
菅原道真の漢詩集『菅家文章』
菅原道真は国司として讃岐在任中に140編の漢詩と8編の文章を作っています。その中に当時の讃岐の庶民や道真の政治意識が、どう記されているのかを見てみることにします。テキストは 菅原道真が見た「坂出」 坂出市史 古代編 120P です。
菅原道真は仁和三(886)年正月に讃岐守に任命され、二月に赴任しています。漢詩集『菅家文章』には、初めての地方赴任への悲嘆が、次のように記されています。
北堂餞宴我将南海飽風煙 我将に南海の風煙に飽かむ更妬他人道左遷 更に妬む 他人の左遷と道ふを倩憶分憂非祖業 倩(つら)つら憶ふに分憂は祖業に非ず徘徊孔聖廟門前 徘徊す 孔聖廟の門前
意訳変換しておくと
私はこれから南海(四国讃岐)の風煙(景色や風物)を嫌というほど味わうことになるだろう。加えて忌々しいのは、他人がこれを左遷と呼ぶことだ。じっくり考えると、わが菅家の家業は地方官ではない。孔子廟の門の前をぶらぶら歩きながら、そう思うのだ。
「国司として赴任するのは家業ではない」「他人の左遷なりといはむ」とあります。ここからは、文章博士の解任と讃岐赴任に、道真がひどく傷ついている様子が伝わってきます。
その他にも、(『菅家文草』84番詞書には
「心神迷乱し、わずかに、声発するのみにして、晨流れて嗚咽す」「おのずからに悲し」
とも記します。
ここからは、はじめて国司として「讃岐に赴任して、ばりばり働こう!」という前向きのやる気は伝わってきません。讃岐赴任が自分が望んだものではなく悲嘆に暮れるか細い文人官僚の姿が、最初詠んだときには浮かんできました。
菅原道真42歳(滝宮天満宮に奉納された絵馬)
ちなみに、この漢詩には「他人の左遷なりといはむ」と記されています。このため菅原道真の讃岐守任命については、文章博士をめぐる派閥争いの末の左遷という見方がされてきました。
しかし、菅原道真は讃岐から帰任した後に実務官僚を経て、参議、民部卿、そして大納言、右大臣と政策上立案・遂行する立場に昇っていきます。この姿を見ると単なる左遷ではなく、むしろ「良吏国司」派遣策のもとで、文人政治家としての実務を「現場」で経験させるための「現地研修的な赴任」であったと今では考えられるようになっているようです。 それを裏付けるように、道真の讃岐守在任中には、郡司定員の増加など政府を挙げて、国司をバックアップする改革も実施されています。
菅原道真は、どのようなルートで讃岐国府にやってきたのでしょうか
平安時代後期の10世紀に因幡国司となった平時範の赴任事例では、官道を進み国境で在庁官人が出迎える儀式があったと記されます。しかし、道真は赴任時の様子を『菅家文草』に何も記していません
「中上り」として任期途中でいったん都に一旦戻る慣例があったようですが、その道程は都から播磨国明石駅家までは陸路でやってきて、そこから船に乗り込み瀬戸内海を海路進み、「客館」のある松山湊に上陸というルートをとったようです。
讃岐にやって来てはじめての秋を向かえた頃に造られた漢詩です
涯分浮沈更問誰 涯分がいぶんの浮沈 更さらに誰にか問はん秋来暗倍客居悲 秋よりこのかた暗ほのかに倍ます 客居の悲しみ老松窓下風涼処 老松の窓の下もとに風の涼しき処ところ疎竹籬頭月落時 疎竹の籬まがきの頭ほとりに月の落つる時不解弾琴兼飲酒 琴きんを弾ひき兼ねて酒を飲むを解さとらず唯堪讃仏且吟詩 唯ただ仏を讃たたへ且かつ詩を吟ずるに堪たふるのみ夜深山路樵歌罷 夜深くして 山路さんろに樵歌せうか罷やむ殊恨隣鶏報暁遅 殊ことに恨むらくは 隣鶏りんけいの暁あかつきを報ずることの遅きことを
秋の涼風が吹きはじめ、群竹に月が沈む情景に、胸を締め付けられた道真は、何とか気を紛らわせようとします。ところが琴も酒もたしなまないために、読経と詩吟で長い秋の夜を過ごすしか術がないようです。ここで出てくる「琴・酒・詩・仏教」という組み合わせは、琴詩酒を「北窓の三友(書斎の三つの友)」と呼び、自ら「香山居士こうざんこじ(香山の在家仏教信者)」と号した白居易の存在が念頭にあるようです。琴も酒も詩人には欠かせませんが、白居易は「琴を弾き、琴に飽きれば酒を飲み、酒を飲んでは詩を作る」といった調子で、これらを愛好していました。
それでは道真はどうだったのでしょうか?
彼は「琴」はものにできず稽古を止めてしまっていたようです。「琴を弾くを習ふを停む」と述べている下りがあります。それでは酒はどうでしょうか? どうやらあまり好まなかったようです。
友人知人と酒席を囲んでいるので全くの下戸だった訳ではないようですが、白居易のように浴びるほど飲んで、興が乗れば漢詩が流れるように生み出されるという感じではありません。
讃岐赴任後の重陽の節のときに、国府の庁舎では宴が開かれます。それまでは宮中で華やかな宴を催していましたが、讃岐では「独りい対ふなり、海の辺なる雲」と単身赴任の淋しさをぐちっています。単身赴任でやってきで、在庁官人たちと毎晩のようにどんちゃん騒ぎというイメージにはほど遠い感じです。それどころか「讃州」は「惨愁」と音の響きが通うことを気にするようになります。どうも神経が細く滅入っている様子です。
「私は琴も酒もさほど嗜まないから彼等とはお別れして、後に残る詩を死ぬまで友としよう、詩こそが私にとっては死ぬまでの友であり、先祖代々詠み続けてきたのだ」
といった独白的な漢詩が残されています。讃岐の生活になじめないまま冬を迎える姿が浮かびます。
客舎冬夜
道真が讃岐国司として赴任した仁和二(886)年の季節が秋から冬に移り変わる季節のことです。国府の官舎で床に就いた時のことを「客舎冬夜」と題して、次のように詠っています
「客舎の冬の夜」客舎秋祖到此冬空床夜々損顔容押衛門下寒吹角開法寺中暁驚鐘行楽去留遵月湖詠詩緩急播風松
客舎(かくしゃ)秋(あき)徂(ゆ)きて此の冬に到る空床(くうしょう)夜夜(よなよな)顔容(かおばせ)を損(そ)したり押衙(おうが)門の下(もと)寒くして角(つのぶえ)を吹く開法寺の中(うち)暁にして鐘に驚く(開法寺は府衙(ふが)の西に在り)行楽の去留(きょりゅう)は月砌(げっせい)に遵(したが)ふ詠詩(えいし)の緩急は風松(ふうしょう)に播(うごか)さる世事(せいじ)を思量(おもいはか)りて長(つね)に眼(まなこ)を開けば知音(ちいん)に夢の裏にだにも逢ふことを得ず
意訳変換しておくと
秋が過ぎてとうとう冬になり、官舎暮らしも長くなった。床に就いても妻はおらず、夜ごとに顔がやつれていくようだ。寒いなか、衛兵が牛の角笛を吹いて門の守りを固めている。明けがたに開法寺の鐘が鳴って、目が覚めてしまう。※(自注)開法寺は国府の西にある。月を愛でる場所は、月が石だたみを照らす加減で決まる。詩を詠じる調子は、松を通り抜ける風音の加減で決まる。世の中のことをあれこれ考え、ずっと眠れないままでいるから夢の中でさえ、私の思いを語ることができない。
ここからは元気に、仕事をてきぱきと熟しているような感じには見えません。どちらかというと哀愁を通り越して、ホームシックになっているようにも思えます。
この漢詩がよく取り上げられるのは「開法寺中暁驚鐘」(開法寺の中、暁にして鐘に驚く)に、「開法寺は府ガ(国衙)の西に在り」という註がついているからです。これはいろいろな書物に引用され、讃岐国府跡の発掘調査場所選定の際にも手がかりとされてきました。発掘前の予備知識は、次の通りでした。
①国衙は平城京などのように1ヶ所に権力機関は集中している。②開法寺の東に「隣接」して国衙はあった。
ところが、この先入観で発掘調査が進むと混乱が起きました。どこを掘っても遺跡がでてくるのです。どこが中心施設か分からないほどに、いろいろな建物跡が毎年のように出てきたのです。つまり国衙には、いろいろな機能があり、それが分かれて「分庁舎」として散在してことがだんだんと分かってきます。
整理すると「開法寺は府ガ(国衙)の西に在り」なのですが、「逆は必ずしも真ならず」の原則が働きます。たしかに府衛(国衛)の西に開法寺はあったのですが、国衙全体は広くて、必ずしも開法寺の東の方角に位置したとはいえないとします。 つまり、府衛は開法寺の東方ではなく東側一帯にあったと考えておくべきだということです。建物によると北東や北にあるものもあります。ここでは、国衙のエリアは広く、建物は分散して建っていたことを押さえておきます。
坂出市史古代編より
整理すると「開法寺は府ガ(国衙)の西に在り」なのですが、「逆は必ずしも真ならず」の原則が働きます。たしかに府衛(国衛)の西に開法寺はあったのですが、国衙全体は広くて、必ずしも開法寺の東の方角に位置したとはいえないとします。 つまり、府衛は開法寺の東方ではなく東側一帯にあったと考えておくべきだということです。建物によると北東や北にあるものもあります。ここでは、国衙のエリアは広く、建物は分散して建っていたことを押さえておきます。

讃岐国府跡地形復元図
話を「客舎冬夜」にもどしましょう。
「押衛門下寒吹角」「押衙(おうが)門の下(もと)寒くして角(つのぶえ)を吹く」を見てみましょう。ここに押衛門が登場します。押衛門とは押牙とも書いて府衛の入口を指します。そこの門番が日没閉門の際に吹く角笛が聞こえてくるというもので、次句の「開法寺中に暁の鐘に驚く」と対句表現になっています。月明かりの中を不眠で府衛縁辺を逍遥した道真は、たまたま開法寺に入ったときに暁を迎えるとともに鐘が鳴って驚かされたという場面です。この詩からは、府衛の入口には守衛門番のいる門(押衛門)があり、西隣は開法寺が建っていたことが分かります。誤解してはならないのは客舎(宿舎)の布団の中で、角笛や鐘の音を聞いているのではないことです。
それでは客舎は、どこにあったのでしょうか。
客舎とは、赴任してくる国司用の官舎(国司館)のことを指すようです。客舎の位置は、まだよく分からないようですが、手がかりとしては、「客舎陰蒙四面山」の表現から四方の山陰に囲まれた立地だったようです。そうだとすれば国衙の外にあった可能性もあります。また発掘調査から中国製の高級陶器が密集して出てくるエリアが、北の方にあります。この辺りに客舎があり、菅原道真は単身赴任で暮らしていたことが想像できます。
道真は讃岐国司の三回目の冬を過ごした頃、帰京の思いが募り松山津の客館に移り住むようになったとも伝えられます。そうなると、道真の讃岐での常住居(客舎)は、少なくとも府衛及び松山津近辺の二ヵ所以上にあったことになります。
讃岐国衙の政庁復元図
菅原道真の国司時代の讃岐国衙の姿を見ておきましょう。開法寺塔跡の北東に隣接するエリアには、奈良時代8世紀の終わり頃から区画で仕切られた中に大型建築物が整然と立ち並ぶようになります。一辺80mほどの敷地を、本柱の塀で取り囲み、次のような大形建物3棟が建てられています。
①西側には、五間×二間の母屋に南面廂で床面積約100㎡の超大形建物②北には、東西主軸の建物二棟が東西にならび③東には南北主軸の建物(床面積約76㎡)
この三つの建物は、何度かの建て替えを経ながら連綿と継続されていきます。コの字空間は、北京市の紫禁城に見られるように中国王朝の伝統的な儀式空間です。これが平城京に取り込まれ、地方の国衙にもミニコピー版が造られていたことが分かります。国府のなかでも儀式などに使われた最も重要な空間だったのでしょう。

この政庁の姿をみながら菅原道真は、政治に向き合う姿勢をどのように考えていたのでしょうか
そのヒントになる漢詩「路遇白頭翁」(路に白頭翁に遇ふ)を見てみましょう。これも『菅家文草』に収録されています。讃岐国司となった道真と道で出会った白髪の老人との問答を漢詩にしたものです。
【「路遇白頭翁」 「道で白髪頭の老人に出会う」の口語訳
道で白髪頭の老人に出会う。頭髪は雪のように白いのに、顔は(若者のように)赤味を帯びている。自ら語る。「歳は九十八歳。妻も子もなく、貧しい一人暮らし。茅で葺いた柱三間の貧居が南の山のふもとにあり、(土地を)耕しもせず商いもせず、雲と霧の中で暮らしております。財産としては家の中に柏の木で作った箱が一つ。箱の中にあるのは竹籠一つでございます。」老人が話を終えたので、私は問うた。「その年で若々しい顔なのはどのような仙術ゆえか。すでに妻子もなく、また財産もない。姿形や精神について詳しく述べよ。」老人は杖を投げ出して(私が乗っている)馬の前で一礼し、丁寧に(私の言葉を)受けて語る。「(それでは私が元気な)理由をお話し致します。
(今から十年ほど前の)貞観の末、元慶の始め(の頃は)、政治に慈悲(の心)はなく、法律も不公平に運用されていました。旱魃が起きても(国司は減税措置を取るよう朝廷に)申請することもせず、疫病で死ぬ者がいても(役人は食料を援助して)哀れむことはありませんでした。(かくして国内全域が荒廃し)四万余りの民家にいばらが生え、十一県に炊事の煙が立たなくなりました。(しかし)偶然(ある)太守に出会いました。
(それは)「安」を姓とする方〈現在の上野介(安倍興行)のことである〉(安様は)昼夜奔走して村々を巡視されました。(すると)はるばる名声に感じ入って、(課税を逃れて他国へ)逃亡した者も帰還し、広く物品を援助し、疲弊した者も立ち上がりました。役人と民衆が向かい合い、下の者は上の者をたっとび、老人と若者が手をつなぎ合い、母は子(の孝行心)を知りました。さらに太守を得ました。(それは)「保」を名に持つ方〈現在の伊予守(藤原保則)のことである〉(彼は)横になったまま滞ることなく政務を執り、国内は平和になりました。春は国内を巡視しなくとも生気が隅々まで届き、秋は実り具合を視察しなくても豊作となりました。天が二つに袴が五本と通りには称讃の言葉。黍はたわわに麦はふた股と、道には(喜びの)声。翁めは幸運にも保様と安様の徳に出会い、妻がおらずとも耕さずとも心はおのずと満ち足りております。隣組の人が衣服を提供してくれますので、体はとても温かく、近所の人と一緒に食事をしますので食べ物にも事欠きません。楽しみはその(貧しいながら悠々自適の生活の)中にあって、憂いや憤懣を断ち、心中には余計な思いもなく、体力を増します。(それゆえ)鬢(耳周辺の髪)のあたりが白くなることにも気付かず、自然と顔が(若々しく)桃色になるのです。」と。私は 老人の語った言葉を聞き、礼を述べて老人を帰らせ(話の内容を)振り返って思う。「安」を姓とする人には私の兄の(ような)恩義がある。「保」を名に持つ人には私の父の(ような)慈愛がある。(この国には)すでに父兄の恩愛が残っている。どうか(私も彼等の)積み重ねた善行(の遺産)によって上手く治めたいものだ。(だが)とりわけ昔どおりには行かないのはどの事柄だろう。(詩の題材となる)明るい月や春の風は時世にそぐわない。(興行殿の)奔走をまねようとしても身体が皆ままならず、(保則殿の)臥聴に倣おうとしても(そこまで)年齢を重ねていない。その他の政治の手法にも変更がないことはないだろう。奔走する合間に私は(政務の一端として)詩を詠もう。
ここには道真に先だって2人の「良吏」が国司としてやってきて、それぞれ善政を行っために人々の生活は安定するようになったことが老人の口から語られています。これを聞いて道真は「どうか(私も彼等の)積み重ねた善行(の遺産)によって上手く治めたいものだ」と述懐しています。
その一人が安倍興行(おきゆき)です。
「たまたま明府に逢ひにたり、安を氏となせり」と記されるのが安倍興行です。彼は、元慶二(878)年に讃岐介として国府ヘやってきます。白頭翁によれば、国内の現状を調べるため、国の隅々まで馬を飛ばして、困っている民を救済したと云います。安部興行は民政を担当していた民部少輔から、初めて地方官である国司(讃岐介)となり、以後、諸国の国司を歴任しています。
二人目が「更に使君、保の名あるひと」で、藤原保則(825~895)です。
彼は天慶六(883)年に讃岐権守として赴任してきます。部下への指示が的確で、政治が停滞することがなかったと、白頭翁は語っています。 「良二千石」との別名を持つ藤原保則は、地方官を多く歴任し、東北地方の戦乱(元慶の乱)元慶2(878~9)年を、苛政を改めることで収束させたた後に、讃岐国にやってきます。彼については以前にお話ししましたが、彼の伝記『藤原保則伝』では、「讃岐国は、良い紙と素晴らしい書跡がある国と伝え聞いているので、赴任して寺院に納められている経典を書写したい」と、讃岐国への赴任を希望していたと書かれています。藤原保則も、晩年には参議となり、菅原道真とともに地方官での経験を国政に反映させています。この藤原保則の後に讃岐守に任命されたのが菅原道真になります。
九世紀後半の讃岐国は、「良吏国司」により律令国家の「特別なてこ入れ」が行われたようです。そのような一連の人事で派遣されてきたのが菅原道真だと研究者は考えているようです。この「良吏国司」時代が、讃岐国府の充実期にもあたるようです。先輩国司の善政の成果が、国衙の建築物群の姿となって目の前にあるのです。道真には「良吏」国司としてお手本とするべき先輩がいたようです。
菅原道真は国司として、具体的な統治に心がけていたのでしょうか
「 旅亭歳日、客を招きて同(とも)に飲む」を見てみましょう。 讃岐に赴任して初めて迎えた元日に道真は近在の村老たちを官舎に招いて酒をふるまっています。
江村の老人たちを招いて新年を祝う酒をふるまったが、初めて異国で新年を迎えた主人の私は、また新たに郷愁が湧いてくるのを禁じえなかった。子どもらが(私があまり飲めないのを知っているので)浅く酌んだ酒をしきりに勧めてくれたが、私は酔えなかった。しかしそんな私にかまわず、郷老たちは盛んに盃を巡らし、後れて来た者には罰酒を強いていた。
去年、家族や知友や門人たちと袂を分かって以来ずっと私は悲しみに心をふさがれていたのだ。しかし今日は、楽しげに談笑する老人たちに、つい私も笑いを誘われて心がなごみ、両眉の開く思いを味わったことであった。彼らは正体もなく酔っぱらって帰っていったけれど、あの酔い方はやっぱり陽(うそ)じゃなかった。その証拠にほらあの連中ときたら、大事な楫(かじ)や釣竿を置き忘れて行っているよ。
「国の隅々まで馬を飛ばして、困っている民を救済」した先輩国司に習って、近在の年寄り要人を招いて新年を祝っています。住民たちとのコミュニケーションを計ろうと心がけている姿が見えます。庶民たちの生活と現実をしっかりと見つめる中で、政治の問題と課題が見えてくるという姿勢を持っていたようにも思えてきます。
そういう目で見で 「寒早十首(かんそうじゅしゅ)」を見てみましょう
これは、国司として国内巡視する菅原道真が目の当たりにした人々の生活なのでしょう。これらの詩文を読み込んでみると、詠う対象の背景に、海上輸送労働者を雇う船主や、零細な製塩業者を押しのけて大規模製塩をする豪族の姿が透けて見えてきます。彼らは、それぞれの地域を経営し開発等を進め、讃岐国の国力を高めていった存在で、郡司に連なる一族もいたはずです。その筆頭が綾氏ということになります。
こうした豪族らによる開発で田数や人口を増加させる一方、税を負担すべき零細民の生活を圧迫します。道真は現実を見つめる中から、どう豪族層を取り込むのか、そして、どのようにして税収を上げていくのか、その案配システムを考えていたのかもしれません。そして、最後に弱い者にはしわ寄せがくることを見抜く視力も持っていたことがうかがえます。その1番目だけを見ておきましょう
菅家文草 寒早十首 国司の見た讃岐 坂出市史資料編24P何人寒気早 誰に寒さは早く来る寒早走還人 寒さは走還人に早く来る案戸無新口 戸籍を調べても新しい戸籍がなく尋名占旧身 名前を聞いて出身地を推量する地毛郷土痩 故郷の土はやせているので天骨去来貧 あちこちで苦労して骨までやせてしまった不似慈悲繋 国司が慈悲でつなぎ止めなければ浮浪定可頻 逃げ出す人はきっとしきりに出てくるだろう
走還人とはあまりの貧しさに他国に逃げた人が、逃走を見つけられて, 強制的に本国に還された人のことです。桓武朝以来の中央政府にとって浮浪民の増大は頭の痛い問題でした。逃げ出した百姓の中には大貴族・大寺社に身をよせて、その庇護下に入って土地を耕す者もありました。しかし、この詩のように、どうにもならなくなって、また戻ってくる者もあったのです。道真は、その本質を見抜いているようです。彼らの暮らしに、道真が深い同情を寄せ、政府のあり方に疑問を感じていることが、この詩から読み取れます。
しかし道真は讃岐の民の貧しさを詩には詠みますが、具体的に民の手助けをするとか、税を減らすとか、特に行政官として成果を上げた様子はありません。それをどう考えていたかがうかがえるのが次の作品です。意訳だけにします。
冥感終無馴白鹿 冥感(めいかん)終に白鹿の馴るること無かりき讃州太守としての私の政治が天の思し召しにあずかって、今日の行春に白鹿が現れるというようなことはついに起こらなかった。それはまあいたしかたないこととしても、ただせめて「苛酷なること青鷹のごとし」などといわれることだけは免れたいものだ。私の政治は拙く、私の声価は地に落ちることだろう。四年間の国守の任期が満了して政績功過が評定される時、善最野評価を受けることなど、まず望み難いことだ。今朝、馬の轡を廻らして行春に出で発ったのは、ようやく朝日が射しそめる頃だった。そして雨にひしげた頭巾さながら身も心も疲れ果てて感謝に戻ってきた時には、とっぷり日も暮れて夕立を降らせた雲が暗く空を覆っていた。
駅亭の高楼で日没を告げる鼓が三たび連打され、官舎の窓にぽつんと一つ燈が灯っているのが見えた。人気が無くなった官舎で静かに思いめぐらしているとさまざまな悲しみが胸に迫り、夜深けて一人横になっていると涙がこみ上げてくる。この讃州に赴任して来てからほぼ一年。私はもっぱら清廉と謹慎とを心がけてきたつもりだが、残念なのは、不正腐敗に汚染された青蝿のような官吏たちを一掃できないことだ。
ここからは「清廉と謹慎」に心がけながら、国司としての任務に打ち込んでいる姿が見えます。


長岡天満宮の碑。道真の人柄を表す
朝早く馬に飛び乗り、夕立の雨にも負けずに巡視を行い、日が暮れて官舎に帰っています。国司の最も重要な仕事は、国内を巡視し国情を把握することです。その業務を精力的に行っています。
ホームシックに押しつぶされ、閉じこもりがちな生活を送っているように漢詩からは読み取れましたが、それだけではないのです。それは、詩作上のことだけかもしれません。
「駅亭の高楼」は、南海道の駅舎のことでしょう。
駅には見張り用の高楼があったようです。そこから官舎の窓の明かりが見えたというのですから、国衙近くに駅舎はあったことになります。そこで今日見聞きしたことを思い出してくると怒りがわいてくるのです。それは「不整腐敗に汚染された青蝿のような官吏」に対する怒りです。ここにも現実を直視しながら、その改善のためににじり寄っていこうとする情熱を感じます。それでも勤務評定で「善最野評価を受けることなど、まず望み難いこと」という現実も知った上でのことです。「現実は厳しい やったって無駄」ではなく「現実は厳しい、しかし清廉と謹慎に勤め最善を尽くす」という姿勢でしょうか。これを知性というのでしょう。
駅には見張り用の高楼があったようです。そこから官舎の窓の明かりが見えたというのですから、国衙近くに駅舎はあったことになります。そこで今日見聞きしたことを思い出してくると怒りがわいてくるのです。それは「不整腐敗に汚染された青蝿のような官吏」に対する怒りです。ここにも現実を直視しながら、その改善のためににじり寄っていこうとする情熱を感じます。それでも勤務評定で「善最野評価を受けることなど、まず望み難いこと」という現実も知った上でのことです。「現実は厳しい やったって無駄」ではなく「現実は厳しい、しかし清廉と謹慎に勤め最善を尽くす」という姿勢でしょうか。これを知性というのでしょう。
最後に、道真が讃岐を離れる際に詠んだ漢詩を見ておきましょう
忽忝専城任 忽ち 忝くす 専城の任空為中路泣 空しく為に中路に泣く吾党別三千 吾が党、別るること三千吾齢近五十 吾が齢(よわい) 五十に近し政厳人不到 政 厳にして人到らず衙掩吏無集 衙(つかさ)掩(おお)ひて 吏集まることなし茅屋独眠居 茅屋(ぼうおく)に独り眠りて居り蕪庭閑嘯立 蕪庭(ぶてい)に閑(しずか)に嘯(うそぶ)ひて立つ眠疲也嘯倦 眠りに疲れ、また嘯くことも倦む歎息而鳴慨 嘆息して鳴き悒(うれ)ふ為客四年来 客となって四年来在官一秩及 官にあって一秩及ぶ此時最攸患 此の時最も患ふる所烏兎駐如繋 烏兎(うと)駐(とどま)つて繋れしが如し日長或日短 日長く 或は日短し身騰或身繋 身騰(のぼ)り或は身繋がる自然一生事 自然なり 一生の事用意不相襲 意を用(も)って相ひ襲(おそ)はず
意訳変換しておくと
あっという間に国司としての任期は終わりに近づいた。私はこの任務のために道半ばにして泣いたのだ。わが門弟は三千人が離れていった。わが齢は五十に近い。政治が厳しいので誰も寄り付かない。役所はみすぼらしく、役人は集まらない。私は茅葺き屋根の小屋で独り眠り、蕪の生い茂る庭で静かに詩を口ずさんで立つ。眠りに疲れ、また詩を口ずさむことにも飽きる。ため息をついて嘆き憂う。この地に客人となって四年。役人となってからは十年経つ。この時もっとも心配するのは、時間の進行が止まって、縛り付けられたように思うことだ。日は長く、あるいは日は短く、わが身は舞い上がるかと思うと、あるいは地に縛り付けられる。人の一生は天然自然のことだ。賢い心で、逆らわないようにしよう。
道真の4年間の讃岐国司時代を、どうとらえればいいのでしょうか。
有意義な人生経験。下積み修行。そう言えば聞こえはいいのですが・・・。
当の道真にとって、讃岐守という職務は、あまり楽しくはなく、充実感の得られない毎日だったと私は考えています。任期四年目に詠んだ「苦日長(日の長きに苦しむ)」という詩からは、ほとほとくたびれはてた道真の声が聞こえてくるようです。しかし、それでも、現実を直視しながら、最善を尽くす姿勢は変わらなかったのではないでしょうか。それが、後の栄達へとつながったとしておきます。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 菅原道真が見た「坂出」 坂出市史 古代編 120P
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