威徳院勝造寺の調査報告書が平成11年に出ています。この調査書を見ながら威徳院の歴史を見ていきたいと思います。報告書は最初に次のことを予備知識として確認しています
①威徳院は山号を七宝山、寺号を勝造寺
②江戸時代は大覚寺派で、その後東寺真言宗で現在は真言宗善通寺派の寺院
③江戸時代初めの生駒藩時代には、讃岐十五箇院の一つ
④澄禅の記した『四国遍路日記』(1653年)では讃岐六院家の一つとされる
⑤本尊は十一面観音で、中世までさかのぼる仏像仏画を多く伝えている。

寺号が七宝山とあることに注意しておきたいとおもいます。七宝山は、このエリアの霊山で行場の続く「小辺路」があった山です。観音寺縁起には、観音寺から始まって仁尾まで7つの行場があり、五岳の我拝師山と結ばれる「小辺路」があったことが記されていました。中世にはここを多くの修験者たちが行き交った形跡が残ります。行場近くには、寺院ができます。それが時代ととともに里に下ってきます。その典型が本山寺です。本山寺もかつては七宝山の山中にあったお寺が、14世紀前後に現在地に移り本堂伽藍を構えました。七宝山から里下りしてきた寺には山号を「七宝山」とする所が多いようです。これはかつては、七宝山を霊山として、奥社がそこにあった痕跡だと私は考えています。もしかしたら威徳院も、そのような性格をもっていたのかもしれません。
 
 威徳院勝造寺の寺暦を『七賓山威徳院由来』(天和元年(1682)で見ていきます。
ここには威徳院開基について二説が併記されています。
一つは弘仁12年(822頃)に空海が四国巡遊のおりに草坊があって、そこにとどまり修行をしたのが始まりというものです。
もう一つは寛平元年(889)、弘法大師有縁の地に三間四面の堂宇を建立したのを始まりとするものです。
しかし、その後257年間は不詳とします。
 どちらにしても真言宗のお寺らしく空海伝説を創建説話に持ちます。
久安二年(1146)秋に浄賢法印が威徳院住職となったと記し、その後、良尚をはじめ何人かの住職の名前を挙げますが、その後は
「二百三十四年間ノ史実、住職ノ人林不分明

とします。つまり、威徳院は、創建から南北朝期から天正期までの「歴史は不詳」なのです。
ところが良尚が、一次資料に別の時代に登場するのです。
威徳院と関係の深い本山寺の聖教の中の奥書に、次のような記録が残されています。
「永正十二年乙亥正月二十一日讃州勝蔵寺威徳院住持良尚法印書写本悉破損故今住侶慧丁写之」

また威徳院にある聖教の奥書にも、次のような書き込みがあります。
「永正十二年乙亥正月廿一日於勝蔵寺書之自萩原地蔵院此本申請或人書写之以後令苦労写之也右筆良尚」)

ここからは永正十二年(1515)に威徳院住持として良尚という人物がいたことが分かります。
また良尚は「本山寺龍響血脈」には、慶長二年(1597)に威徳院住職となったとされる秀憲の2代前の人物としても登場します。ここからは良尚は16世紀後半頃の戦国時代の人物の可能性が高いと研究者は考えているようです。つまり「威徳院由来」に13世紀末~14世紀初の人として登場した良尚は、威徳院の歴史を古く見せるための作為だったようです。

 こうしてみてくると威徳院には、古代中世の歴史はなく、16世紀後半になって姿を現してきた「新興寺院」の可能性があることになります。しかし、最初に⑥で見たように、この寺には中世までさかのぼる仏像仏画を多く伝えています。これをどう考えればいいのでしょうか。これはまた別の機会に考えることにして、先を急ぎます

  威徳院は、どのようにしてこの地に姿を現したのでしょうか。
   威徳院由来に実在が信じられる住職名が並び出すのは天正十年(1582)の良田法印からです。その後、慶長二年(1592)からは秀憲法印が住職になったと記します。
『威徳院由来』には良田・秀憲について、次のように述べています。
道隆寺ヨリ当院ヲ兼帯ストモ云ヘリ」

 突然に、ここで道隆寺が登場します。道隆寺とは四国霊場で、当時は中世の多度郡港である堀江湊の「港湾管理センター + 修学センター」としても機能していました。海の向こう側の児島五流の影響を受けて、塩飽諸島や詫間・庄内半島などの多くの寺社を末寺として、備讃瀬戸への教線ライン伸ばしていた寺院です。その道隆寺の僧侶が、威徳院の住職を「兼帯」していたというのです。にわかには信じられませんでした。

  ところが『道隆寺温故記』を見ると、良田・秀憲の二人の住職が実在していたことが分かります。そして、次のような行事に登場しています。(良田は田と表記されている)
永禄十一戌辰年(1568)冬十月廿六日、雄(秀雄)、入寂。良田、補院主焉。
天正三乙亥年(1575)春三月十八日、塩飽正覚院本堂入仏供養導師、田(良田)、執行焉。
天正拾壬午年(一五八二)夏卯月廿七日、鴨大明神、田、遷宮導師執行畢焉。
天正十六戊子年(一五八八)春三月十九日、多度津観音堂入仏導師、田、修之。
天正十六戊子年秋九月五日、多他須。宮遷宮導師、田、執行焉。
天正十七己丑年(一五八九)秋九月十七日、堀江春日大明神、田、遷宮導師墨 焉。
天正十八庚寅年(一五九〇)冬十月廿一日、葛原八幡宮、田、遷宮導師畢焉。
天正廿壬辰年(一五九二)夏六月十五日、白方海岸寺大師堂入仏導師、田、令執行畢。
文禄元壬辰年(一五九二)冬十一月日、田、移住塩飽正覚院兼帯常寺。
文禄五丙申年(一五九六)、(中略)于時、田、捕白方八幡宮神鉢破壊、即彫夫 木、厳八躯尊像、以擬旧記、令安坐、開眼導師畢。
文禄五丙申暦夏六月八日、鴨大明神遷宮導師、田、執行焉。
慶長一于酉年(一五九七)秋八月八日、金倉寺本堂薬師如来開眼供養導師同前。
慶長四己亥年(一五九九)秋八月十四日、下金倉八幡宮、田、遷宮導師令執行畢焉。
慶長六辛丑年(1602)夏五月十四日、堀江弘演八幡宮、遷宮導師同前。
慶長十乙巳年(1605)春二月廿二日、粟嶋(粟島)常社大明神遷宮導師、田、令執行畢。
慶長十乙巳稔冬十二月十六日、田、於塩飽終焉。同月廿二日、秀憲、補道隆寺院主焉。
慶長十二丁未暦(1607)秋八月十三日、葛原郷八幡宮遷宮導師、憲(
秀憲)、執行焉。
慶長十五庚戌年(1610)秋九月九日、堀江弘漬八幡宮遷宮導師、憲、執行焉。
慶長十六辛亥暦(1611)冬十月宿曜日、憲、入院濯頂焉。
元和二丙辰年(1616)秋八月吉日、堀江八幡宮遷宮導師、憲、執行焉。
元和三丁巳年(1617)秋八月九日、粟嶋八幡遷宮導師、憲、執行焉。
元和三丁巳暦秋八月九日、粟嶋聖徳太子入仏導師、憲、令執行畢焉。
元和三丁巳年秋九月廿日、津森村天神、憲、遷宮令執行畢焉。
元和六庚申年(1623)夏卯月廿六日、憲、白方海岸寺大師堂入仏導師令執行焉。
元和九発亥年(1623)閏八月朔日、葛原八幡宮、憲、遷宮導師令執行畢焉。
寛永二乙丑(1625)九月、葛原八幡宮釣殿、供養導師秀憲修行。
寛永四丁卯年(1627)三月廿三日、憲、入寂
ここからは次のようなことが分かります。
①永禄11戌辰年(1568)に雄(秀雄)が亡くなり、代わって良田が道隆寺の住職に就任。
②道隆寺と本末関係を結ぶ寺社が島嶼部では塩飽や粟島、内陸では下金倉・葛原八幡までのびている。海に伸びる教線ラインを道隆寺は持っていた
③末寺の寺社の遷宮や供養には、良田が自ら出掛け、導師を勤めている。
④良田が導師を勤めているのは1605年までで、以後は秀憲に代わっている
⑤道隆寺側の資料には、良田・秀憲が威徳院を兼帯していたことは触れられていない

ここで良田の道隆寺住職の在任期間を確認しておきます。
良田は永禄11年(1568)に道隆寺三十世となって、慶長十年(1605)に亡くなっています。威徳院由来には良田の在職期間は天正十年(1582)から慶長二年(1592)までとなっていました。在任期間にズレはありますが、良田が道隆寺の住職を16世紀後半に務めていたことは史料から裏付けられます。

 良田の名は、天正頃の人として古刹島田寺(丸亀市飯山町)十二世としても名前が見えます。この人物については、よく分かりませんが生駒親正によって再興された弘憲寺(高松市)開祖良純につながる人物で、高野山金剛三昧院に縁のある人と研究者は考えているようです。これも同一人物の可能性があります。
 
本島の正覚院に伝わる『道隆寺温故記』を年代順に並べ、年表化してて見ましょう。
天正三年(1575)二月十八日  道隆寺の良田が正覚寺本堂の入仏
供養導師を勤める。
天正十八年(1590)年    秀吉の塩飽朱印状発行 
文禄元(1592)年  道隆寺の良田が正覚寺に移り、道
隆寺院主として正覚院を兼帯
慶長十年(1605)十月十六日  良田が塩飽で死亡。
以前にもお話しした通り、道隆寺の布教戦略は、物流センターの塩飽への参入拡大です。そのために本島の正覚寺を通じて、塩飽の人とモノの流れの中に入り込んでいくものでした。道隆寺院主の良田は、正覚院を兼帯し、本島で生活するようになったというのです。

以上を整理すると良田は、道隆寺の住職で、飯山の島田寺・本島の正覚寺・威徳院を兼帯していたことになります。つまり、後の記録に「兼帯」していたことをこれだけ記録されているのですから人望のある僧侶であったことがうかがえます。同時に、良田の時代に道隆寺の寺勢が急速に拡大したようです。道隆寺の教線拡大政策の一環として、その教勢ラインが三野郡の勝間郷にもおよぶようになったのが良田の時代だった、そして、道隆寺の支援で、威徳院が下勝間の地に姿を現すようになったとしておきます。

  16世紀後半の威徳院をとりまく三野郡の情勢は激変期でした。
天霧城主香川氏家臣→長宗我部元親→生駒親正→生駒一正と支配者が交替していきます。秋山・三野文書からは1560年代の三野地方は、天霧山城主の香川氏に対して、阿波三好勢力が伸びてきて、一時的に香川氏は天霧城を退城したことが分かります。それでも香川氏は、三野氏や秋山氏に感状をだし、土地給付も行っています。ここからは、香川氏が滅亡したわけではなく、一定の勢力をもってとどまっているたことがうかがえます。1577年には秋山帰来氏への土地給付をおこなってるので、この頃までには香川氏の勢力が回復していたようです。
 この時期は、阿波三好氏側に麻や二宮の近藤氏がついていました。そのため香川氏の家臣団である秋山氏などとの間で小競り合いが続いていたことが史料からは分かります。三好氏の勢力範囲は麻から佐俣・二宮ラインまで及んでいたことになります。そのため各武士団の氏寺は、小競り合いの際に焼き討ちの対象となったかもしれません。三野氏の菩提寺とされる柞原寺も、このような中で一時的には衰退したことが考えられます。その宗教的な空白地に道隆寺は進出してきたとしておきましょう。
 道隆寺の教線の伸張ルートとして考えられるのは、以下の2つです。
①道隆寺 → 白方海岸寺 → 弥谷寺 → 威徳院
②道隆寺 → 白方海岸寺 → 粟島  → 三野湾 → 威徳院
 その原動力はなんでしょうか。
経済的には、瀬戸内海の交易の富でしょう。道隆寺は、堀江港の管理センターの役割を果たし、本島や粟島、庄内半島の末寺もネットワークに組み込んでいました。そこから上がる富がありました。
人的なエネルギーはなんでしょうか。これは児島五流修験の人的パワーだったと私は考えています。児島五流の布教戦略については、何度もお話ししましたのでここでは省略します。
 五流修験(新熊野)と道隆寺は強い結びつきがあったようです。
五流修験の影響を受けた道隆寺やその末寺であった白方海岸寺、仏母院などは、空海=白方誕生説を近世初頭には流布していたことは以前にお話ししました。ここからは高野山系の弘法大師伝説とはちがう別系譜のお話が伝わっていたことが分かります。善通寺と道隆寺は中世には、別系統に属する寺院であったことを押さえておきます。

  道隆寺グループを率いる良田の課題は、新しい支配者である生駒氏との間に、良好な関係を取り結ぶことでした。
それに良田は成功したようです。
天正十五(1587)年に、生駒親正が藩主としてやって来ると、国内安定策の一環として、以下の真言宗の古刹寺院を「讃岐十五箇院」を定めてを保護します。
一、虚空蔵院与田寺 (東束かがわ市) 
二、宝蔵院極楽寺 (さぬき市) 
三、無量寿院随順寺 (高松市) 
四、地蔵院香西寺 (高松市) 
五、千手院国分寺 (国分寺町) 
六、洞林院白峰寺 (坂出市) 
七、遍照光院法薫寺(飯山町) 
ハ、宝光院聖通寺 (宇多津町) 
九、明王院道隆寺 (多度津町) 
十、威徳院勝造寺 (高瀬町) 
十二 持宝院本山寺(豊中町) 
十二、延命院勝楽寺(豊中町) 
十三、覚城院不動護国寺 (仁尾町) 
十四、伊舎那院如意輪寺 (財田町) 
十五、地蔵院萩原寺 (大野原町)

ここには、道隆寺も威徳院も含まれています。
このリストを見て感じるのは、三豊の寺院の比率が高いことです。
6/15が三豊の寺院です。それがどうしてなのか、今の私には分かりません。この中に威徳院も含まれています。また、威徳院と住職が兼帯することになる本山寺や延命院・伊舎那院も含まれています。
もうひとつ気づくのは、普通は寺院の名称は山号・寺号・院号の順序で表記されます。ところが上の表記では、寺号と院号を入れ替えて山号・院号・寺号の表記になっています。院号が重視されているようです。
  
  そして、関ヶ原の戦いの翌年には、新領主となった一正から、威徳院は寺内林を持つことが認められます。
戦国時代末期の激変期に、良田は道隆寺住職として、兼務する寺や末寺の経営を担当し、その中で生駒家の保護を受けることに成功しています。そこには一正の信頼を得て奉行として働いていた三野郡出身の三野氏の存在が大きかったのではないかと思います。三野氏が地元の威徳院の保護を何らかの形で一正に進言したことは考えられます。
 しかし、 先ほども見たように『威徳院由来』は、良田ではなく秀憲を威徳院中興(創建)と位置づけ、高く評価します。逆に良田を「過小評価」したいようです。
 威徳院には、浄賢からはじまり勢深、勢胤、賢真、亮賢、良尚、宥尚秀憲の八人の肖像を描いた画幅「威徳院住職図」一幅があります。そこには、それぞれの命日が以下のように記されます。
中興開山浄賢七月廿九日
勢深二月五日
勢胤四月朔日
賢真五月廿八日
亮賢十月廿七日
良尚八月八日
宥尚九月六日/
秀憲三月廿三日」
ここにも良田は描かれていません。
  良田の後を継いだ秀憲を見てみましょう
道隆寺の記録に、秀憲は、多度郡堀江村の生まれで、慶長十(1605)年に道隆寺31世となり、寛永四年(1627)に入寂とあります。威徳院の記録には、
「威徳院・明王院(道隆寺)兼帯。堀江村出身、加茂にて命終」

と記します。ここからは、良田に続く秀憲も、道隆寺との兼帯です。
分かりやすく云うと「末寺」であったのでしょう。
その後の威徳院の動きを見ておきましょう。
慶長十六(1611)年には、生駒藩が高松に19か寺を集めて行った論議興行に、威徳院の寺名があります。このころには西讃地域での地位を確立したようです。
 丸亀藩山崎家からも寛永十九(1642)年に、生駒家寄進の寺領高20石が安堵されています。この高は西讃では一番多く、次に来る興昌寺が6石6斗のなので、当時の威徳院の寺勢が強さがうかがえます。そして、前回お話ししたように下勝間の新田台地の開発を着々と進めて寺領を増やして行きます。元禄十二(1699)には43石の寺領を持ち、最終的には寺領高150石に達します。これが威徳院の隆盛の経済的な基盤となります。
 
萬治二年(1659)に住職となったのが宥印法印です。
彼は金毘羅の金光院からやってきたようです。 金比羅神を祀る金光院の僧侶は「宥」の字をもらい受けます。慶長十八年(1613~45年)まで32年間、金毘羅大権現の金光院の院主を勤めた宥睨のもとで修行し、高野山で学んだようです。金光院の院主たちは、山下家の出身地である財田周辺の才ある若者を預かり、見所有りと見抜くと高野山に送り込み学ばせて、人材を育成したようです。そのひとりが宥印だったのでしょう。有印は、出身地の中ノ村伊舎那院(三豊市財田町)と高野山善性院を兼務し、貞享元年(1684)高野山の善性院で入寂しています。
 高野山善性院は讃岐出身の僧侶と関わりが深かったようで、文政~天保頃の本山寺聖教にも本山寺住職体円などがこの寺と関係があったようです。高野山のお寺と兼帯する僧侶は、讃岐には他にも数多く見られます。
『威徳院由来』は宥印法印の口述を、弟子の宥宣が記したものです。その中で宥宣は、宥印を威徳院興隆の人としています。
それを裏付けるために、周辺の末寺の寺社の棟札銘などに残る宥印の名前を探してみましょう。
寛文三年(1663)八月九日 熊岡八幡宮「再興正八幡宮」棟札銘
「遷宮供養導師本寺勝同村威徳院権大僧都法印宥印
寛文五年(1665)九月二十三日 「建立大明神」棟札銘
   「遷宮供養導師威徳院住持権少僧都法印宥印
同年同月             「建立八幡宮」棟札銘
   「遷宮供養導師威徳院住持権少僧都法印宥印
寛文六年(1666)四月五日「建立新田大明神拝殿幣殿」棟札銘
   「遷宮導師勝間威徳院住持権大僧都法印宥印
寛文七年(1667))三月  「建立大瞬神宮」棟札銘
   「遷宮導師権大僧都法印宥印」(24)。
寛文七年(一六六七)    詫間村善性院「天満宮」棟札銘
   「遷宮井供養導師勝同村威徳院住持権大僧都法印宥印
ここからは威徳院の住職が周辺の神社の導師を勤めていることが分かります。地域における地盤も固まってきたようです。また、『威徳院由来』には宥印について、次のように記されています。
「当院住職中、的場寺大池及西谷上池ヲ新二掘り築ケリ」

的場の寺大池や西谷上池などの新しいため池築造も行っています。これは新田開発とセットになったものです。

  また有印以後は、威徳院は高野山との関係を強めていきます。
それと反比例するかのように道隆寺との関係が薄くなっていきます。これをどう見ればいいのでしょうか。
 これと同じような動きを見せるのが弥谷寺でした。弥谷寺は、近世初頭までは白方の仏母院などと「空海=白方誕生説」を流布していたのですが、高野山との関係が深まるにつれて、善通寺寄りの立場を取るようになります。同じような動きが威徳院にもあったのかもしれません。その切り替えを行ったのが高野山で学んだ有印だったのではないでしょうか。

以上をまとめておくと
①威徳院には、古代・中世に遡る歴史はない。
②威徳院は16世紀後半に道隆寺の教線拡大策として、三野郡に新たに建立(再興)された寺院である。
③道隆寺は「海に伸びる寺」として備讃瀬戸の島々の寺社を末寺に置き、そこから海上交易の富を吸い上げるシステムを作り、隆盛期を迎えていた。
④道隆寺はその経済力と、五流修験の人材で、白方海岸寺 → 弥谷寺 → 威徳院 → 本山寺と教線ラインを伸ばした。
⑤旧香川氏の重臣で、生駒家にリクルートされた三野氏を通じて、道隆寺は生駒家に食い込むことに成功し、関係する威徳院や本山寺などを生駒家の保護下に置くことに成功した
⑥威徳院は、下勝間の新田台地の開発を積極的に行い多くの寺領を拓いた。これが近世の威徳院の経済基盤となった。
⑦道隆寺の末寺として建立された威徳院は、17世紀半ば以降に高野山との関係を深めるにつれて、道隆寺との関係を清算していく。そして本山寺や延命園との関係を深めながら三豊地区の真言衆の中心センターとしての役割を果たすようになる。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
   威徳院調査報告書 田井 静明威徳院について  香川県ミュージアム紀要NO2