1高松城 生駒氏重臣

生駒藩にて取り立てられ、家老までにまでなったのが三豊の三野氏です。上図は生駒藩時代の高松城の本丸周辺に配置された重臣たちの屋敷図です。⑦が「三野孫之丞」の屋敷です。生駒家の親族たちと比べても見劣りしない広さです。そして5000石の高級取りでした。
さて、三野氏とは何者なんでしょうか?
三野氏のことについては、私はほとんど知りませんでした。秋山氏や生駒氏のことを見て行くにつれて気になりだしました。一度、その「発生から消滅」までをまとめておきたいと思います。テキストは高瀬町史 高瀬町域の武家と生活 三野氏 133Pです。

 三野氏のことが最初に記された史料は『吾妻鏡』のようです。
源平合戦で、いち早く平氏を見捨てて、京都に上り源氏方に加勢する讃岐武士のグループのことは以前にお話ししました。下の氏名一覧が、この時のメンバー表です。
讃岐國御家人 注進 平家當國屋嶋落付御坐捨參源氏御方奉參京都候御家人交名事
 ①藤大夫資光
  同子息新大夫資重
  同子息新大夫能資  
  藤次郎大夫重次
  同舎弟六郎長資   
 ②新大夫光高
 ③野三郎大夫高包
 ④橘大夫盛資
 ⑤三野首領盛資
 ⑥仲行事貞房
 ⑦三野九郎有忠
  三野首領太郎
  同次郎
 ⑧大麻藤太家人
右度々合戰。源氏御方參。京都候之由。爲入鎌倉殿御見參。注進如件。
     元暦元年五月日
①は古代綾氏の系譜をひく讃岐藤原氏の統領で、リーダー的な存在だったのでしょう。
古代綾氏は、阿野北平野を拠点に勢力を伸ばし、国府を府中に誘致し、その後は国衙の在庁官人の中心的存在になります。菅原道真が国司とやって来た時代にも、郡司兼在庁官人として出仕していたことが史料からも分かります。そして、讃岐最大の武士集団に成長し、中世には讃岐藤原氏(藤氏)を名乗るようになるのは、以前にお話ししました。つまり、国衙の在庁官人のトップが平家支配を嫌って、一族を率いて源氏方に走ったのです。
その中の⑤⑦に三野氏の名前があります。
⑤三野首領盛資は「首領」とあるので、三野郡の郡司
⑦三野首領太郎以下は、郡司盛資の息子や一党
三野家文書には、自らを綾氏の末裔と記します。つまり讃岐藤原氏の一族であるという意識を持っていたことがうかがえます。古代の綾氏は阿野郡を拠点に鵜足郡・多度郡へと勢力を拡大していったようです。十二世紀には、多度郡郡司に綾氏の名が見られます。中讃を拠点に西讃にも勢力を伸ばし、三野郡の郡司を代々務めるようになり、その一族が三野氏を称するようになったとしておきましょう。三野氏の郡司としての活動ぶりは分かりませんが、源平合戦ではその動向が『吾妻鏡』に記されているので武士化したことはうかがえます。

讃岐国絵図天保 三野郡
讃岐国絵図 天保版の三野郡 
 源平合戦の際に、いち早く平氏から源氏へと移り、勝ち馬に乗り換え、頼朝の御家人となった14人の武士達は、恩賞を受け、所領を安堵され、在庁官人や守護所代理として活躍し、大きな発言権を手にするようになります。三野氏も三野郡の勢力基盤を確保し、勢力拡大を果たした筈ですが史料的な裏付けはできません。その後は戦国期まで、三野氏は史料には登場しません。

1永正の錯乱

戦国期の三野氏 
 管領兼讃岐守護の細川政元が永正四(1507)年に家臣によって暗殺さます。後継者をめぐって、細川一族、家臣の間で争乱が起こり、讃岐も戦国時代に突入します。これが「永正の錯乱」という政治混乱です。このなかで、秋山氏は阿波守護家出身の澄元方についていることが分かります。秋山家文書の中に阿波守護家の重臣一宮賢長から、当時の秋山家の頭領・秋山源太郎にあてた書状が二通あります。そこに三野氏が登場します。
 阿波守護家から秋山源太郎に対して、三野氏が澄元へ味方する意思を示したならば、同道して一宮のもとに参上するよう促しています。またもう一通は、阿波守護家は秋山氏も三野氏も決して扱いをなおざりにするものではない。合戦で馬廻の者が多く死傷してしまったので、使者を立てられないが、直接会って申し上げると述べています。秋山氏を通して三野氏も阿波方の味方に引き入れようとしていることがうかがえます。この時点では、三野氏も秋山氏と同じように西讃守護代の香川氏の配下には入っていなかったようです。

高瀬下勝間地図 
下勝間のエリア
戦国時代の三野氏の拠点は、どこにあったのでしょうか。
善通寺から大日峠を越えて西進する南海道と、鳥坂峠から南下してくる中世の伊予見大道が合流するのが現在の国道11号の六つ松です。この合流点の西側の小高い丘の上に城山神社があります。
ここに勝間城があったとされます。

1勝間城

 ちなみに勝間城跡の候補地としては、県の調査報告書ではここよりも、隣にある②威徳院の西の院跡を候補地(③勝間城)として次のように述べています。

DSC06244勝間城・威徳院
「周囲より10m高い小山で、頂部は広い平坦地になっている。傾斜のゆるい北側には幅6~10mの細長い平坦地があり、西端は土塁状になっている。また南西端にも土塁状地形が続くが、池が決壊したときのための堤防という話も聞かれた。」

私もここを押したいと思います。かつての城郭があった丘の上に、柞原寺に代わる新たな菩提寺が江戸時代になって建立されたとしておきます。
 「全讃史」には
「三野大領世々、之に居りき。三野菊右衛門は則ち其後なり」
とあります。
三野氏は代々、この山城(勝間城)を拠点に勝間を支配した。三野菊右衛門は、その末裔であるというのです。地元では「勝間を支配した三野氏の居城があったのが、ここだ」とされてきたようです。『西讃府志』には城主名は無く、戸慶城とだけ記されています。
 西讃府志には16世紀初頭のこととして、詫間城の項目に詫間城城主に詫間弾正を挙げて、その後に「三野大炊頭城」と記します。ここからは、三野大炊頭が所領を没収された後に、詫間氏が城主となったことがうかがえます。中央の細川家の騒乱に際して、勝ち馬に乗りきれないと「所領没収」という羽目になります。三野氏は、この時に詫間の所領を失ったようです。

三野津5
 中世の三野湾の湾入状態
その後の動きを三野文書と秋山文書で追ってみましょう。
秋山文書の永禄四(1561)年の書状は、天霧城主香川之景が秋山兵庫助にあてた知行宛行状です。ここには秋山氏の所領であった三野郡高瀬郷水田分と守利名が、三野氏の所領になっているが、それを秋山氏に返付するというものです。ここで奉行的役割を果たした者として、三野泰佐、三野菊右衛門の名が見えます。香川之景の感状に「詳しくは三野菊右衛門が口頭で申す」と記されています。ここからは、三野氏が香川氏の重臣として活動していたことがうかがえます。

1563(永禄6)年8月7日の三野文書には、次のような内容が記されています。
 天霧城主・香川之景が、三野菅左衛門尉に阿波勢の攻撃を受けて天霧城を退城した時の働きを賞し、河田七郎左衛門尉に扶持していた領地を本知行地として返還し、また作原寺分を返付することを約す

 そして翌年1564(永禄7)年5月13日には、約束通り、香川之景が三野勘(管)左衛門尉に、鴨村の作原寺の領有分を返し与えています(三野文書)
 鴨村というのは、 近世末成立の『増補三代物語』には、勝間郷内に加茂(鴨)村と記されているので、柞原寺周辺にあった村のようです。これが30年前の大炊頭の時代に没収された所領のようです。失った所領を香川氏の下で取り戻したことになります。

永禄七年の三野文書に見える勘(菅)左衛門は、菊右衛門の父になるようです。
 「全讃史」の 「三野大領世々、之に居りき。三野菊右衛門は則ち其後なり」という記事は、一次資料で裏が取れます。三野菊右衛門は「三野大領の末裔」のようです。
 以上から、三野氏は、郡司時代には詫間を拠点にして、中世には詫間城を居城していたのが、内陸へも所領を拡大し、その一族が勝間にも入ってきて拠点を構えた。それが勝間城だったというストーリが描けます。

また帰来秋山家文書には、1577(天正5)年2月13日付けの次のような書状があります。
 香川信景が秋山帰来源大夫親安に高瀬郷のうち帰来分および近藤出羽守知行分の地を宛行い、奉行三野菊右衛門尉に、この旨の申し渡しを命じる

これは香川信景の知行宛行状で、秋山源大夫に知行を宛行うものです。その使者となっているのが奉行三野菊右衛門で、ぬかりなく忠勤を励むように伝達を命じられています。また、その際に作成された知行日録には、三野方一町三反とあり、三野氏も所領を獲得したことが分かります。その後も三野氏は、香川氏の奉行として活躍したようで、三野菊右衛門は、勝間城主と記されています。
 三野菊右衛門は天霧城主香川氏に仕え、その奉行(重臣)として活動していることが分かります。逆の視点で見ると天霧城主の香川氏は、周辺の三野・秋山・河田氏などを家臣団へと組織化して、急速に戦国大名へと変身していたことがうかがえます。

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柞原寺とその向こうに爺神山
柞原寺は、三野氏の氏寺?
近世末成立の『増補三代物語』には、勝間郷内に加茂(鴨)村が記されています。鴨村は現在の高瀬高校や杵原寺があるエリアにあったようです。柞原寺には境内に鎌倉期に建立された石造宝塔が残され、かつては方八町の大伽藍を有していたという伝承があります。これは大げさにしても『西讃府志』には、林三町五反を持っていたと記されます。

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柞原寺
 実際に柞原寺背後の林を造成して高瀬高校を建設中に、山林の土中から五輪墓石数十基が出土しています。戦国期の戦死者をとむらつたものと伝えられます。三野氏のものかもしれません。どちらにして、現在の柞原寺から高瀬高校一帯が境内で、それが三野氏の菩提寺であったとしておきます。柞原寺は、その背後に甘南備山として信仰対象でもあった爺神山を望む「遙拝所」であったと私は考えています。秋山氏が本門寺を保護したように、三野氏も柞原寺を保護したのでしょう。
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柞原寺
長宗我部元親の讃岐侵攻直前の三野郡の情勢を見ておきましょう。
①高瀬郷 秋山氏
②勝間郷        三野氏
③詫間郷 詫間氏
④熊岡(比地)郷帰来秋山氏
⑤麻郷    麻近藤氏
  当時の中讃から三豊にかけての勢力対立は、次の2勢力でした。
A 戦国大名化する天霧城の天霧山
B 讃岐全域を支配下に置こうとする阿波の三好勢力
三野郡の①~⑤の武士団の棟梁たちも、AかBのどちらに付くかの選択を求められることになります。Aの香川氏の外交方針は一貫しています。それは「反三好」です。主君である細川氏を下克上で追いやった三好氏は許せないという感情論もあったでしょう。讃岐に侵攻してくる三好に対抗するためにどうするかが香川氏の外交方針です。そのために、あるときは信長と組み、後には毛利に頼り、そした最後に長宗我部元親と同盟するのです。香川氏が目指したのは「反三好」戦線の構築です。
1細川氏と三好氏

 一方、香川氏の勢力に反発を抱く者は、阿波三好勢に頼ります。
例えば、⑤の近藤国敏は、阿波三好氏の一族と婚姻関係を結び、三好氏との連携を強化します。こうして次のような関係ができます
 長宗我部元親=天霧城の香川氏 VS 阿波の三好氏=麻近藤氏

これを香川氏の目から見ると、三好氏についた讃岐の武士団は敵なのです。
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「南海通記」などの軍記物は、幕藩体制も固まった江戸時代中期になって書かれました。そのため各藩ごとの「郷土愛」で彩られ、長宗我部元親の侵攻を土佐軍と讃岐防衛軍の戦いという「郷土防衛戦争」の視点描いています。そこでは、最後まで抵抗する香西氏や東讃の武将に共感が働き、抵抗せずに降伏した香川氏は「悪者」としての役割を与えられています。読んでいて、土佐軍に果敢に抵抗する藤目城などに、どうして援軍をおくらないのか。同じ讃岐人として恥ずかしくないのか・! というような感情がわいて来ます。
 しかし、さきほど見たように、香川氏の基本的な外交戦略を思い返すと、その反発は的外れなことに気付きます。長宗我部元親と香川氏は「反三好」で利害が一致するのです。
そして長宗我部氏も香川氏も、かつては細川氏の臣下だったのです。
阿波三好氏との戦いは、主君細川氏のともらい合戦という大義名分もついてきます。香川氏は早い時期から長宗我部元親との同盟締結を模索していたと私は考えています。それは元親配下の修験者たちによって密かに進められていたと想像します。だから、香川氏は、土佐軍の侵入に対しても援軍を送らないし、動かないのです。近藤氏や本目・新目氏たちは、かつて三好氏の先兵として天霧城を取り囲み、その後も小競り合いを続けて来た敵なのです。それを土佐軍が「駆除」してくれる。その長宗我部元親と手を組むのは自然です。これは「降伏」ではなく「同盟」なのです。当初は「秘密同盟」であったかもしれません。
 そういう目で土佐軍が焼き討ちを行ったとされる所を見てみると。阿波三好方についていた武士団の拠点が多いことに気づきます。観音寺や本山寺、弥谷寺などの寺院は、焼き討ちを受けていません。それは、香川氏の勢力範囲だった所です。そういう意味では、三野氏の氏寺である柞原寺も戦禍にはあっていないと思うのですが、なぜか焼かれたと寺伝は伝えます。これも金刀比羅宮と同じで、長宗我部元親を嫌う機運が高まった結果かもしれません。そして、長宗我部側と戦った近藤氏などの所領は没収されます。

 高瀬町史には長宗我部元親の家臣に与えられた所領として麻、佐股、矢田、増原、大野、羽方、神田、黒島、西股、長瀬などが挙げられています。これはかつての近藤氏の所領でした。近藤氏は長宗我部元親と戦い、所領を失ったのです。その所領は土佐侍たちに分け与えられ、土佐の人々が移住・入植してきました。

香川氏が長宗我部元親に降って同盟関係を結んだ仕上げに、元親の次男親和が香川氏の養子に入ります。
その見返りの人質として岡豊城に入ったのが三野菊右衛門です。土佐へ移った香川信景・親和父子のその後の動向は、どうだったのでしょうか?
 岡豊城の近くの東小野という所に、屋敷を宛がわれたようです。『長宗我部地検帳』には「香川殿様分・香五様分」などと記されている土地があるようです。香川殿様は香川信景、香五様は香川五郎次郎(元親次男)のことです。ここからは、長宗我部氏から知行地を与えられていたことが分かります。この隠居地で晩年を過ごしたようです。
  一方、土佐へ赴いたのは香川氏父子だけではなかったようです。
『地検帳』には、三野・河田(川田)・詫間・山路・観音寺などの名前が見えます。これは香川氏の家臣です。その中の三野菊右衛門・河田七郎兵衛は、信景が元親と和議を結んだ際に人質として土佐へ赴いた人物です。ここからは香川氏の家臣の多くは土佐へ亡命し、そこで所領を与えられたことが分かります。戦いで敗れて逃げ落ちたかつての同盟軍のものたちを、元親は迎え入れています。多くの者は新しい領主山内氏のもとで帰農していったのでしょう。
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生駒親正
 秀吉によって讃岐領主に指名されたのは生駒親正です。
親正が秀吉から命じられたのは「次は九州平定で、その次は朝鮮出兵じゃ、それまでに船と兵をそろえておけ」ということです。水軍強化と兵士増強が最重要課題でした。そのために手っ取り早いのは、任地讃岐の讃岐の武士を家臣に取り立てることです。香西氏の家臣達をはじめ、数多くの土豪たちが取り立てられます。
 親正の子である一正に取り立てられたのが、三野四郎左衛門です。香川氏の重臣であった三野菊右衛門の息子です。彼は土佐に行かず三豊に残っていたようです。若き一正と共に、対馬海峡を越えて朝鮮出兵に従軍しています。讃岐武士団の登用は、朝鮮出兵の動員兵士を確保するためでもあったことが分かります。

弥谷寺 生駒一正の石塔
生駒一正の石塔(弥谷寺)
 関ケ原の戦いに生駒家は、父親正は西軍に、子一正は東軍について戦います。この時も、三野四郎左衛門は一正に従って関ヶ原で戦います。この時に四郎左衛門は、大谷吉継の重臣である大谷源左衛門の首をあげる大殊勲を挙げます。この戦功もあって、彼は以後は惣奉行として仕え、5000石を領する家老にまで登り詰めることになります。讃岐出身者としては最高の出世者です。こうして生駒藩の中で三野家は押しも押されぬ存在になっていきます。

三野氏は、見てきたように中世の三野郡司の出身で国人領主でした。
そのため地元の勝間では、多くの作人を支配し土地耕作を行っていたと考えられます。特に生駒藩では、「自分開」の新田開発が認められていました。自分が開発した新田は自分の領地となるというのです。そのため有力者は百姓たちを使って周辺の未開地の新田開発を進めます。またこれを聞いて、周辺の国々からも資金力のある土豪や帰農を目指すかつての武士団の一族がやってきて開発を進める光景が至ることろで見られたようです。その筆頭に立っていたのが家老職にあった三野氏です。

生駒家新田開発一覧表

 こうして三野氏の拠点である勝間では、新田開発が急速に進められていきます。三野四郎左衛門の息子の孫之丞は、700石もの「自分開」を持っています。三野氏の一族も624石の新田を持っています。この広大な新田を、どのようにして拓いたのでしょうか。これはまた次回に・・・

以上をまとめておくと
①三野氏は、綾氏出身で三野郡の郡司と在庁官人を兼務する有力者で、次第に武士団化した。
②源平の戦いの際には、平家の支配する讃岐国衙を捨てて、京都に上り源氏方に付いた「讃岐在庁官人グループ」の一員ともなった。
③これによりいち早く源氏の御家人となったメンバーたちは、その後の留守所でも大きな政治力をもつことになった。
④三野氏は、その後も三野郡で勢力を保持していたが16世紀初頭の細川家の内紛で、詫間城や勝間郷の権益を失った
⑤その後、天霧城の香川氏の重臣として活動し、勝間城を拠点に勢力を伸ばした。
⑥三野氏の菩提寺は、柞原寺が考えられる。
⑦香川氏が長宗我部元親と同盟を結ぶと、三野菊右衛門は人質として岡豊城に入るとともに、残された一族は東讃侵攻の先兵としても活躍した。
⑥生駒氏の下では、三野四郎左衛門が生駒家二代目の一正に登用されて、関ヶ原の戦いで大殊勲をあげ、その戦功で5000石の家老にまで出世した。
⑦生駒家の文書には、西嶋八兵衛と並んで生駒家の主の名前が並ぶものが数多くある。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

    参考文献 高瀬町史  高瀬町域の武家と生活 三野氏 133P
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