この潟湖の干潟を利用したのかも知れません。それが堆積作用で、室町時代後半には砂堆B(北浜堤)まで海岸線が後退します。その結果、福江の港湾機能は低下し、御供所に移ったと研究者は考えているようです。
①富士見町線とJR予讃線が交差する付近に「浜」、②JR坂出駅周辺には「浜田」という小字
「浜」・「浜田」の南端は、南浜堤付近になります。南浜堤の北側には中世以降になると浜が広がっていたことがうかがえます。
今から200年前の19世紀前半になると、高松藩普請奉行久米通賢によって北側の浜堤の沖の干拓が行われることになります。
塩田開発以前の、坂出の海岸線はどうなっていたのでしょうか
塩田が作られる前の坂出の様子を描いた絵図には、いろいろありますが、最も詳細な絵図は「坂出古図」のようです。これに描かれた海岸付近の様子を見てみよう。
東浜の海岸線が現在の旧国道11号線のラインになるようです。東浜の北に円弧状に突出するところが鳥洲(潮止)神社(久米町一丁目)のあたりになります。東浜から西は、内陸まで海が入り込んできて、弓状の海岸線には石垣が積まれていたことが分かります。海岸線を西から見ていくと、「御供所新田」から南に向かい、ほぼ直角に曲がって北東に向かい、東に延びていきます。
地図上に「石垣」と書かれた所は、現在の白金町・寿町・元町の一部です。
これが北浜堤の北端に当たる場所で、通賢干拓以前の護岸と伝えられる東西方向の石垣になります。石垣の北と南では 0.5~1.0 メートルほどの高低差があります。古図に描かれた波線は、護岸の石垣のようです。この石垣が、いつ積まれたかについては、史料がなくてよく分からないようです。ただ、石垣の西端にある西須賀八軒屋港に享保 17 年(1732)に、船番所が移されています。この時に付近一帯の護岸が整備されたと研究者は考えているようです。とすると18世紀前半に、この石垣が築かれたことになります。その場所は、先ほど見た北側の砂堆の海際ということになります。
これが北浜堤の北端に当たる場所で、通賢干拓以前の護岸と伝えられる東西方向の石垣になります。石垣の北と南では 0.5~1.0 メートルほどの高低差があります。古図に描かれた波線は、護岸の石垣のようです。この石垣が、いつ積まれたかについては、史料がなくてよく分からないようです。ただ、石垣の西端にある西須賀八軒屋港に享保 17 年(1732)に、船番所が移されています。この時に付近一帯の護岸が整備されたと研究者は考えているようです。とすると18世紀前半に、この石垣が築かれたことになります。その場所は、先ほど見た北側の砂堆の海際ということになります。
それから約百年後の文政 9 年(1826)に、高松藩の普請奉行である久米通賢が干拓に着手します。
絵図資料としては、19世紀初頭に描かれた「高松藩軍用絵図 阿野郡北絵図」だけのようです。そこで、研究者は、小字と灌漑用水路の状況などから推測していきます。
上図は江尻町付近の小字と灌漑水路を示す図です。江尻町の北部に「浜田」という小字が見えます。この付近は江尻町域の田畑を灌漑する江尻用水の末端にあたります。そのため「浜田」が江尻町の中でも最も遅く開発されたエリアであることがうかがえます。現在この付近の田畑の標高は 1~2mですから、開発前は浜が広がっていたと推定できます。
「浜田」の南西には「北新開」・「南新開」があります。
現在の坂出警察書付近にあたります。新開という地名から、新たに開発した土地であることがわかります。この付近も標高 1~2mと低く、何本かの排水路で西側の横津川に排水しています。また、坂出警察新築工事では、表土の下には厚い砂層が堆積していることが確認されています。以上から、坂出警察署付近は、かつて海岸部の低湿地であったのを、横津川や排水路を整備して、「北新開」・「南新開」を開発したと研究者は考えているようです。
現在の坂出警察書付近にあたります。新開という地名から、新たに開発した土地であることがわかります。この付近も標高 1~2mと低く、何本かの排水路で西側の横津川に排水しています。また、坂出警察新築工事では、表土の下には厚い砂層が堆積していることが確認されています。以上から、坂出警察署付近は、かつて海岸部の低湿地であったのを、横津川や排水路を整備して、「北新開」・「南新開」を開発したと研究者は考えているようです。
文化元年(1804)には、江尻町の北東端で、綾川の河口沿いにある小字「末包(末兼」が開発されます。
末兼集落の石仏(図 9・10)には鵜足郡東分村(香川県綾歌郡宇多津町東分)の末包元左衛門と和享によって、同年に開発されたと刻まれています。この石仏からは、末兼は宇多津の有力者が19世紀初頭に開発したエリアであることが分かります。
林田町には文化年間(1804~1818)に作成され、明治時代初期に加筆された検地帳と、地券発行のために明治時代初期に作成された地引絵図が保管されています。これらの資料から江戸時代末の田畑の呼び名が特定した研究を以前に紹介しました。
これをみると、林田町の海岸沿いには「元禄六酉新興」・「延宝二寅新興」・「宝永元申新興」など年号の入った地名が集中しています。「新興」は「新たに興す」ことで、田畑が開発された年号をを示しています。
①綾川沿いの北西部には、「安政二卯新興」・「明治四辛新興」や「延宝二寅新興」・「宝永元申新興」・「宝永六巳新興」
②中央部から北東部には「元禄六酉新興」が広く広がります。
ここからは、林田町の北部は17 世紀末から18世紀前半に開発されたことがうかがえます。
今は、これらの「新開」の南に雌山の裾を取り巻くように神谷川が流れています。雌山西方には河川の痕跡とみられる地割が残るので、もともとは北に流れていた神谷川を雌山の裾に固定して、その西側に広大な田畑を開発したと研究者は考えているようです。ここでも河川のルート変更と治水工事と新田開発と灌漑用水の整備は、セットで行われています。
林田の開発以前の様子を示す資料としては、幕府の海辺巡検使高林又兵衛の視察記「海上湊記」があります。この記録は寛文7年(1667)のもので、この中に次のように記されています。
「林田 拾軒 遠干潟也 舟掛り無是ヨリ白峯へ上ル一り程有 此ノ辺ノ浜ヲ綾ノ浜ト云」
意訳変換しておくと
「林田は十軒の集落で、遠干潟である。 舟掛り(湊)はないが、ここから白峯へ一里ほどである。この辺りの浜を綾ノ浜と云う」
ここからは、17世紀後半には「林田 拾軒 遠干潟也」で、林田は10軒しか家のない集落で、湊も無く綾ノ浜呼ばれる遠浅の海岸が続いていたことが分かります。そこが江戸時代中期以降、新たに開発されていったのです。
坂出エリアの一番東の高藪の松ヶ浦と網の浦が、讃岐国名勝図会に載せられています
前山(五色台山系)から西方、瀬居島を正面に見た構図で、左下部分に①大藪湊が描かれています。そこから北へ延びる浜が②松ヶ浦のようです。しかし、大藪は「青海村内にあり、林田郷の項に惣社大明神があり、松ヶ浦に鎮座」とあります。そうすると、松ヶ浦は青海川の河口付近と神谷川河口近辺の2カ所を指す地名ということになります。あるいは、雄山・雌山の周縁部を総称して松ヶ浦と言つていた時代があったのかもしれません。どちらにしても青海川と神谷川の河口先端の青松が生え伸びる部分を松ヶ浦と称していたようです。
坂出の海岸線沿いには、中世には次のような湊があったことがうかがえます。
①青海川の河口であり青海湾の江尻に当たる松山津②神谷川の河口になる松ケ浦③綾川の河口になる川尻(林田湊)④国津の遺称が残る福江の江尻湊⑤聖通寺山の麓の御供所
この5つの湊が、阿野北平野の海岸沿いに、東西に並んでいたことになります。当然、これらの港を相互に結ぶ海浜ルートが「寄洲(よりす)の道」だったことは先に述べた通りです。これらの湊を結ぶルートとして、次のような街道が考えられます
①各湊と国府を結ぶ陸上ルート②与島・櫃石島、乃生や木沢など陸上運搬の困難な浦々の湊と、これら阿野郡北の諸湊とを小舟で結ぶルート③集荷された荷物や人を、基幹港である宇多津や塩飽に運ぶ海上ルート
各港からの産物を小舟で集荷する役割を果たしていたのが、聖通寺山の平山湊の海民たちです。集められてきた産物は、宇多津や塩飽の大船に積み替えられて畿内に運ばれていきました。中世には、各港で次のような機能分担が行われていたと研究者は考えているようです。
①大拠点港 宇多津・塩飽②中継港 平山③松山津・松ケ浦・林田湊・江尻湊(福江)・御供所
ここからは古代の国津港であった林田湊の衰退が見られます。国府機能の衰退と守護所の宇多津設置という政治状況の変化で、讃岐の主要湊の地位を宇多津に奪われたことがうかがえます。
以上をまとめておくと
①近世以前の阿野北の海岸線は、いまよりも南にあり東西に伸びる砂堆が街道の役割を果たしていた
②砂堆の北側には広大な遠浅の海が広がっていた。
③江戸時代後半になって、坂出西部は塩田のために、綾川河口域の東部は荒地開発のために大規模な干拓開発が行われ、海岸線は北へと移動した。
④昭和の高度経済成長の時代に、沖合の遠浅の海が埋め立てられ臨海工業地帯が形成され、海岸線はさらに北へと移動し、沙弥島や瀬居島と陸続きになった。
⑤その結果、自然海岸はほとんどなくなり、波消しブロックに囲まれた堤防で、坂出は「陸封」され、市街からは海は遠くなった。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「森下友子 坂出市における海岸線の変遷 香川県埋蔵文化財センター 考古学講座 56 」
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