前回は三野郡勝間(三豊市高瀬町)を拠点に古代の三野郡司から武士団へと成長を遂げた三野氏をみてきました。三野氏は下勝間の勝間城を拠点に、柞原寺を菩提寺として成長していきます。そして戦国期になると天霧城の香川氏の重臣として活動し、所領を守っていきます。香川氏が長宗我部と結ぶと讃岐平定の先兵として活躍し、人質として岡豊城にも出向いていました。さらに、生駒藩時代には、二代目一正を支える重臣として5000石の知行地をもつにまで至ります。
生駒藩の文書には、藤堂高虎の意を受けて、藤堂藩からレンタル派遣されて奉行職を務めた西嶋八兵衛と並んで署名したものがいくつも残されています。ここからは西嶋八兵衛などと、実質的な藩運営に関わっていたことがうかがえます。
西嶋八兵衛による満濃池築造に代表されるように藩全域的な治水灌漑工事が一段落すると、つぎに問題になってくるのが知行問題です。
それまでの生駒藩は、家臣が藩から与えられた所領(知行地)を自ら経営して米などを徴収していました。高松藩の出来事を記述した「小神野夜話」には、高松城下町のことが次のように記されています。
御家中も先代(生駒時代)は何も地方にて知行取居申候故,屋敷は少ならでは無之事故,
(松平家)御入部已後大勢之御家中故,新に六番町・七番町・八番町・北壱番町・古馬場・築地・浜の丁杯,侍屋敷仰付・・」
ここからは次のようなことが分かります。
①生駒時代は知行制が温存されため、高松城下に屋敷を持つ者が少なかったこと、②松平家になって家中が大勢屋敷を構えるようになり、城の南に侍屋敷が広がったこと
ここからは太閤検地によって否定された「国人領主制」が温存され、知行制がおこなわていたことが分かります。そのために生駒家の家臣団は、讃岐各地に自分の所領を持っていて、そこに屋敷を構えて生活している者が多かったと記されています。さらに、三野郡の三野氏のように生駒家に新たにリクルートされた讃岐侍の中には、さかんに周辺開発を行い知行地を拡大する動きが活発化します。
秀吉の太閤検地の意味をもう一度確認しておきましょう。
太閤検地でと「領有制から領知制」に変わります。武士は、土地と百姓から切り離され、土地の所有権は耕作する百姓の手に移ります。検地後は、武士は自らの「あらし子(侍の手作り地で働く農業労働者)」のように、百姓を自由に使うことは出来なくなったはずです。百姓層を使って、自由に新田開発を行うことはあり得ないことです。ところが、三野孫之丞は、700石もの「自分開」を新たに拓いています。三野氏の一族も624石の新田を持っています。 この広大な新田を、どこにどのようにして拓いたのでしょうか。それを三野氏の拠点である下勝間で見ていくことにします。テキストは高瀬町史288P 勝間新田の開発 です。
下勝間村は、上の赤線で囲まれたエリアで、現在の三豊市役所(旧高瀬庁役場)から高速道路の北辺りまでにあった行政区画です。江戸時代初期の下勝間村の石高は次のように記されています。
下勝間村高千弐百壱石、 畝数百拾四町六反三畝内訳田方本村五百弐石五斗 畝数四拾四町六反三畝田方鴨分四百拾石九斗八升 畝数三拾八町四反新田拾弐町九畝居屋敷五町五反七畝畑方村中九町三反新畑三町弐反九畝「佐股組明細帳」『高瀬町史史料編』
①「田方 本村」は勝間小学校から高瀬中学校のあたり
②「鴨分」は国道以西から高瀬駅・高瀬高校あたりになります。
税率を示す「斗代」は一石七斗で、このころは上田の一石五斗が一般的でした。それからすると上田が多く勝間は三野郡における穀倉地帯だったといえそうです。この辺りが下勝間の「本村」であったことがうかがえます。本村を拠点に周辺部が新田開発されていきます。
新田開発を行ったのは、どのような勢力なのでしょうか。
生駒時代の寛永~元禄年間(1624~04)に新田開発の内訳です。
新たに拓かれた面積を計算してみると新田開発の状況既往の新田畑 三町四反九畝十九歩 四町三反四畝十八歩新規開発新田 十町九反二十四歩内訳佐股甚左衛門新田 壱町七反弐拾歩上高瀬新八新田 三町八反壱歩弐拾三歩長右衛門新田 壱町三反九畝十三歩巳ノ新田 三反六畝六ツ松新田 壱反弐畝弐拾九歩巳ノ新田元禄十二年改 壱反九畝弐拾三歩同 元禄十六年改 六畝五歩同宝永二年改 壱町七反弐畝十五歩同 元禄十二年より宝永二年改 壱町五反壱畝六歩上勝間五兵衛新田
既往の新田畑3町4反9畝19歩 + 4町3反4畝18歩 + 新規開発新田10町9反24歩=約18町6反
が下勝間地区で新たに拓かれたようです。
佐股甚左衛門新田とあるのは「佐股村庄屋の甚左衛門が拓いた新田」という意味になります。ここからは、開発者のひとりが、佐股村庄屋であったことが分かります。彼は六ツ松のほか西股でも1町5反の新田のほか、西山千田林には約2町歩の新田と甚(陣)左衛門池を拓いています。新田と池の築造はセットで行われなければ意味がありません。
上高瀬大庄屋三好新八郎は、石の塔沿いに新田と上池・下池を築造しています。彼は威徳院検地帳に上勝間庄屋と記されています。ここからは、下勝間周辺の庄屋たちが村のエリアを越えて新田開発とため池築造工事をセットで進めていたことが見えてきます。彼らは幕藩政治の下で世の中が落ち着いて活躍場所を失った武士たちが帰農したものたちもいたはずです。その中には、讃岐以外の地からやってきて一族で住み着いて、豊富な資金力と労働力で急速に周辺の土地を集積していった勢力がいました。
その例を多度津町葛原の木谷一族に見てみましょう
芸予諸島に住み、村上水軍の武将クラスで互いに一族意識で結ばれていた2軒の木谷家は少数の従者を率いて、同じころに讃岐・葛原村に移住してきたようです。時期は、海賊禁止令が出た直後のようです。武将として蓄えた一定の財力を持ってやってきた彼らは、新しい土地で多くの農民が生活に困り、年貢を払えず逃亡する中で、比較的短い間に土地を集めたようです。そして、百姓身分ながら豪農として、一般農民の上に立つ地位を急速に築いていきます。そして金倉川の氾濫原の新田開発と千代池などのため池改修を進めて、大庄屋へと成長して行きます。
1628年に西嶋八兵衛は廃池になっていた満濃池の改修に着手し、同時に金倉川の流路変更や治水工事を行い、用水路整備をすすめます。それは、当時の新田開発という大きなうねりの中にあったことを押さえておきます。
この他にも、生駒家2代目一正の側室となったオナツの実家の山下家も、この時期に財田西や河内で盛んに新田開発を行い分家を繰り返し、成長していきます。オナツによって生駒家に作られた外戚閥族が生駒騒動の原因の一つとも言われます。また、オナツの甥は金毘羅大権現の金光院院主でした。この「伯母・甥」関係が生駒家から金光院への330石という大きな寄進につながったようです。どちらにしても、当時の財田西の山下家は殿様の側室を出した家として、特別な存在だったようです。この山下家も新田開発に熱心だったことを押さえておきます。
①灰色が「自分開」で、家臣団による新田開発面積②桃色が「新田悪所改出」で、地主による新田開発面積
これを見ると新田開発が盛んに行われた郡とあまり行われていない郡があるようです。また、新田開発の担い手にコントラストもあります。例えば山田郡を見ると、開発主体は地主たちだったようです。それに対して、香東郡・鵜足郡・多度郡・苅田郡は家臣たちが積極的に開発を行っています。さて三野郡はと見ると・・・、家臣団と地主が争うように行っています。
三野郡で新田開発をおこなっていた家臣とはだれなのでしょうか。
そのトップにいるのが三野孫之丞です。彼は、前回見てきたように古代の三野郡司につながる三野氏の当主で、5000石の重臣でした。高松城の本丸近くに広い屋敷を持っていました。同時に、拠点の三野郡では、他に類がないほどの新田開発をおこなっていたことになります。ここからは、先ほど見た庄屋による新田開発と並ぶだけの面積が三野氏の手によって下勝間周辺では行われていたことがうかがえます。
新田が拓かれた場所は、周辺のため池の名前からその場所が推定できるようです。
「威徳院検地帳」の地名を見れば、それは、現在の新田部落の的場・彦三郎池そば・菖蒲池そば・丸山道下から六ツ松峠付近であったことが分かります。築造された主な溜池を挙げて見ましょう。
①山王下 山王池 かに谷池 菖蒲池 相本池②威徳院上 菰池 皿池③六ツ松 松葉崎池 かも池 陣左衛門池④石ノ塔 新田池 同上池 同下池⑤五丁池上 渡池 鬼ノ窪池 どじょう池⑥上勝間村堺 皿池 丸山池(千田林)佐股新田関連溜池 庄屋池。梅之谷池。足和田池・岩瀬池・立花池。
上の中から主要な溜池四池について、時代ごとの灌漑面積を比較したのが下表です。
①江戸時代前期の「佐股組明細帳」37、4町②江戸時代末『西讃府志』 56,8町③現在 70,0町
江戸時代の200余年の間に、灌漑面積は約倍増しています。しかし、溜池の築造 →余水確保 → 新田開発 → 日照りと干害 → 新しい溜池築造という悪循環だったようで、池の嵩増しや「新池」を次々と造り続けられます。連続して並ぶ池は、その歴史を物語る証人でもあるようです。
南海道と伊予大道が合流する六ツ松峠付近を見てみましょう。
「勝間村郷土誌」は、池堤を旧国道として利用したことによって生まれた独自の溜池景観を次のように記します。
旧往環国道11号線 道音寺方面を通れば一歩に二池、五歩に十池、左右の水色道音寺城山の松、翠に映発して美観いうべからず
たしかに、六つ松から笠田に抜けて行く峠付近は、池の堤防が国道にもなっていたようで、小さなため池が左右に続く風景が残っています。これらも江戸時代の新田開発とともに谷頭に池が作られていった結果、生まれてきた光景で讃岐らしさが現れている「歴史的風景遺産」と呼ぶことができるのかもしれません。

新田台地に建つ威徳院
この新田開発の推進役のひとつが威徳院です。
この寺は、新田台地中央に位置し、讃岐国領主生駒一正の保護を受けて20石を安堵された以後、寺勢が急速に伸びいきます。その時期は、三野氏が新田開発を大規模に推し進めていた時と重なります。

威徳院
また、三野四郎左衛門は一正に仕えて、朝鮮出兵や関ケ原の戦いにも従軍し、豊臣方の大谷吉継の重臣である大谷源左衛門の首をあげる大殊勲を挙げます。この戦功もあって、彼は以後は惣奉行として仕え、5000石を領する家老にまで登り詰めていました。このような中で、新たに建立(再建)されたのが威徳院なのではと思っています。あるいは、当初は柞原寺の別院のような存在であったかもしれません。その院主が三野四郎左衛門の帰依を得て、そのつながりで藩主一正の保護を受けるようになったのではないかと推察します。勝間城と威徳院(中世城館跡詳細分布調査報告2003年)
なぜなら威徳院のある場所は、三野氏の居城である勝間城の直下です。ここには三野氏の保護支援なくして、寺院を建立できるものではありません。また、いまは廃寺となりかけている威徳院西院は、三野氏の居城跡ともされます。その跡に建立されていることも三野氏との関係を推測させます。ひょっとしたら三野氏が拓いた新田が、その後に威徳院に寄進されたことも考えられます。
「西谷池の記念碑」には威徳院が、寺池として大池・西谷池・寺池・同上池・同下池などを築造し、田畑の開発に努めていったことが記されています。
その結果がどうなったのかを「威徳院検地帳」(元禄12(1699)年)に見てみましょう。
下に挙げたのは、その一部ですがここから分かることを挙げておきましょう。
①「堤まえ」などと、土地の位置が明記されているので、だいたいの場所が分かる。②「下田」が多く本村と比べると、土地条件が劣る③一反未満の小さな田畑が多く、棚田状にならんでいたことがうかがえる。④「手作り地」といった記述もあるので、寺子などを使って寺独自に耕作が行われていた田畑もあった。
最後に威徳院寺領の総合計と、土地の等級評価が次のように記されています。
畝数合七町弐反五歩 内三畝拾五歩 多門坊屋敷残而七町壱反六畝廿歩再僻分内上田 六反四畝弐歩 反二付米八斗 取米五石壱斗弐升五合下上田 壱町六反八畝 反二付七斗 取米拾壱石七斗六升下田 壱町九反六畝七歩 反二付六斗五升 取米拾弐石五升四合下々田 弐町弐拾七歩 反二付六斗 取米拾弐石五升四合下畑 四反七畝十三歩 反二付二斗五升 取米壱石壱斗八升六合下々畑 壱反七畝拾六歩 反二付壱斗五升 取米弐斗六升三合屋敷弐反弐畝十五歩 反二付弐斗五升 取米五斗六升三合(朱書き)
「其新畑四畝廿五歩 取米七升弐合 米合四拾三石七斗三合右之通相定申候、以上元禄拾弐年卯ノ三月十八日
源右衛門
彦八郎組頭 四郎兵衛同 清右衛門庄屋 五兵衛花押寺内作付分一、上田六畝拾弐歩 浦門内一、上田九畝拾八歩 下藪北切一、上田四畝八歩 ふろ屋敷一、上田七畝廿歩 同所上切一、上畑六畝拾歩 莱畑一、上畑弐畝拾歩 泉ノ本一、上田壱畝拾五歩 門道下一、上田弐畝 同所道上畝〆四反三畝元禄拾弐年卯ノ三月廿八日源右衛門彦八郎四郎兵衛庄屋 五兵衛花押
史料末尾に、村役人の連名がります。彼らが検地を実施し、その確認を行ったもののようです。寺は年貢米を徴収しただけと研究者は考えているようです。
ここからは17世紀末には、威徳院は寺領として7町2反(7,2㌶)をもつ地主でもあったことが分かります。威徳院の近世の隆盛ぶりを支えた経済的基盤は、ここに求めることができそうです。
それでは、三野氏が開発した土地は、どうなったのでしょうか。
最初に指摘したように生駒藩では「国人領主制」が温存され、知行制がおこなわていました。そのために生駒家の家臣団は、讃岐各地に自分の所領を持っていて、そこに屋敷を構えて生活していたのです。その上、新たに開発した新田は「自己開」として自分の知行に繰り込むことができたのです。そのため地元領主出身の三野氏は、さかんに周辺開発を行い知行地を拡大したのです。それは先ほどのグラフで見たとおりです。周囲の一族や地主はそれを真似ます。このようにして生駒家の三野郡では、新田開発ラッシュが起きました。そのシンボルとして新田台地に姿を現したのが威徳院ではないでしょうか。
三野氏の描いたプランは、自分たちがかつての国人領主のような立場になり、百姓層を中世の作人として使役し耕作をおこなうものです。これは秀吉の目指した太閤検地以後の時代の流れに「逆行」するものです。これを阻止しようする勢力が藩内に現れない方がおかしいのです。
新藩主のもと前野、石崎を始めとする新藩政担当者のねらいは、百姓を主体とし、その権限を強めるもので百姓を藩が直接支配するものです。そして、代官に年貢を徴収させて換金し、収入を得る方式に変えていきます。もちろん家臣たちの新田開発などは許しません。家臣のもっていた国人領主的な側面をなくして、サラリーマン化する方向に軌道修正します。それは歴史教科書に出てくる「地方知行制から俸禄制へ」という道で、これが歴史の流れです。この流れの向こうに「近世の村」は出現するようです。両者の間に決定的な利害対立が目に見える形で現れ、二者選択が迫られるようになります。生駒騒動の背景には、このような土地政策をめぐる対立があったようです。
以上をまとめておくと
①生駒藩では、「国人領主制」が温存され、知行制がおこなわれ、生駒家の家臣団は、讃岐各地に自分の所領を持っていて、そこに屋敷を構えて生活していた。
②新田開発で生まれた田畑は、自分の所領とすることが出来たので讃岐出身の家臣を中心に新田開発が進められた。
③その中でも三野郡の新田開発は飛び抜けており、その中心に三野氏がいた。
④三野氏は下勝間を中心に新田開発を進め、それを一族や菩提寺も真似た。
⑤こうして生駒時代の勝間周辺は膨大な新田とため池が造られ今日的な景観に近づいた。
⑥この時期に新たな宗教施設として、姿を見せるのが威徳院である。威徳院は柞原寺に代わってこの地区の宗教センターとしての役割を担うことになる。
⑦威徳院の経済基盤は、この時代に拓かれた新田7町の田畑にあった。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 高瀬町史288P 勝間新田の開発
合田學著 「生駒家家臣団覚書 大番組」
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